眠りの森の王子
         現代のおとぎ話

          テレンスラティガン 作
           能 美 武 功  訳

     
   登場人物(地位の順)
カルパチア王 ニコラス八世
カルパチア国摂政 チャールズ大公
チャールズ大公妃
スティリア領フェルディナンド内親王
スティリア領ルイーザ皇女
トリゴリンスキー伯爵(チャールズ大公の侍従長)
マイセンブロン伯爵夫人(チャールズ大公妃の侍女)
ピーター・ノースブルック卿(チャールズ大公付きイギリスの外交官)
ブルンハイム男爵夫人(チャールズ大公妃の侍女)
シュヴァルツ男爵(チャールズ大公付きの執事)
ファイフェル・フォン・ブラウン(チャールズ大公付きの下僕)
ウル・ドゥ・グリュンヌ(チャールズ大公付きの下僕)
メアリー・モーガン(舞台における芸名はエレーヌ・デイゲナム)


   第一幕 第一場  
一九一一年六月二十一日 水曜日 午後十一時半頃
   第一幕 第二場  
一九一一年六月二十二日 木曜日 午前八時頃
   第二幕 第一場  
一九一一年六月二十二日 木曜日 午後七時頃
   第二幕 第二場  
一九一一年六月二十三日 金曜日 午前一時頃
   第二幕 第三場  
一九一一年六月二十三日 金曜日 午後一時頃

(どの場もロンドンにあるカルパチア王国公使館内の一室。)

          第 一 幕
          第 一 場
(場 ベルグレイヴ・スクエアーにある外国公使館の応接間。)
(時 一九一一年六月二十一日 水曜日 午後十一時半頃。)
(上から見ると八角形の形をした部屋。非常に上品にしつらえてある。観客から見える壁は五面。「見えない壁」は、第六、七、八面の壁。舞台奥中央の壁は、重量感のある両開きの扉になっている。舞台奥左と右の壁には、それより小さな扉あり。右手の壁には大きな窓。現在はカーテンがかかっている。幕が開くと舞台は空。しかし照明はついている。暫くして両開きの扉開き、きちんとお仕着せを着た二人の下僕が入って来て、扉の両脇に立つ。彼らの後にメアリー・モーガン。その後にピーター・ノースブルック。メアリー(芸名はエレーヌ・デイゲナム)は部屋の豪華さにあきれ、見まわしながら突っ立っている。メアリーは性的魅力のある女性。白いイヴニングドレスを着ている。ごてごてしていず、さっぱりしたもの。口を開くとかなりはっきりしたアメリカ流の英語が出て来る。ピーターはおよそ四十。外交官らしき言葉つき、身のこなし。フロックコートを着ている。)
 メアリー (驚いて見まわし。)まあ!
(二人の下僕、退場。扉を閉める。)
 メアリー 大使館の中に入ったのなんて、私初めて。
 ピーター 公使館。
 メアリー 同じなんでしょう?
 ピーター 違いますね、少し。ロンドンには大使館と名のつくものは、現在九個しかありません。
 メアリー(少し失望して。)じゃあ、イギリスはまだカルパチアをそれほどたいした国と思ってないっていうこと?
 ピーター まだ、ね。
 メアリー 地図で見ると大きな国なのに。
 ピーター 地図で大きいのが能じゃない。あ、誤解しないで、エー、ミス・・・デイゲナム。私は別にカルパチア国を卑しめて言っているのではないんです。私はまだ行ってみたことはありませんが、それはたいした国の筈です。汽車は時間厳守で走っているし、その、軍隊だって、欧州では、仏、露、独の次に来るでしょうし、それに・・・
 メアリー ちょっと坐っていいかしら?
 ピーター 勿論。どうぞ。
(メアリー、ソファの端に用心深く坐る。明らかに嬉しい気持ち。)
 メアリー ここって、かなりなものだわ。
 ピーター かなり?
 メアリー 部屋も、調度も・・・みんな。
 ピーター(見まわしながら。)そう。但し個人的趣味を言えば、装飾は少し品がない。
 メアリー そうね、私も品がないんだわ、なら。あなた、ここにお住まい?
 ピーター いや、ここの大公の担当にされているのは一時的だ。例の戴冠式のために世界各国から来客がある。しかし、最近のカルパチア王国と我が国との急接近に鑑み、外務省はこの和親を重要事項と目するに到り、当該王国チャールズ大公の接待に当たっては特別に配慮すべしとの決定がなされた。だからなんだ。私は実際はバルカン諸国部の部長だ。
 メアリー(全く興味なし。)あらまあ! で、今日のこの夕食には誰が来るのかしら、陛下の他に。
 ピーター(ぎょっとする。)陛下?
 メアリー 大公のこと。
 ピーター ぎょっとさせるね、君は。いいですか、ミス・デイゲナム。どうやら君はアメリカ人のようだが、大公がここにおいでになる前に、正しい呼び方を勉強しておかなきゃいけないな。そうでないとちょっと気まずい思いをすることになるぞ。
 メアリー(呟く。)気まずい・・・それは駄目ね。
 ピーター 大公はカルパチア王ではない。摂政だ。
 メアリー 同じ(なんでしょう?)
 ピーター(途中で遮って。)いや、同じじゃない。今の大公はハンガリー王子だった人で、カルパチア女王と結婚した。だからその時も王ではない。皇婿(こうせい)だ。つまり女王配偶者。それで女王がなくなった。だからお二人の長男ニコラスが王になった。大公はそこで摂政の役についた。だから大公をお呼びする時の正式な言い方は「ヨー・ロイヤル・ハイネス」。
 メアリー 奥さんは生きていらっしゃると思ったわ。
 ピーター そう、生きてはいらっしゃる。しかし、アン・スゴンド・ノッス。(en seconde noces 仏語 二度目の結婚で。)
 メアリー それどういうこと?
 ピーター(ちょっと考えて。)二番目の奥さん。
 メアリー どうして女王様じゃないの?
 ピーター すごい質問だ。答は簡単だが。
 メアリー どう簡単?
 ピーター ねえ、ミス・デイゲナム。これには長子相続権だの、王位継承に関する特別法だの、深遠な話が付随している。こんなこと考えてたらその奇麗な顔に・・・
 メアリー 有難う。
 ピーター 皺がよってしまう。だからこれだけをちゃんと憶えて欲しい。今夜君を招待してくれた人物はチャールズ大公で、その人を呼ぶ時には必ず「ヨー・ロイヤル・ハイネス」、または「サー」。それからその奥さん、チャールズ大公妃は「ヨー・イムピアリアル・アン・ロイヤル・ハイネス」または「マーム」。
 メアリー ちょっと待って。それちょっと長すぎよ。「イムピアリアル・アン・ロイヤル」? どうして二つも?
 ピーター 説明すると長くてね。この話はローマ帝国まで遡る。チャールズ大公妃はフランツ・ジョセフ皇帝の姪にあたる。
 メアリー じゃ、オーストリアの悪口は駄目ね。
 ピーター 悪口? 悪口は駄目だ。どんな小さいことも。いいですか、ミス・デイゲナム。外交の話になったら、この今のややこしい国際情勢では、ちょっとした発言がとんでもない大事件を引き起こしかねない。
 メアリー そう。歴史の教科書が見えるようだわ。「デイゲナム失言戦争」。
 ピーター それから万一大公の子息、ニコラス王に会うことがあれば・・・
 メアリー まだ? 大変!
 ピーター 「陛下」または「サイアー」または「サー」。全部頭に入ったね?
 メアリー まだ無理だわ。筋が多すぎて短時間には無理。
 ピーター(何のことか分からない。)筋?(礼儀正しく微笑む。)あ、そうか。芝居の用語ね。それからもう一つ大事なこと。皇室の人との会話では、個人的に直接話しかけられた時だけ口を開く。
 メアリー 台詞はきっかけを与えられた時のみにってわけね。
 ピーター きっかけ・・・そう、芝居用語で言うとそうなるか。
 メアリー まあ、びびって来たわ。初舞台より緊張ね。でもここ、本当に言われた場所? 他のお客さん達はどこなの?
 ピーター 分からないな。十一時半が指定された時刻。今は過ぎてる。
 メアリー どうして私が呼ばれたのかしら・・・ご存じ?
 ピーター でも直接会ったことは会ったんでしょう? 大公が楽屋に来られた時。
 メアリー ええ。でも他に十人ぐらい一緒。それに私より良い役よ。私なんて列の一番最後。
 ピーター どうやら大公には特別あなたが目に止ったようですな、あの晩。
 メアリー あら、その話が出たから言いますけどね。私だって驚いたのよ。あの方私に言葉をかけて下さったんですもの。私ったら、はいを二回、いいえを一回。だって私の隣にいたローラ・カーディスについての話だもの。でも本当、会話は全然はずまなかった。あの調子じゃあ今夜は談話の名人オスカー・ワイルドの女性版が必要だと思ってらっしゃるわ、あの方きっと。それとも私とメイジーとを取り違えていらっしゃるんじゃないかしら。
 ピーター メイジー?
 メアリー メイジー・スプリングフィールド。主役の女優。パリで会ったことがあるんだって。メイジーいつも話していたもの。
 ピーター いや、あなただ。それは確かだ。
 メアリー でもどうしてかしら。二幕にちょっとしか出番がなかったわ、私。
 ピーター そのちょっとしかない出番が気に入ったんですね、きっと。
(間。メアリー、部屋をあちこち歩く。)
 メアリー ねえ、何? この静けさ。他のお客はいいとしても、私を呼んだ当の本人はどこなの?
 ピーター さあ、どこですかね。時間割からすると、その前がイギリス外務省とのディナーパーティー。
 メアリー ディナー? で、その後また食べるって言うの?
 ピーター バルカン諸国の皇室の人達、それはしばしば巨大な胃袋を持っていますからね。
(扉に音がする。)
 メアリー(ひどくうろたえて囁く。)ああ、どうしよう。皆が来るわ。誰か知っている人がいたらいいんだけど。百人ぐらいいたらいいわ。そしたら目立たなくてすむし・・・
(奥の扉が開く。トリゴリンスキー男爵(大公の侍従長)が現われる。侍従長、メアリーに一礼。メアリー、この時までにどぎまぎしながら立ち上がっているが、この御辞儀につられるように、開いた扉の方に頭を下げる。二人の下僕が現われ、テーブルを運ぶ。そして部屋の中央に据える。侍従長の指示でテーブルクロスがその上に敷かれる。そしてもう一人の下僕(これは前の二人より背の高い男)が、盆を持って現われる。最初に入って来た二人のうち一人がその盆を支え、下僕長が食器類をテーブルの上に並べてゆく。メアリー、目を丸くしてその成り行きを見つめる。二人分しか用意されないのが分かるとすぐメアリー、ピーターの方を振り返り、「これはどうなっているのか」という目つきをする。ピーター、絵を眺めている。知らんふり。)
 メアリー(息を殺して。)ねえ!
(ピーター反応なし。)
 メアリー(より大きく。)ねえ!
(ピーター振り向く。メアリー必死の様子でテーブルを指差す。)
 メアリー 二人分よ!
 ピーター(口を開かずに押し殺して。)パ・ドゥヴァン。(Pas devant 仏語 人前では止めるんだ。)
 メアリー え?
 ピーター(同じ言い方。)人がいる。ほら。(下僕を指さして。)
 メアリー(必死に。)ええ、でも・・・二人分・・・
 ピーター(命令口調。)シッ!
(間。その間メアリー、困り果てた顔で、しつらえられて行くテーブルを眺める。テーブルが整えられ、下僕と侍従長、行列を作り、ゆっくりした威厳のある足取りで退場。扉のところで侍従長、振り返り一礼。それから侍従長も退場。扉を閉める。メアリー、すぐ椅子においてあったショールを掴み、扉へ突進する。)
 ピーター(行手を遮って。)どうか、ミス・デイゲナム、落ち着いて下さい。うろたえてはいけません。
 メアリー だって当たり前でしょう? ちゃんと筋書きは出来ていたんだわ。二人で夕食だって。あなた最初から知っていたのよ。
 ピーター そう。何だかあやしいという予感は確かに・・・大公から命を受けた時・・・
 メアリー(怒って。)見てご覧なさい。何がバルカン諸国部の部長よ。あんたの職業はね、部長じゃなくて・・・
 ピーター 待って、ミス・デイゲナム・・・そう簡単に人を判断するもんじゃありません。
 メアリー 簡単にしようと複雑にしようと結論は同じじゃないの。さあ通して。ここを出て、玄関からさっさと出て行くんですからね。
 ピーター でもどうしてそういきりたつんです。二人だけの差し向かいの夕食、何の害もないでしょう?
 メアリー いいですか。私の職業というものを考えてみて。害のない差し向かいの夕食、それから抜け出るのにいつだって大変な苦労をするのよ。まづ出てくるのがシャンペン。それから「キャビアはお嫌いじゃないでしょうね。それからその後、冷たいものを少々と。ウエイターの手間を取らせなくてすみますからね。それにその方がいいでしょう? 二人だけで自分の好きなものを取る。どうですか?」。で、食事が終わると、「お芝居の後お疲れでしょう、ミス・デイゲナム。ほらほら、このソファに両足を上げて。寛いで。」こうよ。ちゃんと手は読めているんですからね。
 ピーター ちょっと、君。どこかの色男の部屋と公使館をごっちゃにしてはいないかい?
 メアリー だってどうせたいした違いはないでしょう? ここだとソファからドアまでの距離が少し長い。それから大公様の足がそれほど速くはないかも知れないっていうことぐらい。そう、私本当に出る。適当な理由を言っておいて頂戴。私の伯母が病気だとか何とか。
 ピーター 伯母さん?
 メアリー あなたには悪いわ。私本当に悪いと思ってる。でもどうしてあの方、態々私を選んだのかしら。私だけよ多分、あの芝居に出ている女の子の中でこういうことが厭って言うのは。私、このことでは変わってるの。時々自分はおかしいんじゃないかって思うことがあるくらい。きっと私みたいな子はミュージカル・コメディーに出ちゃいけないんだわ。だって他人(ひと)に変な考えを起こさせるでしょう? ずっとシェイクスピアにしておくんだったかしら。でもそれだともっとひどいこと想像されてしまうかも知れないし。まあいい。とにかく、さよなら!
(メアリー、扉の方に進む。ピーター遮る。)
 ピーター(懇願する調子。)お願いだ。頼む。私とそれから外務省全体に火の粉が降りかかって来るかも知れないんだ。君はそれでいいのか?
 メアリー それでいいって答えるしかないわね。
 ピーター(哀願するように。)ねえ君。そんなこと本気で言ってるんじゃないよね。絶対本気じゃないよ。勿論君は大公を侮辱したいとは思っちゃいないし、両国間の協定に否協力的じゃない。ね、一緒に食事くらいいいじゃない。うまい食事の筈だよ。それに大公は話が上手だ。楽しめるよ。夕食が終わったら、君は言えばいい。「では私、これで。楽しいお食事でしたわ。私、もう帰らなくっちゃ。」
 メアリー そうね。退場の台詞としては最高ね。でもあなた、その退場を保証して下さるって言うの? あなたご自身がよ? いやしくもこの方、カルパチアの大公様よ。その方を・・・
 ピーター ちゃんとイートンで教育を受けている。
 メアリー そう。イートン。余計危険ね。私、出るわ。
 ピーター(半狂乱の体。)待って、頼む、ミス・デイゲナム。じゃあこうしよう。私は保証する。その君の言う台詞で言えば、「君の退場」をだ。丁度食事に必要な時間、私は待つ。それから、それからここに入って来て伝言を伝える。君の伯母さんが交通事故で病院に担ぎこまれた。そこから連絡があったと・・・
 メアリー(疑わしげに。)そうね。出来るかしら。じゃあ・・・でも三十分したら必ずよ・・・
 ピーター しかし三十分で食事が終わるかな。
 メアリー 終わる。終わらすわ。
(大公登場。侍従長が先導。メアリー、石のように沈黙。大公は正装。勲章をつけている。そしてブリーフケースを携帯。片手を広げてメアリーの方に歩み寄る。)
 大公 これはこれは、ようこそ。急だったのによく都合をつけてくれましたね。
 メアリー いいんです、それは・・・ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公 遅くなって失礼。群衆がもう通りに出て来ていて、車が進まなくてね。(ピーターの方を向く。)ノースブルック、もうゆっくり休みたい時間の筈だな。明日はまた明日のスケジュールが控えている。
 ピーター はっ、仰せの通りです、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公 大聖堂に向かう馬車は九時に出発だ。八時二十分にはここに来ていて欲しい。
 ピーター はっ、分かりました。
 大公 お休み。
 ピーター お休みなさいませ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(ピーターがカルパチアの宮廷で要求されている礼儀を熟知していることが明らかに見て取れる。御辞儀をし、優美な姿勢で扉まで後ずさりで下がり、ここで再び御辞儀。そして出て行く。メアリー、その動きを驚嘆と尊敬の眼差しで見つめている。侍従長、メアリーのショールを肩から取り、左手にある寝室へ持って行き、すぐ戻って来る。)
 大公 食事の用意を。
(侍従長、一礼。後ずさりして退場。)
 大公 驚いたかね、君、この招待は。
 メアリー はい、驚きました。私、驚いて、きっと本当は私じゃないんだと思っていました。
 大公(安心させるように。)そりゃ君に決まっているよ。プログラムに間違えないようちゃんと印をつけておいたからね。こういう事に関しては私はかなりきちんとしている男でね。
 メアリー そうでしょうね。そうでなくっちゃ。
 大公 君じゃなかったら誰と間違えたと思ったのかね。
 メアリー えー、メイジー・スプリングフィールド。
 大公 ああ、違うなあれは。いつかもう、パリで会った。
 メアリー ええ、知っています。だから・・・
 大公(陽気に。)違う、違う、違う。メイジー・・・あれは君、言うところの・・・二番煎じでね。
 メアリー あら、そう。じゃあ私は、言うところの・・・一番煎じ?
 大公(礼儀正しく笑う。)は、こりゃいい。ミス・・・えー、ミス・・・
 メアリー プログラムがすぐお手元にありませんものね。
 大公(再び笑って。)最高だ。こりゃ面白い。
 メアリー デイゲナム、エレーヌ・デイゲナムですわ。
(侍従長登場。三人の下僕、後に続く。回転式食器棚を運んで来る。)
 大公 そう。なんて馬鹿なんだ、私は。
 メアリー 芸名ですわ、これ。本当の名前はメアリー・モーガン。
 大公 キャビアはお嫌いじゃないでしょうね。
 メアリー(がっかり、そして諦めた表情。)ええ。
 大公 それからその後、冷たいものを少々と。ウエイターの手間を取らせなくてすみますからね。それにその方がいいでしょう? 二人だけで自分の好きなものを取る、どうですか?
 メアリー(再び諦めた顔。)そう、その方がいいですわ。
 大公 それ、奇麗な服ですね。
 メアリー でも古いものですわ、これ。
(メアリー、坐ろうとする。が、侍従長の「ああっ!」と言う驚きの声で止められる。大公はまだ立っていて、ウオッカの罎を調べている。)
 大公 ウオッカはお好きですか。
 メアリー 飲んだことがないので分かりませんけど・・・
 大公(二つのグラスについで。)それは一度やって見なくっちゃ。これは特別製ですからね。
(大公、一方のグラスを渡す。)
 大公 じゃあ、チェリオー。
 メアリー チェリオー。
(大公、ぐっと一息に飲み込む。メアリー、少し舐めて、顔を蹙める。)
 大公 駄目駄目。これは舐めちゃ駄目なんだ。そんなことやって飲んでると目が回ってくる。こうやるんだ。そうしたら全く危険はない。
(この時までに自分用にもう一杯注いでいて、この言葉と共に一息に飲む。メアリー、両目を閉じて勇敢に一息に飲む。それから両目を開け、驚きをもって、但し静かに、次の台詞を言う。)
 メアリー お話の通りだわ。(大公、もう一杯メアリーに注ぐ。)いえ、もう駄目。いけないわ。
 大公 もう一杯飲んだって、けほどの影響もありはしない。
 メアリー そうかも知れませんけど、けぶりも見せない酔っ払いっていうのもありますから。
(大公、嬉しそうに笑う。)
 大公 ほう、これは素晴らしい。なかなか機智に富んだ舌だ、ミス・デイゲナム。
 メアリー 舌?
 大公 けほどの影響・・・けぶりも見せない、これはうまい。
 メアリー 三十点ぐらいかしら、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公(再び杯を上げて。)よーし・・・チェリオー。
 メアリー(少しびくびくしながら。)チェリオー。
(二人、飲む。今度はメアリー、咳こむ。)
 大公 どうしました?
 メアリー 機智に富んだ舌を焼いたみたい。
 大公 それは残念。
(大公、隅に置けないなという顔をしてメアリーを見る。二人ともまだ立った儘。)
 大公 来てくれて有難う、ミス・・・あー、デイゲナム。実に楽しい。そちらも楽しければいいんだが。
 メアリー ええ、もう、うっとり。
 大公 お坐り下さい、どうぞ。
(大公、椅子を指し示す。メアリー、侍従長の方を確かめるように見る。侍従長、微かな同意の頷き。メアリー坐る。大公、下僕達に合図。下僕達、一列に並び、扉に進む。メアリー、彼らに去ってもらいたくない、という気持ちで見守る。侍従長も後ずさりして退場。再びメアリー、驚嘆の気持ちでその動作を見つめる。また自分が退場する際には、同じ動作をせねばならぬという惧(おそ)れの気持ちも混じって。)
 大公 シャンペイン?
 メアリー(諦めの気持ち。)ええ。
 大公 さあ、これで二人きりになりましたよ。
 メアリー(再び諦めの表情。)ええ。
(大公、二つのグラスに注ぎ、一つを手に持ってメアリーのグラスと合わせ、音をさせる。その時大公、明らかに自分で「誘惑の微笑」と定義づけている微笑を浮かべる。メアリーのこれに応じる微笑は再び、「しょうがないわね」のそれ。)
 大公(きびきびと。)よーし。さてと、ミス・デイゲナム。失礼だが私はちょっと食事に付き合えない。夕食をすませてきたばかりでね。それに、片付けておかなければならない仕事が二、三あって。失礼。
(グラスを持ち、片手に先ほどのブリーフケースを掴み、部屋の隅に身を置く。まづ眼鏡を掛け、次に書類を取りだし、調べる。メアリー、ひどくあっけに取られる。それから肩をすくめ、食事を始める。料理を頬ばりながら大公を眺める。大公、今では全くメアリーのことを忘れている。長い間。)
 メアリー(ついに。はっきりした声で。)この部屋、急に暑くなったみたい。違うかしら。
(大公、聞こえなかった様子。メアリー、困ったような身振り。)
 メアリー(呟く。)個人的に話しかけられていない、か。
(メアリー、食事を続ける。大公の後姿を眺めながら。大公、前屈みになり、一心に書類の吟味。手を伸ばし、電話を掴む。)
 大公(受話器に。低いがはっきりした、他人に聞こえる声で。)大臣を出してくれ。・・・よし、じゃあ起こすんだ。・・・カルーフか。眠っていたか。・・・起こして悪かったなどとは言わない。重大危機だ。さっき一時間、サー・エドワードと二人きりで話した。あのウォルフシュタインの逮捕が各国の注目を集め、どうやら蜂の巣をつついた状態になっているらしい。メモはある、ここに。・・・何だって?・・・頼むよ、君。 カルパチア語は止めてくれ。私が話せないことはよく知っている筈じゃないか。・・・そうそう、英語だ。それでいい。・・・うん、こっちは大丈夫だ。誰もいない。
(メアリー、少し眉を上げる。)
 大公 サー・エドワードには事情をよく説明しておいた。もしあの時ウォルフシュタインを逮捕しておかなかったら、総選挙という事態になっていたろう。そして力を得るのはウォルフシュタインだ。その結果フランスとの同盟が出来、一年以内にこっちはドイツとの連盟を組むことになっていたろう。そうすればウィルヘルムは必ずその力をモロッコに対して行使していたろう。そうサー・エドワードに話した。・・・そう。お前の言う通りだ。サー・エドワードも言っている。世論に対する影響が大きすぎるのではないかと。反対派の指導者を反逆者という名目で牢屋にぶち込むのは慥にあまり見てくれは良くない。しかしあの状態で私が他にどう出来たというんだ。サー・エドワードはこの裁判を一般公開すべきだと言っている。しかしそれは具合が悪い。何か証拠を提出しなければならんし。こういう場合には証拠なんてそう簡単にあるものじゃない。・・・うん、分かっている。あいつはいい男だ。ウォルフシュタインの弁護団にまわしてやろうと思っている。こっちにうまく運んでくれる筈だ・・・
(この間にメアリー、キャビアを終えて次の料理にかかろうとしている。回転式食器棚に向かい、チキンサラダを皿に取り分けている。しかし耳は会話に注意を払っているのが見て取れる。)
 大公 ここで一番頭が痛いのはアメリカの出方だ。連中は馬鹿だからすぐ抗議行動に出る。
(メアリー、皿に取り分けてテーブルに戻ろうとするところ。この言葉を聞き、足を止め大公を睨む。)
 大公 そう、いつものナンセンスだ。やれ政治的自由だの、やれ民主主義の権利だの。こういう問題になると連中は全くの子供だからな。連中の外交問題を処する態度を見ていると何時でもあのミノタウロスの伝説の逆を思い出してしまう。ほら、ギリシャ神話の例の、牛がテーセウスを迷路の中で追いかけると言う・・・機関車を作っても狭い庭で動かしたんじゃ、意味がない。(ここ原文は、A steam traction engine in Hampton Court maze ... )・・・(大公、くすくす笑う。)うん、そうだ。
(メアリー、元の席に戻る。怒って皿をがちゃんと置く。大公、見上げて例の「誘惑の微笑」を浮かべグラスを上げる。メアリーの微笑は強張ったものだが、大公は全く気づかない。)
 大公 いや、イギリスは違う。連中はもっと大人だ。裁判を待つ。判決が出てから抗議するさ。
(メアリーの睨み方、ここでは狂暴になる。)
 大公 そうだ。しかしアメリカの抗議はもうこちらの新聞に報道されて、今夜にも各地で蜂起行動をやるらしい。・・・勿論対処は出来ている。うまく抑えるさ。しかし、Herr Gott!(これはドイツ語。)アメリカ人、あいつら何時になったら大人になるんだ。・・・分かった。明日話そう。お休み。
(大公、受話器を置く。一瞬深い思いに沈む。それからやっと我に帰り、立ち上がってテーブルの方に進む。)
 大公(元気よく。)さてさて、さてと。どうですか、食事は。
 メアリー(睨みつけて。)万事オーケー。
 大公 あれあれ、全部自分で。手伝わなくて失礼。なんて迂闊なんだ。
 メアリー いいえ。自分でやる方がずっといいわ。
 大公 それは良かった。
(大公、二つのグラスに注ぎ、自分のを持ち上げる。)
 大公 チェリオー。
 メアリー その節穴の目に。
(大公、飲みかけた酒をぷっと吹き出す。)
 大公 これは驚いた。何ていう表現だ。どこで習いましたか?
 メアリー アメリカで。
 大公(皮肉に気づかない。)ああそう。行ったことがあるんですか?
 メアリー そこで生まれましたもの。私、アメリカ人。
 大公(電話を見て暫く考える。皮肉には全く気づかない。うわの空。)ああ、なるほど。そう?
 メアリー ええ、そうなんです、ヨー・ロイヤル・ハイネス。それから・・・
 大公 ちょっと悪いけど失礼していいかな。また電話をしないと・・・急に思い出して・・・
 メアリー 構いませんとも。どうぞ。自分一人で充分。
(大公、きびきびと受話器に進み、取り上げる。)
 大公(電話に。)フランス大使を頼む。・・・あ、そうか。レセプションに出席中だったな。じゃあ、後だ。
(受話器を置く。備忘録を取り上げ、眼鏡を掛け、詳しく見る構え。メアリー、怒ってシャンペンを注ぎ、グラスを持ち上げる。)
 メアリー(はっきりと。)タフト大統領!
(反応なし。)
 メアリー 大統領に乾杯すると言ったのよ!
(再び反応なし。メアリー立ち上がり、大統領に孤独な乾杯を実行する。元の席に坐る。)
 メアリー(自分に呟く。)そう。個人的に話し掛けられはしなかった。でもそれがどうしたって言うの。
(再び沈黙。メアリー溜息をつき、回転式食器棚のところへ行き、調べる。観客に、今までの何回もの乾杯がメアリーに影響を与えていることが分かる。)
 メアリー(自分に呟く。)迷路に牛? テーセウス? 何よ一体。
(デザートを取りだし、席に戻る。この時までに大公、動きなし。ただ時々ページを捲るだけ。)
 メアリー(呟く。)抗議行動? 当たり前でしょう、抗議するのは。そんな風に人を逮捕するなんて。酷い話。
(メアリー、罎を取り上げる。)
 メアリー(呟く。)シャンペンをもう少し如何ですか、ミス・デイゲナム。・・・そうね、どうしましょう、ヨー・ロイヤル・ハイネス。 もう少し戴いた方がいいとお思いになる?・・・ええ、もう少しは。そうそう、そこまで。ほーら。
(メアリー、丁度ここで注ぎ終わる。この時までに大公、目を上げて見ている。)
 大公 失礼。今君、何か言った?
 メアリー(話しかけられるとは予期していず、慌てて。)いえ、ちょっと、その、一人で。お芝居を。
 大公 それはいい。(グラスを上げて。)チェリオー。
 メアリー(グラスを上げて。)乾杯!
(ここで急に扉が開く。横柄な開け方。そして十六歳くらいの少年(ニコラス)がパジャマと部屋着姿で登場。ひどく不機嫌。メアリーにはすぐ気づくが、すぐ目を移して大公の方を向き、睨みつける。)
 ニコラス ウォルフシュタインの逮捕のことを、何故僕に知らせなかった。
 大公(急いで。)ベッドに帰るんだ、ニッキー。そのことは朝話そう。
 ニコラス いや、お父さん。話すのは今だ。ウォルフシュタインの逮捕を何故僕に知らせなかった。僕はイヴニングスタンダードで知ったんだ。ロンドンの新聞でやっと知るというのはどういうことだ。
 大公(辛抱強く。)お前に知らせる必要はない。
 ニコラス 王に知らせる必要がない?
(メアリー、デザートをつつきながらこのやり取りを興味深く見ていたが、ここでグラスをがたんとテーブルに置き、立ち上がる。ニコラスと大公、メアリーを見る。)
 大公(仕方なく、おざなりに。)紹介する。ミス・エレーヌ・デイゲナム。
(メアリー、ニコラスに近づき、差し出された手を握る。)
 ニコラス(同様におざなりに。但し皇室のよく訓練された微笑をもって。)始めまして。今晩は。どうぞお坐り下さい。
(ニコラス、大公の方を向く。微笑は素速く消える。)
 ニコラス 王の反対党の党首が、捏造された罪により牢屋にぶちこまれた。そして王自身はそれについて何も知らされない。一体どういうことだ、これは。
(メアリー、まだ正式の御辞儀の途中。ニコラスが既に大公の方を向いているのを知り、困ったもの、といった調子で肩をすくめる。再びデザートに戻る。目は父と子に。)
 大公(落ち着いて。)知らされる権利、それは重々承知だ、ニッキー。ただな、お前の母親が、出かける前に私に言ったんだ。お前は例のシュッシュッポッポを持って寝室に行った。その時、邪魔を入れないでくれと命令を残したとね。だから差し控えたのさ。
 ニコラス 単なる言い逃れだ。誰の命令で彼は逮捕された。
 大公 それは勿論私の指示による。
 ニコラス すぐ釈放するんだ。
 大公(静かに。)慥にお前は王だ。しかしここで説明しておかねばならないようだな。慥に私は事態を逐一王であるお前に報告する義務はある。しかしお前の命令を実行する義務はないのだ。その為には後十八箇月待たねばならん。
 ニコラス ふふーん、そこまで持つかな。
 大公(疲れたように。)脅迫か、ニッキー。こっちも用意が出来ている。秘密警察もある。
 ニコラス 何だかよく分からないな。とにかく舵を取り損ねたら民衆がただでは置かないということだ。フランスの欲得づくと、イギリスの帝国主義で戦争に引き込まれ、強引な対策を取らなきゃならなくなる。そうなれば十八箇月とは言わず・・・
 大公 分かった分かった。その日はすぐ来る。お前は本物の王になるさ、ニッキー。しかしな、今のところこの私がカルパチアの支配者なんだ。お前の支配者でもある。(厳しく。)部屋に帰るんだ。
(ニコラス、どうしようかと突っ立っている。)
 大公 今すぐだ!
(ニコラス、ゆっくりと扉に進む。)
 ニコラス ウィルヘルム叔父さんは今どこにいる? ポツダムか。
 大公 私は知らない。しかし皇太子ならバッキンガム・パレスにいる。電話番号は、ウエスミンスター八三二だ。
(ニコラス、ぱっと向きをかえ、扉に向かう。しかし女性に対する礼儀を思い出す。振り返り、メアリーに一礼。)
 ニコラス(皇室特有の微笑。)お休みなさい、ミス・デイゲナム。お会い出来て光栄。
 メアリー(酔が効いてきて、やっと立ち上がり。)お休みなさい、陛下。
(ニコラス退場。大公、すぐに受話器を取る。)
 大公(受話器に。早口で。)ホフマン大尉を。・・・ホフマンか。すぐ王の寝室へ行け。王が中にいるのが確認出来たら、鍵を掛けろ。見張りも置くんだ。もしいなかったら必ず捜しだして、王から離れるな。それからこのことを絶対に守るんだぞ、いいか。王が掛ける電話は決して繋(つな)ぐな。外部にも、内部にもだ。この命令の解除があるまでは決してだ。いいな。
(大公、電話を切る。伸びをする。それからテーブルに進む。)
 大公 いや、まづいものをお見せして。家族の内輪もめなどを。気まづい思いをしたんじゃないかね。
 メアリー(両目を大きく広げて。)でもあの方、お子さんなんでしょう?
 大公 そう。
 メアリー 本当のお子さん? 義理のとか、養子とかではなく。
 大公 そう。
 メアリー そして一人っ子さん。
 大公 そう。
 メアリー(呆れて。)まあ。
(間。)
 メアリー 私・・・私、さっきからひどくむかっとしていたの。
 大公 むかっと? 私にか?
 メアリー ええ。でも今は違う。今は私、可哀相って思っている。本当に本当にお可哀相。
 大公 ミス・デイゲナム、そんなにあの子が怒っていたことを気に止める必要はないんです。父親のすることにいちいち楯つくというのは、子供の義務なのでしてね。古くから確立された、カルパチアの伝統なんですよ。イギリス王室にもこの伝統がありましたよ、つい最近まで。
 メアリー でも陰謀だとか、秘密警察は・・・(なかったわ。)
 大公 もありました。まあとにかく我が国は立憲君主国ではありませんから。
 メアリー(ひどくきっぱりと。)そう。そこが問題なのよ。立憲にすべきだわ。
 大公(丁寧に。)なるほど、そうですか、ミス・デイゲナム。
 メアリー 本当にそうよ。証拠をでっち上げて、実際には何の罪咎もない人間を牢屋に入れるなんて・・・そう、ちゃんと聞こえてますからね・・・民衆の意に反して・・・本当に酷い話。ここで私言って置きますけどね、アメリカ政府の抗議、絶対にこの際正しいわ。それからさっきよく聴いて下さっていなかったみたいですけど、私、アメリカ人よ。アメリカの市民。
 大公 なるほど、そうですか、ミス・デイゲナム。
 メアリー そうなんです、ヨー・ロイヤル・ハイネス。私はアメリカの市民。それを誇りに思っているんですからね。
 大公(丁寧に。)なるほど、そうですか、ミス・デイゲナム。
 メアリー 人権・・・人民の、人民のための、人民によ・・・(ここで小さなしゃっくり。その為中断される。)そう、それよ。それに人身保護法だってあるわ。これはイギリスが最初よ、アメリカにもあるけど。
 大公 なるほど、聞いたことがありますよ、ミス・デイゲナム。
 メアリー(厳しく。)だから、他の人の政治思想が気に入らないからって、簡単に逮捕なんて出来ないのよ。可哀相に、あの・・・何だったかしら、あの人の名前・・・ウォルフシュタイン! 奥さんだって、子供だっているでしょうに。ああ、酷いわ。こんな酷いことどうして出来るのか、私にはさっぱり分からない。どうしてなの?
 大公(静かに。)何故なら、この場合について言えば、目的が手段を正当化するんです。私はそう信じている。
 メアリー まあ、そんな話って。私、お酒がこんなに回っていなかったら、きっときっと言い負かせるわ。(ちょっと考える。思い付いて。勝ち誇って。)分かった。手段の悪いものに、良い目的がある筈がない。(驚いて。)あら、これ、誰の言葉?
 大公 どうやら、貴女の言葉のようですな。
 メアリー あら、そう? まあ!
 大公 しかしこの場合、目的は世界平和なんですが、どうですかね。目的自体は良いものとは言えませんかね。
(間。)
 メアリー(やっと。)難しいものね。
 大公 そう。
 メアリー ねえ、こうしたら? そのウォルフシュタインさんていう人を説得するのよ。そして政策を変えさせるの。
 大公(微笑む。)とても頑固な男でしてね。半分ドイツ人の血が入っていて、カイザーがこの男に金を出してやっているんです。
 メアリー じゃあ、民衆の意見をこっちに引きつけたら?
 大公 それをしようにも、民衆の三分の一は文盲、三分の二はドイツ系ときてはね。
(また間。)
 メアリー あら、なかなか思うようにはいかないのね。大変!
(電話が鳴る。)
 大公(立ち上がる。)失礼。
 メアリー まあ、残念だわ。折角いいところなのに。もう少しで名案が浮かぶのよ。そしたら全部解決、そんな名案なのに・・・
 大公(受話器に。)私だ。・・・そうか。分かった。
(受話器を置く。)
 大公(静かに。)セント・ジェイムズ宮から、妻が予定より早く帰って来た。すぐここに来ると言っている。
 メアリー まあ。(事態をすぐ了解して。跳び上がり。)奥様ですって? 大変。私に隠れて欲しいんでしょう? どこがいいの?(指差して。)あそこ? それとも物置があるかしら?
 大公(静かに。)どうやら随分お芝居の感覚をお持ちのようだ、ミス・デイゲナム。でも失望させて悪いんだが、物置に隠れる・・・いや、私だって隠れんぼは好きだよ・・・だけどその必要がないんだ。それに、たとえ隠れたって、お芝居じゃ必ず何か忘れる。違うかな? 手袋だとか、扇だとか。それで二人とも馬鹿な目に会う。そう。じたばたする必要なんかない。ほら、じっと坐っていて。(優しく椅子に坐らせる。)でも予め一つ言っておきますが、妻は時々目が見えなくなったり、ひどく耳が遠くなったりする。このことは忘れないでいて欲しい。
(大公妃登場。ほぼ大公と同じ年頃。公式の舞踏会からの帰りで、光り輝く衣装。美しく且つ王室に相応しい。その後に侍女がついている。大公妃、大公に近づく。その際ちゃんと視界には入っている筈なのに、メアリーにも、夕食のテーブルにも目を止めない。そして大公の頬にキスする。)
 大公妃 退屈なものだったわ、あなた! それに酷い飾りつけ! 音楽もどうしようもないし。馬車は一時に来るようにと言っておいたのよ。そうしたらどう? 来た馭者はあの変なトルコ人。憶えていらっしゃる? いつかあのメイ・ヘルツェゴヴィナがすっかりご執心だった、あのトルコ人なの。
(大公妃、丁度メアリーが立ち上がって空いた椅子に坐る。メアリーはほんの二、三歩しか離れていない場所に立っている。しかしどうやらその姿は全く見えない様子。大公、溢れ出てくる言葉の隙を狙ってメアリーを紹介しようと機を窺っている。)
 大公妃 そうそう、それから晩餐でオーリガ・ボスニアったら・・・ああそう、服装も酷いものだった。その話はまたあとで。食事の時だけど、アイスクリームをつっついていて、そう、チョコレートアイスだったと思う。それをロージーの膝に。ほら、あのロージー・シュランバーガー・リッペ・ギルデンスターン、あの人の膝に落としたの。もう皆大笑い。でも一番大声で笑ったのはオーリガなの。それに言うことに事欠いて「爆弾じゃなくて良かったわね。」だって。想像出来るでしょう、あなた。これが言われた時どんなにシーンとなったか。あんな沈黙私初めて。それに後でオーリガが言ったことがいいわ。「私シュランバーガー・リッペ・ギルデンスターン伯爵が暗殺されたんだってことすっかり忘れていたわ。でもあれ、爆弾じゃなくて手榴弾だったわよね。」まるで手榴弾って言わなかったから大丈夫だったと言わんばかり。そう、それから服装の話だったわね・・・(突然話が変わって。)モード! どこなの、あなた。
(侍女、椅子の後から出て来る。)
 大公妃 ああ、そこに居たの。見えなかったわ。ちょっとそこのシャンペングラスを取って頂戴。(話を戻して。)あの人、上から・・・
 大公(巧妙に話を遮って。)ちょっとその・・・紹介する。こちら、ミス・デイゲナム。
(メアリー、こちこちになって前に進み、差し出された手を握る。)
 大公妃(優美に微笑んで。)あーら、暫くね。よく憶えていますよ、あなたのこと。
 メアリー ええ、でも私、初めてお目にかかったのですけれど、ヨー・ロイヤル・・・いえ、ヨー・イムピアリアル・アン・ロイヤル・ハイネス。
 大公妃(大公に。)今、何て?
 大公(全く普通の調子で。)素晴らしい記憶力。憶えていて下さって嬉しうございます、と。
 大公妃(メアリーに。)有難う、褒めて下さって。(大公に。)この娘(こ)可愛いじゃない。でももう少しマスカラをつけた方がいいわ。若い時には沢山マスカラをつけなくちゃ。そして年をとったらもっとつけるの。(この時までに侍女、シャンペングラスを渡している。)
 大公妃(ちょっと舐めて。)オーリガ・ボスニアったらピンクの衣装。それも頭のてっぺんから足の爪先まで。馬鹿なこと。アイリーン・ベッサラビアのお茶に呼ばれると必ず出される酷いお菓子があるわね。アイリーンによると、口の中でさっと溶けて口いっぱいに広がって行くって言うんだけど。あのお菓子の色にそっくり。王冠を被って。片目にかかるぐらい深く。それも偽物って皆が知っている。メイ・ヘルツェゴビナの話だと本物がサロキナの質屋に売っていたって言う。でも買ってみたらそれも偽物だったって・・・でもメイの話はどうせ信用出来ないものね。(急にメアリーの方を向いて。)で、あなた、職業は?
 メアリー ゲイアティー座のココナットガールのメンバーです。
 大公妃(大公の方を向き、問いただすように。)何て?
 大公 女優だ、と。
 大公妃 女優? あら、面白いわね。マダム・ベルナールは家に泊まったことがあるのよ。「マグダ」でデューズの役をやったわね。私から見るとあれは感心しなかった。どう思う? あなたは。そうでもない?
 メアリー(困って。)ええ。
 大公妃 あら、あなたはあれ、いいとお思い? 面白いわね。リュシアン・ギトリーはご存じ?
 メアリー いいえ、マーム。
 大公妃 マダム・ベルナールだけ? 偉いわ、自分の友達に忠実なのね。いいことよ、それ。忠実って最近あまり出くわさないけど。Tres bien.(フランス語 いいことだわ。)(メアリーを扇で軽く叩く。)ついこの間私、フェードルを観たけど・・・あなたあれ、何度も観ているでしょうね。そんなに近しいんだから。でもね、あなた、ここだけの話だけど、あの芝居本当に苛々する。愛愛愛・・・退屈。人生にはもっといろんなことがあるのよ。どうして何か書くってことになると愛愛愛、愛ばかりなんでしょうね。(大公に。)さあ、私これで。もう寝なければ。明日着て行くものは? あなた。
 大公 近衛の。
 大公妃 えーと、色は何だったかしら。(ちょっと考えて。)ああ、大丈夫ね。私の着るものと色は合う。じゃああなた、お休み。
 大公 じゃあね。お休み。
(二人、頬にキス。)
 大公妃 モード! どこにいるの、あのば・・・
 伯爵夫人 はい、マーム。
 大公妃 モード、あなたどうしたの、その顔。元気ないわよ。
 伯爵夫人 風邪を引きまして、マーム。
 大公妃(心配して。)まあ、可哀相に。それはいけないわ。私の、例の風邪に効くシロップを作ってあげなくちゃ。
 伯爵夫人 それはご親切に。有難うございます、マーム。
(彼女の表情から「私の、例の風邪に効くシロップ」を一度飲んだことがあることが見てとれる。御辞儀をして退場。)
 大公妃(優美な微笑は消えていない。)馬鹿な娘(こ)。風邪をひいてばかり。どうしてああなのかしら。でも風邪はひくけど虫はつかない。私の知っている限り、ないわね。もっともあの顔じゃ・・・
(優雅なこなしでメアリーの方を向き。)
 大公妃 お休み、あなた。楽しかったわ。
 メアリー お休みなさいませ、マーム。
 大公妃 ああ、それから頬にも少し紅をね。その方がいいわ。
 メアリー はい、マーム。
(大公妃、さようならの微笑を浮かべ、扉に進む。そこで振り返り、怖い顔をして。)
 大公妃 マダム・ベルナールに変なこと言ったら駄目よ。怒りますよ。
(大公妃退場。)
 メアリー 少し目が見えないですって? 全然じゃないのかしら。ねえ、でも、私のこと、気にならないのかしら。ちっとも。平気なの?
(間。大公、煙草に火をつける。)
 大公(ゆっくりと。)あのね、私があれにプロポーズした理由は、対オーストリア貿易協定の強化のためだよ。そしてあれが承諾したのは、父親の皇帝がそうしろと言ったからなんだ。それから十年、我々は非常に睦まじく暮らしてきた。意地悪な言葉を言い合ったことなど一度もない。あれが何を気にするって言うんだね。(間。)
 メアリー(やっと。)恐ろしいことだわ。
 大公(不思議な面持ち。)恐ろしい? 何が。
 メアリー ぞっとする生活。私がそう言う理由、お分かり?
 大公 分からない。
 メアリー 愛がないからよ。
(大公、何か答えようとする。)
 メアリー(それを留めて。大公の台詞は分かっているというように。)いくらでもある、メイジー・スプリングフィールドだってそうじゃないかって。そんなの分かってるわ。私の言うのは、本当の愛。
(電話が鳴る。)
 メアリー(怒って。)ああ、また!
 大公 失礼。
(大公、受話器の方に進む。)
 大公(受話器に。)私だ。・・・(真剣に。)分かった。・・・負傷者は?・・・非常事態ではないな、それぐらいなら。・・・いいか、慌てる必要はない。新任の警察長官はいい奴だ。私は信頼している。・・・駄目だ。
(大公、電話を切る。ぼんやりした表情。メアリー、大公をじっと見る。大公我に返り、メアリーの視線に気づく。自動的に「誘惑の微笑」を浮かべる。と同時に、こっそり時計を見る。)
 大公(元気よく。)よーし、さあってと。
 メアリー さあって?
 大公 ねえ君、そこよりソファの方がよくはないかい? 両足上げられるし、楽に出来るよ。
(間。)
 メアリー 私、ここの方がいいですわ。すみませんけど。
 大公 いいでしょう。お好きなように。
(大公、じろじろと坐っているメアリーを見る。明らかに攻撃地点の探索。次にスツールを持って来てメアリーの横に坐る。間あり。この間に大公、小さな欠伸を洩らす。但しメアリーからそれは見えない。それから片手を優しくメアリーの膝の上に置く。メアリー、用心深くその手を見る。)
 大公 今日は来てくれて本当に嬉しかったよ。
(手が膝の上の方に這い上がる。)
 メアリー(声が少し上ずる。)それ、前に仰いましたわ。
 大公 そうだったかな。
(大公の手、メアリーの腰の辺りまで上がっている。この姿勢、大公にとって少し窮屈。体が少し捩れてリウマチの軽い痛みが走ったらしい。何故なら大公、急に手を引っ込め、肩を動かし、顔を顰めているから。それから大公、スツールをもっと具合のよい位置に置き換え、再びメアリーの腰に手をやる。)
 大公 奇麗なドレスだね。
 メアリー それも前に仰ったわ。
 大公(ラブシーンの始まりという調子。)もう言った? いいよ、そんなこと。言葉なんか何だって言う・・・(ここで急に咳の発作が出る。)失礼。(それからまた、ラブシーンの調子。)言葉なんか何だって言うんだ。行為の方がずっと多くを語れるというのに。(これは大公の、次の動作へかかるいつもの「きっかけ」。かなり手慣れた(もっとも、しなやかなとは言えないが)動きで、腕をメアリーの腰に滑らせ、自分の体を持ち上げ、椅子の腕の方に寄せる。(この時両膝、微かによろめくが、)そして頭を前方に優しく傾げ、抱擁の動作。この時メアリー、大公のみぞおちを肘で鋭く突く。そしてさっと椅子から立ち上がる。)
 メアリー 何よ、酷いわ、こんなのって。
 大公(みぞおちを抑えながら。)酷い? 何が。
 メアリー これ。このやり方。
 大公(立ち上がりながら。機嫌悪く。)どうも分かりませんな、ミス・デイゲナム。
 メアリー ミス・デイゲナム? また大公様に逆戻り? いいの。さっきの儘で。そちらから刀が伸びて、お突き。こちらはそれを撥ね退けた。それだけよ。友達の関係はその儘。
(間あり。それから大公、急に回れ右をしてテーブルに進む。)
 大公 失礼。
(大公、ウオッカの罎を取り上げ、グラスに注ぐ。すぐ罎を元に戻す。)
 メアリー あーら、私にも一杯頂戴。
(大公、口では答えず別に一杯注ぎ、メアリーに渡す。)
 メアリー 心臓に悪いわ。まだどきどきしている。
 大公(堅い表情。)それは失礼。
 メアリー いいえ、失礼なんて。そんなこと全然ないわ。私が最初から知っておけば良かったんだわ、これぐらいですむんだってこと。そうしたらちっともどきどきしなかったのに。(グラスを上げて。)ヨー・ロイヤル・ハイネスに。健康と幸せを!
 大公(自動的に。)チェリオー。
 メアリー(いたづらっ子の表情。)それから、この次にはうまくいきますように。
(メアリー、ぐっと一息に飲む。)
 メアリー ちょっとこれ、何か入っているんじゃない? 大丈夫? 本当に何の影響もないの?
 大公 三杯飲むと少しうっとりするかな。それで三杯目じゃなかったかな。
 メアリー 本当のこと言うと、さっきちょっと酔っていたわ。でも今の(ロミオとジュリエットの)バルコニーのシーンですっかり目が醒めちゃった。
(間。大公、苛々して時計を見る。)
 大公 心臓はどうかな、今は。
 メアリー いいわ、もう。心臓は正常。私、どうしてあんなにどきどきしたか、お話しなくちゃいけないわ。私、「さあ、これからえらいことになるぞ」って覚悟を決めていたの。だって私、普通こういう事、しない事になってる、とんでもない変わり者って皆に言われてるんだって事、説明して置かなくちゃいけなかった。そう。だから普通だったら、ちゃんと夕食が始まる前に説明がすんじゃってる筈なの。だってそういう事って夕食の前にしなきゃずるいもの。でも今日の場合、幕が上がる前には、打ち合わせの雰囲気なんかなかったわ。だからきっかけが掴めなかった。(それで私の方から何も言わない内に始まっちゃったのよ。)始まっちゃったらもう大変。私ったら、かーっとなって。だって相手はバルカンの大公様。血管にはバルカンの血が流れている。来るぞ来るぞ、迸るような愛の囁き。それから宮廷の楽士達がきっとジプシーの音楽を扉の外で流すんだわ。灯(あかり)は次第に暗くなって、微かに漂う誘うような香水の香。そう。こうなるんだからね、メアリー、気をつけなくっちゃね、って。(溜息をついて。)あーあ、それが!
(メアリー、欠伸をして伸びをする。)
 メアリー(急に思い出して。)あ、そう言えば、こんな事で陥落するの? 皆。こんなに簡単に。例えばメイジーなんか。
 大公(怒りを抑えながら。)私に対する侮辱が耐えがたいものにならない内に、あなたが待たせている車を呼んだ方が良さそうですな、ミス・デイゲナム。
(大公、呼び鈴を押す。)
 メアリー それは有り難いんですけど私、車を待たせてはいませんの。
 大公(怒って。)じゃあタクシーだ。
 メアリー ええ、でも、随分遠くですわ、住んでるの。ブリクストンですから。
 大公 いくら遠くたって勿論ちゃんとお返しします。
 メアリー 分かったわ。チップの方は任せて。じゃあオーバーを取って来なくちゃ。
(大公、部屋を横切って左の扉を開ける。)
 メアリー ありがと。
(メアリー、まっすぐ扉の方に進む。と、何かを思い出して。)
 メアリー あ、失礼。
(メアリー、途中から回れ右して、そこから器用に後ずさりして進む。)
 メアリー(目的の扉にちゃんと着いて、うまいもんでしょうと言う風に。)上手でしょう? ね?
(大公、苛々して扉を閉め、暫く不機嫌な顔をして突っ立っている。侍従長、部屋に入って来て一礼。)
 大公(荒々しく。)私をほったらかしにして置く気か。ベルを鳴らしたのに何故出て来ない。
 侍従長 はっ。いつもの礼儀でして。ヨー・ロイヤル・ハイネス御みづからの御命令で、私共は全員扉から離れたところにおりますので。
 大公 すぐタクシーを呼べ。それから当直の一人に言ってブリクストンとかいう場所にミス・デイゲナムを送らせろ。
 侍従長 畏まりました。
(侍従長一礼。大公、すぐ後ろ向きになる。侍従長、例の後ずさりを始める。)
 大公 待て。召使いの中でヴァイオリンを弾ける奴がいたな。誰だったか。
 侍従長 フランツでございましょう、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公 巧いのか、そいつは。
 侍従長 手前、音楽はからきし・・・
 大公 今どこにいる。
 侍従長 睡眠中かと・・・
 大公 すぐ起こせ。この扉の外で弾けと私が命じたと言うんだ。(回転式食器棚を指差して。)それから、これを下げろ。
(侍従長、食器棚を扉の方へ引っ張って行く。)
 大公 ちょっと待て。扉のすぐ外じゃまづい。見え見えだ。十歩離れた場所にしろ。
 侍従長(頷いて。)では大臣の寝室のあたりで。
 大公 そうだ。すぐにそこへ行かせろ。ただ、すぐ弾き始めるんじゃない。こっちがベルで合図してからだ。ひょっとすると弾かなくてすむ場合もある。いいか。
 侍従長 で、タクシーは如何なさいます、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公(怒って。)頭を使え、頭を。
(侍従長、低く御辞儀をして退場。大公、部屋を見回す。それから急いで自分の寝室へ行き、すぐ香水のスプレーを持って戻って来る。そして部屋中に香水をスプレーする。次に灯を消し始める。二つだけ消し終わった時、メアリー登場。照明は目に見える程暗くなっていない。)
 メアリー ねーえ・・・あ、ヨー・ロイヤル・ハイネス、今私が入った部屋、あれ、誰かの寝室じゃなかったのかしら。
 大公 そう。大公妃のね。しかしあれは庭の方にある部屋がいいと言ってね。
 メアリー あら、そう。じゃあ・・・これでお別れね。
(大公、ゆっくりと部屋を横切り、優しくメアリーの手を取る。メアリー、御辞儀をしようとする。が、大公、それをとどめ、メアリーの体を起こす。)
 大公 ミス・デイゲナム。まだお別れを言うには早すぎる。一つだけ言わせて貰えないだろうか。今夜ここで起こったことに対して私は心からすまないと思っている。そのことを・・・
 メアリー(呟く。)あのー、すまないのは私の方なの。私がいけな・・・
 大公(訴えるように。)黙って。ちょっとお願いだ。私の胸の中に今あること、それを聞いて貰いたいんだ。坐って。頼む。ちょっとでいいから。
 メアリー タクシーのメーター、上がらないかしら。
 大公 いや、まだ着いてない。着いたら知らせて来る。
(メアリー、自分のところから一番近いソファに坐る。)
(大公、ゆっくりと部屋を歩き回る。)
 大公 胸の中にあること、それは君に謝らなければ、ということだ。今夜の私の許し難い行為。野卑で無礼な私の態度のことだ。しかし私にも言わせて欲しい。この今という時間は私にとってひどく大変な時なのだ。大変な理由のいくつかは先ほどお聞きの通りだ。それに丁度今情報が入って来た。今夜カルパチア全土のあちこちで暴動が起きるらしい。明日は戒厳令を発令しなければならない事態になるかも知れない・・・
(メアリーに見えないところで大公、スイッチを捻り、また一つ灯を消す。)
 大公 それに君も知っての通り、シェイクスピアにもあるじゃないか。「王冠を頭にして寝るのは、なかなか辛いものだ。」
 メアリー 台詞、ぴったりその通りじゃないけど、意味はまあ、そうね。
 大公 私は今不幸だ、ミス・デイゲナム。不幸のどん底にある。そんな時に君が出て行くなんて。私の今のこの状態を見て欲しい。暗い時間、心には人を憎んでやまない残忍な考えばかり。私は孤独だ・・・
(大公、手にグラスを持って近づく。メアリー、無意識にそれを受け取る。この時までに大公、スツールを近くに寄せている。 大公、それに坐る。再び軽いリウマチの痛みが走った様子。それから大公、じっとメアリーを見る。今度は真剣に口説き開始という顔。)
 大公 君には決して分からないだろう。その無邪気な顔には、その幸せな顔には、とても理解不可能だろう、私が君のような素敵な人と人生を分かち合えたらとどんなに切望しているか。(こっそり時計を見る。)あのさっきの私の態度、あれですべてがぶち壊し、そんなことはないよね。ああ、人間て奴は何て馬鹿なんだ。
 メアリー(呟く。)「ああ、人間、この馬鹿な存在。」 (メアリー、無意識にグラスをテーブルに戻す。)えっ? 私、もう一杯なんて言わなかったのに。
 大公 君の言った通りだ。私の人生には愛がなかった。その儘中年に差しかかっているのだ。
 メアリー 中年? そんなことないわ。
 大公 殆ど中年に・・・おれも長いこと生きてきたものだ。足もとには黄ばんだ枯葉が散り始め、老いが忍びよってくる。(マクベス 福田訳。)
 メアリー(少し驚いて。)あら、その台詞はあってたわ。
 大公 そう。それがその儘私だからな。四十・・・三十九歳。そしてこの年になるまで真に愛し愛される、その経験なく生きてきたんだ。丁度眠りの森の王女のように。ただ私の場合、王女でなく王子。だから待っているのは美しい処女のキス。それがあれば命が蘇るんだ。
(間。)
 メアリー(やっと。)それ、私にキスして欲しいってこと?
 大公 そうはっきり言われてしまうと・・・(溜息をついて。)そう。私に必要なのは愛なんだ。純粋な若い女性の愛、それが現在の私、いや、将来の私まで清めてくれる。その愛、その自己犠牲は、私の欠陥、欲望を洗い流すのだ。なぜなら愛は自己犠牲、違うだろうか。この眠りの森の王子に命を吹き込んでくれるキス、それは必ず存在する筈なのだ。
(間。大公、こんな台詞が自分の口から出て来たことに自分でも驚く。そしてその効果の程を探ろうとメアリーを見る。メアリー、ソファにゆったりと背をもたせ、半分目を閉じている。どうやら満足している様子。)
 メアリー(やっと。間を意識して。)そうね。分かったわ。
(大公、スツールをソファに滑らせて近付け、優しくメアリーの手を取る。 と同時にテーブルの上に手を伸ばし、ベルを押す。)
 大公 君のその髪、見覚えのある色だ。そう、夏のトウモロコシの毛の色。風の接吻を受けて心をそそるように波うっている。君のその目・・・
(大公、口を噤む。耳をすます。ヴァイオリンがジプシーのメロディーを弾いている。大公、「これでよし。」というように頷く。)
 メアリー あら、あの音楽、どうしたのかしら。
 大公 ハンガリア人の召使いがいてね、この時間には必ず弾くんだ。恋の傷口を癒すためにね。
 メアリー(心を動かされて。)まあ、可哀相。(深い溜息。)世の中ってままならないわ。(世の中のままならなさを思いやるよりも、次の事が大切になって。)私の目についての話だったわ。
(この時までにメアリー、ソファの上に両足を上げている。)
 大公 双子のプールだ。一つは喜び、一つは楽しみ。男なら誰でもそこで溺れ死にたいと・・・
 メアリー(眠そうに。)そこで溺れ死ぬ・・・双子のうちどっちで?
 大公(少し怒って。)どっちでもいいんだ。
 メアリー でも双子のプールっていいわ。私の目・・・双子のプール。それから?
 大公 その頬・・・
 メアリー 目の次は鼻。鼻を飛ばしたわ。
 大公 鼻は完璧だ。完璧には言葉がない。
(メアリー、この時までにソファに長々と横たわっている。少し眠そう。大公、彼女の腰に両腕をあてる。)
 メアリー(夢見るように。)じゃあいいわ。頬に行って。
 大公 頬への批評はこれだ。
(先刻の場合よりずっと上手に・・・何故なら以前よりずっと好位置にあるから・・・ソファの方に滑りより、メアリーの頬にキスする。メアリー、これを避けない。大公、次に口にキス。メアリー、反応する。)
 大公 ああ、愛しい人・・・可愛い人!
 メアリー(抱擁から逃れて。)あの可哀相なハンガリアの人! 悪い女の人よ。早く帰って上げればいいのに。
(メアリー、片手で眠そうに音楽の拍子をとる。)
 大公 あいつの恋なんかほっとけ。こっちが問題なんだ。
(大公、再びメアリーにキス。)
 メアリー(夢見るように。大公の髪の毛を指で触りながら。)あら、この髪の毛奇麗なのね。
 大公(優しく。)そう思う?
 メアリー でもつけているものがいけなさそう。何? これ。
 大公 ポマード。
 メアリー それが駄目なのよ。ピノーのライラックがいいわ、この毛には。
 大公 憶えておこう。(少し苛々して。)あのね、私はこっちの恋が問題なんだって言ったんだけど・・・
 メアリー(夢見るように。)この眉毛もいいわ。
 大公(再び命令的に。途中で遮って。)いい、いい、いい。その言葉もいい。喜びと苦しみ、それがその言葉に含まれている。
(間あり。この間メアリーは自分の方にぐっと近づいた大公の顔をじっと見つめる。ジプシーの音楽、近づいて来た様子。慥に以前より大きな音になっている。侍従長が鍵穴から覗いているのではないかと観客が疑う程。)
 メアリー(急に。)分かったわ。私のせいじゃないわよ。
(メアリー、大公の顔を引き下ろし、熱情的な接吻を行なう。長い。怖る怖るのノックの音。二人、気づかない。もう一度ノック。今度のは少し勇気あり。ついに困ったような表情のピーター、部屋に登場。抱擁続いている。ピーター、空咳をする。大公、跳び上がる。)
 ピーター ヨー・ロイヤル・ハイネス。突然お邪魔致しますが・・・
 大公(怒り狂って。)これはけしからん!
 ピーター 失礼ですが、お許しを戴きませんと。これは実に重要なお知らせですので。
 大公 革命か。
 ピーター いいえ。実はミス・デイゲナムの伯母君が、交通事故で。入院先の病院からの緊急の電話なのです。
 メアリー(この時までソファから動いていなかったが、この台詞で起き上がりながら。)何ですって?(首を回しピーターを見て、思い出す。)あーあ。馬鹿な人。あっちに行って。
 ピーター(メアリーに近づいて。)しかし伯母君が、ミス・デイゲナム。重態なんですよ、伯母様は。
 メアリー 身から出た錆、そんなの。こんな夜遅く車になんか乗るからいけないのよ。九十三歳だっていうのに・・・
 ピーター(抗議するように。)でも、ミス・デイゲナム・・・
 大公(怒鳴る。)あっちに行けとこの人も言っている。出て行け! これが私の命令でもある。
 ピーター(後ずさりしながら。)ヨー・ロイヤル・ハイネス・・・
 大公 ミスター・ノースブルック。この礼儀を弁えぬ君の態度を実に遺憾に思っている。機会があり次第、必ずこの件を当局に知らせることにする。
 ピーター ヨー・ロイヤル・ハイネス・・・
 大公 行くんだ。
(ピーター、後ずさりして、急いで扉から退場。メアリー、邪魔がいなくなってせいせい、という身振り。大公、ソファの後で時計を見る。今とった自分の行動に満足している様子。自分でひとり頷く。)
 大公(女性を誘う時の身振り。)さあ、こっちに、可愛い子ちゃん。
 メアリー こっちって?(考えた後。)ああ、分かったわ、どこへか。
(メアリー、両足を回して床に下ろす。坐りの姿勢になる。)
メアリー 頭がぐるぐる、ぐるぐる。変になったみたい。
(メアリー、坐ったままの姿勢で、少しぼんやりして大公を見上げる。大公、さっきからの誘いのような、誘惑するような姿勢を変えていない。)
 メアリー(鋭く。)私、これ以上一歩でも進むとすれば、その前に必ずして置かなければならない警告があるわ。
 大公 警告? 言ってご覧。
 メアリー 私がここで一歩先に進んだらどうなるか分かって? 私、恋しちゃうことになるのよ。何時だってそうなんだから。
 大公(優しく。)何時だって?
 メアリー 二回だけだった。でもその二回ともだった。(暗く。)だからその覚悟が必要。いいのね。その覚悟をして下さらなくちゃ。
 大公 覚悟? 覚悟どころか、それこそ私が欲していることじゃないか。
 メアリー そんな取り澄ました格好じゃいられないのよ。髪はくしゃくしゃになって、その星のついたキラキラしたものなんかみんなほうり投げて、魂のない抜け殻みたいにそこらをフラフラ・・・
 大公(再び前の誘惑の姿勢。)さあ、可愛い子ちゃん。
 メアリー 一歩進むの?
 大公(命令するように。)さあ。
 メアリー(溜息をついて。)可哀相な人。本当に可哀相。じゃあいいわ、私の責任じゃないの、これは。責任はそちら。(やっとのこと立ち上がる。)いいわね。一歩・・・踏み出す。
(言葉を実行に移そうとする。が、破局的な結果に終わる。即ち、静かに両膝がくずおれて、諦めの溜息をついたかと思うと、ゆっくりと床の上に倒れる。そして最後に全く仰向けに大の字になって横たわり、天井を見る姿勢となる。大公、驚いて駆け寄る。)
 メアリー あら、天井には天使の絵。可愛らしい!
(大公、メアリーに屈み込む。)
 メアリー お休みなさい、可愛い子ちゃん。お休み。また明日の朝ね。
(メアリー、睡眠の姿勢になる。大公、両膝を下ろし、様子を見る。次に立ち上がり、大股で呼び鈴の方に進む。鳴らす。侍従長、即座に現われる。大公、顎でメアリーの方を示す。侍従長、無表情にメアリーの方に進み、見下ろす。大公、どこかへ連れて行け、と身振り。侍従長、こちらの寝室にしましょうか、という身振り。大公、どうにでもしろと言うように、肩をすくめ、自分の寝室へと進む。ジプシーの音楽が続いている。)
 大公(怒鳴る。)あいつをやめさせろ、ヘル・ゴット・ノッホ・マル。(Herr Gott noch mal.  独語 くそったれ!)あれでこの私が眠れると思うのか、この!
(自分の寝室に入る。扉をばたんと閉める。この時までに侍従長、両手でメアリーを抱えて、もう一方の寝室の方へ運んでいるところ。その間に幕。)

     第 一 幕
     第 二 場
(場 第一場に同じ。次の朝八時半頃。二人の下僕が朝食の用意をしている。それを侍従長が監督している。暫くしてピーター登場。外交官としての正装。侍従長、彼に御辞儀。下僕に見られないように彼に頭で合図。話したいことがあると。ピーター、近くによる。盛んに囁き声で何か話し合われる。観客にはその声は聞こえない。しかし主題は明らか。何故なら二人共時々大公妃の左手の寝室をちらちらと見て話しているから。但し、ピーターは非常に困った顔をしているが、侍従長の方は無表情。とうとうピーター頷き、怖る怖る左手の扉に近づく。軽くノックする。次に稍強くノック。ついに侍従長と目で合図をした後、扉を開け、中を見る。すぐに扉を閉じ、侍従長に頷く。観客に聞こえない会話再び始まる。二人の下僕はこの間岩のように突っ立っている。前方を見て不動の姿勢。聞こえない会話続く。)
 ピーター(やっと。)行って聞いてみた方が良さそうだ。
(ピーター、右手の扉に進みノックする。)
 大公(舞台裏で。)うん、誰だ。
 ピーター ノースブルックです。
 大公(舞台裏で。)入れ。
(ピーター、寝室に入る。ピーターの低いもごもごした声が聞こえ、次に大公の急な、怒った怒鳴り声が聞こえる。ピーター、再び扉に現われる。最初は後ずさりしている姿勢。次に扉を閉める。)
 ピーター(困った声で。)一人分。
(侍従長頷く。下僕にその旨合図。下僕達、一人分の席を用意し始める。侍従長、鋭い目つきでこれを監督。用意の最中に左手の扉が突然開き、メアリー登場。日の光が眩しいという表情。髪の毛はくしゃくしゃ。ベッドカバーで体を巻いている。その上にはっきりと、カルパチア国の王室の紋章が印刷されている。メアリー、ゆっくりと朝食のテーブルに進む。一歩一歩が彼女の頭にずきんずきんと響くらしい。次に、置かれたばかりの氷水のグラスを取り上げ、一気に飲む。それから水のいっぱい入った水差しを掴み、登場の時と同様の用心深い動作で寝室に戻ろうとする。この時までピーター、侍従長、メアリーに気づかないが、この瞬間ピーター振り返り、メアリーを見る。)
 ピーター(前に進みながら。)ミス・デイゲナム、ちょっと一言・・・
(メアリー、部屋に退場。ピーター、侍従長の方を向き、「あれは何だ?」というように眉を上げる。侍従長、ほとんど観客から見えない程度だが、肩をすくめる。(侍従長の身振りは全て目に見えない程度。)侍従長退場。下僕達もその後から退場。ピーター一人になり、心配そうに部屋を歩き回る。中央の扉が開き、まづ下僕登場。次にニコラス。ニコラス、紺色の無地の背広。ピーター、彼を見て御辞儀。)
 ニコラス おはよう、ノースブルック。
 ピーター おはようございます、陛下。
 ニコラス 父に呼ばれたんだが、入った方がいいかな。
 ピーター まだ、と思われます。召使いがまだ中にいます。ちょっと靴の調子が悪いご様子で。その内出ておいでになる筈です。
(ニコラス、椅子に身を投げる。朝刊を取り上げる。)
 ニコラス(暫くして、苛々しながら。)戴冠式、戴冠式、戴冠式。世界中戴冠式しかない。我が国のことはどうしたんだ。内乱が起こっているというのに。
 ピーター それは大袈裟でございます、陛下。カルパチア国は現在正常な統治下にあり・・・
 ニコラス(呟く。)非正常な統治下にありだ。それが問題なんだ。(ピーターを見て。)いいよ、王からの言葉だと外務省に報告したまえ。私はかまわん。
 ピーター 陛下、そのお言葉は私への不信任に・・・
 ニコラス そうだな。そんなことはとっくに報告ずみだろうからな。今さら報告には及ばないだろう。
 ピーター(話題を変えようと。)実に良い天気です、戴冠式には。リッツホテルからご覧になる予定とうかがいましたが、あそこからなら非常に良い眺めの筈です、陛下。大聖堂にいらっしゃれないのが残念です。しかし外交規定がああなっていては仕方ありません。で、陛下のお付きの方は?
 ニコラス 見張り人だよ、勿論。
 ピーター 見張り人、と言いますと? 陛下。
 ニコラス ホフマン大佐さ。
(ピーター、陰気に微笑む。大公登場。夜着を着ている。その下に革の長靴を履いているのが見える。)
 大公 ニッキー、忘れてはいないだろうな。今晩七時に、マリーヤ伯母さんといとこのルイーザが来る。お前は歓待する役なんだぞ。
 ニコラス(陰気に。)憶えてるよ。
 大公 それからな、これから暫くの間ルイーザには会うことがない。それに、公式の声明はもう少しすれば出さねばならん。だからルイーザに対するお前の感情は、ある程度表すようにしなければならんぞ。
 ニコラス(勇気を出して。)その「程度」だけど、実際の僕の感情の程度でいいんだね。
 大公(鋭く。)ニッキー! 馬鹿なことを言うな。お前はあの子を非常に魅力的だと思っているんだ。いいな。私にちゃんとそう言ったことがあるじゃないか。
 ニコラス そりゃね、あの子がスケートをしている時、なかなかいいねって言ったことはあるさ。だけど、あの時だけだよ。それで結婚ってことになるの? じゃ、夏にはどうしたらいいんだ、僕は。とにかく僕はあんな知性がない奴、それにお高くとまっているだけの奴は嫌いなんだ。
 大公 何を言っているんだ。お前はルイーザが気に入ってるんだ。お前のその膨れっ面はウォルフシュタインの逮捕のせいなんだ。
 ニコラス あの逮捕は、膨れっ面ぐらいじゃすまされないよ、お父さん。そうだ、僕には情報を聞く権利はあるんだ。ゆうべからカルパチアはどうなっている。知りたい。
 大公 暴動がまだ収まらない。どうやら反乱側の組織はなかなか強いようだ。仕方がないので、また逮捕者を出した。
 ニコラス(鋭く。)また逮捕者?
 大公 ここにそのリストがあった筈だ。(夜着のポケットから紙を取り出す。)うん、これだ。
(ニコラス、ひったくるように取る。目を通す。)
 大公 お前の知り合いがいるか? 中に。
 ニコラス 僕は政治家に知り合いを作っちゃいけないことになっている。知ってるじゃないか。
(リストを父親に戻す。明らかにほっとした様子。そして扉の方に進む。)
 大公(平静な調子で。)ニッキー、デパートに言って、シュッシュッポッポをもう一セット、お前に送らせるようにした。
 ニコラス(振り返って元気よく。)メカーノと言ってくれないかな。で、何番を?
 大公 四番だ。
 ニコラス(子供独特の甘えるような泣き声。)四番? 四番なら僕はもう持っているんだ。五番なんだよ、欲しいのは。なーんだ、パパ。酷いや。
(ニコラス退場。)
 大公(怒鳴る。)あのホフマンの野郎! 馬鹿め! 絶対四番だと、あいつが保証するから四番にしたんだ。こういう間違いってやつが致命傷になりかねん・・・
 ピーター すぐにデパートにそう言ってやりますから、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公(頷く。リストを細かく調べながら。)変だな。誰が抜けたんだ。あいつ、誰かを捜して、ないのを見て安心したぞ。誰なんだ、そいつは。
(大公、暫くリストを見て首を捻る。)
 大公(とうとう。)フェルフルーヒト!(Verflucht! 独語 呪われろ! くそったれ。)
(大公、リストを胸のポケットに戻す。朝食に取り掛かる。)
 大公 それで、追い出したんだろうな、あれは。
 ピーター えー、まだです、ヨー・ロイヤル・ハイネス。まだその暇が・・・
 大公(ぎくっとして。)何だ? まだあそこか? (ピーター頷く。)じゃ、今にでも出て来るかもしれんのか?
 ピーター ええ。さっきもう。一度。
 大公(呟く。)こっち側からは鍵が掛からないか、あの部屋は。
 ピーター(扉を調べて。)駄目のようです。
 大公 ウム・ゴッテス・ヴィレン。 (Um Gottes willen! 独語 くそったれ。)(がぶりとコーヒーを飲む。)
 ピーター(怖る怖る。)えー、ヨー・ロイヤル・ハイネス。そのー、ゆうべは無条件の成功という訳ではなかったので?
(大公、獰猛な目つきでピーターを見る。)
 大公 ノースブルック。気に入らんな、その外交用語。「無条件の」だと? (恐ろしい勢いで。)ゆうべはな、無条件の大悪夢だ!
 ピーター ああ、なるほど。それは・・・で、何か不都合が?
 大公(怒って。)何もかも不都合だ。しかし主なる原因はあの女だ。
 ピーター(くすくす笑って。)ははあ、私はその逆の方かと思っておりましたが。
 大公 笑い事じゃないぞ。いいか、ノースブルック。これは実際笑い事じゃないんだ。ロンドン滞在は一日だ。一晩しか私には与えられておらん。その間に私は少々の・・・その・・・慰みを計画しておった。それがどうだ。いいか、このロンドンという街は満ち満ちておる。美しくて、その気でいる女達で満ち満ちている。最高の美女達、尤も最高にその気でいるとは言わんがな。それがどうだ。お前の見つけて来たのは、しようもないアメリカの女、ニニーコムプープ・・・
 ピーター えー、そのー、その意味でなら、ニニーだけ、或いはニンコムプープが正しい言い方でして。
 大公 ニニーコムプープの方がいいんだ。あの女は新造語で表現して丁度いい。智恵遅れの子供のくせに、ボクサーのような筋肉を持ちおって・・・それに胸糞が悪くなるような、お涙頂戴主義。お陰で私はなノースブルック、飛んでもない馬鹿な台詞まで吐いているんだ。その内の一言でも盗み聞きされていて見ろ、ヨーロッパ中の笑い草だ。あまつさえだ、一番大切な瞬間、さあこれからという時にあいつめ、気を失ったんだ。それも原因と言えばウオッカ。ほんの一雫のウオッカだ。あんなものカルパチアでなら、四歳の子供のパンとミルクに加えてやる程度なんだ。気付薬のかわりにな。ノースブルック、この件における君の役割に私は大いなる不満があるぞ。
 ピーター しかし、ヨー・ロイヤル・ハイネス、この件における私の役割は、御命令を実行するというただ一点に限られていた筈でして・・・
 大公(指を振って非難する動作。)しかし私に言ったのは誰だったんだ。「どうですか、この女優は? 夕食にでもお誘いになったら。」さあ、誰だったんだ。
 ピーター ああ、しかし最初に御興味をお示しになって、それで私もそういう気に。客として相応しくない女性であるとは私にも見抜くことが出来ず・・・
 大公 最初に私がだと? イギリス外交の偽善と言うんだ、それを。ヘル・ゴット! 何という話だ。私がここに着いてから毎日のようにルーシー・メイドゥンヘッドは電話をかけてくれていた。 ほんの少しでもいい、会いたいと言ってな。それも頼むようにしてだ。
 ピーター 「あいつはどうも二番煎じだ。」と仰っておられたのを先日伺ったように思いましたが。
 大公 慥に言った。だがな、ノースブルック、古いロシアの諺にもある。「二番煎じでも飲まないよりはましだ。」とな。そうだ、あいつに電話してくれ。今夜夕食に来いと言うんだ。
 ピーター しかし、ヨー・ロイヤル・ハイネス、外務省主催のダンスパーティーが・・・
 大公 ちょっと顔だけ出して、頃を見計らって失敬する。そうだな、十二時半だ。
 ピーター よろしうございます。で、電話番号は?
 大公 メイフェアー、八二二の・・・いや、三八二だったかな。ああ、時は過ぎ去るものだ。口からすぐ出て来たものだが。(溜息。)ホフマンに聞いてくれ。あいつの金庫に私の個人的付き合いのリストがある。
(ピーター、扉に向かう。)
 ピーター 今日は戴冠式。その夜ですから先方には多分、先約があると思いますが。
 大公(静かに。自信たっぷり。)その先約を破るんだな。
(ピーター、一礼。後ずさりをする。大公、コーヒーを飲み終り、ゆったりと伸びをする。煙草入れに手を伸ばす。この瞬間、どうやらやっかい事の方を忘れている様子。左手の扉開き、メアリー登場。今回は昨夜のイヴニングドレスを着ている。はつらつとして元気そう。大公に気づく。大公、丁度煙草に火をつけているところ。背をメアリーに向けている。メアリー、後に忍び寄り、両目に片手を当てる。)
 メアリー(陽気に。)だーれだ。
 大公(同時に。呟く。)ヘル・ゴット!
(大公振り返り、無理矢理微笑を作る。)
 大公 お早う、可愛い子ちゃん。どう? 今朝は。
 メアリー そうね、ちょっと慥に頭がふらふらしたわ。でも今は・・・あの広いお風呂、アルバート・ホールみたいなお風呂に入ったお陰・・・すっかり快適よ。 ああ、可愛い子ちゃん。 (両腕を大公の首に掛ける。)私、幸せ。
(大公、緊張ぎみの微笑。腕を振りほどく。)
 メアリー あら、どうしたの?
 大公 人が来る。まずい。
 メアリー そうね。この部屋、まるでセントラル・ステーション。ゆうべで私、分かったわ。でも、誰が来たっていいじゃない。
 大公(不機嫌に。)今は朝なんだ。事情が違う。
 メアリー 事情が違う? 何の事情? 違うのはきっと御自分よ。
 大公 私は違わない。それは保証する。同じ人物だ。
 メアリー 同じ人物ね。でも行動は違うわ。
 大公 しかし、今は朝なんだ・・・
 メアリー 「事情が違う」んでしょう? ゆうべ気がついたわ私、一度仰った事は必ず繰り返して仰るのね。
(大公、メアリーに見つめられて当惑。視線をそらす。)
 メアリー(静かに。)そう? じゃ、あれは夜だけなのね、「私は孤独だ。私に必要なのは愛なんだ。純粋な若い女性の愛、それが現在の私、いや、将来の私まで清めてくれる。その愛、その自己犠牲は、私の欠陥、欲望を洗い流すのだ。何故ならば愛は自己犠牲、違うだろうか。この眠りの森の王子に命を吹き込んでくれるキス、それは必ず存在する筈なのだ。」これは夜だけ。朝が来るとあの小さな「愛」という言葉に篭っていた喜びと苦しみの大宇宙はただ・・・
 大公(メアリーの一言一言に怯んでいたが、遮って。)頼む、頼むから止めてくれないか。言葉を引用する時は前後の関係も正しくなければ。
 メアリー 前後の関係も正しい筈よ。そうでしょう?
(大公、答えようとして口を開く。)
 メアリー 分かったわ、今は朝。そうね? 私、コーヒーが戴きたいわ。
 大公 茶碗がない。
 メアリー あ、それで戴くわ。(大公のカップを取る。)
(メアリー、自分にコーヒーを注ぐ。)
 メアリー(陽気に。)ねえ、可愛い可愛い大公様。大公様にとっては今は朝でしょうね。でも私にとってはまだ夢の時間。一九一一年。この戴冠式の日に目が醒めて私、大公様に恋しているって気がついた。陽気に、気違いみたいに、小説の中でみたいに。さあ、これでどう?
(間。)
 大公(困って。)ねえ、君、私はその、今の君の言葉に圧倒された。それはそうなんだが、但しこれだけは言って・・・
 メアリー また長い演説でしょう? いいわ、それ。きっとまた馬鹿な話よ。ゆうべだってそうだったもの。長い話は馬鹿な話。
(大公、驚いてメアリーを見る。)
 メアリー 可愛い子ちゃん、そんなに眉なんか吊り上げなくてもいいの。ゆうべのあれ、マリー・コレッリの大演説みたいだったけど、少しはましだったわ。だって中にほんのちょっとだけど正しいことが含まれていたもの。それは御自分の人生に「愛」が必要だっていうところ。そうよ。私こんなに愛が必要な人、今までに見たことがない。(明るく。)さあ、それで今朝はもうそれを手に入れていらっしゃる。私の愛を。おめでとう。(メアリー、コーヒーカップを乾杯のように持ち上げる。)
 大公(自動的に。)チェリオー。
 メアリー 私そんなには謝らないわ。だって予め充分警告は出しておいたつもりだもの。
 大公 そのことなんだが・・・実はあんな大袈裟な警告は不要だったんだ。
 メアリー(驚いて。)実は・・・不要? どういうこと?
 大公 警告が必要であるような衝突事故の方が起こらなくてね。
 メアリー 衝突事故がなし?
 大公 なし。
 メアリー じゃあ何が起こったの? 私がはっきり憶えているのは、「いいわね、致命的な一歩・・・踏み出す。」のところまで。ここまでははっきり。
 大公(簡潔に。)踏み出したのさ。そして慥に致命的だった。しかし君の意味での致命的ではなかったようだ。
 メアリー 足の方が・・・ガクン?
 大公 そう。それでおしまい。
 メアリー それから気絶? まあ珍しい。十五歳の時以来だわ。あの時はりんごブランデーのパーティーだった。
 大公 そう。それ以来?
 メアリー あらまあ。そしてその原因が大公様!
 大公 そう。あらまあだ。
 メアリー まあ、可哀相。可哀相な大公様! 可愛い子ちゃんが可哀相。本当に。
 大公(固い表情。)まあ・・・いいさ。
 メアリー(優しく。)まあ・・・いいわね。(原文は大公がオーケーと米語を使っている。それでメアリー「私の言い方が移ったわね。」と。)
(メアリー、優しく両腕を大公の首に回す。)
 メアリー(静かに。)そう。まあいいわ。だって、いくらでも時間あるわ、これから先。何年も何年も。そうでしょう?
(大公、優しく振りほどく。)
 大公 残念だがね、君、その「先」っていうやつが難しいんだ。明日は私は国に帰らなければならん。
 メアリー 明日? 急だわね、それは、慥に。(コーヒーを飲む。)いいわ。とにかく私、お芝居が終わったらすぐここへ来る。約束するわ。
 大公 なるほど。
 メアリー(溜息をつく。)幸せ!(窓の外を感慨深く眺める。)いい天気だわ。こんな時に一緒に時が過ごせるって、考えただけでも素敵! ね?
(間。)
 大公(注意深く。)えーと、実はね、ミス・デイゲナム・・・
 メアリー ミス・デイゲナム? ゆうべは「可愛い子ちゃん」だったわ。
 大公 えー、実はね、可愛い子ちゃん。今から十分すると、私は大聖堂に行かなくちゃならない。そこでは式があって、次に行列があって、これが四、五時間。四時に英国首相と会談、五時半にフランス大使。六時半にここでレセプションがあって、七時半ちょっとドーチェスター・ハウスに。それからその後、ロシア大使館、九時にブルガリア皇太子と夕食。十時に英国外務省主催の舞踏会、これは夜中まであって、私は出席していなきゃならない。(得意そうに。)だからだね、残念ながら、君と会う時間は全く・・・
 メアリー いいことがあるわ。ドーチェスター・ハウスからロシア大使館、そこの道を一緒に歩くの。どう?これ。
 大公 ああ、残念ながらね、君、実は外交規定ってやつがあってね・・・
 メアリー 外交規定って?
 大公(まごついて。)その・・・規定があるんだ。公けの行事などには、馬車はどう、行列はどう、と・・・(声を上げて。)とにかく無理だね、人でいっぱいの道を君と一緒にドーチェスター・ハウスからロシア大使館まで歩くなんてのは。
 メアリー(明るく。)じゃあ、公園を通って行くのは?
 大公(鋭く。)駄目だ!(大公らしい声を取り戻して。)ああ、残念ながらね、君、こういうことは・・・
 メアリー 止めて、変な声で、「ああ、残念ながら」って言うのは。まるで私から逃げるのが楽しいみたいに聞こえるわ。でも逃げたりしたら・・・私、鬼になるわ、きっと。そして容赦しないわ・・・
(ピーター登場。)
 メアリー ほーら、セントラル・ステーションの始まり。(ピーターに。)お早う。
 ピーター おはよう、ミス・デイゲナム。(意外だという様子を見せ。)これはこれは、またお会い出来て・・・
 メアリー どうして「これはこれは」なの。またお会い出来るの当たり前でしょう? 伯母さんの容体、今朝はどう?
(ピーター、固い笑い。大公と視線を交わす。大公、「君に後は任せる。宜しく頼む。」の身振り。)
 大公 さあ、そろそろ行って着替えないと。ああ、残念な・・・えー、その・・・「さよなら」を言わなきゃならないな。
 メアリー いいえ、まだよ。それは最後の瞬間。この建物を出る時まではまだ。それに「さよなら」じゃないわ。「じゃ、またね」よ。
 大公(溜息をついて。)うんそうか、それでは。
(大公素早く扉に進む。メアリー落ち着いてコーヒーを飲んでいる。このエチケットの欠如にピーター、悲鳴を上げる。)
 ピーター ミス・デイゲナム!
 メアリー あら、またあれを最初から?
(メアリー立ち上がり、優美に膝を曲げ御辞儀。)
 メアリー ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公(助けるように。)坐ってていいから。
(大公、部屋に入る。メアリー、朝食に戻る。)
 メアリー(膝をさすりながら。)王室って膝の筋肉が強くないと駄目ね。そうそう、あなた、私に古いレインコートを捜して来てくれない?
 ピーター 古いレインコート?
 メアリー ヘイマーケット劇場にこの格好じゃ行けないわ。メイジー達と行くことになっていて、良い席じゃないけど切符代二ポンドはもう払ってあるの。
 ピーター わかりました。古いレインコートですね。捜してみましょう。しかし、ベルグレイヴ・スクエアーじゃその手のものはちょっと手に入り難いな。待てよ、台所用品売り場ならあるかな。
(ピーター退場。)
(手回しオルガンの音が通りから聞こえて来る。 陽気な曲。どうやらメアリーには馴染みの曲のよう。メアリー、何気なく口ずさみ始める。)
 メアリー 
     They call me the Coconut Girl,
     No mediocre nut girl.
(メアリー立ち上がり、カップを置く。次の部分からは口ずさむだけでなく踊り始める。)
     Two shies a penny,
     And I've been offered many
     A ruby or a pearl.
     You may be coconut shy
     Do say you'll give me a try.
     Walk up, walk up, commoner or earl
     Ev'ry bloke likes a joke with the coconut girl.
(ダンスの最後の辺りに来る前に、既にニコラス登場している。メアリー、気づかない。終わって振り向くと彼がいる。)
 メアリー あら、あなたなの・・・えーと、陛下でしたの?
(メアリー、膝を曲げる御辞儀。)
 ニコラス お早う、ミス・デイゲナム。今のダンスは?
 メアリー(狼狽して。)これ新しいナンバー。あら、こんなことを言っても何のことかお分かりにならないわね。とにかくこれ、私が練習しなくちゃならないものですの。このドレス、ゆうべと同じもの。何故だろうって不思議に思ってらっしゃるでしょうね。私って馬鹿ですわ。鍵を忘れて出ていたんですの。ですからどうしてもここで泊めて戴かなければならなくなって・・・
 ニコラス(またあれか、という表情、微かに出るが、完全な礼儀正しさを保って。)ええ、勿論よくあることですから。で、父は、今?
 メアリー お部屋に。着替えをなさって。
 ニコラス(真剣に。)今入ったばかり?
 メアリー ええ。
 ニコラス ミス・デイゲナム、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな。
 メアリー 勿論。喜んで。
 ニコラス この番号に電話をかけて欲しいんです。
(ニコラス、紙を渡す。)
 メアリー お易い御用。
(メアリー、受話器を上げる。)
 メアリー(受話器に。)もしもし、ジェラード二四五をお願いします。
 ニコラス(真剣に。)大使を呼んで。
(メアリー頷く。)
 メアリー(受話器に。)大使をお願いします。・・・エート、私じゃないんです。カルパチア国王が・・・
 ニコラス(受話器をひったくるように取って。)それは言わないで欲しかった。スパイがいてね、どこにもかしこにも。
 メアリー あら、そう?
 ニコラス(受話器に低い声で早口に。)Euer Exzellenz! Ich werde standigt beobachtet. Sie sind der Einzige durch den ich eine Nachricht senden Kann. Dies ist an General Ravinof weiterzuleiten.'In Anbetracht der letzten Entwicklungen fallt die Entscheidung auf Datum eins. Datum eins.' Jawohl. Auf Wiedersehen.
(ニコラス、切る。用心深く電話のベルが鳴らないように。それから急いで扉へ進む。)
 ニコラス(メアリーに。)今のご親切忘れませんよ、ミス・デイゲナム。
 メアリー 何でもないことよ。
(ニコラス退場。メアリー受話器を取り上げる。)
 メアリー もう一度繋いで。今度は別のところ。ブリクストン九三七・・・ブリクストン・・・そう。・・・ファニー、・・・こんちは。私のこと心配した?・・・そう。長い話になるわ。・・・違うのよ。その方は短い話。それじゃない方が長いの。・・・いい? 他の人に言っちゃ駄目よ・・・
(大公、部屋から出て来る。戴冠式出席用に豪華な制服。飾りが沢山ついている。メアリー、大公に気づかないのか、そちらの方を見ない。)
 メアリー そりゃ行くわよ。何が何でも見るわ。それにあの人、行列に出るんだもの。・・・そう。可愛い大公さん。世界中で一番ね。・・・ハンサムじゃないのよ。ただ可愛いの。・・・違うの。舞台で見る大公様みたいじゃないのよ。ちっとも。・・・ユーモアなし。魅力なし。礼儀もなってないの。でもね、それでも私、あの人好きなのよ。 食べちゃいたいぐらい。・・・分かったわ。後でゆっくりね。でも忘れないで。言っちゃ駄目よ。いい? じゃあね。
(メアリー切る。扉の傍に立っていた大公、ここで前に進む。)
 大公(ひどく怒って。)ユーモアはある筈だぞ、私には。
 メアリー(なだめるように。)あるわ、勿論それは。でも、バルカン流ユーモアね。ユーモアはユーモアだけど、アングロサクソン流とはちょっと違う。でもとにかく他人の電話の盗み聞きはいけないのよ。
 大公 ほら、これ。
(突然大公、小さな宝石箱を手渡す。)
 メアリー 何? これ。
 大公 お別れの贈り物だ。渡す時にと思って、台詞を考えていたのに、あの電話のお陰できれいにどこかへ行ってしまった。
 メアリー(ブローチを取り出して。)まあ、奇麗だわ。カルパチアの紋章、それに他にもいっぱいついて・・・
 大公(ぶっきらぼうに。)たいしたことないよ。
 メアリー 私、贈り物のことを詮索する人間に見られたくないんだけど、でも、このブローチつけてる人、ヨーロッパに随分いる筈ね。でしょう? あ、そうだ、メイジーも?
 大公 いや、メイジーは嗅ぎ煙草入れだった。
 メアリー じゃあこれ、メイジーのより上になるのね。
 大公 あれはファベルジェのやつでね。金製でダイヤモンドがついている。
 メアリー あら。(肩をすくめて。)まあ不平は言えないわ。あの人、それだけのことはしたんだもの。さあ、留めて頂戴。
(大公、留める。メアリー、上から大公の頭を見下す形になる。その頂上を見て、急に悲しい表情。)
 メアリー ここで私は目が覚めるっていうことね?
 大公 どうやらそうらしいね。
 メアリー(大公をじっと見て。)残念だわ。ここで私が言えるのは、その衣装、さよならの場面に相応しくないっていうことだけね。
 大公 これじゃまづい? どこが?
 メアリー まづくない。ちっとも。それが問題。
 大公 この衣装だと・・・可愛いくないかな?
 メアリー そうね。可愛いわ。
 大公 舞台に出てくる大公ぐらいには?
 メアリー それぐらいにはね。
(大公微笑む。急に腕時計を見る。)
 メアリー そう。その動作が退場の「きっかけ」ね。じゃあさようなら。
(大公、メアリーに歩みよって優しくキスする。)
 大公 君に会えたのは幸せだった。この幸せがもっと長く続いたら良かったんだが。
(メアリー、急にゲラゲラっと笑い出す。そして一歩下がる。)
 大公 どうしたんだ。私の言った事が変だったか。
 メアリー いいえ、台詞は良かったのよ。その勲章。それがくすぐったくて。
 大公(怒って。)またそれだ。どうしていつもそんなはぐらかすような事を言うんだ。私が一番厭なこと、それはそのはぐらかしなんだ。
(ピーター登場。レインコートを持っている。大公、怒って扉の方に進む。)
 大公(ピーターに。)今から大臣とちょっと話してくる。二分ばかりだ。ホールにいてくれ。私もすぐその後で行く。
(大公、振り向いてメアリーに一礼。)
 大公 じゃあ、さよなら。
 メアリー(膝を曲げる御辞儀。)ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(大公退場。ピーター、レインコートを持って前に進む。)
 ピーター これしか見当たらなくてね。洗い場の女中が持っていたやつなんだ。
 メアリー これでいいわ。
(メアリー、着てみる。古くてみすぼらしい。メアリー、バッグのところへ行き、ハンカチを取り出し、鼻をかむ。)
 メアリー(溜息をついて。)あーあ、人生って、時には悲しいものね。
 ピーター そう。時には。
 メアリー もうタクシーも何も駄目ね。歩いて帰らなくっちゃ。たいへん。
(メアリー、扉の方に進む。その時扉、下僕によって開けられ、大公妃登場。大公妃としての正装。メアリー、回れ右をして左手の扉へ逃げ去る。)
 大公妃 あれは誰? ノースブルック、あの者は何者? 無政府主義者?
 ピーター いいえ、マーム。
 大公妃 じゃ、誰なの?
 ピーター 若い婦人です、マーム。名前はミス・エレーヌ・デイゲナム。
 大公妃 ここへ連れておいで。
(大公妃坐る。ピーター、左手の扉へ行く。手で招く。メアリー、怖る怖る登場。大公妃、ここまで来いと手招き。メアリー、近づき、膝を曲げる御辞儀。大公妃、片手を差し出す。)
 大公妃 お早う。ゆうべの娘(こ)だね。また会えて良かった。だけどどうしてそんな革命家みたいななりをしているの。何かの遊び? それなら私に教えてくれなくちゃ。私は遊びが大好きなんだから。
 メアリー これは遊びではありませんわ、マーム。
 大公妃 じゃあ、そんなもの脱いでおしまい。似合わないわ、それ。
(メアリー、脱ぐ。昨夜のイヴニングドレス姿になる。大公妃はそのことに全く気づいていない様子。)
 大公妃 さあ、坐って。
(メアリー、緊張して、椅子の前の部分に坐る。深く掛けない。)
 大公妃 さあ、私煙草をすうわ。これからが長丁場。その前の一服は心休まるものよ。あなたどう?
 メアリー いいえ、私は・・・
(ピーター、箱から一本とり、大公妃に渡し、火をつける。)
 メアリー(自分の服装のことがひどく気になっている。)あのー、このドレスなんですけど、ゆうべと同じものですので随分変だとお思いになっていらっしゃるでしょうね。私って馬鹿なんです。鍵を忘れて出ていたんです・・・
 大公妃(ピーターに。)この娘、何を言っているの?
 ピーター 鍵を忘れて出ていたと・・・
 大公妃 鍵? 鍵が今の話に関係あるの?
 ピーター えー、そのー・・・
 大公妃 どうでもいいことね、きっと。どうせ退屈な話なんでしょう。(まだピーターの方に。)ノースブルック、朝から厭な話。モード・フォン・ウン(ト)・ツー・マイセンブロン・・・私の侍女ですがね、急に今朝ベッドから起き上がれないと言ってね。だから仕方ない、大聖堂までのお付きはブルンハイム男爵夫人。ということは、馬車の中でぎゅうぎゅう詰めってこと。モードったら何、一体。選りに選って今朝みたいな時に。
 ピーター ひどい病気なのですか。
 大公妃 たいしたことはないの、全然。ゆうべちょっと風邪で頭が痛いっていうもんだから、いつもの私のシロップを作って飲ませた。そうしたら今朝になって、風邪は頭から出て行ったけれど、それが下に降りて、胃に入ったって。分かる? これ。・・・(メアリーに。)Je ne sais pas pourquoi, mais les maladies des autres m'embetent toujours, surtout si elles sont imaginaires, comme celles de la comtesse ... Vous trouvez ca aussi? (仏語 私ってどうしてこうなのかしらね。でも私、他人が病気っていうとすぐ腹が立ってくる性質。特にその病気が仮病らしい時にはね。今のこの人みたいに。・・・あなた、そう思わない?)(間。)
 メアリー(やっと。)すみませんけど、あのー、ヨー・イムピアリアル・アン・ロイヤル・ハイネス、私ちょっと今のお話、分からなかったんですけど。
 大公妃(ピーターに。)この娘、何て?
 ピーター えー、ミス・デイゲナムはフランス語が不得意のように思われますが。
 大公妃 フランス語が不得意? 馬鹿な。この娘はパリで、サラ・ベルナールと一緒に暮らしていたのよ。(メアリーに。)N'est-ce pas, ma petite? Je suis sure que vous parlez le francais mieux qu'une Francaise, et surutout d'une voix d'or. (仏語 そうでしょう? あなた。きっと生粋のフランス人よりずっとフランス語が上手な筈だわ。おまけにその素敵な声ですもの。)
 メアリー(やっと。)Oui. (ええ。)
 大公妃(ピーターに。)ね?(メアリーに。)Au sujet des maladies des autres, c'est La Rochefoucauld, n'est-ce pas, qui a dit: 'dans l'adveresite de nos meilleurs amis, nous trouvons quelque chose qui ne nous deplait pas'?(他人の病気についてだけど、こう言ったのはロシュフコじゃなかったかしら? 「他人が不幸になる。すると我々はなんとなく良い気味だと思うものだ。たとえそれが我々の最良の友であろうと。」って。)
 メアリー(やっと。)Oui. (ええ。)
 大公妃 Eh bien, je vous assure que dans les adversites de Maud, je ne trouve jamais rien qui ne me deplait pas infiniment. (仏語 でもこれは請け合うわね。あのモードが不幸になって、・・・病気なんだから不幸でしょう?・・・私ちっとも、本当にちっともよ、良い気味だなんて思わない。)(大公妃笑う。メアリー、これを「きっかけ」と理解し笑う。大公妃、振り返り、半分すった煙草をピーターに渡す。ピーター受け取り、始末する。)
 大公妃(ピーターに。)この娘、ロシュフコも読んでいる。偉いわ。さあ、ノースブルック、ブルンハイム男爵夫人に、私の宝石箱を持って来るように言って。
(ピーター、一礼して出て行く。メアリー、大公妃を見つめる。蛇に魅入られた兎のよう。大公妃、仏語から英語に戻る。これでメアリー、ほっとする。)
 大公妃 今度の戴冠式、平和なものだそうね。人は沢山出て来るそうだし、それにみんな皇室に好意をもって戴冠式を楽しもうとしている。だから警備の兵隊だって群衆に背を向けて、行列の方を見るっていう話。良いことだわ。あなたの着ているそれ、イヴニングドレスじゃないの?
メアリー(どうしようもなく。)はい、ですから、先ほども申し上げましたように・・・
 大公妃 ちょっと立って。そこを歩いてみて。
(メアリー立って、歩く。その間大公妃、調べる目つきで眺める。)
 大公妃 いいわ、これなら。ぴったりだわね。何の話だったかしら?
 メアリー 群衆が沢山いて、みんな皇室に好意をもって・・・
 大公妃 そうそう。前回出席したベッサラビアの戴冠式とは大違い。あの時には通りに人なんかいやしない。ほんのパラパラ。ピストルがパンパン鳴って、まるで太鼓の音みたい。それに警戒のために空には飛行機。煙で空は真黒。死者は出なくて良かったけど。勿論群衆にはあったようよ。とにかく悪い印象。行列がやっと終わって式になったら、これがまた長いの。 それに合唱は下手。酷いものだった。全く駄目だったわ。
(ブルンハイム男爵夫人登場。中年の肥った婦人。大聖堂出席用に着替えている。ピーターと二人で大きな宝石箱のケースを運ぶ。)
 大公妃 ああ、ロティー、そこに置いて。有難う、ノースブルック。
(ピーター退場。)
(大公妃立ち上がる。メアリーもならって立ち上がる。大公妃、宝石箱のケースから取り出した宝石箱を持って
メアリーに近づく。箱の中から真珠の「チョーカー(ネクタイのように首につける飾り)」を取り出す。)
 大公妃 じっとして。
(大公妃、メアリーの首にチョーカーをつける。その効果を見るために一歩下がる。)
 大公妃 そうね。これなら大丈夫な筈。そう、これもしなくちゃ。
 メアリー(必死になって。)どうしたんですの、マーム。これ、何かの遊びですか、マーム。
 大公妃 今あなた、何か言った?
 メアリー(男爵夫人に。)これは遊びですかって訊いて。お願い。
 男爵夫人(大公妃に。)この人、これは遊びかどうか知りたいんですって。
(大きなダイヤモンドのカラーがメアリーの首に巻かれる。)
 大公妃(男爵夫人に。)ロティー、あなたのケープをこの娘に掛けてやって。
 メアリー お願いです。これは何なのですか。
(男爵夫人、ケープを脱いでメアリーの肩に掛ける。)
 大公妃 フーン。どんどん良くなるわね。(男爵夫人に。)ロティー、お前、残念だろうけどね・・・
 男爵夫人(本当に喜んで。)飛んでもないですわ、マーム。よくご存じの通り私・・・長い式ですといつでも落ち着かなくなって仕舞って・・・
 大公妃 じゃあこれで決定ね。ヴェールをこの娘にね。それから手袋もかしてやって。
 メアリー(訳が分からず当惑して。)何なのですか。どうなっているんですの。教えて下さい、マーム。
(男爵夫人、メアリーの頭の上にヴェールを掛ける。)
 大公妃 あなたを私の「一日侍女」に任命しようとしているの。大聖堂にお伴して貰います。
 メアリー でも、マーム。そんなことしたら誰かが私のこと見つけてしまいますわ。そして私、逮捕されてしまいます。
 大公妃(冷たい口調。)逮捕! 私の侍女を? まあまあ、馬鹿な話!
 メアリー(必死になって。)でも私の役目は? 坐る場所だって・・・
 大公妃(苛々しながら。)私のするようにすればいいの。坐るのは私の隣。ちょっと見せて・・・まだ少し飾りが足りないようね。位を示す勲章か何か・・・
(大公登場。)
 大公 もう行く時間・・・
(大公、きらびやかに飾られて、立派になったメアリーを見てその場に釘づけになる。)
 メアリー あーら。
 大公妃 あなた、見て! 面白いのよ。大笑いするわね、きっと。ミス・デイゲナムを大聖堂に連れて行くのよ。
(間。)
 大公(やっと。)ほう。連れて行くのか。
 大公妃 勲章が必要なの、あなた。(男爵夫人に。)あなたのつけているのは? ああ、パープル・ピローね。それじゃ駄目だわ。藤色のでなくっちゃ。藤色の・・・正式な名前は何でしたっけ? あなた分かっているでしょう? 外務省にこの間贈呈したあれ。目立つのよ、あれは。ロティー、あれを出して。そこの引き出しにあるわ。中央の。大公様に渡して。
(男爵夫人、問題の引き出しに進み、箱を持って来る。)
 大公妃(これを見ながら。メアリーを見て。)今すぐ馬車に乗るんだからね。そうしたら気楽なものよ。そのヒップはね、スエーデン体操をすると良いそうよ。スエーデンて何時でも面白いもの作るけど、この体操も効き目あるわ、きっと。
(男爵夫人、大公に箱を差し出す。大公、立った儘暫くそれを眺めている。)
 大公 分かっているんだろうね、この勲章は、カルパチア王国の元首に対して特別な寄与をしたと認められる人物のみに与えられる栄誉だということを。
 大公妃(苛々して。)重箱の隅をつつくようなことを仰るのね! この娘だってあなたにそれぐらいのことするでしょう? 何時か。
(大公、ぼうっとして箱を開け、藤色の勲章を取り出す。)
 大公(メアリーに。)ケープを取って。
(メアリー、ケープを外す。)
 大公 膝まづいて。
(メアリー、膝まづく。)
 大公 カルパチア大公、茲にカルパチア王国堅忍不抜勲章第二級を貴殿に認定す。
(大公、メアリーのドレスに勲章をつける。メアリー、立ち上がる。)
 大公妃(扉のところから。)さああなた、いらっしゃい。
(メアリー、急いでブローチを外す。)
 メアリー デイゲナム、茲に、このブローチを返却す。
(メアリー、大公にブローチを渡す。)
 メアリー 結局まだ「さよなら」じゃないってことね。可愛い子ちゃん。
(メアリー、大公に膝を曲げる御辞儀。大公、表情は変えず、扉の方へ進む。そして大公妃と並ぶ。メアリー、
嬉しそうに肩をすくめて、その後に続く。)
                    (幕)

     第 二 幕
     第 一 場
(場、同じ。同じ日の午後七時。大公妃はソファに両足を上げて坐っている。その傍にチョコレートの箱。時々それに手を入れる。メアリーはその傍でスツールに腰掛けていて、本を朗読している。二人とも大聖堂に行った時の衣装の儘。)
 メアリー(朗読する。)この時被告は水を要求した。水は看守によって被告に与えられた。ミュイヤー氏(は訊問を続けて言った。)さてドクター・クリッペン、何故あなたはあなたの妻の宝石を質に入れたのか。ドクター・クリッペン。何故なら新しい歯科医療機器が必要だったからです。それは緊急を要することだったのか。いいえ。では何故妻のイヤリングと(侯爵夫人の)指輪をそのように急いで質入れしたのか。
 大公妃 宝石の写真があった筈ね。
 メアリー はい、マーム。
(メアリー、大公妃に本を渡す。大公妃、写真を注意深く調べる。)
 大公妃 がっかりさせるね。これは動機じゃない。(本をメアリーに返して。)続けて。要点が早く知りたいわ。証拠が穴だらけ。面白いわ、この事件。
 メアリー(朗読。)ドクター・クリッペン。分かりません。ミュイヤー。そうやって得られた金額は国外脱出に十分だったか。いいえ。しかしとにかくあなたは国外に脱出した。はい。ミス・ル・ネーヴを一緒に連れて。はい。 彼女を若い男に変装させて。はい。それをあなたの息子だと偽って。はい、その通り。
(大公、寝室から登場。大公は別の制服を着ている。メアリー、朗読を中断し、あからさまな賛嘆の目で大公を見る。それから我に返り、急いで立ち上がる。しかし目は驚いた儘。)
 大公妃 あなた、下でうるさくてしようがないのよ。大臣が、何だか退屈な人達のためにレセプションをやっているの。そうこうしているうちに今度はフェルディナンド大公妃とその娘の御到着ときたわ。あんな嫌な、馬鹿な二人に来られては、退散する以外に方法はないわね。ここにすぐ避難して来た・・・
 大公 しかしね、今日だけはあの二人、マリーヤとルイーザを歓待する必要があるんだがね。大事な事なんだよ、これは。
 大公妃 大事? 今日だけは?
 大公(辛抱強く。)ルイーザとニッキーのことだよ。前から何度もこのことは話しておいた筈だがな。
 大公妃 そう。聞いたわ、何度も何度も。その度に忘れてきたけど。(暫く考えて。)ええ、これはいい縁組ね。確かに良い縁組。でも残念ね、ルイーザがあんな馬鹿で、両親があの酷さっていうのは。でもそのことを除けばこれは理想的な縁組。(立ち上がる。)分かりましたわ、あなた。私も義務だけは果たしましょう。
 大公 じゃあこの部屋でどうだい? ニッキーもここに上がらせるよ。で、あいつは今どこなんだ。
 大公妃  ニッキーはどこだったかしら。慥かどこかで見たわ、私。ああ、そうそう、庭よ。庭でけっていたのを見たわ。
 大公(はっとなる。)ける? けるって、婚約をか?
 大公妃(メアリーに。)国王がけっていたのは何でしたかしらね、あなた。
 メアリー サッカーのボールです。
 大公妃 そうそうあれはサッカーのボールって言うのね、ミス・デイゲナム。チャールズ、助かったのよ、今日一日。この娘のお陰で。どんなに助かったか、とても言えないぐらい。
 大公 それは良かったね。
 大公妃 それに朗読が上手なの。勿論演劇の訓練がされているんですから当たり前のことかも知れないけど。それに頭が良くって博識。この娘の読んでいないフランスの作家っていないのよ。私が名前を上げると必ずこの娘、'Oui' って言う答。控えめだわ。魅力があって。大聖堂で一番奇麗だったのはこの娘じゃないかしら。そう思わない? あなた。
 大公 うん、奇麗だった。
 大公妃 私ね、あなた、この娘に無理矢理頼みこんで、カルパチアに来て貰うようにしたの。良いでしょう? かなり長い滞在をよ。
 大公 ああ、それはいいね。さてと、マリーヤとルイーザをここに連れて・・・(扉の方に向きをかえる。)そうだ君、ミス・デイゲナムをこっちの勝手であまり引き止めておくのはいけない。(腕時計を見る。)もうそろそろ出なきゃならない時間の筈だよ。芝居の出演があるんだ。
(大公退場。)
 大公妃 芝居? 何の? 今夜出演するって? まあ。
 メアリー ええ、そうなんです。
 大公妃 素敵ね。だしものは?
 メアリー(小さな声で。)ココナットガール。
 大公妃 よく聞き取れないわね。もう少しはっきり。で、あなたの役は?
 メアリー フィフィ。
 大公妃 フィフィ? ああ、あれなら知ってるわ。サルドゥーのものね。
 メアリー(大公妃のこの言い方にやっと慣れて。)えー、違うんです、マーム。
 大公妃 じゃあ誰の?
 メアリー(諦めて。)アル・フライッシュバーグ、バディー・マックスウエル、それからゾエ・ジンク。
 大公妃(暫く考えた後。)聞いたことないと思うわね、その人達の名前。
 メアリー アメリカの作家なんです、マーム。
 大公妃 アメリカ人? Tiens!(フランス語 まあ!)アメリカにも芝居があるの?
 メアリー ええ、それは。
 大公妃 まあ、変わってるわ。そう、その三人の人が書いたっていうフィフィ、それを今夜かけるって。きっと特別な公演なのね。
 メアリー いいえ、マーム、もう一年以上もかかっていますけど。
 大公妃 一年以上! 同じ役を何回も。あなた、きっと退屈だわね。うんざりね、きっと。ほら、坐って。私もね、皆と一緒にリヤ王をやったことがある、フルシュテンシュタインで。村の人達、森の人達にね。大成功だったわ。だからデイジーがもう一度やろうって言うの。今度は猟場の番人とか猟師達のために。だけどね、もう私達疲労困憊。切符は売れてお金も入っていたけど、芝居は中止にした。たった一人リヤ王を演じた人はやりたがった。でも、それはプロだったから当たり前だわね。台詞を覚える苦労なんかないんだから、私達みたいに。あなた、リヤ王知ってる?
 メアリー あまりよくは、マーム。
 大公妃 楽しいお芝居。胸を打つお芝居。恋とか愛がないのがいいわ。私はケントの役。男があまりいない。それでケント。ハンサムな若者になっていたと皆が言ってくれた。台詞は完璧。一箇所だけ間違ったけど。シュランバーガー・リッペ・ギルデンスターン公爵夫人に、可哀相な旦那様の公爵の話をしていた。(訳註 芝居の最中お構いなくこんな台詞を言っていたらしい。)そうしたらどう、あなた。私、足枷を嵌められる場面の台詞をすっかり忘れてしまっていた。でもケントのお付きをやっていたスターリング伯爵が救ってくれたわ。私の台詞まで一緒に言ってくれて、喧嘩の場面は省略して、足枷は自分で嵌めたのよ。あの人機転がきいたわ。観客は誰も気づかない。まあ当然と言えば当然のことでしょうけど。観ていたのは殆どがドイツ人。こちらは勿論英語でやったんですからね。
(二人の下僕によって扉が開かれ、侍従長登場。)
 大公妃(急いで。)お芝居のためには、ここを何時に出なきゃならないの。
 メアリー 二十分後には。
 大公妃 これがすむまでいて。
 侍従長 ハー・ロイヤル・ハイネス・スティリア国フェルディナンド大公妃。ハー・ロイヤル・ハイネス・ルイーザ王女。
(フェルディナンド大公妃は大柄であから顔。娘はおよそ十五歳。怒ったような表情。弁髪。二人の大公妃は親愛の情を込めた、両頬にキスをする挨拶。娘は膝を曲げる御辞儀。大公妃、額にキスする。)
 大公妃 マリーヤ! 嬉しいわ。それにルイーザ、可愛くなって。
 フェルディナンド大公妃(少し食い付くような口調。)以前はじゃあ、可愛くなかったの?
 大公妃 あのね、物事には段階というものがあるの。可愛さにだってね。坐りましょう。こちら女優のミス・デイゲナム。勿論聞いたことあるでしょう?
 フェルディナンド大公妃 ええ勿論。何度も。
 ルイーザ(疑い深そうに。)何に出ているの?
 大公妃 今はフライッシュバーグ、マックスウエル、ジンクのフィフィに出ているわ。
 ルイーザ 聞いたことない。そんなの。
 大公妃(鋭く。)知らないのはそちらが悪いの。(椅子の後に立っているメアリーに。)王女にチョコレートを差し上げて。
(メアリー、ルイーザの椅子に行き、チョコレートを差し出す。 ルイーザ一つ取る。メアリー、下がろうとす
る。ルイーザ苛々と引き返すよう手招きし、もう一つ取る。)
 大公妃 旦那様、如何が?
 フェルディナンド大公妃 フェルディナンドのこと? 別に。
 大公妃(メアリーに。ルイーザが既に二つ取ったのを見て。)あなた、チョコレートをここにお戻し。
(メアリー、チョコレートを大公妃に持って行く。)
 大公妃(フェルディナンド大公妃に。)チョコレートは?
(フェルディナンド大公妃、頭を振る。大公妃、箱の上にしっかり蓋をする。そして自分の横に置く。)
 大公妃 旦那様、相変らず意気軒昂?
 フェルディナンド大公妃 あなた、この間ね、パリのレストランで・・・あなたでもあれ、大笑いよ。あの人、帽子を被った儘テーブルについたの。そうしたら給仕長がやって来て、「お帽子をお取りしましょう、ヨー・ロイヤル・ハイネス。」あの人ったら、「そのスープもお取りになったら良かろう。」って。そして給仕長が持っていたスープを帽子の中にあけて、その帽子を渡したの。その時の給仕長の顔ったら・・・見物だったわよ。(フェルディナンド大公妃、ゲラゲラと笑う。ルイーザさえ釣られてケラケラ笑う。大公妃一人、全く表情を崩さない。)
 大公妃 私の耳のことご存じね。ちょっと待って。(メアリーに。)さ。何て?
 メアリー 旦那様の・・・
 大公妃 ああ、フェルディナンド大公のことね。面白い人よ。で?
 メアリー(低い声。大公妃のやり口を既に心得ている。)大公が、パリのレストランで帽子を被った儘お坐りになったんです。給仕長が、帽子をお取りしましょうか、と言うと、大公様、「スープと一緒に持って行くんだな。」って、スープを帽子にあけて、それをお渡しになったそうです。その時の給仕長の顔、それは見物だったそうですわ。
 大公妃(やっと。フェルディナンド大公妃に。)最高。
 フェルディナンド大公妃 覚えていらっしゃるかしら。あの人がセルビア公使館につけ髭をして行った時のことを。
 大公妃(メアリーに。)何て?
 メアリー(通訳の口調で。)大公様がセルビア公使館に、つけ髭でいらしたことがあります。その時のことを覚えておいでになりますか。
 大公妃(フェルディナンド大公妃に。)はっきりと。
 フェルディナンド大公妃 そうしたらつけ髭の半分が取れて、スープの中に落っこちたのよ。
(フェルディナンド大公妃、再び笑う。大公妃、「何?」と言う表情でメアリーを見る。)
 メアリー つけ髭の半分が取れて、スープの中に落ちた。
 大公妃(やっと。)最高。で、今度は誰の帽子に入れたの? 忘れてしまって。
 フェルディナンド大公妃 違うの。これは帽子に入れなかった。あの人、給仕長を呼んで言ったわ。「ちょっと具が淋しいと思ってね。髭を入れておいた。」(訳註 原文は「これヘア(hare 兎)のスープね。ヘア(hair 髪)を入れておいたよ。」 日本語に置き換えて面白いものを思いつかず。)分かる? 具の替わりに髭。(訳註 原文「分かる?ヘア・スープ。HAIR とHARE。)
(メアリー、前屈みになって説明しようとする。大公妃、それを手で遮る。)
 大公妃 有難う。今のは聞こえたから。
(侍従長登場。)
 侍従長 陛下です。
(ニコラス登場。王の衣装。制服で、勲章をつけている。フェルディナンド大公妃とルイーザ、厭々ながら・・
・に見える・・・立ち上がる。)
 ニコラス ご機嫌如何ですか、マリーヤ伯母さん。
 フェルディナンド大公妃 有難う、ニッキー。
(ニコラス、キスの挨拶。フェルディナンド大公妃は立ち上がる。)
 ニコラス それから、ルイーザ。
(ニコラス、ルイーザにもキスの挨拶。ルイーザの立ち上がり方、母親よりもっとおざなり。)
 ニコラス どうぞお坐り下さい。
 大公妃 ニッキー、あなたルイーザと二人だけで話したいんでしょう? 邪魔するのは悪いわね。それにマリーヤ伯母さんをこれ以上お引き止めするのもいけないわ。レセプションを抜けて来ているんですものね。(フェルディナンド大公妃に。)さあ、あなたを大臣の手にお返ししなくっちゃ。大臣、きっとおかんむり。だって私、あなたのこと盗んでいるんですからね。
 フェルディナンド大公妃 若い二人だけを残すんじゃないでしょうね。
 大公妃 ミス・デイゲナムが残ります。
 メアリー でも、マーム。私、仕事が・・・
(ニコラス、メアリーの袖に触る。「頼む、お願いだ。」という様子。)
 大公妃 何か言った? あなた。
 メアリー いいえ、何も。
 大公妃 (フェルディナンド大公妃に。)スープアレルギーがあるんじゃないかしらね、旦那様。素敵な逸話っていうと必ずスープに関わりがあるわ、聞いていると。ああ、でも、あれはスープじゃなかった、あのホンブルグでのメレンゲの話は・・・
(二人の大公妃退場。その後扉閉まる。間。ニコラス、明らかにおずおずして居心地悪そう。ルイーザはただ膨れ面。)
 ニコラス(やっと。ルイーザに。)お坐りになりませんか。
 ルイーザ けっこう。
(ルイーザ、苛々とソファを蹴飛ばす。間。)
 ニコラス 話すの、英語がいいんですか? oder sollen wir Deutsch sprechen? Ou francais, si vous preferez. (あるいはドイツ語? それともフランス語がいいですか?)
 ルイーザ ただの自慢よ、それ。私、七箇国語喋れるんだから。
 ニコラス(礼儀正しく。)それは偉い。(間の後。)僕は八箇国語。
 ルイーザ 年が多いんだから当たり前でしょう? でもカルパチア語は勘定には入らないわ。
 ニコラス(かっとなって。)勘定に入らない? 僕の母国語がか?
 ルイーザ あんなの方言よ。
 ニコラス(いきりたって。)方言だと?
 メアリー(抑えて。)ヨー・ロイヤル・ハイネス!
 ニコラス(呟く。)うん。(また間の後。)今夜舞踏会にいらっしゃいますか。
 ルイーザ それも自慢だわ。私が行かれないのを知っていて。どうしてあんたになんか許可が出てるの。
 ニコラス 国ではいつでも行ってるけど、僕は。
 ルイーザ(軽い軽蔑の調子。)カルパチアに舞踏会があるって? どうせみんなレーダーホーゼン。(lederhosen 独語 革のずぼん。何故これが侮辱になるのか、不明。)足をむき出しにして、ぴしゃぴしゃ相手を叩き合うんでしょう。
(ニコラス、息をつぎ、同じ調子で言い返そうとする。メアリーすぐにニコラスの腕に触り、抑える。ニコラス頷く。その時までにルイーザ、雑誌を見つけ、ひどく興味を惹かれた様子。ルイーザ坐る。)
 ルイーザ 私、坐ったわ。もうさっき許可は出てた筈なんだから。許可なんて馬鹿なこと。何よ、エチケットなんて。
 ニコラス それは賛成だ。
(ニコラス、進み、ルイーザの隣に坐る。)
 ニコラス(義務で仕方なく。)ルイーザ王女・・・(次が出て来ず、言い止む。)
 ルイーザ(雑誌に夢中。)なに? ニコラス陛下。(ニコラス、黙った儘。ルイーザ、雑誌の隅からニコラスを覗き見て。)言おうとしていること、別に言わなくってもいいわ。どうしても言いたいんなら、言ったっていいけど。母には言っておくわ、あんたが言ったって。あんたのお父さんには私がちゃんとした答を出したって言えばいいの。どっちにしたってまだ十八箇月はあるんでしょう?
 ニコラス 十八箇月はある。
 ルイーザ(雑誌に戻る。)だからそれでいいでしょう?
 ニコラス(間の後。)頭いいよ、このやり方。
 ルイーザ 私、頭いいもの。
(長い間。その間ルイーザ、雑誌にいよいよ没頭。メアリー、明らかにこの会話にショックを受ける。柱時計を見る。)
 メアリー エー・・・私・・・ここで付き人なんていらないでしょう?
 ニコラス 行かないで、頼む。お願いだ。
 メアリー ええ、でも、陛下・・・
 ニコラス 継母(はは)と戴冠式に出席したんだってね。どうだった? 式は。
 メアリー 私の人生で最大の経験でしたわ。それだけ。
 ニコラス 僕の戴冠式の時にも来てくれなくちゃ。
 メアリー それは是非とも伺いたいわ。ただその時までにお父様を深い地下壕に閉じ込めていないっていう条件が必要ですけど。
 ニコラス 面白い冗談だな、それは、ミス・デイゲナム。
 メアリー 冗談かしら? 今朝の電話、あれを私思いだしているんですけど。
 ニコラス(自分に疚しいことはないという口調で。)ドイツ大使に狩の招待をしていただけだよ。
 メアリー 狩の招待は招待でしょうね。でも私、ドイツ語が話せるの。ミルウォーキーで生まれましたから。
 ルイーザ(椅子に坐った儘。)何話してるの。
 ニコラス 君には面白くないよ。
 ルイーザ 面白いと思うかも知れないわ。何?
 ニコラス この人がどこで生まれたかって。
 ルイーザ(雑誌に戻って。)面白くなさそうね。
 ニコラス(メアリーに。)よーし、君がドイツ語が出きるんなら、僕の言ったことを英語に翻訳してみてくれ。
 メアリー えー、ラヴィーノ将軍宛伝言。最近の情勢から判断して、方式一を採用する。いいな。
 ニコラス 父に話したんだな、君は、勿論。
 メアリー いいえ。
 ニコラス でも話すつもりなんだろう。
 メアリー いいえ。
 ニコラス どうして。
 メアリー 理由なんかどうでもいいわ。ただ厭なの。
(この時までにルイーザ、立ち上がっていて、左手の扉の方へ進む。)
 ルイーザ これは何の部屋?
 ニコラス 寝室。
 ルイーザ 本はここで読むわ。人が話をしていると集中出来ないもの。
 ニコラス 厭なやつ。
 メアリー 賛成。
(メアリー笑う。ニコラスも笑う。)
 ニコラス 父にばらさないでくれるの有り難い。感謝するよ。
 メアリー でも一つ条件があるわ。重大な条件よ、これ。王の名にかけて・・・か、何か知らないけど、ちゃんと誓って下さらなくちゃ駄目。条件は、「あの人に危害を加えないこと。」
 ニコラス(注意しながら。)もし父が改変後の状況を承認するなら、無条件且つ何の妨害もなく、しかるべき権利と名誉はその儘、彼のカルパチア慰留を許可する。
 メアリー 不賛成なら?
 ニコラス(間の後。)国外退去を命ずる。
 メアリー 追放ね、つまり。
 ニコラス えー・・・
 メアリー(暖かく。)でもね、ニッキー、よく考えて。あの人結局あなたのパパなのよ。
(ニコラス、振り返る。王としての威厳を保ちながらメアリーを見つめる。)
 メアリー ご免なさい。私、アメリカ人。パパはパパだと思ってしまう。
 ニコラス(ゆっくりと。)いいんだ。これは面白いよ。アメリカでは親を感情的に尊敬するって話を聞いていたけど、今の話はそれを裏打ちしている。だけどね、ミス・デイゲナム、あの人物が僕の父親だということはまるで重要じゃないんだ。重要なことは、あの人物が大公であり、わが国を戦争に導こうとしているという事実なんだ。
 メアリー そう思っていらっしゃるようね。叔父さんのウィルヘルムって方もね。それはあなた方の方の考えだわ、とにかく。あなたのお父さんは違う考え。でも考えてみて。あなたまだたった十六歳よ。お父様の方は・・・そうね、私には四十って言ってたけど、多分私の推定では四十五歳。だからあの方の考えの方が当たっているってことも十分考えられるんじゃない?
 ニコラス またまたアメリカ流の考え方だ。年寄は賢い。若くないから。それなら若さからは、子供からは、いつ抜けられる。二十一歳、いや、それ以上になるまでは駄目。
 メアリー(激して。)それはね、アメリカ人が親切だからなのよ。他の国民よりももっと目が見える国民だからよ。私達はね、子供の時代っていうものが一番人生で大事だってことを知っている。だからそれを早く取り上げるのは気の毒だと思っているからよ。とにかくこのことで議論するのは止めましょう。私このことでは普通の人と考えが違うの。大人になっていないの、慥に。それに、なりたいとも思わない。いい?今私言ったわね。十六歳の子供が父親に対して罠をかけて牢屋にぶち込もうとする。そして、(ジョージ・)バーナード・ショウみたいな口をきいて、それを正当化する。そんなの大嫌いって。でもこれ私が嫌いなの。私だけの好き嫌い。だからそんなことでアメリカを非難するのは止めて欲しいわ。
(ニコラス微笑む。間。)
 ニコラス ミス・デイゲナム、僕、あなたを褒めていいかな。
 メアリー(疑い深く。)落し穴よ、これ。決まってるわ。
 ニコラス(さらりと。)そんなのじゃない。
 メアリー じゃ、いいわ。
 ニコラス(さらりと。)父の女性達の中で僕、一番気に入ったな、あなたのことが。
(間。)
 メアリー(やっと。)えーと、あのー・・・えー、とにかく、お褒めのお言葉、有難うございます、陛下。(メアリー、膝を曲げる御辞儀。)
(ルイーザ、寝室から出て来る。)
 ルイーザ トランプを見つけたわ。これで遊ぼう。
 ニコラス それよりあの素敵な雑誌を読んでいた方がいいんじゃない?
 ルイーザ 終わったもの。(トランプを繰っている。)ポーカーをやろう。
 ニコラス よく憶えていないんだ、僕。
 ルイーザ 簡単よ。
(ニコラス、ソファの上、ルイーザの横に坐る。ルイーザ、トランプを繰っている。)
 ニコラス 何を賭けるんだい?
 ルイーザ あのチョコレート、二十ずつ分ければいいわ。(命令口調で。)ミス・デイゲナム・・・
 メアリー(忠実な召使いとして。)それは大公妃様のものですわ・・・マーム。(この「マーム」という言葉、明らかに喉にひっかかる。)
(ルイーザ、殺さんばかりの目つきでメアリーを睨む。)
 ルイーザ(意地悪そうに。間の後。)フィフィなんて聞いたことないわ。そんなお芝居なんてありっこない。(ニコラスに。)じゃあ、お金を賭けるのよ。負けた金額は憶えておくの。
 メアリー(ニコラスに。少しの間の後。)トランプ、私、御一緒に見ましょうか?
 ニコラス 有難う。助かる。
(メアリー、ニコラスのうしろ、ソファの腕に坐る。ルイーザ、各々五枚配る。)
 ルイーザ 何枚?
 メアリー 三枚。
(ルイーザ、ニコラスに三枚渡す。)
 ルイーザ 私は四枚。
 メアリー(囁く。)エース一枚かキング一枚しか持ってないっていうことよ、あれ。
 ルイーザ そんなことであるもんですか。さ、賭けて。
 ニコラス(メアリーから囁き声の注意があって。)六ペンス。
 ルイーザ 一シリング。
 ニコラス(囁き声の注意を受けて。)二シリング。
 ルイーザ(暫く考えた後。)百ポンド。
 ニコラス 君、百ポンドなんか持ってないよ。
 ルイーザ 手に入るわ、その気になれば。じゃ、いい。(考えて。)千スティリアン・マルク。
 メアリー(優しく。)どうでしょうか、マーム、そんなお金を・・・
 ルイーザ 黙って。聞かれた時だけ口をきくものよ。礼儀ですからね。千スティリアン・マルク。
(メアリー、静かに頷く。唇を締める。ニコラスに囁く。)
 ニコラス(やっと。)五万カルパシアン・クラウン。
 ルイーザ 十万スティリアン・マルク。
 ニコラス(注意を聞く前に。)二十万カルパシアン・クラウン。
 ルイーザ 五十万スティリアン・マルク。
 ニコラス 九十万・・・
(メアリー、必死になってニコラスを止めようとする。)
 メアリー お願いです、ヨー・ロイヤル・ハイネス・・・
 ルイーザ(ソファの上で勝ち誇って、跳び上がりながら。)この人言ったわ。ちゃんと言った。こっちは百万スティリアン・マルク。
 メアリー もう開いた方がいいわ。「オープン」と言って。
 ニコラス オープン。
(ルイーザ、勝ち誇ったようにトランプを置く。)
 メアリー でもこれ、ただのツー・ペアよ。
 ルイーザ どうしたの、それが。
 メアリー こっちはフォア・クイーン。
 ルイーザ ツー・ペアの方が上よ。
 メアリー 違います。王様の勝ちです。
 ルイーザ(声を上げて。)違う、違う。スティリアではツー・ペアの方が上なんだから。
 ニコラス ミス・デイゲナムはアメリカ人だ。そしてこれはアメリカの遊びなんだ。
 ルイーザ 違うわ。これはスティリアの遊びよ。
 ニコラス(声を上げて。)アメリカのだ。誰だってそんなこと知ってる。ビリー・ザ・キッドが発明したんだ。
 ルイーザ(金切声を上げる。)私の叔父さんが発明したのよ。これはスティリアの遊び。
 メアリー(落ち着いて。)いいえ、マーム。これはアメリカの遊びです。そしてアメリカの規則ではツー・ペアはフォア・カードよりだんぜん下なんです。
 ルイーザ(前方に乗り出して。意地悪く。)あんた達二人、自分が何だか分かってる?ズルよ、インチキよ。二人とも大ズルよ。
(ルイーザ、トランプをニコラスの顔に投げ付け、立ち上がる。)
 ニコラス(こちらも怒って立ち上がる。)侮辱は許さん。僕にも、ミス・デイゲナムにも。
(ルイーザの髪を掴み、引っ張る。)
 ニコラス 今言ったことを撤回しろ。
 ルイーザ(金切声を上げる。)厭よ。厭よ。インチキ、インチキ。ズル、ズル。痛い! 何やってるの、インチキ!
(大公登場。優美な微笑を浮かべて。しかし起こっていることを見て微笑すぐ消える。)
 大公(怒って。)ニコラス、何をやっているんだ。
(ニコラス、厭々ながら手を放す。ルイーザ、保護を求めて大公に駆け寄る。)
 ルイーザ チャールズ伯父さん、私、抗議します。私、ニコラスに髪を引っ張られたの。ミス・デイゲナムは無礼。そして二人してポーカーで私からお金を取ったの。それも汚い手で。
 大公 ルイーザ、それはね、きっと何かの行き違いだよ。
ルイーザ(威厳をもって。)行き違いなんてありません、全く。お金のことは勿論ちゃんと払うわ。父が払うわよ。耳を揃えて。でも父が何て言うかしらね、この勝負に関して。私は知りませんからね。(ニコラスに膝を曲げる御辞儀。)陛下。
(ルイーザ退場。大公、むすっとして二人を代わる代わる見る。)
 大公(やっと。ニコラスに。)いくらなんだ。
 ニコラス(呟く。)百万です。
 大公(呆れて。)百万?
 メアリー(安心させるように。)ポンドじゃないんです。スティリアン・マルクです。(呟く。)ドルにすると三ドル半。ポンドだとどのくらいになるのかしら、えーと・・・
 大公(ニコラスに。)何だ、このお前の振る舞いは。ひどい・・・いや、呆れ返ったものだ。こんなことを言うつもりでなかったんだが、お前がこうじゃしようがない。
 メアリー 全部あちらが悪いんですわ。
 大公(冷たく。)ミス・デイゲナム、もう劇場に行ってなきゃならない時間なのではないですかな。
 メアリー まだいいんです。私、ここにいてずーっと一部始終を見てましたわ。王様は出来る限りのことをなさいました。ご立派でした。私だったらとてもあれだけ辛抱出来ませんでしたわ。あの(「意地悪が」等と言おうとするが、やっと思い留まって。)王女様が王様に対して取った酷い態度を考えると、何て立派だったか・・・
 大公 保護者がついて良かったな、ニコラス。しかし、次の件にもミス・デイゲナムに保護して貰えるかな。この件は今のよりもっと問題だぞ。 それにミス・デイゲナム自身も深く関わっている。電話交換手から報告があった。今朝お前、ドイツ大使に電話したな。そうなんだな。
 ニコラス(緊張して。)した。
 大公 ミス・デイゲナムがお前の為にまづ繋いで。
 ニコラス この人は電話番号を知らないよ。
 大公 伝言をした。そうだな。
 ニコラス した。
 大公 例のクーデターについてだ。そうだな。
 ニコラス そんなもの、想像の中にあるだけだよ。お父さんと、それから秘密警察のね。
 大公(静かに。脅迫するように。)伝言の文面を言うんだ。
 ニコラス 交換手が知ってるだろう?
 大公 ドイツ語を知らないんだ。
 ニコラス 知ってる。確かめておいたから。
(間。)
 大公(静かに。)伝言の内容を言うんだ、ニッキー。
 ニコラス 戴冠式にはもって来いの良い天気だったね、今日は。
(再び間。)
 大公 部屋に帰るんだ。ホフマン大佐が後から行く。
(ニコラス、諦めの表情で肩をすくめる。)
 大公 それから当然のことだが、もう今夜の舞踏会には行かせない。お前が裏切者と連絡を取り合うのは有り難くないからな。
(ニコラス、扉に進み、振り返り、メアリーに御辞儀。)
 ニコラス ミス・デイゲナム、あなたとの出会い、本当に楽しかった。これは僕の心底から出た気持ちです。
(ニコラス退場。その後、長い間。この間大公、考えに耽り、立っている。やっと疲れたように、坐る。)
 大公(メアリーに言うよりもむしろ独り言のように。)あんな息子。一体どうすればいいんだ。
(この時までにメアリー、慣れた優しい目つきでじっと大公を見ていたが、ここで大公の椅子のうしろに行き、片手を肩にのせ、大公を見下ろす。)
 メアリー その疑問文、私に出された質問ではなさそうだわ。真面目に訊かれれば答もあるけど、そうじゃないから・・・さてと、装身具を全部外して、ここを永久に出て行く。もう一生お会いすることもないってことね。(メアリー、ヴェールを外し始める。)
 大公(怒って。)私は君に訊いていたんだ。勿論、ヘル・ゴット、君の答なんか分かりきっていてもだ。そっちからの答、それはな、あの子には十分な愛が与えられていない、とか何とか。どうせそんなことさ。
 メアリー(軽く。)あら、かなり当たってるわ。
 大公(もっと怒って。)あいつの共謀者ウォルフシュタイン、そいつにも愛をか。あいつが今朝伝言を送った、もっと危険な連中、それにも愛か。それからカイザー・ウィルヘルム、こいつはただ私を早く退位させニッキーを王にして、戦争を始めたい、それだけの奴だが、こいつにも愛か。まだいるぞ、今日の夕方、扇動にうかうかとのって、私の警察官に発砲した有象無象の連中、こいつらにも愛をか。
 メアリー まあそうね。そういうところ。
(この時までにメアリー、真珠を外してうっとりしながら眺めている。それから目を逸らし、テーブルの上に置く。未練をなくそうとするような目の逸らし方。)
 大公(やっと。)Herr Gott. Kreuz donner wetter noch mal! そんなお涙頂戴主義で何が出来る。
 メアリー 罵る時はドイツ語でなさるのね。どうしてかしら。
 大公 最高の罵倒の言葉はドイツ人が作った。(ぶつぶつと残念そうに。)それから最高のマシーンガンも。
 メアリー そうね。「また雷の天気か。この野郎!」じゃあ、たいして響かないわ、慥に。(この時までにメアリー、ダイヤモンドのネックレスを外している。そして光に当てて見ている。)今までダイヤモンドなんか何よ、と思ってた。今やっと分かったわ。(溜息をついて。)これがダイヤモンドね!
(メアリー、真珠の時と同じ目の逸らし方。ネックレスをテーブルに置く。)
 大公(突然、そして鋭く。)何だって?
 メアリー これがダイヤモンドね!
 大公 その前だ。訳したんじゃないか。ドイツ語が分かるのか、君は。
 メアリー 分かりますわ。
 大公(興奮して。)じゃあ、あの伝言が分かったんだな。
 メアリー ええ、分かりましたわ。でも勿論言わない。だからそんなに興奮しても無駄。
(この時までに大公、跳び上がっている。今はメアリーを睨みつけている。)
 メアリー あら、あなた、美男子だわ、怒っている顔。
 大公 ミス・デイゲナム、いいですか、あなたは非常に重要な情報を手に入れている。その手中にあるものを出さないとなると・・・
 メアリー 拷問にかけることは出来ないの、私を。それはよくご存じですわよね。
(間。)
 大公 ああ、可愛い子ちゃん、可愛い子ちゃん。これがどんなに大切なことか、ちょっとでも分かってくれさえすれば・・・
 メアリー 泣き落しも駄目なの。
(間。二人、睨み合う。)
 大公(突然。)Himmel heilige bimbaum!
 メアリー それはいいわ。今までの最高。
 大公(哀願するように。)全世界の平和がそれに・・・
 メアリー そうでしょうね。分かってる。目的は良いのよ、慥に。でも告げ口をして誰かに迷惑を掛ける、それは手段が悪いってこと。
 大公 Herr Gott noch mal! 世の中ってのは子供部屋じゃない。ジャングルなんだ。ジャングルで腹を減らしたライオンがうようよ君を取り巻いたらどうする。それでも武力を使わないと言うのか。
 メアリー そうね。ダニエルは使わなかったわ。
(大公、また口を開ける。罵りの言葉を発する為。)
 メアリー さあ、もう罵るのは止めて。あまりやってると種切れしてしまうわよ。伝言のこと、私は言わない。そう決めたらそれで終なの。でも、これは言わせて。あなたの息子さんに対するさっきの態度、あれは手段としたってまづいものだけど、政策としてもまづいわ。
 大公(苦りきって。)政策か。君だったら、あのシュヴァインフントの両頬にキスして、「まあ、成り行きに任せよう。お前、舞踏会に行って来たらどうだ。」こうやるのが良い政策だって言うんだろう。
 メアリー 大正解。ある線で行ってみて失敗したら、別の線でやってみる。(押して駄目なら引いてみな。)戦略ではあなたプロでしょう? ゆうべだってそうよ。
(大公、再び罵倒の声を上げそうになる。メアリー、大公の口に手を当てる。)
 メアリー 待って。自分でよく考えてみるの。ニッキーがさっきのような話を一体誰に進んで話す気になるか。あの部屋で拷問だってやりかねないホフマン大佐? それとも眠りの森の王子様、自分の息子に苺アイスクリームを振る舞う彼の気前の良い父上にかしら?
 大公(怒り狂って。)そんな名前で私を呼ぶんじゃない! 胸くそが悪くなる。
 メアリー そのうち別の呼び方をするかも知れないわ。でも今のところ、可愛い子ちゃん、こんな呼び方は許して下さらないと。
(メアリー、白い手袋を外す。今残っているのは勲章だけ。)
 メアリー さ、これでさよならのキスが出来るわよ。
(大公、歩み寄り、ぶっきらぼうにメアリーの頬にキスする。)
 メアリー それだけ?
 大公 今のこの私の気持からすれば、それでもお釣りが来るくらいだ。
(大公、ベルを鳴らす。扉がすぐ開く。侍従長登場。)
 大公 陛下に、ここに来るように言うんだ。
(侍従長御辞儀。退場。)
 メアリー それからあのお別れのプレゼント。
(大公、恐ろしい表情でメアリーを睨む。部屋を横切り、テーブルから箱を取る。メアリーに渡す。)
 メアリー 駄目駄目。付けて下さらなくちゃ。
(大公、箱からブローチを取り出し、メアリーの胸に付ける。)
 メアリー そして今朝のあの台詞。
 大公 やるとまた笑うんだ。そして今度は勲章が当たってくすぐったかったとか何とか、はぐらかすようなことを言うんだ。
 メアリー そうね。そうなるかも知れないわ。でもやってみなくっちゃ。
 大公(呟く。)君に会えたのは幸せだった。この幸せがもっと長く続いたら良かったんだが。
 メアリー 有難う、可愛い子ちゃん。
(メアリー、優しく大公の口にキスする。大公、反応する。扉開きそうになり、二人離れる。扉開く。)
 侍従長(到着を告げる。)ニコラス陛下。
(ニコラス登場。黙って扉の傍に立つ。挑むように父親を見る。)
 大公(静かに。)ニッキー、坐るんだ。ニッキー、このドイツ大使館のことで、私は心を痛めている。今までだってお前と私はいつだって政治の問題になると違った目で見てきていた。それは自覚していたつもりだ。しかし他人と共謀して私に反抗する。これは大きなショックだった。
 ニコラス 今ショックだなんておかしいじゃないか。ゆうべだって、秘密警察が・・・
 大公 ゆうべのは、あれは冗談だった、勿論。(絶望の身振り。坐る。)ああ、ニッキー、ニッキー、父親の心など簡単に引き裂かれて仕舞うものだ。息子の手に掛かればたわいもなく。
(メアリー、この変化を興味深く影から見て、落胆の様子を示す動作をこっそり教える。 大公、それを採用する。)
 ニコラス(やっと。)他の父親の心臓ならそうだろう。だけど僕の父親の心臓は出来が違うよ。
 大公 いや、見えないから分からないだけだ。表面に出て見えていれば、一目瞭然だ。なあ、ニッキー、人にはいろいろあって、自分の心を隠しておく方がいいという人間もいる・・・
 メアリー(すまなさそうに。囁き声で。)あのー、話の途中、申し訳ないんですが、ここらへんに古いレインコートがありませんでしたか。
 大公(何のことか分からない。)古いレインコート?
 メアリー あ、ご免なさい。ここにあったわ。イヴニングドレス姿で皆のところへ帰るのまづいと思って。だって馬鹿みたいじゃない? ご免なさい、どうぞ続けて。
(メアリー、レインコートを着る。その間に大公、話の筋を取り戻す。大公、急に立ち上がる。)
 大公 とにかくニッキー、今夜はもうこのことについて話すのは止めだ。私は成り行きに任せることに決めた。いろんなことがあったが、お前今夜、舞踏会に出席したらいい。
 ニコラス 有難う、お父さん。でも行きたい気分じゃないんだ、僕は。もうベッドに横になりたいんだ。
 メアリー(ショックを受ける。)まあ、それは行かなくっちゃ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。だって考えてみて。この時期では最大の舞踏会よ。美しいドレス、素晴らしい制服、装飾品だけだって五千ポンド。招待状を手に入れようとしたってそう簡単には・・・
 ニコラス いや、それは行ければその方が。でも継母(はは)が行かないって言っている。疲れたんだそうだ。そうなると誰も僕にはいない。一緒に踊る相手がいないんだ。
 大公(怒って。)じゃ、相手を捜したらいいだろう。
 ニコラス 捜す?
 大公 そうだ。誰かいれば間に立ってやる。
 ニコラス 誰でもいいのかな。本当に。
 大公 誰でもいい。
 ニコラス よし。じゃあ。
(ニコラス、メアリーの方を向く。メアリー、丁度こっそり部屋から出ようとしているところ。レインコートを肩から引っ掛けている。)
 ニコラス ミス・デイゲナム。今夜の英国外務省主催のダンスパーティーに、僕と一緒に行って戴けませんか。
(長い間。その間メアリー、ニコラスの頭越しに大公の顔を見ている。)
 メアリー(やっと。)喜んでお伴しますわ、陛下。
 ニコラス ああ、良かった。
(メアリー、再び大公の顔を見る。大公の顔、無表情。メアリー、テーブルに戻る。借りた宝石類をつまみ上げ、ニコラスに示す。)
 メアリー(ニコラスに。)お母様、構わないって仰るかしら?
 ニコラス(興奮して。)勿論構わないさ。愉快ねって言うだけさ。僕、王冠も借りて来るよ。
 メアリー 王冠。そうね、芝居を終えて、王冠を被って、うちの仲間達の前を出て行くのなら、あそこへ行く時だって、イヴニングドレス姿で大丈夫の筈だわ。(メアリー、レインコートを脱ぐ。)
 ニコラス 勲章、別のを持って来るよ。今君のつけているのは第一級のじゃないんだ。
 メアリー あら、そう? 私不満はないわ。でもそう言って下さるのなら・・・
 ニコラス じゃ、君の(芝居をやっている)劇場に僕、自分で迎えに行くからね。十一時でいいね?
 メアリー ええ、いいわ。
(メアリー、部屋を横切って、陰気な顔をしている大公の傍に行く。ブローチを外し、大公に渡す。次に優美に後ずさりして扉へ進む。)
 メアリー(小さな声で。)じゃあ・・・また後でね。
(メアリー退場。)
                     (幕)

     第 二 幕
     第 二 場
(場 同じ。その同じ日の夜。十二時半頃。二人分の夕食がテーブルに用意されている。大公がシャンパンの罎を調べている。銘柄その他、満足の行くものだったらしく、頷いてアイスバケットに戻す。自分にウォッカを注ぎ、飲む。扉が開き、ピーター登場。)
 ピーター 御報告申し上げます、ヨー・ロイヤル・ハイネス。陛下がお戻りになりました。
 大公 ひとりでか。
 ピーター いいえ、残念ながら。
 大公(ぎくりとなる。)何だって? あれが、この建物に?
(ピーター頷く。)
 大公 二人はどこにいるんだ。
 ピーター 執事の部屋に。
 大公 執事の部屋? そんなところで何をしている。
 ピーター あそこには蓄音機がありまして。フォックス・トロットというアメリカのダンスを、陛下がお習いになっています。
 大公 Herr Gott noch mal!
 ピーター 全くさようで。
 大公 それから一体会場からはどうやって帰ったんだ。迎えの車は何故か返された。足(交通機関)はどうしたんだ。
 ピーター(やっと。自分自身のショックも表して。)バスで。
 大公 バス? 乗合の、あのバスか。
 ピーター 五十七番の。
 大公 しかし、一体全体、何故。
 ピーター 陛下御自身の御希望だったらしうございます。
(間。)
 大公 あの女の影響だ。間違いない。
 ピーター 多分御推察の通りかと。
 大公 こいつは新聞種になるかも知れんぞ、ノースブルック。
 ピーター 御心配には及びません。当方で主力新聞に対しては、全て必要な手を打って置きますから。勿論三文新聞が報道するのまで抑えるという訳にはまいりませんが。
 大公 しかしそれにしてもあいつら、何故あんなに早く会場を出たんだ。
 ピーター お二人は最初、他の人達と同様ツー・ステップで踊っておられたのです。暫くたってミス・デイゲナムがその・・・テンポを変えようと、陛下に。
 大公 つまりワン・ステップでか。
(ピーター、頷く。)
 大公 英国外務省主催のダンス・パーティーでか。
 ピーター はあ、どうやら。
 大公 退去を命ぜられたんだな、勿論。
 ピーター(安心させるように。)いえ、勿論皆、陛下だと分かっておりますから。ただ踊りのテンポを元に戻して戴きたいと。ところが陛下はこれを侮辱とお受け取りになり、その・・・少し鋭い言葉のやり取りが・・・
 大公 Verflucht! ああ、一瞬たりともあいつらから目を離してはいけなかったんだ。
 ピーター(大公を非難するように。)そうなんです、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(間。)
 大公(ぼんやりと。)ルーシー・メイドゥンヘッドのやつ、遅い。
 ピーター もう暫くでお見えの筈です。
 大公 あいつはいつも遅刻だった。苛々させる癖だ。あの年になればもう治っていると思っていたんだが。あれから大分経つ。年もくってきている筈なんだぞ。
 ピーター おそれながら、ヨー・ロイヤル・ハイネス。レイディー・メイドゥンヘッドは十年前からちっともお変わりになっておられません。実際あの方は若さを保つ秘法を会得していらっしゃるようにお見受け致します。
 大公 それは有り難い。(呟く。)それはあの年じゃ、秘法も必要だろうな。
 ピーター(心配して。)ヨー・ロイヤル・ハイネス! 今朝お示しになった熱はもうお冷めになったのですか。私、下へまいりまして、お断わり申し上げましょうか。
 大公 いや、いい。勿論私はあれに会うのを楽しみにしている。ああ、ルーシー。可愛い、魅力的な、機智に富んだ、成長したルーシー。
(大公の最後の言葉は扉が開くと同時に飲み込まれてしまう。メアリーが入って来たからである。今回は下僕が
ついていない。王冠、勲章、宝石、で飾られて、非常に素晴らしく見える。)
 メアリー ハロー。
 大公 ハロー。
 メアリー あーら、夕食。何て素敵。
(メアリー、前に進み、テーブルを調べる。)
 メアリー まあ、素晴らしい料理だわ。有難う。
 大公(やっと。)いや、それほどでもない。
 メアリー 下に行ってニッキーに「お休み」を言って、それからすぐ戻って来るわ。
(メアリー退場。大公、ピーターに陰気な一瞥を与える。間。)
 ピーター(勇気を出しなさい、というように。)さあ、さあ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。ちょっとした決断で終じゃないですか。「この料理は、君のためじゃないんだ。私には客が別にいるんだ。」と。
 大公 この危機を切り抜ける、熟慮した結果の対策がそれなのか、ノースブルック。
 ピーター はあ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公(荒々しく。)これで分かったぞ、ノースブルック。何故イギリス外務省と我が国の内閣とがしょっちゅういざこざを起こしているのか。我々が相手にしているのは、世の中の酸いも甘いも噛み分けた大人じゃなく、幼稚な子供なんだ。(怒鳴る。)君は私に、三人で夕食を取れと言うのか!
 ピーター 失礼しました、ヨー・ロイヤル・ハイネス、その点に考えが及んでおりませんで。(暫く考えた後。)ではこういたしましょう。これが一番良い政策と考えられます。まづあの方の御到着を待ち受けて、下の部屋のどこかに御案内する。そこで夕食の用意をしておく。そして・・・
 大公(哀れな声。)夕食を二度食えということか。
 ピーター 贅沢は言っておられない場面でして。
 大公(陰気に。)しかしこっちの方をどうやって抜け出すんだ。それが問題だぞ、ノースブルック。
 ピーター あの方が到着され、部屋に御案内した後、私はここにまいり、急用が出来ました、すぐ官邸にお越し下さい。大臣がお待ちでございます。と申し上げます。所要時間は多分一時間程度と。そこでミス・デイゲナムにはお別れをなされ、私がここに留まることに致します。ミス・デイゲナムを自宅に送り届ける役目はどうぞ私にお任せ下さい。
(間。大公、この計画を考慮している。)
 大公「一時間程度」は駄目だな。「一晩中」だ。それで始めて成功の確率もあるだろう。
(メアリー登場。)
 メアリー(明るく。)さあ着いた、と。可愛いわ、あの子。
 大公(ピーターに。)下がってよい、ノースブルック。
 ピーター 畏まりました、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(目配せを交わしながらピーター、後ずさりして退場。)
 メアリー あら、あれ、私の方が上手なんじゃない? (訳註 後ずさりの仕方のことを言っている。)
 大公 可愛いって、私の息子のことか。
 メアリー そうよ。あの年であんなにませちゃって。でも仕方ないわね。育て方がいけないのよ。
(メアリー、ウォッカの罎を取り上げる。)
 メアリー(大公に。)ウォッカ?
 大公 有難う。
(メアリー、たっぷりと注ぐ。)
 大公 ストップ。これは多いな。
 メアリー 大丈夫。勿論人によるけど。
(メアリー、自分にはほんの少し注ぐ。その間に大公、一息に飲んでいる。)
 メアリー ヘーイ。早すぎよ。乾杯しようと思っていたのに。さあ、もう一杯。
 大公(注がれながら。)もういい。そのくらいで。(グラスを外す。)
 メアリー イメージが出来上がってるの。それを壊さないで。
 大公 イメージ? 私のか。
 メアリー そう。ウォッカの許容量、それも含まれているわ。
(嫌々ながら大公、グラスを戻す。メアリー、注ぎ足す。メアリー、ごく小量のウォッカが入っている自分のグ
ラスを上げる。)
 メアリー 愛を。もっと愛を。すべての人に。
 大公(もごもごと。)チェリオー。
(大公、一息に飲み干す。さしたる影響ない様子。メアリーも、飲み干す。)
 メアリー(非常に事務的な口調。)さて、ここに書類があります。多分興味を持って下さると思います。字は汚いけど仕方ありません。バスの中で書いたんですからね。それも二階で。ですから読み上げます。ところであの子、可哀相に。バスの二階に乗ったことなんか今まで一度もないんですって。呆れたわね。私舞踏会に行かれたなんて、本当に夢みたい。だけどあの子、バスの二階に乗るのが夢みたいって言うんだから。何をか言わんや、だわね。さてと、(読む。)宣言。忠実なる臣下へ。私、王、ニコラス八世は、ここに厳かに宣言する。最近二、三の人物によって作られた建議書、即ち私が丁年に達する以前に王としての権限を掌握すべきだという提案、これを私ははっきりと拒否し、退けるものである。またここに私は、国民の一人一人に強く懇願する。我が王国の平和の為に、私の父、大公チャールズの下に諸君が一致団結せんことを。署名 ニコラス。(大公、ひったくるようにその紙を取る。)
 大公 署名などないじゃないか。
 メアリー ええ、まだないわ。でもこれは署名されるの。何か得ようと思ったら少し犠牲が伴うものよ。だからまづこっちの署名が必要なの。
(メアリー、バッグから皺くちゃの紙を取り出す。)
 メアリー これがニッキーの条件。
 大公(怒り狂って。)条件?
 メアリー ええ。でも簡単なものよ。あの子が言う通りに書き取ったのがこれ。汚い字。でも舞踏会の会場へ行く、階段に坐り込んで書いたんですからね。皆私達のこと、踏んで行ったわ。あ、そうそう、宮廷のダンスパーティーではみんなワン・ステップで踊るのよ。教会のお祭で、扇の踊りをするのと同じ。知らなかった? 馬鹿な話よ。(読む。)一、戒厳令は発令されない事。二、王はモーター・バイクの購入を許されるべき事。また、障害、妨害なしに本国のあらゆる場所を乗り回すことが許されるべき事。三、政治犯の全面的恩赦がなされ、議会が解散されるべき事。またこれに伴い、総選挙がなされるべき事。四、王と王女ルイーザの結婚は、取り行なわれる事決してあるまじき事。これで全部。
(間。大公、陰気な表情でぼんやりもう一杯ウォッカを注ぐ。)
 メアリー(ウォッカを注ぐのを見て。)そう。それが一番良い方法。いろんな角度から物が見えるようになる筈ですものね。
 大公(やっと。)Herr Gott kreuz donner wetter noch mal!
 メアリー おかしいわ。言うだろうなって丁度思ったところ。
 大公 二人で随分私のことを笑い者にしたんだろうな、今夜は。
 メアリー(傷ついて。)違うわ、それは。私、今日一生懸命やったつもり。あなたの為によ。笑い者にするだなんて。今では私、あの人の計画全部分かってる。ほっといたら、きっと成功していたわ。そう。今からでも成功するでしょうね、もしあなたがお馬鹿さんで、この紙に署名しないなんて言ったら。
 大公 どっちだって同じだろう? 今総選挙をやればドイツよりの連中の勝利に決まっている。クーデターをやられるのと大差ない。
 メアリー そうかしら。その逆の可能性はある筈よ。それが総選挙の面白いところ。誰が勝つか、やってみないと分からないの。ね、もし憲法に則ってウォルフシュタインに勝てば・・・
 大公(吐き捨てるように。)憲法に則ってウォルフシュタインをやっつける・・・憲法に・・・
(大公の声、だんだん小さくなる。何か考えが浮かんだ様子。メアリーから宣言文をひったくり、読み始める。)
 メアリー そうよ、やっつけてご覧なさい。カイザーの鼻髭を引き毟ったことになるんじゃない?
 大公(突然。宣言文を振り回し。)君が作ったのか、この文章は。
 メアリー(無邪気に。)ええ、そうよ。どうかした?
 大公(メアリーを睨みつけながら。)Herr Gott! 私を騙すにもほどがあるぞ。
 メアリー 騙す? あなたを? 何、それ?
 大公(怒って。訳註 このあたり、大公は自分が優位に立っていることを知っている。「怒り」は芝居。)巧妙な策略だ。
 メアリー 策略? 何のことかしら。私が悪いことを企(たくら)んだって仰るの?
 大公(「これは秘密」という言い方。)あの子に署名させようとしている書類が一体どういうものか、君に分かっているのかね。
 メアリー それは分かってるわ。「宣言」よ。
 大公(興奮して。)「告白」なんだ。あいつめ、自分で気づかずに尻尾を出してしまった。ドイツよりのお先棒かつぎが息子をかたらって私を追放しようとした。それだけじゃない。憲法を踏みにじろうとしたんだ。(読む。)「二、三の人物によって作られた建議書」Ausgezeichnet! (くすくす笑う。)これから私がやろうとしていることが分かるかな?
(メアリー、頭を振る。)
 大公 分からないかな、ね、可愛い子ちゃん。この書類さえあれば、自由の闘志、憲法・民主主義の擁護者、それはウォルフシュタインじゃない。この私なんだ。(幸せそうに。)いいかい、こいつを片手に撃って出れば、総選挙など一捻りなんだ。
 メアリー まあ、そんなことって。でもたったそれだけの中に(書類を指差して。)そんなに沢山のことを見付ける事が出来るなんて。賢いわ! もう一杯いかが?
 大公(ぼんやりと。)え? ああ、もう十分だ。
 メアリー もう少しいいのよ。
(メアリー、もう一杯注ぐ。大公、考えに沈んだ儘ぐっと飲み干す。)
 メアリー お食事は?
 大公 いや、腹が減っていない。勿論段取りをうまくしないと。手順を前後したりすれば、水泡に帰す可能性もある。(坐る。)今は主導権はこっちだ。これを失ってはいかん。
 メアリー でもその頭、政治に対するその熱、状況の完全な把握。それがあるんですもの。主導権を失うなんてあるわけないわ。
(メアリー、優しく頭を大公の膝にのせる。しかしちょっと不自然な姿勢。そこでスツールの位置を変え、姿勢を直す。)
 メアリー 私、羨ましいわ。
 大公 羨ましい?
 メアリー だってたーくさんのことを生まれついて持っていらっしゃるんですもの。地位、名声、富、容貌。ーーあなたの顔素敵よ。若さがあるわ。
 大公 それほどでもないよ。
 メアリー それほどでもあるわ。だって三十代の後半、それは若いっていうことじゃない。性的魅力、力強いその性格、本当に神様に感謝しなくっちゃ。(少し間。)両足をソファの上に上げた方がいいんじゃなくって?(メアリー、ソファを指差す。)
 大公(まだぼんやりしている。)有難う。
 メアリー もう一杯?
 大公 いや、もういい。(突然ぱっと立ち上がる。)Herr Gott! そうやればいいんだ。
 メアリー(びっくりする。)そうやる?
 大公 ウォルフシュタインを釈放だ。明日の晩、帰国と同時に連中を全員釈放だ。無条件で。あいつら、何が何だか分からなくなる。急にこっちが弱気になったと思うだろう。
 メアリー 素敵な計画。
 大公 ところがどっこいだ。その連中の混乱がこっちの狙いさ。次の日、連中がすっかり無防備になっている、見かけの勝利に酔っている間に、議会を突然解散だ。そして総選挙だ。そして新聞という新聞に、王の宣言文を載せる。解説づきでだ。この解説が問題だ。これにはかなり力を入れなきゃならんな。新聞の編集長なんかに任せてはおけん。あいつらは節穴同然だからな。幸い、そういうことにかけては俺は才があるんだ。
(大公、興奮して立ったり坐ったりする。その間メアリー、もう一杯ウォッカを注いでいて、大公に手渡す。大公、無意識にそれを受取り、一息に飲み込む。)
 大公 こいつは効き目があるぞ。猛烈な効き目だ。
 メアリー(息を飲む賛嘆の声。)素晴らしい素晴らしいわ。それに、そこにある小さな紙のきれはし、それだけから全部出来ていたなんて。素晴らしい頭。
 大公 そうだ。この名案には私自身も喜んでいる。これはいい考えだ。
(大公、少し重々しくソファに坐る。)
 メアリー これは喜んでいいことよ。やっぱりバルカンの狐ね。このあだ名、当たってるわ。
(メアリー、大公の隣に坐る。大公に見られないようにしてベルをおす。)
 大公 ほう、それが私の仇名か。
 メアリー ご存じなかった?
 大公(喜んで。)バルカンの狐か。ふん。
 メアリー それにその眉。本当に狐。つやつやした、美しい姿。すばしこい、危険な・・・
(大公、ソファの背に頭をおく。メアリーの頬をやさしく叩く。ヴァイオリンの音響く。今回はワルツ。メアリー、大公の胸に頭をのせる。)
 メアリー でも可愛い、可愛い動物。
 大公(溜息をつく。)しかしね、孤独からは逃れられない運命なんだ。
 メアリー いつまでも、かしら。
 大公 いつまでもだ。いつまでも。(メアリーの髪を撫でる。)ああ、君に分かって貰えたらな・・・(大公、突然ぱっと立ち上がる。)あの音楽は何だ。
 メアリー きっとあのハンガリーの人よ、又。
 大公 うん、そうだが・・・(大公、メアリーを怪しむように見つめる。)
 メアリー 気にしないの、可愛い子ちゃん。孤独の話だったわ、その話にしましょう。
(メアリー、大公を押して、元の位置につかせる。自分の顔は大公の胸に。)
 メアリー 人を愛したっていう経験がおありにならないの?
 大公 自分に愛という気持を許さないようにしてきたんだ。愛は敵なんだ。私のように国を治める役目を持つ人間は、冷たい、厳しい道徳を保持せねばならない。
 メアリー 誰が言ったの、それ?
 大公 アウグストスだな、最初は。
 メアリー その人、どうなった?
 大公 世界の支配者になったんだ。
 メアリー 可哀相に。
 大公 アウグストスは愛が欲しかった。そう君は言いたいのか?
 メアリー そうね。狂わんばかりにね。
 大公 私と同じ程度にか。
 メアリー 分からない。比べるの、難しいわ。(優しく。)だって、愛を上げようと思ったって、その人には無理ですもの、私。
(間。)
 大公(優しく。)狐を網に追い込むんだね。
 メアリー でもこの網、やさしいのよ。極上の細糸で出来た、極上の網。蜘蛛の巣みたいな。
(メアリー、顔を上げて大公を見る。大公、メアリーの顔を引き寄せてキスする。)
 大公(やっと。)極上の網で出来た、極上の細糸でも・・・(大公、上半身を起こす。驚いて。)Herr Gott! 俺は酔ってるぞ。
 メアリー(心配して。)酔ってなんかないわよ、ね。可愛い子ちゃん。ほら、じゃ、立って。歩けるかどうか、やってみて。さあ、試しにあの扉のところまで。
(メアリー、大公の寝室の扉を指差す。大公、立ち上がり、ゆっくりと、かなり確かな足取りでそこまで達する。)
 メアリー ほらね、大丈夫でしょう? さあ、今度はこっち。
(大公、ソファまで戻る。)
 メアリー さあ、言いかけていた言葉は?
 大公 言葉なんか何だって言うんだ。行為の方がずっと多くを語れると言うのに。
 メアリー またそれ? 他に言うことはないの?
(間。)
 大公(やっと。気持を入れて。)Draga kis galambon gyere ide, maradj itten, szeress engem ahogy enszeretlek teged.
 メアリー ご免なさい、可愛い子ちゃん。私、今の、分からないわ。
(また間。)
 大公(やっと。)好きだよ。
 メアリー 好きよ。ああ、大好きよ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。私、大好き。
(メアリー、大公にキス。大公反応する。音楽、大きくなる。突然ピーター登場。)
 ピーター(テキパキとした口調。)ヨー・ロイヤル・ハイネス、急用が出来ました。すぐ官邸にお越し下さい。大臣がお待ちです。
 大公(跳び上がって。)ノースブルック! けしからん! 一度ならず二度三度。何たる無礼!
 ピーター しかし、ヨー・ロイヤル・ハイネス。(意味ありげに。)大臣が御到着になり・・・大臣が・・・お分かりと思いますが・・・
 大公 これ以上説明がいらない場面の筈だぞ、ノースブルック。出て行け。ここで私が外務省に電話しないのを有り難く思うんだ。さあ、行け!
(ピーター、後ずさりして、急いで退場。大公、ソファに戻る。メアリー、大公の顔を見て笑う。大公、いよいよ困惑の表情。次に大公も笑う。突然二人笑い止め、じっとお互いの顔を見つめる。その時、幕おりる。)

     第 二 幕
     第 三 場
(場 同じ。次の朝。侍従長と下僕一人、部屋に立っている。そこへピーター登場。ピーター、昨夜と同じ服。そわそわしている様子から、一晩中その服を脱ぐことがなかったと想像出来る。ピーター、侍従長に近づき、囁き声で質問する。質問の内容は観客に聞こえなくても明らか。侍従長、囁き声で答える。この答はピーターを更に心配させる。二人、右手の扉を時々ちらちらと見る。)
(大公の寝室の扉開き、ニコラス登場。 ニコラス、(勲章などのつかない)普通の背広。ニコラス、当惑の表情。侍従長、後ずさりして退場。)
 ニコラス ノースブルック、父は大丈夫なのか、今朝は。
 ピーター はあ・・・大丈夫か、と仰いますと?
 ニコラス(あっけに取られた声で。)僕のことを・・・抱擁したぞ。
 ピーター 抱擁? 以前にもありましたでしょう? 勿論。
 ニコラス 勿論、公衆の面前でならな。 しかしこれは二人だけの時だ、ノースブルック。見ているものと言えば、召使いしかいない。それから、「大事な息子」と言った。
 ピーター それはそれは。
 ニコラス 怪しい。実に怪しい。それに奇妙な質問をしたぞ。答えようもない質問だ。「お前時々、淋しくなることはないか? 私はお前にとって良い父親だったろうか。お前にはこれまで愛が足りないと感じたことはなかったか。」(ピーターの顔を見、ぼんやりして聞いていないのが分かり。)ノースブルック! 父はな、「愛が足りないと感じたことはなかったか。」と訊いたんだ。
 ピーター はあ、聞こえておりますが。
 ニコラス 聞こえていて驚かないのか。そうか。何かもう知っていることがあるんだな。昨日のことで興奮して・・・そのせいだな。何か思い当たることがあるんだろう。
 ピーター いいえ、ヨー・ロイヤル・ハイネス。少なくとも健康に関しては何も。
 ニコラス(暗い表情。)イギリス外務省の連中、また何かインチキ臭いことをやらかしたな。
 ピーター(堅い表情。)イギリス外務省にインチキ臭いことなどあったためしはありません。フランス外務省(原文はケードルセ)のお間違いでございましょう。
(大公、寝室から出て来る。部屋着を着ている。明らかに陽気な気分。)
 大公(ピーターに。)やあ、お早う、ノースブルック。いつも通り時間厳守だな。素晴らしい。立派なもんだ。Herr Gott!  その制服似合うね。一段と美男子に見えるぞ。そうだ、ゆうべもその事に気付いていたんだ。しかしどういう訳か、言う機会がなかったらしいな。
(大公、自分にコーヒーを注ぐ。)
 大公(ニコラスに。)ニッキー・・・私の大事な息子。
 ニコラス はい、お父さん。何か・・・
 大公 いや、何もない。ただ私の大事な息子なんだ。(大公、愛情を込めた微笑。)もう着替えをした方がいい。あと十分で出るからな。
 ニッキー はい、分かりました。
 大公 挨拶のキスは?
 ニコラス(あっけにとられて。)また?
 大公 いいじゃないか。
 ニコラス こういうことにはやり過ぎということがあります。
 大公 馬鹿な。父親は息子にキスをするものだ。
 ニコラス それは小さい子供ならそうでしょうけど・・・
 大公(鋭く。)ニッキー! すぐ来るんだ。さあ、キスだ。
(ニコラス、近づく。ぶきっちょに父親の頬にキスする。離れて、父親が背を向けている時、ピーターに肩をすくめて見せる。それから退場。大公、椅子に寄り掛かり、ピーターににっこり微笑。)
 大公 さあてと、ノースブルック。さてさてさて、だな。
 ピーター はあ、さようで。全く。
 大公 いい朝だ。素晴らしい朝じゃないか。
 ピーター はあ、全く素晴らしい朝でして。で、ヨー・ロイヤル・ハイネス。実は手紙があります。個人的なものなのですが。
(ピーター、大公に手紙を渡す。)
 大公 誰からなんだ。
 ピーター レイディー・メイドゥンヘッド様で。
 大公 ああ。(手紙を開ける。読んでゆくうちに表情少し暗くなる。)やれやれ。(手紙を引き裂く。感慨深く。)この女には問題がある。それが何か分かるかな、ノースブルック。
 ピーター(礼儀正しく。)愛が足りないのでございましょう、人生に。
 大公 あり過ぎるんだ。何事にも程というものがあるな。(コーヒーを飲み終り、立ち上がる。)さてと、ノースブルック。やって貰いたいことがある。我々が去った後になのだが。
 ピーター 喜んで、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公 まづ、二、三日うちに特別通行許可証を発行して貰いたい。目的地はカルパチア。使用者の名前はミス・メアリー・モーガン。
 ピーター(驚いて。)ミス・誰ですって?
 大公 アメリカ国籍。職業 女優。芸名 エレーヌ・デイゲナム。
 ピーター(殆どほっとしたという表情。)誰かと思いました、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 大公 次に、旅行そのものについてだが、オリエント急行に特別の車両をつけて貰いたい。ミス・モーガン他、彼女のお付きの者達のために。
 ピーター お付きの者達?
 大公 そうだ。着替えをするにも、細々したことをするにも必要だろうが。
 ピーター はあ、さようで。それで勿論費用はカルパチア国の方の・・・
 大公(怒って。)当然イギリス政府もちだと理解していたがな。ただこれしきの費用、それにミス・デイゲナムの特別な使命のことを考えれば。
 ピーター(礼儀正しく。)勿論この件は会計に提出しますが、ただ会計もなかなか査定が厳しく・・・
 大公(苛々して。)分かってる。分かっている。手続きの話など今は不要だ。特別な召使いも雇わなければならん。それからオステンドでは料理人を一人乗り込ませる。それに花だ。居間にも。寝室にも。あらゆる場所に花。特に薔薇がいい。彼女のお気に入りの花だからな。それからシャンペン、ウォッカ、キャヴィア・・・こういう細々とした事の手配はノースブルック、君みづからで担当するんだ。そうだな?
 ピーター(溜息をついて。)それはもう大喜びで。
 大公 それからまだある。旅行用にと、衣服、毛皮、その他個人的な装飾品だ。必要になるかもしれん。これらの購入のため、あれに無制限使用権利つきのカードを発行して欲しい。
 ピーター(少しの間のあと。)全くの無制限で?
 大公 あれが望む範囲での無制限だ。どうも私の言い方が悪かったらしいな、ノースブルック。
 ピーター(溜息をついて。)はあ、どうやら。
 大公 実に奇妙な現象だ。どうしてこんなことになったのか、まだよく分かっていない。生まれてこのかた四十三年・・・(興奮して。)見ろ、ノースブルック、私は自分の年を知らずに正確に言っているぞ。Herr Gott noch mal! この「人を愛する」という事の中には何か恐ろしいものがあるな。
 ピーター そうらしうございます、ヨー・ロイヤル・ハイネス。ですから私は昔からそのようなことがないようにと極力・・・
 大公 いいか、気をつけた方がいいぞ、ノースブルック。用心に越したことはない。君のような場合だと、今度は愛の女神が復讐の女神になって、つけ狙っているだろうからな。もしかするとミュージックホールのダンサーに姿を変えて君を誘惑するかもしれん。カサブランカあたりでな。そうなれば君だってこの私と同様、慎重居士の長い灰色の人生から、素晴らしい真紅の暁、ハチャメチャの人生、を迎えることになる。(大公、自分の言った台詞に自分で呆れる。)Um Gottes willen!  これは私が言った台詞か。
 ピーター はあ、さようで。
 大公(間の後、深く溜息をついて。)そうか。まあ、仕方あるまい。
(大公、諦めの表情で肩をすくめる。寝室へ退場。少しの間の後ニコラス、用心深く扉から頭を覗かせる。)
 ニコラス 父は?
 大公 寝室へお下がりに。
(ニコラス、急いでピーターに近づき、小箱を渡す。)
 ニコラス 有り難い。頼まれてくれ、ノースブルック。ミス・デイゲナムにこの箱を渡して貰いたいんだ。そして私から別れの挨拶を。それからこの写真と。
 ピーター 畏まりました。確かに、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
 ニコラス(急いで。)昨夜は本当に楽しかった。僕の人生で最高だったと。懇ろに礼を言ってな。
 ピーター 間違いなく、ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(ニコラス、急いで扉に進む。そして立ち止る。)
 ニコラス 父は君にも挨拶のキスをしたか?
 ピーター はあ、まだでして。
 ニコラス こんなことまで話すのはどうかとは思うんだがな、ノースブルック。僕は生まれてこのかた、父をこれほど怖いと思ったことはない。何だろう、あの行動は。どう考えていいか分からない・・・
(ニコラス退場。ピーター、一人残され、千切られた手紙の屑を用心深く集め、ソーサーに入れ、マッチをつけ
る。左手の扉からメアリー登場。例のイヴニングドレス姿。装飾品はなし。)
 メアリー 火遊び?
 ピーター えっ? ああ、お早うございます、ミス・デイゲナム。
 メアリー お早う。
 ピーター ええ、火遊びで。
 メアリー 私にさせて欲しかったわ、そういうの。(窓へ進み、外を見て。)素敵な朝だわ!
 ピーター さようで。えー、これは陛下からの贈り物でございます。「昨夜は大変有難う。私の人生で最高であった。宜しく伝えて欲しい。」とのことで。
(ピーター、ニコラスの贈り物を渡す。)
 メアリー あら!(写真を見る。)まあ、署名つきよ。親切だわ。(箱を開ける。)紋章つきのブローチ。それはそうよね。
(扉、下僕によって開けられ、大公妃登場。二人のお付きの婦人が従っている。全員旅行用のいでたち。)
 大公妃 お早う、ノースブルック。
 ピーター(御辞儀。)ヨー・インピアリアル・アン・ロイヤル・ハイネス。
 大公妃 あら、ミス・デイゲナム。ここにいたのね。良かった。如何? 今朝は。
 メアリー(呟く。)ええ、はい、マーム。(訳註 うしろめたい。)
 大公妃(坐って。)やれやれ、酷い夜。ゆうべは一睡も出来なかった。誰かしら、あのヴァイオリン。何時までも何時間も弾き続け。その前の晩もだったけれど、それは長くなかった。でも止めに出て行くことはしなかった。無政府主義者、平等主義者、そういう者だったら困るもの。今は分からないのよ。ヴァイオリンだって凶器に化けることがあるって話だし。とにかくうるさかった。あら、あなたまた白?
 メアリー ええ・・・白が似合うと思いまして、マーム。
 大公妃 そうね。でもいつもは駄目よ。サラ・ベルナールの真似ね。でもサラだって時々は衣装を替えるって私聞いたわ。(振り返って。)モード!(怒って。)こっちに用事が(ある時はいつだっていないんだから・・・)
 モード(急いで。鼻をかむために少し離れた所にいて。)ここです、マーム。
 大公妃(驚いて。)また風邪なの、モード?
 モード そうらしうございます、マーム。
 大公妃 そんなことってあるかしらね。気がするだけじゃないの?
 モード いえ、本当の風邪のようです。
 大公妃 じゃ、また特製の湿布を作らなくっちゃね。
 モード(嫌がって。)いえ、それは・・・マーム。
 大公妃(メアリーに。)作るのが大変。いろんな物混ぜて、ぐつぐつ煮て。でも幸い全部汽車で出来るの。
 モード まさか!
 大公妃 何か言った、モード?
 モード いえ、感謝しております。ただちょっと、火傷に気をつけなければと。
 大公妃 火傷? 勿論火傷するに決まっているでしょう? それが効くの。風邪が火傷で追い出されるの。えーと、あなたを呼んだの、何の為だったかしら。そうそう、贈り物。ミス・デイゲナムへの。
 モード あ、それはここに。
(モード、大公妃に小さな宝石箱を渡す。)
 大公妃 そう。これ。(メアリーに。)いらっしゃい。
(メアリー近づく。)
 大公妃 ブローチよ。カルパチア国の紋章がついている。
 メアリー まあ、光栄ですわ。
 大公妃 それから写真も。
(モード、大公妃に写真を渡す。)
 大公妃 待って。ああ、署名も終わってる。(メアリーに渡す。)飾りのないシンプルな額縁がいいの。飾りは駄目。ゴテゴテしたものは私嫌い。さうね、全部金か・・・あ、銀の方がいい。目の位置より下に置くのは駄目よ。見下されて、この写真の効果がないわ。それから上からの照明も艶消しだからね。
 メアリー はい、気を付けます。有難うございます。
 大公妃(頬を差し出して。)はい、御挨拶。
(メアリー、キス。同時に膝を曲げる御辞儀。メアリーの方に相手を揶うような気持はない。)
 大公妃 ノースブルック、あなたはもう写真は持っているわね。
 ピーター はい、戴きました。誇り高く飾ってあります。
 大公妃(鋭く。)オーリガ・ボスニアと一緒のテーブルは駄目よ。
 ピーター 承知してをります。そのように指示を戴いておりますから。
(大公登場。同様に旅支度。)
 大公妃 あなた、ほら。(メアリーを指差し。)わざわざ見送りによ。
 大公 これは嬉しい。
(この時までに大公妃、立ち上がっていて、扉の方に進んでいる。)
 大公妃 それにこんなに朝早く。
 大公 うん。親切だ。
 大公妃 あなた、駅まで来て下さるのね、ノースブルック。
 ピーター ええ、それはもう。
 大公妃 他には? 公けには?
 ピーター 首相・・・だと思いますが。
 大公妃 そうそう、あのミシズ・アスクイスもだわ。楽しい!(扉のところで振り返ってメアリーを見て。)そう、貴女、もう少し服装に工夫が必要だわ。特別変わったことをしないでもいいの。ただ時々は普通の、そうね、カジュアルなものを。あなたと一緒、楽しかったわ。じゃあね。
 メアリー(膝を曲げる御辞儀。)さようなら、マーム。
(大公妃微笑。王室独特のさよならの仕草をして退場。二人のおつきの婦人も大公妃に従って退場。)
(間。)
 ピーター(笑いを含んで。)どうやら私は余計者のようですな。ではホールでお待ちします。
(大公、頷く。)
 ピーター(メアリーに。)さようならを申し上げる必要はないらしうございます、ミス・デイゲナム。早速明日から何度もお会いすることになりそうですから。特別通行許可証、その他もろもろで。
 メアリー(驚いて。)特別通行許可証?
 大公(怒って。ピーターに。)Herr Gott! ノースブルック。これは私から言って驚かせようと思っていたんだ。効果ゼロじゃないか。
 ピーター あ、失礼しました。てっきりゆうべ既にお話になって・・・
 大公(雷のような声。)行け! 事態を悪くさせるだけだぞ!
 ピーター ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(ピーター、急いで後ずさりして退場。大公、メアリーの方を向く。メアリー、ゆっくりと前へ進む。)
 メアリー お早う。
 大公 お早う。
(二人、熱く抱擁。)
 大公 私は今朝から猿回しの猿だ。馬鹿なことばかりやっている。それなのに却ってそれが気に入っている。子供じみた事の楽しさ・・・君はそれを言い続けていた・・・その真実が私に急に見えてきたんだ。おかしくてね。心から笑えるんだよ。
 メアリー(少し悲しそうに。)そうでしょう? そうなのよ。ああ、なんてことでしょう。今朝は今までと逆。私の方が大人の役をするんだわ。
 大公 何だって? 大人の役?
 メアリー ね、聞いて頂戴。特別通行許可証なんていらないの。私、行こうと思えば、今持っているパスポートで簡単にカルパチアに行けるわ。それに可愛い子ちゃん、私もう、泊まるところだって見付けたわ。小さなホテル、ヴィラ・マルメゾン。ちょっと郊外だけど。
 大公 何を言ってるんだ。小さいホテル? 私が用意している家、それがどんなものか、君には想像もつかないんだ。
 メアリー(悲しそうに。)ええ、無理ね。でも話してみて。聞いておきたいわ。
 大公 ソーニア・レジデンツだ。ルネッサンス後期の魅力的な建物だよ。小さいがね。だって召使いは十人か十五人ぐらいですむだろうからね。二、三百エーカーの公園。湖があって、それに近くの山々が影を落としている。湖に面して花壇があってね。十六世紀の私の祖先が建てたんだ。彼の愛する女性のためにね。
 メアリー そして彼の二十世紀の後裔が、今まで使ってきた。そうね?
 大公 それは・・・(隠しても仕方ないという仕草。)しかし長く使ったことは一度もない。
 メアリー 分かってるわ、可愛い子ちゃん。(メアリー、大公の頬にキス。)私、ちゃんとそう思ってたわ。
 大公(爆発するように。メアリーの顔を両手で鋏んでしっかり見て。)Herr Gott noch mal!  あいつらの誰一人、私が今君に感じている感情の十分の一だって感じたことはないんだ。
 メアリー(優しく。)分かってるわ。そしてそれ、どのくらい続くかしらね。
 大公 一生だ。
 メアリー(はっきりと。)そう。私もそう。私がそうってこと、本当に信じて下さっていいの。私のお芝居が終わるでしょう? そしたら私、カルパチアに行く。ヴィラ・マルメゾンに部屋をとって、あなたに伝言するわ。「私、ここにいるわ。」って。私達二人でソーニヤ・レジデンツへ行って、家の直しを話し合いましょう。だって私の人生はその後、全部そこで過ごすことになるんですものね。直しは色々ある筈だわ。ね?(間。大公、怒っているが、同時に煙にまかれた感じ。)
 大公 で、芝居が終わるのはいつなんだ。
 メアリー 六箇月後。
 大公 六箇月! Donner wetter! 六箇月も経ってみろ、この世界だってどうなっているか分かりはしないんだぞ。
 メアリー(それは重々分かっているという表情。)そうよ、可愛い子ちゃん。分かりはしないの。さあ、行って。汽車に遅れるわ。
 大公 それより早くには来られないのか。
 メアリー 駄目ね。でも有難う。本当に有り難いわ、誘って下さって。
(間。)
 大公 じゃあ、これがさよならか。
 メアリー Au revoir. よ。
 大公 Au revoir. だ、勿論。
 メアリー ええ、勿論。
(間。外でヴァイオリンの音。)
 大公 くそっ。何だ、あの音は! 君か?
 メアリー いいえ。
 大公 ノースブルックの奴だ!
 メアリー そうね、きっと。あのお別れの贈り物、今下さらない? 御願い。
(間。大公、やっと、肩をすくめ、机に進み、箱を取り上げる。黙ってメアリーに渡す。メアリー、箱からブローチを取り上げ、爪で印をつける。)
 大公 何をしてるんだ。
 メアリー 印。誰からのものか分かるように。
(大公、メアリーにブローチをつける。メアリー、悲しそうに大公の頭を上から見る。)
 メアリー 可哀相に。随分はぐらかされた気持なのね。
 大公 そうだ。
 メアリー(大公にキス。)さあ行って。私泣いちゃいそう。それはいけないの。
(大公、扉へ進む。振り返ってメアリーをじっと見る。長い間。)
 大公 Um Gottes willen!  私も泣きそうだ。こんなことは子供時代以来始めてだ。
 メアリー 子供に帰るのも楽じゃないわね。
 大公 楽じゃない。(大公、再びメアリーを見つめる。)
 メアリー でも可愛い子ちゃん、これだけは憶えておいて。素敵な夢を見て、それから目が覚める。それは悲しいことだわ。でも覚めたって、夢の素敵さはちっとも変わらない。そうだわね? これ私の有難うの違った言い方。私の心からの。ヨー・ロイヤル・ハイネス。
(メアリー、膝を曲げる御辞儀。)
 大公(間の後。)有難う、ミス・デイゲナム。私の方も心から。君が感謝を述べるなら、私の方だって言う権利はある。いや、君よりももっとだ、多分。
(大公、急に後を向き、退場。)
(メアリー、バッグからハンカチを出し、鼻をかむ。それから何かを思い出したかのように、扉へ駆け寄る。)
 メアリー(叫ぶ。)可愛い子ちゃん、私、御願いするの忘れてた。写真を送って頂戴。
 大公(舞台裏で。)Mein Gott! 何ていう頼みだ。
 メアリー 劇場宛でいいわ。
(メアリー、振り返る。それからまた思いついて。)
 メアリー(叫ぶ。)サインもしてね!
 大公(舞台裏で。声、微かに。)Himmel heilige binbaum!
(メアリー、扉のところで暫く待つ。 それから部屋に戻る。 部屋の隅に行き、レインコートを取り出す。着る。)
(悲しそうに机のところに進み、三箇の同型の箱を取り上げ、一つ一つハンドバッグに入れる。次に二つの勲章(第一級と第二級)を取り上げ、バッグに入れる。バッグを締める。二つの写真を取り上げ、扉の方に進む。半分まで進んだところで振り返り、微笑を浮かべて部屋を見まわす。それから意志を決めてレインコートの襟を上げ、退場。)
                    (幕)

   平成六年(一九九四年)十一月二十五日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


The Sleeping Prince was first produced at the Phoenix Theatre, London, on November 5th, 1953,
with the following cast:

Peter Northbrook    Richard Wattis
Mary    Vivien Leigh
The Major-Domo    Paul Hardwick
The Regent    Laurence Olivier
The King    Jeremy Spenser
The Grand Duchess    Martita Hunt
The Countess    Rosamund Greenwood
The Baroness    Daphne Newton
The Archduchess    Elaine Inescort
The Princess    Nicola Delman
Footmen    Peter Barkworth
       Angus Mackay
      Terence Owen

The play directed by Laurence Olivier. Setting and costumes by Roger Furse. Words and music for
The Coconut Girl by Vivian Ellis.


Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.