ラティガン
            ジェフリー・ウォンセル 作
             能 美 武 功 訳

     第 一 章
   あこがれのよってきたる場所

 私は若い頃の自分を思い出す。あの頃私はこう思っていた。今では決して考えられない感情だ。・・・私の生命は永遠だ。海、大地、あらゆる人間、がなくなっても、私は生きている。・・・この、人を騙す感情、それが我々を、危険に、愛に、無駄な努力に、そして、死に、誘(いざな)うのだ。
             ジョセフ・コンラッド

 ラティガン家はアイルランド出身。宗教はプロテスタントである。決然とした意志を持ち、冒険心のある、際立った性格を祖先から引き継いでいた。ラティガン家の隆盛は、一八四0年、キルデア州のバーソロミュー・ラティガン(Bartholomew Rattigan of County Kildare)がアイルランドの霧と泥炭の火に訣別し、新地を求めることを決心した時から始まった。彼は東インド会社の兵器部に就職することに決め、結婚して間もない妻と息子とを連れ、インドに渡った。二年後、次男が生れた。
 二人の息子とも、この新しい土地で成功を収めた。長男のヘンリー・アドルファス・ラティガン(Henry Adolphus Rattigan)は弁護士になり、インド法に関する本を表した。この本は主にキリスト教者とインド人との離婚に関るものである。彼はパンジャブ(Punjab)の首席判事(Chief Justice)の地位まで上った。しかし、彼の名声も、次男のウイリアム(William)に較べると、落ちてしまう。このウイリアムが、ラティガン家の名声を最初に築いたのだ。
 この典型的なヴィクトリア朝の人間、断固としていて、才能のあるウイリアム・ラティガンが一九0四年、六十一歳でなくなった時、英国紳士辞典(Dictionary of National Biography)には、「独立独歩、親の七光りを利用しなかった男」と書かれている。アグラ(Agra)の高校卒業後すぐに政府の仕事につくことに決め、パンジャブの弁務官助手(Assistant commission)となった。二十歳になる前に、彼はデリー(Delhi)の小事件裁判所('small causes' court)の判事になっていた。
 政府の、ある会計検査員の娘テレサ・マチルダ・ヒギンズ(Teresa Matilda Higgins)と結婚して一年後、ウイリアム・ラティガンは公務員を辞め、インドの法律の研究を始めた。英国とインドの関係の急発展を眺め、しっかりした法律体系がこれから必ず必要となると見越してのことだった。パンジャブ高等裁判所(Punjab Chief Court)が一八六六年に設立された時、彼は弁護士として非常な活躍を行った。二十四歳のことである。
 一八七一年、二十九歳の時、法律に関する研究を完成するため、彼はロンドンに帰る。ロンドン大学(University of London)の王立大学(King's College)に学生として入学を許され、一八七三年七月には、一番の成績で法律試験に合格し、判事の地位を与えられた。しかし彼には、イギリスは興味がなく、また四人の息子二人の娘と、大家族を支えるために、時を移さずインドに帰る。四年経たないうちに官指定の弁護士(Government Advocate)即ちラホーレ(Lahore)において主席検察官(Chief prosecutor)となる。この地位は、インド政府の報告書によれば、「彼の生涯における最高の地位」である。一八八0年代には、上の地位と平行してラホーレの主席裁判官(Judge of the Chief Court of Lahore)も務める。
 またウイリアムは、同僚チャールズ・ブルノア(Charles Boulnois)と共にパンジャブ地方の法律の最初の参考書を作った。一八八0年初版の「パンジャブの成文法及び慣習法(The Civil and Customary Law for the Punjab)は、現在においてもこの題材に関する標準的な教科書であり、一九六0年においても出版されている。ヒンドゥー法に関する本「応用ヒンドゥー法(The Hindu Law of Adaptation)」も書いた。またインド史に関する本もある。これはアレクサンダー大王のインド征服から現代までを含み、またヒンドゥーの神話、哲学、科学、に関する入門も含んでいる。
 語学の才能のあったウイリアムは、アグラの高校生活の間に、五つのヨーロッパ語、インドの方言を数個・・・これには当然アグラ地方の方言も加わるが・・・その他ペルシャ語も習得した。四十歳の誕生日を迎え、まだラホーレでの主席弁護士だった頃、彼はゲッチンゲン大学のドイツ語による博士号も取得した。
 しかし、インド法廷での仕事に対する彼の情熱もさめてきて、一八八六年十一月、裁判官を辞し、弁護士の仕事に専念する。三箇月後には、パンジャブ大学の副総長の仕事を引き受ける。このパンジャブ大学は、設立されて間もなかったのだが、殆ど破産状態になっていた。五年間で彼は、この財政建て直しを成功させる。感謝の印に、法律博士号(Doctorate of Law)を授けられる。また、これ以後一八九五年まで、彼が辞する二年毎の契約で、この地位にとどまる。またカルサ大学委員会(Khalsa College Committee)の議長になり、シーク教徒の社会に、教育手段を作ることに力を注いだ。このことを記念して、アムリスツァー市(Amristsar)のシーク教徒達によって、彼の死後、この大学内に彼の名前のついた病院が作られた。
 一八九五年にナイトの称号が与えられ、一八九七年に王室弁護士(Queen's Council, QC)の称号が授与される。一八九七年、彼はインドの法廷での有効な経験を、イギリスの枢密院において法廷弁護士として生かすべく、イギリスに帰る。この頃よりずっと以前に彼は再婚している。最初の妻は一八七六年に死に、二年後にその妹、エヴェリン(Evelyn)と結婚した。エヴェリンとの間には三人の息子ができ、子供の総数は九人となる。エヴェリンに奨められて、彼は政界入りを決意する。しかし、彼の下院での経歴は長いものではない。
 一九00年十月の「カーキ選挙(Khaki election)」において、サー・ウイリアム・ラティガンは、北東ラナークシャーのスコットランド議席のために、リベラルユニオニスト党から立候補する。その熱の入れ方は、自分の新しいロンドンでの住居(南ケンジントン、コーンウオールガーデンズに最近建てた大きな家)を選挙区民の名誉のために、ラナークスリー(Lanarksley)と名付けたほどだった。最初の試みは失敗に終った。しかし、それからまもなく、一九0一年九月の補欠選挙においては次点に九0四票の差をつけ当選した。
 しかし、彼の健康は弱まっていた。インドでの刻苦勉励が、その代価を求めたのだ。一九0四年の始め、下院で演説をすることも出来ない程弱っていた。この年の春、政府幹事(Geovernment whips)に申請し、夏休暇をとり、静養のためにスコットランド選挙区に戻ると話した。一九0四年七月四日の朝、彼とレイディー・ラティガンは、お抱え運転手の運転するダラック(Darracq)の後部座席に乗って、スコットランドへと発った。サー・ウイリアムはあふれんばかりの富を持ってインドから帰った訳ではなかった。しかし彼は新しい発明、特に自動車が好きだった。当時この発明品は評判のよいものではなかった。歴史家サー・ロバート・エンサー(Sir Robert Ensor)によれば、自動車とは舗装もされていない古い、狭い道を「そこどけ、そこどけ、と言わんばかりに、通りがかりの通行人を怖れさせ、危うくよけたその頭の上から、いやというほど泥と塵をかぶせて通り過ぎる」「利己主義で傲慢な富の象徴」そのものだった。サー・ウイリアム・ラティガンのダラックも、正にこれを実行していたのだろう。ベッドフォードシャー(Bedfordshire)のビッグルズウエイド(Biggles Wade)の傍の村、ラングフォード(Langford)にあるカーブを曲っている時、後ろの車輪のスポークが折れ、自動車は仰向けに倒れた。
 サー・ウイリアムはオープンカーから外に投げ飛ばされ、即座に首の骨を折った。レイディー・ラティガンと運転手のジョン・ヤングも自動車と共に倒れたが、内部に留まっていたため生き残った。検死官は二日後に次のことを報告した。自動車は多分、機械的な修理を必要としていた。しかし、サー・ウイリアムは、その必要なしと、これをさせなかった。また、自動車の上に積み上げていた荷物がバランスを崩したかもしれない、と。とはいえ検死官は、事故死の判断を下した。三日後、名門ラティガンの創立者サー・ウイリアム・ラティガン・KC・MPは、ロンドンのケンサル・グリーン墓地(Kensal Green Cemetary)に埋葬された。
 ラティガン家の家長は、まだ若い長男のウイリアム・フランク・・・彼は常に、ただフランク(Frank)と呼ばれたが・・・が、なった。フランクはラティガン家の冗舌と魅力を引き継いでいたが、父親の真面目で重々しいところは全くなかった。もう既にフランクは、有望な外交官として活躍していたが、父親の死の、この時に丁度第二の任地、ハーグ(The Hague)へ大使館員として派遣されることになっていた。粋(いき)で、圧倒的な美男、おまけに綺麗な女の子には目がないフランク。しかし、野心のある外交官には必ず妻が必要と分り、一九0五年十二月二日、パディントンのクライストチャーチ(Christ church in Paddington)において、フランク・ラティガンはアーサー・ヒューストン(Arthur Houston, KC)の娘ヴェーラ・ヒューストン(Vera Houston)と結婚式を上げる。アーサーは破産事件専門の法廷弁護人、英国演劇の通、かっての大立者。こちらもアイルランドのプロテスタントの家族の出である。ヴェーラはハイドパークの北の端、ランカスター・ゲイト、二二(22, Lancaster Gate)に、父親と一緒に暮していたが、その時丁度二十歳、ウエーブのついた真っ赤な髪が両肩に垂れ、声に少し飛び跳ねるような調子(lilt)のある、すらりとした、活気のある、議論の余地のない美人であった。彼女はこれ以降、フランク・ラティガンの妻として、夫の生きている間中、その女遊びに苦しむことになるのである。
 このアイルランド系の二つの家族の結合が、彼らの第二子(つまりテレンス・ラティガン)の性格に、第一の鍵を与えている。アイルランド人ではあったが、フランクもヴェーラも宗教にはいたって冷淡であった。アイルランドのプロテスタント達はスコットランドのプロテスタント達と違って、罪の意識に嘖(さいな)まれるということはあまりないのかもしれない。この新夫婦は自分達の人生を、意の赴くままに楽しんだ。第二子テレンスは、そのような環境のもとに育ったのである。
 少年時代のフランクの生活に戻ると、フランクは十歳まで父親とラホーレ(Lahore)で過した。大勢の召使に傅(かしづ)かれる生活であったが、現金を鷹揚(おうよう)に与えられるということはなかった。父サー・ウイリアムは、長男にライフルと弾丸のカートリッジを与える方を選んだ。それを使って、食いたいものがあれば撃ち取ってこいというのだ。クリスマスの休暇になるとサー・ウイリアムは、二三週間フランクをヒマラヤに狩猟に連れて行った。何年も後になってフランクは思い出している。「時々私は、父と一晩中寝ずの番で、虎や豹が現れるのを待っていた。こうやって私は胆力を鍛えられた。」この経験がフランクに狩猟の味を覚えさせ、それは生涯彼の身についていた。また、召使に傅かれて生活する習慣も、この間に身についた。
 フランクは一八八八年、彼が十歳の時、予備学校で勉強するためイギリスに送られた。ハロー(Harrow)に入るための予備学校で、バークシャー(Berkshire)のニューベリー(Newbury)の近くにあるエルストリー校(Elstree)にである。両親からは厳しい学校の勉強生活を和らげるようにと、いろいろな本を送ってきた。彼と同じ境遇にいる少年達は、普通インドに帰ることはまれであったが、彼も同様に、インドに帰ることはめったになかった。他の少年達はそれによって両親の顔を忘れてしまうことを怖れたようだが、フランクはその心配もしていなかった。彼は、自分の能力に自信のある子供で、後にクリケットの名選手になるのである。フランクの後の思い出には、「エルストリー校の先生達は、殆ど全員、有名なクリケット選手だった」とある。
 一八九三年にフランクは生まれつきの自信と魅力をもって、ハロー校に入る。彼はフラッシュマンの影に脅えるトム・ブラウンではなく、英国エリートの一人であるという自覚をもった、幸せな少年であった。ハローでの学生生活は非常に楽しいものであった。そのよい思い出を記念して、およそ十年後の一九0四年夏、父ウイリアムズが亡くなった時フランクは、バローの礼拝堂に飾り板(plaque)を寄付した程である。
 二人の弟もハローに進む。上の弟ジェラルド(Gerald)は一八九八年から一八九八年の二年間のみ在学したが、三人兄弟の中でジェラルドだけが大学に行っていない。ジェラルドは遺言検証登記所(Principal Probate Registry)の事務員になる。父親と同様にジェラルドも一九三四年、自動車事故で亡くなる。
 下の弟スィリル(Cyril)は、一八九八年から一九0四年の丸五年間在学、全課程を終える。級長にもなり、ローズ(Lords)での年恒例の対イートンのクリケットの試合にも、一九0三年と一九0四年に選出される。その後ケンブリッジのトリニティーカレッジ(Trinity College, Cambridge)に進む。一九一六年、砲兵大尉としてフランダースにおいて戦死。
 弟二人は、兄ほどの成功を収めることは出来なかった。特にクリケットにおいて。フランクはまだ十四歳そこそこの時、七月の対イートンの試合に、正選手に選ばれそうになった。しかしまだ若過ぎると判断されてしまう。次の年には、選手の制服(flannels)を許された。これは大変な名誉なのだ。ただ、スィリルと同様、最初の年は病気のため試合に参加出来なかった。しかし、次の三年間、つまり一八九六、九七、九八年の、対イートン戦では目覚ましい活躍をした。そして、強打者フランク・ラティガンは、ハローのクリケット史における伝説となった。
 一八九八年、フランクはオックスフォード、マグダレン・カレッジ(Magdalen College, Oxford)へ進み、一年生の試合で百点をマークする。この初年度には、彼は大学での予備試合に加わらなかった。その頃までに、父親の強い薦めがあり、オックスフォードを止め、外交官の仕事に入ることに決めていたのだ。このため彼は、ドイツ語とフランス語を外国で学ぶ必要があった。彼はまづ最初に、ハノーバーに行き、次にコンピエーニュへ行った。
 ハノーバーでは彼は、外交官志望の若いイギリス人を扱うのに慣れた、厳しいドイツ婦人の家に下宿した。この時に知りあったのが、ライオネル・ドゥ・ロスチャイルド(Lionel de Rothschild)である。この二人の若者はその世紀初頭ドイツに吹き荒れていた、「イギリス嫌い」に直面したが、二人ともそれで深く傷つくようなことはなかった。ドイツでの修業が終り、コンピエーニュに行った時、ドイツでの敵意のある雰囲気は、フランクに何の影響も及ぼしていなかった。彼は得意の暇つぶしに耽ったのだ。賭け事に狩猟、そして勿論綺麗な女の子といちゃつくこと。ロンドンに帰ると、外国語詰め込みの総仕上げ、厳しいことで有名なスクーンズ(W. B. Scoones)の個人教授(tutelage)を受ける。そして一九0二年秋の、新外交官のための試験・・・これは三地方に別れていて、その第三番目の地方をフランクは選んだが・・・無事パスし、一年間はロンドンにある外務省の事務官として勤務し、一九0四年三月、大使館員(junior attache)としてウイーンに配属される。
 「これこそ人生だ。ウイーンの季節は一陣の陽気な風。そしてそれが無限に続くのだ。」とフランクは後に回想している。「オーストリア名門の家庭が、続々と開催する宮廷の舞踏会、社交界の独身男性達のために開かれるピクニック・ダンス(picnic dances)。」この新しい大使館員フランクはまた、ジョージ五世の未来の女王メアリーとポルカを踊る光栄にも浴することになる。(「ポルカは私の得意なダンスとは言えない。得意どころか、まるで駄目なのだ。お陰で他のカップルにぶつかり、突き飛ばし、舞踏会会場をめちゃめちゃにしてしまった。」)
 たった三箇月でフランクはハーグに配属換えとなる。「オランダで私は初めて」と後に彼は手紙で書いている。「骨董品を集める趣味を持った。デルフト(オランダの濃厚な彩色の陶器)、古書、古い家具、印刷物、を求めてオランダ中を旅行した。」彼はこれら骨董品の売買で、自分の収入をかなり増加させている。そして妻ヴェーラを娶ったのもここであり、一九0六年のことであった。
 フランク・ラティガンは真実を加工し、紡ぎ上げる人間だった。一九二四年に出版された彼の追想録「ある外交官の逸話(Diversion of a Diplomat)」に「彼らが結婚した時、妻の年は十七歳だった」と書いているが、結婚証明書にははっきりと「二十歳」と書かれている。夫のこの傾向・・・他にも色々あるのだが・・・を妻は後に発見することになる。が、今はそれどころではない。ハーグへの新しい派遣、ここでの他の大使立ち、或は外交官夫人達との新しい交際、輝かしい外交の世界の様々な楽しみに馴れるだけで精一杯であった。夢のような生活は一時妊娠によって中断される。一九0六年十月二四日、ヴェーラがハーグについた九箇月後、ロンドンで、男児ブライアン・ウイリアム・アーサー(Brian William Arthur)を出産する。
 この子供は肉体的欠陥をもって生れた。左足が右足より著しく短かかったのだ。そして多少、脳にも支障があった。ヴェーラは悲しんだ。自分は妻として失格だと感じた。しかしフランクは、全く気にしている様子がなかった。彼の微笑はいつもと変らず暖かく、言葉は優しかった。しかし、赤ん坊をハーグに連れて行くことは問題外だった。ブライアンは、祖母レイディー・ラティガンと共に、ケンジントンに残され、乳母に育てられ、必要な医療を受けることになった。
 フランク・ラティガンが長男の出生の登録を行っている頃・・・どうした訳かこれが遅れて、十二月一日になっているのだが・・・二人の新しい赴任地が知らされる。タンジア公使館(Tangier Legation)である。イギリスで新年を迎え、オランダへの短期間の旅行の後、二人はモロッコへと向う。
 赴任地タンジアへ着くだけでも、かなりな冒険となった。この都市には港がなく、汽船は外海に碇を下ろして待機し、乗客及び荷物は、底の浅い筏を漕いで運ぶのだ。かってここで、フランスの外交官とその子供達が、この方法による輸送中、溺れ死んだことがある。ラティガン夫妻が着いた時は嵐であって、二人は生命の危険を感じた。「岸に漕ぎ着くまでの不安といったらなかった」とフランクは書いている。「何度も、荒れ狂う波に浚(さら)われそうになったのだ。しかしやっとのことで波止場に辿りついた。全身はずぶ濡れであった。公使館の兵士達が迎えに来てくれていて、その護衛のもと、ロバを大声で追っている少年達の群を通り抜け、用意された馬に乗り、滑りやすい小石舗装の道を通ってホテルに到着する。悪天候のため我々の荷物は、すぐには運べず、二日以上かかった。そのため、濡れた服の替えがなく、すぐにベッドに直行した。暫くして公使夫妻が親切にも、彼らの衣服を貸してくれた。」
 以後四年以上の間、フランクとヴェーラの夫婦はタンジアの由緒ある外国人社交界の人気者となった。モロッコ・テニス選手権の混合ダブルスで、フランク夫妻は優勝した。この時上司のサー・ジェラルド・ローサー(Sir Jerald Louther)と、そのアメリカ人の美人妻のカップルを破っている。それから、モロッコ中を二人で旅行した。ローサーが去ると、次期公使は、独身のサー・リチャード・リスター(Sir Richard Lister)がなったため、ヴェーラはこの公使館の女主人の役を果した。召使達とのやりとりに、パーティーに、ハラハラドキドキする外交の仕事に。反逆者ラズーリ(Razouli)は、まだモロッコの大きな部分を支配しており、その活動と政府へのちょっかいは、タイムズ紙のベテラン特派員ウオルター・ハリス(Walter Harris)・・・彼自身、この首領ラズーリに誘拐され、一万ポンドの身代金を要求されたことがあるのだが・・・によって、イギリスに逐一伝えられている。
 なすべき事はあまりに多く、フランクはイギリスへ帰ることは殆どなかった。ブライアンはコーンウオールガーデンズ(Cornwall Gardens)の祖母の家に留まっていざるを得なかった。ヴェーラは息子を愛していた。しかし彼女は決心した。フランクを支えることの方がもっと大切だ、と。他の外交官夫人達も同様の決定をしていたのだが、ヴェーラには他の理由があった。彼女は、このハンサムな夫を監視なしで放っておくことを好まなかったのだ。
 ヴェーラがもう少し年をとっていたら、自分の夫の女好きを止める方法はないことを自覚していただろう。しかし彼女はまだ二十代。少し命令的な調子はあり、アイルランド人特有の気質はあるが、自分でそう自慢してよい美人なのだ。女の子達と争いもせず、ただ指を銜(くわ)えて見ているようなことはしない。しかし、母親が外国で暮してイギリスへ戻って来ないのは、長男ブライアンに人生にとって、幸運なスタートではなかった。彼は病的な、不幸な少年、自己破滅的な傍観者・・・ラティガン家の伝統に沿って生きることが出来ない少年として育つことになった。コーンウオール・ガーデンズの堅い環境の中で・・・お茶の時間にはビロードとレースの服を着せられ、祖母の前に引き出され、点検を受ける・・・彼が求めていた暖かい愛情は拒絶されていたのだ。自然彼は、自分の孤独の中に閉じ籠った。人の噂に上らない少年となったのだ。
 一九一0年五月六日の午後、エドワード七世がビアリッツで亡くなり、エドワード王治下の英国の黄金時代は終った。フランク夫妻は早くもイギリス帰国について話し合っていた。二番目の出産の話が出ていたヴェーラは、新しい子供は安全に、イギリスで産みたいと思っていた。一九一0年の終りには、ヴェーラは自分が妊娠したことを知った。予定日は新しい王の戴冠式のほんの数日前、一九一一年の六月であった。五月にフランク夫妻はコーンウオール・ガーデンズへ帰った。その時ブライアンは殆ど五歳になっていた。
 この時までにフランクは、自分のタンジア駐在が、意外な幸運を齎(もたら)したことを知った。ジョージ五世の戴冠式でゴールド・スタッフ・オフィサー(Gold Staff Officer)に任命されることになったのだ。そしてその公式の客、タンジア公使館でのテニス仲間、元モロッコ総理大臣のスィド・エル・メネビ(Sid el Menebhi)の世話役を仰せ付かった。これは妻の妊娠よりはずっと彼にとって心躍ることだった。ロンドンをこの元総理大臣に案内することを彼は非常に楽しんだ。スィド・エル・メネビは「あまりにロンドンの色々な店に心を捕えられ、私(フランク)は、馬鹿な不用品を彼に買わせないようにするのにひどく骨を折った。」フランクはこの元総理大臣を色々なパーティーに連れて行き、またラットランド伯爵(Duke of Rutland)を訪問した際、ベルヴワール(Belvoir Castle)で会った若くておそろしく美人のレイディー・ダイアナ・クーパー(Lady Diana Cooper)を彼に紹介した。
 フランク夫妻の次男かつ末っ子のテレンス・ラティガンが生まれたのは、こういう背景のもとでであった。