死せる魂
      (四幕十二場の劇)
        原作 ニカラーイ・ゴーゴリ
        脚色 ミハイル・ブルガーコフ
        訳   能美武功

(題名に関する註 原題は Mertvye Dushi 「死んだ農奴」という意味。但しロシア語で「ドゥーシー」(「ドゥー」にアクセントあり。単数はドゥシャーでシャーにアクセントがある。)は「農奴」と「魂」の両義あり。ゴーゴリの意図もこれを掛け言葉にするところにあった。昔から採用されている「死せる魂」を今回も、とった。)

   登場人物
語り手
チーチコフ(パーヴェル・イヴァーノヴィッチ)
後見会議院の秘書
首都モスクワにある居酒屋のボーイ
県知事
県知事夫人
県知事の娘
議長 イヴァーン・グリゴーリエヴィッチ
郵便局長 イヴァーン・アンドレーイェヴィッチ
警察署長 アリェクスェーイ・イヴァーノヴィッチ
検事 アンチパートル・ザハーリエヴィッチ
憲兵大佐 イリヤー・イリイッチ
アーンナ・グリゴーリエヴナ
ソーフィヤ・イヴァーノヴナ
マクドナーリド・カールロヴィッチ
スイサイ(スにアクセント)・パフヌーチエヴィッチ
ピェトゥルーシカ
セリファーン
プリューシュキン 地主
サバケーヴィッチ=ミハイール・セミョーノヴィッチ 地主
マニーロフ 地主
ナズドゥリョーフ 地主
カローボチカ=ナスタースィヤ・ピェトローヴナ 地主
マニーロヴァ=リザーニカ
マーヴラ
パラーシャ
フェチーニヤ
警官
役場の使用人達
巡査部長
カピェーイキン大尉
ミジューイェフ 妹婿

(時代・・・一八三0年代のこと。)

   プロローグ
 語り手 そして、刑法上の罪を問われ、裁判所から出た時、彼にはもう、資本と呼べる物は、或いは、外国に送ってある財産などというものは、何一つ残っていなかった。やっと踏み堪(こた)えて手許(てもと)に戻ったものは、数万ルーブリの端金(はしたがね)、二、三十枚の麻のシャツ、小さな四輪馬車一台、それに二人の農奴・・・一人はコックのセリファーン、もう一人は下男のピェトルーシカ・・・であった。さて、こういう状態で、我々の主人公は舞台に登場するのです。つまり、身を屈して泥の中でも這い回ろうという、卑しい生活に甘んじねばならない・・・(間。)しかし、この主人公の性格には、何物にも負けないという、不撓不屈の精神を与えることにしよう。それが作者の公平さというものだ。・・・このような境遇に落ちても、この主人公には、物を獲得しようという不可解な、飽くなき情念は消えていなかったのだ。
 地位の向上を望むには、どうしても現在の代理人という肩書きにしがみついている必要があった。人でなしの木っ端役人、或いは仕事の依頼人にまで馬鹿にされても、何が何でも代理人の職を捨てる訳には行かない。ところで、依頼された仕事の一つに、ある後見会議院委員のために、失った農奴の穴埋めをするという仕事があった。それも、数十人ではない、数百人の農奴の穴埋めをしろというのである。
(幕が開く。ギターの音が聞こえて来る。街の居酒屋の別室。食事中。蝋燭(ろうそく)が点(とも)っている。シャンパンあり。隣の部屋から、酒盛りのだみ声が聞こえて来る。客達が歌っている。「気が狂ったように、その黒いショールを僕は見つめている。悲しみが、この冷たい心を苦しめる・・・」
 チーチコフ ねえ、秘書さん、人間の欲望っていうのは、数限りないですから・・・全く、浜辺の砂のようで・・・(秘書にシャンパンを注ぐ。)
 秘書 そう、数限りないな。博打は打つ、酒は飲む、金は使い放題・・・あいつめ、家屋敷、殆どなくしおった。あんな奴の力になろうなんて酔狂な男がどこにいるっていうんだ。
 チーチコフ そんな厳しいことを、秘書さん。泣きっ面に蜂っていうところもありますよ。家畜は病気で全部やられるし、麦も不作、管理人には騙される・・・
 秘書 フム・・・
(笑い声が聞こえて来る。しっかりしたバスの声が歌う。「死んだその女の頭から、僕はショールを剥ぎ取る。血まみれの刀を僕は黙って拭(ぬぐ)う!」廊下に通じる扉が半分開く。酔っ払った近衛騎兵が通り過ぎるのが見える。それから給仕の男が通り過ぎるのが、ジプシーの女が通り過ぎるのが、見える。そして扉が閉まる。チーチコフ、賄賂を取り出し、秘書に手渡す。)
 秘書 委員は私一人じゃない。他にもいるんだぞ。
 チーチコフ 大丈夫です。他の委員様方にもちゃんと・・・当方、その辺は心得て・・・
 秘書 よろしい! 書類を渡しなさい。
 チーチコフ ただその・・・一つ、事情がございまして・・・その領地に付属する農奴が約半数死んでしまいまして。全く補充の手立てがないのです。
 秘書(はっはっはと笑う。)全く酷い領地もあったものだ。荒れるに任せるだけではすまず、人まで死ぬとはな。
 チーチコフ はあ、全くで、秘書さま・・・
 秘書(地主は農奴分の税金を納めなきゃならんからな。)それで、納税義務者の農奴人口調査は、そこではもう終ったのか? それとも調査はまだで、死んだ農奴分もまだ納税義務の数に入っているのか?
 チーチコフ 数に入っています。
 秘書 それなら何も怖がることはないじゃないか。死ぬ奴がいれば、生まれる奴もいる訳だからな。結局はうまく行くものさ。(チーチコフから書類を受取る。)
 チーチコフ(突然パッと顔が明るくなる。)あっ!
 秘書 どうかしたか?
 チーチコフ いえ、何でもありません。
(声が聞こえて来る。「サーシャ! アリェクサーンドル・スェルゲーイェヴィッチ! シャンパンだ! シャンパンを持って来い。この喉(のど)の奴が欲しがってな・・・」笑い声。「それに懐中時計も鳴ってるぞ、シャンパンが欲しいってな。」(訳注 秘書の持っているブレゲー懐中時計が鳴ったので。)(秘書、懐中時計を取り、立上がり、チーチコフと握手。そして退場。)
 チーチコフ(秘書が立ち去った後、黙って立っている。顔は霊感に満ちている。)何て馬鹿だったんだ、この俺は・・・手袋を帯に挟んでいるのを知らず、それをあちこち捜していたようなものだ。・・・そうだ、死んだ奴をじゃんじゃん買い集めればいいじゃないか。・・・(聞かれては困るという顔で、しっかりと隣の部屋へ通じる扉を閉める。)次の人口調査が始まる前に・・・そうだ、例えば千人手に入れたとする。一人が例えば二十ルーブリの価値があるとすれば、それだけで二万ルーブリの財産だ。(霊感を受けたように。)そうだ、買って移住させるんだ。ヘルソーンスキイ県のあの領地が只で手に入ったんだ。そこに農奴を送り込めばいいじゃないか。そう、死んだ農奴をごっそりそこに住まわせる。ヘルソーンスキイに! あの領地に!(十字を切る。)死んだ奴に生き返って貰うんだ。ああ、買った農奴をいちいち確かめようとするかも知れないな。(笑う。)なあに、証明書を提出するまでのことさ。郡警察署長直筆の証明書を見せてやる。丁度時期もいいぞ。最近酷い疫病が流行った。領地は荒れ放題、管理はめちゃめちゃだからな。自分の住処(すみか)を捜しているふりをするんだ。そうして領地を見てまわって、安く買えそうな、そして簡単に買えそうなところを物色するんだ。
 語り手 歯車が一枚狂ったら、一体どんなことに・・・
 チーチコフ 人には何か才能が与えられているものだ! よし、これは誰にも思いつく筈はない。誰にも! こんなことがあり得ると誰が思う。誰も思いはしない。さあ、行くぞ。(鈴を鳴らす。)
(給仕、走って登場。扉が開いて、酒盛りの声が聞こえて来る。コーラス「おい、召使い、夜の闇が迫って来たら、その死骸をドナウ河の波に放り込むんだ!」)
 チーチコフ いくらだ?
(給仕、勘定書を渡す。チーチコフ、給仕に金を投げて渡す。)
 チーチコフ さあ、行くぞ!
                    (幕)

     第 一 幕
     第 一 場
(県知事家の部屋。県知事が、刺繍枠が載せてある机について坐っている。部屋着姿。首には「アンナ十字勲章」が掛けてある。小声で鼻歌を歌っている。)
 召使 旦那様を訪ねて、六等官、パーヴェル・イヴァーノヴィッチ・チーチコフなる人がいらっしゃいました。
 県知事 服を出してくれ。
(召使、燕尾服を出す。県知事、着替える。)
 県知事 お通ししろ。
(召使退場。)
 チーチコフ(登場して。)この町にまいりました、パーヴェル・イヴァーノヴィッチ・チーチコフ、六等官でございます。県知事閣下にお目にかかることを、恐れ多くも、私の義務と考え・・・旁々(かたがた)自己紹介を致すのが私の義務と考えまして・・・
 県知事 いやいや、これは初めまして。どうぞお坐り下さい。
(チーチコフ坐る。)
 県知事 それで、どこでお勤めになられましたかな?
 チーチコフ 私の、役所における経歴は、まづ、県税務庁から始まりました。以後様々な場所で、また期間もまちまちですが、勤めました。建設省におりましたたことも・・・
 県知事 建設は、例えば何を・・・
 チーチコフ モスクワの教会堂の建設にあたりましたのでございます、閣下・・・
 県知事 なるほど。
 語り手(登場して。)「善意の男だ、これは」と県知事は思う。「何てうまい具合に教会なんてものを思いついたんだ」とチーチコフは思う。
 チーチコフ それから閣下、貴族専用の地方裁判所にも、税関にも、勤務しました。全く私など、取るに足らない、つまらない人間でして、辛抱だけが取り柄でした。言ってみれば、辛抱というおむつを当てられ、辛抱という服を着て、ただ辛抱が人間の形になった・・・それが私ということでございます。何しろ、命まで狙う敵が、行く先々の役所にいたのでは。・・・状況を御説明しようにも、言葉も絵具も、筆さえ役に立ちません。私の人生は、波に揉(も)まれる船のようなものだったのでございます、閣下。
 県知事 波に揉まれる船?
 チーチコフ ええ、そうでした、閣下。
 語り手 「偉い人物だ」と県知事は思う。「こいつは馬鹿だ」とチーチコフは思う。
 県知事 で、これからどちらへ?
 チーチコフ 余生を送るための片隅を捜しにあちこちと。しかし、余生とは言いましても、それはそれ、世間を見、人の浮き沈みを見て行くだけで、生きた書物、第二の学問とも言えますから。
 県知事 そうですとも。そうですとも。
 チーチコフ 閣下がお治(おさ)めになっているこの県に、馬車で入ったとたん、まあ、まるで天国に来たかのような気が致しました。
 県知事 それはまた、どうして。
 チーチコフ 道路は一面、ビロードを敷きつめたような、立派な整備で・・・
(県知事、困ったような笑い。)
 チーチコフ 要所要所に、それぞれ適任の高官を配置なさる。上に立つ人が本当に立派なお方だからなのですね、きっと。
 県知事 えーと、確か・・・パーヴェル・イヴァーノヴィッチと・・・
 チーチコフ そうです、手前はパーヴェル・イヴァーノヴィッチで・・・
 県知事 どうか、パーヴェル・イヴァーノヴィッチ、私どもが今夜開きます夜会に御出席を願いたく・・・
 チーチコフ これはこれは、特別なお計らいを戴きまして、閣下。実に光栄至極に存じます。えーと、ところで、この刺繍、実によく出来ていますが、一体どなたがなさるので?
 県知事(恥づかしそうに。)いや、これは私が・・・チュールです、この刺繍は。
 チーチコフ いや、実に素晴しい。(眺める。)では、これで私は・・・(後ずさりして退場。)
 県知事 実に見上げた人物だ!
                     (幕)

     第 二 幕
(県知事の家の客間。カーテンの後ろにトランプ室がある。遠くからハープシコードの音が聞こえる。)
(県知事夫人、県知事、そしてその娘が登場。議長、郵便局長とチーチコフ、登場して来た三人にお辞儀。)
 県知事夫人 あなたは・・・
 県知事(囁き声で教える。)パーヴェル・イヴァーノヴィッチ!
 県知事夫人 ・・・ええ、パーヴェル・イヴァーノヴィッチ、あなたはまだ、うちの娘を御存じありませんでしたかしら? ついこの間まで女学生。今は卒業しておりますのよ。
 チーチコフ 閣下、これは洵に光栄で・・・
(娘、お辞儀をする。県知事夫人、県知事、そして娘、すべるように退場。)
(トランプ室から笑い声が聞こえて来る。)
 郵便局長 いや、実に美人ですな。
 議長 ギリシャ人特有の、あの鼻・・・
 チーチコフ まったく、ギリシャ、ギリシャした鼻で。ところで、議長殿、あそこのあの紳士はどなたです?
 議長 マニーロフですな、地主の。
 郵便局長 地主のマニーロフです。なかなか気のつく、好人物ですよ。
 チーチコフ それでは私、お近づきになりたいものですが・・・
 警察署長(カーテンの陰から。)おい、郵便局長!
 議長 そう仰るなら御紹介しましょう。(マニーロフのところへ行き、連れて来る。)さ、地主のマニーロフです。
 警察署長(カーテンの陰から。)おい、議長、議長、あんたも!
 議長 ではちょっと失礼を。(トランプ室へ退場。)
(チーチコフとマニーロフ、挨拶する。坐る。)
 マニーロフ あなたにはどういう印象でしたでしょう、この町は。
 チーチコフ 素晴しい町です。本当に礼儀正しくて・・・
 マニーロフ この町を訪れて下さるなんて、実に光栄です。私共に喜びをお届け下さっているのです、あなた様は。この五月の素敵な太陽、それに立派なお名前も。
 チーチコフ とんでもない、たいした名前も持ちあわせてはおりません。それに、地位だって・・・
 マニーロフ いえいえ、そんな・・・それで、私共の県知事さんをどうお思いになりました? 本当に最高の人物じゃありませんか? あの方は。
 チーチコフ 正に、仰る通り。本当に、最高の人物でいらっしゃる。
 マニーロフ こんな風に、みんなを御招待して下さって。なさること全てに、繊細な心遣いが感じられます。
 チーチコフ そうです。礼儀正しい方ですね。それに、とても器用でいらっしゃる。・・・御自分で作られた財布を見せて下さいましたよ。女性でも、あのくらい綺麗な刺繍をする人は稀(まれ)です。
 マニーロフ ところで警察署長さんは如何でした? とても気持のよい人物でしょう?
 チーチコフ そうです。本当に気持のよい、それに、何て頭のいい・・・立派な人物ですよ、あの方は。
 マニーロフ それで、あの方の奥さんのことはどう御覧になりました?
 チーチコフ いや、実に立派な御婦人です。今まで私もいろいろ御婦人方とはお近づきになりましたが・・・
 マニーロフ それに、あの市会議長さん、何ていい方なんでしょう!
 チーチコフ(傍白。)何だこれは。やりきれないな、この退屈な会話・・・(大きな声で。)ええ、ええ、そう、そう・・・
 マニーロフ それから郵便局長さん・・・
 チーチコフ 御自分でお持ちの村には、いつも行っていらっしゃるのですか?
 マニーロフ ええ、村にはしょっちゅう。勿論時々は町に出て教養のある方々にお会いしなければ。なにしろ閉ぢこもってばかりいますと、人間が粗野になりますから。チーチコフさん、どうか是非私の村に御来駕の栄を賜わりたいもので。
 チーチコフ それはもう、喜んで。いや、喜びばかりではありません、私の義務と考えております。
 マニーロフ 町の出口からたったの十五キロほどのところです。マニローフカ村と言います。
 チーチコフ(手帳を出し、書き留める。)マニローフカ村・・・
 語り手 このマニーロフという男、村の経営には何一つ手を出したことがない。領地の畑にさえ出たことがない。
 サバケーヴィッチ(突然、カーテンの後ろから。)おい、俺の家にも来い!
(チーチコフ、身震いする。振り返る。)
 サバケーヴィッチ 俺はサバケーヴィッチ。
 チーチコフ チーチコフです。議長のイヴァーン・グリゴーリエヴィッチが、さっきあなたのお噂をして下さいました。
(二人、坐る。)
 チーチコフ 大変素晴しい方で・・・
 サバケーヴィッチ 素晴しい? 誰がだ。
 チーチコフ 議長さんです。
 サバケーヴィッチ そう見えるだけだ。あいつはフリー・メイソンでな。あんな馬鹿な野郎はどこを捜したっていやしない。
 チーチコフ(まごついて。)勿論、欠点のない人間なんていないものですけど・・・でも、あの知事殿は・・・何て素敵な人なんでしょう。
 サバケーヴィッチ 強盗だ、あいつは。あいつの右に出る強盗はこの世にいないね。
 チーチコフ ええっ? 知事殿が強盗ですって? いや、思いもよらないことです。到底私には思いつきもしない・・・優しいところがあんなにもある方が・・・御自分の手で、財布に刺繍をなさったり・・・それにあの優しいお顔・・・
 サバケーヴィッチ 優しいお顔・・・強盗特有のな。あいつに短刀を持たせて、街道に立たせてみろ、すぐに追い剥ぎに早変わりさ。お前さんの財布に刺繍はしてくれるかもしれんがね。たったの一カペイカ剥ぎ取るために、お前さんを斬り殺すさ。顔は知事殿でも、その実専制君主、それが正解だ。
 語り手 いやいや、このサバケーヴィッチは、知事とうまく行ってないんだ。だからこんな悪口を・・・警察署長の話をしてみたらどうだ? ひょっとして彼とは友達かもしれないぞ・・・
 チーチコフ ですがその、サバケーヴィッチさん、警察署長殿はどうでしょう。正直な話、私はあの方が気に入っているんです。何て気持の真直ぐな方なんでしょう。
 サバケーヴィッチ 警察署長? いかさま野郎さ。全くこの町の奴らときたら、どいつもこいつもみんな似たりよったり。俺にはよく分っている。いかさまがいかさま野郎と話をしていかさまを考えている。いやはや、裏切り者でない奴など一人もいやしない。・・・ああ、一人だけは例外だが。
(検事、サバケーヴィッチの背後に登場。)
 サバケーヴィッチ そう、一人だけちゃんとした人物がいる。・・・検事だ。
(検事、微笑む。)
 サバケーヴィッチ まあしかし、こいつだって正直なところを言やあ、豚だがね。
(検事退場。)
 サバケーヴィッチ じゃ、ひとつ、家(うち)にもやって来たまえ。(頭を下げ、退場。)
(トランプ室から大きな笑い声。そこから県知事、警察署長、議長、検事、郵便局長、登場。)
 議長 そう、あそこで私のクイーンを切ってやったんだ。あのクイーンの鬚づらをな。
 郵便局長 そう、そのクイーンに私はキングを切って、クイーンは戴き・・・
 召使 旦那様、ナズドゥリョーフ様がいらっしゃいました。
 知事(重々しく。)おお・・・
 検事 片っぽうの頬鬚をいつも誰かに引き毟(むし)られてなくしている男ですよ。
 ナズドゥリョーフ(登場。その後ろにミジューイェフ。二人とも明らかに酔っていて、のろのろと登場。)これはこれは皆さん、ウィー・・・ウィー・・・ああ、検事さんも・・・おやおや、警察署長さんも御一緒ですかい。(知事に。)ああ、これは私の妹婿のミジューイェフ。知事殿、いや、私は丁度今、市場から帰って来たところで・・・
 知事 見れば分ります。どうでした? ゆっくり楽しみましたか?
 ナズドゥリョーフ 知事殿、いや、閣下・・・これは私の妹婿のミジューイェフで・・・
 知事 いや、お会い出来て嬉しい・・・(お辞儀をして退場。)
 ナズドゥリョーフ 皆さん、ここで会えるとは・・・全く、すってんてんにやられちまって・・・こんな負け方、生涯に初めてでさあ! 馬四頭賭けて全部負けちまうなんて。時計も鎖もみんな賭けてやられっちまったんだ。こいつが私の妹婿ミジューイェフ・・・
 警察署長 鎖まで! ああ、それに君、君の頬鬚、片方どうしたんだ?
 ナズドゥリョーフ(鏡のところへ行き、見て。)下らん!
 議長 さあさあ、チーチコフさんにお引き合わせしましょう。
 ナズドゥリョーフ まあまあ、まあまあ、これはこれは。こんなむさい町にようこそだ。これは一つ、キスでもして歓迎の意を表さねば! いや全く。(チーチコフにキス。)妹婿のミジューイェフだ、こいつは。君の噂をな、こいつと二人で朝からずーっとやってたんだぞ。
 チーチコフ 私の噂?
 ナズドゥリョーフ そうさ。もしチーチコフに俺達が会っていなかったとしたらだな、一体俺達はどういうことに・・・
(議長、大声で笑い、片手を振って退場。)
 ナズドゥリョーフ しかし、全くすっからかんに負けちまうとはな。だけどあの時、もう二十ルーブリ懐(ふところ)にありさえすれば・・・いや、それ以上びた一文もいりやしない、きっかり二十ルーブリで大丈夫だ。それで全部取り返せたんだが。いや、取り返せるなんて話じゃない、今頃はこの財布に三万ルーブリ、収まっていたところなんだ。
 ミジューイェフ そう、その通りのことをあの時にお前さん言ったんだ。だから俺は五十ルーブリその場で渡したじゃないか。そうしたらそれを全部すっちまって・・・
 ナズドゥリョーフ いや、全部すっちまうなんてあり得なかったんだ。糞っ! あの倍賭けになった時、七を切ってカモを狙ったのが大馬鹿だった。あんなことさえしなけりゃ、バンクは全部いただきだったんだ!
 警察署長 しかし、全部いただく訳には行かなかった、と?
 ナズドゥリョーフ いやいや、閣下、それは酷いどんちゃん騒ぎで・・・あ、これは違った。(郵便局長に。)信じて下さるかな? 郵便局長殿、私一人でシャンパン十七本食事中に飲んじまったんですよ。
 郵便局長 十七本? 一人で? それはいくらなんでも無理でしょう。
 ナズドゥリョーフ いや、ちゃんと十七本。私が自分でそう言うんですからね。
 郵便局長 言うのは、それは、言いたいように言えばいいが・・・
 ミジューイェフ 十本だって飲んじゃいません!
 ナズドゥリョーフ(検事に。)じゃ検事殿、賭けましょうか。
 検事 賭ける? 何を賭けるっていうんだね?
 ナズドゥリョーフ(ミジューイェフに。)おい、さっきお前が買った鉄砲を出せ。
 ミジューイェフ いやだよ。
 ナズドゥリョーフ そうか。帽子をなくしちまったんだな。今度は鉄砲・・・そいつはご免だという訳か。ああ、チーチコフ! そうだ、君、君があの場にいなかったっていうのは全く残念だよ!
 チーチコフ えっ? 私が?
 ナズドゥリョーフ そうさ、君だよ。もし君があの場にいたら、クフシーンニコフ中尉と別れられなくなっていたね、きっと。
 チーチコフ 誰です? そのクフシーンニコフっていうのは。
 ナズドゥリョーフ それから、騎兵二等大尉のパツェルーイェフ・・・全くいい奴だよこいつも。立派な鬚をはやしてな。こいつら二人と君・・・うん、実に肝胆相照らすぞ。検事だとか、その他県庁のケチな野郎どもとは大違いさ。
(警察署長、郵便局長、検事の三人、退場。)
 ナズドゥリョーフ おい、チーチコフ、何故こんなところにやって来る気になったんだ? それだけでもお前、豚野郎だぞ。こんなアホ臭いところにやて来やがって! おい、チーチコフ、さあ、キス(の挨拶)だ!
(ミジューイェフ、退場しようとする。)
 ナズドゥリョーフ(出て行こうとするミジューイェフを呼びとめて。)おい、ミジューイェフ、見ろよ、これが運命っていうもんだ。こいつと俺と何の関係があるっていうんだ? 何もありやしない。偶々(たまたま)こいつはここにやって来て、俺はここに住んでいた。それだけのことだ。(ミジューイェフ退場。)おい、チーチコフ、お前、明日はどこに行くんだ。
 チーチコフ マニーロフ宅です。それからもう一軒と。
 ナズドゥリョーフ もう一軒? いいじゃないか、そんなところ。家(うち)に来いよ。
 チーチコフ いや、そういう訳には・・・仕事があるものですから。
 ナズドゥリョーフ 仕事? 何が仕事だ。あるもんか、そんなもの。賭けたっていい。まあいい、その家(うち)ってのは誰の家なんだ?
 チーチコフ サバケーヴィッチですよ。
(ナズドゥリョーフ、ゲラゲラっと笑いだす。)
 チーチコフ 何がおかしいんです?
 ナズドゥリョーフ(ゲラゲラ笑って。)いや、失敬。こいつは笑っちゃいけなかったかな。
 チーチコフ 何もおかしいことなんかない筈です。私はあの人と約束したんですから。
 ナズドゥリョーフ 約束はいいがね、あいつのところに行ったって、面白くも糞もないぞ。あそこでバンクの一勝負でもやって楽しもう、だとか、ボンボンのいい酒が出るんじゃないかと思ったりしていたら、そいつはとんだ期待外れだ。サバケーヴィッチなんぞ犬に食われてしまえ! 俺んちに来るんだ。ここからたった五キロしかないんだぞ。
 語り手 ・・・そうか、ナズドゥリョーフの家にも行くか。どっちも似たりよったりだ。それにこいつは博打(ばくち)ですってんてんになるような、騙され易い男なんだからな・・・
 チーチコフ 分りました。明後日お宅に伺いましょう。さあ、これ以上は引き止めないで下さい。時間が貴重なんです、私は。
 ナズドゥリョーフ そうかそうか、そいつはよかった。さあ、こいつは感謝のキスだぞ。いや、全くの話。(チーチコフにキス。)万歳! 万歳! 万歳!
(ハープシコードの音、聞こえ始める。)
                    (幕)

     第 三 場
(マニーロフ家の部屋。マニーロフ夫人は絹の部屋着を着ている。部屋着の色は、原作でゴーゴリの定義した「蒼白い」色。(訳註 顔色が悪い時に用いる形容詞を、ここでゴーゴリは用いた。)
 マニーロフ夫人 何もお召し上りになっていらっしゃいませんわ、チーチコフさん。
 チーチコフ いえいえ、とんでもない。沢山戴いて、もうお腹がはち切れんばかりです。
 マニーロフ では、客間の方へまいりましょうか。
 チーチコフ マニーロフさん、実は私、折り入ってどうしても二人だけでお話したい事がございまして・・・
 マニーロフ それでは、私の書斎の方へ参ることに致しましょうか。
(マニーロフ夫人退場。)
 チーチコフ いや、どうぞどうぞ、お先に。私のことはお気づかいなく。私はお後から参ります。
 マニーロフ いいえ、いいえ、チーチコフさん。お客様ではありませんか。どうぞお先に。
 チーチコフ いえいえ、お気を使って戴くと恐縮してしまいます。どうぞ、どうぞお先に。
 マニーロフ いえいえ、このように教養のあるお客様を、私ごとき者の後ろからお通しするなど、決して私に出来ることではありません。
 チーチコフ 教養のある客だなどと、とんでもない。どうぞ、どうぞお先に。
 マニーロフ いえいえ、さあどうぞ。まづどうぞ、お先に。
 チーチコフ どうしてまたそのような・・・
 マニーロフ どうしてもこうしてもありません。さあどうぞ。
(二人、仕方なく、同時に、一緒に書斎に入る。)
 マニーロフ さあ、これが私の隠れ処(が)です。
 チーチコフ 居心地のよいお部屋ですね。
 マニーロフ さあ、どうぞこの肘掛け椅子にお坐り下さい。
 チーチコフ いえいえ、私はここのスツールで結構です。
 マニーロフ いいえ、そこはお許し致しません。(さっと自分がスツールに坐って。)さあさあ、お煙草は如何です?
 チーチコフ いえ、私は吸いませんので。噂では、煙草を吸うと身体によくないとか・・・
 マニーロフ そんなことはないのではありませんか? 私の知っている男で・・・
 チーチコフ いえ、ちょっとその前に一つお願いがありまして・・・(悪いことをしているかのように、後ろを振り向く。)
(マニーロフもつられて後ろを振り向く。)
 チーチコフ 実は私はお宅の農奴を買いたいのですが・・・
 マニーロフ うちの農奴を?・・・なるほど。しかし、お聞きしますが、その、土地つきですかな? それとも単なる除名・・・つまり、土地なしでの売買でしょうか。
 チーチコフ いえ、その・・・農奴といっても、ちゃんとした農奴というのではありませんで・・・その・・・死んだ農奴を譲って戴きたいので・・・
(語り手登場。)
 マニーロフ 何ですって? 失礼ですが、私・・・ちょっと耳がおかしくなったのではないかと・・・何か今、私に不思議な言葉が聞こえてきたような気た致しますので・・・
 チーチコフ 私・・・死んだ農奴が欲しいと申し上げましたのです。人口調査ではまだ生きていると計算に入っている、死んだ農奴のことなのですが・・・
(マニーロフ、パイプを落す。間。)
 チーチコフ ですから、私の知りたいのは、お宅に、本当は死んでいて、法律上には生きている農奴がいるかどうか、そして、もしいれば、それを私にお譲り願いたいと・・・(間。)どうやら、何かお困りのような・・・?
 マニーロフ 私が? いえいえ、全然。しかしその・・・ちょっと私に分りかねるところがありまして・・・申し訳ありません。私はその・・・あなた様の言葉、仕種(しぐさ)を拝見致せばすぐ分ることですが、あなた様は素晴しい教育を受けていらっしゃる・・・その素晴しい教育というものが私には全くありませんで・・・今のお話には何か別の意味があるのでございましょうね? きっと表現を飾るため、今仰ったような言葉をお使いになって・・・
 チーチコフ いえいえ、そのようなことは。私は、申し上げた通りの意味で言葉を使っております。本当に、もう死んでしまった農奴のことを申し上げておりますので。(間。)それで、もしお差し支えないとなれば、早速農奴売買の登記をして戴きたい・・・とこう思うのですが。
 マニーロフ 何ですって? 死んだ農奴の売買登記ですって?
 チーチコフ いえいえ、勿論登記は人口調査書にある通り、生きている農奴として行われます。私はどんな場合でも、決して法律に違反するようなことは致しません。相手が法律なら、ただ唖(おし)のように黙って聞く・・・それが私の主義なのです。(間。)何か疑わしいとお思いになる点でも?
 マニーロフ いえいえ、疑いなど、滅相(めっそう)もない。つまりその・・・あなたのなさる事に・・・その・・・私が非難めいた判断を・・・この何と言いますか・・・計画・・・いや、取引きですか・・・この取引きは・・・その・・・国家決議というんですか、或いはその・・・ロシアの将来というんですか・・・そういうものに引っ掛かってくる心配はないのでしょうか。
 チーチコフ それは全くありません。却って國は利益を受けますよ。だって、法に叶った税金を、これによって國は受取る訳ですから。
 マニーロフ そうお考えになるになるのですね? あなたは。
 チーチコフ ええ、よいことだと考えています。
 マニーロフ よいことだとすれば話は別です。私には何の反対もありません。
 チーチコフ それでは、後は値段を決めることだけですが・・・
 マニーロフ 値段ですって? まさかあなた、この私が、もうすっかりこの世から姿を消してしまっている農奴を差し上げるからといって、それでお金を取ろうなどと、そんなことを思っている男だとお思いになっていらっしゃるのではないでしょうね? そちらの方でこんなに夢のあるお話を思いついておられるとなれば、私の方だって喜んでただで差し上げますよ。それに登記料だってこちらでもちます。
 チーチコフ ああ、あなたは、実に・・・実に・・・私の・・・心からの親友です・・・ああ!(マニーロフの手を握る。)
 マニーロフ(呆然となって。)まあ、何を仰います。こんなことは本当に何でもないことで。死んだ農奴なんて、結局のところただのゴミと同じじゃありませんか。
 チーチコフ いえいえ、ゴミどころじゃありません。この一見ゴミのようなものが、身寄り頼りのないこの私にとって、どんな助けになるか、あなたに分って戴けたら・・・実にこの私は、世の辛酸をなめつくしてきた男なのです。荒れ狂う大波にもまれる小舟のようなものでしたよ。・・・(突然。)そうそう、登記はすぐにもして戴いた方がいいです。どうか、出来るだけ早く。死んだ農奴は全員の名簿を作って戴いて・・・それに、マニーロフさん御自身で町に行って戴けると助かりますが・・・
 マニーロフ どうぞご安心下さい。こんなにお近づきになれて・・・私はもう二日とあなたと離れてはいられません。
(チーチコフ、帽子を取る。)
 マニーロフ えっ? もうお発ちですか? リーザニカ、チーチコフさんがお帰りになると仰るんだ!
 マニーロフ夫人(登場して。)まあまあ、私達にすっかり飽き飽きなさったのではございませんの?
 チーチコフ いいえ。ここに、そう、この胸に・・・ええ、丁度ここ・・・ここに、お二人と過した楽しい時間の思い出が永遠に宿っております。では御機嫌よう。奥様、さようなら。大切な大切なマニーロフさん、どうか私のお願いをお忘れなきよう。
 マニーロフ 本当に、もう少しいらした方が・・・御覧なさい、ほら、あの黒雲を。
 チーチコフ いえいえ、たいした雲でもありません。
 マニーロフ そうですか? で、サバケーヴィッチ家への道は御存じで?
 チーチコフ 丁度それをお聞きしようと思っておりました。
 マニーロフ では、私から御者に直接・・・
 チーチコフ セリファーン!
 セリファーン(鞭を持って登場。)はい。何か御用で?
 マニーロフ 次のお宅への道順ですが、まづ二つ、曲り角はやり過して、そこは真直ぐ進みます。三つ目の曲り角を曲るんです。
 セリファーン 畏まりました、旦那様。(退場。)
(チーチコフとマニーロフ、挨拶の抱擁。チーチコフ退場。間。)
 マニーロフ(一人残って。)あの人、冗談を言ったんだろうか。いやいや、ひょっとして気が違っているのかも・・・いや、そんな筈はない、あのはっきりした目・・・
 語り手 ・・・あの目は気違いの目じゃない。気違いの目には必ず心配そうな、異常な光があるものだ。話の間中、ずっとあの目ははっきりと、ちゃんとしていた。(笑う。)あの人物は一体何者なんだ。マニーロフは考えに考える。しかし、どう考えていいのかさっぱり分らない。
 マニーロフ 死んだ・・・農奴?・・・
                     (幕)

     第 四 場
(サバケーヴィッチ家で。)
 語り手 ・・・死んだ・・・農奴? チーチコフは壁を眺めている。そしてその壁のうえに掛かっている沢山の絵を。絵はみんなギリシャの若い英雄達だ。真っ赤なズボンをはいたマヴロカルダート、それに、ミアウーリイ・カナーリイ。英雄達はどれもこれも恐ろしく太ももが大きく、とんでもない口鬚をはやしている。見ていると身震いが出て来る。この揃いも揃ったギリシャの英雄達に混じって、どういう訳かただ一つ、ロシアの英雄バグラチオーンの絵がある。これがまた、酷く痩せこけた哀れな姿だ・・・
 チーチコフ 古代ローマ帝国の領土と謂(い)えども現在のロシアの領土には叶いません、サバケーヴィッチさん。ですから、外国人が驚いたって無理はないんです。しかしながら、この國の現在の状況では、自己の生命を終えた農奴も、次の人口調査が行われるまでは、生きた農奴として計算されています。政府がこのような手段で人頭税を徴集せざるを得ないという事態は勿論理解することは出来ます。しかし、農奴を所有する側から見ますと、生きている農奴と同等に現在存在していない農奴にまで税金を課せられるのは大変な負担です。(間。)サバケーヴィッチさん、実は私はお知り合いになった当初から、あなたには尊敬の念を抱いておりました。それで、その尊敬の意を形に表すべく、一つの御提案を致したいと思いまして・・・その・・・現在存在していない農奴の負担をなくして差し上げようという・・・
 サバケーヴィッチ お前さん、死んだ農奴が欲しいというのかね?
 チーチコフ ええ、その・・・現在存在していない農奴をです。
 サバケーヴィッチ いいだろう。売ってやるよ。
 チーチコフ そうですか。それで値段は?・・・まあその、値段と言ってもおかしな話ですが・・・つまりその・・・存在していないものに対して値段も何も・・・
 サバケーヴィッチ そうだな。お前さん相手に値段をいくらいくらにするかあれこれ話してみたところで何にもなるまい。・・・一人百ルーブリだ。
 チーチコフ 百ルーブリ!
 サバケーヴィッチ どうした。まさか高いなんて言うんじゃあるまいな。じゃ訊く。お前さんのつけ値はいくらなんだ。
 チーチコフ 私のつけ値? 私達はその・・・何か誤解をしているんじゃないでしょうか。私から値段を申し上げれば、一人一ルーブリ以下、つまり、八十カペイカです。これがせいぜいのところで。
 サバケーヴィッチ 八十カペイカだと? とぼけたことを言うんじゃない。こっちは草鞋(わらじ)を売っているんじゃないんだぞ。
 チーチコフ ええ、それはそうですが。今の場合農奴といっても、もう人間とは言えないものなのですし・・・
 サバケーヴィッチ ほう、そういう考えなら自分で捜してみたらどうなんだ。列記(れっき)とした農奴を八十カペイカの端金(はしたがね)で売ってくれるような馬鹿な地主をな。
 チーチコフ しかし、お言葉ですが、今話しているこの農奴っていうのは、もうずっと前に死んでいるんです・・・ピクリとも動きはしませんし、うんともすんとも言いもしません。この際もうこんな厄介な話はこれまでに致したいので・・・張り込んで、一人あたり一ルーブリ半出します。これ以上は鐚(びた)一文上げられません。
 サバケーヴィッチ 一体あんた、恥づかしくないのかね、そんな金額を示すということ、それ自体に。駆け引きにだってちっとは礼儀ってものがある。さ、本当の値段を言うんだ。
 チーチコフ 分りました。じゃあ、あと五十カペイカ。二ルーブリでどうです。
 サバケーヴィッチ どけちだな、あんたは。そりゃな、酷い地主だっている。農奴とは名ばかり、屑(くず)を掴ませるようなインチキ地主がな。しかし、俺は違うぞ。俺んちの農奴は選り抜きだ。ピンばかり揃っているんだ。腕の立つ職人か、そうでなきゃ、がっしりした百姓・・・そんな奴ばかりだ。ほら、見てみろ。(と名簿を指さして。)こいつは馬車大工のミヘーイェフだ。ちゃんと自分で革も張る、漆(うるし)だって自分で塗るんだぞ。聞き分けはいいし、酒など一滴も飲みはせん!
 チーチコフ しかしですね・・・
 サバケーヴィッチ それからこいつ・・・大工のプローブカ・スチェパーン! こんな大工をあんた、どこで捜せる。首を賭けてもいい。捜せっこない! 近衛部隊にでも勤務したら、こいつ、相当なところまで行った筈だ。なにしろ背だって二メートル以上もあったんだ。いや、真面目を絵にかいたような奴だった!
 チーチコフ お言葉ですが・・・
 サバケーヴィッチ 煉瓦(れんが)職人のミルーシュキン! どんな家にだって、ちゃんと暖炉を拵えていた。靴屋のマクスィーム・チェリャートゥニコフ! 大針で縫っているな、と思うと・・・さっと出来上がるんだ、靴が。それも何ていう靴だ。たいした出来栄えだった。それに酒など一滴もやらないんだからな。そうそう、こいつ、イェリェミェーイ・サラコプリョーヒン! モスクワへ出かけて商売をしていた。こいつ、年貢だけで五百ルーブリもこっちに払っていたもんだ。
 チーチコフ お言葉ですが、農奴のそんな特徴をあげてどうなさるおつもりなんです? だって、それ、みんな死んでいる農奴なんですよ!
 サバケーヴィッチ(ちょっと考えた後。)フン、それは勿論、死んではいる・・・(間。)だけどな、言っとくが、生きている奴が何だって言うんだ・・・
 チーチコフ 何だって言うんだと仰ったって、とにかく生きている農奴は存在している農奴ですからね。夢とは違うんです。
 サバケーヴィッチ 夢だと? とんでもない! 言っとくがな、ミヘーイェフ・・・あの馬車大工のミヘーイェフのような奴を、どこか他(ほか)で捜せるとでも思ってるのか! 全く、夢だなどと・・・
 チーチコフ いや、何が何でも一人二ルーブリ以上は出せません。
 サバケーヴィッチ 分った。よかろう。こっちも値段をふっかけていると思われるのは迷惑だ。よし、七十五ルーブリ。これでどうだ。知り合いのよしみでここまで下げているんだぞ。
 チーチコフ 二ルーブリです。
 サバケーヴィッチ またまたそいつの繰り返しか。本当の値段を言ったらどうなんだ。
 語り手 糞っ、何て奴だ。しかしまあ、少しは色を見せてやらないと。半ルーブリ加えるか。犬にも愛嬌というからな。
 チーチコフ じゃ、半ルーブリ足しましょう。
 サバケーヴィッチ じゃ、こっちも最後の譲歩だ。五十ルーブリ。
 チーチコフ 何ですか、これは一体。まるでまともなものに値段をつけているって調子じゃありませんか。あんなもの、他のところでなら、ただでだってくれてやるという代物ですよ。
 サバケーヴィッチ 何だと? 「他でなら」だと? だいたい、怪しげな買物じゃないか。じゃ、他のどこかで、「怖れながら・・・」と、この話を持ち込んでいいって言うのか?
 語り手 全く、何て奴だ。ごろつきめ!
 チーチコフ 私は別に、何かの必要があって買いたい訳じゃないんです。言ってみれば、この買物は私の趣味なんですからね。二ルーブリ半でお厭なら、これで私は失礼します。
 語り手 「・・・フン、こいつなかなかやるな。一筋縄ではいかんぞ」とサバケーヴィッチは考える。
 サバケーヴィッチ 分った。こっちはもうやけくそだ。大負けに負けて、一人三十ルーブリ。これで持って行け!
 チーチコフ いやどうも、お見かけするところ、お売りになりたくない御様子で。私は失礼します、サバケーヴィッチさん。
 サバケーヴィッチ おいおい、待てったら。・・・シブンの一ならどうだ?
 チーチコフ シブンの?・・・つまり、二十五ルーブリでか? そのシブンの一でも駄目です。もう一カペイカもつけることはしません。
 サバケーヴィッチ なあんだ、お前さんのその腹じゃ、「ただでよこせ」と言っているようなものじゃないか。せめて三ルーブリ出すと言ってくれなきゃ。
 チーチコフ 厭です。
 サバケーヴィッチ お前さんとは取引きにも何もなりゃしない。よし、二ルーブリ半でいい。損だが、俺はこういう性分なんだ。愛想のいい犬みたいなな。知り合いになったが最後、相手に厭な気分を与えるってことが出来なくて。すると、俺が不動産売買登記はやるんだな? 何もかもきちんとするって話なんだから。
 チーチコフ 当り前です。
 サバケーヴィッチ なるほど。まあそういうことか。すると町へ出なきゃならんな。じゃ、まあ、手付けを打ってくれ。
 チーチコフ 手付けですって? 町へ行った時何もかも一度にお払いしますよ。
 サバケーヴィッチ しかし、手付けは打つものと決ってるぞ。
 チーチコフ といって、いくら払うものか・・・ここに十ルーブリならありますがね。
 サバケーヴィッチ 少なくとも五十は貰わなくちゃな。
 チーチコフ そんな金、ありませんよ。
 サバケーヴィッチ ある筈だ。
 チーチコフ いいでしょう。ここにもう十五ルーブリあります。合計で二十五。ただ、受取りは下さいよ。
 サバケーヴィッチ 受取り? 何のために。
 チーチコフ こういう御時世ですからね。何が起るか分りませんから。
 サバケーヴィッチ じゃ、まづ、金を出すんだ。
 チーチコフ ここにありますよ。ほら、手の中に。受取りを書いて下さればすぐお渡しします。
 サバケーヴィッチ 受取りを書けってたって、まづは金を見せてくれなきゃ・・・(と言いながら、仕方なく受取りを書く。金を受取って。)えらく古い紙だな、こりゃ。で、女の農奴はいらんかね。
 チーチコフ いいえ、いりません。
 サバケーヴィッチ 安くしとくぞ。お馴染み甲斐に一人一ルーブリでいい。
 チーチコフ いや、女の農奴はいりませんので。
 サバケーヴィッチ いらないっていうことになりゃ、何を話しても無駄だな。好き嫌いに規則はないんだから。
 チーチコフ ところで、この取引きについては、どうかここだけの話にして戴きたいので・・・
 サバケーヴィッチ そんなことは分っている・・・じゃ、これで。わざわざ来てくれて感謝している。
 チーチコフ ちょっとお訊きしたいことが・・・この門を出て、プリューシキン宅に行くには右を行くのでしょうか、それとも左に?
 サバケーヴィッチ プリューシキン・・・どけちめが! あんな奴、家へ行く道だって知ることはない。農奴に何もやらず、一人残らず飢え死にさせて、それで平気でいる奴なんだ、あいつは!
 チーチコフ いえ、別に私は何か用があって行くわけじゃ・・・ただ、このあたりの人みんなとお近づきになっておきたいと・・・では、失礼します。(退場。)
(サバケーヴィッチ、窓にそっと近づき、外を見る。)
 語り手 ・・・全く、どいつもこいつも・・・しかし、まだまだ、ずる賢い奴はこれからも・・・
                     (幕)

     第 二 幕
     第 五 場
(プリューシキン家にて。)
(荒廃した庭。腐りかけた柱。がらくたでいっぱいのテラス。日が暮れかかっている。)
 語り手 ずっと以前、私がまだ若かった頃、私は見知らぬ土地に初めて行く時、それはそれは心をときめかせたものだった。初めて見るものすべてに目を奪われ、その一つ一つに心を動かされたものだった。今はどうだ。私はどんな見知らぬ村へ行こうと、そしてその村のどんな酷い有様(ありさま)を見ても、私の心は動かない。私の冷えきったまなざしにあっては、可笑しくもなく、また不快でさえない。以前であれば、私の顔に生き生きとした表情が現れ、或いは笑いが、或いは止むことのない独り言が出てくるところ・・・それが今では、ただその光景が私の目の前を滑って行くだけだ。そして、私の動かない唇の上に、無関心な沈黙が留まっているだけなのだ。ああ、私の青春! ああ、私の瑞々(みづみづ)しかった感性!
(窓ガラスにノックの音。)
(プリューシキン、テラスに登場。疑わしそうにあたりを見る。)
 チーチコフ(テラスに登場。)ちょっと、おばさん、御主人はどこですか?
 プリューシキン 家にはいませんよ。何の御用ですか?
 チーチコフ ちょっとお話が・・・
 プリューシキン ではどうぞ、部屋の方へ。(テラスから中へ入る扉を開ける。)
(長い間。)
 チーチコフ 御主人はどちらに? 御在宅ではないのかな?
 プリューシキン 主人はちゃんとここに。
 チーチコフ(あたりを見回す。)えっ? どこです?
 プリューシキン 全く、あんた、盲(めくら)か? ほら、ここだ、ここだ。この私が主人だ。
(長い間。)
 語り手 もしチーチコフがこの男に、教会の入口ででも会っていたとしたら、おそらく銅貨一枚恵んでやっていただろう。しかし、彼の目の前にいたのは、乞食ではなかった。ここの領地の地主だったのだ。
 チーチコフ ご領地の素晴しい管理、経営の才をお聞き致しまして、是非是非お近づきになり、お見知りおきを願いたいと思いまして・・・
 プリューシキン お近づきもへったくれもあるものか。お前さん・・・いや、まづ坐るんだな。どうぞ。(間。)長いことわたしゃ客というものを見たことがないんでな。正直なところ、客に会ったって、何の得にもなりはせん。お互いに客として行き来するなど、馬鹿な習慣だ。領地の管理は疎(おろそか)になるし、それに、客の馬達には乾し草を食わせにゃならん。ああ、そうそう、ところで私はもうとっくに夕食はすませました。なにしろうちの台所は狭くて、汚くて、煙突が壊れていましてな。何か炊(た)こうものなら、火事でも引き起こしそうな具合で・・・
 語り手 なーるほど、こいつはサバケーヴィッチ宅でたらふく食べておいてよかった。
 チーチコフ なるほど、それはそれは・・・
 プリューシキン それに、お恥づかしい話、屋敷中どこにも乾草(ほしくさ)一束(たば)ない有様で。どだいそんなものをどこに仕舞っておけますか。領地は狭い、百姓は怠け者・・・全くこんな具合じゃ、私もこの年で、乞食にでもなるしか手はなさそうですわい。
 チーチコフ しかし噂でお聞きしましたが、お宅には千人以上の農奴がいるという話で・・・
 プリューシキン 誰ですか、そんなことをあなたに話したのは。そんなことを言う奴には唾でも吐きかけてやればいいんです。人をからかって喜ぶような奴ですよ。あんたはうまく騙されたんです。この三年、酷い疫病(えきびょう)が流行って、元気な百姓が次から次とやられましてな。
 チーチコフ(勢いよく。)やられたって!・・・沢山ですか?
 プリューシキン 百二十人。
 チーチコフ えっ、百二十・・・本当ですか?
 プリューシキン この年になって嘘をついてどうなるんです。もう私は七十歳ですよ。
 チーチコフ それはそれは災難でございました。お察し致します。まことにどうも、御愁傷様で・・・
 プリューシキン 御愁傷様と言われたって、一文にもなりゃしませんからね。この近所に、大尉と自称する男が住んでいましてな、そいつがどこからどうひねくり出したか、私と親戚だと言いおって・・・私のことを「叔父さん、叔父さん」と・・・それに、こちらの手にキスまで・・・全く、私があいつの叔父だとすれば、あいつは私の「おじいちゃん」でもおかしくないってもんですよ。そいつがまた、ここに来る度に、「御愁傷、御愁傷」・・・犬の遠吠えのような声を出しおって、私に同情する。こちらは慌てて耳を塞ぐんです。全く何が同情だ。金欲しさにただ口で同情するだけ。大方(おおかた)軍隊にいた頃、すってんてんになるまで金を使ったんでしょう。
 チーチコフ 私の同情は、その「大尉殿」・・・の同情とはまるで違います。お金が伴っているんです。その、亡くなった農奴全員の人頭税をこちらでお支払いして差し上げる用意があるのです。
 プリューシキン(驚いて飛び下がる。)何ですと? そんなことをするなんて・・・あなたの損でしょうが・・・
 チーチコフ そちら様さえご満足下されば私はいいんです。損失など、そんな・・・
 プリューシキン ああ、何ていうお方だ! 私の救いの神様だ、あんたは。この年寄りを慰めてくれるとは・・・ああ、有難や、有難や・・・本当に救いの神様だ、あんたは・・・(間。)えーと、ちょっとお訊ねしますが・・・その・・・死んだ農奴の人頭税ですが、そのお金を、毎年私に送って下さるんでしょうか、それとも直接国に、そちらからお納め願えるんでしょうか。
 チーチコフ ではこうすることに致しましょう。私共はここで農奴の売買登記を行うんです。つまり、その農奴がまだ生きているものとして、あなたが私に売って下さるということに・・・
 プリューシキン なるほど。農奴の売買登記をね。それなら確実だ。しかし・・・売買登記となると・・・費用がいろいろ・・・
 チーチコフ 尊敬おく能(あた)わざるあなた様のためです。私が費用一切を持ちましょう。
 プリューシキン ああ、何とまあ、有難いお申し出。何とまあ! あなたの身に、どうか神の國の加護が、そしてあなたのお子様方にも同様に神の御加護がありますように。(と言ってから、また疑わしそうに。)ですがその・・・こういう売買登記などというものは、出来るだけ早くすませてしまった方がよいというものじゃありませんか? この頃のこの御時世では、神様だって明日のことは知れた物ではありませんから。
 チーチコフ それは勿論今すぐでも。となると、プリューシキンさん、あなた御自身が町にお出かけになる必要がありますが・・・
 プリューシキン えっ? 町へ私が、ですと? そんなことをしたら、この家は一体どうなります。家には人が・・・いや、盗人(ぬすっと)が・・・ゴロツキがいますからね。一日あけておいたら服をかける釘まで抜かれて、帰って来た時に上衣もかけられませんよ。
 チーチコフ ではどなたか、町にお知り合いは?
 プリューシキン 知り合い? そんなものはもうみんな死んだ・・・いや、死んでいなけりゃ、仲違(たが)いだ。ああ、そうそう、いた! いましたよ。議長です。あれが私の知り合いで。昔は私の家にも来てくれたものです。知らないどころじゃない。同窓生ですよ。一緒に学校の垣根を這い上がったりしたものです。じゃ、あの男にでも手紙を書きますか。
 チーチコフ それは勿論、議長さん宛に。
 プリューシキン そうだ、議長だ! あの男宛にだ!
(夕闇が広がる。夕陽がプリューシキンの顔にさす。)
 プリューシキン 学校時代には友達もいたんだ・・・(思い出す。)それから私は結婚したんだった・・・近所の人達もよく来てくれたものだった。・・・庭・・・あの私の庭で!(虚ろな目であたりを見回す。)
 語り手 ・・・毎晩が宴会。庭はかがり火であかあかと照らされ、耳を聾する音楽・・・
 プリューシキン 気持のよい、話し好きの女房だった・・・家の窓はみんな開け放って・・・しかしあれは死んだ。そして後はがらんとしてしまった・・・
 チーチコフ がらんとして・・・
 語り手 独り身の生活で、けちが身についてき、それが嵩(こう)じて貪欲(どんよく)に物をためるようになり、ためてもためてもまだ不安。年貢の穀類も、くるみも、麻布(あさぬの)も、倉庫に詰め込み、下が腐ってきてもまだ詰め込んだ。
 プリューシキン 娘もあてになりはせん。・・・私が間違っているとは言わせんぞ。あいつめ、二等大尉とやらと駆け落ちをしおって・・・全く、どんな隊にいた男だか知れたものではない。
 語り手 けちん坊め、その娘に何か送ってやったことが一度でもあるのか。
 プリューシキン いまいましい。・・・気がついてみると私は独りぼっち。老いさらばえて・・・ここの番人・・・この領地の管理人・・・
 語り手 ・・・ああ、夜の灯りに照らされた木々の枝・・・生き生きした緑を失ったその姿・・・
 チーチコフ(陰気に。)それで、娘さんは・・・そのまま二度と?
 プリューシキン いや、一度来た。子供を二人連れて。私に、茶うけの菓子と新しい部屋着を(自分の着ている部屋着を見せて。)土産にな。だが私はあいつにおさらばした。何も、全くやらず・・・別れた。それからはあの娘、アリェクサーンドゥラ・スチェパーノヴナは、二度と来ない・・・
 語り手 おお、仄(ほの)かな感情の残影・・・しかしそれはほんの一瞬、このけち男の顔にかすめただけ。その後は再び元の・・・いや、その前の顔より、もっと荒涼とした、もっと下卑(げび)た表情が現れた。
 プリューシキン 四つ折り版の綺麗な紙がここにおいたあった筈だがな。どこに消えてしまいおったか。全く、家の奴らはどいつもこいつも信用がならん。マーヴラ、マーヴラ!
(マーヴラ登場。汚いぼろを着ている。)
 プリューシキン おい、この盗人(ぬすっと)。私の紙をどこにやった。
 マーヴラ 紙ですって? そんなもの、私はどこにも見た覚えはありません。ええ、小さな布切れは見ました。でもそれは、旦那様がコップの蓋にお使いになって・・・
 プリューシキン いや、その目を見れば分る。お前はちょろまかしたんだ。
 マーヴラ どうして私が紙なんかちょろまかすんですか。私に何の得があるんです? 私は読み書きは出来ないんですよ。
 プリューシキン 嘘をつくな。教会の雑役係(ざつえきがかり)に持って行ってやったんだ。あいつは読み書きが出来る。それでお前、持って行ったんだ。
 マーヴラ 雑役係・・・あの人に旦那様の紙が何だっていうんです。
 プリューシキン よーし、待っとれ。お前が死んだらな、地獄で閻魔大王が、お前を鐵の串に刺して、ジリジリと火炙りだ。
 マーヴラ 火炙りだなんて。私は取っちゃいない。紙に触ってもいないんですからね。女だから罪が深いとか何か、そんな理由ならまだしも、盗みの罪でなど、誰が私を非難出来るっていうんです。
 プリューシキン だから言ってるだろう。ちゃんと閻魔大王が火炙りにするんだ。「おい、お前、泥棒女。お前は自分の主人を騙したな」・・・そして、真っ赤な火でお前をじりじりと焼くんだ。
 マーヴラ 私は言ってやります。「いいえ、決して、決してそんなことは。私は取っちゃいません」・・・あら、まあ。紙はここにありますよ。いつでもこうなんだから。人に濡衣を着せて、非難して・・・(退場。)
 プリューシキン 全く、口ばかり達者な奴だ。こっちが一言言うと、十(とお)も返って来る・・・(書き始める。)
 語り手 全く、人間というものは、ここまでこせこせと些末に、そして、下劣になれるものなのか。いや、人間はどんなものにでもなれるのだ。
(チーチコフ、陰気に黙ったまま。)
 プリューシキン ところであんたのお友達で、逐電した農奴が欲しいという方はおられんかな?
 チーチコフ(我に返って。)つまり、お宅には逐電した農奴もいるというお話で?
 プリューシキン ああ、まあ、つまり、逐電した奴もおりますな。
 チーチコフ で、その数はどのくらい?
 プリューシキン 七十人・・・ぐらい? かな?(書いたものをチーチコフに渡す。)全く、毎年だからな、逃げて行くのは。あいつらときたら、どいつもこいつも大食らい・・・怠けるのが仕事だ。だからガツガツ食う癖がつくんだ。お陰でこっちが食うものなど何も残っちゃいない。
 チーチコフ ここはひとつ、私も大盤振る舞いで行きましょう。逐電農奴一人に二十五カペイカ。如何です?
 プリューシキン あなた、まあ、この貧乏所帯を見て下さい。哀れと思って、一人四十カペイカは出して下さらないと・・・
 チーチコフ それはもう、プリューシキンさん。四十カペイカどころか、私としては五百ルーブリでもお出ししたいところなんです。しかし、こちらもそれだけの余裕というものが・・・ええ、後五カペイカつけましょう。それで・・・
 プリューシキン ねえあなた、お願いですよ。もう後、二カペイカ・・・それぐらいは・・・
 チーチコフ 分りました。後二カペイカ・・・それでいくらに・・・七十八人で、一人三十・・・二カペイカと・・・二十四ルーブリですね? 領収書をお願いします。
(プリューシキン、領収書を書き、金を受取り、一旦退場。再び登場して。)
 プリューシキン どうも見つからん。素晴しい酒があったのに・・・ただ、連中がこっそりやっちまっていなければの話なんだが。全く油断も隙(すき)もありはせん。みんな盗人(ぬすっと)ときている。おや? あ、これだ、これだ。死んだ女房が作ったものでな。鍵番の女が、そこらへんにほったらかしたままにして・・・口に栓をしておくことさえしない・・・役立たずが・・・かなぶんやその他いろんな虫が入るところだったんだ。まあ私がゴミは全部拾い出して捨てました。今は綺麗なもんです。さあ、グラスに注ぎましょう。
 チーチコフ いや、プリューシキンさん、お気づかいなく。私はもう飲んで、食べて来ていますので。それにもう、発つ時間で・・・
 プリューシキン 飲んで・・・食べて来なさった? なるほど、さすがに上流社会の人々は違いますな。腹いっぱいで、もう食べないと仰る。いや、あなた、それではこれで失礼をば。神の御加護がありますようにな。(チーチコフを導き出し、退場。)
(夕闇が迫る。暗くなる。)
 プリューシキン(戻って来て。)マーヴラ! マーヴラ!
(誰もプリューシキンに答えない。チーチコフの馬車が遠ざかる鈴の音が聞こえてくる。)
                     (幕)

     第 六 場
(ナズドゥリョーフの家。壁にサーベルと二丁の銃、それに、スーヴァロフの肖像。日は高い。昼飯が終ったところ。)
 ナズドゥリョーフ さあ、こいつを試してみるんだ。ブルゴーニュワインかつシャンパン、両方の味だぞ。クリームそこのけの柔らかさだ。(注ぐ。)
 ミジューイェフ(したたかに酔っている。)いや、私はもう行かないと・・・
 ナズドゥリョーフ いやいや、まだ行かせはしないぞ。
 ミジューイェフ いや、無理は言わんでくれ、なあ。本当に私は行かないと・・・
 ナズドゥリョーフ 「私は行かないと」? くだらん! 何を馬鹿な! 今から早速、バンクを一勝負御開帳だ。
 ミジューイェフ 御開帳はどうぞ、兄さん、そちらで勝手にやって下さい。私は駄目です。女房が待ってるんです。話を聞かせろといろいろ言って・・・私は市場の話をしてやらなきゃならないんです。
 ナズドゥリョーフ ああ? 女房だと? 何が話だ。大事なことは二人だけでやるあれ、に決ってるんだろう? 本当は。
 ミジューイェフ 違うんだ、兄さん。あれは優しい女房でね・・・しとやかで、誠実で・・・私に心からよくしてくれるんだ。そいつをちょっと考えただけで・・・ほら、涙が出てくる・・・
 チーチコフ(静かに。)行かせてやりましょう。この人がいたって、どうしようもないでしょう?
 ナズドゥリョーフ それもそうだ。全く馬鹿につける薬はないっていうが、厭な野郎だ。もう勝手にしろ。女房といちゃいちゃするんだな、この助平!
 ミジューイェフ 私のことを助平呼ばわりは止めて下さいよ、兄さん。私はね、女房には頭が上がらないんですよ。心底優しい、あんな気立てのいい・・・きっと市場で見たものをいろいろ聞きますよ・・・
 ナズドゥリョーフ 分った、もう行け。あることないこと、適当に喋ってやるんだな。ほら、お前の帽子だ。
 ミジューイェフ あれのことをそんなに悪く言っちゃいけないよ、なあ、兄さん。
 ナズドゥリョーフ だからもういい。とっとと女房のところへ行きやがれ!
 ミジューイェフ 行く行く。行くよ、兄さん。いられなくて悪いね。
 ナズドゥリョーフ 行っちまえ、行っちまえ!
 ミジューイェフ 残っていりゃきっと面白いだろうがね。ただ、そうしちゃいられなくて・・・
 ナズドゥリョーフ えーい、糞面白くもない。行っちまえ!
(ミジューイェフ退場。)
 ナズドゥリョーフ 馬鹿な奴め。のろくさ歩くあの格好! 市場のことをあれこれ、あれこれ、細かく話して聞かせるんだろうな、女房に。そうだ、あいつの副馬(そえうま)は悪くなかったな。もう前からあれをちょろまかしてやろうと思ってたんだ。(トランプを手に取って。)さあ、暇つぶしにバンクを一勝負どうだ? こっちが親だ。三百ルーブリ持つ。どうだ?
 チーチコフ 実はちょっと・・・忘れないうちに、あなたにお願いがあるんですが。
 ナズドゥリョーフ お願い? 何だ。
 チーチコフ その前に、やってやると約束をして戴きたいのですが。
 ナズドゥリョーフ 分った。
 チーチコフ 必ずですね?
 ナズドゥリョーフ 必ずだ。
 チーチコフ では・・・お願いというのは、お宅にはきっと、人口調査がまだ及んでいない、死んだ農奴がいる筈ですが・・・?
 ナズドゥリョーフ そりゃいるさ。それがどうした。
 チーチコフ それを私名義に譲って戴きたいので。
 ナズドゥリョーフ お前名義? 何故。
 チーチコフ つまり、私は必要なものですから。
 ナズドゥリョーフ ハハーン、何か企(たくら)んでるな。よし、言ってみろ、そいつを。
 チーチコフ 企む? 何ですか、それは。こんな下らないもので、何が企めるって言うんです。
 ナズドゥリョーフ その「下らないもの」がどうしてお前さんに必要なんだ。
 チーチコフ おやおや、これはまた随分な好奇心で・・・つまりその、私の気紛(きまぐ)れで、ふと・・・
 ナズドゥリョーフ よーし、そっちの腹は分った。お前さんが白状しない限り、俺は決してうんとは言わんぞ。
 チーチコフ だけど、それは酷いですよ。いいですか。悪いのはそちらなんです。だって、一度約束したんですからね。それを破ろうっていうんですから。
 ナズドゥリョーフ よーし、こうなったら、お前さんの言う通りなんか、してやるものか。何のためにこんなことをするのか言わないうちはな。
 チーチコフ(傍白。)こいつにどう話したものか・・・ムム・・・(大きな声で。)持っていれば箔(はく)がつきますからね、世間に対して。たとえそれが死んだ農奴でも・・・
 ナズドゥリョーフ 嘘だ。それは嘘だ。
 チーチコフ じゃ、ありのままをお話しましょう。私は結婚を考えているんです。ところが、相手の両親ときたら、それはもう大変な見栄っ張りで・・・
 ナズドゥリョーフ 嘘だ。それは嘘だ。
 チーチコフ これはどうも、酷い仰り方ですね。どうして私がそんなに嘘ばかりつかなきゃならないんです。
(黒雲が立ちこめ始める。雷雨が来そうな空模様。)
 ナズドゥリョーフ それはな、俺がお前さんという人物をちゃんと分っているからだ。お前の正体はな、とんでもないいかさま野郎なのさ。ま、友達馴染みにこんな酷いことを言うのを許して貰おう。もし俺がお前の上司だったとしたらな、枝ぶりのいい木を見つけて、さっさとお前を縛り首にしてやるところさ。こんなにあけすけに言うのも、お前さんを怒らせたいためじゃない。ただ友達甲斐に言っているだけなんだ。
 チーチコフ 何事にも限度というものがありますよ。そんな言い方がお好きなら、兵隊にでも行ったら如何です。(間。)譲るのがお厭なら、売って下さい。
 ナズドゥリョーフ 売る? お前のやることなどお見通しだ。やくざな奴なんだからな、お前さんは。どうせ端金(はしたがね)しかくれやしまい。
 チーチコフ 全く、端金だなんてよく言いますね。死んだ農奴があなたに何だっていうんです。ダイヤモンドだとでも思っているんですか。
 ナズドゥリョーフ いいか、よく聞け。俺は欲張りなんかじゃない。そいつを説明してやらあ。死んだ農奴などただでくれてやる。その代り、家(うち)に赤毛の立派な種馬がいる。それを買え。農奴なんか、そのおまけだ。
 チーチコフ しかし、私が種馬なんか買って、一体どうしろって言うんです。
 ナズドゥリョーフ どうしろたあ何だ。俺はあれを一万ルーブリで買ったんだぞ。そいつを四千で売ってやる。
 チーチコフ だから、私が種馬なんか買ってどうしろっていうんです。
 ナズドゥリョーフ お前も分らない男だな。よし、今は三千だけ手付けを打ってくれればいい。残りの千の払いは後からにしてやる。
 チーチコフ だから言っているでしょう。私は種馬なんかいらないんです。全く、何だっていうんです。
 ナズドゥリョーフ じゃ、栗毛の雌馬(めすうま)はどうだ。
 チーチコフ 雌馬だっていりませんよ。
 ナズドゥリョーフ 雌馬と灰色の子馬・・・それで二千でいい。たった二千・・・どうだ。
 チーチコフ とにかく馬はいらないんです。
 ナズドゥリョーフ そのまままた売っ払えばいいだろう。市場に出せば、この二倍の金ですぐ買手がつく。
 チーチコフ 二倍で売れることがそんなにはっきり分っているのなら、御自分で売ったらいいでしょう。
 ナズドゥリョーフ お前に儲けさせてやりたいと思っているんだ。
 チーチコフ 御配慮は有難いですが、とにかく栗毛の雌馬はいりません。
 ナズドゥリョーフ それなら犬はどうだ。犬二匹・・・見ただけで欲しくて震えが出て来るようなやつだ。立派な口鬚をはやした・・・
 チーチコフ 口鬚がどうしたんです。私は猟師じゃありません。犬なんかいりませんよ。
 ナズドゥリョーフ 犬がいらないなら、手風琴はどうだ。
 チーチコフ 手風琴でどうしろっていうんです。私はドイツ人じゃないんですよ。手風琴を弾いて途々(みちみち)乞食でもしろって言うんですか。
 ナズドゥリョーフ ドイツ人がぶら下げるような、そんな粗末な代物(しろもの)じゃないんだ。こいつはな、全体がマホガニーで出来ている。
(ナズドゥリョーフ、チーチコフを手風琴の方に引っ張って行く。)
(そこで手風琴が「マルブルーは戦争に行った・・・(フランス語の歌)」を弾く。遠くで雷が鳴り始める。)
 ナズドゥリョーフ この手風琴に死んだ農奴をつけてやる。お前の方は、あの馬車と三百ルーブリ渡せ。これでいいだろう。
 チーチコフ 私は馬車がなくちゃ、動きがとれませんよ。
 ナズドゥリョーフ 別の馬車をつけてやるさ。ちょっと塗り替えさえすれば、見違えるように立派な馬車になる。
 チーチコフ(傍白。)くどくどと何を言いやがるんだ。しつこい奴め!
 ナズドゥリョーフ 馬車、手風琴、それに農奴・・・
 チーチコフ いりません。
 ナズドゥリョーフ そうだ、おい、バンクを一勝負やろう。こっちが親で今の全部を賭ける。勿論手風琴もだ。お前に運さえありゃ、勝って全部持って行ける。(トランプをめくり始める。)何ていい札(ふだ)だ。ほら、次も・・・ああ、この野郎だ・・・
 チーチコフ 野郎って、誰です。
 ナズドゥリョーフ 九だよ。ほら、さっき俺が何もかもすっちまった、あの忌々(いまいま)しい九だ。どうも負けるような気がしたんだ、あの時。それでぐっと目をつぶって心に決めたんだ。「畜生、裏切るなら裏切りやがれ。この野郎!」ってな。どうだ? バンクを一勝負。
 チーチコフ 嫌です。
 ナズドゥリョーフ 何だ、下らない男だなあ、お前って奴は。
 チーチコフ(むっとして。)セリファーン! 行くぞ!(帽子を取る。)
 ナズドゥリョーフ なあんだ、俺はお前のことをもう少しはましな男だと最初は思っていたんだがな。お前、まるでなってないじゃないか。付き合い一つ出来ないときている・・・
 チーチコフ 何故そんなに私を軽蔑したように言うんです。バンクをしないとそんなことまで言われるんですか。農奴を売って下さいよ。
 ナズドゥリョーフ 農奴なんか渡してやるもんか。始めはただでもくれてやろうと思っていたが、もう金輪際(こんりんざい)お前になんかやるもんか!
 チーチコフ セリファーン!
 ナズドゥリョーフ まあ待て。うん、そうだ・・・チェスをやろう。お前が勝てば全部やる。チェスならバンクとは違って、運だの、誤魔化しだのはないからな。それにこの俺ときたら、チェスはからきし駄目ときている。
 語り手(静かに。)・・・「やって見るか・・・チェスなら」・・・とチーチコフは考える。チェスなら昔、かなりよく指したものだ。それに、確かにインチキは出来ないからな、チェスは。
 チーチコフ 分りました。いいでしょう。チェスならやりましょう。
 ナズドゥリョーフ お前は百ルーブリ賭ける。こっちが負ければ農奴はお前のものだ。
 チーチコフ 五十ルーブリ・・・それでいいでしょう。
 ナズドゥリョーフ 賭け金に五十ってことはない。切りが悪過ぎる。よし、こっちはそれに、中くらいの子犬か、時計につける金の印形を添えてやる。
 チーチコフ じゃ、まあ、それで・・・
 ナズドゥリョーフ こっちが先手だが、最初俺に何手指させる。
 チーチコフ どうしてです。私だって下手なんですから。
(二人、指し始める。)
 ナズドゥリョーフ ははーん、どうやらあんた、相当下手だな。
 チーチコフ もう長いこと、駒を手にしたことがありませんから。
 ナズドゥリョーフ ははーん、どうやらあんた、相当下手だな。
 チーチコフ もう長いこと、駒を手にしたことがありませんから。
 ナズドゥリョーフ ははーん、どうやらあんた、相当下手だな。
 チーチコフ もう長いこと、駒を手に・・・エッ?・・・エッ?・・・何ですか、これは。その駒を元に戻して下さい。さ、すぐに!
 ナズドゥリョーフ 俺のことをあんた、何だと思ってるんだ。この俺がイカサマをやるとでも思っているのか。
 チーチコフ 私はあなたのことを何だとも思ってはいません。しかしとにかく、あなたとチェスは金輪際、やりません。(チェスをぐちゃぐちゃにする。)
 ナズドゥリョーフ もうやらないだと? 何が何でもやらせてやる。ぐちゃぐちゃにしたって、一向に構わん。動きはみんな覚えているんだ。
 チーチコフ いいえ、あなたとはもうチェスはやりません。
 ナズドゥリョーフ ホホウ、もう俺とはやらんと言うんだな? おい、はっきり言ってみろ、それを。はっきり・・・
 チーチコフ(辺りを見回しながら。)セリファーン・・・もっとちゃんと、インチキなしで指して下さるんでしたらやりますが、もう私は指しません。
 ナズドゥリョーフ そうか。もうやらんと言うんだな。自分が不利になったから、だからやらんと言うんだ。この・・・犬めが! やっちまえ!(チーチコフにおどりかかる。チーチコフ、戸棚のところへ吹っ飛ばされる。)
 語り手 ・・・「やっちまえ!」・・・その叫び声はまるで、ここを先途(せんど)の突撃の時、向こう見ずな中尉が自分の小隊に向って戦闘熱に浮かされ何も分らぬまま「突撃!」と下す命令さながらであった。
(雷の落ちる音。)
 ナズドゥリョーフ やれ! やっちまえ!(Pozhar! Skoksyr'! Cherkan! Severga!)この野郎!(ナズドゥリョーフ、口笛のような音を出す。舞台裏で犬の鳴き声。)やっちまえ!・・・ポルフィーリイ、パヴルーシカ!
(セリファーンの歪(ゆが)んだ顔が窓の外に現れる。)
(ナズドゥリョーフ、手風琴を掴み、チーチコフに投げつける。手風琴壊れ、「マルブルーは戦争に行った」を演奏する。)
(突然、馬車の鈴の音が聞こえ、三頭立ての馬車が鼻息荒く止まる音がする。)
 巡査部長(登場して。)失礼ですが、ナズドゥリョーフ氏は御在宅ですか。
 ナズドゥリョーフ 失礼ですが、その前に承(うけたまわ)りたい。あなたは一体どなたです。
 巡査部長 巡査部長です。
(チーチコフ、用心深く戸棚から離れる。)
 巡査部長 あなたが絡む事件に決着がつくまで、あなたが起訴されていることをお知らせに上がったのです。
 ナズドゥリョーフ 俺が絡む事件? 馬鹿な。どんな事件だ。
(チーチコフ、こっそりと退場。窓の後ろにあったセリファーンの姿も消える。)
 巡査部長 あなたは酔いに任せて地主マクスィーモフに棍棒で殴りかかり、侮辱を与えた。この事件です。
 ナズドゥリョーフ 嘘をつけ! マクスィーモフなどという地主、俺は知らんぞ!
 巡査部長 お黙りなさい! 嘘とは何です!
 ナズドゥリョーフ(振り返り、チーチコフがいないのに気づき、窓に駆け寄る。)そいつを取り押さえるんだ!(口笛を吹く。)
(鈴の音が轟く。舞台裏で誰かが誰かの頬をぶん殴る音。セリファーンの悲鳴。「行け! 行け! 走るんだ! 強盗!・・・」それからこれらの物音、すぐに遠ざかる。手風琴の「マルブルーは戦争に行った」の歌と、怒った巡査部長の声のみが残る。)
(それから暗くなり、豪雨。そして雷。)

     第 七 場
(カローボチカ家で。)
(雷鳴。暮れ方。蝋燭。ランプ、サモワール。雷鳴の切れ目に手風琴の「マルブルーは戦争に行った」が微(かす)かに聞こえる。それから扉を大きく叩く音。)
 フェチーニヤ 誰? 戸を叩くのは。
 チーチコフ(扉の後ろから。)どうか開けて下さい。奥さん。道に迷ったんです。
 カローボチカ で、あなたは誰?
 チーチコフ(扉の後ろで。)貴族です、奥さん。
(フェチーニヤ、扉を開ける。チーチコフとセリファーン、登場。チーチコフの外套の襟は千切れている。二人ともずぶ濡れ。泥まみれ。二人で小箱を抱えている。)
 チーチコフ すみません、奥さん。急に押しかけて来まして・・・驚かせてしまいまして・・・
 カローボチカ いえいえ・・・こんなに強い雷・・・てんやわんやの酷い天気・・・あらあら、身体中泥だらけ・・・どこで転(ころ)びなさった。
 チーチコフ つい今しがたです。肋骨(あばらぼね)を全部折るところでした。折らなかったのがせめてもで・・・
 カローボチカ まあ、恐ろしい。
 セリファーン ひっくり返ったんですよ、小母さん。
 チーチコフ ひっくり返りましてね・・・町に用があって、今日中にやってしまおうと急いでいたんです。
 セリファーン 暗いところへもってきて、この悪天候・・・
 チーチコフ 黙るんだ! この馬鹿野郎!
(セリファーン、チーチコフの外套をもって退場。)
 カローボチカ フェチーニヤ、この方達の着物を乾かしてお上げ。
 フェチーニヤ 畏まりました、奥様。
 チーチコフ では失礼させて戴きますよ、奥さん。(服を脱ぎはじめる。)
 カローボチカ どうぞどうぞ、ごゆっくり。(退場。)
(チーチコフ、びしょ濡れの服を苛々しながら、不快そうに脱ぐ。何かジャンパーのようなものに着替える。)
 語り手 ・・・何故私はあんな奴のところへ行ったんだ。何故あいつにあの話をしたんだ。全くの無防備・・・何の用心もしない赤子、或いは、馬鹿丸出しに・・・ナズドゥリョーフ如(ごと)きに話す話だったとでもいうのか。あいつは与太者(よたもの)だ。どんな尾ひれをつけて、あたり構わず喋りちらすか知れたものじゃない!
 チーチコフ 馬鹿だった! 私が馬鹿だったんだ!
 カローボチカ(登場して。)お茶ですよ、あなた。
 チーチコフ 有難うございます。ところで、お名前をお訊きするのをすっかり忘れていまして。・・・何やかやで気が動転して・・・
 カローボチカ カローボチカ・・・十等官の妻です。
 チーチコフ それはそれは・・・フー・・・全く、あの野郎め・・・
 カローボチカ 誰のことです?
 チーチコフ ナズドゥリョーフです。御存じですか?
 カローボチカ いいえ、聞いたことがありません。
 チーチコフ 聞いてない方がよほど幸せですよ。で、お名前と父称は?
 カローボチカ ナスタースィヤ・ピェトゥローヴナです。
 チーチコフ いいお名前ですね。私には同名の伯母・・・母親の姉がいます。丁度ナスタースィヤ・ピェトゥローヴナと。
 カローボチカ で、あなた様のお名前は? ひょっとして、お役人さんじゃありませんか?
 チーチコフ いいえ、役人ではありません。自分のことでいろいろ歩き廻っておりまして。
 カローボチカ ああ、すると、仲買人さんで? それは惜しいことをしました。本当についこの間、蜂蜜を安く安く売ってしまったんです。あんな奴に売らなくて、あなたに売ればよかった・・・
 チーチコフ いえいえ、蜂蜜があっても私は買いませんよ。
 カローボチカ じゃ、他のどんなものを? 麻でも買いなさるか?
 チーチコフ 違うんです、おばさん。私が欲しいものはもっと別のもので・・・ねえ、おばさん、お宅では農奴が死んでいますか?
 カローボチカ ええええ、死にましたとも。十八人もね。それがみんな、ちゃんとした、働き者の百姓で。それに、鍛冶屋まで一人焼け死んで・・・
 チーチコフ 火事があったんですか? おばさん。焼け死んだって・・・
 カローボチカ いえいえ、神様のお考えです、火事じゃありません。その鍛冶屋は自分で自分を焼いちまったんです。もうそれは、酷い飲み方で。身体の中が燃えてきたんです。青白い火が身体中から出て来ましてね。身体が焦げて行って、しまいには炭(すみ)のように真っ黒になりましたよ。お陰で私はどこに行こうにも行かれはしないんです。馬に蹄鉄(ていてつ)を打ってくれる人がいなくなりましたからね。
 チーチコフ すべて神様の思し召しですよ、おばさん。神様の深いお考えに対して、誰も不平は言えません。ねえ、ナスタースィヤ・ピェトゥローヴナ、私にそれを譲って戴けませんかね。
 カローボチカ それを譲れって、何をです?
 チーチコフ その・・・全員をですよ、死んだその・・・
 カローボチカ ええっ? 死んだ農奴を? さっぱり分りませんね。まさか墓から掘り起こそうっていうんじゃ・・・
 チーチコフ 何てことを、おばさん! 買うって言ったって、書類上のことですよ。生きている農奴として登録するだけのことです。
 カローボチカ(十字を切って。)それで、それをどうなさるおつもり?
 チーチコフ それはこっちのことです。
 カローボチカ だけど、全員死んでいるんですよ。
(舞台裏で雷の音。)
 チーチコフ 生きているなんて、誰も言ってやしません! いいですか、ちゃんと紙幣で十五ルーブリ差し上げます。
 カローボチカ だけど、どう考えたものやら・・・だって、私はまだ一度も死人を売ったことがありませんからね。
 チーチコフ 当り前です!(間。)どうですか、十五ルーブリ・・・これで手をうつことにしては。
 カローボチカ でもねえ、あなた、私は死んだ者を売るっていうのは、今まで一度もなかったことで・・・何でも最初っていうのは心配なんですよ。何か損がおきはしないかって。ひょっとして・・・あなたが私を騙していて・・・その・・・ひょっとして、もっと高く売れるものじゃないかと・・・
 チーチコフ 何ですって? そんな。死んだものが何の役に立つっていうんです。誰が欲しいなんて言い出すんです。
 カローボチカ それは本当にそうなんです。何の役にも立ちはしません。でも、それが死んでいて、役に立たないからこそ、私はどうも踏ん切りがつきません。もう少し待ってみることにしますよ。誰か仲買人が来て、欲しいっていうかもしれません。その時に値段を比べて・・・
 チーチコフ 馬鹿な、馬鹿な。何て馬鹿な話です、おばさん。誰が死んだ人を買うっていうんです。死んだ人間を何の役に立たせようっていうんです。
 カローボチカ でも、何かの時に、何かの役に立つっていうことが・・・
 チーチコフ 夜に畠にでも立たせて、雀を追い払わせようっていうんですか。
 カローボチカ おお、神様。何て恐ろしいことを!
(間。)
 チーチコフ さあ、おばさん、それでどうなんです。少なくとも返事ぐらいはして下さい。
(間。)
 語り手 ・・・カローボチカは考えた。確かに儲かる話ではありそうだ。しかし、なにせ全く聞いたこともない話で。お陰でカローボチカはかなりビクついていた。どうやらこの仲買人は、売り手をまるめ込むのに失敗したようだ。
 チーチコフ 何を考えているんです? ナスタースィヤ・ピェトゥローヴナ。
 カローボチカ どうもこうも、どう考えていいものやら・・・そう、あなた、麻を買って下さいませんか?
 チーチコフ 麻? 麻でどうしろっていうんです。私は全く別のものを売って下さいと言っているんです。それを、何が麻です!(間。)そうでしょう? ナスタースィヤ・ピェトゥローヴナ。
 カローボチカ そうは言っても、何せ、買おうと仰しゃる物があまり奇妙なものですからね。
 チーチコフ(椅子を強く床に打ちつけて。)何だと! 糞っ! 悪魔に食われてしまえ! 糞っ! 糞っ!
(時計がシューシューと音をたてて時刻を告げる。)
 カローボチカ まあ、悪魔だなんて。どうか止めて、そんな恐ろしい言葉は。つい一昨日(おととい)の晩でしたよ、私は一晩中悪魔の夢を見て・・・それも、本当に恐ろしい、牛のような長い長い角をはやした・・・ああ、厭・・・厭・・・
 チーチコフ 悪魔がたった一匹出て、それですむなんて、そっちの方がよっぽど不思議だ。十匹出たっておかしくない。いいですか、こっちはお慈悲でこの話を持ち出しているんですよ。可哀想なやもめが貧乏に苦しんでいるんじゃないか、やっとこさその日を凌(しの)いでいるんじゃないかと。こんな分らず屋なら、お前さんなんか、この村と一緒に消えてなくなっちまえばいいんだ!
 カローボチカ 何てまあ、恐ろしい言葉。神様、お助け下さい。
 チーチコフ お前さんにあてはまる言葉はこれぐらいしかないんだ。柔らかく言ってやって、精々が、お前さんなんか、乾草の上で番をしている犬だ。自分じゃ乾草なんか食わないくせに、他人にもやりはしない。
 カローボチカ どうしてあんたはそんなに怒るのかね。そんなに怒りっぽい人だと最初から分っていれば、何も私はあれこれ反対のことを言うことはなかったのに。分りました。お札(さつ)十五ルーブリでお渡ししましょう。
(雷、静かになる。)
 語り手 ・・・やっと! 手間を取らせやがって・・・
 チーチコフ フー、やれやれ。(汗を拭く。)町に誰か知り合い、或いは代理人になってくれる人がいますか? この契約の全権を与えてもいいような・・・
 カローボチカ いますとも。祭司長のキリール神父さんとは懇意にしています。その息子は役所に勤めていますから。
 チーチコフ ほほう。それは好都合。(書く。)さ、ここに署名を。(紙幣を手渡す。)じゃ、おばさん、これで失礼しますよ。
 カローボチカ でもあなた、馬車の用意がまだじゃありませんか。
 チーチコフ いや、すぐ出来ます、すぐ。
 セリファーン(扉のところへ来て。)馬車の用意が出来ました、旦那様。
 チーチコフ 何だ、間抜けめ! 今までかかったのか、用意が。では失礼します、おばさん。(退場。)
 カローボチカ(長い間。十字を切っている。)驚いたもんだ・・・紙幣で十五ルーブリ・・・町に行って来なくちゃ・・・ああ、へまをやった。安値で売ってしまって・・・へまだった・・・町に行こう。・・・死んだ農奴がいくらで取引きされているか。フェチーニヤ! フェチーニヤ!
(フェチーニヤ登場。)
 カローボチカ フェチーニヤ! 馬車の用意をするように言っておくれ。私は町に行く。買物に。・・・どうしても値段を知らなくちゃ・・・
                    (幕)

     第 三 幕
     第 八 場
(舞台裏で大きなドラの音が鳴り響く。幕が開く。夜。知事の家の居間。巨大なテーブル。夕食。灯り。召使達。)
 知事夫人 チーチコフさん、何てまあ素晴しい。手にお入れになったそうですわね。
 チーチコフ 手に入れました。手に入れました。有難うございます。
 知事 いや、喜ばしい。実に喜ばしい。
 チーチコフ ええ、県知事閣下、私もこれ以上の上首尾はあり得ないと思うくらいです。
 警察署長 万歳! ウッラー! チーチコフ!
 議長と郵便局長と検事 ウッラー!
 サバケーヴィッチ どうしたんだ、チーチコフ。どんな代物を手に入れたか、そこを話さなきゃ、どうしようもないだろう? 全く、凄いものを手に入れて! みんな純金そのものといった連中なんだ。現にこの私だって、馬車大工のミヘーイェフを売ったんだからな。
 議長 えっ? まさか。ミヘーイェフを売るなんて、そんな。腕の利く職人ですよ、あれは。うちでも、あれに馬車を作り替えて貰った。ただ・・・ちょっと待って下さい。ミヘーイェフは死んだ・・・と、以前言わなかったかな? 君は。
 サバケーヴィッチ えっ? ミヘーイェフが死んだ? いえいえ、死んだのはミヘーイェフの兄だ。ミヘーイェフ自身はピンピンしていて、前よりもっと元気になったぐらいさ。
 議長 ミヘーイェフ・・・いや、実に立派な腕だ。
 サバケーヴィッチ ミヘーイェフだけに感心されることはないな。大工のプローブカ・スチェパーンも、煉瓦作りのミルーシュキンも、靴屋のテリャートニコフも、みんな売ったんだからな。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ まあ、サバケーヴィッチさん、どうしてそんな人達をお売りになったの? みんなその道では腕利きで、あなたにはなくてはならない人達じゃありませんか。
 サバケーヴィッチ まあ、魔がさしたんだな。よし、売るか、なんて言っているうちに、エーイ、売っちまえって・・・馬鹿なことだ。
(アーンナ・グリゴーリイェヴナ、ソーフィヤ・イヴァーノヴナ、郵便局長、それにマニーロヴァ、大声で笑う。)
 検事 ですが、チーチコフさん、土地なしで農奴をお買いになったそうで・・・どこかへ移住させるおつもりなのですか?
 チーチコフ ええ、移住です。
 検事 なるほど。移住となればまた話は別ですな。それで、どちらの方へ?
 チーチコフ 移住場所ですか? ヘルソーン県です。
 知事 ああ、あそこは土地も肥えていますな。
 議長 草も十分に生えていて・・・
 郵便局長 で、土地は十分におありになるので?
 チーチコフ ええ、十分に。つまり、買った農奴を住まわせるには十分に、です。
 警察署長 川は?
 郵便局長 それに、池は?
 チーチコフ 川はあります。それから池も。
 知事 さあ、ヘルソーン県の新しい地主殿に乾杯だ!
 全員 ウッラー!
 議長 いやいや、ちょっと待って・・・
 アーンナ・グリゴーリエヴナ シッ・・・シッ・・・
 議長 ヘルソーン県の新しい地主の、将来の花嫁に乾杯です!
(拍手。)
 マニーロフ さあ、我らがチーチコフ・・・
 議長(チーチコフの言う言葉に耳をつけて聞いて。)ええっ? そろそろヘルソーン県に帰らねば? いけませんよ、チーチコフさん。何を仰るんです・・・
 警察署長 帰る! 何てことを! 敷居を跨(また)いだだけですぐ帰る、そんなのは部屋をただ寒くさせるだけに来たようなものです!
 検事 そうです。もう少しはここにいて下さらないと。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ お嫁さんをお世話しますよ。ねえ、議長さん。花嫁さんを・・・
 議長 そうそう、嫁を世話だ。それそれ・・・
 郵便局長 そう、もうこうなったら、いくら突っ張っても無駄ですよ。我々はあなたに嫁を世話するんですからね。
 警察署長 そう、あなたはこの町にやって来た・・・もうグダグダ言っても無駄ですよ。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 私達、冗談を言っている暇なんかないんですのよ。
 チーチコフ いえいえ、突っ張るだなんて。私はそんなことはしませんよ。女房を持つのも悪くはありませんからね。ただ、その花嫁が・・・
 警察署長 います、花嫁は。必ず。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナとアーンナ・グリゴーリエヴナ(口を揃えて。)います、花嫁は。必ず。
 チーチコフ もしあるとなれば、それは・・・
 警察署長 ブラーヴァ! じゃ、滞在ですね?
 郵便局長 万歳! ウッラー! チーチコフ!
(全員、一斉にコーラス。カーテンがぱっと開いて、ナズドゥリョーフがミジューイェフを連れて登場。)
 ナズドゥリョーフ 閣下、遅れまして失礼しました。・・・妹婿のミジューイェフです。(間。)おお、ヘルソーン県の地主、ヘルソーン県の地主殿じゃないか。どうだった? 商売は。死人はうまく買えたか?
(全員、シーンとなる。)
 ナズドゥリョーフ まさか閣下、御存じない訳はないでしょうな。この男は死んだ農奴を買うのが仕事なんだ。そいつを御存じないってことは、まさか・・・
(水をうったようにシーンとなる。チーチコフとサバケーヴィッチの顔色が変る。)
 ナズドゥリョーフ なあチーチコフ、ここにいるのはみんなお前さんの友達だ。ほら、ここには県知事閣下までいらっしゃる。・・・だからその目の前で、お前を首吊りの刑にしてやりたいよ、全く・・・ねえ、県知事閣下、こいつが私に何て言ったと思います?「死んだ農奴を売ってくれ」・・・こうですよ。私は笑ったね。笑って、笑って、腹の皮がはじけ飛びそうでしたよ。
(憲兵大佐、腰を少し浮かせる。緊張した表情でこの言葉を聞く。)
 ナズドゥリョーフ この町にやって来て、こいつが私に何て言ったか。「私は、三百万ルーブリ分農奴を買ったんです。移住を目的に」・・・何が移住だ。聞いて呆れる。この私から買おうとしたのは、死んだ農奴なんですからね。なあチーチコフ、貴様は騙(かた)りだ。大山師だ。そう、ここには県知事閣下もいらっしゃる。ねえ、そうでしょう? 検事さん。・・・おい、チーチコフ、いいか。貴様、俺はな、貴様が何故死んだ農奴なんか買い漁(あさ)っているのか、その理由を聞くまでは決して後へは退(ひ)かんぞ。いいか、貴様は恥づかしいと思わなきゃいかん。どうしてかってな、貴様の友達で、俺ほどお前にぞっこんな男はいないんだ。そら、県知事閣下もちゃんと御存じだ。・・・検事さんも勿論・・・そうですね? 県知事閣下、こいつと俺とは、もうしっかりと結びついた仲なんだ。・・・そう、その証拠に、今俺はここに立っている。お前が今俺に訊く、「ナズドゥリョーフ、腹を割ったところを答えてくれ。お前にはどっちが大事なんだ? お前の血をわけた父親か? それともこのチーチコフか?」・・・俺は即座に答えるね。「何を水臭いことを言ってるんだ、チーチコフ。貴様に決ってるだろう?」とね。その証拠に、今接吻だ。ベチャッと一つ大きなやつを。な?・・・あなたもお許し下さいますね? 県知事閣下、私がこいつに接吻することを。貴様だって否(いや)とは言わんだろう、チーチコフ。その雪のように白いほっぺに一つ記念の接吻だ・・・
(チーチコフ、歪んだ顔で立上がり、ナズドゥリョーフの胸をドスンと押す。ナズドゥリョーフ、よろめく。)
 ナズドゥリョーフ 一つ接吻を。(知事の娘を抱擁し、接吻する。)
(知事の娘、金切り声を上げる。どよめき。全員総立ち。)
 知事 何たる無礼! こいつを連れて行け!
(召使達、ナズドゥリョーフとミジューイェフを連れ出す。どよめき。)
 ナズドゥリョーフ(舞台裏で。)妹婿! ミジューイェフ!
(知事、「音楽を始めろ」と合図。楽隊、ファンファーレを演奏し始めるが、途中で止める。チーチコフ、こっそり出口の方へ進む。)
(扉開き、そこから守衛の棍棒が現れる。それから、カローボチカ登場。全員シーンとなる。)
 カローボチカ 死んだ農奴って、今いくらぐらいするんですの?
(沈黙。チーチコフの席、空。)
                    (幕)

     第 一0 場
 語り手(幕の前で。)・・・町中が死んだ農奴と知事の娘について喋り始めた。チーチコフと死んだ農奴について。いや、知事の娘と死んだ農奴について。そしてあることないこと、すべてが持ち上がった。その時までまるで眠っていたように見えた町が、まるで竜巻のように荒れ狂った。その時までその名前を聞いたこともないような人々、例えばスイソイ・パフヌーチエヴィッチ、或いは、マクドナーリド・カールロヴィッチだのが現れたのだ。客間に、ひどく背の高い、腕に機関銃で撃たれて弾丸が通過した傷跡、のある男がのっこり現れたりした。往来にはまた、ありとあらゆる馬車が行き交い始めた。幌をかけた馬車、今まで見たこともない大形無蓋(むがい)馬車、ガタビシ馬車、キーキー馬車、ガラガラ馬車・・・通行人はみんな立ち止まり、目を丸くしてこれらを見ている・・・
(舞台裏で玄関のベルの音がする。)
 語り手 そしてついに、お粥(かゆ)は吹き上がる。(退場。)
(幕が上がる。濃い色の部屋。輪の中に鸚鵡(おうむ)が揺れている。)
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ(飛び込んで来て。)アーンナ・グリゴーリエヴナ! ね、お分り? 私が何故あなたの家にやって来たか。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 何かしら・・・さ、早く教えて!
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ でも、私が話そうと思っていることなんか、あなた、とっくにお聞きになっているわね? だって・・・だって、この話、誰もが話していることなんですもの。・・・所謂(いわゆる)噂・・・イストワール・・・ス・コン・ナペッル・イストワール・・・(仏語 「いわゆる噂」 ce qu'on appelle histoire)
 アーンナ・グリゴーリエヴナ ええええ、それで?
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 今日ね、ほら、キリール司祭の奥さん、あの人がうちに来たの。そう、あなた、どう思って? この町にやって来たあの、チーチコフっていう人がどんな人か。えっ? 分って?
 アーンナ・グリゴーリエヴナ まあ、まさか。あのキリールおばあさんに厭らしいことしたの? まあ!
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 厭らしいこと? それならまだしもなのよ。あのおばあさんが話してくれたことを、まあ聞いて。あのカローボチカがねえ、キリールおばあさんのうちに行ったの。死人のように蒼い顔をして。そして話したんだって。あの人のうちに真夜中、恐ろしい勢いで戸を叩く人がいたんだって。そして叫んだの、「開けろ、ここを開けろ! さもないと扉をぶっこわすぞ」って。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ まあ、いい話ね。じゃ、あの人、よぼよぼのあのカローボチカに手をつけたの?・・・まあまあ・・・
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ そうじゃないのよ、アーンナ・グリゴーリエヴナ。そんな話とは全然違うの。
(鋭く玄関を叩く音。)
 アーンナ・グリゴーリエヴナ あらあら、副知事夫人様の御入来かしら。パラーシャ、誰なの?(訳註 パラーシャは女中。)
 マクドナーリド・カールロヴィッチ(登場して。)アーンナ・グリゴーリエヴナ、ソーフィヤ・イヴァーノヴナ。(二人の両手にキスする。)
 アーンナ・グリゴーリエヴナ ああ、マクドナーリド・カールロヴィッチ!
 マクドナーリド・カールロヴィッチ お聞きになりました?
 アーンナ・グリゴーリエヴナ ええ、それはもう。今この方が丁度お話し下さったの。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 頭のてっぺんから足の爪先まで、ちゃんと武装して・・・リナールド・リナーリディン(訳註 山賊の名。)そこのけ。
 マクドナーリド・カールロヴィッチ えっ? チーチコフが?
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ ええ、チーチコフが。そしてカローボチカに言ったの、「さあ、死んだ農奴はすべて売って貰いましょう」って。
 マクドナーリド・カールロヴィッチ アイ・ヤイ・ヤイ・ヤイ!
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ カローボチカの答はひどく理に叶(かな)ったものだった。「売る訳にはまいりません。だって、死んでいるんですから」・・・そうしたらチーチコフ、「死んでる人? 何が死んでる」・・・それから怒鳴ったんですって、「死んでようと生きていようと、そんなことはこっちの話だ」・・・この話を聞いた時の私・・・本当に見て戴きたかったわ、どんなに私が驚いたかを・・・
 マクドナーリド・カールロヴィッチ アイ・ヤイ・ヤイ・ヤイ!
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 死んだ農奴だなんて、何の意味があるっていうんでしょう。主人は言ってましたわ、ナズドゥリョーフが嘘をついているんだって!
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 嘘だなんて! どうして! だって、カローボチカは言ってるのよ、「私、どうしたらいいんでしょう。あの人、私に無理矢理偽(にせ)の書類を書かせたの。そしたらあの人、机の上に十五ルーブリ、紙幣をポンと投げて・・・」
 マクドナーリド・カールロヴィッチ アイ・ヤイ・ヤイ・ヤイ!(突然アーンナ・グリゴーリエヴナとソーフィヤ・イヴァーノヴナの両手にキスをして。)では、失礼します、アーンナ・グリゴーリエヴナ。ではまた、ソーフィヤ・イヴァーノヴナ。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ あなた、どこにいらっしゃるの? マクドナーリド・カールロヴィッチ。
 マクドナーリド・カールロヴィッチ プラスコーヴィヤ・フョードロヴナの家まで、ちょっと・・・(扉のところで。)これには何か別のことが隠されています・・・この死んだ農奴の話の裏には・・・(走って退場。)
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 本当のことを言うと、私も・・・ねえ、アーンナ、あなたはどう思って? 何が隠されているんだとお思い?
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 死んだ農奴・・・
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ ねえ、ねえ。どうお思い?
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 死んだ農奴・・・
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ ねえ、お願い。言って!
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 死んだ農奴なんて、そちらへ目を向けさせるための罠よ。そう、狙いはこうだわ。あのチーチコフっていう人、知事の娘を誘拐して、駆落ちしようとしているのよ。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ まあ! どうしましょう。私、そんなこと、ちっとも思いつかなかったわ!
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 私はすぐだったわ。あなたがここへ来て口を開いたとたん、ハハーンって。
(玄関のベルが鳴る。)
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ まあ! それなら女学校の教育はどうなっているんでしょう。あんな罪のない無垢な娘を!
 アーンナ・グリゴーリエヴナ 何が無垢なもんですか。あの子、いつかの晩餐が終った時私にどんな話をしたと思って? とても私の口からはお話する勇気などないわ。
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ(登場して。)今日は、アーンナ・グリゴーリエヴナ。今日は、ソーフィヤ・イヴァーノヴナ。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ スイソイ・パフヌーチエヴィッチ! 今日は。
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ 死んだ農奴の話をお聞きになりましたか? 全く馬鹿な話で。実際、あんな話がこの町で噂になるなんて、どうかしています。そうでしょう?
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 何が馬鹿な話です、スイソイ・パフヌーチエヴィッチ。あの人、知事の娘を誘拐しようとしているんですよ。
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ アイ・ヤイ・ヤイ・ヤイ! しかしまた、どうして他所(よそ)もののチーチコフがそんな大それたことを? 誰か共犯者でもいるのですか?
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ きっとナズドゥリョーフあたりが・・・
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ(自分の額を手で打って。)ナズドゥリョーフ! そうか、そうだったのか!
 アーンナ・グリゴーリエヴナ ナズドゥリョーフ! ナズドゥリョーフですって? あの人、自分の父親を売り飛ばそうとしたような男よ。いえ、ただ売り飛ばすなんてものじゃない。トランプの賭金の代りに父親を出した・・・そんな男よ!
(鋭くベルがなる。)
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ 失礼します、アーンナ・グリゴーリエヴナ。失礼します、ソーフィヤ・イヴァーノヴナ。(出て行こうとして、扉のところで、入って来る検事とぶつかる。)
 検事 どこへ行くんです? スイソイ・パフヌーチエヴィッチ。
 スイソイ・パフヌーチエヴィッチ いえいえ、検事殿。どこにも行くものじゃありません。では・・・(慌てて出て行く。)
 検事 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ。(片手にキス。)
 アーンナ・グリゴーリエヴナ あなた、お聞きになって?
 検事(沈痛な声で。)あの噂ですか? 死んだ農奴の、あの・・・人の目を逸(そ)らそうっていう工夫なんですよ、あれは。困ったものです。
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 本当の目的は、知事の娘を攫(さら)おうっていうこと・・・それがあのチーチコフの魂胆なんです。
 検事 えっ! それはまた・・・
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ  さ、アーンナ・グリゴーリエヴナ、私は行くわ。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ どこへ?
 ソーフィヤ・イヴァーノヴナ 副知事さんの家へ。
 アーンナ・グリゴーリエヴナ ええ、私も行く。こんな時にじっとしてなんかいられない。私、本当に心配。パラーシャ・・・パラーシャ・・・
(二人の婦人、退場。馬車が出発するガラガラという音が響く。)
 検事 パラーシャ!
 パラーシャ(登場して。)何か御用で?
 検事 アンドリューシャに言うんだ。誰も家に入れてはいかんと。役人だけだ、入れていいのは・・・もしチーチコフが来たら、決して入れるな。「そう命じられております」と言うんだ。それから、つまみを持って来てくれ。
 パラーシャ 畏まりました、旦那様。(退場。)
 検事(一人になり。)全く、この町はどうなってるいるんだ。
(大きな音をたてて馬車が止まる。それから玄関にベルの音。舞台裏で、パラーシャとアンドリューシャの声。はっきりとはしないが聞こえてくる。それから静かになる。鸚鵡(おうむ)、突然、「ナズドゥリョーフ! ナズドゥリョーフ!」と声を上げる。)
 検事 まいったな、鸚鵡までが! この悪魔め!(十字を切る。)
(再び玄関のベルの音。)
 検事 いよいよ騒ぎの始まりか。粥(かゆ)が煮えたってきたぞ。
(人々の声。郵便局長、議長、警察署長、登場。)
 警察署長 いやー、検事殿。何て奴です、あのチーチコフは。あいつの到来のお陰で、この町はてんやわんやだ。(テーブルの上にあるウオッカを一杯飲む。)
 議長 全く、何が何やらさっぱり。頭がこんがらがって・・・一体全体あのチーチコフというのは何者です。それに、何ですか、この「死んだ農奴」ってのは。
 郵便局長 人間としてはあの男、なかなかちゃんとした・・・
 警察署長 どんなことがあってもこの件はもう終らせないと。町がこんなことになるっていうのは実際・・・そう、あいつが贋金造りだと言うものまで現れて・・・しまいには、言うのも奇怪な話ですがね、チーチコフは実は、変装したナポレオンじゃないかと・・・
 検事 何て話だ、そいつは。
 警察署長 この辺でこの件は決定的にケリをつけねばと、私は思っています。
 議長 決定的なケリとは?
 警察署長 怪しい人物として、彼を逮捕するんです。
 議長 あっちの方が我々を怪しい人物として逮捕したら?
 警察署長 どういうことですか、それは。
 議長 彼は何か秘密の指令をもってやって来たんじゃないですか。死んだ農奴・・・フム・・・それを買い取りたい・・・いや、本当の目的は、我々が「死因不明」として処理した死者の原因探索かもしれない・・・
 郵便局長 皆さん、私はこの際、この件は慎重に検討すべきものと考えます。そう、みんなを召集して、会議を開いて。イギリス議会でやるように、徹底的に。その紆余曲折まで明らかにすべきだと。如何でしょう。
 警察署長 賛成です。集まりましょう。
 議長 良い考えです。集まりましょう。そして、チーチコフの正体をみんなで突き止めるんです。
(玄関のベルが鳴る。舞台裏でアンドリューシャの声「お入れしません。」チーチコフの声「何だって? おい、この私が分らないのか。君のよく知っている顔のはずだぞ。」)
(部屋の中で役人達、シーンとなる。鸚鵡、急に怒鳴る、「ナズドゥリョーフ!」)
 警察署長 シッ!(鸚鵡に突進し、布をその上にかける。)
(アンドリューシャの声「それは勿論分っております。初めて見るお顔ではありませんから。しかし、通すなという御命令ですので。」)
(チーチコフの声「何ていうことだ。ええっ? 何故だ。どうしてだ。」)
(アンドリューシャの声「そういう御命令で。」)
(チーチコフの声「分らない話だな。」)
(玄関の扉がガタンと閉まる音。)
 警察署長(ひそひそ声で。)行った!
                    (幕)

     第 四 幕
     第 十 場
(夕方。警察署長室。傍(かたわ)らに、酒肴の用意がしてある。壁に特別憲兵隊の隊長アリェクサーンドゥル・クルストーフォロヴィッチ・ベケンドールフ伯爵の肖像。)
 警察署長(部下の警官に。)来たか。
 警官 ひどく怒りました。私のことを糞ったれ呼ばわりをして・・・しかし、メモを渡しますとトランプのことが書いてある部分ですっかり機嫌を直しました。やって来ます。
(ノックの音。議長、検事、郵便局長、登場。憲兵大佐、離れたところに坐る。)
 警察署長 実はみなさん、書類の調査だけでは、彼の正体をつきとめることは出来ませんでした。どうやらあの男はこのところ、病気だったらしく、部屋から一歩も外へ出ておりません。イチジクを浸(ひた)した牛乳で、さかんにうがいをした様子です。関連のある人物を尋問する必要があります。(扉に向って。)オイ!
(セリファーン登場。手に鞭(むち)を持っている。帽子を脱ぐ。)
 警察署長 セリファーンだな。お前の主人のことについて話すんだ。
 セリファーン ああ、御主人はたいした御主人で。
 警察署長 どういう人物と付合っている。
 セリファーン 一流の人物とです。ピェレクローイェフ氏だとか・・・
 警察署長 どこに務めていた。
 セリファーン お国の・・・お役所で・・・ロク、ロク、トウ、トウ、官で。税関にも、県の普請課にも・・・
 警察署長 普請? ああ、建設課か。何の普請をした、具体的には。
(間。)
 警察署長 よし。まあいい。
 セリファーン 馬は三頭です。一頭は栗毛。三年前に買ったやつで。二頭目は葦毛(あしげ)のやつに替えてまた葦毛を買いました。三頭目はまだら・・・こいつは「議員」さんから買ったんで、「議員」という名を・・・
 警察署長 主人のチーチコフは本当にパーヴェル・イヴァーノヴィッチという名前なんだな?
 セリファーン パーヴェル・イヴァーノヴィッチで。栗毛は感心なやつなんです。仕事はちゃんとやってのける。だから私は、喜んでこいつには一枡(ひとます)余計に麦を呉れてやるんです。立派なやつですよ、栗毛は。それから「議員」・・・こいつも立派なやつです。トゥプルルル(訳註 馬へのかけ声。)・・・おい、貴様達、偉いやつだ、お前ら二頭は!
 警察署長 何だ、お前、酔っているじゃないか。へべれけだな。
 セリファーン 友達と喋ってたんで。いい奴となら話してもいい。悪いことは起らない・・・それでちょいと一緒に一杯・・・
 警察署長 何だ、その言葉は。鞭で打って、少し行儀をする必要があるな、お前は。上の者に対して、何ていう口のきき方だ。
 セリファーン(外套の釦(ぼたん)をとって。少し開いて。)分りました。いいでしょう。気のすむようにおやりなさい。私は四の五の言いやしません。百姓って奴は時々殴ってやらなきゃ、のさばるだけですからね。(鞭を振り上げる。)
 警察署長(顔を顰めて。)もういい。行け。
 セリファーン(出て行きながら。)トゥプルルル・・・怠けやがって見ろ、いいか・・・
 警察署長(扉のところにいる警官に。)ピェトゥルーシカを呼べ。
(ピェトゥルーシカ、登場。へべれけに酔っている。)
 検事 ひどい酔い方だ。
 警察署長(うんざりという表情。)いつでもこれだ。(ピェトゥルーシカに。)酒を食らうことしかしないのか、お前の口は。まあいい。よかろう。ここにこそヨーロッパの美あり、とでも言うか。さ、お前の主人の話を聞こう。
(間。)
 議長(ピェトゥルーシカに。)ピェレクローイェフと付きあいがあったのか?
 郵便局長 馬は三頭か?
(間。)
 警察署長 もういい行け。犬から生まれた奴め!
(ピェトゥルーシカを退場させる。)
 憲兵大佐(隅から。)農奴を売ったという者を尋問する必要があるな。
 警察署長(警官に。)カローボチカは連れて来たか。よし、ここへ。
(カローボチカ登場。)
 議長 ちょっとお話し戴きたいのですが、この間の夜、あなたのところにある男がやって来て、農奴か何かをよこせ、さもないとぶっ殺すぞ、と言ったとかいう話は本当なのですか?
 カローボチカ どうか私の身にもなって下さい。・・・紙幣で十五ルーブリ・・・私はやもめです。何の能力もない・・・ね、旦那様方、私に分らないことで、人が私を騙そうとすれば、それはもう、私など簡単に騙されてしまいます・・・
 議長 まあまあ、その話は後廻しにして・・・まづ詳しく初めを・・・その男はピストルを持っていましたか?
 カローボチカ ええっ? ピストルですって? そんなものは持っていません。そんなことより、さっきの話を後廻しにしないで教えて下さい。あれの本当の値段を。
 議長 値段? あれの値段とは何ですか、一体。
 カローボチカ 死人のです。死んだ農奴の・・・今どのくらいの値段なんです?
 検事 全く・・・呆れたことを。
 警察署長 どうも生まれつき馬鹿か、それとも気違いですな、これは。
 カローボチカ 十五ルーブリって、どうなんでしょう。ひょっとして、五十ルーブリ、いや、もっと高いかも・・・
 憲兵大佐 受取りを見せなさい。(恐ろしい声で。)領収書を見せるんです!(領収書を見る。)フム、これは本物だ。
 カローボチカ ねえみなさん方、教えては下さらないんですか。死んだ農奴が今いくらか。
 議長 何を言っているんです、一体あなたは。死人を誰が取引きしているというんです。
 カローボチカ それはそうですけど、まあ仰る通り・・・ああ、分りましたよ。あなた方もやっぱり買い付けようって腹なんですね。仲買人なんですね?
 議長 何を言ってるんです。いいですか? 私は議長ですよ。今の議会の議長なんです。
 カローボチカ いいえ、私を騙そうったって、そうは行きません。・・・第一私を騙したって、そちらの損じゃありませんか。私、鳥の羽根ならお売りしますよ。
 議長 おばあさん、いいですか。私は議長ですよ。鳥の羽根を買えだと? そんなもの誰が買うか!
 カローボチカ 議長だか何だか・・・まあいいでしょう、議長で。・・・そう、今分りましたよ。あんたもやっぱり買いたいんだ・・・あれを・・・
 議長 おばあさん、あなた、医者に診て貰った方がいいですよ。(自分の額を指でつついて。)ここがおかしいんだ、あんたは。
(カローボチカを退場させる。)
 警察署長 フー・・・間抜けなばあさんだ。
 ナズドゥリョーフ(登場。)おうおうおう・・・検事殿! ははーん、権力者の集まるところ、必ず酒肴ありか。(ウオッカを飲む。)それで? トランプは?
 警察署長 例の死人・・・死んだ農奴の話だがな、ナズドゥリョーフ、チーチコフが買い付けていたっていうのは本当の話なのか。
 ナズドゥリョーフ(また飲んで。)本当でさあ。
 検事 まるで訳の分らん話じゃないか。
 議長 死人を買って、何をやらせるっていうんだ。
 ナズドゥリョーフ それでも何千ルーブリってあいつは買いましたからね。私だって、ちゃんと売りましたよ。売っちゃいけないっていう理由はどこにもありやしませんからね。さあて、と。トランプはどこですかな?
 警察署長 いや、それはもう少し後で。それで、この話に何故県知事の娘さんが絡(から)んで来るんだ。
 ナズドゥリョーフ あの娘さんにそれを贈ろうとしたんでさあ。(また一杯飲む。)
 検事 死人を?
 警察署長 またてんごを・・・(Androny edut)(訳註 「てんご」は関西弁で「馬鹿」の意。)口から出任せだな。
 検事 まさかスパイじゃないんだろうな? あのチーチコフは。・・・この町で何か探ろうとしている・・・
 ナズドゥリョーフ そう、スパイだ。探ろうとしている。あいつは。
 検事 スパイ?
 ナズドゥリョーフ 小学校の頃・・・あいつと私は同じ学校に行ってたからな。・・・あいつのことをみんなは「告げ口屋」って呼んでた。一度など、あいつが密告したから、こっちは同級生をかたらって、いいようにあいつをぶん殴ってやったんだ。そうしたらあいつ、顔が腫(は)れ上がっちまって、蛭(ひる)を吸いつかせて腫れを引かせた。その蛭の数・・・顳(こめかみ)だけでも、二百四十貼った・・・
 検事 二百・・・四十・・・
 ナズドゥリョーフ いや、失礼。ただの四十・・・
 警察署長 それに、贋金造りだったというが・・・
 ナズドゥリョーフ そう、贋金造り。(また一杯飲む。)これにはまた、面白い話がある。ある時、あいつの家に二百万ルーブリの偽札があることをその筋が知って、すぐさま家に封印を施(ほどこ)した。扉という扉には全部番兵をつけた。それも二人づつだ。ところがチーチコフの奴、一晩ですり替えたんだ。翌朝封印を取って調べてみると、全部紙幣は本物だったんだからな。
 警察署長 よし、じゃ、これも包まず話すんだな。チーチコフは県知事の娘を誘拐しようとした。・・・これは本当か。
 ナズドゥリョーフ(また飲んで。)その通り。俺なんだ、これに力を貸しているのは。第一、俺がいなくて、あいつに何が出来るっていうんだ。
 憲兵大佐 結婚式はどこで上げるつもりだった。
 ナズドゥリョーフ トゥルマーチェフカ村・・・スィードル神父が上げてくれる予定でね。・・・謝礼は七十五ルーブリ。
 郵便局長 それは高い。
 ナズドゥリョーフ それより安くちゃ、とてもとても。それに、脅しまでかけたんだ。あの神父が昔、穀物商のミハイールをその名付け親と結婚させたことを告発してやるとな。・・・チーチコフには、俺は馬車まで手配してやった。要所要所にちゃんと替え馬の用意までな・・・
 警察署長 ええっ? 誰にだ? 穀物商にか? 神父にか?
 ナズドゥリョーフ 何を寝ぼけたことを! もういい。トランプはどこだ。いいか、少しは頭を使え、頭を。俺が何故逃げる必要がある。馬車も馬もチーチコフのためだ。
 検事 口に出すのも恐ろしいことだが・・・しかし、町ではその・・・噂でもちきりで・・・つまり、チーチコフはナポレオンだと・・・
 ナズドゥリョーフ その通り。
(役人達、凍りついたようになる。)
 検事 それはまた、どういう・・・
 ナズドゥリョーフ 変装しているんだ。(また飲む。)
 議長 しかし君、それはいくら何でも、ほらじゃ・・・
 ナズドゥリョーフ ほら?・・・(謎めいた言い方。)犬にはちゃんと首に縄をつけておかんと・・・
 検事 首に縄? 誰のことだ!
 ナズドゥリョーフ イギリス人さ。イギリス人があいつをセント・ヘレナから逃がしたのさ。あいつはロシアに潜入。あれがチーチコフ? とんでもない。その正体はチーチコフなんかとは似ても似つかない。
(ナズドゥリョーフ、すっかり酔う。警察署長の三角の帽子を被(かぶ)る。)
 警察署長 この野郎! 馬鹿な真似をして。・・・全く、自分でナポレオンになった気でいるぞ!
(ナズドゥリョーフ、床の上にのびてしまう。)
 警察署長 酔っ払い!
(間。)
 郵便局長 そうだみなさん! 私は思いあたりました、チーチコフの正体を。
 全員 えっ? 誰です。
 郵便局長 皆さん、あの男は誰あろう、かのカピェーイキン大尉その人に他なりませんぞ。
 議長 しかしその、カピェーイキン大尉というのは一体・・・
 郵便局長(不審そうな顔で。)ええっ? 皆さん、御存じない? あのカピェーイキン大尉を。
 警察署長 知りませんよ!
 郵便局長 一八一二年、ナポレオンとの戦争の後、他の負傷兵と一緒にこのカピェーイキン大尉は故国に送られて来たんです。ああ言っているかと思うと、その口ですぐ、こう言う、という、全く気のむらな男でした。・・・クラースヌイの戦役でか、ライプチッヒでか、とにかく、本人でなきゃ分りませんが、片手と片足をなくしましてね。片足義足で、襟には火の鳥の飾りをつけていましたよ。・・・
(舞台裏で、義足のコツコツという音がする。役人達、ぎょっとする。)
 郵便局長 ・・・その後、このカピェーイキン大尉の行方(ゆくえ)は杳(よう)として知れず。一方、リャザーニの森で、強盗の一団が現れたのです。そしてその強盗の団長が、何とまあみなさん、他ならぬあの・・・
(扉にノックの音。)
 カピェーイキン カピェーイキン大尉だ。
 検事 あー・・・(椅子から落ち、死ぬ。)
(議長と郵便局長、検事に駆け寄る。)
 警察署長(怖れ声で。)何用ですか。
 カピェーイキン(登場して。)伝令隊の大尉、カピェーイキンだ。サンクト・ペチェルブールクから封書を持って来た。
(咳払いをし、退場。)
 警察署長 伝令隊!(封書を開き、読む。)「おめでとう、憲兵大佐、イリヤー・イリイッチ。本議会において、貴殿を県知事お目付け役に任命す。」なあんだ、これで全て解決だ。
 憲兵大佐 警察署長、アリェクスェーイ・イヴァーノヴィッチ! 君に命ずる。不審な人物として、チーチコフを逮捕せよ。
 警察署長(訳註 憲兵大佐の命令に頷く。それから。)諸君、検事はどうなったんだ。・・・水を! 放血(ほうけつ)だ!・・・いや、もう遅い。死んでいる。
 ナズドゥリョーフ(目を醒まして。)言わんこっちゃない!
                    (幕)

     第 十 一 場
 語り手 ・・・一方チーチコフはなお二、三人の知り合いを訪ね、何とかして皆からのこの不興(ふきょう)の、少なくとも原因だけは知りたいと思ったが、何の成果も得られなかった。半分夢うつつで、町中をうろつき、一体、自分が気が違ったのか、それとも役人どもの方が頭がおかしくなったのか、また、これら全てのことが夢の中でのことなのか、或いは夢よりはっきりしている現(うつつ)でのことなのか、どちらとも決めようがなかった。・・・よーし、もうこうなったら、こんなところに長居は無用。さっさと立ち去るにしくはない・・・
(旅館の一室。夜。灯り。)
 チーチコフ ピェトゥルーシカ! セリファーン!
 セリファーン 何御用で?
 チーチコフ 出かける用意だ。夜明けとともに出発するぞ!
 セリファーン ですけど旦那様、馬に蹄鉄を打ちませんと・・・
 チーチコフ 怠け者め! お前は私を殺す気か。あー? 首でもちょん切る気か、あー? このならず者! 海坊主め! 三週間もここにじっとしていて、そんなことが分っていなかったのか、馬鹿もん! 今になって蹄鉄が打ってない? 何を言い出すんだ。さあ、答えろ。最初からそんなことは分っていたんだろうが!
 セリファーン 分ってました。
 ピェトゥルーシカ 怒鳴られるのも無理はないさ。分ってて、やってないんだからな。
 チーチコフ さっさと行くんだ。鍛冶屋を呼んで来て、二時間以内に発てるようにするんだぞ。分ったな。二時間たっても駄目だったら、貴様を折り曲げて、捻(ねじ)り廻して、結び目を作ってやる!
(セリファーンとピェトゥルーシカ、退場。チーチコフ、坐って考え込む。)
 語り手 ・・・可哀想に、この時チーチコフは、例の「出発しようにも意のままにならぬ旅行者が経験する、あの独特の数分」を経験していたのだ・・・勿論自分は旅だってはいないのだが、そうかといって、その場に坐っている自分を認めることも出来ず、薄暗がりの中を人々が歩いて行くのをぼんやり眺め、立ち上がっては、自分が何をしているのか訳も分らなくなり・・・かと思うと、再び目の前にある動いている物、或いは動いていない物に目を止め、自分の指にぶつかってブンブン言っている蠅(はえ)を、腹立ち紛れに意味もなく押し潰(つぶ)す・・・この独特の数分を・・・
(扉にノックの音。ナズドゥリョーフ登場。)
 ナズドゥリョーフ 諺(ことわざ)っていうやつは、よく言ってくれてるよ。「惚れていりゃ、千里も一里」ってね。・・・この傍を通ったんだ。窓に灯りがあるじゃないか。すぐ思ったね、よし、行って見てやれって・・・おい、下男に言いつけろよ。パイプに火をつけて持って来いって。・・・お前のパイプ、どこだ?
 チーチコフ 私は煙草はやりません。
 ナズドゥリョーフ 馬鹿を言え。お前が吸うのを、俺が知らないとでも思っているのか? おーい、バフラミェーイ!
 チーチコフ バフラミェーイじゃありません。ピェトゥルーシカです。
 ナズドゥリョーフ 何だって? お前のところにバフラミェーイはいた筈だぞ、前に。
 チーチコフ バフラミェーイなんかいたことはありません。
 ナズドゥリョーフ ああ、そうか。バフラミェーイはデェリャービンの家だった。そうそう、デェリャービンの奴、全く棚からぼたもち・・・いい目をしやがった。・・・あいつの伯母っていうのが息子と大喧嘩をして・・・いや、それよりもお前、お前って奴は狡い奴だよ、全く。俺のことを騙しやがって。覚えているか? チェスの時だよ。あれは俺の勝ちだったんだ。・・・そいつをお前、ごちゃごちゃ難くせをつけて・・・だけどな、俺は全然怒ってなんかいないぞ。神様も御照覧あれ、さ。あ、そうだ。お前に言っておくことがあった。町中お前を悪く言ってるんだ。お前は贋金造りだと思っている・・・なあに、お前には俺がついている。俺がちゃんと庇(かば)ってやるからな・・・さっきも俺は言って来た。お前とは小学校が一緒だった。お前の親父のことだって知ってるってな。
 チーチコフ 私が贋金造りですって?
 ナズドゥリョーフ そうなんだ。それで連中、すっかりお前のことを怖れてね。まあ、怖れで気が違ったようになりおった。・・・強盗とスパイの両方の嫌疑をお前にかけて・・・そうしたら、検事の奴、真っ青になって死におった。明日はあいつの葬式だ。連中は県知事お目付け役を怖れていてなあ・・・あ、そうそう、ところでチーチコフ、お前も罪な男だなあ。とんでもないことを企(くわだ)ておって・・・
 チーチコフ 企てる? とんでもないこと?
 ナズドゥリョーフ そう。知事の娘を誘拐しようなんてさ。
 チーチコフ 何だって? 一体さっきから何の話だ。知事の娘を誘拐だの、検事の死は私が原因だ、だの・・・
(セリファーンとピェトゥルーシカ、驚愕の表情で登場。舞台裏でガシャン、ガシャンと、拍車をつけた靴の音。)
 ピェトゥルーシカ 旦那様、警察署長様が警官を連れて、旦那様に用があると・・・
 チーチコフ 何だって?
 ナズドゥリョーフ(口笛を吹く。)フュー!(急に、そして素早く窓から外へ退場。)
(警察署長、憲兵大佐、それに警官、登場。)
 警察署長 チーチコフ、お前を監獄に送り込めとの命令だ。
 チーチコフ 警察署長殿、一体これは・・・何ということです・・・裁判もなく・・・全く何もなしに・・・私を監獄へ?・・・貴族のこの私を・・・
 憲兵大佐 心配することはない。知事御自身の命令だ。
 警察署長 さあ、みんな待っている。
 チーチコフ 警察署長殿、一体どうして・・・私の言うこともお聞きになって・・・これはみんな敵の中傷です。・・・私は・・・神様が証人です・・・不幸な・・・いろいろ運の悪い状況が、ただ一致しただけなんです。
 警察署長 荷物を纏(まと)めろ!
(警官、手箱を縛り、トランクを手に持つ。)
 チーチコフ お願いです。トランク・・・それに手箱・・・それは全財産なんです。額に汗してやっと手に入れた・・・不動産売買契約書なんです!
 憲兵大佐 その売買契約書っていうのが、こちらに一番大切でね。
 チーチコフ(狼狽して。)ナズドゥリョーフ!(後ろを振り向く。)あっ、いない。・・・悪党め! 最低のごろつきだ、あいつは。何故私をあいつはこんな目に・・・
(警官、チーチコフを引っ立てる。)
 チーチコフ 助けて・・・監獄行きだよー・・・死刑だよー・・・
(チーチコフ、みんなに引っ立てられて退場。セリファーンとピェトゥルーシカ、顔を見合わせる。無言。)
                    (幕)

     第 十 二 場
(監獄の中。)
 語り手 ・・・鉄格子のついた窓。ボロボロで役に立たない暖房装置。これがチーチコフの住処(すみか)だ。強かった彼の精神はここで、もみくちゃにされ、フニャフニャになってしまった。金属の中でも最も強い白金でさえ、炉の中に入れられ、ふいごで吹かれ、熱をじわじわと加えられて行くと、白っぽくなり、しまいには液体に変ってしまう。それと同様、どんなに意志堅固な男でも、不幸の坩堝(るつぼ)に閉じ込められ、堪え難い火でじりじりと焼かれれば、最後には屈してしまうのだ。・・・おまけに、恐ろしい絶望的な、悲しみという蛆虫(うじむし)が、彼の心臓に纏(まと)いついた! そしてこの蛆虫は、何の防御もない彼の心臓を情け容赦なく食い尽くしたのだ。
 チーチコフ 分ってやっていた・・・そう。言い訳はしない。私は分ってやっていたのだ。真直ぐな道じゃ何も出来はしない。真直ぐよりは少しまがっていた方がいい。そう思ったんだ。それは熱心に、私はやった。何のためにだ。後半の人生を満足の行くような暮しにしたかったからだ。妻と子供を持ち、人間としての義務、国家に対する義務、を果したかったんだ! そしてそれにより、国家、或いは政府、に対する真実の奉仕を実行したかった。そのためにはどうしても、あそこまではのし上がらなきゃならなかった。血を流しても・・・血を流しても、だ。それなのに、こんな仕打ちを受けるとは! 天の正義はどこにあるんだ。もう一歩で枝も撓(たわ)わなそのリンゴの木に達し、その果実に触れることが出来るというその時に、突然、嵐。乗っていた船は木っ端微塵。何ていうことだ。私はそんな目にあって当然な悪党だとでもいうのか。私のために誰か苦しんでいる人間、不幸になった人間がいるとでもいうのか。一回裁判をやる毎に何千ルーブリとふんだくるあの卑劣な奴ら・・・国庫からくすねる訳ではないが、貧乏人から略奪し、文なしの人間からその最後の一カペイカまで剥ぎ取るあいつら。そのあいつらにはどんな苦労を、どんな辛抱を天は与えたのか。そしてその後、天はやつらにどんな仕打ちをしたっていうのだ。・・・ああ、私にはどうしてこんな・・・どうしてこんな運命を・・・(着ている燕尾服を引きちぎる。)
 語り手 シッ! シッ!
(舞台裏から悲しい音楽と歌が聞こえてくる。)
(チーチコフ、静かになり、窓の外を見る。)
 チーチコフ ああ、検事の葬儀だ。(窓のところで拳(こぶし)を脅すように振る。)町中の奴らがいかさま師なんだ。あいつらのことはよーく分っている。いかさま師の上にいかさま師が居坐っている。いかさま師をいかさま師が追い掛けまわしている。「検事、ここに永眠せり。衷心より哀悼の意を表す。実に立派な、模範的な市民だった君よ」などと墓碑銘には書いて、その実、書きたいことは「この豚野郎!」なんだ。
 語り手 ・・・人間は不幸になると冷酷になる。ついさっきまで上流社会の人々の間を、意気揚々と、機敏に飛び跳ねていた人間が、破れた燕尾服を着、血まみれの拳を振り上げて、敵の陣営に悪罵(あくば)を放っている・・・
(ノックの音。警察署長と憲兵大佐、登場。)
 チーチコフ(破れた燕尾服の襟を合わせる。)ああ、恩人様・・・命の恩人様・・・
 憲兵大佐 何が命の恩人だ。汚い、恥晒(さら)しな、いかさまを臆面もなくやりおって・・・人間の滓(かす)だ、貴様は。(書類を取り出し。)馬車大工ミヘーイェフ・・・死んでいる人間じゃないか。
 チーチコフ 申し上げます。申し上げます、何もかも、洗いざらい。私が悪うございました。確かに悪う・・・でも、そんなに悪くはないのです。私は謀(はか)られたのです、敵に。・・・ナズドゥリョーフに。
 憲兵大佐 嘘をつけ、嘘を!
(憲兵大佐、扉をぱっと開く。隣の部屋にニコライ一世の巨大な肖像画と公正標が飾ってある。(訳註 公正標とは、双頭の鷲の飾りのついた三角柱。その各面に、官庁での法規遵守についてのピョートル一世の指令が張り付けてあるもの。)貴様の罪は、公金横領だ。大罰を逃れられると思っているのか。鞭打ちの刑、そして、シベリア行きだぞ!
 チーチコフ(肖像画を見て。)あっ・・・ニカラーイ・・・ニカラーイ一世・・・駄目だ。私は死罪だ。・・・生贄(いけにえ)の狼・・・それが今の私だ。・・・そう、確かに私はどうしようもない卑劣漢です。でも陛下、私も人間です! お願いです、お助け下さい。命の恩人に・・・どうか命の恩人になって・・・そうだ、いけないのはあいつだ。後見会議院の秘書、あいつがこの私に吹き込んだのだ、あの計画を・・・悪魔だ、あいつは。人でなし、ペテン師・・・ああ・・・
 憲兵大佐(静かに。)その人を密告したいのかね? 君は。
 チーチコフ(静かに。)密告・・・ああ、お助け下さい、命の恩人・・・私は落ちるところまで落ちてしまった・・・犬のように。
 憲兵大佐 君のために我々に何が出来るというんだね? 官権を相手に戦うのかね?
 チーチコフ あなた方なら何でも出来ます。官権など私は恐くない。官権なら、私はもう、やり方は心得ています。・・・ただ、それだけの資金が、今・・・ああ、あいつが私に吹き込んだのだ。悪魔め! この私を悪い道に進むよう唆(そそのか)して・・・糞っ!・・・お願いです、どうか。今後私は必ず別の道を・・・別の生れ変った人生を・・・
 警察署長(静かに、チーチコフに。)三万だ。それで全部・・・ここにいる私、憲兵大佐、つまり、新任の知事のお目付け役に。(訳註 原文では、憲兵大佐と general-gubernator は別人として書かれている。チーチコフを騙すため、敢えて三人いるとしたのか。それならば、「ここにいる私、憲兵大佐、それに知事のお目付役に」となる。三万だから、こちらの方がいいかもしれない。)
 チーチコフ(囁き声で。)それで私は無罪に?
 警察署長(静かに。)そう。すっかり。
 チーチコフ(静かに。)しかし、失礼ですが、私に何が出来ましょう。所持品は全て・・・手箱も・・・封印されているのです。
 警察署長(静かに。)それは、今すぐお返しする・・・全部。
 チーチコフ 分りました・・・分りました・・・
(警察署長、隣の部屋から小箱を持って来る。それを開く。チーチコフ、金を取り出し、警察署長に渡す。)
 憲兵大佐(静かに、チーチコフに。)逃げるんだ、ここから。遠ければ遠いほどいい。(不動産契約書の綴(つづり)りを取り出し、破る。)
(三頭立て馬車の鈴の音が聞こえて来る。馬車止まる。チーチコフ、生き返る。)
 憲兵大佐 おい!
(チーチコフ、身震いする。)(訳註 ここ、少し不明。チーチコフがあまり陽気になるので、憲兵大佐がたしなめるのか、それとも、嬉しさのあまり呆然としているチーチコフに呼び掛ける「おい!」か。)
 警察署長 では、これで、パーヴェル・イヴァーノヴィッチ。
(憲兵大佐、警察署長、退場。)
(扉がさっと開く。セリファーンとピェトゥルーシカ、登場。心配そうな顔。)
 チーチコフ ああ、お前達・・・(小箱を指さして。)こいつを積んで・・・出発だ。
 セリファーン(元気に。)行きましょう、旦那様。さあ、ぶっ飛ばしますよ。・・・絶好の旅日和・・・用意は万端整って・・・こんな町にはおさらばです。うんざりですよ、この町は。もう見るのも厭です。トゥプルルル・・・馬ども、さあやれ!・・・ですよ。
 ピェトゥルーシカ さあ、出発です、旦那様!(チーチコフに外套を着せる。)
(三人退場。馬車の鈴の音が聞こえる。)
 語り手 ・・・まっしぐらに・・・まっしぐらに街道を。・・・最初彼は感じる力さえなかった・・・何も。そして、後ろばかりを振り返った。町から本当に去っていることを確認したくて。そして、やっと見てとった。町は既にずっと後ろにあることを。鍛冶屋の屋根も、水車小屋も・・・町の周(まわ)りにあったいろんな物すべてが見えなくなっていた。そして、石造りの白い教会のてっぺんも、地平線の下に消えていた。町はまるで記憶にさえないかのよう・・・昔々、子供の頃、どこかそんな所に行ったな、と思われるような・・・
 ああ、街道よ・・・街道。幾度私は、何もかもに倦(う)み、疲れ、自暴自棄になったことか。そしてその度に街道に出て行ったことか。その度にお前は、この私の気持を引き立てて、私を救ってくれた。お前は何度私の胸に小説の構想を湧き上がらせ、詩的空想を喚(よ)び起してくれたことか・・・
                    (幕)
   モスクワにて。一九三0年

   平成十六年(二00四年)九月十二日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html