鼠捕り
            ノエル・カワード 作
            坂本進 能美武功 共訳
  登場人物
シェイラ・ブランドレス
オリーヴ・ロイド=ケネディー
ルビー・レイモンド
ナオミ・フリス=バスィントン
バレッジ
エドモンド・クロウ
ケルド・マックスウェル

   第一幕
ケンシントンにあるオリーヴ・ロイド=ケネディーのアパート
   第二幕
ベルグレイヴにあるマックスウェル家の書斎(第一幕から六箇月後)
   第三幕
第二幕と同じ場。(第二幕から一年後。)
   第四幕
コーンウォール・リザードの「イヴァーナ・コテッジ」の居間。(第三幕から四箇月後。)
            
     第一幕
(場 西ケンシントンにあるロイド・ケネディー夫人のアパートの応接室。上質のインテリア。右手奥、少し奥まった場所に食事用のテーブル。)
(幕が上がると、オリーヴ・ロイド・ケネディー、シェイラ・ブランドレスそれにケルド・マックスウェルの三人。丁度夕食を終えようとしているところ。)
(オリーヴはおよそ三十五歳。上品な女性。シェイラは二十四歳。チャーミング。ケルドは二十七、八歳。見るからに都会育ちの青年。)
 オリーヴ じゃ、乾杯をしましょう。
 シェイラ ケルド、胡桃を割るのをやめて。オリーヴのスピーチを聞きましょう。
 オリーヴ 私、お二人の幸せを祈っているわ。それも翳りひとつ無い、完璧な幸せでありますようにって。私からシェイラが去って行く・・・それはちょっとさびしいわ。私たちいつだって一緒だったんですもの。でもケルド、これらは貴方がシェイラを大事にしてくださるのよ。いいわね? 彼女、それに値する人なんですから。
 シェイラ(テーブル越しに手を差し伸べてオリーヴの手の上にのせて。)有難う、オリーヴ。ケルド、あなたも何か言って。
 オリーヴ いいのよ、何も言わないで。スピーチをするなんてほんとに悪い習慣だわ。私、やらなきゃよかった。
 ケルド 僕も本当に感謝しています。シェイラと同じです・・・感謝の気持。
 シェイラ 独身最後の夜を、この世で一番好きな人二人と過ごせるなんて、私って何て幸せなんでしょう。それに今日は一日とても優雅に過ごせたのがよかったわ。私、想像してたの、結婚式の前の晩って、ふたを開けっ放しにした洋服箱があちこちに散らかっていて、椅子の背にフロックコートがかけてあったり、子供っぽいメイドが馬鹿な質問をしたり・・・なんて。
 オリーヴ 大抵そうなるわ、教会で式を挙げるごく普通のやり方だったら。あの式でのみんなの笑い・・・ニヤニヤニタニタ・・・何を考えているのやら。結婚式ぐらい淫(みだ)らな習慣はありはしない。二人だけで式を挙げて、新婚旅行から帰ったところで、ごく親しい人たちだけを招いて披露宴を開くっていう風にどうしてならないのかしら?
 ケルド そう。分ります、それ。新婚のカップルが目的地に着いた頃、親戚、友人たちが、「さあ、あの二人、今頃きっと着いてるぞ」だとか「連中まさか今夜は、出かけたりはしないだろうな」なんて言ってるかと思うと、いい気持はしませんからね。新婚旅行は二人だけのもの。どうやろうと勝手なんだ。
 オリーヴ でもホテルの支配人にだけは教えないわけには行かないわ。あの人たち、今はとてもきっちりしている。だから貴方方、コーンウォールでも宿帳にはちゃんと「新婚」って書かなきゃ。
 シェイラ(うっとりと。)ねえケルド、新婚旅行にコーンウォール! 何て素敵なんでしょう。あなたがあそこを気に入ってるって、私、本当に嬉しい。デヴォンがいいなんて言ったら私、幻滅だった。
 オリーヴ でもあなた、デヴォンも南のほうはとても素敵よ。赤い色の断崖、絵葉書みたいな青い海、そこに浮かぶいくつもの小船。みんな太陽に輝いて、とっても可愛い。それにペイントンやトーケイ・・・素晴らしいわ。波止場でコンサートが開かれるのよ。
 シェイラ コーンウォールがいつかすっかり開けちゃって酷い所になってるなんてこと、あるかしら。
 ケルド いつかはそうなるんじゃないかな。労働者階級の連中は確実に力を持って来たからね。イングランドの美しい自然は破壊される運命にあるよ。
 オリーヴ(立ち上がって。)さ、いやな話はこれでおしまい。貴方方は結婚したのよ。正しいことをしたの。お互いに自分の感情を吐露し、乾杯をしたの。この「サマになってる」って感じ、とてもいいじゃない? たとえそれが、そんなにたいしたことじゃなくても。
 シェイラ 私たちの結婚をあなた、「たいしたことじゃない」って言うの?
 オリーヴ このごろの結婚なんて、家庭で居心地の悪い人たちがやる緊急避難みたいなものじゃない。
 シェイラ そうね、でも私は違うわ。だって、居心地が悪いも何も、私には家ってものがないんだから。
 オリーヴ 人の意見にいちいちけちをつけないで、シェイラ。私はただ、夕食を楽しく終えるために、辛目の気の利いた話をしようと思っただけなの。物書きの人って他人のジョークにはうるさくて自分だけは別。ほんとに自己中心主義なんだから。ケルド、貴方、もうそろそろポートワインの時間? 今日は男は貴方一人。飲んでみだらな独り言を言いたいんだったら、カーテンを引いてどうぞ御自由に。隣で聞かれていることは忘れることね。
 ケルド 今夜はポートはやめます。有難う。
 オリーヴ 分かったわ、じゃ、こちらへどうぞ。食事の後片付けをさせますから。
 シェイラ あら、今日は休みを取らせていたんじゃなかったの?
 オリーヴ いいえ、休みは第二火曜だけ。もう貴方にも分っていていい頃よ。ケルド、そこの銀の箱はタバコです。右側のはにおいのきつい方、左側は上物のトルコ葉。
 ケルド そりゃあ素敵だ。(箱を取って差し出しながら。)どうですか?
 オリーヴ(一本取りながら。)有難う。それで今夜なんですけど、ナオミ・フリス=バスィントンが来る予定になってるの。
 ケルド 誰です? その女性。
 オリーヴ おとなしい子。とっても官能的な小説を書いてる。男と一緒に来るって。
 シェイラ 男?・・・ご主人? お父さん? 弟さん? それともただのボーイフレンド?
 オリーヴ ただのボーイフレンド。ここの二階でひっそりと愛の巣を営んでいるってわけ。本当は結婚したいらしいの。でも、誰かがある時言ったのを真に受けちゃって・・・自由恋愛こそ真の恋愛・・・恋愛はボヘミア的でなくっちゃって。彼氏の名はクロウ・・・エドモンド・クロウ。パッとしない詩をパッとしない文芸誌に書いていて、パッとしない詩のおいてある本屋に出入りしている・・・
 ケルド そういうことをしていると、あっという間に三文文士のレッテルを張られちゃいますね。
 シェイラ 私どこかでそのナオミっていう人に会わなかった?
 オリーヴ 会ってるわ。ネクスト・ウィーク・クラブで。彼女、「読むべき本」っていう題で、ある晩講演したの。そしたら、レベッカ・ノースが、問題は「読むべき本」ではなくて、「書くべきでない本」の方ではないかと、かなり辛辣な批評をしたの。可哀想に。ナオミは完敗だったわ。
 ケルド 文学作品のモデルになるような女性ですか? その人。
 オリーヴ そう。いいモデル。気持だけはあり過ぎるほどあるの。お風呂に石鹸の代りにヴェルレーヌの詩集を用意しておいて、それで毎日身体を洗っている。「古典がなくちゃ私、生きていけないわ」なんて言ってるけど、本当は自分がいなくちゃ古典の方が生きていけないって思っているんじゃないかしら。
 ケルド それは面白いな。僕の芝居に生かしたいですよ。
 オリーヴ ちょっと見え見えのところはあるけど・・・でも、まあ・・・(立ち上がる。)
 ケルド 「見え見え」・・・構いませんよ。
 オリーヴ すぐ戻るわ。
 シェイラ ええ、じゃ。
(オリーヴ退場。)
 ケルド さ、君の自由も今夜が最後だ。どう? 怖くない?
 シェイラ ぜんぜん。ワクワクしているわ。
 ケルド 僕もなんだ。でも僕は怖くもある。恐ろしいんだ。この幸せを邪魔する何かがもし起こったらどうしよう。夜中にハッと目を醒して、怖いことをいろいろ想像したりする。僕らのどちらかが事故にあうとか・・・そんなことは馬鹿な思い過ごしだと思うよ。でも幸せが大きければ大きいほど、怖いという気持も強いんだ。
 シェイラ 大きなお馬鹿さん。そんな馬鹿なことを心配していたら、貴方、ぼろぼろになっちゃうわよ、明日にも。
 ケルド いや、もう大丈夫。そんな風にはならないさ。有難いことに、もうそんなに待つことはなくなったんだ。辛抱強かったよ、僕らは。うん、そうだ。「僕ら」って言えるだけで素晴らしいじゃないか。数ヶ月前までは「僕らは」ではなく「僕は」だったんだからね。
 シェイラ ええ。「私達の」・・・愛。「私達の」・・・幸せ。それだけじゃないわ。一緒に働く喜び、そして世の中へ向かって道を切り開いていくために二人して助け合っていく、ということを意味しているの。ああケルド、愛してるわ。でも、もしそれが失敗したら・・・酷いことになるわ。きっと、酷いことに・・・
 ケルド おいおい、今度は君の方が心配する番かい?
 シェイラ 私、明日明後日のことを心配しているわけじゃない。ずっと先のことを考えているの。私たちって、野心的でありすぎれば幸せを失うだろうし、逆に野心がなさ過ぎれば名声を失ってしまうわ。
 ケルド 僕らはしっかり心を決めて、真ん中の道を目指さなければいけないんだ。そうすれば、幸せも名声も両方求められるじゃないか。
 シェイラ 言うのは簡単よ。でも、実際は茨の道。
 ケルド 二人して苦労するんだ。どうってことないさ。
 シェイラ(熱情的に。)でも、何があったって私たち一緒にがんばらなくっちゃ。考えかたが分かれちゃいけないし、違った主張もしないようにしなければいけないわ。そういうことが一番危ないの。
 ケルド(笑いながら。)ねえ君、もう少し普通に考えなくちゃいけないよ。そんなことを心配していると、これからの長い結婚生活で、ちょっとした議論さえ出来ないっていうことになっちゃうぞ。
 シェイラ ええ。でも、なるべくちょっとだけにしたいわね、議論。その方が・・・危なくないわ。
 ケルド そう・・・かもしれない・・・
 シェイラ(情熱的に。)ああケルド、貴方を愛しているわ。でも私自分の感情の中に母性的なところが足りないような気がしてるの。いい奥さんになるためには、私貴方の髪の毛を優しくなでてあげられなくてはいけないし、貴方のスリッパを温めておいてあげなくてはいけないわ。でも、私は駄目。私は貴方にキスがしたいし、ずーっとキスし続けていたい。それに、貴方の髪を撫でたりしたくない。くしゃくしゃにしたくなっちゃうの。(シェイラ、実際にそうする。)
 ケルド(激しくキスを返して。)なんてかわいいんだ君は。素晴らしいよ、君は。僕は、僕は・・・ああ神様。(激しいキスで言葉がしゃべれない。)
 シェイラ(笑いながら、体を離そうとよじって。)駄目よ、ケルド。二人とも髪、こんなにくしゃくしゃになって。オリーヴが二階の人たちと戻ってきたらどうするの?
 ケルド いいじゃないか。君が最初に僕の髪をくしゃくしゃにしたんだぜ。
 シェイラ 私、そうしないではいられなかったの。貴方の髪の毛なのよ、くしゃくしゃにしてと頼んでいたのは。なめらかで、平らで、そして(両手をこすり合わせながら。)ポマードのついた貴方の髪の毛が。
 ケルド ロンドン一の床屋だよ、これをやってくれたの。匂いを嗅いでごらん。(と頭を突き出す。)
 シェイラ(匂いを嗅いで。)そうね、いい匂い!
 ケルド もし君が普通の子供っぽい花嫁さんだったら、僕がタバコとツイードの匂いをプンプンさせているのが「素敵!」って思う筈なんだ。それから君は、僕のことを「大きくて日に焼けた旦那様」と呼んでくれるかもしれない。なかなか魅力的じゃないか。
 シェイラ いいえ、私嫌い、そういうの。(この時玄関のドアーが開く音がする。)あっ、みんなが来るわ。みんなが来るわ。ね、抱き合っているところを見せちゃいましょうよ。みんなちょっと期待してるんじゃない? 私、人を失望させるのって嫌い。
(二人抱き合う。オリーブ、ナオミ、エドマンド登場。ナオミは色黒で、やせぎす。しかし特別目立つほどでもない。エドマンドは長身でやや暗い表情の男。ケルドとシェイラはきまり悪そうに離れる。が、ちょっとわざとらしい。)
 ケルド 参ったな。ぼ、ぼくは・・・
 シェイラ 玄関の音、聞こえなくて、私...
 オリーブ いいのよ、格好つけなくても。キスしているとこなんか誰に見られたっていいと思ってるんでしょう。バスの中だって我慢できなくて、貴方方しょっちゅうキスしているじゃない。
 シェイラ 嘘よ、それ、オリーブ。あれはたった一回。それにバスの中じゃないわ。通りよ。見てたのは老人一人だったし。
 オリーブ 分かったわ。その話はこれで打ち切り。ところで皆さん、お知り合いだったわね? 少なくとも名前だけは。こちらナオミ・バスィントン、シェイラ・ブランドレス、エドマンド・クロウ、ケルド・マックスウェル・・・形式、形式・・・紹介なんて大嫌い。さ、お話にしましょう、皆さん。おかけになって。ケルド、煙草を皆さんに配るの、貴方がやって。今夜は私、皆さんをおもてなしする気力がないの。シェイラが興奮していて、それを抑えるのに力を使い果たしちゃった。この何日か、シェイラと一緒に街を歩いていると、心配でたまらなかったの。興奮のあまり突然町中(まちなか)で叫び出すんじゃないかって・・・
 ナオミ ミス・ブランドレス、貴方、随分勇気がおありだわ、結婚なさるなんて。私にはとても無理。
 ケルド 何故です?
 ナオミ エドマンドも私も、愛というものの価値をよく知っているからよ。多分誰よりもね。結婚という鎖で愛を束縛するのは冒涜じゃないかしら。
 シェイラ 結婚が束縛だなんて考えてないわ、私もケルドも。個人的な考えを言えば、結婚しないで二人で暮す方がずっと辛い事が多いんじゃないかしら。普通の人は、自分は正しい生き方をしているんだって思っているのよ。そういう口さがない連中の軽蔑の対象になるなんて、私、嫌いだわ。
 エドマンド だけど、陳腐でしょう? そういう考えは。
 シェイラ 世間的な成功を収めていない人にとっては陳腐でしょうね。でも、私達は成功して、名声を得ているの。だから、同棲だなんて、後ろ指を指されて他の有名な人達とつまらない差をつけられたくはないの。それに結婚・・・何だか幸せな感じだもの。
 ナオミ もちろん損得勘定で言えば、結婚するにこしたことはないわ。一般大衆は結婚さえしていれば納得するんだから。でもその「納得させることが出来る」っていう事そのことが、罠でもあるの。人は愛からでなく、他人を納得させるために結婚してしまう。そこだわ、怖いのは。
 オリーブ(笑いながら。)今の議論は「結婚式とは、大衆を欺く隠れ蓑」ってことになるわ。明日の行事という点から見たら、これ、飛び切り上等の議論ね。
 ナオミ あら、ごめんなさい。ちょっと喋りすぎたみたい。エドマンドと私、あんまり幸せなので、他の人もそうなるようにお手伝いするのが、私達の義務だって思っちゃって、つい・・・
 ケルド 匂いのきつい方がお好みですか?(タバコ箱を奨める。)
 ナオミ(一本取って。) 有難う。
 シェイラ あら、どうぞ話を続けて。私達ちっとも気にしてないわ。そうすると、あなたの持論は愛は自由であるべきだってこと?
 ナオミ(力を籠めて。) 完全に、どんな時でも自由。
 ケルド(ナオミのタバコに火をつけながら。)自由に入れる国立博物館か。あそこはただだ。
 シェイラ 馬鹿なこと言わないで、ケルド。
 オリーブ 個人的には私、シェイラの意見に賛成よ。ケルド、火をお願い。
 ケルド はい、どうぞっ!(オリーブのタバコに火をつける。)
 シェイラ さてと、もうひとつの論点は子供の問題ね。私、子供を作って世の中に送りだすこと自体、とても残酷なことに思えるの。でも、その子供に、さらに私生児というレッテルを貼って送り出すのは、侮辱まで加えることになるでしょう?
 ナオミ 今の時代、それはちっとも問題じゃないでしょう? 私、自分が私生児だったとしても、ちっとも構わない。あなた、私がそんなこと気にすると思う?
 シェイラ あなたは気にしないでしょうね。でも、貴女の娘や息子が大きくなったら、違う考え方をするかもしれないわ。もちろん今のところ「私生児を忌み嫌う」という慣習を世の中全体で抑えているわ。だから、差し当っては問題はないかもしれない。でも、この慣習が、ある日再び、頭を持ち上げて来ないとは誰も保証出来ないわ。
 ナオミ ええ、でもとにかく、エドマンドと私、子供は作らないことにしたの。
 ケルド 慈み深い神様への深い信仰は大きな心の慰めになるでしょうね。
 エドマンド(あらかじめ示し合わせていた風に。)そうそう、神様で思い出した。ナオミが新作を出したんです・・・「運命に翻弄されて」・・・お読みになりました? 先週出たんです。
 シェイラ ご免なさい。まだ読んでないわ。
 ナオミ 興味がおありでしたら、一冊お送りしますけど・・・御感想をお聞かせ下されば嬉しいわ。
 シェイラ それはどうも有難う・・・
 ナオミ もちろん私、あの作品で、少し言い過ぎてるかもしれないけど・・・でもボヘミアンのことを少しは弁護しなくちゃ気がすまなくって・・・
 ケルド ボヘミアンなんていえる人種、まだ残っているのかな。いつだったか、夜、ボヘミアンを見たくて、カフェ・ロワイヤルにしけこんでみたんだ。長髪で、アブサン漬けになって、真っ赤な口紅を塗った女たちと次々に抱擁を交(かわ)している・・・そんなボヘミアンをね。だけどそんな奴、一人もいやしない。いたのはただ、ギネスを飲んでるケチなパブリカンばかりだったよ。
 オリーブ 貴方なんて言ったの、パブリカン? それとも、パブリッシャー?・・・
 ケルド パブリカン・・・居酒屋党の連中。パブリッシャー・・・出版屋か。あの連中、アルコールなんか見向きもしない。ちょっと飲んでくれた方が物分りがよくなって助かるんだけどね。
 エドマンド 連中、作者の、読者へのメッセージなんてまるで理解出来ない。そういう程度の低い奴等に作品を送らなきゃならないなんて、胸が張り裂けるよ、全く。
 オリーブ 私の場合、読者へのメッセージを作品に織込むなんてこと、とうに諦めちゃったわ。でも、「ただの売り子」だけは例外。これ、私の作品の中で一番の傑作。一万八千語の作品だけど、ロンドン中の出版社から断られたわ。「ファイアサイド・ファン」でさえも断ってきた。
 シェーラ え? あんなひどい所にまで送ったの?
 オリーブ(手を上げて。) 駄目駄目。「ファイアサイド・ファン」の悪口だけは止めて。あの雑誌、私の小説は嫌いかもしれない。それに、「ただの売り子」の持っているペーソスや味わいとは無縁の紙面を作っているわ。でも、なかなかいい雑誌じゃない? 表紙にはそう謳(うた)ってあるし、それで中味も想像がつくってものよ。
 ナオミ 私「家庭の幸福」の編集長を知ってるわ。もしよかったら・・・
 オリーブ いいえ、もうあそこには送ってあるの。あそこはもっと親切だった。「お宅様の小説は、私共の取り扱っておりますタイプと違いますので」って言って来たわ。それから、私の文章のスタイルは好きだって。「子供欄に童話を書いて下さいません?」とも言ってきたの。
 ケルド 失礼しちゃうよ、全く。「ただの売り子」の価値が分かってないんだ!
 オリーブ そうでもないの。私を元気づけたいと思っているの。多分、私に「オリーブおばさん」の役をさせたいと思っているのよ。聞いて、こんなのだわ。可愛いヒヨコちゃんたちへ!・・・笑っちゃうわね・・・今週の懸賞のお知らせでーす。やることは簡単! この号をあと十八部買ってね。それからパパとママにあと十八部買ってもらってください。次に二十三ページにあるクーポン券をぜーんぶ切り抜いて、その券の上にあなたの好きなお花か小鳥ちゃんの絵を画いて次の宛先に送って下さい。・・・「クラーケンウェル市パラダイス通、十五番地「家庭の幸福」社レディー・グッドハート係行」。何が当るかって? それはあとのお楽しみ! じゃーね、みなさん。来週はちっちゃなアルバートのお話がありますよ、待っててね。オリーブおばさんより・・・どう? 素晴らしいでしょ?
 エドマンド 罪もない子供たちを騙すなんて、全くけしからん。何て奴らだ、あの編集者の野郎どもは。
 シェイラ 子供たちって、こういうの好きなんだと思うわ。私もそうだったもの。
 ケルド あのう、とっても言いにくいんだけど、僕そろそろ帰って寝てもいいですか?
 シェイラ あら、どうしたのケルド。
 ケルド どうぞ皆さん止めないで下さい。僕たちいよいよ二人の人生を生きようとしているんです。それも、二人の命の尽きるまで。今夜は早く寝て、その勇気を養うんです。
 シェイラ(笑いながら。) 貴方って勝手。
 ケルド ともかく行くよ。じゃ、おやすみ、シェイラ。(彼女に優しくキス。)
 シェイラ おやすみ、ケルド。
(ケルド、ナオミとエドマンドと握手。)
 ケルド じゃ、オリーブ。(キス。)
 オリーブ おやすみ、ケルド。ちゃんと眠るのよ。
(ケルド、笑って退場。シェイラ、ケルドの後について退場。)
 ナオミ 私たちも、もう失礼しなきゃ。
 オリーブ あら、まだ早いじゃないの。
 ナオミ(立ち上がりながら。)今夜であなた、ミス・ブランドレスとはお別れなのね。二人だけでお話があるわ、沢山。お淋しいでしょうね、これから。
 オリーブ ええ、あの子がいなくなるのはね。
 エドマンド(オリーブと握手して。)おやすみなさい、ミセス・ケネディ。お呼び戴いて有難うございます。
 オリーブ どう致しまして。また来てね。私のことを元気づけに。
 ナオミ 喜んでお邪魔しますわ。
(二人、ドアーへ向かう。帰って来たシェイラと出会う。)
 ナオミ あ、ミス・ブランドレス、どうぞお幸せに。愛ね。愛が大切だわ。それさえあれば、何も怖くない・・・
 エドマンド お休みなさい。お幸せに。
 シェイラ 有難う。お二人とも御親切に。
(ナオミとエドマンド退場。二人を見送るためにオリーブ、一緒に退場。それからオリーブ、戻って来る。)
 シェイラ(椅子に沈み込んで。)人が親切で優しいって、好いことね。でも同じ挨拶の繰返しにはうんざり。「おやすみ、本当に有難う。」「有難う、おやすみ。」
 オリーヴ どうしても単調になっちゃうのね。抑揚が大事なんだわ、きっと。「おやすみ、有難う。」「おやすみ、有難う。」
 シェーラ いや、もう。そんなのもう一度聞いたら、私、怒り出しそう。
 オリーヴ さあ、いよいよ私達二人のお別れの場面ね。ちょっと涙を誘うような台詞を言い合って、それでお互い、自分のベッドに潜りこむのよ。
 シェイラ ああオリーヴ、何て酷い話。このアパート、そこでのあなたとの生活、それが今夜で終わるのよ! 惨めだわ、私。
 オリーブ(笑いながら。)「惨め」・・・まあまあ、あなた、今のその自分の顔を鏡で見たらいいのよ。口で言えないぐらい幸せ一杯のその顔。それに、酷いことなんかちっともないの。旦那様を持つんじゃないの。強くて、あなたの言うことを聞いて、あなたを尊敬する旦那様を。それから、無限に続く愛とロマンス・・・私は独りぼっちで取り残されるのよ、シェイラ。本当に独りぼっちで。あなたの方はどう? 豪華な晩餐会やレセプション、招待客にご挨拶をするために、あなたは素敵に着飾って階段の最上段に立っている。私はって言えば・・・
 シェーラ 立派なお客様をどこにお招きしようかしら。お風呂場は駄目。階段も狭過ぎて駄目。そう、やっと玄関ホールね。
 オリーヴ 今のことじゃないの。貴方方二人が大成功して、パーク通りに立派なお屋敷を構えたときのこと。
 シェイラ 嫌ね。私が一番嫌いなことよ。あそこのお歴々と一緒に住むつもりは無いわ。
 オリーヴ ああ、シェイラ、あなたが行っちゃうなんて、嫌だわ、わたし、本当に。
 シェイラ どうしてそんな悲しそうな顔を・・・結婚ぐらいで私たちの関係が変わるわけないじゃないの。今までとちっとも変らない筈よ。
 オリーヴ そのことじゃないの、私が考えているのは。
 シェイラ じゃ、何なの?
 オリーヴ(唐突に。)私、これを言わないと良心が咎めて・・・あなたには聞きづらいかもしれないけど・・・忠告・・・忠告を言わせて頂戴。あなたが冗談めかして聞いたりしたら、私、やり難くなっちゃう。だから、お願い。真面目に聞いて。
 シェイラ ええ、分った。真面目に聞くわ。
 オリーヴ じゃあ言うけど、私の心の中には、「人生の警報器」が埋め込まれているの。勿論普段は籠の中にきちんと収めてあって、表に出すようなことはしないわ。でも、ちゃんと心の、ここにあるの。今までの人生経験の一つ一つが、その警報器をより敏感なものに作り上げてきたわ。そして、ちょっとでも問題が起りそうな空気が窺えると、それが鳴り出すの。で、今それが鳴っているの。
 シェイラ オリーヴ、あなた、今夜はひどく元気がないわね。
 オリーヴ これからもっと酷い台詞になって行くわ。会話の途中で私、「これ、あなたのためを思って言ってるの」だとか、「友達の義務として言うのよ、これは」なんて言ってしまいそう。それどころか、うまくあなたに乗せられてしまったら、私、「あなたはこの世でたった一人。私、あなたの母親代わりに・・・」とまで言うんじゃないかしら。
 シェイラ あら、冗談めかしているのはそっちじゃない?
 オリーヴ まあいいわ。とにかく警報器が私に鳴らしている警報はね、「二人のエゴイストが結婚すれば、片方がよっぽど犠牲になる覚悟をしない限り、間違いなく破綻する」っていうこと。
 シェイラ 犠牲って、どんな犠牲?
 オリーヴ 具体的に言えば、ケルドとあなたのどっちかが、自分の個性の相当部分を犠牲にしなければならないっていうこと。甲乙つけがたい能力のあるカップルの場合、二人のうちどちらかが、自分を犠牲にしない限り、お互い苛々せずに暮らすことは難しいの。これは心理学からいっても不可能なのよ。
 シェイラ あなた、私たち二人の才能は、大体同じくらいだと思っているの?
 オリーヴ とんでもない。あなたの方がずっと上だと思っている。だから、どちらが譲るかといったら、それはあなただと、私、予言するわ。
 シェイラ あなたの言いたいことは分かったわ。でも私、賛成できない。私はケルドを愛しているし、あの人も私を愛してくれている・・・一見(いっけん)そう見えないかもしれないけれど、心の底深く。それにあの人、とても優秀だから、私の仕事、私の個性は大切にしてくれる筈。それを捨てろなんて、言う訳がないわ。
 オリーヴ それに反論するのは難しいわ。精々、私には結婚の経験があり、あなたには無いということを、ちょっと強調して言うほか無いわね。
 シェイラ そう。あなた、やっぱり私達を皮肉な目で見ているの。ケルドと私は違う、確かに。でも、私達、議論して議論して、その結果やっと本当の愛と友情を実感したの。だから、お互いの邪魔をするんじゃなくて、お互いの知性と仕事を認めて励まし合って行くつもりなの。このことについては、よく話し合ったわ。私たちは盲滅法(めくらめっぽう)に結婚するんじゃないの。一目惚れで結婚するわけでもない。恋愛結婚は恋愛結婚よ。でも私たちの愛は肉体だけのことじゃない。精神的な愛でもあるの。私はケルドの知性を私の知性と同じように愛しているし、彼の方も同じなの。
 オリーヴ 「彼の方も同じ」って、そこのところが問題なのよ、シェイラ。「彼も同じ」なんて、それは無理なの。男って、最初はそう見える・・・本当に男ってそう・・・でも、そのうち間違いなく化けの皮が剥げるの。これはあなたのためを思って言ってるの。
 シェイラ あーら、予告通り言ったわね。そう、確かに「私のためを思って」言って下さってるわ。でもこれ以上深刻な話は止めましょう。今夜は私の独身最後の夜よ。結婚式の前の晩に心理学的な議論なんて、それだけで気分がよくないわ。女なら誰でもそうよ。今日のお昼、食事の時、ケルド、素敵だったわ。可愛い花婿さんそのもの。テーブルの下で私の手を握りっぱなしだったの。「もうすぐだね、可愛い奥様は」・・・って。ね、可愛いでしょ? 彼。
 オリーヴ ええ、まあね。
 シェイラ 私は恥づかしそうに彼を見つめて、書いたことがあるのは洗濯物と書斎の本のリストだけっていう振りをしていたの。
 オリーヴ もしあなたが、書くことをすっかり諦めなきゃならなくなったら、酷いことじゃない?
 シェイラ それ、どういう意味?
 オリーヴ そうなる可能性があるわ。
 シェイラ まさか。あなた、分ってないの? 書くことは私の最大の幸せよ。今私は書いている。それは老後に使う鍵を用意していることなの。年老いて、自分に将来がなくなった時、今度はその鍵を使って過去への扉を開くの。
 オリーヴ それが出来るかどうか。
 シェイラ 勿論出来るわ。だってそれは私の楽しみなんだから。
 オリーヴ ええ、分るわ、でも・・・
 シェイラ ケルドには今までどおり書いてもらうつもりよ。あの人、必ず成功するわ。あなただって彼の書いたものを見れば分かるでしょう? まだ若いんだし。・・・彼のお芝居の初日には必ず行くわ。考えてもみて、その時の興奮を。ロンドン中が彼を批判して、潰(つぶ)しにかかる。でも、彼らには勝ち目が無いの。だって興行は成功するんだもの。それも、とてつもない技術的な大成功。そして、私は初日に、自分の席で、台詞の一つ一つを味わうの。そして観客の笑いと拍手を待っているの。
 オリーヴ あなた、ケルドの書くものが本当にいいと思っているの?
 シェイラ ええ、思っているわ。センスがいいの。素晴しい演劇のセンス。勿論それが一番大事なことだけれど、台詞もいいのよ。ウィットにあふれている。構成面で難がある時があるけれど、それはたいした問題じゃないわ。心を込めて書かれていることのほうが大切。
 オリーヴ(疑わしげに。)違うわね。それは違うと思う。
 シェイラ あなた、ケルドを嫌っているのよ。きっとそう。
 オリーヴ 馬鹿なこと言わないで、シェイラ。私、彼のこと好きよ。あなたを連れて行っちゃう人だってことで減点になるけど、そういう人としては彼以上の人はいないわ。こんな言い方酷いけど、私達、ここに一緒に住んで最高に幸せなときをすごしたわ。でもこれでお別れ。私、「別れ」って嫌いなんだもの。
 シェイラ でもほんのちょっとの別れよ、オリーヴ。
 オリーヴ あなたがいないなんて寂しい。恐ろしいくらい。
 シェイラ ああ、オリーヴ!(キスをする)。私がいなくても大丈夫なように考えるわ、私・・・ちゃんと・・・
 オリーヴ そんなこと考えてくれるの最初の何・・・年かだけよ。
 シェイラ 今あなた「最初の何・・・週間」って言いかけたでしょ? そういう風に言葉が出掛かっているのが分かったわ、私。でもそんなこと無い。もっと長く続くわ。(テーブルの上のケルドの写真・・・大きな額に入っている・・・を見つめて)彼って何て素敵なんでしょう。
 オリーヴ 可愛いわね(皮肉を込めて言う。)
 シェイラ オリーヴ、あなた何か理由があって彼のこと気に入らないんでしょう? それが何なのか、私知りたいわ。
 オリーヴ 彼のこと気に入らないなんて、全然ないわ。本当よ。でも・・・なんでしょうね・・・そう、才能はある。あることはあるけど、でもあなたの才能には比べようが無い。それから、才能のほかには、情(じょう)ね。情はある、あなたよりも。でも私、あなたの知性が好き。あなたはその気になりさえすれば、「偉大」になれる人。ケルドは「偉大」にはなれないの。
 シェイラ でもね、オリーヴ・・・
 オリーヴ いいえ、もっと言わせて。彼は、成功はするでしょう。ものすごい成功かもしれない。でも「偉大」にはなれないの。私が一番心配しているのは、あなたが彼の作品に惚れ込み、好きになるにつれて、自分自身を失って、ついには壁にぶつかってしまうことなの。彼の方は、作品を書くのにあなたの知性まで使うことになる・・・それが心配なの。
 シェイラ 私の知性なんて必要ないのよ、あの人には。あなた分かっていないの、オリーヴ。私が仕事を止めるなんて、馬鹿げているわ。あの人と私、いつでも何をやるのも協力し合うの。さっきあなた言ったわね、私が、自分の意志で、書くのを諦めやしないかって。今度は、彼が作品を書くのに、私の知性まで使うことになる、なんていっている。これははっきり言うわ、私、そのどちらもやるつもりはありません。私、彼のことを愛し過ぎているものだから、彼に譲るなんて、出来ないの。
 オリーヴ たぶん逆ね。あなた、彼に譲り過ぎて、最後には愛することも出来なくなる。
 シェイラ それ、名言のつもりね。これ以上そんなことを言ったら、私、何か大事なものを壊しちゃうから・・・
 オリーヴ それは駄目。ここは家具つきのアパートですからね。
 シェイラ あなた、そのうち私が彼を愛さなくなるって思っているけれど、間違っているわ。私はそんなことにならない。ここ数年私は恋愛を冷やかしてきた。人の書いた恋愛小説には辛辣(しんらつ)な批評を書いたものだわ。恋心を茶化し、愛の情熱を馬鹿にしていた。でも私、敵(かたき)をうたれてしまった。恋心、愛の情熱、いいえ、愛そのものが、私に馬鹿にされて、絶望のふちまで追い込まれて、激しい勢いで立ち上がって、私に飛び掛ってきたの。私が馬鹿だってことを分らせるために。これだけは確か・・・愛は私を捕(つかま)えてしまった。私はもう逃れることは出来ない。ケルドは死ぬかもしれないし、私を忘れて他の女と出て行ってしまうかもしれない。でも何があろうと私は彼を愛し続けるの。これ、私が愛をあざ笑ったことの報いなの。私は最後には、そのせいで地獄へ落ちるかもしれない。でも私は彼を愛するわ、いつまでも、いつまでも、死ぬまでずーっと愛し続けるの。私が愛を軽蔑した報いなの、これは。
 オリーヴ そうね・・・ともかく、あなたにとっていい経験になることは確かよ。だれかに何かを運んでくる悪い風ね。私も出来ることならそういう病気にまともにかかってみたかったわ。まだ罹(かか)りそこなっているけど。
 シェイラ あなたには罹って欲しくないわね。今のあなたの言葉、本当に苛々するわ。
 オリーヴ そうね。でも、時には平凡な言い回しを信じてみるのも気が楽になっていいわね。「結婚は運次第」・・・他にもあったわね。私なんだか清々したわ。そろそろ寝ましょうか。
 シェイラ 寝ましょう。でも私、眠れそうもないわ。
 オリーヴ 大丈夫。眠れるわ。駄目だったら本を読めばいいのよ。ウェルズの「結婚」がナイトテーブルにあるわ。あなたを元気づけようと思って、私、置いといたの。さあ、いらっしゃい。
 シェイラ ええ。
(二人、扉の方へ向かう。突然シェイラが振り返る。テーブルに走って戻り、ケルドの写真を取り上げる。)
 オリーヴ(笑いながら。)もうすぐ若奥様ね!
                   (幕)

     第 二 幕
(第一幕のあと六箇月が経っている。)
(場 高級住宅地ベルグレイヴィアにあるケルド・マックスウェルの書斎。非常に居心地よく内装された部屋で、革張りの肘掛け椅子のセットと大きなデスクがある。壁には書棚がはめ込まれており、書物がぎっしり詰まっている。大きな暖炉。炉格子の周りを火除けついたてが囲んでいる。幕が上がるとケルドが忙しそうにタイプをたたいている。そこへドアをノックする音。)
 ケルド(上の空で。)どうぞ。(もう一度ノックの音。ケルド苛々して。)どうぞ!
(バレッジ登場。髪の毛は灰色で、家政婦か料理人か部屋女中といった感じ。)
 バレッジ すみません、旦那様。今夜の夕食なんですが、家で召し上がりますか?
 ケルド 朝食をたっぷり食べたばかりだ。そんなことを聞く時間じゃないだろう?
 バーレイン 何を召し上がりたいか知りたいと思ったものですから、旦那様。
 ケルド 君の言いたいことは分かった、バレッジ。しかしだね、ちゃんとした家では、夕食というものは、主人が居ようが居まいが、決まった時間にテーブルに出てくるものなのじゃないのかい?
 バレッジ それはとても不経済なことですわ。お分かりでしょうが・・・
 ケルド 多分そうだろうね、バレッジ。でも僕はこまごました家計のことについては君ほど関心が無いんだ。僕にはもっと大事な、いや、少なくとも同じくらい大事な仕事があるんだ。その話は奥さんとしてくれないかな。
 バレッジ 奥様は今日の午前中一杯お忙しくなるからと言ってらっしゃいます。
 ケルド ふーん、そう。よし分かった。私も忙しい。何なら二人とも夕食抜きにしよう。
 バレッジ(頑として。)そんなことにはなりません、旦那様。最悪の場合には、昨日の残りのマトンが・・・勿論冷えていますが・・・ありますから。
 ケルド 有難いことだね、僕の元気の元だよ。
 バレッジ 温めればなんとか、食欲をそそる色艶にはなると思いますが。
 ケルド 見ただけでよだれが出てくるような色艶になるさ。是非温めるんだな。
 バレッジ じゃ少しお野菜も入れてキャセロールにしましょうか。
 ケルド マトンをどう料理するか、あれこれあれこれ、よく出て来るものだね。こっちはもうそんなことはどうでもいいんだ。君に全面的に任せるよ、バレッジ。極端に言ったら、最後はマトンを捨てちゃうことだって君の自由だ。ともかくこれ以上僕にその話をしないで欲しい。僕は酷く忙しいんだ。
 バレッジ(傷ついて。)私は旦那様に相談するのが一番いいと思っただけなんです。
 ケルド そう、相談するのがよいと思ったところは実に正しい。僕も君がそう思ってくれて光栄だ。しかし、相談にも時と場所があってね。君は一番悪い時を選んだんだよ。今朝僕が風呂に入っているときとか、お茶を持ってきてくれたときなんかに、それとなく気をそそるように「マトン・・・」って呟いたりしてくれていたら、きっと上手くいったんだ。僕は知的興味をそそられただろうし、お互い傷ついたり、嫌な思いをしなくてすんだんだ。大体僕はこういう料理の問題などは、どう考えていいのかさっぱりなんだ。お願いだからもう行ってくれないか、バレッジ。
 バレッジ 分かりました。すみませんでした。旦那様。
 ケルド あのねえ、謝ることはないんだよ。料理は君の仕事だ。その話をしたいっていうのは自然なんだよ。ただね、もし僕が君を相手に芝居の筋書きについて議論を吹っかけたりしたら、君はうんざりするだろう? いや、うんざりするに決まっている。だから僕にマトンの話をすれば同じことになるだけなんだよ。さあ、行ってくれ、バレッジ。
 バレッジ さっきから、行けと仰ってはお話なさるんですもの。私出て行けませんわ。だってそんな時に、失礼ですもの。
 ケルド そう。喋っている時に出て行くのは失礼だ。しかしね、そう君のように、全身耳のようにして聞かれると、こっちはついつられて何時間でも喋ってしまう。これじゃお互い、何も仕事が出来やしない。頼むから僕の会話の罠(わな)を破って抜け出てくれ。失礼でも何でもいいよ!
 バレッジ(少しむっつりとして。)分かりました、旦那様。(決然と退場。)
(ケルド、タイプライターに向かって仕事を続ける。が、すぐに玄関のベルが大きく鳴る。ケルド飛び上がる。そして耳をそばだてる。玄関のノッカーを鳴らす大きな音。外で人声。それから、書斎のドアをノックする音。)
 ケルド(つっけんどんに。)どうぞ。全く何てこった。
(バレッジ登場。)
 バレッジ ミス・レイモンドです、旦那様。
 ケルド ミス・・・誰?
 バレッジ ミス・レイモンドです。ルビー・レイモンドって仰ったと思います。
 ケルド ああ、分かった。入ってもらって。
 バレッジ 畏まりました。
(もう旦那様とは関わりませんからね、という態度で退場。すぐに再登場して、「ルビー・レイモンドさんです」と告げ、退場。) 
(ルビーは美人。服装もよい。非常に普通のタイプ。しかし、間違いなく魅力のある女。)
 ルビー(美しい発音で。)ご免なさい、こんなに早い時間に、ミスター・マックスウェル。どうしてもお目にかかりたくて、お出かけになる前にと思ったものですから。すみません。
 ケルド 構いませんとも、ミス・レイモンド。どうぞお掛けになって。
 ルビー 有難う。(いすに腰掛けて、黒テンのコートの前を緩(ゆる)める。)この時間だと普段は私、まだ起きてないの。でも、たまには十一時前に外へ出てみるのもいいものだわ。
 ケルド 煙草、如何ですか。
 ルビー いいえ、結構。声のためによくないので、お昼を食べるまでは吸わないことにしているの。
 ケルド 時間が違うと何か違ってくるのか。それは知らなかったな。
 ルビー 本当の事言うと、そう違いがあるわけじゃないの。ただ朝のうちにタバコを吸ってしまうと、私きっとやめられなくなってしまう。ご存知でしょう?「悪癖は一度の経験からって」(大声で笑う。)それはそうと、貴方の午前中の時間をあまり邪魔しちゃいけないわ。ものすごくお忙しい筈ですもの。私、リハーサルがいつから始まるのか、それを貴方に教えて戴きたくってやって来ましたの。チャーリー・ベイカーには聞きたくないの。だってあの人きっと、私が何のためにそれを聞くのかって訊くわ。絶対訊く。マネージャーって厭。何でも聞きたがるんだから。ここだけの話ですけど、実を言うと、私二三日フリントンに行くことにしてるの。
 ケルド 稽古は次の月曜からじゃないかな。これは連中、本気だと思う。
 ルビー あら、そう。じゃ、それまで一週間近くあるわ。貴方、私がどこにいるか漏らさないわよね? チャーリーがうるさいの。分って下さるわね?
 ケルド マネジャー以上の何かなんですね? チャーリーって。
 ルビー ええ、私に惚れてるのよ。ドディーのパーティーで会ってからずっと。ドディーのこと、御存じ? 彼、素敵なパーティーを開くのよ。
 ケルド 知らないな、ドディーは。
 ルビー 素敵な子よ。とにかくチャーリー、今はもう、私のことを一人にしておいてくれないの。ミュージカル・コメディーを止めたら私、もうこういう煩わしいことからはすっかり足を洗いたいって、真剣に考えたわ。
 ケルド まあまあ、ミス・レイモンド、そういう煩わしいことから足を洗えるあなたじゃないでしょう? 洗ったりしたら、後悔するに決まってますよ。
 ルビー(笑う。)あらまあ、どうしましょう! 私、作家の先生とお話していたんだわ。忘れていた。私のこと、ずーっとお見通しだったのね。厭だわ。ええ、ここだけの話ですけど、チャーリー、あれから私にうるさくつきまとって・・・
 ケルド ああ、それは気がついたな。先週の本読みの時。契約出来たのも彼のお陰?
 ルビー ええ、まあ、あの人のお陰。私、長いことミュージカルの本舞台に立ちたいと思っていたの。あの人が全部、サンプソンと掛合ってくれたの。
 ケルド これが僕の初めての芝居、そして、君の初舞台がこの芝居・・・出発点が共通とは、二人に縁があるってことだね。
 ルビー まあね。話は違うけど、アイリーン・ハリソンってどんな人?
 ケルド 舞台の上で? それとも、普段?
 ルビー 普段。私、どういうところに入って行くのか、前もって知っておきたいの。
 ケルド 彼女はとても魅力的だ。僕は二回しか会っていない。だけど勿論、あの役は見事に演じるだろうな。ただちょっと、冷たい感じになりがちだ。それが気になるけど。
 ルビー それよ、私が言いたかったこと。それにあの人、着るものの趣味がもうひとつよね。ちぐはぐなのよ・・・酷く。あの人、「メゾン・リヨン」に出ているけど、あの第二幕のあの人の衣装見た? 一人飛んでたわ。
 ケルド 楽しみだね、僕は。君と彼女が同じ舞台の上でどう演じるか。
 ルビー 私、あの人と一緒でも別になんとも思わないわ。もっとも私にやきもちを焼くかもね。でも、それは私、どうしようもないわ。
 ケルド 彼女、やきもちを焼くかな?
 ルビー 人って分らないものよ。「キス・グラニー」の初日の夜、あのスィスィー・ネヴィル、あの人ったら何をやったと思う? 私たちいい友達だったのよ。それなのに、私の写真を台所の流しの前に張り付けたのよ。あのホレイショー・ボトムリーの隣のレストランの流しに。
 ケルド そりゃあ、かなり酷いね。
 ルビー そうよ! それに楽屋のことであの人大騒ぎ。私が結局三階に行くことになった・・・それは別に私、何とも思っちゃいないの。可哀想なのは守衛よ。あの人と大喧嘩をして、挙げ句の果てに、私のために三階までエッチラオッチラ色々運んだんですからね。本当に可哀想。
 ケルド 守衛に同情するなんて、君、愛国の士だね。
 ルビー あら、それ皮肉ね。そうに決ってる。でも私、貴方がこんなにいい人だなんて思ってもいなかったわ。ここだけの話だけれど、ここへ来るの、少し怖かったの。本当にどうして私、来たのかしら。チャーリーの鼻を明かしてやりたかったのが半分、後の半分は、芝居の作者と仲良しになろうとしたのね、きっと。
 ケルド(大笑いして。)君はすごい人だね、確かに。とにかく後ろの半分は成功しているよ。チャーリーの鼻が明くかどうかは僕には分らないけど。
 ルビー チャーリーなんてどうでもいいの、本当は。
 ケルド だけど君、少しは彼の気を引いているんじゃない?
 ルビー そんなことしてないわ。ただ毎日昼食に私を誘うから、ついて行っているだけ。ソーホーで知ってる洒落たレストランを次から次に教えてくれるの。でも私、クラリッジは好きじゃないわ。あそこ、お高くとまっているでしょう? だから。
 ケルド そうだね。給仕たちもみんな退役将校の息子でございっていう感じ。
 ルビー(立ち上がって。)あら、私もう行かなければ。貴方の大事な時間だっていうのに、すっかりお邪魔しちゃって。
 ケルド(急いで。)もう行くなんて、それはないよ。ちっとも邪魔なんかじゃない。君がここにいてくれて、僕は嬉しいんだ。
 ルビー(再び坐って。)分ったわ。でもチャーリー、何て思うかしらね、私がこんなところに来ているって知ったら。きっと私が貴方に、私のために芝居をちょっと書き換えて下さいって頼みに来たんだと思うわ。
 ケルド ハハーン、君の狙い、それ?
 ルビー(笑いながら。)腹を見すかされ、女優、慌てて退場、というところね。そう、本当は私、書き直して貰いたくて来たの。大受けを取ってみたいの。でも、私の役はたいしたものじゃないから・・・
 ケルド 実を言うとね、君のために全く新しいシーンを書こうとしていたんだ。第二幕の終りのところ、あのままだとちょっと尻切れとんぼでね。だから、あそこで、君をもう一回出してスィルヴィアに洗いざらい話させようかって思ってるんだ。
 ルビー 素敵だわ、それ。それならぐっと来るんじゃない?
 ケルド そう。それに勿論、笑える場面にもなる。うまく行くと思うんだ。
 ルビー アイリーン・ハリソンよね? スィルヴィアをやるの。
 ケルド そうだよ。
 ルビー 厭だわ。
 ケルド え? どうして?
 ルビー 分らないけど・・・あの人、出たとたん、笑いがパッと止まるような役者じゃない?
 ケルド それは違うんじゃないかな。それに、最初から偏見を持ってやったんじゃ、君自身が困ることにもなるよ。
 ルビー 私、困ったっていいの。私が勝ちさえすれば。二幕の終りのところ、もう少し話して。もう書き終えたの?
 ケルド いや、まだ大枠だけだ。でもとにかく、君はジャックを諦(あきら)めて、スィルヴィアには許しを請う決心をする。ちょっと湿っぽくもなるけど・・・
 ルビー いいわ、それ。素敵よ。でもどうしてそんな風に書けるのかしらね。頭いいわ。そんな風に書けるようになれるんだったら、私、何を捨ててもいい。
 ケルド だって、君は歌えるし、踊れるし、演じられるじゃないか。
 ルビー 演じるのは貴方、まだ見て下さってないわ。私、ちゃんと演じたことなんか、まだ一度もないもの。
 ケルド 普段の君そのままの言葉を、君の台詞として芝居を書いてみたいな。
 ルビー そんなことしたら、検閲官にカットされてしまうわ。
 ケルド いや、そこは充分注意して書くよ。
 ルビー 私が本当に演りたいのは、なにか本当にお芝居らしいお芝居。例えば、子供を生んだんだけど、最後の幕まで父親が見つからないとか。あの如何にもミュージカル風の歌を歌うのは、いい加減いやになっちゃたの。泥にまみれたリアリズムが、今はやりたいな。
 ケルド それなら、レパートリーを持つようにしなきゃ。
 ルビー 私、ランカシャー訛りがうまく出来ないの。でも、何か本物のお芝居がしたいわ・・・私、ミュージカルには飽き飽きしているの。
 ケルド この役には満足しているの?
 ルビー まあね。主役じゃないけど・・・私の周りでコーラスが出たり入ったりしないだけでも救いだわ。(突然大声で笑い出す。)
 ケルド どうしたの?
 ルビー 私、自分が何なのか、たった今分かった・・・自分だってコーラス・ガールだってこと。二年前はちゃんとコーラスグループにいた。スィスィー・ネヴィルもそうだったわ。でもスィスィー、ユーモアのセンスはなかったわ。自分を外から見るってことが出来ないのね。だから、自分を笑うことも出来ない。あんな風に物を生真面目に受取るって、馬鹿よ。私の写真を台所に貼って、私が本気で怒ると思うの? あんな意地悪なんて、自分の心が狭いってことを見せているだけでしょう? でも、あの人と私、また仲良くしてるのよ。私の方はこれっぽっちもあの人のことを信用していないけど。「一度騙されると、倍用心」って・・・昔の人、良いこと言うわ。私、本当に行かなくちゃ。フリントン行きの荷造りがあるの。月曜日までお稽古ないのね? きっとね?
 ケルド(ルビーが毛皮を着るを手伝いながら。)うん、ない。
 ルビー 一度お茶を飲みにいらっしゃいません?
 ケルド 嬉しいな、それは。
 ルビー どうぞいらして。私、もう少し私のために書いて戴きたいもの。・・・でも私の役、あんまりきつい女にしないでね。私、本当はちっともきつくないもの。・・・最後の幕で私がポイと捨てちゃう人・・・何ていう人だったっけ・・・その人にも優しいように書いといてね。何が起こってもみんなに親切にすることが大切だと、私、思っているの。親切っていうことが、やっぱりみんなに良い働きをするのよ。私、チャーリーとはもうすぐ別れる。でも「捨てる」とか何とかって言うのとは違うの。そんなことをしたら私、自分を曝(さら)け出しているようで厭なの。だからただ、何もなかったように振舞うだけ。
 ケルド 何もなかったと思いたいね。
(玄関のベルが鳴る。)
 ルビー あら、私の言ってること、分ってるんでしょう?
 ケルド チャーリーにはいつ切り出すの? 彼の幸せをぶち壊す一撃を。
 ルビー 初日の芝居がひけるまでは言うつもりないわ。だって彼、プレス・インタビューを全部アレンジしてくれるんだもの。そんな好い宣伝のチャンスをフイにするなんて馬鹿みたいじゃない。
 ケルド おやおや、ミス・レイモンド。君、随分計算高いんだね。
 ルビー(笑いながら。)チャーリーと長いことつき合っているといやでも計算高くなるわ。
 ケルド じゃ、チャーリーとはつき合わないようにしなくちゃ。
 ルビー フリントン行きのこと、黙っておいてね。
 ケルド そんなこと、言わないよ。
 ルビー 約束ね?
 ケルド うん、約束だ。
(バレッジ登場)
 ルビー 彼きっと怒るわね。ユダヤ人が怒るとどうなるか貴方知ってる?
 ケルド だけど連中、めったに怒らないよ。
 ルビー 恋してると、怒るのと同じぐらいたちが悪いの。あの人に奥さんがいなかったら、私、とっくの昔に、ユダヤ教の教会へ引っ張って行かれてたわ。あの人離婚か何か考えているの。私があの人と結婚したいとでも思っているのね。ここだけの話だけど、私、もっとパリッとした人の方が好き。チャーリーったら、誰にでもペコペコ、ペコペコ。でもまあ、私のマネージャーには違いないけど・・・
(ルビー退場。バレッジ、その後に続く。)
(一人残されたケルド、ちょっと声を上げて笑う。それから、坐って仕事を再開する。シエイラ登場。魅力的だが、服装などがちょっと乱れている。仕事に熱中しすぎて、身なりを整える暇がないという風。)
 ケルド(苛々して。)畜生!
 シェイラ どうしたの、貴方?
 ケルド 朝の気持ちのいいうちにこの場面は仕上げようと思っていたのに、入って来るのは邪魔ばかりだ。
 シェイラ:あら、貴方だってしょっちゅう私の邪魔してるじゃないの。私、鉛筆を取りに来たの。貴方って家中の鉛筆みーんな持って行っちゃってるんだから。(ペン皿から一本鉛筆を取る。)
 ケルド 駄目だ、それは一番いいやつなんだ。
 シェイラ(笑いながら。)あら、鉛筆ぐらい一番いいのを使ってもいいんじゃない? 私。だって貴方は、気持ちのいい仕事部屋もあるし、タイプライターだってあるんだから。
 ケルド 自分用のを買って来ればいいじゃないか、鉛筆ぐらい。
 シェイラ 買ったって、自分では使えないでしょう? みんな持って行く人がいるんだもの。(ケルドにもたれかかってキスをする。)ご機嫌直して頂戴、子羊ちゃん。
 ケルド 静かに書かせておいてくれさえすれば、僕だって機嫌悪くはしないんだ。
 シェイラ 邪魔なんかしてないわ、ちっとも。そうね、今朝ちょっと、一、二回・・・あんまり無理言うもんじゃないわ。(鼻をひくつかせて。)変な匂い・・・誰? ここにいたの。
 ケルド ミス・ルビー・レイモンドだよ。
 シェイラ 誰? その人。
 ケルド よく知っている筈だぞ。前に話したことがある。僕の芝居で娼婦役をやっている・・・
 シェイラ ああ、そうだったわね。私、忘れていた。その人、この香水ずーっと使うといいのよ。その役でならきっと成功するわ。ところで貴方、夕食は家(うち)? それとも外?
 ケルド 外だ。サハラ砂漠にする。
 シェイラ 下手な皮肉。何? 一体これ。何かに怒ってるの?
 ケルド 怒っちゃいない。ただ、同じことを何度も訊かれるとついかっとしてね。
 シェイラ 夕食のこと、私、言ったの、これが初めてよ。
 ケルド そう、君は言ってない。だけどバレッジがね。今朝はここに二回もやって来た。ここの周りで、うろうろして、小娘がやるような質問をするんだ。全く死にたくなったよ。
 シェイラ あの子につらく当たらないで、ケルド。とっても優秀なのよ、召使いとして。
 ケルド 僕の邪魔をしないで、自分の役割を果たしてくれるんだったら、もっと優秀なんだがな。
 シェイラ 貴方、あの子に辛く当ったのね。きっとそう。酷いんだもの、貴方の今朝の機嫌。
 ケルド いや、辛くなんか当ってない。奴はマトンの料理さえやっていれば幸せなんだ。周りに色々な野菜を並べたりしてね。だけど、真面目な話、家事に関する馬鹿げた質問を、二三分おきに入って来ては、やられたんじゃ、仕事なんか出来たものじゃないよ。あんなことはむしろ、君の領分じゃないのか?
 シェイラ いいえ、違います。私だって仕事をしなきゃならないもの。貴方、部屋に鍵を掛けたらいいんじゃない?
 ケルド そんなことしたら、バレッジの奴、開けるまでバンバン叩くに決まってるさ。あれは頑固だぜ。顎を見れば分かるよ。
 シェイラ バレッジの顎のことを議論する時間なんてないわ、今朝は。
 ケルド 僕だってない。彼女の性格を表現しようとして、ちょっと脱線しただけだ。張った鰓(えら)・・・頑固な女性。
 シェイラ 本当はあの子は気が小さいの。物売りなんか来た時、すぐ分るわ、それが。あの断る時の気の弱さ・・・勇気の欠如なのよ。
 ケルド 分った。もうその話はやめよう。君は弱いといい、僕は強いという。それで終りだ。
 シェイラ 私、貴方よりあの子に接する機会は多いのよ。あの子を貴方よりはよく観察出来ているの。
 ケルド 違うね。君は一日中引きこもって、おまけに鍵までかけているじゃないか。
 シェイラ なんて厭なことを言うの、ケルド。私、貴方と同じぐらい一生懸命働いている。だから部屋には鍵をかけなきゃならないの。それとも、私の使命は、バレッジと一緒に貴方の食事の支度をすることなのかしらね。
 ケルド これ以上バレッジの名前を言ったら、僕は大声で怒鳴るぞ!
 シェイラ 貴方って本当に子供っぽいのね。こんな些細なことで大騒ぎするなんて。貴方には欲しいものがなんでも揃っている。この居心地のいい部屋、快適そのもののこの環境・・・その中で貴方は執筆できる。それなのに貴方のすることったら、ただ苛々することだけ。それも、本当にくだらない、馬鹿なことに。もっとしっかりして下さらなきゃ、貴方は。
 ケルド だけどマトンには参るんだ、本当に。大事なシーンを書こうと集中しているまさにその時に、「マトン!」だからね。だいたいこの「マトン」って言葉自体がいけないよ。誰だってインスピレーションをそがれてしまう。
 シェイラ 「ルビー・ぐちゃぐちゃ、何とかさん」と一緒にいるときだって集中できなかったんじゃないの?
 ケルド 「ぐちゃぐちゃ」じゃない、レイモンドだ。僕は、彼女が来るまでは集中していたんだ。
 シェイラ レイモンド! そんな名前、信用出来るもんですか。本名はブラッギンズかもしれない。いいえ、ウィンターボトムだとか、他の変な名前かもしれないわ。レイモンドであるもんですか。とにかくどうして、その人のことは邪魔だったって言わないの? 可哀想に、バレッジにばかり当って。
 ケルド またバレッジに戻ったな! あいつ、離婚裁判所で証言しなくちゃならなくなるぞ。それなら前もってあいつに知らせておいた方がいいんじゃないのか?
 シェイラ(吹き出して。)あらあら、ケルド。馬鹿じゃない? 私達って。本当に、こんなに興奮しちゃうなんて。
 ケルド いや、僕は興奮してない。まあ、つまらない冗談だ、これは。
 シェイラ いいえ、貴方、興奮してたわ。さあ、白状して。私も興奮していた。貴方のこと、二三度ひっぱたいていたかもしれない。(ケルドにキスをする。)今朝はこれまでで一番ひどい朝だったわ・・・何もかも悪い方へ、悪い方へ・・・鉛筆は無い、朝食ではタマゴの出来が悪い、貴方とバレッジ、ナオミからのイライラする手紙、彼女のクラブに寄付してくれ、だなんて。二人とも怒りたくなるのは当たり前よね。今朝起きてからのことぜーんぶ忘れましょう。最初からやり直すの。
 ケルド そうしよう。君は天使だ。(彼女にキスをする。)口喧嘩して前よりずっと好きになっちゃった。隠し味のような感じもあるね。
 シェイラ 厭だわ。隠し味なんて私、嫌い。そんなもの無くたって、私充分幸せ。もう口喧嘩なんてやめましょう。時間の無駄だわ。
 ケルド 分った。やめよう。僕はただ、僕らの馬鹿な口喧嘩をうまく収めようとしていただけなんだ。それで、どうだい?「シャドウ・ショウ」の進み具合は?
 シェイラ たいして進んではいないわ。今浮かんでいるのは素敵な構想なの。でも、それを形にするのがとても・・・特に出だしが。・・・小説の筋書きだけを考えると、細かいことをいちいち書かないでも、パッと出来上がって、自分の目の前に完成しているっていうのならいいわね?
 ケルド 目の前に出来てるって・・・出版されて、本になってるのかな? それともまだ、校正段階のこと?
 シェイラ そうね、校正段階。大変大変って言いながら文章を直して、みんなには後で、疲れる仕事だったわ、などと言ってみたりも出来るわけよ。
 ケルド ときどき二人とも物書きなんかじゃなかったら良かったって思うよ。
 シェイラ あら、どうして? 私たちこんなに幸せじゃないの。
 ケルド うん、だけどその・・・何て言ったらいいか・・・毎日都心へ出かけてごく普通の単調な仕事をするのも悪くないんじゃないかってね。いつもの顔ぶれで、いつものところで昼食をとり、夕方になるといつも同じ電車に乗って家に帰り、家に着くと君が笑顔で出迎えてくれる。完璧なぬるま湯の生活。新式の電気掃除機の話だとか、料理人がお暇を下さいと言った時、君がどうやって引き止めたか、とか、ありとあらゆる小さな話題がその日のビッグニュースになる。知的にも感覚的にも、芸術なんてこれっぽっちも出て来ない、静かな生活。・・・君、どう思う?
 シェイラ 私にそんな風になってもらいたいっていうの? 貴方。     
 ケルド そんな馬鹿な。冗談じゃないよ。君の知性と頭脳が素晴らしいと思っているからこそ、こんなにいつも君の事を好きでいられるんじゃないか。
 シェイラ 私、時々、どうかな? って思うから。
 ケルド そんなこと考えちゃ駄目だ。そんなことで疑問を抱いて、何のいいこともないよ。
 シェイラ 分かったわ、もう言わない。さあ、私、行って、もう一仕事しなきゃ。貴方も早く書きたくてうずうずしてるんでしょう? お昼が終わってから、私の原稿の二章分読むから聞いてね。
 ケルド ああ、いいとも。じゃ、二人で始める前に第二幕のところを君、ちょっと聞いてくれないかな。
 シェイラ(あまり乗り気でない様子。)でも二人とも、もう随分時間を無駄にしてるわ・・・
 ケルド 勿論聞きたくないんだったらいいけど。
 シェイラ ううん、そうじゃないの。でも、もう十二時半近くよ。今日は午前中二人とも何にもしていないわ。お昼のあと、私のを読んだ後はどうかしら?
 ケルド どうもその時じゃ気分が乗らないような気がするんだ。
 シェイラ(苛々してドンと椅子に坐って。)分かったわ、じゃあ始めて。
 ケルド うん。でも、実のところ、まだ書き終わってはいないんだ。僕はただそこのところの僕の考え、君がいいと思うかどうか知りたくってね。第二幕の最後のところ。娼婦のローズなんだけど、最後まで残酷な性格で通すより、スィルヴィアに哀れっぽく今までのことを何もかも謝ることにした方がいいと思うんだ。
 シェイラ まづ、それは無いわね。
 ケルド どうして?
 シェイラ 貴方が書いた女はそういうタイプじゃないもの。 そうさせたいんだったら性格も全部変えなきゃだめよ。だって、ローズって女、最初から・・・
 ケルド でもねえシェイラ、娼婦だからって、人に謝まっちゃいけないってことはないと思うよ。一皮剥けば普通の女じゃないか。
 シェイラ ええ、でも貴方が描(か)いた性格ではそれは無理。この人きつすぎるもの。それに、スィルビアを憎んでいるように作ってあるし。突然後悔していい人になる理由なんて、どこ探しても無いわ。心理学的に誤りね。
 ケルド 心理学的に間違っているなんてあり得ないさ。ルビー・レイモンドがついさっきそのことで激しく主張したんだ。彼女によるとね・・・
 シェイラ コーラスガール上がりの女の批評を貴方が信用するんだったら、どうして私に聞いたりするの?
 ケルド シェイラ、馬鹿なことを言うんじゃないよ。
 シェイラ 貴方じゃない、馬鹿は。私の前でルビー・レイモンドの言ったことなんか持ち出すなんて。ともかく、幕の最後のところは、昼食が終ってから新しく考え直しましょう。
 ケルド 僕はこの方針で行くつもりだ。だって、とても気に入っているんだから。
 シェイラ じゃ、何も話すことなんか無いじゃないの。どうせ貴方、女性について、私よりよく知ってるんでしょう?
 ケルド そんなことは言ってないよ。君は女だから、ついつい女性全般について、厳しく当るんだ。僕は外部からの傍観者の眼で、女性というものを公平に見ようとしているんだよ。
 シェイラ そう。貴方はバッキンガム宮殿の外から家具の品定めをして財産目録を作ろうとしているのよ。
 ケルド 全然違うね。僕にだって今までに女性を観察する機会は山ほどあった。
 シェイラ ええ、機会はね。でも、ちゃんとそれを利用出来たかということになると、全く駄目ね。貴方の書いたものを見ればすぐ分かるわ。
 ケルド たまたま意見が合わないってことだけで、僕の書いたものにそんな難癖をつけるなんて、意地悪だよ。
 シェイラ 意地悪なんかじゃないわ。貴方の書く女性は駄目だって言ってるの。男って、ちょっと異常な人でないと、女の気持を理解できないの。それに貴方はちっとも異常じゃないし。
 ケルド 君、おかしなことを言うね。完全に正常な男の作家で、女性について素晴らしい作品を残しているのがいっぱいいるじゃないか。
 シェイラ ええ、まあね。でもある水準までの話だわ。もちろん貴方の書くローズの場合はそこまでも達していないけど。この女、もう底の底まで見え見えよ。あんな残酷なことを平気でした後、どうして魅力的な人情味のある性格に変れるの。ね、これで分るでしょう? 貴方にも。私が正しいって。
 ケルド いや、分らないね。
 シェイラ まあ! 頑固ね。
 ケルド 全然頑固なんかじゃないさ。このローズって言う女、少し汚らわしいかもしれないけど、僕は好きなんだよ。彼女、機会さえ与えられたら、悔い改めるんじゃないかと思ってるんだ。
 シェイラ ふうん、でも、もしそれが貴方が考えている彼女の性格だとしたら、貴方、その性格を書ききれていないわ。とにかく、私に批評されるのがいやなんだったら、意見を聞いたりしなきゃいいのよ。
 ケルド 君がやたら攻撃的なのは、僕の仕事についてちゃんと聞こうとしないからだよ。君は自分の作品を機会あるごとに僕に読んで聞かせるけど、僕が同じことをやろうとすると、いつだって苛々するんだから。
 シェイラ(腹立たしそうに。)そんな風に言うのはフェアじゃないわ、ケルド。それに事実とも違う。私は貴方の作品が好きよ。興味があるの。だから批評をするんだわ。でも貴方はすぐ気を悪くして私に当たるの。批評を我慢できないっていうのは、自分の作品を良くしようと思っていないのと同じ。貴方は女性について何でも知っていると思っている。でも、実際はほんの上っ面のこと以外は、全然分かっちゃいないのよ。先月書いた一幕物の芝居のヒロイン・・・なーにあれ?。
 ケルド これだからね。またほじくり出したりして。あの時は僕が間違っていたことを認めたじゃないか。誤りを認める以上の何をやれって言うんだい? でもこれだけは言える。女ってものは絶対・・・
 シェイラ 頭を冷やしてよ、馬鹿みたい。
 ケルド(怒って。)僕は冷静だ。でも言っとくけど、議論を始めるとすぐさま君は、何週間も前に話したことをあれこれほじくり出して、蒸し返すんだ。そんな調子じゃ、僕だって爆発するよ。
 シェイラ 私は何もほじくり出してなんかいないわ。私はただあの時貴方が・・・
 ケルド 偶々(たまたま)一回だけ間違えた・・・分るよ、君はそのことを僕に決して忘れさせまいとするんだ。それこそ女の「典型」だよ。
 シェイラ 貴方って言う人は、私が正直に貴方の作品を批評したというだけで、不機嫌になって、私に乱暴な口をきくの。まるで子供よ。
 ケルド 今日の午前中、君は自分の部屋にじっとしていてくれればよかったんだ。階下(した)に降りてきて僕の仕事の邪魔をするから、結局こんな馬鹿馬鹿しい口論をする羽目になったんだ。
 シェイラ 貴方たった今言ったじゃないの、口論は気晴らしになるから、かえっていいんだって。とにかく私は鉛筆がなかったの。貴方は仕事を始めるとき必要な物が何でも身近にあるように、いつでもとても気をつけている。書くのに必要なものは何でも持って行っちゃってる。私には何にも残してくれない。結婚してからこれまで貴方、鉛筆でもペンでも無かったことある?
 ケルド 全くいまいましい! 頼むから鉛筆のことなんかで、あれこれ言うのをやめてくれないか。鉛筆、鉛筆、鉛筆! 鉛筆なんか何ダースでも買えばいいじゃないか。それで請求書を僕のところに持って来いよ! 喜んで払ってやる。平穏無事の代償だったら何だって払うさ!
 シェイラ(皮肉っぽく)ケルド、そんなことを言うのはひょっとして、自分が女房の尻に敷かれていると思い始めたからじゃないでしょうね。
 ケルド 君があんまり見事に口やかましい女房の役を演ずるものだから、それに耐えている旦那の役を演じているだけさ。馬鹿なことだよ、こんなこと。僕は早くこの芝居を仕上げて、我々の生活費を稼がなきゃならないっていうのに、君ときたら・・・
 シェイラ 全くいい気なものね、その言い方。まるで稼いでいるのは貴方だけっていう調子。一体先月の生活費はどこから出ていると思うの? 私の短編の原稿料として振り込まれた小切手と時々入ってくる私の最後の本の印税よ。
 ケルド 分かっているよ。僕はまだこの道じゃ駆け出しだ。だけど、君のその言い方じゃ、すぐにでも僕はしこたま稼がなきゃならないようだ。君の素晴しい短編小説だってそう長くは続かないだろうからね。だから可愛いシェイラ、僕にこれから仕事をさせて欲しいんだよ。
 シェイラ いいえ、今からなんて、仕事をさせるもんですか。だって、貴方も私もこんな喧嘩の後じゃ、一言も書けるわけがないでしょう? 私は二階へ上がって、貴方にああ言ってやればよかった、こう言ってやればよかった、どうして言わなかったんだって悔やむだろうし、貴方は貴方で、下の部屋で同じことを考えるだけ。こんなこと、二人の幸せのためにはちっともいいことではないわ。しょっちゅうこういうぶつかりをしなきゃ暮らして行けないんだったら、いっそのこと、とことんやってみる方がいいの。小さないざこざをこしらえては、燻(くすぶ)ったままいくつもほったらかしにしておくと、いつかその燻りが一緒になって、大爆発を起すかもしれないわ。
 ケルド とことんやるって、何をだい? 殴り合いの大喧嘩でも始めるのか?
 シェイラ 冗談は止めて、ケルド。真面目な話、これは。貴方だって分ってるでしょう? この三箇月、私達、一週間に四回くらいのペースで、こんな馬鹿馬鹿しい罵り合いをやってきた。勿論いつも最後のところは何とか折り合いをつけてきたわ。でも解決にはなってないの。二三日すると、些細なことで苛立って、また言い合いを始める。だんだん頭にきて、お互いに相手を傷つける言葉を怒鳴り合うことになるの。それも本当に何でもないことのために。或いは、殆ど何でもないことが発端(ほったん)で。こんなことが続くっていうのは、二人のうちどちらかが、いえ、二人ともかもしれないけど・・・決定的に間違っているっていうことなの。それは出来るだけ早く見つけた方がいいっていうことでしょう?
 ケルド その通りだ。しかし、どうすりゃいいんだ。お互いに相手を罵(ののし)ったり皮肉を言い合ったりするのは馬鹿なことさ。僕は長いことそう思ってきた。冷酷な言葉は決して口にしないと何回誓ったことか! だけど駄目だった。その舌の根も乾かない一時間後、またまた僕は君と小競り合いをやっている。そして、そこから逃げようったって、逃げられはしない。お互いの損失なのは目に見えている癖にだ。その原因って言ったって、僕には皆目(かいもく)見当もつかないね。
 シェイラ 私達、性格が似すぎているからじゃないかと思う。それに、才能の面でも。貴方がエンジニアか株屋だったらよかったのよ、きっと。
 ケルド 違うな。そんな職業だったら、もっともっと酷いことになっていたと思う。君は僕の仕事には全く興味を示さないだろうし、僕の方だって、君の仕事に同情も理解もないだろうしね。
 シェイラ 貴方、今私達、本当にお互いの作品に興味を持っていると思ってる? 正直に言って。
 ケルド 勿論持ってるさ。
 シェイラ 私はよく分からない。私達、そうしようと努力したし、随分助け合っても来たわ。でも、本当の意味では、相手に対する関心は無いんじゃないかって言う気がする。嫉妬心が邪魔をしているんだわ、ひょっとすると。
 ケルド 嫉妬・・・そんなもの、あったとしたって、潜在意識のその下じゃないか?
 シェイラ そんな下にあればいいけれど、分らないわ。嫉妬はじゃ、いい。でもとにかく、何が原因でこうなるのか、私、知りたいの。だってその何かのために貴方も私も神経を磨り減らしているんですからね。私達、二人でいることが幸せでなくなっているの、ケルド。私達、二人でいることが幸せでなくなってきているのよ! 貴方、分らない?・・・私、怖い!(シェイラ泣きそうになる。が、なんとか気を取り直す。)
 ケルド(すぐに立ち上がって彼女にキスをして。)ねえ、かわいいシェイラ、そんなに酷いことにはなってないよ。僕にはちゃんと分かっている。こういう喧嘩は上っ面の、取るに足らないことさ。
 シェイラ いいえ、そうじゃない。上っ面じゃない・・・もっと根が深いの。それはどんどん深くなって行く。今のうちに何とかしなくちゃ・・・分からないの? 私の言っていること。何か恐ろしいことが起こるわ。私たち別れるようになるかも・・・・
 ケルド ねえ、僕の言うことを聞くんだ。君は仕事のし過ぎだよ、僕には分かるんだ。
 シェイラ いいえ、違うわ。仕事なんか殆ど何もしていないわ。
 ケルド そうかい? でも君は何かストレスがあるみたいだ。今朝の君はちょっと変だよ。
 シェイラ 今までの私の話、貴方聞いてた? 全く分っていないんじゃないの?
 ケルド 勿論分かっているさ、ある意味ではね。でも、僕にいわせれば、君は些細なことを重大に考えすぎているよ。夫婦ってものは、とにかく感情がある限り、誰だって喧嘩はするんだよ。それが自然なのさ。それに、僕らがお互いに嫉妬しあっている? どうしてそんな馬鹿なことを考えるんだい。君は素晴らしい人だ。君のおかげでどれだけ僕は助かっているか。僕は君のようになりたいと思っている。君の書く言葉はみんな好きだし、僕は・・・
 シェイラ(ゆっくりと。)今と同じことを、先週貴方、喧嘩を収めるために言ったわ。覚えてない?
 ケルド いや、覚えてる。まあ似たようなことを言ったかもしれない。でも、言ったっていいじゃないか。それで喧嘩が・・・
 シェイラ 来週も貴方、きっとまた言うわ。そしてキスをして熱烈に愛し合うの。次の喧嘩まで。
 ケルド シェイラ、君は大きな赤ちゃんだよ。何でもないことにくよくよしてるんだから。
 シェイラ(強い調子で。)何でもないことなんかじゃない。私はこれより大事なことは何もないっていう、世の中で一番大切なことを心配しているのよ。それは「私たちの幸せ」。そのためだったら私、どんなものでも、何を犠牲にしたっていい。貴方は私が言っていることが分からないの。そうなの。私、分かっていたの・・・貴方がずーっとこのことを理解していないことを。でも貴方は分からなくてはいけないわ。分かるべきなの、ケルド。私、貴方のことを結婚したころよりももっと愛してるの。そして、貴方も私を愛してくれているわ。でも、小さな争いが積み重なると、知らず知らずのうちに二人の関係を悪くしていくの。そしてある日、二人のどちらかの胸から愛が消えるの。二人同時じゃないの。二人が一度に相手を嫌いになることは無いの。いつも一人だけが惨めにとり残されるの。これがああいう喧嘩の結末なの。喧嘩はだめ、喧嘩はだめ、喧嘩は絶対やめなきゃ駄目なの!
 ケルド 二人ともすぐ爆発するからね。それが抑えられればいいんだけど・・・
 シェイラ たまに爆発するのはいいの。でもその奥にある感情が問題。感情を抑えるのは立派なこと。でもそういう風に抑えなければならないものが二人の間にあるっていうのが駄目。何もなければ怒り狂う筈が無いでしょう。何かが間違っているんだわ。でも貴方は分かろうとしない。取るに足らないことだと思っている。私怖いの。本当に怖いのよ。将来どうなるんでしょう。これはヒステリーなんかとは違う。何かが欠けているの。ひょっとしたら私達、仕事とは別のところで絆が必要なのかもしれない・・・例えば日常の家事による絆のような・・・
 ケルド 家事の絆? バレッジが居るじゃないか。
 シェイラ そう、貴方は私が何でもないことのために一人でやきもきしていると思っているの。だからそんな馬鹿な冗談を飛ばして憂(う)さを晴らしている。今の私、冗談はもう沢山。大人しくして、冗談には口に栓をして頂戴。お願いだから貴方も真剣になって。
 ケルド(陽気に。)よし、僕は真剣だぞ。裁判官そのものだ。
 シェイラ(訴えるように。)ケルド、お願い。
 ケルド(陽気に。しかし少し苛々して。)どうしてそんな顔で僕を見るんだい? これ以上真剣になれって言われれば、ワッと泣き出すしかないよ。一体何を議論しようっていうんだい? 二人の心にある精神的障害・・・どうせ当たりもしない心理分析の世界に今すぐ飛び込めって言うのかい?
 シェイラ 何? その苛々した言い方。私のことをちっとも考えてくれてないのね?
 ケルド(明るく。)ねえ、可愛いシェイラ、僕はね、本当に君が何を言っているのか分からないんだよ。
 シェイラ(足を踏み鳴らして。)何て言い草? ちゃんと分っているくせに。貴方は私の言う事をみんな茶化してしまえばいいと思っている。でもそれは大間違い。気が利いてもいないし、面白くもない。貴方の厭な面が出ているだけ。貴方は誰かさんが言ったように「茶目っけたっぷりで、ユーモアに溢れ、ちょっと辛目のフレーズもにっこり笑って織り交ぜるセンスを持った若い劇作家」のつもりなのね? 女を知りつくした男の横柄さで、自分の女房のヒステリーを上手にあしらっているつもりなんでしょう。でもそれはとんだ思い違い。私を怒らせているだけ。軽いいなしで事がすむ場合もあるわ。でも、どんなにうまい肩透かしでも、我慢出来ない時がある。おまけに貴方のは、たいして上手でないときている。
 ケルド 参ったな。僕の心の中の一番深いところにある感情を切り刻んで、それをジグゾーパズルのようにまた繋ぎ合わせるようなことには気乗りがしないんだが、そうしたくないというだけで、機関銃のように次から次と非難の言葉を浴びせられちゃ、たまらないよ。女流作家の連中は、心の問題でいつ終わるとも知れない議論を始めて泥沼にはまるそうだが、そんなものに巻き込まれるのは僕はご免だ。僕は心から神様にお願いするよ、女流作家の連中が僕に近づかないようにってね。
 シェイラ 神様に頼むなんて、自惚れもいいところ。女流作家達、貴方のその自惚れで逃げて行くわ。神様にお願いするなんて余計なこと!
 ケルド 自惚れ! こりゃ新顔だ。朝から、子供っぽいだの、礼儀知らずだの、知性の欠如だの、軽佻浮薄だの、僕を非難し続けた上に今度は自惚れか。そのうちもう言葉がなくなるよ。
 シェイラ なくなると思ってるの? いい気なものね。
 ケルド いい気にもなるだろうさ。自分の妻から、美徳など欠片(かけら)もないと、こうもこっぴどくけなされるとね。
 シェイラ そう? 貴方、今朝からずーっと私に見せてくれていたものは、貴方の美徳なのね? それなら私、貴方にはこれから、悪徳を育てて行かなくちゃならないわ。
 ケルド 何て素敵な会話だ、これは。この場に速記者が立ち会っていないのが残念だよ。家庭喜劇の素晴らしいシーンが居ながらにして書き取れたのに。
 シェイラ(自制心をなくして。)ケルド、私、貴方を殺したくなる時があるわ。
(ドアにノックの音。)
 ケルド どうぞ。
(バレッジ登場。)
 バレッジ 旦那様、またお邪魔して申し訳ありませんが、お昼はいかがいたしましょう? 普段はお出かけになりますけど、今日は私、ちょっと分かりませんでしたので。
 ケルド バレッジ、今日は君に面白い話があるんだ。僕は劇作家としての人生を擲(なげう)って、家庭にどっぷりつかることにしたんだ。これからは、お昼の時間には確実に家にいる。昨日のマトンはシチューにして野菜とポテト・スフレを添えて食べることにしよう。それから・・・
 シェイラ(一生懸命自分を抑えて。)ご主人様は冗談を仰っているのよ、バレッジ。
 ケルド(荒っぽく。)僕はバレッジと話しているんだ、邪魔しないでくれ、シェイラ。(シェイラ、椅子の背をつかんだまま答えない。)さっき言いかけていたんだが、マトンのあとはリンゴのババロアだ
 バレッジ リンゴがありません、旦那様。
 ケルド じゃ、買いに行ってくれ。
 バレッジ 私は使い走りは致しません。もっと前に仰ってくださっていたら、今朝八百屋が来たときに、持ってくるように言いつけましたのに。
 ケルド バレッジ、私は口ごたえは嫌いなんだ。つべこべ言わないで買ってきてくれ。
 バレッジ 私、指示は奥様からお受けすることになっています。
 ケルド(怒って。)そうじゃない。私の指示を聞くんだ。リンゴを買ってきてくれ。いいね?
 シェイラ(非常に静かに。)バレッジ、リンゴはいいわ。ご主人様は貴方がどんなに大変かご存じないの。ご存じだったら、貴方には頼まなかった筈。バレッジ、あなた、戻っていいわ。
(バレッジ急いで退場。)
 ケルド(不気味な静かさで。)バレッジの前で僕を馬鹿扱いするとはどういうことだ?
 シェイラ(冷たく。)常軌を逸した人に、何も言う気はありません。
 ケルド いいかシェイラ、僕はね・・・
 シェイラ(扉のほうへ向かいながら。)貴方の言うことに耳を傾けるつもりはありません、そんな態度をとる限り。
 ケルド(扉の前に立ちはだかって。)この小競り合いは、今止めた方がいい。僕らがまだ止めたいという気があるうちに。
 シェイラ 扉からどいて頂戴、ケルド。私を出させて。
 ケルド 駄目だ。
 シェイラ 貴方、気でも狂ったの?
 ケルド とんでもない。特に今の瞬間は正気そのものだ。
(シェイラ、扉を開けるために進む。ケルド、シェイラの腕を掴み捻る。そして、下手へ連れて行き椅子に無理やり坐らせる。)
 シェイラ 腕を捻るなんて、どういうこと。
 ケルド 自業自得だ。
 シェイラ(重苦しい調子で。)こんなことをされて、これから先私、貴方を愛せるかどうか、分らないわ。
 ケルド 筋違いだね、それは。僕は今、そんなことを考えちゃいない。たった一つのことだ、頭にあるのは。それは、召使の前で僕に恥をかかせるのはとんでもない間違いだということを君にはっきり教えたいという事だ。でも、もう二度とこんなことはご免だ。僕は随分我慢してるんだ。あのまずい料理、仕事をしようとしているときに次から次と入って来る邪魔、僕がやることへの徹底した無関心ぶり・・・その理由というのが、たまたま、僕の妻が自分でも物を書き、女性の知性についてのずば抜けた意見を持っている、そして彼女も・・・
 シェイラ そう、貴方はもう少し女性の知性について分るべきなの。そうすれば貴方にもちゃんと分る筈なの、その我慢のならない振舞いがこれから先の二人の幸福をどのくらい台無しにするかっていうことが。
 ケルド これから先の二人の幸せ? そんなもの、もうとっくの昔に破滅に向っているんだ。だから今さら僕が何かちょっとやったところで、少し結末が早まるだけのことじゃないか。
 シェイラ(唐突に。)ケルド、止めて頂戴。お願い。この部屋を出させて。私達・・・私達、今口にした恐ろしいことを、本気で考えてるわけじゃない。熱に浮かされて馬鹿なことを言っただけよ。今日はいらいらする朝だったわ。暑くて鬱陶しくて。部屋は風が通らないし。ね、私を外へ出させて!
 ケルド いや、この問題に決着をつけなきゃ。どちらかが降参するほかないんだ。
 シェイラ(不安になる。)降参? どういう意味?
 ケルド 文字通り降参することだよ。君はいつだって僕を叩きのめそうとするんだ。君のこの敵対意識、その雰囲気の中で執筆したり暮したり・・・僕にはもう耐えられないんだ。
 シェイラ(惨めに。)それは違うわ。敵対意識なんて、そんな・・・
 ケルド 君は嘘をついている、シェイラ。ちょっと前に君自身でそう言ったじゃないか。勿論敵対意識という言葉は使わなかったがね。君は怒った、僕が真面目に君の話を聞かないと言って。そう、僕は真面目に聞きたくなかった。聞いたりしたら、どういうことになるか僕には分かっていたからだ。えーい、もうどんなことになろうと構うものか! いいか、現実はこうなんだ。もう言ったって平気だ。一番大事なところは、僕の作品に対する君の嫉妬だ。僕の第一作が世の中に受け入れられた時、君は嬉しくなかった。そう、僕には分っている。君は喜ばなかったんだ。君はまあまあ才能のある夫を励まして、やる気を起こさせている素晴らしく才能のある小説家、という自分のイメージが大好きなんだ。君の取り巻きの連中はニコニコ笑いながら「シェイラ・ブレンドレスってなんて優しいんでしょう。彼のためにいつも時間を割いている。彼の作品にはみんな彼女の手が入っているのよ。二人がうまく行ってて嬉しいわ。でもうまく行くのは当然よ。彼女って賢いから彼をどう扱えばいいかぐらい、ちゃんと分かっているもの。」多分こんなことを言っているんだろう。ところがお生憎(あいにく)さま、現実の僕らの結婚生活は君の期待通りにならなかった。君にしてみれば僕の成功が早過ぎたんだ・・・
 シェイラ(怒り狂って。)そんなことを言うなんて、何て、何て酷い人! 貴方が言っていること、みんな嘘。それは貴方だって分っている。貴方の汚い自惚れなのよ、そんなことを言わせているのは。その自惚れと大口を叩く癖が治るまで、貴方は何一つまともなものは書けっこないの。書けると思ったら大間違い。私が貴方に嫉妬する! 最初の最初から貴方を励まし、手伝ったこの私が、貴方に・・・貴方には私、失望。心の底から、本当に心の底からがっかり。そうでなければ私、笑ってやれるのに・・・(ヒステリックに笑いだす。しかし啜り泣きになってしまう。)でも・・・でも、私・・・笑えない・・・
 ケルド ねえ、シェイラ、僕が悪かった。僕は今の言葉、本気で言ったんじゃないんだ。
 シェイラ(ケルドを押しやって。)触らないで! 近寄らないで! 今は駄目。とうとう貴方、言ってはいけないことを言ってしまった。私はこれでおしまい。最初から間違っていたの。私達、結婚すべきじゃなかった。どんなに愛しあっていたって。今やっと分った。オリーヴがちゃんと予言していた、その通りになったんだわ。私達二人、罠にかかった二匹の鼠。戦って、戦って、戦い暮す。貴方にお似合いなのは、家庭的な奥さん。頭が切れなくて、鈍感で、普通の人。貴方のする事には何でもいちいち感心し、ポカンと口を開けて感嘆の声を上げる。貴方の吐く言葉一つ一つがみんな法則。貴方の信じ難いほどの才能に心酔して、貴方を褒めそやす。気が重かったり、不機嫌だったりすれば、うまく気分転換をはかってくれる。愛が欲しい時には、ちゃんと愛情も示してくれる。そう、それは多分、夕食の後、夕暮れのひととき・・・自宅か、レストランか、とにかく、良く出来た料理の後・・・女の髪の毛をなでてやり、洒落た褒め言葉を一言二言・・・もっともそれ以上は、用心してやらない・・・女が自惚れるといけないから。そういう女といると、貴方は一日中、昼も夜もすっかり満足していられるの。少し甘い目で見たって、貴方っていう人は、知性の欠片(かけら)もない獣(けだもの)・・・いいえ、獣の中でも、卑劣な、最低の獣よ。
 ケルド(怒りで蒼くなる。)黙れ! 黙れ、黙れ!
(ケルド、シェイラの口に片手を当て、黙らせようとする。シェイラ、右手でケルドの頬を強く叩く。ケルド、よろよろと下がる。)
 シェイラ 行って! あっちに行って!
(ケルド、今にもシェイラを殺すかのような目付。それから、きびすを返して急いで部屋を出る。)
(シェイラ、喘ぎながらテーブルに突っ伏し、絶望して啜り泣く。少しの間。それから、扉をノックする音。バレッジ登場。)
 バレッジ お昼の用意が出来ました、奥様。
             (幕、素早く降りる。)

     第 三 幕
(場 第二幕と同じ。)
(幕が開くと、シェイラが客のナオミとエドモンドの相手をしている。丁度お茶が終ったところ。十一月の終りの頃のある午後。壁に暖炉の火の光がチラチラ映っている。第二幕から丁度一年経っている。明かりが点(とも)されると、部屋が第二幕の時よりずっと整頓されていることが分る。シェイラ自身も以前より身嗜(みだしな)みに気をつけている。但し以前の若々しさと溌溂としたところが失われている。そして以前決して見られなかったある変化が認められる。)
 ナオミ でも、会(かい)には来てくれるわよね? とっても面白い会になる筈よ。
 シェイラ 私は分らないわ。でも、ケルドはきっと行くわ。
 エドモンド えっ? ケルドが? それはすごいな。彼、有名になったからな。一年に二本も大当たりの芝居を書くなんて。来てくれたらあのクラブの自慢になるよ。定例の会員になるよう君から薦めてくれないかな。
 シェイラ ええ、やってみるわ。でも、御自分でおやりになれば。そのうち出て来る筈よ。
 ナオミ 夕べはハラハラドキドキだったでしょうね、あなた。誇らしくない? 新聞であんな風に書かれて。「興奮は留まるところを知らなかった」なんて・・・
 シェイラ 初日ってだいたいあんなものよ。
 ナオミ ええ。でも、作者と個人的な関係がある場合は別でしょう? 私、エドモンドの最初の詩集が出版された時のことは今も忘れないわ。何日も興奮状態だった・・・私って馬鹿だわ。
 エドモンド だから僕、君のことが好きなんだ。
 ナオミ ケルドもそう? 苛々したりした?
 シェイラ そうね。そうだったんでしょう、多分。芝居の間、外に出ていたもの、食事をするって。芝居が終る頃になるまで帰って来なかった。私のボックスに戻って来たのは、最終幕も終るという時。ほんとにもう、お二人ともお茶はいいの?
 ナオミ ええ、もう結構。
 シェイラ エドモンド、ちょっとベルを鳴らしてみて。貴方の後ろにあるわ。仕事の時、机に物がいろいろ置いてあると、あの人苛々するの。でも今日は大丈夫でしょう。とにかくこの一週間は、あの人大変だったの。ドレスリハーサルや何やかで。
 エドモンド 仕事はいつもこの部屋で?
 シェイラ ええ。それに、私がここでお茶の会をするのが気に入ってくれているの。居間よりずっと落ち着くって。
 ナオミ あなたはどこで書き物を?
 シェイラ 私? いろんなところ。だいたいは自分の部屋。静かだし、気楽。
 ナオミ そうね。静かっていうのが第一ね。時々は海のザブーンっていう音もいいけど・・・それに枝が風に鳴る音も。でも原則は何と言っても全くの静寂ね。あなたの本、いつ出版?
 シェイラ まだ二章しか書いてないの。
 ナオミ 熟成させているのね。分るわ。暫くおいてから見ると新鮮な気持が湧いてくる。行き詰まった時は熟成が第一。私、「愛の唇」を書いていた時のこと、決して忘れない。あの時は、もう一行だって書けないっていう気持になって、それで丸々三箇月ほったらかしにしたの。その後・・・言葉が次から次・・・まるで・・・まるで・・・
 エドモンド(機械的に。)流れ落ちて来る水銀のように・・・
(バレッジ登場。お茶の道具を片付ける。そして退場。)
 ナオミ そう。私のペンからスラスラと、流れ落ちる水銀のように。
 シェイラ すごいわね。私のはあんまり長くほったらかしにしているから、もう今頃では死んじゃっているかもしれないわ。たとえ私が書く気になっても。
 ナオミ そんな弱気なことを言うのいけないわ、シェイラ。もっと書かなくちゃ。みんなあなたの次の作品を待っているのよ。ついこの間、クララ・デューラップが言ってたわ・・・
 シェイラ 「シェイラ・ブランドレスの影が薄くなるなんて、何て残念なんでしょう。独特のスタイルを持った、素晴らしい才能なのに。前途有望な若い作家達が、最初の数年だけで書くのを止めてしまうのは、まことに残念なことです。」こんなところね、クララ・デューラップの言いそうなことは。いいえ、あの人に限らない。以前の文学の仲間達はみんなそう言っているわ。でもしようがない。今は何だか書きたくないんだから。書くという習慣がなくなってしまったの。それに、書く必要もないわ。だってケルドが何百って稼いで・・・書いているんですもの。
 ナオミ(金銭的な観点での言葉にショックを受けて。)でもシェイラ、何か書くってそれだけで楽しいでしょう? 私、書くって、入り組んだ過去の世界の扉を開く鍵だと思っている。自分にその意志があれば、使える鍵。過去の喜びも悲しみも、この鍵でその世界を開けて、再び経験出来るの。
 シェイラ ええ、私、昔、その通りのことを言ったわ。でも今は私、現在のこの状態を全然嫌っていないの。だから、過去に再び生きたいなんて、ちっとも思わない。私、過去はもう好きじゃないの。過去にちょっとでも関係のあるものはみんな。
 エドモンド(夢みるように。)
   過去はただの空虚な夢
   たしかにあったと思わせる、霧で出来た幻影
   僕らの記憶はその中で彷徨(さまよ)い
   過ぎ去った若い日を訪ね歩くのだ。
誰だったかな、これを言ったのは。
 ナオミ 貴方でしょう、エドモンド。
 エドモンド ああそうか。うん、思い出したよ。
 シェイラ 私思うけど、快適な生き方っていうのは、現在この時間を生きることなの。過去や未来を気にしないで。
 ナオミ そう。もし現在が幸せならね。でも・・・
 シェイラ でも私、とにかく現在が幸せなんですからね。今夜はまたお芝居に行くでしょう? またきっと、細かいところで直しがあって、それを楽しめるわ。それにケルド、私が観るのを喜んでくれるし。作家の妻でいるって素敵よ。来月になったらスピネット劇場で、今度はケルドの歴史劇がかかる。するとまたワクワクする初日。あなたもエドモンドと来てくれなくちゃいやよ。私、ボックス席で、それに新しいドレス・・・ケルドが買ってくれるって約束したわ。
 エドモンド 今朝のミラー(新聞の名)に載ってましたよ、あなたの夕べ着ていたドレスのこと。
 シェイラ あら、ミラーに? 気がつかなかった。私の名前がちゃんと?
 ナオミ 「作者の妻、ミスィズ・マックスウェルは、若い夫の成功を誇りに感じ、大変幸せそうであった。銀の縁取りのある青いシャルモーズのドレスは、まことによく似合って、彼女の魅力を際立たせていた。」云々よ。
 シェイラ あら、隣のボックスにいたハーマイオニー・ヴァイキングと間違えられちゃったらしいわ。夕べは私、黒真珠をつけていたから・・・酷いわ。
 エドモンド ケルドは昔と変らない? 成功しても。
 シェイラ 全然。成功に驕(おご)らず・・・ね。
 エドモンド それは立派だ。
 ナオミ 成功すると大抵の人は自惚れちゃうもの。
(バレッジ登場。)
 バレッジ ミス・レイモンドがいらっしゃいました。旦那様にお会いになりたいと。
 シェイラ ミス・レイモンド? ああ、旦那様はもうすぐ出ていらっしゃるわ。お通しして。
 バレッジ 畏まりました。
(バレッジ退場。)
 ナオミ 私達本当にもう行かなくちゃ。
 シェイラ ああ、まだ行かないで、お願い。もう少しいてミス・レイモンドに会って下さらなきゃ。ケルドの最初の芝居「悪の選択」に出た役者さんなの。
 ナオミ 知ってるわ。
 エドモンド ミス・レイモンド? ルビー・レイモンドのこと?
 シェイラ ええ。
 エドモンド ゲイアティー座にいた女優だ。よく覚えている。
 ナオミ あら、貴方その人の話、私にしたこと一度もないわ。
(バレッジ再び登場。)
 バレッジ ミス・レイモンド。
(ルビー・レイモンド登場。いつものように非常に凝った衣装。バレッジ退場。)
 ルビー 突然で申し訳ありません。でもどうしても夕べの芝居のことをお聞きしたくて。成功だったのでしょうか。
 シェイラ よくいらっしゃいました。ええええ、素敵でしたわ。御紹介しましょう。こちら、ミス・フリス=バスィントン・・・ミスター・クロウ。
 ルビー 始めまして。
 シェイラ お茶、如何ですか?
 ルビー いいえ、結構です。ローズバッドですませましたの。「テ・ダンサン(訳註 「踊るお茶」)」を始めたんですの、あそこの店。アイリーンと一緒だったんですのよ。あの子、踊りが好きで。でもあの子、ダンスなんてやる子だなんて思ってらっしゃらないでしょう?
 シェイラ アイリーンって、アイリーン・ハリスンのこと?
 ルビー ええ。(ナオミに。)「悪の選択」で、私と一緒に出てるの、あの子。私の一番いい友達。
 ナオミ 私、残念ですけど、あの人の舞台、いいとは思わないわ。
 ルビー 大抵の人がそう言うわ。私、それ、分ることは分るの。だってあの子、綺麗じゃないし、普段着ているものだってあまりよくないし。だから私、いつもあの子に言ってるの。もっと自分の良いところを見て貰うようにしなくっちゃ駄目って。
 ナオミ それだけじゃないの。何だかあの人、役柄をうまく出していないって感じがするの。
 ルビー(急いで。)そう。勿論あの子、頭もよくないわ。あの子とは長い付きあい。いつでも親切にしてくれている。でも、ほんのちょっとしたことでも、ひどくやっかむの。例えば先週なんか、私の写真がタトラーに載ったの。スクリーンの前で洒落たポーズをとった写真。そしたらどう、あの子ったら今週のタトラーで、一頁いっぱいに自分の写真を・・・「自宅の庭のミス・ハリスン」・・・だって。まあたいしたことじゃないわね。私、気にもしていない。・・・いえ、ちょっとニヤリとするくらい。だってあの子、自分の庭なんか持ったことないんですもの。でも、ユーモアのセンスがない人だっているし、それに両足がすっかり出ている水着姿の写真なんですからね。
 エドモンド おやおや、庭で水着を?
 ルビー あ、そうそう、水着の写真は別だったわ。あの子、水着の写真は必ず入れさせるの。あの子の彼氏が撮るのよ、水着の写真は。その彼氏というのが、またひどい黒ん坊で・・・二人が踊ってるとみんなが囃(はや)したてるわ。でも私、やっぱりあの子が好き。
 ナオミ そうね、今の話だと魅力的じゃない?
 ルビー でも、その話はいいわ。夕べの話をして下さらない? ミスィズ・マックスウェル。芝居の後、御主人、やっぱりスピーチをさせられたの? 私達のときと同じように。
 シェイラ ええ、可哀相に。あの人、ひどく上っちゃって。
 ルビー それはそうよね。ネリー・グラームズも行ってた? あの子、行くって言ってたから・・・あんな酷い格好をして、よく旦那様が許すって思うんだけど・・・そんなこと平ちゃらな女の人もいるんだわ・・・でも、とにかく成功でよかった。あなた、御主人のこと、とても誇らしいでしょう? もし私が奥さんだったら、それはもう大変って思うもの。
 シェイラ ええ、勿論私・・・誇らしいわ。コート、掛けましょうか?
 ルビー いいえ、すぐ行きますから。バークレイに行く途中ちょっと寄っただけなの。ロード・チャーチントンとそこで夕食の約束があるの。あの人のこと、誰もかれも悪く言うけど、いいおじいちゃんよ。それは時々ひどく酔っ払うこともあるけど、誰だって欠点の一つや二つはあるもの・・・
 シェイラ ロード・チャーチントンってそんなにみんなから悪い扱いを受けているとは私思ってないわ。
 ルビー そう。みんなそう言うの・・・可哀相に、あの人・・・私にはいつだって立派な紳士として振舞うのよ。でもまあ、私あの人の扱いには慣れているから。話が下卑てくると私すぐピシャッと言ってやるの。
 ナオミ そうね、それしかないわね。
 ルビー 今度はいつお芝居にいらっしゃるの? ミスィズ・マックスウェル。最近前列ではお見掛けしないわ、全然。
 シェイラ もうあまり何度も見たので、台詞を殆ど全部覚えてしまって・・・
 ルビー そうでしょうね。まだ続いていて、入りもいいわ。でも、新しい芝居がかかったらすぐそっちの方へ行くんでしょうね。古い馴染みはさっさと捨てて新しい恋人のところへ・・・っていう具合なのよね?(ゲラゲラっと笑う。)
 シェイラ 私、「悪の選択」を古い馴染みなんて思ったことないわ。あれは本当に良いお芝居とは言えないもの。ケルドだって心の奥ではそう思っている筈だわ。
 ルビー でもあれ、いいお芝居の筈よ。だって、もう殆ど一年も続いているんですもの。
 ナオミ だからって、いい芝居とは限らないわ。大衆は変なもの。作家の本当に素晴らしい理想を貶(けな)して、その場限りの誤魔化しに騙されることだってあるの。
 ルビー(すぐに。)ケルドがその場限りの誤魔化しをするなんて・・・そんなことあるかしら、ミスィズ・マックスウェル。
 シェイラ 誰だって時々はしてしまうわね、残念だけど。
 ルビー あら大変、チャーリーをこれ以上待たせたら私、その場限りの誤魔化しを言わなきゃならなくなっちゃう。夕食の約束なの。あの人、何にでも時間をかける性質(たち)。註文するまで何時間もかけて、「あれは駄目、これは駄目」。お芝居の開始時間が三十分早まったから、七時半には私、楽屋に入ってないと。さようなら、ミス・バスィントン。お目にかかれてよかったわ。(握手。)さようなら。(エドモンドと握手。)
 シェイラ もう少しいて、ケルドに会ったら?
 ルビー いいえ。本当にもう時間切れ。私からよろしくね。次の歴史劇で私を主役に使ってくれないかしら。お願いしておいて。「天晴れな働き!」だとか「かた腹痛うござる」なんて言えたら嬉しいわ。格好いいもの。じゃ、さようなら。(ルビー、元気よく退場。)
 ナオミ あの人、よくここに来るの?
 シェイラ ええ。あの子の演技がケルド気に入っているの。いつか大ヒットを飛ばすだろうって言ってるわ。
 ナオミ(冗談に紛らす言い方で。)コックニーの、品のないユーモア。あれは確かに真似は出来ないわね。
 エドモンド コックニーだって別に悪くはないさ。連中だって、感情も感動もある。我々と何の違いもない。貴族趣味は止めよう。今は、民主主義の時代なんだ。
 ナオミ 私、ちっとも貴族趣味じゃないわ。
 シェイラ ルビー・レイモンドには私、ケルドほど期待してないの。ナオミも今言ったけど、確かにあの人、彼女一流のやり方で面白い。でもそれ止まり。たいした成長は望めないわ。
 エドモンド ゲイアティーではなかなか好かったがな。
 ナオミ 彼女の経歴にひどく興味があるようね、エドモンド。それに、知ってることを隠したりして。今まで私に彼女の話したこと、一度もなかったわ。
 エドモンド 馬鹿なことを言うんじゃないよ、ナオミ。(シェイラに。)こうやって、いつもお互いにやっかんでいるんです。世話はないですよ、全く。
 ナオミ 私、やっかんでなんかいないわ。
 エドモンド さあさあ、機嫌を直して、ナオミ。(キスする。)失礼、シェイラ。分ってくれますね?
 シェイラ(笑って。)ええ、勿論。
 ナオミ 全く男ったら・・・男ったら・・・この人だって私、いつ裏切られるか。・・・私達、もう本当に行かなくちゃ。ケルドにクラブのこと頼んでおいてね。
 シェイラ ええ、でもケルドのこと待てない?
 ナオミ ええ、もう駄目。今出たってもう遅刻。サイキ・ベラミーと夕食をとる約束なの。その後、フィリップ・ボブレットが自作の芝居を朗読するの。野暮な人だけど、才能はあると思ってるの、私。
 エドモンド 楽しいお茶でした。どうも有難う。
(ケルド登場。)
 シェイラ やっと来たわ、ケルド・・・
 ケルド やあ、今日は。(二人と握手。)
 エドモンド ああ、今日は。
 ナオミ 丁度行く前にお会い出来て。嬉しいわ、ケルド。「ネクスト・ウイーク・クラブ」のことだけど、時々来て下さるんじゃなくて、終身会員になって下さらない?
 ケルド(笑いながら。)これは随分急な話ですね。
 ナオミ でも、いいでしょう? 終身会員の特典のリストをすぐお送りしますわ。
 ケルド シェイラ、君はもう終身会員だったんだっけ?
 シェイラ ええ、もうずーっと昔から。貴方、知ってる筈よ。
 ケルド じゃあ僕も入ろう。必要な書類を頼みます。
 ナオミ まあ嬉しい。素晴らしいじゃない? エドモンド。私達、勧誘の使命を果せたわ! ねえケルド、貴方、うちのクラブの人気者になるわ。
 ケルド それじゃまるで、クラブじゃなくて、ミュージック・ホールみたいだね。
 ナオミ ええ、楽しいのよ、木曜日の夜は。ミュージック・ホールそこのけ。
 ケルド 僕はもう、一二度クラブで喋ったことあるけど?
 ナオミ ええ、でもお客としてでしょ? みんなと一緒っていうのがいいのよ。クララ・デユーラップがついこの間言ってたわ、「この会ったら、本当に圧倒されちゃうわね。どこを向いても当代一流のインテリなんですもの」って。
 ケルド おやおや、ミス・デューラップがそんな小学生のような形容を? 彼女らしくないな。
 ナオミ でもあの人、本気で言ってたわ・・・とにかく御自分で来て、見て下さらなくちゃ。あ、そうそう、エドモンドと二人でお祝いを言わせて下さい、ゆうべのあの大成功の。シェイラがみんな話してくれたわ。何て素敵! 私達、来週は行きますからね。
 ケルド 有難う。是非感想をお聞かせ下さい。
 エドモンド ええ、必ず。
 ナオミ 本当に私達、行かなくちゃ。もう七時だわ。さああ、エドモンド。じゃシェイラ、もう一度さよならね。おもてなし、有難う。それから、本は書かなきゃ駄目よ。みんな待っているんだから。じゃあね、ケルド。
 ケルド じゃあ。
(握手をかわし、ナオミとエドモンド、退場。)
 ケルド(椅子に坐って。)連中、長いこといたの?
 シェイラ 四時ぐらいから。あの二人には芝居の切符を取ってあげなきゃ。
 ケルド 分った。切符係に言っとくよ。どう? 君。(立上り、シェイラにキスをし、また椅子に坐る。)
 シェイラ いつもと同じ。特別なことは何もなし。ゆうべのクライマックスのせいで、今日はちょっとだれた感じね。私、疲れた。
 ケルド 僕もだ。
 シェイラ 夕食は家(うち)?
 ケルド いや、カールトンでゲイルビス夫妻と食べる。もうすぐ着替えなきゃ。全く嫌になる。
 シェイラ メアリー・ゲイルビス・・・可愛い服を着ていたわ、この間の昼食の会の時。どう見ても二十五歳以上には見えないわ。
 ケルド うん、魅力的だ。何か僕に伝言あった?
 シェイラ 全然なし。ルビー・レイモンドがちょっと来て、ゆうべの芝居のことを聞いて行ったわ。あらましは話したわ。
 ケルド わざわざ来たなんて、優しいじゃないか。
 シェイラ そう、本当。「十字軍」で、役が欲しいらしいわ。ああそうそう、貴方の新しい絹の帽子、バーナーズから届いたわ。貴方の部屋に入れてある。
 ケルド 素晴らしい。ところでナオミ、本のことで何か君に言ってたね。君、何か書き始めたの?
 シェイラ いいえ、とんでもない。「シャドウ・ショウ」のことを言ってたのよ。私、あれ、もう一年以上も手をつけていないわ。
 ケルド どうしたんだ、シェイラ。もう書いてないなんて。
 シェイラ 分らないわ。
 ケルド そう、確かに以前下らない喧嘩はやったよ。だけど、もうあれを繰り返すほど僕らは馬鹿じゃない筈だ。それとも、あれが理由なの? 君が書くのをやめたのは。
 シェイラ ええ、一部は。でも全部じゃないわ。私、書く必要がなくなったの。だって、貴方が全部やって下さっているもの。
 ケルド(喜んで。)そうだな。僕は調子が出てきてる。君、今幸せ? シェイラ。
 シェイラ 何て馬鹿な質問。勿論幸せに決まっているわ。当り前でしょう?
 ケルド ちょっと心配になってね。何か君、具合悪いことない? 何か心配事でも・・・
 シェイラ 馬鹿ね。何もないわよ。・・・でも、とにかく私のことを考えてくれて嬉しいわ。
 ケルド いやいや、当然のことだよ。・・・だけど君、やっぱり少しは書いたら? 暇な時間に書くんだ。君のような才能を無駄にするのは惜しいよ。
 シェイラ 今書くとなると私、完全に集中しないと・・・それに、今集中は無理なの。たーくさん仕事があって。
 ケルド ああシェイラ、僕の代りに君の方が有名だったらよかったのに。僕は無名の方がよかった。全くの無名の方が。今夜は疲れている。家にいて休みたいんだ。そして君に何か朗読してもらって・・・
 シェイラ 私が有名だったら、それは出来ない相談よ。私、カールトンでゲイルビス夫妻ときっと夕食。
 ケルド ゲイルビスなんて、糞食らえだ!
 シェイラ 大成功のあとの反動よ。あんな緊張と興奮の後ですもの。少し横になったら如何?
 ケルド 全く横になる時間などあらばこそだ、このところ。
 シェイラ 何もかもがうまく行くって訳には行かないものよ、ケルド。成功にだって嫌な面があるの。
(バレッジ、夕刊を一抱え持って登場。)
 バレッジ これが今配達されました。
 ケルド 有難う、バレッジ。(受け取り、心配そうに目を通し始める。)
 シェイラ またまた褒めてある批評よ。貴方、元気が出るわ、きっと。
 バレッジ 奥様、ちょっといいでしょうか。
 シェイラ 何?
 バレッジ クリーニング屋が来たんですけど、酷い仕上がりで。だんだん悪くなっています。
 シェイラ これで二度も手紙を書いたのよ。
 バレッジ 本当に困ったものです。あの綺麗なお茶用のテーブルクロスの真中にアイロンの痕(あと)をつけているんです。
 シェイラ またクリーニング屋を替えた方がいいと?
 バレッジ ええ奥様、もし私が奥様だったら・・・
 ケルド ねえ君、こいつを聞いて。(読む。)「昨夜モダン劇場でかけられたミスター・マックスウェルの「ストレス」は、前作を凌駕する大成功であった。ところどころに素晴らしい場面が用意されており、特にミス・サンダーランドが・・・」待って、もっと下に僕のことが出ているんだ・・・そう、ここだ。「もしミスター・マックスウェルの素晴らしいお手本を見習って、若い劇作家達がどんどん活躍してくれれば、演劇界への多大な貢献ともなり、また社会にも大きな影響を与えるであろう。」ほら、どうだい、これは。
 シェイラ 素敵ね。
 ケルド 「クリエ」も好評だ。普段は酷い批評をするんだが、ここは。
 シェイラ そうね。(一瞬沈黙。ケルド、別の新聞を取る。シェイラ、急いでバレッジに。)でも、今のクリーニング屋にもう一度だけやらせてみた方がいいんじゃないかしら。私、もう一回支配人に手紙を書いてみるわ。
 バレッジ それから、出来上がったものを運んでくるあの女の子。適切な時の適切な冗談なら時々は構いません。でも、のべつ幕なしに、おまけに目上の人間に向って、あの子一体何でしょう。
 シェイラ 私があなただったら、そんなこと放っておくわね、バレッジ。そう、今度また悪い仕上りのものを持って来たら、エルムトゥリー・ローンドリーに替えましょう。あそこはちゃんと配達用の車があるし、お仕着せを着た運転手よ。それならあなたもあんな無作法な女の子とはさよなら出来るわ。それは確かに、値段は三倍するけど、でも・・・
 ケルド いいかい? これはなかなか親切な書き方だよ。「『ストレス』は、単なる歓迎で迎えられたのではない。本物の大歓迎を受けた。それは昨今の初日によくある儀礼的な賞賛ではなかった。熱狂的に観客からコールがかかり、気前よく作者は舞台に上り、ウィットに溢れるスピーチを行った。作者はこの大成功を確かに誇りに思ってよいであろう。演技については・・・」まあいい、ここは。
 シェイラ 素晴らしいわ。悪い批評は全然ないのね?
 ケルド ない。(そのまま新聞を見ている。)
 バレッジ これでいいでしょうか、奥様。
 シェイラ ええいいわ、バレッジ。
 バレッジ 客間のカーテンはミスィズ・バビンに来てやって貰う方がいいのではないでしょうか。私、日曜の朝外しておきますわ。あんなにいいレースが、もし駄目になったら・・・
 ケルド(苛々と。)カーテン、カーテン、カーテン・・・
 シェイラ 明日の朝にしましょう、バレッジ。
 バレッジ 畏まりました、奥様。
(バレッジ退場。)
 ケルド さあさあ、何時間もかけてクリーニングについて話し合うことにしよう。ゆったりと坐って、あらゆる角度からこの問題を検討するんだ。まづは考慮に入れ得る全てのクリーニング屋の名前を上げ、その一つ一つにつき長所短所を克明に調べ・・・
 シェイラ(笑って。)ケルド、止めて、馬鹿なこと。
 ケルド いやいや、とんでもない。僕は大真面目さ。確かに我々は今まであまりにもクリーニングに関し無関心でいすぎた。クリーニングに心を砕くことを怠ってきたんだ。さあ、今こそあの孤独なクリーニング屋が君のあのお茶会用のテーブルクロスにアイロンがあてられるその瞬間を心に描くべき時だ。我々のこの想像力の欠如が全てのクリーニング屋の失敗を惹き起こしたのだからな。だいたい新聞の劇評などにうつつを抜かし、クリーニング屋にかけるべき大切な時間を潰すことがいけないのだ。さあ、話題はクリーニングにのみ限定しよう。糞っ、糞っ、糞っ・・・クリーニング!
(ケルド、怒って退場。)
(シェイラ、溜息をつく。柱時計を見、部屋を出てケルドを追おうとする。その時玄関のベルが鳴る。シェイラ立上り、耳をすます。外で音がし、扉がパッと開き、オリーヴ登場。)
 オリーヴ シェイラ!
 シェイラ(喜んで。)オリーヴ! あなたがロンドンにいたなんて・・・いいえ、イギリスにだっているとは思っていなかったわ。・・・まあ!(二人抱きあう。)
 オリーヴ スコットランドに行く途中なの。ロンドンには一晩だけ。今着いたばかり。あなたのところに真直ぐ来たのよ。
 シェイラ 家に泊るんでしょう? 勿論。
 オリーヴ いいえ。セント・パンクラス・ホテルに予約したの。明日の朝、早い汽車で発つし、第一、あなたがここにいるかどうかも分らなかったから。
 シェイラ 私はいつもいるわ。
 オリーヴ まあまあ、考えてもみて。私達もう八箇月も会っていなかったのよ。
 シェイラ ええ、本当。八箇月も。あなたの新聞社って嫌い。こんなに長いこと外国に引き留めておくんだもの。でも、お金は沢山くれるんだから文句は言えないわね。
 オリーヴ お金だけじゃないの、くれるのは。素晴らしい経験もさせてくれるわ。勿論私の、酷く意地悪な性格のお陰なの、こんな仕事が出来るのは。海外に住んでいる名士達の隠れた行状を暴きたてて・・・でも、自分自身が嫌になることがあるわね、時々。
 シェイラ あなたの書くもので本当に意地悪っていうのを、私読んだことがないわ。
 オリーヴ あまり沢山読んでないっていうことよ、それは。それに私、だんだん酷くなっているの。外国のホテルの汚いごみ溜めをクンクン嗅ぎ廻って、何かスキャンダルはないか捜しまくる。真っ黒い野良犬みたいに。
 シェイラ でも、それ会社の編集長のアイディアなんでしょう? アイディアとしてはいいわよ。酷く高くつきそうだけど。
 オリーヴ 費用に見合うだけの金は充分取れているのよ。私の担当のあの中傷の記事だけで、何万部と売れるんですからね。
 シェイラ 訴訟も多いでしょうね。
 オリーヴ ええ、何百と。でも私は決して表に出ないの。被害を被らない場所に隠れていられる。だって、口汚いあら捜し屋の正体が分ってしまったら、もう話は終りですからね。
 シェイラ あなたって運がいいわ、オリーヴ・・・何て素敵な仕事なんでしょう。
 オリーヴ 運がいい! 何てことを言う人! 私、あなたの四分の一の才能でもあれば、こんな仕事とっくに放り出しているわ。
 シェイラ(片手を上げて。)止めましょう。お互いを褒めあうのは。いいことないの、それは。
 オリーヴ でも、本当なの、放り出したいのは。勿論面白い仕事よ。やってて楽しい・・・冒険もいろいろある・・・でもやっぱりただの雇われ仕事・・・技術の入り込む余地など何もないの。ただ三つの能力さえあれば出来るの。観測する能力、躊躇(ためら)いを捨てる力、ユーモアのセンスの中で意地の悪いもの、この三つ・・・そしてこの三つは私、ちゃんと持ってるの。
 シェイラ 自尊心を持とうとすると、それは少し邪魔になる考えね。
 オリーヴ 私、自尊心なんか持ったことがないの。持たないでいるのが性に合ってる。この生き方を神様が恵んでくれたのよ。
 シェイラ まあまあ、私、心からあなたのことを「幸せな人」って言えるわ。私、羨ましい、あなたも、あなたの人生も。世界中を旅行出来るあなたの独立心も。初めての場所を訪れ、初めての人達に会って楽しめるその能力。それに何よりもそれが出来る自由を。
 オリーヴ(笑って。)結婚生活が「鳥籠」に見えてきたのかしら? もう。
 シェイラ(気乗りのしない様子で。)分らないわ。
 オリーヴ あなた、ちょっと疲れているんじゃない? それとも何か気がかりなことでも?
 シェイラ いいえ、全然。
 オリーヴ ケルドはどう?
 シェイラ 好調、何もかも。・・・あの人が触るものみんなお金に変ってゆく。
 オリーヴ ゆうべ新しい芝居をかけたんじゃなかった? 新聞で何か読んだわ。
 シェイラ ええ、でもその話はもう止めましょう。午後いっぱいナオミとエドモンドが来ていて、うんざりするほどその話。それからルビー・レイモンドが来て・・・
 オリーヴ(驚いて。)ルビー・レイモンド!
 シェイラ あなた、知ってるの? あの人を。
 オリーヴ 噂をね。
 シェイラ よってたかって芝居のことを私に訊くの。ケルドのスピーチがどうだったかだの、初日に来ていた人間は誰々だの、私が着ていたドレスのことまで! 本当に私、うんざり。
 オリーヴ ケルド、変ってない? 大成功のせいで・・・
 シェイラ ちっとも。昔通りのケルドよ。
 オリーヴ あなたは違うわ。
 シェイラ どういうこと?
 オリーヴ あなたは別れた時のあなたとはすっかり変ってしまったわ。
 シェイラ 変った?・・・どんな風に。
 オリーヴ 至る所よ。目に輝きがない。生き生きとしていない。それから、物に感動しないの、昔のようには。まさか最悪の事態になっているんじゃないでしょうね。ひょっとして・・・おいたをする、そこらじゅう這い回る・・・赤ちゃん・・・が出来るって言うんじゃないでしょうね。
 シェイラ(半分笑って。)そんな!
 オリーヴ でも、悪いのは悪いのね?
 シェイラ いいえ、悪いんじゃないの。私、ちょっとだれぎみで・・・それだけ。
 オリーヴ 今何を書いてる?
 シェイラ 何も。
 オリーヴ(信じられないように。)じゃ、ちゃんとあれを守ってるってこと?
 シェイラ 守るって? 去年の誓い? ここでやった・・・(オリーヴ、頷くのを見て。)そう、守ってるの。
 オリーヴ(鋭く追求して。)あなたそれで、本当に幸せ?
 シェイラ(相手を納得させようと。)勿論。幸せ過ぎるくらい。今はもう昔のような喧嘩はしない。・・・よくやったのよ、酷いのを。・・・大声で怒鳴りあって、掴みかからんばかり・・・その後やっと埋め合わせをつけたり・・・それから、有難いことに、本物の大喧嘩をしたの。そしてそれから後はすっきり。
 オリーヴ それですっかり書かなくなったのね?
 シェイラ ええ。そう、時々私、だれぎみにはなる・・・でも、その代り仕事の苛々とか心配はないの。それでバランスが取れているわ。・・・ケルドとは酷い口争いもないし・・・自分の最上のものが書けていないと酷く落ち込むこともない・・・
 オリーヴ どうやらあなたの生活、蝶々と同じね。気楽で、光り輝いていて、美しい。御亭主は成功で、あなたにはお金が入って来る。本当の幸せを見つけた。もう世界に望むことは何もなし。でも、この平和な喜びが、あなたに疲れた目を与えているのよ、シェイラ。それに、唇の両端が下に垂れ下がってきている・・・
 シェイラ あなたには分っていないのよ。この一週間緊張の連続だったのよ。
 オリーヴ この一週間・・・たった・・・一年前はそれどころでなく緊張の連続だったでしょう?
 シェイラ いいえオリーヴ、そういうことじゃないの。ね・・・
 オリーヴ 馬鹿なことを言わないの、シェイラ。私は騙されないわ。あなたは不幸なの。盲の猫にだって見え見えよ、それは。こんな状況でどうして幸せって言えるの。私が知らないとでも思ってるの? スキャンダル漁(あさ)りの看板を私が伊達(だて)に掲げていると思ったら大間違い。勿論あなた、そこにお行儀よく坐って愚痴一つこぼさない。それはいかにもあなたにはお似合いよ、確かに。亭主の貞操を信じ、別居だの離婚だのと騒ぎ立てないのはね。
 シェイラ(ゆっくりと。)それ、どういうこと?
 オリーヴ(少し傷ついて。)(訳註 野暮であるが註をつける。シェイラが自分(オリーヴ)にも隠すのか、と心外だから。)私達、友達だった筈よ。お互いの秘密を隠し立てなく打ち明け合う。・・・そうでしょう? とにかくああいったことはすぐ漏れるもの。私はニースで聞いたわ。エヴァンジェリン・フェザーストンがビリー・グレンジャと一緒にニースにいたの。二人ともケルドがあまり御執心なのでよく笑いものにしていたわ。勿論、何故あんなレイモンドみたいな女に夢中になっているのか、何の取りえもない女なのにって・・・
 シェイラ(片手を額にあてて。)ああ・・・私・・・
 オリーヴ いつ頃から知ってたの? あなた。
 シェイラ(静かに。)ちっとも・・・ちっとも昔じゃないわ。
 オリーヴ 酷い話・・・ねえシェイラ、酷い話だわ。可哀相に、あなた。でも、大抵の男ならやること。狐を撃ち殺したり、トランプでいかさま、これは冗談ではすまされない。決して許されないこと。でも、ケルドが今やっているような生活のごまかし、これはたいしたことじゃないの。男って、女が与えるものを何でも受け取る、平ちゃらで。平気のへいざで。・・・あなた、与え過ぎたのよ。・・・あなたの頭脳も、あなたの個性も。だからあなた、自分の魅力も少し失ってしまったの。ああ、シェイラ、この間やったような誓いは、もう二度としちゃ駄目よ。
 シェイラ 私、出来るだけやったの・・・ベストを尽したの・・・
 オリーヴ これからどういう行動をとるつもり? そのままずーっとじっとしていることは出来ないわ。
 シェイラ 考えてない・・・
 オリーヴ 可哀相に・・・本当に。目茶苦茶に酷いのね?
 シェイラ(やっとのことで言う。)オリーヴ、あなた今夜、私と夕食取れる?・・・どこか外で・・・
 オリーヴ 勿論。
 シェイラ 分ってくれるわね? 私今、酷く疲れているの。アスピリンを飲んで少し横になるわ。その後だったら、何か話も出来るでしょう。
 オリーヴ(立上って。)よーく分るわ。何時に電話しましょうか。
 シェイラ 七時・・・七時半頃。どこか予約しておいて下さらない? アイヴィーでも、プチ・サヴワイヤールでも・・・どこか静かなところ・・・
 オリーヴ(キスして。)元気を出して。
 シェイラ ええ、そうする。
(オリーヴ退場。)
(シェイラ、ちょっとの間じっと立ちつくす。それから観客の方を向いて、椅子に坐る。我を忘れている様子。暫くしてバレッジ登場。盆の上にメモを載せている。)
 バレッジ 旦那様に御連絡です、奥様。
 シェイラ じゃ、持って行って頂戴。今着替え中よ。
 バレッジ 邪魔しないで欲しいと言われているんです、どんなことがあっても。ちょっとお休みになっていらっしゃるのではないでしょうか。
 シェイラ じゃあ、ここに置いておいて。
 バレッジ ホテル・バークレイからです。使いの男の子はとても重要なことだからと言っていました。
 シェイラ バークレイ? いいわバレッジ、もう。
 バレッジ 畏まりました、奥様。
(バレッジ退場。)
(シェイラ、ちょっと躊躇(ためら)う。それからメモを取り上げ、ひっくり返す。非常に静かにそれを開き、読む。メモを手の中でくしゃくしゃにして、暫く目を閉じる。すべてのことを現実として受け止めるのはとても耐えられないという風。それから両手を閉じ開く動作を繰り返す。次に意識を集中させ、静かな怒りで暖炉の火掻き棒を取り上げ、右手にあるケルドの机に行き、火掻き棒を使って引きだしをこじ開ける。この動作の時、全く騒音を気にしない。引きだしを引き開け、引きだしのポケットの中にある物まで全ての書類を調べてはそこらに投げ散らかす。とうとう手紙の束を見つける。手紙の筆跡をくしゃくしゃにしたメモの筆跡と比べる。ケルド、部屋着姿で登場。)
 ケルド 何をしてるんだ。
 シェイラ(静かに。)脅しても駄目よ。みんな分ってしまったわ。
 ケルド いいかシェイラ、君には分ってないんだ。
 シェイラ 私は分ったわ、ケルド。
 ケルド その手紙を渡すんだ。
 シェイラ どうぞ。(ケルドの足元に手紙をバラバラっと投げる。ケルド、それらを拾い上げ、出て行こうとする。)ちょっと待って。お話しすることがあるわ。
 ケルド(振返り。)これは君の人生における最大の過ちだ。僕の引き出しをぶっ壊して中を見る・・・そんなことをして何の良い結果が生れるっていうんだ。
 シェイラ 良い結果などもう生もうなんて思ってもいないわ。私は諦めたの。あれだけ努力してこんな惨めな結果になるなんて。もうどうでもいいの、私は。
 ケルド 何だ、その芝居がかった台詞は。
 シェイラ ここまではちっとも芝居がかっていないわ。これが終ってからよ、芝居がかったことは。泣いて、怒鳴って、相手を非難して・・・私、これを省略出来そうにない。でも今はまだ落ち着いている。だからこの残酷な、信じられない現実と冷静に向きあう以外にはないと思っている。こんな陳腐な話、小説の題材にも出来やしない。私達は書かないようにしてきた。その陳腐な話を現実に生きて、私達二人はそれに嵌り込んでいるの。
 ケルド ねえ君、僕に説明させてくれ。僕のような気質の男なら誰だって・・・
 シェイラ まあまあ、言い訳をなさろうって言うの。そんなことをする貴方だとは思っていなかったわね。
 ケルド 頼むシェイラ、聞いてくれ。そして分って欲しいんだ。君は僕がルビーと浮ついた関係を持ったから・・・
 シェイラ ルビーと浮ついた関係・・・それだけでもう沢山。貴方、御自分の行動を振返ってみたことが一度でもあった? いい? 芝居じみた台詞ですけどね、貴方は私の心を引き裂いて、完全に殺してしまった。私は今麻痺状態。今まで貴方は、私の何もかもを取り上げて来た。私はなされるままに任せていた。きっとこれでいいんだ、これで最終的には幸せがやって来るんだって期待していたから。でも違ったわ。結局は私を騙し、私に嘘をつき、私の見えないところであのケバケバしい淫売女といちゃついていたの。私の才能を犠牲にした報酬がこれ! もう貴方なんかちっとも愛さない。貴方なんか嫌い・・・大っ嫌い! 貴方の癇癪、貴方の我儘、その他貴方の厭らしい性格・・・それを全部貴方は、抑えるどころか助長するようにしてきた。私はそれに耐えてきたわ。だって、そんなことがあっても貴方は私を愛してくれていると思ったから。だからいつか・・・きっといつか、良くなるだろう。そして「それからはずっと幸せに暮しましたとさ」ってなるだろうと思って。私はあれから一行だって書いたことがない。貴方のために、私の頭脳を働かせるのは諦めたの。二人で書くって無理。それはもう一年前に証明がすんだ。私の時間は全部、クリーニング屋の請求書、新しい召使、その他もろもろの家事雑用に使うことにした。こうやって私は、知的活動も、知性を働かせることも止めたの。でもその間ずっと、一途に貴方を愛していたわ。それはさっき言った希望があったからよ。
 ケルド シェイラ・・・許してくれ。・・・僕に説明させてくれないか。
 シェイラ そんな必要があるの?
 ケルド 僕にはあるんだ。説明・・・それと一緒に弁明もだ。これぐらい許されてもいいだろう。君はこの一年、すっかり変ってしまった。自分でも分ってるね。君は僕から離れて行ったんだ。僕の芝居にも、精神的には君は何の興味も持っていない。持っているふりはしているがね。最近僕は働きづめで、どうしても気晴らしが必要になった。完全な気分転換だ。僕は君に頼ろうとした。しかし君は助けにならなかった。君には僕のこの状態が理解出来なかったんだ。だから僕は・・・ルビー・レイモンドに走った。僕はルビーを愛してはいない。僕は誓って言う。愛してはいない。とても愛すなんて無理なんだ。だけど欲しい時にはいつでもそこにあいつがいた。面白くて、蓮っ葉で、僕が今まで知ったどんな女性とも違っていた。シェイラ、分ってくれ。そして僕を許してくれ。僕は馬鹿だった・・・今になって分る・・・僕のこの酷い癇癪を許してくれ。そして誰かれ構わず出してしまうこの僕の我儘を。それから何と言っても、君に対して不誠実だったことを。君、今言ったね、「でも、その間ずっと一途に愛してきた」って。頼む、もう一度チャンスをくれないか。君を取り戻すために、僕はどんなことだってする。この一年間君がそんなに今の生活を嫌っていたなんて、夢にも思わなかった。君はいつでも満足していて、幸せで・・・
 シェイラ(癇癪を起して。)満足! 幸せ! 今の生活が・・・とんでもない。一秒だってそんな気持になったことがあるもんですか。家事・・・吐き気がするほど厭なこと・・・それが満足そうに見えた! それさえ・・・それさえ貴方には見えなかったの? それから何ていうろくでもない貴方の言い訳。気晴らしが・・・気分転換が必要だった・・・私が助けにならなかった・・・私がそれに気づかなかったから・・・そう、最後のところは正しいわ。私は気づかなかった。貴方の見下げ果てた行動に、全く気づかなかった。今の今、動かぬ証拠、悲しい証拠がこの頭を殴りつけるまで。私、貴方とは終り。貴方のお金なんか一銭も欲しくない。貴方の声も聞きたくない。貴方の姿も見たくない・・・一生涯。これは本気。私の心の底から。貴方とはもうこれっきり。これでお仕舞い!
(シェイラ、部屋から出る。後ろ手にバタンと扉を閉める。)
(ケルド、気が遠くなったかのようにじっと立ちつくす。それからゆっくりとルビーの手紙を引きちぎり、火の中に投げ込む。暖炉に進み、両手の上に頭をのせ、じっと火の燃えるのを見つめる。)
 ケルド(かすれ声で。)シェイラ・・・シェイラ! ああ、何てこと!
                    (幕)

     第 四 幕
(第三幕から四箇月が過ぎている。)
(場 コーンウオールにある別荘の居間。)
(舞台奥に二つの窓。その間に玄関の扉。左手前方に階段と台所に通じる別の扉。テーブルにお茶の用意がしてある。午後遅い時間。薄暗くなってきている。)
(幕が開くとオリーヴがテーブルの後ろに立って、壁にかかっている鏡を見て髪を直している。丁度この部屋に入ってきて、帽子とコートを脱いだところ。ケルド、左手に立って心配そうに窓の外を眺めている。)
 オリーヴ 汽車旅行をした後はいつだって酷い顔・・・緑色に見える。すぐ顔を洗わなくちゃって思うけど、お茶を戴くまではとてもその元気は出ないわ。
 ケルド ちっとも埃の顔には見えませんよ。(窓の外を見る。)
 オリーヴ 有難う、ケルド。そう言って下さると安心するわ。
 ケルド シェイラ、どうしたんだろう。
 オリーヴ どうしたもこうしたもないでしょう? 私達を待っている訳がないのよ。明日着くと思っているんだから。
 ケルド その「私達」は違うな。シェイラが待っているのは君一人だ。僕を待っていやしない。
 オリーヴ あの人、人の心理が読めるって自分で思っているけど、もしそれが本当なら、私の気持が読めたっていい筈なのよ。お互いに惹かれている貴方方二人を何とか元の鞘に収めたいって思っているのを。
 ケルド そんなに簡単に言ってのけるのは止めて欲しいな。
 オリーヴ ねえケルド、私、エクセターからプリマスまで・・・あの汽車からの綺麗な景色が見えていた間中ずっと・・・貴方の重い重い話をそのまま聞いてあげていたのよ。ここに来てまでそれを続けられると思ったら間違いね。
 ケルド 君が急にそんな軽い調子になったのは、シェイラとの出逢いが怖くなったからなんだ。僕も酷く怖いけど。
 オリーヴ よく見抜いてるわ、貴方・・・その通り。でもこんな気分に負けていたらちっともいいことない。ああ、バレッジが早くお茶を持って来てくれないかしら。お茶が来れば少し元気が出るのに。
 ケルド シェイラに僕の気持なんか分ってっこない。決して。・・・それなのにどうして僕に戻ることを許すなんて言うんだろう。あれから四箇月。長い時間だ。最初少しは僕のことを思ったかも知れないが、今ではすっかり忘れている筈なんだ・・・
 オリーヴ 「戻ることを許す」だなんて。そんな自分を卑下した言い方は駄目。第一シェイラだって貴方と同じぐらい悪いのよ。馬鹿な誓いをたてて、それをあくまでも固執したりして。でも大事な点はただ一つね。あの人がまだ貴方を愛しているかどうか、それだけ。もし愛していたら万事うまく行くの。
 ケルド あーあ、君の立場にいたいよ、オリーヴ。悠然とそこに坐って、ニコニコ笑いながら僕に言う、ああ言っちゃ駄目、こうしちゃ駄目、揚句の果てが下らない常識・・・愛していさえすれば万事オーケー。勿論君はこれがうまくいけば喜んでくれるだろうし、まづく終れば、一応悲しんではくれるだろう・・・ほどほどの悲しみではあるだろうけど。だけど君は実際、痛くもかゆくもないんだ。こっちは絶望で頭がおかしくなりそうなのに、そっちは、「早くお茶が来ないかな、上首尾に終ればいいんだけど」程度のことなんだ。
 オリーヴ 私は慈悲深いシンデレラの妖精の名付親の役をやってきたのよ。躊躇(ためら)っている貴方をここまで引きずってきて、何とか二人に良い結果を齎(もたら)そうって、いろんな面倒をみてきた・・・その私を、そこに突っ立って、舌の鞭でこっぴどくやっつけるなんて、嬉しくないわね。
 ケルド やっつけるなんてしてない・・・本当にそんなことは・・・君は親切にしてくれた。感謝してる。慈悲深い妖精の名付親なんて比じゃない。僕はただ、君が羨ましかっただけなんだ。
(バレッジ、お茶とトーストを持って登場。)
 バレッジ トーストを用意しました。暖かいうちにどうぞ。
 オリーヴ 有難う、バレッジ。あなた、知らないかしら、奥様が今日どこまで行ったか。
 バレッジ ケイナンス・コーヴ辺りまで、と聞いています。湿原を突っ切って行った所で、遠いです。でも、もうそろそろお帰りの時間です。
 ケルド こちらから迎えに出て行くのはどうだろう。
 オリーヴ(すぐに。)いいえ、それは駄目ね。じっとここで心を静めていましょう。有難うバレッジ、もういいわ。(バレッジ退場。)さあここへ来て、坐って、ケルド。心配してもどうにもならないわ。さっき貴方、私も貴方同様、神経が苛立ってるって言ったでしょう? 私が落ち着き払って、微笑みを浮べているっていうのは違ってるわ。私、微笑んではいない。それどころじゃないの。・・・でも、私には一つ慰めがある。それは貴方が正しいことをしているっていうことよ。それを忘れないで。さ、お茶を戴きましょう。(お茶を注ぐ。)
 ケルド もし僕の話を聞いてくれなかったらどうしよう。
 オリーヴ 聞いてくれるわ、それは。
 ケルド(お茶を飲みながら。)もし僕の言うことを聞いてくれて・・・戻って来てくれたとする・・・僕ら二人、うまくやって行けるだろうか。つまりその、新婚当時のあの新鮮な幸せが過ぎ去った後でも・・・それとも、もう、一緒に暮すのは期待出来ないのだろうか。
 オリーヴ いいえ、期待出来る筈だわ。・・・二人とも大変な不幸を経験した。つまり、それだけ何かを学んだのですからね。
 ケルド もう「シェイラに物を書かせない」なんて、そんなことはしない。何が起っても、彼女にそう言って欲しいんだけど・・・
 オリーヴ それは自分で言えるでしょう?
 ケルド(突然飛び上って。)いや、頼む。君がやって・・・彼女に会うのは君が先なんだ。頼む、お願いだ。僕はちょっと崖のところまで出ている。もし大丈夫だったら合図してくれ。
 オリーヴ 弱虫!
 ケルド(興奮して。)いや、弱虫なんかじゃない。ちょっと考えてみてくれ。それが常識だ。もし彼女がここで僕を見たらきっとショックを受ける。フイをつかれたと言って怒り狂う。僕はあれを知っている。きっと怒る。出来れば君が先に会って・・・僕をどう思っているか探ってくれてから・・・
 オリーヴ そのショックが、良い方向に行くことを期待していたんだけど・・・
 ケルド ああ、頼むオリーヴ、僕の言ったように・・・あれを驚かせる危険など冒したくない。君の方があれを宥(なだ)めるのはずっとうまい。僕は今心配で心配で、そのせいで却ってあれに対して馬鹿なことをやってしまいそうだ。ああ、もう一度二人で・・・それしか今の僕には希望はない。この部屋に入るまで僕には分っていなかった。ああ、何て慕わしいんだ! ここは彼女の物でいっぱい・・・本、それに写真・・・二人でよく笑った。何ておセンチなことだって・・・一緒になってもまた喧嘩、啀(いが)み合い・・・それは一生続くだろう。だけど、帰ってくれなきゃ・・・どうしても、どうしても、どうしても。
 オリーヴ 彼女に一体私は何て言ったらいいの。きっとひどい勢いで怒りだすわ。
 ケルド ああオリーヴ、頼む。ここで僕を放り出さないで。今の今まであんなに親切にやってきてくれたじゃないか。土壇場で投げ出さないで・・・どうか、頼む。
 オリーヴ 崖は無理。行けないわ。ひどい降りよ。
 ケルド 雨なんか!・・・僕は出る。ねえオリーヴ、これは知っていて欲しい。僕は四箇月、彼女なしで何とか生きてきた。この惨めさも時間が・・・時間さえ経てば少しは緩んでくれるだろうと、それだけを頼りに。そして君が来た。僕の考え方の誤りを糺(ただ)してくれた。徹底的に。最初からどういうつもりで生きなきゃならなかったかを。それからは彼女への憧れは、それ以前の何千倍にも膨れ上がってきた。僕はもう彼女と一緒に暮している自分を想像することさえ怖くて出来ない。そんなことをしたら・・・もし駄目だった時・・・もし僕が彼女に、愛していることを説得出来なかったとしたら・・・そう、いづれにせよそれは、これから一時間以内に起きることで全て決着してしまう・・・オリーヴ、それを考えると僕は、気が狂いそうなんだ。
 オリーヴ(立上り、ケルドの腕に手を置いて。)大丈夫、ケルド。分るわ、その気持。私、出来るだけのことはする。貴方、出なさい、今すぐ。
 ケルド 呼んでくれるね・・・もし・・・彼女が・・・
 オリーヴ ええ。さあ早く出て。帽子はここ。
 ケルド(扉のところで。)あそこにいる。あの小屋の後ろに。彼女が帰って来たら、あそこからなら見える。
 オリーヴ 分ったわ。
 ケルド(オリーヴの手を取って。)オリーヴ、頼む。うまく行くように・・・
 オリーヴ ええ、分ってる。
(ケルド退場。)
(オリーヴ、ケルドが出て行った後、扉を閉め、カーテンを引く。考えながら暖炉の傍の肘掛け椅子まで行き、坐る。テーブルから飲みかけの紅茶を手に取る。バレッジ登場。)
 バレッジ 扉が開く音が聞こえましたので・・・奥様のお帰りかと・・・
 オリーヴ いいえバレッジ、あれはミスター・マックスウェル。出て行ったの。奥様を途中で出迎えられると思ったんじゃないかしら。
 バレッジ 濡れてお仕舞いになりますわ。
 オリーヴ あの人、構わないのよ、そんなこと。
 バレッジ あのレインコートを着ていらっしゃればよかったのに。
 オリーヴ 考えつかなかったのね。ねえバレッジ、この二三週間、奥様のご様子、どうだった? よかったの?
 バレッジ ええ、とても。一生懸命お仕事をなさって、運動も充分に。
 オリーヴ お仕事? 何の?
 バレッジ 書き物です。敵(かたき)のように・・・一日中・・・
 オリーヴ よかったわ、それは。
 バレッジ ええ、私もそう・・・
 オリーヴ で、奥様は幸せで快適に暮していらっしゃるのね?
 バレッジ 快適とは言えません。電気もガスもなく、お湯がすぐ出てくるという訳にはまいりません。台所もちょっと顔を出すとすぐ煤がつくようなところですし、どこへ行くにも何マイルも離れていますから・・・でも、奥様は幸せそうでした。今までよりもずーっと。
 オリーヴ(驚いて。)そう・・・本当に?
 バレッジ 無理もありませんわ。やっとまた自由になられたのですから。私、昔から言ってました、結婚は罠だって。・・・それが証明されたのですわ。
 オリーヴ 結婚が何ですって?
 バレッジ 罠です。
 オリーヴ あなた、結婚の経験があるの? バレッジ。
 バレッジ いいえ、ありません。
 オリーヴ じゃ、どうして罠だってことが分るの?
 バレッジ 人の行動を見て、ですわ。困った事は、ある男が本当はどんな人物か、一緒に暮してみなければ分らないって事・・・そして、一緒に暮して分った時には、もう手遅れなのです。私は旦那様と奥様の暮しをじっと見て来ました。見ない訳には行きません。ずーっと一緒にいるんですから。奥様はコマゴマした事では全部旦那様の言い分を通してあげようとなさいました。旦那様はそれは当然という顔をなさっていました。男ってみんなそうです。・・・男と女、いつでもこうなんです。お二人はいろんな事で激しく言い争われました。奥様の方が議論ではお勝ちになるのですが、それではお二人の関係によくないと、負けたふりをなさいました。このまま行くと、きっと困った事になると私には分っていました。愛だけでは解決出来ないこと、それは男女の生活の仕方です。
 オリーヴ まあバレッジ、あなたがそんな経験を積んでいる人だとは、思ってもいなかったわ。
 バレッジ 昔からいろいろなものを見て来ました。私は美人ではありませんが、「番茶も出花」の時もあったのです。
 オリーヴ で、奥様はこうなって良かったと、あなたは思っているのね?
 バレッジ 勿論ですわ。また独立して、お仕事をして・・・何の心配もないんですから。
 オリーヴ(考えながら。)何の心配もない・・・ね・・・
 バレッジ ええ。慌ててまた同じ間違いを繰り返すなんて、考えられませんわ。
 オリーヴ それ、どういうこと?
 バレッジ 旦那様には悪いと思っていますけど、まあ駄目ですね、どんな話でも。
(バレッジ退場。)
(オリーヴ、暖炉に進む。心配そうな顔。外に足音がする。オリーヴ、素早くケルドの茶碗を椅子の後ろに隠す。)
(シェイラ登場。レインコートに暴風雨用の帽子姿。オリーヴを見てびっくりする。)
 シェイラ オリーヴ! まあ・・・何て素敵! 一日早くなるってどうして言ってくれなかったの?
 オリーヴ 驚かそうと思って。
 シェイラ(微笑んで。)奇襲、大成功よ。(コートと帽子を脱ぎ、窓枠のところに置く。)お茶はすんだの?
 オリーヴ ええ。酷い汽車旅の後のお茶、助かったわ。
 シェイラ 電報か何かで知らせてくれれば良かったのよ。ヘルストンまで迎えに行ったのに。
 オリーヴ ヘルストンまで迎えに? あのガタガタ道をバスで往復なんて、女の人がやることじゃないわ。私、片道だけで胃の中のものが飛び出しそうだった。
 シェイラ 交通機関がまだ古いの、ここは。ご免なさい、お茶が欲しいわ。・・・すっかり濡れて・・・
 オリーヴ(お茶を注ぐ。)坐って。あったことみんな話して。本当に長い間会ってないのよ、私達。(カップを渡す。)
 シェイラ 私の方よりそちらの話が聞きたいわ。
 オリーヴ いいえ、あなたの方。バレッジが言ってたけど、また書き始めたんだって?
 シェイラ ええ。「シャドウ・ショウ」は書き終えたの。
 オリーヴ 「シャドウ・ショウ」?
 シェイラ ええ、結婚した時に書き始めた小説。一年ばかりほったらかしになっていたの。
 オリーヴ ああ、そうそう、思い出したわ。出来栄えはどうなの?
 シェイラ 今まで書いたものの中で一番の出来。でももっと嬉しいのは、クラヴァートンとレイクが気に入ってくれたこと。感激した手紙を送ってくれて。いの一番に出版してくれるって言ってるの。
 オリーヴ 良かったわシェイラ、それは・・・本当に・・・
 シェイラ(熱心な気持は全くなく、平板に。)ね? いいでしょう?
 オリーヴ あまり嬉しそうじゃないわね。
 シェイラ ええ、そんなには。
 オリーヴ あなた、幸せ?
 シェイラ 馬鹿な質問よ、それ・・・幸せって難しいの。
 オリーヴ(急に。)シェイラ・・・私、正直に白状してしまう。初めは、ゆっくり世間話でもして、あなたの気持を探っておいて、それから騙し討ちにしようと思っていたの。でも、そんな作戦、馬鹿げている。やる価値のないものに思えてきたの。だから、単刀直入に言うわ。今日ケルドを一緒に連れてきたの。・・・今崖のところで・・・待ってるの。
 シェイラ 知ってるわ。
 オリーヴ 知ってる?
 シェイラ ええ。ここに来る時に見たの。あの人は私に気づかなかった。何故こんなことをしたの?
 オリーヴ あの人、あなたがいなくて本当に惨めな状態になったの。どうしてもあなたに帰って欲しいって。あなた、ケルドのところへ帰らなきゃ駄目!
 シェイラ ええ、帰るわ、私・・・あの人を呼んで頂戴。雨の中であんなところにいちゃ、風邪をひいてしまう。
 オリーヴ シェイラ、私、嬉しいわ。
 シェイラ いいえオリーヴ、これには嬉しがることなんか何もないの。
 オリーヴ それ、どういう意味?
 シェイラ 早く呼んで。
 オリーヴ でも、シェイラ・・・
 シェイラ(静かに。)私はもうここに四箇月いたの。バレッジとたった二人で。鉛のような灰色の空の下で、雨が窓ガラスを滴(したた)り落ちるのをじっと見つめていた。あらゆる物が重く私にのしかかって来て、気違いになるんじゃないかって思った。私は神経を極力落ち着かせるよう必死の努力をした。ヒューヒューと風の鳴る湿地帯にスコットランド特有の濃い霧が急に立ち籠める。そこで、自分の心を正常に戻そうと努めながら。そして今になってやっと私、それに成功したの。未来をはっきりと、そして感情を込めずに、見通せるようになった。さあ、ケルドを呼んで来て。私、話したいことがあるの。
 オリーヴ(ちょっとの間の後。)分ったわ。(扉のところへ行き、ケルド・・・ケルド!(扉を閉め、シェイラのところへ来て。)私、あなたとあまり長く会っていないものだから、昔のようにあなたの気持が読めないわ。あなた、嬉しいの?
 シェイラ(オリーヴの両手を軽く叩いて。)ねえオリーヴ、みんなの頬に涙の流れる、うっとりとした感傷的な和解・・・って訳には行かないわ。劇的かどうかという観点からすれば、多分、退屈な部類に入るわ。だって私、もうあの人を愛していないんだから!
(ケルド登場。)
 ケルド シェイラ!
 シェイラ さ、入って。暖まって。
 ケルド(オリーヴを見て。)大丈夫なの?
 オリーヴ 分らない。
 ケルド シェイラ・・・君、僕のことを許してくれるの?
 シェイラ ええ。
 ケルド 君をまたキスしていい?
 シェイラ ええ。
(ケルド、シェイラを両腕に抱える。オリーヴ、二階に行きかける。シェイラ、ゆっくり身をほどいて。)
 シェイラ 行かないで、オリーヴ・・・お願い。
 オリーヴ でも私・・・行った方が・・・
 シェイラ あなたにいて欲しいの。
 オリーヴ あなた・・・本当に?
 シェイラ ええ、来て・・・坐って。ケルド、貴方も坐って。言わなきゃならないことが沢山あるわ。
 ケルド シェイラ・・・(坐る。)・・・君の手を・・・僕は惨めだ。・・・君に縋(すが)るしかないんだ。
 シェイラ 縋るなんて。もうそんなことはお仕舞い。私、今貴方の助けが必要なの・・・とても。
 ケルド 僕も君の助けが必要だ。君に戻って来て貰って、また新しい出発を・・・二人で・・・
 シェイラ もう騙しっこは止めましょう。夢も幻想も、無残に打ち砕かれた私達よ。どうして再出発なんか出来るっていうの? 私達は、ただ続けるだけ。そして何とかその場その場をしのいで行くのよ。
 ケルド 君、愛してくれているの? 僕を・・・少なくとも・・・
 シェイラ いいえ。
 ケルド そうだったのか。・・・だから冷たかったんだ。・・・そうじゃないかと思っていた。(ケルド、両手をテーブルの上に置き、その中に頭を埋める。)
 オリーヴ シェイラ、それ、残酷過ぎるわ。
 シェイラ 残酷じゃないの。どうしても愛するのは無理なの。
 オリーヴ じゃ、あなた、どうしてこの人のところへ帰るの? それで何のいいことがあるっていうの。
 シェイラ ああ、オリーヴ・・・オリーヴ・・・あなた、分らないの?
 オリーヴ(シェイラを見て。)まあ、シェイラ・・・あなた・・・私、ちっとも気がつかなかった。
 ケルド(見上げて。)何のこと?
 シェイラ 子供が生まれるの。
 ケルド シェイラ!
 シェイラ そんな顔しないで。
 ケルド いつ分った。
 シェイラ ここに来て、最初の週に。
 ケルド ああ、シェイラ・・・シェイラ・・・
 シェイラ 貴方、嬉しい?
 ケルド うん・・・とても。・・・素晴らしいじゃないか!
 シェイラ 私、何だか怖いの。
 オリーヴ 最初の週? あなた、何も言ってくれなかったわ。
 シェイラ あなたは仕事でスエーデン。知らせて会いに帰って来たりしたら、ひどい損。それに、私一人で問題に向きあう方が良かったの。・・・ずっと、ずっとね。
 ケルド シェイラ、愛しているよ。・・・何ていうチャンスだ。・・・ね?・・・またチャンスが与えられたんだよ。君を幸せにするためなら、僕は何でもする。僕を愛して・・・お願いだ。僕をもう一度愛してくれないか。
 シェイラ 止めて、ケルド。私には無理。私、出来るだけのことはやってみる。・・・ええ、約束するわ、それは。
 ケルド 僕だって、何でも・・・どんなことでも。
 シェイラ 愛が急に戻って来る・・・そういうことがあるかも知れない。先のことは分らないわ。(間。)ああ、何てこと! どうして心理分析の能力なんか私にあるの。どうして普通の、正常な人間じゃないの、私は。私、知性も、文才も、その他脳の知的な部分なんか全部捨ててもいい。ただ、貴方に憧れたあの気持さえ戻ってくれれば・・・私、人の心を分析したり、覗き見したりするの、大嫌い・・・世の中の事なんか知りたくもない・・・ただ貴方が愛せさえすれば・・・でも駄目・・・私には出来ない・・・私、今・・・私、今、本当に孤独・・・そして、心から恐ろしいの・・・
(オリーヴ、立上り、両腕でシェイラを抱く。ケルド、ただ坐ったままじっとシェイラを見る。)
                    (幕)

     平成十六年(二00四年)五月十日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


The Rat Trap
Written: 1918
First London production: Everyman Th., Hampstead, 18 Oct. 1926 (with Joyce Kennedy as Sheila Brandreth, Robert Harris as Keld Maxwill, and Raymond Massey as Edmund Crowe).


The Rat Trap I never saw at all as it was produced ... while I was away in America. It was written when I was eighteen, and was my first attempt at serious playwriting. As such it is not without merit. There is some excruciatingly sophistcated dialogue in the first act of which, at the time, I was inordinately proud. From the point of view of construction it is not very good except for the two principal quarrel scenes. The last act is an inconclusive shambles and is based on the sentimental assumption that the warring egos of the man and wife will simmer down into domestic bliss merely because the wife is about to have a dear little baby. I suppose that I was sincere about it at the time ...
(Coward, 'Preface' to Play Parade, Vol. 3)

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