科学と宗教
                 
                 まえがき
                                                                     大森荘藏
                             橋本典子
                             伊藤笏康(公一)
 
 「科学と宗教」という題での講義を依嘱されたわれわれは大変に当惑した。余りにでかい主題であり、またこれまで余りに多くの論議がなされて埃にまみれた主題だからである。しかし方針はすぐに立った。第一は、われわれ編集の三人が自分の見解を長々と述べるだけでは何の役にも立たぬということ、第二に従ってもっと有益な見解を多数集めて陳列することであった。それによって、多くの講義が整理済みの知識を調理按配して配膳するのに較べてかえって学生諸氏を刺激触発するだろうと思ったのである。
 そこで、何かの信仰をもちつつ科学研究や哲学探究を仕事にされており、宗教と科学について個人的に考え込む必要があったに違いないような方を二十名弱選び、科学と宗教という主題の下で各人自由にその思いを吐露して戴くようにお願いし、われわれも立場止むむをえずそこに参加した。作為を一切排するため論文には一切手を加えず、分類も避けてその順序すら偶然に任せた。
 この講義を聴講される学生は、知識獲得や単位取得のために内容を記憶するような無駄をせずに、次から次に語られる、そして互いに矛盾する多彩な思いに耳を傾けて、その結果自分の中に浮んでくる自身の思いを注意深く育てて、それを明確な言葉にするように努めて戴きたい。
 このようなやり方は放送大学だからやれるのだが、元来大学の講義とはこのようなものであるべきものだろう。そう思ってひそかに誇りとすると共に、それに合力を賜った執筆者の皆様に大学に代って厚く御礼を申しあげる。

               昭和六十二年十二月(放送大学テキスト抜粋)

            序論 
          
          科学信仰の源流

 科学と宗教について考えるとき少なからぬ人に見られる一つの根強い、偏見とも言ってよいような態度がある。すなわち、宗教とは根っから非科学的な迷信であって遠からず科学によって追放される運命にある、といった門前払い的な態度である。こういう態度の基となっているのに、科学は一も二もなく正しいとする無批判的な科学信仰とでも呼べるものがあるように思う。皮肉なことに、このような科学信仰こそかなり強烈な宗教的信念であるのではなかろうか。しかし、このような科学信仰が生れてくるにはそれなりの強固な地盤がある。この事情を検討してみるならば科学信仰が生れてきた事情が幾分なりと見えてくるだろう。そうすればそれが科学信仰を批判的に見ることにつながってゆくだろう。そうなれば、科学信仰を抹殺してしまうことにはならないとしても、その盲目的信仰の勢いを幾分弱毒化することはできるだろう。そう考えて、以下で科学というもののいわば出生の由来をこれまでとは違った視点から検討していってみたいのである。

     一 三次元物体と知覚
 われわれが眼で物を見るときに二つの異なった見方がある。その一つはわざわざ言うまでもない、誰にとっても自然な見方であって、その物が三次元の立体として見える見え方である。樹木や石、机や椅子といった家具、そして自分の体を含めての人体や動物の体、それらはすべて三次元の立体として見える。わざわざタテ・ヨコ・奥行き、といわないでも、中味、つまり内部がありボリュームのある物体として見える。これ程当り前のことはない。
 しかし、そういった三次元の物体が本当に見えているだろうか? そうではない。こうした物体の内部は水やガラスのような透明体の場合を除いては見えてはいない。実の所、見えているのはこうした物体の表面だけである。このことを強調するならば、三次元物体が見える、というのは言い過ぎで、物体表面が見える、と言わねばならない。実際、印象派の画家はそのように風景を描いた。表面しか見えていないのにそれが背面や側面があり内部がある三次元物体だというのは、それを表面から推論しているからだ、と実証主義者といわれる人達、例えばバートランド・ラッセルは言うのである。
 ここで、物体が見えるのか、表面が見えるのか、それを議論するのは止めておこう。それを議論するよりは(その議論は今世紀の初め頃実に長い間続いた)、その両方とも正しい、とした方が生産的である。たしかに人間の体は中味のつまった三次元物体に見えるし、また、実際見えているのは胃腸や心臓といった中味ではなくて衣服や皮膚の表面だけだというもの同様にたしかだからである。そのどちらを強調するかで二つの見え方がある、というにとどめておくのが賢明であろう。一方は物体としての見え方であり、今一方は知覚としての見え方、と呼んでおこう。ふだん何気なしの時は物体としての見え方であるが、「本当に何が見えるのか」というように気にしだすと知覚としての見え方が勝ってくる。この知覚としての見え方は健常な人には不自然で人工的に思えるだろうが、分裂病という病気にかかった人には物体としての見え方が失われてしまってこの知覚としての見え方しかできない場合がある(セシエ「分裂病の少女ルネ」や渡辺哲夫「知覚の呪縛」にその報告がある)。

     二 見え方の取りこみ統一
 しかし、正常人にあっては、物体的見え方の中に知覚的見え方を取りこむことでこの二つの見え方は統一されている。その事情を説明しよう。
 まず、物体的見え方の中で「世界」という概念が形成されることは自然の成りゆきである。つまり、すべての物体の総体としての世界の概念である。すると、各物体はこの「世界」の中に配置されたものとしてそrぞれの場所、すなわち空間的位置を持つのは当然である。ところがここに一つの特別な物体がある。それは自分の身体である。この自分の身体の世界内の位置が「ここ」であることは言う迄もない。そして知覚的見え方はこの「ここ」を視点として見える世界の知覚風景として物体世界の中に位置付けられ取りこまれることになる。つまり、知覚的見え方は物体的見え方の中の知覚風景として取りこまれることによって、物体的見え方と知覚的見え方とが統一されるのである。
 この統一(註1)の中で、「物体」と「知覚風景」とがすべての認識の一番深い基底となる関係にたつことになる。設計図の正面側面図や人間のプロフィルのように知覚風景は三次元物体の一側面の「見え姿」になる。そのことからこの「見え姿」は物体の形の一側面図としてその物体形がしかじかであることの「証拠」となる。例えば、地球が属する銀河系の立体形がどうあるかを定めるのは望遠鏡の視野に見える様々な視点からの知覚風景である。
 現象学の創始者のE.Husserl は、この知覚風景を、「指向的統一」としての物体の「射映」(Abschattung) と呼んだ。しかし私はもっと身近な表現をとりたい。小学校で紙細工の立体形を開いて平面に展開するのを教えるがそのことから知覚風景を物体の知覚展開と呼ぶのである。この呼び方は科学的理論とその実験観察との関係にまで容易に延長できる。通常は理論を仮説と見たててその仮説から演繹によって導出された命題を実験や観察と照合する、と考えるいわゆる「仮説演繹法」が標準的見解であるがそれに替えて、理論を知覚展開した知覚風景と実験観察とを照合する、とした方が遥かに自然でもあり平易ではあるまいか。この見方は日常生活での例えば道順の了解等で既に誰にも親しいものである。地図等による抽象的な道順の了解を知覚展開した、例えば曲がり角の風景やバス停の風景といった知覚風景と実景とを対比しながら道をたどる経験を持たない人はいないだろう。また一軒の家を外から内部からの様々の視点から眺めた知覚風景を総合してその家の間取りや構造が判るのは、その家の知覚展開から立体としての家を理解することである。
 このような、物体的見え方とその知覚展開としての知覚的見え方との統一こそわれわれの日常的な世界了解に他ならない。従って、その世界了解を「生活世界」と呼んでいいだろう。上述の分裂病ではこの生活世界が分裂して知覚展開が物体との関係を失って遊弋しているのである。

 だが生活世界はその中で私達の生が営まれる確固とした世界である。そのゆるぎない確かさには理由がある。生活世界の統一を支える一方の脚は物体的見え方での物体世界である。この物体世界の根本的特性は知覚的でない、つまり知覚されるものでないという点にある。物体世界は唯思考(註2)されるのであり、このことはやがて物体世界が拡大されて科学的世界になるときかくれもなく明白になる。物体世界は知覚されず、従って「視点」を持たない。物体世界は「無視点」なのであり、どこからも見られたものでもない。このことから物体世界と科学的世界はデカルト座標の中で考えられることになる。この点でそれは神のみそなわす世界に類似する。物体世界は無視点で知性的に思考される半神的世界把握なのである。そのようなものとして物的世界は「客観的」であると感じられることになる。われわれ個人の視点などとはかかわりなく厳として客観的な世界だと感じられる。
 しかし一方、物体世界の知覚展開である知覚風景は逆に、常に視点を持つ、という点にその根本的特性がある。知覚風景は常にどこかから見たり聞いたりする風景なのである。この知覚風景は疑うことのできない確実性、事実性を持っている。赤いものが見えるならばそれは事実として絶対確実でそれを疑うことは意味をなさない(歯が痛いのは本当ではないのではないか、と疑う人はいない)。それで実証主義者達は知覚風景を感覚所与(センス・データ)とか直接所与(ダス・ゲゲーベネス)とかと呼んだのである。
 さて、このような確実性を備えた知覚風景の総合として物体や物体世界が思考されるとすれば、知覚風景の確実性が物体に移行されることになる。但し、この移行は完全なものでなく若干の空白を含んでいる。月や星の見え姿からその立体形を一意的に総合することができずに若干の任意性が残るが、この空白は実証主義者がこれまで不当に強調宣伝してきたものである。
 だがこの僅かな空隙に眼を閉せば物体世界はその知覚展開の確実性を相続できる。一方、物体世界は上に述べたようにもともと本来的に客観的なのである。
 したがって物体世界と知覚的見え方との統一である生活世界了解は確実性と客観性という強力な資質を所有することになる。
 この確実性と客観性こそ生活世界了解の確かさを作り上げているものなのである。この確かさは誰にも判るように人間がその生活の中で作り補強し完成してきたものである。住みかの岩の確かさ、食物の安全の確かさ、武器や味方の確かさ、飛行機や自動車の確かさ、これら実際生活の確かさは生活世界の確かさの上に作られており、実際生活の確かさが生活世界の確かさをテストしそれを鍛えてきたのである。

     三 物体的見方の延長としての科学
 西欧における自然科学形成の歴史をたどれば、自然科学がもともとは物体世界から出発し、その生活世界が科学的世界へ拡張されていったことがわかる。まず、自然科学の対象が物体であったこと、特に固形物体(固体)であり、次いで液状物体(水その他の液体)に拡げられた上でかなりの時間を要して空気等の気状物体にまで進んだ。そして科学研究の土台となったのは観察可能な知覚風景であった。気体の処理に手間どったのは気体の知覚風景が見えない透明風景であったためである。しかし、見えないのは気体ばかりではない。固体の内部や液体の内部の細部も見えない。見えない、つまり知覚できないものについてはしかし考えることができる。そうして考えられたものが分子、原子、電子といった素粒子なのである。こうして考えられた素粒子は大変微小ではあるがやはり物体として考えられている。物体的見え方はこうした理論的考想物にまで及んでいるのである。そしてまたこうした理論的考想物の実在性は日常的物体と同様にその知覚展開によって証拠立てられる。ただその知覚展開に多くの観測器具装置が介在していることが日常的物体の場合と違っている。しかし、霧箱や泡箱の中の飛跡写真を素粒子の運動として把握するのは山梨県側からの富士山の知覚風景を静岡側にまで拡がる立体的富士山として把握するのと本質的には異ならない。共に、或る視点からの知覚風景を三次元物体の見え姿として把握するのである。素粒子のような理論的考想物を含む自然科学世界は日常世界の物体的見方を不透明物体内部や気体にまで拡大延長したものに他ならない。だからこそ、科学的世界は物体世界と同様に無視点であってデカルト座標(註3)表示がぴったり似合うのであり、知覚的見え方の有視点の知覚風景を知覚展開として取り込むことによって実験観察とのつながりを獲得するのである。総括的に一言にして言えば、科学的世界は日常世界の延長なのである。
 それに呼応して、科学的世界の確かさもまた日常世界の確かさの延長なのである。前節で述べた、日常世界の物体世界の無視点性からくる客観性と知覚風景の確実性を科学的世界もまた共有する。科学的世界の素粒子を含む物体はわれわれ個人のあり方とは無関係に厳として存在する客観的世界であると共に、その知覚展開である知覚風景はわれわれ一人一人にとってうむをいわせない確実な事実――知覚されたがままにあって他でありえない――なのであり、その確実性が客観的な科学世界の証拠となる。

     四 科学信仰
 以上で説明したように、科学には客観性と確実性が備わっている。しかし同時に、その客観性と確実性は決して何か神秘的な作用からきているわけではない、ことも明らかであろう。科学の確かさの起源は実は人間の日常生活の確かさなのだ。だから科学をやみくもに祭りあげて科学信仰のかね太鼓を叩くのはやめた方がいい。また、科学と宗教を比較するとき、宗教は非科学的だと速断してその勢いをかりて宗教を論難するというのはいただけない。それはまるで科学大明神の御祈祷をやるようなもので騒がしくて不潔なだけである。また逆に、科学ですべてがわかったわけではない、と天下りの御託宣をとなえて宗教のしのびこみの道をつけようとする泥棒の手引きのようなことはみっともない。この後者の愚行について説明する余裕がなくなったが、いずれにせよ、ただ公平で精密な検討だけが、科学と宗教、というこの大きな主題にいくらかでも寄与できるだろう。

 註
(1)この物体と知覚風景との統一こそカントの「純粋理性批判」の中核テーマでありお、様々な表象(知覚風景)が対象(物体)に統一されることが彼の言う超越論的総合に他ならない。
(2)ここで、思考と知覚との対比とは知性(又は悟性)と感性の対比に他ならぬことに注意してほしい。思考は通常の意味を越えて遥かに広く解されるべきである。特に言語的了解はすべて思考に属する。
(3)普通、x、y、zと呼ばれる三軸直交の座標系でデカルト以来の標準的空間表示法のこと。


           科学と宗教
          存在と意味
                                              大森荘藏
     一
 科学と宗教、というような広範なすそ野から屹立するような大きな主題について考えるには、直接その問題に迫るのではなく、その迫り方についてまず考えるという予備的な検討が必要であろう。そのような準備はまだるこしく感じられるだろうが、性急な直接の迫り方に較べてより広い展望を保持することができる。
 科学と宗教、というとき多くの人は余りに性急にそれを「真理」の角度から見てしまう。例えば、奇跡のような宗教的伝承とか聖書の中の宗教的説話は科学的観点からすれば全くの虚構とまではいわないでも非真理であることに疑いはない。一方、地球は回る、といった科学の命題は宗教が何といおうと真実である。このように一も二もなく、真か偽か、という視点からの比較対照に走ってしまうきらいがある。
 しかし、そのように、その主題の周辺を見わたすことをしないでやみくもに一つの視点を固定して今度は自分がその視点に固定されて身動きしない、というのは危険であろう。それは多くの偏見が生れるときのお定まりの方式だからである。
 そこで私は科学と宗教という主題そのものではなく、この主題を眺めるための今一つの視点について述べようと思う。その視点とは「言語」という視点である。科学の命題がその中で述べられる科学言語というものがあり、一方には、宗教的言説が述べられる宗教言語がある。上に述べた「真理」という概念もこの二つの言語の中で理解されなければならない。この、科学言語と宗教言語を「言語」という観点から比較対照しようというのである。
 とはいうものの私はこの課題からも更に一歩後退した所に身をおくことになる。この二つの言語の一方である宗教的言語について私は十分な経験をもっていない。私は宗教をもったことがなく、宗教的体験をしたこともない。
 そこで、科学言語と宗教言語を比較対照するのではなく、そこから一歩しりぞいて、科学言語と日常言語を比較対照する、ということを試みる。しかし、そうすることによって、科学と宗教という元々の主題からますます離れてしまう、という恐れはないように思われる。なぜなら、宗教言語と科学言語の対比は、日常言語と科学言語の対比の中に十分に保存されている、いやむしろ一層根本的な形で表現されている、と思われるからである。その対比の形とは、後に述べるように「存在と意味」という対比である。簡単に言えば、日常言語と宗教言語は共に、この世界が人間に対して持つ「意味」を形作る言語であるのに対して、科学言語はそのような「意味」を一切無視して唯「存在」についてのみ語る言語なのである。
 結局、科学言語と宗教言語との対比を、科学言語と日常言語の「存在と意味」という対比に見てとること、そしてその対比を視点として科学と宗教との対比対照を眺める、ということになる。以下に試みるのは、その前半の仕事、つまり、科学言語と日常言語との対比を「存在と意味」として捉える、ということである。

     二 日常言語
 今、向うの歩道に犬が一匹坐っているのが見えるとしよう。このときもし私が「犬」という言葉を知らなかったとした時のことを想像してみる。恐らく私に見えるのは茶色とか白とかの色の斑点の集りだけだろう。私には犬は見えないだろう。「坐る」という言葉を知らないとしたら、妙な格好の犬は見えても「坐っている」のは見えないだろう。また、アメリカ人には「コケコッコー」という音が、日本人には「コッカドゥードゥルドゥー cock-a-doo-dle-doo」という音は聞こえないだろう。だとすれば、坐り犬の姿は「犬」と「坐る」という言葉の意味が制作したものであり、雄鶏の鳴き声もまたコケコッコーという言葉が制作したものである、といっても間違いではあるまい。それらの言葉の意味がなければ、あるいは、それらの意味を知らなければ、犬の姿も鶏鳴の音もこの世に無いからである。
 最近、「記号論」なるものが流行して、言語もまた一種の記号だとする考え方が以前に増して力を得てきているようにみえる。確かに、言語は実物の犬や家の記号であり、それによって実物の様子を表現するのだ、という言い方はいかにも自然であってわれわれはそれに誘引される。しかし、この言語観は全く表面的で浅薄なものである、と私には思われる。言葉は表面的には実物の記号や符丁のように見えるがそれは表面だけのことであって、見せかけに過ぎない。言葉は実物の記号として実物を表現するのではなく、言葉は実物を制作するのである。例えば、或る建築物を「家」という言葉で呼ぶとき、それはその建築物を家にするのであり、従って、そこに一軒の家を制作するのである。「家」という言葉は複雑な「意味」を持っている。屋根があり、窓が開き、土台の上に建てられ、様々な間取りがあって、大工さんが材木や石やセメントで組立て、家具を入れて何人かの人が寝起きして、時に売買される。そして堀立て小屋から金殿玉楼まで、ピンからキリまである。今目前にある建築物を「家」として見ることは、その建築物にこの家という意味を与えることであり、この意味を与えられることによってその建築物は「この複雑な意味を持つもの」になる。つまり、「家」になるのである。「家」という言葉がその建築物を家にする、家を制作するといったのはこのことである。「家」という言葉がなければこの世で家が制作されることはなく、家なるものは存在しないだろう。だから、言葉は表現するのではなくして制作するのだ、と言いたいのである。
 では、この言葉の意味はどこでどのようにして作られたのか? われわれの先祖がその生活の中で「生きる」ことのよって作ったのだ、という他には答えようがないだろう。住むために穴を堀り柱をたて屋根を葺くことから始まって現代風のマンションを苦労して手に入れるまで無数の住居での生活の中で「家」の意味が作られ、拡張され、変更され、整理されて現代日本語の「家」という言葉に至ったのである。だから、今われわれの解する「家」という言葉には縄文弥生はもとよりそれ以前からの日本人の生活の凝縮があり集積がある。日本語は日本人の生活の歴史の集積点であり収斂値であるといえるだろう。
 後に述べる科学言語は「意味」を無視し、ただ「存在」にのみ関心する言語である。それゆえに、科学が語る世界には人間的な「意味」が一切無い。実際、最近の科学が語る世界史を考えてみればこのことは明らかである。百五十億年前のビッグ・バンから物質粒子が集まっては星となり、その星の超新星爆発で粒子が飛び散る、この粒子の離合集散の中に一つの惑星が作られ、その惑星の上で偶然にDNAという遺伝物質が生じ、その遺伝物質の超長期の進化論的変化の結果として今日の私達が居る。この壮大な過程のどこにも人間的意味の一片もない。すべてはわれわれ人間とは無関係な進行発展である。それは人間が生きる意味のない世界であり、人間にとっても生きる意味のない世界である。この世界は人間にとって無意味であり不条理(アプシュルド)なのである。しかし、この無意味な世界の中に人間は生きてきた。もちろん、望んで生きたのではなく、理由もなく生みつけられて生きたのである(ハイデッガーのように「投げこまれた」といってもいい)。しかし、生きることは意味を作ることに他ならない。物を食べるとき「食物」とか「うまい」という意味が生じ、住むときには「家」の意味が生ぜざるをえない。こうして人間は意味を欠く世界の中に生かされたが故に人間的意味を作らざるをえなかった。生きることが意味を作ることだったからである。こうして作られた意味を固定し貯蔵するための発声、そして後には文字が言語なのである。そうして歴史的に形成されてきた言語、つまり日本語をわれわれが今使うとき、その蓄積され凝縮された意味が世界に投射される。その投射されることによってそこに犬や家が制作され、われわれはその犬を飼いその家に住むのである。こうしてわれわれは、先祖の人達がその生活の中で創造した意味によって制作された世界の中で生きているのである。
 だが言語が制作するものは日常的な事物や事態だけとは限らない。日常的風物を遥かに超えた美しい人物が詩や歌の言語で制作されることは誰でも知っている。同じように、超日常的な能力や神性をもった何かが制作されることもあるだろう。それらは宗教的な意味によって制作されるのであり、それらの意味を理解できる人を信仰者というのである。しかし、その意味を理解できない人間、例えば私であっても、それが言語の意味によって制作されたものであることは十分に理解できる。

     三 科学の言語
 前節で述べたような人間生活の中で創られた意味にだけ注意を向けていたならば、今日の自然科学は恐らくありえなかったであろう。科学はむしろ生活的な意味を無視することから始まったし、そうせねばならなかった。
リンゴが落ちる時そのリンゴの味や色合いを気にしたり、飛ぶ矢の矢羽根の模様やその羽根を持っていた鳥のことを考えていたりしたら、運動法則にたどりつくのは一寸無理だったろう。生活上の意味は科学にとっては些事であり邪魔ものであるから無視せねばならないのである。
 では科学にとって狙うべきもの、関心の的は何であろうか。それを一言でいえば、「存在」であると私は言いたい。何ものかが存在するかしないか、その存在がどう移動するか、それが科学の狙いなのである。自然科学の対象は「物質」であると気軽に言われるのはしょっ中だが、ではその物質とは何かとなると大ていの人には答えられない。もちろん、その答は事後的には、すべての科学知識の全集合という他にはあるまいが、事前的には、物質とは「存在する(なに)もの(か)」と言っていいのではあるまいか。
 どんな状況にあっても科学が眼を向けるのは「存在」なのである。科学が誤りを犯したのも「存在」を性急に求めたからである。熱現象の中に存在するものとしてフロギストン、電磁波の伝播を荷なう存在としてエーテルをたてたのはその有名例になるだろう。現在でもわれわれは天気予報で高低気圧の移動とか台風の進路などと言っているが、高低気圧や台風なる存在があるわけではなく、唯ある気圧状態があるだけなのについいつものくせがでて存在を語ってしまう程科学的なのである。
 もちろん、科学の存在追求の成功例は無数にある。ほんの二・三例をあげよう。エイズと略称される病気の病原存在の追求は一種のレトロウイルスに到達した。メンデルの遺伝法則を荷なう遺伝子という(物質)存在の追求はDNAの二重らせん分子に導いた。
 科学が語るのはこのような存在についてのみであって、それらの存在が荷なう「意味」は徹底的に無視される。ここに科学言語と日常言語の最も基本的なコントラストがある。つまり、日常言語が意味の言語であるに対して科学の言語は存在の言語なのである。
 多くの人が科学の語り口に反感をもっている。何か冷静沈着が過ぎて冷酷であり非人間的だ、という風に感じるのである。それは科学言語が唯存在についてのみ語って意味を欠落させる、従って意図的に死物言語であるがためである。もちろん、科学言語も言語であって全く文字通りの無意味ということではない。電子だとか染色体だとかという科学語はちゃんとした、日常語よりずっと厳密な意味を持っている。しかし私の言っているのは、そのような科学的意味ではなく、生活的意味、つまり人間とつながった意味のことであり、そのような生活的意味を意図的に欠いているのが科学言語なのである。

     四 「科学と宗教」展望
 科学と宗教との対比を考えるときに、これまで述べてきたコントラストを基礎にする必要がある。つまり、宗教は「意味」の領域に属するのに対して科学はその意味を無視した「存在」の領域に属する、というコントラストを基礎にした上で考えなければならない。
 例えば「真理」の概念である。科学と宗教とは基本的に異なる言語によって語られるのだから、当然のこととして、「真偽」の概念もまた各々の言語の中で形成されてきたものである。それ故、或る宗教的命題を科学言語の「真偽」の概念を使って一も二もなく偽であると断定してしまうのは明らかに偏頗なことである。
 科学言語の中での「真理」とは科学理論との整合性とか実験的証拠とか、多人数の証言の合致とかの上に構成されたものであり、学校教育の中で誰もが教えこまれている。一方、宗教的命題の「真理性」はそれと全く違った成り立ちである。まずその宗教的命題、例えば「あの山には魂がある」という命題の「意味」を科学とは独立に理解しなければならない。科学言語では単に「風で山の木が振動する」ということを「山が怒っている」という意味にとる場合があるだろう。この時、「山が怒っている」はずがないからそれは偽だという断定の方が誤っている。ざわめく山を「怒っている山」と捉える「意味」があり、その意味を理解してその意味に同調する人は決して誤りを犯しているわけではあるまい。その人にとってはその命題は全く端的に、また何の疑いも入れる余地のない自明の「真理」なのである。そういう人にわれわれは同意せねばならないのではないことはもちろんである。しかし、その人がいかなる意味を理解してその意味に同意しているか、それを理解することはできるだろう。
 そして、それを理解できたならば、科学と宗教という対比について一段と開けた展望を持つことになるだろう。


                 科学と宗教
                 
                 知識と意見
                                                                     大森荘藏

 通常ならば最終章は全体のまとめや結論にあてられる。しかし、この「科学と宗教」の講義にはまとめもなければ結論もない。「はじめに」で述べたように、この講義には段取りや順序がなく、各章の著者のそれぞれの意見が順不同に綴られているだけである。それは、科学と宗教という主題の性格からしてそのような意見のシリーズを組む以外はなかったからである。何かの知識、それも公認ずみの知識を提示するというのであれば、解説の順序を変えたり説明を工夫することもでき、その流れの終りに結論めいたものがきたり、全体を寸づまりに仕立て直した要約などもお膳立てできる。しかし、「科学と宗教」というのは何らの知識ではなく、縦横並べ変えて受け売りできる西洋ブランドの知識でもない。それは知識などではなく問題、極めて重要な問題なのである。そして問題であるからにはそれに対しては各人各様の意見があるのみである。ただこの意見の集中豪雨の中で読者はズブ濡れで途方にくれることになるかもしれない。しかし本来の大学の授業とはこのようなものである。どれも初耳の轟然たる意見を浴びても別の事を考えられるという平静さも訓練の一つである。その平静さの中で問題の視野の広さと意見の多種多様さを目の当り展望できるからである。その問題に一家言を持っている読者には自説とは別の意見と対決することで意見の組変えを行う機会であろう。遺伝子の場合と同様に、組替えによって全く新種の意見が得られることもある。時には終始同調と共感を呼び起こすような意見に遭遇するかもしれない。その場合ですら、自説とは違った発想や思いもかけない言葉を見出して自説を補強し装飾し改造することができるだろう。あるいは逆にその一言一言が神経にさわって反感がこみあげてくるといった場合もあるだろう。この場合でも何が自分の神経にさわり何が反感を引き起こすのかを理解することによって一層ユーモラスに自説を眺めることになる。これはもちろん大変な幸せである。このように、多様な意見を浴びての反応にはこれまた様々であろうが、いずれにせよ読者が自ら意見を形成したり意見を鍛え直す機会にしたい、というのが三人の編集人の願いである。
 放送大学は教養学部であることになっている。しかし、戦後の新制大学の教養(学)部や教養課程の場合と同様に、この「教養」という概念はまことに曖昧であって明確な意味を持っていない。戦後半世紀、日本の社会は「教養」という概念の意味を創造することができなかったのである。この文化的空隙に乗じて、教養とは専門化のための準備であり予備であるという間に合わせのその場しのぎの解釈が流通して、大学のカリキュラムや予算の基本となり時には人事にまで影響を及ぼした。しかし、このいかにも官僚的事務的な解釈はもう廃棄すべきであろう。それに代って、教養と専門との関係を知識と意見という観点から眺めてみてはどうだろうか。つまり、専門的知識の探求が専門的研究の仕事であるのに対して、意見の形成や鍛練が教養の意味だと考えるのである。もちろん意見の形成や鍛練にはその主題についての十分な知識が必要であり、その知識は専門知識のストックから供給され習得される他はない。逆に言えば専門知識は意見形成に必要な知識をストックする、というそのことの目的のためにのみある。そうだとすると、専門と教養との関係は従来の解釈での場合と逆転する。教養が専門への準備なのではなくて、専門知識が教養のための準備なのである。この逆転によって、新制大学や放送大学の理念がはじめて正当化されるものと私には思われる。
 このことは大学での学習のあり方にも大きな変更をもたらすだろう。大学の主要目的が専門研究者の養成ならば、既得知識の理解と記憶、そして新知識探求の訓練が学習の主眼となろう。しかし、放送大学のように「教養」を目的とする場合にはそれではすまない。そのような専門知識の学習は予備的補助的段階であって、その準備の上に意見形成の訓練が加わらねばならない。その訓練とは第一に、できるだけ多くの意見に接してそれを理解し、批判し、比較する力を養うことであり、第二には、できるだけ多くの主題について自分自身の意見を形成し、それを明確な言葉で述べることである。教養とは物知りになることではなく優れた意見を持つことなのである。このような訓練はかつてレトリック(修辞学)と呼ばれて中世西欧の学校では全人的教科とされていたと聞いている。実際現代でも、自然について、歴史について、人間について、科学について、宗教について、税法について、脳死についてと人生万般についてバランスのとれた意見を持つことこそ全人的な教養の意味ではなかろうか。その意見は単に漠然としたフィーリングであるのではなく、自分の胸の底からの言葉で述べることができ、討論することができ、あわよくば説得することができる意見でなければならない。つまり、意見とは実は「思想」なのであり、言葉こそその中核なのである。(このことは歪みの大きい形ではあるが教養課程の外国語重視の症候に現れている。)
 この「科学と宗教」の講義は上に述べてきた教養のための講義として編集されている。従って、知識向けの講義とは根本的に違った態度で受けられることを期待している。
 講義を「受ける」のではなく講義に「反応」して戴きたい。この講義に結論はない。しかし何か結末めいたものがあるとすれば読者がこの講義に反応して形成された御自身の意見がそれであろう。そうしてその読者の意見を最終章としてこの講義に付けて戴きたい。それによってはじめてこの講義は一応の完成をみることになる。私はこの読者の作業を妨げないように、最終章についての「意見」を述べるにとどめる。