これで決着
ルイジ ピランデルロ 作
能 美 武 功 訳
登場人物
マルティノ ロリ
サルヴォ マンフローニ 貴族院議員
パルマ ロリ
フラヴィオ グアルディ 侯爵
バルベッティ夫人 アリアーニ、クラリーノ、二人の寡婦
カルロ クラリーノ その息子
ジーナ チェイ
ヴェニエロ ボンジアーニ 公爵
ジオヴァンニ グアルディ家の下男
マンフローニ家の老下僕
時 現在
場 ローマ
第 一 幕
(ロリ家の控えの間。この控えの間は大広間とパルマの部屋の間にある。家具は立派なものであるが、贅沢ではない。右と左に扉。左の扉は大広間に、右の扉はパルマの部屋に通じている。奥の壁の右手に、廊下に面した扉がある。この日はパルマの結婚式で、この控えの間にも豪華な花束や花籠がある。)
(幕があく。最初は人がいない。暫くして、右手の扉から、帽子を被ったバルベッティ夫人登場。その息子のカルロ・クラリーノが後に続く。)
(バルベッティ夫人は六十三歳。田舎の金持ちらしく髪を染めて、飾りをつけて若作りにしている。高飛車で品がないが、不親切というのではない。息子のカルレットは三十歳代。流行の先端を行く服装。金持ちで浪費癖のある母親が彼の意思に反してやらせる色々な事の為に疲れきっている。放蕩息子の一つの型。)
(二人は誰かを捜してこの部屋に入り込んだという風。母親は決断した上で。息子は嫌々ながら。)
バルベッティ (扉から。)入ってもいい? 誰もいないの? さあ、来なさい、カルレット。
カルレット (悪い事が起きるのを予感している様子で。) ママ、黙って入るなんて、悪いよ。
バルベッティ 馬鹿な事を言うんじゃないよ。あの大広間で私達の事を、棒っ杭みたいにほったらかしにして置いて。
カルレット うん、でもこんな風に黙って入るのは・・・
バルベッティ 私は知る必要があるんだ。 誰かと話す必要がね。(回りを見回す。)此処に呼び鈴はないのかね。
カルレット(諦めて、溜め息をついて。)ママがどうしても恥をかく決心なら、もう僕は知らないよ。
バルベッティ(右手の扉をノックして。)もしもし。 (一瞬待つ。再びノックする。)もしもし。(また待つ。扉を開け始める。扉を開き、中を覗く。)此処にも誰もいない・・・(怒って、息子に。)どうして恥なんかになるって言うの。ちゃんと贈り物を持って来たんだからね。三千七百リラもするブローチをね。(再び回りを見廻す。)一体全体、下男は何処に潜りこんじゃったのかねえ。(奥の別の扉の所に行き、呼ぶ。)おーい、誰か。
カルレット (間のあと。)下男も教会に行ったんだろ。他の召使達と一緒に結婚式に出席だよ。
バルベッティ 家をほったらかしにして置いてかい?
カルレット (間のあと。)ママ、これが好いチャンスだよ。帰ろう。今からだって遅くないよ。
バルベッティ お前は私と一緒に此処に残るんです。私がそう言っているんだからね。ちゃんとした人達と付き合う方法ってのを、お前に知って貰いたいんだよ、私は。
カルレット 冗談言ってらあ。
バルベッティ 無駄に身銭を切ってるんじゃないんだ。分かってるね。
カルレット よく言うよ。本当に。
バルベッティ そのうちお前にも分かってくるよ。
カルレット じゃ、あの人達が僕等を暖かく迎えてくれるとママは思ってるんだね。
バルベッティ 暖かくは迎えてくれないでしょう。だからこそ態々ペルギアくんだりからやって来たんでしょうが。此処でお前はまともな仕事につくのよ。お前の義理の兄さんの助けを借りて。
カルレット(跳び上がる。)義理の兄さん? ママ、冗談じゃないよ。「義理の兄」だけは止めてくれよ。吐き気がする。
バルベッティ 何言ってるの。あれはお前の義理の兄さんです。馬鹿なことばっかり言って。
カルレット ママ、お願いだ。「義理の兄」は止めてよ。でなきゃ、僕帰る。
バルベッティ じゃ何の話をすればいいんだい。
カルレット ママ、僕はね、僕等がつまみ上げられて、おととい来いって放り出されるのが怖いんだよ。
バルベッティ(きっぱりと、挑むような調子で。)ちょっとお前、訊くけどね、お前、私の子かい? それとも、子じゃないのかい?
カルレット 止めてよ、ママ。
バルベッティ どうなんだい。
カルレット 止めてって言ったろ、ママ。ママなんか、此処では問題になっていないんだ。分かってるだろ?
バルベッティ(向かっ腹をたてて。)それはどういう意味なんだい。
カルレット ママ、こんな所で議論するのは拙(まづ)いって分かってるだろ?
バルベッティ そりゃ分かってるさ。だけどお前のその口の利き方は何だい。
カルレット これでもちゃんと話してるつもりだよ、ママ。それからね、僕は、他のひともみんな、ママにちゃんとした口の利き方をして貰いたいって思ってるんだ。だからもう一度言う、もう帰ろうよ。
バルベッティ 駄目だったら駄目だよ。お前はお人好しなんだよ。ただのお人好し。要するに馬鹿なのさ。義理の兄というとお前はすぐにカッカくるけどね、そんなのはみんな過ぎた事だよ。そりゃお前の父親と私はね、慥かに当たり前の関係じゃなかったよ。だけど後でちゃんと結婚してるじゃないか。
カルレット そう。「あとで」ね。
バルベッティ 前だろうと後だろうと、事は同じさ。この家のシルヴィアと全く同じに、お前だって正式な私の子だよ。だからシルヴィアはお前から言えば、正式の「義理の姉」という事になるじゃないか。そうすれば、その夫のマルティノ・ロリが、お前の事を「義理の弟」と考えたって罰は当たらないと思うがね。こんな事、当たり前の事じゃないか。
カルレット どうしてそんな話になるんだ。その為にはどうしたって、「前」の話を消滅させなきゃ駄目だよ。
バルベッティ 消滅ってどういう意味だい。
カルレット 分かってるじゃないか。「前」の話をないものにするんだよ。その「前」の「当たり前の関係じゃなかった話」をね。
バルベッティ 過ぎた事だよ、全部。そんなことを誰が覚えているっていうんだい。私の最初の夫はもう二十年も前に死んでるんだよ。
カルレット そう。僕が三十二歳。それでその人の息子じゃないんだ、ママ。当たり前の関係じゃないじゃないか。ママの最初の夫としちゃ、厭な話さ。本当に冗談じゃない。だからもしママの娘のシルヴィアがまだ生きていたら、こんな所に厚かましくのこのこ出て来られはしなかった筈だよ。絶対。
バルベッティ あれはもう死んでるんだ。死んでもう十六年も経つんだ。十六年と言えば、結構な年月じゃないか。その私の娘の娘が結婚することになった。だから私がやって来て、そのお祝いに贈り物を持って来た。何がおかしいのさ。
カルレット フン。それなら筋が通るって事か。祖母としてね。母親の母親という筋書きで御登場するんだね。お祖母さんとして。それなら誰も疑いを挟まないよ。シルヴィアはママの娘。あの人はシルヴィアの娘。文句はないさ。慥かに祖母。だけどその関係に、男を混ぜて欲しくないな。男が挟まってくると、親子関係は急に分からなくなってね。 そう。親父と息子でさえ怪しくなるんだから。まして一寸想像してもご覧。義理の兄弟なんて一体どうなるかって事を。
(話声を聞きつけて、奥の扉にチェイ登場。三十代の背の高いブロンド女。式に合わせて濃い色の服を着ている。個人的感情を外に出さない、計算された表情。注意深く話し、言葉遣いに気をつけている。立ち居振る舞いに気を配るのが身についていて、自然な品の良さがある。)
チェイ どちら様でしょう?
バルベッティ(声に振り返って。)ああ、やっと・・・誰かいないかとさっきから・・・
チェイ 失礼ですが、まずお名前を。
バルベッティ 私、花嫁の祖母で、こちらは叔父。(息子を示す。カルレット、苛々した様子。)
チェイ (カルレットを見て、腑に落ちない様子。)ああ・・・ではお祖母さん・・・
バルベッティ (態(わざ)とのように。)そしてこちらが叔父。ペルギアから来たのよ。
チェイ でもご招待申し上げた方々の中には入っていませんわ。私の知る限り・・・
バルベッティ ええ、ええ。不意に来て花嫁を驚かせようと。
チェイ (バルベッティに、次にカルレットに。)どうぞお坐り下さい。どうぞ。
バルベッティ(坐りながら。)すみません。で、あなたは? あなたは何方(どなた)ですの?
チェイ 私は・・・どう申し上げればよいのでしょう。私、花嫁のお相手を務めているものですが・・・
バルベッティ ああ、付き人さんね。
チェイ まあ、そんな役割ですが・・・どちらかと言いますと、友人。パルマの友人ですわ。
バルベッティ ああ、そう。パルマのねえ。(パルマという名を初めて聞いたかのように、この名前を繰り返す。)
チェイ どうしてパルマは言っておいてくれなかったんでしょう。あなた方が・・・
バルベッティ そんなこといいじゃない。心配しない。びっくりさせる事に意味があるのよ。
チェイ そうでしょうね・・・それにタイミングもぴったりですわ。丁度・・・
カルレット (母親の最後の言葉を聞いて、苛々しながら。)そう。その、タイミングですよ。僕は母に言ってたんですが・・・
バルベッティ お前は黙っていなさい! (チェイに。)ちょっとした手違いだったわ。結婚式が明日の朝だって聞いていたのよ。前の日に着いていようとやって来たら・・・
チェイ でも、実は結婚式は昨日でしたのよ。
バルベッティ 何ですって? 昨日?
チェイ ええ。お披露目は昨日だったんです。今日のは教会で行う結婚式。
バルベッティ あら、お披露目が昨日で、今日は教会の結婚式? なんて事でしょう。
チェイ もう暫くしたら、皆さん、お帰りの筈ですわ。
バルベッティ 素晴らしい結婚式だったんでしょうね。豪華な晩餐に沢山のお客・・・
チェイ いいえ、そんなことはありませんでした。
バルベッティ そんなことはなかったって? あの部屋、ほら、あっちの部屋だって (左の部屋を指差す。)花、花、花。(自分の回りを見て。)それに此処だって。
チェイ ええ。花は。でも大袈裟な式典は一切なし。慥かに昨日は御招待がありましたわ。晩餐も。でも全く内輪のもので・・・
カルレット そうでしょうね。今流行のやり方。新婚旅行へ出かける旅行用の衣装を着て・・・
チェイ それは違いますわ。列席者は少ないです。確かに内輪だけ。でも今朝だってちゃんと花嫁衣装ですわ。白いドレスにヴェール。オレンジの花。もうすぐご覧になれます。綺麗ですよ。
バルベッティ 想像がつくわ。可愛らしいでしょうね。でもどうでしょう、大変じゃないかしら。なにしろ侯爵様と結婚するんじゃ。
チェイ 勿論ですわ。侯爵様のお母様が・・・
バルベッティ この結婚に反対していらっしゃる?
チェイ とんでもない。その逆ですわ。 お母様が、パルマに贈られた贈り物、それは豪華なものばかりでしたわ。でも、お軆があまりお丈夫でなく・・・
カルレット(世たけた風に。)そうです。そうです。健康がね・・・
チェイ 新婚旅行のあと、盛大にご自分のお屋敷へお迎えになるおつもりなのです。
バルベッティ では今日は此処で?
チェイ ああ、そうそう。この時間ならもう何もかも終わっている筈。此処にはちょっとだけ立ち寄りますわ。花嫁衣装を旅行服に着替える為に。出席者といっても、立会人、それに侯爵と、貴族院議員先生の友人達二、三人だけですの。
バルベッティ 私の婿のことね? (カルレットに。)お前、聞いたかい? あれは貴族院議員になったんだよ。
チェイ(笑いをおし殺して。)いいえ、奥様。私、貴族院議員と言いましたのは、マンフローニ先生の事でしたの。
バルベッティ あら、では婿の話ではなかったの? マンフローニって誰のこと?
カルレット ママ、何言ってるの。サルヴォ・マンフローニじゃないか。ほら、代議士で、大臣にもなったし、それから・・・
バルベッティ ああ、あのマンフローニ。でも私達に何の関係があるの。
カルレット 何言ってるの、ママ。ママのお婿さんを評議員に推してくれたのが、マンフローニじゃないか。
バルベッティ あら、そう。
カルレット マンフローニが大臣になった時、あの人を次官に据えた。思い出してよ。僕は説明したよ、ペルギアで。
チェイ 私も、此処で御世話になっているのはマンフローニ先生の御陰ですわ。
カルレット ママの最初の夫の弟子だった人じゃないか。
バルベッティ ああ、そうそう。思い出した。最初の夫の弟子だった人ね。
チェイ 最初の夫って・・・パルマのお祖父さん?
バルベッティ 偉大な学者だったわ、あの人。私の最初の夫。
チェイ(驚きを充分うまくは隠せず。)では、あの偉大なベルナルド・アリアーニの奥さん?
バルベッティ ええ、そう。それが私。
チェイ 第一級の科学者。科学上の名声を一手に集めた人。
バルベッティ 私の孫がそんな風に言って?
チェイ どんな本にも、いえ、小学校の教科書にだって、そう書いてありますわ。
バルベッティ 事故で死亡。自分の研・・・研究室で。(カルレットに。)違った?
カルレット 実験室だよ。
バルベッティ そうそう。実験室。何のだった?
カルレット 物理。
バルベッティ そう。物理実験室。そこで感電死。新聞という新聞が書きたてたわ。
チェイ よく存じておりますわ、奥様。
バルベッティ 不幸な事件。あの時は後悔したわ。本当よ。どうして辛抱して最後まで一緒にいてあげなかったんだろうって。偉大な学者。いつだって研究、研究、研究。論文、論文、論文。そして出版。
カルレット 分かってるよ、ママ。この人、ちゃんと知ってるって言ってるじゃないか。それにサルヴォ・マンフローニだって事故については知っている筈だよ。だって遺作集を編集して発行したのはあの人なんだから。
バルベッティ そうそう。ミヘン論文・・・何て言ったっけ。
カルレット 遺作集、遺作集だよ、ママ。
バルベッティ 違う。私の言ってるのは、あのマンフローニが取って行った論文よ。ほら、あの人がその儘ほったらかしていたから・・・何て言ったっけ。
カルレット ああ。未編集論文?
バルベッティ 何て?
カルレット 未編集論文だよ、ママ。
バルベッティ そうそう。あれを取って行って、その後、マンフローニは有名になったのさ。貴族院議員に。
カルレット 「取って行った」なんて言っちゃ駄目だよ、ママ。盗んだみたいじゃないか。あれは草稿だったんだ。新しい論文の為のメモだったんだよ。
チェイ マンフローニ先生はそれを全部調べ直し、発展させ、完成されたのですわ。
カルレット それが彼にすごい名声を与えたのさ。
チェイ 当然の栄誉ですわ。師の名を穢さず、また、師の名を奪うでもなく。
バルベッティ それはペルギアでの噂とは違うものね。いえいえ、ペルギアでは、そんな風に思ってる人はいませんよ。私だったら、あの人にそれを面と向かって言ってやれるけど。
カルレット ママ、何を言い出すんだ。
チェイ それにお嬢様にとっても、運が良かったんじゃないかしら。私、いろいろ聞いている事から判断するんですけど。
バルベッティ 何が運が良かったっていうの?
チェイ マンフローニ先生がロリ家で未編集の原稿を見つけたっていう事ですわ。
バルベッティ そりゃ、マンフローニにとっては運が良かったに決まってるでしょう。
チェイ ええ。でも、お嬢さんにとっても運が良かったんですわ。あの頃はまだほんとにお小さくて。マンフローニ先生は此処に態々いらして研究しなければなりませんでした。亡くなられたシルヴィア様――パルマのお母様――は未編集の論文メモを、それは大切にして、手放そうとなさらなかったものですから。此処に通って来られている頃からマンフローニ先生はお嬢様を大変可愛がられて、シルヴィア様がお亡くなりなった後は先生が、(天涯の)孤児になられたお嬢様をお育てになったのです。お金持ちのマンフローニ先生は独身をお通しになり、お嬢様をご自分の本当のお子様のように養育されました。そして今日この立派な縁組が成立して・・・
バルベッティ 結構! 私の夫への借りをそれで済ませたつもりでいるんでしょう。私の婿に対しても、あの人はちゃんとした尊敬を払ってくれたんでしょうね。
チェイ それはもう何方でも御存知ですわ。ロリ様に対する先生の態度は、肉親の弟に対するものだっていう事を。
バルベッティ そう。私の婿のことだけど、あの人、どうなの? どんな人?
チェイ でも奥様、奥様は勿論あの方を御存知でいらっしゃるんでしょう?
バルベッティ それが全然知らないの、私。シルヴィアが死んで、もう随分経つでしょう? あの子は教師をしていて、父親が死んで、ロ−マにやって来て、このロリという男と知りあって・・・ロリはその頃、文部省に務めていたのね。二人は私に一言もなく結婚。そう、あの子はパパを尊敬していた。厭なこと、いっぱいあったのにね。あの人ったら、朝から晩まで実験、実験、実験。だから私は科学の犠牲者。あの子だって、やっぱり科学の犠牲者だわ。でも尊敬しているもんだから、パパの悪口を少しでも言おうものならそれは大変。分かるでしょう? 娘ですものね。ちょっと優しい言葉を掛けられると、すぐ機嫌を直しちゃう。でも一人前の女だったら終いにはうんざりしちゃう。そう。はっきり言うと、私、うんざりしちゃったの。で、パパとはバイバイ。それからは、あの子とも会ったことがない。あの子が結婚したっていうのも、それから七年後に死んだっていうのも、みんな人づて。だから婿の顔だって知らないの。
チェイ あら、義理のお母様ですのに、お婿さんの顔も?
バルベッティ 全然。
チェイ ではお嬢様のお顔も?
バルベッティ ええ、孫も。
チェイ だったら・・・
カルレット だから僕も言ったんです。自己紹介するのはもっと他の時の方が良いって。母にはちゃんと言ったんだけど。
チェイ それに・・・ちょっと・・・
カルレット ええ、こんな大騒動の時にっていう事でしょう?
チェイ それもそうですし、第一・・・
カルレット 説明に困る。そうでしょう?
バルベッティ 何を言ってるの! 自分の孫の結婚式に、おばあちゃんが贈り物を持って来る。何が変ですか。勿論前日に持って来た方が良いに決まってるけど。それに、随分昔にあった話よ。あの子があれこれ思ったりするもんですか。それに婿にしたってそうですよ。男やもめになってもう十六年。知りもしない自分の妻の父親の事など、何を思うでしょう。(それに、母親のことだって。慥かに私はシルヴィアには酷い事をしました。)でも、婿が妻の恨みなど・・・そうよ、妻の恨みどころか、妻そのものについてだってすっかり忘れているに決まってる。
チェイ ああ、奥様、それは違いますわ。
バルベッティ まだ忘れていないんですって?
チェイ 忘れるどころか、ですわ。私達女の目から見ると・・・何て言えばいいのかしら。あの方の御様子を見ていると、何か変な気持ちになって来るんですの。「変」では、分かりませんわね。そう、「恥」の気持ち。いえ、あの方を恥ずべき人だと言っているのではありません。私達の方。女の方が自分を恥じなければならないような気持ちになるのです。あんなに深く思い出の中に残る女になれるほど、自分は努力しているかしらと。それくらいあの方、奥様を亡くされてから何年も経つというのに、この世がこの世でないような、脱け殻のような生き方をしていらっしゃいます。
バルベッティ 脱け殻? それはどういう事?
チェイ あの方の目。何て表現したらいいのかしら。あの方が物を見つめる姿、耳をすませる姿、それはまるで、自分の知覚が其処に到達するのを諦めているかのようですわ。それがご自分の最愛の娘であろうと、親友であろうと。まるでご自分の回りの森羅万象が希薄になっているとでもいった様子。それはあの方の日常の習慣のせいでもあるのですけど・・・
バルベッティ(身振りを交えて。)習慣って・・・飲む?
チェイ(とんでもないという表情。微笑んで。)いいえ、奥様。お酒は一滴も。(それから悲しそうに。)あそこへ、毎日お通いになるのです。
バルベッティ 墓地に?
チェイ 毎日。雨が降っても、風が吹いても。そして帰っていらっしゃると、あの何時もの表情。まるで遠くから私達を見ているような。
カルレット(ちょっと間のあと。立ち上がりながら。)ママ、改めて出直した方がいいよ。
バルベッティ 坐ってなさいって言ったら。(チェイに。簡単にそんな話を信じられるか、といった様子で。)ちょっと教えて頂戴。その私の婿っていくつなの?
チェイ よくは知りませんけど・・・四十五? ・・・四十六? ・・・
バルベッティ 十六を引くと?
チェイ どういう意味ですの?
バルベッティ 四十六引く十六は?
チェイ 三十ですけど。
バルベッティ 三十。そう三十ね。この人、一体誰を騙そうっていうのかしら。三十で男やもめになって、今でも毎日女房の墓に参るなんて。血もあり、肉もある人間でしょう?木で出来ているんじゃないのよ。
チェイ 誰かを騙す為って(仰るのですね。)
バルベッティ それはそうでしょう? 誰だってそう考えるに決まっている。
チェイ 一目でもあの方をご覧になれば、決してそう仰らないって請け合いますわ。それにもうすぐ・・・
(奥の扉から、お仕着せを着た召使が入って来知らせる。)
召使 皆さんお帰りですよ。チェイさん、お帰りです。
(奥の扉から退場。)
チェイ (立ち上がって。)皆さんお帰りのようですわ。失礼します。広間の方へいらっしゃいますか。
カルレット(立ち上がりながら。)いえいえ、此処の方がいいです。
バルベッティ そう、此処にしましょ。その方がいい。
チェイ ではどうぞ、此処で。
カルレット お祖母さんの話だけにしておいて下さい。お願いします。お祖母さんだけに。
(チェイ、左手の扉から退場。)
バルベッティ ああ、勇気がないったらありゃしない。なんていう馬鹿だろうね。私が付いて来て良かったよ。
カルレット だけどもし酷い扱いをうけたら、どうするの。僕は一体どうすればいいんだ。
バルベッティ お前? お前は何もしなけりゃいいんだよ。
カルレット じゃ、母親が侮辱されるのを、黙って見てるっていうこと?
バルベッティ 誰が私を侮辱するっていうんだい。どうして私が侮辱されなきゃいけないんだい。
(左手の扉からマルティノ・ロリ、怒り心頭に発した軆(てい)で登場。五十歳に達しないのに、髪の毛は殆ど真っ白。身なりはきちんと整えられている。表情に富む非常に鋭い顔。特に目。刻々と変わる感情にその儘動く。しかしながら、この表情が次の瞬間には突然放心したように消えて、悲しそうな従順な、お人よしの心が無防備に現れる。)
ロリ とんでもないこと。随分厚かましい話じゃありませんか。私の家に堂々と姿を表すなんて。
バルベッティ どうやら私の娘婿のようね。
ロリ あなたの娘婿! とんでもない。あなたの娘婿だなんて、とんだお門違いですよ。
バルベッティ ロリさんで?
ロリ ロリ。そうです、ロリです。
バルベッティ もしあなたが私の娘と結婚したのだったら・・・
ロリ あなたの娘、そうです。あなたには分からないのですか。あなたがこの家にいる、そのこと自体が侮辱だって事が。私にとっては勿論、あなたの娘にとって、侮辱だって事が。
バルベッティ おやおや、もう随分年月が経ってるんですよ。そんな昔のことはとっくに・・・
ロリ とんでもない。それに私があなたの娘と結婚した頃、その頃にはとうの昔にあなたはベルナルド・アリアーニの妻であることを、お終いにしていたじゃありませんか。
バルベッティ それはそうかもしれません。でもあの子の母親、それは私ですからね。
ロリ 聞いて呆れる! 母親だって! シルヴィアはあなたを母親と、決して思いたくなかったんだ。あなただってよくご承知の筈です。そう、あの瞬間から。あの理由から。
カルレット すみません・・・ちょっと・・・
ロリ 誰ですか、あなたは。
バルベッティ(素早く息子の弁護のために飛び出して。)これは私の息子です。(カルレットに。)お前は黙っていなさい。此処は私に任せて。
カルレット ママ、止めてよ。(ロリに。)これだけは言わせて下さい。僕に関しては、僕は此処には来たくなかったんです。それに実際、来てはいなかったんです、もし母が・・・
ロリ その方がよっぽど良かったんです。
カルレット 来ないって言ったんだ。母にも強く言ったんです。だけど、あなたもあなたじゃないですか。何の理由があってそんな調子で僕達に・・・
バルベッティ(みなまで言わせず、素早く。)そう、あなたもあなたよ。何の理由があってそんな調子で私達を・・・
カルレット(みなまで言わせず。)母が何の為にやって来たか聞きもしないで。
バルベッティ(みなまで言わせず。)私の孫の為に私が何をしてやろうとやって来たか、その理由を聞きもしないで。
ロリ(自分の主張の線をくずすまいと。)パルマの気持ちは私の気持ちと同じ筈です。あれは母親を尊敬しています。あれの母親が自分の母親に対してどんな感情を持っていたか、良く知っているんですから。
(この時、部屋の左手にパルマの声がする。)
パルマの声 ええ、ええ。もうすぐで終わるわ。
(花嫁衣装を着たパルマが左手から登場。右手の寝室のある扉の方へ急ぐ。十八歳。非常に綺麗である。父親に対してかなりあからさまな冷たさで接する。パルマが登場した瞬間、バルベッティ、両手を拡げて進みよる。)
バルベッティ ほーら、来た来た。まあなんて可愛いんでしょう。
パルマ(困惑して立ち止まる。)申し訳ありませんけど・・・何方(どなた)?
バルベッティ おばあちゃん、あなたのおばあちゃん。あなたは私の孫よ。
パルマ(最初は驚くより、あっけにとられて。)おばあちゃん? これ、どういう事? (それから父親の方を見て、おかしそうに、信じられないといった風に。)私、おばあさんもいるの?
ロリ いない。いないよ、パルマ。
バルベッティ(ロリに。)「いないよ」とは何ですか。(すぐに、パルマに、強く。)ね、あなたのママのお母さんよ。
カルレット(ロリに。)それだけは否定出来ないでしょう。
ロリ 勿論否定はしません。ですが私の方も仕方無しに言いましょう。娘はお祖母さんの事は良く知っているんです。
パルマ(思い出しながら。しかし、祖母の醜聞には興味なく、むしろその人物が此処へやって来たという事実が茶番に思えて。)ああ・・・あなたが・・・そうなの。
ロリ パルマ、もしお母さんが生きていたら・・・
パルマ(人を不快にさせる父親の言葉に苛々して肩を竦めて。)ええ、それはまあ。でも分からないわ、私。私にどうしろと仰るの?
バルベッティ 私が此処に来たのが間違いだって言いたいのよ。
ロリ 大きな間違いだ。
パルマ(苛々して反論する。)間違いじゃないわ。そんなこと、今になったらもう考える事じゃないわ。
ロリ(傷ついて。)パルマ、お前、何て事を。
バルベッティ(すぐに勝鬨を上げて。)そうよ! そうじゃないの。もう考える事じゃない。そうなのよ。可愛い子ちゃん。
ロリ もう考える事じゃない?
パルマ(同じ調子。)そうよ、ママの事、そりゃ分かってるけど・・・でもお願い。私、出かける所なのよ。
バルベッティ そうよ。花嫁なんだものね。もう嫁いで行くんだから、パパに指図する権利なんかないのよ。
ロリ 権利! 私は権利なんかで言ってるんじゃない!
バルベッティ そう。権利を振り回して、私が孫の事を色々思ってやる事だって禁じようとしているのさ。
パルマ(うんざりしてその場所から離れようとして。)止めて。もう沢山。止めて頂戴。
バルベッティ(パルマの前に立って、宥めて。)怒らないで、お願い。こんな綺麗な衣装を着て(怒ったりしたら、衣装が台無しよ。)
パルマ 出かける洋服に着替えるわ。
ロリ(茫然として陰気になり、後ろに下がりながら。)しつこいのかな。こんな風に考えるのは、しつこいのかな。
パルマ そうよ、しつこいのよ。そんな風に考えるなんて。
バルベッティ すみません。私のせいで・・・
パルマ(落ち着きを取り戻し、また、この不意の出会いの忌まわしい部分に改めて気付きながら。)とんでもない。もうずっと昔の話じゃない。ずっと昔の・・・でも何て言ったって、嬉しい驚きだわ。不意に玄関でばったりお祖母さんに会えるなんて。
バルベッティ(すっかり満足して。)なんてお前、綺麗なんだろう。それになんて優しい。(突然息子の方を向いて、贈り物を自分に渡すよう手を出して。)ほら、カルレット、包みを渡しなさい。
カルレット (何の事か分からず。)え?
バルベッティ 結婚の贈り物を持って来たんだよ。
パルマ(父の方を見て、可笑しそうに、もっと寛大になるべきだというように。)ほらね、結婚の贈り物だってよ。
バルベッティ 早くしなさい、カルレット。ぼやぼやしないで。(パルマに息子を紹介して。)これが私のもう一人の子供なの。
パルマ あら。始めまして。
バルベッティ(続けて。)だから、まあ、早く言うと、お前のママの腹違いの弟ってことね。
パルマ じゃあ、義理の叔父さん・・・ね?
カルレット うん、そう。 義理の叔父さんってこと。始めまして。(宝石箱を母親に渡しながら。)ほら、ママ。
バルベッティ (それをパルマに差し出して。)そら、お前に持って来たんだよ。
パルマ(開けて、喜ばせるために大仰に、うっとりとして。)ああ、なんて綺麗、なんて綺麗なんでしょう。
バルベッティ もっと素敵なのをいくらでも持ってるでしょうけど。
カルレット 僕等の祝福の気持ちだから・・・
バルベッティ そう。お前の美しさに相応しい幸せが来るようにと祈ってね。それに、もっと他にも贈り物を考えなくっちゃ。
ロリ(もう黙って居られなくて。)お前のお祖父さんのベルナルド アリアーニはこの女にありったけの金は全部たたき返したんだ。お前のお母さんの結婚の為の持参金として、別に残してあった金までも全部だ。お前のお母さんはお祖父さんがそうしてくれた事に感謝したくらいだった。それからお祖父さんが亡くなって、たった一人になった時にも、誰かの世話になるよりは教師として独立する生き方を選んだのだ。しかしそんな事はいい。もう済んだ事なんだろう。受け取ったらいい。それでいいなら。私が口を開けば、座が白けるだけだ。それにさっきも「そんな権利はない」って言われたし。私の意見はどうせ重んじられはしないんだから・・・
(丁度この時、左手の扉からサルヴォ・マンフローニ、フラヴィオ・グアルディ侯爵、ヴェニエロ・ボンジアーニ公爵、登場。貴族院議員、サルヴォ・マンフローニは五十歳になったばかり。痩せた、背の高い、非常に堅苦しい感じの男。たとえ科学的業績、大学での経歴がなくても、あるいは政治的な経歴がなくても、自分の財産によって貴族院議員になれただろう。他人を抑える意志の力、特に自分自身を抑える意志の力を持つ、生まれついての貴族。 侯爵フラヴィノ・グアルディは三十四歳。まだブロンドの髪、明るいブロンドの髪が残ってはいるが、禿げていて、髪が少ない。顔はピンク色でテラテラ光っている。光沢をつけて、磨かれた磁器に独特の、もろさが見える。低い声で話す。ピエモント風の、イタリア語よりはむしろフランス語に近いアクセント。声の中には人のよいへり下った調子があって、彼のほとんどガラスのような青い目の冷たく、鋭い目付きに奇妙なコントラストをなしている。公爵ヴェニエロ・ボンジアーニはおよそ四十歳。一分の隙もない身嗜み。映画のプロデューサー。世界でも有数の映画製作会社の社長。)
マンフローニ 何かあったのかい?
パルマ 何も。何もないわ。思いがけないお客様よ。ほら見て、フラヴィオ。
フラヴィオ 何だ、まだ用意が出来ていないのか。
パルマ お祖母さんなの。お祖母さんが此処の控えの間で私を待ってくれていたの。
フラヴィオ お祖母さんだって?
ヴェニエロとサルヴォ なあんだって? この人、お祖母さん?
フラヴィオ(ロリを指差して。)この人のお母さん?
パルマ(激しく。)いいえ、有り難いことに違うわ。(すぐにカルレットの方を向いて。)それから待って。お名前は何て言ったかしら。
カルレット(我に返って、愛想よく。)クラリーノです。(会釈をする。)
サルヴォ(呆れて、非難する口振りで。)何だい、パルマ、これはどうなっているんだ。
パルマ(聞こえなかったかのように。)そう、クラリーノさん。私のお祖母さんの息子さん。義理の叔父さんね。(すぐ言葉を継いで、バルベッティに。)だから、クラリーノお祖母さんね。今ご主人は?
バルベッティ いないのよ。だから二度未亡人になっているの。
パルマ(そら見てご覧なさい、といった風。ロリの方を向いて。)ほらね、お祖父様のベルナルド・アリアーニにも、ママにも申し開きする必要なんかないのよ。もっと鷹揚(おおよう)に物事を受け止めればいいの。今やってるみたいに。それに、(フラヴィオの方を向いて、もう新郎の気持ちは分かっているといった風に。)楽しくね、フラヴィオ。丁度今ハネムーンに出発っていう時ですもの・・・
フラヴィオ 勿論だよ。僕について言えばね、僕は・・・
バルベッティ(真面目に。)私がさっき言ったのも丁度そのことだったの。
ロリ(パルマの言葉に傷ついて。)私がああ言ったのは、お祖父さんやママの為だけじゃない。お前自身の為を思って言ったんだ。この家を離れるという丁度その時に、縁起でもない・・・
サルヴォ(ロリの激した声に驚く。場違いで非礼な言い方と見て、すぐに言葉を遮る。ロリに近づいて。)止めんか。もう沢山だ。止めろ! どうしたんだ、ロリ。
(小声でロリを窘(たしな)める。身振りを交えて、この会話、ずっと続く。)
パルマ(サルヴォに言う。サルヴォは聞こえない振りをする。)まるで自分があの人を招待したっていう口振りですものね、サルヴォ。
フラヴィオ(微笑しながら、パルマに。)あとで説明してくれるんだろう?
パルマ 勿論よ、可笑しい話、ホント。
ヴェニエロ おばあちゃんか、それにしても随分保存状態がいいね。
パルマ お金じゃ買えないわ。 映画の登場人物に使えるんじゃないかしら。雇ってあげたら? (フラヴィオに。)あとで説明してあげる。
フラヴィオ 分かってる。だけどもう急がなくっちゃ。
パルマ ええ、ええ。すぐ。でもあの人達をあっちの部屋へ連れて行って。(ボンジアーニに。)あの私の叔父っていう方(ほう)も映画にどうかしら。(それから、声を大きくして、二人をバルベッティの方に連れて行く。)さあいらっしゃい。お祖母さんに紹介するわ。フラヴィオ・グアルディ侯爵。私の夫。こちらはヴェニエロ・ボンジアーニ公爵。(カルレットの方を見て。)カルレットさん・・・でしたわね。
カルレット ええ、カルレット。
パルマ カルレット叔父さん。ああ、こんな役まわりをするなんて思ってもいなかったわ。それも結婚衣装姿で。失礼しますわ。ちょっと着替えてきます。広間の方にいらして。あちらに・・・
(パルマ、右手の扉から退場。)
バルベッティ(眼でパルマを追いながら叫ぶ。)可愛い子、本当に可愛い子。(それからフラヴィオの方を向いて、左手の扉に進みながら。)嬉しいわ、こんなに優しくされて。
フラヴィオ (扉の横にバルベッティを通す為、軆を避けて。)どうぞ・・・
(バルベッティの後、フラヴィオ、退場。)
ヴェニエロ(カルレットに対して同様に。)どうぞ・・・
カルレット(一歩退いて。)いえ、飛んでもない。(彼の方に扉を示して。)お先にどうぞ・・・
ヴェニエロ(先に立って。)そう言えばそうか。貴方は言ってみれば、家族の方ですからね。
(ヴェニエロとカルレット、左手の扉から退場。)
ロリ(マンフローニとの会話を続ける。声高になる。)私はどんな感情でもくだらないと放って置くことが出来ます。でもこの感情だけは駄目です。無理です。サルヴォ、貴方だって知っているでしょう、私がまだこうやって生きているのは、その感情があるから、ただそれだけだって事を。
サルヴォ(激して、ほとんど自分に言っているように。)なんていう話だ。信じられん馬鹿な話だ。(恐ろしい勢いで、早口に。)分かったよ、勝手にしたらいいだろう。固定観念で凝り固まってな。しかし、少しはこっちの身にもなってくれなきゃ困るんだ。君がそんなに依怙地になって、その観念にしがみついているのを見るのはうんざりなんだ。君がそんな馬鹿な状態に自分の身をおいている、その状態から君を引き出してやりたくなるんだ。
ロリ 馬鹿な状態? これを馬鹿な状態と貴方は言うのですか。
サルヴォ 当たり前じゃないか。 君はやり過ぎだよ。決定的にそれはやり過ぎだ。それも丁度パルマが結婚して、君から離れて行くというこの時に。そんな観念はうっちゃっておいたらどうなんだ、え?
ロリ 僕には出来なかった。
サルヴォ この目でちゃんと見ていたよ。だけどどうして君は例の感情を無理やり人に見せなきゃ気がすまないんだ。例の感情、そう、そいつは随分君には役に立った。本来君はもっとパルマの面倒を見てやらねばならなかったが、それもその感情のお陰で免除を・・・
ロリ パルマの面倒、それは貴方が見てくれていたじゃありませんか。
サルヴォ(続けて。)そうさ。誰もパルマの面倒を見てやらなかった。だから私が世話をしたのさ。
ロリ(抗議して。)見てやるものがいない? そんな事はない。
サルヴォ(遮って、苛々しながら。)私は他の人の噂を言っているまでだがね。
ロリ(遠く昔を振り返るように。)知っています。みんなはそんな風に思って私を見ていたでしょう・・・
サルヴォ(苛々して。)思っていたんじゃない。見え見えだったじゃないか。自分の娘に当然構ってやらなければならない時に、神妙に、ふかーい喪に服したりして。(力を込めて、激して。)しかしもう沢山だ。うんざりだ。こんな事は終わりだ。あの子は出て行く。突然降って湧いたようにあの子のお祖母さんが現れたからと言って、そんなに怒る事はないじゃないか。あの子はこれからハネムーンに出かける所なんだぞ。
ロリ(苛々して、悲しそうに、殆ど相手の気持ちに縋るように。)あの女に対する、パルマのあの歓待ぶりを見ても黙っていろと・・・
サルヴォ(だんだん怒りが増してきて。)あれが歓待だと? 君が大袈裟に騒ぎたて、みんなを白けさせて厭な気持ちにしたものだから、パルマはあの女を持ち上げて、機知たっぷりに、陽気な気分を取り戻したんじゃないか。それが分からないのか。
ロリ 私の目の前で、パルマはあの女からの贈物を受け取ったんですよ。
サルヴォ 断ったらよかったのにとでも、言いたい口振りだな。
ロリ それにパルマは金を受け取ると、約束したんです。あれの母親だったら、見るだけでも反吐が出るというあの金を。
サルヴォ(驚いて。)金を出す、などと言ったのか。
ロリ 僕はあの女に、面と向かって言ってやったんです。「そんな事を言って、恥ずかしくはないのですか」と。
サルヴォ(呆れて。)君には分かっていないんだ。(顔を両手で覆う。)何ていうことだ。そんなことをしちゃ駄目だって君には分からないのか。
ロリ 何故駄目ですか。神様のお陰でパルマは・・・(言い直す。)僕の言いたいのは神様のお陰、つまり正確に言えば、貴方のお陰でパルマは、そんな金の助けにならなくって済むって・・・
サルヴォ 何を言うんだ。そのために金がいるんじゃないか。(自分に言い聞かせるように。)酷い話だ。
ロリ そのためにですって? 何故ですか。
サルヴォ その為って言ったら、その為なんだ。君がそれを断るなんていう話が一体(何処にあるっていうんだ。)
ロリ 私には断る権利がないとでも。
サルヴォ ない。君にそんな権利なんかあるものか。絶対にない。あの女にはたいした財産があるのだ。それにパルマの夫だって何て言うか・・・
ロリ 充分に貴方が持参金をつけてくれたじゃありませんか。
サルヴォ 何を言ってるんだ。金ってものは、多すぎて困ることはないんだ。
ロリ(呆れて、悲しそうに。)それは失礼しました。そんな風にお考えとは・・・
サルヴォ 君はどう思っていたっていうんだ。
ロリ 貴方が。ベルナルド・アリアーニを尊敬し、その思い出をあれほど大切にしていた貴方が。そんな風にお考えになっていたとは・・・
サルヴォ(肩を竦めて苛々の極。左手の扉に進む様子を見せて。)ねえ君、もう止めんか。沢山だ。こんな話はうんざりだ。
(この時、大広間からフラヴィオ・グアルディ登場。)
フラヴィオ お邪魔ですか。
サルヴォ いや、全然。どうぞ。どうぞどうぞ。
フラヴィオ(笑いながら、隣の部屋にいるバルベッティのことを。)ああ、あの女、最高ですよ。最高! それからあの息子、あれがまた母親よりもすごいときてる。本気でボンジアーニと契約する気になっているんですよ。ボンジアーニの方はそりゃもう今有頂天ですよ。傑作、傑作。
サルヴォ 少なくとも、君はこれがどんな話なのか分かっているんだろうな。
フラヴィオ 勿論です。茶番ですよ。茶番。(態度を変えて、真面目な顔になり、マンフローニの方に、お互いに分かっているじゃありませんか、といった風に。)分かってますよ。それにしても驚きましたね・・・(手で「要するに、簡単に言うと」の意を表して。)言わぬが花、ですか?
ロリ あの女が厚かましくノコノコやって来るとは誰だって思いもかけませんよ。
サルヴォ そこがこの話の面白い所じゃないか。君はそれを台無しにしたんだ。この茶番を。即興に我々を楽しませてくれた筈の、あのキラキラのおばあちゃんの茶番を。(フラヴィオに。)君に話したいことがあるから後で。まずあのオウムちゃんの所へ行ってちょっと話してくる。一緒に来てくれ。
フラヴィオ パルマは何してるんだ。もう出かける時間なのに。ちょっと行って来ます。
(サルヴォ、左手の扉から退場。フラヴィオは右手の扉に近づき、ノックする。パルマの返事を聞くために、耳をすます。)
ロリ 僕も君に話したい事があるんだが・・・
フラヴィオ(苛々して、冷たく。)ちょっとこっちが・・・(扉ごしに、パルマに。)パルマ、僕だけど・・・(間。耳をすませる。それから笑いながら。)駄目。駄目駄目。僕ははいらないよ。(間。同様に。)もう遅いんだよ、ね。(間。同様に。)ジーナはジーナでいいじゃないか。君だよ。急がなきゃいけないのは。(間。同様に。)うん分かった。それはやっとく。やっとくやっとく。
(急いで奥の扉の方へ進む。)
ロリ 君に言っておきたいんだが・・・
フラヴィオ 失礼。ちょっと急いでいるものですから。
(ロリをそこに放っておいて退場。グアルディの明らさまな軽侮に唖然となる。他人が自分の感情を全く分かってくれないという事実が信じられない。それどころか、彼のその感情が皆に煩わしいらしい。皆は彼の気持ちに係わっている暇などないのだ。パルマはマンフローニの保護を受け、その身近な知り合いとして嫁いでゆき、この中流の生活から、今や上流社会に夫と共に、入ってゆくのだから。長い間、恥ずかしさを一身に感じて、目を中空に固定し、じっとしている。 暫くして右手の扉が開き、チェイが入って来る。旅行用スーツケース(複数個)帽子の箱(複数個)を部屋に入れる。奥の扉が開いて、召使が二、三個ずつ外に運ぶ。)
チェイ(召使に荷物を渡しながら。)これもね、ジオヴァンニ。それからこれと。あ、それは気をつけて・・・一度じゃ駄目。分けて持って行って。
(同じ右手の扉から、やっとパルマ登場。旅行衣装を来ている。手袋を嵌めながら。)
パルマ(チェイに。)ジーナ、車に積み込むものと、新居に持って行くものを、間違えないようによく言っておいて頂戴ね。
チェイ 心配いりませんわ。ジオヴァンニが自分で差配しますから。
召使 はい、奥様。間違いなく。ご心配はいりません。
パルマ(ロリに。)駅まで来るの?
ロリ 行くよ、勿論。
パルマ(奥の扉から、丁度出ようとしているチェイに。)ちょっと待って、ジーナ。あなたもうこれで出て行くのね。
チェイ ロリ様からの御用がもうなければ。
ロリ ないよ。僕はない。有り難う。
パルマ 此処には誰が残るんだったかしら。
チェイ さあ。よくは存じませんが、女中と・・・
ロリ そんなこと問題じゃないよ。本当にそんなこと、どうでもいいことだよ。ねえ、パルマ・・・
パルマ ちょっと待って。ジーナに言って置かなくちゃならない事があるの。
ロリ そう。
パルマ (チェイに。)今日中には帰ってくるの?
チェイ ええ、でももっと早い方がよろしければ、そのように致しますが。
パルマ いいえ。その儘でいいわ。とにかく手紙を書くわ。
チェイ 心配なさらないで。お言いつけ通りに、お帰りまでにはちゃんとして置きますわ。
パルマ あの手箱は気をつけてね。お願いよ。(ロリに。)ママの宝石を整理して下さるのね。
ロリ もう別にしておいたよ。
チェイ では帰る時に私が取りに参ります。
パルマ そうして。じゃあね。ジーナ、キスして頂戴。
チェイ 楽しい御旅行を。それから、繰り返しですけど、お幸せにね。
パルマ 有り難う。でも発つ前にもう一度さよならを言うわ。
(チェイ、奥の扉から退場。)
ロリ パルマ、こんな不愉快な事がこんな時に。
パルマ 黙って。もうあれは終わりよ。もう言わないで。(バルベッティの事を手振りで示して。)あの人、まだあちらに?
ロリ うん。いると思う。
パルマ もう私、行かなくっちゃ。
ロリ ちょっと待って。ひどく気に掛かっていることがあって、どうしてもこれだけは言って置きたいんだ。
パルマ 一體どうしたっていうの? 今になって。もっと前だったら話は分かるわ。でもこんな時に。
ロリ いや、今なんだ。お前が家を出て行くこの今、初めて言えることなんだ。
パルマ でも、話したって全く無駄だったら?
ロリ 無駄? お前は聞きたくないっていうのか。私の一番の秘密、以前もそうだったし、今でも私の一番辛い秘密。それをお前がこの家を出て行く最後の日に話したいというのに、お前には聞く耳がないのか。
パルマ(低い声で苛々しながら。それでもこの儘行くと、聞くのが辛い話になるのを知っていて、出来ることなら、これを避けようとしながら。)聞く耳はあるわ。でも何の話か、私には分かっているんですもの。
ロリ 分かっている?
パルマ(同じ調子で。)ええ、分かっているの。だから言ってるの。無駄だって。今さらそんなことお話になっても。
ロリ 無駄じゃない! 私がどんな思いでこれを耐えてきたか――それはお前だって、お前の苦しみはあったろう――しかし私はこの役を演じなければならなかった。(一瞬黙る。そして深い悲しみを込めて、続ける。)無視される父親というこの役をだ。
パルマ だって私、出て行くんですもの。もう・・・
ロリ 黙っていてくれ! 何故こんな役を演じなきゃならなかったか。それは古い話だ。お前には分かりっこない。小さかったからな、あの頃は。私はお前に知っていて貰いたいんだ。お前が去って行く前に。
パルマ(溜め息をついて、苛々を隠さず、しかし諦めて。)じゃあお話になって。お聞きするわ。
ロリ お前の私に対するその態度・・・
パルマ そんなことないわ。いつだって・・・
ロリ 黙って! お前を非難してるんじゃない。いや、本当だ。お前がそんな風な態度を私に見せる、それは予告ずみだったんだ。ちゃんとした理由づきでね。私はそんなことにならないと反論したんだが。お前のお母さんの方が正しかった。
パルマ ママの話まで出てくるの?
ロリ(強く。)そうだ。予告したのはママなんだからな。
パルマ(父の語調に驚いて。)予告って何を?
ロリ(一瞬黙る。言い始めたことを後悔する気持ち。答えない。口を開くとすれば、「私に対してお前が全く無視の態度を取るだろうと予告したのさ。」と言わねばならない。そこで優しく、悲しみを込めて。)お前を非難しようっていうんじゃない。本当だ。ただお前に言いたかった。私はママが間違っている。ママの言う通りにはなりはしないと証明したかった。ママは厭がった。ひどく厭がっていた。
パルマ 何を厭がっていたの。
ロリ サルヴォ・マンフローニが家に来る事を。お前にかかりっきりになる事を。
パルマ それで?
ロリ 私は苦しんだ。苦しむ事によって、少なくともママの言っている事に疑いをかける権利が得られるんじゃないかと思った。その苦しみはお前には分からなかった。いや、抗弁しなくてもいい。分かっているのだ。今までだってお前には想像もつかなかったし、今だって分かってはいないんだ。
パルマ どうして私に分からないって分かるの。変な話。
ロリ それだ。その口振り。私にきくその口振りが分かっていない証拠なんだ。
パルマ この口振りがそうと仰るのね。冗談じゃないわ。この口振りで言っているからこそ、その苦しみっていうのが分かっているっていう事じゃないの。よーく分かっているっていう事じゃないの。私の財産だって、その苦しみのお陰で出来たんでしょう? 知ってるの。仰らなくても。それとも私がそれを知っていない方がよかったって仰りたいの?
ロリ もし知っていたとしたら、お前が今見せている、その苛々はない筈だがね。
パルマ 苛々じゃないわ。分からないから言ってるの。ママが重くのしかかるのを止める丁度今日という日、みんなも私も、お父様だって、もうこれでママの重圧から逃れられるっていう丁度今、どうしてこんな事を思い出すようにするの。悪いのはそこって言ってるの。御免なさい。だってお父様よ、こんな事、無理矢理私に言わせたの。
ロリ 私は今まで引っ込み過ぎていた。
パルマ そう。引っ込み過ぎていた。でも、引っ込み方がたりなかったとも言えるわ。
ロリ どういう意味だ、それは。
パルマ ねえ! もう今じゃあの人を非難したのが馬鹿馬鹿しかったと思っているでしょう? もう止めましょう!
(左の扉からサルヴォ・マンフローニとフラヴィオ・グアルディ登場。)
フラヴィオ(苛々して。)パルマ、もう出発の時間だよ。
パルマ 用意は出来ているわ。さあ、行きましょう。
(フラヴィオと出て行こうとする。)
サルヴォ ちょっと待って。(ロリに。)君は此処でパルマと別れをした方がいい。
ロリ(驚いて。)何故ですか。駅まで送るつもりでいましたけど。
サルヴォ 此処の方がいい。
フラヴィオ あの二人がいるから。隣の部屋に。
(バルベッティとカルレットのいる部屋を指差す。)
サルヴォ 君が来ると、あの二人も来る。そうすれば・・・
フラヴィオ 私の妹も駅に行くから二人に・・・(会わせなきゃならない。)
パルマ(強く。)じゃ駄目よ。此処でお別れしましょう。
ロリ あの二人を追いだせばいいじゃないか。
フラヴィオ もう決めてあるんです。
サルヴォ そう。君も残ることに決めたんだ。そうでないと二人も来てしまう。
パルマ 残念ね。さあ、じゃあ出かけましょう。
ロリ(顔を強張らせて、両手を拡げて。)そういうことか・・・
パルマ じゃあ、さよならね。
(パルマ、愛情のかけらも見せず、ロリに別れのキスをする。)
ロリ(額にキスして。)さようなら、パルマ。こんな風に突然・・・言いたい事は沢山あったんだけど、今になってみると何も思い出せない・・・幸せにね。
サルヴォ じゃ、出掛けよう。
ロリ(フラヴィオに握手しながら。)君にもさようなら。それから・・・
フラヴィオ ちょっと待って下さい。(パルマの方を向いて。)パルマ、今のうちに隣に行って、二人にさよならして来て。
パルマ ええ、じゃあ、今。
(左手の扉へ退場。)
フラヴィオ(ロリに。)話の続きは?
ロリ(悲しそうに、冷たい調子で。)何も。ただ別れの挨拶を・・・
フラヴィオ じゃあ、これでよしと。貴方へのお別れの挨拶もすんだし、出掛けますか。
サルヴォ よし、出発だ。(ロリに、左手の扉から出る時に。)じゃあ後で、二人だけで。
(フラヴィオとサルヴォ、退場。長い間、ロリは心の中まで冷えきってしまう裏切られた気持ちにうちひしがれ
ている。暫くして、左手の扉からバルベッティとカルレット登場。二人とも無言。一人は顰め面をして、一人は糸のない操り人形のように。退屈でたまらないという様子。)
バルベッティ 私に言わせれば・・・自分の娘を侯爵に嫁がせるなんて、たいした事だわ。
カルレット 僕は嬉しいな。あの人、最初は僕達を見て大騒ぎしたけど・・・
ロリ 今だって同じだ! 此処に残っているのは君達がやって来たからなんだ!
バルベッティ あら、そう。でも娘さんは、(親切にしてくれたわ。)
ロリ 僕が君達をつまみ出すのを止めさせたんだ。そんな醜態をあれの夫に見せたくなかったんだ。
カルレット そう。娘さんは僕等を丁寧に扱ってくれた。
バルベッティ(すぐに続けて。)楽しそうに、嬉しそうに。
カルレット 友達に対するように。
バルベッティ それにあのマンフローニさんだって。あの方の私に話し掛ける口調、お前聞いた?
カルレット でもあの人、あれはあんまり信用しない方がいいよ、ママ。
バルベッティ さあね。娘の為に父親が犠牲になる、それは分かるわ。でもね、こんなに置いてきぼりを食わされてまで・・・
ロリ(怒りでぶるぶる震えるのをやっとの事で抑えて。)出て行ってくれ!
カルレット 分かってますよ、言われなくても。頼まれなくっても出て行く所ですよ。
バルベッティ でも貴方だから言いますけど、貴方の娘さんの家でなら、もっと私待遇がいいんじゃないかな。
カルレット 出よう。出ようよ、ママ。この人、構っちゃ駄目だよ。
バルベッティ 出口は何処?
カルレット(左手の扉を差して。)あっちだよ。さあ!
バルベッティ(出て行きながら。)だけど、変わった人ね、本当に。
カルレット(出ながら。)構わないって言ったら。
(バルベッティとカルレット、退場。その少し前に、奥の扉からチェイ登場。頭に小さな帽子。手にハンドバッグ。出かける服装。)
チェイ(ロリに。)見送りましょうか、あの方達を。
ロリ(侮辱を込めて。)ほっときなさい。
チェイ(少しの間の後。)それでは。もし私にもう御用がなければ・・・
ロリ 有り難う。ないよ。もう行っていい。
チェイ あの、失礼ですけど、花がこんなに沢山あって。
ロリ(初めて花に気付いたように。)そうだな。何とかしなくちゃ。僕だけが残る、この家に。花だけが僕と一緒に。
チェイ ええ、ちょっと邪魔になるくらい・・・
ロリ あの子が全部置いて行ったものだから・・・
チェイ 残念ですわ、こんなに綺麗なのに。
ロリ ああ、持って行きなさい、持って行きなさい。好きなだけ。全部でもいいよ。
チェイ 有り難うございます。では少し、この辺のを。
ロリ ねえ、ジーナ。父親だったら、どんな犠牲だって可愛い娘の為なら大き過ぎるってことはない、って言うのが君の意見だったね。
チェイ ええ、お父さんによりますけど・・・この薔薇、なんて綺麗なんでしょう。(籠の中の薔薇を指差す。その籠から数本取りながら。)ほら、綺麗。
ロリ うん、綺麗だね。取って行きなさい。僕も少し持って行こう。(時計を見る。)
チェイ(暗い言い方で、墓参りの彼の習慣に言及して。)今日もいらっしゃいますの?
ロリ あの二人のお陰で、見送りがふいになってしまった。 あれには花を持って行ってやろう。あれの娘の花を。そして私の愚痴を聞いて貰おう。どうせ聞こえはしないだろうけどね。
(幕)
第 二 幕
(グアルディ家の豪華な大広間。広間の奥の方は持ち送りで支えられた枠組みの見える低い天井になっている。奥の壁には、枠が鉛の小さな四角(複数)の半透明のガラスで出来ている窓ガラスのある二つの扉。右の扉からは、庭に降りることが出来、左の扉が家の内部に通じる。二つの扉の間に暖炉。観客からは殆ど見えない。なぜなら、その前にソファがあり、背凭れが観客の方を向いているから。このソファは暖炉と面して、部屋の中にサロン風な親しみのある一角を作っている。
ソファの背凭れの後ろに、六本足の小さな、古風なテーブルがあり、その上に花の生けてある素晴らしい花瓶がある。そのテーブルの両側に絹のカバーのついた背の高いランプ。舞台の前面には椅子(複数)スツール(複数)が置いてある。左手に又別の、窓のついた扉二つあり。観客に近い方の扉は食堂に通じ、もう一つはビリヤード室に通じる。舞台の前面、主要扉のある方、即ち舞台の右手に八角形のテーブルあり。その上に、雑誌、花瓶、小装飾品が置いてある。また革の大きな肘掛け椅子があり、その傍に背の高いランプ。(他の二脚と同様のもの)、エレガントな椅子(複数)上に厚いクッションがのせてある。広間の他の家具は、右手とフレンチウィンドウの間に、また、左手の二つの扉の間に置かれている。すべてこの家の主人のよい趣味にあった豪華でかつ地味なもの。照明も申し分ない。)
(幕が上がると無人。 暫くするとフレンチウィンドウから、パルマとマンフローニ登場。散歩から帰って来た所。後ろに召使。マンフローニ、召使に、帽子と外套を渡す。召使はすぐに奥に退場。その間二人は庭で車を降りた時から始まっていた会話を続ける。)
サルヴォ (召使に外套を脱がせている間に。)それは勿論そうだよ。だけど方法はある。私の信念なんだが、(召使退場。)何時だってやり方はあるんだ。自分が正しいと思っている意見を他人に植えつけるやり方。他人がそれを大事なものと思うようにするやり方。
パルマ(強く。手袋をはづしながら。)そんな事をしたら、鼻もちならない人間になるわ。
サルヴォ それが違うんだ。逆にね、こちらの得にもなる、このやり方だと。
パルマ でも私、最近本当に沢山のことが気にかかって・・・
サルヴォ 何も気がついてないっていう振りをして、よく相手の言う事を聴くんだ。フラヴィオの話は単なる言 葉、言ってみれば、話のための話だ。それが気になるんだろう?
パルマ ええ。空論。何の現実も伴わない、ただの言葉遊び。
サルヴォ そう。だけどそれに命を吹き込むんだ。その空論に意味があるようにするんだよ。
パルマ でもどうやって? 空論には意味がないのよ。
サルヴォ そこだよ、パルマ。君が自分でそれに意味を与えるんだ。自分に一番都合のいい意味をそれに持たせるんだよ。それから、その意味は自分がつけたのではなくて、彼の方が最初から与えていた意味であるかのように。分かるだろう? そうすれば彼は世界で最も幸せな男になるんだ。だって自分があてずっぽうに言っていた言葉に意味があるんだからね。こんな風にして、少しづつ彼を自分の考えに変えていくんだ。ただそういった考えがいつでも彼の方から出ているんだって錯覚するようにしなくちゃいけないよ。言っている事が分かるね?
パルマ ええ。でも難しいわ。
サルヴォ それはそうだ。易しいとは言わない。だけど世の中っていうのはね、言っておくけど、こうやる以外には方法がないんだよ。
パルマ 随分辛抱がいるわ。
サルヴォ そう。それ。辛抱。辛抱しかないんだ。(それから、非常に低い声で。)それにこの家では用心しなきゃならないのはフラヴィオだけじゃないよ。
パルマ(サルヴォの顔を一瞬見て、訊く。)ジ−ナのこと?
サルヴォ 鼻をつんとさせて狡い顔だ。狐みたいな奴だ、あれは。
パルマ そんな風になったのは最近。こっちに来てからよ。
サルヴォ なんだ。君も気がついていたのか。
パルマ 今は何か人を寄せつけない雰囲気。
サルヴォ ロリとは相変わらず親しくしているんだね。
パルマ ええ。それについて私達がどう感じるかってことも、あの人よく知っていて・・・
サルヴォ シッ。噂をすれば・・・
(奥の第二の扉からチェイ登場。パルマに近づき、帽子と肩掛けを脱がせる。)
チェイ 他に御用は? 奥様。
サルヴォ 今晩は、ジーナ。
チェイ 今晩は、マンフローニ先生。
パルマ いいわ、ジーナ。私ちょっとあっちの部屋へ。(サルヴォに。)失礼しますわ。
サルヴォ どうぞ。だけどすぐまた外出しなきゃならんよ。お母さんがね・・・
パルマ また? いやな仕事。
サルヴォ いつもの風邪だよ。
チェイ ええ、奥様。マンフローニ先生に先程ご連絡がありました。
サルヴォ(すぐにチェイに。)ひどい風邪じゃないんだね。
チェイ ええ。いつもの・・・
サルヴォ(パルマに。)君は行かなくっちゃ。
パルマ ええ。なにしろ辛抱が肝心。
(パルマ、奥の第二の扉から退場。サルヴォ、八角形のテーブルの傍に行き、雑誌を手に取る。立った儘ページを捲る。)
サルヴォ ねえ、ジーナ。君の教えを乞いたいんだがね。
チェイ まあ、何を仰います、マンフローニ先生。
サルヴォ(チェイの方を見ず、頁を捲りながら。)君の目に惚れ惚れしているんだ。
チェイ まあ。でも私の目、綺麗ではありませんわ。
サルヴォ 綺麗だよ。しかし私が惚れ惚れしているのは、その目が鋭いからなんだ。
チェイ 鋭い?
サルヴォ 鋭い。つまり見逃さない目なんだ。それだけじゃない。そう見せないんだ。
チェイ 見逃さない目をしているんですか、私が?
サルヴォ 正にそう。しかしそう見せない。だから、繰り返し言うが、君の目を見習いたいんだよ。
チェイ 目をですか?
サルヴォ それそれ、それだよ。つまり例えばそういった質問を、何を言ってるかよーく知っているのに、知らない振りをして、出来るっていう、それを見習いたいんだ。
チェイ(ほとんど挑戦的に。)ああ、知らない振りをする技術ですね。
サルヴォ(すぐには答えない。雑誌を読むのに没頭しているかのよう。暫くして指で違うという合図をして、少しの間の後、続けて言う。)その方は簡単な技術なんだ。無知を装えばいいことだからね。もっと難しいのがある。それはあいつは知っている筈だと誰もが思っていて、確かに自分も知っていて、知らない振りをする場合だ。(自分の言った事を緩和させる為に、これから言う事はさして重要ではないという様子で。)おまけに他の連中は全員その事を知っていてね。
チェイ ええ。それで?
サルヴォ それで騙される。しかしこの場合は、単に無知を装うのに比べてずっと難しい。不自然さを出さないのが大変なのだ。そんな事を知らない訳がないと、皆思っているからね。やり過ぎると馬鹿だと思われるし。
チェイ そういう事にもなります。でもそれはきっと技術なんかではありませんわ。
サルヴォ 技術じゃないって? じゃ、何だい。
チェイ きっと余儀無く、仕方無く、そうするんですわ。
サルヴォ そうか、ジーナ。余儀無く、仕方無く、人はものを学ぶ。それしか学ぶ方法はないんだね、きっと。
(この時、奥からフラヴィオとヴェニエロ登場。二人とも夜会服姿。)
フラヴィオ ああ、此処に。
サルヴォ うん、さっきからね。
(チェイ、奥の第二扉から退場。)
ヴェニエロ おめでとうございます、マンフローニ先生。
サルヴォ 有り難う、ヴェニエロ。
フラヴィオ(サルヴォに。)教えて下さい。名誉会員なのですか、常任会員なのですか。
サルヴォ(そんなことを今更訊くのかという調子で。)常任だよ、常任。
ヴェニエロ 外国のアカデミーの、それに特に、あのアカデミーの、名誉会員でも大変なのに、常任会員だって。でもちょっと不思議だと思っている事があるんですが・・・
サルヴォ(またか、という顔。)もういいよ、ボンジアーニ。もう止めてくれないか、お願いだ。
ヴェニエロ 一言だけ。お願いです。先生がこの地位にお着きになった事について皆が・・・
フラヴィオ ええ、聞いて下さい。皆が議論しているんです。先生があんなにご自分の業績を御謙遜になって、ご自分の発見は・・・
ヴェニエロ 一部だと。
フラヴィオ そう。一部だなんて。そして本当の発見の功績は、ベルナルド・アリアーニにある、だなんて。
ヴェニエロ あの発見は先生お一人のものに決まっているのに、と皆は言っています。
(この会話は軽く行われる。事柄それ自体に、大きな意味がなく、社交辞令のように。)
サルヴォ 君達の仲間の人達はどうやら、ちらとでも私の本を読んではいないようだね。
ヴェニエロ ああ、それはそうです。
フラヴィオ どうしてですか。先生の本にはその辺の事情が・・・
サルヴォ ねえ、君達。その辺の事情を私は序文に書いておいたんだ。私の業績の大切な部分はベルナルド・アリアーニにありとね。だから連中がみんな、そんな事は書かなくてよかったと言っているのさ。もし私がそれを書かなかったとしたら・・・
ヴェニエロ 人は反対の事を言っていたろう、か。
フラヴィオ 何も知りもしない癖に。
サルヴォ とんでもない。よーく知っているんだ。ベルナルド・アリアーニの論文の中には何のヒントもないって事をね。この発見を匂わせるようなものはこれっぽっちもない。ただ彼が何か別の事を論じていた際、ちょっと心にかかった物理学上の問題をついでに指摘した事がある。その事をよーく知っているのさ。しかしもう、この話は止めにしよう。(調子を変えて、次の話題になって初めて会話が重要で面白くなったかのように。)そうそう。あの分裂騒ぎ、あれはどうなった?
フラヴィオ ああ、あれですか。茶番、茶番以外の何物でもないです。
ヴェニエロ 単なる会費の二重納めですよ。それも今日の日付から始まるんです。
フラヴィオ 新しいクラブに加入する為、今日は全員署名しに行ったんです。
サルヴォ ははあ。(笑う。)
ヴェニエロ 団体行動です。雪崩ですよ。
フラヴィオ 今夜が設立記念の集まりなんです。
ヴェニエロ 一緒にいらっしゃいますね。
サルヴォ 冗談じゃない。
フラヴィオ それはいけません。御一緒にいらっしゃらなければ。
ヴェニエロ 連中にはもうそう言ってあるんです。
フラヴィオ 先生が欠席なさって、あの会がどうなるとお思いですか。
サルヴォ ああ、駄目駄目、君達。私は此処から動かないよ。(八角形のテーブルの傍にある大きな皮の肘掛椅子に坐る。というより、長々と身を横たえる。)いつもの夜と同様、此処から動かないよ。
フラヴィオ いけません。じゃあ、力づくでも連れて行きます。
サルヴォ 私を連れて行く? 君達は知らないんだよ。 私がどんなに高い代償を払って、この肘掛椅子を贏(か)ち取ったかということを。
フラヴィオ さあ行きましょう。たった一晩じゃありませんか。
サルヴォ 私は此処にいるのが幸せなんだよ。毎晩食事が終わって、じっとしていると、ジオヴァンニがやって来て明かりを消す。私は此処に一人残される。殆ど暗闇の中にね。
ヴェニエロ 先生、それはひどいですよ。私達に恥をかかせるんですか。
フラヴィオ それに、今夜はパルマも此処にいませんよ。
(パルマ、奥の第二扉から登場。)
パルマ 私のことを話してらした?
ヴェニエロ 今晩は、パルマ。
パルマ 今晩は、ボンジアーニ。何かありましたの?
ヴェニエロ どうか先生に説得してくれませんか。新しいクラブの設立式だというのに、先生は行かないと言ってきかないんだ。
パルマ ああ、あれは今夜なのですの?
フラヴィオ(サルヴォに。)そうだ。パルマから頼んで貰えれば来て下さるでしょう?
サルヴォ パルマでも駄目。誰でも駄目。
フラヴィオ ああそうだ、パルマ。お前、今夜ママの所へ行ってくれなくちゃ。
パルマ どうしてもなの?
サルヴォ そう。駄目だよ、どうしても行かなくっちゃ。
フラヴィオ さっきママに会って来て、お前が来るからと言っておいたんだ。長くは居なくていいから。
サルヴォ うん、そうか。 少しの時間でいいんだな。じゃあ、私は此処に残っている。パルマの帰りを待ってね。何時もの通り。
フラヴィオ 僕を怒らせるんですか、先生!
ヴェニエロ 待って、待って。来てくれるよ。
サルヴォ 私は行かない。
パルマ かわいそうに。ほっといてあげなさいよ。
ヴェニエロ 駄目だ。絶対に行って貰わなくっちゃ。
フラヴィオ 先生を連れて行かなかったら僕達あそこへ入れてくれませんよ。先生だって分かってるでしょう?
サルヴォ なら、行かなきゃいい。
パルマ 行きたくない人を無理矢理連れて行こうとするのね。なんて我儘なんでしょう。私が先に出て行くわ。
フラヴィオ そうか。やれやれ。ママのところか。
パルマ そう。覚えておいて頂戴。もし私が帰って来て、サルヴォが此処にいないようなら、私、帰ってなんか来ない。一晩中あっちにいるわ。貴方はその間、たっぷり楽しんでいらっしゃるのね。
サルヴォ 大丈夫、大丈夫だよ。私はちゃんと此処にいるから。ほら、この姿でね。
(この時、舞台の奥でマルティノ・ロリの声がする。)
ロリ 入ってもいいですか。
(全員苛々した様子。)
フラヴィオ(低く溜め息をついて。)あーあ、やれやれ。
(会話、急に止む。その間ロリ、躊躇いながら、全員の冷たい視線の中を前に進む。)
ロリ 今晩は、皆さん。お邪魔でしたでしょうか。
パルマ いいえ、ちっとも。
サルヴォ さあさあ、入って。僕は失礼して立ち上がらないよ。
ロリ(この時までにフラヴィオ、ヴェニエロと二人で話をする為に隅に引っ張って行っている。が、そのフラヴィオに、ロリ、近づいて。)今晩は、フラヴィオ。
フラヴィオ(殆ど振り向きもせず。)ああ、失礼。今晩は。
ヴェニエロ 今晩は。
(ヴェニエロ、ロリと握手する。)
パルマ(ロリに。)さあ、こちらに坐って。
サルヴォ さあ、マルティノ、僕の横に。
フラヴィオ(低く、ヴェニエロに。)これはうまい展開になったぞ。見てろ。こうなったら、彼は我々と一緒に出掛けるぞ。
(二人、左の扉の方へ進む。)
サルヴォ おい、君達二人、何処へ行くんだい。
フラヴィオ ビリアード室へ、ちょっと。
パルマ すぐ食事よ。
フラヴィオ パルマ、ちょっと用事があるんだ。こっちへ。
パルマ 何なの。
フラヴィオ ちょっと話したい事があって。さあ・・・
パルマ ちょっと失礼しますわ。
(フラヴィオ、ヴェニエロ、パルマ、左の扉から退場。)
サルヴォ(疲れた様子で、溜め息をついて、肘掛椅子に坐った儘。)さあて、話って何だろうな。
ロリ(当惑して、怒りのため喉が詰まる。面目を保つため、やっと小さな声で笑い声をたてて。)あ、二人、取り残されたっていう訳ですね。(ややあって。)私に知られたくない、何か拙い事を話していたようですね。
サルヴォ そんなことを話してやしないよ。今夜は新しいクラブの設立式でね。もうあらゆる仕事から引退だって言っているこの僕を、無理矢理連れて行こうとしていたんだ。引退だよ。君と同じさ。君は評議員をやめたし、僕も世間のあらゆる関わりから手を引いたし。
ロリ 手を引いた?
サルヴォ そう。あらゆる関わりからね。
ロリ(心から残念そうに。愛情を込めて。)それはよくありません。その気になれば、どんなものだってその手の中に入るというのに・・・
サルヴォ 有り難う。だけどもう飽き飽きするぐらい手に入れてしまったよ。実際は何かを手に入れようと思えば、与えて、与えて、与えなきゃ駄目なんだ。そして最後に収支決算をしてみると、結局の所、受け取った物の方が、与えたものより・・・
ロリ 少ないです、勿論。ですから私は受け取った物の価値は、それ自身では決めないことにしているのです。どうせ小さいに決まっていますから。
サルヴォ それ自身では決めないっていうのはどういう意味だね。
ロリ 与えた量によって決めるんです。
サルヴォ それなら私の言った決め方と同じじゃないか。収支決算をする。必ず収入の方が少ない。破産だ。
ロリ そうではありません。たとえそう見えたとしても、私は自分に言い聞かせるんです。私が受け取ったこの量は、私が与えた全てのものによって得ることが出来たのだ、と。ああ、私の場合に、その逆になっていませんように!
サルヴォ(ロリの自分自身への言及に苛々して。)なんだ、君、話題を変えて、話を自分の事にするのか。
ロリ いいえ。私だって、与える事と受け取る事、これが問題なのです。
サルヴォ 父親というのは、いつだって無条件に与えるだけだろう。
ロリ ええ、おまけに・・・
(「受け取るものは何もないことになっています。」とつけ加えようとするが、サルヴォ、その暇を与えず。)
サルヴォ(話題を変えるために乱暴に遮って。)ねえ、君。君は退職に際して、最高金額を受け取ったんじゃなかったかい?
ロリ(傷ついて。)どういう事でしょう?
サルヴォ(知らない風で。)別に。ちょっと訊いてみただけだがね。
ロリ(以下の遣り取りで、ロリ、傷ついて、苛々する心と苦しみをやっと抑えるが、その激しい動きでそれと分かる。サルヴォはロリのその感情に水を差すように、全く違った調子で質問し、また答える。)これまで一度だって貴方はその地位、立場を利用して、私を威圧するような事はありませんでした。
サルヴォ 君は一体何を言い出すんだ。
ロリ いつだって、これ以上はないという親しみの態度で・・・
サルヴォ 当たり前じゃないか。
ロリ 真心をもって・・・
サルヴォ そりゃそうさ。
ロリ 親しい言葉つきで話して下さる。私の方だって自然に、そのお返しをしなければならないような具合に。でも私にとっては却ってそれが苦痛だったんです。 何故って、貴方と私との関係、その外見の友達関係に、貴方の方が一段上にいるという事実が透いて見えたからです。
サルヴォ なんだい、これは。奇妙な事を言い出すじゃないか。
ロリ いいえ、いいえ、話させて下さい。話さないともう胸が張り裂けそうで・・・
サルヴォ 何故。
ロリ「何故」と仰る。それが私へのお言葉ですか。
サルヴォ ねえ、君。私はただ(君が辛いと言うから訊いたまでなんだ。私は・・・)
ロリ いいえ。(私が辛いのは、分かっていらっしゃる筈です。でも、)貴方のせいではありません。他のみんな、此処にいるみんなのせいです。あの男は私の手からだったら、パルマを妻にはしなかったでしょう。貴方からだったから・・・
サルヴォ 何を言い出すんだ。
ロリ 私には分かっているんです。私の手からだったら、承諾などしなかった。地位も違う、性格も、教育も。
サルヴォ そんな事は最初から分かっていた筈だ。
ロリ そう、そうです。だから当然です、私を見て不快なのは。あからさまに厭な顔をするのは。
サルヴォ そんな事はない。
ロリ あからさまに厭な顔をする。この言い方は間違っているかも知れません。しかし独特のやり方で、私と距離を置くんだ。
サルヴォ それは仕方ないじゃないか、君が・・・
ロリ ええ、慥かに私の態度も最初があまりに率直、今はあまりに控え目。それがいけない。そうでしょう。
サルヴォ(我慢出来なくなって。)控え目なんていう態度じゃないよ、君のは。奇妙な振る舞いだ。第一、私に対してだって・・・
ロリ(驚いて。)私がですか?
サルヴォ もっとはっきり言おう。世の中には最初から受け入れられる状況と受け入れられない状況とがある。しかし、一旦ある状況を受け入れたら、その役割を演じなきゃいけない。余計な不愉快事は自分もこれを避け、他人にも降り掛からないようにする。これが心得だよ。
ロリ じゃあ、私は此処へ来ない。出来るだけ此処へくるのを遠慮する。その方がいいと仰るんですね。
サルヴォ 必要があるのかな、一體。
ロリ(当惑して。)どういう意味ですか。私が此処へ来る必要がないと?
サルヴォ 今君はそんな顔をしている。それを見ると私はね、私が呆れて唖然とするのを、ただ君は楽しんでいる、そうとしか思えないね。此処へくるな! 此処へ来るななんて誰も言ってやしない。来ればいい。だけどこれからはもっと、場に合った雰囲気をもって来て貰いたい。他の人が君の顔を見て、当惑しないですむ顔をしてね。
ロリ でも、私からすれば・・・
サルヴォ 君は最初から駄目だったよ。これはもうさっき言ったがね。だから今更どう変えて貰えばうまく行くのか、見当もつかない。もう少しみんなが困らないですむ態度を思いついてくれないか。そうすれば、誰もが助かるし、第一君だって楽な筈だ。こんな事を言うのも、分かってくれてはいると思うが、君の事を思ってなんだ。要するに君が僕にとって大事な人間だからだよ。勿論これは今日に始まった事じゃないがね。
ロリ 急にたった一人になった気がして・・・以前は少なくとも友情のお裾分けを戴いていたような気がしていました。この何年というもの、毎日私の家へ来て戴いて・・・
サルヴォ それだけの事をしたんだから、今此処に私がやって来て、平気な顔をしていても、許して貰えるんじゃないかな。
ロリ ええ。でも私が言いたいのは、私は最小限、恥だけはかきたくないっていう事です。あんな風な扱いを受ける。これは侮辱です。それも全くの赤の他人に。
サルヴォ ボンジアーニは赤の他人じゃない。ねえ、君。結果を論じるには原因を知らなきゃならない。君は結果を云々出来ないんだ。 原因が見えていないんだからね。私はずっと君を見ている。だから私には君が態々この結果を求めてきたように思えるんだ。勿論こういった事情を全く知らない者から見れば、慥かに連中の君への態度は酷いと思われるかもしれない。いや、きっとそうだろう。だけどボンジアーニは我々が知っている事はみんな知っているんだ。君が知っている事だってね。だから私は言っているんだ。状況それ自身がそういう風に変わっているんだから、君だって、今までの態度はやめて、変わってくれなくっちゃ、と。
ロリ でも、どういう風に変わればいいんでしょう。
(第一の扉、左手からチェイ登場。)
チェイ 皆さん席にお着きですよ、マンフローニ先生。お食事の用意が出来ています。
(第二の扉、左手からパルマ、フラヴィオ、ヴェニエロ、登場。)
フラヴィオ さあさあ、サルヴォ。急がなくっちゃ。
サルヴォ 分かった、分かった。今行く。(フラヴィオ、ボンジアーニと共に扉の方へ進む。)
パルマ(ロリに。)一緒にいらっしゃる? (食堂の方を指差す。)
ロリ いや、暫く此処にいる。
パルマ いつも、夕食はもっと遅いの?
ロリ 遅い。うん。
フラヴィオ(サルヴォ、ヴェニエロ、三人で食堂に入りながら。)さあ、早く、パルマ。
パルマ 今すぐ。ジーナ、食堂に来る? それとも此処に残る?
チェイ 残りますわ。
(パルマ、他の人物達と、左手第一の扉から退場。次の場の間中、四人の会食者の話声、笑声、皿の音が時々聞こえて来る。)
ロリ 何かする事があるんじゃないかい。私に気を使わなくっていいよ。
チェイ いいえ。何もありませんわ。
ロリ 私はまだ暫く此処に残っているつもりなんだ。パルマに話があるからね。
チェイ(会話の主題を変えたいかのように。)マンフローニ先生が新しい地位にお着きになったのを御存知ですか。
ロリ(思い出して、自分の迂闊(うかつ)さを悔やみながら。)そうか! 新聞でそのニュースを知っていたんだ。それなのに忘れていた。
チェイ(低い声で、そんな小さな後悔など問題にならないというように。)机の中にあるメモの束はもっと注意して管理なさらなければいけませんわ。
ロリ 跳び上がる。苛々しながら、同時に呆れたという様子で振り向く。)どうして知っている?
チェイ(冷たく、無感情の声で。)覚えておいでになりましょう。私はお役所に伺いに参りました。何時此処に、パルマ様の宝石を持って参ったら宜しいか。ええ。此処に持って来る分だけ、別にしてあるからというお話でした。
ロリ うん。覚えている。それで?
チェイ 机の鍵を私にお渡しになりました。
ロリ そうだった。で、まさか・・・
チェイ お許し下さい。好奇心に負けてしまって・・・
ロリ しかしあのメモは研究の覚書だ。単にアリアーニの業績の下書きにすぎない。君が読んだって、何も分からない筈だが・・・
チェイ 私にはみんな分かってしまいました。
ロリ それは無理だ。公式に計算に・・・(それしか・・・)
チェイ ご自分の手でお書きになったメモがありました。「天国にいるシルヴィア、僕のことを許してくれ。」
ロリ(秘密を知られて茫然として、またこの為にマンフローニに起こりうる災難を予感し、恐怖をもって。)ああ、あのメモ・・・私はあの時、妻に対して自分を正当化する必要を感じて・・・
チェイ(すぐに。)ご自分が罪を犯すのは構わないと・・・
ロリ(かわす言葉を捜そうとして、また自分を正当化しようとして。)いや、私はそんな事は言っていない。(自分の正当化はすぐ諦め、命令の調子でつけ加える。)君、それは言わないで欲しい。(次にまた懇願の口調、表情で、この言葉を和らげるように。)約束してくれ、ジーナ。約束して・・・
チェイ 寛大ですわ。とても寛大すぎて・・・
ロリ(さらに熱心さを強めて懇願する。 動揺を一層あらわにして。)いやいや、何も言わないと約束してくれ。頼む。君の最も神聖なものに賭けて。約束してくれ。
チェイ(心配そうに食堂の扉の方を眺めながら、落ち着かせようと。)約束しますわ。でも人に気付かれないようになさらなければ。
ロリ 私は何も言わなかった。言ったら、こちらの方があの男に対して罪を犯すような気がしたんだ。あの男はアリアーニに対して犯した罪を、私の娘に対する親切で贖ってきたんだ。被害を被っているアリアーニだって、充分な名声、栄誉は受けていることだし・・・(興奮して。)ああ、あの書類は破棄しておくべきだった。
チェイ そんなことをなさってはいけません。それだけは決していけません。マンフローニさんだって、こちらにあの書類があるなんて思ってもいない筈ですし。
ロリ 書類を見つけたのは、妻が死んでからずっと後だった。そして、あれの意志に反して、父親の書類という書類はすべてマンフローニの手に入っていた。
チェイ きっとそういったもの全てを、あの方は処分してしまってますわ。
ロリ お願いだ、ジーナ。お願いだから、私の気持ちを分かってくれないか。
チェイ 分かっていますわ。でも、あの方のなさり方、あんまりですわ。こちらが感謝しているのを良い事に・・・どんな意地悪だって、その気になれば出来るって事を、教えてお上げになればいいのよ。
ロリ そんな事は出来ない。
チェイ 分かってますわ。そんな事は決してなさらないって。でもあの方、それに此処の他の方達みんな、なんていう態度なんでしょう。あの書類がこちらにあるって、あの人達にもし分かったら・・・
ロリ あれは処分する!
チェイ それはいけません!
ロリ 私はマンフローニに、あれをとっくに返していたところだ。私がそれをしなかったのは・・・
チェイ あの方を怒らせたくなかった。
ロリ それだけじゃない。君には分からないだろう。私があれを見つけた時の気持ち。勿論私は憤慨した。それまでにあった彼への尊敬、大きな憧れの気持ち。それはいっぺんに消し飛んでしまった。が、憤慨だけがあったんじゃない。彼の弱さ・・・誤解しないで。彼を許しているんじゃないんだ。しかしとにかく、彼には弱さがあった。自分の手中に転がり込んで来た望外の拾い物、それをうかうかと利用してしまう弱さ。犯罪への誘惑に抵抗することが出来ない弱さ。
チェイ そんな事をお考えになるなんて! あの方は罪を犯してしまっているんですよ。
ロリ そう。確かに罪だ。しかし彼をよーく観察した事があるかい? それによって、ちっとも幸せになってはいない。却って後悔している様子じゃないか。
チェイ 私はそんな風にあの方を見ていません。少なくとも此処ではあの方は・・・
ロリ 我儘だ。確かに。この何年というもの。しかし、昔は違っていた。だんだん気難しくなってきたんだ。しかし、偉ぶっているとは言えないんじゃないか。
チェイ ふりだけですわ。
ロリ それは違う。私にとってもっと大事なことは其処にはなくて、私自身の方にある。もっと大事なこと。それは何故私が黙っていたか、その理由だ。沈黙は亡き妻への裏切り行為だ。何故なら妻は、父親の業績、その名誉、を非常に大切にしていたんだから。それを私は黙っていた・・・
チェイ そうですとも! 亡き奥様の為にも、黙っているべきではありませんでしたわ。
ロリ それを黙っていた。丁度そこだ、私の気持ちが分かって貰いたいのは。そこさえ分かれば、その他の事、私の生き方、振る舞い、全部容易に分かる筈だ。私は罰として、当然の罰として、あの娘(こ)の人生、幸せ、財産、を分かち合う権利がないと自覚したのだ。私は出来る限り、あの娘とは離れていようと決心した。連中が私を避けて、近づけないようにしているのは、私にとって却って有り難いくらいだ。
チェイ ああ、それであの人達とは距離を置いて・・・
ロリ そう。一緒にいると共犯者になったような気がして・・・
チェイ 分かりますわ。
ロリ この罰を受けて、連中から私がこんな風に扱われてはじめて、私の言い訳がたつ。別の言い方をすれば、この扱いを受けてはじめて妻の思い出への払っても払いきれない負債を少しは返せることになる。これが私の考えだ。
チェイ 分かりました。ですからあんな風にじっと辛抱していらっしゃるのですね。でもそれであの人達が許される訳ではありませんわ。
ロリ そう。そうなんだ。少なくとも連中がもう少しは、礼儀を心得て、私を怒らせないでいてくれたら・・・ふりでもいいんだ。ふりでもしてくれれば。あの儘じゃ、君のような人にだって、正義感を起こさせるじゃないか。
チェイ 正義感ですって? 憤慨ですわ。普通の態度をとる方がずっと易しいっていう時に、態々。
ロリ そう。あの人に言ったのがそれだ。今それを言ったんだ。娘にも言おうと思っている、必ず。(再び哀願の調子で。)しかし君、あれだけは、(言わないで・・・)
チェイ(急に止めて。)シッ。人が・・・
(パルマ登場。観音開きのガラス扉を開いて、出て来る部屋の内部に向かって呼ぶ。)
パルマ ええ、すぐ。あら、じゃあ残るのね。
サルヴォの声 うん。残る。残る。
フラヴィオとヴェニエロの声(それぞれバラバラに。)いや、出席してくれる。来てくれる。来てくれる。
サルヴォの声(二人を圧するように。)とんでもない。残ると言っているだろう。
パルマ そう。じゃ、それでいいわ。 (観音開きの扉から手を離す。奥の第二の扉の方に急ぎながら、チェイに。)ジーナ、ちょっとこっちに来て頂戴。
(パルマとチェイ、奥の第二扉から退場。ロリ、立ち上がる。サルヴォ、フラヴィオ、ヴェニエロ、互いに話し
ながら食堂から登場。)
サルヴォ そうだ、勿論。時々は人間様が作ったこの秩序にショックを与えて、ひっくり返さなきゃいけないんだ。
ヴェニエロ ひっくり返す? 何故ですか。
サルヴォ この綺麗な秩序には、古い埃(ほこり)が積もっているって事を見せる為だよ。しかし、君が揚げるその埃によって、来るべき新秩序が見抜けないようでは困るがね。
フラヴィオ そうだそうだ、謹聴、謹聴。
サルヴォ そして、この埃について言うとね、ボンジアーニ。思い違いをしてはいけない。それはまた落ちてくるんだ。その新しく出来た素晴らしい新秩序の上に。何故なら埃も世界の一部だからな。この世界は古いんだ。(次の言葉は殆ど詩篇の朗唱のように。)我々は息を切らして埃を吹き払おうとする。埃は吹き飛ばされて空中に舞い上がる。だがそれも束の間。またあらゆる物の上に被さって来る。必然的に。(ロリに近づき、肩に手を置いて。)まだいたのか。
ヴェニエロ しかし、そういう哲学で生きていたんじゃあ・・・
サルヴォ いや、もう議論は終わりだ。これ以上は消化に悪い。
フラヴィオ じゃあ、出掛けましょう! 本当に消化のことを考えていらっしゃるなら。
(見えるように、ロリの方を目配せする。「此処に残っていたらきっと消化には悪いですよ。」の意。)
ヴェニエロ そうだ、そうだ。今の時点での最善の手段は・・・
サルヴォ(聞こえなかったかのように、ロリに。)なあ、ロリ、パルマはもうじき出掛けなきゃならん。
ロリ 一緒に行ってやるんですか?
サルヴォ 私が? いや。
ヴェニエロ 行くのは僕達とですよ。さあ、今度こそ決まりだ。
フラヴィオ よし、さあ行きましょう。
サルヴォ ちょっと待てよ。(訳注 「待」を強く発音する。)うるさいぞ。(ロリに。)パルマに話したい事があるって?
ロリ ええ。ちょっと。
サルヴォ しかし時間がないんじゃないか。
ロリ 長くはかかりません。
サルヴォ(他の二人の方へ向き直って。)そういう事なら少しだけだぞ。
フラヴィオ 勿論です! 行きましょう。行きましょう!
ヴェニエロ 面白いですよ。保証します!
サルヴォ ま、その點は行ってみなきゃ分からんな。(ロリに。)連中と一緒にクラブに行くとパルマに言っておいてくれないか。
(冷たく挨拶を交わす。サルヴォ、フラヴィオ、ヴェニエロ、奥の扉から退場。ロリ、暫く迷った後、毎晩夕食後サルヴォが坐る、革の肘掛椅子に坐る。間。暫くして食堂の扉からジオヴァンニ登場。明かりを消す。三つのランプの明かりだけが残る。場が全体に暗くなる事が必要。ジオヴァンニ、すぐ退場。奥の第二扉からパルマ登場。頭には帽子。ケープを羽織っている。)
パルマ(肘掛椅子に近づき、背凭れにかがんで、坐っている人の頭を両手で挟んで優しく言う。)パパ。
ロリ(すぐにパルマと分かり、動転して、跳び上がり。)パルマ!
パルマ(いつもの場所にいたのがサルヴォではなかったと気付き、驚いて叫び声をあげる。嫌悪と恐れで、パッと後ろに跳び離れて。)ああ、貴方なの。どうして貴方が此処に。
ロリ(「パパ」という言葉が自分に発せられたものではないと確証を得て、驚愕のあまり。)私は・・・二人だけの時にはそんな呼び方をする間柄になっているのか。
パルマ(苛々して、自分がやってしまった失敗に対する悔しさで、却ってすっかり腹が決まって。)止めて頂戴。もう。あの人をこう呼んでいるのは、そう呼ばなきゃいけないからじゃないの。
ロリ 父親の代わりをやってくれているから。そういう事か。
パルマ 違うわ。うんざりだわ。もう止めたらどうなの、そんな芝居ばかりやるのは。もう、本当、沢山だわ。
ロリ 芝居? 何の芝居だ。一体何を話しているんだ。
パルマ ええ、芝居。芝居。芝居よ。そして、もう、うんざり。貴方だってちゃんと知っているじゃないの。私の父親はあの人だって。そして私がパパって呼べるのはあの人しかいないって。
ロリ(殴打されたかのように、茫然として。)あれが・・・お前の父親。何の話だ。何を言っているんだ。
パルマ まだ分からない振りをするのね。
ロリ(パルマの腕を掴まえて、まだ茫然としているが、徐々に込み上げてくる怒りで言葉が強くなる。)何を言っているんだ。自分の言っている事が分かっているのか。誰が言った。あいつか。
パルマ(振り解きながら。)そうよ、あの人よ。これで気がすんだでしょう。
ロリ お前はあいつの子だ。そう言ったのか。
パルマ(きっぱりと、はっきりと。)ええ。それに貴方だって知っている事じゃないの。
ロリ(驚き、呆れて。)私が?
パルマ(ロリの口調を聞き、それほどまでそれがロリにとって意外な事実である事が分かり、唖然として。)え? どうかして?
ロリ 私が知っている事だと言ったな。(パルマの茫然とした様子を見て気を失いそうになる。次の台詞を支えに、やっと立っている事が出来る。)おお、神様。神様。なんという恐ろしい事。(再びパルマの腕を掴んで。)あいつはお前に何て言ったんだ、正確には。あいつの言った通りを教えてくれ。
パルマ(その質問の隠れた意味、つまり母親のことを訊いていると分かり。)言った通りって? どう言えばいいの?
ロリ 知りたいんだ。どうしても知りたいんだ。
パルマ(脅えて、言った事を後悔して。しかしまだ確証を相手に与えまいとして。)でもそんなこと。知らなかったって本当? 本当に?
ロリ 知っている訳がない。あいつは言ったのか、お前の母親が・・・さあ、言ってくれ。
パルマ 分からないわ、私。それとなく言われたんだから。
ロリ それとなく言われたって、結局お前のお母さんが・・・さあ、どうなんだ。
パルマ 分からないわ。それとなくって言っているでしょう。
ロリ いい仲だったと言ったのか。
パルマ そんな事・・・
ロリ 何がそんな事なんだ。もしお前があいつの子供だと言ったというのなら、お前が本当に子供であるかどうかは別にしても、あいつがそう言ったというのなら、二人の間には・・・それは確かだ。ああ、神様、神様。そんな事が一体・・・一体あり得るのか。あれが・・・いや、無理だ。あいつだ、あいつが嘘をついているんだ。嘘だ。何故って、何故ならそんな事は不可能なんだ。いや、あれにそんな事は有り得ない・・・ (疑惑の蛇が鎌首をもたげて。)ああ、ひょっとするとあの頃・・・いや、いや、いや。ああ、神様、それがあの頃の事なら・・・ああ・・・でもそれならどうして・・・あの後あんなにあれは(私に親切に出来たのか。)・・・いや、無理だ。ああ、シルヴィア・・・シルヴィア・・・シルヴィア。(この三度のシルヴィアを全く違った調子で言う。全く異なった三つの観点から。最後のシルヴィアで、椅子にどっと頽(くずお)れる。激しく泣き始める。)
パルマ(驚いて、ロリに近づいて。)御免なさい。許して。知らなかったの・・・とっくに知っているとばかり・・・だってあの人、そう言ったんだもの・・・でも貴方だって、貴方だって責任があるわ。私に対してとっていたあの態度・・・私の事をいつだって放っておいて・・・
ロリ(最後の言葉に、あたかもそれに希望の光を見出したかのように、飛びついて。)じゃあ、放っておいたからなのか、あいつに父親の代わりをさせて、放っておいたから、そんな事を言ったのか。(パルマの顔を探るように見る。。パルマ、表情変わらず。)違う? お前はあいつの娘だ。そう言ったんだな。(すぐにパルマを傷つける言葉が本能的に浮かんで来て。)それじゃあ、お前が自分の母親の顔に泥を塗ってそれで好い気持なんだな。お前の言っている通りだとすれば、お前の母親はあいつの情婦だった。そうなのか。そしてお前が私に対していつもあんな態度をとっていたのもこのせいなのか。
パルマ だって、貴方が知っているんだって、誰もが信じていたんですもの。
ロリ 私が・・・知っていると? 私がそれを知っていて、皆にあんな風に扱われて耐えていられたとでも。それから、あれが(そんな風に思われて)・・・ああ、そうだ。何ていう事だ・・・あの時だ、きっと。そう、そうだ。きっとあの時だ。教師・・・教師に戻りたいと言いだした。貴方ってはっきりしない人ね、とか、意気地がないのね、とか言っていた。あの最初の一年、あれは地獄だった。あれはあいつに惚れてしまったんだ。父親が死んで、ペルギアに行った。あの時すぐに、すぐに、あの議員先生に惚れてしまったんだ。だから生き生きしていたんだ。あれがあいつに連れられて、私に会いに来た時、役所の私の部屋に案内された時、あんなに生き生きと輝いていたんだ。あいつはあれの父親の昔の弟子。今や立派な議員先生。一目で惚れてしまったんだ。そして、あれが結婚したのは、この俺だ。そうか、そうだったのか。そういう話だったんだ・・・だからあいつが大臣になった時、俺を引き立ててくれたんだ・・・そして、この俺といったら、有頂天になって・・・あれの父親の栄光と、あいつの引き立てという栄光、この二つの栄光で、すっかり有頂天になって、何も見えなくなっていたんだ。おれの上役、俺の引き立て役・・・そうだ。あいつがアリアーニのメモを見つけたのはそのあとなんだ・・・だからだ。だからあんなに(あの頃喜んでいた)・・・しかしシルヴィアはもう後悔していた。悔いていたんだ。お前が生まれた時にはあれはもう後悔していたんだ。その時からあれは私のものだった。すっかり私のものだったんだ。あの瞬間から私のものになったんだ。私以外の誰のものでもない。お前の生まれた時から、あれの死まで三年間あれは私に寄り添ってくれた。他のどんな女が、あれほど一人の男にぴったり寄り添って生きた事があるというのだ。それが俺の目を狂わせてしまった。その前は俺はなんにも気付かなかった。その後に気がつくなどと、それは到底無理な話だ。シルヴィア、お前はその愛の力で、お前の不貞を痕跡も残さず奇麗に拭い去ってしまっていたのだ。その後、どころじゃない。お前が死んだ後だって、私には分かろう筈がなかった。それほど強かったのだ、お前の愛の力は。(はっと気がついて。)しかしパルマ、お前はどうして私がこれを知っているなんて思ったんだ。お前がまだほんの子供だった時からずっと見て来ているじゃないか。私が毎日欠かさず墓参りをしているのを。
パルマ ええ、でも・・・丁度それが・・・あんなに毎日通っているので・・・却って・・・
ロリ 何だって?
パルマ 私、それに対する私の気持ちを隠してはいませんでしたわ・・・
ロリ そうだ。慥かに隠してはいなかった。ああ、お前だけじゃない。連中全員、誰も隠してはいなかった。そうか、あの軽蔑はその為だったのか。 じゃあ何故私は黙っていたんだ。お前が私の娘でないと知っていて、おまけに連中の軽蔑を痛い程感じながら、何故知らないふりをしていた。いや、連中の軽蔑は分かっている。よく分かっているよ、今じゃ。だけどもしお前が私の娘じゃないって知っていたら、私は連中の軽蔑を耐える必要はないじゃないか。知らないふりは無意味じゃないか。さっさと離れた方がお前の利益のため、お前の将来のためにいいじゃないか。どんな目的があって私が・・・(非常に低い声で、両手で自分の胸を指差して、言葉ではしっかりと表現する勇気もなく、しかし、恐ろしい疑いをもって。)ひょっとすると自分のために・・・自分の利益のためにあんな事を・・・? お前達は私がそんな事をすることが出来ると思っていたのか。毎日墓参りをする。そんな茶番をやってまで、立派な経歴が欲しかった。私をそんな風に・・・(両手で顔を隠しながら、どっと椅子に坐る。それからぱっと立ち上がって。)じゃあ、そうなのか。お前達の間では、私はそんなにおぞましい人間だったのか。
パルマ いいえ、いいえ、おぞましいだなんて・・・
ロリ おぞましい、おぞましい。おぞましくなるために、これ以上何が必要だというのだ。そんな人間以上におぞましい人間がこの世にいるとでも言うのか。
パルマ 違う、違うわ。ただ頑固なだけと・・・
ロリ そうだ。慥かに言っていた。頑固だ、大袈裟だと。そう。お前達は慥かに、はっきりと言っていた。そしてこの私は・・・分からなかった。お前達は狡くはなかった。あからさまに示していたんだ・・・手を変え品を変え、軽蔑を。(茫然として、まるで突然彼を取り囲んでいる全てのものが、その様相を変えたかのように。)私は一体どういう世界に住んでいたのだ。ああ、神様。私は自分の人生の外側を生きてきたのか。誰も私を騙してはいなかった。誰も私に嘘をついてはいなかった。誰一人。私だ。私がそれを見なかったのだ。そうだ。見えなかった。これ見よがしのあんなに沢山のことが。ああ、何ていうことだ。そう、今になって、今になってやっと、それが全部見えている。(再び苦しみが襲う。茫然自失のあと、我に返ってまた残酷な傷のことを思い出す。)そして、私はあの女の為に泣いていたのか、十七年間も。あの女の為に。
(再び泣き始める。)
パルマ(慰め、力づけようと。)そんな。さあ、落ち着いて。そんな風に考えないで・・・
ロリ あれが死んだのは今だ。今、私はあれを本当に失ったのだ。あれは自分自身の裏切りで、自分を殺してしまった。ああ、パルマ。私にはもう私を支えてくれるものが何もない。私は今一体誰の家にいるのだ。何のために此処にいるのだ。お前は私の子供ではない。私はたった今初めてそれを知った。お前の方はずっと昔から知っていたんだ。ずっと昔からお前、それにあの連中は、私に知らせようとしていたのか。私が此処に来るのは全くの無駄だっていうことを。
パルマ そんな。私、ただ・・・
ロリ そういう事になっていたのか。今じゃお前には夫がいる。それに父親も。今となったら、おおっぴらにその父親を家に呼べるという訳だ。だからあいつはこの私に・・・そうか・・・もう少しであいつははっきりそういう所だった。此処にはもう来なくてよいと。ひょっとすると今ではお前は皆の前でもあいつの事をパパと呼んでいるんだ。そうだろう。
パルマ いいえ、決して。本当。
ロリ いづれにしろ、私に遠慮して止めているんじゃない。私などどうでもいいんだ。なんていう事だ。盲より悪い。盲よりまだ物が見えていない。一体私は何だったのだ。何でもなかった。何かであった事など一度もなかった。今だってない。何かを自分のものにしていた事、それもなかったのだ。死んでいったシルヴィア、あれも私のものではない。 私には何にもないのだ。(再び茫然として、全ては遠くにあるように。)何の支えもなく、幻の中に生きていたのか。お前達は私が支えにしていたものを、一つ一つ取り去って行った。お前達にはそれが無駄なものに見えたのだ。そして私を嘲笑いながら、私を軽蔑しながら、私が、死んで行ったあの女にしがみついている茶番劇を冷やかに見ていたのだ。見ていただけじゃない。唆したのだ。ああ、なんという。(怒りが込み上げて。)私に話すことぐらい出来た筈だ。そうだろう?
パルマ だって・・・
ロリ 話そうと思った事が時にはあったんだろう。
パルマ ないわ。明らさまには。決して。
ロリ そんなことはない。明らさまに言ったが、私が全くわからなかった。そういう事がきっとあった筈だ。お前には何ら隠す必要がなかったんだ。私が知っていると思ったんだからな。
パルマ それを少しでも疑う事があったら。ひょっとして知らないんじゃないかって、ちらとでも思う事があったら・・・
ロリ 私がそんなに卑屈な厭らしい人間ではないのではないかと・・・
パルマ 駄目。それは言わないで。
ロリ しかしどうしてあいつは、お前があいつの娘だなどと言う気になったのだ。鉄面皮な。お前を侮辱し、お前の母親を貶める事じゃないか。
パルマ 私を侮辱しないですむ機会を捕らえて言ったんだわ。思い当たるでしょう。貴方には私の父親があの人だって事を裏書きするような態度、それがあったわ。
ロリ お前の言う通りだ。慥かに私は・・・あいつの遣り口を楽にしてやる態度を取っていた。しかしもうこれで充分だ。これで私はお払い箱なんだな。
パルマ え? どうして? 今ではすっかり話が違ってきたわ。
ロリ 違ってきた? 何が?
パルマ 何も知らなくてあんな風にしていたのなら・・・
ロリ 知らずにそうしていたのなら、お前は再び私の子供になるというのか。
パルマ そういう事じゃない。違ってきたのは私の心。貴方に対する私の気持ちが変わったの。
ロリ ああ、お前には分かっていないんだ。私は・・・私は何かをしなければ・・・しなければならない事が・・・
パルマ しなければならない?
ロリ そうだ。何かを。何かをしなければ。今はまだ分からない。なんだか自分が・・・自分がすっかり空になったようだ・・・體の中が空洞になって・・・此処から外へ出た時、その空洞の中に沸き上がってくるもの・・・それがまだ分からない。私は・・・私は・・・
パルマ お願い、お願いよ・・・坐って。坐って頂戴。こんなに震えて・・・坐って頂戴。
(肘掛椅子に坐らせる。ロリの前に跪く。熱心に、愛情を込めて話す。)
パルマ 私、今までの私ではなくなる。そんな気がする。きっと。きっと。
ロリ(振り向いて、恐ろしい勢いで。)それであいつは。
パルマ あの人に何かするって? 出来て? そんなこと、今。
ロリ 何故出来ないんだ。あいつが金を払っているからか。
パルマ そんな。違うわ。
ロリ いや、慥かに払っている。私の妻にも払った。私の娘にも払った。
パルマ 違う。違う。
ロリ 何が違うんだ。あいつに今まで払って来た俺の尊敬。俺にとってあいつは神同様だった。くそっ。
パルマ でも今になって。こんなに時が経った今になって・・・
ロリ(突然、遠い昔のある一場面を思い出し、そのため全身が震えてくる。)ああ、あれはそういう事だったのだ・・・パルマ、お前の母親が死んだ時の事だ。私は気違いのようになっていた。自分の不注意で三日と経たないうちに死んでしまった。お前を冬の寒い日、サーカスに連れて行って・・・お前は三つだった。風邪をひいたのだ。そして三日後に・・・。あの頃はあれは私のものだった。全身全霊、私のものだった。あれはあいつが家に来るのを嫌がって、私に断れと言う。その勇気のない私をいつも非難していた。――だがお前も分かるだろう。あいつは私の上司だったのだ。――丁度その頃だ。丁度その頃、あれは死んで行った。私は自分が・・・うまく言えないが・・・空っぽになっているのを感じた。丁度今と同じだ。あいつは私を亡骸のおいてある部屋から追い出した。ママ、ママと呼んでいるお前の所へ行ってやれと言ったのだ。シルヴィアは自分がみる、と。私は言われた通り、お前の所へ行った。私はしかし、真夜中になって、部屋に戻って来た。影のような私の姿。あいつはいた。亡骸の横たわっているベッドの縁に顔を埋めて。ベッドの四隅には大きな蝋燭が一本づつ點っていた。最初私は(あいつが)眠気に襲われて我知らずうつ伏してしまったのだと思った。しかし改めて見直して気がついた。體が時々手綱を引く時のように後ろに引っ張られている。啜り泣きを抑えているのだ。(娘を見る為に振り向く。この瞬間、マンフローニの恥知らずにかっとなって。)あいつは俺の前で、この俺の前で、シルヴィアに涙を流していたのだ。そしてこの俺といったら、何も分かってはいなかった。それほど俺はあれの愛を確信していた。それほど俺はマンフローニを信用していたのだ。あいつが泣いているのを見ると、私の涙が・・・それまでじっと私の心が押し止めていた私の涙が、一度に迸り出た。しかしその瞬間、あいつはパッと跳び起きた。そして驚いた私があいつを抱き締めようと両手を開くと、押し退けたんだ。怒って私を突き飛ばしたんだ。此処を、この胸を。私は椅子に尻餅をついた。あっけにとられた。何故こんなに彼はカッとなったんだ。私は自分で理由を拵えていた。私の涙が気にいらなかったのだろう。彼のせいで私に涙を流させた。その自分に対する腹立たしさも手伝ったのだ。そう思っていた。ああ、なんていう奴だ。私の目の前で、あの涙。必ずその代償は取ってやる。必ず。今すぐに!
(立ち上がる。怒りで蒼くなっている。退場しようとする。 パルマ、引き止める。次の数行は最も激しく演じられる。)
パルマ 今すぐに?
ロリ 今すぐだ。
パルマ でも馬鹿げているわ。こんなに時間が経ってしまってから・・・どこへ行くの?
ロリ(狂ったように。)分からない。
パルマ 何をするっていうの?
ロリ(振りほどきながら。)分からない。
パルマ もう少し此処にいて。
ロリ そんな事は出来ない。
パルマ もう少し。私と話していて。
ロリ お前と? 今さら何の役に立つ?
パルマ 役に立つわ。これからは本当の娘になれるかも知れないわ。信じて下さっていたように。
ロリ 私が怖いからそんな事を言うんだ。
パルマ 違うわ。
ロリ それなら私を哀れに思ってか。
パルマ 違う。
ロリ 赤の他人だ、お前は。私にとって。私もお前にとって全くの赤の他人だ。(振りほどいてパルマから離れる。)その赤の他人の関係がこの十何年間ずっと続いていたのか。分かる筈がない。私のこの気持ちが。お前に。
(幕)
第 三 幕
(マンフローニ家。大広間。厳(いか)めしい家具が並んでいる。左手に扉。第二幕と同じ夜。二、三時間後。)
(幕が開くと、ロリ一人。表情は死者のそれ。目は一点を見つめ、感覚がなくなったかのよう。沈黙のこの家で、遙か彼方の昔から待っていたという風。身内から沸き上がってくる様々な感情が時折表情に現れる。時々は我に返って、よく聞こえない呟きを洩らす。その時、短い動作を伴う。それを意識せずに。奇妙な、ある面では自然な行動に身を任せることもある。例えば、机の上に置いてあるものに、ふと目を止めて、好奇心で近くに行って確かめようとする。子供によくある単なる視覚からくる好奇心である。しかし近くに来ると立ち止まる。ぼんやりする。何の為に近づいたのか思い出せない。再び自分の心に起こっている嵐に身を任せ、ぶつぶつ独り言を言う。声は出さずに。そうしていると、再び最初目に止まった物が目に入り、はっきりした意識なしにそれを手に取る。眺める。しかし見ている様子はない。それを手に取った儘自分を苦しめている事柄に心を奪われる。それから手に取っていた物を置き、元の位置に戻る。例えばこのような動作である。)
(扉から、マンフローニ家の年取った下僕、登場。)
下僕 マンフローニはまだ帰って参りません。何と申し上げたらよいのでしょう。いつもですとこの時刻にはとっくに在宅で、読書とか書物をしておりますのですが。そう。もう夜中の十二時ですのに。
ロリ うん。十二時か。思い出してきた。行くと言っていたな。どこだったか。 そうだ。出掛ける前に私に・・・(マンフローニが「グアルディ、ボンジアーニと一緒に行ったとパルマに伝えてくれ」と言っていた事を思い出すが、こんな事を話しても無駄だと口を閉じる。) そう。設立式に行ったんだ。彼の・・・(「彼の婿と」と言いそうになり、涙が出そうになるのを顔を顰めて堪(こら)える。)そうだ。設立式に。ボンジアーニ伯爵とな。
下僕 設立式と言いますと?
ロリ 何かのクラブのだ、慥か。最初は行きたくないと言っていたが・・・フラヴィオ・・・(「彼の婿が」と言おうとするが、止めて単に。)彼の・・・(再び下僕を見る。下僕が非常に年をとっているのを見て、全身が凍り付きそうなある考えが浮かぶ。顔を顰めて下僕の方を指差しながら、口を開く。)君は此処に長いのかね。
下僕 マンフローニ家で、という事で? ええ。それはもう。
ロリ 代議士初当選の頃からか。
下僕 二十五年になります。
ロリ(恐ろしい微笑を浮かべて、ウィンクして。)じゃあ、あの女を見たろうな、きっと。
下僕(あっけにとられて。)何の事でしょう。
ロリ 御発展だったんだろう、さぞかし。この若い代議士先生は。
下僕(話題を逸らせて、一般的な話へ紛らせようと。)御婦人方の事で?
ロリ 何人いたか知れたものではないんだろう。
下僕 ええ、それはまあ。お若い頃には。
ロリ 若い婦人達。新婚ホヤホヤの女達。それから後になって、大臣になってからは、部下の女房・・・(下僕が困っているのに気がついてすぐに、狡く。)私はね、彼の下で評議員をしていたんだ。だから知っている。評議員なんていう地位は・・・全幅の信頼を置かれる地位でね。こいつを手に入れる為には、君、それ相応のつらい交換条件があったっていう事さ・・・
(頭に両手で角(つの)を作って見せる。蒼ざめて微笑する。下僕、これを見て茫然とする。沈黙。)
下僕(溜め息をつきながら。)昔の話でして、ロリ様。
ロリ そう。今じゃ我々みんな、頭は白くなってな。全てはすんだ事・・・という訳か。(沈黙。下僕、改めてロリを穴のあくほど見つめる。あっけにとられ、困惑している様子。ロリの方は、虚空を見つめる。まるで目の前に、この部屋に、自分の妻がいるかのように、自分自身に話し掛けているかのように語る。)なんて奇麗だったんだ、あれは。口を開く時のあの目。體全體が光り輝いていた。(それから、愛を込めて、シルヴィアの隠れた魅力の一つを優しく思い出して。)あれは自分の知性で、人を魅了しようとしたものだ。でも、相手が女で、それに美人となると、誰も話など聴いてはいない。目を見る。口許を見る。姿形(すがたかたち)を見る。僕は微笑み返す。が、なに、言っている事に答えているんじゃない。唇の形にただ反応しているだけなのだ。あれはそれに気付く。怒る。だがその後、やはり女らしく、自分の口許を見ている相手に微笑み返すのだ。それは、あれに視線で送ったキスへのお返しの微笑みなのだ。そして(瞬間、自分の考えに沈む。それから頭をぐいと上げ、訊ねる。)なんだ。そんな相手がこの俺しかいなかったとでも言うのか。(突然、下僕の方を振り向く。形相変わって、別人のように。)あいつはあの女を何度抱擁したか、何度接吻したか、それも丁度この場所で。エエ?
下僕(今度は全く呆れて。)旦那様、それはあんまり・・・
ロリ いいじゃないか、すんだ事だ。全部。誰だって、知っている事なんだし。
(この時、、マンフローニ、帽子を被った儘、敷居の所に現れる。)
下僕(ほっとして。)あ、主人が帰りました。
サルヴォ なんだ、ロリ、君が此処に。どうしたんだ。(当惑して。)何事か起こったのか。
ロリ いいえ、お話しなければならない事があって。
サルヴォ(二幕のことを思い出して、苛々しながら。)またあの話か。それにこんな時刻に。
ロリ 蒸し返しをしようというのではありません、参りましたのは。ちょっと一言。
(この間に、下僕がマンフローニの外套とステッキを取り、このロリの台詞で退場する。)
サルヴォ(近づいて、握手の為に、手をのばす。)それで?
ロリ(急な動作で手を避けて。)握手はしません。
サルヴォ(息が詰まるほど怒って。)どういう事だ。
ロリ 今説明します。聴いてお分かり下されば、その時改めて握手しましょう。
サルヴォ 一体どうしたというんだ。
ロリ どうもしません。何も起こった訳ではありません。今までの成り行きのお陰で、説明する必要が全くないのです。事実がそこにあり、誰も反論するものはいない。おまけに私がそれを知っているとすると、みんな、貴方を含めてみんなが知っています。ですから議論も不要です。
サルヴォ 何の事を話しているんだ。さっぱり分からんな。
ロリ 私が此処へ来たのは、ある二つの情報を貴方に与える為。そしてある一つの件に関して、私の好奇心を満たしたい為です。
サルヴォ(ロリが興奮しており、またその口調で話しているのを見て。)今までの君とは違う人間を見ているような気がするな。
ロリ 正にその通り。三時間前から私は違う人間なのです。
サルヴォ 一体何が起こったっていうんだ。
ロリ 何も。ただ、物の位置が変わったんです。上の物が下に、下の物が上に。そう、それだけの事。一瞬のうちに世界が今までとは全く違った光のもとで見えて来たのです。かって想像だにしなかった光のもとで。言い方を変えれば、私はついさっき、初めて目が見えるようになったのです。
サルヴォ パルマと話したんだな。
ロリ(「そうだ。」と何度も頷く。それから。)驚くべき事です。私は全然知らなかった。
サルヴォ(茫然として、仰天して。)何だって? 知らなかった?
ロリ 何も。私の妻がサルヴォ・マンフローニの女だった事。パルマがその間に生まれた子供だった事。
サルヴォ パルマが言ったのか、それを。
ロリ そう。パルマがそう言った。貴方自身がパルマに話したのだと。パルマは貴方の子供だとも。そして私、マルティノ・ロリはそれを知っているのだと。
サルヴォ 君は知らなかったのか。
ロリ(率直に、非常に自然な調子で、この事を肯定する。)知らなかった。全く気がつかなかった。(マンフローニの呻き声に対して。)慥かに信じ難い事だ。しかし知らなかった。この三時間、私は繰り返し自分に訊ねているんです。一体どうして分からなかったのか、と。あれ以上うまくお前に分からせる手段が他にあったというのか。 小鳥に歌を仕込む時のように、何度も何度も同じ旋律を聞かされていたじゃないか。事ある毎に、手を変え品を変え、あからさまにそれをお前に見せていたじゃないか。お前に一面識もない代議士先生が、大臣になった時、態々お前を捜し――お前といえばその頃、役所ではただの総務課長に過ぎなかった――そのお前を評議員に抜擢した。お前がその代議士先生の昔の恩師の娘を嫁にしたというだけのことで。それからお前の妻の死後は娘にあれこれと世話をやき、まるで自分の娘同様に育てた。成人してからは、その結婚相手を捜してやり、立派な、なんて言葉では到底すまない持参金をつけて遣った。お分かりでしょう。私はあれの貞実を信じていた。早過ぎたんだ、死ぬのが。しかし、たとえ長生きしたとしても、私は何も気づかなかったろう。何故なら――信じては貰えないかもしれませんが――私にとってあれは・・・あれは貞実な女だった。 そして、私は貴方の友情を信じていた。太陽の光線のように。その強い日差しが私にあたって、眩しくて目が見えなくなっていた。私は貴方が恩師を敬愛する気持、それを信じていた。それがどうだ。暫くして私はその敬愛の化けの皮を剥がす動かぬ証拠を得てしまった。
サルヴォ(ひどく動揺して。)なんだ、化けの皮とは。
ロリ 先程申し上げた、第二の情報がこれです。お待ち下さい。洗いざらいお話します。この動かぬ証拠を手に入れてから、事態は一層悪くなってしまいました。
サルヴォ(いよいよ動揺して。)証拠? 何の証拠だ。
ロリ この証拠が事をさらに複雑にしてしまいました。この為に、私の善意は突然、茨の刺の中に放り出され、四方八方から刺され、痛めつけられ、かわいそうに血を流し、苦しみ喘いだのです。しかし負けてはいけない。そうです。勇気を出さなければ。私の善意は茨を根こそぎ引っこ抜き、それで毛布を作った。そしてこれは修行の為の粗毛布だと私の善意に納得させようとしたのです。しかし納得させる場合にも、当然の事ですが限界があります。(机の上の電話が鳴り始める。)あ、電話ですね。
サルヴォ 連中だろう。(受話器を取ろうとする。)
ロリ(腕を抑えて。)待って。此処へ来るように言って下さい。
サルヴォ 此処に? 何を言っているんだ。気が違ったか。
ロリ 私が来て欲しいのです。
(また鳴る。)
サルヴォ 真夜中だぞ。
ロリ 車を飛ばせば二分で来られます。
サルヴォ 此処に来させてどうするつもりなのだ。
(また鳴る。)
ロリ しつこく鳴っていますね。これはパルマです。私と話をした。そのことを貴方に知らせようとしているんです。(また鳴る。)さあ、受話器を取って。
サルヴォ 駄目だ。まづ君の説明を聴こう。
ロリ 四人揃ってから説明します。
サルヴォ 四人で聴く事があるのか。もうすんだ事じゃないか。
ロリ これからの事です。調整を取らねばならぬ事が山ほどあります。
サルヴォ 明日にしよう。必要なら。
ロリ 駄目です。今すぐだ。
(また鳴る。)
サルヴォ(受話器を取って。)もしもし。うん、パルマか。(沈黙。)うん、分かっている。
ロリ 私が此処にいると言って下さい。
サルヴォ 分かってる。分かってる。(沈黙。)何? (沈黙。)うん、今一緒にいるんだ。
ロリ 連中にも来て貰って下さい、すぐ。
サルヴォ(受話器に。)そうだ、残念ながら。なあ、パルマ・・・(沈黙。)何だって? (沈黙。)うん、うん、しかし来てくれた方がいいな。(沈黙。) そう。すぐだ。(沈黙。)そりゃ、話があるさ。(沈黙。)うん、フラヴィオもだ。・・・何?
ロリ パルマは来ないというんですか。
サルヴォ(ロリに。)違う。車がみつからないと・・・(途中で言葉を切って受話器に。)急いでくれ。(受話器を置く。)四人揃ったところで一体何をしたいんだ。
ロリ まづ二人だけで話しましょう。あれが何時始まったのか、私はそれが知りたい。
サルヴォ その話は止めておこう。
ロリ 駄目です。答えて下さい。結婚してすぐの事なんですか。(サルヴォ、肩を竦める。)答えて下さい。その通りなんですね、きっと。あれがペルギアから来てすぐの話なんですね。
サルヴォ 違う。あの頃はそんなこと考えてもいなかった。私は。
ロリ あれの方は? ひょっとするとあれの方は考えていた?
サルヴォ そんな事はない。(訂正して。)少なくとも私は気がつかなかった。そんなことはないだろう。
ロリ じゃあ、この儘の生活は厭だとあれが言い始めた時、教師に戻りたいと言い出した、あの頃?
サルヴォ(この話題を早く終わらせようとして。)そうだ。その頃だ。
ロリ そしてある日、私が家に帰ってみると、あれは不在だった。あの頃?
サルヴォ こんなことをほじくりだして何になるんだ。
ロリ あれは母親の顰(ひそみ)に倣(なら)おうとしたんだ。家出だ。貴方と駆け落ちしようとした。ただ、貴方には政治的生命というものがあった。
サルヴォ やめんか、聞き苦しい。
ロリ そして迷える子羊に、小屋へ帰るよう説得したのだ。
サルヴォ こんなことをほじくりだして何になるというのだ。
ロリ 私は知りたい。たとえそれが何であっても。たとえそれが遅すぎても。
サルヴォ 分かった、分かった。しかし考えてもみろ。随分昔の事なんだ。あれが死んでからもう・・・
ロリ(怒りが爆発する。奇怪な、残酷な顔になり、復讐の意に溢れて。)ああ、あれは貴方を嫌ったんだ。なんて嫌ったんだろう、私の所に戻って来た時。あれにはその時分かったんだ。貴方には名声、野心、それしかないっていう事が。貴方を蛇のように忌み嫌ったのだ。
サルヴォ そうだ。分かっている。
ロリ そしてあれはその貴方から生まれたあの子を嫌った。あの子の母親になりたくなかったのだ。私には分かっている。なりたくなかったのだ。あの子の母親であるよりは、私の妻である事の方を望んだのだ。私はそれで嬉しかった。が、また悩みもした。あの子の為に悩んだ。私から生まれたと信じていたし、我々の和解の結果生まれたとも思っていたのだ。
サルヴォ 分かった。もう充分だ。止めんか。大抵に。
ロリ もう充分? 充分とは何だ。私にとってはまだ始まりに過ぎない。
サルヴォ 始まり? 何を始めるつもりだ。
ロリ 今に分かる。これを知るのに、私には十九年かかった。知った時は、もうすでに終だ。すべては収まる所に収まって。貴方の表現を借りれば、上品で、錚々たる人物達に相応しいように、収まっていた。
サルヴォ ちょっと待ってくれ。
ロリ ああ、分かっている。生きるすべを心得ている人々だけで収めた。今となっては、もう何もする事はない。そうだろう。十七年も前に女は死に、娘は嫁ぎ、これで終わりだ。門口(かどぐち)は開いている。さあ、とっとと失せろ・・・か。そうは問屋が卸さない。今度はこっちの番だ。今じゃみんな分かっているんだ。よく考えた上でやって来たのだ。
サルヴォ しかし君、これはあまりに狂っているとは思わないか。
ロリ 何が狂っている。熟慮の上だ。考え落としている事など一つもない。こんな風にしゃべり行動するのも、止むにやまれぬ何かの力がそうさせているんだ。解き放たれた馬みたいなもんだ。おまけに暗闇から不意に飛び出して来る色々な物から散々鞭打たれて哮りたっている。今では自分の辿り着く場所は分かっているんだ。だからこれからは注意した方がいいぞ。(サルヴォの腕をぐっと掴む。)分かっているんだな。私は三時間前までの私ではない。貴方が思っていたような、そして、貴方が皆にそう思わせようとしたような、惨めな人間とは、今は私は違うのだ。
サルヴォ 分かっている! 分かっているからこそ、君が今からやろうとしている事が分からないんだ。
ロリ やろうとしている事? 私に何も出来はしない。そうだろう。もっと以前に知っていたら、そして、御想像の通りあの惨めな厭らしい人間だったら、何かは出来たろう。だから貴方は思うんだ。十九年後だって遅くはない。あいつはきっと何かやらかす・・・とね。憚りながら、お門違いだ。
サルヴォ やらかすんじゃなければ、黙って利用する気か?
ロリ 何を言っている。考え違いもいい所だ。もしあの時すぐ分かっていたら、利用するなんてとんでもない。殺していただろう。
サルヴォ 今は殺す気はないんだな。
ロリ ない。今はもう殺す元気などない。もう・・・(言葉を切る。突然サルヴォの前の言葉に思い当たる事があり、はっとなって。)待てよ、今何て言った? 利用する気とか言ったな。どう利用するんだ。私がこの事をどう利用する気だと思っているのだ。
サルヴォ(故意に言葉を濁して。)それは・・・その・・・はっきりとは分からないが・・・何か、何か私がして遣れる事が何か・・・
ロリ(まずサルヴォをもの凄い目付きをして見る。それから相手の喉に跳びつき、肘掛椅子に押し倒す。背広の襟を掴んで。)貴様が、貴様がこの俺に、何か出来ることでもあると思っているのか。今のその言葉、その言葉で、殺してやってもいい。殺すに値する。(退く。心をよぎった考えにぞっとなる。)いや・・・さあ、言ってくれ。答えてくれ。「して遣れる」といっても違うやり方があるだろう・・・さあ。
(この時、パルマとフラヴィオ、扉から登場。心配し、脅えている。)
ロリ(二人を見て。)ああ、来たか。
パルマ どうしたの、どうしたの?
ロリ どうもしない。何もないさ。本当に。すべてははっきりした。奇麗さっぱりと。彼に思い出して貰った。出来事、一つ一つを。 そして分かって貰ったんだ。彼が間違っていると。パルマ、お前は私の子供だ。(サルヴォに。)さあ言ってやってくれ。今私の言った事を裏書きしてくれ。この二人に。そうなんだな、話の辻褄からどうしてもそうなったんだな。
サルヴォ そうだ。そうなった。
(一瞬の沈黙。)
ロリ そういう事だ。(フラヴィオに。)さあ、君・・・分かったな。
フラヴィオ(低い声で両手を少し拡げながら。)まあ分かりましたが・・・
ロリ 真面目に聴くんだ! 今この瞬間から君は君の妻の父親に対して当然払うべき尊敬を、この私に払ってくれなければならん。分かるな。これの父親、それは私なんだ。
フラヴィオ(前と同様に。)分かりました。
ロリ これからは私を餘計者として扱うのは止めて貰おう。芝居で役を割り振ってやったのに、何故ちゃんと演じないのだという顔は止めて貰おう。とんでもない話だ。いろんな役を割り振ってくれたがみんな私の知らない間にじゃないか。騙されていて幸せな夫の役、親しい友人の役、男やもめの役、父親の役、それに義理の父親の役。なんていう下手な演じ方をしていたんだ、この俺は。畜生! 当たり前だ。自分が演技をしているとは思ってもいなかったんだからな。しかしこれからは、上手く演じてみせる。見ていろ!
(この口調で続ける。激情に身を任せきっているので、パルマ、フラヴィオ、登場以後は、自分が芝居を演じている状態になっている事に気付かない。)(訳注 「自分の台詞が相手に理解されない事に気付かない。」の意か。)
パルマ(ロリのこの状態を見て、驚いて。)何の話?
フラヴィオ(同じく、少し後ろに下がっているサルヴォに。)この人、何を言っているんですか。
ロリ(我に返って。)何を言っているかだと? (パルマの方を向いて。)言いたい事はな・・・お前の母親が・・・お前の母親が不義を働いた事、これは確かだ。これは残っている。しかしそれだけだ。他の事、他の中傷、それは違う。それは嘘だ。真っ赤な嘘だ。(長い間。マンフローニとフラヴィオ、頭を垂れた儘。パルマは茫然。畏れと苦しみで震えている。ロリ、最初二人の男を見、次にパルマを見る。パルマの状態をよく見、理解する。そして突然、彼もまた、パルマの苦しみで胸が痛くなる。彼の繰り返し行う主張、この芝居を続ける強い執着、それがパルマを苦しめていると分かるからである。しかし、自分のこの感情にも拘わらず、主張を取り下げようとはしない。パルマに優しく近寄って、以前とは違った口調で言う。一時的に自分で自分に満足を与えた事を殆ど皮肉るように。)それは嘘だ。しかしそうなると、真実はお前にとっては嬉しくないな。そうだろう!
パルマ いいえ、それは違うわ。
ロリ(目を丸くして驚いて、パルマを信じられず。)本当か?
パルマ ええ。
ロリ この私がお前の父親でいいのか。
パルマ ええ、勿論。
ロリ この私で。彼でなくて・・・
パルマ ええ、そう。何度繰り返しても同じ。
ロリ さっきまでお前は私を軽蔑していた。その同じ私だよ。
パルマ ええ、そういう貴方だったからこそ、ですわ。
ロリ 今まで私が何も知らなかったという事を、もう誰にも信じて貰えないんだ。だから、誰もがこの私をこれからも軽蔑するだろう。弁解すればする程、陰で笑われるだけなんだ。
パルマ でも私は信じたわ。すぐ信じた。この話を初めて聞いたその時から。今此処であの人(マンフローニを指差す。)が言っていた事は間違いだって言われれば、私、もっと信じるわ。
ロリ(感動して、震えて、このような深淵を覗き見て、ほとんど気絶しそうになって。)分かるか、パルマ。恐ろしいもんだね。知るだけ、知るだけで、ことはすっかり変わってしまう。私がいい例だ。さっきまで私はお前と同じ状態だった。私はお前の父親は私だと思っていた。お前の方は違うと思っていたから私を軽蔑していたのだ。今は逆だ。お前は父親は私じゃないかと思いだし、すっかり変わった態度で私に接し始めた。そして私は・・・私はお前をこの腕で抱いてやる事が出来ない。何故なら・・・私は知っているんだ。お前が私の娘ではない事を。私はただ、あそこにいるあの男の前で、お前やお前の夫の前で、一芝居うってみたかっただけなんだ。
パルマ(再び茫然として。)一芝居?
フラヴィオ(パルマと同様。)じゃあ、さっきの話は・・・
ロリ(興奮して、唐突に、殆ど悪意があるかのように。自分の感情を押し殺して身を守ろうとするように。)芝居だ。なかなか上手い芝居だったろう。あまり上手いもんだから、二、三秒ぐらいは騙されてくれたんじゃないか。(苦い笑い。)はっはっは。私も思わず自分の芝居にひっかかってしまった。(手を目にあて、その手を見せる。)涙だよ。こりや。(フラヴィオに近づいて。)さあ、フラヴィオ、しっかりするんだ。落ち着くんだ。
フラヴィオ では、あれは・・・嘘?
ロリ 嘘だ。つき通してみるつもりだったんだが、出来なかった。胸が痛くなって、涙が出て来るんじゃ・・・(しようがない。)
サルヴォ もうこんな事はいいじゃないか。これで終わりにしよう。
ロリ(キッと、向き直って。)不満なんだな。しかし、この芝居は続けるんだ。なにしろ(私の)知らない内に筋書きが私の人生に入り込んで来ていたんだから・・・だがもう演ずる気力がない。だからもう安心していい。私にはこれ以上芝居はうてない。(訳注 此処で、サルヴォ、何か動きを見せる。)私にはよく分かっているんだ! もし私がさっきの事を言って置かなかったら、明日二人の所に出向いて行って、こう言うつもりだったんだろう。「いやあ、ロリがああいう状態だったからね。私としても分かったような顔をしてやらなきゃならなかったのさ。私もあいつの話に納得したっていう顔をね。そうじゃなきゃあいつがかわいそうじゃないか。」(と。)
サルヴォ それは違う! 何故そんな事を考えつくんだ。
ロリ(力を込めて。)それぐらいの事が分からなくって。馬鹿じゃないんだ、私は!
サルヴォ 誰も馬鹿とは言ってない!
ロリ 何を言っているんだ。哀れな奴と見下してただ満足していたのなら、まだいい。この私を阿呆として扱ってきたんだ。しかし確かに私は阿呆になっていられた。なにしろ神聖で純粋なもの、つまり誠実と友情を信じていたのだから。これも今じゃ終わりだ。たとえ私がみんなへの仕返しに、態とあの哀れな男――君達がそうだと思っていたあの男――を演じる事に同意しようとしても、今更私がどうしてあんな謙虚な、おどおどした、内気な男になれるのだ。毎日墓参りをする、あの道化役をどうしてこの私が演じられるか。分かるか。こんな事は分かりきった事だ。じゃあ、じゃあ、私は・・・私は・・・(茫然として自分の回りを見回す。あたかも出口を捜すかのように。出口が見えないので、震える両手で手探りして・・・その両手を顔に持って行く。)ああ、神様。私はこれからどう生きたら・・・私は・・・
サルヴォ おい、どうしたんだ。何も悩む事などないじゃないか。
パルマ 過ぎた事だわ。すんでしまった事なのよ。
ロリ 過ぎた事だから駄目なんだ。すんでしまった事だから生きて行けないんだ。終わってしまったから、他人にとって自分がどういう人物であったか、それをうち壊そうとしても、今となってはもう不可能だ。その私でない自分が此処にいる。その私の物でない體、それがこの體だ。その私の物でない目、それがこの目だ。他人に私がどう見えていたか、それを見る事の出来なかった目がこれだ。この私の物でない手、それがこの手だ。これを差し出す時、誰にも嫌悪と嘲弄の気持ちを引き起こし、そしてそれを全く知らなかった、その手がこれだ。その私が、今更どうやって他人を見たらいいのだ。どうやってこの手で握手を求めたらいいのだ。見ただけで吐き気がする。ぞっとする。自分の姿を見る。自分がいかなる人物になったかを考える。すると胸が悪くなる。心から嫌悪の情が湧いてくる。それはこの俺じゃないんだ。俺であった事など一度もなかったんだ。この自分から私は抜け出したい。ああ、逃げ出したい。今すぐ! (こう言いながら、逆上して出て行こうとする。)今すぐに!
サルヴォ(とおせんぼをして、行く手を遮り。)どうしようというのだ。
ロリ(サルヴォを見る。夢見るように。それから考えの糸を手繰りながら。)そうだった。もう一つ別の事があった。忘れる所だった。私の持っているただ一つの対抗手段、これをやってやる。これに重要な意味があるなどと思っていやしない。ただ私が単なる阿呆じゃないって事を見せてやる。復讐だ。復讐するんだ。冷血に。この私の使用可能な唯一の武器を使って。今。私に対する仕打ちをその儘お返しする。生かしては置こう。だがこの私を生かしておいてくれたように、生かしてやる。生きてはいるが、誰も尊敬しはしない。惨めな男、それは私じゃなくてそちらなんだと、証明してやる。(パルマとフラヴィオの方を向いて。)お前が父親として誇りに思っていたこの男、こいつは惨めな男なのだ。 私に対してした仕打ち、これだけでも充分軽蔑に値するが、それだけじゃない。何故か分かるか。それは、こいつが盗っ人だからだ。
サルヴォ(ロリに近づいて、すごむ。)何だと。
ロリ(すぐに、敢然とサルヴォに対決して。)盗っ人、盗っ人だ。(パルマとフラヴィオの方を向いて。)こいつはベルナルド・アリアーニの業績を盗んだのだ。
サルヴォ(猛烈な笑い声。)ハッハッハッハ。
ロリ(一瞬サルヴォを見るが、他の二人の方を振り向いて。)笑わせて置けばいい。 ちゃんと証拠はあるのだ。
サルヴォ 奴等はお前にもその話をしたらしいな。お前がひっかかるとはな。証拠、どうせそれはペルギアで拵えたものだろう。
ロリ 残念ながら違う。これはアリアーニ自らの手によるものだ。
サルヴォ 何を言う。彼の手になるもの、それを持っているのはこの私だ。(机を差し示す。)
ロリ 全部ではない。抜けている。
サルヴォ 全部だ。全部ある!
ロリ 全部ではない筈だ。
サルヴォ(再度の否定にうろたえて。)お前が他に持っているとでも言うのか。この私が知らないものを。
ロリ やはりうろたえたな。
サルヴォ 何を言う。
ロリ 真っ蒼になったぞ。それから今は真っ赤だ。
サルヴォ 当たり前だ。私は気にいらない。もしアリアーニがその未発表原稿に、後期のメモに・・・
ロリ 後期じゃない。前期だ。一番最初の頃の仕事だ。そこに所有している仕事より以前のものだ。
サルヴォ 私が此処に持っているアリアーニの原稿には、私がやった仕事に関係するものは何一つ・・・
ロリ だからそこにあるのは全部じゃないんだ。
サルヴォ いや、全部ある。
ロリ 自分に都合の好いものだけをそこに残しているんだ。他のもの、それは・・・処分したのだ。
サルヴォ 言い掛かりだ。
ロリ その証拠を私は持っている。それを出して見せようと言っているんだ。
サルヴォ 何の証拠だ。何を証明する。せいぜいがアリアーニ自身にも私と同じアイディアが浮かんだ、自分の問題を追求している内にふと、それが関の山さ。
ロリ そうだ。その通り。しかし、「アリアーニ自身にも」ではない。「アリアーニのみに」だ。そして、そのアイディアをサルヴォ・マンフローニの頭から出たものとして通用させたのだ。(パルマとフラヴィオの方を向き。)覚書は私の所にある。こんなに分厚いものだ!
サルヴォ よかろう。証明して貰おう。私が此処に持っているものには(激怒して机を叩く。)そのアイディアを暗示するものはかけらもない。証明して貰おうじゃないか。
ロリ その言い方は、単なる否定ではないな。私に対する挑戦だな。
サルヴォ(軽蔑を込めて。)君のような人間に一体誰が態々挑戦すると言うのだね。たとえ君が「アリアーニの新しいメモがあった。」と言ったところで、この私が自分の手持ちのものを出し、私が他のものは知らないと言ったら、誰が君の話を信用する。
ロリ それが信用するのだ。貴様自身の手で書いた本によって。
サルヴォ(新たに狼狽して。)私の本?
ロリ 本に書いてある文章、それは信用する筈だ。私の話を信用するんじゃない。貴様の本を信用するんだ。その中の文章、それがその儘この証拠になるんだ。
サルヴォ(狼狽。)本の中に、私の?
ロリ(他の二人を見て。)私のような科学に不案内な者が、どうしてあの公式、計算が分かる? 分かりはしない。その無知な私でさえ見ればすぐ分かるのだ、盗んだ事は。それぐらい、アリアーニのメモとあの本は同じなのだ。
サルヴォ そんな言い掛かりに答える舌は持ち合わせていない。
ロリ もうずっと以前にこの事は見つけていたのだ。しかし私は何も言わなかった。(パルマを指差して。)パルマによかれと思って。娘の幸せを考えて。私はもう一つの過ちは知らなかった。多分貴様にとっては、初めはこちらの方が本命だった。業績の盗みは単なる副産物。いや、本命もへちまもない。貴様には本物の情熱とは何か、まるで分かっていないのだ。アリアーニの覚書にしたって、最初は情事を偽装する為の材料でしかなかった。私達の家に来る。つまり、彼女に会う為の口実だ。さあ、本当に何も心配する事がないと言うんだな。それなら家にある彼の覚書をその儘出版しよう。もしそれが何でもないものだったら、とっくに此処へ、貴様の所へ持って来ていた筈の、例の覚書を。
サルヴォ(強く。)私の所へ持って来たまえ。私が自分で出版しよう。公にアリアーニに賛辞を述べ・・・
ロリ 出版? そうして自分の盗みを自分でおおっぴらにしようとでも・・・
サルヴォ(強く。)違う。盗んではいない。誰もそんな事を信じはしない!
ロリ 成程。そういう事か・・・サルヴォ・マンフローニの言葉と、この私の言葉、どちらを・・・(パルマの方に振り返り、サルヴォに対する怒りと恥を含んだパルマの態度を見て安心して。)そら、見てみろ。パルマが私を信じている。パルマが信じてくれれば私はそれでいいのだ。この子の為に私は今まで沈黙を守っていたのだ。――その私が、言うか言わないか――それはこの子によるのが当然だろう。 私は何も言わない。貴様の本?下らない。それを書いた人物? 下らない。サルヴォ・マンフローニ? 下らない。(パルマの腕を掴む。その目を覗きこんで。)パルマ、お前は私を信じるね?
パルマ ええ!
ロリ お前が信じているのはこの私だね? 彼じゃないね?
パルマ ええ、ええ。
ロリ これ以上、何も望むことはない。私は出版などしない。何もしない。私は此処に、貴様と対決する為にやって来た。どんな事でも、やってのけようと決心して・・・しかし、全ての武器は私の手から滑り落ちてしまった。それに武器と思っていたものは一体何だったのだ。武器など何もなかった。針一本、ピン一本もありはしない。そしてそれで何をしようと? しみったれた、薄汚い、けちな事だ。私のやった事は。今では心から恥ずかしい。(パルマにもう一度。)私を信じるんだね、お前は?
パルマ ええ、ええ。
(沈黙。)
ロリ もうこれで私は満足だ。ではこれで・・・さようなら。
パルマ(胸が一杯になって、ロリに駆け寄り、抱き締めて、去るのを停める。)行っては駄目。行ってはいけないわ。私だったら引き止められるでしょう? 私なら? もう生きて行けるわ。もう生きる理由があるわよ。
ロリ 私には・・・ない。
パルマ(強く。)ないって・・・何故? あるわ。今はもう私の尊敬する人なのよ。(手でフラヴィオに近づくよう合図する。フラヴィオにも言うようすすめる。)尊敬する人よ。
フラヴィオ (近づいて。)そう・・・そうです。
ロリ(陰鬱に、殆どぶっきらぼうに。)私が今、ごまかしなしに和解出来る人物はたった一人しかいない。自分の過ちの後、それを悔いて、後は私への愛一筋でそれを埋め合わせた・・・シルヴィア。 あの過ちの後、私にとって生きていて真実なもの、それはあの愛だけだ。その他のものは全部虚偽でしかなかった。私に一番大きな嘘をついていた人物、それが私を一番騙していなかった。私は君達と和解出来ない。どうしても和解は出来ない。ぞっとするような嫌悪の情で、震えが出て来る。君達に対しても。この私に対しても。
パルマ 酷い。嫌悪だなんて。どうして嫌悪が・・・さっきの話、私の出生に関して、あの人(マンフローニを指差す。)が嘘をついていたという・・・
ロリ あの私の話は嘘だ。
パルマ でも私はすぐ信じたわ。(フラヴィオを指差して。)この人と此処に入って来た時・・・すぐ。誰だって同じように、すぐ信じる筈だわ。私、真先に立って、信じて貰うようにする。皆に信じて貰うの。だって私達こんなに貴方を尊敬しているんですもの。愛しているんですもの。
ロリ 尊敬? 愛? お前が? ・・・しかしみんなに話して信じて貰うなんて・・・
パルマ 話す必要なんかないわ。私の態度で分かる筈よ。私、これからはずーっと一緒にいる。貴方と一緒に。煩(うるさ)いくらい。皆が驚いて、どうしたんだろうって言うようになるぐらい。此処でみんな分かってしまったんですもの。これからは・・・
ロリ(彼を包囲し、攻撃して来るこの思いやりから、自分をまだ防衛しようとして、説得されそうになるのをぐっとこらえて。)しかし、私は・・・私は・・・その尊敬を信じられない。
パルマ(さらに言葉を継いで。)必ず、終いには信じられるようになる。きっと。必ず。それ以外になりようがないでしょう。だって・・・
ロリ(こらえて。)私が? 必ず? 何故?
パルマ 分かって下さっている筈ですわ。私の今のこの尊敬の気持ちを。これは贋物ではないわ。本物。正真正銘の本物。現実ですわ。決して虚偽ではない。これに頼れば生きて行ける筈。皆もそれを終いには信じるようになるわ。お父様だって・・・終いには。
フラヴィオ そうだ。パルマの言う通りですよ。自然にそうなる筈だ。
ロリ(疲れ、抵抗も力尽き、激しい感情の波に押し流され、パルマの腕に倒れる。それから頭を持ち上げる。顔が歪んで、殆ど口籠もるように。)じゃあ、また芝居か・・・演ずるのか。
パルマ 違う! 芝居なんかじゃない。私のこの気持ち、これは本当。現実。芝居とは違うもの。
フラヴィオ そうです。私も保証します。必ず分かって下さる筈です。
ロリ(フラヴィオに。)するとこれで全部・・・全部決着?
パルマ(優しく両腕で抱きながら。支えるようにして。)さあ、元気を出して! 疲れていらしゃるわ・・・もう出ましょう・・・お家まで一緒に行きますわ、私達。
フラヴィオ そうだ。もうこんなに遅い。
パルマ 車は待たせてあるの。すぐ出られる筈だわ。
ロリ 家まで・・・車で・・・ああ・・・これで決着か・・・これで全部決着・・・か。(パルマと歩き始める。へとへとになっている。フラヴィオ、先に立つ。突然立ち止まり、振り向き、サルヴォを見る。見ながらパルマに言う。)それで、彼は?・・・
パルマ(サルヴォを見る。ロリの言っている意味が分からない。)どういう事?
ロリ そうだ。彼にもさようならを言わなければ・・・(手で別れの挨拶をする。體を曲げて、お辞儀もする。それからパルマに。)そうだ、これで決着なんだ・・・
(幕)
平成二年(一九九〇年)三月三十一日 訳了
http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項 又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html
原題 Tutto per bene
翻訳に使った本 Pirandello Theatre complet Bibliotheque de la Pleiade
フランス語訳の題名 Tout finit comme il faut
フランス語訳の訳者 Andree Maria
題名に関するあとがき
この芝居の原題は Tutto per bene、 仏訳の題は Tout finit comme il faut、 英訳の題は All for the best である。最初の私の日本訳は、「すべてはよかれと」であった。これは英訳の題に引きずられてつけたものである。
昴の稲垣昭三さんが、私の訳を読んで下さって、面白いと批評を下さり、ただ題名と、この題名に直接関わる最後のロリの台詞、これがうまく訳せていないと指摘され、またこの時、シェイクスピアの「終りよければ全てよし」に関係があるのではないかとのヒントも下さった。私は殆ど反射的に、題名を「終りよければ」に変更し、稲垣さんに送った。フランス語の題名、「すべてはちゃんと終った」にも近いと思ったからである。
その後、当時私の職場であった気象研究所に、イタリア人フランチェスコ・ウボルディさんが来たのを幸い、イタリア語の題の意味を訊いた。ウボルディさんの説明によると、この言葉は日常気楽に使われるもので、「ちゃんとやったよ」程の意味であると。例えば次の母娘の会話、
娘が洗い物を終える。
母「お前、洗ったの?」
娘「洗ったわよ。」
母「ちゃんと?」
娘「ええ、ちゃんとやったわ。(Tutto per bene.)」
のように使うと。
「ちゃんとやった」の意味には、慥に「天が(つまり人間の力ではなく、それ以上の運と言ったもの)そうした」の意味が含まれているようにも思える。稲垣さんは「天の配剤」という訳を薦めて下さり、私も一旦はそれでよいと思った。
しかし、ピランデルロの他の作品から見ても、神(あるいは天)の考えは彼に希薄である。私は「ちゃんとやった」の中の「やり終えて、これでおしまい」という気分を採用し、三度目の題名「これで決着」を決めた。
平成十年三月一日 記す