戦争と平和
      (四幕三十場の劇)
        原作 リェフ・トルストーイ
        脚色 ミハイル・ブルガーコフ
        訳   能美武功

   登場人物
一 語り手
二 エレーナ・ヴァスィーリエヴナ・ベズーホヴァ(エレン)(伯爵夫人)
三 ピョートル・キリーラヴィッチ・ベズーホフ(ピエール)(伯爵)(父称は「キリールイッチ」とも)
四 アナトーリ・ヴァスィーリエヴィッチ・クラーギン(アナトーリ)(侯爵)
五 マーリヤ・ニカラーイェヴナ・バルコーンスカヤ(マーリヤ)(公爵令嬢)
六 アンドリェーイ・ニカラーイェヴィッチ・バルコーンスキイ(アンドリェーイ)(公爵)
七 ニカラーイ・アンドリェーイェヴィッチ・バルコーンスキイ(バルコーンスキイ)(公爵)
八 ナターリヤ・イリイーニシナ・ラストーヴァ(ナターシャ)(伯爵令嬢)
九 ラストーヴァ(母親)(伯爵夫人)
一0 ラストーフ(父親)(伯爵)(六場だけ理解を容易にするため、「ラストーフ伯爵」としてある)
一一 ピョートル・イリイッチ・ラストーフ(ペーチャ)(伯爵)
一二 ニカラーイ・イリイッチ・ラストーフ(ラストーフ)(伯爵)
一三 ソーニャ(ラストーフ伯爵の姪)(ソーニャ)
一四 皇帝アリェクサーンドル一世(アリェクサーンドル)
一五 ラストープチン
一六 クトゥーゾフ公爵
一七 自由主義者の船乗り
一八 元老院委員
一九 スチェパーン・スチェパーノヴィッチ・アプラークスィン
二0 いかさま賭事師
二一 グリーンカ(作家)
二二 シーンシン(モスクワの皮肉屋)
二三 イリイーン(驃騎兵士官)
二四 ヴィルチェンビェールスキイ公爵(公爵)(皇太子)
二五 シッシェルビーニン
二六 イェルマローフ
二七 ヴァリツォーゲン(副官)
二八 ライェーフスキイ
二九 カイサーロフ
三0 クトゥーゾフの副官一
三一 クトゥーゾフの副官二
三二 クトゥーゾフの副官三
三三 クトゥーゾフの副官四
三四 医者
三五 蒼い顔の士官
三六 少佐
三七 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ
三八 文官略服の男
三九 マーリヤ・ニカラーイェヴナ(子供を亡くした)
四0 美人のアルメニアの女
四一 老人
四二 トーリ
四三 バルハヴィチーノフ
四四 将軍
四五 ヂェニーソフ
四六 ドーロホフ
四七 エサウール
四八 ラストーフ家のお仕着せを着た従僕
四九 ラヴルーシカ ニカラーイ・ラストーフの従僕
五0 チホーン バルコーンスキイ家の従僕
五一 アルパートゥイッチ
五二 ドゥニャーシャ バルコーンスキイ家の小間使い
五三 ドゥローン 村長
五四 背の高い百姓
五五 百姓
五六 背の低い百姓
五七 カールプ
五八 丸顔の百姓
五九 クトゥーゾフのコック
六0 クトゥーゾフの従卒
六一 黒い髪の下士官
六二 負傷兵
六三 看護兵一
六四 看護兵二
六五 飯盒(はんごう)を持った兵士
六六 馬の調教師
六七 マーヴラ・クズィミーニシュナ ラストーフ家の鍵番の女
六八 ヴァスィーリイッチ ラストーフ家の執事
六九 ラストーフ家の給仕
七0 ラストーフ家の召使
七一 アンドリェーイの老侍僕
七二 蒼い顔の士官の従卒
七三 マトリョーナ・チモフェーイェヴナ
七四 ラストーフ家の小間使い
七五 ゲラスィーム バズヂェーイェフ家の執事
七六 バズヂェーイェフ家の女料理人
七七 あばたのある百姓女
七八 囚人一
七九 囚人二
八0 下男 およそ四十五歳
八一 非常にハンサムな百姓
八二 黄色い顔をした工員
八三 チホーン パルチザン
八四 捕虜のロシア兵
八五 カラターイェフ
八六 赤ら顔の男(銃士)
八七 鼻の尖った男(銃士)
八八 若い銃士
八九 踊りの好きな男(銃士)
九0 年寄りの男(銃士)
九一 曹長一
九二 曹長二
九三 歌の好きな男(銃士)
九四 疲れ果てた男(銃士)
九五 徴税人
九六 ガラヴァー(訳註 不明)
九七 ナポレオン
九八 ナポレオンの小姓
九九 ベルティエ元帥
一00 レロルム・ディデェーヴィリ 通訳
一0一 ナポレオンの副官
一0二 ランバーリ(伯爵)
一0三 モレーリ ランバーリ(伯爵)の従卒
一0四 小さな略奪兵 フランス人
一0五 マントを着た掠奪兵 フランス人
一0六 フランス人の槍騎兵
一0七 フランス人の槍騎兵士官
一0八 小さい男 フランス人
一0九 ダヴー元帥
一一0 ダヴー元帥の副官
一一一 青い軍服の兵士一 フランス人
一一二 青い軍服の兵士二 フランス人
一一三 ボス フランス軍の鼓手
一一四 フランスの護衛兵
一一五 バルコーンスキイ家に来た士官(負傷兵)
声一
声二
声三
声四
声五

(場 一八一二年 ロシア。)

     第 一 幕
     第 一 場
(ピエールの書斎。冬の夜。ピエール登場。すぐに扉が開き、サロンからエレーン登場。サロンから、低くチェンバロの音が聞こえて来る。)
 エレーン ああ、ピエール。兄さんが今、どんな状態になっているのか、あなたには分らないの?
(間。)
 ピエール お前達二人がいるというだけで、その場所は淫乱と悪の巣になるのだ!(扉を開けて呼ぶ。)アナトーリ! アナトーリ! 来るんだ! お前に話がある。
 エレーン Si vous permettez dans mon salon ... (仏語 私、よろしければサロンに戻りますわ。)
 ピエール 覚えている筈だぞお前は、あの時のことを・・・あの時も私のことを震え上る程怖がった筈だ。(訳註 ピエールがドーロホフと決闘をした時のことを言っている。)
(エレーン、急いで退場。)
(アナトーリ登場。副官の着る軍服。片方の肩にだけ肩章あり。間。)
 ピエール 貴様、結婚している癖に、ラストーフのお嬢さんに結婚すると約束して、かどわかそうとしたのか。
 アナトーリ ちょいとあなた、そちらがそういう言い方をしている時に、私の方に答える義務があるとは思えませんがね。
(ピエール、アナトーリの襟首を掴まえ、首を締める。弾みで軍服の襟が引きちぎれる。)
 エレーン(扉のところに現れる。)Si vous vous ・・・(仏 ちょっと・・・)
 ピエール(エレーンに。物凄い形相で。)ウウー・・・
(エレーン、身をひき、盗み聞きする。)
 ピエール(再びアナトーリの胸倉を掴む。)義務があるとは思えないとは何だ。私が言っていることが分らないのか・・・貴様。分らないのか・・・エエッ!・・・分らないのか!・・・(手を放す。)
 アナトーリ(襟が引き裂かれて。)何ですか、一体・・・馬鹿なことじゃありませんか・・・ええっ?
 ピエール 貴様は悪党だ。ろくでなしだ。ええい、貴様の頭をこれで(机から文鎮を掴み上げ。)叩き割ってやれば、どんなにせいせいするか。ええい、何故やってしまわないんだ、この私は・・・あの人に結婚すると約束したのか、貴様は。
 アナトーリ いや、私は・・・私はそんなことは・・・とにかく約束など、何もしていません。だって・・・
 ピエール あの人からの手紙を持っているんだな? 今あるんだな?
(アナトーリ、財布から手紙を出す。ピエール、手紙を取る。机を突き飛ばす。ソファに倒れるように坐る。アナトーリ、驚く。)
 ピエール Je ne serai pas violent, ne craignez rien! (心配するな。暴力はふるわない。)第一は・・・手紙だ。第二・・・明日はもうお前はモスクワを発つ。
 アナトーリ モスクワを発つ? 無理です。
 ピエール 第三・・・お前と伯爵令嬢との間に起ったことを誰にも話してはいかん。いや、これを禁ずることは私の力で出来ることではないが、もしお前に良心のカケラでもあれば・・・(訳註 ここで少し落ち着く。)君だって、よく考えれば分る筈だ。自分の満足だけがあるんじゃない。他人の幸福だって、心の平安だってあるんだ。君はその他人の幸福を自分の快楽追求のために滅茶滅茶にしている。いいか、私の女房だとか、君の姉だとか、そういう女となら、いくらふざけたって、いちゃいちゃしたって構いはしない。連中は色恋にかけては君と同じように手管に長(た)けているんだ。しかし、生娘に対して、結婚すると約束したり、誘惑して攫(さら)って行こうとするなどと・・・君にはそれが卑劣な行為だということが分らないのか。老人や小さな子供を殴るのと同じことなんだぞ。
 アナトーリ 私には分りませんね。そう、私にはそんなことは分らないし、分りたくもありません。ただ、捨てておけないことがあります。今あなたは私に向って卑劣だとか、そういう言葉を使いましたね。私は名誉ある人間・・・「オンム・ドノール」・・・として、そのような言葉はどんな人間に対しても許す訳には行きません。・・・それは確かに、他に誰もいない二人っきりの場面で言われたには違いありませんが、それでも私は・・・
 ピエール 何だ、許さないとは。決闘でもしようというのか。
 アナトーリ 少なくとも、そういう言葉を撤回することは出来るでしょう、エエッ? それに、そちらの要求をこの私に果して貰いたいなら、そちらに出来ることがある筈です。
 ピエール ああ、撤回する。撤回するよ。それに君に謝る。それから金。道中に必要な金なら出す。
(アナトーリ、ニヤリと笑う。立ち聞きをしていたエレーン、ほっとしてその場に登場。)
 ピエール ああ、なんて卑劣な、厭らしい奴等だ!
                 (暗転)

     第 二 場
(モスクワのバルコーンスキイ公爵家の部屋。ピエール登場。公爵令嬢マーリヤがピエールを迎える。ピエール、マーリヤの手にキス。扉の外に公爵アンドリェーイの声が聞こえる。「寵愛を失った人間に追い討ちをかけて、他人の過ちをその男になすりつけるのは簡単なことだ。しかし、私の意見ははっきりしている。今の治世(ちせい)で、もし何事かをやらせて立派に成し遂げられる男がいるとすれば、それはスペラーンスキイただ一人だ。」)
 マーリヤ(囁き声で。)「これは予期していたことだ」などと兄は申していました。誇り高いせいか、自分の感情をそのまま外に出すことを自分に許さないのです。でも、私が思っていたよりも、ずっとずっと立派に兄は耐えましたわ。どうやらこうなるのは仕方のないことだったように・・・
 ピエール しかしまさか、全く終ってしまったという訳では?・・・
(マーリヤ、驚いた表情でピエールを見る。(訳註 「あなた、まだこの件で脈があるとでも思っているのですか?」の意。)退場。)
 アンドリェーイ(登場。舞台裏の誰かに言っている。)そして彼を正当に評価するのは後世に任せるんだ・・・(ピエールに。)ああ、ピエール、どうだ? 調子は。相変らずの肥りようだな。
 ピエール やあ。それで、君の方はどうなんだ?
 アンドリェーイ うん、元気だ。(間。)君の手を酷く煩らわせたようだ。謝る。(手箱から手紙を取り出す。)ラストーフ伯爵令嬢からの断りの手紙を受け取った。それから、噂が聞こえている。君の義理の兄が彼女に結婚を申し込んだとか、そのような噂だ。これは本当なのか。
 ピエール 本当でもあり、間違ってもいる。
 アンドリェーイ これは彼女の手紙と写真だ。君、彼女に会うことがあれば返して欲しい。
 ピエール あれは重い病気に罹(かか)っている。
(間。)
 アンドリェーイ で、君の兄、クラーギン公爵はどうなんだ。
 ピエール 立ち去っている。もうとっくだ。(間。)彼は死ぬか生きるか、そんな状態だ。
 アンドリェーイ 病気のことは非常に可哀相だ。しかし、クラーギン氏が彼女に結婚を申し込んだのではないのか。
 ピエール 彼は結婚など出来ない。もう妻がいるのだ、あいつには。
 アンドリェーイ(嘲笑う。)それで今、彼は・・・君の義理の兄は・・・どこにいるんだ。もし訊いてよければ。
 ピエール ペテル・・・いや、僕は知らない。
 アンドリェーイ フム。まあ、それはどうでもいいことだ。とにかくラストーフ伯爵令嬢に伝えて欲しい。過去もそうだったが、今でもあの人は全く自由なのだと。そして僕から呉々も宜しくと。
(間。)
 ピエール 訊いていいかな? 君は我々がペテルブルグでやった議論を覚えていないか・・・例のあの・・・
 アンドリェーイ 覚えている。僕は言った。堕落した女性も許してやらねばならぬと。しかし僕は、自分が許せるとは言わなかった。僕は許せないのだ。
 ピエール それが今度の話と比較になるだろうか。
 アンドリェーイ 比較になる。同じだ。再び辞を低くして彼女に結婚を申し込む、そしてその他もろもろ、心の広いところを示す。確かに立派なことだ。しかし、僕には出来ない。あの話に出てきた男の真似は。・・・もし君が僕の友人でいたいなら、もう彼女のこと・・・いや、これに関するどんなことも、二度と話さないでくれ。じゃ、失敬。あれは渡してくれるな?
(ピエール退場。)
 アンドリェーイ(一人になって。)クラーギン・・・あんな奴と決闘するほど、この自分を卑しめる訳にはいかない。そんなにまで自分を低めるなど・・・しかし、奴に挑まずにどうしていられよう。腹の減った人間は食い物に飛びつく以外にはない。何ていう、何ていうことだ。人は何と思うか。馬鹿馬鹿しい。・・・ああ、こんなにも取るに足らないことが人間の不幸の原因になり得るとは!・・・
(扉、静かに開く。公爵令嬢マーリヤ登場。)
 マーリヤ お兄様、お兄様は御自分の幸せを打ち壊した人のことを考えていらっしゃるのね。私、たった一つだけお兄様にお願いがあるわ。人間の不幸を作るのは人間じゃないわ。神様よ。人間は神様の思し召しのまま。お兄様を不幸にした人がいたとしたら、それも神様のせい。その人のことは許して、忘れてあげなくちゃ。私達、人を罰する権利はないわ。お兄様だって、人を許す幸せのことは御存知でしょう!
 アンドリェーイ(嘲笑う。)お前は、この私に許せというのか。そいつを説得するには、私を痛めつけなければ駄目だろうね。相当痛めつけなければ。
                    (暗転)

     第 三 場
(ラストーフ伯爵家の居間。窓からくっきりと彗星(ほうき星)が見える。ピエール一人。そこにナターシャ登場。)
 ナターシャ ピョートル・キリールイッチ、(訳註 ピエールのロシア語名。)バルコーンスキイ公爵は、あなたのお友達でしたわ。・・・いえ、今でもお友達ですわ。あの時、何かの時には、あなたに御相談しろと。・・・あの方今、この地にいらっしゃいます。どうか、どうかあの方に、私を許して・・・許して下さるように・・・
 ピエール ええ、言います、彼に・・・しかし・・・
 ナターシャ ああ、私には分っています。もうすべては終ったのですね。私、あの方にいけない事をしてしまいました。その事で私、苦しんでいます。どうかあの方にお伝え下さい。私が心から悔いていると。ただひたすらお許しを戴きたいと。
 ピエール お伝えします、すべてを。しかしどうか、次のことを、一つだけ、心に留めておいて戴きたいのです。私があなたの友人だということを。そして、何かあなたに助力でも忠告でも、ただ単に何か心の中を打ち明けたいとお思いの時でも・・・今でなくて、気持がもっと落ち着いた時・・・私のことを思い出して下さい。(ナターシャの手を接吻する。)私は幸せです、もしそのような時が来れば・・・
 ナターシャ そんな風に仰らないで。私、それに値しませんわ。(出て行こうとする。)
 ピエール(手を取ってそれを押し止めて。)待って、どうぞ待って下さい。これからなのですよ、あなたの人生は。
 ナターシャ これから? いいえ! これからはありません。これで終なのです、私の人生は。
 ピエール もし私が、今のこの私でなかったら、もっと美男子で、もっと賢くて、もっと良い人間だったら、そしてもし妻帯していなかったら、今この場で私は、膝まづいて、あなたの手を、あなたの愛を乞うことでしょう。
(ナターシャ、泣きながら退場。)
 ピエール ああ、どこへ・・・今からどこへ行こう。クラブへ?・・・誰かの家によばれに?・・・とんでもない。ああ、あの人の、あの目・・・あの、僕を見て感謝を表したあの目・・・あの目に比べたら、どこのどの家に行ったって、貧弱で哀れなものにしか見えやしない。(窓の傍による。)彗星だ! 彗星だ! あれは彗星だ!(退場。)
 語り手(ラストーフ家に登場。)星の鏤(ちりば)められた黒い空の巨大な空間が、ピエールの目の前に拡がっていた。その空のほぼ真中あたり、プレチースチェンスキイ通りの上方に、沢山の星に混じっていながら、その地球からの距離の近さから、その光の白さから、またそのピンと上に上った尻尾のせいから、一際(ひときわ)目立つ一八一二年の巨大な明るい彗星があった。この星こそ、当時、この世界の大災害、或は世界の終りを予言すると噂された、あの彗星であった。しかしピエールには、長い煌(きら)めく尾を持つこの明るい星は、何の恐怖の感情も呼び起こさなかった。それどころ
かピエールは、喜ばしそうに、涙で濡れた目で、この明るい星を眺め続けた。この明るい星、それは、もの凄い速力で、無限の空間を放物線を描いて飛んで来て、突然、まるで飛んでいた矢が地上に突き刺さって止る時のように、暗い空の中の、自分で選んだある一点にぐさりと入り、ピンと高く尻尾を上げて止ったかのようだった。
 ピエールには思われた。この星は、今僕の心の中にあるものと完全に呼応している。この、解きほぐされて柔らかくなり、元気づけられた心、そして、これからは全く違った人生を送るんだという決意でいるこの心と。
                  (暗転)

     第 四 場
(暗闇から教会の合唱が聞こえる。)
 語り手 一八一二年に、西ヨーロッパの勢力はロシアの国境を越え、戦争が始まった。これは人間の理性、そして人間のあらゆる天性に反する事件であった。何百万という人間が、お互いがお互いに対して、悪業の限りを尽したのだ。詐欺、裏切り、窃盗、贋金の製造・発行、強盗、放火、そして殺人を。その数たるや、全世界の裁判記録全てを集めてもまだ追い付かないほどのものであった。しかしこれら悪業を犯した当時の人々は、誰一人これが犯罪であると認識してはいなかったのだ。
(ラズモーフスキイ家の教会。群衆が十字を切っている。)
 声一 陛下御自身が軍隊をお連れになって、モスクワに到着されたそうだ。
 声二 噂では、スマリェーンスクも占領されたそうだ。
 声三 ああ神様、ロシアを救うものはもう奇跡だけしかないのですか。
(ナターシャ、老伯爵夫人、お仕着せを着た下男、登場。)
 声一 あ、ラストーフのお嬢さんだ・・・クラーギンと噂のあった・・・
 声二 なんてお痩せになって・・・でも、相変らずお綺麗な・・・
(舞台裏で、声四「神よ、我々に心の安らぎを・・・」
 ナターシャ 誰にも皆平等に、心の安らぎを。階級の差別なく、敵味方の別なく、親しく結ばれた兄弟の愛のように・・・
(コーラス、舞台裏で声四「おお、あてどなく彷徨(さまよ)い、漂(ただよ)える者に、心の安らぎを・・・」)
 ナターシャ ああ、漂える者・・・あれは公爵アンドリェーイ様のこと。私があの方に犯してしまった過ちを、神様、どうかお許し下さい。
(コーラス。声四「おお、我々を憎む者、そして我々の敵達にも、心の安らぎを」)
 ナターシャ 敵って誰かしら。そう、私に悪いことをしたアナトーリだわ。でも喜んであの人にも祈ろう。敵として、心の安らぎを。
(コーラス。声四「この私、そしてこの私の命を、神、イエス・キリストは与えたまう・・・」
 ナターシャ ああ、神様。私自身も、私の命も、あなたの意のままです。私は何も欲しくない。私は何も望まない。どうか教えて、私が何をすればよいのか。私を連れ去って。どうか私を連れて行って!
 伯爵夫人 まあ何てことを。神様、どうぞ娘をお救い下さい!
(突然静かになる。全員膝まづく。)
(舞台裏で、声五「おお神よ、我々の救い主、神よ、我らを許し、心に安らぎを与えたまえ。かの敵は、あなた様のこの土地に脅威を与え、我らに襲いかかり、あなた様の財産を滅ぼし、あなた様の愛するこのロシアを廃虚にせんとしております。おお、偉大なる神よ、あなた様に敬虔に仕える我らが君主、アレクサンドル・パーヴロヴィッチに、絶大なる力をお授け下さい。我らの敵に大いなる一撃を加え、あなた様の忠実な僕(しもべ)我らが足下に、敵を粉砕して下さいますように。もしあなた様がこの助力、そして敵への勝利をお与え下さいますならば、子々孫々、また、現在はもとより何世紀も何世紀も、永遠の将来にわたり、感謝を捧げるものでございます。」)
 コーラス アーメン!
(群衆、教会の奥へと退場。)
 ナターシャ(一人になり。)ああ、私は敵が粉砕されるようにと祈ることが出来ない。ほんの少し前、私、みんなと一緒にそれを祈ったけれど・・・ああ、何て恐ろしい事、人々が罪を罰せられるのを見なければならないなんて。あれはみんな私の罪のせい! ああ、神様、どうかみんなをお許し下さい。そして心の安らぎと幸せを! 神様、この私の願いをお聴き届け下さい!
(コーラスがカンタータ「おお神よ、祈る我らが願いをお聴き下さい」を大きな声で歌う。)

     第 五 場
(暗闇の中でコーラスが静かになる。)
 語り手(登場。)ピエールがラストーフ家を訪問し、そのあとナターシャの感謝の眼差を思い出しながら、空にかかった彗星を見、何か自分に新しい人生が開けて来たと感じたあの日から、ピエールの心の中に、それまで長い間蟠(わだかま)っていた現世の空しさ、無意味さの問題は存在しなくなってしまった。その問題とは、「何故」「何のために」という恐ろしい問題だったのだが、それが今や、新しい別の問題が生じたためでもなく、また最初の問に対する解答が得られた訳でもなく、ただ彼女の登場がそれに取って代わってしまった。従って今ではピエールにとって誰かが国家や皇帝をのっとってしまおうが、国家や皇帝が誰かに感謝の意を表しようが、まるで問題ではなかった。ただ「彼女は昨日、僕にニッコリ笑って、どうぞまたいらして下さいと言った」・・・それだけが大事だったのだ。そして自分が彼女を愛しており、それを誰にも知られてはいけない、という事だけが(大事だったのだ)。
(コーラスは次第に小さくなり、ナターシャの歌声に取って代わって行く。
 ナターシャ
  「あの娘(こ)は金色の竪琴を抱えて、
   彷徨(さまよ)い歩きながら、かき鳴らす
   熱情的な、心に適(かな)った旋律を。
   お前を自分の方に引き寄せようと・・・」
場は、ラストーフ家の居間。ナターシャが歌っている。ピエール、扉を開けて登場。)
 ナターシャ 私、また歌の練習をしようと思って・・・だって、歌は私の仕事ですもの。
 ピエール そう。いいことです。
 ナターシャ いらして下さって私、本当に嬉しいですわ。この頃私、とても幸せなんですの。兄がゲオルギー勲章を受けたの、御存知でしたかしら? 兄のために私、とても喜んでいますの。(間。)あら私、歌を歌ったりして・・・いけなかったのですわね?
 ピエール いいえ。何故そんな・・・歌った方がよっぽどいいです。何故そんなことを私にお訊きに?
 ナターシャ 私、自分でも分りませんの。私、出来ることなら、お気に召さないことは何一つしないようにしたいって・・・私、心から御信頼申し上げておりますの。今までにどんなに大切なことをして下さったことか、そしてどんなに沢山のことを・・・(間。囁き声で。)ああ、バルコーンスキイ・・・あの人またロシアに帰って来て、今度は狙撃兵隊の隊長を勤めていらっしゃる。(間。)どうなのでしょう、あの方いつかは私を許して下さるのでしょうか。私に対する悪い感情が薄れて行くことがあるのでしょうか。
 ピエール 僕の考えでは・・・彼があなたの何を許すっていうんでしょう・・・もし僕が彼の立場にいたとしたら・・・
 ナターシャ ええ、ええ、あなただったら・・・あなたでしたら・・・話は違いますわ。あなたほど心の寛(ひろ)い、優しい、いい方なんて、私、知りませんわ。それに、そんな人いる筈がありません。もしあの時あなたがいらっしゃらなかったら、それに今だって・・・私、自分がどうなっていたか・・・だって・・・(泣き出す。それから、もぐもぐと何か言う。そして退場。)
(ピエール、一人残る。考える。静かに扉が開き、ペーチャ登場。)
 ペーチャ ピョートル・キリールイッチ・・・
(ピエール、気づかず、返事なし。)
 ペーチャ ピョートル・キリールイッチ・・・
 ピエール あ・・・何?
 ペーチャ ピョートル・キリールイッチ、お願いです。僕のこと、問い合わせて下さいました? 僕の驃騎兵隊入りを。あなたが最後の頼みの綱なんです。
 ピエール ああ、そうだ。君のことね。驃騎兵? 分った。言う、言う。すぐに知らせるよ。
 伯爵(登場して。)ああ、どうだね? 君。詔勅は手に入れたかね?
 ピエール ええ、手に入れました。明日陛下がおいでになる予定です。・・・兵隊の徴集は実にうまく行ったんだそうですね。千人の中から十人の割合だとか。おめでとうございます。
 伯爵 そうそう、有難いことにね。それで、君の隊は?
 ピエール また足止めのようです。スモレーンスキイまで行ったところで。
 伯爵 そうかそうか。やれやれ。・・・それで、詔勅は?
 ピエール 詔勅の檄文(げきぶん)ですね・・・ここに。(ポケットを叩く。)
(伯爵夫人登場。)
 ピエール(伯爵夫人の手にキス。)Ma parole, je ne sais plus ou je l'ai fourre.(参ったな、これは。またどこかへ行ってしまった。)
(ナターシャ登場。)
 ピエール これはいかん。戻って取って来なくちゃ。家に忘れたらしい。これはどうしても。・・・あ、そうだ。馭者はもう返してしまったぞ・・・
(舞台裏でソーニャの声「紙はここにありましたわ。帽子の裏地の中に・・・」。ソーニャ登場。)
 伯爵 ああソーニャ、お前は物捜しの名人だね。
(ソーニャ、詔勅を拡げる。)
(シーンシン登場。挨拶をする。)
 伯爵 やあ、モンシェール(仏 「親愛なる君」)、どうかな? 徴兵の様子は。
 シーンシン ラストープチン伯爵のところに、ドイツの若いのを連れて来たのです。それで、「有望な若いキノコ」と言うつもりで、よせばいいのにフランス語で、「これは若いシャンピニオーンです」と言ったのです。伯爵は即座に「失格だ」と言いました。「こんなのが何故シャンピニオーンだ。ただのドイツの老いぼれキノコじゃないか」と。
 伯爵 もういい。分った。私は妻にもよく言ってある。フランス語を喋るのは極力避けるようにとな。今はそんな時期じゃないんだ。
 シーンシン ところでお聞きになりましたか? ガリーツィン公爵はロシア語の家庭教師をおつけになったのです。ロシア語を習っていらっしゃるのです。Il commence a devenir dangereux de parler francais dans les rues! (街でフランス語を話すのは危険になってきているのです。)
 伯爵(ピエールの方を向き。)今のような具合なんですよ、ピョートル・キリールイッチ。義勇兵はどうやって集めたものですかな? そう、あなたもここはひとつ・・・
 ピエール(考えながら。)ええ、ええ、戦争に行かなければ・・・いや! 私は駄目だ。こんな身体ではとても。それにしても、ひどく奇妙な具合になって来たものです。ええ、私にはとても理解出来ない・・・私が兵士に・・・いや、分りません。兵役の経験からはひどく離れてしまって・・・もう何年も経っていて・・・いや、しかし、今の時代、誰もその責任を免ぜられるものではなし・・・
 伯爵 さあ、ソーニャ、それを・・・
 ソーニャ(詔勅を読む。)「われらが旧都モスクワに告ぐ。敵は大軍をもつてロシア国境に侵入せり。わが愛する祖国を破滅せんとして進軍中なり。余はすみやかに旧都及び、その他の諸地に(住める人民のうちに)赴き、わが義勇軍の指揮並びに諸般の協議を行はんとするものなり。わが義勇軍は、目下敵の進軍を阻みつつあり。また、敵がどこに現れやうとも直ちにこれを撃破せんと、さらに義勇軍が組織されつつある。願はくは、敵がわが国を陥(おとしい)れんとする滅亡が、彼ら自らの頭上に転ぜんことを。また、囚われの身より解き放たれたヨーロッパが、我がロシアの名を賛美するに到らんことを。」
 伯爵 その通りだ。陛下が一言言えば、我々は何物をも犠牲にする。惜しむものなど何もないのだ。
 ナターシャ パパ、素敵だわ。(父親にキスする。)
 シーンシン これはこれは、愛国の少女。
 ナターシャ 愛国の少女だなんて! 違うわ。私ただ・・・あなたにかかったら、何でも冗談になっちゃうんだから。でも、これは冗談事じゃないの。
 伯爵 そう、冗談などではないぞ。陛下が一言仰せになれば、我々は全員行く・・・ドイツ人などとは違うんだ、我々は。
 ピエール お気づきでしたか? 詔勅の中に「諸般の協議」という言葉がありましたが・・・
 伯爵 なあに、深い意味などありはせん。
(扉が開き、ペーチャ、重々しく登場。)
 ペーチャ パパ、よく聞いて。ママも。・・・僕はもう決めたんだ。パパもママも僕を家から出して、兵役につけなきゃいけないんだ。だって僕はもう・・・そう、これだけだ、言うことは。
 伯爵夫人(驚いて、両手を軽く打って。)まあ、この子は何てことを言いだすんでしょう。
 伯爵 おいおい、また立派な兵隊さんが一人か。馬鹿なことを言うのは止めろ。まづは勉強だ。
 ペーチャ 馬鹿なことじゃないよ、パパ。フェージャは僕より年下なんだ。それでも行くんだ。大事なことは、こんな時にはどうせ勉強だって出来はしないってことなんだ・・・我が祖国が、こんな危機に立っている時には・・・
 伯爵 沢山だ。もう沢山。馬鹿なことだ。
 ペーチャ だって、さっきもパパ、言ったばかりじゃないか。何物をも犠牲にするって。
 伯爵 ペーチャ! いいかペーチャ、黙るんだ!
(心配のあまり伯爵夫人退場。その後からソーニャも退場。)
 ペーチャ ほらここに、ピョートル・キリーロヴィッチが・・・この人も言って下さってるんだ・・・
 伯爵 ペーチャ! 馬鹿を言うな。お前はまだ乳離れもしていないんだ。それが兵役だと! 言うことを聞くんだ!(ピーエルとシーンシンに。)さ、あちらに。煙草にしましょう。
 ピエール いえ、僕は・・・家に帰らなければ・・・仕事があって・・・
 伯爵 そうですか。それではこれで失礼を・・・(ペーチャから逃げるようにシーンシンを連れだって退場。)
 ペーチャ フェージャは行くんだ・・・祖国が危機存亡の時なのに・・・フェージャだって行くのに・・・(泣き出しながら退場。)
 ナターシャ 何故お帰りになるの? 何か気を悪くなさって? 何故ですの?
 語り手 「何故なら、僕はあなたを愛しているからです」・・・ピエールは言いたかった。しかし、言わなかった。涙がこぼれそうになり、ピエールは下を向いた。
 ピエール 何故なら、こちらには、もうあまりお邪魔しない方がいいのです・・・何故なら・・・ええ、仕事がありますので・・・
 ナターシャ 何故? 仰って・・・何故?・・・
(ピエール、黙ってナターシャの手にキス。そして退場。)

     第 六 場
(スラボーツキイ宮殿。制服を着た貴族達が大勢ひしめいている。)
 自由主義の退役海軍将校 スマリェーンスクの人々は、皇帝陛下に義勇軍を出したそうだ。しかし諸君、果してこれが、我々の良き手本になるであろうか。我々モスクワの貴族が、真に必要と感じるならば、皇帝陛下に我らの献身を示すこれとは別の方法があるのではないだろうか。諸君はまさか、一八0七年の、あの義勇軍募集のことを忘れてはいまい。あれはただ、坊主と強盗どもの懐(ふところ)を肥やしてやっただけではないか。それに、あの義勇軍が一体祖国の何の役に立ったというのだ。何一つ役には立たなかった。ただこの国の経済を滅茶滅茶にしただけだったではないか。義勇軍はもう止めだ! 徴兵だ! 徴兵にすべきなのだ。一旦義勇軍として出て行って、そいつらが帰って来る時には、何になっているか。兵隊でもない、百姓でもない。ただのヤクザ者として帰って来るのだ! 我々貴族は、自分の命など惜しみはしない。我々全員出て行く。いや我々が行くばかりではないぞ。新兵だって取って来て見せる。ただ陛下が一言そう仰せになればいいのだ! 我々全員、陛下のために死んでみせるぞ!
 元老院議員(歯が抜けているため、口をモグモグさせながら。)私の考えはです、皆さん、私の考えは、ここに私達が招集されたのは、決して今現在、義勇軍を募(つのる)るのか徴兵にすべきかを議論するためではないということなのであります。私達は陛下の呼び掛けに応えてここにやって来た。決して徴兵か義勇兵募集かを判断するために集まったのではない! そのようなことはもっと上部の会議で決定されるべきことなのであります!
 ピエール どなたか名前は存じ上げませんが、私は今の方の御意見に反対です。私は徴兵か義勇兵か、というような問題を決める前に、まづ陛下に、現在の兵員の数、及びその状況についてお訊きし、正確な情報を得るべきだと考えます。その上で・・・
 スチェパン・スチェパーノヴィッチ・アプラークスィン(制服を着ている。)まづ第一にですな、私は言いたい。そんなことを陛下に訊く権利が我々にあると思っているのですか。第二にですな、たとえ我々ロシア貴族にそのようなことを訊く権利があったとして、陛下に何の答が出来るというのです。軍隊は敵の動きに合わせてあっちへ派遣されたり、こっちに動かされたり・・・そんな数が掴める訳がない・・・
 いかさまトランプの博打打ち(訳註 この男も制服を着て、さも一流の人物であるかのように喋る。)そうだそうだ。もう議論なんかしている時じゃない。自分の身を行動に移す時だ。ロシアは戦争をしているんだ。敵がやって来ているんだ。このロシアをぶっ潰すために、我ら祖先の墓を冒涜するために、妻を、子供を攫(さら)って行こうとして! 我らロシアの信念、王位、そしてこの祖国を守るために、最後の血の一滴まで惜しむようなロシア人が一体どこにいる! くだらん議論は止めだ! 目にもの見せてくれるぞ。ロシアがロシアのために立上るんだ!
(「そうだ、そうだ、その通りだ!」の叫び声。)
 ピエール 今の方は私の意見に反対のようですが・・・
 グリーンカ(訳註 「ロシア新報」の編集者。口を開くとあたりから「編集長、編集長」と声がかかる。)毒には毒をもって制せねばならん。かって私は、稲妻が光り、雷鳴が轟く中を、ある子供がそれをニコニコと眺めていたのを見たことがある。しかし我々は、雷鳴、稲妻には抗さねばならん。この子供の真似をしてはいかんのだ!
 アプラークスィン そうだそうだ。雷鳴の轟く中でだ・・・
 伯爵 その通り!
 いかさま師 雷鳴の轟く中でニコニコは出来ん!
 ピエール 私はただ、現状を正確に知ってと・・・
 アプラークスィン モスクワが生贄(いけにえ)になろうという事態なんだぞ!
 グリーンカ そんな時に何だ。あの男は人民の敵だ!
 ピエール 説明させて欲しい、私に!
 アプラークスィン 人民の敵!
 ピエール 皆さん・・・押さないで! 何をする・・・
(突然シーンとなる。訳註 モスクワ総統ラストープチンが登場したため。)
 ラストープチン 陛下が今すぐ来られる。私の考えは、現在のこの状況では、多くを議論しても始まらぬ。陛下はかしこくも、我々貴族及び商人をここに招集なさった。(訳註 商人達のいる部屋を指さして。)あそこからは、何百万という金が供出されることになる。我ら貴族の役割は、義勇兵を出すことだ。我が身を惜しんでいる時ではない。これが我々のなすべき最小限の御奉公だ・・・(歩き廻る。)
(訳註 このあとはシーンとした中で議論が進められる。坐っている人物達のみがポツリポツリと発言する。)
 元老院委員 スマリェーンスクに倣(なら)い、こちらでも千人の農奴につき十人の義勇兵を出し、この十人に、軍服の支給を行うべきだと考えますが・・・
 アプラークスィン 私もそれに賛成です。
 いかさまトランプ賭博師 賛成。
 声(複数) 賛成・・・賛成・・・
 声 陛下だ・・・陛下だ・・・
(シーンとなる。)
 アリェクサーンドル(登場して。)紳士諸君・・・祖国は今、危機に瀕(ひん)している。モスクワの貴族諸氏にかける余の期待は・・・
 アプラークスィン 陛下! 陛下! 只今我々は決議を行ったばかりのところであります。我々は千人の農奴につき十人の義勇兵、それに軍服の支給を決めました。
 アリェクサーンドル 諸君、余はロシア貴族諸氏の熱意を疑ったことは一度もない。しかし今日のこの決議は、余の期待を大きく越えるものである。余は祖国を代表し、心からの感謝を述べる。諸君、すぐに行動に移ろう。時を無駄にすることは出来ぬ!
(叫び声「皇帝陛下万歳!」「皇帝万歳!」アリェクサーンドル、次の間に退場。)
 伯爵 そうだ、陛下のお言葉・・・それが一番大事なのだ。
(会場の騒然としたどよめき。)
 アプラークスィン マーモノフ伯爵は一連隊御寄付なさった!
(商人達のいる部屋から、叫び声が上るのが聞こえる。その部屋からアリェクサーンドル皇帝、泣きながら登場。その傍にラストープチン、肥った仲買人、組合長の三人がつきそって登場。)
 仲買人(泣きながら。)命も財産もみんな捧げます、陛下!
(全員、去って行くアレクサーンドル皇帝の方へ押し寄せる。)
 ピエール(ラストープチンに。)私は千人の義勇兵、そしてそれにかかる費用一切を寄付します!
 ラストーフ伯爵(一人残って、泣きながら。)何よりも大事なのだ・・・陛下の言葉が。
(扉が開き、ペーチャ登場。襟は汚れ、外套はちぎれ、真っ蒼な顔。両手にビスケットを握っている。)
 ラストーフ伯爵(ペーチャを見て、驚いて両手を打ちあわせる。)これは一体・・・お前はどこから・・・
 ペーチャ 僕はクレムリン宮殿にいたんだ・・・陛下に直接お会いしようと・・・「どうして、どうして若かったら、お国のために身を捧げられないっていうんですか」って・・・でもパパ、僕、人波に押されて・・・倒れて・・・のしかかられて・・・肋骨をひどく押されて・・・目の前が真っ暗になって・・・
 ラストーフ伯爵 そうだ、そのまま押し潰されて、死んでしまう事もあるんだぞ。お前、まるで布のような、真っ蒼な顔をして・・・(物を問うようにペーチャの握っているビスケットを見る。)
 ペーチャ 陛下が・・・陛下がバルコニーから投げてくれたんだ・・・ビスケットをばらまいてくれたんだ・・・
(間。)
 ペーチャ 僕・・・僕、決心した・・・しっかりと決めたんだ・・・僕を許さないなら、僕・・・家出する。(十字を切りながら。)家出するんだ!
 ラストーフ伯爵 分った。私が行く・・・私が自分で・・・お前の義勇兵志願を出して来る・・・
            (暗転) (第一幕 終)

     第 二 幕
     第 七 場
(丘。すぐに雷雨が来そうな空。)
(丘の上。ナポレオンが折畳み式のスツールに坐っている。片方の足は太鼓の上。その前に、微動もせず小姓が膝まづいている。ナポレオン、片方の肩に望遠鏡を載せて、遠くを眺めている。非常に遠くから、微かに楽隊の音が聞こえる。(丘の下に軍隊が行進している。)そして時々、何千という兵隊の、「皇帝万歳」という叫び声が聞こえてくる。)
(丘の上には左記の二名だけ。)
(ベルチエ元帥、丘を上って登場。)
 ナポレオン(望遠鏡を下ろして。)Eh bien? (どうした。)
 ベルチエ Un cosaque de Platow... (プラトーフ隊のコサック兵が・・・)
 語り手 プラトーフ隊のコサック兵を一人掴まえました。その男の話によると、プラトーフ隊は、本隊に合流する予定とのこと。また、クトゥーゾフが総司令官に任命されたとのことです。
 ベルチエ Tres intelligent et bavard. (その捕虜はなかなか頭がよく、お喋りであります。)
 語り手 ナポレオンはその捕虜を連れて来るように命じた。
(ベルチエ退場。)
 語り手 捕虜の名前はラヴルーシュカ。ニカラーイ・ラストーフの従卒であった。彼はその前の日、ぐでんぐでんに酔っ払い、主人のニカラーイに食事を出すのを忘れたため、散々に鞭打たれる。そして鶏を捜して来いと言われ、村に来たのだが、そこで掠奪をほしいままにしているうちに、フランス軍に捕まったのである。ラヴルーシュカは海千山千の、粗野で恥知らずの従卒であった。何事をするにも卑劣とずる賢さをそこに加えて行動することを義務と考え、自分の主人の歓心を買うためなら何でもしようと思っていた。主人の下劣な意図をいつでも鋭く見抜いていたが、特に虚栄心或は瑣末なこだわりから来るものは決して見逃さなかった。ナポレオンの陣屋に引きだされた時ラヴルーシュカは、簡単に、そしてはっきりと、この人物がナポレオンであると見抜いた。しかし、全く臆するところはなかった。彼の関心事はただ一つ、いかにしてこの新しい主人に気に入られるか、であった。
(丘にベルチエ、レロルム・ディデェーヴィリとラヴルーシュカが登って来る。)
 ナポレオン(訛りのあるロシア語で。)お前はコサックか。
 ラヴルーシュカ コサックです、旦那様。
 語り手 ナポレオンはラヴルーシュカに訊いた。ロシア人達はどう考えているのだ。自分達がボナパルトに勝てると思っているのか、と。
(ナポレオン、通訳(レロルム)に手で合図する。)
 レロルム・ディデェーヴィリ(訛りのあるロシア語で。)お前・・・お前は・・・どう考えている・・・若いコサック・・・ロシアがボナパルトに勝つか・・・それとも、負けるか。
 ラヴルーシュカ(間の後。)つまりその・・・戦闘がすぐ開始されるのであれば、まもなくして、フランス側が勝つでしょう。これは確かです。しかし、もし、三日経って、つまり、三日後に戦闘が開始されるのなら、それは長引きます。
 レロルム・ディデェーヴィリ Si la bataille est donnee avant trois jours, les Francais la gagneraient, mais que si elle serait donnee plus tard, Dieu sait ce qui en arrivrait. (三日のうちに戦闘が開始されればフランス側の勝利となるでしょう。しかし、それ以後の開始の場合は、その結果は神のみぞ知る、です。)
 語り手 ナポレオンは、通訳に命じて、ラヴルーシュカに、最後の言葉を繰り返させる。
 レロルム・ディデェーヴィリ(ラヴルーシュカに。)最後のところをもう一度言ってみよ。
 語り手 ラヴルーシュカはナポレオンを喜ばせるために、彼の正体が分っていないふりをする。
 ラヴルーシュカ 戦闘は長引きます、旦那様・・・そちらにはボナパルトという偉い人がいて、世界を征服してきたそうですが、まあ、ロシアとなると話は別ですから・・・
 語り手 通訳はこの最後の言葉は省略して、ナポレオンに通訳する。ボナパルトは微笑む。
 ベルチエ(レロルム・ディデェーヴィリに。)Le jeune Cosaque fit sourir son puissnat interlocutoeur.(この若いコサックめ、偉大な話相手の顔を綻(ほころ)ばせたじゃないか。)
 レロルム・ディデェーヴィリ Oui. (そうですね。)
 語り手 ナポレオンは言った。「ドン生まれのこのコサック・・・「セッタンファン・デュ・ドン」・・・に、余の正体を明かしてやったら、さぞかし面白かろう。・・・余、即ち、「連戦連勝向こうところ敵なし」と、ピラミッドに書き記した、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトその人であるとな。
 レロルム・ディデェーヴィリ(ラヴルーシュカに。)コサックよ、このお方こそ、ピラミッドに不朽(ふきゅう)の文字を書かれた、皇帝ナポレオンそのお方であるぞ。
 語り手 ラヴルーシュカは、この新しい御主人を喜ばせようと、その言葉を聞くや、すぐに今までの自分の言葉に恥じ入り、びっくり仰天したふりをした。この顔は、彼が悪事を働き、鞭打ちの刑で主人の前に引っ立てられる時にいつでもする表情で、彼にとっては慣れたものだったのだ。ナポレオンは「彼に褒美を取らせろ」と、そして、「捕えた小鳥を、その生まれた野原に返してやれ。この男に自由を与えろ」と命じた。
 ナポレオン ... donner la liberte a un oiseau qu'on rend aux chanmps, qui l'ont vu naitre!
(ベルチエ、ラヴルーシュカに金を与える。)
 ラヴルーシュカ 有難うございます、陛下。
 レロルム・ディデェーヴィリ 陛下はお前に自由を与えて下さるぞ。小鳥を、生まれた野原に返すようにな!
(雷雨が来そうな暗さ。雷鳴が轟く。ナポレオン、ベルチエ、レロルム・ディデェーヴィリと小姓、レインコートを着て、丘を下る。)
 ラヴルーシュカ(一人残って。)アンファン・デュ・ドン!
                     (暗転)

     第 八 場
(夏。バルコーンスキイ公爵の屋敷。柱のあるテラス。テラスの上、肘掛け椅子に、半分肌脱ぎになって、公爵ニカラーイ・アンドリェーイェヴィッチ・バルコーンスキイが坐っている。)
 バルコーンスキイ(苦しそうに。)よーし、やっとこれで終った。少し休むぞ。全く何て辛いんだ。こんな仕事はさっさと片付けて、私を早く解放してくれ!(間。)落ち着いて休むことなど出来はせん。酷い話だ! そうだ、そう言えば何か大事なことがあったな。何か一つ、大事なことをやり残してあった・・・閂(かんぬき)を下ろせ、だったかな? いや、あれはもう言った。そうだ、客間に置いてあった何かだ。マーリヤが何か持って来たんだったぞ。デサーリ・・・あの馬鹿めが何か言っていたな。鞄とか何か・・・よく思い出せない・・・(呼ぶ。)チーシカ!(また自分に。)食事の時に何か話をしていたぞ。何だったんだ。
 チホーン(登場して。)ミハイール公爵様のことで・・・
 バルコーンスキイ 黙れ! 黙れ!(間。)そうだ、分ったぞ。マーリヤが読んだ・・・デサーリが何かヴィーテブスクについて話しおった・・・ニェマン河からこっちに敵が侵入して来ることなどあり得ん。雪解けの時期にポーランドの沼で溺れ死にするんだからな・・・(心配になる。小さいテーブルの中を捜し、手紙を見つける。読む。顔色が変る。理解し始める。)何だって?・・・フランス軍がヴィーテブスクまで来た? 四日すればスマリェーンスクまで侵入するかもしれん、だと?・・・すると、今はもうスマリェーンスクまで? チーシカ! チーシカ!
(チホーン登場。)
(馬車の着く音。テラスの前に埃だらけのアルパートゥイッチ、登場。テラスの扉が開かれ、屋敷から心配そうに公爵令嬢マーリヤが登場。)
 バルコーンスキイ 何だ。
 アルパートゥイッチ 御前・・・御前様、スマリェーンスクが・・・ロシアは負けたのでしょうか。(マーリヤに手紙を渡す。)アンドリェーイ若公爵様からの・・・
 バルコーンスキイ 読め!
 マーリヤ(読む。)スマリェーンスクが占領されました。今すぐにもモスクワへお発ち下さい・・・
(間。)
 アルパートゥイッチ 本当にロシアは負けたので?・・・
 バルコーンスキイ(立上って。)村で義勇兵を募るのだ。そして、そいつらに武装させろ! 私は総司令官に手紙を書く。このルイスィ・ガラーに残り、ここを守り抜く! マーリヤ、お前は(孫の)ニコールシカとデサール三人でモスクワに発つんだ!
 マーリヤ 私は参りません、お父さま。
 バルコーンスキイ 何だと? 私を苦しめるのか。息子と一緒になって私に楯を突きおって。私の人生に毒をもる女だ、お前は。行け! お前の顔など見たくもない。二度と私の前に現れるな!
 マーリア 行きません、お父さま、私は。お父さまをたった一人ここにお残しすることは出来ません。
 バルコーンスキイ チーシカ! 勲章のついたわしの軍服を出せ。わしは総司令官のところへ行くぞ!
(チーホン、部屋の中に走って入り、退場。)
 バルコーンスキイ このルィスイ・ガラーを守る手立てを講じるか、講じないか、またそこに住んでいるロシアの年老いた将軍を囚われの身にならせるか、ならせまいとするか、全ては総司令官の腹一つだ。
(マーリヤ、泣く。)
(チーホン、軍服を持って来る。バルコーンスキイに着せる。バルコーンスキイ、二三歩歩こうとする。が、チーホンとアルパートゥイッチの手の中に倒れる。)
 マーリヤ 大変! ドゥニャーシャ、ドゥニャーシャ・・・先生!
(ドゥニャーシャ、走って登場。)
 バルコーンスキイ(肘掛け椅子に坐って。)あた(ま)・・・あた・・・いた(い)・・・
 マーリヤ どこ? どこが痛むの? 心臓?
 バルコーンスキイ ドゥニャーシャ!・・・ああ、お前、マーリヤ。有難う。・・・可愛いマーリヤ・・・許してくれ。・・・今までのことを。・・・アンドリェーイを・・・息子を・・・呼んでくれ・・・どこにいる、あれは・・・
 マーリヤ お父さま、軍隊ですよ、お兄さまは。スマリェーンスクにいらっしゃるのよ。
 バルコーンスキイ そうだったな。・・・ロシアは終りだ。負けたんだ!・・・(静かになる。死ぬ。)
(マーリヤ、号泣し始める。)
 ドゥニャーシャ お嬢様! お嬢様!
 アルパートゥイッチ 神の御意志でございます、お嬢様。
 マーリヤ ほっておいて頂戴、私を。そんなこと、あるもんですか。ほっといて!
                    (暗転)

     第 九 場
(前場と同じテラス。)
 アルパートゥイッチ おい、ドゥローン、よく聞くんだ。馬鹿なことをほざくんじゃない。いいか、旦那様がちゃーんと私にお命じになったんだ。お前ら百姓、全員、ここを発てと。敵が来た時に、一人も残っていちゃならんとな。それに、これは旦那様からの命令だけじゃない。ロシア皇帝様の命令でもあるんだ。だからな、残ればお前達、祖国に対する裏切り者ということになるんだ。分っているんだな?
 ドゥローン はい、分っております。
 アルパートゥイッチ おい、ドゥローン、どうなるか分ってるのか?
 ドゥローン はい、お好きなようになさいませ。(間。)
(遠くから大砲の音が聞こえる。それから、百姓達の酔った歌声が聞こえて来る。)
 ドゥローン ヤーコフ・アルパートゥイッチ! お願いです、どうか。鍵はみんなお返しします。百姓どもの管理は、もうどうか、お役ご免に!
 アルパートゥイッチ 何を言うか! お前の腹は見えているぞ。お前の足元が見えるどころじゃない。その足から下二メートルだってお見通しだ。ああ? 一体何を企んでいる。
 ドゥローン 今のあいつらに・・・私に何が出来るって言うんです。全く箍(たが)が外れちまいやがったんで・・・
 アルパートゥイッチ 飲んだくれているのか。
 ドゥローン もう全員がです、ヤーコフ・アルパートゥイッチ。また一樽持ち出して来ました。
 アルパートゥイッチ いいか、荷馬車をすぐ用意するんだ!(家の中に退場。)
(ドゥローン退場。)
(間の後、背の高い百姓二人、テラスに登場。酔っている。舞台裏に三頭の馬の蹄の音、次に三人が下馬する音が聞こえる。ニカラーイ・ラストーフ、イリイン、ラヴルーシュカ、登場。)
 イリイン 遅れました。中隊長の勝ちです。
 ラストーフ そうだ、どこでも俺の勝ちだ。野っ原でも、ここでもな。
 ラヴルーシュカ 私の勝ちだったですがね中隊長、なにしろ私の馬はフランス産で。でも中隊長に恥をかかせるのは悪いですから・・・
(百姓達、ぞろぞろと登場。)
 ラストーフ(酔っ払っている百姓を見て。)おい、御機嫌だな! どうだ、ここに干草はあるか。
 イリイン どいつもこいつも、みんな似たような顔だ!
 背の高い百姓(歌う。)「楽しい・・・話・・・さ・・・よう・・・」
 百姓 どっちの軍ですね? あんた方は。
 イリイン フランス軍だ。(ラヴルーシュカを指差して。)ここにおられるのが、ナポレオンその方だ。
 百姓 ああ、ロシアの軍隊ですね、おおかた・・・
 背の低い百姓 大勢なんですかな? 軍隊は。
 ラストーフ 大勢だ。大軍だ。お前達、ここに集まって何をしている。お祭なのか。
 背の低い百姓 村のことで相談があるんです。年寄り達が集まっているんで・・・(ドゥニャーシャ、家の中からテラスに登場。)
 イリイン おっ、あのピンクの服の女、あれは俺のだぞ。触るな。横取りするなよ。
 ラヴルーシュカ おいおい、二人で仲良く行こうや。
 ドゥニャーシャ 御主人の公爵令嬢の命で参りました。どの隊のお方でしょう。また、お名前は何と仰いますか。
 イリイン こちらはラストーフ伯爵。騎兵中隊の隊長です。そして、私は、お女中、あなた様の忠実なしもべ・・・
 背の高い百姓(話をしている男女をからかって。)「話・・・楽しい・・・話・・・」
(ドゥニャーシャ、家の中へ退場。舞台裏で話し声。暫くしてアルパートゥイッチ登場。)
 アルパートゥイッチ 畏れ多くも、閣下、お耳をお煩(わづら)わせ致します。私の御主人は、今は亡くなられました陸軍大将、ニカラーイ・アンドリェーイェヴィッチ・バルコーンスキイ公爵の御令嬢でございますが、その御主人は只今ここにおります連中の不法な行為により、大変困窮しておりまして・・・どうかもう少々こちらの方へ・・・
 背の高い百姓 ハッ、アルパートゥイッチ・・・ヘッ、ヤーコフ・アルパートゥイッチ・・・大変だよな・・・精々頼むのさ。な?・・・神様にでも・・・ご大層なことよ・・・ヘッ!
(ラストーフ、にやりと笑う。)
 アルパートゥイッチ それとも、こいつらのやる事の方が面白うございましょうか。
 ラストーフ(テラスの上で。)いや、面白い訳ではない。で、どうしたんだ。
 アルパートゥイッチ(囁き声で。)どうか、閣下、お耳をお貸し下さい。ここにいる不埒(ふらち)な奴らめが、お嬢様を領地から出させまいと・・・馬車から馬を外すと言って脅しております。そのため折角朝から荷物はちゃんと詰めたのですが、お嬢様は出発することが出来ずにいるのです。
 ラストーフ 何という話だ!
 アルパートゥイッチ はい、しかし、御報告申し上げましたこれが、ありのままの話でございます。
(テラスの扉開き、ドゥニャーシャ、公爵令嬢マーリヤを導いて登場。マーリヤ、喪服姿。)
 ドゥニャーシャ お嬢様、神のお助けですわ。
 ラストーフ ああ、お嬢様・・・
 マーリヤ このような事態になりましたのは、父の亡くなった翌日からのことなのです・・・しかしどうか、私のこの言葉は、あなた様からの同情を買おうと思ってではないのです・・・
 ラストーフ このような場に偶然来合わせた私の好運を何と表現すればよいか・・・お嬢様の出発をお助けするために、いかなる事をも実行に移す覚悟でおります。さあ、何時なりと御出立(ごしゅったつ)下さい。私の名誉に賭けてお嬢様に不快な思いをさせる人間など、誰一人出させはしません・・・
 マーリヤ 御親切、洵(まこと)に有難うございます。私の出立に障害があるなどと、きっと何かの誤解なのだと思っております。(ワッと泣き始めて。)お許し下さいませ。(ドゥニャーシャと二人、家の中に退場。)
 ラストーフ(テラスで独り言。)悲しみに打ち拉(ひし)がれて・・・頼るものが誰一人いない・・・可哀相に。・・・しかし、何ていう奇妙な運命だ。丁度この俺がここに来るとは。・・・ああ、あの顔・・・何という優しさだ。何という気高さだ・・・
 イリイン ええっ? あっちがお気に召しましたか? いやいや、私はピンクの方でしたね。あれはぐっと来ましたよ。
(訳註 ラストーフの顔を見てハッとする。それどころではないことに気づく。)
 ラストーフ よーし、見ていろ。今に目にもの見せてくれん! 悪党どもめが!
 アルパートゥイッチ どのような具合にお決めになったので?
 ラストーフ 「お決めに」? 何が「お決め」だ! 老いぼれ! 貴様、目が見えんのか。貴様も裏切者だ! 腹の中は分っているぞ。思い知らせてやる。いいか!
 アルパートゥイッチ 百姓どもは全く聞く耳を持ちませんでして・・・無理に「なに」するのは危のうございます。軍隊でも引連れて来なければ・・・
 ラストーフ 軍隊は俺だ! 無理に「なに」するもへちまもあるか。おい! 誰だ、ここの指導者は。
 カールプ 指導者ですと? 何ですか? 指導者とは。
 ラストーフ(カールプに最後まで言わせず、顔をぶん殴る。)帽子を取るんだ! 裏切者! 誰だ、指導者は。
 百姓一 指導者・・・指導者だとよ・・・なら、ドゥローン・ザハールイッチが・・・
 カールプ 俺達は反乱など起しちゃいませんや。ちゃんと規則を守ってまさあ。
 背の低い百姓 昔からいろんな規則がありますで・・・守れないほどいろんな規則がなあ・・・
 ラストーフ 文句を言うのか、貴様ら! 反乱だ! 裏切者だ! こいつを縛れ!
 イリイン こいつを縛れ!
 ラヴルーシュカ(カールプを掴まえて。)丘の上の軍隊を呼びましょうか? 中隊長。
 ラストーフ 指導者はどこだ!
(ドゥローン、群衆の中から出て来る。大砲の音、近くなって来る。)
 ラストーフ お前か、指導者は。よし、こいつを縛れ! ラヴルーシュカ。
 アルパートゥイッチ おい、そこにいる奴等!
(百姓一、その他何人かの百姓、自分の帯を解き、ドゥローンを縛り始める。)
 ラストーフ 貴様達の声など、俺は聞きたくもない。いいか、よく俺の言うことを聞くんだ!
(百姓の群、怯(ひる)む。)
 百姓一 だけども、私ら、何も悪いことはしちゃいません・・・
 背の低い百姓 ただ私ら・・・つまりその・・・馬鹿な考えを起しまして・・・
 アルパートゥイッチ そら見ろ。言わんこっちゃない。よくないぞ、お前達・・・(ドゥローンとカールプを縛り終って、数人の百姓が引き立てて退場。)
 背の高い百姓(退場して行くカールプに。)見ろ、いいざまだ。あんなことを旦那衆に喋っていいと思っているのか。馬鹿! 本物のどあほだ、お前は。
(ラストーフ、テラスに行く。公爵令嬢マーリヤ登場。)
 マーリヤ お助け下さいまして、本当に有難うございます、伯爵様。
 ラストーフ そんなことは仰らないで、どうか。取締ることに携わっている人間なら誰でもやることです。私はただ、お嬢様とお会いする機会が得られたことを心から幸せに思っています。これで失礼致します。どうかお幸せに。それから、もうお礼は仰らないで。私は顔が赤くなるばかりですから。(マーリヤの手にキス。)
(イリイン、テラスに上り、マーリヤの手にキス。ラストーフ、イリイン、ラヴルーシュカ、退場。蹄の音が聞こえてくる。)
 マーリヤ(テラスに一人残り。)あの方が、このバグチャーラヴァにいらっしゃるなんて。それも選りに選ってこんな時に。そしてあの方の妹ナターシャが兄のアンドリェーイとの婚約を破棄なさるようなことになってしまっているなんて・・・(家の中に退場。)
 アルパートゥイッチ おい、お前達!(家の中を指さす。)
(百姓の一群、テラスに上る。両開きの扉が大きく開かれ、百姓達、本箱、その他の品々を運び出し始める。)
 百姓一 おい、急に持ち上げるんじゃないぞ。ゆっくりだ、ゆっくりだ。
 背の低い百姓 重いからな。おい、本はえらく重いんだ・・・
 丸顔の百姓 そうそう、よく勉強していらしたからな・・・ちっとも遊びもせんで・・・
(大砲の音。)
                    (暗転)

     第 十 場
(ボロジノの戦いの前夜。納屋の中。灯。アンドリェーイが横になっている。)
 語り手 明日の戦いのための上からの命令は全て受領し、部下に伝達ずみであった。彼には今や、何もすることがなかった。しかし、ある想念が・・・非常に単純ではっきりした・・・従って最も恐ろしい想念が、彼に平常心を与えなかった。彼には分っていた。明日の戦いは、彼の生涯で経験したどんな戦いよりも恐ろしいものになるだろうことを。そして、自分が死ぬかもしれないという気持が、生れて初めて、強烈な真実味を帯びて、単純にそして恐ろしい勢いで彼の心に迫った。
 アンドリェーイ そうだ。これが俺を騙してきた幻影なのだ。俺の心を動揺させたり、魅了したり、苦しめたりしてきた・・・まづは名誉、次に社会の幸福、一人の女性への愛、それに祖国・・・みんな幻影だ。何てこれらは大きく見えたことだろう。何て深い意味に満ちた物に見えたことだろう。それが、今朝起きて、太陽が上って・・・そう、俺にはこれは、俺自身のために上ってくれたように思えた・・・その朝日のもとで見たら、それら全て、まるで単調で、蒼白く、粗野なものにしか見えなかった。愛! あの少女! 俺には謎に充ち満ちた力に見えた・・・ああ、どんなに彼女を愛したことだろう。彼女との幸せについて詩的な計画まで建てていたのだ、俺は。何ていう子供だ、この俺は。理想的な愛・・・そんなものを俺は信じていた。俺がいなくても、丸々一年、彼女の誠実は保たれる筈だ、などと。現実は単純極まりなかった。恐ろしく単純、恐ろしく醜悪なものだった!
 祖国? モスクワの滅亡? とにかく明日俺は死ぬのだ。それも敵のフランス人の手にかかって・・・でさえないかもしれない。昨日も味方の兵が俺の耳のすぐ傍で、誤って小銃をぶっ放したじゃないか。俺は死体になる。足と頭を持ち上げられて、穴に投げ込まれる。すると新しい世界の条件が出来上がる。俺以外の連中には相も変らぬ同じ世界だろう。しかし俺には、それは無縁のものだ。俺がその中にいないのだから。
 語り手 彼はその自分のいない世界をはっきりと思い描いた。あの光、あの影の中に鮮やかに存在する白樺の木々、あの焚き火の煙・・・自分の周りにあるこれら全ての物が、彼には何か恐ろしい、自分を脅えさせるもののように見えた。背中にぞっと冷たいものが走った。
(舞台裏でピエール「Que diable! (糞ッ、何だこれは)」)(何かにつまづいて倒れる音。)
 アンドリェーイ 誰だ!
(灯火を持って、ピエール登場。)
 アンドリェーイ あーっ。おやおや、どうなっているんだ、運命は。まるで予期していなかったな。
 ピエール 僕がその・・・やって来たのは・・・それはつまり・・・面白いだろうと・・・明日の戦いを見たいと思って・・・
 アンドリェーイ そうそう、面白い・・・さぞかしね。それで、君の同士のフリーメイスンのお方々は戦争についてどんな御託を述べていらっしゃるのかな? これを未然に防ぐには如何にすべきか、などと言ってるんだろう? さあ、それで、モスクワはどうなんだ? 僕の家族は? モスクワには着いたんだろうな?
 ピエール うん、着いている。
(間。)
 ピエール それで君、どう思う? 明日の戦いは、勝つのか?
 アンドリェーイ うん、勝つ・・・ただ一つ、僕にその権力があれば実行したいことがある。それは、敵を捕虜になど決してしない。これだ! 騎士道など、馬鹿なことだ。フランスの奴等は僕の家を破壊した。そしてモスクワを破壊するために進撃している。奴等は僕の敵なのだ。僕の理解では、奴等は全部犯罪者なのだ。根こそぎ処刑すべきなのだ。
 ピエール そうだ。僕も全く君に賛成だ。
 アンドリェーイ 明日は両軍がぶつかる。そして数万の人間が死んで行く。その後は神に捧げる感謝のお祈りだ。天にまします神か。それを一体、どんな気持で見、どんな気持で聞くというのだ! そうだ。ねえ君、最近僕は生きるのが辛くなってきている。あまりにもいろんなことが分り過ぎてしまったせいらしい。善悪の判断を与えてくれる木の実を食べるのは、人間がやってはいけないことなんだ。まあいい、それももうすぐ終りだ。君はすぐにゴールキーに行った方がいい。戦闘が始まる前にね。僕はもう寝なきゃ。さようなら。すぐ発つんだ。また会えるかどうか、それは・・・(ピエールに接吻。ピエール退場。)
 語り手 アンドリェーイは目を瞑(つぶ)った。ナターシャが生き生きした、興奮した顔でアンドリェーイに話しかけている。去年の夏のこと。「私はきのこを採りに、大きな森に入って、道に迷ってしまった。・・・でも、うまく話せないわ・・・森がどんなに深かったか、私の心はどんなだったか。養蜂場の人が現れて、どんな話をしたか・・・私、支離滅裂だわ」と、ナターシャが言う・・・
 アンドリェーイ 僕はその話がよく分った。あの誠実さ、あの心からの真情の吐露・・・僕はそれをこそ愛したのだ・・・そうだ、あいつには・・・クラーギンの奴などに、これが分っている筈がない。あいつにはこういうことは見えっこない! あいつにはただ、綺麗でピチピチした女の子が見えていただけなのだ。それで、今でもあいつは生きている。そして愉快にやっているのか!(飛び起きる。)
                  (暗転)

     第 十 一 場
(絶え間ない大砲の轟き。煙が立っている。丘の上。スマリェーンスクの巨大な聖母マリアのイコン像。その前に焚き火。敷物が敷かれた長椅子の上にクトゥーゾフ。老齢のための、身体の弱りと疲れのため、うたた寝をしている。クトゥーゾフの傍にはお付きの将校一人。)
 副官(登場して、クトゥーゾフの前で直立不動の姿勢をとる。)フランス軍に占領されていた堡塁(ほうるい)を取り戻しました。バクラチオーン公爵が負傷です。
 クトゥーゾフ そうか・・・(副官に。)公爵のところにすぐ行け。負傷の様子を詳しく聞いてきてくれ。
(副官退場。)
 クトゥーゾフ(ヴィルチェンベールスキイ公爵に。)ヴィルチェンベールスキイ公爵、あなた、第一軍の指揮を取って貰えますかな?
(ヴィルチェンベールスキイ公爵退場。)
 副官二(暫くして登場。)ヴィルチェンベールスキイ公爵よりの要請であります。一部隊の援軍を戴きたいと。
 クトゥーゾフ(顔を顰める。)命令だ。第一軍の指揮をダフトゥーロフに任せる。この大事な時に、この本部をヴィルチェンベールスキイ公爵なしですませるわけには行かない。公爵はこちらに戻すように。
(副官二退場。)
 副官三(走って登場。)ミュラートを捕虜にしました。
 お付きの将校 おめでとうございます、総司令官殿!
 クトゥーゾフ おめでとうはまだ早いな。我々は戦闘に勝っている。ミュラートが捕虜になるなど、当然のことだ。しかし、喜ぶのはもう少し後にしよう。ただこのニュースだけは全軍に知らせるように。
(シチェルビーニン、走って登場。味方が不利」という表情。クトゥーゾフ、「報告は私だけに」という身振り。)
 シチェルビーニン(小さい声で。)セミョーノフスコエ村は敵に占領されました。
 クトゥーゾフ(足が痛いかのような呻き声を上げて立上る。イェルモーロフを傍に招いて、傍白。)行って見て来てくれ、イェルモーロフ。あそこがもう本当にどうにもならないのかどうか。
(イェルモーロフ退場。コックと当番兵、クトゥーゾフに食事を出す。クトゥーゾフ、鶏を齧(かじ)る。)
 ヴァリツォーゲン(登場。訛りのあるロシア語で。)我々が保持していた地点は、全て敵の軍門に下りました。奪還の手立ては何もありません。応援部隊が皆無だからです。全軍退却中で、彼らを止(とど)めるすべはありません。(間。)私が見て来たところのものを、ありのまま閣下に御報告するのが私の義務と考えまして・・・つまり、我軍は総崩れでありまして・・・
 クトゥーゾフ(急に立上る。)君は見た?・・・見たと言うのか、本当に。全く何という・・・何という厚かましさだ! ねえ君! 君はこの私の前で平然と、よくもよくも、そんな嘘八百を並べたてられたものだ。君は何一つ知ってはいない。私からといって、バルクラーイ将軍にちゃんと報告するんだ、いいか。「そちらの情報は正しくない。この戦闘の真の成行きは、この私、総司令官に一番よく分っている。バルクラーイなど何も知りはせん」とな。
(ヴァリツォーゲン、何か言い返そうとする。)
 クトゥーゾフ 左翼においても、右翼においても、敵は総崩れだ。いいかね君、もし君にそれがよく見えないんだったら、知りもしないことをあれこれ報告するのはやめてもらおう。バルクラーイ将軍のところへ行って、明日のことについて私の意図を次のようにはっきりと報告するんだ。「明日は必ず敵に攻撃をしかける」と。(間。)到る所で敵は負けている。このことを私は神に感謝する。そして私の勇ましい軍隊に感謝する。敵は敗北だ。明日我々は、奴等をこの聖なるロシアの土地から追い出してくれるのだ!(十字を切る。啜り泣く。)
(全員沈黙。)
 ヴァリツォーゲン(クトゥーゾフから離れて傍白。)... Eingenommenheit des alten Herrn ... (独「全く・・・じじい奴、一人でいい気になって・・・」)
(ライェーフスキイ登場。)
 クトゥーゾフ ああ、ライェーフスキイか、待ち焦がれていた。さあ、話してくれ。
 ライェーフスキイ 我が軍は頑強に持ち場を守っています。フランス側は攻撃を諦めたようです。
 クトゥーゾフ Vous ne pensez donc pas comme les autres, que nous sommes obliges de nous retirer? (では君は他の連中のような考えは持っていないな? 我々が退却すべきだなどとは。)
 ライェーフスキイ Au contraire, votre altesse! (とんでもない。その反対です、総司令長官閣下。)
 クトゥーゾフ カイサーロフ! さ、坐って。明日の命令を書きとめるんだ。(別の副官に。)それから君、君はすぐ前線に行って、明日は攻撃だ、と説明して来い!
(暗闇。)
 語り手 「軍の士気」と呼ばれ、戦争においては大切な役割を果す、軍全体うって一丸となる何かの気分というものがあるが、その説明のしようのない不思議な結びつきにより、クトゥーゾフの言葉・・・即ち、明日の戦闘に関する命令・・・は、あっと言う間に全軍の隅々にまで浸透したのだった。

     第 十 二 場
 語り手 その日、その恐ろしい戦場の光景が、彼の精神力を打ち砕いた。その精神力こそ、彼が自分の最大の長所、偉大さであると自負していたものだったのに。浮腫(むく)んで黄色く、はれぼったい顔、濁った目、赤い鼻、そして声は嗄(しゃが)れて目を上げることもなく彼は坐っていた。
(丘。大砲の響き。ナポレオン一人。それに、子供の肖像画あり。ナポレオンの息子「ローマ王」である。)
 語り手 野原の上にゆっくりと立ち昇っている火薬の煙の中に、累々と横たわる馬と人の死体。このように小さな空間にあるこのような量の死体のある光景は、未だかってナポレオンが見たことのないものであった!
 彼はこの戦闘の終結を、病的なまで待ち焦がれていた。自分がこの戦闘をしかけた人間であると自認していたが、止めさせることは出来なかったのである。自然な、人間的な感情が、ほんの短い一瞬であるが、ふと、長い間培(つちか)ってきた人工的な、幻の感情より優位に立った。戦場で見た苦痛と死を自分のものとして受け取ったのである。頭も重く、胸も重く、苦しみも死も、やがて自分にやって来るものとして認識したのである。この瞬間、彼にはモスクワも、勝利も、名誉も不要だった。「名誉も不要」・・・当然だ。何故これ以上の名誉が彼に必要か。今この時、彼が欲しかったものはただ、休息、安心、それに自由だった。
(副官、へとへとになって丘を上って登場。)
 語り手 「我が軍の砲火は、敵軍を薙(な)ぎ倒しております。しかし、敵は退(ひ)きません」と、副官が報告する。
 ナポレオン Ils en veulent encore? (連中はもっと欲しいのか。)
 副官 は? 何と仰せられます?
 ナポレオン Ils en veulent encore, donnez leur-en! (欲しいならもっと食らわしてやれ。)
(副官退場。)
 語り手 連中はもっと欲しいのか・・・とナポレオンが言う・・・それならもっと食らわしてやれ! そんな命令がなくとも、その意志は実行されていたであろう。彼が命令したのはただ、自分にその命令が期待されていることを知っていたからだけなのだ。即ち、彼は再び悲しむべき非人間的な役割を、運命によって予め定められた通り従順に実行したのである。
                    (暗転)

     第 十 三 場
(野外診察手術用テント。砲火の音、少し小さく聞こえる。しかし、それ以外に間断ない人の呻き声、叫び声が聞こえて来る。そしてカラスのカアカアという泣き声。)
(傷ついた兵士が横たわって順番を待っている。頭と手に包帯を巻いた茶色の髪の下士官が、その傍に立って、興奮して話している。)
 茶色の髪の下士官 俺達は奴をそこから炙(あぶ)り出して、追い立てたんだ。やっこさん、命からがら、何もかも放り出して逃げた。おう、そうさ。敵の王様その人だぜ。あの時、補助隊の応援がありさえすりゃな、取捉(とっつか)まえていたところさ。そうなりゃ、王様もへちまもあるもんかい。本当だぞ・・・本当なんだ、これは・・・
(テント内部の仕切りのところから、外科手術助手達が、包帯をしたアンドリェーイを運び込み、ベンチの上に置く。)
 傷ついた兵士 そうか、あの世でも紳士の身分ってやつは効き目があるのか!
 軍医(外科助手達に。)連れて行け! 脱がせろ!
(外科助手達、傷ついた兵士を運び去る。(訳註 ブルガーコフは原文を作り変えている。原文ではアンドリェーイの服を脱がせろと命令し、その後アンドリェーイの手術を行う。)軍医、アンドリェーイの顔に水をかける。アンドリェーイ、意識を戻す。軍医、アンドリェーイの唇に自分の唇をあててその息を確かめ、傷ついた兵士が運ばれた場所に退場。)
 茶色の髪の下士官(興奮して。)そうさ、あの時応援が来ていさえすりゃ・・・補助隊がな・・・(退場。)
(外科助手達が瀕死の重傷を負ったアナトーリ・クラーギンを運んで来て、ベンチの上に置く。アナトーリは気絶している。)
 アンドリェーイ(アナトーリを見る。弱々しく喋る。)縮れた髪、この色・・・何か記憶にある髪の毛だ・・・誰なのだ・・・誰だ、この男は。・・・そうだ、クラーギンだ。ああ、何ていう結びつきだ、この男と私は。こんなところで、こんな場所で・・・こんなに近く・・・何が二人をこんなに・・・ナターシャだ! ああ、ナターシャ! あのすらりとした首、手、一瞬にして歓喜の表情に変化するあのびっくりした幸せな顔・・・ナターシャ! ああ、思い出したぞ、何もかも。私はこの男を軽蔑し、何としても会おうとした。この男を殺すために。或はこの男に私を殺す機会を与えるために!(泣く。)ああ、何ていう愚かなことだ。・・・人間全ての愚行、そしてこの私の愚行!・・・
 軍医(外科助手と共に急いで登場。アナトーリに近づく。唇に唇を近付ける。)何故ぼんやり立っている。早く死体を運ぶんだ。

     第 十 四 場
 語り手 野っ原には何万という人間が様々な姿勢で、そして様々な軍服を来て、死体として横たわっていた。この場所は何百年もの間、バローディー村の百姓達が麦を収穫し、家畜を放牧していたところであった。
(夜。丘と野原。死体が累々と横たわっている。丘にピエール、灯を持って登場。)
 ピエール ああ、今僕が、心の底から欲していること、それは唯一つだ。普通の暮しに戻りたい。自分のベッドで長々と横になって寝たい。それだけだ。今の今、見て来たこと、経験したこと、それにこの自分自身のことも、何が何だか分らない。普段の暮しに戻って、初めてそれが理解出来るように思える。しかし普段の生活など、どこを捜したってありはしない! ぞっとする・・・ぞっとする話だ。みんな奴等のせいなんだ、これは!(興奮して。)俺はロシア人、ベズーホフだ! ナポレオンの奴め! あいつを、俺は殺してやる!(地面に腰を下ろし、灯火の傍でやっと静まる。)
(釜を持った兵士登場。間。)
 釜を持った兵士 おい、あんた! あんたはどこの者だ?
 ピエール 私?・・・私は・・・(間。)身分は義勇軍の士官なんですが、部下がいなくなったんです。・・・戦闘が始まってちりぢりになって・・・
 釜を持った兵士 おいあんた。どうだ、食うか? ごった煮だがな。(坐る。釜を差しだす。)
(ピエール、ガツガツと食べる。)
 釜を持った兵士 おいあんた、それで、どこへ行くんだ。
 ピエール マジャーイスクです。
 釜を持った兵士 あんたはどうやら貴族だな?
 ピエール ええ。
 釜を持った兵士 何て言うんだ? 名前は。
 ピエール ピョートル・キリーラヴィッチ。
(間。馬の蹄の音。それから、人の足音が聞こえてくる。ピエールの馬丁登場。)
 馬丁 ああ、旦那様。よかった。もうすんでのところで、諦めるところでした。
 ピエール ああ、そうだな・・・
 釜を持った兵士 部下の人で? 見つかりましたか。じゃ、これで失礼を、ピョートル・キリーラヴィッチ・・・でしたね?
 ピエール じゃ、失敬。(ポケットに手を入れて。)金をやるべきか?・・・
 語り手 いや、やらない方がいい。
               (暗転)(第二幕終)

     第 三 幕
     第 十 五 場
(八月三十一日。ラストーフ家の屋敷。扉は全て開け放たれている。全ての家具、鏡等は移動され、絵画は壁から下ろされている。衣装箱、干し草、紙、紐、が散らばっている。中庭から声が聞こえる。人々が引っ越し用の荷物を荷馬車に詰め込んでいる声である。)
(玄関におづおづと、顔色の蒼い負傷した士官が登場する。)
 マーヴラ・グズミーニシナ まああなた、じゃ、モスクワにはどこにも知りあいがいないのね? どこか部屋があると落ち着くのに。
(ナターシャ、部屋に登場。この言葉を聞く。)
 マーヴラ・クズミーニシナ じゃ、家にいらしたら? この家、家族中で引っ越すのよ。
 蒼白い顔の士官 許可が出るかどうか分りませんが・・・ああ、上官が来ました。訊いてみて下さい。
 ナターシャ(玄関へ出る。開いた窓から外に話しかける。)負傷兵をうちに置いていいでしょうか。
 少佐(玄関に登場。)何の御用でしょう、お嬢さん。(考えて。)ああ、ようございますとも、勿論。(退場。)
(蒼白い顔の士官も退場。)
 ナターシャ(マーヴラ・クズミーニシナに。)いいって・・・いいって言ったわ、あの人。
 マーヴラ・クズミーニシナ でもやっぱり、お父さまにはお話しにならなければ。
 ナターシャ いいのよ、いいのよ。たいしたことじゃないでしょう? だって、私達がみんな一晩、客間で寝ればいいんですもの。お家の半分全部貸してあげたって大丈夫よ。
 マーヴラ・クズミーニシナ でもお嬢様、やはりちょっとお考え下さい。たとえ離れだけだって、お貸しするなら一言お話しにならなければ。(退場。)
 ナターシャ そう。じゃ、訊くわ。(休憩室へ行き。)ママ、寝ていらっしゃるの?
 伯爵夫人 あら私、ウトウトっと・・・
 ナターシャ ママ・・・ねえママ・・・ご免なさい。許して。もう決してしない。私、ママを起しちゃった。ねえ、マーヴラ・クズミーニシナに訊いて来いって言われたの。ここに負傷兵を連れて来ていい? 士官なんだけど。いいわよね? だってどこにも行き場がないんですって。ママ、お許しになるわね?
 伯爵夫人 士官って何? 誰を連れて来るんだって? 何のことかさっぱり分らないわ。
 ナターシャ 私、分ってる。お許しになるって・・・そのように言いますからね。(休憩室から走って出る。マーヴラ・クズミーニシナに言う。)いいってよ!
 マーヴラ・クズミーニシナ(玄関で窓の外へ。)ばあや! その方を独身部屋にお連れして。(退場。)
 伯爵(玄関から登場。)出遅れたよ、私達は。クラブは見せじまい、それに警察も出払ってしまった。
 ナターシャ パパ、負傷兵の方(かた)を家に入れたっていいわね?
 伯爵 当り前だ。何も問題はない。今はそれどころじゃないぞ。くだらんことにかかづらわっていないで、早く荷造りをして、出発するんだ。ヴァスィーリイッチ! ヴァスィーリイッチ!(退場。)
(ソーニャ、ヴァスィーリイッチ、コック、登場。せかせかと準備。)
 ヴァスィーリイッチ 三つ目の箱が必要ですね、これは・・・
 ナターシャ ソーニャ、待って。二つで大丈夫。全部入れてしまうわ。
 ヴァスィーリイッチ 駄目ですよ、お嬢さん。もうやってみたんですから。
 ナターシャ いいえ、待って。やってみるんだから。
 ヴァスィーリイッチ これだけじゃないんですよ。まだもう一枚、絨毯もあるんですし・・・
 ナターシャ 分った。待ってて。いい?・・・(箱から古い皿を何枚か取り出す。)これはいらないわ!
 ソーニャ もうほっといて、ナターシャ。それは一杯。私達がやりますから。
 ヴァスィーリイッチ さ、お嬢様・・・
(召使一人登場。手助けを始める。)
 ソーニャ 分ったわ、ナターシャ。でもこれは一杯。もう一枚上の絨毯を取らなきゃ!
 ナターシャ 駄目、これは。ペーチャ! ペーチャ!
(ペーチャ、走って登場。軍服姿。)
 ナターシャ さ、これを締めるのよ、ペーチャ。
 ペーチャ(箱の蓋の上に坐る。)締まれ! そら! 締まれ!
 ナターシャ ヴァスィーリイッチ! さ、押して!
(箱の蓋締まる。ナターシャの目から喜びの涙が迸る。コック、召使、ペーチャ、ナターシャ、それぞれ物を持って退場。ヴァスィーリイッチも同様に退場。玄関の扉が開き、老齢の侍僕と、マーヴラ・クズミーニシナ、登場。)(訳註 この侍僕はアンドリェーイのお付きの者。)
 マーヴラ・クズミーニシナ さあさあ、どうぞ。私どもの所へ。家の人達はみんな出るんです。家中空っぽになるんですから。
 老齢の侍僕 そうですか。家はモスクワにあるのですが、何しろ遠くて、とても辿り着くのは無理と・・・
 マーヴラ・クズミーニシナ どうぞどうぞ、私どもの方へ・・・それで、随分お悪いのですか?
 老齢の侍僕 家まで運ぶのはとても無理で・・・(窓から外へ)中庭の方に廻して・・・中庭に!
(老齢の侍僕退場。その後からマーヴラ・クズミーニシナも退場。ソーニャ、窓から外を見、それから走って退場。)
 伯爵(登場。)ヴァスィーリイッチ!
(ヴァスィーリイッチ登場。)
 伯爵 どうだ、用意は出来たか。
 ヴァスィーリイッチ はい、今すぐにでも、旦那様。
 伯爵 よし、いいぞ。神様のお陰だ。
(ヴァスィーリイッチ退場。蒼白い顔の士官、看護兵と共に登場。)
 蒼白い顔の士官 伯爵殿、大変申し上げ難いのですが、どうかその・・・お願いです・・・・・・荷馬車のどこにでも結構です、乗せて戴く訳にはまいりませんか。私には、ここに全く知りあいがいませんで・・・荷物の上にでも構いません、どうか・・・
 看護兵 どうか、閣下!・・・
 伯爵 ああ、そうですか・・・それは、その・・・喜んで・・・おい、ヴァスィーリイッチ!・・・ヴァスィーリイッチ〜!
(ヴァスィーリイッチ登場。)
 伯爵 お前、差配してな。一台か二台、荷馬車の荷物を下ろして・・・何だ・・・ちゃんと乗れるように・・・
 少佐(登場。)伯爵殿!
 伯爵 ああ・・・そうですな・・・ああ、皆さん・・・ええ、喜んで、その・・・ええ、ええ・・・ヴァスィーリイッチ!
 ヴァスィーリイッチ どうか旦那様、御自身で御指示を。まづは絵ですが、絵は如何致しましょう?
 伯爵 うん、そうだな。まあ、何かは下ろせる筈だ。置いて行ける筈だ・・・
(ヴァスィーリイッチ、蒼白い顔の士官、少佐、看護兵と共に退場。)
(ヴァスィーリイッチ、蒼白い顔の士官、看護兵と共に退場。)
(暫くしてマトリョーナ・チマフェーイェヴナ、走って登場。休憩室に突進する。)
 マトリョーナ・チマフェーイェヴナ(伯爵夫人に。)奥様!
 伯爵夫人 え? 何? 何ですか?
 マトリョーナ・チマフェーイェヴナ マーリヤ・カールロヴナが怒っておいでです。とても・・・
 伯爵夫人 えっ? マダム・ショッスが怒っているって? どうして?
 マトリョーナ・チマフェーイェヴナ あの方の衣装箱が荷馬車から下ろされてしまったんです。
 伯爵夫人 何ですって?
 マトリョーナ・チマフェーイェヴナ そうなんです、奥様。荷馬車の紐が全部解(ほど)かれて家財は下ろされて・・・その代りに負傷兵達をそこに・・・伯爵様はお人がよくって、乗せてやれとお命じになったのです。でもお嬢様方の夏服を全部捨てて行くなんて、そんなこと出来ませんわ。
 伯爵夫人 旦那様を・・・旦那様を呼んで・・・
 マトリョーナ・チマフェーイェヴナ 少々お待ちを。(走って退場。)
(暫くして休憩室に伯爵登場。ナターシャ、その後をこっそりとつけて来て、休憩室の会話を盗み聞きする。)
 伯爵夫人 あなた、どういうことですの? 家財を下ろさせていると言うじゃありませんか。
 伯爵 なあお前・・・実はその、話しておかなきゃと思っていたんだが・・・その・・・何だ・・・機嫌を直して・・・実はその、士官がやって来てな・・・頼むんだよ、負傷兵に荷馬車を少々譲ってくれんかとな。・・・荷馬車にある物など、また買えばすむ。負傷兵を残したら、お前、一体どうなると思う? な? 分ってくれ。いい子だから。頼むよ。・・・荷物を下ろさせてくれ・・・
 伯爵夫人 いいですか、あなた。あなたは今までにもう、家に何一つ残らなくなるまで家財をお捨てになって、今度は、子供達の物まで全部放棄しようというのですか。いいえ、あなた、私は反対ですよ。どうしてもそんなことはさせません。負傷兵には政府というものがあるでしょう。他の家を見て御覧なさい。ラプーヒン家など、もう二日も前にすっかり荷造りして、さっさと出て行ったじゃありませんか。これが良いお手本です。馬鹿なのは私達だけです。私のことを哀れと思って下さらないのなら、せめて子供達のことでも考えてやって・・・
 ナターシャ(嵐のような勢いで部屋に入り。)そんなの卑怯! そんなの下劣! そんなこと決してしてはいけないわ! ね、ママ。そんな命令、取り消して! ほら、中庭を見て! あの人達を残して、いいって言うの?
 伯爵夫人 どうしたんだい、お前。あの人達って、誰のこと? お前、どうして欲しいっていうんだい?
 ナターシャ 負傷兵よ! 分るでしょう? ママ。駄目よ、ママ。あんなこと言っちゃ。あんなのないわ。置いて行くなんて・・・そんな・・・そんな・・・
 伯爵夫人 いいわ、勝手になさい。人の邪魔なんか、私はしないんですからね。
 ナターシャ ママ・・・有難う、ママ。・・・私を許してね!
 伯爵夫人(伯爵の方を向いて。)あなた、あなたがいいように指図して・・・私、こういうことは分らないの。
 伯爵(涙を流して。)負うた子に教えられ・・・か・・・
 ナターシャ パパ、ママ、私がやっていいかしら。ね? 私が・・・(走って退場しながら。)荷馬車は全部、負傷兵に譲って。荷物は物置に戻して頂戴。
(伯爵退場。)
(ソーニャ、旅の服装で登場。そのあとに小間使、登場。)
 ソーニャ あの馬車はどなたの?
 小間使い お嬢様、御存知なかったのですか? 公爵が負傷していらっしゃるのです。私達と一緒に発つんですのよ。
 ソーニャ 公爵って、どなた? 苗字は?
 小間使 ナターシャお嬢様の許嫁だった方。バルコーンスキイ公爵様ですの。重体なんですって。
 ソーニャ(休憩室に走って入る。)ママ、アンドリェーイ公爵が負傷して重体でここにいらっしゃるんですって。私達と御一緒に出発なさるって・・・
 伯爵夫人(驚いて。)ナターシャはそれを・・・?
 ソーニャ まだ知らないの。でも、御一緒にここをお発ちになるのよ。
 公爵夫人 お前今、重体って言ったね?(泣く。)神様のなさることは人間には分らないものね。
 ナターシャ(登場。旅装。)さ、ママ、用意は出来たわ。あら! どうしたの?
 伯爵夫人 どうもしないわ。用意が出来たのなら出発ね。
 ナターシャ(ソーニャに。)どうしたの? ね、何があったの?
 ソーニャ 何って? 何もないわよ。
 ナターシャ 私に何か酷く悪いこと? 何なの?
(伯爵、ペーチャ、マーヴラ・クズミーニシナ、ヴァスィーリイッチ、登場。全員集まって十字を切る。去って行く五人、居残るマーヴラ・クズミーニシナとヴァスィーリイッチに抱擁。そして退場。マーヴラ・クズミーニシナとヴァスィーリイッチも見送りのため退場。ラストーフ家、空になる。)
                   (暗転)

     第 十 六 場
 語り手 ボロジノの戦いからモスクワへ帰る途中、ピエールは自分の義理の兄、アナトーリと友人アンドリェーイの死を知らされる。モスクワの自宅に着いた時はもう暗くなっていた。この時彼の家にはピエールに指示を仰ぐために、七八人の雑多な人間がやって来ていた。ピエールは話を聞いてもまるで理解できず、また興味も全くわかなかった。従ってこれらの人間から出来るだけ早く逃れるためのいい加減な返事をして、一人づつ追い払った。やっと一人になり、妻から来ていた手紙の封を切り、読んだ。手紙には、自分はN・Nと結婚するつもりであると通告し、従って、離婚のための必要書類を揃えて欲しいと書いてあった。「砲兵中隊のあの兵隊達・・・公爵アンドリェーイは死んだ・・・苦しむことが必要だ・・・妻は誰かと結婚する・・・忘れなければ・・・そして理解しなければ・・・」ピエールはベッドに近づき、着替えもせずそこにごろりと横になり、すぐさま眠りについてしまう。翌朝彼は、急いで着替えをすませ、彼を待っている人達の前に顔を出すことは止め、こっそりと裏の木戸をくぐり、通りへ出て行った。
 その時以来、モスクワ陥落の日まで、ベズーホフ家の誰一人、八方手を尽したにも拘らず、ピエールを見たものはなく、またその所在を知っている者はいなかった。

(故ヨスィフ・アリェクスェーイェヴィッチ・バズデェーイェフの家。)
 ピエール(扉のところで。)御在宅ですか?
 ゲラスィーム 現在のこの情勢です。奥様のソーフィア・ダニーロヴナは子供を連れてタルジョーク村に避難なさいました。
 ピエール とにかく私は入るよ。本を整理してくれと頼まれているんだ。
 ゲラスィーム どうぞどうぞ、お入りを。故人の兄の・・・どうか故人に神の御加護を・・・マカール・アリェクスェーイェヴィッチが一人お残りになって・・・御存知でいらっしゃいますか? 健康がすぐれませんで・・・
 ピエール ああ、知っている、知っている・・・
(マカール・アリェクスェーイェヴィッチ、扉からちょっと覗き、ブツブツ独り言を言い、また退場。)
 ゲラスィーム 随分頭のよいお方だったのですが、御覧になってお分りの通り。ひどく弱っておしまいになりまして・・・(鎧戸を開ける。)奥様からのお言い付けでした。もしあなた様がいらっしゃれば、本をお任せするようにと。(退場。)
 ピエール(原稿を引き出しから取り出す。考える。)どうしてもナポレオンに会う。そして奴を殺すのだ。こちらが死ぬか、それともナポレオン一箇のために惹き起こされた全ヨーロッパの不幸に、これで終止符を打つか。そうだ、全体のために一人が犠牲になる。やり遂げるか、死ぬか、そのどっちかだ。そうだ、俺は奴に近づいて・・・そして突然・・・ピストルか短剣か、どっちにする。まあいい、どっちでも同じだ。「殺すのはこの私じゃない。神の手が罰するのだ」、そう俺は言ってやる。それから後は「さ、この俺を引っ立てろ。好きなように罰すればいい」、そう言うんだ。(考え込む。)
(ゲラスィーム、扉のところへ来て、咳払いをする。)
 ピエール(我に返る。)ああ、そうだ、ゲラスィーム。君に頼んでおくが、私の正体を誰にも言ってはいかん。それから、ちょっと頼みがある。
 ゲラスィーム 畏まりました。何か食べるものでしょうか。
 ピエール いや、食事じゃない。百姓が着る着物とピストルが欲しいんだが。
 ゲラスィーム(ちょっと考えて。)畏まりました。(退場。暫くしてカフタン(長裾の上衣)、帽子、ピストル、それに短剣を持って登場。ピエールの着替えを手伝い、退場。)
 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ(登場して。)あいつら、怖気(おじけ)づきやがった。いいか、俺は降参などするものか。フランス兵など屁のかっぱだ。・・・なあ、あんた!(突然机の上からピストルを取り上げる。)
 ピエール あっ!
(ゲラスィーム、走って登場。ピストルを取り上げようとする。)
 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ 武器を取れ! 肉弾戦だ! やい、取れるものなら取ってみろ。
 ゲラスィーム 大抵にして下さい! もう御冗談は!
 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ 貴様は誰だ。ボナパルトか。
 ゲラスィーム いけません、旦那様。さあ、ピストルをこちらへ。
 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ あっちへ行け。汚らわしい奴隷め! よし、肉弾戦だ!
(突然扉のところで女の叫び声、そして扉を叩く音。)
 料理女(走って登場。)奴等です、旦那様方! ああ、神様・・・とうとう奴等が・・・(退場。)
(ゲラスィームとピエール、マカール・アリェクスェーイェヴィッチを放す。マカール・アリェクスェーイェヴィッチ、ピストルを持って走って退場。ランバーリとモレーリ、登場。)
 ランバーリ Bonjour, la compagnie! (やあ諸君、今日は。)(ゲラスィームに。)Vous etes le bourgeois? (あなたがこの家の主(あるじ)で?) Quartire, quartire logement. (quartire はロシア語の住み家(クヴァルチール)のつもり。住み家を、住むところを頼む。)Les francais sont de bons enfants. (フランス人はいいやつさ。)Ne nous fachons pas, mon vieux. (まあ、仲良くやろうや、な?)
 ゲラスィーム 主(あるじ)?・・・違う。・・・分らない・・・私・・・あなた・・・
 マカール・アリェクスェーイェヴィッチ(突然走って登場。)肉弾戦だ!(ピストルで狙う。)
(ピエール、マカール・アリェクスェーイェヴィッチに飛びかかる。マカール、引き金を引く。ゲラスィーム、馬で逃げ去る音。料理人が大声で泣き始める。)
 ピエール Vous n'etes pas blesse? (お怪我はありませんでしたか?)
 ランバーリ(身体のあちこちを触ってみて。)Je crois que non, mais je l'ai manque belle cette fois-ci. (どうやら怪我はない。今回は運良く逃れたな。)Quel est cet homme? (誰だ、この男は。)
(モレーリ、マカール・アリェクスェーイェヴィッチを掴まえている。)
 ピエール Ah, je suis vraiment au desespoir de ce qui vient d'arriver. (いやどうも、大変なことをやってしまって。実に申し訳ありません。)C'est un fou, un malheureux, qui ne savait pas ce qu'il faisait. (この男は気違いなんです。可哀相な奴で、自分のやっていることが分っていないんです。)
 ランバーリ(マカール・アリェクスェーイェヴィッチの襟首を掴まえて。)Brigand, tu me la payera. (この野郎! たっぷりお返しはさせて貰うぞ。)(ピエールに。)Vous m'avez sauve la vie! (君は命の恩人だ。)Vous etes Francais? (君はフランス人かね?)
 ピエール Je suis Russe. (私はロシア人です。)
 ランバーリ Ti ti ti, a d'autre. (いやいや、それは違う。)Vous etes Francais. (君はフランス人だ。)Vous me demandez sa grace. (この男の命乞いをしたな?)Je vous l'accorde. (分った。命は助けよう。)Qu'on emmene cet homme. (こいつを連れて行け!)
 モレーリ(マカール・アリェクスェーイェヴィッチを部屋から突き出し、退場。また戻って来て。)Capitaine, ils ont de la soupe et du gigot de mouton dans la cuisine. (隊長、台所にスープがあります。それに羊の肉も。)Faut-il vous l'apporter? (持って来ましょうか?)
 ランバーリ Oui, et le vin! (持って来い。それから酒もだ。)(ピエールに。)Vous etes Francais. (君はフランス人だ。)Charme de rencontrer un compatriote. (いやあ、同国人に会えるとは、これはこれは。)Ramball, capitaine. (隊長のランバーリです。よろしく。)(ピエールの手を握る。)
                   (暗転)

     第 十 七 場
(夜。前場と同じバズデェーイェフの部屋。窓の外に彗星、そして火事による照り返し。テーブルの上にはワイン。ランバーリは服を脱ぎ、毛布をかぶってうたた寝をしている。ピエールがその傍に坐っている。)
 ランバーリ Oh! Les femmes, les femmes! (ウーン、女・・・女・・・)
 語り手 ピエールはどうしても胸の内にあるものを話してしまいたくなる。「私の考えている女性への愛は、あなたのとは少し違うんです」と、彼は切りだす。「私は生涯を賭けてたった一人の女性を愛し、そして今でも愛している。しかし、彼女が私の伴侶になることは決してないだろう」と。
 ランバーリ(眠りながら。)Tiens... (フーン)
 語り手 ピエールは続けて、私はこの女性を本当に小さい頃から知っていた。しかしその頃は、彼女のことを思う勇気がなかった。彼女があまりに若く、また私は苗字もない庶子だったからだ。それから時が経ち、私は苗字を得た。すると今度もまた、彼女のことを思う勇気が出なかった。私が彼女をあまりに愛し、彼女をこの世の何よりも高いものとして・・・従って勿論、自分よりずっと高いものとして・・・崇めていたからだ。
 話がここまで来た時、ピエールはランバーリの方を向き、「これがあなたには分りますか?」と訊く。
 ランバーリは肩を竦め、自分に分らなくてもいい。とにかく先を話してくれ、という動作をする。
 ランバーリ(半分寝ながら。)L'amour platonique, les nuages... (プラトニック・ラヴか・・・雲だな、雲だ。)
 語り手 酔っ払ったせいで心の底を打ち明けたい気持になったのか、或は相手が自分の話の登場人物を誰一人知らないし、またこれから先も知ることはないという安心感からか、とにかくピエールの舌は解(ほど)ける。そして、口をモグモグさせ、官能的な目で遠くを見つめながら自分のことを洗いざらい話す。自分の結婚のこと、ナターシャが自分の最良の友人に恋したこと。そして裏切ったこと。自分のナターシャに対する一途な思いのこと。彼は最初は隠していた自分の社会的地位、そして自分の苗字までこの男に打ち明けたのだ。
(ランバーリ、眠っている。)
 語り手 ピエールは立上る。目をこする。そして、彫り物のある台尻のついたピストルをじっと見つめる。
 ピエール まさか、もう手遅れということはないだろうな。いや、ナポレオンは八月十二日までには、モスクワには着かない筈だ。(ピストルを手に取る。)どうやって持って行く。街中を手でぶら下げて行く訳には行かない。いくら上衣のカフタンがブカブカでも、こんな大きなものを隠せっこない。帯にさすのも駄目、小脇に抱えるのもすぐ見つかってしまう。おまけに弾はさっき使ってしまった。弾をこめなきゃいけない。が、その時間はない・・・まあいい、短刀にしよう。(短刀を手に取る。蝋燭を吹き消し、こっそりと退場。)
 ランバーリ(夢で寝言。)L'Empereur, l'Empereur ... (陛下・・・陛下・・・)
                   (暗転)

     第 十 八 場
(夜。百姓家。半分に分けられている。右半分に、伯爵夫人、ナターシャとソーニャ。三人とも夜着姿。寝るために着替えをしたところ。窓には火事の照り返しが映っている。)
 語り手 ・・・アンドリェーイが負傷して、この逃避行の一行の中にいるという話を、ソーニャは何故か自分でも理解出来なかったが、どうしてもナターシャには話さねばならないと感じ、それを実行に移したのだった。それを聞いて伯爵夫人がどんなに驚いたか、どんなにソーニャに対して怒ったことか。
 ソーニャ ほら、御覧なさいナターシャ。あの燃え方。何て恐ろしいんでしょう。
 ナターシャ 燃えているって?・・・何のこと?・・・ああ、モスクワ・・・
 ソーニャ あなた、ちっとも見ていないじゃないの。
 ナターシャ いいえ、見たわ。ちゃんと見えたわ。
 伯爵夫人 ナターシャ お前、身体中震えているわ。寒いのよ。さあ、早く寝て。
 ナターシャ 寝る?・・・ああ、いいわ。私、寝る。すぐ寝るわ。
 伯爵夫人 さ、ナターシャ、その羽織っているものを取って、私のベッドにいらっしゃい。
 ナターシャ いいえ、ママ。私、ここの床の上に寝るわ。(苛々と。)ママの方こそ早く寝て!
(三人、横になる。静かになる。どこかから、長くのばした呻き声が聞こえて来る。)
 ナターシャ(起き上がり。)ソーニャ、あなた、寝た? ママ?・・・(用心深く扉の方にこっそりと進む。)
                  (暗転)

     第 十 九 場
(小屋の左手半分が現れる。(右手は消える。)夜。長椅子に侍僕が眠っている。ベッドには、譫言(うわごと)を言いながらアンドリェーイが横たわっている。その身体に屈み込むように語り手。)
 アンドリェーイ ああ、これだ。これが人間だけが持てる幸せだ。物質から完全に切り離された、物質を越えた幸せ・・・ピーチ!
 語り手 ピーチ! ピーチ、ピーチ! ピーチ! チーチー、ピーチ! ピーチー。彼の顔の真中から空中に向って、奇妙な尖(とが)った、塔のような建造物・・・細い針か、或は薄い鉋屑(かんなくづ)のようなもので出来た高い高い塔・・・
 アンドリェーイ この塔を倒してはいけない。平衡を保って、崩れないように・・・
 語り手 この空気のように脆(もろ)い建造物が、傾いて倒れたりしないように・・・
 アンドリェーイ 伸びる、伸びる、引き伸ばされて、どんどん伸びて行く・・・
 語り手 蝋燭の赤い光の輪、枕にぶつかってくる蝿、ゴキブリ、そしてそのガサゴソという音・・・それから扉の傍にある白いもの・・・何かスフィンクスの彫像のような・・・
 アンドリェーイ いや、しかしあれは、スフィンクスじゃない。ひょっとすると、テーブルの上に置いてある僕のシャツかもしれない。それから、あれが僕の足。あれが扉。しかしそれにしても、どうしてみんな、引き伸ばされて行くんだ。ずんずん、ずんずん遠くへ・・・ピーチ!
 語り手 ピーチ! ピーチ! ピーチ!・・・
 アンドリェーイ もういい。もう伸びるのは止(や)めてくれ。頼む。止れ!・・・そうだ、愛だ。でもいつものあの愛じゃない。あの、何かのために愛するという、あの愛じゃない。死に際になって初めて経験したな、この愛は。自分の敵を見ても、そいつを愛することが出来る。その愛が・・・神だけにある愛を、今初めて・・・。ああ、僕は人生で、どれだけ沢山の人間を憎んだことか。その中でも、あれほど愛し、そして同時にあれほど憎んだ人間は・・・あの人しかいない。
 語り手 そして彼には初めて、自分の、彼女への愛の拒絶がどんなに相手にむごいものだったか、彼女との断絶がいかに残酷なものだったか分ったのだった。
 アンドリェーイ ああ、もしもう一度、もう一度だけ、彼女に会うことが出来たら・・・あの目を見て、もし言うことが出来たら・・・ピーチ!
(扉が開き、ナターシャ登場。アンドリェーイに近づき、膝まづく。)
 アンドリェーイ 君は・・・ナターシャ? ああ、何て嬉しい!
 ナターシャ 許して! 私を許して!
 アンドリェーイ 愛している、僕は・・・君を。
 ナターシャ 許して下さい・・・
 アンドリェーイ 何を許せと?
 ナターシャ 私がした・・・してしまった・・・ことを・・・
 アンドリェーイ 僕は今、以前よりずっと君を愛しているんだ!
(侍僕、目を醒す。恐怖の表情で見る。扉が開き、医者登場。)
 医者 何ですか、これは。どうか出て行って下さい、お嬢さん。
                  (暗転)

     第 二 十 場
(第十八場と同じ右半分の場。伯爵夫人、伯爵、ソーニャ、心配そうに三人で囁き合っている。)
(医者、左半分の場から、急いで出て来る。)
(左半分の場から、侍僕、走って出て来て、右半分の場を通り抜け、退場。水を持って来て登場。それから、舞台裏からマーリヤの声がする。)
 ソーニャ(扉の方に走りよる。)ここです、ここです!
 マーリヤ(旅装。登場。)生きて・・・生きていますか、まだ兄は・・・
 伯爵夫人(囁き声で。マーリヤに。)Mon enfant, je vous aime et vous connais depuis longtemps. (まあ、あなた、存じあげていますわよ、あなたのことは。ずっと以前から。大好きなマーリヤ。)
 伯爵(マーリヤに。)これはうちの姪でしてな、公爵令嬢殿。この子のことは、きっと御存知ではないでしょう・・・
 マーリヤ 生きて・・・生きていますか? 兄は。
(ナターシャ、左手の場から登場。泣きながらマーリヤを抱擁する。)
 マーリヤ どんな具合なんですの? 兄は。
 ナターシャ ああ、マーリヤ。あの方、良い人過ぎるのですわ。もう駄目。生き長らえるのは難しいですわ!
(侍僕、突然敷居の所に登場。十字を切る。泣く。)
 伯爵 どうした。
 マーリヤ どうしました。
 侍僕 息絶えておしまいに・・・
(マーリヤ、伯爵、伯爵夫人、ソーニャ、左手の場に突進する。)
 ナターシャ どこに行っておしまいに・・・あの方は今どこに・・・
                   (暗転)

     第 二 十 一 場
(モスクワ。火事。ポーヴァルスカヤ街。蒲団、サモワール、聖像、衣装箱、等々。)
 マーリヤ・ニカラーイェヴナ 皆さん、助けて。情け深い、信心深い皆さん、お願いです。お助け下さい。誰か! 私の末の娘が取り残されたんです。あの燃えている家の中に・・・
 制服を着た男 もうよすんだ、お前。きっと姉さんが連れ出してくれている。でなきゃ、ちゃんとここにいる筈じゃないか。
 マーリヤ・ニカラーイェヴナ 意気地無し! 卑怯者! あんたには心というものがないのか! 自分の子供を可哀相とは思わないのか! あんたでない人なら、誰だってあの子を火の中から助けたに決まってる! あんたは意気地無しよ。人間じゃない、父親でもないわ!
(制服を着た男、走って退場。ピエール、走って登場。)
 マーリヤ・ニカラーイェヴナ 皆さん、御親切な皆さん! 家が燃えてきたんです。火がこっちに振りかかって・・・それで着のみ着のままで・・・ほら、出せたものと言ったら、聖像と、私の嫁入りの時のベッド、そして二人の子供は連れ出した・・・でも、カーチャがいないの!
 ピエール それで、その子供はどこに。どこに置いて来たんです。
 マーリヤ・ニカラーイェヴナ まあ、旦那様! 有難うございます。どうかお助けを。この心の重荷をどうか楽にさせて・・・
 ピエール よし、行って見て来る。(燃えている家の門の中に飛び込む。)
(マーリヤ・ニカラーイェヴナ、走って退場。)
 ピエール(舞台裏で。)Un enfant dans cette maison. N'avez-vous pas vu enfant? (この家の子供が・・・見なかったか? 子供を。)
 フランス兵の声(舞台裏で。)Un enfant? J'ai entendu ... Par ici ... par ici ... (子供? 声がしたぞ、さっき。・・・こっちの方だ。・・・こっちだ・・・)
(東洋風の顔をした老人とアルメニアの美人、登場。二人疲れて、衣装箱に坐る。ピエール、両手に子供を抱きかかえて走って登場。フランスの掠奪兵二人・・・背の低い掠奪兵と外套を着た掠奪兵・・・登場。それから、あばたのある老婆、子供(カーチャ)を連れて、走って登場。背の低い掠奪兵、東洋風の老人に、老人の履いている靴を指さし、「出せ」と手まねする。老人、靴を脱ぎ始める。)
 あばたのある老婆(ピーエルに。)旦那様、誰かをお捜しですね。それで、誰の子供なんです? これは。
 ピエール 連れて行って・・・ほら、あっちに行ったあの人に・・・連れて行って・・・(訳註 掠奪兵が気になって、上の空で言う。)
(外套を着た掠奪兵、アルメニアの美人の首から首飾りをもぎ取ろうとする。アルメニアの美人、金切り声を上げる。)
 ピエール(あばたのある老婆に、子供を預けて。)Lassez cette femme! (その婦人を放すんだ!)(外套を着た掠奪兵に掴みかかり、地面に投げつける。)
 背の低い掠奪兵(短刀を抜いて。)Voyons, pas de betises! (やるか。小癪(こしゃく)な!)
(ピエール、背の低い掠奪兵に飛びかかり、足で蹴る。殴り始める。あばたのある老婆、大声を上げる。)
(舞台裏で、フランスの見張りの騎兵隊の蹄が近づくのが聞こえる。その後馬を降りる音。騎兵隊員、走って登場。隊員達、ピエールを殴り倒し、持ち物を捜す。)
 隊員(ピエールのポケットから短刀を取出し。)Il a un poignard, lieutenant. (隊長、こいつ、短刀を持ってました。)
 隊長 Ah, une arme! C'est bon, vous direz tout cela au conseil de guerre. Parlez-vous francais, vous? Faites venir l'interprete! (ああ、武器か。よし、このことを軍法会議で証言するんだ。おい、お前、フランス語は喋れるか。通訳を呼べ。)
(隊員達、小さな男を連れて来る。)
 小さい男(ピエールを見て。)Il n'a pas l'air d'un homme du peuple. (この男は平民ではなさそうです。)
 隊長 Oh, oh, ca m'a bien d'air d'un des incendiaires. Demandez-lui ce qu'il est. (ほほう、私にはこいつは放火犯の一人に見えるな。何者か訊いてみろ。)
 小さい男 誰だ、お前は。上官には答える義務があるぞ。
 ピエール Je ne vous dirai pas qui je suis. Je suis votre prisonnier. Emmenez-moi. (名のりなどするものか。私はそちらの捕虜だ。連れて行け。)
 隊長(顔を顰めて。)Ah, ah, marchons! (フン。じゃ、歩け。)
(隊長達ピエールを引っ立てる。)
 あばたのある老婆 この人達はあんたさんをどこへ・・・この子を・・・この子を私はどこに連れて行けば・・・
 隊長 Qu'est-ce qu'elle veut, cette femme? (何だ? この女は何と言っている。)
 ピエール Ce qu'elle dit? Elle m'apporte ma fille, que je viens de sauver des flammes! Adieux!(何と言っているかって? 私は自分の娘を火事から救い出した。その娘を連れて来てくれたんだ。ああ、さらば・・・)
                  (暗転)
 語り手 この目的のない嘘が何故迸(ほとばし)り出たか、自分でも分らないままピエールは、きっぱりとした重々しい足取りでフランス兵達に引っ立てられて行く。
 この見回り騎兵隊は、モスクワの主だった通りにデュロネールの命により、掠奪の抑止と放火犯を逮捕する目的で派遣された見回り隊の一つであった。フランス軍の一般的な考えでは、火事は全て、放火によって起ったものとされていたのである。

     第 二 十 二 場
 語り手 次の日ピエールは、捕えられたロシア人の被疑者達と一緒に、放火犯の疑いで裁判にかけられることを知った。
 裁判が行われる場所は、ピエールが以前よく訪問した屋敷であった。その硝子ばりの回廊、控えの間、玄関を通ってピエールは、裁判の部屋に引き出される。
(シチェルバートフ家の部屋が現れる。壊されており、家具類が剥がされている。ダヴーが机についている。ピエール、その前に立っている。窓から煙が見える。フランス軍の軍楽隊の演奏する音楽が聞こえる。)
 ダヴー Qui etes-vous? (お前は誰だ。)
 語り手 ピエールは黙っている。一言も話す力がなかったのだ。ダヴーはピエールにとってただの将官ではなかった。ピエールは、この男がフランス軍の中でも残忍で知られている人物であることを知っていた。ピエールは返答が遅れる一秒一秒に、彼の命がかかっていることを感じた。しかし、何と答えてよいか分らなかった。自分の地位と名前を明かすのは危険でもあり、また恥づかしいことでもあった。ダヴーが頭を上げる。眼鏡を額まで持ち上げる。そして両眼を細める。「私はこの男を知っている」と重々しく、冷たくダヴーは言う。明らかにピエールに恐怖を抱かせるよう良く計算された物言いだ。
 「お前は誰だ」と訊かれた時背中に走った冷たいものが、今度はぐっと上に上り、頭をキリキリと万力を使ったように締める。
 ピエール Mon general, vous ne pouvez pas me connaitre, je ne vous ai jamais vu ... (閣下は、この私のことを御存知の筈がありません。一度もお会いしたことがないのですから・・・)
 ダヴー C'est un espion russe. (こいつはロシアのスパイだ。)お前はロシアのスパイだ。
 ピエール Non, Monseigneur! Non, Monseigneur, vous n'avez as pu me connaitre. Je suis un officier militionnaire et je n'ai pas quitte Moscou. (いいえ、公爵閣下、閣下が私を御存知の筈がありません。私は義勇兵を指揮する士官で、モスクワを離れたことがないのですから。)
 ダヴー Votre nom? (名前は。)
 ピエール Besouhof. (ベズーホフです。)
 ダヴー Qu'est-ce qui me prouvera que vous ne mentez pas? (それを証明するものが何かあるのか。)
 ピエール(哀願するように。)Monseigneur! (閣下!)
 語り手 ダヴーは目を上げ、じっとピエールを見つめる。二人は数秒見つめ合う。じっと見つめ合う二人の視線がピエールを救った。この視線により、敵対する二人の間に、戦争、裁判という条件を越えた人間的関係が成立したからである。今やダヴーは、目の前にいるこの人物に、「人間」を認めた。彼は一瞬、物思いに沈む。
 ダヴー Comment me prouverez-vous la verite de ce que vous me dites? (君が今言ったことを、どうやって証明するつもりなんだね?)
 ピエール 思い出しました! 思い出しました!
 語り手 ピエールはランバーリの苗字を思い出し、彼の所属の部隊、そして彼と話をした家の、街の名前を言った。
 ダヴー(疑いをもって。)Vous n'etes pas ce que vous dites. (君は自分が言っている人物とは違う。)
 ピエール Monseigneur! (閣下!)
(副官登場。ダヴーに何か耳打ちする。)
 語り手 ダヴーは上衣の釦をかけ始める。どうやらピエールのことは全く忘れてしまったらしい。副官が「捕虜をどうしますか?」と訊くと、ダヴーは顔を顰め、ピエールの方を顎でしゃくって、「連れて行け」と合図する。しかし、ピエールにはその合図が何を意味するか分らない。元の部屋に戻されるのか、或は処刑の場所に引っ立てられるのか・・・
                  (暗転)

     第 二 十 三 場
(中庭。囚人の列あり。青い軍服に、胴の長い軍帽のフランス兵達が、頭の毛を剃った二人の囚人を引っ立てて登場。一人の囚人は召使風の四十五歳の男。非常な美男子。もう一人は黄色い顔の工員。二人を列に並ばせる。列の最後にピエールを立たせる。太鼓の音が鳴り響く。)
 語り手 この一連の行動が行われている最中、ピエールの頭には一つの考えがこびりついて離れなかった。結局、一体誰が最終的に自分に死刑を宣告したのか。このことである。ダヴーではありえない。彼はあんなに自分を人間的な目で見たではないか。もう一分間の猶予さえあれば、ダヴーは自分達が馬鹿なことをしていると気づいた筈なのだ。その一分を邪魔したのは、入って来た副官だ。そしてこの副官は、何ら自分に敵意を持っている者ではない。しかしあの瞬間、この副官が部屋に入らないですませることなど、到底出来なかったであろう。
 すると一体誰がこの自分、ピエール、を殺すことにしたのか。その身体(しんたい)と共に全ての記憶、欲求、希望、思考、を殺すことに・・・。そしてピエールは感じた。それは誰でもないと。物の弾み、事の成行きが結局、自分、ピエール、を殺すのだ、と。
(二人の囚人が目隠しをされ、連れ去られる。太鼓の音。一斉射撃の音。召使い風の男と工員が目隠しをされる。連れ去られる。太鼓の音。一斉射撃の音。舞台裏で「Tirailleurs du quatre-vingt sixieme, en avant! (第八十六連隊射撃兵、前進!)」フランスの兵隊、寝巻を着た五番目の工員を引き立てようとする。工員、飛び退いてピエールにしがみつく。ピエール、彼から離れる。工員、目隠しをされる。工員、頭の後ろの結び目をしっかりと結ぶ。工員、連れ去られる。)
 語り手 ピエールは息をするのもやっとで辺りを見回す。「一体何が起っているのです?」と訊ねるかのように。しかしこの質問は、そこにいる全員の顔にある質問であった。フランス兵の顔にも、士官の顔にも。そこに現れていたものは、ピエールの心にあった同じ驚愕と畏怖と葛藤であった。
 ピエール 誰がこんなことをやっているんです、結局・・・一体誰が!
(太鼓の音。一斉射撃の音。間。)
 ダヴーの副官(ピエールに。)Ca leur apprendra a incendier. (放火のむくいだ。思い知ったろう。)
 語り手 ピエールは自分が助かっていたことを知らなかった。ここへ連れて来られたのは、死刑に立ちあわせるためだけだったのだ。
(兵士達、ピエールを引き立てて、登場した所とは別の場所から退場。)
 語り手 死刑立ちあいの後ピエールは、他の被疑者達とは切り離される。そして夕刻前に見張りの下士官から、自分は許され、今度はロシア軍の通常の捕虜として仮小屋に収容されるのだ、と知らされる。

     第 二 十 四 場
(夜。小屋。聖像(複数)。その傍に灯明。服を脱いでクトゥーゾフ、ベッドに横たわっている。)
 語り手 腕の良い猟師と同様、彼も獲物が傷ついていることを知っていた。全ロシアの力すべてがかかった手傷を負っていることを。しかし、その傷が致命傷かどうかは分らなかった。その点は未だ明らかにされていない問であった。
 クトゥーゾフ(半分眠りながら呟く。)敵は致命傷を負っている・・・誰もかれも、その手負いの獲物を見ようとして奔走している。何故? 何故見たがるのか。近づいて、手負いの相手と戦って・・・それが面白いと思っているのか。全く子供もいいところだ・・・
(ノックの音。)
 クトゥーゾフ はい。誰だ? 入りたまえ。どうぞ入って。
(トーリ、蝋燭を持って登場。)
 クトゥーゾフ 新しい事実が分ったのか。
(トーリ、興奮して手紙を渡す。)
 クトゥーゾフ(目を通して。)誰が持って来た。
 トーリ 閣下、そこに書かれていることは疑う余地はありません。
 クトゥーゾフ さ、早く、早くその男をここへ。
(トーリ、バルハヴィーチノフを導き入れる。)
 クトゥーゾフ さあ、こちらに。もっと近くに。何という嬉しい便りを君は持って来てくれたんだ! ナポレオンがモスクワから去ったと? 本当にそうなのか。あ? 話してくれ。待ち焦がれていたのだ。これ以上私を苦しめないでくれ。
 バルハヴィーチノフ 捕虜達もコサックも、斥候も、一様に同じことを言っております。
 クトゥーゾフ(聖像の前に行き。)おお、神よ、我らが祈りを聞きたまうたのか・・・ロシアは救われた。・・・神よ、私は心から感謝致します。
                   (暗転)
 語り手 この知らせが来た後のクトゥーゾフの行動はただ一つのことに絞られた。瀕死の敵との無益な衝突を避けるため、あらゆる手立て・・・権力、知力・・・を用いたのである。そして、必要とあれば、辞を低くして懇願さえしたのだ。
                  (第三幕 終)

     第 四 幕
     第 二 十 五 場
(昼。雨。掘立小屋の中。ヂェニーソフ、エサウールとヴェンソン・ボスの三人。ヴェンソン・ボスはフランス軍の鼓手の少年。捕虜になって恐怖で背中を丸めている。)(訳註 ヴェンソンはフランス語では Vincent (ヴァンサン)。)
 エサウール 誰か来ます。・・・将校のようです。
 ペーチャ(登場。)将軍からの連絡です。申し訳ありません。ずぶ濡れになっています。(包みを渡す。)
(ヂェニーソフ、読む。)
 ペーチャ 誰もみな、二言目には危険だ、危険だ、とそればかり・・・ああ、そうです、こちらにはピストルが二丁あります。
 ヂェニーソフ ラストーフ!・・・ペーチャ! ペーチャじゃないか! 何故最初に自分の名前を言わないんだ!(エサウールに。)おい、ミハイール・フェオクリートゥイッチ! また連絡を寄越しやがったぞ。あのドイツ野郎の将軍が。(ペーチャを指さして。)この男はそいつの下にいるんだ。(心配そうに。)今俺達で敵をやっつけてしまわんと、連中に油揚(あぶらげ)をさらわれちまうぞ・・・
 エサウール ウム。
 ペーチャ 隊長殿、私にはどのような命令をお下しになられますか。
 ヂェニーソフ 命令?・・・なあペーチャ、お前、明日までここにいてもいいって言われたのか?
 ペーチャ エー・・・その・・・留まってもよいでありますか。
 ヂェニーソフ うん。しかし、将軍の、君に対する命令はどうだったんだ?
 ペーチャ いえ、それは別に何も・・・なかった筈です。留まってもいいですね?
 ヂェニーソフ よし、分った。
 ペーチャ でも僕を一番大事な任務につかせてくれなきゃ厭ですよ、ヴァスィーリイ・フョードロヴィッチ! お願いです!
 ヂェニーソフ 一番大事?(訳註 ニヤリと笑う。)・・・いいか、言うことには従ってくれなきゃ困るぞ。自分勝手にどこかへ突進、は駄目だ。いいな?
 ペーチャ(羊肉を切ろうとしているエサウールに。)ああ、小刀がいるんでしょう? さあ、これを使って下さい。いいんです。どうぞ、差し上げます。僕はいっぱいありますから。従軍商人に、真面目な人が来て、その人から買ったんですよ。真面目さですよね、大切なのは。・・・ああ、あれは誰ですか?(訳註 残れることになって嬉しくて一人ではしゃいでいる。と同時にそうなっている自分を恥ぢてもいる。)
 エサウール フランス軍の鼓手・・・捕虜だ。名前はヴェンソン・ボス。
 ペーチャ 何か食べるものをやっていいですか。
 ヂェニーソフ(上の空で。)ああ、いい。
 ペーチャ(感激して。)ああ、ヴァスィーリイ・フョードロヴィッチ! あなたにキスさせて下さい!(ヂェニーソフにキス。)ボッス! ヴァンサン!
(ボス、ペーチャに近づく。)
 ペーチャ Voulez-vous manger? (君、腹減ってない?)N'ayez pas peur, on vous fera pas de mal. (怖がらなくていいんだ。何もしやしないよ。)(ポケットから食べ物を出し、与える。)
 ボス Merci, monsieur! (有難うございます。)(ペーチャから離れ、ガツガツと食べる。)
 ドーロホフ(登場。ボスを指さして。)こいつは長いことここにいるのか。
 ヂェニーソフ 今日の捕虜だ。何も知っちゃいなかった。
 ドーロホフ フン。それで、こいつ以外の捕虜はどうしたんだ。
 ヂェニーソフ どうしたって? 決ってるだろう。本部へ送ったさ。ちゃんと受領書つきでな。あいつらのうちのただの一兵卒にだって、こっちの良心が咎めるようなことはやっちゃいないぞ、この俺は。
 ドーロホフ(ペーチャを指しながら。)そんな台詞は、この十六歳の伯爵の坊やが言うなら話は分るさ。だがな、大きな大人のお前さんが言うのは少し恥づかしいんじゃないのか。
 ペーチャ 僕は何も言ってません。僕はただ・・・
 ドーロホフ(ボスを指さして、ヂェニーソフニ。)いいか、じゃ、何故この子だけ一人ここに引き留めておいたんだ。可哀相だと思ったからじゃないか。受領書つきでなんて言ってるが、その実態はお前さんが一番よく知っている。送り出されたって、捕虜は大抵途中で飢え死にするか、引率の兵隊に殴り殺されるかどっちかだ。どうせそうなら、捕虜にするだけ無駄じゃないか。
 ヂェニーソフ 殺される? しかしとにかくそいつは、この俺の手でやる訳じゃない・・・
(突然、荷車の隊列の動く音が聞こえて来る。全員黙る。)
 チホーン(突然登場。)フランス兵です! 山にさしかかったところです。敵軍です!
 ヂェニーソフ やるか?
 ペーチャ やります。やります!
 エサウール あの場所なら袋の鼠だ。
 ヂェニーソフ 急襲だ! 歩兵は沼地を直接進軍する。・・・(ドーロホフに。)コサック隊は向こう側に廻ってくれ。
(ドーロホフ、扉に突進して退場。)
 エサウール(ドーロホフに。後ろから。)低地は駄目ですよ。泥沼です。馬がぬかるみに嵌(は)まります。左手を迂回して下さい。(言いながら自分も走って退場。)
 ヂェニーソフ(チホーンに。)急げ。急襲の合図を頼む!
(チホーン、走って退場。)
 ペーチャ ヴァスィーリイ・フョードロヴィッチ、何か僕にやらせて下さい。お願いです!
 ヂェニーソフ 俺の言うことを聞くんだ。いいか、どんなことがあっても動くな。この小屋にじっとしているんだ。
(舞台裏で銃声。)
 ヂェニーソフ 合図だ!(走って退場。)
(舞台裏でコサック隊の叫び声。撃ち合う音。どよめき、近くなる。ボス、恐ろしそうにうつ伏せになる。舞台裏の声「迂回だ。迂回しろ! 歩兵はそこで待ち伏せだ!」)
 ペーチャ 歩兵は待ち伏せ?・・・よし、・・・突撃!(小屋から走り出て、どこかへ突進する。しかしすぐに倒れる音。)
 ドーロホフ(登場。)終りだ。
 ヂェニーソフ 死んだのか。
 ドーロホフ (頷いて。)終りだ。
                  (暗転)

     第 二 十 六 場
(ラストーフ家の田舎で。)
 伯爵夫人 ソーニャ・・・ソーニャ・・・分って、この私達の不幸を・・・モスクワにあった財産を全部なくしてしまったのよ。・・・これを救うただ一つの手立て・・・それはニカラーイがバルコーンスキイのお嬢さんと結婚することなの・・・ねえソーニャ、お前、ニカラーイとの約束をなかったものにして・・・ねえソーニャ・・・そう、あの子に手紙を書いて。いいわね?
(ソーニャ、泣き始める。)
 伯爵夫人 ソーニャ、何ですか! あの子に書けないと言うんですか!
 ソーニャ いいえ、いいえ、そんなこと。私はただ悲しいのですわ。私がこの家の悲しみの種になっているなんて・・・このお家に私はどんなにお世話になったことでしょう。その私が悲しみの種に・・・私、何でも致しますわ。ニコラスに手紙を書きます。ええ、「もうあなたは自由なのよ」って・・・
 伯爵夫人 ああソーニャ、ソーニェチカ!(ソーニャを抱きしめる。)
 ドゥニャーシャ(啜り泣きながら。)下の坊っちゃまに御不幸が・・・お手紙が・・・
 伯爵(泣きながら登場。)ペーチャ・・・ぺー・・・ペーチャ・・・
(マーリヤ、走って登場。伯爵夫人と抱擁する。)
 伯爵夫人 ナターシャを、ナターシャを呼んで。こんなこと嘘! 嘘の手紙よ! ナターシャを! みんなあっちへ行って! 死んだなんて・・・殺されたなんて、嘘!・・・嘘よ!
 伯爵 お前・・・お前・・・
 ナターシャ(登場して。)ああ、お母様!・・・ママ・・・
 伯爵夫人 ああナターシャ、お前、よく来てくれたね。何て綺麗になって・・・大人になって・・・
 ナターシャ ママ、しっかりして。目を逸らせちゃ駄目。ね、ママ!
 伯爵夫人 ナターシャ! あの子はもういないの!(退場。)
(ソーニャを残して全員伯爵夫人の後を追って退場。)
 ソーニャ(一人残って。)私は犠牲になるわ。私、犠牲になるのは慣れている! でも、今までは自分を犠牲にする度にニコラスに相応しい自分になってきた。でも今度は、自分を犠牲にしてその御褒美に戴いていたものを、そっくりそのままお返ししなければいけない。私の生きる目的を、そっくりそのまま! お母様、私、お母様を恨むわ。私、悔しい! お母様は私を育ててくれたけれど、それはこんな風に私を苦しめるためだったのね! でも仕方がない。私、犠牲になる!
                   (暗転)

     第 二 十 七 場
 語り手 ピエールが属していた捕虜の一団は、フランス軍の一隊に引き立てられ、モスクワからの逃避行を続けていた。そしてこの隊は、モスクワからここまで逃げて来る間、司令部から何の命令も受けていなかった。従って、十月二十二日のこの隊の有様は、モスクワを出発した時のあの整然とした状態とはおよそかけ離れたものであった。また、捕虜の数も、出発時の三百三十人から、現在では百人を切っていたのだ。
 護送兵にとって、捕虜は邪魔な存在だった。捕虜と一緒に運ばされている、馬がいなくなって残された鞍だの、ジュノー元帥の分捕品の荷物だのよりも、ずっとお荷物だった。ジュノー元帥の銀の匙も、馬のいなくなった鞍も、いつかは何らかの役に立つ可能性はあった。しかし、凍えて腹の減っているフランス兵達が、同じく凍えて腹の減っているロシア兵の捕虜を見張り、護送することに、何の意味があるというのか。どうせ連中は、道中で寒さに耐えきれず、取り残され、命令が出、銃殺されるのだ。フランス兵達にはこういうものを護送することが不可解なだけでなく、不愉快極まることだった。また、護送兵も捕虜と同様、悲しむべき状況にあり、出発当時示していたような、捕虜に対する憐れみの気持などを起そうものなら、自分の立場をいよいよ悪くする可能性があった。従って憐愍の情が表面に出ることを怖れ、逆に捕虜に対して厳しく暗い態度で接するのだった。
(夜。休憩時。焚き火。焚き火の傍にピエールとプラトン・カラターイェフが横になっている。ピエールは襤褸(ぼろ)を纏っている。裸足。カラターイェフは、軍外套を着ている。)
 カラターイェフ(譫言を言う。)なあ、兄弟・・・いいか、それでな、兄弟・・・
 ピエール カラターイェフ! おい、カラターイェフ・・・どうなんだ? それで・・・身体は。
 カラターイェフ 身体なんか! 病気のことをぐちったりすれば、神様が死を与えて下さらなくなる。(譫言。)それでなあ、兄弟。その男は十年・・・いや、それ以上の刑をくらったのさ。それでシベリアに流されてな・・・
(ピエール、片手を振って、カラターイェフから顔を背ける。)
 カラターイェフ そいつは何も悪いことはしちゃいない。まっとうなことをまっとうにやって来ていたんだ。だから神様には、ただ死を与えて下さいと祈っていた。分るよな?・・・それでな、兄弟。お役所の方で、この年寄りを捜し始めたのさ。無実の罪で流刑され、酷い苦しみを受けているんだからな。皇帝からお役所に手紙が行ったのさ! でもその年寄りは、もう神様からお許しを得ていたんだ・・・死んでいたのさ! な、お若いの。分るな?(静かに呻き始める。)
(フランスの護送兵が近づき、カラターイェフを見る。銃の台尻で身体を押す。カラターイェフ、蹌踉(よろ)めきながら立上り、犬の鎖を取る。護送兵、カラターイェフを引き立てて退場。暫くして遠くで銃声。犬が遠吠えを始める。)
 ピエール 馬鹿な犬だ。何のために吠えるんだ。(横になり、まどろむ。)水滴の真中に神様がいて、水滴一つ一つはみんな大きくなろうとしている。その表面に、神様の姿を出来るだけ大きく写そうとして、水滴は自分で大きくなったり、他の水滴と合体したり、縮んだり、表面に浮んで来て、消えてしまったり、底に潜ったり、また表面に浮き上ったりする。カラターイェフもこれと同じだ。表面に浮き上って消えて行ったのだ。Vous avez compris, mon enfant? (なあ、生徒諸君、分ったかな?)(訳註 この部分は、ピエールが学生時代に聞いた先生の言葉を思い出している。)(譫言を言う。)キーエフにある僕の家のバルコニーに、ポーランドの美人がやって来たっけ。・・・水浴び・・・揺れる水滴・・・僕は水の中に沈む・・・頭の上で水が合わさり、閉じる。(眠り始める。)
(捕虜のロシア兵、焚き火に忍び寄る。辺りをこそこそと見回し、馬の肉を炙(あぶ)り始める。)
 フランスの護送兵(ロシア兵から肉を奪い取り。)Vous avez compris, sacre nom! (分ったか、この野郎!) Ca lui est bien egal! (こいつめ、どうなったって知るものか。)Brigand! (泥棒め!)Va! (あっちへ行け。)
(遠くで馬の蹄の音。銃声。ピュッという弾の音。「コサックだ」という叫び声。)
 フランスの護送兵(肉を刺してある串を捨て。)Les cosaques! (コサック兵だ!)
 捕虜のロシア兵 コサックだ。コサックだ。ピョートル・キリールイッチ! コサックですよ。(両手を擦り合わせて。)有難い。助かった! ああ、兄弟!
(ピエール、両手を拡げ上に上げ、泣く。)
                  (暗転)

     第 二 十 八 場
(モスクワのバルコーンスキー家の邸。第二場の部屋と同じ。破壊の痕跡。夜。蝋燭。喪服姿のナターシャ、暗い隅に坐っている。登場したピエールに喪服を着たマーリヤが出迎える。)
 マーリヤ まあ、お会い出来て何て嬉しいことでしょう。捕虜の身でいらしたのを、ロシア軍が来て、自由の身におなりになったというお噂を聞きまして、どんなに喜びましたことか。この長い間、伝わってくる噂はみんな悲しいものばかり。これが唯一つ明るい話題でしたわ。
 ピエール ええ、本当に暗いことばかりで・・・
 マーリヤ まあ、お分りになりません?(ナターシャを指して。)ナターシャですのよ。
 ピエール まさか・・・(訳註 やっとそれと気づく。)
 マーリヤ 暫く私の家に逗留して下さっているのです。お医者さまにかかっていらして。御家族の方みんなにきつく言われたのですのよ、ここにいなくちゃいけません、て。
 ピエール ああ、ああ、なるほど、なるほど・・・で、兄君のアンドリェーイ・・・彼は死ぬ前に、気分が和(やわ)らいだのですね? 落ち着いたのですね? 生前の彼は、全精神を傾けて、完全に善なる人間になることを求めていました。ですから、死など怖れはしなかった筈です。そうですか。和らぎましたか。最後にあなた方お二人に会えて、彼は幸せでしたよ。
 ナターシャ ええ、それは本当に。(立上る。興奮して話す。)私達家族がモスクワを発った時、私、何も知らなかったのです。突然ソーニャが私に、あの方が私達と一緒だと教えてくれました。私はどうしてもお会いしなければ・・・どうしてもあの方の傍にいたいと思ったのです。(黙る。)
 マーリヤ そうそう、モスクワに留まろうとご決心なさった時は、まだ奥様が亡くなられた事を御存知なかったのですね?
 ピエール ええ、私達は決して模範的な夫婦ではありませんでした。でも妻の死は、私に大きな衝撃を与えました。人間同士が喧嘩をする時、悪いのは決して片方だけじゃありません。いつだって両方が悪いのです。私はあれのことを酷く可哀相に思いました。
 マーリヤ するとまた、お一人に・・・結婚出来るお立場におなりになったのですわね。(間。)そうそう、ナポレオンにお会いになったって、皆そうお噂申し上げておりますけど?
 ピエール いいえ、そんなことは一度も。どうも捕虜になることはナポレオンの客になること、とでもみんな思っているのでしょうか。私はナポレオンを見たこともありません。いや、それどころか、捕虜になっている間、その噂を聞いたこともありません。私はずっとずっと低い、下層の人間達と一緒だったのです。
 ナターシャ でも、モスクワにお残りになったのは、ナポレオンを殺すためだったと・・・それはそうなんでしょう?
 ピエール ええ、そうです。(間。)あの時モスクワは恐ろしい光景でした。火事になって家に子供は置去りにされる・・・イヤリングは引き毟(むし)られる。・・・
 マーリヤ まあ・・・
 ピエール ええ。そこへ見張りの騎兵隊が現れて、掠奪など何もしていない人間まで誰もかれも引っ立てて行く。私も捕まったのです。
 ナターシャ 話を飛ばしていらっしゃいますわ。・・・きっと、きっと、何か善い事をなさって・・・(間。)・・・立派な、善い事を・・・
 ピエール(笑う。)そう、みんな苦しかったことを、厭だった事を話すものです。でも、今、この場で誰かが私に、「捕虜になる前のあなたに戻って、そのままのあなたでいたいですか? それとも、そこからまた、あの辛い生活を繰返しますか?」と訊かれれば、私は即座に、捕虜、馬の肉の生活、を再びする、と答えます。生きること、そこに幸せがあるのです。私達の未来、そこには沢山のものがあります。(ナターシャに。)本当にそうなんですからね。では、私はこれで。もう寝る時間です。(立上る。)
 ナターシャ ねえ、マーリヤ。この方、まるでお風呂から今上ったばかりの人のよう。溌溂として、つやつやしていて、そして清潔なの。
 マーリヤ ええ、素晴らしいわ。私、分る。だから兄はこの方ほど好きな人は他に誰もいなかったの。
 ナターシャ(突然ピエールの髪をなでて。)刈り込んだ髪・・・(泣く。退場。)
 ピエール いつからあの人を愛するようになったのか、私には分りません。でも私は、ただあの人だけを、生涯愛し続けてきました。そして今でもあの人なしの私の人生は考えられないのです。あの人に、今結婚を申込むことはとても出来ません。しかし、ひょっとして、申込みをして受け入れられる可能性があるのに、私がその可能性を自分で逃がしてしまうかもしれない・・・そう考えると、とても恐ろしいのです。マーリヤ、どうか私の力になって。私はどうしたらよいのでしょう。私は希望を持つことが出来るとお考えですか? どうなのでしょう。
 マーリヤ 希望をお持ちになれますわ。暫くペテルブルグにいらっしゃることですわ。私、手紙を差し上げますわ。
 ピエール ああ、マーリヤ!
 マーリヤ ナターシャ! この方、ペテルブルグへいらっしゃるのよ!
 ナターシャ(登場して。)さようなら、伯爵。私、お帰りを心からお待ち致します。(突然ピエールを抱擁し、接吻する。)
 ピエール(喜びに喘(あえ)いで。)ああ、こんなに嬉しいことが・・・いや、ありえない。決してある訳がない!
                  (暗転)

     第 二 十 九 場
(バルコーンスキイ家の同じ部屋。日中。)
 マーリヤ(一人。)私の訪問をあんなに冷たくあしらうなんて! ラストーフ家に行くのは気が進まなかった。私は正しかったわ。私、他のことはちっとも期待していなかった。あの人のことなんか、気にもかけていなかった。ただあの人のお母さまに会いたかっただけ。いつだって親切にして戴いた。それにいろいろお世話になって・・・だから行ったのに・・・(泣く。)
 召使 ニカラーイ・イリイッチ・ラストーフ伯爵様です。
 マーリヤ(涙を拭いて。)参りますと・・・いいえ、こちらにお呼びして。
(召使退場。)
 マーリヤ 私が訪ねて行ったお返しだわ・・・ただの。
(ラストーフ登場。文官の服装。)
 マーリヤ どうぞお坐り下さい、伯爵。(間。)お母様はお元気でいらっしゃいましょうか。
 ラストーフ 有難うございます。
 マーリヤ 文官の服装でいらっしゃるのですね? 伯爵。
 ラストーフ はい。文官の仕事は私には全く向いていないのです。しかし、父の死以来、母は私を人生の最後の頼りと思っているようで、私が軍隊につくことは不可能なのです。大好きな軍服を脱ぎ捨て、モスクワで文官の仕事につかねばならなくなりました。(間。)ではこれで失礼致します、公爵令嬢。
 マーリヤ(訳註 悲しみで、他のことを考えていて、相手の立上ったことに気がつかないでいる。)ああ、失礼致しました。もうお帰りですの? 伯爵。では、さようなら。
 ラストーフ ええ、そうです、公爵令嬢。あれはついこの間のような気が致します・・・私達が初めて会ったあの時のことは。しかし、どれだけ長い時があれから経ったことでしょう。あの時は私達二人とも、不幸のどん底にあるような気がしていました。でも、もしあの時に戻ることが出来るならば、私はどんなに大切なものでも抛(なげう)つでしょう・・・しかし、時を戻すことは出来ないのです。
 マーリヤ ええ、ええ。でも、過去を惜しむことなど全く必要のないことではありませんの? 今お聞きしました現在の生活でも、十分に自己を犠牲にしていらして、満足感をもって御自分のことを省(かえり)みながらお暮しになっていらっしゃる筈ですわ。
 ラストーフ いいえ、そのお褒めの言葉は私には当て嵌まりません。それどころか、私は絶え間なく自分を叱責しているのです。しかし、止めましょう。楽しくもなく、面白くもない話題です。では、これで失礼します、公爵令嬢。(扉の方へ進む。それから突然立ち止まる。後ろを振返る。)(訳註 次のマーリヤの最初の言葉「私・・・」が発せられ、それがあまりに切羽詰まったものであったため。)
 マーリヤ 私・・・私、このことは申し上げてもお許し戴けるのではないかと。私達、一時は随分近しい気持になりましたわ。・・・お宅の御家族とも。それで私・・・私がもう少し深くそちら様と係わっても失礼にはあたらないのではないかと・・・でも私、間違っていました。何故か私には分りません。でも、以前とはすっかりお変りになりましたわ。そして・・・
 ラストーフ それが何故か・・・理由はたーくさんあります! お気遣い、感謝します。時々は大変辛いのです。
 マーリヤ ああ、そうなのだ。そうなんだわ!(囁き声で。)私、あなたの、陽気な、優しい、隠し立てのない目だけを愛していたのではなかったのですわ。ただ外見の美しさだけを愛していたのではなかった。あなたの強い自己犠牲の心を見抜いていて、それで・・・ええ、あなたは今、貧乏、そして私はお金を持っている・・・そう、そのためだったんだ。ただそれだけが理由だったんですわ! でも私、辛いのです。私・・・ええ、私、正直に申し上げます。お金のためにあなたは私から、以前の暖かい友情を奪っておしまいになろうとしていらっしゃいます。それは悲しいことですわ。私は小さい頃から幸せの薄い人生を送って来ました。ですから、どんなものでも、失うことは私には大変辛いのです・・・どうぞお許し下さいこんなことを・・・さようなら。(泣きながら退場。)
 ラストーフ(狼狽して。)お嬢様! 許して下さい。お願いです。お嬢様!
(マーリヤ、戻って来る。)
 ラストーフ(暫くの間沈黙。そして自分の帽子を床に叩きつける。)お許し下さい。私には軍隊式の殴り付ける悪い癖があって。(絶望的に。)愛・・・愛しています、あなたを・・・私は。
                   (暗転)

     第 三 十 場  終曲
(十一月の夜。厳寒。丘の上。銃士隊の焚き火。フランスの国旗が林立している。)
 クトゥーゾフ(お付きの将軍達と共に登場。)今何と言った?
 将軍 フランス軍の軍旗です、閣下。
 クトゥーゾフ ああ、軍旗か・・・(少し離れている自軍の兵隊達に。)諸君、有難う。誠実で困難な務めをよく果してくれた。感謝する。我々の完全な勝利だ。ロシアは諸君のことを決して忘れはしないぞ。諸君の名誉は永久に残るのだ!(間。)下げろ! それを下げるんだ!
(フランスの鷲の絵のある軍旗が下げられる。)
 クトゥーゾフ もっと下げろ! そう、それでよし。諸君! ウッラー!
(舞台裏で、何千という兵士の「ウッラー!」という声。)
 クトゥーゾフ なあ、君達。辛かったろうな。しかし、仕方がなかった。もう少し辛抱してくれ。もう少しでお仕舞いだ。あのお客様方を追い返せば、その時には休める。君達の働きを皇帝陛下は決して忘れはしない。君達も辛いだろう。しかし君達はとにかく自国にいるんだ。連中を見てみろ。どんなに酷い有様か。乞食よりもっとずっと酷い状態じゃないか。連中が強かった時には、我々は自分達のことを可哀相に思った。今は連中のことを可哀相に思ってやろう。連中だって人間なんだ。な? 君達。(間。)しかし、全く、何ていう話だ。一体どこのどいつが、連中をこんなところに連れて来たんだ。アホにも程がある・・・
(何千という兵士の吠え声。笑い声。クトゥーゾフ、お付きの将軍達と退場。フランスの軍旗もなくなる。銃士隊の兵士達、焚き火の傍に戻る。)
 赤ら顔の男 おい、マケーイェフ、お前、どこへ消えた。狼に食われたのか。早く薪を持って来い!
(鼻の尖った男、少し起き上がる。しかしへなへなと崩れる。若い男、薪を持って来る。焚き火を吹き、おこす。舞台裏でみんなの合唱「ああ、ママ、露が冷たい。気持がいいぞ。俺達は銃士隊の兵士だ・・・」)
 踊りの好きな男(登場して歌いながら踊る。)「ああ、ママ、露が冷たい・・・」
 赤ら顔の男 おいおい、靴が火の中に飛んじゃったじゃないか。いくらダンスが好きだと言ってもな・・・
 踊りの好きな男 まあいいさ、なあ兄弟!(脱げた方の足に布を巻く。)あいつら、こちとらの言う事が何にも分りはしない。訊いたんだ「こいつは誰の王冠だ」ってな。すると訳の分らない言葉を吐きやがってな。たいした奴等だ!
 若い男 戦闘があったあのマジャーイスクの百姓達が言ってた。あの辺りの十何箇村の百姓を全部かり出してな、二十日もかけて死体を運んだんだそうだ。だけどまだ、全部は終ってない・・・狼は出るし、全く酷い話だ・・・
 年寄りの男 あそこでの戦闘はすごかった。あそこでの戦いが本物の戦闘って言えるやつだ・・・だが、戦いが終りや・・・そう、ただ厭なことしか残りやしない。
 若い男 そうだ、なあおじさん、一昨日のことですよ。僕達は追撃した・・・いや、追撃なんてもんじゃない、そんな暇なんかありはしません。あいつら、こっちが近づくとさっさと武器を捨てて、膝まづいてこちらを拝むようにして、「パルドーン、パルドーン」ですよ。でも、こんなのちっとも珍しくないです。僕の知りあいのプラトーフなんか、ポレオンの奴(訳註 ナポレオンのこと)を二度も掴まえたんです。だけど、呪(まじな)いの言葉をよく知らなくて、掴まえるには掴まえたけど、パッと小鳥に姿を変えて逃げてしまったんです。二度とも。だから奴を殺すのはうまくいかなかったんです。
 曹長一 おい、キセリョーフ、お前その顔で、よくそんな嘘がつけるな。
 若い男 何が嘘です。本当の話ですよ、これは。
 赤ら顔の男 俺だったらな、もしそいつを掴まえたら、地面に穴を掘って埋めてやる。そしてヤマナラシの杭を打って、出られないようにしてやる。人をいやと言う程殺しやがって・・・
 年寄りの男 まあとにかく、これで終だ。もうこんな所には二度と来ないぞ。
(雪の中をこちらに来る足音。)
 踊りの好きな男 おい、熊が来るぞ。
(ランバーリとモレーリ、登場。ランバーリ、フランス士官の帽子。モレーリは女性用の外套にショール姿。ランバーリ、焚き火の近くに来て倒れる。モレーリ、ランバーリに自分の口を指し示しながら何か言う。銃士達、ランバーリに軍用外套を拡げて坐らせ、粥(かゆ)とウオッカを与える。ランバーリ、呻いて食べようとしない。モレーリはガツガツと粥を食べ、ウオッカを飲む。自分の肩を指さし、ランバーリは士官であることを、そして暖めてやる必要があることを説明しようとする。)
 曹長一 士官か・・・
 曹長二 大佐に訊いてみよう。あっちへ連れて行って暖めてやった方がいい。
(曹長一、ランバーリに立上るよう手真似をする。ランバーリ、立上る。ふらつく。)
 赤ら顔の男 何だ、だらしねえな。
 踊りの好きな男 おい、何を馬鹿なことを言うんだ、可哀相に。貴様、全くのドン百姓だな。
(若い男ともう一人の兵士、ランバーリを持ち上げ、運ぶ。)
 ランバーリ(二人の肩に両手をもたせかけて。)Oh, mes braves, oh mes bon amis. Voila des hommes! Oh, mes braves, mes bons amis. (ああ、親切な人達、有難う。親切な友人達。これでこそ人間だ。有難う。)
 モレーリ(ガツガツと食い、飲む。酔っ払って歌う。)Vive Henri quatre! Vive ce roi vaillant! (アンリー四世万歳! 勇ましい王様、万歳!)
 踊りの好きな男 ヌ・カ・ヌ・カ・ナウーキー・・・どうだ? うまい真似だろう? な?
 モレーリ(踊りの好きな男を抱擁して。)Vive Henri quatre! Vive ce roi vaillant! Ce diable a quatre... (アンリー四世万歳。勇ましい王様万歳。たいしたものさ、この四世王は・・・)
 踊りの好きな男 ヴィ・ヴァ・リ・カ・ヴィ・フ・セル・ヴェル! スィ・ディ・ヴリヤーカ!
(みんな笑う。)
 赤ら顔の男 見ろ、うまいもんだぞ。はっはっは。
 踊りの好きな男 おい、やるんだ、もう一回。さあ!
 モレーリ Qui eut le triple talent
De boire, de battre
Et d'etre un vert galant
(たいしたものさ、この王の才能
      飲んで、戦って、
      そして粋(いき)なんだからな。)
 踊りの好きな男 うまいもんだ。スラスラ言いやがる。さあ、ザレターイェフ、お前の番だ。
 歌の好きな男 キュ・・・キュー・ユー・ユー・・・リェトリプターラ・デ・ブ・デ・バ・イ・デェトゥーラ・ヴォガーラ・・・
 赤ら顔の男 うまいもんだ。フランス語だぜ、こりゃ。オイ・ゴ・ゴ・・・
 曹長一 こいつにまた粥を食わせてやれ。餓えてるんだ。相当食わなきゃ恢復しないぞ。
(兵士達、モレーリに粥をやる。モレーリ、ガツガツと食う。)
 年寄りの男 こいつだって人間よ。自分の生き方があらあ。苦蓬(にがよもぎ)だって、自分の根で大きくなるんだからな。
 曹長二 ウー、何て寒いんだ。神様! あの星を見ろ。恐ろしいぐらい光ってるぞ。この調子じゃ、今年は冷え込むぞ・・・
(舞台裏から「ああ、ママ、露が冷たい。気持がいいぞ。俺達は銃士隊の兵士だ・・・」と歌う声。)
                   (暗転)
 語り手 そして、やがて寝静まり、シーンとなる。星達はもう、誰も自分達を見る者がいないと知ってか、暗い空の中で自由に遊びまわる。急に燃え上ったり、光を消したり、身震いしたり。そして何か秘密の話があるのか、嬉しそうにお互いに忙しく囁きあっている。
                   (終)
  一九三二年十一月二十五日 モスクワ
  (訳註 これがブルガーコフが書き終った日にち。)

   平成一五年(二00三年)四月十日 訳了