ナポリの女成金
           エドゥアルド・デ・フィリッポ 作
               能 美 武 功 訳
            (Peter Tinniswood英訳からの重訳)

   登場人物
 ジェンナロ・ジョヴィーネ
 アマーリア・ジョヴィーネ
 マリーア・ロザーリア・ジョヴィーネ
 アメデオ・ジョヴィーネ
 ドンナ・ペッペネッラ
 アデアイーデ・スキアーノ
 フェデリーコ
 エッリコ
 ペッペ
 リッカルド
 チアッパ警部
 フランコ
 パスカリーノ
 アッスンタ
 テレーザ
 マルゲリータ
 酒商人
 医者
 私服の警官一
 私服の警官二
 ドンナ・ヴィンチェンツァ
 リタ(リトゥッチア)

     第 一 幕
(一九四二年晩夏。早朝。)
(大きくて汚い、煙で煤(すす)けた部屋。)
(舞台奥に、硝子と鎧戸がはめ込んである扉。この扉は通りに面している。その硝子越しに、向かい側の家の壁が見える。壁にはマドンナ・カルミネを祭った棚があり、上方から、奉納されたオイル・ランプがぶら下がっている。扉の右手に、寄せ集めの材木で出来た四角い仕切りがあって、組立て寝室になっている。)
(左手に扉。これは、アマーリア、アメデオ、リトゥッチアの部屋等に通じる。)
(右手に扉。これは台所と酒倉に通じる。この扉も素朴なもの。表にペンキで、無造作に「酒倉」と書いてある。この扉は中庭にも通じる。)
(部屋には巨大な鉄製のダブルベッド、(これには錆びた真鍮(しんちゅう)の金具がついている。)箪笥、聖者達の絵が表面に描いてあるサイドボード、木製のテーブル、座席が藁の椅子数脚。)
(その他、この部屋には、十九世紀頃に作られた沢山の家具があり、人が入って来ると、動きに困るほどである。)
(テーブルの上にコーヒー茶碗が雑然と置いてある。形、大きさ、図柄、は様々。それから、大きな銅製のボウル。水が入っている。)
(幕が開くと、扉の外、通りの少し離れた場所らしい所から、甲高い女性二人の議論している声。テーブルの傍に立って、マリーア・ロザーリアがコーヒー茶碗を洗い、きちんとテーブルの上に置いているところ。マリーアはおよそ十九歳。ひどく質素な服装。外の議論はだんだん近づいて、声が大きくなっているが、マリーアは何の反応も示さない。議論の声の主のうちの一人は、マリーアの母親アマーリア。アマーリアの声、もう一人の声を圧倒して来る。)
(アメデオ、左手の扉から、身体をかき、あくびをしながら登場。明らかに、今起きたばかり。二十代の始め。痩せて、日焼けした肌。陽気な性格。それほど頑丈な身体ではない。色褪せたウールの、綻(ほころ)びをよく繕(つくろ)ってある上衣を着ている。濡れたタオルを持っている。)
 アメデオ おお、コーヒーが飲みたいぞ、僕は。
 マリーア まだよ。
 アメデオ どうしてまだなんだ。
 マリーア まだお湯が湧いてないの。
 アメデオ うん、そいつはいい。実にいい。なあマリーア、僕はね、いつか・・・うん、近日中のいつかだな、ひょっとして本物の、百パーセント本物の人間のような気分で目を覚ませるんじゃないかと思ってる。そのうちだ、そのうち。お母さんはどこ?
 マリーア 外。
 アメデオ お父さんは?
 マリーア まだ寝てる。
(組立て寝室から、ジェンナロの眠い声が聞えて来る。)
 ジェンナロ(組立て寝室の中から、声だけ。)寝てる? 私が寝てるって? 何を言ってる。こんな家で誰が寝てられるって言うんだ。こんな気の狂った家で。
(外の議論、喧嘩のようになって、いよいよ大声。アマーリアの声の方が強い。)
 ジェンナロ ほら、あれを聞いてみろ。あの大騒ぎを。全く戦争そのものだぞ、あれは。
 アメデオ(マリーアに。)何だい? あれは。
 マリーア お母さんとドンナ・ヴィンチェンツァよ。またやってるの。
 アメデオ やれやれ、もういい、もういいよ、言わなくて。
 マリーア ただ話してるだけ。
 ジェンナロ(組立て寝室から。声だけ。)「話してる」? あれを話だというのか? お前は。お互いに相手の肩の肉にかぶりつこうと狙っているんだ。いや、もうかぶりついている。血の滴(したた)り落ちるのが聞えるだろう、お前達にも。
 アメデオ(疲れたように。)何であの二人は、もう何週間も何週間も前に終ったことを、ああ蒸し返してガーガー、ガーガー言わなきゃならないんだ。
 マリーア 簡単よ。それはドンナ・ヴィンチェンツァ・・・あの鬼ばばあが、いい顔をして家にやって来て、お母さんはあの人にコーヒーを出して上げてたわ。娘さんにって、何かかんか上げていた・・・「卵はいかが? クリームは?」って。それがどう? 家のコーヒーの仕入れ先を探ってたのよ。だから、その仕入れ先が分ったとなったら、さっと掌(てのひら)を返して、こっちにはお尻でも喰らえよ。自分で仕入れ始めた。それからはもう何? 今までこっちに来ていた連中、みんなあっちに行きだしたじゃないの。あっちの方が遠いのよ。でも半リラ家(うち)のより安いって言うの。
 ジェンナロ(組立て寝室から。声だけ。)汚い野郎だ。
 マリーア 狡いのはそれだけじゃないのよ。ふれ回ってるの、家のコーヒーにはチッコリが混ぜてあるって。
 ジェンナロ(声だけ。)待て待て、ちょっと待て。その「家のコーヒー」というのは気にかかるな。「家」っていうのは、私は入っていないんだからな。お前とお前のお母さんのやっているコーヒーだ。繰り返すが、私は外れだ。お前達のコーヒーだ。もしサツが突然やって来て現場を抑えられたら、私は知らんからな。私を巻添えにするのは止めてくれよ。
 マリーア だからと言ってお父さんに任せといたら、私達みんな、飢え死にするだけよ。
 ジェンナロ(声だけ。)違うぞマリーア、違っとる、それは。私に任せておけば、みんな正直な人間で暮していけるんだ。
 マリーア コーヒーを売るのがどうして正直じゃないの。酷く狡いって言い方じゃない。
 アメデオ そうだよ。僕らがやらなきゃ、他の連中がすぐ飛びついてくらあ。景気のいい商売なんだからな。お父さんだってすぐ分ることじゃないか。ドンナ・ヴィンチェンツァを見てご覧よ。
 ジェンナロ(声だけ。)いいかアメデオ、お前に話してやることがある。
 アメデオ 何だい。
 ジェンナロ(声だけ。)先週だ・・・つい先週に起ったことだぞ。この近くに住んでいる男がビルの三階から飛び降りたんだ。
 アメデオ それが僕に何の関係がある。
 ジェンナロ(声だけ。)大ありだ。お前もいつか飛び降りたくなるぞ。
 アメデオ お父さんと話したって何にもなりゃしない。馬鹿なんだよ。何にも分っちゃいない。何一つだ。別の星に住んでる人だよ、お父さんっていうのは。
(マリーア、アメデオに、父親には構うな、という合図をする。アメデオ、肩を竦める。)
 アメデオ 分った、分ったよ。お父さんの言うことも尤もなところがあるよ。
 ジェンナロ(声だけ。)私が、尤もなところ? 調子を変えたな。「あいつには構うな」か。妹がお前に言ったんだ。あいつはほっとけってな。妹は正しい。私はただの惚(ぼ)けた老いぼれだからな。「あいつには何も分りやしない。可哀相に。」お前らはそう言うんだ。だけどな、よく聴けよ。可哀相なのはそっちの方なんだ。お前らのような奴こそ、可哀相なんだ。ああ、神様、何て馬鹿な気の狂った世代なんだ。(間。)ぜんたい、お前らには分っているのか? お前らがここで一杯三リラで売っているあのコーヒーがどういうものか。お前らは闇屋からその豆を買っているが、それがどこから来たものか。言ってやろう。そいつはな、くすねて来たものなんだ。診療所、病院、その他看護が必要な病人を扱っている施設のピンハネをしてな・・・
 アメデオ 冗談じゃないよお父さん、少しはまともな話をしてくれなきゃ。そんなの全く出鱈目(でたらめ)、嘘八百じゃないか。全く山師のようなことを言って。診療所? 病院? そんなところにコーヒーの割当てなどある訳ないだろう? ピンハネしようにも連中、持っていないじゃないか。現実をちゃんと見てくれよな。この間コーヒー豆をお母さんに売りつけに来た奴がいた。お父さんだって見たろう。一キロ七十リラで、五キロどうだって。正体は見え見えだ。ぶくぶくに肥った威張り腐ったファシストの党員だ。勿論、党員に決まってるさ、あいつは。お母さんがそいつから豆を買わなかったのは、そいつが知らない男だったからさ。罠かも知れないからな。警察のやりそうなことさ。危ない、危ない。病院からコーヒー豆! ここじゃもっと具体的に話をしてくれなきゃな。お父さんは正しい行いをしろって言ってるのか? 貧乏で、無知で、飢えている俺達に、お手本を示す人間のことを、金持ちのことを、言ってるのか? お手本、金持ち、糞食らえだ! あいつらみんな泥棒にごろつきじゃないか。あいつらのいい服、いい車を見て、「ああ、あれがお手本だ」と思ったんだろう。いい気なもんだ、連中。踏んぞり返って、財布にはしこたまゲンナマ、でかいでかい腹を突き出して歩いて。こっちはどうだ、腹が減って死んぢまいそうだ。それでこちとらの答はどこにある。簡単だ。連中がやっていることを、こっちがやってどこが悪い。盗めばいいんだ。てめえの物は俺のもの。みんなで奪い合い、みんなで盗みあいだ。
 ジェンナロ(声だけ。)おいおい、いかんよ、アメデオ。盗みはいかん。この家にいる限り、盗みはさせん。分るな? そいつはやっちゃいかん。考えてもいかんぞ。その言葉を言うのもいかん。
 アメデオ 分ったよ。分った、分った。心配するなって。冗談だよ。しようがないな。ここじゃ、つまらない冗談一つ言えないのか。(通りでの喧嘩はこの時までに収まっている。アメデオ、肩を竦める。)やれやれ、コーヒー豆か。僕は朝飯にするぞ。(サイドボードから皿で蓋がしてある大きなボウルを取り出す。それから大きなスプーンと腐れかかった固いパンを取り出す。マリーア、変な目付きをしてそれを見る。)どうしたって言うんだ。何故そんな目付きをするんだ。これは夕べ残しておいた僕のスパゲッティーだぞ。
 マリーア 私、何も言ってないわ。
(アメデオ、テーブルに進み、坐る。パンの塊をちぎり、飢えたようにムシャムシャやる。ボウルの蓋(つまり皿)を開ける。何もない。)
 アメデオ 何だ、これは! 空だぞ! 僕のスパゲッティーはどこに行ったんだ。
 マリーア 知らないわ、私。
 アメデオ(カンカンになって怒る。)朝飯のためにとってあったんだぞ。特別にとっといたんだ。(ジェンナロの組立て寝室を見て。)誰か僕のスパゲッティーをくすねたな。お父さん、僕のスパゲッティーをどうしたんですか。
 ジェンナロ(声だけ。)ああ、あれは私のじゃなかったのか?
 アメデオ あったり前だ。何を言ってるんだ! あれはね・・・全くこの家に住むってのは、天国に住むのと同じだぜ。どこからでも食べ物が生えてくらあ。壁を叩きゃ朝、昼、晩、すぐ飯が出て来る。テーブルは食い物の山だ。さあ、好きなものを取れよ。勝手にやってくれ。また叩きゃすぐ出て来るんだからな。(ジェンナロの方を恐ろしい目付きで睨んで。)それで、お父さんのスパゲッティーはどうしたんだ。どうせ夕べ、ガツガツとぜーんぶ貪(むさぼ)り食ったんだろう。決まってるよ。
 ジェンナロ(声だけ。)私がどうして覚えていられるって言うんだ? お前のだとか、私のだとかって。「てめえの物は俺の物」って、お前自分で言ってたじゃないか。
 アメデオ エーイ、参ったぞこいつは。僕はアウトだ。完全にタッチアウトだぞ。一体どうやってやったんだ。真夜中にこっそり起きたのか? くんくん、くんくん、鼠のように嗅ぎ廻ったんだな? そして残り物はみんな腹に詰め込んだんだ。自分が朝までもたないってことになりゃ、他人の飯まで食っちまうのか? 全く、次にやることは分ってるぞ。今度は夜中にうろつき廻った揚句、俺達の靴も靴下もみんな食っちまうんだ。
 ジェンナロ(声だけ。)ほんのちょんぼりのスパゲッティーで、何だ、大騒ぎしおって。
 アメデオ ほんのちょんぼりのスパゲッティーじゃなかったんだ、あれは。ちゃんといっぱいあったんだ。それに、あれは僕のものだったんだ。
 ジェンナロ(声だけ。)やれやれ、お前の言うことを聞いてりゃ、まるでこの世の終だ。誰もが思うぞ、この世の終だってな。真夜中に私がこっそり起きただと? くんくん、くんくん、鼠のように嗅ぎ廻って。全く、サイレンが鳴ったのをどこかの誰かさんは気がつかないんだからな。夜中に鳴ったんだ。空襲の警戒警報だ。サイレンだぞ。(「ウー、ウー」と真似をする。)それでも構わず誰かさんは寝ていたと見える。私は違う。私は起きたんだ。二時間半、私は防空壕の中だ。出て来た時は骨の髄まで冷え切っていた。凍りついたんだ。死んだようなものだ。それで眠れなかった。腹も減って来たんだ。全くひどい腹の減り方だった。それで思い出したんだ。夕食の時スパゲッティーが余っていた。そうだ、お誂え向きだ。そいつがお前のものだって、どうして私に分る。いいか、この次にはな、忘れないようにやるんだ。名前を書く、ボウルの上に、デカデカとだ。「アメデオの財産なり。ネコババは許さず」ってな。何だ、何でもないことで大騒ぎしおって。
 アメデオ(落ち着こうとする。)何でもないことで大騒ぎしてるんじゃないんだ。お父さんのお蔭で、僕は腹ぺこのまま働きに出なきゃならないんだ。(突然癇癪が起きる。)糞っ! どうして僕の置いたところに僕の食い物がないんだ! 僕は無理なことを言ってるか? 僕は他人のものを漁(あさ)って嗅ぎ廻ったりはしないぞ・・・絶対にだ! エーイ、こんな家、ぶっ壊してコナゴナにしてやる!
(ジェンナロ、組立て寝室のカーテンを上げ、出て来る。シャツ姿。ズボンは急いで釦をとめ、ズボン吊りは両側に垂れ下っている。ジェンナロはおよそ五十歳。痩せて、ふくら脛が締まっている。明るい、正直な顔。眉間に厳しさを表わす皺あり。)
 ジェンナロ ここをぶっ壊すだと? この宮殿を! この天国を! おい、落ち着け。いいか、確かに私はな、今、あのスパゲッティーはお前のだったと分ったよ。だけどな、お前の騒ぎを聞いていると、まるでこの世の終じゃないか。
 アメデオ 騒いでなんかいないんだ、僕は。ただお父さんが、僕の餌まで漁(あさ)ったもんだから、僕が腹を減らさなきゃならなくなったって、言ってるんだ。僕はここで飢え死にだ。
 ジェンナロ(軽蔑するように。)高がスパゲッティーの五、六本・・・
 アメデオ 五、六本じゃない! 皿いっぱい分だ!
(ジェンナロ、無意識にパンを取り上げ、毟(むし)ろうとする。アメデオ、怒って引ったくる。)
 アメデオ 止めてよ! これは僕のだ。僕のパンだぞ!
 ジェンナロ 勝手に食え。咽喉につかえりゃいいんだ。立派な親思いの息子を持ったもんだ。
 アメデオ こっちも立派な子供思いの父親を持ったもんだ。全く立派な父親だよ。息子のスパゲッティーを腹いっぱい詰め込んで。そのうち耳から溢れ出て来るぞ。それからこのパン! 僕はこのパンで夕食までもたさなきゃならないんだ。カチンカチンに石みたいになった古くさいパンだ。それもほんの一かけら。そいつまで取り上げようとするんだからな。エーイ、もうお父さんの顔なんか見たくない。うんざりだ。(咽喉のところに手を当てて。)ここまでうんざりだ。(自分の部屋に退場。)
 ジェンナロ あいつの言うことも尤もなんだろうな。こっちと同じようにあいつも腹をすかせてるんだ。(組立て寝室に戻る。)
 ドンナ・ペッペネッラ(舞台裏で。)よくやったわよあんたは、ドンナ・アマーリア。あの馬鹿女に思い知らしてやったんだから。もうずっと前からやってやらなきゃいけなかったんだよ。
 アマーリア(舞台裏で。)今度こそあいつ、思い知ったわよ。そうよ、ドンナ・ペッペーネ。思いきり言ってやったんだから。いい気味よ。
(マリーア、流しの方に退場。アマーリア、通りから登場。その後ろにドンナ・ペッペネッラ。アマーリアは三十代後半。まだ魅力のある女。喋り方、声の調子、身振り、全てテキパキとしたもの。人の世話をするのに慣れた女。仕事着を着ている。絹のストッキングだけが贅沢。何も見逃さないすばしこい目付き。物事に感情を入れず、事務的に処理する厳しさあり。)
 アマーリア 人の前ではさんざんいい顔をして・・・全くあの女ったら。ここにへいこら這い蹲(つくば)るようにしてやって来て、甘い声を出して、おべんちゃらを言って・・・何度そんなことがあったかしら。(真似をする。)「あーら、ドンナ・アマーリア、あなたのうちに、ひょっとして卵なかったかしら? 卵が。」「あーら、ドンナ・アマーリア、まーまあ、私、丁度スパゲッティーを今朝切らしちゃって・・・」一日中ここに出たり入ったり。本当に機関車の罐(かま)焚(た)きのシャベルよ。その扉を出たり入ったり、出たり入ったり。際限がありゃしない。やれボイルド・ビーフ、やれサラミ。食べ物は今、安くないんですからね、ドンナ・ペッペーネ。それに、やっと手に入れたと思っても、二度のうち一度は猫の餌にもならない代物。そう、この間あそこの家の娘に、私が何をやったと思う? 太い毛糸一メートル半! 私って本当に馬鹿。こんなことやってたら私、骨まで抜かれてしまう。本当。嘘なんてこれっぽっちもないわ。そのうちスッテンテンよ。(マリーアに。)マリーア、お湯はもう湧いたのかい?
 マリーア(舞台裏で。)今湧き始めたところ。
 アマーリア そう。じゃ、ここへ来て、そろそろコーヒーを淹れて頂戴。それじゃドンナ・ペッペーネ、このへんであなたにさよならを言わなくちゃ。あなたも用があるでしょう?
 ドンナ・ペッペネッラ いいのよ私は。私のことは構わないで。あなた、自分の仕事をしてればいいんだから。
(アマーリア、顔を顰める。嫌々ながらマットレスを上げて、紐で結ばれた包みを取り出す。)
 アマーリア これでしょう? あなたが欲しいって言ってたもの。
小麦粉五百グラム。
 ドンナ・ペッペネッラ 五百グラム! 凄いわ、ドンナ・アマーリア。夢みたい。有難うございます、本当に。手に入るとは思っていなかったわ。
 アマーリア 四十リラ。
 ドンナ・ペッペネッラ ええっ?
 アマーリア 四十リラよ。
 ドンナ・ペッペネッラ 四十リラ? 先週から今週で十リラも上ったって言うの?
 アマーリア いらなきゃいいのよ。私は痛くも痒くもないんだから。持って来てくれる人に、今度はいらないからね、って言えばすむことなの。あんたのためだと思うからやっているだけなんだから。私には何の得にもなりゃしない。とんでもない。私にはね、ただ下から炙(あぶ)られるような、いやーな気持があるだけさ。誰かがフイとその気になって、警察に駆け込んで、あることないこと話されてご覧、それで私は・・・私は終りなんだからね。いいえ、ドンナ・ペッペネッラ、私は金のためなんかでこんなことをやっちゃいないのさ。
(ジェンナロの頭が組立て寝室のカーテンから現れる。)
 ジェンナロ だいたいお前、何故こんなことをやり始めたんだ。連中が小麦粉が欲しいのなら、勝手に連中に捜させればいいだろう?
(ドンナ・ペッペネッラに。)お前さんらはどこに行ったら手に入るか、知らないのか?
 ドンナ・ペッペネッラ 訊かれたから答えますがねドン・ジェンナロ、知らないんです。ええ、どこで手に入れたらいいか、知らないんです。
 ジェンナロ じゃ、何故家に来るんだ? ここが粉ひき場に見えるか? どこか粉ひき場に似ている所があるのかね。粉が身体に入ると痒くなったり、くしゃみが出たりするが、ここはくしゃみが出やすいか? いいですかな? あんた。ここは粉ひき場じゃない。(アマーリアに。)お前、金のためにやってるんじゃないと言ったな。まあいい、とにかくこんなことは止めろ。理由は簡単だ。私が嫌いだからだ。私の家の屋根の下で、こんなことをやるなんて、私は我慢がならん。分ったな? 我慢ならんのだ。
 ドンナ・ペッペネッラ いいですわ、ドン・ジェンナロ。それはいい考えですわ。でも、こんなことで大騒ぎすることはないんじゃありません? 奥さんはこれで金を儲けようなんて、これっぽっちも思っちゃいないんですからね。とんでもない。本当にただ、親切な気持から出た親切な行い。誰でも知っていることだわ。この小麦粉のことだって、簡単な話よ。奥さんが、私がちょっと欲しいってたまたま噂に聞いたの。そしたら、根が親切なものだから、放っておけなかったのね。何とかして手に入れてくれた。それだけのこと。そうでしょう? ドンナ・アマーリア。(財布を取出し、金を出し、アマーリアを鋭い目付きをして、見ながら。)四十リラって言ったのね? ドンナ・アマーリア。
 アマーリア(同様に鋭い目付きで見返して。)そう。四十リラ。
 ドンナ・ペッペネッラ あなたひょっとして、いくらか、豆がありはしないかしら?
 アマーリア 豆? いいえ。今は豆、丁度切らしている。いつか持って来てやるって言ってたけど、今のこの状況じゃね。もし入ったら必ず・・・
 ドンナ・ペッペネッラ 私に必ず少しとっておいて。
 アマーリア ええ、勿論。それに、心配しなくていいわ。そのうち必ず何とか。じゃあ、またね。
 ドンナ・ペッペネッラ じゃあね。ドン・ジェンナロ、私、行きますわ。
 ジェンナロ やれやれ、やっとか。次にはどこか別の所で頼んでくれないかな。
 ドンナ・ペッペネッラ 分ったわ。そんなこと気にしなくったっていいのよ、あんたが。(何か暗い声でブツブツ言いながら退場。)
(マリーアが流しの扉から登場。)
 マリーア コーヒー豆ある?
(アマーリア、マットレスを持ち上げて、挽いたコービー豆の包みを取出し、マリーアに渡す。)
 アマーリア ほら。(マリーア、行きかける。アマーリア、呼び止める。)マリーア、ここに来なさい。(マリーア、もとに戻る。アマーリア、マリーアの顔を強く叩く。)今夜は時間通りにベッドに入るんだ。分ってるね。
 マリーア(怯(ひる)まない。)友達と映画に行っただけだよ。どこが悪いの。
 アマーリア どこもみな悪いね。言われた通りにしないっていうのは全部悪いっていうこと。夕べは午前一時だよ、お前の帰ったのは。午前一時が、お前まだ早いって言うのかい? おまけに灯火管制の中を。噂をされるのも無理ないよ。まあ、あいつらも出歯亀根性だけどね。お父さんだって、私だって、外でブラブラしやしないだろう? 灯火管制の時、外で捕まらないよう夜は早くに引込んでるんだ。噂されるのは嫌だからね。この家はちゃんとした家なんだ。いいね? これからもずっと、ちゃんとした家で通すんだからね。聞えるね、マリーア。お前に今、きちんとここで注意しているんだ、私は。気をつけるんだ。気をつけないとえらいことになるんだ。分ったね? 私の言っていることが分ったかって訊いているんだよ。(マリーア、冷たくアマーリアを見つめている。)何だい、その顔は。そんな顔をして私を見るんじゃないよ。何だい、その目は。何を睨んでるんだ。もういい。行ってコーヒーを用意して。客がドヤドヤっと来るんだから。ちゃんと用意しとくんだ。
(マリーア、相変わらず承服せぬまま、流しに行く。ジェンナロ、組立て寝室から出て来る。まだズボン吊りは下ろしたまま。組立て寝室の壁につけられた小さな鏡の前に立ち、髭を剃るため石鹸をとき、顔に石鹸の泡をつける。)
 ジェンナロ アーマ、お前ちょっとやり過ぎだよ。あの子はまだねんねえだ。もう少し丁寧に扱ってやらなきゃ。ちゃんと見ておいてやれば、それで大丈夫な筈だ。何も殴ることはない・・・うん、あれは必要ない。あんなことはしなくて大丈夫なんだ。
(アマーリア、これを無視。ベッドに行き、小さな袋からコーヒー豆を取出し、ジェンナロに見られないようにしながら、それを小さな容器に入れる。それを持って流しに行く。)
 アマーリア それでいいわ。コーヒーを出すのが終ったら、この豆を挽いて。(マリーアに豆を渡す。)
 ジェンナロ 豆なんかないと思ってたがな。おい、豆なんか・・・まあいい。こいつは独り言だ。なあジェンナロ、独り言、独り言・・・
 アデライーデ(通りからの声。)アッスンタ、ちゃんと火を燃すんだよ。後でスープを作るんだからね。牛肉の切れっぱしがあれば入れるんだ。そこらへんにあるもの、手あたり次第に入れるんだよ。犬の尻尾を入れたって構やしない。うまく捕まえられればね。
(アデライーデ、通りから登場。話し好きの中年女。破れた買い物袋を下げている。中には食料品のいろいろな包み、それに野菜。)
 アデライーデ ドンナ・アーマ、あんたのとこのリトゥッチアを保育園に連れて行くのって、本当に楽しいわ。本当なんだから。それにお利口さんなんだから。今日なんか本当にお利口さんなもんだから、ついね・・・つい、しないわけにいかなくてね。本当よ。あの子に買ってやっちゃったわよ。ちょっとしたものを。嘘じゃないの、本当。プレゼント。まあ、そんなもの。そうよ。神様のお恵みがあるわよ。あんなに可愛いんだもの。それに、可愛い仕種(しぐさ)。いいわねえ。お利口で、可愛くて。それに、明るいのよ、あんたんとこのリトゥッチアは。それに、どこか昔風よ。食べてやりたいくらい。本当。食べちゃいたいわよ。今いくつだったっけ。
 アマーリア 五つ。
(この時までに、ガソリンスタンドの制服を着て、アメデオが登場している。ブラシを取るために箪笥に行き、今、帽子にブラシをかけているところ。)
 アデライーデ そう。五つ。可愛い盛りね。五つ。あの可愛い言葉つき。子供言葉で、「おばちゃん」なんて、こっちがとろけちゃう。あの子の可愛い靴下。もうあの子を舐めてやりたいくらい。身体中ぜーんぶ。そう、さっき、ほんの少し前、私、あの子に訊いたの。「リトゥッチア、可愛い子ちゃん、おばちゃんに教えて。あんた、どっちが好き? ママ? パパ?」あの子、何て言ったと思う? 私、あの子にこう言えなんて一言も言いはしなかった。神様に誓ってもいい。あの子は言ったわ。「ママ」。そうよ、この言い方。「ママ」。
 ジェンナロ リトゥッチアはママっ子だからな。
 アデライーデ そんなこと、私は知らないんですからね、ドン・ジェンナロ。私、あの子にもう一度言わせてみた。じっとあの子の目を見つめて言ってやったのさ。「それで、パパはどうなの? パパのこと、どう思ってるの?」まあ、神様、あの子を祝福してやって下さいな。可愛いお口をキュッと引き締めてあの子は言ったのよ。「パパは馬鹿よ。大馬鹿よ。」そう。口調が丁度こう。「パパは馬鹿よ。大馬鹿よ。」可愛いったらないわね。
 ジェンナロ そんなことで私は何も言うもんじゃない。とんでもない。あの子は五つだ。自分の言っていることが分っちゃいないんだ。悪い言葉はただ口から出まかせに出ているだけさ。(アメデオに。)まあ、悪い言葉を本気で言っている奴もいるが。
 アメデオ 何だよ。そんな顔をして僕を見ることはないだろう? 僕には何の関係もないぞ。リタが悪い言葉を使ったって、そいつは僕からじゃない。どこか、通りで拾って来たんだ。
 ジェンナロ 何を言う。お前からだ。お前が使っているのを聞いて真似をしたのさ。可哀相に。
 アメデオ お父さん、大丈夫? 頭は確か? 耄碌しちゃったんじゃない?
 ジェンナロ 耄碌するか。自分の言ってることはちゃんと分ってるんだ。お前なんだ、お前が・・・
 アデライーデ まあまあ、ドン・ジェンナ。そう興奮しなさんな。悪い言葉なんて、リトゥッチアには何の害もないのよ。可愛い子よ、あの子は。それにいい声。浮き浮きするようなあの口調。天使の声よ、あの声。
 ジェンナロ それに天使のような悪い言葉だ。
 アデライーデ 言ってみるだけなのよ。悪気なんかちっともない。神様はちゃーんと御存知。あの子がどんなふうにその言葉を言うか、ちょっと見てみればすぐ分る。スカートをこう、ちょっとつまんで、広げて、学校の門を通るの。そして、ありったけの声を張り上げて、歌うわ。(歌う。)「パパは馬鹿、大馬鹿。パパは・・・」
 ジェンナロ こいつは確かに、通りで拾ってきた言葉かもしれんな。いや、ひょっとすると、母親から拾ってきた言葉かな。(アマーリア、何も答えず、肩を竦める。)いいか、パパは確かに少しぼんやりしているかもしれん。しかし、まだ耄碌はしておらんぞ。まだまだ。そりゃ確かに、脳味噌は古くなった。昔のような切れ味はないさ。しかし、これは私の責任じゃない。あの昔の第一次大戦の責任だ。本当だぞ。あれからここ(頭を指して。)のところが少しな、何か変なんだ。フラチョフラチョと彷徨(さまよ)うんだな。何かやり始める。少したつと何をやり始めたんだったか、すっかり忘れてる。あのスパゲッティーもそうだ。あそこにあった。するとすぐ、あ、こいつは自分のものだ、と思ったんだな。
 アメデオ それで僕は腹ぺこで出かけるんだ。たいしたもんさ、偉いもんよ。
(フェデリーコ登場。アメデオの同僚。制服姿。小脇に弁当を抱えている。)
 フェデリーコ(アメデオに。)出られるのか?
 アメデオ コーヒーがすんでからな。
 フェデリーコ ああ、僕はすんだ。ドンナ・ヴィンチェンツァのところで飲んで来た。ああ、ドンナ・アマーリア、あそこじゃ、ここより半リラ安いんですよ。
 アマーリア じゃこれからずーっとあっちで飲むんだね。安いんだから。
 フェデリーコ 駄目なんだ、それが。まづいんですよ。ブヨのションベンさ。こことは違う。ドンナ・ヴィンチェンツァにも言ってやったよ。本当ですよ、言ってやったよ。「これはドンナ・アマーリアのとは比べ物にならないな」ってな。(じっと見つめられて、きまりが悪くなって。)いや、「落ちる」って言おうとしたんだ。つまり・・・「ずっと落ちる」って・・・(間。話題を変える。)髭をすっているのかい? ドン・ジェンナロ。
 ジェンナロ すってるか? すってなんかいないぞ。私は何もすりはせん。
 フェデリーコ あ、失礼。変なこと言っちゃった。
 ジェンナロ おい、フェデリーコ。馬鹿なことをきくような息があったら、ちゃんと貯めておいて、お前が話しかけられた時に答えるんだ。
 フェデリーコ うん、分った。(間。)じゃあ、ドン・ジェンナロ、戦争は今どうなっているんだろう。これからどうなるのかな。
 ジェンナロ おい、私にそんなことを言わすんじゃない。お前の腹は分っている。聞いておいて、逆襲するつもりなんだろう。
 フェデリーコ そんなつもりはないよ。
 ジェンナロ そうかな。まあいい。耳の穴をかっぽじってよく聞くんだ。この戦争について私が言えることは唯一つだ。もしこの私が陸軍省だか内務省だか知らんが、戦争に責任をもつ大臣だったとすれば、こんな馬鹿なもの、明日即刻やめるっていうことさ。
 フェデリーコ(賛成して。)勿論そう来なくっちゃ、ドン・ジェンナロ。あったり前のコンコンチキよ。この物不足を見ろっていうんだ。それをみんなここでお終いにしようって言うんだろう?
 ジェンナロ 物不足? 物不足なんて、本当はある訳はないのさ。誰にもにいっぱい配れる程、山のようにあるのさ。小麦粉、油、バター、チーズ、下着類、洋服、何でもござれだ。ないなんていうのは、昔からある話の繰返しだ。
 フェデリーコ 昔からあるって、何の話なんだ?
 ジェンナロ(相変わらず髭を剃りながら。)そうか、お前は小さ過ぎて覚えていないんだな。前の戦争の時も同じだったってことよ。全く同じ。物はなくなる、値段は上る。カウンターから何もかも消えて行く。じゃあどうして、どうして人は戦争なんかおっ始めるのか。どうだ、どう思う。
 フェデリーコ 分らないな。
 ジェンナロ 内証だがな・・・物をなくすためにやるんだ。
(みんな笑う。半分賛成、半分からかいの笑い。ジェンナロ、次の話の途中から熱を帯びてきて、剃る手を止める。)
 ジェンナロ こいつは本当なんだ。まづ物を消すためにだ。それからどうする。連中は価格統制を言い始める。事は簡単に見える。あったり前のことに見えるさ。「価格統制、そいつが答だ」、連中は簡単に言ってのける。とんでもない。この価格統制ってやつが、今までだって、これからだって、人間の破滅の元なのさ。価格統制なんて言葉を口にするのは簡単だぞ。意味だってすぐ分るさ。「我々は価格統制を民衆に課す。」連中は言うさ。「これで縛りつければ後はうまくいくんだ」とね。いいか、言っとくがな、価格統制は諸悪の根源なんだ。こいつが敷かれると俺達はみんな、小売商や卸売り商人の手の内に入ってしまうのさ。そうなんだ。連中のねばねばした強欲なニギニギの手の内にだ。連中の袖の下が大きくあいて、いらっしゃい、いらっしゃいと言い始めるのさ。全く手品のようなものだ。種が見えたり、見えなかったり。しかし、結果は同じ。こちらは掠(かす)め取られるのさ。それで一体、俺達普通の人間はどうなるのか。いいか、その運命は次の三つのうちどれか一つだ。餓えで死ぬか、教会のお世話になるか、牢屋に入るか、だ。それで私だったら、どうするか。この事態に対して、何か言うことがあるか。私ならな、私なら、布告を言うぞ。そう、私なら布告の宣言だ。すぐ御利益(ごりやく)のある宣言文だぞ。本気だ。私は本気で言っている。すぐ効き目のある宣言文だぞ。
(通りからエッリコとペッペ登場。話が中断される。二人はタクシー運転手。交通規制のため、今職を失っている。エッリコはナポリ流の美男子。三十代半ば。黒い肌とカールした髪の毛。すばしこい目つき。強くてがっしりした身体。明るい、人好きのする顔。いつでも機嫌がよく、自信たっぷり。特に女性に対してはそう。ペッペは粗野で動きが鈍く、知的なところなし。非常にがっしりした体格。大きな胸と、牛のような首から判断すると、肩で車でも持ち上げられる。そのせいで、「ジャッキ」と渾名(あだな)がついている。この力を利用して、他の仲間と組んで、タイヤ泥棒を時々やる。いつも何かぼーっとしている。)
 エッリコ お早う、お早う、みんな。やあ、ドン・ジェンナロ、すぐ効き目のある宣言文て何ですか?
 ジェンナロ ここにはコーヒーを飲みに来たんだろう? 飲んでさっさと出て行くんだ。
 ペッペ 俺はさっさと出て行かないよ。俺は宣言文を聞くんだ。
 アマーリア(マリーアに声をかける。)コーヒー用意が出来た?
 マリーア(舞台裏で。)もうちょっと。
 エッリコ さあ、ドン・ジェンナロ、恥ずかしがらないで。あんたらしくないぜ。その宣言文とかいうのを、聞かせてくれよ。(ペッペを肘でつついて。)俺達全員、耳を欹(そばだて)ているんだ。なあ、ペッペ。俺達みんな知りたいんだよ、その宣言文ってやつが。
 ペッペ そうだよ。知りたいんだよ。何だい? その宣言文って。
 ジェンナロ そうだな。そいつは私の、提案のようなものなんだが。今物資不足の話をしていたんだな。私に言わせれば、そんなものはどこにもありはしない。価格統制さえしなければ、物などみんなに足りるように、いくらでもあるのさ。そうなんだ。こう考えれば・・・どう言ったもんかな・・・ちょっと簡単な文章で言うとなると難しいもんだな。いや、難しい。駄目だ。この世の終りが来ても言えないな。
 エッリコ ちょっと簡単にして、一口で言えないかな。
 ペッペ そうだよ。一口にしてくれなきゃ。長過ぎたんじゃ、端っこが右の耳に入って来て、ズルズルズルっと次が入って来る間に、始めの方が左の耳から出て行ってしまわあ。それからもう一回始めからやらなきゃならないぞ。
 ジェンナロ お前に聞いてくれなどと、最初から頼んじゃいないよ。もう出て行ったらどうだ?
 エッリコ よーし、ベルトを締め直して、聞くぞ。(ジェンナロに。)さあ、やってくれ。(ペッペを指さして。)こいつはほっとけ。
 ジェンナロ よし、じゃやるか。私は、ちゃんと話すとなると一生涯かかるって言ったろ? 私の言いたいのは、私は学校に行ってない。それから、政治の仕事などもしたことがない。だからその・・・つまりだ・・・纏(まと)めて言えない。私が生涯に経験したことをみんな言わなきゃならない。私は見て来たんだ。嫌なことも、いいこともあったぞ、私の生涯には。本当だ。いいことも、嫌なことも、わんさとな。前の大戦じゃ、私は最初から最後まで兵隊だった。もし嘘だと思うなら、除隊証明書を見せてやる。今持って来るぞ。
 全員 信用してるよ・・・わざわざそんなことしなくても・・・兵隊やってたの、みんな知ってるさ。いいから、そのまま続きだ・・・等々。
 ジェンナロ よし、分った。持って来なくていいだな? さてと、何を話していたかな。ああ、そうだ。価格統制だ。(話題に戻って。)うん、価格統制ってやつの目的は一つあって、それしかないんだ。それは、特別な人種が儲かるようにするためさ。特別な人種って何だ、と訊くだろう? それはな、ペンの持ち方を知ってる人種さ。
 エッリコ 何の人種って言った?
 ジェンナロ 教授連さ、勿論。知識人っていう奴等さ。鉛筆を舐め舐め、考えやがるのさ。どうしたら連中の有利になるか、そして俺達の不利になるかをな。おい、そんな奇妙な顔をするな。簡単なことさ。連中の価格統制ってのはつまり、「おい、馬鹿なお前ら、聞くんだ。お前ら、自分が持っている物をどうやって使ったらいいか、分ってないんだろう? だから俺達がそいつをお前達から取り上げて、俺達がお前達の代りに使ってやらあ。」ということさ。だから、連中が言っていることは、お前達や私のような人間は、鈍くって、怠け者で、頭が悪い。だから、物の責任など、任されるかっていうのさ。それで連中はどうするか。うるさくそいつを言い続けるんだな。そうすると、仕舞いにはこっちは頭がぼーっとしてきて、連中の言うことも尤もだと思い始める。それで連中の思う壷さ。これでちゃんと統制が始まってるって訳だ。この「連中」ってのが誰か分るか? 今教えてやる。ファシストの奴等さ。(思いもかけずこの「ファシスト」という声が大きくなり、首を竦めて。)おい、誰か、ちょっと外を覗いてくれる奴がいないのか? こんなことを話しているのを誰かに聞かれたら、それこそ一斉射撃でズドンだ。(銃殺刑の真似をする。)・・・分るだろう? 一巻の終わりよ。
(フェデリーコ、扉のところに行き、道路を右、左と見る。)
 エッリコ 心配しないで、ドン・ジェンナロ。大丈夫だよ。続きをやって。教授連はこの時間ならまだ寝ているさ。
 ジェンナロ 大学の守衛は、もう起きているからな。
 フェデリコ(扉から。)ここは大丈夫だ。人っ子一人いない。さあやって、ジェンナロ。続きだ。
 ペッペ あの向かいの壁にいるマドンナさんはどうかな。あれにも耳はあるよ。な?
 ジェンナロ こいつ、しようがないな、全く・・・何の話をしていたんだったか・・・ああ、教授連だ。知識人の奴等だ。話はこうなっているんだ。まづ連中が主導権を取って、下地を作り始める。こいつが実に巧妙なんだ。いいか、少しづつやるんだ。ほんの少しづつな。それも、お前らのために、お前らの利益になるようにと、それだけを考えて、という顔をしてな。それからじわじわと連中の思い通りになるようにするんだ。まづは演説会に宣伝だ。次に脅し、布告、それに緊急事態に対処するための方策と来る。そして最後に決定的にやって来るもの、それが銃殺刑さ。そうなりゃ、こっちは誰一人、怖くて口をきけるものなんかいやしないさ。
(みんな、にこりともせず、頷く。)
 アデライーデ あんた、もうちょっと声を小さくしなきゃ、ドン・ジェンナロ。いや、あんたの声は素敵だよ。よく響く、聞いて気持のいい声だよ。だけどね、あんた、もし警察が聞いたら・・・
 ジェンナロ 分ってる、ドンナ・アデライーデ。分ってるよ。(溜息。)さあ、今俺達はどうなっているか。民衆と教授連は喧嘩状態だ。それでどうなった。少しづつ俺達は持ち物を剥がされて、もう持ち物なんか何もないところにまで来たんだ。何もだ。通りも、ビルも、家も、庭も・・・何も俺達の物はない。全部徴用されてしまった。連中は好き勝手に、したい放題をやって、こっちはそれに何一つ口出し出来ないのさ。それから次は? 次は戦争だ。「誰が戦争になんか行きたいって言うんだ」と俺達はみんな言う。「民衆だ。あいつらが行きたいって言うんだ」と教授連は言う。だけど一体、戦争なんか誰が宣言したんだ。「教授連だ」と民衆は言う。「あの糞ったれの教授どもだ」とな。だけど戦争が負けりゃ、そいつは民衆のせいだ。勿論勝てば教授連が偉かったってことになるのさ。さあ、ここでお前達が私に何て言うか、私には分っているぞ。
 ペッペ 何て言うんだ?
 ジェンナロ 「今の話が価格統制と何の関係があるんだ」と来る筈さ。いいか、言ってやろう。価格統制は人をいじけさせるためにやるんだ。人を劣等感の中に押し込めて、そこから動けなくさせるためなんだ。じゃ、どうしたらいいんだ、とお前達は訊くな? いいか、答はこれだ。さっき言いかけた宣言文だ。こいつはすぐ効き目が現れる。そいつは「一人一人責任を持て」だ。この一人一人の小さな責任が、一つに固まると、大きな一つの責任になって、みんなでそれを分かち合えるようになるのさ。・・・喜びも苦しみも、富も、貧乏も、生きることも、死ぬこともだ。だからな、みんなが責任ある人間になるってことだ。地球上の誰一人「俺は責任ある人間だ。だがお前は違うじゃないか」なんて言わないようにな。
 ペッペ 何のことか俺にはさっぱり分らないな。
 ジェンナロ そりゃ分る訳がないさ。分るようなら、今こんな目茶苦茶なことにはなってない筈だからな。
 アマーリア あなた、さっさと髭を剃って、着物を着たら?
(ジェンナロ、アマーリアを睨みつける。そしてまた髭を剃り始める。)
 ペッペ 俺が知りたいことは一つだけだな。いつガソリンをくれるんだろう。ガソリンさえ入れば、またタクシーが運転出来るのに・・・ってことだ。
 ジェンナロ さっきの宣言文がすぐ応用出来る例だ、それは。一台のタクシーに九人づつ運転手をつけるのさ。一人は運転席に坐らせ、後の八人は後ろから車を押すんだ。
(リッカルド、通りから登場。新聞に目を通しながら入って来る。小さな会社の会計事務員。気取らなくて、ちゃんとしている。黒っぽい背広に鼻眼鏡。)
 リッカルド お早う、みなさん。
 アマーリア お早う、リッカルド。もう少しかかるのよ、コーヒーは。
 リッカルド 有難う、ドンナ・アマーリア。喜んで待ちますよ。夕べは全く大変でした。ちっとも落ち着いて目を瞑(つぶ)っていられなかったんですよ。ほんのちょっとでもです。お蔭で酷い頭痛です。キリキリ痛むんですよ。全く難儀なものです。女房の奴、あのサイレンを聞くといつだって気が変になったようになるんですよ。夕べは無事に防空壕から出られましたが・・・三人の子供も一緒に・・・子供、可愛い奴等ですよ・・・だけど、防空壕に入るまでの時とは、すっかり気分が違っています。眠気なんか吹っ飛んでしまっていますからね。女房の奴も、全身ガタガタガタガタ震え通しです。
 ペッペ 敵の奴、夕べは盛んに落っことしたぞ。やりやがるなあ。
 リッカルド この新聞には、パルコ・マルゲリータで、大きな家が二つ、カポディモンテで三つ四つ、それから工場がやられたってありますが・・・
 ペッペ そうだよ。市電の終点で、電車が集まるところのすぐ傍だったんだ、やられた場所は。
 エッリコ すると、このあたりも本格的に狙われてきたのかな。
(大きなネアポリタンのコーヒー沸かしを持って、マリーアが登場。全員歓声をもってこれを迎える。)
 アマーリア(アメデオに。)アメデオ、外を見張って!
(アメデオ退場。アマーリア、みんなにコーヒーを出し、金を受取る。みんな口々にコーヒーを褒める。)
 エッリコ うまいよ、ドンナ・アマーリア。最高だ。今朝は群を抜いてるよ。
(みんなエッリコに賛意を表わす。また、コーヒーをうまそうに飲む。)
 ペッペ いや、全く。昨日の爆撃には参った。肝を潰したよ。
 アデライーデ 私も。私、もう恐ろしくて、サイレンを聞いただけですぐ防空壕。しかけていることが何でも、もうすぐほっぽって飛び出るわ。何をやっていてもいいの。そんなこと、構っちゃいられないもの。もう何もかも捨てて、これだけ(自分のロザリアを見せて。)持って、防空壕に駆け込むの。恥なんか言ってられないわ。
 ジェンナロ あの爆弾って奴が私の身体のどこに響くか言ってやろう。ここだ。この腹に来るんだ。ゾゾゾーっと冷たいものが走る。まづ背中に走って、次に腹に来る。するとこんなところにはいられない、すぐ便所に行かなきゃ、シャーっと来てしまう。私は英雄じゃない。こんなところで嘘を言ったって始まらないからな。私は現実主義者さ。理想で生きちゃいない。現実が私には一番大事なんだ。
 ペッペ(リッカルドに。)どのぐらい、この戦争は続くのかね。あんたに訊いてよければ、訊きたいんだがな。
 リッカルド 分りませんね、それは。
 ペッペ ケーキ屋で誰かがこの間俺に言ったんだ。この戦争は、もっと酷くなるぞって。その女の人の話だと、ナポリ全体がペチャンコになるまで爆撃されるんだって。本当かなあって、俺は思ったんだ。だから訊いてるんだけど。ケーキ屋で聞いた話みたいに、俺達みんな、ぶっ潰されちゃうのかな。
 エッリコ 本当だなあ、その質問は。本当にこの爆撃、どんどん酷くなるんだろうか。
 フェデリーコ まさか。これ以上は酷くはならないんだろう?
 アデライーデ だけどあんた、そういうもっぱらの噂だよ。爆撃の次は、今度は毒ガスだって。
 ジェンナロ そうか、次に来るものは毒ガスか。完全消滅を狙えってやつだ。
 ペッペ 爆撃なんて、酷く野蛮じゃないか。普通の市民が戦争に何の関係があるって言うんだ。家を壊したり、電車の車庫を潰したり。俺達は戦争と関りはないんだよ。
 リッカルド(新聞を持ち上げて。)これによると、召集の年齢をまた下げると言っていますよ。
 アデライーデ まあ!
 アマーリア 今何て言った? ドン・リッカルド。まさか、徴兵検査ではねられた人までとるんじゃないだろうね。アメデオまで行かなきゃならないのかね。
 リッカルド さあ、連中のやることですからね。見当もつきません。
 ジェンナロ だけどあんたには分っていることが何かあるんじゃないのか? あんたは色々新聞を読んでるんだろ? 何か希望はないのかね? それを頼りに生きようっていうような何かが。
 リッカルド そうか。じゃ、私にこう言って貰いたいんですか? 空襲はもう終りだって。いいです、それなら。空襲はお仕舞です。誰も徴兵されません。交通機関も正常に戻ります。店も開いて、食糧はわんさとある。これでいいんですか? 私だってみんなと同じです。みんなの知っていることしか知らないんですよ。
 ジェンナロ しかしなあ・・・しかし・・・背広にネクタイのお前さんだ。信用出来る話があると思ってしまうなあ。
 リッカルド それはまあ、信用されれば嬉しいですよ。だけど、背広とネクタイは、水晶の玉とは違います。予言の力はありませんね。
 ジェンナロ うん。だけどお前さん、一緒に肩を並べて働いている連中がいるだろう? 有名な人物、地位の高い人物・・・
 リッカルド(急に防戦になって。)地位の高い人物? 知りませんよ私は、誰一人。地位の高い人物なんて。私は誰とも話さない。誰もそんな人は知らない。全然ですよ、全然。
 ペッペ(エッリコに。)さあ、もう行こう。どうせ何も話してはくれないさ。(リッカルドに。)お前さん、それで行くんだ。ちゃんと口にはチャックを締めておいた方がいいんだ。今は一番いい手だからな、それが。
 アデライーデ そう。いつも私が言ってることよ、それが。喋るのが一番駄目。私は喋らないからね。とんでもない。喋るもんですか。私が言えるのはね、誰が何をやっていても、私にゃ、知ったことじゃないってこと。アデライーデ、あんた、他人のことに口を出さないんだよ。ちゃんと口にチャック。そう自分に言って聞かせる。そしてちゃんとそれを実行しているんだからね。
 ペッペ じゃあな。あばよ、みんな。(フェデリーコに。)来るか?
 フェデリーコ うん。(アメデオに。)行くか?
 アメデオ(丁度今、見張りから帰ったばかり。)ちょっと待って。こいつを飲ませてくれ。(自分のコーヒーを飲む。)よし。じゃ、あばよ、みんな。またな。
(アメデオ、フェデリーコとペッペと共に退場。ジェンナロは組立て寝室にまた潜り込む。エッリコ、開いている扉の外に立ち、怪しい人物が来ないか、見張る。煙草を吸いながら。)
 アデライーデ さあ、ドンナ・アーマ。私、こんな風に油を売ってはいられないわ。やる仕事があるんだからね。分ってるだろう? あんたには。私は喋くったり、噂したりするような女じゃないんだ。仕事をする人間なんだからね。それにひきかえ、私のあの姪ときたら、あんなのが信用出来るというのかね。今頃はスープを作っていなきゃならない頃だけど・・・
 アマーリア(はっきりと。)さようなら、ドンナ・アデライーデ。
 アデライーデ さようなら、ドンナ・アーマ。(ゲラゲラ笑って。)「パパは馬鹿」(退場。歌うように次の台詞を言いながら。)本当に可愛い子。木綿の靴下履いちゃって。本当にいい声。(再び笑う。)「パパは馬鹿。パパは馬鹿。」
 アマーリア さあ、ドン・リッカルド。今日は何の御用?
 リッカルド(居心地悪そうに。)ええ・・・その・・・
 ジェンナロ(頭を組立て寝室から出して。)ここでは何を言っても大丈夫だぞ。言いたいことを言うんだ。誰も言い付ける人間なんかいやしない。お前が考えてることは、私達も同じように考えているんだ。構うことはない。思っていることはみんな言っちまうんだな。
 リッカルド(躊躇いながら。)ドンナ・アーマ・・・実は・・・ちょっと・・・お持ちじゃないかと思って・・・その・・・バターを少し・・・
 アマーリア ないわ、ドン・リッカルド。また後で来てみてくれない? 約束してくれてはいるんだけど、こういう状態だからね。別のところでもっと良い値で売れるなんてことになれば、もう二度とこっちまで来てくれやしない。もし来さえすれば、それはあなた用に取っておくわ。どうせ私達、使いはしないもの。私達、バターはそんなに好きじゃないし、それに、とても高くて手が出ないわ。そう、バターに手が出る人なんて、今時どこにいるのかしら。
 リッカルド(苦い調子で。)そう、本当だ。バターに手が出る人なんて・・・そうだ、お宅では、バターに手が出なくなる方向に一役買っていたりはしないでしょうね?
 アマーリア(威厳をもって。)いいですか、ドン・リッカルド。もしあなたがそんなことを言うなら、もうバターなんか捜して上げませんからね。お分かりでしょう? 特別にあなたにこういうことを私がしてあげているのは。あなたに沢山の子供がいることを知っているからなんですからね。三人の大事な子供がいることを。言っておきますけど、こちらには何の得にもならないんですからね、びた一文。これが嘘だったら私、神様から・・・
(丁度この時、ジェンナロ、チョッキとネクタイ姿で現れる。アマーリア、ジェンナロを見て言い止む。ジェンナロ、背広のかかっているところへ進む。アマーリアを鋭く見つめる。アマーリア、躊躇った後、続ける。)
 アマーリア ・・・私、二度と大事な主人の顔を見ることはないわ。
(ジェンナロ、淋しそうに一人頷き、背広を取り、また組立て寝室に入る。口の中で何かもごもごと呟く。アマーリア、すぐに元気を取り戻し、マットレスの下から二、三個の包みを取出し、リッカルドに手渡し始める。)
 アマーリア だから、今のところ、ほら、頼まれた砂糖、それからココア。これは小麦粉。特別に白いのを手に入れて来たんだからね。さてと、全部で・・・ちょっと待って。どこかにあの人が請求書の紙を置いて行った筈。(サイドボードの上に散らかっている物をかき分け、皺くちゃの紙を取り、読むふりをする。)そう、ここにあった。砂糖二キロ、ココア一キロ、小麦粉二袋、それに先週からの貸し。締めて丁度三千五百リラ。
 リッカルド ええっ? そんなになるんですか? それは困りました。今ちょっと家ではやり繰りが難しい時なんです。可哀相に、この頃女房もちょっと身体の具合が悪くて。いや、本当に家計が・・・子供を三人も抱えて、私の給料も僅かなもので・・・頭も白くなります。これじゃあ、貯えだって、とっくに底をついてしまって・・・値段はウナギ昇りに上って行くし・・・
 アマーリア でも、確かあなた、建物を持っているんじゃなかった?
 リッカルド 建物? ええ、まあ、持ってるって言えば持っていますけど。今住んでいるところがそれです。ひどく小さい家で、勿論。たいした物じゃありません。実は丁度ローンを払い終ったところで。全く厭なものです、ローンっていうのは。石臼でひかれるような気分ですよ。年がら年中あくせくあくせく働いて、やっとこ払って行くんですから・・・
 アマーリア それで、他の建物は?
 リッカルド 他の建物って?
 アマーリア その自分の住んでいる建物以外の、他の建物。
 リッカルド あんなもの、建物なんて言った代物じゃありませんよ。マグナ・カヴァッロにある小さなアパート二つ。建物だなんて。一体それが月にいくらになるとお思いです? 当ててみて下さい。いいですか? 片方が月に二百リラ、もう片方が月に三百です。だからといって、どうすればいいんです? 売るんですか? それでやっとこ食い繋いでいる収入源もなくしてしまえって? まさか、そんなことは出来ないでしょう?
(アマーリア、リッカルドを冷たい目で見据える。リッカルド、躊躇った後、ポケットからティシューでくるみ、リボンをした包みを出す。それを解(ほど)き、見せる。)
 リッカルド これを持って来ました。妻のイヤリングのうちの一つです。五千リラはするものです。
 アマーリア(わざと興味のない声で。)二つで?
 リッカルド いえ、一つで。もう一つは質に入れてしまって・・・
 アマーリア 分ったわ。置いといて。私、やってみましょう。現金の代りにそれでいいって言ってくれるかも知れない。やってみて上げます。
 リッカルド 御親切に。どうもすみません。代金は三千五百でしたね?
 アマーリア ええ。
 リッカルド そうすると、差し引き千五百になりますね?
 アマーリア ええ。
 リッカルド そうしたら、そのお金はこちらに・・・?
 アマーリア もしこのイヤリングが言い値通りの価値があれば、勿論千五百はそちらにお返し致します。
 リッカルド 分りました。それでは明日・・・
 アマーリア 明日は犢(こうし)の肉が入る予定ですけど、興味おあり?
 リッカルド ええ、多分。
 アマーリア それに、卵は?
 リッカルド 卵? ああ、もしこちらに分けて戴ける分があれば・・・子供達のためなんです。大人じゃない。本当に子供達のためなんですから・・・
 アマーリア やってみますわ。出来るかどうか。
 リッカルド 御親切に、ドンナ・アマーリア。本当に、あなたという方がいらっしゃらなければ、私達どうやって暮していけたか・・・
 アマーリア(突慳貪(つっけんどん)に。)ではこれで、ドン・リッカルド。
 リッカルド では、ドンナ・アマーリア。ではこれで、さようなら。
(リッカルド、おずおずと退場。ジェンナロ、ちゃんと上着を着て、組立て寝室から出て来る。釘にかかっている帽子を取り上げ、ハンカチで埃をはたく。深く考え込んでいる。坐る。)
 ジェンナロ 私は考えていたんだがな、アマーリア。
 アマーリア えっ? 何を?
 ジェンナロ 私は考えてしまうよ、これは。心配で仕方がないんだ。
 アマーリア 何が。
 ジェンナロ こうやって抱え込んでいる面倒事だよ。参った。私は夜も寝られないでいるんだ。いつ警察が押し込んで来るか・・・それで・・・そうなったら・・・アマーリア、いくら私の目を誤魔化そうったって、これが分らない訳はないだろう? コーヒーだけじゃないんだ。コーヒーだけじゃ、あんなに人がやって来はしない。一時間に一人じゃない、一分間に一人、いや、一秒に一人の割で人がやって来る。やれ、バターをくれ、米だ、パスタだ、豆だ・・・その他ありとあらゆるものだ。
 アマーリア あなた、何度言ったら分るの? そういうものみんな、私の物じゃないのよ。ここに置いておいて、皆の便宜をはかっているだけ。
 ジェンナロ ただ単に、親切心からだけでか?
 アマーリア 言ったでしょう? 利益はないの。私に残る利益はゼロ。
 ジェンナロ じゃあ、どうして私達はこんな暮しが出来るんだ? パンに魚に・・・たいした生活だ。するとどうせ、お前はこう言うんだろう。「私達は配給の範囲内で暮しています」ってな。冗談じゃない。配給だけでやっていた日にゃ、じき骨と皮だ。じゃあどうやってこんな生活が出来ているんだ。私の方からは何もお前に渡しちゃいない。市電もそのうちなくなるだろう。三番はもう、廃止になった。五番も十六番もだ。次から次と従業員が首になっている。今じゃ、以前の半分しか残っちゃいない。
 アマーリア じゃ、私はどうすればいいって言うの。
 ジェンナロ 分らないんだ。ずーっとそればかり考えてるんだ。何かいい考えが浮んだこともある・・・そう、配給だ。配給で何とかならないのか。私は考えたんだ。もし配給で生きてゆけないんなら・・・いっそのこと・・・いっそのこと・・・いや、駄目だ。いい考えでも何でもないんだ。なあアーマ、私が一番真剣に考えているのは、何とかして素性の正しい、人に後ろ指差されないで生きてゆけないかっていうことなんだ。こんな・・・こんな闇屋の仕事なんかしないで・・・そして・・・そして・・・(諦めて肩を竦める。)あーあ、それしか仕様がないっていうのなら、それしか仕様がないのか。それなら、気をつけなきゃ駄目だ。四六時中、目を見開いて、捕(つか)まらないよう、牢屋に送られないよう、気をつけなきゃ・・・悪くするとお前、これは一列に並べられて・・・ああ、アーマ、頼むぞ、気をつけてくれ。(立ち上って、行きかける。)
 アマーリア 外へ行くんじゃないでしょう?
 ジェンナロ いや、ちょっと散歩だ。少しいい空気を吸って来なきゃ。夕べ二時間、あの湿った防空壕だったからな。足がつったようになって、変な具合だ。遠くには行かない。用事があったら大きな声で呼んでくれ。
(エッリコ、扉のところでジェンナロを止める。)
 エッリコ 駄目ですよ、出ちゃ。夕べ二百キロここにコーヒーを運んで来たんだから。
 ジェンナロ 二百キロ! おいおいドン・エッリ、お前さんのお蔭で、私はこれでお仕舞だ。豚箱行きだ。格子の嵌まった檻の向こうだ、私は。こういうことがあれば責任は私だからな。お前はいいよ、お前は。ただお前のことだけをしてりゃいいんだからな。いや、こんな時だ。お互いに助け合わなきゃならないことは分っているさ。だけど二百キロ! それだけじゃない。お前は何でもかでも持って来る。それも行きあたりばったり! 思いついた時に持って来るんじゃない、毎日だ。いいかドン・エッリ、私は呆れ返ってるんだ。こいつは囚人の着る茶色のズボンものだ。それも一生ものだぞ。私の背中の後ろで牢屋の閉まる音が今からでも聞えている。いや、銃殺のためにそこから出されていく囚人達の悲鳴まで聞えるぞ。・・・(アマーリアに。)それで、そのコーヒー、どこに仕舞ったんだ。
 アマーリア あなたよく知っているでしょう? マットレスの下よ。コーヒー豆二百キロは。
(ジェンナロ、ベッドに行き、マットレスの下を触る。)
 ジェンナロ 何だ、これは! それにまだ他にあるぞ。(マットレスを開ける。)ほら、これ! これを見ろ。米、パスタ、チーズ(エッリコに。)おい、こいつはまた話は別だぞ・・・チーズ! こいつはもうあと、どのくらい入れて置かなきゃならないんだ? これには参るんだ。夜中がひどい。ひどい悪臭だ。息をするのがやっとだ。こいつのせいだぞ。
 エッリコ もう少しです。何とか我慢して下さいよ、ドン・ジェンナ。実はちょっとした手づるで、チーズが大量に入手出来たんですよ。
 ジェンナロ 悪いけどなドン・エッリ、君に悪いのは分ってるんだが、こっちの身体の具合も考えに入れて欲しいね。夜には実際、やりきれないほどきつくなって、扉を開けっぱなしにしなきゃならないんだ。全く酷い臭いだよ。サイレンが鳴ると、時には「やれ有難い、これで臭いから解放される」と思うこともあるんだ。
 エッリコ もう少しの辛抱です。お願いですよ、ドン・ジェンナ。
 ジェンナロ(マットレスの下をまた引っ掻きまわして。)砂糖、小麦粉、えっ? これは? ラードだ。一体ここは何なんだ? 食糧貯蔵庫か?(また外へ出ようとする。)
 エッリコ ねえドン・ジェンナ、家にいて下さいよ。遠くに行かないで。いつなんどき、あなたが必要になるか、予測はつかないんですよ。
 ジェンナロ 心配はいらない。やることは分っている。その時が来ればすっぽかすようなことはしない。いや、立派にやってみせるさ。役者顔負けのうまさでな。ただ、こういう物は何とか早く家から外へ出して貰いたいんだ。頼むよ、お願いだ。頼む。(アマーリアに。)ちょっと四つ角のところまで行って来る。私が必要な時は大声で叫んでくれ。だけどサイレンなら呼ぶ必要はない。サイレンは自分だけで何とか出来る。じゃ、頼むよ。(退場。)
 アマーリア じゃ、話が出来るわね。私、今、いくら借り?
 エッリコ いいんです。
 アマーリア えっ? これ全部、私にくれるって言うんじゃないでしょう?
 エッリコ 出来れば、みんな上げちゃいたいんです。あなたのためなら、僕は何でもやる。命でも捧げます。あなたにはそれが分ってるんだ。(アマーリア、エッリコを大胆かつ含羞(はにか)みの目で見る。)いいんだ、今キャッシュで払ってくれなくても。こいつを全部売っ払った時でいい。そのうちから、僕の仕入れ代金をくれれば、後は全部あなたのものだ。
 アマーリア どうしたっていうの? 急に。二人で必ず等分に分けるっていう約束だったでしょう? それが一体どうして?(エッリコ、肩を竦める。アマーリア、エッリコの射竦めるような目をそらし、それからリッカルドのイヤリングを見せる。)これ、どう思う?
 エッリコ(光に透かして見て。)よさそうに見える、僕には。
 アマーリア どのくらいするのかしら。
 エッリコ もう一つの方も見てみないと。
 アマーリア ないの。質に入れたんだって。
 エッリコ じゃ、質札を貸して。二つの品が合っているかどうか、見なきゃ。
 アマーリア じゃ、明後日には渡せるようにするわ。
 エッリコ その時だ、じゃ、価格を決めるのは。
 アマーリア どのくらいだと思う? 四千? 五千?
 エッリコ そんなの、いくらだろうと関係ないでしょう? その懐(ふところ)で払えない訳はないんですから。(微笑んで。)で、そこがコーヒーの隠し場所なんですね? そのマットレスの下が。
 アマーリア(ベッドカバーの隅を持ち上げて。)ほら、来て見て。こんなところにあるなんて、誰も思いもつかないわ。これは私が考えた名案。隅をあけて、金具を取り付けたの。これなら欲しい時に出せるし、塞げばもう分らない。天才的でしょう? ね? こうやって手を入れて・・・(エッリコ、アマーリアの背後に近づいて、手を重ねる。アマーリア、抵抗するが、そう激しくはしない。)・・・それから、取り上げればいいの。(優しく自分の手からエッリコの手を持ち上げ、外して、元の彼の手の位置に戻す。)
 エッリコ(自分の手に。)おお、お前、また帰って来たか。
(エッリコ、アマーリアを抱擁し、キスしようとする。アマーリア、ふりほどこうとする。しかし、それほど強くではない。)
 アマーリア 止めて、ドン・エッリ。駄目。放して! お願い、ね、放して。
 エッリコ(自分を抑えようとするが、まだアマーリアの手を放さず。)ドンナ・アーマ。ご免なさい。僕はどうなってしまったんだろう。許して下さい。許すと言って下さるまで、放しません。どうか許すと言って、ドンナ・アーマ。
 アマーリア ええ、許すわ。我を忘れてしまうことって、あるもの。ね?
 エッリコ 有難う、ドンナ・アーマ。どうも有難う。
(エッリコ、アマーリアの両手を何度もキスする。この時までにマリーア、流しから出てきていて、両手を後ろに廻して挑むような目でこれを見ながら立っている。エッリコ、マリーアに気付き、急いでアマーリアの両手を落し、何事も起っていないような表情をする。アマーリア、ふいをつかれて、ちょっとの間まごつくが、すぐに平静に戻って。)
 アマーリア どうしたって言うの、そんなところに突っ立って。
 マリーア にんにくがいるの、豆のスープに。
 アマーリア 場所は分っているんだろう?
 マリーア 切れちゃってるの。
 アマーリア じゃ、貰ってくればいいだろう。ドンナ・ジョヴァンニの家に行けばあるわ。(マリーア、扉の方に進む。出る直前に、母親の方を向いて。)
 マリーア 今言っとくけど、私、今夜また、映画に行くんだからね。帰りはいつになるか、分らないんだから。(退場。)
 アマーリア お前、全く言うのに良い時を選んだもんだよ。小さいお嬢様が一体何をやらかすものか、知れたものじゃない。本当に。
(アメデオとアデライーデの声が外にする。)
 アメデオ(舞台裏で。)あの女、面をひっぱたいてやる。
 アデライーデ(舞台裏で。)早まっちゃ駄目よ、アメデオ。怒っちゃ駄目。まだはっきりとそうだって、分っちゃいないんだからね。
(アメデオ登場。怒り狂っている。その後にアデライーデ。)
 アメデオ そうだってちゃんと分ってるんだ。もうあいつら、やっちゃってるんだ。俺達の首根っこを捕まえちまったんだ・・・
 アマーリア どうしたって言うの、一体。それにお前、こんな時間に家に帰って来るなんて、どういうこと。
 アメデオ 聞いて。今友達に会ったんだ。そしたらそいつ、一時間前にドンナ・ヴィンチェンツァの家に行ったんだそうだ。ほら、お母さんと大喧嘩をしたすぐ後にだよ。そいつ、あの家でコーヒーを飲んでいた。そうしたら・・・ドンナ・アデライーデ、あんたもそこにいたんだ、話してやってくれないか。(訳註 アデライーデはヴィンチェンツァの家にいたらしい。時間的に無理があると思われるが。)
 アデライーデ 勿論いいわよ。あの人、カンカンになった。天井にぶち当たるような勢い。そのまた言い方がすごいの・・・「一体、自分のことを何様だと思っているの」「威張りやがって。自分だけが独り占め出来る商売だと思っていやがる」「ここらあたりでコーヒー売りが出来るの、自分しかいないだなんて。よくもまあ、盗っ人たけだけしいとはこのこと」・・・次から次。あんなすごい言葉、私聞いたことがない。へどが出そうだった。「私にコーヒーが売れないんだったら、あいつにだって売れる筈がないだろう? 豆の販売ルートを知ってるのが自分だけだと思ってやがる。そんなことあるもんか。私がちゃんとお株を奪ってみせるさ。それぐらい出来なくってどうしてこの私がヴィンチェンツァ・カペーチェなのさ。」そう言ってショールを掴んで、扉をバタンと閉めて、通りへ飛び出して行ったのよ。」
 アメデオ きっと真直ぐ警察に行ったんだ。俺達のことを言いつけたに違いない。あの女がやりそうなことさ。厭な奴だ。何てことをしやがるんだ。
 アマーリア 落ち着いて。落ち着くんです。そんなに興奮することは何もありません。考えてごらん。連中が来たって、何が見つかるっていうの?
 アメデオ そりゃ分ってるよ。でもやっぱり僕が帰って、知らせた方が良かったんだろう?
 アマーリア それはそう。よく知らせてくれたわ。さあ、お父さんを呼んで。角のところにいるって言ってたわ。やれやれ、必要な時に限って、近くにはいやしない。
(アメデオ、扉のところに行って、そこからジェンナロを呼ぶ。)
 アメデオ パパ、パパ。(ジェンナロに手を振る。)パパの出番なんだ。急なんだよ。(アマーリアに。)ドンナ・ヴィンチェンツァの家の角で、マルコが見張ってくれている。警察が現れると、合図でパイプに火をつけるんだ。
 アマーリア いいかい? そこを離れるんじゃないよ。動いたら駄目だよ。いいね?
(マリーアが通りからにんにくを二個持って入って来る。)
 マリーア 二リラだって。腐ったようなニンニク二個が、二リラ!
 アマーリア そんなことはいいの。早く流しに行って。髪を下ろして。黒いショールを羽織るのよ。早くして。(アマーリア、箪笥に行き、黒いショールを取出し、自分の肩にかける。マリーアがまだそこに突っ立っているのを見て。)何をぼやーっと突っ立ってるの。言われた通り、早くやりなさい。
(マリーア、肩を竦めて仏頂面をして、黒いショールを取り、流しに進む。)
 マリーア 用事があったら呼んで。(退場。)
 アメデオ(扉のところで。)まだ大丈夫だ。パイプに火をつけていない。
(ジェンナロ登場。)
 ジェンナロ どうしたんだ。
 アマーリア どうしたもこうしたもないの。さっさと用意をするの。
 ジェンナロ ああ、またか。(エッリコに。)言った通りだろう? お前さんは懲りないんだ。檻に入れられるまでな。やれやれ、懲りる訳がない。全く仕様のない話だ。
 アマーリア(アメデオに。)パスカリーノとフランコは呼んだの?
 アメデオ もう呼んである。もうすぐ来る。
 エッリコ(心配していないような表情をするよう努力して。)じゃ、用意は万全だ。落ち着いて行こう。慌てては駄目だ。僕もこの辺にいて、家族のふりをしていよう。全員役割は分っているんだな?
 アメデオ パイプに火をつけたぞ。マルコがパイプに火をつけた。
(ジェンナロ、自分の組立て寝室に首を突っ込む。)
 ジェンナロ おお、つけたか、パイプを。
 アメデオ あの糞婆バア、よくもやったな。警察に行きやがったんだ。垂れ込みやがったんだ。ああ、パスカリーノとフランコだ。
(全員、それぞれの持ち場で急いで支度を始める。)
 アマーリア(流しに、大声で。)マリーア、スープなんかもういいの。早くこっちに来て。(ジェンナロに。)ほら、あなた。早くやるのよ。
 ジェンナロ 早くやれって。これが精いっぱいだ。私はカメレオンじゃないんだからな。パスカリーノは来たか?
 アメデオ 呼んである。フランコも。
(パスカリーノとフランコ、登場。二人とも影の薄い役。一言も言わず、ベッドの左手に行き、持って来た包みを開け、大きな黒いエプロンを結び、頭に尼さんのフードを被る。ベッドの左に坐り、下手を見つめる。その間アマーリアは、マリーア、アメデオ、エッリコの手を借りて、蝋燭のついた燭台をベッドの四隅に立てる。)
 アマーリア あなた、どうしたの? まだなの?
 アデライーデ 早くして、ドン・ジェンナ。お願い。
(ジェンナロ、ゆっくりと組立て寝室から出て来る。長い、白の、毛糸の夜着を着ている。頭に白い布、何度か頭を巻いた後、顎に廻して最後に頭の上で縛ってある。ベッドに進みながら、白い手袋を嵌める。)
 ジェンナロ やれやれ、またこの台詞なしの芝居か。気が狂ってるぞ、お前達はみんな。全くやらせるのに事欠いて、こんな馬鹿なことを。
 アデライーデ お願いだからドン・ジェンナ、少しは皆のことも考えて。馬鹿、馬鹿、なんて言ってる時じゃないのよ。
 アマーリア 早く。ほら、ベッドに入って。さあ。
 ジェンナロ 気違いだ。アホだよ。
(ジェンナロ、諦めてベッドの傍に立つ。アマーリア、大きなパフで白粉(おしろい)をジェンナロの顔にはたく。死体の顔に見えるようにするため。それからベッドに入れる。マリーアは、サイドボードから花を取り出し、シーツの上に撒(ま)く。全員位置につく。よく訓練された芝居。悲しく荘重な表情。アメデオ、木の鎧戸(よろいど)を閉め、通りに面した扉を閉める。自分の髪の毛に櫛を入れ、ベッドの足下に劇的なポーズを取る。アデライーデはロザリアを両手で握る。エッリコは通りへ通じる扉の傍に坐る。ジェンナロは半身を起して、時の来るのを待つ。長い間。)
 ジェンナロ(アメデオに。)必ず来るんだな?
 アメデオ 来ます。
(間。)
 ジェンナロ 全く、何て事だ。馬鹿な話だ。
 アメデオ 言ったでしょう? あいつ、ちゃんとパイプに火をつけたんだから。
 ジェンナロ 先週はこういう調子で、一時間半も待ったんだ。
 全員 黙って!
(間。)
 アデライーデ(しらけないようにと。)この間、整体の治療院に行ったのよ、そしたら・・・
(扉に大きなノックの音。)
 アメデオ 来たぞ。
 ジェンナロ 驚いたな。本当に来ることもあるのか。
 アマーリア さあ、横になって。(叫ぶ。)横になりなさいったら!
(ジェンナロ、ベッドの上に横になる。出来るだけ死体に見えるように。アデライーデ、目を天井に向け、お経を称える。パスカリーノとフランコ、尼が祈りを上げているような呟きを漏らす。他の者達は、啜り泣き。ノック、強くなる。エッリコ、扉を開ける。チアッパ警部と二人の私服の警官、登場。)
 チアッパ(通りにいる警官達に。)お前達は外で待っとれ。
(チアッパは、およそ五十。灰色の髪、単刀直入に切り込んで来る人物。鋭い目。自分の仕事を知っており、簡単には騙されない。一方で、ナポリでは大変重要なことだが、知らぬふりをする術もよく心得ている。部屋に入り、状況を察する。しかし、驚いた様子はない。帽子も脱がない。そういう主義である。)
 チアッパ いやいやいや。何だ、これは。家に死人が出たか? 全く法定伝染病か、これは。昨日一日で死者三人。今日ももうフルチェッラで二人出ている。蠅(はえ)みたいに死んで行くじゃないか。あ? (間。)よーし、分った。お前達の邪魔はしたくはない・・・(突然、拳(こぶし)で机をドンと叩き。)私の目が節穴だとでも思っているのか! 馬鹿にするな! 私の言っていることが分るな? それならよし。おい、横になっているラザラス、後脚で立つんだ。すぐ。今すぐにだ。起きないと、横になったまま手錠をかけるぞ。
 アマーリア 警部さん、お願いです。うちの人は夜中に亡くなったのです。三時三十五分に息をひきとったのです。
 チアッパ ほほう、三時三十五分にな? 具合よくその瞬間にストップウオッチがあったもんだ。丁度三十五分とはな。あ?
 アメデオとマリーア(泣く。)ああ、パパ、パパ、パパ!(二人の「尼」、お経を呟き、アデライーデ、お祈りをしている。チアッパ、冷やかにこれらを眺める。)
 エッリコ あんな風に急に死ぬなんて、本当に立派な人でした。悲劇です。こんな死に方をするなんて。
 チアッパ 本当に立派な人だ? おい、立派な人! 起きるんだ。今すぐだ。おい!(反応なし。アデライーデ、祈りの声を大きくする。)よーし、ここには死骸がある訳だ。そうだな? そいつが蘇(よみがえ)るかどうか、ひとつやってみようじゃないか。(意を決したように、ジェンナロに近づく。)
 アマーリア いいえ、警部さん。それはいけません。いいえ、いいえ。(チアッパに躍り掛かり、両膝を掴まえ、わあわあ泣きわめく。大芝居。勿論ナポリの女として自然に出てくるものでもあるが、ばれそうになって、本気で怖くなったためでもある。)ああ、警部さん、私達はそんな、人を騙すような人間じゃありません。うちの人は・・・ああ、神様、どうかあの人の魂をお救い下さい・・・亡くなったのです。こんなことで芝居をするなんて、そんなことをする私達じゃありません。誰かが嘘を言ったんです。私達を陥(おとしい)れようと、誰かが嘘を言いひろめたんです。そうです。きっとそうです。私達は貧しい、行いの正しい人間なんです。正直に暮らしをたてている人間なんです。(アマーリア、立ち上る。今や、この場を支配する人間。大芝居をうつ。)あなたにはこの家族の苦しみが分らないのですか。この二人の子供を見て下さい。父親を失って、嘆き悲しんでいるではありませんか。警部さん、あなたはこれを見ても哀れを催(もよお)さないというのですか。これを見て可哀相だと思わないのなら仕方がありません。私達を襲ったこの悲劇にも、当然哀れみなどないでしょう。いいです。どうぞおやりなさい。さあ、さあ、おやりなさい。死体に触って、納得すればいいんです。さあ触りなさい、死体に。破門が怖くなけりゃ、神を冒す罪をやればいいんです。(チアッパ、躊躇う。アマーリア、強引に触らせようとする。)さあ、警部さん、触るんです。
 チアッパ わざわざ私が触ることはない。死んだというのなら、それでいいじゃないか。仏さんを私は生前知っているわけじゃないんだからな。
 マリーア(泣きながら。)死んじゃったんですよ、警部さん。パパは死んじゃったんです。
 エッリコ あんな風に逝ってしまうなんて。まだ働き盛りで、みんなに愛されて、尊敬されていたのに・・・
 チアッパ 全く呆れたもんだ。冗談を通り越している、こいつは。よし、分った。みんなこの私に、これが死体だと信じて貰いたいんだな。分った。信じることにしよう。信じるだけじゃない。こうなったら、私も諸君の友達だ。友達の誼(よし)みで死体との別れを諸君と共に付合おう。諸君と一緒にここに坐って、死体がここから担ぎ出されるまで、お伽(とぎ)をしよう。いいな? それなら満足だろう。
(チアッパ、椅子を引いてきて坐る。他の者達困って、顔を見合わせる。尼達は、お経の声を大きくする。アデライーデ、再びお祈りの声を上げる。横目でチアッパを見ながら。)
 アデライーデ 神様、神様、どうかその御手の中にこの人を、ああ、神様、どうか私どもの願いをお聞き入れ下さい。私どもの悲しみを哀れと思し召し、神様のその強い力で、お恵みをお現し下さい。
(突然遠くに、空襲警報のサイレンが鳴る。続いて通りで、人々の声。部屋の中の全員、どうしようかと顔を見合わす。外の騒ぎが大きくなるにつれて、二人の尼の声も大きくなる。)
 外の声 子供達はどこだ!・・・押すなったら。押すんじゃない!・・・慌てるな。おい、慌てるなと言ってるだろう。・・・急げ、急げ!・・・早くそこの防空壕を開けるんだ。早く開けろ。・・・えっ? 犬を連れて来るのを忘れた? 何度言ったら分るんだ。必ず犬を連れて来いと言ってあるだろう?
 アマーリア 警部さん、この近くにいい防空壕があるんです。行きましょう。私達、やせ我慢したってしようがないわ。
 チアッパ(落ち着いて。煙草に火をつけて。)私に心配することはない。あんた方は防空壕に行けばいい。あんた方の代りに私が死体を見ることにしよう。ここに一人で置いておくのは罪なんじゃないのか?
(これを聞いて二人の尼、ぱっと立ち上る。扉へ殺到する。女の声を出しながら。)
 フランコ こんなところにグズグズしてはいられないわ。外でやらなくちゃならない仕事があるもの。
 パスカリーノ そうよ、そうよ。待って。私も行くわ。
(二人が出て行く時、その後ろ姿を見て。)
 チアッパ おやおやおや、ズボンを履いた尼さんか。こういう光景を生きているうちに見られるとは思いもかけなかったな。(クスクス笑う。)ズボンを履いた尼さんね。(高射砲が火を吹き始める。)分ったよ。死体のおっさん。もう分った。やせ我慢は止めて、防空壕に入ろう。(ジェンナロ、ピクリともしない。)
 私服の警官一 警部殿、お願いです!
 チアッパ うるさい! 黙れ。お前らはいい。おしっこでズボンが濡れたなら出て行け!
(遠くで最初の爆弾が落ちる。アマーリア、真っ青になって二人の子供を両脇に抱えて壁にピッタリとくっつく。エッリコとアデライーデ、別の壁にピッタリとくっつく。)
 私服の警官二 警部殿、警部殿。もう我慢が出来ません。私は出ます。(走って退場。もう一人の警官もその後に続く。)
 チアッパ(落ち着きはらって。)近づいて来たぞ。ほーら、やって来た。やって来た。まづは機関銃だ。バリバリバリっとな。次が爆弾だ。ドカーンだ。
(爆弾が非常に近くに炸裂する。チアッパとジェンナロを除き、全員本能的に首を竦める。)
 チアッパ 凄いね、これは。冗談にしちゃ近過ぎだ、今のやつは。あの爆弾で、ここらへんの家がもつとは、到底思えないぞ。一発直撃を受けたら、ここにいる者みんな、粉々だ。よーし、来るぞ。今度こそここだぞ。
(爆撃、今回のが最大。爆発がそこいら中起り、爆風で鎧戸がガタガタ鳴る。チアッパ、じっと寝床の中で動かないジェンナロを見つめる。爆撃の音、収まって来る。時々思い出したように爆発音。それから沈黙。)
 チアッパ 参ったね。ピクリともしないか。本物の生きた死体だ。そこいら中爆弾が落っこっているのに、まばたきもしない。いや、恐れ入ったよ、お前さん。死体として身を捧げた人間、これは毎日見られるものじゃないぞ。いや、とても普通じゃ見られない。シャッポを脱いだよ、この私は。(立ち上り、ベッドに近づき、ジェンナロの足下に立つ。)おい、お前、起きろ。聞えるな? 立てと言っているのが分らんか。起きるんだ、今すぐ。(返事なし。一瞬、冷静さを失い、激しくベッドを揺さぶる。)お前、つんぼか。この馬鹿。起きろと言ったら、起きるんだ。
(ジェンナロ、いよいよ、全くの「死体」。チアッパ、ベッドの周りを歩き、マットレスの角を警棒で持ち上げて、中に隠されてある闇物資を見る。)
 チアッパ 驚いたね、これは。ちょっとやそっとの物じゃないぞ、この中は。これだけあれば、収穫祭のどんちゃん騒ぎだって出来るぞ。
(空襲警報解除のサイレン。暫くして外に街の人々の声。)
 声 やれやれ、やっと終ったか。・・・誰かお父さん、見なかった?・・・さあ、あんた、身体を洗って。埃だらけよ。・・・僕のスリッパ、どこに行った・・・ええっ? あの角の大きな家、やられちゃってるぞ。
(消防自動車の音。チアッパは、今や感嘆の目でジェンナロを見ている。)
 チアッパ よし、あんたにはこの私も脱帽だよ。本気で脱帽だ。よっぽど腹の坐った男らしい、あんたは。感服だ。感服したよ。分った。お前さんが死んだ男でないことも、ここには闇物資がうんとこさあって、ナチ突撃隊一連隊の一年分の食糧があるってこともちゃんと分った。だがなお前さん、私はあんたを逮捕はしない。私は死体に触るのが神の冒涜になるかどうか、それは知らない。しかし、これだけ腹の坐った男に触るのはそれこそ神への冒涜になることは、よく分っている。心配するな。私はあんたを逮捕はしない。(間。)しかしどうか、あんたが動くのを私に見せてくれ。私の望みはそれだけだ。・・・ちょっとでいい。この場所を捜索もしない。私は何も見ていない。これでいいな?(相変わらずジェンナロ、反応せず。)おーい、大抵に動くのを見せろよ。(反応なし。)私は何も見ていない。捜索もしない。名誉をかけて、これは誓う。
 ジェンナロ(パッと起き上がって。)その誓いの後で逮捕などしたら、お前は二枚舌の大嘘つきだぞ。
 チアッパ いや、誓いは誓いだ。破るようなことはしない。それからな、お前さん方みんなに知って貰いたいことはな、この私はぼんくらの、目が節穴の、大馬鹿野郎じゃないってことだ。
 ジェンナロ 私もだ、警部さん。私もそうじゃないんだ。
(チアッパ、微笑む。ジェンナロの背中を軽く叩く。それから扉の方へ進む。)
 チアッパ じゃ、諸君、私はこれで・・・(全員、ほっと一息。チアッパのまわりに集まり、口々に何か言い、また彼に触れる。チアッパ、満足そうに微笑む。)
 アマーリア 警部さん、コーヒー一杯如何ですか?
 チアッパ コーヒー? まあ、礼は言っておこう。しかし、もうここへ来る途中で飲んで来た。ここよりは半リラ安いやつを。だがこことは比べものにならない不味いやつをな。
(全員、チアッパを見送る。)
                  (幕)

     第 二 幕
(一九四四年。同じ部屋。)
(同じ部屋ではあるが、いろいろ変化がある。壁にはシクラメンの花の模様の壁紙。天井は白の化粧漆喰(しっくい)。金色の飾りあり。ジェンナロの組立て寝室は取り去られている。組立て寝室が寄せ掛けてあった壁は白いタイル張りとなり、大理石の棚あり。その上に巨大な光り輝くコーヒー沸かし器がのっている。部屋の家具は金ぴかでけばけばしい。ベッドの上のカバーは、贅沢な黄色の絹。道路を隔てて見える聖母マリアの社(やしろ)は、すっかり作り直されて、蝋燭の代りに火の色をした電灯になっている。)
(アマーリアも別人になっている。着飾っていて、一幕より数年若返っている。右手、高価な鏡の前に立ち、髪に触っている。絹の着物、それに合う靴とストッキング。高価な宝石。長いペンダント・イヤリング。話す言葉も、現在の高い地位に合った、洗練されたもの。但し、時々昔の悪い言葉の癖が出る。)
(外の通りから、以前と同じように、相変わらず大きな声が聞えてくる。但し、内容は、戦争が終り、暮らしがよくなったことが反映されている。)
 声 ヘーイ、アメリカさん! 兵隊さん! ガムおくれよ。ねえ・・・ああ、兵隊さんだ。煙草ある? 金出すよ。譲っておくれ・・・わあ、ストッキングだ。純ナイロン製だな。どっから手に入れたんだ。いくらだったら売るんだ?・・・ヘーイ、アメリカさん。兵隊さん。いい娘(こ)いるよ。逢うかい?
(アマーリア、オーデコロンの大きな壜を取り、手と首につける。それから部屋に撒く。)
(アッスンタが通りに現れる。アデライーデの姪。二十四歳ぐらい。開けっ広げの、少し足りない娘。物を言っている最中に、突然何の理由もなく、ヒステリックに笑うことがある。黒い喪服に、黒いイヤリング。アマーリアを見て家に入って来る。半分開いた包みを手に持っている。)
 アッスンタ ほら、見て、ドンナ・アマーリア。これ、明日(あした)のシチューのための肉よ。
 アマーリア(厭な時に入って来たな、という表情。)そうね、いい肉だわ。
 アッスンタ お宅でもどう? ドンナ・アマーリア。まだ手に入るわよ。一キロたった五百リラよ。
 アマーリア 有難う、アッスンタ。でも今日、家ではお客様があるの。今晩なのよ。
 アッスンタ ええ。すごいわ。ドン・エッリコが家まで来て、アデライーデ叔母さんと私を招待してくれたわ。だからもう、明日用の肉を買って来たの。
 アマーリア そう? じゃ、あんたとアデライーデ、今日来るのね? お客様が足りないなんてこと、ないわね? それじゃあ。
 アッスンタ ないわよ、それは。リトゥッチア、今日具合どう?
 アマーリア よくないのよ。顔色がどうも悪いわ。
 アッスンタ アデライーデ叔母さん、もう来て、リトゥッチアの世話してる?
 アマーリア ええ、今日来るように頼んでおいたの。すぐ傍に住んでくれてるって有難いわ。それにあの人、子供にとても優しいから。
 アッスンタ ええ。子供を扱うのがとても上手なの、叔母さんは。あの、声がいいのがとても得意なのね。それから・・・
 アマーリア あなた、もう家に帰った方がいいんじゃないの? アッスンタ。その肉、あまり外においてたら、いたんでしまうわよ。
 アッスンタ ああ、お肉ね。私馬鹿ね。すっかり忘れていた。じゃ、さよなら。
 アマーリア さようなら、アッスンタ。
(アッスンタ、通りへ退場。入れ替わりに、テレーザとマルゲリータ、登場。マリーアと同年配。厚化粧にケバケバしい服装。ぐらぐらするような高いヒールの靴に、短いスカート。)
 テレーザ 今日は、ドンナ・アマーリア。
 アマーリア 今日は。
 マルゲリータ マリーアはもう出られる?
 アマーリア 出られる恰好をしてたわね、さっき見た時は。(冷たく二人の服装を見る。)一張羅を着込んで来たのね、二人とも。今度はどこへお出かけ?
 テレーザ ちょっとそこらをブラつくだけよ。
 アマーリア そう。そこらをブラつくのは気をつけなくちゃね。マリーアにもしょっ中そう言ってるんだけど、あの子ちっとも聞こうとしない。煉瓦の壁に言っているようなもの。ところでね、あんた達、いつも噂に聞いているアメリカの曹長さんて、一体誰? どうして家にはやってこないの? どうして自分はこういう者だと姿を現さないの?
 テレーザ ちょっと恥かしがり家なの、あの人。でも、いい人よ。ホント。ホントにいい人。残念なのはね、あの人全くイタリア語が駄目なの。ここへ来ておばさんと話したりしたら、恥をかくって思ってるんじゃないかな。
 アマーリア(冷たく。)そう。
 マルゲリータ あの人のこと、怪しんだりしちゃ駄目よ、ドンナ・アマーリア。書類なんかいっぱい送らなきゃならないのよ。そして、大統領直々に許可を取らなきゃ駄目なの、結婚するには。その許可さえ来れば、ここに飛んで来るわよ、あの人。マリーアとの結婚を許して貰おうと、おばさんのところへ。そうよ。あの人、そういうこと、ホントにきちん、きちんとやる人なんだから。
 アマーリア ああそう。そうなの。
 テレーザ そうよ。だから、心配しないでいいのよ。ドンナ・アマーリア。おばさん、いつだって私達に用心しろ、用心しろって言うけど、そんなんじゃないのよ、本当に。あの人達、物の見方が私達とは違うの。道の真ん中で女の子に腕を廻して歩いたって、全然たいしたことじゃないのよ。それは・・・そう、それはただ、仲がいいっていうだけのことなのよ。
 アマーリア じゃ、仲のいい兵隊同士なら、腕を廻して歩くのかね。見たことがないわね、そんな姿。女の子とだけでしょう? それがあんたの言う「物の見方の違い」ってやつかね。
 テレーザ 勿論そうよ、ドンナ・アマーリア。勿論そうよ。ほんと。物の見方。私達とはすっかり違うんだから。堅苦しくないのよ。気楽なのね。・・・どう言えばいいのかな・・・自由で、気まま。とにかくマリーアはうまくやったわ。二人は結婚して、アメリカに行くのよ。だけど、あの曹長さん、最初は私が好きだったのよ。
 アマーリア そう。
 テレーザ そうよ。それからマリーアに会って、こっちの方が好きだって言ったの。そういうことは本当に正直なのね。あの人、まともに私の顔を見て言ったわ、「君の友達は君よりずっといいね」だって。随分正直でしょう? 次の夜、あの人、自分の友達を一人連れて来たの。その友達の人、その場で私を好きになっちゃったの。家に火がついちゃったようなものよ。私だってあの曹長さんより、その人が好きになったんだから。だって、もっといいもの。私、その人に言ったわ。「私、マルゲリータっていう友達がいるの。誰か捜してくれないかな、マルゲリータに」って。そしたらその人、また別の人を連れてきた。だから今、丁度うまくいってるの。三人の男に三人の女の子。
 マルゲリータ 私、あの人嫌い。肥り過ぎなんだもの。
 アマーリア そんなのちっとも問題じゃないでしょう? マリーアの相手にちょっと話しさえすれば、その人すぐにまた、別の人を捜してくれる。そういうのが好きなんでしょう? アメリカ人て。
(マリーア、自分の部屋から登場。他の二人と同様、けばけばしい服装。)
 アマーリア それでお前、今夜何時に帰って来るんだい?
 マリーア 分らないわ。用事がすんだら帰って来る。用事さえすんだらね。
 アマーリア(リトゥッチアの部屋へ行きながら。)お前、妹のことを構ってもやろうとしないのね。
 マリーア うん。ちょっと気になってる。
 アマーリア 勝手にフラフラ外に出歩いている時にも、少しは気にかけていてやらなきゃ駄目だよ。(リトゥッチアの部屋に退場。)
 テレーザ さあ、これで出られるわね?
 マリーア うん。だけど、どうしたのかな、あの曹長。これで一週間も会ってない。会う約束はするんだけど、いつも来やしない。
 テレーザ 今日は来るわよ。
 マリーア もう来なくっても、どうでもいい。結局私がいけないんだ。私が勝手に本気になって。もうあんな人、忘れなきゃ。でも、最後に一回会うの、悪くないんだけどな。最後の一回、忘れられない夜にしてやるんだけど。生涯忘れられない夜に。
 テレーザ 夕べ私、デートしたのよ。そしたら彼、あんたの曹長を今日必ず連れて来るって言ってたわ。
 マリーア 私、およそ分ってる。あの人、行っちゃったのよ。もう帰国しちゃって、二度と帰って来ないのよ。二、三日したら、あんたのも帰っちゃうわ、きっと。
 テレーザ まあいいわ、帰るなら帰るで。厄介払いよ。
 マルゲリータ 私、私のあの人、嫌い。肥り過ぎなんだもの。
 テレーザ あんた何よ、マルゲリータ。私達二人がこんなに困っているのに、あんたったら、自分のが肥り過ぎってことしか言わないのね。
 マルゲリータ そうよ。それに、禿げだしね。
(丁度女三人が出ようとするところへ、リトゥッチアの部屋からアマーリアとアデライーデ、登場。)
 アマーリア ああマリーア、さっきも言ったけど、今夜はちゃんと帰って来るのよ。分ってるね?
 マリーア 分ってる。帰れる時に帰って来るから。じゃみんな、行こう。(三人、通りに退場。)
 アデライーデ まあまあ、よく寝てたわね? リタ。可愛いったらありゃしない。幸せそうな寝顔! さっきより大分熱は下ったんじゃない? よくなってるわよ、ぐっと。
 アマーリア 子供はいつもあれ。熱が上ったと思ったらすぐ下ってみたり。本当のところなんて、分りはしない。
 アデライーデ そうよ。本当に分らないわね。そうそう、まだ他に私の出来ることがあるかしらね。遠慮しないで言って下さいよ。
 アマーリア 本当のことを言うと、アメデオのシャツに釦つけをやって貰いたいのよ。いいかしら?(縫い物の籠を持って来て、シャツと釦を差しだす。)籠の中に針と糸がありますからね。
 アデライーデ すぐやりますわ。力になれて嬉しいわ。
(アデライーデ、机について縫い物を始める。通りからフランコ登場。食糧の、色々な包みを運んでいる。その後ろに酒屋の男登場。長いゴムの管を下げ、肩に樽を担いでいる。ゴム管は樽から壜に詰めかえる時に使う。酒屋の男はすぐに流しに入る。)
 フランコ(酒屋の男に。)おい。いいな、お前。場所は分ってるな?(アマーリアに。)ドンナ・アマーリア、ドン・エッリコが奥さんによろしくって言ってました。これは最高のワインだからって。私は名前を忘れたんですがね。なんだか、目の玉が飛び出るほど高いもんです。
 アマーリア あの人がやるのはいつもそれ。最高のこと。あの人、目も効くし、趣味もいいからね。(流しに向って怒鳴る。)あんた! 何をやってるの! 壜はみんな綺麗に洗ってあるんだからね。それから、割るんじゃないよ、割るんじゃ。そんなことをしたら、背中をこの足で、どやしつけるよ。(フランコに。優しく。)何の話だったっけ?
 フランコ 奥さんに私は、一財産持って来ましたよ。ほら、この白いパン! 六斤(きん)ですよ。本物の小麦粉です。最高級の。それを近くのパン屋できっちり焼かせたんですからね。(パンを棚の上に置く。)それから、フルチェッロのテレズィーノから、煙草売りの委託を受けて来ました。(アメリカ煙草の厚紙の箱を手渡して。)それから、これを預かって来ました。読んでくれって。
(アマーリア、メモを受取る。引きだしの中に煙草を仕舞う。読むふりをするが、読めないのは明らか。)
 アマーリア このあかりじゃ読めやしない。ドンナ・アデライーデ、何て書いてあるの。
 アデライーデ いいですよ、あんた。任せて下さい。さあ、こっちに。(メモを受取る。読み難い。こちらの方は本当に光の具合。)
 フランコ ああ、そうそう、ドンナ・アデライーデ。あんたのとこのあの息子が今夜の料理に見つけて来た羊、立派なもんだ。あんただって驚くよ。全く王様の食卓に上げてもいいような、大きな羊なんだから。早速パン屋に焼いて貰うよう頼んでおいたんだ。七時半頃には取りに行くって言ってある。取りに行くものはそれだけじゃない。焼いたじゃがいもも、他の付け合わせもな。まあ請け合うよ、あんたにもドンナ・アマーリアにも。全く王様の食卓用だよ、あの羊は。
 アマーリア 嬉しいわ。愉しみだわね。さあアデライーデ、読めないんだったら、そこにただ坐っていないで。紙の方で読んでくれるってわけには行かないんだからね。
 アデライーデ 違うのよ、それは。右目・・・私の右目が少し変なの。ぼんやりしちゃって・・・それにこれは鉛筆で書いてあるし、インキじゃないの。鉛筆なのよ。分るでしょう?
 フランコ 私はちょっと流しの方に行って酒屋に手を貸して来よう。(退場。)
 アデライーデ ああ、これでいい。これで読めるわ。光の具合なのよ、いつでも。光がちゃんと当たれば・・・
 アマーリア じゃ早く。何て書いてあるの?
 アデライーデ 分ったわ。(読む。)「親愛なるドンナ・アマーリア。例のアメリカの曹長から手に入れた煙草を送ります。前回の時より一箱十リラ値上がりです。その人に私、言ったんです、「あんた、一体どっちの味方なの? 私はこっちの味方だと思っていたけどね」って。「欲しけりゃ、今言った値段だ。いやなら止めるんだね」って言われてしまって。」
 アマーリア 全く、いつだってあの馬鹿、大騒ぎをして。ほんとに馬鹿ったらありゃしない。で、アデライーデ、次には何て書いてあるの?
 アデライーデ エーと、どこまで行ったかな。ああ、ここだ。(読む。)「で、どうしましょう。続けるか、ここらですっぱり縁を切るか。お客さん達には一日二日、煙草なしで我慢して貰って、その後一斉に同じ値段で売りだすことにしたいのです。よろしく。追伸。軍用毛布と毛のマフラーは、そちらではいくらで売っているかお知らせ下さい。寒い季節が近づき、値を上げる必要があるからです。それから冬に備えてトマトピューレも貯えておいた方がいいです。」
 アマーリア そんなことは終っているよ、とっくに。
(通りからアッスンタ登場。)
 アッスンタ アデライーデ叔母さん、じゃがいもは全部むいたけど、あれでいいのかな。ちょっと見てみて。
 アデライーデ(立ち上りながら。)じゃあ、ドンナ・アマーリア、この縫い物、ちょっとこのままにしておきますからね。また何かあったら呼んで下さいよ。
 アマーリア リトゥッチアが目を覚ましたら・・・
 アッスンタ ああ、それは私がやりますわ。任せて。あの子についていてやるの、楽しいの、私。
 アデライーデ いい子ね。じゃあ、お願いよ。ね? いい子でしょう? この子、ドンナ・アマーリア。食べてしまいたいぐらい可愛いの、この子。じゃあね、バーイ。(退場。)
 アッスンタ(躊躇いながら。)ねえ、ドンナ・アマーリア・・・
 アマーリア なに?
 アッスンタ 私、聞きたいことがあって・・・それは・・・あ、何ていい香り。おばさんの服から匂うの? これ。いい匂いだわ。(化粧台へ行き、沢山の壜を見る。)ああ、私、こういうの大好き。こういうの、トワレトリって言うんでしょう?(オーデコロンの壜を取り上げる。)これねきっと、今匂ってるの。何て大きな壜。それに綺麗な壜ね。ドン・エッリコに買って貰ったの? これ。
 アマーリア いいえ、自分で買ったのよ。自分のお金でね。ドン・エッリコに何の関係があるの?
 アッスンタ 関係って・・・私、分らないけど・・・エーと・・・みんな話してるから・・・ね? みんな話してるの・・・だから・・・ね?(ゲラゲラっと笑う。)
 アマーリア みんな何を話してるって言うの。さあ、みんなが話していることを言ってご覧なさい。さ、何を話してるいのか。言うの!
 アッスンタ 何も。本当よ。私だけ、言ってるのは。いつも私、足を突っ込んじゃうの。本当よ。アデライーデ叔母さんに、だから、いつでも叱られちゃう。言っちゃいけないことを言っちゃいけないんだって。私、お喋りが過ぎるのよ。私の言うこと、気にしないで。ほっといて。私、いつだってこうなんだから。ちょっと口が軽過ぎるの、私って。(ゲラゲラ笑いがだんだん強くなって、ヒステリックに笑い出す。)まあ、私ったら、いつもこれ。何でもないのに笑いが止まらなくなっちゃうの。
 アマーリア どうして?
 アッスンタ まあ、そんなこと言わないで。どうしたらいいか分らなくなっちゃうわ。まあ、本当に私、笑ったりして。私、どうかしちゃったんだわ、本当に。
 アマーリア アッスンタ、言っておきますけどね、あんたには時々どうしようもない。処置なしって感じることがあるのよ。
 アッスンタ ええ、分ってます。すみません。どうしようもなくなってしまって。私、誰かれ構わずこれをやってしまうの。私、どこか身体に悪いところがあるんじゃないかしら。(笑いを必死になってこらえる。やっと抑えることが出来て。)ほーら、これで終った。指切りげんまん。これでお仕舞。ね?・・・そう。さっきおばさんに聞こうと思ってたことね・・・私、アデライーデ叔母さんにも聞こうと思っていたの。でも私より知らないでしょう? あの叔母さん。だからドンナ・アマーリア、おばさんに聞けば大丈夫だって。おばさん、ここいらで有名な人なんでしょう? だから・・・
 アマーリア だから何なの。早く言ってしまいなさい。
 アッスンタ ええ。私、知りたいの。私、処女なのかしら。
 アマーリア そんなこと、どうして私が分るっていうの?
 アッスンタ ええ、ええ。私、その・・・私、結婚式を上げたの。代理を立てて。
 アマーリア 何ですって?
 アッスンタ エルネスト・サンタフェーテと。一九四一年三月二十四日に。エルネストは陸軍の兵隊なの。ね? まあ、おばさんのこの着物、素敵ね。新しく作ったの?
 アマーリア そうよ。昨日は仕立屋がちゃんとやって来て、それから仕上がったばかり。それで、その続きは?
 アッスンタ ええ、婚約している時に、もうあの人、北アフリカに行かなくちゃならなくなったの。結婚式を上げた時、あの人はいなかった。それから暫くして、二週間の休暇を貰って、あの人帰って来たわ。でも、ちゃんとした夫と妻っていうんじゃないの。私達二人用にって、とてもいい部屋を用意してくれたわ。本当に素晴らしい部屋。アデライーデ叔母さんが特別にシーツも。私達二人が・・・二人だけで・・・エーと、二人だけになれるようにって。ロマンチックだったわ。私はお人形さんみたいに着物を着せられて。それに香水も部屋中に振りかけて・・・それから・・・(空襲のサイレンの音を真似る。)・・・だから、私達、何にもする時間がなくって、防空壕に飛び込んだの。それから十四日間、ずっと防空壕。あの人は十四日たったら戦場へ帰って行ったわ。それから私、あの人のこと何も聞いたことがない。正確に言うと、これは嘘。一度だけ消息を聞いたことはあるの。でも、私宛のあの人の手紙っていうんじゃないの。結婚して新しく従兄弟になって、私の友達になった、その頃ローマにいた男の人がいるんだけど、その人がばったり、私の知っている年取った女の人と出あって、その女の人がローマからナポリへ・・・
 アマーリア 分った分った。そこはいいから。その消息って、どういう消息だったの?
 アッスンタ たいしたことが書いてあった訳じゃないの。その年取った女の人の話だと、あの人は敵の捕虜になったんだって。それからあの人の友達っていう人が来て、あの人は戦場で死んだって。それからまた別の人が来て・・・だから私は聞きたいのは・・・ねえ、ドンナ・アマーリア、私、処女なの? 処女じゃないの?
 アマーリア 勿論あんた、処女よ。あんた、旦那さんとちゃんと二人で寝たことがないんだから。でも、あの人が生きているか、死んでいるのかはっきりしない限り、あんたはまだ、あの人の妻。結婚している女なの。
 アッスンタ ああ、そう。
 アマーリア あんたは結婚をしようと思っても出来ないわ。あんたの聞きたいことが、もしそのことなら。
 アッスンタ いいえ、そんなことが聞きたいんじゃないの。私、結婚なんかしたくないもの。そんな気ないわ。誇りがあるの、私には。(首にかけていたロケットの、自分の夫の写真を見せて。)だから私、いつも喪の服を着ているの。勿論誰か来て、あの人が生きているって話した時は別よ。その時には別の服にする。また誰か来てあの人がもう死んでるって言う。そしたらまた喪の服。だからしょっ中喪服は脱いだり着たり、脱いだり着たり。目が廻っちゃう。馬鹿みたいなの、こんなこと。でも私、心のどこかではちゃんとしていたいって思うの。別に誰かに見せようっていうんじゃないのよ。どうせ私のことなんか、気にする人いないんだから。そうでしょう?
(通りからエッリコ登場。派手な明るいグレイの背広。ボタンホールには花。高価な帽子。明るい色のネクタイ。黄色の靴。指に巨大なダイヤモンドの指輪。この部屋が自分のものであるかのように、ゆっくりと入って来る。上機嫌。ナポリ中の女が自分に夢中、という自信。)
 エッリコ ドンナ・アマーリア! 僕ですよ。すべてあなたの僕ですよ。
 アマーリア あら、ドン・エッリコ。まあ、素敵な恰好。誕生日おめでとう。
 エッリコ 有難う。三十六ですよ、今日で。だいぶ年をくってきました。
 アッスンタ 三十六? くってるなんてとんでもないわ。男の盛りよ。歯が抜けてくるまで、まだまだあるわ。
 アマーリア(急いで。)あなた、もう少し早いんじゃないかと思っていたのに。
 エッリコ もっと早く来るつもりだったんですよ。そうそう、大きな薔薇の花束、今朝送って下さった・・・すみません、本当に。それから勿論、今日の誕生日のために色々お世話をおかけして。この家を使わせて貰ったり、他にも準備が・・・
 アマーリア 全然お世話なんか、ドン・エッリコ。誕生日をあなた一人だけで祝うなんて、そんな話はないもの。うちの家族と一緒に、うちの一員として祝わなくちゃ。
 エッリコ 嬉しいな、アマーリア。でも、あなた自身が何も手を下すことはないんですよ。それは余計なんです。アメデオと僕二人で充分出来るんですから。あなたはただぼーっとしていればいいんです。(テーブルの椅子に坐る。)そう。僕はね、さっきも言ったけど、もっと早く来るつもりだったんですよ。でも、うまくいかなくて。トラック数台分の荷物をカラブリアへ運ばせる仕事があって。こいつが僕の監督なしだと、奇妙な具合に物がなくなるんで、出発を見届けたんです。こんな下らない仕事で半日つぶれちまうんですからね。フォームに必要事項を埋めたり、事務員の連中とうまく話を合わせたり、(袖の下を使う手まね。)分るでしょう? いつものやつですよ。やれやれ、全く手間のかかる話です。書類が出来るまで時間があったので、その隙に宝石屋をちょっと覗いて来ましてね。ちょっと後で(アッスンタの方を顎で指して「邪魔がなくなった時」と合図。)・・・お話しますよ。それからやっと全部終って、それからここに着いたんです。アメデオはまだですか?
 アマーリア まだなのよ。朝一番で出たのに、まだ帰って来ない。
 エッリコ フンフン、まだですか。よしよし。(アッスンタに。)ああ、お前、家に帰らなくていいのか?
(アッスンタ、何と答えたらよいか、困る。)
 アマーリア リトゥッチアをみてくれているの。あの子が目が覚めたら。
 エッリコ ああ。それで、今日はどう? リトゥッチア。
 アッスンタ 昨日よりはちょっといいわ。私、もういいんだったら帰るわ。あんたがうちに帰って来たんだったら、私、もういらないのね? 丁度二人揃って・・・ねえ、そうねえ・・・二人で・・・まあ私、私、まただわ。またよ。(また急にゲラゲラ笑い出す。)
 アマーリア お前さん、また? またやりだすのかい? 仕様がないわね。
 アッスンタ ええ、ええ。駄目なの。止まらないの。私、どうなっちゃったの? 私の欠点、これ。発作ね、発作・・・何の理由もなくって笑うの。誰も信じないけど・・・本当なの・・・ご免なさい・・・本当・・・許して・・・もう行かなくちゃ。(通りに退場。出てもまだ笑い声聞える。)
 エッリコ 何か一本、ネジか何か抜けているんじゃないか、あいつ。
(流しからフランコ登場。その後から酒屋の男、肩に空の大壜を抱えて登場。)
 フランコ よーし、全部壜に入れたな。これで終りなんだな?
 エッリコ(酒屋の男に渡すようにと、フランコに紙幣を渡して。)さあ、あいつにやってくれ。
 フランコ(酒屋の男にそれを渡す。)この紳士にお礼を言うんだ。
(酒屋の男、盛んにペコペコ頭を下げ、通りに退場。)
 フランコ 唖なんでさあ、あいつは。可哀相に。他にまだ何かありますか?
 エッリコ いや。ない。外でブラブラしていてくれ。用があったら呼ぶ。
 フランコ 分りました、親分。(通りへ退場。)
 エッリコ アマーリア、アマーリア、やっと、やっと二人だけに・・・
(ペッペとフェデリーコ、通りから登場。活発な会話。)
 ペッペ それはないぜ、おい。
 フェデリーコ どうしたっていうんだ、一体。小切手を書くって言ってるじゃないか、今すぐにでも。
 ペッペ 書く書くって言うがな、二十三万リラでなきゃ駄目だって言ってるんだ。それよりビタ一文安くても受取らないからな。
 フェデリーコ 馬鹿なことばかり言いやがって。(アマーリアに。)コーヒー二杯、ドンナ・アマーリア。(アマーリア、用意を始める。)ああ、エッリコ! どうだ? 調子は。
 エッリコ 最高だったな、お前が来るまでは。
 ペッペ そうなんですよ。この野郎、全く疫病神なんで。いいか、おい。この取引だがな、ちゃんとした金が払えないんなら、御破算だ。これはなかったものと思うんだな。
 フェデリーコ だけどタイヤ、たった五個なんだぞ。
 ペッペ 九個だ。五個じゃない。ま新しい奴だ。工場からチョクで来た奴だぞ。ひっかき傷一つありはしない。まだ使ってないんだ、全然。お前がその値打ちを知らないんなら、このエッリコに訊いてみろよ。エッリコはよーく知っているんだ。
 フェデリーコ いいかおい、ペッペ。この話は俺とお前の二人の話だ。他の人間に助けを借りて話をややこしくするのは真っ平だ。タイヤの値段はお互いよく分っている筈だぜ。
 エッリコ おいおい、何だい二人とも。えらいカリカリ来てるようじゃないか。二人で何とかいい所へ収めることは出来ないのか?
 ペッペ 丁度俺がそう言ってたところなんだよ、エッリコ。俺の言ってた通りがそれなんだ。そうだエッリコ、あのフィアットどうだった? いいだろう?
 エッリコ うん。走ってみたさ。今車庫に入れてある。しかし僕は七十万以上は出さないぜ。
 ペッペ 七十万! そいつはこちらからの言い値じゃないか。
 エッリコ それなら今日はお前のついてる日だ。そら!(札束を取出し、ペッペに渡す。)これである筈だ。
 ペッペ いやあ、違うなあ、偉い人は。何一つガタガタ言わずに、すぐ払ってくれる。どこかの誰かさんとは大違いだ。
 フェデリーコ 分った。分ったよ。(小切手帳を出し、書き始める。)二十三万リラと。即金だ。これでいいんだな? そうだ、あのジェンナロのおっさんがいたら・・・今いたら、何て言うだろうな。二言目には「御利益(ごりやく)のある宣言文」なんて言っていたがな。おっさん、本当に何て言うだろうな。
(アメデオ、通りから登場。これも一張羅姿。)
 アメデオ やあみんな、こんちわ。(箪笥の引きだしに進み、開けて、何かを捜す。あって、ほっとした様子。新聞に包んだ小さな包み。)やれやれ、なくしたかと思っていた。あってよかった。
(通りからリッカルド登場。落ちぶれた様子。痩せて顔が蒼い。貧しい服装。)
 リッカルド みなさん今日は。お邪魔ではないでしょうね。
(アマーリア、リッカルドを見て憤然とする。エッリコと目配せ。)
 アマーリア 今日は、ドン・リッカルド。何か御用?(リッカルド、アマーリアと一対一で話したいと合図。)ええ、いいわ。ちょっと待って。
 リッカルド ええ、いいです、勿論。待つのは一向に。どうぞ、そちらの用を片付けてから。
 ペッペ(アメデオに。)今晩話しに来ていいかな。
 アメデオ いいよ。客を呼んであるんだ、今日は。あんたも来たって構わないさ。
 ペッペ 俺は来るさ。俺も呼ばれてるんだ。
 アメデオ いいじゃないか、それなら。話はその時だ。
 ペッペ うん。だけど、ここでは駄目だな。(曖昧(あいまい)に。)今夜な、また仕事が入ったんだ。新品のタイヤ五個なんだ。
 アメデオ そいつは外で話そう。
 ペッペ うん。ドンナ・アマーリア、コーヒー代、これ。(金を手渡す。)煙草あるかな? ひょっとして。
 アマーリア ああ、丁度切らしてるわ。仕入れ屋がまだ来てなくて。
 ペッペ そうか。もう全部カウンターの下に入っちまったってわけか。
 フェデリーコ まあそうなんだろうね。次の機会にするんだな。
 ペッペ じゃあ、二人とも出るか。
 フェデリーコ よしきた。アメデオ、お前はどうするんだ?
 エッリコ アメデオは残る。話があるんだ。
 ペッペ よし、じゃ今晩な。(フェデリーコに。)おい、じゃ、行こうぜ。(二人、話しながら通りに退場。)
 アマーリア さあ、ドン・リッカルド。話って何?
 リッカルド ここで以前交した契約のことなんですが・・・
 アメデオ(エッリコに。)じゃ、外にいます。何か用があったら呼んで下さい。(行こうとする。包みを思い出して。)おっと、金を忘れるところだったぞ。ここに三十万リラ入ってるんだからな。(リッカルドがいるところでこんなことを言うのは失策。)いや、勿論僕のものじゃない。
 アマーリア(この失策に怒って。)当たり前でしょう。三十万リラ! そんな大金が家にあってたまるもんですか。
 アメデオ それはそう。(リッカルドに。)僕の金じゃないんだ。他人のだ。そいつが僕に暫く預かっといてくれと。そいつのためにやってやっているんだ。さ、僕は行かなきゃ。(包みを取り、急いで通りに出る。)
 アマーリア じゃ、ドン・リッカルド、さっきの話、聞きましょう。
 リッカルド ええ。(躊躇った後、口を切る。)別に、私に権利があって言うわけじゃないんです、本当に。権利など何もないんです。ですけど、ドンナ・アマーリア、あなたの情けに縋(すが)ろうと・・・
(アマーリア、テーブルの椅子に坐る。半分背をリッカルドに向けて。興味なさそうに。エッリコも同様の動作。煙草を吸う。)
 リッカルド エーと、どうお話したら・・・。今からちょっと前、私、お金がなくなって、こちらに来ました。すると御親切に、私の持っているアパートのうちの一つを売ったらどうかと仰って下さって・・・興味を持つ方がいらっしゃるかも知れない。捜してやるからと。私の方は、もうどうしようもなくなっていて、仰って下さった通りに致しました。アパートをこちらで売って戴きました。それからまた暫くたちました。私の方は不運つづきで。私も職をなくし、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、二つ目のアパートも売らなくてはならなくなりました。ドンナ・アマーリア、あなたなんですね、二つともアパートをお買いになったのは。どうかあれがあなたに幸運をもたらしますように。これから先もずーっと、ずーっと、私、心からお祈り申し上げます。
 エッリコ うん、分った。それからは? ドン・リッカルド。
 リッカルド はい。ところがこちらはいよいよ運が悪く、どんどん左前になって、到頭私共が現在住んでいる家を抵当に、四万リラをお借りすることになりました。私はお貸し下さったことに対して本当に感謝しております。この四万リラを六箇月以内にお返し致しますからと、契約書にサインしてお借りした時は、本当に有難かったのです。でも、御存知の通り、その期限は三週間前に過ぎてしまいました。それで・・・それで・・・(急に必死に、縋るように。)ドンナ・アマーリア、あなたの弁護士から私は手紙を受取りました。四万リラに対する利息を払うこと、さもなければ、即刻アパートを立ち退くこと、と。ああ、ドンナ・アマーリア、あなたはまさか、たった四万リラのために私達をあの家から追い出し、路頭に迷わすおつもりではないでしょうね。まさか、そんな心ない仕打ちを・・・
 エッリコ うん。しかし、それは四万リラだけの話じゃすまなかった筈だぞ。契約ははっきりと、もしその四万リラが、期限までに返却されない場合は、ドンナ・アマーリアは優先的に、あと五十万リラを払うことにより、当該不動産を購入する権利を有する、と書いてある。これが私の理解だ。だから話は簡単だ。五十万リラ、今ここであんたに渡す。それを受取って、どこか他に住むところを捜すんだな。
 リッカルド どこか他に住むところを? 妻と三人の小さい子供を連れて? そんな無茶な話・・・
 エッリコ 無茶? じゃ、他にすることがあるとでも?
 リッカルド ほら、見て下さい。一万七百リラです。(ブリーフケースから金を出す。)上着二着に、冬のズボンを売ったんです。充分なお金じゃありません。でも、この頃こういうものを売っても、やっとこのぐらいで・・・これをドンナ・アマーリアに受取って戴いて・・・実は近いうちに入って来る金が、八万リラあるのです。ですから、ほんの二三日待って下されば、なんとかなるのです。
 アマーリア 話は分りました。でも、利息の期限は三週間前だったんですからね。
 リッカルド ドンナ・アマーリア、あの時まではどうしてもお金が出来なかったのです。どうか信じて下さい。本当に不可能だったのです。私の状況を分って下さいますね? ドンナ・アマーリア。私はお膝に縋って、お願いします。どうぞ、どうぞ、お願いです。(返事なし。身体が潰れてゆくように見える。あたかも独り言のように、次の台詞を言う。)家を引っ越す? ああ、そんなのは実現不可能な夢だ。昔は違った。昔だったら問題はなかった。昔は単純だった。もし家族が多くなって、家が小さくなったら、どこかいいところへ移ればよかった。どこへでも行けた。だって、ここはナポリだ。私達は曽祖父の時代からここに住み、心も魂もここにあった。だから、一つの土地から他の土地に移っても、何の問題もなかった。そう。ほんの少し前までは、夕方ちょっと散歩に出る、他の人達と会う、その人達も穏やかで、静かで、お互いに挨拶を交し、微笑みあって、お喋りもした。あの頃は「ナポリは一つだ」・・・そういう気持だった。同じ興味を持ち、同じ心を持ち、お互いの気持をいたわり、苦しみを分かち合う・・・そう。あの頃は店のショーウインドウを見て歩き、何も買わなくても楽しかった。買えないものがあっても、羨む気持はなく、残念でもなかった。「ああ、あれはいいな。お金を貯めて今度買おう」、そう思ったものだった。今はどうだ? 家を移る? どこに? 安全だと思える場所は今いる所しかない、こんな時代には。今じゃ、一歩自分の家を踏み出して外に出ると、もうそこは外国だ。ああ、昔・・・昔はよかった。・・・昔は・・・
 エッリコ なあ、ドン・リッカルド。私はそこまで行けば関係のない人間だ。直接関与している人はドンナ・アマーリアだ。この人に訊くんだね。
 リッカルド ドンナ・アマーリア、お願いです。一万七百リラはここにあります。さしあたりの処置で、これを受取って下さい、どうか。これは私のためではありません。私の子供達のためです。子供達は餓えています。今・・・今の今、子供達は何も食べるものがないのです。
 アマーリア まあまあ、大演説でしたわね。本当に立派な演説。悲劇よ。涙の出る悲しい劇。でも、いいですか? ドン・リッカルド。最初あんたがここへ来て、アパートを売りたいと言った、そしてその売買が決まった時、あんたはうまい商売だと思ったんだ。買った当人がこの私だったって、それも分っていた筈よ。そう。二つとも私が買った。それを不満そうな口ぶりで言うなんて、どういうこと? あんた、お金を受取っていないとでも言うの?(ドン・リッカルドが何か言おうとするが、構わず続ける。)あんたの顔なんか、見ているだけでうんざりよ。蹴飛ばしてやりたいぐらい。私達だって餓えていたことがあった。でも、あんたのところへ物をねだりに行ったことがある? あんたのところへ泣き落としに行ったかしら。私の子供達が腹をすかしたことがないとでも、あんた言うの? とんでもない。いつだって腹をすかせてピーピー、ピーピー。その時あんたはどうしてた。私達が食うや食わずで必死に生きていた時・・・何でもいい、手に触るものがあればどんな屑でも食べていた時・・・あんたはいい仕事について、のうのうと暮していたんだ。悠々と、他人のことをあれこれ噂して、綺麗なショーウインドウを眺めて歩いて・・・あんたの顔を見ていると、反吐(へど)が出てくるよ、全く。あんたはね、こうなるのが厭だったら、ただ、金をもうけて、私に借りていた金を返せばすむことだったのさ。そうすりゃ、今の家だって、まだあんたのものだったんだ。もう今じゃ遅いよ。さっさと私の弁護士のところへ行って、五十万リラを受取って、家を立ち退くんだね。それとも、そんなによい思い出が残っていて、そこに続けて住みたいんなら、利息を払うんだ。利息さえ払えば、住むだけは住める。さ、どっちかにするんだ。決めるのはあんただ。私じゃない。分ったね? もう行くんだ。(通りへ通じる扉にリッカルドを押しやる。)さ、出て行け。出て行くんだ。
 リッカルド 分りました。もう御迷惑はおかけしません。お騒がせして申し訳ありません。すぐにどこかを捜します。明日あなたの弁護士のところへ・・・さようなら、ドンナ・アマーリア。(退場。)
 アマーリア さようなら。やーれやれ。これで厄介払い。厭になっちゃう、あの馬鹿。鈍いったらありゃしない。忘れましょう、あんな奴。そうそう、エッリコ、あんた、宝石屋に行ったって話してたわね。
 エッリコ そう。六箇月前に買ったダイヤモンド二つを、そいつのところへ持って行って、それに四十万リラを加えて、この二つを買ったんだ。綺麗だろう?(アマーリアにティシュー・ペーパーにくるんだ二つの石を見せる。)ほら、凄いだろう? おおよそ見積もっても、これで三百五十万リラの価値はある。
 アマーリア 綺麗だわ。
 エッリコ 中に傷がないんだ。(アマーリア、ちょっと外をうかがって、ベッドの傍の床のタイルを一枚剥がし、小さな袋を取り出す。その中に自分の貴重品がしまってある。)
 アマーリア 用心に越したことはないからね。(二つのダイアをその袋に入れ、元に戻す。タイルが床から飛び出ていないことを確かめる。)そうすると、あれは私のものね? あれ、二つともね?
 エッリコ 勿論。利益の、あんたの取り分ですよ。僕達二人の商売を長続きさせるためには、こういう風に物はやらなくちゃ。それに、「長続き」は商売だけのことを言っているんじゃないんだ。
 アマーリア エッリコ、あんた、私のあんたへの気持はよく分っているでしょう? あんたがそういう顔をして私を見る時、私、心臓が融(と)けてきて、足がガクガク震えて、ゆっくりと心に痛みが出てくるの。私、あんたが欲しいの。それはあんたが私のことを欲しいと思う気持と同じ。でも、どうすればいいの? 私達に何が出来るっていうの?(間。)ほら、私達、商売はうまく行っている。私が購入と販売を担当、あんたが運送を引き受けてくれている。凄いじゃない。二人で力を合わせて、大変な成功よ。だから、悪いことって分っていることをやって、それを駄目にするなんて、馬鹿なことよ。私には成人した、大人になった子供達がいるの、エッリコ。あの子達が何て言うか。それに、ジェンナロがいる。ジェンナロをどうすればいいって言うの?
 エッリコ ジェンナロ! だって、一年以上も何の便りもないんだろう? 僕はね、あんたにうるさく付き纏ったりしたくはない。だけど、もし生きていたら、何らかこちらに知らせる方法はある筈だよ。今自分がどこにいるかぐらい。必ずある筈だよ。現実的になろう。今のこの事実を見るんだ。空襲の朝、あの人は出て行った。そしてそれからこっち、何の便りもないんだ。それは確かに、ドイツ人に捕まって、そのまま捕虜になっているかもしれない。だけど、ドイツ人があの人に何の用があるって言うんだ。ここでだって、僕達はあの人に何の用もありはしなかった。邪魔だっただけだ。ドイツ人だって、あんな人に何か用がある訳がない。そうだよ、アーマ。あの人は道路で弾(たま)にあたって死んでいるんだ。そうでなければ、爆弾にやられて・・・いや、焼夷弾で焼け死んだのかもしれない。何が起っても不思議じゃないんだ。もう死んだ人なんだ。お六字さんだ。さようなら、ジェンナロ、お知りあいになれて幸せでした。では、これで・・・なんだよ。
 アマーリア じゃ、これはどうなの?(化粧台の引きだしから手紙を取る。)ジェンナロ宛になっているの。三日前に来たわ。何かジェンナロの事が書いてあるかもしれないと思って開けてみた。マリーアの説明では、つい最近まで、あの人とずーっと一緒だった人からの手紙だって。その人の近況と、ジェンナロへの挨拶が書いてあるの。あの人、きっとその人には、ここの住所を教えたのね。それもつい最近。あの人生きているのよ、エッリコ。きっとそう。どうしてここに連絡して来ないのかって・・・多分出来ない事情があるんだわ。生きているのよ。私、分る。ある日ひょっこりとここに現れるわ。ね? 必ずそうなる。あの扉から、ぼーっと入って来るわ。いつもの、足を引きずるような歩き方、それにあの少し猫背のあの姿で・・・分るの、私には分るの。
 エッリコ それで、あんたはそれが嬉しいんですか?
 アマーリア 分らない。その時の気持なんか、分りっこないわ。でも、あなたにこれだけは言っておくわ。あの人に決してこんなことは言わせませんからね。(ジェンナロの言い方を真似て。)「おい、アーマ、こいつは一体何のつもりだ。お前さんがこうこう、こういうことをやっても、私は何も文句は言わないよ。だけど、こうこう、こういうことをしたんじゃ、私だって文句を言うだろう?」
 エッリコ じゃ、それがあんたの答ってわけだ。
 アマーリア(言い方の真似に調子が出て。)「そりゃアーマ、ちょっと危ないね。危なさ過ぎだよ。やることにもう少し用心しなきゃあな、アーマ。これを注意するんだ、あれにも注意しなくちゃ。」
 エッリコ じゃ、それだけがあんた、気掛かりだって言うんですか?
 アマーリア それは他にもあるわ、気にかかることは。
 エッリコ あっても、僕のことは勘定に入らないって言うんですね?(アマーリア、もう本心を隠せない。ゆっくりと、官能的に、両腕を伸ばし、エッリコの身体に廻す。)
 アマーリア とんでもない、エッリコ。あなた当然、勘定に入っているわ。
(エッリコ、アマーリアを強く抱きしめ、熱い、情熱的なキス。長く続く。フランコ、通りからポケットを探りながら登場。流しの方に向う。二人に気付き、棒立ちになる。どうしていいか分らず、抜き足差し足、元に戻り、二人には背中を向けて、開いた扉の傍に立つ。コーヒーの客、通りから突然入って来ようとする。)
 客 おい、コーヒーあるか?
(フランコ、慌てて客の侵入を阻止し、扉をバタンと閉める。)
 フランコ(客の後ろから。)閉店だ、今は。あの角の店に行くんだ。(その間、エッリコとアマーリア、慌てて離れる。アマーリア、自分の部屋に退場。)
 エッリコ 何だ。何の用だ。
 フランコ マッチを流しに忘れて来まして。
 エッリコ フン、さっさと取って来い。
 フランコ いや、それほどたいした事じゃないんで・・・あ、分りました。行きます。取って来ます。
(フランコ、流しに退場。その時アメデオ、通りから登場。)
 アメデオ 何か僕に話があるって?
 エッリコ そうだ。大事な話だ。
 アメデオ 大事?
 エッリコ いいか、アメデオ、俺はな、お前さんよりはちっとは経験を積んでいる。俺は通りで育ったんだ。お前さんとはつくりが違う。
 アメデオ それで?
 エッリコ だからな、本を読むのも悪くはない。しかし、本が何もかもは教えちゃくれない。今やっているような話になりゃ、目をおっぴろげて、耳をよくすませて、全神経を緊張させて、人の話を聞いて、やっと分ってくるんだ。お前さんよりは経験をつんだ人間の話を聞いてな。だからいいか、俺の話をよく聞くんだ。いいか、耳の穴をかっぽじって、よく聞け。お前はな、今自分の墓穴を掘っているんだぞ。
 アメデオ 墓穴を掘ってる? 何のことですか。
 エッリコ お前、いつもペッペと一緒だな? あのペッペ・ジャッキと。
 アメデオ それがどうしたんです。
 エッリコ 全く、お前みたいなおねんねも珍しいぞ。まるで無垢の赤ん坊だ。どういうことがお前に起きているか、自分でも分っちゃいないんだろう。仕舞いにはお前、豚箱行きだぞ。
 アメデオ 豚箱?
 エッリコ ペッペの渾名(あだな)ジャッキっていうのが、どこから来たものか知らないのか。
 アメデオ(明らかに嘘を言って。)渾名? 知りませんね。
 エッリコ じゃ、教えてやろう。ペッペ・ザ・ジャッキ。どうしてかって言えばな。車がある。「こいつがかもだ」っと思えば、お前達相棒と一緒に、暗くなるまで待っている。時間が来ると、ペッペが車の下に潜り込んで、肩でこれを持ち上げる。ジャッキの役だ。そこでお前達がタイヤを外し、戴きって訳だ。
 アメデオ 僕が? タイヤを?(アマーリア、自分の部屋から服装を整えて登場。)
 エッリコ もうそろそろお前さんも、人生で気をつけなきゃならん事を、一つ二つ覚えておいた方がいい年頃だ。(アメデオの腕を取り、通りへ出る扉の方に連れて行き。)ドンナ・アマーリア、ちょっと二人で出て来ます。話があるので。
 アメデオ 誤解ですよ。僕ら、何にもしてやしませんよ。今の話のようなことは何も。
 エッリコ いいから来るんだ。さあ、早く。(二人、退場。その時マリーア登場。二人に何も言わない。何か悪いことがあったことが見てとれる。フランコ、流しから登場。部屋を横切って、通りへ退場。)
 アマーリア お前、早く帰って来たね。(マリーア、ブツブツと口ごもる。)で、何て言ったんだい。お前の婚約者の曹長さんは。
 マリーア 婚約者もないものよ。あの人、行っちゃったの。永久に。
 アマーリア(皮肉をこめて。)あらあら、まあまあ。それはショックだわね。また別の誰かを捜さなくちゃ。
 マリーア お母さんには関係ないわ。これは私の人生。お母さんの人生じゃない。私は自分の好きなように生きます。ほっといて頂戴。
 アマーリア まあまあ、私の可愛い天使様。私の可哀相な天使様。お前は覚悟を決めているのね。ついさっきまで来ていたのはアメリカさん。今度は何が来るのかしら。
 マリーア 厄介事よ、次に来るのは。
 アマーリア 厄介事? 何の厄介事よ。
 マリーア お母さんはもっと私のことに関心を持ってくれてもよかった筈じゃないの?
 アマーリア ええっ? お前、何を言っているんだい? 一体それはどういう意味?
 マリーア 友達と私が出かける時、私に何か注意でもしてくれた事がある? ありゃしないじゃないの。私が出て行くのを見て、嬉しがっただけじゃない。私がいないと都合がいいわって。私に何か言ってくれて本当だったのよ。何も言わないで、ただ商売、商売。年がら年中、お金をもうけて、札束を重ねて。そんなことばっかり考えて、私のことなんかてんで頭にないんだから。
 アマーリア よくもまあ、そんなところに突っ立って、厚かましく言えたものね、この私に! お前のことがてんで頭になかったって? 地面に這い蹲(つくば)ってお前にちゃんとした家、食事、着物、を与えようと、必死に働いてきたこの私に! あんたのことが、片時もこの頭から離れなかったこの私に向って、何てことを!
 マリーア 朝から晩まで商売、商売、商売。それでよく私のことが考えられたわ。そんな時間ある筈ないでしょう? それにエッリコのことも考えなきゃならないっていうのに。
 アマーリア エッリコがこれに何の関係があるっていうの! いいかい? マリーア。これはよーくそのお前の頭に入れておくんだ。エッリコは仕事の相棒なんだからね。それ以上じゃない。勿論それ以下でもない。あれはただ、仕事の相棒なんだ。分ったね?(マリーア、肩を竦める。)さあ、今度はお前の話だ、マリーア。お前のその厄介事の話だ。いつ始まったんだ。どこで始まったんだ。
 マリーア ここよ。
 アマーリア ここ?
 マリーア 夕方よ。お母さんはエッリコと出て行ったでしょう? ピカピカの車に乗って。あの人の家で食事をして、「仕事」の話をしてね。
 アマーリア 信じない。信じられない。ここで? この家で? お前したっていうの。淫売! 汚らわしい淫売よ、お前は。そこに突っ立って、偉そうに。厚かましいったらありゃしない。それで私のことをお前は言うのかい。呆れた女だよ。お前なんか、もう同じ屋根の下においてやるものか。このズベタ! お前なんかぶん殴って、叩きのめして・・・ええい、どうしてくれよう。
 マリーア どうでもすればいいでしょう。それに殴るんならエッリコに頼むのね。あいつにやらせりゃいいのよ。どうせそれぐらいやらせてもいいような間柄なんでしょう? 
 アマーリア このズベ公! よくも生意気に! ズベタ! 淫売!
 マリーア 私が淫売なら、あんただって淫売よ!
 アマーリア 何だって! 殺してやる。いいか! 私はお前を殺してやる!(マリーアの方に進む。マリーア、流しの方に駆け込んで退場。流しの方から乱闘の音が聞えてくる。と同時に通りから声が聞える。)
 声 帰って来た・・・帰って来たぞ、みんな。おーい、帰って来たんだ。・・・ドン・ジェンナロ、あんた今までどこにいたんです。・・・これは信じられないな。もうみんな、死んでるとばっかり。・・・そう、ドン・ジェンナロだよ、これは。ドン・ジェンナロだ。
 ジェンナロ(舞台裏で。)そう、私だ。帰って来たんだ。私はまだ生きていてね。(アデライーデ、通りから駆け込んで登場。)
 アデライーデ ドンナ・アーマ! アメデオ! マリーア! みんなどこにいるの? おーい、みんなどこなの。ドンナ・アーマ。
(アマーリア、流しから登場。)
 アマーリア 何、この騒ぎは。何があったっていうの?
 アデライーデ 旦那さんよ、あんたの。帰って来たのよ、ドン・ジェンナロが。
(ジェンナロ、通りから登場。何か茫然としている。ぼろぼろの服装。イタリア軍の歩兵帽、アメリカ軍のズボン、ドイツのカムフラージュ軍服、第一幕の時よりずっと痩せている。疲れ果てた状態。リュックを担いでいて、それにブリキ製の湯沸かしが結んである。)
 ジェンナロ(通りにいる人達に。)有難う、有難う。御親切にどうも。一段落したら、みんなお話しますから。ええ、ええ。暫くしたら、起きたこと全部お話しますよ。
(ジェンナロ、部屋を見てギョッとなる。立派な衣服を着ているアマーリアが、それと分らない。家を間違えたと思い、後ずさりする。)
 ジェンナロ これは失礼しました。お許し下さい。間違えてしまって・・・
 アデライーデ(引き戻しながら。)何を言ってるの、ドン・ジェンナロ。さあさあ、ここはあんたの家だよ。馬鹿だねえ。ほら見てご覧。あんたの家だ。それにあんたの奥さん。ほら、目の前にいるよ。(ジェンナロとアマーリア、言葉も出ず、互いに見つめ合う。)
 アマーリア(静かに、まだ自分の目を信じられず。)ジェンナ!
 ジェンナロ アーマ、アーマ。ああ、お前が分らなかったよ。・・・おお、アーマ、アーマ。長かったなあ。
(二人、抱きあう。涙の抱擁。)
 アマーリア ほら、来て。坐って。休んで。話して頂戴。今までどこに? 話して。
 ジェンナロ そうはいかないよ、アーマ。どこから話していいものか。起ったこと全部話す段になれば、この世の終りが来たって終りはしない。たった一年ちょっとのことだ。だけど、一生分の出来事だ。書き下すことだって、この世の終りが来たって終りやしない。しかしここには(自分の頭を叩いて。)ちゃんと入っているぞ。見れば見えるんだ、心の目で。ちゃーんとここに仕舞ってあるからな。しかし、どこから始めたらいいんだ。どうやって始めたら。(部屋を指して。)これはまた、何だ。この世のものじゃないぞ、これは。お前もそうだ。この家も、通りも、昔知っていた連中も。ああ、私には時間がいる。お前自身のこと、それに子供のこと・・・話してくれないか。どうしている、アメデオは。マリーアは。リトゥッチアは?
 アマーリア リトゥッチアはあまりよくないの。
 ジェンナロ よくない? どうしたんだ。
 アマーリア 何でもないわ。でも、ちょっと熱が出て。時々子供が外で拾って来るわね? あれなの。
 ジェンナロ 可哀相に。(リトゥッチアの部屋を指さし。)あっちにいるのか。
 アマーリア ええ。眠っているわ。(ジェンナロ、頷き、リトゥッチアの部屋へ退場。)
 アデライーデ 可哀相なドン・ジェンナロ。骨と皮だけ。見るだけで涙が出て来てしまう。本当よ。可哀相に。じゃ、私、行くわね、ドンナ・アマーリア。じゃがいもがそろそろ煮えてくる頃だし。じゃ、また後で。(通りに退場。その時、向かいのマドンナの像に向って。)ああ、聖マリア様、ドン・ジェンナロをあなた様の御手に。アーメン。
 アマーリア(流しのマリーアに呼び掛ける。)マリーア! 出て来なさい。お父さんが帰ったのよ。
(マリーア登場。目を拭きながら。髪を整えながら。)
 マリーア パパ?
 アマーリア そう。いいかい? しっかりするんだ。お父さんに言うんじゃないよ。一言も。あれを言っちゃ駄目だよ。今のあの人の状態だと、そんなことを聞いたら死んでしまうわ。
(アメデオ、通りから走って登場。)
 アメデオ 本当なの? みんながお父さんが帰って来たと言ってるけど。
(ジェンナロ、リトゥッチアの部屋から登場。)
 ジェンナロ どうもいけないね、リトゥッチアは。ひどく悪そうだ、アーマ。あの息の仕方、あれはよくない。私は心配だ。・・・(アメデオに気付く。)アメデオ!
 アメデオ パパ!(二人抱きあう。)
 ジェンナロ ああ、アメデオ。夢のようだ、これは。
 アメデオ パパ、僕、会えて嬉しいよ。
(ジェンナロ、隅に一人で立っているマリーアに気付く。)
 ジェンナロ マリーア、私だよ。お前のパパだよ。私は帰って来たんだ。(マリーア、ジェンナロに駆け寄る。ジェンナロ、二人の子供を抱える。)ああ、凄かったんだ。本当に凄かった。後で話すよ。全部話して聞かせるよ。(二人を放す。部屋を歩き始める。造作の変ったところを一つ一つ確かめて。)私のあの部屋は? あの部屋はどうしたんだ。
 アマーリア あなたがいらっしゃらないので・・・
 ジェンナロ それはそうだ。私はここにいなかった。ああ、しかし、私の部屋・・・お前、どっかへ行っちまったんだな?(また別の場所へ行き、歩き廻りながら。)フーム、これは随分綺麗にしたものだ。私がいない間にな・・・これは綺麗だ。
 アメデオ パパ、パパ、僕らは知りたくってうずうずしているんだよ、パパ。今までどこにいたの? こんなに遅くまで。
 ジェンナロ どこにいたって? こっちも知りたいぐらいだ、どこから始めたものか。私も混乱して、どうかなっているぞ。さ、まあ、みんな坐ることにしよう。
(全員坐る。ジェンナロが口を切るのを待つ。ジェンナロ、考えを纏めようとしている。)
 ジェンナロ 海岸に沿った家に避難命令が出た、あの日のことを覚えているな? 一時間半だけを与える。その後は家はすべて開ける事。覚えているな? 荷物、スーツケース、子供、を抱えた何百人、何千人の行列だ。
 アマーリア ええ、覚えていますとも、ジェンナロ。
 ジェンナロ 私はその行列に巻き込まれてしまった。私はフラッタ・マッジオーレに買い出しに行って、その帰りだったんだ。十キロのじゃがいも、それに四キロのパンを担いでいた。あそこがどんなに遠いか知ってるな? 買って来たものも捨てたい気分だった。その時突然、敵が艦砲射撃をしてくるという噂がどこからともなく出て来た。「防空壕だ。」「急げ、防空壕に行くんだ。アメリカ軍が攻撃して来るぞ。」私がまづ最初に考えたのはアーマ、お前のことだった。それから子供達のこと。艦砲射撃? 糞っ、どうすればいいんだ。防空壕? そんなものが役に立つか! 爆弾はどこにでも落ちて来るんだ。海からでも、空からでも、地面からでも・・・地雷があるだろう? だから地面からでもだ。私は何が何でも家に帰りたかった。だから十四キロのじゃがいもとパンを担いで、よろよろと進んだ。すると敵の攻撃が始まった。あらゆるところに弾が落ちた。あたりは地獄だ。弾はどこからでも飛んで来る。屋根からも、窓からも、地下室からも。人々は走る。命が惜しいんだ。すると機関銃だ。ドイツ兵だ。そこいら中死体だ。その真っただ中で私は・・・そう、私は真っ逆さまに落ちたのだ。パンもじゃがいももそこいら中に散らばった。私は頭を打った。これがその時のやつだ。(頭を見せる。切れていて、髪がそこにはない。)両手にはいっぱい血がついていて、撃ち合いの音が聞えた。それから私は意識を失った。じゃがいもがあれからどうなったのか、私には分らない。意識が戻った時、私は窒息するのではないかと思った。人々が何か叫んで、金切り声を上げている。私は動こうとした。しかし、動けない。両足がそこにあるのは分っていた。しかし、何も感じない。防空壕にいて、爆弾が落ちた時、運よく堅い石の下にいたのかも知れない。だけど、防空壕? 一体ここは防空壕なのか? すると突然遠くに汽車のガタン、ゴトンという音が聞えてきた。遠くの方からだった。その音はだんだんと大きくなって、地面が揺れてきた。私は目を閉じて、また音に耳をすました。本当に汽車なんだろうか。車輪のカタンカタンという音も聞えてきた。やっぱり汽車だ。ここは防空壕じゃなかったんだ。私は汽車の中にいたんだ。見ると電気もある。それがついたり消えたりしている。これがどのくらい続いたろう。私には分らない。それから静かになった。少し身体が動かせるようになった。場所が空いたんだ。あたりが明るくなり、再び息がつけるようになった。人が動いていた。車両から降りているところだ。私も連中と一緒に降りた。それがどこだったろう。分る筈もない。誰かが私の傷の手当てをしてくれた。救急箱から、何か取り出して、ちょっとやっただけだが。それから二日後、ドイツの軍曹が私のところにやって来て訊いた。お前の仕事は何だ。私は考えた。正直に市電の運転手だなどと言ってみろ、すぐこう言うに決まっている。ここには市電なんかないぞ。お前なんぞ、ここではいらない人間だ。(銃を構える真似。)タッタッタッタ! さようなら、ジェンナロ。はい、これで一丁上り。そうなっちゃたまらない。私は胸の筋肉が見えるよう、背中を伸ばして言った。「私は労働者です。私は石を運ぶ仕事をしていました」とな。それで石運びさ。全く笑い事じゃなかったんだ。そして、食う物はなし、飲むものはなしさ。五分おきに空襲だ。どうやらこのドイツの軍曹の奴、私のことが気に入ったらしいんだ。しょっ中私のところへ話にやって来る。何、一言も分りはしない。適当に見当をつけて、「はい」とか「いいえ」だけ相づちを打っておくんだ。これが三箇月続いた。それから、その中の幾人かで・・・全員ナポリ出身だったが・・・逃げ出したんだ。誰かが言った。「畜生、連中、撃ってくるぞ。」私は言った、「いいじゃないか、撃たせてやれ。どうせ死んだって、生きてるよりはましだ。」命どころの騒ぎじゃなかったんだ、アーマ。無我夢中だ。夜中に村から村へと移動した。乗っかれるものがあれば、何にでも便乗した。農業用荷車、荷物列車、何にでも。それから歩きだ。歩け、歩け、ただ歩け、だ。崩壊だ、アーマ。到る所、荒涼としている。あんな酷いものは見たことがない。一村全体がなくなっている。子供達は行き場がない。砲弾による破壊。死体が到るところに散らばっている。敵の死体、味方の死体。あんなに沢山の死体を、私は見たことがない。死ぬと、人は同じように見えるものだ。私はもう昔の私とは違う。その光景が私に何かをしたんだ。お前、前の時のことを覚えているか? 第一次大戦中、私はずっと戦争に出ていた。そして家に帰ってきた時、私は戦争のことが身体中に詰まっている気がした。戦争のことを喋らずにはいられなかった。私は気違いのようだった。身体中が怒りで燃えていて、誰かれ見境いなしに喧嘩を売った。しかし、今は違う。何だかよく分らないという気分だ。私は今五十二歳だ。今この年になって初めて、私は大人になったような気分だ。(自分の考えを纏めようと、また間。)戦争のお蔭で、他人を虐(いじ)めようとする気持がすっかりなくなった。ああ、アーマ、人を傷つけるのは止めなくちゃ。そうだ、誰だろうと、人を傷つけるのは止めよう。(涙が溢れてきて、途中で話を止める。)
 アマーリア その点に関しちゃ、任せといて、ジェンナロ。大丈夫よ、あなた。
 アメデオ パパ! パパ!
 ジェンナロ 何の話だった? どこまで行ったんだったか? そうだ、村から村へ、までだったな。そこで私は知りあいが出来た。使っていない厩(うまや)があって、二人でそこで暮したんだ。朝になると私が出かけて行って、働いて、夕方帰って来る。私はこの男が決して外には出て行かないことに気がついた。決してだ。そいつは、そのへんにあった材木を利用して、厩の隅っこに兎小屋のようなものを拵(こしら)えた。自分がそこで寝るんだ。夜中によく寝言を言った。「助けて、助けてくれ。俺を放っておいてくれ。」私は何度もその声で目が覚めた。その男、どうしたんだと思う? アーマ。そいつはユダヤ人だったんだ。
 アマーリア 可哀相に。
 ジェンナロ 知りあって二箇月くらいたって、ようやくそのことを私に話したんだ。夕方私はその厩に帰って来る。パンやチーズや果物や、その他手に入るものは何でも持って帰った。そして一緒に食事をするんだ。暫くすると、私達二人は本当に仲良くなった。何でも二人で分けた。しかし、どういう訳かその男は、私がドイツ兵に言い付けると信じているんだ。よく、私の顔を気違いそのものの目つきでじっと見たものだ。両目は充血して、顔色はシーツのように真っ蒼。恐怖で、いても立ってもいられないのだ。今でも目に見える。あの恐怖に戦(おのの)く顔! ある朝私を掴まえて、「おい、お前、俺のことをばらすんだな。」と金切り声を上げて叫ぶ。「俺はお前のことをばらしたりはしない。それなのに、どうして俺のことをばらすんだ!」それは恐ろしいことだったよ、アーマ。そいつにはもう、成人した子供もいるんだ。その子供達の写真を私に見せてくれたよ。その時のそいつの泣き方! そいつは白髪のいい人相をした男なんだ。それが、泣いて、泣いて・・・可哀相に。何て世の中になっちまったんだ、アーマ。どうしてこんなことに。これはただではすまないよ。いつかは、いつかは我々みんながその代償を負うようになるんだ。ああ、今でもその男が見えるようだ。私に頼んでいるあの姿。私は分らせようとした。「お前を突きだすようなことはしない。馬鹿な。一体私を何だと思っているんだ。」しかし駄目だった。どうしても納得してくれない。自分がいつか捕まる・・・このことしか頭にないんだ。だから納得して貰うには移動しかない。ある村からまた次の村。そしてある時、何の意味もなくただ村を変えるために、前線を横切って敵側に行った。そうしたらどうだ。兵隊の軍服が味方と敵と両方じゃないか。その時の嬉しかったこと! そいつと手を取り合って喜んだよ。それからは兄弟のようになって、私は自分の住所も教えた。「何かあった時にはな」と私は言ったんだ。「何かあったら。」
 アマーリア それでこの手紙の意味が分ったわ。(手紙を見せて。)この間届いたの。その人からの手紙だわ。(ジェンナロに渡す。)
 ジェンナロ そうそう、これは確かにあの男からの手紙だ。どうやらあいつも無事着いたらしいな。よかった。よかったよ。(読む。)「親愛なるジェンナロ、この手紙が着く頃には、君は奥さん、そして家族の人達と一緒だろうね。僕の心からの祝福を受けてくれ。」うん、あいつはこの言葉通り受取っていい。信用出来る男だよ。「君の奥さんも、君の子供達もきっと辛い生活を送っただろう。しかし、どんなに辛かろうと、君自身の苦労に恥じない立派な暮し方をしてきた筈だ。」
(全員、自分を振り返って、罪の意識。居心地悪そうな動きあり。)
 ジェンナロ(続けて読む。)「家族の皆さんが、どんなに君の不在中、心配していたとしても、君の帰宅で一挙(いっきょ)に埋め合わせたのではないだろうか。私は元気にやっている。」
 アメデオ(手紙がこれで全部終りなので、内心ほっとして。)パパ、随分大変だったんだね、今聞いた話からすると。
 ジェンナロ いやいや、まだ半分も話してはいないよ。半分どころか、表面を引っ掻いてもいないくらいだ。
 アメデオ うん。だけど、今じゃ、家に帰って、僕らと一緒にいるんだ。過ぎた事はもう二度と考えなくていいんだよ。
 ジェンナロ 二度と考えなくていい? 何てことを言うんだ、お前は。あんなに苦しかった一秒、一秒・・・それを私に忘れろと言うのか・・・
 アメデオ だってパパ、そんなの、みんな終ったことなんだよ。もっと気を楽に持って・・・
 ジェンナロ いや、それは違う。終っちゃいないんだ。お前は私が見てきたものを見ていないから分らないんだ。戦争は全然終っちゃいないんだ。
 アメデオ そんなに興奮しないで、パパ。今はもう心配することは何もないんだから。
 ジェンナロ そうかもしれない。お前の言う通りにな。とにかく私は生きている。私はまだ生きているんだ。ああ、私は何度、間一髪のところで命が助かってきたことか。そのうちの一つでも食らっていたら、今こうやって、見たり聞いたりはしていられなかった訳だ。(部屋を見回す。奇妙な顔。)全部新しい装飾品、全部新しい家具、マリーアはここだ。真新しい服を着ている。アメデオもここだ。パリッとしたなりをして。それからアーマだ。どこかの貴婦人みたいじゃないか。素晴らしい服に素晴らしい宝石。(近くに寄って見る。)ダイヤか? これは。驚いたな。ダイヤだぞ、これは。
 アマーリア ええ、まあ・・・ダイヤ・・・のような・・・ものね。(長い間。手に取って、ダイヤであることを確かめる。そして他の人達を見る。マリーア、目を逸らす。)
 ジェンナロ 何か私に言うことがあるんだろう? アーマ。
 アマーリア あなたに何を言うっていうの? ジェンナ。私達、昔より少し羽振りがよくなったの。それだけよ。アメデオは働いて、よくやっているし、私も自分の仕事がかなりうまく行っているの。
 ジェンナロ なるほど。すると私はまたひっくり返って、死んだ真似をしなくちゃならんということか?
 アマーリア ジェンナロ! あなた、何を言っているの?
 ジェンナロ 私は、もう死体を演じるのは厭なんだ。死体になるってのは、どうも縁起が悪くてな。
 アマーリア 何を馬鹿なことを言ってるの、ジェンナロ。私達、あなたが帰って来て、嬉しいのよ。大喜びしているのよ。状況が少し変ったの。それだけのことよ。イギリス人が来て、それにアメリカ人がやって来たわ。
 ジェンナロ それはそうだろう。敗戦国を助けにな。連中はそう言っていた。約束を守っているんだ。さあ、アマーリア、お前、何か仕事をやっていると言ってたな。その話を聞きたいね。
 アメデオ エッリコと共同なんだ。
 アマーリア ええ、そう。エッリコと仕事をすることに決めて・・・あの人、四五台のトラックでしょっ中行ったり来たり。だからこっちの運送部門を引き受けて貰ったら都合がいいと思って・・・
 ジェンナロ トラック? エッリコはトラックを四五台も持っているのか。
 アマーリア ええ。アメリカ人から払い下げて貰って。
 ジェンナロ フーム。すると、アメリカ人から払い下げて貰った車を使って、仕事をしているって訳か。
 アマーリア ええ。アメリカ軍に言ったの。仕事をするのに車がいるんだって。そうしたら、払い下げてくれたわ。
 ジェンナロ なるほど、なるほど。助けるっていう約束は守っているということか。フーム。(アメデオに。)それで、お前は何をやっているんだ、アメデオ。私がいなくなってから。
 アメデオ ああ、あれやこれやだ。中古の車の売り買いだな、主に。いい車を見つけると、キャッシュでそれを買いたいっていう人間を見つけて・・・(話題を変えようと、マリーアの方に注意を向けて。)それよりマリーアだ。パパがびっくりするようなことがあるんだ。マリーアはアメリカに行くんだ。そうだな? マリーア。アメリカ人の兵隊と婚約したんだよ。
(マリーア、ジェンナロの視線を避けようとする。アマーリアは恥ずかしくて、いたたまれない。)
 ジェンナロ マリーア、マリーア。お前、私から去って行くのか? パパのお気に入りのマリーア。お前は出て行くのか?
(ジェンナロ、マリーアを優しく抱擁。マリーアは両手を顔に埋めて、わっと泣きだす。)
 ジェンナロ 泣かないで、マリーア。泣くんじゃない。アメリカさんなんかに、お前を連れて行かせるものか。パパが、このナポリで、いい男を見つけてやるよ。この国の誰かをな。
(ジェンナロ、マリーアを優しく慰める。その時、通りから、静かにエッリコ、登場。)
 エッリコ アーマ、アーマ!(突然ジェンナロに気付く。自分の目が信じられない。)これは・・・ドン・ジェンナロ!
 ジェンナロ(エッリコを見て、本当に喜んで。)エッリコ! 生きて、歩いて! 本物のエッリコじゃないか!(両手をエッリコの身体に廻して。)私はつい三十分前に帰って来たんだ。ああ、話したいことが山ほどあるぞ、エッリコ!
 エッリコ でも一体・・・今までどこに。
 ジェンナロ エッリコ、どこから始めたらいいんだ。そう。どこから。ああ、夢のようだ。まるで夢のよう・・・そうそう。君は女房と組んで仕事をやってくれたんだそうだな。それに、うまく運んでいるっていう話だ。お目出度う。
 エッリコ(アマーリアの方を見て。)ああ、仕事ですか。ええ、ええ・・・そうそう、ドン・ジェンナロ、ついさっきですよ。ほんの三十分もたっていませんよ。あなたの噂をしていたんです。ドンナ・アマーリアと。奥さんはきっとあなたが帰って来るって。そのうちに必ずって。驚いたな。本当に驚きだ。それに、帰るタイミングにしたって、こんな良い時はありませんよ。
 ジェンナロ そうか?
 エッリコ そうですよ。今日は僕の誕生日なんです。僕は独身でしょう? だから奥さんが、ここの家でみんなと一緒に祝いましょうって言ってくれたんです。
 ジェンナロ なるほど。それは好都合だったな。アマーリア、お前、それは本当の親切だぞ。エッリコは独り身だ。こんな時には助けの手を差し伸べてやらなくちゃ。そうだ。みんなで集まって、仲良くやるものさ。それにしてもドン・エッリコ、今のこの時代、生きて行くのも辛い時だ。酷いもんだよ、全く。今の今まで私がいた所・・・ああ、まだ鉄砲の音が聞える。大砲の音、爆弾の音、ロケット砲の音。次から次、次から次だ。一秒たりとも止まる時がない。こんな時、もし私の部屋の扉を叩くものがあれば、それこそ私の心臓は止まってしまう。そうだ、ある晩のこと・・・
 エッリコ(急いで。)ええ、ええ。分りますよ、ドン・ジェンナロ。でも、もう考えないで。今のことを考えましょう。今晩友人達がここに集まって、陽気にわーっとやって、そういう思い出にけりをつけるんです。
 ジェンナロ けりをつける? 冗談じゃない。君達は戦争がもう終ったと思っているんじゃないか。とんでもない。終っちゃいないんだ。これからまだ、ずーっと、ずーっと引きずって行くんだ。
 エッリコ(部屋の飾りを指さして。)ええ、ええ。分っています。分っていますよ。でも、綺麗じゃないですか、これ。どうですか? ドン・ジェンナロ。
 ジェンナロ(撹乱されて、困って。そして疲れて。)そうだね。綺麗だ。確かに綺麗だ。
(マリーア、自分の部屋に退場。フランコ、通りから登場。ロースト・ラム他を入れた大きなフライパン・・・その上に白い布を被せてある・・・を持っている。)
 フランコ(ラッパの真似をして、それから。)さあ、出来上がり。上等のロースト・ラムだよ。(突然ジェンナロに気付く。)これは・・・ドン・ジェンナロ! 驚いたな。お元気ですか? ドン・ジェンナロ。
 ジェンナロ フランコ! 相変わらずだな。元気そうで何よりだ。
 フランコ そうですとも。元気でなきゃ。しかし、驚いたね、これは。奇跡はまだ起きるんだな。
 エッリコ ドン・ジェンナロ、これがさっき話していた誕生日の料理なんです。ロースト・ラム、ロースト・ポテト、その他いろいろ・・・
 ジェンナロ ロースト・ラム! いや、これはすごい。それに、いい匂い。ああ、それにしても、何度我々は危ない目にあったことか。一瞬の行き違いで、片や死亡、片や生き残り。何度そういう目にあったことか。だだっ広い平野、そこに塹壕を掘って、蹲(うずづくま)っている。あたり一面、大砲と機関銃の弾が乱れ飛んでいる。こっちの方が本物の地獄か。そこに釘付けになったまま、一昼夜、何も食べず、何も飲まずだ、エッリコ。死体が二つ、生きた身体が七つ。死体は散弾を食らって、バラバラに千切れている。すると突然、何の予告もなく・・・
(通りを眺めて扉のところにいたフランコ、ここで大声を上げる。)
 フランコ さあ、来たぞ! 来た来た! 御馳走がまた来た。これでおしまいなんだ。
(焼いたものを入れた容器二つをやっとのことで抱えて来た男、よろめきながら登場。)
 フランコ こっちだ。こっちこっち。私について来るんだ。(その男を流しの方へと導く。)
 ジェンナロ 四皿あるコースか! こいつは驚いた。いや、話は塹壕だった。私達七人、そこに蹲って、弾が飛び交う中をただじっと待っていた。そうしたら、突然、何の予告もなく・・・
 アマーリア ねえ、ジェンナ、今は止めて。後で。ね? 後で残りを話して。今はここ、食事の用意をしなくちゃいけないの。
 ジェンナロ これはそんなに長い話じゃないんだ。
 アマーリア 食事が終ってから。ね? ジェンナ。私達、お客さんを呼んでいるんだから。
 エッリコ 友達みんな呼んでいるんです。
 ジェンナロ それじゃちょっと、綺麗にしなきゃいかんな。石鹸と水で、さっさっと・・・これじゃ、汚な過ぎだ。この姿じゃあな・・・これじゃ、あまりにも酷い・・・
 エッリコ そうですよ、ドン・ジェンナロ、身体を洗って、すかっとしてきた方がいいですよ。気分も違って来ますよ。
 ジェンナロ(出て行きながら。)そうだな。そうしよう。それからだ、話は。身の毛もよだつような話だぞエッリコ、私の見て来た話は。実際、第一次大戦なんか、今度のに比べたらピクニックのようなものさ。今度のは正真正銘の地獄だ。(寝室へ退場。)
(アマーリア、エッリコの方を見ないようにしている。エッリコは玄関に近い椅子に不機嫌に坐っている。通りからアッスンタ登場。)
 アッスンタ ドンナ・アマーリア、手が足りないんじゃないかしらと思って、私来たんだけど。
 アマーリア ああ、アッスンタ。丁度よかったわ。何から手をつけていいか、それさえ分らないぐらいなのよ。見て、ほら。テーブルだって、まだ何もしていない。
 アッスンタ 大丈夫よ。さあ、やりましょう。
(アマーリア、引きだしからテーブルクロスを取り出し、アッスンタに渡す。アッスンタ、アメデオと共にそれをテーブルに敷き始める。) 
 アッスンタ アデライーデ叔母さんったら、大変なのよ。着飾っちゃって。それに時間のかかる事ったら。新しいドレスを買ったのよ。本当にびっくりするような衣装よ。それを買うために叔母さん、どれだけ苦労してお金を貯めたか。少しづつ、少しづつね。一生懸命だったのよ。そう。本当・・・本当に素敵なドレス。でも私はいつも通りよ。何かある時は、あのいつもの黒。黒に決まっているの。こんな風にして来るのよ。(部屋に入る真似。)
(アメデオ、何かを持って来るために、流しに退場。)
 アッスンタ ねえねえ、ドン・ジェンナロが帰って来たって、本当? 今どこに隠れているの? アデライーデ叔母さんったら、私にそのことばかり。痩せて帰って来たのよ、とか、犬に連れて帰って貰ったんじゃないか、とか。そのことばかり、話は。それから、あの二人どうなるんだろうねえって。あの二人、どう思っているんだろうって。エッリコ・・・あの人、どうするんだろう。もう仕方がないから止めるのかなって。
 エッリコ 止めるって、何を。
 アッスンタ いいえ、何でもない。何でもないのよ。ただ私・・・ただ私・・・(ゲラゲラっと笑う。)
 エッリコ なあ、アッスンタ。お前さんに言っておくけどな・・・
 アッスンタ なあに。
 エッリコ 厭な女だ、お前って奴は。
 アッスンタ ええ、そうね。私って、きっとそう。
(アメデオ登場。アッスンタに手を貸す。アマーリア、アッスンタの言葉に憤然となって、自分の部屋に退場。フェデリーコ、ペッペ、その他、招待されている客達、登場。全員エッリコに、誕生日のお祝いの言葉。男達は黒い衣装。女達は毛皮、宝石などで飾りたてている。暫くしてアデライーデ、一張羅を着て騒々しく登場。客達の何人かは花束を、何人かは果物籠を、持って来ている。全員、何かの贈り物持参。この時までにフランコ、それらの贈り物を受取って、部屋に飾っている。エッリコ、ショーのスターのように心地よく、この祝いの雰囲気に浸っている。「有難う」「有難う」と、自分が主人であるという気分。)
 ペッペ おいエッリコ、お前さんの誕生日なんだ、今日は。乾杯はお前さんにするんだな?
 エッリコ いや、違うんだ。これは私のための会じゃない。途中で目的が変ったんだ。ドン・ジェンナロが帰ったからな。それのお祝いだ。
 フェデリーコ そうだ。帰ったんだってな。いや、驚いたニュースだよ、これは。
(ジェンナロ登場。)
 ペッペ ああ、出て来た、出て来た。丁度噂をしていたところだ。やあ、ジェンナロ。お帰りなさい。
 ジェンナロ ペッペ! これは嬉しいな。(ペッペと握手。抱きあう。他の客達とも同様の挨拶。)
 ペッペ 一体どうしたんですか? ドン・ジェンナロ。今までどこにいたんですか?
 ジェンナロ ああ、それはまた後でだ。私は帰った。今のところはこれで・・・実に奇跡のようなことなんだ。でも私は現に、今ここにいるんだからな。
(ジェンナロ、突然みんなの服装に気付く。自分の汚れたよれよれの服を見る。自分が全く場違いに感じる。)
 ジェンナロ ああ、しかしみなさんのその恰好。みんな一張羅を着て。それに引き換え、私のこの姿。折角の雰囲気を私が壊しているようだ。すみません。そうだ、どうかこの服装は、戦争に行った人々への敬意を表すものと見て下さい。そうです、もしこの古い軍服が口をきけたとしたら、どんな話をすることでしょう。想像してもみて下さい。どことも言えない野原の真っただ中、そこにある塹壕の中に蹲っている。左右前後から、雨あられと弾丸が飛んで来る・・・
(ジェンナロ、全員が耳を傾けて頷いているのを見る。しかし、全員ただ、悪いと思ってそうしているだけ。ジェンナロ、続ける以外に手はない。)
 ジェンナロ 三日間、食い物も、水もない。蹲っているのは七人。その他に二つの死体。散弾で身体はバラバラ。そして突然、何の前触れもなく・・・
 エッリコ ねえ、ドン・ジェンナロ。今はもう大丈夫になっているんですよ。家に帰っていらしたでしょう? 傍には友達がいるんです。ねえ、忘れましょうよ。その胸から、悪い思い出を拭い去るんです。
 アデライーデ そうですよ、ドン・ジェンナロ。まづは食べて、それから飲むんです。その、骨と皮の身体に少し肉がつくのを見てみたいですからね。
 フェデリーコ そうそう、その通り。もうみんな終ったんだ。「食べて、飲め。」これが一番効き目のある命令だ。さあ、ドン・ジェンナロ。
(フランコ、流しに退場。ペッペ、アメデオの腕を掴んで、みんなから少し離れた下手に連れて行き。)
 ペッペ どうだ? 用意はいいんだな?
 アメデオ いいや。今日は休止だ。
 ペッペ 休止? どういうことだ。
 アメデオ 刑務所行きはご免なんだ。エッリコに言われてしまった。それに、親父は帰って来たし。
 ペッペ だけど、今度のやつはチョロイんだぞ。怖がることはないんだ。あいつはいつものように坂の頂上に車を停める。夜警は俺がやる。朝になったら、縛られてさるぐつわを噛まされているのが見つかるだけさ。実に簡単なんだ。危ないところなど、どこにもないぞ。
(ペッペとアメデオ、低い声で話しながら、位置を変える。退場はしない。)
 ジェンナロ さあ、それではみなさん、始めましょう。
(アマーリア登場。その後ろからマリーア。アマーリア、素晴らしい銀色の毛皮のストールを着ている。マリーア、自分は一人、隅の方に隠れるように行く。)
 アマーリア みなさん、よくいらっしゃいました。
(全員、アマーリアの服装に感嘆の声を上げる。)
 ペッペ 驚いたな、ドンナ・アマーリア。こいつは素晴らしい。
 アマーリア 有難う。有難いわ。優しいことを言って下さって。アッスンタ、フランコに言って来て。もう料理を出していいからって。
 アッスンタ はい。まあ、そのストール。豪華なもの。あら、私また、始まりそう。(慌てて流しに駆け込む。ゲラゲラ笑いを押し殺すため。)
 アマーリア じゃ、みなさん、席について。
(みんな自分の席につく。ジェンナロ、当惑の目つきでみんなを見る。アマーリアの恰好を見て、いよいよ当惑が増す。)
 アデライーデ さあさあ、ドン・ジェンナロ、お坐りなさい。腰を落ち着けるのよ。
 ジェンナロ まるで映画の一シーンだ、これは。やっとみんなのところへ帰って来たんだが、どうも自分の目が信じられない。まだ夢を見ている気分だ。(ゆっくりと坐る。)
 エッリコ そうそう、それでやっとみんなも落ち着きますよ。
 ジェンナロ そのようだね。ところで、ついさっきまでの私の経験・・・それは、食べる物や飲む物がない、ですまされるような事じゃなかったんだ。心自体がすり減らされるような事だったんだ。みんな、それが分るか? いや、心がすり減るだけじゃない。その心を一日中、片時も離れず見つめているものがある。死だ。死が見つめているんだ。そう。我々は塹壕の中にいたんだ。その塹壕が一体どこにあったのか、そんなことは分りもしない。弾丸と爆弾が雨あられと降って来る。すると、何の前ぶれもなく、どこからともなくトラックが・・・
 エッリコ トラック・・・そうだ、トラックと言えば・・・ご免なさい、ドン・ジェンナロ。でも今ここで言っておかないと、忘れてしまいそうで。おい、フェデリーコ、あのトラックだが、税金を払って、許可も取って、それから売るんだぞ。いいな。明日、私もちゃんと見ることになっているんだ。分ってるな?
 フェデリーコ ええ、分ってます。一緒にまいります。ペッペも一緒に行きますから。
 エッリコ 私の十パーセントも忘れてないな?
 ペッペ 勿論です。ちゃんととってありますよ。ぬかりはありません。
 ジェンナロ とにかく、その塹壕で、我々七人、じっと蹲(うづくま)って、ただただじっと待っている・・・
 ペッペ そうだ、めしが来るのを待っているんだ。めしだ。そうですね? ドン・ジェンナロ。
(ジェンナロが答える隙なく、フランコがロースト・ラムを持って、ラッパの音を口で鳴らして登場。)
 フランコ さあ、お待ち遠(どお)、みなさん。さあ、どんどんやって下さい。(アマーリアの前、テーブルにそれを置く。)
 ペッペ 来た来た、めしだぞ。待ってました! 待ちきれないところだったなあ。
 アッスンタ さあ、ドン・ジェンナロ、召上って。そして身体に少し肉をつけなくっちゃ。みんなそう思ってるのよ。
 ジェンナロ 肉をつける?
 アッスンタ そうよ。みんなよ。そんな心配そうな顔をしないで。悲しい顔は駄目。もう終ったの。もうあんなことは終り。お仕舞なの。
 ジェンナロ あんなことが終りだって? お仕舞だって? あんなことって、どんなことが終りなんだ?
 エッリコ まあ、いいじゃないですか、ドン・ジェンナロ。みんながああ言ってるんです。ちょっとお祭り騒ぎに付きあって下さいよ。一、二時間、みんなとワーっとやって、辛かったことを忘れましょうよ。
(アマーリア、みんなに給仕する。みんな、食べ始める。笑って、喋って。ジェンナロ、その様子を暫く見たあと、立ち上る。)
 ジェンナロ アーマ、私はちょっと、リトゥッチアの様子を見て来るからね。(リトゥッチアの寝室へと進む。)
 エッリコ どこへ行くんですか、ドン・ジェンナロ。僕達を放っておいて、行ってしまうんじゃないでしょうね。
(全員エッリコの言葉を支持して、引き留める。)
 ジェンナロ いやいや、ちょっと娘のところへ。あの子が今、熱を出しているんですよ。
 アマーリア 私も行くわ。
 ジェンナロ いやいや、アーマ。お前はお客様のお相手をして。私はどうも、食欲がなくて。それに、疲れも出てきた。ちょっとだるくて。お前は残って・・・お前は残っていた方がいい。
(ジェンナロが出て行こうとする時、マリーア立ち上り、一緒に進む。)
 マリーア 私、一緒に行くわ、パパ。
 アデライーデ(立ち上って。)ねえ、ドン・ジェンナロ、今出て行くなんていけないわ。駄目よ、出て行ったりしたら。あなた、怒ったのね。そりゃ、怒るのも無理ないけど、あの酷い塹壕・・・そりゃ分るわよ。でも、今はもうすっかり終っているんじゃない。今は平和で楽しい。もうあんなこと、すっかり終っているのよ。もうあれは過去のことよ。
 ジェンナロ(優しく。)いやいや、終ってなんかいないんだよ、ドンナ・アデライーデ。それは大きな間違いなんだ。戦争が終ったなんて、とんでもない。戦争が過去のことだなんて、とんでもない。何も、何も終ってやしない。何も過去のことにはなっていやしない。
(アデライーデ、テーブルに戻る。少しむっとしている。ジェンナロ、マリーアが近づくと、その態度から何かあると感じる。)
 ジェンナロ(片手をマリーアの身体に回して。)お前、どうかしたのかい?
 マリーア(頭を振って。)いいえ、パパ。
(二人、退場。一瞬沈黙。それからまた、フランコ、口のファンファーレと共に、ワインの入ったデカンタを持って流しから登場。)
 フランコ(口のファンファーレを鳴らし。)さあ、みなさん、また来ました。ワインですよ。さあ、飲んで、食べて、陽気にやりましょう。
(全員、喜んで大きな声を出す。食事をする。陽気な話し声。騒ぎ。)
                  (幕)

     第 三 幕
(同じ部屋。翌日。夕方遅く。)
(道路の反対側の壁のマドンナの像を照らしている色つきのあかりは、今はもう消えている。チアッパがテーブルの椅子に坐っている。ジェンナロ、部屋をうろうろと歩き廻っている。時々通りの方を眺める。)
 チアッパ(間の後。)ここへ以前やって来た時から後、あんたのことは色々考えた。覚えているな? 空襲、ベッド、死体。あれは大変な夜だった。このあたりに来る度に、私はあんたが今どうしているか聞きたくてここにはよく顔を出したものだった。あんたが戻って来たとは嬉しい。しかし、今日来たのは、違った用件のためなんだ。(間。)なあ、私にも子供がいる。男ばかり三人だ。そいつらが何かやらかすと、私は・・・長いこと、この仕事をやっているせいか、すぐにピーンと来る。分るな? あんた、私が何を言っているか。第六感というやつだ。見て見ぬふりをしている方がいいか、それともそんなことはしていられない深刻な場合だ・・・とか、ピーンと来る。
 ジェンナロ 何が言いたいのか、分りますよ、警部さん。感謝します。他の時だったら、聞いただけでいても立ってもいられなくなるでしょう。何かしなきゃと。自分でも抑えが効かなくなるかもしれません。でも、今のこの状況では・・・私に何が出来ますか。息子を、娘を、この家から放り出すんですか? 母親の役割を果たせないあの女房に、出て行けと言うのですか?
 チアッパ 残念ながら、もうそんなことではすまされない事態になっているんです、ドン・ジェンナロ。あんたの息子さんに関しては、まだ全部は話していない。実は私は、彼は逮捕するしか道がないと思っているんです。
 ジェンナロ(肩を竦めて。)もしあの子が、それに値するようなことをしていたのなら・・・それはあんたの仕事だ。
 チアッパ この暫くの間、私は彼に目をつけていたんです。彼とその相棒のペッペに。だんだん事は笑い話ではすまなくなってきています。この二人がいる所では、五分と車を駐車出来ないんです。ちょっと目を離すと、もう車は消えている。実は、この二人が今夜、仕事をやるという情報を得ているんです。もし私が現行犯として二人を取り押さえたら、私は他にどうすることも出来ない。・・・二人ともぶち込むだけです。
 ジェンナロ それがあんたの仕事だ。仕方がないだろう。
 チアッパ つまり、あんたは関係ないという訳か?
 ジェンナロ もし現行犯で捕まればね。そいつは連中の責任だ。
(リトゥッチアの部屋からアッスンタ登場。非常に心配そうな表情。)
 アッスンタ ドンナ・アマーリアはまだ?
 ジェンナロ うん。まだだ。
 アッスンタ アメデオも?
 ジェンナロ うん。
 アッスンタ どのくらいかかるのかしら。先生は、あそこで待っていらっしゃるんだけど。
(医者、リトゥッチアの部屋から登場。その後ろからアデライーデ。医者は若く、インターンを出たばかり。型通りのことをやるタイプ。腕は確か。)
 医者 誰も帰って来ないんですか?
 ジェンナロ ええ。まだなんです。
 医者 やれやれ、急を要すると言っておいたのに。一体何をやってるんだ。夜まで待てませんよ。あの子は危険な状態なんです。
 アデライーデ サンタ・アーンナ!(アデライーデとアッスンタ、アヴェ・マリーア(短いお経)を静かに唱える。)
 医者 あの子はひどく悪い。どうしてか分るか。それはな、お前さん方が馬鹿なもんだから、最後の最後になるまで医者を呼ぼうとしないからなんだ。
 アデライーデ ヴェルジーネ・インマコラータ!(再び、アヴェ・マリーアを唱える。今度は大声で。)
 医者 お前さん方はいつだってこれだ。そんな調子でやっていて、今生きているっていうのが不思議なくらいだ。
 アッスンタ でも先生、どうしてそうか、御存知でしょう? お医者様を呼ぶと不幸が来ると思っているんですもの。
 医者 それで結局死ぬっていうわけだ。いいか、最後の、最後の瞬間まで医者を呼ばない。それで何を呼び込むか分るか。不幸をだ。不幸を呼び込むんだ。全く、何を考えているんだ。まあいい。不幸だろうと何だろうと、今となっちゃ関係ない。あの子は早晩死んでしまうんだ。
 アデライーデ サンタルカーンジェロ、ガブリエーレ、サンタ・リタ、サンタ・リタ。あなた様にちなんであの子の名前はつけられたのです。どうかあなた様のお恵みをあの子に。どうか広いその御心、そのお慈悲の中に、あの子を包み込んでやって下さいまし。(アデライーデとアッスンタ、再びアヴェ・マリーアのお経。)
 医者 聖者の名前を唱えたって無駄なんだ。それは確かに、信仰の証(あか)しにはなる。それに、信仰を持つというのはいいことだ。しかし、これだけは言っておくぞ。今さっき私が書いた処方箋の薬を、どこかで手に入れて飲ませなければ、あの子は確実に死ぬんだ。
 アデライーデ 先生、何て酷いことを仰るんです。まるで先生は、あの子が死ぬのを喜んでいるような言い方じゃありませんか。
 医者 ほほう、死を喜んでいる言い方だと言うのか?
 アッスンタ そうですよ。少なくとも、希望は残しておいて下さらなければ・・・先生の最後の言葉、「確実に死ぬんだ」というのは取り消して下さい。
 医者 いいえ、取り消しません。確かに私はそう言いましたからね。でも、希望を持つのは悪いことではありません。希望を持っても害はありませんから。それに、この段階で希望を捨てる必要は全くないのです。まだ希望は充分持てるのです。あの薬さえ来れば、九十%の確率で、あの子はよくなります。来なかったら?(肩を竦める。)
 アデライーデ サンタントーニオ・エ・プズィレッコ!(アデライーデとアッスンタ、激しく祈りを上げながら、リトゥッチアの部屋に入る。)
 医者(時計を見る。)遅くなってきた。
 チアッパ そんなものを捜すのはたいしたことじゃないんでしょう? 先生。
 医者 今は何を見つけるのでも大変なんですよ、警部さん。特に夜が更けて、このぐらいの時間になりますとね。日中だってそう楽じゃないっていうのに。薬は金のようなものですよ、こうなったら。まあ、闇市でなきゃ決してないし、そこへ行っても有力な手づるがないとね。そう、もう後一、二分は待ってみましょう。
 ジェンナロ すみませんね、先生。お手数をおかけして。
 医者 謝られたって、どうしようもありませんよ。こっちこそ謝りたいんです。ああ、それにしても実際腹の立つのが・・・(肩を竦め、言い止む。)ええい、糞!(リトゥッチアの部屋に戻る。)
 ジェンナロ 「闇市でないと決してない」か。(苦い笑い。)「あの薬をどこかで手に入れて飲ませなければ、あの子は確実に死ぬんだ」と、あの医者が言った時、母親はどこにいたか。ナポリ中を気違いのように駆け回っているところだったろう。扉という扉を叩き廻って、窓という窓を叩いて・・・だけど、手に入れることが出来たか? この調子じゃ難しそうだ。「闇市でないと決してない」。やれやれ、アマーリア、お前、今頃、真っ蒼な顔をしているんだろうな。
(アメデオ、息を切らして通りから走って登場。チアッパを見て一瞬怯む。しかしすぐ立ち直る。)
 アメデオ 駄目だ。どこにもない。開いている薬局も一、二あったけど、あの薬は置いてなかった。フルチェッロにも、パルメットにも行ったけど、駄目だ。もう薬局であろうとなかろうと、滅多やたらに入って行って捜した。でも駄目だった。連中の言う言葉はみんな同じ。「明日・・・それも運がよければね」だ。
(フランコ、通りから、喘(あえ)ぎ喘ぎ登場。椅子に倒れるように坐る。)
 フランコ ああ、足が棒のようだ!
(医者、リトゥッチアの部屋から登場。)
 医者 あったか。
 フランコ やっと見つけたのがこれです。この薬でいいのかどうか。私には分りませんが。
 医者 勿論、処方箋通りのものなら、それでいいんだ。(壜を取り、ラベルを見る。)皮膚病の薬だ、これは。
 フランコ 駄目ですか。
 医者 全く、馬鹿につける薬はないと言うが・・・
 フランコ ちょっと待って下さい。(ポケットを探って、壜を出す。)これはどうでしょう。
 医者(受取って、ラベルを見て。)素晴らしい・・・実に素晴らしい。栄養剤とはな。
 フランコ ちょっと待って。まだ他に買って来たものがある筈です。(ポケットを探る。)ああ、これだ。錠剤です。何かよく分らないんですが、薬であることは間違いないんです。
 医者 ラベルがない。ラベルがない錠剤をどうしろと言うんだ。処方箋にちゃんと書いておいたんだ、私は。それで、お前の持って来るものと言えば、ラベルのない錠剤か。呆れて物が言えん。立派なものだよ。
 フランコ でも先生、今は戦前とは違うんです。最近じゃ、手に入るもので何とかやって行かなきゃならないんです。つまりその、これは、とにもかくにも、薬ではあるんでしょう? 他になければ、こいつでやって見るのも手じゃありませんか。
 医者 馬鹿野郎! もう一辺そんなことを言ってみろ、私は・・・一体何のために私がここにいると思ってるんだ。屋根の普請にでも来ていると思っているんだな?(もう一度処方箋を書く。)よし、もう一度やってみる。それから、ここに住所を書いた。これをこの住所のところに持って行くんだ。私の大学の時の友達の住所だ。ひょっとするとあの男は持っているかもしれん。急ぐんだ。油を売るんじゃないぞ。
 フランコ はい。遠くじゃないんですね?
 医者 行って帰るのに十分もかからない。だがいいか、それと違うものを持って来るんじゃないぞ。馬鹿な物を持って帰ったら、その首を叩き切ってやる。いいな。
 フランコ 分りました。それで住所ですけど、ここに書いてあるんですね?
 医者(殆ど金切り声になって。)出て行け!(フランコが出て行くと、落ち着いて来る。)失礼した。どうもこういう事になると、すぐ気違いのようになって。・・・どうも失礼。(リトゥッチアの部屋に退場。)
(アメデオは、入って来た時からそわそわしている。チアッパと父親と時計、それに通りを、代わる代わる見つめる。)
 アメデオ お母さんはきっと何か見つけているよ。今すぐにでも戻って来る。(間。それからジェンナロに。)パパはまだここにいるんだろう? 僕は・・・僕はちょっと会わなくちゃならない奴がいて・・・
(チアッパとジェンナロ、目配せを交す。)
 ジェンナロ そうか。それなら行くんだな。
 アメデオ(言い訳がましく。)こいつはちょっと遅刻しちゃまずいんだ。長くはかからない。すぐ帰って来る。
 ジェンナロ(チアッパに。)どうですか最近は、警部さん。ふと思い浮んだのですが、この頃は何やかや、警部さんはやたらに忙しいんじゃありませんか。ゆすり、たかり、不良、闇屋、こそ泥・・・(アメデオに。)どのぐらい急いでいるんだ? お前は。
 アメデオ うん、それほどでもないんだけど・・・
 ジェンナロ よし。それならもう少し坐っていろ。そうです、警部さん。戦争の後で、この国中がけちな泥棒で溢れているんです。そうですね?
 チアッパ その通りです、ドン・ジェンナロ。
 ジェンナロ こすいことをしたり、掠(かす)め取ったり・・・偽のナンバー・プレート、偽造書類、車を盗む奴。私が死体を演じていて、あんたがやって来た時、あの空襲の最中(さなか)にあんたが言った言葉は忘れない。あんたは言った、「死体に触るのは神への冒涜かもしれん。しかし、貴様のような人間に触るのは、それよりよっぽど神への冒涜だ」とね。
 チアッパ そう。確かにそう言ったな。
 ジェンナロ 見て見ぬふりをした方がよい場合も、世の中にはあると。
 チアッパ そう。その通り。
 ジェンナロ 人間は生きなきゃならん。何とかして物を手に入れて、何とかして生きなきゃ。連中の狙っている事などお見通しだ。しかしあんたには分っている。「生きるか死ぬかの問題だからな」。そういう職務についてはいても、あんたは敬意を払うべき人間は分っているんだ。この事態を何とか切り抜けようと、その智恵を絞る人間、身体を張る人間、それは別の扱いにするんだ。偽免許証で運転する男を見て、あんたはこう呟くんだ。「フン、なかなか腹が坐っとる。たいしたもんだ。あれでやっと物は動くんだ。」あの頃の運転手と言えば、いつ手が吹っ飛ぶか、首が吹っ飛ばされるか、道の真ん中で機関銃で撃たれるか、知れたものじゃなかった。しかし連中は命を賭けて物を運んだんだ。誰があいつらを責めることが出来る。それから売春。なあ、警部さん。戦争は悲惨さを運んで来る。悲惨さは餓えを運んで来る。そして餓えは、何を運んで来るか。廻りを見ればいい。道に溢れる淫売達を。連中はあれを悲惨さの故にやっている。餓えの故にやっている。或は何も分らず、どうしていいか分らずやっている。ただ人の善さの故にやっている。しかし、これはみんな消えて行くのだ。忘れられて行くんだ。全部終って、跡形なくなるのだ。戦争は昔からこうだった。最後には我々の持っている物全てを支払うのだ。持っている全ての物を支払って、やっと戦争は終るのだ。しかし、事が盗みのことになれば、これは話は別だ。盗みだけは断じて別だ。「泥棒になったのは戦争のせいだ」? とんでもない。他のいろんなもの、そいつは戦争のせいかもしれない。しかし「泥棒」、そいつは戦争のせいじゃない。泥棒は生まれ付きなんだ。泥棒を一人連れて来て、そいつがナポリの人間だ、或はローマの人間だと言っても、何の意味もない。いや、ミラノ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人、と言っても意味はない。泥棒は単に泥棒なんだ。泥棒はそいつ自身にくっついているものだ。親にも、家族にも、国籍にも、何にもくっついてはいない。そいつ自身にくっついているんだ。そしてこの家だって、そいつにはくっついちゃいないのだ。
 アメデオ 何だ? この大演説は。僕をここに釘付けにして置くためなのか?
 ジェンナロ このナポリというところは、酷い噂を立てられている。ぬれぎぬなんだ、こんな噂は。しかし、そういう噂を立てられちゃ仕方がない。「ナポリの人間」と聞いただけで、人々は警戒する。新聞の大見出しで盗みがあったと出る。それがどこで起っていたって関係ない。人々の言う言葉は「ああ、そいつはナポリの人間の仕業だ。黒幕はどうせ、ナポリの人間さ。そんなこと分り切っているじゃないか。今までそうだったんだからな。」噂、噂、噂だ。「波止場でなあ・・・お前、聞いたか? 船荷人足が一人いなくなってな。船荷もそっくりなくなったそうだぞ。ああ、ナポリ人だ。決まってらあ。そいつがナポリ人でなくったって、辿って行きゃ、ナポリ人さ。」トラックがなくなる。「ああ、あの話か。聞いたよ。トラック一台・・・五百キロある奴が? そうさ。空中に消えてなくなっちまった。どこを捜してもないってさ。どうせまたナポリの奴等さ。」こんなこと、嘘に決まっている。全部ナポリ人のせいだなんてあるわけがない。しかし、そいつがこの我々が受けている噂なんだ。噂が我々にくっついているんだ。(アメデオに。)だから、お前が登場するのは、ここなんだ。ここでこそ、お前が現れて、その汚い噂の泥からこのナポリを掘り出さなきゃならないんだ。お前はいいお手本を示さなきゃいけないんだ。どこかに行って、お前がナポリの悪い噂を聞く。するとお前は立ち上って、はっきりそいつらに言ってやるんだ。「そうさ。ナポリに泥棒はいるさ。しかし正直な人間もいるんだ。何千、何百という正直な人間が。世界中のどこの場所だってそうだろう? それと同じなんだ。」しかし、これだけのことが言えるためには、お前自身の良心がちゃんとしていなきゃ駄目なんだ。
 アメデオ 分った、分った、分ったよ。こんな馬鹿な話を聞いて油を売っちゃいられないんだ、僕は。会わなきゃならない奴がいるんだ。
 ジェンナロ そうか。じゃ行け。マフラーは持ったか?
 アメデオ(ポケットを触って。)ここにある。
 ジェンナロ オーバーも持って行くんだ。
 アメデオ オーバー? 何のために。
 ジェンナロ 遅くなると外は寒い。持って行った方がいい。
 アメデオ 遅くはならない。さっき言ったろう? すぐ帰って来るって。(肩を竦めて。)まあいいや、それで気がすむなら。(オーバーを取り、腕にかけて、通りへの扉に進む。)じゃ、すぐ帰って来るから。(退場。)
 チアッパ どうやら私も出なきゃならんようだ。
 ジェンナロ 御首尾を。それから、有難う。
 チアッパ どう致しまして。お休み、ドン・ジェンナロ。お子さんの病気、治るといいが。
(チアッパ退場。マリーア、リトゥッチアの部屋から登場。食器戸棚に進み、カップを取り、リトゥッチアの部屋に戻る。マリーア、ジェンナロを見ない。ジェンナロの目、優しさと苦しみを湛えてマリーアの姿をずっと追う。)
(ペッペ、通りから用心深く登場。短くなった煙草を銜えている。心配そうで、疑い深い顔つき。ジェンナロの姿を見つける。)
 ペッペ ああ、ドン・ジェンナロ、今晩は。アメデオは?
 ジェンナロ 丁度今、出て行ったところだ。
 ペッペ ああ、俺達は会う約束をしているんだ。(時計を見て。)アメデオの奴、少し早く出たんだな。娘さんの病気は?
 ジェンナロ まあまあだ。
 ペッペ なあ、ドン・ジェンナロ。俺は本当のことを言うのはあまり得意じゃないんだが。この肩がね、酷く痛むんだ。ちょっと動かしても、猛烈にぐっと来てね。
 ジェンナロ 車だ、それは。
 ペッペ 車? 何が車だ。
 ジェンナロ 肩の調子が悪いって言ってたんじゃないのか?
 ペッペ 調子が悪い? 「調子が悪い」ですまされるような、そんな生易しいものじゃない、こいつは。
 ジェンナロ だから、それは車のせいだ。
 ペッペ 車のせい? 肩と車と何の関係がある。
 ジェンナロ 運転する時、窓を開けっ放しにするだろう? 肩が年中風を受けているんだ。
 ペッペ ああそうか。風か。いや、風のせいじゃない、この肩は。こいつはな・・・ああ、金は入って来るんだ。だが、金と引き換えにな、こっちの身体が悪くなってくる。俺はもう駄目だ。アメデオに言うつもりでいる。ちょっと休業だってな。
 ジェンナロ 休業か、ペッペ。どのくらいの休業なんだ? 二箇月か?
 ペッペ 二箇月? 干上がっちまうよ。それだけ取れたらいいんだが・・・いやいや、ドン・ジェンナロ、俺は休業なんかじゃない、もっとずっとゆったりしたものが欲しいんだ、本当はな。こんな埃(ほこり)にまみれたところからずっとずっと離れた、誰にも会わずにすむ、誰にも話しかけずにすむ、どこか遠くの場所だ。言ってること、分るか? トラピストのような所だ。
 ジェンナロ なるほど。修道院のようなところか。
 ペッペ そう。当たりだ。派手なものは不要だ。質素、質素でいい。一部屋でいいんだ。
 ジェンナロ 一人用の部屋か。
 ペッペ そう。また当たりだ。一人用。全く俺だけのための部屋。外の奴等が俺の面倒を見てくれる。大事にしてくれて、至れり尽くせりで・・・
 ジェンナロ 三食決まった時間に飯が出てくる・・・
 ペッペ そうだ。
 ジェンナロ 今日どこで飯を食おうか、などと頭を悩ますことはない。連中がみんな決めてくれる。つまり、外の奴等がだ。お前の肩から、すっかり心配事は下ろしてくれるんだ。な? 実際頼りになる連中さ。
 ペッペ そうだ。連中には少し金を払ってもいいな、そうなりゃ。
 ジェンナロ ああ、金など払うことはない。金を払わないで、そいつが色々やってくれりゃ、それに越したことはないからな。フン、お前のその一人用の部屋っていうのは、なかなかいい考えだぞ、ペッペ。小さな窓がある、小さな部屋。その窓に格子がはまっている。な?
 ペッペ 窓に格子? いやいや、格子はいらない。それは考えてなかった。
 ジェンナロ いや、お前には格子はいるぞ。
 ペッペ 俺に格子がいる?
 ジェンナロ そうだよ。格子がなかったら、またフラフラとどこかへ出て行くだろう? お前はいつでもどこかいいところ、どこか辺鄙(へんぴ)なところと、憧れているんだからな。それに、今のこの世の中だ。至る所に犯罪がある。誰が味方で、誰が敵か、知れたものじゃないぞ。だから格子のあるところで初めて落ち着けるんだ。修道院の窓にはみんな格子がある。そのためだ。な?
 ペッペ フーム、そうかなあ。なるほど。
 ジェンナロ ペッペ、お前は偉いよ。いい場所を思い付くもんだ。外からは隔離されていて、自分の面倒は誰かがみんな見てくれる所とはな。
 ペッペ そう。なかなかのもんだろう。全部自分で考えたんだ。誰からも教わりはしない。
 ジェンナロ そう。そこがお前さんの凄いところだ。
(ペッペ、立ち上り、肩を痛そうに擦(さす)る。)
 ペッペ ああ、この肩! 堅くて、動きはしない。
 ジェンナロ 心配はいらない。これが最後の仕事だ。その後は長い休みが取れる。さっきの場所でな。
 ペッペ そうだな。(行こうとする。)じゃあ、またな。
 ジェンナロ お前の一人部屋には、ちゃんと行ってやるよ。
 ペッペ えっ?
 ジェンナロ うん。煙草を持って行ってやる。
 ペッペ そいつは有難い。待ってるよ。
 ジェンナロ 約束する。私の息子がその近くにいるんだ。息子に会いに行くついでだ。
 ペッペ えっ?
 ジェンナロ じゃあな、ペッペ。じゃあまただ。
(ペッペ、ちょっと奇妙な表情を浮かべ、通りに出る。少しの間の後、エッリコ登場。)
 エッリコ 今晩は、ドン・ジェンナロ。リトゥッチアは如何ですか?
(ジェンナロから返事なし。)
 エッリコ 今丁度、フランコに会ったんです。フランコの言葉では、状態は変らないそうで・・・まだ熱があるんだそうですね?
(ジェンナロの返事なし。)
 エッリコ この処方箋で、僕もあっちこっち、薬を捜し廻ったんです。どこにもなしです。答は決まって、「明日・・・まあ、運がよければ」です。
(ジェンナロの無言を前に、仕方なく。その自分を見つめている目を避けながら。暫くの間の後、無理矢理また口を開く。)
 エッリコ こんな状態になっているなんて、酷いです。特にやっと帰って来られて、そしてこの状態では・・・(間。)違いますよ。リトゥッチアは放っておかれたんじゃありません。とんでもないことです。でも、子供っていうのは分りませんからね。ちょっと悪そうに見えても、まあ大丈夫だ。心配はいらない。連中は何かない時などないんです。子供ってやつはちょっと親を驚かせて、その次の日には、まるで何もなかったように元気にいたずらをして、親を困らせたりするものです。だからつい・・・(間。)ドンナ・アマーリアのせいじゃありません。違います。あの人は自分の家族のために誠心誠意働きました。あなたがいない間、あの人はずっとあなたのことを心配していたのです。その心配があの人の顔に深く刻み込まれています。その目にそれが出ています。悲しみ、絶望、心配。いいですか、ドン・ジェンナロ。あの人について悪く言うような人間がいたら、そいつは人間の屑です。カスです。大馬鹿野郎です。どうして僕はこんなことが言えるか。それは僕がこの家の友達だからです。本当の友達だからです。この家に困った事が起きれば、それは僕の問題でもあるのです。例えばアメデオ。父親に代って、僕は彼に適宜説教めいたことを言いましたよ。あなたがここにいませんでしたからね。僕はそれが自分の義務だと思ったんです。
(沈黙。エッリコ、今や全く困って、いたたまれない気持。)
 エッリコ 女が一人で家にいて、男がいない。すると他人はどう見るか。家にはいろんな人間が出たり入ったりする。すると人はあれこれ事を繋ぎ合わせて話を拵えるんです。でも僕は名誉にかけて、僕の母親の墓にかけて、誓いますよ。ドンナ・アマーリアがあなたのことをいつも尊敬していたんだと。そして今でも尊敬しているんだと。裏表なく。本当に。心から。(間。)今朝からずっと、あなたの僕に対する態度は冷たい。僕はそれに気がついた。ええ、それはもう、手に取るようにはっきりと分りました。だから今僕はここに戻って来たんです。・・・あなたに会って、事をはっきりさせようと。お願いだ、ドン・ジェンナロ、僕らは子供じゃないんです。僕らは大人なんですよ。そう。身の証しを立てなきゃならないのなら、それはドンナ・アマーリアじゃない。それは僕がやればいいことなんだ。あの人に関する限り、ドン・ジェンナロ、何も心配はいらないんです。あの人の良心は雪のように潔白なんです。(間。)僕は今夜、カラブリアに発ちます。夜中に旅行するとなると、この身に万一のことがあるかもしれません。事故で途中死ぬ場合もよくありますから。だから僕は今日来て、あなたと仲直りをと・・・その・・・
(ジェンナロ、相変わらずじっと見ているだけ。エッリコ、立ち上り、行きかける。)
 エッリコ 僕に出来ることがあれば何でもやります。(扉に進む。)娘さんの病気が治ることを祈っています。
(返事なし。)
 エッリコ いいでしょう。では、さようなら、ドン・ジェンナロ。お休みなさい。(退場。)
(ジェンナロ、動かない。暫くして、フランコ登場。リトゥッチアの部屋に進む。)
 フランコ なーんにもありゃしない。どこに行ったってある訳がない。この錠剤をくれた奴がいた。あのヤブ、何て言うか。まあ見せに行ってこよう。(リトゥッチアの部屋に行く。)
(アマーリア、通りから登場。すっかり変わり果てた姿。打ちのめされ、疲れ果て、更けてしまっている。外面(そとづら)を飾る余裕など全くなし。二幕で使っていたお上品な言葉遣いは消えて、一幕の時のナポリ訛(なま)りで話す。テーブルの椅子に倒れるように坐りこむ。)
 アマーリア ない。どこに行っても。ナポリ中、行けるところはどこにでも行った。何もない。誰か持っている奴はいるんだ。だけど誰も売ろうとはしない。子供が死んだって、何でもないんだ、連中は。あいつらは自分がよければそれでいいんだ。薬を商売のたねにしやがって! 売り惜しみをしていりゃ、値段はもっと吊り上がるっていうことさ! 盗っ人! 泥棒! いや、もっと酷いんだ。人殺しだよ。本物の人殺しだ!
(アマーリア、リトゥッチアの部屋へ退場。ジェンナロ、それを目で追う。リッカルド、通りから登場。パジャマの上に粗末な黒いレインコートをひっかけている。)
 リッカルド ご免下さい。お邪魔じゃありませんか?
 ジェンナロ いえいえ、どうぞお入り下さい。
 リッカルド 今晩は、ドン・ジェンナロ。お邪魔をしたくはなかったのですが、実はお宅の娘さんの病気のことを聞きまして・・・薬をお捜しとのこと。(レインコートのポケットから小さな箱を取り出す。)これがそれではないでしょうか。
 ジェンナロ どうぞお坐り下さい、ドン・リッカルド。(呼ぶ。)先生! 先生! ちょっとこちらへ。
 医者(舞台裏で。)今行きます。(登場。)何ですか? 用は。
 ジェンナロ この方がひょっとして、私達の捜している薬を持っているんじゃないかと。
 医者 どれですか? ちょっと・・・(箱を調べる。)そうです。これです。この薬です。
 リッカルド そうですか。偶然の一致です。半年前、うちの二番目の娘が丁度同じ病気にかかったんです。
 医者 ああ、これは運のよい。私に下されば、今すぐあの子に・・・
 リッカルド ちょっとお待ち下さい、先生。これを今先生にお渡しすることは出来ませんので。私はドンナ・アマーリアに直接に・・・もし先生がそれでよいと仰るなら。
 ジェンナロ(呼ぶ。)アマーリア! ちょっとここへ! ドン・リッカルドが用があるんだ。
(アマーリア、リトゥッチアの部屋から登場。その後ろからフランコも登場。)
 リッカルド ああ、今晩は、ドンナ・アマーリア。
 アマーリア(厳しい口調で。)何の御用?
 リッカルド 本当に幸運なことに、こちらの先生の書かれた処方箋の薬を偶々(たまたま)私が持っていまして。今ここにお持ちしているのです。
 アマーリア(財布を出しながら。)いくら?
 リッカルド そうですね。どうしましょう。どのくらい返して下さるおつもりがありますか。私が持っていた物は、みんな今ではあんたの物だ。随分取り上げなさいましたからね。私の家、アパート、妻の宝石類、下着、家族の思い出の品、その他ありとあらゆる物を。私の下の娘にほんの少しの米を食べさせてやりたいと、私はここに、平身低頭、揉み手をしてやって来たことがありましたね。さあ、ドンナ・アマーリア、今度はあなたの娘の番です。
 アマーリア でも、これは薬ですよ。命にかかわる事なんですよ。
(ジェンナロ、席を移し、二人から離れる。フランコも同様に席を移す。)
 リッカルド そう。そうです。命にかかわる。この薬がなければ、あんたの娘さんは死ぬかもしれない。でも、命にかかわると言えば、この間、私が娘のための米を頼みにやって来た時だって、やはり命にかかわったのです。あの時私が、なけなしのシャツ一枚、ここに置かなかったら、あの娘は死んでいたでしょう。餓えで、或はそれに伴う病気で。お分かりでしょう? ドンナ・アマーリア。私達は、遅かれ早かれ、どうしたって隣人の助けを借りるため、その扉を叩きに行かざるを得なくなるのです。今、この瞬間、あなたは私に、私の欲しい物はどんな物でも出すつもりでいることを私は知っています。さあ、それで、私が今、この間私が米を求めてナポリ中を彷徨(さまよ)った時の気持をあんたに味わって貰おうと思ったらどうなるでしょう。私があんたに言うんです。「さあ、ドンナ・アマーリア、どうぞお楽しみなさい。家から家へ、ドアからドアへ、駆け回って、鎧戸を叩いて、薬があるかどうか、聞き廻って、「お願いです、どうか」と頼み込んで。さぞかし愉快なことでしょうよ。あんたにはこれ以上ない楽しい遊びでしょうよ。どうぞ、お出かけ下さい」と。いいえ。私はそうは言いません。そんなことは、私はしません。私はただ、あんたに知って貰いたいだけです。お互いに救いの手を差し伸べあう時が、私達には来るものだということを。さあ、これだけです、私が言わねばならないことは。これで全部終りです。(医者に薬を渡す。)さあ、どうぞ先生。ドンナ・アマーリアも、私の言っていることが分ってくれたと思います。私はもう行った方が。では皆さん、お休みなさい。娘さんの病気が治りますように。(ドン・リッカルド退場。アマーリア、リトゥッチアの部屋へと医者を促す。医者退場。その後からアマーリア退場。)
 フランコ いやあ、迫力だったなあ。
 ジェンナロ(肩を竦めて。)迫力か。まあそうだな。ところで、金を貯める段になれば、お前だってかなりな迫力だろう。何百万貯めたんだ。
 フランコ 私が? 冗談言いっこなしですよ。金がなくって、トマトのサンドイッチにやっとありついて、それをパクついている時、何だ、この俺は、これからどうなるんだって、いつも考えてしまいますよ。それは私だって、事業の一つや二つ、試してみた事はあります。だけど、いつだって失敗です。最後には諦めましたよ。ペンキ屋のパスカリーノと乾燥イチジクで一もうけしようと五十キロ買ってきたんです。「いいか、パスカリーノ」と私は言いました。「こいつを暫く売らないでおいて、値上がりを待つんだ。」だいたい結末は読めるでしょう? そいつを穴の中に埋めておいて、いざ売ろうと掘り返してみると、虫がついている。慌てて、よく洗って、乾かしていると、今度は、半分は鼠に食われ、残りの半分は腐っちまった。そんな失敗があったって、本気を出してやれば何とか出来ることだってあった筈だ。だけど、やって何の意味があるっていうんです。女房が空襲で死んじまったんですから。その死に方ってのがまた物凄いものでしてね。私達は防空壕に入っていました。女房も私も突っ立っていて・・・そう。丁度あんたと私の、今ぐらいの位置・・・近くですよ。爆弾は右、左、前、後ろ、いろんなところに落ちて来ていました。女房と私はその中で口喧嘩をやっていたんです。何ですかねえ、あんな時に口喧嘩なんかして。「何だお前、」と私は言いました。「大きな声を出すな。みんながこっちを見ているじゃないか。」しかし、止めやしません。ガミガミ、ガミガミ。するとそこへ、でかい爆弾です。バーン! 私達が立っている丁度そこへです。直撃です。一瞬、前にいた女房は、次の瞬間、もういないんです。女房が丁度私に言い終った時でしたよ。「覚悟しておくんだ、この唐変木。ここを出たら、あんたのことを思いっきりぶん殴ってやるんだから。」その言葉が終ったと思ったら、バーンですよ。自分でも何が起ったか分らなかったでしょう。即死です。まあ、私に言わせりゃ、幸せな死に方です。ですから、さっき言ったように、私は何にも心配するものはないんですよ。どだい、事業なんておっ始めることなど、何もないんです。
 ジェンナロ すまないがフランコ、明日、物を頼まれてくれないか。
 フランコ いいですよ。何でしょう。
 ジェンナロ 組み立て寝室をもとあったように作って貰いたいんだ。
 フランコ いいですよ。
 ジェンナロ 前の木はどうなったんだろう。薪にして、燃やされたのかな。
 フランコ いいえ、全部一まとめにしてありますよ。取り払ったのは私なんです。木は全部パスカリーノの小屋に入れておきました。まだそのままありますよ。
 ジェンナロ それはいい。すると、丁度以前あったように、また組み立てられるんだな?
 フランコ ええ。簡単なことですよ。確か、このあたりにあったんでしたね?(組み立て寝室が昔あった場所を二人で確かめるためにジェンナロと二人で立ち上り、その場所に行く。その時リトゥッチアの部屋から医者、次にアマーリア、アデライーデ、アッスンタ、登場。)
 医者 ではこれで。私は行きます。もう心配はありません。これで大事な一夜が乗りきれるでしょう。この最悪な時期さえ無事に過ぎれば、あとは良くなる一方です。明日朝早く、また来てみます。今よりもっと良くなっている筈です。では今日はこれで。お休みなさい。
 アデライーデとアッスンタ お休みなさい、先生。
(医者、通りへ退場。アマーリア、ゆっくりと坐る。打ちのめされ、疲労困憊。)
 アデライーデ さあ、ドンナ・アマーリア、これであの子は大丈夫。あんた、元気を出すのよ。先生は処方した薬が手に入らなかったから心配していただけなのよ。ね? ちゃんとした薬が手に入ったとたん、お医者さん、まるで人が違ったみたい。ね? 今も先生が仰ったでしょう? 後はよくなる一方ですって。明日になってご覧なさい。女子障害物競走にでも出られるわよ。さあ、私達、こんなことしていられないわ。人参がどうなってるか。焦げ付いてたら大変。何かいるものがあったら言って下さいよ。いつでも大丈夫なんだからね。
 アッスンタ お休み、ドンナ・アマーリア。もう大丈夫よ。
(アデライーデとアッスンタ、通りへ退場。フランコ、玄関の傍の椅子に坐る。ジェンナロ、立ったままじっとアマーリアを見つめる。アマーリア、居心地が悪い。長い沈黙に耐えられず、口を切る。)
 アマーリア どうしてそんな目つきをして私を見るの。誰もがしていることを、私もしただけでしょう? 私は自分で自分の面倒をみなきゃならなかった。誰にも頼ることは出来なかった。誰にも。(間。)どうして黙っているの。どうして何も言わないの。今朝からあなた、ずーっとそれ。ただ私を見つめて、何も言わない。私が何をしたって言うの。私のことをみんなが何て言ってるっていうの。
 ジェンナロ 私にそれを言って貰いたいのか。(間。)よし、それなら言ってやろう。(フランコに。)すまない。外してくれ。じゃ、明日の朝だな?
 フランコ ええ。朝一番で来ますよ。じゃあ。
 ジェンナロ 本当に作れるんだな?
 フランコ 素敵なものが出来ますよ、ドン・ジェンナロ。素敵なのがね。じゃあ。(退場。)
 ジェンナロ(扉を閉めて。)リトゥッチアだが、あれはただ、病原菌のせいで病気になったんじゃない。戦争のあおりを食って病気になったんだ。あの子に起きたことは、丁度この国に起きていることと同じなんだ。なあアーマ、私はここへ帰って来る道々、家のことを考えていた。みんな死んでいるんじゃないだろうか。でも、もし生きていたとしたら、きっと昔通り、正直で、誠実な生活を送っているに違いない、と。私はこの前の戦争、第一次大戦の時と同じ気持で帰って来た。ところが、お前達だけじゃない、みんなが昔とは大違いなんだ。だいたい、誰一人戦争の話を聞こうとする奴がいない。前の時はみんなが群れをなしてやって来た。起った事全てを、事細かに、細大漏らさず聞きたがったのだ。こっちがどれだけ話しても、満足しやしなかった。語りつくして、もう何も残ってないというのに聞かれるので、仕様がないから作り話まで拵えた。質問攻めにあったんだ。ちょっと道を歩いても、「あ、あそこに兵隊さんだ。」と子供が集まって来る。「すごい、本物の兵隊さんだぞ。」「ねえねえ、戦争のこと、話して。」大人でもそうだった。「どうだ一杯。一杯やって、話してくれよ。」今回のこの冷淡さは何故なんだ、アーマ。それはな、今度の戦争にはみんなの魂が入っていなかったからなんだ。これはただ、押し付けられてやった戦争だからなんだ。国民が何かを信じて、その結果出てきた戦争じゃないんだ。そして、それに余計なものがやって来た。金だ。千リラ札が雨あられと頭の上に降り落ちて来たんだ。お蔭ですっかり頭がおかしくなってしまった。最初はそれでも、いちどきに少しづつだった。しかし、それが貯まってきて、降り落ちてくる方も、何万、何十万、となり、ついには、何百万、それからあとは、数の意味などありはしない。多ければ多いだけいい。何百万、何億、何兆だ。ただの数だ。(箪笥の引きだしから三つの札束を取り出し、アマーリアに見せる。)見てみろ、これを。リラだ。何百万か? 何千万か? お前にはこれの馬鹿さ加減が分らないのか。お前にはこの紙の束より大切なものは今や何もないんだ。私には分らない。長いことここにいなかったからだ。少しづつこれが降り落ちて来る光景を見ていないからだ。ここに急に帰って来て、急にドサッとあるのを見ても、何も分りはしない。私にとってはただの紙の山だ。これが悲劇のもとか。しかし、真面目に考えてやることは到底出来ない。ただの紙、気違い沙汰だ。(アマーリアの顔の前に紙幣を投げる。紙幣、ヒラヒラと飛ぶ。)なあアーマ、私はね、これに触っても、何も感じないんだ。私には、ただの紙なんだよ、これは。お前がこの千リラ札に触る時には、身体中がゾクゾクっとするような、手が痺(しび)れるような感触があるんだろう。心臓がどきどきし、血管の中に血が駆け巡って行くのを感じるんだろう。私だって、ここにずっと暮していたとしたら、そうなっていたかもしれない。それは誰にも分らない。(間。)夕べ、リトゥッチアの部屋で、マリーアは何もかも私に話してくれた。何もかもだ、アーマ。それで私はどうしたらいい。あれを通りに放り出すか。父親っていうものがよくやるやつだ。ナポリでだけじゃない。世界中でだ。そう。父親はこいつをやる。いとも簡単にな。それからお前だ。娘に対して、母親の役目が出来ない母親をどうすればいい。私の取るべき態度はどうなのだ。お前を殺すのか。この世界にまだ殺しが足りないとでもいうのか。悲劇がまだ充分にないとでも。喪に服す機会をこれ以上増やさなければならないというのか。それからアメデオをどうする。あの盗っ人のアメデオを。そうだ。あいつは盗っ人なんだ。お前の息子は人の物を盗む。泥棒なんだ。しかし、あいつこそ、この私がどうこう考える必要のない人間なのかもしれない。もう私の手は離れているんだからな。あいつの運命は、誰か私以外の人間が考えてくれる。さあ、これでどうやら私は、家に帰って来たような気持になってきたぞ、アーマ。家に帰ってきた気持・・・つまり、私の場所はここなんだ、という気持だ。家庭が壊れて、チリヂリになろうとしている時、その責任を負って、必死に踏みこたえようとするのが、父親の役目なんだ。(リトゥッチアの部屋を指さす。)リトゥッチアの病気に誰が責任がないと言える。あの病気は戦争のせいだ。すると、誰でもが・・・世界中のあらゆる人間が・・・リトゥッチアの病気の責任を負うているんだ。(間。)なあアーマ、今我々の出来ることは、ただ待つことだ。医者の言ったことを聞いたろう? この一晩が開けるのを待つんだ。(通りに通じる扉へ行き、開ける。街の雑踏が聞えてくる。)
 アマーリア 何だったの? ジェンナ、私達に起ったことは。一体、何だったのでしょう。
 ジェンナロ 戦争だ。戦争だったんだ、あれは。
 アマーリア 分らない。私には分らないわ。(リトゥッチアの部屋からマリーア登場。小さなボウルを手に持って、流しの方へ進む。)
 ジェンナロ ああ、マリーア。お父さんにコーヒーを沸かしてくれないか。
(返事をせずにマリーア、隅の小さなテーブルに行き、アルコールランプに火をつける、小さなコーヒーポットをその上に置く。)
 アマーリア ほんの少し前までは、私は朝になると買い物に出かけていた。アメデオは仕事へ行くついでに、リトゥッチアを学校まで連れて行っていた。私は買い物から帰って、料理を始めた。あれから何が起きたんだろう。夕方にはみんな揃ってテーブルについて、お祈りを捧げてから夕食を食べた。あれから、何が起ったんだろう。
(アメデオ、通りから登場。)
 アメデオ リトゥッチアは?
 ジェンナロ 薬が手に入ったんだ。先生も出来るだけの手は尽してくれた。後は明日の朝を待つだけだ。お前、約束の場所には行かなかったんだな?
 アメデオ うん。気持が変ったんだ。リトゥッチアが病気の、こんな時に・・・よくないと思って。
 ジェンナロ うん。よくないな。帰ってきてよかった、アメデオ。(優しく抱擁する。)リトゥッチアのところへ行ってやれ。まだ熱があるんだ。
 アメデオ うん。すぐ行ってやる。
 ジェンナロ 明日、よくなっていたら、今度はお前の面倒をみてやる。お前が以前務めていたガス会社に一緒に行こう。仕事があるか、聞いてみるんだ。
 アメデオ ああ、それは有難いな。(アメデオ、再び父親を抱擁。リトゥッチアの部屋へ退場。この時までにコーヒーは沸いていて、マリーア、ジェンナロにカップを出す。ジェンナロ、マリーアに許しのキス。)
 マリーア パパ!(キスによって、自由が許された気分。明るくリトゥッチアの部屋に退場。ジェンナロ、コーヒーに口をつけようとする。その時アマーリアの憔悴しきった姿を認める。アマーリアに近づく。)
 ジェンナロ さあ、コーヒーを飲むんだ、アーマ。今はただ、待つしかない。一晩越せるか、じっと待つんだ。
                     (幕)

平成十三年(二○○一年)八月十五日 訳了

この芝居のイタリア初演は一九四五年三月二十五日

この芝居の Peter Tinniswood 訳のイギリスでの上演は下記。

Napoli Milionaria was first performed in this version on the Lyttelton stage of the National Theatre on 27 June 1991, with the following cast:

Gennaro Jovine Ian McKellen
Amalia Jovine Clare Higgins
Maria Rosaria Angela Clarke
Amedeo Phil MaKee
Donna Peppenella Jennifer McEvoy
Adelaide Schiano Antonia Pemberton
Federico Peter Sullivan
Errico Mark Strong
Peppe 'the jack' Ian Burfield
Riccardo Spasiano Richard Bremmer
Brigadier Ciappa Peter Jeffrey
Franco Derek Hutchinson
Pascalino Alan Perrin
Assunta Geraldine Fitzgerald
Teresa Helene Kvale
Margherita Christabelle Dilks
Wine Man Sam Beazley
Doctor Crispin Redman
Policeman Bruce Purchase, Seymour Matthews
Donna Vincenza Judith Coke
Rita (Rituccia) Danielle Dobrowolski, Laura Moretto
Neighbour Alison Johnston
Baker Simon Kunz

Directed by Richard Eyre
Designed by Anthony Ward
Lighting by Mark Henderson
Musical Director Dominic Muldowney