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\begin{document}
\begin{math}
         他我問題に訣別\\
                    大森荘蔵\\
   一 他我問題小史\\
 他人の気持ちがわかる、いやわからない、このきわめてありふれた日常的やりとり
が事重大な「問題」になった始まりが、いつどこであったかを私は知らない。しかし
当て推量をすれば、それは哲学ではなく心理学であったろうと思う。ワトソンを旗手にした
米国の行動主義心理学がその主張の基礎をこの問題に置いたことは、周知の教科書的事実である。
そこから始まって一方では、「鼠の心理学」と罵られるほどまでの実験心理学の隆盛があり、いま
一方では「他我問題」という公式名称が哲学に登録されることになった。
 この他我問題の核心はまさしくそれが「問題」とされるところにあ
る。というのはそれが問題だとされるのはただ哲学者(哲学的心理学者や社会学者も
含めて)の間だけであって、健常な一般人にはそれが問題であること自身が奇妙に感
じられているからである。一般人にとっては、他人の気持ちは全部わかるわけではないが、
たいていの場合にはある程度なら推察がつく、それ以上いったい何が問題なのだ、ということ
で終わってしまう。
 しかし哲学者にとっては、まさにそこが問題なのである。「ある程度の推察」という程度の
問題ではない。他人の気持ちを「推察」するとはいったい何を根拠に推察するのか? そして
その推察の当否はどうやって判定するのか? こういう訊問のあげくに、一般人のこの種の返答
は「類推説」という病名をつけられて精密検査に回される。
 実際一般人も他人の気持ちの推察は自分の場合からの推察、当て推量だということはすぐ認め
るだろう。だがその当て推量が当たっているか外れているかをどう判定するのだとたたみかけられると当惑してしまう。そしてそんな判定などできっこないと答える人には、それじゃ君の当て推量は当てずっぽうであって推察なんぞじゃない、ときめつけられる。そこで当て推量の当たる当たらないは、その対象の他人の仕草は応答で見当がつく、と答えた人には病名がつけかえられて「行動主義」に分類されなおす。こうして一般人の素人的な態度は、類推説と行動主義という二大症候群に分けられて入院することになる。
 しかしやがて哲学のなかでの言語重視の傾向のなかで、問題のレベルアップが求められてきた。
他人の気持ちが事実どうあるかという事実の真偽のレベル以前に、その他人の気持ち云々とはいった
いどういう意味で言われるのかという意味のレベルがなくてはならないという、事実のレベルから
意味のレベルへのレベルアップである。
 こうして現在の形での「他我問題」が一応確定したのである。すなわち、他人について「彼は
怒っている」、「腹をすかしている」などと言うときにいったいどういう意味で言われているのか
自分でわかっているのだろうか、という問題である。こう表現すると一般人には、何だそんなこ
とと一笑に付されかねないだろう。しかしこの見かけは事もない問いの背後には、自分と他者との
関係、特に例えば自分と親しい友人、妻や子供や親といった家族との関係がどうあるかという
笑っていられない問題が接続しているのである。われわれは家族や友人との関係でいったいどこ
まで彼らを理解しているのか、彼らについていったい何を知っているのか、こうした疑問が山ほ
ど続くのである。ひいては、人間が人間をどこまで理解できるのか、またどこまで理解している
のかが問われる。
 これら山波が重なったような陸続とした問いを通じて、人間関係の鉄則ともいうべきことが見
えている。その鉄則とは、人は自分以外の人の経験を共有することは不可能だという事実である。
自分が自分であり他人が他人であるかぎり、他人の経験を自分も経験するということは論理的矛盾
だからである。だからシャム兄弟のように大腸と小腸とを共有していて
も、兄の腹痛経験を弟も
経験するということはありえないのである。シャム兄弟の兄と弟は経験ということ
では全くの別人だからである。それと同じ理由で、例えば私と他人の脳の間を連絡す
る装置が発明されたとしても、私は依然としてその他者の経験を共有することはできない。
人それぞれの経験はすべて論理的に天涯孤独なのである。人は誰でもが「鉄壁の孤独」なのである。
 それゆえに、他者の経験について何か言うことはこの論理的孤独を超えることになる。
何も知りえないことについて何か言うことになる。ではいったいそんなことができるの
か? できるとしたらどうやって? これが哲学でいう「他我問題」にほかならない。
\\
   二 成功しなかった試み、類推説と行動主義\\
 他我問題の根本にある上述の「鉄壁の孤独」を承知したうえでは、常識的には至極当然に
思われた「類推説」が色あせて見えてくるだろう。自分自身の経験から他者の経験を類推する
なんてことは到底できる相談でないからである。他者の腹痛経験は自分の経験からいくら手を
伸ばしても届かないところにある。だが心理学者たちはとうの昔から他我問題の難点に気がつ
いて悩んでいた。被験者が犬猫猿のような動物相手のときはなおさらであるが、相手が人間で
もその証言反応の真偽を確かめる方法がない、特に内観(introspection)と言われる自己
反省による証言の場合がはなはだしいからである。そこから心理学は科学の必要条件である
客観的検証を欠くから科学ではなくなる、と心配されたのである。したがってただ心理学を
ひたすら科学に列させんがために、内観のような心的経験を排除して、客観的真偽検証が可
能な「行動」だけに話を限る「行動主義」が起こってきたのは当然の流れであった。
 他我問題に対する哲学の側での応答である「行動主義」は、心理学の行動主義に強く影響
されたのは確かであるが、しかしレベルの違いがあることを自覚していたといえる。す
なわち、心理学の行動主義が事実のレベルであったのに対して哲学的行動主義は意味の
レベルでの話であった。意味のレベルでの行動主義の最大の動機は、鉄壁の孤独を超え
て他者の心的経験に対する意味を作成することであった。その作成の方法は当然予想さ
れるように、心理学の行動主義と基本的には同一であった。他者の心的経験、例えば腹
痛経験に伴う行動(例えば呻きとは腹おさえ)の集合をもって「彼は腹が痛い」という
他者命題の意味の定義とする。なるほどこういう定義を与えてしまうならば、
鉄壁の孤独などに抵触することもない。しかしまさに抵触しないということ、関係しない
ということが、この定義が一種のすりかえであることを示していないだろうか。他我問
題が求めているのは他者の心的経験の意味であるのに、行動という別物ですりかえてい
はしないか。そのため例えばウィトゲンシュタインは行動主義にすれすれまで接近しな
がらそこに定着することができなかった、と私には思われる。
\\
     三 フッサールの挫折\\
 「他我問題」に悩んだ哲学者としてウィトゲンシュタインをあげるならば、またフッ
サールの名を落とすことはできない。だがフッサールのこの問題に対する論究である
「デカルト的省察」や「危機」講演の難航する叙述から、その真意
を読みとるのは至難のわざである。しかしわが国には先年惜しくも夭折した
廣松渉という世界でも第一級の哲学史家が残した「フッサール現象学への視覚」
(一九九四、青土社)という遺著があって、フッサールの他我問題を批判的に分析
している。私はこの廣松氏のフッサールに依拠してゆくことにする。
 二十世紀の哲学を先導したといえるフッサールとウィトゲンシュ
タインをともにその晩年まで苦しめた「他我問題」には、他の多くの哲学
「問題」に共通する一つの特有の性格があって、この特有の性格がこの問題の
困難の原因になっていると私には思われる。その特有な性格とは、この問題に苦し
むのは哲学者であって健常な普通人には「問題」ではないという、普遍とか自我と
かの哲学問題には大なり小なり共通の性格である。
 だが普通人には何ら問題でもないことが、もともとは自身普通人である哲学者を
苦しめる理由は何であろうか。それは普通人が問題なしに納得できるこ
とがらが、納得ということには特段にうるさい哲学者を納得させないからだろうと
思われる。それならば普通人が納得している仕方を判明に観察することこそ、哲学
者を納得に導く有力な方法になるのではないか。なぜならば哲学者だとてもともと
は普通人なのだから。こう考えて私は、「意味制作のシミュレーション」と称する
方法を選ぶことにする。
 そのために出発点としてフッサールの挫折した場所をとる。というのは彼の試み
た方法こそ最も哲学的な、したがって普通人の考え方とはまさに正反対な方向なの
で、そこから彼と逆向きに進むことが最適であると考えるからである。
 フッサール自身の言葉(「デカルト的省察」、特に第五省察)によって彼が目指
したのは「孤独的自我の意識中における他我の構成」であり、廣松によれば「一口
にいえば、感情移入を原理とする他我経験の構成の理論」ということになる。それ
はウィトゲンシュタインが超えるに超えられなかったあの「鉄壁の孤独」を強行
突破しようとする難行苦行の試みであった。そのために彼が用意した言語的装備
はヒマラヤ越えにふさわしい物々しさで哲学的繁文縟礼であったのも致し方ない
ことだったろう。しかし彼の考えを理解可能にするためには、これらの哲学的修
飾音符を省略して裸の骨格に簡約するという、現象学者を怒らせる手法をとらざ
るをえない。
 廣松もばっさり短縮化して、「孤独的自我の意識中における他我の構成」という
適確な一行にまとめた。その構成によって他者は私に「間接呈示
(Appraesentation)」という仕方で呈示されることになる。間接でなく直接に、
つまり「根源的呈示(Praesentation)」されるのはもちろん私自身の「時がの固
有領域(Eigenheitsphaere)」、すなわち私が直接体験している経験だけである。
この私の直接体験領域(Primodiale世界とも呼ばれる)に他者はまず一つの物体
(ケルパー)として経験される。そこでは私自身もまた一物体であるが、しかしそ
の物体は様々な経験をし行動する「身(み)(Leib)」としての意味による「統覚」
を受けて、私は「物的であると同時に心的でもある統一体」いわゆる「精神物理的
統一体」を獲得する。そこで問題は、この私が獲得している身心統一態の統覚を、
他者物体に「統覚的に移し入れ」て、「私の身体機能と同様の機能をもつ身体とし
て構成する」ことである。だがこの「移し入れ」こそ自己を他者に「移植」するこ
とと呼んでウィトゲンシュタインが不可能事とした(「哲学探究」)、当の作業に
ほかならない。しかしこの肝心かなめの作業をフッサールは常識的な類比によって
事もなく遂行する。すなわち、私と他者の「身体としての物体」の「類似性」に基
づいてなされる「類比的統覚」、すなわち、「感情移入(Einfuerung)」とも呼ば
れるのがそれである。フッサールはこの類比的統覚や感情移入がありふれた単純な
ものではなく、彼が「対化(ついか)(Paarung)」と呼ぶ受動的綜合(Passive
Synthesis)の根本的一形式であると、もったいをつける。すなわち「対をなすも
のが生き生きと相互に喚起し合いその対象的意味を相互に押し被(かぶ)せながら
重ねあう。それによって対をなすものの内で意味の移し入れが行われ、或るもの
の、別の或るものの意味による統覚がなされる。・・・私の身体に類似している
物体、即ち私の身体と現象的な対化(パールンク)を成立させるに違いないよう
な状態にある物体が、際立った仕方で現れるならば、その物体は意味の押し被せの
内で私の身体から身体という意味を直ちに受け取るに違いないことは明らかであ
る。」こうした輾転反側する長講釈は人を閉口させるだけだろう。私にはこれら
はフッサールの苦悶の声に聞こえて、彼の試みの挫折を告げる。廣松はこの挫折の
元を遡って「論理研究」「イデーン」に表明されているフッ
サールの「意識の志向性」という根本的概念にその最奥の病因を探りあてて診断
を宣告している。「フッサール認識論全体のアポリア、従って亦、彼の
他我認識論の隘路が運命づけられているのである。これを以ってしては、事の
原理上、独我論的な呪いの輪(circulus vitiosus)から脱出することは不可能
である。」(廣松、一九九四、一四二頁)。
\\
     四 普通人の易行道\\
 だが、フッサールの挫折に哲学の滑稽さをみるのは私だけだろうか。人を
圧倒するような(事実いまでも圧倒している)フッサールの知的努力とその挫折な
どはどこ吹く風、普通の人間は他我問題を毎日毎時楽々とこなしている。これは
ビュリダンのロバの図ではなかろうか。哲学的論理的考察では二つの餌桶のどちらも
選択できないはずのロバたちは、たらふく食べて丸々と肥え太っている、あのスコラ
漫画である。
 この失笑を誘う矛盾を哲学的に解決しようなどと構えるならば、フッサールの覆轍
の二の舞で哲学地獄に堕ちるだけだろう。私は、フッサールの大仰で物々しい哲学で
はなく、街頭を呑気な顔で歩いている普通人の二の舞を舞うことを選びたい。普通人
が何の苦もなく他我認識を実行している仕方を模擬的に再構成する、それが私が、
「意味制作のシミュレーション」と呼ぶ易行の道である。だが目指す目的
はこの易行の道でもフッサールの難行苦行の道にあっても全く同一である。
腹が痛い、とか悲しいとかいう他者の経験(特にその心的経験)の意味を私
が理解できる形に制作する(フッサールは「構成する」と言う)ことである。
この制作がその上に築かれる基盤は、私自身の経験であることは間違いなく、
フッサールも類推説とともにそのことを明確に認識していた。彼の失敗は、この
普通人にとっては雑作もない作業を哲学的に基礎づけようという西洋哲学伝来の
思い上がった野心に駆られたことにある、と私には思われる。それがゆえに、
「自己固有領域」とか「対化」だとか全く何の解明力もない空疎なもったいぶった
造語を並べて、自分自身がそれにごまかされたとしか思えない。事の核心は単純
さにこそある。普通人は面倒な御託を並べないで端的に「母が腹痛だ」、
「娘が嬉しがっている」とか言ったり考えたりするのである。それは私が
「意味制作」などと言うことすらはばかられるほどの単純さであり素朴さな
のである。普通人は全く無心に他者を見て「腹痛らしい」とか「悲し
いらしい」と思うだけである。そう思うのは、おそらくはフッサールが「対化」
と固苦しく言った自他の類似性が動機になっていただろう。しかし、特別な
動機や理由がなくてもかまわない。何の理由もなくただ気まぐれにそう思った
のであってもかまわない。普通人にとっては何の根拠もない思いで十分なので
ある。それは試行錯誤の試し打ちなのだから。
 ここで試行されるのは、「私は腹が痛い」といった一人称命題の主語を母と
かその他の他者主語で置き換えたものである。この置換はフッサールが「「私
の身体」としての「自己の身体的統覚」が他我の物体を身体として統覚する際の
「範型」となっている」と述べたことにぴったり平行していることに注目しながら、
置換の結果の命題を「自他変換命題」と呼ぶことにしよう。フッサールとの平行性
によって、この自他変換命題はフッサールを挫折させた「鉄壁の孤独」の困難に面
している。それは、このままではこの命題は意味不明だという困難である。範型と
なった一人称命題は、自分の経験を述べているのだから明確で強烈な意味を持って
いる。しかしそれを他者に置換した自他変換命題は、まだ意味を与えられていない。
その意味を与えることが目標の「意味制作」なのである。
\\
     五 意味公理系による意味制作\\
 他者の経験を述べる命題、例えば「母は腹が痛い」に、了解可能な意味を与えることが
目的である。その意味の制作ができるまではこれらの他者経験命題はすべて意味不明に
とどまらざるをえない。これが前に述べた「鉄壁の孤独」が命じる事実に反する条件で
ある。事実としては普通の人なら誰でも他者経験命題を自由自在に有意味に使用してい
る。この矛盾は、普通人の使用している意味を実際に制作してみせることによってのみ
解消できる。
 そこで普通人の一人として私自身の他者経験命題で了解している意味を反省してみる
と、次の二つの特徴を確認できる。(A)他者経験は私自身の対応する経験にきわめて
類似するものとしている。(B) その命題を使用して言表したときの真偽判定は、主と
してその他者の言語的応答を含めての行動によってなされる。
 直ちにみてとれるように、第一の(A)は類推説、(B) は行動主義そのものである。
そこで他者経験命題の意味の制作では、類推説と行動主義の二つをともに組みこむこと
が必要となる。フッサールが考えた他者経験の了解も同様にこの二点を取り入れている。
「「自己の身体(ライプ)的統覚」が他我の物体(ケルパー)を身体(ライプ)として
統覚する際の「範型」となっている」というのは(A)の類推説であり、「他我経験の
確証が綜合的に一律調和的に経過してゆく新しい間接呈示(アプレザチオン)によって
のみ生じうる」という暗号めいた彼独特の言い回しを解読すれば(B)の行動主義となる。
 フッサールのいたずらに錯雑した概念装置を避けて、最も率直で平明な仕方で (A) (B)
二点を取り
入れる意味制作を実行しよう。まず (A) の観点から自己経験を述べる命題、例えば「私は腹が痛い」
のような一人称命題を基礎としてとるのは自然だろう。すると (B) の行動主義の観点から、
この命題にはそれに随伴する行動命題、例えば「私は腹を押さえて呻く」とか「痛い痛いと言う」
とか「痛そうな顔をする」とかいった一群の一人称行動命題がある。私自身の経験では、これら
の関連行動命題は元の経験命題が真であればすべて真である
ことが経験法則として判明している。この経験法則を論理的
内含関係 (logical implication)として意味関係として表現する。それらは図式的に
書けば、「元の経験命題」(implies) (\supset)「行動命題」、の形の内含関係の
集合になるだろう。この集合を幾何学の公理系のように考えて「意味公理系」と呼ん
でおく(昔、カルナップは「意味要
請 (meaning postulates) という呼称を使った)。
 この意味公理系を他者の場合にそっくり移そうというのだが、そのためにはすべての命題の主語を一
人称から他人称(代名詞、名詞その他)に変更しなければいけない。この一人称から他人称への置換を
自他変換と呼ぶ。そして自他変換した意味公理系をもって元の他者経験命題、例えば「母が腹痛だ」の
意味として与える。これで意味制作は終わる。
 もう一目瞭然のように、ユークリッド公理系によって「点」、「線」その他の意味が規定さ
れるのと全く同様に、意味公理系を与えることで他者の腹痛という意味が規定される。これが
以上の作業のもくろみである。
 この意味制作について若干の補足説明が必要だろう。まず、自他変換した意味公理系の要素
である行動命題のほとんどすべてが、公共的に観察可能な命題であることである。したがって
それらは経験的に真偽決定可能であって、真な場合はそれを内含する他者経験命題の真理性を
強め、偽の場合はそれを大いに弱め、ある場合は決定的に拒否する。この検証手続こそ、まさ
に行動主義そのものの意味論的表現であることは誰にも明白であろう。つまり、行動主義の核
心であった経験的検証可能という性格を、穏やかで目立たない形で継承するのが、この公理系
採用の動機なのである。
 この公理系で束縛された他者経験命題を、私が誰かに適用して、例えば「私の母が腹痛だ」
と述べるとする。その適用の以前と以後に、彼女の様々な振舞から、公理系の
被内含項である彼女の行動命題の一部は真であり、一部は偽であることが判明するだろう。
ここでのいわば真偽の投票を、私は自分だけで裁決しなければならない。真のほうを重視し
て母の腹痛を全面的に信じることもあるし、偽のほうに強く影響されて仮病かと疑ったり、
果ては全く信用しないで母は腹痛のふりをしているだけだときめつけたりすることもあろう。
この紆余曲折に満ちた検証過程を、上のフッサールは「綜合的に、一律調和的に経過してゆく」
云々とその一部をまことにまずい言い方で表現したのである。
 このような検証過程をわれわれのすべてが各々その生活で実行する。それは母の腹痛
に限らないで、見知らぬ人の敵意であったり飼い犬の喜びであった
りするだろう。これら様々な他者経験命題の莫大な数の検証裁決を
経験しつつ、私たちの一人一人がそのもって生まれた性格や生活状
況からおのずから他者経験命題に対する全体的な態度を固めてゆくことだろう。
ある人は乳児に対する若い母親のように無条件に近い信奉をするが、別の人は痛め
つけられた老人のように疑い深い不信の塊になる、というようにあらゆるニュアン
スの広いスペクトルがあるだろう。そうした実生活での度重なる公理系適用の経験
のなかで、人々は相互に影響を受けながら公理系の修正や調整をしてゆく。適用対
象を人間に限定する、山川草木にわけへだてなく適用する、自動車や愛用のロボット
にも適用する、あるいは行動命題の改廃や挿入や重視のランキングを変更する、と
いった実に様々なことが起きるだろう。この波瀾万丈の人間生活の場でこそ、他者
経験命題の意味が社会的に制作されてゆくのである。こうした相互調整によってお
およその意味が確定されて、それが学校や家庭で子供たちに伝達されてゆく。この
いわば社会共通の公共的意味は、結婚や三食の制度と同様に画一的ではなく、統計
的にはガウス分布のつり鐘曲線のようなふくらみをもったゆるやかな安定部で
あって、各人はそれぞれの個性的な偏差をもった意味を使用することになるだろう。
それゆえ言葉の意味全般に言えるように、時代と民族や社会階層が異なるにつれて
変化してゆき、個人的にも年齢と環境にしたがって変遷してゆく。
\\
     六 他者命題の思考的意味\\
 こうして実生活のなかで歴史的に制作されてきた他者経験命題の意味の根本的
特徴が、対応する自己経験命題の意味が知覚的であるのと対蹠的に思考的(知性的)
であることである。フッサール用語を使えば「我が腹痛」の意味が熟知の痛さで
知覚的充実(Erfuellung)を持つのに、「彼の腹痛」は我が腹痛をモデルにして
イラストされるにもかかわらず、その意味は思考的にのみ了解できるのである。
これこそ初め私が「鉄壁の孤独」と名づけた、自分と他者との間の根源的なそして
論理的な隔絶の反映にほかならない。他人の痛みは私には痛くも痒くもない以上に、
「他人の痛み」の意味は私が知覚として想像することすらできないのである。だから、
この意味の知覚的、思考的(perpetual, conceptual)の対照は大切なので、二、三の
例で少し精しく説明しよう。
 ロック、バークリィー、ヒュームのイギリス経験論者にとって「感知されないほど小さい物」の
形や長さは理解されがたいものであった。例えば「しらみの血液中の動物精気の粒」、現代的事例
でいえば DNAの二重ラセン形である。それらは感知できないほど小さいのだから、知
覚的にその意味は理解できない。バークリィもヒュームも当惑の
あげくにこの問題から逃亡したように思われる。その当惑を解く唯一
の道は、それら非知覚的な微小量の意味、例えば一ミクロンの意味は思考的であ
る、思考的にのみ理解されるということを認める以外にはない。
事実、一ミクロンは
知覚可能な一センチの長さの一万分の一だと考えることで了解
できるし、そう現に了解されている。非常な短時間、一ミリセカンド
の千分の一とか、年に数センチといった海底移動やヒマラヤ隆起の速度、いや
男のヒゲの成長や腕時計の短針の速度、こうした「感知」(知覚)で
きないほどに遅い速度、それに今度は秒速三十万キロの光速と
いった、これまた知覚できない高速度や何万光年といった巨大量、これら
の意味は知覚的には理解できず、ただ思考的にのみ理解できる。そう
した量の意味を思考的な意味と言うのである。当然、自然数やユークリッ
ド直線といった数学上の概念のほとんど全部が、思考的意味しか持たない。
そのなかでも、可付番無限から始まる \omega、\omega + 1、\omega + 2、・・・と
いった超限順序数(transfinite ordinal number)の意味が思考的であり、しか
も有限な自然数との設定された関係によって考えられることに注意
したい。身近で理解済みの有限な自然数123・・・との関係で無限集合
が考えられているという点で、知覚的に了解可能な自分の腹痛との同型の
公理系で関係づけられた他者の腹痛の思考的意味の簡単な類比的説明の役を果た
すからである。特に、有限から無限への跳躍が、「鉄壁の孤独」を超えての自我か
ら他者への跳躍という他我問題の核心を類比的に照射するだろう。
 しかし、意味公理系が持つ思考的意味というのがよくわからないと感じる人も
いるだろう。その人たちには、公理系による思考的意味は珍しいも
のではなく、ユークリッド公理系を皮切りに数学では無数の公理系に
よって日常的な思考作業になっていることを指摘したい。いやそれは数学
での話だろうと言う人には、日常生活では誰もが自分で自覚していなくとも、数学
のお手本に従って公理系の理解をしていることを言いたい。例えば「面積」という日
常語の思考的意味を理解する人は、二つの図形を合わせた図形の面積はそれぞれの面
積の和であるとか、長方形の面積は縦 \times 横であるとかの公理を理解しているので
ある。そういう公理が教科書でのようにきっちり書かれていなくて以心伝心的であって
も、それがその公理の理解であり、それによって面積の意味を理解していることには違
いない。こうした公理系による理解は理論的概念、例えば原子、電磁波、搾取、生産性、といった意味すべてにみられることであり、他者の腹痛ということの意味も、実は理論概念に属する(ここでは立ち入らないが、自我や過去という概念も実は理論概念であると私には思える。)。
 いやもう結構、思考的意味とか公理系とかはもうたくさん、結局知りたいのは他人の
腹痛の意味とはいったいどんな意味なんだということ、それが問題のヘソではなかった
のか、こうしたいら立ちの声が聞こえてくるようだ。
 私の答は簡単である。貴方は先刻御承知ですよ、と。知っていることを尋ねることは
ないでしょう、と。
 というのは現在の日本人の誰もがその日常生活で多種多様な他者経験命題を何のため
らいもよどみもなしに自在に実用している。その実用している意味こそがまさにお尋ね
のものにほかならない。物理学者がクォーク、二十六次元、超ひも(superstring)と
いった、われわれには全く得体の知れない言葉を平気で使っているときに、そこに使わ
れている意味を知らないはずはない。中高生がテストに悩まされながらユークリッド幾
何学を学習してゆく過程で、彼らは「拡がりのない点」や「幅のない線」といった思考
的意味を何とか了解してゆくだろう。それと同じで誰もが他者の痛みや悲喜という自分
の経験を超越した言葉の意味を思考的に理解しているはずである。その思考的意味を現
在了解していない日本語使用者はどこにもいない。だからその意味とはいったい何であ
るかなどと真面目に尋ねるような唐変木がいてはならないのである。
\\
     七 後顧の弁\\
 以上述べてきたのは、ごく普通の現代人がその実生活で使用している他者経験命題の
意味の制作過程の想像上のシミュレーションである。この意味制作をここで振り返って、
全体的な眺望を試みるのは無駄ではあるまい。第一にこの意味制作が哲学史上の「他我問題」
に与える効果は何であるかを考えてみよう。
 他我「問題」の発生源はひとつの単純な疑問にある。およそ私に
はうかがい知れない他者の心(の諸経験)について私があれこれ言うとき、
いったいどんな意味で言っているのか、この疑問である。それに対して行動
主義は意味の質的な違いによって答えようとした。ひとつは私が直接体験でき
る自分の経験についての意味であり、それに対して他者経験命題の意味は
「行動の集合」である。だがこの他者の行動(悲しげな顔つきや
振舞や発言)も私の知覚範囲に入るから私に了解可能なのである、と。
この行動主義はウィトゲンシュタインをはじめとして多くの哲学者を引き
つけたが、私には致命的欠陥があると思われる。その欠陥とは、実社会で
普通人が採っているのは行動主義的な意味ではない、という余り
にも明白な事実である。普通人は他者の心を自分の心とほとんど同一
に近いまでに似たものとして理解しているのであって、「振舞の集まり」
などとはてんで思ってもいない。この普通人の常識に忠実なのが類推説だが、
それに巣食う論理的欠陥はこれまた誰にも明白だった。
 私が述べてきた意味制作は、類推説と行動主義の欠陥を回避しながらその二
つを綜合する方式だと言えよう。
 まず普通人の類推説的常識に従って、自分についての命題を、それに伴う
行動命題との関連を含めて、自他変換という自己と他者との置き換えによって
そっくり同型的(イソモルフィック)に他者命題に移植した。そのときの行動
命題との関連を表現する意味公理系が行動主義と平行して構成されていることは、
誰の目にも一目瞭然であろう。
 だがこうして制作された他者経験命題の意味はまだ意味不明であって、私には
理解できない。それを理解するためには、私が自分の経験を理解する知覚の様式
とは異質の思考の様式をとらねばならない。理解される意味のほうからいえば、知
覚的意味とは質的にことなる思考的意味である。思考的意味とは、数学の概念のほ
とんどすべてが持つ種類の意味で、知覚的体験的にではなく知性的にのみ理解でき
る意味であるが、原子が小さなボールで図解されるように、知覚的なイラストがで
きることが多いため、えてしてその思考性が見落とされている。
 自己経験命題の意味が知覚的であるのに対して、他者経験命題の意味が思考的
であり、この二つの意味が質的に異なることこそ、自分と他者との間にある非対
称(鉄壁の孤独)の反映にほかならない。私の腹痛と他者の腹痛とは
異質の意味であって、異質の理解様式によって理解しうるのである。しかしこ
のことは逆に、異質の理解様式を認めれば、私は他者の心の諸相を理解できる
ことを意味し、こうして鉄壁の孤独を超えることができる。換言すれば、他者
の心あるいは意識とは理解概念の一種だということである。このことは、「自我」
と「過去」という二つの重要な基本概念もまた同様に理論概念であることを示すな
らば十分な納得が得られるが、ここでは立ち入る余裕がないので省略する。
 思考的意味と知覚的意味という異質性に反映されている自己と他者との隔絶の裏側
には、紛うことのない自己と他者の類同性がある。フッサールが「対化(Paarung)」
「類比的統覚」「間接呈示(Appraesentation)」等々の不細工で物々しい言葉で表現
に難渋したのも、この類同性の利用のためであった。それに対して私の意味制作では、
事は端的で単純である。自他変換による意味公理系の同型性がそのまま自他の類同性そ
のものであることに疑問の余地はないからである。そしてこの意味公理が、他者経験命
題の行動主義的な真偽検証ベースになっていることも自明であろう。
 こうして私が呈示した意味制作が、類推説と行動主義の健全な部分を合わせて組み立
てたものであることがわかる。
 この意味制作には、哲学者が通常要求するような正当化ないしは根拠づけが欠けてい
るが、それは意図的にそうしたのである。ここでは根拠だとか正当性など全く不必要だ
という考えからである。普通人がある命題の意味を世間並みに使用する
のに、哲学的根拠だとか論理的正当性などに気をくばる必要はないだろう。
何の理由もなしに単にその意味を使用する、それでよい。するとそれ
を使った他者や傍観した人々が、言語的行動的に何かの反応をするだろう。
その反応が期待通りに意味公理系の行動命題に全面的または部分的に適合するならば、
意味使用者は勇気づけられて、その次の機会からはより強い確信とともにその意味
の使用を続けるに違いない。だが相手の反応が意味公理系と齟齬した場合には、
その公理系にあれこれ修正改変を加えて意味の微調整を試みるだろう。他の人々
がそれを教えたりこちらから教えを請うこともあるだろう。最悪の場合は相手は
外国語を聞いたように理解できない風をする(犬猫とか家具も含む)。そのとき
はそれ以後その意味の使用を停止したり、それらの対象には適用を差しひかえる。
社会の成員の各々がこうした意味使用の経験を蓄積してゆきつつ相互に影響を与え
合う。こうして急流のなかで石が丸くなるように、他者の心についての意味も、社
会生活のなかでもみにもまれて、やがては消失したり、安定した平均的で標準的な
意味が形作られることになる。この試行錯誤が意味制作の実施過程なのである。
 こうして制作されてきた他者経験の意味を伝承して、いま現在私たちが生活で実
用しているのである。この長年にわたって実用に習熟した現在、他者の心の意味に
は私が「語り存在」と名づけた実在性が含まれるに至っている。私たちが他者の
痛みや悲喜について語ったり考えたりするとき、それらは実在する痛みや実在
する悲喜を意味しているのである。この「語り存在」については拙著「時間と
存在」に詳述したのでここでは繰り返さない。
 以上述べてきた鳥瞰図のなかに「他我問題」を定位してみることで、そ
れが「問題」であったのはなぜかがおぼろにわかる。それは地震学者
がする震源地の推定と同様、いやそれ以上に精度が悪いものである
が。その良くない精度での私が推定する他我問題の震源は、他者経
験命題の意味の性格の取り違えである。他者の心についての意味は、上
に述べたように数学の概念に近い思考的意味であるのに、それを知覚的意味
だと思いこむ点である。それは数学や論理学を心理学的に解するという数少
ない事例(ミルやデュルケム)と同じ認識ではあるまいか。三角形の
内角和が二直角であったり、5プラス7が12であったりすることを
「心の動き」とみるのが誤りであるのと同様に、他者の腹痛を知覚的に
想像しようとする、むしろ心理的には自然な誤認ではなかっただろう
か。ウィトゲンシュタインまでがその誘惑に負けたことは何とも不思議
である。私が述べた意味制作が彼の中心思想である「言語ゲーム」の一種
であることを考えるとなおさらである。また、心理主義から論理主義に転向
したフッサールは、それゆえ一層心理主義の危険を熟知していたはずであり、し
かも数学者出身でプラトニストという批判をしばしば受けたほどの碩学が、あれだ
けの知的エネルギーを費やしながらなお知覚的意味の鳥もちに足をとられた理由は
全く不可解である。しかしそれは数多い現象学者に検討をお願いして結論を待つ以
外にはないだろう。
 ともあれ、他者の心の意味が思考的であることをいったん確認することができれ
ば、「他我問題」とはお別れができる。おそらくはほんのしばしの別れであろうが。
哲学では最後に笑うのはいつでも問題のほうであるらしい。
\end{math}
 \end{document}