モリエール
           ミハイール・ブルガーコフ 作
             能 美 武 功 訳
             城 田  俊  監修
      
      彼の栄光のために欠けているものは何もなかった。
      我々の方にだ。欠けていたのは。

   登場人物
 ジャン・バプティスト・ポクラン・ドゥ・モリエール 有名な劇作家、かつ役者。
 マドレーヌ・ベジャール 女優。
 アルマーンド・ベジャール・ドゥ・モリエール 女優。
 マリエット・リヴァール 女優。
 シャルル・ヴァールレ・ドゥ・ラグラーンジュ 役者、渾名「三文文士」。
 ザハーリヤ・ムワロン 有名な役者、恋愛劇が得意。
 フィリベール・デュ・クルワズィ 役者。
 ジャン・ジャック・ブトン 蝋燭消し。モリエールの召使。
 ルイ十四世(大王) フランスの王。 
 ドルスィニー侯爵 決闘屋。渾名「片目」。
 ドゥ・シャロン侯爵 パリ市の大主教。
 ドゥ・ルサック侯爵 博打打ち。
 正直者の靴屋 王の道化。
 シャルラタン(いかさま師) ハープシコードを持つ男
 仮面の女
 修道士 バーソロミュー 放浪の伝道者。
 修道士 スィーラ 神聖同盟のメンバー。
 修道士 ヴェールノスチ 神聖同盟のメンバー。
 レネ 老いぼれたモリエールの乳母。
 プロンプター
 修道士達
 神聖同盟のメンバー達 マスクを被りマントを着ている。
 宮廷人達
 銃士達
 その他

(ルイ十四世の時代。パリ。)

     第 一 幕
(幕の後ろで、千人の観客のどっと笑う声。幕が上るとそこはパレ・ロワイヤル劇場。重い緞帳。紋章と飾りのついた緑色の看板。そこには "Les Comediens de Monsieur ・・・" と大書してあり、「・・・座」の部分は小さい字。鏡一枚。肘掛け椅子(複数)。衣装(複数)。左右に楽屋。それを仕切っているカーテンの傍に非常に大きなハープシコード。第二の楽屋には、大きな十字架。その前に灯明が灯っている。第一の楽屋には、左手に扉あり。沢山の蝋燭。(この部屋では蝋燭をけちらない様子。)第二の楽屋には色硝子で覆いの張られたカンテラが一つあるのみ。)
(全ての物、全ての人物(ラグラーンジュを除いて)に緊張と心配の表情が漂っている。)
(第二の楽屋に現在行われている芝居の登場人物になっていないラグラーンジュ一人。物思いに耽っている。黒いマントを羽織っている。若く、美男で、尊大な様子。カンテラが彼の顔に謎めいた光を投げ掛けている。)
(第一の楽屋には後ろ姿のブトン。背中を観客に向けて、幕の隙間から(モリエールの)舞台を覗きこんでいる。その背中からだけでも観客には彼の舞台への非常な好奇心が察せられる。もう一人、シャルラタン。彼の顔は扉と扉の間に突き出されている。耳を手にあてて舞台の様子を窺っている。)
(舞台から笑い声、次に最後の笑い声が響く。ブトン、どこかの紐を引っ張る。隙間が塞がれ、音が消える。ちょっとの間の後、幕の隙間からモリエール登場。段を走り下りて第一の楽屋に入って来る。シャルラタン、恭しくその場を外す。)
(モリエールの頭は大袈裟な鬘(かつら)、それに滑稽な兜。手には幅広の両刃の長剣。スガナレッルの扮装。鼻は藤色で、その先にイボがついている。道化の姿。左手でモリエール、胸を抑える。心臓の調子がよくない様子。メイキャップが顔から流れて少し崩れている。)
 モリエール(兜を脱ぎ捨てて、喘ぎながら。)水!
 ブトン ただ今。(コップを渡す。)
 モリエール フー!(飲む。目を大きく開け、心配そうに拍手の音を聞く。)
(扉が開き、ポルシネルの扮装をしたデュ・クルワズィ、走って登場。驚愕の目。)
 デュ・クルワズィ 王様が拍手をしておられます!(退場。)
 プロンプター(幕の隙間から。)王様が拍手をしておられます!
 モリエール(ブトンに。)タオルをくれ!(額を拭く。心配そうな表情。)
 マドレーヌ(幕の隙間から扮装の姿で顔を出して。)早く! 王様が拍手をしているわ!
 モリエール(失敗は許されぬと、ひどく緊張。)分っている。分っている。すぐ行く。(幕のところで十字を切る。)聖母マリア様! どうか!(ブトンに。)全部上げろ、幕を!
(訳注 以下のト書きは舞台を見ていない訳者にはよく分らない。辛うじて想像出来ることは、これまでに演じられてきた場所は観客から見て右半分の下半分であって、右手の上半分にモリエールが登場する舞台があり、我々観客が見ている舞台の左手が芝居の観客席になっていると思われる。)
(ブトン、まず我々に観客とモリエールの舞台を隔てている幕を上げる。次にモリエールの舞台とモリエールの観客席を隔てている幕を上げる。(訳注 観客から見て左手が開く。我々観客からすると、芝居小屋が横から見えることになる。)モリエールの舞台は現在無人。楽屋の上部にある蝋燭立てに沢山の蝋燭が灯っている。モリエールの観客席は暗くてよく見えない。ただ玉座の黄金の席だけが見える。そこにも人はいない。神秘的な、大勢の人がいるという雰囲気だけが伝わって来る。)
(シャルラタンの顔が一瞬扉のところに現れる。モリエール、モリエールの舞台に登場。我々はその横顔を見ることになる。猫が獲物に忍び寄る時のような足の運びでフットライトに近づき、お辞儀をする。兜の羽根が床に触れる。その登場に見えない観客の一人が拍手を始める。その後、劇場全体が割れるような拍手。そして静寂。)
 モリエール 国王・・・ルイ十四世・・・陛下・・・(最初の言葉を発する時、少し吃る――普通の生活では彼は少し吃りである――しかしすぐその発声は安定する。そしてその瞬間、舞台では彼は一流の役者であることが明らかになる。イントネーションの豊かさ、表情の変化、身のこなしの鮮やかなこと、が分る。彼がニコリとすると、誰もがそれにつられて笑う。)陛下の恭順なる我が一座を代表致しまして私、お礼を申し上げるためにここに上がりました。陛下、本日は我々の芝居に御臨席賜わりました。衷心より感謝申し上げます。・・・えー、そこで・・・あ、これ以上申し上げることは何もございません。
(観客席に軽い笑い声、ちらほら。そして静かになる。)
 モリエール
   おお、詩を司(つかさど)る神ターリアよ、
   毎夜、毎夜、お前の叫びに脅えながら、
   パレ・ロワイヤルの蝋燭の灯(あかり)のもと、
   私はこのスガナレッルの鬘を被るのだ。
   老若男女、位の高低(たかひく)、お客様には誰にもお辞儀。
   しかし、お忘れ召されるな! 入場料の三十スウ。
   そこでわたくし、パリ中の、おなぐさみにと
   お目にかける・・・(間。)出たとこ勝負の手当たり次第!
(観客席に笑い声。)
   ああ、だが今日は、おお、詩の女神、喜劇の神よ。
   今日こそお前は私を助けにはせ参じてくれなければ。
   お前の助けなしにどうして、どうやって、私が、
   この幕間(まくあい)狂言で、笑わせ申すことが出来よう、
   フランスの太陽王、ルイ十四世陛下を!
(観客席、割れるような拍手。)
 ブトン 太陽王! よく思いつくもんだ。
 シャルラタン(嫉妬を含んで。)何時作ったんだろう。
 ブトン(横柄に。)作ってなんか置きませんよ。即興でさあ。
 シャルラタン あれが即興? 無理だ。
 ブトン あんたには無理でしょうな。
 モリエール(急に調子を変えて。)
   王の統治のこの時代に、しがない喜劇役者の
   この私が、演じることの出来ますこの喜び、
   この光栄! 偉大なフランスの王
   (声を上げて。)ルイ(叫ぶ。)十四世!
(空中に帽子を投げる。)
(想像を越えた騒ぎが始まる。「ルイ十四世万歳!」の叫び声。蝋燭の光が瞬く。ブトンとシャルラタン、帽子を振って何か叫んでいるが、その声は聞えない。その騒ぎを切り裂くように、近衛兵のトランペットが鳴り響く。ラグラーンジュは相変わらず身動きもせず、帽子を手に、蝋燭の傍に立っている。拍手喝采が終り、静かになる。)
 ルイ十四世(青い光の中から。)有難う、ムッシュー・モリエール!
 モリエール 陛下にお願い申し上げます。もしお疲れでなければ私共、もう一本幕間(まくあい)狂言をお目にかけとうございますが。
 ルイ十四世の声 おお、有難いぞ、ムッシュー・ドゥ・モリエール!
 モリエール(大きな声で。)幕!
(主幕がおり、観客席が見えなくなる。それと同時に幕の後ろから音楽が鳴り始める。次にブトンが我々(観客)と(モリエールの)舞台を隔てている幕を下ろす。向って右上の部分が隠れる。シャルラタンの姿が見えなくなる。)
 モリエール(楽屋に現れて、呟く。)糞ったれ・・・斬り殺してくれる!
 ブトン 今こそ得意の絶頂でしょう? それなのに、誰を斬り殺したいと?
 モリエール(ブトンの咽を掴み。)貴様だ!
 ブトン(叫び声を上げる。)王様ご覧の芝居の時に・・・私を殺すなんて?
(ラグラーンジュ、その声にちょっと身動きするが、また思い留まり、再びじっとする。マドレーヌとマリエット・リヴァールは着替え中だったが、楽屋に飛び込んで来る。ほとんど裸の姿。女性二人でモリエールのズボンを引張り、ブトンから引き離そうとする。モリエール、二人を蹴る。ついにモリエール、ブトンの上着(カフタン)の袖を引きちぎってブトンから離れる。二人の女性、モリエールをやっとのことで肘かけ椅子に抑え込む。)
 マドレーヌ 気でも狂ったの! お客に聞えるわ。
 モリエール ほっとけ!
 リヴァール(モリエールの口を抑えて。)座長!
(驚いたシャルラタン、扉から中を覗く。)
 ブトン(鏡を見て、袖の取れたカフタンに触る。モリエールに。)何事ですか。
 モリエール このろくでなし! 何故俺はこんな厄介者をわざわざかかえて置くんだ! 四十回も同じ事を演じて、一度だってしくじったことはない。それを王が臨席の時、わざわざシャンデリアごと蝋燭をひっくり返して、床じゅう蝋だらけにするとは!
 ブトン 座長、座長ですよ、あれをひっくり返したのは。ふざけてこう躓(つまづ)く。あの時に刀の先でやっちゃったんです。
 モリエール 嘘をつけ! この・・・
(第二の楽屋で、ラグラーンジュ、両手で頭を抱え、静かに泣く。)
 リヴァール ブトンの言う通りですわ、座長。刀で蝋燭を引っ掛けたんです。
 モリエール 観客は笑うし、王はびっくりするし・・・
 ブトン 王様はフランス中で一番礼儀を心得た人なんです。蝋燭など気付く筈はありません。
 モリエール すると、私が倒したのか? この私が? フム・・・そうすると、この私は何故お前を怒鳴りつけたりしたんだ?
 ブトン 返答には大変困るところでして、座長。
 モリエール どうやら私はその袖を引きちぎったようだな。
(ブトン、痙攣したように笑う。)
 リヴァール まあ! 私、何て恰好!(カフタンを掴んで身体をそれで隠しながら、走って退場。)
 デュ・クルワズィ(カンテラを持って、幕の隙間から顔を出して。)ベジャールさん、出番です。出番、出番・・・(顔を引っ込める。)
 マドレーヌ 今すぐ!(走り退場。)
 モリエール(ブトンに、並んでいる衣装の中から一つの上着を取って。)おい、こいつを着ろ。
 ブトン 有難うございます。(その上着を取って、それから並んでいる衣装のうちから、立派なズボンも取る。明らかにモリエールの着るズボンであることは、そのレース張りから分る。そして、それを素早く履く。)
 モリエール おいおいおい・・・ズボンもか? どうしてだ。
 ブトン 座長! 上着がこの立派なカフタンで、下がこの惨めなズボンですか? 趣味の悪いこと極まりなしですよ。(両手でカフタンと、脱いだばかりのズボンを支えて。)見て下さい、これは恥というものです。(カフタンを着る。)あ、座長、ポケットの中に発見。銀貨二枚・・・たいした金じゃありませんがね。どう処分したものでしょうか。
 モリエール(訳注 たいした金である。見つかって内心狼狽。しかし。)うん、たいした金じゃないな。まあ、一番いいのは美術館に寄付するんだ。この悪党・・・(どうぜブトンが使ってしまうと知っている。)
 ブトン 寄付・・・それが一番です。じゃ、私が。(金をポケットに入れる。)さてと、蝋燭の芯を切りに行かなきゃ。(蝋燭切り用の鋏を手に取る。)
 モリエール おい、王様の方をジロジロ見るんじゃないぞ。いいな。
 ブトン ジロジロ見るなと、わざわざこの私めに? それはお門違いです。これで十分教養はあるんです。なにしろ生まれがフランス人ですからね。
 モリエール 生れはフランス人だろうが、職業はでくの棒だからな、貴様は。
 ブトン 座長の方はさしづめ、職業は偉大な役者、性根はやくざってとこですか。(退場。)
 モリエール 何か俺は悪いことでもしたのかな。あんな口の悪い奴を神様が俺のところによこしたとは。
 シャルラタン 座長! 座長!
 モリエール ああお前か、また。おい、はっきり言うがな、あの手品、悪いがあれは二流品だ。しかし平土間の客には受けるだろう。だから幕間に出させてやる。一週間の契約だ。しかし、どうやって鳴らすんだ? あれは。
 シャルラタン 秘密です、座長。
 モリエール いづれ見つけてやるさ。さ、ハープシコードを弾くんだ。ただ、静かにやるんだぞ。
(シャルラタン、謎めいた笑いを浮べてハープシコードに進む。ハープシコードから少し離れた丸椅子に坐り、空中で鍵盤を叩く。すると離れた場所にあるハープシコードの鍵盤が押され、静かに音楽が流れる。)
 モリエール 糞ったれ!(ハープシコードに駆け寄る。目に見えない糸でもあるのか、捜そうとする。)
(シャルラタン、謎めいた笑い。)
 モリエール よし、分った。そら、手付けだ。どこかに発条(ばね)が仕掛けてあるんだろう。
 シャルラタン このハープシコードは一晩ここに置いておくんですな?
 モリエール 当たり前だ、お前。家に引っ張っては帰れまい。
(シャルラタン、お辞儀。退場。)
 デュ・クルワズィ(カンテラと本を持って、覗く。)座長! 出番です。(隠れる。)
 モリエール うん。(退場。暫くして観客席からどっと笑い声。)
(ラグラーンジュが唯一人でいる方の楽屋(第二の楽屋)の幕が動いて、アルマーンド登場。美人。マドレーヌの容貌によく似ている。十七歳。ラグラーンジュの傍を通り抜けようとする。)
 ラグラーンジュ 止まれ!
 アルマーンド あら、あんたなの、三文文士さん! 鼠みたいに、どうしてこんなところに隠れているの? 私、こんな時間まで王様を見ちゃってた。急がなくちゃ。
 ラグラーンジュ 間に合うさ。まだ舞台に彼がいる。僕のことをどうして「三文文士」なんて呼ぶんだ。僕の嫌いな渾名(あだな)かもしれないじゃないか。
 アルマーンド まあ、どうして? ラグラーンジュ。座のものはみんなあんたのあの「年代記」を尊敬している。だからそう呼んでいるんじゃない。でもいいわ。嫌いだって言うのなら、もうあの名前言うのは止めにするわ。
 ラグラーンジュ 僕は君を待っていたんだ。
 アルマーンド どうして?
 ラグラーンジュ 今日は十七日だ。ほら見てごらん、このノートを。この日に黒い十字架が書いてあるだろう? 僕がつけたんだ。
 アルマーンド 何か悪いことが起ったの? それとも、座の者が誰か死んだの?
 ラグラーンジュ 不吉な悪い夜だ。僕が決めたんだ。ねえ君、結婚は止めるんだ。
 アルマーンド ドゥ・ラグラーンジュさん、私のことに口を出す権利、どこで手にお入れになりましたか?
 ラグラーンジュ 卑怯な言葉だ。頼む、あの人のところへ行くのは止めてくれ!
 アルマーンド あら、あんた、私に惚れてるの?
(幕の後ろで音楽が鈍く響く。)
 ラグラーンジュ いや、惚れちゃいない。
 アルマーンド じゃ、放して。
 ラグラーンジュ いや、放さない。本来、あの人のところへ行くなんて、そんな無茶な話はないんだ。よく自分の胸に手をあてて考えてみるんだ。
 アルマーンド 座の人みんな、頭がどうかしてるのよ、本当に。それがあんたに何の関係があるっていうの?
 ラグラーンジュ 君には言えない。だけど罪なんだ、それは。
 アルマーンド ああ、姉さんとあの人の噂ね。知ってるわ。下らない。そう、それが本当だとしたって、私と何の関係があるの。(ラグラーンジュを押しのけ、行こうとする。)
 ラグラーンジュ 行くんじゃない! 結婚は断るんだ。嫌だ? よし、それなら、殺す!(刀を抜く。)
 アルマーンド 気違い! 人殺し! 私・・・
 ラグラーンジュ 何故わざわざ不幸を求めるんだ。あの人なんか、君は愛しちゃいないじゃないか。君は生娘、あの人は・・・
 アルマーンド いいえ、私は愛しているの。
 ラグラーンジュ 断れ!
 アルマーンド 三文文士さん、駄目よ。私もうあの人と・・・(ラグラーンジュの耳に何か囁く。)
 ラグラーンジュ(刀を納める。)行け。もう引き留めない。
 アルマーンド(行きながら。)乱暴者! 私をあんなに怖がらせて。あんたなんか、大嫌い!
 ラグラーンジュ(心配そうに。)許してくれ、アルマーンド。僕は・・・僕はただ、君を救いたかったんだ。(マントの中にしっかり身をくるんで、カンテラを取り上げ、退場。)
 アルマーンド(モリエールの楽屋に向って。)ねえ、酷いのよ、目茶苦茶なのよ・・・
 モリエール(登場して。)ああ・・・
 アルマーンド モリエール、私怖い! みんなが刀を持って私を脅すの!
 モリエール(アルマーンドを抱きしめる。と、丁度その時ブトンが現れる。)あ、糞っ!(ブトンに。)おい、土間の蝋燭を見てくるんだ。
 ブトン 今丁度行って来たところで。
 モリエール よし、それなら戸棚へ行ってデカンタにワインを入れて来い。
 ブトン 今丁度持って来たところで。さ、ここへ。
 モリエール(小さい声で。)よし、それならもういい。どこへでもいい、消えてなくなれ。
 ブトン それならそうと最初から言うもんでさあ。(出て行きながら。)へっへっへ。(扉の所で。)ところで座長、座長の年、おいくつでしたかな。
 モリエール 何だ。どうしたんだ。
 ブトン いえ、騎兵隊の連中に訊かれたもんですからね・・・
 モリエール 馬鹿野郎! あっちへ行け!
(ブトン退場。)
 モリエール(その後、扉に鍵をかけて。)さあ、キスしてくれ。
 アルマーンド(モリエールの首にぶらさがって。)鼻、この鼻、これ、邪魔だわ。
(モリエール、鼻を取る。鬘を脱ぐ。アルマーンドをキスする。)
 アルマーンド(囁く。)ね、ちょっと。ね?・・・(モリエールの耳に口をつけて何か言う。)
 モリエール 可愛い奴・・・(考える。)よし、私はもう怖くはないぞ。私は決めた。(アルマーンドを十字架の所に連れて行く。)誓うんだ、私を愛すると。
 アルマーンド 愛します。愛します。愛します。
 モリエール 私を裏切らないな? お前は。見てみろ、私にはもう皺が出ている。白髪もだ。一歩外に出ると、敵ばかり。それにこの恥・・・この恥で死にたい気持だ・・・
 アルマーンド どうしてそんな!・・・どうして! どうして!
 モリエール いや、私はもう一世紀生きるぞ! お前と二人でだ! そりゃ、その見返りは必ずある。お前を創り変えてやる。この座一番の、いや偉大な女優に育ててやる。これが私の夢だ。そして多分、その通りになる。しかしよく覚えておくんだ、もし今の誓いを守らなかったら、私から全てを奪い去ることになるんだぞ。
 アルマーンド あんたの顔に皺なんか見えないわ、私。あんたって勇気のある人。偉大な人。そんな人に皺なんかある筈ない。あんたは――ジャン・・・
 モリエール バプティスト・・・
 アルマーンド モリエール!(モリエールにキスする。)
 モリエール(笑う。それから威風堂々と。)明日私は、お前と結婚する。勿論これにより色々な厄介事が生じるに違いないが・・・
(遠くで拍手の音。扉にノックの音。)
 モリエール あーあ、これが人生か!
(再びノック。)
 モリエール 今日はマドレーヌの家でお前と会うことは出来ん。だからこうする。小屋の灯(あかり)が全部消えたら、お前は楽屋の出口から来る。そして庭で待っていてくれ。そこで落ち合って、お前をここに連れてくる。今夜は月はない。
(ノックの音、ひどく大きくなる。)
 ブトン(扉の向こうで怒鳴る。)座長・・・座長・・・
(モリエール、扉を開ける。ブトン、ラグラーンジュ、片目、登場。片目は黒銃士の制服姿。片方の目に黒い眼帯を斜めにあてている。)
 片目 ドゥ・モリエールか。
 モリエール 恭しく足下に。
 片目 王から預かって来た。今夜の芝居の見料(けんりょう)だ。――そら、三十スウ。(金をクッションの上に置く。)
(モリエール、その金にキスをする。)
 片目 しかしお前は王のために番外を演じてくれた。また、王のための詩を創作し、それを朗読してくれた。だによって、王よりの追加の支払いがある。・・・これだ。五千ルーブル。(袋を渡す。)
 モリエール おお、何と有難いこと。(ラグラーンジュに。)私に五百ルーブル残して、後は役者達に平等に分けろ。いいか、お前手ずから渡すんだぞ。
 ラグラーンジュ 役者達に成り代わりまして、有難うございます。(袋を受取り、退場。)
(遠くに近衛兵の鳴らす勝利の行進曲。)
 モリエール ちょっと失礼を、銃士殿。王の御退出をお見送り致しますので。(走って退場。)
 片目(アルマーンドに。)お嬢様、お目にかかれるという・・・フッフッフ(笑い声。)このような機会に恵まれるとは・・・拙者、黒銃士隊隊員、ドルスィニー・・・フッフッフ
 アルマーンド(膝を曲げてお辞儀をして。)アルマーンド・ベジャールです。あなた、あの有名な剣術の達人ね? 誰でも必ず殺してしまうという。
 片目 フッフッフ。お嬢さんは、どうやらここの役者さんらしい。そうですな?
 ブトン 早速か。全く気軽におっ始(ぱじ)めたもんだ、こいつ。
 片目(ブトンの穿いているズボンのレースに驚きの目を向けて。)おい貴様、俺に何か言ったか。
 ブトン いいえ、飛んでもない。
 片目 どうやら貴様、独り言を言う癖があるようだな。
 ブトン 全くその通りでございまして。昔は寝ている時にも会話を、ええ、相手と自分を一人で・・・
 片目 で、何を話したんだ。
 ブトン それが実に奇妙な話で、こうです・・・
 片目 ちょっとその話はまたに。失礼。(アルマーンドに。)お嬢さん、あなたのお顔・・・
 ブトン(無理にその間に割って入って。)・・・夢を見ながら、酷い怒鳴り方で。リモージュの医者が八人、私を診てくれましたがね・・・
 片目 で、治ったんだな、多分。
 ブトン それが駄目だったんで。瀉血(しゃけつ)を八回やられて、身体中の血がなくなったんです。私は気を失ってベッドにバタン。一分おきに聖体拝受をやらされる夢を見ましたよ。
 片目(話を切り上げたい。)なかなか変ってますな、あんたは。失礼。(アルマーンドに。)お嬢さん、小生憚りながら・・・あれは一体何者です?
 アルマーンド ああ、あの人、この座の蝋燭消し、ジャン・ジャック・ブトンですわ。
 片目(非難の目をブトンに向けて。)次の機会にはゆっくりお聴きすることにしよう。あんたの、夢で怒鳴る話をな。
(モリエール登場。)
 片目 ではこれで失礼する。王のお伴に参じなければ。
 モリエール ではこれにて。
(片目、退場。)
 アルマーンド では座長、私これで。
 モリエール(アルマーンドを見送って。)月はない。待っているぞ。(ブトンに。)マドレーヌ・ベジャールを呼んで来てくれ。それから灯(あかり)を消したら、家に帰っていいぞ。
(ブトン退場。モリエール、着替えをする。メイキャップを落したマドレーヌ登場。)
 モリエール マドレーヌ、大変重要な話がある。
(マドレーヌ、胸を抑える。)
 モリエール 私は結婚したいんだ。
 マドレーヌ(消え入りそうな声で。)誰と。
 モリエール お前の妹だ。
 マドレーヌ お願い、言って頂戴、「これは冗談だ」って。
 モリエール いや、これは冗談じゃない。
(芝居小屋の灯、次々に消え始める。)
 マドレーヌ それで・・・私は?
 モリエール「私は」もへちまもない。お前と私は強い友情の絆(きずな)で結ばれている。お前は私の、心底気をおく必要のない相棒だ。しかしお前との間に、もう長いこと愛はない。
 マドレーヌ もう忘れた? あなた。二十年前、あなたは監獄にいた。誰が食物を運んだの?
 モリエール 覚えている。お前だ。
 マドレーヌ そしてこの二十年間、あなたの面倒をみたのは誰?
 モリエール お前だ。お前だ。
 マドレーヌ 生涯家の番をしてくれた犬を簡単に追い払うようなことは誰もしないわ。でもあなたにはそれが出来るの。恐ろしい人、あなたは、モリエール。私、あなたが怖い。
 モリエール 私を苦しめてくれるな。情欲だ。情欲が私を捕えたのだ。
 マドレーヌ(突然膝をついて、モリエールに取りすがって。)でも、でもお願い・・・決心を変えて、モリエール。今の話が全くなかったような顔をしましょう。ね? 一緒に家に帰って、あなたは蝋燭をつける。私はあなたの傍に寄って・・・あなたは「タルチュフ」の第三幕を私に読んで聞かせるの。ね?(取り入るように。)私、思う。あれは天才の仕事だわ。それにあなた、誰かと相談したいっていう段になった時、誰に相談するの? あの子はまだ子供・・・あなた、もう若くないわ、ジャン・バプティスト。ほら、ここ、こめかみのところ、白くなっている。・・・あなた、湯たんぽがお好き。私、ちゃんと用意するわ。・・・ね、ほら、蝋燭が明るく灯って、暖炉が燃えて、何もかもゆったりと落ち着いて・・・でも、でももし、あなたがこれで満足出来ないなら・・・そう、私あなたのこと、分っている・・・リヴァールになさい。・・・リヴァール、いいじゃない? あの身体!・・・ね? あの子なら私、何も言わないわ。
 モリエール おいおい、何てことをお前は考えるんだ。まるで女衒の役だぞ、お前のその役は。(疲れて、額の汗を拭う。)
 マドレーヌ(立ち上って、逆上して。)誰でもいいの。だけどアルマーンドは駄目! ああ、私ったら、どうしてあの子をパリに連れて来たの。なんて馬鹿な、なんて馬鹿な私!
 モリエール 落ち着くんだ、マドレーヌ。お願いだ、落ち着いて。(囁き声で。)私はもうあれと結婚しなきゃならんのだ・・・今から変えることは出来ん。これは決まったことなんだ。分るな?
 マドレーヌ ああ、そういうことなのね。何てこと。ああ、何て。(間。)もう抗(あらが)わない、私。その力もないわ。自由にして上げるわ。(間。)モリエール、私、あなたが可哀想。
 モリエール 友達の関係も切ろうとしているんじゃないだろうな?
 マドレーヌ 近寄らないで! お願い。(間。)私、ここを辞める。
 モリエール 仕返しのつもりか。
 マドレーヌ いいえ、それは違う。本当に。今日のが私の最後の舞台。私、疲れた・・・(微笑む。)私、教会に行く。
 モリエール 決心は堅いようだな。長いこと働いてくれた。座から年金を出す。
 マドレーヌ ええ・・・
 モリエール 気持が収まったら、私への感情も元に戻るね? きっと。私に会いに来てくれるね?
 マドレーヌ いいえ、決して。
 モリエール あの子にはお前、会わないのか?
 マドレーヌ あの子には会います。ここでの話は決してあの子には聞かせてはいけない。分るわね? 決してよ。
 モリエール うん・・・
(灯が全部消える。)
 モリエール(カンテラに火をつけて。)もう遅い。行こう。家まで送って行く。
 マドレーヌ いいえ、どうぞ御無用に。ちょっとここに残っていたいの。いいでしょう?
 モリエール しかし、お前・・・
 マドレーヌ 暫くいるだけ。すぐに出ます。心配しないで。行って。
 モリエール(マントを羽織って。)じゃ、私は行く。(退場。)
(マドレーヌ、燈明の傍に坐る。何か呟く。幕の隙間からカンテラが現れ、それからラグラーンジュ、登場。)
 ラグラーンジュ(詰問する声で。)誰だ、芝居のはねた後、まだ小屋に残っている奴は。そこにいるのは誰だ。ああ、ベジャールさん、あなたでしたか。じゃ、やっぱり? 心配していた通りのことが?
 マドレーヌ ええ、そのようだわ、三文文士さん。
(間。)
 ラグラーンジュ それで、あの人に思い切って言うことは出来なかったんですね? 本当のことを。
 マドレーヌ 遅かったわ。今ではもう遅かったの。私一人が不幸でいるのが一番いいの。三人で不幸になることはないわ。(間。)あなたは中世の騎士よ、ラグラーンジュ。だからあなたにだけはこの秘密を知って貰ったの。
 ラグラーンジュ ベジャールさん、信用して戴いて、私は誇りに思っております。アルマーンドさんに思い留まるよう、やってみたのですが、駄目でした。このことはもう誰にも知られないようにしなければいけません。さ、行きましょう。お送りします。
 マドレーヌ 有難う。でもいいの。私一人で考えたいの。(立ち上る。微笑んで。)ラグラーンジュ、私、今日で役者は終り。さようなら。(歩き始める。)
 ラグラーンジュ でもやはり、お送りしましょう。
 マドレーヌ いいの、本当に。見回りを続けて。(退場。)
 ラグラーンジュ(最初坐っていた場所に戻る。机の上にカンテラを置く。ラグラーンジュの顔、緑色の光に照らされる。分厚いノートを開ける。喋りながら書く。)「二月十七日、陛下御観覧。名誉の印に百合の花をここに描く。芝居のはねた後、マドレーヌ・ベジャールに会う。非常に苦しんでいる様子。今日で芝居は辞めると。・・・」(ペンを置く。)理由? 一座には大事件が起っているのだ。ジャン・バプティスト・ポクラン・ドゥ・モリエールは、アルマーンドがマドレーヌ・ベジャールの娘であることを知らず、彼女の妹であると思い、彼女と結婚する。・・・これを書きとめることは出来ない。しかし、事の悲惨さを表す印として、ここに黒い十字架を描くことにする。子々孫々に到るまで、この印の意味が見破られないことを願う。十七日・・・終。(カンテラを取り上げ、黒騎士のように退場。)
(暫く間。舞台は暗闇。沈黙。それからハープシコードの隙間から光が現れる。ハープシコードの弦がバラバラと鳴る。ハープシコードの蓋が開き、その中から、こそこそと辺りを見回しながら、ムワロンが出て来る。ムワロンはおよそ十五歳。美しい顔立ち。ただし不良。痛め付けられている人間であることが、その表情から分る。ボロボロで泥だらけの服を着ている。)
 ムワロン みんないなくなったぞ。誰も彼も悪魔に食われろ。糞っ! 馬鹿!・・・(泣きだす。)ああ、ボロで泥だらけ。何て不幸なんだ、僕は。・・・二日も眠っていない。・・・眠らせてくれなかったんだ。・・・(啜り泣く。カンテラを置く。倒れる。そのまま寝込んでしまう。)
(間。外からカンテラの光が動いて来る。モリエール、こそこそと辺りを見回しながら、アルマーンドを連れて登場。アルマーンド、黒いマントを着ている。アルマーンド、ムワロンを見て、金切り声を上げる。ムワロン、すぐに飛び起きる。目に恐怖の色。震えている。)
 モリエール(脅すように。)誰だ、お前は。
 ムワロン 座長さん、お願いです。(ハープシコードを指さして。)僕を叱らないで。僕は泥棒じゃないんです。僕はザハーリヤ。不幸なザハーリヤ・ムワロンです。
 モリエール(大声で笑って。)分った! あのいんちき男シャルラタンめ! 悪い奴だ。
                      (幕)

     第 二 幕
     第 一 場
(王の応接間。到るところに燭台があり、蝋燭で明るく照らされている。白い階段。どこに通じるのかは不明。カードテーブルに、ルイ十四世とドゥ・レサック侯爵。二人はトランプの勝負をしている。(ドゥ・レサックは立っている。)華美そのものの服装で、宮廷人達大勢が、その勝負を見つめている。ドゥ・レサックの前は金貨の山。床の絨毯の上にも金貨が転がっている。ドゥ・レサックの額から汗が流れている。ルイ十四世だけが坐っている。全ての宮廷人は立っている。また、帽子を脱いでいる。ルイ十四世は白銃士の制服。羽根のついた帽子を粋にあみだに被っている。胸には位を表す勲章。靴には金の拍車。腰に刀。王の椅子の傍に、片目が立っていて、王にトランプの出し方を指示している。その傍に銃を持った銃士が微動もせずじっと王を見つめている。)
 ドゥ・レサック ジャック三枚に、キング三枚。
 ルイ十四世 うん。これは負けだな。
 片目(突然。)お待ち下さい陛下。このトランプには印がついています。いかさまです。
(宮廷人達、茫然とする。間。)
 ルイ十四世 お前はいかさまトランプを持って余と勝負をしにやって来たのか。
 ドゥ・レサック はい、陛下。領地からの収入が上らず、貧窮の・・・
 ルイ十四世(片目に。)侯爵、トランプの規則ではどうなっている。こういう奇妙なことが起った場合の、余の取る処置についてだが。
 片目 燭台でもって、相手の顔を殴りつけること、これが最初であります。次に・・・
 ルイ十四世 全く不愉快な規則だ。(燭台を掴んで持ち上げる。)この燭台は少なくとも十五ポンドはあるな。もっと軽いものを立てておいた方がいい。これは重すぎだ。
 片目 では、失礼ながら、代りに私が・・・
 ルイ十四世 いや、それには及ばん。次に、とお前は言いかけていたな。次はどうするのだ。
 宮廷人達(一斉に、激怒して。)叱りつけるのです。犬にやるように。
 ルイ十四世 そうか。よかろう。では、あいつを呼んで来い。どこだ、あいつは。
(宮廷人達、バラバラに走り出て、口々に叫ぶ。「靴屋! 正直者の靴屋! 陛下のお呼びだぞ!」
 ルイ十四世(ドゥ・レサックに。)ところで、いかさまだが、どうやってやるのだ。
 ドゥ・レサック 爪で印をつけます。例えばクイーンは、私は、小さくゼロの印を。
 ルイ十四世(興味をもって。)なるほど。で、ジャックは?
 ドゥ・レサック 斜めに小さく十字架を。
 ルイ十四世 なかなか面白い。が、こういうことをするのは規則ではどうなっている。
 ドゥ・レサック(考えた後。)認めておりません、陛下。
 ルイ十四世(同情して。)それでお前は、何をされることになるのだ。
 ドゥ・レサック(考えて。)牢屋に入れられます。
 正直者の靴屋(騒がしく登場。)来ました、来ました、歩いて、走って、飛んで来ました。今日は、陛下。私ですよ、私の御登場です。偉大な王様、大陛下、何が起ったのです? 誰を叱るのですか?
 ルイ十四世 おお、正直者の靴屋、ここなる侯爵が、いかさまトランプで余と勝負したのだ。
 正直者の靴屋(可哀想に、という顔。ドゥ・レサックに。)お前さん、お前さん、一体どうして。気が狂いなすったか? トランプでいかさまをすると、市場では顔をぶん殴られるんだよ。こんなもんでいいでしょうか、陛下。
 ルイ十四世 よし。有難う。
 正直者の靴屋 ではこの林檎を戴いてよろしいでしょうか?
 ルイ十四世 いいぞ、取れ。ドゥ・レサック侯爵、そこにある、勝った金を取るのだ。
(ドゥ・レサック、ポケットに金貨を詰め込む。)
 正直者の靴屋(慌てて。)陛下、一体これは・・・一体これはどういうおつもりで・・・
 ルイ十四世(平然と。傍らにいる公爵に。)公爵、お手すきなら、このドゥ・レサック侯爵を、牢屋に一箇月入れて欲しい。トランプを一組与えるように。十字架とゼロの記号を書いて貰うことにしよう。ひとつきが終ったら、自分の領地に返してやれ。金も一緒にな。(ドゥ・レサックに。)領地の管理に精を出すのだぞ。それからもう一つ。お前は今後トランプをしてはならん。この次はこんなにうまくはいかんぞ。私にはそういう予感がする。
 ドゥ・レサック ああ、陛下・・・
(「見張り!」と公爵の声。見張り達、ドゥ・レサックを引き立てて退場。)
 正直者の靴屋 お城から失せやがれ!
 片目 いんちき野郎!
(側近達登場。ルイ十四世の前に一人分の食器が揃ったテーブルが、まるで地下から湧いたように用意される。)
 シャロン大主教(暖炉の傍から現れて。)陛下、ご紹介したい人物が。放浪の伝道師、バーソロミューです。
 ルイ十四世(食事を始めながら。)余は、余の臣下を愛している。その中には放浪の者達も含まれている。大主教、その者をここへ。
(バーソロミューがまだ扉の向こうにいる時から、バーソロミュー、奇妙な歌を歌っている。扉が開く。バーソロミュー登場。裸足、ざんばら髪、帯は縄、目は狂人の目付き。)
 バーソロミュー(踊るように足を動かしながら、歌う。)キリストの前に出れば、誰だって気違い・・・
(全員、驚く。ルイ十四世は平然と食事を続けている。)
(宮廷人達の間に立っていた修道士ヴェールノスチ、群衆から抜け出てこっそりシャロン大主教に近づく。修道士ヴェールノスチは陰気な顔、長い鼻、黒い衣装を着ている。)(訳註 「ヴェールノスチ」はロシア語で「真実」の意。)
 片目(バーソロミューを見て、小さな声で。)おい、気味の悪い奴め、さっさと消えてなくなれ。
 バーソロミュー 世界の中の大名君、私がここに参りましたのは、陛下にお知らせするためなのです、この帝国に、キリストに反逆する者がいることを。
(宮廷人達の顔、ギョッとなる。)
 バーソロミュー その不信心な人物、毒を持った蛆虫(うじむし)、陛下の玉座の足元に噛みつこうとしているもの、その男の名は、ジャン・バプティスト・モリエール。彼こそ広場で火炙りの刑に処すべき者。その忌まわしい作品「タルチュフ」と共に、灰に帰すべきものです。信心深い教会の子達は、これが陛下の義務であると心得ております。
(修道士ヴェールノスチ、この「義務」という言葉を聞くや、頭を抱える。シャロン大主教も顔色を変える。)
 ルイ十四世 「義務」? 誰の義務だというのか。
 バーソロミュー 陛下の・・・陛下の義務で。
 ルイ十四世 余の義務? 大主教、余に何か、義務があると言っているものがいるようだな。
 シャロン大主教 お許し下さい、陛下。この男、今日はどうかしているようで。私はそのことに気づきませんでした。私の落ち度でございます。
 ルイ十四世(平静な声で。)公爵、お手すきなら、このバーソロミューを三箇月牢屋に監禁して欲しい。
 バーソロミュー(叫ぶ。)キリストに反逆するもののためだ、この私が苦しむのは!
(兵士達の動きあり。バーソロミュー、あたかもここにいたのが嘘のように消えてなくなる。ルイ十四世、食事を続ける。)
 ルイ十四世 大主教、余の傍に。親しく話がしたい。
(宮廷人全員、階段の方に退く。護衛の銃士(一人)も同様に退く。(訳註 退場ではない。)ルイ十四世、シャロン大主教と向き合う。)
 ルイ十四世 あの男は気違いか。
 シャロン大主教(しっかりと。)はい陛下、あの男は気違いです。しかし、あの男の心は敬虔に神に帰依している心です。
 ルイ十四世 大主教、お前はどう思っている。このモリエールという男は危険人物か。
 シャロン大主教(しっかりと。)はい陛下、彼は悪魔です。
 ルイ十四世 フン、すると、お前はあのバーソロミューと意見を同じくするわけだな。
 シャロン大主教 はい陛下、意見を同じくします。どうぞお聴き下さい陛下。陛下のこの帝国は、一点の曇りもない、晴れ渡った国です。どんなものがやって来ようと、この国に陰りをつけることは出来ません。ただ陛下が・・・
 ルイ十四世 ただ余が、何だ。
 シャロン大主教 ただ陛下が、神に敬虔であらせらせさえすれば。
 ルイ十四世(帽子を脱いで。)余は神に敬虔だ。
 シャロン大主教(片手を上げて。)神は天上に君臨され、陛下は地上を君臨され、その他いかなる人物も存在するものではありません。
 ルイ十四世 そうだ。
 シャロン大主教 陛下、陛下の力に限界など、将来に渡っても、あることではございません。信仰の光がこの帝国に輝いている限り。
 ルイ十四世 余は宗教を敬っておる。
 シャロン大主教 では陛下、私はあのバーソロミューと共に陛下にお願い致します。どうか宗教をお守り下さいますように。
 ルイ十四世 お前はモリエールが、宗教を侮辱していると思っているのだな。
 シャロン大主教 さようで、陛下。
 ルイ十四世 不敬な男かも知れぬが、あれは才能ある役者だ。よろしい大主教、余は宗教を守ろう・・・但し・・・(声を低めて。)余はあの男を矯正しようと思う。あれはまだ、国家の栄光のためにつくすことの出来る男だ。しかし、もう一度神に対する不敬を行えば、余が罰する。(間。)例の・・・バーソロミューだが・・・あれは国王を敬っておるのか。
 シャロン大主教 はい、陛下。
 ルイ十四世 大主教、三日後にあいつを牢から出してやれ。しかし、よく言って聞かせよ。フランス国王と話をする際、何々が余の義務だなどと、二度と言わせてはならん。
 シャロン大主教 はっ、有難うございます。陛下に神のお恵みがありますように。また不敬の男に、神の鉄槌が下りますように。
(舞台裏で、「陛下の僕(しもべ)ドゥ・モリエールが参りました」と取次の声。)
 ルイ十四世 入らせよ。
 モリエール(登場。遠くからルイ十四世にお辞儀。宮廷人達の好奇の目の中を、王の方に進む。ひどく老いている。顔は病人。白髪。)
 ルイ十四世 ドゥ・モリエール、余は今食事をとっている。構わんかな? 食事を続けても。
 モリエール おお、陛下。(私のようなものに、何故そのようにお気を使われますか・・・)
 ルイ十四世 ところで一緒にどうだ。(平静な声で。)椅子を。それから、もう一人分。
 モリエール(蒼くなる。)陛下、私にはこれは過ぎたる光栄。どうぞ、捨ておかれますように。
(椅子が運ばれる。モリエール、用意された席に坐る。)
 ルイ十四世 鶏は好きか。
 モリエール 好物でございます、陛下。(哀願するように。)どうか、立ったまま戴くことをお許し下さいますように。
 ルイ十四世 いいから坐って食べろ。余が名付け親になった子供はどうした。
 モリエール 悲しいことに陛下、あの子供は死にました。
 ルイ十四世 そうか。二番目の子供はどうだ。
 モリエール 私の子供はみんな、育ちませんで。
 ルイ十四世 しょげるな。元気を出せ。
 モリエール 陛下、陛下と食事を共にした人物が、フランス中に一人でもいたという話を聞いたことがありません。私は心ここにあらざる気持です。
 ルイ十四世 ドゥ・モリエール、お前の前に、フランスが椅子に坐っている。フランスは鶏を食っておる。そして心はしっかりとここにあるぞ。
 モリエール おお、陛下、そのようにお話しになれる人は世界広しといえども、陛下唯一人です。
 ルイ十四世 お前のその才能ある筆は、この次に王に何を書いてくれるのか。
 モリエール 陛下・・・それは、何でも・・・お仕え致す身として・・・(心配そうな表情。)
 ルイ十四世 鋭い筆だ。しかし、扱う主題によっては、用心をせねばならぬものがある。お前のあの「タルチュフ」は、お前も認めるだろうが、少し用心が足りなかった。宗教に関る人物は、敬わねばならない。この作者は神を信じない者だったのかな? どうだ?
 モリエール(驚いて。)とんでもないことで・・・陛下。
 ルイ十四世 お前のこれ以後の作品が、決して道を踏み外さないものであることを確信しているぞ、ドゥ・モリエール。そこで余は、パレ・ロワイヤルで、あの「タルチュフ」を演じることを許可する。
 モリエール(今までとはすっかり違った表情になって。)有難うございます! 何ていう王様、ああ、嬉しいです、陛下!(心配そうに。)ドゥ・シャロン大主教はどこにおられる? さあ、大主教殿、お聞きになりましたか? 今のが聞えましたか?
(ルイ十四世、立ち上る。)
(声「王様のお食事、終り。」)
 ルイ十四世(モリエールに。)今夜はモリエール、お前に余のベッドを作って貰おう。
(モリエール、テーブルから二つの燭台を取り、先に立つ。その後ろにルイ十四世、従う。あたかも風が吹いて草がなびくように、その前にいた宮廷人達、さっと道をあける。)
 モリエール(平坦な声で。)王様のお通り! 王様のお通り! (階段の上に到着し、下に向って。)見たか、大主教! 私に指一本触れさせないぞ! 王様のお通り!
(階上にトランペットが鳴る。)
 モリエール 「タルチュフ」のお許しだ!
(モリエールとルイ十四世、退場。)
(宮廷人達も全員退場。シャロン大主教と修道士ヴェールノスチのみ残る。二人とも黒衣姿。)
 シャロン大主教(階段の傍で。)駄目だ。王様からの言葉があっても、お前は全く治ってはいない。おお、偉大なる神よ、どうかこの私に力を与え、不信心者の追求にお手をお貸し下さいますように。私があの男を罰すことが出来ますように。(間。)あんな奴、この階段を真っ逆さまに落ちればいいんだ。(間。)修道士ヴェールノスチ、こっちへ来い。
(修道士ヴェールノスチ、シャロン大主教に近づく。)
 シャロン大主教 修道士ヴェールノスチ、一体あれは何だ。気違いなどを送りこみおって。王に強烈な印象を与え得るとお前を信用していたんだぞ。
 修道士ヴェールノスチ あいつが「義務」などと言うとは、全く思いもつきませんでして。
 シャロン大主教 義務!
 修道士ヴェールノスチ 義務!
(間。)
 シャロン大主教 女は見つけたか。
 修道士ヴェールノスチ はい大主教、用意は万全です。女は手紙を書きました。彼を連れて来る筈です。
 シャロン大主教 あの男は来るかな?
 修道士ヴェールノスチ 女の手紙に応じるかと? それはもう、必ず。
(階段の上に片目、登場。)
(シャロン大主教と修道士ヴェールノスチ、退場。)
 片目(満足そうに。)大主教は不信心男を罠にかけようとして、代りにそっちが三箇月食らいおった。全くいいざまだ・・・
 正直者の靴屋(階段の下に登場。)誰かな? ああ、「死に神」さんか。
 片目 私に何か用か。私のことはドルスィニー侯爵と呼ぶんだ。何の用だ。
 正直者の靴屋 お前さん宛に手紙ですよ。
 片目 誰からだ。
 正直者の靴屋 知る訳はありませんや。女でさあ。公園で渡されたんで。あっちはマスクをつけてましたからな。
 片目(手紙を読む。)フム・・・どんな女だ。
 正直者の靴屋(手紙をジロジロ見ながら。)まあ、尻軽ですな。
 片目 何故分る。
 正直者の靴屋 そりゃ、付け文なんぞすりゃ・・・
 片目 馬鹿野郎!
 正直者の靴屋 怒鳴ることはありませんや。
 片目 いい身体だったか?
 正直者の靴屋 そりゃ、御自分でお確かめになることで。
 片目 フン、それはそうだ。(考えながら退場。)
(灯(複数)が消え始める。扉の傍に黒銃士達が幻のように現れる。階段の上から長く伸ばした声で、「陛下のお休み」。離れた場所から別の声が、「陛下のお休み」。第三の声が地下室から神秘的に、「陛下のお休み」。)
 正直者の靴屋 俺も寝よう。(カードテーブルの上に横になる。紋章の刺繍のある厚手のカーテンを毛布代わりにかける。恐ろしい形をした靴だけ、カーテンからはみ出して見える。)

     第 二 幕
     第 二 場
(宮殿が暗闇の中に滲むように消える。そしてモリエールの家が現れる。昼間。ハープシコードが開けてあり、ムワロンがそれを弾いている。二十二歳ぐらい。非常な美男子。華美な服装。その傍にストゥールに坐ってアルマーンド。彼の弾く姿から目を離すことが出来ない。ムワロン、弾き終る。)
 ムワロン 僕の弾き方どうだった? ママ。
 アルマーンド ムッシュー・ムワロン、もう以前、言った筈ですよ。私のことをママと呼ばないで欲しいって。
 ムワロン ではマダーム、申し上げますが、私はただのムワロンではありません。ドゥ・ムワロンと呼んで戴かなければ。ほらね、ヘッヘッヘ、ホッホッホ・・・
 アルマーンド あなたがその称号を貰えたのも、もとはと言えば、あのハープシコードの中に隠れていたからなのよ。
 ムワロン もうあのハープシコードは忘れましょう。忘却の埃(ほこり)に埋もれている話です、ずっとずっと昔の。今は僕は、パリ中が拍手を送ってくれる有名な役者。ヘッヘッヘ、ホッホッホ。
 アルマーンド でも忘れてはいけないのよ、そこまでなれたのは、私の夫のお蔭。あなたを、その汚い耳を掴んでハープシコードから引っ張り出したんですからね。
 ムワロン 耳じゃなかった。汚さは同じだったけど、僕の足を掴んで引っ張り出したんだ。パパはたしかに礼儀の正しい人物だ。しかし嫉妬深い。悪魔そこのけだ。それに恐ろしい性格の持主だ。
 アルマーンド どうぞあの人のことを勝手に悪く言いなさい。厚かましいにも程があるわ。こんなのを養子にしたっていうことね。
 ムワロン そう、確かに僕は厚かましい男だ。そういう性格なんだ。・・・だけど、役者としては・・・パリ中並ぶ者などいやしない。(ゲラゲラっと笑う。自分の災いを呼び込む男のよう。)
 アルマーンド 厚かましいわね、本当に。じゃ、モリエールはどう?
 ムワロン そりゃ、数にはいるのは当たり前。・・・実は、パリには名優は三人だけ。座長と僕。
 アルマーンド じゃ、もう一人は?
 ムワロン 決まってる。それはママ。有名な、有名な女優。僕のプシケ。(静かにピアノの伴奏を弾き、歌う。)
  「時は春、森のあちこちを、
   獲物求めて、恋の神は・・・」
 アルマーンド(引きつった声で。)離れて、私から・・・
 ムワロン(左手でアルマーンドを抱き、右手で伴奏を弾きながら。)
  「何て綺麗な姿・・・
   恋の使者キューピッド・・・」
 アルマーンド 
  「矢筒を抱え・・・
   矢の狙いをつける・・・」
 アルマーンド(心配そうに。)ブトンはどこ?
 ムワロン 心配しないで。忠実な召使は市場へ。
 アルマーンド(歌う。)
  「矢はあたる。ヴィーナスの愛はその胸に。
   ああ、いとしい人よ、その頭を私の胸に。
   湧き返れ、私の血よ。」
(ムワロン、アルマーンドのスカートの裾を持ち上げ、その足に接吻する。)
 アルマーンド(震える。目を瞑る。)いけない人!(震える声で。)レネはどこ?
 ムワロン あのおばあさんは食事の支度。台所。(もう一方の膝に接吻。)ママ、僕の部屋に行こう。
 アルマーンド 駄目! 処女マリア様に誓って駄目。
 ムワロン ねえ、僕の部屋に・・・
 アルマーンド あんたはパリ中で一番危険な男。ハープシコードの中にあんたを見つけたりして、何て馬鹿なことをしたんでしょう。
 ムワロン ママ、さ、行こう。
 アルマーンド マリア様に誓って駄目。(立ち上る。)決して行かない!(扉の方にムワロンと一緒に行き、退場。)
 (扉の向こうでムワロン、鍵を締める。その音がする。)
 アルマーンド(舞台裏で。)どうして鍵なんかかけるの、あんた。(低い声で。)私、おしまい・・・あんたのせいで・・・
(間。)
(ブトン登場。野菜の籠を持っている。籠から人参の尻尾が突き出ている。)
 ブトン(耳をすませる。野菜の籠を床に置く。)変だぞ。(靴を脱ぐ。扉に忍び寄る。聴く。)あの悪党め!・・・しかし皆さん、私はここにはいないんですからね。・・・何も見ません。何も聴きません。それに何も知りません。・・・ああ、くわばら、くわばら。彼が来るぞ。(隠れる。床に籠と靴を置いたまま。)
(モリエール登場。杖と帽子を置く。困ったように靴を見つめる。)
 モリエール アルマーンド!
(一瞬の間に鍵穴に鍵が入れられ、廻される。モリエール、扉から矢のように隣の部屋に飛び込む。扉の向こうでアルマーンドの悲鳴、騒音。それからムワロン、走って登場。鬘を手に握り締めている。)
 ムワロン 何をするんです。酷いじゃないですか。
 モリエール(ムワロンを追いかけながら。)悪党!(息がつまる。)私は・・・この目が・・・この目が・・・信じられんぞ!・・・(長椅子にどっかと坐る。鍵穴に鍵のかかる音。アルマーンドが向こう側から閉める。)
 アルマーンド(扉の向こう側から。)ジャン・バプティスト! 正気に返って!
(ブトン、扉を開け、中の様子を見て、また引込む。)
 モリエール(拳を上げて、扉の向こう側に怒鳴る。)なんだ、お前の仕打ちは。食わして貰った揚句、この私に泥を塗るのか!
 ムワロン よくも僕を殴ったな。覚悟しろ!(刀を抜いて、構える。)
 モリエール 馬鹿野郎! 刀を納めろ。
 ムワロン 決闘だ、あんたと。
 モリエール 決闘?(間。)出て行け!
 ムワロン お父さん、気違いだ、あんたは。本物のスガナレッルだ。
 モリエール 恥知らずの浮浪者め! お前をここまで目をかけて来たが、終だ。奈落の底に投げ入れてやる。これからは縁日ででも芝居をするんだな、ザハーリヤ・ムワロン。今日という日から、お前はもうパレ・ロワイヤルの座員ではない。行け。
 ムワロン 何ですって? 僕を座から追いだすんですか?
 モリエール 行け。養子に取った男は盗人だった。
 アルマーンド(扉の向こうで。狼狽して。)モリエール!
 ムワロン(茫然として。)お父さん、それは誤解です。僕らはプシケーを練習していたんです。自分で書いた台詞じゃありませんか。僕の人生をどうして滅茶滅茶にするんですか。
 モリエール 行け。さもないと斬り殺すぞ。私は本気だ。
 ムワロン そうか。(間。)すると話は面白くなるな。一体誰がこれからドン・ジュアンをやるんだ。まさかラグラーンジュじゃ・・・ホッホッホ。(間。)しかし、ドゥ・モリエールさん。自分の気違い沙汰を後悔することになりますよ。(間。)僕はね、ドゥ・モリエールさん、あなたの秘密を知っているんですからね。
(モリエール、笑う。)
 ムワロン マドレーヌ・ベジャールのことをまさかお忘れではないでしょう。あの人は今、死の床にあります。・・・祈ってばかり・・・ところでドゥ・モリエールさん、このフランスという国には王様がいるんですからね。
 モリエール この卑劣な嘘つきめ! 何だ、そのたわごとは。
 ムワロン たわごと? いいでしょう、僕はこれから真直ぐ大主教のところへ行くんですから。
 モリエール(笑う。)うん、その裏切りを教えてくれたとは実に有難い。お前という人物がこれでいよいよはっきりした。よくその胸に止めておけ。いいか、今の言葉を聞くまでは、まだお前を許したかもしれない。が、もう許すわけには行かぬ。さっさと出て行け、この裏切りもの!
 ムワロン(扉のところで。)本物のスガナレッル!
(モリエール、壁からピストルと掴む。ムワロン、いなくなる。)
 モリエール(アルマーンドが鍵をして閉じこもった扉をガタガタ動かす。それから鍵穴から。)淫売!
(アルマーンド、扉の向こうで、大声で泣く。)
 モリエール ブトン!
(ブトン登場。靴を履かず、ストッキングの足。)
 ブトン はい、座長。
 モリエール 女衒(ぜげん)!
 ブトン 座長・・・
 モリエール どうしてここに靴があるのだ。
 ブトン それは、座長・・・
 モリエール 嘘だ。お前のその目で分る。それは嘘だ。
 ブトン 座長、嘘を言うためには、何か言葉を言わなきゃなりません。私はまだ、何の言葉も発していないんですよ。私は靴を脱ぎました。何故かというと・・・・ほら、見て下さい。釘です。全く馬の蹄鉄ですよ、この靴は。歩くとがちゃん、がちゃん音がして。ほら、こうです。で、あの二人が芝居の練習をしていましたでしょう? 連中も当然でさあ、扉を閉めて、鍵をかけて。
 アルマーンド(扉の向こうから。)そうよ!
 モリエール この野菜は何だ。
 ブトン 野菜は何の関係もありません。全く何もです。私が市場から買って来たもので。(靴を履く。)
 モリエール アルマーンド!
(沈黙。)
 モリエール(鍵穴から。)おい、お前は私が死んだ方がいいのか。私は心臓が悪いんだ。
 ブトン(鍵穴から。)おい、あんたは座長が死んだ方がいいのか。座長は心臓が悪いんだ。
 モリエール 馬鹿野郎。あっちへ行け。(籠を蹴っ飛ばす。)
(ブトン退場。)
 モリエール アルマーンド・・・(扉の傍のスツールに坐る。)もう少し辛抱してくれ。もう少しだ。そうしたらお前は自由の身だ。私は一人ぼっちで死にたくないのだ。・・・なあ、アルマーンド・・・
(アルマーンド、泣きはらした目で登場。)
 モリエール で、お前、誓えるんだな?
 アルマーンド ええ、誓います。
 モリエール 何か私に言ってくれ。
 アルマーンド(鼻を啜り上げながら。)あなたはお芝居にかけてはこれ以上立派な人はないっていう人です。でも一旦家に帰ったら・・・どうやったら両立出来るの、どうやったら。ああ、何てことをなさったの? 何てことを。パリ中の噂になるわ。ムワロンを追いだすなんて。どうして? どうして?
 モリエール お前の言う通りだ。私は恥さらしをやった。しかしお前にも分っているだろう。あいつは悪い奴だ。蛇のような。根っからの性悪だ。何をやらかすか、あいつ。私は怖い。殴り飛ばしたからな。自棄(やけ)になってパリ中をうろついて悪い噂でも広めるか。ああ、何て不愉快な・・・
 アルマーンド 呼び戻すのよムワロンを。すぐに。
 モリエール 一日は放っておこう。それからだ、呼び戻すのは。
                       (幕)

     第 三 幕
     第 一 場
(石造りの地下室。三本の蝋燭のついた燭台で照らされている。真っ赤なラシャが敷いてある机。その上に一冊の本と、何かの原稿。神聖同盟のメンバーが顔にマスクをして机についている。少し離れた場所に、肘掛け椅子。そこにマスクをせずにシャロン大主教が坐っている。)
(扉が開き、神聖同盟のメンバー二人・・・薄気味悪い顔をしている・・・が、ムワロンを導き入れる。ムワロンは両手を縛られ、目隠しをされている。メンバーの二人、その手をほどき、目隠しを外す。)
 ムワロン ここはどこだ。
 シャロン大主教 どこでもよい。さあ、この修道士達の神聖な集まりの前で、お前の告訴を再び述べるがよい。
(ムワロン、黙っている。)
 修道士スィーラ しゃれ男よ、大主教閣下にお答えするんだ。(訳註 「スィーラ」はロシア語で「力」の意。)
(ムワロン、沈黙。)
 シャロン大主教 残念なことだ。どうやらお前は私に嘘を話したようだ。
 修道士スィーラ 嘘をつくのはよくないことだ。立派な役者よ。牢屋に入らねばなるまい。そこで長い間、南京虫を食うことになろう。しかし、いづれにせよ、この訊問は続けねばなるまい。
 ムワロン(嗄(しゃが)れた声で。)私は嘘をついてはいない。
 修道士スィーラ それならじらせるのは止めるんだ。話せ。
(ムワロン、無言。)
 修道士スィーラ おい!
(扉が開き、ムワロンを連れてきた二人よりもっと恐ろしい顔の死刑執行人二人、登場。)
 修道士スィーラ(ムワロンの靴を見て。)なかなか美しい靴を履いているな。しかし、もっと美しい靴がこの世にはあってな。(死刑執行人に。)スペインの靴を持って来い。
 ムワロン 止めてくれ。(間。)もう何年も前、私が少年だった頃、山師の弟子になって、私はハープシコードの中に入っていた。
 修道士スィーラ 何のためにそんなものの中にいたのだ。
 ムワロン ハープシコードの中で演奏をしたのです。ハープシコードが自分で音を出しているように人に思わせる、一種の手品です。
 修道士スィーラ それで?
 ムワロン ハープシコードの中で・・・いえ、もう話せません、神父様。今朝は酔っていたのです。今朝お話したことは忘れてしまいました。
 修道士スィーラ これが最後の警告だ。話を中断するのは止めるんだな。
 ムワロン そして・・・夜中に声が聞えました。ドゥ・モリエール氏は、マドレーヌ・ベジャールの妹と結婚した・・・のではなく・・・その娘と結婚したのだ、と。
 修道士スィーラ で、その声は誰の声だったのか。
 ムワロン 聞いたのではなく、夢の中の声だったのではないかと思います。
 修道士スィーラ よろしい。夢の中で、誰の声がそう言ったのだ。
 ムワロン ラグラーンジュです。
 シャロン大主教 それでよし。有難う、我が友よ。お前は自分の義務を立派に果たした。良心の呵責にさいなまれることはないぞ。王の忠良なる臣民、かつまた、教会に敬意をはらう神の子たる者は、己(おのれ)の知る犯罪を報告する義務があるのだ。
 修道士スィーラ この男、なかなか可愛いものです。最初はいけ好かない奴だと思いましたが、なかなかどうして、立派なカトリック教徒です。
 シャロン大主教(ムワロンに。)一日か二日、我が友よ、お前はこちらで用意した部屋で暮して貰う。よい待遇だ。食事もつく。それから私と共に王に謁見する。
(引っ立てて来た二人、ムワロンに再び目隠しをし、両手を縛り、連れ去る。)
 シャロン大主教 よいか修道士諸君、次に現れる人物も、我々の仲間ではない。その男と話すのは修道士ヴェールノスチに頼む。私の声は彼に知られている。
(扉にノックの音。シャロン大主教、頭から頭巾を被り、皆の坐っている暗闇の中に入る。)
(修道士ヴェールノスチ、扉に進み、開ける。仮面をつけた女、片目の手を引き登場。片目の目はスカーフで目隠しされている。)
 片目 いつ目隠しを解いて下さるおつもりか。人を魅了する御婦人殿。私の言葉を信用して下さっても良さそうなものを。おやおや、あなたのお部屋は随分と黴臭い。
 仮面をつけた女 もう一段下です、侯爵。そう。・・・さあどうぞ、お取り下さい。(他の者達のいる暗闇に隠れる。)
 片目(目隠しを取る。見回す。)エーイ、計られたか。(その瞬間、右手は剣を抜き、左手はピストルを構え、壁に背をあてる。明らかに武道の達人であることが示される。間。)マントの下に武器を隠しているな。刀の先が覗いているぞ。多勢に無勢だ。やられるのは分っている。しかし言っておく。貴様達のうち少なくとも三人は、この穴から生きて出ることはない。冥土の土産だ。動くな! 私をこの罠にかけたあばずれ女はどこだ。
 仮面の女(闇の中から。)私はここです、侯爵。私はあばずれではありません。
 修道士スィーラ 侯爵、貴婦人に対して失礼ですぞ。
 修道士ヴェールノスチ どうぞ侯爵、お静かに願います。貴殿に殺意など当方、全くないのですから。
 修道士スィーラ どうぞ侯爵、そのピストルをお納め下さいますよう。穴の開いたその目がこちらを睨んでいては話もし難いですからな。
 片目 どこだ、ここは。
 修道士ヴェールノスチ 教会の地下室です。
 片目 ここからすぐ私を出すのだ!
 修道士ヴェールノスチ 扉は何時でもお開け致しましょう。
 片目 それなら何故たばかって私をこのようなところへ。それから、何はともあれ、答えるんだ。これは王のお命を狙っての話なのか。
 修道士ヴェールノスチ 飛んでもないことで、侯爵。ここにいるのは、王への誠心の忠誠を誓っているもの達。貴殿は今、神聖同盟血判者達の秘密の会合に立ち会われておられるのだ。
 片目 はっ、神聖同盟! くだらん、そんなものがあるなどと。馬鹿馬鹿しい。それで、その同盟が私に何の用がある。(ピストルをしまう。)
 修道士ヴェールノスチ どうぞお坐り下さい、侯爵。
 片目 では。(坐る。)
 修道士ヴェールノスチ お可哀相に、侯爵殿。
 同盟者全員(声を揃えて。)お可哀相に、侯爵殿。
 片目 人から哀れみを受けるのは、私は好まない。何だというのだ。
 修道士ヴェールノスチ 貴殿が宮廷で物笑いの種になっていることをお伝えしようと。
 片目 馬鹿なことを。私は「死に神」として知られている男だぞ。
 修道士ヴェールノスチ フランス中誰一人貴殿の腕前を知らぬ者はおりませぬ。だからこそ、笑う時にはその陰で。
 片目(剣で床をドンと叩き。)誰だそいつは。名前を言え。
(同盟者達、十字を切る。)
 スィーラ どうぞ侯爵、お静かに願います。
 修道士ヴェールノスチ 宮中の物笑いの種です。
 片目 何? ただではおかんぞ。早く言え。
 修道士ヴェールノスチ 貴殿ご存知か。かのジャン・バプティスト・モリエールと言うものの書いた、破廉恥な芝居「タルチュフ」を。
 片目 パレ・ロワイヤルには小生行っておらぬ。しかし名前は聞いたことがある。
 修道士ヴェールノスチ この芝居で、かの神を信ぜぬ不埒な喜劇役者は、宗教を、そして神に仕える者達を笑い者にしたのだ。
 片目 何て奴だ!
 修道士ヴェールノスチ しかしこのモリエールなる男、ただ宗教を侮辱するだけに留まらぬ。上流社会を憎むあまり、これを嘲罵する挙に出たのだ。「ドン・ジュアン」なる芝居を聞いたことがござろう。
 片目 ある。しかしそのパレ・ロワイヤルの三文芝居と、拙者ドルスィニー侯爵と何の関係がある。
 修道士ヴェールノスチ そのドン・ジュアンの主人公の人となりを表わすのに、貴殿を用いたという確かな証拠を我々は掴んでいる。
 片目(剣をぐっと握って。)そのドン・ジュアンとはどんな人物なのだ。
 修道士スィーラ 神を信じぬ無頼漢、人殺し、それに、失礼ながら侯爵、女たらし。
 片目(顔色が変る。)なるほど。諸兄に感謝する。
 修道士ヴェールノスチ(机の上の原稿を取って。)ご自分でお調べになられるか。ここにその原稿がある。
 片目 いや、興味がない。しかし礼は言う。諸兄にお訊きしたい。このドルスィニーをそのような破廉恥漢として人前に晒すべき正当な根拠があるとお考えか。
 修道士ヴェールノスチ 修道士諸兄、この中にそのように考える者は?
(同盟者全員に否定の意思表示。)
 修道士ヴェールノスチ そのような者はおりません。それ故、貴殿にもお分かりであろう。我々がいかなる動機により貴殿をこの秘密の会にご出席願ったかが。非常に奇妙な方法によりお連れしたが、ここにいる者たちはみな、侯爵、貴殿の味方である。我々全員このことを如何に不快に思っておるか・・・
 片目 もういい。分った。感謝する。
 修道士ヴェールノスチ ドルスィニー侯爵、我々はここで話されたすべてのことは、ここだけのことと了解しておる。当然のことながら、このことにつき、貴殿のご出席の手間を煩らわせたことも、ご内聞に。
 片目 心配はご無用。小生をここに案内して下さったご婦人はどこに。
 仮面の婦人(進み出て。)ここです。
 片目(陰気に。)どうか失礼の段、お許しあれ。
 仮面の婦人 神はあなたをお許しになりましょう。私も同様、お許し申し上げます。どうぞ私とまたご一緒に。私共が最初落ち合った場所に参ります。その前に再び目隠しを。ここにお集まりの方々は、この集まり場所への道筋を余人に知られる訳には参らぬと考えておりますので。
 片目 よろしい。それが左様に必要不可欠なことであるならば・・・
(再び片目に目隠しをする。仮面の婦人、片目を連れ去る。扉閉まる。)
 シャロン大主教(頭巾を取り、暗闇から進み出て。)これにて神聖同盟血判者の会合を閉会する。では修道士諸兄、お祈りを。
(同盟者達、立ち上り、静かに歌う。)
 同盟者達 Landamus, tibi, Domine, rex aeternae gloriae ...
 (神よ、我々は永遠の栄光の王、あなたを誉め称える・・・)

     第 三 幕
     第 二 場
(薄暗く広大な大聖堂。香がたかれて、煙が立ちこめている。そこここに蝋燭が揺らめいている。その中に小さな大主教の懺悔聴聞室。その中にも蝋燭。二人の黒装束の姿、大聖堂に登場。「タルチュフを見たか」「タルチュフを見たか」と嗄れ声で囁きながら通り過ぎ、退場。)
(アルマーンドとラグラーンジュ、マドレーヌの両手をひきながら登場。マドレーヌは白髪。病人。)
 マドレーヌ 有難う、アルマーンド。あなたにも感謝します、献身的なヴァールレ。
(オルガンが鳴り響く。)
 ラグラーンジュ 私達はここで待っていますから。さあ、ここが大主教の懺悔聴聞室です。
(マドレーヌ、十字を切る。静かにノックし、聴聞室に入る。アルマーンドとラグラーンジュ、黒いマントを身体に引き付けるようにしてくるみ、ベンチに坐る。暗闇が二人の姿を消す。)
 シャロン大主教(聴聞室に現れる。)さあ、もっとこちらへ、私の娘よ。お前はマドレーヌ・ベジャールだな?
(オルガンの音、止む。)
 シャロン大主教 お前の神に対する敬虔な気持が尋常でないことを知り、私はお前に親密な心を持った。そこでお前の懺悔を、私自ら聴くことにしたのだ。
 マドレーヌ 何という名誉なことでしょう。この罪深い女に。(シャロン大主教の両手に接吻する。)
 シャロン大主教(マドレーヌに十字を切り祝福し、自分の衣服の裾でマドレーヌの顔を覆う。)お前は病気なのか、哀れな女よ。
 マドレーヌ ええ病気です、大主教様。
 シャロン大主教(沈痛な声を出す。)それでお前は、もうこの世を去りたいのか。
 マドレーヌ はい、この世を去りたいのです。
(オルガンが鳴り響く。)
 シャロン大主教 病気は何なのだ。
 マドレーヌ お医者様は、私の血は腐っているのだと仰います。それから、私に悪魔が出て来るのです。それが恐ろしくて。
 シャロン大主教 可哀相な女だ。悪魔から逃れるにはどうすればよいのだ?
 マドレーヌ お祈りです。
(オルガン、静かになる。)
 シャロン大主教 神はそのお前の祈りにより、お前を救い上げ、愛して下さる。
 マドレーヌ そして私のことをお忘れにならないでいて下さるのですか?
 シャロン大主教 そうだ。決してお忘れにはならない。さあ、何なのだ、お前の罪は。
 マドレーヌ 私の一生が罪なのです、大主教様。私は淫乱な女でした。嘘をつきました。長い間舞台に立ち、大勢の男の人達の情欲をかき立てました。
 シャロン大主教 身を振り返って、特に重い罪が何かないのか?
 マドレーヌ 思い当たりません、大主教様。
 シャロン大主教(悲しそうに。)人間とは哀れなものだ。お前は心臓に、真っ赤に焼けた罪の釘が刺さったまま私のところにやって来ている。そして私にそれを抜き取らせようとしないのだ。お前はそれをあの世にまで持って行く。そしてそれは永遠に抜けないのだ。永遠に! 分るな? この「永遠に」という言葉の意味が。
 マドレーヌ(考える。)ええ、分ります。(驚く。)ああっ、どうしましょう、私!
 シャロン大主教(悪魔に変身する。)そこには火炙りの刑の焚火が見える。そして、その前を・・・
 マドレーヌ ええ、歩いています・・・刑の執行人が。
 シャロン大主教 そしてお前に近づき、囁く・・・何故そのまま持って来たのだ。何故ここへ来る前に抜いておかなかったのだ。
 マドレーヌ 私は両手を縛られ、「神様!」と叫ぶ。
(オルガン、鳴り響く。)
 シャロン大主教 しかしもうそこでは神は何も聞いてはくれぬ。お前は鎖でつり下げられ、足から火に焼かれてゆく・・・「永遠に」・・・分るな、この「永遠に」の意味が。
 マドレーヌ 分りたくありません。分ったら私、今すぐにでも死んでしまう。・・・(小さな溜息と共に。)分りました。それでもし罪をあちらに持って行かないで、ここに残して行けば私は・
 シャロン大主教 お前は救いのミサを聞くことが出来るのだ。いつまでも、いつまでも・・・
(高いところで、行列が通る。子供の声がミサを歌う。それから全てが消える。)
 マドレーヌ(闇の中で手探りして。)どこですか、大主教様・・・
 シャロン大主教(低い声で。)私はここだ! ここにいる・・・ここにいる・・・
 マドレーヌ ああ、私は救いのミサを聞きたい。永遠の救いのミサを・・・(熱情的に囁く。)私・・・私は昔・・・ずっと以前、二人の男と一緒に暮しました。そして女の子アルマーンドを生みました。それからずっと良心に嘖(さいな)まれています。その子がどちらの方の子供なのかと・・・
 シャロン大主教 おお、可哀相に。
 マドレーヌ 私はその子を田舎で生みました。大きくなって、私はその子をパリに連れて来ました。私の妹であると偽って。モリエールは情欲の虜になり、彼女と結婚しました。私は二人を不幸にさせたくないため、何も言わなかったのです。私のせいであの人に、贖(あがな)うことの出来ぬ大きな罪を負わせてしまったのです。そして私には地獄を。ああ、私に救いのミサを。
 シャロン大主教 私、大主教は、その権限を揮(ふる)い、汝をその罪の縛(いまし)めから解き放ち、救うであろう。
 マドレーヌ(恍惚となって、泣きながら。)ああ、私はこれで、これで永遠に救われる!
(オルガン、高らかに鳴る。)
 シャロン大主教(幸せの涙を流して。)飛べ、飛べ、我が子よ。
(オルガン、鳴り止む。)
 シャロン大主教 娘は来ているのだな? ここに入るように。娘の罪はその意志から出たものではなかった。私が今、その罪を許してやろう。
 マドレーヌ(懺悔聴聞室から出て。)アルマーンド、アルマーンド、いらっしゃい。大主教様が、あなたも祝福して下さるのよ。私は幸せ・・・私は幸せ・・・
 ラグラーンジュ さあ、馬車でお送りしましょう。
 マドレーヌ アルマーンドは?
 ラグラーンジュ また帰って来ますから。(マドレーヌと闇の中に退場。)
(アルマーンド、懺悔聴聞室に入る。)
(シャロン大主教、恐ろしい姿で登場。頭には鳳嘴冠(ほうしかん)(角(つの)のついた冠。)アルマーンドに逆十字(即ち、悪魔の十字)を、素早く五、六回切る。)
(オルガン、大きな音をたてて唸る。)
 シャロン大主教 お前は知っているな? 今、私と一緒にいた女がお前の何にあたる人物であるかを。
 アルマーンド(突然全てを理解する。恐怖に捕えられて。)いいえ、いいえ、・・・姉です。あれは姉です。
 シャロン大主教 あれはお前の母親なのだ。お前の罪は許してやる。しかし、今日この日に、お前は去るのだ。即刻あの男から去るのだ。
(アルマーンド、低く叫んで仰向けに倒れる。懺悔聴聞室の敷居の上に、全く動かず横たわったまま。シャロン大主教、消える。オルガン、静かに鳴っている。)
 ラグラーンジュ(薄暗がりのところに戻って来る。黒騎士のような雰囲気。)アルマーンド、どうしたのです。気分が悪いのですか。

     第 三 幕
     第 三 場
(昼。王の応接間。ルイ十四世、金の縫い取りのある黒いコートを着て机についている。その前にシャロン大主教。黒い服。疲れた様子。床の上に正直者の靴屋が坐り込んで、靴を繕っている。)
 シャロン大主教 死の直前の懺悔において、彼女はこのことを明言しました。従って私は役者ラグラーンジュにまでこれを問い糾(ただ)すことは致しませんでした。このような汚辱をわざわざ世に広めることはないと判断したのです。そして調査はここで打ち止めにしました。陛下、モリエールは罪に汚れた男です。あとは陛下のおさばきを。
 ルイ十四世 感謝するぞ、大主教。よくやってくれた。これで事ははっきりした。(呼鈴を押し、遠くの方に。)今すぐパレ・ロワイヤルの支配人、ドゥ・モリエールをここに。それから衛兵達は下ってよし。余一人で謁見を行う。(シャロン大主教に。)大主教、ムワロンを呼べ。
 シャロン大主教 畏まりました、陛下。(退場。)
 正直者の靴屋 偉大なる君主さま、どうやら大帝国は密告者がいないとうまく治められないようですね。
 ルイ十四世 黙って靴でも磨いていればいいんだ、道化。ところでお前、密告者は嫌いか?
 正直者の靴屋 嫌いかって・・・好きになれるところなど、どこにもありませんからね。下司(げす)も下司、最低ですよ。
(ムワロン登場。追い詰められた獣のような目付き。脅えている。着の身着のままの暮らしをしていた様子。王を間近に見るのはこれが初めて。王の威厳に打たれた様子。)
 ルイ十四世(優しく。)ザハーリヤ・ムワロンだな。
 ムワロン はい、そうです、陛下。
 ルイ十四世 お前はハープシコードの中に入っていたそうだな。
 ムワロン はい、陛下。
 ルイ十四世 ドゥ・モリエール氏がお前を養子にしたんだな?
(ムワロン、黙っている。)
 ルイ十四世 余はお前に質問をしているのだ。
 ムワロン はい、養子にしてくれました。
 ルイ十四世 彼は芝居の演じ方をお前に教えたのだな。
(ムワロン、黙っている。)
 ルイ十四世 余はお前に質問をしているのだ。
 ムワロン はい、教えてくれました。
 ルイ十四世 国王あての密告を書いた時の動機は何だったのか。ここには、「正当なる法の裁きを望んで」とあるが。
 ムワロン(仕方なしの声。)はい、「正当なる・・・」
 ルイ十四世 彼がお前を殴ったというのは本当か。
 ムワロン はい、本当です。
 ルイ十四世 何故殴ったのか。
 ムワロン 彼の妻が、私と不義を行ったためです。
 ルイ十四世 そうか。訊問に対してそこまで言う必要はない。「私的な理由によるものです」と言えばすむ。お前は何歳だ。
 ムワロン 二十三歳です。
 ルイ十四世 お前によい知らせがある。お前の密告は調査により正しいことが証明された。国王からの褒美を取らせる。金が欲しいか。
 ムワロン(身震いする。間。)陛下、私に、ブルゴーニュ座に入団することをお許し下さいますように。
 ルイ十四世 許さぬ。お前は下手な役者だという噂がある。
 ムワロン 私が・・・下手?・・・(素直に。)では、マレー座では?
 ルイ十四世 それも許さぬ。
 ムワロン では、私に何をしろと。
 ルイ十四世 役者などといういかがわしい職業に何故拘(こだわ)る。お前の経歴には何の傷もない。お前さえよければ、王直属の仕事につかせる。秘密警察だ。王の名において申請書を出すがよい。それは受理されるであろう。下ってよし。
(ムワロン退場。)
 正直者の靴屋 ユダめ! 首でも吊れ!
 ルイ十四世 こら、道化!(ベルを鳴らす。)ドゥ・モリエールを呼べ。
(ムワロンが扉から消えるとすぐ、別の扉からラグラーンジュ登場。モリエールを導き入れ、すぐに退場。モリエールは奇妙な姿。カラーは曲り、鬘もちゃんとついていない。顔は重苦しく疲れて、両手が震えている。刀もきちんと下げられていない。)
 モリエール 陛下・・・
 ルイ十四世 余はお前一人を呼んだのだ。何故二人で来たのだ。今の男は何者か。
 モリエール(驚いて。微笑んで。)役者、私の忠実な弟子、ドゥ・ラグラーンジュです。私をここまで連れて来てくれました。私は心臓の発作を起しまして、御覧の通り一人で参ることが出来ず・・・陛下のお怒りに触れませぬようにと怖れまする。(間。)お許し下さい。実は、不幸が起りまして・・・このような酷い身なりのままお目通りを・・・マドレーヌ・ベジャールが昨夜死に、また妻、アルマーンドはその同じ時刻に家出を致しました。何もかも捨てて。何のつもりでしょう。・・・衣装も、宝石類も、全て置いたまま。気違いじみた書き置きを残して・・・(ポケットから何か紙切れを取出し、阿(おもね)るように微笑する。)
 ルイ十四世 大主教の言った事は正しかった。お前は自分の作品で宗教を誹謗しただけではない。お前は犯罪者、無神論者なのだ。
(モリエール、呆気に取られる。)
 ルイ十四世 お前の結婚に関る一件に対し、余は次の如く宣告する。これ以後、宮殿への参代を禁ずる。「タルチュフ」の上演を禁ずる。ただ、お前の一座が飢え死にするのを見るのは不憫である。従って、パレ・ロワイヤルで笑劇を演じることは許可する。但し笑劇、お笑いの劇のみだ。・・・お前の余への連絡、手紙等も、一切禁ずる。お前の一座の王の庇護は全て打ちきる。
 モリエール 陛下、それはあんまりな・・・絞首刑よりも酷い仕打ち・・・(間。)でも、何故?
 ルイ十四世 お前の呪うべき結婚が余の名前にも影を落してきたのだ。
 モリエール(ソファにどっと倒れて。)失礼致します・・・立っておられませんで・・・
 ルイ十四世 行け、謁見は終だ。(退場。)
 ラグラーンジュ(扉から覗いて。)どうなさいました。
 モリエール 馬車を・・・呼んでくれ。・・・帰る。・・・
(ラグラーンジュ、退場。)
 モリエール マドレーヌがいれば、聞くことも出来るが・・・あれも死んだ。一体どうしたというのだ。
 正直者の靴屋(同情して。)どうしたんだい? お前さん。神様を信じないからっていうのか? 可哀相に。散々だな。・・・おい、リンゴはどうだ?
 モリエール(機械的に受取って。)有難う。
(シャロン大主教登場。立ち上り、モリエールを見る。長い間。シャロン大主教、満足そうに目を細める。)
(モリエール、その時まで机にうつ伏せになって倒れていたが、シャロン大主教を見て生き返る。起き上がる。目がギラギラと光る。)
 モリエール おお、大主教、さぞご満足なことでしょうな。「タルチュフ」のせいですな? 信仰のために、まあよくここまで戦いを遂行なさったことです。しかし私にはよく分っています、その真意が。私の腹をよくお見抜きなさいました。敵ながら天晴れなものです。そう、友達がある時私に言ったのです。「どうだ、あの悪党を芝居にしたら・・・坊さんという悪党を」と。それで私はあなたを描いたのです。悪党のお手本。あなたほど理想的なモデルが他にありましょうか。
 シャロン大主教 モリエール殿、私はあなたのために深く悲しむ。何故なら、その道を歩んだもので、絞首刑を免れた者はいないのだからな、我が子よ。
 モリエール 何が「我が子」か。貴様の子であってたまるものか。貴様の子なら悪魔の子じゃないか。(刀を抜く。)
 正直者の靴屋 何ですかこれは。何事です。
 シャロン大主教(目が光る。)しかしお前は、絞首台にまでも行かないで終になりそうだな。(狡い目付きで辺りを見回す。)
(扉から片目登場。杖を持っている。)
 片目(黙ってモリエールに近づき、足をはらう。)おい、私の足にぶつかっておいて、謝りもしないとはどういうことだ。この無礼者め!
 モリエール(自動的に。)失礼・・・(気がついて。)お前さんの方こそ、私に足をかけて・・・
 片目 何を。嘘つきめが!
 モリエール 嘘つきですと? 私に一体何がお望みなのです。
(丁度この瞬間、ラグラーンジュ登場。)
 ラグラーンジュ(顔色が変って。)座長、どうかお逃げになって。すぐに、すぐに。侯爵様、お願いです。ドゥ・モリエールは病気なのです。どうか。
 片目 刀に手をかけているのを見届けている。彼は病気ではない。(モリエールに。)私の名前はドルスィニーだ。よく聞け。貴様は禄でもない野郎だ!
 モリエール 決闘だ! 私はお前に決闘を申し込む!
 ラグラーンジュ(必死になって。)逃げて下さい、座長! この人は「死に神」と呼ばれている人ですよ。
 シャロン大主教 諸君、何をなさっておられる。ここは王の謁見の場ですぞ。ああ・・・
 モリエール 決闘だ。今すぐ。
 片目 受けて立ちましょう。では、もう侮辱の言葉を吐くのは終だ。(いやらしく笑って。)王のお裁きは甘んじて受けよう。場所柄を弁(わきま)えない罰で、バスチーユ行きでも、私は構わぬ。(ラグラーンジュに。)おい、お前が目撃者だ。いいな。(モリエールに。)財産の分配についての指示は(ラグラーンジュを指さして。)
今やっておけ、この男に。(刀を抜く。切っ先を改める。)指示はないんだな?(あまり大きくない声で、声をのばして。)さあ、行くぞ。(刀で十字を切る。)
 シャロン大主教 何をなさる、お二方。宮中ですぞ。・・・なりませぬ、お二方!(階段を軽く駆け上がり、そこから決闘を眺める。)
 ラグラーンジュ 決闘じゃありません、これは。単なる殺人です。
 正直者の靴屋 謁見の間で、斬り合いですよ!
(片目、正直者の靴屋の襟首を掴む。正直者の靴屋、黙る。片目、モリエールに斬りかかる。モリエール、ひと太刀受けて、机の後ろに逃げる。片目、それを追う。)
 ラグラーンジュ 座長、刀を捨てて!
(モリエール、刀を捨てる。床に倒れる。)
 片目 刀を取れ!
 ラグラーンジュ(片目に。)刀を帯びていない者を斬ることは出来ませんよ。相手は無腰ですよ。
 片目 斬りはせん。(モリエールに。)刀を取れ! この卑怯者めが。
 モリエール 侮辱するのは止めて下さい。殴るのも。私にはどうもよく分らないことがある。私は・・・御覧の通り、心臓がおかしい。・・・妻は私を捨てた。・・・ダイヤの指輪も床に投げ散らかしたまま・・・下着まで放り出したまま・・・どうなっているのか・・・
 片目 何をぐだぐだ言っている。さっぱり分らん。
 モリエール よく分りません、あなたが私の命を狙っているのが何故なのか。今までにあなたには二度しか会ったことがありません。一度目はたしか、お金を持って来て下さった。・・・もう随分昔のことです。私は病人だ・・・どうか私に触らないで・・・
 片目 次の公演が終ったら、その場でお前を殺す。(刀を鞘に納める。)
 モリエール いいでしょう・・・どうなろうと知ったことか・・・
(正直者の靴屋、突然その場から退場。)
(ラグラーンジュ、床からモリエールを助けおこす。刀を取り、モリエールを引きずって退場。片目、二人を目で追う。)
 シャロン大主教(階段から降りる。目がギラギラ光っている。)何故お前、殺さなかった。
 片目 貴様に何の関係がある。奴は刀を捨てたじゃないか。
 シャロン大主教 間抜け!
 片目 何を! この糞坊主!
 シャロン大主教(突然片目の顔に唾を吐く。)ペッ。
(片目、呆気に取られる。シャロン大主教に唾を吐き返す。扉が開き、正直者の靴屋、心配そうに走って登場。その後ろにルイ十四世。片目とシャロン大主教、唾の吐きかけ合いに没頭していて、すぐには気がつかない。気付いて止める。四人、長い間。空ろにお互いの顔を見合う。)
 ルイ十四世 失礼。邪魔をしたようだ。(退場。後ろ手に扉を閉める。)
                      (幕)

     第 四 幕
     第 一 場
(モリエールの部屋。夜。燭台(複数)に蝋燭。壁に奇妙な影が揺らめいている。散らかっている。原稿用紙が投げ捨てられている。モリエールは巨大な肘掛け椅子に坐っている。ナイトキャップ。下着の上に夜着。ブトンがもう一つの肘掛け椅子に坐っている。机の上に刀一本とピストル。もう一つの机の上に夕食とワイン。ブトンが時々ワインを飲む。ラグラーンジュは黒い服を着て部屋を歩き廻っている。ぶつぶつと独り言、あるいは鼻歌を歌う。その後ろの壁に騎士のようなラグラーンジュの黒い影。)
 ラグラーンジュ あいつめ、ハープシコードの中で聞いていたのか・・・
 モリエール 止めろ、ラグラーンジュ。お前の責任じゃない。運命だ。運命がやって来て、この家も私も滅茶滅茶にしたんだ。
 ブトン 正直の話、私にもありましたよ、裸一貫になったことが。リモージュでケーキ売りをやったんで。ところが勿論だあれもそのケーキを買う奴がいないんで。・・・それで役者になろうと決めてここへやって来たんで・・・
 モリエール 黙るんだ、ブトン。
 ブトン はい、黙ります。
(重苦しい間。それから階段がきしむ音。扉が開き、ムワロン登場。上衣ではなく、泥のついたジャンバー姿。髪はもしゃもしゃ、髭がそってない。酔っている。手にカンテラ。坐っていた二人、光を遮るために小手をかざす。ラグラーンジュ、ムワロンであると分ると、机の上のピストルを取る。モリエール、構えるその手を上にはね上げる。弾は天井にあたる。ムワロン、全く驚かず、興味のなさそうな目つきで、弾のあたった場所を見る。ラグラーンジュ、傍にあった水差しをひっつかんで割る。(訳註 これは武器にするためではなく、単に怒りの表現。近くに刀もあるのだから。)ムワロンに飛び掛かり、押し倒し、咽喉を締める。)
 ラグラーンジュ えーい、牢屋にぶち込まれても構うもんか。(怒鳴る。)ユダめ!
 モリエール(苦しそうな声で。)ブトン、ブトン・・・(ブトンと二人でラグラーンジュをムワロンから引き離す。ラグラーンジュに。)何だ。お前は私を殺したいのか。・・・ピストルを撃って。大騒ぎをして・・・まだ足りないからと、人殺しか!
(間。) 
 ラグラーンジュ ザハーリヤ・ムワロン! この犬畜生め! 私が分るか。
(ムワロン、頷く。)
 ラグラーンジュ さっさと出て行け。夜中にほっつき歩いて、誰かに殺されてしまえ。朝まで生きていることはない。(マントに身をつつみ、黙る。)
(ムワロン、ラグラーンジュに深く頷く。モリエールの前に両膝をつき、地面に平伏する。)
 モリエール 何しに来たんだ、お前。どうやら私の罪はあばかれたらしい。あの罪の他に何を捜しに来たのだ。今度は王宛の告訴には何を書くつもりだ。偽金(にせがね)造りの嫌疑かな? 戸棚でも箪笥でも何でも開けて見るんだ。許可を与えるぞ。
(ムワロン、さらに平伏する。)
 モリエール 這い蹲(つくば)っていないで、何が必要なのか、言ったらどうだ。
 ムワロン 私の尊敬する、大切な大切な先生、先生は私がここに謝罪を乞いにやって来たとお思いでしょう。違います。私は先生をお慰めしようとやって来たのです。私はここの窓の下で、夜中の十二時になる前に首を吊ります。私はもう、生きることは出来ないからです。縄も持って来ました。(ポケットから縄を取り出す。)そして書いたものも。「私は地獄へ行きます」と。
 モリエール(苦く。)慰められたよ。
 ブトン(酒をごくりと呑み込んで。)そうか、こいつはやりきれん瞬間だな。ああ、こう言った哲学者がいたな・・・
 モリエール 黙るんだ、ブトン。
 ブトン はい、黙ります。
 ムワロン お傍にいられるようにとも思ってやって来ました。もし私が生きることが出来ましたら、マダム・モリエールに二度と目を向けることは致しません。
 モリエール 目を向けようと思っても出来ないだろうな。あれは家を出て行った。これからは私はずっと一人だ。私は衝動的な男でな、いつでも考えるより先に手が出てしまう。考えるのはその後だ。今度のお前のこともそうだ。あれからよく考えて、私も利口になった。私はお前を許す。一座に帰ってよい。戻れ。
(ムワロン、泣く。)
 ラグラーンジュ(マントを開けて。)座長、座長は人間じゃありません。人間にどうしてこんなことが出来ますか。雑巾ですよ、座長は。床を拭く雑巾です。
 モリエール(ラグラーンジュに。)何を言うか、このガキめ! 自分で分りもしないことに口を出すな。(間。ムワロンに。)もう立つんだ。そんな恰好じゃ、ズボンが傷む。
(間。)
(ムワロン、立ち上る。間。)
 モリエール 上衣はどうした。
 ムワロン 居酒屋に置いて来ました。
 モリエール いくらでだ。
(ムワロン、片手を振る。)
 モリエール(唸る。)気違い沙汰だぞ、繻子(しゅす)織りの上衣を居酒屋に預けるとは!(ブトンに。)おい、買い戻して来い。(ムワロンに。)噂ではお前はほっつき歩いた末、最後には王のところまで行ったらしいな。
 ムワロン(胸を叩いて悔しそうに。)王様は私に、秘密警察がいい、そこへ行けと。私のことを下手な役者だと言って・・・
 モリエール ああ、なんて馬鹿なことを! 王様も見る目がない。大間違いだ。お前は役者としては第一級だ。秘密警察など出来るものか。心臓の作りがそうなっていないんだ。残念なことが一つある。お前と演じるにしても、そう長くは出来ない。私は片目の犬をけしかけられてしまった。銃士の一人だ。それに王は、私への庇護を打ち切ってしまった。放っておけば、早晩私は殺される。逃げなければならない。
 ムワロン 先生、私に命がある限り、あいつに先生を殺させはしません。信じて下さい。先生は私の剣の腕前をご存知です。
 ラグラーンジュ(片耳だけマントから出して。)確かにな。かなりの使い手だよ、お前は。しかしなあ、蛆虫野郎、あの「死に神」とあいまみえる前には、忘れずに大聖堂で死んだ時のお札は買っておくんだな。
 ムワロン 後ろから斬ってやる。
 ラグラーンジュ お前らしいよ。
 ムワロン(モリエールに。)これからは先生、いつでも私が一緒です。家でも、道路でも、昼でも、夜でも。私はそのために帰って来たんですから。
 ラグラーンジュ 秘密警察のようにな。
 モリエール(ラグラーンジュに。)うるさいぞ。マントの襟でちゃんと口を抑えておけ。
 ムワロン 三文文士さん、私を侮辱するのは止めて下さい。私は口ごたえなど全く出来ない立場にいます。そんな人間を侮辱して何になるのですか。私には触らない方がいい。今やもう、札付きの男ですからね。私を襲って殺したりすれば、あなたは早速絞首刑です。そして神聖同盟は、手を汚すことなく座長を殺すでしょう。
 モリエール お前はここを出て行ってから、えらく頭がよくなったな。
 ムワロン(ラグラーンジュに。)「タルチュフ」のせいで、座長は今や、無神論者の宣告を受けている。同盟の奴等に地下室に連れて行かれて、連中の遣り口は分った。連中は法律など無視だ。何をやらかすか知れたものではない。不測の事態に具えなければ。
 モリエール そうだな。(震える。)ノックか? 今のは。
 ムワロン いいえ。(ラグラーンジュに。)ピストルとカンテラを取って下さい。見張りに行きましょう。
(ラグラーンジュとムワロン、武器とカンテラを取り、退場。間。)
 モリエール 暴君め! 暴君め!
 ブトン 誰のことです、座長、それは。
 モリエール フランスの王のことだ。
 ブトン 黙って下さい!
 モリエール ルイ十四世だ。あの暴君めが!
 ブトン これで終です。二人とも絞首刑ですね?
 モリエール ああ、ブトン、今日私は怖れでほとんど死にそうだった。あの金色の彼の姿。目は・・・いいか、目はエメラルドなんだ。私の両手は冷たい汗をかいて濡れていた。まわりにある物は斜めに傾(かし)いで、いや、真横に傾いていた。そして、「あの男が私をこんな目にあわせているのだ。あの男め! 畜生!」としか頭になかった。
 ブトン 座長は絞首刑です。そしてその隣で私も。広場で二人並んで。ほら、ここにこんな風に座長がぶら下がって・・・その斜め向かいに私がこう・・・非業の死を遂げた無実のジャン・ジャック・ブトン。私はどこにいる? 天国にいるのか? どうも場所がよく分らない。
 モリエール 一生涯私はあいつの靴を舐めてやったんだ。願いはただ一つ。この私をどうか踏み潰さないで。どうぞ・・・だのにあいつめ、やっぱり踏み潰しおった。暴君め!
 ブトン 広場で太鼓が鳴っている。誰だ、妙な時に舌なんか出しやがって。その舌、腰のあたりまで垂れ下るぞ。
 モリエール どうしてなのですか、陛下。なあブトン、私はあいつに今朝聞いてやった。どうしてなのですかってな。私には分らない。・・・あいつに言ってやった。「陛下、私はこんな処置は不満です。私は抗議します。私は侮辱されたのですよ、陛下。どうか説明して下さい。どうか・・・私は陛下、諂(へつら)い方がまだ足りなかったのでしょうか。陛下の足下に這い回るのが十分でなかったのですか。・・・陛下、私、モリエールのような、こんな優秀な諂い男を他にどこで捜して来られるというのです。・・・なあブトン、一体どうしてこうなったのか。それは、「タルチュフ」のせいなのだ。あの「タルチュフ」でこんな目に。馬鹿な! こっちは一緒に笑ってくれる人間を見つけたと思っていたんだからな。卑屈になるなよ、なあブトン。あんな奴大嫌いだ! 暴君め!
 ブトン 座長、座長の銅像が建ちますよ。傍には噴水があって、少女の像も。その少女の口から水が流れ出ているってやつが。お願いです、どうか黙って・・・どうかその舌が干からびて、物が言えなくなりますように・・・ああ、座長は私を殺したいので?・・・
 モリエール 陛下、私はあと何をすれば、私がただの蛆虫であることを信じて戴けるのでしょう。ああ、陛下、あれは嘘です。私は抗議します。私はものを書く人間です。少しは考えるということをやります。あれは嘘。あれが私の娘だなんて、嘘です。(ブトンに。)マドレーヌ・ベジャールを呼んで来てくれ。相談したいことがある。
 ブトン 座長、何ですか、それは。
 モリエール ああ、そうか。・・・死んでいたな。・・・ああ、マドレーヌ、お前どうして話してくれなかったんだ。そうじゃない、話すんじゃない。私をひっぱたいて、ぶん殴って、どうしてこの頭に叩きこんでくれなかったのだ。・・・蝋燭が灯っている。・・・お前言ったな、蝋燭が灯っていれば来て上げると。・・・(悲しく。)蝋燭は灯っている。だがあいつはいない。・・・ああ、お前の上衣を私は破ってしまったなあ、・・・ほら、直しのための金だ。一ルイ・・・(訳註 二十フラン。)
 ブトン(泣き声で。)誰か呼んで来ます。・・・ああ、座長、あれは十年前でしたね・・・
 モリエール 荷造りだ! みんな詰め込むんだ。明日最後の芝居をうって、イギリスに逃げよう。・・・馬鹿な。海が荒れているかもしれん。言葉も違う。イギリスで何が出来る・・・
(扉が開き、老婆レネの頭が覗く。)
 レネ 尼さんがやって来ましたよ、あんたに会いに。
 モリエール(驚く。)何だって?・・・どんな尼さんだ。
 レネ 芝居の衣装の洗濯をお頼みなさったろう? あの尼さんが。
 モリエール フー。おい、レネ婆さんや、あんまり人を驚かすものじゃないぞ。何だ、衣装か。尼さんに言ってくれ。明日がパレ・ロワイヤルでの最後の公演だ。もういらないんだ、衣装など。馬鹿め!
 レネ 私にそんなことを言ったって。だって座長さん、ご自分でお言い付けに・・・
 モリエール 知らんぞ、私は。言い付けた覚えはないぞ。
(レネ、引込む。間。)
 モリエール そうか、何か言ってたな。ああ、上衣だ。私はどこを破いたんだったかな。
 ブトン 座長! どうかお坐りになって。さあさあ、上衣って何のことです?
(モリエール、急に毛布に入る。頭から被る。)
 ブトン どうか神様、さっき座長の言った事は誰も聞いていませんように。そうだ、しかけをしておかなきゃ。(不自然に大声で。嘘だとすぐ分る調子で。会話の続きのようにやっているつもり。)ええっ? 旦那様、何ですって? 今の王様は世界中で一番いい、一番立派な王様だ、ですって? そうですよ。私も全く同じ意見でさあ。反対意見など何一つありゃしません。
 モリエール(毛布の下から。)大根!
 ブトン 黙って!(インチキ臭い声で。)そうだ、私は今までも叫んできた。今も叫ぶ。これからも叫ぶぞ。王様万歳! ルイ十四世陛下、万歳!
(窓を叩く音。モリエール、心配そうに毛布から頭を出す。ブトン、用心深く窓を開ける。窓から心配そうな顔をしたムワロンが頭を覗かせる。)
 ムワロン 誰だ、あの叫び声は。何が起ったんだ。
 ブトン 何も起っちゃいない。どうして何かが起るんだ、こんなところで。座長と話していたんだ。そして、「王様万歳!」と叫んだのさ。この私、ブトンだって、何か叫ぶぐらいの権利はある筈だぞ。「王様万歳!」
 モリエール まいったな。どうしようもない大根役者だ。

     第 四 幕
     第 二 場
(パレ・ロワイヤルの楽屋。第一幕の時と同様に、古い緑色の看板がかかっている。十字架の前には灯明。ラグラーンジュの楽屋には、緑色のカンテラ。幕の後ろからは、観客の怒号と口笛が聞える。部屋着にナイトキャップ。奇妙なつけ鼻。興奮していて、奇妙な様子。まるで酔っ払っているかのような。その傍に医者の恰好をしたラグラーンジュとデュ・クルワズィ。二人とも黒の服を着ているだけでまだメイキャップはしていない。漫画的な医者の仮面が数個転がっている。)
(扉が開いて、ブトンが駆け込んで来る。ムワロンはこの場の最初から、少し離れたところにじっと立っている。黒い衣装。)
 モリエール どうした。死んだか。
 ブトン(ラグラーンジュに。)刀でやられて・・・
 モリエール 劇場の監督官には報告してくれ。役者達には言わないように。私はまだ、この最後の公演の責任者だ。
 ブトン(モリエールに。)だけど死んだんですよ。刀は急所をついたんです。
 モリエール 可哀相に。どうするべきか。
 プロンプター(扉から顔を出して。)どうしたんです?
 ラグラーンジュ(わざと大きな声で。)どうしたか、だと? 銃士達が劇場に押し入って来て、門番を殺したんだ。
 プロンプター ええっ!(扉から顔を引っ込める。)
 ラグラーンジュ 私はここの劇場の管理人として宣言する。今、当劇場は、切符なしで入って来た銃士達と、得体の知れない人間でいっぱいである。私にはこの事態を収拾する能力はない。従って、芝居を続行することをここで禁ずる。
 モリエール おいおい、・・・「ここで禁ずる」だと? 何を言っているんだ。洟(はな)垂れ小僧が。私だ。私がそういうことは決めるんだ。
 ラグラーンジュ(ブトンに。囁き声で。)どうしたんだ、座長は。酔っ払っているのか。
 ブトン いいえ、一滴も呑んではいません。
 モリエール それで、私に何と言って貰いたいのだ。
 ブトン 大事な、大事な座長。私は・・・
 モリエール ブトン!
 ブトン ・・・「あっちへ行け」でしょう? もう二十年も座長とは一緒ですからね。次に来る台詞はもう分っています。これか、或は、「黙れ! ブトン」か。もう慣れっこになっちゃいました。座長は私を愛してくれています。だからその愛情におすがりして、ほらこの通り、膝をついてお願いします。芝居を最後まで演ずるのは思い留まって下さい。逃げて下さい。馬車は用意してあります。
 モリエール 私がお前を愛しているだと? どこからそんな馬鹿なことが出て来るんだ、このお喋りめ! ああ、私を愛してくれている奴など誰もいはしない。みんなで私を責めたてて、追いたてて、おまけに大主教からは命令が出ている。この男を墓地に埋めてはならぬと。みんなは墓地の囲いの中に埋められても、私はくたばっても、その囲いの外に捨てられるのだ。エーイ、そんな連中の墓地など欲しくあるものか。唾を吐きかけてやる、そんなもの。お前達みんな、私を一生苦しめたな。みんな私の敵だ、お前達は!
 デュ・クルワズィ 神に誓って、座長、私達は・・・
 ラグラーンジュ(ブトンに。)こんな状態ではどうせ無理だ、芝居は。
(口笛、怒号、が、幕の向こうから聞えて来る。)
 ラグラーンジュ ほら、あれだ。
 モリエール お祭りの前の週だからだ。この週には連中は浮かれている。パレ・ロワイヤルでも再三シャンデリアを壊されている。
 ブトン(不吉な声で。)平土間に片目がいます。
(間。)
 モリエール(落ち着いて。)ああ・・・(心配になって。)ムワロンはどこだ。(ムワロンのところへ走りより、そのマントの中に隠れる。)
(ムワロン、歯をむき出し、黙ってモリエールを抱く。)
 デュ・クルワズィ(囁き声で。)これは医者を呼ばなければ。
 モリエール(マントからみんなを覗き見て、おどおどと。)舞台の上では殺しはしまい。な?
(沈黙。)
(扉が開いてリヴァール、走って登場。奇妙な衣装。いつものように、ほとんど裸。頭に医者の帽子。縁の厚い真ん丸の眼鏡。)
 リヴァール 幕間はこれ以上延ばせません。それとも芝居は・・・
 ラグラーンジュ 座長はやると言っている。どうする。
 リヴァール(モリエールを長い間見る。)やりましょう。
 モリエール(マントから出てきて。)えらい! リヴァール。お前、本当に勇気がある。さあ、ここに。キスしてやろう。私の最後の舞台だ。最後までやらずにおくものか。お前には分っているんだな。そうだ、十二年間お前と芝居をやってきたが、驚いたな、その間着物をちゃんと着たお前を見たことがない。いつもほとんど裸だ。
 リヴァール(モリエールをキスして。)ねえ、ジャン・バプティスト、王様、許して下さるわよ。
 モリエール(くぐもり声で。)うん・・・そうだな・・・
 リヴァール 私の言う通り、するわね?
 モリエール(考えて。)する。だが、連中が反対なんだ。(足を踏み出す拍子に躓く。)あいつら、馬鹿なんだ。(突然、身震いする。そして急にシャキッとして。)諸君、大変失礼した。私の無礼を許して戴きたい。自分でもこのような状態になったのが理解出来ない。心配が高じたせいだ、多分。事情を察して欲しい。デュ・クルワズィ君・・・
 デュ・クルワズィ、ラグラーンジュ、ブトン(声を揃えて。)私達は怒ってなんかいません、座長。
 リヴァール 座長の最後の台詞が終ったら、すぐハッチから下に下します。朝まで私の楽屋に隠れていて下さい。夜が明けたらパリに出発です。いいですね? じゃ、始めましょう。
(デュ・クルワズィ、ラグラーンジュ、ムワロン、はマスクを取って退場。モリエール、リヴァールを抱擁する。リヴァールも退場。モリエール、部屋着を脱ぐ。観客とモリエールの舞台を隔てている幕、上る。モリエールの舞台には、巨大なベッド、白い彫像、壁に暗い肖像画、呼鈴ののっている机、がある。緑色の覆いのある灯火。そこから舞台に、夜の心地よい光が当たっている。プロンプターの坐る区画に灯がともっていて、そこにプロンプターが登場。モリエールの舞台の幕の向こうから、即ちモリエールの観客席から、時々意地の悪い口笛が聞えて来る。すっかり平常に戻ったモリエール、非常な身軽さでベッドに上り、毛布をかける。)
 モリエール(プロンプターに、囁き声で。)よし!
(鐘が鳴る。幕の向こう側、静かになる。奇妙な、陽気な、音楽が始まる。モリエール、その音楽に合わせて鼾(いびき)をかく。モリエールの舞台の幕、上る。観客席は満員の様子。金色をした席には、何か漠然とした人影が見える。音楽の中に雷のように大きなティンパニーの音がなり、床からラグラーンジュ登場。巨大な鼻、黒いナイトキャップ。モリエールの顔を覗き込む。)
 モリエール(恐れて。)
   おお、お前は悪魔・・・夜のベッドに、何の用か。
   あっちに行ってくれ。私は寝ているのだ。
(音楽。)
 ラグラーンジュ
   私は内科の医者、プルゴンだ。
   騒ぐことはない。お前を診にやって来たのだ。
 モリエール(怖々(こわごわ)ベッドに起き上がり、坐る。)
   それはすまぬ。あ、あれは何だ!
(壁の肖像画が破れて、そこからデュ・クルワズィが登場。酔っ払った顔、赤い鼻。医者の眼鏡にナイトキャップ。)
 モリエール
   あ、またもう一人。
   (肖像画に。)これは、始めまして。
 デュ・クルワズィ(酔っ払いの低い声で。)
   性病科の医者仲間から代表で、
   お前のところへやって来たのだ。
 モリエール
   何だこれは。私は夢を見ているのか。
(彫像が壊れて、中からリヴァールが飛び出て来る。)
 モリエール
   何だこれは。不思議なことが起るものだ。
 リヴァール
   これはこれ、私は医学会の常任理事であるぞ。
(観客から笑い声。床から化け物が現れる。途方もない大きさの医者。)
 モリエール
   何だこの医者は。地下からもか!
   おい、誰か!(ベルを鳴らす。)
(ベッドの枕が裂けて、枕もとにムワロンが立っている。)
 ムワロン
   私は、かの有名なディアフワールス。
   音に聞えた医者ファマーだ。
(遠くにある第三の幕が上る。その後ろに、医者と薬剤師達のコーラス。みんな滑稽で奇妙なマスクをつけている。)
 モリエール
   しかし、何用あって、わざわざ来られた。
   もう夜もずいぶん更けている、この時間に。
 リヴァール
   お知らせを持ってやって来たのだ。
 医者のコーラス(覗きこんで。)
   お前を医者にしてやろうと思ってな。
 リヴァール
   医者がいなくて、
   誰がお前の内臓を診てくれるのか。
 モリエール
   医者がいなくて、
   誰が手づから下剤を呑ませてくれるのか。
 リヴァール
   いいぞ、いいぞ、いいぞ、いいぞ。
 医者のコーラス
   医者は高貴な職業、
   医者は最先端の職業。
 デュ・クルワズィ
   例えば・・・「梅毒」ならどうする。
 モリエール
   取っ捉まえて、無理矢理治す。
   八年かけて。
(客席から笑い声。)
 ラグラーンジュ
   こいつはいい、こいつはいい。
   素晴らしい解答だ。
 リヴァール
   たいした知識の持主だ、彼は・・・
 デュ・クルワズィ
   だからすぐ、思ったことをズバリと言う。
(平土間から突然片目、現れる。客席の端に坐り、芝居の終を待つ様子。)
 ムワロン
   そこで天国から迎えが来る・・・
 医者のコーラス(モリエールを覗きこみ。)
   医者にも学士号を与えなければ。
 モリエール(急におかしくなって。)
   マドレーヌを呼んでくれ!
   相談したいことがある。
   助けてくれ!
(客席から笑い声。)
 モリエール 観客のみなさん、笑わないで。今すぐ、今すぐに・・・(黙る。)
(音楽、暫く続くが、崩れる。ティンパニーの音に答えて、モリエールの楽屋に恐ろしい修道僧、登場。)
 修道僧(鼻声で。)奴の衣装はどこだ。
(急いでモリエールの衣装をかき集め、それを持って退場。)
(客席、大混乱。)
 ラグラーンジュ(マスクを外し、フットライトを浴びて。)みなさん、ドゥ・モリエール氏は、アルガン役を演じているそのさなか・・・倒れました。(悲しみを込めて。)芝居の続行は不可能となりました。
(沈黙。それから客席から、「金返せ!」の声。口笛と怒号。)
 ムワロン(マスクを外し。)誰だ、「金返せ」と言った奴は!(刀を抜く。切っ先を改める。)
 ブトン(舞台に現れ、咽喉を締めつけられたような声で。)誰だ、そんなことを怒鳴る奴は。
 ムワロン(客席を指さして。)お前か?・・・お前か?・・・
(沈黙。)
 ムワロン(片目に。)けだもの! 汚い奴!
(片目、刀を抜いて、舞台に上る。)
 ムワロン(猫のように、片目を迎え撃つために進む。)来るか。さあ来い。一騎打ちだ。
(ムワロン、モリエールの傍まで来る。モリエールを見る。(モリエール、既に死んでいる。)刀を床に突き刺し、後ろを向き、舞台から退場。)
(プロンプター、突然泣き始める。片目、モリエールを見る。刀を鞘に納める。そして退場。)
 ラグラーンジュ(ブトンに。)早く幕を下ろすんだ!
(コーラス、我に返る。医者、薬剤師達、モリエールに駆け寄る。モリエールの姿、コーラスの人影の中で見えなくなる。やっとブトン、幕を下ろす。観客から叫び声。コーラスの人物達、モリエールを運んで退場。それを追ってブトン、退場。)
 ラグラーンジュ さあ、みんなも手伝ってくれ。頼む。(幕の隙間から観客達に。)皆さん、お願いです。・・・どうか、お帰りを。・・・不幸な事態になりましたので・・・どうか・・・
 リヴァール(別の隙間から。)皆さん、どうか、どうかお帰りを・・・
(幕の下から物見高い野次馬達が、舞台に上ろうとする。)
 デュ・クルワズィ(第三の隙間から。)皆さん、どうか・・・どうか・・・お願いです。
 ラグラーンジュ あかりを消せ!
(デュ・クルワズィ、刀を抜いて、シャンデリアの蝋燭を切り、あかりを消す。観客の叫び、少し小さくなる。)
 リヴァール(隙間から。)どうぞ、私達にご配慮を・・・どうぞお帰りを・・・お芝居は終です・・・
(最後の蝋燭が切り落される。舞台は闇に包まれる。全ては消える。十字架の傍の蝋燭がつく。舞台は暗く、空っぽ。モリエールの鏡の前にブトン。背を丸めて、黒い衣装。カンテラが現れ、黒いラグラーンジュの姿、登場。)
 ラグラーンジュ(重々しい声で。)誰だ、そこにいるのは。
 ブトン 私だ。ブトンだ。
 ラグラーンジュ みんな行っているぞ。何故行かない。
 ブトン 行きたくないんだ。
 ラグラーンジュ(自分の楽屋に行く。坐る。緑色のあかりをつけ、ノートを開き、喋りながら書く。)「二月十七日、ドゥ・モリエール氏作「気で病む男」の第四回公演あり。夜十時、アルガン役を演じていたドゥ・モリエール氏は、舞台で倒れ、告解(こくげ)をされることなく、その場で冷酷な死の手に連れ去られる。」(間。)その印としてここに、一番大きな黒い十字架を描く。(考える。)この死の原因はどこにあるのか。何がもとなのか。どのように書いたらよいか・・・国王の不興を買ったこと、それに、神聖同盟・・・そのように書いておこう。(書く。そして闇の中に消える。)
                     (幕)

     平成十三年(二○○一年)五月一日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html