マリーヤ (八場の芝居)

             イサーク・バーベリ 作
             能 美 武 功   訳
             城 田  俊  監 修
      
   登場人物
ムコーヴニン (ニコラーイ・ヴァシーリエヴィッチ)
リュドミーラ 彼の娘
カーチャ (カチェリーナ・ヴャチェスラーヴォヴナ・フェーリゼン)
ドゥイムシッツ (イサーク・マルコーヴィッチ)
           (訳註 ドゥにアクセントあり。)
ガリーツィン (セルゲーイ・イッラーリオノヴィッチ) 革命前は公爵
ニェフェドーヴナ   ムコーヴニン家の乳母
エフスチーグニェイッチ  傷痍軍人
ビショーンコフ      同 右
フィリップ       同 右
ヴィスコーフスキー     革命前は騎兵隊の大尉
クラフチェーンコ
マダム ドーラ
警察署長
カルムィコーヴァ ニェーフスキー通り八十六番地のアパートの部屋係   (ドゥイムシッツのアパートの)
アガーシャ  玄関番 (訳註 ムコーヴニンのアパートの)
アンドレーイ  床磨きの男
クジマー   同 右
スーシュキン
サフォーノフ  労働者
エレーナ    彼の妻
ニューシュカ
警官
酔っ払い   (警察署での。)(訳註 第六場。台詞なし。)
赤軍の兵士   (前線からの。)

(場 革命の始めの頃。ペトログラードで。)

     第 一 場
(ニェーフスキー通りにあるアパート。ドゥイムシッツの部屋。汚い。袋、箱、家具、がいっぱいに散らかっている。 傷痍軍人二人・・・ビショーンコフとエフスチーグニェイッチ・・・が、運んで来た食料品を並べている。エフスチーグニェイッチは脂肪肥りの赤ら顔の男。顔は大きい。両足は膝上まで切断されている。ビショーンコフは片腕がなく、空の袖をピンで服に止めている。二人とも胸に勲章を下げている。ゲオルギー勲章。ドゥイムシッツは算盤を弾いている。)
 エフスチーグニェイッチ 到るところ道路を封鎖しやがった・・・ヴイリッツ(訳註 ヴにアクセントあり。)の関門にサンドベルクがいた頃はまだ良かったが・・・あいつも首になっちまいやがった。
 ビショーンコフ そりゃあもう酷いもんでさあ。
 ドゥイムシッツ カラリョーフはまだいるのか。
 エフスチーグニェイッチ 「まだいる」? いるなんてもんじゃありません。とっくに首ですよ。どこもかしこも封鎖、封鎖。闇取締係を次から次と替えやがる。
 ビショーンコフ 食料はもう危(やば)いですよ、ドゥイムシッツさん。取締係の連中に一人慣れたかと思うと、すぐそいつがいなくなるんですからね。あいつら、物を取り上げるだけで放っときゃしない。目の前でこちとらの命まで取り上げやがる。
 エフスチーグニェイッチ 嵌めてやろうって言ったって、ああ毎日次から次へと新手を出されちゃお手上げだ。今日だって駅に行ってみたら、一斉射撃だ。何だろう。また政権の交替か・・・何のことはない。やつらの新手なんでさあ。まづ最初に撃ちまくる。それから訊問だっていう。
 ビショーンコフ 最近は食料といやあ何でも没収しやがる。「子供の為だ。」それが連中の言い草だ。「ツァールスコエセローの子供達の為だ。あそこには今子供しかいない。」・・・あそこが孤児養育院なんだとよ。
 エフスチーグニェイッチ あんなこと言ってやがって。いるのは、髭の生えた孤児ばかりさ。
 ビショーンコフ こっちだって、腹が減りゃ取って食うさ。腹が減りゃ、何が何でも取って来るに決まってらあ。
 ドゥイムシッツ フィリップはどこなんだ。フィリップのことが心配だ。あいつをどうして放りだして帰ってきたんだ。
 ビショーンコフ 放りだした訳じゃありません、ドゥイムシッツさん。あの野郎、脅えちまいやがったんで。
 エフスチーグニェイッチ 引っ張られたんじゃないかな、あいつ。
 ビショーンコフ なにしろ連中は無茶苦茶をやって来るんです、ドゥイムシッツさん。
 エフスチーグニェイッチ フィリップの奴ですがね、外目(そとめ)にはあいつは立派で目立つ野郎ですよ、だけど腹が出来てないんだ、腹が。あっしらは駅の手前まで来た・・・一斉射撃だ。みんな右往左往、泣き喚いている。俺はあいつに言った。「いいか、フィリップ、あの壁の穴を抜けて、ザーガラド通りに出るからな。あそこへ行きゃ、兵隊達も知ってる奴ばかりなんだ、だから・・・」あいつはいつものあいつじゃないんでさ。腰を抜かしてやがる。「お・・・俺は怖い。行かない。」「怖いんならいい。そこへいろ。いいか、この酒運び屋。怖いったって、たいしたことはない。おもいっきりぶん殴られるだけだからな。ウオッカを挟んだ帯が一本。ぶん殴られて鼻は潰されるさ。だけどそれだけで済むさ・・・」だけどあいつは動こうともしやがらん。地面にへばりついてるんだ。外目には強そうに見えるんだがな。まるで鬼みたいにな。だがてんで腹が出来ちゃいない。
 ビショーンコフ まあ、ひょっこり戻って来ますよ。そう思います、ドゥイムシッツさん。あんまり目はつけられていなかったようだし。
 ドゥイムシッツ ソーセージにはいくら払ったんだ。
 ビショーンコフ 一万八千(ルーブル)です。ものも悪いです。最近じゃあ、ヴィチェーブスク製だろうと、ペテルブルグ製だろうと、かわりはないですよ。工場は同じなんですから。
 エフスチーグニェイッチ(壁の隠し戸棚を開け、その中に食料を詰め込む。)何でも同じ。オロシアを一色にしようとしてるんだ。
 ドゥイムシッツ 小麦はいくらした。
 ビショーンコフ  九千ルーブルです、ドゥイムシッツさん。高いなんて言おうものなら、「なら、持ってくな。」ですよ。取引なんて感覚はもうあいつらにはないんです。お前ら、買わない? 買わないなら有り難いくらいだ。(こうです。)最近のあいつらの厚かましさったら、ちょっと口じゃ言えません。
 エフスチーグニェイッチ(パンを隠し戸棚に入れながら。)奥様が手づから作って下さったんです、このパンは。本当にご自分で・・・よろしくお伝え願いたいとのことで・・・
 ドゥイムシッツ で、子供達はどうだった。元気にやってたか。
 ビショーンコフ 元気にしておられました。とてもお丈夫そうで。毛皮の外套を着て、金持ち坊やちゃん達ですよ・・・奥さんが、一度是非いらして下さいと。
 ドゥイムシッツ 今は動きが取れないな・・・(算盤を乱暴に弾いて。)ビショーンコフ!
 ビショーンコフ はっ。
 ドゥイムシッツ 利益がないぞ、ビショーンコフ。
 ビショーンコフ ひどく厳しくなってきたんで、ドゥイムシッツさん。
 ドゥイムシッツ これじゃあ、利益が出ないんだ、ビショーンコフ。
 ビショーンコフ 利益はどうやっても無理でさあ、ドゥイムシッツさん。こいつと二人で考えたんですがね、もう扱うものを変えた方がいいんじゃないかって。食料ってやつはかさばるんで・・・どうしても。小麦粉はかさばるし、麦だってかさばる。肉もかさばる。もう、こうなったら別のものにしたらどうかって。例えばサッカリンだとか、宝石・・・ダイヤなんか。これならすごいですぜ。いざという時にはぱっと口に入れる。分かりゃしませんや。
 ドゥイムシッツ フィリップのやつ、どうしたんだ・・・どうもあいつが心配だ。
 エフスチーグニェイッチ 半殺しの目にあっちゃったんじゃないですか、ひょっとして。
 ビショーンコフ それに革命前までは(一九一八年頃は)傷痍軍人と言やあそれだけで人は一目置いてくれた。ところが今じゃ・・・
 エフスチーグニェイッチ そうだ。あの教育ってやつだ。以前は連中、俺達の前へ出りゃ、何だか良心がうづくっていう風だった。今はどうだ。思いやりなんて薬にしたくもありゃしない。「お前、足、どうしたんだ?」「榴散弾でな、両足いっぺんにやられたんだ。」「フン、だけどたいしたこたあなかったんだろ。両足を切る時さ。 痛みは取るんだからな。お前、痛くはなかったろう。」「何言ってんだ。何で痛くない。」「だって誰でも知ってらあ。すぐクロロホルムをかがされて気絶だ。何も感じはしない。今不便なのは足の指さ。指先が引っ張られるような、痒いような、そんな気分がするのさ。そこには何もないのにな。それだけじゃないか。」「どうしてそんなことを知ってるんだ。」「おい、兵隊、今じゃあ、民衆だって教育ってものを受けるのさ。」「ほおお、教育ね。じゃあ何故お前、俺が汽車から落っこちそうになっている時に。・・・ええい、何故お前、俺を汽車からほうり出すんだ・・・ 片輪の人間なんだぞ、俺は。」「片輪だからほうり出すのさ。ロシアじゃあな、てめえみたいな片輪が多過ぎらあ。もう見るのもうんざりだ。」そして薪(たきぎ)と同じ扱いだ。ほうり出しやがる。本当にあいつら、腹に据えかねまさあ。ドゥイムシッツさん。
(ヴィスコーフスキー登場。乗馬用のズボンと背広、の姿。ワイシャツのボタンを外している。)
 ドゥイムシッツ あんたですか。
 ヴィスコーフスキー そうだ。
 ドゥイムシッツ 挨拶はどうしたんですか。
 ヴィスコーフスキー リュドミーラが来なかったか、ドゥイムシッツ。
 ドゥイムシッツ 挨拶は犬にでも食われたんですかね。・・・まあいいでしょう。来たらどうしました?
 ヴィスコーフスキー ムコーヴニン家の例の指輪はあんたのところにある、それは分かっているんだ。だけど長女のマリーヤが態々あんたのところに持って来る訳はないんだから・・・
 ドゥイムシッツ 人に託されてきたんです。猿に託されたんじゃありませんな。
 ヴィスコーフスキー どうしたんだ。どういう経緯(いきさつ)なんだ。
 ドゥイムシッツ 売ってくれと頼まれましてね。
 ヴィスコーフスキー 俺が買う。
 ドゥイムシッツ ほほう、何故でしょう。
 ヴィスコーフスキー あんたは相変らず紳士じゃないな。
 ドゥイムシッツ 何を仰いますか。いつだって紳士ですよ。
 ヴィスコーフスキー 紳士は物を訊かないもんだ。
 ドゥイムシッツ あの指輪で外貨が欲しいっていう話でしてね。
 ヴィスコーフスキー 外貨で五百ポンド、あんたは俺に借りがあるぜ。
 ドゥイムシッツ 何のことでしょう、それは。
 ヴィスコーフスキー 糸の商売があったろう。
 ドゥイムシッツ あれはそっちじゃありませんか、へまをやったのは。
 ヴィスコーフスキー 騎兵部隊じゃあ、糸の取引のやり方は教わらなかったからな。
 ドゥイムシッツ あんたはすぐかっとなりなさる。だからへまをなさるんです。
 ヴィスコーフスキー 時間をくれよ、親方。そのうちにはうまくなる。
 ドゥイムシッツ うまくなる訳はありませんよ。人の話を聞かないんですからね。私がこう言う。するとあんたはああなさる。戦争じゃあ隊長か伯爵か、お偉いさんなんでしょう。だから多分かっとなる必要もありましょう。ですけど、商売でかっとなったら終です。人がどこに坐るか、それを見届けるようにして始めて商売人ですよ。
 ヴィスコーフスキー 分かりました、分かりましたよ、親方。
 ドゥイムシッツ 私は怒ってるんです、ヴィスコーフスキーさん。それから、もう一つ別のことでも怒っています。あの公爵の部屋、何ですか、あれは。
 ヴィスコーフスキー ああいうのがお気に召すんだろうと・・・
 ドゥイムシッツ あの女は処女だったんです。ご存じだったんでしょう?
 ヴィスコーフスキー あの女は、正真正銘の初物さ。
 ドゥイムシッツ ああいう初物は私には不要です。いいですか、騎兵隊長さん。私は普通の人間なんです。公爵だか何だか知りませんが、その娘が、絵にあるマリア様のような顔をしてやって来て、銀の匙のような眼で私をじろりと見る。そんなのはまっぴらご免なんです。ちゃんと注文をつけておいた筈です。よく聞いておいて欲しかったですね。三十に近くても、いや、三十五でもいい。ある程度の辛酸は舐めてきた家庭の主婦、私の小麦とパンと、子供の為のココア一袋、そういった物を受け取ってくれそうな女・・・それに、事が終わった後で私に、「汚らわしい下司野郎。私を汚(けが)して・・・犯して・・・」などと言わない女を、と。
 ヴィスコーフスキー ムコーヴニン家の次女(リュドミーラ)がちゃんと後に控えている。
 ドゥイムシッツ あの人は嘘つきです。私は嘘つきは嫌いだ。何故長女に会わせてくれないんですか。
 ヴィスコーフスキー マリーヤは軍隊に入った。(ここにはいない。)
 ドゥイムシッツ あの人こそ女です。マリーヤ・ニコラーエヴナ・・・顔を見てよし、話してよし。あれが軍隊に行くまで態々あんた、待っていたんですな。(私に隠して。)
 ヴィスコーフスキー 長女の方はやっかいなんだ、ドゥイムシッツ。ひどくやっかいなんだ。
(訳註 次の台詞は、傷痍軍人同志での会話。)
 エフスチーグニェイッチ 「お前はな、怖いと思う暇もなくやられちまっていたのさ。痛いもへちまもあるもんか。」こう言いやがる。酷い話さ。こっちの感覚のことまで保証しやがる。
(遠くで銃声。次に近くで銃声。銃声繁くなる。ドゥイムシッツ、あかりを消し、扉に鍵を掛ける。窓からの光のみ。緑色のガラス。外は厳寒。)
 エフスチーグニェイッチ (囁く。)酷いもんだ。
 ビショーンコフ なんていう暮らしだ。
 エフスチーグニェイッチ 水兵達もドンパチやりやがる。
 ビショーンコフ こんなのは暮らしって言えるんですかね、ドゥイムシッツさん。
(扉にノックの音。沈黙。ヴィスコーフスキー、ポケットからピストルを取り出し、安全装置を外す。再びノックの音。)
 ビショーンコフ 誰だ。
 フィリップ (扉の後ろから。)俺だ。
 エフスチーグニェイッチ 声を確かめる・・・俺が誰か言ってみろ。
 フィリップ 開けてくれ。
 ドゥイムシッツ フィリップだ。
(ビショーンコフ、扉を開ける。部屋に輪郭のはっきりしない、大きな図体の人影。それが入ってくる。暫く壁にすがって黙った儘。灯が一斉につく。フィリップの顔半分は、火傷のための大きな肉腫で覆われている。胸に顎を埋め、眼は閉じている。)
 ドゥイムシッツ 撃たれたか。
 フィリップ いや。
 エフスチーグニェイッチ へばっているな、フィリップ。
(エフスチーグニェイッチとビショーンコフ、フィリップの毛皮の長外套、上着、その下に着ているゴム製の衣装をはぎ取り、床に投げる。ゴムの衣装は、まるで第二のフィリップであるかのように、形を保って床に転がっている。フィリップの手の指(複数)は、切り傷が沢山出来ていて、血が出ている。)
 エフスチーグニェイッチ ひどい扱いをしやがる。あいつら、人間と言えるか。
 フィリップ(顎はまだ胸に埋めた儘。)つけて来られたんだ・・・連中、つけて来たんだ。
 エフスチーグニェイッチ あいつか。
 フィリップ あいつ?
 エフスチーグニェイッチ 革脚絆の、例の・・・
 フィリップ うん。
 エフスチーグニェイッチ もう包囲されているのか。
 ドゥイムシッツ この家までつけられたのか。
 フィリップ(やっとのことで言葉になる。)家まではつけられてない・・・ 銃声が聞こえて、あっちに行った。
(ビショーンコフとエフスチーグニェイッチ、フィリップを抱え、寝かせる。)
 エフスチーグニェイッチ だから言ったろう。壁の穴から抜けようって・・・
(フィリップ、唸る。吐息をつく。遠くにまた銃声。機関銃のバリバリいう音。それから静寂。)
 エフスチーグニェイッチ 酷いもんだ。
 ビショーンコフ なんていう暮らしだ。
 ヴィスコーフスキー 指輪はどこなんだ、親方。
 ドゥイムシッツ 指輪、指輪。あんたには指輪しか頭にないんですか。

     第 二 場
(ムコーヴニン家のアパート。寝室兼食堂兼書斎。一九二0年代特有の部屋。しかし家具は古風でしゃれている。小型の鉄製のストーブ。その煙突の為のパイプが、部屋を横断している。ストーブの前には小さく切った薪が置いてある。衝立の後ろで、劇場へ行く用意の為、リュドミーラ・ニコラーエヴナが着替えをしている。ランプの上に、髪を巻く為の鏝(こて)が暖められている。カチェリーナ・ヴャチェスラーヴォヴナが、衣服にアイロンを掛けている。)
 リュドミーラ あんた、遅れてるのよ、カーチャ。劇場に行ってご覧。今はもうみんな着飾ってるんだから。クルイモフの姉妹、ヴァーリャ・メイエンドールフ・・・みんな、雑誌から抜け出たような服装よ。それに豪勢なものよ、生活だって。
 カーチャ こんな世の中で、誰がいい生活をしているっていうんですか。誰もいやしませんよ。
 リュドミーラ それがいるのよ。あんた、遅れてるのよ、カーチャ。プロレタリアートの貴族様達はね、今は裕福なの。だから女性に奇麗に着飾って欲しいの、あの人達。あんたのいい人の、レーチカだって、あんたがむさ苦しい格好で出歩いたら、嬉しいと思う?嬉しくなんかありゃしないわよ。今はプロレタリアートの貴族様達、裕福なんだからね、カーチャ。
 カーチャ 私がお嬢さまだったら、つけ睫(まつげ)は止めますけど・・・それに、その袖のないドレスですけど・・・
 リュドミーラ あんた、忘れてるんじゃないの、カーチャ。私はね、男の人と一緒に行くのよ。
 カーチャ お嬢さまには悪いですけど、あんな人に分かる訳ないんです。
 リュドミーラ それはどうかしら。あの人にはあの人で、好みもあるし、気質だって・・・
 カーチャ 赤毛は激しい・・・誰でも知ってる。
 リュドミーラ あの人、赤毛じゃないわ、あのドゥイムシッツ。・・・チョコレート色だわ。
 カーチャ そうね・・・あの人、そんなに金があるの?  ヴィスコーフスキーが嘘を言っているんじゃないの。
 リュドミーラ 六千スターリングっていう話ね、ドゥイムシッツは。
 カーチャ 片輪を使って一財産ね。
 リュドミーラ 片輪を食い物にしてるっていう言い方ね。・・・でも誰が思い付いたっていい筈よ。あの人達には、同業組合があるし、共同出資だし。それに傷痍軍人は捜索されないですんだ、今までは。だから物を運ぶには好都合。
 カーチャ そんなこと思い付くには、やっぱりユダヤ人でなくちゃ。
 リュドミーラ ユダヤ人の方がずっとましじゃない、カーチャ。ここらへんにいるコカイン常習者よりも・・・そう。一人はコカイン常習者、一人はピストルで頭を撃ち抜いて自殺、一人は辻馬車の馭者。エヴロペーイスキー・ホテルの前で、乗客が来るのを待っている・・・Par le temps qui court (今のところ)ユダヤ人だわ、一番いいのは。
 カーチャ そうね。確かに、頼れるっていう点じゃ、ドゥイムシッツ以上の人はいないわね。
 リュドミーラ それにね、カーチャ。私達は女なの。ただの女。あの玄関番のアガーシャが言ってる通り。「フラフラしてるの、飽きちゃった。」・・・女ってずっと男なしって訳にはいかないの。そうよ、そういう訳にはいかない・・・
 カーチャ 子供もつくるつもり?
 リュドミーラ 赤毛を二人ね。
 カーチャ と言うことは・・・正式な結婚?
 リュドミーラ ユダヤ人はね、カーチャ、ちゃんとした結婚でなきゃ、駄目なの。ひどく家庭的なんだから。妻にはものを相談するし、子供には気を配るし、それに自分のものになった女性には常に敬意を払っている。そう、この女性への尊敬の念、ていうのが心をうつのね。あの人達の特徴なのよ。
 カーチャ ユダヤ人をどうしてそんなによく知っているの。
 リュドミーラ それはこういう訳。パパがね、ヴィーリンで一部隊受け持っていたことがあって、それは全員ユダヤ人だったの。そして友達にラビがいた。ラビっていうのはみんな哲学者なのよ。
 カーチャ(衝立の上から、アイロンをかけた服を渡す。)芝居の後は・・・食事?
 リュドミーラ そういうことになるわね。
 カーチャ あなたどうせ飲むのね、リュドミーラ。それもしこたま。そして情欲の嵐。後は闇の中に溺れてゆく・・・
 リュドミーラ とんでもない。暫くは騎士道が続くの。一箇月・・・二箇月?・・・ユダヤ人にはそれが必要なの。キスだって許すかどうか、私まだ決めてないわ。
(ムコーヴニン将軍、登場。フェルトの長靴。軍隊の赤い裏地の外套を部屋着に作り直したものを着ている。眼鏡を二個携えている。)
 ムコーヴニン(読む。)「・・・一八二0年十月十六日、皇帝アレクサンドル一世の治世下、セメノーフスキー連隊付の近衛親衛隊は、軍人としての誓いの義務、及び上官への服従の義務を忘れたとされるが、それはどういうことだったのか。夜遅く、勝手に集会を持つと言う暴挙を行ない・・・」(頭を上げる。)点呼の後、下士官以下の兵隊が廊下に集まり、中隊長に、十日ごとの自宅査察・・・こういう査察があったんだな、あの頃は・・・の廃止を願い出た。この反乱・・・このことを反乱と定義づけたんだ、連中は・・・この反乱に対して、罰はどうだったか・・・(読む。)「首謀者と認められた下士官は、死刑。それ以外の下士官は、不服従に対する見せしめとして、絞首刑。上等兵以下の兵隊達は、他の兵隊への見せしめの為、連隊整列の中、笞打たれながら通過する笞打ちの刑六回・・・」
 リュドミーラ 随分酷い刑だわ。
 カーチャ 昔は酷く残酷だった。誰でも認めるわ、それは。
 リュドミーラ ボリシェビキー達、パパの本に飛び付くんじゃない? 昔の軍隊に悪いことがあれば、これみたかで罵りたいんだから、あの人達。
 カーチャ 違うわ、それは。現在のことしか興味がないのよ、あの人達。
 ムコーヴニン 私はこのセメノーフスキー事件を二つの章に分けて論じるつもりなんだ。第一は、この反乱の原因の研究。第二は、反乱、懲罰、鉱山への流刑等、事件そのものの記述。私のこの話では、軍人の生活とはどういうものか、に焦点を置く。決して単なる人物の羅列ではない。シードロフとか、プローシカ、その他大勢の軍人達の悲惨な運命、無慈悲な警察の手に渡され、以後二十年間、戦時の強制労働へとシベリア送りになった連中の話。
 リュドミーラ パパ、カーチャにどうしてもパーヴェル一世の章を読んでやらなきゃ。トルストイが生きていたら、ここのところ、きっと褒めた筈だわ。
 カーチャ 新聞じゃあ「今」が大事なの。「今」しかないのよ。
 ムコーヴニン 過去に対する知識がなきゃ、将来の指針もありゃしない。結局ボリシェビキーのやったことだって、イワン一世の意図を継いだのさ。つまりロシアの領土統一さ。だから我々幹部将校は、たとえ自分達の過ちであろうと、後進の為に残しておいてやるのが・・・(義務なのさ。)
(呼び鈴がなる。玄関に人を迎える音。ドゥイムシッツ登場。毛皮のコートを着て、手に包を持っている。)
 ドゥイムシッツ 今日は、ムコーヴニン閣下。今日は、カーチャさん。リュドミーラさんは?
 カーチャ お待ちしていますよ。
 リュドミーラ(衝立の後ろから。)私、着替え中。
 ドゥイムシッツ 今日は、リュドミーラ。大変な寒さですよ。犬も風邪ひくような、そんな寒さです。イッポリットが馬車でここまで連れてきてくれて。あいつ、車の中で喋りづめだ。ああ言いこう言い、よくまあ話題があったもんだ。 ああいうのはめったにいないですよ。もう遅いんじゃないですか。芝居は大丈夫かな。
 ムコーヴニン やれやれ、まだ日が明るいっていうのに、芝居見物とはな。
 カーチャ 今は芝居は五時に始まるんですよ。
 ムコーヴニン 電気の節約か?
 カーチャ ええ、まづ電気が第一ですけど、夜遅く帰ると、道で身ぐるみ剥がれますから。
 ドゥイムシッツ(包を開けながら。)ちょっとハムを持って来ました、閣下。通じゃないので私には分からないのですが、ここの牛は飼料に麦を使ったって言うんですがね・・・麦を食わせたか、何を食わせたか・・・とにかく私がそこに居合わせた訳じゃないので・・・
(カーチャ、隅に行き、煙草を吸う。)
 ムコーヴニン いやー、君、これはちょっと戴き過ぎだよ。
 ドゥイムシッツ それから、まぜものソーセージを少しと・・・
 ムコーヴニン(意味は掴めない。)まぜもの?
 ドゥイムシッツ こんなものがお口に合うとは思いません。小さい頃から召し上がったことなどおありとは思っておりませんから。でもミーンスクでも、ビリューイスクでも、チェルノーブイリでも、大評判でして。鵞鳥だと思いました、材料は。ちょっと味をみて戴いて、御感想をお聞かせ願えれば有り難いです・・・如何ですか、本の進み具合は、閣下。
 ムコーヴニン じわじわと行っとるよ。アレクサンドル帝まで進んだからな、それでも。
 リュドミーラ 小説みたいに読めるのよ。トルストイの「戦争と平和」に似てるわ。ほらあの、兵隊達の話があるところ・・・
 ドゥイムシッツ それは楽しみですね・・・家の外ではドンパチやらせておくんですな。それから、壁に頭をぶっつけて死んで行く奴がいたって構やしません。閣下は閣下の仕事・・・本を完成させる・・・これに専念しなければ。出版記念の祝宴は私に任せて下さい。それから最初の百部は私が買いますからね・・・それからこれはサラミソーセージです、閣下。自家製サラミなんです。知り合いのドイツ人が作ったんですがね・・・
 ムコーヴニン 君、ドゥイムシッツ君。わしは本当に怒るぞ・・・
 ドゥイムシッツ ムコーヴニン将軍に怒られるとは、私も名誉なことです。・・・このサラミは逸品ですよ、閣下。作ったドイツ人というのが、昔は有名な学者でしてね。今はソーセージ作りの名人で・・・リュドミーラ、遅刻じゃないかな。私は心配になってきた。
 リュドミーラ(衝立の後ろから。)出来たわ。
 ムコーヴニン これでどのくらいの借りになるかな、ドゥイムシッツ。
 ドゥイムシッツ ニェーフスキー通りで今日死んだ馬の一頭の、蹄鉄一個分でしょうかね。
 ムコーヴニン いや、真面目な話なんだ。
 ドゥイムシッツ 真面目な話っていうことになると・・・馬二頭の蹄鉄二個分ですか。
(衝立の後ろから、リュドミーラ登場。目の覚めるような美人。均整のとれた身体。頬に紅。耳にイヤリング。袖のない、黒い天鵞絨(ビロード)のドレス。)
 ムコーヴニン うちにはいい娘がいる。そうだな、ドゥイムシッツ。
 ドゥイムシッツ 否定出来ませんな、それは。
 カーチャ これがロシア美人っていうものですわ、ドゥイムシッツさん。
 ドゥイムシッツ そうでしょうな。私は専門家でないので断定は出来ませんが。
 ムコーヴニン これの姉のマリーヤにも会って貰いたいな。
 リュドミーラ 考えてもみて。姉は家で人気者だったの。その人気者がどうでしょう、今は兵隊さん。
 ムコーヴニン 何が兵隊さんだ、リュドミーラ。あれは政治局に行ったんだ。
 ドゥイムシッツ 失礼ですが、閣下。政治局っていうのはつまり、兵隊のことなんです。
 カーチャ(リュドミーラを隅に引っ張って。)駄目。イヤリングは駄目よ。
 リュドミーラ そう?
 カーチャ 当たり前でしょう。駄目です。それから食事のことだけど・・・
 リュドミーラ カーチャ、安心して寝てなさい。釈迦に説法よ。・・・(カーチャにキス。)カーチャ、馬鹿ね、本当に大丈夫なんだから・・・(ドゥイムシッツに。)靴を取って頂戴。(脇を向いて、そっとイヤリングを外す。)
 ドゥイムシッツ(飛んで行く。)ちょっと待って!
(リュドミーラ、靴、外套、オレンブールグのスカーフで頭と顔を覆う。 ドゥイムシッツ、甲斐甲斐しく仕える。)
 リュドミーラ 着てみてびっくりね。まだ売らないですんでいる。・・・パパ、私がいなくても、ちゃんとお薬、飲むんですよ。それからカーチャ、パパにはもう仕事はさせないのよ。
 ムコーヴニン カーチャとちゃんとお利口に留守番をしてるさ。
 リュドミーラ(ムコーヴニンの額にキスする。)パパのこと、気にいって? ドゥイムシッツさん。このパパは他のパパとはまるで違うの。
 ドゥイムシッツ お父様は珠玉ですよ。人間じゃありません。
 リュドミーラ 父を知っている人なんていやしない。私達だけだわ。・・・イッポリット公爵は何処で待っているの?
 ドゥイムシッツ 玄関のところです。「待て。」が命令。すると待っているんです。躾、軍隊教育・・・ですからね。じゃあ失礼します、閣下。
 カーチャ 豪遊は駄目よ。
 ドゥイムシッツ 豪遊? それは駄目ですな。今の世の中じゃ、(やろうと思っても。)
 リュドミーラ じゃ、パパ、行って来るわ。
(ムコーヴニン、出口まで娘とドゥイムシッツを送る。扉の後ろで声と笑い声が聞こえてくる。ムコーヴニン、戻って来る。)
 ムコーヴニン 好感の持てる、立派なユダヤ人だな、あれは。
 カーチャ(ソファの隅に行き、ちぢこまり、煙草を吸う。)でも、ユダヤ人てみな面白味がないわ。どうしてああなんでしょう。
 ムコーヴニン カーチャ、お前、どうして連中に面白味なんか求められると思っているんだい。連中には通りの向こう側でしか暮らしちゃいけないと言ってきたんだ。こっち側に来りゃ、おまわりが来て向こうに追っ払って。キーエフのビビコーフスキー通りでだってそうだったんだ。面白味なんて、それでどうして出て来る。連中にはそんなことより別のことで驚くじゃないか。あのエネルギー。生きようとする力。反抗の精神・・・
 カーチャ あのエネルギーは今ではロシア人にまで感染してきていますわ。 でも私達は別。私達にはそんなもの、無縁。
 ムコーヴニン(連中の)運命論・・・これは我々に無縁じゃない。君主を倒したラスプーチン、それから事実上君主制を倒したドイツ女のアリーサ、これだって我々に無縁じゃない。ユダヤ人から輩出した人物達、我々にとって有り難い者達ばかりじゃないか。ハイネ、スピノザ、キリスト・・・
 カーチャ 以前は日本人のことも褒めていらしたわ。
 ムコーヴニン 日本人か。そうだ、日本人・・・あれは偉大な国民だ。学ばねばならんことが山ほどある。
 カーチャ マリーヤが志願して行ったのも無理ありませんわ。そのお父さんが革命派なんですもの。
 ムコーヴニン 私が革命派? 私は軍人だ、カーチャ。だから私は将校達に言ってやるんだ。軍人なんてものは、昔も今も変わりはせん。戦争、戦うという事が何時から軍人に無縁になってしまったんだ、とね。(訳註 話題を戻して。)我々はユダヤ人を虐待してきた。やつらはそれに対して身を固め、次に攻撃に転じてきたんだ。そしてその武器は? 機智だ。熟慮だ。それに言ってみれば、まあ「気違い沙汰」という武器だ。それも「理想」という名においてね。
 カーチャ 「理想」? 分からない。私達は不幸。もう幸福なんて来ることはないの。私達は犠牲者なんだわ。
 ムコーヴニン 旧体制を根底から揺さぶる。 それもいいだろう。これからはのんびりなんかしていられないんだ、カーチャ。ロシアのただ一人本物の皇帝、ピョートル大帝は言っている。「ぐずぐずする奴は死ぬしかない。」・・・そう。これが原則なんだ。だから将校達に言ってやるんだ。いいか、諸君。地図をじっと見つめる勇気を持たなきゃならん。そして認識することだ。どの地域で敵に裏をかかれたか、どこで、何故、敗北せねばならなかったか。厭なことから目を背けるな。目を見開け。これが私のモットーだ。そしてこれをいつも守っているんだよ、私は。
 カーチャ 薬をお飲みにならなければ。もうその時間ですわ。
 ムコーヴニン 共に肩を組んで戦ってきた戦友。あいつらに私は言ってやるんだ。「諸君、tirez vos conclusion. (さあ、結論を出すんだ。)ぐずぐずする奴は死ぬしかないんだ。」とね。(退場。)
(舞台裏から、冷たく澄んだチェロの音が聞こえる。曲はバッハのフーガ。カーチャ、耳を澄ませる。次に立ち上がる。電話の方に進む。)
 カーチャ 革命委員会地方本部をお願いします・・・レーチカさんいらっしゃいますか・・・レーチカ、貴方?・・・今忙しい? 私、ちょっと・・・貴方、一人だけじゃないんでしょう、革命を進めなきゃならないのは?・・・だけど貴方ったら何時でも人と会う時間はないって言うんだから・・・「人と会う」って何かって? 夜を一緒に過ごす人、貴方が必要な時・・・
(間。)
 カーチャ レーチカ、お願い。 私をドライブに連れて行って・・・そう、忙しい?・・・じゃ、(仕方ないわね。)・・・いいえ、怒ってないわ。どうして私が怒るの。(電話を切る。)
(音楽、止む。ガリーツィン登場。ひょろ長い男。軍服を着てゲートルを巻いている。手にチェロ。)
 カーチャ 飲み屋では何て言われたの、公爵さん。「淋しい曲はやめろ」って?
 ガリーツィン 「淋しい曲はやめろ。気が変になってくる。」
 カーチャ あの人達には陽気なものでなくっちゃ、ガリーツィンさん。あの人達、何もかも忘れたいのよ。一息つきたいの。
 ガリーツィン みんながって訳じゃない。静かなものをやれって言う奴もいる。
 カーチャ(ピアノの椅子に坐って。)どういう人達? 聞いてるの。
 ガリーツィン 積み込み人夫達だ。船の。
 カーチャ 貴方、労働組合員になれるわね。・・・そこで夕食も出して貰えるの?
 ガリーツィン うん、夕食つきだ。
 カーチャ (「りんご」の歌を彈く。呟くように歌う。)
   船は進む。水は渦巻く。
   (いつかこの船も沈んで)
   俺達は魚の餌さ・・・
   俺達兵士、魚の餌を乗せて・・・
私の後をついて。この「りんご」の歌を飲み屋で彈くといいのよ。
(ガリーツィン、あとをつける。間違える。また直してあとをつける。)
 カーチャ セルゲーイ、貴方、どう思って? 私、速記を習った方がいいかしら。
 ガリーツィン 速記? 分からないな。
 カーチャ
   樽に腰掛けるんだ。すると涙が流れてくる。
   誰も結婚してはくれない。
   ただ俺を踏み付けにするだけさ・・・
速記者って、今不足してるんじゃない?
 ガリーツィン 知らないな、僕は。(「りんご」の歌を続ける。)
 カーチャ 私達の中で本物の女性・・・それはマリーヤだわ。あの人、迫力。勇気がある。それで女なの。私達はただここにいて、溜息をついてるだけ。あの人は政治局で幸せいっぱい。幸せ・・・これが人間の基準ね。他にどんな基準を持って来たって当て嵌まりはしない。発明しようったって、無理なのよ。
 ガリーツィン マリーヤは方向転換が出来るんだ。いくら急でもな。昔からだ。それがあれの得意技なんだ。
 カーチャ それがいいのよ・・・
   おい、りんご。お前はどこへ、
   どこへ転がって行くんだい?
それにあの人、アーキムとのロマンスはあるし・・・
 ガリーツィン(彈く手を止める。)アーキムって、誰のことだい。
 カーチャ マリーヤの属している部隊の指揮官。革命以前は鍛冶屋だった人・・・手紙のどこかには必ずこの人のことが書いてある。
 ガリーツィン それがどうしてロマンス?
 カーチャ 勘ね。行間ににじみ出ている・・・それとも(速記なんかやめて、)バリソグレープスクに帰るのがいいのかしら。故郷に。生まれた所ですものね・・・あなた、修道院に・・・あの修道院長のところに時々話しに行くのね。その方なんていう名前?
 ガリーツィン シオーニイ。
 カーチャ そのシオーニイさん、何を教えてくれるの?
 ガリーツィン 君はさっき幸せっていうことについて話したね・・・院長が僕に教えてくれること、それは、人を支配することに幸せを見いだそうとしてはならない。人を支配する、権力をふるう、この貪欲な気持ち、そこに幸せを見いだそうとしてはならない。・・・この権力欲っていうやつが癌なんだ。いくらなだめようとしても、すぐ頭をもたげてくる。
 カーチャ 次よ、いい?
   俺は樽に腰掛ける。
   樽はぐらぐら揺れている。
   ふところには一文もなし。
   ああ、一杯やりたいんだが・・・
シオーニイ、いい名前だわ。

     第 二 場
(リュドミーラとドゥイムシッツが、ドゥイムシッツの部屋にいる。テーブルの上に夕食の残骸。それに酒罎数本。隣の部屋の一部が見える。ビショーンコフ、フィリップ、エフスチーグニェイッチが、そこでトランプをしている。エフスチーグニェイッチは、(膝の上から切れているので)椅子の上にのせられている。)
 リュドミーラ フェリーックス・ユスーポフは美男子。まるで神様のようだった。テニスプレーヤー。全ロシアチャンピオン。男くささが欠けてはいたけど、人形のような美男・・・私がヴラジーミル・バグレーイに初めて会ったのは、そのフェリーックスの家でだった。皇帝はしまいまでこのバグレーイの、騎士道流のあの良さ、が分からなかったらしいわ。 (訳註 皇帝はニコライ二世。 城田)私達の間ではあの人、「イギリス流の騎士道」で通っていた・・・セルゲーイは、フレデリックスと友達だった。セルゲーイはご存じね? ほら、チェロを彈くあの人・・・あ、それからこのパーティーには番外があったわ。アンブローシー大司教が来ていた。呆れたの、驚いたの、この人、私に言い寄って来た。私にシャンペンを注ぐチャンスを決して逃さない。そしてその度に、お坊さんらしい敬虔な、そしていやーらしい顔をして私を見るの。(これが番外。ヴラジーミルの話だったわね。)この人、最初私のことを何とも思ってくれなかった。こう言ったもの。「君、鼻、でかいね。それにその真っ赤な頬。典型的、あまりにも典型的なロシア女だよ。典型的すぎるんじゃない?」夜が明けて、私達二人、ツァールスコエへ向かった。車を公園に置いて、馬車に乗った。そこで訂正したわ。「リュドミーラ、正直なところを言うとね、僕は一晩中君から目が離せなかったのさ。」 「そんなことを言って、ニーナ・ブトゥールリナは大丈夫なの、公爵さん。」ニーナとのロマンスは、単なる浮気心だって、私には分かっていた。「ブトゥールリナ? あれはもう終わった恋さ、リュドミーラ。」「その終わった恋、初恋に、いつも男は戻るものよ。」ヴラジーミルは大公の位は持っていなかった。父親が身分の低い女を妻にしたせい。だから家族は皇后陛下に謁見が出来なかった。皇后のことをヴラジーミルは、悪の権化と言っていた。あの人は詩人だった。子供だった。政治には全然むいていない。・・・私達はツァールスコエについた。夜が明けてくる時だった。ずっと下の方に池があった。その辺りでナイチンゲールが鳴き始めた・・・ヴラジーミルはまた言った。"Mademoiselle Boutourline, c'est le passe."   (ニーナ・ブトゥールリナ、あれはもう終わった恋さ。)「公爵さん、終わった恋っていうのがくせものなの。揺り返しがあるの。それがまた怖いものなの・・・」
(ドゥイムシッツ、灯を消し、リュドミーラに飛び掛かり、ソファに押し倒す。争い。リュドミーラ、やっと彼を跳ねのけて髪と衣服を直す。)
 ビショーンコフ(カードをテーブルに置いて。)ハートのクイーンでどうだ。(訳註 不明。)
 フィリップ クイーンか、しようがないな。
 エフスチーグニェイッチ 両手は後ろで縛られて、柵のところまで引っ立てられたんだ。「おい、お前、後ろ向きになんな。」だけどこいつは言ったな。「後ろ向きになんかなることはない。俺は軍人だ。この儘でズドンとやってくれ。」柵のそのへんは、生垣になっていて、一メートルくらいある。夜だ。村のはずれ。そこから先は草原だ。そしてその先は絶壁・・・
 ビショーンコフ(カードを切りながら。)次はこっちが親か。
 フィリップ よーし、今度は・・・
 エフスチーグニェイッチ 引っ立てて行って、全員銃を構えた。あいつは柵のところに立っていた。それからあいつの身体が、まるで地面から引き剥がされたように見えたんだ。両手は後ろ手に縛られた儘だぜ。やったのは神様としか思えないさ。柵を、身体を少し斜にして飛び上がったんだな。勿論兵隊達は撃ったさ。しかし夜だ。真っ暗だった。あいつはくるりと柵を宙返りして・・・逃げた。
 フィリップ(カードを配る。)そいつは英雄だ。
 エフスチーグニェイッチ 本物の英雄さ。身の軽さ。サーカスにいたとしか思えん。あいつのことはお前と同じぐらい良く知っている・・・それからうまく逃げ回っていたんだ。半年してまた捕まっちまった。
 フィリップ まさかまた銃殺ってことはないだろう。
 エフスチーグニェイッチ 銃殺されたんだ。こいつは俺の考えじゃ、不法ってもんだ。墓から逃げ出した奴、半分墓に入っていて、もう一度日の目を見た奴。こういう人間を殺すって法はない。
 フィリップ 今どきそういう配慮などある訳はないな。
 エフスチーグニェイッチ 不法だ。俺の考えじゃ。外国じゃあな、どこでだって規則があらあ。死刑をうまく逃れた人間、そいつは運がいいんだ。もう生かしとけってな。
 フィリップ この国じゃ、一つしか考えはない・・・銃殺は銃殺なんだ。
 ビショーンコフ そうだな。それしかないな。
 リュドミーラ 灯をつけて頂戴。
(ドゥイムシッツ、スイッチを入れる。)
 リュドミーラ 私、行くわ。(振り向いてドゥイムシッツを見る。プッと吹き出して。)そんな膨れっ面をしないの。こっちに来て・・・どうだって言うのよ。みんな無駄になったとでも思ってるの? だって最初は貴方に慣れる時間が必要じゃない?
 ドゥイムシッツ 僕はドタ靴じゃない。慣れる必要なんかないんだ。
 リュドミーラ 隠すことなんかないわね。貴方、確かにいい感じよ。でもそのいい感じがもっと強まらなくっちゃ・・・軍隊からマリーヤが帰って来る。マリーヤと一度会ってね。うちの家族、あの姉がいないと何一つ決まらないの。パパは貴方のこと、気に入ってるわ。でも貴方も見て分かったでしょう? パパには何も出来ない・・・それにまだ、決まってないことが沢山あるじゃない・・・貴方の奥さんのことだって・・・
 ドゥイムシッツ ここで何故女房の話が出てくるんだ。
 リュドミーラ 私、分かってるの。ユダヤ人には、自分の子供がどれほど大切かって。
 ドゥイムシッツ くそっ。何故子供の話なんかに。こんな話は止めだ。
 リュドミーラ だからその時期が来るまでは、じっと私の傍に坐って、辛抱していなきゃいけないの。
 ドゥイムシッツ ユダヤ人は、はるか昔からメシアを待ち望んでいるんだ。辛抱には慣れている・・・もう一杯ぐっと・・・どう?
 リュドミーラ もう随分飲んだわ。
 ドゥイムシッツ この酒は戦艦から仕入れて来たんだ。大公閣下にはちゃんとトランクがあって・・・
 リュドミーラ どうやるの? こんなにうまく手に入れるの。
 ドゥイムシッツ 僕の仕入れ口・・・それは他の連中じゃあどうにもならないところだ・・・この一杯だけ、どう?
 リュドミーラ いただくわ。ちゃんとお利口に坐っていてくれれば。
 ドゥイムシッツ お利口に坐っているとも・・・教会に行ったみたいに。
 リュドミーラ そう。そのフロックコートだけど、それは教会で着るものよ。それから小学校の卒業式で校長先生が着る。法事で商人達が着る。(そういうものよ、フロックコートって。)
 ドゥイムシッツ 分かった。フロックはもう着ない。
 リュドミーラ それから芝居の切符だけど、決して一列目は買うもんじゃない。一列目を買うのは成り上がりがやること。
 ドゥイムシッツ しかし僕は実際、成り上がり者だからな。
 リュドミーラ あなた、心は高貴なの・・・成り上がりとは違うわ。それからあなた、名前がいけない・・・今だったら新聞に名前変更の広告を出しさえすればいいのよ、イズヴェースチアに。私だったらアレクセーイがいいわ。アレクセーイ・・・どう? 良い名前でしょう。
 ドゥイムシッツ 良い名前だ。(ドゥイムシッツ、再び灯を消してリュドミーラに飛び掛かる。)
 エフスチーグニェイッチ まただぞ。
 フィリップ(耳を澄ませる。)女の方も慣れてきたか。
ビショーンコフ だけどあの女は好きだな。他のやつらよりずっといい。ちゃんと俺達にも挨拶をする。他の連中ときたら、ガサツで、一目で売春婦だ。あの女は違う。俺のことだって、ちゃんと名前を呼んで話をする。(訳註 ロシヤ語では、名前と父称を呼ぶのが親しみ、またその上に丁寧さ、がある。)
(この男達のいる方の部屋に、ヴィスコーフスキー登場。エフスチーグニェイッチのうしろに立つ。トランプの状況を眺める。)
 リュドミーラ(身体を引き離して。)馬車を呼んで頂戴。
 ドゥイムシッツ すぐ呼ぶよ。・・・こんな馬鹿げたことはもう沢山だ。
 リュドミーラ 呼んで、今すぐ。
 ドゥイムシッツ 外はマイナス三十度だ。気違い犬でも外にほっぽり出すのは気が咎(とが)める天気だ。
 リュドミーラ 服もお化粧もめちゃめちゃ。どうやって家に帰ったらいいの。
 ドゥイムシッツ 魚心あっての水心だからな。
 リュドミーラ 失礼な。あなた誰に向かって言ってるか、分かってるの。
 ドゥイムシッツ そう。分かっているからこう言うんだ。
 リュドミーラ ほーら、まただわ。歯が痛くなってきた。あ、痛い。とても我慢できない。
 ドゥイムシッツ こう言えばああ言う。ああ言えばこう言う、か。ここでどうして歯の話なんかになるんだ。
 リュドミーラ 痛み止めないかしら、歯の・・・痛くて。
(ドゥイムシッツ退場。次の部屋でヴィスコーフスキーと突き当たる。)
 ヴィスコーフスキー 湯加減は如何でしたかな、親方。
 ドゥイムシッツ あの女、歯が痛いと言って・・・
 ヴィスコーフスキー そりゃ、歯も痛くなるさ・・・
 ドゥイムシッツ 馬鹿な。痛む理由などあるわけない・・・
 ヴィスコーフスキー 仮病だよ、ドゥイムシッツ。それは仮病だ。
 フィリップ 痛むふりをしているんですよ、ドゥイムシッツさん。本当に痛いんじゃありませんよ。
 リュドミーラ(鏡の前で髪を直す。 すらりと立ち、陽気に、上気した顔をして部屋を歩き回る。そして鼻歌。)
   私のいい人、スマートよ、そしてがっちり。
   私のいい人、優しくて、それで残酷。
   笞でたたくの、絹でできた細い紐で・・・
 ドゥイムシッツ 子供じゃないんだ、私は、騎兵大尉さん。私の幼年時代はとっくに過ぎているんです。
 ヴィスコーフスキー 分かってるよ。
 リュドミーラ(電話の受話器をとって。)三ー七五ー0二をお願いします。・・・パパ?・・・私は大丈夫。・・・ナージャ・イヨハーンソンが来てたわ、芝居に。夫婦づれで。・・・ドゥイムシッツの家で食事をしてるの・・・パパ、スペシーフツェヴァはどうしても見なくっちゃ。いいの。立派にパーヴロヴァの代わりを務めているわ。・・・薬は飲んだ? もう寝なきゃ駄目よ。・・・パパの娘は頭がいいの。本当に切れる頭。・・・カーチャ、あなた? ・・・あなたの言い付け、ちゃんと守ってるわよ。うまくいってる。Le manege continue, j'ai mal aux dents se soir.(調教は続いているわ。今夜は歯が痛いの。)(部屋の中を歩き回る。鼻歌。髪に手櫛をいれてふわっとさせる。)
 ドゥイムシッツ 人をなめている。こんなことが続いたら、いいですか、今度あの女が来ても、私は不在です。分かりましたね。
 ヴィスコーフスキー 分かったよ。ここじゃあんたがボスだ。
 ドゥイムシッツ いいですか、他の連中が私の子供とか女房の話をするのは構いません。しかしあの女にはそんな権利はないんです。
 ヴィスコーフスキー 分かった。
 ドゥイムシッツ あの女なんか、女房の靴の紐を結ぶにも値いしない。ちゃんと分かってるんですね。靴の紐を結ぶにも値いしないんだ。

     第 四 場
(ヴィスコーフスキーの家。ヴィスコーフスキーは乗馬ズボンに長靴の姿。上着なし。シャツのボタンをはずしている。テーブルの上は酒罎が散らばっている。しこたま飲んだ後。赤ら顔の、背の低いクラフチェーンコが軍服姿で長椅子に半分横になっている。同じ長椅子に、マダム・ドーラ。痩せた女。黒い衣装。髪にスペイン風の櫛を差して、大きなイヤリングがぶら下がっている。)
 ヴィスコーフスキー いちどきにその金額だ、クラフチェーンコ。(歌う。)
   俺は一つ、ただ一つしか、力なるものを知らない。
   力、それは、燃えるような、情欲の力だ・・・
 クラフチェーンコ で、いくらいるんですか。
 ヴィスコーフスキー 一万ポンドだ。いちどきに欲しい。クラフチェーンコ、お前、外貨一万ポンドの札束を見たことあるか。
 クラフチェーンコ 全部糸にかけるんですか?
 ヴィスコーフスキー 何が糸だ・・・ダイヤだ。三カラット。青い海だぞ。深い色だ。傷なしのな。これならパリで売れるんだ。
 クラフチェーンコ しかしそんなやつはもう出払ってるんじゃありませんか。
 ヴィスコーフスキー なに、まだどこの家にでも残ってる。吐き出させる工夫をするんだ。・・・リムスキー・コルサコフ家にだって、シャコフスコーイ家にだって。・・・この皇帝の町、サンクト・ペテルブルクには、ダイヤはまだいくらでも残っている。
 クラフチェーンコ 新しい世の中になったからといって、急に商人にはなれないんじゃありませんか、ヴィスコーフスキーさん。
 ヴィスコーフスキー なれる! ・・・俺の親父は商売をやっていたんだ。田舎の屋敷を種馬と交換したりしていた。・・・親衛隊は降参したかもしれんがな、クラフチェーンコ、死んだんじゃないんだ。
 クラフチェーンコ 外のあの女・・・は、こっちに入れてやったらどうでしょう・・・あそこじゃ寒いです。
 ヴィスコーフスキー なあ、クラフチェーンコ。俺はな、金持になってパリへ行くんだ。
 クラフチェーンコ あのドゥイムシッツのやつ、どこへ消えちまいやがったんでしょう。
 ヴィスコーフスキー うんこ中だ。便所の中でしびれをきらしているんだろう。それとも例のクルランド人とかユダヤ人だとかとトランプでもしてるんだろう。(扉を開ける。)おーい、リュドミーラ、こっちに入ったらどうだ・・・
(ヴィスコーフスキー、廊下に出る。)
 ドーラ(クラフチェーンコの手にキスして。)あなた、太陽! あなた、神様!
(リュドミーラとヴィスコーフスキー、入って来る。リュドミーラは毛皮の外套を着ている。)
 リュドミーラ 一体どうなってるの! 約束したっていうのに・・・
 ヴィスコーフスキー そう。約束。金より大事なものなのに、か。
 リュドミーラ 八時の約束。私は八時に来るって言っておいた。今何時? 九時四十五分・・・鍵を残している訳でもなし。あの人何をしてるの。
 ヴィスコーフスキー 闇市だ。そのうち帰って来る。
 リュドミーラ 紳士じゃないわね、とにかく・・・あの連中。
 ヴィスコーフスキー さあ、一杯やった方がいい、リュドミーラ。
 リュドミーラ そうだわ、一杯。身体が凍えてきて・・・それにしても一体どうなってるの!
 ヴィスコーフスキー マダム・ドーラを紹介していいかな、リュドミーラ。フランス国籍なんだ。Liberte, Egalite, Fraternite. (自由、平等、博愛)の国さ。他にいろいろ長所はあるが、その中で一番は、外国旅券を持っていることだな。
 リュドミーラ(片手を差しだす。)始めまして。
 ヴィスコーフスキー クラフチェーンコは知ってるね。革命前は少尉補、今は革命軍の砲兵だ。クロンシュタット要塞の十インチ砲の傍に立って、そいつを操作する。どっちの方向にでも自由自在だぞ、こいつは。
 クラフチェーンコ ヴィスコーフスキーさんは機嫌がいいんですよ、今夜は。
 ヴィスコーフスキー どっちの方向にでもだ・・・何が起こるか知れたもんじゃないぜ、クラフチェーンコ。お前の生まれた町をぶっ壊せという命令がでる・・・お前はぶっ壊すさ。孤児院を撃てと命令が出る・・・お前は「方向・・・二、0、八」と指揮する。そして孤児院をドカンドカンとやるんだ。こんなことは朝飯前にやってのけるさ。連中がお前を生かせてくれてな、ギターを弾かせてくれて、痩せた女と寝かせてくれさえすればな・・・お前は肥っている。だから痩せた女が好きなんだ・・・お前は何でもするさ。誰かがお前に、自分のおふくろのことを三度、「俺の母親じゃない」と言えと命令する・・・お前はちゃんと言ってのけるさ。しかしな、それからだ問題は。連中はもう一歩踏み込んで来る。それからが問題なんだ。自分の気に入った仲間と酒を飲むのは禁止。読む本はみんな退屈。そいつを無理矢理読ませられる。歌う歌はみんな退屈。 こいつをまた無理矢理歌わなきゃならん・・・ついにはお前さんも怒りだす。なあ、革命軍の砲兵さんよ。本気で怒りだすんだ。そしてキョロキョロよそ見をし始める・・・するとやって来るんだ。二人の私服のおじさんがね。「さあ行こう、クラフチェーンコ君。」「着替えは? いらないんですか?」とお前は訊くさ。するとな、「何も持って行かなくていいんだよ、クラフチェーンコ君。すぐすむことだ。ちょっと訊問があるだけ。それだけなんだから。」なに、これでお前さんは一巻の終さ。なあ、革命軍の砲兵さんよ、金にして四カペイカ。それ以上びた一文いりゃしない。みんな計算ずみさ。
 ドーラ ねえ、ジャック(訳註 これはクラフチェーンコへの呼びかけ。「ヤーコフ」のフランス語読み。)送ってって。もう帰る、私。
 ヴィスコーフスキー 君の健康に乾杯だ、ヤーコフ・・・それから誇り高き国家、フランスにも、マダム・ドーラ!
 リュドミーラ(この間ずっと、注がれては飲んでいる。)ちょっと行ってみる。あの人帰ってないか。
 ヴィスコーフスキー 売り買いをちょこっとやって、戻ってくるさ・・・リュドミーラ・ニコラーエヴナ・ムコーヴナ、あんた、あれは自分で思い付いたの? 歯が痛いっていう、あれ。
 リュドミーラ そう。自分で・・・いいでしょう?(笑う。)こうでなきゃとても今は生きて行けない。ユダヤ人は、もう少し女性を尊敬しなくちゃ。近くに置いておきたいっていう女なら特にね。
 ヴィスコーフスキー 君の顔が見えるぞ、リュドミーラ。・・・その顔はシジュウカラだ・・・さあ、シジュウカラ君、一杯行こう!
 リュドミーラ お酒、きいてきたわ。ヴィスコーフスキー、あなた、何か入れたわね、これに。
 ヴィスコーフスキー シジュウカラ・・・ムコーヴニン家の力という力は、全部マリーヤに行ったんだ。君に残っているのはその歯、小さなその一列の歯だけだ。
 リュドミーラ つまらない話。
 ヴィスコーフスキー それに君のその小さな胸。そいつは気に入らないな。女性の胸ってのは、ピカピカで大きくなくっちゃな。牛のおっぱいみたいに大きくて、どうしようもないっていうのでなきゃ・・・
 クラフチェーンコ ヴィスコーフスキーさん。僕ら、もう行きます。
 ヴィスコーフスキー 行くことはないさ、どこにも・・・シジュウカラ、僕の嫁さんになるんだ、君は。
 リュドミーラ 駄目。なるんだったらドゥイムシッツの方。あなたがどうなるか、それはちゃんと分かってる。今日は飲んだくれ、明日は二日酔、それからどこへともなく失踪。次にピストルで頭を打ち抜いてしまう・・・(これがあなたのやることよ)・・・駄目。私はやっぱりドゥイムシッツ。
 クラフチェーンコ ヴィスコーフスキーさん、もうこれくらいで私達は放免にして下さいよ、お願いします。
 ヴィスコーフスキー どこにも行かせんぞ、まだ、いいな。・・・ 乾杯だ。女性なるものに乾杯! (ドーラに。)これはリュドミーラ・・・これの姉さんはマリーヤと言ってね・・・
 クラフチェーンコ その方はたしか軍隊に入って・・・
 リュドミーラ 今は前線に出ている。
 ヴィスコーフスキー 前線、前線だよ、クラフチェーンコ。その部隊の指揮官が、なに、昔ウエイターだったんだぜ。
 リュドミーラ 違うわ、ヴィスコーフスキー。金属工よ。
 ヴィスコーフスキー そいつの名前がアーキムっていうんだ。さあ、「女性」に乾杯だ、マダム・ドーラ。女ってものは、男を愛すんだ。軍人でも、給仕人でも、関税の役人でも、中国人でもな・・・連中の仕事は男を愛すことさ。ことは警察でお調べだ。(杯を上げて、歌う。)
  「女性よ、乾杯だ。
   その優しさに、
   その素晴らしさに、
   ただのいっとき
   男を愛してくれる、そのいっときに・・・」
本当はいっときもありはしない。くもの巣の厚さだ。それからそのくもの巣が破れる・・・これの姉貴はな、マリーヤっていうんだ・・・なあ、クラフチェーンコ、お前想像出来るか、女王を愛するっていうことがどういうことか? 女王は宣(のたま)うのさ、「下品な男・・・出て行きなさい・・・」
 リュドミーラ(笑う。)よく似てるわ。
 ヴィスコーフスキー 「下品な男・・・出て行きなさい。」これで騎兵隊の隊長殿はおだぶつ。それからマリーヤはどこへ行く・・・フルシュターツカヤ通り十六番地の四号だ・・・
 リュドミーラ お止めなさい、ヴィスコーフスキー、そんな話は。
 ヴィスコーフスキー さあ、クロンシュタットの砲兵隊に乾杯だ!・・・さてと、マリーヤはフルシュターツカヤ通りに行くことに決めた、と。仕立の良いグレイのスーツをバシッと決めて、家を出る。トロイツキー橋の近くですみれを買い、スーツのボタン穴にそれを差す。フルシュターツカヤでは公爵が・・・チェロを彈くあの公爵、(知ってるな?)・・・独り暮らしのアパートの部屋を掃除している。箪笥に汚れた下着をつっこんで、洗っていない食器類は中二階に運ぶ・・・そして珈琲だ。珈琲とプチフールを用意する。マリーヤは来る。二人は珈琲を飲む。彼女は自分と一緒に、すみれを、春を持って来たんだ。ソファに坐る。両足をその上に上げて。その引き締まった優しい足に、公爵はショールを掛けてやる。彼女の目がそれを迎えて光る。微笑み。誘うような、身を投げ出すような、悲しそうな・・・誘うような微笑み・・・マリーヤは彼の灰色の頭を抱いて言う。「公爵! どうしたの、公爵。」しかし公爵の声はまるで(ローマ法皇の)お経の呟きだ。 Passe, rien ne va plus. (パスだ。一歩も進まない。進展はなしだよ。)
 リュドミーラ まあ、辛辣。厳しいわね、あなた。
 ヴィスコーフスキー いいか、クラフチェーンコ。想像してみるんだ。お前の目の前で脱いでいくんだ。女王様がだぞ。胴着を。スカートを。ストッキングを・・・お前だって怖けづく筈だぞ、クラフチェーンコ・・・
(リュドミーラ、身体をのけ反らせて笑う。)
 ヴィスコーフスキー フルシュターツカヤ十六番地から彼女は去る・・・その足跡はどこにある? 僕が地面にひれ伏して接吻したい、その足跡は? しかしあのアーキムのところじゃ、違う。そう期待しようじゃないか。彼の口からなら、もう少し野獣のような声が出て来たとね・・・君の意見は? リュドミーラ。
 リュドミーラ ヴィスコーフスキー、あなた、この中に何か混ぜたわね。私、頭がくらくらして来た。
 ヴィスコーフスキー こっちに来るんだ、リュドミーラ。(リュドミーラの肩を捕まえ、力づくで自分の方に引き寄せる。)
 ヴィスコーフスキー ドゥイムシッツはいくら払ったんだ、あの指輪に。
 リュドミーラ 何の話?
 ヴィスコーフスキー あの指輪は君のじゃない。姉さんのだ。君は他人の指輪を売ったんだ。
 リュドミーラ 放して!
 ヴィスコーフスキー(次室への扉までリュドミーラを押して行く。)来るんだ、シジュウカラちゃん。
(部屋にドーラとクラフチェーンコ、残る。窓にサーチライトの光、ゆっくりと通る。髪を振り乱して、目は酒で膨れ、ドーラがクラフチェーンコにしなだれかかる。彼の手にキスし、唸り、回らぬ舌で何か言う。爪先立ちでフィリップが入って来る。顔は酷い火傷の跡。ゆっくりと音を立てずにテーブルから酒とソーセージとパンを取る。)
 フィリップ(小さな声で、頭を下げながら。)構わんでしょう? ヤーコフさん。
(クラフチェーンコ、頭を振る。(訳註 日本でなら縦に振るところ。)フィリップ、用心深く裸足の足を進め、出て行く。)
 ドーラ あなた、太陽。あなた、神様。あなた、全部。
(クラフチェーンコ、黙っている。耳を澄ませている。ヴィスコーフスキーが部屋へ入って来る。煙草に火をつける。両手が震える。次室の扉は開いている。リュドミーラ登場。長椅子に身を投げ、泣く。)
 ヴィスコーフスキー 泣くんじゃないよ、シジュウカラちゃん。結婚式までにはなおるさ・・・
 ドーラ ジャック、私、家に帰りたい・・・家に連れて行って、ジャック・・・
 クラフチェーンコ ちょっと待つんだ、ドーラ。
 ヴィスコーフスキー じゃ、別れに一杯だな、諸君!
 クラフチェーンコ ちょっと待つんだ、ドーラ。
 ヴィスコーフスキー 別れに一杯だ。ご婦人のためにな。
 クラフチェーンコ よくありませんな、大尉殿。
 ヴィスコーフスキー ご婦人に乾杯だ、ヤーコフ!
 クラフチェーンコ よくありませんな、騎兵大尉殿。
 ヴィスコーフスキー 何だ、よくないとは。
 クラフチェーンコ 小便が赤い時には、女とは寝ないものです、ヴィスコーフスキー殿。
 ヴィスコーフスキー(軍人の口調で。)なんだと、もう一辺言ってみろ。
(間。泣き声、止む。)
 クラフチェーンコ はっきり申し上げますと、男は淋病の時には・・・
 ヴィスコーフスキー 眼鏡を取るんだ、クラフチェーンコ。一発食らわせる。
(クラフチェーンコ、ピストルを出す。)
 ヴィスコーフスキー ふん、面白い。
(クラフチェーンコ、引き金を引く。幕。幕の下りている間にも数発の銃声。身体の倒れる音。女の悲鳴。)

     第 五 場
(ムコーヴニン家。隅で、長持ちの上に年老いた乳母が蹲(うずくま)って寝ている。テーブルの上にランプの光。カーチャがムコーヴニンに手紙を読んで聞かせている。)
 カーチャ 「朝早く、中隊参謀部の起床喇叭で私は目を覚ます。八時までには政治局本部に着いていなければならない。そこでは何もかも私の仕事・・・連隊新聞の記事の編集、部隊の文盲達のための学校の運営。補充人員はすべてウクライナ人。彼らの言葉、その響きを聞いていると、イタリア語を思い出す。ロシア政府はこの数百年、彼らの文化を抑圧、否定してきた。だからペテルブルグでも、エルミタージュと冬宮の向かいにある自分の家にいても、まるでポリネシアに住んでいるのと変わりはしない。・・・私達ロシア人は、周囲の人を誰も知らないし、また知ろうともしない・・・昨日、授業で、パパの本からパーヴェル一世殺害の章を読んで聞かせた。自国の皇帝を誅殺することは彼らにとってひどく当たり前に見えたらしい。(平気な顔で、溜息さえ聞こえない。)そして私に質問してきた。・・・ここでは平民の精神、実務的な感覚で物が見えるのね。・・・その時の連隊の配置はどうだったか、宮殿の部屋はどのような配置になっていたのか、見張りについた兵はどういう人間だったのか、首謀者は誰だったのか、パーヴェルはどのように民衆を虐待したのか・・・私、ずっとパパのことを考えています。夏にパパが来てくれたらと。ポーランド人が変な動きをしなければの話だけど・・・パパ、大好きなパパ。見て戴きたいわ、新しい軍隊、新しい兵舎・・・パパがいつも話してらした昔のそれとは大違い。来て戴く頃までには、公園は花盛り、緑が奇麗よ。馬も新しい草を食べて、体重を元に戻しているわ。それから鞍も補充がついて・・・このこと、アーキムにも話したの。アーキムも賛成。ただ、家族のみんなが順調であること、それが条件。元気でいて下さらなくっちゃ・・・今は夜中。仕事が遅かった。階段を登って、自分の部屋に帰る。四百年も人に踏まれてきた階段。私の部屋は城の塔の天辺、天井は丸くなっている。昔はここの持ち主だったクラスニーツキー伯爵の武器庫に使われていた部屋。この城は絶壁に建てられている。直下には青い河。その向こうが果てしない草原。その先に鬱蒼とした森が壁のように立っている。城の各階には、見張りの兵用に銃眼がくり抜いてある。そこからクルミヤ人やロシア人が接近して来るのを見張ったり、攻めて来る敵の頭に沸騰した油を注ぎ掛けたりした。老女のゲードヴィガ・・・この人は最後のクラスニーツキー伯爵に仕えた家政婦だった人・・・が、今夜は私の食事を作ってくれ、暖炉に火をつけておいてくれた。暖炉は黒々としていて深い。まるで地下室のよう。・・・眼下に公園。そこで馬が数頭まどろんでいる。ふと目を覚まして身体を動かしたりする。コサック達が焚火の周りで夕食をとっている。低い声で歌を歌っているのが聞こえてくる。木々に雪が積もっている。樫の木の枝と栗の木の枝が絡み合っている。遠くにのびている庭園の小道に、彫刻に、でこぼこの銀色の覆いが掛かっている。 彫刻はまだ保存されている。槍を投げようと構えている若者、裸の、凍えている女神達、曲げられたその腕、波うっている髪の毛、目の見えないその両眼・・・ゲードヴィガはまどろんで頭をこくりこくり。暖炉の中で、積み上げられた薪の山が、急に燃え上がって崩れている。この暖炉は作られて百年以上。(その年月のせいか)煉瓦がガラスのようによく響く。今、丁度この手紙を書いている時、火が金色に燃え上がった。アリョーシャの写真が私の机の上にある。(訳註 リュドミーラの婚約者だったのか。三十頁に、アレクセーイと名前を変えた方がいいと、ドゥイムシッツに言っている。)あの人を殺すのを躊躇しなかった人達、その人達がここにいる。丁度今その人達と別れて来たところ。彼らが釈放されるのを、私は手助けした。・・・アリョーシャ、私は正しい事をしたのかしら。貴方の遺言、「雄々しく生きるんだ」を、私は実行しているのかしら。この私の行動が正しかったっていう判断、その判断にあの人は反対しないような気がする。・・・遅くなると寝つかれなくなってしまう。パパや皆に対する漠然とした不安、それに夢が怖い。夢はいつも追跡、拷問、それに死。私は奇妙な混合物の中で生きている。一つは自然に近づくこと。それと、パパや皆への心配と。リュドミーラはどうしてたまにしか手紙をくれないの。先日あの人に手紙を出しておいた。届いたかしら。その手紙には、私が軍隊に従事しているので、その部屋は没収されることはない、と。アーキムの署名がしてある。その他に、自己の蔵書が持てるという特別保護証がパパに与えられるべきだという(役所宛の)手紙も入れておいた。もし期限が切れたら更新すること。更新は教育人民委員部。住所はチェルヌイショーフ橋四十番。リュドミーラが結婚して、家を構えてくれれば、どんなに嬉しいでしょう。但し相手の男は私達の家にちょくちょく顔を出さなきゃ駄目よ。それにパパと知り合いにならなくちゃ。会えば分かるものよ、どんな人か。あ、それにニェフェドーヴナにも会わせること。あのばあやのことを、働かないからって、カーチャはよく叱るけど、あの人もう年寄りなの。ムコーヴニン家の二世代を育てたんですからね。自分一流の考えも、自分独特の感情もある。ただ単純な人間と思ったら大間違い。私、昔からばあやのことを、ただの百姓とは思っていなかった。そうは言っても私達、あの人達のことで何を知っているって言うんでしょう、あのポリネシヤに住んでいたこの私達が。・・・ペテルブルグでは食料事情がさらに悪くなっているっていう噂。正式な仕事についていない人は、アパートから追い出す。シーツや下着までもはぎ取るっていう話・・・私達がここでこんないい生活をしているのが恥ずかしい。アーキムは二度も私を狩に連れて行ってくれた。私は乗馬用の馬を与えて貰った。ドンコサック産のものを・・・」(カーチャ、頭を上げる。)ねえ、おじさん。あの人、立派にやっているわ。
(ムコーヴニン、掌で両眼を覆う。)
 カーチャ 泣かないで・・・
 ムコーヴニン 私は神様に訊ねているんだよ、カーチャ。誰にでも神様の御心はある。でも、どうして、どうしてこの私に、この愚かな、自分しか愛さないような不心得者に、神様、あなたはこんな素晴らしい子供を与えて下さったのですか。マリーヤを。リュドミーラを。
 カーチャ でもそれは有り難いことじゃありませんか、おじさん。泣くことはありませんわ。

     第 六 場
(警察分署。夜。ベンチの足元に、酔っ払いが、鍵型に曲がって横たわっている。自分の顔に指を向け、しきりに自分自身に教え諭(さと)している。ベンチの上には、見なりの立派な、肥った男がまどろんでいる。洗い熊の毛皮外套に、丈の高い毛皮の帽子。外套の前がはだけていて、そこから裸の、灰色の胸が見える。警察分署長がリュドミーラを訊問している。もぐらの皮製の、彼女の帽子が、横っちょにずれている。髪が乱れていて、毛皮外套は肩からずり落ちている。)
 署長 名前は。
 リュドミーラ もうかえして。
 署長 名前は。
 リュドミーラ バルバーラ。
 署長 父称は。
 リュドミーラ イヴァーノヴナ。
 署長 職場は何処なんだ。
 リュドミーラ 煙草工場。
 署長 労働組合員証は。
 リュドミーラ ここには持ってないわ。
 署長 何故出鱈目を言うんだ。
 リュドミーラ 私は結婚しているの・・・もうかえして。
 署長 出鱈目を言って何が面白いんだ。ずっと前からブルイレフのことを知っているのか。
 リュドミーラ 何のこと? 知らないわ。
 署長 糸の伝票にブルイレフの署名がある。お前を通してグートマンに届いている。糸の倉庫はどこなんだ。
 リュドミーラ 何のこと? 倉庫って何?
 署長 何のことか、今分かる。(警官に。)おい、カルムィコーヴァを呼べ。
(警官、シューラ・カルムィコーヴァを導き入れる。ニェーフスキー通り八十六のアパートの部屋係。)
 署長 あのアパートの部屋係だな。
 カルムィコーヴァ ああ。交替で。
 署長 この女が分かるか。
 カルムィコーヴァ ああ。よう知っとります。
 署長 証明出来るものがあるか。
 カルムィコーヴァ この人のこたあ知っとりますで。この人のお父さんはな、将軍さんでさあ。
 署長 この女は仕事についているのか。
 カルムィコーヴァ 湯気を上げる仕事でさあ。それが仕事と言えりゃ。
 署長 結婚はしているのか。
 カルムィコーヴァ 暗闇でこっそりな。連れあいなど、うんざりするくらい、いまさあ。そのうちの一人なんざあ、一晩中便所で唸ってた。こいつの歯のお陰でな。
 署長 何が歯だ。何の話だ。
 カルムィコーヴァ この女が一番よう知っていまさあ、どんな歯か。
 署長(リュドミーラに。)今までに拘引されたことがあるな? 何度だ。
 リュドミーラ 人に病気をうつされて・・・私は病気。
 署長(カルムィコーヴァに。)確認しとく必要があるんだ。こいつは何回拘引されとる。
 カルムィコーヴァ わしゃ知らん。よう言わん。・・・知らんこたあ、よう言わん。
 リュドミーラ もうくたくた・・・かえして。
 署長 静かにしろ! 俺の目を見るんだ。
 リュドミーラ 頭がぐるぐる回って・・・気が遠くなる。
 署長 こっちを見るんだ。俺の目を。
 リュドミーラ うるさいわね。どうしてそんなもの見なきゃならないの。
 署長(半狂乱で。)どうして? どうしてか教えてやろう。俺はな、五日間寝てないんだ。寝てないんだぞ・・・分かるか、それがどういうことか。
 リュドミーラ 分かるわ。
 署長(リュドミーラに近づいて、両肩を掴んで目を見る。)拘引は何回だ・・・言うんだ・・・

     第 七 場
(ムコーヴニン家。ほやのない石油ランプが点っている。影が床と天井に揺れている。そのランプの前でガリーツィンが祈っている。長持ちの上でニェフェドーヴナ(乳母)が寝ている。)
 ガリーツィン 「・・・誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。己が生命(いのち)を愛する者はこれを失ひ、この世にてその生命(いのち)を憎む者は之を保ちて永遠(とこしへ)の生命(いのち)に至るべし。人もし我に事(つか)へんとせば我に従へ。わが居る處に我に事(つか)ふる者もまた居るべし。人もし我に事(つか)ふることをせば我が父、これを貴(たふと)び給はん。今わが心騒ぐ。我なにを言ふべきか。父よ、この時より我を救ひ給へ。されど我この為にこの時に至れり・・・」
 カーチャ(音もなく近寄る。ガリーツィンと並んで立つ。彼の肩に頭を置く。)レーチカとは本部で待ち合わせていたわ、ガリーツィン。昔、玄関の間だったところで。そこには油布の掛かった長椅子がある・・・私は近づく。レーチカは扉に鍵を掛ける。それから、後、鍵を開ける・・・
 ガリーツィン うん。
 カーチャ 私、田舎に帰る。バリソグレープスクに。
 ガリーツィン うん。それがいい。
 カーチャ レーチカは教えなきゃ気がすまないの。いくらでも教えることがあるのね。誰を愛すべきか、誰を嫌うべきか・・・それに、最大多数の最大幸福・・・私は最小数ね・・・いや、その数にも入らない。
 ガリーツィン 数には入るべきだがな。
 カーチャ そうね。数には入らなくちゃ。・・・ばあや、私は自由になったのよ・・・起きて、お願い。起きて。それじゃ最後の審判の日にだって目が覚めないわ・・・
 ニェフェドーヴナ(頭を上げる。)リュドミーラ・・・あの子は?
 カーチャ すぐ帰るわよ、ばあや。私はもう田舎に帰るの。もうお前をがみがみ叱る人はいなくなるわ。
 ニェフェドーヴナ なんでわしを叱りんさる。わしのどこが悪い。・・・わしは生まれついてのばあや。子供の為に、子供を育てる為に雇われとる。子供はもういやせん。女よ、えっと(訳註 沢山の意。島根、市木村の方言。ニェフェドーヴナの言葉はこの方言に統一。)おるのは。子供はおりゃせん。女も一人はいくさに行って。あの子がおらんと家はわや(めちゃめちゃの意。)よ。もう一人はいっそやれんようになって(方言 にっちもさっちもいかなくなって。)・・・なんでこれが家なら。(何故これが家と言えるのか。)・・・子供もおりゃせんのに。
 カーチャ あんたに生んであげましょうか、神様の思し召しによって。
 ニェフェドーヴナ あんたもわやをやっとるんよ、カーチャ。わしにゃちゃんと分かっとる。あんたもやれんようになっとる。そがんことじゃ、ええこたあなあ。(良いことはない。)
 ガリーツィン 田舎に帰るんだ、カーチャ。バリソグレープスクに。あそこなら君を必要とする人がいる。荒野だからな、あそこは。獣(けもの)達が殺し合いをやって生きている。
 ニェフェドーヴナ マラストーフの家(いえ)・・・ たいした家(うち)じゃなあ。(ない。)ただの物売りよ。稼ぎもたいしてありゃせん。そいでも自分のところのばあやにゃ、年金を取ってやったんで。お役所に運動したんよ。一と月五十ルーブリ・・・わしにも運動してくれんかいの、公爵さん。なんでわしにゃ年金がこんのかいの。
 ガリーツィン (ストーブに小さく切った薪を入れながら。)私の言うことはもう誰も聞かないんだよ、ばあや。もう私には何の力もないんだ。
 ニェフェドーヴナ たいした家じゃなあ。(家じゃない。)ただの物売りよ、それが・・・
(扉開く。フィリップが入って来る。それに向かい合って、扉を開けたムコーヴニン、後ずさりして登場。フィリップはぼろを着て、巨大な、形の定まらない防寒用頭巾を被っている。 フィリップの顔の半分は焼け爛(ただ)れて、奇怪な肉の塊。フェルトのごつい長靴を履いている。)
 ムコーヴニン 誰だ、君は。
 フィリップ(ムコーヴニンに近づきながら。)リュドミーラさんを知っている者です。
 ムコーヴニン 何の用か。
 フィリップ あっちで喧嘩があったんです、閣下。
 カーチャ ドゥイムシッツさんから?
 フィリップ そうです。ドゥイムシッツさんのところから。喧嘩。何でもない事から起こったんです。
 カーチャ で、あの人も関わりに?
 フィリップ そうです。お嬢さんもそこに。皆と一緒に。くだらない事からです、閣下。馬鹿な事からで。ヴィスコーフスキーさんが何か言って、クラフチェーンコさんが何か言い返して・・・怒鳴りあって・・・二人とも相当飲んでいたんです・・・
 ガリーツィン 将軍、この男とは、私が話します。
 フィリップ 特別変わったことはなかったんです。ただ誤解が・・・二人とも相当飲んでいたんで・・・それに拳銃が手元にあって・・・
 ムコーヴニン 娘はどこにいる。
 フィリップ それが、閣下、不明でして。
 ムコーヴニン 娘はどこだ。言うんだ。私には何を言っても大丈夫だ。
 フィリップ(やっと聞こえる声で。)パクられたんで・・・
 ムコーヴニン 目の前で人が殺されるのだって見てきたんだ。私は軍人だ。
 フィリップ(より大きな声で。)パクられたんで、閣下。
 ムコーヴニン 逮捕か。理由は何だ。
 フィリップ 病気がどうとかこうとかで、おっ始(ぱじ)まったんで・・・クラフチェーンコさんが言ったんです。「あんたが病気をうつしたんだ。」・・・するとヴィスコーフスキーさんがぶっぱなして。拳銃は丁度自分が持っていたんで・・・ぶっぱなす・・・すると、すぐやつらが・・・
 ムコーヴニン やつら?・・・チェカーか。(訳註 チェカーはKGBの前身。)
 フィリップ 引っ立てて行ったんで。警察か何か他のものか、区別はつきません・・・今は連中、制服なんか着ちゃいません、閣下。外見じゃ分かりませんや。
 ムコーヴニン 私はスモーリヌイに行くぞ、カーチャ。(訳註 スモーリヌイは革命本部があった所。もと女学校。 城田)
 カーチャ 行っちゃ駄目です、おじさま。何処へも。
 ムコーヴニン 行くぞ、スモーリヌイに。今すぐ。
 カーチャ おじさま、それはどうかお止めになって・・・
 ムコーヴニン 自分の娘が帰って来るか来ないかが問題なんだぞ、カーチャ。(電話に近づく。受話器を取って。)陸軍の参謀本部を頼む。
 カーチャ お止めになって、おじさま!
 ムコーヴニン 同志レーチカをお願いしたいのだが。・・・ムコーヴニンだ。・・・いや、私が何者であるかは説明し難いんだが・・・かっての第六軍の指揮をとったムコーヴニン将軍なんだが・・・同志レーチカ、あなたですか。・・・暫くですね、フョードル君。こちらはムコーヴニン。お元気ですか。・・・仕事中まことに相すまんが・・・実はその・・・今日夕刻、ニェーフスキー通り八十六番のアパートで、武装した人物によって、私の娘リュドミーラが連れ去られた。あなたにこのことを訴える積もりはないんです、フョードル君。あなたの立場だ。これは迷惑なことは分かっています。しかし次のことは報告しておきたいんです。つまり、私の長女マリーヤにはどうしても会っておきたい、と。実は最近私は身体の調子が悪くてね、フョードル君。マリーヤとどうしても話がしたくて。それで電報を打ったり、速達便を出そうとしたんだが・・・この件ではカーチャが君に随分迷惑をかけたようで・・・しかし返事はいまだにない。だからフョードル君、出来れば直通の電話で連絡を取りたいんだ。・・・エー、お話ししておいた方がいいかな。先日ブルシーロフ将軍から、モスクワに来いという呼び出しがあってね・・・どうやら私に、軍に戻って欲しい、という話らしいんだ。・・・何ですって? 電報は渡した? 八日に? 送り届けた?・・・あ、有難う、フョードル君。ご成功を祈る。(電話を切る。)順調に行っているんだ。マリーヤは見つかって八日に電報は手渡したと言っている。それから、明日にはペテルブルグに着くんだ。遅くとも明後日には。あの子の為に部屋を掃除しておいてくれないか、ニェフェドーヴナ。明日は夜が開けないうちに起きて掃除だ。・・・カーチャの言う通りだな。部屋を放って置き過ぎた。このところ何もかもほったらかしだった。埃(ほこり)だらけだ。家具にカバーをかけなきゃいかんな。カバーはあるんだね、カーチャ。
 カーチャ 全部の家具には無理。でもありますわ。
 ムコーヴニン(あちこち歩き回りながら。)どうしてもカバーは掛けておかなきゃ。・・・あの子が出て行った時のように部屋をしておくんだ。その方が嬉しいだろうからな。それが出来るっていうのにやっておかない方はない。・・・そうだ、カーチャ、君は楽しむっていうことがないね。全然楽しもうとしないよ、君は、カーチャ。芝居には行かないし。それじゃ時代に遅れてしまう。
 カーチャ マリーヤが帰って来たら(芝居に)行きますわ。
 ムコーヴニン(フィリップに。)すまんが、お名前をきかせてくれないか。
 フィリップ フィリップ(アンドレーエヴィッチ)です。
 ムコーヴニン どうだね、坐ってくれないか、フィリップ君。こんな面倒をかけて、まだ礼も言っていないじゃないか、私は。取敢ず御馳走をしなくちゃ。・・・ばあや、何か食べるものはないか。これからはいつでも歓迎ですよ。来て下さると嬉しいですよ、フィリップ君。マリーヤにも会ってもらおう。必ず。
 カーチャ おじさま、どうぞ横になって。お疲れですわ。
 ムコーヴニン いいか。言っておくがな、私はリュドミーラのことなど一秒たりとも心配してはおらん。良い薬なんだ。こんな子供じみたことをして。火遊びをしおって。・・・言っとくがな、あの子には良い薬だと思っているんだ。
(全身震える。動きが止る。椅子に倒れる。カーチャ、駆け寄る。)
 ムコーヴニン 大丈夫だ、カーチャ。大丈夫だ。
 カーチャ どうなさいました?
 ムコーヴニン 何でもない・・・心臓が・・・
(カーチャとガリーツィン、ムコーヴニンの両肩の下を支えて退場。)
 フィリップ 気分がお悪くなって・・・
 ニェフェドーヴナ(テーブルにナイフとフォークを置く。)あんたの目の前で連れて行かれたんかの? うちのお嬢さんは。
 フィリップ そう。目の前で。
 ニェフェドーヴナ 暴れたかの? お嬢さんは。
 フィリップ 最初は。それから諦めて。
 ニェフェドーヴナ ジャガイモがあるけえ。それに葛湯(くずゆ)が。
 フィリップ そりゃすごいもんだった、おばあさん。水餃子が鍋一杯作ってあってね、そしたら急にごたごたが起こっちゃった。はっと気がついた時にゃ、だーれもいやしない。
 ニェフェドーヴナ(フィリップの前にジャガイモを並べる。)あんたのその火傷、戦争でかな?
 フィリップ いや、軍隊に入る前、ずっと前から・・・
 ニェフェドーヴナ これからまた戦争が起こるんかの。みんなはどう言いよる?
 フィリップ(食べながら。)八月。八月ぐらいかな、噂じゃ。
 ニェフェドーヴナ ポーランドかな、相手は。
 フィリップ うん。
 ニェフェドーヴナ あいつらにゃ、欲しいものはみなやったんじゃないんかいの。
 フィリップ あいつらはな、ばあやさん、北側に海があって、南側に海がある、そういう国が欲しいって言ってるんだ。あいつらの昔の国がそうだったからな。今も欲しいのさ。
 ニェフェドーヴナ あーあ、やれん(困った)国じゃあるのう。
(カーチャ、登場。)
 カーチャ おじさまがお悪いわ。お医者様を呼ばないと。
 フィリップ 医者はこの時間は無理ですよ、お嬢さん。
 カーチャ 死にそうなの、おじさまが、ばあや。鼻があおくなってきて・・・もう表情が死相になっている・・・
 フィリップ この時間には医者は誰でも錠をかけてますよ。夜には往診はしません。拳銃を突き付けられたって動きゃしません。
 カーチャ 薬局に行って酸素を・・・
 フィリップ 連中は労働組合員ですからね・・・閣下は組合員ですか。
 カーチャ 知らないわ・・・ここで知っていることなんか何もないみたい。
 フィリップ 組合員でなければちょっと無理ですね。
(鋭い呼び鈴の音。フィリップ、扉を開けに行く。帰って来る。)
 フィリップ あそこに・・・あそこにマリーヤさんが・・・(訳註 マリーヤはいない筈だが。不明。)
 カーチャ マリーヤ?
(カーチャ、前へ進む。両手を前に伸ばして。次に泣く。そして立ち止る。両手で顔を覆う。それから両手を顔から放す。カーチャの前に赤軍兵士、登場。約十九歳。長い足。後ろに袋を引きずっている。ガリーツィン、登場。扉のところで立ち止る。)
 赤軍兵士 失礼致します。
 カーチャ まあ、マリーヤなの?
 赤軍兵士 マリーヤさんから食料をことずかってまいりました。これがそれです。
 カーチャ あの人はどこ?・・・一緒じゃないの?
 赤軍兵士 マリーヤさんは師団です。全軍、作戦行動中です・・・食料以外にもあります。長靴、それに・・・
 カーチャ あの人、あなたと一緒じゃなかったの?
 赤軍兵士 あちらでは戦闘が進行中です。・・・そんな暇はありません。
 カーチャ 電報も打ったの。それに速達も・・・
 赤軍兵士 どんな連絡があっても同じです。・・・昼も夜もありません。戦闘です。
 カーチャ あなた、あの人に会って?
 赤軍兵士 会わないわけありません。何かお伝えすることでもあれば・・・
 カーチャ そう。お願いするわ。・・・あの人のお父さんが死にそうなの。助かるのはとても無理。伝えて頂戴。虫の息で、マリーヤ、マリーヤと最後まで呼んでいたと。あの人の妹リュドミーラは、もう私達と一緒に住んでいない。逮捕されてしまったって。それからマリーヤさんに、どうぞお幸せに、と。そして私達と一緒にいなかった日々のことで思い悩まないで欲しいと・・・
(赤軍兵士、回れ右。退場しかける。よろめきながら、自分の部屋から、ムコーヴニン登場。目は虚ろ。髪は逆立っている。微笑んでいる。)
 ムコーヴニン なあ、マリーヤ。お前がいなくても、私は病気などしておらんぞ。みんな元気なんだ、マリーヤ。(赤軍兵士が目にはいる。)誰だ、これは。(より大きな声で繰り返す。)誰だ、これは。・・・誰なんだ。・・・(倒れる。)
 ニェフェドーヴナ(ムコーヴニンと並んで両膝をつく。ムコーヴニンを抱きかかえて。) どがーした、あんた。もういくんか?・・・わしのこと待ちもせんで・・・
(ムコーヴニン、死の鼾(いびき)。息を引き取る時の苦悶。)

     第 八 場
(真昼。目の眩むような陽の光。窓から冬宮の隅とエルミタージュの柱が強い光線に当たっているのが見える。がらんとしたムコーヴニン家の広間。奥でアンドレイとその下働きのクジマーが寄せ木の床を擦(こす)っている。クジマーは顔の大きな若者。アガーシャが窓から叫ぶ。)
 アガーシャ 何やってるの、ニューシュカ。この馬鹿。駄目じゃないか、ガキに壁を触らせちゃ。汚れるだろう? 何処に目がついてるんだ。目の上でけつを下ろしているみたいじゃないか。・・・図体ばかり大きくなりやがって。頭はどこについてるんだい。・・・チホーン、聞いてるのか、ほら、チホーン。なんで納屋を開けとくんだい。閉めとくんだ、納屋は・・・あーら、エゴーロヴナ、今日は。あんた、私に塩を貸してくれない? 一日(ついたち)まででいいんだ。一日にはクーポンが手に入るんだ。その時すぐ返すから。娘を使いにやるからね。少しでいいんだから。一日までなんだ・・・チホーン、お前、ノヴァセーリツェフの家には行ったのかい? あいつら何時引っ越すんだ。
 チホーンの声 引越し場所がないんだっていう話なんです。
 アガーシャ 今までだってちゃんと生きてきたんだろう? これからだって生きてゆけるさ。引越もね・・・じゃあ、日曜日まで期限をやろう。だけど日曜を過ぎたらこっちもただじゃおかないからね。ちゃんとそう言っとくんだ。・・・ ニューシュカ、この馬鹿。お前、目はどこについているんだ。子供が鼻の穴に土をつっこんでるじゃないか。・・・子供は二階に上げるんだ。ほら、早くして。窓ガラスを磨くんだ・・・(床磨きの職人に。)どうだい、親方。仕事は進んでるかい。
 アンドレーイ ああ、まあなんとかやっつけてる。
 アガーシャ あまりやっつけちゃいないようだね。・・・まだ隅がそんなに残ってるじゃないか。
 アンドレーイ どこの隅で?
 アガーシャ 隅。四つともだよ。・・・それに床。これは赤いじゃないか。ここを赤くしろと誰が言った・・・こんな色じゃなかった筈だ。
 アンドレーイ 監督さん。最近はもう材料がなくて・・・
 アガーシャ 金をちょろまかしてるんだろ。そしてお前さん、弟子にそのやり方を教えるんだ。・・・金を取る段になりゃ、きちんと取りに来やがって。
 アンドレーイ  アガーシャ、あんた、革命が終わって、最初に床磨きを頼む男があんたの一番の敵という訳かい。ほら、この埃。革命が終わって、三インチもへばりついてるんだ。鉋(かんな)をかけたって、取れるもんじゃない。 革命が終わって、床を磨く。わしに勲章をくれたって罰はあたらない。それをお前さん、がみがみ怒鳴りつける・・・
(舞台奥にスーシュキンと喪服のカーチャ、登場。)
 スーシュキン 家具分野における私の狂気、これ故にのみ、私は買うんですからな。ただ私の趣味の心がなせる技。骨董品の傍を通ると、もう矢も盾もたまらず買いたくなる。今どきこんな馬鹿でかいものを買うなんて、首にでかい石でも括り着けるようなもんだ。石もろとも沈んでおだぶつ。それがおちなんですからね。こりゃいいぞ、買っとけ、と今日は思う。ところが明日にゃ、どこへ押し込んどきゃいいか、場所にも困るっていう話なんだ。
 カーチャ お忘れのようね、スーシュキンさん。ここにあるものは、どれをとっても超一流品よ。この家具は百年前にストローガノフ家がパリから取り寄せたもの。
 スーシュキン だから十億二千万。これならいいでしょう。
 カーチャ パンに換算すると、その十億って、どのくらいになるの?
 スーシュキン パンになんか換算しないで、こんなものを買うというこの私の気違いざたの方を考慮に入れて下さいよ。今時分こんな馬鹿でかいものを買いこんで・・・いの一番に連中のブラックリストにのっちまいますぜ・・・(小さな声で。)下でもう、うちの若いもんが、すぐにも運び出せるよう、待っているんですがね・・・(下に怒鳴る。)おーい、いいか。抑えとけよ。紐をちゃんと引っ張っとくんだ・・・
 アガーシャ(舞台の前面に出る。)抑えとけって何だい、それは。
 スーシュキン これはこれは、どなた様で?
 カーチャ この人、このアパートの管理人。
 アガーシャ ふん、ただの玄関番だよ。
 スーシュキン これはおはつにお目にかかります。昨今では、このように申し上げると分かって戴けるようで・・・つまり、「私共が家具をお運び致します。すると、お互いさま、みいりがあるというもので・・・」
 アガーシャ そうはいかんよ。
 スーシュキン いかんと仰ると?
 アガーシャ ここへ地下室から上がって来るんだ。新しい入居者がね。(訳註 地下室は不明。)
 スーシュキン 私共には勿論興味がありますな、その新しい入居者が・・・
 アガーシャ どこに家具を運ぶかがね・・・
 スーシュキン いや、いや、そんなことに興味があるわけでは・・・
 カーチャ アガーシャ、マリーヤさんなんだよ、私に家具の処分を・・・
 スーシュキン ちょっと失礼ですが、管理人さん。この家具はあんたのもので?
 アガーシャ 家具は私のものじゃないよ。だけどあんたのもんでもないだろ?
 スーシュキン 下手に出てりゃいい気になって。いいか、俺とあんたとはな、立場が違うんだぜ。一緒にされてたまるか。それからな、言っとくが、このまま行くと不愉快なことになるんだぞ、いいんだな。
 アガーシャ 役所からの書類を持って来るんだ。そしたら家具は出してやる。
 カーチャ アガーシャ、この家具はマリーヤさんのものなんだ。お前だって知っている筈だよ。
 アガーシャ そりゃ知っていますよ、お嬢さん。でも忘れたんです。再教育のお陰で。
 スーシュキン おい、あんた。どうなるか分かってるのか!
 アガーシャ 怒鳴るんじゃない。つまみ出すよ。
 カーチャ 行きましょう、スーシュキンさん。
 スーシュキン 職権乱用なんだぞ、あんた。分かってるんだな。
 アガーシャ 役所からの書類を持って来るんだ。そしたら家具は出してやる。
 スーシュキン よし。出るところへ出て話そう。
 アガーシャ どこへなりと。チェカーへでもね。
 カーチャ 行きましょう、スーシュキンさん。
 スーシュキン 今は行くけどな、見てろ。人を連れて帰って来るからな。
 アガーシャ お嬢さん、よくないですよ、こんなことしちゃ。
(アガーシャ、カーチャ、スーシュキン、退場。アンドレーイとクジマー、床磨きを終り、道具をしまう。)
 クジマー あの人、うまく追っ払っちまったね。
 アンドレーイ いやな女だ。
 クジマー あの人もムコーヴニン将軍に仕えていた人?
 アンドレーイ そうさ。将軍に仕えていた頃はペコペコしていたんだ。でしゃばるなんて思いもつかなかったさ。
 クジマー 将軍っていう人が、殴ったり・・・厳しかったんですね。
 アンドレーイ 殴る? とんでもない。殴るなんて考えも及ばないよ。近くによるだろう? すると手を握ってくれてな。親しく挨拶よ。俺達はみんな、あの人が好きだったな。
 クジマー へえー、奇妙な話。みんなが将軍が好きだったなんて。
 アンドレーイ 馬鹿だったからなんだろうな。だけど、好きだった。法(のり)を越えたことはしなかった、というところかな。ご自分で薪を割ったりね。
 クジマー 年をとってた?
 アンドレーイ それほどの年じゃなかった。
 クジマー でも、死んだ・・・
 アンドレーイ なあ、クジマー、人はな、年をとるから死ぬんじゃない。時期が来るから死ぬのさ。つまり、それが寿命さ。
(アガーシャ、労働者サフォーノフ、その妻エレーナ、登場。サフォーノフは、骨ばった、無口な男。エレーナは妊娠している。背が高く、小さいテカテカ光った顔。二十歳そこそこ。臨月が近い。所帯道具一切がっさいを背負って、腰掛け、藁布団、石油コンロを引きずっている。)
 アンドレーイ 待って、ちょっと待って。今下に何か敷くから。
 アガーシャ 入って、サフォーノフ。怖がることはないよ。お前さん、これからここに住むんだ。
 エレーナ こんな立派な・・・もっと悪いところの方が・・・
 アガーシャ 立派なところに慣れるんだね。
 アンドレーイ 立派なところに慣れる・・・簡単なことさ。
 アガーシャ 左が台所、そこがバス・・・身体を洗う所さ。(サフォーノフに。)あんた、残してきたものを運ぼう・・・ エレーナ、あんたは坐ってるんだ。来ることはない。流産するといけない。
(アガーシャとサフォーノフ、退場。アンドレーイ、自分の道具・・・ブラシ、バケツ・・・をしまう。エレーナは腰掛けに坐る。)
 アンドレーイ 引越、おめでとう・・・か。
 エレーナ そぐわないわ、悪いみたい・・・大きくて・・・
 アンドレーイ いつなんだい、生まれるのは。
 エレーナ 明日。
 アンドレーイ 心配はいらないさ。モーイカ町? それとも宮殿?
 エレーナ ええ。そう。
 アンドレーイ あの宮殿も今じゃ「母と子の宮殿」と名前がついて・・・昔、あそこは、女の皇帝が、ある羊飼いのために建ててやったんだが、(訳註 エカチェリーナ十二世が情人の為。 城田)今じゃ産婦が行って子供を産む。設備もいいらしい。心配はいらないさ。
 エレーナ 明日行くのよ、小父さん。ふと心配になったり、ふと大丈夫って思ったり・・・
 アンドレーイ 心配はいらない。お産したってくしゃんとも来ないよ。そりゃ、全神経、全血管が緊張するさ。だけど、一旦生まれてしまえば、後は何が起こったか、憶えてもいない。
 エレーナ 小父さん、私、あそこが小さいの。
 アンドレーイ そりゃ、あそこに頼むのさ。大きくなってね、ってね。ほら、小母さんがよくいるじゃないか。神経質そうな、髪はもしゃもしゃ、小さい足、小さい手。だけどこの小母さんが赤ん坊を取り上げるんだ。どんな赤ん坊だと思う? 将来、桶からウオッカをがぶ飲みするような、げんこつで何でもぶっ倒すような男になる赤ん坊をだよ。餅は餅屋って言うじゃないか。(両肩に袋を担ぐ。)男の子がいいの?それとも女の子?
 エレーナ どっちでもいいの、私。
 アンドレーイ そりゃそうだな。どっちだっていいさ。私は考えるんだ。今生まれる子供達はこれまでよりも良い人生を送るんじゃないかって。 そうじゃなくっちゃ困るよな。(自分の荷物を集める。)さあ、行こう、クジマー。(エレーナに。)お産したってくしゃんとも来ないよ。餅は餅屋さ。心配はいらない。・・・さあ、行こう、クジマー。
(床磨き二人、退場。エレーナ、窓を開ける。部屋に陽が入る。そして、通りの喧騒が。腹を前に突き出してエレーナ、用心深く壁に沿って歩く。壁に触れる。隣室(複数)を覗く。シャンデリアをつける。消す。ニューシャ、登場。ひどく顔の赤い娘。バケツと雑布を持っている。窓を磨くため。窓の敷居に登り、スカートの裾を膝の上までたくし上げる。太陽の光が降り注いでいる。アーチを支えている彫像のようにニューシャ、春の空を背景にして立っている。)
 エレーナ ニューシャ、あんた、引越のお祝いに家に来るかい?
 ニューシャ(低い声で。)呼んでくれりゃ、行くよ。でも何を出してくれる?
 エレーナ ご馳走はあまり出来ないわ。あるもので・・・
 ニューシャ 私、甘いワインがいいわ。赤いワイン・・・
(突然、甲高い声でニューシャ、歌い始める。)
 ニューシャ
    コサックが馬を駆る。谷を横切り、
    満州の地を越え、
    緑の野原を突っ切って、
    手には指輪が光っている。
    愛する女が贈った指輪。
    それは男の出兵の時。
    女は贈り、そして言った。
    一年後にはあなたのもの、と。
    そして一年は過ぎ去った・・・
                     (幕)

      平成五年(一九九三年)二月九日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html