ルッサン解説    

鈴木力衛(白水社「現代世界戯曲選集フランス篇 一九五三年十月二五日発行)による。

 アンドレ・ルッサン(Andre Roussin)は一九一一年一月二十二日、マルセーユで生れた。彼の劇壇へのデビューは、「灰色の幕」という素人劇団の結成にはじまる。二十一才のときのことであった。もっともこの劇壇の誕生はルッサン一人の手に成ったものではなく、かれの友人ルイ・デュクルーの助力をみのがすわけには行かない。ルッサンは俳優として出発し、一九四四年に処女作を発表しているが、デュクルーは占領下に「焔の部分」を書き、劇作家としてルッサンより一足先に認められた。デュクルーがその後、めぼしい作品を書いていないのに反し、ルッサンは一作ごとに名声を高めて行った。フランスの開放による社会の急変がその大きな原因であろうと思われる。音楽における半音を愛したごとく芝居においても半濃淡を愛したデュクルーよりも、ルッサンの品のほうが戦後の観客に喜んで迎えられたのであろう。
 ルッサンの描く世界は現実の世界であり、その描く人物は現実の人間である。モリエールの描いた世界が「当時のフランスの風俗の忠実な描写」であるとすれば、ルッサンの描く世界は「第二次大戦後のフランスの風俗の忠実な描写」であり、それゆえにルッサンを「もっともモリエール的な劇作家」(ジャン・ジャック・ゴーチエ評)に数えることができるし、また彼こそは第二次大戦後のフランスの世相をもっとも鮮やかに舞台上に反映する劇作家であるとも云えよう。
 彼の処女作は一九四四年の「アム・ストラム・グラム」であるが、一躍彼を人気の絶頂に押しやったのは一九四七年の「小さな小屋」であった。この芝居は上演回数七百回を越えた。一九四九年には戦後における価値の倒錯を巧みにとらえた「駝鳥の卵」のほか、ここに収めた「狐と狸」、それに「ニーナ」と、三つの新作を発表した。いずれも相当な当りをとっている。一九五一年には「小さき者現るれば・・・」と「ローマ皇帝の手」を舞台にかけ、二作とも観客の圧倒的な支持を受けた。この年には「駝鳥の卵」も再演されており、ルッサンは一時にパリの三つの劇場を満員にするという前人未踏の快記録を樹立した。(以下略。)

 この解説中にある「小さき者現るれば・・・」は「あかんぼ頌」という題名で文学座で上演された。その経緯は、鈴木力衛(白水社現代フランス戯曲選集1 一九六○年九月二五日発行)の解説文にある。以下にその部分を載せる。

 この芝居(あかんぼ頌)は一九五三年十二月、岩田豊雄氏の演出により、文学座が第一生命ホールで上演している。その際の配役は、シャルルが中村伸夫、ジョルジュが稲垣昭三、ジャッケ老人が芥川比呂志、オランプが杉村春子、シャルロットが荒木道子、アニーが加藤治子、マドレーヌが福田妙子、テレーズが日塔智子であった。
 なお、この作品の原名は「Lorsque l'enfant parait ...」であり、有名なヴィクトール・ユゴーの詩句の一部をとったもの。直訳すれば、「幼き子が姿をあらわすと・・・」の意味である。ロマン派の大詩人は幼児を礼讃しているのだた、ルッサンの場合はその意味が裏返しになっている。まことに翻訳者泣かせの題名である。
 いささか楽屋落ちになるが、そのころパリ留学中の共訳者、安堂信也君は「妊娠恐怖」という苦心の題名をつけ、わたくしの案は「みどりご姿を現せば・・・」、それを演出の岩田氏が「小さき者現るれば・・・」と修正され、最後に「あかんぼ頌」という洒落た題名をつけられたものである。
 「あかんぼ頌」以後、ルッサンは「夫と妻と死」(五四年)「狂おしき恋」(五五年)「おっ母さん」(五六年)等の作品を書き、いずれも相当な興業成績をあげているが、「あかんぼ頌」の驚異的な大成功には、しょせん及ばないようである。