ナディヤ
                                      ノエル・カワード作
          海老沢 計慶 能美 武功 共訳  

    G・B・スターンに捧ぐ (彼がいなければ…)


(題名に関する訳註 原題は The Queen was in the Parlour 。これは イギリスのマザーグースの一つ A song of Sixpence の中の一節。「こっそりと女王さまはつまみぐい」とでも訳すところ。この歌は当時のイギリスの皇室を皮肉ったもので、カワードがこの題を採用したことから考えると、この「つまみ食い」は夫以外の男性の意味らしい。参考のため、以下この歌の全文を載せておく。

  Sing a song of sixpence a pocket full of rye
Four and twenty blackbirds baked in a pie
When the pie was open the birds began to sing
Now wasn't that a dainty dish to set before the king
The king was in the counting house counting out his money
The queen was in the parlour eating bread and honey
The maid was in the garden hanging out the clothes
When down came a blackbird and pecked off her nose. )


  登場人物
ナディヤ
ザナ   ナディヤのメイド
ミス・フィップス  ナディヤの秘書
ザルガー国、エミリー大公妃
ザルガー国、ケリー王子
クリッシュ元帥(将軍)
サビアン・パスタッル

  第一幕
 第一場 パリにあるナディヤのアパートの一室
 第二場 第一場に同じ、数時間後
  第二幕 
 クライアー国、王室宮殿におけるナディヤの個人邸宅、一年後
  第三幕
 第一場 第二幕に同じ
 第二場 第一場に同じ、数時間後


     第 一 幕 
     第 一 場
(パリのアパートの一室。狭いが高価な家具が設(しつら)えられている。幕が上がると、舞台は無人。午前五時ごろ。)
(明けがたに近く、光がすでによろいどの間から、薄く射し込んでいる。話声が近づき、ドアを開ける(鍵の)音がする。ナディヤとサビアンが入ってくる。二人とも少しへばっている様子。ナディヤはとびぬけて美人。着ているドレスはとてもシャレたもの。やや派手か。サビアンは夜会用に正装しているが、ネクタイはしわになり、髪はひどく乱れている。ナディヤが部屋の明り(電灯)をつけ、そでなしの外套をなげ捨てる。)

 ナディヤ なんてパーティーかしら。 私もうくたくた。死んじゃいそう。(あくびで言葉がとぎれる。)
 サビアン けだものの目だな、あの電気の光、こいつは駄目だ。外はもう明るい・・・ブラインドを上げて、外を見よう。
 ナディヤ 待って、おしろいをつけてから。(顔におしろいをはたき、口紅をつける。サビアン、ブラインドを上げ、窓と鎧戸を開ける。)
 サビアン ほら、この方がいいだろう?
 ナディヤ(瞬きながら。)ええ、素敵。でも、似合わないわね、この景色、私には。
 サビアン(少しおどけて笑いながら。)自然には咲かない・・・異国趣味の・・・カトレアだからね、きみは。自然にはない・・・異国趣味の・・・
 ナディヤ ねえ、サビアン、あなた、まだ少し酔っぱらってるんじゃない?
 サビアン はっはっ、冗談じゃない。
 ナディヤ(くすくす笑いながら。)そうよ、あなたまだ酔ってるのよ・・・
 サビアン それは疲れてはいるさ、たしかにね・・・でも、頭の方はしっかりしてるよ。
 ナディヤ(まだ、くすくす笑いながら。)今夜は、笑っちゃったわね私、大笑い・・・ジュリーの、あのひどいドレス。まる一年間、毎晩あれを着て寝ましたっていう服ね、あれ。
 サビアン(一緒になって、くすくす笑いながら。)うん、最高だったね、あれは。ありゃ全く・・・最高だった!
 ナディヤ それに、聞いた、あれ、あの人の歌った Toi que j'aime 。まるでモーリス・ノルマン気取り。(ナディヤはシャンペンとひどい疲れ、それに笑いがとまらない。体を前後にふらふらさせながら、窓の方に進む。)
 サビアン ひどかった・・・その一言だね、あれは!
 ナディヤ(窓の所で。)早朝のパリって、本当に新鮮で、清潔だわ。
 サビアン おそろしいくらいにね。(窓に近づき彼女とならぶ。)
 ナディヤ 処女みたいに。
 サビアン 処女、それはないだろう。
 ナディヤ もちろん、処女よ。あなたには分からないの。
 サビアン 処女ね、素敵な考えだよ、全く。
 ナディヤ 私がパリをほめるとすぐからかうのね。ひどいひと。
 サビアン 僕もパリは大好きさ。だって、パリなんだからね、きみと出会ったのは。
 ナディヤ ありがとう、サビアン。そのいい方、優しいわ。
 サビアン 畜生!
 ナディヤ どうしたの?
 サビアン ごめん、あまり幸せだと変になることがあるんだ、君は?
 ナディヤ あ、あそこに、市場にいく荷車!
 サビアン 僕はよく、きみへの僕のこの感情、そのうちのどれくらいが肉体の愛で、どれだけが精神の愛か、何時間も考えることがあるんだ。難しいね、この問題は。
 ナディヤ 荷車を馬がひっぱってる。退屈そう!
 サビアン 精神的愛は永遠に続く、だけど肉体的な愛は続かない、そう言うからね。
 ナディヤ 私、エッフェル塔大好き、どうしてみんな好きじゃないのかしら。ユージェニー皇后陛下、あの方でさえ、お好きじゃないなんて。
 サビアン ねえ、続かないって、思う?
 ナディヤ 続かないって、何が?
 サビアン 僕の話きこえてるんだろう、ナディヤ。 僕は、肉体的な愛は続かない、って言ったんだ。ユージェニー皇后陛下の話はどうでもいい。君、どう思う?
 ナディヤ 変わらないものはないのよ。だからだわ、人生がこんなに空っぽで、何かの冗談みたいに見えるのは。
 サビアン やめてくれ、そんな言い方。
 ナディヤ どうして?
 サビアン 不真面目だよ。
 ナディヤ 続くだの、続かないだの、そんな話、始めるからいけないの。時間の無駄だわ。時間って、大事なのよ。
 サビアン 僕らには、悠久の時間がある。
 ナディヤ 悠久?
 サビアン きみが僕に、愛想をつかさなければね。
 ナディヤ 馬鹿なこと。
 サビアン 馬鹿じゃない。きみは僕に愛想をつかすかもしれないんだ。気が変わりやすいたちだからね、きみは。
 ナディヤ やめて、そんなことを言うのは。
 サビアン 今夜は、きみ、エリーズにずいぶん、あたっていたね。
 ナディヤ だってあの子しつこいんだもの。
 サビアン しつこいとはひどいね。
 ナディヤ あの子のあたまって、へちまよ、きっと。
 サビアン 頭ごなしだな、まるで権柄づくだ。
 ナディヤ(体ごと後ろむきになって)やめて、サビアン。そんな言い方。
 サビアン あらあらあら、ナディヤ、ナディヤ、ナディヤ、どうしたんだい。
 ナディヤ コーヒー、のむ? いれてきましょうか?
 サビアン うん。手伝うよ。
 ナディヤ いいえ。だって、あなたって何でもやり過ぎ。結局、大騒ぎになっちゃうんだから。ここにいて、朝日でも拝んでてちょうだい。すぐもどってくるから。(立ち上がる。訳註 ここまでのどこかで二人、窓辺から移動して坐っている。)
 サビアン(彼も立ち上がり、窓を背にして寄りかかりながら。)もし、今僕がここから身投げしたら、大変かな?
 ナディヤ ええ、大変よ、それに馬鹿なこと。(ナディヤ、上衣を取り、出ていく。)
 サビアン(彼女がまだそこにいると思って。)僕には自殺はできないな。そんな勇気はない、何が起こったとしても。一体どんな感じがするんだろう、全てが止まるまさにその一瞬には。感じなんてないんだろうな、全く、何も。でも・・・(振り返って)あれ? なんだ、いないのか! (ナディヤが部屋に戻ってくる。)
 ナディヤ なにか言ってた?
 サビアン きみがまだ部屋にいると思っていてね。結局、長い独白か。自殺についてね。
 ナディヤ まあ、面白そう!
 サビアン(思いにふける様子で。)考えると面白いんだよ・・・死後の世界って、あるのか、ないのか。あるとすれば、それは一体どんな所なのか。
 ナディヤ 私が気掛かりなのはこの世、それどまり。それより先の世は考えない。
 サビアン それより先の世を考えないんじゃないんだ、きみのは。先のことはまるで考えないんだ。今日一日を生きる、まるで、蝶々のように、気ままに・・・
 ナディヤ 私を物にたとえるのはやめて。さっきはカトレア、今は蝶。どっちでもないのよ、私は。
 サビアン ちょっとちょっと、僕にどならないで。きみってこわいね、怒らせると。
 ナディヤ(笑いながら。)私には先のことなんて考えられないの、だって、今が一番幸せで満ち足りた瞬間なんだから。
 サビアン うん、そうこなくっちゃ!(あくびがでる。)あーあ、眠くなってきた。
 ナディヤ さ、すわって。もう、ぶつぶつ言わないの。 ザナが起きちゃうわよ。私、コーヒーをのせてくるから。
 サビアン のせるって、何だい?
 ナディヤ ガスレンジの上によ、勿論。(ナディヤ、出ていく。サビアン、漆塗りの箱から煙草を一本取り出し火をつけ、寝椅子に寝転ぶ。足を上にあげて、低い調子で鼻うたを歌う。ナディヤが二組のカップとソーサー、それに砂糖入れをのせたトレイをもって、戻ってくる。)ザナったら、どうせまたコーヒーって言われると思ったのね。すっかり支度ができていたわ、後はただガスの火をつければいいように。
 サビアン あと三日か・・・素敵だなあ。
 ナディヤ(彼を見下ろしながら。)ええ。
 サビアン キスして。
 ナディヤ どうして?
 サビアン 僕を愛してるんだろう?
 ナディヤ ずいぶんありふれた理由。(屈みこんで彼にキスする)はい!(サビアン、ナディヤを抱きしめて押したおす。)いや。ねえ。やめて、しつこくしないで!(もがいて身を引き離す。)
 サビアン 二度目の結婚、楽しみ?
 ナディヤ ええ、最初の結婚が涙が出るほど、大成功だったから。
 サビアン アレックスとは違うはずだよ、僕は。
 ナディヤ それは違うでしょう。あんなひどい人はいるはずがない! 私、そう自分に言いきかせて、自分をなぐさめてきたの。
 サビアン 君があいつのことをがまんしていたっていうのが、僕には不思議だよ。
 ナディヤ 不思議でも何でもいいの、もうやめて。不愉快な過去をこんな時に思い出すなんて馬鹿なことだわ。(左手でサビアンの髪をさすりながら、右手で煙草を一本とる。)
 サビアン きみは最高だよ。(マッチをすって、火を差し出す。)
 ナディヤ ありがとう。
 サビアン(もう一度、満足げに寝椅子に背をもたせ)愛してるよ、きみのこと・・・とても、愛してる。
 ナディヤ ありがとう、サビアン。
 サビアン さあ、今度はきみの番。
 ナディヤ(なにげなく、ほつれた髪をピンでとめて。)愛してるわ、あなたのこと・・・とても、愛してる。(ピンは予め女の髪の毛に数本ささっている。)
 サビアン ありがとう。
 ナディヤ(もの思わしげに。)でも、どうしてかしら・・・
 サビアン(笑いながら。)それは、僕が完璧な容姿の持ち主で、しかも男としての美徳は全て備えているからさ。
 ナディヤ(真面目に。)そうじゃないの。私が言いたかったのは、どうしてこんな幸せが、私にめぐってきたのかって・・・今になって。私はそんな幸せに値しないの。
 サビアン(感情を込めずに。)いや、きみはどんな幸せにだって値するよ、あの三年間、アレックスという男に耐えたじゃないか、その代償だ。
 ナディヤ 違うわ、逆よ。あの時から・・・私は何の幸せにも値しない女になった。馬鹿で浅はかで、安っぽい女になったの。
 サビアン さあ、もうお願いだから、自己嫌悪はやめるんだ。悪い癖だよ、それは。特にパーティーの後でやるんだからね、君は。
 ナディヤ そうね、パーティーの後はいつも・・・駄目なの、私。
 サビアン まあ、たいてい誰でもそうだけど。
 ナディヤ 私って馬鹿で安っぽい女、こんな簡単な言い方ですむのは私たちの間でだけね。だって、私たち二人とも他の人から見たらとんでもなく自由な価値観を持ってるんだわ。だから、本当に上流の社会、ちゃんとした人たちに私がどう見えるか、それははっきりしている。そう、私なんて言語道断の極悪人ね。
 サビアン(笑いながら。)言語道断はよかったね。 
 ナディヤ ああ、サビアン、からかわないで! ねえ、私、本当に後悔してるんだから。
 サビアン 何を?
 ナディヤ アレックスが死んでから今日までの私の生活。
 サビアン そんな無茶苦茶な言い方はないよ、それじゃまるで・・・(僕が君と知り合ったことも・・・)
 ナディヤ まるで?
 サビアン わかった、わかった。
 ナディヤ あなたってほんとに不思議。私のあんな過去を知って、それが素敵だと思うなんて。
 サビアン きみの過去! それが一体、何だっていうんだ。 僕に未来がある限り、そんなもの。
 ナディヤ その台詞、どこかで読んだことあるわ。
 サビアン 勿論あるさ。恋愛小説だろ! ねえ、ナディヤ、どんなに皮肉屋で醒めきったような人達でも、誰かを恋するようになったが最後、まるでそれまでの皮肉屋が嘘みたいに、ロマンティックで真摯な態度になるんだ。 
 ナディヤ 本当の皮肉屋になんて、なれっこないのよ。正しい心の持主なら。
 サビアン(興奮して。)でも、僕の恋は本物だよ、ナディヤ! 今まさに僕の心は、君への恋であふれそうさ。君への恋だけでね。 きみのために何かしたいんだ、素晴しいことを・・・
 ナディヤ ええ。   
 サビアン 戦うよ、君のために!
 ナディヤ 素敵!
 サビアン 馬で君を連れ去る!
 ナディヤ(きっぱりと。)駄目。
 サビアン オーケー、馬はやめだ!
 ナディヤ(笑いながら。)おかしな人。
 サビアン どうも、やる気がそがれるなあ・・・僕は本気で、きみを守る理想の騎士、勇壮をきわめた英雄になれたらって。きみのためなら死んだって・・・
 ナディヤ そんなこと言わないで、それこそ馬鹿げてるわ。
 サビアン いや、本気で、そう思ってるんだ。
 ナディヤ(立ち上がりながら。)とにかく、台所みてくるわ、コーヒーが吹きこぼれて、きっと水びたしよ。(彼女は出ていく。サビアンは寝椅子に寝転び、クッションに顔を埋める。ナディヤがコーヒーポットを持って、入ってくる。)焦げてないと、いいんだけど。(コーヒーをつぐ)
 サビアン(顔をクッションに埋めたまま、話す。)うむうむ、うむうむ、    
 ナディヤ なあに?  
 サビアン(起き直って。)たぶん焦げてるだろうなって、
 ナディヤ ねえ、飲んでみて。   
 サビアン(カップを取って。)きみも飲むんだ、同時に。 
 ナディヤ ええ、いいわ、ちょっと待って、(テーブルから彼女のカップを取って。)はい。(二人、同時に飲む。ほっと、安堵の溜息。)よかった、焦げてない。  
 サビアン うん、うまい。 ところで、明日はどうするつもり?
 ナディヤ あしたって、今日のこと?
 サビアン そうか・・・そう、今日のこと。
 ナディヤ 昼食の時間まで眠って、それから車であなたを迎えにいくわ。お昼は軽く、ラプルーズでごく軽く済ませましょう。その後、ブーローニュの森を少しドライブして、それから私はドレスを合わせに行かなくちゃね。
 サビアン 衣装合わせは、絶対、欠かせないね。  
 ナディヤ それから、戻ってきて、「ルイーズ(芝居)」をちゃんと楽しめる気分になるまで休むわ。私、「ルイーズ」って大好き。あなたの腕をしっかりつかんで、嬉し泣きをするの。おかげであとは夕方まで私の顔きっとひどいわ。 
 サビアン そう、それで、僕たちの結婚がまた一日分、近づくんだ。
 ナディヤ ええ、一日分、近づくのね。  
 サビアン もう一度、自分の国へ帰りたいかい、クライアーに? 僕たちが、結婚した後。
 ナディヤ たぶん・・・いつかはね。クライアーでは、私、不幸せだった。でも、あなたと一緒なら、どんな悲しい思い出にも、笑って向き合えると思うわ。 それに、とても美しい国なの。 
 サビアン 素敵なところらしいね、きみの話によると、何処もかしこも。僕も見てみたいな。 
 ナディヤ 丘は、非の打ちどころがなく、森は、イギリスの春の森のよう、釣り鐘草や桜草の花が咲いていて。それに陽気で楽しい人たち。いつも変わった不思議な服をきて・・・小さな村では特に・・・明るい色の服をきて、厚手でおかしな靴をはいていた。私、ターニャ伯母さんとよくドライブしたの、するとみんなで喝采して、おじぎをしてくれて、車の中に花を投げてくれたわ。
 サビアン ターニャ伯母さんって、女王様だった人?
 ナディヤ ええ、そう。 あともう少し、生きていてくれたら、何もかも違っていたでしょうね。
 サビアン アレックスとは結婚しなかった、ということ?
 ナディヤ そう。伯母が生きていてくれたら、義理の母も私にあの結婚を無理強いできなかったわね、きっと。私もはっきりいやだと言ってたでしょうし。 ターニャ伯母さんは私をとても気に入ってくれていたわ。何もかも、ずっといい方へ変わっていたわ。私はどこかの育ちのいい若い男性と結婚して、程々に退屈な社交生活を送っていたでしょうね。子供でもいれば退屈することもないし、つらい思いをすることもなかったはず・・・そして、それを乗り越えて、そう、こんな風にここにいることも。 
 サビアン ああ、僕は嬉しいよ、きみがつらい経験をしたこと。君がそれを乗り越えたことが。
 ナディヤ そう、私も嬉しいわ、今となっては。
 サビアン きみには、礼儀作法に厳しい奥方にはなって欲しくないな。だって、きみには王家の血が流れていて、いつだって自然に、僕の方がきみの言葉に従うことになるんだからね!
 ナディヤ 私は自分の国を捨ててしまったの・・・いえ、私の方が見捨てられた、そう考えるべきね、少なくとも私は。だから、もう長いことクライアーのことは聞いていないわ。クリッシュからも、もう殆ど手紙が来ないし。  
 サビアン クリッシュ?
 ナディヤ 彼のことは前に話したわ。私の一番のお友だち、子供の頃からの。そう、今でも。どんなに久しく離れていても、こうした友情には変わりがないものでしょう。クライアーでは、彼だけなの、アレックスが本当はどんな男か知っているのは。
 サビアン それで、彼が連絡役をしてくれていたんだね?
 ナディヤ ええ、つい最近までは。たぶん、もうすぐまた、彼から知らせがあると思う。
 サビアン 彼の他には誰も、アレックスの仕打ちを知っていた者はいないのかい?
 ナディヤ 彼の家族と義理の母だけは。 でも、知らないふりをしていたわ。
 サビアン あったことを全部、僕に話すんだ。
 ナディヤ(笑いながら。)こわい顔しないで、サビアン。それはもう、心の奥にしまいこんじゃったの、永久に(絶対に)。 
 サビアン 話をつづけて、聞いてるから。
 ナディヤ コーヒーもう少し、いかが? 
 サビアン 話してくれ、あいつの仕打ちがどんなにひどいものだったか、きみがどんな扱いを受けたのか・・・聞けば、僕の心は同情に猛(たけ)り狂い、きみに接吻し、あの幽霊どもを地の果てまで追い払わずにはいられないだろうけど。
 ナディヤ ついてなかったの、最初から、何もかもうまく行かなかったわ。
 サビアン いいぞ。なかなかいい出だしだ!
 ナディヤ(大げさに。)生まれた日に、運命の女神が、汚い指で、印を付けていたのね、ちゃんと。 
 サビアン ちょっと、わざとらしいけど。
 ナディヤ 洗礼の日には、乗合いバス一台分も、悪い妖精たちが押し寄せたんだわ。
 サビアン いいぞ・・・
 ナディヤ それから、あの結婚式! ああ、サビアン、あの結婚式を見たら、あなた笑い転げてたわ。国中、到るところで大騒ぎ。勿論、お役所も会社も商店もみんなお休み。子供たちの花戦争、夜には松明の行列。全てが準備万端、整ってた、クライアーの習慣どおりに。アレックスに会ったのは三回だけだったわ。到るところに、私の顔、顔、顔。子供のビスケットの箱から流し目を送っている私、掲示板からじろっと見下ろしている私。ひどいのは、私の薮睨みの顔。
 サビアン 食欲がなくなっちゃうね。
 ナディヤ もう気にもしていなかった、通り越していたのね、自分の顔なら鏡でいつもみていたから。私、自分が酷い目にあった話するのなんて平ちゃら、何時間やったっていいわ。でも、ウエディングドレスの話だけは、別。王家伝来の宝飾品で飾り立てられて、私、まるでクリスマスツリー。それとも色ガラスでできたチョコレート入れ。動きも何もできやしない。誰かが頭のところを捻れば、首のあたりで銀紙に包まれたチョコレートがでてくる。
 サビアン かわいそうに。
 ナディヤ でもね、私とても人気があったのよ、サビアン。愛されていたの。今はきっと違うわね。私、随分変わったから。
 サビアン ありがたいことに。
 ナディヤ アレックスも素晴しい人気だった。背が高く、見るからに軍人、美男子。もてる条件は、全て備えていたの。私たち、ハネムーンは、登山だった。
 サビアン で、きみは愛されていなかった。
 ナディヤ ええそう、まるで。でも、そんなこと問題じゃなかったのよ、誰にとっても。愛なんかどうでもよかったの。
 サビアン そりゃそうだろうね。
 ナディヤ 私たちが初めて一緒に晩餐をとった夜、アレックスが泥酔。おかげで私もさんざん。きっと酷い状態だったでしょうね、外から見たら。彼、ごっこ遊びを始めたの・・・それも陰惨なごっこ遊び。私はあの人の奴隷か何かの役。あの人を怖がって部屋中逃げまわらなきャいけなかったの。それを私、走ってやらなかった。本当は怖くてしょうがなかったのに、ただゲラゲラと笑ってやったの。それが、あの人にはしゃくだったのね。当り前のことだけど。だって私がわめきながら逃げ回る姿が見たかったんだもの。それが失敗。だから今度は、幽霊とか人殺しとか、そんな怖い話を始めて、私を怯えさそうとしたわ。でも、私の心はとっくに怯えていたわ。その前のごっこ遊びで。そして、ただただ笑ってやったの。ゲラゲラゲラゲラ。馬鹿みたいに。
 サビアン なんて奴だ。
 ナディヤ 天国のようなハネムーンの後は、ロデッルの城に戻って、そこで披露宴。大勢、皇族や貴族の方を招待して。ああいう席では全てが型通り、お行儀よくしてなくちゃいけないでしょ? いやでたまらなかったわ。アレックスの女あそびは、それまでもずっと続いていて、お相手の何人かはそれ相当の身分の女だったから、会わなきゃならなかったの、アレックスの言いつけで。あの人たち、陰でいつも私を軽蔑していたわ、私が何も知らないと思って。
 サビアン でも、まわりはきっと、気が付いていたんだろう?
 ナディヤ 気が付いていたでしょうね、たぶん。でもアレックスはハンサムで、スポーツマンだったから、もてるのは当然って。
 サビアン なるほど。
 ナディヤ(ゆっくりと。)そうね、予感はしていたわ。何かが、いつかきっと自分の身にふりかかるんじゃないかって。私って何か悪いことを予感する能力があるの。いやだわ、こんな能力、陰気になるだけ。
 サビアン 馬鹿な話はよすんだ。きみに今、予感があるとすれば、それは幸せだ。幸せの予感だ。それも完璧なね。受け合うよ。
 ナディヤ そうかしら。
 サビアン 大丈夫、心配するだけ損さ。
 ナディヤ さっき話しながら、少し寒気がしたの、ここはこんなに暖かで安全だっていうのに。お日様もちょうど出てきたわね。でも、さっき話してるとき、ちょっと。
 サビアン 風邪かい。
 ナディヤ(笑いながら。)いえ、そういうのじゃないの。  サビアン やっぱり、クライアーへ行くのはよそう。結婚しても。きみを悲しませるだけだろうから。
 ナディヤ(視線を落として。)そうね、悲しくなるわ、きっと。でも、いつかは行かなくっちゃ。だって、私が生まれたところなんですもの、それに・・・そうね、クライアーは私の体の一部・・・いいえ、私の方があの国の一部かもしれない。とにかくそんな気がするの。
 サビアン いま、思いついたんだけど、
 ナディヤ 何を?
 サビアン 例の計画を実行するのさ、予定通り行こうが行くまいが。ランチの後でブーローニュの森をドライブする、あれはやめにしよう。結婚するのさ、今すぐ。 
 ナディヤ 無理よそんなの、何も準備してないんですもの。
 サビアン 何もいらないんだよ。きみと僕、それさえいりゃいいんだ。
 ナディヤ 私たちだけでこっそり結婚したら、みんな怒るわ。だってみんな木曜日を楽しみにしているのよ、それにパーティも。
 サビアン うーん、僕はちがう、もうパーティはあきたよ。それにうじゃうじゃと取り巻いてくるあの連中にも。僕としては一刻も早く、静かに式を済ませて、きみと二人だけで出て行きたいんだ。
 ナディヤ(急に。)わかったわ、結婚しましょう。でも、式には立会人が必要よ。   
 サビアン シュザンヌに頼もう、もちろん。
 ナディヤ そうね。早いけど、起こしちゃいましょう。
 サビアン それにモリッスだ。怒るだろうからな、あいつなしでやったら。
 ナディヤ もうねるのは止めたわ、私。
 サビアン 僕もだ。
 ナディヤ 式が済んだら、そのまますぐ、ハネムーンね、説明は二人にまかせて。
 サビアン それがいい。二人も喜んで引き受けてくれるさ。
 ナディヤ 今日も素敵な日になりそうね。見て。(と外を指さす。)
 サビアン 車が動きだしたね。
 ナディヤ ええ、みんな、活動開始。
 サビアン さあ、シュザンヌを電話で起こそう。
 ナディヤ まだ6時よ、無理じゃない?
 サビアン 無理じゃないよ。誰かに言わなくちゃ、言うだけでもしないと、気が変になりそうだよ。
 ナディヤ きっと、怒るわよ。シュザンヌ。
 サビアン まっかになってね。
 ナディヤ じゃ、うまく頼んでね。
 サビアン(電話を取って、テーブルの端に坐り。)もしもし・・・もしもし・・・エリゼー通り一八四五をお願いします。・・・そう、一八四五です。まだ熟睡中だぞ、きっと。彼女、電話は部屋にあるのかな? 
 ナディヤ そうよ、ベッドのそば。(面白がって。)そう、ずいぶん耳に近いところ。きっと、死ぬほどびっくりするわよ。
 サビアン 彼女、口を開けたまま眠るのかな?
 ナディヤ 知らないわ、どうして?
 サビアン おばさんがね、いつも口を開けて眠る人だったんだけど、急に誰かに起こされて、もう少しで舌を噛み切りそうになっちゃってさ。(笑う。)
 ナディヤ あら、大変。(ナディヤも笑う。)
 サビアン 舌をかむって痛いんだよ、もうどうしようもなく痛いんだ。(体をよじって笑う。)
 ナディヤ(笑いがとまらず。)もうやめて、お願い、サビアン。  
 サビアン(手に持った受話器が揺れて。)だめだ、手に力がはいらない。  
 ナディヤ(笑うのは。)やめて。シュザンヌ、怒っちゃうわよ。 
 サビアン(興奮して。)あっ、彼女だ! シュザンヌ、きみかい?(うなずく。)彼女だ。シュザンヌ! 僕たち・・・(言葉がとぎれて笑いに変わる。)
 ナディヤ(気持ちを抑えようと努めながら。)かしてちょうだい、お願いだから。(サビアンの手から受話器をひったくって。)もしもし、シュザンヌね。 
 サビアン 声の様子からすると、どうやら舌をかんじゃったみたいだぜ。
 ナディヤ ねえ、聞いて、シュザンヌ・・・私たち・・・(ナディヤも言葉が続かず、笑いが抑えきれない。二人とも立ったまま、体をよじって笑う。)だめだわ、話せない。(受話器を置いて、崩れるように椅子に坐りこむ。)
 サビアン(目を拭きながら。)もう二度と、僕たちとは口きいてくれないだろうね。
 ナディヤ 金輪際、だめでしょうね。怒らしちゃったわ。私たち、一生、恨まれるわね。
 サビアン 最高の友だちだったのに。
 ナディヤ 最悪ね。
 サビアン 最悪だ。(二人、再度、笑う。電話のベルが鳴る。)
 ナディヤ あら、彼女よ、きっと。
 サビアン カンカンに怒ってるぞ。どっちにする? 説明するの。
 ナディヤ(まだ笑いながら。)私の方がよさそうね。(電話にでて)もしもし。はい、シュザンヌ。・・・あー、お願い、そんなに怒らないで。違うのよ、ほんとに。(サビアンに)怒り狂ってるわ。(シュザンヌに。)あなたがひどく怒ってるって、サビアンに言っただけ・・・ええ、そう。だって、歯ががちがち鳴ってるのが聞こえるんですもの。ねえ、きいて。説明させてちょうだい・・・違うの、そうじゃないの。しらふよ、彼、酒なんて一滴も。・・・あのね、とっても大事なことを知らせたかったからなの・・・そう、すごく大事な話。私たち結婚することに決めたの、今日。木曜じゃなくて・・・そうよ、待てないの。・・・そんな意地悪いわないで、シュザンヌ。ねえ、立会人になってくれない? 衣裳なんか、全然。誰も見てやしないから。・・・いいわよ、あのブルーので。モリッスもつかまらないかしら?・・・ええ、それでいいわ。ラプルーズに一時ね・・・いいわ。十一時までには行ってる・・・さよなら。(受話器を下ろす)いい人だわ、あの人。ああ、サビアン、夢じゃないわよね。
 サビアン 夢じゃないさ、今日なんだ。わかってたんだ僕には、木曜まで待てるわけがないって。
 ナディヤ(興奮して。)いま、何時?   
 サビアン 六時十五分すぎ。
 ナディヤ 私、ザナを起こさなくちゃ。必要な書類は、全部、ある? 許可証とか何か。
 サビアン うん、全部、揃ってる。ちょっともどってシャワーをあびてから、着替えてくるよ。
 ナディヤ ねえ、十二時には、ここに迎えにきてちょうだいね。買わなくちゃいけない物が少しあるの。  
 サビアン(両腕の中に彼女を抱き。)こうしていることが、おそらく世界中で一番、完璧な瞬間だろうね\ きみと二人だけで、ここにこうしていることが。全てが今、ここから始まるのさ。僕らの新たな素晴しい前途を祝して、乾杯しよう。
 ナディヤ 大賛成!   
 サビアン 賛成なら、いいんだ。幸せな時には、その幸せを表わす行動が大切なんだ。お酒はどこ?
 ナディヤ とってくるわ。隣りの部屋から、グラスを二つお願い。(走り去る。)
 サビアン オーケー。(サビアン、部屋から出て、グラスを二つ持って、またすぐに戻ってくる。)
 ナディヤ(舞台の外から。)ちょっときて、栓を抜いてちょうだい。(サビアン、出て行く。ほんの少し間をおいて、二人、シャンペンのボトルを持って入ってくる。)   
 サビアン グラスはここ。
 ナディヤ 私が注ぐ。やらせて。あなたは窓を開けてちょうだい。いっぱいにね。
 サビアン(窓を両側に開けながら。)さあ、一緒にここに立とう。陽が射して暖かな光の輪の中に。
 ナディヤ 私たちの前途を祝して、乾杯。(手にしたグラスを掲げる。)   
 サビアン(同じくグラスを掲げて。)僕たちの前途に栄えあれ! いつまでも、二人そろって。(ともにグラスを乾す。)太陽のやつ、雲に隠れちまった。気がきかないやつだな。
 ナディヤ(挑発的に。)そんなこと、どっちだっていいでしょ。(床にグラスを放り出し、壊す。)   
 サビアン そうさ、どっちだっていいさ。(彼も床にグラスを投げ、ナディヤを抱きしめる。)
                    (幕)

     第 一 幕 
     第 二 場
(第一場に同じ、数時間後。幕が上がるとザナが部屋の片付けをしている。ナディヤの歌う声がバスルームから聞こえる。玄関で呼び鈴が鳴る。ザナが出て行き、扉を開く。クリッシュ将軍、登場。)
 クリッシュ あのお方はもうお目覚めだね。
 ザナ はい。
 クリッシュ すぐにお会いしなければならない\ 重要な用件なのだ。
 ザナ お伝えします。
 クリッシュ 私を覚えているね、ザナ。
 ザナ はい。
 クリッシュ 変わらないな、ザナ、お前は。
 ザナ ええ。
 クリッシュ お元気でいらっしゃるのだな? あの方は。ずっとお幸せだったんだね?
 ザナ はい。(急に泣きだす。)
 クリッシュ(すぐに。)どうしたんだ。なぜ、泣く?
 ザナ(気持ちを取り直し。)すみません。私、とても怖いのです。あなた様が悪い報せをお持ちになったのではないかと。 クリッシュ 悪い報せ・・・いや。意外な報せというべきだな、これは。
 ザナ(ためらいがちに)あの方は、今日ご結婚なさるのです。
 クリッシュ 何だって! 
 ザナ 二時に。
 クリッシュ 結婚・・・結婚だって! 誰と?
 ザナ パスタッル氏です。 サビアン・パスタッル。
 クリッシュ サビアン・パスタッル!
 ザナ お二人は今とても幸せなのです。 とても愛しあっておられます。
 クリッシュ 私が来たと伝えて欲しい、ザナ。
 ザナ 畏まりました。(ザナ、出て行く。クリッシュは窓のところに行き、外をみる。ザナ、戻る。)お会いになります。今すぐ。
 クリッシュ そうか。ありがとう。
(ザナ退場。クリッシュは写真たてを見る。サビアンの大きな写真あり。写真をよく見ようと腰をかがめる。ナディヤ登場。豪華な部屋着姿。不安のため、表情が固い。)
 ナディヤ クリッシュ! クリッシュ!
 クリッシュ ナディヤ様。(ナディヤの両手にキスする。)
 ナディヤ 珍しいこと。何年ぶりかしら。来るってこと、何故知らせてくれなかったの?
 クリッシュ 時間がありませんでした。
 ナディヤ なぜ来たの? 突然、こんな風に。何故?
 クリッシュ お報せがあるのです。
 ナディヤ クライアーからの?
 クリッシュ はい。
 ナディヤ クライアーからの報せなら、聞いても無駄ね\私もう、忘れたの、クライアーは。
 クリッシュ お忘れに? クライアーのことを。
 ナディヤ ええ。私のあそこでの生活は全て、永久に、消えてしまった。もう無いの。・・・私、今日、結婚式・・・その人をとても愛している。ああ、そんな風に見ないで、クリッシュ。何なの? 何があったの?
 クリッシュ 勇気を奮い起こして戴かなければ、ナディヤ様。過去に何度も、私の目の前でお示しになった、あの類(たぐい)稀なる勇気を。クライアーの血筋が絶える事態が生じたのです。もしあなた様がお戻りにならなければ。
 ナディヤ 私が、戻る? 何故。どういうこと?
 クリッシュ 王様の弟君が、六カ月前にお亡くなりになりました。覚えておいでのことと思いますが。
 ナディヤ ええ。あなたからの手紙にあったわ。
 クリッシュ 王様はスタイヤー国のマーリア様とごく最近、ご結婚の予定でした。そうなれば、恐らくは後継者もでき、富裕なスタイヤーとクライアー、この二国間のきづなは堅固なものとなっていたでしょう。
 ナディヤ それで?
 クリッシュ その王が四日前、暗殺されたのです。
 ナディヤ 暗殺! マイケルが殺された!
 クリッシュ はい。今までも、小さなもめごとはありました・・・でも大したものではありませんでした・・・川下の地方で暴徒が出たり、民衆によるデモが一、二度あった程度です。いつの世でもその種のことをしでかす扇動家や革命家きどりの気違いはいるものです。マイケル様は実際、民衆の人気はなかったのですが、我々はこの結婚で、そうした状況が変わるものと信じていたのです。それが、金曜の晩でした。ご夕食後、庭を歩いておられるところを待ち伏せされ、刺し殺されたのです。
 ナディヤ ああ、なんて酷いことを!
 クリッシュ クライアーでは、サリー法が今も存続しているのです。従って、次の王位継承者はナディヤ様、あなた様です。
 ナディヤ クリッシュ、やめて!
 クリッシュ あなた様が今では女王なのです。正式な王位継承権にもとづく。その事実は誰にも変えられません。
(やや間の後、ナディヤ、少しヒステリックに笑う)
 ナディヤ だからあなたが来たのね。そう、わかっていたわ! でも、大丈夫。大丈夫にきまっている。・・・私、今考えた。今十分に考えて、結論が出たわ。私は女王にはなれません、クリッシュ。絶対に。だって私、死んでいるの。あなたがここに来て発見したこと、それは私が既に死んでいて、数週間が経っていたってこと。わかるでしょう? とても簡単なこと。ね?
 クリッシュ(頭を振りながら。)駄目です。
 ナディヤ 簡単なことよ。誰にも分かりはしない。私、今日、フランスを発つわ。イギリスかアメリカに。私を追おうとしても無駄よ。名前が変わるんだから。結婚して名前が―(胸が詰まって声がとぎれる。)
 クリッシュ ナディヤ様。いけません、それは。どうか、そんなことは・・・
 ナディヤ(狂暴に。)見逃がして・・・私に行かせて! 
 クリッシュ ナディヤ様。自制心を。どうか自制の心を!
 ナディヤ 自制心! 自分の人生を、全て自制心のために捧げろって言うの?
 クリッシュ そうです。
 ナディヤ ああ、酷いわ・・・酷い。そうでしょう! あなたには何かできたはずよ。
 クリッシュ 私にできたこと! ないです。ありません、そんなこと!
 ナディヤ(狂ったように。)戻るくらいなら、死んだ方がいい、自殺します。分かるわね? クリッシュ。お願いだから、どうか助けて、私の逃亡を。私にとってそれがどんなに大切なことか、あなたには分からないかもしれない。いい? 何年も前、私は思ったの。もう決して幸せにはなれないだろうって。あの辛い、酷い結婚のお陰で、もう私は、何かに満足したり、喜んだり、そんな力はすっかり枯れてしまったって。それでも私、ずっと探し求めていた。はかない望みだと知りながら。そして遂に、今、この数週間のことだわ。探していたものが見つかったのは。それがサビアン! この世の何よりも、誰よりも私を愛してくれている人! 私も心から、気が狂いそうなほど愛している。他のことなんて、もうどうでもいい。生まれて初めて、自由とそして幸福を見つけたの。その自由と幸福を奪わないで! 取り上げないで!(ナディヤはむせび泣きを抑えられない。膝の上にうずくまる。クリッシュは慰めるようにナディヤの髪に手を当てる。それから自分の脇にあるソファーの上にナディヤの体を引き上げる。)
 クリッシュ(優しく。)ナディヤ様、どうか・・・実は、一晩中旅を続けたせいで、疲労困憊(こんぱい)。空腹で倒れそうです。何か軽い朝食をザナに作って貰いたいのですが。
 ナディヤ あら、ごめんなさい・・・ええ勿論。ひどくお腹がすいている筈ね。ザナ、ザナ、(両目を拭い、気持ちを取り直そうと努める。ザナ、再び登場。)
 ザナ はい、マダーム。
 ナディヤ 将軍に何か朝食を用意して・・・すぐに、出来るだけ早く。
 ザナ 何をお召し上がりになりますか、将軍。
 クリッシュ 何でも・・・何でも構わない。それとコーヒーを少し。
 ザナ では、オムレツを。
 クリッシュ そいつはいい。オムレツで命拾いできそうだ。ありがとう、ザナ。
(ザナ、出て行く。)
 ナディヤ 許して頂戴、クリッシュ、気がつかなくって、それにあんなに取り乱したりして。でも、分かって頂戴、私もひどく疲れていたの。夕べ一晩、起きていて。
 クリッシュ お気になされるには及びません、あなた様のことはよく存じております。
 ナディヤ 昔の私のことなら、そうね、でも、私とても変わってしまったから、今では。 
 クリッシュ いえ、決してそんなことは。お変りになど、なれる筈がないのです。
 ナディヤ 一生懸命、努力はしているの。気を静めて、現実と向き合おうと。(声が途切れる。)でも、どうしても・・・
 クリッシュ(ナディヤの手をとって。)分かっております。 ナディヤ どうすればいいの、私?
 クリッシュ お泣きになるのです。気が晴れます。
 ナディヤ いいえ、その時間はないわ。落ち着いて考えなければ、二人で。何かいい手だてを。全てがまるく収まる、何かいい手だてを。
 クリッシュ 手だてなどありません、そんなものは、壁に頭をぶっつけて行くようなものです。お諦めにならなければ。 ナディヤ 私、普通の女になりたいの、ごくありふれた幸せが欲しいの。サビアンという恋人を持ち、その人から愛されるという。どうして私には、自分の運命を決める権利がないの? 他の人たちのように。ほんの少しも。
 クリッシュ 運命を自分で決めるなんて、そんなことは誰にもできません。他の誰にだって。
 ナディヤ あなたはそこに坐って、きっとこう思っている、私が今に諦めるだろうと、そうでしょう?
 クリッシュ はい、ナディヤ様。 
 ナディヤ それは間違いだわ。私、諦めない。もし私がずっとクライアーに住んでいたとしたら、違っていたかもしれない。でも私はそうしなかった。だから全ては変わってしまったの。あれは小さな国。あんな小さな国で何があったって、それが何なの? 結局。
 クリッシュ それは大部分、あなた様ご自身にとっての問題なのです、あなた様が女王なのですから。 
 ナディヤ(突然立ち上がって。)見て頂戴、私を。この私が立派な女王になれるかどうか。それこそ馬鹿げてるわ。この数ヵ月、毎晩、本当に毎晩、パーティー。中には酷いのがあった。滅茶滅茶なパーティー。それに泥酔したわ、何度も。そう、泥酔して、怒鳴って。恋人もつくったわ、他の女たちと同じように。去年はイタリア人、背の低い下卑た奴。その男とドーヴィルまで行って、いつもの様に、ホテルやカジノで胸の悪くなるような馬鹿騒ぎ。持ってたお金、残らず使い果たしたわ。それで彼とは終り。その後がアメリカ人。ウエーブした髪、気のいい男。(笑う。)世界中のどんな男とでも付き合えるって、最高。そう、私、死んだ夫の真似をしていたんだわ、たぶん、意識せずに。神さま、彼の魂をお救い下さい。彼ならきっと、あの頃の私よりも、今の私の方がずっと好きだって言うでしょうね。理解してよくつき合うべきなのよ。よく思うわ、私、アレックスを少し誤解していたかもしれないって、私の頭がもう少しまともだったら、私たち結構楽しくやれたんじゃないかって。かわいそうな人。
 クリッシュ 彼はただのつまらない自由主義者です。 
 ナディヤ そうね、勿論。自由主義者、彼にぴったりの形容。何でも自由にしたい放題、素敵な言葉だわ。私も今ではあの人と同じ自由主義者。パリの生活は、ほんとに素晴しかったわ。そこで出会った人達はただ、上流社会から認められていないというだけ。みな、人生の出だしは申し分なかったのに、途中でつき飛ばされてどぶに落ちちゃったのね。ある者は麻薬に、ある者は酒に、またある者は混じりっけのなしの恋におぼれる。ああ、とっても愉快だったわ。エリートのための学校をいい成績で卒業したっていう感じ。人生に必要な知恵を学んだわ。支配と威厳に満ちた王室とは・・・(何の関係もない・・・)(急に言葉を切って。)ああ、まるで滑稽でしょう? こんな無意味なことってあるかしら? 私が女王に? お笑いぐさだわ、クリッシュ、奇想天外な茶番よ。一国の君主に、神聖な王位に、女王の席に、私がつく? ああ、だめ、だめよ、絶対に、だめ!(ナディヤ、まだ笑いながら、顔をそむける。手の甲で目をぬぐう。)
 クリッシュ 私は(今まで一度も)あなた様に欺かれたことはありません。あなた様は、自分を偽らないお方です。
 ナディヤ(激しい口調で。)でも、今の話は全てあったこと、事実なの。私がしたことなの。あなたを失望させるために仕組んだ芝居だとでも思ったの? ほんとの話なのよ。
 クリッシュ 分かっております、一言の嘘もないと。
 ナディヤ それなら分かるはずだわ、私なんて完璧に問題外だということが。金輪際、クライアーの王冠を戴くには、ふさわしくない女だと・・・
 クリッシュ クライアーには、あなた様の過去ではなく、未来が必要なのです。 
 ナディヤ(感情を高ぶらせて。)やめて、やめて、やめて。サビアンも同じことを言ったわ。ついさっき。
 クリッシュ サビアンは犠牲にしなければいけません。
 ナディヤ 冗談じゃないわ、「サビアンは犠牲にしなければいけません」、まるで血の通っていない傍観者の台詞。それが私にとってどういうことか、分かって言ってるの? そこにそう突っ立って、そんなたわ言をよくも言えたものね。「サビアンは犠牲にしなければいけません」。「犠牲に」。ああ、クリッシュ、どうしてもっと融通がきかないの。どうして私の立場で物を見よう、落ち着いて答えを出そう、としてくれないの。どこかに抜け道があるかもしれないわ、私たちが、見つける努力さえすれば。
 クリッシュ(自分の隣りにナディヤを引き寄せながら、坐る。)なら、ここへどうぞ、一つ考えましょう。何かお考えがおありですか?
 ナディヤ 最初に言った通りよ。あなたがここに来て発見したこと、それは私が既に死んでいて、数週間が経っていたということ。
 クリッシュ すぐに嘘だということがばれます。クライアーから新聞記者が真っ先に調査にきて。
 ナディヤ もしあなたが来たときに、私とサビアンがすでに結婚していたら、どうなっていたかしら?
 クリッシュ 結婚が無効であったということにします。
 ナディヤ なぜ彼が、私と一緒に、クライアーを統治するということではいけないのかしら?
 クリッシュ まず第一に、国民が我慢できないでしょう、たとえわずかの間でも。議会と外国の諸候も認めるはずがありません。
 ナディヤ もし私がここに坐って、怒りや恨みの感情からではなく、嫌だと言ったら・・・ただ嫌だと、はっきり言い続けたら、どうします。
 クリッシュ あなた様に、それはできません。
 ナディヤ 本気でそう、信じているの。
 クリッシュ はい、そうです。王室にお生まれになったあなた様は、籠の中の小鳥なのです。それは、どれ程うまくその囲いが木々や山やパリの屋並みで隠されていようとも、いつでもそこにあって、あなた様を取り巻いておれられるのです。国家という籠が先にあったのです。サビアンよりも前から、愛や幸福よりももっと前から。それは、あなた様の自由になることではないのです。
 ナディヤ 外の世界は、自由と平等に満ちているのに。
 クリッシュ いえ、世間に満ちているのは貧しい者たちの罵声です。既成の序列に反抗し、隙あらば王や女王や皇族たちを伐り殺して、王冠をかすめ取り、だらしのない格好のまま、玉座に足をかけようとする者たちの叫び声です。(ザナ、朝食用のトレイを持って登場。トレイを小さなテーブルに置いてから、そのテーブルごと将軍の方へ運ぶ。)ありがとう、ザナ、ああ、ちょうどいい具合だ。
 ザナ コーヒーならまだございますので、そう仰って下さい、将軍。
 クリッシュ ありがとう。
(ザナ、退場。クリッシュは満足そうに朝食にとりかかる。)
 ナディヤ 一体、私なんかが役に立つだろうか、女王として。望みも情熱も愛国心さえも持たない私のような者が。
 クリッシュ 愛国心は生まれるものです、自分の内に。世の中のありとあらゆる不遇や辛酸も、決して愛国心を消し去ることはできません、もしそれが生まれながらに備わった愛国心であるなら。
 ナディヤ 今の台詞、とても素敵ね、でも本当に、そう、信じているの?
 クリッシュ そう、確信しています。
 ナディヤ 私の中で、愛国心がいずれは大きく成長し、それが健全に正しく民を治める役に立ち、結果として最善に通じるものと、そう、信じているのね?
 クリッシュ はい。同時に、あなた様には戦わなければならない多くの敵も生じるでしょう。先程、お話し致しました通り、至る処に、革命を起こそうと企む、無政府主義者がいるのです。
 ナディヤ 私も暗殺されるかもしれないわね。そうなったら可笑しいわね、あなたが、一番の貧乏くじよ。
 クリッシュ(あっさりと。)可笑しいですね、全く。
 ナディヤ 何時の列車なのかしら?
 クリッシュ 十二時、正午です。
 ナディヤ(呼ぶ。)ザナ、ザナ、 
 ザナ(登場。)はい、ご用は?
 ナディヤ できるだけ急いで、荷物をまとめてちょうだい、ザナ、クライアーに戻ります。
 ザナ(気持ちを抑えようと唇をかみながら。)クライアーへ?
 ナディヤ ええ。 私と一緒に来てくれるかしら、ザナ。
 ザナ はい、ナディヤ様。
 ナディヤ もしこのままパリにとどまりたいのなら、それでもいいのよ。
 ザナ(息を詰まらせながら。)いいえ、私、ご一緒に参ります。
 ナディヤ(ザナに近づき。)泣かないで。私たち、しなければならないことが沢山あるでしょう。あなたの助けがますます必要になると思うの。
 ザナ(気を落ち着けて。)はい、畏まりました。
(ザナ、出ていく。ナディヤ、机の方へ歩いて行き、その前に坐る)
 ナディヤ サビアンに、お別れの言葉をメモで残して置くわ。それから着替えをして。もうあまり時間がないものね。
 クリッシュ 特別客室を用意してございます。万事、整っております。
 ナディヤ(椅子に坐ったまま、半分振り返り、クリッシュを見ながら。)いつかもう一度、彼と会うことがあるかしら。
                  (幕)

     第 二 幕
(一年後。クライアーのロデイルにある王宮の中にある女王の個人邸宅。部屋自体はとても簡素だが、家具は立派なものが設(しつら)えてある。舞台中央奥には、寝室に通じる扉。右手前にはザナの部屋と食事等の用意をする部屋に通じる扉。左手前には控えの間に通じる観音開きの扉。左手奥にはバルコニーに通じる大きなフレンチウインドウ。)
(幕が上ると、ミス・フィップスがバルコニーに立っている。真珠層のオペラグラスを目にあてている。)
 ミス・フィップス ザナ、ザナ、早く・・・行列よ。馬車が丁度門を通り抜けるところよ。
(ザナ、右手から登場。バルコニーに走って出る。)
 ザナ まあ素敵。あの旗、旗!
 ミス・フィップス お天気が持って、本当に運がよかったわ。
 ザナ(夢中になって。)ほら、見て。あの方、ステップにたって! 何て素敵なんでしょう。
 ミス・フィップス 笑っていらっしゃる。あの方、笑うことはない筈よ。
 ザナ 将軍のせいよ、何か耳に囁いて。いつだって将軍、笑わせるんだから。
 ミス・フィップス イギリスだったら、賓客は駅でお出迎えする筈なのに。
 ザナ 駅なんかより、この方がずっといいわ。
 ミス・フィップス あ、出て来た。彼、背が高いわね。威厳もあるわ。
 ザナ 公爵夫人もよ。ピッタリ公爵夫人ていう風貌ね。ザルガーの人達って、誰でもあんな感じ。
 ミス・フィップス(興奮して。)あの方、公爵夫人にキスをして。あ、今度は彼の方があの方の手にキス。ほら、聴いて、あの歓声!
 ザナ あの歓声なら大丈夫そう。ね? 暴動は起きそうにないわ。
 ミス・フィップス そうね。有難いわ。ゆうべは怖かったわ。西門のところで喚いたり、銃を撃ったり・・・
 ザナ あれは大したことなかったわ。
 ミス・フィップス ほら、中へ入って行くところ・・・(金切り声を上げる。)見て! 大変!
(銃声が一発。それから金切り声と叫び声。)
 ザナ わあっ、大変! 撃ってる! 撃ってる!(自分の耳を塞いで、フレンチウインドウから部屋に飛び込む。)
 ミス・フィップス いいえ、もう撃っていない。一発だけ。群衆に紛れて、誰かが。見て。まだ動揺が続いているわ。
 ザナ あの方、大丈夫かしら。大丈夫かしら。
 ミス・フィップス ええ、大丈夫のよう。弾(たま)はそれたわ。有難いことに。
 ザナ(勇気を出して再びバルコニーに出て。)あの方、もうお入りに?
 ミス・フィップス ええ、もう中に。誰も怪我人はいなかった。ほら! みんなが国歌を歌い始めたわ。
(クライアーの国歌が聞こえてくる。群衆が加わってきて、だんだんと大きな歌声になる。)
 ザナ(興奮して。)さあ、私達も歌いましょう。私達も、ここで歌うのよ。
(二人、国歌を歌う。音楽が静まるにつれて、二人も歌うのを止め、部屋に戻る。)
 ミス・フィップス これでお祭りは終り。後は夜の部だけ。みんな、家に帰って行くわ。
 ザナ 銃で狙うなんて! 獣(けだもの)! 無政府主義者なんだわ。
 ミス・フィップス 本当に不愉快。ケリー王子の到着の時を丁度狙って。
 ザナ あの人ハンサムね? そう思わない?
 ミス・フィップス よく見えなかった。だから判定は無理ね。
 ザナ 私、嬉しいわ、あの人がハンサムで。写真丁度そのまま。あの方、きっとあの人のこと、好きになるわ。
 ミス・フィップス こんなこと、あれこれと話すのはよくないわ。止めましょう。
 ザナ どうして? あの方、気にしないわ。
 ミス・フィップス ザナ、もう「あの方」と呼ぶのは止めた方がいいわ。女王陛下なんですからね。
 ザナ あなただって言ったわ、さっきバルコニーで。「あの方、笑うことはない筈よ」って。
 ミス・フィップス もう止しましょう、ザナ。
 ザナ 私、物心ついてからずーっとあの方と一緒なの。パリでのあの頃だって。私が「あの方」と呼んでいるのはあの方も御存知の筈だわ。
 ミス・フィップス(厳しく。)もういい。止めましょう、ザナ。私、手紙を書かなくちゃ。
 ザナ 私もゆっくりしてはいられないわ。あの方、すぐにお帰りになるでしょうから。
(ザナ、部屋を飛び出す。ミス・フィップス、大声で「また! あの方!」。引きだしつきの大机に進み、手紙を(急を要するもの、普通のものと)分類し始める。王室の御仕着せを着た二人の小姓が、観音開きの扉をさっと開ける。ナディヤ、次いでクリッシュ将軍、登場。ナディヤは非常に美しい銀白色のドレスを着ている。ドレスには巨大な裳裾あり。頭に小さなダイヤと銀の王冠。右手の椅子にぐったりと坐り込む。)
 ナディヤ ああ、やっと終ったわ。神経がどうかなりそう。
 クリッシュ あの男は捕まりました。連行されるのを見ました。裁判にかけられて、死刑になるでしょう。
 ナディヤ ああ、私、その事だけを言ってるんじゃないの。今日の事全て・・・神経がどうかなりそう。突然の銃声、それに金切声・・・にはだんだん慣れてきたけれど。(呼ぶ。)ザナ・・・ザナ・・・
 ザナ(登場。)お呼びでございますか? マダーム。
 ナディヤ ええ、ザナ。これを。(ナディヤ、王冠を外して渡す。)それと、何か冷たいものを。少し休みたいの。
 ザナ はい、マダーム。
(ザナ、王冠を受け取り、退場。ナディヤ、王冠の跡を消すように髪をなでつける。)
 ミス・フィップス 何か御用はございませんか? 陛下。
 ナディヤ ええ、ミス・フィップス。もう少ししたら、ケリー王子の部屋に電話をかけて下さい。(クリッシュに。)ねえクリッシュ、リンゴを取って下さらない? その後ろのボウルにある・・・
(ミス・フィップス、控えの間に退場。クリッシュ、ボウルを手渡す。ナディヤ、リンゴを一つ取る。)
 ナディヤ あなたも、いかが?
 クリッシュ いえ、結構です。
 ナディヤ(リンゴを齧りながら。)私、本当にヘトヘト。あの段の上で長い間立っていたせいね? 焼け付くような陽射しの下で。
 クリッシュ 実に落ち着いていらした・・・あの銃声の時でも。
 ナディヤ(微笑む。)他にどうしようもないでしょう? 悲鳴を上げて逃げるなんて出来ないし。
 クリッシュ ええ。でも、私の理想通りの陛下になっていらっしゃるのを見るのは大変嬉しいもので。
 ナディヤ 有難う、クリッシュ。今のその言葉、とても優しいわ。
 クリッシュ あの男が陛下を狙って、撃とうとした瞬間、後ろに立っていた男が気づき、そいつの腕を上に跳ね上げたのです。
 ナディヤ まあ! すごいわ、その人。
 クリッシュ 彼には、今日の午後いつか、短い謁見を与え、陛下から親しく感謝の言葉を・・・
 ナディヤ(あっさりと。)そうね。ひょっとするとその人が本当の無政府主義者で、こちらをグサリと・・・
 クリッシュ 謁見に際して、警戒は万全に・・・
 ナディヤ そんな怖い顔をしないで、クリッシュ。じゃ、五時か五時半に寄越して頂戴。
 クリッシュ ところで・・・ミス・フィップスの働きは如何でしょう。
 ナディヤ あの人を私のおつきの人に雇ったのは、実に名案だったわ。イギリス人の物の見方は、どこか気が休まるわね。特に危険が身に迫った時は。
 クリッシュ すると、夕べは? 彼女、脅(おび)えましたか?
 ナディヤ ええ。でも、危険のその最中にはおくびにもださなかった。済んでからね。
 クリッシュ 素晴らしい!
 ナディヤ どうして?
 クリッシュ いえ、その・・・どうだったかな、と。
 ナディヤ 全体ではどんな様子なの? 何か変った動きでも? 何か特別な?
 クリッシュ ありません。事態は依然深刻です。革命に発展するかどうかは、この数週間にかかっています。
 ナディヤ 数週間! 数日でしょう?
 クリッシュ この度の御結婚が、革命の阻止に働く筈です。ケリー王子は大変魅力のある人のようです。あの方の馬車に何人もの女性から、花束が投げ込まれました。これは大変良い徴候です。
 ナディヤ もし革命が起ったら、私は逃げなくちゃいけないのね? この国を捨てて・・・
 クリッシュ はい。しかし、その御心配はいりません。私が・・・
 ナディヤ その時は、全てが無駄骨だったと分る時ね。惨めね。
 クリッシュ そのようなことにはなりません。
 ナディヤ どうかしら。
 クリッシュ その方が宜しいのですか?
 ナディヤ いいえ、ただ自分自身にうんざりするでしょうね。こうなることは分っていたのにって。
 クリッシュ やがては全て軌道に乗る時が来ます。
 ナディヤ 全て?
 クリッシュ(しっかりと。)はい。全てが。
 ナディヤ そうしていつも勇気づけてくれるのね、クリッシュ。あなたを見ているの、楽しいわ、私。
 クリッシュ(微笑む。)光栄です。
 ナディヤ 私、あなたが今何を考えているんだろう、って思うことがしょっ中。だってあなた、いつだって平然と落ち着き払っているでしょう? 愛する祖国が革命の瀬戸際で揺れている時でさえ。
 クリッシュ 愛する祖国が革命の瀬戸際で揺れたことは、これまで何度もありましたので。今ではもう私も、さして驚かなくなったのです。それに、この新しい陛下の下でなら大丈夫だという確信があります。
 ナディヤ 親切だわ、そんな風に言ってくれるなんて。でもその確信、根拠がないわ。だって私が原因なのよ、この悪い状況は。私の奔放な過去が・・・
 クリッシュ 状況は陛下のいらっしゃる以前から既に悪かったのです。
 ナディヤ いいえ。これ程は酷くなかった。私が王位についたからなの、あの狂信家達が本当に怒り狂ったのは。私が過去にやった馬鹿なことをいちいち調べあげ、おまけにやっていないことまででっち上げて、私に対する民衆の敵意を煽たのよ、連中は。そしてそれが効を奏している。そうでしょう。
 クリッシュ 今までは、です。これからは違います。陛下は民衆の人望がおありになるのです。連中の必死の扇動にも拘らずです。
 ナディヤ 私、時々絶望してしまうの。
 クリッシュ 絶望はいけません。絶望からは何も生まれません。
 ナディヤ 一生懸命努力して、四方八方から叩かれて、事態は良くなるどころか、どんどん悪くなって・・・胸が苦しくなってくる・・・
 クリッシュ 一年で事がすぐ好転するとは、思っていらっしゃらなかった筈です。短いです、一年というのは。
 ナディヤ 短い!(微笑む。)この一年くらい長かった一年が今までにあったかしら。
 クリッシュ 明日からはケリー王子が陛下を支えて下さる筈です。
 ナディヤ ええ。そうなれば嬉しいわ。
 クリッシュ もうじきです。事は好転します。目に見えて。
 ナディヤ あの人、この国のこういう事態をどう思っているのかしら。
 クリッシュ 陛下に挨拶された時のあの微笑みから判断致しますと、大変お幸せそうにお見受け致しましたが。
 ナディヤ ええ、あの微笑み、よかったわね。よい微笑み・・・でも、幸せな微笑みではない・・・とても親切な微笑み。(机に身を凭(もた)せてその上のベルを鳴らす。)今電話で彼と話してみるわ。あなたはそこにいて。(ミス・フィップス登場。)ケリー王子に繋いで頂戴、ミス・フィップス。お話したいことがあると。
 ミス・フィップス 畏まりました、陛下。(電話の方に行く。)
 ナディヤ あの人の叔母さん、大公妃殿下には、ちょっとどぎまぎしたわ。
 クリッシュ 緊張なさることはありません。とてもお優しい方ですから。
 ミス・フィップス(電話に。)もしもし・・・ケリー王子に繋いで下さい。至急です。
 クリッシュ もうずっと以前から存じておりますが、小さな子供のように愛らしい方でした。
 ナディヤ 今でもそうね、きっと。あのお顔、それにあのお帽子。
 ミス・フィップス(電話に。)女王陛下が、殿下とのお話をお望みですが・・・(ナディヤに。)殿下がお出になられます。(ミス・フィップス、立って脇に外す。ナディヤ、立上り、電話に進む。)
 ナディヤ(電話に。)もしもし・・・もしもし・・・殿下ですか? 私です。・・・そこのお部屋、お気に召して? 不都合な点などないといいですが・・・ああ、それは良かった。・・・実は御相談があって。私たち予定では、今夜の晩餐会までもう公式にはお会いする機会がないので、もし宜しかったら今、こちらにいらして戴いて、少しお話が出来ればと。お互いもっと打ち解けてお話する必要があると思いますの。・・・あら、本当にお優しいこと・・・ええ、とても嬉しいですわ・・・(笑う。)いえいえ、そんなことはきっとありませんわ。大公妃殿下も御一緒に如何でしょう。・・・じゃ三人でお茶を。寛(くつろ)ぎましょう。(電話を切る。)いらっしゃるわ。あなたはここにいて殿下をお迎えして。私、このひどく重たい衣装、替えて来ます。
 クリッシュ 畏まりました。(ナディヤ、クリッシュに接吻の手を差し伸べて、寝室に退場。ミス・フィップスも扉の方に去りかける。)待って、ミス・フィップス。お話したいことが。
 ミス・フィップス 何でしょう、将軍。
 クリッシュ ちょっとお坐りになりませんか。(クリッシュ、椅子を差しだす。)
 ミス・フィップス(坐って。)有難うございます。
 クリッシュ これからお話することは極秘です。宜しいですね。
 ミス・フィップス 分りました、将軍。
 クリッシュ あなたの御姉妹(きょうだい)の誰かが、今どこかで死にかけている、などということは万が一にもありませんね。
 ミス・フィップス(驚いて。)ええ、ないと思います。ミュリエルは先週、とても元気でした。火曜日にあの子の声を聞いた限りでは。これはどういう事でしょう。ひょっとしてあの子に何か・・・私の知らないことで・・・
 クリッシュ(慌てて。)いやいや、そうではなくて・・・
 ミス・フィップス あの子は身体は非常に丈夫なのに・・・家中お多福風邪で寝込んだ時だって、ミュリエルだけは・・・
 クリッシュ 落ち着いて、ミス・フィップス。あなたのお妹さんの健康について、私が特別な情報を得ている訳ではありません。ただ妹さんの健康を口実に使うことは、多分可能だと思ったので。
 ミス・フィップス 口実! 何の口実でしょう。
 クリッシュ あなたが陛下のお側を・・・急に去りたいという時の。
 ミス・フィップス お側を去る・・・何故、どういう事です? 分りませんわ。私に何か落度でも?
 クリッシュ いや、あなたは立派に職務を果しておられる。実際陛下のお側にあなたのような、非常に信頼のおける、しっかりした人間がいるということは、心丈夫なのです。
 ミス・フィップス 有難うございます、将軍。御親切にそんな風に・・・
 クリッシュ しかしこの機会に、あなたには知らせておかなければならない。クライアーは現在、残念ながら、非常に危険な状態にある。
 ミス・フィップス はい、将軍。
 クリッシュ 女王陛下御自身、事態がここまで深刻だとはお気づきになっておられない。つまり、今や革命を阻止する手立てがない状況なのだ。もし明日の式典を何とか乗りきることが出来れば、チャンスはあるかもしれない。しかしそれも非常に心許(こころもと)ない。
 ミス・フィップス つまり、革命の狼煙(のろし)は、今夜にも上るかもしれないと?
 クリッシュ そう。
 ミス・フィップス ああ、ひどく厄介な話・・・どうなるのかしら陛下やあなたは。それにケリー王子や他のみんなは。
 クリッシュ あなたは英国人です。ですから、この国では客人としての扱いが約束されています。多分車が一台あなたに与えられ、その車であなたは真夜中までには国境を越えられるでしょう。
 ミス・フィップス お言葉、感謝します。が、私やっぱり、ここに留まらせて戴きます。自分のことは自分で何とかやれますわ。それに私、お茶の後、沢山手紙を書かなければなりません。陛下に頼まれているのです。(立上る。)
 クリッシュ(ミス・フィップスと握手をしてから。)有難う、ミス・フィップス。そう言って下さるだろうとは思っていたのです。(ミス・フィップス退場。将軍、思わず微笑みがもれ、電話口に行く。電話を取り。)もしもし・・・もしもし・・・ミルテ大尉に繋いで欲しい。・・・そう。・・・クリッシュだ。(間。)もしもし・・・君か、ミルテ。・・・そうだ。今日の午後陛下の命を救った男は、見つかったか。・・・何?・・・インペリアルホテルに待機中?・・・よし、五時に宮殿に来るよう手配してくれ。陛下が親しく感謝の言葉を述べる。・・・うん、私はまだここにいる。彼が着き次第ここに電話してくれ。(クリッシュ、電話を切り、右手の窓に近づく。二人の小姓が観音開きの扉をさっと開ける。)
 小姓(登場を告げる。)ザルガー国、ケリー皇太子殿下。
(ケリー王子登場。ザルガー国軽騎兵隊の大佐の軍服を着ている。)
 クリッシュ 陛下より殿下をお出迎えするよう言い付かっております。陛下は只今軽装にお召し替えです。
 ケリー(握手を交しながら。)ああ、それはいい。
 クリッシュ(シガレットケースを差しだして。)お煙草は如何ですか?
 ケリー(微笑みながら。)いや、また後で。
 クリッシュ 暑いですね。
 ケリー 全く。
 クリッシュ ブリッジはなさいますか?
 ケリー ええ、うまいものですよ。
 クリッシュ それはいい。
 ケリー 何故?
 クリッシュ 機会があれば、殿下から陛下にご教示戴きたいと。
 ケリー それは大変楽しみです。
 クリッシュ 何しろ陛下はトランプは全く駄目で。
 ケリー ウーン、残念ですね。
 クリッシュ 非常に残念です。
 ケリー 陛下はオペラはお好きでしょうか。
 クリッシュ 大変お好きです。
 ケリー それはよかった!
 クリッシュ 但し、ファウストは駄目、例外です。
 ケリー ごもっともです。
 クリッシュ 歌はお歌いになりますか。
 ケリー ええ、まあ、時々。
 クリッシュ テノール? それともバリトンですか。
 ケリー その時の気分によりますね。
 クリッシュ 成程。
 ケリー 午前中の早い時間帯なら、ソプラノでもかなりよく歌えます。
 クリッシュ それは素晴らしい。
 ケリー 技術はありません。しかし、繊細な味が出せるんです。
 クリッシュ 殿下はきっと、ここでの生活にご満足なさることと存じます。我々は非常に音楽を愛好する国民ですから。
 ケリー 音楽を愛する? それはいけませんな。
(ナディヤ、自室より登場。柔らかな茶会服姿。)
 ナディヤ この度は殿下にお越し戴き、とても光栄ですわ。
 ケリー(ナディヤの手にキスして。)こちらこそ光栄です。叔母もじき現れるでしょう。
 ナディヤ とても楽しみですわ。
 クリッシュ お許しがあれば、大公妃殿下をお迎えに上がり、ここまでお連れしますが。
 ケリー それは御親切に。将軍のお申し出を喜んでお受けすると思います。
 クリッシュ では、陛下。(ナディヤの手にキス。)
 ナディヤ 有難う、クリッシュ。(クリッシュ、王子に会釈して退場。この方がいいですわね、最初に少し二人でお話することが出来た方が・・・
 ケリー ええ。私もそう思ってすぐお受けしたのです。お疲れでなければ宜しいのですが。今日はあの騒動で・・・
 ナディヤ ええ、大丈夫。それに、騒動という程のことでもありませんでしたわ。
 ケリー しかし、逆上した無政府主義者に発砲される、そして今まで会ったこともないフィアンセと会う・・・これを十分以内にやってのけるというのは、気の滅入る話です、確かに。
 ナディヤ ひょっとすると、もう少し経ってヒステリー発作が出てくるのかしら。さあおかけになって。
 ケリー 宜しければ立っていていいでしょうか。これは私の人生にとって、とても重要な瞬間です。ですから、その瞬間を立って迎えたい気分なのです。
 ナディヤ この瞬間、それほど重要かしら。
 ケリー 電話のお声はとても優しかったのに、今は少し私のことを敵視していらっしゃる感じですね。何故でしょう。何か訳(わけ)があるのですか。
 ナディヤ 分りませんわ。敵視なんて、そんな。そう見えたらご免なさい。
 ケリー 私は今、ひどくあがってしまっていて・・・
 ナディヤ(微笑んで。)あがって? 本当?
 ケリー ええ、勿論。
 ナディヤ それを聞いてほっとしたわ。
 ケリー よかった。ほっとなさると思っていました。
 ナディヤ 電話でお声を聞いた時は私、とても幸せな気持でした。それが、顔を合わせたとたん、怖くなってしまったのです。叫び出したくなるほど。丁度その前に、クリッシュと話をなさっていましたね? その時のお声で私、変になったのですわ。明日はこの方と結婚するんだ、ということが、急に現実味を帯びてしまって・・・その時までは何も考えず、本当に当り前のこととして受け入れていたことですのに。
 ケリー おかしなものですね。
 ナディヤ ええ、それに、悲しい話。
 ケリー では、私は坐ります。一番ひどい話はすんだようです。
 ナディヤ(シガレットケースを渡して。)どうぞ、坐って。一服して、寛いで下さい。(長い間。)話したいことは山ほどあるのに、どこから始めたらいいのか・・・
 ケリー 二人を結びつけたものは、単なる外交上の戦略です。それは暫く忘れて、私達二人の個人的な幸福についての戦略を考えることにしませんか。
 ナディヤ(疑わしそうに。)幸福ですって?
 ケリー(微笑して。)ええ、まあ。手の届く範囲の。
 ナディヤ 今のこの状況、何て変なんでしょう。私達二人とは何の関係もない、遠くの遠くで起っていることのよう。明日結婚するのが本当にここにいる私達二人なのかしら。とてもそれが信じられないわ。
 ケリー そう。結婚するのは、ここにいる生身の人間じゃないんです。その代りの操り人形なんですよ、結婚するのは。その方がお手軽ですからね。
 ナディヤ それでいいじゃないかっていう言い方ですわね? それ。
 ケリー ええ。
 ナディヤ それでいい筈はないわ。そんなのいけないって思っていらっしゃる筈。私だって。
 ケリー いいえ、そうじゃないんです。たとえそうであっても、心配した程酷くないらしいって感じてきたのです、私は。
 ナディヤ まあ、有難う。
 ケリー 実は、お会いしたら、典型的な愛の告白の場面でも演じようかって考えていたんです。勿論あなたに、すぐそれと分るように。こうすれば、二人がどういう関係にあるか、その気分が作れますからね。
 ナディヤ あら、じゃ、早速始めて下さらない?
 ケリー まあ止めておきます。笑われるだけですから。
 ナディヤ ええそうね。結婚についてお芝居するのは止めましょう。とにかく二人だけで会っている時には。
 ケリー じゃ、公衆の面前では時々は、燃えるような熱い視線を送ってもいいんですね?
 ナディヤ ええ、それが本当に必要なことでしたら。
 ケリー まあ、明日の式典ではきっとそうなるでしょう。我々の見交わす目が、結婚式の「調印」になるのですから。
 ナディヤ 明日は疲れて、酷い頭痛になりそうだわ。私、式典の前にアスピリンを飲もうかしら。
 ケリー じゃ、私も。
 ナディヤ 錠剤のままお飲みになるの? それとも砕いてから水で?
 ケリー 錠剤のままです。その方が飲み易いので。
 ナディヤ 私も。私達、沢山共通点がありますわ。
 ケリー 喜ばしいことです。その方が万事順調に運ぶというものです。
 ナディヤ 殿下は野心がおありですか? つまり、クライアーに対する。
 ケリーええ、あります。私は何事もうまくやってのけたい方なのです。あなたは?
 ナディヤ 私の欠点はそれがないこと。
 ケリー なるほど。
 ナディヤ 私、これまでずっと酷い失敗ばかり。本当は一生懸命やってきたのです。でも、いつもたった一人離れ小島にいて、周囲は荒れ狂う海・・・それも襲いかかって来るような。時々島ごと私も、波に飲み込まれてしまうのではないかって、とても怖いのです。
 ケリー それは大変だ。
 ナディヤ 私の気持、お分りになりますか?
 ケリー 勿論よく分ります。だから私はここに来たのです。あなたをお救いするための闘いならば、尻込みはしません。私に今まで欠けていたこと、それは確固たる目標を持つということなのです。
 ナディヤ クライアーが確固たる目標になるかしら。
 ケリー ええ。私はクライアーを、平和で幸せな国にしたい。そしてあなたを、平和で幸せな女性にしたいのです。あなたの目の中の暗い光を見て、私はどうしてもそうして上げたい、と思ったのです。
 ナディヤ 有難う。優しいわ、そんな風に言って下さるなんて。
 ケリー そうだ! 昨晩は、何か暴動があったそうですね。
 ナディヤ ええ、それ自体は大したことはなかったのですが、こういう状況では不吉ですわ。
 ケリー ああいう忌々しい扇動家達は、みんなひっ捕えて、裁判など省いて、銃殺にしてやりたいですね。
 ナディヤ それは事態をもっと悪くするだけですわ、結局は。私、今日の午後、殆ど銃殺されるところだった、裁判なしで。
 ケリー ああいうことが起きそうだなって、予感がしていました。でもあれは劇的でしたね。まるでロマンティックな芝居を見ているようでした。陽光に照り輝いて翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)る沢山の旗。最上段に凛(りん)とたっているあなた。頭には王冠のダイヤモンドが煌(きら)めいている。ああ、両腕を大きく拡げるんだな、と私は思っていました。そして「おお、愛する我が臣民、我が臣民よ!」と呼び掛けるんだろうって。
 ナディヤ いえいえ、それは本当に革命が起った時の話。手に手に松明(たいまつ)を持って喚(わめ)きたてる暴徒が、宮殿を包囲した時のことですわ。
 ケリー 手に手に、鎌です。松明だけじゃ駄目。どうしても鎌でなくちゃ。
 ナディヤ じゃあ私は白装束。両腕に赤ん坊を抱えてバルコニーに出て行かなくちゃ。
 ケリー 赤ん坊は、どこかから借りて来なければならないかな?
 ナディヤ 借りて来た赤ん坊でも大丈夫。母親はみんな鎌を捨てて家に帰る。それで群衆はチリヂリ。
 ケリー それで革命はお仕舞い。
 ナディヤ そう。その後二人は幸せに統治を続けましたとさ、めでたし、めでたし。(溜息をつく。)現実って、こううまくは行かないの。駄目ね。
 ケリー 現実だって、素敵な瞬間があるんでしょう?
 ナディヤ ええ、でもそれは呆気ないほど短い。
 ケリー(視線を落し。)ええ、呆気ないほど短い。
 ナディヤ でも時が経つと、素敵な瞬間が短かったことを気にしなくなるのでしょう? 後から考える時には。
 ケリー 場合によりますね。きっと大抵の場合、何か見返りがあるんでしょう。
 ナディヤ あるかしら?
 ケリー ええ、きっと。ただ人は、その見返りに気がつかない。
 ナディヤ じゃあ、「あの時こうしていたら・・・」とあまり考えるのは止めた方がいいという主義ですね?
 ケリー ええ。無駄でしょう。
 ナディヤ そう。無駄。仰る通り。ちょっと冷酷なのね、きっと。
 ケリー(微笑む。)私が・・・冷酷!
 ナディヤ じゃあ、「物に動じない」。
 ケリー ええ、そう言って下さると有難いです。動じないよう、努力しているんですけど。
 ナディヤ とても大変なこと?
 ケリー ええ、時には。
 ナディヤ 何をどうやっても駄目って、そんな風に見える時がありますわ。そうでしょう?
 ケリー そういう時が、危ない時です。
 ナディヤ ええ。
 ケリー さあ、元気を出して。
 ナディヤ 私、本当に落ち込んでは、いないの。
 ケリー それは良かった。
 ナディヤ でも、何だか奇妙な感じ。
 ケリー おやおや!
 ナディヤ あら、私のこと、お笑いになって・・・
 ケリー これは失礼。
 ナディヤ いえ、いいんです。・・・私、時々夢中になって、自分の気持を抑えられないんです。もうお分かりですわね?
 ケリー よく分ります。
 ナディヤ 轡(くつわ)でもかけられない限り、お喋りが止らない時が・・・
 ケリー それは警告ですか?
 ナディヤ ええ。私達、お互いのことは本当は殆ど何も知らないでしょう? ですから、所々に目印を立てておいた方がいいと思って。
 ケリー そういうものが必要になるとは思えませんが。
 ナディヤ そうであって欲しいわ。
 ケリー「同舟(どうしゅう)相救う」。敵同志でなければ、尚一層です。
 ナディヤ 同じ船かしら、私達。
 ケリー そうだと思います。
 ナディヤ 実は私、あの眩(まぶ)しい陽射しの中で、初めてお会いした時、そんな感じがしたのですわ、直観的に。
 ケリー(微笑んで。)その直観は正しかったのです。
 ナディヤ ということは私達、今は二人で、同じ大きな責任と、やり遂げねばならない多くの仕事を抱えて、ここにいるのね。永久に、心からの望みは遥か遠くに捨てて。
 ケリー あなたの心からの望み、それは何でしょう。
 ナディヤ(静かに。)愛する人のもとへ帰ること。そして波風の立たない、静かな生活を送ること。ただ安らかで、甘くて、平和な生活。それがいつまでも続くこと。ああ、そうなればどんなにいいか。
 ケリー 共通点がここにもありましたね。心からの望み・・・それは同じだった。
 ナディヤ お相手の女性は、御健在?
 ケリー ええ、健在です。でも、とても遠くにいるので、二度と会う機会はありません。とにかく今ではもう、遅過ぎます。
 ナディヤ 本当に遅過ぎるのですか?
 ケリー ええ。
 ナディヤ それはつまり、年を取り過ぎたということ?
 ケリー 思い出と夢に縋(すが)って生きて来た者が、中年になってある日突然、その女性に再び会うのは不幸なのです。相手だって年をとっているでしょう? 髪は白くなり、ひょっとすると、肥っているかもしれません。
 ナディヤ でも、愛はそれを克服するのでしょう?
 ケリー いえ、愛では駄目です。親愛の情なら続くのです。でも愛では駄目。特に今お互いに話した我々のような愛では。
 ナディヤ 悲しいこと!
 ケリー ええ。でもこれはしようがありません。いつまでも情熱の火をともし続けられる、たとえ燃料がなくても、と自分に言い聞かせようとしても、それは無理です。何年も経てば火は自然に消え、灰になる。それは致し方のないことです。
 ナディヤ 何もかもすっかり忘れるなんて、出来るかしら。
 ケリー いいえ、すっかり忘れるという訳には行きません。我々は感傷的ですからね。ひどく感傷的ですから。
 ナディヤ そうね。
 ケリー ええ、そうなんです。これからだって、「ああ、ああしていればなあ」と、溜息をついて涙を流すことはあるでしょう。でも、ちょっと時間が経てば、それはただの空涙(そらなみだ)だったと思うようになるのです。
(二人の小姓が、観音開きの扉をサッと開ける。)
 小姓(登場を告げる。)ザルガー国、エミリー大公妃殿下、並びにクリッシュ将軍。
(クリッシュ登場。その後ろに大公妃。)
 大公妃(前に進み出て、ナディヤに。)今回のこと、大変素敵な思いつきでしたね。公式の場以外では、あなたとお話する機会はないんじゃないかと思っていましたわ。滞在期間は短いし、予定がぎっしりですものね。
 ナディヤ 公式の予定をうっちゃって、こっそりお越し戴き本当に有難うございます。大公妃殿下とお会い出来て大変嬉しうございます。
 大公妃 私の方こそ嬉しいですわ。公式の予定って、いつでも酷いものですけど、こう暑い時には、それこそうんざりですもの。
 ナディヤ 今すぐアイスティーが出て来ますから・・・「アメリカン」で。
 大公妃 アメリカン! 例の可愛らしい背の高いグラスに、氷を一杯入れて出て来る、あれですの?
 ナディヤ(ベルを鳴らしながら。)ええ。
 大公妃 まあ、何て素敵! コウニー・アイランドだったわ、あれを戴いたのは。合衆国中色々なところを回ったけど、ここが一番良かった。きっとその、アメリカン・アイスティーのせいだわ。
 ケリー あれは恐ろしく暑い日でしたからね。
(ザナ、ワゴン式のテーブルを引いて登場。テーブルの上には、氷で一杯の背の高いグラスが四個、他に、午後の喫茶に使う通常の付属品、が載っている。ケリー、大公妃のために、肘掛け椅子を引いて坐らせる。クリッシュ、プチ・フールなどの入った、小さなケーキ・スタンドを大公妃に手渡す。)
 大公妃 あなたとケリー、お互いに気に入ったかしら。そうだといいんだけれど。気に入りさえすれば、これから先の暮し方はずっと楽になるの。
 ナディヤ 私達、気に入っていると思います、お互いに。
 大公妃 まあ、良かった!(クリッシュが差し出したケーキを一つ取る。)あら、とても美味しいわ、これ。本当に、何て有難いんでしょう。もう何年も厳しいダイエットを続けて来ているんですの、私。それをおおっぴらに破っていいなんて、嬉しい限りだわ。
 ケリー おやおや、叔母さんがダイエットをしていたなんて、私には全く記憶にありませんけど。
 大公妃 そうそう、クリッシュ将軍。私、あなたに今日の午後、壇上で歓迎の挨拶を受けましたわ。その時からずっと、どこでお会いしたんだろうって、首を捻っていました。やっと今思い出しました。スタイヤー国でベネチア・カーニバルがあった時でしたね。
 クリッシュ はい。確かにベネチア・カーニバルの時でした。随分古い話です。
 大公妃 あなた、本当に覚えておいで? それとも単なる社交辞令?
 クリッシュ 本当に覚えています。プラム色のドミノ衣装をまとい、銀モールのついた仮面をつけていらっしゃいました。
 大公妃(ケリーから紅茶のグラスを受け取って。)プラム色? あのドミノは栗色でしたわ。でもプラムだって、栗色のものがあるわね。あれは素敵な夜だったのよ。私は丁度十九歳。初めての婚約。お月様が煌々と輝く中を、透き通るようなゴンドラにのって私達、水の上を滑るように進んで行った。不幸なことね、あなたとケリー。ああいうロマンティックな機会が与えられないなんて。
 ナディヤ そういう機会がたとえあっても、無視する二人だとすれば、もっと大きな不幸ですわ。
 大公妃(ナディヤとケリーを交互に見ながら。)そう。じゃあ、あなた達二人の生活は、まづ友情だけを支えに始める決心をしたっていうことね?
 ケリー ええ、出来ればそう・・・
 ナディヤ(ケリーをちらと見て。)私は出来ると思っています。
 大公妃 あら、二人とも随分落ち着いているのね。そう、確かにある点では、失うものも多いでしょうけど、長い目で見れば、疲れ方はずっと少ないでしょうからね。
 ナディヤ(笑いながら。)ええ、そう思います。
 クリッシュ そういう観点から見れば確かに、政略結婚もそう酷いものではないという気が致します。
 大公妃 私、この年になって分ったんですけど、政略結婚が一番いいの。自分自身の気持に従うよりも、他人が作った筋書きに従う方がずっと楽ですもの。
 ナディヤ(きっぱりと。)それは違いますわ。いつも自分の気持には正直でなければ。出来る限り。
 大公妃 とても素敵な考えね、理屈の上では。でも実際は、失敗して憂鬱になるのがオチ。大抵はね。私も何度もやってはみたけれど、結果は散々だったわ。
 ケリー それは叔母さんが相手を選ぶ時に勘が悪かっただけのことではありませんか?
 大公妃 そうかもしれないわね。私はいつだって、恋愛にはひどく自意識過剰だったから。(ナディヤに。)あなたもそうじゃなくって?
 ナディヤ ええ、多分私も。
 大公妃 私、今までに夫は三人。
 ナディヤ ご満足でいらっしゃいました? その方たちに。
 大公妃 満足というのは当らないわ。でも、面白い人達だったわ、三人とも。
 ケリー 今の叔母からは想像つかないかもしれないけど、叔母はかって、ザルガー国始まって以来の、最もロマンスに満ちた女性だったんですよ。
 大公妃 昔、昔、大昔にね。
 ナディヤ その三人の方の前に?
 大公妃 いいえ、最初の夫がいた時のこと。
 ナディヤ まさか。では、その方を捨ててお逃げに?
 大公妃 ええ、逃げたの。でも、すぐに戻って来た。誰だってそうするわね?
 ナディヤ そう、誰だって・・・不思議なことに。
 大公妃 私達の人生は、自己犠牲の連続。もう不思議なことでも何でもなくなっている。
 ケリー 平板極まりなし。
 大公妃 そう、その通り。
 ナディヤ もうそろそろ、誰かがその伝統を破るべき時ですわ。
 大公妃(ナディヤを鋭く見て。)私、昔、それを言ったの。
 ナディヤ(勢い込んで。)では何故そうなさらなかったんですか?
 大公妃 同じ理由からでしょうね、あなたがそう出来ないでいるのと。
 クリッシュ もう少しお茶を戴いても宜しいでしょうか。(訳註 二人の話題に危険を感じて、話を逸らせるための台詞。)
 ナディヤ ええ、勿論。気がつかないでご免なさい。(クリッシュのグラスに茶を注ぐ。)
 大公妃 大丈夫ですよ、将軍。私、足元がしっかりして安全な時には、無分別な話などしませんから。
 クリッシュ 有難うございます。(訳註 これは茶を注いだナディヤに対して言う台詞。原文ではナディヤの台詞となっているが、クリッシュの台詞と思う。)
 大公妃 本当よ。嬉しい驚きがあった時は、ついつい口が軽くなりますけれどね。
 ナディヤ とても親切に色々お話し下さいましたわ。私、わっと泣き出してしまうんじゃないかしら。
 大公妃 さ、夢破れし恋と王冠の物語はこれでお仕舞い。もっと楽しい話にしましょう。
 ナディヤ 大公妃様って何て羨ましい方!
 大公妃 優しいことを言ってくれるわね。どうして羨ましいの?
 ナディヤ ご自分の人生を上手に、幸せに過してこられた・・・それに楽しく・・・ええ、きっと面白がっていらしたんですわ、酷いことがあった時でも。
 大公妃 とにかく、今そう思えるっていうことが有難いわ。
 ナディヤ 人生を楽しむ秘訣、それを教えて戴けませんか?
 大公妃 自分のことであまり深刻にならないこと。
 ナディヤ やってみますわ。
 ケリー やってみます、二人で。
(電話が鳴る。)
 クリッシュ ああ、きっとあれは私です。
 ナディヤ じゃあ出て、クリッシュ。(クリッシュ、電話に進む。)大公妃様、もう少しお茶は如何ですか?
 大公妃 いいえ、有難う。
 ナディヤ(訊ねる調子で。)ケリー、あなたは?
(ケリー、首を振る。クリッシュが丁度話し始めたため。)
 クリッシュ(電話に。)もしもし。・・・ああ、私だ。君かミルテ。何だ?・・・ああ、そうか。その男の名は?・・・フロラン?(訳註 「ラ」にアクセント。)・・・フランス人だな。(ナディヤに。)例の狙撃を逸らせた男が着いたそうです。謁見のお約束をされた、あの男です。
 ナディヤ そう。十分後に控えの間に連れて来るよう伝えて。
 クリッシュ 十分後に控えの間に連れて来てくれ。陛下が謁見される。・・・そうだ。・・・ああ私に今?・・・分った。すぐ行く。(受話器を置く。)
 大公妃 まああなた、もういらっしゃる? 軍の御仕事、急務ですの? 私、あなたにはまだ色々お訊きしたいことがありますのよ。
 クリッシュ それは今晩までお待ち戴く訳にはいきませんでしょうか。
 大公妃 結構よ。でもその間に、外交辞令で逃げをうつ台詞をあれこれ考えるには及びませんからね。お訊きしたいのは、政治以外のお話。
 クリッシュ それを聞いてほっと致しました。(大公妃の手にキス。)
 ナディヤ 七時には戻って来て頂戴、クリッシュ。いくつか相談したいことがありますから。
 クリッシュ はい、畏まりました。(ナディヤの手にキス。ケリーにお辞儀して、退場。)
 ナディヤ あの人を私、今一番信頼しているんです。
 大公妃 ええ、魅力的ね。それに取り仕切る役柄にピッタリ。あの礼儀正しさ、灰色の髪、それにテキパキとした手腕。
 ナディヤ ゼンダ国、サプト陸軍大佐のいとこなんですの、あの人。
 大公妃 ああ、それだったら私、気がついていても良かったわ。ああいう人が傍にいると、とても心強いの。ヨーロッパの宮廷は、どこでもああいう人が支えてくれているわ。
 ケリー サプト大佐・・・あのおじいさんなら、よく覚えています。ヘンザー国のルパート氏とうちの父とは同じ学校に通っていましたからね。
 大公妃 あなたが謁見をするという男は、ここの護衛隊員? それとも全然知らない人?
 ナディヤ 全く知らない人です。私が親しく会って礼を言うのがこの際賢明だと。クリッシュの考えです。
 大公妃 クリッシュ将軍の言う通りだわ。にっこり微笑んで、こう言うの。「御親切は私、一生忘れません」って。そうすればその人、一生あなたに忠誠を尽すわ。
 ケリー 今我々に必要なのは、正にその忠誠心・・・そしてそれをどれだけ多く手に入れるか、です。
 大公妃 今はどこの国でもみな同じ。忠誠心が欲しいのよ。
 ナディヤ 丁度皆様がおいでの最中に、お呼びがかかってしまって、とても残念ですわ。今日はこうした邪魔が入らずに過せたらと思っておりましたのに。
 大公妃 まあ、気になさらないで、私のことは。私も今まで何度も狙撃されたことがあるけれど、幸運なことに一度もまともに当ったことがないの。あのお馬鹿さん達、よっぽど興奮して目が見えなくなっていたのね。
 ケリー 革命はこれまで四回あったけれど、叔母さんはいつも、怪我ひとつなく済んで来たんです。
 大公妃 五回ですよ。ポール叔父さんが、あの公共墓地で凧揚げに夢中になって、それで起きた小さいのも入れれば。あの人の凧好きったらなかったわね。
 ナディヤ(微笑して。)下層民ていうのは、その手のことにひどく目くじらを立てますからね。
(大公妃、立上る。)
 大公妃 ケリー、私はそろそろ下って休みます。(ナディヤに。)本当に楽しかったわ。あなたも政情が収まったら、是非うちの方にいらして下さいね。
 ナディヤ ええ、喜んで。
 ケリー(ナディヤの手を取り、腰を屈め。)では、後ほど。
 ナディヤ(優しく。)殿下のお陰で、色々と気にかかっていたことがすっかり晴れましたわ。どうも有難う。
 大公妃 こうしてみると、私までクライアーに来る必要はなかったようね。でもご免なさいね。私、ちょっとあなたの昔のことを聞いていたものだから、それでどんな方なのかしらって・・・(突然ナディヤにキスして。)いい? 今一時(いっとき)不人気だからって、くよくよ考えちゃ駄目よ。あなたにたとえどんな緋色の過去があったとしても、それ以上にあなたはとても素敵な人。その魅力はこれから先ずっと続くんですからね。
(大公妃退場。ケリー後に続く。ナディヤ、暫くじっと立っている。半ば微笑みながら。それから振り返り。)
 ナディヤ(呼ぶ。)ザナ、ザナ。
 ザナ(登場。)はい、マダーム。
 ナディヤ(指輪を外して、ザナに渡す。)あなたの勝よ、ザナ。はい。
 ザナ(躊躇(ためら)って。)まあ、マダーム。私・・・
 ナディヤ 取って頂戴、ザナ。さあ、ぐずぐず言わないで。私を気遣って、安心させようとしてあなた、色々と請け合ったことがあったけれど、そのうちの一つは本当だったわ。彼、とっても優しい人だった。
 ザナ(指輪を受け取り、膝を床につけるお辞儀をして。)有難うございます、マダーム。お写真から、きっとそうだろうと。
 ナディヤ 物事って、変るものね。
 ザナ はい。
 ナディヤ 私、この国をこんな風に見たこと、一度もなかったわ。
 ザナ それは、この国が自分のものだとお感じになったからではありませんか?
 ナディヤ いいえ、それはまだ。この国はまだ私のものではないの。私が国民に愛されるようになるまではね。ああザナ、私、今では国民の支持のことについても、すっかり気持が変ったの。私にはもうすぐ、責任を分かち合う人が出来る・・・一緒に笑ったり、忠告を求めることの出来る人が。あの方には、とびきり素敵なユーモアのセンスがあるわ。、私達、ゲラゲラ笑ったのよ。それも革命の話で!
 ザナ(驚いて。)まあ、革命・・・ですって?
 ナディヤ そう、革命。大したことじゃない筈、革命なんて。たとえ起ったって、長くは続かないわ。あの方、その時は自ら戦う覚悟なの。私もそう。二人で奪還するのよ、この国を!(両腕をさっと拡げる。)ようやく将来の展望が開けて来たの! 急いでお茶のものを片付けて頂戴。今日の午後私の命を救ってくれた人と会うの。彼には親しくお礼を言うつもり。キスもして上げるわ、多分。
(ナディヤ、ベルを鳴らす。ザナ、急いで、散らかったお茶のセットを集め、ワゴン式のテーブルの上に置き、それを引いて部屋から退場。ミス・フィップス登場。)彼、もう来てるの? ミス・フィップス。
 ミス・フィップス はい、陛下。武装した護衛と一緒に。
 ナディヤ 護衛はいらないわ。私一人で会いましょう。
 ミス・フィップス 畏まりました。(ミス・フィップス退場。ナディヤ、鏡の前で髪を整える。二人の小姓、登場。)
 小姓(登場を告げる。)ムッシュー・フロラン。
(サビアン登場。非常に蒼ざめ、気持を抑えようとしているのが明らかに見てとれる。ナディヤ、反射的に片腕を上げる。その掌(てのひら)が楯で、その楯で自分を庇(かば)うかのように。)
 サビアン ナディヤ!
 ナディヤ サビアン!(両手に顔を埋める。)ああ、どうしてこんな酷いことを。
 サビアン(震えながら。)僕には・・・僕には、こうするより、仕方なかったんだ。
 ナディヤ 出て行って。
 サビアン それは出来ない・・・今はまだ。
 ナディヤ(咄嗟(とっさ)に。自分の気持を抑えて。)出て行くのです。
 サビアン 僕は行かない。運命の女神が今日僕に、幸運を与えてくれたんだ。女神に逆らうことは出来ないだろう?
(サビアン、ひどく哀れに笑う。)
 ナディヤ 出て行って。
 サビアン こんな成行きになるなんて、ただの偶然である筈がないんだ。
 ナディヤ(気持を落ち着けて。)ここには来てはいけなかったの。どんなことがあっても。
 サビアン 来ないではいられなかったんだ。一年前、君がパリを去った時、君は僕から、愛だけじゃない、何もかも奪ってしまったんだ。僕は、本を読むことも、音楽を聴くことも、何かが美しいと思うことさえ出来なくなった。あれからの僕は、まるでつんぼだ、盲(めくら)だ。
 ナディヤ 私、何て言えばいいか、分らないわ。
 サビアン ほんの少しでいい。君の近くにこうしていることが出来れば、昔の幸せが戻って来る。幸せの影みたいなものだけど・・・君が話をするのを僕は聞きたいんだ。
 ナディヤ(サビアンに背を向けて。)ああ!
 サビアン 頼む。こっちを向いて。好きとか嫌いとか、そんな話じゃなくていい、ただの、普通の話でいいんだ。
 ナディヤ(笑い始める。)全く、馬鹿げているわ。
 サビアン 笑わないで。お願いだ。
 ナディヤ どうして? 嘆き悲しむことがないのよ。笑うしかないでしょう?
 サビアン 難しいことじゃないだろう? 話をしてくれっていう僕のこの頼みは。
 ナディヤ(笑い続けて。)ええ・・・そうね。
 サビアン 止めてくれ、笑うのは。
 ナディヤ 駄目。
 サビアン じゃ、キスするぞ。
 ナディヤ 駄目よ。
 サビアン お願いだ。
 ナディヤ 駄目、駄目。あっちに行って。
 サビアン 怖いんだな?
 ナディヤ いいえ、怖くはないわ。
 サビアン ここでの暮しのことを話してくれ。
 ナディヤ ああ、サビアン!(笑い声、高まる。)
 サビアン お願いだ。笑うのは止めてくれ。
 ナディヤ 許して頂戴・・・ヒステリーの発作よ、これ。
 サビアン 僕のこと、まだ愛してくれている?
 ナディヤ あなたの思い出なら、愛していたわ・・・ついさっきまでは。
 サビアン ナディヤ!(ナディヤの手を取ろうとする。)
 ナディヤ お止めなさい!
 サビアン 失礼。・・・僕はどうかしているんだ。急に君と再会して・・・こんな間近に君を見たから・・・
 ナディヤ あなたはもう私の間近にはいないの。あなたはたった今、私を自由にしてくれた。だから私、笑っているの。
 サビアン どういう意味なんだ、それは、一体。頼む、頭がひどく混乱していて、よく分らないんだ。
 ナディヤ だから、本当は私、あなたがこうやって来てくれたことに感謝するべきなのよ。
 サビアン そんなことを言うなんて君、僕によっぽど腹を立てているんだね。僕は無理矢理君に逢おうとしてこんなことをしたんじゃない。それはさっきも言った通りだ。運命の女神が取り持ってくれたんだ。・・・何故なんだろう。
 ナディヤ 分らないの?
 サビアン うん、分らない。
 ナディヤ だから、それが運命の皮肉なのよ。
 サビアン なんて綺麗なんだ、君は。
 ナディヤ 私達、昔はお互いに随分愛し合っていたわ。でも、今はもう違うわ。
 サビアン 今は・・・違う?
 ナディヤ ええ。今はもう愛していない。あなたはただ、それに気がついていないだけ。私は気がついたの。
 サビアン(苦々しく。)何ていう話だ。僕には分らない。僕に分るように話してくれ。是非。
 ナディヤ 煙草か何か、いらない?
 サビアン いや、結構。
 ナディヤ どうしてあなた、もっと早く来なかったの?
 サビアン ナディヤ!
 ナディヤ じゃあ言いましょう。・・・あなたは私を愛し過ぎたの。
 サビアン そうか。そういうことか。・・・筋だけはひどく通っている。
 ナディヤ 分って来たでしょう? それで。
 サビアン(軽い調子で。)うん、ちゃんとね。
 ナディヤ(弱々しく。)じゃあ、それなら・・・
 サビアン 僕、君とキスしたいよ。
 ナディヤ 何のために? 私達の愛で、そんな事が大事だったことは一度もないのよ。
 サビアン それはそうだ。
 ナディヤ そんな悲しい顔をしないで、サビアン。今はあなた、幻の呪縛から解き放たれているのよ。幻の中にいるよりずっと苦しくない筈でしょう?
 サビアン 今日僕がここに来た。それで、僕に対する君の愛はすっかり終りになった。・・・これが僕に納得させようとしている君の筋書きなんだね?
 ナディヤ 今日終ったんじゃないの。あなたへの愛は、実際はもうずっと前に終っていたの。それに気づくのに私、あなたより有利な立場にいたわ。だって、私にはこの国の政治があった・・・女王の地位にいた・・・本当に忙しかったの・・・
 サビアン うん、そうだね。良く分るよ。
 ナディヤ その忙しさのお陰で、却って物がはっきり見えるようになったの・・・こんな事を言って私、あなたを傷つけているわ・・・ご免なさい・・・でもあなたにも私のこの考えが正しいって、すぐ分る筈・・・そう、あなたならきっと分る筈。
 サビアン ああ、何て素敵なんだ、君は!
 ナディヤ お願い、ここから出て行って・・・どうか・・・今すぐ・・・
 サビアン そんな君の嘘・・・そんな君の可愛い嘘が僕に見抜けないとでも思っているのか!(さっとナディヤを両腕の中に抱きしめてキスする。)君は僕を愛している。まだ愛しているんだ、僕を。・・・ナディヤ!・・・
(サビアン、再びキスする。ナディヤ、サビアンを押し退ける。瞳がかっと燃える。)
 ナディヤ 何てこと!・・・こんな無茶なことを・・・酷いことを!・・・
(ナディヤ、握り拳(こぶし)で自分の額を叩きながらサビアンの前に立つ。)
 サビアン 愛してる。僕は君を愛しているんだ。
 ナディヤ ああ、どうしたら・・・どうしたらいいの!
(真直ぐ前に進んで、サビアンの腕の中に身を委(ゆだ)ねる。サビアン、ナディヤを抱きかかえて、そのまま動かない。サビアン、目を閉じる。暫くしてまた開く。そして話し始める。囁くような話し方。)
 サビアン 夢だ。・・・これはみんな夢だ。
(サビアン、ナディヤを抱えて部屋を横切り、ソファに横たえる。少しの間の後、ナディヤ目を開け、サビアンを見る。)
 ナディヤ あなた、変ったわ、サビアン。随分痩せた。
 サビアン ああ、あの時僕から逃げて行くなんて・・・何故・・・どうして・・・
 ナディヤ 止めて、そんな話。
 サビアン 僕が今日来て、良かったんだね?
 ナディヤ 良かった! 良い訳がないでしょう。この長い間のあなたとの闘い・・・あなたの思い出を一つ一つ消して行こうと、そしてここでの生活が少しでもまともになるようにと。私の惨めな目付きが、皆に見破られないようにと。そして今やっとのこと、この国のために、本当の熱意と目的と野心が生まれてきた。それがどう。あなたがやって来て、何もかもぶち壊し。丁度今、勇気と自制心が一番必要なこの時に・・・ああサビアン、あなた、何ていうことを・・・
 サビアン 僕の・・・この僕の苦しみは、君の考慮の外だったのか。
 ナディヤ いいえ、考えたわ。でも・・・
 サビアン(苦々しく。)でも、そんなことは問題じゃない。そうだね?
 ナディヤ 問題にしてはいけないのよ。
 サビアン 何が国だ・・・国・・・君の国・・・そんなもの糞食らえだ!
 ナディヤ 駄目、それは。そんな言い方、下品だわ。
 サビアン ああ、すまない。許してくれ。これじゃあ君を困らせるために来たようなものだ。でも誓ってそんなつもりじゃなかった。僕は今までずっと君から離れていた。しかし、もう我慢が出来なくなったんだ。それで三週間前にここに来て・・・でも、その事を君に知らせるつもりは全くなかった。それから今日の午後、あの発砲・・・そして、君が僕に会いたいという知らせが来た。僕は気違いのようになった。ゲラゲラ笑って、大声で叫んで、そして泣いた。僕の部屋で。たった一人で。僕はてっきり君が、何かの方法で、あれが僕だと分ったんだと思い込んでいた。そして僕に・・・君がこの僕に会いたいんだって思ったんだ。しかし、暫くしてやっと気がついた。君はただ女王として、一人の忠実な臣下に感謝の言葉を述べたい・・・それも如才なく・・・それだけなんだって。僕は気がつくのが遅過ぎた。・・・それまでに君との再会の場面を何度も頭の中で繰返し、繰返し・・・まづ君に会う。最初は大勢の人がいるところでだ。君の手に礼儀正しくキスする。誰にだって二人の関係は分りはしない。それから君と二人だけになる。そして君のあの声が、もう一度聞ける。・・・この場面を何度も何度も。ああ、分るだろう? そんな僕にどうして後戻りが出来るんだ。僕には出来なかった。出来るわけがなかったんだ。
 ナディヤ そうね。それは・・・無理ね。
 サビアン ナディヤ、君はまだ僕を本当に愛してくれている? 昔のように。
 ナディヤ ええ。
 サビアン 逃げ道はないの? どこにも?
 ナディヤ ないわ。
 サビアン もし革命が起きて、退位させられたら?
 ナディヤ 追放ね・・・夫と共に。そして二人でじっと待つのね、時局の好転を。
 サビアン(苦々しく。)時局の好転!
 ナディヤ そうよ。
 サビアン 僕は自殺する・・・死ぬんだ!
 ナディヤ ああ、そんな事しないで。忘れるわあなた・・・そのうち。
 サビアン 忘れる・・・そんな時まで待てるわけがない!
 ナディヤ 忘れるまで、私は待つ・・・待たなければならないわ。
 サビアン 君には待っている間、その空白を埋められるものがあるんだ。僕には何もない。
 ナディヤ(涙を浮べて。)そう。ないわね・・・あなたには。
 サビアン 僕にはその間、君を一度でも自分のものにしたという・・・思い出さえもない。
 ナディヤ ええ・・・それさえ・・・
 サビアン 僕を夫としてはくれないんだ、君は。僕はこれから、生涯君なしで生きなきゃならない。あれほど夢を、計画を、希望をもって君との生活を思い描いていたのに・・・ね、僕を恋人にして!
 ナディヤ(背を向けて。)いいえ。
 サビアン じゃいい・・・一度だけ・・・たった一度だけで・・・
 ナディヤ いいえ。私はこの国の女王。
 サビアン そんなの、英雄主義じゃないか! 本気じゃない筈だ。
 ナディヤ いいえ。本気。いい? サビアン。聞いて。もし、たった一度でもあなたに身を任せたら、私がみんなにかけていた魔法はそれでプッツリ切れてしまう。英雄主義じゃないの、これは。魔法が切れるの。私にはそれがはっきり分っている。この国の人達は私の過去を知っていて、それで私が嫌いなの。だから私、今日まで、毎日毎日、その嫌悪と邪推を消そうと必死だった。私の過去は別の人生で、今の私とは関係ないって、みんなにも自分にも暗示をかけていた。あれは統治という重い責任に目覚める以前の私で、あの過去は綺麗さっぱり忘れられるべきものだって。その魔法が・・・
 サビアン(ナディヤの手を情熱的に握って。)ああ、ナディヤ、お願いだ。
 ナディヤ(後ずさりして。)やめて。「お願いだ」なんて言わないで。私を助けて。私のこの立場、分るでしょう? 分って! お願い。
 サビアン(ナディヤに詰め寄って。)ナディヤ、ナディヤ、そんなことを僕に分(わか)れだなんて、無理だ。今晩! お願いだ。今晩・・・
 ナディヤ いいえ、駄目・・・駄目。
 サビアン その後は、もう二度と君の前には姿を見せない。
 ナディヤ 姿を見せなくても、どこかで生きているって、私に分っているじゃない。私のことを思って・・・苦しんで・・・私にも心の平安はなくなるわ・・・永久に。
 サビアン 明日(あした)僕は死ぬ。・・・どっちにしても。明日は君の結婚式なんだから。
 ナディヤ(両手に顔を埋めて。)ああ、止めて、それは・・・それだけは。
 サビアン(急に静かな調子で。)それはもう決ったことなんだ。ナディヤ・・・いとしいナディヤ。それに、一番いい方法なんだ、それが。・・・君にも分るだろう? 死ぬなんて、僕達二人が耐えて来た不幸に比べれば、ちっぽけなことじゃないか。僕は死ぬなんて、怖くも何ともない。もし君が僕だったら、君だって怖くも何ともない筈だ。
 ナディヤ(優しく。)ええ。
 サビアン 明日、僕は死ぬ。何が起ろうと。分るね? 何が起ろうとだ!
 ナディヤ(真直ぐ前方を見て。)分ったわ。
(サビアン、両腕にナディヤを抱きしめ、キスする。)
 サビアン(囁く。)もう一度言って。「分った」って。
 ナディヤ(目を閉じて。)分ったわ。
                     (幕)

     第 三 幕
     第 一 場
(場は、第二幕と同じ。午後一一時半頃。幕が上ると舞台は隈なく照明されている。観音開きの扉の一つが少し開いている。階下で奏されている音楽が聞こえる。)
(ザナ、右手の扉から登場。部屋を横切り、左手前の観音開きの扉をしっかり閉める。それから、右手の扉に戻り、合図する。)
(サビアン登場。正装の夜会服姿。その上に長い黒い外套。)
 ザナ 静かに。決して音を立ててはいけません。
 サビアン 鼠のようにするよ、ザナ。
 ザナ 私の部屋でお待ち下さい。ここです。(部屋の扉に進む。)
 サビアン 煙草を貰えないかな。
 ザナ どうぞ。(一本渡す。)
 サビアン 酷く奇妙な感じだね。
 ザナ はい。
 サビアン まるで夢の中にいるみたいだ。現実感がない。
 ザナ ひょっとすると、これは夢なのです。
 サビアン 夢から覚めちゃいけないというこの気分・・・これが重くのしかかって来るね。
 ザナ はい。
 サビアン 長くかかるのか? あの人は。
 ザナ いいえ。今夜は舞踏会ではありません。ただの大礼晩餐会ですから。
 サビアン ナディヤが大礼晩餐会・・・(笑う。)ちょっと想像出来ないな。
 ザナ きっと陛下も、酷くご退屈な筈です。
 サビアン 陛下! ああ、ご免、ザナ。すっかり忘れていたよ。これも夢の一齣(こま)だね。
 ザナ いいえ。こちらの方は現実の一齣です。
 サビアン ねえ、ザナ。君はもう、以前のように、僕に親しい調子では話せないんだね?
 ザナ はい、それは。
 サビアン 見知らぬ人として話すんだね?
 ザナ そうではありませんけれども。
 サビアン けれども・・・どうなの?
 ザナ 私、怖いんです。
 サビアン 僕のことが?
 ザナ はい。それに他にも。
 サビアン 僕がこんな所に来てはいけなかったのに、と思ってるんだね?
 ザナ はい。
 サビアン 仕方がなかったんだ、ザナ。
 ザナ はい。
 サビアン ケリー王子はナディヤを愛しているのか?
 ザナ 私には分りません。
 サビアン こんなこと、君に訊いちゃいけなかったね。
 ザナ 違うのです、全てが。パリとここでは。
 サビアン うん、分る。パリが恋しくない?
 ザナ はい。時々は。でも、ここは私の国です。私はここで生れました。
 サビアン よく分るよ。
 ザナ 陛下もそのことでは、私と同じように感じていらっしゃる筈です・・・今では。
 サビアン ナディヤはここで幸せだったことは一度もないんだ。
 ザナ 過去は過去です。未来は未来として考えなければ。
 サビアン 誰もがそう考えるとは限らないよ、ザナ。煙草を箱ごと持って行ってもいいかな?
 ザナ はい、どうぞ。(サビアンに煙草の箱を渡す。)
 サビアン 君には本当に感謝しているよ、ザナ。
 ザナ(唇に指をあてて。)シーッ。
 サビアン(囁くように。)君には本当に感謝しているよ、ザナ。
 ザナ さあ、早く中に。誰か来ます。
(サビアン、ザナの部屋に退場。ザナ、扉を閉める。控えの間から、急いで近づく足音がする。ミス・フィップス登場。帽子とコート姿。帽子には厚いベール。今はそれを上に上げてある。酷く興奮した様子。後ろ手に注意深く扉を閉める。動作全体に、何か重大な秘密を隠しているという様子。)
 ミス・フィップス(息を殺して。)ザナ!
 ザナ(驚いて。)どうしたの? 何かあったの?
 ミス・フィップス(不吉なことを知っているという調子で。)ないわ・・・今はまだ。(帽子を脱ぐ。)
 ザナ どこに行ってたの? こんな時間に。
 ミス・フィップス 町よ。(監視の目や耳がないかと心配するように、注意深く周囲を見回して。)「ブルー・ローズ」。
 ザナ(驚いて。)まあ!「ブルー・ローズ」!
 ミス・フィップス そう。たった一人で。
 ザナ 一人で? 一体どういうつもり?
 ミス・フィップス ドアのすぐ近くの席を取ったわ。襲われた時の用心にこれを持って。(コートのポケットから小型の拳銃を取り出す。)
 ザナ 出かける前に弾丸(たま)は抜いておいたんでしょうね?
 ミス・フィップス ええ、勿論。拳銃だけでも安心出来るから・・・有難いことに、誰も私に気がつかなかった・・・一人を除いて・・・あのお爺さん以外は。
 ザナ(笑って。)あらあら、ミス・フィップス。おかしな話!
 ミス・フィップス(厳しい口調で。)何を言ってるの。浮いた話じゃないの、ザナ。私、危険を覚悟で出かけたのよ。
 ザナ それで、そのお爺さん、どうしたの?
 ミス・フィップス 私にオリーブの実を渡してからこう呼んだの、「やあ、姐さん」。
 ザナ ええ、それで?
 ミス・フィップス(熱心に。)ここは一つガツンとやらなきゃいけないなって。それで、身を前に乗りだして、ベールをさっと後ろに払って言ってやったわ。「いい男ね、あんた。シャンペンでもやりましょうよ。」
 ザナ(笑いを抑えて。)それで、何て言ったの? その人。
 ミス・フィップス(勝ち誇ったように。)何も。ただ真直ぐ歩いて出て行ったわ。
 ザナ でも、ミス・フィップス。一体何だってあんな所に行ったの?
 ミス・フィップス 目的があったの。
 ザナ どんな?
 ミス・フィップス この国の人達が何をやろうとしているのか。あの怖い革命を本気でやる気なのかどうか。
 ザナ それで、やる気だって分ったの?
 ミス・フィップス 分らない。
 ザナ で、何かは分ったの?
 ミス・フィップス いいえ、何も。でも、言っておくけど、とても危険。それだけは確か。
 ザナ だけど、「ブルー・ローズ」はただ単にいかがわしい店っていうだけの所よ。革命なんて、何の関係もないわ。
 ミス・フィップス(再び帽子を被り。)そう。ならいいわ、それで。
 ザナ(押しを強く。)他に何か分ったら、教えて頂戴。
 ミス・フィップス もう私、自分の部屋に上るわ。服はこのまま。寝間着には着替えない。もし何かあったら、起して下さるわね?
 ザナ 「何かあったら」の、その「何か」によるわね。
 ミス・フィップス(怒って。)まあ!
(ミス・フィップス退場。ザナ、まだ笑いながら、左手奥に行き、窓を閉める。控えの間に人声がして、ナディヤ、続いてケリー王子、登場。ナディヤ、白の夜会服にいくつか勲章をつけ、頭には小さな冠。)
 ナディヤ 送って戴いて嬉しいわ。お入りになって、少しお話でも?
 ケリー いえいえ。そうでなくてもお疲れの筈。それに明日の事・・・それを考えなければ。(「ぞっとする」というように身震いして、笑う。)
 ナディヤ 考えなくちゃいけないかしら? 明日の事まで。
 ケリー そうそう、明日のことですが、これが明日の行事予定表です。クリッシュ将軍に言われていました。お渡しするようにと。
 ナディヤ ああ、有難うございます。(紙片を机の上に置く。)でも私、こんなもの見ない。決して。操り人形のように、ただただ操られるままにするつもり。その方が疲れないわ。
 ケリー そう。私もそのつもりです。
 ナディヤ まあ、殿下が操られるなんて! いけませんわ。殿下は決断の人・・・物事を見事になさる方・・・そう、今夜だって素敵なスピーチ。私、今まであんなに魅力が前面に出ているスピーチは聞いたことがありませんわ。それを聞いた人が、食べ物に困らないたった一握りの廷臣達だけだったなんて! 私、この国の全ての人に聞かせたかったわ。
 ケリー そう。私のスピーチで使われている言葉は、綺麗過ぎるんです。恥づかしそうで、幼稚なんです。老練な政治家が多い場では、この方が受けがいいものですから。
 ナディヤ まあ! わざと受けを狙って?
 ケリー ええ、勿論。私の才能の一つなんです、この受け狙いというのが。あなたもそう。今日の晩餐。本当に、心から楽しそうにみんなと話して、話して・・・その間中ずっとパン屑をポロポロ、ポロポロ、テーブルクロス中にこぼしている・・・
 ナディヤ まあ、あれ・・・受け狙いではありませんわ。・・・ちょっと上っていて・・・
 ケリー ええ、まあ・・・そうかもしれません。
 ナディヤ お酒かコーヒーか・・・何か如何ですか?
 ケリー いえ、結構です。
 ナディヤ 煙草は?
 ケリー ええ、戴きます。
 ナディヤ(煙草の箱を捜して。)あら、すっかり・・・箱までなくなっているわ。
 ケリー じゃ、結構ですよ。
 ナディヤ(ベルを鳴らして。)ザナが知っています、きっと。(ザナ登場。)煙草はどこ? ザナ。
 ザナ(ぼんやりと・・・まづいことをしたという顔を隠し、とっさに言い訳を考えている。)私の部屋です、陛下。
 ナディヤ(びっくりして。)あなたの部屋に?
 ザナ はい、陛下。私・・・あの綺麗な煙草入れが、そこらに出しっぱなしでは不用心(ぶようじん)かと思いまして。
 ナディヤ(事情を悟る。)ええ、そう。そうね。いい所に気がついてくれたわ。じゃあちょっと、持って来て頂戴。
 ザナ 畏まりました、陛下。(お辞儀をして退場。)
 ケリー(微笑んで。)あなたの侍女はひどく疑り深い性格のようですね。
 ナディヤ 今は丁度、この宮殿全体が不安の材料で満たされている雰囲気です。彼女のことを責められませんわ。(ザナ、煙草入れを持って再び登場。)有難う、ザナ。
(ザナ、お辞儀をして退場。ナディヤ、ケリーに一本差し出し、自分も一本取る。)
 ケリー 有難う。(二人の煙草に火をつける。)
 ナディヤ どうぞお掛けになって。
 ケリー いえ、もう行かなければ。
 ナディヤ 大公妃様って、本当に素敵な方!
 ケリー ええ、素晴らしいです。
 ナディヤ あの方には人を惹き付ける魅力と思い遣りがありますわ。
 ケリー この会話、どうも話す必要のないことを無理に喋っているようですね。
 ナディヤ ええ、そう。
 ケリー どうしてでしょう。
 ナディヤ 不安のせいですわ、きっと。
 ケリー 私と一緒で不安? するともう最初から私に力量がないということです。
 ナディヤ いいえ、それは違います。殿下なのですもの、私が久しく忘れていた安心感を再び私に与えて下さったのは。
 ケリー そう言って下さると嬉しいのですが・・・
 ナディヤ 殿下の「物事を見る力」は先程話のあった「受け狙いの才能」のように、見事に表面的なものに止めておくのでしょうか。それとも、物事を深く見通す力なのでしょうか。
 ケリー ああ、それは深く見通すのです。厭になるぐらい深く。
 ナディヤ(真剣に。)外から見ると、相手の誠意に対する酷い裏切りに見える事でも、それを深く見通して下さるのかしら。・・・そしてひょっとしてそれを、許しても下さるのかしら。
(ケリー、一瞬ナディヤを鋭い目付きで見る。それから微笑む。)
 ケリー 仰ることがよく分りませんが、お許しを戴いて、「私はいつでもあなたの親しい、よき味方です」とだけ申し上げておきます。ほら、何と言いましたっけ。そう、「健やかなる時も、悩める時も」です。
 ナディヤ 健やかなる時も、悩める時も・・・
 ケリー では、お休みなさい。(ナディヤの手にキス。)
 ナディヤ お休みなさい。
(ケリー退場。ナディヤ、足音が消えてしまうまで待つ。それからケリーの退場した扉に錠をかけ、そっとザナを呼ぶ。) ナディヤ ザナ、ザナ。(ザナ、支度部屋の扉から登場。)あの人、ここにいるのね?
 ザナ はい。私の部屋にいらっしゃいます。
 ナディヤ じゃ、急いでテーブルの支度を。
 ザナ 畏まりました。
(ザナ、一度退場し、すぐに夕食の品々を一杯に載せたワゴンテーブルを引いて戻る。ナディヤ、左手の小さなトランプ用テーブルを拡げ、ワゴンテーブルの物をこちらのテーブルに並べる。その時二人、囁くように話す。)
 ナディヤ もう寝ているのね? ミス・フィップスは。
 ザナ はい。先程帰って来て、今はもう・・・
 ナディヤ あの人(サビアンと分るように扉を指す)、あなたが降りて来た時、そこの小さな扉の所で待っていたのね? ザナ そうです。三十分ばかりそこにいらしたようです。
 ナディヤ あなたにはどう見える? あの人・・・身体の具合が悪いんじゃない?
 ザナ いいえ、身体の具合ではありませんわ・・・何かが違っているんです。
 ナディヤ(キャビアの壷を手に持ったまま、動きを止めて。)何かが違っている! そう、私も何かが違っているんだわ。(壷を下に置く。)良かった、キャビアのことを思い出して。
(ザナ、蘭の入った花瓶をテーブルに置く。)
 ザナ これをお持ちしましたわ、。とても綺麗でしたので。
 ナディヤ まあザナ、有難う。あなたも忘れていなかったのね。
 ザナ 昔に戻ったみたいですわ、今夜は。
 ナディヤ ええ、そう。
 ザナ シャンペンはここの氷に。これはあの方の方に置いておきましょう。
 ナディヤ そうね。
 ザナ 他にはもうないと思いますけど・・・
 ナディヤ そうね、これで準備終りね。
(二人は遣り残した事がないか、テーブルを見渡す。ザナ、ワゴンを支度部屋に下げ、すぐに戻って来て。)
 ザナ もうこれで?・・・
 ナディヤ ええ、もう結構。小さい扉の鍵は持ってるわね?
 ザナ はい、ここに、(ポケットを軽く叩く。)ちゃんと。
 ナディヤ では、お休みなさい、ザナ。
 ザナ お休みなさいませ、マダーム。
(ザナ、お辞儀をして退場。ナディヤ、少しの間じっと佇(たたず)む。右手の鏡の所まで行き、自分の顔を見る。それからザナの部屋の扉を静かに叩く。)
 ナディヤ(小さい声で。)サビアン、出て来て。
(サビアン登場。ナディヤの両手を取り、片膝をつく。次に両腕でナディヤを抱きしめる。二人、少しの間、ピッタリ身を寄せて佇む。)
 ナディヤ さあ、ちょっと放して。あなたのこと、見せて頂戴。・・・あなたってちっとも変らない・・・きっちり、すっきりね。
 サビアン これ、分る?(カラーについているカフス釦を指さす。)
 ナディヤ ええ、勿論。これはどう? 覚えてる?(自分のイヤリングを指さす。)
 サビアン あのルビーのはどうなったの?
 ナディヤ 今も持ってるわ。でも、いつもつける訳じゃないの、あれは。とっても重いもの。
 サビアン(うっとりと感心して。)そのドレス、本当に素敵だよ!
 ナディヤ いいでしょう?
 サビアン(もの思わしげに微笑む。)どこから見ても、正に女王の装いだね。あの燃えるような真紅のドレス、覚えてる?
 ナディヤ ええ、でも・・・あれは、あの滅茶苦茶なキャバレー・ダリカーントの夜で最後。あれっきり一度も着てないわ。
 サビアン(笑って。)あの晩は散々だったね。シュザンヌなんて、見ちゃいられなかった!
 ナディヤ 今どこにいるの? シュザンヌ。
 サビアン 会ってないんだ、ここ数箇月。結局モリッスと結婚したんだけどね。
 ナディヤ ああ、私が言ってた通りになったのね。
 サビアン 喧嘩ばかりしてるよ。
 ナディヤ あの二人、喧嘩以外、したことあって? さあ、もう坐って食事にしましょう。冷たいものしかないけど、キチンと吟味したものばかりよ。(ナディヤ、坐る。)私、晩餐会では、殆ど食べずにいたの。あなたとの食事のためにお腹をすかせておこうと思って。
 サビアン(坐る。)キャビアか・・・これは素晴らしい!
 ナディヤ シャンペンを開けてね、サビアン。・・・ほら、すぐ横にあるわ。
 サビアン OK。(栓を抜き、グラスに注ぐ。)
 ナディヤ ねえ、あなたのことを話して頂戴。今までどうしていたか。ただ、悲しい話はしないのよ。
 サビアン 君が行ってしまってからは、悲しくないことなんて思いつかないなあ・・・
 ナディヤ(少し間の後。)そうね・・・私も。でも、そんな風に二人で悲しい悲しいって言ってたってつまらないでしょう? トーストを少し頂戴。
 サビアン うん。(トーストを渡す。)でも、悲しいってことを確かめるのはつまらないことじゃないよ。それは、僕達があの頃話していたことが全部本当のことだったっていう証拠なんだから。
 ナディヤ 辛いものね、それを思い知らされるのは。
 サビアン うん。だけど僕は、こうなって却って良かったとも思っているんだ。安っぽい手軽な情事・・・それは駄目だ。花火のようにパッと燃えて、喧嘩して、大袈裟な仲直り・・・そして終になる・・・
 ナディヤ ルースィー・グリフィンとスィリオ・マーソンのように。
 サビアン それに、ジュリアンとモードのようにね。
 ナディヤ モードと言えば、あの肥ったお婆さん、可笑しい人だったわね。
 サビアン うん。特にキャンティー(イタリアのワイン)が入ってほろ酔い加減になった時はね。キャンティーが大のお気に入りだったな。
 ナディヤ もう何年も何年も昔のことのようだわ!
 サビアン ちょっと手をかして。左手を。右手は食事が出来るように、そのままで。(ナディヤの手を取る。)こうしていると二人が別れていたなんて、なかったっていう気がするな。
 ナディヤ そうね。ねえ、こうしましょう。これは私達の結婚初夜、そして万事何事もなく順調に進行している・・・そういうことに。
 サビアン うん、やってみよう。でも、かなり骨が折れそうだな、それは。何しろ現実は、僕達の前に大きく立ち塞がっていて、いつでも僕達を押し退けようとしているんだからね。
 ナディヤ 私達が今、こうして一緒にいること、愛しあっていること、それ以外に本当の現実なんてないのよ・・・それがどんなに望みのない現実だとしても。
(ナディヤ、泣き崩れそうになるが、ぐっと堪える。少しの間。サビアン、グラスをさっと上げて。)
 サビアン 僕のナディヤに!
 ナディヤ いけないわ。私の名前で乾杯は。縁起が悪いわ。
 サビアン(軽く。)うん。まあ、そうかな。
 ナディヤ(明るく。)パリの思い出を話しましょう。今ジュリーはどうしているの?
 サビアン 相変らず昔のスタジオ。またマドゥレーヌと一緒だ。仕事も一緒。そして喧嘩も一緒だ。相変らず喧々囂々(けんけんごうごう)・・・
 ナディヤ 覚えているわ、あの喧々囂々。呆れたものだったわね。(笑う。)
 サビアン 全く、呆れたものさ。(共に笑う。熱狂的に。)
 ナディヤ あの下の階に住んでいたスコットランドのお爺さんが上って来て、例のあの台詞「テセ・ヴ・・・テセ・ヴ」(訳註 仏語。正しくは「テゼ・ヴ(黙れ)」)
 サビアン あのぞっとするようなガウン、それにあの酷い訛り・・・
(二人、お互いを見ながら、笑い続ける。やがて笑い声、止む。)
 ナディヤ(優しく。)こんなの駄目・・・無理に笑っても無駄。空しい笑い・・・カラカラと虚ろな音がするだけ。こんなこと、もう止しましょう。
 サビアン うん。もう止そう。
(また間。)
 ナディヤ 「さようなら」って書いた私の手紙を見つけた時、あなた、どうしたの?
 サビアン 最初は冗談だと思った。いや、その後もずっとそう信じて・・・そう思い込もうとして・・・随分長いこと。でも、心の中では分っていたんだ。それで、もう一度君のアパートに行ってみた。守衛がどうしても入れてくれない。それで、シュザンヌの部屋のバルコニーからよじ登ったんだ。あの裏側の小さなバルコニーからね。そして、丸一日、君が残して行ったガラクタの中でじっとしていた。それから後は何もかもが・・・ああ、僕には分らない・・・(頭を垂れる。)
 ナディヤ 酷い気分だったわ、あの旅立ちは。あなたを捨てて、突然パリを去るあの旅。・・・ほんの数時間前まで何の支障もないように見えた私達の未来、計画・・・それを全部粉々に打ち砕いて去る・・・後には欠片(かけら)一つ残さずに。列車が駅を出て動き始めた時、私は心を静めて、じっとあなたのことを思った。自分に言い聞かせた。今あなたとキスをしているんだ、と。あなたの手、あなたの胸、あなたの唇が私に感じられるようになるまで・・・じっと、じっと・・・両手をぐっと握り締め、目を閉じて、じっと、じっと・・・涙が溢れてきて、目を閉じていられなくなるまで。(涙を拭う。)・・・人はよく、涙は美しい、涙は真珠だ、なんて書くわ。でもそれは嘘。本当の涙は醜い。本当の涙は望みのないもの。
 サビアン うん。醜い。望みなんかない。(顔を上げる。)ああ、ナディヤ、何て酷いんだ、運命は。僕らを操り人形のように弄(もてあそ)んだりして。意地悪だよ・・・残酷だよ。
(二人、互いを見つめたまま、じっと静かに坐っている。)
                    (幕)

     第 三 幕
     第 二 場
(幕が上ると、舞台は暗闇。電話が突然鳴る。少しの間鳴り、すぐ止む。時計が四時を打つ。時を打つ音が消えた後、控えの間に続く観音開きの扉の錠に鍵が差し込まれ、ガチャリと廻る音。クリッシュ将軍とケリー王子、登場。クリッシュ、部屋の灯をつける。二人、囁き声で話す。)
 クリッシュ 今、何時ですか?
 ケリー 四時です。廊下に出た時、丁度時計が鳴るのが聞こえました。
 クリッシュ もうすぐ夜が明ける・・・やれやれ!
 ケリー ええ、夜が明けてくれさえすれば、ほっとするんですがね。
 クリッシュ(窓の所に行き、カーテン越しに外を覗く。)広場はコソリとも音がしない。人っ子一人いない。
 ケリー いい徴候です。
 クリッシュ いや、ちょっと静か過ぎる・・・とは言える。 ケリー 心配もほどほどになさらなければ。神経に酷く悪いです。
 クリッシュ 私の神経なら大丈夫です。
 ケリー 私の方は駄目ですね。ちょっと何かあると、すぐビクッとする。
 クリッシュ 一時間以内にはっきりするでしょう。起きるか、起きないか。
 ケリー お世辞にも楽しい一時(ひととき)ではありませんね。
 クリッシュ ミルテの奴、一体何をしてるんだ。
 ケリー 今の我々とピッタリ同じでしょう・・・冷や汗をかいていますよ。
 クリッシュ(苛々と。)糞っ! ただ待つしかないのか!
 ケリー 彼には、最初の徴候が見え次第ここに電話をかけるよう命じたのですね?
 クリッシュ ええ。
 ケリー もう女王陛下をお起しした方が良くはないでしょうか。心の準備をして戴く時間が必要ですからね。
 クリッシュ いや、全く何も起らないという可能性もかなりありますから。不要なご心配はなるべくおかけしたくないのです。
 ケリー 仰る通りです。シーっ、何だろう、あの音は。
 クリッシュ 音ですって?
 ケリー(窓のところに行き。)広場で何か聞こえたような気が。
 クリッシュ カーテンは開けないで下さい。
 ケリー 分りました。(カーテンの隙間から外を覗く。)
 クリッシュ どうです?
 ケリー 人っ子一人いません。
 クリッシュ 糞っ!
 ケリー よく見えないな、ここからは。
(支度部屋の扉が開き、ザナ登場。二人を見て「あっ」と驚きの声を上げる。)
 クリッシュ(ザナの腕を掴み。)シーっ、静かに!
 ザナ 何ですか。何かあったのですか。
 クリッシュ 何も起きてはいない・・・まだな。どうしても必要でない限り、陛下を煩わせたくないのだ。
 ザナ(寝室の扉に、脅えた目を向けて。)はい。
 クリッシュ ミルテ大尉からの電話を待っている。何かの徴候があれば、すぐここに知らせるよう命じてあるのだ。
 ザナ 民衆が蜂起したのですか?
 クリッシュ いや、まだだ。
 ザナ(寝室の扉を再びさっと見て。)ああ、神様。私、一体どうしたら・・・
 クリッシュ(鋭く。)「どうしたら」?・・・どういうことだ。
 ザナ いいえ、何でもありません・・・何でも。私、怖いんです。
 ケリー 怖がることはない。ちゃんと逃げられるようにしてある。
 ザナ 逃げるなんて・・・そんなこといいんです。・・・ああ、どうしよう・・・(ザナ、わっと泣き出す。)
 ケリー(ザナの肩を軽く叩いて。)さあさあ、気をしっかり持って・・・
 ザナ すみません、殿下。私・・・しっかりします。
 クリッシュ そう、それでいい。ほら、これを少し飲んで。(水を少し注ぎ、ザナに与える。)
 ザナ 有難うございます。(水を少し飲む。)
 クリッシュ さあ、いい子だから、もう自分の部屋に戻りなさい。
 ザナ(狂気のように。)駄目、駄目です。・・・ここにいさせて・・・ここにいさせて下さらなければ。
 ケリー 何かあればすぐ知らせます。もし何かあれば・・・まづこの調子ではとてもなさそうです・・・
 ザナ ここにいさせて下さい・・・どうか、ここに。
 クリッシュ 自分の部屋へ行くんだ、ザナ。
 ザナ いいえ、いいえ!
 クリッシュ シーっ! 一体全体どうしたんだ、ザナ。
 ザナ(クリッシュの袖にしがみついて。)お願いです、どうかここにいさせて下さい。静かにしていますから。
 ケリー したいようにさせましょう、将軍。さもないとヒステリーを起しますよ。
 クリッシュ じゃ、いなさい。(ザナを椅子に坐らせる。)ただ、じっと静かにして。口をきいてはいけない。
 ケリー 私も坐りましょう。檻の中の動物のようにウロウロするのはもう飽きた。(坐る。)
 クリッシュ 煙草はお持ちになりましたか?
 ケリー いいえ。でもここに少しあります。(煙草の箱を渡す。)
 クリッシュ おや、三本しか残っていませんな。(一本取る。)
 ケリー(同じく一本取って。)陛下は大層愛煙家と見えますね。ゆうべはまだ半分は残っていましたから。
 クリッシュ(ケリーと自分の煙草に火をつける。)さあ。
 ケリー 有難う。
(少しの間。三人、じっと黙って坐っている。)
 クリッシュ(苛々と。)畜生!
 ケリー えっ? 今何と?
 クリッシュ 「畜生」と。
 ケリー いや、その通りですね。(再び沈黙。)こんな状況でも、結婚前の一人者が侘(わび)しく食う夕食よりはまだましかな。
 クリッシュ 何ですって?
 ケリー いや、とてももう一度言う気にはなれません。面白い話ではありませんでした。
 クリッシュ なるほど。
(再び沈黙。)
 ケリー この煙草は優秀だ。
 クリッシュ(そっけなく。)うまいです。
 ケリー 軽過ぎない。
 クリッシュ ええ。
 ケリー 強過ぎない。
 クリッシュ ええ。
 ケリー 強過ぎのは苦手なんです。
 クリッシュ ええ。
 ケリー 強いと喉(のど)が荒れて・・・
(また沈黙。非常にゆっくりと照明が薄暗くなり始める。)
 ザナ 明かりが・・・どうなっているのでしょう、明かり・・・
 クリッシュ シーっ! 静かに。
(照明がゆっくりと暗くなり、最後にチカチカと明滅する。そして照明、消える。)
 ケリー これはまづい。
 クリッシュ 決定的だ、これは。発電所が抑(おさ)えられたぞ。
 ケリー どうしたんでしょう、ミルテ大尉は。
 クリッシュ 分りません。
 ケリー こちらから電話をかけた方がいいのでは?
(電話が鳴る。ザナ、「あっ」と叫ぶ。)
 クリッシュ やっと来たか!(受話器を引ったくるように取る。)もしもし、もしもし・・・そうだ、私だ。・・・何だって? よく聞こえないな。・・・よく聞こえないんだ。もっと大きな声で話せ。・・・もしもし、もしもし・・・糞っ!・・・
 ケリー どうしました?
 クリッシュ 切れてしまった。電話線を切られたらしい。
 ケリー これは内線電話・・・誰も近づけなかった回線なのに・・・
 クリッシュ(部屋を横切り、カーテンを後ろに引く。部屋は明けて間もない朝の冷たい灰色の光に満たされている。)何たることだ!
 ケリー どうしました?
 クリッシュ 御覧なさい!
 ケリー ああ、どういうことだ、これは。いつの間にあんなに大勢・・・
 クリッシュ 合図待ちだぞ、あれは。すぐに陛下をお起しして、ザナ。
 ザナ 駄目です。駄目です。
 クリッシュ 今すぐ陛下をお起しして。・・・ぐずぐずしている暇はない。
 ザナ 私・・・私には出来ません。私・・・
 クリッシュ どういうことだ。何故出来ない。
 ザナ 私・・・私・・・
 クリッシュ(ザナを窓の所へ引っ張って行き。)ほら、見なさい!
 ザナ 一体どうしたら・・・どうしたらいいの・・・
 クリッシュ さあ、今言った通り・・・早くするんだ!
 ケリー 私がお起し致します。(寝室の扉に向う。) 
 ザナ(ケリーを掴んで行かせない。)いいえ、いいえ。私がします。私が・・・
(両手で扉をドンドンと叩く。不安で、半ば啜り泣きながら。)
 クリッシュ(ザナの肩を掴まえて。)さあ、中に入って。陛下をお起しするんだ。扉を叩いたりして。何のつもりなんだ。
 ザナ(絶望的に。)いいえ、いいえ!
 クリッシュ 気でも狂ったか。(ザナを脇へ押しやろうとする。)もういい、私が行く・・・そこをどけ。
 ザナ(扉に自分の背をつけて。)駄目です。入ってはいけません。あっちに・・・控えの間に行って下さい。私がお話します。陛下が逃げられるよう、私が何とかします。お二人がここにいらっしゃれば、陛下はお驚きになります。さ、控えの間に。控えの間に行って下さい。
 クリッシュ(怒って。)そのドアから離れるんだ。馬鹿な真似はよせ!
(ザナを扉から引き離す。ザナの鋭い叫び声。クリッシュが中に入ろうとする。その時ケリー、その腕を掴む。)
 ケリー 待って! 待って下さい!
(少しの間、沈黙。その間、ザナの啜り泣きと近づきつつある暴徒達のざわめきだけが聞こえて来る。突然寝室の扉が開き、ナディヤ登場。ゆっくりと部屋に入って来る。夜着の上に軽いショールを無造作に掛けている。)
 ナディヤ 何ですか。これはどういうことです。
 クリッシュ 出来るだけ早急に着替えをすませ、ザナとこの宮殿をお立ち退き戴きたいのです。ビニヤール大尉が階下で陛下をお待ちしています。陛下にはどうか、大尉の護衛のもと、庭を抜けてボートハウスの門の脇に。車を一台待たせてあります。
 ナディヤ よく分らないわ。まだ眠いせいかしら。分るように話して。
 ケリー 民衆が蜂起したのです。・・・町の屑共(くずども)が一斉に。
 クリッシュ 気を慥(たし)かに持って、ナディヤ・・・どうか。
 ケリー 逃げるんです。何か着る物を・・・すぐ!
 ナディヤ 私は逃げません。
 ケリー(鋭く。)そんな。どうか、言われた通りにして下さい
(ナディヤ、不思議なものでも見るようにケリーをちょっと見る。そしてザナに。)
 ナディヤ 泣くのは止めなさい! ザナ。
 クリッシュ ここに留まるということは、死ぬかもしれないということですよ。
 ナディヤ 私から人生を取り上げるようなことまでして、その結果がこれ・・・お可哀相に。
 ザナ(ナディヤの手を掴み。)お二人の言う通りです。さ、早く! 
 ナディヤ(優しく。)あなたは自分の部屋へ行くのです、ザナ。そして着替えをするのです。
 ザナ(気が動転するのをやっと抑えて。)はい、分りました。(ザナ退場。)
 クリッシュ 何をボヤボヤしているのです。一刻を争う時ですよ。
 ナディヤ もう言ったでしょう? 私は逃げるつもりはありません。怖れることなどないのですから。
 ケリー 怖れるかどうか、そんなことが問題なのではありません。あなたの命です、問題なのは。あなたは女王なのです。
 ナディヤ 問題なのは私の命?(笑う。)有難いわ。
 ケリー 何のつもりです、その言い方は。それに、何をしようって言うんです、一体。
 ナディヤ(ケリーの言葉を無視して。)クリッシュ、今すぐミス・フィップスの部屋へ。逃げる用意をするよう言って下さい! 部屋はあの廊下の突き当たりです。(支度部屋の扉を指さす。)
 クリッシュ ナディヤ!・・・
 ナディヤ さあ早く!(クリッシュ、心を決めかねるようにケリーを見る。ケリー、頷く。ナディヤ、ケリーを見て。)私の意見を通して下さるのね? 有難う、ケリー。さあ、クリッシュ。
(クリッシュ退場。ナディヤ、窓際まで行く。)
 ケリー 窓には近づかない方がいい。
 ナディヤ(立ち止まり、振り向く。)私のことで気を遣うことはないわ。・・・どうでもいいの、もう。
 ケリー どうしたんですか、そんな投げ槍な。ついさっきまであんなに頭がはっきりしていて、分別があったあなたなのに。・・・何が原因です。
 ナディヤ 何もかも終りだから。
 ケリー そんな態度は英雄的行為じゃないんです。勇気でもない。単なる我儘です。ただ自分が不幸で、もうどうなっても構わないと思っているものだから、勇敢に振舞っているんじゃありませんか。そういうのをさもしい根性と言うんです。
 ナディヤ 逃げなさいと勧めにいらしたんですわね? じゃ、言いましょう。この国で起っていること・・・その原因はこの私です。私一人にその責任があるのです。私はどこに行っても何の役にも立たない。分るでしょう? 私の人生は失敗で出来ているのです。とどのつまりがこの暴動です。こんなところまで来て、私がまだ逃げるなんて、そんなことある訳がないでしょう。
 ケリー あなたは一年前、女王に即位しました。その時、祖国クライアーのために一生を捧げると誓った筈です。こんな大事な時に個人的な悲しみを持ち込むのは、その誓いを破ることです。たとえ今ここで逃げたとしても、それはクライアーの、真の国民から逃げたのではありません。それは単に、何の考えもない、掃き溜めの、有象無象の群れから逃げただけです。二三週間すればきっと、全ては終ります。そしてあなたが必要になるのです。猛烈に必要に。だから、聞くんです、私の話を・・・顔を背けないで・・・さあ。
 ナディヤ ケリー、許して。私は・・・逃げられないの。
(クリッシュ、急ぎ足で登場。ミス・フィップス後に続く。きちんと服を着て、落ち着き払った態度。手に小型のアタッシェ・ケースを下げている。部屋を真直ぐ横切り、大机の鍵を開け、書類の束や手紙などを取り出し、ケースに詰める。)
 クリッシュ(優しく。ナディヤに。)どうか陛下、お逃げ下さい。どうしても必要だからお勧めしているのです。それを分って下さい。
 ナディヤ 切迫している・・・それはよく分ります。ミス・フィップス、あなたはすぐに出発しなさい。(ザナを呼ぶ。)ザナ・・・ザナ・・・
 ミス・フィップス(意識した冷静さで。)重要な手紙は全て持ちました。御心配はいりません。安全です。
(ザナ登場。やっと身支度を整えたという姿。)
 ナディヤ ザナ、あなたはミス・フィップスと行って。ビニヤール大尉が下で待っています。
 ザナ 私だけ?・・・御一緒にはいらっしゃらないのですか?
 ナディヤ ええ。
 ザナ それなら私も行きません。・・・御一緒でないなんて!
 ケリー(苛々と。)やれやれ! ジャンヌ・ダルク顔負けの英雄主義か!
 クリッシュ 言われた通りにするんだ、ザナ。
 ナディヤ ザナ、私も行きます・・・後から。だから行って。早く。
 ザナ(部屋の隅に後ずさりしながら。)行きません。私、本気です。・・・行きません。
 クリッシュ ナディヤ、見て御覧なさい。あなたの強情のせいですよ。あなたの命だけでなく、このザナの命まで危険に晒していいのですか。
 ナディヤ 有難う、ザナ。あなたは留まりなさい。ミス・フィップス、あなたは行って。
 ミス・フィップス はい、陛下。失礼致します。(お辞儀をして、退場。)
 ケリー(煙草に火をつけながら。)さてと、これで我々は進退窮まれり、という訳か。
 クリッシュ 外は大分明るくなって来ましたな。
 ケリー(ナディヤに。)あなたも全く不幸な方だ・・・暴動をその目で見届けるなど、虫酸(むしず)が走るほどお嫌いの筈ですよ。
 ナディヤ(挑むように。)もう構うものですか、そんなこと!
 ケリー それは口先だけのこと。平気でいられる筈などないのです、あなたは。
(石が投げ込まれる。窓が割れ、石がナディヤの足元に落ちる。ナディヤ、短い悲鳴を上げる。外から狂暴な喚き声。)
 ナディヤ(歯を食いしばったまま、猛烈な勢いで次の台詞を言う。)そうよ! 仰る通り! 大っ嫌いよ、こんなこと!(ナディヤ、石を拾い、クリッシュとケリーが遮(さえぎ)る間を与えず、バルコニーへの三段の踏台を駆け上がり、引き裂くように窓を大きく開く。)
 クリッシュ(前へ駆け出して。)気でも違ったか! ナディヤ。
(女王の出現に、群衆の一人が新たに喚声を上げる。ナディヤ、拾った石を力一杯群衆めがけて投げつける。大きな苦痛の叫び声。そして完全な沈黙。)
 ナディヤ(馬鹿にするような調子で。)馬鹿者! 大馬鹿者!(群衆の一人が気違いのように笑う。ザナ、金切声を上げ、両手で顔を覆う。)今なら私はお前達のなすがまま。ここにこうしている。さあ、撃ちなさい。止(とど)めを刺すがいい。(間。誰かが意味不明の叫び。そして再び沈黙。)大して意気地がないのね。お前達の指導者はどこです。物陰にでも潜んでいるのですか。さっさと出て来て、自ら思う所を述べるがいい。(再び間。)そう、公平にやろうっていうのね。黙っているのは、私にも機会を与えようと・・・私自身の主張を言わせ、自己を弁護させようというのね。もしそうなら、それは寛大な計らいとは言える。けれども、愚かなことです。私はお前達の同情心につけこんで、不平不満の種(たね)からお前達の目を逸らさせ、自分の側に少しでも引き込もうと説得するかもしれない。私にその勇気がありさえすれば。そしてお前達を扇動する者が公衆の広場や居酒屋で、実に巧みにお前達を誑(たぶら)かしたように、私もこのバルコニーからお前達を誑かすことが出来るかもしれない。でもそれは、これまで以上に皆をただ困惑させ、混乱させるだけのこと。それに私はもう疲れきって、頭は苦い怒りで一杯。お前達を説得する力など残ってはいない。お前達のやることなすこと、私の気に入ったことは何一つありはしない。そして今また! 何ですか、この不甲斐なさ、優柔不断は。以前は、クライアーの国民こそ、自らの理想に忠実な、確固たる信念を持った人達だと期待していました。それがどうです。お前達には理想も信念もありはしない。あるのはただ、不平不満と怨嗟(えんさ)の声、そして祖国に対する不忠、不信だけです。私はお前達のために身を粉(こ)にしてきました。今度はお前達の方が私に奉仕するのです。殺しなさい! いいですか、私はもうこれ以上生きていたくないのです。さあ、お前達の待ち望んでいた絶好の機会です。ちょっとした勇気さえあれば、すぐ手の届く所に。私が即位して以来この一年間というもの、お前達はこの時を待っていた。正にこの瞬間を待って、煮えたぎっていたのです。さあ、お前達の目の前に、たった一人、狙撃の標的のように女王が立っている。威厳も式典も、また祈りさえない死を待って。さあ、撃つのです。そして起ることを見届けるのです。私はすぐ死ぬでしょう。血に染まった私の姿など怖れることはない。私の身体から血など一滴も出はしない。出るのはおが屑だけ。辱(はづかし)められ、醜くぼろ屑のように死んで行くだけのこと。(ケリー、無頓着にバルコニーに上り、ナディヤの脇に立つ。煙草は吸ったまま。群衆からザワザワと非難の呟きの声。)いけません! 中に入って! 中にお戻り下さい! あなたの命を賭ける価値などまるでありはしない。(声を詰らせながら。)ああ、なんて、なんて下らない! 革命なんて!
 ケリー(穏やかに。)クライアーの諸君、もう家に帰って一眠りしたまえ。
(ちょっと笑い声が上る。やがて誰かが国歌を歌い始める。それはすぐに残りの人々に拡がってゆく。ナディヤ、ぐったりと振返り、窓に凭(もた)れる。ケリー、部屋に戻る。バルコニーへの踏台の下で振返り、ナディヤを待つ。夜明けの光が一筋さっとナディヤの顔に射す。ナディヤ、目から光を遮るように腕をもたげる。国歌は人々が立ち去るにつれ小さくなりながら、暫く続く。)
 ナディヤ(弱々しく。)ああ、ひどく疲れたわ。もうこれ以上は無理・・・でもあと一つ残っている・・・そう、まだ。殿下、私、殿下の優しい心におすがりして、心からお許し戴きたいことが・・・
 ケリー あなたを許す? どういうことかよく分りませんが。
(クリッシュとザナ、寝室へと駆け出す。少ししてすぐにクリッシュ、戻って来る。寝室から銃声。ナディヤ、叫び声を上げそうになるのを咄嗟に手で口を塞ぐ。そしてがっくりと頭を垂れる。)
 クリッシュ(戸口の所で。)陛下、只今男が一人、窓から部屋に入ろうとして撃たれました。お分りになりますね? 寝室の窓から中に入ろうとして、撃たれたのです。
(ケリー、片膝をつき、ナディヤの手にキスする。)
 ナディヤ これでお分りになりましたね?
                   (幕)

  平成十五年(二00三年)四月二十五日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


Written 1922
First London production: St. Martin's Theatre, 24 August 1926; trans. to Duke of York's Theatre, 4 October 1926
(director. Basil Dean; with Madge Titheradge as Nadya, Herbert Marshall as Prince Keri, and Francis Lister as Sabien Pastal.)

Film versions: silent, by Gainsborough Films, 1928 (dir. and adapt. Graham Futts); remade by Paramount 1933, as Tonight Is Ours (dir. Stuart Wlker; adapt. Edwin Justus Mayer).


Coward plays © The Trustees of the Noel Coward Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Coward plays in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.