侯爵夫人

ノエル カワード 作
能美武功 訳

   登場人物
エロイーズ ドゥ ケストゥルネル 侯爵夫人
アリス  彼女の侍女
ラウール ドゥ ヴリアック 伯爵
アドリエンヌ 彼の娘
ジャック リジャール 彼の秘書
クレメント 神父
エステバン エル ドュコ ドゥ サンタグアノ
ミゲル 彼の息子
ユベール ヴリアック城の召使

(舞台はヴリアック城の居間。城はパリから数時間の場所。)
第一幕  夕方
第二幕  次の朝
第三幕  その日の夕方
(時代は十八世紀。秋。)

     第 一 幕
(ヴリアック城の居間。一七三五年九月、午後十時頃。部屋はほぼ円形。塔の下にある為である。左手にテラスに面した二つの窓。窓からは木々の頂上と空しか見えない。中央、窓の上手に観音開きの扉。それは広い石造りのホールに通じる。ホールからは城の玄関に通じる。扉の隣に階段。これは部屋の中央上に消える。階段の上手に書斎に通じる扉。その下手、右側に、大きな暖炉。その上にヴリアック伯爵夫人の全身像(画)喪服。悲しそうな表情。緋のビロードのカーテンが窓に。但し今夜は満月の為、開け放たれて居る。家具は古く重々しい。最近流行のパリ風の軽い家具はない。現代風への唯一の譲歩は陽気な色のチェンバロ。アドリエンヌが小曲を弾かされる為である。)
(幕が開くと、夕食がほぼ終わった所。中央のテーブルの回りに登場人物が座って居る。観客から向かって右に、横顔を観客に見せてラウール。その右にミゲル。ラウールの正面にエステバン。その右に、観客に背を向けてアドリエンヌ。その隣がジャック。ミゲルの隣がクレメント神父。ユベールが丁度コーヒーを出し終わった所。ユベール退場。儀式ばった雰囲気。それをエステバンが独り、軽い会話でほぐそうと努力していた様子。ラウールがワイングラスを手にして立ち上がる。)
 ラウール (勿体をつけて。)この好き門出にあたり……
 エステバン (陽気に。)いいぞ、ラウール。そうだ、そうだ。
 ラウール (密かに顔を顰めて。)乾杯を行いたいのだが。
 エステバン アドリエンヌ、お前の親父は変わったよ。この何年間で。食事時に特にそれを感じるね。
 ラウール どういう意味だ、それは。
 エステバン いや、別に。
 ラウール ミゲル。
 ミゲル はい。
 ラウール 私の娘を君に任せる事にする。
(アドリエンヌ、下を向く。ジャック、こっそり彼女の手を抑える。)
 ミゲル (行儀よく。)有り難うございます。
 エステバン (突然笑い出して。)これは好い。
 ラウール (苛々と。)エステバン。
 エステバン 失礼。
 ラウール 君達は若い。人生の戸口に立ったばかりだ。君達の幸福は二つのものによってのみ支えられる。人生の目的がはっきりしている事、それに心の貧しさだ。
 エステバン 第一項には賛成だな。
 ラウール (怒って。)二人に乾杯。(急に座る。)もう言う事はない。
 アドリエンヌ お父様、お怒りにならないで。
 ラウール 怒ってはいない。悲しいのだ。お前たち二人への愛情が笑われたんだからな。
 エステバン 誰も愛情を疑っては居ないさ。
 ラウール じゃ言うがな、エステバン、君はふざけてばかりいて、折角の集まりをぶち壊しているじゃないか。
 エステバン それは誤解だな。楽しくしようと……
 ラウール 真面目な集まりなんだ、これは。
 アドリエンヌ (感情を籠めて。)そうだわ、本当に。
 ラウール 見ろ。
 エステバン それはそうとしても、真面目過ぎると肩が凝ってな。
 ラウール 何の意味だ、それは。
 エステバン 数年前だったら、君だって分かった筈だが。(クレメント神父を見ながら。)さっきも言った様に、君は変わったよ。
 ラウール 年を取ると変わるものさ。
 エステバン まあ、そういう事にして置こう。
 ミゲル (立ち上がりながら。)先程の乾杯にお返しをしなければ。義父さん、私は力一杯アドリエンヌを守って見せます。何時までも。(座る。)
 エステバン なかなか好い言葉だ、ミゲル。今度は俺が一発ぶつ番だな。
 ラウール (苛々と。)エステバン。
 エステバン (行儀良く、微笑して。)何だ、ラウール。
 ラウール いや、いい。
 エステバン (立ち上がって。)アドリエンヌ、ミゲル。私が魔法使いなら、私の心からの贈り物は、思いやりの心、なんだが……普通の人間なんだから仕様がない。忠告を述べるとしよう。それは「出来うる限り人生を楽しめ。」だ。そうすれば時は陽気に過ぎ去って行くし、年をとっても良い思い出が残るさ。良い思い出、それ以上を望むのは欲張りだ。
 ジャック こいつはいいや……フン。(突然立ち上がり、部屋を出る。)
 アドリエンヌ (我を忘れて、思わず。)ジャック!
 ラウール あいつ、何処か悪いのか。
 アドリエンヌ ええ、いいえ。
 ラウール 済まん、エステバン。
 エステバン (陽気に。)いやいや。あんな有能な秘書なら少々おかしくても構わんさ……何処まで話したかな。
 ミゲル 「それ以上を望むのは欲張りだ。」まで。
 エステバン 何以上だったかな。
 ミゲル 思い出。年をとった時の良い思い出。
 エステバン ああ、そうそう。そうだった。良い思い出。これが大事なんだ。な。
 ミゲル (笑って。)はい。
 アドリエンヌ ええ。
 エステバン ああ、これで話は終わりだ。
 ラウール ひどい忠告だ、エステバン。全くひどい。
 エステバン いや、なかなか良い線だ。
 ラウール おまけに不道徳ときている。
 エステバン 何処が。
 ラウール 恥ずかしくなる。
 エステバン 何を言っているんだ。
 ラウール ジャックが部屋を出たのも無理はない。ひどい話で呆れたのさ。
 エステバン あまり良い月で、あてられたんだろう。
 アドリエンヌ テラスに出ていいかしら、一寸。此処は暑いの。ミゲル、いい?
 ラウール ああ、出ておいで。神父様は如何です?
(クレメント、いやいや立ち、小声で祈りの言葉。終わるとアドリエンヌ、ミゲル立つ。)
 ミゲル 何か羽織ったら?
 アドリエンヌ そうね、ショールを。椅子の上に……
 ミゲル (肩に着せて。)じゃあ。(小声で、出る時に。)元気を出して。(二人、テラスに出る。)
 クレメント では、御両人。神の御加護があります様に。
 エステバン (陽気に。)おやすみなさい。
 クレメント (ラウールの肩に手をやって。)わが子よ。
 ラウール おやすみなさい、神父様。
(クレメント、残り物にまだ心ひかれて、悲しげに退場。)
エステバン 神父が居るとどうも飲み過ぎていかんな。
 ラウール その様だな。
 エステバン (笑いながら。)君は老いて益々美男……だな。
 ラウール 君はそうはいかない。浅い男だよ、君は、エス テバン。昔からそう思っていたんだ、俺は。
 エステバン さんざめく小川か、深い淵でなく。
 ラウール その通り。
 エステバン 君だってさんざめいていた事があったぜ。それもかなりな。
 ラウール (立ち上がる。苛々して。)馬鹿な事をさんざんやって来たさ。
 エステバン (訴える様に。)ラウール?
 ラウール うん?
 エステバン いや。酒が欲しいな。
 ラウール う。(渡す。)
 エステバン ああ、君も飲むか。
 ラウール いや。俺はもういい。
 エステバン じゃ、俺も止めだ。
 ラウール なら飲むよ。
(エステバン、両グラスに注ぐ。)
 エステバン (グラスを上げて。)セヴィリア、一七一二年(に乾杯。)
 ラウール 何故。
 エステバン 思い出の場所じゃないか。
 ラウール 勝手にしろ。(グラスを上げて。)じゃ、セヴィリア、一七一二年。
 エステバン マドリレーナ(に乾杯。)
 ラウール (ドンとグラスを置いて。)怒るぞ。本当に。
 エステバン 君の方に惚れていたんだ、あれは。
 ラウール うるさい。
 エステバン (夢見るように。)良い顔だった。脚は駄目だったが。
 ラウール 脚が良かったんだ。
 エステバン は、は!
 ラウール 今夜は本当に行儀が悪いな。
 エステバン こんなに好い月だからな。青春が戻ってきて居る。
 ラウール 違う。青春は過ぎ去るのみだ。
 エステバン 必ずしも……然らず。
 ラウール さびしい季節だ、秋は。
 エステバン 必ずしも……然らず。
 ラウール 不愉快な現実を避けたいんだな、君は。
 エステバン 何だ、それは。
 ラウール 人生は終わりなんだ、二人とも、もう。
 エステバン 必ずしも……然らず。
 ラウール (苛々と。)やめろ「必ずしも……然らず。」は。
 エステバン パリへ来ないか、暫く。
 ラウール パリは嫌いだ、うるさくて。
 エステバン フロマール夫人の仮装舞踏会、覚えているかい。
 ラウール うん。
 エステバン 御乱行だったな、あの時は。
 ラウール 君よりはましだったさ。
 エステバン 未だに見えるようだぜ、噴水に靴を浮かべている君が。あの庭の隅で。
 ラウール 何故そんなに俺を困らせようとするんだ。
 エステバン 過去の思い出は君を困らせる、そうか。
 ラウール そうだ。
 エステバン へえー、面白いな。
 ラウール 後悔する事が多いのさ。
 エステバン 俺にはないな。
 ラウール 妻が生きていてくれたら、俺もこんな退屈な男ではないんだが。
 エステバン そうかな。君をそんな風にして仕舞ったのは彼女だぜ。そしてその総仕上げに、死んだ後、クレメント神父を残しておいた。
 ラウール 神父は俺が頼んでいるのだ。
 エステバン なあ、ラウール。君は宗教の退屈さの中に首までつかっているんだ。
 ラウール 何だ一体それは。
 エステバン ついでに言うとな、君は妻の退屈さに首までつかっていたんだ。
 ラウール (怒って。)エステバン!
 エステバン ついにはな、君は人生の退屈さに首までつかり始めているんだ。君自身の真実を隠す為に宗教という偽善の衣を着てな。まあ少し飲め。(陽気に酒壜を振り回す。)
 ラウール (大声で。)いやだ。
 エステバン シッ! 怒鳴らない、怒鳴らない。神父が来てお叱り遊ばすぞ。
 ラウール 俺に対して何と言う口の利き方だ。
 エステバン 長年これで通して来たからなあ。
 ラウール どんな友人でも口に出してはならない事がある。
 エステバン 馬鹿馬鹿しい。(飲む。)君の堕落を祈って、乾杯。
 ラウール (立ち上がり、部屋を歩き回って。)君は全く締まりのない男だ。悲しむべく締まりのない男だ。
 エステバン そうだな。
 ラウール キリスト教徒とはとても言えん。
 エステバン 誰のせいだろう。
 ラウール どういう意味だ、それは。
 エステバン 君だ。君が確固たる信念をもって俺を導いたのだ。歓楽の道へ。そら、マドリッドのオペラでの事を覚えているだろう。
 ラウール やめてくれ。もういい。
 エステバン 逮捕されたのは君だぜ。まあ当然の事だが。
 ラウール もういいと言ってるだろう。やめてくれ。
 エステバン 死に神は覚えていて、その時になったら笑うぜ、きっと。
 ラウール その時は仕方がない。しかし、その時迄は君に口を噤んでいて貰いたい。
 エステバン 何故再婚しないんだ。
 ラウール したくないからさ。
 エステバン じゃ、妾は。
 ラウール エステバン!
 エステバン アドリエンヌは結婚するんだ。淋しくなるぞ。
 ラウール 神父がいるさ。
 エステバン およそ色気からは程遠いな。
 ラウール 善良で力になってくれる友達だ、神父は。
 エステバン 金が目当てなだけだが……
 ラウール なんて事を言うんだ。口を慎め。
 エステバン (指で数えながら。)ジュリエット、マドリレーナ、スザンヌモンティーユ、テレーズ、マルトドゥクロ、フェリース……あいつらどこにいるかな、今。
 ラウール どこにいようと構わん。
 エステバン 冷たいんだな。あんなに愛したんだぜ。
 ラウール 愛……あれは愛じゃない。
 エステバン 愛したことはないって言うのか。
 ラウール いや……うん……いや。
 エステバン (考えながら。)いや……うん……いや、か。分かり難い所だな。
 ラウール (苦々しく。)一度は愛した事がある。一度はな。もう愛す事はない。これでいいだろう。
 エステバン ほう、一度は愛した、か。
 ラウール これ以上は話さん。
 エステバン 今までだって話してはくれなかった。
 ラウール 君とは一七一三年スペインで別れた。再び君と会ったのは、十年前の一七二五年だ。君が此処に来たから会う様になったまでだ。話す事はない。
 エステバン 宮廷では会ったぞ。
 ラウール 顔をあわせるだけだ。
 エステバン 威張った顔だったな。近寄り難い、人を許さない顔だった。
 ラウール お願いだ、昔の話はやめにしよう。
 エステバン その会わなかった十二年間なんだがな、ラウール、君はあれに会ったのか。
 ラウール もう止めだ。
 エステバン あれはどうなったんだ。
 ラウール やめてくれと言っているだろう。
 エステバン (笑って。)かわいそうに……
(ミゲルとアドリエンヌ、テラスから登場。)
 アドリエンヌ 一寸外にいたら寒くなってきたの。
 エステバン 良い所に帰ったな。君の親父さんと喧嘩してた所なんだ。
 アドリエンヌ お父様?
 ラウール 喧嘩なんかしちゃいない。
 エステバン 一瞬遅かったら、エイッ、トウと(刀の形)こうなっていた所だよ。
 アドリエンヌ まあ。
 ラウール 冗談だ、冗談だよ。
 ミゲル 父を許してやって下さい。お義父様を困らせて……
 エステバン (ミゲルをつついて。)生意気な。
 ラウール (父らしい動作でアドリエンヌの頭に手を置いて。)アドリエンヌ、お母さんがまだ生きていたら、どんなに今日喜んだか。
 アドリエンヌ (下を向いて。)ええ。
 エステバン 書斎へ行こう、ラウール。
 ラウール (エステバンを無視して。)お前の喜びに増してお母さんは……
 エステバン (訴えるように。)書斎に行こう、ラウール。また恰好をつけ始めたぞ。
 ラウール (怒って。)何だと。
 アドリエンヌ (優しくキスして。)お父様。
 ラウール (振りほどきながら。)もう帰れ、エステバン。
 エステバン まだ話があるんでね。
 ラウール (疑い深そうに。)何の。
 エステバン 今頃は済んでなくちゃならない話……子供達の将来についてさ。
 ラウール よかろう。
 エステバン どうやら過去の御乱行には触れたくない様子だからな。
 ラウール すぐ済ませるぞ。すぐにな。
(二人、書斎にはいる。)
 アドリエンヌ ああ、ミゲル。(椅子に沈む。)
 ミゲル どうしたの。
 アドリエンヌ 奇妙な感じなの。
 ミゲル それはそうだろう。
 アドリエンヌ 風邪かしら。テラスは寒かったわ。
 ミゲル 手を握らせてくれれば良かったんだ。
 アドリエンヌ (疲れて。)駄目よ、そんなの。
 ミゲル アドリエンヌ。(近づく。)
 アドリエンヌ そんな顔しても駄目だわ。
 ミゲル 僕達は婚約したんだよ、ねえ、僕の大事な人。
 アドリエンヌ 僕の大事な人――なんておかしいんでしょう――僕の大事な人。
 ミゲル 何も言えなくなるじゃないか、それじゃあ。
 アドリエンヌ ごめんなさい。
 ミゲル 愛しているよ。
 アドリエンヌ いいえ、愛して下さってないわ。
 ミゲル 何故。勿論愛しているよ。
 アドリエンヌ ふりだけはお上手だわ。
 ミゲル アドリエンヌ。
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル どうしたんだい。
 アドリエンヌ 分かってらっしゃるでしょう。
 ミゲル 分からないな。
 アドリエンヌ 愛してるって仰るのね。
 ミゲル そうだよ。
 アドリエンヌ 熱い、焼けるような、胸が痛むような、そんな?
 ミゲル アドリエンヌ……
 アドリエンヌ 答えて頂戴。
 ミゲル (拗ねて。)うん。熱い、焼けるような、胸が痛むような。
 アドリエンヌ 鏡があるといいのに。
 ミゲル ええ?
 アドリエンヌ それを言う時のお顔を見せて上げたいの。
 ミゲル 君がそんなに冷たいのに、焼ける様にはね……
 アドリエンヌ そうじゃないの。
 ミゲル 水をさすんだから、僕が何をしても。
 アドリエンヌ 努力なんかいらない筈だわ、愛には。
 ミゲル 手がつけられないな。
 アドリエンヌ (沈みこんで。)そうなの……私って。(突然泣く。)
 ミゲル アドリエンヌ、どうしたの。
 アドリエンヌ ほっといて。
 ミゲル 僕がついている。心配はいらないから……
 アドリエンヌ 心配がいるの。あなたには分からないの。
 ミゲル 泣いているのを見られると不味いな。今夜は特に。
 アドリエンヌ ごめんなさい。止まらないの。
 ミゲル (ハンカチを出して。)一寸これで。
 アドリエンヌ ねえ、ミゲル、本当の事を言って頂戴。私のこと本当は好きじゃないんでしょう?
 ミゲル 愛してるさ。
 アドリエンヌ 同情、そう……優しさ、理解、それはあるわ。でも……
 ミゲル でも……なんだい?
 アドリエンヌ でも、別な風には……胸が痛むようには……
 ミゲル いつかなるさ……そのうちには。
 アドリエンヌ それじゃいやなの。
 ミゲル 誰か好きな人がいるの?
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル どうして話してくれなかったんだい?
 アドリエンヌ 勇気がなかったの……それにかわいそうで。
 ミゲル 誰?
 アドリエンヌ 御存知の人。
 ミゲル ジャック・リジャール?
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル 泣く事はないじゃないか。彼も君の事を?
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル よく話しあった方が良いな。泣くのは止めて。
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル もうジャックとは……かい?
 アドリエンヌ いいえ。
 ミゲル お父さんは絶対に賛成なさらないんだね。
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル お金のせい?
 アドリエンヌ ええ。ここで働くお金だけなの。
 ミゲル 家庭は?
 アドリエンヌ 良い家庭なの……でも貧乏で。父は貴方と結婚させる事に決めているし、あなたのお父様だって。いやって言ったら、修道院だわ。もっと酷い所かもしれないわ。(泣く。)
 ミゲル (物知り顔に。) 修道院っていっても良いところあるよ。僕の叔母なんかね、十何人も恋人がいたんだ、修道院で。
 アドリエンヌ 私が行く所はきっと違うわ。
 ミゲル そうだろうな、それは。とにかく打ち明けるのは危険だな。
 アドリエンヌ あなたが私を愛して下さっていなければ、割合と簡単なのに。
 ミゲル 実の事を言うとね。
 アドリエンヌ ええ。
 ミゲル 僕にもいるんだ。
 アドリエンヌ あら。
 ミゲル 踊り子なんだ、パリの。
 アドリエンヌ あら、ミゲル、なんて嬉しいんでしょう。
 ミゲル 永久に彼女にはさよならを言うつもりでいたんだ。
 アドリエンヌ そんな事駄目よ。計画を練らなくっちゃ。
 ミゲル 結婚は形だけにしておいてもいいな。二人とも別の人を愛す事にして。
 アドリエンヌ それはあまりしたくはないわね。
 ミゲル 僕もだ。よく考えなくってはね。
 アドリエンヌ 誰にも言っては駄目よ。
 ミゲル うん。
 アドリエンヌ ああ、ミゲル。あなたにどう言って感謝したら良いか。
 ミゲル (唇に指を当てて。)シッ。
 アドリエンヌ 時間は充分あるわね。
 ミゲル うん。
 アドリエンヌ 明日、又ね。
 ミゲル 勿論。
(ジャック登場。二人を替わる替わる見て、出て行こうとする。)
 ミゲル リジャール君。
 ジャック (振り返って。)はい。
 ミゲル 暫くお嬢さんのお相手をお願いしたいんだが。テラスに煙草入れを忘れてね。
 ジャック 喜んで。
 ミゲル じゃ頼む。(会釈し、アドリエンヌに投げキス。扉から出て後ろ手に閉める。)
 アドリエンヌ (近づき。)ジャック。
 ジャック ああ。
 アドリエンヌ (口にキスして。)ジャック
 ジャック (テラスの方を見て。)シッ。
 アドリエンヌ あの人知っているの。
 ジャック (茫然。)知っている?
 アドリエンヌ ええ、話したの。
 ジャック ええっ?
 アドリエンヌ みんな。あの人も話してくれたの。あの人にもいるの。
 ジャック まさか。
 アドリエンヌ あの人分かってくれたわ。
 ジャック (跪いて。)ああ、アドリエンヌ、アドリエンヌ。
 アドリエンヌ シッ。聞こえるわ。
 ジャック (立ち上がって、両腕で潰れんばかりに抱いて。)アドリエンヌ、僕は……
 アドリエンヌ 私も。
 ジャック 僕の大事な人。
 アドリエンヌ もう一度言って、僕の大事な人って。素敵な響き。
 ジャック 僕の大事な人。
 アドリエンヌ まだ望みはあるのよ。ね、あんな悲しい顔しなくてもよかったの。夕食のあの時の態度ったら無かったわ。
 ジャック 我慢出来なかったんだ、本当に。
 アドリエンヌ もう行って。
 ジャック ええっ?
 アドリエンヌ お父様達、書斎にいらっしゃるの。出て来られたら……
 ジャック もう一回。
 アドリエンヌ 一回だけよ。
 ジャック (猛烈にキスする。)一回、二回、三回。
 アドリエンヌ (負けて。)ジャック、ジャック。
(エステバン、ラウール登場。やっと間に合って二人離れる。)
 ラウール ミゲルはどこだ。
 アドリエンヌ テラスですわ、お父様。
 エステバン 独りでか。
 アドリエンヌ ええ。
 ラウール ほお。(奇妙な、と言う顔。)
 アドリエンヌ 煙草入れを忘れて。
 エステバン そうか。呼んで来よう。(扉へ行き、呼ぶ。)ミゲル、ミゲル。
 ミゲル (外で。)今行きます。
 エステバン アドリエンヌ、心からのおやすみを。
 アドリエンヌ (お辞儀。)おやすみなさい。
(ミゲル登場。)
 エステバン (アドリエンヌにキス。)良い夢をみるんだな。
 アドリエンヌ そういたしますわ。
 ミゲル おやすみ、アドリエンヌ。(キス。)
 アドリエンヌ おやすみなさい、ミゲル。
 エステバン 素晴らしい夕べだった、ラウール。
 ラウール 玄関まで送ろう。
 エステバン いや此処でいい。おやすみ。
 ラウール おやすみ。
 エステバン いや「おやすみ」は取り下げよう。今夜は昔の思い出が君の上に荒れ狂ってもらいたいね。
 ラウール(厳しく。)言われなくても、そうなりそうだ、今夜は。
 エステバン それは良かった。
 ミゲル 行きましょう、お父さん。
 エステバン 良かろう。じゃあな、ラウール。明日又馬で乗り付けるとしよう。
 ラウール (冷たく。)それは楽しみだな。
(エステバンとミゲル、退場。)
 アドリエンヌ お疲れのようだわ、お父様。
 ラウール あいつ何時か罰があたるぞ。
 アドリエンヌ あの方気にしないわ、きっと、罰なんか。
 ラウール お前の年でそんな事を言うのはどうかな。
 アドリエンヌ (窓へ行き。)良い夜だわ。
 ジャック (加わって。)木の葉の間に月の光。綺麗な模様だ。
 ラウール もう寝る時間だよ、アドリエンヌ。
 アドリエンヌ (ジャックを見て。)なんて幸せなんでしょう。
 ジャック ほら、通りに光が。
 アドリエンヌ あら、何処?
 ジャック 橋の手前。あそこに。
 アドリエンヌ 馬車だわ、きっと。
 ラウール (加わって。)郵便馬車にしては時間が遅いな。
 ジャック 動いていませんね。
 ラウール ジプシーだ、きっと。テントを張っているんだ。もう寝なさい、アドリエンヌ。
 アドリエンヌ はい。(ジャックに。)おやすみなさい。
 ジャック (手にキスして。)お嬢様に、そしてお嬢様の愛していらっしゃる方に、お幸せを祈ります。
 アドリエンヌ その方が愛して下さっている限り、幸せは保証されていますわ。お父様。(突然父親の首にかじりつく。)
 ラウール おやすみ。
 アドリエンヌ (熱っぽく。)お父様はきっと、きっと、私の事をお怒りにならないわね。
 ラウール どういう事だ、それは。
 アドリエンヌ なにが起こっても。
 ラウール 興奮しすぎたんだ。早く寝なさい。
 アドリエンヌ そう。興奮。そうだわ。おやすみなさい。
(お辞儀。二階へ上がる。)
 ラウール 君の夕食の時の態度は、あれは何だ。
 ジャック (アドリエンヌを見送って。)何か可笑しかったでしょうか。
 ラウール 客が話している時に席を立ったりして。
 ジャック 気分が悪くなりまして。
 ラウール ふん、腹でもこわしたか。
 ジャック 頭痛です。それに心臓が少し。(胸を抑える。)
 ラウール 頭痛に心臓か、変だな。
 ジャック はい。
 ラウール 薬なら上にあるが。
 ジャック いえ、今はすっかりよくなりました。
 ラウール 月のせいだな。
 ジャック (夢みる風情。)月がとっても綺麗だから……
 ラウール 何だ?
 ジャック (上擦って。)本当だ、本当にそうだ。
 ラウール 何が本当だ。何を言っている。
 ジャック エステバンさんの仰った事です。あの方は弁護された。恋を、幸福を、思い遣りの心を。そうだ、お願いです。どうか押し殺さないで下さい。
 ラウール 押し殺す? 何のつもりだ、それは。
 ジャック すみません。今夜は何か、どこか普通と違って……
 ラウール 何を押し殺しているんだ。
 ジャック いいえ、何も。
 ラウール 俺が一体何を押し殺していると言いたいんだ。失礼な。
 ジャック つい口が滑りまして。
 ラウール 説明してみろ。
 ジャック 気に止めておかねばならない事、それが一度に解き放たれて仕舞ったのです。この家における私の地位、年齢の差、雇われているという自覚、これがどこかへ行って仕舞って。(もう言っちゃいます。)押し殺していらっしゃるんです。恐れの為に。
 ラウール 恐れ?
 ジャック 恐れていらっしゃるのです。青春を、人生を、苦痛を、幸福を。でも僕は恐れない。僕は若いんだ。あの満月。僕は叫びたい。歌いたい。踊りたい。一緒に踊りましょう。
 ラウール (厳しく。)もう行くんだ。早く寝た方が良い。
 ジャック 窓から身を乗り出して、鶯の声を聴きましょう。
 ラウール この時期には鶯などいない。
 ジャック では梟の声でも聴きましょう。
 ラウール 気でも狂ったか、お前は。
 ジャック ええ。お蔭様で。手遅れにならないで、気違いになれました。
 ラウール 明日の朝だ、話は。
 ジャック 朝には詩人になっていましょう。
(ジャック、笑いながら二階に駆け上がる。ラウール、呆れて見送る。肩を竦めてチェンバロの上の四本の蝋燭を吹き消す。テーブルの上の蝋燭も消そうとした時、妻の肖像画が目に止まる。感慨深げに絵を眺めている時、窓をコツコツ叩くものがある。考えに沈んでいるので聞こえない。休止の後、再び前より強くコツコツと鳴る。さっと振り返りテラスの上に影を認めハッとする。窓へ行き開く。エロイーズ、部屋に入って来る。旅装。一部の隙もない。昔の美しさを未だに保っている。目は若い時と同様、輝いている。ラウール、只茫然と彼女に見入る。)
 エロイーズ (火に近づいて。)窓を閉めて頂戴、あなた。寒いわ。
 ラウール (信じ難く。)エロイーズ!
 エロイーズ ラウール。(暖炉で振り返り。)窓を。
 ラウール (機械的に閉めながら。)どこから来たんだ。
 エロイーズ どこからかしら。
 ラウール 死んだと思っていた。
 エロイーズ あなたにお手紙も出さないで死ぬ訳には参りませんわ。
 ラウール (相変わらず茫然と。)エロイーズ!
 エロイーズ そうなの。
 ラウール エロイーズ。
 エロイーズ ええ、エロイーズ。
 ラウール 長い時間だった。
 エロイーズ そんなに長かったかしら。
 ラウール とても信じられん。
 エロイーズ あなたがまだこんなに若いなんて私にも信じられないわね。
 ラウール 何処にいたのだ。
 エロイーズ いつ?
 ラウール 出て行ってから。
 エロイーズ いろんな所。お酒が頂きたいわ。
 ラウール ああ、失礼。(ワインを注ぐ。)
 エロイーズ 有り難う。森を通ってきたの。あの曲がり角の石は白く塗っておいて欲しかった。鼻をぶっつけそうになったわ。
 ラウール 通りの馬車はお前のか。
 エロイーズ ええ。あそこに止めて私一人歩いてきたの。驚かそうと思って。
 ラウール 驚いたな、確かに。
 エロイーズ それは良かった。(部屋を見回す間、間あり。)前と変わらないわ。(先妻の肖像画が目に止まる。)誰、この人。
 ラウール (固く。)妻だ。
 エロイーズ かわいそうに。酷い顔だわ。
 ラウール 死んだのだ。
 エロイーズ だからだわ。
 ラウール (顔を顰めて。)エロイーズ!
 エロイーズ チェンバロはなかったわ。
 ラウール うん。
 エロイーズ カーテンも。カーテンは良いわね。
 ラウール そうか。
 エロイーズ 子供は何処?
 ラウール 何故帰って来た。厚かましく。こんな風に。
 エロイーズ どんな風に?
 ラウール 急に。知らせもしないで。
 エロイーズ 言ったでしょう。驚かせる為よ。
 ラウール (そっぽを向いて。)これは……その……破廉恥だぞ。
 エロイーズ 子供みたい。破廉恥だなんて。
 ラウール (荒々しく。)子供。
 エロイーズ そうよ。コ・ド・モ。
 ラウール こんな馬鹿な事が……
 エロイーズ 普通の事でしょう。
 ラウール ずうずうしい。鉄面皮な……
 エロイーズ 子供は何処。私の。
 ラウール 何の関係があるんだ、お前に。
 エロイーズ あなたって随分堕落したのね。
 ラウール どういう意味だ、それは。
 エロイーズ あなたっていつもそれは物腰が優美だったわ。時々は確かに気違いみたいに怒ったけれど。でも抑える時にはちゃんと抑えたわ。今はそれがないようね。
 ラウール お前が此処にいるから抑えられないんだ。
 エロイーズ 気にしない事ね。
 ラウール これが気にしないでいられるか。出て行ってくれ。
 エロイーズ 勿論いやだわ。
 ラウール 出て行かないのか。
 エロイーズ 怒鳴っても無駄ね。子供は?
 ラウール 死んだ。
 エロイーズ (急にカッと。)死んだ! まさか。そんな事ない。
 ラウール お前に関する限り、あれは死んだのだ。
 エロイーズ (ホッとして。)ああ。(怒って。)なんてこと。私をこんなに驚かせて。
 ラウール 子供に対する権利は全て棄てた筈だ。
 エロイーズ いいえ。あなたに対する権利は棄てましたけれど。
 ラウール それは同じ事になるんだ。
 エロイーズ いいえ。
 ラウール あれは私の子だ。
 エロイーズ そして私の子供。
 ラウール あれは妻の娘として育ててきた。本当の事は知らせたくないのだ。
 エロイーズ 私が話したら?
 ラウール そうはさせん。
 エロイーズ 幸せにしているの?
 ラウール (挑む様に。)勿論。
 エロイーズ それは良かった。(座る。)
 ラウール これは一体何だ。何のつもりだ。
 エロイーズ 分からないの?
 ラウール 分かりたいものだね。
 エロイーズ 帰って来たのよ、あなたの所へ。
 ラウール そうらしいな。
 エロイーズ ずっと。これからも。
 ラウール なんだって!
 エロイーズ キスしてくださらない?
 ラウール いやだ。
 エロイーズ いいでしょう。時間はあるんだから。まだ四十二歳。
 ラウール 帰って来て貰いたくないな。
 エロイーズ なんていう歓迎なんでしょう。
 ラウール 出て行ってくれ。
 エロイーズ いやだわ。
 ラウール お前なんか目にはいらない。
 エロイーズ この太った体が目の前にあるのに、可笑しいわね。
 ラウール 恥知らずな。
 エロイーズ 恥は知っているわ。あなたの事が恥ずかしいの。なんて態度なんでしょう。
 ラウール 仕方がない。
 エロイーズ 仕方はあるわ。客は優しく扱うものよ。私まだ食べ物も勧められていないわ。
 ラウール 空腹だとは気付かなかった。
 エロイーズ おなかはすいてないの。
 ラウール 果物でも持って行くか?
 エロイーズ もう何度も言ったわ。私出て行かないの。
 ラウール 酷い悪趣味だ。また現れるなんて。
 エロイーズ (バッグの中を捜して。)ちょっと待って。ああ。(見つける。)これ覚えていらっしゃる?(手紙をふる。)
 ラウール 何だ、それは。
 エロイーズ 読んで上げるわ。
 ラウール 聴きたくない。
 エロイーズ どうせ読むから聞こえるわ。
 ラウール エロイーズ。
 エロイーズ (読む。)「愛するエロイーズ、わが愛するエロイーズ」ムニャ、ムニャ、ムニャ……ここはいいと……「本当に困った事が起きたら……一人で淋しく悲しくなったら、帰っておいで……何時だって、何時だって、待っているよ。……・お前は私の心を砕いて仕舞った。しかし……ムニャ、ムニャ、ムニャ……愛している。今も。これからも。ずっと。ラウール。」ね。
 ラウール お前は困っているのか。
 エロイーズ いいえ。
 ラウール 淋しく、悲しいのか。
 エロイーズ ええ。
 ラウール 馬鹿な。
 エロイーズ 分からないの、あなたには。私がどんなに淋しいか、悲しいか。
 ラウール 分からん。
 エロイーズ 年のせいで鈍ったのね。
 ラウール 淋しかった事などあったためしはないのだ、お前は。
 エロイーズ 今、淋しいんですけど。
 ラウール またまたお前と喧嘩を始めるのか。真っ平だ。
 エロイーズ 喧嘩したいと思って来たのではないの。紳士のように、ナイトのように、優しく私を迎えて欲しかったの。
 ラウール (椅子に沈み、手の中に顔を埋める。)おお、なんていう。
 エロイーズ (優しく。)ラウール。
 ラウール 出て行ってくれないか。
 エロイーズ (立って、彼に近づき。)ラウール。
 ラウール 何だ。
 エロイーズ 本当に、全然嬉しくないの、私に会って。
 ラウール (顔を埋めた儘。)分からない。どうしていいか。
 エロイーズ 私を見て。
 ラウール いやだ。
 エロイーズ ねえ。(彼の顔を持ち上げる。)私そんなに変わったかしら。
 ラウール お前は俺から逃げて行った。一番必要だった時に。お前を許す事はできない。
 エロイーズ あの手紙を書いた時に、許しはもう出たのよ。
 ラウール あの手紙は一時の気の迷いだ。
 エロイーズ 愛して下さっているから書いたんだわ。
 ラウール 何故逃げたのだ。それを知っていて。
 エロイーズ 教えて上げるわ……いつか。
 ラウール 俺に厭きたのだ。
 エロイーズ いいえ。
 ラウール 今は俺の方が厭きている。この何年かお前に、いや、お前の思い出に、厭きているのだ。
 エロイーズ (微笑む。)あら、嬉しいわ。思い出して下さっていたのね。
 ラウール 帰り方が遅すぎた。
 エロイーズ 何故?
 ラウール 俺はもう以前の俺とは違うのだ。
 エロイーズ そうかしら。
 ラウール そうだ。この俺が言っているんだ。
 エロイーズ そうね。そういう事にして置きましょう。
 ラウール 俺は完全に満足している。俺の人生は平和で幸福だ。乱されたくないのだ。
 エロイーズ あら、乱したいなんて。しようと思ってもできないわ。
 ラウール お前なら聖者でも乱せるさ。
 エロイーズ それは聖者に会ってみないと……
 ラウール 冷静に聴いてくれ。
 エロイーズ ええ。何?
 ラウール 過去は死んだのだ。
 エロイーズ 過去の事を話してはいないの。未来の事なのよ。
 ラウール お前自身の未来か?
 エロイーズ ええ。そう。
 ラウール 俺に何の関係があるのだ。それに。
 エロイーズ 私も大事にされてみたいっていう年に達したの。
 ラウール 俺がお前を。大事に?
 エロイーズ (優しく。)喜んでそうして下さる。そう思って……
 ラウール それは違う。
 エロイーズ そんなに強く否定なさらなくてもいいの。
 ラウール 違った風にするだろう。たとえ愛していたとしても。
 エロイーズ でも愛していない?
 ラウール うん。
 エロイーズ 嘘じゃないのね。
 ラウール 嘘じゃない。
 エロイーズ (ハンカチを捜して。)なんて悲しいんでしょう、人生って。
 ラウール 泣くな。
 エロイーズ (泣く。)泣いているんじゃないの。あなたに又お会い出来て急に……
 ラウール 俺の事なんか、愛してくれてはいないんだろう。
 エロイーズ 愛してますわ。
 ラウール エロイーズ!
 エロイーズ 狂ったみたいに。
 ラウール 何だって?
 エロイーズ 燃えるように。だから帰って来たんですもの。
 ラウール 嘘つきめが。
 エロイーズ 随分疑い深くなったのね。
 ラウール (苦々しく。)いろんな事があったからな。
 エロイーズ 何故? 奥さんがあなたの事、ほったらかしに?
 ラウール いや。しかしあれは俺を変えた。
 エロイーズ あーら、そう。
 ラウール あれは良い女だった。
 エロイーズ あ、り、が、と、う。
 ラウール なんだ。ありがとう、とは。
 エロイーズ 当てつけに聞こえるんですもの。
 ラウール そんなつもりではない。
 エロイーズ そんなつもりよ。たしかにその人はあなたを変えたわ。以前はあなたは女に優しかった。
 ラウール 俺は不道徳だった。けがれた暮らし。惨めな罪人。
 エロイーズ そして私がその相手役。
 ラウール (間の後。)お前がそう言うなら、そうだ。
 エロイーズ あ、り、が、と、う。
 ラウール 言い過ぎかも知れんが。
 エロイーズ 奥さんには私の事は?
 ラウール いや。誰にも話していない。
 エロイーズ アドリエンヌの事は?
 ラウール 母親は死んだと言っておいた。
 エロイーズ それで承知を?
 ラウール うん。
 エロイーズ その方を愛してらしたの?
 ラウール うん。
 エロイーズ 燃えるように?
 ラウール (挑むように。)そうだ。
 エロイーズ (絵を見て。)あら、まあ。ラウールったら……まさか。(笑う。)
 ラウール 何が可笑しいんだ。厚かましい。
 エロイーズ だって止まらないんですもの。
 ラウール 慎みはなくなったのか。
 エロイーズ (まだ絵を見ながら。更に笑って。) 燃える様にじゃなくって……義務として仕方無く……ね。とても燃えるようには……(笑う。)
 ラウール 止めろ、止めろ。なんていう奴だ、お前は。
 エロイーズ (止まらず、笑う。)止まらないの。どうしても。
 ラウール (怒って。)命令だ。止めろ。
 エロイーズ おお、ラウール、ラウール。かわいそうなラウール。
 ラウール 出て行ってくれ。俺の見えない所に。
 エロイーズ いいえ。今出て行ったら、今度こそ人でなしだわ。
 ラウール 見たくない、お前の顔など……この性悪……
 エロイーズ シーッ。そんなに叫ぶものではないわ。
 ラウール (我を忘れて。)出て行け。出て行け。出て行け!
 エロイーズ (急に進み寄って。)お馬鹿さんね。
 ラウール 何と言われても構わん。
 エロイーズ あなたが愛しているのは私。今も、昔も。
 ラウール 違う。本当だ。違う。
 エロイーズ 気をつけて。
 ラウール 何を気をつけるんだ。
 エロイーズ (ついに怒って。)本気にするかも知れないわよ。
 ラウール お前なんか本当に見たくないんだ。
 エロイーズ あなたって何時も気違いみたいに頑固だったわ。
 ラウール お前の事はもう何年も前に忘れたのだ。
 エロイーズ 嘘だわ。
 ラウール 本当だ。妻が死んで、遺産を残してくれてな。
 エロイーズ (軽蔑的に。)遺産。
 ラウール そうだ。言ったって構うものか。妻は俺に正しい生き方を教えてくれたのだ。もう言った筈だ。俺は以前の俺ではない。お前が知っている俺ではないのだ。妻は教えてくれた。信仰、平和、目的の高貴さ。
 エロイーズ その人はあなたからこころを引き抜いて仕舞ったのね。
 ラウール 真実を教えてくれたのさ。
 エロイーズ 何の真実を。
 ラウール 軽々しい行き方、浅薄な楽しみ、それを棄てる事が唯一の過去の罪ほろぼしだと言うこと。
 エロイーズ 私もついでに棄てられた訳ね。浅薄な楽しみ、にされて。
 ラウール そうだ。
 エロイーズ 私には何の高貴さも認めてくれないのね。何故かしら。私があなたに身を任せ、あなたを愛し、子供を生んだからだわ。
 ラウール 我々の結びつきは祝福されなかった、教会によって。
 エロイーズ 誰のせいかしら、それは。
(エロイーズ、真っ直ぐ窓から外へ出る。ラウール、じっと見送る。驚いて、我に返って後を追い、窓まで行き呼ぶ。)
 ラウール エロイーズ。エロイーズ。
(テラスまで行き、暫くして戻る。窓を閉め、部屋を歩き回る。ぶつぶつ自分に当たり散らす。突然決心し、引き出しの鍵をあけ、小さな箱を取り出す。どんとテーブルに置く。大きな音。ガラスが壊れる。構わずねじあけ、手紙の束を取り出す。色褪せたリボンが結んである。束を火の中に投げ入れる。)
 ラウール やっと、やっと、この勇気が出た。(箱から扇、鎖つきのロケット、香入れ、小物を取り出し、次々に火に投げ入れる。)何という奴だ。なんて厚かましい。なんて。(最後に箱から明るい色のガーターを取り出す。暫く震えながら眺める。)馬鹿げた、淫らな……忘れるのだ。(それも投げ入れ、挑むように妻の絵の前に立つ。)ほら、もうこれで何もない。これでお前は満足か。何も残ってはいないぞ。
(アドリエンヌが慌ただしく降りて来る。夜着にショール姿。)
 アドリエンヌ (驚いて。)お父様、どうなさったの。何かあったの?
 ラウール 寝床に帰りなさい。
 アドリエンヌ お父様。
 ラウール 帰れと言っているだろう。
 アドリエンヌ 震えていらっしゃるわ。
 ラウール 言った通りにしなさい。
 アドリエンヌ ほら、お酒を、ぐっと。(ワインを注いで渡す。)
 ラウール (受け取って。)言う事を聞かないのか。
 アドリエンヌ 飲んで、そして落ち着いて、お父様。何があったか教えて頂戴。
 ラウール (飲んで。)何もない。神父様は何処だ。
 アドリエンヌ おやすみよ。
 ラウール 呼んで来てくれ。
 アドリエンヌ お父様。
 ラウール 呼んできてくれ。話はあとだ。
 アドリエンヌ 聞いて頂戴、お父様。その為に降りて来たんですの。
 ラウール 今は駄目だ。
 アドリエンヌ 何かおかしいわ。何故話して下さらないの。
 ラウール (突然アドリエンヌを掴んで。)ご覧、あれを、アドリエンヌ。(絵を指差す。)
 アドリエンヌ (従順に。)ええ、お父様。
 ラウール お前の気高い母親だ。
 アドリエンヌ ええ、お父様。
 ラウール 常に記憶に留めておくんだ、お母様の事を。
 アドリエンヌ ええ、お父様。
 ラウール あれはお前を愛していた。
 アドリエンヌ いいえ、お父様。
 ラウール 何だって?
 アドリエンヌ お母様はいつも優しかった。でも愛しては下さらなかった。
 ラウール アドリエンヌ、お前は自分の言っている事が分かっているのか。
 アドリエンヌ ええ、お父様。
 ラウール 何という恩知らずの娘だ。
 アドリエンヌ 本当にお父様、どうなさったの。
 ラウール 衝撃をうけたのだ。ひどい衝撃を。
 アドリエンヌ お父様、お父様だけが頼りなの、今の私。それなのに、お父様まで私の事を気に留めて下さらないわ。
 ラウール 何の事だ、それは。
 アドリエンヌ 私今やっと決心してお話を聴いて戴きに参りましたの。
 ラウール 話?
 アドリエンヌ ミゲルとは結婚したくありません。
 ラウール 何だと。
 アドリエンヌ 愛していませんもの、夫婦としては。あの人優しくって、とても好きですわ。でも愛してはいませんの。
 ラウール 何故もっと早くに言わないのだ。
 アドリエンヌ 言いましたわ。でも聞いては下さらなかった。私お父様が怖いの。この頃。
 ラウール 今夜はどうしたのだ。皆気が狂っている。
 アドリエンヌ 愛はありませんの。ミゲルには。
 ラウール 愛とは何か、分かっているのか。
 アドリエンヌ はい、お父様。
 ラウール はい、とは何だ。どういう意味だ。
 アドリエンヌ ジャックを愛していますの。そしてあの人も私を。
 ラウール 哀れな女だ。
 アドリエンヌ (強く。)哀れな女ではありません。
 ラウール 即刻あいつは首だ。
 アドリエンヌ お父様!
 ラウール 跳ねっ返りめが。生意気な。
 アドリエンヌ (訴えるように。)首だなんて、そんな事なさらないわね。お父様もあんまりだわ。あの人の罪ではありませんわ。
 ラウール 明日出て行って貰う。
 アドリエンヌ お父様。
 ラウール もうこの事については聞きたくない。お前は結婚を誓ったのだ、今夜。私の親友の息子と。お前はあれと結婚するのだ。そればかりではない。愛するのだ。私がそれを望み、あれの父親がそれを望み、お前の亡くなった母親はそれを望み……
 アドリエンヌ お母様は違う。望んでなんかいらっしゃらない。
 ラウール (怒って。)アドリエンヌ!
 アドリエンヌ (荒々しく。)お母様は違う、違うわ。ちっとも私の事なんか、気にしては下さらなかった。そう。お父様の事だって。お母様は自分の事、神様の事、それにクレメント神父様の事しか愛していらっしゃらないの。お父様は何時だってふりばっかりしていらっしゃる。狡いわ。お母様が私を愛していた。それは本当だっていうふり。ミゲルと私は愛し合っている。それは本当だっていうふり。お父様が私を愛している、心から幸せを願っている。それは本当だっていうふり。でも、でもそれは嘘なの。嘘なのよ。本当にそうだったら、私を無理やり結婚させたりしないわ。私が行きたくもないのに。お父様は優しかったわ、素敵だったわ。よく笑って冗談を言って皆を笑わせたわ。でも今は違う。今はただ顰め面をして、お祈りをして、そしてふりをするだけだわ。私、お母様の思い出なんか決して残さないわ。嫌いだったんですもの。それにミゲルとは結婚しない。修道院に送られてもいいわ。お父様の勝手よ。そしてふりをなさったらいいわ。私の為なんだって。私、修道院で死ぬの。そしたらお父様だってお分かりになるわ!
(身を翻す。 すすり泣いて、寝椅子に倒れる。ラウール、口を開こうとする瞬間、突然ホールから大きな鐘の音。ラウール、弾かれた様に身を起こす。アドリエンヌ、上半身を上げる。)
 アドリエンヌ (涙声。)何かしら。
 ラウール (半分一人言。)まさか……
 アドリエンヌ お父様。
 ラウール 二階に上がりなさい、すぐ。
 アドリエンヌ 怖いわ。
 ラウール 明日の朝、改めて話すから。
 アドリエンヌ 誰かしら。こんな真夜中に。
 ラウール (寝椅子から引き寄せて。)二階に、二階に上がりなさい。
 アドリエンヌ でも。
 ラウール (扉を心配そうに見て。)言われた通りにしなさい。すぐに。
 アドリエンヌ お父様、許して。今言った事、全部本気じゃないの。私悲しくって、それで……
 ラウール (階段の所まで押して行って。)早く二階に。
(ユベール、両開きの扉をさっと開く。)
 ユベール (客を知らせる。)マダム・ラ・マルキーズ・ドゥ・ケストゥルネル。
(エロイーズ、登場。全く落ち着き払った態度。女中のアリス、恭しく従う。アリス、扉の所に立つ。)
 エロイーズ (お辞儀。)ヴリアック伯爵様で?
 ラウール (全く動転して。)エー、エー。
 エロイーズ (素早く。)突然のこの見知らぬ旅人の侵入をお許し下さいませ。私は大変困っておりまして。馬車の車輪が外れて仕舞ったのでございます。ご好意にお縋りし、一晩の宿をお願い致したいのでございますが。私と、そしてこのアリスに。
 ラウール マダム……そのー。
 エロイーズ どうやら、一番近い村でも此処からは数マイルはございます様子。このあたりは不慣れ、それにひどく疲れております。お慈悲をもって、どうぞ一晩の宿をお貸し下さいませ。
 ラウール (決心して。)マダム……大変残念ながら、宿をお貸しする訳には参らぬ。
 アドリエンヌ (ギョッとして。)お父様!
 ラウール 実は部屋がないのでな。
 アドリエンヌ お父様!
 ラウール 静かに、アドリエンヌ。この余儀無きお断りを快く受け取って戴きたい。
 エロイーズ ええ。勿論。伯爵様。よーく分かって差し上げられますわ。
 アドリエンヌ (きっぱりと。)マダム。
 ラウール 静かに、アドリエンヌ。
 アドリエンヌ どうかなさってらっしゃるわ、お父様は。
 エロイーズ どうぞ、お嬢様。私、村まで歩いて行きましょう。御者が何か考えついて呉れるかもしれませんし。
 アドリエンヌ 父を許して下さいな、マダム。今夜は少し具合が悪いんですの。
 エロイーズ よく分かりますわ。ぞんじておりましたら、決してお邪魔しませんでしたのに。
 ラウール 空き部屋がないのだ、マダム。
 エロイーズ お城は随分広そうですけど、外から見ますと。でも月の光でそう見えるのかしら。
 アドリエンヌ お城は広いですわ、マダム。空き部屋もございますわ。ユベール!
 ユベール はい、お嬢様。
 アドリエンヌ 侯爵夫人を客間にお通しして。私の部屋の下の。そして、女中を起こして頂戴。
 ラウール そんな事はさせん。
 アドリエンヌ (厳しく。)ユベール!
 エロイーズ (ユベールに微笑んで。)手間を取らせてすまないわね。
 ユベール (含みある顔で。)奥様の為でしたら、労は厭いません。(一礼。)
 エロイーズ 有り難う。
 ユベール こちらへ、マダム。
 エロイーズ アリス、先に行っていて頂戴、すぐ行くから。
 アリス はい、奥様。(ユベールに従い、階上へ。)
 ラウール (固く。)娘が正しかった。失礼の段、お許し下され、マダム。
 エロイーズ どう致しまして。不意を打たれると誰でもそうですわ。お嬢様、お部屋は?
 アドリエンヌ (挑むように、ラウールを見て。)どうぞこちらへ。食べ物でもあとから持たせましょう。
 エロイーズ いいえ、いいの。おなかはすいていないのよ。
(アドリエンヌと階上へ消える瞬間、ラウールの方を向き、にっこり微笑む。)
                      (幕)


     第二幕
(場 次の朝。窓から日光が射している。アドリエンヌ、テラスの外を眺めて立っている。どうやら泣いていたらしい。書斎の扉へ近づき、一瞬耳をすます。また窓の方へ帰る。ミゲルがホールから登場。)
 ミゲル アドリエンヌ!
 アドリエンヌ ああ、ミゲル!
 ミゲル 手紙を見て、すぐ馬で来たんだ。どうしたの。
 アドリエンヌ もう駄目。父はもう何もかも知っているの。
 ミゲル どうして分かったんだ。
 アドリエンヌ 話したの、私が。
 ミゲル 君が?
 アドリエンヌ ええ。ゆうべ。どうかしていたの。分かって貰えると思ったの。
 ミゲル まずかった、それはまずかったな。
 アドリエンヌ ええ。どうしたらいいかしら。
 ミゲル お父様はなんて?
 アドリエンヌ とても怒ったの。その時変な女の人が宿を借りに来たの。父が断ったので、私父に背いて客間を貸して上げたわ。父は私を許さないわ、きっと。今ジャックに免職を言い渡している所なの。二人とも書斎。もうあの人に会う事もないわ。ああ、ミゲル、私もう駄目。もう終わりだわ。(ミゲルの肩に縋ってワッと泣く。)
 ミゲル お父さんに話してみようか。
 アドリエンヌ 無駄だわ。もっと悪くなるだけ。
 ミゲル ジャックは免職だって言っていたね。
 アドリエンヌ ええ、すぐに。今日にも。
 ミゲル 父に話してみよう。
 アドリエンヌ 駄目だわ。分かっては貰えないわ。
 ミゲル 分かって呉れるさ。君のお父さんを操れるのは僕の父くらいなものだからな。
 アドリエンヌ あんな風になった時にはもう誰が何をしても無駄だわ。
 ミゲル しかしこれが最後の頼みの綱だよ。すぐ帰って来る。
 アドリエンヌ あなたのお父様だって私達の結婚を望んでいらっしゃるんでしょう。
 ミゲル うん。だけどそんな石頭じゃないさ。うまく話せると思う。
 アドリエンヌ (また泣く。)ああ、ミゲル!
 ミゲル ほら、ほら、泣かないで。
 アドリエンヌ 私もう駄目。
 ミゲル 僕は君とは結婚しないよ。約束する。何が起こっても。
 アドリエンヌ 嬉しいわ。
 ミゲル 本気で言ってるんだ。君のこと、結婚よりも好きなんだ。
 アドリエンヌ 私も。
 ミゲル だからもう泣かないで。
 アドリエンヌ ええ。もう泣かないわ。
 ミゲル (キスして。)勇気だ。元気を出して。
 アドリエンヌ 優しいのね、ミゲル。
 ミゲル 僕に任せておいてくれ。きっとうまくいくよ。
(急いで去る。アドリエンヌ、手を振る為テラスに出る。ジャック、全く気落ちして書斎から出て来る。アドリエンヌ、部屋に戻り、ジャックに会う。)
 アドリエンヌ ジャック!
 ジャック 私はお暇致します。
 アドリエンヌ 今日?
 ジャック はい。
 アドリエンヌ(身を投げ、腕を絡ませて。)いけないわ、そんな事。
 ジャック(優しく振りほどきながら。)私は行かなければなりません。お父様の仰る通りです。
 アドリエンヌ 父がなんて?
 ジャック 私は何処の馬の骨とも知れない男です。
 アドリエンヌ まあ、なんて事を。
 ジャック 私は思い上がっていました。お嬢様を見つめるだけでも厚かましい事です。
 アドリエンヌ そんな風に言わないで。
 ジャック それが本当なのです。お嬢様に差し上げられるものは、私には何一つありません。金も地位も……
 アドリエンヌ それが何? 愛があるわ。
 ジャック 愛もありません。もうお嬢様を愛さない決心なのです。
 アドリエンヌ そんな事言わないで。お願い。
 ジャック お嬢様にお会いするのもこれが最後です。
 アドリエンヌ 私死ぬまであなたを愛しているわ。
 ジャック いいえ。私が出て行けば、お忘れになります。ミゲル様と御結婚なさいます。そしてそれからは、お幸せに、一生……
 アドリエンヌ いいえ、いいえ。
 ジャック お父様の御陰で目が覚めました。私は馬鹿だったのです。
 アドリエンヌ なんて気弱なんでしょう。
 ジャック 問題はお嬢様の幸せなのです。
 アドリエンヌ 私の幸せ!
 ジャック そうです。将来の。今が問題ではないのです。将来の幸せが問題なのです。
 アドリエンヌ 嘘だわ。
 ジャック そんな風に仰ると、どうしてよいか分からなくなります、お嬢様。
 アドリエンヌ ジャック! (キスする。)
 ジャック (潰れる程抱き締めて。)お嬢様。ああ……
(アリス、盆を持って降りて来る。盆には果物とココア。これを、小テーブルの上に置く。アドリエンヌとジャック、離れる。)
 アリス お早うございます、お嬢様。
 アドリエンヌ (押し潰された声。)お早うございます。
 アリス 侯爵夫人が階下でお食事を取りたいと申されて。
 アドリエンヌ よくお眠りになられたかしら。
 アリス はい、それはもう良く。(一礼。階上へ帰る。)
 ジャック お客様が、じゃ、すぐにでも降りていらっしゃる……
 アドリエンヌ ええ、そうらしいわ。
 ジャック ではこれでお暇を。
 アドリエンヌ いやだわ、いや。
 ジャック どうしてもお暇しなければ。
 アドリエンヌ まだ。もう少し待って。
 ジャック お父上のあのお話の後では、とても待てません。
 アドリエンヌ お願い。もう少し待って。
 ジャック 待ってどうなるというのです。
 アドリエンヌ 計画があるの。ミゲルも助けてくれるわ。
 ジャック ミゲル様が出来る事などございません。
 アドリエンヌ いいえ。あるわ。あの方のお父様に話してくださるの。そうだわ、しかたがないのなら、二階へ上がって。荷物を纏めていて。でも、でも、決して行かないで。
 ジャック お嬢様、お嬢様にはお分かりにならないのです。私の自尊心が許さ……
 アドリエンヌ 誰か来るわ。テラスにいて。早く。
(ジャックを引っ張ってテラスへ。エロイーズ、優雅に降りて来る。アリス、クッションと足おきのスツールを持って従う。)
 エロイーズ (椅子を選んで。)これがいいわ……ね。
 アリス はい、奥様。
 エロイーズ 他のより座り心地が良さそうだわ。
 アリス 少しは、奥様。
 エロイーズ (座って。)この家、少し旧式のようだわ。
 アリス はい、奥様。(クッションと足おきスツールを整える。)
 エロイーズ 有り難う。新式のものなんて何もないのね。
 アリス (朝食のテーブルを運んで。)どうぞ。
 エロイーズ お前がいるから本当に助かるよ、アリス。此処でお前、幸せになれるといいがね。
 アリス 長い滞在の御予定ですの、奥様。
 エロイーズ 死ぬまでよ。ベルを鳴らして。執事に話があるの。
 アリス (ベルを鳴らして。)他に何か? 奥様。
 エロイーズ ないわ。そう。もう少し荷物を出しておいて頂戴。
 アリス はい、奥様。
(お辞儀。階上へ行く。エロイーズ、ココアを入れ、暖炉の向こうの伯爵夫人の絵に黙って乾杯する。ユベールホールから登場。)
 ユベール お呼びで、奥様。
 エロイーズ そうよ、ユベール。訊いておきたい事があるの。お前長い事手紙をくれなかったね。
 ユベール 住所を存じませんで……
 エロイーズ サンクルーの住所を知らせた筈よ。
 ユベール 何処かに置き忘れて仕舞いまして。
 エロイーズ あらあら。でも仕方がないわ。ラウール様は随分お変わりになったわね。
 ユベール はい、奥様。
 エロイーズ お幸せ?
 ユベール いいえ、奥様。
 エロイーズ ちょっと陽に当てなくては。丁度好い時に帰って来られたわ。
 ユベール 奥様がいらっしゃらないお城は、さびしゅうございました。
 エロイーズ ありがとう、ユベール。そしてお嬢様のアドリエンヌは・・・お幸せ?
 ユベール ええ、その……いいえ。
 エロイーズ それどういう意味?
 ユベール まだお若くていらっしゃいますので、すっかりお幸せという訳には……
 エロイーズ そうね……恋でも?
 ユベール はい、奥様。
 エロイーズ 私がこんな事を言うのはおかしいかしら。でも時の経つのは早いものね。
 ユベール さようでございます、奥様。
 エロイーズ 本当に奇妙な気がするわ。
 ユベール 良い方に奇妙だとようございますが……
 エロイーズ そう。良い方に。有り難う。
(クレメント神父、降りて来る。エロイーズ、傍目にも分かるほど跳び上がる。)あら、あら。
 クレメント (厳格に礼をして。)侯爵夫人。ここにおられると伯爵から伺いましてな。
 エロイーズ それは御親切に。もういいわ、ユベール。(今の所。)
 ユベール (一礼。)では失礼します、奥様。(退場。)
 エロイーズ ココアは如何?
 クレメント いや、結構。
 エロイーズ 美味しいココアなんですけど、これ。ここにはずっといらっしゃるの、それとも偶々昨日から?
 クレメント (固く。)拙僧は伯爵の告解僧じゃ。
 エロイーズ 懺悔する事なんか、あの人にはないんじゃないかしら。随分お暇な事でしょうね。
 クレメント 昨夜は熟睡なされたかの。
 エロイーズ それはよく。ゆうべ遅く着きましたのでお邪魔でしたわね。
 クレメント いや、それはござらぬ。
 エロイーズ 果物は如何?
 クレメント いや、結構。
 エロイーズ お座りになりません?
 クレメント いや、結構。
 エロイーズ (辛抱強く。)結構でないものは何かしら。
 クレメント 奥様は伯爵を以前から御存知で?
 エロイーズ 尋問ですわね。
 クレメント これは失礼つかまつった。
 エロイーズ いいえ。(黙って林檎をむく。)
 クレメント 馬車の故障はその後如何ですかな。
 エロイーズ 何も聞いておりませんの。忘れていましたわ。
 クレメント 今頃はもう直っている事でござろう。
 エロイーズ さあ、どうでしょう。
 クレメント 御者は何と?
 エロイーズ あれは信用出来なくて。
 クレメント このあたりを旅された事はおありでござろう。
 エロイーズ ええ、何度も。旅行が好きで。
 クレメント 馬丁を使いに出しますかな、問い合わせの為。
 エロイーズ 何の?
 クレメント 馬車のでござる。
 エロイーズ ああ、馬車。
(沈黙。またココアを注ぐ。)
 クレメント 伯爵の頼みでな。出て行かれるに当たって、手落ちのないようにとの。
 エロイーズ まあ、なんて御親切な事。
 クレメント お目にかかって、お別れの言葉を述べられぬのが残念との事でござるが。
 エロイーズ まあ、御病気?
 クレメント 左様。
 エロイーズ それはそれは。私がいなくなる頃には回復なさるでしょう。
 クレメント それも保証は出来かねます。
 エロイーズ おかわいそうに。病気って……何ですの?
 クレメント ひどい頭痛じゃ。
 エロイーズ それでは静かにしなければ。旅立ちの荷作りなどいけませんわね。
 クレメント (怒って。)御随意に。
(一礼。書斎に入る。エロイーズ、「いーだ」の表情を送る。 アドリエンヌ、ジャック、テラスから登場。)
 エロイーズ (陽気に。)素敵な朝ですわね。
 アドリエンヌ ええ。
 エロイーズ 小鳥の声で目が覚めましたのよ。
 アドリエンヌ 疲れていらしたのに。
 エロイーズ いいえ、小鳥は好きなの。(ジャック、行こうとする。)紹介して下さらない?
 アドリエンヌ (こちら、)リジャールさん。(こちら、) ケストゥルネル侯爵夫人。
 エロイーズ (手を差し出して。)始めまして。
 ジャック (手にキスする。)始めまして。
 アドリエンヌ リジャールさんは父の秘書ですの。
 エロイーズ (微笑。)おかわいそうに。
 アドリエンヌ 父の事を悪く思わないで。昨夜の父は父ではありませんわ。
 エロイーズ あなたは本当に親切にして下さったわ。だからあれはみんな帳消し。
 アドリエンヌ 嬉しいですわ、そう言って下さるの。
 ジャック (一礼。)失礼します、奥様。仕事がありますので。
 エロイーズ どうぞ。
 アドリエンヌ (急に。)ジャック!
 ジャック (振り返り。)はい。
 アドリエンヌ いいえ。いいの。
(目を伏せる。エロイーズ、二人を見る。ジャック、最後の一目、と、アドリエンヌを見る。一礼。階上へ。)
 エロイーズ 此処へ来て。一緒に座って。
 アドリエンヌ 奥様、私……(去ろうとする。)
 エロイーズ お座りなさい。(訴えるように微笑。)
 アドリエンヌ はい。
 エロイーズ あなただけなの。他の人だと私、不作法な侵入者って感じてしまうわ。あなたの事を知りたいわ。
 アドリエンヌ (微笑。)何をでしょう。
 エロイーズ つまらない、細かい事。例えば、おいくつ?
 アドリエンヌ 十八歳です。
 エロイーズ 私の事、気に入って?
 アドリエンヌ (驚き。)奥様を? え。ええ。勿論。
 エロイーズ 嬉しいわ。気にいって頂きたいの。(絵を見る。)お母様?
 アドリエンヌ ええ。
 エロイーズ 亡くなられたの?
 アドリエンヌ ええ。二年前に。
 エロイーズ あなた、似ていないわ。
 アドリエンヌ ええ。時々、拾われて来た子ではないかと思うんですの。
 エロイーズ (驚く。)まあ。
 アドリエンヌ どうしてこんな事を言ったのかしら。
 エロイーズ 思い出す事、おあり?
 アドリエンヌ (躊躇う。)ええ、亡くなった人の事は思い出すものですわ。
 エロイーズ 私の事、不作法ってお思いでしょうね。
 アドリエンヌ 不作法? いいえ、ちっとも。
 エロイーズ あなたの事を知りたいの。
 アドリエンヌ 私の事? 嬉しいわ。
 エロイーズ あなた、不幸せなのね。
 アドリエンヌ 不幸せ? 何故?
 エロイーズ 勘。何となく。
 アドリエンヌ 不思議だわ。
 エロイーズ 何が。
 アドリエンヌ 気にかけて下さるのが嬉しいの。
 エロイーズ 淋しいでしょう。お父様とあのお坊さんだけの生活。
 アドリエンヌ ええ。時々。
 エロイーズ でもあの素敵な秘書がいたわね。
 アドリエンヌ ええ、ジャック・リジャール。
 エロイーズ 愛してるのね、その人の事を。
 アドリエンヌ (立つ。)奥様!
 エロイーズ 御免なさい。
 アドリエンヌ (自分を抑えようとして。)でも、私……私……
 エロイーズ (手を握って。)気を落としては駄目よ。
 アドリエンヌ (勇ましく。)気を落としてなんかいないわ。私……私……(顔をそむける。)
 エロイーズ あらあら、ごめんなさい。人の秘密に踏み込んだりして。
 アドリエンヌ いいんです。私、子供みたい。朝からこうなんです。
 エロイーズ 恋をすると誰でも。
 アドリエンヌ 私、婚約しているんです。
 エロイーズ (驚く。)婚約?
 アドリエンヌ ええ。
 エロイーズ 誰と?
 アドリエンヌ ミゲル・ディ・サンタグワノ。ミゲルの父と私の父が友達なんです。それで、私はジャックが好き……(少し泣く。)泣いてばかり。なんてお馬鹿さんなんでしょう。涙なんか何の役にもたたないのに。自分が恥ずかしいわ。御免なさい。
 エロイーズ 涙が出ると落ち着くものよ。時には。
 アドリエンヌ 人前で涙なんて。
 エロイーズ 私はヒトではないわ。あなたの味方よ。
 アドリエンヌ 味方? 本当に?
 エロイーズ 分からなかったの?
 アドリエンヌ いいえ、分かっていた。最初から。もしそう感じていなかったら、父にも反抗なんかしなかったわ、きっと。
 エロイーズ (素早く。)その感じって、口で言える?
 アドリエンヌ 分からない……でも何か親しい感じ。胸がキュッと締まるような。この人が追い出されたら私……私、どうしようって、そんな気持ち。
 エロイーズ まあ! (アドリエンヌを引き寄せキスする。)
 アドリエンヌ まだ、まだいて頂戴。お願い。
 エロイーズ この、ミゲルの事は嫌いなの?
 アドリエンヌ いいえ、良い人なの。私とは結婚しないって約束してくれたわ……でも……でも父は今日ジャックを追い出して……
 エロイーズ シッ。もう泣かないで。
(ラウール、書斎から出てくる。クレメント従う。エロイーズに固い表情で会釈。ホールへ退場。アドリエンヌ立つ。)
 ラウール アドリエンヌ!
 エロイーズ (明るく。)お早うございます。
 ラウール (無視して。)アドリエンヌ。書斎に来なさい。話がある。
 エロイーズ いまは無理の御様子ですわ。お嬢様はお疲れ。横におなりになった方が……
 ラウール アドリエンヌ……
 エロイーズ (動ぜず。)私の方にお話が有るのですけれど、伯爵様。行きなさい、アドリエンヌ。
 ラウール (冷たく。)奥様、ご自分のなさっている事がお分かりになっていらっしゃらないようですな。親に反抗する事を教える事ですぞ、これは。
 エロイーズ 心得ておりますわ。反抗の御陰で私は路頭に迷わずに済みましたもの。反抗は大いに奨励しなければ。
 ラウール (皮肉を籠めて。)それは良い御判断ですな。
 エロイーズ 分かって下さって、有り難いですわ。さあ、 アドリエンヌ、後で話しましょう。
 アドリエンヌ ええ、はい。では。(お辞儀。階上へ去る。)
 ラウール (間の後。)さーてと。
 エロイーズ お早うございます。
 ラウール お早う。
 エロイーズ 喜んで下さるわね。私、ぐっすりと眠れましたわ。
 ラウール ほう。
 エロイーズ 日の光で見ると貴方やはり年をとったわ。
 ラウール 堪忍袋の緒は切らないつもりでいるが……
 エロイーズ あら、それでも堪忍袋だけはあったのね。
 ラウール 出て行ってくれないか、此処から。
 エロイーズ いいえ。
 ラウール 命令しなければならんが。
 エロイーズ どうぞ。
 ラウール 命令だ。出て行ってくれ。
 エロイーズ (陽気に。)あら、駄目だったわ。他の手を考えなければ。
 ラウール (より優しい調子で。)エロイーズ。
 エロイーズ あ……は。
 ラウール 頼む。
 エロイーズ よくなったわ。
 ラウール 頭を下げる。お願いだ。
 エロイーズ 少しやり過ぎね。
 ラウール どうか出て行ってくれ。
 エロイーズ 何故かしら。
 ラウール お前が俺の人生からいなくなって、十五年になる……
 エロイーズ (優しく。)十六年。
 ラウール 十五年だ。
 エロイーズ 私が貴方の人生からいなくなったのは、九月。一七一九年の。よく覚えているわ。だから九月に帰って来たの。丁度数え易いんですもの。
 ラウール 何故もっと前に帰って来なかったんだ。
 エロイーズ 貴方は結婚していらした。そして私も。
 ラウール 何だって!
 エロイーズ 驚かれるのは嬉しくないわね。
 ラウール 誰と。
 エロイーズ ケストゥルネル侯爵。良い人だったわ。サンクルーに住んでいたの。川が見える素敵な家だった。貴方川はお好き?
 ラウール どんな風に。
 エロイーズ ただ、お好き?
 ラウール いや、それほどは。
 エロイーズ 残念だわ。
 ラウール 侯爵は何処にいるんだ、今。
 エロイーズ 貴方の奥様と一緒。きっと。
 ラウール そんな風に言わないでくれ。
 エロイーズ 意地悪で言ったんじゃないわよ。
 ラウール 愛していたのか。
 エロイーズ さあ。
 ラウール こんなに長い事ほったらかしにしておいて、急に現れるなんて、そんな法があるものか。
 エロイーズ あら、どうして?
 ラウール (口ごもる。)なにしろ、これは……ひどい。
 エロイーズ 此処に来る資格は十分あるわ。子供に会う為、それだけでも十分でしょう。とにかく居たいだけ居させて頂くわ。
 ラウール なるほど。ではアドリエンヌをどこかへ連れて行こう。
 エロイーズ ではそこに行くわ。
 ラウール 神父を呼ぼう。神父に話して貰う。
 エロイーズ 今朝一度試してご覧になったでしょう。あれは失敗。
 ラウール 狙いは何だ。こんな事をする。
 エロイーズ それはこちらの事。
 ラウール ゆうべは俺の事を愛していると言ったな。
 エロイーズ 燃えるように。(再び座る。)
 ラウール 嘘だ。
 エロイーズ 御謙遜ね。
 ラウール お前の事をまだ俺が愛しているとでも思っているのか。
 エロイーズ 狂わんばかりに。
 ラウール 何を。話にならん。
 エロイーズ 人生ってうまくいかないものだわ。
 ラウール 何が望みなのだ。何が欲しいのだ。
 エロイーズ ゆうべお話したわ。大事にして欲しいの。
 ラウール 大事にしてほしい、聞いて呆れる。一体真面目に言っているのか。
 エロイーズ ええ、そうよ。
 ラウール ふん、気違いだ。そう、全くの気違いだ。
 エロイーズ そんな強がりはお止めなさい、ラウール。降参しても良い時期よ、もう。
 ラウール ぶっ壊してもいいと言うのか、この家を、俺の幸せを、俺の心の平安を。
 エロイーズ 幸せも、心の平安も余りなさそうだわ。それにこの家、とても住み心地悪そう。
 ラウール ほって置いてくれ。
 エロイーズ ほっておくのは親切じゃないわね。
 ラウール (抑えを失って。)ほっといてくれ、ほっといてくれ。うんざりだ。
 エロイーズ この家が住み心地悪かったことなど、昔は一度もなかったわ。貴方は結婚してからは、物事に注意を払わなくなったのね。客間の天井には大きな雨漏りのしみがあったわ。
 ラウール そんな事までこの俺が聞かされるのか。
 エロイーズ この椅子も壊れそうだし。
 ラウール 厚かましい。勝手に侵入してきておいて。
 エロイーズ 落ち着いて批判は受けるものよ。本当に善意から言っているんですからね。
 ラウール 大きな御世話だ。
 エロイーズ シー。もっと小さな声で。
 ラウール (部屋を歩き回って。)全く酷い話だ。実際こんな事が……
 エロイーズ まだ庭は調べてありませんけれど、きっと雑草が生い茂っているんでしょう。
 ラウール (侮辱するように。)目的は何だ。何が欲しいのだ。金か。
(エロイーズ、キッと見る。それから優しく微笑。)
 エロイーズ そうね。欲しいわ。お金は何時でも役に立ちますもの。
 ラウール 神様、哀れなこの女に御加護を。
 エロイーズ 何の為に。
 ラウール お前の不道徳の故にだ。
 エロイーズ 不道徳ではないわ。
 ラウール お前は俺を苦しめる為に来たのだ。
 エロイーズ そんなに頑固にしていらっしゃるから苦しいのよ。本当は私に会えて嬉しいの。
 ラウール 嬉しくはない。
 エロイーズ 貴方は昔から一旦言いだしたら後には引かなかったわ。でもこの年になったら、引き際を知る事も大切よ。私に勝とうとしても無駄よ。貴方の事を隅々まで知っているんですからね。
 ラウール 俺の方が勝つんだ。お前は浅薄で不真面目で罪深い女なのだ。二度と俺の人生に足を踏み入れさせはせんぞ。
 エロイーズ もう踏み入れたわ。
 ラウール すぐ出るんだ。いや、出してやる。俺には後楯があるのだ、今では。教会という。
 エロイーズ クレメント神父の事? 冗談は止めて、ラウール。
 ラウール 神父は俺と邪な世界との間に立ちはだかってくれているのだ。
 エロイーズ 神父は利得に聡いのよ。貴方と邪な世界との間に立ってはくれるでしょう、良い食物と宿のある限りはね。
 ラウール 他人の厭らしさが見えるのは自分が厭らしいからだ。
 エロイーズ それは考えてみたことが無かったわ。そうかしらね。
 ラウール その年になったら、もう知っても良い頃だ。
 エロイーズ 私ってそんなに厭らしいかしら。
 ラウール そうだ。
 エロイーズ 貴方、昔はそう思っていらっしゃらなかったわ。
 ラウール 悔い改めれば、取り返しはつくさ。
 エロイーズ 今は、私の生活、道徳のお手本なんですけど。
 ラウール どうかな。
 エロイーズ 私の厭らしさが分かるのは、貴方の心が厭らしいからではないかしら。
 ラウール 賛成出来ないな、残念ながら。
 エロイーズ 何故? 結局人の心は分からないって言う事でしょう? 自分のも、他人のも。
 ラウール こんな言い抜けをやって、一体何を得ようというんだ。
 エロイーズ 隠れ家。邪な世界からの。
 ラウール(怒る。)我慢がならん。お前には。
 エロイーズ 我慢がならないのは貴方の方よ。使い古しの手袋みたいに捨てようとなさる。
 ラウール そんな事はしていない。
 エロイーズ たった一人で此処から出て行けと仰るのでしょう。子供からは引き離され、貴方の保護からは引き離され、誰も振り向いてはくれない。ひどい仕打ちだわ。(ハンカチで目を拭く。)
 ラウール そんな事で騙されんぞ。
 エロイーズ 騙すつもりはないわ、本当に。でも私から見るとこう見えるの。
 ラウール サンクルーに帰ればいい。
 エロイーズ 家は売ったわ。ね、喜んで迎えてくれるって信じていたこと、これでお分かりでしょう?
 ラウール 何故そう思ったんだ。
 エロイーズ (バッグの中を捜して。)一寸待って。
 ラウール あの手紙を返せ。
 エロイーズ (おとなしく。)ええ。(ラウールに渡す。)
 ラウール (引きちぎり、暖炉に投げ込む。)こんな手紙!
 エロイーズ (まだ捜して。)あら、ラウール、御免なさい。あれは仕立屋のお勘定だったわ。こっちよ。(別のを取り出す。)
 ラウール (怒る。)もういい。取っておけ。お前なんか地獄に落ちて仕舞え。
(ラウール、足音をたてて怒ってテラスに出る。一人になってエロイーズ、次の場を演じる。これは心を打つ場面。即ち、手紙を読み返し、ラウールを見送り、静かに泣く。ジャックが二階から降りて来る。旅装。大きなバッグを持つ。ホールにこっそり入って来る。エロイーズ、ジャックを見る。)
 エロイーズ あなた、何故そんなにこそこそしていらっしゃるの。
 ジャック 出て行く所なんです。
 エロイーズ さようならも言わないで?
 ジャック すみません、奥様、急がねばなりませんので。
 エロイーズ 一寸こちらへいらっしゃい。顔を見せて頂戴。
 ジャック (いやいやながら進み出る。)奥様、私は……
 エロイーズ 年は?
 ジャック 二十四歳です。
 エロイーズ どちらへいらっしゃるの。
 ジャック パリへ。
 エロイーズ お仕事?
 ジャック できれば。
 エロイーズ 貴方、自己犠牲というものが良い事だと思っていらっしゃるのね。
 ジャック (驚く。)奥様、私は……
 エロイーズ 答えて頂戴。どうなの。
 ジャック ええ。
 エロイーズ 間違っているわ。自己犠牲ってただの自己満足。いえ、一番性質(たち)の悪い自己満足よ。
 ジャック (固く。)お差し支えなければこの件に関して議論したくないのですが。
 エロイーズ 私に力を貸して下さいません?
 ジャック (用心深く。)力ですって?
 エロイーズ 今すぐには行かないで欲しいの。
 ジャック 残念ですが、それだけは。行かねばならないのです。
 エロイーズ それなら、まずさようならを言って、アドリエンヌに。
 ジャック (驚く。)お嬢様に。何故……私が……
 エロイーズ お分かりの筈ですわ。卑怯だわ、それに残酷よ。この儘一言もなくあの人から去って行くのは。
 ジャック 奥様、こんな事を申し上げるのは失礼なのですが……
 エロイーズ 私の知った事ではない。そう、貴方の仰る通り。でも、私、アドリエンヌの事が、他人事(ひとごと)と思えないの。あの人の不幸を黙って見ていられないの。
 ジャック 出て行けと命令されたのです。
 エロイーズ 私もそう。出て行け、ですわ。五、六回も。でもまだいるわ。貴方も心配なさらなくていいのよ。
 ジャック 私の自尊心が許さない。
 エロイーズ つまらない事。自尊心より大切なのよ、愛は。
 ジャック 愛!
 エロイーズ ええ。貴方はアドリエンヌを。あの人は貴方を。アドリエンヌがみんな話してくれたの。貴方良い人のようね。でも小説の読み過ぎだわ。絵物語も時には良いけれども、自分の心とそぐわない時には、心の方を選ぶものよ。此処でアドリエンヌとお暮らしなさい。都会に出ていろんな女に目移りして、そんな生活よりずっと良いわ。
 ジャック 僕がそんな。それは誤解です。僕は……私はあの人を不幸にさせるだけなのです。私にはあの人に受け取って貰えるものが何もない。忘れて頂いた方が良いのです。
 エロイーズ 愛を押し潰すのね。自分の勝手で。
 ジャック どういう意味でしょう、それは。
 エロイーズ 忘れておしまいになるの。あの人の事を。
 ジャック 忘れるなんて。一生、決して。
 エロイーズ それなら、あの人だって忘れないわ、貴方の事を。不幸なのは貴方だけではないわ。二人共よ。それでどんな善い事があるの。
 ジャック もう行かなければ。失礼します。
 エロイーズ よく心に訊いて。
 ジャック とても無理です。奥様の仰る事は。
 エロイーズ 少し待って下さいとお願いしているだけですけれど。少しの事で、すっかり事が違ってくるかもしれないの。お二人の力になれるわ。ちょっとだけ言う事をきいて下されば。ね、二階へ行って待っていて頂戴。
 ジャック しかし、奥様。
 エロイーズ お願い。誰か来るわ。約束して下さいな。私に知らせないでは、決して行かないって。ね、約束して。(階段の方へ押す。)
 ジャック 分かりました。お約束します。
 エロイーズ よかったわ。さあ、行って。
(ジャック、階上へ。入れ違いに、ユベール登場。)
 ユベール (客を知らせる。)サンタグアーノ公爵様。
(エステバン、勢いよく登場。ユベール退場。、エステバン、エロイーズを見てハッと立ち止まる。二人、お互いに暫く見つめ合う。)
 エロイーズ エステバン!
 エステバン ああ、君か。
(二人抱き合う。)
 エロイーズ ああ、エステバン。随分暫くだったわ。スペインにいらっしゃるかと。それとも亡くなっていらっしゃるかと。
 エステバン エロイーズか、信じられん。
 エロイーズ ね、エステバン、教えて。私の子供は?
 エステバン 元気だ。良い若者になっている。此処に、近くにいるんだ。谷を越えた向こうが僕の城でね。
 エロイーズ そして奥さん……如何?
 エステバン 死んだ。もう何年にもなる。
 エロイーズ (腕を解いて。)御免なさい。座りますわ、一寸。本当に驚いて仕舞って。
(エステバン、エロイーズを長椅子へ導く。)
 エステバン 此処で何をしているんだ、君は。
 エロイーズ 私? それがよく分からないの。
 エステバン 君とラウールが知り合いだったとはな。
 エロイーズ (やっと聞こえる声で。)馬車がゆうべ故障して仕舞って。夜遅く。ヴリアック伯爵が一晩泊めて下さったの。
 エステバン 僕が知っていりゃな。
 エロイーズ もっと話して頂戴。フランソワは?
 エステバン ミゲルなんだ。
 エロイーズ ミゲル!
 エステバン そうなんだ。妻がミゲルと呼ばせると言うんだ。他の家族の連中もな。大伯父に因んだ名前さ。賛成しなけりゃ認知しないと妻に言われては譲るしかない。一度息子と別れて暮らした事があって、そりゃ淋しかったんだ。名前なんかこの際どうだって良いっていう気になって。
 エロイーズ (強く。)ミゲル!
 エステバン うん。怒っているかい? 君のこと、随分捜したんだ。だけど駄目でね。
 エロイーズ あの私達の子供を、伯爵の娘に婚約させたのね。
 エステバン うん。幼なじみだったからな。
 エロイーズ まあ、まあ。なんていう事。(ゲラゲラとヒステリックに笑う。)
 エステバン どうかしたのか。
 エロイーズ 私に近づかないで。すぐ直るから。まあ……(笑う。)
 エステバン しかしな、エロイーズ……
 エロイーズ いいえ、驚きなの。貴方にこんな風に急に出会って。こんな風に思いがけなく。(笑い続ける。)
 エステバン もう笑うのは止んでもいい頃だがな。
 エロイーズ (やっと抑えて。)何時頃から、何時頃から伯爵とはお知り合いなの?
 エステバン 何年も前から。本当に長い付き合いさ。君を知るより前だった。スペインに派遣されて来たのが一七一一年。僕がただの少尉だった。セヴィリアで一緒、トレドで一緒。バルセロナでも一緒。その後あいつはフランスへ帰り、僕は君に出会ったっていう訳さ。
 エロイーズ 貴方、お話になって? 私の事。
 エステバン いや。誰にも。君の思い出は僕の生涯の秘密さ。
 エロイーズ まあ、エステバン。
 エステバン 随分昔の事のように思えるなあ。
 エロイーズ あの時はあれが一番よかったのね。別れたのが。
 エステバン どうかな。
 エロイーズ 貴方の家族の人達の言う通りだったわ。あの人達の目から見れば私、ただの女優ですもの。それも二流の。
 エステバン とんでもない。よかったよ。
 エロイーズ そうそう、私結婚したの。私も。
 エステバン エエッ? 何時?
 エロイーズ あれから暫くして。今はケストゥルネル侯爵夫人なの。
 エステバン 宮廷で会っていたかも知れないんだな。こりゃ驚きだ。
 エロイーズ 有り得ないわ、それは。夫はひどく出無精で、宮廷にも伺候しなかったの。サンタグアーノ公。私貴方の事、エステバン・ラルゴとしてしか見た事がないわ。それに地獄のラルゴとしてしか。
 エステバン 恐ろしいあだ名だったな。
 エロイーズ 恐ろしい人だったのよ。
 エステバン 侯爵は? 今。
 エロイーズ 亡くなったの。
 エステバン じゃ、今は一人?
 エロイーズ ええ。
 エステバン 僕もそうだ。いや、そうなる予定、と言うべきか。ミゲルが結婚すれば。
 エロイーズ 会いたいわ。
 エステバン 会って貰う。今日にでも。
 エロイーズ あの子も知らないのね。
 エステバン 知らない。
 エロイーズ 知らせない方が良いわ。私、不幸に成りたくないもの。
 エステバン 君が育てていたら話は別だが。君は去って行った。君の分まで可愛がったよ、あの子を。
 エロイーズ 嬉しいわ。
 エステバン あの子にも良いだろう。知らせない方が。
 エロイーズ 奥様は親切だったの? あの子に。
 エステバン 当たり前だ。有無を言わせる訳がない。
 エロイーズ かわいそうに。
 エステバン 何故。政略結婚さ。あいつだってよく分かっていたんだ。
 エロイーズ 私の後、好きな人は?
 エステバン 何百人か。
 エロイーズ 奥様の方も?
 エステバン そういう所だ。訊いた事はないが。
 エロイーズ 快適な生活ね。
 エステバン 何時此処を出るんだ。
 エロイーズ 分からないの。
 エステバン ラウールは気に入った?
 エロイーズ ヴリアック伯爵? ええ、とても。
 エステバン こんな風な君を見るなんて不思議だな。それに、彼の家で。
 エロイーズ そうね。
 エステバン アドリエンヌには会った?
 エロイーズ ええ。可愛い子ね。
 エステバン うん。
 エロイーズ それはよかった。
 エステバン それが一寸困った事態になってね。
 エロイーズ そう。少し。
 エステバン 君、何処へ行くつもり?
 エロイーズ 何処って?
 エステバン 此処を出た後。
 エロイーズ 良く分からないの。
 エステバン 僕の言っているのはね。馬車が故障する前は、何処へ行く所だったの、という事なんだけど。
 エロイーズ ああ、その事。パリへ、じゃないかしら。
 エステバン じゃないかしら?
 エロイーズ 深く訊かないの。
 エステバン 失礼。
 エロイーズ 私達が以前知り合っていた事、ヴリアック伯爵には話さない方が良いわ。こんがらがって来ると困るわ。
 エステバン 何がこんがらがるんだい?
 エロイーズ さあ。運命って分からないものでしょう?
 エステバン そうだな。じゃ、そうしよう。
 エロイーズ 貴方のお城は此処から遠いの?
 エステバン 七マイル。
 エロイーズ 伺うわ。何時か。
 エステバン そりゃ、嬉しいな。
 エロイーズ お客に行くって楽しいわ。
 エステバン エロイーズ。
 エロイーズ 何?
 エステバン 僕に会って嬉しいかい?
 エロイーズ ええ、そりゃ。
 エステバン どのくらい?
 エロイーズ とても。
 エステバン 僕の事なんか、忘れていたんだろう。
 エロイーズ 忘れてなんかいないわ。その証拠に手紙だってあるわ。
 エステバン じゃ、あれを受け取ってはいたのか。
 エロイーズ (バッグを探って。)ええ、この中にあるのよ。
 エステバン 何故返事をくれなかったんだ。
 エロイーズ その儘にしておく方が良いと思ったの。(見つける。)あった。(読む。)「愛するエロイーズ。ムニャ、ムニャ、ムニャ。僕の心は癒える時があるだろうか。」綺麗な言葉ね、エステバン。「ムニャ、ムニャ、ムニャ。 本当に困った事が起きたら……一人で淋しくなったら……」あら。(手紙を畳む。)ね? いつも持っているの。
 エステバン 本気なんだ。一言一句。
 エロイーズ エステバン、貴方って昔の通り、騎士道だわ。
 エステバン エロイーズ、君、今、後楯は必要としていない?
 エロイーズ いいえ、大丈夫。
 エステバン 何時でも力になるよ。
 エロイーズ 有り難う。でもいいの。重荷だし。
 エステバン そんな事はない。
 エロイーズ 私に対する愛なんてとっくに醒めていらっしゃるし。
 エステバン 何故そんな風に?
 エロイーズ 無理しなくっていいの。本当でしょう? ね。
 エステバン 大好きだよ。何時までも。
 エロイーズ 私、愛って言ったわ。
 エステバン (苦しい。)だって随分時間が経ったし。
 エロイーズ 心配しなくていいの。私だって貴方に愛はないわ。
 エステバン なあんだ。やれやれだな。
 エロイーズ こっちの方が扱い易いわ、愛より。
 エステバン(微笑。)そう。君、相変わらず綺麗だ。
 エロイーズ そう?
 エステバン 本当に素敵だ。
 エロイーズ 貴方もよ。
 エステバン いや。白髪は生えるし、年は取るし、おまけに腹がね。
 エロイーズ 全然。若い時と同じよ。ちっとも変わらない。
 エステバン 実は内心では自慢しているんだ。かなり外形だけは保って来たって。
 エロイーズ 辛い時もあるわね、保つって。
 エステバン うん。時々。
 エロイーズ 私も苦労したわ。
 エステバン まさか。想像出来ないな。
 エロイーズ 私って、娘の頃綺麗だった、きっと。
 エステバン そう。すらっとしていて、辺りを払うようだった。
 エロイーズ (悲しそうに自分を眺めて。)あの頃は太りたかったの。
 エステバン いや、今だってすらっとしているよ。
 エロイーズ まあ、いいわ。
 エステバン 好きだったなあ。あの頃。
 エロイーズ 私も。初恋だったわ。コーティザン(訳註 貴族相手の娼婦。この頃、サロンを開いたりした有名なコーティザンあり。)になったら、成功していたわ、今頃。
 エステバン どうしてならなかったの?
 エロイーズ 感情が走り過ぎるの。頭でより、情で動いてしまうの。
 エステバン 後悔している?
 エロイーズ いいえ。良い人生だったわ。いろんな所を旅行したわ。ロシア、ノルウエイ、イギリス。
 エステバン 結婚する前?
 エロイーズ ええ、ずっと前。ロンドンでは歌手もやったわ。
 エステバン 評判は?
 エロイーズ それほどでもなかった。私がもっと行儀が悪ければって。フランス人ですものね。疲れるわ、皆を失望させないで繋いでおくのは。
 エステバン イギリス人て、ちゃんとした国民だと思っていたがな。
 エロイーズ お芝居は駄目ね。とっても品がないの、あのエリザベス朝のお芝居っていったら!
(ラウール、テラスから登場。感情を抑え、厳格な礼儀正しさ。)
 ラウール ああ、エステバン! お早う。
 エステバン お早う、ラウール。さっき馬で来たんだ。雑談でもしようと思ってな。すると光栄にも侯爵夫人にお会いして……
 ラウール マダム。馬車の故障について問い合わせたところ、すっかり修理が完了したとの事。
 エロイーズ それは御親切様。
 ラウール 小生について申し上げると、パリへ発つ予定でござる。一時間以内に。
 エステバン パリへ?
 ラウール さよう。仕立屋へ。アドリエンヌを連れて参る。
 エステバン これは急な事だな。
 ラウール 左様な次第で、マダム、何時までこの城を使用されても差し支えござらぬ。
 エロイーズ クレメント神父を御一緒にお連れ遊ばして?
 ラウール いや。
 エロイーズ それなら長い逗留になりそうですわ。あの神父様、それは面白い方ですもの。
 エステバン (エロイーズをちらと見て。)冗談の精神に富んでおられる。
 ラウール 神父を此処で話題にする事はならぬ。
 エステバン ラウール、君は今朝どうかしているんじゃないか。
 エロイーズ 伯爵はひどい頭痛と伺いましたわ。頭痛で死にそうなんですって。
 エステバン マダム、あなたの面前で、頭痛をうったえる男がこの世におりましたか。騎士道地に落ちたりですな。
 ラウール (怒る。)言ったな、エステバン。皮肉のつもりか。
 エロイーズ いいえ、楽しいお世辞ですわ。私への。
 ラウール 分かった、エステバン。もう二つ三つどうだ。
 エステバン フーン、今日は奇妙だな。
 ラウール 何が。
 エステバン 君の態度が一寸その……
 ラウール 態度? 態度は同じだ、何時もと。
 エロイーズ (明るく。)それならお変えにならなくては、伯爵。
 エステバン (二人をと見こう見して。)わからんな。
 エロイーズ 私がいけなかったのですわ。今朝ひどく礼儀知らずを致しまして。伯爵の折角のお持てなしを踏みにじって仕舞いました。不平を申し上げたのでございます。このお城の管理がひどく悪いと。とてもはっきりと申し上げまして。これが私の何時もの悪い癖なのでございます。 心からお許しをお願い致しますわ。
 ラウール (冷たく。)つまらぬ事だ。
 エステバン 馬鹿げているぞ、ラウール。そんなくだらない事で腹を立てるなんて。恥と思わねば。
 エロイーズ ゆうべ私のベッドに鼠が五匹も。
 ラウール いる訳がござらぬ。
 エロイーズ どうぞそうはっきり仰らないで。私が嘘を言っているように聞こえますわ。
 エステバン 私の城は修理がなっておりませんでして、マダム。もし近日お越し頂き、御忠告など伺えれば、幸甚この上ないのですが。
 エロイーズ 喜んでまいりますわ。
 エステバン 今夜はお一人でこちらへ?
 エロイーズ そのようですわ。勿論教会の番人様以外は。
 エステバン では私と夕食は如何でしょう?
 エロイーズ 御親切に。
 エステバン お受け下されば、お礼は私の方こそ。淋しい男でして、私は。
 エロイーズ 喜んでご招待お受けしますわ。
 エステバン これは有り難い。では八時に馬車でお迎えに参ります。
 エロイーズ では八時に。
 エステバン これで失礼する、ラウール。辺りに漂う緊張を感じない訳ではない。しかしこれも僕が退散すれば緩和するだろう。マダアム!(手の甲にキスをする。にやりと笑い、退場。)
 エロイーズ なんて素敵な人!
 ラウール 気に入ってよかった。
 エロイーズ 本当のナイトだわ。騎士道だわ。
 ラウール お互いに会うようにするんだな。
 エロイーズ 言われなくても
 ラウール お前の計画は、俺に対してよりもあいつに対しての方が、効果がある。
 エロイーズ 嫌がらせね、ラウール。
 ラウール 私はこれで失礼する。旅行の準備をせねば。
 エロイーズ 滞在の御許可に対してまだお礼を申し上げておりませんでしたわ。有り難う、ラウール。静かでしょうね、この辺り。うっとりするような景色ですわ、この季節には。
 ラウール 快適に過ごして貰えればよいが。
 エロイーズ それはどうでしょう。でもやってみますわ。
 ラウール (勝ち誇った微笑。)失礼。
 エロイーズ (調子を変えて。)お待ちになって、ラウール。お願いがございますわ。
 ラウール まだ何か。
 エロイーズ ええ。アドリエンヌとジャック・リジャールの結婚を許してやって。それも出来るだけ早く。
 ラウール 何だって!
 エロイーズ なかなか良さそうな若者ですわ。あの人にはパリでちゃんとした地位を世話しましょう。まだ私にはそれ位の力はありますわ。
 ラウール 気が狂ったか、お前は。
 エロイーズ 落ち着いて、ラウール。
 ラウール お前の厚かましさは想像力を越えている。
 エロイーズ お互いに愛し合っているのよ。
 ラウール くだらん。
 エロイーズ 真面目にお願いしているの。昔の良い思い出に縋って、お願いするわ。これだけは許して頂戴。
 ラウール この件を議論するのは断る。
 エロイーズ 賛成して下されば、もう貴方に付き纏うのはよすわ。
 ラウール そちらから止めなくても、もうこちらで手は打った。
 エロイーズ もう一生貴方の前には現れないわ、ね、ラウール。二人は好き合っているの。幸せになってもいい筈よ。
 ラウール アドリエンヌはミゲル・ドゥ・サンタグアーノと婚約している。あれの相手はミゲルで他の誰でもない。
 エロイーズ ミゲルとは結婚させません!
 ラウール どうやって邪魔出来る。
 エロイーズ 簡単。本当の母親の事を話して連れて行くわ。
 ラウール お前には出来ん。そんな事。
 エロイーズ その気になれば何でも出来るの。
 ラウール あの子の身の破滅だぞ。
 エロイーズ 話したくはないわ。でも必要とあれば。それにもし貴方か私のどちらかがあの子を破滅させねばならないとしたら、それは私がやります。長い目で見ればその方が幸せ。
 ラウール 分かった。宣戦布告だ。俺は俺のやり方を通す。
 エロイーズ ラウール!
 ラウール これ以上言う事はない。
 エロイーズ さあ、どちらが勝つかしら。
(ラウール書斎へ入る。エロイーズ一人残され、部屋を歩き回る。困っている様子。突然名案が浮かぶ。よく考える。微笑が顔に広がる。階段の所へ走る。)
 エロイーズ (呼ぶ。)アリス、アリス。
(アリス降りて来る。)
 アリス 奥様。
 エロイーズ アドリエンヌ様とリジャール様をすぐ此処へお連れして。
 アリス はい、奥様。
 エロイーズ そして私の革の旅行鞄を持って来て頂戴。
 アリス (驚く。)奥様!
 エロイーズ 私の革の旅行鞄だよ。お分かりだね。早く。
 アリス はい、奥様。(階上へ行く。)
(エロイーズ素早く書斎の扉へ行く。暫く耳を澄ませる。非常に静かに扉をロックする。アドリエンヌとジャック、降りて来る。アリス従う。アリス、長方形の革鞄を持っている。これをエロイーズにわたす。)
 エロイーズ 有り難う、アリス。クレメント神父を捜して来て。急いで。急用があるからと。私から。
 アリス はい、奥様。(お辞儀。ホールに出る。)
 アドリエンヌ どうしたんですの。何をなさろうとしていらっ……
 エロイーズ 待って。(暖炉の傍の呼び鈴を引く。)あなた方は旅に出るの。二人で。
 ジャック マダム、説明をお願いします。
 エロイーズ 約束して、約束して頂戴。私が言う様にするって。
 ジャック しかし、マダム。
 アドリエンヌ 約束するわ私、何でも。
(エロイーズ、ジャックに近づき、注意深く見る。)
 エロイーズ 一寸待って。次に進む前に。貴方の御両親、健在?
 ジャック (驚く。)ええ。
 エロイーズ きっとね。
 ジャック 勿論。います。
 エロイーズ そう。安心したわ。こんがらがって仕舞って。
(ユベール登場。)
 エロイーズ ユベール。
 ユベール はい、奥様。
 エロイーズ 旦那様の馬車は、すぐにでもパリに発てるのね。
 ユベール はい、奥様。御命令を暫く前に受けましたので。
 エロイーズ そう。今のところ、これでいいわ。
 ユベール はい、奥様。(一礼。退場。)
 エロイーズ ねえ、あなた達、今から結婚するのよ。
 ジャック 結婚!
 エロイーズ ええ。必要なら、力づくで。
 アドリエンヌ どうやって、何時、何処で。
 エロイーズ 今、此処で。
 ジャック そんな。駄目です。
 エロイーズ 馬鹿らしい遠慮はもう止めて。後の事は引き受けるわ。伯爵が貴方にお金をくれないというなら、パリで秘書の仕事を捜してあげる。私にはまだそのくらいの力はあるわ。それに、保証するわ、此処よりずっと良い条件よ。
 ジャック しかし、奥様。
 アドリエンヌ ジャック、黙って。素晴らしいじゃない。すっかり奥様の事を信じるわ。神のお使い、守神だわ。
 エロイーズ さあ、落ち着くの。何が起こっても驚かないで。どんな事があっても私の言う通りにしますね。
(クレメント神父テラスから登場。少し驚いている様子。)
 クレメント お呼びでござるか、マダム。
 エロイーズ はい、神父様。私の為にちょっとしたお勤めをして頂きたいのですが。
 クレメント お勤め? でござるか。
 エロイーズ ええ。結婚式の。
 クレメント いかなる権利があって拙僧に左様な事を依頼されるのじゃな。
 エロイーズ それは関係ありません。この二人に今すぐ結婚の儀式を行って頂きたいのです。
 クレメント (アドリエンヌに。)お嬢様、拙僧の耳がおかしくなったのでござろうか。
 エロイーズ (苛々して。)さあ、儀式は? どうなんです。
 クレメント リジャールさん。
 ジャック 二人共それを望んでいるのです、神父様。
 クレメント 伯爵様はこの件を知っておられるかの?
 エロイーズ いいえ。それにあの方にお知らせするつもりはありません。式が終わるまでは。
 クレメント (少し動く。)なるほど。
 エロイーズ 何処へいらっしゃる?
 クレメント この忌まわしい悪巧みをお知らせにな。
 エロイーズ そうはさせません。(書斎の扉の前に立つ。)
 クレメント 通らせて下され、マダム。
 エロイーズ 式は?
 クレメント 勿論、厭でござる。
 エロイーズ 勿論、なさるのよ。(革鞄から二つのピストルを取り出し、彼に狙いを付ける。)
 クレメント (後ろに跳びすさり。)気違い沙汰じゃ。気違い沙汰じゃ。
 エロイーズ さあ、始めて。
 クレメント (叫ぶ。)お助け下され! お助け下され! 伯爵殿!
 エロイーズ すぐ式をお始めにならないと撃ちますよ。両足を撃つ事にしましょう。さぞ痛い事でしょうね。勿論致命傷にはしませんけれど。
 クレメント これはいかな事。お助け下され。お助け……
 エロイーズ 三つ数える迄にお始めにならなければ撃ちますわ。さあ。
(ラウール書斎の扉を叩き始める。)
 エロイーズ 大丈夫。錠が下りているの。始めなさい。
(クレメント、震える手で聖書を掴む。催眠術にかけられた様にエロイーズを見つめる。)
 エロイーズ 一、二……
(クレメント、震え声で、ラテン語の祈祷文を読み始める。ラウールの扉を叩く音、大きくなる。ジャックとアドリエンヌ、跪く。この時幕下りる。)
                       (幕)

     第三幕
(場 夜八時。ラウールただ一人、夕食のテーブルについている。表情ぼんやり。カーテンは閉めてある。呻き声を上げてラウール立ち上がり、乱暴に紐を引く。ユベール登場。)
 ラウール ユベール。
 ユベール はい、旦那様。
 ラウール このパイはひどいな。
 ユベール どういう風にでございましょう、旦那様。
 ラウール あらゆる風にだ。皮は固いし、林檎は焼けていない。それにだ、香料が入っているぞ。
 ユベール 香料は入っているものでございまして、アップルパイには。旦那様。
 ラウール また、この肉がひどい。
 ユベール 申し訳ございません、旦那様。
 ラウール コニャックを持って来い。酔っぱらいたい。
 ユベール 畏まりました、旦那様。(退場。)
(ラウール 苛々と立ち上がる。カーテンを開け、テラスの向こうを眺める。テーブルに帰る。ユベール、コニャックの壜を持って登場。)
 ラウール 座れ。
 ユベール (従順に座る。)はい、旦那様。
 ラウール 俺と飲むんだ。
 ユベール はい、旦那様。
 ラウール さあ、注げ。(ユベール、二つのグラスに満たす。)お前と乾杯するぞ。(グラスを上げる。)みーんな、糞食らえだ!
 ユベール (グラスを上げて。)みーんな、糞食らえだ!
(二人、一気に飲み干す。)
 ラウール (壜を取って。)さあ、もう一杯。
 ユベール (心配して。)大丈夫ですか、旦那様。長い間、御酒(ごしゅ)は本気でお飲みにはなりませんでしたから。
 ラウール (注いで。)構わん。
 ユベール 左様でございますか、旦那様。
 ラウール 放蕩だ。手綱の外れた放蕩だ。(飲む。)
 ユベール はい、旦那様。
 ラウール 村には女はいるか。
 ユベール 何人かは、と存じますが……
 ラウール 何百人もの女を一度に見たくなったぞ。
 ユベール 神父様が出てお行きになりましてようございました、旦那様。
 ラウール どういう意味だ。
 ユベール お認めにはなるまいと存じまして。
 ラウール だから出て行ったのだ。
 ユベール なるほど、左様で、旦那様。
 ラウール 今度はお前が乾杯だ、ユベール。
 ユベール 私がでございますか。
 ラウール そうだ。やれ。
 ユベール (立ち上がって。)マダム・ラ・マルキーズ・ドゥ・ケストゥルネル!
 ラウール (テーブルにグラスを叩きつけて。)止めろ!
 ユベール 申し訳ございません、旦那様。
 ラウール 何故やった。
 ユベール つい口に出て来まして。お許しくださいませ。
 ラウール (苦々しく。)懐かしいのか、あんな女が。
 ユベール 侯爵夫人様は本当に夢溢れるお方で。
 ラウール 違う。鉄の様に厳しいのだ。厳しくて、容赦ないのだ。(飲む。)
 ユベール お許し下さいませ、旦那様。賛成いたしかねますので。
 ラウール だれも夢溢れている権利はないのだ。ある年からはな。(コニャックを自分に注ぐ。)
 ユベール 侯爵夫人様はお年をおとりになりませんので。
 ラウール (怒って立つ。)お前まで俺を苦しめる気か。
 ユベール 私が旦那様を苦しめるですと? 思いもかけぬ事でございます。
 ラウール (部屋を歩き回って。)皆が俺を苦しめる。皆が俺に楯突く。俺は笑い草だ。(飲む。)
 ユベール お怒りになりませんよう、旦那様。どうぞ。
 ラウール お前は勇気がある。確かにそれは言える。
 ユベール それは旦那様が若さと共にお無くしになった物でございます。勇気は。
 ラウール どういう意味だ、それは。
 ユベール 旦那様はご自分を恐れていらっしゃいます。
 ラウール なんだと。出て行け!
 ユベール (立ち上がる。)畏まりました、旦那様。(扉へ進む。)
 ラウール 一寸待て。(ユベール立ち止まる。)これまでに何故こういう事を言わなかった?
 ユベール お聞きになっては下さるまいと。
 ラウール 俺はそんな馬鹿か。
 ユベール いえ、その……私は……
 ラウール 他の誰よりもお前は俺を知っている。答えてくれ。
 ユベール コニャックをもう少々戴けますと……
 ラウール よし、やれ。
 ユベール (受け取って。)有り難うございます。
 ラウール いいか……俺は馬鹿か。
 ユベール(急いで飲み。)はい、旦那様。
 ラウール (再び座り。)薬は何だ。
 ユベール (壜を握り、前に寄り掛かり。)もう一杯、旦那様。
 ラウール 助けにはならんぞ。さっき俺に飲むなと言ったばかりだぞ。
 ユベール 少しなら心が暖まりますので、旦那様。
 ラウール なるほど、それが答か。おれは心が冷たいんだな。(飲む。)
 ユベール 左様で、旦那様。
 ラウール 頑固なんだ。それに不愉快な男、そうだろう。
 ユベール 左様で、旦那様。
 ラウール こりゃ良い。最高だ。他に?
 ユベール (勇気を出して。)お年です。
 ラウール 何だと!
 ユベール (きっぱりと。)曲がり角にいらっしゃるのです。これからは、お年を召されるか、お若くお成りになるか、二つに一つです。
(ホールに呼び鈴の音、響き渡る。)
 ラウール 誰か見て来い、ユベール。
 ユベール 畏まりました、旦那様。
(ユベール退場。一人残されて、ラウール、頭を抱えこむ。エステバン登場。)
 エステバン やあ、今晩は、ラウール。
 ラウール (見上げて。)曲がり角か。
 エステバン 何を言っている。
 ラウール お前も年か、そうだな。
 エステバン どうしたんだ。
 ラウール (気を取り直して。)いや、なんでもない。
 エステバン 何を話していたんだ。
 ラウール 悪巧みだ、エステバン、悪巧みだ。
 エステバン パリに行ったんじゃなかったのか。
 ラウール 俺はな、俺は憧れているんだ、悪の町に。
 エステバン (驚く。)ラウール!
 ラウール (興奮して。)鮮やかな、真っ赤な悪。これは人の心を暖めるぞ。な、エステバン。
 エステバン 僕がこの家に来る度毎に君は変わるな。奇妙な具合に変わるよ。
 ラウール (立ち上がり、エステバンを抱く。)エステバン。(コニャックのグラスを上げる。)セヴィリア一七一二年、万歳! (一気に飲み干す。)
 エステバン (優しく。)万歳!
 ラウール 飲むか? (壜を振る。)
 エステバン (奇妙な顔で見る。)今はいい。何が起こったか知りたいんだ。
 ラウール 何も……何もかも。
 エステバン 何も……何もかも。なるほど。
 ラウール 俺は馬鹿だ、年だ、頑固な不愉快な馬鹿だ。
 エステバン 良くできた。それにヒステリック、おまけに飲んだくれ。
 ラウール いや、未だだ、飲んだくれは。
 エステバン 皆は何処だ。
 ラウール 散った。風と共にだ。
 エステバン (優しく。)座った方が良いとは思わんか。
 ラウール 思う
 エステバン では座れ。
 ラウール (座る。)座った。これで満足か。
 エステバン いや。何故酔っている。
 ラウール 酔ってはいない。
 エステバン 酔っている。
 ラウール 俺を苛めるな。
 エステバン 何が起こったんだ。
 ラウール 窓を開けた奴がいてな、それでみーんな吹っ飛んじゃったのさ。(ゲラゲラ笑う。)
 エステバン (苛々と。)侯爵夫人は何処だ。
 ラウール (やっとの事で。)サンクルーだ。川の見える素敵な家だ。川は好きか、君は。
 エステバン 好かんな。
 ラウール 俺も好かん。川には力がない。迫力に欠ける。
 エステバン 大丈夫か、本当に。気を確かに持てよ。
 ラウール 気を確かに持っている時間が、長すぎたんだ。だから、気を確かに持つのはもうやめだ。
 エステバン (反対側に座って。) おい、聞こえるか、ラウール。落ち着いて、落ち着いて説明してくれないか。
 ラウール (親しそうに前に乗り出す。)勿論。(再び後ろに寄り掛かる。)
 エステバン じゃ、やってくれ、聞いている。
 ラウール 何歳だ、君は。
 エステバン 四十六だ。
 ラウール そりゃすごいな。どう見ても君は三十五以上には見えないよ。おめでとう。
 エステバン その話はいいよ。続きは?
 ラウール 事はな、事は非常に悲しいんだ。
 エステバン 何のことだ、何が悲しいんだ。
 ラウール 年をとる事がな。
 エステバン (怒って立ち上がる。)説明するのか、しないのか。
 ラウール (受けに回って。)苛々するな、エステバン。こっちまで心配になって来る。
 エステバン 何が起こったんだ、この家で。僕が今朝此処を出てから。
 ラウール 破局、監禁、脅迫、結婚、逃亡。
(エステバン、紐の所へ行き、呼び鈴を引く。ラウール、椅子に沈む。)
 ラウール 何をしているんだ。
 エステバン どうかなっちゃったぞ、こいつ。かわいそうに。
(ユベール登場。)
 エステバン ユベール、濃いコーヒーを。
 ユベール もう沸いております、公爵様。
 エステバン うん。侯爵夫人は今何処におられる?
 ユベール 発たれました、公爵様。
 エステバン 出て行かれた?
 ユベール はい、二時頃でございます。
 エステバン クレメント神父は?
 ユベール 発たれました、公爵様。
 エステバン アドリエンヌは?
 ユベール パリへお出でになりました。リジャール様と御一緒に。
 エステバン リジャールと一緒?
 ユベール はい。お二人はご結婚なさいました。一時頃でございます。
 エステバン (驚く。)結婚! お前は気でも違ったか。
 ユベール いいえ、公爵様。正気でございます。
 エステバン もういい、ユベール。コーヒーを持って来い。急いでな。
 ユベール 畏まりました、公爵様。(退場。)
 ラウール ユベールはな、世界で唯一人、俺の味方だ。
 エステバン これは一体どういう事だ。
 ラウール あいつは誠実だ。嘘をつかない。まるではがねだ。(間。)トレド、そうだ、エステバン、トレドを覚えているか。
 エステバン 覚えている。
 ラウール 俺もだ。(コニャックの方に手を伸ばす。)
 エステバン (遮って。)もう止めろ。
 ラウール 石頭め。そうだ、石頭なんだ。お前は。
 エステバン 十分飲んだんだろう。
 ラウール (弱く。)うん、十分飲んだ、エステバン。十分、十分飲んだ。
 エステバン コーヒーが来ればしっかりするさ。
 ラウール 俺を一人にしないでくれ、エステバン。君が頼りなのだ。
 エステバン 分かっている。
 ラウール 君は陽気な男だ。それに気苦労がない。そこが魅力だ。
 エステバン 有り難う。
 ラウール (物々しく。)人生はな、エステバン、シーソーだ。シーソーゲームだよ。
 エステバン (上の空で。)うん。
 ラウール 俺はな、人生はシーソーゲームだ、って言っているんだ。
 エステバン (考えて。)あ、うん、そうだな。
 ラウール 上にいるか、下にいるかだ。俺はな、何年も下に居続けだった。
 エステバン それで今は上か?
 ラウール そうだ、上だ。遙かに高く、雲の上だ。分からねばならない事はもう皆分かった。だから皆許してやるんだ。
 エステバン それは随分太っ腹だな。
 ラウール 俺は妻を許す。(立ち上がり、絵の前に立つ。)聞こえるか、エレーヌ。俺はお前を許すぞ。お前は俺の孤独と弱さを食いものにした。そして仮借なく俺と結婚したのだ。しかし俺はお前を許す。俺の名が地に落ちるのを救ってくれたし、活気はなかったが、しっかりした家庭を築いてはくれたからな。お前は完全に俺を見捨てた。そしてお前の恋人、教会へと走って行った。ほとんど淫らな気持ちを持ってな。お前の理論は確かなものだった。非難の余地はないさ。だがな、やり方が冷酷だ。美徳の持ち主、高貴な女、お前自身の目から見ればな。だが残念なことに他人からは大してそうとも見えなかった。お前の会話が馬鹿につまらなかったからな。実際、俺の大切なエレーヌ、お前は正真正銘のアホ、愚物中の愚物だよ。しかし俺はお前を許す。おい、エステバン。手伝ってくれ。(椅子を暖炉へ引き寄せ、その上に乗る。少しふらつく。)
 エステバン ラウール、何をしているんだ。
 ラウール 手伝ってくれ。手伝って。
(エステバン、笑いながら、もう一脚、椅子を引き寄せ、二人でかなり苦労して壁から絵を下ろし床に立てる。ラウール、静かに表を下にして絵を横たえる。そして深い溜め息をついて長椅子に沈む。)
 ラウール やっと、やっと、この勇気が出た。
(ユベール、盆の上にコーヒーを乗せて登場。テーブルの上に置く。)
 エステバン 有り難う、ユベール。
 ユベール 夕食はお済みで、公爵様。
 エステバン いや、まだだ。
 ユベール 何かお持ちしましょうか。
 エステバン いや、有り難う。今はいらない。又後で考える。
 ユベール 畏まりました、公爵様。
(ユベール退場。エステバン、コーヒーを注ぎ、長椅子のラウールに渡す。)
 エステバン (強制的に。)さあ、飲め、これを。
 ラウール (鷹揚に。)じゃ飲むか。こう無理矢理やられたんじゃ、断りきれんな。しかし言っておくが、これは嫌々なのだ。厭、厭、飲むのだ。
 エステバン さあ、早く飲め。
 ラウール (カップを振って。)おさらばじゃ、天国よ。(飲む。)
 エステバン 酔っぱらいの天国か。
 ラウール こりゃ熱い。
 エステバン それはいい。
 ラウール もう一杯貰うとするか。
 エステバン うん。
(カップを取り、テーブルへ行き、注ぐ。)
 ラウール 昔を思い出すなあ。
 エステバン (カップを持って戻る。)うん。
 ラウール 若返りの薬だなあ、思い出は。コーヒーよりも効くよ。
 エステバン だからゆうべ言ったんだ、「良い思い出、それだけだ。」って。
 ラウール 怒らないでくれ。今までが厳しすぎた。
 エステバン さあ、これも飲んで……空気を換えようか。(窓に近づく。)
 ラウール 気をつけろよ。
 エステバン 何を?
 ラウール 月さ。
 エステバン (カーテンを開ける。)月がどうした。
 ラウール 危険なんだ。(二杯目を飲み干し、顔を顰める。)ウッ。
 エステバン (窓を大きく開いて。)ほら!
(ラウール立ち上がり、彼に加わる。二人立って谷を見下ろす。)
 ラウール 通りに光が見える。
 エステバン 俺には見えないな。
 ラウール あそこ、木の葉の間に。
 エステバン どこかの馬車だろう……こっちに来て座れよ。
 ラウール 幸運の女神は二度はチャンスを与えない、か。
 エステバン 何だ、それは。
 ラウール 何でもない。
(二人、部屋に戻る。)
 エステバン さあ、さっきの話だ。ユベールの話は本当なのか。
 ラウール 本当だ。本当とは思えない話だが。
 エステバン アドリエンヌはジャック・リジャールと結婚したと言っていたが。
 ラウール そうだ。
 エステバン よく許す気になったな。
 ラウール 許しはしない。俺は書斎に閉じ込められていたんだ。何もかも終わってから、あいつが俺を部屋から出したんだ。
 エステバン 誰だ、あいつとは。
 ラウール エロイーズだ。
 エステバン エロイーズ?
 ラウール いちいち俺の言った事を繰り返すな。苛々して来る。
 エステバン エロイーズと呼んだな。それはどういう意味だ。
 ラウール それが名前じゃないか。
 エステバン しかし、ゆうべ初めて出会ったんだろう。それなのに名前で呼ぶという事は……
 ラウール いや、昔から知っていたんだ。
 エステバン ほう、何故それを言わなかった?
 ラウール 俺の生涯の秘密なんだ。
 エステバン 何故それが秘密になるんだ。
 ラウール あれは母親なんだ。アドリエンヌの。
 エステバン (驚く。)何だって!
 ラウール 俺を苦しめる為に戻って来たんだ。
 エステバン (ゆっくりと。)まさか、まさか。
 ラウール 君もあいつを知っているのか。
 エステバン うん、知っている。
 ラウール 俺が知っている程には知らないだろう。
 エステバン いや、同じ位知っている。
 ラウール どういう意味だ、それは。
 エステバン 運がよかった、アドリエンヌがジャックと結婚したのは。
 ラウール 何の関係がある、それとこれと。
 エステバン ミゲルじゃ、まずかったろう。
 ラウール まずい?
 エステバン アドリエンヌの兄貴だからな。
 ラウール (後ろに倒れる。)何だって?
 エステバン それは俺の生涯の秘密なんだ。
 ラウール (座って。)失礼。頭がこんがらがって来た。
 エステバン あれは何処に行った。
 ラウール エロイーズか?
 エステバン そうだ。勿論エロイーズ。
 ラウール 知らない。
 エステバン 馬鹿が。全く抜けていた。
 ラウール 何処に行ったんだ、あいつは。言ってやる事があるのに。
 エステバン 俺も一言ある。
 ラウール あいつは俺を騙した。
 エステバン こっちもだ。君は何時……
 ラウール 一七一六年、パリ。君は?
 エステバン 一七一三年、マドリッド。
 ラウール これはひどい。全身全霊を籠めて愛したんだ。
 エステバン 破廉恥だ。俺だって全身全霊だ。
 ラウール (部屋を大股で歩く。)俺は許さん。決して許さんぞ。
 エステバン (同じく大股で歩いて。)俺だって許さん……
 ラウール あいつの思い出は苦いものになったぞ。口の中の灰だ。
 エステバン これでさっぱりしたぞ。これからは思い出す事はない。金輪際。
 ラウール(テーブルについて。)それについて乾杯だ。
 エステバン よかろう。
(ラウール、コニャックを二杯注ぐ。)
 ラウール (グラスを上げて。)エロイーズ。彼女の頭上に破滅が来ん事を。
 エステバン (グラスを上げて。)エロイーズ。彼女の頭上に地獄が落ちん事を。
(二人共一気にグラスをあける。エロイーズ、静かにテラスから入って来る。)
 エロイーズ (甘く。)私、お邪魔でなければいいんですけど。
(二人振り返り、彼女を見る。ラウール、グラスを落とす。割れる。エステバン、支えの為テーブルを掴む。)
 ラウール (我に返って。)お前か!
 エロイーズ そう、さっきからテラスにいましたの。出て来る頃合を見計らって。丁度良い時だったかしら。
 ラウール (鋭く。)実に良い瞬間だ。
 エロイーズ それ程でもないわ。少し芝居がかっていたわね。残念ながら。でも、ほら、ウィリアム・シェイクスピアが言っていたわ。「すべてこの世は舞台なり。」って。
 エステバン (苛々して。)ウィリアム・シェイクスピアって、一体何だ。
 エロイーズ 詩人よ。もっとも、頭がよくて、自分の国の人達には、只の芝居書きと思わせていますけど。
 ラウール 何を言おうと何の言い訳にもならないぞ。どの面さげてこの家に足が踏み入れられるのだ。
 エロイーズ まあ、ラウールったら。貴方また同じ所から始めるおつもり?
 エステバン ラウール、この不快な一幕は僕に任せてくれた方が良いんじゃないか。
 ラウール それは逆だ。この件は俺に任せてくれ。
 エステバン 君は相当疲れている。こんな微妙な問題を扱うには今は適当でないよ。
 ラウール 君はもともと行動の男だ、エステバン。繊細さを必要とする件は君の手にあまる。俺に任せた方が良い。
 エロイーズ (軽く。)そうね、貴方方がその件で揉めている間、私、コーヒーを戴こうかしら。テラスは寒かったわ。(テーブルにつき、ラウールのカップにコーヒーを注ぐ。黙って飲む。)
 ラウール (苦々しく。)さぞ満足だろうな。
 エロイーズ 濃すぎるわ、これ。執事に言わなくちゃ。
 エステバン エロイーズ、これは言っておいた方が良いと思うんだが。僕達は皆知っているんだ。
 エロイーズ 皆って、何を?
 ラウール お前の卑劣な遣り口全てをさ。
 エロイーズ いいえ、私は卑劣ではありません。
 エステバン この二人を裏切ったじゃないか。
 エロイーズ そんな事ありませんわ。
 ラウール 嘘をついた、我々に。
 エロイーズ いいえ。お馬鹿さんね、貴方がたは二人共。お座りになったら如何? それから窓を閉めて頂戴。隙間風が寒いわ。
 ラウール 閉めてくれ、エステバン。
 エステバン 自分で閉めたらどうだ。
 ラウール (冷たく。)よかろう、俺が閉める。
 エロイーズ そうね。(ラウール行き、怒って窓を閉める。)さあ、これでゆっくりお話が出来るわね。
 エステバン 話! 話をして何になるんだ。
 エロイーズ 何にでもなるわ。お二人とも、「みんな知っている。」のね。エステバンがさっき芝居がかってそう言ったでしょ。それは嬉しいわ、退屈な説明を省く事が出来るもの。さあ、満足のいく結論を出す事にしましょう。
 ラウール もう遅すぎる。
 エロイーズ 「繕いをするのに遅すぎるという事はない。」また、シェイクスピアよ。ラウール、この人のものを読んでみたらどう? 物の考え方が変わるわよ。
 エステバン (皮肉に。)満足のいく結論とは何だろうな。
 エロイーズ 私は未だ決めていないの。選ぶのって本当に難しいわ。お二人の性格ってまるで違っているんですもの。
 ラウール 選ぶ!
 エステバン 一体どういう意味だ、それは。
 エロイーズ (驚く。)あら、貴方方のどちらか一人が私と結婚するんでしょう?
 ラウール お前と結婚!
 エロイーズ ええ。
 エステバン 気違い沙汰だ。
 エロイーズ 残念ね、エステバン。貴方からはもっと騎士道を期待していたわ。ラウールは違うの。偽善がすっかりあの人の感受性を鈍らせて仕舞ったようですもの。
 ラウール お前は真面目に結婚を考えているのか、俺達とお前との。
 エロイーズ 俺達ではないの。その内の一人よ。勿論子供のせいで少し話は面倒ですけれど。
 エステバン 恥知らずな。
 エロイーズ 何が恥知らずですの?
 エステバン そんなに落ち着いて鉄面皮でいられる事がさ。
 エロイーズ じゃどうすればお気に召したかしら。足元にひれ伏して許しを乞うのね。
 ラウール (顔を背けて。)これは我慢ならん。
 エロイーズ 御免なさい。この辺は面白い所なのでつい……
 エステバン この厚かましさは想像を絶する。
 エロイーズ あらあら、エステバン、貴方はそんなに怒っては居なかったわ、私が入って来たとき。
 エステバン いや、怒っていた。
 エロイーズ で、貴方、ラウール。貴方はまだ私の魅力に降参していないっていう事ね。
 ラウール 何を言っているんだ。
 エロイーズ (諦めて。)まあまあ、でも希望を失ってはいけないわね。
 ラウール 言いたい事だけ言って出て行ったらどうだ。
 エロイーズ エステバンと?
 ラウール まさか。一人でだ。
 エステバン お供しよう、お望みとあらば。
 ラウール (素早く。)何処へ?
 エロイーズ あらやっと。騎士道死なず、ね。
 ラウール そんな事はさせん、エステバン。
 エステバン 君の知った事ではない筈だ、ラウール。
 エロイーズ (感謝して。)嬉しいわ、エステバン。
 ラウール (苦々しく。)裏切り者め。
 エステバン 裏切りではない、女性への礼儀だ。不作法からは何も生まれない。
 エロイーズ 本当にそう、エステバン。
 エステバン 君は何処へ行きたい?
 エロイーズ すぐには決められないけれど……そうそう、スイスはどうかしら。この季節には素敵だわ、スイスは。
 ラウール (エステバンに向かい、怒って。)そいつを連れて、チンブクツーへでも何処へでも行きやがれ。
 エステバン (怒る。)こんな口のきき方は許さんぞ、俺に向かって。
 ラウール 偽友達め。仮面を被った偽友達め。
 エステバン ラウール、君は飲んだら駄目だ。飲むとひどい、君は。
 エロイーズ 飲んだ。ラウールは飲んでいたの?
 エステバン あびるように。
 エロイーズ 恥を知りなさい、ラウール。神父様から禁じられていた筈ですよ!
 ラウール (エステバンに、強く。)裏切り者。汚い裏切り者。
 エステバン 言い過ぎだぞ、ラウール。気をつけてものを言え。
 ラウール (我を忘れて。)偽善者め。(顔を打つ。)
 エロイーズ まあ、ラウール……乱暴。随分乱暴。
(一瞬、全くの沈黙。二人、お互いに睨みあう。エステバン、一歩退き、踵を鳴らし、意気高く一礼。)
 エステバン お望み通りに。明朝……ですかな?
 ラウール いや、今だ。此処で。今だ。(紐へ行き、引く。)
 エロイーズ (普通の会話の調子。)私、何処へ座ろうかしら。
 エステバン (エロイーズを見ずに。)ほっておいて下さい。
 エロイーズ ほっておく……そうはいかないわ。私の為の決闘って、随分久し振りですもの。
 ラウール お前の為ではないのだ、この決闘は。
 エロイーズ あら、勿論私の為だわ。
(ユベール登場。)
 ラウール ユベール、剣だ。
 ユベール はい、旦那様。コーヒーはお済みで?
 ラウール 済んだ。
 ユベール ではお下げ致します。(コーヒーの盆を取り、持って退場。)
 エロイーズ (立ち上がって。)家具を少し動かした方がいいわ。
 エステバン エロイーズ、出て行ってくれないか。
 エロイーズ いいえ。さあ、テーブルを手伝って頂戴。
(テーブルを壁の方に引っ張り始める。エステバン、余儀無く手伝う。)
 エロイーズ ラウール、貴方はその椅子を窓際に置いて頂戴。ひどく邪魔だわ。
(ラウール、黙って椅子(複数)を動かす。エロイーズ、テーブルを思いの位置に動かし終わり、手で顔をなでながら、思案げに部屋を見回す。)
 エロイーズ エステバン、その絨毯。絨毯に躓いたら大変。
(エステバン、黙って絨毯を片づける。ラウール、離れて背を向けて立つ。窓の方を見ている。エロイーズ、手で自分に風をあてる。)
 エロイーズ あらあら、ひどい埃。ラウール、貴方明日まで生きていたら、掃除夫を雇わなくちゃ。
(ユベール、剣をもって登場。ラウール振り向く。エロイーズ素早く剣を取る。)
 エロイーズ さあ、ユベール、私に貸して。(鞘から抜き、刃を確かめる。)ああ、これならいいわ。下がっていいわ、 ユベール。(剣をラウールに渡す。)
 ユベール はい、奥様。(一礼。去る。)
 エロイーズ 私、チェンバロの上に座ろう。(チェンバロの上に登り、座り易いように整える。エステバン、自分の剣を抜き、二人、互いに向き合う。)一寸待って。エステバン、始める前にお願いがあるの。そこの蜜柑を取って下さらない? 私、見せ物を見る時は、何か食べていないと楽しくないの。
(ラウールから目を離さず、エステバン、テーブルの鉢から蜜柑を取り、エロイーズに渡す。)
 エロイーズ どうも有り難う。
(決闘始まる。エロイーズ、蜜柑に噛みつき、無頓着に皮を剥き始める。ラウールとエステバン、時々怒りの呻き声を上げる。エロイーズ、突き、受け、の度毎に合の手を入れる。)
 エロイーズ お見事、ラウール。素敵だわ、エステバン。あ、テーブルに気をつけて。そうそう、其処。気をつけて、蜜柑の皮が落ちているの、其処に。そう。御免なさい。あ……は、なかなかいいわ。ラウール。お二人の年を考えれば、本当に見事な戦い振りよ。夫が生きていたら喜んだわ、きっと。あの人本当に決闘が好きだったもの。(突然、刺繍のある重い布を掴み、剣の交差している場所に綺麗に投げ掛ける。)止め! もうそれで十分。
(エステバン、ラウール、止められてエロイーズを睨む。肩で息をする。)
 ラウール 離れろ、エロイーズ、すぐに。
 エロイーズ (しっかりと。)刀を納めなさい。
 エステバン エロイーズ、この場はほっておいてくれ。
 エロイーズ ラウール、刀を渡しなさい。
 ラウール そんな事はせん。
 エロイーズ (突然怒る。)すぐに渡しなさい。本気です。私にそれを。(ラウールの手から刀をもぎ取る。遠くへ投げ棄てる。)
 ラウール (怒って。)エロイーズ。
 エロイーズ もう十分。何度言ったら分かるの。二人共こんな事をするには年を取り過ぎているわ。決闘はもっと若い者達がやる事。年寄りの冷水よ。それに子供じみた習慣よ、決闘なんて。
 エステバン ラウールが僕を侮辱した。名誉は取り返す。
 エロイーズ 馬鹿馬鹿しい。ほっぺたを叩かれただけじゃないの。
 エステバン 叩かれただけ。
 エロイーズ そんなにそれが気になるなら、貴方も叩けばいいのよ。
 エステバン そんな事はしない。
 エロイーズ さあ、ほら。抑えているから。(ラウールを羽交い締めにする。)
 ラウール (もがいて。)離してくれ。
 エロイーズ 早く、エステバン。
 エステバン (ゲラゲラ笑って。)こりゃいい。では。(軽くラウールの顔を叩く。)
 ラウール ええい、これは我慢ならん。
 エロイーズ さあ、抱き合って……仲直り。
 ラウール するものか。ほって置いてくれ。
 エロイーズ (足を踏み鳴らして。)仲直りしなさい! 私が言っているのよ。
 エステバン 君がいいなら、僕はいいよ、ラウール。
 ラウール 俺は厭だ。
 エロイーズ いい癖に。早くなさい。(ラウールをエステバンの方に押しやる。)
 ラウール これは茶番だ。
 エロイーズ そう、茶番。早く。
(エステバン、ラウール、抱き合う。)
 エステバン このウスラトンカチ。
 ラウール スカタン、地獄へ行け。
 エロイーズ そう、それでいいの。さあ、静かに座って聞いて頂戴。私、告白しなければならない事があるの。
 エステバン エロイーズ、僕は……
 エロイーズ 座って。二人共。
 エステバン 分かった。(座る。)
 エロイーズ ラウール。
 ラウール もう何も聞きたくない。
 エロイーズ 座りなさい。
 ラウール 俺は座らん。
 エロイーズ じゃ、立っていなさい。(不承不承、長椅子に座る。)お二人共私が嘘をついたと、責めたわね。そう。私、嘘をついていたわ。
 ラウール あ……は!
 エロイーズ 静かにして。私、結婚したって言ったわね。嘘なの。結婚はしなかった。誰とも。
 エステバン 何だって!
 エロイーズ 貴方方二人だけなの。私の人生で。本当に。こんな年になってこの事を認めるのは、少し恥ずかしいわ。でもこれが真実。歌手としては私、とても成功した。そしてかなりの財産を蓄えたわ。私が若くてまだうぶだった時エステバン、貴方にマドリッドで出会った。私は貴方を無我夢中で愛した。初恋が何時もそうであるように、間違ったヒロイズムも付録についていたわ。私は貴方の子供を生み、貴方から去って行った。若し貴方と結婚すれば、貴方の家族は財産相続を認めず、貴方の将来はめちゃめちゃになるのを知っていたからなの。私は馬鹿だったかもしれない。でも後悔はしていないわ。それから二年後、私はパリでラウールに出会った。ラウールは魅力的で優しく、情熱的に私を愛した。私は此処に来て彼と暮らす様になった。そしてアドリエンヌを生んだ。私が何故貴方のもとを去ったか、ラウール、それはエステバンの場合より現実的で夢のないものですけれど、同じ程度に尤もな事なの。貴方はねラウール、一度だって、そう、パリでの生活、そして此処での生活の間中、一度だって、結婚の事を口に出した事がなかったの。
 ラウール (衝撃を受けて。)エロイーズ、僕は……
 エロイーズ シーッ。反論しないで。貴方の育ちがいけなかったの、勿論。貴方って何時もすこおし取り澄ましていたわ。とても感じの良い素敵な時でもそう。私に下心があったら、貴方をうまく誘導して結婚申込みをさせていたでしょう。私に娼婦の心があったら、私は妾の地位を得ていたでしょう。でも私はもっと自分を尊敬出来る生き方を望んだ。私は自分一人で生計を立てる道を選んだ。それからは何人もの人達が私に言いよって来た。でもそのうちの誰一人として私の手を獲得した者はいない。私は自分の生涯を首尾一貫したものにしたかった。そして時期を待つ事にしたの。そして今私は帰って来た。後は神様が貴方方の運命をお決め下さるでしょう。
 エステバン それはどういう意味だ。
 エロイーズ 貴方方の内どちらかが、私を住まわせ、食事を与え、保護し、そして死ぬその最後の日まで私を愛すの。
 ラウール エロイーズ!
 エロイーズ これは本気なの。
 エステバン 今の話は全部本当なのか。
 エロイーズ 隅から隅まで。ですから私は、実質上この十六年間、貞淑な女だったの。
 ラウール 何故それを最初に言わなかったのだ。
 エロイーズ 私に対する貴方の態度って言ったらなかった。とても打ち明けた話をする雰囲気ではなかったわ。
 ラウール すまん。
 エロイーズ それは心からの謝罪なの?
 ラウール (顔を背けて。)そうだ。
 エロイーズ エステバン、貴方の言う事は?
 エステバン 分からない。面食らっているんだ。
 エロイーズ いいわ、慌てなくていいの。いくらでも待てるんだから。ラウール、構わないかしら、アドリエンヌの部屋に寝ても。今日あの子はいないんですもの。
 ラウール (不承不承。)何処で寝ようと構わん。
 エロイーズ 有り難う。客間は一番厭だわ。前にも言ったけれど、鎧戸はきちんと閉まらないし、それに油虫が……
 ラウール (怒って。)この城を隅から隅まで捜したって油虫なぞ一匹もおりはせん。
 エロイーズ (柔和に。)さうね、貴方は一番良く知っている筈だわ。
 エステバン 若し、だね、君が言っている様に、十分な財産を拵えたのなら、何故僕等に面倒を見て貰いたいんだ。
 エロイーズ 随分金銭ずくの質問ね。
 エステバン 当然な質問と思うがな。
 エロイーズ 私は親しく話合える相手が欲しいの。それに家庭的な安心感と。今まで世間から苛められてきたんですもの。
 ラウール 馬鹿な。
 エロイーズ 貴方が分からないのは不思議はないわ。だって貴方は苛める方の人種なの。
 ラウール お前が自分で決めた方がよくはないのか。自分の望みの方を。
 エロイーズ 心に恥じているからといって、そんなにぶっきら棒に言わなくてもいいのよ、ラウール。
 エステバン (立ち上がり、エロイーズの手を取って。)エロイーズ、若し君が僕を選んでくれたら光栄だが。
 エロイーズ (微笑。)いつもの騎士道精神ね。
 エステバン 本気だ。
 エロイーズ 有り難う、エステバン。さあ、ラウール。
 ラウール (立ち上がる。)俺には言う事はない。
 エロイーズ 貴方らしい答ね。
 エステバン 恥を知れ、ラウール。
 ラウール あれを愛しているのか、君は。
 エロイーズ (素早く。)狡いわ。
 ラウール どうなんだ。
 エステバン こちらより自分の事を考えたらどうだ。
 エロイーズ そう、一つだけ条件を言っておかなければ。運良く私を射止めた人の方が、自分の子供に本当の母親の事を話してやらねばならない。そしてもう一方は永久に知らせてはならない。その方がいいでしょうから。
 ラウール (決心して。)エロイーズ、俺と結婚してくれ。
 エロイーズ ラウール、十六年後に……やっと。
 エステバン エロイーズ、選ぶのは君だ。
 エロイーズ 難しいわ、籤か何かにしましょうか。
 ラウール もっと真面目には出来ないのか。
 エロイーズ あら、何故?
 ラウール これはそんなにひどい冗談なのか。
 エロイーズ (考え深く。)そう。確かにおかしい話。
 ラウール 俺には分からん。
 エロイーズ 気にしなくていいのよ、ラウール。
 エステバン 君を幸せにする為だったら、何でもする、僕は。
 エロイーズ そうね、エステバン。貴方だったら、きっと。
 ラウール (突然。)俺はお前を愛している、エロイーズ。(歩いて、一人テラスへ出る。)
 エロイーズ あらあら!
 エステバン あれは本気で、そう?
 エロイーズ ええ。
 エステバン そうか、こいつは奇妙な話なんだ。
 エロイーズ 有り難う。
 エステバン ラウールが君のことを愛していたのか。最初から分かっていりゃな。
 エロイーズ もう分かってもいい頃よ、ラウールの恥ずかしがりを。
 エステバン で、君の方はどうなの? 愛している?
 エロイーズ ええ。
 エステバン それなら……僕は……
 エロイーズ 安心した顔をしても構わないのよ、エステバン。
 エステバン (微笑。)君は不思議な人だなあ。
 エロイーズ そう……ね。おやすみなさい。(キスする。)
 エステバン おやすみ。
(エステバン退場。エロイーズ、チェンバロに進み、ゆっくりと弾き始める。それから小曲を歌う。終わり頃、ラウール、テラスから登場。)
 ラウール (エロイーズの方へ進み。)エロイーズ。
 エロイーズ シーッ。此処は静かだわ。話す為の時間はまだ沢山あるわ。
 ラウール 俺は本気で言ったんだ。愛しているんだ。
 エロイーズ 分かっていたわ。最初にお城に入ったその時から。
 ラウール 俺には分からなかった。
 エロイーズ 分かっていたの、私には。ね、ラウール。
(エロイーズ、再び弾き始める。ラウール、ゆっくりエロイーズに近づき、彼女の肩に頭を乗せる。その時幕下りる。)
                      (幕)

  昭和五十九年(一九八四年)七月三十一日 訳了

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