牢屋の三箇月
     (四幕の劇)
      シャルル・ヴィルドラッック 作
        能 美 武 功 訳

   登場人物
アンリ・タバル 研ぎ工 二十八歳
アンドレ・ビシャ 公務員
トニイ・ゲリドン ビシャの同僚 詩人 三十歳
牢屋の看守
牢番 一
牢番 二
マリエット・タバル タバルの妻 二十三歳
レオンチンヌ ビシャの妻 二十八歳
マダム・コルボ 六十歳
マドムワゼッル・アンジェッル 四十歳

(タバル、は、「ル」にアクセントあり。)

(この芝居は一九四二年二月二十三日、パリのモンソー劇場で初演された。)

     第 一 幕
(場は、タバルの家の貧しい部屋。奥に大きく開いた窓。サン・トゥワンの労働者街に面している。窓からは隣の家の屋根が見える。)
(丸いテーブル。質素な棚。これは食器類を置くため。籐の椅子。装飾のない、ほぼ裸の壁。)
(左手に玄関の扉。右手に二つの扉。一つは舞台奥。これは寝室に通じる。もう一つは舞台前面。これは台所に通じる。)
(幕が開くと、マリエットがジャガイモの皮を剥き終ったところ。テーブルの上には(柄のついた)柳の枝の籠と新聞。新聞の上にはジャガイモの皮。)

     第 一 場
 マリエット(ジャガイモの皮を新聞に包み、籠と一緒に台所に運ぶ。その時ゆっくりと、楽しそうに歌う。)
   野原に日が落ちる時・・・
   ナナナ・・・ナナナ・・・
   金色の麦の歌・・・
(台所からナプキンを持って戻って来て、また歌いながらテーブルを拭く。)
   野原に日が落ちる時・・・
(テーブルを拭き終って、雑巾を手に、再び台所に向かう。しかし途中で立ち止り、少し考え、歌の代りに詩を読む。頭で拍子を取りながら。)
   野原に日が落ちる時、
   甘い、甘い夜の風が、
   金色の麦の歌を運んで来る。
(玄関にノックの音。マリエット、ぶるっと震え、台所に雑巾を置きに走って行き、左手の扉を開ける。レオンチンヌが、夏の衣装(帽子も)で、布製の食料などを入れる袋をもって登場。)
     第 二 場
 マリエット ああ、レオンチンヌ! 早かったわ。有難う。(二人、キス。)いつ帰って来たの?
 レオンチンヌ(袋を椅子の上に置きながら。)一昨日。うちの人、昨日の朝から出勤の筈よ。
 マリエット あなた、いい顔色してるわ。よく焼けて。さあ、坐って! また太ったでしょう? アンドレは。
 レオンチンヌ(坐って。)そうよ。一キロ五百太っちゃったわ。
 マリエット それで、赤ちゃんは? 連れて行かなかったの、残念だったわね。
 レオンチンヌ 昨日会いに行ったわ。可愛いの。連れて行く? そんなの無理よ。赤ん坊があんなところで何をするって言うの? 浜辺で遊ぶには小さ過ぎるし、私には慣れていないし。私達二人ともただまごつくだけよ。ばあやと一緒にジュワンヴィルにいるのが一番いいの。ばあやはあの子が好きで、庭で遊ばせたり、決った時間に寝かせたり。バカンスに赤ん坊をホテルに連れて行くなんて、馬鹿なことよ。
 マリエット(熱心に。)ねえ、話して! 奇麗だった? 楽しかった?
 レオンチンヌ(能弁に。)素晴しかったわ! あのペンションを教えてくれた夫の友達に大感激よ。サン・マロできっと一、二を争ういいペンション。ちゃんと常連がいて、その人達とも仲良くなったわ。毎年来るんだって。大学の教授、その奥さんと子供。鉄道に勤めている人。レンヌで商売をやっている人達・・・
 マリエット 海は? それから山は?
 レオンチンヌ 素敵な山! 葉書、届いたでしょう?
 マリエット ええ、有難う。ね? 三つとも棚の上にあるでしょう?(葉書が置いてある棚に行き、その中からカラーの写真を取って来て。)ね、海の色、本当にこんななの?
 レオンチンヌ ええ、その通りの色・・・良い天気の時は。それに・・・写真だもの、その通りの色よ。
 マリエット 信じられないわ!
 レオンチンヌ それに、潮が引くと、裸足でここの岩、ここらあたりの島に行けるのよ。この島の一つにシャトーブリアンの墓があるの。墓の絵葉書、持ってる?
 マリエット ええ・・・(間。)潮が引くと! まあ、潮が引くってどんなのかしら。想像も出来ないわ。海の底に行けるの?
 レオンチンヌ 海の底なんてないのよ。ずっと浜辺が続いている。それが一キロメートル先まで出てきて・・・この写真できっとアンドレが説明してくれるわ。それに、引き潮になると、いろんなものが出てくるのよ。そうそう、ね、マリエット!(ハンドバッグに手をやる。)頼まれたもの持って来たわ。
 マリエット(子供の喜び方で。)貝殻?
 レオンチンヌ(ハンドバッグを膝の上に置いて。)そう。いっぱい取ったのよ。後であなたのために選(よ)ったの。珍しいのもあるわ。
 マリエット 早く見せて。
 レオンチンヌ 待って。子供ね、あなた。ちょっと値打ちのあるものも持って来たのよ。買ったの。・・・(ハンドバッグから包みを取り出し、拡げる。)ほら、見て! この中に貝殻を入れたの。でも、本当のお土産はこれ、鉢カバー・・・ブルトンよ。見て! サン・マロで見つけたんだけど、カンペ製よ。本物のカンペ。検印があるでしょう? ほら、カンペって。(貝殻が沢山入った陶器をテーブルに置く。)
 マリエット(うっとりとして。)ああ!(じっと鉢カバーを見る。どぎまぎする。それからレオンチンヌにキス。)ねえ、チチンヌ、あなたいけないわ、たとえ私が待っていたと言ったって・・・
 レオンチンヌ あなた、これ、気に入った? 私、これ、とてもいいと思って。他にちょっとないわ、こんなの。だから家(うち)にも一つ買ったの。
 マリエット 綺麗な花の絵。背景の白によく映えてるわ。有難う! それに、貝殻も・・・沢山・・・。素敵だわ・・・これ・・・それにこれ・・・この小さい宝石のようなの・・・
 レオンチンヌ さ、全部見るの。テーブルの上にあけて。
 マリエット(鉢カバーの中身をあける。)私、またこの中に入れる。貝殻とよく合うんですもの。
 レオンチンヌ 駄目よ。これは苔や花を入れるのよ。
 マリエット ああ、花・・・それもいいわ。私、花を入れて、テーブルの上に置こうかしら。それとも棚の上?
 レオンチンヌ テーブルの上の方がいいわ。でも、敷物の上に載せなくちゃ。そうそう、アンナ伯母さんがくれた、あの敷物は?
 マリエット 戸棚の中。
 レオンチンヌ どうして? 穴があいたの? 焼けこげたの?
 マリエット いいえ。アンリが嫌がって。
 レオンチンヌ(責めるように。)伯母さんがくれたものだからなんでしょう!
 マリエット 伯母さんが気に入らなかったからくれたんだろうって。それからあの人、自分の考えがあるの。テーブルは木で出来ている。だから、木を見なきゃ。布で飾ったりして木の呼吸を妨げてはならないって。私、それもそうだと・・・
 レオンチンヌ(途中で遮る。溜息をついて。)全く、あの人ったら! そうそう、あの人のことを訊かなかったわ。ちゃんとやってるの?
 マリエット(貝殻に見ほれている。次のやりとりの間もずっと眺めながら。)ええ。
 レオンチンヌ で、工場は?
 マリエット いいんでしょう。(棚の上の目覚まし時計に目をやって。)あなた、会えるわ。もうすぐ帰って来るもの。
 レオンチンヌ(悪意をもって。)あの人、帰るの・・・
 マリエット 工場を出る前に身体を洗って、着物を着替えて、それからブラブラ歩いて帰るの。工場は鉄屑のほこりでいっぱい。散歩していい空気を吸わなくちゃ。
 レオンチンヌ 有給休暇はあるの?
 マリエット 多くはないわ。あそこで働き始めてからまだ長くないから。きっと一週間ね。
 レオンチンヌ いつ?
 マリエット 九月に。
 レオンチンヌ 九月に何が出来るっていうの。(マリエット、曖昧な態度。)ここにずっといるんでしょう、きっと。
 マリエット 釣りに行くわ、毎日。
 レオンチンヌ シャラントンの橋に?
 マリエット いろんなところ。それから二三日はシュヴィズィに。アンリの友達のお母さんが部屋を貸してくれるから。
 レオンチンヌ 釣り! 一日中! あなた、釣りはしないんでしょう? さぞ面白いことね。
 マリエット そんな。私、退屈しないわ、釣り。水のほとりに坐って、何時間でも・・・そして眺めるの。
 レオンチンヌ 何を。
 マリエット 何でも。水でしょう? 植物・・・木・・・通り過ぎて行く船・・・
 レオンチンヌ 馬鹿な話!
 マリエット 水辺にいると私、気持いいの。
 レオンチンヌ ここだけの話だけど、アンリはどうしてあなたを海に連れて行かないの? 何かやりようがある筈よ。あなた、海を見たことがないんだし。
 マリエット そんなの無理よ、チチンヌ。私達、それは出来ないわ。
 レオンチンヌ 何が出来ないの! 割引の切符だってあるわ。海辺へ行く汽車の、とても割安なのが。特に九月は。ディエップはパリからたった三時間よ。アンリは一人前の職人でしょう? 公務員と同じか、それ以上の金は稼いでいる筈よ。それなのにあなた、いつでもそれ!
 マリエット 止めて、レオンチンヌ。あなた、いつでもそれ!
 レオンチンヌ あなたが可哀想だから言うのよ、マリエット。それに、あの人が言っているように、そんなに稼ぎが少ないのなら、あなた、昔のように自分で稼いだらいいじゃないの。
 マリエット あの人が厭がるの。家事はいくらでもある。それに、赤ん坊が死んだのは、私がお腹が大きかった時、仕事に行ってたからだって。
 レオンチンヌ そんなのないわ。私だってレイモンドを生んだ時、働いてたのよ。あなたに家にいて貰いたいなら、あの人もう少しはあなたのことを考えるべきなのよ。ひょっとしてあの人、自分の稼ぎの四分の一以上、飲み代に使っているんじゃないの? そうじゃないってあなた、言える?
 マリエット それは違う。あの人は飲まないわ。
 レオンチンヌ じゃ賭け事よ。あなた、自分でも言ってたでしょう・・・
 マリエット(耳をそばだてる。そして急に話題を変える。)あ、マダム・コルボだわ。家に帰って来た! 鉢カバーを見せてあげなくちゃ。いい? ここに呼んで。
 レオンチンヌ いいけど。でも、見せるなんて、いつだって出来るでしょう?
 マリエット(扉の方に進んで。明るく。)私、誰かに今すぐ見せたいの。それにあの人、見たら喜んでくれるもの。(退場。扉は開けたまま。すぐにまた声がする。)さあさあ、マドムワゼッル・アンジェッルも。さあ、入って。
 
     第 三 場
 マリエット(レオンチンヌにアンジェッルを紹介する。)同じ階のマドムワゼッル・アンジェッルよ。噂したこと、あったわね?(マドムワゼッル・アンジェッルに。)姉のレオンチンヌ。海から丁度帰って来たところ。絵葉書、見たでしょう?
 マドムワゼッル・アンジェッル(お辞儀をして。)今日は・・・
 マダム・コルボ(レオンチンヌに。)今日は、マダム・レオンチンヌ。戻ってらしたのね。
 レオンチンヌ レオンチンヌ ええ、見ての通りですわ、マダム・コルボ。
 マダム・コルボ 「ご機嫌如何?」は必要なさそう。お元気ではちきれそう。
 レオンチンヌ あなたの方は? マダム・コルボ。
 マダム・コルボ ええ、どうにか。
 マリエット(嬉しさにあふれて。)ほら、見て! サン・マロから持って来てくれたのよ。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 貝殻!
 マダム・コルボ それに鉢カバー! まあまあ、マリエット、あなた、お土産で身体がとろけちゃうわよ。
 マリエット これ、ブルトンなの。
 マダム・コルボ ええ、私、分る。これ、本物。本物のブルトン。本物っていうだけじゃないわ。これ、とても高級。ずっともう昔、私、働いていたところのご主人が持っていた、それと殆ど同じよ、これ。
 レオンチンヌ ここではピッタリ同じものは二つと作らないの。だから値打があるの。
 マダム・コルボ 知ってるわ。「殆ど同じ」って言ったでしょう? だから。そこのご主人、ルアンで求めたの。ルアンには私達、三年続けて行ったわ。いいところ。ああ、ルアン!(溜息をつきながら、どっかりと椅子に腰をおろす。)
 マリエット 綺麗でしょう? ね? マドゥムワゼッル・アンジェッル。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル ほんと! これ、何するものなの?
 レオンチンヌ まあ、鉢カバーじゃないの。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 野菜を入れるの?
 マリエット 違うわよ。花・・・花よ!(棚の方に走り、カップを二個取る。)冷たいコーヒーは如何? この暑さですもの。用意は出来てるの。
 マダム・コルボ いいえ、ちょっと立ち寄っただけよ、私達。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル(おづおづと。)悪いわ、お手数をおかけして・・・
 マリエット いいの。いいのよ。お祝いよ。鉢カバーと貝殻の。ほら見て、この貝殻!
(マリエット、台所に行く。)
 レオンチンヌ(貝殻を覗き込んでいるアンジェッルに。)さあどうぞ、お坐りになって! あなた、海はご存知?
 アンジェッル ええ、ほんの子供の頃、ベルクに。臨海学校で。貝殻を拾ったわ。首飾りを作ったり、箱の蓋に貼付けたり。でも、こんな綺麗な貝殻じゃなかった・・・
 レオンチンヌ(台所のマリエットに聞こえないように。陽気に。)それを(台所を指差して。)あの子に教えてやらなくちゃ。あの子、子供! 私に貝殻なんか頼むんだから。まるでうちの二歳の子供みたい!
 マダム・コルボ 二歳じゃ、貝殻で遊べないわ。口の中に入れるのがおちよ。
 マリエット(コーヒーを持って戻って来る。)私、鉢カバーに入れるもの、思いついた。ヒヤシンス!
 マダム・コルボ でも、まだ季節じゃないわ。
 レオンチンヌ それに、入れるのは自然の花じゃないのよ。花はいっぱい入れなきゃ映えないし。あなた、そんなお金ないでしょう? 花が駄目になったら、また入れ替えもしなきゃならない。私がやってあげる。私に任せて。近いうちにお店に行って買って来る。苔に花、私の鉢カバーとあなた用のと、二つ分。
 マリエット すみれ?
 レオンチンヌ すみれだけじゃ足りないわ。かなりの量、必要。色の調子も考えなきゃならないし。・・・心配しないの。ちゃんとやってあげる。
 マダム・コルボ 社交界では、大きな晩餐の会のときなんか、鉢カバーにいっぱい自然の花を入れてテーブルに飾るけど。でも、大きな夜会の時でなければそんなにはしないわね。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 私、友達が作ってくれた造花の薔薇、二輪あるわ。あなた、うちで見たことがあるでしょう? マダム・コルボ。私、あれ、三年ごしで持ってるわ。
 レオンチンヌ 私達が泊ったサン・マロのホテルでは、テーブルの上にいつも素敵な花が飾ってあったわ。グラジオラス、カーネーション・・・
 マリエット ねえ、サン・マロでの話、教えて。あなた、まだ何も話してくれてないわ。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 泳いだんですの? サン・マロで。
 レオンチンヌ ええ、一度だけ。でも、水が冷たくて。一度で充分だったわ。七月に休暇をとると、これだから厭。水が氷のよう。うちの人は何度か泳いだけど、でも、後で大変。マッサージをしてやって、お酒を飲ませて・・・
 マリエット 泳ぎをしないであなた、浜辺でじっと坐っていられたの?
 レオンチンヌ 勿論よ。陽があたっていてとても暖かいもの。それに、ちょっと浜辺から出れば、それはもう遊ぶことがいっぱい・・・
 マダム・コルボ そうでしょうね。
 レオンチンヌ あの町は城塞で囲まれているの。遠くの、いろんなところから集めて来た城塞で。だからちょっと見には小さい町だけど、パリに負けないぐらい通りにはいろんなものがあるわ。お店、レストラン、カフェ・・・夫と私、それは楽しく暮したわ。ホテルの食事はもうあまるほど出てくる・・・炭酸水とバターは好きなだけ頼めるし、それに最上の品。私、うちの人に言ったの、バカンスなんだから、大目に見るのよ、倹約はこの冬やればいいんだからって。それで、毎日正午から七時まで、アペリティフ・コンサートに行ったわ。
 マリエット 浜辺であるの? コンサート。
 レオンチンヌ いいえ。高級なカフェはみんな市内、城壁のそばに。サービスがよくて、暖かい雰囲気。夜には映画、それにカジノ。競馬にも行ったわ。百スウ、三回賭けたけど、みんな外れ。それ以上は賭けなかった。私、勝たない時には賭けない主義。
 マダム・コルボ ルワイヤンで私もその主義にしておけばよかった。あそこで私、貰ったばかりの一箇月分の給料、殆ど全部なくしちゃった。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル あら、まあ!
 レオンチンヌ 馬鹿よ、そんなの!
 マダム・コルボ 思い出しても泣きたいくらい。
 マリエット カジノも市内にあるの?
 レオンチンヌ ないわよ、カジノは。最初に送った絵葉書、見たでしょう?(棚に進み、絵葉書を取って。)ほら!
 マリエット ああ、そうだったわ。
 レオンチンヌ 見晴台の上にあって、浜辺を見下ろすの。夜はあたり一面灯りがついて、素敵な夜景。ほら、ここ、ここがパラメ。サン・マロよりずっとさびれているでしょう?
 マリエット 映画で、恋人が月の光を浴びて浜辺を歩いているところを見たことがあるわ。海が月光にキラキラ光って、白い波頭が寄せてきては浜辺の砂の上に消えて行くの・・・
 レオンチンヌ そう。丁度その景色を見て来たのよ、一週間・・・昨日まで。
 マリエット ねえ、水のそばにある砂って、柔らかくなるんじゃないの?
 レオンチンヌ ならないわよ、そんな。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 水の中だって、ちゃんと固いのよ。すべすべ、さらさらしている。
 レオンチンヌ 砂の上を自転車でも走れるわ。
 マリエット 貝殻は砂の中? 砂を掘らないと取れないの?
 レオンチンヌ ああ、貝殻の話?
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 掘らなくてもいいのよ。散歩していれば、それで見つけられるわ。潮がひくと砂の上に出ているのよ。
 マリエット まあ、素敵。青々とした広い海、その砂浜、そこを歩いていると足許に真珠の珠(たま)。それにこれ、白い薔薇の花びら・・・それからちょっと先の方にまたこれ、この黄色い小さな貝殻・・・それにこの白い大理石のような、薔薇色の模様がついた・・・ほら、見て! 宝石よ。綺麗に磨かれた、本当の宝石・・・
 レオンチンヌ 首飾りが作れるわ、それで。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル(マリエットに。)ええ、そう。この小さい、細いので。穴を開けるの。今度やって見せてあげる。
 マリエット ええ、お願い。これ、分けてあげるわ。一緒に作りましょう。今はこれ、全部、鉢カバーに入れて・・・
 マダム・コルボ(立ち上がりながら。)話はまだつきないけど、私、スープを火にかけなきゃならないから・・・
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 私も・・・もう行かなくちゃ。
 マリエット(マダム・コルボに。)おばさんに私、訊きたいことがあったわ。今ちょっと忘れてしまって・・・姉が来た時にはちゃんと覚えていたのに。・・・あ、そう。おばさんが歌ってた歌、あれ、正しいのはどういう歌詞?(歌い始める。)
   野原に陽が落ちる時
 マドゥムワゼッル・アンジェッル
   金色の麦の歌
 レオンチンヌ 歌詞が違うわ、それ。
 マダム・コルボ
   可愛い人。地面に夜が落ちる時
夜よ、落ちるのは。太陽じゃないの。
 マリエット(失望して。)ああ!
 マダム・コルボ それから、地面に落ちるのよ、野原じゃないわ。
 マリエット 私、野原の方がいいわ。
 レオンチンヌ どっちでも同じじゃない。
 マリエット(マダム・コルボに。)そうは思わない、私。それから先は? ね、全部教えて。
 マダム・コルボ(歌い始める。続いてレオンチンヌとマリエット、一緒に歌う。)
   可愛い人、夜が地面に落ちる時
   うぐいすが来て、また歌う時
   そして、緑のヒースの上に風が吹く時
   私達は金色の麦の歌を聞きに行く
   (繰返し。)
(扉が開き、タバル登場。鍵をポケットに入れ、扉を後ろ手に閉め、その場に立つ。頭をゆっくりと上に上げ、眉を顰める。四人の女を眺めるその態度は、怒っているようでもあり、怒っているふりをしているようでもある。四人の女、最初少し笑いかけるが、タバルの態度を見て、当惑と心配で、急に堅くなる。)

     第 四 場
 マダム・コルボ(陽気に。)今晩は、ムスィユ・タバル。私達、あなたの家を占領してしまってるわ。
 タバル(無口に。)ええ。(扉の傍の帽子かけに帽子をかける。)
 マリエット(タバルに近づいて。)どうしたの? アンリ。何があったの?
 タバル 何もない。みんな、陽気なこった。
 レオンチンヌ 陽気で何が悪いの! それにアンリ! あなた、「今日は」は?
 タバル(不機嫌に。)今晩は。あんた、サン・マロにいたんじゃなかったのか。
 マリエット 一昨日帰って来たのよ。ほら見て、お土産を。鉢カバー、中にいっぱい貝殻。貝殻は私が頼んだのよ。でも鉢カバー・・・何て素敵! あまり嬉しかったので、隣のお二人をよんだの。見て戴こうと思って。(その間タバルは、まづテーブルに近づき、鉢カバーを敵意の籠った目で見る。次に振り返り、煙草に火をつけ、窓の傍の手すりに肘をつく。四人の女には背を向けて。マリエット、困ってその姿を目で追う。)
 レオンチンヌ(傍白。)ご挨拶だこと。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 私、もう行かなくちゃ。
 マダム・コルボ(あてつけのように。)私達、長居をしすぎたわ。じゃあ、これで。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル さようなら、レオンチンヌ、マリエット。
 レオンチンヌ(立ち上がりながら。)さようなら。でも、私ももう行かなくちゃ。アンリに会ってからって思ったけど、でも・・・
 タバル(振り返って。)俺に会う? 馬鹿な話だ!
 マリエット アンリ! あなた、どうしたの?
 レオンチンヌ そう、馬鹿な話! そのご大層な歓迎ぶりを見ればね。
 タバル(すっかり向き直って。)何? ご大層な歓迎だと? あんた等みたいに、この俺がふざけて、はしゃぎまわれると思ったら大間違いだ!
 レオンチンヌ ふざけて、はしゃぐ!
 マリエット アンリ!
 マダム・コルボ(マドゥムワゼッル・アンジェッルと共に、まだ扉の傍にいたが。)ねえ、ムッスィウ・タバル、この私がふざけてはしゃぐような女に見えますか? それに、マドゥムワゼッル・アンジェッルだって・・・
 タバル(マダム・コルボに進みより、叫ぶ。)もうあんた、出たと思っていたんだ。(マドゥムワゼッル・アンジェッル、扉を開け、退場。)さあ、早く行った行った。お願いだ。
 マダム・コルボ(退場しながら。)ああ、お酒の臭い!(タバル、追い出すように扉をガチャンと閉める。)
 マリエット(レオンチンヌに。)あなたも行って、チチンヌ。
 レオンチンヌ あ、そうね。(ハンドバッグを取って、タバルに。)あなた今日、普通じゃないわ。飲んだのよ、きっと。
 タバル 飲むに決まっている。この暑さ、仕事で身体中汗をかいて・・・
 レオンチンヌ やっぱり。それで分ったわ。
 タバル 分った? 何が。
 マリエット 違うの。飲んだからこうじゃないの、この人。
 タバル 当たり前だ。やはりマリエット、よく分っている。
 マリエット だから許されるってことにはならないわ。
 タバル 飲んだからこうなったんじゃない。こうだから飲んだんだ。しかし、さっき何か言ったな、レオンチンヌ、「それで分った」とか何とか。それはどういう意味だ。説明して貰おう。
 マリエット(レオンチンヌに。)答えちゃ駄目よ。さあ、二人とも、止めて!
 レオンチンヌ 大丈夫。私、行くから。さようなら、マリエット。(二人、キス。)
 タバル ちょっと待った。半分言いかけて止められてはたまらない。「それで分った」・・・何が分ったんだ。
 レオンチンヌ(怒って。)一番分ってるのはあんたでしょう。飲むからよ、いつも貧乏なのは。いい生活が出来ないのは。私達のように海にだって行けないし、マリエットはかぶる帽子だってない・・・
 マリエット 止めて!
 レオンチンヌ 分った。止めるわ。これぐらいで充分わかる筈。
 タバル(レオンチンヌをじっと見た後、哀れみを込めて。)可哀想に。毒のあることしか言えない女だ、お前は。(突然大声で。)出て行け! うんざりだ、その声は。あんたの亭主のところへ帰るんだ。亭主の鏡の三文へっぽこ役人のところへな。あいつは、自分の家のテラスをカフェだと思って、おとなしくあんたの帰りを待っている。あんたが帰らなきゃ、アブサン一杯飲めないいくじのない情けない亭主だ、あいつは。
 レオンチンヌ(退場しながら。)何て厭な男なんだろう。可哀想に、マリエット。あんたが本当に可哀想。

     第 七 場
(タバル、ゆっくりと、開いた窓のところに行き、再び肘をつく。一方マリエットは、泣いて鼻をすすりながら、テーブルを急いで片付ける。台所へカップとコーヒーいれを運ぶ。マリエットが戻って来て鼻をかむ。その時タバル、振り返る。)
 タバル 可哀想に、マリエット。そうだ、あいつもお前のことを可哀想だって言ったな。この俺の言葉で、可哀想の二倍だ。
 マリエット ええ、私、可哀想。
 タバル しかし、それほど長い可哀想じゃなかったぞ。俺が帰って来た時、どっちかというと楽しそうだったからな。
 マリエット ええ。でも、あなたのその仏頂面を見たとたん、楽しい気分なんか吹っ飛んじゃったわ。
 タバル 分ってる。機嫌よく陽気に帰って来いって言うんだろう? 立派な紳士のようにな。俺には出来ない、そんな猿真似は。氷に熱湯の真似をしてみろと頼んだ方がまだましだ。
 マリエット ただ礼儀正しくして下さればいいのよ。
 タバル それだ! 俺が言ってたのが、丁度その「礼儀正しい」ってやつなんだ。しつけの本の第一番に書いてあるのがそれよ。礼儀正しく、沢山お辞儀をして・・・「今日は」「おはようございます」そして微笑む。万事相手に調子を合わせて、「申し訳ありません」「すみません」。舌の先まで出かかった悪口も、ぐっと抑え、それでも出そうになると、唾と一緒に飲み込む。この俺が工場で一体何をしてきたと思う。今のそれだ。丸一日ずっーと唾を吐かれっぱなし。自分を少しでも光らせようとすれば、それしかない。それで家に帰って来てからも、それをやれって言うのか。俺はご免だ。家では格好はつけない。俺は俺だ。お前がここで、あの連中とコーヒーを飲んでいた時、俺は何をしていたと思う。
 マリエット 工場の人達と一杯やっていたんでしょう。
 タバル 違う。一人でだ。連中からはさっさと逃げる。どうしても一杯やらなきゃならないのは、虫が収まらないからだ。分るか。虫だ。腹の虫だ。(タバル、坐る。じっと床を見る。)
 マリエット(溜息をついて。)何があったの?
 タバル ない。毎日変わりはしないさ。ただ、こっちがだんだん堪性(こらえじょう)がなくなって来る。ああ監視されて、働かされちゃ。
 マリエット 前の会社の方がよかったんじゃ・・・
 タバル 同じだ。(間。マリエット、テーブルの上にある絵葉書を棚の上にのせ、鉢カバーを食器棚の上に置く。タバルの話の間、自分の仕事をして、よく聞いていないふり。)休みの時間だ。食堂に行って仲間に話していた。誰もが知っていることをだ。仕事は喜びでなきゃ駄目だ。自分の能力、知性を発揮する場だ。自分の持てる力を、自分に、そして他人に、証明する場なんだ。ところがどうだ、四十五分間、ただただぶっ続けに、下らない、疲れるだけの仕事をやるだけじゃないか。話を聞いていた奴は七、八人だった。そこへ監督の奴が入って来た。気に入らない言葉が丁度耳に入ったんだ。俺をどなりつけた。「黙らんか。」「ミーティングをやりたいなら、どこか別の場所でやれ!」俺は行儀正しく黙っていた。だいたいあいつらと議論なんかすりゃ、こっちの口が腐らあ。
 そこで仕事再開だ。回転砥石で部品の鉄を研いでは隣に渡す。十、二十・・・隣の奴が立ち往生しないように、こっちも急ぐさ。すると工具を貸してくれと言いに来た奴がいる。俺は走って取りに行ってやったさ。そいつは感謝して、俺に嗅ぎ煙草をくれようとする。俺はやらないからと断る。そこでまた監督だ。奥から跳んで出て来て、まるで俺が一時間もそこで油を売っていたかのような剣幕だ。あいつには悪かったが、こっちも腹に据えかねた。説教が終った時言ってやった、「この糞野郎!」ってな。嗅ぎ煙草をくれた奴も叱られて、何かぐだぐだ弁解をしていた。仕事がひけて、呼び出しを食った。工場長だ。何て言ったかだと? 真面目にやっていないぞ、お前は。奴らの邪魔をしているじゃないか・・・
 マリエット(思わず、「不当だ」という気分で。)それであなた、弁解したの?
 タバル 無駄だ、弁解など。ただ行儀よくして、相手の目をじっと見てやった。連中はこれに弱いんだ。真正面からじっと見られるのがな。さっさと説教は止めてしまった。・・・真面目にやっていない! その瞬間、俺は笑ったね。帰る頃になってやっと侮辱を感じたよ。傷ついたね。
 マリエット だからと言って、他の人にあたることはないわ。
 タバル 何だって? 俺はな、失業しないようにと、じっと侮辱に耐えたんだ。うんざりっていうやつが、この喉(のど)の上のあたりにまで来るぐらいだった。俺は一人になりたかった。家に帰ってこの自分自身に戻りたかったんだ。それがどうだ、帰ってみりゃ、皆で歌を歌って、俺は虚仮(こけ)扱いだ。全くいいお客さんだ。工場の監督さんの後は、家庭での監督さんとはな。それで悪いのは俺だ? こんなことが最初から分っていりゃ、一時間遅らせて帰っていたさ。
 マリエット 家庭の監督さん? とんでもない。レオンチンヌぐらい親切な人、いないわ。休みから帰って来たら、真っ先に私に会いに来てくれたのよ。いえ、私達に会いによ。あなた、見ようともしないけど、あの人、素敵なものを持って来てくれた。それも私にと、わざわざ海岸で拾ってきてくれたわ。ほら、あんな綺麗な貝殻。
 タバル(棚の前に立って。)よくやるよ、全く。おまけに手がこんでいる。これ見よがしに絵葉書を送ってきたり。「ほら、見て御覧なさい。私達、ここでバカンスを過ごしたのよ。サン・マロのカジノで。夢のようだったわ。本当に素敵な生活! ほら、ここがコンサートの場所。見て、このエレガントな建物。それに朝食の素敵なこと、子牛の腸詰にオマール海老。これが一年間倹約をして、きちんと計画をたてて出来たことなのよ。あなた、羨(うらや)ましいでしょう? さあ、私達を手本にして、あなたもやるのよ・・・
 マリエット(声の調子が変って。)姉のやることは何でもあなた、悪く取るのね。絵葉書を送って来たけど、威張りたいためかしら、羨ましがらせるためかしら。私、絵葉書が綺麗だから、受け取って嬉しいわ。それに、鉢カバーだって。
 タバル フン、その親切心に心うたれるという訳か。
 マリエット ええ、そう。
 タバル もっとも、あいつから貰うものは今までいつも、有難いお説教だけだったからな。それ以外のものは有難いに決まっている。
 マリエット これで分ったでしょう? 姉は心の底では気前がいいのよ。
 タバル これで分ったことはな、自分達を羨ましがらせるという誘惑には勝てなかったということさ。そうやってお前を哀れみ、次に慰め、それからこのアンリ・タバルに、こういうことでは妻が可哀想だと説教するつもりなのさ。(自分の胸を指差す。)
 マリエット(たまらず。)何て意地悪なの、あなた。
 タバル 冗談じゃない。俺はあいつを知ってるんだ。「さあ、あの子に絵葉書を送ってやりましょう。素敵なお土産を持って行って。あの子、ポントワーズから先へは行ったことがない。可哀想に。私達が海に行ってると分ってるから、あの子、惨めな気持よ。夫が駄目だからね。妻に海を見せてやることも出来ない。」
 マリエット そんなに相手の考えていることが分るのなら、あなた、自分自身でも少し考えたらいいのよ。
 タバル 冗談じゃない!
 マリエット あなた、自尊心が傷つくんでしょう。そうよ、そうに決まってる。私だってあなたの気持、読めるんだから。
 タバル ほほう、じゃあ何か、もしこの俺が、お前を海に連れて行きたいと思ったとして、それが俺に出来ないと言いたいのか?
 マリエット ええ、そう。だからみんな、あなたを責めているんでしょう?
 タバル 冗談じゃない。俺は行きたくないんだ。一、二週間、どこかへ逃げ出す、ばかばかしい。回転木馬にでも乗る方がまだましだ。行ったりしてみろ、その後の憂鬱。厭だ厭だ。そいつは一年中続く。俺はカナリヤとは違うんだ。子供のころうちにカナリヤがいた。おばあさんがひと月に一回、籠から放してやる。すると飛び回って箪笥の角に止まる。まるでコーカサスまで行って来たような得意げな様子でな。お前の姉との違いはただ、そこから絵葉書を送らなかったってことだけさ。(間。)
 俺はな、野望があるんだマリエット、大きなやつが。俺のため、そしてお前のための野望だ。
 マリエット 野望・・・そんなの今までいつも・・・
 タバル そう。今までは駄目だった。出口が見つからなかったんだ。しかし今度は違う。今度は本気だ。
 マリエット(心配になって。)あなた、また職場を変えるの?
 タバル うん。職場も、何もかもだ。ああ、明日っていうんじゃない。しかし、思ったより早いぞ。
 マリエット(溜息をついて。)私には分らない。なるようにしかならないんでしょう。
 タバル サン・マロの奥方が、その時には言うさ、「あらまあ、そうだったの」ってな。(間。そして再び怒りがこみ上げて。)畜生、何てやつだ、あいつ。言いたいだけ言いやがった! 毒だ。毒をまき散らしおって! いいか、あいつには二度とこの家の敷居を跨がせるな。分ったな。
 マリエット 姉だって、たいして来たくもないでしょう。
 タバル(食器棚の前で。)糞絵葉書! こんなもの、送らないで、自分の家に持って帰りゃいいんだ。見るのもうんざりだ。(三枚まとめて引きちぎる。)
 マリエット(急いで駆け寄るが、すでに遅い。)まあ、何て意地悪! それ、私宛なのよ!
 タバル 当り前だ。亭主を馬鹿にしている証拠だ。(鉢カバーを指差して。)そいつもそうだ。この俺が四六時中そんなものを見せられてへいちゃらでいられると思っているのか。
 マリエット(ぎょっとして。)まあ、どうして?
 タバル お前の姉がそこにいるようなもんだ。あいつの全存在が・・・あいつの嫌味、傲慢、あいつの、人を見下した目!
 マリエット 違う、それは違うわ!
 タバル 違わない、決して違わない! とにかくお前がそれほどとって置きたいなら、台所の物入れの中にしまっておけ。見るのは厭だ、俺は。
 マリエット(必死に。)いいえアンリ、あの鉢カバーはそこに、その棚の上に置くわ。私、花をいける。これで部屋がパッと明るくなる。私、ここで初めて女らしいものを持ったのよ。今まで一度だって家を飾るものなんか持ったことがないのよ!
 タバル ほう、言ったな。それがあいつの思う壷なんだぞ。あの生意気なお前の姉のな。「私のお陰でやっとあなたの家にも、豪華なもの、花が飾れるものが手に入ったのよ。自分の家ぐらい自分で飾れなくっちゃね」!
 マリエット 私、飾れればいいの。それが姉の差し出口だろうと、何だろうと。私はあなたのような傲慢さはないわ。
 タバル お前には誇りはないのか。
 マリエット(頑固に。)私、鉢カバーに花をいける。その鉢カバーを棚に置く。貝殻もいれる・・・
 タバル(怒鳴る。)俺の見えないところに置くんだ! でないとぶっ壊すぞ!
 マリエット(鉢カバーに跳びつき、持って。)分ったわ。見えないところに置く! 私、これが好き。でも私が一人でいる時だけ・・・縫い物の時、ジャガイモの皮むきの時、お料理の時・・・結局殆ど一日中になるけど・・・皆が呉れるって言った造花も飾る。そして棚の上に置く。私一人のために! この鉢カバー、私・・・
 タバル(途中で遮って。)いいか、結局これは、こうなるんだ。(マリエットの手から鉢カバーを奪い取って、窓に走りよる。)階段を降りりゃ、かけらぐらい拾えるさ。
 マリエット(仰天して。)いいのね、アンリ。もしそんなことをしたら・・・ああ、止めて、お願い。
 タバル ああ、丁度やって来る。おまわりだ。工場の監督なんかじゃない、本物のおまわりだ。(下に呼びかける。)おーい、おまわり! こいつを食らえ!(鉢カバーを投げる。歩道で鉢カバーの壊れる音。下から人々の叫び声。子供の叫ぶ声「ああ、壊れちゃった!」タバル、大きな溜息をつきながら、ゆっくりと戻って来る。)
 マリエット(窓に駈けよりながら。)あなた、馬鹿よ。みんな怒鳴ってるわ。
 タバル(平静になって。マリエットをゆっくり押し戻しながら。)もう出るな。なるようにしかならん。馬鹿だった。しかしこれで俺の気も収まった。
 マリエット(椅子の上にくづおれながら、泣く。)あんたなんか、嫌い・・・終よ・・・ああ、私の貝殻・・・
 タバル(物を思う様子。)うん。(戸棚に背をあてて。)男を追いつめたりするとろくでもないことになる。(扉にノックの音。)開けてやれ。きっとおまわりだ。
(マリエット、扉を開けに行く。レオンチンヌ登場。その後ろにマダム・コルボとマドゥムワゼッル・アンジェッル。)

     第 七 場
 マリエット ああ、チチンヌ!
 レオンチンヌ(敷居のところで。)あの人、何をしてるの。
 タバル またあんたか。もうほっといてくれ。
 レオンチンヌ(マリエットに。)私、マダム・コルボの家にいたの。すぐには家に帰る気にならなくて。心配で、心配で。何なの? 窓から投げたのは。
 タバル お慈悲で戴いたあんたの鉢さ。貝殻と一緒にな。
 マリエット(締めつけられるような声で。)鉢カバー、貝殻・・・あなたがくれたものだからって・・・私が嬉しそうにあれを見るからって・・・
 マダム・コルボ 言わないことじゃない。
 レオンチンヌ まあ。(タバルに。)獣(けだもの)よ、あんたは。あんたっていう人は・・・
 マドゥムワゼッル・アンジェッル(途中で遮って。)おまわりさんだわ! 入れてあげて、マダム・コルボ。

     第 八 場
 警官(怒って登場。)おい、一体何だ、これは! 気違いか、ここにいる奴は。(タバルに。)鉢を投げたのはお前か。(タバル、頷く。)私が死ななかったのは奇跡だぞ。足に落ちる前に帽子のひさしにあたったんだぞ!
 タバル それは違いますね。あんたの前には確かに落ちたが、少なくとも一メートルは離れていた。それに、足にはあたらない。欠片(かけら)がとんだだけだ。あんたに当てようとしたんじゃない。それにいづれにしたって、何の危険もありゃしない。あんな鉢で人が死ぬ訳がない。頭よりよっぽど壊れ易いからな。
 警官(怒って。)お前、そんなことをこの私に言うのか。いいか、おい!
 レオンチンヌ おまわりさん、この人、酔っぱらって・・・
 タバル(ずばりと。)違う!
 レオンチンヌ(震えながら、多弁に。)おまわりさん、この人が窓から投げたのは鉢カバーですのよ。それも、綺麗な貝殻がいっぱい入った・・・(鳴き声。)カンペの鉢カバー。この人に嫁いでいる妹のために私が買ってきた・・・高価なものなんです。この人は今帰って来たばかり。恐ろしい目をして、ねちこち絡(から)んで。私に酷い侮辱の言葉を浴びせて。ここから追い出したんです。
 警官(タバルに。)鉢を落す前に何か言ったな。何と言ったんだ。私には聞えないと思ったんだな?
 タバル 怒鳴ったからには、聞かせようと思ったんでしょう。
 警官 生意気な口をきくな。ちゃんと聞えていたんだ。「おい、おまわり」と怒鳴ったな。その後は聞えなかった。しかし・・・
 マリエット(大きな声で。)「危ないぞ」って言ったんだと思います。
 タバル 嘘は駄目だ、マリエット。俺は嘘をつきたくない。「こいつを食らえ」って言ったんだ、俺は。
 警官 何だと!
 タバル(はっきりと。)「おい、おまわり、こいつを食らえ」と。
 警官 フン、そいつは問題だぞ、お前、その言葉は。
(警官二、戸口に立っている婦人達をどけて登場。)
 警官二 ちょっと失礼。(警官一に。)下で人だかりがしていたから・・・
 警官一 丁度よかった。今この男を連行するところだ。夫婦喧嘩をやっていたらしい。それで、腹立ちまぎれに、丁度通りかかった私に、鉢カバーを投げつけた。何か怒鳴ってな。危うく避けたが、足にあたった。(タバル、帽子を取りに行く。)
 警官二 さ、行くんだ。(警官二人、タバルの腕を掴もうとする。)
 タバル 止めろ。逃げたりはせん。
 マリエット(震えながら。)私も一緒に行くんでしょうか。
 警官一(ちょっと考えた後。)いや、必要な場合は署あるいは予審判事から呼出しがある。
 タバル 心配しないでいい、マリエット。
 警官二 暫くの間、静かになるさ。
 レオンチンヌ(マダム・コルボに。)不幸も何かには役に立つわね。
 タバル(扉のところで。)あ、ちょっと。土曜日に女房に給料を取って来て貰わないと。会社宛に一筆・・・
 警官一 留置所で書けばいい。いくらでも時間はある。さあ、行くんだ。
(三人、退場。)
 レオンチンヌ(扉の敷居のところで、叫ぶ。)マリエットのことは心配しないで。姉がいますからね、有難いことに。(マリエット、虚脱状態で坐る。)
 マダム・コルボ 私達だってここにいるわよ、ね? マドゥムワゼッル・アンジェッル。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル(震えながら。)ええ、そうよ!

     第 九 場
 レオンチンヌ(立って、マリエットの頭を支えている。マリエットをなでてやりながら。)マドゥムワゼッル・アンジェッル、扉を閉めて下さらない?
(マドゥムワゼッル・アンジェッル、急いで扉を閉め、三人のもとに戻る。)
 マダム・コルボ 何てことでしょう! 本当に酷いことに・・・
 マドゥムワゼッル・アンジェッル あなたの旦那様どうなっちゃったのかしら。あんな風になったの、見たことがないわ。いつだって私に親切で・・・勿論あの人、変っているってことは知ってるけど、でも、こんなのって・・・
 レオンチンヌ あの人をよく知らなかったからなのよ。今さっき見たあれ、あれがあの人の正体。あの人、飲むとああなるの。
 マリエット(少し苛々して。)いいえ、それは違うわ。
 レオンチンヌ じゃあ気違いよ。あんなことをやっておいて、おまけにそれを自慢するなんて。けだもの! いいえ、けだものの二倍の気違いよ。警察とだって今までに何かもめごとを起したかもしれない。分ったものじゃ・・・
 マリエット(陰気に。)黙ってレオンチンヌ、もういいでしょう? あの人、充分に罰は受けてるわ。
 マダム・コルボ やったことの重さをあの人、思い知るわ。
 レオンチンヌ でもねマリエット、一体何があったの? どうしてこんなことになったの?(マリエット、黙ったまま。)あなた、分るでしょう? 私達、あれから部屋に入らないで、扉のところにいたの。だってあんまりびっくりして・・・でも、何も聞えなかった。近くで子供が騒いでいたし。
 マダム・コルボ それに、この時刻でしょう? 人が通るし、扉の外にいるって、変に思われるって私、お姉さんに言ったのよ。
 レオンチンヌ(マリエットに。)ね、話して。何があったの?
 マリエット いいえ、今は駄目。私、どこか知らないところへ行きたい。何も考えたくない。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル 分るわ、私。気が転倒しているのよ。
 レオンチンヌ そうね。分ったわ。もうこの話は止めましょう。
 マダム・コルボ(レオンチンヌに。)お二人だけにした方が?
 レオンチンヌ ええ、そうして。これからのことを決めなくちゃ。
 マドゥムワゼッル・アンジェッル そうね。
 マリエット(立ち上がりながら。)ここにはいたくないわ、私。とにかく今夜は。
 レオンチンヌ こんなところに一人にさせておくものですか。私、家に来なさいって、今言おうと思っていたところ。
 マダム・コルボ そうした方がいいわ。
 レオンチンヌ(マリエットに。命令的に。)今夜だけじゃないのよ。あなたは私の家に泊るの、ずっと。(マダム・コルボに。)義理の弟は今軍隊で、ベッドが一つ空いてるの。
 マリエット いいえ、親切だけど、それは・・・
 レオンチンヌ それは・・・何なの?
 マダム・コルボ(これ以上聞くのは礼儀に叶わないと。)さあ、マドゥムワゼッル・アンジェッル。出て行かれる前にはお声をかけて下さいね、マダム・タバル。
 マリエット はい。
 レオンチンヌ(二人を扉に導きながら。)では、また。(二人退場。レオンチンヌ、扉を閉める。)

     第 十 場
 レオンチンヌ さ、マリエット、あなた、家に来るわね?
 マリエット ええ、今日行って、一晩泊るわ。でも、あの人が逮捕されたんだから、余計私、この家を留守に出来ないわ。
 レオンチンヌ 家を留守になんかしたことにはならないわ。だってあなた、時々ここに見に来るんですもの。(バカンスでどこかへ行く時の方がずっと本格的な留守。)
 マリエット 時々ここに? でも、明日か明後日にはあの人、釈放されるんでしょう?
 レオンチンヌ 何を言ってるの、あなた。まづ最初に裁判にかからなきゃならないのよ。それが少なくとも一週間やそこらはかかるわ。
 マリエット それから?
 レオンチンヌ それからは知らないけど、いくら少なく見ても、一箇月は牢屋よ。だって、警察を殺そうとしたんですもの!
 マリエット そう・・・
 レオンチンヌ それで死にはしなかったわ。それに悪気はなかった。何か盗(と)ろうとしてやったんじゃないんですからね。それは良い材料だけど・・・でもあなた、あの人のことを可哀想だなんて思ってやったら駄目よ。
 マリエット(ピンと背筋を伸ばして。)そう、私、可哀想だなんて思ってやらない。あの鉢カバーで私がどんなに嬉しかったか、あの人には分っているんですからね。それに、貝殻だって。(泣き声で。)貝殻・・・それに絵葉書も・・・
 レオンチンヌ 絵葉書? サン・マロの? あれも投げたの?
 マリエット 破ったの。ほら・・・(床に散らかっている紙片を指差す。)
 レオンチンヌ あーあ、マリエット、あなた、なんていう人と一緒になったんでしょうね、全く。そう、私、あなたを家に連れて帰る。あなたを守ってあげる。出来る限り長く。そうよ、今晩は、今いるものだけを持って来るの。明日また来ればいいんだから。
 マリエット スープが火にかけてあるわ。
 レオンチンヌ マドゥムワゼッル・アンジェッルにあげればいいの、スープなんか。夜着るものだけを持って。バッグに入れればいい。ほら、鉢カバーのこのバッグに。
 マリエット もし明日、警察から呼出しがあったら? 警察の人がここに来たら?
 レオンチンヌ アパートの管理人に、私の住所を渡しておくわ。ここにいる必要はないのよ、あなたは。あなたは自由なの。
 マリエット 私、逃げたなんて思われたくないわ。
 レオンチンヌ 行き先を言っておくんですもの、逃げたなんてことにはならないわ。自分の姉の家に一時滞在、それで何の不都合もないでしょう? あなたがちゃんとした家の出だってことがこれで分るのよ。(マリエット、右手奥の扉に進み、椅子をどけ、床から、タバルが鉢カバーから落した貝殻を拾い上げる。)さあ、行きましょう!
 マリエット あんなに貝殻、あったのに。残ったのはこれだけ!
                (幕)

     第 二 幕
(ビシャ家の小さな居間。舞台奥に両開きの扉。これは開いたままになっている。奥の食堂に通じる。食堂の様子が観客に少し見える。真中にフリルのついた布が敷いてあるテーブル。その上に一幕で見た鉢カバー。その中には沢山造花が入っている。)
(居間も食堂と同様、上っ面の豪華さ。真中に小さなテーブル。周囲に椅子(複数)。テーブルの上にはデカンターとワイングラス。左手、家具の上に蓄音機。左手と右手に扉。右の扉は玄関に通じる。)
(幕が開くとダンス音楽。もうすぐ終に近い。レオンチンヌとビシャは小さなグラスで酒を飲んでいる。マリエットはダンス音楽に合わせ、ステップを踏みながら、曲を口ずさんでいる。ステップの踏み方はあまり上手ではない。)

     第 一 場
 マリエット 本当よ。夕べ、このタンゴやったわ。
 ビシャ(ピシッと。)やらなかった。
 レオンチンヌ まさかこれを・・・家にあるレコードの曲なんて、無理。
 マリエット 二回やったわ。みんながアンコールしたから。
 ビシャ(決めつける言い方。それがこの男のいつもの調子。)同じものをやったなら、二回じゃない。三回だったはずだ。
 マリエット ゲリドンさん、私にこれを三度踊らせたわ。仕舞には少し私、覚えて・・・(踊る。)
 レオンチンヌ もしこれをやったのなら、私たちが真先に踊ったはずだわ。
 ビシャ もっとも、我々がいなかった時にやったのなら話は別だ。
 マリエット そうそう、姉さん達は手品を見に行ってた。私、このタンゴの後もテーブルに一人で坐ってたわ。ゲリドンさんは煙草を取りに行ってたから。(笑う。)可笑しいのよ、私と踊りたいって、三四人、男の人がやって来たわ。
 レオンチンヌ 別に可笑しいことないでしょう?
 マリエット 勿論私、断ったわ。ルンバだったもの。どうせ出来なかったでしょうし。私、変な気持。みんなが私のことをマドゥムワゼッルって呼ぶの。私、若返ったわ。
 レオンチンヌ(陽気に。)そう、若返らなきゃ駄目。あなた、ひどく老けてるわ。
 ビシャ それに、マドゥムワゼッルで、ちっとも可笑しくない。あんたはまだ結婚していないんだ、私の知る限り。
 マリエット いいえ、結婚しています。届けてはいないけど。私の家の近所では、みんな私のことをマダッムって呼ぶわ。
 ビシャ で、ゲリドンは何て呼ぶ? 気づいたことはないな、私は。
 マリエット ああ、あの人、本当にすぐ名前で呼んだわ。マリエットって。それから・・・
 レオンチンヌ(途中で遮って。)可愛いわね!
 マリエット 口から出任せに、浮かんで来た物、何でもいいから、それで呼びかけるの。兎だの、羊だの、何でも。でも、一番最初、ここで会った時は、マダッムって言ったわ。
 レオンチンヌ あの人、みんながあけて通す人。独特の雰囲気があるもんだから。
 ビシャ そう、独特だ。役所で、例えば同僚をからかう。いいようにからかうんだが、ある一線はちゃんと越えないようにする。(デカンターに手を伸ばす。)
 レオンチンヌ アンドレ! もう駄目!
 ビシャ ほんの少し! 今日は日曜だぞ。
 レオンチンヌ(両手でデカンターを取り上げて。)いいえ、駄目です。もう少ししたらゲリドンが来て、また飲むでしょう? その後また気分が悪くなったって言うの!
 ビシャ(新聞を取ってぼんやり読みながら。)ラムは気分なんか悪くならない。マールだ、悪くなるのは。まあいい、どうせトニーとやるんだ。何の話だったかな?
 マリエット(蓄音機からレコードを取り上げ、題名を見ながら。)その人の話・・・役所での。
 ビシャ あ、そうだった! あいつのお陰で愉快になれるんだ。
 マリエット あの人、本当に可笑しい。悲しくなることなんか、あるのかしら。ちょっと真面目になる時でも・・・
 ビシャ いつでもふざけていると思ってたら間違いだ。あいつはシャンソンの詩を作る。これが大変な思考力を要する。
 レオンチンヌ お笑いの詩でもよ。韻をそろえなくちゃならない・・・それも、ピッタリのものを。頭が痛くなる作業よ。
 ビシャ あいつが役所でたった一行の詩が出てこなくて、一日中唸っているのを見たことがある。
 マリエット この間二人でナポレオンの墓に行った時、アンヴァリッド博物館の前でとてもあの人、神妙な顔をしていたわ。
 ビシャ ほほう。
 マリエット 勿論私、あのお墓に興味あるわ。でも、歴史的なものとして見てしまう。お墓なのに何の感情もわかない。
 レオンチンヌ でも、印象深いでしょう? お墓だもの。
 マリエット お墓なら死んだ人のことを考えなきゃ。でも、あそこでは、建築物の立派さ、大理石の美しさ、だけが見えて・・・あんなに綺麗な大理石、私、見たことがない。そのことをゲリドンさんに言おうとしたの。でも、あの顔を見てハッとして止めたわ。あの顔、死んだ人のことを考えている顔だった。
 レオンチンヌ 今朝あの人、葬式に行ったのね? アンドレ。
 ビシャ うん。
 マリエット 誰の葬式?
 ビシャ 名前は忘れた。ナポレオンの墓の真ん前だ。ゲリドンの想像力がどんな働きをしているか、あんたには想像もできないよ。なにしろあいつは詩人だ。ナポレオンに関するあらゆる叙事詩が頭に浮んでいるさ。ピラミッド、アウステルリッツ、ワテルロー・・・ひょっとするとユゴーの詩を朗誦しているかもしれんな。
 マリエット ええ、あの人、いっぱい・・・話! パリの有名なところはみんな見ている。昨日ダンスしながら、どこに連れて行く、あそこに連れて行くって、数えあげるの。私、殆どどこも知らないの。しまいには恥づかしくなって・・・エッフェル塔に登ったことある? いいえ。 ノートルダム寺院の塔は? いいえ。ブュット・ショモンは? 競馬場は? ノイイ祭は? グレヴァン美術館は? 無名戦士の墓は? いいえ。いつでも「いいえ」。「あらあら、この花のパリで、あなた、何もご存知ない」って言われちゃった。
 レオンチンヌ その通りよ。結婚当時の無知な私・・・それがあなた。何も知らないのよ。あなたが知っているのはサン・トゥワンだけ。サン・トゥワンの下層民、それにサン・トゥワンの映画館。
 マリエット(抗議して。)だって・・・
 ビシャ パリについてあんたが知っていること、それはセーヌ河の岸辺の土手だけ。御大(おんたい)タバル氏が釣をなさるあの土手・・・
 マリエット でも、あの土手、いいわ。
 レオンチンヌ ゲリドンがあなたに話した場所は私、全部知ってる。それ以外だって知ってるところあるわ。でもとにかくあなた、これからは生きるのよ。他のみんなと同じように。私達その手助けをするわ。
 ビシャ いや、もっと正確に言えばだな・・・
 レオンチンヌ(途中で遮って、マリエットに。)気をつけて! レコードを割らないでよ。それ、高いんだから。
 ビシャ(続けて。)つまりだ、上流階級に上って行こうという野心のある人間なら誰でもやるような生き方、それをするんだ。
 マリエット まあ、私、この一箇月、随分甘やかされて暮したわ。毎日がお祭っていう感じで。
 レオンチンヌ 可愛いこと言って。
 マリエット 私、もう昔の私じゃない。昔の私なんかもういないわ。
 レオンチンヌ それでいいのよ。皮膚を塗り替えるの。
 ビシャ 「タバル」からすっかり脱皮するんだな。(マリエット、少し困った顔。)それに、四五日したら、こっちにも計画がある。
 マリエット 計画?
 レオンチンヌ(ビシャに。)駄目! お喋りね。(マリエットに。)さあ、この洋服にするのよ。ゲリドンは二時半に来る筈。今はもう二時。
 マリエット(洋服を受け取って。)まあ、有難う! 嬉しいわ、私。(レオンチンヌにキス。)
 レオンチンヌ ほらほら・・・ね? 裾にアイロンをかけて。時間はまだあるわ。
 マリエット ええ。それから、この服また必要になったら言って。私、たけを元に戻すから。
 レオンチンヌ いいのよマリエット、元には戻さない。これ、あなたにあげるの。
 マリエット(困って。)駄目よチチンヌ、今まででも貰い過ぎ。これ、まだ新しい。あなた、いくらでも着られるわ。
 レオンチンヌ 私、もう二夏着たもの。
 ビシャ なあマリエット、服がまだ新品だからあんたにやろうって言っているんだ。古かったらしないよ、そんなこと。
 レオンチンヌ(マリエットに。)さ、さ、早く!
 マリエット じゃ私、行くわ。有難う、チチンヌ。(左手の扉のところまで行き、立止る。)ちょっと訊いていいかしら。ゲリドンさん、あなたがこれを着ているのを見たことがある?
 レオンチンヌ いいえ、今年はとにかく、ないわ。それに、男の人が女性の着物のことなんか覚えていると思うの? あなた。
 ビシャ しわくちゃだったり、似合わなかったりすれば、覚えているだろうがな・・・
 レオンチンヌ(非難の口調。)あなた!
(マリエット、笑いながら退場。)

     第 二 場
 ビシャ フン、調子は悪くないじゃないか。
 レオンチンヌ 「悪くない」なんてもんじゃないわ。ゲリドンの名前を口にしないでは夜も日もあけないわ。あの人と二人だけで外出するのも平気になってきたし、それに、急に出てきたあの色気。
 ビシャ うん、夕べから急にだ。私も気がついた。ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットが決定的だったな。ダンスをする、こいつが一番効き目がある。
 レオンチンヌ あなた、分ってないわ。変ったのは今朝からなの。私が朝話したから。
 ビシャ へえー、話したのか。
 レオンチンヌ そうよ、買物をしながら。肉屋で私がお金を出すのを見て、世話になっているのをひどく気にして、それから、まだ自分が職についていないことを。私もいい機会だと思って、すかさず言ったわ。「ねえ、マリエット、あなた、気にすることないの。私達が今までのところを引き払ってサン・マロに引越したのも、楽な生活をするようになったのも、別に節約のお陰じゃないの。私達、状況が変ったからなのよ」。それから、宝籤にあたった話をしたの。二十万フランとは言わなかった。十万フランって言ったんだけど。
 ビシャ それで?
 レオンチンヌ 十万フランであんなに驚かれるんだったら、五万フランにしておけばよかった。で、私言ったの「ね? 私が今まで隠していたのは、あんたの亭主のせいなんだからね。それに、あんたがあの人とはっきり別れると決めるまでは、夫から私、しっかり口止めされていたの」って。
 ビシャ それをわざわざ私のせいにすることはないじゃないか。
 レオンチンヌ いいえ、あなたが出て来て、あの計画に重みが出るの。あの子、私達の計画をもう知っているのよ、だから。
 ビシャ あの計画? じゃ、もう話したのか。
 レオンチンヌ ええ、話したわ。勿論あなたは今の役所の仕事を続ける。でも私達は、香水他、化粧品の販売の仕事をする計画・・・私がその方面でもう五年の経験があるから。それであの子にはっきりと、私と働くつもりはないかって訊いた。待遇の面では不足のないようにしてあげるからって。
 ビシャ で、喜んだのか。
 レオンチンヌ 当り前でしょう。私にキスをして、礼を言って・・・大変よ。今はもうあの子、そのことで頭がいっぱい。
 ビシャ それには一つ条件があるぞ、あの浮浪者と完全に手を切るという。あと二箇月で牢屋から出て来るあいつに対して、きっちり決心して貰わなきゃならん。
 レオンチンヌ そのことよ、私があの子にしょっちゅう言ってるのは。それで、今朝あたりからあの子、その気になって来たらしいわ。
 ビシャ まさかお前、ゲリドンをそれに絡(から)めちゃいまいな?
 レオンチンヌ 絡めてるわよ、勿論。
 ビシャ 何だって? それは早すぎだ。我々が二人の後押しをしているのを気づかれてしまう。用心されて、ゲリドンを避けるようになるぞ。
 レオンチンヌ 単純ね、あなたは。私はあの子を知ってます。あの子にちょっと見せてやっただけ、あの子の知らない世の中の一面を。ゲリドンがあの子にちょっと言いよったら、もうボーッとなって有頂天。(だから、避けるようになるなんて心配、ないわ。)ただそれが真面目なものにまで発展するか、なんてことはあの子の頭にはないの。どうせゲリドンみたいな人はあの子なんかとは結婚なんて考えもつかないでしょうし。
 ビシャ うん、そんな考えはあいつにはないな。女は好きだが、結婚は頭にないんだ、あいつには。
 レオンチンヌ まあ、いつか、真面目な女の子に出逢って、その子に惚れて、結婚しなければ相手にしてくれないと思い知らされるまではね。
 ビシャ おいおい、チチンヌ、その真面目な女がマリエットだとそれは困るぞ。この間ゲリドンが、「あの子、可愛いね」と言った時、私は釘をさしたんだ。我々夫婦はあの子をタバルから切り離したい、それも永久に・・・それだけなんだとね。それから例の化粧品販売店の話をしたんだ。
 レオンチンヌ じゃあ、宝くじにあたった話も?
 ビシャ いや、それはあいつに漏らしちゃ駄目だぞ。遺産が入った・・・はっきり誰からとは言わずにな・・・そう言ったんだ。今までしょっちゅう、あいつに言ってたんだよ、宝くじが五万以上あたったら、お前に一万やるってね。
 レオンチンヌ(大きな声で。)馬鹿な話!
 ビシャ おいおい、声が大きいぞ。それで、お前はどういう話をしたんだ? マリエットに。
 レオンチンヌ 世間話程度のこと。化粧品販売店の話をして・・・
(言い止む。玄関の音がしたため。)
 ビシャ ゲリドンだ。私があける。(右手の扉に急いで進む。)
 レオンチンヌ マリエットと二人で行かせるようにするのよ。私達は子供に会いに行く予定があるからって。
 ビシャ 分ってる!(退場。扉を開けたまま。ビシャが陽気にゲリドンに挨拶しているのが聞える。)これはこれは詩人殿、よくいらっしゃいました。どうです? 調子は。

     第 三 場
 ゲリドン(登場しながら。)やあ、ビシャ! ダブル・シャ! スーパー・シャ!(次にレオンチンヌに向ってフェルト帽を振り回して。)マダム・チチンヌ、これはこれは!
 レオンチンヌ 今日は、ムッスィウ・ゲリドン! (握手。)あらあら、その帽子・・・アンドレが気がつかなくて・・・
 ゲリドン いやいや、わざと渡さなかったんですよ。これがある方が挨拶がよく出来ますから。(玄関の方に進もうとする。)
 ビシャ さあ、こっちに。(帽子を取って、玄関に消える。すぐ戻って来る。)
 レオンチンヌ(ゲリドンに。)残念だわ。お昼を御一緒にと思っていたのに・・・
 ゲリドン 無理でして、どうしても。旦那様がお話下さいませんでしたか? 今日はリュドヴィック・フロランの葬式に出席しなきゃならなかったんです。騒々しいミサ、一向に終らないお説教、いやはや。モンパルナスの墓地を出たのがなんと二時半。結局昼飯は二度喰いましたよ。
 ビシャ さあ、ラムを一杯。チチンヌ、グラスをくれ。
 レオンチンヌ(食堂にワイングラスを取りに行き。)リュドヴィック・フロランって、誰?
 ゲリドン ご存知の筈ですよ。有名な作曲家。「君が好きだから」「愛の巣」の作曲・・・
 レオンチンヌ ああ、あの人!
 ビシャ 国家の損失だ!
 ゲリドンところで、僕のダンスのお相手さんは?
 ビシャ 着替え中。
 レオンチンヌ(盆の上に持ってきたワイングラスをビシャの傍の机において。)ほらほら、見えないので心配ね。(ラムを注ぐ。)お越しのお方に敬意を表して、綺麗な服に・・・
 ビシャ(ゲリドンに。)昨日のダンスでまだ興奮していてね・・・
 レオンチンヌ ついさっきも、一人で踊っていたのよ。あの子のためにムーラン・ド・ラ・ギャレットへ! あの子、初めて。
 ゲリドン 可哀想に。初めてだなんて。
 レオンチンヌ 綺麗な服を着ているのを、あなたに見せられるって、大喜びなの。私のお古(ふる)、実はね・・・
 ビシャ(途中で遮って。)チチンヌ、そんなこと話すんじゃない。
 レオンチンヌ ゲリドンに? いいじゃないの、いい話よ、これ。
 ゲリドン(興味をもって。)で?
 レオンチンヌ 私がその服を着ていたのを、あなたが見たことがあるかって訊くの。覚えていられると厭なのよ。あなた、覚えてないって私、保証したわ。可笑しいでしょう?(笑う。)
 ゲリドン 可愛いな、あの子は。まだ新しい仕事のことも、遺産が入ったことも、あの子には話していないんでしょう?
 レオンチンヌ(勢いよく。)話してないわ。あなた、言わないのよ。
 ビシャ ゲリドンにはちゃんと言ってある(マリエットに言っちゃいけないと。)
(ゲリドン、分っているという動作。)
 レオンチンヌ あの子、今あそこ。着替えを手伝って来る。

     第 四 場
 ゲリドン 午後はどうするんだ?
 ビシャ 我々はジュワンビルに行く予定だ。子供に会いにね。
 ゲリドン(乗り気なく。)そうか。
 ビシャ 我々と言ったが、私とチチンヌだ。それで君は・・・(ラムを注ぐ。)
 ゲリドン いやいや、三人一緒に行けばいい。
 ビシャ(笑って。)なあんだ、君は乗り気じゃないのか。
 ゲリドン ちょっと問題がある。僕はあまり歩きたくないっていうことさ。これで今日はもう、歩き過ぎなんだ。全く馬鹿なことをやったものさ。モンマルトルからサンジェルマン・デプレまで歩いたんだからな。まあしかし、それでも何とか・・・
 ビシャ 全くトニー、君のやることと言ったら。しかし、ちょっとまいったな。
 ゲリドン どうして。
 ビシャ マリエットのことなんだ。親友の私の顔を立てて、あの子と今日つきあってくれないか。
 ゲリドン いや、それはまづいよ。僕はね、礼儀に叶ったことだったらやるけど・・・
 ビシャ(ゲラゲラっと笑って。)なあんだ、まるで今まで一度も二人で歩いたことがないような言い方じゃないか。
 ゲリドン 分ってないね、君は。僕は今日、君と午後を過ごすためにやって来たんだ。それが急に・・・君の奥さんにもおかしく見えるし、あの子自身だって変に・・・(思うさ。)
 ビシャ やれやれ、体面だけのことじゃないか。それにさっき君も言ったぞ、ただ足が疲れているからジュワンビルへは行きたくないって。
 ゲリドン うん、まあ。
 ビシャ だいたい君は田舎は好きじゃないし。
 ゲリドン それはそうだ。
 ビシャ 子供なんて、あまり興味もない・・・
 ゲリドン それは場合によるけど・・・
 ビシャ そう言ったぞ、昔。だから君はジュワンビルには行かない。となると、君が人助けをしてくれることを家内は望んでいるんだ。それに、マリエットも君に人助けされたいと願っている筈だぞ。まあまあ、そう言うな。ちゃんと私がうまくやる。夕方には四人ここでアペリティフを飲むことにしよう。
 ゲリドン いや、すまない。痛い足をかばうことしか頭になくて。人助けは承知した。じゃ、今晩話そう、その結果は。
 ビシャ よし。ところで、どこへ連れて行くつもりなんだ? あの子を。
 ビシャ まだ決めていない。あの子が面白いと思う、そして僕も気分がいいと思うところだな。とにかく歩くのはご免だ。これだけは言える。(レオンチンヌとマリエット、登場。)

     第 五 場
 レオンチンヌ(マリエットに。不機嫌に。)駄目じゃないの、ガスをつけっぱなしにしちゃ。高いのよ。気をつけてくれなきゃ。
 マリエット(困って。)ご免なさい。アイロンがまだ充分暖まっていないと思って。今日は、ゲリドンさん。
 ゲリドン ほーら、おねむさんがやって来たぞ。夜更かしさん。(マリエットと握手。それからレオンチンヌとビシャに、マリエットを見せるようにして。)朝霧のように新鮮! 今起きたばかりのところ・・・ね?
 マリエット(笑って。)私、起きたの、きっとあなたより早いわ。朝八時にはコーヒーを淹れたわ。
 ゲリドン おやおや、悪い人だ。
 レオンチンヌ いつも六時半に起きるのよ、この子。(ラム酒のデカンターを食堂に並べる。)(訳註 このト書きは不明。)
 マリエット(ゲリドンに。)それに、あなただって、お葬式から帰ってきた人のようには見えないわ。誰のお葬式だったの? 下宿のおばさんの?
 ビシャ(咎めるように。)マリエット1
 ゲリドン これは参った。下宿のおばさんの葬式にこの僕が出席か・・・
 マリエット(真面目に。)本当に、誰のお葬式?
 ゲリドン リュドヴィック・フロランの。
 マリエット その人、お友達?
 ゲリドン 音楽家・・・作曲家ですよ。
 レオンチンヌ 「愛しているから」を作曲した人よ。
 マリエット 私、その歌、知らない。私、何も知らないから・・・(ゲリドンに。)その人、あなたの歌詞に曲をつけたの?
 ゲリドン いいえ、僕は古い曲に歌詞をつけるだけですよ。リュドヴィックには会ったこともありません。
 マリエット まあ。じゃ、どうしてそんな人のお葬式に?
 ゲリドン 死んだ人のためじゃない場合があるんです、葬式に行くのは。生きている人を見ようというね。(マリエット、驚く。)そう、本当!
 マリエット まあ、変なの! 生きている人なら、葬式でなくても、いくらでも見られるでしょう?
 ビシャ 何しろ、うぶだからね!(ビシャとレオンチンヌ、笑う。)
 ゲリドン 葬式の時でないと会えない人もいるんですよ。リュドヴィック・フロランの葬式に出席するのも、これで物見遊山じゃない。あの陰気さ、うんざりです。でも、そこで有名なシャンソン作家、キャバレーの美術担当者に出逢うチャンスがあるんです。僕が昔、自分の作った詩を連中に送ったことを思い出させたり、僕に誉め言葉を手紙でくれたことに感謝してみせたりね。つまり、成功するには、才能以外のもの、つまりコネ、も必要なんです。
 ビシャ(賛成して。)そうそう。
 ゲリドン それに、一日中役所の机についているっていうのもあまり嬉しくないから・・・
 レオンチンヌ じゃ、日曜に葬式があったの、運がよかったのね? (行けたから)
 ゲリドン いいえ、マダム・チチンヌ。運が悪いんです。平日だったら休みがとれますからね、葬式だと言えば。
 ビシャ ああ、葬式と言えばね。チチンヌ、誰かさん今日は朝からまるまる三時間歩きづめ・・・いや、行進かな? それでもう歩きは降参。何か冷たい飲み物の前で坐っていたいと・・・
 ゲリドン(柔らかく。)おいおい・・・
 ビシャ ジュワンビルに一緒に行こうと誘うのは止めにしないといけなさそうなんだ。
 ゲリドン まづいことを言ったな。足が棒のようだなんて。ああ、だけど、大丈夫だ。一緒にバスで行ってバス停の近くで君達が帰って来るのを待つよ。
 レオンチンヌ そんなことをするなんてどうかしてるわ、言っちゃ悪いけど。面白くもなんともないでしょう?
 ゲリドン いやいや、ご一緒出来ますから、少しでも。
 ビシャ ご一緒ならアペリチフの時で充分。その時まで君、マリエットと一緒っていうのはどうだい? 勿論マリエットがその気であればの話だが。
 マリエット(きびきびと。)私、いいわ。
 ビシャ よし。じゃ、二人でどこかいいところへ行くんだな。
 レオンチンヌ そうね。マリエット、あなた、うちの子供にはまた近いうちに会えばいいのよ。
 ゲリドン(諦めて。)マリエット嬢のお供とあらば、これはちょっとお断り出来ませんな。
 レオンチンヌ じゃあなた、行きましょう。私、帽子を取って来る。(退場。)
 ゲリドン(マリエットに歌で呼びかける。)
  さあ、美人さん、
  どこへ参りましょうか?
 マリエット 私、分らない。どこでも。お気に入りのところ。
 ゲリドン(マリエットの服を調べるように見て。)おお、これは凄い。一言(ひとこと)言っていいかな?
 マリエット(興味をそそられて。)ええ。
 ゲリドン ウーン、何てドレス・・・(投げキスを送る。)だろ? ビシャ。
(ビシャ、微笑んで賛意を表す。そして帽子を取りに退場。)
 マリエット(幸せそうに。)私もこれ、大好き。
 ゲリドン 服の方もあなたが好きなんだ。その色、とてもよく似合う。
 マリエット 選んだのは私じゃないの。姉なの。
 ゲリドン そうだとしても、着ているのはあなただ。
 ビシャ(帽子をかぶって登場。)女性の半分、それは衣装だからな。
 レオンチンヌ(手袋をはめながら登場。)さてと、行くところは決まった?
 ゲリドン いいところがある。今素敵な映画をやっていてね。
 ビシャ 映画館なんて。人いきれで蒸されちゃうぞ。
 ゲリドン ところが大違い。扇風機完備、背筋にぞっとくる映画なんだ。「氷の恋人達」だからね、題名が。
 レオンチンヌ それ、どこで?
 ゲリドン ブルバールで。ああ、歩いては行かないよ。僕がタクシーをおごる。
 レオンチンヌ すごい!
 ゲリドン ただ、始りは四時だからね、それまではどこかテラスでお茶でも。
 ビシャ じゃ、ごゆっくり。我々はこれで失礼する。
 レオンチンヌ そうね。(マリエットにキス。ゲリドンと握手。)じゃ、夕方。(レオンチンヌ、退場。)
 ビシャ ラ・ポストのカフェで六時半ってのはどうだ?
 ゲリドン 分った。(ビシャと握手。)
 ビシャ(ゲリドンに。「うまくやるんだな」という微笑。)楽しんで来るんだな。じゃ、マリエット。
 マリエット(玄関まで送る。)じゃあ。ぼうやに私からよろしくって。(マリエット戻り、後ろ手に扉を閉める。)

     第 六 場
 ゲリドン 内心では、あの二人とジュワンビルに行きたかったんじゃないのかな?
 マリエット とんでもない。それに私、ぼうやには来週、平日に一人で会いに行くつもりですもの。
 ゲリドン その方がいい?
 マリエット ええ。
 ゲリドン どうして。
 マリエット 平日はバスがガラガラ。ヴァンセンヌの森を突っ切るの。とても遠い所へ行くような気持になるわ。景色がよく見えるところに陣取って木立を見るの。それから森の奥深く通っている小道を。姉と一緒だと、あの人喋りづめ。何も見られない。それに一人だったら、バスを降りて私、どうすると思う? ジュワンヴィルの池に降りて行くの。少し歩かなきゃならないけど、いい景色・・・それに船・・・
 ゲリドン 可愛い人!(マリエットを微笑みながら見る。)
 マリエット 私、帽子を取って来る。
 ゲリドン あ、待って! 僕はまだここに来たばかりだ。それにまだ充分時間はある。そう、煙草は? お好きかもしれないと、アングレーズを持って来たけど。(差し出す。)
 マリエット ご親切に!(一本取る。ゲリドン、それに火をつける。二人、坐る。)
 ゲリドン(からかって。)うーん、結局あなたが僕とここに残ったのは、ジュワンヴィルに一人で行きたかったからなのか・・・
 マリエット(ちょっと抗議の動作を見せるが、すぐ止めて冗談に。)ええ、そう。ただそれだけのため。
 ゲリドン いや違う。映画もあるからな。
 マリエット 意地悪ね。あなたと出歩くの、私が好きなのはよくご存知のくせに。
 ゲリドン そう願いたいところなんですがね。
 マリエット ただご一緒して困ることが一つ・・・それは、どこへ行くにも、みんなあなたがお金を・・・でも、それだけじゃなくて、大盤振舞いまで・・・昨日だってムーラン・ド・ラ・ギャレットでボンボンを一箱も・・・
 ゲリドン(笑って。)大盤振舞い! おやおや、大盤振舞いの言葉が泣いちゃいますよ。金の延棒じゃない、飴の延棒なんですからね。
 マリエット それでも・・・
 ゲリドン 僕がちょっとしたものを買ってあげたりするの、嫌い?
 マリエット 嫌いじゃないけど・・・でも・・・ 
 ゲリドン 僕が少しぐらいあなたを甘やかしたって、それは許して下さらなきゃ。だって、あなたと一緒で僕は幸せなんですよ。その感謝の気持です。
 マリエット 私と一緒で、あなたが・・・
 ゲリドン ・・・幸せ。勿論ですよ、マリエット。いいですか、ちょっと秘密を明かしましょう。たった今僕はあの気のいいアンドレの前で芝居をうったんです。疲れていて歩けないってね。今日あなたと一緒にいたいためなんですよ。
 マリエット(訳が分らず。)芝居?
 ゲリドン そうです。あなたといたいから。ついさっき、あなたがここに残るってはっきりしてからですよ、僕がここに留まると承知したのは。
 マリエット まあ、狡いのね。
 ゲリドン ええ。自分でも驚いているんです、こんな狡いことが出来るなんて。僕はもともと正直に出来ていて、悪巧みなんて性に合わないんですからね。でもあなた、「狡い」って言葉しか出て来ないんですか? あなたのために芝居までうった僕・・・少しは有難いって・・・?
 マリエット(どぎまぎして。)ええ・・・
 ゲリドン(微笑んで。)あなたはどうかな? このトニー・ゲリドンと二三時間一緒に過ごすためなら、芝居をうってもいい、なんて、ほんの少しでも思ってくれたことはないかな?
 マリエット(直接には質問を避けて。)私、とてもあなたのようにはうまく出来ないわ。
 ゲリドン いや、本気になれば誰だって出来るんですよ・・・単なる友達より、少し深い友達に私がなれさえすれば。
 マリエット でもあなた、本当にそれを望んでいらっしゃる?
 ゲリドン 驚いたな。あなたがどんなに僕に気に入っているか、分らない筈はありませんよ。僕達二人が一緒に歩いていて、あなたの腕を引き寄せて、僕が耳にそっと楽しい言葉を囁く。そしてあなたは黙ってにっこりと笑う。そんな時、僕ら二人、仲のよい恋人同士に見えないだろうか。地下鉄で、或はバスで、あなたの手を僕がそっと握る。するとあなたは、その手を引っ込めないでしょう?(ゲリドン、マリエットの手を取り、優しくなでる。)
 マリエット(驚いて。)ええ。(ゆっくりと手を引っ込める。)でも私、それ、あなた独特の女の人への態度だと思っていたわ、特別な意味のない。姉がそう言ってたもの、あなたに直接会うずっと前に。だから私、あなたってどんな女の人とも、こうなんだって・・・
 ゲリドン それは酷い! あなたにこの話、していいかな? いいですか? 僕が女の人と出逢う、そして最初に秋波を送るのは、普通、女の人の方なんです。ええ、誓ってもいい。僕はそれが大嫌いなんだ。女の人が僕を追っかけ始めたとたん、僕はすぐ厭になってしまう。僕は距離をおく。でも勿論、相手を傷つけるのは厭だから、逃げる時だって極力優しく振舞う。だからそれで、最初に言いよったのは僕の方に見えるんです。
 マリエット あなた、女の人を知ってるのね?
 ゲリドン ええ、それは。三、四人は・・・
 マリエット 私よりずっと綺麗な、ずっと魅力的な・・・
 ゲリドン 違うな。あなたですよ、僕の惹かれるのは。
 マリエット あなた、私のことをまだよく知らないわ。だから想像だけで・・・
 ゲリドン(強く遮って。)あなたが考えているよりずっとずっと僕はあなたのことが分っています。それに、人がある花を他の花より好きになる時、最初見た一瞬で決るんじゃありませんか?(ゲリドン、マリエットを見る。色男独特の自己満足あり。マリエット、一瞬考えるが、静かな小さな笑いで身体が揺れる。)何が可笑しいんですか?
 マリエット このひと月、私、何もかもが思いがけなくて、新しくて・・・ボウッとしているんです。私、今、どこにいるのかだって分らないぐらい。
 ゲリドン それ、昨日、ダンスをしている時にも言いましたね。昨日それに答えた通りの答をもう一度言いますよ。「それに抗(あらが)うことはないんです。そのまま成行きに任せるんです」それで、ねえマリエット、あなた、今までに大勢の男の人と知り合った?
 マリエット 知り合った、って?
 ゲリドン つまりその、愛したり、愛されたり・・・
 マリエット いいえ、今の夫しかいないわ。
 ゲリドン だってあれは、夫じゃないでしょう?
 マリエット いいえ、夫ですわ。四年前から。自由な結婚ですけど。
 ゲリドン(笑って。)そういうのは結婚と言わないんですよ。どうして市役所に行かなかったんです?
 マリエット あの人の考えにそれはなかったの。「俺達が一緒になる・・・それは俺達だけの問題だ」って。「男と女が愛し合うのに、何故政府の許しがいるんだ・・・」
 ゲリドン(学者ぶって。)「許し」ってもんじゃないな。合法的保証・・・相互契約・・・っていうものでね。
 マリエット 愛とか信頼は、保証なんかで出来るものではないでしょう? そこでは私、あの人と同じ考え。
 ゲリドン(哀れみをもって。)そうそう、勿論。彼は自分の考えをあなたに押しつけたんですよ。結婚しているという幻影を与えようとね。
 マリエット 二人の生活は幻影じゃなかったわ。
 ゲリドン ええ、まあ・・・それで、あの人とあなたは、お互いに愛しあっていた・・・
 マリエット(困って。)そうでなかったら、結婚しなかったわ。
 ゲリドン で、今は?
 マリエット よくご存知の通り。
 ゲリドン もうあなたはあの人を愛していない・・・
 マリエット 嫌い。私を騙したんですからね。もう許さない。
 ゲリドン 騙した? 一人で飲んで、乱暴狼藉を働いたあげく、あなたを騙した・・・
 マリエット あの人、飲みはしないの。その点は姉もアンドレも誤解している。それに、乱暴もしないわ。ただあの人、かっとなるの。そして酷い言葉を使う。怒って威張りちらす・・・それはそう。
 ゲリドン でもとにかく、あなたを騙した・・・
 マリエット(暗い表情。)騙したと言っても、他に女の人が出来たんじゃないの。ただ、稼いでいたお金について、私に嘘をついていた。あの人、私に、いつも人夫賃しか貰っていないって思わせていたの。ところが最後のお給料を私が工場に取りに行ってみたら、いつも受け取っている金額の倍の給料を渡そうとしたの。私、何か間違いがあると思ってそう言ったら、アンリの給料はいつもこれだけあるって。あの工場に来た時からずっとだって。
 ゲリドン それであなたは、その間何も疑わなかった・・・
 マリエット 私、少しはあの人、自分のためにとっているって分っていたけど、あんなに多いとは・・・でも、給料があまりに少ないので変だとは思っていた・・・あの人のあの腕で・・・あの人の腕って言ったら・・・あの人、何でも知っていて、それに怠け者の正反対の人なんですからね。でも、そのことを言うとあの人、決って苛々して・・・「そんなに俺のことを信用しないのなら出て行くんだな」って。
 ゲリドン そこだ! 今丁度それをやっているんだ!
 マリエット(苦しそうに。)私、あの人を信用していた。だからなの、私が今あの人が嫌いなのは。
 ゲリドン その金を彼は一体何に使っていたんだろう。飲んだのでなければ、競馬? それとも、誰か女?
 マリエット レオンチンヌとアンドレが言うのはいつもそれ。(喉に声が詰って。)でも私、それは信じられない。
 ゲリドン(マリエットの肩を抱いて。)もういいじゃない、そんなの。どうせ終ったことなんだ。彼のこと、もう愛していないんだから。
 マリエット(賛成して。)ええ、そう!(間の後。)それに酷いことを・・・あの鉢カバー、私、あれを貰って嬉しいって、何度言ったか知れないのに。あれ、本当に良かった。それに貝殻! あれを見る度に心に描けるものがあったのに!
 ゲリドン(好奇心をそそられて。)心に描けるものって?
 マリエット 海よ! 貝殻・・・素敵な海の宝石。こんなことを言って笑われてしまうかも知れないけど、私、貝殻を見ていると、自分で拾って来たような気持になる・・・泡の中を自分の足で歩いて・・・それに、一つ一つ、目を近づけてじっと見るのも好き。私、うまく言えないわ。
 ゲリドン 夢みる子供・・・ですね、あなたは。
 マリエット 馬鹿だって言うことね?
 ゲリドン とんでもない。優しい心ですよ。ねえ、もう貝殻のことで泣くのはやめだ。同じのを送らせます。どこで買ったかは、マダム・チチンヌに明日訊くからすぐ分る。
 マリエット(笑って。)買ったものなんかじゃないわ。
 ゲリドン いやいや、買ったんだ。自分の子供用にと二袋ね。僕はここにあるのを見た。緑色をした、同じような袋二個・・・貝殻がいっぱい入った・・・サン・マロ市場っていう正札がついていた。
 マリエット 姉が拾ったものじゃないの?
 ゲリドン あんな綺麗なのは無理ですよ。浜辺で売っている、真珠の光沢のある貝殻は、全部漁師が底引き網で取ったものです。
 マリエット(「がっかり」という気持を隠して。)自分で拾ったって、姉は言っていたけど・・・
 ゲリドン まづいことを言ったな。お姉さんはあなたを驚かそうと思ってそう言ったんですね。今のは、じゃ、内緒です。でも、お姉さん、親切なんじゃないですか? 浜辺で行き当たりばったりつまらない貝殻を拾うより、ちゃんと綺麗な貝殻をわざわざ買ってあなたに送ったんですから。
 マリエット(確信なく。)そうね。
 ゲリドン でも、私があなたに差し上げるもの、それはどこの貝殻かは分りませんからね。どこからか捜します。そう、サンタクロースに訊いて。
 マリエット どうかそんなことはなさらないで。第一私、今貝殻を貰っても、どうしようもないわ。自分の家がないんですもの。
 ゲリドン すぐに家なんか出来ますよ。
 マリエット(溜息をついて。)そうだといいけど。
 ゲリドン ねえ、ちょっと真面目な話、僕に、あなたの一番誠実な友人のこの僕に、話してくれないかな、これからのこと・・・これからあなたがどうしようとしているかを。
 マリエット 私、どうしようもこうしようもないわ。仕事を見つけるまでは。
 ゲリドン それで・・・あのタバル・・・は、知っているんですか? あなたがもうあの人と別れる決心をしたってことを。
 マリエット それはまだ。
 ゲリドン こんな大事なことを! もうとっくに手紙で知らせておくべきだったんじゃありませんか?
 マリエット 私、口で言う方がいいの。こんどの土曜日、フレーヌに行くつもり。
 ゲリドン 口で言うなんて! こういう事は書いた方がずっと楽なのに。
 マリエット それは私、厭。あの人もそうだと思う。それに、刑務所では手紙はみんな見られてしまうし。
 ゲリドン 見られてもどうってことはないでしょう?
 マリエット(驚いて。)まあ! これはあの人にしか関係ない話。それに、あの人には嬉しくない話よ。それを人に知られてもいいなんて! 私、決してそんなことしないわ。私、あの人のこと、嫌い。でもそれを刑務所長に、いえ、判事さんにだって知らせるつもりはないわ。
 ゲリドン 寛大なんですね、あなたは。でも、あなたがそのことを彼に言って、もしあちらが別れるのが厭だと言ったら? 何がなんでもあなたを閉じ込めておきたいと言ったら?
 マリエット あの人はそういう事はしないわ。どんなに私を失うのが厭でも、それはしない。(間。)
 ゲリドン もっと驚きなのは、すでに一度、もう、刑務所に行って来ているっていう事です。
 マリエット ええ、行きました。レオンチンヌとアンドレは行くなと言ったわ。そして怒った。でも私が行かなかったら、他に誰も行ってやる人はいないわ。
 ゲリドン それで、刑務所では?
 マリエット 私があの人を非難して、お給料のことで問い質(ただ)したら、すぐに怒り出して・・・もう私を蚊・・・ブンブン飛ぶあの「蚊」扱い。
 ゲリドン いいですね、なかなか。
 マリエット 私に言ったわ。「俺は説明するつもりだったんだ。可哀想な「蚊」ちゃん。だけどもう、自分で見つけたんだから、俺には説明することは何もない」だって。(泣きそうになって。)それからこんなことまで・・・「俺が牢屋に入るようになったのは、お前のせいだ」・・・
 ゲリドン マリエット! 可愛い人! もう全部そんなことは忘れるんです。(強く。)その綺麗なお目々が涙でかすむのを僕は見ていられませんよ。牢屋でのことなんか思い出させたりしてすみません。でも、あなたがそこから抜け出せるようにと思ったからなんですよ。あなたを助けて、力づけてあげて、優しい喜びでその心を満たすことがこの僕に出来るかどうか、どうしても僕は知りたかったんです。分りますね?
 マリエット(微笑んで。)ええ。
 ゲリドン(熱心に。)あなたを労(いたわ)る役、あなたを愛する役・・・それを私にやらせて下さい。あなたはまだ、男が女のためにどんなに優しくなれるか、まだ分っていない筈です。
 マリエット(暗い顔で。)いいえ、それは知っています・・・
 ゲリドン いや、そんな筈はない。いいですか、女性を知っている男、詩人且つ心理学者、それに女性の繊細さを知りつくしている男がどんなに優しいものか、あなたはまだ、そういう男の気の配り、心遣い、を知らないのです。
 マリエット どうしてあなたにそれが分るの?
 ゲリドン 男性が心得ていなければならない一番初歩のエチケットを示しただけでどんなに驚いたか、どんなに困ったような、嬉しいような顔をしたか、それを見ただけですぐ分りましたよ。ねえ、どうか僕に、愛する役を命じて! どうか僕に可愛いマリエットを幸せにする役を命じて! 賭けてもいい、僕は必ずうまくやってみせます!
(ゲリドン、マリエットの手に猛烈にキスする。)
 マリエット それで、そうやっていて、私達、どこまで行くのかしら。
 ゲリドン どこまでって・・・どこまででも。そう、あなたが望むどんなところへでも、です、マリエット。でも、将来のことは幸せを経験して初めて語れるものではありませんか? どうかマリエット、あなたのほんの少しの信頼でもいい、それを僕に預けて下さいませんか? そうだ、そのあなたの信頼が、つい先頃裏切られたばかりなんです。ですから、それを僕に・・・
 マリエット 裏切られた信頼のことはお止めになって、お願いです。過去は過去。あなたには到底分っては戴けませんわ。
 ゲリドン(途中で遮って。)ええ、ええ、分ります。よく分ります。すみません。こんなに辛い過去、それもついこの間の・・・もう喋りません。僕など判断する立場にありません。僕としたことが、何ていう機転のきかなさ。そう、それ、何故か分りますか? 僕は恋してしまったんです。恋する男はこう・・・もう頭が働かなくなるのです。あなた、僕のこと、厭になっていませんか?
 マリエット いいえ、あなた、親切だわ。いい人。私、これから今あなたが言ったことをいつも考えてみるわ。
 ゲリドン 信頼を僕に預けて下さる・・・これが僕達の秘密ですね?
 マリエット ええ、勿論。
 ゲリドン 二人だけの秘密を持つ・・・いいなあ。(マリエット、何か考えている。)何を考えているんです?
 マリエット 何も。
 ゲリドン いいえ、考えてる。急に暗くなってしまって。どうしたんです?
 マリエット あなたは教養のある人・・・詩人・・・それに地位もあるわ。それなのに私・・・
 ゲリドン(抗議して。)そんなこと・・・
 マリエット(続けて。)私、十三歳の時に学校を出て、それから仮綴工(かりとじこう)の見習いに奉公に出て、それから・・・
 ゲリドン それから素敵な可愛い奥さんになったんでしょう? あなたには何とも言えない魅力があるんです。いえ、本当です。何か純粋な・・・そう、あなたはミューズだ。ミューズ以外の言い方を僕は知らない。詩人にとっては、あなたはミューズそのものですよ。
 マリエット ミューズ? 何です? それ。
 ゲリドン 詩の女神、霊感を与えてくれる神様、この神のために、この神を崇(あが)めて人は歌う。この神がちょっと接吻するだけで詩人の魂は躍り上がる。そう、テアトル・フランセの広場にアルフレッド・ド・ミュッセの彫刻があります。ミュッセは病におかされ落胆しています。そこへ詩の女神ミューズが来て、彼に生気を吹き込み、意欲を与える。それだけじゃない、ミューズのことを詩に書く気持にさせるのです。ええ、今度二人で見に行きましょう。それから、ねえ、マリエット、また仮綴(かりとじ)の職工に戻るなんて、そんなこと考えちゃ駄目ですよ。(謎のように。)僕は知ってる。この家で立てているある計画があるんです・・・あなたに関する・・ 
 マリエット(驚きを隠すことが出来ない。)ある・・・計画ですって?
 ゲリドン ねえ、マリエット、僕はね、あの二人があなたには隠していて、僕にだけこっそり教えてくれたことを、僕の口からどうしても知って貰いたいんですよ。そう、二、三箇月前のことです。あの二人、遺産をついだんです。
 マリエット(驚く。)遺産ですって? 確かな話? それ。
 ゲリドン アンドレの父親か叔父か、従兄弟か・・・それははっきり知りませんがね。かなりな額だったようですよ。だってチチンヌがそれで、このあたりに小さな店が持てるぐらいなんですから。香水とか、その他化粧品を売る店ですがね。そういう仕事は以前チチンヌはやったことがあるからって・・・
 マリエット ええ。
 ゲリドン だからマリエット、チチンヌはあなたに手伝って貰いたいんです。あなたが仕事に慣れて一人で出来るようになったら、チチンヌは自分の子供の世話が出来るようになる・・・自分の家に引き取ったっていい・・・分りますね?
 マリエット ええ。
 ゲリドン この話、つまらないですか?
 マリエット いいえ、とんでもない。
 ゲリドン チチンヌがあなたのパトロンになって、その化粧品店をほぼあなた一人できりもりするようになるんです。あなたにピッタリの商売ですよ。女性の魅力を引き出そうっていう仕事なんですから。それで・・・それで仕事がはねたら僕はお喋りをしにやって来ます。ウインドウを飾る仕事をやりますよ。詩人の役目ですからね、飾りは。歌の音符のように、詩の韻律のように、商品を並べてみせます。口紅、白粉(おしろい)、石鹸、歯磨粉・・・(マリエット、面白がって笑う。)それから、店の奥に・・・いや、二階かもしれないな。あなたは自分の部屋を持つようになる。(マリエットにすり寄る。)勿論あなたの部屋・・・でもいつかそれが・・・それが、僕らの部屋になるかもしれない。そこで僕は自分の作った歌を歌うんだ。あなたは誰よりも早くそれを聞くことになるんです。(マリエット、少し困ったようにゲリドンを見る。それから頭を垂れる。ゲリドン、その髪に、次いでそのこめかみに、キスする。マリエット、抗(あらが)わない。)ね? さっき僕は将来のことは話さないって言ったばかりなのに、今もう、話している。黙っていられないんだ。でも忘れないで、これはあの二人の秘密中の秘密なんですから。
 マリエット あの二人に約束したんでしょう? 誰にも言わないって。いけないことだったわ、私に話したのは。
 ゲリドン いや、それは違う。良いことだったんだ。だって僕は、将来に不安があったあなたを、大丈夫だって安心させた。そうせずにはいられなかったんだ。それに、そのお陰で僕らは、お互に一歩近づけたんだ。僕を見て!(マリエット、一瞬目を上げて微笑む。ゲリドン、マリエットを引き寄せ、キスしようとする。マリエット、身を引き、立上がる。)
 マリエット(しっかりと。)駄目。いけません。
 ゲリドン(後を追いながら。)いいえ、駄目じゃない、マリエット。
 マリエット(身をほどきながら。)いいえ、まだ駄目。
 ゲリドン(嘆願するように。)どうして。
 マリエット 夫はまだ私が別れると決心したことを知りません。あの人にそれを知らせるまでは、私は自由の身ではないわ。きちんと・・・私の納得の行くようにあの人にそれを言うまでは、私は誰のキスも、あなたのキスも受けてはいけないの。今キスなんかして御覧なさい。それはとんでもないキスよ。一週間で消えるなんて思ったら、それこそ、大間違い!
 ゲリドン うん、これは凄い。あなたって、何ていうんだ! 最初のキス、それにどんな深い意味を持たせたか。僕はすっかり心を打たれた。そう、僕だって、最初のキスをそう簡単に忘れるものか! それに、その躊躇(ためら)い、それがいい。その表現の仕方がまた素敵だ!
 マリエット 躊躇い? それは違うわ。誰だって自分の生き方に従って生きるの。(躊躇いなんかじゃないわ。)
 ゲリドン(マリエットの肩に手をやって。)ああ、あなたのような人は二人といない! さあ、そのキスが厭だったら、今すぐ(玄関を指差して)行って! さあ、帽子を取って。僕に高貴な気持が湧いて来たんだ。それを無駄にはさせないぞ。さ、あなたをダンスに誘って、夕べと同じように、この両腕で抱きしめて・・・今ここでレコード?・・・ワルツ?・・・とんでもない。今じゃない。今夜だ。他のみんなと一緒にだ! さ、マリエット、帽子をかぶって、映画だ!「氷の恋人」に!
(ゲリドン、マリエットが笑いながら退場するのを目で追う。)
               (幕)

     第 三 幕
(フレーヌ監獄の面会室。面会室は舞台の右手半分を占める。左手半分が囚人のいる部屋。中央に廊下があり、両方の部屋に鉄格子。廊下の奥に扉。二つの部屋の奥にもそれぞれ扉。廊下は自然な装飾(壁掛けなど)により、奥の方が狭く、舞台前面の方が広くなるように工夫されていてもよい。(訳註 面会者と囚人とがあまり正面に向きあうと、観客からは見難いので少し斜めにするための工夫か。)幕が開くとタバル、左手の部屋にいる。囚人服姿。看守が廊下を行ったり来たりしている。)

     第 一 場
(看守、黙って五六歩歩く。それからタバルに向って立つ。)
 看守 おい、女房が会いに来るのはこれが初めてなのか。
 タバル いや、二週間前に一度。あんたとは違う看守さんの時です。
 看守(間の後。)あとどのくらいなんだ? お前は。
 タバル 四十八日です。明日から数えて。
 看守 もうすぐだな。四箇月だったのか?
 タバル 三箇月です。
 看守 初めてなのか。
 タバル ええ。
(看守、歩き始める。)
 看守 初犯、三箇月、考えようがない。短か過ぎるか、長過ぎるか、どっちかだ。執行猶予なしの三箇月・・・フン、何をやらかしたんだ。
 タバル たいしたことではありません。公務執行妨害っていうやつです。
 看守 ははあ、デモでやったな。
 タバル そんなところです。
 看守 ストライキか。職業は何だ。
 タバル 研ぎ師です。今は工場で働いています。
 看守 警官と喧嘩したのか。
 タバル いいえ。鉢カバーを足元に落したんです。
 看守(興味をそそられて。)鉢カバー?
 タバル ええ、飾り皿のようなものです。
 看守 どこで盗んだんだ、その飾り皿を。
 タバル 家のものです! 三階の窓から投げたんです。
 看守 ほう・・・まるで冗談のような話しぶりだな。しかし、それでたった三箇月とはな。優秀な弁護人がついたんだな? 或は都合のいい証人が・・・
 タバル ええ、弁護人がよく分ってくれたんです。若い人でしたがね。良心的で。その人には何でも話せましたよ。こちらの事情をよく理解してくれて、核心を突く言葉で判事に説明したんです。私が警官をやっつけようとしたんじゃなくて、ただ、象徴的な行動だったんだってことを。・・・象徴的・・・分りますか?
 看守 分ってる。やった後で後悔するっていう意味だろうが。
(間。看守、歩き回る。)
 タバル マリエットの奴、来ないな。この間この部屋に着いた時にはあいつ、もういたんだが。
 看守 ああ、今日は遅くなる。こっちには分っていた。下で教えてくれたんだ。面会人が許可証にサインするのを忘れていてな。文書課で足止めを食っている。
 タバル(優しさが含まれている言い方で。)あれはいつだってぼんやりだからな。
 看守 まだまだかかるぞ。文書課ではいつだって行列だからな。
(看守、うろうろ歩く。以前より少し早足。)
 タバル こっちから見ると、あんたが囚人だな。
 看守(立止り、怒って。)何だと? 今、何と言った。
 タバル(無防備の親しさで。)こっちから見ると、ですね、そちらの方が囚人、或は、檻の中の熊みたいに見えますって。二つの鉄格子に挟まれていますからね。
 看守(顔を和らげて。)フン、そうか。しかし、そんなことは言うもんじゃない。上にいる看守長が通りかかって、そんなことを聞いたら、ただじゃすまんぞ。おまけにこっちまで叱られる。
 タバル でも、お分りでしょう? 私には悪意はないんですよ、全く。
 看守(唸り声を出し、タバルを許す。威厳をもってそこを離れ、奥へ進む。回れ右をして、ちょっと立止る。考えて、次に、元の位置に戻る。)うん、確かにお前の言う通り。看守なんてお前達と同じように囚人のようなものだ。
 タバル 私がこれから話すことを、悪くとって貰っちゃ困りますよ。そう、ある意味では勿論、我々囚人の方があなた方看守よりは囚人には違いありません。でも、別の見方をすれば、そちらの方がずっと我々より囚人だ、とも言えます。
 看守(半分驚き、半分面白がって。)おいおい、言いたいだけ言うな。しかし、それはいくら何でも無茶だ。俺は牢屋にはいない。この仕事をしていない時にはちゃんとベッドで女房と寝るぞ。好きな物を食うし、酒も飲める。それに、ここで俺は稼げるんだ。保証もあるしな。退職すれば年金もくれる。
 タバル 分ってます。分ってます。しかし、この仕事をしている限り、監獄で囚人になっているだけじゃなくて、囚人のために囚人になっているんです。
 看守 何だ、その話は!
 タバル 目を離さず、精神も緊張させて、監視のためにかかりっきり。我々囚人を四六時中見張っていなければならない。ところがこっちは、心の方はいくらでも外へ向けられます。夜、我々は寝て、そちらは見張っている。この時、そちらの方がこちらに捕(とら)われている。こっちが捕われているんじゃありません。
 看守(笑って。)すると警官の方が泥棒に捕われていることになるな。
 タバル ああ、泥棒と警官なら、それは同じ穴の狢(むじな)です。ただ、捕まるまでは泥棒の方は兎のように自由。しかし警官の方は、その間もじっと敵を窺っていますからね。(二人、笑う。)ああ、冗談は抜きにして、男と男の話、後どのくらいなんです? 牢屋の勤めは。
 看守 牢屋の勤め?
 タバル ええ、ここでの仕事です。退職はあと何年で?
 看守 十二年だ。
 タバル おやおや! こっちはあとたった四十八日で・・・(飛び出す仕草。)
 看守 立場を替えようと言っても厭な様子だな。
 タバル 正直なところ、厭ですね。気を悪くしちゃ困ります。ただ、趣味の問題で。
 看守 うん、こっちが立場を替えたいって思う奴は囚人の中でもいるさ。証券会社や銀行のお偉方・・・危ないことをやって半年食らって、出て行く時は立派な車・・・そういう奴ならな。札(ふだ)付きでも羨ましいさ。あいつらはいつだって良い目を見る。一度ここへ入っていた奴なんか、牢屋の中から金を前借りしていた。だけどお前は違うぞ。何か勘違いをしているんじゃないか? ここを出たらお前はまた工場だ。厭になるほど働かされる。財産でもない限り、日々の稼ぎでまた囚人だ。少なくともここじゃ、くたびれはしない。うん、賭けてもいい、お前はここで、三箇月ゆっくり出来てよかったって言うんだ。
 タバル そりゃ工場の方がここより楽だとは、私は言わない。しかし何と言ってもあそこは生き生きしている。仕事への責任もある。それに、一日中いる訳じゃない。本当にうんざりして辞めたくなれば、その時にはさっさと辞めればいい。社長だって引き止めはしない。
 ただ私はもうずっと前から、工場は飽き飽きしている。自由な空気が欲しい。自分で自分の仕事をしているという気持になりたい。機械の部品になっているのはもうご免だ。
 看守 やっぱりそうだろう。
 タバル そう。だからもう、工場には戻らない。ということは、つまり、私がここを出れば、二つの監獄から自由になるんだ。
 看守(興味を引かれて。)何をするつもりなんだ。(タバルに近寄る。)
 タバル(打ち明け話をするように。)私は腕のいい職人でね、工作機械なら、回転板でも、組立てでも研磨でも、何でもござれだ。かなり稼いできた。一年以上も節約してね。それもだんだん額を増やして。しかしこの節約ってやつがくせものだ。ぎりぎりに切り詰めなきゃならん。女房が我慢してやりくりしてくれなきゃならない。ところがうちのやつは、私が貯金しているのを知らない。言えないんだ。私が言ったりしたらあいつ、耐乏生活に耐えられなくなるだろうし、そうなりゃ、こっちまでへこたれてしまう。
 それに女房には姉がいて、これがこっちのやることに何でも首を突っ込んで来る。そして女房は姉に何も隠せないときている。話すと長くなるのでこの話は止めますが、それで、金がたまった。田舎に引っ込むには充分な額です。準備は出来た。少しは楽になりたいから、もう少しは貯めようと思っていたんですが、ここを出て、また工場に戻るのはご免だ。ぎりぎりだが、これで船出です。だから、分るでしょう? 刑期が終れば、頭の上は青い空、野原で昼飯、川で釣り。そう、川のあるところでなきゃ駄目なんです、私は。
 看守 勿論それがうまく行けば・・・
 タバル うまく行けば?・・・それは大丈夫です。自分のことは自分で分っている。こんなことでミスをする私じゃありません。
 看守 で、連れ合いは? それで満足かな?
 タバル あれが満足かって? 今すぐ話して聞かせるつもりですよ。しかし、時間が足りないかもしれない。急に話して怒らせてはまづいし・・・いや、全部話したらぶちこわしだ。あの姉という人物がいる。それにもう一つ別の計画も実はあって・・・友達の薦めなんですが・・・しかし、そちらの方はまだ海のものとも山のものとも・・・うちの奴がこれで喜ぶかって? ああ、それはもう・・・こっちが思いつくより早く、あっちが夢見ていたこと・・・あれを釣りに連れて行く、すると岸にじっと坐って・・・夏だろうと冬だろうと・・・草に話しかける、木にも、雲にも、まるで愛を囁いているような具合。サントゥワンのあの家じゃ、あいつはまるで、籠の中の燕(つばめ)だ。可哀想に。
 看守 それにしてもあんたの燕、来ないな!
 タバル ええ。(間。)ちょっと今、あれと私、うまく行っていないんです。あれは私を恨んでいて・・・
 看守 何で。
 タバル 例の飾り皿を壊したことで・・・まあ誤解と・・・それに、こっちの言うことを聞こうとしないから・・・恨みが頭にきて、頭でっかちになって、いつもの軽々とした燕の動きをしない。まるでホロホロ鳥・・・残念なことに。
 看守(時計を引き出して。)ホロホロ鳥じゃ、動きは鈍いな。
 タバル それにこっちも女房にガタガタ言われて、しつこくやられると、つい・・・
 看守 あ、来たようだ。ここに連れて来る。(看守、奥へ退場。タバル、一人になり、大きく息をする。片手で頬と顎をなで、楽にしようとする。少しの間の後、看守、マリエットを右手の部屋に導いて登場。)
 看守 ここだ。入って。(看守、退場。)

     第 二 場
 タバル(小さな声で。)ああ、今日は、マリエット!
 マリエット(胸、苦しく。)ああ、アンリ! 今日は。(間。マリエット、格子に近づき、タバルを見る。)どう? 具合は。
 タバル 良い時も、悪い時も。時によるし、こっちの心の持ちようにもよる。
 マリエット 苛々で困ることはないのね?
 タバル 苛々?・・・何の?
 マリエット 分らないけど・・・何か不足があったり、ここで罰を受けていること、そのことで・・・
 タバル そんなものはない。俺は馬鹿じゃない。法律は守る男だ。それに、ここでは俺によくしてくれる。この間水漏れがあった。何もかも水びたしになるところだった。俺が見つけて直した。水道屋が来たんだが、馬鹿な奴でね、溺れるだけしか能がないというような。そいつを助けてくれと頼まれて。
 マリエット それは良かったわ。(間。)ちゃんと寝てる? 食事も食べてる?
 タバル うん、ちょっと運動が足りないかな。太ってきているようだ。スープの飲み過ぎでふくれたかな。
 マリエット それは違うわ。(間。)ね、アンリ、あなた、どうしてあんなことをしたの!
 タバル ああ、またそれか。もうそれは止めよう。
 マリエット あなた、夜、ちゃんと毛布かけてる?
 タバル(驚いて。大声で。)夜・・・毛布? この暑いのにか? 水でもぶっかけたいぐらいだ。この暑さ、いつかなくなる時が来るのかな。
 マリエット(どぎまぎして。)そうだったわ。私、馬鹿ね。
 タバル(笑って。)ああ、燕ちゃんだからね。お前らしいよ。監獄では季節も別になっていると思ったな? そっちの生活とはきっちり区別をつけて、ここではいつでも同じ季節・・・(溜息をついて。)あーあ、そうだといいんだが。
 マリエット ねえアンリ、ここ辛い?
 タバル そりゃ辛いさ、勿論。だけど、耐えられないことはない。だってここは墓場じゃないんだ、少なくとも。暗いがいつか抜け出るトンネルのようなものだからね。後四十八日でここを出られる。その時・・・まだ木には葉っぱが残っている。
 マリエット ええ・・・でも、四十八日! ひと月以上・・・
 タバル だいたい半分はきた。一番長かったのはこの一週間だ。そう、先週の土曜日はお前を待った。俺は馬鹿だったんだな。お前が来ない可能性があるとは思いもかけなかった。ここで考えることと言ったら、釈放の日のことを除けば、面会日だからね。
 マリエット(頭が低くなって。)それを知っていたら・・・
 タバル それで考えた末思った。うんそうだ、先回ずいぶん酷いことを言い合ったからな・・・もう二度と来たくなくなるようなことまで言って・・・あいつ、怒ってるんだ。怒らせちまったんだ。それで、こっちもだんだん事を大げさに考えて・・・今日もまた、あいつ、来ないな、と。
 マリエット(気を取り直して。)私、怒ってないから来たんじゃないわ。
 タバル(面白がって。)じゃ、まだ怒ってるかどうかを確かめるために?
 マリエット 私、あれからもずっとあなたのこと、怒ってる・・・それは確か。
 タバル おいおい、それはないよ!
 マリエット(苛々しながら。)安心して。好きでこう言ってるんじゃないの。
 タバル ああ、それはそうだ。最初から分ってた。
 マリエット いいえ、それは違うわ。
 タバル もう俺を愛していないっていうのか。
 マリエット(ゆっくりと。)ええ。
 タバル そうか。今は俺のことを愛していない、か。だがなマリエット、もし、だ・・・もしお前がこの俺で、今牢屋に入っているとする。お前が気が楽になるのは、まだ相手がこっちを愛していると思っている方じゃないかな。愛していないと思うより。
 マリエット(重い口調で。)私、思わない。
(間。)
 タバル 何時からだ、マリエット。
 マリエット 何が?
 タバル 愛さなくなった・・・何時からだ。
 マリエット あなたの給料を取りに行って、分ってからよ。
 タバル 何が分ったんだ。
 マリエット とっくに分っていることでしょう! 私が信じているのをいいことに、何箇月も自分の稼ぎに嘘をついて、こっそりお金を隠して。私がどれだけお金のことで苦労して、やりくりして、心配したか、少しは考えてみたこと・・・
 タバル 俺はそれで、金の苦労をしなかったって言うのか? 俺だって切り詰めたんだ。残りの金で俺が何をしようとしたか、お前が知ったら・・・
 マリエット そんなこと私、知る必要はないの。知りたくないわ。
 タバル いや、知りたい筈だ。それに、遅かれ早かれ知ることになる。
 マリエット それならさっさと教えていてくれればよかったの。
 タバル いや、それは駄目だった。俺のためでもあるが、お前のためにも駄目だった。
 マリエット 私のためにも? あんなに苦労したのが何のためか、私が知らない方がいい? 呆れた。きっと厭らしいことのためよ。
 タバル ほう、じゃ、何のためだ。
 マリエット あなたに借金があったんだわ。いいえ、仕事を辞めた後も働いているように見せかけることが出来る・・・それとも、賭事・・・
 タバル(笑って。)それで全部?
 マリエット(声が変って。)誰か女に渡したかもしれない。
 タバル 誰か入れ知恵をした奴がいるな。だけど、何のためにその女にこの俺が貢(みつ)ぐ必要がある。毎晩お前と一緒にベッドに入る許可を得るためか? それとも、毎日曜日、お前と釣りに行く許可か? 馬鹿げている・・・全くこの俺を何と思ってるんだ、お前は。
 マリエット 私、あなたに女がいるなんて、本当は想像出来ない。でも、例えば私と知り合う前に誰かとの間に子供がいて、その子を育てるために・・・
 タバル ああ、それは自分で考えた話らしいな。お前の読んだ本にそんなのがあった・・・
 マリエット(傷ついて。)本じゃないわ。私、そういう人を知っている。よくある話だわ。
 タバル(不機嫌に。)子供なんかいない。そんなものがいればとっくにお前に言っている。女もいない。借金もない。競馬もやらない。それでお前にはこの俺が、狡い事をやっているとしか想像出来ないのか。
 マリエット 悪い事をしていなければ、隠すことはないでしょう? でも、そんなことはいいの。その金をあなたがどう使ったって、どうでもいいこと。私に大事なのは、あなたがそれを隠してやったということ。それももう、何箇月も・・・いえ、何年も。そしてこれからも続くっていう・・・
 タバル いや、もう終だ。
 マリエット 私、あなたのことを信用しすぎていた。それをいいことに、あなたは私を騙したの!(涙を出すまいとしても出てくる。)だからなのアンリ、私、今日言いに来たの・・・
 タバル 何を。
 マリエット(やっと。)だから・・・だから、もう私、あなたを愛していないって。
 タバル(途中で遮って。苛々して。)それはもう聞いた。それが本当だとして、もう決定的なことなのか? 俺がお前に取り返しのつかない悪いことをやったとして、今のそのことを、この格子越しに俺に言いに来る、それも何度も繰返し言う、それが親切なことだと思っているのか? 牢屋で人はいい気持で生きてはいない。なあマリエット、病院とか牢屋に面会に来るのなら、少しは人を元気づけようとするものじゃないのか? 痛みとか辛さを少しでも和(やわ)らげようと・・・そのためじゃなきゃ、何もこんな所に来て貰うより、映画にでも行って貰った方がもっと親切だ。
 マリエット(間の後。)ご免なさい。でも私、正直に話した方がいいと思って。それに、あなたが私のことを少しでも愛していたら、あんなことはしなかったんじゃないかって・・・だから・・・
 タバル うん、それはもう少したてば分る。まだお前には事の次第がよく分っていないんだ。それで、今住んでいる所は? 姉の家なのか?
 マリエット ええ、勿論。
 タバル 家には戻らないのか。
 マリエット 何度か帰ったわ。ガスの支払いもしたし。
 タバル その金は。
 マリエット あなたの給料・・・沢山あった・・・
 タバル(苦い調子。)そうか。あの二人の家にいるのか。この俺に唾を吐きかける、あいつらの家で、あいつらの出すパンを食って・・・どうして俺たちの家は駄目なんだ。俺の息のかかったあの家は。
 マリエット 三箇月も、たった一人であそこにはいられないわ。あんなことがあった後では、特に。淋しくて、辛くて、病気になるわ、私。
 タバル 辛くて・・・そいつは「恥」のせいだな。あのアパートの管理人の手前・・・近所の人、店の人の手前な。この俺のせいだ。誰でも俺の今いるところを知っているからな。
 マリエット いいえ、私、そんなことは思わない。そういう人間じゃないの、私は。私、自分のしたことでしか恥は感じない。私が厭なのは、あなたが鉢カバーと貝殻を投げたから。牢屋とは関係ないの。牢屋はあなたがお巡りさんにしたことのため。私は別のことで怒っている。
 タバル お前の姉のせいだ、全て。あいつがあんな厭らしい、人を怒らせることをしなきゃ、何も起りはしなかった。お前なんだぞ、あいつがそんな勝手な真似をするのを許したのは。
 マリエット いいえ、今に始まったことじゃありません。あの人は以前からああいう態度をとっていました。
 タバル あいつは何だかだと、俺たち二人の間で起きたことを、お前から聞き出すんだ。
 マリエット それは違うわ。とにかく私、あの人が私達のためを思って色々してくれることを、厭と言いたくないの。
 タバル 色々してくれる! ああ、そうだろうとも。俺を監視して、操(あやつ)りたいんだ。あいつの馬鹿な亭主、それにあいつ、二人がかりでこの俺のやることに口を出し、説教する・・・まっぴらだ! またそれをお前がへいちゃらで見ていられるとはな! お前があいつらに感謝するのは当然のことだと、あいつらは思っているんだ・・・俺がお前に何かを隠す、そういうことがあるとしたら、それはあいつらのせいだ。あいつらがいるから、俺は隠さなきゃならないんだ!
 マリエット そうすると、あなたが私に貧乏な生活をさせ、惨めな目にあわせたのは、あの二人のせいだって言うのね? でも・・・
 タバル いいかマリエット、そこをきちんと説明するのは無理なんだ。特に今は、お前があいつらの家にいるんだからな。しかし一つだけ話してもいいことがある。あの馬鹿野郎二人に、これはお前、話してもいい。連中はただそいつを鵜呑みにして吐き出すぐらいしか出来ないだろうからな、これだったら。俺が給料袋からさっ引いて家に行かなかった金はな、なくなっちゃいない。人に貸したんだ。
 マリエット(呆れて。)貸した? 誰に。
 タバル 信頼出来る奴だ。俺自身に貸したのと同じぐらい安全だ。必ず返してくれる。ここの売店で俺が買うのに必要な金もそいつが出してくれている。もしお前が俺達の家で暮すというなら、そいつがお前に金を渡す。
 マリエット 呆れた! あんなに必要だったお金、足りなくて足りなくて、どうしようもなかったそのお金を、人に貸していた! その人、何て運のいい人! あなた、自分の女房を犠牲にしたのよ。自分の家庭を犠牲にしたのよ! 何てことでしょう!
 タバル 洗いざらい話せば、お前はきっと分ってくれる。それは確かなんだ。とにかくこれだけは言う。俺は何かその・・・囚人の生活から逃れようと、その金を別にしたんだ。お前と俺二人が何とか息が出来、生きているという実感が持てるようにとだ。
 マリエット ええ、そう、私達二人、生きていたって言える? 息をしていたって言えるの?
 タバル(こっそりと笑って。)それを言ったのはこの俺だ。お前じゃない。
 マリエット(怒って。)言ってなかったとしたら、私が今まで生きるってことがどういうことか知らなかったからよ!
 タバル で、今は知っているのか。
 マリエット ええ、だんだん分ってきたのよ! 今まで全く知らなかった生き方・・・楽しみがいっぱいある・・・私、ここに入って来て、少し恥づかしい気持がしていた。あなたが「マリエット、お前、どんな暮しをしている」って訊かれるんじゃないかと思って、でも・・・
 タバル(内に怒りを含んで。)たいしたもんだ! 夫が牢屋にいると都合のいいこともある! チャラチャラした服を着た姉、偽(にせ)カラーをはめた義兄、そしてお前は華美な生活! フン、そう思っているだろうが、とんだ間違いだ。あんな、お前の姉の家のような所で、本当の贅沢が味わえる訳がない。お前なんかを騙すのは簡単なことなんだ。
 マリエット ええ、私、簡単に騙されるでしょうよ。ちゃんと実績があるわ!
(面会終了のベルが鳴る。二人、ハッとする。)
 看守(奥に登場。)奥さん、これで終了です。(退場。)
 タバル マリエット! 俺はまだ言いたいことを何も言ってない!
 マリエット 私も同じ。
 タバル 家に帰ってくれないか、マリエット。(マリエット、頭を振って、拒絶の意。)頼む、マリエット、少なくとも俺がここを出て、家に帰るまでは待っていてくれないか。
 看守(マリエットのいる部屋の敷居のところで。)さ、出口はこっちです。
 マリエット 私、手紙を書く!
 タバル(マリエットが敷居を跨ぐ時、出口に近づく。)また土曜日に来てくれないか。火曜日でも・・・いや、金曜日でもいい!
(マリエット、振り向かず退場。)
 タバル(一人になって、鉄格子を握って。)あいつめ!
                 (幕)

     第 四 幕
(ビシャ家。第二幕と同じ。部屋の真中に小テーブル。その上にカンペ産の鉢カバー。その中に苔があり、その上に背の高いピラピラした花びらの造花が沢山さしてある。)
     
     第 一 場
(マリエット、テーブルの傍に立って、手に持って開いた手紙をじっと見ている。ビシャが苛々部屋を歩き回っている。)
 ビシャ 全く何て話だ! 何時に電報を受け取ったんだ!
 マリエット 二時半。用意をすませて出かけようかと思っていた時。これを受け取って、待っていようって・・・
 ビシャ 待っている? さっさと出たらよかったんだ。そして出来るだけ遅く帰って来る・・・それだけの充分な理由がある筈だぞ。
 マリエット 待ってた方がいいと思って。五時までにあなた方が帰って来ることは分っていたし、私がいない時にあの人をお二人で迎えるのは困るだろうと思って・・・
 ビシャ あいつを二人で迎える? とんでもない! 家の敷居を跨がせるものか、あいつに。ああ、この電報がもく少し遅く来ればよかったのに。こんなもの、開封もしないで突っ返してやったのに。あんたが見たくないと言ったからと言って。
 マリエット 私、見たくないことはないわ。
 ビシャ 残念ながらね。(腕時計を見る。)しかし、不幸中の幸いだ。間に合って帰って来た。あんたはジュワンビルに行ったようにする。あんたは家にいない。あいつには、あんたが会いたくないと言っていたと、言ってやって、鼻先で玄関の戸をピシャッと閉めてやる。
 マリエット でも私、あの人に会わないとは言わないわ。あの人から逃げているなんて思われるのは厭ですもの。あの人を恐れてなんかいないんですからね、私は。
 ビシャ ご立派! あいつの思し召し通りに、という訳か。よかろう。しかしここでは駄目だ。サン・トゥワンかどこかで会って貰う。あんな奴にこの家の敷居を跨がせるものか! うん、チチンヌの意見も聞いてみるんだな。
 マリエット あの人、今どこ?
 ビシャ 私のすぐ後だ。途中で乾物屋によったから。(腕時計を見る。)十五分か三十分後には御大(おんたい)タバル氏のベルが鳴るという訳か。(間。)だけどあんた、ヴァンセンヌの門のところで、ゲリドンと約束があったんだろう?
 マリエット ええ。
 ビシャ それで?
 マリエット 私、行かなかった。ジュワンビルに私を連れて行くとは言ってたけど、それほど確かじゃなかったから。十五分ぐらい待って、来なかったら帰るでしょう、きっと。
 ビシャ それをあいつに言ってやるだけの時間は充分あったんだな?
 マリエット ええ、でも、それはしなかった。
 ビシャ ゲリドンがお前に、タバルに会わせないようにするじゃないか、心配だったんだな? 
 マリエット そんなことはあの人に出来っこないけど、とにかく、そうしようとはしたでしょう、きっと。私、それが厭だった。私、自分のしなければならないことはよく分っているの。
 ビシャ(突然怒る。)何が「しなければならないこと」だ! 呆れたもんだ!
(レオンチンヌ登場。片手に乾物の包み。)

     第 二 場
 レオンチンヌ あらマリエット、あなた、もう帰って来たの?
 ビシャ ああ、自分で説明してくれるさ、マリエットが。
 マリエット 私、ジュワンビルには行かなかった。アンリから電報がきたから。(テーブルの上の手紙を取る。)
 レオンチンヌ 何だって言うの?
 ビシャ(マリエットに近づいて。)こいつがそれだ。(マリエットの持っている手紙を取って。)読んでいいね?(声を出して読む。)
   マリエットへ
 「お前が、私と一緒に暮したくないと書いてきた時、私は返事を出さなかった。返事など何もないからだ。お前は好きなようにすればいい。自由を大切にするのが私の主義だ。当然他人の自由も尊重する。しかし、牢屋から出て来た今、私はお前との金の決算を出来るだけ早くすませたい。人に貸してあった金は全部戻ってきた。二人で貯めた金だ。だから半分はお前のものだ。今日五時頃、お前の姉の家へ持って行く。お前が不在の時は、直接手渡せる時にまた行く。アンリ」
 レオンチンヌ 呆れた! どういうこと? これ。
 マリエット 意味ははっきりしていると思うけど。
 ビシャ つまり、二十分すれば、あの御大(おんたい)が、この家の敷居を跨ぐってことさ。
 レオンチンヌ(いきり立って。)とんでもない! 跨がせるものですか。戸を開けてやらないわ! 
 ビシャ 勿論さ。
 マリエット 私、下で待つわ。外で。
 レオンチンヌ(息が詰る。)そ・・・外で? 馬鹿よ、あんた!
 ビシャ 「馬鹿」は酷い。「うぶ」と言うべきか。
 レオンチンヌ(マリエットに。)じゃあなた、あの人が本当にお金を持って来ると思っているの? あなたが恭(うやうや)しくそれを受け取るだろうって。
 ビシャ 何か罠を感じるな。金はそのための餌じゃないか。
 マリエット 罠? 何の?
 レオンチンヌ 分りきっているでしょう? あなたを飴と鞭で取り戻すためよ。あの人だって、家事をする人は欲しいでしょうからね。
 ビシャ 「半分はお前のものだ」? だいたいそんな金、あいつの好きに出来る筈じゃないか。それを返すと言うからには、お前に戻って来いという条件がつくに決っている。
 マリエット(静かに。)そんなことは書いてないわ。しつこいように、「好きなようにしろ」とあったし。
 レオンチンヌ 酢で蠅(はえ)を捕まえようとは誰も思わないわ。
 ビシャ 騙しだ。決ってる!
 マリエット まあやってみる。でも私、そうとは思えない。文面からは・・・
 レオンチンヌ あんなことのあった後で、よくあの人が信じられるわね、あんた。
 マリエット 黙っていて騙したことはあっても、あの人、言った事は必ず守っていたわ。それに、「俺のところに帰ってくれ」なんて言う人じゃない、あの人。誇りがあるの。(少し感情が表に出て。)お姉さん達の考えはそこでは間違っているわ。
 ビシャ フン、あいつには誇りがあると言うなら・・・言わせて貰うと、お前には何の誇りもないのか? 電報は二時半に来て、五時には来ると言う。こんな急な知らされ方で、会ってやるというんだからな。
 レオンチンヌ 呆れた話よ! これは。
 マリエット 私、会うと言ったって、お金なんか受け取らないわ。あんな、厭らしいお金!
 レオンチンヌ あら、それじゃ何のことか、私、さっぱりだわ。
 マリエット 私、怖がっていると思われるのが厭なの。勇気がないと思われるのが。
 ビシャ 何を言ってる! 会わないようにするのは勇気がないからじゃない。ただの用心だ。
 マリエット もう一度言うけど、私、用心も必要ないの。私、あの人が人に金を貸したかどうか知らない。その金を返して貰ったのかどうかも。でも、あの人がお金を私に渡したいと思っていること、それは確か。
 レオンチンヌ(皮肉に。)あの人がそんなにお堅いとはね!
 マリエット ええ、でも、ただの意地かもしれない。とにかく私は言うつもり。そんなの遅過ぎ。今お金があったって、三箇月前、六箇月前・・・いえ、それ以上前のあの苦しさに替えられる訳がないって。
 ビシャ(時計を見て。)分った、分った。それを言うとしても、どこか別のところでだ。ここでは駄目だし、今日は駄目だ。扉にタバル宛の封筒を貼付けて、手紙を入れておく。「マリエットは留守だ。後で手紙を書いて、会える日を決める」と。
 レオンチンヌ(賛成して。)いいわ、それ。その後に付け加えるのね、「お忘れになったようですね、タバルさん。マリエットは自分の家にいるのではなく、あなたが侮辱を与えた人物の家にいるのですからね」とか、何とか。
 ビシャ それは駄目だ。もっと控えて、威厳を見せなきゃ。
 レオンチンヌ 何を言ってるの、あなた。あっちがこんな無礼な態度で言って来ているのよ。何も断りもせず、のこのこ出かけて来るなんて。
 ビシャ 分った、分った。(小さな机につき、デスクパッドの下から一枚紙を取り出す。)
 レオンチンヌ あなたにも困ってしまうわね、マリエット。あの人の態度が私達への侮辱だってどうして思えないの?
 マリエット(この時までに自分の考えをしっかりと決めて。)扉に手紙を貼るのは辞めて下さい。もうさっき私、言いましたけど、私、外であの人を待ちます。そうすれば・・・
 ビシャ やれやれ!
 レオンチンヌ そんなことをしたら、私達があなたを追い出したとあの人思うでしょう? まるでここが、あなた自身の家じゃないみたいに!
 マリエット さっきそう書いてやったらいいって言ったわ、姉さんは。「お忘れになったようですね、タバルさん、マリエットは自分の家にいるのではありません」って。
 ビシャ チチンヌの言いたかったことはだ、「マリエットは自分の家に一人でいるのではない」ってことなんだよ。
 レオンチンヌ(声を荒げて。)マリエット! あなた、この家が自分の家だと思えないの? 私達、あれだけ言ってきたでしょう?「自分の家だと思って」って。それに、私達があなたに居心地よく住んで貰うために、そして幸せになって貰うために、どれほど気をつかってきたか、これからのことも、どれほど心を配って計画してきたか、あなたには分っている筈よ。でも、そうは言っても、あの人をここに入れて、その間私達が自分の部屋に引っ込んで、あなたにあの人を会わせるのは駄目。私達に全く相応しくない、あなたにも相応しくないあんな人を入れるなんて!
 ビシャ もしあいつが、あんたに渡す金を持っているのなら、為替で送ればすむことじゃないか。お前がそう手紙を書いてやればいいんだ、マリエット。今は三人でここを出よう。扉には何も貼らない。あいつはここが留守だと分るさ。(腕時計を見る。)これが一番いい解決策だ。
 マリエット で、もし今夜来たら? 留守だったら、また来るって書いてあったわ。
 ビシャ(電報を取りに行き。)そうだったか?(その文面を読む。)「お前が不在の時は、直接手渡せる時にまた行く。」やるもんだな!
 レオンチンヌ 呆れた!(マリエットに。)全く、このタバルって男、私達をどうする気でいるの!
 マリエット ですから、さっきも言ったように私、外で・・・
 レオンチンヌ(遮って。)だいたいあなたがいけないのよ。ぐずぐずして、甘い顔を見せて。だから私が言ったでしょう? どうしてさっさと手紙で書いてやらなかったの。わざわざ牢屋に行ってやったり・・・
 マリエット あの時手紙を書いてやっていても、お金はやっぱり返そうとしたわ、きっと。
 レオンチンヌ その金だって、断るつもりでいるんでしょう? あんた。全くあんたっていう人は・・・
 ビシャ 金だなんて、嘘に決っている。あいつが持っている訳がない。
 マリエット いいえ、持っている筈です。
 レオンチンヌ それならきっと競馬よ。何かいかがわしい手で賭けて、それで運よくあてたのよ。きっとそう。あの人ならどんなことでもやりかねない。そうだマリエット、あの人に本当にお金があるのなら、あんた、断る理由なんかないわ。私達夫婦がその場に居合わせたら話は別でしょうけど、あなた、断るなんて私達への侮辱よ。ここの家賃にしたって、あなた払うって言ってたでしょう? これからの分だってあるんだし・・・
 マリエット(途中で遮る。あまりの言葉に耐えきれず。)分りました。その通りよ。姉さんの言う通り! 断りません。だから私、今から降ります。他に方法はないもの。(決心して扉に進む。)
 レオンチンヌ(当惑して、一瞬じっとしているが、慌ててマリエットに駆け寄り、引き戻しながら。)駄目よ。あなたが降りちゃ駄目。私の恥になるわ。妹のお陰で私まで恥のとばっちりを食ってしまう。
 ビシャ フン、すると?
 レオンチンヌ マリエットがここで楽しく暮しているところをあの人に見せなきゃいけないわ。お金を持って来るんだから余計よ! あの人に分らせなくちゃ、そのところをきちんと。さ、私達二人はどこかへ行ってましょう、この子を残して。
 ビシャ(賛成して。)フン、悪い考えじゃない。
 レオンチンヌ これであの人とは終になるんだし、この子がどうしても会う必要があると言うんですからね。この子の新しい住処(すみか)で、あの人を迎えてやればいいの。ただそれを許すのは私達。私達はわざとここをあける。そのことはちゃんとマリエット、あんた、言わなきゃ駄目!
 マリエット 出るのは私・・・私に出させて!
 ビシャ(家の主らしく、きっぱりと。)いや、チチンヌの言う通りだ。あの礼儀知らずに少しは物を教えてやらねば。我々がこの家の持主なんだ。作法通り、その持主が、この場所を譲る。そういうことだ、マリエット!
 レオンチンヌ 譲るのはあんたに対してよ。あの人に譲っているんじゃありませんからね。
 マリエット(疲れて。)ええ、分ったわ。
 レオンチンヌ でもいいわね、出て行くって言ったって、長くはないわよ。「十分経ったら戻って来る」・・・あの人にそう言って。
 マリエット 十分経ったら戻って来るの?
 ビシャ それはないな。町でアペリティフを一杯ゆっくりやって来るさ。 
 レオンチンヌ(ビシャをこっそりつねって。)いいえ! ぐるっと一回りして、三十分したら戻って来ます。それからもう一つ、いいわね? マリエット、あの人が出て行って五分したら、大きくここの窓を開けるの。私達が入ってもいいって分るように。
 マリエット 分ったわ。
 ビシャ(腕時計を見る。)じゃ、行こう。ぼやぼやしていると階段であいつに出くわしてしまうぞ。出くわしてあいつ、もし何か変なことを言ったら、ぶん殴ってやる。(玄関へ進む。)
 レオンチンヌ 馬鹿なことは止めて。さっさと通り過ぎればいいの。それに、喧嘩なんかしたら、負けるのはあなたでしょう? じゃあね、マリエット。
 マリエット じゃあ・・・
 レオンチンヌ(出て行く前に。)落ち着いて、キリッとして、お金は貰うのよ。あんたの権利なんですからね。
 ビシャ(帽子姿で再び顔を出して。)それから、出来るだけ早く追い出すんだ。いいな!
 マリエット いなくなったら窓を開けるわ。

     第 三 場
(一人になるとマリエット、一瞬じっとして、困ったような様子。それから鏡のところへ行き、化粧を直す。部屋を見直し、中央の小さなテーブルに椅子を二つ置く。真中の小さなテーブルに造花がさしてある鉢カバーがあるのに気づき、それを取って食堂の方へ一歩進む。しかし思い直し、テーブルに置き直す。その時「まあいいわ、これはここ」と言う。次に鉢カバーをじっと見て、二三本、特に汚くて色の悪い花を引き抜く。しかしそれでも彼女の気に入るようにはならない。引き抜いた花を元に戻し、「駄目だわ」と言う。鉢カバーを食堂に持って行く。戻って来た時、ベルが鳴る。扉を開けに行く。)
 マリエット(舞台裏で。)ああ、あなた?
 ゲリドン(舞台裏で。)何だマリエット、一体どうしたんだ。(マリエット登場。その後からゲリドン。ゲリドン、被っていた帽子を椅子の上に投げる。)地下鉄で二十分待って、それからジュワンビルへ行って、そこで一時間ぼーっと待っていたんだぞ。
 マリエット 私、行かなかった・・・行けなかったの。ご免なさい。でもあなた、ここにいちゃいけないわ。
 ゲリドン ああ、やっぱり、やっぱりそうか。そうだと思っていたんだ。
 マリエット 何? 何がそうだと思ったの?
 ゲリドン 誓ってもいいよ、マリエット、あの女は何でもない。本当に何でもないんだ。ちょっとした知り合いなんだ、仕事上の。
 マリエット 女の人って、それ、何?
 ゲリドン しらばっくれて! ほら、昨日、地下鉄で僕が一緒にいた・・・君、見たろう? 僕の方は君に気がつかなかったけど。
 マリエット 昨日? ええ、私、地下鉄には乗ったわ。でも、あなたは見なかったわ。
 ゲリドン まさか!
 マリエット 本当、これは。ねえ、あなた、ここにいてはいけないわ。私、夫を待っているの。
 ゲリドン(驚く。)タバル?
 マリエット 電報がきたの。五時に来るわ。
 ゲリドン 五時に?(腕時計を見る。)もうすぐ五時だ! そう、入れちゃ駄目だ! うん、僕が開ける。ここには僕が入らせない。
 マリエット(静かに。)私、会わなきゃいけないの。たった今、姉夫婦も私を一人にしておくため、出て行ったわ。これが私達夫婦の最後の出会いになる筈。あの人も別れることに同意したの。でも、私に返すお金があって、それを今まで貸していた人が戻してくれたからって。
 ゲリドン それ、本当の話だと思っているんですか?
 マリエット ええ、本当の話。何の心配もいらないわ。
 ゲリドン 僕は隠れていましょう、隣の部屋か台所で。
 マリエット いいえ、出て行って! 誰か他の人がいるって思うと私、駄目。私、落ち着いていたいの。さ、早く!(ベルが鳴る。)
 ゲリドン 参ったな。こっちだ!(左手の扉へ駆け込もうとする。)
 マリエット(命令的に。)駄目!
 ゲリドン(戻って来て。)よし、じゃ、僕はアンドレに会いに来たんだぞ。あなたは僕を知らない。役所は休みをとっている・・・必要なことは僕が言う。さあ!
 マリエット ええ、そうして。(マリエット、扉を開けに行く。ゲリドン、片手に帽子を持って、見知らぬ客への作法通りの態度。)

     第 四 場
 タバル(舞台裏で。)ああ、マリエット。
 マリエット(舞台裏で。)今日は、アンリ。入って。
(マリエットに続き、タバル登場。包みを片手に持っている。ゲリドン、軽く頭を下げ、お辞儀。)
 タバル(驚く。挨拶を返して。)失礼・・・(部屋の中央に進む。)
 ゲリドン(マリエットに。)では、マドゥムワゼッル、ここのご主人に、古い友達のトニーが来たとお伝え下さい。それから、土曜日の同じこの時間に参りますからと。こちらからも手紙を出す旨お伝え下されば・・・エー、名前はトニーです。いいですね?
 マリエット 承知しましたわ。
 ゲリドン(退場しながら。)では失礼。いえ、どうぞお構いなく。出口は分っています。(マリエット、出口までついて行く。)では、マドゥムワゼッル!
 マリエット(舞台裏で。)では、失礼します。(マリエット、戻って来る。)
 タバル 誰?
 マリエット 知らないわ。アンドレの友達ね。
 タバル 一人?
 マリエット ええ、二人は出たわ。あなたが来るから。
 タバル そいつは親切だ。
 マリエット 坐って。
 タバル サントゥワンの家では厭だろうと思ってね。それに、どこかで会おうとすれば、きっと長いこと待つはめになりそうだし。
 マリエット そんなこと、しないわ。何故?
 タバル いづれにせよ、こちらの勝手でやることだ。そちらには手間をかけてはいけないと思った。だから金だけのことなら送ればすむことなんだが、これもあってね。(包みを見せる。)
 マリエット 何? これ。(包みを取る。)
 タバル 見て御覧。鉢カバーだ。あっちを壊しちゃったからね。(ポケットからナイフを出し、紐を切る。)骨董屋で見つけたんだ。古いものでね。カンペじゃなくて、ヌヴェール産だ。(この時までにマリエット、包みを解き、鉢カバーをテーブルの上に置いている。そして内心に驚きを隠しながら、眺めている。)カンペのもあって、まあまあ気に入るものだったんだが・・・でも、こっちの方が珍しいし、繊細に出来ている。色合いも優しい。花の球根を植えるといいよ。
 マリエット 有難うアンリ・・・でもあなた、馬鹿よ、こんないいものを・・・買ったりしなくていいのに。
 タバル いや、これはしなくちゃ駄目だ。お前のためだけじゃない。俺のためにもだ。貝殻も捨てちゃったが、あれは自分でいつか拾いに行けばいい。さ、これがお前の金だ。(背広から封筒を取り出し、テーブルの上に置く。)金額は封筒の上に書いてある。
 マリエット(身動きもしない。じっと封筒を見る。)まあ、こんな大金。私、いらないわ。いいえ、大金がいらないんじゃない、お金そのものがいらないの。・・・さ、もう時間・・・
 タバル(優しく。)しかしこれは、お前の金だ。
 マリエット 持って行って頂戴。
 タバル いや、それは駄目だ。同じ額を俺も持っている。金は必要になる。ビシャ家から自由の身にならなきゃ・・・
 マリエット(抗議して。)私、自由だわ。
 タバル まあ俺の言うことを聞くんだ。そのうちビシャの弟が軍隊から帰って来る。寝室が必要になる。その時には、お前はどこかへ行かなきゃならない。
 マリエット ええ。
(間。タバル、立ち上がり、煙草に火をつける。)
 タバル これから何をするつもりか、訊いていいかな?
 マリエット 働くわ。職を見つけたの・・・かなりいい・・・信用のおける・・・
 タバル(自分を抑えて。)ああ・・・それは良かった。働けば自立は出来る。・・・それで、どんな職?
 マリエット 販売の仕事。支配人。仕事のあらましが分ったら、私一人で小さな店を任されるの。香水、化粧品の。店の後ろか、二階に、私の住むところも。
 タバル(冷たい皮肉を込めて。)それはいい・・・一日中カウンターの後ろに立って、櫛だの、石鹸だの、歯磨粉、ヘアピンだのを売る訳だ。
 マリエット(傷ついて。)香水、白粉、化粧水・・・
 タバル 勿論、勿論。そして夕方、店を閉めたら、すぐ傍に自分の部屋、ガスコンロがあるっていう寸法だ。
 マリエット それに、店の仕事だって、そんなに辛くないわ。
 タバル 勿論! 人はマニキュアの道具をそうそう買いに来やしない。バターとは違う。毎日食べる訳じゃないからな。
 マリエット でも、どこにでもある店よ。化粧品店て。
 タバル まあいい。とにかくお前は満足なんだ。それが一番。
 マリエット ええ、この仕事が貰えて、私、幸せ。これ以上楽で、割のいい仕事は、私、考えられない。
 タバル あの姉だな? 考えてくれたのは。今までやっていた、歯磨粉やカミソリの刃、販売の延長だ、きっと。(間。)あの義理の兄の友人も、顧客として考えているんだろう。その中で、若くてきちんとした男が、役所が退(ひ)けた後、店を閉める手伝いにやって来るかもしれない。
 マリエット(締め付けられるような声で。)ええ、まあ。
 タバル 怒るんじゃない、マリエット。これは意地悪で言ってるんじゃないんだ。お前の姉が、こうなればいいと思っていることを言ったまでだ。(間。)やれやれ、想像もつかんな。お前が店の奥で客が来るのをじっと待つ。そうやって鼠が齧(かじ)るように自分の時間をポリポリと齧って行く。お前がそれを誇りに思うとはな。
 マリエット サントゥワンでの私、洗濯と洗い物と繕い物の毎日、それよりは・・・
 タバル 違う、マリエット。それは違うんだ。もうあれは終だ。分るだろう?(金の入った封筒を指さす。)
 マリエット 私、姉の言ってくれた仕事でいい。夢にも思わなかったこと。私、充分満足。あなただって、また自分の仕事に戻るんでしょう? 口では何て言ったって。
 タバル いや、違う。俺は戻らない。
 マリエット じゃ、何をするつもり?
 タバル 今話す。しかしその前に、あの金についてどうしてもお前に知って貰わなきゃならないことがある。どうしても会いたかったのはその話があるからでもあったんだ。あと五分・・・いいかな?
 マリエット ええ。
 タバル あの金はな、マリエット、人に貸したんじゃない。
 マリエット そうだろうと思っていたわ・・・(何か言おうとする。)
 タバル いやいや、話を聞いてくれ。あれは銀行に預けたんだ。前にも言ったことがあるが、囚人二人をどうしても監獄から出す必要があった。そのための費用だった。二人の囚人・・・つまり、お前と俺だ。
 マリエット(強く。)そのことのためなら、どうしてあなた、隠したりする必要があったの! どうして!
 タバル(途中で遮って。)ちゃんと聞くんだ! 俺には計画があった。素晴しい計画だ。しかしそれは最後の瞬間までは、お前に隠しておかなきゃならなかった。長くかかり、実行も難しいからだ。まづ、大変な金がいる。お前にも非常な犠牲がかかる。だから俺は、その計画を自分だけに止(とど)めた。その方が楽だし、辛さも半分ですむ。他に方法がないと分れば、現状も辛抱し易いからだ。達成するためには、俺は全力を出す必要があった。もしお前が計画を知ったら、これだけの金を集めるのに、今までの倍はかかったろう。お前は・・・いや、俺だってきっと言った筈だ。「もう少しは楽をして、貯(ため)るのを先に伸ばそう」とな。或はちょっと貯ったところで、俺はすぐ会社を辞めると言い出したろう。俺は短気だ。自分でよく分っている。たいした金でない時に職を辞めて、元も子もなくしてしまうかもしれない。それにもう一つ、お前は姉に話すかもしれなかった。
 マリエット(抗議して。)そんな!
 タバル いや、計画が煮詰まってくればくる程お前は話さなきゃいられなくなる。自分達が耐乏生活をしているのは、こうこうこういう訳があるからだってね。
 マリエット そんなに隠しておかなきゃならないこと?
 タバル 全然。隠すことなどない。実際俺は、いい友達には話している。エミールにも、フェールにも、ブルドンにも。しかしあのビシャ二人は駄目だ。あいつらには夢というものが分っていない。それに、それを実行する時に必要な勇気もだ。どうせ俺のこの夢を「贅沢」だと思うに決っている。必死にこの計画を貶(けな)して潰(つぶ)しにかかる。それに、あいつらには結局、関係のないことだ。
 マリエット あの人達に関係のないことだったら、私、決して言わなかったわ。あなたいつもそういうことを言うけど。
 タバル 分った。この話はもう止めよう。
 マリエット その、あなたのいう計画っていうのを、私、知りたいわ。
 タバル そうか。何を企んだか、その話・・・簡単だ。しかし、生活は一変する。まづサントゥワンの家は引き払う。そして、キャンピングカーを買う。お前がいつか、アルフォールの岸辺で見て、「何て素敵」って言ったやつだ。その中に巡回研ぎ師が必要な道具・・・すべて一流品だ・・・それを乗っける。三種類の回転砥石を据え付ける。これは車のエンジンで回る。格納庫に照明は勿論だ。鈴をからんからん鳴らして人を集める巡回研ぎ師じゃないぞ。車で回るんだ。ノルマンディーから始めて、フランス全土を回る。家庭用が主じゃない。工場用の研ぎ師だ。勿論家庭の主婦が鋏(はさみ)を持って来たって、それはやる。商売は商売だからな。そのための三種類の回転砥石だ。お前には特別製の萬用ナイフを売って貰うつもりでいた。ポケットに入る萬用ナイフ・・・俺の発明だ。小さくて、実用的で、独創的な・・・スエーデン型の完璧なやつだ。田舎の人だったら、誰だって欲しがる筈だ。
 マリエット(話につられて。)ええ・・・
 タバル 俺が自慢に出来るような、そんなやつだ。
 マリエット でも、そんなことまで・・・大変な出費でしょう?
 タバル うん。しかし、それ程じゃない。キャンピングカーは中古品のつもりだった。ちゃんと下見はした。たいした値段じゃなかった。エミールがエンジンを新しくしてくれて、巡回研ぎ師用に窓を切ってくれることになっていた。内装はブルドンの役だ。鎧戸をつけて、ベッドとテーブル・・・テーブルは、使わない時は壁に立てかけられる。ショーケース、棚、移動式の雨よけ、車内は明るい灰色に塗って、網は青だ。天井はリノリウム張りで、白と黒の格子にする。お前はカーテンを張ってくれさえすればいい。
 マリエット(悲しい気持で。)どうしてそれを言ってくれなかったの?
 タバル そう、終り頃には何度打ち明けようと思ったかしれない。しかしぐっと抑えた。「ここまでやったんだ、最後まで黙っておこう。驚かせてやるんだ」ってね。そう、最初に面会に来てくれた時、俺は話す気持でいた。そうしたら質問ぜめで・・・疑い始めて、ついには責められてね。ああ、これは駄目だ・・・やれやれ、聞く耳持たずかと・・・
 マリエット 聞く耳? 言う機会なら、それはいくらでもあったでしょう? 私、恨むわ。いいえ、お金のことじゃない。こんなに長く私にこれを隠していた、そのことを恨む。(間。)隠していたそのことを恨むんじゃなくて、私のことをそんな女だと思っていたことを。どうしてあなた、私がそのことを知ったら節約出来なくなるなんて、思ったの? 私、それが分っていたら、もっと節約出来ていたわ!
 タバル 今だから言えるんじゃないか? 無理だったろうよ、きっと。
 マリエット いいえ、いいえ。もっと出来た筈。我慢を一つする・・・映画に行かない・・・これで車が買えるんだと思うと、楽しい気持になったわ、きっと。地図で道路や街を眺めて、ここに来よう、あそこへ・・・こんな楽しみを毎日あなた一人の胸にしまっていた癖に、あなたまだ不満があったって言うの?
 タバル 本当にそうだ、マリエット。俺はせっかちだった。何にでも当たり散らしていたなあ。
(間。)
 マリエット で、あなた、これから先、ちゃんと食べて行けるの?
 タバル 食べて行けるどころじゃない、良い暮しが出来るさ。それは大丈夫だ。計算はきちんとやった。
 マリエット 車にはガソリンがいるし、タイヤだってすり切れる。高いんでしょう? タイヤ。
 タバル うん、それも計算に入ってる。
 マリエット それから・・・計画にはまだもう少しお金を・・・(貯めなきゃいけないんでしょう?)
 タバル いや、もう充分だ。丁度きっちりの金・・・勿論二人でだったらだが・・・出発出来たんだ。
 マリエット キャンピングカー・・・買えたのね?
 タバル うん、買えた・・・二人でな。しかし、もうそれも不要になった・・・
 マリエット(困って、相手の言葉を遮って。)いいえ、あなた、やらなきゃ駄目、アンリ! やり遂げなきゃ・・・私のために駄目にするなんて、そんなのないわ。さっきも言ったでしょう? 私、このお金、いらない・・・(封筒を押し戻す。)
 タバル(微笑んで。)まあまあ、最後まで聞いて。もう不要になったって言ったろう? その説明をしなきゃ。もうキャンピングカーなんて必要なくなったんだよ。お金もいらない。実はエミールが見つけてくれたことがあってね、それから比べると、俺の計画なんてゴミみたいなものなんだ。
 マリエット(残念な気持が顔に出て。)まあ!
 タバル そう、俺の計画より十倍も百倍もいいんだ、これは。お前と俺が昔からしょっちゅう話しては、そんなのどうせ無理だね、と諦めていたやつさ。
 マリエット(心配そうに。)それ、何?
 タバル 川船だ、マリエット。船長としてそれに乗り込むんだ。水の上の楽しい生活・・・話したのを覚えているだろう? な?・・・素晴しいじゃないか。
 マリエット(悲しそうに。)ええ・・・
 タバル(マリエットをじっと見た後。)さっきも言ったが、エミールだ、この話を持って来たのは。あいつには叔父さんがいてね、川船を三隻持っている。その役目っていうのが、一箇月間、川と運河を通って、船荷を運ぶんだ。石炭、セメント、瓦、小麦、肥料。一つの船には一組の夫婦・・・それが決(きま)りなんだ。
 マリエット あら。
 タバル 船長が船を取り仕切って、妻がそれを助ける。勿論子供がいたら、船にのせる。エミールの叔父さんが持っていた三隻の船の一つに、老人夫婦が乗っていて、子供の頃から船で暮していた。最近奥さんがなくなった。それでもう、旦那さんの方も乗れなくなった。それに、もう引退の時だと思っていたんだね。しかし替わりになり手がいない。お前も驚くだろう、きっと。こんな素敵な生活をしたいという人間がいないなんて。大抵の奴は、地下鉄の切符切りの方がずっといいと思っているらしい。だからエミールの奴、俺に話を持って来た。俺が牢屋にいる間によく考えていてくれたんだ。いや、牢屋にいたから余計熱心に考えてくれたのかもしれない。俺の好みはよく知ってくれていて、出て来たら本当にホッと出来ることを、と真剣にね。それにあいつ、もともとキャンピングカーはちょっと怖かったんだ。臆病だからね。決して歩道しか歩かないって奴だから。それで、奴の叔父さんに会わせてくれた。いや、そんなに簡単なものじゃなかった。楽に船乗りになれると思ったら大間違いだ。頭がいる。船の操縦は勿論、運河のこと、荷揚げ、荷下ろし、運賃のこと、その他いろいろだ。
 マリエット それで?
 タバル いや、俺は随分食い下がった。雄弁を揮(ふる)ったよ、その叔父さんに。一時間経って承諾の返事を得た。見込みあり、真面目に習う気あり、と見てくれたんだ。こうしようと言ってくれた。例の老人船長が、俺に跡継ぎの仕事が出来るようになるまで一緒に乗ってくれる。その間、その人の指示のもとで、仕事は全部俺がやると。
 その老人にも会った。喜んでいたよ。パイプを燻(くゆ)らす姿がとてもいい人だ。それに船もね。ラペの埠頭(ふとう)に舫(もや)ってある・・・ニス塗りの、綺麗な、形のいい船だ。
 マリエット 人が住めるようになっているの?
 タバル 当り前だよ! 四角くて、白と茶色の家。窓が側面に一つづつ、前方に二つ・・・真中に扉があって、その前に階段。踊り場ありだ。中にはピカピカに磨かれた銅で出来た釜、屋根の上にはプランター二つ、白と緑だ。植わっているのはジェラニウムとノウゼンハレン。
 マリエット(間の後。)でも、その船長さん、まだそこに住むんじゃないの? その船の家に。
 タバル いやいや、もう俺に任せると言ってる。連合いが亡くなったからね。昔馬を飼っていた場所がある。そこを改造して住むんだ。船は昔、引き船でね、馬を使っていた。広くて住み易いところらしい。(間。)ね、マリエット、実はね・・・つまりその・・・エミールの叔父さんに、俺にはついていてくれる女房がいないって、まだ言えないでいるんだ。(マリエット、突然泣き始める。タバル、マリエットに近づき、その身体を引き寄せる。)
 マリエット(泣きながら。)連れて行って!
 タバル 勿論! 勿論連れて行くよ、マリエット! 良かった、嬉しいよ。さ、もう泣かないで。
(マリエット、姿勢をしゃんとする。涙顔で微笑む。眼を拭く。二人、お互いをじっと見る。それから抱き合ってキスをする。)
 マリエット アンリ!
 タバル 何だい?
 マリエット もし私が何も言わなかったら、私を・・・誘わなかった?
 タバル(可笑しそうに。)そう、誘わなかったね。ただ、「規則だからね、俺一人では船に乗れないんだ。と言って、再婚しようにも、誰ともしたくないし」って言ったね。
 マリエット(優しく。)意地悪!
 タバル(優しく。マリエットをちょっと抓(つね)って。)意地悪はそっちだよ! なあ、本当にお前、俺と別れるつもりだったのか?
 マリエット ええ、一時期は・・・私、自分にそう言い聞かせたわ。
 タバル 俺が一番それを感じたのは、ついさっきここに着いて、化粧品店の話を聞いた時だったなあ。
 マリエット 私、あのキャンピングカーの話の時。胸が痛くなったわ。「もうお前とはお別れだ」って言われたように。
 タバル まさか!
 マリエット 「まさか」じゃないわ。だって、私が「別れる」って言うのを、あんなに簡単に受け入れたんだもの。
 タバル 何を言ってるんだ。お前に持って来た物を考えてくれなきゃ。キャンピングカー、川船・・・それに、鉢カバーだぞ。
 マリエット(笑って。)あなたって、蠅さんみたい。ブンブン飛び回って、決して諦めない・・・でも、あの川船の話がなかったら、私、どうしたら「連れて行って」って言えたか分らなかったわ。
 タバル 言わなくても分ったよ。しかし、川船! いい考えだったろう?
 マリエット ええ、とても・・・でも、そのせいばかりじゃないわ。
 タバル お前用の籐の椅子を買うよ。甲板でテーブルクロスを縢(かが)るんだな。ハウスボートの上のお姫様だ、まるで。ポプラ並木や村や野原が通り過ぎて行くのを眺めるんだ。
 マリエット(うっとりとする。)ああ・・・(急に心配になって。)でもその船、夜にも動くの?
 タバル 夜は動かないさ! 日が暮れるまでに停泊するいい場所を捜しておく。船を舫(もや)ってタラップをおろす。俺は釣糸を垂らす。爽やかな空気、風はなし。よく食うぞ。鯉が跳ねて・・・そら、また一匹釣れた。俺がフライを揚げている間に、お前は牛乳を買いに出かける。
 マリエット(続けて。)野原を横切る。ナツユキソウがあるわ。イヌサフランも。摘んで、束にして、鉢カバーにいけるわ。
 タバル それから、夏の朝、太陽と共に起きる。川面(かわも)にはまだ霧が立っている。灰色の・・・ピンクが少し混っている。まるで夜中にはこの静けさに遠慮して水も動かなかったかのようだ。干草の束が流れて行くのがなかったら、川の流れも分らない。まだ風は出て来ない。木々は何か事が始まるのを待っている。ほら、向こう岸に釣り人がいる。河鱒(かわます)を釣るんだ。釣糸をヒュッと投げる。浮きが落ちる・・・ポトン! そこでもし、子供がガサガサと渡し船に上って来たり、カササギがギャーギャー鳴き出したりしたら、「何だ、こんなに静かにしているのに」と叱られそうだ。朝食の用意が出来た。お前はコーヒーの盆を甲板に運ぶ。
 マリエット(遮って。)小さなテーブルあるの?
 タバル 勿論・・・するとポプラ並木のてっぺんが金色に映えて来る。だんだんと、干し草と水の匂いがただよって来る・・・ね? ムランと同じだ。(訳註 ムランは村の名か?)
 マリエット ええ・・・
 タバル(小さい声で。)なあ、その匂い、化粧品店の香水の匂いかな?
 マリエット 駄目、アンリ、そんなことを言っちゃ。
 タバル ご免、あの話はもうしない。でも、ね、燕(つばめ)ちゃん、お前、何時ここを出る?
 マリエット 今・・・今すぐ!
 タバル おやおや、その言い方、まるで牢屋を出る時の勢いだな。
 マリエット 私、本当の牢屋にはいなかった。でも、ここにいる間中、ずっとそんな気持だったわ。
 タバル おやおや! この豪勢な生活が? カナリアの箱・・・瀟酒(しょうしゃ)なものじゃないか。この銀の飾り、ブランコ、熱湯でよく洗ってあって、ハコベがきちんと入っている・・・
 マリエット 冗談は止めて!
 タバル(マリエットにキスして、立上がる。)さ、置き手紙だ。「今夜は私を待たないで」とだけ。
 マリエット それだけ?
 タバル それだけで全部分るさ。どうせ明日、詳しく手紙を書くにしても・・・そうだな、分り易い話にした方がいい。宝籤で大当たりしたとか・・・
 マリエット(笑って。)あら、私達も?
 タバル 何だい? その「も」っていうのは。連中も当てたのか?
 マリエット ええ、当てたの。私達のよりは金額が少しだけど。
 タバル(書き物机に近づく。)ああ、丁度紙がある! 実にお誂え向きだ。(マリエット、笑う。)え? 何が可笑しい。
 マリエット(書き物机について。)何でもない。後で説明するわ。さ、急ぎましょう。この封筒、あなた持って。それから鉢カバーはまた包むのよ。ああ、私、これ、好き。壊したのよりずっといい。壊さないようにね。
 タバル(鉢カバーを包みながら。)これは壊さないよ。それから、この封筒はお前のだ。
 マリエット いいえ、私達のもの。あなたのポケットに入れて。その方が安全。(マリエット、声を出しながら書く。)今夜は私を待たないで。それから、どうぞ、心配しないで。(タバルが包んでいる間にマリエット、食堂に走り、鉢カバーを持って来てテーブルの上に置く。それから、造花の間に手紙を挟む。)さ、これでよし!
 タバル(花の前で。)酷いもんだ、この花! お前の嫌いなチコリじゃないか。ま、手紙が傷(いた)むことはないさ。よし、行くか?(マリエットの手を取る。)
 マリエット(手を払って。)ちょっと待って。持物を整理して・・・(左手の扉に走る。)
 タバル 連中、戻って来るぞ。早く頼む。
 マリエット(左手の扉のところで。)大丈夫。(扉を開けて、一旦入るが、すぐ出て来て。)そそうアンリ、私、忘れるといけないから・・・ここを出る前にその窓を大きく開けるの。
 タバル どうして?
 マリエット 合図。あの人達への。
 タバル(窓に近づきながら。)ああ、分った。燕ちゃんが飛んで行ったっていう記(しる)しだな?
               (幕)
            (一九三八年)


平成十八年(二00六年)五月三十一日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

 
 
Personnages
Henri Tabaroux, ouvrier affuteur, 28 ans. ... MM. Gil Roland
Andre Bichat, employe d'administration ...Charles Castelain
Tony Gueridon, collegue de Bichat et poetechansonnier, 30 ans
... Pierre Jourdan
Un gardien de prison. Serge Vadis
Premier agent ... Jean Clermont
Deuxieme agent ... Serge Vadis
Mariette, femme de Tabaroux, 23 ans ... Mmes Denise Bosc
Leontine, epouse de Bichat, 28 ans ... Helene Tossy
Madame Colbot, 60 ans ... Marguerite Fontanes
Mlle Angeles, 40 ans ...Louise Nowa

Cette piece (Trois Mois de Prison) a ete representee pour la premiere fois a
Paris, au Theatre Monceau, le 23 fevrier 1942.