内村直也の「ピランデルロ」の解説。(一九五八年発行白水社「ピランデルロ名作集」による。)

 ピランデルロの作品は、その生涯と切り離して考えることはできない。どんな作家の場合にでもこのことは言えるが、ピランデルロの場合には、彼の生活が、絶対的なものとして彼の作品を生み出している。
 一八六七年、シシリイ島のジルジェンティ市に生まれた。シシリイ島がイタリアに合併されてから七年後である。
 彼の父、ステファノは、島の硫黄鉱山の所有者であった。非常に激しい性格で、ときの強力な秘密結社マフィアに対しても負けてはいなかった。
 彼の母は大変従順な女性で、夫にいためつけられながらも長い間これに耐え忍び、最後には、夫は他の女をつくり、捨てられてしまったのである。母の隠忍する性格をピランデルロはうけつぎ、彼自身の結婚も大きな不幸を負わされたのである。
 当時のシシリイ島の状態というものは、「中世紀」から完全に脱したとはいえず、貧富の差が極端に甚だしかった。そのうえに風光が明暗に富んでいた。また餓死、病死、死産、マフィアによる暗殺等があり、生と死のバランスがとれていなかった。こういう環境が若いピランデルロを創りあげたのである。彼のあらゆる戯曲はコントラストをテーマとしている。
 パレルモで教育をうけ、十八のときローマ大学に入学した。ここで教授法について教師と喧嘩をし、それが動機となってローマ大学を去り、ドイツのボン大学に移った。母から隠忍の気質を受けついだ彼であるが、同時に、こういう面では父から激しい気質をうけついだと言えよう。言語学を専攻し、ゲーテの「ローマ悲歌」を翻訳した。そして哲学の学位を得た。
 既にその当時からシシリイ島の生活を描いた詩や短篇小説を書き始めていたが、卒業してイタリヤに戻ってからは、小説を書くことを自分の生涯の目標とする決意をした。彼は若い作家や画家たちとつきあったが、ときのイタリヤの文壇を風靡していたダヌンツィオに対しては真正面から反対の立場をとった。むしろ田園派のヴェルガを支持した。そのために彼の名前は一向に世にしられず、数年間は書いたものが出版されることもなかった。
 一八九四年(二十七歳)彼の父はその商売仲間の娘(アントニエッタ・ポルトゥラーノ)を息子の結婚相手としてきめた。彼はこのアントニエッタに一度も会ったことがなかった。しかし彼は父の言うなりに結婚をし、ローマに新居をかまえた。
 数年間は平穏無事であった。二男一女を得た。
 一九○四年(三十七歳)父が破産をし、これによって彼の一家は大きな不幸に襲われた。即ち、彼の妻アントニエッタが精神的異常者となったからだ。彼女の狂気は、理由のない嫉妬という形で彼を襲った。父の破産以後、彼はローマの女子高等師範の文学教師として勤務するようになったが、彼の妻はあらゆることにあたっって彼の不誠実をとがめだて、彼を罵倒した。
 彼の家庭は地獄となった。彼は妻の要求するような、もう一人の自分を常に用意していなければならなかった。現実と狂気の世界、現実と幻想の世界が、常に彼の日常生活のなかにいり乱れた。彼は常に妻のそばにいた。そして彼女の狂気をしずめようとして気を使ったが、妻の罵倒に対してはいかんとも手のほどこしようがない毎日が過ぎていった。
 こうした苦しい生活のなかで、彼にとって唯一の逃げ場所はものを書くことであった。友達からも離れ、傍らにいる妻からも精神的には完全に離れて、ピランデルロはただ書くということだけに希望をつないだ。このように彼の作品には、日常生活の悲劇が直接反映しているのである。
 一九一四―一八(四十七歳―五十一歳)の世界第一次大戦は彼の不幸を一層増大した。妻の狂気は激しくなり、長男は敵軍の捕虜となり、次男は戦線に病み、一人娘は自殺をはかった。それが一九一八年(五十一歳)妻の死によって、この大きな不幸も一応頂点をきわめたかたちとなった。
 結婚生活二十五年、その間、十五年間は精神に異常をきたした妻と生活をともにしていたのである。想像しただけでも大変なことである。
 戦後、ピランデルロは劇場に興味をもち、次々に戯曲を発表していった。彼の名前は次第に知られ、一九二一年(五十四歳)「作者を探す六人の登場人物」を発表するに及んで、世界的なものになった。
 一九二五年(五十八歳)彼の長男がローマで芸術座を設立、乞われるままに彼はこの劇場の指導者となった。
 彼は私財を投入して、ローマを近代劇の中心部にしようという野心に燃えた。この運動は一応の成果をあげたが、経済的に失敗し、ピランデルロは再び貧者となった。
 もはやイタリヤに止まる意欲を失い、彼は、ロンドン、パリ、プラーグ、ベルリン、ウイン、ブダペスト、ニューヨーク、南米等、世界中を自分の脚本の巡業について回った。この芸術座は経済的理由で一九二九年に解散している。
 一九三四年(六十七歳)ノーベル賞を授与されたことは既に有名である。
 彼はその後ローマに帰り、ひきつづき戯曲活動を続けたが、一九三六年十二月十九日(六十九歳)その生涯を終ったのである。
 以上が劇作家ピランデルロの一生である。あらゆる彼の作品は、この生涯の産物なのである。

 彼の作品に対する批判は、世界を通じて非常に異っている。好む人は好む、好まない人は極端に嫌う。しかし、今世紀前半における劇作家で、今日に一番大きな影響を与えている人ということになれば、先ずジロドゥとピランデルロをあげることが常識になってきている。
 ここで、各訳者にバトンをゆずり、それぞれの立場から見たピランデルロ、並びにその作品を解説してもらうことにする。
 
(能美註 この本には次の六作が載っている。
 作者を探す六人の登場人物  岩田豊雄 訳
 御意にまかす        岩田豊雄 訳
 ヘンリイ四世        内村直也 訳
 本日は即興劇を       諏訪 正 訳
 未知の女          中田耕治 訳
 各人各説          梅田晴夫 訳)