ラティガン
            ジェフリー・ウォンセル 作
             能 美 武 功 訳

     序
 何故人は伝記など書くのだろう。他人の中に自分を見ようとしているのか。何か隠れた和音の響きが、ある人を別の人に引きつけるのか。私には分らない。しかし、私の父が、驚くほどテレンス・ラティガンに似ていたことは、私にははっきりと分っている。父もラティガンも、滑らかに髪を短く刈り、カラーとネクタイを省略することはなかった。生れた年もたいして違わず、ラティガンは第一次大戦の前、父は後の生れである。二人ともロンドンっ子だった。但し、父はアイリントン生れの紛れもないコックニーで、ラティガンはケンジントン生れの紛れもない貴族だったが。
 二人は過去の英国の、共通の教養・文化を受け継いでいた。とはいえ、二人が出会うことはなかった。イギリス特有の階級制度があるし、また片方はとてつもない成功を収めていたのだ。父が十八歳になり、真面目に劇場に足を運ぶようになった頃、ラティガンは二十五歳で既に、ウエストエンドの最も輝かしい新進劇作家となっていた。センセーショナルな喜劇「涙なしのフランス語」の作家としてである。しかし二人にこれだけの地位の差があっても、父は数年先輩のこの同時代劇作家を非常に尊敬していた。全生涯にわたって父は、ラティガンの芝居を愛した。それは彼にとっては「芝居を愛する」こととほぼ同義語だったのだ。
 父の芝居への愛はそのまま私に引き継がれた。子供の時の私の一番古い記憶と言えば、フィンズベリ・パーク・エンパイアーで、パントマイム「マザーグース」につれて行かれたことである。丁度ラティガンのそれが、シンデレラだったのと同様だ。十歳になるまでに私は、ロンドンのほぼあらゆる劇場に行っている。いつも平土間ではなく天井桟敷の場合も多かったが。しかし、少し下った一九五五年夏から、ロンドンの劇場は大異変の嵐を孕んでいた。
 「怒りをこめて振り返れ」が、一九五六年五月にロンドンで蓋を明けた。私の十一歳の誕生日の二箇月前である。そして私は否応なしにオズボーン世代の子供となった。ロイヤル・コートで乳離れし「オブザーバー」紙のケネス・タイナンの批評で目を開かせられ、アーノルド・ウェスカー、ジョウン・リトルウッド、ハロルド・ピンターの芝居で育った典型的なオズボーン世代に。一方、父の方はこの新しい「怒れる若い男達」をひどく嫌った。ラティガン時代の一員であることに誇りを持ち、「深く青い海」「アガメムノーン・ブラウニング訳」「銘々のテーブル」への称賛を惜しまなかった。その結果、我々親子には絶え間ない議論が続いた。私は確信していた。居間、フレンチウインドウ、優雅なドレス、ディナー・ジャケットを着た紳士の世界は、もう終りだと。一方父の方も同じ強さで確信していた。台所の流し(新しい芝居は kitchin sink と呼ばれた)はそのうち、その流しの穴から流れ去ってしまうと。そして流れ去ろうと去るまいと、とにかく台所の流しの芝居がラティガンに敵う訳がないと。
 長い間、この議論は私の勝ちに見えた。テレンス・ラティガンは英国演劇史の脚註に追いやられ、一方、オズボーン、ピンター、そしてタイナンがステージに上っていた。私が、これはちょっと早まったのではないか、自分はあまり当世風の考えに染まり過ぎていたのではないか、と気づいた時は、もう遅かった。父は死んでいた。父は一九八五年夏、急死したのだ。父も私も両方とも正しかったのだと、父に告げる機会も与えられずに。オズボーンもピンターも良い。しかし、同様にラティガンも良い。そして私が最初思っていたより、ずっとずっとラティガンは良かったのだ。
 従って、私がラティガンについての本を書く気になった一番の動機は父なのだ。が、それは私と父とがやりあった、激しい論争のためだけではない。別の理由がある。父はラティガンと同時代人だった。ということは即ち、父もまた公には自分の感情を殺す人間、自分を公にする時は用心深くする人間だった。ラティガンと同じように父も、縞の背広に自分を隠す人生を選んだのだ。当時の英国紳士にとって、感情とは常に抑制すべきものであった。感情について語ること、或はそれを露(あらわ)にすることは父の主義ではなかった。この点もラティガンと共通している。
 特に父は、「性」を話題にすることを嫌った。そして、同性愛のこととなると、父も母も、いや、第一次大戦後の私の知っている殆どの英国人は、徹底してこれを避けた。彼らにとって同性愛は吐き気のする、とても受け入れ難い、どんな埋め合わせをされても我慢出来ないもの、社会への脅威、正常な考えの持主なら、とても許容することが出来ないもの、であった。同性愛は、自分の名前を名乗ることの出来ない類いのものであった。現在ではそんな事が信じられないと言われる方のために、私の個人的な次の経験をお話して、当時の雰囲気を想像して戴くことにする。
 地方の図書館にイーニッド・ブライトンとかリッチモール・クロンプトンの作品がまだ置いてあった、私がまだ少年だった頃、その図書館員の一人が、特に私に親切にしてくれていた。やがて彼は、我々一家の友人となり、土曜日の午後や、図書館が半日で閉まる時に、勤めが終って、わが家に立ち寄るようになった。母は彼が気に入った。父はそれほどは彼と会う機会はなかった。ある土曜日、その図書館員は、わが家に来なかった。次の水曜日も、また次の土曜日にも。ついに母は私に、非常に言い難そうに説明した。彼は地下鉄駅アーノス・グローヴの公衆便所で、「胡散臭い行為」のため逮捕されたのだと。私にはそれがはっきりとは何を意味しているのか分らなかった。が、両親は、私も含め自分達も、以後決して彼には会わないと決めた。彼は私には決して、かつてそのような行為はけぶりにも見せたことがなかった。しかし、その可能性があったと考えるだけで、両親にはとてもたまらなかったのだ。同性愛者であることが判明すれば・・・特にその現場を押さえられ、逮捕されたとあっては・・・とても家に招待出来る人物ではなかったのだ。
 もし父が少しでもラティガン自身の性的傾向についての真実を感じ取ることがあったら、彼に対する考えは違ったものになっていただろう。しかし、幸運なことに、父はそれを感じ取ることはなかった。ラティガンは自分の性的傾向を用心深く隠していた。それは父のような人物、そして何百万の父と同様な普通の劇場愛好者の支持を失うことを怖れてである。これは当時の社会的風潮に対する当然の反応であった。
 しかしラティガンから、英国及び世界における劇作家としての名声を決定的に奪い取ったのは、決して、私の父が持っていた、或は通常の劇場通いの観衆が持っていた、同性愛に対する偏見ではない。それから程遠いものだ。ラティガンを現代英国劇の頂点の位置に据えるのを拒んだものは、当時英国演劇に影響力を持ってきた数人の批評家グループの、偏狭な考え、嫉妬、それに、近視眼的な物の見方であった。彼らの偏見の結果・・・それ以外には全く確固たる理由はないのだ・・・ラティガンは急に、実に不当に、理不尽に、取るに足らない劇作家として捨て去られたのだ。このことはやがてラティガンの精神を蝕み、そして私の考えではこれが、彼の命を縮めることになったのだ。
 スコットランド人の気質によくあることだが・・・私は育ちは北ロンドンだが、生れはクライドなのだ・・・私も負け犬に見方する癖がある。そして今やラティガンは、芝居の世界において、決定的な負け犬なのだ。ラティガンの芝居は今でいう、「お喋りな連中」に、ただその流行の風潮に沿わないというだけの理由で、実に華々しく否定されたのだ。ラティガンは晩年、不平を込めて言っている。自分は人々が彼の芝居を嫌いになったのなら、それは一向に構わない。しかし、彼の芝居が「流行遅れ」になったのはもっと他の、何か深刻な理由があったのではないかと思うと語っている。彼の作品は、通常の芝居好きの人達の人気を失うことはなかったのだ。ただ一九五六年以降の英国の演劇を左右する演劇関係者達に、人気がなくなっただけなのだ。この伝記は、ラティガンの人生及び経歴の概略を述べることのみを目的としていない。この二種類の評価の相違を吟味し、そのバランスを取り戻したい、そして同時に、私個人の昔の、彼への誤った判断をも矯正しようという試みでもあるのだ。
 私がこの本を書き始めた時、ラティガンについて私と同じ考え・・・即ち、彼が特異な劇作家であり、その才能が不当に評価されているという考え・・・を持つ人達がどのくらいいるのか、私には見当もつかなかった。しかし、調査が進むにつれ、その数が文字通り、何百もあるということに私は気づいた。現在ラティガンを崇拝している最も際立った人は、劇作家のハロルド・ピンター(Harold Pinter)であろう。しかし、他にもいるのだ。その中で特筆すべき二人がいる。一人はアメリカの批評家かつ学者の、ホーリイ・ヒル(Holly Hill)である。彼は殆ど単身で、学問の分野においてこの二十年間、ラティガンの旗をふり続けている。もう一人は英国の弁護士ピーター・カーター=ラック(Peter Carter-Ruck)である。彼はラティガン・トラストを経営し、この作家の財産を守り、またこの十八年間、ラティガンの文書を整理すると言う骨の折れる仕事を続けてきている。この二人から私は、大変な支持と激励を受けている。
 英国図書館(British Library)の現代文献の担当官サリー・ブラウン(Sally Brown)の助けがなければ、この本は決して書かれなかっただろう。この本は、彼の管理のもとにあるラティガンに関する文献集を利用して出来た最初のラティガン伝でもある。この文献集は、二つの大きな本棚を占めており、ラティガン自身の、そしてラティガンに関する本、箱、ファイルが詰まっている。これを読み上げるのに私はほぼ一年を要した。ここで仕事をしている間に、私はケネス・タイナン(Kenneth Tynan)の文書にも目を通すことが出来、チェンバレン卿(Lord Chamberlain)の記録にも接することが出来た。チェンバレンの事務所は一九六八年まで、イギリスの劇場で行われる芝居の検閲を行っていたのである。
 それから他にも沢山、思いがけない貴重な資料にも出くわした。例えば、ラティガンの作品の出版社ハミッシュ・ハミルトン(Hamish Hamilton)は、自社の蓄積資料をブリストル大学(University of Bristol)の図書館に寄贈しており、その特別収集品の担当官ニック・リー(Nick Lee)は、私にラティガンの資料発掘の手助けをしてくれた。コヴェント・ガーデン(Covent Garden)の劇場博物館(Theatre Museum)にも珍しいものがあった。また西ロンドンのブルック・グリーン(Brook Green)のはづれにあるヴィクトリア・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)に、テネント(H. M. Tennent)の収集物が収めてあり、ここの係、バリー・ノーマン(Barry Norman)と、サラ・ウッドコック(Sara Woodkock)に、お世話になった。また、ニューヨークでは、リンカーンセンター(Lincolon Center)のニューヨーク公共図書館(New York Public Library)のビリー・ローズ(Billy Rose)コレクションには、ラティガンの重要な資料が集めてある。
 ラティガンには、ウエスト・エンドでかけられた二十三本の芝居があり、そのうち十五本は(ニューヨークの)ブロードウエイでもかけられた。(もう一本、ブロードウエイのみでかけられた、ヘクター・ボリゾー(Hector Bolitho)と共同で作った灰色の農場(Grey Farm)がある、これを加えると、ブロードウエイでは十六本となる。)しかしこれだけが彼の作品ではない。二十二本の映画用台本、それに五本のテレビ用台本がある。映画関係では、ロスアンジェルスの American Academy of Motion Picture Arts and Sciences の図書館とロンドンの British Film Institute にある図書館が貴重なものであった。
 ラティガンの学校時代の記録も参照した。サンドロイド(Sandroyd)のアラスデアー・ホークヤード(Alasdair Hawkyard)とトリニティー・カレッジ(Trinity College)のクレアー・ホプキンズ(Clare Hopkins)の二人にもその援助に感謝する。これらの記録のお陰で、私のラティガン像はより広いものなったのだ。またオールバニー・トラスティー(Trustees of Albany)の秘書、エリザベス・オリバー(Miss Elizabeth Oliver)にも色々お世話になった。
 それから、ギャリック・クラブ図書館(Garrick Club's Library)の図書館員イーニッド・フォスター(Enid Foster)にも感謝を述べる。私がとても発掘出来ないと思っていた様々な資料を提供してくれたのだ。ロンドンの公共記録所(Public Record Office in London)の資料は、それほど整理されたものではなかったが、私が受けた援助は、同様に貴重であった。
 これらラティガンに関する資料は、ラティガンを知るのに役立ちはしたが、資料のみによってラティガンに命をかよわせることは難しい。この点に関して私は、彼の友人、昔の仲間に、頼らねばならなかった。そして彼らは例外なく自分達の時間をさき、私にその思い出を語ってくれた。私は彼らの親切に感謝する。ここでその全ての名前を上げることを怠ったとしても、そこで漏れた人々が、私の謝罪を快く受け入れて下さることを信じている。
 この伝記は「フレディー」ヤング(B. A. 'Freddie' Young)の助けなしには書かれなかった。ヤングはラティガンをよく知っており、小伝を書いている。ラティガンの昔の友人アンソニー・カーティス(Anthony Curtis)・・・彼は一時期、自分でラティガンの伝記を書くつもりでいたが・・・の忠告と激励なしには、私のこの本は書けなかったであろう。また映画監督のマイケル・ダーロウ(Michael Darlow)・・・彼はラティガンの記念テレビ番組を作り、またジリアン・ホドゥスン(Gillian Hodson)と共同で一九七七年ラティガンの伝記を出版した・・・の仕事なしには、私の本も出来なかったであろう。
 悲しいことに、マイケル・フランクリン(Michael Franklin)・・・彼はラティガンの後半生、ずっとその恋人だった・・・は、私がこの本を書き始めた頃にはもう亡くなっていた。また、カスバート・ワーズリー(Cuthbert Worsley)もビリー・チャペル(Billy Chappell)・・・二人ともラティガンの長い親友だったが・・・も亡くなっていた。ラティガンと一緒に仕事をした役者達、監督達も、私が話をする機会のないまま、多く亡くなっている。アンソニー・アスクイス(Anthony Asquith)は亡くなり、ケネス・モア(Kenneth More)、ペギー・アッシュクロフト(Peggy Ashcroft)、エリック・ポートマン(Eric Portman)、エムリン・ウイリアムズ(Emlyn Williams)、ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)、マーガレット・レイトン(Margaret Leighton)、ローランド・カルヴァー(Roland Culver)、それに、ローレンス・オリヴィエ(Laurence Olivier)も。
 しかし、幸いなことに、ラティガンを生前よく知っていた一群の人々がまだ生きていて、私はこの人々に大変お世話になった。ハロルド・ピンター、ホーリイ・ヒル、ピーター・カーター=ラックについてはもう述べた。しかし、この一群の中には、ハロー時代ラティガンを知っていたサー・ジョン・「ジミー」・ストウ(Sir John 'Jimmy' Stow)、ジョン・アイヴィミー(John Ivimy)、三十代から四十代のラティガンをよく知っていたピーター・オズボーン(Peter Osborn)、若い時ラティガンと供に同じ精神分析医にかかったジャック・ウォトリング(Jack Watling)、「深く青い海」の演出と映画の監督をやったフリス・バンバリー(Frith Banbury)。それから、「涙なしのフランス語」を演出した(その妻ペッグズ(Pegs)はラティガンの晩年、よくその面倒をみた)ハロルド・フレンチ(Harold French)、オックスフォードの初年度からラティガンを知っており、その後四十五年間知りあいだったバニー・ロジャー(Bunny Roger)、自分の持っている劇場で「アガメムノーン・ブラウニング訳」と「銘々のテーブル」をかけた、そしてラティガンとは長いゴルフ仲間だったスティーヴン・ミッチェル(Stephen Mitchell)、ラティガンの長い友人だったガリツィーネ公爵夫人(Princess Galitzine)、十七年間ラティガンの秘書を勤めたメアリー・ヘリング(Mary Herring)、批評家、コラムニストのバーナード・レヴィン(Bernard Levin)が含まれる。
 その他劇場におけるラティガンの友人、仲間の非常に多くの人達に、私は援助を受けた。この中には、サー・ジョン・ギルグッド(Sir John Gielgud)、サー・ジョン・ミルズ(Sir John Mills)、ケネス・グリフィス(Kenneth Griffith)、ジョージ・コウル(George Cole)、フレデリック・トゥリーヴズ(Frederick Treves)、テレンス・ロングデン(Terence Longden)、ロバート・フレミング(Robert Flemyng)、ドナルド・スィンデン(Donald Sinden)、ウイリアム・フォックス(William Fox)、それにポール・スコフィールド(Paul Scofield)がいる。また監督のジェイムズ・セラン・ジョーンズ(James Cellan Jones)、ラティガンの三本のテレビ番組を撮ったアルヴィン・ラーコフ(Akvin Rakoff)、それからラティガンの芝居の後押しを長い間してきたA・D・ピーターズ(A. D. Peters)の後継者マイケル・スィッソンズ(Michael Sissons)にも感謝する。
 ラティガンの友人達には、匿名希望の何人かのグループがある。彼らに対しても、熱く感謝する。彼らの多くは、ジョン・ギルグッドの私への言葉を異口同音に述べた。「彼は輝かしい劇作家であると同時に、愛情溢れる友人だった。彼のことを心から惜しむ」と。
 また私はラティガンの親戚の人達に感謝する。特にミスィズ・ロクサーヌ・スィニア(Mrs. Roxane Senior)に。彼女は労を惜しまず一人一人親戚達のラティガンの思い出を聞いて廻ってくれた。その多くは、五十年以上も彼女が会ったことがない人達だったのだ。
 英国の批評家、文学者の作品も大変助けになった。クリストファー・イネス教授(Professor Christopher Innes)の近代英国演劇史(Modern British Drama)と英国劇作家達の評論集中のリチャード・フォークス(Richard Foulkes)のラティガンに関する文章は役に立った。また批評家達・・・マイケル・ビリントン(Michael Billington)、ジョン・ラー(John Lahr)、アーヴィング・ウォードル(Irving Wardle)も過去数年、ラティガンに関する評論を書いている。
 一九九五年秋に、この本のハードカバーが出版された時、大勢の批評家達がラティガンに大きな愛情と尊敬を表明してくれた。私は心からホッとした。次の方々からのお褒めの言葉は特に身に沁みた。ジョン・ベイリー教授(Professor John Bayley)、劇作家ヒュー・レオナード(Hugh Leonard)、役者キース・バクスター(Keith Baxter)、批評家ジョナスン・セスィル(Jonathon Cesil)、マーティン・ホイル(Martin Hoyle)、ピーター・ケンプ(Peter Kemp)、ジョン・グロス(John Gross)、の方々である。ラティガンの作品が素晴らしいと思う気持、がこれで、沢山の人々と分かち合えたのだ。大変嬉しいことに、この伝記はこの年の Whitebread Book of the Year に載せられた。これも私のラティガンに対する信念が確かめられた結果だと思う。
 この本の出版以来、私は何百という手紙や葉書を受け取った。私のラティガンに対する気持を分かち合ってくれる人達からのものである。その中には、私がひょっとして見落としていたのではないかという、細かい事項の指摘もあった。これら全てに、この機会を借りて心から感謝する。頂いた御指摘を出来るだけこのアメリカ版に含めるよう努力した。それは私にとって大変意欲を湧かせるものであった。この点に関し特に、リチャード・ホワイトハウス(Richard Whitehouse)とケン・セフトン(Ken Sephton)に感謝する。それから、最初の版の編者の一人、アニー・リー(Annie Lee)の詳細なテキストチェックにも感謝する。
 最後に、私のこの野心的な企てを支持してくれた編集者のリヴァース・スコット(Rivers Scott)、そして彼の助手、ラティガンへの信頼が私以上だった、グロリア・フェリス(Gloria Ferris)に感謝する。そして第四エステート(Fourth Estate)の私の編者、クリストファー・ポッター(Christopher Potter)に、その忍耐と私への激励に、また、テレビ監督のドナルド・スタロック(Donald Sturrock)に・・・私のラティガン狂にまさるとも劣らない彼の熱狂と、私達二人で作ったラティガンの伝記のテレビ番組に対して・・・感謝する。ポッター及びスタロックの二人は、それぞれのやり方で、この私の本にはっきりと影響を及ぼしている。勿論妻のジャン、、息子のダン、娘のモリーには感謝しなければならない。妻からは助力を得、また、子供達は、毎日毎日、話と言えばラティガンのことばかりの父親を、不平一つ言わず辛抱してくれたのだ。
 しかしながら、私のラティガンに対して出した結論は、実に私個人のものであって、上記のどの人達にも、何の責任もない。そしてその結論とは、この序文の最初に述べた質問に対する答でもある。ラティガンの人生は、私の胸の琴線に触れるものがあって、彼の生涯を文章にするという作業が、そのことのためより一層楽しく、より一層挑戦的なものになったのだ。ラティガンは父親の愛情を必要としていた。そして父親はラティガンに冷たかった。私と自分の父親との関係も、告白すると、これに似ていた。多分、「感情は隠さねばならない」という英国特有の自制の仮面に父親が隠れていたためであろう。そしてラティガンのこの負け犬の気持を見抜くには、私のようなもう一人の負け犬を必要とするのかもしれない。繰返しになるが、とにかくテレンス・ラティガンの作品は長い間不当に、理由もなく見捨てられてきた。今や彼が英国の、ただに二十世紀のではなく時代を越えて、最も偉大な劇作家の一人として認められるべき時なのだ、と私は確信する。
             ジェフリー・ウォンセル
            ウィルトシャー・イングランド
               一九九六年五月