ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット
          
          マルセル・アシャール 作
            能 美 武 功 訳

 登場人物
イザベル
ソフィー
リュリュ
オーギュスト
オリヴィエ
シャルロ

     第 一 幕
(午前十一時頃 五月。)
(バルコニーつきの屋根裏部屋。バルコニーからは、階段状に奥が高くなっている家々の屋根が見える。)
(散らかっている部屋。家具もちぐはぐ。)
(普段ならば、イザベルは部屋の隅で灰皿に色付けをしており、音楽家のオーギュストは、トランペットの練習をしているところ。但し今朝は、二人とも何もしていない。)
(右手に次の部屋に通じる扉。)
(左手奥に、玄関。)
(左手舞台手前に、カーテンがかかっている。そこは台所。観客からその道具がカーテンの隙間から見える。)
(幕が上がると、オーギュストが無気力にベンチに横になっている。このベンチは、この部屋の大事な家具。)
 イザベル 何をしてるの? あなた、そこで。
 オーギュスト 見りや分るだろう? 君は?
 イザベル 見れば分るでしょう? 違う?
 オーギュスト そうだな。こっちもそういうことか。
 イザベル あの人、来るわよ。遅くても四十五分以内には。
 オーギュスト ああ、分ってるさ。
 イザベル お昼の用意はしてないんでしょう? テーブルの上に何もないもの。
 オーギュスト ああ、分ってる。
 イザベル あなたに分ってることがもう一つあるわ。あの人がとても大切なお客様ってこと。
 オーギュスト ああ、そいつが一番よく分ってることだなあ。
 イザベル これじゃ、まっ逆さまに悲劇に突入ね。
 オーギュスト ああ、それだけは考えないことになっている。
 イザベル お昼には何があるの?
 オーギュスト 今のところ、何もないな。
 イザベル(驚いて。)ない?・・・何も?
 オーギュスト そう、何もなし・・・今のところ。
 イザベル あなたの従兄弟(いとこ)をお昼に招待して、その従兄弟にいい印象を与えるかどうかで全てが決るっていう時に・・・あなた、全く何もお昼に用意していないっていうの?
 オーギュスト そう、全く何も。
 イザベル あらあら・・・
(イザベル、肘掛け椅子にどっと腰をおろそうとする。オーギュスト、かろうじて間に合って、それを止(と)める。)
 オーギュスト 駄目だ、その椅子は! 壊れる!
 イザベル 壊れそうなのはこっち。
 オーギュスト 君が壊れるのなら、もっと頑丈な物の上で壊れた方がいい。
 イザベル(他のところに坐って。繰り返す。)壊れた!
 オーギュスト そう、完全にね。
 イザベル(怒って。)まさか、本当じゃないでしょう?
 オーギュスト いや、完全にだ、壊れたのは。今その証拠を見せてやるよ。(呼ぶ。)エミッル!
(台所からリュリュ登場。十四から十五歳の女の子。赤い格子の前掛け。肩にはネッカチーフ。弁髪(一本編みにした髪)。黒い木綿の靴下にサンダル穿き。)
 リュリュ はい!
 オーギュスト 肉屋さん、肉を持って来てくれた?
 オーギュストとリュリュ(声を揃えて。)いいえ!
 オーギュスト 食料品屋、食べるものは?
 オーギュストとリュリュ いいえ!
 オーギュスト ワインは? 配達に来た?
 オーギュストとリュリュ いいえ!
 オーギュスト(リュリュに。)有難う、エミッル!
(リュリュ退場。)
 イザベル あの子をエミッルと呼ばないの。あの子が嫌がるの、知ってるでしょう?
 オーギュスト(夢見る調子で。)小間使いが僕は欲しくってね。
 イザベル 電話はしたの?
 オーギュスト うん。
 イザベル ブランシャールにも?
(オーギュスト、頷く。)
 イザベル シャルヴェにも?
(オーギュスト、頷く。)
 イザベル ニコラにも?
 オーギュスト(憂鬱そうに。少し困って。)電話したさ。だけどまだ、したりないのかな?
 イザベル で、お金は全くない?
 オーギュスト(陽気に。)ないな。今日は全くない。
 イザベル 昨日だってもう、あまりなかったわ。
 オーギュスト 明日なら少しはあるんだ。たいした金額じゃないけどね。でも明日なら、今日の昼飯分を払えるくらいはあるんだ。
 イザベル 今日は仕事があるってことね?
 オーギュスト 九時から朝の二時までワグラム・ダンスホールだ。トランペットを吹く。
 イザベル あらまあ、大変。
 オーギュスト(陽気に。そして熱心に。)しようがないさ、トランペット吹きだからね、僕は。吹くしか能がない。(残念そうに。)ただ困るのは、吹きたいだけ吹かせてくれないってこと。
 イザベル そう、定期的にはないわね、仕事が。
 オーギュスト それは君にも責任の一端があるぞ。君の忠告通りフレッドに値上げを要求したんだ。そうしたら、僕が言ってた通りになった。お払い箱さ。
 イザベル(誠実に。)今に見てなさい、あなたの作ったコンチェルトをみんなが演奏する時が来るんだから。
 オーギュスト トランペット協奏曲っていうのはね、君、そうアマチュアでは作れるものじゃないんだ。・・・メイエルベールだって十年かかったんだ。
 イザベル あなたの「ポッセスィオン」が捗(はかど)らないのは、スケルツォのせいだわ。あなた、あそこに凝りすぎているからなのよ。
 オーギュスト(嬉しそうに。)そう、あそこは少し官能的でね・・・
 イザベル 少し! 私があなたにからまって、あなたが私にからまって、いつまで経っても終りはしない。それに、あのファにシャープがついているところ、あそこがちょっとね・・・
 オーギュスト(少し真面目に。)僕は官能的だ、確かに。でも放縦じゃないからね。
 イザベル(ひどく相手に譲って。)・・・ええ、まあね・・・
 オーギュスト 「ポッセスィオン」・・・からまって、自分のものにする・・・これはこの世にあることだ。それに、今やったって・・・
 イザベル(途中で遮って。)今は時間がないの。お昼のことを考えなきゃならないでしょう?
 オーギュスト 言いかけたのは違うことだったんだがな・・・
 イザベル 何でも駄目。私、お腹(なか)がすいているんだから。
 オーギュスト(優しく。)可哀想に。普段は僕の方だからな、腹が減るのは。
 イザベル 私、本当にお腹すいた。今なら嫌いなものだって食べられるわ。
 オーギュスト(心配そうに。)牛のレバーも?
 イザベル(真面目に。)勿論。
 オーギュスト(呆れて。)おやおや。(真面目に。)それはどうしても僕が何とかしなきゃ駄目だな。
 イザベル(優しく。)お願いよ。
 オーギュスト モンセーのおばさんの店では、どのくらい借りてるのかな。
 イザベル この間あのおばさんに会ったら言ってたわ。傘であなたの顔をぶん殴ってやらなきゃって。
 オーギュスト(悲観的に。)そうだな。あれ以上は無理だな、借りるのは。そんなところじゃないかと思っていた。
 イザベル そう、いっぱい、いっぱい。
 オーギュスト イタリア人は?
 イザベル バルビネッリ?・・・そうね・・・まあ、千か千三百少ないかな、モンセーおばさんより。
 オーギュスト だけどどうしてなんだ。変じゃないか、外国人のくせに! よし、どうしてもバルビネッリに昼飯を出させてやる!
 イザベル そう。どうやって?
 オーギュスト ポリャーコフの真似で一杯食わせるんだ。
 イザベル あなたがあのポリャーコフになって注文するっていうのね?
 オーギュスト(芝居がかって。)そう。ロシア訛りでやってやる。
 イザベル(最初から駄目と決めている。)だって、あなたのロシア訛り、下手なものよ。
 オーギュスト 馬鹿を言うな。僕はうまいもんなんだ、ロシア訛りは。もともと耳がいいんだからな。音楽家だぞ、これでも。
 イザベル トランペット吹きは、ロシア訛りが上手ってこと?
 オーギュスト 相手がイタリア人なら特に、だ。
 イザベル まあいいでしょう。それで相手があなたのことをポリャーコフだと信じ込む・・・それでどうなるの?
 オーギュスト ポリャーコフはこの下に住んでいる。タクシーの運転手だ。評判がいい。どこにも借りはない。いいね? 僕は注文する。バルビネッリは出前持ちをよこす。・・・(イザベル、「そこに問題あり」という動作。)・・・そいつは勿論僕を知らない。これははっきりさせて、と。僕は階段のところで待っている。出前持ちに「有難う」と言う。勿論ロシア訛りでだ。帰りに払うからと言って食事を受取る。ここに戻って来て食事をする。そんなに難しくはない。
 イザベル でも、もしバルビネッリ自身が出前持ちに出たら?
 オーギュスト(高飛車に。)タクシーの運転手ごときに主人(あるじ)が出て来る訳ないだろう?
 イザベル そうね。まあ安全そう。やってみたら。(イザベル、呼ぶ。)リュリュ!
 オーギュスト どうしてリュリュを呼ぶんだ!
 イザベル あの子に聞かせたいの。
 オーギュスト(悲しそうに。)あいつ、笑っちゃうぞ。
 イザベル お金払ってないのよ、あの子には。時々は笑わせるぐらいのサービスはしなくちゃ。
(リュリュ登場。)
(オーギュスト、ダイヤルを回す。)
 イザベル(リュリュに。)ほら! 聞いて。
(リュリュ、坐る。)
 オーギュスト(電話に。正確さにかけるのを心配しながら、ロシア語訛りで。)もしもし、バルビネッリ亭ですか? こちら、ポリャーコフです。
 リュリュ(喜ぶ。)あっ、ロシア語訛り!
(リュリュ、小さい声で吹き出す。)
 オーギュスト(イザベルに。訛りなしで。)見てみろ、この子にはすぐ分ったじゃないか。(電話に。ロシア語訛り最高潮。)フョードル・パーヴロヴィッチ・ポリャーコフ。アブロヴワール街十四番地・・・(急にロシア訛りを止めて。)おいおい、バルビネッリ、僕に話させてくれたっていいじゃないか。頼むよ。なあ、バルビネッリ。すぐ出前持ちをよこしてくれ。注文は鶏肉に、スパゲッティー・・・
 イザベル(平坦な声で。)豚肉あえ・・・
 オーギュスト(電話にプっと吹き出す。イザベルに非難する口調で。)駄目じゃないか、笑わしちゃ。(バルビネッリに。)えっ? ああ、傍で笑わせる奴がいて・・・(受話器から喚き声が観客にも聞こえる。)こう怒鳴られちゃ遣りきれないな。全く信じられない勢いだ。(イザベルに。)どうでもいい、昼飯を注文するか。
 イザベル(成行きから結論を出す。)駄目。お止めなさい。
(オーギュスト、受話器を置く。リュリュ、吹き出す。)
 オーギュスト 浮かれるのは止めよう。
 イザベル 浮かれるしか他に手はないわ、こんな時。
 オーギュスト たしかまだ、じゃがいもは残っていた筈だ。
 イザベル じゃがいもって?
 リュリュ じゃがいもはありません。
 オーギュスト じゃがいももないのか!
 イザベル その人にじゃがいもを出すつもりだった? じゃがいもだけを。
 オーギュスト ちょっとの間、辛抱して貰うためにね。
 イザベル 出せるものはただ一つね。指を洗うための水。
 オーギュスト(最後まで楽観的。)あいつ、ひょっとすると来ないぞ。
 イザベル まあ大変!
 オーギュスト というほどでもないよ。うちの家族はこの二十年間ずっとゴタゴタしてきたんだ。奴と僕とも、実際仲直りしたかどうか、そんなにはっきりもしていない。今まで君に奴を紹介していないのもそのせいなんだ。だから、僕が奴を昼飯に招待したとなると、奴の方じゃ、何かあるな、と思うに決ってるんだよ。
 イザベル で、その、あなたの従兄弟、オリヴィエっていう人、ハンサムなの?
 オーギュスト そんなことよりまづ、食うものの心配をしようよ。
 イザベル じゃ、私に考えさせて。
 オーギュスト さ、考えよう。
 イザベル 考えてる時の私の顔を見ないで。見られてるって、思うと、考えるのを止めちゃうの、私。いい顔にしようって、考える顔を作ることばかり考えちゃう。
 オーギュスト やれやれ、人を招待したら、どうして食い物を与えなきゃならないんだ。会話で充分じゃないか。昼飯なんか、僕等には何の興味もないんだ。
 リュリュ(感心して。)そう、興味なかったようよ。私、分ってた。
 イザベル 私、今日は興味あるわ。
 イザベル 一日に少なくとも一食は抜く、という女性はかなりいるぞ。(イザベルに。)これが君にはいいチャンスだ。
 イザベル(一瞬チラとオーギュストを見て。)道化を演じる好機だと思っているのね、今が。
 オーギュスト いや、いつだって好機だ、僕が道化を演じるのは。
(リュリュ、吹き出す。オーギュスト、「よく笑ってくれた」という目付でリュリュを見る。)
 イザベル その年で・・・この年になったら・・・あなた、私がいくつか知ってるでしょう?
 オーギュスト ああ、知ってる。だから謝る。御免。
 イザベル あなたの年も同じなの、私と。この年になったら、少しは人生を真面目に考えてもいいんじゃないかしら。
 リュリュ(心からの叫び。)まあ、そんなお年じゃないわ!
 オーギュスト ほーら君、リュリュを怒らせちゃったぞ。
 イザベル リュリュ、そんなじゃ、あなた、台所へ行ってらっしゃい。
(リュリュ、嫌々ながら退場。イザベル、オーギュストに。)
 イザベル あなた、今は少し後悔しているんでしょう?
 オーギュスト 今丁度この瞬間はね、実に嫌な気分だ。
 イザベル 有難う。
 オーギュスト ただね、僕の場合、一番嫌な瞬間てのは、六十分で必ず終るんだ。
 イザベル それじゃ何にもならないわね。
 オーギュスト 待って! 何か凄いことが起きそうだぞ!
 イザベル 相変わらずね。すぐタナボタを期待して。
 オーギュスト あのね君、僕は「これで本当に終りだ」って思ったことが何度となくあるんだ。だから今だって、そう簡単に希望を失う訳にはいかないよ。
 イザベル 希望って、どんな?
 オーギュスト 希望だよ。何かの希望。動物の中で希望を持てるのは人間だけなんだ。君はそれを僕から奪うって言うの?
 イザベル(感心して。優しく。)いいえ。
 オーギュスト 君に聞いていいかな。君の灰皿が気に入った人、誰かいた?
 イザベル どうでもいいでしょう? そんなこと。
 オーギュスト(むっとして。)一人もいないのか。
 イザベル いないわね。「あんた芸術家ね。何ていい粘土、それにこの大胆な色・・・」なんて言ってくれるけど、誰も買う人はいない。
 オーギュスト そんな奴はほっとくんだ。そのうちにあっと言うさ。見てろ!
 イザベル それならいいけど。
 オーギュスト 希望・・・期待・・・多い方がいい。(ハンカチをポケットから取り出す。)おや?
 イザベル どうかしたの?
 オーギュスト ハンカチに結び目が出来ている!
 イザベル それがどうかしたの?
 オーギュスト これができると悪いことがあるんだ。
 イザベル どうして?
 オーギュスト 悪いこと・・・それも忘れてはいけないやつ・・・それが起きる時なんだ、この結び目は。
 イザベル 悪いことって・・・これから起きるの?
 オーギュスト 知らないよ。少々のことがあっても、僕はすぐ忘れるからね。だけど忘れちゃいけないやつも中にはあるんだ。忘れてる後で痛い目にあうやつがね。
 イザベル で、その結び目が忘れては駄目って教えるのね?
 オーギュスト そんなところだ。
 イザベル 何でしょうね、それって。
 オーギュスト 全く見当がつかない。
 イザベル 家賃?
 オーギュスト もっと急を要するやつだな、きっと。
 イザベル 税金?
 オーギュスト(ゲラゲラっと笑って。)急だって言っただろう?
 イザベル 執達吏?
 オーギュスト 古いね。今どき執達吏なんか怖がる奴がいるかな。
 イザベル 電話を切られてしまう?
 オーギュスト(陽気に。)不便になるだろうね、きっと。
 イザベル じゃ、電気?
 オーギュスト まあ忘れよう。さもないと洗いざらい総点検が必要になる。
 イザベル あなたのママが急にうちに来るって?
 オーギュスト(機嫌よく。)そいつは怖いな! そんなことはあり得ないさ。君のママが来るんじゃないかって心配になるだけだ。
 イザベル 御免なさい。
 オーギュスト それに・・・ひょっとして・・・奴のことかな・・・いや・・・あ、何?
 イザベル(「期待するのは人間だけ」の話の時と同じように、すぐ譲って。)降参。
(誰かが扉を叩く。)
 シャルロの声 おい、開けろ。僕だ。シャルロだ。
 オーギュスト なあんだ、分った。あいつだよ。
 イザベル 悪いことって・・・この人?
 オーギュスト(扉を開けに立って。)ちゃんとあいつ、僕に言ったんだ。「明日、お昼頃、お前の家に行くぞ。俺の五千フランを返して貰いにな」って。それがこれさ。
 イザベル 私、席を外す。
(イザベル、自分の部屋に入る。オーギュスト、玄関の扉を開ける。)
(シャルロ登場。非常にがっしりした、体格のよい男。肉屋の首。一見動物のような雰囲気。実際は気のいい男。)
 シャルロ(開けっ広げな態度。)やあ、お二人さん!
 イザベル(自分の部屋から。)今日は!
 オーギュスト やあ、シャルロ。相変わらず正確だなあ。
 シャルロ だろう?
 オーギュスト それでみんなに嫌われるってことはないよね?
 シャルロ まあ、ない。
 オーギュスト 「明日お昼頃、お前の家に行くぞ。俺の五千フランを返して貰いにな。」
 シャルロ(時計を引っぱり出して。)十二時十分だ。
(シャルロ、肘掛け椅子に坐ろうとする。オーギュスト、身振りで止めさせる。)
 オーギュスト 駄目だ、その椅子は。ぶっ壊れる!
 シャルロ(別のところへ坐って。)有難う。・・・で、用意したのか?
 オーギュスト 五千フラン?
 シャルロ そう。五千フラン。
 オーギュスト(ちゃんと仕事の話の相手になって。)で、君はどう思う?
 シャルロ 用意してない。
 オーギュスト 当りだ。
(イザベルを呼ぶ。)
 オーギュスト おーい、敵の勝ちだ。
 イザベルの声(自分の部屋から。)敵の勝ちって、何それ。
 オーギュスト(怒鳴る。)分らない。(シャルロに。)お前の勝ちだよな? だけど、何の勝ちなんだ?
 シャルロ おいおい、訳の分らんことを言って誤魔化すんじゃないだろうな。
 オーギュスト とんでもない。こんなことで切り抜けられる訳がないだろう? 僕にはねシャルロ、友達がいるんだ。そいつがいい奴でね・・・
 シャルロ 無理するなよ。
 オーギュスト 四の五の言わずに、さっと五千フラン貸してくれてね。こいつには全く驚いたよ。その後、そいつに何度も会ったんだが、一言も金のことは言わない。だから、ついつい忘れていたんだ。それが今朝になって、まるで恩を仇で返すようなもんさ。そいつに、「金なんかないよ」って応えてね。全く辛いところさ。な?
 シャルロ 同情するよ。
 オーギュスト で、あの五千、本当に君、必要?
 シャルロ 必要だなあ。五千となりゃ、いつだって必要だ。
 オーギュスト それ、君、誰に言ってるか分ってる?
 シャルロ うん。分ってる。
 オーギュスト そうか。残念だけど、僕は今、その借りている金の分、また欲しいっていう状況なんだからね・・・
 シャルロ 例のコンチェルトは?
 オーギュスト 駄目なんだ。
 シャルロ だけど、いい曲じゃないか、あれ。
 オーギュスト(得意になって。)そうか。君、好きか。
 シャルロ ああ。ポッセスィオンのあの主題・・・あいつは逸品だ。
 オーギュスト うん。
 シャルロ 少なくとも十回は繰り返すぞ、あそこで。
 オーギュスト(謙遜に。)それでも駄目なんだ。
 シャルロ ただ、問題はだ、俺は娘を連れては決して聴きに行かない。
 オーギュスト そうだな・・・あれが理解されようとされまいと・・・やっぱりね。
 シャルロ(叙情的に。)あのトランペットの独奏のところ、あそこがまたいい。
 オーギュスト(謙遜に。)今吹こうか? 分割払いだ。
 シャルロ 有難う。昼飯の後にする。
 オーギュスト(溜息。)ああ、そうか・・・昼飯!
 シャルロ 昼飯がどうかした?
 オーギュスト(この場に到っても悲観的にはならない。)うまく行かなくてね。
 シャルロ イザベルも?
 オーギュスト 知ってるだろう? あいつのことは。立派なものなんだ。笑ってる。ただ、今朝は笑い方に少し元気がなかった。
 シャルロ 凄い女だ!
 オーギュスト(深い意味を込めて。)たいした女だよ、全く!
 シャルロ ムニエとよく話すんだがね、最後に言うことはこれだ、「ああいう女に好かれるからには、あいつにも何かいいところがあるんだろう」って。
 オーギュスト(褒められてもやはり少し傷ついて。)ああ、そういうこと・・・
 シャルロ そう、そういうこと。
 オーギュスト 真面目な話に戻ろう。君、僕にもう五千フラン貸してくれない?
(オーギュスト、この問に対する返事は分り切っているので、相手の言葉を聞きもしない。)
 シャルロ まあ・・・いいだろう。
 オーギュスト そりゃそうだな。仕方ないさ!
(オーギュスト、急に相手の言葉が分る。)
 オーギュスト えっ? 今、何て言った?
 シャルロ 「まあ・・・いいだろう」ってね。
 オーギュスト だけど、そいつは馬鹿だぜ。
 シャルロ ただ交換に、ちょっとしたことをして貰いたいが・・・
 オーギュスト 今言ったろう? そいつは馬鹿だって。僕が何だってするのは分っているじゃないか。・・・それで、誰にだい? 何かをやるってのは。
 シャルロ お前さんのいとこ、オリヴィエ・・・あいつとお前さん、いい関係か?
 オーギュスト いい関係! 当り前だ。今日昼飯にあいつを呼んでるんだ。
 シャルロ(熱を帯びて。)本当か?
 オーギュスト ただ、残念ながら、出すものといって、ジャガ芋さえない始末でね。
 シャルロ(興奮して。)おい、早まるなよ。馬鹿な真似はするんじゃないぞ。ほら、これがお前さんの五千フランだ。
(シャルロ、早くも手渡そうとする。)
 オーギュスト(相手の言葉を訂正して。)我々二人の・・・五千フラン・・・
 シャルロ(興奮状態のまま。)いいか、飛び切り上等の昼飯を出すんだぞ!
 オーギュスト そりゃ、いいに越したことはないが・・・
 シャルロ(いよいよ興奮してきて。)キャビアつきだ。必要があれば。
 オーギュスト(呼ぶ。)ビケット!
 イザベル(自分の部屋から。)前から言ってた筈よ。私をビケットと呼ぶなって。
 オーギュスト 昼飯代五千フラン、今ここにあるんだ。
 イザベル(服は殆ど着替え終っていて。)何ですって?
 オーギュスト この気のいいシャルロがね・・・
 シャルロ(この時までに時計を見ていて、今は興奮の極。)いいよ、いいよ、そんなことは。もう十二時二十分だ。急がなきゃ。
 オーギュスト 僕は急いでいるよ。
(オーギュスト、呼ぶ。)
 オーギュスト リュリュ!
 リュリュ(台所から出て来て。)はい。
 オーギュスト(自信たっぷり。命令口調で。)バルビネッリ亭へ行ってもらう。
 リュリュ(途中で遮って。)いいえ、参りません。
 オーギュスト(がっかりして。)無理もないな、そいつは。
(突然シャルロに。)
 オーギュスト そうだよ、君だ、行くのは。
 シャルロ まさか。何故だ?
 イザベル 説明しようにも、長過ぎるわ。
 シャルロ(イザベルには逆らえない。)分った。
 イザベル すぐできるものを頼むのよ。オマール海老、チキン、フワグラ、サラダ、チーズ、果物・・・その他あなたの気分次第・・・
 オーギュスト(リュリュに五千フラン渡す。シャルロ、その五千フランが消えて行くのを残念そうに見送る。オーギュスト、リュリュに。)リュリュ、お前はニコラ酒店だ。ボジョレー五、六本。いいやつをね。
(シャルロに。)
 オーギュスト こっちにも考えがあってね。
 シャルロ あいつを酔っぱらわせるのか?
 オーギュスト 考えがあるって言ったろ? さあ、急ぐんだ。
 シャルロ バルビネッリ亭って、どこだ?
 オーギュスト そこを出て、二メートル五十。右だ!
 イザベル(リュリュに。)それからバラ十八本。
(シャルロに言い訳を言う。)
 イザベル 人にあげるんじゃないの。壁にある穴を隠すためよ。
 シャルロ 君への僕からの贈物として貰えないかな?
 オーギュスト(イザベルが反対の言葉を言う前に。)花屋は道の反対側だ。さ、急いで!
 シャルロ 分った、分った。
(シャルロ、リュリュの後に続いて出ようとする。)
 オーギュスト(命令的に。)ちょっと待て!
(リュリュとシャルロ、止まる。)
 シャルロ 何だ。
 オーギュスト オリヴィエが来て、君のやりたいことってのは、あいつをぶん殴ることなのか?
 シャルロ それはな、つまり・・・
 オーギュスト ははあ、分った。よし、金は返す。最初から予感はしていたんだ・・・
 シャルロ あいつを殴るっていうんじゃないんだ。ただ、その・・・
 オーギュスト 待った! 殴るっていうんじゃないってことさえ分りゃ、それでいいんだ。さ、急げ!
 シャルロ よしきた。
(シャルロ、扉を閉めるのを忘れて出て行こうとする。)
 オーギュスト シャルロ! 扉!
(オーギュスト、ぶつぶつ言いながら扉をバタンと閉める。)
 オーギュスト 全く、扉を閉めるのを忘れるやつがあるか!
(オーギュストとイザベル、お互いに何の合図もする必要なく、二人で部屋の中央にテーブルを運ぶ。その作業の間に、陽気に。)
 オーギュスト この成行き、見た?
 イザベル 見たわ。
 オーギュスト(すっかり陽気になって。)二人であんなに心配したなんて、馬鹿なことだったよ。僕ら二人はついてる。最後の瞬間にはうまく行くんだ。
(二人、テーブルの周りに椅子を四つ並べる。)
 イザベル そうね。でも、ちょっと計算してみて。十五年も経つと・・・
 オーギュスト(途中で遮って。)もう十五年は経ってる、(結婚してから。)
 イザベル(繰り返して。)十五年も経つと、五千回はこんな風にして収まっているのよ。最後の瞬間に奇跡的に収まるのが、五千回も! あなた、怖くない? もうそろそろ運もつきるんじゃないかって。神様もうんざりしてくるんじゃないかって・・・
 オーギュスト 神様が? うんざり?
 イザベル 私達によ!
 オーギュスト おいおい、今はそんなことを考えてる暇はないんだ。テーブルナップで、穴の開いてないの、ある?
 イザベル(この時までに箪笥のところに行っていて。)穴のないの? ないわ。でも、この青いのでよさそう。
 オーギュスト(食器棚の中から皿を捜しながら。)僕は君に余分の金なんか渡せないしな・・・いや、余分どころか、必要な金もだ。
 イザベル(テーブルナップをテーブルの上に並べ終って。)私、そんなに多くは望まないの。でも・・・一度でいい・・・家賃を前払いしてみたい・・・三日の前払いでいいから・・・
 オーギュスト(どうしようもないという身振り。)でもなあ、そいつは・・・
 イザベル 分ってる、私。
 オーギュスト 勿論君がモーティマーと結婚してさえいれば・・・
 イザベル(陽気に。)モーティマーとなんか、いやよ。
 オーギュスト そんなに悪く言うことはないよ。あいつはリディア王クロイソスなみの金持なんだ。しかし、あいつより僕を選んでくれたっていうのは、僕の自慢だったな。
 イザベル あの人のヨットは好きだったわ。
 オーギュスト(皿を運んで来て、そのうちの一つを眺めながら、唐突に。)変ってるよ、やっぱり。焼き物をやっている女ってのは・・・っていうのが下馬評だ。きっと。
 イザベル(テーブルナップの穴から指を出して。)これ、あなたが煙草で作った穴。このナップをあの従兄弟に置いた方がいいわ。
 オーギュスト そう?
 イザベル 謝るかもしれないわ。自分が作った穴だと思って。
 オーギュスト(穴を見て、頭を急に上げて。)ああ、そいつは可哀想だよ、シャルロに。
 イザベル あの人のこと、庇(かば)うの? お金を貸してくれたから?
 オーギュスト いや、金とは関係ない。すまない気がするんだ。
 イザベル どうして?
 オーギュスト シャルロとムニエが会うといつでも僕のことをよく言ってくれているらしいんだ。
 イザベル(微かに皮肉に。)あら、そう!
 オーギュスト 二人で言っているらしい。「イザベルみたいな女に好かれるなんて、あいつ、どこかいいところがあるんだろうな」って。
 イザベル(力強く肯定。)いいところがあるの、あなたには。
 オーギュスト 僕の音楽の才能のことを言ってるんじゃないんだよ。
 イザベル 当り前。
 オーギュスト(食器類を置く手を止めて。)じゃ君、何のことを言ってるんだ?
 イザベル あなたの人となり・・・あなたのエゴイズム・・・
 オーギュスト(途中で遮って。)まるで僕を底の底まで見抜いているような言い方だな。
 イザベル だって見抜いているもの。
 オーギュスト しかし酷いことだぜ、それは。
 イザベル いいえ、見抜いていていいの。あなたって良い人だから少々の困難ぐらい、私達、すぐ乗り越える。二人が不幸になった時、その時どうなるか、それが問題。
 オーギュスト(呆れて。)不幸になった時? 下らないよ。そんなの問題にならない。どうしたんだい? 君、今朝は。
 イザベル(淡々と。)このお昼ごはんが気に入らないの。破局が来るんじゃないかって予感がする。
 オーギュスト 予感など何もないな、僕は。予感なんて、馬鹿なことを正当化するためのものじゃないか。「あの時ああ思ったのはやっぱり正しかった」なんて。そんなのは、僕は嫌だからね。予感なんて言わないんだ。
 イザベル(ちょっとの間。)あー、私、あなたが思っているような女になりたい・・・
 オーギュスト(不意をつかれて。)何だって?・・・(心配そうに。)ねえ、君、何かあったの?
 イザベル 私、あなたみたいな人間になりたいの。
 オーギュスト エゴイスト?
 イザベル いいえ。気楽で、優しくて、陽気で・・・
 オーギュスト 君、陽気じゃないか。
 イザベル 女っていうのは決して陽気にはなれないの。それは、陽気にさせられることはある・・・他人から・・・あなたから・・・でも、いつもじゃないわ。
 オーギュスト(軽く。)酷いことを言うな。
 イザベル 時々は私、あなたが陽気すぎるって思う。
 オーギュスト 僕が?
 イザベル ええ、陽気すぎ。すると影が薄くなるの。
 オーギュスト 影が薄くなる?
 イザベル(陽気に。)青い花、薔薇の花、煎じ薬・・・ね?
 オーギュスト 何だって?
(オーギュスト、脅すように一本指を立てて。)
 オーギュスト 君、君は疲れてるんだ。
 イザベル そうね、疲れているかもしれない。
 オーギュスト 今日はいつもとたいして変らないけど。
 イザベル いいえ、違います。
 オーギュスト 君がそう言うなら、まあ・・・
(二人、テーブルの準備を続ける。)
 イザベル あなたのその、人生に対する考え、どこから来たのかしらって思うことがあるわ。
 オーギュスト(心から驚いて。)人生に対する考え? 僕の?
 イザベル ええ。だってあなた、人生って冗談だって思ってるでしょう?
 オーギュスト(力強く。)うん、冗談だ。なあ、シャルロが五千フラン持ってやって来るなんて、冗談以外にはないよ。
 イザベル 分った、トランペットのせいね。人生もそんなもんだって思ってる・・・
(イザベル、非常に上手にトランペットの音を真似る。)
 イザベル ポン・・・ポン・・・ポン・・・ポンポン・・・ポン・・・ポン・・・
(真似しながら、だんだんと陽気に・・・)
 オーギュスト 何だ、君だって陽気じゃないか。
 イザベル(本当に陽気になって。)ええ、私、陽気。何故私一人が気を揉まなくちゃいけないの。ほら、穴の上には灰皿を置けばいいのよ。
 オーギュスト(安心して。)うまい!
 イザベル(オーギュストをじっと見た後。)あなたのお父さんの言った通り。
 オーギュスト おやじ? 何だい急に。ただの老いぼれじゃないか。
 イザベル 老いぼれかもしれないけど、言うことは確かだったわ。「愛とは、知性の犯す最も上品な過ちなり」
 オーギュスト やれやれ!
(玄関にノックの音。)
 シャルロの声 開けろ! 重くて死にそうだ!
(オーギュスト、玄関に突進。)
 オーギュスト ちゃんと全部買ってきたか?
(シャルロ登場。確かにひどく重い荷物。ワインの壜が入った巨大な籠、丁寧に包装されている。最上級のワイン。もう少し小さい包みが紐で一本の指にひっかけられている。それら全てを覆うように赤い薔薇の花。シャルロは息を切らしている。リュリュがその後ろ。手ぶら。みんなの話すことを聞くために部屋に入り、坐る。)
 シャルロ 全部だ。(イザベルに花を渡しながら。)これ、おみやげ。
 イザベル もっと安いのでいいのに。
 シャルロ(びっくりして。)ええっ?
 イザベル あなたの従兄弟さん、これを見て、自分が歓迎されてると思うわ。
 シャルロ そう?
 イザベル もう少し萎(しお)れていたら、ただ部屋を飾るための普通の花だって思うでしょうけど。
 シャルロ(神妙に。)ご免なさい。
 イザベル 萎れた花なら普通・・・そうね、五旬節の祝いなんかで飾るから。
 シャルロ バターも芥子(からし)も買って来た。
 イザベル 有難う。でも芥子はいらなかったわ。この十五年間私達、芥子は切らしたことがないの。
 オーギュスト(シャルロに話題を変えるため。)オリヴィエに僕から頼むことって何なんだ?
 シャルロ  AWBのガレージは、あいつのものだって、君、知ってるか?
 オーギュスト AWBのも、奴のもの?
 シャルロ アレズィア街にあるやつだけど、僕はあそこのただの管理人なんだ。
 オーギュスト 知らなかったな。
 シャルロ ほっとくとロビヤールかリモージュに住むことになる。だから君の従兄弟に言って欲しいんだ。今月の終りまでにそこを引き渡して欲しいと。なにしろデレッセール並木道はアレズィア街とは全く違うからね。
 オーギュスト そうだろうな。
 シャルロ デレッセールは客筋がいいからな、何と言っても。シックな御婦人達、いい家のお抱え運転手・・・二年あそこでガレージをやれば、僕だってリモージュに住める。
 オーギュスト おめでとう!
 シャルロ 明後日あいつに会いたい。君が一言あいつに言ってくれればすむ筈だ。
 イザベル(この時までに壁の穴の前にある小卓に薔薇を置いている。)シャルロ、これで穴、見えなくなったでしょう?
 シャルロ(呆れて。)穴? 何の穴?
 イザベル 壁に穴があるの。まだ穴、見える?
 シャルロ 見えない。
 イザベル(別の穴の前で。)これは?
 シャルロ それも見えないね。
 イザベル 有難う。私、着替えて来る。
(イザベル、自分の部屋に入る。)
 シャルロ すごいね、彼女は。
 オーギュスト あれがイザベルだ!(買物の包みを指指して。)台所でやって来る。
(オーギュスト退場。)
 シャルロ(後ろから叫ぶ。)手伝おうか?
 オーギュストの声 ボジョレーをデカンタに入れて。その方が立派に見える。
 シャルロ 分った。
(シャルロ、指示に従う。デカンタにワインを移しかえる。蚤の市で買ってきたとすぐ分るデカンタ。)
 リュリュ(立上がって。)二千六百フラン。これ、おつり。
 シャルロ 僕に返すのを忘れたって言うんだ。
 リュリュ いいわ。・・・あの人達が好きなのね? あなたも。
 シャルロ うん、好きだ。
 リュリュ(情熱を込めて。)頭、おかしいのよ、あの人達・・・ね?
 シャルロ 全然。そんな風に思っちゃ駄目だよ。あの二人は愛しあっているんだ。そういう二人なんだからね。普通の人と違うのは当り前だよ。
 リュリュ ママはあの二人、狂ってるって。だから、自分の代りに私をここへよこしたの。ママはここでは働きたくないの。でも私だったら、ここで人生を学ぶだろうって思ってるみたい。
 シャルロ 狂ってるのはママの方だよ。こんなところで人生を学んでごらん、君、お仕舞いだよ。
(その時、台所からトランペットの猛烈な音が鳴り響く。)
 オーギュストの声(叫ぶ。)イザベル! オマール行進曲だそ。
 イザベルの声(自分の部屋から。)すぐ分ったわ。
 リュリュ(シャルロに、二人に対する尊敬の念をこめて。)ね?
 シャルロ ああ、そりゃそうだな。
 リュリュ(うっとりとなって。)私、あの人達となら死んでもいいわ。
 シャルロ(心を打たれて、リュリュの頬を軽く叩いて。)それより台所を手伝う方がいいよ。
 リュリュ そう思う?
(リュリュ、いそいそと台所に入る。)
 イザベルの声 で、デザートは何?
(オーギュストのトランペットの音が少し響いて。)
 イザベルの声 素敵! フランボワーズだわ!
(シャルロ、「そうだ」という意味のうなり声。)
 シャルロ(ソムリエの仕事を終えて。)オーギュスト、僕は終ったよ。デカンタはもういっぱいだ。
(オーギュスト登場。服の上から非常に清潔なピンクの格子のエプロンをかけている。)
 オーギュスト(軽い調子で。)何もかも、すまんな、シャルロ。
 シャルロ もう礼はいいよ。
 オーギュスト これから先、ずっと?
 シャルロ 「今朝は・・・もういい」というつもりだ。
 オーギュスト そうだな。「これから先ずっと」じゃ、格好よすぎる。
 シャルロ それに、この手の会話は苦手でね、僕は。
 オーギュスト うまい。僕も苦手だ。よーし、これから最初に入った金が君のところに行かなかったら、この頭に、雷よ、落ちよ! だ。
(舞台裏で、ものすごい爆発音。)
 オーギュスト(青くなって。)何だ、あれは。
 イザベルの声 大丈夫。管理人のおばさんが教えてくれてたわ。あそこの古い汚い家を爆破したの。三日間は法律で近づけないって。
 オーギュスト(安心して。)ああ、そう。
 シャルロ(意地悪く。)怖かったんだろう?(笑う。)雷がお前さんに落ちたと思ったな?
 オーギュスト(こちらも笑って。)「雷よ、落ちよ!」・・・なんて言ったそのとたんだからな。しかし、嘘じゃない、金は必ず返すよ。
(オーギュスト、シャルロの背中をドンと叩く。)
 シャルロ それから、ガレージのこと、頼むぞ。
 オーギュスト 分ってる。
 シャルロ 実際、お前さんはたいした奴だよ。
 オーギュスト(真面目に、優しく。)うん、君のような友達を持ってるんだ。僕にも何かいいところがなきゃな。さよなら!
(オーギュスト、台所に退場。)
 シャルロ(イザベルの部屋に叫ぶ。)さよなら、イザベル!
 イザベルの声 さよなら、シャルロ!
(シャルロ、今回もまた、扉を開けたまま出て行く。)
 オーギュストの声 いい奴だよ、全く、シャルロは。
 イザベルの声 私も大好き。でもどうやって一万フラン返すつもり?
 オーギュストの声 急がないって言ってたからね。
 イザベルの声 また?
 オーギュストの声 多少はオリヴィエのことをあてにしているんだ。
(丁度この時オリヴィエ、扉のところに現れる。それからソフィーを通すため脇に寄る。二人とも非常に立派な身なり。)
 オリヴィエ 聞いたか? オーギュストの奴、僕をあてにしているらしいぞ。
 ソフィー(驚いて。)まあ、あなた、立ち聞きするつもり?
 オリヴィエ(尊大に。)当り前だ。面白そうじゃないか。な? ソフィー。
 ソフィー 面白いのは分るけど・・・
 イザベルの声 で、ハンサムなの? その人。
 オーギュスト オリヴィエ?
 イザベルの声 ええ、オリヴィエ。・・・ハンサム?
 オーギュスト ハンサム以上だ。
 オリヴィエ(自虐的に、ソフィーに。)これを聞かないって法はない。
 オーギュストの声 凄い奴さ。シックで、血筋もいい。様子もいい。とびきりの上玉だ。
 オリヴィエ 有難う、オーギュスト。
 オーギュストの声 僕より相当上だ。
 イザベルの声 頭もいいって言ったことがあったわね?
 オーギュストの声 うん、頭もいい。
 オリヴィエ 身体の置きどころがないな。
 オーギュストの声 奴にはすごい規則がある。いつか僕に言った・・・ちゃんとその言葉通りじゃないが・・・「人がその目的を達するのは、常に偶然による。」
 ソフィー(オリヴィエに微笑みながら。)名言。
 オリヴィエ(謙遜に。)悪くないね。
 イザベルの声 ねえ、そんな人に一杯食わせるようなことをしたら駄目じゃない?
 オーギュスト とんでもない。そんなことはしないよ。まっすぐズバリと言うさ。
 オリヴィエ その方がいい。その方がいい。
 オーギュストの声 機転の利く男でもあるんだからね、勿論。
 オリヴィエ 誉め過ぎだ、そりゃ。
 ソフィー(微笑んで。)ちっとも。
 オーギュストの声 あいつ、いつも僕を馬鹿にしたような顔をしているんだ。
 オリヴィエ(訂正する。)いつもじゃない。
 イザベルの声 で、女の人の方は?
 オリヴィエ 今度は君の話だ。
 オーギュストの声 とにかく最高。
(オリヴィエ、ソフィーにお辞儀。)
 オーギュストの声 外国語訛りの素敵なアクセント。素晴しい目、うっとりするような微笑み、それに、あの優しさ!
(オリヴィエ、一言話される度にソフィーにお辞儀。)
 オーギュストの声 信じられない素敵なカップルだ。
 ソフィー 私、困るわ。
 イザベルの声 で、ソフィーはオリヴィエを愛してるの?
 オーギュストの声 ソフィーは喋らないからね。よく分らないんだ。
 オリヴィエ(ソフィーをじっと見て。)分ってると思っていたがな。
 ソフィー(誇り高い。)分らないものなの、他人には。
 オーギュストの声 一つ確かなことは、奴のやることを何でもソフィーは許すっていうことだ。まあ、ソフィーには大変な仕事だろうけどね。
 オリヴィエ 風向きが変ったぞ、こいつは。
 イザベル じゃ、オリヴィエはソフィーに辛くあたってるの?
 オーギュストの声 そう。全くひどい奴だ、その点は。
(ソフィー、強く反発する。オリヴィエ、それを抑える。)
 イザベルの声 じゃ、オリヴィエ、ソフィーを愛していないんじゃない。
 オーギュスト うん、まあ・・・
 ソフィー(反発して。)このまま私達のこと、話させておくの?
 オリヴィエ(命令的に。)面白いからね。
 イザベルの声 小さい声で言わないで。聞こえないわ。
 オーギュストの声 まだ何も言ってないよ。考えてるんだ。オリヴィエは複雑な男だからね。ソフィーを虐待するけど、愛してはいるんだ、きっと。
 オリヴィエ(ソフィーに。)君、どう思う?
 ソフィー(冷たく。)何も思いたくないわ。
 オーギュストの声 ソフィーは貴族、オリヴィエは貧乏だった。ソフィーは愛して貰いたかったし、オリヴィエは金持になりたかった。
 イザベルの声 よくあるわ、そういう夫婦。
 オーギュストの声 いくらソフィーが美人でも、それが無駄なんだ。だってオリヴィエはソフィーの金の方に興味があるんでね。
 ソフィー(反論の叫び。)そんな!
 オーギュスト いや、本当なんだ。
 イザベル 私、反対なんかしてないわ。
 オーギュストの声 だって君、「そんな!」って言ったろ?
 イザベルの声 「そんな!」だなんて、私、言わない。あなた、言って欲しい?
 オーギュストの声 じゃ、一杯やる? 君も。
 イザベルの声 「一杯やる」って、何? それ。
 オーギュストの声 ソフィーは飲むらしいんだ、噂では。
 ソフィー(オリヴィエに見られ、頭を下げる。)もう黙らせて!
 イザベル 沢山?
 オーギュストの声 見たろう? 赤ワインを沢山買って来て貰ったの。
(オリヴィエ、意地悪くソフィーにデカンタを指し示す。)
 イザベルの声 赤なの? 飲むの。
 オーギュストの声 赤には限らない。与えられれば何でもだ。アルコールが好きなのか、それとも忘れたいために飲むのか、よく分らない。
 イザベルの声 どっちの場合でも私、ソフィーが可哀想。
 ソフィー(オリヴィエに。)この人、親切。
 オーギュストの声 たとえアルコール中毒でなくっても、今は飲まざるを得ない筈だ。ランヴァンの娘のことを忘れなきゃならないからね。
 オリヴィエ(非常に落着いて。)この野郎、何も知らないくせに!
 ソフィー(苦しそうに。)まあ、(ランヴァンの・・・)
 オーギュストの声 「まあ」とか「まさか」とか変な合いの手は止めてくれ。苛々する。
 イザベルの声 「合いの手は止めろ」っていうのを止めて頂戴。私こそ苛々するわ。
 オーギュストの声 それだけじゃない、もう少しであいつ、牢屋行きだったんだ。政治向きの理由なんかじゃない・・・だから仲間からも爪弾きにあって・・・
 オリヴィエ(歯をくいしばって。)そいつはもう終ってる。
 オーギュスト うん、爪弾きは終ったんだが・・・今の時代は「いい評判」ってのが大事でね。
 イザベルの声 そう、名言。
 オーギュストの声 まあ、一言で言えば、「食えない奴」さ!
 オリヴィエ 言いやがったな!
 オーギュストの声 もう少し金を「良いこと」に使ったらな。そう、我々に少しくれればいいんだ。
 イザベルの声 そんなこと当てに出来ないわ。
 オリヴィエ そうそう。
 オーギュストの声 うん、当てに出来ない。あいつはケチだからな。
 イザベル それじゃ、いよいよ駄目ね。
 オーギュストの声 駄目でも何でも、とにかくあいつの顔が見てみたいもんさ、二人のこの会話を奴が聞いた時のね。
 オリヴィエ(叫ぶ。)聞いたぞ。
 オーギュストの声(呆れて。)えっ? 今、君、何て言った?
(そう言いながら、台所の扉から登場。まだエプロンはつけている。オリヴィエを見て青くなる。)
 オリヴィエ(平気な顔で。)「聞いたぞ」って言ったけど。
 オーギュスト(口ごもりながら。)ああ、そう。
 オリヴィエ 噂してたの、僕のことなんだろう?
 オーギュスト それは場所による。どこらあたりから聞いてた?
 オリヴィエ 「食えない奴」からだ。
 オーギュスト(安心して。)ああ・・・あそこならもう君の話じゃない。
 オリヴィエ 本当か?
 オーギュスト 嘘をついたってしようがないだろう? あそこでは酷くケチな男の話をしていたんだ。だから勿論君のことじゃないさ。
(一石二鳥を狙って。)だって君はケチじゃないからね。
 オリヴィエ(少しの間の後。直接前の台詞には答えず。)じゃ、誰のことを話していたんだ。
 オーギュスト(軽くいなして。)君の知らない奴・・・ショサンだ。
 オリヴィエ ショサン? ショサンは金ばなれがいいぞ。南の太陽じゃないか、まるで。
 オーギュスト 僕には違うな。
 イザベルの声 あなた、もう何も言わないの?
 オーギュスト いとこが来たんだ。今ここにいるよ、ビケット。
 オリヴィエ ビケット!
 イザベルの声 まあ、それは大変じゃない。
 オーギュスト(イザベルの「大変」という言葉で、ばれないようにと注意して。)心配ないよ。今着いたばかりなんだ。うまく行ってる。
 イザベルの声 ああ、じゃ、いいけど・・・
 オーギュスト 「食えない奴」のところで入って来たんだ。オリヴィエったら、自分のことが話題になってると思ってね。馬鹿だろう?
 イザベル(少し心配の声。)ええ、馬鹿ね。
 オーギュスト ショサンの話をしてたって、ちゃんと説明したところだ・・・(次の言葉ははっきりと発音する)ショサン。早く出て来いよ。だけどまあ遅くても、どうせ許してくれるだろうけど。
(この間ソフィー、少し離れた所に行き、涙を拭いていたが、顔を改めて二人の男のところに戻って来る。)
 ソフィー そんなの、勿論!
 オリヴィエ 君、君の従兄弟に「今日は」って言ってないよ。
 ソフィー(上品に微笑んで。)今日は、従兄弟さん。
 オーギュスト(こちらも世慣れた風で。)ソフィー、また会えて嬉しい。(電話の音。)失礼しますよ。(普通の声で。電話に。)もしもし・・・(突然ロシア語訛りで。)えっ? 知りません。・・・知りません。・・・オーギュスト・タイアッド?・・・知りません。こちら、フョードル・パーヴロヴィッチ・ポリャーコフ・・・ダー・ダーダー・・・ニチェヴォー・・・知りません。(電話を切る。二人に説明する。)間違い電話だ。
 ソフィー(丁寧に、しかし微笑みながら。)ああ!
 オリヴィエ ああ、オーギュスト、例の五千フラン、勿論用意はしてないな?
 オーギュスト ない。でもまあ、よく聞いてくれた。
 オリヴィエ 僕は馬鹿なことをしてしまってね。キャデラックをトラックにのせて返してしまったんだ。ここにはタクシーで来なきゃならなくて・・・運転手が小銭がないって言ってね・・・
 オーギュスト ああ・・・(呼ぶ。)リュリュ!
 リュリュ(登場して。)はい。
 オーギュスト さっきの買物の時、ニコラ亭でお釣出さなかった?
 リュリュ お釣なんか出さないって言ったんですけど、私、すごく怒って・・・そうしたら出してくれました。
 オーギュスト(オリヴィエに、軽く。)強いからね、この子は。(リュリュに。)で、そのお釣、貸してくれた人に返した?
 リュリュ いいえ。
 オーギュスト 君、お利口だね、本当に。
 リュリュ 返さなくっていいって、あっちが言ったんです。
(リュリュ、エプロンのポケットからお金を出す。)
 オーギュスト(オリヴィエとソフィーに。)良い友達がいるなあ、僕には。(リュリュに。)じゃ、リュリュ、下に行ってタクシーに・・・
 ソフィー(ちょっと一人になりたい。)いいえ、私が行きます。
 オーギュスト いいんですよ。
 オリヴィエ(皮肉に。)ああ、君はソフィーを知らないからね。好きなようにしたい性質(たち)なんだ、ソフィーは。
(オリヴィエ、リュリュの手から金を取り、ソフィーに渡す。)
 ソフィー(オーギュストに微笑んで。)有難う、オーギュスト。(ソフィー退場。)
(オーギュスト、扉が少し開いているようにして、閉める。)
 オリヴィエ(オーギュストを心配させるように。)「素晴しい目、うっとりするような微笑み・・・」
 オーギュスト(自分の台詞を思い出し、ギョッとして。)えっ? 何、それ。
 オリヴィエ ソフィーって、そうだろう?・・・素晴しい目って思わない?
 オーギュスト(相手が盗み聞きしたか探るように。)うん・・・うん・・・
 オリヴィエ 僕も思ったね・・・君だけだ・・・(そんなことを言ってくれるのは・・・)
(オリヴィエ、肘掛け椅子に坐ろうとする。オーギュスト、それを身振りで止める。)
 オーギュスト 駄目だ、その椅子は。壊れる!
 オリヴィエ 有難う。
 リュリュ(残念がって。オーギュストに。)まあ、どうして教えるの?
 オーギュスト 行って! 台所でやることがあるんだろう?
 リュリュ 横暴!
 オリヴィエ 教育が出来てないね、君とこの腰元は。
 オリヴィエ うん。
(オリヴィエ、テーブルに置かれている椅子に坐る。肘をつこうとするとスープ皿が邪魔になる。どけようとして皿をじっと見る。)
 オーギュスト(自動的に。)陶磁器はそれが厄介だ。
 オリヴィエ うん、うん。(ゆっくりどける。)
 オーギュスト 有難う。
 オリヴィエ 階段で会った男・・・あれは誰なんだ? 僕を見るとすぐ帽子を鼻まで引き降ろしたぞ。
 オーギュスト その動作が気になった?
 オリヴィエ うん。僕の知っている男のような気がしてね。
 オーギュスト 言っとくけどね、そういうことに女房がかかわらないっていうことを有難いと思わなくちゃ。
 オリヴィエ 君、君は自分の女房に何か隠したりする?
 オーギュスト ないね。十五年間全くなしだ。
 オリヴィエ 言い忘れたために結果的に嘘になったってことも?
 オーギュスト ない。一度も。
 オリヴィエ(小声で、歌のリフレインのように、歌うように。)「また一つ愛の歌・・・他人とは違う・・・他人とは違う・・・」
 オーギュスト まあね。だけど問題はそこにはない。
 オリヴィエ ほほう。
 オーギュスト(ふざけながら。)なあ、オリヴィエ、僕は一山あてたいんだ。しかし運がない。
 オリヴィエ そうか。僕にはあるんだ。
 オーギュスト まあ、早く成功したくはない。その後何をしていいか分らないからね。ただ、いづれにしても、トランペットじゃあまり金にはならない。
 オリヴィエ ブロケの申し出があったじゃないか。次にはユゴネからも。さっさとみんな断って・・・
 オーギュスト(自分に対して皮肉に。)断った金で買ったものがある。自由だ。
 オリヴィエ ああ、立派な言葉だ。蟻に言ったキリギリスの返事ね。誰か僕よりぶしつけな人間がいたら、きっと言い返すね。「じゃどうぞ、今は踊りでも踊ってなさい」ってね。
(イザベル登場。)
 オリヴィエ(立上がりながら。)これが奥さん?
 オーギュスト そう。
 オリヴィエ ああ、これが・・・おめでとう、オーギュスト!
(オリヴィエ、はた目にもイザベルの魅力に参っていることが分るが、自分でもそれを隠そうとしない。イザベルにキスする。)
 イザベル 恐れ入ります。
 オリヴィエ 何ていう目!
 オーギュスト うん。
 オリヴィエ 何ていう微笑み!
 オーギュスト うん。
 オリヴィエ 何ていう立ち姿!
 オーギュスト うん。
 オリヴィエ 何て謎に満ちた!
 オーギュスト それは言わないね。
 オリヴィエ 何故?
 オーギュスト 女房の謎は夫には困るんだ!
 オリヴィエ(オーギュストに。)何が困る。女房の謎が。
 イザベル(ショックを受けて。)何です? それ。よく分らないわ。
 オリヴィエ(言い直して。)謎・・・どうして彼は、十五年間もあなたを隠していたのか。
 イザベル この人が隠していたんじゃありませんわ。私、自分で隠れていました。
 オリヴィエ 幸せになるため?
 イザベル ええ。
 オリヴィエ オーギュストと?
 イザベル(生意気な態度は出ないように。)ええ。
 オリヴィエ ああ、おめでとう、オーギュスト。おめでとう。
 イザベル(オーギュストに。)あなたのいとこさんて、情熱家ね。
 オーギュスト うん。(調子を変えて。)今、仕事の話をしていてね、オリヴィエと僕は・・・
 イザベル あら、じゃ私、五分後に戻って来るわ。
 オリヴィエ(しっかりと。)それは駄目。
 イザベル 駄目?・・・何故?
 オリヴィエ オーギュストの話、面白いとは言えなさそうだからな。(オーギュストに。)だろ?
 オーギュスト(正直に。)うん、まあ。
 オリヴィエ あなたまで出て行って・・・僕を虐めないで欲しいな。
 イザベル 虐める?
 オリヴィエ いて! お願いだ。
 イザベル そんな風に頼まれれば・・・じゃ・・・
(イザベル、坐る。)
 オリヴィエ(オーギュストに。)さ、話は?
(オリヴィエも坐る。ここから、ソフィーが戻って来るまでオリヴィエ、全くオーギュストを見ず、イザベルだけを見てオーギュストに答える。イザベルにすっかり魅せられている様子。)
 オーギュスト 簡単・・・簡単に言う。三十万フラン貸して欲しい。
 オリヴィエ 分った。
 オーギュスト 何? 分ったって? 君、何故って理由も聞いてないじゃないか。
 オリヴィエ(オーギュストの方を見ず、優しく。)じゃ、どうして?
 オーギュスト 小さな「喫茶バー」があるんだ。上品で、洒落ていて・・・オートイユにね。・・・(途中で言い止む。)聞いてないじゃないか。
 オリヴィエ 上品で、洒落てて、オートイユに・・・
 オーギュスト 三十万だせば共同経営者にしてくれるって言うんだ。僕は最初はピアノを弾く。で、うまくいったらトランペットだ。オーケストラつきでね。
 オリヴィエ 君の生活の仕方を逐一話すことはないよ。僕はもう承諾したんだ。
 オーギュスト(気が抜けて。)有難う。
 オリヴィエ(イザベルを見るのをちょっと止めて。)今すぐ小切手を切る?
 オーギュスト うん、君がよければ。
 オリヴィエ 何日だ? 今日は。(イザベルに向き直って。)うん、金は奥さんの方に預かって貰う。
 オーギュスト 五月十二日。
 オリヴィエ 喫茶バーの話に戻るけど、それはいいよ、オーギュスト。いい考えだ。凄いよ。
 イザベル 本当に私達、受取っていいのかしら。
 オリヴィエ いいとも。
 イザベル オーギュストと一緒に受取るのよ。
 オリヴィエ それはそう。特にオーギュスト。
 イザベル じゃ、私もお礼を。有難う。
 オリヴィエ さてと、これでお互いにかかわり合いが出来たんだから、僕らはしょっちゅう会えるんだな?
 イザベル それは駄目。こっちは仕事で忙しいわ。
 オリヴィエ 仕事? あなたも働いている?
 イザベル 勿論。
 オリヴィエ 大変だ、そりゃ。
 イザベル その喫茶バーにいらしたら?
 オリヴィエ 分ってる、分ってる。
 イザベル その時、お友達みんなを連れていらしたら、今年の終にはお金、お返し出来るわ。
 オリヴィエ 金の話は止めましょう。
 イザベル 止めることは出来ないわ。とても有難く思っているんですもの、こんなチャンスを与えて下さって。ですから、私達、それだけの働きはしなくちゃ。
 オリヴィエ(オーギュストに。)この話、止めさせて! 頼む。
 オーギュスト うん。イザベル、止めよう。
 イザベル じゃ、十二月まで。
 オリヴィエ 変な話だ。僕の方はちゃんと好意を見せているのに、そちらは僕のことを怖がっているみたいだ。
 イザベル(驚いて。他意なく。)私が?
 オリヴィエ 僕は悪魔なんかじゃありませんよ。
 イザベル(曖昧に。)残念だわ、悪魔なら面白いのに。
 オリヴィエ 僕のこと、親切だと思ってくれてないんですか?
 イザベル(表情なしに。)いいえ、とっても御親切。
 オリヴィエ 一番上手な女性の嘘・・・それは下手な嘘。
 イザベル 私が? 下手な嘘?
 オリヴィエ すぐ分りましたからね、親切と思っていないことが。
 オーギュスト オリヴィエ・・・時々は僕にも話をしてくれなきゃ。
(ソフィー登場。)
 オリヴィエ(ソフィーにまだ気づかないで。)僕が親切と思っていないんでしょう。
 ソフィー そんなこと・・・親切と思っているに決ってるでしょう? ね、イザベル。
 イザベル ええ、それも安くはないのよ。私達に今、三十万フラン貸してくれたところですもの。
 オリヴィエ(苛々して。) そういう細々した事はソフィーには関係ないんだ。
 ソフィー あら、じゃ、今日は例外。おめでとうって言わなくちゃ。
 イザベル あら、今日は、いとこさん。あなた、綺麗だわ。
 ソフィー まあまあ、お綺麗な方に褒められるなんて。
 オリヴィエ それでも一番良いとは言えない。赤い目でない時に見てもらわなきゃ。
 ソフィー ええ。
 オリヴィエ(見せかけの気づかい。)目にゴミ? きっと。
 ソフィー(落着いて。)いいえ。・・・目は自然の色の筈。
 オリヴィエ 何か僕、君の気に触ること、言ったかな?
 ソフィー(力を込めて。)あなたが何を言おうと勝手。私、あなたの言うことなんか、ちっとも気にしてないんだから。
 オーギュスト(イザベルに、小声で。)これは早く昼飯にした方がよさそうだ。
 オリヴィエ おお、これは立派な。夫のことをちゃんと理解して、何でも許してくれる女房だ。(溜息をついて。)残念ながら、その夫が、それに相応しくないときている。
 ソフィー(微笑んで、とげなく。)まあま、お芝居にしないの。
 オーギュスト(わざと陽気に。)さ、テーブルにつきましょう。
 イザベル そうね。さ・・・(ソフィーに。)どうぞ、ソフィー、ここに。(オリヴィエに。)私の右にどうぞ。
 オリヴィエ(誇張した喜び。)喜んで!
 イザベル(オーギュストに。)あなたはここね。太陽が目に入る位置。当然でしょう?
 オーギュスト 太陽なんかへのかっぱ。
 オリヴィエ 輝くような奥様を眺めつけているから・・・ねえ、イザベル。
(オリヴィエ、坐る。)
(オーギュスト、少し変な顔をしてオリヴィエを見、それから台所に叫ぶ。)
 オーギュスト リュリュ、オマールだ!
 ソフィー 私、アルコールを戴いていいかしら。
 オーギュスト 勿論。
(オーギュスト、イザベルと目配せをする。)
 オリヴィエ 今朝二人でランヴァンの店に行ったんだ。僕が売り子をからかった。その下らない冗談をソフィーが覚えていてね。
(イザベルとオーギュスト、ソフィーへの同情の目配せを交す。その目配せをオリヴィエ、すぐ嗅ぎとる。)(訳註 つまり、オリヴィエの浮気の病に対する、イザベルとオーギュストの反応。)
 ソフィー(たいして興味なく。)くだらない冗談ね。(訳註 勿論ソフィーにはこたえる冗談。)
 オーギュスト(叫ぶ。)リュリュ! ブランデーだ。
 リュリュの声(びっくりして。)何ですって?
 オーギュスト(言い難そうに。)ブランデー!
 リュリュの声 オマールにブランデー! 何て取り合わせ!
 オーギュスト(ソフィーに微笑みながら。しかし困って。)だから給料はただなんだ。(訳註 リュリュの給料は、という意味。)
 ソフィー ただ!
 リュリュの声(助けを呼ぶ声。)栓が開かない!
 オーギュスト(非常に世慣れた調子で。)ちょっと失礼。何もかも、僕が出ないと進まない。
(オーギュスト、台所に入る。)
 ソフィー(誠実に。)とても魅力的・・・お二人とも。
 オリヴィエ 魅力的? 変ってるだけさ!
 イザベル(肯定して。)ええ、変ってる!
 オリヴィエ 統計によると、夫婦の相思相愛の比率は、今年三・五パーセント、一九一四年には二十一パーセントだった。一七・五パーセントの減で、まあ、当り前のこと。それに、海は年間一・二二メートルの後退だっていう話だ。
 イザベル まあ。
 オリヴィエ ここの夫婦はその三・五パーセントにはいっている。それに十五年間ここに住んでいる・・・
(この時までにオーギュスト、ブランデーの壜とグラスを持って来ている。)
 オリヴィエ 全く、何て離れ業だ!
 オーギュスト(ソフィーにブランデーを注ぎながら。)それでも、ここ、三部屋あるからね。
(ソフィー、一息に飲み干し、また注ぐ。)
 オリヴィエ(皮肉に。)ああ、それでも、ね。
 ソフィー(一杯目の礼で。)有難う。
(オーギュスト、ブランデーの壜を台所に戻そうとする。)
 ソフィー 壜は置いといて。毎回だとお手数だわ。
 オーギュスト(さすがにちょっと驚いて。)ああ! ええ!
(ソフィー、また飲み干し、注ぐ。)
 オリヴィエ 二人をグロ・ルーブルに招待しなきゃいけないな。みんなはあそこを「お城」って呼んでいるが、城じゃない。ただ広いことは広い。このモンマルトルのアブロヴワール通り以外にも、住む場所はあるってことを知って貰わなきゃ。
 ソフィー こんな話、聞くことないの!
 オリヴィエ いや、住めと言ってるんじゃない。オーギュストは気に入らないだろうしね。
 オーギュスト イザベルだって気に入らないさ!
 オリヴィエ それは分らないな。
(イザベル、この議論の主題は、自分自身であるにも拘わらず、全く表情を変えず、ただじっとしている。)
 オーギュスト 僕はイザベルのことは分っているんだ。
 オリヴィエ 自分の妻が分っている・・・ということはつまり、分ってない、ということさ。
 オーギュスト(イザベルに。)言ったろう? こいつの公式ってのはいつもこの調子だ。
(イザベル微笑んで頷く。)
 オリヴィエ たとえソフィーのような単純そのものの女でも、僕はちゃんと分っているか疑わしい。
 ソフィー そう。分って貰いたくないわね。
(ソフィー、微笑む。)
 オーギュスト 僕はイザベルのことを分っている。
 イザベル(ひどくあっさりと。)ええ、この人、分ってる。
 オーギュスト 城に行ったってイザベル、どうっていうことはないんだ。もっとも夏休み中一回しか行ったことはない。ヴィシーにだけどね。あの時は二人ともまだ腹痛を起していた・・・
 イザベル あの話をするんじゃないでしょうね。
 オーギュスト ホテルでツインベッドの部屋に案内された。イザベルは僕に訊いたんだ。「二人で寝るんでしょう? どっちのベッドにする?」ってね。
 ソフィー(誠実に。)素敵。
(ソフィー、飲む。)
 オリヴィエ(イザベルに。彼女の目をうつむかせることを期待しながら。)そう言ったの? 君。
 イザベル(奇妙な目つきでオリヴィエを見て。)ええ、そう言ったの!
 オリヴィエ それも夏に?
 イザベル(微笑んで。この微笑みも奇妙。)ええ、八月。
 オリヴィエ やれやれ!
 ソフィー この人には分りっこないの。自分自身しか愛したことはない人なんですからね。
 オリヴィエ(冗談にして誤魔化そうと。)ええっ? 僕が誰しか愛したことないって?
 オーギュスト こいつはいいや!
 オリヴィエ(イザベルに。)あ、多分君だ。運のいいオーギュストが君のことをほったらかしている時に。
 オーギュスト(お人好しに。ソフィーに。)冗談言ってるよ、君の御亭主は。
 ソフィー いいえ、本気。
(ソフィー、飲む。)
 オリヴィエ(詩を読むように。)ソフィー、君はどうなんだい? 七階のここまで、エレベーターなしにエッチラオッチラ上って来て・・・
 ソフィー この人、とても歩くの厭だった・・・
 オリヴィエ 着いてみると、とんだあばら家。坐ろうと思った椅子はボロで、壊れる寸前。食事をしようにも皿の山・・・
 イザベル、オーギュストとオリヴィエ(声を揃えて。)それが磁器の缺點・・・
 イザベル(オリヴィエと同じ詩を読む調子。灰皿をどかして。)それも煙草で穴の開いたテーブルナップの上で・・・
(イザベル、立上がり、壁に進み、亀裂を隠している薔薇を退かせて。)
 イザベル やっと何とか薔薇の花で隠した壁の穴・・・カーテンなしの窓から外を眺めれば、そこは墓地・・・
 オーギュスト おいおい、苛々するなよ。
 ソフィー こういう話が大好きなの、オリヴィエは。
 イザベル(静かになって。坐りながら。)ご免なさい、馬鹿なことを言って。
 オリヴィエ 謝ることなんかない。こういう反応が出てきたっていうのは、とにかく面白い。だけどさっき僕は金を貸した。あれはいいことだったかどうか、疑問だな。
 オーギュスト 疑問だ、疑問だ。
 オリヴィエ オーギュスト、僕は真面目に言ってるんだ。例の喫茶バーで、君はいろんな人間に出逢う。全く違った生活を送っている連中を。それで君、自分の貧乏がいよいよ身にしみるんじゃないかと心配になるんだ。
 ソフィー(叫ぶ。)答えちゃ駄目! この人に答えちゃ駄目よ!
(四人、シーンとなる。)
 オーギュスト(大きな声で。)おーい、リュリュ! オマールはまだ?
(オーギュスト、台所に入る。)
 オリヴィエ(皮肉に。)厨房(ちゅうぼう)の虫ってやつだな、あれは。
 イザベル 素敵な人!
 オリヴィエ よく言うよ。(イザベルに寄りかかるようにして。)それにさっきの台詞、凄かったよ。中味は気違いじみてるけど。
 イザベル(非常に優しく。)ねえオリヴィエ、あなたのさっきの冗談、他意のないものだった筈ね。だって、奥さんの前で言ってることですものね?
 ソフィー いいえ、この人、私のことを気にするような人じゃないの。
 イザベル でもそうだとしても、私をからかうのはもう止めにして欲しいの。
 オリヴィエ(真面目に。)からかう? 僕が?
 イザベル(説明する。)あなたがなさることなんですから、きっと行儀正しいことなんでしょう・・・目でしっかりと相手の女性を見詰めて、テーブルの下でこっそり相手の足を探るっていう・・・
 ソフィー(イザベルがオリヴィエにお灸をすえているのを痛快に思って。)まあたいして行儀正しいとは言えないわね。
 イザベル でもオーギュストはそういうの、好きじゃないわ。きっとあの人、怒る。
 オリヴィエ 怒る?・・・オーギュストが?
(オリヴィエ、ゲラゲラっと笑う。)
 オーギュスト(登場して。)ああ、この家(うち)に馴れたね。タイアッド家の笑いだ、それは。
 オリヴィエ、イザベルとソフィー(声を揃えて。)そうとも思えない・・・
 オーギュスト じゃ、違ったかな・・・何? 何がおかしかったの?
 ソフィー(話題を変えようと。)オマールは? まだ来ないの? オマールは。
(ソフィー、飲む。)
 オーギュスト ちょっと遅れていて・・・
 オリヴィエ 何がおかしかったか、訊いたね?
 オーギュスト(真面目に。)うん。君はめったに笑わない。だからよほど可笑しかったんだろうと。
 オリヴィエ あててみろよ。・・・君がきっと怒るって、イザベルが言ったからなんだ。
 オーギュスト(真面目に。)イザベル、君、本当にそう言ったの?
 オリヴィエ おかしいだろう? 君が怒るなんて・・・な?
 オーギュスト イザベルは僕のことをよく分ってる。そのイザベルが言うんだから、僕はやっぱり怒るだろうな。
 オリヴィエ そいつは見てみたいな。
 オーギュスト 怒らなきゃ、きっとイザベル、がっかりするからな。
 イザベル(優しく。)オリヴィエの冗談。・・・ふざけたのよ。
 ソフィー 二人でふざけたの。
(短い間。オーギュスト、三人を見る。)
 オーギュスト(オリヴィエに。)どうやら君、何かへまをやらかしたな。
 オリヴィエ(酷く不快な顔。)へま?
 オーギュスト(皮肉に。)わざとだ・・・怒ることはない・・・わざとへまだ。
 オリヴィエ(同じ調子で。)そうか。
 オーギュスト ただ、これはちゃんと分って貰いたい。僕にさっきの小切手を持っていて貰いたいなら、へまは駄目だと。
 オリヴィエ 分った。
 オーギュスト 僕はだいたい疑(うたぐ)り深い男なんだ。ただ、今は・・・
 オリヴィエ 分ってる。もういい。
 オーギュスト それならいい。
 オリヴィエ 分ってるとは言ったがな、そう納得してもいないぞ。君のその強がり・・・それは「ふり」だ。僕は驚いている「ふり」、ソフィーは君の強がりを信じている「ふり」、そしてイザベルはかっときている「ふり」。・・・僕がテーブルの下でイザベルの足を探ったと・・・
 オーギュスト 何?
 オリヴィエ だけど、君は怒らないって、僕らには分ってるんだ。
 イザベル 小切手を返して!
(オーギュスト、ぼんやりとあたりを捜す。それから、熱に浮かされたように、ポケットを探る。)
 ソフィー 馬鹿なことをしないで。
 オリヴィエ ソフィーの言う通りだ。馬鹿は止めろ。やることが格好よければ、それだけ後の後悔は大きい。これは酷く格好いいことだからな。
 イザベル(怒鳴る。)小切手を返しなさい!
 オーギュスト(やっと捜せて。)さあ、取れ!
 オリヴィエ そうか。
 オーギュスト 貴様の金など誰がいるか。どうせ金など持ったことのない俺達だ。取り損ねた金がまた三十万フランあっただけのことさ。
 オリヴィエ(相手の言葉を訂正して。)今までは持ったことのない金だ。今度は違う。一旦持った金だからな。違いはすぐ分るさ。
 オーギュスト(心からの憐れみをもって、優しく。)可哀想な奴。可哀想な人間のカス!
 オリヴィエ フン、そんなことは分ってるさ。
 オーギュスト 最初からそのつもりだったんだな? 金を返せなくて、僕らに恩を着せるところまで・・・そうだろう!
 オリヴィエ そう。はなっから馬鹿な奴と思っていたのさ。
 オーギュスト それで有難いと思っていたんだ、こっちは。糞っ!
 イザベル(心から驚いて。)まあ、そんなのけだものじゃない!
 オリヴィエ(微笑みながら。)「煮ても焼いても食えない奴」、仰せの通り!
 オーギュスト 全部聞いていたんだな、こっちの話を。
 オリヴィエ まあ、それが強いて言えば言い訳だ。
 イザベル(優しく。)じゃソフィー、あなたも聞いたのね? 可哀想に。
 ソフィー 他のことも色々・・・でも私、オリヴィエが言ってるように、「動じない」人間ですもの。(ソフィー、飲む。)
 イザベル 天罰が下るわ。(オリヴィエに。)天罰が下るのよ、あなたに!
(先程と同じ、恐ろしい音が外でする。)
 オリヴィエ(青くなって。)何だ、これは!
 オーギュスト 青くなったな!(ゲラゲラ笑い出す。)こいつの怖がっている顔! 天罰が下ったと思ってるんだ!
 リュリュ(登場して。)オマール、出来上がり!
 オリヴィエ 遅過ぎだ!
 リュリュ(食ってかかるように。)何よ、遅過ぎとは!
(次にイザベルに近づいて。)
 オリヴィエ これで我々はお暇(いとま)しなければ。行こう、ソフィー!
 ソフィー ちょっと待って。(急いで飲む。)
 オーギュスト ソフィー、最後の最後に、また厭なことを言わなきゃならない。いい格好が出来る他のやり方が分らないんだ。金を返してくれないかな・・・さっきのタクシー代・・・
 ソフィー(ハンドバッグから取り出して。)ああ、ご免なさい。それにあの人、あなたに五千フラン借りがあるわ。
 オーギュスト(オリヴィエに。)為替にしてくれ。出来れば電報為替!
 オリヴィエ 分った。
 ソフィー 私のこと、嫌わないでね。何て言ったって私、この人の妻ですもの。
 オリヴィエ すまなかった、イザベル。いとこ同志の喧嘩に巻き込んでしまって。だけど、こんなことで大好きなのが変りっこないんだ。だからちょっと連絡さえくれれば・・・
 イザベル 唾を吐きかけてやって、あの顔に!
 オーギュスト 唾が切れてる。
 リュリュ 私、あるわ。
 オーギュスト(オリヴィエに。)出て行け!
 オリヴィエ お前はなあ・・・
 オーギュスト 出て行け! その顎に一発食らわすぞ!
 オリヴィエ 一発?・・・一時間待ったって来っこないよ。
 ソフィー(乱暴に。)オリヴィエ、早く! オリヴィエ!
(二人退場。)
(イザベルとオーギュスト、動かない。暫くしてリュリュ、オーギュストに近づく。)
 リュリュ 頭から水をぶっかけてやりましょうか?
(次にイザベルに近づいて。)
 リュリュ ねえ、窓の下を通った時、上からぶっかけていいでしょう?
(返事がないのでリュリュ、水指しを持って窓へ進む。)
 オーギュスト(急に。)あの・・・カス! カス! カス!
(オーギュスト、肘掛椅子にドサッと坐る。椅子、壊れて、オーギュスト、ひっくり返る。)
 オーギュスト(四肢を上にして、ゲラゲラ笑い出す。)こいつはいい! これは最高だ。アッハッハ・・・アッハッハ・・・(オーギュスト、イザベルが笑っていないのに気づく。)おい、どうしたんだ、君。泣いてるの?
(オーギュスト、跳び上がり、イザベルに近づく。イザベル、大粒の涙をこぼしている。)
 オーギュスト 三十万フランのせいじゃないよな?・・・ね? ね? ビケット・・・ね?
                      (幕)

     第 二 幕
(第一幕から二週間後。)
(夕方八時。)
(第一幕と同じ場。ただ、部屋中、花籠と、果物籠であふれんばかり。あまりの多さで異常に見える。テーブルの上には厚紙の箱が積み重ねてあり、綺麗に包装され、まだ開けてない包みが沢山のっている。)
(他の籠とはちょっと違う、光沢のついた籠が一つ、テーブルの下に無造作に置いてある。)
(窓は開いており、夏の遅い夕焼けが、もうそろそろ終ろうとしている。)
(暫くの間無人。それから、扉に鍵の音がして、イザベル登場。階段を駆け上がって来たらしく、息を切らしている。)
 イザベル(敷居のところから。)ご免なさい、オーギュスト・・・(オーギュストがそこにいないのが分り、途中で言い止める。台所まで行き、また。)ご免なさい、オーギュスト・・・(部屋の扉まで行き、また。)ご免なさい・・・(オーギュストがどこにもいないので、不審に思い。)いないの? どうしたのかしら。(開いた窓のところへ行き、下を覗きこみ。)マダム・ポリャーコフ!
 マダム・ポリャーコフの声(正統のロシア訛り。)はい!
 イザベル すみません。今、何時?
 マダム・ポリャーコフの声 八時十五分。
 イザベル(繰り返す。)八時十五分! こんなこと、今まで初めて!(下に大きな声で。)有難う!(自分自身に呟く。)八時十五分!
(イザベル、急いで帽子を脱ぎ、スカーフを取り、手袋をはづし、それを苛々とテーブルの上に投げる。自分が一人であることを確認すると、泣き始める。洒落たエプロンをつけながら、泣く。静かに。しっかりと一箇所を見詰めて。それから非常にゆっくりと言う。)
 イザベル 何て恐ろしい!(それからもう少し強く。)何て恐ろしい!
(それから急に、泣き止み、窓へ走る。再び呼ぶ。)
 イザベル マダム・ポリャーコフ!
 声 はい。
 イザベル(辛い声で。)うちの人、見ませんでした?
 声 有難いことに、見ませんでしたよ。
 イザベル 旦那様は、うちの人、見ませんでした?
 声 見てないと思う・・・その方がいいもの。
 イザベル どうして?
 声 だって、まだお礼を言ってないから。それに、貰うなんて恥・・・
 イザベル 何のお礼?
 声 果物籠・・・素敵な・・・リュリュから。
 イザベル(驚いて。)ああ、うちの人、果物を送ったんですの?
 声 素晴しいのをね! 少なくとも五千フランはするわ。お金が入って来たのね?
 イザベル(やっとのこと、返事。)いいえ、とてもとても・・・
 声 そうね、それは・・・トランペットじゃね!(笑う。)
(電話のベル。)
 イザベル(出て、低い、そっけない声で。)はい・・・「いいえ」とオリヴィエさんにお伝え下さい。・・・「関係ありません」と。それから、こんなことは、オリヴィエさん御自身がお電話なさるようにと。(電話を切る。)何て恐ろしい・・・
 声 ねえ、マダム・タイアッド! ブルギニヨン・ステーキは如何? 今私、素敵なブルギニヨン・ステーキを焼いたの。
 イザベル いいえ、結構です。(ちょっと仏頂面をして。)ブルギニヨン・ステーキ・・・
 声 うちの人、フランス料理しか食べないの。あなた、食べてみたら?
 イザベル(もう坐っている。大声で。)結構です!
(激しくノックの音。イザベル、すぐに開けに行く。開けるとリュリュ。)
 リュリュ(相手を心配している悲壮な声で。)どうしたの? 私に用があるんでしょう?
 イザベル(非常に驚いて。)あら! あなたに用? いいえ。
 リュリュ いいえじゃない。用があるの。私、うちで夕御飯を食べていた。それで突然ママに言ったわ。「タイアッドさんちで、今私に用があるの。私、どうしても行かなくちゃ」って。
 イザベル(驚く。しかし、驚きを隠して。)何かの勘違い。
 リュリュ(熱に浮かされたように。)私、間違ってない。きっと用があるの。身体で感じる! 私に用があるって。ないって言ったって、私信じない。
 イザベル(非常に優しい声で。)でもねリュリュ、本当に嘘じゃないの。今あなたに用はないの。
(イザベル、坐る。)
 リュリュ 旦那様も?
 イザベル(非常に優しく。)ええ、旦那様も。
 リュリュ(信じない。)じゃ、私、直接聞いてみる。
(リュリュ、台所へ進む。)
 イザベル いないわ。まだ帰ってないの。
 リュリュ 帰ってない! 八時十五分なのに!
 イザベル(悲しそうに訂正して。)八時二十分なのに。
 リュリュ(イザベルの方に戻って。)泣いたのね?
 イザベル(嘘が下手。)私が?
 リュリュ 自分では気がついてなくても、泣いてたのよ。
 イザベル 何てことを言う子・・・窓を閉めて、リュリュ。私、寒い。
 リュリュ(窓を閉めて。)寒い? こんなに暑いのに。・・・でも、どうしたの? 何があったの? あの「人間のカス」が来てからなのね?
 イザベル(たしなめるのにも力が入らない。)リュリュ!
 リュリュ えっ? だって、カスはカスでしょう? 旦那様、しょっちゅうそう言ってる。
 イザベル(また無気力に。)だからって、真似することはないの。
 リュリュ(憂鬱そうに頭を振って。)あーあ、あのお昼ごはんから旦那様、すっかり変っちゃって・・・
 イザベル(奇妙な口調で。)じゃああなた、これ全部あの人からだって思うのね?
 リュリュ ええ、当り前! 旦那様が苛々するの当然よ。こんなに送って来て・・・包み、籠・・・(意味深長に。)私、いつか花が嫌いになるなんて思ってもいなかったわ。
 イザベル(悲しい微笑。)私も。
 リュリュ(爆発するように。)こんなもの送って、どんないいことがあるって思ってるの、あの馬鹿!
 イザベル(殆ど衝動的に。リュリュを抱きしめて。)リュリュ!
 リュリュ 花! 果物! 手袋! スカーフ! 香水!
 イザベル(嘆願するような調子。)ね、リュリュ・・・
 リュリュ 果物はみんな下の家、ポリャーコフさんが食べている。・・・私、あんまりうるさく、「今夜、どうしても今夜」って言ったもんだから、ママったら酷く怒って・・・
 イザベル(悲しく微笑んで。)優しいのね、リュリュったら。(間。)(イザベル、何かをじっと考えて、ひとところを見詰めている。リュリュ、少し困って、言葉を挟めない。そしてイザベル、急に思いあたって、非常に驚き・・・)ねえリュリュ、私、よく分らないんだけど・・・あなた、夕ごはんを静かに食べていて・・・それで急に・・・どうしたの?
 リュリュ 私、お二人のことを考えていたの・・・いつもと同じに。
 イザベル いつもと同じ? あなた、私達のことをいつも考えてるの?
 リュリュ ええ、いつも! 可笑しいでしょう? ママは図体(づうたい)大きいのよ、でも、ママのことを考える気にはならないの、私。
 イザベル あら!
 リュリュ ・・・そう、いつもと同じに考えていて、急に胸が刺さるように痛くなって・・・酷い痛み・・・私、どうしても来なくちゃって・・・
 イザベル 私達があなたに用があるから?
 リュリュ ええ、特に旦那様の方。
 イザベル 何か事故でも?
 リュリュ いいえ、そういうのと違うの。
 イザベル じゃあ、どんなの?
 リュリュ 分らない。とにかく酷いの!
(玄関の扉の後ろから、誰かの酷く不機嫌な声が聞こえてくる。)
 声 何だ! しゃがんで何やってるんだ!
 オーギュストの声 鍵を落っことして・・・
 声 鍵なんて嘘だろう? その頭をもう少しで踏んづけるところだったぞ!
 オーギュストの声 鍵がない。どこへ行っちまったんだ・・・
(リュリュ、ひどく喜んで扉を開ける。扉の向こうにオーギュストが見える。観客に背を向けていて、まだ落ちた鍵を捜している。少しふらついている。)
 リュリュ(鍵を見つけて。)あ、あった!
 オーギュスト(威厳ある声で。)有難う、エミッル!
 イザベル(リュリュに。)さあ、これであなた、安心ね? 帰って晩ごはん、食べられるでしょう?
 リュリュ ええ。ああ、よかった。
 オーギュスト(振り返る。片手に鈴蘭の小枝を持っている。)安心?
 イザベル その「安心」を説明するの、大変。時間かかるの。
 オーギュスト 時間? ああ、説明はいらない。こっちも時間がない。
 リュリュ お休みなさい、奥さん。それから、旦那様。
(リュリュ、走って退場。)
 オーギュスト(自分の周りを眺めながら。)ああ、花に囲まれてるか。壁の穴も見えない。これなら安心だ。
 イザベル(泣き顔を見られないように、オーギュストに背を向ける。)どうしてこんなに遅くなったの?
 オーギュスト 鈴蘭なんか持っちゃって、馬鹿に見えるだろうな。許してくれ、イザベル。鈴蘭の小枝・・・幸せを持って来る花・・・君に必要だからね。
 イザベル(受取って花瓶にさしに行く。機械的に訊ねる。)何故そんなことを言うの?
 オーギュスト(非常に神経を集中してイザベルの質問を聞き、意味をしっかり汲み取って答えようとする。)何故言うかって? それは君、幸せが君に必ず必要になるからさ。・・・本当だ。・・・君のおふくろさんの命に賭けてもいい! おふくろさん、僕のことを馬鹿だって笑うだろうけどね。まあ、笑わせておけばいい。可哀想に!
 イザベル(花瓶に水を入れて、興味なさそうに言う。)何のことかさっぱり分らない。
 オーギュスト(ある誇りをもって。)僕が変だと思ってるんだな?
 イザベル(ぼんやりと。)分らない、まだ。
 オーギュスト 変だと思ってる。それは確かだ。
 イザベル そうね。・・・少しは。
 オーギュスト よし、今説明する。何故かっていうと、僕は変だからだ。それで君、「何故変なの?」って訊くだろう?
 イザベル 何故変なの?
 オーギュスト 言えない。いや、まだ、言えない。まづ準備がいる。
 イザベル 準備?
 オーギュスト 僕は落着いてるだろう? な? 君。そう思うだろう?
 イザベル ええ。でも、よく分らない。多分・・・
 オーギュスト 糞っ! 僕は落着いてちゃいけないんだ。僕は落着き過ぎている。それが僕は心配なんだ!
(オーギュスト、テーブルに縋(すが)ってちゃんと立とうとする。が、倒れる。)
 イザベル(オーギュストに近づき、何か満足したような声で。)あらあら!
 オーギュスト 僕がこうで、君、喜んでいるみたいだぞ。
 イザベル(気持を見抜かれたという気分。)喜んで? 私が? 有難う。
 オーギュスト そう。君は、僕が酔っ払っていて、満足なんだ。
 イザベル 満足?
 オーギュスト(相手の落着きに呆れて。)そうじゃないか。僕のことが心配じゃないの? どうしてそんなに酔っ払ってるのって、何故聞かないんだ。
 イザベル(厳しさを装(よそお)って。)分ったわ。どうしてそんなに酔っ払ってるの?
 オーギュスト それは言えない。ちゃんと理由はある。僕は変だ。だから酔ってる。
 イザベル 何かまづいことがあったの?
 オーギュスト あったんじゃない。これからあるんだ。
 イザベル(前より強く。)何故。
 オーギュスト ちゃんと理由があるって言ったろう?
 イザベル(心配になって。)コーヒー少し飲む?
 オーギュスト 飲まない。それに、そんな顔をするな。
 イザベル(優しく。)そんな顔って、私、何も言ってないわ。
 オーギュスト 何も言わない方がいい。だからといってコーヒーを勧めていい訳じゃない。
 イザベル まあ、だって・・・
 オーギュスト 分ってる。面白くないんだ。そう、僕の話が面白くないんだ。
 イザベル そう。あんまりは。
 オーギュスト それは間違いなんだ。僕はコーヒーなんかより、ずっとずっと先に行ってるんだ。
 イザベル そう。
 オーギュスト やれやれ、コーヒー・・・アンモニアの方がまだましだ。いや、アンモニアはご免だ。そいつは止めてくれ!
(オーギュスト、突然立ち上り、半分滑稽に、半分何かを伝えたくて。)
 オーギュスト 僕は酔いがさめちゃ駄目なんだ!(頼むように。)酔いをさますのだけは止めてくれ!(叫ぶ。)そんなことになったら大変だ!(イザベルが興味を示さないのを見て。)君、聞いてる?
 イザベル(ビクッとして。)いいえ。
 オーギュスト 君、何を考えてるの?
 イザベル 何も。
 オーギュスト そんなに余裕があるのに、僕の話は聞けないっていうのか。
 イザベル 今夜は駄目!
 オーギュスト しかし、今夜じゃなきゃ駄目なんだ。
 イザベル 残念ね。明日・・・明日にしましょう。
 オーギュスト 明日じゃもう遅いんだ。
 イザベル 大丈夫。大丈夫、明日で。
 オーギュスト 今だってもう遅いぐらいなんだ。そう、今すぐだって遅すぎるくらいなんだ。
 イザベル ねえ、オーギュスト、明日に・・・
 オーギュスト ねえ君、・・・ねえ・・・僕を見るんだ。ね? 君、このために泣いてくれないのか?
 イザベル このためって、何のため?
 オーギュスト ギャレットの店にポンチがあったんだ。(意味ありげに頭を上げて。)いっぱいあったんだ。そいつが今はなくなってる。(僕がみんな飲んだ。)
 イザベル(皮肉に。)それで私に泣いてもらいたいの?
 オーギュスト 分らない。君、目が赤いよ・・・君、赤い目じゃなかった筈だ。
 イザベル もう寝なさい。
 オーギュスト(頑固に。)君に、心の準備をして貰わなきゃならないんだ。
 イザベル(相手のことを聞いていない。自分の考えの筋を追いながら。)私達、どこかへ行かない?
 オーギュスト 行く? 何だい、行くって・・・どこへ。
 イザベル 田舎よ。あなたの兄さんのところ。ポーレットが私に辛くあたることは分ってるわ。でも、ここにじっとしているよりはまし・・・
 オーギュスト(真面目に。)ここを出るのは駄目だ。まるで僕が・・・いや、とにかく駄目だ。
 イザベル 旅費はそんなにかからないわ。
 オーギュスト 駄目だ。そいつは。
 イザベル 兄さん、あなたに会えてきっと喜ぶわ。
 オーギュスト 僕に会って喜ぶ奴なんか、誰もいなくなる。
 イザベル 川に面した方の部屋を借りるの。寝室の掃除の役は私。それに、台所も手伝うわ。
 オーギュスト 計画なんか駄目だよ。ちょっと僕の話を聞けば、計画どころじゃないってことが分るんだ。
 イザベル(オリヴィエのことを考えて。)あそこまでは追っかけては来ない・・・
 オーギュスト 違うな。最初に連中があたりをつけるのはあそこだ。
 イザベル 連中?
 オーギュスト(話題を変えようと。)スリッパを出してくれないか。あれを穿くのもこれが最後だろうからな。
 イザベル 何を言ってるの? あなた。
 オーギュスト ・・・あれが始まる前に・・・(少し笑う。)
 イザベル 謎ね、あなたの話。
 オーギュスト そう、謎だ。だけど、もうちょっとの辛抱だ。ブランデーを頼む。戸棚にまだ残りがある。
 イザベル そんなに酔ってて、まだ酔いたいの?
 オーギュスト まだまだだ。これまでやったことは全くたいしたことはない。一番大変なのはそれを君に話すことだ。
 イザベル(今度は本当に心配になって。)あなた、何かやったの?
 オーギュスト いいか、僕に質問なんかしちゃ駄目だ。そうでなくても自分が何を言ってるか、よく分ってない。ああ、きちんと、きちんと話さなきゃ・・・(いよいよ心配になって。)僕、ちゃんと話せてないな?
 イザベル(ブランデーとグラスを捜して。)ええ、駄目ね。
 オーギュスト 君、坐らない?
 イザベル いいえ。
 オーギュスト これから話すことを考えると、君は坐ってた方がいいように思うけど。
 イザベル そう・・・じゃ。(坐る。)
 オーギュスト ブランデーはどこ?
 イザベル 鼻の先。
 オーギュスト その鼻がどこにあるか・・・ああ、「冗談言ってる場合じゃないの」って言うんだね? いや、全くその通り。冗談なんか言ってる暇はない。実際僕は笑ってもいないんだ。今日の午後から。
 イザベル それは無理。
 オーギュスト そう。「人生は冗談じゃない」・・・君の台詞だ。でも僕は答えるね。(ことここに到っても、哲学者風の叙情性は失っていず。)「人生・・・こんなもの、たいしたことじゃない」・・・
 イザベル(驚いて。)まあ、そんなことを・・・あなたが?
(電話のベル。)
 オーギュスト(出て。)もしもし・・・(ロシア語風の酷い訛りで。)えっ? 何? 知りません。・・・オーギュスト・タイアッド? 知りません。・・・こちら、ポリャーコフ。(怒って。)何だって? そっちがポリャーコフ?(和らいで。)ああ、ポリャーコフ、君か。・・・ダー・ダー・ダダー・・・「ニチェヴォー」って言おうとしたんだ。その後で「糞ったれ」ってね。・・・(受話器を置く。)今の僕のこの状態じゃ、わざわざ笑うこともないか。
 イザベル(鋭く。)今のこの状態?
 オーギュスト 君に心の準備をして貰うんだった・・・(ブランデーを一息に飲む。)「人生・・・そんなもの、たいしたことじゃない」・・・まで行ったんだったね? 君、賛成?
 イザベル 私、まだ、分らない。
 オーギュスト 誰が生き、誰が死ぬか、分ったもんじゃない。誰もがみんな、通りすがりの存在さ!(一息に飲む。)
 イザベル(立ち上ろうとする。)あなた、自分自身のことも通りすがりだと思ってるの?
 オーギュスト 今日の午後からは、そうだ。坐るんだ!
 イザベル 午後から? 何故?
 オーギュスト ああ・・・人生・・・ね、君、人生なんて何だ? 風に吹かれる木の葉・・・煙・・・(脱線しそうになるのを抑えて。)・・・それから・・・ イザベル 何?
 オーギュスト 夢だ! じっと坐っていることも出来ない安宿・・・
 イザベル まあ。
 オーギュスト 目的地のない旅行・・・
 イザベル 何、一体・・・この話・・・
 オーギュスト 常にノックアウトで終るボクシング・・・
 イザベル 行き着く先は何なの? この話。
 オーギュスト 行きつかない。もっと先へ行く。・・・人生でたった一つ確かなことがある。それは「負ける」ということだ。
 イザベル(あまりのしつこさに。)ああ!
 オーギュスト それに・・・人生は短くはない。決して短か過ぎはしない。君はどう思うか知らないが、結局、短くてよい人生・・・それはそんなに悪いもんじゃない。決して短か過ぎるってことはないんだ!
 イザベル(ついに少し興味をひかれて。)それで?
 オーギュスト 君は本当の勇気は生きることにあるって言うだろう? まあ誤りじゃない。ただ僕は言うね、「出来ることが肝心だ」って。
 イザベル 「出来ること」?
 オーギュスト もう一つ言おう、死について・・・僕が頭を下げること・・・それは「不死」だ。
 イザベル(分らないまま。)ええ。
 オーギュスト これでも論理的なんだ。とにかく・・・まあいい・・・ちょっと行き過ぎたようだ。
 イザベル そうね。
 オーギュスト 死・・・それはオリヴィエのことなんだ・・・
 イザベル オリヴィエ? 死? 何の関係があるの?
 オーギュスト いや、ある。短くて、良い人生・・・まあ「良い」は保証しないが・・・短い人生・・・それで、あいつは・・・
 イザベル(全く分らない。)何の話? それ・・・オリヴィエ? 死?
 オーギュスト オリヴィエだ。
 イザベル 短いって・・・(はっきりと言えない。)
 オーギュスト(しっかりと。)やつは・・・証拠もある。・・・僕がこうやって冥福を祈る。・・・それが証拠だ。
 イザベル(信じられないが、嬉しい気持。名前を繰り返す。)オリヴィエが・・・
 オーギュスト 君、辛くなさそうだね? 全く。
 イザベル でもまあ、少しは・・・
 オーギュスト おいおい、何か喜んでいるように見えるな。
 イザベル 喜ぶ? あなた、今日は厭なことを言うわね。(オーギュストの真似をして。)あなたが死ぬほど酔っているのを見るだけでも私嬉しいのに、その上オリヴィエが(死んで・・・)
 オーギュスト(途中で遮って。)分った。その名前を二度言ったな。それはつまり、「そんなことはあり得ない。それは話がうますぎる」と君が考えているという・・・
 イザベル(抗議しているふり。)オーギュスト!
 オーギュスト だってそうだろう? 君の言い方じゃ、「話がうますぎる」だ。僕が昔から考えていたことは、「あいつは往生際が悪い」ってこと。
 イザベル 往生際?
 オーギュスト そう、往生際。
 イザベル(自分の考えを追って、頭を振りながら。)往生なんて、まだまだよ。
 オーギュスト 運なんてとっくに尽きるぐらい悪事はやってきているんだ。悪事百般、それにあいつのお陰で破産した連中がどれだけいるか・・・まてよ、財布をどこへやったかな? ああ、あった。・・・あいつが本来行ってなきゃならない監獄の数・・・遅かれ早かれ、御陀仏の時は来ていたんだ。
 イザベル そんなの無理よ。(電話を指さして。)ついさっきだって・・・
 オーギュスト ついさっき?
 イザベル(強く。)何でもないの。(電話に行き、ダイヤルする。)もしもし・・・(オーギュストに。)出ないわ。
 オーギュスト 出る訳ないよ。
 イザベル 自宅は?(必死に、別のところへダイヤルする。)出ないわ、ここも。
 オーギュスト 当り前。
 イザベル もしもし・・・もしもし、オリヴィエ・タイアッドさん、いらっしゃいませんか?・・・(間。)ああ、まだお帰りでない・・・
 オーギュスト 帰っている訳ないだろう?
 イザベル(電話に。)いいえ、すみません。(考えながら、受話器を下ろす。)知らないって。家の人が知らないってこと、ある?
 オーギュスト(謎のように。)あるね。僕は知っていてもね。
 イザベル でも、誰もが何も知らないっていうのは不思議だわ。
 オーギュスト(思いあたって。)うん、それはそうだ。リュスィアンは氷を持って、また上がって行った筈だからな。まあいい。どうせ後で分ることだ。
 イザベル 確かに変よ。でも、どうしてあなた、あちらの連れあいでも知らない、その他家の人誰もが知らないことを知ってるの?
 オーギュスト(謎のように。)そう、そこだ・・・すぐ分る。何でもないことだ。
 イザベル 何が、何でもないの?
 オーギュスト 何もかもだ。大事なこと・・・何故・・・どうやって・・・以外は。ただ、僕が悪い、とすぐ思わないでほしい。どんなことでも、そいつだけの責任ということはあり得ない。自分はそれから何百マイルも離れていると信じこんでいる・・・ところがどっこい、実はピッタリその中に入りこんでいる。ああ、僕はピッタリとその中にいた。・・・今はもういないよ。それは信じてくれ。(とにかく)その中にいるってのは酷くまづい。遠くからの方が物はよく見えるんだ。事が起るっていうのは君、分る? あいつうまく言ったな、「人がその目的を達するのは、常に偶然による。」  イザベル(ぼんやりと。)ええ。
 オーギュスト 約(つづ)めて言えば・・・これで僕を嫌いにならないで・・・全てが酷く間が悪く出来上がっていた・・・僕は運がなかった・・・あいつもついてなかったが・・・とにかく一言で言うと・・・僕は奴を殺したんだ。
 イザベル(はっとなって。)殺した?
(イザベル、半分気を失って、椅子に倒れる。)
 オーギュスト(両手でイザベルの頬を叩いて。)ほらほら、僕はちゃんと言っといた筈だよ。
 イザベル(取り乱して。繰り返す。)あなたが、殺した?
 オーギュスト 手を下したのは僕だけど、主犯は他にいる。・・・そうだろう? 本当に殺したのはあいつ自身がやった、そしてやろうとした、馬鹿げたいろんな事なんだ。しかしまあ、ちょっと見じゃ・・・あれやこれやいろいろ考えなきゃ・・・殺したのは僕だ。それは間違いない。
 イザベル でも、どうやって・・・どうやって?
(イザベルだけが悲劇的な調子。)
 オーギュスト ああ、下らんことさ。大抵そんなものだが・・・文鎮がそこいらにころがってた。それで頭を殴ったんだ。
 イザベル 重かったの? その文鎮。
 オーギュスト よく覚えていない。ああいう時にはどんなものでも重いとは感じないんじゃないか?
 イザベル それであなた、相手には余裕を与えなかったの? 防御させる余裕を。
 オーギュスト ああ、それは考えてもみなかったな。
 イザベル そんな死に方ってないわ。・・・そんなのない!
(イザベル、ハンドバッグから紙切れを出す。必死に二箇所電話するが、出ない。紙を見て三番目の番号に電話。)
 イザベル もしもし・・・もしもし・・・
(オーギュスト、自動的に口笛を吹き出す。イザベル、注意する。)オーギュスト!
 オーギュスト(謝る。)悲しい調べだったんだがね。
 イザベル(少し小声で。奇妙な言い方。)もしもし・・・もしもし・・・オリヴィエ・タイアッドさん、いらっしゃいますか・・・(もう少し大きな声で。)オリヴィエ・タイアッドさんに用が・・・(オーギュストをチラと見て。)ええ、私です。・・・ええ。(間。)・・・ええ。(間。)・・・いいえ。有難う。(受話器を置く。酷く動揺している。)七時には間違いなく帰る予定だったって。
 オーギュスト 誰? 出たの。
 イザベル(曖昧に。)あっちの人! 七時よ! 今もう九時! 遅くなって電話も来ない! あちらでは大騒ぎ。
 オーギュスト まあね。
 イザベル(自分もしっかりしようと、またオーギュストにもしっかりして貰おうと。)ねえ、あなた。そんなに強くは叩かなかったんでしょう?
 オーギュスト(すぐにその気になって。)そうかな?
 イザベル それに、何度も叩いたんじゃないでしょう?
 オーギュスト うん。一回だ。
 イザベル もうその時あなた、ぐでんぐでんに酔っていた筈・・・
 オーギュスト ギャレットの店に寄ってから行ったんだ。
 イザベル そこにポンチがあったのよ。あなた、そう言ってた。
 オーギュスト 今はもう全然残っていない。可哀想に。
 イザベル だからきっとぐでんぐでんだったのよ。何か別の物を叩いたのよ。
 オーギュスト(悲しそうに頭を振って。)「ボン」と音がしたなあ。
 イザベル とにかく、頭蓋骨の傷っていうのは、死ぬか、そうでなければ、全く何でもないって言うわ。
 オーギュスト ああ、何でもない・・・か!
 イザベル ほら、グリーユのこと、思い出して。あの人、プラタナスに頭をぶっつけたのよ。
 オーギュスト うん。でもぶっつけたのは頭の上からじゃなかった。それからいつか、トラックとぶっつけた時だって・・・運がよかったんだ、あいつ。ああ、ついてない。オリヴィエの奴、よりによって今日、留守でなくて家にいたなんて。・・・全く・・・こんなことって・・・やれやれ!
 イザベル 本当にどうかしているわ、あなた。ねえ、ねえ、こんなことってある? どうしてこんなことになったの?
 オーギュスト(酷く疲れて。)ああ、話さなきゃならないのかな。
 イザベル ええ、どうしても・・・どうしても話して!
 オーギュスト ああ、せっかく調子よく忘れかけていたのに・・・
 イザベル 第一に、どうしてオリヴィエに会ったりしたの?
 オーギュスト(花を見ながら。)急にあいつに言ってやりたくなったんだ。家(うち)は倉庫じゃないぞってね。馬鹿げてるだろう?
 イザベル いいえ。
 オーギュスト 問題はそれだけじゃなかった。酷く暑かったんだ。
 イザベル(話を短くさせるために。)ポンチの話はいいのよ。
 オーギュスト あいつめ、僕のことを控えの部屋でたっぷり四十五分も待たせやがった。鎧戸が閉めてあるので本も読めやしない。あそこの召使のリュスィアンと少し喋った。どうしようもない馬鹿でね、こいつがまた。
 イザベル そう、可哀想。
 オーギュスト 丁度その時オリヴィエの奴、ベルを鳴らしてリュスィアンに氷が欲しいと言ったんだ。代りに僕が立った。いいチャンスだと思ったんだ。で、あいつの部屋の近くに来た。そしたら電話に出ているあいつの声が聞こえた。君のことを話していたんだ。
 イザベル(震え声で。)私の?
 オーギュスト そう。電話の相手はラゴピアン・・・興行主をやっている。オリヴィエの友達だ。「例のいとこの連れ合い、逢引に応じた。やったぞ。あの女をものにしたぞ。」
 イザベル(立上がる。)何ですって!
 オーギュスト ああ、分ってる。「もう少し、後は時間の問題だ」っていう意味なんだ。とにかく関係ない。連中の自慢話なんてそんなもんだ。
 イザベル(オーギュストの酔いがもう少し醒めていたら、イザベルの心配な顔、その青さ、に気づいていた筈。)そんなことを・・・
 オーギュスト ああ、そのままの台詞じゃないかもしれないがね。まあとにかく・・・ラゴピアンは「そいつは凄い」とか何とか言ったんだろう。連中の会話だ、そんなところさ。で、オリヴィエが言った。「ただ、お前にも手伝って貰わなきゃならないことがある。オーギュストにオーケストラを持たせてやってくれ。ひと月三千フラン出してやるんだ。」相手は何か文句を言ったらしい。だけどオリヴィエはピシャッと言った。「金は俺が出すんだ」ってね。
 イザベル(強い口調・・・この場に相応しくない強い口調で。)何て酷い! 何て酷い話!
 オーギュスト だろう? あいつ、こんなことも言った。「ただな、お前、俺がお前にやるその金で奴にいろんなところを案内してやるんだ。」それから二人で、僕に一番いいところはどこか相談していた。カジノだの、北アフリカだの・・・
 イザベル(乱暴に。)私があなたについて行くってことを考えてもみなかったのかしら。
 オーギュスト 考えていたようだな。オリヴィエもついて来る気だった・・・
 イザベル(強く。)呆れた!
 オーギュスト 相手が何か訊いて、それにオリヴィエが答えた・・・(口調を変えて。)だけどこれは君、怒るよ、きっと・・・
 イザベル いいえ。
 オーギュスト 「勿論だよ。イザベルはよかった。猛烈に気に入った! だけど、これで一番傑作なのは、女房を黙らせられるってことだ。うるさかったからな。ことあるごとに、何て素敵な愛情でしょう。美しい愛・・・十五年も・・・見ろ、これでやつらの愛に終止符が打てたってことよ。」・・・それで電話を切った。あいつの最後の言葉だよ、これが。
(間。)
 イザベル(重々しく。)よくやったわ、あなた。本当によくやった。
 オーギュスト (部屋に入ったら)赤いものが見えた。あいつは肘掛け椅子にどっかりと坐っていた。この前の時の服だった。くつろいでいる姿も厭らしかった。椅子の背にかけている両腕と、頭しか見えなかった。その頭をぶん殴ったんだ。すぐに外で何か音がした。僕は逃げた、泥棒のように・・・いや・・・(言い直して。)人殺しのように・・・ああ、すぐ思っちゃうな、僕は人殺しなんだ。
 イザベル それは考えないの。
 オーギュスト それも、奴に汚いかねを届けに来た男がいたからなんだ。・・・奴の金でもない金をね・・・
 イザベル(優しく、ゆっくりとオーギュストの髪をなでて。)可哀想な私のオーギュスト!
 オーギュスト おいおい、「可哀想な」はないぞ。(心配になって。)どうしてだ? 「可哀想な」って・・・
 イザベル(軽く、優しく。)ドン・キホーテ!
 オーギュスト ねえビケット、僕は人を殺したんだ・・・その言い方、冗談に聞こえるぞ。
 イザベル(荒々しく。)私、「よくやったわ、あなた」って言ったのよ。
 オーギュスト それは君・・・行き過ぎだよ。
 イザベル それでいいのよ。あんな奴・・・それで本当にいいの!
 オーギュスト(公平な立場で。)それは違う!
 イザベル 私達の愛をぶち壊すことしか考えなかったのよ。
 オーギュスト そう。そこは馬鹿げていた。僕らの愛がこんなに強かったことはなかったんだからね。
(オーギュスト、イザベルに近づく。)
 イザベル 私に触らないで!
 オーギュスト 僕が怖いんだな?
 イザベル(強く、真剣に。)そんなのじゃないの!
(電話の音。イザベル、固くなる。恐怖の表情。)
 オーギュスト(電話の音が全く聞こえないかのように。)今までずっと君、僕を勇気づけようとしてくれていた。でもその間ずっと、僕を怖がっていたんだ。
 イザベル(電話を指さして。)出なくちゃ。警察よ、きっと。どうしても出なきゃ。
 オーギュスト 怖がっていたんだ、君は・・・
 イザベル 誓ってもいいわ、それは違うの。
(電話の音。)
 オーギュスト 文鎮を持っている僕の姿を想像していたんだ。
 イザベル 違うの。私、驚いていただけ。何が何だか分らなくて・・・
 オーギュスト 君が? いや、君は強い。ずっと落着いていた。ただ残念だけど、君には予想出来なかったんだ。僕がその間ずっと君を抱き締めたいと思っていたのを。
(電話の音。)
 イザベル 出なくちゃ。あなたよ。あなたが出なきゃ。あなたがここにいるって、あっちに分らせなきゃ。
(電話の音。)
 オーギュスト ああ、僕なんかどうでもいいんだ。もうどうでもいいんだ。
 イザベル 駄目。自分を守らなくちゃ。私も守って下さらなきゃ! あなたのいない私の人生、そんなの、何?
(電話の音。)
 オーギュスト エーイ、君なんか嫌いだ!
 イザベル ねえオーギュスト、あんな奴に勝たせていいの? あの人が最後の最後、私達に出来ることを、そのままさせておいていいの? 私達二人を離ればなれにさせようとしているのよ、あの人は。
(電話の音。)
 イザベル さ、オーギュスト、電話に出なさい!
 オーギュスト 君、僕のこと・・・怖い?
 イザベル(誠実に。心から。)私、あなたに感謝しているの。
(オーギュスト、電話に進む。)
 イザベル 自然にするのよ。
 オーギュスト(不機嫌に。)僕はいつだって自然だ。(電話に。)もしもし、失礼しました。寝てまして。ひどくぐっすりと。(声が変る。)何だって?(間。)シャルロから僕に伝言? 何だっていうんだ、こんな時にシャルロから・・・(間。かなり長い。)有難う。だけど、ちょっと説明してくれないかな・・・(呆れて。)切りやがった。(こっちも電話を切る。)
 イザベル 何て?
 オーギュスト(呆然として。)シャルロの友達からだ。僕はすぐ逃げた方がいい。そう言ってるって。
 イザベル 正確には、何て?
 オーギュスト うん。「すぐ逃げろ。リュスィアンが泥を吐いた。シャルロが八方手をつくしている。しかしとにかく、すぐ逃げろ。」僕は・・・逃げるか?
 イザベル(じっと考えて。)待って・・・待って!
 オーギュスト 僕に分らないのは、シャルロが「手をつくす」って一体何をやるのかっていうことだ。
 イザベル ええ。どうするっていうんでしょう、シャルロが。
 オーギュスト(感謝の声。)ああ、やっぱりシャルロだ。いつだって必要な時に現れてくれる。・・・じゃ、僕、逃げようか?
 イザベル いいえ。
 オーギュスト 「いいえ」?・・・どうして。
 イザベル あなた、逃げちゃ駄目。
 オーギュスト でも・・・
 イザベル 私にいい考えがある。もう少し考えさせて。
 オーギュスト 何だ君、もう怖くないの?
 イザベル(別のことを考えている。)いいえ、勿論怖いわ。とても。
 オーギュスト とても怖いっていう顔じゃないな、それは。
 イザベル(ゆっくりと、事を指揮する人間のように。)シャルロの忠告はあっても、あなた、逃げるのは駄目。自分から白状しているようなもの・・・
 オーギュスト しかし・・・
 イザベル こういう時は、戦略はただ一つ。決して自白しないこと。
 オーギュスト そう思う?
 イザベル 何を話してもいいの。何だって。ただ自白だけは駄目。
 オーギュスト だけど・・・それでどうなる?
 イザベル あなたを逮捕するわ。それだけ。
 オーギュスト(呆れて。)それだけ?
 イザベル だけど、釈放される。私の言うことを聞けば。
 オーギュスト(泣き言を言う。)今晩僕は牢屋だ・・・
 イザベル 二、三時間だけ。弁護士のシェリエに電話するわ。
 オーギュスト ああ、電話は止めてくれ。僕は気絶する。
 イザベル 本当! 可哀想に。手が震えている・・・
 オーギュスト(両手をポケットに入れる。虚勢をはって。)僕はじゃ、荷物を作らなきゃ・・・
 イザベル まだ時間があるわ。
 オーギュスト トランペットは許してくれるかな。
 イザベル そんなこと考えてるの?
 オーギュスト しようがないよ。こんな時何を考えていいか、僕は慣れてないんだ。
 イザベル 警察に言う言葉を考えなきゃ。
 オーギュスト あったことをそのまま。
 イザベル 駄目、それは。あなたは自分を守るためにあのことをやったんだって、陪審の人達に信じて貰うの。
 オーギュスト(非常に強く反対する。)そんな。自分を守るためにやっただなんて!
 イザベル(途中で遮る。感情をこめて相手を見て。)ね、聞いて!(言葉を続けて。)どういうことで自分を守らなきゃならなかったか・・・それが問題ね。
 オーギュスト 僕は三十七フランしか持っていなかった。そいつを盗もうとしたからやっつけた、とは言えないな、とても。
 イザベル 冗談は止めて!
 オーギュスト ご免。馬鹿なことを言った。君の言う通りだ。もう今のが最後だ・・・
 イザベル(思わず微笑んで。)あなた、自分で言ってること、分ってる?
 オーギュスト いや、分ってなくて却って有難い。(誇り高く。)君の方だ、しっかりしているのは。
 イザベル 私の言うこと、聞く?
 オーギュスト うん。
 イザベル ガタガタ文句を言わないのよ?
 オーギュスト 言わない。
 イザベル 私を信じるわね?
 オーギュスト 信じる。絶対にだ。
 イザベル よかった。私、あなたを助けてあげる。
 オーギュスト 可愛いイザベル!
 イザベル 私、「可愛い」人じゃないの、もう。あなたを助ける仕事をしている間は。
 オーギュスト ビケット!
 イザベル さ、私を抱き締めて。
(オーギュスト、用心深く、ゆっくりと、その言葉に従う。行儀正しく、片手をイザベルに回す。二つの顔がほとんど触れようとする距離。)
 イザベル よく聞いて。
 オーギュスト うん。
 イザベル(指示を与える。)あなたは事務所には入らなかった。
 オーギュスト 分った。
 イザベル あなたは電話のベルを聞かなかった。
 オーギュスト 分った。
 イザベル あなたは怒った。待たされたのにうんざりしたの。リュスィアンが出たすぐ後、下りて行った。
 オーギュスト それは真相に近い。
 イザベル 電話番の女の人、あなたに気づいた?
 オーギュスト(驚く。しかし疑いは抱かず。)電話番の女がいたって、君、どうして知ってるの?
 イザベル(躊躇わず。)オリヴィエのような仕事をしていて、電話番がいないって信じられる?
 オーギュスト うん。電話番に見られた。
 イザベル あなた、ひどく慌てていた?
 オーギュスト そうは思わない。
 イザベル そう。これで証人が出来た。・・・これなら大丈夫。これで行けるわ。(少しの間。)犯人・・・それは私!
 オーギュスト(イザベルから身を引き離して。)何だって?
 イザベル(非常に自然に。)私は抵抗したの。あの人はしつこくやって来る。で、私が殴った。
 オーギュスト(激しく。)それは駄目だ!
 イザベル 私の言うことを聞くって誓ったわ、あなた。
 オーギュスト そいつは駄目だ。分るな、絶対駄目だ!
 イザベル 馬鹿を言わないで。
 オーギュスト 僕は馬鹿なんだ。
 イザベル(皮肉に。)自分の操(みさを)を守る女は神聖なの! いつだって無罪になれるの。
 オーギュスト 呆れた話だ。
 イザベル 私、あなたは知らないでしょうけど、どんなことだって出来るの。今日は特に。
 オーギュスト そのようだな。だけど僕は、君にそんなことはさせない。
 イザベル いいえ、させます。
 オーギュスト いや、させない。
 イザベル いいえ!
 オーギュスト それに、君の話は少しおかしいぞ。君が事務所に入るのを何故リュスィアンも、電話番も見なかったんだ。
 イザベル その反論はちゃんと予想していたわ。ボージョン通りから私は入ったもの。
 オーギュスト ボージョン通りから?
 イザベル(少しはっとなるが。)二つ入口があるのよ。
 オーギュスト 君はどうしてそれを知っているんだ。
 イザベル(躊躇いなく。)誰だって知ってるわ。
 オーギュスト 僕は知らなかったな。
 イザベル この間オリヴィエがここに来た時、その話が出たわ。
 オーギュスト 聞いてないな、その話は。
 イザベル きっと台所にいたのよ。
 オーギュスト そうか・・・まあいい。ボージョン通りから入ったとしよう。だけど、それでも君の話はうまく行かないぞ。
 イザベル どうして。
 オーギュスト 文鎮についている僕の指紋だ。どう説明する。
 イザベル(理解して。)そうね・・・あなた、考えたわね。(真剣に考える。)
 オーギュスト いや、僕は駄目だ。こんな話は無駄だ。終りだ、僕は。
 イザベル そう、いい考え! ちょっと変えればいいの。私が抵抗する。あなたが入って来る。私達を見る。あなたが殴る。
 オーギュスト(感心して。)想像力あるね。
 イザベル あるでしょう。
 オーギュスト(あり過ぎるように感じる。)あり過ぎだな。
 イザベル 考えてみて! 自分の名誉を守る夫、それは神聖なの! 必ず無罪になるの!
(イザベル、一気に自分のドレスを引き裂く。)
 オーギュスト 何をするんだ。
 イザベル 揉みあっているうちに、あの人が私のドレスを引き裂いたの。
 オーギュスト 自分で引き裂くなんて、どうかしてるよ。
 イザベル そうは思わないわ。
 オーギュスト それに、話の辻褄があわないんだから、なおさらだ。
 イザベル えっ? どうして?
 オーギュスト 君はボージョン通りから入ったんだろう?
 イザベル そうよ。
 オーギュスト どうしてだ。
 イザベル 人に見られたくなかったから。
 オーギュスト 何故見られたくなかった。
 イザベル 分らないわ。
 オーギュスト そんなにこそこそするということは、あいつに対して抵抗もした筈がないということだろう?
 イザベル そうね!
 オーギュスト そうだろう。
 イザベル じゃいいわ。私、あの人の情婦でも。
 オーギュスト 駄目だ。それは僕が厭だ。
 イザベル あなた、何でも駄目なのね。
 オーギュスト 第一、誰もそんなこと信じやしないよ。
 イザベル いいえ、信じる。信じるわ。こういうことは今はもうみんな信じるの。
 オーギュスト これは、君だから駄目なんだ。
 イザベル あの人が送りつけてきた花、果物、香水、その他いろんなもののことを話すのよ。証人なら、ポリャーコフ、リュリュ、それにアパートの管理人がちゃんといるでしょう?
 オーギュスト うん、それは・・・
 イザベル ただ私のドレス、縫い直さなきゃ。私、抵抗しなかったんだから。
 オーギュスト 引き裂かれているのをどう説明する。
 イザベル 昨日引き裂かれたってことにする。
 オーギュスト 凄い発明。次々とよく出るな。
 イザベル 十五年間嘘なしでやってきたの。ストックがあるわ。
 オーギュスト(イザベルをじっと見る。何か感ずいた様子。)ああ、分ったぞ!
 イザベル(相手の変化に気づかない。怯(ひる)まずに。)それに私、みんなと同じように嘘がつけるの面白いわ、今は。
 オーギュスト ああ、面白いか。
 イザベル ええ、とても。
 オーギュスト じゃ、楽しむんだな。まだいっぱいあるぞ、弁明しなきゃならないことは。
 イザベル いいわよ。何? 例えば。
 オーギュスト(非常に自然に。)君はボージョン通りから入ったと言ったな。じゃ、オリヴィエが氷をリュスィアンに頼んだ時、どうしてリュスィアンに見られなかったんだ。
 イザベル 私、隠れたから。だってソフィーに余計な心配をかけたくなかった。
 オーギュスト 隠れた? どこに。
 イザベル 隣の部屋よ。
 オーギュスト 隣に部屋があるって、どうして分った。
 イザベル 隣に部屋、なかった?
 オーギュスト いや、ある。大きなソファがあって、女性が化粧に必要なものは全部揃ってる。ただ、君はどうしてそれを知っているか、だ。
 イザベル 馬鹿なことを言わないで!
 オーギュスト きっと誰でも知ってるんだ。オリヴィエがここでその話もした、あの日に。僕は台所に入っていたんだ。
 イザベル(少しづつあやふやになる。)違うわよ。そんな、私、あてずっぽうに言ってるんですもの!
 オーギュスト 電話番の話のようにな!
 イザベル そうよ。電話番の話のように。
 オーギュスト 女性の電話番で、男性じゃないとね。
 イザベル そうよ。
 オーギュスト それがあてずっぽうとはね。
 イザベル 電話番て、大抵女だわ。
 オーギュスト 秘書だっていておかしくない筈だぞ。秘書はいない、だけど電話番はいる、と見抜いていたのは変じゃないか。
 イザベル 私、見抜いてなんかいないわ。
 オーギュスト それに、さっきから僕は、君に対する言葉の調子を変えたぞ。それに対して君が怒らないっていうのはますますおかしい。僕は普段、君にはこういう口調では喋らないんだ。
 イザベル 私、怒らないわ。だってあなたの気持が分るんですもの。偶然の一致、確かに奇妙だわ。
 オーギュスト そうさ、奇妙だ!
 イザベル ええ、でも、こんな奇妙な偶然が私の口から出たのも、元はと言えば・・・
 オーギュスト(皮肉に。)そう、元はと言えば、実に、正に実に、僕の不幸を救おうとしてなのさ。
 イザベル ええ。
 オーギュスト(内に怒りを含んで。)そう、こんな馬鹿げたことは終りだ。僕は分った、しどろもどろの、そんな言い訳、もう終りだ。
 イザベル 分ったって・・・何が?
 オーギュスト 僕はもう酔ってない、イザベル。良い酔い覚ましをやってくれたもんだ。
 イザベル 分ったって、何が?
 オーギュスト ああ、君が認めっこないのは最初から分ってるんだ!(イザベルの真似。)こういう時は、戦略はただ一つ。決して自白しないこと。
 イザベル ねえ、あなた・・・(オーギュストに近づく。)
 オーギュスト 今度はこっちだ、この台詞を言うのは。「私に触らないで!」(恐ろしい声で。)「僕に触るな!」
 イザベル(誠実に。)私、あなたが怖い。
 オーギュスト 怖いか。「自分の名誉を守る夫、それは神聖なの!」心配するな。一日に人殺し一人、それが僕には限界だ。ああ・・・疲れた・・・酷く疲れた・・・
(オーギュスト、どっかりと坐る。)
 イザベル 私、言うことがあるの。言わせて。
 オーギュスト(厳しくイザベルを見つめる。相手の言葉が途中で途切れる程。そして、急に自分の喉に手をあてて、息が出来ないという風に。)窓・・・窓を開けて・・・早く!
(イザベル、窓に走り、開く。)
 イザベル(本当に驚き、慌てて。)ねえあなた、馬鹿よ、こんな風になるなんて。
(イザベル、台所に走り、水をコップに入れて持って来る。頼むように。)
 イザベル ね、飲んで。お願い。
(オーギュスト、従う。)
 イザベル それも、何でもないこと、本当に何でもないことで。あなたが考えているようなそんな難しいことじゃ、全然ないの。
 オーギュスト ああ、僕の考えていることは、実に、実に簡単なことさ。
 イザベル 勿論私、全部は話していなかったわ。
 オーギュスト 勿論さ!
 イザベル(台所への往復で、すっかり落着きを取り戻している。)でも、あなたがそんな風に受取って・・・そんな風になって・・・それはみんな、私の責任。
 オーギュスト 責任なんて、何もないさ。
 イザベル あなたがそんな風になることなんか、ちっともなかった・・・みんな私の責任・・・
 オリヴィエ(第一幕でオリヴィエがやったように、小声で歌う。)「また一つ愛の歌・・・他人とは違う・・・他人とは違う・・・」
 イザベル(かなりきつい調子で。)何それ! 一体。
 オーギュスト 幸福・・・いつだって幸福・・・それで人は疲れる・・・
 イザベル(本当にこちらも苦しい。)ああ、あなた、自分で自分を苦しめてるのね。それ、馬鹿なことよ。
 オーギュスト 十五年間笑って死ぬことは出来ても、十五年間笑って生きることは出来ないってことか。
 イザベル もう自分を苦しめるのは止めて!
 オーギュスト 食事の時、確実にあるのは辛子(からし)だけ、なんていう生活、こりごり。
 イザベル そんなの嘘。あなた、よく知っているわ。私がこの十五年間のボヘミアン暮しが大好きだったってことを。ああ、私に話させて・・・
 オーギュスト 言ったろう? 君には何の責任もない。僕に話すことなんか何もないんだ。
 イザベル 私、言う! あなたが嫌でも仕方がないわ。そう、私、オリヴィエのところに行った。秘書はいなくて、女の電話番がいるのをちゃんと見た。あなたと同じように、次々に送って来るのを何とかして貰おうと思って行ったわ。・・・このことで私を責めないわね?・・・どう?
 オーギュスト 責めない。
 イザベル ボージョン通りから入る入口では私、嘘をついたわ。ここで、あなたが台所にいる間にオリヴィエが話したんじゃないの。ちゃんとあの家で教えてくれた。
 オーギュスト 隣の部屋のこともだな?
 イザベル(厳しく。)何、その言い方。何が言いたいの。
 オーギュスト 僕には分らない。さっぱり分らない。
 イザベル 分ってる筈でしょう。十五年も一緒に暮したんですからね。とにかくオリヴィエは、私には好感情を持っていたわ。
 オーギュスト ほう、そうか。
 イザベル 私が小娘じゃないとちゃんと分かっていた。
 オーギュスト あああ、小娘じゃないってね。
 イザベル(子供らしい、得意な気持を含んで。)あの人にとって私は、「崇(あが)められる何か」だったわ。ええ、「崇められる何か」・・・あの人、何度も繰り返した。思いがけない何かがあって、男はそれに相応しいものになろうとする・・・
 オーギュスト(辛そうに。)うまいこと、言いやがる。
 イザベル あなたさっき、私が電話した時、どこにかけたか訊かなかったわね。(正確に順序も言って。)三度目の電話、ハンドバッグから出した紙切れ・・・あれはあの人の別宅の電話番号・・・あの人が自分で書いたもの・・・
 オーギュスト 別宅?
 イザベル 私のために借りた・・・っていう話。(イザベルはそれを本当には信じていない。皮肉につけ加える。)愛の巣! 素敵な隠れ処(かくれが)・・・どこからも覗かれないように垣根がある庭、誰も知らない川向こうの静かな場所。あの人、毎晩私を待ってるって。・・・毎晩。私に言ったわ。「ただ電話さえくれればいい。二週間後でも、二十日後でも、ひと月後でも。僕はすぐ、誰と会う約束でも、それを断って君を待つ。来てくれるね? きっといつかはね。きっと・・・」
 オーギュスト(叫ぶ。)殺してやる!(自分の言葉の馬鹿らしさに気づき、謝る。)ご免! で、電話したのか。
 イザベル あなたを苦しめることになるわ。
 オーギュスト 電話したのか!
 イザベル 女であるっていうことは、簡単なことじゃないの。
 オーギュスト それで、面白かったのか。
 イザベル 残念だけど、面白かったわ。
 オーギュスト どう(面白かった)?
 イザベル ねえあなた、この十五年間私達、「私達」のことしか話さなかった。あの人は、「私」のことを話したの。「私」のことを!(間。)
 オーギュスト そりゃそうだ。
 イザベル はい、これでおしまい。
 オーギュスト おしまい?
 イザベル 私のした事、それは悪いこと。とても悪いこと・・・私、言い訳はない。でも、あなたが苦しむようなことは何一つないわ。
 オーギュスト そう思うか? あのカス野郎に君は電話した。そして希望を持たせたんだ!
 イザベル あの人、本当に希望を持ったかしら。
 オーギュスト オリヴィエがか?
 イザベル あなたどう思って? あの人、その間ずっと私を待って待って、待ちくたびれたのよ。他の女の尻を追い回すのは止めて・・・あなた、「面白かったか」って訊いたわね。そう、だから、面白かったの。
 オーギュスト それで、別宅には行かなかったんだな?
 イザベル(説得力のある、自信のある答。)ええ、それは決して・・・(笑う。)あなた馬鹿よ。・・・決して・・・信じる?(オーギュスト、黙っている。)私、自分の命にかけて誓うわ。
 オーギュスト ああ!
 イザベル(厳粛に。繰り返す。)私の命にかけて!
 オーギュスト 僕の命にかけて、は、どうかな?
 イザベル(躊躇なく。)あなたの今の状態を考えて、そのリスクを負うのは止める。でも私、その時が来れば、あなたの命にでもかける。あなた、これで落着いたわね?
 オーギュスト(弱々しい微笑み。)君の言う通りかもしれない。殺人犯、それに妻を寝取られる、それじゃ、いくら何でも立つ瀬がない。
 イザベル(厳しく。)駄目、そんなこと言うのは!
(オーギュスト、機械的に木に触る。)(訳注 木に触るのは幸運を呼ぶおまじない。)
 オーギュスト さあ、すると残りは、警察官の皆さんを待つことだけか。
 イザベル 私の話にするの? しないの?
 オーギュスト しない。
 イザベル お願い!
 オーギュスト しない!
 イザベル(同じ嘆願の調子で。)あなた馬鹿よ!
 オーギュスト あの話は複雑すぎる。まごつくに決ってる。
 イザベル(心配そうに。)これからどうするの? あなた、どうするのかしら。
 オーギュスト なってみれば分るさ。
 イザベル(また余計心配になって。)あなた、ふざけたりしないわね? 警察の人が来た時・・・真面目にするわね?
 オーギュスト 当り前だ。ただ、今は待つだけだ。待つしかない。
(間。)
 イザベル 煙草を頂戴。
(オーギュスト、ゴールワーズの箱とマッチを出す。イザベル、オーギュストを見る。オーギュスト、イザベルを見ない。二人、待つ。幕、ゆっくりと降りる。)

     第 三 幕
(第二幕から一時間後。すっかり夜がふける。外にはモンマルトルの灯。)
(イザベルとオーギュスト、前幕の終の位置。しかし電気をつけないので、二人とも観客からは薄暗がりでしか見えない。)
(長い間。イザベルが煙草に火をつけるためマッチをする。その時にイザベルの心配そうな、オーギュストをじっと見る顔が見える。オーギュストは椅子にじっと坐っている。老け込んでいる。目に表情がない。)
 オーギュスト(特に苛々した口調ではなく、この一時間に十回は繰り返したであろう台詞を言う。)一体何をしているんだ、連中は。
(イザベル、煙草に火をつける。肘掛け椅子に坐る。突然ブルッと震え、立上がり、窓を閉め、また戻って坐る。)
(扉を叩く音。)
(すばやくオーギュスト立上がる。ほっとした溜息。)
 オーギュスト やれやれ、やっとだ。じゃ、これで、イザベル!
 イザベル キスして下さらないの?
 オーギュスト するさ、すぐ。連中のいる前で。
 イザベル いる前で?
 オーギュスト そうだ。分るだろう?・・・僕は今、勇気が必要なんだ。
 イザベル(嘆願するように。)でもあなた、私の話をしてくれるんでしょう?
 オーギュスト(きっぱりと。)駄目だ、あれは。
 イザベル(強く。)それで助かるのよ。あなた、助かりたくないの?
 オーギュスト(それには答えず。)あれは複雑すぎる。
(外からまたノック。今度はしつこい。)
 イザベル 思い出して。私、自分の命にかけて誓ったのよ。
 オーギュスト(微笑もうと、強いてつとめながら。)分ってる。あの話がなくってもだ。・・・ここに有り金三十七フランある。これで全部だ。すまない。だけど、こんなことは予想していなかった。君の面倒はシャルロがみてくれるよ。
 イザベル(自分のことには全く無関心に。)ああ、私のことなんか・・・
 オーギュスト さあ、手を貸して。早く、最後の幸せに・・・
(二人、手を取りあう。)
 イザベル 愛しているわ。何時までも。
 オーギュスト(しっかりと。)電気をつけて! 官権の顔ってやつを見てやる。こっちを裁くやつを!
(イザベル、出来るだけ部屋を明るくする。オーギュスト、扉を開ける。ソフィーがいる。軽い夜会服。胸の開いていない服。しかし非常にシック。小さなボレロか、前だけにつばのある帽子。微笑んでいて、とても陽気。オーギュスト、二三歩後ずさりする。イザベル、驚き、当惑するが、ぐっとそれを抑える。)
 ソフィー(陽気に。)今晩は、オーギュスト。
 オーギュスト(やっとのこと。)今晩は!
 ソフィー(同じ調子で。)今晩は、いとこさん!
 イザベル(オーギュストより恢復が早い。上品に。)今晩は!
 ソフィー(いよいよ陽気に。)あら、「お入り」って言って下さらないの? 私、坐りたいわ。
 イザベル どうぞ・・・どうぞ、どうぞ・・・お坐りになって。
(ソフィー、坐る。世慣れた調子。)
 オーギュスト(慌てた状態そのままで。)あー、どう? 調子は。
 ソフィー ええ、お陰様で。(あたりを見回して。)あら、まあ。沢山のお花!
 オーギュスト(その前に立って。)あー、・・・僕のファンがいてね。・・・馬鹿だよ、こんなに・・・
 ソフィー 馬鹿でも、趣味はいいわ。
 オーギュスト 趣味か・・・
 ソフィー お坐りになったら? 二人とも。私、すぐには帰らないのよ。分る?
 オーギュスト ああ・・・じゃあ・・・(オーギュスト、坐る。イザベルは坐らない。オーギュスト、呟くように。)あー、驚いたな・・・これは驚いた・・・
 ソフィー 驚くことはない筈よ。
 オーギュスト(慌てて。)えっ? ない筈?
 ソフィー イザベル、話さなかった?(謝って。)イザベルって呼んでいいわね?・・・ね?
 イザベル 勿論。
 オーギュスト イザベルが話すって?・・・何を?
 ソフィー えっ? じゃ、本当に話してないのね? 私達、今日のお昼、サン・トノレ街で会ったのよ。(オーギュストに気づかれないようにイザベルに目配せする。)
 イザベル(どぎまぎしながら。)ええ、話してないの、そのことは・・・
 オーギュスト(言い訳をするように。)ちょっと二人で長い話があって・・・
 ソフィー 分るわ・・・でも私、今日来るって言っておいたわね?・・・ね? イザベル。
 イザベル(驚く。しかし、急いで話を合わせて。)ええ・・・ええ・・・
 ソフィー(オーギュストに。)あなたが悪いのよ。私にあんまり親切にするから・・・
 オーギュスト(ひどく困惑して。)えっ? 僕が?
 ソフィー(非常に優しく。)ええ、そう、あなたが。
 オーギュスト(本当に酷く困って。)そんな・・・まさか。
 ソフィー とても優しくて、それに、とても陽気で・・・
 オーギュスト このところオリヴィエに会ってる?
 ソフィー(いよいよ陽気に。)まあ、なんて奇妙な質問・・・あの人、私の夫よ。奇妙な夫だけど、それでもやっぱり私の夫。ずっと会わないでいるってことはありえないわ。
 イザベル この人が知りたいのはきっと、今夜あなたが会ったかどうかなのよ。
 ソフィー(当然のことながら、不思議に思って。)何故?
 イザベル(実にうまく切り抜けて。)オリヴィエに今日、この人会ったの。その話をあなたにしたかどうか知りたかったのよ、きっと。
 ソフィー ああ、聞いてないわ。でも、会えばきっとその話出るわ。
 オーギュスト(がっかりして。)ああ、じゃ、まだ会ってない?
 ソフィー まあ、まるでオリヴィエのことを思ってくれているみたいな口ぶりだわ。
 オーギュスト(心から。)それは思っているよ。そう、それは心から思ってる。
 ソフィー でも、美容院にはあの人、電話をかけてきたわ。
 オーギュストとイザベル(同時に。希望が残っていて。)何時に?
 ソフィー(二人同時に、それも非常な熱心さなので、驚きながら。)あら、まあ。二人一緒に。・・・エーと、六時半ぐらいだったかしら・・・
 イザベル(オーギュストに。)あなた、オリヴィエに会ったのは?
 オーギュスト(がっかりして。)後だ。残念ながら、その後・・・
 イザベル ああ!
 ソフィー(微笑みを絶やさないで。)残念ながらって・・・どうして?
 オーギュスト(曖昧に。)ええ、まあ・・・
 ソフィー それが奇妙な電話だったの。(イザベルをじっと見る。)とても奇妙な・・・
 イザベル(心配になって。)あら、そう?
 オーギュスト(不安な気持をこめて。)で、その後、誰かから電話がなかった? 誰からも電話はなかったの?
 ソフィー(微笑んで。)誰が電話するっていうの? 私に何の話があるっていうの?
 オーギュスト(それには答えず。)オリヴィエと夕食の約束はなかったの?
 ソフィー(イザベルの方は見ず。)いいえ、マンチーニでダンスパーティーがあって、そこで十一時に会う約束だったわ。あの人、夕食は別宅でするって言ってた。
 オーギュスト ははあ・・・
 ソフィー 別宅のお金は私が払っているのよ!(苦しい気持。しかし微笑みを絶やさず。)オリヴィエったら、今のこの時、一番酷い気分・・・
 オーギュスト(この言葉で、また最悪の事態を思い出して。)そう・・・
 ソフィー 私を虐(いぢ)めようって・・・それはそれは意地悪の極。
 オーギュスト(誠実に。)ああ、そうだといいんだが・・・
(ソフィー、驚いてオーギュストを見る。)
 イザベル(急いで。)この人の言うこと、気にしないで。
(イザベル、ブランデーの壜を指し示して。)今夜はこの人、飲み過ぎなの。
 ソフィー(微笑んで。)飲み過ぎを非難出来る身じゃないわ、私。
 オーギュスト(熱心に。)そう?・・・で、そんなに意地悪?
 ソフィー(歯を食いしばって。)想像も出来ないくらい。それに、虐められてるのはこの私。悔しいけど、私には跳ね返す何の力もない。この私の意気地なし・・・グラスを頂戴。
 オーギュスト(急いで従って。)勿論。
 ソフィー 私がいなければあの人、誰に対しても何も出来ないっていうのに。
(ソフィー、じっとイザベルを見つめる。イザベル、怯(ひる)まず、見返す。オーギュスト、二人に近づき、ソフィーにグラスを渡す。)
 ソフィー(オーギュストの方を向き。)有難う。
(オーギュスト、注ぐ。)
 オーギュスト このぐらい?
 ソフィー そちらと同じ量。
 オーギュスト ああ、それなら・・・
(オーギュスト、いっぱいに注ぐ。ソフィー、一息に飲む。)
 ソフィー オーギュスト?
 オーギュスト 何?
 ソフィー あなた、今ちょっと出て行って下さらない?
 オーギュスト(驚く。)えっ? 僕が?
 イザベル(無理に微笑みを作って。)どうして出て行って欲しいの?
 ソフィー あなたに話があるの、イザベル。
 イザベル 私に?
 ソフィー 何か分るでしょう?
 イザベル いいえ、どうして?
 ソフィー 今日のお昼の続き。
 イザベル(優しく相手の意図を酌んでやりながら。)でも・・・分らないわ・・・
 ソフィー いいの? 私、オーギュストに全部話したっていいのよ。
 オーギュスト じゃ、別に・・・
 ソフィー(イザベルに。)あなた、どう思って?
 イザベル それは私に・・・(都合が悪いっていうことなの?)
 ソフィー(遮って。)あなた、私と同じ考えでしょう? オーギュストに話したらみんなぶち壊しだもの。
 オーギュスト ぶち壊し?
 ソフィー 女の話! 男には分らないの。
 イザベル この人の言う通りよ。あなた、出てた方がいいわ。
 オーギュスト 分った。
(オーギュスト、隣の部屋に進む。)
 ソフィー あ、そこは駄目。(微笑んで。)分ってるでしょう? そこだとみんな聞こえるの。
 オーギュスト じゃ、降りて行けって?
 ソフィー お願い。
 オーギュスト いいかい? 二度としないよ、こんなことは!
 イザベル 五分たったら上がって来て。
 オーギュスト 分った。
(オーギュスト、ソフィーの背後からイザベルに、「何も言うな」と合図して、退場。)
(堪え難い間。)
 ソフィー あなたって、綺麗。
(イザベル、急に振り返り、返事をせず、じっとソフィーを見る。)
 ソフィー 私、あなたのこと・・・非難するんじゃないの・・・(イザベル、何も言わない。ソフィー、その沈黙に気おされせず、続けて。)しつこいオリヴィエ・・・あなた、面白がっているんでしょうね。自分の方がオリヴィエより強いと思っているんでしょう。(夫婦の強みで、オリヴィエを持ち上げて。)あの人、強いの、とても! あなたが降参するその時間まで、きっちり予言したわ。・・・その前に私に電話で訊いた。「六時から七時の間、君はどこにいる? 君に話したいことがあるんでね」って。オリヴィエがあなたと別れたのは六時二十分ぐらいでしょう。六時二十五分に美容院に電話がかかってきた。あなたとのいい知らせを教えるためよ。私、あの人を苛々させることを言ったらしいわ。
 イザベル(自嘲的に、乱暴に。)もういい。私はこれで満足。最後の最後まで、何て酷い・・・これで私は満足。
 ソフィー 満足?
 イザベル ええ、私は罰を受けたいの。罰を受けなきゃいけないの。
 ソフィー 罰・・・そうね。本当はあんたには何の罪もないのに。
 イザベル 厭、私、その言い方。私、あなたに同情されたくないの。
 ソフィー 同情で言ってるんじゃないわ。私、物事をありのまま見る質(たち)なの。
(ソフィー、飲む。)
 イザベル 私を恨んで、私を罵(ののし)ってくれればほっとするのに。
 ソフィー ご免なさいね。いつかそれが出来るようにするわ。でも今は、そんなことをしたら自信を失ってしまうような気がして・・・だって今は私にとって・・・あなただろうと、他の誰だろうと・・・
 イザベル(ぐっと口をつぐんで。)そうね!
 ソフィー それに、みんな私が悪いの。この間のお昼だって、私がどうしても来たいって言ったからなの。私、お二人の噂を・・・どんな逆境にあっても、いつも陽気で、勇気があるっていうのを聞いて・・・(少し笑う。別の調子で。)でもとにかくあなた、二週間がんばったのね。オリヴィエはその二週間、もう決して取り戻せないもの。(煙草を取り出して。)
 イザベル(激しく。)あの人の話なんか、もう止めて!
 ソフィー 他の話をする余裕なんて、今の私にはないんじゃない?
 イザベル だから尚更(なおさら)しないで頂戴!
 ソフィー(思いがけず嫉妬の気持が湧き。)駄目ね、三週間あの人が家を出なかったのは、あなたのせい。あなたからの電話を待っていたんですからね。(煙草に火をつける。イザベル、沈黙。)あなた、聞いてる?
 イザベル ええ。
 ソフィー(攻撃的に。)あの人にとっては大変な苦行。初めて、こんなこと。さぞかしあなたのこと、優しくしたんでしょうね。
 イザベル さあ、どうだか。
 ソフィー 二人だけの話よ。遠慮などいらないわ。あの人、とても気に入ったのよ、あなたのことが。(いやらしい疑いが湧いて。)あなたの方もよ。・・・あの人よりもっとかも知れない。
 イザベル いいえ。
 ソフィー いいえ、きっと・・・きっとよ。後悔はしたでしょうけど、その後きっと・・・オリヴィエは言った。あなた、泣いたって・・・ね?・・・あなたの涙は、あの人にとって、今日一日の最高のものだった筈よ。
 イザベル それでもあなた、オリヴィエを愛しているの?
 ソフィー(立上がりながら。)そんなこと、あなたに関係ないことでしょう? 第一あなたは、あの人のことをよく分っていて、それでこうなった。私がどう思っていようと関係なかったってことよ。
 イザベル(ちょっと攻撃的に。)ソフィー・・・、あなたのことソフィーって呼んでいいわね?
 ソフィー どうぞ。その方がずっと簡単。
 イザベル あなた、ここに、ただ私を侮辱するために来たんじゃないでしょう?
 ソフィー いいえ、そのつもりはあったわ。私ってそういう性格。出来ればそうしようって。
 イザベル それで?
 ソフィー 止めにしたの。
 イザベル(酷く疲れて。)どうして?(「やればいいじゃない」という身振り。)
 ソフィー(小さな身振りをつけて。)あなたの涙の話・・・あれは私にとっても今日最高のものだった。
 イザベル そう。
 ソフィー 私、考えたわ。もしイザベルが泣いたのなら、それはきっと良いしるし・・・
 イザベル ああ!
 ソフィー 私、オリヴィエっていう人は分っているの。三週間も家にじっとしていて・・・あなたの涙で感動して・・・後悔はない筈。でももし、じっとしていた三週間を悔やみ始めたら・・・
 イザベル お願い、もうあの人の話は・・・(止めて。)
 ソフィー 止められないの、この話は。あなた、今すぐパリを出て行けない?
 イザベル 出て行けない・・・私達。
 ソフィー(再び非常に攻撃的になって。)何が邪魔になるっていうの。
 イザベル 出て行こうとしても無理。
 ソフィー 誰が邪魔するっていうの? オリヴィエ?
 イザベル 勿論違うわ。
 ソフィー じゃ、誰が。
 イザベル あなたには言えないわ。
 ソフィー ねえイザベル、あなた、涙を流したりして、私に優しかったわ。有難いと思ってる。でも、今は気取ってる時じゃないの。何て言ったってあなた、変なことをしでかしたのよ。夫婦でその責任はとって。さっさと出て行って。
 イザベル 出て行きたいわ。でも駄目なの。
 ソフィー 手はずはこちらで整えるわ。
 イザベル でも、これはあなたでも駄目。
 ソフィー それで、その理由は言えないっていうのね?
 イザベル あなたには無理。
 ソフィー オリヴィエは私のもの。あなたが言うことをきかないなら私、あなたにとんでもなく意地悪になれるのよ。
 イザベル ああ、意地悪ならこっちだっていくらでもなれるわ。
 ソフィー 私が怒ったら怖いっていうのを皆忘れている。私が苛々し過ぎるから皆なれちゃって・・・結局悪いのは私。最後にもう一度聞くわ。あなた、パリを出て行ってくれない?
 イザベル(静かに。)いいえ、行きません。
 ソフィー まあ! たった一時間であの人のことがそんなに気に入ったの?
 イザベル いいえ、でも今では嫌いでさえないわ。
 ソフィー 変な話。私だったら愛していなかったらあんな人、たった五分でもとても我慢出来ないわ。
 イザベル そう言っていれば気がすむのね。
 ソフィー(厳しく。)ただ私はあの人を愛しているの。だからどんな手を使ってもあの人を守るつもり。どんな手を使っても。他人からどんなに奇妙に見える手でも。(微笑む。)私があなただったら、怖いと思うところよ。だって飲む人間には想像力があるんですからね。
(間。「飲む」という言葉で自分の義務を思い出し、グラスに注ぐ。)
 イザベル じゃ、私が出るとなったら、どういう方法があるの?
 ソフィー(緩和して、イザベルの方を向き。)モロッコのタンジールに姉がいるわ。そこであなた達、小さなバーを開けるわ。夢にまで見ていた小さなバー。姉がすべてやってくれる。(ソフィー、飲む。)
 イザベル あなたからの助けは受けられないわ、私。
 ソフィー でも、オーギュストは?
 イザベル よけい駄目ね。
 ソフィー よけい?
 イザベル だって、もしオーギュストにあのことを(知られてしまったら・・・)
 ソフィー 心配はいらないの。私、さっきサン・トノレ街であなたに会ったって話をしたでしょう? 何故か分る?
 イザベル 分らない。
 ソフィー(微笑んで。)あなたと私、今日の午後はずっと二人でいたの。私はあなたをお茶に誘いだして、その後私の行きつけの店にドレスの仕立てに行ったの。私、ちゃんと証人がいる! そんなことまで何故私がしたと思う?
(間。イザベル、じっと動かず、考えている。)
 ソフィー 礼などいらないわ。私のためでもあるんだから。オーギュストに何も分らなかったら、オリヴィエの楽しみはゼロ・・・だから。
 イザベル(強く。)いいえ、あなたと二人でいたって話は、どうしても駄目。
 ソフィー 何故?
 イザベル(同じように強く。)今日の午後は私、カンパーニュ・プロミエールに行った。それははっきりさせなきゃならないの。
 ソフィー どうしても私に恥をかかせたいっていうのね?
 イザベル それに、私があそこにいたのを誰かが・・・きっと誰かが見てるわ。
 ソフィー(馬鹿にしたように。)そんな・・・誰があなたのことを気にしているっていうの。
 イザベル もし誰もいない時には、私が自分で言う。
 ソフィー(ピシャリと。)そんなに自慢なの!
 イザベル 私がどうしても言わなくちゃ。
 ソフィー(短い間。)分らないわ。(ゆっくりと。)何か他にあるのね?
 イザベル(非常に強く。)いいえ、何もないわ!
 ソフィー(自分で話を構成する。)分った。誰かを助けようというのね?
 イザベル(苦しまぎれに。)自分をよ!
 ソフィー その助けたいのは、オーギュスト!
 イザベル そんなの、馬鹿げてるでしょう!
 ソフィー さっき私が入って来た時、どうして二人ともあんなに驚いたの。あなたが驚くのは分るわ。でもどうしてオーギュストまで。
 イザベル 驚いた? ただ普通に驚いただけでしょう?
 ソフィー オーギュストはよけい駄目だってさっき言ったわね? 何故オーギュストは「よけい」駄目なの?
(イザベル、だんだん窮地に立って、後ろ向きになる。)
 ソフィー 何故二人とも、何回も・・・そう、何回も、訊いたの? 私が今夜オリヴィエを見たかって?(はっと気づき、叫び声を上げる。)殴り合ったのね?(イザベル、沈黙。)あなたのことで! 自分では身を守れないわ、女だもの。だから二人で・・・そうね?
 イザベル(アリバイを作るよい機会だと。)馬鹿よ、オーギュストは。嫉妬でかっとなって・・・
 ソフィー でも、怪我はなかったのね? まさか・・・怪我は・・・(イザベル、沈黙。)怪我なんかあってたまるもんですか! でも・・・でも、もし・・・もし酷かったら、その時はあなた達二人ともどうなるか・・・私、さっき言ったわ、どんなにでも意地悪になれるのよ、私は。(急に苦しくなって。)あの人、まさか危険な状態じゃないんでしょうね!
 イザベル 私、分らない。
 ソフィー(苦しみの叫び。)ああ、駄目! 駄目! 命だけは! あの人を取ったっていい、私から取ったって! もうそれはどうでも・・・でも、命だけは・・・命だけは・・・
(ソフィー、大きな動作で退場。)
 オーギュスト(登場して。)何だい? あれは。どうしたんだ?
 イザベル タンジールでバーを開く金を出してくれるって。でも私、何か酷いことを言ったらしいの。・・・あの人があんなに自分の旦那様を愛していたなんて、私には分りっこないもの。
 オーギュスト(曖昧な動作。)ああ、それは・・・
 イザベル まるで気違いみたいな愛し方・・・
 オーギュスト そう・・・
 イザベル(苦しそうに。)自殺するんじゃないかしら。
 オーギュスト ああ、それだけは言わないでくれ。
 イザベル だって、するかもしれないって、あなた、分るでしょう? あの人なら。
 オーギュスト そんなの大量殺人じゃないか!
 イザベル ソフィーのこと、私達、ちっとも考えていなかった。
 オーギュスト うん。
 イザベル(奇妙な口調で。)あなたも! 私も!
 オーギュスト だって、ソフィーのことは知らなかったんだ、二人とも。
(扉にノックの音。)
 オーギュスト 今度は・・・
 イザベル(低い声で、嘆願するように。)オーギュスト! オーギュスト さよならを言うのは止めとこう。また喜劇になるのは厭だ。
 イザベル(同じ調子で。)言って、警察に、私が犯人だって。お願い。
 オーギュスト いやだ。
 イザベル(挑むように。)無理にでも言わせる。あなたに。
 オーギュスト さあ、どうかな、それは。
(オーギュスト、扉を開ける。シャルロがいる。頭に包帯をぐるぐる巻きにしている。ヒンズー教の王子、または布に巻かれたミイラのような頭。背広は非常に上品。第一幕のオリヴィエの着ていた服に似ている。シャルロ、二人を眺めながら、長いこと首を縦に振ってから、やっと・・・)
 シャルロ ああ、君達・・・大変な話だよ・・・
 オーギュスト ええっ? 君も・・・話?
 シャルロ 僕も? 文鎮の男・・・それは僕なんだぞ!
 オーギュスト(心からほっとした声。)ああ、シャルロ・・・シャルロ・・・
 イザベル キスさせて、シャルロ!
 シャルロ(二人に引っ張り回されて。)ああ、ここでは僕は歓迎される男か! 有難いよ、全く!
 オーギュスト(喜び、頂点に達して。)ああ!(叫ぶ。)シャルロ! 僕はもう人殺しじゃないんだ! 人殺しじゃないぞ!
 イザベル ああ、シャルロ!
 オーギュスト(心配になって。)でも君、あれを全部受けたのは君?
 シャルロ(しっかりと。)そうさ。全部ね!
 オーギュスト 別の誰かを殴ったんじゃなかったのか?
 シャルロ 違う。殴られたのは僕だけだ。
 オーギュスト そうか・・・君は真の友だ。実に・・・実にだ。
 シャルロ そう。実にね。
 イザベル ブランデーは如何?
 シャルロ(イザベルに。)いや、いい。だけど、オーギュストは運がよかったよ。僕が石頭でね。
 オーギュスト(早くも楽天的になり、屈託なく。)脳味噌がないんだ。骨だけでね。
 シャルロ(イザベルの前で強がって。)ステッキぐらいだったら、折れてたな、きっと。
 イザベル(感嘆を大袈裟にして。)そうよ、ステッキなら・・・
 シャルロ それに、あの文鎮だって、へこんでたんだ。
 イザベル へこんで!
 シャルロ いや、これは冗談!
 イザベル まあ、冗談!
 オーギュスト(イザベルに。シャルロの言葉に感心して。)こんな時に冗談! すごい。頭が下がるよ!
 シャルロ そうだ、もう説明してくれてもいい筈だ。何故文鎮だったんだ!
 オーギュスト 手近にはあれしかなくて・・・
 シャルロ 違うな。インク瓶があったぞ。あれでも充分だった筈だ。それに、軽いし。
 オーギュスト 考えなかったな。
 シャルロ 考えるべきだったんだ!
 イザベル(オーギュストに。)結局私が言ったのはあってたわ。頭なら、死ぬか、何でもないか、どっちかなの。
 シャルロ(イザベルの言葉を逆にあてこすって。)何でもない!
 イザベル 言い間違い。助かったわ。大事なくて!
 シャルロ 大事ない?・・・まだ足がふらついているんだ・・・
 イザベル あらまあ、ずっと立ちん坊。坐りましょう!
 オーギュスト 肘掛け椅子は駄目だ! 倒れて頭を打つ!
 シャルロ これで頭を打っちゃ、この世からおさらばだ。
 オーギュスト 僕のことを恨んでいるだろうな。
 シャルロ 全然! 君が僕を殺したって、それは君の責任じゃない。(シャルロ、握手のために手を出す。オーギュスト、左手を出す。)何だ、右手ぐらい出したらどうだ?
 オーギュスト(哀れな声で。)君に噛まれたんだ。
 シャルロ ああ、すまなかった。だけどそっちもあんなに強く殴ることはなかったんだ。
 オーギュスト いや、それは、ぶっ殺すためだったからね。
 シャルロ 「ボン」と頭の中で音がしたな。
 オーギュスト(イザベルに。)ほら、言ったろう?「ボン」と音がしたって。
 シャルロ まあ、本当のことを言えば、あの時君を恨んだね。
 イザベル 分るわ。
 シャルロ もう少しで、何も分らずじまいで死ぬところだったよ。
 オーギュスト うん・・・
 シャルロ 特に君だと分った時にはね。「こいつ、馬鹿か! どうして俺の頭なんか殴るんだ」と・・・
 オーギュスト(すまなさそうに。)オリヴィエと間違えたんだ。
 シャルロ(急に反論。)オリヴィエと? 僕と奴とを取り違えた?
 オーギュスト 僕の位置からは、君の頭と服しか見えなかったんだ。
 シャルロ そうか。糞っ! 服ね・・・先日、ここの帰りに、奴の服を階段のところで見たんだ。同じ格好をしてみたくなってね。全く酷い思いつきだったよ。
 イザベルとオーギュスト(同時に。)ああ。(あら。)
 シャルロ 僕の格好を見て、奴がえらく怒鳴り散らした。君に殴られる直前だ。あいつ、酷く気に入らなかったんだ。
 オーギュスト そうか。
 シャルロ 服で間違えるってのは分るよ。だけど僕はあいつより随分小さいぜ。
 オーギュスト 君は坐ってた!
 シャルロ たとえ坐っていてもさ・・・
 オーギュスト(遮って。)寝そべっていたというべきか。
 シャルロ 寝そべる? 酷いね。今の聞いた? イザベル。
(イザベル、どちらにも味方しない。)
 イザベル(オーギュストに。)死ぬ程酔っ払ってたってこと、言わなくっちゃ。
 シャルロ えっ? あの前にもう?
 オーギュスト 前に、最中に、その後でも。
 シャルロ それなら分る。
 オーギュスト おまけに、君は電話のすぐ横にいたからね。あの直前にオリヴィエは電話していたんだ。それであいつ、丁度僕が君を殴っていた時、どこにいたんだ。
 シャルロ 隣の部屋さ。
 オーギュスト 電話の後、そんなに早く?
 シャルロ すぐ呼ばれたんだ。隣の部屋から。何が起ってたかはおおよそ想像はついてたんだが、もうその時は気絶していてね・・・
 イザベル で、あなたをその部屋に連れて行った人は誰?
 シャルロ リュスィアンだ。事務所の走り使い・・・あいつは何もするような男じゃない。何も。
 オーギュスト うん、しないな。
 イザベル(心臓が踊っているが、ぐっと抑えて知らぬふりで。)で、オリヴィエは? オリヴィエは何をしていたの?
 シャルロ いつも通りさ、オリヴィエは。笑いころげていた。
 イザベル 笑い声が聞こえるよう。
 シャルロ だから、分るだろう? 気分がはっきりした時、第一にやったことは、僕が殴られたことを話そうとしたんだ。うまくいかなかったけどね。
 オーギュスト(真面目に。)無理だよ。意味が通じなかった。
 シャルロ あっちはただ、結果しか見ないからね。もし僕があの世行きになってたら・・・君はつまり、万事窮すだ。僕が好むと好まざるとに拘わらずね。だから君にずらかれって電話させたのさ。
 イザベル 後のことはちゃんとする、とも言わなかったわ、あなた。
 シャルロ(説明する。)そう。あれは「僕は死なない。どうしても、ここでは死なない」の意味だったんだ。この通り大丈夫だったろう?
(イザベル、何も言わず、シャルロを強く抱きしめる。)
 オーギュスト 守護神シャルロ!
 シャルロ いろんなことがあっても、やっぱりまだ君を助けるとはな。
 オーギュスト(イザベルに、誠実に。)彼を尊敬するよ、僕は。心から。
 イザベル(シャルロに。)この人の尊敬、本物よ。本物。
 オーギュスト 僕に万一のことがあったら、イザベルは君に任せることになっていたんだ。
 シャルロ ああ、そうだったのか。嬉しいよ、それは。有難う。
 オーギュスト いやいや、礼など・・・
 イザベル(シャルロに。優しく。)私、あなたに何とかして感謝の気持を表したいわ。
 オーギュスト(軽く。)三十七フランじゃ、ちょっと難しいね。
 シャルロ 金の話は止めよう。こんなに色々して貰って・・・
(オーギュスト、シャルロの頭を指さす。)
 シャルロ そんなの関係ないよ!
 イザベル(熱に浮かされたように。)シャルロ、あなた、頭、大丈夫?
 シャルロ 大丈夫だ。もう頭痛など決して起きないって感じだ。
 オーギュスト 僕に礼を言ってくれ。
 イザベル それ、いい考えかもしれない。
 シャルロ どういう意味? それ。
 イザベル これからどこか、いいところへ行くの!
 シャルロ それは名案だ!
 オーギュスト 凄い!
 イザベル(いよいよ熱に浮かされたように。)もうこれで駄目っていうところまで来てたのよ、私達。今夜ぐらい陽気になれる時はないんじゃないかしら。・・・さ、行きましょう。
 オーギュスト 僕はもう、思いっきり陽気になる覚悟だぞ!
 シャルロ(オーギュストに。)こっちは受難の身だぞ。それはちょっと浮かれ過ぎじゃないか?
 オーギュスト 僕の身にもなってくれよ。
 シャルロ 誰かの身替わりは、もうこりごりだな。
(三人、そう言いながら、退場しかける。)
 オーギュスト(急に、苦しみの唸り。)あー・・・
 シャルロ えっ? 何の唸りだ? それは。
 オーギュスト(シャルロに。)ああ、シャルロ、あれはないぜ、あれは!
 シャルロ えっ? 何か僕がしたか?
 オーギュスト そう、してる。あの文鎮の時、君は実に親切だった。
 シャルロ うん。そう思うね。
 オーギュスト 「ボン」の時もそう。その後でもそう。だけど、その前は?
 シャルロ その前?
 オーギュスト ラゴピアンの電話だ。君も聞いてた。そうだろう?
 シャルロ(神妙に。)うん、聞いた。
 オーギュスト すると、オリヴィエが言うのを黙って聞いてたんだな?「おい、ラゴピアン、例の賭(かけ)、いとことのことさ。うまくいったんだ。お前、二万フラン用意するんだな。」
 シャルロ 僕は自分のガレージのことを考えていたんでね。
 イザベル この人、もう充分に痛い目にあってるわ。よしましょう、この話は。
 オーギュスト 「美しい愛・・・十五年も・・・ところがこれで、奴等の愛に終止符を打ったってことよ。」これをあいつに言わせたままにしておいたのか、君は。
 シャルロ それが法螺(ほら)だってことは分っていたからね。それに、その話はイザベルとは関係ないんだし。
 オーギュスト えっ? 関係ない?
 シャルロ 全然。理由もちゃんと僕にはある。
 オーギュスト ヘーエ、そう。
 シャルロ そうさ。あいつが最初に口にした言葉がな、「ああ、シャルロ、いいところへ来たな。君の目の前にいるこの僕を見てくれ。実に運のいい男なんだ。この二週間、僕に煮え湯を飲ませ続けてきた馬鹿な女がいてな・・・」
 イザベル(叫び声。)ああ、シャルロ!
 オーギュスト この二週間?
 シャルロ(まごついて、二人を代わる代わる見ながら続ける。)「二週間、全く夜は外に出ないで、そいつからの電話を待っていたんだ・・・」
 オーギュスト(相手を促(うなが)して。)うん、それで?
 シャルロ うん・・・「今日の昼に、そいつがやって来たんだ。それでな、到頭ものにしたんだ・・・」分るだろう? これで。イザベルでありっこないんだ、だから。
 オーギュスト(陰に籠った声で。)ああ、やってしまったな、君は。
 シャルロ えっ? 何て言った?
 オーギュスト(声を大きくせずに。)ああ、君には死んでいて貰いたかった!
 シャルロ(イザベルに。青ざめて。静かに。)あいつの言う「馬鹿な女」っていうのは、まさか・・・(辛い気持。長い間の後。)ああ、僕が悪かった。しかし僕には思いもつかなかった・・・一秒だって・・・僕は謝る。君がそんな女とは思っていなかったんだ・・・
 イザベル(奇妙な声で。)私も。私がそんな女だとは思っていなかった。
 オーギュスト エーイ、俺もだ! この大馬鹿者!
 イザベル(非常にあっさりと。)私、自殺しようと思った。そうしたらあなた、決して分ることはないから。でも私、あなたともう一度幸せになりたかった。私、自分に言い聞かせた。きっと収まってくれるって。でも、収まらなかったわ。もう決して収まらないわ。
 オーギュスト 収まるもんか!
 イザベル 私に、すぐ出て行って貰いたい?
 オーギュスト(激しく。)出て行く! 出て行く! 何でもかんでも、すぐこの言葉だ!
 シャルロ その方がいいかもしれない。明日になれば、君も少し落着く。
 オーギュスト ああ、君、君は黙っていてくれないか。自分のやったことを考えて見ろ! まあ、こっちのことなどどうでもいいんだ。出て行くなら出て行ったらいいなんて言うんだからな。いいか、行かせはしないぞ。(怒鳴る。)出て行くなど、もっての他だ! こっちが言うなら話は別だ。その方が簡単だしな。人の人生をぶち壊しておいて、「私にすぐ出て行って貰いたい?」何だ、それは!(悲しそうに。)何故君、こんなことをしたんだ。何故なんだ。
 イザベル(絶望的な疲れ。)言い訳はないの。捜しても無駄。きっとないわ。頭がごちゃごちゃになって・・・ないのは分ってるの。だって、あなたを愛するのを止めたこと、ないんですもの。
 オーギュスト ああ、よく言えるな、そんなこと。
 イザベル そう、一回だけあった! 何て悲しいこと! ただ一度だけ。それ以外は決してなかった。でも、その一回はあった、残念なことに。可哀想なあなた。私、丁度一時間だけ、あなたのことを考えるのを忘れたの。・・・一時間だけ・・・。あの人があなたのことを忘れさせたの。十五年間、私、一分だってあなたのことを考えていない時はなかった。でも、その一時間で駄目になったの。
 オーギュスト 君が今言ったことは、最低の中でも最低のことだぞ!
 イザベル(興奮して。)ああ、でも、すぐに罰が下ったわ。安心して。罰・・・それは、私が自分に対して持った嫌悪感、恥、のことじゃないの。もっと酷いこと。・・・あの人は私が欲しかったんじゃない。あなたの鼻を明かしてやりたかっただけ。あなたに自慢して見せたかっただけ・・・ああ、あの後でも、あの人の目付き!(ぞっとして。)今のあなたのその目と同じ。私を見ないで! 見ないで頂戴!
 オーギュスト 君はさっき誓ったぞ。君の命を賭けて・・・
 イザベル だから、分るでしょう?・・・今のこの私の命・・・でも私、あなたの命は・・・(賭けなかったわ。)私が助かるたった一つの道、それは決してあなたに知られないことだった。だってその後、どんなに私、あなたを愛するか、それは分っていたもの。・・・ね? そうでしょう?(イザベル、絶望の仕草。)
 オーギュスト 君は言ったな。覚えているだろう。「少々の困難ぐらい、私達、すぐ乗り越える。二人が不幸になった時、その時どうなるか、それが問題。」今がそれだ。僕らは不幸だ。嬉しくないな、これは。
 イザベル ね? オーギュスト・・・あなた、まだ笑える? 冗談が言える?・・・ああ、私の、この馬鹿な私のせいで、もうあなたが笑えないなんてことになったら・・・
 オーギュスト 笑えるに決ってるだろう? ああ、大笑いだ。僕らの愛・・・何てお笑いだ。特にそっちのは・・・
 シャルロ 黙るんだ! 酷過ぎるぞ、それは。
 オーギュスト(恐ろしい皮肉で。)はっ、それでこの俺ときたら、誰かが女房に触ろうとしたっていうんで、何かやらかしたんだからな。・・・誰かをぶん殴ったんだ!
 シャルロ それを自慢するのか、君は。
 オーギュスト 当の本人じゃなかった、そいつは分ってる。それに、もう一回しろと言われたら・・・いや、もうあんなことは止めだ!
 シャルロ それは有難い。
 オーギュスト 殺そうだなどと・・・馬鹿なことをやったもんだ。・・・馬鹿な・・・しかし、犯罪には違いない。・・・(突然シャルロに。鋭く。)どう思うんだ、君は!
 シャルロ 分らないのか、君には。イザベルはもう耐えられないんだ。弁明するのさえ恥だと思っているんだぞ。
 オーギュスト(嘲笑的に。)そうさな、こっちだって、人を殺して、それが愛している証拠になるというなら、こんな簡単なことはない。
 シャルロ 何て嫌なことを言う奴なんだ、お前は。ほら、イザベルを見てみろ!
 オーギュスト 自分に似合っている女房を持つ、って言うな。自分に似合った恋をする、とも言う。ああ、俺は、それだけの男なんだ。
 イザベル ああ、神様、私の目を見えなくして。オーギュストの目を見えないように! ああ、あの目!
 オーギュスト 女ってのはみんな、イヴの娘だ。イヴ・・・あの浮気女! 好奇心の塊(かたまり)なんだ。どうしても確かめずにはいられない。お前も確かめたんだ。どうだ、いい気持だったか!
 イザベル ああ、耳も聞こえなくして!
 オーギュスト オリヴィエの奴、やっぱり人を引き付ける力はあったんだ!
 イザベル(絶望の極で。)私の馬鹿! 何ていう馬鹿!(呼吸が困難。)出てもいいでしょう? どこでもいいわ。どこでも・・・私はどこでも同じ! 終りなんでしょう? それならお願い!(非常に優しく。)もう侮辱するのは止めて。どうか行かせて!
 オーギュスト エーイ、これが分るためなら、この俺の頭をぶち割ったって構わんぞ! だけど、何を分ろうっていうんだ! 分ることなど何もありはしない。軍隊と同じだ、 イザベル 私・・・頭が痛い・・・行かせて!
 オーギュスト こんなことで悩んでたまるか! お前なんかにそんな価値、あるもんか!
 イザベル そうよ、あなたの言う通り・・・
 シャルロ おい、もうほっといてやらないか。
 イザベル あ・・・頭が・・・頭が・・・痛くて・・・
 シャルロ(オーギュストに。)本当にもう、ほっといてやれ!
 オーギュスト(絶望して。少し自分を抑えて。)ああ、ビケット! 僕は君を愛していたんだ。
 イザベル(希望の叫び声。)オーギュスト、ね、心から私を嫌っているんじゃないでしょう? 今でも少しは愛してくれて・・・
 オーギュスト 何を言ってるんだ。馬鹿だぞ、お前は。それでもまだ希望を持っているのか。
 イザベル(涙をこぼしながら。激しく。)ええ、私には希望しかないの、頼るものは。他に私に、何があるっていうの?
 オーギュスト 分った。希望なんか捨てろ。終りなんだ。
 イザベル もう二人は会わないの?
 オーギュスト 会わない。
 イザベル 決して?
 オーギュスト そうだ。
 イザベル 友達としてでも? ただの友達でも?
 オーギュスト 駄目だ。
 イザベル 今までの十五年、全部反古(ほご)?
 オーギュスト 反古だ。
 イザベル(絞り出すような声。)ああ・・・ソフィーの言ってた通り・・・でも、あんまりだわ・・・
 オーギュスト(強情に。怒って。)反古だ、全部!
 シャルロ(オーギュストに。)おい、お前、黙れ! 黙るんだ!
 イザベル そうだったわ。五千回も奇跡! あれで終り。神様は疲れたの。
 オーギュスト そうだ。
 イザベル(ゆっくりと。少しの間の後。)分ったわ。私、もう終。もういい。私、行く・・・さようなら、オーギュスト。私のこと、すっかり愛さなくなった時、二人で暮したよい時のことを思い出して。(ふらふらしながら、扉の方へ二、三歩進む。)シャルロ、あなた、助けて下さるわね? 私、あなたには意地悪してないもの。
 シャルロ(動顛して。両腕でイザベルを抱きかかえて。)イザベル!
 イザベル 私に会いに来て下さるわね? 私を捨ててしまわないわね?
 シャルロ 僕の馬鹿な言葉でこうなったんだ!
 イザベル いいえ、あなたは何もしなかった。私のことを信じて下さっていたんだもの。残念なことに。オーギュストだって。ラゴピアンだって・・・だってあの人、私を信じたから賭けたんですもの。私、あの人に謝らなくちゃ・・・
 オーギュスト(つい、相手に関わって。)ああ、そんなことは・・・
 イザベル オリヴィエ・・・死んでしまって・・・本当によかった・・・
 シャルロ 何だって?
 イザベル 警察沙汰になる・・・それは分ってる・・・でも私、ちゃんと言うことは決ってる・・・
 シャルロ 何のことだ? これは。
(オーギュスト、心配になる。)
 イザベル 可哀想なオリヴィエ! 文鎮は曲っちゃったのよ。あの人、罰を受けるのは当然。でも、苦しむまでしなくてもいいの。苦しませるなんて、やり過ぎ。
 オーギュスト 何だ? これは。
 イザベル あいつ、汚い奴。私だってあんな奴、問題にしてはいなかった。でも私、泣いた。もう、沢山涙を流した。あれがよかったんだわ・・・
(オーギュストとシャルロ、イザベルを取り囲む。)
 オーギュスト どうしたんだ、これは。何を喋ってるんだ。
 シャルロ 手が冷たい。氷のようだ。
 オーギュスト こんなことが・・・
 イザベル 私、心配なのは、お昼に何を出したらいいかってこと。今うちにはじゃがいももないのよ。
 シャルロ そら見ろ! やっと分ったか!
 イザベル 磁器ね、それが磁器の缺點・・・
 オーギュスト ご免、ビケット。ご免!
 イザベル 女だってこと、そう簡単じゃないのよ。
 シャルロ 寝かせよう。
 イザベル 私、行かなくちゃ。出て行けってあの人、言ってるもの。
 オーギュスト 違う、イザベル。僕が悪かった。
 イザベル(もがいて。)私、行くの!
 オーギュスト(絶望的に。)あー、僕が何も言わないで放っておいた方がよかった? ねえ、君が僕だったら、何も言わなかった?
 シャルロ 僕が抑えとく。水を汲んで来て。
 イザベル 女性を無理矢理抑えつけるものじゃないの。分るわね?
 オーギュスト(シャルロの言葉に従って、水を取りに行きながら。)なあシャルロ、僕の言葉、そんなに強くはなかったろう? そんなに意地悪じゃなかった。そうだろう?
 イザベル(シャルロに。きつく。)女性を抑えつけるものじゃないのよ!
 オーギュスト(コップを持って戻って来て。)なあ、そんなに意地悪じゃなかった。そうだろう?
 シャルロ うるさいな。そんな事、僕にはどうでもいいんだ。止めてくれ!
 イザベル(コップをひっくり返して。)私、喉なんか乾いてないの。いつでも喉が乾いているのは、あの女よ! 可哀想に、あの女、気違い!
 オーギュスト ね、分らない? 僕が。オーギュストなんだよ。ね?
 イザベル 父がいけない人だったの。父のせい・・・私。私、父に似てるの。
 シャルロ 行きつけの医者は?
 オーギュスト(困って。)医者ね・・・医者は・・・
 シャルロ ヴァレイ先生はどう? あれはいい医者だよ。・・・(電話に進む。)
 イザベル(神経質に。)ああ、ママ。私、ママのような人になりたかったの。でも駄目だった。覚えてるでしょう? あのモーティマーの時・・・
 シャルロ(電話に。)もしもし・・・ヴァレイ先生のお宅ですか?
 イザベル あの時は私、ちゃんとしてたの。あの時はお利口だった・・・
 シャルロ(イザベルの台詞と同時に。)ああ、外で食事?
 オーギュスト(怒って。)外で食事だって?
 イザベル(前の台詞に続けて。)でもいつもお利口ではいられないものね・・・
 シャルロ(電話に。)でも、伝言は出来るでしょう?
 イザベル ママは言ったわね、「パパのようになっちゃ駄目よ」って・・・
 シャルロ(イザベルと同時に。)すぐ来て下さいって・・・
 イザベル ああ、私、パパと同じになっちゃった・・・
 シャルロ(イザベルと同時に。)アブロヴワール街、十四ン、タイアッド家。急患です。
 オーギュスト(必死の声。)急患だ!
 シャルロ 三十分以内ですね。お願いします。
(シャルロ、受話器を置く。)
 イザベル 私達の不幸・・・いいものじゃなかったわ。
 オーギュスト イザベル、ね、お願いだ。これ以上の不幸は勘弁してくれ。
 イザベル ああ、不幸もいいの・・・不幸も・・・
 オーギュスト ああ、僕の愛し方がいけなかった、イザベル。獣(けだもの)のような愛し方だった。君を傷つけちゃったね。今分ったよ。これからはしない、あんなこと・・・
 シャルロ 喋るんだ、オーギュスト。聞こえるようになるかもしれない。
 オーギュスト 許す。忘れる。もうみんな、以前と同じだ・・・
 シャルロ 当り前だ。
 オーギュスト ああ、僕のこと、分って! お願いだ!
 イザベル 私、疲れた・・・
 シャルロ 空気を変えなきゃ・・・
 オーギュスト もうイザベルには何も言わない。僕は誓う・・・誓う・・・
 イザベル ああ、私、通りを自由に歩けたのに・・・
(イザベル、何も見えない目で、じっと前方を見詰めている。一時期の神経過敏の揺り返しが来る。今はただじっとしている。)
 オーギュスト 分ってくれ。今許すって言ったのは、ただ僕が、怖くなったからじゃない。心の底からだ。それは誓う・・・それから、この僕の誓いは、君の誓いとは違うんだ・・・
 シャルロ また始まった!
 オーギュスト それは違う!
 シャルロ(イザベルを覗きこんで。)どうも気に入らないな、この目付き・・・それにこの、何も言わなくなったのが・・・
 オーギュスト(絶望的に。)ああ!・・・
 シャルロ 医者を待っている間、何かしなきゃいけないな。
 オーギュスト と言って、何をしたらいい・・・
 シャルロ 分らない。揺するか?
 オーギュスト 揺する? どうかしてるぞ、君。
 シャルロ 揺すると良いって、誰か言ってたような気がする。
 オーギュスト 君がそう言うなら・・・しかし僕は止めとく。僕は怖い。
 シャルロ じゃ、僕がやる。
 オーギュスト ゆっくり・・・痛くするんじゃないぞ。
 シャルロ ここに悪い奴がいたとしたら、それは僕じゃない。それから、文鎮を振り回して誰かさんを殴った奴でもない。あいつはいいことをしていると信じてやったんだ。悪い奴ってのはな、もう希望も何もなくなっている女性に追い打ちをかけるような酷いことを言った奴のことだ。
 オーギュスト あの時の僕を哀れな男と思ってくれないのか?
 シャルロ あの時のイザベルを君は見なかったのか。・・・可哀想に、自分のことを嫌って、嫌って・・・すっかり自分に嫌気がさしていたんだ。いいか、よく聞くんだ。君は勝手に好きなようにしたらいい。僕はイザベルに酷いことをしたしまった。何ていう馬鹿なんだ、この僕は!(自分を嘲るように。)やれやれ、それで自分をたいした奴だと思っていたんだからな。
 オーギュスト いや、たいした奴だよ、やっぱり。
 シャルロ (揺するの、)やってみる? このまま放っておくのはまづい。
(シャルロ、オーギュストに手伝わせ、イザベルを持ち上げ、非常に用心しながら揺する。それから、イザベルの言葉が支離滅裂になるにつれて、だんだん強く。)
 イザベル そこで何してるの? モーティマー。いい? 私、オーギュストと出て行くのよ。
 オーギュスト 聞こえた? 今の。
 イザベル 分る? あの人、官能的なの。音楽だけじゃないの。
 シャルロ イザベル!
 イザベル モーティマー! あなたの脅し、怖いわ。そんなに怖い人、あなた以外にはたった一人しかいない。でもその人、罰を受けたの。
 オーギュスト ああ、イザベル・・・イザベル・・・
 イザベル あら、それ、親切・・・あなた、どんな女性を見てもすぐその人の目の中に私の目を捜すのね? 有難う。
 オーギュスト ご免よ、ビケット。ご免!(シャルロに。)ああシャルロ、僕を許してくれ。イザベルは正気じゃない。イザベルに許して貰う訳に行かないんだ。僕は誰かに許されたい、誰かに!
 イザベル カンパーニュ・プロミエール通りで、私、何を見つけたでしょうね?
 シャルロ この通りに医者はないかな・・・ヴァレイ先生が来るまで(そこにあたった方が・・・)
 オーギュスト あるある・・・あー・・・ソール街だ。・・・番地は分らない。グランジャン先生・・・
 イザベル カンパーニュ・プロミエール通りで私・・・
 オーギュスト 急いで・・・頼む。
 シャルロ(オーギュストに。)全く嫌な奴だ、お前は。だけど、哀れをもよおすよ・・・可哀想になってくる・・・
(シャルロ退場。勿論、玄関の扉は開けたままにして。)
 イザベル カンパーニュ・プロミエール通りって、私、見つけられなかったの。広告に載っているだけの通りかもしれない。だって、訊いたって誰も知らないんだから・・・
 オーギュスト(誠実に。)ねえイザベル、僕らは不幸に生れついているんじゃない。必ずここから抜け出せるんだ。だから頼む、僕を助けてくれ!
 イザベル ああ、私、あんなに幸せだったからいけないの。これからの人生長いわ。オーギュストのいない私の人生・・・
 オーギュスト 僕はいるんだよ!
 イザベル あの人なしで老いてゆくの。あの人の笑い声を聞かずに・・・
 オーギュスト 僕は笑うよ!
 イザベル どうしてあんなことが出来たのかしら。
 オーギュスト そんなの忘れるんだ! さあ、僕を見て。その虚(うつ)ろな目じゃなくて。ほら、僕のことを分れ!
 イザベル(急に。)あの人、私の着物を引きちぎったんだったかしら・・・忘れてしまったわ。
 オーギュスト 僕のことが分らないなんて、そんなのある? こんなに優しく話しかける人間なんて、他にはいないじゃないか!
 イザベル(嘲笑うように。)自分の名誉を守る夫、それは神聖なの! 必ず無罪になるの!
 オーギュスト 僕らはここにいる。お互いに愛しあっている。それなのに君を取り戻せないなんて!(イザベル、叫び声をあげる。)ああ、愛だ。愛が一番大切だって言うのに、ガタガタ文句を言ったり、大見得を切ったり・・・ねえ、イザベル、一番愛しているのは、この僕だよ。君がどんな罪を犯したって・・・ねえ・・・ああ、どうなるんだ、イザベルは・・・
 イザベル 痛い!(叫び声を上げる。)ああ、急に・・・痛い・・・
 オーギュスト イザベル!
 イザベル ああ、止んだ!(パタッと、荷物のように倒れる。)
 オーギュスト 死んじゃう! 僕を許さないで死んじゃうぞ! それは駄目だ! あっ、まだ息はある! まだ大丈夫かもしれない。ああ、何かいい考えが・・・何かいい方法が・・・リュリュ! リュリュに助けを借りよう。リュリュだったら・・・(窓のところへ行く。)リュリュ! リュリュ!
 声 家族で映画に行ったわよ!
 オーギュスト 映画? 本当か!
 第二の声 おーい、うるさいぞ。
 第三の声 何だその大声は!
 オーギュスト イザベルなしで、僕はどうしたらいいんだ!
 イザベル 結婚記念日は木曜日。でももう、結婚記念日なんてないのね。
 オーギュスト あ、これは少しまともだぞ。よし、いつも聞きつけている何かを聞かせるんだ。何かないか・・・そうだ。(イザベルの目の前に行き、酷いロシア訛りで話す。)もしもし・・・オーギュスト・タイアッド? 知りませんね。こちら、ポリャーコフ・・・フョードル・パーヴロヴィッチ・ポリャーコフ・・・ダー・ダーダー・・・ニチェヴォー・・・知りません。
(間。)
 イザベル(微かな笑い。)・・・馬鹿ね・・・
 オーギュスト(希望が湧いて来る。)ああ、うまく行ったぞ。この調子だ・・・この線で何かないか・・・(思いつく。)そうだ!
(オーギュスト、台所に入る。)
 イザベル(苦しそうに。)どうしたの? 私・・・私、どうしたの?
(オーギュスト、台所から戻る。手にトランペットを持っている。ピカピカに磨かれたトランペット。)
 オーギュスト(声に涙が籠っている。しかし、無理に陽気にして。)な、ビケット、聞くんだ。オマール行進曲だ・・・一・・・二・・・
(オーギュスト、オマール行進曲を吹く。)
(雷のようなトランペットの音。少し続いた後、建物のあちこちから声。)
 第一の声 冗談じゃないぜ。こんな時間にトランペットとはな!
 第二の声 とっつかまった奴だっているぞ!
 イザベル 冗談をやってる時間じゃないわ。
 オーギュスト(窓から。)馬鹿野郎!
 第三の声(想像力のない男。)馬鹿野郎はそっちだ!
 オーギュスト アホばかり揃っていやがる!
(オーギュスト、窓を閉める。)
 イザベル あの人達の言う通りよ、あなた。ここの管理人と揉(も)め事になるわ。
 オーギュスト 何だって?
 イザベル ここの管理人、うるさいんだから。
 オーギュスト 凄い、こいつは。管理人がうるさいだって?
 イザベル 当り前でしょう?
 オーギュスト ああ・・・イザベル、イザベル。・・・よかった・・・怖かったよ、僕は。
 イザベル どうしたの? 私、どうかした?
 オーギュスト 目を閉じて・・・何も考えないで・・・
 イザベル オーギュスト・・・ね?
 オーギュスト 僕が分る?・・・分るんだね?
 イザベル ええ・・・分る。
 オーギュスト そうか。分ったんだね? 僕はもう、意地悪じゃないよ。
 イザベル 私、病気だったから?
 オーギュスト 違うよ、僕の大事なイザベル。病気だったからじゃない。終ったからだ。
 イザベル 「僕の大事な」って、今言った?
 オーギュスト そう。大事な・・・大事な・・・
 イザベル それ、本気?
 オーギュスト 当り前だよ。
 イザベル ああ、私・・・本当にご免なさい。
(イザベル、立上がろうとする、が、倒れる。)
 オーギュスト さあ、横になって・・・
 イザベル 話は? しないの?
 オーギュスト 君が倒れていた間に、僕は決心したんだ。もうあの話はしないって。
 イザベル(悲しそうに。)出来ないわ、あなた、それは。
 オーギュスト 誓ったんだ。さ、ねえ・・・
 イザベル 私にもう会わないのね?
 オーギュスト 何だって?
 イザベル でもお願い。すぐには追い出さないで。もう少しだけでいいから、いさせて。少しの間。・・・じっと・・・二人で・・・不幸を・・・(耐えるの。)
 オーギュスト ああ、そいつは駄目だ!
 イザベル(驚く。)駄目?
 オーギュスト 一瞬でも駄目だ、不幸は! 僕は疲れた! 不幸に。
 イザベル オーギュスト!
 オーギュスト お芝居でやっている愛っていうのがある。・・・それは死んでないんだ! 僕らのがそれなんだ! さあ、横になって・・・僕には分ってる。僕が今君を愛しているのが・・・(オーギュスト、強く主張。)そう、今! そしてそれはいつまでも続くんだ!
 イザベル あなた、苦しまない? どこかに隠れて苦しんだりしない?
 オーギュスト 苦しむ? 馬鹿だよ、君は。他人の口を考えてるんだね? 冗談じゃない、他人なんか! これは僕ら二人だけのことだ。そして二人の間ではもう解決ずみなんだ。
 イザベル(少し呆然として。)解決ずみ・・・
 オーギュスト(本気で言っているのかどうか判断するのは難しい言い方で。)もう僕は苦しくなんかない。自分によく言って聞かせたんだ。それは約束する。僕は酷いエゴイストでね。
 イザベル それであなた、私を許すの?
 オーギュスト(少し荘重に。)今、そして永遠に、君を許す、イザベル。
 イザベル(当惑して。)許して下さるの・・・こんな風に・・・
 オーギュスト そう、こんな風に。だけど、君を失いそうになったから許すんじゃない。怖くなったから許すんじゃない。この許し方は、嫌じゃないね? 信用出来るんだ、これは。
 イザベル(悲しそうに。)ね、オーギュスト・・・私、許して下されば、それだけで・・・理由なんてどうでもいいの。
 オーギュスト 君が倒れてしまったので、長い時間をかけずにすんだんだ。僕は君が倒れてすぐ分った。そう、分ってしまったんだ。僕はもう一度幸せになる権利があるんだ。
 イザベル(微かな、悲しそうな動作。)幸せ・・・
 オーギュスト 駄目だよ、それじゃ。君にはいじける権利はないよ。
 イザベル 私・・・いじけないって・・・難しい・・・
 オーギュスト 簡単なんだ。僕は許す以上のことをやる。忘れるんだ。・・・分るね?
 イザベル(非常な感謝の気持。)忘れる?
 オーギュスト 忘れるって分ってなきゃ、許すなんて言えっこないよ。本当だ! 僕には分っている。確実に、いつかそうなる・・・オリヴィエに出逢っても、あいつの顔をぶん殴らなくてもすむ日が来る!
 イザベル(ショックを受けて。)ああ!
 オーギュスト だから、そのすまなそうな顔は止めてくれ!(意地悪そうに、ついさっきしたように。)僕を助けるんだ! 君もあいつを忘れるんだ!
 イザベル ええ・・・忘れる・・・勿論。・・・でも、あのぞっとする気持・・・恥・・・
 オーギュスト そのぞっとする気持を忘れるんだ!
 イザベル ええ、やってみる。
 オーギュスト 恥を忘れるんだ!
 イザベル それは、私達二人、得意だわ、悲しいことに。
 オーギュスト 僕より君の方が得意にならなきゃ。
 イザベル じゃ、私が愛してるの、分ってるのね?
 オーギュスト 分ってるさ。
 イザベル でも、私にそのこと、訊かなかったわ。
 オーギュスト 明日だ。僕が君を驚かしたからってなるのは嫌だからね。
 イザベル 分ったわ。感謝もなし。尊敬もなし。ただ愛するだけ・・・ね?
 オーギュスト そう、その通り。
 イザベル 私がまたやるんじゃないかって、心配してない?
 オーギュスト してない。君は大丈夫だ。女は女だけど、君は男でもあるんだ!
 イザベル(心をうたれて。)有難う・・・。強い人・・・あなたは。
 オーギュスト うん、僕は自分の欲しい物はちゃんと分ってる。さあ、もう寝た方がいい。(寝室を指さす。)
 イザベル キスしてくれないの?
 オーギュスト 後で。頭を休めて。僕は何か食べる物を作る。
 イザベル じゃ、そうして。・・・あなたの方がよく分ってる。
 オーギュスト 酷く腹が減ったぞ。ということは、これで全部元通りになったということだな。
 イザベル(寝室の方へ行きながら。)私もお腹すいた。
 オーギュスト(イザベルに。大きな声で。)僕の失策だったな。連中を昼飯に呼びさえしなければよかったんだ。
(オーギュスト、台所に入る。)
(オリヴィエとソフィー、登場。一幕の時と同様。ソフィーは少し前より陽気。)
 オリヴィエ こんなところへ連れて来て、一体どういうつもりだ。
 ソフィー いい考えよ。とにかくあの人達を安心させなくちゃ。あなたが死んでないって。
 オリヴィエ 死んでなくて残念だよ、全く。
 オーギュストの声 とにかく・・・人間のカスだ、あいつは!
 オリヴィエ 何だ、知ってるんじゃないか。
 ソフィー そうね。あの口ぶりじゃ。
 オーギュストの声(大声で。)なあイザベル、君もそう思うね? あいつ、カスだって。
 オリヴィエ まただぞ。
 イザベルの声 ほんと! ほんと以上にほんと!
 オリヴィエ(ソフィーに。)こんなの聞くことはないだろう?
 ソフィー(微笑んで。)どうして? 教育的だわ!
 オーギュストの声 少しだけ慰めになるのは、あいつを殺さなかったことだね。
 オリヴィエ 少しだけか・・・(参ったね。)
 オーギュストの声 死んでたら、ソフィーは喜んだろうがね。
 ソフィー その喜びはなかったわ、残念なことに。
 オリヴィエ 恩知らずめ!
 イザベルの声 あなた、あの人のことはもう喋らないって言ってたでしょう?
 オーギュストの声(怒って。)喋らない? そうか、君は僕にあいつのことをそっとしておいて貰いたいんだな? あの虫けらを扱う時には手袋をしろと言うんだな?
 オリヴィエ 虫けらか。えらい扱いだな。
 オーギュストの声 それにしても何て力だ。あの悪運の強さ!
 ソフィー(オリヴィエを見て。)そう、悪運の強さ。
 オリヴィエ 僕は知らないね。
 イザベルの声 あなた、やっぱりあの人のことを話さなきゃいられないわ。
 オーギュストの声 これが最後だ。あの夫婦は存在しないんだ。抹消だ!
 オリヴィエ おやおや、偏執狂だね、こりゃ。
 オーギュストの声 それから、明日の朝一番で僕がやること、それは、あの花を全部ごみに捨ててしまうことだ。
 イザベルの声 そうね、それがいいわ。
 ソフィー もったいない。
 オーギュストの声 果物は各階に配ろう。
 イザベル ええ。
 オリヴィエ あーあ、ビルマのパイナップルだったのに。
 オーギュストの声 その他の贈物は全部送り返すんだ。
 オリヴィエ 置き場所はあるぞ。
 ソフィー もう?
 オーギュストの声 ざまを見ろ。僕らには何も出来ないと分った時のあいつの顔。見てやりたいよ。
(オリヴィエ、何か言い返そうと動作を起す。)
 ソフィー(今までに見たことのない威厳を見せて。)お止めなさい! もう行きましょう。私達、あの二人をもう充分いじめたわ。十五年間はもう、放っておくの!
 オリヴィエ そうか。しばしの別れだ。じゃ!
(二人、退場。)
 オーギュストの声 イザベル?
 イザベル(登場して。)オーギュスト?
 オーギュスト(こちらも登場して。)お母さんには何も話さないね?
 イザベル 話さないわ。決して!
 オーギュスト うん、可哀想だものね。
 イザベル 私、あなたのこと、大好き!
                        (幕)


   平成十七年(二00五年)十一月十五日 訳了



La Piece a ete creee a Paris, au Theatre de la Michodiere, le 18 decembre 1951.

Distribusion
Isabelle Yvonne Printemps.
Sophie Melina Mercouiri.
Lulu Francette Vernillat.
Auguste Pierre Fresnay.
Olivier Renaud-Mary.
Charlot Pierre Mondy.

Decors de M. Wakhevitch