国家への遺産

          テレンス ラテイガン 作
           能 美 武 功   訳

   登場人物
ジョージ・マッチャム・シニア
キャサリン・マッチャム
ベツィ
ジョージ・マッチャム・ジュニア
エミリー
フランシス(レイディ・ネルソン)
ホレイショー・ネルソン
ロード・バラム
エマ・ハミルトン
フランチェスカ
ロード・ミント
ハーディ艦長
レヴェレンド・ウイリアム・ネルソン
サラ・ネルソン
ホレイショー
ブラックウッド艦長
海軍少尉候補生
下僕  水夫  女中

   時
芝居の主要部分はネルソンが八月二十日英国に帰り、カディスに九月十三日再び出発する、この二十五日間、一八0五年のこと。「トラファルガーの海戦」は一八0五年十月二十一日であり、芝居の最後の場は、このニュースがロンドンに届いた数日後。即ち十一月五日である。

   場
全幕とも屋内。數個の椅子が場に応じて並べ変えられる。台詞には、時々扉とか窓が言及されるが、扉も窓もない。観客よりもむしろ読者の方が、その存在を意識し易い。即ち舞台は暗示的であり、場の変換は大小の道具でなく照明で行なわれる。背景の絵は四枚。場の順序で言えば、バース、ロンドン、マートン、トラファルガー。

     第 一 幕
     第 一 場
(照明がつく。バースにあるマッチャム家の一部。居間と階段の一部が見える。ジョージ・マッチャムが荷造りをしている。 下僕がトランクを運んで階段を降りようとしている所。下僕少し足を滑らし、「畜生!」と言う。)
 マッチャム 気をつけろよ。その中にはレイディ・ハミルトンのブランデーが入っているんだ。
 下僕 提督の大砲じゃないんですか。えらく重いです。
 マッチャム トムに手伝わせたらいい。
 下僕 あいつは奥様がトランクを締めるのを手伝っているんで。
 マッチャム トランク、二つもあるのか。
(下僕退場。マッチャム、階段の上に叫ぶ。)
 マッチャム(叫ぶ。) キティ、二つもトランクいるのか。
 キャサリン(舞台裏で) 二ついるのよ。
(二番目のトランク、第二の下僕の背にのせられて降りて来る。女中(訳註 これはベツィ。ジョージと同じ位の年――十三から十六。)がそのうしろ、化粧箱と二、三の帽子の箱を運ぶ。)
 キャサリン(登場) 気をつけて、ボッブ、私のラベンダーが入っているんだからね。(突然思い出して大声で。)ベツィ、ベツィ、私の宝石箱は? 
 ベツィ この帽子の箱の中ですわ、奥様。奥様が特別に御自分でそこに・・・
 キャサリン そうよ。確かめるために言ったの。
(ジョージ・マッチャム・ジュニア登場。十六歳の中学生。新聞を持っている。)
 ジョージ(興奮して。)うちの家族がバース・ガゼットに載ってる。三人とも。
 マッチャム ほう、本当か。
 ベツィ(宝石箱があるのを確かめて。)ありますわ、奥様。(ベツィ退場。)
 マッチャム ちゃんと宝石箱を帽子箱の中に入れたんだろ。じゃその宝石箱は何なんだ。
 キャサリン 追いはぎが出た時の用心。
 マッチャム おいおい、この二十五年間バースからロンドンまでの道で、追いはぎなんか出たためしはないぞ。
 キャサリン だからと言って、今日出ないっていう保証にはならないわ。(ジョージに。)お前、学校は?
 ジョージ まだ三十分大丈夫。お母さん、ガゼットにうちのことが載ってるんだよ。
 キャサリン ガゼットに載っていたって珍しい事じゃないわ、ジョージ。ロンドンのタイムズに載っていたって不思議じゃないくらいだわ、もう。
 ジョージ だけど、今度のには、僕が載っているんだ。
 キャサリン あらそう。(マッチャムに。)いつ発つんですの、あなた。
 マッチャム もうすぐだ。馬車は頼んである。だけどトランク二つっていうのは言っておかなかったんだが・・・
 ジョージ 僕のところ、読んでもいい? (興奮して読む。)彼らの長男、ジョージ マッチャム ジュニアは・・・
 キャサリン(コーヒーをすすりながら。)もう少し前から読んでみて・・・
 ジョージ あ、うん。
(ジョージ、菓子パンをつまみ、食べはじめる。)
 ジョージ(速い読み方。)ネルソン卿は海軍省の命令により、突然帰国したが、これが現在までの彼の粉骨、不休の働きに対する当然の報償であることは疑いないところである。しかし果たしてこの休息が、彼の余生に渡り続くものであるかどうかは知られていない・・・云々云々。西インドについては云々云々・・・しかし・・・
 キャサリン 食べながら読むものじゃありません。それに「もう少し前から」と言いましたよ。
 ジョージ えーと、じゃここはとばして・・・ここからか。(読む。)この見方を裏打ちする情報としてネルソン卿はサリー州マートンに新築した自宅に自分の一族郎党のほとんどを招請し・・・
 マッチャム(鋭く。)「ほとんど」?
 ジョージ ええ。
 キャサリン 深い意味はないのよ、きっと。
 マッチャム 深い意味があってたまるか。次は。
 ジョージ(読む。)うち、バース在住の三名は、提督の妹、マッチャム夫人、その夫、著名な金融業者、ジョージ・マッチャム(次が大事だと声を上げて。)その息子、ジョージ・マッチャム・ジュニア・・・
(母親、ここで荒っぽく読むのを止めさせる。)
 キャサリン 金融業者。気にいらないわ。金融業者じゃまるで・・・まるで、ブロー・・・
 マッチャム 私は金融に携わっているんだ。
 キャサリン でもまるでそれが貴方の生計の道っていう風に聞こえるわ、これじゃ。
 マッチャム これは私の生計の道なんだ。(だんだん怒ってくる。)なんだか奇妙な話になってきているぞ。お前の兄貴が半分神様扱いされるようになってから、お前は半分女神になった・・・だからお前の結婚相手はお前の地位よりもずっと低いところにいるっていう話だ。だがな、我々が結婚した時のことを考えてみろ。まだ娘でバーナムに住んでいた頃のことを。相手が金融業者だっていうんで、大喜びだったんだ。
 キャサリン(威厳をもってジョージに。)お前、読んでいるところだったね、ジョージ。その息子、ジョージ・マッチャム・ジュニアは・・・
 ジョージ(読む)バースの近くの中学校に通っており、一週間後、即ち今学期の終了と共に彼もまた、マートンに移るのであるが、確かに(マッチャムに。)ここを良く聞いて、お父さん、確かに、ジョージ・マッチャムは、イギリス中で最も運のよい少年であると自負せねばなるまい。
 キャサリン お前、そう思っているんだろう、ジョージ。
 ジョージ(両親にない熱心さで。)うん、思ってる。
(マッチャム、彼から新聞をとり、不機嫌に読み始める。ジョージ、自分の鞄に行き、何か熱心に書き始める。宿題のようである。)
 キャサリン(マッチャムに。)私達以外に何かある?
 マッチャム お前の兄貴が出ている。司祭長って呼んでいるよ。
 キャサリン いいじゃないの。
 マッチャム 決して正確とは言えないがね。
 キャサリン あのエマについてはどう? 何か書いてある?
(マッチャム、さっと目を走らせる。)
 マッチャム いつもと同じだ。
 キャサリン 不都合なことは何も出ていないんでしょうね。
 マッチャム お前、何が言いたいんだ。この話で不都合でないことなんて、一体どこにあるんだ。
 キャサリン 十分注意して書けばその辺はなんとか・・・
 マッチャム 前よりは書き方はずっとひどくなっている。読むとな、(読む。)レイディ・エイチはクラージス街の彼女の自宅とマートンの彼女の仮宿との間を常に往き来している。
 キャサリン 「仮宿」とはうまく言ったわね。
 マッチャム(続ける。)レイディ・エイチはネルソン家における名誉ある女主人としての役割を、寡婦になった現在、再び演ずる機会を得ているのであろう。
 キャサリン あの人、もうあと一、二年でも生きていてくれたら良かったのに。
 マッチャム そうだ。この時期に死ぬなんて、あいつも考えなしの奴だ。(読む。)この女主人の役割は、まだ彼女の夫、サー・ウイリアムが健在の頃、ネルソン卿、サー・ウイリアム、レイディ・エイチの三人が堅い友情の絆のもとに――トリア・ジュンクタ・イン・ウノ。即ち、三位一体で・・・
 ジョージ(宿題に没頭しながら。)それじゃあ、三人からみ合っているように聞こえるなあ。
(間。)
 キャサリン(やっと。怒って。)ジョージ、なんてことを!
 ジョージ(振り向いて。)ああ、大丈夫だよ。お母さん、僕だって三人からみ合っていないことぐらい知っているんだ。ネルソン伯父さんが帆を上げる時はもうサー・ウイリアムが錨を上げている。これは分かっているし、伯父さんを非難する奴は誰もいないさ。だけど三位一体っていうのはちょっと・・・ローマ風だね。
 キャサリン それは「バースの誓い」よ。伯父さんとサー・ウイリアムが大切にしていたモットーじゃないか。
 ジョージ(笑って。)それじゃあもっとまずいや。バース(風呂)に三人で入ったのか。彼女も一緒に。(ローマの集団浴場だな。)
(ジョージ、笑いだす。止らない。中学生が自分の冗談に笑う時の笑い。)
 キャサリン ジョージ、呆れたわね、ジョージ。本当に呆れた。笑うのはおやめなさい! (マッチャムに。)あなた、お願い。
 マッチャム やめろ、笑うのは。ジョージ、止めんか。
 ジョージ はい、お父さん。
(一、二度、吹き出すのをやっと抑えて、笑い止む。)
 キャサリン 呆れた。学校では何を教えているんでしょう。
 マッチャム ローマの歴史さ。
 キャサリン 本当に呆れた話。この子の年でこんなに恐ろしい、こんなにひどいことを自分の伯父さんについて想像するなんて。伯父さんを全く尊敬していないっていうことじゃないの。
 ジョージ(しっかりと母親を見て。)尊敬していないですって、お母さん。とんでもないです。僕にとってあの伯父さんは神様みたいな人ですよ。
 キャサリン だって、お前今・・・
 ジョージ それは冗談は言いました。失礼なことだと思います。でもあの冗談はイギリス中で言っていることです。それに、言ったって何の害もありません。
 マッチャム どうしてイギリス中で言っていると思うんだ。
 ジョージ お父さん、僕は子供じゃないんです。
 マッチャム(訊いていることの論点を忘れて。)お前は子供だ。
 ジョージ(論点が外れて安心して。)じゃあ子供でいいです。でも僕はこれから、伯父さん、レイディ・ハミルトンと一緒にあの人達の家に住むんですから・・・
 キャサリン あの人達の家じゃないの、伯父さんの家。
 マッチャム 俺の家だ。借金を払い終わって貰うまではな。
 ジョージ そうするとレイディ・ハミルトンは僕の名誉ある女主人っていう事になるんでしょう? だって新聞に書いてあるんですから。僕のうちにいるこの「女主人」っていう人を僕はどう考えればいいんですか。お母さん。
 キャサリン(困る。しかし、しっかりと。)伯父さんの非常に近しい、大事なお友達で、家にいるのは・・・
 マッチャム 家事の助けをするからだ。
(キャサリン、夫をちらと見、荷物の纒めをする。)
 キャサリン お前みたいな小さい子供にはまだ分からないよ、この国の錚々たる人物の高貴な関係なんていうものは。
 ジョージ(皮肉なしに。)ええ、僕にはまだ分からないと思います、お母さん。特に一人はあのホレイショー伯父さん、もう一人はこの世に生まれた一番奇麗な、一番優雅な女の人だっていうんですから。だけど僕に分からないのは、あの「三位一体」っていうやつなんです。まだサー ウイリアムが生きていて、三人で暮らしていた時、みんなは何と思ってこんな事を言ったんだろう。
(間。ベツィ階段に登場。エミリー(年寄の婦人)を連れている。ベツィ、エミリーに部屋の中を「ここだ」という風に指差し、階上に上がる。エミリー、敷居のところでおずおずとした態度。)
 マッチャム(自分の時計を見ながら。) 今のジョージの質問に対する答はお前がやるんだな。さぞかし立派な、申し分のない説明だろうよ。だが今はいい。もっとあとでゆっくりとやって貰うことに・・・
(この時までにエミリー、勇気を奮い起こして居間に入って来ている。マッチャム、彼女を見、びくっとする。間。)
 マッチャム ああ、エミリーじゃないか。驚いたな。会えるなんて珍しいよ。どうだい、元気でやっている?
 エミリー ええ、元気でおります、マッチャム様。奥様。
(キャサリン、頷く。)
 エミリー あら、ジョージお坊っちゃま。随分大きくおなりになって。
 ジョージ そうかな。
 エミリー そうですとも。(マッチャム夫妻に。)レイディ・ネルソンから宜しくと申しました。出来れば一言お話ししたいことが・・・との事です。レイディ・ネルソンは外でお待ちです。
 キャサリン この家の外という事かい?
 エミリー ええ、さようでございます。
 キャサリン 朝の六時に?
 エミリー 馬車が出る前に皆様にお会いになりたいと・・・
 キャサリン それだったらもっと早くに来なくちゃいけなかったんじゃないのかい。
 エミリー いいえ、奥様。皆様の馬車の出発が三十分遅れることになったと、分かりまして・・・。車寄せのところで皆様をお待ちしようと行ってみまして、そこで分かったのです。で、こちらに直接参ったのです。
 キャサリン で、この通りで待っているっていうのかい。
 エミリー はい、奥様。御自分の馬車で。
(間。マッチャム、困ったように妻を見る。キャサリン、冷たく拒否の身振り。)
 マッチャム いや、それでも遅すぎだ、エミリー。今になると余計たてこんでいて、ちょっとお相手出来ない。
 エミリー ほんの一言だけと仰っておられます。新聞で皆様が今日マートンにお移りになることを知って、どうしてもお会いしたいと。
 キャサリン 何故でしょう。
 エミリー はっきりとは私には分かりません、奥様。でも、ご主人様へのご伝言ではないかと・・・
 キャサリン どういった伝言?
 エミリー もう四年も会っていない夫への、妻からの優しい挨拶ではないでしょうか。勿論不都合なことは何一つない筈です。
 キャサリン レイディ・ネルソンに言っておくれ、エミリー。今の時点、そしてこの状況で私達がお会いして、何の意味もあるとは思えませんと。そのようなことをなさるのが、全く的外れであることは、レイディ・ネルソンご自身が、一番よくご存じの筈ですと。それからこのような不作法な振る舞いに、大変迷惑しておりますと。言葉通り、そのように伝えておくれ、エミリー。
 エミリー 畏まりました、奥様。無駄です、とは何度も申し上げたのです。このようなことはなさいますなと・・・
 キャサリン それをお聴きになっていればよかったの、あの方は。(寛容に。)お前には個人的に何の悪感情も持っていないんだからね、エミリー。
 エミリー それはご親切に・・・どうも。
(エミリー、会釈。退場。)
 キャサリン(怒って。)あきれた。こちらの立場なんかどうでもいいって言うのね。私達に何が出来るっていうの。馬鹿! 間抜け! オタンチン! ジョージ、お前、今のは聞こえなかったんだよ。
 ジョージ(コーヒーを飲みながら。)聞こえた。
 キャサリン トム・ティットのやつがこんなことを企んだって、兄さんに言ってやる。見ているがいい。(夫に。)あいつの次の手なんて見え見え。この外で私達を待ち伏せよ、きっと。その傍を通る時、どうしても一言話さないではおかないっていう計算ね。(決然と荷物を取り上げながら。)そっちがその気ならこっちにも考えがある。(夫に。)さあ、行きましょう。
 マッチャム 今出るのか? 上策とは思えんな。 敵の主力部隊の真ん中に突撃するのは良い戦略とは言えないよ。
 ジョージ(にやりと笑って。)ネルソンの言葉ですね。
 マッチャム なまいきを言うな。それに俺はネルソンじゃないんだ。
 キャサリン 私はネルソンなんですからね。あんなやつ、馬車の傍を平気で通って睨み返してやる。そのぐらい何でもない。なんでもないどころか、いい気味っていう気分だわ。
(キャサリン退場。)
 マッチャム(ジョージを抱いて。)じゃあな、ジョージ。一週間後、マートンで会う時には受け持ちの先生からの「成績優秀」っていう言葉を期待しているよ。
 ジョージ はい、そうなるよう努力します。
 マッチャム(優しく。)通知表にお前がその言葉を書いてもいいがな。
(マッチャム退場。)
 キャサリン(舞台裏で。)行くよ、ボッブ。
(ボッブ登場。帽子箱をいくつか抱える。)
 マッチャム(舞台裏で。)キティ、馬車を裏口に回すようベツィに言おうよ。
 キャサリン(舞台裏で、怒って。)裏口? トム・ティットを避けるため? あなたって一体どういう人なの。
 マッチャム(舞台裏で。)親戚の気持ちを傷つけまいと心を砕くぐらいの事はする男さ。
(この時までにジョージ、坐って宿題をまたやっている。この瞬間を待っていたかのようにベツィ登場。ジョージに近づく。)
 ベツィ 坊っちゃま、お願いがございます。来週伯父様にお会いになられる時、ことづけものをお渡し下さいませんか。お母様にはお願い出来なかったのです。だって何て仰るか、分かっているんですもの。私の部屋にあるの。もう包んできちんとしてあります。
 ジョージ 何なんだい、ものは? ベツィ。
 ベツィ マラリアに效くものです。本であの方のことを読みました。この持病で時々発作を起こされるって。
 ジョージ 薬かい?
 ベツィ いいえ、身につけるもの。
 ジョージ 態々買ったの?
 ベツィ 盗んではきませんわ。
 ジョージ そんなことにお金を使ったりしちゃ駄目だよ。
 ベツィ 何故でございます。効き目があるかもしれませんわ。お渡し下さいますか。
 ジョージ 勿論。それに誰からっていうこともね。
 ベツィ いいえ、そんなことは仰らないで。ただ差し上げて下さい。それだけでいいんです。それからどうぞ必ずお召しになって下さい、と。
(呼び鈴の音。)
 ベツィ 馬車だわ。忘れないで下さいね。坊っちゃま。
 ジョージ 勿論忘れないさ。高いものだったんじゃないの。大丈夫かい?
 ベツィ そんなの、何でもありませんわ。あの方がいらっしゃらなければ、私達一体どうなるでしょう。そのことを考えれば・・
(ベツィ退場。ジョージ、宿題に戻る。)
(暫くしてベツィ、驚いた表情をして再び登場。その後ろにフランシス(即ちレイディ・ネルソン)登場。夫(四十六歳)と同い年。決して美人ではないが、人に威厳を感じさせる落ち着きと優しい品位がある。ベツィ、居間を指し示し退場。)
 フランシス 暫くね、ジョージ。
(ジョージ、ひどく驚く。しかし逃げることは不可能。やっと固い公式的な会釈をする。)
 ジョージ レイディ・ネルソン。
 フランシス(会釈を返して。)もうフランシス伯母さんじゃなくなったの?
 ジョージ(再び会釈をして。)フランシス伯母さん。
 フランシス エミリーの言っていた通りだわ。大きくなったわね。その半ズボン、もう小さいわ。あなたの洋服を買う係りは今は誰?
 ジョージ 母です。
 フランシス 私が買っていた頃の方がちゃんとしていたわ。お前のお母さんは知らないんだよ。子供の成長がどんなに早いものかを。
(間あり。その間観客は、フランシスもジョージと同じ位そわそわしていることが分かる。)
 フランシス(おずおずと小さな包を出しながら。)まだお前、飴は好きかい? ヘイザートンでお前にと思って買って来たんだけど。
 ジョージ(当惑のため声がかすれてくる。)有難うございます。でも僕、朝食を食べたばかりで。それに菓子パンも。
 フランシス そうね。飴なんかはいりっこないわね。(包を差し出して。)でもとにかく取っておいて。
 ジョージ(拒絶する。)いいえ、駄目です。
 フランシス あら、余計おかしくしちゃったわ。エミリーも言っていた。そんなことをなさると却っていけませんよって。
 ジョージ(きっぱりと、態度を決めて。)もう学校に行く時間ですので、もしお許し下されば、僕は・・・
 フランシス(少し気色ばんで。)許しません。それに私は、お前の学校へ行く時間は、ちゃんと知っているのです。お坐りなさい、ジョージ。
(ジョージ、威厳のある声に仕方なく従い、坐る。)
 フランシス 来週マートンに行くんだね、お前。
 ジョージ はい。
 フランシス 何曜日?
 ジョージ 木曜日です。
 フランシス 木曜日には私はロンドンです。サマセット街の私の家。ひとつきばかりそこにいようと思って。
(間。ジョージ無言。ジョージは明らかに言う言葉なし。しかしフランシスは彼に何かを言って貰いたい。用件をうまく切り出すためのきっかけが欲しいのである。一旦は権威づくで言葉は発したが、彼女の極端におどおどした態度は消えていない。)
 フランシス このコーヒー、まだ温かい?
 ジョージ もう一杯頼んで来る。
 フランシス いいの。これでいい。ここに汚れていないカップもあるし、私を朝食に呼んでくれたみたい。お前のお母さんも駄目ね。視線で人をやっつける時には、その視線は相手の身体を射抜かなくっちゃいけないの。頭越しに相手の後ろの方を見るなんて意味ないわ。それにお前のお父さんだって・・・(笑う。それからシャンとしようと努めて。)ああ、ジョージ、許してね。お前の前にいて気おくれがして・・・
 ジョージ 僕の前で気おくれですって?
 フランシス ほら、手を見て。
(フランシス、カップを下におろす。震えがひどくてカップを口に持って行けなかったのである。)
 フランシス 馬鹿なことね。
 ジョージ ええ。僕でそんな風だったら、さっき入って貰って、お父さん、お母さんに会ったらどうなるんですか。
 フランシス ああ、それは平気。あの人達の手が震えるのよ。私の方じゃないわ。手が震えるのはうしろめたいからなのよ、ジョージ。うしろめたさが人を臆病にさせる。さっきのお前、固い会釈をして「レイディ・ネルソン」だなんて。昔は「大好きな伯母さん」だったのに。うしろめたくてそうなるの。
 ジョージ 僕にうしろめたいこと。そんなことがあるんですか。
 フランシス お前に何かをやって貰おうとしているの。そんなことをしてはいけない、と、私の良心は言っている。
 ジョージ(僕に出来て、してはいけないこと。)何ですか、それは。
 フランシス マートンに手紙を持って行って貰いたいの。
 ジョージ 伯父さんに?
 フランシス ええ。私の夫に。
(間。ジョージ、眉を蹙める。「厭です。」と言って良心が疼かないような良い言い方がないかと捜す。)
 ジョージ どんな手紙なんですか。
 フランシス 普通の手紙よ。
 ジョージ 何かひどいことが書いてあるの? レイディ・ハミルトンは淫売だとか・・・
 フランシス レイディ・ハミルトンについては何も書いてないわ。たとえあったとしても昔のあの人のことを思いださせて何になるっていうの。
 ジョージ(怒って。)あの人が本当に昔淫売だったって僕に思わせようっていうんですか。
 フランシス(微笑む。)勿論違うわ、ジョージ。昔のあの人はそれから思うと随分変わったもの、そう言いたかっただけ。(バッグを開けながら)ほら、これが手紙。ね、宛名はないでしょう? それに封印もしなかったの。
 ジョージ 何故ですか。
 フランシス 私の筆跡も、封印もレイディ・ハミルトンによく知られている。
 ジョージ でも僕が自分で手渡せば・・・
 フランシス 少なくとも一人はいつでも召し使いがいるわ。四、五人いるんじゃないかしら。あの人そういう事には随分贅沢ってきいている。 お手当ても十分出しているでしょうから。(みんなあの人の味方のはず。)
 ジョージ(笑って。)それは考え過ぎだよ。
 フランシス 考え過ぎではないわ。でもそういう風に思うのなら、これはお前の胸一つにしまっておいて。
 ジョージ(まだ笑っている。)あの人が手紙を焼き捨てるとか、そういうこと?
 フランシス いいえ、多分、この間出した手紙と同じ運命。馬鹿なことをしたの。それは郵便で出したの。返送されてきた封筒に「ネルソン卿、誤ってこれを開封せり。但し読み申さず候。」とあったわ。
 ジョージ 筆跡はレイディ・ハミルトンの?
 フランシス いいえ、デイヴィッドソンの。
 ジョージ 伯父さんの秘書の?
(フランシス頷く。)
 ジョージ レイディ・ハミルトンが書かせたのかな。
 フランシス そのようね。
 ジョージ でも、デイヴィッドソンは伯母さんと仲良しだったじゃない。
 フランシス そう。昔仲良しで、今そうじゃない・・・いっぱいいるわ。
 ジョージ(自分に思い当たり、恥ずかしそうに。)そうですね。
 フランシス(愛情を込めて。)ねえ、ジョージ。お前、本当に大きくなったね。
 ジョージ だけど、こんなことってないよ。それに選りに選って、あのデイヴィッドソンがそんなことをするなんて。ネルソン提督の名誉に関わることじゃないか。立場を考えなかったのかな。一番そんなことをしそうにない人が、デイヴィッドソンなのに。ねえ、伯母さん、こんなこと言うの失礼かもしれないけど、伯母さんのことを最近うちではどう言ってるか知ってる?
 フランシス 厄病神のトム・ティット?
 ジョージ どうしてあんなに大袈裟にするんだろうって。
 フランシス 私が、大袈裟に? 何故。
 ジョージ 同情が欲しいんだ。哀れんで貰いたいんだろうって。
 フランシス 同情はいや。同情されるのはたまらない。
 ジョージ でも、レイディ・ハミルトンに対して敵意はあるんでしょう?
 フランシス  そう。敵意はある。それは否定しない。でも、今の手紙の話は大袈裟じゃない。本当の話よ。ほら。(バッグから手紙を取りだし、覆いを除き封筒を見せる。)
 ジョージ(筆跡をやっとのことで辿る。)「ネルソン卿、誤ってこれを開封せり。但し、読み申さず候。A(エイ)・デイヴィッドソン。」
(フランシス頷く。)
 ジョージ これがその手紙?
 フランシス そう。
 ジョージ 何時のこと?
 フランシス 一八0一年十二月十八日。
 ジョージ クリスマス カード!
 フランシス クリスマス カードだったっていうことがショックなの?
 ジョージ 何時だってこんなことをするのはひどいと思うけど、クリスマス カードを! 僕がおセンチなのかな。
 フランシス 私だっておセンチ。でも今までクリスマス カードだからって特別に考えなかった。
 ジョージ(重々しく。)誓えますか、フランシス伯母さん。この中にはあの人を動揺させたり、怒らせたりするものは何もないって。
 フランシス 誓えないわ。だって、もう四年も会っていないの。何に対してあの人が怒るか、もう見当がつかない。
 ジョージ でも、その手紙には特別なことは何も書いてないんでしょう?
 フランシス そう。特別なことは何も。夫に捨てられた妻、そしてまだその夫を愛している妻、その妻が夫に宛てて書く一番普通の手紙。
 ジョージ(居心地悪く。)伯父さんのことをまだ? みんなの話では・・・
 フランシス(遮って。)みんなが言っていることは知っているわ。(明るく。)お母様、お元気そうね、ジョージ。この間、鉱泉を飲む社交場で(訳註 pump room の訳。)ご両親を見かけたわ。ウイリアム叔父さん、サラ叔母さんも。 ネルソン一族ね。たいしたもの。勿論私は逃げ出した。かわいそうな私。あの人達、私がバースにいることが我慢ならないの。 ロンドンではそんなことはない。めったに出歩かないもの。どう、ジョージ。渡してくれる?
 ジョージ はい。
 フランシス あの人に。自分で?
 ジョージ ええ、勿論。
 フランシス 怖くない?
 ジョージ ホレイショー伯父さんが? 勿論怖くなんかない。あんなに優しい人はいませんよ。
 フランシス そうね。(皮肉なしに。)あの人と一緒に船に乗った人であの人を尊敬しない人は一人もいなかったわ。(立ち上がる。リウマチのため、難しい。)約束ね、ジョージ。
 ジョージ はい、約束です。
 フランシス それに勿論お母さんには内緒。
 ジョージ(笑う。)決まってるじゃないか。
 フランシス(財布を探りながら。)もう三回もクリスマスで会えなくて、贈り物を・・・
 ジョージ(いやだという態度をして。)賄賂はいらない。
 フランシス そうね。ご免なさい。(飴の袋を取り上げる。)これも駄目?
 ジョージ いいえ、これは戴きます。(袋を受け取る。)有難う、フランシス伯母さん。
 フランシス(おずおずと。)勿論私がサマセット街に戻ったって、あの人にこっそり言ってくれれば・・・もし一目でも会えればどんなにか・・・一回だけでも。二人だけで、どんな短い時間でもいい・・・って伝えてくれれば・・・会ってくれたっていう事を誰かに知って貰いたいなんて、そんなことを思ってはいない。こっそりでいいの・・・あの人が一人でどこかへ行くって、それだけでもいい。(私がそこへ出かけて行く。)・・・もし話すのが嫌なら、話さなくってもいいわ、ジョージ・・・でもちょっとしたこと、まだ目が痛むの、とか、そんなことが話せれば・・・いいえ、それが無理なら同じ部屋にただ坐ってあの人を見ているだけでいい。何も話さないで・・・ご免なさい。文章になっていないわね。私の悪い癖。言わないで。今言った事は何一つ。あの人苛々してしまう。きっと。(再び明るく。)そうね、トム・ティットに待ち伏せされちゃったって言って頂戴。そして手紙を無理矢理ことずかってしまったって。あ、そう、教えて、ジョージ。私のことをどうしてトム・ティットってみんな言うの。
 ジョージ 知らないの?
 フランシス ええ。
 ジョージ 昔はそう呼ばれてはいなかったんでしょう・・・若い頃は。
 フランシス ええ、多分、呼ばれてはいなかった。
 ジョージ 本当に知りたい?
 フランシス ええ、知りたいわ。
 ジョージ 気にしない?
 フランシス 勿論。
 ジョージ 歩き方。
 フランシス 私の・・・歩き方?
 ジョージ そう。トム・ティット。小鳥の歩き方。(礼儀正しく。)少なくともみんなはそう言っていますけど・・・
 フランシス そうだわね。リウマチのこの足。小鳥の歩き方だわ。
(二人、微笑む。ジョージは困ったように。フランシスはおかしそうに。)
 フランシス で、ネルソンもそう呼ぶの?
 ジョージ ええ。
 フランシス お前が自分で聞いたことがある?
 ジョージ ええ、あります。(急いで。)でも意地悪な言い方じゃありません。
 フランシス 勿論よ。勿論意地悪なんかじゃ・・・
(今まででも何度か出そうになっていた涙がここに来て一気に出る。痛ましいすすり泣き。ジョージ、どうしようもなく、ただ眺めるだけ。)
 ジョージ エミリーを呼びましょうか。
 フランシス いいえ、ほっといて。
(フランシス、自分を取り戻そうと努力する。その間ジョージ、困って伯母を眺めた儘。)
 フランシス(やっと。)あらあら。ご免なさいね。
 ジョージ(フランシスの正面に坐って。)分からないな。
 フランシス 何が分からないの。
 ジョージ 皆があんなに伯母さんを嫌うその理由。伯母さんは一体何をしたんだろう。
 フランシス お父さんやお母さんは何て言ってるの。
 ジョージ 何も言わない。でも何かひどく悪いことだって、伯母さんのしたこと。
 フランシス 悪いこと。そうかも知れない。
 ジョージ 何なの。
 フランシス 最後になって、私かあの女か、どっちかにして、と言ったの。
 ジョージ でもそれは悪いことじゃないじゃないか。
 フランシス それを決めるのはあの人なの。
 ジョージ それだけのこと?
 フランシス そう思うわ。
(フランシス立ち止る。ジョージ、助けようとする。)
 フランシス 大丈夫。もういいの、ジョージ。 ええ。慥に他の理由はないかって考えてはみたわ。でも、ないの。
 ジョージ じゃあ伯母さんにみんなが敵対しているのは何故だろう。
 フランシス(厳しい声で。)貴方の叔父さんのレヴェレンド・ウイリアム、あの人は朝のお祈りのお経だって碌に読めやしない。それなのに何故カンタベリーで司祭長席に坐る身分になったの。あなたのおとう・・・あ、これはいいわ。ネルソン卿は確かにイギリス中に大きな影響力をもつ人物だわ。それに親戚には親切。
 ジョージ 「貴方のおとう・・・」まで言ってやめたね、伯母さん。「貴方のお父さんは何故今、東インド会社の社長なの。」と言おうとしたのなら、僕には答がある。リバプール卿が口添えしてくれたんだ。
 フランシス リバプール卿にそれを言わせたのは、じゃ誰なの。
(間。ジョージ、答なし。あるとすれば涙か怒り。そしてこの二つともジョージ、ぐっとこらえる。)
ジョージ 伯母さんはじゃあ、伯母さんに敵対させるために伯父さんが僕の父を買収したって言うんだね。
フランシス 私は言っていない。それはお前が言ったの。
ジョージ 伯父さんはどうしてそんなに伯母さんを憎むんだろう。
フランシス 分からないわ、ジョージ。あの人のことですもの、何か理由がある筈だわ。何かが。それが何か分かるといいんだけど。
(フランシス、回れ右して去ろうとする。暗転。海軍の軍楽隊の音が聞こえる。群衆のざわめきと歓呼。この音
は次の場の最初まで続く。)

     第 二 場
(ネルソンの姿は我々の普通想像している通り。軍服の正装。四つ星。右目には黒い眼帯。右腕がないため、その袖はチューニックの中にたくしこまれている。どうやら窓の外を眺めている様子。外には群衆。海軍次官バラム卿が机についている。バラムは八十歳。最近この地位についたばかり。今まで一度もネルソンに 会ったことはないが、ネルソンを恐れていない。また、外国からの侵略の脅威の下にあるこの時期では、この地位は最も危険。しかしこの地位を恐れていない。)
 バラム(椅子を指差して。)ネルソン、坐ってくれないか。その窓の傍に立っていると、群衆が興奮するばかりだ。君のここへの訪問を聞き付けて連中はやって来たようだな。
 ネルソン 私のせいで連中が来たと仰いますか、バーハム卿。
 バラム そうらしい。私の名前はバラムだ。バーハムではない。
 ネルソン 失礼しました。副官は少なくとも次官のお名前の正確な発音ぐらい知っておくべきです。
 バラム それは無理だ。私がこの地位についたのはつい最近だし、この次官という地位だって最近できたばかりだ。
(ネルソンに席を勧める。)
 ネルソン その両方におめでとうを申し上げます。
 バラム ありがとう。仕事に入るか。(書類を取り上げる。)議会の連中から君の取った作戦につき、次のように言えと言われて来ているんだが・・・
 ネルソン(静かに。)次のように言えと言われている話はどうぞ省略なさって下さい。別に議会を馬鹿にしている訳ではありません。ただ閣下もご存じの通り、それはいつでも状況次第であれこれ変わるものですから。ですから次官としてではなく、エート・・・ミドルトン提督としてお話し下さい。
(バラム頷く。)
 ネルソン では提督としてお答え下さい。私はヴィルノーヴを西インド諸島まで追いかけそれから帰ってきました。その間イギリスは空(から)にしていたことになりましたが・・・この私の行動に対する評価をお訊きします。
 バラム 全く空ではない。私が海軍の、ある勢力を配置しておいた。
 ネルソン ナポレオンは八時間の制海権を持ちさえすれば、イギリス侵略は可能だと言っています。その八時間を与え、彼の侵略を食い止めるに十分な配置はなされていませんでした。私への評価は?
 バラム 事実は・・・
 ネルソン 事実はヴィルノーヴにそれを命令する勇気がなかった。しかしそれは私の質問への答にはなっていません。
 バラム いや、答になっているだろう。ヴィルノーヴがその勇気を持ち得なかったのは、彼を追っていた人物が何者であるかを知っていたからだ。別の提督であれば勇気が挫けることはなかった筈だ。
 ネルソン それは単なる推測で・・・
 バラム 君だってそう思っているんだ。
 ネルソン そう。思っています。(ニヤリと笑う。)確かに追いかける時に分かっていました。あけすけに言えば、私が追跡しているということだけで、戦艦一、二隻分多くやつらを恐れさせるだろうと・・・
 バラム いや、五隻分だ、ネルソン。これが私の評価だ。他の者だったらもっと多いかもしれない。
 ネルソン 次官殿の評価ならば勿論少なすぎるなどと不平は申しません。
 バラム 君が話している相手は提督だったのではないのか。
(間。ネルソン笑う。)
 ネルソン ははあ、気にいりました。皆は今度のお前の上司は気にいらん筈だと言っていましたが、違いますね、これは。
 バラム 有難う、ネルソン。さてと、君の質問は、私だったらどうしたか、という事だ。あの時、私がツーロンで指揮を取っており、ヴィルノーヴが大西洋へ逃げ出したとしたら、という。
(ネルソン頷く。)
 バラム 君のようにはしなかったろうな、ネルソン。
 ネルソン はあ。
 バラム ブーローニュにはナポレオンの全軍が控えている。こちらは武器といっても鎌とか鍬みたいなもんだ。上陸されれば一たまりもない。ヴィルノーヴを追いかけて世界を半分横切るような真似はしない。私だったら守備一辺倒だったろう。しかし、なんと言っても私の名前はただのミドルトンだ、ネルソンではない。
(間。ネルソン笑う。嬉しくて喜びを抑えられない。)
 ネルソン 生まれて初めてです、このような褒め言葉を戴いたのは。ご親切に。勇気を鼓舞されます。あの時の私の決定は辛く、危険なものでした。閣下にはもうお分かり戴けた筈です。何故私がその、議会の私に対する声明文を読まないで欲しいとお願いしたか、その理由が。その文章は今の閣下のお言葉の百倍はあるでしょうが、意を伝えるところ、閣下の十分の一もないでしょう。お言葉身に沁みました、次官殿。
 バラム ほほう、次官に戻ったか。
 ネルソン(笑う。)次官殿は次官殿ですから。それに勿論海軍省にも敬意を払っています。(調子を変えて。)しかしあの追跡の時の苦しさ・・・
 バラム 分かる。
 ネルソン 急にこんな大きな賭に走った自分、あまりに無謀な賭、それも単なる直感で、思い付きで踏み切ったこの決定・・・なんていう危険にさらしたんだ、この自分の・・・
 バラム 評判を。
 ネルソン(急に黙る。)ああ、次官殿はそうお考えで・・・
 バラム 失礼した。勿論君の祖国だ、危険にさらしたのは。祖国の方が大切だからね。
 ネルソン より大切? 勿論私は自分の評判、名声を誇りに思っています。それに、お気づきでしょうが、さっきの群衆の歓呼、あれが私は好きなのです。しかし個人の名声と祖国の安全を比べるなど、どうして出来ましょう。野党のフォックス氏の考えです、それは。
 バラム フォックス氏の演説は最近とみに愛国的になってきたな。革命家としてのナポレオン、それに熱を上げていたのが、冷めてくるのに反比例してイギリスへの愛が高まって来ているようだ。
 ネルソン(誠実に。)反比例だろうが、正比例だろうが、イギリスへの愛が他の何かから影響を受けるというのは理解出来ません。イギリスを愛すという事は、人を愛すとか、物を愛すとか、理念を愛すとかそんな事とは違うのです。自分の国だから愛すというのでもありません。それがイギリスだから愛すのです。そしてもしこのイギリスを愛さないなら、そんな奴は勝手にしろ、です。ヴワラ・トゥ。それだけのことさ。フランス人ならこう言うでしょう。フォックス氏の議論は愛国心を安物にしているだけです。
 バラム 分かった、ネルソン。君の愛国心はよく分かったよ。
 ネルソン それではまた仕事の話に。我が国存続のためには攻撃あるのみ、とお考えですね。これは私の考えでもありますが。
 バラム 最も大胆な手段、それがいつでも最も安全な手段なのだ。これは君の言葉じゃなかったかな、ネルソン。
 ネルソン 戦争をする、それは勝つためにするのではないでしょうか。
 バラム 誰もがそれに賛成するとは限らない。この島に留まっていることで、平和が保てると思っているものもいる。
 ネルソン 平和? ナポレオンと。
 バラム それが可能と思っているものもいる。
 ネルソン 平和が? あの男は自分で王冠を被り、世界の皇帝であると自称して・・・
 バラム 「世界の」とは言わなかった、ネルソン、「フランスの」どまりだ。まだ。
 ネルソン それはつまり、「ヨーロッパの」の意味です。そして次は「世界の」とくる。次官、この現代のシーザーは全世界を席捲するつもりでいます。現に言葉に出して宣言しています。こんな男と平和ですって? 気違いざたです。
 バラム じっと守りを固めていれば、そのうち飽きてきて我々をそのままにして置くだろう。こう考えるのもいる。
 ネルソン(軽蔑するように。)そうですね。皇后を抱くのに飽きれば、次はチュイルリー公園で庭師の仕事でもするでしょうよ。次官、我々の相手は世界の支配者たるの自信を持っている男です。そのことを隠してもいない男です。自由、平等、博愛の名のもとに勝手なことを言っています。しかし、この自由、平等、博愛の意味がこの男に分かっているとでもお思いですか。(心配そうに。)ピット首相はあの男の公けの演説をちゃんと研究しているんでしょうね。
 バラム 心配はいらない。そこは怠りない。
 ネルソン 成程。それならあの男の次の行動は分かっている筈です。世界を席捲するためには、まずこの島を破滅させねばならない。従ってこの島はまずあの男を破滅させねばならない。これは議論の余地のないところでしょう。
 バラム その通り。しかし問題はこの島がそれをいかにして実行するか、その方策だ。
 ネルソン 溝の後ろにただじっと隠れて、奴がそれを越えてくるのを待ち受ける、これは駄目です。我々の方がそれを越えて奴に攻撃をかけるのです。勿論、鎌、鍬、のようなちゃちな武器ではなく、我が国の工業が作りうる最上の武器で武装して。
 バラム それをどこに上陸させる。
 ネルソン どこでも。ヨーロッパの海岸線は三千マイルあります。いくらナポレオンでもその長い距離のどこにでもいるという訳にはいきません。しかし私の意見をピット首相に述べるとなれば、ナポリ王国です。最近我が軍との連絡がつきました。ここはナポレオンのアキレス腱と言われているところです。(重要なことはそこにないといった風に。)勿論誤解のないよう申し上げておきますがあ、個人的な執着があっての提案ではありません。
 バラム(用心深く。)追放されたナポリ王国の国王及び女王に対する君の深い友情関係は聞き及んでいる。
 ネルソン(おかしがって)では故ナポリ大使の夫人に対する私の友情関係は。
 バラム 新聞は読んでいる、私は。
 ネルソン それから漫画も見ておられる。
 バラム(堅く。)そちらの方はめったに。
 ネルソン もっとしばしばご覧になることをお薦めいたします。なかなかよく描けています。ただあれではレイディ・ハミルトンが私に比べてちょっと大きすぎます。しかし漫画だけでは本当のことは分かりにくい。あ、何の話でしたでしょう。
 バラム ナポレオンをナポリで撃つ、というところまで。
 ネルソン そう。しかしそこだけではない。ポルトガルでもスペインでも、それから遠征軍をリスボンにも・・・
 バラム(急に遮って。)話し中を失礼、ネルソン。ここは海軍省であって、陸軍省ではない。ヨーロッパ大陸のどこを攻撃するにせよ、海上の完全な、徹底的な制覇が必要と思うがどうか。
 ネルソン 勿論です。それが必要条件です。
 バラム(大声で。)それをどうやるんだ。
 ネルソン 敵艦隊を絶滅させて。
 バラム 言うだけなら易しい。
 ネルソン 実行が易しいのです。敵の連合艦隊は今カディスにひきこもっている。(あそこでは長居はできない。)まもなく出て、攻撃をかけて来る筈です。あそこではあれほど大きな艦隊を養っていくだけの容量がない。
 バラム 誰がその話をした。
 ネルソン(優しく。)カディスの収容能力なら自分の掌(たなごころ)を差すようによく知っています。
 バラム(声を上げて。)そのことじゃない。敵の連合艦隊が今カディスにいることを誰から聞いたのか。
 ネルソン 駆逐艦ユーリアラムのブラックウッド艦長に。艦長はカディス沖のコーリングウッド提督からの至急便を持っていました。
 バラム あれは私宛てだ。
 ネルソン 私の家はポーツマス通りにありますから。
 バラム ピット首相もまだその手紙を読んでいないぞ。
 ネルソン まだ! ダウニング街までもっと足の速い使者を雇うべきです。首相はこの時点ですでに手をうっていなければならないことがあります。例えば・・・
 バラム 失礼だが、ピット首相より前にこの私が今何をしていなければならないかを教えて貰いたい。
 ネルソン 喜んで。コーリングウッドの艦隊を補強すべく、持っているすべてを送り出さねばなりません。数週間後に、敵はカディスから出て来ます。そこを我が軍がたたき潰すのです。全滅させるというのが正しい言葉でしょう。このチャンスは二度と巡ってくることはありません。
 バラム 馬鹿なことを聞いていいかな。持っているすべてを送りだすと言ったが、その中にネルソンが含まれているのか。
 ネルソン いいえ。含まれていません。
(間。)
 バラム その気力がないと・・・
 ネルソン 気力?(ほとんど餌にかかりそうになり、立ち上がろうとするが、抑える。)次官に思いだして戴かなければなりません。私は病気休暇を戴いているのです。事実私は非常に重い病気に罹っているのです。
 バラム 重すぎて再び出撃することはできない、ということか。
 ネルソン 重すぎて再び出撃する気力がないという事です。
 バラム ピット首相は悲しまれるだろう。首相は勿論それを希望するし、また当然それはこの国の希望でもある。
 ネルソン この国も首相も、私に要求するところが大きすぎます。(怒って。)ロード・バラム、私はびっこです。片目しかない。病気で殆ど死にかけています。みんな首相および我が国に奉公した結果です。そして今はもうお役ご免になっているのです。戦艦も水兵も指揮官も、今までで最高の状態にあります。おまけに敵に遭遇した時の我が軍の作戦はもう既にできていて・・・
 バラム 君の作戦だね、ネルソン。
 ネルソン(肩をすくめて。)コーリングウッドがそれを使えばそれは勿論彼の作戦です。それに彼は使う筈です。敵の絶滅にはこれしかないのですから。
 バラム その作戦を訊いてもいいのかな。
 ネルソン またいつか、日を改めて。今はある婦人を待たせていますので。
(ネルソン立ち上がる。)
 バラム(かなり固い表情で。)すまんが、ネルソン、暇な時にでもそれをメモにして私に見せてくれないか。
 ネルソン 喜んで。では失礼してよろしうございますか。
(バラム無言。固い間。)
(ネルソン、突然絶望的な哀願の調子になって。)
 ネルソン ああ、お願いです、次官。少しは私のことを哀れと思って下さい。私の今の境遇を少しは考えてみて下さい。
 バラム 君の今の境遇、それは分かっているつもりだが。
 ネルソン 十分ではありません。その顔に出ています。その顔は「俺は認めない。」と書いてあります。私は「俺は認めない。」という顔を見るのが嫌いなのです。誰からも認められたい。それほど子供っぽい男なのです。それが次官殿であればなおさらです。次官、次官殿の最後の恋はいつでしたか。
 バラム 慥か、少尉の時だった。
 ネルソン そう。私も少尉の時恋をしていた。いや、あれは恋だったろうか。まあいい。しかし提督という地位で恋をすること、この年で、四十六歳の跛(ちんば)の男が恋をする。気違い沙汰です。これ以上はない幸せ、それにこれ以上はない苦しみです。同情して戴きたい。いや、同情が無理なら、せめて多少の理解を要求したいのです。私はあれに丸二年間会えませんでした。二年間軍艦の船室の中です。一度もその間陸にあがったことはありません。マラリアの熱に襲われ、船酔いに悩まされ、疑惑と嫉妬で胸はさいなまれ・・・(急いで。)嫉妬に根拠がある訳ではありません・・・ああ、その気になったら告訴してやろうと思った人物が何人いることか。全くひどい中傷です・・・しかし中年になってある女に夢中になる。これには理由もへちまもありません。その女のことしか考えられなくなる。そういうことです。(バラム、机をじっと見つめる。他のどこを見ていいか、バラムには見当がつかない。)しかしこれはもういい。こんなことを話そうと口を開いたのではなかった。どうか事実だけを見て判断して下さい。私は丸々二年間あれに会えなかった。それから五年の期間をとっても会ったのはほんの數回。何故ならナポリ勤務を免ぜられてから、議会は私をあれから引き離すことにひどく熱心になったからです。次官、お願いです。どうかこの事実をお考え下さい。
 バラム 事実関係は分かっている、ネルソン。それに同情もしている。
 ネルソン それなら次官のその「俺は認めない。」という顔をなんとか・・・
 バラム 私の顔は自分の感じていない事は表現できない仕組みになっている。君のこの話の場合だが、これは認めるとか認めないとか、そういう基準で考えられるものではない。ただそういうものとして受け入れるしかない類(たぐい)のものだ。
 ネルソン 理解と哀れみをもってですか。
 バラム 哀れみをもってだ。
 ネルソン 哀れみと軽蔑をもって。
 バラム 違う。私が軽蔑しているのは、この自分だ。この鈍くて散文的な心の持ち主は、その華やかで絢爛たる君の問題――中年になってある女に夢中になる。その熱――を理解する能力がないのだ。(書類を出しながら。)これを取っておいてくれ。
 ネルソン 何でしょう。
 バラム 大西洋での君の最近の戦績に関する海軍省の評価だ。読む価値がある。それに熟練した君のことだ。読むのにほんの一、二時間もあればすむだろう。
(間。ネルソン、バラムを見る。相変らずその顔に、公式な「俺は認めない。」という表情を見てとる。ネルソン、書類を受け取る。)
 ネルソン(御辞儀をする。)畏まりました。
 バラム(立ち上がりながら。)では頼む。
(ネルソン、さっと部屋から退場。バラム、それをじっと見る。再び外の楽隊の音が聞こえる。今度はその当時の陽気なはやり歌。)
(暗転。再び遠くから万歳の声が聞こえる。)

     第 三 場
(照明がエマ・ハミルトンの肖像画に当たる。彼女の十代の時に描かれた絵である。もう一つの照明がひどく皺くちゃになったベッドを照らす。 客席からは寝ている女の髪の毛だけが見える。最後に必要な照明が全部ついて、ロンドン、クラージス街、エマ・ハミルトンの寝室兼化粧室が現われる。寝室内の化粧室の部分は幕で仕切られている。フランチェスカが、ジョージ・マッチャム・ジュニアを化粧室に導きいれる。フランチェスカはエマの付人。中年。ナポリの百姓の出。エマが三、四年前、ナポリからイギリスに連れて来た女。しかし全く英語を学ぼうとせず、必要最小限の英語しか話さない。ジョージ、ひどく落ち着かない様子。このように奥まった所へ案内され、行儀に気を付けようと、気を張り詰めている。)
 フランチェスカ(指差して。)ここで待つ。
(フランチェスカ、寝室の部分に入る。 ジョージ、絵を見つめている。 フランチェスカ、女主人の肩を揺する。)
 フランチェスカ Eccelenza. (ご主人様。)
 エマ(動かない。)うるさい。
 フランチェスカ Eccelenza, il Signorino Matcham sta qua. (ご主人様、マッチャム様がいらっしゃいました。)
 エマ(寝返りをうって。)お前気違いだね、フランチェスカ。まだ真夜中だよ。
 フランチェスカ Vi piacerebbe, non e vero? Quante volte stanotte? (ワインですね、きっと。これで今夜は何杯目ですか?)
(フランチェスカ、幕のうしろに入る。)
 エマ(後ろからフランチェスカを呼んで。)Stai zitta, cretina.(お黙り。馬鹿。)
(エマ、起きてベッドの上に坐る。髪は乱れて、寝不足のため目は膨らんでいる。勿論今が彼女の女盛りではない。彼女の四十年の人生の中で最も美人の時は疑いもなく、現在ジョージが化粧室で見ている肖像画の時である。フランチェスカ、グラスを持って入って来る。グラスの中には赤ワインが入っている。これをエマにわたす。)
 エマ Con cognac? (ブランデーは、入っているね。)
 フランチェスカ Naturalmente.(ええ、勿論。)
 エマ Naturalmente とは何ですか。今朝は偶々ひどく欲しい気持ちになっているだけ。(グイと飲み、もう一方の手で七の数字を示す。)
 フランチェスカ Eccelenza? (七つ?)
 エマ お前の質問への答だよ。
 フランチェスカ Sette? Ancora un anno a mare e ――Pouff! (七杯? そんな調子ですと、旦那様がもう一年海にいらして帰って来られた時には、お払い箱ですわ。プーフ。(訳注 プーフと言う時、手で首を切る仕種をする。)
(フランチェスカ、エマに鏡と櫛、それに化粧箱をわたす。)
 エマ 随分失礼なことを言うね。何故お前なんか雇ったんだろう。
 フランチェスカ Pouff! Un no di vostra eccelenza e sarebbe la vittoria di Napoleone .(でも今は奥様がちょっと「いや」と仰りでもしようものなら、あの方すぐナポレオンに負けておしまいですわ)
 エマ(髪を熱心にとかしながら。)それでお前、私に「いや」と言わせたいの?
 フランチェスカ Qualque volta e necessario.(時々は必要ですわ。)
 エマ Mai.(駄目。)
 フランチェスカ Ne anche per fare Merton piu bello? (このマートンをもう少し綺麗にするためでも?)
 エマ そんなことはどうでもいいのよ。どうせその気になればこんなお屋敷、もう一つだって作れるんだから。ねえ、フランチェスカ、私はいやって言えない性分なの。誰にだって。特にあのネルソン。偉大な、私の愛する、雷(いかずち)の神ゼウス――オリンポスの主にはね。
(この時、大きな身振り。その拍子に鏡が手から離れ、部屋の反対側に飛ぶ。)
 エマ 畜生! いまいましい鏡。割れたか。割れていたら、これから七年の間運が悪いっていうこと。
 フランチェスカ No, no, eccelenza. Non e successo niente. (いいえ、いいえ、そんなこと。)
 エマ 鏡に写る姿を見たって喜びはわかなくなっていたんだけど、今度はどうかしら。
(フランチェスカ、鏡を渡す。)
 エマ 前よりもっと悪い。(髪をとかすことを続ける。)そのジョージ マッチャムってどんな子?
 フランチェスカ Un ragazzo qualunque. (普通の子供ですわ。)
 エマ ネルソンの甥で普通の子なんていうのはある訳がないでしょう。どう? 私。
 フランチェスカ Bellissima Emma Hamilton, come sempre. (いつもの美人のエマ・ハミルトン。)
 エマ 嫌なことを言うね。(フランチェスカに蹙め面をする。)その子を通して。それからワインをもう一杯。
 フランチェスカ Con cognac? (ブランデー入り?)
 エマ Pochissimo, pochissimo. (ほんの少しね。)
 フランチェスカ Mangiare dopo? Fareste meglio.(あとでお食事を? 何かお召し上がりになった方がいいですわ。)
 エマ 今朝は胃が何もうけつけない。でも、そうね。お風呂の時コールド・マトンでもつまもう。
(フランチェスカ、ジョージに近づく。ジョージ、帽子をいじくりながら、固くなって立っている。)
 フランチェスカ Sua eccelenza vi aspetta. (奥様がお会いになります。)
(ジョージ、意味が分からず、居心地悪そうに立った儘。フランチェスカ、手振りで招く。)
 フランチェスカ Venite. Venite. (こちらへ。)
(ジョージ、緊張の極。絵に最後の一瞥を与え、フランチェスカに従い、寝室の部分に入る。そしてベッドに近づく。エマ、ジョージを迎えるために頭をそちらに向ける。ジョージ、何かの間違いではなかったかと不安そうに立ち止る。フランチェスカ、そのまま化粧室の方に進む。)
 エマ(両腕を差し伸べながら。)あら、ジョージなのね。可愛い子。こちらに来て。キスさせて頂戴。
(フランチェスカのようなごく親しい人物に話す時以外は、そして、自分を完全に制御している時は、エマは即座にちゃんと礼儀に叶った話し方が出来る。それを観客は理解する。現在では訪問してくるイギリス貴族達の嘲りの対象になってはいるが、彼女がかって確かにナポリの英国大使夫人であった事を納得させるものである。彼女にはかなり強い訛りがある。ペダンチックにその地域を限定すれば、それはリンカーンシャーの訛りである。それから、表現を態と粗野にする癖がある。これは自分の出身が卑しく素性の知れないものであることを隠すまいとする誇張した正直さから来るものである。しかしそれにも拘わらず、観客は彼女がかって、ウイリアム卿の主催した、各界の名士を招いた、上品な晩餐会を取り仕切り、この国の錚々たる人物達と親密な・・・多くの場合、ごく親密な・・・関係にあった女性であることを見てとることができる。)
 エマ 許して頂戴ね、ジョージ。こんな、ベッドでなんか、あなたの訪問を受けたりして。でも、今朝はちょっと訳があって、身体の調子がよくないの。
(フランチェスカ、グラスを一杯にして持って来る。)
 エマ(ジョージに。)こんな時にはこれって、医者に言われているの。
 ジョージ はい。お大事に。
 エマ そのうち大丈夫になるわ。心配しないで。
(ジョージに向かってグラスを上げ、グイと一気に大量に飲む。その後ゲップ。抑えようとしたのが、うまく抑えられずに出てしまう。エマ、ジョージの腕を掴む。)
 エマ ねえ、ジョージ。あなた、ここに来られて嬉しいんでしょう? このマートンに来られて。
 ジョージ ええ、勿論です。
(次の台詞の間、召し使いの行列が寝室部分を通り過ぎて、化粧室へ進む。まず下僕が風呂桶を運ぶ。次に下女達がタオルと夜着などを。その次に下僕達が湯気の上がっている湯を、大きな容器に入れて運ぶ。最後にこれらを指揮する女中頭。)
 エマ(ジョージを見ながら。)そう、あなたの顔、言われなくてもマッチャム家のものだわ。お父さまがあんなにこの町で重要な地位について、あなた嬉しいでしょう。
(ジョージ、あまり嬉しくない様子で頷く。)
 エマ そう、私のネルソンは随分頑張ったわ、このことでは。私が頼みこんだもの。ネルソン家の人達は皆厚遇されなくちゃいけないの、イギリスから。そう、あなたが甥のジョージなのね。このマートン・クラージス街に最後にやって来たネルソン家の人。(ジョージの身体に触れ、親しみを示す。ジョージ、余計固くなる。)先週はそれはもう大変な来客だったのよ。マートンのこの家は満員。大臣方、公爵達、伯爵達。でもこんな人達、私、鼻もひっかけない。本当よ、ジョージ。私が好きなのはネルソン家の人達だけ。だって、あの人と私が分かち合っているもの、それは何でも大好きなんだから。あの人の家族は私のものなのよ、ジョージ。分かるでしょう?
 ジョージ はい、レイディ・ハミルトン。
 エマ レイディ・ハミルトンは止めて。
 ジョージ では何とお呼びすれば・・・
 エマ 伯母さんよ、勿論。エマ伯母さん。(彼を見て。)貴方、お父さんのお気に入りね、きっと。目のあたり私のネルソンに似ているもの。
 ジョージ(熱を込めて。)え、本当ですか。
 エマ お気に入りっていうこと?
 ジョージ いいえ、目が伯父さんに似ているっていうこと。
 エマ あの人のかわいそうな目。(化粧を続けながら。)そう、あの人の目に似ているわよ、ジョージ。自慢?
(ジョージ、この分かりきった質問には答えない。)
 エマ 勿論自慢ね、ゼウスの甥だってことはあなたもオリンポスの神々の一人っていうことだもの。私、あの人のことを時々からかって雷(いかづち)の神ゼウス、って言ってやるの。でもそう遠くないわ・・・私の気持ちでは。
(ぱっと芝居の姿勢になって、しかしそれほど大袈裟ではなく。グラスをかざしながら。)
 エマ おお、いかづちの神ゼウス。全ての神に君臨する神よ。(ほとんど、ワインをこぼしそうになる。)畜生! 跳ねとびやがって。ベッドがしみになっちゃう。
(フランチェスカ登場。)
 フランチェスカ Quello di taffeta verde? (緑色のタフタになさいますか?)
 エマ あんなものが着られますか。外は黒山の人なのよ。緑じゃまるで道化じゃないの。自分で選ぶわ。(ジョージに。)ちょっとこれを。(グラスをジョージに渡し、ベッドから降りる。)そうよ、ジョージ、あなたの伯父さんは、本当の英雄。後にも先にもこんな人は出て来ない。良い人で偉大な人。普通は両立しないの。悪で出来ているこの世では。(フランチェスカ、部屋着を着せる。エマ少しよろめく。)ちゃんと支えて、このボケナス。(ジョージの顔を見て。)ご免なさい。頭痛のせいなのよ、ジョージ。それにあの人と私、ゆうべ随分遅かったの。
 ジョージ 宮廷でですか。慥か新聞で、舞踏会があったって。
(次の台詞の間、召し使いの行列、しきりの幕のうしろから出てくる。風呂の用意がすみ、出て行くのである。エマ、疲れ果てて椅子に坐る。)
 エマ(そっけなく。)いいえ、宮廷ではないの。あの人と私は、そう、あまり宮廷には参内しないの。とにかくこの国のにはね。ナポリの宮廷は違うのよ、勿論。ナポリの女王・・・ああ、あの方、世界で一番の私の友達。ああ、お会いしたい。ねえ、ジョージ、私とあの方はとっても、とっても近しい間柄だったのよ。だから時々は・・・そうね、さびしくなったり、あの恐ろしいジャコバン党のことを思って脅えたりした時・・・だってあいつらにあの方の妹を殺されたんですものね、あのかわいそうなマリー・アントワネットを・・・そんな時は私達、同じベッドで一晩中一緒に寝たのよ。それにあのナポリの王様だって。王様はいつだって私をたててくださったわ。でも、寝るっていったって女王様と同じじゃないわよ。だけど、何、一体。このイギリスの貴族って言っているもの、それにあのドイツの貴婦人、あんなもの、私に言わせれば「王家」なんてものじゃ、ちっともありはしない。
(下僕、盆の上に名刺をのせて登場。エマに渡す。エマはワインをがぶ飲みしているところ。)
 エマ(名刺を指差しながら。)ロード・ミント。ネルソンの古い友達。ネルソンの、というより、私達二人の友達。でも長い間、会っていないわ。(下僕に。)お通しして。あの人、スコットランドかどこかに住んでいるの。随分さびれたところ。昔はどうだったか知らないけれど。ウイーン大使だったのにあんなところに住んで。ネルソンと私、そこに行ったことがあるの。(フランチェスカに。)お湯冷えない?
 フランチェスカ Ci stanno due broche ancora piene(まだお湯は丸々二杯ございますわ。)
 エマ(ジョージに。)あの人私達のことを追ってマートンにやってきたのよ。
 フランチェスカ L'ambasciatore Minto.(ミント大使殿です。)
(ミント登場。四十代。上品な服装。立ち居振る舞いも洗練されている。)
 ミント(御辞儀をし、エマの手にキス。)レイディ・ハミルトン。本当に暫くでございました。お会い出来て洵に嬉しうございます。
 エマ あなたに口をきいてあげるかどうか分からないわよ、ミント。ウイーン以来、私のことを蛇を避けるように避け続けて。
 ミント レイディ・ハミルトン。ウイーン以来、私はあらゆる人間から身を避けて来ました。なにせロックスバークシャーに住んでいましては・・・
 エマ それは違いますよ。私は知っています。宮廷にはいつも参内していた筈です。
 ミント(肩をすくめて。)ああ、宮廷ですか。それは仕方がありません。しかし他の場所には決して。
 エマ それに昨夜の舞踏会にだって行った筈。賭けてもいいわ。
 ミント ええ、行きました。お二人をお捜ししたのですが・・・
 エマ 私達は招待されなかったの。それはあなたもよくご存じの筈。
 ミント 見落とされてしまいましたね。
 エマ 見落とし。見落としなんかであるもんですか。どんなことがあっても私達を招待しないつもり、あいつら。私は構わない。でもあの人が気の毒。二年前西インド諸島のことが終わってそれから後は精々が宮廷でのお茶会。それどまり。ミント、あなただってかなり暇をかけているじゃないの。ネルソンがイギリスへ帰って来たと聞いてからあなたの根城のロックスバークシャーから出て来ようと決心するまで。会って嬉しいからこんないやみも言うんですからね、勿論。
 ミント この町でちょっとした仕事があって。
 エマ 私に会う為なら仕事はなかったのね。ネルソンに会う為なら仕事があるの。(ジョージに。)ロード・ミントは世界中の誰よりもネルソンに好かれているの。勿論、私の次ですけど。そうね、ミント。
 ミント そうであればよいのですが、レイディ・ハミルトン。でも二番手が私だと言っても、一番手とは差が、どんなに謙遜な言い方をしたって「大きい」です。
 エマ(ミントの視線が丁度さまよっているあたりの自分の身体を隠しながら。)「大きい」?
 ミント いえ、申し上げたかったのは、私は女性でもないし、容姿だって残念ながらとても太刀打ちは出来ないと・・・
 エマ 女性でない。 容姿で太刀打ち・・・駄目ね。ピント外れの台詞。これはジョージ・マッチャム・ジュニア。ネルソン提督の甥。
 ミント はじめまして。
 ジョージ はじめまして。
(この場の終まで、エマとミント、ジョージを終始無視する。ジョージ、先程エマにおされてベッドに坐らせられたその位置に不本意にも留まった儘。グラスを持たされていて、エマ、時々それを取って飲む。フランチェスカは化粧室に行ったっきり。)
 ミント(エマに。)信じて下さい、レイディ・ハミルトン、只今申し上げた言葉はたとえ多少褒め言として的外れでありましょうとも、その意図するところにおいて、決して間違ってはおりません。その素晴らしい姿態、これはいつでもレイディ・ハミルトンならではのものなのです。
 エマ あらあら、よくもまあ。あなたが女だったら「ばいた」と怒鳴り付けて、追い出している所ね。そう、太ったのは幸せのせい。ねえ、これだけは言わせて、ミント。私にとって問題になる唯一人の人、その人からは何の文句もないの。このことでは。とにかく私のネルソンが来年また海に出て行ったら、私痩せて痩せて、影法師みたいになるの。見ていてご覧なさい。
 ミント 来年?
 エマ(荒々しく。)一年間の休みが取れないっていうの?
 ミント(肩をすくめて。)一生、休みはないでしょう。
 エマ 一生なし。貴方や政治家たちがそんな勝手なことを言っていると、その一生も長くはないわ。でもそんな勝手なことは言わせない。貴方にだって政治家にだって。このことではあの人、私に誓ってくれたの。軽々しい誓いじゃなかったわ。
 ミント それはそうでしたでしょう。
 エマ 軽々しく破られはしないはず。(ミントに諌めるように指を振りながら。)だからお節介は厭よ、ミント。貴方だって、他の誰からだって。分かるわね。
 ミント お節介?
(二人はベッドの両端にいて、ジョージの頭越しに話す。)
 エマ 貴方の考えなんかお見通しよ。皆と同じように貴方も私達二人を引き離したいの。出来れば何千マイルも向こうの海の涯に。次の選挙で議席を二、三個失いはしないかと気が気じゃないの。ネルソンは自分の妻でない女と暮らしている(これでね)。駄目。選挙民にこんなことを聞かせては。これは悪いこと。スキャンダル。こんなことを聞かせてピットに首相の地位を危うくさせるなんていけないわ。
 ミント ちょっと思いだして戴きます、レイディ・ハミルトン。 私はホイッグ党です。それから貴族員議員です。選挙民におべっかを使う必要はないのです。従ってお疑いは無用でございます。
 エマ お疑いは無用ではないわ。ホイッグでもトーリーでも、平民でも貴族でも、王様でも女王でも、みんな同じ。みんなネルソンが必要なの。掛け値なし、純粋のネルソンが。貴方方はみんな私達二人を引き離そうとしている。そのあと言う言葉は決まっている。「イギリスの為にやったのだ。」(勝手な話。)本当は自分達のための癖に。なんて馬鹿な考え。イギリスが本当に必要としているもの。それはね、ミント、生き生きして幸せなネルソンなの。失恋して元気のないネルソン、憧れで半分死んでいるネルソン、そんなネルソンじゃないの。それで私のことは・・・貴方方は私なんかどうなったって構わないの。(指を振って。)貴方方の誰一人考えてもみない。ネルソンが死ねば私はゴミ箱行き。それが私に分かっていないとでもお思い? ミント。だからお節介はなし。分かるわね。
(間。)
 ミント 「ばいた」という汚名は甘んじて受けましょう。性別は別にして。しかし「お節介」はやめて戴きたい。どうでしょう。だから単に「ばいた」では。
 エマ(荒々しく、誠実な笑い。)そんな風に罵れたら貴方が好きになるわ、ミント。
 フランチェスカ(登場して。)Il bagno di vostra eccelenza si sta raffredando.(お風呂がさめてきまして・・・)
(エマ頷く。立ち上がる。以前よりは立ち上がり方が楽。)
 エマ 貴方が「大きい」と言ったことから私、怒り始めたのね。「大きい」・・確かに図星。大きくて目立って、旗竿の役目をして貰いたいのかしら。(再び笑う。)ネルソンは私にその役目をして欲しいかも知れないわね。自分の旗を上げるのに楽ですもの。でもあの人の旗は今の儘でも十分一本立ちしているのよ。
(ジョージからグラスを受け取り、大きく一飲み飲む。ミント、エマの笑いに加わる。)
 エマ ゆうべはあの人の旗、マストに釘で打ち付けられて、「降伏はせぬぞ」の意志表示。それに信号は一晩中「接近戦」。
(エマ、再び笑う。グラスを戻す時、ジョージに気づき、笑い止める。)
 エマ ジョージ、隣の部屋へ。私もあとから行きます。ミント、貴方も。
 ジョージ(早く部屋を出たくて。)はい、レイディ・ハミルトン。
 エマ エマ伯母さん。
 ジョージ 失礼しました。エマ伯母さん。
(ジョージ、控えの間へ行く。出て行こうとするミントを、エマ、呼び止める。)
 エマ あの子、あれが分かったかしら。
 ミント あの頃の年になれば大抵の事は分かります。それに面白がることにかけても、我々にひけは取りません。
(エマ、控えの間の入り口に現われる。ジョージが再び絵に見入っているのを見る。)
 エマ 本物よりも絵の方が好きなのね、ジョージ。
 ジョージ いいえ、滅相もないです。レイディ・・・
 エマ 「滅相もない」お前の年で私がそんな言葉が使えていたら、私は今頃公爵夫人ね、きっと。
 ミント(控えの間に入って来ながら。)今からだって公爵夫人の線がありますよ。
 エマ エマ・ブロンテ公爵夫人。ネルソン子爵夫人。たいした肩書きね。でもある事が成就するためには、その前にどうしてもおこらなければならない事っていうものがあるの。分かるでしょう、ミント。そう。バースの冬はリュウマチにはあまりよくないっていう噂ね。
 ミント あそこの湿気がひどく體に悪いとか、何かの報告にありました。
 エマ(グラスを上げて。)その湿気の健闘を祈って! どんなトムも、どんなティットもその湿気にやられてしまえばいい。こう言ったところでそんなに下品な意味はないのよ、ミント。私のことをこの五分間じろじろ見ながら貴方が考えていたような下品なことはね。(ジョージを呼ぶ。)ジョージ、ミント卿と話をしていてね。でもこの人の私についての話は一言だって聞いちゃ駄目よ。私のことが嫌いで嫌いでたまらないっていう人なんですからね。それも理由は嫉妬なの。
 ミント おやおや、これではまるで「ばいた」は私じゃなく、そちらの名前ではありませんか、レイディ・ハミルトン。
(エマ、化粧室へ向かう途中で笑う。グラスを飲み干し、幕のうしろに隠れる。ミント、控えの間でジョージに近づく。)
 ミント(間のあと。)さっきのあの人の言葉は勿論冗談だ。分かっている筈だね。
(ジョージ、面食らって当惑している。無言。それが一番安全。ミント、テーブルの上の飲み物の盆からワインを注ぐ。)
 ミント 一緒にやる?
 ジョージ いいえ、結構です。
 ミント 許しが出ていない?
 ジョージ いいえ、許しは出ています。
 ミント じゃ、やろう。(グラスに注ぎ、それをジョージに渡す。)その顔付きをなおさなくちゃ。
 ジョージ 顔付き?
 ミント レイディ・ハミルトンに初めて会った時は、誰でも必ずそんな顔になるんだ。ショックでね。特にうぶな若者の神経には響く。それに君はネルソン卿の甥だ。他の誰よりも君に一番響く。その顔は驚きの顔だ、マッチャム君。それは取り除かなければ。マートンではその顔は流行らない。君の健康を祈って!
 ジョージ(少し飲んで。)有難うございます。
 ミント(感心して。)これはいいワインだ。誰が金を払うんだろう。君の伯父さんじゃないな。伯父さんには金はない。こんなに上等なワインなら一本分払えるかどうかだって疑わしい。(再び飲んで。)うん、上等だ。
 ジョージ レイディ・ハミルトンは裕福だって思っていました。
 ミント 金以外の福ならね。ウイリアム卿は彼女に借金しか遺さなかった。あ、そうだ。彼女の話はするなと厳命を受けていたんだ。君は学校に行っているの?
 ジョージ はい。
(この時までにジョージ、また肖像画の方を向いている。)
(間。)
 ミント 何処の?
 ジョージ バースです。
 ミント 学校は面白いかね。
 ジョージ (ぼんやりと。)ええ。
 ミント それは良かった。
(間。ジョージ、明らかに会話をしたくない気持ち。少なくともこういう話題は。)
 ミント(絵を指差して。)アリアドネーだ、まるで。慥かこの時は十六歳だった。かなりませた十六歳だ。
 ジョージ(ゆっくりと振り返って。)レイディ・ハミルトンのことをお好きなんですか。
 ミント マッチャム君、どうやら君は伯父さんの奇襲戦法の血を引き継いでいるようだね。
 ジョージ すみません。
 ミント あやまることはない。私はいつだって本当のことを言うんだ。嘘をつく必要がある時は別だが。私はレイディ・ハミルトンが好きだ。きっぷがよくて、悪気がない・・・忠実で情熱的で、それに親切だ。
 ジョージ 親切?
 ミント 非常に。勿論あの人の敵に対しては別だが。しかし敵と言っても大体はナポリの革命家達に限られている。
 ジョージ 僕は身近にいるあの人の敵のことを考えているんです。
 ミント(眉をひそめて。)成程。でも何故その人のことを気にしたりするんだ。
 ジョージ その人は僕の伯母さんですから。
 ミント いろんな事情から、その人は君の伯母さんじゃなくなったんだ。今はエマ伯母さんなんだ。もっと飲んだ方がいい。さっきの顔付きがまた出て来た。
 ジョージ いいえ、結構です。(絵を指差して。)ああ、僕には分からない。一体どこが・・・(言い止む。)
 ミント 分からないって、何が・・・
 ジョージ いいんです。こんなことを訊くべきじゃなかったんです。
 ミント 訊くべきじゃないだろうな、マッチャム君。(ジョージが謝ろうとするのを手で止めながら。)その質問が不適切だからじゃない。たとえ訊いたとしても答がないんだ。ネルソンはどこが良くってこの女と・・・それが君の質問だろう?
(ジョージ、頷く。)
 ミント 人が他人のどこが良くて好きになるか、この質問は世界が始まって以来ずっと問われて来た。またこの世の終まで問われ続けるだろう。しかしこれに対するちゃんとした答なんか、めったにあるものじゃないんだ、マッチャム君。
 ジョージ でもあの人は偉大な人です。(熱を込めて。)ね、そうでしょう? 偉大な人なんでしょう?
 ミント そう。
 ジョージ あの人の業績によって? それともあの人の人物そのものが?
 ミント その質問はハーディ艦長に訊いた方がいい。 ネルソンの旗手だ。業績も人物も彼の方がよく知っている。私が話せるのはただ「恋に落ちているネルソン」のみだ。
(間。)
 ジョージ 自分の妻をあの人にいいようにさせて放っておいているネルソン。僕はそれがどうしても分からないのです。
 ミント 君の伯母さんだった人をね。いいようにするってどういうことかな。バースに毒入りのパイでも送ったのかい。
 ジョージ(怒って。)伯母さんを見捨てさせるために、あの人は家族中の人を買収したんです。
 ミント(肩をすくめて。)買収なんかされなくったって、みんなとっくに見捨てている。それに買収はあの人がやったんじゃない。ネルソンのしたことだ。
 ジョージ(怒りで固くなって。)それは違う。嘘だ。
(間。)
 ミント マッチャム君、君に決闘を申し込む訳にはいかない。まだ若すぎる。だがお行儀のために尻をひっぱたく程子供でもない。君にはどうしても今の言葉を取り下げて貰わねばならない。
 ジョージ すみません。本当に失礼しました。でもまさかネルソンがそんなことを。まさか。信じられない。それだけの意味です、僕が言ったのは。
(間。ミント、ジョージをじっと眺める。)
 ミント(肩をすくめて。)フン、そうかも知れない。とにかくそんなことはどうでもいいことだ。君のかっての伯母さんは年二千ポンドで完全に満足している。それに加えて過去の栄光というものがある。
 ジョージ それは違います。
 ミント(微笑んで。)またかい?
 ジョージ それは違うということを、僕が知っているという意味です。最近僕は伯母に会いました。伯母は悲しんでいるのです。
 ミント ほほう。涙か。涙といってもそう簡単には信じられない。君もいつかはこのことを学ぶだろう。特にこの場合、夫から見捨てられたとは言っても、年二千ポンド。楽に暮らせる寡(やもめ)なんだ。
 ジョージ 伯母の場合は本当の涙です。
 ミント 最後に会ったのは?
 ジョージ 一週間前です。伯母は伯父宛の手紙を僕に託しました。
(間。)
 ミント そんなものをネルソンに渡してはいけない。決して。
 ジョージ 渡されなければならないのです。
 ミント ねばならない?
 ジョージ ええ、誓ったのです。
 ミント フン、中学生の誓いじゃないか。それとも君は伯父さんの心を乱したいのか。
 ジョージ いいえ、とんでもない。そんな。
 ミント じゃあ、その手紙は私に渡しなさい。千切って捨ててしまおう。いや、それより、そのまま送り主に戻した方がいい。
 ジョージ 一度送り主に戻された事があるのです。開封されて。それなのに読まれないで。ですから僕が渡す事を引き受けたのです。今度はしっかりと受け取って貰うために。
(間。ミント、ここに到ってこれまでの慇懃さをすっかり失っている。冷静さをなくしているのはミントの方である。)
 ミント 誰が戻したのだ。
 ジョージ 秘書のデイヴィッドソン。
 ミント 誰の命令で戻したんだ。開封された手紙を。
 ジョージ 封筒には、ネルソンの命によりとありました。正確に言うと「ネルソン卿、誤ってこれを開封せり。但し読み申さず候。」です。でもロード・ミント、これは順当に考えれば・・・
 ミント ネルソン卿の今の生活を考えれば、何も順当には考えられない。
(間。)
 ジョージ それはひどいです。僕はそんなこと、信じません。
 ミント 君の無礼はこれで三度目だ。しかし今のは許す。私もそれは信じない。
(間の後。)
 ミント しかし、デイヴィッドソンはレイディ・ハミルトンから指示を受けたろうか、それは違うだろう。
 ジョージ でもあの人が封を切ったに違いありません。そしてデイヴィッドソンに言ったでしょう。これはひどく悪意のある、意地悪な、人を誹謗する手紙だ。だから読んではいけないと。そのようなことをあれこれ言って、結局デイヴィッドソンの方から「送り返しましょう」と言わせるようにしむけた。これが僕の推論です。
 ミント(よく考えて。)それはなかなかうまい推論だ、マッチャム君。多分そんなところだったろう。
 ジョージ ではもう伯父さん自身のしたことではないと考えて(下さいますね。)
 ミント したことであるとかないとかそんなことは考えていない。私の考えているのは、君が持っているその手紙がネルソンに渡らないようにと、それだけだ。マッチャム君、その手紙を私に渡したまえ。
 ジョージ いやです。
 ミント 私は到って穏やかな男だ。暴力は好まない。こんなことは生まれて初めてだ。力付くで何かしようという気がむらむらっと起こっているぞ。それに私にたてついている人物は私より弱いときている。(脅かして。)すぐその手紙を出すんだ。マッチャム君。
 ジョージ しまって鍵がしてあります。
 ミント その鍵はあるのか。
 ジョージ いいえ。(上ずった声で。能弁に。)咽に刀を突き付けられても平気です、ロード・ミント。僕が手紙を渡す人はたった一人です。その手紙の宛先の人です。
(間。)
 ミント どこかで聞いたような台詞だ。最近ベティが演じた芝居だな。
 ジョージ バースに来たのを見ました。
 ミント 今私は刀を下げてはいない。今どころか、この二十年下げたことはない。マッチャム君、英雄の真似事をやっている場合じゃないんだ。君が鍵をかけてしまっているものは火薬なんだ。それを君は伯父さんの顔の真ん前で、爆発させようとしている。伯父さんが傷つくだけじゃない。これは請け合う。君も傷つくんだ。ひどく傷つく。それもただ嫉妬に狂った妻が君の膝の上にちょっと涙をこぼしたという、それだけの理由でだ。
 ジョージ(間の後、静かに。)あの伯母さんの泣き方、僕はあんな風に泣いた人を今まで見たことはありません。少なくとも大人が。深い深い心の奥底から出て来るような泣き方だった。まるで病気に罹っているような、見ていて辛くなってくるような。一生あれを忘れることはないと思います。
 ミント 忘れるようにしなくちゃいけないね。
 ジョージ 無理です。それに忘れたいとは思いません。
 ミント それなら少なくとも君だけに留めて置かなきゃ。トム・ティットが涙を流したのを見た。その君を、伯父さんは決して有り難いとは思わない。それは保証する。
 ジョージ 何なのでしょう、伯父さんがあんなに伯母さんを嫌うようになった本当の原因は。
 ミント 私は知らない。それに他の誰だって知ってはいないと思う。ただ私は心から君に頼む。あの手紙はどうか渡さないで欲しい。
(ジョージ、首を振る。)
 ミント(急いで。)じゃ、少なくとも明日の夜まで待ってくれないか。
 ジョージ ええ、じゃあ、この二十四時間だけなら。
 ミント その間にレイディ・ネルソンに会って話をしなければ。弾倉にはいっている火薬に火がつくのを止めるんだ。一体やれる仕事だろうか、これは。どうせ私は吹っ飛ばされて粉々になってしまうんだろう。それに死んだって、追贈のメダル一つ家族に残されはしない。
(エマ、部屋着に袖を通そうとしながら化粧室から飛び出てくる。走って寝室を横切って控えの間に向かう。)
 エマ 今までで一番多い群衆よ。(あの人の人気!)私、お風呂の窓から見ていたの。
 ミント そんなことをなさっていいんですか、レイディ・ハミルトン。
 エマ 随分恥ずかしがりなのね、ミント。私の裸の姿なんて今まで何度も見せたことがあるわ。あの人達、それが好きなの。
 ミント それは分かっていますが・・・
 エマ(遮って。)あの人達ったら赤ん坊を持ち上げてあの人に見せるの。祝福してくれって。(ジョージを抱いて。)ジョージ、あなた誇らしいでしょう?
 ジョージ ええ、レイディ・ハミルトン。
 エマ エマ伯母さんよ。もう少しで窓から万歳って言う所だったわ。
 ミント やっていたら漫画家がさぞ喜んだでしょう。
 エマ 漫画家? あんな連中おしっこでも引っ掛けてやればいいのよ。
(ネルソン登場。前場と同じ服装。海軍省から帰ってきた所。ネルソン、ミントとジョージには気がつかない。
エマだけを見ている。)
 エマ 約束を守って下さったのね。
 ネルソン 守らないとでも思ったのか。(熱烈に抱きしめる。)
 エマ あの狡い海軍省へいらっしゃる時は何時でも心配。あそこの人はその気になりさえすれば、明日にでも貴方を行かせる事ができるのですもの。一年間は大丈夫なのね。
 ネルソン 期限は言わなかった。
 エマ(怒って。)約束なさった筈よ・・・
 ネルソン カディスに今は行かない。これだけはなんとしても聞き届けて欲しい、と言った。しかしとにかく一年は大丈夫だ。心配はいらない。丸々一年は約束するよ。
 エマ(キスしながら。)心配だわ、ネルソン、私。
 ネルソン 無駄な心配だよ。
(長い貧るようなキス。)
 エマ(引き離して。)つれがあるのよ。
(ネルソン、他の二人を見る。視野の点で問題があり、見えなかったのである。)
 ネルソン やあ、ミントじゃないか。呼び出しに応じてくれたのか。これは嬉しい。実に有り難い。あまり嬉しくてうまく言葉にならないな。北部に行っていたせいかな、痩せたんじゃないか。マートンでは太ってもらう。エマの主婦役は完璧だ。この物価高で少し金がかかり過ぎるきらいはあるがな。
 エマ そのへんでおしまいよ、ネルソン。みんな貴方のためにしている事ですからね。他の誰の為でもないの。(ジョージを指差して。)これがマッチャ・・・
 ネルソン(優しくジョージを抱いて。)これが誰かぐらい分かっているよ。しかし大きくなったな。お前だと分かるのに暇がかかったじゃないか。まてよ、私が最初に艦長になった時はいくつだったかな。その時の私よりお前の方が立派だ、なあ、エマ。
 エマ 私に分かる筈ないでしょう。その頃私達、まだ会っていないんですもの。
 ネルソン(微笑んで。)会っていなくて良かったよ。
 エマ ネルソン! (なんてことを仰るの。)
 ネルソン(急いで。)いや、海軍のためには、さ。僕のためにはそりゃ、会っていたらなあ、と・・・
 エマ もっとひどい話。ジョージが聞いていて何て思うかしら。エマ伯母さんのネルソンに及ぼす影響が国家にとって害がある、そう聞こえるわ。
 ネルソン(ジョージに、静かに。)私の言いたかったのはだね、ジョージ、もし若くしてレイディ・ハミルトンに会っていたら、私のそれ以後の軍人としての経歴はゼロだったろう。なにしろ命が、失うにはあまりに大切なものになって、命を賭けて何かをする気を失せさせただろうからな。
 エマ それならいいわ。船乗りにしては文章を作るのが上手。そうね、ジョージ。
 ネルソン(急に気がついて。)エマ、どうしたんだ。ちゃんと服を着ていないじゃないか。この人達がいるというのに。
 エマ あらネルソン、この人達、人じゃないでしょう。一人は子供だし、もう一人は・・・だってロックスバーから出て来た山猿じゃない。
(下僕、銀の盆の上に名刺をのせて登場。)
 エマ(名刺を読む。)ハーディ艦長。お通しして。
(下僕退場。)
 エマ ハーディは確かに「人」のうちだわ。それにあの人、私が冬の厚いものを着ていたって、バビロンの売春婦ぐらいにしか見やしない。でもとにかく着替えてこなくちゃ。
 ネルソン 私も行こうか。
 エマ 貴方の大切なハーディ艦長をここでお迎えするのは、あなたの務めでしょうね。
 ネルソン どうもぞっとしないね。その理由は君が一番良く知っている。
 エマ 臆病者。自分の旗艦艦長を怖がったりして。たいした英雄! 怖いって言ってやりなさい。そうすれば気が楽になるわ。
(ネルソンにキスして、寝室に進む。入るところで、フランチェスカが待っており、二人、幕のうしろへ退場。)
 ネルソン コペンハーゲンでの時よりも群衆はさらに多くなったようだ。二年間でこんなに増えるとはな。時にはロンドンをお忍びで歩いてみたいもんだ。だけどどうやったらそれと気づかれずにすむかな。
 ジョージ(言葉通りに受け取って。)ホレイショー伯父さん、肩章とか勲章とかを全部とって平服で歩いたら・・・
 ネルソン(短い間のあと、機嫌よく。)ジョージ、お前の言う通りだ。お忍びが出来ないというのは結局私の虚栄心のせいなのだ。
 ジョージ いいえ、僕はそんな事は・・・
 ネルソン(ミントに。)この子の言っているのは本当だ、 ミント。次官との会見の際でも平服を着ようと思えば着られたのだ。現在退役中なんだからな。(自分の肩章を微笑みながら触って。)しかし私はどうやら自分の業績を人に知って貰いたいらしい。いやな性格だ。(ミントに。)赤ん坊みたいだと昔言われたが、これもそれに当たるな。
 ミント もうあの失言はお許し願えませんか。
 ネルソン いや、お許しは与えられないな。(ジョージに。)昔、彼が言った言葉にね、陸上では私は赤ん坊だ。但し海上では・・・まあ、これはいい・・・
 ミント 海上では、アレキサンダー大王。
 ネルソン アレキサンダーだったかな。いずれにせよ、ジョージ、これは誇張だ。ひどい誇張だ。
 下僕(登場して。)ハーディ艦長です。
(ハーディ登場。老練な水兵。世界中のどんな人物の前に出てもびくともしない。唯一の例外があるとすれば、現在彼の目の前にいる人物、ネルソン。ネルソン、無言で彼を抱く。振り向いてジョージを紹介する。)
 ネルソン 甥のジョージ・マッチャム。
(ハーディ、一礼。)
 ネルソン それからミント卿。知っているな。
 ハーディ(握手しながら。)はい。これは光栄です。
 ミント 光栄は私の方だ、ハーディ艦長。
(気まずい間。ネルソン外目(そとめ)にも落ち着かない様子が分かる。)
 ハーディ レイディ・ハミルトンは?
 ネルソン 着替えているところだ。そう、ちょっと 見て来なければ・・・失礼して・・・
(ネルソン、寝室の方へ進む。)
 ハーディ いらっしゃる前にちょっと・・・次官にはもうお会いに?
(ネルソン頷く。)
 ハーディ ヴィルノーヴの行方について何か情報がありましたか。
(間。この瞬間をネルソンは一番恐れていた。)
 ネルソン そう。あった。
 ハーディ 何処ですか。北ですか。
 ネルソン いや、南だ。正確に言うとカディス。
 ハーディ(興奮して。)カディス? カディスですか。あそこなら長くはいられない。
 ネルソン そうだ。いられない。
 ハーディ カディス。こんないいニュースは聞いたことがない。袋の鼠だ。何隻ですか。
 ネルソン 三十隻以上。
 ハーディ で、我々は何隻集められますか。
 ネルソン 十分な数。
 ハーディ じゃ、同じ数だけ?
 ネルソン 同じ数だけ誰が必要と言った、ハーディ。私は十分な数と言ったんだ。
(ハーディ、嬉しそうに笑う。ネルソンの腕を掴む。)
 ハーディ これはいいです。これがニュースになる時、その言葉を連中はデカデカと書くでしょう。で、ヴィクトリーは何時出発ですか。
(間。)
 ネルソン(注意深く話す。)まもなくの筈だ。集められる船は全て集めてからになる筈だからな。
(間。ハーディの顔に現われる失望の表情をネルソン明らかに嫌っている。)
 ハーディ 集められる船?
 ネルソン(微笑む。)それに集められるすべての艦長も。
(また間。ハーディ無言。)
 ネルソン 君にヴィクトリーを指揮して南に下るよう命令が出るのも、この二、三日のうちだろう。
 ハーディ(長い間の後。)分かりました、閣下。
 ネルソン あれはまだ働ける船だ。特に今度のようなごちゃごちゃした接近戦では。多分コーリングウッドも自分の旗はロイヤルソヴリンよりもヴィクトリーの方に上げるんじゃないか。私も指揮を取るとなれば、真新しいロイヤルソヴリンよりも、二年間使い古したヴィクトリーの方を選ぶだろう。(少し困ったような会釈をして。)では失礼する。
 ハーディ(同様に困ったような表情。)はっ。失礼。
(ネルソン、寝室へ下がる。ベッドに腰掛けて、床を見つめる。全く動かない。)
 ハーディ(控えの間でやっと。)ラムが欲しい。
 ミント レイディ・ハミルトンは置かない。
 ハーディ(怒る。)ラムを置いてないって? それで提督の女と言えるか。
 ミント ピントが外れている・・・ものもある。
 ハーディ ものもある?
 ミント ワインならいいものがあるぞ、艦長。それから勿論ブランデーも。
 ハーディ フランス野郎の飲み物だ、そんなものは。(怒って。)イギリスのものなんかここには何一つありはしない。いや、あったか。(壜を持ち上げる。)ジンだ。売春婦の飲み物だが、まあいいか。こいつはピントが外れていないって訳ですか、ロード・ミント。
 ミント(優しく。)提督は二年間外国暮らしだったんだ、艦長。
 ハーディ ええ。私だってそうなんですが・・・健康を祈って。(ジョージに。)健康を。
(ハーディ一気に飲み干し、また注ぐ。陰欝な放心。ミント、ジョージからハーディに目を移し、また逆に目を移す。二人ともショックと幻滅の表情。)
 ミント(間のあと、少し悪戯の雰囲気も込めて。)艦長、さっきマッチャム君が訊きたいと言って、僕が待てと止めた質問があるんだ。それは、ネルソンの偉大さは、そのなした事によるものなのか、それとも彼自身が偉大なのか、と言う事なんだが。その質問は艦長に訊いた方がいいだろうと言ってね・・・
 ハーディ(間のあと、ぶっきら棒に。)両方ですよ。彼の人物が偉大でなくてどうしてあれだけの事をなしえたか。(当然人物が偉大で、なした事が偉大なのです。)
 ミント(ジョージに。)これが答だよ、マッチャム君。
 ジョージ ネルソンの天才がなければ戦いには勝てなかっただろうっていうことですか。
 ハーディ 天才? 天才なんて海では何の役にもたたない。「何の役にも」が言い過ぎなら、「たいして」だ。いつも敵の風上に立ち、適切な攻撃時期、適切な攻撃場所を選ぶ。それだけのことだ。勿論ネルソンにこの才能はある。しかしそれよりもっと大切なこと、天才と言えること、それは戦うに適切な戦艦と、戦うに適切な人間を持つことが出来る能力だ。
 ジョージ(奇妙だ、という表情。)イギリスの船も水兵も、フランスよりはずっと良いんでしょう?
 ハーディ 新聞で読む限りそうなっている。しかし、あちらの船とこちらの船、あちらの人間とこちらの人間、一つ一つを取って見た時、どちらがどうだか、私には自信がない。しかし全体として比べた時どちらかが優秀だとすれば、それは一体誰がそうしたのだ。
(寝台でネルソン、突然ベッドから立ち上がる。どうやら意気銷沈の状態は終わっている。ネルソン、幕の後ろの化粧室に入る。)
 ハーディ(恐ろしい勢いで。)イギリスの水兵っていうものがどんな人物達か知っているか、マッチャム君。「樫の木の心を持つ男達」? とんでもない。厭も應もなく、無理矢理入れられた連中だ。少なくとも五分の四は。ありていに言えば、チャザムかポーツマスで誘拐されて来たんだ。頭をぶん殴られて、この野蛮な、世界でも有数の奴隷の生活に。ニューゲートの監獄でも、あの蛆虫だらけのまずいパンよりは、少しはましな食物が出る筈だ。それに看守への口答えに九本縄の鞭で二百回もぶっ叩かれるだろうか。つまり二百かける九って言うことだ。それを見れば誰だって、マッチャム君、君だって。いや、ロード・ミント、貴方だって、いやでも上官に従う気持ちになる。それからラムのがぶ飲みだ。これで攻められりゃ、いやでも戦う気にさせられてしまう。しかし誰のために戦うか、誰が勝つか、そんなことに連中が構っていられるか。お二人にお訊きしましょう。お二人がそういうイギリスの水兵だったとします。さてフランス軍が我々に勝ってピカデリー広場にギロチンがおっ立てられた。お二人はどう思いますか。悔しくて胸が痛みますか。反対に我々が勝ったとします。提督の健康にラム一杯の乾杯でもする気になりますか・・・
 ジョージ(急いで。)ナイルの戦争の前に、水兵達はネルソンの為に杯をあげたのではありませんか。
 ハーディ そう。ネルソンに。それが君の答だ、マッチャム君。私は、今日、この売春婦の飲み物で、ネルソンのために乾杯する気はない。今はとてもそんな気分じゃない。しかしあの時連中は確かにネルソンの為に杯を上げたんだ。ネルソンの指揮する部隊ならどんな酷い部隊でもそこで働こうと言う。ネルソンが怪我をしたと聞けば、女のように連中は泣くのだ。ネルソンがどうやってこういう事が出来たか、私には到底分からない。もしそれが奇跡でなかったら。それに確かに奇跡でもなんでもないんだ。それならそれはネルソンの人物が偉大だったからとしか言いようがないじゃないか。(グラスの中を見て。)このジンもひょっとするとイギリス製じゃないかも知れないぞ。
 ミント ナポリではジンも作っている。かなり飲める奴をね。
 ハーディ ネルソンはあんな糞ったれの場所へ行くべきじゃなかったんだ。(陰気に。)お二人ともその気になったら、私の今の言葉をネルソンの前で言うのなら言って下さい。男らしくその責任は取りましょう。
(エマ、化粧室から出て来る。後にネルソン。マートンへ馬車で出かけるために正装している。控えの間に進もうとする時ネルソン、エマを留めて抱擁する。)
 ミント かなり辛いものになるぞ、それは。
 ハーディ 今の状態より辛くはないでしょう。ヴィクトリーにコーリングウッドの旗を上げる? そんな旗、俺が自分で引きずり下ろしてやる。
(エマ、控えの間にはいる。ネルソンその後に登場。)
 エマ ハーディ艦長! まあ光栄ですわ。
 ハーディ それは私の方です、レイディ・ハミルトン。
 エマ 相当な数になっているわ、群衆。(ハーディに。)艦長、貴方がここに入る時、万歳の声があがりました?
 ハーディ 私は知られていない人物ですから、レイディ・ハミルトン。
 エマ(優雅に。)知られていていい筈なのに。でもすぐですわ、そうなるのは。(大きな身振りをして。)ネルソンの傍にいる人物は誰でもいつかは華やかな舞台に。ミント、私達の馬車にどうぞ。ネルソンはその方がいいと・・・
 ネルソン(優しく。)いいとは言わなかったよ、エマ。その方が相応しいといったんだ。良いかどうかは分からない。
 エマ そうでしたわ、ネルソン。
(フランチェスカ、寝室から急いで出て来て、エマに小壜を渡す。 エマ、それをさっとバッグに入れる。ミント、これを見逃さない。)
 エマ ここから相当距離があるのよ、ミント。途中の旅が楽しいわ、きっと。ジョージ、貴方とハーディ艦長は後ろの馬車に乗って頂戴。 馭者が訊いたら教えてやるのよ。、自分達が誰かを。行く先は分かっている筈。
 ネルソン(ジョージを見て。)おやおや、ジョージ。お前、大きくなっているんじゃないか。お母さんに言って新しくズボンを買って貰わなきゃ駄目だよ。それに上着もだ。こういう事にかけてはファニーの右に出る奴は・・・
 エマ(警告するように。)ネルソン、貴方、トム・ティットのこと、お褒めになるの?
 ネルソン(軽く。)褒めているんじゃないよ。子供の服を買うのが名人だと言ったところで・・・
 エマ 新学期が始まるまでに、四、五着作ってやらなくちゃ。それも最上の仕立で。これは約束。
 ネルソン 随分高いものを拵るんだろうな。エマらしく。(エマにキスして。)じゃあ一着だけ。
 エマ それに新しい靴。仕立てた服に似合うのを。(堂々と退場。)
 ネルソン(ミントに。)一緒に旅行出来てよかった、ミント。ちょっと金のことで相談したいんだ。銀行の連中が、長期支払のことで言ってきていて・・・(悪戯っぽく。)こういう問題では私はなにしろ・・・赤ん坊なんだから。
 ミント ええ、それは・・・そうです。
(二人、エマの後に続く。)
 ミント それに、赤ん坊といえば、ホレイシアーお嬢様のことをまだお訊ねしていませんでした。
(この時までに二人は部屋を出ている。)
 ネルソン(舞台裏で。)ああ、ミント、あれは可愛い奴だ。実に可愛い。私の自慢だ。それにエマの自慢でもある。
 ミント(舞台裏で。)五歳になられるのでしたね。
 ネルソン 四歳と五ヶ月だ、正確には。
 ジョージ(ハーディに。)僕達も下りるんですか。
 ハーディ いや、まだ。連中に万歳をさせてからだ。我々はそれを受ける理由はない。やり過ごしてから出よう。
 ジョージ 僕は扉の所で見ています。
(ジョージ退場。ハーディ、一人残ってグラスの中身をぼんやり眺める。それからエマの肖像画を。突然激しい動作でグラスの中身を絵にかける。新たにジンを注いでいる時、ジョージ帰ってくる。当惑したような表情。)
 ハーディ どうだった。元気のよい万歳だったか?
 ジョージ ええ。元気な・・・でも・・・
 ハーディ でも・・・何だい。
 ジョージ 笑っていた奴がいたんです。
 ハーディ フン。
 ジョージ(全く唖然とした表情。)ネルソンを笑うなんて!
(ハーディ、一気にジンを飲み干し、ジョージの肩を優しく叩く。)
 ハーディ レイディ・ハミルトンと一緒にね。
(暗転。少し前に始まっていた万歳が最高潮に達する。次に弦のオーケストラが優しい音楽を奏する。これは多 分、バースの温泉の社交場で大評判の曲である。)

     第 四 場
(照明がついて、レイディ・ネルソンのロンドンの家の階下の部屋を現す小さな場所を照らす。ミントが椅子から立ち上がる所。フランシス、傍に立っている。若い時のネルソンの肖像画が目立つ所にかけてある。この場ではレイディ・ネルソンは杖をついている。)
 フランシス いいえ、とんでもない。お陰で何年も会えなかった貴方に会えましたわ。そう言えば、お訊ねするのを忘れていました。奥様、ご家族は如何ですか。
 ミント ええ、元気です。
 フランシス それは良かったわ。
 ミント では譲歩はなさらないと。
 フランシス 譲歩・・・今の場合、この言葉は適切ではないわね。もしジョージが約束を破る気になれば、それはジョージの勝手です。私は決して怒りはしないとよく彼に言っておいて下さい。
 ミント その伝言を伝えれば、いよいよ自分の約束を守る決心を固めるでしょう。
(ミント、この言葉を、まるでカッコづきの、誰か別の人間の台詞であるかのように言う。フランシスの静かな答えがそのカッコを取り去ってしまう。)
 フランシス そうね。名誉を重んじる子だわ。あの甥のジョージっていう子は。
 ミント その名誉を重んじる子供が、手紙の仲立ちをした為に、ひどく叱責されるのは構わないというお考えなのですか。
 フランシス 叱責? 何故でしょう。あの子の伯父も名誉を重んじる人物なのですよ。
(間。ミント、自分の敗北を認める。)
 ミント それではお暇(いとま)を、レイディ・ネルソン。
 フランシス 玄関までお見送りしたいのですけど、最近上手に歩けなくて。お聞きになっていらっしゃるでしょうけど・・・小鳥の歩き方。
(ミント、会釈して回れ右する。)
 フランシス ちょっとお待ちになって。貴方のこの訪問は少なくとも一つのことには成功したようだわ。私、良心のことを言われて少し心配になってきた。(訳註 ジョージが叱られはしないかと。)ミント、貴方、メモ用の紙を、持っているわね。私から甥に伝言をしましょう。それを書き取って下さい。それに私がサインをします。
 ミント 分かりました。
(ミント、ポケットからノートと鉛筆を取り出す。)
 フランシス でもまずこのことは言わせて頂戴。貴方は私が仲立ち役として中学校の生徒を選んだことを非難しましたね、ミント。貴方の考えでは私の家族で、他に誰が相応しいと言うのですか。
(ミント無言。)
 フランシス 家族でなければ、共通の友人でもいいです。あげられますか。例えば貴方を?
(ミント、とんでもないという身振り。)
 フランシス じゃあ、他に誰が。それに郵便は試験済みです。途中で邪魔が入るのです。
 ミント 海軍省では。
 フランシス 海軍省が郵便より頼りになるとお言い? 私の友人は今海軍省に何人残っているかしら。
 ミント レイディ・ハミルトンが死ねばいいと思っている者が、海軍省にはいくらでもいますが。
 フランシス(死ねばその人達も違ってくるでしょう。)でも死んではいないのです。ジョージしかいません。今から文章を言いますから、必要ならもっと適切なものに直して下さい。(書き取らせる。)ジョージへ。ミント卿は、私がお前に渡した手紙をネルソンに見せるべきではないと言っています。それは本当にそうかも知れません。私はお前にそれを決めて貰おうと決心しました。それを判断することが出来るように、あの手紙を見る許可を与えます。どんな些細なことでもいい、ちょっとでも私の夫を悲しませることが含まれていると思ったら、その手紙を焼き捨てるのがお前の義務であり、また私の望みでもあります。
(ミント、書き取っている。)
 フランシス ミント、貴方には弁護士の経歴があるわ。もっと適切な文章に書き換えても構わない。趣旨さえ同じであればいいのですから。白紙にサインして置きましょう。文章はどうぞ作って下さい。
 ミント 言われた通りここに書き留めました。ここにサインを戴いた方がいいです。
 フランシス 分かりました。
(ミント、フランシスにノートを渡す。フランシス、サインする。)
 フランシス 貴方を信用している、ということは今の私の言葉で分かりましたね。
 ミント この件に関しては、私は自分自身が信用出来ないのです。
 フランシス 信用出来ない? 何故?
 ミント 私は勇気のある男ではありません。そのせいでしょうか。近づいてくる雷の音、大乱戦の音、がもう聞こえているような気がしているのです。
 フランシス(相変わらず非常に優しい声で。)まあまあ、本当に申し訳ありませんわ。静かで平和な貴方の家庭生活にそんなメロドラマを引き起こす、私がその種なんですものね。
(ミント、ノートをポケットにしまって、初めて微笑む。)
 ミント 危険でもいい、飛び込んで行こう、というその精神。それには感服致します、レイディ・ネルソン。
 フランシス 有難う。今の状態ではそういう精神がないと生きてゆけないの。
 ミント ええ、分かります。
 フランシス 貴方、マートンに帰るのね。
 ミント(時計を見て。)夕食に間に合うように。 それに、時間には決して遅れないようにとの厳しい命令です。
 フランシス あの方、芝居をなさるのね。
 ミント ええ。芝居の真似事を。多分。
(ミント、帽子とステッキを取り上げる。)
 フランシス 自分の馬車でいらっしゃるような不注意な真似はなさらなかったでしょうね。
 ミント ロンドンには私の馬車はありません。 でも持っていたとして、もし、それでこのサマセット街に来たら、不注意な真似をしたことになるのですか。
 フランシス この通りの北、七号の家と、通りの南、五十一号の家、この二つがいつも警戒中。
 ミント それでは、このサマセット街の二つの家にメロドラマがある、ということですね。
 フランシス 窓を見張るのはメロドラマじゃありませんわ。私に会いに来る人物が誰であるかを知っておくことが、あの人には重要なのです。理由はよく分かります。
(間。)
 ミント ではこれで・・・
 フランシス(急いで。)お引き止めして申し訳ないんですけど・・・今ではこういうことを訊ける人が誰もいなくなって・・・頼りは新聞だけ。それに新聞にはこんなことは書いてないし・・・あの人の良い方の目・・・痛むんでしょうか。
 ミント ええ、少し・・・と思います。
 フランシス 酷使するんでしょうね。書類を読み書きする時は必ず目覆いをしなければいけないんです。何時でも。必ず守るように。
 ミント はい。レイディ・ネルソン。
 フランシス(微笑もうとして。)勿論、私からと言っては駄目よ。
 ミント(笑わない。)はい、申しません。
 フランシス 目覆いはいつでも手近にあるように。でないとすぐ忘れるのです、あの人。このことをレイディハミルトンによく。それから、ロード・ミント・・・できたら・・・これが楽な仕事でないことは分かっているのですが・・・でも、もしあの人に、私 があの人の敵ではなく、愛し続けている妻であって、いつでも機会があればあの人のためにどんなことでもする気持ちでいるのだということを・・・分かって貰えるようにして下されば・・・
(ミントが無言なので。)
 フランシス こんなことを言っても無駄ね。今、貴方はあの人の味方で、私の味方ではないもの。咎めたりはしませんわ。北七号と南五十一号の見張りつきでは誰だって両方の味方にはなれない。咎めなければならないのはこの現在の状況ですわ。私、やっと分かりました。
 ミント でも分かっていらっしゃいますか、レイディ・ネルソン。ネルソンの友達や家族で、誰一人この状況を良しとしている者はいないのです。それどころか、この状況を変えることが出来るものなら全存在を抛(なげう)ってもよいと思っているもの・・・この中には私も含まれますが・・・だっているのです。
 フランシス じゃあ、どうしてそうなさらないのかしら。
 ミント 何故なら、変えるのは不可能だからです。誰がどうやっても変えることは出来ない。どうやってもです、レイディ・ネルソン。こうなるように運命が定められているのです。お分かりですね。
 フランシス(低い声で。)どうやらあの人は私から永遠に去って行ったらしい。それが分かってきました。ええ、今分かりましたわ。(少し気を取り直して。)でも私から去って、どんな女のところへ行ったというのでしょう。あの人の評判に泥を塗ることしか出来ない、そんな女のところへ。そして、もう泥を塗ってしまった。違いますか。
 ミント そういう女をネルソンは選んだのです。そして愛しているのです。それに愛されてもいます。あの女のもとを去ることは決してないでしょう。
 フランシス そうね、それは認めます。
 ミント 本当にお認めになりますか。それは希望を捨てるという事を意味しますが。
 フランシス 時々は私、希望は・・・
 ミント 希望はいけません。どうぞ、レイディ・ネルソン。これだけは是非にとお願い致します。希望を持つということ、それは絶望するという事でしかありません。希望を殺すことによってのみ、絶望を殺すことが出来るのです。
 フランシス では私は希望を殺さねばなりませんわ、
 ミント それが一番良いのです。(これは)奥様に良かれと思ってこう申し上げているのです。どうか信じて下さい。
 フランシス 私は自分に良かれとは思っていないのです、ロード・ミント。 あの人によかれと思っているのです。これは信じて下さいますね。
 ミント 信じます。
 フランシス(急に荒々しく。)でも、もし私が希望を捨てるのならあの人達も希望を捨てて貰わねばなりません。私を「バースの病人」とはもう言わせません。身体が弱ってきてなどいません。私は死にません。あの人を喜ばせる為に何でもしましょう。でも死ぬことだけは、死ぬことだけはしません。この事はあの人にお話しになって結構です。そのお気持ちになれば。それから、これは私からと言ってもようございますわ。
(ミント、無言。その間、フランシス、涙が出そうになるのを必死で耐える。傍目にもそれと分かる努力で、やっと涙を零さないですむ。それから杖の助けを借りて立ち上がり、辛うじて一礼する。)
 フランシス ではこれで、ロード・ミント。
(フランシス再び立ち上がる。背中を真直にし、頭を昂然とそらせて。)
 ミント(御辞儀。)失礼します、レイディ・ネルソン。
(ミント退場。フランシス、不動のまま立つ。背景に若いネルソンの肖像画あり。暗転して行く間、肖像画のみに照明があたる。――それも暗闇に消える。)

     第 二 幕
     第 一 場
(照明があてられ、マートンの居間と食堂が示される。前前場とは異なり、今回はこの二つの部屋は隣り合ってはいない。一つの部屋から他の部屋へ移るには、長い廊下を通る必要があり、ある時間がかかる。食堂の奥には 階段が見える。これは寝室に通じている。現在の舞台は居間。二つのうち大きい方。エマが芝居を演じているところ。観客の注目はエマ一点に集められる。エマは古典的な衣装を纒って、多分シドンズ夫人からの借り物の、独特の表情をして、右手を上げて立っている。)
 エマ このようにして、この偉大な英雄は倒れた。そして全国民は彼の死を悼んだ。しかしその者達のなかで、この女ほど彼の死を悼んだものがいるだろうか。この女、即ち彼があらゆる女の中から、愛し守るべきものとして、選び、また女も、彼を心の奥底に慈(いつく)しみ、自分自身の命よりも大切なものに思い、そして彼の子供を生んだ女・・・トロイのアンドロマケー。
(この辺りになると我々は彼女の観客が見分けられる。ジョージ・マッチャム父子、キャサリン・マッチャム、レヴェレンド・ウイリアム・ネルソン(ネルソンの一歳年上の兄。)その妻サラー、その息子ホレイショー(ジョージと同い年。)ミント、ハーディ、もう一人の艦長のブラックウッド(カディスからの伝令を務めた男。)それにネルソン。ネルソンは他の者達と少し離れて坐っている。玉座の位置。エマの演技は勿論主にネルソンの為になされている。他に女中達がいる。中でフランチェスカが舞台監督の役割を果たしている。キャサリン・マッチャムはバックでハープシコードを彈く。但しフランチェスカやエマが望むようにはうまくタイミング(キュー)を掴んでいない。)
 エマ しかしまだ彼女は、自分の偉大な夫の死を知らないでいる。
 ハーディ(ミントに囁く。)偉大な夫って誰ですか。
 エマ(ミントが答える間を与えず、ハーディにきっとした目を向けて。)ヘクトール、ヘクトールが戦いに出ていたのだった。トロイの王子、あのヘクトールが。(この際だってはっきりした台詞は勿論ハーディの為のアドリブである。ハーディ、満足して頷く。)そしてアンドロマケーは花で縁取られた紫のマントを着て、自分の部屋に坐っている。
(これがエマの肩に紫のマントを着せるフランチェスカへの合図。エマはその後、幸せな期待をもって長椅子に横になる。)
 エマ そして夫が戦いから帰って来た時にと、女中達に湯浴みの用意をさせる。
(エマ、命じる行為を身振りで行なう。キャサリン、風呂を用意する女中達の動きをハープシコードで表現するが、ページを捲る時の不手際で中断される。エマ、鋭く彼女を睨みつける。)
 エマ しかし突然トロイの城壁から大きな叫び声が上がる。そしてアンドロマケーは椅子から飛び上がる。
(エマ、フランチェスカの適切な助けによって、長椅子から立ち上がることが出来る。)
 フランチェスカ Attenzione.(お気をつけて。)
 エマ そして城壁の方へと走る。ああ、彼女の見たものは、何て言う悲しい光景。まさか、まさかヘクトールが殺されたのでは? (フランチェスカに。)言って頂戴。死んではいないと。死んでいるんじゃないと。死んではいないと。
 フランチェスカ(しっかりと。)E morto.(死にました。)
(フランチェスカ、紫のマントをエマの肩に着せ直す。)
 エマ ああ、その言葉は言わないで。私の命、私の愛、私の全て、それが今塵(ちり)と化しているのか。
 フランチェスカ E polvere.(そして塵に。)
(フランチェスカ、全ての役目を終え、観客に加わる。)
 エマ ああ! ああ! ああ!
(長い悲しみの絶叫、三度。)
 エマ ヘクトールは逝ってしまい、私はもうたった一人なのか。
(エマ、これを感情を込めてゆっくり言う。短い瞬間ではあるが、我々はひょっとしてエマはプロの女優としての才能も、持ち合わせているのではないかという気持ちになるほどである。しかし、それは一瞬であって、エマ、次の瞬間には、天に両腕を上げ、「悲劇の型」に戻っている。)
 エマ では黄泉(よみ)の国の帝王よ、私もそこへ連れて行っておくれ。ああ、お前たち、おつきの者達! 早くここへ。私の傍へ。火葬の薪を用意しておくれ。私はあとを追って死ぬのです。
(女中達に種々の指示を下す身振りあり。その後、今度はフランチェスカの助けなしに、長椅子に横たわる。悲劇の型。マントが古典的な襞の形になるように、さらに注意して、横たわる姿勢を決める。)
 ミント(この間、マッチャムに。)アンドロマケーは自殺するんでしたかね。
 マッチャム(囁き返す。)エマ・ハミルトン版では、少なくとも。
 エマ(まだ襞を直しながら。)ああ、悼ましい。悲しいこと。なんていう悲劇の日でしょう。意地悪な運命、悲しむべき運命!
 ミント(ネルソンに囁く。)誰ですか。台詞を作ったのは。
 ネルソン(レヴェレンド・ウイリアムを指差し。)兄のウイリアムだ。
 エマ ああ、お前達、おつきの者達よ、私ほど惨めな人間がこの世にいるだろうか。この国に愛され、神々に愛されたヘクトール、死んでいった英雄ヘクトール。彼の為にアンドロマケーは泣くのだ。
(レヴェレンド・ウイリアムはネルソンの言葉を聞き取って、ミントが彼の文学的才能を褒めたと思い、頭を縦に振っている。)
 エマ この世の王冠が溶けてなくなってしまった。戦いを飾る花輪が萎み、物のけじめは失われ、回り来る月の下には、何一つ際だったものが無くなってしまったのだ。(訳註 アントニーとクレオパトラ 福田恒存訳。)
 ミント(ネルソンに。)兄さんのウイリアム?
(ミントの声、少し大きい。 エマ、ミントを睨みつける。ウイリアムも明らかにシュンとする。ネルソン微笑む。少し困った顔。)
 ネルソン 時々はもう一人のウイリアムも手伝ったな。
 エマ(少し声を上げて。)武人の柱が倒れてしまった。年端もゆかぬ男女が大人と肩を並べるというのか。(訳註 アントニーとクレオパトラ 福田訳。)偉大なヘクトールは死に、残るのはお互いの不信感のみ。トロイを守る大きな盾は失われ、国中が悲しみに沈んでいる。
(キャサリンはいつのまにか、鎮魂の曲から葬送行進曲に移っている。)
 エマ ヘクトール、私もまいります。ヘクトールの妻という私の地位に恥ずかしくない勇気を! 私は炎。私は空気。まいりますわ、ヘクトール。かわいそうな、かわいそうな、アンドロマケー。ああ、我が夫、ヘクトール!
(アンドロマケー、短刀で自害。長椅子に倒れる。)
(あとは沈黙。)(訳註 これは地の文としてあるが、台詞かもしれない。)
(アンドロマケー死ぬ。大きな拍手。エマ・ハミルトンについて書かれたものによると、彼女の演技の目撃者のほとんど全員が、英雄を演じる時の彼女の稀有な才能、心地よいソプラノの声、大袈裟に演じる事を好む傾向、を認めている。これらの特徴は、今なされている演技の中で十分に示されねばならない。台詞のトチリとか、思い付きで出たまずいアドリブ――アントニーとクレオパトラからの引用は、レヴェレンド・ウイリアムの元の台本には入っていない――も、この場合、少々無理もない話である。何故なら夜も随分更けて遅いことでもあり、またブランデーとシャンパンをかなり大量に飲んでいるから。深々と観客に頭を下げた後、ネルソンにも御辞儀をするのだが、その間にもう既にフランチェスカからグラスを受け取っているのが我々にわかる。エマ、それを待ち切れないかのようにすする。もし我々が注意深い目を持っていれば、彼女がすすっているのはシャンパンではあるが相当ブランデーが効いているらしいことが分かる。)
 ネルソン ブラボー、エマ。ブラボー。
(ネルソン、エマにキスする。)
 ネルソン 最高の出来だ、私の見た中で。
 ミント(エマに。)いつものように素晴らしいです、レイディ・ハミルトン。このお芝居は、私は初めてでしたが。
エマ おはこなのよ。でも今夜は上がってしまって。こっそり妊娠した尼さんみたいに。(レヴェレンド・ウイリアムに。)あら僧服をけがすようなことを言ってしまって・・・
(レヴェレンド・ウイリアム、にやりと笑って僧服を守る。)(訳註 具体的にどういう動作をするのか不明。)
 ミント あのアドリブはちょっと戴けませんでしな。
 レヴェレンド・ウイリアム いや、真に迫っていました。(ミントに。)もう一人のウイリアムが入れた台詞、あれは私の作ったものじゃないんです、ロード・ミント。レイディ・ハミルトンは時々台本にないものを入れるのがお好きで・・・
 エマ エマですよ、兄さん! 何ですか「レイディ・ハミルトン」とは。私も「ネルソン司祭長殿」とお呼びした方がいいのかしら。
 レヴェレンド・ウイリアム(おべっかづかいの一家の中でも、一番のおべっかづかいである。)そんな、とんでもない。(ミントに。)私が言おうとしていたのは、エマは時々台本にない台詞をはさむのが得意で、シェイクスピアのクレオパトラはエマの一番好きな芝居の人物・・・
 ミント 勿論。
 エマ 勿論てどう言う意味、ミント。
 ミント 勿論、本当に演じたいのは、「前代未聞の小娘」といった役柄でしょうけど。
 エマ 「前代未聞の小娘」? 「前代未聞の」ならいつだって演じてみせる。「小娘」だって、午後十時以降なら自分がなった気で演じられる。
(観客達はそこここに小グループになって分かれる。ミントとエマは二人だけの組。)
 エマ(感心したように。) よく危機を脱したわね、ミント。 頭の回転が速いわ。恋に目が眩んだアントニー、その話がちょっとでも出ようものなら、平手うちものだったわ。
(ブラックウッドの方を向く。)
 エマ ブラックウッド艦長、この家は初めてでしたわね。それに、私の芝居も初めて・・・
 ブラックウッド(吃りである。この状況の為に、余計ひどくなっている。)ナ、ナ、ナポリで、わ、わ、わたくしは、お、お、おくさまの芝居を・・・
 エマ そうそう、ナポリで見て戴いたわ。貴方の船がナポリに停泊して、亡くなった私の主人と一緒に船にお邪魔した時のことですわ。
 ブラックウッド(思い出そうとするが駄目。惨めな気持ちで。)エー、エー。た、たしか、こ、古典のものを・・・
 エマ そうでしたわ。でも何でしたっけ。
 ブラックウッド エー、エー。何かきょ、今日のより、もも、もっと、た、楽しい・・・
(すぐ傍に、にこやかにネルソンが立っているので、よけい上がってしまう。)
 ブラックウッド つ、つまりその・・・こ、恋人の死を悲しんでいる、ふ、婦人の話では、な、なかったという・・・こ、ことですが・・・
 エマ(救いようもなく。)夫の死・・・
 ブラックウッド あ、あ。夫の死です。ええ、ナポリでは、その・・・た、楽しい、ふ、婦人を演じられて・・・
 エマ ナポリでは楽しい気持ちでいたんですわ。そのためね、きっと。で、その婦人の名前を覚えていらして?
 ブラックウッド(興奮して。)バッカスの女・・・そう、そうでした。奔放に、真に迫って、え、演じていらっしゃいました。
 エマ でも、今夜の私の芝居は・・・そうね、楽しいものではなかったわ・・・でも、ご感想は?
 ブラックウッド ええ、まったく惨めで・・・(訳註 原文の pitiful には「演技がまずい」の意あり。)
(不幸にもこの時だけ吃らず、はっきりと「惨め」と発音する。)
 ブラックウッド エー、わ、私の言いたかったのは・・・
 ネルソン(助け舟を出す。一歩踏み出して。)なあ、ブラックウッド、君が私に言った感想は「胸を打つ」だったがな。
 ブラックウッド そ、そうです。む、胸を打たれました。ほ、本当に、こ、心から胸を打たれました。
 エマ 嬉しいわ。艦長さんに褒めて戴くなんて、そう簡単にあることではありませんわ。特に戦艦ユーリアラスの・・・
(ネルソンに向かって、手を口にあてる。)
 エマ あら、間違ったかしら。
 ネルソン いや、エマ、たいしたもんだ。よくちゃんと名前を覚えていたな。実際ヴィルノーヴについての情報をカディスから運んでくれたのは、このブラックウッドのユーリアラスなんだ。
 エマ ええ、そうでしたわ。で、明日にはもう船にお帰りになるのでしたわね。
(エマ、フランチェスカからブランデー入りのシャンパンを受け取る。他の召し使いはすべて退場しているのに、フランチェスカが残っているのは、ただ、このエマへの飲み物の供給のため、のみである。ネルソンの親 達は部屋の一隅にかたまっている。固い表情である。王侯貴族を前にした時のように儀礼的な微笑を浮かべている。エマに芝居の感想を言っていない外からの客はハーディのみであるが、そのハーディは一人、部屋を出て、その奥にあるホールを歩いているのが見える。歩いているうちに、食堂につき、そこに入る。海図がテーブルの上に置かれてあり、ネルソンが既にカディスでの海戦の作戦の指示を与え終わっている模様。ハーディ、海図をじっと眺め、海図上にあるナイフ、フォーク類を動かし始める。エマ、ハーディが居間から去って行ったことを非常に意識している。)
 エマ(ブラックウッドに。)ねえ、艦長さん。ネルソンの艦隊については私、隅から隅まで聞かされていること、お分かりでしょう?
 ネルソン(微笑んで。)コーリングウッドの艦隊についてね。
 エマ もしネルソンが行けば、当然ネルソンの艦隊だわ。
 ブラックウッド 勿論です、レイディ・ハミルトン。
 ネルソン しかしネルソンは行かない。ネルソンは留まる。
 エマ(鋭く。)そう。留まるの。幸せなことに。
 ネルソン 全く、恐るべく幸せに、だ。だからあれはコーリングウッドの艦隊だし、明日ユーリアラスが出発するのもコーリングウッドの艦隊に加わるためなのだ。
 エマ(グラスを上げて。)航海のご無事を、艦長。
(ブラックウッド、御辞儀。)
 エマ(ネルソンに。)コーリングウッドが貴方の代わりを務めて戦えば、きっとあの人に伯爵が与えられるわ。
 ネルソン 不満かい?
 エマ 不満であるもんですか。コールの奴が叙勲式で陛下のケツナメをやったって・・・あ、また僧服の前で失礼を、レヴェレンド。
(ウイリアム、またにやにや笑って僧服を守る動作をし、御辞儀する。)
 エマ だって、お陰で私のネルソンを手元においておけるんですもの。
(エマ、自分の腕をネルソンの腕にからませる。そして、回りを一瞥し、ハーディの姿を求める。)
 エマ 私のアンドロマケーの演技で一番心をうったものって何でしたかしら。ブラックウッド艦長。
(エマから合図あり。すぐ、フランチェスカもう一杯を渡す。)
 ブラックウッド(砲口がこちらに向かないことを切に祈っていたのだが。)は、はい。そ、それについてですが、エー、レイディ・ハミルトン、へ、ヘクトールが出て来た時、わ、私は、も、もっと偉大な国家の救い主が頭に浮かびました。
 エマ あまりすぐには浮かんで欲しくないわね。その救い主はまだ生きているし、私はもっと生きていて欲しいの。友達面をして、裏に回って無理矢理神輿(みこし)を上げさせようとしている人達、そんな人達は無視して。
(再びエマ、食堂に通じる扉を見る。しかしハーディは相変らず食堂に留まって、作戦のことを考えている。エマ、シャンパンを飲み干し、グラスを置く。再び英雄の演技の型にはいる。)
 エマ おお、それでもなお、彼はヨーロッパの守り神なのだ。エート、次の台詞は?
(エマ、ネルソンの腕を上に上げる。ハーディ、食堂を出る。)
 エマ そうそう。彼の足は大海原をまたいだ・・・ でも、過去形はこの際変だわ。あの人の脚は大海原をまたぎ、王も大守も、あの人の仕着せを着て歩き、諸々の国々、島々ことごとくあの人の懐からこぼれ落ちる銀貸のようだ。(訳註 アントニーとクレオパトラ 福田訳。)
(ハーディ登場。)
 ネルソン エマ、ちょっと・・・
 エマ 私はクレオパトラの台詞を言っているだけよ。(ハーディに。)ばいたのクレオパトラ、そう呼んでいるそうね、私のことを。貴方の船の将校さん達は。
 ネルソン わるい冗談だ。なあ、エマ。
 エマ でも、この台詞はシェイクスピアのもの、たとえジプシーの売春婦の口から出た言葉でも。(シェイクスピアが言わせているのだから。)あの馬鹿な年寄りのローマ人について言っていることはちゃんと的を射ているし、それにネルソン、貴方にも当て嵌まるわ。艦長、あなた聞いているの?
(ハーディ、礼儀正しく頭を横に振る。ネルソン、経験から、これが内輪喧嘩の発端になろうとしていることを感じとって、素早く軽い調子で言う。)
 ネルソン あの場面での、エジプトの女王の台詞には少し誇張があるように思うがな。
 エマ(大きな声で。)私は誇張はしていません。私がこの世の柱を見る時、私が見ているものは偉大なゼウスその人ですわ。
 ハーディ(ミントに、はっきり聞こえるように。)まだ目が見えるんでしょうか。(あれだけ飲んだ後で。)
(エマ、彼の方を向く。下品な言い返しをぶっつけるつもり。エマはこれで音に聞こえている。しかし、それよりもっと含みをもたせて、ということは、もっと危険なものが後に控えていることが分かるように、静かに話す。)
 エマ 聞こえましたわ、ハーディ艦長。これは私の家です。その私の家に態々訪問して下さるお客様達に、少々多めのブランデーとシャンパンの乾杯で、私が光栄の意を表して何が悪いのでしょう。勿論あなたのピューリタンの精神では、多少、多過ぎのブランデーかもしれませんが、それがあなたに何の関係があるのでしょう。
 ハーディ それなら一向に構いません、レイディ・ハミルトン。このお屋敷があなたの家だったのですね。さっきはそれが分かっていませんでした。この私の固いピューリタンの精神のせいでしょう、きっと。
(ハーディ、売り言葉に買い言葉が出来て嬉しいという顔。ネルソン、自分にとって、最も不幸な争いになり得ることを察して急いで止めにはいる。)
 ネルソン マートンは私の家だ、ハーディ。それに君の家でもある。そう、ここにやってくる誰の家でもあるのだ。そして勿論、エマの家でもある。エマ、頼む、ハーディ艦長は私に話があるんだ。明日ブラックウッドがコーリングウッドに持って行く私の作戦についてもう少し詳しい指示を得たいと言っている。明日早朝の出発なので・・・
 エマ(苛々とネルソンを押しやって。) 艦長、あなた、まだ私の演技について何の批評も話してくれてないわ。私の酔っ払い演技に、どうやら心から飽き飽きしたご様子ね。
 ネルソン エマ・・・
 ハーディ 飽きるなんてとんでもないです、レイディ・ハミルトン。それから酔っ払いなんてそんな風には見えませんでした。これまでに何度も「かの有名なレイディ・ハミルトンの演技」について聞き及んでおりましたが、それを見せて戴いた今、ヴィクトリー号に乗船する同僚の将官達の無聊(ぶりょう)を慰めることが出来るでしょう。先程あんなにも素晴らしく命を吹き込まれたあの婦人の話を連中にしてやります。コーリングウッド提督の艦隊に加わるためにカディスまで行く途中、将官達も何らかの楽しみはなければなりませんから。
 エマ それでは、その将官達にどうぞお話し下さい。私があんなにも素晴らしく命を吹き込んだ婦人、その人の名はアンドロマケーだと。将官の方々もあなたと同程度にしか古典の教養がなさそうですからね。それから、この婦人はピューリタンの意味でなく、ギリシャ古典の意味で言いますとね、貞淑な妻、トロイの王子、ヘクトールの操正しい妻なのです。ですから、この婦人がヘクトールと一緒に住んでいた家はヘクトールのものでもあるし、アンドロマケーのものでもあるのです。
 ネルソン(ここに至っては厳しく。)エマ、もうこんな馬鹿げたことは止めるんだ。ハーディが言いたかったことは、ただ・・・
(エマが全く自制を失いそうになっている事をネルソン、正確に見て取っている。しかしネルソンはまだ微笑をたやさないよう務めている。ネルソンの親戚達はウイリアムの導きにより、急いで部屋を出ているところ。ジョージだけが、この場の成り行きを深い悲しみで眺めながら、なんとか留まっていようとしている。ミントは耳を澄ませてはいるが、同時に飽き飽きしており、この時までに本を出して、読んでいる振りをしている。)
 エマ(ネルソンを押しやって。)ハーディ艦長の言いたいことぐらい私には分かっています。それにこの人だってちゃんと知っていて言っている。私があなたの妻ではないと、ネルソン。教会の認めた正式の妻ではないと、それを言いたいの。いいですか、艦長、教会なんか糞くらえよ! 私はね、この世の正しくて正直なもの全てにかけて言いますけど、ここにいるこの人、ネルソン、の正式な唯一の妻なのです。それにこの人の子供、ホレイシア・ネルソンを生んだのは、この私なのです。
 ネルソン(警告するように。)エマ、止めるんだ。馬鹿な真似は止めろ。
 エマ(癇癪も常軌を逸して、今や誰も止めることが出来ない。)この家に今いる人達全員に、はっきりと言いましょう、艦長。ネルソンの家族、ネルソンの友達、それに、ネルソンの召し使い達に、はっきりと言いましょう。 私はネルソンの妻なのです。さあ、乾杯の用意! (いいですか。)老いぼれ国王ウインザー、その妻のドイツ野郎、二人とも梅毒に罹ってしまえ!
(グラスを飲み干し、グラスを肩越しに後ろに投げる。)
 エマ これが私の王家への乾杯よ、ハーディ。あの二人以外に対しては、この私、エマ・ハミルトンは、正式なホレイショー・ネルソンの妻なのです。
 ハーディ それに例外がもう一人。即ち、レイディ・ネルソン。
(間。ネルソンが口を開く。エマ、抑えられた形。エマが口をきっていたら、もっと激しいものになっていたところ。)
 ネルソン ハーディ、今のは許し難い。
 ハーディ 私は失礼します。
 ネルソン 今は許さん。
(ハーディ、それでも出て行こうと、動き始める。突然ネルソンの威厳のある声が響く。)
 ネルソン ここに残るんだ、ハーディ。これは命令だ。
(ハーディ、立ち止る。これは彼が決してあらがえない声である。しかし、エマは続ける。)
 エマ この男色野郎にこの家をさっさと出て行って貰いましょう。二度と足など踏み入れさせるものですか。ネルソン、それは貴方への私の命令です。
 ネルソン 君の命令は大抵は聞くが、エマ、これは駄目だ。
 エマ あら、そうですの。それは私がこの家を出ろということですわね。フランチェスカ、私の馬車をすぐこちらに回して頂戴。
 フランチェスカ Subito, eccelenza, subito.(畏まりました、奥様。すぐに。)
 ネルソン フランチェスカ、今の言葉に従うことはない。この部屋をすぐ出て行きなさい。お前が必要になった時には奥様はベルを鳴らして呼ぶ。
(ネルソンのめったに聞かない強い命令口調を聞き。フランチェスカ脅える。躊う。エマの方を決心がつかず茫然と見る。)
(間。)
 フランチェスカ(ついにナポリの征服者に深い御辞儀をして。) A vostro ordine, signoria. (仰せの通りに、ご主人様。)
(フランチェスカ、急ぎ出る。出て行くときに十字を切って。)Jesu! Jesu! (ああ、イエス様。)
 ネルソン(エマの方を向き。)エマ、ハーディ艦長に謝るんだ。国王陛下と女王陛下に対して君は言ってはならないことを言っている。それからブラックウッド艦長にも謝るんだ。
 エマ 謝る? ネルソン、貴方どうかしているんじゃない?
 ネルソン この二人は海軍に奉職している。その海軍は国王陛下のもとにある。だから国王をさっきのように罵るのは許されない。少なくとも彼らの聞こえる所ではだ。分かるな。決して許されないのだ。
 エマ あの老いぼれの気違いに忠誠を誓っているから、っていうの?
 ネルソン そうだ。
 エマ ベッドで誰かさんが誓った言葉よりは神聖な誓いっていうのね、勿論。
 ネルソン(静かに。)どんな誓いも同じ程度に神聖なんだ、エマ。教会でいやいやながら行なわれた誓い、それは破られなきゃならないこともある。その誓いの下では幸福がないから・・・
 エマ 幸福がない。これはいいわ。今話していたのが結局それでしょう? 私のベッドよりも、トム・ティットのベッドの方に幸福がある。そんな風に感じているのなら、さっさとあっちに行ったらいいじゃないの。
 ネルソン(声を上げずに。)エマ、君はそこでそんなことを言ってみんなの笑いものになっている。笑いもの、これは私が何よりも嫌うことだ。さあ、二人の艦長に謝るんだ。そうすればさっきのことはすべて忘れよう。
 エマ(軽蔑したように。)そうしたらまた私を愛して下さるっていうのね。じゃあ、それを誓って。
 ネルソン 君のことはいつだって愛しているんだ。そんなことに誓いはいらない。君はそれをよく知っている。
 エマ そんなこと知らないわ。もし知っていたら、謝るだの謝らないだの、そんな話はない筈でしょう。
 ネルソン(鋭く。)エマ、頼む、やってくれ。私のためにだ。
(間あり。エマ、グラスを飲み干す。)
 エマ お願いされているよりはもっと立派にやってみせますわ。国王への不遜な気持が私にない事を示すために国歌を歌いましょう。これなら文句はないでしょう。(お釣りが来るくらいですわ。)
(ハープシコードに近づく。)
 エマ それに芝居を終にするには国歌が一番相応しいわ。キティー、キティーはどこ?
 ジョージ 僕が呼んで来ます。(呼ぶ。)お母さん! お母さん! 早く来て。ハープシコードで国歌を弾いて下さいって。
(訳註    イギリスの国歌は、
     God save our gracious king!
     Long live our noble king
     God save the king
     Send him victorious,
     Happy and glorious,
     Long to reign over us,
     God save the king.
   神よ、我々の誉れ高き王にいや栄えを。
   我々の王に長き命を。
   神よ、いや栄えを。
   彼に勝利あふれる、幸福な、
   栄光ある命を与えよ。
   我々を末永く治めよ。
   彼にいや栄えを。)
(キャサリン、息を切らして駆け付ける。)
 エマ キティ、あなた、国歌を弾いて頂戴。私が歌うから。
 キャサリン ええ、それは。喜んで。
(キャサリン、席に坐り、弾き始める。親戚の残りの者達も、いざこざはどうやら終わったらしいと思い、部屋に帰ってくる。エマ、全員が入って来るまで待つ。それからネルソンの方を向き、彼に面と向かって歌う。)
 エマ (歌う。)
     Join we great Nelson's name,
     First on the rolls of Fame,
     Him let us sing.
     Spread we his fame around,
     Honour of British ground,
     Who made Niles's shores resound,
     God save my king.
   (有名な人のリストの一番上に、
    我々はネルソンの名前を加える。
    そして彼を称えて歌おう、
    我々は彼の名声を広げる。
    それはイギリスの名誉なのだ。
    かってナイルの河岸が彼への歓呼で
    こだましたのだ。
    神よ、私の王に栄光を。)
(エマ、深い御辞儀をする。「私の王」とは誰を指すか、これにより完全に明らかにさせる。)
 エマ(ぶっきら棒に。)歌詞はこれしか知らないの――知りたくないの。
(全員ネルソンを見る。エマの「謝罪」をどう受けとめたらよいか、その答をネルソンから得るために。ネルソン、礼儀正しく拍手する。)
 ネルソン いいぞ、エマ。歌い方が実にいい。いつもながら、ひどく褒められた気分になったよ。
(唐突にエマから視線を移してハーディの方を向き。)
 ネルソン ハーディ、食堂で話がある。ひどい雨だ。庭で話そうと思ったが、論外だ。ブラックウッド、君も来てくれ。コーリングウッド宛の書簡をもっと詳細に調べておく必要がある。
 ブラックウッド はっ、分かりました。
 ネルソン では皆さんはこれで・・・寝室の方へ上がりますか。
(これは王の命令に等しい。全員低い呟き声で従う意を表明する。)
 ネルソン では一人づつに言うのは省略して・・・どうぞおやすみなさい、みなさん。明日の朝までぐっすり。
 色々な声 おやすみなさい、ネルソン。お兄さん、伯父さん、等々。
(ネルソン頭を下げる。それから静かにハーディとブラックウッドを部屋から導き出す。三人が食堂の方へ進んで行くのが見える。この時までにエマ、ハープシコードの椅子に坐っていて、軽くキイを叩いている。笑う。)
 エマ(出て行く家族達に。)伯母様、お姉様、キャサリン、(ミントに。)大切なお客様・・・ネルソンの今の言葉を繰り返しますわ。どうぞぐっすりと、本当にぐっすりと、おやすみなさい。
(家族の者達、小声で挨拶。退場。階上へ去る前に、食堂の入り口を通りすぎる。エマ、相変らず怒り狂っているのが分かる。ハープシコードの蓋をバタンと閉め、もう一杯注ぐために立ち上がる。ミントが最後に部屋から出て行くところ。)
 ミント おやすみなさい、レイディ・ハミルトン。
 エマ ミント、あなた、いて頂戴。
 ミント もう遅いですから。
 エマ 十一時十分が遅いって? いつから。
 ミント えー、書類を片付けませんと・・・
 エマ ミント、ミント! 私のことを下品な、飲んだくれの、あばずれだと思っているの、貴方は。それに、他の者達と同じ。私が早く死ねばいいと思っている。でも私を一人で放っておかないで。ゼウスのいかづちに私一人で打たれるの? そうはさせないで。お願い。
(間。ミント、肩をすくめて留まることにする。)
 ミント ゼウスの雷もすぐ子供の太鼓に変わってしまうのではありませんか。もしレイディ・ハミルトンがその気におなりになりさえすれば。
 エマ その気におなりになってどうするというの。
 ミント それは今までの御経験でとっくにご存じの筈。
 エマ ああ、あれね。レイディ・ハミルトンは勿論ご存じ。でもロード ネルソンもそれをとっくにご存じ。だから困るの。
(食堂で二人の艦長とネルソンが会議をやっているのが見える。再びテーブル上の銀器があちこち動かされる。)
 エマ あるいは、困り始めているのね。
 ミント(からかいの調子で。)でも、もしあれが効かなくなったら、この世はおしまいでしょう?
 エマ ええ、私はおしまい。
 ミント すると、彼もおしまい。
 エマ そう。彼もおしまい。だからあれは失敗は許されないの。そうね?
 ミント だから、失敗はなし。
 エマ 今夜のこの時刻でなら、私も「失敗はなし」という気分だわ。でも明日の朝、フランチェスカが起きがけの一杯を持って来る時、あの時刻になると、自信がなくなる。また不安になってしまう。ああ、ミント、貴方は五年前の私を知っているわ。あの時にもこんな下品な飲んだくれのばいただったの、私?
(彼の方を向いて。)
 エマ そうね、貴方は答えてはくれっこない。貴方に代わって私が答えるわ。「下品?ええ、そうです。下品でいらっしゃいました。鍜治屋の娘、それがいつも見えていました・・・いつだって。」
 ミント そんな、とんでもない。
 エマ(軽蔑的に。)ここで貴方の自由平等主義のインチキスピーチがあるのね。(政治家の口調で。)鍜治屋の娘であれ、この自由の国イギリスでは、人生における最高の地位につくことが可能なのであります。例えばナポリ王国、イギリス大使夫人にまでも。そしてその卑しい生まれの痕跡さえとどめない。(ふざけて、架空のグラスを上げて。)鍜治屋の娘だって? とてもそうは見えない。命を賭けて誓ってもいい。ただちょっと普段の振る舞いに、品のないところがあるな。それに言葉が少し乱暴だ。それからあの足・・・でっかくて・・・
 ミント(抗議する。)足が大きいだなんて・・・
 エマ いいえ、足は大きいの。それを小さなスリッパに無理矢理入れるもんだから、いつだって気分が悪くって仕方がない。でも本当のことを言えば、私が下品なのは、鍜治屋の娘だからじゃない。私はただ単に下品なの。それだけのこと。たとえ伯爵の娘に生まれたってやはり下品。それに伯爵の娘にだってなろうと思えばなれたわ。父親になってくれると言った伯爵の名前だって、二、三人あげられる。フン、そうなったら近親相姦ね。やれやれだわ。私だってちゃんとしたイギリスの貴婦人らしくしようと思えばできた。あの老いぼれのウイリアムの妻の座にいたって。その気にさえなればね。だけど上品にしたって何だっていうの。あのキャサリン マッチャムみたいに生きたって。あれが人生と言えるの? (飲む。)だから、私は品がなかった。いつだって。これからだって。これが私の生き方。でも「ばいた」。ばいたっていうのはどうなの、ミント。
 ミント レイディ・ハミルトンの気前のよさは音に聞こえています。ベッドに関してだけけちになる理由はないでしょう。
 エマ(思い出すように。)そう。今までずっと気前がよかった。お金を取ったのは十代の時だけ。そして夫のウイリアム、あの人に不満のあろう筈がない。 もともと多くを望む人ではなかった。――かわいそうなウイリアム――隙間風の吹く部屋で、台の上に私を素裸で何時間も立たせて、自分はうろうろと歩きまわる。あの人の歩き方! おかげで私、しょっちゅう風邪をひいていた。そう。私は私なりに、あの人の忠実な妻だった。
(ミント、驚いて眉を上げる。)
 エマ そう、これがあの人のやり方。イギリス最大の英雄に妻を寝取られて不幸だった? とんでもない。お陰で却って生き生きした人生を送れたのよ。正直なことを言えばちょっと死ぬのが遅すぎた。あの頃の私達、漫画家のいい材料。絶好の! ドゥルーリーレイン劇場のボックスで満面に笑みをたたえたサー・ウイリアム、その横に妊娠八ヶ月の私、おなかの赤ちゃんはホレイシア、もう一方の端にネルソン。音楽と太鼓、それに愛国的な絵で、ステージからいつも挨拶を送られる。トム・ティットまで同じボックスに詰
めこまれて・・・
 ミント トム・ティットの坐る位置は?
 エマ 私達のうしろ、勿論。あいつ、あの頃からもう、自分の場所を心得ていた。厭な奴。同情という同情はすべて一人締めにして! あの優しい諦めた表情、すべてを理解し、許しているというあの微笑み、あんな奴、絞め殺してやればどんなにかせいせいするのに。
(間の後。)
 エマ ああ、ミント、貴方の考えは分かっている。なんていう怪物か、このエマ・ハミルトンという女は! 自分がその地位を奪い、辱(はずかし)めた女を哀れみもせず、嫌うとは。そう、私は嫌っている。それが事実。それに嫌い方も人並みではない。あのトム・ティットは私を脅かしている。そして私は私を脅かすものは何でも大っきらいなの。
 ミント あの人はもう何の危険もありません。脅かすとはまたどういう訳でしょう。
 エマ 分からない。(ゾクッと體を震わせる。)多分生きてあそこにじっと待っているからだわ。
 ミント ネルソンを待っていると?
 エマ 分からない。でもとにかく待っている。そして、あの人を惨めな、罪深い者と感じさせている。あの人の父親は牧師だった。その父に鍛えられたピューリタンの原則があの人を苦しめている。トム・ティットを非難できない。こういう復讐の仕方もあるの。
 ミント(微笑む。)復讐の女神を演ずるのは、あの人には荷がかちすぎるんじゃ・・・
 エマ 荷がかちすぎるって? とんでもない。箒に乗った魔女だけが復讐の女神と思ったら大間違い。上品なリュウマチのイギリス婦人、礼儀作法に関する洗練されたセンス、膝の上には聖書、法律だって味方をしている。そんな婦人の方がずっとよく(復讐の女神を)演じることができるのよ。もう一杯頂戴。怖いのを忘れるには一番いい薬なの。
 ミント(グラスに注ぎながら。)思い出して戴かなければ、 レイディ・ハミルトン。これは酔っ払うにも一番いい薬なのです。
 エマ そうね。それも学んだわ。ねえ、ミント、今までは「下品」と「ばいた」の二つだったけれど、それに「酔っ払い」が加わったわ。このことでは五年前と比べてどう?
 ミント(グラスを渡しながら。)生来はつらつとしていらっしゃいます。それを人工的助けによってさらに強化なさる。そうなさっても自然さを全く失われなかったようにお見受け致します。
 エマ フン、そうね。(ゴクゴクゴクとゆっくり飲んでゆく。その時間長い。)
 ミント(真面目に。)今では沢山飲まれても、酔が回って来ないようにお見受け致します。
(間。)
 エマ そう。貴方鋭いわね、ミント。貴方の目を逃れる事はできそうにないわ。私朝から晩まで飲んでいる。楽しみのためじゃない。もう他人を楽しませるためでもないし、自分を楽しませるためでもなさそう。それなのにハーディの奴、よくも言ったわ。「それでもまだ目が見えるのか。」人の気も知らないで。私、ハーディも怖い。あいつはそのことを知っている。あの人達、食堂で何をしているのかしら。
 ミント 作戦会議です。
 エマ コーリングウッドが指揮するやつね。
 ミント(敬虔に。)イギリスの為に祈りましょう、彼がそれで勝つようにと。
 エマ それは勝つでしょう。ネルソンの作戦ですもの。(急に苛々と大股で歩き始める。)ハーディの奴、ネルソンに恥をかかせるようなことを言って無理矢理「自分が行く。」と言わせるんじゃないかしら。狡い奴、ハーディって。義務、名誉、祖国、こういう短い言葉がネルソンにどんな効果を与えるか、よく知っている。今あの人にハーディの奴が言っているところ、ちゃんとね。心配。本当に心配。貴方が言っていた私の切り札、あれもハーディ艦長の角笛で效かなくなってしまう。
 ミント(真剣に。)そうは思いません。
 エマ(熱心に。)本当にまだ效くかしら。私、まだ大丈夫なのかしら。
 ミント(丁寧に。)人を魅了する力はロムニーに肖像画を描かせたあの頃と同じです。
 エマ(鋭く。)嘘をお言い! 私はおべっかは好き。でも、ロムニーのことを言うなら、それはもう限度を越えている。それは嘘!
 ミント(静かに。)私は美しいとは言いませんでした。人を魅了する力と言ったのです。
 エマ 蝋燭のあかりでね。それに半分盲の人に。(目を拭う。)ブランデーのせい。(この涙は。)
 ミント ネルソンにとっては、ロムニーが見た通りのレイディ・ハミルトンなのです。今も、これからも、いつでも。蝋燭のあかりだろうと、日の光だろうと、半分盲だろうと、両眼がしっかり開いていようと。
 エマ 私が自分にどう見えているか、それが貴方に分かったら・・・朝になって目がさめる。そして鏡を覗き込む。自分の顔を見る。「ばいた!」思わず叫ぶ。こんな顔ネルソンに愛される訳がない。なんて顔! なんてひどい姿! だから朝食の時フランチェスカにブランデー(入りのワイン)を二、三杯持って来させる。すると夕方までにはなんとか再び「聖なる女」になることができる。そして自分で自分に言い聞かせている。「勿論ネルソンは私を愛している。あの人はなんで運がいいんだ。こんな私を手にいれたんだから。」(こんな風に言い聞かせる。)でも今夜は違う。どうしてかしら。(エマ、再び目を拭う。ハンカチを脇に置く。)ああ、私のネルソン。どうしてこんなに慕わしいの。
 ミント そのようですね、ええ。
 エマ そのよう? ああ、ミント、貴方には分からないわ。私の気持ちなんか。私、ネルソンを愛している。自分の命なんかどうでもいいの。(演技の型に入ろうとして。)いいえ、これは演技ではない。ネルソンに対する感情を演技にしてはいけない。(ああ、でもどうしてこんなに慕わしいのか。)きっとあの目だわ。ネルソンの私を見るあの目。あんな目をして私を見てくれた人はいなかった。(突然怒る。)ああ、それにしても何て遅いの。これだけ時間をかければ十分な筈でしょう。
(ハープシコードに進む。)
 エマ 私の呼び出し、まだ效くかしら。
(ハープシコードをあけ、キイをたたき始める。)
 エマ 合図があるの。これは絶対の合図。これでもしあの人が来なかったら、私はもうおしまいっていうこと。怖い・・・今夜のあの私の態度・・・あんなことをした後・・・でも、やってみるしかない・・・
(ルール・ブリタニアを彈く。大きな音でも大仰でもなく、優しく、可愛らしく。ネルソン、食堂で頭を上げる。明らかに音が聞こえている様子。再び頭を下げ、仕事に戻る。)
 エマ 駄目なのかしら。
 ミント リフレインのメロディの方が効き目があるのではないですか。
 エマ いいえ。リフレインのところまで行ったことは今までにないの。(その時までに必ずネルソンが現われる。)あの人、リフレインの旋律が下品と思っているの。
(エマ弾き続ける。しかし何も起こらないように見える。実際にはネルソン立ち上がり、急に食堂から出る。)
 エマ(脅えて。)ミント、今夜の私、酷すぎたんだわ。あの人もう決して私を許してくれないのかしら。
(この質問に答えるかのように、ネルソンが入って来る。エマ、ハープシコードから立ち上がり、彼の方に進む。二人キスする。)
 エマ(やっと。)ミント、貴方、読まなきゃならない書類があると言っていたわね。
 ミント(扉のところで。)もう書き込みをやっている段階です。
(ミント退場。二人だけになるとエマ、優しい身のこなしで片膝をつき、頭を下げ、服従の姿勢を取る。)
 エマ ネルソン、私の過ちでございます。どうぞお許し下さい。
 ネルソン(抱き上げようとして。)エマ、エマ。
 エマ ああ、御主人様、私は重大な過ちを犯してしまいました。この身を御主人様の偉大な意志の下にすべてお委(ゆだ)ね申し上げます。存分にお裁き下さいませ。
 ネルソン(笑って。)僕の意志が何を求めているか、それはお見通しじゃないか、エマ。ただその「偉大な」というのは別の問題だ。「消そうとしても消しえない」というのは確かだがね。
(ネルソン、エマを持ち上げようとする。)
 エマ いいえ、どうしてもお許しを戴きとうございます。このように膝を曲げて・・・どうぞ・・・
 ネルソン そんな馬鹿な格好を・・・ここには誰もいないじゃないか。
 エマ(かすかに苛々して。)私のこういう姿、自分の罪を認めて心からお許しを乞う姿、それがご覧になりたいのではないかと思いましたけれど・・・
 ネルソン 君の姿ならどんな姿でも見たいよ。だけど今、演技の姿はどうもねえ。
 エマ 私の演技の姿がお嫌い?
 ネルソン(やっとエマの體を持ち上げることが出来て。)とんでもない。大好きに決まっているじゃないか。しかしいつもじゃないんだ。二人だけの時は演技じゃない方がいい。
(ネルソン、熱情的にキスする。エマ、応ずる。)
 エマ ひどくお行儀が悪かったわ、ひどく。
 ネルソン もう忘れたよ。
 エマ あの人のことを、「この男色野郎」って、私言ったわね。
 ネルソン うん、まあ、あいつがそうでないことを期待することにしよう。
 エマ 私、偉大なネルソンの顔に泥を塗ってしまった。そんな私なのに、我慢して下さっている。何故?
 ネルソン そんなことがまだ分からないのか。
(貪欲にキスする。)
 エマ 艦長達への指示は終わったの?
 ネルソン もう五分ある。
 エマ じゃ私、夜の支度を・・・
 ネルソン ちょっと待って。
 エマ お化粧。ほんとに目のさめるような・・・今夜は。
 ネルソン そんな特別なことは・・・いつもの通りで充分だ。至福というものだ、いつもの通りで。
 エマ 今度は演技をしているのはどなた?
 ネルソン いや、これは演技じゃない。ねえ、大事な大事なエマ。あの時の僕の喜びが分かったら・・・あれは奇跡だ・・・ほら、手が震えている。
 エマ それだけではすまないように・・・もっと・・・すぐにいらして。私がネルソンに恥をかかせる時、それは私が、ネルソンを失いはしないかと怖がっている時なの。愛のためでそうなってしまうの。
 ネルソン 僕を失うだなんて、どうしてそんなことが・・・
(キャサリン、入り口に現われる。ネルソンもエマも全く動く気配なし。)
 エマ おはいりなさい、キティ。
(キャサリン登場。場の状況に喜ぶ。驚きの表情なし。)
 キャサリン お邪魔してすみません、兄さん、エマ。
 ネルソン(エマをまだ抱擁した侭。)入って、キティ。何だい?
 キャサリン 息子のジョージなんですけど・・・今夜が最後なので・・・明日の朝はとても早いのです。で、もうお会いできないからと、お別れの挨拶を・・・
 エマ 呼んで。ジョージは好きだわ。私がもう五つ若かったら、ジョージのことで貴方に焼き餅を焼かせてあげることもできるのに。
 キャサリン(にやにや笑う。)まあ、エマ・・・いつも家族に優しいことを言って下さって。
(扉へ進む。)
 キャサリン それにちょっとした伝言があるようですわ、兄さんに。
 エマ(微笑。)私にはないのかしら。
 キャサリン(御辞儀。)それはないようですわ。随分秘密のことのようにしているんですの。お入りなさい、ジョージ。
(ジョージ登場。緊張。固くなって真面目な顔。)
 キャサリン(ジョージに。)そんなにコチンコチンにならなくてもいいの。伯父様、伯母様にちゃんと挨拶してね。
(キャサリン退場。この時までピッタリくっついていたネルソンとエマ、ここで抱擁を解き、微笑み、ジョージを暖かく迎える。)
 ジョージ 僕の人生で最も思い出深い四日間でした。有難うございました。
 エマ(優しくキスして。)可愛いジョージ、マートンに貴方を迎えられてよかったわ。またすぐ来て貰えるようにこちらでも考えますよ、必ず。
 ジョージ(会釈。)お心遣い感謝致します、レイディ・ハミルトン。
 エマ またレイディ・ハミルトン?
 ジョージ すみません。エマ伯母さん。
 エマ(ネルソンに。)早く切り上げて来てね。ハーディ艦長には「この男色野郎」のことでは悪かったって。
(エマ、ジョージに投げキスを送って退場。ネルソンと二人だけで残され、ジョージ、見た目にも緊張。しかし同時に、なされるべき義務も意識しているのが見てとれる。ネルソン、エマを凝視。ジョージには全く気を止めていない。ジョージ、ポケットを探る。)
 ジョージ ホレイショー伯父さん。僕、これを渡さなければいけないんです。
(紙で包まれた品物を差し出す。)
 ネルソン(包を開けて。)何だい、これは。
 ジョージ マラリアの発作に效くって言われているものなんです。バースのうちの小間使が是非伯父さんにって。僕、頼まれたんです。
 ネルソン それは親切だ。
 ジョージ こんなもの郵便で何百って送られてくるんだよって言ったんですけど、どうしても個人的に渡してくれって言って。それから、これはうちのベツィからのものだってよく言っておいて欲しいって。
 ネルソン(微笑。)そうか。じゃあ手紙を書かなきゃね。(食堂から持って来ていたブリーフケースを持ち上げて。)いや、今書いた方がいいな。それでお前がその子に手渡せばいいんだ。鉛筆で許してくれるだろうな。
 ジョージ ええ。でもそんなに気にしなくても・・・
 ネルソン(書きながら。)勿論これは書かなくちゃ。ベツィって言ったね。
 ジョージ はい。
(間の後、ネルソンが書いている時に。)
 ジョージ でも伯父さん、目を酷使してはいけません。特にたいして大事でもない手紙を書くために目を使ったりしては・・・
 ネルソン それは違うよ、ジョージ。思いやりの心に対する礼状。これは大事なことだ。私に対してどんな噂がたっているか知らないが、私が礼儀まで忘れているとは決して言わせない・・・御身ご自愛専一祈り上げ候。敬具。ホレイショー・ネルソン・ブロンテ。
(ネルソン、ジョージに手紙を渡す。)
 ジョージ ベツィは大喜びで・・・いや分かりません、僕には。売ったりしなければよいがと思います。
 ネルソン 売ればいいんだ。だけど、あまり安いのは嫌だな。
(ネルソン、机から出てきて握手を求める。)
 ネルソン ジョージ、君が客に来てくれて楽しかった。だんだん若者になってきているね。エマがさっきも言ったように、マートンでは君はいつでも大歓迎だ。
 ジョージ 有難うございます。
(ネルソンが立ち上がろうとする時。)
 ジョージ もう一つあるんです・・・
(ネルソン、立ち止り、振り向く。)
 ジョージ 怒られるかも知れません。
 ネルソン 君に怒る? それはありえないな。
 ジョージ レイディ・ネルソンからの手紙を持って来たんです。
(ジョージ、ポケットから取り出す。ネルソン動こうとしない。間あり。)
 ネルソン(静かに。)そんなことをしてはいけなかった。
 ジョージ でも約束をしてしまったんです。
 ネルソン それもすべきではなかった。誰に約束したんだ。
 ジョージ フランシス伯母さんにです。
 ネルソン(怒って。)あいつを伯母さんなんて呼ぶな! (自分を抑えて。)レイディ・ネルソンにはどこで会ったんだ。
 ジョージ バースで。偶然にです。
 ネルソン 両親はどこにいたんだ。
 ジョージ 丁度引越の為に馬車に乗っていたんです。
 ネルソン で、お前だけだったんだな。
 ジョージ はい。
 ネルソン(苦々しげに。)偶然! (が聞いて呆れる。)
(ネルソン、ジョージから手紙をひったくる。しかし開けようとはしない。)
 ネルソン これはあいつの筆跡じゃない。
 ジョージ ええ。僕のです。
 ネルソン どうしてなんだ。
 ジョージ もう一通別にあったのです。二年ぐらい前に御自分で書いて出された。でもその手紙は宛先までは届かなかったらしいのです。伯父さんはそれを読んではいない、と伯母さんは思っていらっしゃいます。それで今是非読んで戴きたいと。
 ネルソン 宛先までは届かなかった・・・どうしてそう思ったんだ。
 ジョージ エー・・・僕には分かりません。
 ネルソン 分かった。とにかくお前は自分の約束は果たしたのだ。
(ネルソン、手紙の封を切らず、テーブルの上に投げる。)
 ネルソン それから、こんな約束はもうするな。
 ジョージ 分かりました、ホレイショー伯父さん。
 ネルソン さてと。(ジョージの肩をたたいて。)お前が悪いんじゃなさそうだ。もう行って寝なさい。
 ジョージ もう一つあるんです、約束が。伯父さんがそれを読んで下さるように、と。
(間。)
 ネルソン(静かな怒りをもって。)随分私を無視した話じゃないか。
 ジョージ 伯父さんがどんな風に感じるか、その時には分からなかったのです。でも僕は考えたのです。どんな事情があったにもせよ、夫が妻からの手紙を読めないなんて、そんなことはありえないと。特に伯父さんだったら。
 ネルソン 特に私が?
 ジョージ 特に夫が伯父さん、世界に誇れる伯父さんだから。
 ネルソン 褒め言葉は恐れいる。だがな、このお前の世界に誇れる伯父は、自分の妻がもうこの世にいなければいいと思っているような伯父でもあるんだ。
 ジョージ(強い調子で。)でも伯母さんはまだ生きています。死んではいないんです、ホレイショー伯父さん。あの小間使のベツィが生きているのと同じように生きているんです。伯父さんはさっき僕に礼儀の話をしてくれたばかりじゃありませんか。
(間あり。ネルソン、拳を握ったり開いたりする。怒が爆発するのをやっと止めている様子。それから急に手紙を取り上げ、封を切り中身を取り出す。初めの數行を読んだだけで、手紙をぎゅっと捻って床に叩き付ける。)
 ネルソン(今は怒り狂って。)よくも騙したな。 この二股膏薬の犬め! これは奸計だ。陰謀だ。この家から、今、この場で、お前を追い出してやる。二度とこの家に足を踏み入れさせんぞ。
(ホールへの扉に向かって怒鳴る。)
 ネルソン キティ、キティ。来てくれ。それにマッチャムもだ。すぐ来るんだ。(ジョージに。)よくも人を引っ掛けてくれたな。この陰謀を、一生お前に後悔させてやるぞ。
 ジョージ 僕は引っ掛けたりはしません。伯父さん、僕は・・・
 ネルソン これが引っ掛けじゃないと言うのか、お前は。俺が三年前にあいつにつっ返した手紙、あの悪意に満ちた手紙なんだ、これは。
 ジョージ 悪意に満ちた? どうしてそれが・・・伯父さん。
(キャサリン、この時までに息せき切って駆けつけている。)
 キャサリン 兄さん、どうしたの?
(ネルソン、キャサリンを無視。ジョージを見つめている。夜着を着たマッチャム、キャサリンの後ろに現われる。)
 ネルソン(ジョージに。)お前はこの手紙を読んだのか。
 ジョージ はい。
 ネルソン あいつはお前にこれを読めと言ったのか。
 ジョージ 読んでもよいと。伯母さんとしては、悪意がないことを確かめたかったんです。それで僕に・・・(勇敢に。)悪意なんかありませんでした、伯父さん。全然。エーイ、悪意がありさえすりゃーすぐ断れたんだ。
 キャサリン(呟くように。)ジョージ、悪い言葉はいけません。
 ジョージ(手紙を拾い上げて。)僕には分からない。僕にはどうしても。何故これがあんなにひどい上書きを書いてつっかえさなきゃならないような手紙なのか。
 ネルソン(非常に静かに。)特に世界に誇れるこの伯父さんがね。
(エマ登場。脅えているマッチャム夫妻を押し退ける。)
 エマ 何ですか、これは。
 ネルソン 君には関係のないことだ、エマ。
 エマ 関係がない? 家中に響き渡るような怒鳴り声をあげて、今でも瘧(おこり)に罹ったように全身震えていて、それで私に関係がないですって? 話して頂戴、今すぐ。
 ネルソン 今すぐは話さない。・・・いや、これから先も話すことはないだろう。ただ・・・この子をこの部屋から出してくれ、頼む。
 エマ(キャサリンに。)この子が何をしたって?
 キャサリン(困ったように呟く。)分かりません・・・トム・ティットからの手紙をことずかって来たとかなんとか・・・
 エマ(茫然とする。ジョージに。)え? 本当なの? ジョージ。
(ジョージ、全く思いがけないネルソンの反応に茫然自失。エマに答える余裕なし。)
 エマ じゃあ、ネルソン、貴方答えて頂戴。今の話、本当なの。
 ネルソン 言った筈だ。君には関係のないことだ、エマ。
 エマ(雷に打たれたように。)トム・ティットからの秘密の手紙、それが私に関係がないんですって?
 ネルソン(声を上げて。)放っておいてくれ。私は外出しなければならん。
 エマ 外出? この天気に? 気違い沙汰よ!
 ネルソン マッチャム、カンテラを用意してくれ。頼む。
(マッチャム、ホールへ進む。ネルソン続こうとする。エマ、ネルソンを止める。)
 エマ 外はひどい天気です、ネルソン。外出なんてとんでもない。それにちゃんとした説明をしてくださらないうちは、この部屋からだって出しません。
 ネルソン(突然、彼独特の命令口調になる。)退(ど)いてくれないか、そこを。
(マッチャム、再び登場。火のついたカンテラを持っている。)
 エマ それを渡してはいけません。
 ネルソン さあ、よこすんだ、マッチャム。
 マッチャム でも、レイディ・ハミルトンが今・・・
 ネルソン ここは私の家だ。まだあっちには所有権は移っていない。時には自分の家と考えているようだが、あれの許しがなくても私が出たいと思えば、庭へでも、どこへでも、勝手に出る。 さあ、カンテラをよこせ。
(マッチャム、ネルソンにカンテラを渡す。エマ、道を塞いでいる。)
 エマ(體で止めて。)ネルソン、こんなことってないわ。それなら私も一緒に参ります。
 ネルソン(冷たく。)いや、私は一人で行く。(エマ、相変らず道を塞いでいるので。)通して戴きたい、レイディ・ハミルトン。
 エマ(ギョッとして、一歩後ずさりする。)戴きたい。レイディ・ハミルトン。
(ネルソン、エマの傍を通り過ぎる。コートを見つけ、羽織り、振り返る。)
 ネルソン(マッチャムに。)あの子は自分の部屋に戻らせるように。
 エマ 自分の部屋に? 凝らしめの為に鞭で打ってやる。
 ネルソン(冷たく、エマの言葉を途中で遮って。)いや、あの子にはどんな罰も与えてはならない。あえて罰を与えようとする者は・・・あるいは罰を与えるよう命ずる者は、誰でも・・・(エマを見て。)よいか、誰でもだ・・・即刻この家を出て行って貰う。(マッチャム夫妻に。)マッチャム、この子を自分の部屋に連れて行くんだ。明日はいづれにせよ、早く発たねばならないのだ。このことを私は覚えておくべきだった。マッチャム、君達を騒がせて悪かった。では失礼する。
(ネルソン退場。エマ、ネルソンの後を追う。)
 エマ(叫ぶ。)ネルソン! (次に哀願するように。)ネルソン!
(ネルソン、エマの傍を通り過ぎる。後を振り向かない。)
(照明、全く暗くなる。その間最初内心の激動を示す音楽が聞こえる。それから雨と風の音。時々雷の音が混じる。)

     第 二 場
(再び照明が当たると、そこは食堂。ハーディがまだはっきりと目を覚まして、またブラックウッドは眠った状態で、待っている。数秒の後、ネルソンが玄関とおぼしき場所に登場。コートから雨が滴り落ちている。静かに玄関を登って行き、食堂にまだ明かりがついているのを見、そちらの方へ進む。ネルソン、部屋に入る。ハーディ、立ち上がる。)
 ネルソン(入口に立って。)どうやら長い見張りだったようだな。
 ハーディ はあ。しかし連れがありましたから。
(ブラックウッド、ネルソンの声に目を覚まし、立ち上がる。)
 ブラックウッド か、閣下、ご無事でお帰りに。
 ネルソン(微笑む。)ご無事かな? まあ、朝になってみなければ分からん。
(雨の滴るコートを脱ぎ、椅子に掛ける。左手を右腕の腋(わき)の下に入れ、擦る。)
 ブラックウッド ハーディと二人で随分、お、お捜ししました。
 ネルソン 私がどこにいるか、ハーディにも分からなかったのか。
 ハーディ(ブラックウッドに。)ブラックウッド艦長、もう君は寝ていい。夜明けにはポーツマスに出発しなきゃならんし、その時刻まであと二時間もない。
 ブラックウッド 分かりました、艦長。(海軍式に敬礼。)か、閣下。私は大変ほ、ほっとしています。そこに立、立っていらっしゃるのを見、見て。心配しました。わ、私だけではありません。みんな心配しました。レイディ・ハミルトンは捜索隊を出させたほ、ほどです。
 ネルソン(ハーディに。)あれは今どこだ。
 ハーディ やっと床におつきです。
 ネルソン(ブラックウッドに。)おやすみ、ブラックウッド艦長。おやすみと言っても、寝る時間はもうたいしてないかな。寝ていられる時間を騒がしてしまって悪かった。
 ブラックウッド そ、そんな、閣下。な、なんでもありません。(礼。)失礼します。
(ブラックウッド、部屋から出る。階段を上がって寝室に行くのが見える。)
 ネルソン(ハーディに。)私の居場所が分からなかったのか。
 ハーディ 勿論分かっていました。あの、御自分だけの隠れ家に入ってしまわれたらしいと想像がつきました。あそこは閣下の特別な場所ですし・・・慥にこんな晩には造りが悪くて、隠れるにしては御粗末すぎますが・・・人に来て貰いたくはない筈だと・・・私でもお厭だろうと思いまして・・・(ネルソンのコートに触る。)一、二杯、クッとやらなきゃいけません、閣下。
 ネルソン(怒ったふり。)クッとやるだと、ハーディ。これは俺の最上級のフランス製ブランデーだぞ。
(ハーディ、グラスに注ぐ。ネルソン、二、三滴飲み込む。)
 ネルソン 自分の女と一悶着起こして、庭の隠れ家の屋根裏に閉じこもり、風邪をひき死ぬ。これはとても音に聞こえた提督の死に方とは言えんな。
 ハーディ でもあれは「一悶着」ではすまされないことのように見えましたが。
 ネルソン そうだ。それではすまんだろう。あの後、騒ぎはひどかったか。
 ハーディ 三時までは自室にひっこんだ者はあまりいません。レイディ・ハミルトンはその後も残って・・・
 ネルソン(微笑んで。)それで捜索隊を出したんだな、あれは。
 ハーディ ええ、でも驚いたことに、御自分では決して外に出ようとはなさいませんでした。
 ネルソン そうだ。あれは自分では出ない。
 ハーディ プライドのせいでしょうか、それとも天候のせい?
 ネルソン プライドだ。いつも最後にはこっちが行ってやらなきゃいけない。今回もだ。この震えが止ったら行ってやるつもりだ。(もう一杯、小さなグラスに注ぐ。)ジョージはどこにいる。
 ハーディ 自分の部屋です。
 ネルソン 鞭で打たれはしなかったな?
 ハーディ ええ。打ってはならないと、お命じになりましたから。
 ネルソン 手紙は? あれはどんな話をしていた、こんな面倒なことになったいきさつについて。
 ハーディ ジョージが、レイディ・ネルソンからと閣下あてに手紙を託(ことず)かってきた。それを閣下に手渡した。あまりにひどい手紙で、それをジョージの顔にたたきつけた。そして出て行けと命じた。もうジョージの顔も見たくない、声も聞きたくないと。それから急に・・・これは生涯かかっても、私、レイディ・ハミルトンに分かることはあるまいと思われるが・・・何かの理由で、閣下が彼女の方を向き、侮辱し、「レイディ・ハミルトン」と他人行儀に呼んだ。そしてこの雨の夜の中を出て行った。それから、言うにこと欠いて「こんなこと私の知ったことじゃない」と、呆れた話ですが・・・以上です。こういう纒めで如何でしょうか。
 ネルソン  勿論それよりは相当きつい事を言っているんだろうが、纒めとしては大変よろしい。(心配そうに。)その手紙だが、あれはそれを読んだのか。
 ハーディ いいえ。あの子が隠して、あとは何と言おうとガンとして聞き入れませんでした。勿論閣下ご想像の通り、みんな非難囂々、あの子を難詰しました。
 ネルソン で、ジョージは何か言ったのか。
 ハーディ いいえ。
 ネルソン 一言もか。
 ハーディ 私の知る限りでは。
 ネルソン あの子が自分で手紙を読んだということもか。
 ハーディ それは丁度その時、母親が聞いていましたから。
 ネルソン そうだったな。母親は確かに聞いていた。で、キャサリンは皆に話したんだな、子供が私に言ったことを。つまり、高潔な人間であるなら、自分の妻に突っ返すような手紙では決してなかったと。
 ハーディ そんな話は誰も信じやしません。
 ネルソン 信じない。何故だ、ハーディ。一体全体何故信じない。この件で知られている、他のあらゆることと、ちゃんと符号しているじゃないか。忠実で、愛情溢れる妻、それが夫に裏切られ、今絶望の中で孤独に暮らしている。何故か。その夫は妻を裏切るだけではすまさず、彼女を孤立させるため、親戚を買収し、友人達を脅迫したのだ。このようなひどい仕打ちを受けている惨めな妻はそれでもバースで、一人健気(けなげ)に孤高を保っている。一方その馬鹿な夫の方は、愛人、その間に生まれた私生児、と一緒に、酒と好色の生活を送り、自分の名誉、名声を自ら踏みにじっている。これがあの子の解釈だ、ハーディ。そして世間も、あの子の目で私を見ているのだ。
 ハーディ 世間は閣下の甥ではありません。
 ネルソン 私の甥も世間の一つだ。私はそう思っている。
 ハーディ 若い目というものは事実を歪んだ鏡に写して見るものです。世間もそうではないでしょうか。
 ネルソン この場合、どこを歪めて見ていることになるのだ。
 ハーディ 私には事実が充分分かっていません。
 ネルソン 君には全ての事実が揃っている。
 ハーディ(少し苛々して。)閣下が、御自分の妻に酷い仕打ちをされた。この事実は私にあります。私に示されていない事実、それは、妻の方が閣下にどういう酷い仕打ちをしたか、です。それは必ずあると確信しています。
 ネルソン 確信? 何故だ。
 ハーディ 何故? それは閣下が如何なる人物であるかを、私が知っているからです。・・・ネルソン提督なる人物は、何の根拠もなく、あの婦人に、あんな仕打ちをする筈がないのです。何か・・・よほど許し難い何かを、あの婦人はしたのです。それは明明白白であります。
(間。)
 ハーディ 余程の何か。そうではありませんか。
 ネルソン そうだ。
 ハーディ とても許せない何か。
 ネルソン そうだ。
 ハーディ それが何かなど、お訊きしません。ただ私に言える事は、このように本当の事実が示されていない時、世間はどうして正確な判断が持てようか、ということです。
(ネルソン、急に立ち上がる。)
 ネルソン ええい、なんていい加減なものなんだ、この同情ってやつは。君は全く分かっていない、ハーディ。
 ハーディ 分かっていないのは分かっています。だから正確な事実さえ(分かれば・・・)
 ネルソン(怒りをぶっつけるように。)君は正確な事実を知っている。六年前、ナポリにおいて、私は故意に、私の自由意志で、悪名高い毒婦を抱く為、貞淑な、愛すべき妻を追いだした。これが起こった時、ヴァンガードの更衣室で、君達みんながどれだけ笑ったか。「まさかあの女のために、妻を追いだすんじゃないだろうな。あの女・・・十四歳で、ヴォークスホールガーデンでストリップショーを演じ、グレヴィルが、借金のかたにハミルトンに売り飛ばし、サー・ウイリアムの妻になるまでに、イギリスの貴族の半数と寝た経験のある、あの女のために、あのエマ・ハミルトンのために、まさか妻を追い出したりはしないだろう。」そのあざけりがどんなに大きなものだったか、私が想像出来ないとでも思うか。
(間。)
 ハーディ 閣下、閣下がそのように見抜いておられるとは誰も思いもかけないでしょう。私も、今の今まで、思ってもいませんでした。閣下はおくびにも出しておられませんでした。私は全く気がつかず・・・
 ネルソン そいつはどうかしている、ハーディ。私はまだ正気なのだ。正気であってそれに気がつかない。それはありえないだろう?
(間。ハーディから顔を逸らせる。)
 ネルソン 私の聖なる婦人だって? とんでもない、ハーディ。王を侮辱した後、エマはシャンパングラスを投げ付けた。あの時、私が見たものは、ハーディ、君が見たものと違うとでも思うのか。酔っ払いの中年女。それが私を笑い者にし、自分自身も笑い者にしている。そう私に見えないとでも言うのか。あのゲビた言葉、あの品のない態度、その度毎に、身が縮む思いをし、あの酒の臭いのプンプンする息に反吐を吐きそうな気分になっている。皆と一緒にあの女といる間中、何度恥ずかしさに穴があったら入りたいと思うことか。ハーディ、君はこのネルソンが、こう感じていないとでも思っているのか。
(間。)
 ハーディ では何故、そんな一日一日をじっと辛抱していらっしゃるのでしょう。
 ネルソン(面と向かって。)何故なら、その一日の後には夜があるからだ。
(間。ネルソン、微笑む。)
 ネルソン ここで勿論君は疑問を呈するだろう。ベッドでしか存在しない、そんな愛が愛と言えるか、と。
 ハーディ はい、それはどうなんですか。
 ネルソン 愛だ。今の私には簡単に言える。しかし、五年前の私、四十歳のナポリの提督には簡単ではなかった。いいか、ハーディ、大抵の男はあの楽しみをその年までには味わいつくしている。それにもうすっかり忘れている。それくらいのものだ。しかし、この提督はその喜びを知ったこともなく、楽しんだこともなかった。ベッドで心身が解き放たれる、あの深い満足、あの強い恍惚。人生が男に与えることが出来る全てがそこにある。この世に存在する目的そのものがそこにある。そう、この提督には思えたのだ。これが愛か。かわいそうな、未経験のこの提督には、この問題は簡単ではなかった。簡単どころではない、ハーディ、実に難問だった。このことは頭に入れておいてくれなきゃならない。つまりその四十という年でも、私はまだ牧師の息子だった。揺籃(ゆりかご)の時から、肉体の愛を排し、聖なる結婚による、言葉では表現できない喜び、神によって保証された喜びを、と聞かされて育った、牧師の息子だったのだ。しかしとうとう私がエマに降伏した時、私は・・・そうだ、これを言ったところで何の恥ずかしいことがあろう。私は、肉体の愛は精神に関わってくることを発見したのだ。それは精神が肉体に関わるのと何の違いもありはしない。何故なら、肉体は結局精神であり、精神もつまるところ、肉体だからだ。少なくとも私にはそうなっている。だからハーディ、私は今のエマで何一つ変えて欲しいところはないのだ。私はあれを愛している。今の儘のあれを欲しているのだ。それだけ私はあれに執着している。あの女を、あれごと欲しいのだ。
(間。)
 ハーディ 閣下、それはベッドでだけの愛というものではないのではありませんか。
 ネルソン そうだ。しかし、もしベッドがないとしたら、一体何なのだ。何もありはしない。しかしもう一方の愛! 口にも言い表せない、幸せこの上もない、あの結婚の絆(きずな)・・・父によって祝福され、国家の英雄に最も相応しいと考えられたあの結婚・・・あの落ち着き払った微笑・・・決して心を許さない體・・・「もしこれが愛する夫を幸せにするのなら、仕方がありません。お応え致しましょう。でもこんなこと、私の生まれ、育ちからすると、本当にうんざりなことなんですのよ。」・・・おお、ハーディ、なんていう侮辱だ。これこそが地獄だ・・・しかし今は私はこの地獄からは抜け出ている。有り難いことにな。
(ネルソン、顔を覆う。それから立ち上がる。ハーディに首で合図し、階段へ進む。)
 ネルソン 少し休んだ方がいい。
(ハーディ、ネルソンに従う。)
 ハーディ(階段のところで。)有り難い事にと、おっしゃいましたね、提督。
 ネルソン(階段を登りながら。)気に入らなければ、別の言葉を捜したらいい。「満足のいくことには」ぐらいにでもするか。
 ハーディ クラージス街で物笑いになるのが、満足のいくことですか。
(ネルソン、歩みを止める。)
 ネルソン くだらんことだ。単なる有象無象だ。敵の奴等に雇われてやっているだけさ。
 ハーディ 閣下の敵はフランス以外にありましょうか。ひょっとするとやじり倒して提督を次の海戦に出させまいとするナポレオンの手ではないでしょうか。
(ネルソン、激しい勢いで振り向き、ハーディを睨みつける。)
 ネルソン ハーディ、貴様って奴は・・・しかしその手にはのらんぞ。(ハーディを見下ろして。)俺はカディスには行かん、分かったな。
 ハーディ 分かりました。
(ネルソン、突然今度は階段を下りて、居間の方へ行く。ハーディ、ネルソンの後を行く。居間に入り、ネルソン、自分の鞄を取り上げる。)
 ネルソン(ハーディが後について来たのを知らず、声をあげて。)ハーディ、クラージス街で俺が笑われた昨日の朝からずっとお前はそればかり考えていたんだな。ネルソンの奴、どんな誓いをたてていようと構うものか。あいつの精神、健康、愛、そんなものがどうなったって構いはしない。あいつを次の海戦には何が何でもひっぱり出してやる。これがハーディの奴の考えだ。そうは問屋が卸さんぞ。今度は絶対に行かん。街で笑われようと、罵られようと、知ったことか。それからコーリングウッドが俺の代わりに新しい英雄になる。それならそうと、ならしておけばいい。
 ハーディ(ネルソンのすぐ傍で、静かに。)いいえ、そうはなりません。
 ネルソン なんだと? なるに決まっている。あいつが海戦に勝てば。
 ハーディ 勝たないのです。勿論負けると言っているのでもありません。二、三隻は拿捕(だほ)、それに旗艦戦艦に多少の被害、味方の方は、二、三隻に被害を被る程度。それも敵味方、平行線の戦隊を組んでの戦いの結果である筈です。
 ネルソン 平行線? 馬鹿か、お前は。食堂に行って俺の作戦をもう一度見て来い。
 ハーディ 充分見ました。何時間もかけて研究しました。ナイフやフォークの銀器を並べて調べてみると、なかなか奇麗なものです。
 ネルソン その研究の間、お前の目はどこについていた。あのテーブルの上で、敵味方、平行線になる所がどこにあったというんだ。貴様、酔っ払っていたんじゃないのか。我々の艦隊は二列になって、敵の艦隊に直角につっこんで行くんだ。一列は敵の心臓目掛けて、もう一列は敵の肝臓目掛けてだ。この作戦の天才的なところは、今まで戦われた海戦のあらゆる常識を完全に覆したところにある。つまり、平行線を徹底的に廃したところにあるのだ。形ばかりの大砲の打ち合い、二、三隻の分捕り、それに旗艦戦艦へのちょっとした被害。(そんな海戦じゃない。)これは殲滅作戦なんだ、ハーディ。
 ハーディ(礼儀正しく。)はい、閣下。その話は何度も伺っています。
 ネルソン この海戦の後では、フランスとスペインの戦艦はただの一隻といえども、海に浮かべることは出来ない。ただの一隻といえどもだ、ハーディ。貴様の目はどこについている。この完全な。徹底的な殲滅、この戦いの後、イギリスは少なくとも百年間、世界の海を支配する。そういう意図があって初めて私の作戦として意味があるのだ。(それが見えていないのか。)
 ハーディ 分かっています。これはなかなか奇麗な作戦です。
 ネルソン(我を忘れて。)この野郎、よくもほざいたな。奇麗だと? なかなかだと? 俺に両腕があれば絞め殺してやるところだ。
 ハーディ 食卓の上にナイフとフォークを並べてみると、奇麗だと申し上げたのです。それからもう一つ、テーブルは大西洋ではないということも。
(間。)
 ネルソン フン。考え落としていることがあると言いたいのか。
 ハーディ はい。一つだけ。
 ネルソン 何だ、それは。
 ハーディ 閣下ご自身です。
(間。ネルソン、笑う。)
 ネルソン そうは問屋が卸さんよ、ハーディ。そんな簡単な罠には捕まらない。コーリングウッドは偉大な司令官だ。
 ハーディ 「偉大な」ではありません。「優秀な」です。
 ネルソン この作戦で勝てるだけの力のある「優秀さ」だ。
 ハーディ もしその作戦を使えば・・・
 ネルソン この作戦を使わないと言うのか。この間、あいつに会った時、詳しく説明した。良い作戦だと認めていたぞ。細かい所まで。
 ハーディ それはそうでしょう。しかし、これから二、三週間経ちます。そして彼の眼前に、水平線上に、三十隻、あるいはそれ以上のフランス、スペインの戦艦が戦闘の隊形を組んで並んでいるのを見ます・・・これは恐ろしい光景です。五マイル以上にわたって、弦側がこちらを睨んでいる。その数は味方より多いのです。閣下はどうお考えでしょう。コーリングウッドはこの作戦をとるでしょうか、それとも慣れたいつもの作戦を。
(間。)
 ネルソン 私の作戦だ、それは。
 ハーディ 閣下の推測が正しければよいのですが・・・しかし、私の考えを申し上げます。この作戦はこれまで一度も試されたことのない革命的な作戦なのです。天才によって考えられた作戦で、午後の数時間で、自分の全艦隊を全滅させる可能性があり、これを考案した天才自身は自ら指揮を取ることを拒否した作戦なのです。私には、コーリングウッドどころか、世界中のいかなる指揮官といえども、この作戦を採用するとは思えません。
(ネルソン、沈黙。答えることが出来ない。ジョージの姿が見える。こっそりと階段を降り、玄関に向かっている。バッグを抱えている。)
 ハーディ(この間に。)エー、閣下、もう上に上がっていいでしょうか。睡魔が襲ってきまして・・・
 ネルソン(鋭く。)誰だ、ホールにいるのは。
(ハーディ、素早く食堂から出て、ジョージを見つける。ジョージ、驚き、階上に戻ろうとする。この時までにネルソン、ハーディを追って食堂の入口のところまで出ている。)(訳註 「ハーディ、素早く居間から出て」が正しいか。)
 ネルソン ジョージだったのか。
 ハーディ はい、そうです。
 ネルソン 入りなさい、ジョージ。(ジョージ、躊っている。ネルソン、命令口調で。)入るんだ、ジョージ。(ハーディに。)じゃあ、ハーディ艦長、おやすみ。
 ハーディ(御辞儀。)では失礼します。
(ハーディ、階段を上がる。ジョージ、食堂に入ってくる。いやいやの様子。)
 ネルソン こんな時間にどこへ行くつもりだ。お前は八時まで出てはいけないことになっている。それから八時になったら、両親と出て行くことになっている。そうだな。
 ジョージ はい。
(間。)
 ネルソン こんな夜更けに、どこへ行くつもりだった。
 ジョージ ロンドンです。多分。
 ネルソン 十九マイルあるぞ。それに雨が降っている。
 ジョージ 雨は止みました。
 ネルソン それを貸しなさい。(バッグを受け取る。)坐りなさい。
(ジョージ、おずおずと坐る。)
 ネルソン 逃げようという話だな。
(ジョージ、頷く。)
 ネルソン 私から、それからレイディ・ハミルトンからだな。それは分かる。しかし何故両親からもだ。
(ジョージ、答えない。)
 ネルソン 鞭で打たれると思ったのか。
 ジョージ そんなこと、平ちゃらです。
 ネルソン じゃあ、何故だ。
 ジョージ この家を出たかったんです。それだけです。
 ネルソン 三時間経てばいづれにせよ出ることになっている。両親とな。
 ジョージ 両親とは話したくないのです。僕に答えられない質問をするに決まっています。お願いです。僕は伯父さんとも話したくないんです。行っていいですか。
 ネルソン 駄目だ。(グラスにワインを注ぐ。)泣いたような顔だ。泣いたのか。
 ジョージ いいえ、そんなには。
 ネルソン これを飲むんだ。
 ジョージ 欲しくありません。
 ネルソン 少し気分が直る。
 ジョージ 気分なんかよくなりません、どうやったって。一生涯。何をしたって。
 ネルソン 飲むんだ。
(ジョージ、仕方なく受け取る。一口すする。急いで返す。)
 ネルソン お前は事を深刻に受けとめ過ぎている。慥にお前のことを罵った。しかし本気であんなことを言ったんじゃないんだ。
 ジョージ 罵られた覚えはありません。
 ネルソン 分かった。私がどんなことをお前に言ったにせよ、それは忘れてくれなくちゃ困る。
 ジョージ 努力します。もう行っていいですか。
 ネルソン ジョージ・・・私が何をした。
 ジョージ 何もしません。
 ネルソン(バッグを指差して。)ここにあの手紙があるんだな。
 ジョージ はい。
 ネルソン あれに返すのか。
 ジョージ 勿論返しません。もしも会ったら、お約束通り渡しました、とだけ言うつもりです。そして伯父さんはそれを読んだと。
 ネルソン そして「悪意に満ちた手紙だ」と言ったと。
 ジョージ いいえ、それは決して言いません。
 ネルソン 何故それをとっておく。
 ジョージ もう一度読んでみるためです。
 ネルソン 何のために。
 ジョージ 分かるかもしれません。
 ネルソン そうかな。お前が分かるとは私にはとても思えない。
 ジョージ 僕も思えません。
 ネルソン それを決して他人には見せないと私に約束してくれるか。
 ジョージ 伯父さんは僕を何だと思っているのですか。(そんな当たり前の事を訊いたりして。)
(間。ネルソン、もう一杯、自分用にブランデーを注ぐ。)
 ネルソン 最も男らしい、名誉ある、高潔な少年だと思っている。お前のような甥がいて、私は誇らしい気持ちだ。
(ジョージ、自嘲的に笑う。)
 ネルソン 笑うんじゃない。最近では誰もが私の事をあざ笑う。軽蔑するのは構わん。しかし、笑うのは止めてくれ。今お前に関して私が言ったことは本心からだ。
(ネルソン、ブランデーを飲み干す。そしてジョージに面と向かう。)
 ネルソン よーし、ジョージ、こうなったら話そう。大人の感情というものがどんなものか。お前には少し早いかもしれないが・・・
(静かに、思い出そうとする努力は全くなく。)
 ネルソン 「一八0一年十二月十八日。愛する貴方、先回お手紙を差し上げて久しくなります。お返事をお待ち申し上げておりましたけれど、とうとう耐え切れず、またこちらから差し上げます。(ジョージ、目を見開いてネルソンを見る。)どうぞこの無礼をお叱り下さいませんように。七月の手紙には書いておきませんでしたが、受け取って下さっていますわね・・・住み心地のよい、暖かい家。」
(ネルソンが手紙を読んでいるばかりでなく、それを暗記しているという事実を知り、ジョージ、惨めに頭を垂れる。)
 ネルソン(優しく、しかし容赦なく。)「いとしい貴方、どうぞ一緒に暮らしましょう。ご一緒に暮らせるようになるまで、私は決して幸せになることはありません。以前書きましたことをもう一度繰り返します。私にはたった一つしか望みはありません。貴方に喜んで戴くことです。すべてを忘却の中に埋めてしまいましょう。今までのことは夢のようにかき消えてしまう筈ですわ。」
(ジョージ、ネルソンに「もういい」という仕草をする。)
 ネルソン 最後まで聞くんだ。今夜はもう少し多く涙を流しても、たいした違いはない。「貴方にこれだけは信じて戴きたいの。私がいつまでも貴方の、誠実で愛する妻であることを。フランシス・H・ネルソン」
(ネルソン、もう一杯ブランデーを注ぐ。)
 ネルソン これで分かったな。お前もあれも心配することはない。私はちゃんとあの手紙を読んでいる。
 ジョージ(やっと。)それなのに送り返した・・・あんな言葉をつけて?
 ネルソン(頷いて。)そう、このネルソンに最も相応しく。
 ジョージ 何をしたというんでしょう、伯母さんは。伯父さんがそんな酷いことをしなければならないような。とても酷いことですね、きっと。
 ネルソン そうだ。
 ジョージ どんなことですか、それは。
 ネルソン あの手紙を書いたことだ。
(間。)
 ジョージ でもあれは親切で、愛情溢れる手紙です。
 ネルソン あれは残忍な手紙だ。
 ジョージ 残忍? そんな・・・
 ネルソン 残忍な行為というものは、屡々愛と親切から行なわれるのだ、ジョージ。それも最も残忍な行為となるのだ。(ジョージのあっけにとられた顔を見て。)ああ、こいつを説明しなきゃならんのか。お前にはこれがそんなに大切なことなのか。
 ジョージ(あっさりと。)ええ、これくらい大切なことは他にありません。
 ネルソン それを説明したところで、私の名誉は救えないぞ。お前はひどくそれを大事にしてくれているが。
 ジョージ もし今の話が真実でしたら、きっと救うことになると思います。
 ネルソン 真実だ。そこは間違いない。
(ネルソン、ジョージの隣に坐り、非常に静かに話す。)
 ネルソン ジョージ、いいか、誰かに悪いことをする。あからさまな悪いことだ。そいつが徹底的に辱(はずかし)められて二度と立ち上がれなくなるような、そんな酷いことをする。さてそこでだ、その相手から、その行為を「許す」と言われる。これは地獄だ。これ以上の侮辱はない。
(ネルソン、飲む。ジョージ、ネルソンを見つめる。声が出ない。)
 ネルソン お前にはショックだろう、勿論。お前はお祖父さんの血をうけている。敬虔な牧師、私の父親、その孫だ。だから「許す」という言葉に憎しみで応えるのは少なくともキリスト教徒らしくないと感じるだろう。しかし本当にそうだろうか。イエスは頬をたたかれた時の応え方は教えてくれた。しかし親切にされた時の応え方は教えてくれなかった。私はキリスト教徒としてかなり敬虔な方だ、ジョージ。敵を愛する事だって少しは出来た。「少しは」だ、勿論。何でもものには程というものがある。敵が溺れている時、自分の船の危険を省(かえり)みず、私は助けた。それに捕虜に対しても。誰にも恥じない名誉ある扱いをした。しかしジョージ・・・
(ネルソン、言葉を続けるのが困難。ジョージの目は瞬(まばた)きもせず、ネルソンに向けられている。その目はジョージの良心そのものである。)
 ネルソン しかし、決して報復しない敵、これはどう扱えばいいのだ。こちらのあらゆる攻撃に対してこの敵はただマストに優しく旗をひらめかせ、「貴方が何をなさろうと、私の大事な貴方、私はいつも貴方を許します。そして貴方を愛し続けるでしょう。」と信号を送ってくる。こういう敵に対してはどうすればいいんだ、ジョージ。愛してくる敵、これぐらいどうしようもないものはない。そして私の愛する妻は、その一貫した態度で、私を完全にたたきのめしたのだ。私に何が出来る、そうなったら。ただ憎むこと、これしか残されていないじゃないか。
(ネルソン、グラスを飲み干す。テーブルに戻る。模擬海戦の食器を眺める。長い間。)
 ネルソン お前への講義はこれで終だ。長くて難しかったな。人間の愛と憎しみ、これは扱いにくい問題だ、誰にとっても。
(ネルソン、もう一杯ブランデーを注ぐ。ジョージ、それをじっと見つめる。ミント、夜着を着た儘、階段を降りてくる。)
 ネルソン(飲み干した後。)正解が分からない問題だ。それに私は学校に行っていない。お前が行っているような学校にだ。十一歳の士官候補生はその気になれば相当のことを学ぶことが出来る。しかし人生について学ぶことはできない。
(ミント、声がしているのに気がつき、用心深く扉の方に進む。ジョージがいるのを知り、驚く。しかし老練な外交官の習性で、それをうまく隠す。)
 ミント お邪魔でなければいいのですが。
 ネルソン ジョージと形而上のことについて議論していたところだ。こみいった問題があって、それを解きほぐしていたところなんだが・・・(ジョージに。)分かったかな、少しは。
 ジョージ いいえ。
 ネルソン いや、付き合ってくれて有難う。楽しかった。(ホールにジョージを導く。)じゃあ、もう部屋に帰って(ミントに聞かれないように。)家出するなんて馬鹿な考えを起こすんじゃないぞ。逃げるなんていうのは卑怯なことだ。分かっているんだろう? (ジョージ、頷く。)よし、じゃあ、部屋に帰るんだ。
(ネルソン、階段に連れて行く。ジョージが上がって行くのを見守る。)
 ネルソン お休み、ジョージ。
(ジョージ、暫く歩いて立ち止る。)
 ジョージ お休みなさい、ホレイショー伯父さん。(また上り始めて。)ワイン有難うございました。
(ネルソン、素早く振り返り、食堂に入る。ミントがブランデーをすすっているのを見つける。)
 ミント(グラスを指差しながら。)飲むには早すぎなんでしょうか、遅すぎなんでしょうか。ちょっと難しいです。勿論こんなことはこれが初めてではありませんけれども・・・エー、御伝言がございます。
 ネルソン そうらしいな。
 ミント 御推察の通りです、閣下。さっさとお伝えして肩の荷をおろしたいんですが。(ブランデーを飲み干す。)朝早すぎで、夜遅すぎの酒ですね、これは。ついさっきレイディハミルトンが私の部屋に御光来遊ばされ、畏れ多くも私をお起こしになりました。どうやらハーディ艦長と閣下の声を階段のところでお聞きつけになった。実際はそれで目をお覚しになった御様子です。
 ネルソン(疲れた様子で。)で、すぐにあれのところに行ってやらねばならないのだな。
 ミント いいえ、閣下。
 ネルソン 違うだと?
 ミント 御伝言は逆でございます。「今日の出来事で、私はすっかり辱(はずかし)めを受けました。もうどんなことがあっても寝室にはしっかり」(欠伸)失礼。「鍵をかけて入室を許すものではありません。名誉にかけてこれは誓います。」とのこと。また、私、ミントに、よくよく念を押して申し上げよ、と。「どんなにノックをしても、どんなに大声で、あるいは神妙に、開けてくれと頼まれても、正午以前に寝室の扉を開けることはありません。」(また欠伸。)あ、また。失礼。「正午は私の馬車を出すよう既に命じてあります。それに乗っていろいろお屋敷を回ります。そして、貴方様よりもっと暖かく迎えてくれる軒場があれば、その軒端の下に参ることに致します。」以上。お言葉通り、正確にお伝え申し上げたと確信致します。特に最後の軒端の部分を間違いなくお伝えせよとの御厳命でした。では提督、お許し戴ければ寝室に戻ってよろしうございましょうか。それから、これから再び起きる騒動からは邪魔されず、静かに眠っていとう存じますが、これもお許しを戴きたいのですが。
 ネルソン ぐっすり眠るといい。ノックもないし、開けろと頼むこともしない。安心しろ。明日屋敷を回ることについて言えば・・・そう、正午までにはまだ何時間もある。それに、どこの屋敷でも、そうおいそれと歓待するとは思えない。
(歩きながらこの会話は交わされ、この時までにミントとホールに出ている。ミント、階段を上り始めていて、ネルソンが再び食堂に戻って行くのに気づく。)
 ミント 閣下、どちらでお休みに。
 ネルソン ああ、どこかあるだろう。先のことは分からんさ。なあ、ミント、あの鍵だってちゃんとしまっていないかも知れないし・・・
(悲しみが突然ネルソンを襲う。次の最後の言葉を言う時、笑顔を向けようとするが、笑顔にならない。)
 ネルソン 錠ももう、少し錆びついているかも知れないぞ。
(手を顔にあてる。ミントに背を向ける。食堂に素早く戻る。椅子に頽(くずお)れる。ネルソンの全身が、急に乾いた音のない啜り泣きで震える。階段のところでミント躊(ためら)う。ネルソンの所へ戻るべきかどうか。ミント、正しく判断し、戻らない。階段を上がって退場。)
(食堂でネルソン、震える手を伸ばしてブランデーを取る。やっとのことで注ぎ、飲む。ネルソンのこの震えは、一つには深い悲しみが急に爆発したせいであるが、もう一つは、バースのベツィが心配していた、マラリアの発作であることが観客には分かる。)
(かなりの時間がかかって啜り泣きとマラリアの発作が終わる。テーブルの上に腕、その上に頭をのせて、疲労困憊の姿。)
(暫くしてエマ、階段に現われる。裾の長い夜着、極度におどおどしている。一時は再び自分の部屋に戻ろうとした程。それから決心を固め、食堂の入口に進む。ネルソンを暫くの間眺め、隣の椅子に滑り込む。頭をネルソンの肩にのせる。)
 エマ ああ、ネルソン。許して頂戴。
(ネルソン、見上げる。ちょっとの間。あまりに茫然としていて、エマがいると気がつかない。)
 ネルソン (やっと。)何を許すんだい、エマ。
 エマ 私のしたこと全部を。
 ネルソン 何をしたかな。
 エマ 貴方が教えて下さるんじゃないの。
 ネルソン 教える? だけど何もないな。
 エマ 思い出して下さると思うわ。それに、とても酷いこと、きっと、とても酷いことだわ、私のしたこと。
 ネルソン 酷いことなんか何もしていないよ、エマ。したこともないし、しようと思ったって君には出来ないんだ。(手に触って。)冷たい。
 エマ 女は弱いわ。一人で寝るだけで凍えてくる。
 ネルソン うん。それだけは少なくとも改良出来るな。
(ネルソン、立ち上がり、伸びをする。エマ、再び頭をネルソンの胸にあてる。優しく、おずおずと。)
 エマ 怖かったわ。
 ネルソン 何が。
 エマ 私から逃げて行ってしまうって。
 ネルソン 君から逃げるなんて、それはありえない、エマ。死ぬまで。
 エマ ブランデーを飲んでいたの?
 ネルソン 相当大量に・・・のようだな。
 エマ 私が先生ね。
 ネルソン 弟子は先生の量にまでは達しなかったな。
 エマ(壜を取り上げて。)初心者にしては悪くないわ。もう一杯いきましょうか、一緒に。
 ネルソン いい考えだ。
(エマ、二人のために注ぐ。)
 エマ 何に乾杯しましょうか。
 ネルソン エマに、そして、エマのネルソンに。他にはありえない。
(ネルソン、海戦の作戦図を眺める。急な動作で、きちんと整列していた銀器をめちゃめちゃにする。)
 エマ 奇麗に並べてあったのに。
 ネルソン うん・・・奇麗だと思った?
 エマ 本当に奇麗に・・・そのままの配置で、決して動かさなかったのに・・・カディスの海戦をネルソンが如何にして勝ったか、それをお客に見せるために。
 ネルソン(優しく。)カディスでのネルソンの海戦を如何にしてコーリングウッドが勝ったかを・・・
 エマ 私、「如何にしてネルソンが勝ったかを」と言ったわ。
 ネルソン エマ・・・僕は君に頼んではいないよ。
 エマ ええ。でも、もう少ししたら頼むことになっていたわ。
 ネルソン いやそれは違う、エマ。僕はどんなことがあっても決して頼まなかったろう。
 エマ ええ。(そうかもしれない。)でも私のことをまた「レイディ・ハミルトン」と呼んだでしょうね。それからコーリングウッドの戦いが近づくと、雨の中を一人で出て行く。私がいくら止めたって。私はネルソンが好き。それも一部じゃない。全部を愛するの。體の半分は海への憧れで恋焦がれ、體の半分しかここに残っていない、そんなネルソンは厭なの。
 ネルソン ハーディがゆうべ君に何か言ったのか。
 エマ あのだん(色野郎)・・・あの人? あんな奴と話す唇なんか、持ち合わせてはいないわ。
 ネルソン(エマを抱いて。)おお、エマ、エマ!
 エマ ネルソンの半分じゃ厭っていう考えだけじゃないの、ネルソン。(魂の半分がどこかへ行っていても、それはいいの。)夜中に私から逃げて、雨の中を一人歩き回って、風邪をひいて死にそうになったって、私、看病が出来るもの。ナポリでやったように・・・そしてトランプの独り遊びでも覚えるの。そう。だからその考えだけじゃないの・・・本当の事を言えば・・・
 ネルソン 君はいつだって、本当のことしか言わないよ。
 エマ ええ。でも大袈裟に言い過ぎることはあるわ。「いろいろお屋敷を回ります」だなんて。(二人笑う。手を取って。)私、この国がネルソンを必要とした時、彼を引き止めた女って思われたくないの。だって、これは私の国でもあるの・・・ね?
 ネルソン この国がネルソンを必要としている・・・君もそう思うか。
 エマ 世界にはたった一人しかネルソンはいない。そして、そのネルソンは私のもの。私一人のもの。
 ネルソン そうだ。君一人のものだ。
 エマ 私だけが決められるの、行ってもいいとか、行っては駄目とか・・・(涙が出そうになる。)ただ・・・今度は・・・今度は気をつけてね。(言葉を続けることが出来ない。)
 ネルソン うん。
 エマ 貴方のエマを一人ぼっちにしないで。おいてきぼりにしないで。
 ネルソン しない。
 エマ ちゃんと誓って。今度は自分の全力を尽くして自分自身が死なないよう努力する、と。
 ネルソン(真剣に。)私の全力を尽くして、私自身が死なないよう、エマが一人ぼっちにとり残されないよう努力する。これを神の前に、厳かに誓う。
 エマ 貴方は誓いは守る人だわ。誓いを守ろうと努力する人。今度だって「行かない」って言ったことを、随分守ろうとなさったものね。
 ネルソン(エマの手に口付けして。)そうだ。守ろうとしたよ。おおエマ、愛しているよ。深く、深く。
 エマ(立ち上がりながら。)駄目。駄目駄目。こんなのじゃ。もっと記念になる何か。友達に自慢出来るような何か。私、もう考えついているの。
 ネルソン そうだろうな。そうだと思った。
 エマ ベッドで、ちゃんと日記帳に書いておいたわ。
(ネルソン、エマをじっと見る。)
 エマ そうよ。庭でびしょ濡れになって、マラリアの発作になんか罹る必要はまるでなかったの。何もなくったって、私、このことをゆうべ貴方に言っていたわ。 でも私、自発的に許すと言いたかったの。旗艦艦長の、こすっからい、あんな汚い手で、私から無理矢理連れ去られるなんてまっぴら。エーと、文章を思い出すわ。 何だったかしら・・・そう。「大好きなエマ、大事なエマ。この世界にもっと沢山エマがいれば、もっと沢山ネルソンがいるだろうに。」これ、どう?
ネルソン(エマを見つめる。)気に入った。これはいい。本当の話だ。
 エマ 本当は違うの。ネルソンは生まれるの。作られるのではないんだけど。
 ネルソン 時々は生まれかわるんだ。
(ネルソン、テーブルに銀器を並べ始める。)
 ネルソン 私の奇麗な戦いか。見ていろ。
 エマ(ネルソンを見て。)ねえ、ネルソン。一つだけ教えて。また勝利なんでしょう?
 ネルソン そう思う。
 エマ 大勝利?
 ネルソン そう。大勝利。
 エマ どうしても大勝利でなくっちゃ。
 ネルソン(熱を込めて。)そう。大勝利。戦略的に言うと・・・
 エマ(笑って。)私が戦略のことなんか言うと思う? 私が大勝利でなくっちゃいけないっていうのはね、群衆が私達を見て笑ったから。
 ネルソン 笑った?
 エマ クラージス街で笑ったじゃない。
 ネルソン 万歳の声しか聞こえなかったな。
 エマ(ネルソンの腕を取って。)貴方は聞こえていたわ。それに誰が笑われていたかもご存じ。そうね。私、最近太ったわ。笑われても仕方がない。少し食事を減らして、体重をおとさなくちゃ。それにお酒の量もおとして。勿論。
(無意識にブランデーをゴクゴクと飲む。ネルソン、優しくそれを見て微笑む。)
(エマ、ネルソンの手を取る。)
 エマ ああ、ネルソン。エマ・ハミルトンみたいな女を養っていくのは大変よ。本当に大きな勝利を得なくちゃならないわ。そうしたらあの人達、もう私のこと笑わない。「ネルソン万歳」よ。それに「エマ万歳」になるかもしれない。ええ、そうなるかも知れないわ。(二つのソース入れを取って。)これは何?
 ネルソン 二列で攻撃する。その先頭の二隻。
 エマ じゃあ、そのうちの一つはヴィクトリーになったのね、きっと。
 ネルソン うん、そうなるね。それからもう一つはロイヤル・ソヴリン。二つとも重い船でなくっちゃいけない。二列縦隊という私の作戦の先頭を切る船だからな。
 エマ(つっかかるように。)海戦のことについては、何も私が知らないと思っているんでしょう。だから、貴方が作戦の説明をしている時だって、私が聴いてはいないと思っているのね。(非難するように。)でも私、本当に何度も聞いたわ。貴方があの人達に「この二つの船はな、」(エマ、ソース入れを振る。)「猛烈に重い大砲を積まなきゃならん。だから射撃を開始する前に沈没する可能性があるくらいだ。」って言っているのを。
 ネルソン 沈みはしないよ。
 エマ でも敵の船は一斉射撃。(怒って。)弦側からどんどん撃ってくる。どうして進行方向に大砲が撃てる戦艦を作らないんでしょう。何故弦側からしか撃てないの。
 ネルソン(銀器を並べるのに忙しい。)そのうち出来るさ。
 エマ でもまだだわ。この位置で一時間、あるいはそれ以上。貴方はデッキの上を歩き回っている。敵の砲弾はどんどん飛んでくる。(船を指差して。)そして船首を向こうに向けているから、一発だってお返しに撃つことができない。
 ネルソン 三十分だ。いや、風向きが良ければ、それ以下でつくさ。
 エマ どうしてヴィクトリーにいなくちゃいけないの。
 ネルソン(軽い調子で。)いや、ヴィクトリーにいなくったっていいんだ。コーリングウッドには旗をどこか後ろの普通の戦艦に上げろと言っておいた。作戦の指揮にはその方がいいからね。
 エマ ええ、ええ。そうでしょうとも。貴方、ネルソンの旗が普通の戦艦に上がるんでしょうよ。どこか後ろのね!
 ネルソン 恥じゃないさ、何も。
 エマ(涙が出そうになる。)コーリングウッドには恥じゃないでしょう、きっと。でも貴方の旗が? ああ、ネルソン、貴方って、時々は平気で嘘をつくのね。
 ネルソン(真面目な調子。船を並べながら。)嘘だなんて、とんでもないよ、エマ。
 エマ ネルソン、貴方、私にさっき誓った事を覚えているわね。
 ネルソン うん、はっきりと。
 エマ じゃあ、もう一つ誓って。ね、これも。
(エマ、ソース入れの一つを取り上げ、それを注意深く後ろに置く。)
 ネルソン エマ、君がヴィクトリーを置いた場所はね、戦艦アガメムノーン、戦艦エイジャックス、それに戦艦オリオンと衝突する位置なんだ。(ネルソン、ソース入れを取り上げ、どこにも置かないで持っている。)ねえ、エマ、このことに関しては、僕の好きにやらせてくれなきゃ困るな。勿論僕が一番いいと思った方法だって、完全じゃない。しかし、少なくともそうすれば、敵との会戦の前に主力戦艦四隻を沈没させる危険は避けられるんだ。
 エマ ええ、でもこの誓いだけはして頂戴・・・
 ネルソン ひとあさで二つも誓いを立てるっていうのは神様には多すぎじゃないか。それにこの場合、一つあればもう一つはそれに含まれるっていうんだから・・・
 エマ 本当に含まれるのかしら。
 ネルソン それはそうじゃないか。
 エマ(ネルソンを抱いて。)それなら作戦はもうここまで。上に上がりましょう。時間がないわ。
 ネルソン うん。喜んで。心から。
 エマ 貴方の言わなきゃならない台詞、覚えてる?
(エマ、入口に行く。)
 ネルソン 僕の台詞?
(ネルソン、ソース入れを正確にもとあった場所に置く。エマは階段のところまで進んでいる。)
 エマ ほら、私が日記に書いておいた・・・
 ネルソン ああ、あれね。
(ネルソン、後を追う。エマ、待っている。)
 ネルソン エーと、何だったっけ。「ああ、エマ、もし君みたいな女の人がもっと世界にいたら・・・」
(ネルソン、階段のところで追いつく。)
 エマ 駄目、駄目。「大好きなエマ、大事なエマ。この世界にもっと沢山エマがいれば、もっと沢山ネルソンがいるだろうに。」
 ネルソン ああ、そうだったね。「大好きなエマ、大事なエマ。もしこんな素晴らしいエマが・・・」
(二人、階段を上り始める。)
 エマ 「この世界に、もっと沢山エマがいれば」はい、もう一度。
 ネルソン 「大好きなエマ、大事なエマ。この世界にもっと沢山エマがいれば」エーと、そしたら何が起こるんだったっけ。
 エマ(キスして。)「もっと沢山ネルソンがいるだろうに。」
(照明暗くなる。遠くから大砲の音が聞こえる。物憂い、水兵の囃し歌のかすんだ音が、風にはためく帆の音にかき消されそうになりながら、観客の耳に届く。)

     第 三 場
(ヴィクトリーの、ネルソンの船室に照明があたる。 二人の水兵が船で用いる箱(一個)小さなテーブル(一個)と椅子(一個)を運びいれる。テーブルの上には書類と筆記用具。遠くから聞こえる大砲の音はこの場の間中続く。 暫くして、平服を着て(勿論星はついていない)、ネルソン登場。二人の水兵に「下ってよい」と頷く。水兵退場。ネルソン、一人残されると、膝をついて祈る。)
 ネルソン 全宇宙をしろしめす偉大なる神よ、我が祖国のために・・・
(ハーディ、ブラックウッド登場。後ろにハーディの部下(士官候補生)。ネルソン、彼らに微笑み、暫く黙っているように合図。入って来た三人、頭を下げる。)
 ネルソン そしてヨーロッパ全体の幸せのために、大きな、栄えある勝利を我が軍に与えられんことを。各将兵は正しく行動し、その勝利を穢すことのないように。また勝利後のイギリス艦隊に、敵を愛する気持ちが支配的ならんことを。私個人に関しては、私を作り給(たま)うた神に命を託さん。どうか神が祖国に誠実に仕える私の努力を嘉(よみ)したまわんことを。私が守るべきこの祖国、及び私自身の運命を、神の御心に委ねん。アーメン、アーメン、アーメン。
(ネルソン、また暫く両膝をついたまま。そして、さっと立ち上がる。この瞬間から彼の態度は静かで、諦めのついた幸せなものである。)
 ネルソン ハーディ、ブラックウッド、敵はどうやら弾丸を無駄遣いしているようだな。ここまで届かないんだろう?
 ハーディ もうあと二、三百メートルです。しかし、一発は越えて行きました。
 ネルソン うん。もうすぐガンガン来るぞ。(時計を見て。)こっちから挨拶を返せる距離になるには、少なくともあと四十分はかかるな。レイディ・ハミルトンの提案は、進行方向に大砲が撃てるよう、軍艦を設計すべきだというのだが。どうだ、いい考えだろう。
 ハーディ 砲弾が前方へ飛びだす船、それはちょっと海では似合わないのではないですか。風船のようで。(訳註 舳先の角度を鈍角にし、その両弦に大砲をつける事を考えている様子。)
 ネルソン いや、前だけを向いているんじゃない。大砲を何本か、回転台の上につけるんだ。ここでの会戦を参考に、設計の連中が新方式を編み出してくれることを期待しよう。しかし、今のところは回転砲台はないんだから、風向きがいいことを祈るばかりだ。ロイヤル・ソヴリンはどうだ。
 ハーディ 勇敢な動きです、閣下。あちらの方が我々よりも先に作戦行動に移るでしょう。
 ネルソン(機嫌よく。)コーリングウッドの奴は真新しい船か。このヴィクトリーにはなにしろ二年分のふじつぼがくっついているからな。ブラックウッド、君はもう自分の船に帰るんだ。
 ブラックウッド ご命令を待っておったであります。
 ネルソン 誰の命令だ。
 ブラックウッド ネルソン閣下のであります。さ、昨夜の合同会議で、閣下は小生の艦にて指揮をとられる場合もあるとの話でありました。
 ネルソン 私がそんなことを言ったか。
 ブラックウッド は、発言は他の提督殿でありました。しかし、か、閣下がこれに賛成されたと、しょ、小生は理解しました。閣下の文書による命令によれば、司令長官は...
 ネルソン くだらん。
 ブラックウッド は? 何と?
 ネルソン 「くだらん」と言ったのだ。司令長官が普通の戦艦にのる、と書いたのは、コーリングウッドのためを思ってだ。さあ、君は自分の船に戻るんだ。気をつけてな。
 ブラックウッド はっ。分かりました。
 ハーディ(ブラックウッドを引き止めて。)提督、再考をお願いします。ヴィクトリーは敵の戦艦四隻を相手にすることになります。たった一隻で。護衛艦なしに。
 ネルソン ほう、君は四隻の予定にしていたか。私は五隻のつもりだった。
(間。)
 ハーディ 少なくともテメレールをやり過ごして、我々の前を行かせる。それぐらいの手はうってもいいでしょう。テメレールは我々のすぐうしろについています。
(ネルソン無言。ハーディ、この無言を同意と受け取る。)
 ハーディ(彼づきの士官候補生に。)信号係に言って、(テメレールの)ハーヴェイ艦長に伝えろ。「テメレールが先頭にたて」と。
 士官候補生 はい。伝えます。
(士官候補生、退場。)
 ネルソン(よく聞いていない。)成程うまいやり方だ。だがまづやって貰いたい事がある。丁度君とブラックウッドがここにいて都合がよい。君達二人のサインが欲しいのだ。私のサインはほら、もうすんでいる。
(二人、書類を屈みこんで見る。ハーディ、最初にペンをとる。)
 ネルソン 書類を全部読む必要はない。しかし我々が焼け死んだり、溺れたりした時の用心のために内容の要点だけは話しておこう。この書類はレイディ・ハミルトンにはっきりと、何が何でも必ず次のものを残すと・・・うん、口で言うとなると面倒だな。最後の一文を読むことにする。(素早く読む。)「従って私は国王及び国家に、エマ・ハミルトンを遺産として残す。即ち国王及び国家は、彼女に、この地位を守るに充分な生計の糧を、与えねばならない。」署名してくれるか、この署名で、これはすべて正式なものになる筈だ。
(ハーディ、署名する。ブラックウッドが次に。士官候補生が帰ってくる。)
士官候補生 命令は実行されました、艦長。
(ネルソン、ステージの先端に行き、弦窓・・・架空のもの・・・から覗く。)
 ネルソン 何だ。あのハーヴェイのボケナスめ。テメレールをどこへ持って行こうっていうんだ。ハーディ、驚いた奴だ。どうやらこっちを追い抜こうという腹らしいぞ。すぐ止めろ。自分の位置を守れ、と言ってやれ。
 ハーディ(辛抱づよく。)自分の位置とはどこでありますか、閣下。
 ネルソン ヴィクトリーの後ろだ、勿論。他にはない。
 ハーディ しかし、先程の閣下の命令で、私はその丁度反対を指示したところでありますが。
 ネルソン くだらん。
(間。)
 ハーディ はっ、分かりました。(溜息をついて、士官候補生に。)私のさっきの命令を取り消せ。
 士官候補生 はい。取り消します、艦長。(退場。)
 ネルソン そうだ、ハーディ、見たか、私の全艦隊への信号を。連中を楽しませるためにやったんだが。
 ハーディ はい、見ました。
 ネルソン 「イギリスは本日、諸君にイギリスの運命を託す。」
 ハーディ 「託す」の信号はありませんでしたので、通信士はこれを「あづける」に変えて送りました。
 ネルソン 「イギリスは運命をあづける」? 響きが悪いな。「あづける」じゃ話にならん。君は下にいたんだな。連中は楽しんでいたか。(訳註 confide を expect に変えてうつ。confide には「體をまかす」なる性的な意味あり。)
 ハーディ それが、あまりは。誰かが声を出したのが聞こえましたが、それは「提督の頭、おかしくなったんじゃねえか。俺達は態々提督から言われなくったって、自分の義務ぐらい知ってらあ。」と。しかし、信号を送ったのはネルソン提督です。当然連中は歓呼の声を上げました。
 ネルソン 大きい声だったのか。
 ハーディ やっと聞こえるぐらいの。しかし閣下の次の信号には、腹を抱えて笑いました。あの「接近戦」のやつで。
(ネルソン笑う。)
 ネルソン うん、連中は好きだよ。あのやくざなところがまたいい。(ブラックウッドに。)じゃあ、自分の船に帰ってくれ、ブラックウッド。
 ブラックウッド では帰ります、閣下。(手を差し出す。)い、今までに経験したことのない、完全な、徹底的な勝利を祈ります。
 ネルソン うん、有難う。しかし、私の計画は、本当に完全な勝利だ。この計画を越える勝利はありえないな。ま、とにかく決めるのは神だ。では頼む、ブラックウッド。
 ブラックウッド それから、か、会戦のあとニュースをロンドンに運ぶ役目は、またユーリアラスですか。
 ネルソン(ぼんやりと。)そうだ。ああ、ハーディ、それが私の意志だとコーリングウッドに伝えてくれ、頼んだぞ。
 ハーディ 勝利の時、閣下がその命令をお下しになるのですが・・・
 ネルソン それはそうだ。ただ私が忘れていた場合の事を考えて言ったんだ。
(ブラックウッド退場。ハーディ、ネルソンの平服を見る。)
 ハーディ 平服を、と申し上げたことをお聞き届け下さって嬉しいです。星をピカピカさせてデッキを歩き回るのは自殺行為です。
 ネルソン うん、そうだな。
 ハーディ 敵のマストには狙撃兵がちゃんとへばりついています。太陽顔負けの金ピカの星で胸を飾ってデッキをぶらつけば・・・
 ネルソン おいおい、ハーディ、私はぶらつきはせんぞ。
 ハーディ はっ。
 ネルソン(弦窓――舞台にはない――から覗いて。)あのテメレールの馬鹿奴が。まだこっちを抜こうとしているぞ。ハーヴェイを軍法会議にかけてやる――これは本気だぞ。ハーディ、お前、自分で行って命令してこい。
 ハーディ(溜息をついて。)はっ、分かりました。
(一瞬沈黙がある。それから、お互いの本能が命じたかのように近づき、抱き合う。)
 ネルソン いろいろあったが、結局のところ、私はそれほど罪深くはなさそうだ。どうだ?
 ハーディ はい。
 ネルソン(背中を軽くたたいて。)うん。それから、少なくとも連中は私のことを「あいつは自分の義務だけは果たしたな」と言ってくれるだろう。これに対してどうやら私は、私を作ってくれた神に感謝せねばならないようだ。
 ハーディ はい、閣下。
(ハーディ、船室を出る。大砲の音増す。一人になると、ネルソン、箱に近づき、そこからいつもの星のついた軍服を取り出す。片手のため、苦労しながら軍服に着替える。袖で星を磨き、にやりと笑う。これが終わると縁にそりのついた提督の帽子を、角度に充分気をつかって被る。船室を出、デッキに上がって行く。船室の照明、急に消える。しかしターナー風の背景画には、照明、そのまま残る。大砲の音、ますます激しくなる。それから、大砲の音に混じって、教会の鐘の音(単独――複数は鳴らない。)が聞こえてくる。背景画の照明も急に消え、大砲の音も静かになる。教会の音楽が聞こえてくる。)

     第 四 場
(教会の鐘の音、大きくなる。照明がつくと、そこはマートン。喪服に身をつつんだフランシスが居間に、非常に静かに立っている。家具は塵除けのシーツが被せてある。深い悲しみの表情で、フランチェスカが階段を降りてくる。)
 フランチェスカ Lady Hamilton, vi vuole vedere, eccelenza, ma forse sarebbe... (レイディ・ハミルトンはお会いになりたいと。でもどうかお帰りになって下さいませんか。)
(フランシスが分からない様子なので。)
 フランチェスカ レイディ・ハミルトン・・・よくない・・・よくなったとき・・・あとで・・・
 フランシス ええ、では何か置き手紙をして・・・
 フランチェスカ Si, si, eccelenza. (はい、はい、奥様。)では、紙を持って・・・来ます。
(エマがホールの方向へ歩いてくるのが見える。 足が覚束ない。夜着を着ていて、アンドロマケーの役の時着た、紫のマントを着ようとしているが、なかなか入らない。)
 エマ(舞台裏から。)フランチェスカ、フランチェスカ。Dove stai, idiota.(どこなの、お前。馬鹿。)
(フランチェスカ、階段を駆け上がり、エマをとめ、フランシスに会わせまいとする。)
 フランチェスカ Se n'e andata -- se n'e andata, tornate a letto. (お客様はお帰りになりました。お帰りに。どうかベッドにお戻り下さい。)
 エマ L'ho vista, bugiarda.(嘘つき。私には見えたのよ。)車はまだ外にあるじゃないか。
(エマ、フランチェスカを押しのけて居間にはいる。フランシス、既に、挨拶をするために立ち上がっている。鐘の音響く。)
 エマ レイディ・ネルソン。(少しふらつきながら、膝をついて挨拶する。)
 フランシス レイディ・ハミルトン。(威厳をもって挨拶を返す。)
 エマ(フランチェスカに。)Aiutarmi. (着せて。)
(エマ、マントを指差す。フランチェスカ、涙が出そうになるのを抑えて、マントを着せる。)
(鐘の音、また響く。)
 エマ(この間にフランシスに。)衣装棚を長い間捜しましたが、喪に相応しい衣装はこれしか見つかりませんでした。黒いものは着たことがなかったのです。それにずーっと寢たっきりで起き上がったことがなくって。(ですから喪服を作らせることも出来なかった。)(フランチェスカに。)何をもたもたしているの。自分でやります。あっちへ行きなさい。
(フランチェスカ退場。)
 エマ これは余興の芝居をした時に着た衣装です。紫は喪でしたわね、慥か。とにかくこれは、アンドロマケーの衣装です。この衣装を着てアンドロマケーを演じたのです。最後に演じたのはここ。丁度この部屋。夕食後でした。観客には貴方の夫、ネルソンも。
(この「夫」という言葉を使うのはエマには辛い。)
(鐘響く。)
 エマ お訪ね下さって洵に光栄ですわ、レイディ・ネルソン。ご用件は何なのでございましょう。
 フランシス 深いお悲しみのところを大変不躾(ぶしつけ)とは存じましたが、本当に急を要することですので失礼をかえりみずまいりました。
 エマ ええ、そのようなご用件と御察し致しましたわ。
 フランシス お聞き戴きたい大変重要なニュースがございますの。(お身の上に直接関係のある事なのです。)明日には新聞に出ましょう。そしてお読みになることでございましょう。でもこのニュースは私が御伝えするのが一番と思ったのです。
(鐘、また響く。)
 エマ 新聞はもう私、読んでいません。(回りを見て。)このように家をとりちらかしていて申し訳ありません。ここは奇麗な家でした。そしてこの部屋はその中でも一番奇麗な。実は使っている者達が、みんないなくなったのです。フランチェスカを除いてみんな。給料の支払遅延で。こんな話お分かりにはならないでしょうね。下世話な、こんな話・・・
 フランシス どうか、レイディ・ハミルトン、私のお持ちしましたニュースをお聞きになって下さいませんか。
 エマ ニュース? ええ、ちょっと、ちょっとお待ちになって。(回りを見回す。)何か飲み物を・・・折角いらして下さ・・・
 フランシス お構いなく、どうぞ。飲み物はいりませんから・・・
 エマ ええ、でも私の方はいるわ。失礼して・・・
(ただ一つカバーのしていないテーブルからブランデーの壜を取り上げ、大コップに注ぐ。)
 エマ コップがなくなって。(こんな大コップで。)食堂には少しあるんですけど、歩いて行くには遠すぎますわ。そう、お帰りになる前には、必ず食堂を見て行って下さい。いつかの晩、あの人がコップ類、銀器を使って、あの海戦の作戦を説明したんですの。そのままの配置が残っています。海戦はあの作戦通り展開しました。ほとんどあの通りに。いろいろ聞いてみますと・・・トラファルガー沖で。スプーンとかナイフ、少し取られてしまいました。でも海戦の概略はまだ充分つかめますわ。本当に奇麗・・・でしたわ、まだ・・・この間、私が見た時は。
(再び飲む。)
(鐘、響く。)
 エマ(突然、金切声を上げる。)ああ、あの鐘、あんなものどうして鳴らすの。ネルソンが死んだって、もう知らないものはいないじゃない。それに、あれは勝利だったんでしょう? それも大勝利。(声が上ずる。)――あの人の予告通り。坐ってもいいですか、レイディ・ネルソン。長いことベッドにいて、足が弱っていて。 それに勿論ブランデーのせいも。ブランデーのこと、隠したって無駄ですものね、奥様には。
 フランシス 私、来るのではありませんでした。今やっと分かるなんて。
 エマ 来ない方がよかった? だって来なければ偵察出来ませんわ。
 フランシス 偵察? 私が? どうしてそんな。でも分からないのね、自分の心だって。自分のつもりでは正しいことを、と思っていても、その本当の理由は別のところにあったのかも知れない。
 エマ 私がもしあなたの立場にいたら、きっとここへ偵察にやって来たでしょうね。
 フランシス まさか。あなたはそんな方ではありませんわ、レイディ・ハミルトン。
 エマ いいえ、私は「そういう方」なの。ここに偵察に来てにやりと笑ったでしょうね。だって私、そういう女なの。
 フランシス それは私は信じません。ご想像の通り、あなたの噂は沢山聞きました。それに随分あなたのことを調べましたわ。私の立場にいらっしゃれば、あなただってそうなさったでしょうけど。(エマ、頷く。)で、分かったことは、気風(きっぷ)がよくて鷹揚(おうよう)で、ということだけですわ。(意地悪など薬にしたくてもなかった。)
(間。エマ笑う。)
 エマ まあまあ。言葉って何ていいかげんなんでしょう。気風がよくって鷹揚。ただ「ばいた」っていうだけのこと。あなたの夫を盗んだ、ば、い、た。
 フランシス あの人は私のベッドを出て行って、あなたのベッドに行った。いつかは出て行かなければならなかったの。誰かのベッドを求めて。それは分かっていた。もうずっと前から。だから偶々それがあなたのだったっていうだけのこと。私はあなたに恨みはないわ。
 エマ 私はあなたを恨んだ。だって私の敵だったもの。あなたは私の容赦ない、冷酷な敵だった。私のこと憎んだでしょう? あなた。
 フランシス(静かに。)ええ、憎んだ。丁度あなたが私を憎んだと同じように。
 エマ でも私には理由があった。あの人は私のものになっていた。完全に私のものに。體の隅々まで、どこからどこまで、私のものに。でもあなたはじっとそこにいた。陰に隠れて。待っていたの。そうなんでしょう。
 フランシス ええ。
 エマ そこにじっと坐って・・・編み物をして、繕い物をして、待っていた。ペーネロペーね。オデュッセウスが家に帰って来るのを待っている。
 フランシス ええ、そう。私のオデュッセウスを待っていたの。待っていた。でも、この私のオデュッセウスは帰ってこなかった。それでも、私の待っていた事、こんなに長い年月(としつき)、それは演技ではなかったわ。あ、ご免なさい。これは意地悪な言い方だったわ。
 エマ あの人、結局はあなたのところへ帰っているところなのね。今ビスケー湾あたりまで来ている。ブランデーの樽に漬かって。あの人の帰るところはあなた・・・あなたって今何でしたかしら・・・子爵夫人? いえ、ネルソン伯爵夫人ね。その人のところへ。私のところへじゃない。あの人があんなに愛していたこの私のところへじゃないわ・・・絶対に。アルコール漬けになって、あなたのところへ。あなたが待っていたものは、あれなのかしら。
 フランシス いいえ。
 エマ(笑って。)あなたが待っていたあの人って・・・生きたあの人だったのかしら。
 フランシス ええ、そう。子供じみていたわ。今考えると。でも正直に言えば、そう。私、あの人が帰って来るのを待っていた・・・生きて。
 エマ あなた・・・トム・ティット・・・のところへ?
 フランシス 年老いてくれば・・・そうすれば少なくとも、私の方にと。
(間。)
 エマ(コップを持ち上げて。)じゃあ、乾杯しなくっちゃ。年老いたネルソンに!(エマ飲む。)医者はこんなに飲んでいると死ぬことになると言っている。ええ、たいして長くはないでしょう。それにその方がいい。借金地獄で生き長らえるなんて、考えてもいい気持ちがしない。来るわ、借金地獄は。もう目に見えている。
 フランシス 借金地獄はありえません、レイディ・ハミルトン。そのことをお話しようと伺ったのですわ。
 エマ どういうことでしょう。
 フランシス 他の書類にまざってある書類が届いたのです。それにはネルソンの署名があり、ブラックウッド艦長、ハーディ准将の正式な副署(名)がついていました。
 エマ あらあら、ハーディは今は准将?
 フランシス ええ。
 エマ あの人のことを「男色野郎」だなんて呼んだの、私。昇進やら、勲章やら、大変だったでしょうね。それで・・・その書類は?
 フランシス それは夫の・・・ネルソン卿の、生存中最後の書類です。それには、あなた、エマ・レイディ・ハミルトンを、国家への遺産として遺(のこ)す、と明記されていたのです。
(長い間。鐘、響く。)
 エマ(頭を後ろに倒し、叫ぶように笑う。)国家への遺産? 私を? なんて馬鹿な話。そんなことになったら、私、死ななくちゃ。
(ヒステリーぎみに笑い続ける。フランシス心配して見つめる。)
 エマ 国家への遺産? 私を。議事堂の台座の上に、裸の私の彫像が飾られるっていうの? 丁度夫のウイリアムが生きていた時、あの人の悪戯にひっかかって、みんなの前で裸にされて見せ物になった、あの時みたいに。国家への遺産、宮廷で王と女王の間の玉座に私が坐るの? 玉座には飾り板がついていて、「エマ・ハミルトンの座。ネルソン子爵より王と国家へ遺されしもの。故国家の英雄のばいたの座」と書かれている。――ああ、なんていう人、ネルソンて。なんていう赤ちゃんなんでしょう。あ、そう。でも約束があったんだわ。あの人と私が交わした、あの晩の。決してお前を一人ぼっちにはさせない。そうね。国家の遺産になったら、一人ぼっちにはなろうと思ったって、なれやしない。まあ、なんて赤ちゃん。なんて子供なの、あの人。こんな馬鹿なことを考えつくなんて。
(鐘、鳴る。)
 フランシス ネルソンの遺言が実行に移されるよう、あらゆる努力がなされるであろうと、侯爵ご自身がこれに賛意を・・・
 エマ 侯爵? 侯爵って誰?
 フランシス ネルソン侯爵・・・ウイリアム ネルソン。私の夫の兄。
 エマ ああ、あの人、今は侯爵? ごますり一番、ケツナメ男のあの司祭長。お経なんて読んだことのない・・・いえ、この間は読んだわ、きっと。弟が海戦で死にますように、そして、私が侯爵になりますようにって。ネルソン一族、艦隊の他の乗り組み員達はどうなったのかしら。ウイリアムの息子は? あれは何かに?
 フランシス トラファルガー子爵。
 エマ トラファルガー子爵? あの鼻たれ小僧が? ああ面白いわね、世の中って。
(鐘、鳴る。)
 エマ そして全員今度は、あなたの方に戻って行ったのね。私の方にはもう誰もいない。で、ミントは? ミントにお会いになって?
(フランシス、頷く。)
 エマ そうね。一番逃げ足の早い男。保証するわ。そう、今じゃ、あなた大勝利だわ。
 フランシス 大勝利? たとえそうでも、それを嬉しがるような私だとは思って戴きたくないわ。一瞬の間でも。
 エマ どうしてかしら。
 フランシス そんなことを楽しむような女ではないの、私は。もしそんな女だったら、態々ここへ来るようなことはしなかったでしょう。あなたには私が理解出来ないの、レイディ・ハミルトン。
(間。)
 エマ ええ、理解したことはなかったわ。そう、今まで一度も。
(鐘、鳴る。)
(エマ、フランシスの傍に来て、彼女を見つめる。)
 エマ 善い人であるっていうこと、それはどんな気持ちなんでしょうね。
 フランシス 辛いわね。いつもそうであろうとすれば。
 エマ 私のことは、分かったことがあるのかしら。
 フランシス いいえ。
 エマ 世の中って、奇妙な具合。
 フランシス もうベッドにお戻りになった方がいいわ。これでお暇します。おつきのあの人を呼びましょうか?
 エマ 私が呼びます。(叫ぶ。)フランチェスカ。Vieni qui subito!(早く来て。)
(フランチェスカ登場。)
 エマ フランチェスカ、accompagna la signora contessa alla sua corrozza.(フランチェスカが馬車までお送り致しますわ。)
 フランシス ご主人様をみてあげて。私は自分で出来ます。(エマに。)私を信じて下さい、レイディ・ハミルトン。私の力の及ぶ限り、夫の遺言は必ず守るよう取り計らいますわ。そして少なくともあなたの負債は全て議会から支払われるように。
 エマ しようとして下さる、そこは信じますわ。(一口飲んで。)でも勿論うまくいく筈がない。議会ですって? 採決に回されるところまでだって行きっこない。(自分のマントを見て。)ああ、戦を飾る花輪が萎(しぼ)み、年端もゆかぬ男女が・・・あら忘れてしまった。若い男女が何をするんだったかしら。そうね、どうせ男女がやることなんか、決まりきっているわ。(フランシスに。)ご免なさい。あの夜、私、クレオパトラの台詞を入れたの。かなりの量の台詞を。ハーディの奴を困らせてやろうって。あの人ちっとも困りはしなかった。シェイクスピアを知らないんだから。今じゃ、私も忘れてしまった。覚えているのはここね。物のけじめは失われ、回り来る月の下には、何一つ際だったものがなくなってしまったのだ。
 フランシス どうか希望をお捨てにならないで。力の及ぶ限りやってみますわ。お約束します。
 エマ 約束は不要ですわ。(世間話をする時のように。)そうね、レイディ・ネルソン、こんな馬鹿なことを考えて・・・でもちょっと興味があるわ。百年後、私達のうちどちらがネルソンの女として記憶されるでしょう。やはりあなたね。私はただのおなぐさみ。じゃ「おなぐさみ」のために乾杯だわ。(また一飲みする。鐘、鳴る。エマ、金切声を上げる。)ああ、どうしてあれを止めないんでしょう。
 フランシス ではこれで失礼しますわ。(フランチェスカに。)ご主人様をどうかしっかりみてあげて。
(独特のピョコピョコする歩き方で、部屋から出ようとする。しかし、フランチェスカの声を聞き、振り返る。)
 フランチェスカ(エマを支え止めて。)E ma, eccelenza, per l'amore di Dio, tornate a letto.(どうか奥様、ベッドにお戻りになって。)
(エマ、フランチェスカを振り払い、よろよろとハープシコードに進む。やっとのことで蓋を開け、スツールに坐る。左手だけでルール・ブリタニアの最初の部分を彈く。宙を見上げて答が返って来るのを待つ。)
(鐘、鳴る。)
(エマの頭、酔のためか、絶望のためか、ガクンと下に落ち、キイボードをたたく。ハープシコード、雑然とした音をたてる。ブランデーの壜を持った右手が傾き、床にブランデーが流れ落ちる。フランチェスカ急いで駆け 寄る。)
 フランシス(ホールから心から同情をもって。)かわいそうに。レイディ・ハミルトン。
(フランシス、暗闇の中に、小鳥の歩き方で退場。)
                      (幕)

    平成三年(一九九一年)七月十九日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html



A Bequest to the Nation was first produced at the Theatre Royal, Haymarket, London, on September 23rd, 1970, with the following cast:

Characters in order of their appearance
George Matcham Snr Ewan Roberts
Katherine Matcham Jean Harvey
Betsy Deborah Watling
George Matcham Jnr Michael Wardle
Emily Una Brandon Jones
Frances, Lady Nelson Leueen MacGrath
Nelson Ian Holm
Lord Barham A. J. Brown
Emma Hamilton Zoe Caldwell
Francesca Marisa Merlini
Lord Minto Michael Aldridge
Captain Hardy Brian Glover
Rev. Willaim Nelson Geoffrey Edwards
Sarah Nelson Eira Griffiths
Horatio Stuart Knee
Captain Blackwood Geoffrey Beevers
Midshipman Stuart Knee
Footmen, sailors, maids Stanley Lloyd
Conrad Asquith
Graham Edwards
Chris Carbis
Deborah Watling
Alison Coleridge

Directed by Peter Glenville


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Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
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These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.