プセット
 (リュドミラ・ピトエフ、ジョルジュ・ピトエフに捧ぐ)
          
          シャルル・ヴィルドラック 作
            能 美 武 功 訳

   登場人物
イヴォンヌ・ブランシェ  二十二歳
モリッス   二十五歳
マダム・キャザン  三十五歳

(この芝居は一九三六年二月二十日、ジョルジュ・ピトエフ演出により、パリ、マチュラン劇場にて、始めて演じられる。)

(場 イヴォンヌの家。若い女の働き手が住んでいる部屋。質素だが整理が行き届いている。少し粋なところもあり。真ん中にテーブルがあり、そこに向い合った二人・・・イヴォンヌとモリッス・・・が坐っている。丁度食事が終ったところ。)

     第 一 場
(イヴォンヌ、コーヒーを少しづつ飲んでいる。その間モリッスから目を離さない。モリッスはじっとイヴォンヌを見詰めたまま。)
 イヴォンヌ(優しく。)コーヒー、もう少し如何?
 モリッス いいえ、まだあります。
 イヴォンヌ じゃ、もう何もいらないって仰るの?
 モリッス ええ、何も・・・
 イヴォンヌ あなた何も食べていらっしゃらないわ。・・・私の食事、お気に召さなかったかしら?
 モリッス(抗議して。)いいえ、とんでもない。沢山戴きましたよ!
 イヴォンヌ 沢山じゃなかったわ。
 モリッス ええ、沢山なんて、そんな。あなたの前で、こんなに近くに坐って・・・食べるなんて、無理ですよ。初めての筈ですよ、僕があなたをこんなにじっと眺めていられるのは。そんな時に、食べる! とんでもないです!
(イヴォンヌ、テーブルに身体を前に乗り出す。二人、キス。それから、手は握り合ったままで。)
 モリッス 僕はね、じっと見てたんだ、君が食べるのを。お腹のすいた小鳥が楽しそうに食べている。何て美しい! 奇麗な歯が大根を噛み切る・・・パンを齧る・・・それからコップを唇に持っていって飲む時・・・素敵なんだ! まだある。台所から戻って来てテーブルの上にお皿を置く。君のまつげが下におりて、口がきゅっと真面目な表情を作る。ああ、イヴォンヌ! 何ていいんだ!
(イヴォンヌ、モリッスを一瞬見る。それから片手を取って自分の胸に押しつける。嬉しそうに笑う。)
 モリッス ねえ、今、何を考えているの?
 イヴォンヌ 思い出したことがあるの。
 モリッス 何? それ。
 イヴォンヌ 工場にあなたが職工長として初めてやって来て、四五日した時のこと。あなたが裁断テーブルの間を行ったり来たりしていた時・・・私、思ったわ。
 モリッス 何を?
 イヴォンヌ ええ・・・そう・・・思ったの、この人・・・(躊躇う。)
 モリッス この人?
 イヴォンヌ この人、思いもかけないわ・・・私のこと、見向きもしない・・・でも、ちょっと、ほんのちょっと私のことを見てくれるだけで・・・そう、それだけで、私・・・どんなことでも・・・
 モリッス(優しく。)いや、そんなこと、気づきもしなかったな。君は他の誰よりも落ち着いていた。何か人を見下しているように見えたな。
 イヴォンヌ 見下す? とんでもない! あなたの方よ、それは。私、怖かったわ。
 モリッス いや、君だよ、怖かったのは。君のこと、見たいと思っても、遠くからこっそりとしか出来なかったな。君は歌なんか歌わなかった。他の連中、よくあんな下品なものが歌えるよ! あのバルドリューのおばさん!
 イヴォンヌ ええ、あの人達、本当にやかましくて。私、笑われてしまうかもしれないけど、男のあなたに、あんな品のないものを聞かれるのが嫌で・・・
 モリッス(間の後。)君が嫌だったのはきっと、僕があれを聞くこと、そのことじゃなくて、僕が、君のいるところで聞くっていうのが嫌だったんだ。僕も同じだった。おばさん連中が歌い始めると、僕は君の前を通るのを避けるようにしたからね。
 イヴォンヌ ああ、モリッス!(間。)あなた、私のことが怖かったって言ったわ。でも、例のあの、厚紙を無駄使いするって、あなたが怒ったあの日・・・あれはあなた、私に・・・私一人を叱りに来たのよ。他の人だってみんな私と同じ切り方をしていたのに。
 モリッス うん、僕は君に近づきたかったんだ。何でもいいから君に話しかけたかった。だけど、褒めるのは駄目だった。ああ、それはどうしても駄目だ。もし僕が、優しい調子で喋ったりしたら、君はきっと僕のことをゲラゲラっと笑う・・・僕はそう思ったんだ。だから厳しくあたった。本当にしたいことの逆・・・ガミガミっとやったんだ。優しくやるよりはずっと楽だからね。君は答えなかった。僕のことを見もしなかった。だから余計きつくガミガミとやった。君が僕に反抗しているように見えたんだ。分るだろう?
 イヴォンヌ(驚いて。)反抗?
 モリッス 今じゃ分ってるよ、勿論、反抗なんかじゃなかったって。ひどい間違いをやるもんだ、人間て。君が顔を上げた時の、あの目・・・子供のような、本当に自分が悪かったっていうあの目・・・僕は穴があったら入りたい気持ちだった。きっと僕は何かモゴモゴ、意味不明のことを言ったんだろうな。
 イヴォンヌ あなた、私を見て微笑んだわ。
 モリッス 君、あの時、僕が憎たらしくなかった?
 イヴォンヌ いいえ、とんでもない! あなたが言ったこと、とても正しいと思ったわ。それに、立派な言い方だった。あなた、話し方、上手! 私、悲しかったけど、心の底では嬉しかった。ちょっと変かもしれないけど・・・
 ねえ、モリッス、あなたがもし、あんなに強く私を叱らなかったら、あの日会社がひけてから、夜、私のところには来なかったわ。それに、あんなに優しく話してはくれなかったわ、きっと。それに私だって、「今後決して・・・」って、誓約も書かなかったわ。
 モリッス さ、来て。膝に乗って。
 イヴォンヌ(立ち上がる。しかし思い直して。)駄目! 出かける勇気がなくなっちゃう。私、今日は忘れないで行って来なくちゃいけないの。たった十五分でも、あなたとの最初の日曜日、ここにあなたを一人にしておきたくないわ。でも、レオンティンヌに今日、お給料を持って行くって約束してしまったの。昨日代わりに私が受け取ったお給料を。
 モリッス あの人、どうかしたの?
 イヴォンヌ 里子にやっている子供が病気になって、あの人、見に行ったの。今日のお昼には帰って来る。お金がいるの。私が行かなかったら、あっちから来るわ。私、来てもらうのは嫌。
 モリッス 君が行かないですむように、僕が出ていようか?
 イヴォンヌ それは駄目。あの人、変に思うわ。あの人、どこに住んでいるかご存知? あなたのアパートよ。同じマダム・キャザンのたなこだわ。
 モリッス ああ、だから時々玄関で遭うんだ。
 イヴォンヌ あなた、マダム・キャザンに、今日は田舎に帰るって言ったんでしょう? あの人に見られて、マダム・キャザンに話されたら困るわ。だけどあなた、大家さんにいちいちどこに行くか言わなくちゃならないの? いつも。
 モリッス(不機嫌に。)そんなこと、こちらで言うつもりは全くなかったよ。だけど僕が、昼ご飯はいらないって言ったら、しつこく訊いてくるんだ。「レストランでお昼? 日曜のお昼よ。私、いつだって素敵な料理を拵えているつもり・・・ああ、工場でよばれているの? 違う? 友達のところにおよばれ? ああ、田舎に帰るの?」仕様がない。ぶっきら棒になるのは厭だし、さっさと逃げ出したいから、「あたりです。田舎へちょっと。」って言ってしまったんだよ。
 イヴォンヌ あの人、おいしい御馳走を出すの?
 モリッス うん。
 イヴォンヌ あなたに親切なの?
 モリッス 親切過ぎだね。苛々してくる。
 イヴォンヌ あなたに気があるんだわ。
 モリッス(笑って。)そうかもしれない。
 イヴォンヌ あの人、自分の旦那さんを嫌ってる。町の女の人の尻、誰彼かまわず追いかけてるから・・・それにあの人の方だって、機会さえあれば・・・
 モリッス そうか。僕がその候補者の一人なら・・・
 イヴォンヌ(優しく。)それに・・・ねえ、モリッス、あの人があなたを苛々させるようなら、他の下宿を捜したら? もっとちゃんとした。あの人の家じゃ、あなたにいいことないわ。
 それに、あなたがあそこにいるって、私、いや。・・・あそこのたなこの人達、みんな私が知っている人ばかり・・・ああ、工場の人達が誰も知らないところで、二人で住めたら何ていいんでしょう。でも無理ね・・・
(イヴォンヌ、何か考えている様子。その間モリッス、イヴォンヌの手の甲にキス。)モリッス?
 モリッス 何?
 イヴォンヌ あなた、あそこの工場は、ほんの腰掛けのつもりって、本当?
 モリッス そう。製品製造の全工程を勉強しなきゃ。だから、ある期間、ある工程担当の工場にいて、次々に工場を渡り歩こうと思ってる。
 イヴォンヌ(感心して。)あなた、どこかの偉い学校を出たんだって・・・私、聞いたわ。
 モリッス ただの学校だよ。そんなに偉い学校じゃない。
 イヴォンヌ それなのにあなた、貰うのは私達とそう変りはないって・・・
 モリッス そう。そんなに多くはない。出たばかりだからね、学校を。・・・学校卒業者、だけの資格だよ。
 イヴォンヌ ねえモリッス、全部の工場を見て回るのに、どれくらいかかるの?
 モリッス まあ、四五箇月かな。
 イヴォンヌ(心配そうに。)それから後は?
 モリッス それからは、誰か経験のある技術者と二人で、この会社で新しい工場を作る。どんな工場かはまだ分らないけどね。アミアンで今、そんなのが一つ建設中だ。イヴォンヌ・・・君、泣いてるの?(モリッス、イヴォンヌの方に行く。)僕が今行っちゃうって言ったから?
 イヴォンヌ(頭を縦に振って、「そうだ」という意。涙をふいて微笑もうとする。)私、もう行かなくちゃ。
 モリッス(イヴォンヌを引き寄せながら。)工場を作るって言ったって、それはまだ先の話だよ。僕は今、ここに来たばかりじゃないか。まだその時までには六箇月は充分にある。
 イヴォンヌ(悲しそうに。)六箇月! たった六箇月!・・・
 モリッス(どぎまぎして。)そう、短いよ、それは。だけど充分とも言えるよ。それに、もし僕が行ってしまったら、君とのこと、終りになると思ってるの? この六箇月、二人がお互いに、ずっと好きあっていたら、僕が君を一緒に連れて行くかもしれないじゃないか。
 イヴォンヌ(震えながら。)連れて行く?
 モリッス 勿論だよ。君は自由なんだろう? どこで働いても、君の勝手なんだろう? 僕が行くかもしれない場所では、人を雇う必要があるんだ。
 イヴォンヌ(困って。)あなた、本気で言ってるの? 連れて行くって・・・あなた、私が必要?
 モリッス 君のことが必要かって? 君がそんなことを訊くの? 一緒に連れて行きたいって言っているのは、僕なんだよ!
 イヴォンヌ まあ! 私、あなたと一緒にいられるのなら、どこへでも行くわ。私達のことを誰も知らない場所に行くなんて何て素敵! ここから出られるなら、私、どこだっていいわ!
 モリッス どうして? 君、ここの出じゃないの?
 イヴォンヌ ええ、このあたりの。
 モリッス 家族の人、いないの?
 イヴォンヌ(それとはっきりは相手に分らない当惑あり。)ええ・・・いないってことはないの。私、母がいて・・・ただ、ほとんど会ってなくて・・・どうしてかっていうと・・・母は上の姉のところに住んでいて、その姉とは私、うまくいってないの。下の姉もいて・・・この近くには住んでないわ。・・・でも、その姉は時々私に会いに来てくれる。その連れあいは鉄道に勤めていて、ヴェルミーにいるの。
 モリッス 君みたいな可愛い人と、どうして上の姉さんはうまくいってないの?
 イヴォンヌ(少し暗く。)いろいろあって・・・上の姉は気位が高いの。厳しいの・・・自分は他人から非難される所がないっていうのを楯にとって、他の人を大目に見ることが出来ないの。ああ、勿論私、あの姉に長所があるのは分っている・・・母の血をよく受け継いでいて・・・そう、母は私達をとても厳しく育てたわ。
 モリッス じゃあ、家の中のことをしっかりとする素敵な女性に君を育てたのはお母さんなんだね?
 イヴォンヌ(嬉しそうに。)そう思ってくれる? ああ、モリッス、私達二人がもし・・・もしあなたが私を連れて行って、もし一緒に・・・二人で暮すようになれば、あなた、きっと分って下さるわ。
 モリッス 分るねきっと、僕は。
 イヴォンヌ 母は家事を決して軽く見なかったの! もう私が十三歳の時、私達三人とも、縫物、アイロンかけ、が出来て、食事の用意は三人交代でやったわ。
 モリッス で、十三歳過ぎてからは?
 イヴォンヌ(再び困って。)お針子としてよそにやられたの。
 モリッス たしか・・・この間の夜の時の話だと、君・・・結婚したと・・・
 イヴォンヌ 結婚じゃないの。婚約して、それから・・・二人で暮すようになって・・・(間。)
 モリッス それ、長く続いたの?
 イヴォンヌ いいえ・・・長くはなかった・・・それから私、もう家に帰られなくなって・・・(非常に困って。)本当は全部お話しなくちゃ、あなたに知って戴かなくちゃ・・・
 モリッス それでもう話は終っているよ。もう考えることはないさ。ね? さあ、行った行った、早く帰って来るんだよ。
(二人、キス。イヴォンヌ、箪笥(たんす)に行き、引き出しから封筒を取る。)
 イヴォンヌ じゃ、煙草でも吸って、コーヒーを飲んでいてね。さあ、坐って。はい、ここに新聞。十分後に帰って来るわ。退屈しないでね、モリッス。
 モリッス さあさあ、早く行って。
(二人、キス。イヴォンヌ、退場。)

     第 二 場
(モリッス、コーヒーを飲み干し、立ち上がり、煙草に火をつけ、窓のところへ行く。ゆっくりと部屋を眺め、また小さなテーブルに戻る。それから片付けを始める。まづコップを、次にコーヒー湧かしを左手の台所へ運ぶ。次にナプキンを片付けようとした時、ノックの音。)
 モリッス あれ? もうかな?
(モリッス、急いで開けに行く。マダム・キャザン登場。敷居をまたいで、ハッと立ち止まる。)
 マダム・キャザン モリッスさん! まあ何て・・・驚いたわ・・・じゃ、ここ、イヴォンヌ・ブランシェが住んでいる所じゃないの?
 モリッス いいえ、あの人が住んでいる所ですけど・・・
 マダム・キャザン(びっくりして。)まあ、あなたがイヴォンヌ・ブランシェのところにいるなんて・・・
 モリッス キャザンさん、あなた、僕をお捜しで?
 マダム・キャザン いいえ 、とんでもない、イヴォンヌですよ。
 モリッス 今丁度そちらへ出かけたところですよ。途中で会わなかったのは不思議ですね。レオンチンヌ・プリュヴォに会いに行ったんです。
 マダム・キャザン お給料を渡しにね?
 モリッス そうです。
 マダム・キャザン(困惑を隠すことが出来ない。)レオンチンヌはいないわ・・・まだ子供のところ。私に借りがあるから、イヴォンヌから直接受け取って欲しいって書いてよこしたの。私、丁度酒屋に用があったから、ついでにここに寄ってみようと思って。今時の女の子達、こっちがちゃんとしてやらないと・・・
 すみません、モリッスさん。あなたがいらっしゃると知ってたら、ここに寄るなんて決してしませんでしたわ。どうかそれは信じて・・・私、何てことをしたんでしょう。自分で自分を責めていますのよ。こんなことになってしまって・・・
 モリッス そんな。何でもありませんよ、マダム・キャザン。全くどうってことありませんでしょう? 僕が気に入ったところ、どこにいようと、それは僕の勝手ですからね。
 マダム・キャザン ええ、勿論それは・・・でも、もし最初からそのお気持なら、「田舎に行く」なんて私にお話になる必要もなかった筈ですから・・・
 モリッス ええ、そんな必要はなかったんです。ただ、あまり執拗(しつよう)にどこに行くかって訊かれたものですからね、つい・・・(間。)
 マダム・キャザン 驚いた・・・イヴォンヌ・ブランシェ・・・イヴォンヌ・ブランシェとはね・・・
 モリッス 何がです。誰が何の関係があるっていうんです。失礼ですが、そんな言い方、焼いていると思われても仕方がありませんよ。
 マダム・キャザン ご冗談でしょう。いいですか、イヴォンヌ・ブランシェ・・・イヴォンヌ・ブランシェなんかに焼き餅を焼く人間なんて誰がいるもんですか。それを、私が焼いているだなんて! 勿論あなたからキスを受けた例の晩からは、ひょっとして・・・
 モリッス(抗議して。)マダム・キャザン! あれはただの、お休みのキスじゃありませんか。それに、そちらから頬を差し出されてやった・・・。実際、もし僕が・・・
 マダム・キャザン(遮って。)分りました。私の間違いです! でもいいですね、間違いに気づいたのは、今日が初めてじゃないんですからね。
 それから、私がここで、あなたと会って残念に思ったとしても、それは、私が残念ではないの。あなたのためを思って、あなたのために残念に思っているんですからね。
 モリッス それはご親切に。
 マダム・キャザン 私が尊敬しているあなたが・・・真面目で立派な若者だとばかり思っていたあなたが・・・
 モリッス 昨日僕が真面目で立派だったとしたら、今日だって同じ程度に真面目で立派ですよ。
 マダム・キャザン(声が大きくなって。)じゃあなた、イヴォンヌ・ブランシェがどういう女か知らないのね。あなたにあの女のことを話して聞かせる親切な人はまだいなかったってことね。
 モリッス 止めて下さい、悪口は。ここはあの人の家ですよ。それにあの人の友人の前です。
 マダム・キャザン いいえ、言うのは私の義務です、モリッスさん。あなたはこの町に新しくやって来た人、そして私のアパートの住人です。遊んじゃいけないなんて堅いことを言ってるんじゃありません。それぐらいのことは分っている年です、私は。あなたが清純な、心の真っ直ぐな娘とつきあったとして、それを一番喜ぶのはこの私です。でも、イヴォンヌ・ブランシェ! あのイヴォンヌと! いいですか、ここだけの話ですよ、モリッスさん。私の夫は浮気者で知られた男です。あなたもよくご存知の通り、どんな女の尻でも追いかけ回す。私は諦めて、もうとっくの昔に何も文句を言わなくなりました。でも、あの人がもし、イヴォンヌ・ブランシェにちょっかいを出すようだったら、私は言いますね、「ああ、あの子だけは止めて」ってね。
 モリッス その「あの子」って言うのが、他のどんな子よりずっといい子ですよ、マダム・キャザン。
 マダム・キャザン あなた、あの子が工場で働くようになる前、何をしていたのかご存知?
 モリッス いいえ。でもそんなこと、僕には何の関係もありませんよ。
 マダム・キャザン(用心深く扉の方を見ながら。)ピュピュよ、やってたのは。
 モリッス ピュピュ? 何です? それは。
 マダム・キャザン(また扉の方を見ながら。)ピュピュ・・・パンパン・・・淫売・・・ちょっと言ってもあなたが分らないから、ここまで言うのよ! 聖人淑女のような顔をしていて、あの子は「おひきずりさん」なのよ。あの、あなたの「友人」は! 残念なことですけどね!
 モリッス それは嘘です! もしあなたが女でなかったら、僕は・・・
 マダム・キャザン いいえ、本当です、モリッスさん。誓って言います。これは本当なんです! 私の母の命に賭けて誓ってもいいわ。ここに軍隊が駐留していたってこと、あなたご存知ないでしょう? その頃、イヴォンヌ・ブランシェは職工じゃなかった。ここらあたり全部にあの子はプセットという名で通っていたのよ。
 モリッス プセット?
 マダム・キャザン そう、プセット。どうしてかっていうとね、プッスという名前のしっかりした家柄出の伍長がいて、あの子の最初のあれだった。プッスはあの子と結婚すると約束したっていう噂だったけど・・・でもね、よく聞いて。駐屯部隊がここを出て行った時、下士官であの子と寝なかった者は誰一人としていなかったって。それ以上の位の人は言わずもがなよ。
 モリッス ほう!
 マダム・キャザン でしょう? だから話づらいって言ったの。それにあの子、私のところにまでちょっかいを出してきたの。家(うち)に泊っている兵隊さんにまで。家に関係のない兵隊さんは、私、何も言わなかったけど、家の兵隊さん達には私、ちゃんと言ったわ。駐屯部隊が引き揚げるとすぐプセットはヴェルミーの妹のところに一週間行って、それから工場に勤めるようになった。(間。)
 モリッス もうずっと前の話ですか? それは。
 マダム・キャザン 去年のこの月の十五日に部隊は引き揚げました。イヴォンヌがその頃就職したのを確かめるのは、工場の帳簿を見ればよいことですから、あなたにはすぐ出来るでしょう?
 モリッス 僕に出来ようと出来まいと、あなたの知ったことではありません。
 マダム・キャザン 分りました。これ以上は何も言いません。私の知っていることは正しいのですから。それに、今まで誰もあなたにこの話をしていないって、私、驚きましたわ。
 モリッス 誰もがみな、あなたのように親切だとは限りませんからね。それに、誰もがそこまで知っているとも思えません。
 マダム・キャザン(同情をもって。)お可哀想に、モリッスさん。すっかりがっかりなさったのですね。私だって残念ですわ。でも、あなたによかれと思ってでなければ私、わざわざこんなこと・・・
 モリッス(きっぱりと。)有難うございます。・・・(間。)するとつまりこの一年・・・
 マダム・キャザン ええ、この一年、あの子は世間を騙してきたんです! ちゃんとした娘であるかのように。全くお芝居もいいところ!
 モリッス(断固とした調子。)あなたは何も分ってはいません!
 マダム・キャザン 何ですって? 私に分っていない? いいですか、部隊が引き揚げさえしなければ・・・
 モリッス 黙って! イヴォンヌです。階段に音がする。
 マダム・キャザン 丁度今来たふりをします。いいですね? それから、ここであなたに出会ったってこと、誰にも内緒ですよ。私の方からは、決して言いっこありません。それは安心して。
 モリッス(皮肉に。)それはそうでしょうとも。
(この時までにマダム・キャザン、テーブルの二つの椅子のうちの一つを引き出して坐っている。モリッスは箪笥に背をもたせかけている。その時イヴォンヌ、扉の鍵をあけ、入って来る。)

     第 三 場
 マダム・キャザン(微笑みながら立ち上がる。)ほーら、同じ用だったのね。
 イヴォンヌ(驚いて。)あっ、マダム・キャザン!
 モリッス(イヴォンヌに。)レオンチンヌ・プリュヴォの給料を丁度取りにいらしたんだ。
 イヴォンヌ ああ・・・.
 マダム・キャザン ええ、今朝、あの子から手紙が来て。子供のところにいてやらなきゃならないって。
 イヴォンヌ 容態が悪くなって?
 マダム・キャザン 詳しくは分らないの。家賃をあなたから受け取って欲しいって。簡単に。三行で。
 イヴォンヌ(持っていた封筒をマダム・キャザンに渡しながら。)ではこれを。給料明細も封筒に入っています。
 マダム・キャザン あの子の手紙、あなた、見る?
 イヴォンヌ いいえ、とんでもない!
 マダム・キャザン(ハンドバッグに封筒を入れながら。)このあたりに私、用があって、ちょっと寄ったの。私、いけないことをしたのかもしれない。ご免なさい、イヴォンヌ。あなたにも、モリッスさん。でもちっとも他意はなかったのよ。(扉の方に進みながら。)でも、私だったからよかった。私なら何でもないもの。じゃね、モリッスさん。
 モリッス(席から立たず。)さようなら、マダム・キャザン。
 イヴォンヌ(扉を開けながら。)さようなら、マダッム。
 マダム・キャザン(陽気に。)さようなら、プセット。
(マダム・キャザン、退場。)

     第 四 場
(この場の最初から、二人とも、自分の気持をうまく隠すことが出来ない。イヴォンヌは自分の苦しみを、モリッスは自分の当惑を。)
 イヴォンヌ(震えながら。)何て厭な人! 私、あの人、嫌い。
 モリッス(わざと無関心を装って。)まあね。
 イヴォンヌ 入って来て、あの人の顔を見たとたん、私、厭な顔をしたわ、きっと。どうしてあなた、戸を開けたの?
 モリッス 君かと思ったんだ。
 イヴォンヌ 私なら鍵がある。自分で開けたわ。ああ、そのこと、言っておくんだった・・・
 モリッス 躊躇ったりしなかったな、開けるの。君のことを待っていてね、「あ、レオンチンヌに会って来たな」って、思ったんだ。
 イヴォンヌ 私が出た後、すぐ? あの人が来たの・・・
 モリッス うん。(言い直す。)と言っても、勿論少し経ってからだよ。
 イヴォンヌ ここに長くいたの?
 モリッス いや、五六分かな? もっと短かったかもしれない。分るだろう? あの人と二人きりでいたんだ、時間は長かったよ。
 イヴォンヌ まあ! あの人、そんなこと分ってて・・・
 モリッス うん、残念ながらね。君、ひどく不愉快?
 イヴォンヌ あなたに会って何て言ったの? それからあなた、どんな話をしたの?
 モリッス 僕は何も話さないよ。ただ、僕が、いたって自然な様子でここにいたからね。あの人はすぐに事情を察してしまった。悪い時に来たって謝ったよ。それから田舎に行くだなんて嘘を言ったことを責めてね。
 イヴォンヌ まあ!
 モリッス 僕は言ってやったんだ、あんなにしつこく訊くから、嘘をつくしかなかったってね。
 イヴォンヌ(大きな声で。)まあ、そんなことを! すごいわ! 怒ったでしょうね。あの人、何て?
 モリッス 何も。話題を変えたよ。
 イヴォンヌ あの人が来た時、あなた、何をしていたの?
 モリッス テーブルを片付けていた。ほら、ナプキン、そのままだろう? 丁度しまおうとしていたところだったんだ。
 イヴォンヌ まあ、あなたが? あら、私・・・(しなくちゃ・・・)(ナプキンを片付け始める。次のやりとりの間、その作業を続ける。)あの人がいる間は、片付けはしなかったのね?
 モリッス うん。
 イヴォンヌ(誇りをもって。)私達二人が、一緒にここで食事をしたっていうのは分ったわね? あの人。
 モリッス(ぼんやりと。)勿論。
 イヴォンヌ モリッス! あなた、何か考えてるわ。ここで起きたことが厭だったから?
 モリッス(曖昧な動作。)いや、別に。
 イヴォンヌ(やっとのことで言う。)あの人、何か言ったんじゃ・・・あなたの気分を壊すような、何か・・・
 モリッス(しっかりした声。)あんな人が何を言ったって、気になんかしないよ。もう二三日あそこにいたら、さっさと引き払うよ。
 イヴォンヌ ええ、そう。そうしなくちゃ・・・でも・・・
 モリッス 何?
 イヴォンヌ あなたが出たとたん、あの人、言いふらすわ。私達が一緒にいたのを。(イヴォンヌ、坐る。)
 モリッス 僕が出るまで待ったりしないさ。さっさと言いふらすよ。だけどそんなこと、何でもないじゃないか。
 イヴォンヌ(心配して。)でも、他の人が知らないに越したことはないわ。あなたは工場のことがあるし・・・私だってその方が・・・
 モリッス(イヴォンヌの傍に寄る。)どうして?
 イヴォンヌ(恐れの表情。)分らない・・・私だけの秘密にしておきたいわ・・・
 モリッス イヴォンヌ、驚いたね。君、他の女の子とは全く逆だね。他の女の子だったら、世界中に自分の恋人のことを自慢するよ。
 イヴォンヌ(胸を躍らせて。)私だって・・・私だって自慢したい!(抑えて。)でも・・・ここの人達に知られるのは厭・・・工場の女の子達が二人で一緒にいたのを知ったら、きっと焼き餅・・・そしていろんなことを言うわ。
 モリッス いろんな?・・・どんな?
 イヴォンヌ(床をじっと見て。)やっぱりあのマダム・キャザンだわ、一番心配なのは。あなたがあそこを出て、あの人があなたのことを悪く思って、そして悪口を言うの。
 モリッス そう思う?
 イヴォンヌ ええ、きっと言うわ・・・それも酷いことを・・・
 モリッス 酷いって・・・どんな?
 イヴォンヌ(半分泣きながら。)分らない・・・でも・・・(間。)私があなたからお金を取ったって・・・
 モリッス(困って。)お金?・・・だけど、何て話だ、それは。
 イヴォンヌ(困って。)ああ、モリッス・・・あの人、私のことを話したんだわ。
 モリッス あの人、君のことを昔から知ってるの?
 イヴォンヌ(これで終かと、怖い気持。)どうしてそんなことを訊くの?
 モリッス どうしてって・・・あの人、君に気安く話しかけていたから。
 イヴォンヌ(恐怖に襲われて。)ああ、あの人、私のことを話したんだわ。・・・帰って来てから、何かが違っているもの。(椅子に坐り、泣き崩れる。)話したんだわ!
 モリッス(少しの間の後。)プッスとかいう兵隊と婚約したって。そのせいで、それからはみんなが君のことを、プセットと呼ぶようになったって・・・
 イヴォンヌ(一瞬安心して。)それだけ? 話したのは。
 モリッス うん、それ以上は時間がなかった。
 イヴォンヌ(モリッスをじっと見たまま。)いいえ、話したわ。
 モリッス(声の調子が相手を気の毒に思う気持を出してしまっている。)いや、話さなかった。
 イヴォンヌ(立ち上がり、元気を出してモリッスの方に進む。)モリッス! 私を見て! 私、食事の時の私とは違う私?
 モリッス(家具を背にして、視線は床にある。)違わないよ、ちっとも。
 イヴォンヌ(わっと泣き崩れる。)ああ、私、あなたに隠しておく気なんかちっともなかった。この一週間、ずっと・・・ずっと・・・全部話してしまおうって思ってた。でも、でも私、いつも躊躇ってしまった。怖かったの。怖かった・・・あなたを失うのが。私、あなたを愛している・・・だから辛いの! あなたが私の目の前にいると、私、自分の幸せのことしか考えられない。
 ついさっきだってそう。レオンチンヌのところへ行くちょっと前、私、話しかけた・・・ね? 覚えているでしょう?「まだ他のことがある」って言ったのを。あなた、「何のこと?」って訊いて下さればよかったの。あれが初めて、あなたが私の身の上を訊いたの。私、待ってた。すぐに全部答えるつもりで。私、勇気がなかったの。私一人で自分のことを話す勇気が。でもあなた、途中で私を止めた。「それでもう話は終っているよ。もう考えることはないさ」って。私あの時、「有難う」って叫びそうになったわ。・・・でも、あなた、聞くことになるわ・・・すぐに。さっきあの人が話さなかったとしても。今晩家に帰ったら、あの人すぐに話すわ。だから、あなたが知るのは、この私の口からでなきゃ。そしてその後で、私に言って・・・私に正直に言って・・・(啜り泣く。)
 モリッス(イヴォンヌの方へ急いで進み。)いや、話すことはない、そんなことは。
 イヴォンヌ 私がどういう女か、あなたは知らないの。
 モリッス(強く。)いや、知ってる、どういう女か。今すぐ言ってあげるさ。さ、こっちに来て。さ。(モリッス、イヴォンヌを膝の上にのせ、抱きしめる。)君は勇気のある女・・・そう、それが君なんだ。それから、僕を愛してくれている。それも僕には自信がある。
 イヴォンヌ(泣き止まず。)ええ、私、あなたを愛している。だから、どうしても話さなくちゃ・・・
 モリッス(明るく遮って。)だからどうしても泣き止まなくちゃ。ね、イヴォンヌ、もう怖いことなんかないよ。僕もね、一瞬怖かったんだ。(強く。)いやいや、君の身の上話が怖かったんじゃない。君が・・・君が僕に嘘をつくんじゃないかと・・・僕に隠すんじゃないかと・・・ご免ね、僕は一瞬思ってしまったんだ。
 イヴォンヌ ああ、そんなこと、決して!
 モリッス(強く。)分ってる。今はもうそんなこと、当たり前じゃないか。
 イヴォンヌ まだよ、モリッス。聞いて、私の・・・
 モリッス(遮って。)何をだい? マダム・キャザンが知っていることをかい?
 イヴォンヌ ええ。
 モリッス(不機嫌に。)何を話せるっていうの? あの人が。君についてあの人がこの僕に何を教えられるっていうんだ。イヴォンヌにこれこれこんなことが起きましたって? 君のことを何も知らないあの人が、イヴォンヌに起きたことを? そう・・・言うかもしれない。・・・ひょっとしたら。・・・そうだ、もう少しで君は首の骨を折るところだった・・・そんな話だろう? きっと。
 イヴォンヌ(低い声で。)ええ。
 モリッス(間の後。両手でイヴォンヌの頭を支える。そして相手の目をじっと見て。)とにかく、君に何が起きたにしろ、この目は一度だって変ったことはないんだ。この世に生まれた時から、今までずっと。
 イヴォンヌ ええ、でも・・・
 モリッス 訊くけどね、君、十七歳の時の君と、僕を好きになっている今と、どっちが幸せ?
 イヴォンヌ ああ、それはもう、今の方がずっと幸せ。私、愛したのってこれが初めて。それは心の底から言えるわ。
 モリッス ほらね。その可愛い言い方、きっと君のママが料理を教えてくれた時に聞かれても全く同じように答えたんだ。簡単なことだよ。君のその目と同じさ。昔から今まで、君はちっとも変っちゃいないのさ。
 イヴォンヌ(鼻をかみながら。)そうだといいけれど・・・
 モリッス 今朝あんなに美味しい食事を作った時、ママの声が聞こえなかった? 君ぐらい立派に部屋の始末をする若い子って、いると思う? ああ、あそこから入って来る陽の光、何て新しいんだ! 今朝生れたばかりの陽の光! それが真直ぐ窓をつっきって、今届いたんだ。ほら、見て!(二人、立上がる。窓に進む。一瞬見て、接吻する。それからモリッス、イヴォンヌを壁にかかっている小さな鏡のところに連れて行く。)そしてこの姿・・・駄目だよ、見なくちゃ! ね? 答えて。この姿・・・僕の小さなイヴォンヌなんだね?
 イヴォンヌ(微笑んで。)ええ、そう。あなたのイヴォンヌ。(二人、窓の方を向く。)
 モリッス 奇麗なカーテンだ。
 イヴォンヌ 私が作ったの。
 モリッス 素敵だよ。ピンと張ってる。
 イヴォンヌ(二人、元の位置に戻る時、やっと口が回るようになって。)私、糊をつけるからなの。家ではいつもカーテンは全部糊付けするの。上の姉の考えよ、これ。姉の家・・・それはちゃんとしている!
 モリッス 君の家ほどじゃないよ、イヴォンヌ。いや、僕らの家ほどじゃない。そう、僕らが新しい工場に行った時住む、僕らの家ほどじゃ。
 イヴォンヌ(苦しみからやっと解かれたように。)じゃ・・・私を連れて行って下さるの?
 モリッス だって、さっきそう言ったよ、僕。
 イヴォンヌ ええ、でも、さっきはさっき・・・
 モリッス もう何も言わないで!(二人、キス。)
                 (幕)



   平成十八年(二00六年)二月十九日 訳了


Personnages
Yvonne Blanchet, 22 ans ..... Mlle Jany Holt.
Maurice, 25 ans ..... M. Louis Salou.
Madame Cazin, 35 ans ... Mlle Magdeleine Berubet.


Cette piece a ete representee pour la premiere fois a Paris, au Theatre des Mathurins, sous la direction de Georges Pitoeff, le fevrier 1936.