黄昏の歌
              ノエル・カワード 作
               能 美 武 功 訳

   登場人物
ヒューゴ・ラティマー
ヒルデ  ヒューゴの妻
カルロッタ・グレイ
フェリックス  ホテルのウエイター

(時 現代)
(場 スイス、ローザンヌ・ウーシーにある、ボー・リヴァージュ・ホテルの一区画。)

     第 一 幕
(スイスのある豪華なホテルの一区画。観客から見える場はその居間。この一区画は、サー・ヒューゴ・ラティマーが、一年に二、三箇月定期的に借りているもの。ヒューゴは年輩の著名な作家。)
(この部屋にはホテルの通常の家具、調度品の他に、ヒューゴの個人的な持物も加わっている。重々しい書き物机、独特の雰囲気のある肘掛け椅子、その傍に小さなテーブル。そのテーブルの上には本(複数)、薬瓶と丸薬、小さな金時計、ボールペンが何本も立てられているペン立て、がある。壁にはヒューゴの好みの、印象派の絵が数枚飾ってある。)
(ヒルデ・ラティマーは五十代前半。容姿に衰えあり。ヒューゴと結婚して約二十年。元はヒューゴの秘書。ヒューゴの作品のドイツ語訳を作っていたが、それだけでなく、有能で献身的で、ヒューゴの生活をよく支えてきた。)
(幕が上るとヒルデ、書き物机についている。その傍にホテルのウエイターのフェリックス。フェリックスは二十八歳。非常な美男子。その態度には既に、このウエイターという職業で第一人者になることが約束されている、例の諂(へつら)いと威厳と人を惹付ける力、の三つのほどよい混合物を身につけている。但し、美男子であることが彼に災いをもたらさなければ、という条件が必要であるが。丁度今、彼は手にノートを持ち、ヒルデの指示を恭しく聞いているところ。)
 ヒルデ 今のところそれだけ、フェリックス。サー・ヒューゴのお客様は、八時には来ると思うけれど、少しは遅くなるかも知れません。ですから、夕食は八時半に出して頂戴。それより早くは駄目よ。
 フェリックス いつものように、サラダのドレッシングにはガーリックを効かせましょうか?
 ヒルデ ええ。でも、効かせ過ぎないように。先週の金曜日の二の舞は厭ですからね。
 フェリックス ああ、あれはいけませんでした。私が非番だったものですから。ジオヴァンニはなかなか意欲的な奴なんですが、まだサー・ヒューゴの好みには慣れておりませんでして。
 ヒルデ 今度は注意するように、あなたから言っておいて。
 フェリックス 畏まりました、奥様。(お辞儀をして退場。)
 ヒルデ(受話器を上げる。かなり強いドイツ語訛り。)Allo, Mademoiselle. J'ai demande un preavis a Londres il y a presque une demi heure. Est-ce que vous en avez des nouvelles? ・・・Oui ・・・Oui, merci.・・・J'attendrai. (もしもし、交換手? 三十分ぐらい前にロンドンに頼んでおいたのですけど、あちらから何かありました?・・・ええ、・・・ええ・・・はい、待ちます。)(受話器を置く。机の上の手紙にじっと目をやる。暫くして電話鳴る。)もしもし、・・・カール?・・・こちら、ヒルデ・ラティマーです。午後いっぱいずーっとかけていたのよ。最初に例のアメリカでの講演旅行ですけど・・・ええ、分っています・・・でも、ヒューゴは今のところ全くその気にならなくて。・・・ええ、身体はもうずっと良くなっているの。でも、医者からはどうしても必要なもの以外は仕事をするなって言われていて・・・ええ、大学からの博士号は受けるつもり。その記念講演も。でも、それ以外は何も。終ったらすぐこちらに戻るか、或はちょっとアリゾナで休養を。・・・ええ、申し訳ありませんけれど、仕方がなくて。・・・いいえ、今は休んでいるところですわ。そうでなければ、直接本人がおかけするところなのですけど。・・・それから「蛇行する河」の映画のお話ですが、脚本及び脚色に関する完全な拒否権を認めるという一項を入れて欲しいのです。これが書類として契約に入らなければ、一切の交渉に応じないと言っています。・・・いえいえ、これはとても大切なことなんです。作者の名前、名誉に関ることですから。
(サー・ヒューゴ・ラティマー、寝室から登場。際立って知性的な風貌。年輩の男。痩せていて、姿勢よし。時々機嫌がよい時など、五、六歳も若く見える。しかし、何か瑣末な事、或は健康上で気掛かりな事がある時は、急に弱々しく、更けて見える。これは彼一流の技術であるが、医者も看護婦も、或は傍についている世話をしている人間も、すぐ騙されてしまう。時々はヒルデも。もう二十年もの付合いで、これは百も承知しているのだが。)
(サー・ヒューゴは、部屋着姿。白髪はもじゃもじゃ。少し苛々している。)
 ヒューゴ 名誉に関るとは何だ?
 ヒルデ(受話器に手を当てて。)カールなの。「蛇行する河」の契約についてよ。
 ヒューゴ ああ、あれならそんな電話、時間の無駄だよ。どんなに譲歩されても契約をするつもりはないんだ。
 ヒルデ だってあなた、この間は脚本と脚色に対して、拒否権が与えられれば許可してもよいと・・・
 ヒューゴ(ピシッと。)あれから考えを変えたんだ。私は今までに少なくとも三つの長篇小説と五つの短編・・・いづれも最高級のものだが・・・それを許可した。それがどうだ。全部虐殺の憂き目にあっている。あの馬鹿な媒体を通したためにな。もう、一作と雖も、お断りだ。
 ヒルデ(電話に。)今ちょっとお話出来ないわ、カール。明日の朝十一時にお電話下さい。・・・分ったわ。じゃ、十一時に。それから、私の部屋宛にね。・・・ええ、三五五。じゃ。(電話を切る。)
 ヒューゴ(椅子に坐って。)カールはだんだんやり難くなって来ているな。いつかゆっくり話して聞かせなきゃいかん。利益のことしか頭にないじゃないか、あいつは。
 ヒルデ その事を理由に一方的に責めることは出来ないわ。あの人、あなたの代理人なんですからね。
 ヒューゴ 何時だ。
 ヒルデ(自分の時計を見て。)もう少しで七時半。あの時計(置時計を指さして。)止まっているの?
 ヒューゴ 知らないね。拵えがあまりに繊細だ。眼鏡をかけないと見えやしない。
 ヒルデ 私がプレゼントした時、とても喜んでくれたんだけど。
 ヒューゴ 今は嬉しくないね。
 ヒルデ ご免なさい。別なのを捜して来るわ。
 ヒューゴ ああ、そのがっかりした顔は止めてくれ。口がヘの字になって、まるでラクダの顔だ。
 ヒルデ 有難う。
 ヒューゴ 背中の二つの山が非対称の奴だ。
 ヒルデ ああ、「ひと瘤ラクダ」ね。お風呂はおすみ?
 ヒューゴ いや、すんではいない。
 ヒルデ 入っておいた方がいいんじゃない? あの人は八時に来るのよ。
 ヒューゴ 八時までに上がらなくても、あっちは待っててくれていい筈だな? これだけ長いこと会ってないんだ。それに、十分(じっぷん)つけ加えたって、たいした問題じゃない。
(電話が鳴る。)
 ヒューゴ 全くうるさい道具だ! お前の部屋に切りかえて、その前に坐ってりゃいいものを!
 ヒルデ 今日はひどく機嫌が悪いのね。
 ヒューゴ 苛々しているんだ。
 ヒルデ 自分の責任よ。あの人に会う必要なんか、全くないんだから。
(電話、また鳴る。)
 ヒルデ(受話器を取って。)Allo, allo. Oui, a l'appareil ・・・ Mariette, c'est vous! ・・・ Non, je ne suis pas certain, si vous voudrez attendre pour un petit moment je vais voir. (もしもし、はい。ああ、マリエット、あなたなの?・・・いいえ、出られるかどうか、分らないけど。・・・ちょっと待って。見て来ます。)(受話器に手を置いて。)マリエットよ。
 ヒューゴ その予感がしていたんだ。何故外出中だって言わなかったんだ。
 ヒルデ 今からだって、マッサージ中だと言えるわ。
 ヒューゴ その手は前回使った。年がら年中マッサージをやっていると思われてしまう。よし、貸してくれ。
 ヒルデ(受話器に。)Un instant, Mariette. (ちょっと待って、マリエット。)(受話器をヒューゴの椅子のところまで持って行く。)
 ヒューゴ(勿論素晴らしいフランス語。)Ma chere Mariette ・・・
enfin! Je suis absolument ravi d'entendre ta voix. Comment va-tu? (ああ、マリエット・・・とうとう! 声が聞けて実に嬉しい。どう? 調子は?)ああ、今日は駄目だ。今から人と会うんでね。いやいや、そういうのとは違うんだ。・・・いやいや、これは過去との出会いというやつだな。ずーっとずーっと昔との出会いだ。・・・いやいや、君が聞いたこともない人物だ。君が生まれる以前にもうとっくに終ってしまっていた昔だ。・・・いや、これ以上は駄目だな。これだけでも喋り過ぎだ。・・・分った。火曜日、昼飯だね?(ヒルデに眉で「空いているか?」と訊く。ヒルデ、すぐ予約帳を取り出し、頷く。)・・・じゃあ、火曜日に。・・・ A bientot, chere. (「じゃ、さようなら」)(受話器を置く。)
(ヒルデ、ヒューゴから受話器を取り、机の上に運ぶ。)
 ヒューゴ もう逃げるのは無理だったんだ。先月三回も先延ばしにしたからな。どうしたんだヒルデ、それは怒っている顔だぞ。
 ヒルデ あなたは軽率だった、そう思っているの。
 ヒューゴ 小言は止めて欲しいな。
 ヒルデ 「軽率だと思う」のは、小言ではないわ。
 ヒューゴ (後ろめたい笑いを浮べて。)「軽率だったなあ」と一日中実は思っていてね。
 ヒルデ あら、そう。
 ヒューゴ 今夜はどうなるかな、と想像を膨らましていたんだ。そしたら、どこかから電話がかかってきて、君がギャーギャーやり出したもんだからね、夢も覚めてしまったよ。
 ヒルデ あのマリエットには本当に困ったものよ。スイス中にあなたの個人的な秘密を知らせたいと思っているの? あなた。
 ヒューゴ いづれにせよ、スイスは僕の個人的な秘密は知ってしまったらしいじゃないか。所得税の取り立ては最近えらく厳しい。
 ヒルデ 財産の秘密のことではありません。
 ヒューゴ(後ろめたい笑い。)そうだったな。失礼。
 ヒルデ お風呂に入って、早く着替えて。
 ヒューゴ 僕は過去との出会いと言ったんだ。これは、その言葉通り正しいぞ。
 ヒルデ 何だか、影のある言い方をしていたわ。殆どロマンチックに聞えるぐらい。
 ヒューゴ そうなるかも知れないからね。
 ヒルデ そうなって欲しいの?
 ヒューゴ いや。僕はもう、何かがロマンチックになるなんてことを期待するのはとっくに諦めている。
 ヒルデ 諦める? そんな気分にあなたがなったことがあるなんて、とても信じられないわ。
 ヒューゴ(苛々して。)どんな気分になったことがないって?
 ヒルデ 月や星に溜息をつく・・・幻想に心を奪われる・・・
 ヒューゴ 確かに幻想よりは、現実の方を好んでいたな、昔から。
 ヒルデ 若い頃も? カルロッタに恋をしていた時も?
 ヒューゴ その時もだ。
 ヒルデ 私、今夜のこれは、大きな誤りだと思っている。
 ヒューゴ 君がそう思っているのはよく分っているよ。この三日間、明らかにそれを表情に出していたからね。君は自分の感情を隠すのは昔から下手。その昔からこっち、ちっともうまくなってないんだ。
 ヒルデ その反対よヒューゴ、今は本当に上手になっているの。あなたとの二十年間の生活が、随分鍛えてくれたわ。
 ヒューゴ どうして君、そんなにカルロッタを怖がるんだ?
 ヒルデ(落ち着いて。)私、ちっとも怖がってなんかいない、カルロッタなんか。
 ヒューゴ いやいや、怖がってるね。ちらとあれのことが浮ぶだけでゾッと来るようだ。まあ、それは認めた方がいいよ。
 ヒルデ もうあなた、青い薬の時間よ。(急に寝室に退場。扉は開けたまま。)
 ヒューゴ(相手を追い詰めたと思って、陽気に。)その絶望的な怖れを鎮めるために、トランキライザーでも飲んだ方がいいぞ。
 ヒルデ(丸薬と水の入ったコップを持って戻って来て。)私があの人のことで何か怖れるとしたら、それはみんな、あなたを思ってのこと。あの人、何かあなたに心配事を持って来るに決まっている。あなたがこの年になって現れて来るなんて、何か腹にあるからよ。はい。(丸薬を渡す。)
 ヒューゴ(受取って。)同窓会でもやりたいんだろう。
 ヒルデ お金ね、多分。この十五年間、あの人の書くもの、当らなかった。
 ヒューゴ 君はあれの業績を追跡していたのか?
 ヒルデ(グラスを受取って。)最近は追跡するほどの業績もなかった。(再び寝室に退場。)
 ヒューゴ(嬉しそうに。)可哀相なカルロッタ・・・
 ヒルデ(戻って来て。)あの人はあなたを怒らせるわ。勘で分るの。天気と同じ。雨が降る時には私、すぐ分る。
 ヒューゴ 雨が分るのは千里眼のせいじゃない。リューマチのお蔭だ。あいつが僕を怒らせるのを知るには、千里眼が必要なんだ。いづれにせよ、可能性のある方から言えば、僕があいつを怒らせる方だね。
 ヒルデ あの人、あなたの持病の神経性消化不良なんかにかかっていないでしょう?
 ヒューゴ ひょっとすると、胃に潰瘍が出来ているかも知れないぞ。
 ヒルデ 電話ではそういう事は感じられなかったわね。
 ヒューゴ そりゃ分らんよ。胃潰瘍は声帯には何の影響も及ぼさないからね。
 ヒルデ(くるりと後ろ向きになって。)もう何も言わない。
 ヒューゴ こっちを向いて、ヒルデ。君の背中に話すのは好きじゃないんだ。チュートン系の妥協を許さない頑固な背中なもんだからね。
 ヒルデ(こっちを向く。)この方がまだしも?
 ヒューゴ さあ、手を出して。
(ヒルデ、嫌々ながら進む。ヒューゴ、ヒルデの片手を取って、問うような目で見上げる。ヒルデの機嫌なおる。)
 ヒルデ お利口な犬に砂糖一かけらね。
 ヒューゴ(手を離して。)機嫌を直すまいっていう決心のようだね。
 ヒルデ それは酷い言い方よ。こちらはあなたのことを思い遣って言っているんですからね。最近あなたの健康状態は非常によくなってきているの。ブノワ先生も、血圧が元に戻って正常だと言ってるし、夜はよく寝ているし、三週間も痛みが出てきていない。それがぶり返しはしないかと心配しているの。ちょっとした興奮でも、あなたには酷く悪いんですからね。
 ヒューゴ 君、真面目に考えてるの? 僕がカルロッタを見たら、血圧が上るんじゃないかって。
 ヒルデ そのあらゆる徴候があるわ。
 ヒューゴ ああヒルデ・・・ヒルデ。そういうのを「名うてのロバ」って言うんだよ。
 ヒルデ ほら、また動物。この十分間に、ラクダ、ロバ、それに「一瘤ラクダ」。三種類も。あなたの普通の会話には滅多に動物は出てこない。カルロッタに会う心の準備をしているの。違うとは言わせません。その徴候が私には分るの。二十年間無駄に一緒に暮してはいないわ。
 ヒューゴ 僕はそんなに透明なのかな。
 ヒルデ 私には・・・そう。
 ヒューゴ(苛々と。)血圧を上げているのは君だな。カルロッタじゃない。・・・煙草をくれ。
 ヒルデ(嫌々ながら箱を渡す。)これで七本目よ、今日。
 ヒューゴ いや、六本目だ。昼飯の後、一本しか吸わなかった。
 ヒルデ(火をつけてやりながら。)気をつけて。それだけ、私のお願いは。ただ気をつけるの。あの人は一度あなたを不幸にした。その二度目の機会をあの人に与えたくないの。
 ヒューゴ(辛抱強く。)いいか、ヒルデ。カルロッタとの関係は丁度二年続いた。二年後に、猛烈な怒鳴りあいの喧嘩をして、別れた。これがもう随分昔の話だ。厳密に言えば、映画のちょい役・・・母親役だったが・・・に出たのを見たことがある。胸が馬鹿でかい尼さんが主人公の、とても最後まで見ていられない酷い映画だった。だから、彼女から急に会いたいと言ってきた時、私は当然ひどく好奇心をそそられた。君の推測が正しくて、確かに金を借りたいのかも知れない。もしそうだとすれば、昔の誼(よし)みだ、いくらか貸すつもりでいる。そうではないかも知れない。ただ二人の昔のよき日々を思い出してみたいと。あれから随分時間が経った。彼女も穏やかな人間になって、この年老いた私、病人の私を、見てみたいという気になったのかも知れない。
 ヒルデ(鋭く。)あなたは病人ではないの。
 ヒューゴ とにかく彼女は私を真剣に愛したことがあるんだから。
 ヒルデ そしてあなたもあの人をね?
 ヒューゴ そう。勿論。
 ヒルデ 美人だったの?
 ヒューゴ 古典的な美人じゃない。しかし、非常に魅力的だった。生き生きとしていて、疲れを知らない。
 ヒルデ そこは今でもそのよう。
 ヒューゴ しかし、たとえそうであっても、熱情的、肉体的な結合の可能性は薄い。
 ヒルデ それはそうでしょうね。想像するだけでも滑稽だもの。
 ヒューゴ それほど滑稽ではないと思うがね。少なくとも、その可能性が君の胸をよぎったことは否定出来ないだろう?
 ヒルデ(かっとなって。)そんなこと! 勿論否定します。
 ヒューゴ そのかっとなったところを見ると、ある疑いがかけられそうだな。
 ヒルデ 疑い! 何の疑いって言うの。
 ヒューゴ 正直に言ってしまうとね、君が嫉妬しているという疑いなんだ。
 ヒルデ(静かに。)いいえヒューゴ、私は嫉妬していません。ええ、私はもう何年も前に、私に嫉妬する権利などないことが分ったのです。
 ヒューゴ ほほう、嫉妬する権利か。現代では嫉妬も法律の裁きの御厄介になる必要があるのかね。
 ヒルデ あなたと議論するつもりはありません。
 ヒューゴ 君は僕の友人がみんな嫌いだ。僕に近しい人物は誰もかれもだ。いや、今に始まったことではない。昔からだ。
 ヒルデ(元気を出して。)私が嫉妬するほど、あなたには友人は多くないわ。
 ヒューゴ 君はマリエットが嫌いだ。セドリック・マルコームにも、デイヴィッドにも、君はいたって愛想がよくない。
 ヒルデ 二人とも私に酷く愛想がよくありませんからね。
 ヒューゴ セドリック・マルコームは非常に知性的な人物だ。それに趣味がいい。それに現代美術の批評をやらせれば、今生きている批評家で、彼に叶うものはいない。
 ヒルデ じゃ、デイヴィッドは?
 ヒューゴ(防衛的に。)デイヴィッドは有望な若い画家だ。この二十年間、彼ほどの腕を持った男はイギリスに出て来ていない。それに、テンターデン卿の息子でもある。
 ヒルデ それならもっとお行儀をよくして貰いたいものね。それにあの人の絵! 大嫌い、あんな絵。汚らしくって、残酷な!
 ヒューゴ(狂暴に。)君のその身体に流れているのは、そっくりドイツ人の血なんだ。その残酷な血を持って、絵であれ何であれ、残酷だという批評は出来ない筈だ。
 ヒルデ あなた、私にそんな話し方をするなんて、いけない事だわ。それに酷く意地悪よ。あなたが普段の気分に返った時、必ず後悔するわ。いづれにせよ、こういう議論は時間と労力の無駄。これだけ長い間一緒に暮しているんですから、あなたにはちゃんと分っている筈なんです。私が、あなたの友人とかあなたの考える事に嫉妬心を抱くなんてあり得ないって事は。嫉妬に近い感情を私から捜すとすれば、それは敵意。あなたの健康を害するものに対する敵意だわ。あなた、そんなに怒るのは本当によくないわ。消化器官にどんなに悪い影響があるか、ブノワ先生が仰っていたでしょう?
 ヒューゴ やれやれ、今度は看護婦さんか。
 ヒルデ カッと火のついたように突然燃え上がる癇癪に耐えて行ける看護婦さんなんていないわ。それも私のように長いこと。
 ヒューゴ 僕を置いて出て行こうっていうのか? そして、これはその一箇月前の予告なのか?
 ヒルデ 出て行くのだったら、とっくの昔に出て行っていたわ。今はもう遅過ぎ。
 ヒューゴ お願いだから、その虐められたって顔は止めてくれないか。見ていると苛々してくるんだ。
 ヒルデ その「虐められた顔」を見るのが嫌なら、虐めないことね。私はあなたの著作の仕事、日常の細々した事で、出来る限りのことをしている。あなたが許して下さっている範囲内で、あなたを愛することまでやっているのよ。でも、あなたは私のその努力に逆らうようにしているの。時々は私が耐えられなくなる程。(背中を向ける。)
 ヒューゴ おやおや、今度は泣きだすつもりか。
 ヒルデ(振り返って。)いいえ。私は泣かない。それも時間と労力の無駄。私、帽子を被って出て行きます。
 ヒューゴ(行き過ぎたと自覚して。)ヒルデ・・・
 ヒルデ 昔の恋人に会うのに、その部屋着で、そして頭はもしゃもしゃのままでいいとお思いなら、それはあなたの勝手。
 ヒューゴ ヒルデ、僕が悪かった。謝るよ。君を怒らせてしまった。
 ヒルデ いつものことでしょう?
 ヒューゴ また例の心臓のドキドキが始まりそうだ。
 ヒルデ ちっとも不思議じゃないわ。
 ヒューゴ どんな顔をしているだろう、あいつは。ずっとアメリカに住んでいたんだ。明るいブルーの髪にしているんじゃないか。それとも、うらぶれて、落ちぶれて、薄汚い恰好で現れて、こっちに年を感じさせるか。
 ヒルデ 馬鹿なことを言わないの。あなたはわざわざ自分で年を感じようと決心しない限り、年は感じない人なの。他人の影響など受けるものですか。
(ヒューゴ、立ち上って窓のところへ行く。)
 ヒューゴ どうも一人であいつに会う勇気がなくなってきた。君、いてくれないかな。
 ヒルデ 勿論嫌よ。リーセルとグラッペ・ドールで夕食を取って、その後映画に行くの。もう決めてしまっているわ。
 ヒューゴ リーセルって、あのドイツのうらぶれた年寄りのレスビアンか?
 ヒルデ 大変知的な人物でもある。
 ヒューゴ 君と愛しあっている関係か?
 ヒルデ いいえ、全然。中国人の学生と一緒に暮しているわ。ガラスに蝶の絵を描くの、その学生。
 ヒューゴ 何のために?
 ヒルデ 才能があるの、その。
 ヒューゴ リーセルは延期にして・・・行かないでくれないか。僕と一緒にいてくれ。君の助けが必要だ。
 ヒルデ 駄目。映画は切符が買ってあるし、テーブルの予約も済み。
 ヒューゴ じゃあ、映画はカットして、夕食が済み次第帰って来てくれないか。
 ヒルデ(きっぱりと。)いいえ。この状況を作ったのはあなたよ。撒(ま)いた種は自分で刈るの。
 ヒューゴ 夕食は頼んでくれたんだな。
 ヒルデ ええ。ベルを鳴らせばフェリックスが持って来てくれます。
 ヒューゴ 今一杯やった方がよさそうだ。気合を入れなきゃ。
 ヒルデ 氷を持って来させましょう。(ベルを鳴らす。)ウオッカになさい。キャビアが頼んでありますから、いづれにせよウオッカは呑むことになりますけど。
 ヒューゴ キャビア! 頼めと言った覚えはないぞ。
 ヒルデ 私の考え。それに、ピンク・シャンペンも。
 ヒューゴ ピンク・シャンペン! 何だ、それは。
 ヒルデ あなた、いつも私にユーモアのセンスがないと言ってるでしょう? それが間違いであることを証明したかったの。
 ヒューゴ その他のメニューも、同じ調子に豪勢なのか?
 ヒルデ いいえ、後は割合質素。ステーキ・ベアネーズ、グリーン・サラダ、それにチョコレート・スフレ。
 ヒューゴ とても眠られそうにないな。
 ヒルデ この食事でなくても、どうせ眠るのは無理ね。マーロックスの錠剤は引きだしにあるわ。どうしても必要な時には。
(フェリックス、氷のバケツを持って登場。)
 ヒルデ サー・ヒューゴにウオッカを。オンザロックで。
 フェリックス 畏まりました。
 ヒルデ(扉のところで。)すぐ戻って来ます。(退場。)
 ヒューゴ(機嫌よく。)フェリックス、君がいなくて淋しかったな、ゆうべは。どこに消えたんだ?
 フェリックス(ウオッカ・オンザロックを作りながら。)午後は休みでしたので。
 ヒューゴ 君の代りの男は、魅力に欠ける男だったぞ。それに、機関車のような息を吐いていた。
 フェリックス あれはジョヴァンニといいます。カラブリア出身です。
 ヒューゴ 汽車で来たんだな。機関車の印象がよっぽど強かったんだろう。
 フェリックス はい、ウオッカです。(手渡す。)
 ヒューゴ 有難う。半日の休暇は面白かったかね?
 フェリックス はい、とても。二人でヴェヴィーのプールに行きました。ここより、すいているんです。それから、こちらに帰って一緒に映画に行きました。
 ヒューゴ 二人で泳ぎ? 二人で映画?
 フェリックス 友人です。オテル・ドゥ・ラ・ペのバーテンの助手をやっている男なんです。水泳は昔、選手で、沢山トロフィーを持っています。
 ヒューゴ 君も水泳はうまそうだね。その肩幅を見ると。
 フェリックス 彼には負けます。私はウオーター・スキーが好きで。これは偉大なるスポーツです。
 ヒューゴ そうだろうね。私が君の年頃の時には、まだなかったな。(ヒルデが帰って来るのを聞き付けて。)有難うフェリックス、ベルを鳴らすと夕食を運んで来てくれるんだな?
 フェリックス はい。畏まりました。
 ヒューゴ 三十分後になる筈だ。客の到着時間にもよるが。
 フェリックス Bien, Monsieur. (畏まりました。)
(フェリックス、お辞儀。退場。)
 ヒルデ 気分は楽になった?
 ヒューゴ むしろ諦めの気持だね。そいつは随分男性的な帽子だ。山高帽みたいだ。女御主人様に対する何かの御挨拶かな?
 ヒルデ そういう冗談は、私が嫌いなことを知っているでしょう? リーセルはもう昔からの友人です。私、彼女が好きなの。私から見えないあの人の人生は、私には興味がないの。
 ヒューゴ 煙草をくれないか。
 ヒルデ もう、いけません! 今まででも、もう吸い過ぎです。
 ヒューゴ 神経が少し参ってるんだ。
 ヒルデ 馬鹿なこと。今夜は素敵な夕べになるわ。昔のことを振り返って・・・昔の冗談を思い出して・・・
 ヒューゴ(遮って。)さっきとは随分違った見方じゃないか。さっきは会うべきではないと、泣いたり喚いたり、酷くうるさく言ってたぞ。あいつが必ず私を怒らせて、病気がぶり返すんじゃないかと。それが今度は、キャビア、ピンク・シャンペンつきのお祭り騒ぎにしようっていうのか。
 ヒルデ 考え方を変えたの。あの人、あなたに良い影響を与えるかも知れないと思って。
(電話が鳴る。)
 ヒューゴ そら、来た!
 ヒルデ(受話器に。)Oui, Gaston. Demandez a Madame de monter tout de suite. (ええ、ガストン。お客様にすぐ上って貰って。)(受話器を置く。)
 ヒューゴ あいつめ、意外に早かったな。
 ヒルデ 違うわ。あなたが遅いの。さあ、早くして。いくらあの人が年寄りになったからといって、昔の恋人よ。部屋着で迎えるのは失礼です。用意が出来るまで私がお相手を務めるわ。さあ、早く。
 ヒューゴ 頼む。約束してくれ。映画はカットして、食事が終ったらすぐ帰って来てくれ。
 ヒルデ 成り行きね。考えておくわ。さ、早く。
(ヒューゴ、寝室へ行く。)
(扉にノックの音。ヒルデ、開ける。カルロッタ・グレイ登場。四十代後半か五十代前半に見える。魅力的な女性。化粧は濃く、髪は綺麗に染めてある。高価な宝石。ちょっと多すぎるかも知れない。夜会服は凝ったものでなく、よい仕立て。腕に軽いコートを持っている。)
 ヒルデ(手を差しだして。)私、ヒルデ・ラティマーです。始めまして。
 カルロッタ(握手して。)ああ、そう、声で・・・。電話では本当に御親切に。
 ヒルデ 夫は今着替えている所ですの。二、三分もかからない筈ですわ。コートを戴きますわ。
 カルロッタ(渡して。)すみません。
 ヒルデ どうぞお坐りになって。もしお吸いになるようでしたら、あの亀の甲の箱にあります。どうぞ。
(ヒルデ、コートを持って、寝室へ退場。カルロッタ、箱に行き、一本取って火をつける。部屋を眺める。ヒルデ登場。寝室の扉を注意深く後ろ手に閉める。)
 カルロッタ 何て陽気なルノワール! それに「ブダン」も。ブダンの空って、本当に素敵。
 ヒルデ 絵がお好きですの?
 カルロッタ ええ、とても好きなんです。でも、ただ好きで、知識の方はあまり。
 ヒルデ 飲み物は如何ですか?
 カルロッタ ちょっとまだにして・・・後で戴くことにします。どんな具合ですの? ヒューゴは。(言い直す。)サー・ヒューゴは。
 ヒルデ 殆どすっかりいいんです。勿論仕事のし過ぎはいけません。精神的な動揺も。興奮もいけませんわ。神経を磨(す)り減らし過ぎるんですわ。きっと覚えていらっしゃると思いますけど。
 カルロッタ 神経を磨り減らす彼の姿というのは、あまり記憶にありません。私の覚えているのは逆に、計算された冷静さですね。それでよく苛々したものですわ。自分は自分の魂の支配者なのだと堅く心に誓った人、どんなに心が嵐と荒れ狂っていようと、平然とした表情を保つ人、でした。でもそれは昔昔の話。時間が経てば人は変るもの。私達誰でも。
 ヒルデ(微かに微笑。)心の嵐に簡単に身を任せる人ではありませんわ、確かに。でも、神経を磨り減らすと言ったのは、それとはちょっと違うんですけど。
 カルロッタ そうね。大変な経歴ですものね。その経歴の重荷のために神経がやられることもあるのでしょうね。
 ヒルデ(これもあまり気に入らない。)神経がやられる、ですって?
 カルロッタ 人に見せるために、自分で拵えた自分の姿。それを四六時中、生きて見せていなければならない。大変な緊張ですわ。あの人を守るために、あなたがいて本当に運が良かったんだわ、あの人。
 ヒルデ あの人がそんなに保護を必要としているとは思えませんけど。
 カルロッタ 結婚なさって二十年でしたわね?
 ヒルデ ええ。一九四五年一月に私を秘書として雇い、数箇月後に結婚したのです。
 カルロッタ(微笑んで。)新聞の見出しを思い出しますわ。かなりセンセイショナルなものでしたもの。
 ヒルデ(後ろを向いて。)ええ、そうでした。新聞て、何でもあれ。馬鹿なこと。
 カルロッタ 想像していた人とは随分違っていましたわ、あなた。
 ヒルデ(礼儀正しく。)そうですの?・・・どんな人間だと思われていたのかしら。
 カルロッタ もっと陰気で、他人の言葉で容易に傷つかない人。王冠を守る龍の役割。
 ヒルデ 絵画的な表現ですわね、ミス・グレイ。御自分も小説家におなりになるべきでしたわ。
 カルロッタ その気になったことはあるんですけど。ヒューゴはよく、私のことを大袈裟だ、喋り過ぎだ、と非難していましたから。こんなに年が経って、また会うことについて、どう思っているんでしょう。
 ヒルデ さあ、よくは分りません。興味津々は確かですけど。
 カルロッタ で、あなたは? あなたの反応は? この異常な事態に対して。
 ヒルデ 特にどうという感想もありませんわ。
 カルロッタ 鼻であしらわれてしまいましたね。いいでしょう。すっかり納得する訳にはいきませんけど。
 ヒルデ 鼻であしらうなんて気はありませんでした。許して下さいますわね?
 カルロッタ 許すも何もありませんわ。私のことを、何か怪しいとお思いになるのは当然ですわ。王冠を守る龍なら、たとえそれがどんなに親切な龍でも、見知らぬ人間を警戒するのは義務ですもの。もっと早く、別の機会であなたにはお会いしたかったわ。友達になれた筈ですもの。
 ヒルデ(少し防備を緩めて。)ええ、どうも有難う、ミス・グレイ。
(ヒューゴ、寝室から登場。エメラルド・グリーンのヴェルヴェットのスモーキング・ジャケットに黒いズボン、クリーム色の絹のシャツに黒いネクタイ。スリッパには金色のイニシアルが入っている。)
(カルロッタ、立ち上り、暫くヒューゴを眺める。それから近づく。)
 カルロッタ ヒューゴ! まあ、何て奇妙な瞬間なの、これは。最初に会った時の台詞、随分考えて来たのよ。でも、この瞬間、全部どこかへ飛んで行ってしまった。どう? キスの挨拶は?
 ヒューゴ(少し自意識のある微笑。)うん、いいね。(公式の両頬にするキス。)
 カルロッタ(抱擁を解きながら。)お元気そうだわ! 締まった身体、それに威厳があるわ。白髪もよく似合う。
 ヒューゴ(素晴らしい騎士道精神。)長い年月も、君のことは忘れたようだね、カルロッタ。
 カルロッタ いいえ。駄目。ちっとも忘れてくれなかった。仕方がないから、私も覚えていて、出来るだけ注意を払って来たの。
 ヒューゴ ヒルデとは友達になれたようだね。
 カルロッタ(素早くヒルデを見て。)ええ、なれたわ。(ヒルデに。)どこかでお会いした顔だわって・・・今まで思い出せなかった。今思い出したわ。ヒューゴの自叙伝にあなたの写真があったのね。柱に寄り掛かって、片手を目に翳(かざ)してお天気を心配しているような顔。
 ヒューゴ あの柱はパルテノン宮殿のだ。
 ヒルデ 日差しがとても強くて。
 カルロッタ 残念ながら、私の写真はあの本になかった。言葉では登場していたけど。(ヒューゴを見る。)光はやはりとても強かった。言葉だけでも。
 ヒューゴ 飲み物はどうかな。
 カルロッタ 有難う。戴きたいわ、是非。
 ヒルデ(飲み物のテーブルに進みながら。)ウイスキー、ブランデー、ウオッカ?
 カルロッタ ウオッカを。ロックで。(ヒューゴに。)あなたはもっと更けているんじゃないかと思ってた。でも今はそんな話、的外れになってしまったわね。誰もかれも、その年には見えない。時間の方が敗北宣言をする時代ね。時間に尻尾を巻かせるっていい気分だわ。
 ヒルデ(ウオッカを持って来て。)どうぞ、ミス・グレイ。
 カルロッタ 有難う。
 ヒルデ(カルロッタに。)すみませんが、私はこれで。夕食の約束がありますの。
 カルロッタ まあ、残念ですわ。もっとお話が出来ると思っていましたのに。
 ヒルデ またお会い出来ますわ。
 カルロッタ ええ、それはきっと。私、このホテルに移って来ましたから。
 ヒルデ(不意をつかれて。)え?
 カルロッタ(片手を出して。)どうぞ心配なさらないで。二、三日いるだけです。病院で暫く注射をする必要があって。ヴェヴィーよりここの方が便利がいいのです。
 ヒルデ(握手して。)じゃ、オルヴワール、ミス・グレイ。
 カルロッタ(微笑して。)ア・ビアント、レイディー・ラティマー。
(ヒルデ、ヒューゴに一瞥を送り、素早く退場。カルロッタ、窓のところへ進む。)
 カルロッタ 遠くに灯(あかり)がちかちか光っていて、綺麗だこと。この間の晩、小さな汽船に乗って、エヴィアンに行って、殆ど千フラン勝って来たわ。
 ヒューゴ(少しショックを受ける。)そんな高額な賭けをする余裕があるのか?
 カルロッタ ええ、かなりの貯えがあるわ。それに、先夫からの別居手当もあるし。
 ヒューゴ 他にも夫は何人も?
 カルロッタ 今の話の前に二回。二人とも死んだわ。一人は飛行機事故。もう一人は戦争。
 ヒューゴ 愛していたのか。
 カルロッタ ええ、とても。そうでなければ結婚していなかったわ。
 ヒューゴ 子供は?
 カルロッタ ええ。二番目の夫との間に男の子。今二十四歳。魅力のある子。あなた、きっと好きになるわ。昆虫学者なの。
 ヒューゴ 昆虫学者に会ったことは今までにない筈だな。虫の研究か。
 カルロッタ ええ。虫って、目で見えるより実際はずっと多くいるの。
 ヒューゴ そうだろうな。個人的には虫に興味を持ったことは私にはないな。
 カルロッタ あなた、屁っぴり虫は、腸から圧縮空気を吐きだすんだって思っていたわね。本当は二つの内分泌腺で拵えた爆発性のロケット燃料なのよ。
 ヒューゴ 一時期、あの虫に悩まされたことがあったな。
 カルロッタ それにバッタ! あなたバッタはお好きでしょう?
 ヒューゴ 失望させて悪いが、好きじゃないね。
 カルロッタ 後脚を相手の後脚に擦(こす)って会話をするのよ。
 ヒューゴ 人間もそれで行きたいね。
 カルロッタ 飲むの、私だけ?
 ヒューゴ 飲み過ぎは私の身体に悪いんだ。
 カルロッタ 飲み過ぎは誰の身体にも悪いわ。私のお相手にほんのちょんぼし、自分に注いだら?
 ヒューゴ 「ちょんぼし」か。凄い言い方だ。分った、分った。
 カルロッタ 奥様、いいわ。私、好きよ。
 ヒューゴ それは良かった。
 カルロッタ あの人は私のことが気に入らない様子。でも好きだわ。あなたの自叙伝であの人のこと、正直に評価していないわ。まあ、そんなことを言えば、あの人に限らない。あなたは誰も正当には評価しないの。
 ヒューゴ 読む義務なんか、君にはないんだよ。
 カルロッタ カバーに「この本は誰も正当に評価していない」と注意書がしてありませんでしたからね。全体に、あなたの評価には僻(ひが)みが入っているわ。
 ヒューゴ そう見えるかも知れないね。私はその人物がこう見られたいという像を描くんじゃない。その人物そのものを描くんだ。とにかく私は批評家であって、道徳家ではない。その人物の好みに合わせたりはしない。
 カルロッタ たいしたものだわ!
 ヒューゴ その目にからかいの色が混じっているね。私が見逃していると思われるのは嫌だから言うんだが。
 カルロッタ(微笑して。)どうぞ御安心を。見抜かれているのはちゃんと分っています。ただ、一番大事なからかいは見抜かれてはいませんけど。
 ヒューゴ ほほう、それは何だろう。
 カルロッタ 人の性格の一番悪い所ではなく、一番良い所を見つけるコツを知っているの、あなたは。
 ヒューゴ その自信たっぷりな大発見にケチをつけたい訳じゃないんだが、そのことはよく指摘されていてね。特に女性のジャーナリストがそう言うんだ。
 カルロッタ 一、二・・・一、二・・・一ミリ、また一ミリ、刃(やいば)は急所に進んで行く。 
 ヒューゴ おやおやカルロッタ、驚いたね。君がそんなに古典の知識をつけたとは。私達が会ったあの頃、君は文学など何も知らなかったぞ。
 カルロッタ(笑って。)あなたよヒューゴ、私の覚束(おぼつか)ない足を文学の道に踏ませたのは。あなたよヒューゴ、その素晴らしさに私の目を開いてくれたのは。
 ヒューゴ 馬鹿なことを言わないでくれ。
 カルロッタ あなたは私の処女の心に熱心に色々働きかけてくれたわ。でも今振り返って見ると、私の処女の身体にはあまり熱心には働きかけてくれなかったわ。
 ヒューゴ(身体の向きを変えて。)そんな言い方は止めてくれ、カルロッタ。趣味が悪いよ。
 カルロッタ(優しく。)すぐ怒るのは止めて。それじゃ、昔に逆戻りだわ。あなたは私のことを、いつでも下品だと言っていた。あなたの光にあてるとそういうことになるのね。でも、あなたの光(ひかり)って、明る過ぎ。それに高い所にあるの。だからいつでも私の目の下に隈(くま)が出来てしまう。それに、自分が乞食のような気分になってしまう。いつでもそうだったし、これからだってずーっとそうなんだわ。対抗しようとしたって、私に出来る事なんか何もない。あるとすれば出て行くことね。あなた、私に出て行って貰いたい? 今、この瞬間。あなたが本気でそう思うなら、私出て行くわ。本当よ。口に出して言わなくてもいいの。「さよなら」って頭をちょっと下げて下されば、私にはそれで十分。
 ヒューゴ 勿論君に出て行って貰いたいなどと思わないさ。私には欠点もある。僻(ひが)み根性で他人を見るさ。しかし礼儀を欠く事は滅多にしない。
 カルロッタ 礼儀で追い出さないんじゃなくて、何かもって暖かいものの理由で引き留めて欲しいんですけど。
 ヒューゴ 残念ながら、今のところそれ以上のものは何もないね。まあ、強いて捜せば好奇心だが、これは礼儀よりもっと冷たいだろう。急に驚かされて嬉しいと思うのは若い時のことだ。今はもう、私はその時期は過ぎている。私は言ってみれば「人生の方向を決めてしまった人間」なんだ。これはこの年ではそう不思議なことではない筈だ。
 カルロッタ 「諦め」も含んでいるようね。
 ヒューゴ 「諦め」まで行けばたいしたもんだが、私はまだ求めているものがある。例えば「威厳」だ。今日ではもうすっかり廃(すた)れてしまってきている徳目だが。
 カルロッタ 何となく分ったわ、あなたの狙っているもの。
 ヒューゴ(まだオリンパスの高みにいて。)どんな事を想像されても私は構わない。
 カルロッタ 自分の肖像画を創(つく)ろうとしているのね。他人に見て貰うための肖像画を。何冊もベストセラーを書いた、機知に富んだ皮肉な作家、今や大文豪の道を切り開かんとす。
 ヒューゴ その君の推定が正しいとしたら、君はそれを唾棄すべき変身というのか?
 カルロッタ 勿論そんなことは言わないわ。もしそれが必然の道なら。でも、ちょっとそれ、フライングじゃないかしら。
 ヒューゴ(辛抱強く。)いや、フライングじゃない。抜け駆けの功名でも、転ばぬ先の杖でもないし、年寄りの冷や水でもない。
 カルロッタ あら、色々並べたわね。それぐらいすぐ出て来ないと、引退した女優さん達を夕食によんで、恥ずかしいものね。
 ヒューゴ(これを無視して。)私はただ自分がもうすぐ死ぬ身であるという事実をあまり動揺なく受け入れようとしているのだ。私は年寄りだ。少なくとも私はそれをしっかりと意識している。
 カルロッタ まあまあ、そんなに急にムキになって私にあたることはないわ。今は私達の会話、うまくいっているのよ。そうね、少なくともあなたは、大成功の自分の経歴におめでとうが言えるわ。こんなに長い時間、何百万、何千万の人々を楽しませたんですもの。素晴らしい事だわ。サーの称号を貰ったって、当然のことよ。
 ヒューゴ 君はここに敵として現れたようだね。私は味方として現れるんじゃないかと期待していたんだが。
 カルロッタ 本当? ヒューゴ。私が味方として現れると思った?
 ヒューゴ どうやら間違っていたらしいな、私の期待は。
 カルロッタ いいえ、間違ってはいない。私は味方。敵ではないわ。でもまだ、少し苦味が残っている。だって私達、愛人同志だったのよ。それも丸々二年間。別れも幸せなものではなかった。
 ヒューゴ しかし、かなり必然性もあった。
 カルロッタ 私は随分あなたのことを愛していたわ。
 ヒューゴ 私も君のことを。
 カルロッタ まあまあ、随分愛していたように聞えること。
 ヒューゴ(そっぽを向いて。)カルロッタ! 死んでしまった感情をほじくり出してあれこれ言うのは止めにしよう。古くなってぼやけた写真を見るのは好きじゃないんだ、私は。
 カルロッタ あなたの自叙伝で、どうして私のことをあんなに意地悪く書いたの?
 ヒューゴ ははーん、分ってきたぞ、君の意図が。
 カルロッタ(陽気に。)いいえ、分る訳ないの。ただあなた、一足飛びに結論を出しているだけ。あなたの最大の欠点なの、それが。
 ヒューゴ 私の最大の長所の話に焦点を合わせた方がいいんじゃないか? 少なくともここの雰囲気はその方が明るくなる。
 カルロッタ そのつもりよ。あなたがさっきの私の質問に答えてくれさえしたら。
 ヒューゴ 私の自叙伝は、それを書いた時点までの、私に起った事柄、即ち私の経験なんだ。私は客観的で真実に近くあろうとした。もしその過程で、君の感情を損ねたのなら謝る。しかし、意地悪の気持からじゃなかった。私は自分が真実だと思ったことを書いたのだ。
 カルロッタ あの本はあなたの人生を外側から見て評価したことが書かれている。それはそうかも知れない。でも、あなたの人生を内側から見て、正直に書けているとは思えないの。
 ヒューゴ それがどうしたって言うんだ。内側から見た人生など、私の勝手じゃないか。
 カルロッタ でもそうすると、あの本は間違った旗を上げて走っている船ってことになるわ。
 ヒューゴ(嫌らしい言い方で。)こんな話になる理由は、私があそこで君のことを女優として大根だと書いたからなのか。
 カルロッタ(笑って。)あら、そんなことを書いたの? 忘れていたわ。意地悪ね。
 ヒューゴ すまないとさっき言った。
 カルロッタ いいえ。あなたは「君の感情を損ねたのなら謝る」と言っただけ。すまないと思っていなかったかも知れないわ。
 ヒューゴ(少し悪いと思って。)じゃ、すまない。・・・これでいいんだな?
 カルロッタ ええ。今のところはね。今、お仕事は? 何か書いてるの?
 ヒューゴ うん、小説だ。残念ながら、この間まで具合が悪くて中断していた。やっと正常に戻って、いつものペースで書けそうな様子なんだ。
 カルロッタ あなたの克己心は昔から凄かったから。
 ヒューゴ 君と二人の時は仕事はそう進まなかった。(微笑む。)気晴らし、脱線、色々あった。
 カルロッタ その時にも、私のことを大根だと思っていた?
 ヒューゴ そんなことを思う訳がないだろう? 惚れていたんだからね。
 カルロッタ 後になって、あなたのその薔薇色のサングラスを外した時になって初めて、私がはっきり見えたって言うの?
 ヒューゴ 君がはっきり見えたというんじゃないな。気がついた、と言う方が当っている。君のその活力、魅力、色気、にも拘らず、何か欠けているものがある。何か重要なものが・・・ってね。
 カルロッタ ということは、私が決して本当のスターにはなれないと思ったのね?
 ヒューゴ 思ったというより、そう感じたんだな。
 カルロッタ とにかく、あなたのその診断は当っていたわ。私は確かにスターには・・・大スターには・・・なれなかった。でも、私の経歴もそう捨てたものじゃないわ。面白い芝居は演じてきたし、世界中を旅行したわ。私の人生は結構これで私を満足させてくれた。退屈はしなかったし、後悔も殆どない。
 ヒューゴ しかし、常に引っかかる何かがある。それは、自分はただ大過(たいか)なくやっていけるだけの人間ではない。偉大であれた筈の人間なのだ、ということ。
 カルロッタ(平静に。)私からもっと嫌な台詞を出させようという餌ね、それ。そういうのを「蛇の羊皮紙」というのよ。
 ヒューゴ 「蛇の羊皮紙」?
 カルロッタ そう。毒蛇から毒を採取する時に、動物学の専門家は、蛇に羊皮紙を噛ませるの。
 ヒューゴ(薄い笑いを浮かべる。)君の非難を受け入れよう。
 カルロッタ まあ、鷹揚(おうよう)な態度だこと。
 ヒューゴ 君が未だにこの私に敵意を起させるのは不思議なくらいだ。
 カルロッタ 「敵意を起させる」というのは当っていないのよ。敵意は常にそこにあるの。一枚皮を捲(めく)るとすぐその下に、いつでも。
 ヒューゴ 若い二人が情熱的に愛し合っていれば、多少の啀(いが)み合いは避けられない。また、啀み合いだって、程度さえ越えなければ二人にとって良いものでもある。しかし、年寄りの啀み合いは、ただ退屈なだけだ。
 カルロッタ それはあなたのことね。あなた、自分で年寄りと決めているようだから。私はまだ。多分私は、一生年寄りにはならない。九十になってもまだ若いままという人がいるものよ。
 ヒューゴ 威厳のある撤退を君は認めないのかな。つまり、優美に年を重ねてゆくというやつだが。
 カルロッタ 年を重ねるという事には、全く優美さはないの。それは憂鬱な工程で、誰もがそれぞれのやり方で対処するしかない。私のそれに対する処し方は、外から見ると馬鹿げていて、ただギラギラしていて、もっと先に行くとグロテスクに見えるかも知れない。でも、外の観察者なんか、私は一向気にしない。私自身にどう見えるかだけが問題。私はお化粧をするのが好き。身体をマッサージして貰って、髪を染めて。あなたには想像もつかないわきっと、私の朝がどんなに長くて複雑か。それなのに私がどんなにそれを楽しんでいるか。確かに午後遅くなってくると、少し草臥(くたび)れてくるわね。でも、ちょっと仮眠をとる。するとまた溌溂。夜の行動に突撃出来るわ。
 ヒューゴ その、夜の行動は、それだけの努力に報いてくれるに足る、良いものなのかな?
 カルロッタ ええ、だいたいは。友達が多いの、私には。相当若い子も沢山。私と一緒にいて楽しい様子よ。その若い子達が踊るのを見るのも好き。
 ヒューゴ 今の若い連中ってのは嫌いだね。汚くって、躾けがなってなくて、礼儀を知らない。おまけにやたらに騒ぐ。
 カルロッタ 若い者は騒ぐものなのよ。私の知っている子達は、頭がよくて、知識があるわ。私達よりもよ。だいたいあの子達の生きている世界は、私達が生きてきた世界よりもずっと厳しいの。だから少しは大目に見てやらなければ。
 ヒューゴ 大目に見てやるには年をとり過ぎた。
 カルロッタ まあまあ、また年? お墓にまっしぐらに退却するの?
 ヒューゴ 話題を変えよう。二人で共に賛成出来る、もっと一般的な話を捜そう。
 カルロッタ あなたのその揺るぎない優美な態度を見ると、つい苛々して喋り過ぎてしまうのね、私。
 ヒューゴ(意地悪なしに。)君は昔からよく喋ったよ、カルロッタ。
 カルロッタ そうね。私の病気、殆ど。ディナー・パーティーでは役に立つけど、家庭では致命的。
 ヒューゴ これはそのどちらでもないんだからね。君は気楽にしていいんだ。
 カルロッタ あなたのことが知りたくてたまらないの。あれからのあなたが。その長い間にあなたに何が起ったのかしら。そう思っていた癖に、自分で喋りまくったりして。ご免なさいね。
 ヒューゴ 私のことを知りたいというのはどういうことなんだろうね。それも今になって急に知りたくなったらしいからね。何かその動機になるものがあるようだ。何かぱっと、火花が散って、それでやって来る気になった。何なのだ? その動機は。
 カルロッタ ええ。おいおいお話するわ。
 ヒューゴ それは随分人を苛々させる答なんだ。分っているだろう?
 カルロッタ ええ、そうね。またあなたに謝らなければならないわ。
 ヒューゴ さっきは私が謝った。今度は君の番か。長い空白の後初めて会って、お互いに謝罪するだけじゃ、全く退屈なだけだぞ。
 カルロッタ 今日のこの夜がどんなものになるかは分らないけど、退屈にだけはならない。それは保証するわ。
 ヒューゴ 脅迫の匂いのする言い方だね。性的決闘というのが、我々の二年間の暮し方だったが、それを呼び起こそうというのか?
 カルロッタ 性的決闘? あの生活をそういう言葉で振り返るのね、あなたは。悲しいこと。
 ヒューゴ カルロッタ! 君はこの私に何を求めているんだ。
 カルロッタ 当面は食事ね。
 ヒューゴ(苛々して。)カルロッタ!
 カルロッタ お昼に私、サラダしか食べてないの。お腹、ペコペコ。
 ヒューゴ(諦めて。)いいだろう。好きなようにするんだな。君の仕掛けて来るものが何であっても、私は応じる用意がある。しかし、ある所までだ。私はすぐあきる性質(たち)だからね。(ベルを鳴らす。)これでとにかく食事は出て来る。キャビアが好きだったね、君は。それは覚えている。
 カルロッタ それは優しいわ。初めて食べたのは、あなたとだった。芝居の後、夕食にサイロに連れて行ってくれたわ。あの時。
 ヒューゴ 既に君を獲得していた後だったかな、それとも求愛中だったか。
 カルロッタ 殆ど獲得後ね。でも、決定的になったのはキャビアのせい。キャビアの後、何が出たかもよく覚えているわ。
 ヒューゴ 何だった?
 カルロッタ ソース・ベアネーズのフィレ・ミニヨン、それに、グリーン・サラダ。それから・・・(ちょっと考えた後。)チョコレート・スフレ。
 ヒューゴ ひょっとして、ピンク・シャンペンもか?
 カルロッタ ええ、確か。
 ヒューゴ その昔の思い出がここでそのまま繰り返されることになる。見ていてご覧。
 カルロッタ まああなた、年をとったなんてこと、とても信じられないわ。
(扉にノックの音。)
 ヒューゴ どうぞ。
(フェリックス、ディナー・テーブルを曳いて登場。)
 フェリックス 今晩は、マダーム。
 カルロッタ 今晩は。
 フェリックス(入って来ながら。)テーブルはいつもの位置でしょうか、旦那様。
 ヒューゴ そうしてくれ、フェリックス。
 フェリックス(カルロッタを席につかせて。)マダーム。
 カルロッタ 有難う。
(フェリックス、ウオッカを開けにかかる。)
 ヒューゴ ウオッカはそのまま置いておいてくれ。自分達でやる。
 フェリックス Bien, Monsieur. (テーブルを一瞥して、万端整っていることを確かめ、お辞儀をして退場。)
 カルロッタ 随分ハンサムな子ね。ギリシャ人? それともイタリア人?
 ヒューゴ(双方にウオッカを注いで。)半分イタリア人、半分オーストリア・・・だと思った。
 カルロッタ 私の最初の夫ピーターにちょっと似たところがあるわ。可哀相なピーター。軽々とした足取りで世界を歩いた人。でもその同じ足取りで、世界をさっさと去って行った。
 ヒューゴ 飛行機事故で亡くなったんだったな、確か。
 カルロッタ ええ。サン・ディエゴで操縦を習っていて。私はサンフランシスコで新しい芝居の稽古。マチネが終るまで私に気を使って言わないでいてくれたわ。
 ヒューゴ(悲劇なので、少し気まづく。)それは君には気の毒だったな。
 カルロッタ ええ、私の最初の悲しみ。私達は結婚してまだ十八箇月だった。早過ぎる別れだったわ。それからちょっとして、芝居で間違いをやってしまった。それが二番目の悲しみ。悪い一年だったわ。サンフランシスコは素敵な街で、私は大好き。でも、あそこで演じるといつもついてないの。一九五七年カラン劇場で、残っている最後の一本の歯が取れてしまった。そのカラン劇場もサンフランシスコ。
 ヒューゴ(この趣味の悪い話にぞっとして。)カルロッタ!
 カルロッタ 下の入れ歯をその一本で辛うじて支えていた。騎士道精神豊かな歯。私、アンダースタディーに言ったことがあった。「サリー、これが抜けたら、主役はあなたよ。」その一週間後、言った通りに抜けて、サリーが主役。
 ヒューゴ 小うるさい男だと思われるのは嫌なんだがカルロッタ、食事中に入れ歯の話は嬉しくないんだがね。
 カルロッタ(陽気に。)あら、どうして? 入れ歯が活躍するのは食事中が一番よ。
 ヒューゴ いや、とにかく私は話題を変えることを提案したいね。
 カルロッタ ご免なさい、ヒューゴ。今思い出したわ。あなたはいつだって、不躾(ぶしつけ)な話が嫌いだったわね。じゃ、何を話しましょう? 私のかなり乱脈な経歴の中から、二、三、スケッチでも?
 ヒューゴ 病気とか死の話はもういい。一般的なものを頼む。
 カルロッタ そうね。じゃ、何がいいか。一九三六年春、私は二度目の結婚をした。共演した相手役、ヴァーノン・リッチーと。南の国の話で、酷い芝居。でもロングランに続くロングランだった。
 ヒューゴ(あまり興味なし。)いい役者だったのか? 彼は。
 カルロッタ いいえ、酷いもの。でも舞台での演技のまづさを、他の演技で埋め合わせたわ。ブドワールでの・・・。ベッドでのって言わなかったのは、あなたの気分を害さないため。
 ヒューゴ 有難う。お心遣い感謝する。
 カルロッタ ヴァーノンは優しい人で、私は好きだった。彼との間に生まれたのが息子のデイヴィッド。それから真珠湾の後すぐ、海軍に入って、一九四四年、太平洋で死んだ。
 ヒューゴ 第二の悲しみ?
 カルロッタ いいえ。「淋しさ」といった程度だった。
 ヒューゴ それ以来ずっとアメリカなんだね。生まれ故郷のヨーロッパに住まなかった理由は?
 カルロッタ 理由はないわね。偶々そこにいたから。アメリカに最初行くことになったのは、元はと言えばあなたのせい。覚えているかしら、あなた。私が出たその芝居、グレイト・ホワイト・ウエイでかけられて、丁度十日だけもったの。
 ヒューゴ(傲慢に。)不思議じゃない、私には。あれが理解されるとは到底思えない。
 カルロッタ ねえヒューゴ、恐ろしいことだけど、あの芝居は理解されたの。演じていて、それをはっきり感じたわ。
 ヒューゴ キャビアはどう? もう少し。
 カルロッタ 有難う。
 ヒューゴ(相手にも、自分にもついで。)で、三番目の夫は?
 カルロッタ ああ、スパイクね?
 ヒューゴ 何? スパイク?
 カルロッタ そう。スパイク。スパイク・フロスト。アメリカにはスパイクっていう名前、多いの。前に話したように、この人は映画の請負人だった。それも大変成功した請負人。大スターを手玉に取ったわ、彼は。
 ヒューゴ 何となくポルノグラフィックに聞えるな、それは。
 カルロッタ(喜んで。)万歳! やっと冗談ね。モノクロの、色がついてない冗談。でも、冗談は冗談だもの。いい事だわ。
 ヒューゴ それで、ロンドンの劇場には、私の最初の芝居だけだったのか?
 カルロッタ いいえ、あるわ。もうあと二回。
 ヒューゴ それは聞いたことがないな。
 カルロッタ 当然でしょう。だってあなたは、ロンドンにいなかったんですから。その二回ともあなたは極東。掘削(くっさく)探険を実施中。
 ヒューゴ 掘削探険?
 カルロッタ ええ。宝物を発見しようと穴を掘っていたの。無垢な女性の心の中に穴を掘って。
 ヒューゴ 意地悪な舌だな、その言い方は。
 カルロッタ ええ。上下に偽物の歯があるものですからね。つい舌も悪くなって。この辺で、だから、私の話はおしまい。ヒルデのことを話して。
 ヒューゴ ヒルデのことを何故君に話さなきゃならない。全く理由が分らないね。
 カルロッタ その口の堅さは見上げたものよ。でもちょっとやり過ぎじゃないかしら。何か具合の悪いことを隠そうとしているみたい。私は新聞記者じゃないんですからね。
 ヒューゴ いつ新聞記者になってもおかしくないよ。さっきのような趣味の悪い質問が出るようじゃあね。
 カルロッタ それ、脅し? ヒューゴ。私には脅しは効かないわ。昔を思い出してご覧なさい。効いたためしがないでしょう? あなたは私の夫について訊いた。私はその話題を頭ごなしに断ったりしなかったわ。どうしてあなたの妻について訊ねて悪いの?
 ヒューゴ その類比は少し苦しいんじゃないのか。
 カルロッタ 私、本当に知りたいの。単なる好奇心からじゃない。私、あの人が気に入ったから。あの人、知性がある。落ち着きがあって、目が優しい。少し悲しみを含んでいるけど、優しい目だわ。何か悲劇を予想させる目。
 ヒューゴ(負けて。)悲劇があった、確かに。一九四○年、あれはやっとのことでナチから逃げて来た。「インチキ」な戦争が始まってすぐのことだ。ドイツに恋人を残して来た。ゲルハルト・ヘンドゥルという若い詩人だ。二年後、強制収容所で死んだ。これで満足か?
 カルロッタ 「満足」とはいかないわね。でも、話して下さって嬉しいわ。
(フェリックス登場。次の料理がのっている、車のついたテーブルを押して。)
 フェリックス 早過ぎましたでしょうか。
 ヒューゴ いや、終ったところだ。ワインを開けてくれ。
 フェリックス Bien, Monsieur. (畏まりました。)
 カルロッタ シャンペン! まあヒューゴ、これ、ひょっとして、ピンクじゃないかしら。
 ヒューゴ そうだ。
 カルロッタ あら、随分手放しの感傷主義だわ。儚(はかな)い昔の思い出が蘇ったのかしらね。そうそう、あなた、タプロウの小屋を覚えている? 芝居のはねた後、夏の夜、いつもドライヴして帰って来たあの小屋。
 ヒューゴ うん、覚えている。
 カルロッタ それから、グラフトン・ギャラリーへ行ったあの晩のこと。あなた、猛烈な勢いで怒ったわね、ベイビー・ブライアントが貸してくれた真っ赤なラメのコートを着て私が現れたら。あなた言ったわ、シャフツベリー・アヴェニューの淫売じゃないか、まるで、って。
 ヒューゴ そう。そう見えたよ。
(フェリックス、最初の料理を片付けて、シャンペンを開け、ヒューゴのグラスに少し注ぐ。ヒューゴ、ちょっと飲み、「よろしい」と頷く。フェリックス、二人のグラスに注ぎ、続いて、フィレ・ミニヨン、サラダ等々を出す。)
 カルロッタ 週末はいつもパリ。月曜日の夜、丁度芝居の幕が上る七分前に劇場に着く。私のアンダースタディーはちゃんと出られるようにいつもすっかり衣装をつけていた。・・・あなた、どうしてお芝居を書かなくなったの? あなたの作る台詞、辛辣で楽しいものだったわ。
 ヒューゴ 嬉しいね、褒められるのは。
 カルロッタ 私、あなたの書いたものは全部読んでいるわ。
 ヒューゴ いよいよ嬉しいね。
 カルロッタ 全部読んでいると言っているだけで、意見は何も言ってないのよ。嬉しいのが当っているかどうか。
 ヒューゴ 読んでいるという言葉だけで嬉しいよ。
 カルロッタ ええ、まあそうね。サイロ(レストランの名)はもうあそこにないのね?(ステーキを見て、溜息。)まあ!
 ヒューゴ すごい溜息だね。
 カルロッタ 私、アメリカに長くい過ぎたわ。素晴らしいわ、寝室のスリッパのようじゃないステーキ・・・
 フェリックス(出すのを終えて。) Tout va bien, Monsieur? (よろしいでしょうか?)
 ヒューゴ Oui, excellent. Merci, Felix. (有難う、フェリックス。いいよ。)
 フェリックス A votre service, Monsier. (では失礼します。)
(フェリックス、一礼して退場。)
 カルロッタ 本当に魅力的な男ね。あの広い肩幅!
 ヒューゴ それは気がついたことなかったな。
 カルロッタ パッドを入れているのかも知れないわね。人生って随分まやかしが多いから。
 ヒューゴ(これには心から笑って。)君は凄いね、カルロッタ。五十以上には決して見えないよ。
 カルロッタ それはそう願いたいわね。三回の細胞注入と皺取りの顔面整形を二回やったんですから。
 ヒューゴ(聞くに堪えない。)カルロッタ!
 カルロッタ 今は本当に上手になっているの。開いた切り口なんか、殆ど残らない。
 ヒューゴ そんなことを私に話すなんて、気でも狂ったのか。
 カルロッタ あらあら、またショックだった?
 ヒューゴ ショックだ。うん。整形の話は。
 カルロッタ ご免なさい。大変な進歩なのでつい・・・
 ヒューゴ そういう手術というものは幻影を作るためにやるものだろう? みんなにそんなことを話して、何故わざわざその幻影を壊したりするんだ。
 カルロッタ そうだったわ、ヒューゴ。だけど、あなたもその顎の下の肉、チョキンと切って貰うとずっと若返るわよ。
 ヒューゴ 夢にも思わないな、そんなこと。
 カルロッタ あなたの生き方に革命的な変化が起るんじゃないかな。
 ヒューゴ 生き方はこれで充分だ。革命はいらない。
 カルロッタ(陽気に。)いつまでも革命がいりませんように。
 ヒューゴ(ちょっとの間の後で。)どうしてここに来たんだ、君は。
 カルロッタ 言ったでしょう? ボロメッリ教授の診療所で、注射を打って貰いに。
 ヒューゴ(顔を顰めて。)ボロメッリ教授!
 カルロッタ そうよ。教授を知っているの?
 ヒューゴ 噂をね。
 カルロッタ 認めないという顔ね。
 ヒューゴ 怪しいという評判だ。
 カルロッタ どんな風に怪しいの?
 ヒューゴ 一般的な意見を言えば、彼はいかさま師だということになっている。
 カルロッタ いか様でもたこ様でもいいの。
 ヒューゴ 馬鹿なことを言うな、カルロッタ。
 カルロッタ 折角冗談を言ったのに、ゴキブリみたいに即座に踏み付けることはないでしょう? 
 ヒューゴ それで?(少し微笑むが、緊張した笑い。)僕の質問は、ここに来た理由を訊くというものだったよ。私の人生で、かなり遅いこの君の出現には、何か訳がある。それもかなり強力な理由がね。
 カルロッタ そんなに強力ではないの。あなたから実は、筋違いの、ちょっとした好意を受けたくて。あなたにとって、筋違いなの。でも、私には大切なこと。
 ヒューゴ 何だい。
 カルロッタ ショックよ、この次の私の台詞。身構えて。
 ヒューゴ(ちょっと苛々して。)とっくに身構えているよ。何だ。
 カルロッタ 私も自叙伝を書いたの。
 ヒューゴ(眉を上げて。)ほう。面白いね。
 カルロッタ 少し、声に震えがあったわ。
 ヒューゴ 失礼。それは気がつかなかった。
 カルロッタ 秋に出版される予定。
 ヒューゴ お目出度う。どこなんだ、出版屋は。
 カルロッタ ニューヨークはダブルデイ。ロンドンはハイネマン。
 ヒューゴ(驚きを隠して。)それは良かった。
 カルロッタ(皮肉の気分あり。)認めて下さって、嬉しいわ。
 ヒューゴ 自分で全部書いたのかな? それとも「ゴーストライター」ってやつを雇ったのかな。
 カルロッタ 一言一句、全部自分で書いたわ。
 ヒューゴ それは凄い。
 カルロッタ 電動タイプライターで。試してみるといいわ、あなたも。神からの贈り物よ、これ。
 ヒューゴ 私は必要ないね。タイプライターは全部ヒルデがやってくれる。
 カルロッタ ああ、勿論そうね。忘れていたわ。じゃあ、誕生日のプレゼントに、彼女に贈るのよ。
 ヒューゴ(ちょっとの間のあと。)その序文を書いてくれと言うのかな。
 カルロッタ いいえ。私、序文も自分で書いたわ。
 ヒューゴ(苛々が出てくる。)じゃ、何なのだ。君は私に何が望みなんだ。
 カルロッタ あなたの手紙を載せる許可。
 ヒューゴ(ぎょっとする。)手紙! 何の手紙だ。
 カルロッタ あなたが私に書いてくれた手紙。恋人同志だった時の。私、みんなとってあるの。
 ヒューゴ あの頃、私が君に書いた手紙はすべて個人的なものだ。つまり、君と私と、この二人にしか関係のないものだぞ。
 カルロッタ 賛成だわ。でも、もう随分昔のことよ。二人とも、とても自叙伝なんて書くような年じゃなかった頃の。
 ヒューゴ 昔だろうと今だろうと、個人的なものと公けのものは違うんだ。その差もまだ君には分っていないようだな。
 カルロッタ(怯まない。)差が分らないのは私じゃないの。ダブルデイとハイネマンなの。
 ヒューゴ 数年前、ミスィズ・パトリック・キャンベルが、同様の要求をミスター・ジョージ・バーナード・ショーにした。そして、ミスター・ショーの答は、「勿論嫌だね。私はレイディー・ゴダイヴァの馬の役割を演ずるのはご免こうむる。」と。
 カルロッタ まあ、意地悪ね。
 ヒューゴ ミスター・ジョージ・バーナード・ショーの前例を破るのは趣味が悪いだろうと思う。
 カルロッタ(サラダを自分に取りながら。)ということは、あなた、断るのね?
 ヒューゴ 勿論。非常に強く断る。
 カルロッタ そうだろうと思っていたわ。
 ヒューゴ 最初から分っていたのなら、何故わざわざ訊いたのだ。
 カルロッタ やってみる価値はあると思って。人生って時々意外なことが起るもの。
 ヒューゴ もし近日出版のその自叙伝がそういう類いのブロマイドで鏤(ちりば)めてあったら、ベストセラー疑いなしだね。
 カルロッタ あなたって、すぐ嫌らしい人間になれるのね。ついさっきまでゆったりして落ち着いた人間だったのに。
 ヒューゴ 君の提案にびっくり仰天したんだ。全くこれ以上はない趣味の悪さだからね。
 カルロッタ まあいいことにしましょう。シャンペンは如何?(バケツから壜を取出し、自分に注ぐ。ヒューゴに「如何?」と壜を差し出す。)
 ヒューゴ もういい。有難う。
 カルロッタ まだ大分残っているわ。
 ヒューゴ 空にしてくれ。頑張って。
 カルロッタ ボロメッリ教授は怒り狂っちゃうわ。
 ヒューゴ だけど食餌療法など、特別なものを指定してはいないんだろう? どういう注射を打つんだい?
 カルロッタ(ステーキをおいしそうに食べながら。)まあ、教授独自のものよ。ホルモンとか何とか。
 ヒューゴ ニーハンズ教授と同類なのか?
 カルロッタ いいえ。全く違う。ニーハンズは羊の胎児からとった生きた細胞を注射するの。ノン・ユーの羊でさえなければ、効き目は抜群なの。
 ヒューゴ ニーハンズにも君、行ってたのか?
 カルロッタ ええ。何年も前に。可愛いものよ、やっぱり。アヒルみたい。
 ヒューゴ スイスとあひる飼育場と間違えているんじゃないか。
 カルロッタ(グラスを上げて。)クワッ、クワッ!
 ヒューゴ(怒って。)子供のような真似は止めてくれ。
 カルロッタ(笑って。)あなたは私の冗談が好きだったのにね。二人が若い恋人同志で、世界がまだ新鮮に見えていた頃。
 ヒューゴ 二十一歳の女の子の悪ふざけは魅力があることだってあるさ。年をくっていては話は違って来る。
 カルロッタ 尊大で威張りくさったじいさんの不機嫌もね。
(フェリックス登場。チョコレート・スフレののったテーブルを押して。)
 カルロッタ いいタイミングね、フェリックス。実にピッタリよ。
 フェリックス 有難うございます、マダーム。(慣れた手付きで空の皿を始末し、移動テーブルに片付け、新しい皿を出し、スフレをのせてゆく。)
 カルロッタ(長い間の後。)湖は鏡のようよ、今夜は。まもなく月も出るわ。
 ヒューゴ よく分るんだな、そんなことが。
 カルロッタ 夕べ月があったの。簡単な推論よ。(フェリックスに。)サー・ヒューゴの話だと、あなた、半分オーストリアで、半分イタリアって。そう? フェリックス。
 フェリックス その通りです、マダーム。
 カルロッタ そのどっちの半分が好き? イタリア? オーストリア?
 ヒューゴ 止めんか、カルロッタ。
 フェリックス 両方とも同様に気に入っています、マダーム。(微笑む。)
 カルロッタ ワルツもタランテッラも、両方ともお似合いね、あなたには。
 ヒューゴ(苛々と。)そのへんでいいフェリックス、すぐにコーヒーを持って来てくれ。
 フェリックス Subito, signore! (伊語「はい、只今。」)(一礼して、カルロッタに微笑。そして退場。)
 ヒューゴ 召使に馴れ馴れしくするのは、私は嫌いなんだ。
 カルロッタ さあさ、早くスフレを召上れ。下らないことをぐだぐだ言って、一体自分を何だと思っているの?
 ヒューゴ(怒って。)何だと! 誰に向ってそんな口をきいているのだ。
 カルロッタ あなたによ。それがどうしたの? 私があなたを怖がるとでも思っているの?
 ヒューゴ 君の礼儀知らずには全く呆れる。
 カルロッタ あなたの勿体ぶりにも呆れたわね、私。
 ヒューゴ(冷たく。)君は私が招待した客なんだぞ。客なら客らしく振舞ったらどうだ。
 カルロッタ 客よ、当然。お客に対してはお客に対してのように応対するものでしょう?
 ヒューゴ まづ客の正しい礼儀だ。私にはそれを要求する権利がある。
 カルロッタ 「正しい礼儀」「要求する権利」。まあまあ、あなたそれで作家? そんな陳腐なことを言って、恥ずかしくないの?
 ヒューゴ(怒りで震える。)いいか、カルロッタ。私は同じことを二度は言わんぞ・・・
 カルロッタ 落ち着きなさいったら。ヒルデが私にさっき言ったわ。あなたを怒らせたら身体に悪いからって。そんなに興奮して、歯を剥(む)きだして喋っていたら、発作が起きるわよ。
 ヒューゴ(我を忘れて怒鳴る。)歯など剥きだしてはおらん!
(暫くの間、沈黙。カルロッタ、落ち着いてスフレを食べている。)
(ヒューゴ、厳かに立ち上る。)
 ヒューゴ(見上げた自制心をもって。)どうやらカルロッタ、私達はもうお互い、話も尽きたようだ。君がそれを食べ終ったら、出来るだけ早く帰ってくれないか。もう言ったと思うが、最近私は病気がちで、眠るのを早くしているのだ。それに、つい今しがた、君が私に言ったような言葉を我慢して聞く必要のない年齢に、私は達していると思っている。
 カルロッタ おやおや、もうそういう年齢? するともうすぐ誰もあなたに話しかけることが出来なくなる年齢になるのね。
 ヒューゴ 礼儀に欠けるように見えたとしたら謝る。しかし、こういう結末の・・・つまり、実りのない話し合いに終った・・・原因は、そちらにあるのだ。私はベストを尽して君を親切に受け入れ、この夕べを楽しいものにしようとしたのだ。しかし残念ながら、その努力は失敗に終った。それから君の要求に応えられなかったのも、すまないとは思っている。しかし、君が後で時間をかけてよく考えてみてくれれば、それがいかに厚かましいものであるかが分る筈だ。
 カルロッタ 厚かましい? 何故?
 ヒューゴ 私は君の本を読んではいない。だからそれが良いか、悪いか、ほどほどのものか、判断することは勿論出来ない。しかし、その本がどのようなものであれ、この今の私の位置にいる人間の、個人的な手紙が、そこに含まれることになれば、君のその本の値打はぐっと上る筈だ。私が手紙の掲載を許すだろうと、ほんのちょっとでも君が考えた、そのことに厚かましさが存在するのだ。我々が会い、別れたのは、何年も昔のことだ。それから今日まで、お互いに何の連絡もとったことがない。君は君自身の人生を送り、私は私の人生を送った。私の人生はいささか傲慢な言い方を許して貰えば、非常な成功だった。君の人生はそれほどでもない。従って、そんなに長い空白の時間がありながら私に、君の名声を上げる踏台になってくれと、突然頼みに来るその君のことを、厚かましいと言って君が不思議に思うことは何もない筈ではないか。
 カルロッタ(ヒューゴを見上げて、考えながら。)出て行く前に、コーヒーを一杯、戴いていいかしら。
 ヒューゴ 勿論。今すぐ来る。
 カルロッタ 可哀相なヒューゴ。
 ヒューゴ 君から哀れんで貰う必要はない。
 カルロッタ よく考えてご覧なさい。あなたの言い方がそれほど筋の通ったものかどうか。怪しいものよ。
 ヒューゴ 君が何を言いたいのか、私の言い分のどこに弱点があるのか、正直言って私には全く興味がないね。
 カルロッタ 私の言いたいのはこう。今あなたが私の要求を断ったその言葉・・・優美さに欠け、軽蔑の心が溢れている・・・そんな言葉を使って拒絶する人間に、幸福な人はいないの。そして、自己の確立した人もいないの。
 ヒューゴ 「幸福」に「自己の確立」か。やれやれ、アメリカ婦人雑誌のちゃちな表現を持って来たものだ。君の御都合主義に脱帽する。
 カルロッタ 気をつけて、ヒューゴ。用心しないと、あなたの乗っている馬、調子に乗り過ぎているわ。急に後ろ足で立ち上って、あなたを振るい落とすわよ。
(フェリックス、コーヒーを持って登場。)
 フェリックス コーヒーですか? ムッシュー。
 ヒューゴ そちらにだけ。そこに置いて、ディナー・テーブルは下げてくれ。
 フェリックス 畏まりました。
 カルロッタ 眠れないと困るから?
 ヒューゴ(冷たく。)夕方からはコーヒーは飲まない。
 カルロッタ ココアを一杯どうかしら、それなら。恰好は悪いけど、気分は落ち着くわ。
 フェリックス これでいいでしょうか、ムッシュー。
 ヒューゴ いい。有難う。
 フェリックス お休みなさい、ムッシュー、マダーム。
 カルロッタ お休み、フェリックス。おいしい夕食、それにサービスも完璧。
 フェリックス(ヒューゴが苦虫を噛み潰したような顔をしているのを奇妙な顔をしてちらりと見て。)お褒めにあづかりまして、マダーム。 A votre service, monsieur. (仏「では、私はこれで。」)(一礼してテーブルを部屋の外へ曳いて退場。)
 ヒューゴ(カルロッタにコーヒーを注いで。)砂糖は?
 カルロッタ ええ、少し。お休みの鐘が鳴るまで、後どのぐらいかしら。
 ヒューゴ(この台詞を無視して。)さ、コーヒーだ。
 カルロッタ 昔の私への手紙は本当にいいものなのよ、ヒューゴ。使わせないって私、本当に残念。勿論ある程度まではラブレターになっている。素敵に書かれているの。熱烈な部分があって、そこは綺麗な文章。それはあなたのことですから、情緒から出て来たというよりは、知性から出て来たという印象を与えはするけれど。
 ヒューゴ この問題をこれ以上議論する気はないね。
 カルロッタ 後世の人が、あなたの初期の作品にこんなに目覚ましいものがあったことを知らされないのは、悲しいことだわ。
 ヒューゴ 私は本当に疲れているんだ、カルロッタ。私の年を考慮にいれて、この辺で一人にして貰えると有難いんだが。二、三日中にまた会って話すことにしてもいい。
 カルロッタ 私のコートは寝室なの。ヒルデがさっきそこへ。取って来ていいかしら。
 ヒューゴ どうぞ。勿論。
(カルロッタ、寝室へ退場。ヒューゴ、煙草に火をつける。すぐにそれをもみ消す。明らかに精神的な動揺あり。机の引きだしから白い錠剤を二錠取出し、口に入れ、噛む。)
(カルロッタ登場。)
 カルロッタ お休みヒューゴ。ご免なさいね。久しぶりにお会いしたのに、あまり楽しい終り方が出来なくて。
 ヒューゴ そう。すまないカルロッタ、こちらもすまない。
 カルロッタ(振り返って、扉に進みながら。)さっきの手紙の話に戻るけど、もし必要ならお返しするわ。もう私には不要のものですから。
 ヒューゴ それは有難い。もしそうしてくれれば・・・
 カルロッタ でも、それ以外にもあなたの手紙、私持っているけど、それは返せないわ。神聖な約束を破ることになってしまうから。
 ヒューゴ それ以外にも手紙? 何のことだ。
 カルロッタ ペリー宛のあなたの手紙。
 ヒューゴ(明らかにショックを受ける。)ペリー宛の私の手紙! どういう意味だ。
 カルロッタ ペリー・シェルドンよ。あの人が死ぬ時、私、偶々あの人と一緒だったの。
 ヒューゴ ペリー・シェルドンについて君は何を知っているんだ。
 カルロッタ 色々知っているけど、大事なところは、あの人が、あなたの人生で真の恋人だったっていうこと。お休みヒューゴ。ごゆっくりお休みなさい。
(カルロッタ退場。その時、幕。)

     第 二 幕
(時 数分後。幕が上るとヒューゴ、肘掛け椅子に坐って、空中を睨んでいる。到頭、やっとのことで立ち上り、飲み物のテーブルに行き、ブランデーをグラスに注ぎ、一気に飲み干す。窓まで進み、椅子まで戻ることを数回繰り返す。やっと決心し、電話に進む。)
 ヒューゴ(電話に。)Allo...Gaston? Je veux parler avec Madame Gray, Madame Carlotta Gray. ... Oui, elle est arrivee cet apres-midi. ... Merci, j'attendrai. (ああ、ガストンか。マダム・グレイに繋いでくれ。マダム・カルロッタ・グレイだ。・・・そう。今日の午後着いた女性だ。・・・有難う。頼む。)(待つ。)もしもし・・・カルロッタ? そう、ヒューゴだ。・・・驚いたなんて、それは嘘だ。問題は大きい。君が一番よく知っている。・・・戻って来てくれないか。話がある。お願いだ。・・・明日までは待てない。待てるような話じゃない。君の勝ちだ、カルロッタ。頼む、そんな勝ち誇ったような声を上げないでくれ。来てくれるね?・・・うん、今だ。・・・すぐに。・・・分った。有難う。じゃ。
(受話器を下ろす。坐って暫く両手で頭を抱えている。それから立ち上って、ゆっくりテーブルに近づき、煙草を取り、火をつけ、部屋を歩き廻る。動きに全く力なし。心配のかたまり、かつ、不幸な男。やがて扉に形だけのノック。そしてカルロッタ登場。ヒューゴ、歩き廻るのを止め、暫くお互いを見つめ合う。)
 カルロッタ(幽霊のような微笑。)ご免なさいヒューゴ。意地悪なやり方だったわ。でもこれ、あなたなのよ、結局こうなるようにしたのは。
 ヒューゴ 悪いが、君がここから出て行く時に言ったあの事について、もう少し詳しい説明が聞きたいんだが。
 カルロッタ 坐りましょう、まづ。日本のお相撲さんみたいに二人で睨みあっているなんて、馬鹿馬鹿しいわ。
 ヒューゴ これは相撲じゃない。私は心理的にも格闘なんか、全く頭にない。私はもう敗北を認めてしまっている。(カルロッタに椅子を勧める。)
 カルロッタ(坐って。)いいえ、ヒューゴ、あなたは敗北なんて認めていない。まだ充分にはね。でも、急ぐことはないわ。あ、そうそう、廊下であの魅力たっぷりのフェリックスに出会ったの。シャンペンをもう一本頼んでおいたわ。構わないわね? 多分必要だと思ったの。
 ヒューゴ 軽い気持で事にあたろうと心を決めたようだね。
 カルロッタ 決闘を申し込まれたのはあなたの方。あなたに武器の選択権があるわ。不要だったらシャンペンは断れるのよ。
(扉にノック。フェリックス、氷バケツに入ったシャンペンの壜とグラス二個を持って登場。)
 フェリックス シャンペンです、ムッシュー。
 ヒューゴ 有難う、フェリックス。テーブルの上に置いてくれ。
 フェリックス お開けしましょうか。
 カルロッタ お願いするわ、フェリックス。サー・ヒューゴも私も、あなたほど上手に出来るとはとても思えないもの。
 フェリックス 畏まりました、マダーム。(開け始める。)
 カルロッタ 月のこと、私が正しかったわ、ヒューゴ。丁度湖の真上に上って来ている。フェリックス、あなた可哀相ね。客のいっぱいいるこんなホテルで、あっちへ行き、こっちへ呼び出され。あの湖岸のカフェでゆったりと飲んだり踊ったり出来るところなのに。
 フェリックス 何事にも「その時」というものがございますから、マダーム。
 カルロッタ でも、その「その時」も、誰にでも与えられている訳じゃないわね。難しいものね。
(フェリックス、壜を開け、二つのグラスに満たし、一つをカルロッタに持って来る。)
 フェリックス マダーム。
 カルロッタ(受取って。)有難う、フェリックス。
 フェリックス(もう一つのグラスをヒューゴに手渡して。)ムッシュー。
 ヒューゴ 置いといてくれ。後で飲む。
 フェリックス(グラスを置いて。)これでよろしいでしょうか、ムッシュー。
 ヒューゴ(苛々と。)いい。・・・これでいい。・・・お休み。
 フェリックス(カルロッタに。)お部屋にエヴィアンを運んで置きました。御指示通りに。
 カルロッタ 有難う、フェリックス。お休みなさい。
 フェリックス お休みなさい、マダーム。(一礼して退場。)
 カルロッタ 何かを指示して、やって貰うっていうのは楽しいものね。たとえそれがミネラルウオーター一壜であっても。
 ヒューゴ 気まぐれもいいところだ、全く。実に苛々する。
 カルロッタ そうね。思い出すとあなたって、気まぐれが大嫌いだったわ。でも、とにかく事ここに到っては、悲劇なんか何もないのよ。可哀相なペリー。あの人が死ねば、悲劇は綺麗さっぱりお仕舞。残っているのは喜劇だけ。まあかなり苦い喜劇ではあるけれど。それでも全く楽しめないという訳ではないわ。
 ヒューゴ それを楽しむユーモアのセンスは私にはない。残念ながら。
 カルロッタ まあ、ないわね、あなたには。これに限らないわ。機知はあるのね。鋭いやり返しの言葉、当意即妙の、意地悪い言葉、を言わせればたいしたものよ。でも、本物のユーモアではないわ。本物のユーモアは、自分を笑えて初めて出て来る。あなたにはそれは決して出来ない。
 ヒューゴ 変えようと思っても、今の私にはもう遅過ぎる。
 カルロッタ ええ。ずっとずっと遅過ぎね、今となっては。残念だわ。昔だったら何とか出来たかも知れない。少し、ほんの少しならね。
 ヒューゴ そうか、私を変えるというのが君の「使命」か。もしそれで私が少し変ることが出来ていたら、君の私を強請(ゆす)るその手も、少しゆるめていたかも知れないということか。
 カルロッタ 強請り? まあまあヒューゴ、まるでメロドラマね。あなたにそんなセンスがあるとは思ってもいなかったわ。
 ヒューゴ 君はペリー・シェルドンが死んだ時、彼の傍にいたと言ったな。それは本当なのか。
 カルロッタ ええ。(シャンペンを啜る。)
 ヒューゴ 私が彼宛に書いた手紙を君は持っているというのか。
 カルロッタ ええ。殆どはラブレター。私に書いたものに比べて叙情性には乏しいわね。でも、作り物でない、本物の感情が出ているわ。あなた、覚えているかどうか。それらはみんな、あなたのまだ若かった頃に書かれている。名声欲しさからの用心などに毒されていない頃にね。最後の二、三通は、あの人の死ぬ前の数年前に書かれたもの。正確には三通。三通とも、あの人が貧困に喘いでいる時に、助けの手を拒んだもの。この種の手紙としては名作ね。復讐心がうまく隠されていて、そこが傑作と言える理由だわ。将来、あなたの伝記を書く人にとって、最高の材料ね。
 ヒューゴ(声の震えをやっと隠して。)君はその手紙を盗んだのか。
 カルロッタ いいえヒューゴ、私は盗んではいません。ペリーがくれたの。死ぬ三日前に。
 ヒューゴ その手紙をどうするつもりなんだ。
 カルロッタ まだ決めてないわ。あの人に私、約束したの。
 ヒューゴ 何の約束だ。
 カルロッタ (私はあの人に約束したの。)もしその手紙を私にくれたら、私はそれを必ず、安全に保管しておいて、それが一番有益に利用出来る時に使うからと。
 ヒューゴ 使う? 一番有益に! 何のために使うというんだ!
 カルロッタ 伝記作家に使って貰うの。
 ヒューゴ そして、君がその伝記作家なのか。
 カルロッタ 違うわ。私は経験が足りなさ過ぎ。もっと距離のおける、客観的な誰か。・・・その人にあなたの、正確でひずみのない姿を書いて貰うの。私だと個人的な感情が含まれてしまう。
 ヒューゴ 人生の半分の長さは経っているぞ、あれから。それでも相変わらず個人的な感情が入って来るというのか。
 カルロッタ 記憶って、奇妙に宥(なだ)め難いものね。楽しかったことはすぐ忘れてくれるけれども、屈辱はなかなか忘れてくれない。
 ヒューゴ 君の感情ってのは、なかなかしぶといんだね。
 カルロッタ あなたへの感情は、もう何も残ってはいないのよ。
 ヒューゴ 過去の僕への感情に復讐を果たそうというのか。
 カルロッタ(笑って。)復讐? またね。結論に飛び込むんだけど、それが的外れ。
 ヒューゴ 君が認めるとは思ってもいなかったさ。
 カルロッタ それも間違い。あたっていたら私は必ず、すぐに認めるわ。でも、違っているんだから仕方がない。それに、これは復讐のような、自分の気持が動機になっているものではないの。それよりずっと、自分以外の人の気持が動機なの。老年に辿り着いて、突然私ははっと気がついたの。悪いことが行われているのを、そのままにしてはおけない。正義がなされねば。無垢の商標が、火に焼かれるのを救わなければって。
 ヒューゴ 感動しないね。
 カルロッタ まあいいわ。夜が更けるまでまだたっぷり時間はあるわ。
 ヒューゴ 私の伝記の話に戻るが、その作家はもう見つけたのか。
 カルロッタ 勿論。
 ヒューゴ(ビクともしない。これは見上げたもの。その落ち着きはらった声で。)その名前を聞いていいかな。
 カルロッタ 勿論。名前はジャスティン・チャンドラー。ハーバードで教授をやっていた人。最初に会ったのは、私がボストンでヘッダ・ガーブラーをやっていた時。
 ヒューゴ(怒りが爆発して。)何がヘッダ・ガーブラーだ。そんなものは糞食らえだ!
 カルロッタ それはあなたには関係ないでしょうけど、私はとにかくヘッダ・ガーブラーをやっていたの。
 ヒューゴ するとこういう事になるのかな。その著名なハーバードの教授殿は、私の許可も得ることなく、勝手に私の伝記を書こうとなさっておられると。
 カルロッタ 今は材料を集めている段階。そのうち許可などの話になってくるわ。もう何年も前から計画しているの。あなたの熱烈なファン。
 ヒューゴ ほほう。
 カルロッタ 「アトランティック・マンスリー」に、あなたについてちょっとしたものを書いたことがある。「テクニック、そして次は?」というのが標題。あなたの職人芸が本当に好きなのね。あなたの自叙伝を読んで、「今までお目にかかったことがない、こんな自制のきいた、うまいカムフラージュは」と言っていたわ。確かにこの教授、スマート・クッキーだわ。
 ヒューゴ アメリカの俗語はよく知らなくてね。
 カルロッタ 正確な英語訳は、「さえたビスケット」になるかしら。
 ヒューゴ すると君は、私がどこの誰にともなく、三十年以上も前に書いた手紙を、この「さえたビスケット」殿に手渡そうというのか。
 カルロッタ 「どこの誰にともなく」書いた手紙? そんなに軽々しく表現出来る書類ではないの、その手紙は。重要な書類なの。あなたの名声がそれを重要にしたの。金銭的にだけだって、大変な値打ち。公開オークションにかけたら、どれだけになるか、とんでもない値段がつくわ。だけどあなたの人生、経歴を分析、研究しようとしている人だったら、これは到底無視出来る書類ではないわ。あなたの弛(たゆ)まぬ名声への努力のお蔭で、あなたの「シャボン玉名声」は今や、フットボールの球のように堅いものになっている。誰かがそれを蹴っ飛ばしてみたいという気になっても別に驚くにはあたらないわ。
 ヒューゴ 君はいくら欲しいんだ。
 カルロッタ 馬鹿なことを言わないで。シャンペンを頂戴。あなたもちょっと飲んだ方がいいわ。頭をはっきりさせるのに助けになるわ、きっと。
 ヒューゴ(カルロッタのグラスを取って。)君の引っ張り廻すところに私はついて行くしか他に道はない。もし君の目的が、私を侮辱し当惑させる事にあるのなら、その目的は既に充分果たされている。次に来る手は何なのだ。(グラスに注ぎ、カルロッタに渡す。)
 カルロッタ 有難う。
 ヒューゴ(言い難そうに。やっとのことで。)ペリー・シェルドンに書いた手紙がまだ存在しているという事実は、私には非常なショックだ。ショックではないなどと言うのは勿論馬鹿げている。
 カルロッタ(シャンペンを飲みながら。)それに、誰も信用しないわね。
 ヒューゴ それで、君はこの件に関する法律上の問題は調べたんだろうね。
 カルロッタ 法律上の問題と言っても、簡単なものよ。手紙は、投函されるや否や、受取人の財産となる。この場合、受取人はペリー。そして、この手紙のペリーから私への引き渡しが、書類によって、公証人立会いのもとで行われた。だから、手紙は現在私の財産。私は私の好きなようにこれを使用出来る。
 ヒューゴ 足りないところがあるな。確かに手紙は君の財産だ。しかし、それを出版するとなると、私の許可・・・もし私が死ねば、私の相続人の許可を要する。
 カルロッタ それはその通りでしょうね。でも、今のところ、出版は問題じゃないの。大事なことは、それが存在しているということ。そしてそれが存在している限り、あなたがこれまで営々として築き上げて来た名声に、潜在的な脅威があるということ。
 ヒューゴ 手紙はどこにあるんだ。
 カルロッタ ここに持っているわ。
 ヒューゴ それを使ってどうするか、そのことはまだ私に話していないな。
 カルロッタ まだ決めていないから当然ね。さっきあなた、あなたを変えるのが私の「使命」って言ったわね。それは頭に入れておいて欲しいわ。
 ヒューゴ 何のことかさっぱり分らん。
 カルロッタ そのうち。そのうちにだんだんと分るのよ。
 ヒューゴ(癇癪を起して。)勿体ばかりつけて。何だ一体!
 カルロッタ お静かに。
 ヒューゴ 私はもう充分にお静かにしてきたんだ。こういう、何時果てるとも知れない小競り合いはうんざりだ。結論を出してくれ。チビチビと厭らしく私を苦しめ、辱める以外に目的があるのか。他に高級な目的があるような仄(ほの)めかしをさっきからやっているが、全てまやかしだ。取繕いだ。本心はやはり脅迫にあるんだ。
 カルロッタ 脅迫? 何の?
 ヒューゴ 世界に晒すぞ、という脅迫だ。私がかってホモの傾向があったという事実を。
 カルロッタ(静かに。)かって! 傾向! 馬鹿馬鹿しい。何がかって。何が傾向。あなたは昔から今に到るまで、ホモそのものなの。自分が一番よく知っている。
 ヒューゴ(怒鳴る。)それは嘘だ!
 カルロッタ 怒鳴らないの。アドレナリンの無駄使いよ。そんな風になると、あなたの胃の中は大変な状態になっているの。知らないかもしれないけれど。シャンペンがお嫌なら、どうかブランデーになさい。そして気持を引き締めるの。ほら・・・私が注いで上げます。(飲み物のテーブルに行き、注ぐ。)
 ヒューゴ(ヒステリックに。)何でも好きなようにしろ。こいつは本気で言ってるんだ。勝手に出版でも何でもすればいいんだ。お前なんか、糞食らえだ。
 カルロッタ(ブランデーを渡す。)ほら、ヒューゴ。これを飲むの。そしてヒステリーを治めるの。
 ヒューゴ(手でグラスを払い除けて。)出て行け! すぐ出て行くんだ! ほっといてくれ、私のことは!(椅子に沈み込み、片手で顔を覆う。)
 カルロッタ 仕様がないわね。見てご覧なさい、自分のやったことを。綺麗な絨毯にブランデーのしみを拵えて。恥を知りなさい、恥を。まるで子供。みんなで集まっている時に一人で拗(す)ねている子供。
 ヒューゴ 出て行け。独りにしてくれ。
 カルロッタ 用心して。本気にするかも知れないわよ。いいですか。今私が出て行って、あなたを独りにして上げても、十分すればあなた、すぐこの私に電話をかけてくるの。頼む、戻って来てくれってね。あなた、自分でそれをよーく知っているの。
 ヒューゴ 私は年寄りなんだ、カルロッタ。それに、さっきも言ったが、最近重い病気にかかったんだ。酷く重い病気にだ。こんな神経戦をする力もないし、意志もない。こういうものに耐えられない身体なんだ。私は疲れているんだ。
 カルロッタ もう一杯ブランデーを注いで来ます。あなたまた、叩き落すつもり? それとも大人しく飲みますか?
 ヒューゴ ブランデーは医者に止められている。心臓に悪いんだ。
 カルロッタ(飲み物のテーブルに行き。)これは特別のケース。ブランデーは許される筈よ。(もう一杯注ぎ、持って来る。)さあ、これであなたの心臓も生き返る筈。
 ヒューゴ(受取って、カルロッタを見て。)何故なのだ、こんなに私のことを嫌うのは。かってこの私のことを愛したことがあるからなのか。
 カルロッタ また的を外しているわ。私はあなたを憎んでいない。愛したことも遥か昔。あまり覚えていない。
 ヒューゴ(ブランデーを飲む。)君は私の知性を軽く見ているんだ。
 カルロッタ いいえ。過大評価したものはあったわ。それはあなたの粘り強さ。粘り強くは、あまりなかった。でも、あなたの知性を過少に評価したことはないわ。あなたの知性は非常に高い水準にある。でも、ある高さまでなの。その高さ以上の場所で起っていることが、私の好奇心をそそったのね。
 ヒューゴ 君の言っていることはさっぱり分らん。
 カルロッタ さっき私、「あなたは昔から今に到るまで、ホモそのものなの」と言った。そうしたらあなた、芝居にしてもいいような怒り方をしたわ。あなたへの私の侮辱だと思ったのね?
 ヒューゴ 侮辱に決まっているだろう? それとも、そんな意図はなかったと言うのか。
 カルロッタ 全くなかったわね。今は一九六○年代なんですからね。一八九○年代とは違うの。
 ヒューゴ(厭らしく食い下がって。)時代が違っているから許されているといった調子は全くなかったぞ、君のさっきの口調は。まるでそれを嘲笑っているような言い方だった。
 カルロッタ あなたが敏感になり過ぎているからよ。でも、万一私の声に嘲笑の響きがあったとしたら・・・それはなかった筈ですけど・・・その嘲笑は、同性愛という事実に対してではなく、それを生涯否定してきたあなたの姿勢に対してだわ。とにかく私、あなたをそのことで責めるなんて気持はさらさらない。だって私、それを犯罪と思っていないんですから。私があなたを責めているのは、それよりもっともっと性質(たち)の悪いもの・・・人を虐(いぢ)めて喜ぶこと、それに、御身大事(おんみだいじ)の精神・・・自分が危ないと感じるとすたこら逃げるの。
 ヒューゴ 証拠は?
 カルロッタ 今まであなたが書いた全ての本。それに、あなたの個人的な付合いが全て惨めに終っているその記録。
 ヒューゴ 私の個人的な付合いなど、君は知らない筈だ。君は赤の他人なんだ。
 カルロッタ ところが大違い。あなたの付合いのことは沢山知っているの、私は。かなり長い間、私は勤勉にあなたに関する聴き取り調査をしてきました。面白いものだったわ、これは。あれこれの情報を繋ぎあわせたり、あなたが旅行中に知りあった人物と話をしたり。会話の糸口として、あなたの名前は実に効果的だったわ。自分では象牙の塔に籠っているつもりでしょうが、他人にとってはあなたのはそれほど神聖なものに見えないらしいわ。自分は卓越した名声を贏(か)ち得ている。だから充分に用心深く秘密の道を歩いて行けば、スキャンダルの虫など自分にはつきっこない、なんて単純に考えるほど、あなたも愚かではない筈ね。
 ヒューゴ 凡庸な人間の的外れな推測の話など、私には全く興味がないね。
 カルロッタ 私が話した人達の中には、凡庸でない立派な人達が沢山いたわ。それに、推測ばかりを話したのではないわ。事実もね。
 ヒューゴ 私の性格に関する君の意見、その他誰の意見であろうと、私には興味がないね。私に興味があるのは、君が止むに止まれずここまでやって来た、その理由だ。
 カルロッタ 私自身に対しても、その理由を説明するのは難しいの。でも、その動機の一番底にあるものは、他のどんなものよりも、「あなたを見ていて、苛々するところ」から来ている。
 ヒューゴ(怒って。)私を見ていて苛々するだと!
 カルロッタ 「苛々」なんて、軽い気持だなどと思わないで。これは怒りよりも強力で、憎しみよりも破壊力があるかも知れないわ。苛々は、落ちてくる水滴が岩をも砕いてしまうように、人間の神経組織を蝕(むしば)んで行く。どんなに優しい心の持主でも、一旦この苛々がその心に取り付くと、そこは荒れ果てた沙漠になってしまう。私は生まれ付き復讐心の強い性格ではないわ。でも、あなたはあんまり長い間私を苛々させて来たものだから、私の身体がすっかり駄目になる前に、この苛々に終止符を打とうと決心したの。
 ヒューゴ(見上げた自制心をもって。)私の一体何が、君を苛々させてきたか私に分れば、私にも事態が呑み込めることになるだろうが。
 カルロッタ 私はかってあなたを愛し、あなたに非常に大きな期待を持った。そのあなたが今は、私の期待ほどではない。それが苛々の原因・・・
 ヒューゴ 馬鹿を言え! 君はもう、人生の最初のうちに私から捨てられた。その私を許すことが出来ないんだ。女性特有の虚栄心から来るものだ、それは!
 カルロッタ やっぱりブランデーは正しかったわ。あなたまた、怒鳴る気分になったわね。
 ヒューゴ 君の神経を蝕んでいるのは、苛々なんかじゃない、やっかみから来ているんだ。
 カルロッタ(溜息をついて。)あらあら。
 ヒューゴ(躍起(やっき)となって。)そうだ、やっかみだ。それと、自分の人生に対する苦い後悔の念だ。ああしておけば・・・こうしておけば・・・自分をもっと世に問うことが出来たのに、と。
 カルロッタ 落ち着いてヒューゴ、気をつけないとまたブランデーを叩き落とした時の気分になるわよ。
 ヒューゴ すまないが、ちょっと水を取ってくれないか。急に気持が悪くなって・・・(椅子にどっと坐る。)
 カルロッタ 自分でお取りなさい。水を取りに行くぐらいの力、充分ある筈よ。
(カルロッタ、窓の方へ行く。ヒューゴ、物凄い目つきをしてカルロッタを睨み、椅子からやっと立ち上り、震える手で水をグラスに注ぐ。椅子に戻り、再び坐る。カルロッタ、窓から戻り、ヒューゴの前に立ち、見下ろして言う。)
 カルロッタ 今のは私がいけなかった。謝ります。やっぱり私の方が若いんだから、私が注ぐべきだったわ。
 ヒューゴ(喘ぐように息をして。)私をぶちのめしたいんだろうが、私はビクともしないぞ。君には到底ぶちのめすことなど出来ないんだ。
 カルロッタ ぶちのめすだなんて、そんなことを望んではいないわ。一歩譲って、ぶちのめしたいとしても、あなたの何をぶちのめしたいのか、全く分らないわ。
 ヒューゴ(意を決して。)その手紙と交換に、いくら欲しいんだ。
 カルロッタ 可哀相に。あなた、本当に可哀相な人よ、ヒューゴ。
 ヒューゴ そんなことは今の話と何の関係もないぞ。
 カルロッタ 自分の同僚達に対して、そのような軽蔑の念を抱いてきた人生・・・かなり酷いものだったに違いないわ。
 ヒューゴ 君の今までの言動が、その私の酷い人生を改良するために試みられたものとは、とても思えないね。
 カルロッタ 鮮やかな切り返しね!
 ヒューゴ もういい。こういう愚にもつかない会話は。値段はいくらなんだ。
 カルロッタ 売り物ではないわ、あの手紙は。
 ヒューゴ 金のためじゃない・・・となると、何のためだ。君は頭がどうかしたんじゃないかと思う他はないな。
 カルロッタ そうね。私の頭がどうかなっていれば、今までのことは綺麗さっぱり解決ね。でも残念ながら、私は狂ってはいない。
 ヒューゴ 行き止まりだな。出口なしだ。
 カルロッタ そのようね。(自分のグラスにシャンペンを注ぐ。)
(ヒューゴ、口を開けて何か言おうとする。が、思い直して止める。椅子から立ち上り、ちょっとの間部屋を歩き廻る。カルロッタ、シャンペンを飲み、ヒューゴを眺める。カルロッタ、全く無表情。)
 ヒューゴ(カルロッタと目があって。)ペリーは何で死んだのだ。
 カルロッタ 白血病。最後は苦しまなかったわ。
 ヒューゴ それはよかった。
 カルロッタ その一年前、酷い肝炎にかかった。
 ヒューゴ 飲み過ぎだな?
 カルロッタ ええ、きっと。でも、亡くなる前四、五箇月は、一滴も飲まなかった。
 ヒューゴ いくつだった? 死んだ時は。
 カルロッタ 五十代終り・・・か、六十代の始め。はっきりは知らない。でも、見掛けはそれよりずっと年寄りだった。
 ヒューゴ うん・・・そうだろうな・・・更けていたろうな。
 カルロッタ 本当に痩せ細っていて、耳も聞えなくなっていた。私、補聴器を買って上げたわ。
 ヒューゴ それは親切だったな。金がかかったろう。
 カルロッタ 思ったより安かったわ。
 ヒューゴ いつ死んだのだ。
 カルロッタ およそ二年前。
 ヒューゴ そうか。
 カルロッタ 身体全体が、もう死んだも同然だった。生きている場所は目だけ。そこにはまだ、微かに希望の光があった。
 ヒューゴ こういう事すべてを聞かされた時の私の反応を、どう想像していたんだ? 君は。
 カルロッタ あなたが今やった通りの反応だわ。一瞬ちょっと思い出して後悔するような表情を見せる。見せるといっても、本物かも知れない。しかし、それは充分でもなく、また続きもしない。燕(つばめ)が一羽来ても夏にはならない。あなたはあの人が死んだという事実さえ知らなかったんですからね。
 ヒューゴ 私が知ることがどうして出来るっていうんだ。二年前は、私は外国にいたんだ。具体的に言うと西アフリカだ。翌春になってからなんだ、私がローマに帰って来たのは。誰だったか、彼が病床にいることは教えてくれた。その頃我々夫婦はローマにいたんだ。
 カルロッタ ええ、そう。最後の残酷な三通の手紙、それはローマからとなっていた。
 ヒューゴ(静かに。)手紙は返して貰いたいな、カルロッタ。
 カルロッタ その三通? それとも初期のものも?
 ヒューゴ 勿論全部だ。私にとって、どんなに大事なものか、君には分っている筈だ。
 カルロッタ ええ、それは勿論。
 ヒューゴ さっきの話は本当なのか。この、昔ハーバードの教授だった男が、私に関する本を書こうとしているというのは。
 カルロッタ ジャスティン・チャンドラーね。ええ、本当よ。正真正銘本当。
 ヒューゴ(言いたくないが、やっと。)辞を低くして、君の慈悲に縋る他はなさそうだ、カルロッタ。
 カルロッタ いいえ、あなたはまだ心からは、そういう気持になっていないわ。そう。私も最初から分っていた。きっとこの地点にまでは来るだろうって。
 ヒューゴ(暫くの間の後。)それで?
 カルロッタ 初期の手紙か、後期のものか、どっちかしか返さない、と言われたら、あなたどっちを選ぶ?
 ヒューゴ(焦りあり。すぐ答えてしまう。)初期のものだ。
 カルロッタ そうでしょうね。思った通り。
 ヒューゴ するとどうやら理由も分っているんだな。
 カルロッタ ええ。理由は簡単。あなたは皮肉屋で意地悪で、決して人を許さない人間として見られた方がまだましなの。優しい気持にもなれる、傷つき易い人間であることが暴露されるよりは。
 ヒューゴ この特殊な状況ではそういうことになる。
 カルロッタ 何故?
 ヒューゴ 女性特有の感情一点張りで判断する癖のため、この状況で非常に重要な理由が見えなくなっているようだな、君には。
 カルロッタ 何? それ。
 ヒューゴ イギリスの法律によれば、同性愛は未だに刑事上の罪なのだ。
 カルロッタ 近代精神医学から見ても、また、偏見のない普通の常識人の全ての意見によっても、あの法律は今や時代遅れ。それに、無意味なものだという結論よ。
 ヒューゴ しかし、それでもまだ生きている。
 カルロッタ もうすぐ廃止よ。
 ヒューゴ そうかも知れない。しかし、たとえ今の法律がなくなったとしても、「その名を口にするのもおぞましい愛」に付随している汚らわしさは、これから先何世代かかっても拭われることはないだろう。本や芝居、それから議会で演説があったぐらいで、そう簡単にアングロ・サクソンの心からこの偏見がなくなるとは思えない。
 カルロッタ 本当にあなた、二十世紀半ばの今のこの時代に、性的に異常な人間が書いたからといって、あなたの本の売行きが落ちると思っているの?
 ヒューゴ 私の関心は、私の本の読者にあるんじゃない。私の名声が傷つけられるのが厭なんだ。それも下らない自己露出趣味なんかによって傷つけられるのがだ。
 カルロッタ さあ、どうかしら。自己瞞着をやって自分の折角の才能を汚すよりはまだましなのじゃないかしら。
 ヒューゴ 自己瞞着? そんなことを私がいつやったと言うんだ。
 カルロッタ 非常に巧妙に、小説、物語で。でも、一番酷いのは自叙伝。
 ヒューゴ あれはもう説明した筈だ。自分の経歴に影響を及ぼした出来事、経験、の客観的な記述があの自叙伝なんだ。私の性的人生をさらけ出すことなど、全く意図していない。
 カルロッタ もしそうなら、性的要素には全く触れないでおく方が賢明だったわ。あの本はとてもよく書けている。人を楽しませるわ。人生、文学、全般に関するあなたの意見、それにあなたが見てきた人、それに場所に対する感想、いづれも機知に富んでいて、多くはその中に深淵なものを含んでいる。
 ヒューゴ(皮肉に。)有難う、カルロッタ。好評、実に恐れ入る。
 カルロッタ でも、どうしてああしょっ中、異性に関する興味が出てくるのかしら。何かと言えば真っ赤な唇に、ピンと飛び出したバスト。誘うように笑いかける女性の目。殆ど好色とも言えるあなたの書きっぷり。それに、ペリー・シェルドンを何故あんな風に裏切って、軽蔑しきって書いているの。
 ヒューゴ(怒る。)何だ、その言い方は! もう君には喋ることを禁じる。一言もだ。私がいつペリーを裏切った!
 カルロッタ(追求を緩めない。)あの人はあなたを愛した。世話をした。誠心誠意、あなたに尽したの。何年もあなたと一緒に世界中を旅行した。それなのにあの自叙伝では、「有能な秘書」としての数行で全てを片付けてしまっている。
 ヒューゴ(再び癇癪を起す。)ペリー・シェルドンと私との関係は、君には全く何の関係もないんだ。君の口出しなどさせんぞ!
 カルロッタ その人宛のあなたの手紙、身を危うくする危険な手紙を私は持っているの。「何の関係もない」というのは随分馬鹿げた言葉ね。
 ヒューゴ(無理に落ち着いた声を出して。)これで頼むのは最後にする、カルロッタ。それを売ってくれ。或は譲ってくれ。
 カルロッタ いいえ。今は駄目。・・・いいえ、永久に駄目かも知れない。
 ヒューゴ すると、この毒々しい猫と鼠のゲームを果てしなく続けるということなのか。
 カルロッタ いいえ、果てしなくではないわ。何かが起きるまで。
 ヒューゴ 何かが起きるとは一体何だ! 何が起きることを望んでいると言うんだ。
 カルロッタ 無条件降伏。
 ヒューゴ 君に嘆願すればいいのか。君の足下にひれ伏して、慈悲を乞うて泣けばいいのか。君の飽くなき女の虚栄心がそれで満たされるというのか。
 カルロッタ いいえ、そんなことをしても何にもならないでしょうね。
 ヒューゴ それなら何だ。何がして貰いたいのだ。
 カルロッタ さあ。私にも分らない。真実が垣間(かいま)見られる瞬間、自己の姿が一瞬明らかにされる時。ひょっとしたら、悔恨の気持が行動になって出る時。
 ヒューゴ(ブランデーを注ぎながら。)口先だけの、意味のない言葉だ。
 カルロッタ そろそろ重火器で攻撃する段階になったようだわ。
 ヒューゴ(平坦に。)どうぞ。こちらも何となく盛り返してきたようだ。第二波の攻撃に移るんだな。
 カルロッタ ペリーの死に、あなたは間接的に責任があるんじゃないかって、ふと思ったことはないのかしら。
 ヒューゴ たとえこの手で彼の首を締めて殺したとしても、そんなことは君には何の関係もないね。
 カルロッタ(この台詞は無視して。)あなたはあの人を情け容赦なく捨てた。一片の感謝も同情もなく。あの人の人格を腐敗させ、野望を挫(くじ)き、希望を踏みつぶしたの。そして、あなたの書き方だと、あの人は単なる厄介者。
 ヒューゴ 単なる厄介者だった、確かに。アル中になったんだからな。私はアル中はうんざりなんだ。
 カルロッタ あの人がアル中になったのは誰のせい?
 ヒューゴ それは彼自身のせいさ。
 カルロッタ あなた、そんなに気楽に自分の責任が逃れられると思っているの?
 ヒューゴ その言い方だと、私の横暴さのせいで彼がアル中になったと言いたいようだな。
 カルロッタ あなたの横暴さのせいではないの。あなたの無関心のせいで。
 ヒューゴ 馬鹿なことを。ペリーが飲み始めたのは、飲むのが好きだったからだ。そして、意志が弱く、始めたら止まらなくなったんだ。
 カルロッタ でもあなたはあの人を愛したのよ。相当長い間愛した。手紙の文でそれが分るわ。
 ヒューゴ 君の感情が安っぽい週刊誌の知識で成り立っていることは分っている。しかし、そんなもので成り立っている安っぽい感情でも、人間が人を愛す理由が、立派な人格のせいじゃないことぐらい、理解している筈だと思うがね。
 カルロッタ それは認めるわ。でも、相手の欠点も何も見えず、ただ盲目的に愛する時期が終っても、大抵の人は事態を落ち着いて眺め、恨みを抱かずにいられるだけの本能的な優しさがあるわ。二人の新しい状況に自己を対応させ、より穏やかな雰囲気の中に身を落ち着ける努力をするものだわ。
 ヒューゴ 甘いヴァイオリンの音が聞えて来る場面だね。
 カルロッタ もしそういう努力がなければ、肉体の魅力から芽生えた人間の愛情は、どう生き長らえることが出来るっていうの。
 ヒューゴ なあカルロッタ、そいつは大昔からある、実に色褪せた哲学だ。退屈極りない。君はこの議論を始める時に、かなり雄弁に、「いよいよ重火器による攻撃を始めなければ」と言った。これがそれなのか。こんな愚にもつかない月並みな代物で、私は両足をがくがくさせ、血も凍る思いで、君の足下にひれ伏さねばならないと言うのか。もし何かの理由で・・・私にはその理由は分らない。君が一番よく知っているんだろうが・・・私を懲らしめ私の名声を地におとしめ、私を塵芥(ちりあくた)の中に放り込み、私の邪悪な魂の奥底にある、明るみに出されるのを怖れ戦(おのの)いている秘密を抉(えぐり)り出すのが、君の義務だというのなら、私は自分を防御するいかなる手段も持ち合わせていない。だから早速それを実行するんだ。好きなように攻撃すればいい。しかし、退屈だけはご免だ。
 カルロッタ あなた、ジャスティン・チャンドラーと同じね。なかなかのスマート・クッキーよ。
 ヒューゴ 年寄りのクッキーでもあるんだ。そして就寝の時間はとっくに過ぎている。
 カルロッタ 私をまた追い出そうというの?
 ヒューゴ そうだ。「手詰まり」が残っているだけだ。君の下らん本に私の手紙を載せるのを、私は拒否した。私のペリー・シェルドン宛の手紙を返すことも売ることも、君は拒否した。これ以上話すことがあろうとは思えない。
 カルロッタ はったりね。
 ヒューゴ 君だってはったりだ。
 カルロッタ 私ははったりは不要。切り札はこちらにあるの。
 ヒューゴ そのジャスティン・チャンドラーなる人物だがね、どうやら架空の人物らしいと私は見ている。
 カルロッタ ちゃんと存在しています、チャンドラーは。でも、たとえ架空の人物であったとしても、手紙は架空ではないの。
 ヒューゴ その証拠を私は見ていないのでね。
 カルロッタ そのうち分るわ。
 ヒューゴ 私は少し鈍いのかも知れない。しかし、君がその手紙を売るためでも、渡すためでもないとするなら、一体何のためにここにやって来たのか、私にはさっぱり分らないんだ。今までの君の説明によると、この何年か、君は苛々してきた。この私は、君がかって愛した男であり、君が大きな希望を抱いていた男で、結局はそれほどでなく終ろうとしている。その苛々のために、だと言う。しかし、君の心の底にある動機がそんなものであるとは到底信じ難い。こんなに長いこと放っておいて、意を決したように他人の個人的生活に踏み込んで、謂(い)われなく相手の心の平静をかき乱すところまで、攻撃してきたのだ。何かある。何か、もっと深いものが、君を駆り立てたのに違いない。それとも、私は身に覚えはないのだが、何か君を傷つけるようなことをした。それを昔から恨みに思っていて、そして今、その恨みをはらそうという訳なのか。
 カルロッタ いいえ、恨みではないわ。勿論あなたは私を酷く傷つけましたけれど、その昔。
 ヒューゴ 何が傷ついたというんだ。私との関係のお蔭で、君は芝居で主役の地位を得ることが出来たのだ。それまで誰が君にこんなことをしてくれたというのだ。新聞の批評も大方は好ましいものだったし、とにかくあの頃だけではあっても、主役、準主役級の役を確保出来たのだ。君は生まれて初めて公けに称賛され、写真を撮られ、公衆の注目を集めたのだ。そして最後に、鳴り物入りの宣伝でアメリカに渡ることが出来た。その後、君に期待されていた、目の眩むような成功を収めることが出来なかったとしても、それは私が責められるべきではない。
 カルロッタ(手鏡で自分の顔の化粧を確かめながら。)私はあれで充分な活躍なの。何の不満もないわ。私が興味があるのは、あの時の取引で、あなたが何を得たかということなの。
 ヒューゴ(疲れたように。)だいたい私は、あの時の二人の関係を「取引」などとは思っていない。
 カルロッタ いいでしょう。「取引」という表現では露骨過ぎて分らないというのね。じゃあ、「うまみのある実験」っていうのはどう?
 ヒューゴ どううまみがあるんだ、君と暮して。
 カルロッタ 例のあぶくのような偽の噂はたちますからね。
 ヒューゴ「偽の噂」? 何のことを言っているんだ。
 カルロッタ これで分らないなんて、どうかしているわ。こんな簡単明瞭なことが。
 ヒューゴ(苛々して。)当て擦りか。こっちに分らない時は待つしかないね、残念ながら。
 カルロッタ 私はあの時二十二だった。十四歳から芝居の世界に入ったにしては、奇妙なことかも知れないけれど、私はまだ処女だった。
 ヒューゴ 今度は私に、いやらしい女たらしのレッテルを貼ろうというのか。
 カルロッタ いいえ、全然。だって、あなただって、童貞だったの、異性の性の観点からすれば。
(間。)
 ヒューゴ よろしい。そこは覚えておこう。それで?
 カルロッタ 勿論その時にはそんな事私、気がついてはいなかった。あなたは私の初恋の人。あなたを深く、情熱的に愛したわ。ベッドの横の小さなテーブルの上に、あなたの写真を飾っていた。毎晩寝る前に電気を消す時、それにキスした。時々はそれを枕の下に入れることもあったわ。
 ヒューゴ ちゃんと額縁から外したんだろうな?
 カルロッタ それから一年ちょっと経って、私はあなたの用心深い暮し方の中で、自分がどういう役を演じているのか、はっきり分ってきた。
 ヒューゴ(廻れ右して。)なあカルロッタ、こんな黴(かび)臭い昔の話を蒸し返すのが、君にとってどうしても必要なことだというのか?
 カルロッタ ええ、どうしても。あの昔の、あの不誠実な生き方、道徳的に勇気の欠如した生き方のせいで、あなたはその後一生、誤った道を歩まなければならなくなったんですものね。
 ヒューゴ 私の一生が誤った一生かどうか決めるのは、君じゃないんだ。
 カルロッタ あなたは偉大な作家になれたかも知れないの。それに、これまで生きてきた人生よりずっとずっと幸福な人生を送れたかも知れないの。単なる成功した作家という生涯ではなくね。
 ヒューゴ 一九二○年代に、私は君の女性としての虚栄心を傷つけた。まあそうしておこう。しかしそれが私の「単なる成功した作家という生涯」に何の関係があるんだ。
 カルロッタ その頃私に対して示したあなたの鈍感な残酷さは、それ以後あなたを信頼したどんな人に対しても、同じように示されたの。それがあなたを偉大な人間にさせなかったの。
 ヒューゴ(再び激烈な調子になりそうになって。)何が鈍感な残酷さだ! 私の君に対する何をもって、そんなことを言うのだ。
 カルロッタ あなたは私を利用したの。利用して裏切った。私だけじゃない。あなたは自分に少しでも本当の愛情を示す人間がいると、必ず利用し、裏切って来たの。
 ヒューゴ 君こそ私を利用したんじゃないか。私が君を利用した? 何のことを言っているんだ。
 カルロッタ 私を旗のように振ったの。インチキをその旗に掲げて。
 ヒューゴ インチキとは何だ。
 カルロッタ 自分は正常だというインチキ。普通の道徳を守っている、つまり「自分は正常な男だ」という旗。
 ヒューゴ それがそんなに許し難いことだというのか。私は若かった。野心があった。それにもう、かなり名を知られている人間だった。自分が普通の人間であるということを世間に示すのが、そんなに卑劣なことだと君は言うのか。
 カルロッタ 世間を騙すのが卑劣だと言っているのではないの。世間など、いくらでも騙せばいいでしょう。私が許せないのは、私を騙したこと。私のあなたに感じていた愛、尊敬、感嘆の気持、それを全て騙したこと。もし私を信頼する勇気があなたにあったら・・・あなたのその具合の悪い秘密を私に打ち明けてくれていたら・・・それは、最初の年は無理でしょう。でも、その後・・・二人の間でだんだん事が難しくなって、緊張が高まった時・・・もしあの時本当のことを話してくれていたら、私はきっとあなたの忠実で献身的な友達になったいたわ。ええ。多分この年になるまでずっと。現実はどうだったかというと、私が本能的に感じとっていたあなたの正体を少しづつ現し始めて、最後にひどく乱暴に、優美さのかけらもなく、私を袖にしたの。私は今でもあの声が耳に残っている。私をアメリカ行きの船に積み込んで「さようなら」とあなたが言った時の、あのほっとした声を。
 ヒューゴ 私は君をアメリカ行きの船に積み込んだりはしなかった。立派な契約を私が整えて、おまけに一等船室だったんだ、あれは。
 カルロッタ(溜息をついて。)ああ、やっぱり時間の無駄だったわ。
 ヒューゴ そう。君と私、双方の時間の無駄使いだった。君の熱の籠った大演説で、私が辛うじて面白いと思ったことは、君が殆ど普通の人の一生といえる年になり、三度結婚をし、美容整形で三度顔の皮膚を持ち上げて皺を伸ばして貰っても、相変わらずあの昔の古傷から新しい血がたれてきているという事実だ。その出血には何か異常なものを感じるね。血友病の一種だ、それは。
 カルロッタ お目出度うと言うしかないわね、その頭の鈍さ。あんたなんか、ぢぢいでもないわ。糞婆バアよ!
(ヒルデ、静かに登場。まだ山高帽に似た例の帽子を被っている。少し普通と違った気分。実際に酔っている訳ではない。通常「ハイの状態」と呼ばれている気分である。ヒルデ自身、このことに気付いている。そしてそれを隠そうとかなりの努力はしている。ちょっとの間、扉の傍に立っている。押し殺された沈黙は充分分っている。ヒルデ、前に進む。)
 ヒルデ(こんな調子の登場はどうかな、という試しの気持で。)私、間の悪い時に帰って来たんじゃないかしら。何か大事なことを議論していたところ?
 ヒューゴ いや、大事なことじゃないよ、全く。
 カルロッタ 昔のことを思い出していたところ。
 ヒルデ まあ、素敵だこと。昔の思い出って、楽しいものだもの、いつだって。
 カルロッタ ええ、楽しいものね。ヒューゴと私、つい興奮してしまって。そうね? ヒューゴ。
 ヒューゴ その帽子は脱いで欲しいね、ヒルデ。タクシーの運転手みたいだ。
 ヒルデ(クスクス笑って。)いいわよ。(脱ぐ。)私もそんなに好きじゃないの、この帽子。(鏡のところへ行って髪を直す。)
 ヒューゴ 映画は結局止めにしたんだな?
 ヒルデ ええ。夕食の後もリーセルと私、話が弾んじゃって。(カルロッタに。)リーセル・ケスラーっていう人、御存知?
 カルロッタ いいえ、残念ながら。
 ヒルデ 私のいい友達なの。ヒューゴはいつもリーセルのことを笑うけど。リーセルって、頭がいいの。
 カルロッタ ヒューゴはどうして笑ったりするのかしら。
 ヒルデ(またクスクスっと笑って。)認めていないのね。変なところに昔風なの。
 ヒューゴ(苛々と。)止めるんだ、ヒルデ。
 ヒルデ でも、そんなことちっとも構わないの。どうせあっちの方でもヒューゴを認めてはいないんですから。
 カルロッタ 神様を認めないなんて、冒涜ね。
 ヒルデ(笑う。そして。)ご免なさい、ヒューゴ。でも、今の、とても可笑しい。
 ヒューゴ(ヒルデをよく見て。)ヒルデ、どうしたんだ?
 ヒルデ 何も。何故訊くの? そんなことを。
 ヒューゴ(厳しく。)飲んで来たんだな。
 ヒルデ ええ、そうよ。食事の時二人でロゼを一本。その後スティンガーを二杯。
 ヒューゴ(怒って。)ヒルデ!
 カルロッタ(優しく。ヒューゴに。)あなたを尊敬している人物をアルコールに駆り立てる天才だわね、あなったって。
 ヒルデ 違うのよ、それは。ヒューゴのせいじゃないの、本当に。今夜はそんな気分だったの。
 ヒューゴ ベルを鳴らしてコーヒーを頼むんだな。
 ヒルデ いいえ、結構。コーヒーは嫌。眠られなくなっちゃう。それに、もうどうせ見つかっちゃったんだから、もう少し戴くわ。(カルロッタの方を見て、共謀の微笑み。)毒を食らわば皿まで、ね。
 ヒューゴ(脅すように。)ヒルデ!
 ヒルデ(飲み物のテーブルに進んで。)スティンガー美味しかった。スティンガーが作れるといいんだけど、クレーム・ドゥ・マーントはないし、持って来させるなんて悪いし・・・仕様がない。ブランデーだけにするわ。
 ヒューゴ それ以上ブランデーを飲むことは禁ずる。これは本気だぞ、ヒルデ。もう君は寝た方がいい。
 ヒルデ(少しブランデーを注いで。)Entbehren sollst Du! sollst entbehren! Das ist der ewige Gesang. (ぼんやりと二人を見て。) Das ist von Goethe. (独「これはゲーテの詩」)天才ね、ゲーテは。
 カルロッタ(面白がって。)どういう意味? 今の詩。
 ヒルデ 「自分自身を否定するんだ。自分は否定しなければならぬ・・・これこそが終ることのない歌。」(ブランデーを一息に飲み、満足の溜息をつく。) Ach, das ist beser, das ist sehr gut. (独「ああ、これはいいわ。本当に美味しいわ。」)
 ヒューゴ(堅い表情で。)君は重々承知の筈だぞ。私のいるところでドイツ語は厳禁だということは。私はドイツ語が大っ嫌いなのだ。
 ヒルデ ゲーテの言葉はただのドイツ語じゃないの。それは世界の言葉。それにあなた、忘れて貰っては困るわね。あなたの本の私のドイツ語訳は、随分ドイツで稼いだのよ。ドイツ語に辛くあたるなんて恩知らずだわ。(カルロッタに。)ヒューゴは私の国では本当に人気があるのよ、ミス・グレイ。「蛇行した河」は、たった五箇月で三版が出た程。
 ヒューゴ 私の本の外国での売れ行きなど、ミス・グレイには何の興味もないんだ。
 カルロッタ(わざと狡そうな表情で。)そこはまた間違いよ、ヒューゴ。あなたのした事、書いた物、どんな小さな事でも私には非常な興味があるの。
 ヒルデ(喜んで。)まあ、随分優しい言葉だわ。
 ヒューゴ ミス・グレイは今夜ここに着いた瞬間から優しい言葉の連発なんだ。こっちはひどく面食らっている。
 ヒルデ あら、どうしてそんなに余所(よそ)行きの言葉? ミス・グレイだなんて。最初会った時はカルロッタだったわ。
 カルロッタ あなたも私を、カルロッタって呼んで下さらない?
 ヒルデ 勿論。喜んで。
 ヒューゴ(向きを変えて。)やれやれ、全く。
 ヒルデ(陽気に。自分が小声で行っているのにも気付かず。)リーセルが随分面白がっていた。何年も会っていなくてあなたがカルロッタと会うなんて、奇妙な話、奇妙なことね、とても想像出来ないわねって。
 ヒューゴ あれはひねくれているんだ、ユーモアのセンスが。
 カルロッタ どこなんでしょうね、その人が一番面白いと思ったところは。
 ヒルデ(またクスクス笑い始めて。)さあ、何なんでしょう。私、こんな話、してはいけなかったかしら。礼儀に外れていました? でも、昔、昔の話なんですもの・・・そんな昔の話、礼儀も何もないでしょう?
 ヒューゴ 外れているんだ。リーセルにこの話をしたのか、君は。これは私の個人的な問題なんだぞ。リーセルには限らない。誰にも話してはいけないんだ!
 カルロッタ じゃ、その人に、私とヒューゴが昔恋人同士だったって言ったの?
 ヒルデ そんなにはっきりとではないけど・・・
 カルロッタ それで笑ったのね? その恋人同士だったという所で。
 ヒルデ(少し困って。)よく覚えていないわ。私達、あれこれ話していたの。その人、作家としてのヒューゴはとても尊敬しているの。人間としては好きじゃないようだけど。でも、それはヒューゴの責任。ヒューゴがあの人にずっと意地悪だったんですからね。勿論あの人とはドイツ語で話していた。そしてハイネの詩を引用したの。
  Ich weiss nicht, was soll es bedeuten,
Das ich so traurig bin,
Ein Maerchen aus alten Zeiten,
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
(ローレライ。「なじかは知らねど、心わびて、昔の伝へは、そぞろ身に沁む。」(近藤朔風訳))
 カルロッタ 訳して。
 ヒルデ(ヒューゴの方をこっそり見て。)「何故私がこんなに塞いでいるのか私には分らない。心に浮んで来るものを追い払えないでいるのだ。昔昔の物語を。」ここまで来た時よ、あの人がゲラゲラ笑い出したのは。
 カルロッタ 何故かしらね。(ヒューゴをチラと見て。自分も笑う。)
 ヒルデ あなた、怒らないわね?
 カルロッタ 勿論怒らないわ。
 ヒューゴ 君は怒らなくても、私は怒る。
 ヒルデ 怒るのは駄目、ヒューゴ。身体に悪いの、知っているでしょう? 私がこの部屋に入って来た時から、あなたずーっと怒った顔よ。何かいけない事があったの?・・・あなたとカルロッタの間で。何か酷い事が?
 ヒューゴ いや、そんな事はない。実に楽しい夕べだった。カルロッタがここに来たのはどうやら強請(ゆすり)のためか、それとも、私という人間を改良しようというためか、どちらかなのだが、私には未だそのどちらが真の目的なのかはっきりしないのだ。
 ヒルデ(心配そうに。)強請! どういうこと? 分らないわね。
 ヒューゴ たいした性格の持主だ、全く。やくざと福音伝道士の二役が出来るんだからな。私の道徳的欠陥を糺(ただ)すために遥々大西洋の荒波を越えてやって来た。止むに止まれぬ正義感で、この私の昔の邪悪な行いを糾弾し、良心の欠如した部分を鍛え直そうというのだ。自分自身といえば、離婚した前夫からは、もう生計を共にしないという理由から、定期的な所得をふんだくっておいて、だ。自分の倫理的欠陥は全く目に入らないんだからな。私は常々(つねづね)女性の論理的思考には致命的欠陥があると言って来たが、正にそれを実証する好例だ、これは。
 カルロッタ 男の思考が、女の思考よりずっと優れているという仮定ね。どこから来るの、そんな仮定。
 ヒューゴ 仮定なんかじゃない。私は事実として知っているんだ。
 ヒルデ 何の話? 全く分らないわね、何を話しているのか。
 ヒューゴ(不作法に。)皮膚のガサガサな老いぼれレスビアンと一緒に、スティンガーを浴びるほど飲んでくれば、頭が働かなくなるのも当たり前だ。
 ヒルデ(しっかりと。)リーセルのことをそんな風な言い方をするなんて、許しませんよ。あの人は私の親友なんです。私はあの人を尊敬しているんですからね。
 ヒューゴ それならもっと友人を選ぶ目を養ったらどうなんだ。
 ヒルデ 私に対してそんな言い方・・・それも許しませんよ。おまけに今は、知らない人の前ですよ。酷く趣味の悪いことです。あなたのことが恥ずかしいですよ、私は。
 カルロッタ(喜んで。)やった! 突然の「反乱の烽火(のろし)」ね。
 ヒルデ(急に雄弁になり。)あなたが病気だったら話は別。あなたがいくら私に不作法でも、喜んで耐えて見せましょう。でも、あなたは今は病気ではないの。あなたは今、健康そのもの。私は何も我慢することはないの。あなた、カルロッタが来るちょっと前、私に言ったわね。私があなたの友達をやっかんでいるって。いいえ、友達だけじゃない。あなたに近しい人なら誰でもやっかむ。カルロッタに私がやっかんでいるとさえ、あなたは言ったわ。でも、本当はどうか。あなたには、友達なんか誰一人いないの。近しい人もね。そのあなたの意地の悪い舌で、みんな追っ払ってしまったの。そして唯一人、近しい人間、世界中でたった一人残っている人、それが私なの。それから、これだけはここではっきりさせて置きます。私は友人の選択にあなたの干渉を許しません。それから、私がその気になった時には、好きなだけスティンガーを飲みます。いいですね。この点に関し、お互いに誤解がないことを確かめるために、今ここでもう少しブランデーを飲むことにします。(飲み物のテーブルに進む。明らかにブランデーを注ぐため。)
 カルロッタ 今夜はどうも、あなたには良い夜じゃなかったようね、ヒューゴ。
 ヒルデ(ブランデーを注ぎ終って。)じゃ、改めてお聞きしますわ。さっきの話・・・さっきの強請の話って何ですか。説明して戴きましょう。
 カルロッタ 私がやりましょうか? ヒューゴ。それともあなたがなさる?
 ヒューゴ 説明などいらん。今夜話したことにヒルデが関ることは全くない。ヒルデには何の関係もないことだ。
 カルロッタ 違いますね。決定的に関っている事ですわ、これは。
 ヒューゴ それに、現在のヒルデの状態が、こんなことを議論するに適した状態とは思えない。あれは寝るしか他にない状態だ。
 ヒルデ 何て馬鹿なことを。この頭、とてもはっきりしているわ。普通の頭の状態よりはずっとはっきりしているわね、きっと。はっきりしていないのは、この足。ですから私、坐ります。(坐る。)
 ヒューゴ そういうことなら、私の方がベッドに引込むことにする。
 カルロッタ するとこの場はすっかり私が独占するということ? 今引き下がって、それが立派な退場の場面だと思っているの? あなたがそんな馬鹿だとは思ってもいなかったわ。
 ヒルデ(静かに。心を決めて。)さあ、私はどちらでも。
 カルロッタ さあヒューゴ、あなたが決めるのよ。
 ヒューゴ カルロッタは自叙伝を出版するそうだ。その本の中に、私が彼女に一九二○年代に書いたラブレターを載せる許可が欲しいと言ってきた。私は断った。
 ヒルデ どうして? 当然の要求だわ。理に叶っている。(カルロッタに。)いい手紙?
 カルロッタ いい手紙。熱情的ではない分、文体で補っているけれど。
 ヒューゴ(大声で。)断った理由を聞きたくないのか! こう途中で遮られてはかなわん。口を開いてもいいのか。
 ヒルデ(ブランデーを飲んで。)ええ、いいわ。どうぞ。
 ヒューゴ カルロッタの本の質について、私は何の判断の材料もない。それに、センセーショナルが売り物の、このジャーナリズムという奴に、加担する気は全くないのだ。素晴らしき新世界における文学だなどと言って、その実、ガラクタを売る今の出版屋の片棒など、誰が担ぐか。
 ヒルデ 今のその本がガラクタかどうかは、全く分っていないんでしょう?
 カルロッタ 有難う、ヒルデ。(ヒルデ頷き、カルロッタに微笑む。)
 ヒューゴ(二人を睨みつけて。)その少し後、カルロッタは、私が誰か別の人間に宛てて書いた手紙も持っていると言うんだ。そしてその手紙をハーバードを引退した教授、ジャスティン・チャンドラーに手渡すと、私を脅したのだ。この男はどうやら私の生涯、及び作品の、分析的研究を書こうとしているらしい。
 ヒルデ(ブランデーをまた少し飲んで。)チャンドラーなら、きっといいものを書くわ。あの人、頭がいいし、書き方もなかなかのものだもの。
 ヒューゴ(雷に打たれたように。)何だって!
 ヒルデ 今言った通りよ。
 ヒューゴ つまり、君はこの男を知っているということか。
 ヒルデ 個人的には知らないわ。でも、この三年間随分手紙のやりとりはしている。「アトランティック・マンスリー」に一度、あなたに関する小論文が出たことがある。私、あなたには見せなかった。きっと怒るだろうと思って。
 ヒューゴ 私の知らないところでコソコソとこの男と手紙を遣り取りしていたと言うのか! 私には一言も断らずに! 
 ヒルデ そんなに苛々することは何もないわ。個人的なことは何一つ言ったことはないんですから。礼儀正しく、ある情報の提供を依頼してきて、それを与えても何の害もないことが分っていましたからね。
 ヒューゴ(食いしばった歯の間から。)どういう情報だ!
 ヒルデ 出版の日付、あなたの旅行した場所のリスト、自伝的なちょっと細々した事柄。この人、あなたの崇拝者なの。分析的研究が出版されるとなれば、いい本が出来るに決まっているわ。現状では、ただ材料を集めているだけだけど。
 ヒューゴ(怒り狂う。)よくも、よくもやったな。私に隠れて! 私の個人的な事柄を私の相談なしに赤の他人に知らせるなどと。裏切りだ! これが私への裏切りでなくて、一体何だ!
 ヒルデ(立ち上る。)私はあんたを裏切ったことなど一度もありませんよ、ヒューゴ。私の一生を通して、一度だって。いいですか、あなたにそんな言葉は私、二度と言わせません。あなたの個人的な事柄をチャンドラーに知らせたなどと、とんでもない。いいですか、私の首が飛んだってそんなことをしないことぐらい、あなたが一番よく知っているの。(カルロッタに向って。)カルロッタ、その別の手紙っていうのは、ラブレターなの?
 カルロッタ(ひどく当惑して。)私・・・私は言わない方が・・・
 ヒルデ と言うことは、ラブレターなのね? そうなのね? 私には大切なことなの。どうか言って頂戴。
 カルロッタ いいわ。ええ、ラブレター。
 ヒルデ 誰宛の?
 カルロッタ それは言えないわ。どうしても。
 ヒルデ ヒューゴ、言って頂戴。
 ヒューゴ 言って、君の得になることは何一つない。昔、昔、書かれたものだ。君と結婚するはるか昔に。
 ヒルデ(溜息をついて。)いいわ。どうせたいした事じゃない。相手が誰かぐらい、私にも分っているんです。でも、御自分で私に言って下さる方が嬉しかったわ。本当はもっとずっと前に私に話して下さればと思っていたの。そうすれば、あなたが私を愛してはいなくても、少なくとも私を信用している・・・信用する程度には好きでいてくれているって・・・私に分ったでしょうからね。
 ヒューゴ(明らかに非常に動揺して。)君には本当に、何の関係もないんだ。あれは私の人生で、すっかりお仕舞いになったことなんだ。
 ヒルデ(悲しい微笑を浮べて。)あなたの人生ですっかりお仕舞いになったこと! まあまあヒューゴ、私がこの部屋を出て行くちょっと前、あなた、私のことを、ラクダだの、一瘤ラクダだの、ロバだのと呼んだわ。でもね、この三種はまだしも知能があるの。駝鳥よりはね。
 ヒューゴ(まだ少しは反撃出来るかと思って。)何だ。それがどうした。
 ヒルデ 私はもう二十年間もあなたの仕事を手伝って来ているの。郵便物を処理し、原稿をタイプし、少なくとも外から見えるあなたの生活は、ずっと見て来ている。あなたの秘密の大部分は、この私に見破られているんだってこと、分っていなかったら、それこそ駝鳥よ。その手紙はペリー・シェルドン宛てなのね。
 ヒューゴ(ちょっとの間の後。)うん。そうだ。
 ヒルデ 参考のために言いますけど、私はもう何年も前、ペリー・シェルドンからの返事を見つけています。チャペル街の家を引き払う時、あなた、私に古い鰐(わに)革のバッグを渡して、新しく私が誕生日のプレゼントに買って来た茶色のに入れ換えてくれと頼んだ。その鰐革のバッグのポケットに入っていたわ。
 ヒューゴ 今それはどこにあるんだ。
 ヒルデ 銀行の金庫の中。シールをした封筒に入れて、表書きにあなたのサインで、「私の死まで開封せざる事」と。(カルロッタに。)私はサインが偽造出来るの。手紙にサインが必要で、私がよくやるの。簡単なこと。
 ヒューゴ 何故破り捨てなかった。
 ヒルデ あなたに非常に深く関っているものですからね。あなたは偉大な作家、有名な人。あなたに関することは捨ててはならないの。
 ヒューゴ 私の名声を酷く傷つける可能性のある、危険なものでもか。
 ヒルデ 大切なのは、あなたの仕事。あなたの名声じゃないわ。
 カルロッタ 結局あなたには、心というものがあったんだと分れば、後世の人は驚くでしょうね。
 ヒューゴ 黙れ! カルロッタ。
 カルロッタ 今までかなり長い間黙っていましたもの。
 ヒルデ(カルロッタに。)それで、ペリー宛のその手紙を、あなたは買って欲しいって言うの?
 カルロッタ いいえ。もうヒューゴには説明しましたけれど、これは売り物ではないわ。
 ヒルデ ジャスティン・チャンドラーに渡そうというのね?
 カルロッタ 渡すかも知れない。まだ決めていないわ。
 ヒルデ ヒューゴのこの件に関する気持はあなた、よく分っている筈よ、ミス・グレイ。それは意地悪で、許し難い行為だわ。
 カルロッタ 私のことを、もうカルロッタとは呼ばないのね。
 ヒルデ 友達になれる人だと思っていたからカルロッタでした。でも、夫を故意に傷つけようとする人とは、私は決して友達にはなれません。
 カルロッタ 随分あなた、寛容だわ。
 ヒルデ 寛容、非寛容は全く関係ないわ。「夫の敵とは友達になれない」、単なる声明よ。
 カルロッタ あなたに関するヒューゴの声明が聞きたいわね。
 ヒルデ あなたが、私とヒューゴの生活を見たのはこれが初めて。ヒューゴの私への取扱いがどんなものか、あなたに分る筈がないわ。
カルロッタ あなたは裏切られたという気持がしないの? この二十年間あなたは無給で秘書兼マネジャー兼家政婦を務めただけではない、あなたは社会的なカムフラージュとして利用されてきたのよ。
 ヒューゴ(怒鳴る。)何を言うか。もう一度言ってみろ。ただではおかんぞ。
 ヒルデ 怒っても何にもならないわ、ヒューゴ。この人は私達を前に、言いたいことを言う権利があるのよ。
 カルロッタ あなた、今認めたばかりでしょう? ヒューゴがペリー・シェルドンについて、あなたに一言も話したことがないと。あなたのその長い結婚生活の間に、一度でもこの人があなたに、自分の大事な心の秘密を打ち明けようとしたことがあったのかしら。あなたを心から信頼して、自分の内心をあなたに晒したことが一度でも。
 ヒルデ それは必要なかったわ。私は知っていましたからね。
 カルロッタ それは逃げ口上。あなた自身が一番よく分っているでしょう?
 ヒルデ あなたは強い人だわ、ミス・グレイ。そしてヒューゴは頭がよくて、複雑な人間。そして私はと言ったら・・・そう、だんだんと今分って来たこと、それは、私があなた方二人よりはずっとずっと常識的な人間っていうことだわ。これは私の想像ですけど、あなたのここに来た理由が分るような気がする。勿論ここであなた方二人が展開した苦い場面は微かにしか想像出来ませんけど。きっと、あなたがここへ来た理由は、出版の許可とか、脅しとか強請とか、そういうものとは何の関係もないものなのでしょう?
 カルロッタ ええ、その通り。
 ヒルデ きっとここへ来たのは、自分自身の気持をはらしたいため。そうね? もう三十年前にあなたに対してなされた酷い仕打ちを糺(ただ)さなければ、という気持。
 カルロッタ ええ。そういう言い方も出来るわ。
 ヒルデ そうだと思った。
 カルロッタ でも、そんなに単純ではないの。それから、正直なところ、それほど自己中心的でもない。自分の気持をはらすためだけではなく、この人に、あることを証明してみたかった。才能、能力、がいくらあっても、この人が大事なものとして全く考慮に入れていなかった何かがあるっていうことを。
 ヒルデ 大事なものとして、考慮に入れなかったこと・・・何かしら。
 カルロッタ それは他の誰よりもあなた・・・ヒューゴの一番近くにいたあなた・・・が一番よく知っていること。優しさ、それに同情よ。この人はこの二つのものの価値を考えたことがない。自分が誰を愛したか、は重要ではないの。重要なのは、自分にどれだけ愛する力があるのかっていうことなの。その事実に直面する勇気も謙遜な気持も、この人は持ち合わせていないの。
 ヒューゴ おお、耳を澄まして聴くがよい。天の御使いの歌が聞える!
 ヒルデ お黙りなさい、ヒューゴ。恥を知りなさい!
 ヒューゴ なるほど。無給の秘書兼マネジャー兼家政婦の地位に加えて、無給のバアやさんになってくれた訳だな。
 カルロッタ 優しさと同情を教える・・・全くの失敗ね。これではっきりしたわ。
 ヒルデ そんなこと、成功する訳がないの。あなたは感情の勝っている人。ヒューゴは違う。私も感情の勝っている人間。でも、それはドイツ人だから当たり前なの。感情の優位は、ドイツ人の血に埋め込まれている。
 カルロッタ 感情の優位と感情の勝っていることとは大きく違うわ。その間に深い淵があるほど。
 ヒューゴ ドイツ・・・大袈裟な神秘主義、サンタ・クロース、クリスマス・ツリー、それにガス室だ。
 ヒルデ お分りでしょう? ヒューゴには個人というものが存在しないの。全ての人間はヒューゴの頭の中では、その人種、種類、型、で分類されている。私に怒る時はだから、いつでもドイツの過ちを使って罰するの。現代の作家の中で最も皮肉な作家と批評される理由はここにあるわ。
 カルロッタ この人がじゃあ、どうしてあなたにとってそんなに意味のある人なの? どうしてあなた、そんなにこの人に忠実に尽すの?
 ヒルデ 私にはこの人しかいないから。(ヒューゴを無視して。)あなたは私の生き方とは全く違う生き方をしているわ、ミス・グレイ。だから私の態度が理解出来ないの。私は生涯でたった一人、愛した人がいました。ドイツ人でした。一九四四年、その人は同じドイツの人間によって殺されたわ。私がヒューゴのところへ秘書としてやって来た時、私はたった一人。希望も何もなかった。ですから、暫くしてヒューゴに結婚を申し込まれた時、私には奇跡のように思えた。誤解しないで。私はヒューゴを愛していなかったし、ヒューゴが私を愛するなんて、金輪際ないことを私は知っていた。知っていたのはそれだけではない。何故結婚を申し込んだのか、その理由を私は知っていました。私はヒューゴが表向きの「看板」を必要なのを知っていて、それを喜んで与える気持でした。それがお互いにとって非常に現実的な、そして合理的な取り決めに見えたのです。そして、重要なことは、私が今でもそう思っていることです。私達の結婚生活が幸せ続きの、申し分ないものだったなどと、言うつもりは全くありません。ヒューゴは皮肉屋で、私に辛く当たり、私は不幸で淋しかった。しかし、その不幸と淋しさは、ヒューゴだって同じだった。自分の生まれ付いての本能と、社会の掟との葛藤は、彼の内心に常に巣くっていたもので、結局それは自分一人でもがき苦しむしか他に方法はなかった。
 カルロッタ でも、もし彼があなたを充分に信頼して、その秘密をあなたに打ち明けたとしたら、少なくとも少しは楽になったのではないかしら。
 ヒルデ それはそうでしょう。でも、彼の性格にはそれはなかった。彼は自分自身で決めた規則に従って、自分の経歴を自分で拵え、自分の人生を自分で生き抜いたの。そして今、本能と社会の掟との葛藤は、年を追うにつれて弱まってきた。そしてだんだんと私に頼るようになって来た。私はそれを、苦労してきた今までの私の人生への報酬だと思っているの。甘いと言われてもそれは私のドイツ人の感情的な血のせい。
 ヒューゴ(非常に優しく。)ヒルデ・・・
 ヒルデ 黙ってヒューゴ、邪魔をしないで。まだ終っていないの、私。(カルロッタの方に向き直って。)ペリー・シェルドン宛ての手紙に戻りましょう。勿論あなたは、自分のよいと思った通りその手紙を使えばいいの。もしジャスティン・チャンドラーがその手紙を欲しいと言い、あなたが渡した方がよいと思えば、私達はあなたにそれを止めさせることは出来ないわ。でも、御存知と思うけど、ヒューゴの、文書による許可がなければ、それを出版することは出来ない。チャンドラーはその手紙を引用し、或は他の書き方で内容を紹介することは出来るでしょう。でも、もしチャンドラーが良い作家であるならば、そんなことに手間暇かけるとは私には到底思えない。勿論ペリー・シェルドンが人間として何か意義ある人物ならば、つまり、ヒューゴとの初期の関係を除いて、彼自身に何か人の注目を引くものがあるなら、彼宛の手紙を公開して、確かに何かの意義はあるでしょう。でも、ペリー・シェルドンはそういう人物ではなかった。全く取るに足らない人間、馬鹿で自惚れが強く、不正直で、我儘な男だった。
 カルロッタ どうして知っているの?
 ヒルデ リーセルから聞いたの。奇妙なことね。今夜リーセルとの話題が、ペリー・シェルドンだったの。リーセルがハリウッドで脚本書きをやっていた頃、何年も彼とは知りあいだった。彼には金を何度か貸してやった。でも、彼女の言葉だけど、道徳的に崩れた人間には、金は何の役にも立たない。さらに崩れるために使うだけだと。
(カルロッタ、考えながら立ち上る。暫く部屋を歩き廻る。ヒルデとヒューゴ、黙ってカルロッタを見ている。到頭、立ち止まり、ハンドバッグを開け、そこから手紙の束を取出し、ヒューゴに近づく。)
 カルロッタ(ヒューゴにそれを差し出しながら。)さあヒューゴ、これが手紙。私にもジャスティン・チャンドラーにも、この手紙は事実上役に立たないもの。でも多分、あなたには役に立つものでしょう。
 ヒューゴ(受取って。無表情のまま。)有難う。
 カルロッタ 意義深い夜だったわ、今夜は。無駄じゃなかった。大変面白い話が出来て。非常に沢山のことが、気恥ずかしくなるほど明らかになって。私の言ったことがあなたの気分を損ねたとしたら、すまない気持だわ。(微笑して。)でも、謝りはしない。ただすまない気持。それから、こんなに夜更かしをさせてしまって、それもすまない気持。
 ヒューゴ 私の君宛の手紙の出版だが、これには許可を与える。明日の朝、書いたものが君の手に届くようにする。お休み、カルロッタ。
 カルロッタ(ヒューゴを見て、相変わらず奇妙な微笑。)お休み、ヒューゴ。(ヒルデの方を向いて。)お休みなさい、レイディー・ラティマー。
 ヒルデ お休み、カルロッタ。お見送りするわ。
 カルロッタ その必要はないわ。私の部屋は廊下をちょっと行った所。
 ヒルデ でも、やはり、お見送りするわ。
(ヒルデ、カルロッタの手を取り、二人退場。ヒューゴ、暫く立って二人を見送る。それから手紙の束を見て、肘掛け椅子に坐る。眼鏡をかけ、適当な手紙を束から抜き取り、読み始める。読み終り、別の手紙を取る。第二の手紙を読み始め、微かに眉を顰める。そして上を向く。明らかに深く感動している様子。再び手紙を読み始める。それから溜息。片手を両眼にあてる。)
(ヒルデ、静かに部屋に帰って来る。ちょっとヒューゴの方を見て、静かにソファの端に坐る。)
 ヒューゴ(長い間の後。)入って来るのが聞えたよ。
 ヒルデ(殆ど囁き声。)ええ、聞えたと思ったわ。
(ヒューゴ、手紙を読み続ける。その時・・・)
       (幕、ゆっくりと降りる。)

     平成十三年(二○○一年)七月十九日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

  
 Suite in Three Keys (A Song at Twilight. Shadows of the Evening. Come into the Garden, Maude.)

First London production; Queen's Theatre in repertoire, 14 and 25 April, 1966 (dir. Vivian Matelon; with Sean Barrett, Noel Coward, Lilli Palmer, and Irene Worth.)

Coward plays © The Trustees of the Noel Coward Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Coward plays in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.