涙なしのフランス語(French without Tears) テレンス・ラティガン作 (1936年)
 
 1936年11月5日、第2回目かつ最後のドレス・リハーサルがクライテリオン劇場で行われた。観客は、作者ラティガン、その母親、興行主のオールバリー、副興行主のピータースとリンパス、演出のハロルド・フレンチ。
 これは酷いもので、アラン(レックス・ハリソン)はまるで便秘しているような演技、またそれを隠しもしない。ロジャー中尉(ローランド・カルヴァー)は練習の時より'ers'を響かせすぎ。ジャックリーヌ(ジェシカ・タンディー)は動作、台詞、悉くのろく、フランス語教師マンゴー(パーシー・ウォルシュ)は、自分がフランス人であることを忘れ、オックスフォード訛りの発音を頻発していた。主役のダイアナ(ケイ・ハモンド)のみが余裕のある演技を行ったに過ぎなかった。
 タンディーは言った。「フレンチさん、明日これを掛けるなんて無理ですわ。リハーサルが足りなさすぎ。それにこれ、芝居じゃないわ、茶番劇よ。」
 フレンチはへこたれなかった。作者ラティガンの気落ちしているのを見て、「元気を出すんだ。(Balls!)」と言い、もう一度ドレス・リハーサルを強行した。
 
 次の日、11月6日(金)は雨で厭な天気であった。しかし観客はこの厭な天気を押して来ているにも拘らず、非常に陽気であった。幕が開き、ケネス(トレヴァー・ハワード)が、宿題の仏作文を考えてブツブツ呟いている時、指定席に坐っていた女優Cicely Courtneidge がゲラゲラッと笑った。やがてブライアン(ガイ・ハミルトン)が登場して、これまで観客が聞いたこともないような酷いフランス語で、女中マリアンヌに朝食を頼む。この時観客の雰囲気は決まった。

ケネス「そんなに(フランス語に)どっぷり漬かっているんなら、教えて下さいよ。彼女はお高くとまっている。(She has ideas above her station.) (このstationは、ステイタスの意味。)」
ブライアン「そうかそうか、忘れていたよ。簡単じゃないか。Elle a des idees au-dessus de sa gare. (彼女は駅の上で考えを持っている。)(フランス語で gareはステイタスの意味にならない。)
 
 観客はドッと沸いた。これ以後何年も、カクテル・パーティーや週末での寛いだ時ロンドンでは、「そうなんだ。station 違いなのさ。」という会話が聞かれることになった。

(この「涙なしのフランス語」は1030回のロングランとなった。)
 (St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年5月6日 記)