真 実 は 銘 々 に
               ルイジ ピランデルロ 作
                 能 美 武 功   訳

     登場人物
   ランベルト・ロージシ
   フローラ夫人
   ポンザ    フローラ夫人の娘婿
   ポンザ夫人
   アガジ    県庁の総務部長
   アマリア   アガジの妻。ランベルト・ロージシの姉
   ディナ    アマリアの娘
   シレリ夫人
   シレリ
   知事
   センチュリ  警察署長
   ネンニ夫人
   チニ夫人
   アガジ家の下僕
   その他 紳士、夫人達

   ある県の県庁所在都市
   現在

          第 一 幕
(アガジ家の居間。中央奥に、玄関に通じる扉。また、右手と左手にそれぞれ一つ、扉あり。)
          第 一 場
(幕が上がると、ロージシが苛々した様子で部屋の中をあちこち歩いている。約四十歳。スマート。これといった努力もなく、優雅な様子が出る人物。紫色の背広。黒の外套。)
ロージシ へえー、じゃ義兄さんはそんな事で、知事さんのところに話しに行ったって言うのか。
アマリア (四十五歳。灰色の髪。夫の社会的地位のせいで少し尊大。しかし多くの場面で、自己をさらけ出すことを気にしないし、また、自分にだけ関係のある事柄に対しては、夫の地位を離れて彼女自身の役割を演ずる。)そうなのよ、ランベルト。態々、一介の部下のせいで。
ロージシ そりゃ部下だろうけどさ、家に帰ったらもう部下じゃないぜ。公私混同じゃないのか。
ディナ (十九歳。 父親、母親よりは物が分かっているといった顔をする。しかし、若い、生き生きした魅力で、その生意気なところが緩和されている。)だってあの人、お姑さんをこの建物の、この階に越して来させたのよ。私達のこの同じ階に。
ロージシ それもその男の勝手じゃないか。この階に偶々小さな部屋があって、義理の母親を住まわせるのに都合がいいと思えば。ははあ、それでなにか、その姑なる人物が、彼女の娘婿の上司にあたる妻と娘に、当然行うべき表敬訪問を怠っている、とこう言う訳なんだな。
アマリア 表敬訪問? とんでもない。こっちなのよ、最初に訪問したのはこっち。娘と私。それなのに玄関払い。
ロージシ 成程。それで知事殿におそれながらと訴えた訳だ。表敬訪問を何故しないのか、と。
アマリア いいえ。玄関払いの釈明よ、要求しているのは。要求する権利はある筈でしょう? 二人の婦人を玄関先に立たせておいて知らん顔なんて、許される事じゃないでしょう?
ロージシ それはしかし、職権乱用って言うやつじゃないのか。誰だって、家の中にじっとしている権利ぐらいはあると思うがな。
アマリア 貴方にだって分かってもいい筈だと思うけど・・・いい?  こっちから態々出かけて行っているのよ。遠い所から引っ越して来て、初めての土地だからと思って。
ディナ ちょっと待って、叔父さん。そんなに私達のことを責めないの。打ち明けた話も今します。それはね、私達の方が最初に行こうっていう気になったのには、慥に好奇心がちょっと混じっていたわ。だけど、その好奇心だって、当然あるのが当たり前なのよ。
ロージシ 当然。当たり前。そうだろうな。何もすることのないお前達にとって、当然なんだろう。
ディナ そうじゃないったら、叔父さん。まあ聞いて。例えばの話よ、例えば叔父さんがここにいるとするでしょう? 何も特にすることもなくぼんやりそこに坐っている。で、私がここに入って来るの。そして平気な顔で・・・いや、違うわ。そう、首吊りの刑を執行する役人みたいな顔をして・・・丁度あの男の顔みたいに・・・えーと、台所のスリッパでもいいや、そんな物をその机の上にどんと置いたら、叔父さん、どうする?
ロージシ (驚いて。)台所のスリッパ? 机の上? 呆れたね。何だい、そりゃ。
ディナ (すぐに。)ね、そうでしょう? 叔父さんだって驚くわよ。めちゃくちゃだと思って、「何だい、それは」って訊くに決まってる。
ロージシ (少し調子が狂って。笑いを唇に浮かべる。しかしすぐ立ち直り。)分かったよ、ディナ。面白い例を出して来たな。だけど、叔父さんもそう簡単には参らないよ。いいかい? 台所のスリッパを机の上に乗せる、と。だけどお前はそれを態とやってるんだ。叔父さんの好奇心をかきたてる為にね。だから「何だい、こりゃ」って言ったって、それは当たり前の筈だろう? だから問題はだ、そのポンザなる人物が・・・お前の親父の言葉で言えば、下品そのもののその男がだよ、故意に自分の姑を、この建物に住まわせたのかどうかっていう事だけじゃないか。
ディナ そうね。それは故意ではないかもしれない。でも故意じゃなくったって、好奇心をかきたてるっていう事は、叔父さんだって認める筈よ。それは変わった暮らし方をしているんですからね、その人。この町中の評判。叔父さんだって不思議がるに決まっているわ。いい? あの人、この町のはずれのはずれ、野原に面した、薄気味悪い、たかーい建物の最上階にアパートを借りたのよ。その丸い塔のような建物、叔父さん、見たことある?
ロージシ するとお前は行ったんだな。
ディナ ええ、ママと。私達二人だけじゃないわよ、誰だって見に行ったんだから。真ん中に中庭があるの。薄暗くって、井戸の底にいるみたい。そのうえーの方、最上階に、張り出しの、鉄で出来た手摺りに、紐が結わえ付けられてあって、その紐の先に篭がついているの。
ロージシ それが、どうかしたか。
ディナ (予想しない相槌で、不意をつかれて、むっとして。)そこへ自分の奥さんを閉じ込めているの。その高い所へ。
アマリア そしてお姑さんの方はこっち。私達の隣へ。
ロージシ そう。町の真ん中、奇麗なアパートにね。
アマリア ええ、奇麗ね。だけどあの人、ここに、あのお姑さんを娘と切り離して住まわせているのよ。
ロージシ そんなことどうして分かる? 母親が、その方が自由だからと、自分から一人で暮らしているのかも知れないじゃないか。
ディナ 違うわ、叔父さん。それは、あの男のせいって、誰だって知っている。
アマリア いい、ランベルト。娘が結婚した時、母親の家を出て夫の家に住む。それがどんなに遠くの町だろうと・・・それは分かるのよ。だけど娘と別れ別れになるのが厭で、一緒に引っ越して来た母親よ。それも、他に誰も知り合いがいないっていう町へ来て、別れ別れに住まなきゃならないなんて、考えられないことでしょう?
ロージシ 随分想像力の貧困な話だな。気が合わないのかもしれないじゃないか。そりゃ男のせいか、姑のせいか、欠点なんてものは他人がとやかく言える代物じゃないからね、しかしとにかく、どっちに責任があろうとだ・・・
ディナ (呆れて、途中で遮って。)ちょっと、叔父さん。気が合わないって、母親と娘で?
ロージシ 母親と娘で気が合わない?
アマリア だってお姑さんとあの男とはひどーく気が合ってるんですからね。何時だって一緒。
ディナ そう。姑と婿よ。だからみんな、呆れてるのよ。
アマリア あの男、まいっ晩、義理の母親のところへ行くのよ、ご機嫌伺いに。
ディナ 昼間だってそう。一日に一回は必ず。時には二回も。
ロージシ と言うことは、その二人の間に何かあるって言いたいのか。
ディナ 何を言っているの、叔父さん。あの人、本当におばあさん。そんなことを考えてるんじゃないの。
アマリア だけど娘を母親のところへ連れて行くことは決してしないの。奥さんは決して連れて行かない。
ロージシ じゃあ病気なんじゃないか、その奥さん。家から出られないんじゃ・・・
ディナ 違うわよ! お母さんの方は娘に会いに行くんだから。
アマリア そう。行くの。遠くから娘の姿を見るためにね。あの母親には、あそこを上がって、娘に直接会おうと思っても、それが出来ない何かの事情があるらしいわ。
ディナ 中庭のそこーの方からしか、声がかけられないの。
アマリア あの井戸の底からしかね。
ディナ 娘さんの方は上にいるの。高い高い出窓のところにいる。お母さんが中庭に入って、紐を引っ張るの。すると小さな鈴が鳴って娘さんが張り出しのところに出て来る。手摺りにより掛かって下を覗くの。お母さんがずっと下の方で、井戸の底。首が痛くなるぐらい後ろにのけぞって、上を見上げるのよ。分かるでしょう? だけど娘の顔なんかよく見える筈ないわ。だって、光が上から来ていて、眩しいんですもの。
(ノックの音。下僕、登場。)
下僕 奥様?
アマリア 何?
下僕 シレリ様ご夫妻です。ご婦人のお連れが一人と。
アマリア そう。入って戴いて。
(下僕、一礼して退場。)

          第 二 場
    (シレリ夫妻、チニ夫人、前場の登場人物。)
アマリア (シレリ夫人に。)あら、奥様!
シレリ夫人 (ポチャポチャと肥った女。浅黒い。まだ若く、地方都市特有のけばけばしい服装。好奇心でいっぱい。夫に対する時、特別に乱暴になる。)私の勝手で、チニ夫人をお連れしました。この方、是非みなさまにお近づきになりたいと仰って。
アマリア 始めまして、奥様。どうぞお坐り下さい。(家族の者を紹介する。)娘のディナ、弟のランベルト・ロージシ。
シレリ (約四十歳。禿げている。下の髪を上げて、ポマードで固めている。テカテカに光っている靴。歩くとキュッキュッと音がする。シレリ、一礼。)やあ暫く。
(シレリ、ロージシと握手。)
シレリ夫人 私達、砂漠でオアシスを求める気持ちで参りましたのよ、奥様。もう知りたくて、知りたくて。
アマリア お知りになりたい? 何をですの。
シレリ夫人 決まっているじゃありませんか。 あの新任の総務課長さんについてですわ。町中あの噂でもちきり。
チニ夫人 (馬鹿な老女。本当は好奇心のかたまりだが、それを体よく隠している。)私達、それはもう知りたくて知りたくて。
アマリア 私達、それほど知っている訳ではありませんわ。皆様のご存じ以上の事は何も・・・
シレリ (妻に。それ見たことか、と言わんばかりに。)そら見ろ。言わんこっちゃない。そんなには分かっとらんのだ。ひょっとするとこの私の方が詳しいかもしれん。(他の人々の方に向き。)例えばこの母親なる人物が、何故娘の家に入れないのか、その本当の理由をご存じかな?
アマリア そう。丁度そこのところを今弟に話して聞かせようとしていた所なんですの。
ロージシ これは呆れたな。町中この話で頭がおかしくなってるんじゃないか。
ディナ (他の人が叔父の言葉に注意を払わないよう途中で遮って。)あの男が禁じているからでしょう? あのお婿さんが。
チニ夫人 (呻くような声で。)それより酷いのよ。
シレリ夫人 (輪をかけた言い方。)ずうっと酷いの。
シレリ (注意を喚起する為に片手を上げて。)これは確かな証拠のある、全く新しい情報ですぞ。(言葉を切りながら。)鍵をかけて閉じ込めとるんだ。
アマリア 義理の母親を?
シレリ いいえ。自分の妻をですよ。
シレリ夫人 自分の妻、妻をですよ。
チニ夫人 (さっきと同じ呻き声。)鍵を掛けて!
ディナ 聞いた? 叔父さん。叔父さんがいくら弁護しようとしたって、これじゃあ・・・
シレリ (驚いて。)弁護? 君はあれを弁護しようって言うのか? あのけだものを。
ロージシ 別に僕は弁護するなんて言ってやしないさ。その出歯亀根性・・・いや、これは失礼、ご婦人方・・・その好奇心、は、的はずれだと言いたいんですよ。まあ、無駄と言うか・・・
シレリ 無駄?
ロージシ そう。無駄・・・無駄だな。
チニ夫人 知ろうとすることが無駄?
ロージシ 知ろうとしたって、何が分かりますか。またどうやったら分かるっていうんですか、他人のことが。相手が何者であるか、どういった人物なのか、何をしているのか、またどうしてそんな事をするのか・・・
シレリ夫人 それは、その人に直接訊いたり、その人のことをよく知っている人から話をきいたり・・・
ロージシ 成程。その人のことをよく知っている人・・・情報通・・・そんな人が近くにいればいい訳だ。奥さん、奥さんみたいな人は幸せだ。すぐ傍に旦那様みたいな最高の情報通がいらっしゃるんですからね。
シレリ (途中で遮ろうとして。)君! 君、君。
シレリ夫人 (夫に。)貴方! (ロージシに。)そうなんですのよ。仰せの通り。(アマリアに向き。)情報通、本当に。でも自称情報通と一緒に暮らすって事が、どういう事かお分かり? 何も分からないっていう事ですわ。
シレリ 当たり前じゃないか。こっちの言う事をいちいち疑ってかかりゃ、そうなるに決まってる。「まさか、そんな事はないでしょう、貴方。」「あら、それ、逆よ。考えが逆さま。」始めからこの頭で来られちゃ・・・
シレリ夫人 だってそうじゃない。この間だって・・・
ロージシ (大声で笑う。)はっはっは・・・お許しを戴いて、ご主人に私から答えさせて戴けませんか。(シレリに。)君はね、奥さんに何時も、君が見た儘、君が見た通りを話して聞かせるんだ。そうだろ? だけどそんな事を君の奥さんが本当にすると思うのは、大間違いなんだよ。
シレリ夫人 そう。何時だってとんでもない、ありえない話!
ロージシ ああ、奥さん、そこは間違っています。 旦那さんにとっては・・・いいですか、ここが大切なんです。旦那さんにとっては、ありうる話なんですよ。
シレリ そうだよ、ありうるどころか、その通りなんだ。その通り。
シレリ夫人 とんでもない。何時だって大間違い。
シレリ 何を言ってるんだ。違ってるのはそっちじゃないか。
ロージシ まあまあまあ。お二人とも間違っている訳じゃないんです。いいですか、ちょっと今お二人とも間違っていないっていう事を実験で示してみましょう。いいですね。(立ち上がり、居間の中央に行く。)お二人とも、私が見えますね。見えるでしょう?
シレリ 当たり前だ!
ロージシ ちょっと待って。そう簡単に私の言うことに賛成しないで。いいですか? 見えるかどうか、さあ、こっちに来て、こっちに。
シレリ (ひっかけられるのを用心するかのように、にやにや笑いながら、見ているだけ。)何をするんだ。
シレリ夫人 (シレリに。苛々した調子でシレリを押して。)行ったらいいでしょう!
ロージシ (おそるおそる近寄って来たシレリに。)見えますね、僕が。さあ、よーく見て。触って。
シレリ夫人 (迷っている夫に。)触りなさいよ、言われている通り。
ロージシ (シレリが指の先でちょっと自分の肩に触れるのを見て。)よーろしい。いいぞ。君は僕をちゃんと見て、ちゃんと触った。そうだな?
シレリ うん、まあ。
ロージシ えらく自信のない答だな。だけど疑う訳にはいかない。触ったんだ。よし、これでお仕舞い。自分の席に戻って。
シレリ夫人 (訳も分からず茫然と立っている夫に。)何をぼんやり突っ立ってるのよ。もうすんだの。帰りなさい。
ロージシ (夫が居心地悪そうに自分の席に戻るのを見て、シレリ夫人に。)じゃあ今度は奥さん、貴女こちらにいらして。どうぞ。(それから、訂正する。)いやいや、その儘、その儘。今度はこちらから参りましょう。(ロージシ、シレリ夫人の前に行き、片膝をつく。)僕が見えますね。さあ、そのお美しい手を上げて、僕に触って下さい。(シレリ夫人、坐った儘、片手をロージシの肩に置く。ロージシ、それを手に受け、屈んでキスする。)ああ、可愛い手。
シレリ おいおい!
ロージシ あんな人なんか、ほっといて! 奥さんも自信ありますね、僕のことを見て、そして触ったっていうこと? 疑いはしませんね。だけど奥さん、貴女にどう見えたかは決して言っちゃいけませんよ。この人達に、つまり、貴女の旦那さんにも、私の姉にも、姪にも、エート・・・
チニ夫人 (ロージシに囁く。)チニです。
ロージシ チニ夫人にも。どうしてかって? そりゃ、この四人とも、貴女が間違っているって言うに決まっているからですよ。間違っちゃいないんですけどね、貴女にそう見えたっていうことは。ま、そうは言ったって、いいですか、この四人・・・旦那さん、私の姉、姪、エー・・・
チニ夫人 チニです。
ロージシ チニ夫人・・・が、ある見方で見えたって話すその話も、みんな本当なんですがね。
シレリ夫人 そうすると、貴方自身が人によって変わるっていう事ですの?
ロージシ そりゃそうですよ。僕は人によって変わるんです。奥さん、貴女は変わらないと仰るんですか。
シレリ夫人 (すぐに。)私? 変わるもんですか。私にとっては、私は私一つしかありませんわ。
ロージシ それは僕にとっても同じです。僕にとっては、僕は一つ。でもね、僕にとっての僕をそのように見てくれなかった時、貴女は間違いだって僕は言うんです。もっとも僕が僕を見る見方、それも想像に過ぎません。丁度奥さん、貴女が僕を見る見方、それが想像に過ぎないのと同じようにね。
シレリ 何だい、一体、この手品は。手品だけあって、結論も何もありゃしないじゃないか。
ロージシ へえー、これで結論が分からないって言うのか? 本当かい、おい。諸君があんまり本当の事、本当のもの、を知りたいって言ってるから、その正体を説明したつもりなんだがね。
シレリ夫人 そうすると、貴方の御意見によれば、人は決して真実を掴めない、っていう事になるんですのね。
チニ夫人 自分が見たもの、自分が触ったものでも信じられないっていうんじゃあねえ。
ロージシ いやいや、それは信じるしか手はないですよ。真実じゃないかも知れませんがね。ただこれだけは言えます。他人が見たもの、触ったもの、その話を尊重するべきだって事です。たとえそれが自分の考えとはまるで逆の時でもね。
シレリ夫人 分かりました。こんな話はもう沢山。聞く耳持ちませんわ。気違いになりたくはありませんからね。
ロージシ ああ、そりゃそうだ。この話はこれでお仕舞い。どうぞどうぞ、さっきの話を。フローラ夫人とその婿ポンザ課長の話でしたね。もうお邪魔はしませんよ。
アマリア やっとお仕舞い? やれありがたや、だわね。ランベルト、貴方、あちらに行ってらっしゃい。
ディナ そうよ、叔父さん。あっち行って、あっち。
ロージシ 追い出すのは止めてくれよ。話を聞くのは楽しいんだ。もう口はきかない。約束する。時々は一人でクスクス笑いをするかもしれないがね。笑い声が少し大きくなっても、それは許して貰わなきゃ。
シレリ夫人 やっとこれで。随分時間の無駄使い。そうそう、そう言えば、貴方の旦那様、このポンザとかいう男の上司なんですってね。
アマリア ええ、そりゃ役所ではそうですけれど、家に帰れば・・・
シレリ夫人 ええ、まあ、それは・・・でも、そのお姑っていう人に会いには? だってその人、この同じ建物に住んでいるんでしょう?
ディナ 行きましたとも! 二度も。
チニ夫人 (飛び上がる。それから好奇心いっぱいの様子で。)ええっ? それで、それで・・・お会いになったの?
アマリア 娘と二人、玄関払いでしたわ。
シレリ、シレリ夫人、チニ夫人 えっ? 酷い話!
ディナ 今朝だって・・・
アマリア 最初の時は、十五分も玄関のところで待ってましたのよ。扉さえ開けてくれませんでしたわ。ですから勿論、名刺も置いて来られませんでしたし・・・で、今日また行きましたの。
ディナ (両手を上げて「恐ろしい」という仕草。)あの男。扉を開けたのは。
シレリ夫人 なんていう顔でしょう。恐ろしい顔! 町中の人があの顔に震え上がっているわ。それにあの黒い服。何時でもあれ。そう言えば三人とも黒なのね。慥かあの男のつれあい、ほら、たかーい所にいるあの女も・・・違う?
シレリ (苛々しながら。) あの女は誰も見たものがいないんだ。何度言ったら分かるんだ。しかしまあ、あれも黒だろうな。あの三人、マルシカの小さな町からやって来たんだから・・・
アマリア そう。そこの町、町ごと崩壊・・・
シレリ そう。完全に崩壊。この間の大地震で。あの三人、親戚という親戚は全員亡くしてしまったという話。
チニ夫人 (会話の筋を失うまいと。)ええ、それで・・・それで、その男が扉を開けて?
アマリア ええ、そう。扉が開いたわね。それで私達、「お姑さんにご挨拶に参りました。」って言おうとしたのよ。でもあの男の顔・・・言う勇気がなくなったわ。あの男からは勿論有難うの一言だって、ありはしない。
ディナ それは違うわ、ママ。少しは頭を下げたわよ。
アマリア あれでも下げたうち? 頭をこっくりさせただけでしょう?
ディナ それにあの目。何、あれ。人間の目じゃないわ。けだものの目ね。
チニ夫人 (会話の筋を失うまいと。)で・・・それであの人、なんて?
ディナ 妙なのが入って来たな、っていう顔で・・・
アマリア とりつくしまのない調子で言うの。「母は病気です。御来駕、誠に感謝いたします。」その儘玄関に突っ立って、早く帰れと言わんばかり。
ディナ 失礼ったらありゃしない!
シレリ これはけしからん。そうだ、さっきの鍵の話、これは細君に対してだけじゃない。きっと姑も鍵を掛けて閉じ込めているんだ。
シレリ夫人 なんて生意気なんでしょう。上司の奥さんじゃありませんか。その人に対して、何てこと。
アマリア ええ、そのことでは宅もひどく憤慨したんですの。 礼儀を弁(わきま)えないにも程がある、と。で、今日早速知事さんのところへ話しに行きましたわ。なんとか上司としての体面だけは保ちたいと。
ディナ あら、パパだわ。丁度帰って来た。
          第 三 場
   (前場の登場人物、アガジ。)
アガジ (五十代。髭も髪も、もじゃもじゃの赤毛。 金縁の丸い眼鏡。権柄づくで、怒り易い。)ああ、シレリ、来ていたのか。(長椅子に近づき、一礼。シレリ夫人と握手。)奥さんも。
アマリア (チニ夫人に夫を紹介する。)夫ですの・・・チニ夫人。
アガジ (一礼。握手する。)始めまして。(それから、妻と娘の方に向き、一種の厳かさをもって。)暫くしたらフローラ夫人が来る。
シレリ夫人 (手を叩く。喜んで。)まあ、あの人、本当に来るのね。
アガジ 当たり前です! 妻や娘があんな侮辱を受けて、そのまま黙っているような男と思いましたか、この私が。
シレリ そう。黙って引き下がるなんてあり得ない。と、丁度話していたところなんですよ。
シレリ夫人 その時がいい機会じゃなかったのかしら、知事さんに・・・
アガジ (途中で遮って。)町中で噂になっているこのけだものの話をする? ご心配はいらない。ちゃんとやって来ましたよ。
シレリ それはよかった。それはよかった。
チニ夫人 そう、ほんと。こんな話ってあるものじゃない。考えられない話だわ。
アマリア けだもの。この言葉がぴったりね。貴方、この男、女二人を鍵をかけて閉じ込めているらしいのよ。
ディナ ママ、お姑さんの方はどうか、まだ分かってはいないのよ。
シレリ夫人 でも妻に鍵を掛けている、これは確かよ。
シレリ で、知事さんは何と言われましたかな。
アガジ エー、まあ・・・その、知事さんも・・・なんだな、いたくそのー・・・関心を示されて・・・
シレリ やっぱり!
アガジ 何か噂を聞かれたとかで・・・エー、それから、この謎は何とかして解明して、真実を突き止めねばと・・・
ロージシ (大声で笑い出す。)はっはっは。
アマリア こんな大事な時に笑うなんて。
アガジ 何が可笑しいんだ、こいつは。
シレリ夫人 どうやったって真実は見つからない。そういう考えなんですの、この方。

          第 四 場
  (前場の登場人物、下僕、次にフローラ夫人。)
下僕 (扉のところで、来客を告げる。)フローラ夫人です。
シレリ ああ、やっと。
アガジ 真実がみつかるか、見つからないか、すぐ答が出るんだ、ランベルト。
シレリ夫人 そうだわ。ああ、待ち遠しい。
アマリア (立ち上がりながら。)入って貰いましょうか?
アガジ 待って。 みなさん、どうぞ、坐って。心構えをして。坐って、坐って。(下僕に。)さあ、お通しして。
(下僕、退場。 暫くしてフローラ夫人登場。全員立つ。フローラ夫人は優しく、控えめで、周囲に気を配る老
女。目つきに悲しさが溢れているが、唇に常に現われる微笑のせいで、それが少し緩和されている。アマリア立
ち上がって彼女を迎え、片手を差し出す。)
アマリア よくいらっしゃいました。どうぞ、どうぞ。(手を取ってみんなの紹介をする。)シレリ夫人、チニ夫人、夫のアガジ。シレリさん、娘のディナ、弟のランベルト・ロージシ・・・どうぞお坐りになって。
フローラ夫人 私(わたくし)、ここへ越して参りましてから、頭がすっかり混乱して、今の今まで、当然果たすべき義務を怠っておりました。本当に申し訳ございません。奥様は態々ご親切にも私の家までお運び下さいました。とんでもない、もったいないことでございます。わたくしの方こそ、いの一番にこちらにお伺いせねばならないところでございますのに。
アマリア そんなお堅いことを。ご近所同志じゃありませんか。私どもはただ、この知らない町に越していらして、たったお一人、何かご不自由なことでもおありでは、と思ったのでございますわ。
フローラ夫人 本当にご親切に。有難うございます。
シレリ夫人 この町にはお一人で?
フローラ夫人 いいえ、娘がおりますの。結婚しておりますが。それもつい先日越してまいりましたわ。
シレリ その娘さんのご主人にあたる方が、この県の総務課長、ポンザさんなんですね。
フローラ夫人 さようでございます。どうぞ、総務部長様、わたくしの非礼を、そして私の娘婿の非礼をお許し下さいますように。お願いでございます。
アガジ 打ち明けたところを申しますとね、奥さん、私は少し不愉快だったのです、その・・・
フローラ夫人 (遮って。)そうでしょうとも、それが当然というものですわ。でも、どうぞあれを許してやって下さい、お願いでございます。あの大災害、あの不幸で、私どもは気も転倒してしまったのでございます。
アマリア そうでしたわ。大惨事でしたわね。
シレリ夫人 親戚を亡くされたのですか。
フローラ夫人 一人残らずですわ、奥様。私どものあの小さな町で、残っているものは何もないという有様ですわ。あたり一面焼け野原、そこここにポツポツと建物の残骸があるだけ。
シレリ ええ。それは知っています。
フローラ夫人 わたくしの親戚は多くはありませんでした。妹とその娘、二人だけだったのです。娘は未婚でしたし。でも、婿にとっては、それは大変な事でした。母親、二人の兄、連れ合いがいましたが、その二人とも。それから妹が一人、その連れ合い。甥が二人おりましたが、その二人とも。ですわ。
シレリ これは酷い。死人の山だな。
フローラ夫人 とても忘れる事など出来ない惨事、一生ついて回る不幸、ですわ。すっかり打ちのめされて。
アマリア 本当にそうでしょうね。
シレリ夫人 それも何秒かの出来事、気違いになってもおかしくないわ。
フローラ夫人 自分で自分の考えが分からなくなる程でした。人様とのお付き合い、当然しなければならない御挨拶、こういうことも全く忘れて・・・
アガジ 分かりました。もうその話はよしましょう。
アマリア 娘と私、私達二人でこちらからまづお宅に伺いましたわね。それは、皆様のそのご不幸のことを思ってなのでしたけれど・・・
シレリ夫人 (興奮して。)そうなの、そう思うのが当たり前でしょう?  ここにたった一人で来て・・・こんなこと、お尋ねして随分不躾(ぶしつけ)ですけれど、でも、娘さん、この町にいらっしゃるんですわね。で、あんな不幸なことがあった後なんですもの・・・(出だしの勢いが急になくなって、詰まりながら。)その・・・生き残った者は少なくとも・・・一緒に暮らしたいって思うのが自然なんじゃないかしら・・・
フローラ夫人 (気まずさを救うように、後を引き取って。)それなのに何故、わたくしが娘と離れて一人でここに?
シレリ そうです。正直の話、何か奇妙に見えますな。
フローラ夫人 (悲しそうに。)ええ、ええ。その疑問はもっともですとも。おかしいとお思いになるのは無理ありませんわ。(何か適切な説明を捜そうと努力している様子。)でも、娘とか息子が結婚すれば、新夫婦二人だけで暮らさせるのがよいのではありませんかしら。
ロージシ そうだ、それはそうだ。 どうしたって今までとは違った暮らし方になるからな。新しい連れ合いとの、新しい関係、それがあるんだ。
シレリ夫人 でも、その新しい関係に、自分の母親を含めてはいけないっていう話にはならないでしょう?
ロージシ 含めてはいけない、なんて言ってはいないさ。これは母親がどう考えるか、なんだ。娘は新しい関係に入るのだ。このままずるずるっと娘を過去の絆に縛っておいてはいけない、と母親が考える、そういう場合には、っていうことだよ。
フローラ夫人 (感謝の気持ちでいっぱい。) そうなんですわ! その通りなのです。有難うございます、貴方。それがぴったり、わたくしの考えなのですわ。
チニ夫人 でも娘さんは、お母様に会いには来られるんでしょう? しょっちゅう。
フローラ夫人 (困り果てて。)ええ、ええ。私達は、会うんですのよ、勿論・・・
シレリ (突然。)だけど、娘さんは自分の家を出たことなんかないじゃありませんか。いや、少なくとも、町中の誰も、娘さんの外出姿を見たことがないっていう意味ですが。
チニ夫人 お子様達にかかりっきり?
フローラ夫人 いいえ、子供はないのでございます。これからもきっと、子供は無理ですわ。結婚してもう七年。それでいませんから。勿論、家事などいろいろあって、でも、外に出ない本当の理由は・・・(悲しい顔をして微笑する。それから別の説明を捜すかのように。)私どもの田舎では、女っていうものは、自分の家をあまり出ないことになっているのです。
アガジ でも娘さんに奥様の方から自分で会いに行ってらっしゃるのでしょう?
フローラ夫人 (勢いよく。)そうなんですの。一日に一度、いえ、二度行く時もありますわ。
シレリ  すると一日に一度、いや二度も、あの高い建物の最上階まで階段を上がって行かれるという訳ですかな。
フローラ夫人 (困惑して。この質問の厳しさを冗談に紛らそうと。)いいえ、上がっては行きませんわ。呆れたって顔をなさるのも無理ありません。でも、階段は上がらないんです。張り出しのところから、娘が顔を出してくれます。それで顔も見られますし、話もできるのですわ。
シレリ夫人 そんなに遠くから? それ以上は近くには来られないのかしら。
ディナ (片方の腕を母親(アマリア)の首に回して。)私だったらママに九十段も百段も階段を登って貰うような事はしないわ。それにそんなに遠くから顔を会わせるだけで満足もしないわ。キスだって、お互いに触れ合うことだって出来ないじゃない。
フローラ夫人 (本当に困って。)それはお嬢さまの仰る通り。ちゃんと説明しないわたくしがいけないのですわ。このままでは娘がわたくしにつれないことになってしまいます。いいえ、あれはわたくしに愛情を持っています。思いやりを持ってくれています。それにわたくしだってそうですわ。わたくしにしたって、九十や百段の階段がどうして障害になりましょう。いくらわたくしが年寄で疲れるからといって、そのちょっとの辛抱さえすれば娘をこの胸に抱きしめる事が出来る、その喜びがあることを思えば、階段など何でもありませんわ。
シレリ夫人 (勝ち誇ったように。)やっぱりね。やっぱりだわ、奥様。何か理由がなくちゃ。そう、こちらでは話していた所でしたのよ。
アマリア (ランベルトに。)ほら、見てご覧なさい、ランベルト。やっぱり理由があるんじゃないの。
シレリ (すぐに。)あの婿殿のせいですな。
フローラ夫人 いいえ、いいえ。あの人を悪く言わないで下さい。お願いです。あれはいい人なのです。どれほどいい人か、とても御想像もつかない筈ですわ。わたくしに対する敬意、優しさ。娘に対する愛情、思いやり。娘にあれほど立派な婿が来たなんて、信じられないほどなのです。
シレリ夫人 じゃあ、じゃあ・・・
チニ夫人 じゃあ、禁じているのはあの人じゃないってこと?
アガジ 当たり前だ。今の話を聞けば、とても信じられるもんじゃない。娘に、母親に会うな、だとか、母親に、一目でも娘に会っちゃならん、だとか言えるとは、到底思えん。
フローラ夫人 会ってはならない、そんなことではありません。あの人が禁ずるなんて、そんな。違うんです。わたくし達なんです。娘とわたくし。こちらの方が自分から、会わないようにしているのです。あの人の為に。
アガジ 何故なんだ。親子が会う。その何が気にいらないのだ。
フローラ夫人 いいえ、部長様。気にいらないだなんて、それは違います。あれの気持、それは確かに分かり難いものです。ですけれども、もしそれが分かってしまえば、誰だってあれを非難できない筈です。娘とわたくしが現在負っている犠牲、それがどんなに大きいものであっても、仕方がないとお思いになるに決まっています。
アガジ 奥さん、それはひどく奇妙な話ですぞ。今のその話は。
シレリ 陰に回って会わせないようにする。何か問題・・・法的な問題とも言えるんじゃ・・・
アガジ そうだ。一種の人権侵害だ。
フローラ夫人 人権侵害? あの人が? とんでもない。とんでもないです、部長さん。どこが侵害ですか。
アガジ いやいや、まあ、心配せんでよろしい。ただ私は、そういう風に言う人間もいるかもしれんと言ったまでで・・・
フローラ夫人 いいえ、いいえ、人権侵害だなんて。私どもはこれで了解済みなんです。娘と私はこれで良いと心から思っているのです。
シレリ夫人 会わせたくない・・・それは嫉妬のせいなんですか?
フローラ夫人 嫉妬? 妻の母親に対して? いいえ、あれを嫉妬と呼ぶことは出来ませんわ。嫉妬・・・嫉妬ではありません。むしろ・・・いえ、言ってみれば、自分の妻の心を自分一人で持っておきたい。勿論妻が自分の母親を愛する、その愛は認めたとしても・・・でも、その愛もあの人を通して、つまりあの人の心を通じてかよいあって欲しいと・・・
アガジ しかし、それは随分残酷な話ですぞ、その話は。
フローラ夫人 いいえ、いいえ、部長さん。残酷だなどと。どうかそんなことは仰らないで。まるで違うことなのです。はっきり御説明できなくて・・・えー、それはあの人の性格なのです・・・いいえ、ああ、何て言えば・・・ああ、そうです、一種の病気です。病気なんです。溢れるようなあの愛情・・・そして何者の容喙も許さない・・・そう、他人が嘴(くちばし)を入れることを許さない愛情なのです。ですから、あの人は妻がその愛情から外へ出ることを好まない。他人がそこへ入ってくることを禁じているのです。
ディナ 奥さんの母親でも?
シレリ それは利己主義だ。エゴイズムですな。
フローラ夫人 エゴイズム、そうかもしれません。しかし、それだけによけい愛する者のためには総てを抛(なげう)つのです。制限なしにです。娘がそのように愛されて、幸せでいるということを知りながら、その生活にもしわたくしが無理矢理割り込もうとするなら、それはわたくしの方が実はエゴイズムということですね。 娘の幸せ、それで母親には充分なのではないでしょうか。それにわたくしがあの子に会いに行く、そしてあの子に話し掛ける、すると ・・・ (微笑んで、内緒事をこっそり打ち明けるように声を落として。)わたくしの合図で篭が下りて来るのです。その中には手紙があって、いつもその日の出来事が書かれているのです。それでわたくしには充分ですわ。もうすっかり慣れてしまいました。諦めたとも言えましょうか。とにかくこの事でわたくしは辛い思いをしてはいないのです。
アマリア それでお二人が幸せだと仰るのなら・・・
フローラ夫人 (立ち上がりながら。)ええ、それはもう。先程も申し上げた通りですわ。あれは本当にいい人なんです。あれぐらいいい人はいないんです! それは誰だって欠点はありますわ。ですから、他人の欠点は大目に見てやらなければ。(アマリアに一礼。)ではご免下さい。(次にシレリ夫人、チニ、ディナにも一礼。最後に振り返ってアガジに。)お許し戴けましたでしょうか、わたくしの非礼を。
アガジ 何を仰る。いや、来て戴いてよかった。
(フローラ夫人、シレリとロージシに一礼。次にまたアマリアの方を向き。)
フローラ夫人 いえ、いえ。どうぞお構いなく。分かっておりますから。
アマリア いえいえ。玄関までは私・・・
(フローラ夫人、アマリアに付き添われて退場。暫くしてアマリア戻る。)
シレリ どうですか、皆さん。あの説明で納得がいきましたか。
アガジ 説明? あれが説明か。謎じゃないか。
シレリ夫人 可愛そうに、あの人。娘婿に苛められて。
ディナ それにあの娘さんも。
(沈黙。)
チニ夫人 (涙を隠すため、部屋の隅っこにいたが、締め殺されるような声で叫ぶ。)可哀相! あの人、涙なしでは話せないのよ。
アマリア そうだった、あの時・・・九十や百の階段がどうして障害になりましょうって言った時・・・
ロージシ 人権侵害だと婿のことを言われて、それを庇(かば)おうとした時のあの態度、あれに僕は心を打たれたなあ。
シレリ夫人 そうよ。あの人、どうやって庇ったらいいのか、言葉がないっていう風だったわ。
シレリ 何を庇おうとしているんだろう。乱暴狼藉を働くのか、あの男が。

           第 五 場
     (前場の登場人物、下僕、次にポンザ。)
下僕 (扉に登場。)旦那様、只今ポンザ様がお見えで、お目にかかれないかと。
シレリ夫人 まあ!
(全員驚き。好奇心、心配もあるが、恐怖の感情もあり。)
アガジ お目にかかれないか、だと?
下僕 はい、さようで。そのようにお取次を、と。
シレリ夫人 入って戴きましょうよ、部長さん。少し怖いけど私、見てみたいわ、そのけだもの。
アマリア でも一体何の用なんでしょう。
アガジ すぐ分かるさ。さあ、坐って、坐って。ちゃんと坐ってなきゃ駄目だ。(下僕に。)お通しして。
(下僕、一礼して退場。ポンザ登場。浅黒く、ずんぐりしている。顔がいかつく、恐ろしい。喪服。髪は硬く、黒い。額が狭く、黒い大きな鼻髭。拳を握ったり開いたりして話す。あたかも内から沸いてくる暴力を抑え込もうとするかのような動作。時々黒い縁のあるハンカチで額の汗を拭う。話す時の目は一点を見つめ、暗く、固い。)
アガジ さあさあ、どうぞ、ポンザ君。(彼を紹介する。)総務課長のポンザ君だ。これが妻。シレリ夫人。チニ夫人。娘だ。シレリ君。弟のランベルト。さあ、座って。
ポンザ 有難うございます。皆様のお邪魔になることは、私の本意ではありません。すぐに失礼をいたします。
アガジ 私だけが聞くべき話なのかな? どうなんだ。
ポンザ いいえ。出来れば皆さんの前で・・・いや、出来ればではなく、皆様に聞いて戴くのが私の義務と考えております。
アガジ 君の義理の母親が、表敬の訪問をしなかったという、あの話ならもう・・・
ポンザ いいえ、部長。それは逆なのです。表敬訪問・・・あの、私の義理の母親、フローラ夫人、が、ここに来るということ、そのことが逆に、失礼なことなのです。私が放っておけば、あれは何はさておいてもここにやって来たでありましょう。勿論、奥様、お嬢さまの、宅へのご訪問よりはるか以前に。義母(はは)のそのような訪問が失礼にあたるからと、私が万全をつくしておったからこそ、ここまで避けて来られたのです。
アガジ (呆れて。)何が失礼なんだね、母親の訪問が。
ポンザ (自分を抑えようとするが、顔色がだんだん変わってくるのを止められない。)あの私の母親は、自分の娘のことをここで話しましたね。 私の妻にあれが会うことを、私が禁じているのだ、と。階段を登って、部屋に行くのを禁じていると。
アマリア いいえ、そんなこと。あの方は、それは気を遣って話しておられたわ、貴方のことを。
ディナ そうよ。課長さんのことを良かれとしか。
アガジ 自分の娘の部屋まで上がって行かないのは、君から禁じられているからじゃなく、自分から抑えているんだとな。君とひと悶着起こしたくないかららしい。正直言って我々は、この話は理解できない。一体君が何故・・・
シレリ夫人 正直なところを申しますとね、課長さん。これはあんまりだと・・・
アガジ そうなんだ。これはつまり、残酷なことだぞ。これは残酷なんだ!
ポンザ 部長、私はまさにその事をご説明にまいったのです。あの、哀れな女の現在の状態は、大変いたわしいものであります。が、しかし、ここではっきり申し上げますが、私自身の現状もそれに劣らずいたわしいものであります。何となれば、私の場合、どんなに自分の不幸を皆様の前に説明したくとも、それは無理だからです。ただ・・・ただ今回のこのような事態・・・この暴力的な私への強制・・・これがある場合は致し方がありません。私も事ここに到っては、申し上げる他はございません。(ここでちょっと間を置き、そこにいる一人一人を順に見る。そして、ゆっくりと音節を切って。)フローラ夫人は、気違いなのです。
全員 (跳び上がる。)気違い?
ポンザ 四年前からです。
シレリ夫人 (金切声。)あらー。でも、そうは見えなかったわ。
アガジ (呆れて。)気違い? 何だ、それは。
ポンザ そうは見えないでしょう。しかし気違いなのです。そして、その狂気はどこに存するか。あれの娘に会わせたくないだとか、あれの娘を閉じ込めているとか、思っていることに存するのです。(突然怒鳴る。あたかも抑えることが出来ない、強い感情の虜(とりこ)になったかのように。)娘とは一体何なのだ。四年前にあいつは死んでいるじゃないか。
全員 (驚いて。)死んでいる? ええっ? 何だって? 死んでいる!
ポンザ 四年前です。その時から狂ったのです。
シレリ じゃあ、あの一緒に住んでおられるあの婦人は?
ポンザ 私は二年前に再婚しました。あれは私の二度目の妻です。
アマリア それであの方は、まだ自分の娘だと?
ポンザ そうです。(運悪く、母にとっては運良く、と言うべきか。あれはその機会に巡り合ったのです。)娘が亡くなり、悲嘆にくれて、少しおかしくなった母親を、我々は一室に監禁しました。ある時、私は二度目の妻とその前を通りかかったのです。母は跳びだして来ました。目の前にいるその女が、生き返った自分の娘だと思ったのです。母は大声で笑いました。全身を震わせて。子供に先立たれて落ち込んでいた絶望の淵から、突然救い上げられたのです。そして次は狂った喜びです。さて、一時期の高揚、我を忘れた喜びが終わると、落ち着きを取り戻して来ました。少しづつ、一種の諦めの状態に入って行ったのです。娘に会わせろと荒れる事もなくなりました。皆様ご覧になったように、それで満足しているようにも見えます。娘が死んだとは相変らず信じてはいません。ただ、私の我儘のせいで、自分の妻をどうしても独り占めして置きたいという私の我儘のせいで、自分の娘には会えないのだ。そう思っています。一見狂気は治っているように見えます。普通に話しているのを聞く限り、気違いだとは決して見えません。
アマリア ええ、それは。見えませんとも。
シレリ夫人 そう言えば、「これで満足しているのですわ」って言ってた。
ポンザ あれは誰にでもそう言っています。 実際私に対しては、愛情と感謝の気持を持ってくれているようです。口はばったいようですが、当然とも言えましょう。私は全力を上げて、非常な犠牲をも払って、姑に尽くしているのですからな。私はお陰で、家計を二つ維持せねばなりません。幸いにも妻は、私の要請に応えてくれ、あれの娘である振りをしてくれています。姑の精神の安定の為です。妻は張り出しから体を乗り出し、あれに話し掛け、手紙を書いてくれています。しかし皆さん、物には限度というものがあります。義務と慈善にしたってそうです。私は妻に、あれと一緒に暮らしてくれ、とはとても言えません。可哀相に、妻は囚人のような生活を送っています。いつも扉には鍵を掛けておかねばならないのです。ひょっとして姑が、あの階段を上がり、扉を開けないとも限らないからです。勿論姑の狂気は穏やかなものです。おまけに優しさに満ちている。しかしその優しい表情で、妻に近づき、抱きしめる時の妻の恐怖をご想像願いたいのです!
アマリア (恐怖と哀れみで飛び上がり。)可哀相な奥さん! なんて恐ろしい!
シレリ夫人 (夫に、そしてチニ夫人に。)そうよ、奥さん、ご自分で鍵を掛けていらっしゃるのよ、ね?
ポンザ (これで必要な話は終わった、という態度で。)これでお分かり戴けたと思います、部長、どのように強制されましても、私が姑の訪問を何故差し止めたか、その理由が。
アガジ 分かった。うん、今納得した。無理もない話だ。
ポンザ このような通常では考えられない不幸、その犠牲になっている人間は、他との付き合いを避けるべきものなのです。姑をこちらに伺わせることを余儀なくされ、私も先程の話を致しました。繰り返しでありますが、次のことを申し上げます。私が現在置かれているこの総務課長という地位、これに照らしても、私は妙な誤解は受けてはならないのであります。即ち、嫉妬であるとか、その他理屈に合わない様々な理由から、娘を姑に合わせないようにしている、などという誤解であります。(立ち上がる。)大変お騒がせして申し訳ありませんでした。(一礼。)では、部長。(シレリとロージシに軽く会釈。)では失礼。
(ポンザ、奥の扉から退場。)
アマリア (茫然として。)何ていうことでしょう。気違い・・・あの人、気違いだったんだわ。
シレリ夫人 可哀相に。気違いなんて。
ディナ だからだったのね。自分は母親だと思っていて、娘さんの方は・・・(ぞっとなって、両手で顔を隠して。)酷いわ!
チニ夫人 でもとてもこんなこと、見抜ける訳がないわ!
アガジ うん、確かにあの姑の話しっぷり・・・
ロージシ 義兄(にい)さんは見抜いていたって言うのかい?
アガジ いや。しかし、確かに、迷い迷い、話してはいたな。
シレリ夫人 それは当たり前ですわ。だって筋道を立てる能力がないんですもの。
シレリ しかし待てよ。変だな。あれで気違いか? 筋道は立っていなかった。それは確かだ。しかし、自分自身に言い聞かせているっていった風だったぞ。何故自分が娘に会うのを、婿が嫌うのか、婿の言い分に分(ぶ)があるように気を配って。自分の説明で自分から納得しようとでもいうように。
アガジ それが狂気のなせる技なんじゃないか。それこそ気違いの証拠さ。いいか、たいして納得のいかない説明で簡単に満足して、婿の顔を立てようとする、その態度がさ。
アマリア そういえば、あっちの話をするかと思えば、こっちの話に移って・・・
アガジ (シレリに。)いいか、シレリ。窓からしか自分の娘を見られないなんていう話は、相当無茶苦茶な話なんだ。おまけにその理由ってのが、夫がその愛情を独り占めにしたいから、そして、その言う通りを聞いてやりたいからって言う話だ。こんな酷い話を受け入れる、これはまさに狂気だけが出来る話じゃないのか。
シレリ ほほう、狂気だからそういう酷い話を鵜呑みにする、ね。狂気だから諦める、っていう訳か。そいつは奇妙だ。正直言って、その話は奇妙だよ。(ロージシに。)どうなんだ、ランベルト。君はどう思う?
ロージシ 僕かい? 何とも思わないな。

          第 六 場
   (前場の登場人物。下僕、次にフローラ夫人。)
下僕 (扉を叩く。敷居に立ち、奇妙な表情を浮かべながら。)またフローラ夫人ですが・・・
アマリア (脅えた顔。)あらまあ、どうしましょう。何て言って断れば・・・
シレリ夫人 そんなの簡単でしょう。もうあちらが気違いって分かってるんですもの。
チニ夫人 まあ。でも今になって、何を言いに来たんでしょう。私、聞いてみたいわ。
シレリ いや、私も聞いてみたいな。気違いとはどうしても思えん。
ディナ そうよ、ママ。怖がることなんかないわ。だってあの人、あんなに大人しいじゃないの。
アガジ それは入ってもらわなきゃ。何の用か、知る必要がある。変なことになっても、対処は出来る筈だ。さあさあ、坐って、坐って。ちゃんと坐ってなきゃ、変じゃないか。(下僕に。)お通しして。
(下僕、退場。)
アマリア 皆さん、お願い。助けて下さいね。私、何て言えばいいか。だって、あの人、気・・・
(フローラ夫人登場。アマリア、立ち上がる。おそるおそる近づく。全員、名状し難い表情で、フローラ夫人を見つめる。)
フローラ夫人 お邪魔では・・・ないかしら?
アマリア いいえ。どうぞ、どうぞ。お入りになって。ご覧の通り、皆さん、まだお揃いですわ。
フローラ夫人 (心から悲しい、という表情。その中に優しい微笑みを浮かべて。)皆様の、そのお顔。哀れな気違い女を見ているような・・・
アマリア まあ、何を仰る。どういうことですの、それは。
フローラ夫人 (心から悲しそうに。) ああ、奥様。わたくし、最初、奥様とお嬢さまを玄関払いしましたわね。あのまま無礼な女だと見られていた方が、まだしもでしたわ。でも二度もお越し戴いて、今度はどうしてもわたくしの方がお伺いしなければならなくなりました。その結果はこうなるだろうと、最初から分かっておりましたのに。
アマリア でも奥様、私達、またお会い出来て、本当に喜んでおりますのよ。
シレリ この方は、何か悲しんでおられる・・・我々はその理由をまだ知らないんだ。まづお話を聞こうじゃないか。
フローラ夫人 娘婿が、ここからさっき出て行きました。そうですわね?
アガジ ええ、確かに。彼はここに来ていました。その・・・ちょっと仕事のことで・・・
フローラ夫人 (何が話されたか、想像はついている。傷ついて、どう切り出してよいか困惑の態。)仕事だなどと・・・お気遣い戴いて、そのように・・・申し訳ありませんわ。
アガジ いいえ。仕事の話です。それは確かに。
フローラ夫人 (同じ調子。)激して話しませんでしたでしょうね、あれは。少なくとも、激しては・・・
アガジ いいえ、それは・・・ちゃんと静かに話しておられましたとも。そうですね?皆さん。
(全員、頷く。)
フローラ夫人 皆様はあの婿のことで、わたくしに大丈夫だったと言って下さっていますわ。でもわたくしは、あの人のことで、皆様が大丈夫だったか、それが心配ですの。
シレリ夫人 私達が大丈夫だったかですって? 何故ですの? あの方は、ただここで・・・
アガジ 仕事の話をしただけなんですから・・・
フローラ夫人 でも皆様のそのわたくしを見る目つき。お許し下さい。このことを繰り返し申し上げますのを。でもこれはわたくしのためではないのです。そのお顔でよく分かりますわ。あれがここに来て、わたくしならば、世界中の富を積まれても口にしないような何かを、きっと皆様にお話したのですわ。今の今、わたくしはここで、どんなにしどろもどろだったか、皆様、よく憶えていらっしゃいますわね。皆様の質問は大変辛(つら)うございましたわ。残酷なご質問でした。そしてわたくしの答は、とても皆様に納得して戴けるようなものではありませんでした。どうお答えしてよいか、私どものような生き方をしている者にとって、本当のお話など出来る筈がありませんもの。あの婿がお話しましたように、こうでもお答えするのでしょうか。わたくしの娘は四年前に亡くなり、それをまだわたくしは、生きていると思い込んでおり、おまけにその娘に会うなと言われ、大人しく引き下がっている、そういう哀れな気違い女なのでございます、と。
アガジ (フローラ夫人の言葉の深い誠実さにひどく打たれて。)ええっ? 何ですって? 娘さんは亡くなっていると貴女は知って・・・
フローラ夫人 (すぐに。)やはりそうでしたのね。何故お隠しになるのですか。それでは、あの人は、今の話をしたのですね。
シレリ (躊いながら。しかし、フローラ夫人の反応をよく見ながら。)ええ・・・まあ、その・・・彼が言うには・・・
フローラ夫人 わたくしには、その話はもう分かっているのです。それに、あの人がその話をするのにどれほど辛い思いをしたか、それも分かっているのです。ああ、わたくしどもの不幸、それに打ち勝つのにどんなに苦しんだでしょう。「打ち勝つ」、いいえ、「打ち勝った」のではありません。こういう生活の仕方をやっと見つけたのですわ。その生活の仕方、それは皆様の目には奇妙に映るかも知れません。酷い話だ、人権侵害だ、と婿が非難されそうなものです。(でも違うのです。それは、先程も言いましたが、あの人の優しさから出たものなのです。)それにあの人は役人としても優秀なのです。熱心で、行き届いています。部長さんもこの事はお確かめになった事と思いますが・・・
アガジ いや、それはまだ確かめる機会が・・・
フローラ夫人 お願いです、どうかあの人の顔つきで判断なさらないで。あれは有能な官吏です。今までのあの人の上司の評判が決まってそうなのです。ですからどうぞ、家庭でのあの人の生活を云々して、あの人を苦しめないで下さい。わたくし共の不幸は、今なんとか切り抜けられているのです。(しかし表面に出るとなれば、再びあの人の全経歴が問題になってしまいます。)どうぞお願いです、家庭での生活までは問題にしないで・・・
アガジ そんなご心配はいりません。婿殿を貶(おとしめ)ようだなんて、そんなことは誰も考えちゃいません。
フローラ夫人 心配はいらない。本当に心配をしなくていいのでしょうか。現在あの人は、皆さんにとんでもない説明、いえ、恐ろしい説明ですわ、それを、仕様ことなしにしているではありませんか。皆さん、皆さんは本気でわたくしの娘が死んでいるなんて思っていらっしゃるのですか。そしてこのわたくしが気違いで、あの人と一緒に住んでいる女は、あの人の二度目の妻だなどと。あの人はもう、ああ言う以外に道はないのです。あれを繰り返し言う以外に、心の平静を得る方法がないのです。わたくしと娘も、そのことを許しているのです。あの無茶を許して初めてあの人に落ち着きを与えることが出来るのです。あの人自身も自分の言っていることの酷さを理解しています。ですから、そのことを言う時には決まってかっとなるのです。大声を張り上げるのです。皆様もご覧になりましたね。
アガジ うん、そう言えば・・・そう言えば、少し興奮していたな。
シレリ夫人 まあ驚いた。そしたら、そうしたら、あっちの方が・・・
シレリ 当たり前じゃないか。あっちの方に決まってる。(勝ち誇って。)やっぱり私の言っていた通りだ。
アガジ いや、待ってくれ。そんな馬鹿なことが・・・
(全員、動揺。)
フローラ夫人 (両手を組んで。必死になって。)違います。違います、みなさん。お願いです。そうじゃないんです。あの人がおかしくなるのは、この話の時だけなんです。触ってはいけない傷なのです。でもこれだけ。そうでなければ、あの人が本当に気違いだとしたら、どうして私が一人娘をあの人にやりましょう。大事な一人娘を。それに部長さん、先程わたくしが申し上げました通りの有能ぶりを、必ずあの人は役所で見せる筈です。あの人の働きは、決して人に後ろ指をさされるようなものではありません。
アガジ しかしとにかく、何がどうなっているのか、はっきり説明して戴かんと。あんたの婿がさっき来て、ここで話して行った事、あれは一体どういうことなのか。
フローラ夫人 ええ、ええ、申し上げますとも。でもどうか、どうか、お願いでございます、部長さん。あの人を冷たい目でご覧にならないように。
アガジ 分かっとる。それより、あんたの娘は死んどる、この話は本当なのか。
フローラ夫人 (恐怖をもって。)とんでもない。そんな!
アガジ (叫ぶ。怒って。)それじゃあ、気違いはあいつじゃないか!
フローラ夫人 (すがるように。)いいえ、いいえ。待って、待って下さい。あの人は気違いじゃありません。違います。 どうぞ、どうぞ、私の話を聞いて・・・お願いです。皆様はあの人を見ましたね。ご覧の通り、あの人はいかつい人です、激しやすい人です。あの人が結婚した時、それはもう本当に愛の狂気に憑(とりつ)かれたようなものでした。娘はその為、健康を害してしまったのです。もともとひ弱なたちでしたから。医者と家族の間で話し合いがなされ、(ああ、その家族も、今では全員いないのです。)あの人から娘を暫くの間引き離そうということになりました。娘を療養所に入れることにしたのです。あの人はもう既に少しおかしくなっていました。勿論その愛の・・・いえ、過剰の愛のせいで、家に自分の妻がいないのを知ると、絶望のあまり、狂暴な行為に走って・・・本当に妻が死んだと思ったのです。誰の言うことも聞かず、喪服を着ると言いはったのです。その他、することなすこと、おかしなことばかり。妻は死んだ。この固定観念をあの人から取り去ることは到底出来なかったのです。そのため、娘が健康を取り戻し・・・ それは一年に満たない時間でしたのに・・・あの人のもとに帰ってみると、あの人にはもう、自分の妻が分からないのです。あの子を見ても、認めないのです。もうあの人にとっては、違う人間なのです。ああ、皆さん、それは何という悲しい光景でしたでしょう。あの人が娘に近づきます。それと分かったような表情をみせます。すると次の瞬間、「違う。違う、違う、違う。これは妻じゃない。」・・・あの人が娘を再び自分の妻として受け入れるように、とうとう友人たちが、狂言を仕組んでくれました。それしか他に方法がなかったのです。つまり、二度目の結婚式です。
シレリ夫人 ああ、だからあの人・・・
フローラ夫人 ええ、そうなんです。あの人も、もう以前からそんなことを信じてはいません。(ちゃんと元の妻だと思っているのです。)でも他人にはそう思って貰わないと困るのです。そういう態度を取らずにはいられないのです。安心感の為なのです。お分かりですか。前の妻だということがみんなに分かると、また取られてしまいはしないかと、その不安で一杯なのです。(低い声で。こっそり微笑みながら。)だからあの人は、あの子の家に鍵を掛けるのです。確実に自分のものにして置きたいのですわ。でも、それだけ愛しているということですわ。娘は幸せです。(立ち上がる。)これで失礼致しますわ。あの人が帰って来るといけませんから。ひどく興奮した後には必ずわたくしの家にやって来るのです。(静かに溜息をつく。両手を組んで。)どうしようもありませんわね。あの人は、今の妻が私の娘ではないっていう振りをしなければなりませんし、わたくしは・・・本当は死んでいる自分の娘が、生きていると信じている気違い女・・・その振りをしなければならないのですわ。とにかく皆さん、大事なことは、あの人の心が落ち着いていることですわ。いいえ、どうぞそのまま。勝手は分かっておりますわ。どうぞ。では、失礼致します、皆さん。
(フローラ夫人、一礼して、奥の扉から急いで立ち去る。全員立ち上がっている。あっけに取られ、お互い、顔
を見合わせる。沈黙。)
ロージシ (中央に進み出て。)茫然として顔を見合わせていますな、諸君。真実、成程、これが真実か。(大声で笑う。)はっはっは。                              (幕。)

          第 二 幕
(アガジの書斎。 古い家具。壁には古い絵。奥に扉。扉につづれ織りのカーテンあり。左手に、広間に通じる扉。これにもつづれ織りのカーテンあり。右手には大きな暖炉。暖炉の上に大きな鏡。事務机の上には電話。小さな背なしの椅子一脚。肘掛け椅子、数脚。背つきの椅子数脚。)

          第 一 場
   (アガジ、ロージシ、シレリ。)
(アガジ、机の横に立って電話をかけているところ。ロージシとシレリ、坐って彼を見、待っている。)
アガジ そうだ、私だ。センチュリーだな? で、どうだった。・・・そうか、よしよし。(長い間、聞く。それから。)何だって? そんな馬鹿なことが。(また長い間、聞く。それから。)分かっとる。だがもう一歩踏み込めんのか。・・・(また長い間。それから。)しかしそれは強烈な話じゃないか。何一つ確かな事が・・・(間。)分かる。それは分かっとるんだ。・・・(間。)よし分かった。しっかりやってくれ。・・・よし、それで行け。
(電話を切り、部屋を二、三歩、歩く。)
シレリ (話の結果を聞きたくて。)それで?
アガジ 何もなしだ。
シレリ 何もなし?
アガジ 何もなしだ。散逸しているか、焼失だ。市役所、教会、病院。(どこにも書類は残っとらん。)
シレリ 聞いて話の分かるような生存者は?
アガジ それが一人もいないという話なんだ。いや、いたとしても、今となっては、それを捜すのがひどく大変だと言うんだ。
シレリ すると、あの二人の言っているどちらかをただ鵜呑みにするしか、手はないと?  全く証拠も何もなく。
アガジ そういうことになるな。何ていう話だ!
ロージシ (立ち上がって。)良いことを教えて上げましょう。あの二人の言っていることを、両方とも信じるんですよ。
アガジ 両方とも?
シレリ そりゃ無理だ。一方は白、もう一方は黒と言っているんだぞ。
ロージシ それなら、両方とも信じないか・・・
シレリ 冗談言っちゃいけない。それは、物的証拠がまだないから、今は仕方がないが、真実は一つだ。どちらかが正しくて、もう一方は間違っているんだ。
ロージシ 物的証拠? そんなものが何の役に立つ。
アガジ 何の役に立つ? 立つに決まってるじゃないか。例えば娘の死亡証明書が見つかってみろ。それは、あの母親が気違いだっていうことじゃないか。それがないから、あれが気違いかどうか分からないんだ。しかし、どこかにはある筈だ。いつかは必ずみつかる。例えば明日。そうなりゃ、それさえ見つかりゃ、あの婿の言っている通りだ、とはっきり分かるんだ。
シレリ (ロージシに。)あんたは何か、たとえ明日、その書類が見つかっても、証拠としては認めない、と言う積もりなのか。
ロージシ 「認めない」? 冗談じゃない。そんなものは僕にとってはどうでもいいんだ。物的証拠が必要だって言ってるのは、そっちの方だぜ。何かを認めたり、何かを否定したりする時は、君達には必ず物的証拠ってものが必要なんだ。僕は違うぜ。僕にとっちゃ、真実は紙にはないんだ。あんな書類にはないのさ。どこにあるか、それは連中の心の中にある。僕もそこへは踏み込めないのさ。
シレリ そりゃそうだ。(連中の言うことだけが頼りさ。)だけど、お互いに相手が気違いだって言ってるんだぜ。母親は婿が、婿は母親が、と。この矛盾からどうやって抜け出るんだ。どっちが気違いなんだ。
アガジ そうだ。そこが問題なんだ。
ロージシ お互いに相手が気違いだとは言ってはいないよ、厳密に言えば。ポンザの方は確かに、あの義理の母親が気違いだと言った。母親はどう言っているかと言うと・・・まづ自分は気違いではない。それと同時に、婿も気違いではない、ただ、過剰の愛情のため、少しおかしくなった。しかしそれも今では終わっていて、全く正常に戻っている。そう言っているんだ。
シレリ すると君は、あの母親の言う方に傾いているんだな、僕と同じように。
アガジ 確かに、あの母親の言う通りだと仮定すれば、総てはうまく説明はつくんだ。
ロージシ うまく説明がつくという話になれば、あの婿の言うことを信じたって同じだよ。
シレリ 両方とも話の筋は通っている。すると二人とも気違いじゃないって言うのか。だけどどうしてもどっちかは気違いにしなきゃならんのだ。当たり前じゃないか。
ロージシ それでどっちにする? 決められないだろう? 誰も決めることは出来ないのさ。そりゃ、例の物的証拠がありさえすれば決められるのに、と君達は言う。それが火災か、地震か、何か知らないが、事故で総て消滅してしまっている。だから決められない。そう言うんだ。しかし、それは違うぜ。たとえそれがあっても、決められないんだ。だって連中は、そんな物的証拠の上で生きてはいないんだ。そういう物的証拠を事故でじゃなく、想像力で消滅させたんだよ。だから連中の心の中には、そんな証拠など、跡形なく消えているんだ。分からないかな。そして、その代わりにあの二人は、幻影を作ったんだ。その幻影の方が、あの二人には、現実なんだ。その中で矛盾なく、落ち着いて暮らしている。物的証拠だの、書類だの、そんなものをいくら示したって、連中のこしらえたこの「現実」を壊すことなど出来はしない。だって二人はその「現実」を呼吸し、それをまのあたりに見、それを感じ、それに触れているんだ。書類、物的証拠、そんなものは、君達の出歯亀根性を満足させるのが関の山さ。そして、その物的証拠がないとくる。すると大変だ。落ち着かない。幻影か現実か区別しろ、と攻め立てられて、身動きがとれないのさ。
アガジ ハッ。他愛のない話だ。それが哲学か。物的証拠はちゃんと捜して来るさ。見ているがいい。
シレリ 今までは、あの二人から別々に話を聞いて来た。二人一緒にして話を聞いたら分かるんじゃないかな。何が幻影で、何が現実かが。
ロージシ ではお許しを戴いて、また笑わせて貰うことにしますか。
アガジ まあいい、まあいい。最後に笑うものは誰か、それだけさ。これ以上時間の無駄はよそう。(左手の扉に近づき、呼ぶ。)アマリア、ディナ、さあ、もういいぞ。

          第 二 場
   (前場の登場人物、アマリア、ディナ、シレリ夫人。)
シレリ夫人 (指でロージシを脅す。)あなた、またあなたね!
シレリ 相変らずなんだ、やつは。
シレリ夫人 だけど、どうしてこの謎を解明しようっていう気にならないんでしょうね。こんなちゅうぶらりんな気持が続いたら、こっちが気違いになりそう。夜もろくろく眠られないんですからね。
アガジ こいつのことは、もう構うのは止めだ、奥さん。放っときましょう。
ロージシ そう、確かに。兄貴の言う事を聞いていた方が、今晩よく眠れますよ。
アガジ さてと、じゃ役割を決めよう。まづ、お前だが、(アマリアの方を向いて。)フローラ夫人のところへ行って貰う。
アマリア また門前払いにならないかしら。
アガジ 今度はない筈だ。
ディナ この間、うちにたづねて下さったお返しなんだから・・・
アマリア でも、もしあの男が禁じていたら・・・訪問するのも、受けるのも・・・
シレリ 最初はそうだったろう、勿論。誰も何も知らなかったんだから。しかし(あの母親が、)いったん事を説明した今となっては・・・
シレリ夫人 (続けて。)却って嬉しいくらいでしょう。自分の娘の話をすることが出来るんですからね。
ディナ あの人の優しい話しぶり! 私の考えを言えって言われたら、答は簡単よ。気違い・・・それはあの課長さんよ!
アガジ 結論を急いじゃいかん。まづ判断の材料だ。役割分担の話だったな。(時計を見る。)お前達は、母親のところで十五分・・・それ以上いたらいかんぞ。
シレリ (妻に。)よく聞いとけよ。
シレリ夫人 (怒って。)どうして態々私にそんなことを・・・
シレリ お前は話しだすと止らない・・・
ディナ (喧嘩になりそうなのを抑えて。)十五分ね。分かったわ。気をつけます。
アガジ 私は役所に行って来る。十一時にはここに戻って来る。二十分後だ。
シレリ (苛々しながら。)私は?
アガジ ちょっと待て。(女達に。)何でもいい。口実を見つけて、あの母親をここへ連れて来るんだ。
アマリア 口実って、どんな?
アガジ 私がそんなこと知るもんか。話しながら適当に考えるんだ。それこそお前のお手のものじゃないか。女なんだろう? ディナもいるし、シレリの奥さんも・・・さて、ここへ来たら広間で話していて貰う。(左手の扉に進む。カーテンを開き、扉を大きく開ける。)これはこうやって大きく開けておく。話し声が聞こえるようにしておくんだ。それからここに(机を差す。)この書類を置いておく。普通だったら忘れっこない書類なんだが・・・ ポンザ課長用に特別に作った書類だ。ここに置き忘れたということにする。これを口実にポンザを連れて来るんだ。その時・・・
シレリ お話中すみませんが、その・・・私は何時登場するんでしょう?
アガジ 十一時ちょっと過ぎだ。ご婦人連が広間に入り、私がポンザとここにやって来る。そこで君は、細君を捜してご登場だ。私は、「ああ、丁度来ているよ。」と言って、婦人連をこの部屋に呼ぶ。即ち、一同ここに会す・・・
ロージシ (すぐに。)そこで真実が明らかになる!
ディナ でも、叔父さん、あの二人が顔を会わせた時(変なことを言ったりしちゃ駄目よ。)・・・
アガジ こいつのことはほっとけ。しようもない。さあ、時間がない。早速取り掛かるんだ。
シレリ夫人 そう。出かけましょう。(ロージシに。)貴方には「失礼します」も言って上げないわ。
ロージシ いや、こちらからは充分なご挨拶をお返ししますよ。(拳を突き出して。)幸運を祈ります!
(アマリア、ディナ、シレリ夫人、退場。)
アガジ さあ、こっちも。いいな?
シレリ 行きましょう。じゃ、失礼、ランベルト。(シレリ、アガジ、退場。)
ロージシ さよなら、さよなら。

          第 三 場
   (ロージシ、次に下僕。)
ロージシ (頭を少し後ろに倒して、部屋の中を歩き回る。唇には皮肉な微笑。それから暖炉の上の大きな鏡の前で立ち止る。自分の姿を鏡の中に認め、その姿に話しかける。)なんだ、お前、そこにいたのか。(片手で素早い挨拶の動作。悪戯っぽいウインクをし、笑い始める。)なあ、相棒。お前と俺、どっちの方が気違いかな? (そっと指で鏡を差す。勿論鏡の像はロージシを指差す。 ロージシ、再びゲラゲラと笑う。)分かった、分かった。俺は「お前だ」と言う。するとお前は俺の方を指差すんだ。そう。お前と俺はよく分かり合っているんだ。二人だけならな。残念なことにこの世は俺達二人だけじゃない。連中がいる。あの連中は俺がお前を見ているようには、お前を見てはくれてない。するとお前は何になるか分かってるか? いや、俺のことは心配してくれなくってもいい。俺は自分が見える。自分が触れる。そう言うんだから。お前のことを何て言うか。幻(まぼろし)だって言うのさ。だけどその幻のお前にだってあの馬鹿な気違い連中のやっていることが見えるだろう? 連中はそれぞれ自分の幻を抱えているんだ。それなのに他人の幻ばかり追っかけている。そして自分じゃたいしたことをやっていると自負しているんだ。
(下僕、このちょっと以前に登場している。鏡を見ながらロージシが独り言を言っているのを聞き、呆れて立ち止る。それからロージシに呼びかける。)
下僕 ランベルト様?
ロージシ 何だ。
下僕 二人、ご婦人がお見えで。チニ夫人、それにもうお一方。
ロージシ 私に会いたいと?
下僕 アマリア様に、とのことでしたが、丁度フローラ夫人宅にお出かけのところ、と申しますと・・・
ロージシ ふん、すると?
下僕 お二人は顔を見合わせ、次に手をうって嬉しそうに、「あら、そう。あら、そう。」と。そして、どうしても誰かと話がしたいご様子で。どなたか家にいらっしゃるのではないかと。
ロージシ で、誰もいないと答えたんだな。
下僕 いえ、貴方様がおいでになると。
ロージシ 僕がか? いや、いないな。連中の知っているランベルトは、ここにいないよ。やれやれ、またこの話だ。
下僕 (今までにない呆れ方で。)は? 何と仰いました?
ロージシ そうか。お前にとっちゃ、この俺様が誰であっても痛痒を感じないって訳か。
下僕 (困ったような微笑を浮かべて。)よく分かりませんが、私には、その・・・
ロージシ お前は今誰と話しているんだ?
下僕 (恐ろしいものを見た時のように、凍り付いたようになって。) 勿論その・・・ランベルト様とですが・・・
ロージシ その「ランベルト様」は、今やって来たご婦人達が会いたいと言っている「ランベルト様」だと保証出来るか、お前は?
下僕 さあ、よく分かりません。「アマリア奥様の弟様? それなら是非。」とのことで。
ロージシ ははあ、あの男か。よし、ではそのランベルトになってお会いしよう。せいぜいご期待に沿うように。さあ、お通しして。
(下僕退場。しきりに後を振り向いて、首を傾げる。自分の目を疑うかのような様子。)

            第 四 場
   (ロージシ、チニ夫人、ネンニ夫人。)
チニ夫人 入ってもようございますか?
ロージシ どうぞ。どうぞ、どうぞ。
チニ夫人 奥様は不在とお聞きしたのですけど・・・ ネンニ夫人をお連れしましたので・・・(夫人を紹介する。チニ夫人より、もっと馬鹿。もっと杓子定規。出歯亀根性は同じだが、地位などの差を考え、もっと用心深い。)この方も同じですの。とてもお近づきになりたいと仰って・・・
ロージシ (途中で遮って。)成程。フローラ夫人とですな・・・
チニ夫人 いえ、いえ。ここの奥様と。
ロージシ 間もなく戻って来ますよ、あれは。フローラ夫人を連れてね。どうぞ、お掛け下さい。(二人を長椅子に坐らせ、自分もうまく二人の間に坐る。)ちょっと失礼しますよ。このソファは三人で掛けると丁度いいですな。そう、そう。シレリ夫人も一緒なんです。
チニ夫人 ええ。さっきそのことも聞きましたわ。
ロージシ 準備万端ですな。いや、たいした見物(みもの)になりますよ、こりゃ。ほんとにもうすぐだ。十一時には幕開き。おまけに舞台はここときている。
チニ夫人 (釣られて。)準備万端? 何がですの。
ロージシ (態と分かり難いように、両手の人差し指を近づける。)お見合いですよ! (感心した、という動作。)いや、天才だけが思い付く考えですな、これは。
チニ夫人 お見合いって・・・結婚の?
ロージシ いいえ。あの二人ですよ。まづ入って来るのが、男の方。
チニ夫人 男? じゃあ、ポンザ課長?
ロージシ そう。そして女性の方。彼女はあっち。
(ロージシ、広間を指差す。)
チニ夫人 あのお姑さんね?
ロージシ そうです。(再び片手で、フローラ夫人を表す動作。そして。)それから二人は会う。正にここがその場所。そして我々はその周りで、二人をじっと見つめる。天才の思い付きだ!
チニ夫人 でも何をしようって言うんでしょう。
ロージシ 真実を知る為じゃありませんか。まあ、そんなものは、もう分かっているんですがね。ただ証明はいづれにせよ必要なものだから・・・
チニ夫人 (驚いて。好奇心で震えながら。)分かっている? じゃあどっち? どっちの方があれだったの?教えて。
ロージシ さあてと。これは謎解きですな。奥さん、貴女の考えではどうですか。
チニ夫人 (躊いながら、また嬉しそうに。)そうね。私の考えを言えって言われれば・・・
ロージシ 婿か、姑か。さあ、正解はどっちでしょう。
チニ夫人 よし、思い切って・・・婿の方!
ロージシ (彼女を一瞬見る。それから。)そう。婿が正解。
チニ夫人 (喜んで。)そうだと思った。あの人しか考えられないんですもの。
ネンニ夫人 (こちらも喜んで。) じゃあ、やっぱりあの人ね。そう。みんなそう言ってた。噂通りだったのね。
チニ夫人 でもどうして分かったのかしら。きっと何か公の書類が見つかったのね。それが証拠になって・・・
ネンニ夫人 警察のでしょう。それも噂していたわよね。お役所が、いつかは必ず何か捜し出す筈だわって。
ロージシ (ちょっと待てという動作をして。 低い声で、秘密を打ち明けるといった様子で。 音節を区切って。)二度目の結婚の証明書。
チニ夫人 (顔の真ん中に拳で一撃くらったように。)何ですって? 二度目の結婚の?
ネンニ夫人 (呆れて。)ええっ? 本当? 二度目の?
チニ夫人 (気を取り直して。困ったように。)じゃあ、婿の方が正しかったっていうこと?
ロージシ ああ、皆さん、物的証拠。これに叶うものはありませんからな。二度目の結婚の証明書。どうやらこれで、事は明らかなように見えますな。
ネンニ夫人 (涙を流しながら。)まあ、それなら、気違いはあのお姑さんの方・・・
ロージシ まあ、どうやらそういうことになりそうですな。
チニ夫人 でも、それなら、最初に何故貴方、婿の方だって・・・それから後で姑の方だなんて・・・
ロージシ その通り。(最初は確かに婿と。)なぜならこの証明書っていうやつがですね、みなさん。この二度目の結婚の証明書が・・・ほら、あのフローラ夫人の言っていたように、偽の証明書・・・友人達が集まって態々こしらえたあの偽の書類・・・かも知れませんからな。憶えていらっしゃるでしょう? ポンザ氏の過剰な愛情をなだめる為に、友人達が仕組んだ二度目の結婚の話。
チニ夫人 でもそれならその証明書は、何の価値もないんじゃございません?
ロージシ 全くゼロということにはならんでしょうな・・・我々一人一人がそれにどういう価値を与えるか、それによって違ってくるんです。ほら、丁度あの手紙、ご存じでしょう? あのポンザの細君が毎日母親の為に書いては篭にのせて、張り出しのところから下ろすあの手紙、あれと同じですよ。だが待てよ、確かなんだろうな、あの手紙が存在するってのは。
チニ夫人 ええ。で、同じって?
ロージシ そう。同じなんですよ。そいつはやはり書類には違いない。だけど、どういう価値があるっていうんでしょう、その手紙に。価値があるって言えばある。ないって言えばない。人によるんですな、その価値は。だってここにポンザ課長が現われたとしましょう。すると彼は言いますよ。「あの手紙は作り物です。姑の固定観念に違(たが)わないよう、私が妻に書かせたものです・・・」
チニ夫人 あら、まあ。だったらどうしましょう。この世で確かなものは何一つない。そうなのかしら。
ロージシ 何一つないなんて、そんな大袈裟な。さあ、よーく考えて。一週間は・・・何日でしょう。
チニ夫人 七日ですわ。
ロージシ 月、火、水・・・
チニ夫人 (機械的に続けて。)木、金、土・・・
ロージシ 日(にち)。(次にネンニ夫人の方を向いて。)それから一年は? 何箇月でしょう。
ネンニ夫人 十二!
ロージシ 一月、二月、三月・・・
チニ夫人 分かった! お揶(からか)いになったのね。まあー酷い。

          第 五 場
   (前場の登場人物、ディナ。)
ディナ (奥の扉から走って登場。)叔父さん、ねえ・・・(チニ夫人がいるのに気づき、言い止む。)あら、いらしてたんですか。
チニ夫人 ええ、このネンニ夫人と・・・
ロージシ フローラ夫人と是非ともお近づきになりたいと。
ネンニ夫人 あら、まあ、また。(ご冗談ばっかり。)
チニ夫人 この方、私達を揶(からか)ってばかり。あっち向け、ほい。で、あっちを向くと今度は、こっち向け、ほい。こっちを向くとまた、あっち向け、ほい。仕舞いには何が何だか分からなくなって・・・
ディナ 叔父は今、ひどく意地悪なんですの。私達にも同じなんですのよ。もう叔父の言うことなんか聞かないで。叔父さん、私、ここではもう用事はないわよね。叔父さんがここにいるって、ママに言っておくわ。それだけでいいでしょう? あのお姑さんの話を聞いたら、叔父さん! なんて優しい人なんでしょう。あの話し方。あの気の配り方。それからあの部屋。ちゃんと整って、掃除が行き届いて・・・それに奇麗な家具。必要なところにはちゃんと白い布が掛けてある。あの人、娘さんの手紙も見せてくれたわ・・・
チニ夫人 ええ、そのことなんですけど・・・貴方の叔父さんは・・・
ディナ 叔父が何を知っているっていうんですの。読んだことなんかない筈ですわ。
ネンニ夫人 でも、もし偽の手紙だったら?
ディナ 偽の? なんてことを考えるんでしょう。そんな話、聞いたら駄目よ。自分の娘の文章の書きぶりを、母親が知らないなんて、あるかしら。そんなの間違いっこないわ。あの最後の手紙・・・今日の・・・(言い止む。広間から声が、半開きの扉を通して聞こえてきたからである。)あ、皆さん着いたんだわ。
(ディナ、広間の扉を見る。)
チニ夫人 (ディナのすぐ後について。)あの人も? あのお姑さんも?
ディナ ええ、ええ。早くいらして。 私達全員、広間に行くことになっているの。(ロージシに。)もう十一時?

          第 六 場
   (前場と同じ登場人物、アマリア。)
アマリア (広間から出て来る。こちらも興奮状態。)二人を会わせて実地に検証しようだなんて、もう止め。証明なんか、他には必要ないのよ。
ディナ そうよ。こんなことみんな無駄なのよ。
アマリア (心配そうに。心ここにあらず、という様子で、チニ夫人に挨拶する。)あら、奥様。
チニ夫人 (ネンニ夫人を紹介して。)こちら、ネンニ夫人。私、お連れしましたの。
アマリア (気が急(せ)いていて、落ち着かない儘。)始めまして、奥様。(すぐ話題を戻す。)もう疑う余地はないわ。婿の方よ。
チニ夫人 そう。婿なのね。そうなのね?
ディナ 早くパパに知らせて、こんな余計な実地検証なんか、止めにしなくっちゃ。
アマリア あの二人を無理矢理会わせるようなことをしたら私、あのお姑さんを裏切ることになるわ。
ロージシ 正にその通り。裏切り、破廉恥な行為だ、実際。しかしそうなって来ると僕には愈々(いよいよ)彼女の方があれ、っていうことを確信するな。やっぱり姑の方があれだ。
アマリア 何ですって? お姑さんの方? 冗談なんでしょう?
ロージシ 冗談なんかじゃない。姑の方だ。
アマリア 何を言ってるの。呆れたわね。
ディナ 反対よ。その反対。絶対にそうなの。
チニ夫人とネンニ夫人 (喜んで。)絶対? 絶対ね、本当に。
ロージシ 成程。これはやはり姑だ。みんながそんなに確信しているんじゃな。
ディナ さあ、さあ。皆さん、行きましょう。叔父は態とやっているんですわ。
アマリア さあ、行きましょう、皆さん。(皆を通す為に、少し脇に体を寄せる。)さあ、どうぞ。
(チニ夫人、ネンニ夫人、アマリア、退場。ディナも行きかける。)
ロージシ (ディナを呼び止める。)ディナ!
ディナ 叔父さんの言うことなんか、聞かないわよ。聞かないったら、聞かない!
ロージシ それならそこの扉を閉めるんだな。本当に検証など必要ないと思っているんだろう?
ディナ それでパパは? パパは扉を開けておけと言ったでしょう? もう少ししたら、あの人と一緒に帰って来る。それであの扉が閉まっているのを見たら・・・駄目ね、やっぱり。パパの言う通りにしなくちゃ。
ロージシ でもパパを説得する自信はあるんだろう? お前には。あんな扉を開けておく必要なんか、今じゃ全くないって。
ディナ そう。開けておくことなんかないの。
ロージシ (それなら問題はない筈じゃないかという微笑み。)なら、閉めたらどうなんだい。
ディナ 分かった。また人の考えをひっくり返して嬉しがるのね。駄目よ。私、閉めない。でもパパのお言い付けがあるから閉めないだけなんですからね。
ロージシ (さっきと同じ調子で。)すると僕が閉めればいいっていうことだね。
ディナ そして責任は叔父さんが取るのよ!
ロージシ だけど本心を言うとね、閉めてもいいって思う程確信がある訳じゃないんだ。気違いはあのポンザ課長だと考えが決まっちゃいないんだ。
ディナ じゃあ、広間に来てあのおばあさんの話をお聞きなさいよ。そしたらすぐ分かるわ。疑いなんかすぐ晴れちゃう。来る?
ロージシ よし、行こう。だけど扉は閉めさせて貰うよ。責任は僕が取る。
ディナ 見てご覧なさい。もう話す前からそういう気になるでしょう?
ロージシ 違うんだ、ディナ。僕には分かってるんだ。今、この瞬間、君のパパは丁度お前と同じように、こんな実地検証なんて不要だと思っているんだよ。
ディナ まさか。
ロージシ 本当だよ! パパは今、あの課長と話している。パパには疑う余地などもう全くないのさ。気違いはお姑さんだとね。(ロージシ、扉に近づく。決心して。)これは閉めるよ。
ディナ (それを止める。)待って。(それから、困ったように。)ねえ、叔父さん。叔父さんの言う通りなのかしら・・・なら、開けておきましょう。(隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。優美な、悲しいメロディー。La Nina pazza per amore からの曲。)あの人だわ。あれ、あの人が弾いているの。聞こえる?
ロージシ お姑さん?
ディナ そう。あの人、話してくれたの。以前はいつも娘さん、あの曲を弾いていたのって。なんて優しい弾き方なんでしょう! ね、叔父さん。さ、行きましょう。
(二人、左手の扉から退場。)
          
          第 七 場
   (アガジ、ポンザ、次にシレリ。)
(ロージシとディナが退場した後、暫く舞台は空白。ピアノの音は、この間ずっと聞こえている。ポンザ、アガジと奥の扉から登場。ピアノの音を聞きポンザ、ひどく動揺する。この場の進行につれてその動揺は大きくなる。)
アガジ (ポンザを通す為に脇に体を避ける。)入って、ポンザ君。(ポンザを先に通す。次に自分が入り、机に向かう。置き忘れたという書類を捜す為。)ここに置き忘れた筈なんだが・・・ちょっと坐っていてくれ。(ポンザ立った儘。広間の方を心配そうに見る。じっとピアノに耳をすませて。)なんだ、やっぱりここだ。(ファイルを取り、それを捲(めく)りながらポンザに近づく。)君に言った通りこの件はひどく縺(もつ)れてしまったもので、もう何年も・・・(アガジも広間の方を見る。ピアノの音が気になったからである。)何だ、あのピアノは。こんな時に! (苛々した動作。「馬鹿たれめが!」と言わんとするように、振り返り。)しかし、誰が弾いているんだ? (広間の方を、半開きの扉から覗き、フローラ夫人が弾いているのを見る。)こいつは驚いた! どうなってるんだ。
(ポンザ近づく。動揺の極。)
ポンザ 何だ、これは。あれがここに! あれがピアノを!
アガジ そうだ。あれは君のお姑さんだ。なかなかうまいピアノじゃないか。
ポンザ しかしどうして! またみんなで連れて来たのですか。それにピアノを弾かせたり!
アガジ どうしたんだ。何かまづい事でもあるのか。
ポンザ これはいけません。こんなことはあってはならないのです。この音楽、これはいかん。これはあれの娘がいつも弾いていたやつなんだ。
アガジ 聞いていられないと言うのか、君は。
ポンザ 私じゃありません。私は何でもない。あれにです。あの姑にまづいんです。ひどく悪い影響があるんです。誰にも想像もつかない。部長、部長にも既に申し上げた筈です。あの婦人連にも言っておいたんだ。こんなことをしたら、あの姑はどんなとんでもないことになるか・・・
アガジ (ポンザの、次第に高まってくる動揺を抑えようと。)分かっている。それはそうだった。しかしね・・・
ポンザ (遮って。)あの姑は、完全に一人にしておいてやらなきゃいけないのだ。構っちゃいけない。訪問も駄目。訪問を受けるのも駄目なんだ。あれをどう扱わなきゃならないか、それを知っているのはこの私だけなのだ。あんなことをやっていちゃいけない。ひどいことになるんだ、姑は!
アガジ いや、違う、ポンザ君。それは違う。年寄をどう扱ったらいいか、それぐらいあの女達は知っている筈だ・・・(突然言い止む。音楽が止んだからである。広間から、女達が一斉に褒める言葉が聞こえる。)ほら、聞こえてくるじゃないか・・・
(広間から非常にはっきりと、次の会話が聞こえる。)
ディナ お上手だわ。腕、ちっとも落ちてなんかいない・・・
フローラ夫人 私は駄目。リーナですわ、ちゃんと弾くのは。あの子の弾くのを聴いて下されば・・・
ポンザ (全身が震える。辛そうに両手を動かして。)リーナ、リーナだと? 聞こえたでしょう、部長。あれはリーナと言ったんです。
アガジ そうだ。娘の名前なんだろ。それがどうした。
ポンザ 「ちゃんと弾くのは」と言ったんです。現在形で。「あの子の弾くのを聴いて下されば」と。
(再び、非常にはっきりと声が聞こえる。)
フローラ夫人 あー、でももう弾くことはありませんわ。可哀相な子。あれ以来、もう弾いてはいけないんですわ。きっと一番辛い事ですわ、あの子の。この、弾けないっていう事が。
アガジ しかし当然のことじゃないか、あの母親は、あれが自分の娘だと思っているんだから。
ポンザ いえ、あの姑があんな風に話すのがまづいんです。危険です。あの話だけは決してしてはいけない。分かって下さい、部長! あれは、「あれ以来もう」と言ったじゃないですか。ピアノのせいです、部長。あのピアノの。分かって下さい、部長。死んだあれの娘がピアノを弾いていたんです!
(シレリ、登場。ポンザの最後の台詞を聞き、彼の極度の動揺を知る。ぞっとして立ち止る。アガジも困り果て、シレリに近づくよう合図する。)
アガジ おお、シレリか。あの連中をこっちに呼んでくれんか。
(シレリ、二人と距離をおいた儘、左手の扉に進み、婦人達を呼ぶ。)
ポンザ いや、それは駄目だ。それは止めてくれ・・・

          第 八 場
(前場の登場人物、フローラ夫人、アマリア、シレリ夫人、ディナ、チニ夫人、ネンニ夫人。)
(シレリの合図で婦人達も登場。こちらもひどく困った様子。フローラ夫人は、ポンザが極度の興奮状態にあるのを見て、恐怖の表情を見せる。この場面の間中、ポンザは猛烈な勢いでフローラ夫人に対するが、フローラ夫人は、「皆さん、分かっていますね」という目つきで、他の婦人達に目配せする。この場面は息もつかせぬ速さで演じられる。)
ポンザ ここにまた! ここに何の用があるっていうんですか。
フローラ夫人 怒らないで。ここに来たのは、ただ・・・
ポンザ ただ話をする為でしょう。え? 何を話したのです。この御婦人方に何を話したのです。
フローラ夫人 何も、何も話しはしませんわ。
ポンザ  何も話さないとはどういう事ですか。ちゃんと聞きました、私は。それに部長も。(アガジを指差す。)部長も聞いておられるんだ。「ちゃんと弾くのは」とはどういうことですか。誰が弾くというのですか。リーナが弾ける訳がない。リーナは死んでもう四年も経つのです。いいですか、死んでもう四年なんだ!
フローラ夫人 ええ、ええ。それは分かっています。分かっていますとも。落ち着いて、気を静めてね。どうか、お願い!
ポンザ 「あれ以来もう弾いてはいけない」・・・何ですか、これは。弾いてはいけないんじゃない。弾けっこないんだ。当たり前でしょう。もう死んでいるんです、リーナは!
フローラ夫人 そう。そうなの。そのことを丁度今、皆さんに話していたところなの。そうですわね、皆さん。「あれ以来もう弾けないのです。だって、死んでしまったんですもの。」そう言いましたわね、私?
ポンザ それなら何故ピアノにこだわるんです。何故ピアノなんですか。
フローラ夫人 ピアノに? こだわってなどいません。どうして私がピアノに!
ポンザ ぶっ壊したからだ、この私が! あれは最初の妻が死んだ時だった。よく憶えている筈です。それも二度目の妻が触(さわ)れないようにです。ピアノは弾けないんですからね、あれは。先刻御承知じゃありませんか、あれが弾けないことぐらい。
フローラ夫人 分かってます。分かっていますよ、弾けないのは。
ポンザ そして名前は何だったんですか、貴女の娘は?  リーナだったんでしょう、え? それで二度目の妻は? え? 何という名前なんですか。さあ、言って下さい、皆さんの前で。知らないとは言わせない。さあ、何なのですか。
フローラ夫人 ジューリア、ジューリアです。そうなんです、皆さん。あの人の名前はジューリアなんです。
ポンザ そうでしょう、ジューリアなんです。リーナじゃないんだ。それから、目配せは止めるんです! ジューリアだと言いながら、目配せとは何ですか!
フローラ夫人 目配せ? 目配せなんか、私。
ポンザ いや。やっていた。ちゃんと見ていたんだ、私は。私の不幸を望んでいるのですか、貴女は。この人達に教えたいんですね、私が貴女の娘を独り占めにしたいんだと。だから、だからあの娘は死んだことにしている。(突然絶望的な、大きな啜り泣き。)独り占めにしたいから死んだことにしているんだと。
フローラ夫人 (ポンザに駆け寄る。優しさを込めて、哀れみを込めて。)そんなこと、私が言うもんですか。落ち着いて、お願い。落ち着いて! ねえ、皆さん、私は言いませんでしたわね、あんなこと。
アマリア、シレリ夫人、ディナ そう。そんなこと、聞いていませんわ。いつだって娘さんは亡くなられた、とはっきり。「死んだことにしている」だなんて、そんなことは決して。
フローラ夫人 ね、そうでしょう? 分かったでしょう? いつだって私は、「あの子は死んだ」って、言っているの。当たり前じゃないの。そしてお前が私にどんなに親切にしてくれるかを。(婦人達に。)そうですね、皆さん。そうですね? お前の不幸を何故私が・・・
ポンザ (立ち直って。恐ろしい勢いで。)だけど私がここに来るまでに、何をしていたのです! ピアノを捜して、例の曲を弾き、あれも同じように弾くのですよ、それももっと上手に、などと言っていたんだ!
フローラ夫人 違います。そんなことは・・・ただ私は・・・ちょっと弾いてみただけ・・・
ポンザ そんなことが出来る心の状態だと思っているのですか。その今の状態で、死んだ娘がよく弾いた曲を弾くなどと、なんていう事をするんです。
フローラ夫人  お前の言う通りだよ。そうだったね。本当にそうだった。(心を動かされて、涙を流し始める。)もうしないからね、もうしないから・・・
ポンザ (姑に触れんばかりに近づいて。猛烈な勢いで。)出て行くんです! 今すぐ! 出て行くんです!
フローラ夫人 そうだね。行きます・・・出て行きます。
(フローラ夫人、あとずさりする。「婿に理解を」と皆に目で頼みながら。それから泣きながら退場。)

          第 九 場
   (前場の登場人物、但しフローラ夫人を除く。)
(全員怖れと哀れみで、身じろぎもせずポンザを見つめる。しかしポンザは、姑が去るや否や、冷静な顔になっている。そして全く自然な調子で次の台詞を言う。)
ポンザ このような見苦しい光景をお目にかけまして、恐縮の到りでございます。恩が仇になると申しますが、皆様が姑に示して下さいました同情、これが知らず知らずのうちに、皆様の意図に反して姑に苦しみを与えるのです。姑に心の平静を取り戻させる為、あの荒療治は必要不可欠だったのです。
アガジ (あっけに取られて。)何だって? じゃ今のは芝居?
ポンザ 避けることは許されませんでした。姑に再び幻影の世界に戻って貰う為に私に残された手段が他にあるでしょうか。私は真実を・・・娘は死んでいると・・・怒鳴り散らすのです。あたかもそれが私の狂気のなせる技であるかのように。お分かり下さいましょうか。では失礼致します。今すぐ姑のもとに戻ってやらねばなりません。
(ポンザ、急いで奥の扉から退場。全員あっけにとられて、一言もなく顔を見合わせる。)
ロージシ (真ん中に進み出て。)いやー、やっと真実が見つかりましたな、皆さん! 御同慶の到りです。(大笑い。)はっはっは、はっはっは。
                                                                      (幕。)

          第 三 幕
   (第二幕と同じ場所。)
          第 一 場
   (ロージシ、下僕、警察署長センチュリー。)
(ロージシ、長椅子に心地よく坐って本を読んでいる。広間に通ずる扉から、大勢の人の声が聞こえてくる。下僕が奥の扉からセンチュリーを部屋に通す。)
下僕 どうぞこちらでお待ちを・・・只今部長をお呼びします。
ロージシ (振り向いて、センチュリーであるのを知り。)おお、これはこれは、警察署長殿!(立ち上がる。部屋を出かけていた下僕を呼び止める。)おい、ちょっと待って。(センチュリーに。)何か分かったのか。
センチュリー (およそ四十歳。背高く、鯱鉾ばった、体のこなしのぎこちない男。)ええ、まあ。
ロージシ ふん。そりゃいい。(下僕に。)暫く二人で話す。終わったら兄貴には僕が言う。(顎を左手の扉の方に向けて、自分の意図を示す。下僕、一礼して退場。)しかしたいしたもんだね、君。よく調べたよ。君はこの町の救世主だ。連中の騒ぎ方ったらないんだからね。あの声が聞こえるだろう? 君、得た情報ってのは、確かなんだろうな。
センチュリー 生存者の行方を探って行って、数人に当たることが出来たのですが、彼らの話を・・・
ロージシ 成程、成程。勿論ポンザ課長が住んでいた場所の生存者なんだな、連中は?
センチュリー ええ、まあ。数は多くないんですが、確かに。
ロージシ ふーん。そりゃいい。そりゃいい。で、結論は?
センチュリー これが報告書ですが。
 (センチュリー、背広の内ポケットから黄色い封筒を出す。 その中から一枚の紙を抜き取り、ロージシに渡す。)
ロージシ ほほう。ほほう。(封筒から一枚の紙を取り出し、目を走らせる。その間さかんに間投詞を発する。「ああ」とか「おお」とか。最初は感心したような声。次第に疑い深い声になり、「なんだこれは」という調子になり、最後には「全く駄目」という声になる。)呆れたね。ゼロじゃないか。これには確かな情報は何一つありゃしない。
センチュリー しかし我々が知り得たのはそれだけなんです。
ロージシ 何も明らかになった事はありゃしない。疑いは全く今まで通り残っている。(ロージシ、センチュリーをじっと見つめ、次に急に決心したような調子で。)センチュリー君、この際だ。ひとつこの町の為に一肌脱いでくれないか。そうすりゃ、町の人達も大いに助かるんだがね。
センチュリー (何のことか見当がつかず、ロージシを眺める。)どんなことです? 見当がつきませんが。
ロージシ うん、よく聞いてくれ。さあ、そこへ坐って。(机を指差す。)この報告の後半分、これをちょん切って捨てるんだ。この前半だけにして、「この情報は確かなものであります。」と付け加えるんだ。
センチュリー (驚く。)私が? で、「この情報は・・・」とはどの情報ですか。
ロージシ 何でもいいんだ。君の好きな方で。私は前半と言ったが、後半でも構わん。君の見つけたあの二人の証人が言っている、片方の結論だけを報告するんだ。町の人達の為だよ。連中はすっかり心の平静を失っているんだ。真実が欲しいって言ってるんだ。どっちだって構いはしない。確かそうに見せて、与えてやるんだ。それが連中の欲しがっているものじゃないか。
センチュリー (むっとする。また苛々する。強い調子で。)どうしようもないでしょう、私が。私は真相がどうなっているか掴んでいないんですからね。それとも私に嘘を言えと仰るんですか。そんな無茶な話、聞いたことがありません。いや、無茶じゃすまない。偽証罪ですよ。さあ、もう沢山です。早く部長に会わせて下さい。
ロージシ (両手を広げる。諦めて。)そうか、仕方がないか。
(ロージシ、左手の扉に進み、開く。扉が開くと、広間一杯の人声、叫び声が、以前よりさらにはっきりと聞こ
える。しかしロージシが一歩広間の敷居をまたぐと、その騒ぎはぴたっと止む。ロージシが次のように言ってい
るのが聞こえる。)
ロージシ (舞台裏で。)皆さん、警察署長センチュリー殿が、報告書を持ってやって来ました。完全な調査に基づく、確実な情報です。
(拍手、歓声、上がる。センチュリー、居心地悪そうな様子。なぜなら彼の報告書がそんなに歓迎されてしかるべきものでないことを充分に承知しているからである。)

          第 二 場
(前場と同じ登場人物、アガジ、シレリ、アマンダ、ディナ、シレリ夫人、チニ夫人、ネンニ夫人、その他大勢の婦人、紳士達。)
(全員、左手の扉から突進。 アガジが先頭。手を叩き、「ブラーボ、ブラーボ、センチュリー。」と叫びながら。)
アガジ (両手を差し出しながら。)いや、センチュリー、よくやった。 君だったら間違いなく究明してくれる、私は最初からそう言っていたんだ。
全員 ブラーボ、ブラーボ。早く、早く。どっちなの? 証拠は? 報告書は何処? どっちなの?
センチュリー (突然の質問の嵐にどっちを向いてよいかさえ分からず。)しかし、部長・・・その・・・これは・・・
アガジ 皆さん、どうかお静かに!
センチュリー 私は最善の努力を致しました。それは確かに。しかし、今義理の弟様が仰った事は・・・
アガジ そう。弟は言ったな、完全な調査に基づく・・・
シレリ 確実な情報だと・・・
ロージシ (途中で遮って。断固とした調子で。)核心をついた、白黒の決着がついた結論!  あの町の生存者、それもあの家族の近くに住んでいた・・・あの家族をよーく知っている・・・そういう人物からの情報なんだ!
全員 やったー! 遂にやったのね。
センチュリー (肩をすくめ、アガジに紙を渡しながら。)これです部長、報告書は。
アガジ (紙を広げる。全員彼の周りに群がる。)ちょっと待って。ちょっと待って!
センチュリー (不服そうにロージシに近寄り。)あんなことを言って・・・困るじゃありませんか。
ロージシ (大きな声で。センチュリーの言葉を遮って。)さあ、まづ読んで。それを読んでから・・・
アガジ ちょっと待って、皆さん。少し離れて! 頼む。今読むんだから。離れて!
(少し静かになる。その少し静かになった時、一際大きくロージシの声が響く。)
ロージシ 私は読んだんですよ、皆さん! 結論を。
全員 (アガジから離れ、騒々しくロージシの方に寄る。)えっ、そう?  あら、そうなの? じゃあ、じゃあ、何て? どういう結論?
ロージシ (一語一語区切りながら。)ポンザ課長の住んでいた町の住民の証言によれば、確かに、決定的に、次の情報は正しい。即ち、フローラ夫人は療養所にいたことがある!
全員 (ひどく失望して。)ええっ?
シレリ フローラ夫人が?
ディナ じゃあ、あのお姑さんが?
アガジ (その間に途中まで報告書を読んでいて、叫ぶ。紙を振り回しながら。)違う、違う! そうは書いてない!
全員 (再びロージシをほったらかしてアガジの方に寄る。)じゃあ何て、何て書いてあるんですか。
ロージシ (アガジに反論して。)そう書いてあるんだ。ちゃんと。ちゃんとその中に「その女性は・・・」とあるじゃないか。はっきりしている!
アガジ (怒鳴る。)違う、違う。この証人は言いきってはいない! 「と、思われる」と断っている。全然確実じゃないんだ!  それに「その女性は」とあっても、姑の方か、嫁の方か、それさえ確かじゃないんだ。
全員 (安心して。)あーあ。
ロージシ (固執して。)だけど文面から明らかなんだ。姑の方だってことは!
シレリ それは間違っている。娘なんだ、皆さん。娘だった筈です!
シレリ夫人 そうよ、フローラ夫人がそのことはちゃんと言っていたじゃない!
アマリア 皆がお嫁さんの健康のことを考えて、夫とは暫く引き離そうって決めて・・・
ディナ 療養所に入れたんだわ! そういう話だったじゃない!
アガジ それにこの証人は、そこの土地の者じゃないんだ! 「そこに屡々行った。よく憶えてはいないが・・・どうもそういう噂を聞いたことがあるように思う。」
シレリ なーんだ。じゃあ、それは推定、想像に過ぎないんだ!
ロージシ じゃあ皆さん、皆さんは全員フローラ夫人の方が正常だって確信しているんじゃありませんか。それなら何をそれ以上ほじくろうって言うんですか。「姑が正常、婿が気違い」これで話はおしまい! ってことにしましょうよ。
シレリ それはそれでいいんだがね、ランベルト。知事殿が全く逆のことを、つまり、ポンザ課長の言うことを全面的に信用しておられるんだ。
センチュリー そうなんです、皆さん。知事殿はポンザ課長に信をおいていらっしゃる。私にも直接そう話されました。
アガジ しかしそれは知事殿が、まだフローラ夫人と話されていないからだ。
シレリ夫人 そうよ。課長としか話していらっしゃらないんですもの。
シレリ それに他にも、知事さんと意見を共にしている人達がいるのだ。
ある紳士 そうです、部長。例えばこの私です。身近にそういう例を見てきたものですから。娘に死なれて、母親が気が狂ってしまったのです。てっきり婿が、娘に会わせたくないのだと思いこんだのですね。似てますでしょう、この話?
別の紳士 ちっとも似てやしない。私もその話を知っているけど、男はずっとやもめ暮らし。女なんか誰もついていないんだ。ポンザ課長の場合はちゃんと妻がいるじゃないか。
ロージシ (急に名案を思い付く。)そうか、それだ。皆さん、聞きました? 「ちゃんと妻がいるじゃないか。」って。そこだ、解決策は! こいつは全くコロンブスの卵だな。(第二の紳士の肩を叩く。)いや君、お見事! 皆も聞きましたね。
全員 (何のことか分からない。当惑して。)それがどうしたの? 何のことなんだ?
第二の紳士 (面食らって。)「妻がいる」、それがどうかしましたか?
ロージシ それだよ。それそれ。 それでこの難問も解決じゃないか。まあ、ちょっと待っていて下さい、皆さん。(アガジに。)知事さんもここに?
アガジ そうだ。もうすぐいらっしゃる筈だ。だけど何の話なんだ。説明してくれなきゃ、何のことだか分かりゃしない。
ロージシ ここに知事さんに来て貰って、フローラ夫人と話をさせる。そんなことは余計なことだよ。ここまでの時点で、知事さんはすっかりあの婿の言うことを信じておられる。だけど、ここで姑と話せばどうせまたどっちを信じていいか分からなくなるに決まっているさ。知事さんにやって貰うのは、全く別のことだ。それは知事さんだけが出来ることなんだからな。
全員 一体何なの、それは。何をして貰うって言うんだ。
ロージシ (晴れ晴れと。)妻がいるっていうことがヒント。それで分からないかな?ポンザ課長には妻がいるんだ!
シレリ 成程。その人に直接訊くという訳か。成程ね。
ディナ でもその奥さんは、牢獄のようにあの高いところに監禁されているんでしょう?
シレリ だから知事さんに、その権力を行使して貰う、ということか。
アマリア そうだわ! その人だけだわね、真実を話せるのは。今となっては。
シレリ夫人 だけど、そりゃその人、夫の言い付けに従うに決まってるわ。
ロージシ そう。勿論夫がその場に居合わせれば、そうなるがね。
シレリ 知事さんが一対一で話して下さらなければ・・・
アガジ そうだ。知事殿なら、その権利を行使して、一対一で問い糾(ただ)すことが出来る。成程これは唯一の解決法だ! センチュリー、お前の意見は?
センチュリー 私も同意見であります。ただ、知事殿がその気になって・・・
アガジ これしかない、解決法は。知事殿にすぐ知らせて、出来るだけ早く来て貰うことにしよう。センチュリー、君行って来てくれんか。
センチュリー かしこまりました。ではすぐ。失礼。
(センチュリー、一礼して退場。)
シレリ夫人 (手を叩いて。)名案よ。ブラーボ、ランベルト!
ディナ ブラーボ、叔父さん。素晴らしい思い付きね。
全員 ブラーボ、ブラーボ。本当にこれしかない。これしかないわね。
アガジ 確かにこれしかない。どうしてもっと早く思いつかなかったのだ。
シレリ それはそうでしょう。誰もあの妻なる人物を見た者がいないんですからね。まるでそういう人物が存在しないかのように。
ロージシ (新しい考えが突然浮かんだ、という様子。)存在しない! そうだ、どうして気がつかなかったんだ、僕は。あれは存在しないんだ。
アマリア 何ですって、ランベルト。何てことを言うんです!
シレリ (笑い飛ばそうとする。)へえー、会うべきだと言ったと思えば、今度は「いやしない」か。呆れたもんだ。
ロージシ いやいや、君に呆れられては困る。第一、「見たものがいない」と言ったのは君なんだぜ。
ディナ 叔父さんたら! フローラ夫人は、あの人に会っているの。それに話をしているのよ、毎日!
ロージシ 分かってる。そういう話だ。しかし考えてみてくれ。君達もよく。あの二人の言い分をよく分析すれば、あの家にいる人物は、人間ではなく幽霊ということになるんじゃないか。
全員 幽霊!
アガジ 大抵にしておけよ、ランベルト。さあ、この話はこれでおしまい!
ロージシ ちょっとだけ。これが最後だから! いいかい、もしフローラ夫人が正常だとする。するとあそこにいる女は、二度目の妻の幽霊だ。もしポンザが正常だとする。するとあの女はフローラ夫人の娘の幽霊だ。さて、すると残った問題は、どちらか一方にとって幽霊である存在が、実際は人間である、そういうことがあり得るか、ということだ。が、それは僕には信じられない。やはり幽霊じゃないか。
アマリア ランベルト、もう黙って! こっちまで気違いになりそうだわ。
ネンニ夫人 いやだわ、私。体中鳥肌が立って来たわ。
チニ夫人 悪趣味だわ。人をこんなに怖がらせて、何が面白いんでしょう。
全員 そんな、幽霊なんて。そんな馬鹿な話があるもんですか。冗談よ。あの人の冗談!
シレリ 血もあり、肉もある人間ですよ、皆さん。それは確かだ。その人に話させるんだ。すぐ分かるさ。
アガジ 知事殿と話させようと最初に言い出したのはランベルトなんだ。その張本人なんだからな。
ロージシ うん、確かにそう言った。しかしあの家に住んでいるのが本当に人間・・・普通の人間・・・である時にのみ可能なんだ。だがまづ駄目だな。とてもあの家に普通の人間が住んでいるとは思えない。無理だね。さっきはふと可能かと思ったが、今は違うね。不可能に決まってる。
シレリ夫人 いやだわ。この人、本当に私達を気違いにしようとしているんだわ。
ロージシ 分かった。もう言わない。結果を見ればいいんだ。結果を見さえすれば。
全員 (一度に。)あの人を見た人は他にもいるわ。ちゃんと張り出しから体を乗り出しているのを! 母親に手紙だって書いてるじゃない! この人、私達を揶(からか)ってるのよ、わざと。

          第 三 場
   (前場と同じ登場人物、帰って来たセンチュリー。)
センチュリー (息をきらして入って来る。騒音の中で。)知事殿です! 知事殿です!
アガジ 何? もう知事殿が? こんなにすぐっていうのは、どういうことだ、センチュリー。
センチュリー 行く道でばったり。こちらへ来られるところだったのです。ポンザ課長と。
シレリ ポンザ課長と?
アガジ それはまずい。それは。ほっておくとポンザは知事殿を姑のところへ連れて行くぞ。センチュリー、フローラ夫人の家の前で立っていてくれ。私が是非お会いしたいからと。それから知事殿にこちらに寄って貰うよう頼んでくれ。私に会うことは約束して下さっていることではあるんだ。
センチュリー かしこまりました、部長。必ずお連れします。では。
(センチュリー、急いで奥の扉から退場。)
アガジ 皆さん、すみませんが、ちょっと広間の方へ下がっていて下さいませんか。
シレリ夫人 でも知事さんに、はっきりご説明下さいよ。これしか解決法はないんだっていうことを。本当にこれしか。
アマリア(左手の扉の前で。)どうぞ、皆さん。こちらから。
アガジ 君は残っていてくれ、シレリ。それからランベルト、お前も。
(他の全員、左手の扉から退場。)
アガジ(ロージシに。)ここは私に任せておくんだ。いいな、ランベルト。
ロージシ どうぞ、お好きなように。僕はどうでもいいんだぜ。何なら皆と一緒に広間に行ったって・・・
アガジ いやいや、居てくれ。その方がいい。あ、知事殿だ。

          第 四 場
   (前場の登場人物、知事、センチュリー。)
知事(六十代。背が高く、肥っている。表面上は人の良さそうな様子。)いやあ、アガジ部長! おやシレリ、君もいるのか。暫くだね、ランベルト!
(各人と握手する。)
アガジ(椅子を手で示して。)態々お寄り下さるようにと、勝手を申しまして・・・
知事(坐って。)いや、どうせ来るつもりにしていたんだ。約束していたんだからな。それは後になったかも知れんが・・・
アガジ(センチュリーが離れて立っているのを見て。)ああ、センチュリー、君も坐ってくれ。
知事 私の知っている通りだとすると、シレリ、君がこの町で例の新総務課長の件で最もはらはらどきどきしている男だということになるが、どうかな。
シレリ いいえ、知事殿、私だけじゃないのです、これは。この町中の人達ですよ。町中あげてです。
アガジ そうです。町中あげての大騒ぎです。
知事 大騒ぎをしなきゃならん理由がどこにあるか、私にはさっぱり分からんな、正直の話。
アガジ それは知事殿が、ある場面に遭遇していらっしゃらないからです。なにしろ私どもは、ポンザ課長の姑なる人物のいるすぐ近くに住んでいるんですから。
シレリ 失礼ですが知事殿、知事殿はまだあのフローラ夫人とはお会いになってはいないのでしょう?
知事 私がそもそもここへ来たのはそのフローラ夫人に会う為じゃないか。(アガジに。)君の家で彼女に会うというのが最初の計画だったな。しかしポンザ課長が私のところに直々(じきじき)にやって来てな、私に頼むんだよ・・・どうしてもこの騒ぎに終止符を打って貰いたいとな。で、姑の家で姑に会って貰いたいと言うんだ。フローラ夫人に会ってさえくれれば、自分の言っていることが確かめられる、そう課長は信じこんでいる。だからこそ会わせたいんだ。そうでなきゃ会わせたいなどと思う筈がないじゃないか。
アガジ それはそうです。可哀相なフローラ夫人! あの婿の前だと・・・
シレリ (続けて。)婿の筋書き通りの話しかしやしませんよ。そしてそれだけの分別のある人物が気違いである筈がないということなんです。
アガジ そのことを私達は目(ま)の当たりにしたんです。それも丁度この部屋で!
知事 そりゃ当たり前じゃないか、君。 ポンザ課長が自分から気違いに見えるようにと演技しているんだからな。彼は予めそう私に話してくれている。それにだな、あの可哀相な姑は、その幻影なしでどうやって生きて行けるんだ。あの課長は十字架を背負っている男だよ、姑という十字架をな。
シレリ ですが知事殿。幻影を作ってやっているのが、あの姑の方だったらどうなんですか。婿は妻が再び奪われるのを極度に怖れている。だから最初の妻は死んでいるのだと自分も思っている振りをしなければならない。その場合は十字架を背負っているのは姑の方ですよ。婿じゃありません。
アガジ そういうふしがあるんですよ、知事殿。で、一旦その線で考えると・・・
シレリ 誰もがその線で考え始めて・・・
知事 ふし? ふしなんかじゃないだろ、君達の場合。 それは確信というんだ。しかし私から言わせて貰えばね、私はその逆のふしで確信しているんだ。そうだランベルト、君はどう思っているんだ。
ロージシ 残念ながら知事殿。私は口を開くなと義兄(あに)に言われていますので・・・
アガジ (バネで弾かれたように。)何を言っているんだ。訊かれたら答えたらいいんだ・・・知事殿、何故こいつに黙っていろと言ったかお分かりですか。こいつはこの二日間、事ある毎にひっかきまわして、こんがらかせようとして来たんですよ。だから・・・
ロージシ それは違うな。逆に、縺(もつ)れを解(ほど)こうとして懸命に・・・
シレリ そう、懸命にね。 そしてそのやり方ときたら、まづ「人は真実を見いだすことは出来ないのだ」と主張、最後にはポンザ課長と一緒に住んでいる女は人間じゃなくて幽霊だって言うんですからね、全く。
知事(面白がって。)ほほう、幽霊ね。悪くないじゃないか。
アガジ ですからこいつの話を聞いたって、時間の無駄だと言うんです。
ロージシ しかし知事殿。知事殿をここにお呼びするようになったのは、私の提案があったからなんですよ。
知事 ほほう、すると君も私がフローラ夫人と話した方が良いと・・・
ロージシ とんでもない。私は今まで通り知事殿がポンザ課長の言う事を信じていて下されば有り難いと・・・
知事 成程。君もやはりポンザが正しいと・・・
ロージシ (勢いよく。)とんでもない。私は他の諸君も今まで通りフローラ夫人の言う事を信じていてくれればいいのに、そしてそれでお仕舞いにしてくれれば良いのに、と思っているんです。
アガジ 聞きましたか知事殿。こいつの理論はこうなんです。
知事 成程。(ロージシに。)すると何か、君が聞いてもフローラ夫人の言っていることは辻褄が合うっていう訳だな?
ロージシ そりゃもう、首尾一貫。丁度ポンザ課長の主張と同じように。
知事 じゃあ君の説明はどうなるんだ。
シレリ 二人が反対のことを言っているっていう事になりゃ・・・
アガジ(苛々して、断を下すように。)もう止めよう。それを蒸し返すのは。私の意見を言うとすれば、今のところどちらにも傾いていないのです。正しいのは彼かもしれない、彼女かもしれない。この迷路から抜け出るにはたった一つの道しかないんです。
シレリ そして丁度彼がそれを指摘したんです。(ロージシを指差す。)
知事 ほほう、それで、その道とは?
アガジ 物的証拠が全く残っていない現状では、残された方法はただ一つ。知事殿の特権を行使して戴いて、彼の妻の証言を取ることです。
知事 ポンザ夫人の?
シレリ 勿論夫のいないところで。
アガジ 妻が真実を語れるように。
シレリ もし我々が信じているようにフローラ夫人の娘だとしたら・・・
アガジ あるいはポンザ課長の主張しているようにただ娘の振りをしている第二の妻だったとしたら・・・
知事 それは私の信じている筋道なんだが・・・成程。 これは唯一の解決法だな。あの課長の望みはただ一つだ。自分の考えを皆に信じて貰いたい、そう思っている。この提案で一番喜ぶのは、あのポンザだろう。センチュリー、君すまんが、(センチュリー立ち上がる。)そこまで行ってポンザ課長を連れて来てくれんか。私からと言って。
センチュリー はっ、行ってまいります。
(一礼して、奥の扉から退場。)
アガジ それは彼さえ承諾すればこの件はすぐ・・・
知事 彼が何故承諾しない! この件は数分あれば片がつく。それもここで。君達の目の前で!
アガジ えっ? ここで? 私の家で?
シレリ 妻をここへ連れて来ることを、あの課長が承諾すると?
知事 承諾するに決まっているだろう。それに場所はここだ。この家でだ! さもなきゃお前達はお前達で、私が勝手に・・・
アガジ とんでもない。何をお考えに・・・
シレリ そんなことを私達が思う訳が・・・
知事 何を言っとる! 君達は私がポンザの言うことを信じていると知っているんだ。それにあれを課長に任命したのはこの私だ。私がこの事件をなるべく揉み消したい気持ちでいると、君達は思っとるに決まっている。いや、駄目だ。この件だけは私一人ではやらん。君達立会いのもとでやるんだ。(次にアガジに向かって。)ところで君の細君はどこなんだ。
アガジ 隣の広間で・・・友達と一緒に・・・
知事 なんだ。陰謀の館(やかた)じゃないか、この家は・・・

          第 五 場
   (前場の登場人物、センチュリー、ポンザ。)
センチュリー 失礼します。ポンザ課長をお連れしました。
知事 御苦労だった、センチュリー。(ポンザ、敷居に現れる。)入って、入って、ポンザ君。
(ポンザ、会釈する。)
アガジ どうぞ。楽にして。
(ポンザ、再び会釈。坐る。)
知事 ここにいるみんなは、初対面じゃないね・・・シレリも・・・?
(ポンザ立ち上がり、一礼。)
アガジ ええ、紹介はすんでいます。(弟のロージシ)・・・(訳注 紹介はすんでいる筈。)
(ポンザ、一礼。)
知事 君に来て貰ったのは他でもない。実はここで、皆のいるところで君に・・・(言い止む。ポンザがこの最初の言葉からひどく動揺していて、いても立ってもいられない様子である事を見て取ったからである。)ポンザ君、君、何か私に言いたい事があるのか?
ポンザ はい、知事殿。私はもうここの役所に勤める事は出来ません。転任を要求致します。今日にも。
知事 何だって? 全く分からん話だな。君と私とは、良く分かり合っている筈じゃないか。それを・・・
ポンザ 知事殿! 私はここで拷問にかけられているのです。
知事 おいおい、何を言い出すんだ。大袈裟な。
アガジ(ポンザに。)拷問? 私が君を拷問にかけていると?
ポンザ 全員です。町中です。ですから私は町を出なければならないのです。私は出て行きます、知事殿。町中の人々の好奇心が、私の個人的生活を破壊しています。これをその儘堪えていることは出来ません。慈悲心、思いやりの心で築きあげてきたこの私と姑の生活、お互いの苦しみと犠牲によって初めて成立し得たこの生活を、危機に陥(おとしい)れる事は出来ません。私はあの姑を、自分の母同様に尊敬し、自分の母同様に感謝しているのです。その姑を昨日私は罵倒したのです。酷い言葉で怒鳴り散らさねばならなかったのです。そして姑は今、うち沈み、かと思うと泣き喚き、半狂乱に・・・
アガジ (遮って。冷静に。)それはおかしいな。フローラ夫人はいつでも、我々の前では冷静そのものだがね。
ポンザ 部長が私を苦しめている、その事に御自分でお気づきにならないのです。今の言葉がその事を一番よく示して・・・
知事 まあまあまあ、落ち着いて、ポンザ君。一体君、どうしたんだね。私がここにいるじゃないか。私が今まで君をどんなに信頼してきたか、どんなに同情してきたか、よく分かってくれている筈だぞ。違うのか。
ポンザ お許し下さい、知事殿、つい・・・はい、私は知事殿に感謝しております。
知事 よろしい。では聞いてくれ。君は今言ったな。君は母親同様あのフローラ夫人を尊敬していると。ところでここにいる諸君だが、そりゃ慥に好奇心は示している。示してはいるが、彼らだって君と同様、フローラ夫人には大きな愛情を持っているんだ。
ポンザ 愛情? とんでもない。姑を殺そうとしているのです、知事殿。このことはもう何度も私は言っているのです。
知事 そう興奮しないで。皆のことも分かってやってくれ。事が明らかになりさえすれば、すぐ皆静かになって仕舞うんだ。すぐにだ。全く簡単な事じゃないか。そして明らかに出来るその手段は、君の手の内にある。それさえ使えば、連中の疑いなど雨散霧消さ。疑いと言っても、私のことを言っているんじゃないよ。私は君を信じている。疑いなどないさ。
ポンザ しかしこの人達は、全く私の言う事を信じては・・・
アガジ それは違う。全くじゃない。君がここに最初に来た時・・・あれはお姑さんの我家への訪問のすぐ後だったが・・・君は「姑は気違いだ」と言った。我々はちゃんとそれを信じたのだ。勿論驚きもしたがね。全員信じたのだ。(知事に。)しかしそのすぐ後にフローラ夫人がやって来て・・・お話ししましたね?
知事 うんうん、聞いている。(ポンザの方を向いて。)そうなんだ。君がここに来て説明したすぐ後、フローラ夫人がやって来て、自分自身の行動に対する君の解釈、それをまた説明してみせたんだな。こうなると当然じゃないか、みんなに疑惑、不安の気持ちが沸き上がって来るのは。君の解釈を聞いたすぐ後なんだからな。そうかと言ってお姑さんの話にも、その後の経過から、全幅の信頼を置くことが出来なくなって仕舞ったんだ。だから分かるだろう? 君達二人は暫くその・・・引っ込んでいて貰ってだな・・・まあ、待て。君が言っていることが正しいのは分かっているんだ。この私が納得しているじゃないか。しかしな、その・・・君達二人以外の人物によってその事実を証言して貰えば、みんなも納得する。君もまさか反対はしまい。ただ私に話してくれたその通りのことを、君達二人以外の人物の口から繰り返して貰えばそれでいいんだ。
ポンザ 誰なんです、その人物とは。
知事 え? 分からないのか? 君の細君じゃないか。
ポンザ 私の妻? (猛然と怒って。)何を言うんです、知事殿。そんな無茶な!
知事 どこが無茶なんだ、この話の。
ポンザ 私の話を聞いても信じようとしない人達、その人達に信じて貰う為に私の妻を連れて来る!
知事(強く。)違う! 連中の為じゃない! この私の為だ。私が聞きたいのだ。何の差し障りがあるというのか。
ポンザ しかし知事殿! いや、妻は駄目だ。妻はこの件に何の関係もない。私の言うことを信じさえすればいいんだ!
知事 何だ。すると君は人に自分の言っていることを信じて貰おうという努力はしないつもりなんだな。そうじゃないか。私がそう考えても仕方のない君の態度じゃないか。
アガジ 何という無礼な! 妻を来させないばかりじゃない。君はあの姑だって、ここに来させまいとあらゆる手を尽くしたんだ。それだけじゃないぞ。私の妻、娘が態々君宅に訪問した際にも、前後二度にわたって無礼極まりない態度を・・・
ポンザ(怒って、爆発する。)一体全体何だ、これは! 姑だけじゃすまない、妻を出せだと! 知事殿、私はこういう暴力、無理無体に堪えることは出来ません。妻を家から出す。とんでもない。見せ物になんかさせはしない! あれに辱(はづかし)めなど受けさせるものか。誰の前でだって! あれはこの私を信じているんだ! それで充分なんだ! 私は今すぐ転任を要求します。今すぐ転任だ!
(ポンザ、立ち上がる。)
知事 (手で机を叩く。) 待て! 第一に言っておく、ポンザ課長、上司に向かって今のような口をきくことを、私は許さん。特にこの私・・・君に常に変わらぬ礼儀と敬意を払って来たこの私に対してそういう口はきかせない! 次にだ、私には君が少し変だという気がしてきた。これは繰り返し言う。いいか。この私にさえ、なんだか怪しいとな。頼んでいるのは他でもない、この私なんだぞ。それも君の為を思って言ってるんだ。それを何故そんなに頑固に断るのだ。君の細君を呼ぶことに、何の不都合があるというんだ。私とか、このアガジ部長が、彼女を客として迎える、あるいはこちらから出向いて行ったって良い。そのどこが・・・
ポンザ これは命令ですか、知事殿。
知事 繰り返し言う。これは君の為を思って言ってるんだ。勿論君の上司として要求することも出来る。
ポンザ 分かりました。よろしうございます。そういうことならば、妻を連れてまいります。但しこの一度限りに願います。で、あの姑が決してここには来ないという保証は?
知事 うん、成程。すぐ傍に住んでいるんだからな。
アガジ (素早く。)じゃあ、君の奥さんは、我々が連れて来ることにしよう。どうかな?
ポンザ それは駄目だ。みんなの好奇の目に晒(さら)される、その結果が心配だ。不測の事態を怖れます!
アガジ 我々をそんなに疑うことはない! 心配はいらないと言っているだろう。
知事 なんなら君自身が細君を迎えに行って、役所に連れて来れば・・・
ポンザ いや、役所じゃ遠い。ここでいい。ここにして下さい。私は姑の家にいます。あれが出ないよう見張っています。今から妻のところへ、次に姑の家へまいります、知事殿。それからこれで本当に終にして戴きます。
(ポンザ、急いで奥の扉から退場。)

          第 六 場
   (前場の登場人物、但しポンザを除く。)
知事 彼があんな抵抗を示すとは予期しなかったな。
アガジ 細君に会って、きっと自分の都合の良いことだけを言わせるようにしますよ。
知事 いや、それは心配いらない。この私が直接彼女と話す。
シレリ あの絶え間ない苛々。知事殿、如何でした?
知事 ああいう彼を見たのは正直、これが初めてだ。ここへ細君を連れて来なきゃならんと考えただけで・・・
シレリ あの牢獄から・・・
知事 その、細君を閉じ込めているという話だが、それは別に狂気でなくとも説明がつくことじゃないのか。
シレリ 失礼ながら、知事殿。知事殿はまだフローラ夫人の話をお聞きになっておられないので・・・
アガジ そうです、知事殿。彼は姑が万一あの階段を上がって行くようなことがあると大変だから、と説明しているのです。
知事 しかしそれが本当の理由でなくとも・・・単に嫉妬の為であっても、説明がつくのではないか。
シレリ 女中を雇うのを怖れる程の嫉妬ですか。あの男は、家事のこまごましたことまで、全てを細君にやらせているんですよ。
アガジ そして買い物は自分でやる。朝早く!
センチュリー そうです。それは私、自分で目撃しました。配達の子供を使って、買った物を家まで運ばせて・・・
シレリ 子供は暫く外で待たせておいて、中に入れさせもしない・・・
知事 そのことなら私はあの男からじかに話を聞いて、知っているよ。
ロージシ 成程。これは一番確かな情報源だ。
知事 経済をしなきゃならんと言ってな、ランベルト。家計を二つ抱えているとやむなく・・・
シレリ いや、そのことを言っているんじゃありません、我々は。もし万一あれが二度目の細君だったら、そんな酷い条件を受け入れるとお思いになりますか?
アガジ(情景を生き生きと。)体を二つに折り曲げて、汚い家事に専念する・・・
シレリ(続けて。)それも全く赤の他人。夫の先妻の母親の為に・・・
アガジ これは少しグロテスク、というものじゃないでしょうか。
知事 成程・・・
ロージシ(彼を遮って。)普通の後妻であれば。確かにね。
知事(勢いよく。)確かに多少グロテスクだ。それは認めよう。しかしそれだけ心の広い人物なら説明がつくし、そうでなくとも彼の方の嫉妬心でも説明はつく。それに狂気であろうとなかろうと、彼が嫉妬深いことはとにかく、疑いを入れない。そうだな?
(丁度この時広間の方から、混乱した呟き声が漏れ聞こえて来る。)
アガジ おおっ! 何事だ。

          第 七 場
   (前場の登場人物、アマリア。)
アマリア(左手の扉から、非常に困惑した様子で、慌てて登場。)フローラ夫人ですわ、貴方。フローラ夫人です!
アガジ フローラ夫人? 誰が連れて来たんだ。
アマリア 誰も! 自分一人で!
知事 そりゃいかん。今は駄目だ。奥さん、中へは通さないで。
アガジ そうだ。何が何でも中に入れるな。帰って貰うんだ。すぐ。あいつが来て見ろ。罠に掛けたと思うぞ。

          第 八 場
   (前場の登場人物、フローラ夫人、他の客全員。)
(フローラ夫人、手にハンカチを持って、全身震え、泣き、訴えながら登場。他の客全員、その周りでおろおろしている。)
フローラ夫人 皆さん、お願いでございます。部長さん、どうぞわたくしを追い出さないで。皆さんにもお話しして・・・
アガジ (苛々しながら、フローラ夫人に近づいて。)いや、私も言いますよ。どうかお帰り下さい、今すぐ。今ここにいてはいけません。
フローラ夫人 (困って。)どうして。何故ですの。(アマリアの方を向き。)奥様、お優しい奥様、何故私が・・・
アマリア 何故って・・・ほら、知事さんがいらして・・・
フローラ夫人 ああ、知事さんですの? ああ、お会いしたいと思っておりました。そしてお話ししたいと・・・
知事 いいえ、失礼ですが今は駄目です。今はお聞きする訳にはいきません。すぐお引き取り下さい。
フローラ夫人 分かりました。出て行きます。今出て行きますわ。今日すぐにも。もう帰ってはまいりません。この町から出て行きますわ。
アガジ 何を言うんです。今暫くの間だけ。ちょっとだけ席を外して戴きたい。それだけをお願いしているんです。どうか、お分かり下さい。それから後なら、いくらでも知事殿と・・・
フローラ夫人 何故ですの? 何があるんです。ここで何があるのですか。
アガジ(辛抱出来なくて。)ポンザ課長が来るんです。いいですか。分かりましたね。
フローラ夫人 婿が? 分かりました。それなら、それなら行かなければ・・・すぐ行きます! わたくしはただ皆さんに申し上げたかったのです。どうかほうって置いて下さい。良かれと思ってして下さること、それがわたくしどもを不幸にするのです。こんなことが続きましたら、わたくしはこの町から出て行かねばなりません。今日すぐにでもです。あの人の病気が、この儘では悪くなる一方ですもの。でもあの人に何を・・・あの人をどうなさろうと・・・ここで何があるんですの? ああ、知事さん!
知事 何もありませんよ、奥さん。どうぞお静かに。そしてこの場は一旦お引き取りになって。どうか。
アマリア どうか、奥さん。お聞きになって・・・
フローラ夫人 ああ、皆さんはわたくしから唯一の幸せを奪おうとなさっていらっしゃる。わたくしに残されたただ一つの慰めを。あの子に会える、遠くからなりと・・・その楽しみを・・・
(フローラ夫人、泣き始める。)
知事 そんな事を誰もしやしません。この町を出て行くこともありません。ただちょっとだけ席を外して戴きたいと頼んでいるのです。心配しないで。どうか。
フローラ夫人 わたくしが心配しているのはあの人のことなんです。(わたくしじゃありません、あの人が・・・)ここへ来たのもあの人のことでお願いしようと・・・
知事 分かっています。彼のことも心配はいらない。私が保証します。すぐ分かりますよ、奥さん。すぐに片がつくんですから。
フローラ夫人 片がつく? 何があるんです、ここで。ここではみんながあの人のことを苦しめているんですから・・・
知事 とんでもない、奥さん。それは違います。私がここにいるのは、彼を弁護する為です。本当に心配しないで。
フローラ夫人 あの人を弁護? 有難うございます、知事さん。ではあの人のことを分かって下さって・・・
知事 そうです。私には彼がよく分かっている。
フローラ夫人 わたくしはもう何度も何度も、この方々にお話ししたんです。この不幸、これはわたくしどもが苦労して、辛抱して、やっと乗り越えることが出来たものなのです。どうかもうこの不幸についてはこれ以上話題になさらないで・・・
知事 分かってます。私には分かっているんです。保証します。どうかここは・・・
フローラ夫人 わたくしどものこういう暮らし方、それがわたくしどもには一番良いんです。娘もそれで満足しているのです。ですから・・・ですからどうかお願いです。さもなければわたくしはもうこの町から出て行く他ありません。二度とこちらへは帰って来ることは出来ません。娘にも会えません。遠くからも。どうぞわたくしどもをほうって置いて下さい。
(この瞬間、客達の間に動きあり。互いに目配せをし、扉の方を見る。押し殺した感嘆符が聞こえる。)
声 あっ。とうとう。まあ。もう。
フローラ夫人 (漏れ聞こえて来るこれらの声に、全身震えて呟く。)何でしょう。何があるの。

          第 九 場
   (前場の登場人物、ポンザ夫人、次にポンザ。)
(ポンザ夫人、登場。客達、道を開ける。ポンザ夫人は姿勢正しく、深い喪に服している。黒いヴェールで顔が覆われていて、ヴェールが厚い為その顔はよく分からない。)
フローラ夫人(喜びで一杯となる。引き裂くような叫び。)ああ、リーナ・・・リーナ・・・リーナ。
(フローラ夫人、ポンザ夫人に駆け寄る。何年も抱擁出来なかった娘を抱擁出来る嬉しさで、全身が震える。しかし丁度その時、廊下でポンザの声が聞こえ、その後すぐ、この場に登場する。)
ポンザ ジューリア・・・ジューリア・・・ジューリア。(ポンザ夫人、この叫び声を聞き、フローラ夫人の腕の中で体を固くする。ポンザ、この光景を見、怒り極に達し、叫ぶ。)思った通りだ! 卑怯な! 罠に掛けたな!
ポンザ夫人(ヴェールを掛けた顔をそちらに向け、優しさと厳しさの溢れる声で。)心配しないで。心配はいりません。さあ、二人とも、この部屋から出るのです。
ポンザ(優しく、低い声で、フローラ夫人に。)そうだ。さあ、出ましょう。出て行きましょう。
フローラ夫人(この時までにポンザ夫人から手を放していたが、ポンザの後に続けて、淑やかに、優しく、震えながら、繰り返して言う。)そう。そうね。行きましょう。出て行きましょう。
(二人、固くお互いを抱きながら、啜り泣きの間に優しい言葉を掛け合いながら退場。沈黙。全員、二人を目で追った後、振り返る。当惑と動揺の気分でポンザ夫人を見る。)
ポンザ夫人(ヴェールを通して彼らを見る。暗い、荘厳な声で。)このような悲惨な光景をご覧になった後、一体皆様方は私にどのようなことをお話しになれると言うのでしょう。皆様ご覧の通りの不幸、それを救う道はただ一つしかありません。同情をもって私どもを無視して下さること、これだけですわ。
知事(心を動かされる。)しかしその同情、それを我々が感じる為には、どうしてもお話し願いたいことが・・・
ポンザ夫人(ゆっくりと。一語一語切るように。)それは何でしょう。本当のこと、真実、を話せと仰るのですね。申しましょう。私は確かにフローラ夫人の娘で・・・
全員(満足の溜息。)ああ!
ポンザ夫人(同じ調子。続けて。)同時にポンザの第二の妻なのです。
全員(裏切られて失望の声。)でもどうして? そんな馬鹿なことが・・・
ポンザ夫人(同じ調子。)そして私自身にとっては、この私は誰でもないのです。何者でもないのです。
知事 それはおかしい。そんな無茶はありえない。どっちかの筈だ。
ポンザ夫人 いいえ、皆さん。私自身から見るとこの私は、皆さんがそうだと思って下さる私なのですわ。
(ポンザ夫人、ヴェールを通して一人一人を見る。そして退場。沈黙。)
ロージシ ははーん。皆さん、やっと分かりましたかな。真実とは何か。(周りを皮肉な目で見つめ。)満足がいったでしょうな、さぞかし。(大きく笑う。)はっはっは、はっはっは。
                                                                     (幕。)
                    
              平成四年十月十三日訳了

原題 Cosi e (se vi pare)
翻訳に使った本 Pirandello Theatre complet Bibliotheque de la Pleiade
フランス語訳の題名 Chacun sa verite
フランス語訳の訳者 Daniele Aron-Robert