ミシェル・オクレール
   (ガストン・チエソンに捧ぐ)
      シャルル・ヴィルドラッック 作
        能 美 武 功 訳

   登場人物
ミシェル・オクレール 二十六歳 書籍販売業者
スュザンヌ・キャトゥラン 二十三歳
マダム・キャトゥラン 五十歳
ルイ・キャトゥラン 二十一歳 歩兵軍曹
アルマン・ブロンドー 二十八歳 再役の下士官 次に曹長
コルソン 食堂の経営者
ピエロ 若い男
 
(時は一九一四年以前。フランスの田舎村。従って、アルマン・ブロンドーとルイ・キャトゥランは、昔の軍服姿。即ち、赤い色のズボン、チュニックに軍帽、肩章。)

     第 一 幕
(家の前に庭。舞台奥、中央に、家の玄関。その両側に窓。窓の外にジェラニウムの鉢が対称をなして置かれてある。その前に花壇。右手前方に、小さな花の灌木に面して、テーブル。その周りに椅子(複数)。春の午後の光がいっぱいに照らしている。)

     第 一 場
(マダム・キャトゥランが、家の玄関の前、舞台奥のテーブルについて、編物をしている。スュザンヌも忙しそうに縫物。ミシェルは両手をポケットに入れて、スュザンヌの前を行ったり来たりしている。)
 ミシェル マダム・キャトゥラン!
 マダム・キャトゥラン なあに?
 ミシェル 子供思いのお母さんなんでしょう? 娘さんに言って下さいよ、僕と散歩をするように。小川の岸を。
 スュザンヌ あら、また誘惑して! 言ったでしょう? ミシェッル、この半袖を仕上げなきゃならないんだって! 何もかもは出来ないの。今夜ダンスパーティーに行くんだったら、今は・・・
 マダム・キャトゥラン それに、弟もすぐ来るの、ミシェッル。勤めが五時に終ってすぐ。あの子が帰ってみて、あなた達二人がいないのはいけないわ。姉さんといる時間がなくなってしまうでしょう?
 ミシェッル ええ、分りました。それに、ここもとても気持がいい。
 スュザンヌ さあ、私の傍に坐ったら? そして本を読んで下さると嬉しいわ。
 ミシェッル(また歩きだして。)本は今日はちょっと駄目だ、スュゾン。読んであげたいのはやまやまなんだけど・・・出発前の最後の日曜日だからね、今日は。
 スュザンヌ でも、出発の日、まだ決っていないんでしょう?
 ミシェッル 決ってはいないけど、明日にでも出発の可能性があるんだ。今朝僕は考えた、そして決心した。今日の日曜日は普通の日曜日と同じにしなくちゃ。僕は出発なんかしないんだ。スュゾンと本を読んで、スュゾンと笑って、スュゾンと黙って・・・
 マダム・キャトゥラン あら、私とは何も?
 ミシェル とんでもない。勿論一緒にですよ。ああ、この出発っていうやつ! 一週間前に仕事を辞めてからこっち、ずっと僕はホームで汽車を待っている人間のような気持ですよ。汽車はまだ来ない。さっさとホームを出て、正面のカフェに入ればいいものを、いらいら、いらいらしながら待っている。
 スュザンヌ まあ、それ、大げさよ。まだホームには入っていないんですからね。
 ミシェル でも、次の仕事はもう決っているよ、スュゾン。第一歩はもう踏み出してしまっている。モンティフルワ図書館では働いていない。あの古くさい書庫から外に出ている。ほら、手だって黴(かび)の臭いはしない。この一週間馬鹿な本には全く触っていない。そして有難いことに、この一週間僕は、ここサンセルジュの住民に、連中が咀嚼(そしゃく)もしないでただ書かれた言葉を繰り返すだけのための材料を提供する役目も、しないですんでいる。あの鸚鵡(おうむ)の連中のためにね。
(スュザンヌ、笑う。)
 マダム・キャトゥラン 声が大きいわよ!
 ミシェル でも、この一週間というもの、僕は何をしたらいいか、身体を持て余した。何だか落ち着かなくて。本も読めないし、釣にも行けない。人に会う気にもなれない・・・それで、野原でもゆっくり散歩したらどうかと考えたんだが・・・あまりに良い天気でね・・・
 スュザンヌ あまりに良い天気?
 ミシェル そう、あまりに・・・窓口の後ろでスュゾンが一生懸命事務をとっていると思うと、こんな良い天気に、野原で僕一人がのうのうと・・・良い天気過ぎだ。
(スュザンヌ、優しくミシェルの方に目を向ける。ミシェル、歩きながらそっとスュザンヌにキスをする。)
 ミシェル ああ、そうそう、マダム・キャトゥラン。息子さんが一昨日、僕をビリヤードに誘ってくれたんです!
 マダム・キャトゥラン でもあなた、ビリヤードは出来ないんでしょう?
 ミシェル ええ、出来ません。でも、出来るふりをしたんです。ルイの友達がいて、その男を苛々させてやりましたよ。ほら、あの立派な鼻髭をはやした偽士官・・・
 スュザンヌ ブロンドー?
 ミシェル そう、ブロンドー。
 スュザンヌ あなた、どうしていつもあの人のことを偽士官って言うの? 軍服をきちんと着て、立派にしていたっていいじゃないの。軍服が似合うんだから。弟もあんな上衣・・・黒くて、いい生地(きじ)を使った、ピッタリの仕立てで、高いカラーの・・・あんなのを着せてみたいわ。
 ミシェル 駄目だよ、スュゾン、気をつけなきゃ。下士官のあの衣装はね、本物の軍人になるという標(しるし)なんだ。ブロンドーはだから、本物の軍人を目指している。つまり、あの立派な、夢のような衣装を着るために、軍隊に再役(さいえき)した男なんだ。ルイから聞いたんだけど、ブロンドーは今、士官と下士官の中間にいる若い兵隊達に教授する役をしているんだ。下士官の上の地位があってね、その役を再役下士官がやるんだよ。  
 マダム・キャトゥラン あの人、士官になるために勉強しているようよ。
 ミシェル 大佐になるか、憲兵になるか、それはあの鼻髭の向いている方向で決るよ。
 スュザンヌ 人をからかって!
 ミシェル よし、それなら大佐にしとこう、僕が出発するまでは。まあどっちでもいい。とにかく彼は悪い人間じゃないし、ビリヤードはうまいからね。ただ、ルイに悪影響だけは止めてもらいたいんだ、あの軍服でね。
 マダム・キャトゥラン それは心配いらないの。あの子が今軍隊にいるのはただ、ここの駐屯部隊にいるためだけ。あの子には職業があるんですから。
 ミシェル つまり彼は明日のサンセルジュにいるということだ、我々と共に。ね? スュゾン。
 スュザンヌ(ちょっとの間の後。)あーあ、つまらないわ。私、明日のサンセルジュが来るまではここ・・・今日のサンセルジュ・・・にいなきゃいけないんだもの。
 ミシェル 違うな! そう見えるだけだよ、それは。それに、冒涜だよ、そんなこと言っちゃ。確かに君は相変わらず郵便局で事務をとる。今まで通りだ。機械的に為替を組む・・・ゲルブワさんがバター業者に送る為替だ。
 スュザンヌ 有限会社ルグリに送る為替・・・
 ミシェル だけど、今度は僕の手紙があるぞ、スュゾン。僕がパリに着くとすぐ、君はパリを見ることが出来るんだ! 僕の手紙にパリのことが書いてある。僕の歩くパリでの一歩一歩を君も歩くんだ。僕はあっちの図書館の事務局に入る。すると君は、僕があそこで習うこと全てが分るんだ。あそこで僕が会う人、考え方、僕が読む本、全部だ。僕はしっかりと吸収する、図書館の隅々(すみずみ)まであたって。古いもの、新しいもの、フランスのもの、外国のもの、みんな調べるんだ。僕は読むぞ! 新しい作家は全部。昔ヨーロッパのエリート達が好んで読んだ作家も全部。サンセルジュで名前さえ聞いたことのない作家もだ。ねえスュゾン、君は、僕の驚きを、僕の獲物を、僕の希望を、全て共にするんだ。もっとも君が厭だって言うのなら、話は別だけど・・・
 スュザンヌ(抗議して。)厭だって? 酷い!
 ミシェル 僕と一緒にすぐに共に出来ないものはね、僕がここに帰ってからだ。いいね? スュゾン。
 スュザンヌ あちらで見つけた一番綺麗な本、送って下さるわね?
 ミシェル 勿論だよ。そして一年後、ある晴れた朝、僕はサンセルジュで汽車を降りる。誰が待ってくれているか、僕には分ってるよ。(間。)僕は急にはここの人達を驚かすようなことはしない。最初にやることはちょっとした財産作りだ。プロイヤンの水車小屋を売る。あそこは叔父さんが死んでから全く家賃が入って来ないんだ。
 マダム・キャトゥラン まさか、立ち退かせるんじゃ・・・
 ミシェル いや、財産はちょっと作らないと。それから僕達は結婚するんだ。ね、スュゾン。(快活に。)そうでしょう? マダム・キャトゥラン。
 マダム・キャトゥラン あなたがスュゾンとの結婚のことを言わなくなってから、随分たつわ。一年前には、あなたに何を頼んでも・・・薪を割って・・・ランプをつけて・・・こんなことでもあなた、すぐ言ったわ・・・一つ条件があります、スュゾンとの結婚を許して下さればって。あれからこっち、あなた、慎重になって・・・
 ミシェル ええ、真剣になったからですよ、それは。
 スュザンヌ ママ、私よ、今話しかけられているのは。
 マダム・キャトゥラン あらまあ、私はつんぼ桟敷?
 ミシェル(走りより、マダム・キャトゥランにキスして。)だってお母さんは賛成して下さったからですよ。(スュザンヌのところに戻って来て。)僕が何て言ったって?
 スュザンヌ 「僕達は結婚するだ、ね? スュゾン」
 ミシェル そう、そうだよ、僕達は結婚するんだ、スュゾン。二人が結婚して、最初に歩く道、それは世界で一番綺麗な道だぞ。僕は君の手を取って、野原を、森を、村を横切って行く、時には走ったり、時にはゆっくり歩いたり。スュゾンは疲れた。さ、横になろう。木陰にね。真夏だから。あたり一面花、花、花、だ。スュゾンの、そこで見るのは、素晴しい世界だ。普通の人には別に何でもない・・・スュゾンが働いている郵便局の時化(しけ)た風景・・・と同じかもしれないけどね。僕は違うぞ。スュゾンと同じ目でこの風景を見るんだ。そう、プロヴァンス、マルセイユ・・・
 スュザンヌ ニースよ、ミシェル!
 ミシェル ニース、アルプス、サヴワ、海、木、鐘楼、山、雪、雲! そして僕らはサンセルジュに戻って来る。「僕の妻、そして僕」・・・二人には大きな計画があるんだ。
 スュザンヌ(ミシェルの勢いにつられて。)ああ・・・
 マダム・キャトゥラン 市民大学はどこに作るの? ミシェル。
 スュザンヌ 大学じゃないの、ママ、図書館よ!
 ミシェル 最初は図書館なんです、マダム・キャトゥラン。心配しないで。とにかく図書館をやって、それからの話です。
 マダム・キャトゥラン この子がいろんなことを話してくれたので、つい・・・
 ミシェル(マダム・キャトゥランに近づいて。)パリから戻って来ると、僕は図書館の事務が出来るようになっているんです。図書館の仕事、それはどうしても知っておかなければならないものです。それを僕はまだよく分っていないから・・・それで僕はここに図書館・・・本物の図書館を作るんです。便箋(びんせん)とかペン拭き、絵葉書、そんな、ものの販売はモンティフルワ家の人々に任せておけばいい。婦人図書館、それに地方新聞もね。僕は本を売る、そして本を貸す。プラッス・ドゥ・ラ・フォンテヌリの角に居を構える。ああ、そこはいろんな人間が通りかかるところだ。労働者、上流階級に雇われている事務員達、町にやって来た兵隊、市場に行く金持連中、ポン・ドゥ・ヴュに散歩に行く遊び人達・・・僕の図書館には、ただで読める部屋が用意してある。あらゆる種類の新聞と雑誌だ。サンセルジュの人達が、今まで思いもかけなかったような種類のね。
 スュザンヌ ね、ママ、分るでしょう? だから、みんなは買うことになるの。購読の予約をしたり・・・
 マダム・キャトゥラン ただ・・・人が来てくれるかね?
 ミシェル 来ますよ、それは!・・・だんだんにですけどね。いや、ひょっとすると、放っておくと駄目かもしれない。その時には、僕が捜しに行きます。僕には、誰にでも話しかけることが出来るという希有(けう)な才能があるんです。まづ最初は、僕の友人・・・
 スュザンヌ サンセルジュに、みんなで行ける場所が一つ増えたことが分れば、それはみんな行くわ。
 ミシェル 連中はすっかり退屈しているんだ。必ず来るさ。見ててご覧。五時ともなれば、飲みもせず、図書館の腰掛けに飛ぶようにやって来る。サンセルジュ新聞を読もうと、中身を消化しようと。自分達がまだ、どんなに空虚かってことに気づいていないんだから。どれだけ退屈しているのかだって、分ってはいないのさ。連中の心の空虚さは僕が測ってやる。それが分った時はきっと、目を丸くするね。誰もかれもが恢復(かいふく)不可能なほど重傷じゃない。全員が年寄りって言う訳じゃないんだ。啓蒙のためのパンフレットを印刷して配る。いろんな場所で連中は目を覚ますさ。カフェで、髪結いで、ミサの帰りに、ベッドから起き上がった時、日曜日の朝食の時・・・僕がわざわざ言わなくても連中、自然にそれに気づくんだ。ねえ、お母さん、僕らがやろうとしているのはね、僕らが好きな本を連中が好きになることなんです。それも、全くそれと気づかないうちに、自然に。勿論そのために特別なことをするんじゃありませんよ。ただ楽しんで貰うだけ、それでそうなるんです。そして三年経つ、五年経つ。このサンセルジュがどう変っているか! サンセルジュのコンサート、サンセルジュの友情! ああ、スュゾン、僕はね、いろんなところに、同じ本があるようにしてみせるぞ。イルブリュナー工場の職工の家にも、帽子屋のリカールの家にも・・・リカールは馬鹿じゃないんだ・・・それに、治安判事の家にだって・・・ベルモットを飲み過ぎて少しぼうっとなっているんだけど・・・それから、スュゾンが郵便局を辞めた後、その後を引き継ぐ女の子の家にだって。サンセルジュの人々が持っている共通のもの、それは今はただ、あの「倦怠」だけだ。しかし、僕が帰って来たら、その共通のものは、あの本・・・あの本の精神になるんだ! 道を歩いていたって、鼻を上に上げて、小声で歌を歌う・・・鼻を下へ向けて人の動作を探るようなことはもうしなくなるのさ。
 マダム・キャトゥラン まあまあ、そんなこと、出来るのかしら。
 スュザンヌ ねえミシェル、貸出し用の本には、全部統一した本のカバーをつけるのはどうかしら。そしてそのカバーに・・・
 ミシェル ああ、それは駄目だ。
 スュザンヌ ねえ、とにかく聞いて! カバーの上の方には色つきの字で「ミシェル・オクレール図書館」、下の方に何か格言を入れるのよ、例えば・・・
 ミシェル 例えば?
 スュザンヌ 分らないけど、私なら、「精神を養おう」とか、「読書は心を豊かにする」・・・勿論これ、出まかせのものだけど・・・
 ミシェル 駄目だよ、スュゾン、それは。僕は兵隊さんにやるように、本に同じ服を着せるのは賛成しない。図書館の本が、他の本と見分けがつかないなんて、問題じゃない。本っていうものは元々自立した一個の人間なんだ。その一個の人間に直接ぶつかって行けるようでないと駄目だ。だから、カバーを統一すると言ったって、精々が同じ著者の本には同じカバーを、どまりにしなきゃ。ねえ、スュゾン、借り出してから一週間、その本は借り手のところにある。その間は、借り手はその本が自分のものだっていう気持になってくれなきゃ。そう、好きでその本を読んでいる限り、その本は借り手のものなんだ。自分の他の本と一緒に棚の上に並べてね。何か自分のとは別のものがそこにあるっていう感じがしてはいけないよ。ミシェル・オクレール図書館の表示だって、カバーの内側にこっそり・・・その他には登録番号だけがあるっていう風にしなくちゃ。
 スュザンヌ そう思う?
 ミシェル そうだよ、スュゾン。それから格言・・・標語・・・これは駄目だ。こんなものは決してつけちゃいけない。大きな間違いだ。大学にいた頃ね、僕は母親に手紙を書くのが好きだったけど、食堂の壁に大きな字で「家族に手紙を!」と書いてあってね。そのせいで、何度も僕は書く気がしなくなってしまった。格言の代りに良い考えがある。本の一番最後に白い頁をもうけてね、そこにその本を読んだ人の名前を書いてもらうんだ。すると、同じ本を読んでいる人の名前を、二回、三回・・・十回と見ることになる。そしてその人達が出逢った時、同じ本の同じ素敵な宝を共有していて、それについて話しあえるんだ。いや、偶々出逢うんじゃない。その共通の本のお蔭で、その二人が同じ町の人だったら、会おうとするようになるかもしれない。その著者についてのお喋りをするようになるかもしれない。いや、その著者の作品の朗読会が行われて、その著者のファンが一堂に会するかもしれない。
 スュザンヌ そうよミシェル、署名が百集まったら・・・それが本当に素敵な本だったら、その本をお祝いするのよ。
 マダム・キャトゥラン 貸出しの本のお陰で結婚する人だって出て来るかもしれないわ。
 ミシェル 本当にそうですよ。間を取り持つのが、もし詩人だとしたら、それは勿論牧師や取持ちばあさんがやるよりずっといい筈です。
(この時までに、ルイ・キャトゥランとブロンドー、が右手から登場している。)

     第 二 場
 ルイ(ミシェルと握手して。)ああ、ミシェル。何の話です? 取持ちばあさんと牧師を結婚させようとしているんですか? すごい話ですね。ああ、ママ!(マダム・キャトゥランにキス。)姉さん!(スュザンヌにキス。)(ミシェルとブロンドー、握手。)僕、ブロンドーを夕食に連れて来たよ。僕らと一緒にダンスパーティーに行くって言うから。
(ルイ、ベルトと銃剣を外し、木にかける。上衣のボタンを外す。)
 スュザンヌ(この時までに立上がっていて、ブロンドーに片手を差し出す。)今日は、ムスィユ。
 ブロンドー マドゥムワゼッル・・・(マダム・キャトゥランに、お辞儀をしながら。)キャトゥランに誘われてやって来たんですが・・・お邪魔だといけません・・・
 マダム・キャトゥラン いいえ、あなた。子供のお友達をおよびするのは楽しいですわ、いつでも。すぐ椅子を持って来ます。どうぞお楽になさって・・・
(マダム・キャトゥラン、家に入る。続く場の間、少し家と外との行き来をして場を整える。)
(この時までにスュザンヌ、また坐っている。)
 ルイ(椅子を並べながら。)さあ、ブロンドー、坐って。楽にして。(ルイ、ブロンドーの軍帽を取り、テーブルの上に置く。ブロンドー、軍刀を両方の腿(もも)で挟んで坐る。)
 ミシェル(ブロンドーに。)そんな刀なんか、さっさと外して! ダンスにそんなもの持って行くつもりなんですか?
 ブロンドー(軍刀をミシェルに渡す。ミシェル、それをテーブルの上に置く。)それもそうだ!
 スュザンヌ ダンスの時、ちゃんと帯びてないといけないんじゃないかしら?
 ブロンドー いえいえ、マドゥムワゼッル、それはクロークに預けます。
 ミシェル それは残念だな。刀を帯びていた方が面白いのに。
 ルイ 相手の女性の足にからまってね。
 ブロンドー 笑わないで。昔はちゃんと刀を帯びて踊ったんだから。「マダム・アンゴの娘」っていう芝居を見ませんでしたか? その芝居では、オージュロの軽騎兵が脹脛(ふくらはぎ)にバタバタ刀があたるのを、委細構わずワルツを踊るんです。あれは驚いたな。
 ルイ そうそう。でも、(テーブルの上の刀を指差して。)これよりずっと短い刀、鞘の丁度半分のところに紐がついていて、それをぶら下げる。
 ブロンドー そう言えば、昔はサーベルの横に小さな鞄をつけていた。そう、あの頃の軍服はよかった。今と比べてずっと・・・
 ミシェル(陽気に。)ああ、それから、長い柄のついた拍車があった。舗道を歩くと、カシャッカシャッといい音。馬の腸(はらわた)にしみわたるような音。美人の胸にしみわたるようないい音。ああ、あれはよかった。そしてこのフランス大帝国のもとで、もっともっと良く響く音になったんだ。(マダム・キャトゥラン、玄関の階段の踏石のところまでジャガイモを持って来て剥こうとしている。そのマダム・キャトゥランに。)マダム・キャトゥラン、それ、僕にやらせて。
 マダム・キャトゥラン いいの、そんなこと。ほっといて。
 ルイ スュゾン、その胴着、見せて。
 スュザンヌ 今は駄目。待って。まだ終ってないの。
 ルイ いいから、見せて。ちょっとでいいんだから。
 スュザンヌ 待ってなさいって。(ルイ、胴着をさっと取上げる。)まあ、ルイ! ほら、針が・・・ミシェル、この子を叱って。
 ルイ やった、やった! これなんだ・・・
 スュザンヌ しようがないわね、本当に。どこか分らなくなったじゃないの。ムスィユ・ブロンドー、この子を叱って。
 ブロンドー それが・・・叱る権利がないんですよ、マドゥムワゼッル。僕と彼とは同じ位(くらい)だから・・・いや、違っていたって、ほぼ同じなんです。
 ルイ(ブロンドーを指差しながら。)だけど・・・そうだ、大ニュースがある。
 ブロンドー(謙遜に。)ほらほら、ルイ、黙ってるんだ。
 スュザンヌ 何のニュース?
 ミシェル 試験に通った?
 ブロンドー いや・・・本当に何もないんだ。
 ルイ この人、僕を叱れるんだ、スュゾン。副官に通ったんだから。
 マダム・キャトゥラン(この時までにブロンドーに近づいていて。)ああ、それはよかったわ。
 スュザンヌ おめでとう。
 マダム・キャトゥラン 副官って、士官?
 ブロンドー ええ、まあ・・・ほぼ・・・
 ミシェル 副官・・・その年でなるなんて、大変なことだよ。兵隊あがりの副官って言ったら、大抵はもう、かなり年をくっていて、恐ろしい顔つきをした人達ばかりだ・・・
 ブロンドー(微笑んで。)確かに。ここの部隊で僕が一番若い副官になる。でも、僕の場合は全く特別だから・・・僕はこの位(くらい)から始めることになっていて・・・試験が通れば・・・
 ルイ 士官になる・・・
 ミシェル じゃ、陸軍士官学校、サン・メクサンに入るんだね?
 ブロンドー いや、そうじゃない。あの試験はとても難しくて・・・受ける人間がわんさといる。僕も四年間受けているんだけど、まだ受かってない。それで、別の道を選ぶことにした。まづ林務官の試験を通ってからっていう方法・・・これは実はあまりみんなには知られていない。この林務官になれれば、かなり待遇がよくて。僕はこの試験なら、まあかなり難しくても通るだろうと思っている。・・・実は大佐が僕を見込んで、このことを教えてくれたんだ。僕のことを副官に任命したのも、僕を引き立ててやろうという考えなんだ。昨日の朝やってくれたんだけどね、それは。とにかくあの大佐は士官候補生の経歴をよく見てくれているよ。
 スュザンヌ 親切なのね、あの大佐。私、恐ろしい人だとばかり思っていたわ。
 ルイ 食えない人だよ。風采には気をつけるしね。いつも堂々たるもんだ。
 ブロンドー そして自分の勘を信じる人。この間の晩、僕はフィリピ大尉と兵舎を出るところだった。丁度その時、大佐が入って来た。僕は軍装第一種・・・そう、今着ているこの軍服を着ていた。気をつけをして大佐に敬礼した。大佐は立ち止って、僕を見て、フィリピ大尉に言ったんだ。「ああ、士官にしていい男じゃないか」って。大佐は僕の名前を聞いて、「そう言えば君、サン・メクサン陸軍士官学校の準備をしていたんだったね」と言ってくれた。大佐はこの時まで僕に話しかけたことは一度もなかったんだ。それから暫くして、僕を呼び出して、林務官の試験の話をしてくれたんだ。
 ミシェル そのための準備を誰かに・・・?
 ブロンドー うん。大学入学資格を持っている若い兵士がいて、彼がやってくれている。毎晩一時間。だから、その間の雑役もしなくていいんだ。
 ミシェル 君、運がいいよ。
 ルイ(ミシェルに。)ミシェル、いつ発つの?
 ミシェル 二三日のうちに。もう用意は出来ている。
 ルイ(立上りながら。)ああ、幸せな人。こんな穴から抜け出して、パリに行くなんて。
 ミシェル 「穴」ね。そう、僕はパリから帰ったら、その穴を埋めるんだ。そうだ、僕だけでやるんじゃない。みんなで一緒に埋めるんだ。いいだろう?
 ブロンドー 君がパリから帰って来る頃には、僕はこの國のどこかの森の視察をしている・・・そうであって欲しいんだが・・・緑色の制服を着て、馬に乗ってね。
(ミシェルとブロンドー、話を続ける。その間に。)
 ルイ 姉さん、その縫い物、もうすぐ終るんだろう?
 スュザンヌ そうよ。どうして?
 ルイ 夕食前にちょっと散歩して来ようと思って。一時間ぐらい。
 スュザンヌ でもこれ、もうあと十五分はかかるわ。ひょっとしたら三十分・・・
 ブロンドー 待ちますよ、マドゥムワゼッル。
 マダム・キャトゥラン ちょっと見せてごらん・・・ああ、私がやっておくわ。あなたは散歩に行ってらっしゃい。日曜日だもの、若い人達の散歩、大事よ。
 スュザンヌ でも私やる、ママ。もう少しだもの。
 ミシェル(ルイに。)どこに行くの?
 ルイ 塞(とりで)の方を一回り。途中でゲランさんの家によって、今日ダンスに来るかどうか訊いて・・・
 スュザンヌ じゃあなた、ブロンドーさんと二人で先に行ってらっしゃい。ゲランさんのところで待ってて。追いつくから。これ、もうすぐ終。
 ルイ 分った。行こう、ブロンドー。
 ブロンドー(自分の剣と軍帽を取って。)じゃ、マドゥムワゼッル、お別れの挨拶は省略して・・・
 スュザンヌ じゃ、後で。
 ミシェル じゃ、またすぐ。
 ブロンドー(マダム・キャトゥランに。)では失礼します、マダッム。
 マダム・キャトゥラン じゃ、ね、ムスィユ。また後で。いいわね、ルイ、七時半にはみんなを家に連れて来るんですよ。
 ルイ 分った。(ブロンドーに。ブロンドーと一緒に退場しながら。)ねえ、ブロンドー、これから行くゲランさんの家にはダンスの上手な女の子がいてね・・・

     第 三 場
 ミシェル(間の後。)ゲランさんの家の子がダンスが上手だって言ったって、スュザンヌ・キャトゥランに敵(かな)う訳がないよ。
 スュザンヌ ああ、ミシェル、私達、今夜踊るのよ。踊って踊って・・・一年分を二人で踊るの。
 ミシェル うん。
 スュザンヌ そうよ、ミシェル、この間ダンスの時、私をからかったでしょう? あんなこと、もうしちゃ駄目よ。「三度目のダンスが終ったら、僕はみんなの前でスュゾンにキスするんだ」なんて、踊りながら言ったりして・・・
 ミシェル でも、キスはしなかったよ。
 スュザンヌ でも、もう少しでしそうな勢いだったわ。
 ミシェル 今夜は僕は、ダンス中に君に喋ったりなんかしないよ、スュゾン。君を見ることだってしない。一緒に、同じ気持で踊っている・・・どんな思いがけないことが起っても・・・その楽しみを感じるだけでいいんだ。君、気がついてる? 僕ら、踊っている時、二人でさっと、前と違うステップを踏む。二人同時にだよ。二人でもう、前もって決めていたかのように。君、分ってた? これ、素晴しいことなんだ。踊りの状況は前と何も変っていないのに、即興で、二人とも、パッと同じことをやる。二人で前もって決めていたかのようにね。
 スュザンヌ ええ、でもミシェル、上手に踊る人はみんなそうよ。
 ミシェル うん、それはそうだ。他の人と踊ったことがあるけど、うまい人なら同じか。ただ僕はそう思っていなかったな。君とだと、その気持の一致が楽しい・・・いや、楽しいだけじゃない。僕を幸せにしてくれるんだ。君と踊ること、それはただのダンスじゃないんだ。
 スュザンヌ 私・・・私、ダンスはあなたとしかしないわ。
(間。)
 男の子の声(舞台左手から。)ムスィユ・オクレール!
 ミシェル(左手に進みながら。)ああ、家の隣の子だ。さ、ピエロ、入って。
 ピエロ 電報です。今さっき来たんです。きっとここだと思ったから・・・
 ミシェル(電報を受取って。)有難う、ピエロ。よく持って来てくれたね。内容は分ってる。有難う。
 ピエロ(退場しながら。)さよなら。
 ミシェル さよなら、ピエロ。
(マダム・キャトゥランとスュザンヌ、急いでミシェルに近づく。ミシェル、電報を読んでいる。)
 マダム・キャトゥラン パリから?
 スュザンヌ 出発の話?
 ミシェル うん、出発だ。
 スュザンヌ いつ?・・・ね、いつ?
 ミシェル(ちょっと考えた後。)うん・・・そう、今晩だ。
 スュザンヌ 今晩?
 ミシェル うん。昨日来ると思っていたんだ、この電報。それから、今朝にもね。それなのに、今の今、すっかり忘れていた。手紙が来ていたんだよ、月曜日の朝・・・明日の朝来て欲しいということになるかもしれない、その時には電報で知らせるから、と。
 スュザンヌ あなた、何も話してくれてなかったわ。
 ミシェル それはそうだよ。確かな話じゃなかったんだから。今日行くことになるかもしれないなんて言って、昨日の折角の晩餐を台無しにしたくなかったからね。それに、今日のダンスパーティーを。自分で荷造りをするだけにしておいたんだ。
 マダム・キャトゥラン 今日発つなんて・・・こんな風に・・・それは無理ですよ。
 スュザンヌ 明日になさい。
 ミシェル あちらでは明日の朝から始めると言っているんだ。こっちはそれに応えることが出来るんだし、ちゃんと応えてやらなきゃいけないよ。七時半の汽車しかないんだ。他には方法はない。
 マダム・キャトゥラン それに、夕食が・・・
 スュザンヌ だって電報がもうあと二時間遅れていたら、明日発たなきゃならなかったのよ。だから・・・
 ミシェル ぎりぎりではあっても、とにかく間に合って電報は届いたんだ。僕は行かなきゃ。パリからの帰りのことを思って、僕は行く。
 マダム・キャトゥラン 夕食は作ります。今すぐ。
 スュザンヌ 荷物は?
 ミシェル ねえ、二人とも、聞いて。出発のことは、その可能性があると分っていたんだ。現実のことになったのは急だけど、これはその方が良かったと思う、僕は。
 スュザンヌ 私は反対。
 マダム・キャトゥラン 急ですよ、これは。あまりに急。
 ミシェル トランクも外套も、家にちゃんと用意してあります。何もかも整っていますから。お母さん、では、夕食の弁当はお願いしますよ。軽いものを。車中で戴きます。スュゾンと僕は、ルイを追いかけて、それから三人で家に帰って、荷物を取って来ます。
 スュザンヌ(悲しそうに。)それから駅まで見送り。
 ミシェル そうだよ、スュゾン。時間は充分ある。悲しいことなど何もない。これからだって、いつも空は晴れ渡っている。もう一度言うけど、この出発は計画のうちに入っていたことなんだ。幸せへの出発なんだ、これは。マダム・キャトゥラン、うちのノウゼンハレンに水をやるのはまだ早過ぎます。日がまだあんなに高いから。明日の朝、水を忘れずにお願いします。明日だけでなく、毎日・・・きちんと。花が咲くようになるまで・・・
 マダム・キャトゥラン 心配しないで。押し花をスュゾンが送りますよ、手紙で。さ、あなたのお弁当を作らなきゃ。
 ミシェル 祖末なものでいいんですよ。
 スュザンヌ いいえ、素敵な夕食を。私のお弁当籠を使って、ママ。
 マダム・キャトゥラン(家に入りながら。)任せなさい、私に。

     第 四 場
 スュザンヌ ああ、ミシェル、あなた、行ってしまうのね。
 ミシェル 笑ってさよならを言い合うって約束した筈だよ。熱烈なキスの後でね。君がそう言ったんだよ。とても落ち着いて、しっかりと。
 スュザンヌ 自分で言ってて、本当は何も分っていなかった・・・
 ミシェル 今だってまだ何も分っていないんだよ、スュゾン。この何日か、君は僕の出発のことしか考えていなかった。今の今までね。だけど、僕を送って、駅から帰ってくれば、今度は僕のパリからの帰りを考えることになるんだ。
 スュザンヌ 私、出発のことも考えていなかった。だって、あなたはちゃんといたんですもの。(間。)朝出かける前にあなたにちょっと会える。そして午前中ずっと楽しみがあったわ。だってあなたが一時にここにコーヒーを飲みに来る・・・それが分っていたから。そして夕方は本の朗読。あなた、私をいろんな工夫をして驚かせてくれたわ。本当に思いもかけない方法で。郵便局に贈り物を届けて下さったり・・・私には、私のことをいつも気にかけているミシェルがいる・・・たとえ姿は見えなくても、って思えるのは何て素敵だったんでしょう。でももう・・・
 ミシェル それが終になるなんて、とんでもないよ。これからが始まりなんだ。これから君は、マダム・スュゾンになるんだ。これからなるマダム・スュゾンがどんな人か、君には全く見当がついていない・・・郵便局への贈り物、本当に思いもかけない・・・そんなもの、これから君にやって来ることに比べたら、何でもないつまらないものなんだ。ちょっと想像力を働かせてごらん。将来僕ら二人がする旅のこと一つとったって、すぐ分るじゃないか。
 スュザンヌ 将来・・・旅・・・先のことだわ。
 ミシェル すぐに分ることだよ、これは。すぐに。いいかい? 本当に真面目に将来の幸福のことを考えれば・・・優しい翼を持った・・・勇敢な、力強い翼を持った・・・そんな幸せ・・・それをちょっと考えただけで、もう僕の帰りまでの日数を数える暇さえなくなってしまうんだ。
 スュザンヌ ああ、あなたが帰る日・・・
 ミシェル 僕が帰る日はね、今日と同じようにいい天気なんだ。朝早くに・・・夜が丁度あけた時・・・プロイアン風車のあるあの牧場で、僕等の場所で、僕等のあの林檎の木の下で、二人は会うんだ。お互いに見詰め合う。一緒に笑う。二人同時に。それからの幸せについて話すんだ。僕等は言う「よし、準備は出来た。もう出発しかない。清々(すがすが)しい門出、美しい旅立ち。お祝いだ。僕等の企てのともづなを解く時だ」ってね。一年間の空白など、一瞬のうちに消えてしまう。再び会うその春は、今日の春にそのまま繋がっているんだ。その時のプロイアンの牧場・・・それは、昨日僕等が行って来たあのままの牧場なんだ。林檎の花、しもつけ草、真っ白いポプラの木の葉っぱ・・・昨日と同じだ。ただ、どうしても朝でなくちゃ。そして二度の春が、その同じ時に・・・分るね?
 スュザンヌ ええ。
 ミシェル それから家に帰る。僕が家の整理をしている間に、君は大工と左官屋に行く。そして図書館の造りを連中に説明するんだ。僕はレキュイエのところを手に入れようと思っている。温室栽培の場所なら他にいいところを捜せる。あそこは広々としている。あそこにまづ、囲いをして・・・二階にはダンスの会場より広い会議室を作るんだ。
 スュザンヌ 壁は全部、薄い灰色に塗るのね?
 ミシェル うん、真っ白でもいい。
 スュザンヌ(間の後。)ああ、まだずっとずっと先の話・・・
 ミシェル これ以上早くは無理なんだ、スュゾン。僕は今日発つんだからね。
 スュザンヌ(笑って。)意地悪!
 ミシェル それからね、スュゾン、僕はここに、一年のうち二、三回は帰って来る。お祭の時、汽車に飛び乗ってね。朝着いて、夜ここをまた発つんだ。
 スュザンヌ じゃ、二箇月後に一回目・・・パリ祭に!
 ミシェル 多分。それから、君の方も一度はパリに来るんだ。一日でもいいから。でも君、疲れるだろうな、二晩も夜汽車じゃ。
 スュザンヌ 汽車で私、寝るわ。それから、帰って来た次の日も寝る。ああ、ママが許してくれさえすれば、私、行く!
 ミシェル(スュザンヌを見て。)ママは許すよ。僕からも頼んでみる。君は来る。僕と一緒にパリを歩くんだ・・・ね、君、みんな持って来るんだろう?
 スュザンヌ みんな・・・って、何を?
 ミシェル(一つ一つ、子供に数えてやるように。)ほら、まづ、作り眉毛だろう? 僕がそれをつけて、君を脅かす、そして一緒に笑うんだ。それから、耳の上にも毛をはやして、鼻がブルブル震えるようにして、口だけは真面目な具合にね。それから声だ。喉の奥から重々しく、熱っぽく・・・それから、身体の動き・・・小鳥のように、時々軽く跳びはねる。わざとでなく、自然に。綺麗に見えるようにね。
 スュザンヌ(優しく。)ミシェル!(二人、キス。)私、持って行く・・・全部。喜んで。(スュザンヌ、笑う。)

     第 五 場
(マダム・キャトゥラン登場。ミシェルの弁当を持って来る。)
 マダム・キャトゥラン いい時に出て来たわ。笑い声が聞けて。
 ミシェル(マダム・キャトゥランに。)あなたの娘さんはいけないんですよ。この出発のことが全然分っていなくて・・・悲しいことだなんて思ってるんです。
 マダム・キャトゥラン そう、楽しいこととも思えなくちゃ。でもあなた、出来るだけ早く帰って来るのよ。そして手紙を・・・明日にもすぐ。悲しんだりしてスュゾン、あなた、駄目よ。
 ミシェル(スュザンヌが弁当の重さを手で測っている所にやって来て、自分でも持ってみる。)何を入れたんですか? お母さん。
 マダム・キャトゥラン 汽車の中で見るのね。籠は返して。それから、その気があったらだけど、ジャムの壜もね。
 ミシェル あ、駄目だ、お母さん、中身をばらしてしまって・・・
 マダム・キャトゥラン もう時間になるわ。二人とも行かなくちゃ。
 スュザンヌ ええ、じゃ、帽子を・・・
(スュザンヌ、走って家の中に退場。スュザンヌのいない間、ミシェルとマダム・キャトゥラン、小声でお互いに礼を言い合っている。)
 スュザンヌ(家から出て来て。)用意出来たわ。
(ミシェル、弁当の籠を取りにテーブルに行く。が、ミシェル、スュザンヌがテーブルの上に置いた胴着を手に取る。)
 ミシェル(命令するように。)スュザンヌ、君、今夜はダンスに行くんだ!
 スュザンヌ いいえ、行かない。
 ミシェル 行かなや駄目だ。僕はルイにも、ブロンドーにも、君はダンスに行く、って言うつもりなんだ。そうですね? お母さん。スュゾンは行かなくちゃいけないんですね?
 マダム・キャトゥラン そう。行かなくちゃ駄目。ひとり家に残ってしくしく泣いているようなのは駄目よ。
 スュザンヌ もう私、踊りたくないもの。
 マダム・キャトゥラン 踊らなくてもいいの。行って気持が晴れるようにしなくちゃ。
 ミシェル いや、踊らなきゃいけない。ね、スュゾン、踊るんだ。そうしたら僕も元気が出る。汽車の中で僕は、胸に浮かべることが出来る・・・ああ、今スュゾンは踊ってる。ああ、今笑ってる。スュゾンは悲しくなんかない。パリから来る僕の手紙のことを思って・・・そしてその返事に何を書こうかと考えて・・・ね、スュゾン、君がダンスに行かなかったら、誰がパーティーのことを僕に話してくれるんだい? ね、スュゾン、行くんだ。ね?
 スュザンヌ ええ、行くかもしれないわ。
 ミシェル(喜んで。)よし。ね、スュゾン、それをはっきり約束して。約束してくれないと、僕は君の、パーティーでの姿がはっきり心に浮ばない。旅は台無しになる。汽車の、同じ部屋(コンパートメント)に、どんな愉快な奴が来たって、僕は陽気になれないよ。
 スュザンヌ(微笑んで。)でも、約束は出来ないわ。胴着だってまだ縫い終っていないもの。
 マダム・キャトゥラン(胴着を見て。)大丈夫よ。後、どこが残ってるの?
 スュザンヌ 袖がまだついてない・・・
 マダム・キャトゥラン 私がやってあげる。スュゾンは行きますよ、ミシェル。私が約束します。さ、二人で行ってらっしゃい。
(マダム・キャトゥラン、二人を舞台左手に押して行く。)
 ミシェル ああ、マダム・キャトゥラン、お別れのキス・・・
(三人、左手に退場。)
 マダム・キャトゥラン(舞台裏で。)さようなら、ミシェル・・・
 ミシェル(遠ざかりながら。)さようなら、さようなら、マダム・キャトゥラン。
(マダム・キャトゥラン登場。こっそりと涙を拭く。それから急いでテーブルに行き、胴着を調べ、縫い始める。)
                   (幕)

    第 二 幕
(結婚したブロンドーとスュザンヌの家の内部。質素。左手に、玄関に続く扉。奥に、台所に通じる扉。これは開いたまま。食器棚。籐の椅子。拡大されたブロンドーの写真。その他色々な写真が、写真立てに飾ってある。)
(楯の形をした板の装飾用武具かけに、武具とピストル。中央にテーブル。右手に紐が斜めに張られていて、その上にナプキン、ハンカチなどが干してある。)
(幕が開くと、テーブルの右側でスュザンヌが洗濯物にアイロンをかけている。テーブルの反対側に、観客に正面の向きで、ブロンドーが熱心に新聞を読んでいる。テーブルの上に副官の制服と軍帽。この二つのものが、その上品さと立派さで、部屋の他のものを圧している。)

     第 一 場
 スュザンヌ(間の後。アイロンを置いて。)アルマン、お願い、火にかけているアイロンを取って来て。それからこれをその代りにかけて。
(スュザンヌ、アイロンをかけた洗濯物をテーブルの上で整理する。)
 ブロンドー 何? ああ、待って。
(間。)
 スュザンヌ いいわ。私、やる。
 ブロンドー(不機嫌に。)いいよ、僕がやる。
(ブロンドー、立上がり、アイロンを取り、奥に行き、またすぐ熱くなったアイロンを持って戻って来て、スュザンヌの前に置く。)
 スュザンヌ 有難う。
 ブロンドー(再び坐りながら。)どこか分らなくなったじゃないか。
 スュザンヌ お気の毒さま! 知らなかったわ、そんなに熱中していたって。でもね、明日、郵便局から帰って、少し休もうと思ったら、どうしたって今日、アイロンだけはすませておかなきゃ・・・だから・・・
 ブロンドー 僕が分らないのは、何故君がわざわざそんな、洗濯とかアイロンかけをやるかってことなんだ。おふくろさんが何度も言ってるじゃないか、やってやるって。
 スュザンヌ そう、私がやるのが悪いのね。いいですか、私はもう母親に子育てを頼んでいるの。もっと頼めって言うの? 私の下着、ルイの下着、それに、子供の下着もみんな洗ってくれって。いいえ、母には私、洗濯は頼みません!
 ブロンドー じゃ、洗濯屋に持って行きゃいいじゃないか。ちょっと金さえ出せば・・・
 スュザンヌ ちょっと金さえ、ね。その金が問題じゃないの! あなたが林務官になれるその日が明日じゃないのよ。分ってるでしょう? 
 ブロンドー そう、暇がかかっているよ! 僕には運がない、確かに。それで僕のことを責めるんだな、君は。よし、次の試験には通ってやる。もううんざりだ、こんな試験なんか。だけど、言っとくけどな、それもこれも、こんな惨めな生活に嫌気がさしているからだぞ。分ってるな?
 スュザンヌ 運がない・・・あのね、あなた。あなたはやろうとはしているの。でも、それを実行する勇気がないのよ。
 ブロンドー 勇気! 僕に勇気がない! 僕が出来るだけのことをしていないって言うのか? 軍務の合間にやっているあれが、精一杯だと思わないのか!
 スュザンヌ あなたが競馬にかける半分の時間を、試験の準備にそそいだら、あなたにどれだけ才能がなくても、今までに受かっていた筈よ。
 ブロンドー 競馬にかける半分・・・
 スュザンヌ 今週、ディクテーションの練習、私、あなたに一回しかしていないわ。
 ブロンドー 競馬が悪い! よく言ったよ。いい心がけだ、君は。いいか、スュザンヌ、僕が競馬をやるのは・・・いや、僕達が競馬をやるのは、楽しみのためじゃない。少しでも金を稼ごうと思ってやってるんだ! 
 スュザンヌ いいえ、あなたは競馬が好きなの。言い訳は止めて。あなたはただ好きでやっているの。努力もしないで稼いでやろうって・・・
 ブロンドー 努力もしないで? 何が努力もしないでだ。ちゃんと統計をとってる。計算もしている。毎晩君がやってくれた・・・あれが全部ただの楽しみか? そう、確かに僕は競馬が好きだ。だけど、ただ楽しみだけでやってるんじゃない。確率を計算して、状況に応じて僕の独特の方法を入れて、判断、決定をして・・・これには仕事と同じ努力がいるんだ。楽しみだけのためなら、ビリヤード・・・いや、試験の準備だって、競馬よりよっぽど楽さ。
 スュザンヌ それならちゃんと勝てるようになる筈でしょう!
 ブロンドー 勝てるようになるさ、遅かれ早かれ。これは数学なんだ。だんだんプラスとマイナスが釣合うようになって、それからプラスがぐっと増えるようになるんだ。
 スュザンヌ プラスとマイナスが釣合うように? とんでもない。第一、少しでもプラスになる、するとすぐに、あなたの友達と、さっさと食事に行く。私もだけど。
 ブロンドー ああ、あれはあの一回だけだぞ!
 スュザンヌ それにね、競馬に賭けてすってしまうお金は、競馬で儲けたお金とは違うのよ。
 ブロンドー いや、競馬で儲けた金だけを賭けてるんだ!
 スュザンヌ いいえ! その証拠に私達、生活はだんだん悪くなっているわ。借金があるのよ。競馬さえしなければ、私の稼ぎとあなたの俸給とで、私達ゆったり暮せるの。女中か、お手伝いさんだって雇えるの!
 ブロンドー 女中・・・お手伝いさん・・・いい気なもんだ、全く。よし、分った、持たせてやるさ。いつかそのうち、従卒だってつけてやる!(間。)そうか、そんなに女中が欲しいか。それなら大変残念だったな、あいつと結婚していなくて。あの、ミシェル・オクレールとな! コックだってつけられたさ。おめかしして、洋品店めぐりだって出来たしな・・・
 スュザンヌ 次から次とよくそんな馬鹿なことが出て来るわね、その口から。まあ、私もだけど。
(間。)
 ブロンドー ミシェルのことだがな、日曜日、僕らがお母さんのところへ行く時、あいつまたやって来るのかな。
 スュザンヌ あの人がパリから帰って来て二箇月、母の家で会ったのは三回よ。それが厭なの?
 ブロンドー 厭だな。
 スュザンヌ あの人を責める理由なんてあなたにはないように思うけど。
 ブロンドー ない。あいつは完璧な男だ。僕が厭なのはその「完璧」っていう所だ、多分。帰って来たらさっさとひっこんでいりゃいいんだ。それを、僕の前にわざわざ出て来て、握手を求めて、「ああ、僕の負けだ」と、いい格好をして・・・相変わらず君に対しては、幼なじみ、兄さんのような顔をしていやがる。
 スュザンヌ あの人、いい格好なんかしないわ。いつでもミシェルはミシェル。気取りなんか全くない。あの人そのまま。それにあの人、私を避けるなんてしっこないわ。私、手紙を書いたわ、「いつまでも兄のように大好きです。それから、他の好き方はきっとしたことがありません」って。あの人、今までうちの家族同然にしていたんですからね。それが、急に来なくなるなんてあり得ないでしょう? それに、ママ、ルイ、私・・・あなたは違うかもしれないけど、みんなあの人と会うのが楽しいの。だから、もし来なくなったとしたら、それはあの人が、私をまだ愛しているからっていうことになるわ。あなた、あの人が厭なのは、私の元の許嫁(いいなづけ)だったから?
 ブロンドー 違うさ! 人間だ。あいつそのものが嫌いなんだ。ああいう奴がうちの隊にもいた。だいぶ行儀をしてやったよ。人を見下すようなあの目つき! 僕の上官じゃないんだぞ、あいつは。僕の何を知っているっていうんだ。林務官の試験が通らないからか? 僕の値打など、あんな奴に分ってたまるか!
 スュザンヌ そんな値打があれば、いくらでもあの人にそれを見せるチャンス、あるわ。あの人、手紙で書いてきたことがある、「僕は彼をよく知らない」って。それから、私が結婚したのがあなただからといって、私を知っている一番の人があなただっていうことにはならない、ともね。
 ブロンドー フン、奴はそんなことを書いて来たのか!(間。)それでも奴はこの僕に何もしなかったんだからな。可哀想に。だけど、あいつの図書館を作るって考え・・・ちょっと話がでか過ぎるんじゃないか?
 スュザンヌ あの人、本が好きなのよ。それで、夢があるの。
 ブロンドー まあそうだな。とにかく、この僕とは全く共通点がないよ。
 スュザンヌ ないわね、全く。でも、あの人があなたのことを知らないという話になれば、あなたの方はあの人のことをもっと知らないわ。・・・あなた、今何もしていないなら、アイロン、もう一度替えて下さらない?
 ブロンドー(言われたことをやりながら。)そろそろ兵舎に出かける時間だ。今日は賭けない。知らない馬ばかりだ。(競馬の新聞をチラと眺めながら。)賭けないとは言っても、勝てそうな馬はおおよそ見当がついている。
 スュザンヌ それ、どういうこと?
 ブロンドー 二十フラン賭けといてくれと大尉に頼まれたんだ。そいつは入りっこない。これで二十フランの儲けだ。
 スュザンヌ あなた、買わないつもりなの?
 ブロンドー あんなのに賭けるなんて、馬鹿だよ。
 スュザンヌ(びっくりして。)アルマン、何てことを!
 ブロンドー 大尉は、気に入った名前の馬に賭けるだけなんだ。馬と言えばただ名前。今回はイダルゴー。この名前がお気に召してね・・・イダルゴー・・・(笑う。)
 スュザンヌ それ、買って頂戴。お願い、アルマン。
 ブロンドー 買うもんか。馬鹿馬鹿しい。そりゃ、たまには名前があたって、入ることだってあるさ。だけど、イダルゴー、あの馬、てんで駄目なんだ。手押し車に二十フラン賭けた方がまだましだって所だよ。
 スュザンヌ そんなの分りっこないわ。それに、それ、詐欺よ! ああ、何てこと! どうしてそんな用事、引受けたの!
 ブロンドー 詐欺? まあな。安全なんだがな、これは。しかし非はこっちにある。君に話したのがまづかったんだ。
 スュザンヌ(ブロンドーに近づき、肩に手をかけて。)とにかくあなた、私に話したの、アルマン。必ず買って頂戴よ。そうでないと私、生きた心地しないわ。もし私が頼んでも駄目っていうのなら、赤ちゃんのリケの名にかけて、お願いするわ。
 ブロンドー 分った。そこまで言うのなら買う、買う。二十フランか、お安いことだ。
 スュザンヌ 買うのね? よかった。
 ブロンドー 行って来るさ。可哀想に、たいしたことじゃないのにね。
 スュザンヌ いいえ、とてもたいしたことよ、これ。
 ブロンドー よし、もう時間だ。兵舎へ出発! ちょっとブラシをかけて、と。
(ブロンドー、ブラシを取り、上衣にブラシをかける。)
 スュザンヌ 兵舎に行く前にブックメーカーよ。イダルゴーを買うのよ。
 ブロンドー(苛々しながら。)分ってるよ!
 スュザンヌ 待って。背中にもブラシを・・・(スュザンヌ、ブラシをかける。)あら、ズボンに黒いシミ・・・
 ブロンドー 本当だ。どこでやったんだ?
 スュザンヌ 分った。アイロンを取りに行った時、フライパンにあたったんだわ。
 ブロンドー 言わないことじゃない。ブラシでやっても駄目だろうな?
 スュザンヌ 待って。(奥へ行き、布切れと壜を持って来る。ブロンドーの前に屈(かが)んでシミを擦(こす)る。)あなたにアイロンを頼んだのが間違いだったわ。
 ブロンドー 当り前だよ。正装した兵隊、それは晴れ着を着た女性と同じだ。そんな姿で台所の仕事なんかしないだろう? 分るな?
 スュザンヌ ええ、分るわ。
 ブロンドー じゃ、スュザンヌ、キスして! ふくれてるんじゃないだろう?
 スュザンヌ(疲れた様子。)そんなことないわ。
(スュザンヌ、キス。)
 ブロンドー(離れようとするのをとどめて。)喧嘩をして、ふくれたのを残して出る訳には行かないよ。胃に何かつっかえたような気分だ。何もする気がしなくなる。
 スュザンヌ 本当?
(スュザンヌ、ゆっくりと目を上げ、キスをさせる姿勢。二人、キスする。)
 ブロンドー うん、分ってる。何もかもうまく行ってない。ついてないんだ。僕は完璧じゃない。完璧な人間なんているものか! とにかく僕はよかれと思ってやっているんだ。この家の利益になるようにと。・・・それは分ってくれてるね?(返事なし。)どう?
 スュザンヌ(相変わらず疲れた様子。)ええ、分ってるわ。さ、行って!
(ブロンドー、退場。スュザンヌ、紐にかかっている洗濯物を外し、紐も片付ける。)
 ブロンドー(舞台裏で。)ああ、僕は出かけるところだ。いや、構わないよ。入って、入って!
(ミシェルとブロンドー、登場。)

     第 二 場
 ミシェル 今日は、スュザンヌ。元気?
 スュザンヌ ああ、ミシェル! 今日は。
(スュザンヌ、ミシェルに近づき、握手。)
 ミシェル ちょっとここを通りかかって・・・ちょっと挨拶しなきゃと・・・
 スュザンヌ あら、よかったわ!
 ブロンドー 丁度君のことを話していたんだ。・・・ほんの十分前ぐらいに・・・
 ミシェル 本当?
 スュザンヌ ええ、たまたま・・・
 ブロンドー 話してたのは・・・そう、本のことだよ。君の図書館を利用したくても、あまり時間がないなって。近々、次の試験があって、それが受かればすぐ任命で、僕らはサンセルジュを出て行くことになるから・・・
(スュザンヌ、困って、洗濯物の片付けをしているふり。)
 ミシェル で、試験は?
 ブロンドー 三週間後に。
 ミシェル 本は送れるよ、君達がどこへ行ったって。
 スュザンヌ 図書館は出来たの? ミシェル。
 ミシェル 月曜日が開始・・・いろいろと大変でね。
 ブロンドー(ミシェルに。)ちょっと僕は失礼する。ぎりぎりの時間だ。本当にもう出なくちゃ・・・
 ミシェル それは・・・僕も行く。僕はただちょっと寄っただけで・・・
 ブロンドー 急いではいないんだろう? 君は。
 スュザンヌ アルマンは行かなきゃならないの、ミシェル。でもあなたはいて。今来たばかりじゃないの。
 ブロンドー(ミシェルに。手を差し出して。)じゃ、失礼。
 ミシェル じゃ、また。日曜日に、いつか・・・
 ブロンドー(退場しながら。)うん、じゃ。

     第 三 場
(ミシェル、部屋を眺めている。その間にスュザンヌ、アイロンボードを台所に運ぶ。)
 スュザンヌ(戻って来てミシェルに。)恥づかしいわ、ミシェル。初めて来て下さった時に、ここ、こんなに汚くて。
 ミシェル そんなこと、ないよ。
 スュザンヌ ちらかしっぱなし。私、さっきまでアイロンをかけていて・・・
 ミシェル そう、これがスュザンヌの家か・・・
 スュザンヌ じろじろと見ないで、ミシェル。壁に貼付けてあるものも・・・あれ全部、当座のもの・・・兵舎にあったアルマンのものをただ貼っただけ。(スュザンヌ、ミシェルの目のあとを追う。本棚の本に止まるのを見て。)あれ、見覚えがあるでしょう? みんなあなたから貰った本。
 ミシェル うん・・・ねえ、僕、来て、いけなかった?
 スュザンヌ いいえ、とんでもない。どうして? 私、有難いわ。
 ミシェル 君の旦那様が不快に思うかもしれない・・・
 スュザンヌ いいえ、全然。あの人、そんなことは関係ないの。坐って!
(スュザンヌ、坐る。)
 ミシェル(スュザンヌの前に坐って。)パリから帰って来てね、スュザンヌ、僕はどうしても一度、二人きりで話したいと思っていたんだ。その運が今日巡(めぐ)って来るとは思ってもいなかった・・・
 スュザンヌ 私も、会いたかった。私、ここで時間がちょっとでも出来ると、すぐママのところへ行って、子供をみるの。だから、その途中であなたに逢うこともあるんじゃないかって・・・でもそれは起らなかった。それで、図書館が早く開かないかなって思っていた。朝早く出かけて行って私・・・私、知りたかった、手紙では言えなかったことがある筈・・・それが・・・いえ、何度か下さった手紙に書いてあったこと、あれが本当のことなのか・・・私には本当に、何の・・・ほんの少しでも・・・恨みがなかったのかどうか・・・私のやったことがあなたに・・・裏切りには見えなかったのかって・・・
 ミシェル スュザンヌ・・・
 スュザンヌ(途中で遮って。)それに私、きっちりと、自分の声で、あなたに謝りの言葉を言ってない・・・あなたにきっと与えてしまった苦しみ・・・に対して・・・
 ミシェル(じっとスュザンヌを見て、間。それから、スュザンヌに顔を寄せて。)スュザンヌ、君、今、幸せ?
 スュザンヌ(低い声で。)ええ。
 ミシェル 本当に?
 スュザンヌ(努力して、やっと。)ええ、ミシェル。
 ミシェル(立上がる。歩き始める。)それならね、スュザンヌ、僕は何も君を恨むことなんかない。君が謝ったって、僕は許すことがないよ。僕は勿論、最初後悔した。まづパリに行って身を立てて、それから結婚しようって思ったことを。まづ結婚して、それからパリに行けば良かった。二人でパリに行って、学生のような生活を二人ですれば良かったんだって。しかし、もう少しよく考えた。そうしたら、僕にははっきりと分った。僕のあのパリ行きは正しかった。僕ら二人にはどうしてもこの試練が必要だったと分ったんだ。君は僕のことをずーっと知っている。君の弟と比べたって、僕との思い出の方が多い筈だ。君がよちよち歩きの時から履き始めた靴から、二十何歳になる時まで履いた靴で、僕の傍ですり減らなかった靴はどれ一つとったって、ないんだ。家から学校への往復の時、学校が休みで石切り場で遊んだ時、公園で駆け回った時、その後、並木道、田舎道での散歩の時、それからダンスパーティーの時、その時の靴全部、僕の傍で減って行ったんだ。だから僕らは、二人で一人のようなものだったんだ。君は僕のことを「愛してる」と言い始めた。ままごとの時からだ。それから、ままごとの時でなくても、その言葉を口にするようになった。そうして君は、この「二人が一緒にいること」「その、一緒にいるという習慣」、が、即ち愛だと思うようになったんだ。君は何か思いがけない発見があったり、びっくりするようなことがあると、その事に「ミシェル」と名前をつけた。「愛」というのは、それと同じようなことだったんだ。
 僕は、君を驚かすのは簡単だった。僕の手をしっかり握っている君のその手をちょっと押しさえすれば、それで君は驚く。それも君には「愛」だったんだ。(間。スュザンヌ、片手に顎をのせて、じっと自分の目の前を見詰めている。)それから、君のあの虚(うつ)ろな手紙が来た。魂が抜けてしまったような、君の姿がどこにも見えない、あの手紙だ。次にあの忘れもしない手紙が来た。君が泣きながら、自分の混乱と、そして僕の苦しみについて書いたあの手紙だ。僕はすぐ声に出して言った。「ああ、スュゾンはもう僕を愛していないんだ」と。僕は僕らのことで、ああ考え、こう考え・・・そしてやっと理解出来たんだ。「スュゾンはもう僕を愛していない」と言ってはいけない、「スュゾンは今、愛しているんだ」と言わなくちゃ、と。ねえ、スュゾン、君が僕に抱いていた感情は、限定された、穏やかな愛情でしかなかったんだ。もし僕が君の心を掴んでいたのだったら、たった何箇月の間に、それも、僕がその場にいない訳ではない・・・だって、殆ど毎日手紙は君に届いていたんだからね・・・その間に、誰が僕から君を奪い去ることが出来るって言うんだ。(ミシェル、ブロンドーの写真をじっと見る。)君は僕を愛してはいなかったんだよ、スュゾン。
 スュザンヌ(間の後で、やっと。)あなた、私のことしか話さなかったわ・・・ね? あなたもそうだったの?
 ミシェル(自信がなく。)僕? ・・・そう・・・きっと。それは僕、書かなかったかな? きっと僕も同じだったんだよ、スュゾン。・・・あれ? 君、ここに花がないね。ああ、分っていたら・・・今丁度家には薔薇があるんだ。今も君、花が好きなんだろう?
 スュザンヌ ええ、ええ・・・いつもなら花はあるのに・・・ママの家から貰って来て・・・
 ミシェル 旦那さんに頼んで、本を置く棚を作って貰わなきゃ。棚にする木は少しづつ僕が持って来る。横板を三、四枚・・・支えの木が二本、それに釘か・・・ああ、彼、本を読むの、好き? 少しは・・・どう?
 スュザンヌ ええ、好きよ、勿論。大好き・・・それに、図書館が出来るんでしょう? あの人、私と同じように、期待しているわ。
 ミシェル 本当? それは嬉しい。僕は心配していたんだ、ひょっとして・・・
 スュザンヌ ただ、今はまだ・・・あの試験があるし・・・それに、ここを出て行くことも・・・
 ミシェル 彼、今度は受かる?
 スュザンヌ ええ・・・ええ、今度は大丈夫。
 ミシェル それで、君は郵便局を辞める・・・
 スュザンヌ 勿論。辞めて、ずっと後は家。
 ミシェル 子供も一緒に暮すんだね?
 スュザンヌ ええ、生活が落ち着いたらすぐ。
 ミシェル 受かっても、そんなにすぐは待遇はよくないから・・・
 スュザンヌ ええ、でも、かなり優遇されるから・・・住宅手当、ボーナス、その他いろいろ・・・
 ミシェル 結局のところ、大丈夫なんだね? 生活は。成り立って行くんだね?
 スュザンヌ 勿論よ、ミシェル。・・・ええ、勿論。
 ミシェル スュゾン、君、何か無理しているように見えるよ。大丈夫だという話だけで・・・僕が遠慮なの?
 スュザンヌ いいえ、そんなことないわ。
 ミシェル ね、スュゾン、これだけは間違えないで。僕ら二人、どんなことがあったって、どんなことが起ったって、君はいつも僕にとって変らないスュゾンでなきゃいけないんだ。昔からの相棒・・・君に関する、君の生活に関する、どんな質問を僕がしても、それから、僕が思いつくどんな勝手な質問をしても、昔と変らないスュゾンでいてくれなきゃ。ああ、勿論、誰の前でもそういう質問が出来るってことじゃないよ。僕にとって一番辛いのは、それで君が困ることなんだ。昔と違う、僕への態度になってしまうことなんだ。
 スュザンヌ(飛び上がって。)ああ、ミシェル!
(スュザンヌ、ミシェルのところに行き、両方の頬にキスをする。)
 ミシェル(キスを返して。)ね? ここに来る時だって、僕は準備なんか何もしなかったよ。スュゾンにどう話そうか、何を話そうか、どう答えて来るだろう、なんて全然。僕には新しいスュゾンなんていないんだ。話し方もいつだって一つしかないんだ。
 スュザンヌ じゃ、私から訊くわ、ミシェル。パリからあなた、予定より六箇月遅く帰って来たけど、あれ、私のためじゃなかった?
 ミシェル 君のため?・・・いや、違う・・・色々あってね。・・・留まっていたのは・・・その・・・少し遅れても構わなくなったから・・・そう、長くいればそれだけ分ることも多くなる・・・だからそうしたんだ。
 スュザンヌ ママが人から聞いたわ、あなた、パリに住むつもりだったって・・・
 ミシェル ああ・・・
 スュザンヌ 私、その時心配したわ、あなたがこの町で計画していたいろんなことを、みんな止めちゃうんじゃないかって・・・それも・・・私のせいで・・・
 ミシェル それは違ったよ。もう図書館は開いてる。最初の計画通り、レキュイエの土地に。来て見てくれれば分るよ・・・僕らが話していた通り・・・
 スュザンヌ(言い難そうに。)出来栄え、満足? 人は来てる?
 ミシェル まだほんの少ししか。でも、始めたばかりだからね。宣伝は何もしていないし、具合の悪いことがいろいろとありそうなんだ。予想もしていなかったいろんなことがね。働かなきゃ。・・・時間をかけて。でも、以前言ったことは実行するよ、何が何でも。言ったことはやりとげなきゃ!
(間。)
 スュザンヌ 私はもう・・・ここにいないわ!
(間。)
 ミシェル ここにいたいんだね? 本当は。
 スュザンヌ ええ。
 ミシェル(間の後。歩き回りながら。)君、ママまで連れて行っちゃうんじゃないだろうね?
 スュザンヌ ええ、ママは・・・連れて行くにしてもずっと後・・・でも、ママ自身が嫌がるわ、きっと。弟はここで結婚して、ここに住むでしょうし・・・
 ミシェル ああ、それはいい。だったら、時々は君、ここに来ることがあるってことだ。君がみんなに会いにやって来る・・・ママはどうしたって、孫の顔を見たいって言うに決っている。君がそれで、連れて来るんだ。そうすればママは、四、五日君を引き止める・・・それに、ブロンドーだって、休暇が貰えるだろうし・・・そんなに遠くへ行くことはないだろう?
 スュザンヌ ええ・・・
 ミシェル ねえ、スュゾン、僕は若い。そして、その若い人間が、君や君の弟を愛しているということは、少なくとも一つ、大変な幸せを持っているということだ。それは君達とこれから先何年も、知っていて、会えて、時には行動を共に出来るということなんだ・・・この世に同じ時刻に、僕と一緒に君達もいるんだと実感出来る・・・君達のことを「来てくれないか」と呼ぶことも出来るし、君達の呼出しに、僕が駆けつけることだって出来る。たとえその声が聞えなくて、何箇月・・・いや、何年も、会うのが後になってもね。・・・いつでもこう考えることが出来るというのが、幸せなんだ。それが僕を慰め、力づけてくれるんだ。
 スュザンヌ ええ・・・ええ!
 ミシェル 僕らの年頃じゃ、本当に別れようと決心した二人でなきゃ、離れるなんてことはあり得ないんだ!
 スュザンヌ そうよ、ミシェル!
 ミシェル それか、本当に忘れることが出来る二人か・・・ね?
 スュザンヌ(熱がこもって。)ええ、ええ、本当に忘れることが出来る二人・・・そんな人達だけ・・・私達は違うの!
 ミシェル ね?
(扉にノックの音。スュザンヌ、扉を開けに行く。コルソン登場。ミシェル、スュザンヌの本を見に、棚に進む。)

     第 四 場
 コルソン(登場。仏頂面で。)今日は、マダッム。副官のブロンドーさんのお宅で?
 スュザンヌ ええ、この家です。
 コルソン 今、御在宅で?
 スュザンヌ いいえ、兵舎です、今。
 コルソン 兵舎にはいませんでした。私は今、あそこから来たんで・・・
 スュザンヌ まだ着いていなかったんですわ、それは。さっきここを出たばかりですから。
 コルソン その言葉を鵜呑みには出来ませんな。人に笑われてしまう。
 スュザンヌ 何の用ですの? あの人に。あなたはどなた?
 コルソン 兵舎で食堂を預かっている者なんですがな。副官の奥さんで?
 スュザンヌ ええ。
 コルソン じゃ、私のこともお聞きになっているでしょう。
 スュザンヌ いいえ。
 コルソン あの人は私に九十四フラン五十、借りがあるんだ。どうしても今晩会いたい、と、そうお伝え願います。今晩ですよ。消灯の時刻までにだ。今晩会えなきゃ、私はあの人の上官に言いつけてやる。私はね、十年前、あの上官に仕えていたんだ。馬卒だったんだからな、私は。
 スュザンヌ でも・・・
 コルソン いいですか、マダッム、二週間前のことだ、ご主人が友達と一杯やりに、私の食堂にやって来た。二人で競馬の清算をしていたんで、私は声をかけたんだ、「サンセルジュのブックメーカーを知ってらっしゃるんで?」とね。すると「知っている。あんた、賭けたいのか? じゃ、私が代りに買っといてやるよ。店の方だって、人の顔がわざわざ見たい訳じゃない。金の顔が見たいだけだからな」と・・・
 スュザンヌ(ぎょっとなる。その顔をミシェルに向ける。)きっと今晩は間違いなく、あなたに会いに行きますわ。
 コルソン まあ、まづ話を! それで私は次の週、ご主人に会いに行って、十五フラン渡した。ある馬を買って欲しいとね。間違いなく買ったかどうか! それで翌日新聞を見たら、そいつがちゃーんと入ってたんだ!
 スュザンヌ(怖れの表情。)あなたに会いに行きます、あの人は必ず。
 コルソン いいから最後まで! そいつは入って、五フランにつき三十一フラン五十ついたんだ。合計九十四フラン五十。ご主人はね、今日で五日、払うべきものを払ってくれてない。最初の二日は、私は待った。それからは、会いに出かけて行った。何度行っても駄目だ。会えないんだ。置き手紙をした。返事も何もありゃしない。(大声で。)ええっ! これはどう考えたらいいんだ? この私の口から言って貰いたいか? どう考えるかを。
 ミシェル(進み出て。)もういい。もう黙るんだ。奥さんはこの話に何の関係もないことは、あんたにも分っているだろう。私は副官の友達だ。今日は必ず君に会いに行く。近々彼は、士官に昇進するんでね・・・
 コルソン(昇進の言葉で驚き。)ああ・・・
 ミシェル だからこのところ、忙しいんだ。あんたがそんなことで泣き言を言っているなど、思いもかけていないさ。
(ミシェル、こともなげに言って、さっとコルソンに背を向ける。)
 コルソン(扉の方に進みながら。)いやいや、お金をどうこうと言ってるんじゃなくて、ただその・・・約束は約束で・・・マダッム、どうか、私のことは、ただ・・・驚いていたとだけ・・・勿論、ご信用申し上げていると・・・ちっとも知らなかったもので、その・・・
(コルソン退場。)
 スュザンヌ ええ、ええ、勿論・・・
 コルソン(舞台裏から。)じゃ、失礼を・・・

     第 五 場
 スュザンヌ(テーブルの椅子に坐る。肘をつき、両手で顔を覆う。)ああ、ミシェル。私、恥づかしい!
 ミシェル 知らなかったんだね、君、ブロンドーが・・・
 スュザンヌ いいえ。このことは知らなかったけど、あの人が他のことで・・・(泣き崩れる。)あなたには知って貰いたくなかった。ああ、ミシェル・・・私達、惨めなの・・・汚い生き方・・・
(スュザンヌ、静かに泣く。)
 ミシェル(スュザンヌに屈んで。)スュゾン、何かの間違いってことも・・・
 スュザンヌ さっき私、自分が幸せだって話した。あの時あなた、「何か無理しているように見える」って言ったわ。そう、私、無理をして言った・・・あれは全部嘘・・・私今・・・不幸せなの・・・
(長い間。)
 ミシェル(胸がいっぱいになっている。)ブロンドーはもう君を愛していない?
 スュザンヌ いいえ、愛してるわ。
 ミシェル そして君は、ブロンドーを・・・
 スュザンヌ 私、分らない。もう私・・・分らない・・・(暗く。)でも、分っていることがある・・・私、あの人なしではもうやっていけない・・・
 ミシェル ああ・・・(間。)でも、君は彼を、尊敬しているの?
 スュザンヌ 時々は。
(間。)
 ミシェル(自分の頭を両手で掴んで。)ああ、じゃ、どうして・・・どうして・・・
 スュザンヌ(泣きそうに。)それは言えないわ、私からは・・・
 ミシェル 僕がパリに行ってから、彼は家に来たんだね? しょっ中来るようになった。殆ど毎晩のように・・・連中は女がいる家にしか行かない。連中のやることと言ったら決っている。レストランに行っても、レジの女の子や給仕にそいつをやる・・・君に言い寄ったんだ、あいつは。「くどき」ってやつだ! ああ、それまでは君にあからさまに言い寄ったりする奴はいなかったからな・・・それが今度は見え透いた口説き文句、歯の浮くようなお世辞・・・それだ。ね? スュゾン。
 スュザンヌ あの人が冗談にやったなんて思わないで、ミシェル。あの人、私が好きになったの。それも急に・・・とても深く・・・愛してくれたの、心から。あの人が私を引きつけて、圧倒して、盲(めくら)にして、そして誘惑したとしても、それは計算づくじゃなかった・・・心の底から来る強い力が・・・
 ミシェル 君の身体・・・それを奪おうという・・・
 スュザンヌ 言わないで、お願い。そして、私を許して頂戴、ミシェル。私、自分で隠してないで、あなたに助けを求めなきゃいけなかった。そういう時があったわ。ママはアルマンとの結婚は嫌がった。いろんな理由を言った。あなたのことも勿論あったわ。ママの言ったことはみんな正しくて、本当のことだった。私にはそれが分っていた。そして自分が情けなくって、腹が立ったわ。あの頃の私、あの人の弱点・・・いいえ、欠点そのものまでも、ただ私を引きつける材料にしかならなかった。あの欠点があるからいいんだわ、と自分にも言い聞かせ、ママにもそう言ってあの人を庇(かば)った・・・私は結婚した。とても急に・・・あの人は、士官になってからだって良いじゃないか、と言ったけど、聞かなかったのは私の方。私は急がせた。遅くなると、結婚しようという気持がなくなってしまうようで怖かった。そして・・・そしてこの厭な結婚生活を始めた時、あの人と決して後戻り出来ないところまで来た時・・・私、あなたのことを思って泣いたわ、ミシェル・・・どうしてこんなことになったか、自分でもう説明出来なくて・・・
 ミシェル 何て悲しいんだ!(間。)僕もそうだ。君のことを思って泣いた。さっき君に話したあの話を、何度自分に言い聞かせてても駄目だった。君が僕のことを、ただ兄弟のような愛し方だけで愛していたと、そういう思い出を思い出すようにしたんだ。だけど、他の思い出がね、スュゾン・・・他の思い出が・・・(スュザンヌに背を向けて、涙を拭く。)だからさっき、パリに住もうって・・・あれは君が言った通りだった・・・
 スュザンヌ(泣きながら。)可哀想に、ミシェル!
(スュザンヌ、ミシェルの方に進み、その肩のくぼみに頭を埋める。)
 ミシェル 僕らはついてなかった・・・もう泣くのはよそう。君が泣いているのを誰かに見られたらいけない。君のハンカチを貸して、スュゾン。涙を拭いてあげる。小さかった時よくやったように・・・ほら! 僕はまだこうやって、君の傍にいるんだ。ね、スュゾン、僕が助けてあげる。そう、いつだって助けるよ。これからだって。ね?
 スュザンヌ(悲しそうに微笑んで。)ええ、ミシェル。
 ミシェル(歩き始めて。)もう一つ教えてくれ、スュゾン。少なくともブロンドーは君に優しい・・・君の手助けはしてくれるんだね?
 スュザンヌ ええ、まあ・・・時には・・・いいえ、手助けは駄目・・・自分から何かをしてやろうとは決して思いつかない。私が言わなきゃ。・・・あの人が意地悪な人だって、そんなことを言っているんじゃないの。ええ、それは違うの。
 ミシェル 彼のことは僕は知らない。彼には僕は・・・まるで共感が湧かない・・・でも、きっといいところはある。自分の子供はとても愛しているようだね。
 スュザンヌ ええ、とても・・・自慢にもしているわ。
 ミシェル 君のお母さんに僕、会いに行くけど、彼のことを喋るのは避けているね。お母さんは彼のことを利己主義な人間だと思っている様子だ。
 スュザンヌ ママはあの人が嫌い。そう、あの人、利己主義、怠け者、暴君・・・子供が拗(す)ねる時の、あの暴君・・・でも、その分、可愛いところもある・・・
 ミシェル 彼が試験に通るって、君、本当に信じてる?
 スュザンヌ 分らない。
 ミシェル 競馬をやる!
 スュザンヌ ええ。
 ミシェル しょっ中?
 スュザンヌ しょっ中。
 ミシェル よく負ける・・・
 スュザンヌ ええ、負けて、借金を作って・・・私、それが心配で、心配で・・・
 ミシェル 競馬は何が何でも止めさせなけば! どんなことをしても! 君、彼に言うことを聞かせられない?
 スュザンヌ 今まで何度も止めるって約束させたわ。でも、今度は隠れてやるの。それで、負けて、私に言わざるを得なくなって、そして謝るの。私に嘘をつく。そして自分にも嘘をつく。動機はもっと高尚なところにあるだなんて。軍隊で鍛えたのかしら、口はとても上手・・・
 ミシェル ああ、君達二人はどうなっている。今はどんな関係なんだ!・・・君が彼のことを全く・・・全く愛さない時もあるんだね?
 スュザンヌ(考えながら。)何日も私、あの人に冷たく、厳しくすることがある。でも、とても優しくなれる時も・・・あの人の弱さ、欠点がそのまま受け入れられる時も・・・そう、何でも許して、何でもあちらが正しいと言ってやれる時も。・・・確かにあの人の人生、ついていなかった。父親のことは殆ど知らないし、母親はただあの人を甘やかすだけ。綺麗なネクタイをつけてやって、言うことといったら、「美男子になるのよ」だけ。十八歳になるまで、何もしないで暮して、それから軍隊・・・だから今、あの人の人生を私が背負っているように感じている・・・私があの人を養子にとったっていう風に・・・私の後悔がそのまま私をあの人に近づけているように・・・
 ミシェル(考えながら。)結局君は、彼が好きなんだ。
 スュザンヌ ええ・・・これ、本当に愛なのかしら?
 ミシェル 愛にはいろんな段階がある・・・いろんな形がある。(間。)まあいい、分った。君達の間にどんな絆(きづな)があるのか、それは分ったよ。(自分に言い聞かせるように。)しっかりした絆・・・たとえお互いに傷つけあっても恥づかしめあっても・・・それに、その絆の中で非常に強いものがある・・・愛(いと)しくて、軽くて・・・それは二人の間の子供だ。(長い間。それから決心したように立上がる。溜息をつきながら。)うん、スュゾン、こうなってしまったんだ。そして、出来たものの上にしか、物は積み上げられない。君はどうしたって、幸せを・・・どんな障害があっても、彼との幸せを築かなきゃいけないよ。分るね?(スュザンヌ、頭を上げる。自信のない顔。)神様が助けてくれる。幸せになる方法は必ずある。だって、君の場合、愛は求めれば必ず見つかる筈なんだ。何よりもまづ、彼の中で、君が好きなところ、それを捜して、それをはっきり確認する。分るね? そして彼の中で一番いいところ、彼の中にある、君が尊敬出来るところ、で、君が今持っている彼への愛着を育てて行くようにするんだ。うん、そういうものは捜せば必ずあるよ。
 スュザンヌ ええ・・・きっと・・・
 ミシェル 彼の良いところについては君、僕に何も話さなかったね? でもとにかく、彼が君を愛していることは僕に分っている。それから、競馬で金がなくなった時、「君の約束を破った。君を悲しませた」と、君に謝ったこともね。これは彼の良い所だ。「あの人、子供」ってさっき君は言った。その「子供」の良さだけどね、これは。でも君、「あなた子供ね」って顔をするんじゃないよ。男にはプライドがあるからね。それに、僕から見れば、君がまた子供だ・・・
 スュザンヌ(ゆっくりと。)甘やかされた子供・・・
 ミシェル 可哀想に、スュゾン。君は母親になっているんだよ。まだその自覚がないんだ。母親というのは、一家の中で必ず、一番強くて、一番賢くなくちゃ。それが母親なんだ。
 スュザンヌ(おづおづと。抗議して。)でもそれ、人によるわ。
 ミシェル いや、この家では、君が主役だ。世間をよく知っているのも君の方だし、幸せを強く求めているのも君の方なんだから。彼のことをよく見て、厳しい判断を下してきたじゃないか。その代り、勿論君は、彼にほろりとさせられる。だって彼の方が君より弱いからなんだ。そして彼は君の神様でもある。何故ってそれは・・・君の夫なんだからね。
 スュザンヌ ええ、それは・・・そうね。
 ミシェル それが出来ないからと、投げたりしちゃ駄目だ。全ては君一人にかかっている。君は強くならなきゃ。行動的に、そして幸せに。つまり、幸せになろうという強い意志を持たなきゃ。あの分からず屋の赤ちゃんに、何とかして教えこまなきゃ・・・
 スュザンヌ(途中で遮って。)難しいわ・・・時々、とても・・・
 ミシェル 難しくてもやるんだ! 君が隠している涙を時々は見せて。教えこむんだ、断固として、優しさをもって、彼の自尊心に訴えて。僕も手伝うよ、スュゾン、僕もだ。僕は今はもう、責任を感じている。苦い思いなんかより、心配の方が先に立っている。必要なら僕は彼の友達になったっていい。君のこの役割に、僕も一枚加わる。彼は僕を嫌がるだろう。それでもいい。僕は君を助けるよ。最初にやらなくちゃならないのは、何といっても競馬を・・・ブッックメーカーの下請けを・・・辞めさせることだ。これがもう彼の辞められない癖だったら・・・それは危険だ。でも、そんなことにはなっていない筈・・・でも、酷い誘惑にかられて・・・最悪の事態に・・・それから・・・(それから先のことを考えて、困った顔になる。)ああ、スュゾン、君のお母さんがね・・・君が貧乏だと分っているんだ。そしてその理由が分らなくて・・・心配している・・・僕にそう話したことがある。
 スュザンヌ(驚いて。)それ、本当? ミシェル。
 ミシェル 理由を君に直接聞くようになるかもしれない。いや、もしかすると、さっき来たような人が、直接お母さんのところへ行くようになるかもしれない。
 スュザンヌ まあ、どうしよう。
 ミシェル 彼にその話をしなきゃいけないよ、スュゾン。もしそれで駄目なら、その時は僕が言う。君の弟・・・ルイに言って、ルイに言わせても・・・
 スュザンヌ あの人、私の言うことをきくわ、ミシェル! どうしてもきかせなくちゃ!
 ミシェル 君達、喧嘩することあるの?
 スュザンヌ ええ。
 ミシェル 喧嘩は駄目だ、スュゾン。僕はそれを考えただけで、胸が痛くなる・・・よく話すようにして、長い時間をかけて・・・毎日・・・しっかりした調子で。でも、刺(とげ)がないように。非難する口調でなく・・・そうすれば、もっと力強くなる筈だ。ね、スュゾン、約束するね?
 スュザンヌ ええ、ミシェル、やってみるわ。出来る限り。
(間。)
 ミシェル(帽子を取って。)さあ、これで僕は、今スュゾンがどこにいるか分った。ということは、今僕はスュゾンと一緒にいるっていうことだ。再び一緒になれたところで、僕は帰ろう。家に帰って、もう少しこのことを考えることにする。
 スュザンヌ また私達、会えるわね? 私、会いに行く。
 ミシェル 勿論待ってるよ。今週いつか来て。
 スュザンヌ ええ、朝、いつか・・・
 ミシェル(何か考えながら。)うん・・・じゃ、僕は行く。君、何か僕に用があるんじゃない?
 スュザンヌ いいえ、あ、あるわ。私のことで悲しまないで。
 ミシェル 他には、何かないの?
 スュザンヌ 有難う。本当にないわ。ご親切に・・・
 ミシェル(急に。)スュゾン、スュゾン、そうだ、あのコルソン・・・コルソンのところへ、ブロンドー、本当に今夜行くの? ね、ちゃんと話すんだ!
 スュザンヌ(困って。)ええ・・・ええ・・・きっと、きっと行く・・・
 ミシェル その金、あるの? 君、確信ある? さ、言うんだ、僕にはちゃんと! ないんだろう? 君達にはその金がないんだ!
 スュザンヌ いいえ、あるわ、ミシェル・・・少なくとも、すぐ入って来る・・・もうすぐ月末・・・お給料が・・・
 ミシェル ああ、スュゾン、いけないよ、君。いけない。そんな大事なことを言わないで、僕をそのまま行かせようとするなんて。
(ミシェル、財布から札を一枚取出し、テーブルに置く。)
 スュザンヌ(止めようとして。)いいえ、いいえ、いけないわ。駄目、それは。それだけは。
 ミシェル いけなくはない。あのコルソンが来た時、僕はここにいたんだ。分ったってちっとも悪くないさ。それに、君にお金が出来た時僕に返せばそれで終だ。
 スュザンヌ いいえ、駄目!
(スュザンヌ、ミシェルに返そうとテーブルの上の金を取りに行こうとする。ミシェル、スュザンヌの両手を取り、それを止めさせ、扉の方へスュザンヌを連れて行く。)
 ミシェル(既に扉の外に出て。)さようなら、さようなら、スュゾン!
                  (幕)

     第 三 幕
(前幕と同じ場。)
     
     第 一 場
(ブロンドー、打ちひしがれて、椅子に坐っている。両膝の上に両肘をのせて、両手で頭を抱えている。スュザンヌ、テーブルに腰をもたせかけて、その前に立っている。)
 ブロンドー(少しの間の後。)ここを出て行くしかない。前から言っていた税関に就職だ、僕は。
 スュザンヌ それがいいわ。もう一週間も前からそればかり言って、その癖(くせ)何の手だても講じないんだから。
 ブロンドー 何もかも厭になって、その気も起らなかったんだ。
 スュザンヌ もうぐずぐずしている時間はないわ。最初に試験に落ちたあの一年前の時から、もう諦めて税関の方にすればよかったの。林務官の試験はあなたには難し過ぎたのよ。
 ブロンドー 難し過ぎ? 冗談じゃない。コネのある連中には楽なものさ。試験なんて、あれは、あってもないようなものなんだ。
 スュザンヌ じゃ、もうそのことを考えるのは止めましょう。あなたの今の資格で税関に入る。税関にいる間に上に上がる試験を受けて行くのね。私はあなたの行く所の郵便局に務めるわ。あなたが税関の下っぱで働いている時、昔の同僚が「上官殿」ってからかっても、笑ってごまかしていれば、そのうちあちらもやらなくなるわ。
 ブロンドー ああ、厭なことがそれだけだったら・・・
 スュザンヌ まだあるの?
 ブロンドー 一難去ってまた一難だ。こう運が悪いんじゃ、身を屈(かが)めてひっこんでいるしか手はない・・・
 スュザンヌ 何なの? 懲罰?
 ブロンドー まさか!
 スュザンヌ じゃ何? 競馬? 競馬なの?
 ブロンドー うん、競馬だ。
 スュザンヌ ああ、その顔、一目で分ってもいい筈だったわ、アルマン。あなた、でも、約束したでしょう? 競馬はやらないって。少なくとも、私にことわってからでなきゃ。(間。)さ、話して! 何なの? どうしたの?
 ブロンドー 二八0フランの借りだ、大尉に。
 スュザンヌ 二八0・・・この間、二十フラン分のイダルゴー・・・あなた、あれを買わなかった・・・
 ブロンドー いや、あれは君に約束した通りちゃんと買った。あれは負けたんだ。・・・今度は別の馬で、四日前のことだ。大尉がまた僕に買えと頼んだ・・・名前はジロンドッルだ。
 スュザンヌ 呆れた! あなたって。あなたのお陰で私達破産! そう、もうここを出て行くしかないわ!
 ブロンドー その二十フランで君に喜んで貰おうと思ったんだ・・・ちょっとしたものを買ってね。
 スュザンヌ 二八0フラン! 四日前のこと・・・大尉はじゃ、知っているのね? その馬が勝ったのを。「金は?」って訊かれたのね?
 ブロンドー うん。一昨日だ。僕は、家に忘れて来た、と答えた。昨日は何も訊かれなかった。今朝は先手をうって大尉に言った。「大尉殿、また忘れました。すみません」って。
 スュザンヌ それで、何て?
 ブロンドー 「手をつけたんじゃないのか、お前」って・・・痛いところだ。
 スュザンヌ 二八0フラン!
 ブロンドー うん、二八0フラン。
 スュザンヌ どうするの? 家には百二十五フランしかないわ。
 ブロンドー 僕に二十五フランある。(立上って。)残りを何とかしなきゃ。兵士の体面がある。将来がかかっている。
 スュザンヌ そのことをもっと早くに考えておくんだったのよ。
 ブロンドー ああ、今度こそは終だ! 誓うよ! 僕がどんなに参っているか、君も分るだろう?(間。)あっちで二十、こっちで三十・・・集めなきゃ・・・
 スュザンヌ 弟に言ってみるわ、私。
 ブロンドー ルイには金はないよ。
 スュザンヌ ミシェルから借りた百フラン・・・あれ、「こんなに早く返していいの?」って訊かれたわ。私行って・・・
 ブロンドー 駄目だよ。だいたい君、何て言うつもりなんだ。五十フランを何日か・・・どういう理由にするんだ? それに・・・いや、駄目だ。この間で懲りた。何とか・・・
 スュザンヌ いい? アルマン。丁度その金額が集って返せたとしても、あと私達どうやって食べて行くの? 私、もう解決の方法は一つしかないと思う。正直に白状するの。買わなかったって。申訳ないけど、すぐに返せないので、三、四箇月の月賦で返させて欲しいって。
 ブロンドー 僕が? 僕がそんなことをしたって白状? 大尉からあんなに信頼されているこの僕が? 税関に入ろうとする時だって、推薦状はあの人が書くんだぞ。
 スュザンヌ しようがないでしょう? 大尉にも分るわ。軽卒なことはしたけれど、正直は正直だって。
 ブロンドー あの人のことを知らないからそんなことが言えるんだ。大尉はいい人だよ。だけど、そういうことにはうるさいんだ。酷く悪くとるに決っている。あの金に僕が手をつけただなんて、どうして僕の口から言える。大尉には言ってあるんだ「そりゃもう、確実に。どうか僕のことを信用して」・・・ああ、勿論三日前だったら、言えないこともなかった。いや、ここまで分っていれば、きっと言ってた。だけど今になって・・・赤い顔をして言い訳・・・まるで子供だ。
 スュザンヌ あなたはね、子供なの。真っ赤になって言い訳をするぐらいが似合い腐っているの。
(スュザンヌ、坐る。全く気落ちして、テーブルに坐り、肘をつく。)
 ブロンドー 僕が悪かった、悪かったよ。僕を責めたってしようがないだろう? 僕だって自分にうんざりしているんだ。だけど何か、何か捜してくれないか、別のことを。
 スュザンヌ(間の後。)じゃあ、私を悪者にしたら? 私がその二十フランで馬券を買うことになっていた。それであなたに隠して、買わないでいた。嘘をついていたのはこの私・・・二八0フランはちゃんと持ってるってあなたに言ってた・・・それであなたはそれを信じていたって・・・
 ブロンドー それはいい考えだ! それで万事うまく行く!
 スュザンヌ それ、あなた、出来る?
 ブロンドー 君が可哀想だけど・・・だけど確かに、妻にそういう落度があった場合、人は何もたいして重きをおかないからな・・・
 スュザンヌ 大尉はきっと、「そんなことを女房にこれからは頼むんじゃないぞ。子供と同じだ、女房なんて。あてにはならん」って言うだけよ。
 ブロンドー うん、そうだ。そんなことで君の評判が悪くなることなんてあり得ない。女房に名誉もへちまもありはしないし、多少の嘘をついたって、あけて通してくれるに決っている。女房なんて、他人から見れば、身持ちのことしか頭にないさ。ああスュザンヌ、また君のお陰で難を逃れることが出来るよ。
 スュザンヌ(溜息をついて。)分ったわ。じゃ、早く行って、大尉のところへ。そして、第一回目の払いをするの、五十フラン?
 ブロンドー それじゃ少ないな。
 スュザンヌ 百フラン? じゃ、百フラン渡して。
 ブロンドー うん。だけど、もしそれを受取らないと言ったら? 「二十フランだけは受取る。馬券は買わなかったんだからな」と言われたら? それでも何とか言ってはみるけど・・・
 スュザンヌ 駄目よ。ちゃんと受取って貰わなきゃ。どうしてもって、強く言うの。馬券は買っても買わなくても同じことなんだから。その馬が勝ったことには変りないんだからって。
 ブロンドー 勿論・・・(間。)ねえ、スュザンヌ、これは君が思いついた考えなんだ。で・・・君がへまをやった訳じゃない。だから君の方が僕よりは相手を説得する力が強いよ・・・ね、君が大尉に会うっていうのはどうかな?
 スュザンヌ(困って。)私が?
 ブロンドー うん。僕が頼むって言ったら? 君に。どうか頼むって・・・
 スュザンヌ でも・・・それは・・・
 ブロンドー ね、頼むよ。もし僕が行ったら、大尉は僕の上官だ。おまけにこっちは真犯人なんだ。僕は自分で分る。酷いことになるよ。小さくなって、何も言えなくて・・・僕は人の上に立つとちゃんとやれる男だ。人を従わせるのはうまい。だからよけい、相手が上官だと手も足も出ないんだ。出来るのは「気をつけ」だけだ。当り前だ。僕は上官じゃない、兵隊だからね。「あれやれ」「はい」「これやれ」「はい」だ。こういう役目を上官には・・・僕は無理だ。君なら何でもない。君は女だ。それに僕よりずっと頭がいい。
 スュザンヌ(間の後。)私、行くわ。
 ブロンドー 行ってくれる? 有難う、スュゼット! でも、酷く厭だったら・・・
 スュザンヌ そりゃ、好きで行くんじゃないわ。でも、考えたらやっぱり、私が行った方が良さそう。大尉さん、今家に帰っているのね?
 ブロンドー(スュザンヌが出かける用意をしている間に。)うん、この時間なら普通もう家に着いてる。住所は分ってるね? 庭の方のベルを押すんだよ。百フランは持った?
 スュザンヌ(扉の方に進みながら。)ええ。
 ブロンドー 勿論君が行くってことは、僕は知らないんだぞ。僕は、君がこんなことをするなんて、思ってもいないんだ、いいな?
 スュザンヌ(疲れたように。)ええ、ええ、分ってるわ。
 ブロンドー じゃ、頼む。待ってるからね。さ、キスしてくれ。(二人、キス。スュザンヌ、退場。)
 ブロンドー(扉のところで、大きな声で。)ああ、そうそう、君ね、自分が馬券を買わなかったっていうのが厭だったら、別の誰かに頼んだけど、そいつが買ってくれなかったんだ、と言えばどうだ?(間。ブロンドー、戻って来る。)行っちゃったな。
(ブロンドー、戻って来る。)
 ブロンドー 行っちゃったな。
(ブロンドー、大きな溜息をつく。坐る。両手を見る。爪切りを出し、爪を切る。それから、あちこち歩き始める。立上る。上衣から競馬の新聞を出し、再び坐って、読み始める。ちょっと経つとポケットから鉛筆を取り出し、新聞の上に計算をし始める。)
(この間に幕を一旦降ろし、すぐ上げてもよい。時間の経過を示すため。)
(扉にノックの音。ブロンドー、新聞を手に持って開けに行く。ミシェル登場。)

     第 二 場
 ブロンドー(気まづい調子。)今日は・・・
 ミシェル(怒っている。)恥づかしくないのか、君は。
 ブロンドー 何だって?
 ミシェル 僕は聞いているんだ。君は恥づかしくないのか、とね。
 ブロンドー 何ていう言い方だ、それは。僕に何の用がある!
 ミシェル 今スュザンヌに会ったところだ。大尉のところへ行こうとしたが、扉をノックする勇気がついに出なかった・・・幸いにね。それで僕の家にやって来た。あの金は僕が持たせた。封筒に入れて。今頃彼女は大尉宛送金している・・・君の名前でだ。
 ブロンドー 分らないな、スュザンヌがどうして・・・
 ミシェル 大尉に直接会う必要はなくなったんだ、スュザンヌは。だけどこの不始末、この・・・体(てい)たらく・・・僕は黙っていられなくてここに・・・君に、直接会いに来たんだ。
 ブロンドー 何? 体たらく? 気をつけるんだな、決闘ものだぞ!
 ミシェル(ブロンドーの新聞を取上げ、彼の目の前につきつけた後、テーブルにその新聞を投げつけて。)てっきり君は心配して、後悔して、苛々しながらスュザンヌの帰りを待っていると、僕は思っていた。それが何だ! 平気の平左衛門で、馬の品定めか!
 ブロンドー 何を・・・何を・・・
 ミシェル 彼女は今必死だ。早く郵送の手続きを終えて、ここへ駆けつけようとしている。君を早く安心させたい一心で。自分の誇りを捨てて、恥を忍んで・・・その恥たるや、君が彼女に押しつけたものなんだ! その間君は一体何だ! 新聞を、競馬の新聞を、悠然と眺めて、どの馬がいいかなどと・・・
 ブロンドー 嘘だ! 嘘ばかり並べて! 出て行け! この家からたった今出て行くんだ!
 ミシェル 出て行くわけには行かない。まだ終っていないんだ!
 ブロンドー 何の権利があって他人のことにちょっかいを出す!
 ミシェル 権利じゃない、これは義務だ!
 ブロンドー 全く、何故お前の家なんかに行ったんだ、スュザンヌは。まづこのことはあいつに言ってやる。いいか、これで二度目だ。お前がこっちの弱みにつけこんで、スュザンヌがお前を信用しているのをいいことに、余計なお節介をして、この僕に恩を売って、恥をかかせたのは。
 ミシェル 僕は君に恩を売ったりはしない。君など僕の眼中にないんだ。僕が今ここに来たのも、君のためじゃない。・・・ただ、どうしてもシュザ・・・
 ブロンドー この僕が何をしようと、この家で何が起ろうと、お前の知ったことじゃない! いいか、その面(つら)をこの家に二度と入れるな。この家の扉も二度と叩くな。お前とはこの僕は何の関係もないんだ。お前が金に困ってここに借りに来るとする・・・いいか、そうしたらその顔に、札束をぶん投げてやる。持ってたらな。
 ミシェル(怒って。)よくも言えたな、そんなことが。手を差し伸べられるのが厭なら、まづ泥の中で這い回るような嵌(はめ)に陥(おちい)らないよう用心するんだ。そして、その泥のとばっちりを他人にひっかけないようにな! (ブロンドー、肩をすくめる。)それから、僕の顔をこの家で見たくなかったら、僕と全く関係を断ちたいのなら、まづその前にやることがある筈だ。スュザンヌは僕の婚約者だった。君はその彼女に言い寄って、ついには結婚したんだ。そのスュザンヌを幸せにしてやるのが君の義務じゃないか! スュザンヌの幸せのために君は勇気を出し、我慢すべきものは我慢しなきゃならない。それがたとえ君の習慣になって君の血肉(けつにく)になっているものでもだ!
 ブロンドー(椅子の背を握りしめて。)うるさい! お前に分ってたまるか!
 ミシェル(ブロンドーに屈(かが)み込んで。)それを、遊びの中でも最低な、下劣な・・・あんなものの誘惑に負けて、詐欺まがいの手を打って、それで二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなった時、スュザンヌに恥をかかせてまでその尻拭(ぬぐ)いをやらせる・・・(苦しそうに。)彼女は幸せにならなきゃいけないのに・・・
 ブロンドー(締めつけられるような声で。)幸せでないと誰が言った。
 ミシェル 彼女は幸せじゃない。君を愛するだけじゃ幸せにはなれないんだ。君がそれに足る人物にならなきゃ、彼女に相応しい人物にだ。君は全く・・・
 ブロンドー 黙れ! 黙るんだ! 卑怯だぞ、そんなことを言うのは! お前は、彼女に相応しいのは自分だと言ってるんだ。お前はこの僕より教養がある、金がある。彼女はお前を、この僕より上だと思っている。糞っ! 卑怯者! 出て行け!(椅子を振り上げる。)出て行かないと・・・
(ミシェル、その椅子を取上げ、床に投げる。その時スュザンヌ、登場。)

     第 三 場
 スュザンヌ(怖れの表情。)ミシェル! あなた、どうしてここへ!
(ミシェル、身じろぎもしない。)
 ブロンドー 僕を侮辱しに来たんだ。
 スュザンヌ(ブロンドーに。)何て蒼(あお)い顔! そうだわ、二人で喧嘩をするところだったのね。ああ、私がいけなかった・・・
 ミシェル 違うスュザンヌ、僕がいけなかった。悪いのはこの僕だ。僕は心配で心配で・・・それに、どうしてもっと早く気づいていなかったかと、後悔の念で、この家に飛び込んだんだ。その時丁度運が悪いことに、ここで彼が競馬の新聞を拡げていた。それでカッとなって・・・
 ブロンドー(怒って。)それがどうした! ここは僕の家だ。自分の家で、自分の好きなことを勝手にやって、何が悪い!
 スュザンヌ そう、何も悪くないの、アルマン。お願いだから黙って。分るでしょう? ミシェルが・・・
 ブロンドー うるさい、出て行け! こいつは出て行くんだ!
(ブロンドー、坐る。両肘をテーブルにつき、両の掌(てのひら)に顎を置く。その姿勢で次の二人のやりとりを聞く。)
 ミシェル 分った。僕は行く・・・
 スュザンヌ いいえ、まだ駄目! 今あなたが出て行ったら、二人は永久に終になるわ。敵対したままで。私、それは厭!
 ミシェル(間の後。)僕がこの家に入った時、もう既に僕は僕でなかった。それから後は、ブロンドー、君を傷つけること、やっつけること、しか考えていなかった。スュザンヌは僕に、君の不幸、君の弱さを話してくれていた。それは、君の力になって欲しいためだった。僕のことをすっかり信用して、僕があんな馬鹿な真似・・・君について知っていることを武器に、君をさんざんこき下ろす・・・そんなことは到底する筈がないと、僕を信用して話してくれたんだ。そうだね? スュザンヌ。(ミシェル、坐る。両肘を膝の上にのせて。)その信頼を僕はまるで逆に使ってしまった・・・
 ブロンドー(間の後。)そう。
 ミシェル(しっかりと。)徹頭徹尾、僕が悪かった。二人に心から謝る。スュザンヌ、もしさっき、君がここにいたら、人間て、他人に忠告をしておきながら、自分ではどんなその忠告の正反対のことをやるものか、そのいい実例が見られたよ・・・いや、君がここにいてくれさえしたら・・・
 スュザンヌ ええ、二人は喧嘩になんかならないわ。
 ミシェル カッとなって、僕は言ってはならないことを言ってしまった。(立上がり、ブロンドーの方に進む。)なあブロンドー、僕らは自分で思っていた程利口じゃない。ちょっと道を外すとこの始末だ。
(間。)
 スュザンヌ(優しく。)誰だって道は外してしまうものよ・・・
 ミシェル 君が競馬をやるっていう話を聞いてから、そして君が失敗につぐ失敗をしていると聞いてから、僕は君と一度話したいと思っていた。何度も僕は、君との出逢いを想像した。ああ、勿論さっきやったような、あんな出逢いのことじゃない。場所だってここじゃなく、運良く街で出逢って、一杯やろうという話になって・・・そうだ、昔ルイと三人で飲んだね? あの時のような・・・そこでスュザンヌに話しかけるような調子で・・・つまり昔からの友達のように・・・君に話したろうと思うんだ。ああ、君の方に打ちあけ話なんか要求しない。こっちの方が色々話したろうよ。それからやはり、「心配している」って言うだろうな。・・・賭け事では決してしっかりした経済の基盤は作れないってね。君は勿論、大丈夫だって僕に言ったろう。でも、自慢じゃないけど、きっと君に賭け事の危険性は説得出来ただろうと思う。まあこんな風に、あれやこれや、ゆったりと、自由に、お互いの意見を言って、二人の気持が通じあうようになっただろうと思う。一番大事なのは、ここで、二人の間に、何か親密な気持が生れてきているっていうことなんだ。意見に違いが出た時には議論して、時には大声も出したりしてね・・・ただ、相手を傷つける言葉は、なしだ。少し厳しい言葉が出ても、すぐにそれを緩和する何かが出てきていた筈だよ。
 スュザンヌ 勿論!
 ミシェル だから、もし僕らが、そういう出逢いを一度やっていたら・・・ここで会うちょっと前に・・・そいう、君と僕の間に何らかの親しみがあったら、僕はきっとさっき言ったようなことは言わなかった筈だ。
 スュザンヌ そうよ。お互いに、もう少しよく知りあわなくちゃ。二人とも相手のことを何にも知らないんだから・・・
 ブロンドー(困って。)君は僕を知らないんだ。だから言える筈がないじゃないか・・・
 ミシェル 分ってる、それは。
 スュザンヌ さ、仲直りするの!
 ミシェル(決心して。)そう、仲直りだ。ブロンドー、僕が言ったことは忘れてくれ。そして、握手してくれ。
(ミシェル、テーブルの上から手を差出す。ブロンドー、一瞬躊躇う。が、相手の手を握る。)
 スュザンヌ ああ、良かった!
(ミシェル、左手をスュザンヌに差出し、スュザンヌ、それを握る。スュザンヌ、この間ずっと坐ったままでいるブロンドーに近づき、キスする。)
 ブロンドー(威厳をもって。)ただ・・・
 ミシェル ただ・・・何?
 ブロンドー 借りている金・・・あれは・・・
 ミシェル その話は今日はやめよう。返せるようになった時返してくれればいい。僕には当座必要のない金だ。
 スュザンヌ(ブロンドーに。)ミシェルに借りているって、ルイやママに借りているのと同じなのよ。
 ミシェル そう、そこはよく分ってくれなきゃ、ブロンドー。僕の母はマダム・キャプランの古くからの友人で、それで僕は、もう昔からキャプラン家の子供達の兄貴分だったんだ・・・
 ブロンドー 知ってる。
 ミシェル 僕が二十歳になると、キャプラン家では男性の大人はいなくて、僕がその役をするようになった。家族の誰かに悩み事があったりすれば、それを聞いてやるのが僕の役目だった。そうだね? スュザンヌ。
 スュザンヌ ええ、そう。
 ミシェル いや、聞いてやるなんて、そんなのろまなことはしてはいない。僕はその先手を打っていた。こちらから用心して、それを見越して、主導権をとって世話した。僕の性格だ、喜んでそうしたんだ。僕は何にでも口を出した。ルイの就職の時にも、スュザンヌが郵便局に務める時も。おまけにしょっ中僕の意見を押しつけもした。悪い癖だ。心の底では嫌われていたな、きっと・・・
 スュザンヌ 私達には有難かったわ。
 ミシェル だから、スュザンヌと君、つまり彼女の夫・・・が、困った時、どうして僕が離れたままでじっとしていられる? スュザンヌか、或は君が困った時、どうしてスュザンヌが僕のところに駆けつけない? そして、どうして助けを求められた僕が、君のところへ来て「気をつけろ」と言わない?
 ブロンドー それは分るけど・・・
 ミシェル(半分可笑しそうに、半分涙が出そうになりながら。)それからね、ほら、見て御覧、ここに坐っているちっちゃな可愛い女の子・・・この子はもう一家の母親・・・僕はこの子が心配そうな顔をしているのを、生れてこのかた見たことがないんだよ。この額に本当の心労から来る皺(しわ)があったのを見たことがないんだ。
 スュザンヌ 私、そんなにいつもあっけらかんと笑ってばかりいたんじゃないわ。
 ミシェル(スュザンヌに。)それはそうだよ。でも、君が真面目な顔をしている時・・・それがもう平安と満足を表していたんだ。小学生が砂糖菓子を舐めながら楽しい本を熱心に読んでいる、あの時の真面目な顔なんだ。(ブロンドーの方を向いて。)だから、分ってくれるね? 突然、心配そうな、困った顔をしたスュザンヌを見た時、僕がどんなに驚いたか、どんなに心を傷めたか・・・僕は度を失ってしまったかもしれない。ね? ブロンドー、今の話を聞けば、僕に恨みはもう持たないだろう? 僕のことを厭がらないね? さっきのあの酷い瞬間・・・あれはもう話すのは止めだ・・・あの瞬間も、僕ら二人を近づけるのに少しは役に立ったと考えることにしよう。
 スュザンヌ ああ、アルマンは恨みなんか持たないわ、きっと。
 ブロンドー(困って。)僕は・・・僕は君を憎んだりはしない・・・そんな・・・理由がないよ。今いろんなことが分って・・・僕は今までとは違う僕にならなきゃ駄目だ、スュザンヌ。一家を纏(まと)めてゆく力、行動力、それに、先を見抜く力、つまり・・・見識だ・・・それが僕には・・・
 ミシェル(抗議して。)でも、そんなもの、君、とっくに・・・
 ブロンドー 僕は育ちが悪い。・・・僕は・・・僕は・・・役立たずだ・・・本当の役立たず・・・
(ブロンドー、急に涙を流し始める。テーブルに肘をついて、両手で目を覆って、つっぷす。)
 スュザンヌ(駆け寄って。)アルマン! アルマン!
 ブロンドー 僕は君を幸せに出来ないよ、スュザンヌ!
 スュザンヌ そんなことないわ。ない・・・ない!
 ミシェル(ブロンドーに近寄って、肩に手を置く。)いや、そんなことを言っちゃ駄目だ。そんなこと、ある訳がない。人間には人を幸せにする力があるんだ。
 ブロンドー(しっかりと自分を抱きしめているスュザンヌから身を引き離して、立上がり。)・・・結局、さっき君が僕に言ったことはみんな本当だったんだ・・・
 ミシェル 違う。僕は乱暴だった。あんなこと・・・
 ブロンドー あれを言われてから、僕の頭にこびりついて離れないことがある・・・
 ミシェル(ブロンドーが泣くなどと思いもよらなく、心を打たれて。)君への言葉はあたっていなかった。僕は、考えてみると、今初めて君を見るような気がする。僕は君っていう人を僕の勝手で拵(こしら)えあげていたんだ。大事なことがポッカリと抜けていた・・・
 ブロンドー(溜息をついて。)何がどうであれ、僕の将来は暗い・・・行き止まりだ。
 ミシェル どうして。
 ブロンドー やろうと思っていたことが駄目になって・・・皆の期待を裏切ってしまって・・・僕が試験に受からなかったことは知っているね?
 ミシェル うん、聞いている。
 スュザンヌ(ミシェルに。)それで絶望的になったの、この人。
 ブロンドー(ミシェルに。)だからスュザンヌも落ち込んでしまった。分るだろう? 僕らの将来は暗いんだ。
 スュザンヌ(反対して。)私は違う。私はあなたほど落ち込んではいないわ。私達、ちゃんと生きて行けるわ。第一、あなたもう、競馬はやらないんだし、(ブロンドー、「もうやらない」という仕草。)だからもう、私達、心配事はないの。地位だってだんだんに上って行く。それを待てばいいの。
 ミシェル(力をこめて。)・・・それを待てばいい! 心配事はない! 二人の話を聞いていると、本当にこれでおしまい、ここに到って急に「どん底」って気分じゃないか!
 ブロンドー そう。つまり僕らには、最低の生活が待っているってことだ。スュザンヌは今まで通り沢山働いて、これからもそれは変らないということなんだ。
 ミシェル それは違うんだ! 今だよ、今から変るんだ! ただ、そのためには決心がいる。信じる力が必要になる!(ミシェル、勢いよく歩く。並んで坐っているブロンドーとスュザンヌの前に時々止まりながら。)大佐が君に、いつか言ったって話してくれたね。君が軍服をきちんと着て、気をつけをしているのを見て、「おお、士官になれる男だ、これは」って・・・その大佐、本当のことを言ったんだ。そうだ、図星なんだよ、この台詞は。士官かどうかは分らない。だけど、幸せな男になれる人間、そして、身内の人間も幸せに出来る人間なんだ、君は。そういう人間は何をしたらいいか知ってる? ねえ、ブロンドー、僕は今、確信がある。僕だって君がこの間、軍隊の正装をしているのをちゃんと見たんだからね。スュザンヌ! ブロンドー、試験だけが、林務官だけが、幸せになれる事だと思ったら大間違いなんだよ!
 ブロンドー と言っても・・・
 ミシェル(目に見えない苦しみを伴いながら。)(訳註 二人を幸せにすることで、自分はもう役目を離れてしまうことを悲しんでいる。)だって考えてご覧、もう君には必要なものは全部揃っている。後は自然に、来るものを掴みさえすればいいんだ。そう、これからの計画は? 何があったかな?
 スュザンヌ 税関へ行こうと思っているの。
 ブロンドー そう、あそこならまだ行ける望みはあって・・・
 ミシェル(あまり乗気でない。)税関・・・税関ねえ・・・一つの考えだけど・・・こんなのはどうかな? 山の中の綺麗な町だとか、海辺の港だとか・・・
 スュザンヌ 海辺の港・・・いいわ。今まで考えたことなかった・・・
 ミシェル 勿論税関もある。でも、僕が君だったら、別の方向にするな。
 ブロンドー 別の?・・・どういう?
 ブロンドー 軍隊は十年だったね?
 ブロンドー あと三年で十年。それで終。
 ミシェル つまり、再役(さいえき)の最後の期間なんだね?
 ブロンドー うん。だから今税関に行くと、勿論あと残りの軍務をいつか受けなっきゃならない。
 ミシェル それなら最後まで務めたらどう? その後、民間に就職すればいいんだ。
 ブロンドー そうか! 民間! それは全然思いつかなかった。
 スュザンヌ この人、軍隊、官庁・・・その線でしか考えていなかったの。
 ブロンドー 民間の仕事・・・そう言えば、僕にも知合いがいる。監獄の看守をやっていた・・・それに、他にも・・・
 スュザンヌ 民間の仕事!
 ミシェル 看守の仕事なんかを僕は言ってるんじゃない。他にいろんな・・・本当にいろんな仕事がある。人の好みに応じた、それに、能力、希望に応じた色々な仕事がある。そう、例えば、橋とか道路の管理、度量衡等の計測器の検定員、鉱山の監視、港湾管理者・・・もう様々(さまざま)だ。
 ブロンドー 本当に?
 スュザンヌ それ、確かな話?
 ミシェル それはもう、確かだよ。
 スュザンヌ(感謝の気持。)ミシェル、あなた、そういうことを全部知ってるの?
 ミシェル 全部? とんでもない。たまたま知っているものだけだよ。ちゃんと知ろうと思ったら、それに関する本にあたらなきゃ。(ブロンドーに。)勿論その職、地位に応じて試験を受けなきゃ駄目だよ。その試験も難しいものから易しいものまで色々だ。だけど、最初から高望みをしなければ、君が今受けられて、それもそう悪くないものがある。郵便局の局員・・・スュザンヌと同じ職業だ。
 スュザンヌ(笑って。驚いて。)私の同僚ね!
 ブロンドー(ちょっと困った顔。)フーン、それはちょっと・・・
 ミシェル 待って、待って。いいかい? 君達は二人とも郵便局員になる。二人は結婚しているから、同じ県の同じ郵便局に入ることになる。スュザンヌは将来局長に任命されるんじゃないかな。
 スュザンヌ いい考えだわ。でも、そんなことになるかしら。
 ミシェル 可能性があるということだけで充分じゃないか! 僕は細かいことは知らないよ。だけど、可能性があることだけは確かだ。ちょっと考えてご覧よ、景色のいい素敵な田舎に住む。勿論、官舎があてがわれる。村の真中の、裏に庭のついた小さな綺麗な家だよ・・・
 スュザンヌ(途中で遮って。)でも、ミシェル・・・
 ミシェル 待って。最後まで・・・二人は一緒に局に出る。或は代わりばんこにね。それは仕事に応じて二人が分担することを考えればいい。
 ブロンドー それは面白いな。
 ミシェル つまり、この郵便局の仕事は商売をしている人と同じように、自分で自分の計画がたてられるんだ。税関の役人なんかよりずっと独立している。それに、ただの書類仕事に振り回されなくてすむんだ。
 スュザンヌ 書類の仕事は・・・
 ミシェル(ブロンドーに。)君、少し想像がついた?
 ブロンドー(困って。)うん、悪い考えとは言わない・・・だけど、今まで考えてもいなかった仕事だから・・・民間の仕事って、どんな顔をしてやればいいんだろう。
 ミシェル それは制服を着た仕事とは大違いだよ。官庁とか軍隊とかとはね。急に視野が広がった感じがする筈だ。目の覆いがとれた馬のようなものさ。それに、自分のした仕事が、すぐさま人の役に立つことが目に見える・・・そこが楽しいんだよ。小さな郵便局、そこにはフランス各地から通信網を介して様々な電報が入って来る。つまり、その村と他の全ての地域とを結ぶ要(かなめ)なんだ。
 スュザンヌ そう、フランスだけじゃない、とんでもない國に・・・本当に名前を聞いたこともない國に、物を送る人がいるわ、時々・・・
 ミシェル 郵便局でいい人が働いてくれればなって、誰もが思っている。だから、君達二人が本当に親切な人だったら、皆に微笑みを与えることが出来るんだ。他の人よりも君達二人がそこにいることで、皆は幸せになる。そう、郵便局、これだよ、人の役に立てる職業・・・そうだね? スュザンヌ。
 スュザンヌ ええ、本当。
 ミシェル 年が経てば給料も上がってゆく・・・勿論節目節目には試験があるだろうけど。
 スュザンヌ 二人で一緒に受けて行くのね?
 ミシェル それに、子供も連れて行けるじゃないか。
 スュザンヌ ええ、それはさっき二人で話していたこと・・・
 ブロンドー(元気が出て。)庭つきじゃ、リケもよく育つよ。
 スュザンヌ それに、私達二人の目があるもの。それに時々はママも家によべるわ。
 ミシェル ああ、それにはきっとベッドが足りないな。でも、郵便局とその官舎っていうのは、フランスで唯一つ、実に無駄なく作られている。それに仕事への能率のことも考えられていてね・・・電報を受ける場所も、電話の位置も。それに、いつも食堂に直接繋がる扉が常に半分開いていて・・・
 スュザンヌ 庭に直接繋がる扉でしょう?
 ブロンドー それはどうでも・・・
 ミシェル よし、じゃ、庭に繋がる、だ。それで、スュザンヌは庭にいる。木陰で、子供の傍で、縫物だ。そしてブロンドー、君が勤めをやっている。君が一人でこなせない仕事が入ったら、クルッと椅子を回してスュザンヌの方に助けを求めるんだ。
 スュザンヌ いいわ、そんな風だったら。たとえいつも二人分の仕事があったって、人に雇われているっていう気がしないわ。
 ミシェル ちゃんと二人で計画を立てれば、いつも二人でっていう必要なんかない筈だよ。
 ブロンドー 田舎だったら、一日のうち数時間は、誰も局に来ない時間があるだろうな。
 スュザンヌ ええ、ここよりはずっといいわね、きっと。
 ミシェル 窓口は八時に開ければいい。ということは、いい季節の時には庭いぢりだって、自転車で少し走り回ることだって出来るよ。田舎はみんな早起きだからね。
 スュザンヌ 私はお花と野菜づくりだわ。
 ブロンドー ああ、川のある場所だといいんだが。魚が釣れる・・・
 スュザンヌ 冬には家の大掃除、そして読書・・・
 ブロンドー 僕は読書の習慣はないんだが・・・これはきっと今まで良い本に巡り会わなかったせいだろうな。
 ミシェル 僕が本を送るよ。友達に、そして、この辺りの人達に読んでやるといい。読書クラブだね。
 スュザンヌ ええ、ええ。そのためのいい場所がきっとあるわ。ああ、ミシェル、私、サンセルジュ図書館の分室をそこに作るわ。
 ミシェル そう、有難う、スュゾン! そう言ってくれないかな、と思っていたんだ。僕の計画にも合致するよ、それは。
 ブロンドー じゃ、まづ最初に基礎を固めなきゃ。(ミシェルに。)さっき話していた本に、今の郵便局のこと、出ているんだね?
 ミシェル それは、大抵のことはだいたい・・・
 スュザンヌ 出来るだけ早く調べなきゃ。ああ、ミシェル、私、早く知りたい! 何て良いんでしょう! ね? アルマン。
 ブロンドー うん、素晴しい! でも、ただ夢だけじゃ駄目だ。足を地につけて・・・
 ミシェル そんなの簡単だ。図書館へ行ってちょっと目を通せばすぐ終だ。十五分待って。その本を持って来る。
(ミシェル、自分の帽子を掴む。)
 ブロンドー そんな! 今すぐだなんて、わざわざ。
 スュザンヌ ミシェル、明日でもいいのよ。
 ミシェル いや、今行く。
(ミシェル、扉に進む。)
 ブロンドー(その後について行きながら。)僕ら二人とも、受ける資格があればいいんだけど・・・
 ミシェル(立ち止って。)そんなの! 駄目だったらまた別の仕事を考えればいい。
 スュザンヌ(びっくりして。)別の? いいえ、もう郵便局に決めたわ。それに、図書館の分室・・・すっかりその気だもの、私。
 ブロンドー 君があまりいい夢を見させてくれたから・・・
 ミシェル それならそれでいい。大きな夢を見るんだ。息を深く吸い込んで、計画にどぼんと飛び込むんだ。それはそうと、君、残念じゃない? 士官になるつもりが、こんなことに・・・
 スュザンヌ あら、士官のことなんか考えてたのね、私達!
 ブロンドー あの時は勿論本気だった。今はもう違う。
 ミシェル 田舎の郵便局が本当に無理だったら、君達、またぺしゃんこになるのかな? 田舎の郵便局だって、一時間前までは頭の片隅にもなかったものだけど?
 スュザンヌ 駄目、そんなこと言ったら。まだ希望はあるんだから。
 ミシェル(扉の方へ進み、笑いながら。)さ、僕は本を捜しに行くよ、スュザンヌ。走って行く! 郵便局がたとえ駄目でも、もう大丈夫。君達は一度夢を持ったんだ。夢を持つことを知った人間には、絶望なんてもうあり得ないんだ。どこかに必ず何かある。
 ブロンドー 人間、裸一貫になれば、これぐらい強いものはない・・・いや、僕がそうなったから言うんじゃないよ。
 ミシェル(戸口のところで、そこまでついて来ている二人に。)そう、その意気だ! それに、僕らはまだ若い。それに、君達二人、人生の門出をしたばかりじゃないか。じゃ、またすぐ後で。
 スュザンヌ(ミシェルを片手で掴んで引き止めながら。)待ってミシェル! 有難う! 私、生れかわった気持!
(ミシェル退場。)

     第 四 場
 ブロンドー(熱に浮かされたように部屋の中を歩き始める。)僕はねスュザンヌ、人口三千人の村にするぞ。それ以上は駄目だ。お百姓の村だ。綺麗な川、釣が出来る・・・
 スュザンヌ(散らかった椅子を元に戻しながら。)ええ、そうね。
 ブロンドー いい人達が必ずいるよ。勿論全員を訪問するなんて無理だけど。郵便局・・・仕事が仕事だからね。きっと皆と仲良くなれる・・・
 スュザンヌ(ブロンドーの方でなく、目がどこか別の方を向いていて。)一週間に二日、曜日を決めて本の貸出し・・・遠くに住んでいる人は日曜日もいいことにして・・・・
                 (幕)
    (一九二0年十月から一九二一年十一月まで。)


 この作品 (Michel Auclair) は「ヴィユ・コロンビエ座」にて、一九二二年十二月二十一日、ジャック・コポー演出により初演された。配役は次。

(Cette piece a ete representee pour la premiere fois au theatre du Vieux-Colombier, avac la mise en scene de Jacques Copeau, le 21 decembre 1922.)

Personnages
Michel Auclair M. Georges Vitray
Suzanne Catelain Mlle Catherine Jordaan
Madame Catelain Mme Gina Barbieri
Louis Catelain M. Robert Allard
Armand Blondeau M. Albert Savry
Colson M. Andre Bacque




平成十八年(二00八年)十一月十四日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

 


 
 

 

 


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