影

           エフゲーニイ シュヴァルツ 作
            能 美 武 功  訳
            城 田  俊   監修
     
  登場人物
   学者
   その影
   ピエトロ・・・ホテルの主人
   アヌンツィアタ・・・彼の娘
   ユーリア・ジューリー・・・歌手
   王女
   総理大臣
   ツェーザリ・ボールジア・・・新聞記者
   枢密顧問官
   医者
   死刑執行人
   大臣
   伍長
   宮廷の女達
   宮廷の男達
   湯治客達
   レクレーション係の看護婦
   治療係の看護婦
   式部官
   大蔵省の侍僕(二人。)
   見張り
   町の人達
   
 そして学者は怒りました。別に影が彼から去って行った事、その事を怒ったのではありません。ではなくて、彼の国で誰でも知らぬもののない有名な影なし男の話を思い出したからなのです。もし彼が家に帰って自分の話をしたら、誰もがきっと言うでしょう。「あの人、ひとの真似をしている。」
        ハンス・クリスチアン・アンデルセン 
                「影法師」
   
 何かある主題が私の血となり、肉となって、私の体の一部となる。すると、私はそれを改造するのです。そして、改造してからはじめてそれを、世に出すのです。
        ハンス・クリスチアン・アンデルセン
          「私の人生のお話」 第八章

   
     第 一 幕
(南国のあるホテルのあまり大きくない一室。二つの扉あり。一つは廊下に通じ、一つはバルコニーに通じている。黄昏。二十六歳位の若い男がソファに座って居る。「学者」である。彼はテーブルの上を手で探っている。眼鏡を捜している所。)
 学者 眼鏡をなくすのは不便な事だ。だけどいい事もある。黄昏の中で僕の部屋全体が普通とは全く違った風に見えて来る。肘掛椅子に無造作に置かれた此の毛布。毛布なのに大変可愛らしい優しい王女様の様に見える。僕は王女様に恋をし、王女様が僕の所に客として来てくれたのだ。勿論一人で来たのではない。おつきの者なしで出歩くなんて許されてはいない。この細い長い木の箱に入った柱時計は、もう時計ではない。これは枢密顧問官。王女の付き人だ。彼の心臓は振り子の様に正確に打つ。彼の助言はその時、その時の要請に応じて変化し、(助言を与える時には)囁き声で行う。つまり機密に関する顧問官の名に恥じない訳。そしてもし自分の出した助言が後になって具合の悪いものになった時には、「そんな助言は出した覚えはない。」と否定するのだ。「私の話がよく聞こえなかったのでしょう。」と言うのだ。枢密顧問官の側からすれば便利の良い話さ。それから、これはだれだ。此の見た事もない、痩せて背の高い、黒づくめの、色白の男は。これは王女の許嫁か。馬鹿な。どうしてそんな考えが頭に浮かぶのだ。僕は王女に惚れちゃっているんだ。だから王女が他の者と結婚するなんてそんなけしからん話が頭に浮かんでたまるものか。惚れて惚れて、惚れぬいているんだ。他の男に嫁ぐなんて、頭に浮かぶだけだって一大事。(笑う。)こういう話がまた話として素晴らしいのは、僕が眼鏡をかける、すると、かけた途端に今までの登場人物は、パッと物に変わって仕舞う、と、こうなんだ。毛布は毛布に。時計は時計に。そして、青白い黒づくめの男は、居なくなってしまう。(テーブルの上を探る。)あ、眼鏡だ。(眼鏡を掛け、叫ぶ。)ええっ? これは。
(肘掛椅子には非常に美しい、豪華に着飾った、目にマスクをつけた女が座っている。その後ろに星のついたフロックコートを着た、禿頭の老人。壁には、背の高い青白い、痩せた男が燕尾服を着て立っている。胸と襟に見えるシャツは、目が覚めるほど白い。指にはダイヤの指輪。)
 学者(マッチを付けながら呟く。)なんていう奇跡だ。しがない学者が、こんなに貴い方々の訪問を受けるなんて・・・今日は、皆さん! 大変うれしゅうございますが、でもどうして、どうしてこの様な光栄を私奴が・・・ご説明下さいませんか。 黙っていらっしゃる。ああ、分かった。僕は眠っていたんだ。なんだ、夢か。
 マスクの女 いや、これは夢ではない。
 学者 ああ、驚いた。では何でしょう。
 マスクの女 これはそういう話なのだ。またお前と会う事になろう。学者よ、ではその時まで。
 燕尾服の男 さらばだ、学者。また会う時まで。
 星のついた老人(囁き声で。)さようなら、親愛なる学者君、またお会いしよう。まあ、多分この話はめでたしめでたしで終わるだろう。ただし、君が分別ある行動をとるとすればの話だがね。
(扉にノック。三人ともさっと消える。)
 学者 え、なんて言う話だ。
(ノック、再びする。)
 学者 どうぞ。
(アヌンツィアタ、登場。髪は黒。大きな黒い目の少女。顔は非常に生き生きして居る。動作と声はギスギスして居らず、優しい。美人。十七歳位。)
 アヌンツィアタ 失礼します。御来客中に・・・あっ。
 学者 どうしたの? アヌンツィアタ。
 アヌンツィアタ この部屋で、はっきりと声がしていたのに・・・
 学者 うたた寝をしていたから。それは僕の寝言だよ、きっと。
 アヌンツィアタ でも・・・すみません、こんな事を言って・・・でも、女の人の声が・・・
 学者 ああ、王女様の夢を見ていたから。
 アヌンツィアタ それから年寄りの人の声が・・・ぶつぶつ呟く様に・・・
 学者 枢密顧問官も登場していたからね。
 アヌンツィアタ それから男の人の声。何か怒鳴りつけている様な。
 学者 ああ、それは王女の許嫁だよ。さてと、これで分かったろう。夢だって事が。だいたいそんな不愉快な客が夢じゃなくって僕の所にやって来る訳がないじゃないか。
アヌンツィアタ ご冗談でしょう?
 学者 そう。冗談。
 アヌンツィアタ 有り難うございます。あなたっていつも優しいわ。じゃあきっとあの声は隣の部屋から聞こえたんでしょう。それをごっちゃにして・・・私の事怒っていらっしゃらない? 一寸お話していいかしら。
 学者 勿論構わないよ。
 アヌンツィアタ 私前から御注意申し上げようと思っていた事があるの・・・怒らないで。あなたは学者で、私はただの小娘。でも・・・私が知っていて、貴方が知らないことを一寸お話しできると思って。(膝をかがめる女性のお辞儀をする。)この厚かましさをお許し下さいませ。
 学者 とんでもない。話してくれないか。僕に教えて欲しいんだ。僕は確かに学者だ。だけど学者というのは、この世のあらゆるものから学ぶんだよ。
 アヌンツィアタ 冗談でしょう?
 学者 これは真面目な話だよ。
 アヌンツィアタ どうも有り難うございます。(扉の方を見る。)本では私達の国について、いっぱい書いてあるわ。健康的な気候。綺麗な空気。素晴らしい景色。暖かい太陽・・・御存知でしょう、この国について本ではどんな風に書いてあるか。
 学者 うん、分かっている。だから僕は態々やって来たんだからね。
 アヌンツィアタ ええ、だから本に書いてある事は貴方には分かっているの。でも書いてないこと・・・それは分かってないわ。
 学者 そう。学者はえてしてそうなんだ。
 アヌンツィアタ 此処、今あなたが住んでいる国は本当に奇妙な国なの。その事を分かっていらっしゃらない。お話に出てくること、他の国でなら、ただお話だけにある事、それがここでは全部本当にあるの。それも毎日。例をあげてみましょうか。眠りの森の美女、御存知でしょう? あの人、あの煙草屋、ほら、あそこの噴水の右側にある。あの店から真っ直ぐ歩いて五時間のところに住んでいたのよ。でもついさっき亡くなったの。人食いの大男、あの人は今も生きていて質屋で働いているわ。質草の目利きをしているの。一寸法師はグレナデールと言うあだ名の背のたかーい女の人と結婚して、子供が生まれているの。子供の背は普通なのよ。私とか貴方とか位。面白い事があるの。このグレナデールっていう奥さん、一寸法師の尻に敷かれているの。すっかり。市場にも一寸法師を連れて行く。すると奥さんのエプロンにでんと座って値段が高いって負けさせるの。恐ろしい勢いなのよ。だけど仲がいいの。奥様はそれは旦那様に気を使って、お祭りの日毎に、メヌエットを踊りに行くんだけれど、いつもの二倍の度がある眼鏡をかけて行くの。うっかり旦那様を踏みつぶさないように。
 学者 それは面白い話だな。どうしてこの国について書いてある本にその事を載せないんだろう。
 アヌンツィアタ(扉の方を見ながら。)お話が嫌いな人もいるから。
 学者 まさか。
 アヌンツィアタ いいえ、本当。だって分かるでしょう? (扉の方を見ながら。)私達心配しているの。これを知られたら、もうだあれも此の国に来なくなるんじゃないかって。そんな事になったら困るでしょう? ですからこれは誰にも言わないでね。
 学者 分かった。誰にも言わないよ。
 アヌンツィアタ 有り難うございます。私の父はかわいそうな人。お金が大好きなの。父の収入が無くなったらどうしよう。私気が狂ってしまう。それぐらい機嫌がわるくなるの。もう悪口雑言。
 学者 ねえ、一寸待って。さっきの話だけど、お話が全部本当になるって知ったらこの国に来る人は増える一方じゃないのかな。
 アヌンツィアタ 増えないの。来るのが子供だけなら減ったりはしないわ。でも大人は用心深いから来なくなるの。だってお話って大抵悲しい終わり方をするでしょう? それを大人はよく知って居るもの。その事を私、話しに此処へ来たのよ。用心しなくちゃいけないわよ。
 学者 用心って? どうやって? 風をひかない為には暖かくする。落っこちないようにする為には、足元をよく見る。でもお話の悲しい結末に引っ掛からないようにするにはどうやったらいいんだろう。
 アヌンツィアタ そうね・・・私にも分からない。でもあまり良く知らない人とは話しちゃ駄目よ。
 学者 そしたら僕、ずっと黙っていなくちゃならない。旅行者なんだから、知らない人ばかりだ。
 アヌンツィアタ 私はしょっ中台所で働いているでしょう? コックは女の人なんだけど、その人に十一人友達がいて、過去、現在、未来の事、何でも知っているの。あの人達には何も隠しておけないわ。どこの家で何が起こっているか、まるで壁がガラスで出来ているみたいに分かっちゃうの。台所にいて、笑ったり、泣いたり、怖がったり、特に面白い事件の日なんかには、竈の上でお料理が黒焦げになっちゃうくらい。その人達が声を揃えて言っていたわ。貴方はいい人って。
 学者 その人達なんだな。この国ではお話が本当になるって言ったのは。
 アヌンツィアタ ええ。
 学者 うん、確かに夜、それも眼鏡をとるとそれを信じたくなるような気分だね。 だけど、朝、ホテルをでると、とたんに全く違う風に見えて来る。この国は残念ながら世界中の他のどの国とも違わない。同じだ。富、貧困、貴族、奴隷、死、不幸、理性、愚鈍、神聖、罪悪、良心、厚顔無恥、これら全部が渾然一体となっていて、本当に恐ろしいくらいだ。このもつれを解いて、一つ一つばらばらにして、構成しなおして秩序を与えなきゃいけない。生きている物に害を及ぼさないようにね。だけど、とても無理だ。お話でならこんなこと簡単な筈だよ。
 アヌンツィアタ(膝をかがめてお辞儀。)有り難うございます。
 学者 え? どうして?
 アヌンツィアタ そんなに綺麗な言葉で話して下さるんですもの。私みたいな何も知らない女の子に。
 学者 いやなに、学者にはよくあるんだ、こういう事が。で、ちょっと訊きたいんだけど、僕の友達のハンス・クリスチアン・アンデルセン、彼は此処に、この部屋に、住んでいたんだけど、今の話――つまり話が此処では、本当になるっていうこと――知っていたのかな。
 アヌンツィアタ ええ、なにか噂では知っていた様子よ。
 学者 それについては、どう言っていたんだろう。
 アヌンツィアタ「私は何時も真実、真実のみを書いてきたつもりだ。」って言ったんですから・・・。あの人このホテルが随分気にいっていたわ。ここがこんなに静かなのが好きだったのね。
(耳を聾するピストルの音。)
 学者 あれはなんだ。
 アヌンツィアタ あ、気にしないで。父がまた誰かと喧嘩したのよ。父は短気ですぐぶっ放しちゃうの。だけど誰もまだ殺していないわ。神経質すぎて何時だって的を外しちゃうの。
 学者 ああ、その現象は分るな。もし的に当ったりしていたら、あんなに簡単にはぶっ放さないよ。
(舞台裏から、「アヌンツィアタ」と大声。)
 アヌンツィアタ(柔和に。)いますぐね、パパ。此処にいるのよ。あっ、すっかり忘れていたわ、此処に来た用件を。コーヒー? ミルク? どっちになさいます?
(ピストルの音がして、扉がさっと開く。スラリとして、肩幅の広い、年より若く見える男が、部屋に入って来る。顔はアヌンツィアタに似ている。不機嫌で目を合わさない。これは家具つきの部屋の、此のホテルの所有者、アヌンツィアタの父親、ピエトロである。)
 ピエトロ 私が呼んだ時に何故すぐやって来ないのだ。ほら、すぐピストルに弾を籠めるんだ。聞こえただろう? 父親がぶっ放したのを。気がきかないったらありはしない。いちいち説明がいるんだからな。殺してやる!
(アヌンツィアタ、落ち着いて、大胆に、父親に近づき、額にキスする。)
 アヌンツィアタ 行きましょう、パパ。さようなら、学者さん。
(退場。)
 学者 どうやら貴方の娘さんは、貴方を怖がらないようですな、ピエトロさん。
 ピエトロ あの子ときたら、私が斬り殺されようが平気だ。私がこの町一番の優しい父親であるかのような顔をしおって。
 学者 その通りだからじゃないんですか。
 ピエトロ 娘本来の仕事じゃないんだ。私の考えとか心情を見抜いたりして。我慢ならん。アヌンツィアタの奴・・・不愉快なことだらけだ。十五号室の男はまた家賃の支払いを拒絶しおった。怒り狂って、私は十四号室の住人にピストルをぶっ放したんだ。
 学者 十四号室も支払い拒否で?
 ピエトロ いや、払って呉れている。しかし、この十四号はつまらん奴で、わが国の総理大臣も手を焼いている。それから忌ま忌ましい滞納者の十五号室は、その三倍も忌ま忌ましい我が国の或る新聞社に勤めている。ええい、此の世界なんか消えてなくなればいいんだ。此のホテル中を、取り立ての為に、あっちこっち、栓抜きみたいにほっつき歩いても、収支なんか合ったためしがない。餓死してぶったおれないようにホテルの主以外にも職を持たなきゃならん。
 学者 で、他にも?
 ピエトロ ある。
 学者 それは?
 ピエトロ 質屋の質草の目利き。
(突然音楽が聞こえる。時々はやっと聞こえるような小さな音。時々はこの部屋でやっているような、大きな音。)
 学者 教えてくれませんか・・・教えて・・・あれは何処で演奏しているのですか。
 ピエトロ その正面の家だよ。
 学者 住んでいる人は?
 ピエトロ 知らないな。何処か胡散臭い国の王女だそうだけど。
 学者 王女!
 ピエトロ という噂。そうだ、用事があって来たんだ。あの忌ま忌ましい十五号室の住人がお前さんを訪問していいかと訊いたんだ。あの新聞記者の奴が。あのぬすっと奴、一番いい部屋に陣取って動こうともしやがらん。で、いいのかな、来ても。
 学者 どうぞ、それは嬉しいな。
 ピエトロ 喜び方が早すぎるんじゃないかな。では失敬。
(退場。)
 学者 ホテルの主(あるじ)が質草の目利き。人食いの大男か。呆れたな、これは。
(学者、バルコニーに通じる扉を開く。反対側にある家の壁が見える。狭い通り。反対側の家のバルコニーがこちらの部屋のバルコニーに殆ど接している。扉を開けると、すぐ通りの喧騒が窓から聞こえて来る。全体のざわ
めきから次の様な個々の声が聞き分けられる。)
 声  ――西瓜、西瓜、半分でも売るよ。
   ――水、水、冷たい水だよ。
   ――殺人用ナイフ、殺人用ナイフはいかが。
   ――花は如何。薔薇に百合、チューリップ。
   ――ろばを通して、ろばが通るよ。一寸どいて、ろばだよ、ろばのお通りだ。
   ――哀れな唖にお恵みを。
   ――毒薬はいらんかね。よく効く毒だよ。
 学者 この町は沸騰している。まるで大鍋を火にかけているみたいだ。なんて気持ちのいい所なんだ、此処は。これで僕に悩みさえなければ、僕の永遠の悩み、世界はどうしたら救えるか。これが解決出来なければ、世界は幸福になれない。それも、この僕が考えなければ・・・どうしてこんな事を僕が考えるんだろう。(態々、僕がやらなくてもいいのに。)この悩みさえなければ、言うことなしなのに。あのバルコニーから、あの人が出てくると、ぼくはどうしても何かしなければならないような気がしてくる。ほんのちょっとした何か・・・そうすれば、すべてはすっかり分かって仕舞うんだが。
(非常に美しい婦人登場。着ている物も申し分ない。婦人、眼を細くして見回す。学者、婦人に気づかない。)
 学者 海に、山に、そして此の私に、調和があるんだから、この世界だって、今よりずっと調和・・・
 婦人 それは成功しないわね。
 学者(振り向く。)これは驚いた。
 婦人 そんな事はありっこないのよ。あなたが今ぶつぶつ言って居たこと。そんなの機知のかけらもない。それ貴方の新しい論文? 貴方何処にいるの? 今日はどうかしてるわね、あなた。私の事が分からないの?
 学者 一寸分からないんですけど。
 婦人 からかうのもいい加減にして頂戴。こちらの近視をいいことに。趣味が悪いわね。貴方、何処なの。
 学者 此処です。
 婦人 もっと近くに来て頂戴。
 学者 さあ、これなら。(婦人に近寄る。)
 婦人(驚く。)貴方だあれ。
 学者 旅行者です。だからホテルに居るんです。さあ、これが僕です。
 婦人 御免なさい。此の私の眼ったら、また私を騙して、変な所へ連れて来たわ。此処十五号室じゃないの。
 学者 いいえ、残念ながら。
 婦人 随分優しくって上品な顔ねえ。どうして貴方、私達のクラブに来なかったの? 私達のクラブって、人物中の人物が会員になっているのよ。
 学者 何のクラブですか。
 婦人 画家、音楽家、作家、宮廷人が来るの。時々は大臣も。趣味の良い、偏見のない、理解力のある人達の集まり。貴方、有名?
 学者 いいえ。
 婦人 残念だわ。有名でないと入会出来ないの。でも・・・でも私、貴方は許可するわ。それぐらい気にいったわ、貴方の事。気を悪くした?
 学者 いいえ、とんでもない。
 婦人 一寸、此処に座っていいかしら。
 学者 どうぞ。
 婦人 あなたって私がこのながーい人生、捜し続けてきた丁度その理想の人物だわ。時には声とか話し方で、あっ、この人だ、って思う人が居ても、近くに寄ってみるとまるっきり違うの。でもその時は後ろに下がろうとしても無理なの。近寄り過ぎている。美人で近視っていうのは不便な事ね。退屈?
 学者 いいえ、とんでもない。
 婦人 あなた、はっきりと、落ち着いて答えるのね。好感がもてるわ。あの人は駄目。いらいらしちゃう。
 学者 誰の事ですか。
 婦人 私が会おうとしている人。あの人、自分に自信がないの。だから誰からも気にいられようとする。流行を追うことに汲々としている。例えば日焼けが流行になったとする。すると黒人みたいに真っ黒に焼いて来る。日焼けの流行(はやり)が廃る。すぐ手術をするの。水着の下の皮膚だけがあの人の体で白い所。だからそれを顔に移植したわ。
 学者 そんな事をしたら、体に悪いんじゃないのかな。
 婦人 いいえ、ただ面の皮が厚くなっただけ。今ではひっぱたいても蚊が刺したくらいだなんて言ってるわ。
 学者 じゃあ、どうしてそんな人に態々会いに行ったりするんですか。
 婦人 だってやはり私達の集まりの一員だから。 あの錚々たる人物の集まりの中の。それにあの人新聞記者なの。私の事は御存知?
 学者 いいえ。
 婦人 私は歌手。ユーリア・ジューリー。
 学者 ああ、あの有名な。
 ユーリア ええ、私の歌は知らない者がいないわ。「ママ、恋って何なの」「少女よ、恋は早めに」」でも私燃えてこないの、いくらあの人に愛されても」「私今原っぱにいない、何故かしら」貴方、お医者さん?
 学者 いいえ、歴史家です。
 ユーリア 此処へは御静養?
 学者 この国の歴史を調べに。
 ユーリア この国は小さいのよ。
 学者 ええ、でも此処の歴史も他の国と似ているんです。それがまた面白い。
 ユーリア 何故?
 学者 すべての国に適用可能な法則がこの世にはあります。同じ場所に長い間住んでいると、つまり同じ部屋で、自分が友達として選んだ同じ人々を何時も見ていると、世界は非常に単純に見えてくる。しかし一旦そこを離れると、ひどく違った風になって仕舞う。そしてこれが・・・
(扉の外で「キャッ」という驚いた声。同時にコップの割れる音がする。)
 学者 誰だ。
(スマートな若い男。手についた物を振り落とす様に手を振りながら登場。そのあとからアヌンツィアタ、途方 にくれたという様子で登場。)
 若い男 今日は。此処の扉の前につっ立っていたんですよ。そしたらアヌンツィアタが驚いちゃって。僕ってそんなに恐ろしくなったのかな。
 アヌンツィアタ(学者に。)御免なさい。コップを壊しちゃったの。折角ミルクをお持ちしたのに。
 若い男 僕には謝りの言葉はないのかな。
 アヌンツィアタ 貴方のせいじゃありませんか。どうして人の部屋の前でじっと立ったりしているんですか。
 若い男 盗み聴きですよ、勿論。(学者に。)この開けっ広げはお気に召しましたか。すべて学者っていう人種は単刀直入ですからね。気にいって貰える筈ですが・・・如何ですか。私の率直さが気にいりましたか?気にいったでしょう。
 ユーリア 答えちゃ駄目よ。「気にいった」って答えれば軽蔑されるし、「気にいらない」って答えれば憎まれるだけだわ。
 若い男 ユーリア、君は厭な人だね。(学者に。)お見知り置き下さい。ツェーザリ・ボールジアです。あ、もう私の事は?
 学者 存じています。
 ツェーザリ・ボールジア え? 本当ですか。で、どんな事を御存知で。
 学者 それはもういろんな事を。
 ツェーザリ・ボールジア 褒め言葉? それとも中傷? それに、誰に訊きました?
 学者 此処の新聞で読んだだけですよ。貴方の政治批評の論文を。
 ツェーザリ・ボールジア あれはなかなか評判がいいんです。しかし必ず不満を言う奴がいる。誰かの悪口を言う。言われた奴は面白くないに決まっていますからね。完全なる輿論の掌握、これの為なら私はなんでもやりますよ。私の率直さがお気に召しましたか。
 ユーリア 行きましょう。此処は学者の家です。学者っていうのは何時だって忙しいんですからね。
 ツェーザリ・ボールジア この学者先生に会う約束は取りつけてあるんだ。ホテルの主にことづけて。君の方じゃないか、光り輝くユーリア、部屋を間違えたのは。
 ユーリア いいえ。どうやら私が丁度行きたいと思っていた部屋に着いているようだわ。
 ツェーザリ・ボールジア いや、私の部屋に来ようとしたんでしょう。ついさっき貴方についての批評を書いていたんだ。もうすこしで終わりだが、気にいるよ、きっと。だけど、貴方の女友達には勿論不評だろうな。(学者に。)今日また此処へ来てもいいでしょう?
 学者 いいですよ。
 ツェーザリ・ボールジア 貴方に関する論文を一つ書いてみたいなあ。
 学者 有り難う。そうして戴ければ、私の此処での古文書の研究に助かります。尊敬が得られますからね、きっと。
 ツェーザリ・ボールジア ずるい。貴方が何の為に此処に来たか私にはちゃんと分かっている。古文書だなんて隠れ蓑ですよ。
 学者 じゃ何だっていうんです。
 ツェーザリ・ボールジア いよいよずるい。今だってちらちら隣のバルコニーを見ているじゃないですか。
 学者 私が・・・隣を・・・
 ツェーザリ・ボールジア ええ。あなたは思っているんだ。あそこにあの人が住んでいるんだって。
 学者 あの人?
 ツェーザリ・ボールジア そんなに隠さなくったっていいでしょう。 あなたは歴史学者。この国を研究している。だから当然、最後の王ルードヴィッヒ九世、沈思黙考王の遺言を知って居るに決まっている。
 学者 残念ながら私は十六世紀の終わりに、やっと辿りついただけで・・・
 ツェーザリ・ボールジア へえ? じゃ遺言の事は聞いていない?
 学者 ええ、全然。
 ツェーザリ・ボールジア それは変だ。じゃ何故此処の主にぴったりこの部屋を予約したんですか。
 学者 何故って、僕の友達のハンス・クリスチアン・アンデルセンが此処に住んでいたからですよ。
 ツェーザリ・ボールジア 本当にそれだけのこと?
 学者 本当にそれだけ。誓ってもいい。で、この部屋と遺言と何の関係があるんですか。
 ツェーザリ・ボールジア それは大あり。じゃ、さようなら。失礼するよ。光り輝く、ユーリア。
 学者 一寸聞きたいな、その謎の遺言に一体何が書いてあるのか。
 ツェーザリ・ボールジア それは教えられませんな、私にも関わることですからね。私だって権力も尊敬もかち得たいし、それにおそろしく金が不足している。この私、此の国中音に聞こえた、ツェーザリ・ボールジアの名を持つこの私が、まだ質草の目利きのアルバイトをしなきゃならないとは。 いやはや。どうですか、この私の率直さ、お気に召しましたか。
 ユーリア 行きましょう。もう出ましょう。貴方はもうみんなに気にいられたの。ほっておくと何時までも居る気だわ。(学者に。)またお会いしましょうね。
 学者 それは嬉しい。
 ツェーザリ・ボールジア 喜ぶのはまだ早い。
(ツェーザリ・ボールジア、ユーリア・ジューリー、退場。)
 学者 質屋には目利きは何人いるの。
 アヌンツィアタ たーくさん。
 学者 で、みんな人食い?
 アヌンツィアタ ええ、殆どはね。
 学者 どうしたの、アヌンツィアタ。どうしてそんなに悲しそうな顔なの。
 アヌンツィアタ あんなに用心して頂戴って言っておいたのに。噂では、あの歌手のユーリアは、ほら、いたでしょう? 自分の靴が汚れるのが厭で、パンを踏んづけちゃった女の子、あの女の子なんだって。
 学者 でもその女の子、僕の覚えている限りでは、それで地獄に落ちちゃったんじゃない?
 アヌンツィアタ ええ、地面の隙間に落ちちゃったの。でもその後、やっとのことで這い上がってきて、それからと言うもの、今度は人を踏みつけて暮らして居るの。立派な人でも素敵な女友達でも、自分の事だって踏みつけちゃう。それも、靴とかストッキングだとか、ワンピースを汚さない為だけなの。あら、私、貴方にまたミルクを持って来なくちゃ。
 学者 一寸待って。今は飲みたくないよ。それより君と話して居たいな。
 アヌンツィアタ 畏れいります。
 学者 教えてくれないかな。この死んだルードヴィッヒ九世沈思黙考王がのこした遺言てどんな物?
 アヌンツィアタ それは謎。恐ろしい謎なの。遺言は七重の封筒に入っていて、七重に封蝋がしてあって、樞密顧問官七名の署名がしてある。開けて読んだのは王女様だけ。だあれもいない所で。その時、窓の所にも、扉の所にも、見張りが立って居て、万一の時に備えて、耳に栓をしていたの。王女様は勿論声を出さずに読んだわ。だからこの秘密の書類に何が書いてあったかは王女様しか、それからこの町全体の人しか知らないの。
 学者 この町全体の人?
 アヌンツィアタ ええ。
 学者 どうしてそんな事になったの。
 アヌンツィアタ 誰もそれは説明できない。だって厳重な警戒はちゃんと守られていたんですからね。本当に奇跡。みんなが遺言の内容を知って居るの。こんな小さな子供でも。
 学者 で、何が書いてあるの、その中には。
 アヌンツィアタ ああ、それは訊かないで頂戴。
 学者 何故?
 アヌンツィアタ また一つ、悲しい結末で終わる話が出来ちゃうんじゃないかって、心配なの。
 学者 アヌンツィアタ、僕は通りすがりの人間だよ。王様の遺言なんて僕には何の関係もないじゃないか。話してよ。でないと僕の立場がないよ。だって、僕は学者、それも歴史学者だよ。それが小さな子供だって知っている有名な話を知らないって言えば・・・話して。お願いだよ。
 アヌンツィアタ(溜め息をついて。)分かった。話すわ。素敵な人に頼まれると私、断れないの。うちのコックの話によると、話すと不幸が襲ってくるんだって。でもその不幸、私の頭に落ちて来るように。貴方の頭にではなく。さてと・・・あら、貴方、聴いてないの。
 学者 聴いてますよ。
 アヌンツィアタ じゃあどうして向かいの家のバルコニーを見ているの。
 学者 見てなんかいないよ。ほら、座り心地をよくして、パイプに煙草を詰めてと。眼は君から離さないよ。
 アヌンツィアタ 有り難う。さて、五年前にこのルードヴィッヒ九世、沈思黙考王は亡くなったの。町の子供達は王様を沈思黙考王なんて言わなかったわ。馬鹿王って呼んでいた。本当はそうじゃないんだけど。それは確かに、小窓に顔を突っ込んで、子供達に舌を出してアカンベエをしたりしたけど、子供達にもそれは責任があるの。どうして王様の事をそんなにからかったりしたのでしょう。あの王様は賢い人だったの。でも王様の仕事があまりひどいので、性質がへんになったの。王位を引き継いだ最初の頃、総理大臣が、王様の大好きな妹を毒殺したの。この総理大臣のことを先代の王様よりも信頼していたのよ、それなのに。だから、王様は総理大臣を死刑にしたわ。二番目の総理大臣は毒をもる人じゃなかったわ。でもしょっちゅう王様に嘘をついたのね。仕舞いには自分のことも信じなくなったわ。三番目の総理大臣は嘘つきじゃなかった。でもひどく狡い人だった。どんな簡単な事柄でもそのまわりに細い蜘蛛の巣を張って張って張り巡らさなきゃ、気が済まないの。 ある日、その日の最後の伺いを読んで、王様は「宜しい、承認する。」と、言おうと思ったの。そしたら、突然王様の口から、「ブンブンブン」っていう低い音が出てきたの。まるで蜘蛛の巣に掛かったハエの音。総理大臣は免職。王様の侍医がそれを要求したの。四番目の総理大臣は狡くはなかったわ。率直で単純だった。王様の金の煙草入れを盗んで逃げて行ったの。それからはもう王様は国の政治には手を出さなくなった。総理大臣は自分達で順番を決めて交代するようになって、王様は、お芝居を担当する事に(に打ち込む様に)なった。でも此のやり方でも駄目。王様が自分で治めていた時より悪くなったそうよ。一年間のお芝居の担当のあと、王様は動けなくなったの。
 学者 動けなくなったって? どういう意味?
 アヌンツィアタ 簡単。歩いていて片足を上げた儘凍りついちゃったの。顔は絶望を表した儘。芝居関係者、役者達同士の関係を理解しようとしたら、頭がもつれて仕舞ったらしいの。そう王様の侍医は説明したわ。芝居関係の人って人数が多いから。
 学者 侍医の言って居る通りだろうな、それは。
 アヌンツィアタ で、侍医は単純な処方箋を出したの。これさえ実行すれば、かわいそうな王様はすぐ治るっていう。芝居関係の人間を半分にわけて片方を死刑にするの。でも王様は賛成なさらなかった。
 学者 何故?
 アヌンツィアタ どっちの半分を死刑にしたらよいか、どうしても決められなかったの。とうとう王様は全ての事をほったらかす事に決めて、悪い女の人達にうつつをぬかす様になったの。結局あの女の人達だけよ、王様を騙さなかったのは。
 学者 まさか。
 アヌンツィアタ いいえ、本当に騙さなかったの。だって根っから悪い女の人達だったのね。王様はこれで心が軽くなったんだけど、病気の方が重くなって、足が麻痺してしまったの。それからは、椅子に乗せられて運ばれる様になった。王様は黙って、考えて、考えて、考えたわ。何をそんなに考えていたのか、王様は誰にも明かさなかった。たまにいすを窓際に運んで呉れと命ずる事があって、その時には、窓についている換気口を開けて、子供達に舌を出したの。子供達は「バカバカバカ」と叫んだわ。それから暫くして遺言を作って、それから死んだの。
 学者 やっと話の核心に来たね。
 アヌンツィアタ 王様が亡くなった時、一人娘の王女様は十三歳だった。「可愛い娘よ。私はひどくまずい生き方をした。私には是といって、やり遂げたものは何一つない。お前も何か立派な事をなし遂げるなんて事はないだろう。この宮廷の悪い空気に毒されているからね。お前には王子様などと結婚して貰いたくない。王子様なんていうものの正体を私は知っている。私達のような小国には、ああいう連中は大馬鹿過ぎる。お前が十八歳になったら、町の何処かに居を構えて捜すんだ。捜しに捜し抜くんだ。そして優しい、誠実な、教養のある、賢い夫を見つけるんだ。貴族でなくったっていい。貴族が一人として上手く出来なかった事をひょっとしてやり遂げるかも知れないじゃないか。政治だってやれるかも知れない。いや上手くやってのけるかも知れない。な? そうなればもってこいだ。そうなる様にやるんだよ。パパより。」
 学者 そう書いてあったの?
 アヌンツィアタ これが文面通りなの。台所で何度も何度も皆が繰り返すので、一言一句間違えずに覚えちゃった。
 学者 で、王女は町に住んでいるの?
 アヌンツィアタ ええ、でも捜すのは大変なのよ。
 学者 どうして。
 アヌンツィアタ 悪い女の人達がいっぱい王女様になりすましているから。だから貸家という貸家の各階は全部王女様達でいっぱい。
 学者 君、ひょっとして、王女様の顔を知らない?
 アヌンツィアタ 知らないの。遺言を読んでから王女様は眼にマスクをつける様になったの。夫を見つける時にそれと知られない為に。
 学者 ねえ、王女様って・・・(黙る。)
(隣のバルコニーにブロンドの髪をした女性登場。地味な身なり。)
 学者 ねえ、王女様って・・・あれ、君に何を訊こうとしたんだろう。エート・・・いいや、何でもない。
 アヌンツィアタ また私の方を見て居なかったわね。
 学者 見ていなかったって? じゃ、何処を見ていたって言うの。
 アヌンツィアタ あっちよ。あ、失礼。私バルコニーの扉を閉めてくるわ。
 学者 どうして。開けておいて。だって丁度涼しくなり始めた所じゃないか。
 アヌンツィアタ 日の入り後はすぐ窓と扉は閉めなくちゃいけないのよ。でないとマラリヤに罹っちゃう。嘘。(この辺り、学者はバルコニーしか見ていない――訳注。)マラリヤの問題じゃないの。でもあっちを見ちゃ駄目。お願い。私の事怒ってる? 怒らないでね。あの女の人を見ないで。こっちの扉は閉めちゃう。(閉めるなと合図されて――訳注。)貴方、赤ん坊と同じよ。スープが嫌いだなんて。スープがない食事なんて食事とは言えないわ。クリーニング屋に行って、預かり票を貰って来なかったらどうなるの。そんな優しい、明るい顔をして。その儘死への道をまっしぐらよ。こんなひどい事を言って。何を言っているのか自分でも分からない。こんな事ただのお節介。でも危ない、危ないわ。黙って居られない。あの女の人、悪い人っていう噂よ・・・止めて、お願い。ただ悪い女って言うだけならまだしも、ひょっとすると・・・ねえ、もっと悪い事が起きるかも知れないわ。
 学者 そう。
 アヌンツィアタ そうよ。ひょっとしてあの人が王女様だったら? そうしたら、そうしたらどうする積もり?
 学者 うん、それはそうさ。
 アヌンツィアタ 私の言ってること、聴いてないのね。
 学者 とんでもない。
 アヌンツィアタ 若しあの人が本当に王女様だったら、皆があの人と結婚しようとして押し合いへし合い、もみくちゃにされて仕舞うわよ。
 学者 そうか、そうだったのか。
 アヌンツィアタ もう駄目だわ。私、今は何もできない。なんて私って不幸な女なんでしょう。
 学者 なるほど、なるほど。
(アヌンツィアタ、出口に進む。学者はバルコニーに繋がる扉の方へ。アヌンツィアタ、見回す。立ち上がる。)
 アヌンツィアタ さようなら、学者さん。(静かに、思いがけない強さで。)誰にも貴方を苛めさせないわ、学者さん。決して。私が守って上げる。
(退場。)
(学者、隣のバルコニーに立っている若い女を見る。女は町を見下ろしている。学者、小さな声で話し始める。次第に声が大きくなる。この独白の終わり頃、女、学者を見る。じっと、眼を離さず。)
 学者 勿論、この世の中は一見そうみえて居るよりは、良く出来て居る。もうあと少し。そう、もう二、三日かければ、僕は世界中の人々をどうやったら幸せに出来るか、見つけられそうなんだ。 皆が幸せになるんだ。勿論僕ほどじゃないが・・・僕はただ此処に居るだけ。夕方になると何時でも君はそのバルコニーに立っていたね。それである晩初めて分かり始めたんだ。僕は幸せになれる。今まで生きてきたどんな人よりももっと。僕は君を知っている。君を知らないなんてそんな事がある訳がない。僕は君が分かる。いい天気、いいお月様、いい山の小道、いい町並み、それは見ればすぐ分かる。それと同じだ。勿論君が考えている事をはっきり言いあてる事はできない。だけど君の考えは僕に良い影響を与えてくれる。その筈だ。君のその顔、お下げ、その睫毛が今までそうしてくれたように。有り難う。僕は君に感謝する。君が丁度その家を選んで住んでくれた事、僕が生きている時に生まれ、生きてくれている事に。ひょっとして君に会っていなかったら、僕は何をしていたろう。考えただけでも恐ろしい。
 若い女 お前はそれを暗唱しているのか。
 学者 え?・・・僕は・・・
 若い女 続けよ。
 学者 あっ、僕に口をきいてくれた。
 若い女 今の文章、あれは自分で作ったのか、それとも誰かに作らせたのか。
 学者 すみません。声の調子があまりに意外で・・・意味が分からないのです。
 若い女 誤魔化そうというのか。はっきり答えよ。お前は今私に話した文章を自分で作ったのか、それとも誰かに作らせたのか・・・よろしい。これは答えなくて良い。今日私は退屈だ。お前は一日中、座っていて平気なのか。じっとその同じ部屋で。それは執務室か。
 学者 え?
 若い女 それは執務室か、衣装部屋か、客間か、それとも広間か。
 学者 これは単に私の部屋です。私のたった一つの部屋です。
 若い女 お前は乞食なのか。
 学者 いいえ、私は学者です。
 若い女 それならそういう事にしておこう。お前の顔は変わっている。
 学者 どういうふうに?
 若い女 お前が口を開くと、まるで嘘を言ってはいないかのようだ。
 学者 だって本当に嘘なんかついていませんから。
 若い女 この世には嘘つきしかいない。
 学者 それは間違いです。
 若い女 間違いではない。真実だ。しかし、もしかすると、お前には人は嘘をつかぬのかもしれぬ・・・たった一つの部屋しかないのか・・・人は私には嘘しか言わない。私は自分がかわいそうだ。
 学者 何てことを仰るんですか。ひょっとして誰かに苛められて? ・・・誰にです。
 若い女 お前はふりが上手だ。優しそうで親切そうな。だからなんだかお前に泣き言でも漏らしたい気分だ。
 学者 あなたはそんなに不幸なのですか。
 若い女 分からない。不幸。そうかもしれない。
 学者 何故。
 若い女 人間・・・それはみんな屑だ。だから・・・
 学者 そんな事を言うものではありません。それは人生で一番恐ろしい生き方を選んだ人達が言う言葉です。無慈悲に他人を締め殺したり、虐待したり中傷したりする人達、その人達が言うんです、「人間なんてみんな屑だ。憐れみなんてかける必要が何処にある。」って。
 若い女 ではみんなが屑ではないと言うのか。
 学者 そうです。
 若い女 それならそれで良い。私は蛙になるのが恐ろしい。
 学者 蛙になる?
 若い女 お前は「蛙の王女」の話を知っているな。あの話は正しく伝わっていない。事実は全く逆なのだ。私は本当の話を知っている。蛙の王女、それは私の伯母だから。
 学者 伯母さん?
 若い女 そうだ。親戚なのだ。話ではこうなっている。ある男が蛙の王女を愛する。その外見の醜さにも拘わらず彼女に口付けする。御陰で蛙は素晴らしい女性に変わる。そうだな?
 学者 ええ、其処までは知っています。
 若い女 本当の話はこうだ。私の伯母は素晴らしい女性だった。結婚した。相手はろくでなしだった。ただ彼女を愛しているふりをしていたのだ。彼の口づけが余りに冷たくぞっとするようなものだったのでたちまちのうちに伯母は冷たいぞっとするような蛙に変わったのだ。実際不愉快な話だ、我々親戚にしてみれば。噂ではこういった事は普通考えられているよりずっと頻繁に起こっているようだ。ただ私の伯母は自分の変身を隠しておくことが出来なかった。ひどく自制心のない女だったのだ。困った事だ。そうだろう?
 学者 ええ、悲しい事です。
 若い女 ほらご覧。それで私もそういう運命だったら? 私もいつかは誰かと結婚しなければならない。お前はさっき言ったな。全ての人間が屑である訳ではないと。
 学者 言いました。私は歴史学者ですからね。
 若い女 本当にそうであればよいが・・・しかし私はお前を信じない。
 学者 何故ですか。
 若い女 大体私は誰も信じないし、なんにも信じない事にしている。
 学者 そんな事は出来る事ではありません。その健康な顔の色、生き生きした目。(それは誰かを信じている人のものです。)誰も信じない、それは死んでいるという事です。
 若い女 そんな事は全て分かっているのだ。
 学者 全て分かる、それも死んでいるという事です。
 若い女 世の中の事すべて、どうせ似たりよったり。これも正しい、あれも正しい。結局のところ、みんなどうでも良い事。
 学者 みんなどうでも良い・・・これは死よりひどい。そんな風に考えてはいけない、いけません。なんて悲しい話をするんでしょう。
 若い女 みんなおんなじ・・・いいえ、そうでもない・・・かもしれない。もうお前、毎晩私を見るのは止めにするのだろうね。
 学者 見ます。どんな事だって、上辺(うわべ)で見えるように簡単ではないのです。ああ、そとから見えるあなた、それと同じようにあなたの考えている事も調和のとれているものと思っていました・・・でもそれが外に出てみると・・・驚きました。似ても似つかない・・・でも僕は好きだ。
 若い女 好き?
 学者 ええ。胸が痛くなるくらい。
 若い女 おかしな気持ち。私には何でも分かっていた。何も信じていなかった。みんなどうでもよかった。それが今ごちゃごちゃ。
 学者 愛しています。
 若い女 あっちへ行って・・・待って・・・いいえ、出て行って。扉を閉めて・・・いいえ、私が出て行く・・でも・・・もしお前が明日の夜、生意気にも・・・私にあいそをつかして、バルコニーに出て来なかったりしたら、その時は・・・お前の首を・・・いいえ・・・ただ悲しむだけ。(扉に進む。振り返る。)私はお前の名前さえ知らない。
 学者 クリスチアン・テオドールと言います。
 若い女 ごきげんよう。クリスチアン・テオドール。優しい人。何がおかしい! うまく騙せたなどと思ったら大間違い・・・いいえ、悲しまないで。 あんなこと言ったのは、ただ・・・お前、私に言いましたね。「愛している。」って。突然、何の躊躇いもなく。あの時、体が暖かくなった。モスリンの薄い服を着てバルコニーに出て来たのに。 黙って! 今は何も言わないで。もう一言でも聞いたら涙が出てきて仕舞う。御機嫌よう、テオドール。私はなんて不幸な女なんだろう。(退場。)
 学者 フーン・・・さっきまでは、あと一秒さえあれば何もかもみんな分かるっていう気分だったのに、今ではあと一秒たつと何もかもみんな分からなくなるっていう気分だ。あの人、本当に王女なんだろうか。「人間ってみんな屑よ。この世の事ってみんな同じ。私、世の中の事ってどうでもいいの。私は何も信じない。」明らかに、悪性貧血症だ。温室のなま暖かい空気の中で育った人間に特有の女々しさ。あの人を・・・あの人は・・・でも僕が愛しているって言ったら、突然暖かい感じになった。という事は、血が血管に流れてはいるんだ。貧血症でも。(笑う。)きっと、きっとこれはハッピーエンドだ。影君、ねえ、僕の親愛なる影法師君、君は僕の足元にひどく従順に横たわっているね。君の頭はあの女の人が出て行った扉をじっと見ている。早く行って、あの人を追いかけろよ。なあ、ただつっ立っていないで、行ってあの人に言うんだ。「さっきのはみんな馬鹿な話です。私の主人はあなたを愛しているんです。たとえあなたが蛙の王女様でも、私の主人が愛の魔法で素晴らしい女の人に変えて仕舞いますよ。」こういうふうに。こまかい台詞はお前、分かっているだろう。だって僕等はずっと一緒に育ってきたんだから。(笑う。)さあ行くんだ!
(学者、扉から離れる。学者の影、突然彼から分離する。伸びて実物大になり、向かいのバルコニーに進む。若い女が出て行った時半開きにした扉をすり抜ける。)
 学者 どうしたんだろう・・・何となく足の辺りが変な感じだ・・・いや全身が・・・僕は・・・病気なのか・・・(よろよろし、ソファに倒れる。ベルを鳴らす。)
(アヌンツィアタ、走って登場。)
 学者 アヌンツィアタ! 君の言う通りだったかもしれない。
 アヌンツィアタ あの人が王女だっていう事?
 学者 違う。僕、病気になっちゃった。(目を覆う。)
 アヌンツィアタ(扉の方へ走って。)お父さん!
(ピエトロ登場。)
 ピエトロ 叫ばなくっていいんだ。父親が扉の所で立ち聞きしているのに、気がつかなかったのか。
 アヌンツィアタ 気がつかなかったわ。
 ピエトロ 生みの親に気がつかないとは・・・やれやれ、長生きはしたくないもんだ。ええっ? 何をパチクリやってるんだ。さっきは大声で呼んだり。
 アヌンツィアタ この人病気なの。
 ピエトロ じゃあ、まずはベッドに横になって・・・お手伝いしましょう。
 学者(立ち上がる。)いやいや、自分でやります。どうぞ触らないで。ほっておいて下さい。
 ピエトロ 何か怖がっていらっしゃるんでは? 取って食いはしませんよ。
 学者 分かっています。何か急に体が弱って。(衝立の後ろに行く。そこにベッドがある。)
 アヌンツィアタ(小声で。怯えた声。)見て!
 ピエトロ どうした。
 アヌンツィアタ 影がないの。あの人に。
 ピエトロ ええっ? 本当だ。ないな。天気のせいか。どうしてこんなことになったんだ。噂が立つかも知れんぞ、伝染病だと。
(学者、衝立の後ろに退場。)
 ピエトロ 誰にも言っちゃいかんぞ。分かってるな。
 アヌンツィアタ(衝立の所で。)気を失っているわ。
 ピエトロ 好都合だ。医者を呼んで来い。二週間くらいこの馬鹿をベッドに寝かせておくんだ。その間には新しい影が生えて来る。そうすりゃ誰にも分かりっこないさ。
 アヌンツィアタ 影のない人・・・これくらい悲しい話は世界中捜したってなかったわ。
 ピエトロ 新しい影が生えて来るって言っただろ。何とかなるさ・・・早く呼んで来い!
(アヌンツィアタ、走り退場。)
 ピエトロ 畜生奴・・・だがまだしもだぞ。あの新聞記者の奴が歌うたいにかかずらわって、何も嗅ぎつけていないらしいからな。
(ツェーザリ・ボールジア登場。)
 ツェーザリ・ボールジア やあ、また来たよ。
 ピエトロ ホホウ。御登場遊ばされたか・・・相棒の女は?
 ツェーザリ・ボールジア 音楽会に出掛けて、今いない。
 ピエトロ 音楽会なんか、みんな悪魔に食われて仕舞え。
 ツェーザリ・ボールジア 学者は気絶だな。
 ピエトロ お荷物もいい所だ。
 ツェーザリ・ボールジア 聞いたか?
 ピエトロ 何を?
 ツェーザリ・ボールジア 王女とこいつの会話だよ。
 ピエトロ 聞いた。
 ツェーザリ・ボールジア 簡潔な返答だな。さんざん悪態をついて、ピストルをぶっぱなして、金切り声をあげる・・・今回はないのか。
 ピエトロ 大事な問題の時は黙っているんだ。
 ツェーザリ・ボールジア どうやらあれは本物の王女らしいな。
 ピエトロ そうだ。あれは本物だ。
 ツェーザリ・ボールジア こいつに王女と結婚させたいんだな。
 ピエトロ 俺が? そんな動きがちょっとでも見えてみろ。すぐ食ってやる。
 ツェーザリ・ボールジア そうだ、食ってやらなきゃ。何が何でも食うんだ。今がその一番いい時じゃないか。病気をしている時か、バカンスに出掛けた時が食うのに一番良い時だぞ。誰が食べたか分かりはしないし、食われた本人はこちらに好意を持った儘でいるかも知れない。
 ピエトロ 影だよ、問題は。
 ツェーザリ・ボールジア 何だ、影って?
 ピエトロ こいつの影を捜さなきゃ。
 ツェーザリ・ボールジア どうして?
 ピエトロ 影は俺たちの味方になる筈だ。昔こいつの影だったなんて、影の自尊心が許さないからな。
 ツェーザリ・ボールジア すると俺たちがこいつを食うのを、影は助けてくれるぞ。
 ピエトロ それから、影って奴はその主の正反対の人間になるらしい。
 ツェーザリ・ボールジア するとかなり強い奴って言うことになるか。
 ピエトロ まあ、それはそれでいいだろう。二人で、影が人間になるのを助けてやるんだ。そうやって影に恩を売っておいて、それからこいつを食っちゃうんだ。
 ツェーザリ・ボールジア そうだ。こいつは食っちゃおう、必ず。
 ピエトロ シッ!
(アヌンツィアタ、走って登場。)
 アヌンツィアタ 出て行って。此処に何の用があるの。
 ピエトロ お前か。(ピストルを取り出す。)私の部屋に来ないか。あっちで話そう。医者はどうした。
 アヌンツィアタ 今走って来る途中。相当重い病気だって。
 ピエトロ そうか。
(ツェーザリ・ボールジアと一緒に退場。)
 アヌンツィアタ(衝立の後ろを見て。)だから言わない事じゃない。静かな、優しい顔! 森を、木立の下を散歩している夢を見ているみたい。許さないわ、人は決して許さない。貴方がこんなに好い人だっていう事を。何かが起こる。何かが起こるわ。
                    (幕)
   
     第 二 幕
(公園。刈り込んだ木々で囲まれた、砂の蒔いてある広場。奥にあづまや。式部官と彼の補佐官、舞台前面に登場。あちらこちらへ動く。)
 式部官 机はそこに。椅子はこっち。机の上にはチェスを置く。そうそう。これで会議の準備は整った、と。
 補佐官 ちょっとお訊きします、式部官殿。どうしてお城の中でなく、此処、公園で会議をするんですか。
 式部官 城には壁があるからだ。分かったか。
 補佐官 いいえ。
 式部官 壁に耳ありと言うじゃないか。分かったか。
 補佐官 はい、今度は分かりました。
 式部官 よろしい。この椅子の上にクッションを置け。
 補佐官 これは総理大臣閣下の為で?
 式部官 違う。大蔵大臣殿の為だ。病気でひどく弱っておられる。
 補佐官 どうなさったので?
 式部官 あの方はこの国で一番の遣り手で、また実力者でもある。政敵達はひどく彼を憎んでいて、昨年彼らの一人が反抗に及んだ。つまり大蔵大臣殿を毒殺しようと謀ったのだ。
 補佐官 なんて恐ろしい。
 式部官 恐がり方が早いぞ。終わりまで聞いてからにしろ。大蔵大臣はいち早くこれに気付いて、この国のありとあらゆる毒物を買い占めた。
 補佐官 それは賢明な処置。
 式部官 喜び方が早いぞ。終わりまで聞いてからにしろ。それでこの犯人は大蔵大臣殿の所へ行って、毒物を分けてくれと言った。金に糸目はつけないからと持ち掛けたのだ。大臣殿は至って自然な行動をお取りになった。あの方は実際、現実的な政治家だからな。利益を計算して(割りにあうと見るや)この悪党に、持っていた毒物を一切合切売っ払った。で、悪党は大臣殿の毒殺を謀った。大臣殿御一家は恐ろしい苦痛の中で死んでいった。大臣ご自身も殆ど死ぬ目に会ったが、辛うじて生き残られた。しかしこの取引で、二百パーセントの利益を上げられた。商売は商売だからな。分かるな。
 補佐官 はい、これで分かりました。
 式部官 よし、この話はこれで終わりと。さあ、用意は出来たか。肘掛椅子、チェス。今日はことのほか重要な会談がなされる筈だ。
 補佐官 何故そうお考えに?
 式部官 第一に、国で最も重要な大臣、総理、大蔵、この二人だけで話すという点。第二に、話すのではなく、チェスをする。ふりをする、という点。 こんな時に何があるか知らない者はいない。立木でも生け垣でも、耳を欹(そばだ)てるさ。
 補佐官 で、誰かに立ち聞きされたら?
 式部官 立ち聞きされたって分かりはしないよ。
 補佐官 何故です?
 式部官 あのお二人は言葉を半分話すだけで分かりあう。言葉半分で分かるなんていう奴はそうざらにはいないからな。(突然低く頭を下げてお辞儀をしはじめる。)お二方がいらっしゃる。宮仕えがあまり長いもんだから、高官の御入来に際して自動的に腰が曲がってくる。足音も聞こえず、見えてもいない、なのに自然に腰が曲がる。これで私も高い位に登れたのだ。分かるな? 頭を下げろ・・・もっと低く。
(式部官、地面に着くほど腰をかがめる。 補佐官、これに倣う。舞台左から総理、右から大蔵、同時に大臣登場。総理大臣は太鼓腹、禿、赤ら顔、五十を過ぎている。大蔵大臣は痩せて背が高い。恐ろしそうに左右を見、両足を引きずって登場。二人の背の高い侍僕が両側から支え、歩くのを助ける。両大臣、同時に机につき、同時に座り、即座にチェスをやり始める。大蔵大臣を助けていた二人の侍僕、座らせる用が終わると、音もなく立ち去っている。式部官と補佐官、舞台に残る。直立不動。)
 総理大臣 ぐあ・・・いか   (具合は如何。)
 大蔵大臣 ひど・・・わる   (ひどく悪い。)
 総理大臣 しご・・・いか   (仕事は如何。)
 大蔵大臣 ひど・・・わる   (ひどく悪い。)
 総理大臣 な         (何故。)
 大蔵大臣 きょう       (競争のせい。)
(黙ってチェスをする。)
 式部官(ひそひそ声で。)言った通りだろう。半分しか言わないでみんな分かるのだ。(訳注 ロシア語では半分言われれば意味が分かる。この式部官の台詞で観客は笑う。)
 総理大臣 王女の話は聞いたか。
 大蔵大臣 聞きました。報告が来ました。
 総理大臣 あのよそものの学者の奴、王女の心を盗んだぞ。
 大蔵大臣 盗んだ? 一寸失礼。おい、そこの者。いや、お前じゃない・・・そっちの男。・・・
(大臣を運んだ侍僕の内の一人登場。)
 大蔵大臣 おい、お前、扉はちゃんと全部閉めたな、出掛ける時。
 侍僕 全部閉めました、閣下。
 大蔵大臣 鉄の扉もだな。
 侍僕 はい、閣下。
 大蔵大臣 銅のもだな。
 侍僕 はい、閣下。
 大蔵大臣 鉛のもだな。
 侍僕 はい、閣下。
 大蔵大臣 罠も仕掛けておいたな? ほんのちょっとした戸締りの忘れも、お前の命が掛かっているんだ。分かっているな。
 侍僕 分かっております、閣下。
 大蔵大臣 よし、下がってよし。
(侍僕退場。)
 大蔵大臣 あ、失礼しました、閣下。
 総理大臣 枢密顧問官の報告によれば、王女は、三日間毎日、長い間鏡を眺め、そのあと次のように言った。(ノートを取り出し、読む。)「ああ私、この儘駄目になって行く。何故なの。」そして学者の健康を訊ねに使いを送った。これが五度目の使い。特別変わった事が起きていないのを知り、悔しそうに床を蹴って小声で言った。「こん畜生。」今日は公園で彼とのランデブーを約束させた。以上。この報告は・・・いか? (如何。)
 大蔵大臣 全く気にいら(ない。)何者ですか、この学者とは。
 総理大臣 この人物なら、細部まで調べてある。
 大蔵大臣 強請(ゆすり)?
 総理大臣 もっと悪い。
 大蔵大臣 ぬすっと?
 総理大臣 もっと悪い。
 大蔵大臣 色事師? 詐欺師? ペテン師?
 総理大臣 ああ、それくらいですめば。
 大蔵大臣 一体何者ですか、つまりは。
 総理大臣 無邪気で、罪のない人間。
 大蔵大臣 王手。
 総理大臣 キャッスリング。
 大蔵大臣 王手。
 総理大臣 王女もかわいそうに。 ゆすりやならネタを抑えればいい。ぬすっとなら現場を取り押さえる。詐欺師、ペテン師なら裏をかいてやる。しかしこの・・・無邪気で罪のない人間の行動ってやつは、謎だからな。
 大蔵大臣 ばい?・・・ころ?    (買収? 殺す?)
 総理大臣 他に道はないだろう。
 大蔵大臣 町ではもう感づいていますか、この事を。
 総理大臣 まさか。まだだろう。
 大蔵大臣 気をつけた方がいいです。勘のいい奴はもう大量に金を国外に持ち出しています。この為かも知れません。私の知っている銀行家で三日前、金という金を全部外国へ運んで帰って来たのがいます。御丁寧に金歯まで。御陰でやっこさん、今ものが噛めなくて・・・
 総理大臣 なかなか神経が細かいな、その銀行家。少し過敏じゃないか。
 大蔵大臣 そう。過敏です。経済の機能くらい神経過敏な生き物はこの世にありません。王様の遺言くらいで破産宣告が七つ、自殺が七人、物価七%下落。で、今は・・・ああ、今からどうなるんだろう。変化はいけません、総理。人生は平らに行かなくっちゃ。時計の進みのように。
 総理大臣 ところで、今何時だ。
 大蔵大臣 金時計を外国に送ってしまったので・・・といって銀時計をしたのでは、私が破産したと噂されて経済界に大恐慌をきたしてしまいますし・・・
 総理大臣 では我が国には金は全く残っておらんのか。
 大蔵大臣 いいえ。必要以上に沢山あります。
 総理大臣 どういう訳だ、それは。
 大蔵大臣 海外からの金です。外国の経済界はそれぞれ自国の現状に不安を抱いて金を我が国に預けに来ています。だからやっていけるのです。さあ、ここらでしめましょう。学者は、買収しますか?
 総理大臣 あるいは殺すか。
 大蔵大臣 どういう手段でやりますか。
 総理大臣 最も微妙な手段で。なにしろ恋という厄介な代物が関わっているからな。「友情」の助けを借りてあいつを懲らしめるつもりでいるのだ。
 大蔵大臣「友情」で?
 総理大臣 そうだ。そのためには学者と友達でいる人間を捜すのが不可欠だ。友達なら何で買収できるか、それを知っているだろう。友達ならあいつが何を嫌っていてそれをするくらいなら死んだ方がましだと思っているものを知っているだろう。だからわしは部下に、あいつの友達を見つけて来いと命令しておいた。
 大蔵大臣 それはひどいです。
 総理大臣 何がひどい。
 大蔵大臣 だって学者はよそものでしょう。あいつの友達という事になれば、つまり外国から呼び寄せなければならない。どういう項目でこの費用を計上したらいいんですか。予算計画と少しでも違った支出をする段になると会計課長の奴、涙を流して苦しむんです。子供のように泣きわめいて、譫言を言い、あげくのはてに支出全面停止と来る。全面停止ですよ。この私に対してもです。総理、貴方への支出もですよ。
 総理大臣 ほう、そうか。それは不愉快だな。しかしまあ、国というものは予算計画の上に成り立っているものだからな・・・どうしたものかな。
 大蔵大臣 分かりません。
 総理大臣 分かるものはおらんか。
 補佐官(前に進み出て。)私が分かっております。
 大蔵大臣(跳びのきながら。)何だこれは。始まったのか。
 総理大臣 落ち着け、大蔵大臣。あれが何時かおっぱじまるとしても、宮仕えの男からは始まらんよ。
 大蔵大臣 じゃあ、反乱じゃないんですな。
 総理大臣 違う。単なる礼儀知らずだ。お前は何者だ。
 補佐官 貴方方がお捜しになっていた丁度その人物です。私は学者の友達、最も近しい友達です。ゆりかごの頃からつい先頃まで片時も離れず暮らしていたんです。
 総理大臣 ちょっと訊くがねえ、君、君は一体誰と話しているか知っているのか。
 補佐官 はい。
 総理大臣 では何故私の事を「閣下」と呼ばんのか。
 補佐官(深くお辞儀をしながら。)お許し下さい、閣下。
 総理大臣 お前はよそものか。
 補佐官 私が生を享けたのはこの国でです、閣下。
 総理大臣 じゃあ、よそものじゃないということだ。それでお前はよそものの学者の友達だというのだな。
 補佐官 私はお二人の閣下が必要とされているまさにその人物なのです、閣下。私はあの男を誰よりもよく知っています。で、あの男は私の事を全く知らないのです。
 総理大臣 それは奇妙だな。
 補佐官 お許し下されば、私の正体を申し上げますが、閣下。
 総理大臣 言ってみろ。何をキョロキョロしておる。
 補佐官 砂の上に書いてようございましょうか、閣下。
 総理大臣 宜しい。
(補佐官、何かを砂の上に書く。二人の大臣、読んで顔を見合わせる。)
 総理大臣 どう思(う)?
 大蔵大臣 うってつ(けです。)しかし用(心)しな(ければ)。さもないとこの男、我々にふっか(ける)つも(りです)。
 総理大臣 そうだな。おい、お前、お前の身元保証人は誰だ。
 補佐官 ツェーザリ・ボールジアとピエトロです、閣下。
 総理大臣(大蔵大臣に)この名前聞いたことがあるか。
 大蔵大臣 はい、二人とも人食い人種で信頼のおける奴等です。
 総理大臣 よし、お前、考えておくぞ。
 補佐官 畏れながら閣下、私共は南の国におります。このことをお考え戴かねば。
 総理大臣 南の国? それがどうした。
 補佐官 南の国では何でも成長が早いのです、閣下。学者と王女は丁度二週間前に初めて口をききました。それから後は一度も会っていないのです。二人の恋がどんなに成長しているか、想像がつくというものです、閣下。手遅れにならないよう、此処が正念場です、閣下。
 総理大臣 慌てるな。さっきス考えておくセと言ったはずだ。そこで待っておれ。
(二人の大臣、考える。)
 総理大臣 さあ、此処へ来い、お前。
(補佐官、近づく。)
 総理大臣 考慮の結果、お前を総理大臣秘書室で雇うことに決定した。
 補佐官 有り難う存じます、閣下。私の考えでは、学者に対して取るべき態度は・・・
 総理大臣 何だそれは一体。正式な任命の手続きが終わっておらんというのに、進言をおっぱじめようというのか。気でも狂ったか! 秘書室の仕事とはどんなものか心得ていないのか。
 補佐官 お許し下さい、閣下。
(舞台裏で、大きな笑い声。)
 総理大臣 湯治客がやってくるぞ。邪魔されるな。よし、役所に帰ろう。任命の手続きを終えてしまうんだ。それからじっくりお前の意見を聞くとしよう。
 補佐官 有り難うございます、閣下。
 大蔵大臣 おい、お前達!
(侍僕二人登場。)
 大蔵大臣 役所に帰るぞ。
(退場。あづまやの扉大きく開き、医者登場。若い男でひどく陰鬱。何時も何か考え込んでいる。彼を湯治客達
が取り囲んでいる。湯治客達は豪華な衣装をしどけなく着ている。)
 第一の女の湯治客 先生、私どうして憂鬱に似た感じが膝の所に現れるんでしょう。
 医者 どちらの膝ですか。
 第一の女の湯治客 右側ですけど。
 医者 すぐ治ります。
 第二の女の湯治客 どうしてなんでしょう、先生。食事の時、それも丁度八番目のお料理と九番目のお料理の間にですけど、いつも悲しい、淋しい気持ちが襲って来るんですの。
 医者 例えば、どんな。
 第二の女の湯治客 急に砂漠に引き籠もって、祈祷、精進潔斎に専念したいと・・・
 医者 すぐ治ります。
 第一の男の湯治客 先生、四十番目の入浴から、私は茶色の髪の女は気にいらなくなったんですが。
 医者 で、今気にいっているのは?
 第一の男の湯治客 ブロンドの女だけです。
 医者 そのうち治ります。さあ皆さん、診察の時間はこれでおしまいです。いいですね。治療係の看護婦は帰ってよろしい。レクレーション係の看護婦、あとは君に任せる。
レクレーション係の看護婦 ボール投げをする人! 縄跳びの人はこっちよ。輪投げの人はこっち。鬼ごっこしたい人いますか。達磨さんころんだ、は? かくれんぼの人は?時間がありませんよ、皆さん。さあ元気よく明るく遊びましょう。
(湯治客達、遊びながらチリヂリになって退場。学者とアヌンツィアタ、登場。)
 アヌンツィアタ 先生、この人、飴玉を大箱一杯買ったんですよ。
 学者 だって道で子供達に配ってやったじゃないか。
 アヌンツィアタ 同じ事です! 病人が甘いものを買うなんて、何を考えているんでしょうね。
 医者(学者に。)太陽に向かって立って。そう。影が正常な大きさにまで成長しました。まあ予想されていたことではありますが・・・とにかく南の国ではすべて物の成長は早いですからね。気分は如何ですか。
 学者 元気です。大丈夫になりました。
 医者 でも聴診はしておきましょう。いや洋服は脱がんで宜しい。私は耳が良いので。(あづまやのテーブルから、聴診器を取る。)さあ息をして。大きく息を吸って。吐いて。もう一回。今度は軽く息を吸って。はい、もう一度。宜しい。今度は見ても見えないふり。はい。よーし次、聞こえても聞こえないふり。はいもう一度。よーし次、肩をすくめて、もうしようがないや、は? はい、よし。
(医者、座って考え込む。学者、フロックコートのポケットから手紙の束を取り出し、ガサゴソ調べる。)
 アヌンツィアタ 先生、どうでしょう。よくなっていますか。
 医者 よくないですな。
 アヌンツィアタ でもこの人、元気ですって言っていますけど。
 医者 そう、元気は元気ですが、よくないです。それにこの儘では悪くなります。見ぬふりとか、聞こえないふりとか、肩をすくめて、もうしようがないや、が出来ないうちは駄目です。
 アヌンツィアタ どうしたらいいんでしょう、先生。どうしたら教えられますか。
(医者、黙って肩をすくめる。)
 アヌンツィアタ 答えて、先生。お願いです。どんなことがあっても後には引かないわ。私が一度言いだしたら後には引かないって、先生御存知でしょう? どうしたらいいんですか。
 医者 真剣に治ろうとする事です。
 アヌンツィアタ でもこの人、にこにこ笑っているわ。
 医者 そう、それは真剣ではありません。
 アヌンツィアタ この人は学者。賢いの。私より年上。でも時々ほっぺたをぴしゃって叩いてやりたくなる。ねえ、先生。この人に話しかけて!
(医者、手を振って、諦めのしぐさ。)
 アヌンツィアタ 先生!
 医者 分かるでしょう、この人聴いていないんですよ。ほら、何か書いたものに夢中になって。
 アヌンツィアタ 王女様からの手紙なの。学者さん! 先生があなたに話しているのに聴いてないじゃないの。
 学者 聴いてないなんて! ちゃんと聞こえているよ。
 アヌンツィアタ じゃ、今の話に何て答えるの?
 学者 エート、エート、エート。
 アヌンツィアタ 学者さん!
 学者 今すぐ答えるから。だけどここのところがちょっと・・・(ブツブツ呟く。)此処何て書いてあるんだろう。「いつまでもあなたの」かな、「いつもあなたの」かな。
 アヌンツィアタ(悲しそうに。)もうあなたなんか。撃ち殺してあげる。
 学者 うん、うん。どうぞ、どうぞ。
 医者 クリスチアン・テオドール! あなた学者でしょう? 私の話ぐらい聴いてくれてもいいじゃありませんか。私はあなたの同僚ですよ。
 学者(手紙を隠しながら。)ええ、ええ。ごめんなさい。
 医者 影をなくした男については昔からの言い伝えがあって、シャミッソーの論文、それにあなたの友達のハンス・クリスチアン・アンデルセンによれば・・・
 学者 ああ、あそこに書いてある事なんか、考えなくってもいいんです。僕の場合終わり方は全く違うんです。
 医者 私は医者ですよ。医者に対して言う言葉ですか、それが。よろしい。あなたは王女と結婚するつもりなんですか。
 学者 勿論です。
 医者 で、聞けばあなたは出来るだけ多くの人々を幸せにしたいと願っている・・・
 学者 ええ、それも本当です。
 医者 片方をとれば片方は不可能じゃないですか。
 学者 何故ですか。
 医者 王女と結婚すればあなたは王様にならなきゃならない。
 学者 それは間違い。僕は王様にはならないんだ。王女は僕に首ったけ。だから僕と出て行くんだ。王位なんか捨ててね。ね? 素晴らしいでしょう? そして不思議がって訊ねる人に説明してやる。いや訊きたくないっていう人達にも説明してやるんだ。王の権力なんて無意味でつまらないものなんだって。その為にも僕は王位を捨てなくっちゃ。
 医者 で、みんなは君が言うことが分かるとでも・・・
 学者 勿論。だって僕が身をもってそれを示すんですからね。
(医者、黙って手を振り、諦めのしぐさ。)
 学者 人間に説明出来ないことなんてありませんよ。イロハだって人は知っているじゃないですか。これはイロハより簡単なことですよ。そして大事なことはこれが我々一人一人にとって身近な問題だっていうことです。
(湯治客達、遊びながら舞台を走って横切る。)
 医者(彼らを指差して。)あなたの言うことを彼らも分かるっていうんですか。
 学者 勿論。人間は誰だって心の中に生きているものを持っているんです。その生きているものに触れさえすれば・・・それでうまくいくんですよ。
 医者 あなたは子供だ。私は連中をあなたよりよく知っています。私の患者なんですからね。
 学者 何の病気なんですか。
 医者 満腹病です。それも極度に進行した。
 学者 危険なのですか。
 医者 ええ、周囲の者にとってね。
 学者 どんな風に?
 医者 極度に進行した満腹病は正常な人間にも突然襲うことがあります。まともな方法で人が沢山のお金を稼ぐと、急に不吉な徴候が現れます。暮らしに困らない人に特有の不安な、飢えた目付きです。そうなるともう終わりです。何も生み出せない、目の見えない残酷な人間になって行くのです。
 学者 そういうことをあの人達に説明しようとなさらないのですか。
 医者 だからあなたに警告しているんじゃありませんか。あの連中にはもう金以外の事をいくら考えさせようったって無駄です。そんな事をすれば本物の気違いになるだけです。
(湯治客達、走って登場。)
 学者 ええっ! あの患者達、陽気じゃありませんか。
 医者 バカンスだからですよ。
(ユーリア・ジューリー、急いで登場。)
 ユーリア(医者に。)あら、やっと見つけたわ。あなたもうすっかりいいの?
 医者 いいですよ、ユーリア。
 ユーリア あらいやだ。先生じゃないの。
 医者 そう。医者ですよ、ユーリア。
 ユーリア 惚れてボーッとなった兎みたいな顔をして私を見ないで頂戴。あっちへ行って。
(医者、何か言おうとする、が、黙って手を振り、あづまやの方へ退場。)
ユーリア クリスチアン・テオドール、あなた何処なの?
 学者 此処ですよ。
 ユーリア(近づいて。)そう、あなたね。(微笑む。)嬉しいわ、また会えて。あのどうでもいい医者、何て言って?
 学者 もう大丈夫だって。どうして「どうでもいい医者」なんて言うんです?
 ユーリア 私、あの人を昔愛したことがあるの。そういう人、私、後でひどく嫌いになるの。
 学者 不幸な恋だったんですね。
 ユーリア 不幸なぐらいじゃすまないわ。あの人には奥さんがいたの。ブスで意地悪な。あの人、それは怖がって、あの人にキスしようとしても、何時だって首の横にしか出来なかったの。
 学者 どうして?
 ユーリア 何時だって、あっち向いたり、こっち向いたり。奥さんの事を気にしているから。あの人の話なんかこれでもうおしまい。私あなたに危険が迫っていることを教えに来たの。
 学者 危険? そんなこと有り得ないよ。僕はこんなに幸せなんだから。
 ユーリア それでも危険が迫っているの。
 アヌンツィアタ ねえ、ユーリアさん。こんな事をいう時、微笑まないで。分からないじゃないの、本気なのかどうか。誤解して用心しないでいて、死んじゃうかもしれないわ。
 ユーリア 私がほほえんでいるのは気にしないで。私の属しているクラブ、例の錚々たる人物の集まりのあのクラブでは、万一に備えて人は微笑んでいるの。そうしておけば、何を言ってたって、すぐあれこれ言い抜けられるでしょう? ねえ、クリスチアン・テオドール。私、真面目に話してるの。危険が迫っているのよ。
 学者 どんな危険?
 ユーリア お話ししましたわね、私達のクラブに大臣が時々顔を出すっていう事は?
 学者 ええ。
 ユーリア 大臣て、大蔵大臣のことなの。私がいるからやって来るのよ。あの人何時も私の御機嫌をとって、隙さえあれば言い寄ろうとするの。
 アヌンツィアタ あの人が? 歩くのだってままならないのに!
 ユーリア きちんと着飾った侍僕が二人で運ぶの。だって金持ちだから。さっきあの人に会ったわ。何処へ行く   のだと訊くからあなたの名前を言った。そうしたら眉に皺を寄せたのよ、クリスチアン・テオドール。
 アヌンツィアタ なんて恐ろしい話!
 ユーリア 私達の集まりでは誰でもみんな高官の顔色を読めるの。それはもう素晴らしい技術。だからこの近視の私だって大臣の顔がすぐ読めたわ。あなたに何か企んでいるのよ、 クリスチアン・テオドール。
 学者 企ませておけばいい。
 ユーリア ああ、あなたの御陰で私、二週間前から、すっかり駄目な女になってしまった。どうしてあなたのところへなんか行ったんだろう。オセンチな愚物になり下がってしまった。こうなると本当に困ってしまうの、忙しくなっちゃって。アヌンツィアタ、この人をあっちに連れて行って。
 学者 どうして?
 ユーリア 今此処に大蔵大臣が来るの。魅力のありったけを振りまいて、あの人の企みを探ってやるわ。私、あなたのことを助けてあげようとしているのよ、クリスチアン・テオドール。
 アヌンツィアタ どうやって感謝の意を表したらいいんでしょう、ユーリアさん。
 ユーリア 誰にも言わないこと。本当に感謝の気持ちを持ってくれるなら。もう行って。
 アヌンツィアタ 行きましょう、学者さん。
 学者 行く? だって君も知っている筈だよ。僕はここで王女に会う事になっているんだ。
 ユーリア まだ一時間あるわ。行って頂戴。もしあなたが本当に王女を愛していて、そして私のことを少しでも哀れと思って下さるのなら。
 学者 さようなら、かわいそうなユーリア。二人ともなんて心配そうな顔をしているんだろう。だけど僕には分かっている。これはハッピーエンドなんだ。
 アヌンツィアタ あ、来るわ。ユーリアさん、是非、是非、宜しくお願い致します。
 ユーリア シッ。言ったじゃないの。任せておいて。
(学者とアヌンツィアタ、退場。大蔵大臣、二人の侍僕に運ばれて登場。)
 大蔵大臣 止まれ! この魅力溢れる御婦人の傍に止めるんだ。軽い、機知に富んだ、駄弁を弄するに適したポーズをわしに。
(侍僕二人、大蔵大臣にそのポーズをつける。)
 大蔵大臣 よし、行ってよし。
(侍僕二人、退場。)
 大蔵大臣 ユーリア、お前の事を喜ばせたいぞ。
 ユーリア そんなこと、簡単にお出来になれますわ。
 大蔵大臣 おお、その声。魔法にかけられたようだ。キルケーか、アフロディテーか。今の今まで総理大臣官邸で、お前の噂をしていた所だ。
 ユーリア 御冗談を。
 大蔵大臣 いや、本当だ。我々二人はただ一つの結論に達したよ。お前は妖精だ。頭がいいばかりじゃない。損得勘定も分かる妖精だ。
 ユーリア お世辞ばかり。
 大蔵大臣 だから二人で決めた。お前にある事を手伝って貰おうとな。
 ユーリア 何ですの、ある事って。私で出来る事なら何でも致しますわ。
 大蔵大臣 簡単な事だ。よそものの学者を一人抹殺するのを手伝って欲しい。名前はテオドール・クリスチアンという。お前知っているんだろう、この男を。手伝ってくれるな?
(ユーリア、答えない。)
 大蔵大臣 おい、そこの者!
(侍僕二人登場。)
 大蔵大臣 強烈に驚いた、のポーズ。
(侍僕従う。)
 大蔵大臣 ユーリア、私は本当に驚いた。どうしてお前はそんな奇妙な顔をして私を見るのだ。まるでどう答えたらよいか分からないっていう顔じゃないか。
 ユーリア そうです。本当に何て答えたらよいか分からないのです。この二週間私、変になっているんですわ。
 大蔵大臣 分からないな。
 ユーリア 私も自分が自分で分からないんです。
 大蔵大臣 それは拒絶という事か。
 ユーリア 分かりません。
 大蔵大臣 おい、お前達!
(侍僕二人登場。)
 大蔵大臣 猛烈に憤慨した、のポーズ。
(侍僕二人従う。)
 大蔵大臣 私は猛烈に憤慨しとる。ユーリア・ジューリー殿。これは一体どういう事だ。まさかこの生まれの卑しい坊やに惚れたっていうんじゃないだろうな。黙れ! 起立! 直立不動! お前の前にいるのはただの男ではない。大蔵大臣であるぞ。お前の拒絶は何を意味しとるか。それはこのわが祖国、わが帝国を十分に尊敬しておらんと、そういう事になるのだ。黙れ! 問答無用! 裁判だ。
 ユーリア お待ち下さい。
 大蔵大臣 待つか。「私今原っぱにいない。何故かしら。」やっとこれの意味が分かったぞ。お前がこれによって何を訴えたかったか。国家が百姓に、十分土地を分配しておらんと、こう言いたかったんだ。そうだろう。あ? 図星だな。明日にも早速各紙こぞってこと細かにお前の顔、歌う時の様子、プライベートな生活、を調べあげることになるぞ。おい、お前達、地団太だ。
(侍僕二人、地団太を踏む。)
 大蔵大臣 馬鹿もん! お前達が踏むんじゃない! わしだ。わしに踏ませるんだ。
(侍僕二人、従う。)
 大蔵大臣 ではさらばじゃ。かっての有名人よ。
 ユーリア お待ち下さい。
 大蔵大臣 待たん。
 ユーリア 私の方をお向き下さい。
 大蔵大臣「閣下」がついとらん。
 ユーリア 私の方をお向き下さい、閣下。
 大蔵大臣 何じゃ。
 ユーリア お分かりにならないのですか、閣下。閣下は何時も私にとって、大臣であられるよりもむしろ男であられたという事を。
 大蔵大臣(自尊心をくすぐられて。)エヘ、エヘヘ。おだてても無駄だぞ。
 ユーリア 誓ってもよろしゅうございます。それでその男に対して女が「ハイ」とすぐ言えるものでしょうか。
 大蔵大臣 アフロディテーめが。すると本心は「ハイ」ということだったんだな。
 ユーリア 今私は「ハイ」と申しあげます。
 大蔵大臣 お前達、抱き締めるんだ。
(侍僕二人、ユーリアを抱き締める。)
 大蔵大臣 馬鹿もん! わしが抱き締めたいぞ。もういい。親愛なるユーリア。感謝するぞ。わしは明日にも、役所の命により、お前のパトロン、いや、パトロン達の元締めだ。お前達! わしをこのアフロディテーの傍に座らせてくれい。それから「やれ、ひと安心。」のポーズだ。それからユーリア、お前も「やれ、ひと安心。」のポーズをとってくれ。ただし、耳はわしの言うことを聴くのだ。いいか、これから暫く経つとここに学者がやってくる。学者は総理大臣閣下づきの特別重要事項担当官と話している。お前はどんな口実でもいい、ここから学者を約二十分間連れ出すんだ。それだけだ。
 ユーリア それだけ?
 大蔵大臣 見てみろ。簡単なことだろう。そしてこの丁度二十分があいつの命取りになるんだ。さてと、宝石屋へ行こう。これ以上はない最高の指輪を買ってやる。遠慮はいらん。おい、お前達、我々二人出発だぞ。
(侍僕二人、二人を抱えて退場。)
(補佐官登場。ピエトロ、ツェーザリ・ボールジア、登場。)
 補佐官 やあ。今日は、皆さん。
 ピエトロ「今日は」か。もう今朝、会ったじゃないか。
 補佐官 今朝お会いしたことは、お二人とも忘れて頂きたい。私の方は勿論忘れはしません。お二人の御陰で、私という人物が掘り出され、宮廷に推挙され、一人前になれたのですから。でもお二人とも、これ限り、私が何者であったかは忘れて、私が何になったか、それだけを覚えて下さらなければなりません。
 ツェーザリ・ボールジア で、今は何者なんです。
 補佐官 私の現在の地位は、総理大臣閣下づきの特別重要事項担当官です。
 ツェーザリ・ボールジア それはすごい地位だ。なんていう運のよさ。全くこんちきしょうだ。いつもこうなっちまうんだからな。
 補佐官 私はこの地位を自分自身の努力でかちとったのです。ですから再度ご注意を喚起しておきます。私が昔何者であったか、それは忘れて戴きたい。
 ピエトロ 忘れるのは構わんよ。喧嘩さえしなければ思い出しはしないさ。
 ツェーザリ・ボールジア 忘れるのは難しいな。しかし黙っていることはできる。何を言いたいか分かるな。
 補佐官 ちゃんと分かっています。私の正体をばらしさえしなければ、喧嘩は起こらない。さあいいですか、よく聴いて下さい。私は重要事項第八九八九号を任されています。(ファイルを見せる。)この件です。
 ピエトロ(読む。)王女の結婚について。
 補佐官 そうです。このファイルにはあらゆる事が載っています。王女の事は勿論、あいつの事も、あなた方の事も、現在の事も、将来の事も。
 ツェーザリ・ボールジア 王女の配偶者に誰が指名されようと、俺の知った事か、どうせこの世で起きる事だ。俺には何の興味もありはしない・・・とは言っても・・・
 補佐官 あなた方二人とも王女の婚約者・・・の候補としてあげられています。
 ピエトロ 何だって? 二人とも?
 ツェーザリ・ボールジア こいつも? 俺も?
 補佐官 そうです。しかし王女に選択権があるので・・・
 ツェーザリ・ボールジア 俺の事を一目見りゃ、それで終わりなんだ。
 ピエトロ 俺という人物がいるという時に、他にどんな馬鹿が必要だっていうんだ。
 補佐官 ちょっとやめて下さい。手筈はもう整えてあるんです。私が推薦し、王女が選ぶ。いいですね。ピエトロ、あなたの娘さんを家に連れて帰って下さい。私は学者と話をしなきゃならないんですが、あの子が仁王様みたいに立ちはだかっていたんじゃ、話にもならない。
 ツェーザリ・ボールジア あの子はあいつに惚れているんだ。それなのに親父ときたら、盲同然。まあ、父親なんてそんなものだが・・・
 ピエトロ 糞ったれ。あの二人、殺してやる。
 ツェーザリ・ボールジア とっくの昔にやってなきゃならん事さ。
 ピエトロ 悪い奴だ。そうやって唆して、殺人罪で逮捕させる気だな。お前一人が婚約者候補。それが腹だろう。
ツェーザリ・ボールジア それが腹だ。そうなってくれりゃ、しめたものだからな。じゃ失敬。
 ピエトロ 駄目だ。そうはさせんぞ。お前の狙いは分かっているんだ。
 ツェーザリ・ボールジア 狙いって?
 ピエトロ あれこれ手を尽くして、俺を邪魔しようっていうんだ。そうは問屋が卸さんぞ。お前から一歩も離れないでいるからな。
 補佐官 シッ。あいつが来る。とにかくこれだけは取決めておきましょう。二人のうち誰が王位についても、もう一人を相応にとりたてる事。例えば王位をフイにした者を、王の 第一秘書、あるいは近衛連隊の隊長に任命する、と。ほら、あいつがやってきます。ニコニコしているなあ。
 ツェーザリ・ボールジア あいつにどんな話をするんだ。
 補佐官 人(にん)を見て法を説け、と言いますからね。
(学者、アヌンツィアタ、登場。)
 学者 今日は好い天気ですね、みなさん。
 ピエトロ 好い天気、好い天気。天気なんかどうでも好い天気。アヌンツィアタ、お前、家へ帰れ!
 アヌンツィアタ パパ・・・
 ピエトロ 帰るんだ! 帰らないとお前にも誰かさんにも悪い事が起きるぞ。第一お前、今日の夕食を何にするか、料理人に指図してもいないんだろう。
 アヌンツィアタ 夕食なんかどうでもいいの。
 ピエトロ 何? このお化け。ツェーザリ・ボールジア殿、もう家へ帰ろう。 帰らないならこの匕首(あいくち)で貴様の心臓をグサリだ。
(二人、退場。この会話の間、脇に退いていた補佐官、学者に近づく。)
 補佐官 私の事をお分かりになりませんか。
 学者 いえ、失礼ながら。
 補佐官 私の顔をもう少しよくご覧になって。
 学者 これはどういうことだ。なんだか知っているような顔だ。それもよく知っているような・・・でも・・・
 補佐官 なにしろ長い間あなたと暮らしていましたからね。
 学者 長いこと・・・暮らした?
 補佐官 ええ、長いこと。ずーっとしつこくあなたのあとをつけていたんですがね。あなたは時たま無関心な目付きで私をちらと眺めるのが関の山でしたよ。屡(しばしば)あなたよりも背が高くなって、そう、高い建物の屋根まで聳え立った事だってあるんです。とくに月夜の晩でしたがね、これは。
 学者 そうすると、つまり君は・・・
 補佐官 ええ、そう。あなたの影・・・何故そんな疑わしそうな顔をして私を見るのですか。私はあなたの傍にずーっと・・・あなたがこの世に生を享けたその瞬間からずーっとくっついてきていたんですよ。
 学者 いや、ただ僕は・・・
 影 私があなたを置き去りにしたことを怒っていらっしゃる。だけどあなた御自身じゃありませんか、私に王女のところへ行ってくれと頼んだのは。だから私はそれを早速実行に移したまでのこと。(あなたの代わりが何故出来るかって・・・そりゃ)だって、あなたがつきあってきた人達というのは、私がつきあってきた人達でもあるんですからね。あなたが「ママ」と言った時には私だって同じ言葉を声をたてずに繰り返していたんです。あなたが愛した人は私が愛した人ですし、あなたの敵は私の敵です。あなたが病気の時は私だって枕から頭を上げることは出来ませんでしたし、あなたが回復すれば私も回復しました。このような緊密な友情を保ち続けて今まで暮らしてきたのに、その私が急にあなたの敵になるなんて、そんなこと考えられますか。
 学者 敵だって? とんでもない。さあ、此処に座って。古い友達じゃないか。君が離れて行ってから僕は病気になったんだ。だけど今はよくなっている。こうしていると気分がいいんだ。今日はこんなにいい天気だしね。幸せな気持ちだ。心が外に開いている気分だ。こんな言葉は好きじゃない(陳腐だものね。)だけど君だから言うんだ。君の言葉は僕の心の琴線に触れたんだよ。だけど君、ずっとこの間何処で何をしていたんだい? まあいいや、そんなこと。きみは僕に丁寧な言葉を使っているね。もう少しぞんざいにしよう。もっと親しくなるために。
 影(学者と握手して。)有り難う。(それじゃ許して戴いて、少しぞんざいに。)僕は君の影としての役割を果たしてきたのさ。君と別れてからこの数十日間ずっとしてきたことはそれだよ。
 学者 何のことか分からないな。
 影 君は僕を王女への使いに出した。僕は最初宮廷に務めて、式部官の補佐役になった。それからどんどん出世したんだ。そして今は総理大臣付の特別重要事項担当官だ。
 学者 かわいそうに。いやな務めだね。周囲がうるさいだろう。 だけどどうして君、そんなことをやり始めたの?
 影 君の為じゃないか。
 学者 僕の為?
 影 君には分かっていないんだ。君が王女を愛し、王女が君を愛するようになってからどんな恐ろしい敵意が君をとり囲んでいるか。 連中は君を抹殺しようと躍起になっている。そして今日にも君は抹殺されるんだ。もし僕というものがいなければ。
 学者 なんだって?
 影 僕は君を助けようと、奴等の間にはいりこんだんだ。連中は僕にいろんな重要事項を任せてくる。今は重要事項第八九八九号だ。
 学者 何だい、それは。
 影 王女の結婚について。
 学者 まさか。
 影 僕らにとってこんな好都合なことはない。だって連中の手口がすっかり見えているんだからな。僕を君の所に寄越したのは総理大臣だ。君を買収しろと言ってね。
 学者 買収?(笑う。)幾らで?
 影 馬鹿だな。(金額が決まっている訳はないじゃないか。)名誉と尊敬と富を約束しているんだ。君が王女を諦めれば。
 学者 諦めなかったら。
 影 殺すと。今日にも殺される。
 学者 とても信じられないな、僕が死ぬなんて。特に今日だなんて。
 影 クリスチアン、ね。連中は君を殺すよ。本気なんだ。連中は僕等が子供の頃走り回った小道を知りはしない。僕等が水の精と話したあの水車小屋だって。それからあの森、受持ちの先生の娘さんと会って、幼い恋を囁きあった――君はその娘さんと、僕はその影と――あの森。 そんなものを連中は知りはしないんだ。連中は君が血の通った人間であるなんて想像出来ないのさ。連中にとっては君は単なる邪魔――切り株とか丸太ん棒だとか、そんなものに過ぎないんだ。本当なんだよ。太陽が沈まないうちに君は死んじゃうんだ。
 学者 じゃあ、僕にどうしろって言うんだい?
 影(ファイルから書類を取り出す。)此処に署名するんだ。
 学者(読む。)「私、クリスチアン・テオドールは、次の改変不能かつ最終の決意を此処に表明する。即ち私は王位継承者たる王女の婚約者の権利を、もしこれと引換えに名誉、尊敬、富が保証されるならば、放棄するものである。署名、クリスチアン・テオドール。」これに署名しろって真面目に言ってるんじゃないだろうな。
 影 真面目だ。署名したまえ。若し君が駄々っ子じゃなく、本物の男だったら。
 学者 何だって?
 影 考えたら分かるじゃないか。他には道はないんだ。こっち側はたった三人。(僕と君と王女。)あっちは大臣達、枢密顧問官、王付きの役人達全員、警察に軍隊だ。まともな方法じゃ勝ち目はない。信じてくれ。僕は(この世のこと)地上の事にかけては君よりもたけているんだ。何時だって地面の上にいるんだからね。とにかくこの書類が奴等を安心させる。その間、今日の夕方にも君は馬車を借りる。連中は追おうとはしないだろう。森で君と僕等――つまり僕と王女――が落ち合う。三人で逃げるんだ。二、三時間したら僕等は自由だ。自由なんだよ。ほら此処にインクとペン。署名するんだ。
 学者 よしこうしよう。今此処に王女が来る。僕は相談してみるよ。もし他に方法がないのなら署名することにしよう。
 影 時間がない。総理大臣は二十分しか猶予をくれなかった。もともと君を買収するなんて不可能だと思っているんだ。だからこの君との話合いだって単なる手続き上のことだと大臣は解釈している。もう大臣付の殺し屋が控えに入っていて、ゴーサイン待ちなんだ。署名したほうがいい。
 学者 したくないな。
 影 それじゃ君だって人殺しだ。君がこの紙に署名しない。それがどういう結果を生むか、僕を殺すことになるんだ。君の最も良い友人のこの僕を。それからあのかわいそうな、君だけを頼りにしている王女を殺すことになるんだ。だってそうだろう。君が死んだあと、僕等が生きていられると思っているのか。
 学者 分かった、分かった。ほらよこして。 署名するよ。だけど・・・もう宮殿の近くになんか決して来ないぞ。
(紙に署名する。)
 影 それからこれが王の封印と。(封印を押す。)
(ユーリア登場。影、二人を避けて傍による。)
 ユーリア クリスチアン、私もう駄目。
 学者 え、どうしたの。
 ユーリア 助けて頂戴。
 学者 勿論僕に出来る事なら。でもどうしたの? あ、僕をかついでいるんだね。
 ユーリア 違う! あ、この微笑ね。これは習慣なの。私と一緒に来て頂戴、すぐ。
 学者 すぐは駄目だ。僕は此処から離れられないんだ。今王女が此処に来るんだよ。
 ユーリア 生死に関わる問題なの。
 学者 あ、分かった。君の言っている問題っていうの。大蔵大臣に会って僕の危機を知ったんだ。それで知らせに来たんだろう? それは有り難いんだけど・・・僕はもう・・・
ユーリア ああ、あなた分かってないわ。それならその儘そこにいたらいいわ・・・駄目。私、そんな(人を助けるなんていう)オセンチな俗人のもつ道徳なんて持ち合わせていない。あなたに危機を知らせになんて来たんじゃない。 私のことなの! クリスチアン、お願い。私と一緒に来て。でないと私、殺されちゃう。跪いてお願いしたっていいわ。ねえ、一緒に来て。
 学者 分かった。友達にちょっと伝言しておく。(影に近づく。)君、此処に王女が来るんだ。
 影 うん。
 学者 二、三分したら駆けつけるからと言ってくれないか。この御婦人をほっておけないんだ。何か不幸が起こって。急を要するんだ。
 影 安心して行って来ていいよ。王女様には僕からよく話しておくから。
 学者 すまない。
(二人退場。)
 影 畜生、この忌ま忌ましい手、足、首。凝ってしようがない。影の宿命的習慣だ。あいつの動作一つ一つを真似したがるこの体を抑えなきゃならん。危ない、危ない。(ファイルを開く。)さてと・・・第四段階・・・完了と。(読むのに没頭する。)
(王女と枢密顧問官登場。影、直立不動の姿勢をとる。王女に見惚れ、目を離すことができない。)
 王女 顧問官、あの男はどこにいる。何故ここにいないのか。
 枢密顧問官(囁き声で。)すぐまいります、王女様。すべてうまくいきますから。
 王女 何がうまく行くですか。何も分かっていない癖に。黙っていなさい。お前には人を心から愛したという経験がないのだ。だからそんなに簡単にスうまく行く。セなんて言葉が出るのだ。ああ、けしからぬ話だ。私は王女だ。待つという習慣がないのだ。あの音楽は何か。
 枢密顧問官 レストランの音楽です、王女様。
 王女 レストランでは何故いつも音楽を流しているのか。
 枢密顧問官 人がものを噛んでいる音を聞こえなくする為です、王女様。
 王女 暫く私を一人にしておいてくれ・・・一体こんなことって・・・(影に。)おい、お前。何故私をそんなに目を丸くして見ているのか。
 影 王女様に申し上げねばならない事がございます。なのに体が言うことをききません。
 王女 何者か、お前は。
 影 彼の親しい友人です。
 王女 彼、とは誰か。
 影 王女様。王女様がお待ちになっている男のことです。
 王女 そうか。何故黙っていたのか。
 影 理由を申し上げますのは御無礼かとぞんじます。
 王女 構わぬ。言ってみよ。
 影 王女様のあまりの美しさに、ただ見とれて、声も出なかったのでございます。
 王女 そのどこが御無礼なのだ。あの男がお前に伝言したというのだな。
 影 はい。「只今すぐまいります」とお伝えせよと。「のっぴきならない用で遅刻します。全ては順調です、王女様。」とのことで。
 王女 ではすぐ来るというのだな。
 影 はい。
 王女 よし、また気分が明るくなったぞ。よろしい。あの男が来るまでお前が私の相手をせよ。よいな。
(影、黙っている。)
 王女 相手をしたくないというのか。不愉快なことだがお前に思い出して貰わねばならぬ。私は王女なのだ。周囲の人間にかしずかれるのを普通のことと思っている。(分かっているな。)
 影 分かりました。御命令に従います。王女様、私は夢のお話しを致しましょう。
 王女 で、そのお前の夢は面白いのか。
 影 私の夢ではありません、王女様。王女様の夢をお話し致すのでございます。
 王女 私の?
 影 はい。王女様の一昨日の夜の夢。宮殿の壁が急に海の波に変わってしまいました。王女様はクリスチアンと大声でお叫びになる。すると彼がボートに乗って現れ、王女様に手を差し延べる。
 王女 あら、この夢私見た。それに、誰にも話したことがない。
 影 はっと気がつくと王女様は森の中でした。突然藪の中から狼が出てきます。するとクリスチアンが言います。「怖がらなくていいんだ。それは優しい狼なんだよ。」そして狼を撫でてやります。それからもう一つの夢。王女様は子馬に乗って原っぱを走っています。道の両側の草がどんどんどんどん伸びて背が高くなって行きます。そしてとうとう両側が草の壁になります。それはそれは美しい草の壁。王女様はその美しさにうたれて涙を流します。そして目がさめます。枕には涙がこぼれていました。
 王女 お前はどうしてそんなことを知っている。
 影 愛が奇跡を創るのです、王女様。
 王女 愛?
 影 そうです。私は大変不幸な人間です、王女様。私は王女様を愛しているのです。
 王女 これは・・・顧問官!
 枢密顧問官 お呼びでございますか、王女様。
 王女 此処へ・・・いや、お前、五歩下がっていよ。
(枢密顧問官、歩数を数えて離れる。)
 王女 私は・・・
 影「此処へ見張りを呼べ。」と、仰りたかったのです、王女様。でも何故かご自分でもお分かりにならない儘、五歩下がっていなさいと命じていたのです。
 王女 お前は・・・
 影 これは愛です、王女様。王女様もそれを感じとっていらっしゃいます。私の胸に王女様の心がいっぱいに入っています。王女様のお考えは、ですからその儘私の感情なのです。私はまだ二つしか夢のお話をしていません。でも全部、一つ残らず私は覚えています。恐ろしいのも、おかしいのも、大きな声ではお話ができない夢だって・・・
 王女 無礼な・・・
 影 王女様を強く感動させた夢、あの夢を覚えていらっしゃるでしょう。あの夢で一緒だったのはクリスチアンではありませんでした。王女様の御存知ない全く別の顔でした。でもその顔は王女様のお気に召したのです。で、その男と王女様は・・・
 王女 顧問官、見張りを呼べ!
 枢密顧問官 畏まりました、王女様。
 王女 でも今のところその藪の中に立たせておけ。話すのだ、続きを。あの男が来るまでの間、暇潰しになる。
 影 人は物の影の部分を知りません。しかしその影の部分、薄暗がり、奥深い所に我々の感情の最も鋭いものが潜んでいるのです。王女様の心の奥には、私が住んでいるのです。
 王女 止めよ。狙いは分かった。今見張りを呼ぶ。お前を引っ立てて行かせる。今夜斬首の刑だ。
 影 これをお読み下さい!
(ファイルから学者が署名した書類を出し、見せる。王女読む。)
 影 あいつは優しい男です。高潔な男です。しかしみずから泥を被るという勇気がない。彼と一緒にこの国を逃げよう、そうあいつは王女様に説きふせようとしたでしょう。王になるのが怖いのです。危険ですからね。そして王女様を裏切った。卑怯な奴だ。
 王女 その署名を私は信じない。
 影 でも此処に王の封印もあります。私はあいつを買収した。それに乗るような奴なんです。王女様の婚約者ですって? そんな器であるもんですか。私はこの腕で王女様をあの男の手から救ったのです。どうぞ私の首を斬って下さい。
 王女 次から次へといろんなことを言う男だ。息をつく暇もありはしない。お前だって私を本当に愛しているか、私に分かろう筈もあるまい。なんて不幸な女なのだ、私は。
 影 でも夢のことを! 夢のことをお忘れです、王女様。王女様の夢が何故私に分かったのです。この様な奇跡は愛、愛だけが可能にするものです。
 王女 そう、それは確かに。
 影 ではこれでお暇を、王女様。
 王女 お前・・・お前は行ってしまう・・・なんて自分勝手な! 此処へ来て、私の手を取って・・・そう。お前の話、あれは・・・あれは・・・面白い。(口づけ。)私は・・・お前の名前さえ知らない。
 影 テオドール・クリスチアンです。
 王女 素敵な名前! 殆ど・・・殆ど同じ名前・・・(口づけ。)
(学者走り登場。釘付けされた様に立ち尽くす。)
 枢密顧問官 どうかお引き取りを願います。只今王女様は臣民の一人に謁見を許しておられるところ・・・
 学者 ルイーザ!
 王女 下がれ。この卑怯な男!
 学者 なんていう言葉だ、それは。ルイーザ。
 王女 私を拒否する書類に署名をしたではないか、お前は。
 学者 署名した、確かに・・・しかし・・・
 王女 それでもう十分。お前は優しい男だ。しかし取るに足らぬ男! テオドール・クリスチアン。親しい人、さあ、あちらに・・・
 学者 この悪党め!
 王女 見張りの者!
(藪の中から見張り、走って登場。)
 王女 宮殿に帰る! 供につけ!
(退場。学者、ベンチに倒れる。あづまやから急いで医者登場。)
 医者 ほら、片手を振って、もうしようがないやのポーズ。今が一番大事。ほら振って。さもないと気が狂っちゃうよ。
 学者 何が起こったか知っているんですか。
 医者 ええ。耳が鋭いですからね。みんな聞きました。
 学者 あいつ、どうやって王女と口づけするところまで漕ぎつけたんだろう。
 医者 王女の泣き所をついたんです。夢の話をしたんです。王女の夢の話を。
 学者 どうしてそんなものが分かるんだ、あいつに。
 医者 だって夢と影は似たもの同志。まあ親戚みたいなものですからね。
 学者 それを聞いて何も口出ししなかったんですか、あなたは!
 医者 私が口出し! あの人は特別重要事項担当官ですよ。どんな権力があるかちっとも分かっていないんですね。私は並みでない勇気の持ち主を知っていました。彼はナイフ一本で熊に立ち向かったことがあり、ある時など素手でライオンと渡りあいました。たしかにこの最後の狩りから彼は戻っては来ませんでしたが、(ともかく勇気のある男でした。)その男がですよ。枢密顧問官を間違って後ろから押してしまった時、どうなったと思います? 気絶したんですよ。とんでもなく怖いことなんです。私があの担当官を怖がっても不思議ではありません。そう、私は口を出しませんでした。さあ、あなたは片手を振って、もうしようがないやのポーズ。ほら。
 学者 やりたくない。
 医者 じゃあ、あなたに何ができるんですか。
 学者 あいつをやっつけるんだ。
 医者 それは出来ません。まあ、私の話を聴いて下さい。(お役所がいかに強いところか分かります。)私は偉大な発見をしたんです。あなたはそれを知りませんし、世界中の誰だって知ってはいません。命の水の出る泉です。それも遠くにあるんじゃありません。宮殿のすぐ傍です。この水はこの世のどんな病気でも治してしまいます。それに死んだ人だって、もしその人がいい人なら、生き返らせる力もあるんです。その発見がどうなったと思います? 大蔵大臣の命令で泉が塞がれてしまったんです。病人を全部治してしまったら、湯治に来る者がいなくなるというんです。私は気違いの様になって抵抗しました。そしたらどうです、警察の手が伸びてきたのです。(分かりますか)連中は冷淡なんです。生きること、死ぬこと、大発見、そんなものどうでもいいんです、連中には。だからあいつらは強いんです。勝つんです。で、私はもう、こう、片手を振って、まあしようがないや、と。すると生きて行くのが急に楽になりましたよ。あなたも私の様に、こう、片手を振って、そして生きて行くことにするんですな。
 学者 ではあなたは何で生きているんですか。何をあてに。
 医者 何をあてにと言われても・・・そう、例えば病人を治す。これは嬉しいです。女房が二日ぐらい何処かに行く、すると嬉しい。新聞に、私が皆に希望を与える、と書いてある、すると・・・
 学者 そんなこと!
 医者 あなたの生き甲斐は、最大多数の人間を出来るだけ幸せにすることでしたね。だからお上もあなたを生かしておくんですよ。ただの普通の人だったらさっさと殺しています。さあ、片手を振って。例のポーズ。この馬鹿な不幸な世界を、見ない振り、聞かない振り、でやりすごすのです。
 学者 出来ません。
(舞台裏で太鼓とラッパの音。)
 医者 奴が帰ってきた。(あづまやへ急いで退場。)
(見張り達の大行列登場。ラッパ吹きと太鼓手達もいる。行列の先頭に影。黒いフロックコートに真っ白なシャツ。行列、舞台の中央に止まる。)
 影 クリスチアン、二つ三つ、命令を下しておかなきゃいけないんだ。すんだらすぐ君の件を片づける。
(総理大臣、喘ぎながら走って登場。侍僕二人、走って登場。大蔵大臣を運んでいる。ピエトロ、ツェーザリ・ボールジア、手を繋いで登場。)
 総理大臣 これはどういう事だ。もう我々が決定してしまった事ではないか。
 影 小職の一存でその決定を変更した。
 総理大臣 なんですと・・・
 影 落ち着いて聴くんだ、キミー。君の前にいるこの私が何者であるか、分かっていないのか。
 総理大臣 分かっている。
 影 では何故小職のことを閣下と呼ばないのか。まだ役所で確かめていないのだな。
 総理大臣 役所にはまだです。食事をしていたものですから、閣下。
 影 ちょっと此処へ。見ろ。第八九八九号、完了。終わりの所に王女の決意が書かれている。そして、私の命令第〇〇〇一号がこれだ。小職が未だ新しい、予定された地位につくまでは、小職は閣下と呼ばれるべきこと。
 総理大臣 すると全て手続きは完了しているという訳・・・
 影 そうだ。
総理大臣 ああ、それならば、是非もない。おめでとうございます、閣下。
 影 大蔵大臣! お前不満なのか、眉を顰めて。
 大蔵大臣 政治経済の世界でどのように受け止められるか、予断を許さないのであります。貴方様はなんといっても学者の出。大きな変革が行われましょうが、我々はそれに耐えられるか、自信がありません。
 影 変革などせん。今まで通り、今までの通りで行く。何の計画もなし。何の夢もなしだ。これが小生の学説の最も新しい結論だ。
 大蔵大臣 それならば、おめでとうございます、閣下。
 影 ピエトロ! 王女様は婚約者を選ばれた。しかしお前ではなかった。
 ピエトロ 糞ったれであります、閣下。でも約束のものを頂ければ結構です。
 影 ツェーザリ・ボールジア! お前も王にはなれなかった。
 ツェーザリ・ボールジア 追想録を書く位しか私には残されておりませんようで、閣下。
 影 嘆くな。小生が一介の役人、特別重要事項担当官だった時、小生を知っていてくれていた者達、小生の友人達、これを見捨てるような非情な男ではないのだ、小生は。お前は王の第一秘書に、お前は近衛連隊の隊長に任命する。
(ピエトロ、ツェーザリ・ボールジア、跪く。)
 影 みんな、下がってよし。
(お辞儀をして全員退場。――見張りは去らない。――影、学者に近寄る。)
 影 見たか。
 学者 見た。
 影 何か言うことがあるか。
 学者 ある。すぐに王女の申し出を断り、王位に立つことを諦めろ――でなければ、僕がそうさせてやる。
 影 ほざいたな。勇気のない男にしては上出来だ。よく聴け。俺は明日一連の通達を出す。するとお前はこの国で全くの一人ぼっちになるのだ。昔の友人はお前を嫌悪の情を持って見るようになる。敵だったものはお前を笑いものにするだろう。最後にどうしようもなくお前は、「助けてくれ。」と、俺のところにやって来るのだ。
 学者 なるものか、そんなことに。
 影  それがそうなるのさ。火曜日と水曜日の間の真夜中の十二時、お前は宮殿にやって来て、俺に手紙を託すのだ。「僕は降参だ、クリスチアン・テオドール。」とね。俺は然るべくお前に重要なポストをあてがってやるさ。見張り達! 行くぞ。
(太鼓とラッパの音。影、見張りの者達と退場。)
 学者 アヌンツィアタ! アヌンツィアタ!
(アヌンツィアタ、走って登場。)
 アヌンツィアタ 此処にいるわよ、学者さん! ひょっとして、ひょっとしてあのお医者さんの言うことをきいたんじゃないでしょうね。ひょっとして片手をこう、もうどうしようもないって振ったんじゃないでしょうね。御免なさい・・・私に腹を立てないで。私、力になりたいの。きっとお役に立つわ、私。私、誠実な女なの。ねえ、学者さん。
 学者 アヌンツィアタ、なんて悲しい話なんだ。
                    (幕)
   
     第 三 幕
     第 一 場
(夜。松明が燃えている。宮殿の窓の横木にも、柱にも、バルコニーにも松明あり。群衆が活発に動き回り、騒々しい。)
 背の高い男 俺が聞いた話、聞きたい奴はいないか。二コペイカで話してやるぞ。二コペイカでとっておきの話だ。面白い話だぞ。
 小さい男 あいつの話なんか面白くない。面白いのはこっちだぞ。俺は(小さいから)どこへでも潜り込むんだ。だから特種がはいる。たったの二コペイカだぞ。二人がどうやって出会ったか。どうやって知り合ったか、最初の婚約者が何故お払い箱になったか・・・
 女一 最初の婚約者って随分いい人だったっていう話じゃない?
 女二 なんですって? 随分いい人? 百万積まれたら諦めた、そんな人が。
 女一 ええっ? 本当? それ本当?
 女二 こんな話、誰だって知ってるのに。王女様は言ったんだ。「馬鹿ね、お前さん。王になればもっともうかるのに。」そしたらあの男の答、「それならもっと儲けるか。」だって。
 女一 そんな奴、殺してしまえばいいのよ。
 女二 そうよ、そうよ。そんな奴、王様になんかなれっこない。自分の家の家計簿でも、つけさせておけばいいのよ。
 背の高い男 俺が窓から盗み見たことを聞きたい奴はいないか。王の下男頭がやって来てなあ(面白い話なんだぞ。)・・・この先を聞きたい奴はいないか。たったの二コペイカだぞ。
 小さい男 新しい王様の肖像画はいらんかね。等身大だ。頭には王冠、唇には優しい微笑、目には慈愛溢れる眼差し。
 群衆の男一 今じゃ王様がいるんだ。暮らし易くなるぞ。
 群衆の男二 へえーっ? どうしてだ?
 群衆の男一 今説明してやる。見えるか。
 群衆の男二 何が。
 群衆の男一 立っている奴が見えるだろう?
 群衆の男二 立っている奴? まさか見張りの隊長じゃないだろ?
 群衆の男一 それがそうなんだ。私服に着替えてるんだ。
 群衆の男二 ははーん、なるほど。(大声で。)王様がいるんだ。暮らし易くなるぞ。(小声で。)上はちゃんと着替えている癖に、なんだあの靴、拍車付きの軍靴じゃないか。(大声で。)気持ちが晴々してきたぞ。
 群衆の男一(声を張り上げて。)王様のいない人生なんて、気の抜けたビールだあ!俺たちは今まで、気の抜けたビールを飲んでいたんだあ!
 群衆 新しい王様、テオドール一世ばんざあい。
(群衆、ピエトロを恐ろしそうにチラッと見ながら三々五々退場する。ピエトロ一人残る。壁からレインコートを着た男の姿が出て来る。)
 ピエトロ 何か変わった事は? 伍長。
 伍長 ありません。異常なしであります。逮捕者は二名。
 ピエトロ 罪状は。
 伍長「王様万歳。」の代わりに「ぼうさま万歳。」と言ったので逮捕。これが一人であります。
 ピエトロ もう一人は?
 伍長 うちの隣に住んでいる奴であります。
 ピエトロ そいつが何をやったんだ。
 伍長 特別に何をやったということもないであります。なにしろいやな奴であります。うちのやつに「のっぺらぼう」とあだ名をつけおって、何時か仕返しをしてやろうと思っていたであります。隊長の方は如何でありますか。
 ピエトロ 異常なしだ。皆ばんざいを言っておる。
 伍長 失礼でありますが、隊長。軍靴(ぐんか)が・・・
 ピエトロ 軍靴?
 伍長 隊長はまた履き換えるのをお忘れであります。拍車がカチカチ鳴るであります。
 ピエトロ そうか、こいつはいかん。
 伍長 隊長の正体が見破られてしまったであります。ご覧下さい。誰も人はいないであります。
 ピエトロ なるほど・・・そうだな・・・お前は俺の身内だから、お前には本当のことが言えるな。実はこの拍車付きの軍靴は態(わざ)とだ。
 伍長 まさか。
 ピエトロ いや、態となんだ。俺が来たと奴等に教えた方が楽なんだ。そうでもしなけりゃ、そのあと三日、三晩眠られないような事を聞かなきゃならん。
 伍長 ははあ、なるほど。
 ピエトロ 軍靴の方がずっといい。拍車を鳴らして歩きさえすれば、辺りは静か。お世辞しか聞かんですむからな。
 伍長 はあ、その通りであります。
 ピエトロ 役所にいるやつは楽なものさ。書類をガサゴソやっていりゃそれですむ。こっちは民衆を直接あつかわにゃならん。
 伍長 はあ、民衆という奴・・・
 ピエトロ(囁き声で。)いいことを教えてやろう。民衆は王様なんかいらないんだ。自分達でやっていけるのさ。
 伍長 隊長、それは・・・
 ピエトロ いや、本当だ。ここでは王が戴冠式をやる予定だ。やんごとなきお二人の御婚礼の式が華やかに挙行されるのも間近。なのに民衆は何をしているか分かるか。沢山の若い男、若い女達は宮殿の目と鼻の先で暗い場所を捜してキスしている。第八号住宅では、仕立屋の女房がお産をやらかそうとしている。国の一大行事だというのに大声をあげて呻いている。第三号住宅では、年寄りの鍛冶屋が急に死んだ。宮殿ではお祝いだというのに、あいつは柩の中に入って知らん顔をしている。実にけしからん。規則無視だ!
 伍長 何号室でありますか、お産は。罰金を取り立てに行くであります。
 ピエトロ それには及ばん。しかし連中は、どうしてこんなことが平気で出来るんだ。わしには訳が分からん。なんだあの頑固さは。あんなへいちゃらな面をしていて、急に何かやらかそうとするんじゃないか、それを考えると・・・何だ、伍長、お前何やってるんだ。
 伍長 はあ?
 ピエトロ おい・・・それはなんちゅう気をつけだ。
(伍長、ピンとなる。)
 ピエトロ け、け、け、けしからん。大馬鹿もん! このオタンコナス。しっかりしろ。ぐずぐずするな。おい、ジャン・ジャック・ルソー、教えてくれ! 今何時だ。
 伍長 十一時四十五分であります、隊長殿。
 ピエトロ 十二時ぴったりにどなる台詞は覚えているな。
 伍長 はい、覚えておるであります、隊長殿。
ピエトロ わしは役所に帰って少し休んで、落ち着いて、それから書類に目を通さなきゃならん。お前はここで忘れずに例の台詞を言うんだぞ。分かったな。(退場。)
(学者登場。)
 学者 提灯があんなに燃えている。こんなに気持ちのいいことはない。僕の頭がこんなにはっきり働いているのも、僕の人生で初めてのような気がする。僕には一斉に提灯が見えているのだ。君達は朝になったら消えてしまうのを僕は知っている。君達はそれを悲しんではいけない。燃えている間は、君達は陽気に燃えているんだ。その燃えているという事実を誰も否定することは出来ないんだ。
 男 (頭から足の先まですっぽり包んでいる。)クリスチアン!
 学者 誰だ。なあんだ、先生じゃないですか。
 医者 変装をこんなに簡単に見破られては・・・(辺りを見回して。)隅の方へ行きましょう。私を見ないで! あ、失礼。ただの耳なりだった。軍靴の拍車の音がしたのかと思って。怒らないで。扶養家族が多いんです。(もし私が引っ張られたらそれこそ・・・)
 学者 怒ってなんかいませんよ。
(二人、舞台の前面に出る。)
 医者 医者としてお訊きします。降参するんでしょうな。
 学者 降参? とんでもない。私は良心のある人間です。宮殿にでかけて行って、私の知っている事を申したてなければ。
 医者 それは自殺行為です。
 学者 そうかもしれません。
 医者 悪いことは言いません。降参なさい。
 学者 駄目です。
 医者 首を斬られちゃいますよ。
 学者 それは無理な筈です。こちらは本物の人間、あっちはその影。常識から考えたって影が勝つのは当座だけのはずですよ。だって、この世の中は我々――実際に働いているもの達によって支えられているんですからね。ではこれでお別れします。
 医者 まあちょっとお聞きなさい。人間て、いくらでも恐ろしくなります。敵に回せばね。だけど争うという気をなくせば結構どうということもなく、付き合ってくれるものです。
 学者 こんな説教を私にするんですか!
 医者 すみません。頭がどうかしていました。(戦って下さい。)でもあなたが何の武器もなくあそこへ行くのは見ておれません。シーッ。いいことをお教えしましょう。この言葉をよく覚えてください。「影よ、自分の場所に戻れ。」
 学者 何のことですか、一体。
 医者 この数日間、影を失った人間についての古い論文を逐一調べていたんです。するとある研究で著者が・・・これはちゃんとした教授なんですが・・・彼の薦めによれば、影の持ち主が影に命令するんですね。「影よ、自分の場所に戻れ。」と。すると再び直ちに影に戻ると・・・
 学者 何ですって。それはすごいじゃないですか。あいつが影だって皆に分からせることが出来るぞ。そらみろ、前から僕は言ってたんだ。あいつの負けなんだって。影なんか生きている者の前では敵じゃないんだ。僕たち生きている者が・・・
 医者 私のことは他言無用ですよ・・・さようなら・・・(さっと退場。)
 学者 これはいい。名誉ある死を覚悟していたんだが、勝つ方がずっといいや。あいつが影だっていうことが皆に分かって、そして・・・あれやこれや(王女のことも)分かっちゃうんだ。そうすれば僕は・・・
(群衆、走って登場。)
 学者 どうしたんですか。
 男一 伍長がメガホンを持ってやって来ます。
 学者 何の用だろう。
 男一 何かの命令でしょう・・・あ、来た。しっ。
 伍長 クリスチアン・テオドール。クリスチアン・テオドール。
 学者 どうしたんだ、これは。やっぱり怖がってるじゃないか、僕は。
 伍長 クリスチアン・テオドール。クリスチアン・テオドール。
 学者(声を張り上げて。)ここだ、私は。
 伍長 王宛の手紙を持参しているか。
 学者 ここにある。
 伍長 ではついて来い。
                    (幕)
                
     第 三 幕
     第 二 場
(宮殿の大広間。宮廷人達、こちらに一群、あちらに一群とグループをつくって、席についている。話声はちいさい。式部官とその補佐官――影ではない。二幕の補佐官とは違う――盆に料理を載せて配る。)
 宮廷の男一(白髪。立派で憂鬱な顔をしている。)以前はアイスクリームは可愛い子羊とか兎とか子猫の形をしていたもんです。(あれは厭でしたな。)優しい、罪のない生き物の頭を食べなきゃならん時は血が凍る思いでしたよ。
 宮廷の女一 ええ、そうそう。血も凍る思いでしたわ。アイスクリームがひどく冷たいんですものねえ。
 宮廷の男一 新しい王様になってからアイスクリームは果物の形になって出されるようになった。この方がずっとヒューマニスティックですよ。
 宮廷の女一 おっしゃる通りですわ。なんて優しい心の持ち主なんでしょう。ところで、お宅のカナリヤ如何?
 宮廷の男一 ええ、一羽風邪をひいちゃったんです。金の雫(しずく)って名前の奴なんですがね。あまり咳がひどいので、かわいそうでこっちまで病気になるところでしたよ。でもよくなりました。時々は歌おうとしたりするんですが、まだ私が歌わせないようにしているんです。
(ピエトロ登場。)
 ピエトロ やあ! 何を食べてるんだ、みんな。
 宮廷の男二 アイスクリームです、隊長殿。
 ピエトロ おい、俺にも一人前持って来い。早くしろ、このウスノロめ。もっと景気よく入れてこんか、このしみったれ。
 宮廷の男二 隊長殿はアイスクリームがことのほかお好きの御様子ですね。
 ピエトロ 嫌いだ。しかしくれるというものは貰わなきゃ。たとえうんざりするようなものでもな。
 式部官 薔薇のクリーム付きのパンは如何。各人お好きなだけどうぞ。(小声で侍僕に。)順番だぞ。公爵が最初、次が伯爵、その次が男爵だからな。公爵は六個、伯爵は四個、男爵は二個だ。残った連中にはその残った分を配ればいい。間違えるな。
 侍僕の一人 新任の、王の第一秘書の皆様には、じゃ、何個ずつにしましょうか。
 式部官 六個と半分ずつだ。
(ツェーザリ・ボールジア登場。)
 ツェーザリ・ボールジア やあ、今日は、みなさん。どうか皆さん、私をご覧下さい。さあどうですか、これですよ、これ。このネクタイです。みなさん、これは最新流行の、よりももっと最新のネクタイ・・・つまり二週間後になってやっと流行ることになっているネクタイですぞ。
 宮廷の男三 しかしどうやってその芸術作品を手に入れられたので?
 ツェーザリ・ボールジア 簡単、簡単。私のネクタイの仕入れ先、それは実は海軍の総督なんです。外国に行った時、ネクタイを沢山運んで来てくれるんです。上陸する時は三角帽の中に入れて、という算段。
 宮廷の男三 それは天才的。巧妙なやり方ですね。
 ツェーザリ・ボールジア 王の第一秘書として皆さんにネクタイ一ダース都合してあげられます。喜んで下さい。お分けします。ご入用の方は? はいはい。(それなら予約をとることにしてと。)私のあとについて来て下さい。部屋にお連れしましょう。マホガニーのテーブル。中国産の陶磁器。ご覧になりませんか。
 宮廷の男女達 勿論! 見たくてうずうずしています。第一秘書様、あなたって本当に親切な方!
(ツェーザリ・ボールジア、宮廷の人達を従えて退場。アヌンツィアタ登場。うしろにユーリア。)
 ユーリア アヌンツィアタ! あなた、私に怒っているのね。怒ってないって言っても駄目。あなたのお父さん偉くなっちゃったでしょう。だからその娘のあなたの気持ちが分かっちゃうの。ねえ、怒らないで頂戴。お願いよ。
 アヌンツィアタ 怒るなんて、とてもそんな気持ちにはなれないわ。
 ユーリア まだあの人のことを思っているのね、あの学者さんのことを。
 アヌンツィアタ ええ。
 ユーリア まさかあの人が勝てるなんて思っているんじゃないでしょうね。
 アヌンツィアタ もういいの、そんなことどうでも。
 ユーリア それは違うわ。あなたまだ若いじゃない。分かってないのよ。本当の男って最後に勝つ人のことを言うの・・・ただ困るのは最後の最後、勝つ人が誰かって確実には分からないことね。クリスチアン・テオドールって随分変わっている人。あの人のこと何か御存知?
 アヌンツィアタ ああ、私ってなんて不幸せ。私達、宮殿に引っ越したの。そしたらパパが私を外出させるなって、下男に命令したの。私手紙も出せなかったわ、学者さんに。あの人私も裏切り者だって思ってる、きっと。ツェーザリ・ボールジアは毎日あの人のことを新聞に書き立ててやっつけている。パパはその記事を読んでは舌舐めずりしている。私はその度に涙が出そうになる。さっき廊下でツェーザリ・ボールジアに会ったの。突き飛ばしてやった。御免なさいも言ってやらなかったわ。
 ユーリア あの人、気が付きもしなかった筈よ、請け合うわ。
 アヌンツィアタ そんな顔していたわ。ユーリアさん、学者さんについて何か御存知ない?
 ユーリア ええ、知ってる。役所にいる友達がみんな話してくれるの。クリスチアン・テオドールはいまや全くの一人ぼっち、それなのにヒョコヒョコ出歩いて、ニコニコ笑っているんだって。
 アヌンツィアタ まあ、恐ろしい。
 ユーリア ほんと、そんなに辛い時にどうしてあんな振る舞いができるんでしょう。とても理解できない。私、軽々とスマートに生きるのが身上だった。それが突然苦しみの毎日、苦しむなんて全然私の柄じゃないのに。(大声で、しなを作って笑う。)
 アヌンツィアタ あらどうしたの、ユーリアさん。
 ユーリア 宮廷の人達が戻って来る。あーら、大蔵大臣さん、やっといらしたのね。お待ちしてましたわ。淋しかったわ、今日(きょう)は。
(侍僕二人、大蔵大臣を運びいれる。)
 大蔵大臣 一、二、三、四・・・いやあ、実にピッタリだ。どのダイヤもあるべき所についている。一、二、三・・・真珠もそう。ルビーもだ。可愛いユーリア、(ええっ)どこへ行くんだ。
 ユーリア あなたが近くにいらっしゃると、私上気しちゃって・・・
 大蔵大臣 お前との関係はなあ、もう役所に書類も提出済で、許可が・・・
 ユーリア そんなこと関係ありません。私あちらにまいります。その方がずっと品があるんです。
(ユーリア、離れる。)
 大蔵大臣 正真正銘の女神だ・・・お前達! わしをあの壁のところに座らせい。今の一幕に満足しとるっちゅうポーズだ。早くせい。
(侍僕二人、命令に従う。)
 大蔵大臣 もうよい。
(侍僕退場。総理大臣、ブラブラ散歩しているふりをしながら、大蔵大臣に近づく。)
 大蔵大臣(微笑しながら、低い声で。)総理大臣殿、首尾は如何で?
 総理大臣 どうやら、まずまずのようだ。(微笑する。)
 大蔵大臣 何故・・・どうやらなんです?
 総理大臣 長い宮仕えの経験から、私はあまり嬉しくない法則を発見した。その法則というのはな、我々の勝利が頂点に達した丁度その時、命が頭を持ち上げる、と言うんだ。
 大蔵大臣 頭を持ち上げる・・・では死刑執行人をお呼びになったのですか。
 総理大臣 そうだ。やつは今ここにいる。微笑むんだ。人が見ているぞ。
 大蔵大臣(微笑む。)斧とギロチンも?
 総理大臣 運ばせた。ギロチンは薔薇の間に据えてある。キューピッドの像の傍、忘れな草をあしらってそれと分からぬようにしてある。
 大蔵大臣 学者に、対抗する手段でもあるでしょうか。
 総理大臣 何もない。あいつは一人ぼっちだ。何の力もない。しかしこの高潔な、純真無垢な人間ていうやつは何をしでかすか分からんからな。
 大蔵大臣 何故すぐ首をちょん切ってしまわないんだろう。
 総理大臣 王が反対なんだ、それには。笑うんだ!
(二人微笑しながら離れる。)
(枢密顧問官登場。)
 枢密顧問官 宮廷の皆さん、おめでとうございます。陛下が、尊い御婚約者の王女様共々、この大広間におなりでございます。本当に慶ばしいことで。
(全員起立。扉、開け放たれる。影、王女、手を繋いで登場。)
 影(優雅に、おおように手を動かして。)着席されたい。
 宮廷人達 (声を揃えて。)畏れ多うございます。
 影 着席されたい。
 宮廷人達 畏れ多うございます。
 影 着席されたい。
 宮廷人達 ではお勧めに従い。
(着席する。)
 影 総理大臣!
 総理大臣 おん前に、陛下。
 影 今何時だ。
 総理大臣 十一時四十五分でございます、陛下。
 影 下がってよい。
 王女 此処は何の部屋? テオドール。
 影 小玉座の部屋じゃないか、本当に分からないんじゃないだろうね。
 王女 私、何も分からない。分かるのはお前だけ。今まで育ってきた部屋、何年も一緒に暮らしてきた人達、みんな忘れてしまった。こんな人達全部追い払って、お前と二人だけになっていたい。
 影 私も同じだよ。
 王女 何かしなければならないことでも?
 影 うん。クリスチアンを許すと約束したんだ。但し、あいつが今日、真夜中に此処にやって来るならばの話だが。うだつの上がらん奴なんだが、なにしろ長い間友達として一緒に暮らした男だからな・・・
 王女 私以外の誰かのことを考えていられるなんて、ひどい人。一時間後には私達の結婚式だっていうのに。
 影 しかし我々はあいつの御陰で知りあえたんだよ。
 王女 あら、そうだった。テオドール、お前って本当に優しい人ね。そうよ、あの人を許してやらなきゃ。とるに足らない人だけど、長い間友達だったんですものね。
 影 枢密顧問官!
 枢密顧問官 おん前に、陛下。
 影 此処に今、ある人物がやって来る。私はその人物と一対一で話したいのだ。
 枢密顧問官 畏まりました、陛下。宮廷の諸君! 陛下はこの部屋において、畏こくも、臣民の一人に謁見を許された。なんという幸せな男!
(宮廷人達、立ち上がり、お辞儀をして退場。)
 王女 お前、あの男来ると思う?
 影 来ない訳にはいかないさ。(王女の手に口づけする。)あの男の気分を晴らしてやって、心を落ち付かせたら、改めて呼ぶ。
 王女 じゃ私は席をはずそう。お前って男は常人ではないね。本当に驚いた人!
(宮廷人達のあとに従って退場。)
(影、窓を開ける。耳をすませる。隣の部屋から時計がなる。)
 影 十二時か。あいつがやって来るぞ。
(ずっと遠く、下の方から伍長が怒鳴る声が聞こえる。)
 伍長 クリスチアン・テオドール、クリスチアン・テオドール!
 影 どうしたんだ、これは。やっぱり怖がってるじゃないか、俺は。
 伍長 クリスチアン・テオドール、クリスチアン・テオドール。
 学者の声 此処だ、私は。
 伍長 王宛の手紙を持参しているか。
 学者 此処にある。
 伍長 ではついて来い。
 影(窓をバタンと閉じる。玉座に行き、座る。)俺は床の上に伸びる事が出来た。壁に沿って登ることも出来た。窓に姿を写すことも出来た。これらを同時にだって出来た。こんなしなやかさがあいつにあるか。俺は石畳に長々と横になることも出来た。通行人、車輪、馬の蹄の下敷きになっても俺は痛くも痒くもなかった。これほどの適応能力があいつにあるか。此の二週間で俺は人生というものをあいつの千倍もよく分かってしまった。影のように音もなく俺はあらゆる所にもぐり込み、覗き込み、盗み聞きし、他人の手紙を盗み読みした。俺は物の陰の部分を知り尽くしたのだ。そして俺は今玉座にいる。あいつは俺の足元に横たわっているのだ。
(扉、大きく開く。見張りの隊長登場。)
 ピエトロ 手紙です、陛下。
 影 寄越せ。(読む。)「私は来た。クリスチアン・テオドール。」あいつは何処だ。
 ピエトロ 扉の向こうです、陛下。
 影 よし、入れろ。
(見張りの隊長、退場。学者登場。玉座の前に立つ。)
 影 どうだ、クリスチアン・テオドール。調子は。
 学者 悪い。悪いな。テオドール・クリスチアン。ひどく悪い。
 影 どう悪いんだ。
 学者 気がついてみると私は全くの一人ぼっちだった。
 影 友達連中はどうしたんだ。
 学者 私の事を散々誹謗するだけだ。
 影 お前が愛していた娘はどうした。
 学者 お前の許嫁になっている。
 影 そんな風になったのは誰の責任だ、クリスチアン・テオドール。
 学者 全部お前の責任だ。テオドール・クリスチアン。
 影 よーし、これからが本物の人間対影の対決だな。枢密顧問官!
(枢密顧問官登場。)
 影 全員を此処へ呼べ。すぐに!
(王女登場。影の横に座る。宮廷人達登場。辺りに立つ。中に医者もいる。)
 影 着席されたい!
 宮廷人達 畏れ多うございます。
 影 着席されたい!
 宮廷人達 畏れ多うございます。
 影 着席されたい!
 宮廷人達 ではお勧めに従い。
(着席する。)
 影 諸君、諸君の前に立っているこの男を、わしは幸せにしてやりたいと思っている。今までずっとうだつの上がらぬ人生だったのだが、運の良いことにわしが王位についた。わしはこの男を、わしの影になるよう取り計らうことにする。ひとつ、彼の新しい地位着任を祝ってやってはくれぬか、宮廷の諸君!
(宮廷人達、立ち上がり、お辞儀をする。)
 影 この男を王の第一秘書と同等の扱いとする。
 式部官(大きな囁き声で。)あの人に六個と半分のパンを用意しろ。
 影 どぎまぎすることはない、クリスチアン・テオドール。確かに最初は少し仕事がきついかもしれぬ。しかし、おいおいわしが教育してやる。この何日かお前が受けた教育、その延長だがな。そのうちに本物の影に変わっていくさ。わしが保証する。クリスチアン・テオドール、さあわしらの足元に来い。影がいるべきその場所に来るんだ。
 総理大臣 陛下、任命はなさっても、まだ正式な書類が整っていません。隊長に明日まで拘置するように命令したいのですが。
 影 駄目だ。クリスチアン・テオドール、我々二人の足元に来い。其処がお前のあるべき場所だ。
 学者 行くものか。皆さん、今から申し上げることをよくお聴き下さい。此処にいるのが本物の影です。私の影なんです。影が王位についたのです。分かりますね。
 総理大臣 だから言わないこっちゃない。(ぶち込んで置けばよかったのです。)陛下!
 影(落ち着いて。)静かにせんか、総理大臣! 喋りたいだけ喋るがよい。このうだつの上がらん意気地なし。お前の生涯の最後の世迷い言をゆっくりと聞いてやろう。
 学者 王女様、私は王女様を拒絶したなどとそんなことは決してありません。この男が私を騙しただけでなく、あなたも騙し、引っ掻き回して、何が何だか分からなくさせたのです。
 王女 お前の言うことは聞かぬ!
 学者 私に書いて寄越して下さいましたね。「私は宮殿を出て行くのだ。お前が行く所、何処へでも私はついて行く。」と。
 王女 聞かぬ。聞かぬ。お前の話は聞きたくない。
 学者 でも私は王女様を迎えに此処へやって来たのです。どうぞお手を・・・此処から出て行きましょう。影の夫になる――それはどういう事か分かりますか。醜い、ブヨブヨの蛙になるっていう事ですよ。
 王女 お前のその話は私には不快だ。聞く必要を認めぬ!
 学者 ルイーザ!
 王女 もう何も言わぬ。
 学者 皆さん!
 枢密顧問官 どうか、(皆さん。)この男の話に耳を貸さないで戴きたい。真に教養ある人間のとる態度、それは教養のない人間の行為を無視することであります。
 学者 皆さん! この冷血な男は此処にいる皆さん全員を一人一人殺していきます。権力の頂上に立ってはいても、頭の中は空なんです。既にもう今、自分が何をやったらよいかさっぱり分からず困っているのです。何もやることがないので、退屈さのあまり皆さんを苛めだすに違いありません。
宮廷の男一 うちではひばりを飼っているんです。私の手から餌をついばむんですよ。それに椋鳥もいます。私のことをパパって呼ぶんです。
 学者 ユーリア、君とはあんなにいい友達だったね。僕が何者か君はよーく知っている。皆さんに話してくれないか。
 大蔵大臣 ユーリア、かわい子ちゃん、愛してるよ。でも余計なことしたら、ただじゃすまないからね。
 学者 ユーリア、皆に話すんだ!
 ユーリア(学者を指差して。)影――それはこの人!
 学者 ああ、此処は砂漠だったのか。そして僕はその中で独り言を言っていたのか。
 アヌンツィアタ 違う、違う。私ずっと黙っていた。だって何か言ったらあなたを殺すって父が脅していたんです。でも聞いて下さい、皆さん。(影を指差して。)これが影です。本当に。
(宮廷人達の間で低いどよめき。)
 アヌンツィアタ 私、この目で見たんです。影が学者さんの体から離れて行く所を、ちゃんと。嘘じゃありません。町中の人が知っています。私が嘘をつくような女でないことは。
 ピエトロ こいつは目撃者としての資格がない!
 学者 何故。
 ピエトロ こいつはあんたに惚れているからな。
 学者 ええっ。アヌンツィアタ。
 アヌンツィアタ ええ、そうなの。御免なさい。でも皆さん、私の言った事は本当です。
 学者 もういいよ、アヌンツィアタ。 有り難う。じゃ諸君、僕を信じなくてもいい。自分の目を信じてくれ。(いいか)影よ、自分の場所に戻れ。
(影、やっとのことで立ち上がる。自分自身と闘う。学者の方に進む。)
 総理大臣 見ろ! 学者の動きを真似しているぞ。番兵!
 学者 影! お前は単なる影なのだ。そうだろう、テオドール・クリスチアン。
 影 そうだ。俺は影だ。クリスチアン・テオドール。違う。嘘だ! 俺はお前の処刑を命ずる。
 学者 それは出来ない筈だ、テオドール・クリスチアン。
 影(倒れる。)出来ない。クリスチアン・テオドール。
 総理大臣 たくさんだ。総てがはっきりした。この学者は気違いなのだ。気違いも伝染病ときている。陛下も病気がうつってしまわれた。しかしすぐ治る筈。おい、お前達! 陛下をお運びしろ。
(下僕達、命令に従う。王女、そのあとを追って退場。)
 総理大臣 見張り!
(伍長と兵隊、隊伍を組んで登場。)
 総理大臣 こいつを引っ立てろ。
(学者を取り巻く。)
 総理大臣 医者!
(宮廷人達の中から医者出て来る。総理大臣、学者を指差して。)
 総理大臣 こいつは気違いか。
 医者(手を振って。)前から言っている筈です。この人は気違いだと。
 総理大臣 そして伝染性なんだな。
 医者 ええ、私自身もその狂気に感染しかかっています。
 総理大臣 この病気は治るのか。
 医者 いいえ。
 総理大臣 治らないなら首を斬るしか手があるまい。
 枢密顧問官 恐れながら、総理大臣閣下。小職、儀式関係諸事担当官として、この記念すべき結婚式、全臣民が祝うべき日を穢さない為、一言申し上げとう存じますが。
 総理大臣 おお、そうか。述べてみよ。
 枢密顧問官 あわれな狂人の首を斬るなどと、それはあまりに残酷、あまりに非道徳的ではありますまいか。処刑には小職は反対であります。処刑ではなく、この狂人の頭にすこおし医学的処理――まあ、手術ですな――これを遅滞なく施すのが最上の策と心得ます。手術であるならば、この記念すべき祝日を穢すことにはなりません。
 総理大臣 なるほどこれは素晴らしい提案であるぞ。
 枢密顧問官 さて我々の尊敬すべき医師殿は皆さん知っての通り、内科医であり、外科は専門ではありません。従って我々の医師殿に患部切断を依頼する訳にはまいりません。この際小職は、この仕事を死刑執行人殿に依頼する事を提案するものであります。
 総理大臣 死刑執行人殿!
 宮廷の男一 はい、只今。(白い手袋を嵌めながら、隣の女に話す。)ちょっと席を外すからね。すぐ帰って来て続きを話してあげる。可愛い兎ちゃんなんだ。死にそうになったのを助けてやったんだよ。(総理大臣に。)すぐまいります。
 アヌンツィアタ 私にさよならを言わせて! さようなら、クリスチアン・テオドール!
 学者 さようなら、アヌンツィアタ。
 アヌンツィアタ クリスチアン、あなた怖い?
 学者 うん、怖い。だけど許しなんか請わないよ。僕は・・・
 総理大臣 太鼓!
 ピエトロ 太鼓!
(係の者、太鼓をたたく。)
 総理大臣 前へ進め。
 ピエトロ 前へ進め。
 伍長 前へ進め。
(番兵、学者を連れて退場。死刑執行人、あとに続く。)
 総理大臣 皆さん、では全員、一旦バルコニーに出て花火を見ることにしましょう。その間に冷たい飲み物の用意も出来るでしょう。
(全員立ち上がり、出口に向かう。アヌンツィアタとユーリアのみ残る。)
 ユーリア アヌンツィアタ、私、他にはどうすることも出来なかったの。許して頂戴。
 アヌンツィアタ あの人、あんなに健康なのに――突然死ななくちゃならないなんて。
 ユーリア 私も、本当に、本当に腹がたつわ。でも、あの先生ったら、なんて医者! あんなに親しい友達を裏切るなんて!
 アヌンツィアタ じゃあ、あなたは?
 ユーリア 私を引き合いに出すなんてひどいわ。あの先生なんて失うもの何もないじゃないの。私には舞台があるのよ。(舞台を失う訳にはいかないもの。)あなた、泣いているの?
 アヌンツィアタ いいえ。泣くのは部屋に帰ってから。
 ユーリア 頭から何もかも放り出さなくっちゃ。自分を苦しめる考えはみんな。頭を軽くこう振って・・・こうすればいいのよ。ほら、ね。やってご覧なさい。
 アヌンツィアタ いや。
 ユーリア やればいいのに。(我を張らないで。)そんな、顔を背けたりしないで。私、あの人をかわいそうと思っているのよ。死にそうなくらい。本当よ、誓ってもいい。でもこれは此処だけの話。
 アヌンツィアタ あの人、まだ生きているかしら。
 ユーリア 勿論よ、勿論。全部終わったら太鼓が鳴るから分かるわ。
 アヌンツィアタ 私達に出来ることが何もないなんて、そんなこと決してない。何かある筈よ。ねえ、お願い、ユーリア、なんとかしてこれをとめましょう。あそこへ行きましょう・・・さあ、早く。
 ユーリア シッ。(誰か来る。)
(医者、急いで登場。)
 医者 酒!
 式部官 先生にお酒を!
 ユーリア アヌンツィアタ、決して誰にも言わないって約束してくれれば、助けて上げられない事もないけど。
 アヌンツィアタ 誰にも言わない。本当! だから早く言って。
 ユーリア 急ぐ必要は全くないの。 この方法はぜーんぶ終わってしまってから初めて出来るやり方なの。黙って。よく聴いていて頂戴。(医者に近づく。)お医者さん!
 医者 なんだい、ユーリア。
 ユーリア あなたの考えていること、私分かってるのよ。
 医者 酒だ。誰だって分かるさ。
 ユーリア 違う。水。
 医者 今は冗談を言う気分じゃないんだ、ユーリア。
 ユーリア 冗談じゃないって分かっているのはそちらの方よ。
 医者 ほっといてくれないか。心の休まる暇がないんだ。
 ユーリア 残念ながら、それは無理ね。丁度今、私達二人の共通の友達の首が・・・ね。言わなくたって分かるでしょう?
 医者 私に何が出来るっていうんだ。
 ユーリア 水があるじゃない。
 医者 水?
 ユーリア ええ、あの話をあなたから聞いた時は月が出ていた。星も輝いていた。二人は友達だったわ。あなたは命の水を発見したの。どんな病気だって治せるの。それに良い人だったら、死んでも生き返らせる力があるの。
 アヌンツィアタ それ、本当? 先生、そんな水があるんですか。
 医者 ユーリアの冗談だ。いつもの冗談。
 アヌンツィアタ 嘘だわ。顔で分かる。私、あなたを殺してやる。今、此処で!
 医者 そうして貰えれば、僕は有り難いよ。
 アヌンツィアタ 先生は明日、朝が来ると目がさめるのよ。 あの人はもう目がさめないの。先生のことを、友達、仲間って、あの人呼んでいたじゃないの。
 医者 アヌンツィアタ、君は馬鹿だよ、かわいそうだよ。僕に何が出来るっていうんだ。あの水は全部連中のところにあって、七重の扉に七重の錠がおりている。そして鍵は、大蔵大臣のところにあるんだ。
 ユーリア 全部じゃないわね、きっと。万一に備えて自分用に一壜とってある筈よ。
 医者 それは違う、ユーリア。僕はそれほど恥知らずじゃない。皆を治すことが出来ないと分かってからは、僕は一滴だって自分の為にとって置きはしなかった。
 ユーリア 駄目な人ね。
 医者 大蔵大臣のいいひとなんでしょう? あの人に鍵を下さいって頼むんですよ。
 ユーリア 私が? ひとのことはどうでもいいんだから。この人何でもかでも私に押しつけるつもりだわ。
 アヌンツィアタ ユーリア!
 ユーリア もう何も言わない。出来ることはみんなやったわ。
 アヌンツィアタ 先生!
 医者 私に何が出来るっていうんです。
 式部官 陛下のおなり!
(宮廷人達登場。ゆっくりと影、王女、登場。二人、玉座に座る。総理大臣、式部官に合図する。)
 式部官 只今から陛下おつきの、かつまた、尊き大蔵大臣の庇護のもと、その名も高き、歌手ユーリア・ジューリー殿の独唱です。曲は御出席の皆様の心をなごませ、また爽やかにさせる歌、「首をかけてまで近づくなんて」です。
 影 首をかけてまで近づくなんて・・・それはいい。
 ユーリア (王に深いお辞儀。宮廷人達に会釈。歌う。)
     とんぼがいたよ
     可愛いとんぼ
     素敵な目
     魔法の目
     はえが出会うとその目にボーッ
     そこをとんぼが頭からパクリ
     「首をかけてまで近づくなんて」
     とんぼの好きな独り言
(太鼓の音が歌を遮る。)
 影(跳び上がる。よろよろっとする。)水!
(式部官、影の方に駆け寄る。仰天してたちすくむ。影の頭、急に肩から落ちる。頭のない影が玉座にじっと座った儘。)
 アヌンツィアタ 見て!
 大蔵大臣 これは!
 総理大臣 どうした事だ。これは思ってもいなかったぞ。こっちの方があいつの影だったのか。諸君! 諸君は陛下主催の大夜会に出席しておられるのですぞ。落ち着いて、陽気に振る舞わねば。何が起ころうと陽気に振る舞うのが肝心。
 王女(二人の大臣の方へ走りよる。)今すぐ、今すぐ、今すぐ。
 総理大臣 今すぐ、何でしょうか、王女様。
 王女 今すぐ治すのです。こんなことって、こんなことって、こんなことって。
 総理大臣 どうかお鎮まり下さい、王女様。
 王女 鎮まれだと? お前のつれあいの首がなくなった時、お前は鎮まっておられるか。
 枢密顧問官 王女様、これは愛のためです。愛があったからこそ(首が)・・・
 王女 今すぐこの人を治すのです。さもないとこの場でお前の首を切り落とさせる。どこの国でだって王女の夫はまっとうな体をしている。私の夫だけがこんな、こんな・・・汚らわしい。
 総理大臣 そうだ。命の水だ。すぐ持って来い。すぐにだ。
 大蔵大臣 誰にかけるんですか。この人にですか。でもあの水は良い人しか生き返らせはしませんよ。
 総理大臣 じゃ良い方を生き返らせるしか手立てはないな。
 大蔵大臣 そうか。他に方法はない。おい、医者! ついて来い。お前達、わしを運ぶんだ。(退場。)
 総理大臣 お鎮まり下さい、王女様。すべてうまくいきます。ちゃんと処置いたしますから。
(宮廷の男一、登場。歩きながら手袋を外す。頭のなくなった王を見て、その場で気を失わんばかりに驚く。)
 宮廷の男一 どうしたというのだ・・・誰がやったんだこれを。たった三十分部屋を出ていただけなのに。わしの仕事を盗んだ奴がいる。なんという陰謀だ。
(扉がぱっと開く。舞台を行列が通って行く。先頭に二人の下僕が大蔵大臣を運ぶ。その後に四人の兵隊がおおきな樽を運ぶ。樽は自分で光を出している。床の上にひかる水滴がたれる。樽の後ろは医者、行列は舞台を通り過ぎ、姿を消す。)
 ユーリア アヌンツィアタ、あなたの言った通りだわ。
 アヌンツィアタ 何が?
 ユーリア あの人が勝つのよ! 今、あの人が勝つの。ほら、命の水を持って行ったでしょう? あの人を生き返らせるのよ。
 アヌンツィアタ あの人達、良い人を生き返らせてどうしようっていうんでしょう。
 ユーリア 悪い人の方を生き返らせたいからなのよ。あなたは幸せよ、アヌンツィアタ。
 アヌンツィアタ そんなことって起こる筈がない。信じられないわ。だって此処、宮廷なんでしょう?
 ユーリア でもそうなりそうな気がする。まさか良い人になるっていうのが流行るんじゃないでしょうね。そんなことになったら面倒だわ。
 ツェーザリ・ボールジア 見張りの隊長殿!
 ピエトロ 何だ、また。
 ツェーザリ・ボールジア 宮廷の奴等、白い目で俺たちを見てるぞ。逃げるか。
 ピエトロ どうせ捕(つか)まるだけさ。畜生、どうともなれ。。
 ツェーザリ・ボールジア ロクでもない奴の片棒を担いだもんだ。
 ピエトロ あの野郎、決して許さんぞ。地獄へ落ちたって。
 ツェーザリ・ボールジア こんな大事な場面で首をなくす。聞いてあきれらあ。
 ピエトロ 馬鹿! 間抜け! それも衆人監視のまとで。自分の部屋に行ってやりゃいいんだ。自分の部屋でなら、手をなくそうと足をなくそうと構わねえのだが。あのオタンコナス。
 ツェーザリ・ボールジア 全く気がきかない野郎だ。
 ピエトロ ドテカボチャ奴!
 ツェーザリ・ボールジア そうだ、あいつ食ってやればいいんだ。食うに限る。
 ピエトロ ドテカボチャじゃ味は悪いだろうがな。
(太鼓轟く。影の肩に急に頭が現れる。)
 ツェーザリ・ボールジア おめでとうございます、陛下!
 ピエトロ 陛下、万歳!
 式部官 水は如何ですか、陛下。
 影 伺候しておるものが少ないな。みんな何処へ行ったのだ。ルイーザは?
(王女、走って登場。王女のうしろから宮廷人達。)
 王女 お前、頭の具合はどう?
 影 ルイーザ、あれは何処にいる。
 王女 さあ。ねえ、頭はどうなの。具合悪くはない?
 影 飲み込む時に少し痛いな。
 王女 寝る前、私が湿布をしてあげましょう。
 影 それは有り難い。しかしあれは何処にいるのだ。此処に連れて来てくれ。
(総理大臣と大蔵大臣、走って登場。)
 総理大臣 こりゃすごい。みんなもとに戻ってる。
 大蔵大臣 全く何の変わりもなし。
 総理大臣 陛下、畏れながらちょっと頭をコックリとやってみて下さいませんか。
 影 あれは何処にいる。
 総理大臣 うわっ。これはいい。頭が動いた。万歳! みんなもとに戻ってるぞ。
 影 お前に訊いているのが分からんのか。あれは何処にいる。
 総理大臣 みんなもとに戻っているんですよ、陛下。(ですから)あの野郎は暗い所へ行く事になるのです。
 影 貴様は頭が狂ったのか。そんなことを思いつくとは。けしからん。番兵!
 ピエトロ おい、番兵!
 影 行って、此処におでましになっては戴けませんかと、丁重にお願いするんだ。
 ピエトロ 分かりました。丁重にお願いしてきます。前へ・・・進め!
(番兵と共に退場。)
 王女 お前は何故あの人を呼ぶのか、テオドール・クリスチアン。
 影 生きたいからな、俺は。
 王女「あいつはとるに足らぬ男だ。」と言っていたではないか。
 影 そこは今でも変わりはしない。しかしあれがいないでは、俺は生きてゆけないのだ。
(医者、走って登場。)
 医者 治ったあ! みなさん聴いて下さい。あの人は気違いだったんです。歩き出せば真っ直ぐにしか歩かず、曲がることが出来なかった。それが首を斬られて・・・(生き返って)・・・今じゃ生きてる。ちゃんと生きてるんですよ。私達と同じ。正常なんです。
 式部官 学者殿のおでまし。
(学者登場。影跳び上がり、握手を求める。学者、見向きもしない。)
 学者 アヌンツィアタ!
 アヌンツィアタ ここよ、私。
 学者 アヌンツィアタ、さっきは無理矢理連れて行かれて、終いまで言えなかった。アヌンツィアタ、僕は死ぬのが怖かったよ。だって僕はまだ若いんだからね。
 影 クリスチアン!
 学者 うるさい。だけど僕は死にに行ったんだ、アヌンツィアタ。そう。勝利を得るためには死ぬことだって恐れてはいけないんだ。そして今、僕は、ほら、勝利を収めたんだ、ついに。さあ、此処から出て行こう、アヌンツィアタ。
 影 行かないでくれ、クリスチアン。此処に留まってこの宮廷で暮らしてくれ。君に指一本触れさせはしない。必要なら総理大臣の地位を与えてもよい。
 総理大臣 何故急に総理大臣なんですか。丁度大蔵大臣が健康を害しているところじゃないですか。
 大蔵大臣 私が健康を害している? 見て下さい。(軽々と部屋中を跳び回る。)
 総理大臣 治っちゃった!
 大蔵大臣 我々の担当のこの世界、経済というこの世界では、本当の危険が迫ってくると、両足に羽根が生えてくるんです。
 影 クリスチアン。こんな屑みたいな奴等は、必要なら、全部追っ払ってやる。この国の政治だってある程度君に任せる。幸せにしたい人達がいれば僕もお手伝いするさ。(どうだ?)君は返事をしてくれないね。ルイーザ、君からも言ってやってくれないか。
 王女 黙れ! 卑怯者!(宮廷人達に。)(お前達だってそうだ。)お前達が私にしたことは一体何だったか。私が生まれて初めて素晴らしい人に出会った。その時のお前達、あれは犬だ。犬のようにあの人に襲いかかったのだ。去れ、影よ、お前の場所に戻れ!
(影、ゆっくりと玉座から下り、壁にへばりつき、マントに身を包む。)
 王女 その哀れな恰好で其処に立っていよ。お前に対して憐れみなど感じるものか。お前達、これはもう私の許嫁ではない。私はもう一度捜し直さなければ。
 枢密顧問官 これはまた慶ばしいこと。
 王女 私にはやっとすべてが分かった。私の優しいクリスチアン。見張りの隊長! その男を引っ立てろ。(影を指差す。)
 ピエトロ 畏まりました。おい、立て。(影に近づく。)
 総理大臣 手伝いましょう。
 大蔵大臣 私も、私も。
 ツェーザリ・ボールジア 影め、さっさと出て行け!
(四人、影を掴む。影はいない。それぞれの手にマントだけが掴まれている。)
 王女 逃げてしまった。
 学者 どこかへ隠れているんだ。機会があれは何度でも出て来るんだ、あいつは。だけど僕にはあいつだって事がすぐ分かる。どこでだって、すぐ見つけられる。アヌンツィアタ、さあ、手を。ここから出て行こう。
 アヌンツィアタ ああ嬉しい、クリスチアン・テオドール。で、具合はどう?
 学者 飲み込む時少し痛いけど、それだけだよ。では皆さん、さようなら。
 王女 許して、クリスチアン・テオドール。私、間違っていた。でも一度だけ。それも罰せられた筈。これで充分。だから留まって。でなければ、私を連れて行って。これからはお利口にする。本当に。
 学者 駄目です。王女様。
 王女 行かないで。私はなんて哀れな女。お前達、この人にお願いして。
 宮廷人達 で、一体どちらへ。
   ・・・お留まり下さい。
   ・・・どうぞお座り下さい。
   ・・・そんなに急ぐことはないじゃありませんか。まだ宵の口です。
 学者 失礼だが皆さん、私は忙しくて。
(アヌンツィアタに近づき、手を差し延べる。)
 王女 クリスチアン・テオドール! 通りには雨が降っている。それに暗い。ここは暖かくて居心地がいい。今から暖炉全部に火を入れよう。なんとかして留まって。
 学者 いや、沢山着込んで、暖かくして出て行く。皆さん、もう私達を止めないで下さい。
 ツェーザリ・ボールジア 二人をお通しするんだ。教授殿、はい、レインシューズです。
 ピエトロ それにレインコート。(アヌンツィアタに。)少しは父親のことも思い出してくれよ、鬼っこちゃん。
 伍長 馬車の用意が出来ました。
 学者 さあ、行こう、アヌンツィアタ。
                     (幕)
   
   平成二年(一九九〇年)九月十日 訳了

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