最後の日々
      (プーシキン)
         ミハイール・ブルガーコフ 作
          能 美 武 功 訳
          城 田 俊 監修

   「ああ、私の手になる詩歌よ、
   運命の手に守られて、お前は、
   黄泉の国の物忘れ川の川底に、沈まずにすむだろうか。」


     登場人物
プーシキナ(ナターリヤ・ニカラーイェヴナ)  プーシキン夫人
ガンチャローヴァ(アリェクサーンドゥラ・ニカラーイェヴナ) プーシキナの姉
ヴァランツォーヴァ(アリェクサーンドゥラ・キリーロヴナ)
サルトゥイコーヴァ(アリェクサーンドゥラ・スェルゲーイェヴナ) サルトゥイコーフ夫人
駅長の妻
女中
ビトゥコーフ
ニキータ
ダンテース(ジョルジュ・シャールリ)
シーシキン(アリェクスェーイ・ピェトゥローフ)
ベネディークトフ(ヴラヂーミル・グリゴーリエヴィッチ)
クーカリニック(ニェストール・ヴァスィーリエヴィッチ)
ダルガルーコフ(ピョートゥル・ヴラヂーミラヴィッチ)
バガマーゾフ(イヴァーン・ヴァルファラミェーイェヴィッチ)
サルトゥイコーフ(スェルゲーイ・ヴァスィーリエヴィッチ)
ニカラーイ一世
ジュコーフスキー(ヴァスィーリイ・アンドゥリェーイェヴィッチ)
ゲッケレン
ドゥービェリト(レオーントゥイ・ヴァスィーリエヴィッチ)
ベンケンドールフ
ラケーイェフ
パナマリョーフ
ストゥローガノフ
ダンザース(カンスタンチーン・カールラヴィッチ)
ダーリ
学生
士官
駅長
トゥルゲーニェフ
ヴァランツーォフ
フィラートゥ
アガフォーン
近衛士官一
近衛士官二
黒人
士官候補生
ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチ
下男
警官
憲兵の一団
警察
学生の群
群衆

時 一八三七年一月下旬、と、二月の上旬

     第 一 幕
(夜。ペテルブルグの、アリェクサーンドゥル・スェルゲーイェヴィッチ・プーシキンのアパートの客間。隅の方に大きなオルゴール時計。その傍に数本の蝋燭。古びた竪型ピアノ。その上にも二本の蝋燭。開いている扉から、隣の書斎の暖炉と本棚の一部が見える。書斎、客間、両方の暖炉で石炭が燃えている。)
(ガンチャローヴァ――アリェクサードゥラ・ニカラーイェヴナ・ガンチャローヴァ――が、ピアノを前にして坐っている。時計職人のビトゥコーフが修理道具を持って時計の傍に立っている。ビトゥコーフが時計をいじくる度に、時を打ったり、オルゴールが鳴ったりする。ガンチャローヴァ、静かにピアノを弾き、歌を口ずさむ。窓の外は嵐。)
 ガンチャローヴァ(口ずさむ。)
  「悲しく、そして暗く、・・・どうしたの、おばあさん、
   じっと黙って窓の傍で・・・
   嵐を呼ぶ不吉な雲が、低く空を覆っている。
   嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、
   今度は丸く集める。
   ひゅうひゅう言う、嵐の声。
   時には獣のように唸(うな)り、また時には、
   子供のすすり泣きのようにかぼそく泣く。
 ビトゥコーフ なんて素晴しい唄なんだ! プラチェーシヌイ橋のお屋敷でも直しがあって、私は行ったんですがね・・・橋を渡って・・・。雪のやつ、ブルブル、クルクル回って回って・・・目と言わず、口と言わず・・・(間。)どなたなんでしょう、こんな素敵な詩を作った人は。
 ガンチャローヴァ アリェクサーンドゥル・スェルゲーイェヴィッチ・プーシキン。
 ビトゥコーフ へえー、プーシキン! 実にうまいですね。煙突で泣いている。子供のように。本当にそうだもの。神業だな。
(玄関のベルがなる。ニキータ登場。)
 ニキータ ガンチャローヴァ様、シーシキン中佐という人です。お会いになりたいと。
 ガンチャローヴァ シーシキンて?
 ニキータ ええ。シーシキン。中佐の。
 ガンチャローヴァ こんなに遅く、どういうこと? 会わないって、そう言って。
 ニキータ お会いにならないなんて、そんな、ガンチャローヴァ様。
 ガンチャローヴァ あら、思い出したわ。あの人ね。大変! お通しして。
 ニキータ 畏まりました。(扉へ進みながら。)ああ、どうなるんだろう・・・ああ、破産だ・・・(退場。)
(間。)
 シーシキン(登場して。)失礼をいたしますよ。眼鏡が湯気で曇って、どうも・・・どうか、お見知りおきを。私は、退役中佐、アリェクスェーイ・ピェトゥローフ・シーシキンと申します。こんな時刻に参りまして、どうかお許しを。それにしても酷い天気で。これじゃ飼い犬を外に出してやることも出来ません。にっちもさっちも行きませんです、本当に。で、あなた様は? どなた様でしょうか。
 ガンチャローヴァ ナターリヤ・ニカラーイェヴナの・・・えー、プーシキン夫人の姉ですわ。
 シーシキン ああ、お噂は伺っております。お会い出来て光栄です、マドゥムワゼッル。
 ガンチャローヴァ Veuillez-vous s'asseoir, monsieur. (仏語 どうぞ、お坐り下さい。)
 シーシキン パルレ・リュッス・マドゥムワゼッル。(どうぞ、ロシア語で。)では、失礼して。(坐る。)お天気の話でしたね。
 ガンチャローヴァ ええ。吹雪ですわ。
 シーシキン ここの御主人にお会いしたいのですが。
 ガンチャローヴァ 申し訳ありませんけど、アリェクサーンドゥル・スェルゲーイェヴィッチは今、外出中で・・・
 シーシキン では、奥様は?
 ガンチャローヴァ ナターリヤ・ニカラーイェヴナも。およばれで。
 シーシキン ああ、これは間の悪い。ついていません、私は。しかし、今日には限りません。何時だって掴まらないんです、あの方は。
 ガンチャローヴァ ご心配なく。貴方様からの御伝言、必ず伝えますわ、兄に。
 シーシキン いえ、この件は直接あの方にお話した方が・・・あ、分かりました、分かりました。簡単なことなんですから。ここの御主人に私は何度となくお金を御都合致しました。その形(かた)にトルコ製のショール、宝石類、銀製の食器など戴いておりますが、それが現在締めて一万二千五百ルーブリにもなりますので。
 ガンチャローヴァ ええ、存じておりますわ・・・
 シーシキン 一万二千五百ルーブリ・・・容易な金額じゃありませんからな。
 ガンチャローヴァ それでもう御猶予をお願いする訳にはまいらないと?
 シーシキン 喜んで御猶予を差し上げたいところなのです、マドムワゼッル。イエス・キリストも、辛抱強くあれと私達に教えて下さっています。でも、私どもの窮状もお察し下さい。私どもも食べて行かねばならないのです。それに海軍に勤めている息子達、彼らに仕送りをしてやらねばなりません。今日参りましたのは、ですから、借金の形(かた)にお預かりしている品を明日売りに出しますと、お知らせする為なのです。丁度適当な人物が見つかったのです。ペルシャ人の金持ちが。
 ガンチャローヴァ それはどうか、どうか、お待ちになって。プーシキンは、必ず利息を払いますから。
 シーシキン それが・・・もう限度なのです。十一月から御猶予申し上げて・・・他の人間ならもうとうに売り飛ばしている頃です。私もこのペルシャ人を失いたくないのです。国に帰ってしまうかも知れません。絶好の機会を逃したくないのです。
 ガンチャローヴァ 私、ネックレスがありますわ。それに銀の食器も。ちょっと見て戴けません?
 シーシキン 失礼ながら、銀器などではとても。それに、このペルシャ人は・・・
 ガンチャローヴァ どうか、お願いですわ。だって物がなければ、お宅様だってどうしようもないじゃありませんか。見るだけでも。私の部屋に、どうか。
 シーシキン そうですか。それではまあ・・・(ガンチャローヴァの後に続く。)立派なお住まいですな。これはどのくらいなんでしょう、家賃は。
 ガンチャローヴァ 四千三百。
 シーシキン ちと高うございますな。(ガンチャローヴァと隣の部屋に退場。)
(一人残ってビトゥコーフ、聞き耳を立てる。蝋燭を持ってピアノに近づき楽譜を覗きこむ。それから少し躊躇った後、書斎に入る。本の背表紙を読み、驚いて十字を切り、書斎の奥に退場。暫くして帰って来て、自分の元の場所、修理中の時計に戻る。ガンチャローヴァ登場。その後にシーシキン。手に小さな包みを持っている。)
 ガンチャローヴァ 申し伝えますわ。
 シーシキン そうですね、私の方も手形をお送りすることに致します。でも、とにかくあの方に、こちらにお越し戴くようお伝え下さい。辻馬車がおそろしく高いのです、最近。イズマーイロフスキー通り、四番。バルシチョーフ・ビルディング。小さい窓の部屋・・・あの方、ご存じですから・・・(扉のところで。)オルヴワール、マドゥムワゼッル。
 ガンチャローヴァ Au revoir, monsieur.
(シーシキン退場。)
 ビトゥコーフ(時計の蓋を閉じ、修理道具を鞄に仕舞う。)直りました。動いていますから。で、書斎の方のは・・・ええ、明日寄ってみます。
 ガンチャローヴァ 有り難う。明日また。
 ビトゥコーフ ではこれで。失礼致します。(退場。)
(ガンチャローヴァ、暖炉の傍に坐る。扉のところにニキータ登場。)
 ニキータ ああ、ガンチャローヴァ様!
 ガンチャローヴァ なあに、ニキータ。
 ニキータ ああ、大切な・・・(間。)大切なあの首飾りもお手放しになって・・・
 ガンチャローヴァ 買い戻すわ。
 ニキータ いいえ。買い戻すための品物など、もうどこにも。買い戻すなんて、もう・・・
 ガンチャローヴァ 今日はお前、えらいガーガーと私にあたるわね。
 ニキータ ガーガーなどとんでもない。私は鵞鳥ではありません。酒屋のラウールに四百ルーブリ。ラフィット(葡萄酒の名)の代金。ああ、考えても恐ろしくなります。馬車屋に、薬屋に・・・それに木曜日にはカラドゥイキンに書き物机の借賃、その他、請求書、請求書、請求書。書類で請求が来るのならまだしも、牛乳屋にまで借りがあるんですから、情けないことに。少々お金が入って来たって、手元に残るものなんて何もありゃしません。全部借金の支払い。ガンチャローヴァ様、どうか御主人に申し上げて下さい。もう田舎に帰りましょう、と。こんな大都会、セント・ペテルスブルクにいたって、何の良いこともありません。以前にも申し上げました。お子様方もお連れになるんです。静かで、広いです。気持ちがゆったりします、田舎は。・・・こんな都会なんて、全く穴倉です、ガンチャローヴァ様。物価も田舎の三倍じゃありませんか、ここは。三倍ですよ。それに御主人様のお顔の色。いえ、他のお方もお疲れで黄ばんでいます。よくお眠りになれないのです・・・
 ガンチャローヴァ お前、自分で言うんだね、あの方に。
 ニキータ 何度も申し上げています。その度にお答えになるのです。「煩いね、お前は。うんざりするよ、その話は。そうでなくても私の頭は嵐で荒れ狂っているんだ。」そう、三十年もお仕えしましたからね。うんざりなさるのも仕方ありません。
 ガンチャローヴァ じゃ、奥様にお話なさい、それなら。
 ニキータ しても何にもなりません。いらっしゃらないにきまっていますから。(間。)そうか、奥様なしなら・・・あなた様と、御主人様と、それからお子様方だけで・・・
 ガンチャローヴァ どうしたの、ニキータ。お前、頭がどうかしたんじゃないのかい?
 ニキータ 田舎にお帰りになればいいんです。朝はピストルの練習、そしてその後、乗馬。・・・お子様方はゆったりした、住み心地のよい生活・・・
 ガンチャローヴァ 止めて。うるさいわね、ニキータ。もうあっちへ行って。
(ニキータ退場。ガンチャローヴァも暖炉の傍に少し坐った後、奥の部屋に退場。玄関の鈴の音。ニキータ、玄関から直接に(即ち、客間を通らず)暗い儘の書斎に入って行くのが見える。そしてその後ろに誰か(訳注 即ちプーシキン)がちらりと見え、これも書斎の奥へと入って行く。その後、書斎に灯がつく。)
 ニキータ(やっと聞こえる声で。書斎の奥で。)畏まりました。はい、旦那様。(客間に登場。)ガンチャローヴァ様、旦那様がお帰りになりました。お悪いご様子です。お呼びになっていらっしゃいます。
 ガンチャローヴァ(登場。)そう。今行くわ。
(ニキータ、食堂の方に退場。)
 ガンチャローヴァ(書斎の扉を叩いて。)On entre? (入ってもいいですか?)(書斎に入る。微かにガンチャローヴァの声が聞こえる。)Alexandre, etes-vous indispose? (プーシキン、あなた、具合がお悪いの?)ほら、寝ていらして。ね? お医者様をお呼びしましょうか?(客間に戻って来る。ニキータを呼ぶ。ニキータ、手にカップを持って登場。)旦那様のお召し換えを。(暖炉に身を寄せて、済むのを待つ。)
(ニキータ、書斎に暫くいて、玄関の方に出て来る。後ろ手に扉を閉める。)
 ガンチャローヴァ(書斎に入る。やっと聞こえる声で。)大丈夫・・・ええ、ええ。本当に。・・・
(玄関の鈴の音。ニキータ、客間に登場。ガンチャローヴァ、すぐにニキータの後を追って登場。)
 ニキータ(手紙を渡しながら。)旦那様宛の・・・
 ガンチャローヴァ(みなまで言わせず、ニキータに人指し指で、脅すように振り、手紙をひったくって。)あ、仕立屋からね。分かったわ。明日お昼に出向くと言っておいて頂戴。何をぼさっと立っているの。早くなさい。(小さな声で。)前から言ってあるでしょう。旦那様に渡してはいけないって。
(ニキータ退場。ガンチャローヴァ、書斎に退場。)
 ガンチャローヴァ(書斎から。やっと聞きとれる声で。)何を言ってらっしゃるの。本当ですわ。仕立屋からでしたの。いけないわ、これは、アリェクサーンドゥル。お医者様を呼ばないと。そうだわ。私、あなたのためにお祈りを・・・えっ?・・・ああ、そうですの?・・・でもどうか心配なさらないで。
(書斎の灯、消える。ガンチャローヴァ、客間に戻る。書斎に通じる扉を閉め、そこのカーテンを引く。)
 ガンチャローヴァ(手紙を読む。それを素早く隠す。)やくざな人達。なんてしつこいんでしょう。厭なこと!(間の後。)田舎に帰るのが一番。ニキータの言う通りだわ。
(ノックの音。ニキータの玄関に出迎える声。(やっと聞きとれる声で。)プーシキナ登場。帽子の紐を解き、ピアノの上に帽子を投げる。近視のように目を細めて見る。)
 プーシキナ まだ寐ていなかったの? 一人? あの人は? もう帰ってる?
 ガンチャローヴァ お帰りよ。ひどい熱。寐てらっしゃるわ。起こさないでくれって。
 プーシキナ 可哀相に。でも無理もないわ。あの雪。あの風。顔の正面から鞭でたたいてくる・・・
 ガンチャローヴァ 誰? 一緒に帰って来た人?
 プーシキナ ダンテースよ。送って来てくれたの。何? その顔。
 ガンチャローヴァ また面倒事を引き起こそうって言うのね、あなた。
 プーシキナ お願い。お説教は止めて。
 ガンチャローヴァ ナターリヤ、自分でやっていること、分かってるの? 「不幸へ一直線」。あなたのやっていること、これよ。
 プーシキナ まあま、なんて大袈裟な。どこが悪いって言うの? ダンテース、あれは従兄弟(いとこ)よ、私の。送って貰ってどこがいけないの。
(ガンチャローヴァ、プーシキナに手紙を渡す。)
 プーシキナ(読む。囁き声で。)あの人、これを読んだの?
 ガンチャローヴァ とんでもない。でも、ニキータが渡すところだったわ。
 プーシキナ(手紙を見て。)ああ、馬鹿な人達!(暖炉に手紙を投げ込む。)恥知らず! 誰なのかしら、こんなことをするのは。
 ガンチャローヴァ どうしても駄目ね。いくら焼き捨てたって、また来るわ。いつかはあの人、見ることになるわ。
 プーシキナ 署名のない手紙に私が責任ある訳ないでしょう? あの人だって、そんなもの信じはしないわ。
 ガンチャローヴァ どうしてそんな囁き声で話すの? 盗み聞きなど、誰もしていないわ。
 プーシキナ 分かった、分かった。白状するわ。私、イダーリヤで遇ったわ、あの人と。でも会ったんじゃない。出遇ったの。あそこにいるなんて、思ってもいなかった。偶然なのよ、出遇ったのは。
 ガンチャローヴァ ナターリヤ、田舎に帰りましょう。
 プーシキナ ここから逃げるの? そして田舎に隠れる? 何のため? 馬鹿な男達の中傷のため? 匿名の手紙のため? そんなことをしたら、あの人まで疑うわ、私のことを。私とあの人とは何の関係もないのよ。それなのに・・・何の罪もないのに、このペテルスブルグを捨てろって言うの? ごめんだわ。田舎で気違いになりたくはありませんからね。
 ガンチャローヴァ あなた、ダンテースに会うのはいけないわ。会っては駄目、決して。あの人にとってそれがどんなに辛いことか、あなた、分かるでしょう? それにお金のこともある。随分苦しいのよ。
 プーシキナ 私にどうしろって言うの、あなた。ここは都会なの。都会に住めばお金がかかるわ。ものいりがあるの。
 ガンチャローヴァ 何を言ってるの、あなた。
 プーシキナ そんなに怒らないの、アリェクサーンドゥラ。もう寐なさい。
 ガンチャローヴァ お休みなさい。(退場。)
(一人になりプーシキナ、にやにやと笑う。明らかに思い出し笑い。食堂に通じる扉から、音もなくダンテース登場。頭には兜。軍用外套を着ている。それに雪。両手に女性用の手袋を持っている。)
 プーシキナ(囁き声で。)何? これ。どういうこと、他人の家に厚かましく。出て行って! 今すぐ! 恥知らず! さ、早く! 私は命令しているんですよ!
 ダンテース(酷いフランス語訛りのロシア語で。)橇に手袋をお忘れになったのです。明日、お手が凍えてはいけないと。それで戻って来たのです。(手袋をピアノの上に置く。片手を兜の縁にあて、敬礼をし、出て行こうと回れ右をしかける。)
 プーシキナ あなたは私を大変な危険に晒しているのよ。それが分からないの? あの扉の後ろには居るのよ、あの人が。(書斎の扉に駆け寄り、中の様子を耳で窺う。)一体何を考えていたの、ここに入って来る時。もしあの人がこの部屋にいたら? あなたを入れてはいけないとあの人、固く止めているのよ。死よ、あなたを待っているのは。死なのよ。
 ダンテース Chaque instant de la vie est un pas vers la mort. (生の一瞬一瞬が、死への一歩一歩だ。)召使に聞いた。寝てるっていう話だったからな。
 プーシキナ あの人、容赦しない。私、殺されるわ。
 ダンテース アフリカ人の血が流れている、あいつには。それも最も残忍なやつだ。いや、心配することはない。あいつが殺すのはこの私だ。君じゃない。
 プーシキナ ああっ、私、目が見えない。どうなったの、これ!
 ダンテース 落ちついて。君には何も起こりはしない。私にだ、起こるのは。撃ち倒された私の体が、無造作に武器運搬車に放りこまれ、墓地に運ばれるのさ。そして吹雪。しかし世の中は何も変わりはしない。
 プーシキナ ここを出て。今すぐ。あなたの大切なもの全てに賭けて。お願い。
 ダンテース 私に大切なもの、それはあなただ。あなたに賭けているんだ。出て行く訳には行かない。
 プーシキナ お願い。どうか。
 ダンテース いや、行かない。私のこの狂気、その責任は全てあなたにあるのです。あなたは私の言うことを全く聞いてくれない。しかし大事なことがあるんだ。大事なこと、これ以上大事なことはない、大事なこと。聴いて!(外を指差して。)あっちだ・・・分かるね? 外国。ただ一言、あなたからのただ一言。どうかそれを。そして逃げよう、ここを。
 プーシキナ それを言っているのは一体どなた? あなたはたったひとつき前、イェカチェリーナと結婚した身よ。私の姉とよ。悪いのはあなた。罪人よ。気違いよ、あなたは! そんな行為は、男爵、誉れにも何にもなりはしないわ。
 ダンテース 私は結婚した。あなたを求めて。あなたに近づける、ただそれだけの理由で。そう。私は罪人だ。逃げよう、ここを。
 プーシキナ 子供がいるわ、私には。
 ダンテース 忘れるんだ、そんなもの。
 プーシキナ ああ、それは駄目。
 ダンテース 私はあそこに入るぞ。彼と会うんだ。
 プーシキナ 止めて! お願い! 破滅よ、私の。あなた、そうなって欲しいの?
(ダンテース、プーシキナにキス。)
 プーシキナ ああ、辛い。拷問だわ、これは。私の人生に、何故、何故、あなたが現れてきたんでしょう。そう、あなたのせい。あなたのせいで私、いつもおどおどしていなきゃならない。いつも嘘をついていなきゃならない。夜に安眠がない、昼に安息がない・・・
(時計が時刻を打つ。)
 プーシキナ まあ、大変。行って。お願い!
 ダンテース イダーリヤにもう一度来て。頼む。もう一度はどうしても話さなければ。
 プーシキナ 明日、ズィームニィ・サードゥで、バランツォーヴァ家の舞踏会があるわ。その時に来て、私の方
に。
(ダンテース、回れ右をし、退場。)
 プーシキナ(耳をすます。)言いつけるかしら、ニキータ。いいえ、決して言いつけたりしない、ニキータは。(窓に近づき、外を見る。)ああ、疚(やま)しい。心が重い。(それから、書斎の扉に進み、耳を扉に近づける。)眠っている。(十字を切る。蝋燭の火を吹き消す。隣の部屋に退場。)

(闇。その闇が晴れると、冬の日。スェルゲーイ・ヴァスィーリエヴィッチ・サルトゥイコーフのアパートの居間。隣に図書室。沢山の本。図書室から客間の一部が見える。居間には朝食の用意がしてある。フィラートゥが扉の傍に立っている。)
クーカリニック サルトゥイコーヴァ様、こちら、この国の最大の詩人、ヴラヂーミル・グリゴーリエヴィッチ・ベネヂークトフさんです。全く稀に見る才能、稀に見る輝きなのです。
 ベネヂークトフ ああ、クーカリニックさん。そのような褒め言葉は・・・
 クーカリニック ああ、お子様方、あなた方もこの私を支持して下さい。あなた方も、この方の作品を高く評価していらっしゃるのでしょう?
(サルトゥイコーフの二人の息子・・・二人とも、近衛第一師団の士官・・・微笑んでいる。)
 サルトゥイコーヴァ Enchantee de vous voir. (始めまして。)お目にかかれて光栄ですわ、ベネヂークトフさん。夫もこの国の、文学をなさる方々に、大変好意を持っておりますの。
(ベネヂークトフは公務員の制服を着ている。腰の低い男。その後ろから侯爵ピョートル・ヴラヂーミラヴィッチ・ダルガルーコフが、握手のため手をのばす。侯爵はびっこ。)
 サルトゥイコーヴァ まあ、ダルガルーコフ侯爵、お目にかかれて嬉しいわ。
(この時、イヴァーン・ヴァルファラミェーイェヴィッチ・バガマーゾフ登場。)
 バガマーゾフ サルトゥイコーヴァ様(と呼びかけて近づき、手にキス。)御主人、サルトゥイコーフ公爵様はまだお見えでないようですが・・・
 サルトゥイコーヴァ すぐ参りますわ。どうぞお許し下さい。また本屋ですわ、きっと。本屋に行くと、すぐ長くなるんですの。
 バガマーゾフ(ダルガルーコフに。)今日は、侯爵様。
 ダルガルーコフ 今日は。
 バガマーゾフ(クーカリニックに。)昨日私はお芝居を見に参りました。あなた様のものです。素晴らしかった。興味津々。満員でしたなあ。人、人、人で立錐の余地もありませんでした。御成功おめでとうございます。祝福の抱擁をお許し願います。どうぞ末永くご活躍を。
 フィラートゥ 旦那様のお帰りです。
 クーカリニック(小声で。ベネヂークトフに。)さあ君、これからが見ものなんだ。
(サルトゥイコーフ、フィラートゥの後について登場。(円形の)帽子、毛皮外套、ステッキ。小脇に大きな本を抱えている。誰にも目もくれない。ただフィラートゥについて行くだけ。ベネヂークトフ、サルトゥイコーフに腰を屈めて挨拶。しかし、空を切るだけ。お返しはなし。ダルガルーコフ、バガマーゾフ、クーカリニック、天井を見つめて、サルトゥイコーフの存在に気づかない振り。フィラートゥ、ウオッカを注ぐ。サルトゥイコーフ、客の一群に見えない視線を向け、一息にウオッカを飲み干し、黒パンを千切って口に放り込む。(誰かを見るかのように)目を細める。二人の近衛士官、微笑む。)
 サルトゥイコーフ(独り言。)やれやれ、呆れたもんだ。Secundus pars とはね。Secundus! (皮肉なあざ笑い。そして退場。)
(原註 サルトゥイコーフは本の誤植を指摘している。pars が女性名詞なので、secunda とならねばならないところ。意味は「第二の部分」。これは歴史的事実。サルトゥイコーフ家に、その誤植のある本が蔵書の中に残されていた。)
(ベネヂークトフ、青くなる。)
 サルトゥイコーヴァ Mon mari ... (夫は・・・)
 クーカリニック(夫人の、フランス語での説明を遮って。)奥様、どうかご心配なく。分かっておりますので、ちゃんと。それから、どうぞ、我が国の言葉でお話し下さい、奥様。奥様もお聞きになった事と思います。詩人の手にかかれば、我が国の言葉でも、いかに素晴らしくなるか。
 サルトゥイコーヴァ(ベネヂークトフに。)夫は大変かわっておりますの。どうぞお楽になすって。あのような夫の態度は、お気になさらず。
(サルトゥイコーフ、再び登場。帽子、外套、ステッキはなし。しかし、分厚い本は持って来る。全員、好奇の目をもって主人を見つめる。)
 サルトゥイコーフ やあ諸君、よく来た。(本を叩いて。)Secundus pars. Secundus! なんというミスプリだ。わざとやっとる。Corpus juris romani! Elzevir! (ローマ法にひっかかるぞ、エルゼヴィール出版社は。)(近衛兵二人に。)おう、息子達! いたか。
(二人の息子、微笑む。)
 バガマーゾフ お許し願って、ちょっと拝見を・・・
 サルトゥイコーフ 下がりおろう!
 サルトゥイコーヴァ あなた、何てことを!
 サルトゥイコーフ 本は、手で触るものじゃない。手で触る為に印刷されたんじゃないんだ。(暖炉の上に本を立てかけて、サルトゥイコーヴァに。)いいか、お前、触りでもしてみろ、私は・・・
 サルトゥイコーヴァ いいえ、飛んでもない。その必要もありませんわ、私。
 サルトゥイコーフ フィラートゥ、ウオッカだ。さあ、諸君、掛けてくれ。
 サルトゥイコーヴァ 皆さん、どうぞお坐りになって。
(全員、坐る。フィラートゥ、皆にウオッカを出す。)
 サルトゥイコーフ(クーカリニックの手の指輪を見て。)ほほう、皇帝から贈られたな、その指輪。
 クーカリニック はい。光栄にも。
 ダルガルーコフ 皇帝おん自らの手で、あなたを祝福されたのですね、クーカリニックさん。
 サルトゥイコーフ 下らん! 下らん指輪だ!
 クーカリニック これは!
 サルトゥイコーフ その指輪で思い出したんだが・・・フィラートゥ、暖炉の上に何があるか、分かっているな。
 フィラートゥ はい。本です。
 サルトゥイコーフ 傍に寄るんじゃないぞ!
 フィラートゥ はい。畏まりました。
 サルトゥイコーフ うん、それで思い出すんだが・・・若い頃の話だ。皇帝パーヴェルが私を表彰して、指輪を授けてくれた。それに嵌めこまれていたダイヤ・・・いや、巨大なものだった。
(二人の近衛、父親にウィンクする。)
 サルトゥイコーフ 君のそれ、そんなものは、二百ルーブリ、いや、百五十でも出せば自分で買える代物さ。
 サルトゥイコーヴァ あなた、何を仰るんです!
(ベネヂークトフ、がっくりする。)
 サルトゥイコーヴァ 作り話じゃありませんか、みんな。あなた、勲章など何も受けてはいらっしゃいませんわ。
 サルトゥイコーフ お前が知らないだけだ。三十七年間、誰にも見せず、仕舞ってあるんだ。香(こう)の箱と一緒にな。
 サルトゥイコーヴァ よくそんな嘘を。
 サルトゥイコーフ これの言うことは聞かんで欲しい、諸君。ロシア皇帝が下しおかれる勲章について、女など何も知りはせんのだ。・・・そうだ、皇帝と言えば、ついさっき、拝眉の栄に浴したなあ。ニェーフスキー通りで・・・le grand bourgeois・・・そう、橇に乗っておられた。馭者はアンチーヴだったな。
 バガマーゾフ 失礼ながら、皇帝陛下をご覧になったと?
 サルトゥイコーフ そうだ。
 バガマーゾフ それでは馭者はパーヴェルだった筈でして・・・
 サルトゥイコーフ いや、陛下の馭者はアンチーヴだ。
 ダルガルーコフ 勲章のお話ですが、失礼ながら、あれはお馬の件の時ではなかったでしょうか。私の記憶に誤りがなければ。
 サルトゥイコーフ いや、馬の件ではない、侯爵。君は間違っている。これはあの件の後だ。もう皇帝アリェクサーンドゥルの御世になっていた。(ベネヂークトフに。)するとその、詩歌の仕事に携わっておられると言うのだな?
 ベネヂークトフ はい。
 サルトゥイコーフ フン。そいつは危険な商売だ。ご存じかな? 同業者のプーシキンを。あいつ、特高(皇帝官房第五課)にこの間引っ立てられおった。
 サルトゥイコーヴァ 不愉快ですわ、あなた。あなたと同席するのは。なんてことをお話になるのです。どうか、お止めになって。
 サルトゥイコーフ ああ、諸君、食べてくれたまえ、どうか。(サルトゥイコーヴァに。)この話を聞いて一緒に憤慨しないようじゃ、危ないな。お前も引っ立てられるぞ。
 サルトゥイコーヴァ お止めになって、お願い。
 ダルガルーコフ ところで、その話ですが、どうやら本当らしいです。ただ、随分昔のことだとは聞いていますが。
 サルトゥイコーフ いや、それは違う。私は今聞いたばかりだ。ツェプノーイ橋を通りかかった時だ。男が叫んでいた。一体どうしたんだ、と私は訊いた。そいつは言ったね。「旦那、プーシキンがパクられましたぜ。」
 バガマーゾフ 「パクられる」なんて、公爵、それは作り話じゃありませんか? このペテルブルグの、いつもの。
サルトゥイコーフ パクられるのが作り話だと? とんでもない。この私だって引っ立てられそうになったことがあるんだ。皇帝アリェクサーンドゥルが、私の持ち馬を買いたいと言ってな。相当な金額の提示があった。一万ルーブリだ。私は手放すのが厭だった。馬を撃ち殺したんだ。耳にピストルを突っ込んで、ぶっ放した。(ベネヂークトフに。)ああ、君の詩は、私の図書室に入れてある。ゼッドの棚だ。最近何か、お作りになったかな?
 クーカリニック それはもう、公爵。(ベネヂークトフに。)そう、「思い出すこと」、あれがいい。(二人の近衛士官に。)ああ、お子様方、あなた方も詩がお好きな筈です。どうか、あなた方からもお口ぞえを。
(二人の近衛、微笑む。)
 サルトゥイコーヴァ そう。私達みんなでお願いしますわ。引っ立てられるなんて、暗い話はもう終り。楽しみだわ。
 ベネヂークトフ えーと、その・・・私は、全部覚えているかどうか・・・
 サルトゥイコーフ おい、フィラートゥ。皿をガタガタさせるのは止めろ。
 ベネヂークトフ
   ニーナ、あなたは覚えているだろうか、
   あの瞬間を。
   あなたの忠実な歌うたいが、どんなに、
   そう、全身を震わせてどんなに、
   あなたに魅せられて、どんなに、
   あの混雑した舞踏会の最中に、
 ベネヂークトフ あ、本当に忘れて仕舞って・・・どんなに・・・いや、・・・
   どんな風に、あなたの腰に片手をあてて、
   羨望に満ちた目であなたのことを振り返る、
   群衆の中を、僕が導いて行ったか。
   あなたの腰にこの手をあてた時、
   僕の掌(てのひら)は熱くなった。
   焼けるようだった。
   その素晴らしい、炎のようなあなたの背中から、
   僕の手が離れた時、どんなに残念だったか。
   あなたが疲れ果て、
   椅子に坐り、肩で息をする時の、
   その胸の揺らぎ、
   大海の寄せ返す優しい波のように、
   僕には見えた。
   そしてその大海に、白いミルクの泡の中に、
   煙の中、靄の中から、浮き出るように、
   二つの大波が描かれている。
(二人の近衛士官、顔を見合せ、目配せをして、杯を空ける。)
 ベネヂークトフ
   僕の話を聞きながら、ニーナ、あなたは、
   何気なく頭を揺すった。
   するとその豊かな亜麻色の巻き毛が、
   そっと僕の頬に滑り込んで来た。
   ああ、ニーナ、
   あなたはその瞬間を覚えているだろうか。
   それとも時間という急流が、冷たい忘却の海へと、
   全てを密かに流し去って仕舞ったのだろうか。
 クーカリニック ブラーヴァ、ブラーヴァ。どうした、近衛士官諸君、君達、拍手だよ。
(全員、拍手。)
 サルトゥイコーヴァ 輝かしい作品ですわ。
 バガマーゾフ 素晴らしい詩だ!
 サルトウイコーフ うん、これなら引っ立てられることはなさそうだ。
 フィラートゥ(サルトゥイコーヴァに。)ヴァランツォーヴァ伯爵夫人がお会いになりたいと。
 サルトゥイコーヴァ 居間の方にお通しして。(立ち上がる。)皆さん、失礼します。私、ちょっとあちらの方に。煙草になさるのでしたら、どうぞ。(居間に退場。)
(サルトゥイコーフ、客達と図書室の方へ退場。フィラートゥ、客達にシャンパンを注ぎ、パイプを渡す。)
 クーカリニック わが祖国の最大の詩人に、乾杯!
 バガマーゾフ そうです、そうです。
 サルトゥイコーフ 最大の詩人?
 クーカリニック この首を賭けてもいいです、サルトウイコーフ様。
 サルトゥイコーフ アガフォーン!
(アガフォーン登場。)
 サルトゥイコーフ アガフォーン! 隣の部屋の十三番の本棚、ゼッドの棚にあるベネヂークトフ詩集をここのこの棚へ。それからプーシキンのものはそちらに移す。(ベネヂークトフに。)こちらの棚は一流のものを入れることにしてある。(アガフォーンに。)おい、その本、取り落として床にでも落としてみろ。お前、どうなるか。
 アガフォーン 畏まりました、旦那様。(退場。)
(ベネヂークトフ、名誉で身の縮まる思い。)
 ダルガルーコフ クーカリニックさん、私は御意思に全く賛同するものですが、しかし、噂は噂としてあるようにも思っているのです。つまり、我が国最大の詩人はプーシキンだと。
 クーカリニック あんな奴、社会の癌だ。
(アガフォーン、小さな詩集一冊を抱えて登場。本棚の横にある脚立に登る。)
 サルトゥイコーフ 何だと? プーシキンが最大? アガフォーン、待っておれ!
(アガフォーン、脚立の上で待つ。)
 クーカリニック しかしこのところ、何も書いてはいないのです、あの男は。
 ダルガルーコフ 恐れながら、何も書いていないとは・・・それは・・・ついこの間、人づてに貰いましたよ。これです。最近書いた詩の一部だそうで。残念ながら、本当に一部で。全部ではないのですが・・・
(バガマーゾフ、ベネヂークトフ、クーカリニック、その紙片を見る。二人の近衛士官、次々と杯を重ね、一気に飲み干す。)
 クーカリニック やれやれ、呆れたものだ。ロシア人なんだぞ、これを書いたのが。近衛士官諸君、こんなものの近くに寄らない方がいい。
 バガマーゾフ うーん。(ダルガルーコフに。)ちょっと写させて下さいませんか。罪深い人間でしてね、私は。好きなんです、発禁の文学が。
 ダルガルーコフ どうぞ、どうぞ。
 バガマーゾフ(机の傍の椅子に坐って。)ただ、侯爵、誰にも内緒ですよ。(書き写す。)
 クーカリニック この詩が現代のロシア人に理解されるものですかな。甚だ疑わしい。そうだよ、ベネヂークトフ、ロシア語なんかで書くもんじゃない。理解される訳がない。(イタリヤに行くんだ、イタリヤに。)あの神のようなアリギエーリの書いた三韻句法の詩が未だに響いているあの国にな。あの偉大なフランチェスコに手を差し伸べるんだ。彼のカンツォーネを聞けば、必ずインスピレーションが湧く。イタリヤ語で書くんだ、ベネヂークトフ。サルトゥイコーヴァ(居間から出て来て。)議論、まだ議論をやってらっしゃるのね。(食堂の方から退場。)
 バガマーゾフ(素晴らしい演説です。)ブラーヴァ、ブラーヴァ、クーカリニックさん。
 ベネヂークトフ どうなさったのですか、クーカリニックさん。随分熱の入った演説ですね。
 クーカリニック 当たり前じゃないか。私は不当なことが嫌いなんだ。それは慥に、かってはプーシキンには才能があった。深いものじゃない。表面だけのものだ。しかしそれでも才能ではあった。しかしあいつはそれを擦りきらせたんだ。使い果たしたんだ。光を出していた小さな蝋燭も、燃え盡きたんだ。イエスが叱りつけたあの無花果の木のように、不毛になったんだ。そして今作っているものと言えば、こんなやくざな詩だ。あいつが現在保持し得ている唯一のもの・・・それは自惚れだ。あの傲慢な自惚れ! それに他人を評する時のあの容赦のなさ! 可哀相な男だ。
 バガマーゾフ いいぞ、いいぞ、大統領!
 クーカリニック さあ、この国の最大の詩人、ベネヂークトフに乾杯だ!
 ヴァランツォーヴァ(図書室の敷居のところで。)あなたのその大演説、全部嘘ですわ。(間。)なんて残念なことなんでしょう。どんなに素晴らしい人物が自分の目の前に登場して来ても、それと分かるのは、ほんの一握りの人達だけ・・・ああ、プーシキンの天才、輝き! あの人の手にかかると、なんていう奇跡になるのでしょう! でも、悲しいことにあの人には敵がいる。やっかみがある。御免なさい。でも、今聞いたように思えましたの。丁度今。ここにいらっしゃる誰かの口から、人を貶(おとし)める暗いやっかみの声を。本当に、ベネヂークトフなんか、酷い詩人ですわ。空っぽ。何の中身もない・・・
 クーカリニック 失礼ながら、伯爵夫人・・・
(ダルガルーコフ、バガマーゾフの肩に縋りながら嬉しそうに笑う。)
 サルトゥイコーヴァ(図書室に戻って来て。)あら、ヴァランツォーヴァさん。ご紹介致しますわ。文学の人達ですのよ。こちらがクーカリニックさん。そしてこちらがベネヂークトフさん。
(ダルガルーコフ、嬉しくて息がつまりそうになり、ハーハー言う。二人の近衛士官、黙って食堂の方へ行き、そこから退場。)
 ヴァランツォーヴァ まあ、どうしましょう。・・・御免なさい。私、調子に乗って仕舞って・・・許して頂戴、サルトゥイコーヴァさん。いられないわ、私、ここには・・・(居間に退場。)
(サルトゥイコーヴァ、ヴァランツォーヴァの後を追う。ベネヂークトフ、引きつった顔で食堂に退場。クーカリニック、その後を追う。)
 ベネヂークトフ 朝食にだなどと。何故私をこんなところへ引っ張り出したんですか・・・家に静かに引っ込んでいたところだったのに・・・いつもあなただ。あなたのせいで・・・
 クーカリニック おいおい、君。真面目に取っているんじゃないだろうな、まさか。あんな社交界の婦人が言っている戯言(たわごと)を。
 サルトゥイコーフ アガフォーン! 二つとも落第だ。プーシキンもベネヂークトフも。あっちの部屋へ持って行け。十三番の棚だ!
                    (幕)

     第 二 幕
(夜。ヴァランツォーヴァの屋敷。ズィームニィ・サードゥ。噴水あり。木立の緑の中に外灯がいくつか立っている。網の中の小鳥達が、驚くのか、はばたきが聞こえる。円柱が舞台奥にあり。その奥に居間が見える。居間は無人。遠くからオーケストラの音。群衆のざわめき。円柱の傍に、ターバンをした黒人。不動の姿勢。その茂みの中に、客達の視線を逃れて、ダルガルーコフが小さな長椅子に坐っている。舞踏会用の正装。ダルガルーコフの前のテーブルにはシャンパン。ズィームニィ・サードゥでの客達の会話に耳をすませている。円柱からあまり遠くないところにプーシキナが坐っている。そしてその隣に、ニカラーイ一世。)
 ニカラーイ一世 ああ、この噴水の水の落ちる音。それに茂みの中の小鳥のはばたき。悲しくなるんですよ、私は。こういうものを聞くと。
 プーシキナ あら、どうしてですの?
 ニカラーイ一世 人の作った人工の自然のお陰で、却って本物の自然を思い出して仕舞うのです。のんびりした静かな小川のせせらぎ、樫の木が作るあの長い影・・・この重々しい衣装などかなぐり捨てて、穏やかな谷間の、人里離れた村に引き籠もることが出来たら。そういうところで初めて、私のこの悩み多き心も、休息を得ることが出来るのだが・・・
 プーシキナ 陛下はお疲れになっていらっしゃるのですわ。
 ニカラーイ一世 誰も分かってくれてはいない。これから先だって分かる筈はない。私がどんな重荷を背負わねばならぬ運命にあるかを。
 プーシキナ そのような暗いお言葉はお止めになって。私達みんな、悲しくなって仕舞いますわ。
 ニカラーイ一世 今本心からそう思っていますか。いや、それはそうでなければ。そのような澄んだ目が、嘘をつくことが出来るなどと(とても考えられない)。あなたが口にする一つ一つの言葉が、私には宝石のように尊い。あなた唯一人だ、私のためにそのような言葉を見つけてくれるのは。あなたが優しい人なのだと、私は信じたい。でも怖いことがひとつ。そのために、私の出来ることと言ったら、あなたの顔をチラチラと盗み見ることだけですが、それだけで、あなたを・・・
 プーシキナ 怖いことって、何ですの?
 ニカラーイ一世 あなたのその美しさ、それです。ああ、美とはなんて危険なものか。ご注意下さい。どうか自重を。これは心からの忠告です。どうか心にとどめて。
 プーシキナ 光栄ですわ、そのようにお心にかけて下さって。
 ニカラーイ一世 軽くあしらわないで、どうか。私は真面目なのです。心からそう思っているのです。ああ、私はどんなに度々あなたのことを考えるか。
 プーシキナ 私など、それに値しませんわ。
 ニカラーイ一世 今日私はあなたの家の前を馬車で通りました。でも鎧戸が閉まっていました、あなたの部屋は。
 プーシキナ お昼の太陽が好きでありませんの。冬の日の薄暗がり、そんな程度の明るさが好きなのです。
 ニカラーイ一世 分かります。どうしてなのでしょう。私が外出する。するとその度に何か目に見えない力が私をあなたの家の方へと導いて行くのです。そして私は無意識に、頭をあなたの部屋の方へ向け、チラとでもいいから、あなたの顔が窓から覗いてくれないかと、心待ちするのです。
 プーシキナ 仰らないで、そのようなこと・・・
 ニカラーイ一世 何故?
 プーシキナ 不安になってしまいますもの。
(居間から侍従登場。ニカラーイ一世に近づく。)
 侍従 陛下、皇后様が陛下にお伝えするようにとお命じになりました。十分後にマリーヤ大公妃様とお立ちになります、と。
(プーシキナ立ち上がり、お辞儀をし、居間の方へ退場。)
 ニカラーイ一世 皇后様とは何だ。皇后陛下だ。それから、マリーヤ大公妃だと? マリーヤ・ニカラーイェヴナ大公妃殿下だ。ちゃんと言え、ちゃんと。それにだ、人と話している時に近づくとは何事だ。馬鹿めが! まあいい。皇后陛下に伝えろ。十分後にまいりますとな。あ、それから、ジュコーフスキーを呼べ。
(侍従退場。ニカラーイ一世、暫くの間一人。ちょっと離れた場所を厳しい目付きで睨む。勲章をつけ、肩章を
かけたジュコーフスキーが登場して、お辞儀。)
 ジュコーフスキー 私めを、陛下、お呼び遊ばされたとのこと・・・
 ニカラーイ一世 ああ、ジュコーフスキー、あの円柱のところに黒い服の男がいる。誰なんだ、あれは、一体。
(ジュコーフスキー、その方を見る。どうしようもなく、身を固くする。)
 ニカラーイ一世 あの男にお前、言ってやれんのかね。あれが不埒千万だということを。
(ジュコーフスキー、溜息をつく。)
 ニカラーイ一世 あんなものを着てここに来るとは一体どういう気なんだ。どうやらあの男は自分の行動の馬鹿さ加減に全く気付いていないようだ。仲間のリベラリスト達と、国民総決起大会に出席しようとしていたのが間違って舞踏会に迷い込んだか。あいつに決められている制服はあれじゃないぞ。決められているものを何故着てこないんだ。私に対して敬意を払い過ぎるとでも思っているのか。あの男に言って聞かせるのだ。私は力づくで人に服従を強いたことはない。誰に対してもだ。(ましてや、こんなところに。)何故黙っているのだ、ジュコーフスキー。
 ジュコーフスキー どうか陛下、あの男に対してお怒りになりませぬように。そしてあの男に懲罰をお与えになりませぬように。
 ニカラーイ一世 よくないぞ、ジュコーフスキー、その言い方は。お前と知り合ってから、もう何年たつ。(私の考え方は今ではお前に分かっている筈だぞ。)私が人を罰するのではない。法が罰するのだ。
 ジュコーフスキー 恐れながら陛下、このようなことを申し上げて御勘気に触れませぬかと。しかし、誤った教育、あの男の育った社会体制、それが・・・
 ニカラーイ一世 社会体制だと? 社会体制があいつに影響を及ぼしたとでも言いたいのか。とんでもない。影響を及ぼしているのはあいつの方だ。あいつが社会体制に影響を及ぼしているのだ。我等が憎っくき「デカブリストの友人達」に肩入れしたあいつの詩を思い出して見ろ。それで明らかだろうが。
 ジュコーフスキー 陛下、あれはもうずっと昔の話でして。
 ニカラーイ一世 あの男は、あれから何も変わっておらんのだ。
 ジュコーフスキー 陛下、今では彼は陛下の熱心な崇拝者でして・・・
 ニカラーイ一世 ジュコーフスキー、お前の親切は分かっている。お前はそれを信じているのだな。私は違う。
 ジュコーフスキー 陛下、どうぞあの男にご配慮を。祖国に栄光をもたらしているのです、あの男は。
 ニカラーイ一世 違うな、ジュコーフスキー。あんな詩で、我が祖国に何の栄光をもたらすというのだ。この間出したあれ・・・プガチョーフ伝。何だあれは、一体。悪党に何が伝記だ。あの男はプガチョーフという人物に奇妙な愛着がある。小説にもしおって。あれを大鷲に譬えおった。このことで弁解の余地でもあるというのか。私はあの男を信用しない。あいつには何かが欠如している。温かい何かが。さ、皇后のところへ行こう。お前に用があったらしい。
(円柱の方へ退場。)
(黒人、持ち場を離れ、ニカラーイ一世の後に続く。ジュコーフスキー、円柱まで来て遠くを見つめ、誰かを密 かに拳で脅す。そして退場。)
(ヴァランツォーフ大公夫妻登場。ニカラーイ一世の方に真っ直ぐ向かう。二人、深くお辞儀。)
 ヴァランツォーヴァ Sire! (陛下!)
 ヴァランツォーフ Votre Majeste Imperial ...(陛下・・・)
(夫妻退場。円柱の方からではなく、横の方から、バガマーゾフ登場。制服姿に勲章数個をつけている。茂みの中に急いで入る。)
 ダルガルーコフ おいおい、この場所は先約ありだぞ。
 バガマーゾフ そんな。入れて下さいよ、侯爵。あ、その姿、隠者を洒落こんでいるんですね。
 ダルガルーコフ お前もじゃないか。まあいい。坐れ。なかなかうまいシャンパンだ。
 バガマーゾフ 如何ですか、舞踏会は。セミラミス(流の美人がいますか)は? 舞踏会はお好きなのですか、侯爵は?
 ダルガルーコフ 大好きだね。賤民だ、賤民の群がうようよだ。
 バガマーゾフ おっと、お前さん、気をつけてものを言わなきゃ。
 ダルガルーコフ 何だと? お前さんとは何だ、お前さんとは。
 バガマーゾフ 下手に出ればいい気になって。お前さんで充分なんだ、お前さんは。おむつが取れたのがやっとこの間の癖して。こっちはな、現在既に皇帝直属の枢密顧問官なんだからな。
 ダルガルーコフ 困りましたな、侯爵。社会的地位を云々するような野暮なことは。
 バガマーゾフ 社会的地位、貴族、で成り立っているんですよ、侯爵、この舞踏会は。
 ダルガルーコフ 貴族で成り立っている? これがか? とんでもない。やっと数えて五人だね。それに、本物の貴族と言えば、その中で私一人だ。
 バガマーゾフ ほほう。本物はあなたが一人。訊いていいものですかね、それが何故か。
 ダルガルーコフ 何しろ、聖者の出だからな、私は。殉教者チェルニーゴフ公、ミハイール・フスェヴァロードゥヴィッチ、聖者の列に入れられたあの偉大な侯爵の血筋だ。
 バガマーゾフ なるほど。そのお顔を見れば一目で明らかですね、聖者の血を引く人物だってことは。(遠くを指差して。)で、どうですか、今通ったあの人物、あれは貴族ですかね。
 ダルガルーコフ 本物、本物。本物中の本物だ。大臣の妾から宮廷人事長官の称号を買い取ったんだからな。あの酷いご面相で、よくそれだけの財をなしたもんだよ。
 バガマーゾフ 分かった。分かりましたよ、あんたさんの毒舌は。おや? あそこにいるのは侯爵夫人、アーンナ・ヴァスィーリエヴナじゃ・・・
 ダルガルーコフ そう。あいも変わらぬお盛んな婆さんだ。墓に半分足を突っ込んでいるっていうのに舞踏会というと必ず駆けつける。
 バガマーゾフ こいつはご挨拶ですね。その隣にいるのがどうやら、イヴァーン・キリーロヴィッチ・・・
 ダルガルーコフ いや、弟の方だ。グリゴーリイ・キリーロヴィッチ。かの有名な豚野郎。
 バガマーゾフ ちょっと、ちょっと、侯爵。人に聞かれたら、ただじゃすみませんよ。
 ダルガルーコフ 残念ながら、何事も起こらないね。厭な奴等だ。騙り! 下司野郎!あまり酷くて、最低は誰か、決めるのも難しい。
 バガマーゾフ それはそう。聖者ダルガルーコフ侯爵閣下に叶う貴族など、何処を捜してもいはしない。
 ダルガルーコフ おい、茶化すな。真面目なんだ。(シャンパンを飲む。)御本尊もいた。
 バガマーゾフ え? 陛下が?
 ダルガルーコフ そう。
 バガマーゾフ 誰と話していた?
 ダルガルーコフ 例のアラブ人・・・の妻とだ。いや、いい図だった。来るのが遅かったよ。
 バガマーゾフ いい図?
 ダルガルーコフ 手を撫でて。プーシキンの奴、またご褒美だ、きっと。
 バガマーゾフ どうも、お好きじゃないようですね、あの詩人が。
 ダルガルーコフ 大嫌いだ。滑稽だよ。寝取られ男の癖に。ここでは差し向かいの熱熱(あつあつ)場面。すぐそばのあの円柱のところで、酷いフロックコート姿で、髪振り乱し、目は狼のようにギラギラさせて突っ立っている。あのフロックコートは貴奴(きやつ)に高いものにつくぞ。
 バガマーゾフ 噂によれば、あなたのことを皮肉ってあの男、詩を書いたそうじゃありませんか。
 ダルガルーコフ 誰が気にするか、寝取られ男の書くものなどに。シッ、誰か来る。
(庭にゲッケレン登場。暫くしてプーシキナ。)
 ゲッケレン あなたのあとをずっとついて来たのですが、分かりました、何故あなたが「北の妖精サイキ」と呼ばれているか。その美しさなのですね。
 プーシキナ ああ、どうか男爵・・・
 ゲッケレン そうでした。もう取り巻き連中のこういうお世辞でうんざりなさっているのですね。どうかお坐りになって、ナターリヤ・ニカラーイェヴナ。私の話が退屈では?・・・
 プーシキナ いいえ。嬉しいですわ、わたくし。
(間。)
 ゲッケレン すぐ来ますよ、あいつは。
 プーシキナ わたくし、分かりませんわ! どなたのことをお話になっていらっしゃるのです。
 ゲッケレン ああ、どうかそのような話し方をなさらないで。私はお味方なのです。敵ではないのです。でもその美しさ、それがどんな不幸をこれからも齎(もた)らすことか。どうかあの息子を返して。どんな魔法を使ったんでしょう、あなたは。息子は今ではあなたを愛しているのです。
 プーシキナ お止めになって、男爵。そのようなお話は伺いたくありません、わたくし。
 ゲッケレン どうか行かないで。すぐ息子がやって来ます。二人が話せるようにと、私はわざとここに来たのですから。
(庭にダンテース現れる。ゲッケレン、傍に退く。)
 ダンテース 糞でも食らえ、こんな舞踏会! 近づこうにも、その機会がありゃしない。二人だけで話していたな、皇帝と。
 プーシキナ お願い、止めて! 何ですの、その顔! 客間からでも見えるんですよ、ここは。
 ダンテース 僕のことを責め立てておいて自分は何だ。裏切りはそっちじゃないか。手を触らせて! 放っていたじゃないか。
 プーシキナ (分かりました。)行きます。行きます、私。水曜日、三時。離れて、もう。お願い。早く!
(円柱からガンチャローヴァ登場。)
 ガンチャローヴァ 帰ってもいい頃ね、ナターリヤ。プーシキン、あなたのことを捜していたわ。
 プーシキナ ええ。ええ。Au revoir, monsieur le baron. (さようなら、男爵。)
 ゲッケレン Au revoir, madame. Au revoir, mademoiselle. (では失礼します、お二人様。)
 ダンテース Au revoir, mademoiselle. Au revoir, madame.(では失礼。)
(音楽、高らかに鳴り響く。プーシキナとガンチャローヴァ退場。)
 ゲッケレン お前のために大分犠牲を払ったんだぞ。覚えておいてくれなきゃな。(ダンテースと共に退場。)
(この時までにヴァランツォーヴァ、居間に現れている。客達が彼女に近づいては別れの挨拶をする。音楽、急に止む。ぱったりと静かになる。)
 ダルガルーコフ 実にいいもんだ、舞踏会ってやつは。全く、実に・・・
 バガマーゾフ やれやれ、何をまた!
(先程バガマーゾフが登場した、(家の)出口から、ヴァランツォーヴァ、庭に出て来る。大変疲れている。ベンチに腰掛ける。)
 ダルガルーコフ 舞踏会主催者、大使殿に感謝感謝だな。見たろう、事の成り行きを。プーシキンの奴、間男の角(つの)が、前と後ろに。前はダンテースの、後ろは皇帝のだ。なかなか愛すべきおっさんだよ、あいつは。
 バガマーゾフ ひどく嫌ったものですね、侯爵、あの男を。一体誰なんです? あいつに匿名の中傷を出したのは。誰にも言いません。誓いますよ。終世の友じゃありませんか。それにしても凄い中傷だ。あれなら森だって焼けてしまう。もう二箇月も探索が続いているのに、犯人が誰か分からないっていうんですからね。巧妙極まりない。ねえ、侯爵、誰なんです。
 ダルガルーコフ 誰だって? 俺が知るわけないだろう? 何故俺に訊くんだ、そんなことを。ま、しかし、誰がやっているにしろ、あいつにはそれが必要なんだ。忘れないからな、あれを。
 バガマーゾフ 慥に。あれじゃ忘れられっこない。さてと、退散します、侯爵。連中が外灯を消しに来る。見られちゃまずい。
 ダルガルーコフ じゃ、失敬。
 バガマーゾフ でも別れに際してちょっと、これだけは言っておきますよ、侯爵。そう。言葉には充分気をつけるんですね。(退場。)
(ダルガルーコフ、シャンペンを飲み干し、茂みから出る。)
 ヴァランツォーヴァ あ、侯爵。
 ダルガルーコフ 伯爵夫人・・・
 ヴァランツォーヴァ お一人で? 何故? (舞踏会で)退屈なさっていらしたのでは?
 ダルガルーコフ どう致しまして、伯爵夫人。お宅で催される舞踏会で退屈などと。素晴らしいです、実に!
 ヴァランツォーヴァ でも私、悲しいですわ、何故か。
 ダルガルーコフ 悲しいだなどと、そのようなことをお聞きすると、私も悲しくなってきます。でもそれは神経性のものです、きっと。
 ヴァランツォーヴァ いいえ、この悲しみは出口のないもの。ああ、なんて卑劣なことがこの世の中には溢れていることでしょう。そうお感じになりますわね、侯爵、あなたも。
 ダルガルーコフ ええ、それは、毎日。少しでも感受性のある人間なら誰でもそれを感じない訳には行きません。道徳が崩壊したのですよ。そういう時代なのです、侯爵夫人。でもこのような時に、何故そのような考えが・・・
 ヴァランツォーヴァ Pendar! (仏語 首つり役人)首つり役人! 卑劣漢!
 ダルガルーコフ 御気分がお悪いのですね、伯爵夫人! 人を呼びましょう。
 ヴァランツォーヴァ あなたが嘲笑っているのを聞いたのです。毒のある中傷を誰かが送っている。それを聞いてあなたは喜んでいました。・・・それをやっているのはあなたご自身です! あの人に余計な心配を与えるのが厭なので、あなたの名前は出しません。でも、その心配さえなければ、あなたを突き出しますわ、あの人の前に。あなたをぶっ殺せばいいの! 犬のように! 首吊り台にかけて吊るせば、なんてせいせいするでしょう。さ、出て行きなさい、この家から。出て行くんです! (退場。)
(灯が一つ一つ消えて行く。)
 ダルガルーコフ(一人になって。)聞かれてしまったか。糞っ、雌犬め! プーシキンの女か、あいつも。円柱の後ろで聞いた奴がいたんだ。そう、きっとそうだ。それもあの男の仕業だ。何もかもあの野郎のせいだ。よし見てろ。思い知らせてやる! 必ず、きっと思い知らせてやるぞ!
(びっこを引きながら円柱の方に退場。)
(暗転。緑色の幕。暗闇。幕の後ろに蝋燭が現れる。夜。国家公安委員会の一室。机についている男、レオーンチイ・ヴァスィーリエヴィッチ・ドゥービェリト。扉がそっと小さく開かれ、憲兵ラケーイェフ、登場。)
 ラケーイェフ 閣下、ビトゥコーフです。
 ドゥービェリト 通せ。
(ラケーイェフ退場。ビトゥコーフ登場。)
 ビトゥコーフ ご機嫌麗しう、閣下。
 ドゥービェリト うん。で、どうだ、お前の方は。元気になったか。
 ビトゥコーフ はい、閣下。お陰様で。
 ドゥービェリト お陰? お前のことなど、頭に浮かんだこともない。お陰とはな。しかし、回復したんだな? で、何だ、今日は。こんな夜更けに。
 ビトゥコーフ 小生、未履行の任務、これあり。病気休暇中も、終始当該案件が胸に掛かり・・・
 ドゥービェリト 胸に掛かろうと掛かるまいと、お前のことなど、陛下はどうでもいいのだ。任務は何だったのだ。誰かの監視なのだな。お前は全力をつくしてそれをやりさえすればいいのだ。それから言葉を飾る必要はない。ここは演説をする場所じゃない。
 ビトゥコーフ 畏まりました。侍従プーシキン秘密追跡調査の過程において小生、当該人物の自室に忍び込むことに成功しました。
 ドゥービェリト でかした。よくやったぞ。それでお前、どつかれずに済んだのだな?
 ビトゥコーフ 大丈夫です、それは。
 ドゥービェリト 下男は何と言ったかな。フロールじゃなかったか?
 ビトゥコーフ ニキータです。
 ドゥービェリト 間抜けのニキータか。それで?
 ビトゥコーフ 入ったところは、閣下、食堂になっておりまして・・・
 ドゥービェリト 分かっている。そこはとばせ。
 ビトゥコーフ 次の間が客間です。客間にはピアノがあり、その上に侍従閣下プーシキンの詩が置いてありました。
 ドゥービェリト ピアノの上に? どんな詩だ。
 ビトゥコーフ 
    「嵐を呼ぶ不吉な雲が、低く空を覆っている。
    嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、
    今度は丸く集める。
    ひゅうひゅう言う、嵐の声。
    時には獣のように唸り、また時には、
    子供のすすり泣きのように、かぼそく泣く。
    時には屋根の上の擦り切れた藁を、
    びゅっと鳴らし、
    また時には、遅く到着した旅人のように、
    家の窓を叩く。
    嵐を呼ぶ不吉な雲が、低く空を覆っている。
    嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、
    今度は丸く集める。
    ひゅうひゅう言う、嵐の声。
    時には獣のように唸り、また時には、
    子供のすすり泣きのように、かぼそく泣く。」
 ドゥービェリト 大変なものだな、お前の記憶力は。それで?
 ビトゥコーフ 危険なことでしたが、二度も書斎にまで入り込みました。本棚にはぎっしりと本が。
 ドゥービェリト どんな本だ。
 ビトゥコーフ 覚えられるだけのものは、覚えて参りました、閣下。暖炉の左手にあるものを順に述べます。「梟・・・夜の鳥」「騎士の娘」「快盗、ヴァニカ・カイン」「アルコール中毒について また誰にでも出来るその治療法・・・大学出版」・・・
 ドゥービェリト その本はお前に推薦出来るな。飲むんだろう、お前は。
 ビトゥコーフ いいえ。一滴も。
 ドゥービェリト 本はもういい。それで?
 ビトゥコーフ 今日、実に重大な紙切れを見つけました。床に落ちていたのです。「すぐに私のところに来ること。さもないと、大変なことになるぞ。」署名は、ウイリアム・ジューク。
(ドゥービェリト、ベルを鳴らす。ラケーイェフ登場。)
 ドゥービェリト  ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチを呼べ。
(ラケーイェフ退場。ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチ登場。文官である。)
 ドゥービェリト ウイリアム・ジュークの件は。
 ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチ 隈なく調べましたが閣下、サンクト・ピェチェルブールク(ペテルブルク)にはそのような人物は見つかりませんでした。
 ドゥービェリト 明日までに調べとけ。
 ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチ はあ、そのような人物は閣下、存在しないように思われます。
 ドゥービェリト 地に潜ったか。ペテルブルクには、イギリス人は一人もいないとでもいうのか。
 ラケーイェフ(登場して。)閣下、丁度その件に関して、バガマーゾフ侯爵様がお出でになりましたが。
 ドゥービェリト うん。お通しして。
(ラケーイェフ退場。バガマーゾフ登場。)
 バガマーゾフ 失礼致します閣下、ジュークなる人物の正体を捜索中とお聞きしましたので。それはジュコーフスキーです。時々あの男は、冗談にそう署名するのです。
 ドゥービェリト(ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチに、下ってよいと手で合図して。)下ってよい。(バガマーゾフに。)ちょっと席をお外し下さい、侯爵、後でまたお願いします。
(ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチとバガマーゾフ退場。)
 ドゥービェリト 何だ、この大馬鹿野郎。ただ飯食らいだぞ、貴様は。ヴァスィーリイ・アンドゥレーイェヴィッチ・ジュコーフスキー、皇太子の養育係、歴とした文官だ。その男の筆跡ぐらい見抜けなくてどうする。
 ビトゥコーフ はっ、これは大失敗で。申し訳ありません、閣下。
 ドゥービェリト 役所中が振り回されたぞ。貴様のせいだ。ぶん殴られてしかるべきところだ、ビトゥコーフ。それで?
 ビトゥコーフ はっ。今日のことです。夕方。机に手紙がありまして。外国人宛のものです。
 ドゥービェリト また外国人か。
 ビトゥコーフ はっ、さようで、閣下。ニェーフスキー通り、オランダ大使館、ゲッケレン男爵宛。
 ドゥービェリト ビトゥコーフ。(手を出す。)その手紙を! 出すのだ、その手紙を! 三十分以内に持って来い。
 ビトゥコーフ 手紙を? 手紙を持って来るのですか? 御想像下さい、閣下。手をわななかせながら部屋に忍び込む私を。何時なんどき彼が帰って来るか分からないのです。手紙を持って来る。それは危険です。
 ドゥービェリト 給料を受け取る時、貴様の手はわななきはせんぞ。(まあいい。分かった。手紙はいい。しかし)しっかり探るんだ。何時その手紙が渡されるか、大使館の誰に受け取られたか、また誰によって返書が運ばれたか。行け。
 ビトゥコーフ 畏まりました。閣下、私の報酬のことなのですが、支払いをどうか。
 ドゥービェリト 貴様の報酬? あのジュークの件で帳消しじゃないのか、お前の報酬など。(まあいい、)ヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチのところへ行って支払って貰え。三十ルーブリだ。
 ビトゥコーフ 三十ルーブリですって? 閣下。私には子供達もいるのです・・・
 ドゥービェリト 「イスカリオテのユダ、主教のもとに出でたり。ここにおいて主教、ユダに約せり・・・」何を約束したか。なあ、ビトゥコーフ、銀三十枚だ。それにちなんで、私は誰にでも、報酬は三十と決めている。
 ビトゥコーフ お願いです閣下、せめて三十五に・・・
 ドゥービェリト 三十五。それはちょいと、振る舞い過ぎだな。行け。それから、バガマーゾフ侯爵に、またここへと。
(ビトゥコーフ退場。バガマーゾフ登場。)
 バガマーゾフ 当ててご覧になりますか閣下、この紙が何か。
 ドゥービェリト 当てっこするなどと、愚劣ですな。それはゲッケレン宛の手紙の写しですよ。
 バガマーゾフ 驚きました。まるで魔法使いですね、閣下は。(紙を差し出す。)
 ドゥービェリト いえいえ、魔法使いはそちらの方です、侯爵。どうやって手に入ったんでしょう、これが。
 バガマーゾフ いえ。単に屑籠に捨ててあったのです。下書きですから、残念ながら全文ではありませんが。
 ドゥービェリト 実に有り難い。それでもう発送されましたか。
 バガマーゾフ 明日侍僕が持って行く筈です。
 ドゥービェリト 他に何かございましたかな、侯爵。
 バガマーゾフ サルトゥイコーフ家で、文学のサロンが催されました。
 ドゥービェリト あのおいぼれのほら吹き奴が。どんなことを言ってました。
 バガマーゾフ 罵詈雑言です。陛下のことをル・グラン・ブルジュワだと。(訳註 「大工場主」ほどの意。)(紙を取り出して。)その時にピェーチャ・ダルガルーコフが書いたものですが・・・
 ドゥービェリト あのびっこがか・・・
 バガマーゾフ そうです。
 ドゥービェリト 成程。で、他には? 侯爵。
 バガマーゾフ ヴァランツォーフ家で舞踏会が。(と言いながら先程の紙を手渡す。)
 ドゥービェリト(紙を受け取って。)これは有り難い。
 バガマーゾフ 閣下、あの男は気をつけなければいけません。あらゆる所に毒を流す人物です。その影響は、図り知れません。他の人間を全て奴隷呼ばわりです。もう一方の足も切り落としてやればいいんです。自分は殉教者の出だなどとほざきおって。
 ドゥービェリト 「出」ではなく本人が殉教者になる番ですな。
 バガマーゾフ ではこのへんで閣下、失礼を。
 ドゥービェリト よい仕事をして下さいましたな、侯爵。いづれこのことは伯爵にご報告致します。
 バガマーゾフ これは有り難いです。自分の義務を果たしたまでのことで。心から感謝致します。
 ドゥービェリト ええ、ええ。義務は義務として、侯爵、先立つものが必要じゃありませんかな?
 バガマーゾフ ええまあ、二百ルーブリあれば。
 ドゥービェリト では切りのいいところで三百ということに。十ルーブリ紙幣三十枚。どうかヴァスィーリイ・マクスィーマヴィッチのところでお受け取り下さい。
(バガマーゾフ、一礼して退場。)
 ドゥービェリト(バガマーゾフから渡された紙を読む。)「・・・嵐を呼ぶ不吉な雲が、低く空を覆っている。嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、今度は丸く集める・・・」(物音に耳をすます。窓から外を見る。肩章を直す。)
(扉が開き、憲兵パナマリョーフ、その後に扉のところにニカラーイ一世、登場。ニカラーイ一世は頭に重騎兵の兜、軍外套姿。そしてその後ろにベンケンドールフ。)
 ドゥービェリト ご機嫌うるわしう、陛下。ご報告申し上げます、陛下、当憲兵隊においては、全てが順調であります。
 ニカラーイ一世 伯爵とここを通りかかってな。お前のところにまだ灯がついているのを見たのだ。仕事なのだな。邪魔かな?
 ドゥービェリト パナマリョーフ、外套を。
(パナマリョーフ、二人の外套を恭しく取り、退場。)
 ニカラーイ一世(自分が最初に坐り。)坐ってくれ、伯爵。お前もだ、ドゥービェリト。
 ドゥービェリト(立った儘。)畏まりました、陛下。
 ニカラーイ一世 何だ。何の仕事なのだ。
 ドゥービェリト 詩を読んでおりまして、陛下。陛下にご報告申し上げようと考えておりました。
 ニカラーイ一世 では仕事を続けるんだな。邪魔はしない。
(ニカラーイ一世、そのへんにある本を取り上げ、めくって見る。)
 ドゥービェリト やくざな文人達のやることですが、陛下、ご覧下さい。ブリュローフの描いたキリストの磔(はりつけ)の絵があります。この絵について書いたプーシキンの詩を書き写して広めようと、連中がこの通り・・・ご記憶のことと思いますが陛下、陛下はあの絵に見張りをつけるようにとお命じになりました。詩の断片しか、残念ながら入手出来ておりませんが・・・(読む。)

   しかし今、その聖なる十字架の絵の傍らに、
   まるで市長の家の玄関を護るかのように、
   本来そこには、
   尼さんこそが控えているべき場所なのに、
   鉄砲を抱え、軍帽をかぶった厳(いか)めしい兵士が
   二人立っている。
   何のための見張りなのか、誰か教えてくれないか。
   この磔の絵が、国家の持ち物で、
   盗難に遭うのを恐れているとでも言うのか。
   或いは鼠に引かれて行くのを。
ここで飛びます。
   それとも民衆がその絵に辱めでも与えはしまいかと、   恐れているのか。
   そもそも、その民衆の罪の贖いのためではないか、
   彼が十字架にかかって死んでいったのは。
   (その男の絵に、
   民衆が辱めを与えるはずがないではないか。)
   或いは旦那衆がその絵をご覧になるのを、
   民衆が押しかけて行って、
   邪魔することのないようにと、か。
 ベンケンドールフ その詩の題は?
 ドゥービェリト 「民衆の力」です。
 ニカラーイ一世 どんなことでもやらかすぞ、あの男は。神への畏敬、祖国に対する愛、それは毛ほどもありはしない。ああ、ジュコーフスキー、いくらお前の弁護があろうと・・・それにしてもあの男、よく回る舌だ。・・・可哀相なのは家族だ。あいつの妻・・・いい女なのに。・・・他には。
 ドゥービェリト もう一つ詩の写しが、陛下。学生、アンドゥリェーイ・スィートゥニコフを家宅捜索した際に見つけたもので。やはりアー・プーシキンと署名が。
 ベンケンドールフ どんなものだ。
 ドゥービェリト 恐れながら。お読みするのは憚られまして。
 ニカラーイ一世(本をめくりながら。)読みたまえ。
 ドゥービェリト(読む。)
   ロシアには法などない。
   あるのは棒切れだ。
   その棒っ切れの上に王冠が乗っている。
 ニカラーイ一世 それも奴か。
 ドゥービェリト はい。写しの最後にアー・プーシキンと。
 ベンケンドールフ 厭うべきことが書かれていると、必ず署名はそれだ。そういう役割も演じているのだ、あいつは。
 ニカラーイ一世 お前の言う通りだ。(ドゥービェリトに。)そこも調べるんだな。
 ベンケンドールフ 他には? 差し迫っているものが何かあるのか。
 ドゥービェリト はい。正にその差し迫った事が。明後日までにこの町で決闘が行われます。
 ベンケンドールフ 誰と誰のだ。
 ドゥービェリト 陛下にお仕えする侍従、アリェクサーンドゥル・スェルゲーイェヴィッチ・プーシキン。対する相手は、騎兵隊中尉、男爵イェゴール・オースィッパヴィッチ・ダンテース。父親のゲッケレン男爵に宛てて、プーシキンは挑戦的な手紙を書きました。その下書きの写しを手に入れております。
 ニカラーイ一世 手紙を読むんだ。
 ドゥービェリト(読む。)「これこそ父親が子供にやってやれる父親らしい行為だ。女衒、老練なポン引きの仕事。私の妻に言い寄り、物陰に誘い、どこの馬の骨に生ませたともつかぬ、自分の息子の恋情を囁く。また息子が不名誉な病気にかかり、家に臥せっている時に、その父親から出た台詞は・・・」ここは省略。「・・・私はもう、妻には聞かせたくない、放蕩息子に踊らされている父親の戯言(たわごと)を・・・」省略。「・・・それでもご子息は小生の妻に言い寄られた。即ちこれはかの馬鹿息子が、やくざな破廉恥漢であることを示しており、小生はここに正式に・・・」
 ニカラーイ一世 哀れな最後を遂げることになるな、貴奴は。言っておくぞ、ベンケンドールフ。きっと哀れな最後だ。今からでも見えるようだ。
 ベンケンドールフ あの男は、陛下、何かと言うとすぐ「決闘」と来る男でして。
 ニカラーイ一世 ゲッケレンが奴の妻に近づいたというのは本当か。
 ドゥービェリト(紙片を見ながら。)本当です、陛下。昨日はヴァランツォーヴァ家の舞踏会で。
 ニカラーイ一世 公使の地位にいながら・・・許せよ、ベンケンドールフ。このような厭わしい仕事をそちに託さねばならんとは。全く腹立たしい。
 ベンケンドールフ 小生の義務でございます、陛下。
 ニカラーイ一世 プーシキン、薄汚い人生を送ってきた男なのだ。子々孫々、あの汚点を洗い流すことは出来ぬぞ。どんなことをしようと。決して。あいつの詩には「時」がその報いを与えるのだ。言葉に対するあのような才能を、国家の栄光にではなく、恥部にのみ向ける。(なんて奴だ。)死にざまは無残なものだぞ、きっと。キリスト教徒として死ぬことは出来まい。・・・決闘者は法に従って厳正に処分するのだ。いいな。(立ち上がる。)お休み。見送りは不要だ、ドゥービェリト。長居をした。もう寐る時間だ。
(ベンケンドールフと共に退場。)
(暫くしてベンケンドールフ、帰って来る。)
 ベンケンドールフ 気高いお心であらせられる、陛下は。
 ドゥービェリト はっ。全く。
(間。)
 ベンケンドールフ で、決闘の処置は?
 ドゥービェリト ご命令通りに、閣下。
(間。)
 ベンケンドールフ ピストル所持、決闘の現行犯として逮捕すべく人を配置するように。ただ、よく注意してくれ。場所の変更があり得るぞ。
 ドゥービェリト 畏まりました、閣下。
(間。)
 ベンケンドールフ ダンテースの腕は?
 ドゥービェリト 十歩の距離で、スペードのエースを。
(間。)
 ベンケンドールフ 陛下もお可哀相に。
 ドゥービェリト はっ。全く。
(間。)
 ベンケンドールフ(立ち上がりながら。)人間の配置にはよくよく注意を払うんだ、ドゥービェリト。いいか、場所違いをしないようにするんだぞ、場所違いを。
 ドゥービェリト 畏まりました、閣下。
 ベンケンドールフ これで行くぞ。ゆっくり休むんだな、ドゥービェリト。(退場。)
 ドゥービェリト(一人になって。)「・・・嵐を呼ぶ不吉な雲が、低く空を覆っている。嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、今度は丸く集める・・・」「場所違いをするな」か。うまく言うもんだな。「つむじ風が、今度は丸く集める・・・」場所違いか。(ベルを鳴らす。)
(扉が小さく開く。)
 ドゥービェリト ラケーイェフを呼べ。
                    (暗転)
                    (幕)

     第 三 幕
(ゲッケレンのアパート。絨毯、絵、武器のコレクションあり。ゲッケレン、坐ってオルゴールを聴いている。ダンテース登場。)
 ダンテース お早うございます、お父さん。
 ゲッケレン あ、お前か。お早う。さ、こっちに。坐るんだ。長いこと見なかったな。私は淋しかったよ。何か悩んでいる顔だな、その顔は。話してくれないか。お前がこんな風だと、この私までが苦しくなってくる。
 ダンテース J'etais tres fatigue ces jours-ci. (この頃どうも疲れがひどいのです。)憂鬱病です、きっと。もう三日も続けて吹雪。百年ここに住んでも、この天候には慣れることは出来ません。やけくそですね、僕など。雪が飛んで、あたり一面、白いだけ。
 ゲッケレン 塞ぎの虫に取りつかれているんだ、それは。下らん。
 ダンテース 雪、雪、雪。何て退屈なんだ。通りに狼が出て来てもおかしくない天気。
 ゲッケレン 私はこれに十四年も付き合って来て、もうすっかり慣れた。Il n'y a pas d'autre endroit au monde, qui me donne, comme Petersboug, le sentiment d'etre a la maison. (寛いだ気分になれるのは、このペテルスブルグだ。他の街ではこうはいかない。)退屈が始まると、私は人から離れて、一人で閉じ籠もる。そして考える。するとたちまち退屈は吹っ飛んでしまう。ほら、聴いてご覧。実に良い音だ。今日求めて来たものだ。
(オルゴールを鳴らす。)
 ダンテース お父さんのその情熱が分かりませんね。こんながらくた。
 ゲッケレン いやいや、がらくたではない。女が着物(ドレス)を欲しがるように、私はこういうものが好きなのだ。で、どうなんだ、お前は。
 ダンテース どうも気分が塞いで。
 ゲッケレン 何故あんなことをやったんだ、ジョージ。二人だけで波風の立たない静かな生活を送っていたじゃないか。
 ダンテース 馬鹿なことを言わないで、お父さん。僕がイェカチェリーナと結婚しないわけには行かないのを、お父さんだってよくご承知の筈じゃありませんか。
 ゲッケレン そこなんだ、私の言いたいのは。お前のその、女に夢中になる癖、そのお前の癖のせいで、この家の屋台骨もぐらついてきている。(それが分からないのか。)この家に女がやって来る。その度毎に、私はこの家から追い出されるんじゃないかと不安になる。私はお前を失い、その代わりにこの家に入って来るものは、妊娠した女、通りの喧騒、噂、噂、噂、だ。私は女は嫌いだ。
 ダンテース Ne croyez pas de grace que j'aie oublie cela ...(そんなことが僕に分かっていないなどと、どうか思わないで下さい。)よく分かっているんです、僕には。
 ゲッケレン この親不孝もの奴が! 家庭の平安をお前は目茶目茶にしたのだ。
 ダンテース お父さん、(大抵にして下さい。)うんざりです、説教は。今までのこと全て、最後には結局、ぐしゃぐしゃになって消えて行ったじゃありませんか。(今度だって・・・)
 ゲッケレン フン、それなら、今度の話ももう不満はないんだな。お前はあの女に会えた。望みは達せられたのだ。(お前はお前さえ良ければいいんだ。)私のことなどどうでもいいんだからな。私以外のどんな人間だって、お前にはとっくに背を向けていたろうよ。
 ダンテース ナターリアをパリに連れて行くんだ、僕は。
 ゲッケレン 何だって? ああ、何という。さすがの私も、お前がそこまでやるとは思っていなかった。お前にはそれがどういうことか分かっているのか。お前は私の心の平安を奪うだけではない、この生活全体を粉微塵にしようとしているのだ。妊娠している妻を見捨てて、その妹を奪い去って駆け落ち! 獣(けだもの)だ。この私はどうなると思っているんだ。積み上げてきたこれまでの経歴、全て終わりだ。水の泡だ。いや、信じない。私は信じないぞ。そんなお前の冷酷で残忍な仕打ちを。何ていう自己愛だ。自分勝手な! その愚劣さがお前には分からないのか。
(扉にノックの音。)
 ゲッケレン 何だ。
 下僕(入って来て、手紙を渡す。)旦那様にと。(退場。)
 ゲッケレン ちょっと待っていてくれ。いいな?
 ダンテース ええ。
(ゲッケレン、手紙を読む。それをダンテースに渡す。)
 ダンテース 何ですか。
 ゲッケレン 言わんこっちゃない。読んでみろ。
 ダンテース(読む。)なーるほど。
(間。)
 ゲッケレン あいつめ、何ていう奴だ。自分の相手が誰か、一体分かっているのか。よし、あいつは抹殺だ。必ず破滅させてやる。・・・この私に向かって・・・
(間。)
 ゲッケレン 酷いことになったぞ、これは。全く酷いことに。お前だ、お前の蒔いた種だ。
 ダンテース それは八つ当たりです、お父さん。当たるべき相手はあちらでしょう?
 ゲッケレン あいつは気違いだ。獣(けだもの)だ。ジョルジュ、お前はこの私をあの決闘気違いの手に渡したんだぞ。
 ダンテース 早まらないで、お父さん。(窓の傍に行く。)人のやる事・・・どうせ最後は死んで終か・・・この手紙の主役はお父さんじゃありません。どうもこの男は文章がなってない。これでよく自分を文学者だなどと思っているものだ。以前から僕は気づいていたのです。あいつは文章がなっていないと。
 ゲッケレン そんなことを言って一体何になるんだ。くだらない。(それより)何故お前はあいつの家に行ったのだ。その結果私が演じる嵌めになったその役を考えてみたことがあるのか、お前は。あいつはもう既に一度、我々に襲いかかったことがある。あいつの剥き出した歯、あれを私は未だに忘れることが出来ない。何故お前はあの女にちょっかいを出したがるのだ。
 ダンテース 愛しているからです。
 ゲッケレン 何が愛だ。快楽を漁っているだけじゃないか。反論は許さん! しかし、こうなった今どうすれば・・・決闘を挑むのか、あいつに。しかし陛下に顔向けが・・・たとえ何か奇跡が起こってあいつを倒すことが出来たとしても・・・ああ、どうしたものか。
(ノックの音。下僕、ストゥローガノフを導き入れる。ストゥローガノフは盲(めくら)。下僕退場。)
 ストゥローガノフ Mille excuses.(どうぞお許しを。)お許し下さい、親愛なる男爵。食事の時間にすっかり遅れてしまいました。しかし、お聞き下さい、あの音。どうなっているのでしょう・・・こんなに吹雪く日は全く生まれて初めてです。
 ゲッケレン どうぞどうぞ、伯爵。(遅刻だなどと、)何時いらして戴いても大歓迎です。
 ストゥローガノフ(ダンテースの手を、手で触れて見つけて。)これはお子様のゲッケレン男爵ですな。あなたの手は覚えておりますよ。しかし、これは冷たい。氷のようだ。何か心配事がおありですな。
 ゲッケレン 私に、伯爵、災いが降りかかって来たのです。どうか私共にお力を、お知恵をお授け下さい。たった今、ジョルジュと私を憎んでいる男から酷い手紙を受け取ったのです。
 ダンテース お父さん、まずいです、その手紙を公表するのは。
 ゲッケレン いや、お前の口出しは無用だ。これは私宛ての手紙なんだからな。それに伯爵は私の友人だ。実はプーシキンからのものなのです。
 ストゥローガノフ あの、例の?
 ゲッケレン そうです。我々を憎んでいる者達の、根も葉もない噂、それがこの飛んでもない、馬鹿馬鹿しい言いがかりの原因なのです。嫉妬深い、あの気違いは、このダンテースが、あの男の妻に懸想したと勝手に想像し、侮辱に対しては侮辱でお返しをと、私に悪口雑言の手紙を寄越したのです。
 ストゥローガノフ 私には姪がおりましてな、美人になる素質は充分あったのですが、今ではどうですか、私にはその自信がなくなりましたな。
 ゲッケレン 聴いて戴きたいと先程お願い致しましたあの男の手紙、汚(けが)らわしい言葉で満ちており、お聞かせするのも憚られるようなものですが・・・(読み上げる。)「・・・これこそ父親が子供にやってやれる父親らしい行為だ。女衒、老練なポン引きの仕事。私の妻に巧妙に言い寄り、物陰に誘い、どこの馬の骨に生ませたともつかぬ、自分の息子の恋情を囁く・・・」汚れのない母親の名前を、何ていうことだこの男は、腹立ち紛れに汚泥の中に放り込むとは。ジョルジュを私が唆(そそのか)したなどと、一体誰があの気違いに吹き込んだのだ。この先の方に、ジョルジュが忌まわしい病気に掛かっていると書いている。あの子にそれは酷い罵詈雑言を浴びせています。ああ、私はこれ以上お聞かせすることは出来ません。
 ストゥローガノフ ロシヤの貴族が書いたのではありません、それは。ああ、何という時代、何という放埒か。親愛なる男爵、あの男が決闘の手袋を投げつけたのは、男爵に対してのみではありません。あのような手紙を王の代理人ともある人物に書いて寄越す。これは社会に対する挑戦です。カルボナリ党員です。男爵、これはいけません。危険な手紙ですぞ、これは。
 ゲッケレン どうしたらいいでしょう、私は。あの男に決闘を申し込むべきなのでしょうか。王の代理人なる地位にあるこの私が。ああ、伯爵、私はもう駄目です。何かよい策を。どうか。決闘しかないのでしょうか。
 ストゥローガノフ いや、それは・・・
 ゲッケレン 毒のある野獣のように襲いかかって来た。(一体何のつもりなのだ。)息子の方は口実になるようなことを全くしていないのです。
 ストゥローガノフ こんな手紙が来た今となっては、口実を与えたの与えないだの、問題ではありません、男爵。とにかくあなたが決闘するのは問題外です。息子が逃げたのだ。父親を代わりに出したのだと言われるだけです。
 ダンテース 私について、人が何と言うと仰いましたか。
 ストゥローガノフ いやいや、人に何も言わせるものじゃありません。私に策が・・・(ゲッケレンに。)返事はこうなさるのです。ダンテース男爵が貴殿に決闘を申し込む、と。そしてご自身についてはただ一言・・・請い願わくは、当方の身分官職に多少の敬意が払われんことを、と。
 ダンテース 分かりました。そのように。
 ゲッケレン よし、そのように。伯爵、心から感謝致します。すっかりご好意に甘えてしまいました。しかしどうかお許しを。降って湧いたこの侮辱、その重さを御配慮下さいますように。さ、伯爵、食事の用意が出来ております。
(ストゥローガノフを導き、退場。)
(ダンテース、一人残る。突然オルゴールの箱を取り上げ、床に投げつける。呻くようなオルゴールの音。ダンテース、ピストルを取り出し、狙いもつけず、絵にぶっ放す。ゲッケレン登場。)
 ゲッケレン 何をする! ああ、心臓が!
(ダンテース、黙った儘向きを変え、立ち去る。)
(暗転。)

(暗闇から、冬の日没の、赤紫色の太陽が見えて来る。光線が雪の吹き溜まりに当たっている。アーチ型の橋。静寂。無人。暫くして橋にゲッケレン登場。我に無い様子。何かを遠くに見つけようとする目つき。もう少し先に進もうとする。その瞬間、ピストルの発射音が届く。あまり大きな音ではない。ゲッケレン立ち止まる。橋の欄干に縋る。間。再びあまり大きくないピストルの発射音。ゲッケレンうなだれる。間。)
(橋にダンテース登場。軍用外套を片方の肩にのせている。外套は(持つ場所が悪く、)地面にまで垂れ下がっている。フロックコートは血と雪に塗(まみ)れている。その片方の袖が千切れている。ハンカチで片手が包帯されており、ハンカチは血に染まっている。)
 ゲッケレン 神様、ああ、神様。有り難うございます。(十字を切る。)さ、私に凭れて。このハンカチでそこを。
 ダンテース いらない。(欄干に縋る。唾を吐く。血が混じっている。)
 ゲッケレン 胸か。胸を狙われたのか。
 ダンテース あの男、狙いは良かった。ただ運がなかった。
(ダンザース、橋を渡って登場。)
 ダンザース あの馬車はお宅の?
 ゲッケレン そう。そうそう。
 ダンザース 相手方の方に廻して戴けないでしょうか。
 ゲッケレン ええ、いいです。
 ダンザース 馭者! おい、お前。乗るんだ、馬車に。降りて行くんだ。下に道がある。何だその目は。馬鹿者! 見せ物じゃない! 早く行け。野原に通じる道がある、下に。
(橋から走り降りる。)
 ゲッケレン(小声で。)で、あいつは?
 ダンテース もう何も書かない、あの男は。
                    (暗転。)

(闇の中から冬の日没。日がまさに落ちんとする時間。プーシキンの部屋。書斎の暖炉の傍の長椅子にニキータ、眼鏡を掛けてノートを見ている。)
 ニキータ(読む。)「この世に幸せはない。」・・・そう、ここには幸せはない。「しかし平静と自由がある。」ないない。平静も自由も。毎日毎日、一睡も出来ないでいて、何が平静がある、だ。「私、この疲れた奴隷は、逃亡をもくろんでいる。」逃亡? 何処へ、何をもくろんで。
(ビトゥコーフ登場。)
 ニキータ 「私、この疲れた奴隷は、逃亡をもくろんでいる。」分からない、何のことか。
 ビトゥコーフ 「遠い使役と喜びに。」・・・今日は、ニキータ・アンドゥレーイェヴィッチ。
 ニキータ この詩の続き? どこで覚えて来た?
 ビトゥコーフ 昨日。シェピェリェーフスキーのお屋敷に行ったんだ。ジュコーフスキーさんの望遠鏡を直しにね。その時みんなに丁度その詩を読んで聞かせていらしたから。
 ニキータ ああ、そう。
 ビトゥコーフ みんないい詩だって言ってた。深いんだって。
 ニキータ うん、深い。深いよ、この詩は。
 ビトゥコーフ それでその詩の作者、その人は?
 ニキータ ドライヴだ。ダンザースさんと。多分山の方に。
 ビトゥコーフ ダンザースさんと? 軍人じゃないか、あの人。大佐の。それでこの時間まで戻って来ない?・・・それは・・・
 ニキータ 何だい、その興奮の仕方は? 一杯やって来たのか?
 ビトゥコーフ いや、とにかく遅いのが心配なんだ。もう食事の時間なんだろう?
 ニキータ 何を言ってるんだ、お前。お前、夕食にでも招待されているのか、うちに。それより書斎の時計でも見て呉れ。一体何を直したんだ? 一時を指しているのに、十三回鳴ったぞ。
 ビトゥコーフ 見る見る。ちゃんと直す。隅から隅まで。(書斎の奥へと退場。)
(玄関のベルが鳴る。食堂を通って客間にジュコーフスキー登場。)
 ニキータ 閣下、これは。
 ジュコーフスキー どうした、ドライヴだと? 家にいないのか。
 ニキータ ガンチャローヴァ様お一人で・・・お子様方は乳母がお連れして、侯爵様宅へ。
 ジュコーフスキー どうなっているんだ、これは一体。お前に訊いているんだ、ニキータ。
(ガンチャローヴァ登場。)
 ガンチャローヴァ まあ、なんて嬉しいんでしょう、ジュコーフスキー様。よくいらっしゃいました。
 ジュコーフスキー 今日は、ガンチャローヴァさん。ちょっとどうなっているのですか、これは。私は子供じゃないんですよ。
 ガンチャローヴァ お顔の色がお悪いわ、ジュコーフスキー様。どうかなさったのですか。どうぞ、お掛け下さい。
 ジュコーフスキー Ma sante est gatee par les attaques de nerfs ...(神経を使い過ぎて、体までやられてしまったのです。)それもこれもみんな彼のせいだ。
 ガンチャローヴァ まあ、あの人のせい?
 ジュコーフスキー そうです。考えても見て下さい。昨日気が狂ったような勢いで馬車を飛ばしている男がいる。誰かと思えばプーシキンだ。それが窓から顔を出して大声で、「今日は駄目になった。伺えない。明日僕の家へ来て呉れ。」と怒鳴る。私は仕事をうっちゃってここへ来て見る。するとどうだ、ドライヴにお出かけだと?
 ガンチャローヴァ どうぞ許して上げて、あの人を。お願いです。きっと何か、何かが、ちょっとした行き違いがあったんですわ。そう、あの人にあんなによくして下さって、いっぱいキスして上げなくちゃいけないんだわ。
 ジュコーフスキー いっぱいキスなど真っ平・・・あ、これは失礼、つい我を忘れて・・・優しいキスにはこの何年見放されている! 私が奔走しているのは一体何の為だ! 全く。私がやっとのことで何とかことを丸く収めようとする。と、彼が出て来てぶち壊すのだ! しかし知性はまだやられていないようだ。だからもし今度また馬鹿なことをやらかしたら、もう我慢はならない。一発食らわすまでだ。
 ガンチャローヴァ 何があったんですの? ジュコーフスキーさん。
 ジュコーフスキー 陛下が彼のことを怒っていらっしゃるのです。何ってこれですよ。一昨日、舞踏会の時、陛下は・・・ええい、どうお話すれば・・・こちらまで顔が赤くなって来る。陛下はご覧になったのです。彼が黒のフロックコートに黒のズボンで円柱の傍に立っているのを。ちょっと失礼、ガンチャローヴァさん。ニキータ!
(ニキータ登場。)
 ジュコーフスキー 御主人様にお前、何を着せたんだ、舞踏会の時。
 ニキータ フロックコートです。
 ジュコーフスキー それが駄目なんだ! 文官服、文官の制服だ、そういう時は。
 ニキータ 御主人様の御命令でして。制服はお嫌いだと仰って。
 ジュコーフスキー 嫌いだろうと何だろうと構わん。旦那様がもしパジャマで行きたいと言ったら、お前はどうするんだ。こういうことはお前の仕事なんだ、ニキータ。いいか。よし、下がってよい。
 ニキータ ああ、何たること。まことにどうも・・・
 ジュコーフスキー いい恥晒しだ。陛下はフロックコートがお嫌いなのだ。我慢がならないと思っていらっしゃる。(それなのに着て行くとは。)彼にはそんな権利はない! 制服を着る他はないんだ! 全く何様だと思っているんだ。不作法な! わざわざフロックコートで! おまけに退役したいなどと言い出したそうじゃないか。選りによってこんな時に。退役に値する何をやったと言うんだ。何もしていないこんな時期に! 大見得を切った歴史書はどうなったのですか。出来たんですか。何もやってないじゃないですか、ガンチャローヴァさん。それに彼が新しく書いた詩についてまた人が噂をし始めました。前の時のあの成り行き、覚えていらっしゃいますね・・・贔屓の引き倒し、余計な取り巻きが多すぎるんです。これがまた拡がって、大変なことになって仕舞うんです!
 ガンチャローヴァ ああ、何て恐ろしい話なんでしょう。でもあの人、最近何か酷く心配な様子で、それがもとで、体の具合も悪いんですの・・・私、こうやってちょっと目を瞑(つぶ)ります。すると、奈落の底に落ちて行くような気持ちになるのです・・・ああ、何もかも、こんがらがって・・・
 ジュコーフスキー こんがらがらがったら解(ほど)かなければいけないのです。馬鹿なことなんですから、全く。陛下は優しい心の持主です。でも怒らせてはいけません。怒らせては。どうか、ガンチャローヴァさん、妹さんにお話し下さい。一旦陛下の不興を買えば、二度と取り返しはつかないと。
 ガンチャローヴァ ご親切に。何とお礼を申し上げたらよいか・・・
 ジュコーフスキー お礼、お礼。(お礼が何になりますか。)私は彼の乳母ではないんですからね。好きなように勝手に人を傷つければいいんです。結局傷つくのは自分なのです。・・・これで私、失礼します、ガンチャローヴァさん。
 ガンチャローヴァ いいえ、いいえ、どうかもう少し・・・今お帰りだなんて、どうして・・・もう少しいらして。あの人もすぐ帰って来ます。本当にすぐ・・・
 ジュコーフスキー あの男に会うつもりなどありません。それに時間もありませんし。
 ガンチャローヴァ どうかお怒りを解いて。よく言って聞かせれば、あの人だって・・・
 ジュコーフスキー もう結構。うんざりです。En cette derniere chose je ne compte guere. (その最後のこと・・・言って聞かせれば直る・・・など、もう私の仕事じゃありません。)(扉に進む。ピアノの上に本が積み重ねてあるのを見る。)この本は見たことがない。新版のアニェーギンですか? それはいい。
 ガンチャローヴァ 今日印刷所から届きまして。
 ジュコーフスキー それはいい。いや、それは良かった。
 ガンチャローヴァ 私、もうその本で占って見ましたわ。
 ジュコーフスキー 本で占う? どうやるのかな。では占いを。私にも。
 ガンチャローヴァ ではどうぞ。どこかページを。
 ジュコーフスキー 百四十四ページ。
 ガンチャローヴァ で、行は?
 ジュコーフスキー 十五行目。
(ビトゥコーフ、部屋の暖炉のところに現れる。)
 ガンチャローヴァ(読む。)「異なる願いが声を上げ、私はその声を知った。」
 ジュコーフスキー 私が? ああ、そうだ。
 ガンチャローヴァ 「新たな悲しみを知ったのだ。」
 ジュコーフスキー そう。その通りだ。
 ガンチャローヴァ 「最初の希望は消えて行き・・・」
 ビトゥコーフ(囁く。)「古い後悔で胸は疼く。」
(ビトゥコーフ、書斎へ退場。)
 ジュコーフスキー で、次は?
 ガンチャローヴァ 「古い後悔で胸は疼く。」
 ジュコーフスキー 心の中のごちゃごちゃした所から、彼はどうやって纏まった考えを切り出せるのか。そしてそれに対応する形のある言葉を、どうやってあんなにうまく見つけて来るのか。ああ、空を駆けめぐる男、あの熱い血潮・・・恩知らずの馬鹿者! 鞭打ちだ! ちゃんと行儀を教えなきゃいかん!
(黄昏。部屋が暗くなってくる。)
 ガンチャローヴァ では今度は私に。
 ジュコーフスキー ページは?
 ガンチャローヴァ 百三十九。
 ジュコーフスキー 行は?
 ガンチャローヴァ やはり十五行目。
 ジュコーフスキー(読む。)「面白い、寸鉄人を刺す箴言で、間違っている敵をやっつけるのは・・・」
(プーシキナ、扉のところに登場。立ち止まる。)
 ジュコーフスキー「違うな。(読み方が。)面白い。寸鉄人を刺す箴言で間違っている敵をやっつけるのは。・・・いや、それよりも、黙って彼に墓穴を用意して置く、こちらの方が面白い。」ああ、ガンチャローヴァさん、これはあなたの運勢とは関係ありませんでしたね。あっ、ナターリヤ・ニカラーイェヴナ、失礼しています。すみません、大きな声を出して詩を読んだりして。」
 プーシキナ 今日は、ジュコーフスキーさん。お会い出来て嬉しいですわ。どうぞお気のすむまでお読みになって。私、詩は嫌い。あなたのは別ですけど。
 ジュコーフスキー ナターリヤ・ニカラーイェヴナ。どうか、そのようなことは・・・
 プーシキナ いいえ、あなたのものは別ですわ、ジュコーフスキーさん。Votre derniere ballade m'a fait un plaisir infini ... (ついこの間のお作、素晴らしいものでしたわ。)
 ジュコーフスキー 聞こえません、私には、そのようなお話は・・・
(書斎で時計が鳴る。)
 ジュコーフスキー (あ、もう。)私は皇太子様のところへ参らねばなりません。Au revoir, chere madame, je m'appercois, que je suis trop bavard ... (では失礼します、奥様。どうやら私、お喋りが過ぎたようでして・・・)
 プーシキナ どうぞお食事を、御一緒に。
 ジュコーフスキー お言葉、有り難うございます。しかし、行かねばなりませんので・・・ Au revoir, mademoiselle(失礼します、ガンチャローヴァさん。)どうか、彼に先程のことを。あ、お見送りは結構です。(退場。)
(暗くなる。)
 ガンチャローヴァ ジュコーフスキーさんはね、ターシャ、あの人が舞踏会にフロックコートを着て行ったため、陛下に不興を買ったという話をしに来たのよ。
 プーシキナ どうでもいい話。止めときなさいって私、言ったんだけど。
 ガンチャローヴァ あなた、どうしたの?
 プーシキナ ほっといて頂戴。
 ガンチャローヴァ あなた分かってないの、こんな不愉快なことが起こっているのは、みんなあの人が不幸だからなのよ。あのフロックコートの話で、この家に不幸が降りかかるかも知れない。それなのにあなた、平気な顔をしているのね。
 プーシキナ 何故なのかしら、私が不仕合わせかどうかっていうことは、誰も、決して訊いてくれたことがない。私に言う言葉、それは何時だって、お前が悪い、ああしろ、こうしろ。でも私のことを今までに誰か、哀れんでくれたことがあるかしら。これ以上私に何をしろって言うの。私はあの人の子供を生んだ。そしてじっと我慢して詩を聞いた。来る日も来るも、じっと・・・さ、詩を読めばいいでしょう。ジュコーフスキーさんはそれで幸せ。ニキータも幸せ。そしてあなたも幸せ。・・・でも、ほっといて頂戴、私だけは。
 ガンチャローヴァ 心が邪(よこしま)なの、あなたの心は! 私には分かるわ、あなたはあの人を愛していないの。
 プーシキナ あの人をこれ以上愛するなんて、私には到底無理だわ。
 ガンチャローヴァ あーあ、あなた、そうなのね。可哀相、あの人、あなた、それにその家族。
 プーシキナ でもね、でも・・・(間。)これだけは言っておくわ。今日だって私、あの人と会う約束になっていた。でもあの人は来なかった。淋しかったわ、私。
 ガンチャローヴァ そう。あなた、自分で蒔いた種なの。
 プーシキナ 一体お姉さん、何が不満なの? あの人が孤独ですって? ちゃんとお姉さんていう人がいるじゃない。私にそれを見抜く目がないとでも仰るつもり?(指を目のところ持って来る。)
 ガンチャローヴァ あなた、気でも狂ったの! 許しませんよ、そんな言い方! 何ですか、本当に! 私、あの人が可哀相なの。みんなから捨てられて。それだけ。
 プーシキナ さあ、見て。私の目を。しっかりと。
 ニキータ(扉のところへ登場。)ダンザース大佐がお目にかかりたいと。
 プーシキナ お断りして。お会い出来ませんと。
 ダンザース(軍用外套を着た儘、登場。)お許しもなく上がりました。私をお断りになる訳には参りません。アリェクサーンドゥル・プーシキンをお運びしました。怪我です。(ニキータに。)何を突っ立っているんだ。運ぶのを手伝うんだ。ただ、揺らすな。静かに運べ。
 ニキータ ああ、聖母マリア様! ガンチャローヴァ様! 大変なことに!
 ダンザース 大きな声を出すな。いいか、静かにだぞ。
(ニキータ、走って退場。)
 ダンザース あかりを。ここに。
(プーシキナ、坐った儘動かない。)
 ガンチャローヴァ あかりを! あかりを!
(ビトゥコーフ、書斎の扉のところに登場。手に火のついた燭台を持っている。) ダンザース 急いで! 運ぶのを手伝うんだ!
(ビトゥコーフ、燭台を持って走り去る。別の扉から小間使いが蝋燭を持って登場。ビトゥコーフ、玄関に直接続く扉の方に燭台を持って走って入る。その後ろを、薄暗がりの中を、一群の人々が誰かを書斎の奥に運び込むのが見える。ダンザース、すぐ書斎へ通じる扉を閉める。)
 プーシキナ プーシキン、どうしたの、あなた。
 ダンザース 入ってはいけません、どうか。包帯が終わるまでは入るなとのご命令です。それから静かに。声を上げてはいけません。余計な心配をかけます。(ガンチャローヴァに。)自室にお連れして。これは命令です。
 プーシキナ(ダンザースの前に膝まづいて)私じゃない! 私のせいじゃないわ。お願い。どうか、私のせいじゃないって・・・
 ダンザース 静かに! さ、連れて行って。
(ガンチャローヴァと小間使い、プーシキナを奥の部屋へと連れ去る。ビトゥコーフ、書斎から走り出て来る。そして、後ろ手に扉を閉める。)
 ダンザース(金を取り出し。)ミリオーンヌイ通りに。馬車で行くんだ。いくらふっかけられても構わん。医者を呼んで来るんだ。アーレント先生を。直ぐに来て貰うよう。アーレント先生がいない時はしようがない。医者なら誰でもいい。直ぐに連れて来るんだ。
 ビトゥコーフ 畏まりました。行って参ります、大佐殿。
(窓の外、通りに、軍楽隊の演奏が聞こえる。)
 ビトゥコーフ(窓に駆け寄る。)ああっ、こりゃ駄目だ。軍隊の行進だ。これじゃ通らせては呉れない。裏口から、庭を抜けて行こう。(走り退場。)
(ガンチャローヴァ登場。)
 ガンチャローヴァ ダンテースとなの? 本当のことを言って。あの人の傷、どうなんです?
 ダンザース 重傷です。命も危ない。
                    (暗転。)
                     (幕)

     第 四 幕
(夜。プーシキン家の居間。鏡は全部布で覆われている。何かの箱、藁、小さな椅子が入れられ、その上に外套姿の儘ダンザースが寝ている。扉は全て閉まっている。通りから時々、群衆のガヤガヤ言う声が聞こえて来る。ジュコーフスキー、足音をしのばせて入って来る。蝋燭、それに封印の為の蝋、それに印鑑を持っている。ピアノの上に蝋燭を立てる。窓のところへ行き、外を覗く。)
 ジュコーフスキー ああ、まったく。
 ダンザース えっ?(起き直って。)ああ、夢を見ていました。営倉に入れられている。まあ、そりゃそうだな。正夢に近い。
 ジュコーフスキー ダンザースさん、必ず私から陛下に取りなして、何とかします。
 ダンザース いや、お気持ちは有り難いですが、どうかお構いなく。法による裁きに任せることにします。(肩章を探って。)お前ともお別れだな。前線へ出動だ。コーカサスへ。
ジュコーフスキー ちょっと外をご覧下さい、大佐殿。群衆がどんどん増えています。誰がこんな事態を予想出来たでしょう。
 ダンザース 実際そうですな。呆れるばかりです。
(奥の部屋の扉が開き、プーシキナ登場。彼女について、小間使いも。)
 小間使い 奥様、どうかお部屋にお帰り下さい。奥様、どうか!
 プーシキナ(小間使いに。)お下がりなさい。
(小間使い、距離をとって立つ。)
 プーシキナ(書斎の扉に。)私、入っていいわね、プーシキン。
 ダンザース これは! いけません、奥さん!
 ジュコーフスキー(通り道を塞いで。)ナターリア・ニカラーイェヴナ、どうかお止めになって!
 プーシキナ なんて馬鹿な大騒ぎ! たいした怪我でもないのに・・・。あの人、死にはしない。ただ、もう少し沢山モルヒネを取らせればいいのよ。痛みを和らげる為に。そしてすぐ、今すぐ、家族全員揃って出て行くの。パラトゥニャーヌイに。引っ越し用の荷物、どうしてまだ出来ないんだろう。「面白い。寸鉄人を刺す箴言で間違っている敵をやっつけるのは・・・」面白い・・・面白い・・・黙った儘・・・忘れた、全部忘れたわ。ああ、あなた、私に、入っていいって仰って・・・
 ジュコーフスキー どうか止めて、ナターリヤ・ニカラーイェヴナ。
 ダンザース ジュコーフスキーさん・・・(食堂の扉から医者を呼ぶ。)ダーリ先生・・・
(ダーリ登場。)
 ダンザース どうか先生の方からも・・・
 ダーリ 奥さん、ここで奥さんの出来ることは何一つありません。(ピアノの上にある小さなガラス瓶を取り上げ、杯に薬を注ぐ。)さ、どうぞ飲んで下さい。
(プーシキナ、杯を押し退ける。)
 ダーリ 何にもなりませんよ、そんなことをしても。さ、飲んで。楽になりますから。
 プーシキナ 私の言うことを誰も聞いてくれないのです。聞いて下さいますね。
 ダーリ どうぞ。
 プーシキナ あの人、痛みは?
 ダーリ いいえ。痛みはもうありません。
 プーシキナ もう痛まなくなった? 駄目よ、私を脅かそうとしたって。卑怯よ、私を脅かそうとして。卑怯よ。お医者様でしょう? 助けて下さらなくっちゃ。あ、でもあなた、お医者様じゃないわ。お話作家。あなたはお話を書くの・・・私、お話はいらない。人の命を救って。(ダンザースに。)この人を連れて来たのはあなたなのでしょう? それなら・・・
 ダーリ さ、一緒に行きましょう。さあ。
(小間使い、プーシキナの腕を抱えるように取る。)
 プーシキナ 「面白い。寸鉄人を刺す箴言で・・・」忘れてしまった。夫のことなんか信じない、私。
(ダーリと小間使い、プーシキナを連れ去る。)
 ダンザース 私に何が言いたかったんでしょう、あの人。
 ジュコーフスキー あんな人の言うことを気にしちゃいけません、ダンザースさん。可哀相な女なんですよ。今にみんなに八つ裂きにされてしまいますよ。
 ダンザース 本来なら、あの男をそのまま逃がすような私じゃありません。信じて下さい。その場で決闘を申しこんでいたところなのです。プーシキンが止めたのです。しかし、決闘にも何も、明日にでも営倉行きの身では。
 ジュコーフスキー 止めて下さい、そんなことを仰るのは。もうこれ以上不幸は御免です、ダンザースさん。終わったのです全ては、これで。
(閉まった扉の後ろから非常に低く、静かな合唱の声が聞こえる。ダンザース、食堂に通じる扉を通って行き、
後ろ手に扉を閉める。中の部屋からガンチャローヴァ登場。窓のところに行く。)
 ガンチャローヴァ あの人(プーシキン)にはもうこの景色、見えてないわ。
 ジュコーフスキー いえ、見えてますよ、ガンチャローヴァさん。
 ガンチャローヴァ 私、もう妹とは顔をあわせません、ジュコーフスキーさん。これから着替えて外出します。辛いんですの私、ここに残っているのが。
 ジュコーフスキー あの声に負けてはいけません。あれは暗い声です。妹さんを放っておいてはいけません。人々が、あの暗い声が、今に妹さんを噛み殺してしまいますよ。
 ガンチャローヴァ そうやって私を苦しめて、それで一体どうなさるおつもり?
 ジュコーフスキー 分かりました。さ、どうぞ。
(ガンチャローヴァ退場。)
 ジュコーフスキー(合唱に耳を傾ける。)ああ、プーシキン、何なのだ、お前がやったことは。・・・そう、全ては灰塵に帰すか。・・・(坐る。ノートを取り出す。ピアノの上からペンを取り、何かを書き留める。)鋭い知性は輝くことなく・・・(韻文を作ろうとぶつぶつ呟く。)その瞬間、まるで幻覚のように目の前に現れた。・・・僕は訊きたかった、一体君は何を見たのだ、と。
(静かにドゥービェリト登場。)
 ドゥービェリト ご機嫌よう、ジュコーフスキーさん。
 ジュコーフスキー 今日は、将軍。
 ドゥービェリト 書斎を封印なさる・・・そのおつもりですな?
 ジュコーフスキー ええ。
 ドゥービェリト あなたの方の封印は少々お待ち願います。まづ私が中に入り、調べ、憲兵隊の封印をさせて戴きます。
 ジュコーフスキー どういうことですか将軍、陛下は私個人に彼の原稿類の調査、封印を託されたのですが・・・私には理解出来ません。原稿類の調査は私個人の義務と心得ております。別の封印が必要とは、一体どういうことなのでしょう。
 ドゥービェリト ほほう、あなたの封印の隣に憲兵隊の封印が貼られるのは不快とでも仰るんですかな、ジュコーフスキーさん。
 ジュコーフスキー お言葉ですが、しかし・・・
 ドゥービェリト 原稿類は全てベンケンドールフ伯爵の検閲を受けねばなりません。
 ジュコーフスキー 全て? しかしあの中には個人的な書簡も含まれているのです。お願いです。これでは私は「密告者」の汚名を着なければなりません。私のこの名を汚そうと仰るんですか。唯一の私の清廉なこの宝、ジュコーフスキーという名前を。皇帝陛下に私はこのことを申し上げます。
 ドゥービェリト 皇帝陛下の御意志に背いて憲兵隊が何かするとでもお思いですかな。あなただけでなく、我々も検閲を行う、それであなたが「密告者」の汚名を着ることになる、そんなことをお考えですか? ジュコーフスキーさん。やれやれですな。・・・誰かを傷つけるために、そんな込み入った手段を取るものですかな、政府というものが。いえいえ、他人に害など。陛下のご意図は別のところに。さ、ジュコーフスキーさん。時間の無駄です。
 ジュコーフスキー 分かりました。
(ドゥービェリト、燭台を持って書斎に入る。戻って来てジュコーフスキーに封蝋を渡す。ジュコーフスキー封印をし始める。通りからガラスの割れる音、騒音、が聞こえて来る。)
 ドゥービェリト(小声で。)おい。
(内側の扉の重いカーテンが開いて、ビトゥコーフが現れる。)
 ドゥービェリト 何者だ、お前は。(訳註 ジュコーフスキーに怪しまれない為。二幕二場参照。)
 ビトゥコーフ 時計直しです、閣下。
 ドゥービェリト ちょっと頼む。外へ出て見て来てくれ。
 ビトゥコーフ 畏りました。(退場。)
(ドゥービェリト、扉に封印をし始める。)
 ジュコーフスキー 彼の死がこんなに沢山の群衆を呼び集めることになると、誰が予期したでしょう。・・・国中が喪に服しています。私の想像では、今日一日で約一万人・・・
 ドゥービェリト こちらの調べでは四万七千人だ。
(間。)
 ビトゥコーフ(登場。)誰か分かりませんが閣下、外で二人が怒鳴っています。外国人の医者がプーシキンをわざと死なせたのだと。そこに医者が出て来たので、誰かが煉瓦を投げて街灯が壊されました。
 ドゥービェリト ふん、そうか。
(ビトゥコーフ退場。)
 ドゥービェリト ああ、大衆。馬鹿な奴らだ。
(扉の外の合唱、急に大きくなる。)
 ドゥービェリト(奥への部屋の扉に向かって。)おい、出動だ。
(扉が開き、十人の憲兵、登場。軍用外套姿。手には軍帽。)
 ドゥービェリト 棺の搬出だ、諸君。ラケーイェフ大尉、搬出の指揮を取れ。それから大佐、君はここに残る。プーシキン夫人を(要請あれば)遅滞なくただちにお助けするよう、あらゆる手段をつくすこと。いいな。
(士官達、ラケーイェフの後に続き、食堂に入って行く。一人大佐が残り、奥の部屋に戻る。)
 ドゥービェリト それからジュコーフスキーさん、あなたにはプーシキン夫人に付き添って戴きたい。苦しんでいる人には慰めを・・・違いますかな。
 ジュコーフスキー いや、私も運ぶ方に回ります。(退場。)
(ドゥービェリト一人。肩章と肩の飾り紐を直し、食堂の扉の方に進む。)
(暗転。)

(モーイカ。夜。街灯。薄暗く、チカチカとして今にも消えそう。プーシキンのアパートの外景。カーテンの後ろに明々と灯がついている。玄関。玄関の傍は静か。しかしそこから少し離れた場所では、群衆がざわめき、動揺がある。警官が群衆を抑えている。突然学生の一団が現れ、玄関に突進しようとする。)
 警察署長 下がるんだ、学生達。下がれ! 進入はならん!
(一群の学生から喚声が上がる。「何だ、何だ、これは。プーシキンは我等が詩人じゃないか。その遺骸に敬意を表するんだ。止めることなど出来ないぞ。」)
 警察署長 下がれ! イヴァニェーンカ。奴らを抑えろ。通すな。学生を通させるな。法規違反だ。通させるな!
(突然学生群の中から一人飛び出して、街灯に登り始める。)
 学生(制帽を勢いよくさっと振りかざし。)諸君、聞いてくれ!(一枚の紙を取り出し、それを見ながら。)「高貴な詩人の魂は、けち臭い、下卑た中傷で名誉を汚されることに耐え得なかった・・・」
(群衆の騒音がピタッと止む。警官も驚き、動きを止める。)
 学生 彼は立ち向かった。敢然と、一人で。社会の因習に反抗して。そして殺された。いつものように一人で。
(学生の群、「脱帽」と叫ぶ。)
 警察署長 おい学生、お前、何をやってるんだ。
 学生 「殺されたのだ。今さら何の役に立とう。号泣しようと、喪に服そうと、一斉に涙をこぼそうと。・・・この哀れな話を囁きあおうと・・・」
(警官の笛。)
 警察署長 あいつを引きずりおろせ!
(群衆に動揺あり。女性の声「殺されたのよ!」)
 学生 「そうだ。もともと君達じゃないのか、彼をまづ最初に追放したのは。」
(笛。警官、街灯に飛びつく。群衆の喚声。「逃げろ」という声。)
 衛兵 何をぼんやり突っ立っている。引っ捕らえるんだ!
 学生 「蝋燭が消えるように、かの偉大なる天才は消えた。」(学生の声、群衆の声にかき消される。)「冷酷無残に下手人は一撃を下した。命を救う手だてはもうない。」(学生、逃げる。)
(叫び声「捕まえろ!」。警官達、学生を追う。プーシキンの部屋の灯、消え始める。同時に、軍服を着た士官が、別の街灯に登る。)
 士官 市民諸君! 今諸君が聞いた話、あれは全部真実だ。プーシキンは故意に、計画的に殺されたのだ。そしてこの卑劣極まる殺人によって、誰が侮辱されたか。それは我々国民なのだ!
 警察署長 黙れ!
 士官 この偉大な人間の死は何故起こったか。それは無制限の権力が、その任に相応しくない人間に与えられているからだ。そいつらが民衆を奴隷のように扱っているのだ。
(警官達、四方八方から高く笛を鳴らす。くぐり戸を開けて、ラケーイェフ登場。)
 ラケーイェフ おい、早く引っ捕らえるんだ!
(憲兵達登場。士官、消える。この時、馬の足音が聞こえる。群衆から声「踏み潰されるぞ!」)
 ラケーイェフ 野次馬を押し戻せ!
(玄関の前の場所、人がいなくなる。プーシキンの部屋の灯、全部消える。その代わりに、玄関の辺り、明々と灯がつく。静かになると同時に、静かな悲しい歌が玄関の方向から聞こえて来る。また、最初の憲兵隊現れ、最初の蝋燭が出て来る。)
                     (暗転。)

(静かな悲しい歌、だんだんと雪の音に変わってゆく。夜。荒れ果てた駅。蝋燭の灯。暖炉に火。駅長の妻、窓にしがみつくように顔を寄せ、吹雪の中を何かを捜すように覗く。窓の外、灯がちらちら光り、人声がする。最初に駅長が灯を手に登場。後ろから来るラケーイェフとアリェクサーンドゥル・トゥルゲーニェフを導き入れる。駅長の妻、お辞儀。)
 ラケーイェフ 誰か人がいるのか、この駅には。
(トゥルゲーニェフ、暖炉に突進、手を暖める。)
 駅長 人は誰もおりませんです閣下、誰も。
 ラケーイェフ この女は。
 駅長 妻でして、はい。女房です、閣下。
 トゥルゲーニェフ これは何だ。茶だな。すまんが一杯注いで欲しい。
 ラケーイェフ 私にも頼む。ただ、早くやってくれ。一時間以内に馬だ。荷車の方は三頭立てでな。こっちの方は・・・二頭立てだ。
(トゥルゲーニェフ、熱い茶で舌を焼く。怯む表情。それから茶を飲む。)
 駅長 三等立てはちょっと・・・閣下。
 ラケーイェフ 一時間後だ。三頭立てだぞ。いいか。(コップを取って、茶を飲む。)
 駅長 はい、畏まりました、閣下。
 ラケーイェフ 小一時間、ちょっとベッドで休む。時計はあるんだな、ここに? 一時間経ったら起こすんだぞ。いいですかな? アリェクサーンドゥル・イヴァーナヴィッチ。寝ましょう、一時間。
 トゥルゲーニェフ ええええ。足も手も凍えて、まるで何も感じない。
 ラケーイェフ 通りかかって来る者がいたら、必ず起こすんだぞ。それから、憲兵にも知らせる。いいな。
 駅長 はい、畏まりました。
 ラケーイェフ(駅長の妻に。)それからお前さんによく言っておく。窓から外を覗くんじゃない。何も変わったものは外にはないんだ。分かったな。
 駅長 はいはい、もうそんなことは決して・・・はい。どうぞ、こちらの綺麗な方にお上がりなすって・・・
(駅長の妻、扉を開ける。その部屋に入り、灯をつけ、戻って来る。ラケーイェフ、部屋に入る。トゥルゲーニェフ、後に続く。)
 トゥルゲーニェフ ああ、ああ。(疲れた。全く疲れた。)
(トゥルゲーニェフとラケーイェフの入った後、扉閉まる。)
 駅長の妻 何なの、あの人達。ねえ、何?
 駅長 外を見るんじゃないぞ、いいか。見たりしてみろ、ただじゃおかん。ぶちのめすぞ。珍しいことがあったもんだ。よっぽどのことなんだな、こんな遠回りをわざわざ。・・・いいか、見るんじゃないぞ。連中を軽く見るな。冗談じゃすまされんからな。
 駅長の妻 外に何があろうと私の知ったことか・・・
(駅長退場。駅長の妻、すぐさま窓に駆け寄る。玄関の扉が開いて、パナマリョーフ登場。用心深く内を窺う。それから部屋に入る。)
 パナマリョーフ 二人は寝たか?
 駅長の妻 寝た。
 パナマリョーフ 五カペイカ分、頼む。骨まで凍りそうだ。
(駅長の妻、ウオッカをコップに注ぐ。胡瓜(ピックルス)を出す。)
 パナマリョーフ(一息に飲み干す。つまみを食べる。両手をこすり合わせる。)もう一杯。
 駅長の妻(注ぎながら。)そんなに突っ立ってないで、坐ってあったまったらどう?
 パナマリョーフ これでもあったまれる。
 駅長の妻 それで、どこへ行きなさる。
 パナマリョーフ そら来た。聞きたがり屋なんだ、女って奴は。皆イヴと同じだ。・・・(飲む。駅長の妻に金を与え、外へ出る。)
(駅長の妻、ショールを被り、外へ出ようとする。と丁度その時、扉にビトゥコーフ登場。ビトゥコーフは短い毛皮外套姿。帽子の下に、耳を覆うようにスカーフを縛りつけている。)
 ビトゥコーフ(二人は)寝たんだな? (溜め息をつき、火に近寄る。)
 駅長の妻 凍えなすったか?
 ビトゥコーフ 窓から外を見てみればいい。何てことを訊くんだ。(坐る。スカーフを取る。)あんたはこの駅長の女房だね? すぐ分かったよ。名前は?
 駅長の妻 アーンナ・ピェトゥローヴナ。
 ビトゥコーフ そうか。じゃ、アーンナおばさん。一杯頼む。
(駅長の妻、大瓶一本、黒パン、胡瓜(ピックルス)を出す。)
 ビトゥコーフ(飢えたように飲み、食べ、外套を脱ぐ。)一体何のこった、これは。話にも何もなりゃしない。雪道を五十五キロ。その間ずっと鞍の上。縛り付けられていたようなものさ。
 駅長の妻 誰だい、あんたを縛り付けたのは。
 ビトゥコーフ 運命さ。(飲む。)寒い。こんな外套じゃ、まるで役に立たん。それにしてもこんなことになるとは・・・
 駅長の妻 ねえ、誰にも言わない。言ったらこの舌がなくなってもいい。ねえ、誰なの、運んでるのは。
 ビトゥコーフ お前さんの仕事じゃないよ。お国の仕事だ。
 駅長の妻 じゃ、どうしてそんなに慌てているんだい。まるで休みなしじゃないか。そんなじゃ、凍えておっ死(ち)んじゃうよ。
 ビトゥコーフ 俺たちなんぞはどうなってもいいからさ。それに今じゃもうあの人は何も感じないんだからな。(爪先立ちで隣の部屋に続く扉に近づき、耳をすます。)鼾だ。いい気なもんだ。もう起きなきゃならん時間なのに。
 駅長の妻 どこへ運ぶんだね。
 ビトゥコーフ おいおいおい。俺に口を割らせようってんだな。言っとくがな、あんた。これはあんたにゃ、関係ないことだ。こっちの仕事なんだ。(間。)スヴャートゥエ・ゴールイだよ。あの人を埋めたらやっと休める。休暇に出かけられる。あの人は遠いところに旅立って、こちとらはやっと休める。なんて沢山の詩を覚えたんだ、俺は。くだらない、詩なんて。
 駅長の妻 そのぶつぶつの独り言は何? 訳の分からないことばっかり言って・・・
 ビトゥコーフ(飲み干して、酔った調子で。)そうだ、詩なんか作って・・・あの詩のせいで皆が心を乱されたんだ・・・書いた本人だって、お上だって、この哀れな俺、キリスト教徒、このビトゥコーフ様だって。・・・あの人のことを追い回したんだ、俺は。行くところ、どこへでも。・・・でもあの人には運がなかった。何を書いても、どこかちぐはぐ。ぐさっと真ん中に行かなかった。・・・
 駅長の妻 そのせいなのかい? その人が罰せられたっていうのは?
 ビトゥコーフ な、何だと! 何を馬鹿なことを言ってるんだ。分かってもいない癖に。
 駅長の妻 おやおや、何をそんなに怒るんだね。
 ビトゥコーフ 怒らずにおられるか、そんなことを言われて・・・ふん、どうやらあんたは馬鹿じゃなさそうだ。・・・俺はな、言っとくが、あの人に悪意など抱いちゃいないんだ。これは神かけて言う。人間としてはだ。ただ一つだけ欠点があった。それが詩。詩、詩、詩だ。・・・あの人を追いかけたものだ。あの人が馬車に乗っている時でも。その後ろにいる馬車に飛び乗って。あの人には思いもよらなかったろう。面白かった。
 駅長の妻 だけどもうその人、死んでるんだろう? それなのにまだ追っかけるのかい?
 ビトゥコーフ 万一に備えてな。死んだ。・・・あの人は死んだ。するとどうだ。夜にはこの嵐。大騒ぎ。そして俺たちは五十キロの行進だ。五十キロ・・・あの人は死んだ。それで俺はまた心配になってしまう。あの人を埋めて・・・埋めたってそれが何の役に立つ。何の意味がある。・・・それで静まる訳がない。また・・・。
 駅長の妻 お化けなんだよ、その人。きっと。
 ビトゥコーフ うん、そうだな。お化けだ。(間。)何だろう、この痛みは。どこから来るんだ・・・もう一杯頼む。・・・痛い。血を吸われているようだ。・・・そう簡単には死ねなかった。なんていう苦しみだ。弾が腹の中に入った儘だったんだからな。
 駅長の妻 あらあら、大変。
 ビトゥコーフ あの人は自分の手を噛んで呻き声をこらえた。妻に聞かせないように。それから・・・沈黙。(間。)ただそれがどうしたって言うんだ。俺には何の関係もない。そう、何の関わりもないんだ。俺は奴隷なんだ。普通の人間なんだ。・・・だけど俺はあの人を一人にしておかなかった。どこへ行くにもついて行った。一歩も離れはしなかった。決して。・・・それがどうしたのだ、あの日は。俺はどこか別のところへ使いに出された。水曜日のことだ。俺はピンときた。一人にする必要があったんだ。連中は頭がいい。来るべき所には独りで来ると、ちゃんと知っていた。何故か?(それは)あの人の時が来ていたからだ。あの人は真っ直ぐリェーチカに行った。連中はもう待っていた。(間。)俺はそこにいなかった。(間。)ああ、もうあの家に行くことはないな。二度と。今はすっかり空っぽ。綺麗さっぱり、誰もいはしない。
 駅長の妻 それで、あんたと一緒のあの紳士は?
 ビトゥコーフ トゥルゲーニェフさんだ。棺の同行者だ。他の人達は誰も許されなかった。あの人、トゥルゲーニェフさんにだけ許可が。
 駅長の妻 あのじいさんは?
 ビトゥコーフ あの人の侍僕だ。
 駅長の妻 何であったまりに来ない?
 ビトゥコーフ 嫌だと言ってな。こっちは無理矢理にでも連れて来ようとしたんだが、駄目だった。棺を見張って離れない。あいつに持って行ってやらなきゃ。(立ち上がる。)ああ、吹雪だ。この詩は本当に最高だ。
   「嵐を呼ぶ不吉な雲が低く空を覆っている。
   嵐で吹きだまった雪を、つむじ風が、
   今度は丸く集める。
   ひゅうひゅう言う、嵐の声。
   時には獣のように唸り、また時には、
   子供のすすり泣きのように、かぼそく泣く。」
耳をすましてみろ。本当に子供の泣き声だ。いくらだ、酒は。
 駅長の妻 戴けるだけ。(そりゃ多い方がいいがね。)
 ビトゥコーフ(大仰な身振りで、金を机の上に投げる。)
   「時には屋根の上の擦り切れた藁を、びゅっと鳴らし、
   また時には、遅く到着した旅人のように、
   家の窓を叩く。」
(駅長登場。部屋に続く扉に駆け寄り、扉を叩く。)
 駅長 閣下、出発です。出発の時間です。
(扉が開き、すぐにラケーイェフ登場。)
 ラケーイェフ 出発だ。
                       (幕)


平成十年(一九九八年)十月二日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html