国家への遺産(A Bequest to the Nation)テレンス・ラティガン作(1970年)
 1965年8月、「ネルソン」と題した映像用ドラマをラティガンは、テレビ局に提出した。配役は、ネルソンに「ロス」でアレック・ギネスの後を受けアラビアのロレンスを演じ、ラティガンが非常に感心したマイケル・ブライアント、ネルソン夫人に、「深く青い海」でペギー・アッシュクロフトの後を受け、へスターを演じたスィーリア・ジョンソン、エマ・ハミルトンに、その時にはまだレックス・ハリソンの妻であった、レイチェル・ロバーツ、の予定だった。
 トラファルガーの海戦前、ネルソンがロンドンと、彼の田舎の家で暮した24日間の話である。
 ラティガンがエディンバラ公、ルー・グレイド(Lew Grade)に説明したところによると、インスピレーションは、ネルソン夫人がネルソン宛に書いた手紙からきたものであると。この手紙は1801年12月に書かれたもので、封筒に「誤ってロード・ネルソン、これを開けり。ただし、読んでおらず」と書かれてあった。ラティガンは不思議に思った。他のどんな彼の書き物を見ても、ネルソンは優しく暖かい心の持ち主である。その人物が何故こんな野蛮なことを、と。
 その答は、ネルソン夫人の強い決意、「右の頬を打たれれば、左の頬も」にあったとラティガンは解釈した。この誠実な妻に対して、汚れてしまった自分、エマ・ハミルトンとの情事に陥ってしまった自分、が対抗出来る手段はただ一つしかない。それは「憎しみ」だったのだ。
 この映像用ドラマは1966年3月に放映された。
 ファイナンシアル・タイムズのカスバート・ワーズリーは、「非常に心を打たれるドラマ。あらゆる角度から見た英雄の姿」と、暖かく迎えた。しかし、サンデー・タイムズのエイドリアン・ミッチェルは、ネルソンの水兵達の五分の四は、街から攫ってきた男達である事を隠したと、非難した。
 ボーモンに勧められ、1970年春にこの「ネルソン」を芝居に書き換えた。ボーモンは気に入り、すぐにかけることに同意した。ラティガンは演出にピーター・グレンヴィルを希望した。「銘々のテーブル」以来6年間のブランクにも拘らず。また、彼に承諾して貰いたいために映画化の権利も譲ると。ボッブ・ホワイトヘッドはアメリカでの制作を承諾した。そして彼の妻ゾエ・コールドウェルがレイディ・ハミルトンを演ずることになった。
 第2幕第2場に、ネルソンの性に対する告白がある。これは「深く青い海」においてへスターの台詞にあったものと同じである。但しもっと赤裸々に書かれてある。
 
ネルソン (怒りをぶっつけるように。) 君は正確な事実を知っている。六年前、ナポリにおいて、私は故意に、私の自由意志で、悪名高い毒婦を抱く為、貞淑な、愛すべき妻を追いだした。これが起こった時、ヴァンガードの更衣室で、君達みんながどれだけ笑ったか。「まさかあの女のために、妻を追いだすんじゃないだろうな。あの女・・・十四歳で、ヴォークスホールガーデンでストリップショーを演じ、グレヴィルが、借金のかたにハミルトンに売り飛ばし、サー ウイリアムの妻になるまでに、イギリスの貴族の半
数と寝た経験のある、あの女のために、あのエマ ハミルトンのために、まさか妻を追い出したりはしないだろう。」そのあざけりがどんなに大きなものだったか、私が想像出来ないとでも思うか。
(間。)
ハーディ 閣下、閣下がそのように見抜いておられるとは誰も思いもかけないでしょう。私も、今の今まで、思ってもいませんでした。閣下はおくびにも出しておられませんでした。私は全く気がつかず・・・
ネルソン そいつはどうかしている、ハーディ。私はまだ正気なのだ。正気であってそれに気がつかない。それはありえないだろう?
(間。ハーディから顔を逸らせる。)
ネルソン 私の聖なる婦人だって? とんでもない、ハーディ。王を侮辱した後、エマはシャンパングラスを投げ付けた。 あの時、私が見たものは、ハーディ、君が見たものと違うとでも思うのか。酔っ払いの中年女。それが私を笑い者にし、自分自身も笑い者にしている。そう私に見えないとでも言うのか。あのゲビた言葉、あの品のない態度、その度毎に、身が縮む思いをし、あの酒の臭いのプンプンする息に反吐を吐きそうな気分になっている。皆と一緒にあの女といる間中、何度恥ずかしさに穴があったら入りたいと思
うことか。ハーディ、君はこのネルソンが、こう感じていないとでも思っているのか。
(間。)
ハーディ では何故、そんな一日一日をじっと辛抱していらっしゃるのでしょう。
ネルソン (面と向かって。)何故なら、その一日の後には夜があるからだ。
(間。ネルソン、微笑む。)
ネルソン ここで勿論君は疑問を呈するだろう。ベッドでしか存在しない、そんな愛が愛と言えるか、と。
ハーディ はい、それはどうなんですか。
ネルソン 愛だ。今の私には簡単に言える。 しかし、五年前の私、四十歳のナポリの提督には簡単ではなかった。いいか、ハーディ、大抵の男はあの楽しみをその年までには味わいつくしている。それにもうすっかり忘れている。それくらいのものだ。しかし、この提督はその喜びを知ったこともなく、楽しんだこともなかった。ベッドで心身が解き放たれる、あの深い満足、あの強い恍惚。人生が男に与えることが出来る全てがそこにある。この世に存在する目的そのものがそこにある。そう、この提督には思えたのだ。これ
が愛か。かわいそうな、未経験のこの提督には、この問題は簡単ではなかった。簡単どころではない、ハーディ、実に難問だった。このことは頭に入れておいてくれなきゃならない。つまりその四十という年でも、私はまだ牧師の息子だった。揺籃(ゆりかご)の時から、肉体の愛を排し、聖なる結婚による、言葉では表現できない喜び、神によって保証された喜びを、と聞かされて育った、牧師の息子だったのだ。しかしとうとう私がエマに降伏した時、私は・・・そうだ、これを言ったところで何の恥ずかしいことがあろう。私は、肉体の愛は精神に関わってくることを発見したのだ。それは精神が肉体に関わるのと何の違いもありはしない。何故なら、肉体は結局精神であり、精神もつまるところ、肉体だからだ。少なくとも私にはそうなっている。だからハーディ、私は今のエマで何一つ変えて欲しいところはないのだ。私はあれを愛している。今の儘のあれを欲しているのだ。それだけ私はあれに執着している。あの女を、あれごと欲しいのだ。

 1970年9月23日、ロイヤル・ヘイマーケット劇場で初日が行われた。ネルソンはイアン・ホルム、レイディ・ネルソンをルーリーン・マクグラースが演じた。ラティガンの芝居は7年ぶりであった。
 最悪の批評を予期していたラティガンであったが、それほどではなかった。デイリー・メイルは、「本物のエンターテインメント。均整のとれた、重厚な作品である。劇的ショックとはこういうものをいう」と。タイムズは、「醜い、普通でない私生活を送っていても、その崇高さを失わなかった英雄の肖像をラティガンは示してくれた」と。

(この「国家への遺産」は124回であった。)
  
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年6月9日 記)