巡礼
   (アンドレ・バッケに捧ぐ)
      シャルル・ヴィルドラッック 作
        能 美 武 功 訳

   登場人物
エドゥアール・デザヴェーヌ 五十歳
マダッム・イルマ・ダンタン 未亡人 五十二歳
ドゥニーズ・ダンタン 十七歳
アンリエット・ダンタン 二十四歳

(田舎の金持の家の内部。舞台奥に二つの窓。飾り紐とダマスク織の二重になったカーテン。窓の前に鉢カバー。その中に植物が植えてある。右手、左手、そして舞台裏右手に、それぞれ扉。)
 (小テーブル、マントルピース。その上に振子時計。シャンデリア、房飾りつきの丸テーブル。その上に植木鉢、観葉植物。椅子、小型円卓。)

     第 一 場
(幕が開くと、ドゥニーズが右手の扉から登場。水の入った壷を持っていて、歌いながら鉢カバーの植物に水をやる。)
 ドゥニーズ(よく知られた賛美歌を歌う。)
     Ave Maris stella
     Dei Mater alma
Atque semper virgo
Tra la la la la la.
(賛美歌のつづきが同じ節で、即興の詩に変る。)
   急いで水をやったら、
   床にこぼしちゃった・・・
(鉢カバーの下の方を見る。)まあ、いいや。
(次に観葉植物に水をやる。少しづつ、ゆっくりと歌いながら。)
   アルルカンは娘を嫁にやる
   大きな太った優しい娘を
   ピエロに嫁にやる
   ああ、可哀想に
   ピエロに嫁にやる
   ああ・・・
(扉にノックの音。歌をやめ、水の壷を小テーブルに置き、扉を開けに行く。)
 ドゥニーズ 何かご用?
 デザヴェーヌ(登場。)今日は、マドゥムワゼッル。マダム・ダンタンはご在宅?
 ドゥニーズ 外出中ですが・・・
 デザヴェーヌ(マダム・ダンタンその人には、あまり興味がない様子で。)ああ!(デザヴェーヌ、そこにじっと立って、部屋の様子を懐かしそうに眺める。)どのくらいしたらお戻り?
 ドゥニーズ よく分りません。あと一時間はかからないと思いますが・・・多分それよりは早く・・・失礼ですが、どちら様で?
 デザヴェーヌ(ドゥニーズに眼をやる。ドゥニーズ、少し困ったような表情で、一歩下がる。)きっと・・・娘のアンリエット・・・
 ドゥニーズ いいえ! その下のドゥニーズです。
 デザヴェーヌ ああそうか、下の方の・・・
 ドゥニーズ ええ。
 デザヴェーヌ もう一人前の娘さんだ! ねえ、ドゥニーズ、私はお前の叔父なんだ。叔父のエドゥワール・デザヴェーヌ・・・
(デザヴェーヌ、テーブルまで進み、そこに帽子を置く。)
 ドゥニーズ(困って。)ああ!・・・
 デザヴェーヌ(ドゥニーズに近づき。)挨拶のキスをしていいかな?(キスする。)私のことは覚えていないだろうな。最後に会った時は多分・・・お前は二歳・・・いや、三歳だったかな・・・でも、お前の母親は、少しはこの弟のことをお前に話しただろうね? この厄介者の弟のことを・・・ダンタン家のすべての人と仲違いしたこの私のことを・・・
 ドゥニーズ(扉を閉めに行きながら。)ええ・・・
 デザヴェーヌ お母さんはどこに?
 ドゥニーズ 神父さんのところです。アンリエットと。カトリック婦人協会の集りがあって。
 デザヴェーヌ おやおや、お母さんは元気なんだね? お前の姉さんも。
 ドゥニーズ ええ、とても・・・私、叔父さんが来たからって、二人に言いに行きたいんだけど、叔父さんにこの家の留守番を頼むのは悪いし・・・女中は三日間休みをとって、田舎に帰っているんです。
 デザヴェーヌ(この時までに、思い出深い色々な品物を手に取ったりして見始めている。)知らせなくていい、お母さんには。今やっていることを邪魔してはいけない・・・時間は充分あるんだ、私には・・・この家を見るというのも、私がここに来た目的の一つなんだし・・・
 ドゥニーズ もう家を出てから一時間以上経っているんですけど。集りはまだかなり長く続く筈ですわ。
 デザヴェーヌ ああ、このテーブルかけ・・・随分使い古したなあ。子供の頃からあったよ。赤と白の格子だった。今でも覚えているよ。この上でよく宿題をやった。かけ算を一つやる毎に、この赤い格子の中にインクで薔薇の絵を描いたりね。ああ、後で袖で擦(こす)って消した・・・唾をはいてね。(デザヴェーヌ、笑う。ドゥニーズ、お義理に笑う。)おや! ここは食器戸棚か! ピアノがあったんだがな。ピアノはどこに行ったの?
 ドゥニーズ 青年クラブに貸したんです。昼のつどいのために。
 デザヴェーヌ ああ、まだ青年クラブはあるのか。神父さん、意欲的なんだね。若い人?
 ドゥニーズ 四十・・・四十五歳・・・
 デザヴェーヌ それでピアノがないのか。残念・・・(マントルピースに近づく。)時計だ。懐かしい・・・おばあさんの時計! まだ動いている! 今でもこれ、鳴る時に、つっかえたようになる?
 ドゥニーズ(笑って。)ええ! よく覚えていらっしゃるわ。
 デザヴェーヌ ドゥニーズ、私はね、ここで生まれ、二十歳までここで育ったんだ。小さかった頃、私のテーブルの場所はここ、父親があそこ、母親がここ、お前のママは反対側だった。喧嘩ばかりしていたから、離れて坐らせられた。私がパンをちぎって、お前のママのコップに投げ入れる。するとお前のママはフォークですくい上げて、私の皿に戻す。勿論私はまた投げ入れる。仕舞には必ず叫び声だ。お前のお母さんと私は決して分りあうことはなかった。あれはいつもちょっと・・・真面目でね。(少しの間。)椅子もよく残っているなあ!(両手で椅子の背を掴んで。)この中に坐って、両手で身体を支えて、足をブラブラさせて・・・それでよく叱られた。
 ドゥニーズ(思わず。)私も。
 デザヴェーヌ(ドゥニーズを見て。)お前は私の母親、デザヴェーヌによく似ている。
 ドゥニーズ 母もよくそう言います。・・・どうぞ叔父さま、坐って。外套を脱いで。
 デザヴェーヌ(外套を脱いで椅子にかける。)坐る前に何もかもよく見ておきたい。
(デザヴェーヌ、窓の一つに進み、カーテンをあげ、眺める。)
 ドゥニーズ(おづおづと、ちょっとデザヴェーヌを見た後。)お昼はまだじゃありませんの?(ドゥニーズ、一瞬返事を待つが、返事なし。)叔父様、きっと、お昼をすませていらっしゃら・・・
 デザヴェーヌ(急いで振り向く。訊く。)昼食? ああ、すませた。すませたんだ、お昼は。有難う。私は何もいらない。ねえ、ドゥニーズ、通りの、正面の家だけど・・・あそこはヴィーニュおばさんの家だ・・・玄関は青い色だった筈だけど、茶色に塗り替えたんだね。以前はあの壁にずっと藤がはっていたんだが・・・
 ドゥニーズ(デザヴェーヌに近づき、窓から見て。)藤?・・・私、藤があったって・・・知らないわ。
 デザヴェーヌ 知らない? うん、お前の年だったら、私も同じことを言ったろうな。記憶っていうのは、思いもかけないものを保存していてね、それを再発見するのは、ずっと後になって・・・人が記憶から何かを汲み上げようと思った時に初めて出て来るものなんだ。ヴィーニュおばさんの家には、今誰が住んでいるの? 三四人、子供がいた筈だがな、あの人には。
 ドゥニーズ 今は獣医さんが住んでいるわ。その人があそこを買ったんだと思う。
 デザヴェーヌ 可哀想に、ヴィーニュおばさん!「自家製のサイダーを味見しに来ない?」ってよく誘ってくれたな。
 ドゥニーズ 叔父様、本当にお昼はいらないの?
 デザヴェーヌ いらない。本当だ。
 ドゥニーズ でも、一時半の汽車でパリからお着きになったんでしょう?
 デザヴェーヌ パリからの汽車・・・うん、そう。一時半着だ。汽車の中で食べたから。何故私がここに来たのか、お前、知りたい? 簡単な話だよ。ここへは巡礼のようなものだ。駆け足のね。私はフランスを離れる。それで、もう若くはないし、もう二度とはここへは戻って来ないかもしれない。それでひとつ、出発する前に、この國、この家、それにこの家に残っているものを最後に見ておきたいと思ってね。お前、分る?
 ドゥニーズ(胸を打たれて。)ええ!
 デザヴェーヌ(大きく息をした後。)汽車から降りてすぐ、私は自分のありったけの勇気を奮い起こさなきゃならないと気がついた。思い出があまりに多くて・・・私の頃にはこの鉢カバーはなかった。最近買ったもの?
 ドゥニーズ 私、それは昔から知ってる。
 デザヴェーヌ 母は窓にジェラニウムを置いていた。冬にはそれを地下の貯蔵庫にしまって・・・(間。)ドゥニーズ、私はね、ここに着いて、お前しかいなくて本当によかったよ。ああ、勿論お前の母親に会いたくないと言ってるんじゃない。そうではないんだ。ただ、あれが結婚してからこっち、あれと会えばいつも喧嘩でね。しかしこれだけ時間が経ったんだ。もう喧嘩も収まっている頃だし、あれと挨拶のキスを喜んでする気持はある。お前しかいなくてよかったっていうのはね、お前は私の思い出の中には出てこない人物だ。そして私と同じようにここで育っている。そういうお前、だけがいるところで昔の思い出に浸(ひた)れるというのが、私には貴重なのだよ。さっき私は、この家の前についた時、胸がいっぱいになって、足が前に進まなかった。そしてやっと二三歩歩いた。すると歌声が聞えるじゃないか。私の胸は急に晴やかになったんだ。
 ドゥニーズ(困って。)あら、私、馬鹿な歌を歌って・・・
 デザヴェーヌ(抗議して。)馬鹿な? とんでもない。「アルルカンは娘を嫁にやる」を歌っていたんじゃないか。
 ドゥニーズ(困って。そして笑いながら。)まあ!
 デザヴェーヌ あれは素敵な歌だ。(急に真面目になって。)ねえ、あの部屋は今誰のもの? 両親の部屋だったんだ、あそこは。(奥の右の部屋を指差す。)
 ドゥニーズ お母さんの。
(ちょっと躊躇った後デザヴェーヌ、決心したように扉に進む。ゆっくりと取っ手を廻す。その時までにドゥニーズ、デザヴェーヌの傍に近づいている。)
 デザヴェーヌ(小声で。)いいかな?・・・私一人で・・・
 ドゥニーズ(さっと離れて。)ああ、ご免なさい。
(デザヴェーヌ、中に入る。扉は開けたまま。ドゥニーズ、食器戸棚に進み、開け、その中に植木に水をやるのに使っていた壷をしまう。次に、デザヴェーヌがテーブルの上に置いた外套と帽子を取り、舞台前面左手にある帽子掛けにそれらをかける。それから奥の窓に行き、デザヴェーヌが開いたカーテンを閉める。この動きの合間に、時々部屋の方をじっと眺める時間が加わる。そして最後にドゥニーズが窓のカーテンを閉め、戻って来る時、デザヴェーヌ、泣きながら登場。両眼を片手でおさえている。扉を閉め、テーブルのところまで進む。すすり泣きながら、テーブルの椅子にどっと坐る。ドゥニーズ、デザヴェーヌの傍、左手に立ち、あっけにとられている。)
 ドゥニーズ(声を詰らせながら。)叔父様・・・何かお辛いことが?・・・
 デザヴェーヌ(ハンカチで目を拭きながら。)ああ、思い出す・・・思い出す・・・すまない、ドゥニーズ・・・これは普通に言う「お辛いこと」ではない、「よいこと」でもあるんだからな・・・こういう気持になれるから、私はここにやって来たんだ。(自分の目の前をじっと見詰めながら。)どこも・・・あの部屋のどこも変っていない。あれからの三十年がすっぽりと消えたようなものだ。私は、昔よくやったように、すぐ床に膝をつき、ベッドに肘をついた。その姿勢で鏡つきの箪笥を眺めた。するとママの声が聞えてきた。「エドゥアール、箪笥の中からタオルを取って」・・・私は箪笥のところに行き、扉を開ける・・・ギーッという音がある。だけど私は行かなかったよ。行って開けなくてもちゃんとそのギーッという音が聞えたんだ・・・父が死ぬ前、私は殆ど毎晩あの部屋に行った。父に本を読んで聞かせるんだ。丁度お前の年頃だったな・・・(少し元気を出して。微笑みながら。)それから何年か経って、私と同じような馬鹿な連中と、飲んで・・・パイプをふかして、真夜中過ぎに家に帰るようになった。二階の寝室に上って行く前に、ママが寝ているかどうか、いつもあの部屋に見に入った。ママは私が帰ったのを知ると安心したからね。私は灯(あか)りを部屋に入れないで、ここに置いておいた。ママの傍にある、あの黒い時計が見えないようにね。そして扉をそっと開けて、小さい声で、「ママ、寝てる?」って言ったものだ。ママは大抵いつも返事をした。玄関を開ける音なんかで、目を覚ましていたんだね。それで私はママにキスをして・・・ママは言ったね、「酷い煙草の匂い! 随分遅いのね、きっと。」私は時間を誤摩化して言う。すると翌日になって、ママが言うことがあった。「お前、馬鹿ね。十一時だなんて言って。私、十二時が鳴ったからお前の部屋に行ってみたけど、いなかったじゃない!」
 ドゥニーズ(坐りながら。)じゃ、十二時になって帰ることも?
 デザヴェーヌ そう、十二時過ぎることもあった。・・・そうそう、夏、仲間と一緒にロシェールまで歩いて行って、釣をすることもあった。夕方になるとみんなで泳いで、橋の傍の飯屋で夕食をとって・・・ロシェール、知ってるね?
 ドゥニーズ いいえ、知りません、ロシェールは。
 デザヴェーヌ(叫び声。)ロシェールを知らない?
 ドゥニーズ あそこへ行って、その話をしてくれた友達はいます。綺麗だってことは知ってます。でも、あそこではダンスがあるから、お母さんは駄目って・・・
 デザヴェーヌ(途中で遮って。)ロシェールを知らない! 何てことだ。ここからたった八キロ、それに、途中の道だって素敵なんだ! ねえ、ドゥニーズ、あそこには行かなくちゃ。綺麗なところだよ! 日曜日には勿論ダンスがある。ダンスが厭なら、平日に行けばいい。それに、お前の年頃の娘がダンスをしなかったら、一体誰がダンスをするって言うんだ! 
 ドゥニーズ 私達、田舎には決して行きませんわ。お母さんも、アンリエットも。歩くのが嫌いなんですもの。
 デザヴェーヌ じゃ、一人で行けばいい。一人ではお母さんが許さない?
(ドゥニーズ、「そう」と頭で示す。)
 デザヴェーヌ ・・・橋の傍の飯屋で夕食・・・十一時頃そこを出る。足取りは軽い。朝出て来た時のままだ。シーンと静まりかえっている中を靴の音を響かせて・・・道の砂も我々が去って行くのを惜しむかのように、キュッキュッと音を立ててくれる。畠に着くと、麦の中をつっきる道を取る。コオロギが天にも届けとばかり鳴いている。空は、星がまるで落ちてくるように輝いている。見ていると目眩(めまい)がしそうだ。宇宙・・・宇宙がすぐそこにある。こんなに星のあるところで、どうして星の流れる隙間(すきま)があるんだろう。不思議に思える。みんなで歌を歌う。ああ、いい気持だ。夜は! もう明けないで欲しいと思ってしまう・・・
 ドゥニーズ 私のお母さん・・・そこに行ったことある?
 デザヴェーヌ 殆どないね。もうその頃はすっかり「マリア様の会」で忙しかったからね。
(間。)
 ドゥニーズ(物思いに耽(ふけ)りながら。)真夜中に家に帰って来る兄さんが欲しかったわ、私。(デザヴェーヌ、ゲラゲラっと笑う。)きっと私をロシェールに連れて行ってくれたわ、その兄さん。
 デザヴェーヌ 私がお前のちゃんとした叔父の役目をするよう運命が決めていてくれていたら、連れて行ってやれたんだが。楽しかったろうな、お前との遠足・・・そうそう、クレイさんちの池、お前、知ってる? すぐ近くにある・・・
 ドゥニーズ ええ、時々行きます。先月も成年クラブで行ったわ。
 デザヴェーヌ あの岸辺に、まだブランさんの小さな家と庭がある?
 ドゥニーズ ええ、その家に住んでるのは、今は籠編みの職人さん。ママはいつも呆れているわ。あんな家にまだ人が住んでるって。だって、ブランさんはあそこの庭で、気がふれて池に飛び込んで、溺れ死んだ・・・そんな家なのにって。
 デザヴェーヌ それは違う。気がふれて飛び込んだんじゃない。
 ドゥニーズ でもママはいつも、「気がふれて」って言ってるわ。
 デザヴェーヌ(立上がりながら。)いや、気がふれて飛び込んだんじゃない。本当の話は単純過ぎて、綺麗過ぎて、普通の大人には理解出来ないんだ。新聞で読む話とはあまりに違いすぎるからね。新聞にある、あんなつまらない話に慣れきった人間には、とても無理なんだ。ブランおじいさんもブランおばあさんも、私はよく知っている。優しい人達でね、可愛い女の子を養女にしていたんだ。おじいさんは蠅一匹殺すような人じゃなかった。肉は食べないし、パンの代りにパン粉をまぶした水を飲んでいた。養女をかわいがってね、甘やかせたんだ、好きなだけ。でもある時、この養女があまりに酷くてね、どうしても叱るしか手がなくなってしまった。あまり我儘(わがまま)で、それを通すわけには行かなかった。ブランじいさんは叱った。ブランじいさんだったら当然やるような、凄い叱り方だったんだ。養女は泣いた。膨(ふく)れた。ミルクのスープを飲みもしないで、そのままベッドに入ったんだ。黙ってベッドに・・・ブランじいさんは驚いてしまった。毎晩必ず、娘が寝る前には、おじいさんに「お休み」を言ってたんだからね。その晩おじいさんは、「お休み」を待って、待って・・・辛くて、後悔したんだ。ああ、あんなに叱らなきゃよかったって。でも、待っても無駄だった。それで、娘の部屋に行った。「ご免よ」って。「また仲良くしよう」って・・・しかし娘は黙ったままこっちを向かない。壁を向いて眠っていたんだ。もう明け方だった。おじいさんは泣いた。娘のためにね。ブランじいさんはそれまでにもいろんな不幸なことがあった。この不幸がその昔の不幸全部を思い出させたんだね。それですっかり絶望して・・・ほら、ブランさんの庭つづきに池があるだろう? そこに、奥さんがとめる間もなく、飛び込んでしまったんだ。
 ドゥニーズ まあ。
 デザヴェーヌ 奥さんなんだよ、私にこの話をしてくれたのは。でも、ここの人間は誰一人、この話を信じはしなかった。「お休み」を言われなかったぐらいのことで溺れ死ぬなんてね。みんな笑ったよ。(デザヴェーヌ、坐る。)
 ドゥニーズ(考えながら。)私、よく分るわ。夜は更けたし、池はすぐ傍・・・ああ、翌日になりさえすれば、そんなことにはならなかったのに!
 デザヴェーヌ(驚いて。)ほう、お前、「翌日になりさえすれば」って言ったね。それ、丁度、お前のおばあさんの言い方そっくりだった。(ドゥニーズを見る。ドゥニーズ、デザヴェーヌを見て微笑む。)ねえ、私とお前は、おばあさんの血を受け継いでいるよ。よく似ている。(ドゥニーズ、少し笑いかける。が、それを抑える。)おかしい?
 ドゥニーズ いいえ・・・私・・・ご免なさい、変なことを思い出して・・・
 デザヴェーヌ 私に・・・話せない?
 ドゥニーズ ええ、ちょっと・・・
 デザヴェーヌ 私はおばあさんの血を引いているって言ったら? ああ、血を引いているって言ったって、何もかも受け継いでいる訳じゃない。私に少しでもよいところがあったら、それはおばあさんの血のお陰だと・・
 ドゥニーズ(ちょっと憤慨して。)そういうことじゃないの!
 デザヴェーヌ 私みたいなおめでたい人間にお前が似ているって言われたから? それで笑った?・・・
 ドゥニーズ(抗議して。)いいえ、そんな・・・それは違うわ。
 デザヴェーヌ(笑って。)どうやらその理由らしいな。
 ドゥニーズ いいえ、本当に違うの。私達似てるって、叔父様言ったでしょう? 私、お母さんの言葉を思い出して、それで笑いかけて・・・でも、叔父様の前でそれを言うのは失礼だと思う・・・
 デザヴェーヌ それは無理にも言って貰わなきゃならないね。そうでないと、何かとても大事なことだと私が思ってしまうよ。
 ドゥニーズ(ちょっと躊躇った後。)私、笑い上戸なの。それで、私が、ゲラゲラっと大声で笑いかけるとお母さんはいつも・・・(ドゥニーズ、微笑む。困る。)
 デザヴェーヌ お母さんが・・・何て?
 ドゥニーズ 「そんな笑い方はお止めなさい。苛々するわ、全く。弟のことを思い出してしまう。」
 デザヴェーヌ(笑って。)何だ、そんなことか。そんなことなら昔から知ってるよ。しょっちゅう言っていたからね、お前のお母さんは、私の笑い方は苛々するって。(少し不機嫌さをまじえて。)あの人に私のことを思い出させる機会を与えてくれて、お前に感謝するよ。
 ドゥニーズ ほら、叔父様、怒ってる。
 デザヴェーヌ 全然、全然。・・・私のことをあの人、よく話す?
 ドゥニーズ(用心深く。)いいえ、滅多に。お母さんが話すのはいつもお父さんのこと。「お父様はこうだったのよ。見習いなさい」って。言う機会がある時には必ず。
 デザヴェーヌ 分るな、それは。ダンタンは信心深い人間だった。(間。)で、ドゥニーズ、お前は? 信心深い?
 ドゥニーズ お母さんはいつも私に、「まだ足りませんよ、信心が」って。私、姉に比べたら足元にも及ばないから・・・どうして姉が修道院に入らないのか、私、分らない。
 デザヴェーヌ それほど? そうか、じゃ、アンリエットはダンタンの血だな。ドゥニーズ、お前はどうやらデザヴェーヌの血だ。
 ドゥニーズ ええ、よく言われる。
 デザヴェーヌ(ドゥニーズを見た後。)おばあさんに、目も、顔かたちも、声も、そっくりな姪がいるのを知って、私は本当に嬉しいよ。お前は他の色々な点でもきっとおばあさんに似ているんだ。それをいつかよかったと思い、誇りに思うよ、きっと。お前の母親が、あのおばあさんのことを本当に分っているとはとても思えない。二人は真反対の性格だからね。それに、片方は若過ぎたし。でも、ここらあたりの誰でもいい、年寄りに聞いてごらん。おばあさんがどんなに素晴しい人だったか、どんな立派な心を持っていたか、話してくれる筈だ。
 ドゥニーズ おばあさんって言えば、私、父方のダンタンおばあさんしか知らない。でも、母方のおばあさん、随分陽気な楽しい人だったのね。
 デザヴェーヌ(熱がこもって。)生き生きしていた人なんだよ、ドゥニーズ。それは生き生きしていた・・・その、人への接し方、物への、景色への、置かれた状況への、対処の仕方・・・それは自分の損得など度外視した、自由な素直な、その時心に浮んだそのままの発露だったんだ。私はおばあさんが、どんなことであれ、無関心であるのを見たことがない。どんな事にでも、必ず自分の身を投じた。熱中し、憤慨し、喜び、悲しみ・・・そしてこれが大切なんだが・・・いつでも判断するのに、自由な姿勢があった。既成の観念、世の中の決まり、そんなものに縛られるのが、心から嫌いだった。いつでも自分自身の好き嫌いしか判断の基準はなかった。そしてそれが、幸せなことに、いつでも一番寛大な、一番理に叶ったものになっていたんだ。おばあさんには、勇気と無邪気さにいりまじった気持・・・いや、いたずらな気持と言った方がいいかな・・・それがあって、例えばここに、人殺しや泥棒が連れて来られたって、簡単に連中の心を開かせてしまう。強情で分らず屋の心を開いたことも度々だった。これは多分、人殺しや泥棒の心を開くことよりきっと難しいよ。勿論ここの家の馬鹿者ども、虫けら同然の人間を呆気にとらせたり、眉を顰(ひそ)めさせたりしたのはもう当り前のことさ。(デザヴェーヌ笑う。ドゥニーズ、それにつられて笑う。)おばあさんの一番の友達は女中のフェルナンド・・・樵(きこり)に先立たれた百姓女でね、それがまた、私の知っている人間の中で一番まともな女だったんだ。フェルナンド! 日曜日にはよく二人で大きな弁当籠を抱えて、森に行ったな。それからムーラン・ブランに。(訳註 ムーラン・ブランは不明。地名と思う。)
 ドゥニーズ じゃ、おばあさん、ロシェールは知っていたのね?
 デザヴェーヌ おばあさんがロシェールを知っていたかだって! 当り前だよ。子供の私をそこへ連れて行ってくれたのがおばあさんなんだからね。水浴びを初めて教えてくれたのもね。おばあさん自身だって泳いだんだよ、ロシェールで。
 ドゥニーズ えっ? 泳いだの?
 デザヴェーヌ そう。女が水浴び・・・ここの女どもには酷い不興を買ったよ。まあ当り前だ。水を浴びること・・・湯舟につかって身体を洗うことでさえ一生のうちでたった二、三回しかしない・・・それも本当に大切な行事のとき・・・そんな具合じゃ、眉を顰(ひそ)めるのは当然だ。(ドゥニーズ、ゲラゲラっと笑う。)それから、野の花の名前を私に教えて、それを愛でることを教えてくれたのもおばあさんだ。あの製材所の傍にあった庭、お前、覚えてる?
 ドゥニーズ ええ、今は作業場になってるわ。
 デザヴェーヌ あそこはおばあさんの庭だった。おばあさんは出来る限りあそこで時間を過そうとしていた。日曜など、教会に行く代りにあそこで花に水をやっていた。おばあさんはいつも言っていたよ。教会でなんかより、庭での方がよほど神様は身近にいらっしゃると。そして、神様への感謝の気持は、花を愛し、花の面倒をみることによって、ずっと発揮出来るとね。
 ドゥニーズ(感銘を受けて。)ああ、そういう風に・・・私、よく知っていた、一番綺麗な教会はきっと森だわって。小鳥が住んでいる大きな木々、所々枝の間から空が見えるような・・・
 デザヴェーヌ それだ! そして神様を崇(あが)める一番いい方法は、小鳥のさえずりを聞き、木々を眺めること、それなんだ。
(間。)
 ドゥニーズ(ハッと現実に戻って。)お母さんと姉さん、遅いわ。
 デザヴェーヌ 私は急いでなんかいないよ。汽車の時間まで、まだ一時間半ある。
 ドゥニーズ もう帰ってしまうの? 夕食をご一緒には?
 デザヴェーヌ 駄目だね。それは無理だ。
 ドゥニーズ それで、もう二度とここには?・・・
 デザヴェーヌ(困って。)分らない。ひょっとするとこれが最後・・・いや、先のことは分らないからね。
(間。)
 ドゥニーズ 叔父さん、お母さんとうまく行ってないって、悲しいことだわ。
 デザヴェーヌ 滅多にお前、私のことなんか考えたことはないだろうけど・・・どんな風に思ってた?
 ドゥニーズ(微笑んで。)実際の叔父さんとはまるで違った風に。
 デザヴェーヌ どんな風にだい? 言ったっていいだろう? もう今では昔からの友達のようになった二人じゃないか。
 ドゥニーズ(笑って。)ひどい人だって・・・乱暴で、無慈悲な・・・とにかく、怪物みたいな人。私って子供だから、ママと父方の叔父さんから色々聞いて、自然にそういう風に・・・
 デザヴェーヌ おやおや!
 ドゥニーズ 今こんなにはっきり言えるのは、私、自分で馬鹿だったなって思っているから・・・分るでしょう? そんなこと、みんな、本当はありもしない、とんでもないことだって分っているから・・・
 デザヴェーヌ(考えながら。)乱暴・・・乱暴とは言える・・・癇癪(かんしゃく)もちでね・・・(間。)ドゥニーズ!
 ドゥニーズ 何?
 デザヴェーヌ(立上がる。少し興奮して。)ドゥニーズ、私は嬉しいんだ。お前が私のことを分ってくれた・・・私の気持を感じとって・・・私とお前が同じような気持を持って・・・いや、お前と私が同類の人間だと思ってくれたことが・・・いや、ここを去るにあたって、そう私が感じとれたことが嬉しいんだ。それから、お前と私が友達になれる・・・いや、なれたかもしれないと感じ取れてね・・・思いもかけずお前とここで過したほんのちょっとの時間のお陰で、私について色々言われてきたこと全てが、下らない、取るに足らないものだったって、お前が思えれば、私は・・・私はもうすぐここを出て行く・・・もうあまり時間はない・・・
 ドゥニーズ 叔父さん、そのことは安心して! 私、誓うことは出来ないけど、これだけは言えるわ。私が、叔父さんのことを決して忘れないって・・・私に話して下さった色々なこと・・・おばあさんについて、叔父さん自身のことについて・・・
 デザヴェーヌ 私自身の話・・・うん、お前がもう少し年をとっていたら、話せることがあるんだが・・・ここの者達は、私については何も知らない・・・まあいい! とにかく、有難う、ドゥニーズ。お前の父親がいなくなってからは、私はお前にとって、父親にも、いい友達にもなれた筈のところ・・・そのことを考えると心が傷む。しかし、お前の前で、そう考え、こう言えるというのは、何と言っても嬉しいことだ。
(間。)
 ドゥニーズ これからどこの國へいらっしゃるの?
 デザヴェーヌ 東洋・・・インドだ。(間。)手紙を書くよ、必ず。行く先で必ず住所は知らせる。手紙をおくれ、ドゥニーズ。お前がどんな風になって行くか、それが知りたい。
 ドゥニーズ ええ、私、書くわ。
 デザヴェーヌ 生きるんだよ、ドゥニーズ。ここの連中は誰も「生きる」ということを知らない。それに、「生きるということ」を愛していないんだ。閉まった窓のこちら側で、近所の人達の悪口を言って、ただ死を待っているだけ。心の底から喜ぶことが出来ず、心の底から愛することが出来ないのだ。神様を年がら年中拝んで・・・まるで乞食のように、臆病者のように・・・その結果はただ、神様を怒らせているだけ。そのくせ、本当に美しい、本当に偉大な、本当に神様のしるしがある物を、それと見分けることが出来ないでいる。(煙草に火をつける。)煙草・・・いいね?
 ドゥニーズ どうぞ。
 デザヴェーヌ いいね、ドゥニーズ。常に生き生きしているんだよ。物を見る時に、新鮮な目を失ってはいけない。ここの連中が送っているような生活に嵌り込んでは駄目だ。フランスにはここのこの町のようなところが何百とある。ツアー客を泊めるホテル、公証人の事務所が二つ、それに町役場、それだけがやっと存在理由があって、あとはただ、退職者と年金生活者が死を待つだけの、静かなホスピスがあるだけ。
 ドゥニーズ(笑って。)まあ叔父さん、それ、大げさよ。
 デザヴェーヌ(こちらも笑って。)そう思う? 私もそう願いたいところだけどね。そう、もう一つ願いたいことがある。お前、ここらあたりの小さな店の息子かなんかと結婚するんじゃないよ。それが私の願いだ。それは墓場だからね。
 ドゥニーズ それは大丈夫。私、まだ考える時間が沢山あるわ。それに、自分を墓場に埋める気はないの、私。
 デザヴェーヌ 私はお前が百姓の嫁になって欲しいんだよ。昔私はね、百姓の子で、何人もいい男を知っていたよ。勿論名もない普通の人間だ。でも頭がよくて、物がよく分っていて、意欲、それに独立心があった。田舎での生活、本当に美しい生活だよ、これが。風をいっぱいに孕(はら)んだ穴のない帆・・・それだ。地に足がついた、自分の楽しみに応じた、金と時間の使い方・・・どう? お前に気に入るんじゃないか?
 ドゥニーズ ええ、多分。でも私、それは考えたことがなかったわ。
 デザヴェーヌ じゃ、どんなことを考えていた? どんなお婿さんを・・・?
 ドゥニーズ 私、役者がいいわ。
 デザヴェーヌ(興味をもって。)役者・・・
 ドゥニーズ ええ、ここらあたりにも来るわ、芝居の一座。その若い役者。一座の生活って、楽しそう。フランス中を旅行して、ホテルに泊って。食事は一座みんなと・・・それに、同じ気持の人としか会わないすむ生活・・・
 デザヴェーヌ(笑って。)そうだ、確かにお前は正真正銘のデザヴェーヌだ。でもお前、一座でどんな役をするんだ? お前の連合いの役者は、二人で食っていくだけ稼げないぞ、きっと。
 ドゥニーズ(驚いて。)あら・・・
 デザヴェーヌ うん、大いにあり得るんだ、それは。
 ドゥニーズ 何か見つけるわ、すること。どうせ金持になりたいんじゃないし。夫が台詞を覚えるのを手伝う。朗読してやったりして・・・それから、衣装づくりも。
 デザヴェーヌ お母さんは何て言ってる? その話に。
 ドゥニーズ ああ、私、決してこんなこと、話さない!
 デザヴェーヌ ここでかかった芝居を見たことがあるんだね?
 ドゥニーズ ええ、一度だけ。「エドゥアールの子供達」という芝居。いいお芝居だったけど。まあ、何て暗い話!
(間。)
 デザヴェーヌ ああ、一度でもお前がパリに行けたらなあ!
 ドゥニーズ ええ、私もそう思ってる!
 デザヴェーヌ パリに行けば、お前にはいろんなことが分ってくる。いや、お前にはそれだけの力があるんだ。視野が広がる。うん、一挙にね。新しい発見、驚き、それに、夢中になれること・・・本、芝居、音楽・・・ああ、音楽! いいコンサート! 何ていう豊かさだ! 思ってもみない素晴しい豊かさ! ああ、そうだ、お前には父方のいとこがいたんじゃないか? パリに。
 ドゥニーズ ええ、二年前、家に来たわ。私より少し若い女の子と。
 デザヴェーヌ 父方のそのいとこは何をやっていたんだっけ。
 ドゥニーズ よく知らないけど、商売じゃないかしら。
 デザヴェーヌ 手始めに二三箇月そこの家に泊めてもらうんだな。ここを出る用意に・・・
 ドゥニーズ 難しいわ。
 デザヴェーヌ しっかりとそれを目標にするんだ。そうすれば志(こころざし)はなる。半年後でも、一年後でも。親戚の若い女の子がいるとなれば、関係を作るには絶好の相手だよ。
 ドゥニーズ 新年に絵葉書をやりとりするだけなの、今までは。
 デザヴェーヌ そうだ、それだ! 絵葉書の収集をやるんだよ。お前はパリの遺跡に急に興味を持つようになる。それが最後にはパリ行きにまで繋がって行く。パリのその娘だって、お前からこのあたりの美しい風景の絵葉書を貰うのは厭じゃない筈だ。パリとは真反対の風景だからね、ここは。一番大切なことというのは、いつでもこんな馬鹿馬鹿しいことから始まるものなんだ。
 ドゥニーズ(明るく。)私、やってみる!
 デザヴェーヌ(嬉しそうに。)ああ、もしパリに行ったら、私に連絡するんだよ。いとこの住所を知らせるんだ。私は約束する。パリで見、読み、聞き、知らなければならない全てのものをお前に知らせる。約束するね?
 ドゥニーズ ええ、嬉しいわ!
 デザヴェーヌ 私もさ! お前をロシェールに連れて行ってやれない、その代りお前を、遠くから、パリ中を、一歩一歩、隅々まで案内してやる。ああ、随分遠方からになるな、案内は。残念だが。しかし、遠くからでも、お前が私の道案内通りに歩いているのを心に描いているよ。私が書いてやる色々な物、人物に、驚きを知っているその新鮮な感受性、あくなき好奇心で目を向けているお前・・・デザヴェーヌおばあさんの、例のまなざしでね。ああ、ドゥニーズ、お前と私は、あの、お前のお母さん達に対抗する、秘密の仲間だ。これからの手紙のやりとりで、今日お喋りした色々な話の続きをやることになるね? きっと。
 ドゥニーズ(じっとデザヴェーヌの話をききながら、賛成の相槌(あいづち)を頭で示していたが、急に窓の方に近づき。)あ、お母さんとアンリエットだわ。足音がする。
(デザヴェーヌ、立上がる。ドゥニーズ、入って来るマダム・ダンタンとアンリエットのために扉を開ける。)

     第 二 場
(登場した二人。いかめしく、おもむきのない服装。服も帽子も黒。アンリエットは少し頭が弱い。)
 マダム・ダンタン(大きな声で。少し憤慨の調子。)あらまあ、やっぱりいたのね!
 デザヴェーヌ(マダム・ダンタンに近づきながら。)やあ、姉さん。
 マダム・ダンタン(二人、挨拶のキス。その間、涙ながらに相手を非難して。)エドゥワール! あなた、午前中からここに来ているっていうのに! 今デルファンさんに会ったばかりのところ。デルファンさん、あなたを今朝十時に製材所で見かけたって言ったわ。
 デザヴェーヌ(母親の後ろに控えめに隠れているアンリエットに近づき。)うん、そうだよ。ああ、アンリエット、挨拶のキスだ。
 アンリエット(額を差し出して。)叔父さま・・・
 マダム・ダンタン(帽子と手袋を脱ぎながら。)全くあなたって言う人は! ここへ着いて、もう五六時間は経つっていうのに、私に知らせもせず・・・私が知ったのは赤の他人からだなんて! あなた、この家で・・・あなたのこの家で・・・私と昼食を一緒にしようともしないなんて! ああ、エドゥワール、これは親切とは言えないわ。私がどれだけ傷ついたか!
(マダム・ダンタン、涙を拭く。)
 デザヴェーヌ 姉さん、分っているでしょう・・・
 マダム・ダンタン(途中で遮って。)弟が十五年家をあけて、今朝着いたっていうのに、私が何も知らなかった・・・それを町中の人に知られて・・・まあまあ、二人で喧嘩しているって、誰だって思うでしょう!(また涙を拭く。)さ、坐って、エドゥワール。
(全員、坐る。)
 デザヴェーヌ 姉さんはいつでもこれだ。何でも芝居がかって大げさに! 僕は今朝九時半にここに着いた。それはその通り。ドゥニーズには一時に着いたように話しておいたが、(ドゥニーズに。)ドゥニーズ、お前には悪かったね、嘘をついて。お前のお母さんをがっかりさせては可哀想だと思ったのでね。(マダム・ダンタン、両腕を上げ、目を空中に向ける。)姉さん、分ってくれるね? 僕がここに戻って来たいと思ったのは、本当に単純な、ただ一つの望みのためなんだよ。姉さんに会う、この家の製材所、この町の景色を見る、姪達と面識を得る、それだけのため・・・
 マダム・ダンタン(驚いて。)まあ、エドゥワール、あなた、ただそれだけのためにこの旅行を?
 デザヴェーヌ そうですよ。それ以外にどういう目的があり得るか、僕には・・・
 マダム・ダンタン(途中で遮って。)有難う、エドゥワール、何て優しい・・・思いやりのある・・・(マダム・ダンタン、立上がり、再びデザヴェーヌにキス。)ご免なさい、でも、あなたが帰っていると聞いて私、どう考えていいか分らなくて・・・まさか、まさか、単に私達に会いたいだけなんて、私、思いもよらず・・・あなた、ここに着いたら真っ先に製材所へ行ったんでしょう? あそこには私達は所有権といっては、今はもう全く・・・
 デザヴェーヌ 権利なんか、こっちだって・・・義兄さんが生きていれば、僕がここへ来たって、そんなこと、姉さんの頭にこれっぽっちも浮ばなかった筈ですよ。
 マダム・ダンタン まあ、あなたったら、根っからの馬鹿! そう!(マダム・ダンタン、微笑み、デザヴェーヌを見る。)あなた、年をとったわ、エドゥワール。髪も白くなって。そんなことを言う私だって・・・随分あなた、変ったって思うでしょう?
 デザヴェーヌ いや、それほどでもない。もともと父親似だったけど、いよいよ似てきた。
 マダム・ダンタン そう思う? そうそう、エドゥワール、墓参りに行かなくちゃ、一緒に。
 デザヴェーヌ もう終ってる、それは。朝行ったんだよ。姉さんには分るね? 僕は最初とにかく、僕一人で思い出を確かめたかった。駅を出るとすぐ、フォッセの並木道に出て、町をひとわたり見た。製材所に行った。製材所! 僕の幼年期のすべてがあそこにある。義兄さんの後継者に会ったよ。
 マダム・ダンタン 自分が何者かを話したのね?
 デザヴェーヌ 勿論。
 マダム・ダンタン 泥棒みたいに私に隠れて、こっそりやって来たなって思う人がまた一人出来たわ。
 デザヴェーヌ 全然。だって僕は「この後、姉に会うんだ」って、ちゃんと言ったんだから。作業場を前にして、僕がどんなに心を打たれているか、あの人はちゃんと見てとってくれたよ。僕が昔、あんなに楽しく遊んだあの作業場・・・あの感情を押し殺すのは、僕にはとても無理だからね。だからあの人、親切に工場の隅々まで見せてくれた。作業場だけでなく、納屋までだ。僕の話をよく聞いてくれたよ。三十年前の・・・いや、四十年前のかな・・・それで一緒に乾杯ということになった。
 マダム・ダンタン(非難の気持あり。)そうね、いつだって乾杯・・・あの人は。
 デザヴェーヌ そこから今度は墓地だ。姉さんはよく知ってるね、僕にとって墓はあまり意味がない。あそこで死んだ人に会える訳じゃないからね。顔の表情、声・・・死んだ人の心の表現は、あそこには全くなく、ただ僕の心の中に・・・
 マダム・ダンタン(遮って。)分ってます。娘達の前ですよ。あなたの意見の開陳は止めて下さい。
 デザヴェーヌ まあとにかく、僕は墓地に行った。いろいろあるにはあるが、やはり行って見たかったということだ。チュイルリへの途中、野の花をあれこれ摘んでね。
 マダム・ダンタン 墓地の周りにメッキ加工した鉄の柵を私、作らせたんだけど・・・あなた、良いと思わなかった? あれ。
 デザヴェーヌ(しっかりした言い方で。)うん、見た。良かったよ、うん。
 マダム・ダンタン 勿論あなた、気に入らなかったのね?
 デザヴェーヌ(不機嫌に。)僕は良かったって言ったんだ! どうしてわざわざ僕を怒らせるようなことを言うんだ。「あの柵は気に入らなかった」とは、僕は言わなかったろう?(きっぱりと。)全く醜いものだ! 墓地に人が拵えるもの・・・建てるもの・・・例外なく、酷く醜い。墓地で小さい頃かくれんぼをした。その時に思った。何て醜いんだ、こういうものは。そういうことを前提にしても、姉さんの作った物は大変よかった。注意深く、豪華に作られていて、銀の色合いが・・・
 マダム・ダンタン 分りました。相変わらずのあなたね!(娘達に。)お前達には話してあったね? お前達の叔父さんというのは、死者に対して誰もが持つ共通の気持を皮肉って、それを自慢にしているって。私、間違っていなかったろう?
 デザヴェーヌ それを自慢にしている? 僕は何も自慢などしてはいない。僕は自分が考えるように考えるまでだ。何も他人にそれを強制する気持はない。
 マダム・ダンタン 墓地の次はどこに?
 デザヴェーヌ 町のもう片方の道を通って駅に戻った。そして駅の食堂で昼食。誰も知った者はいなかった。これは確かだ。
 マダム・ダンタン 駅の食堂! エドゥワール、あなた、それだけいろいろ一人で過去の思い出に浸(ひた)ったのなら、もう私達の食卓について、みんなと一緒に食事をとってもいい頃だった筈ですよ!
 デザヴェーヌ もう一時近くてね、ここではとっくに食事は終っていた、きっと。だいたい僕が来ると言っていなかったし・・・
 マダム・ダンタン(溜息をついて。)結局あなた、こういう成行きにしようと自分で決めていたのね。仕方がないわ。で、あなた自身の話は? あなた、何になったの? 何をしているの? 何年もロンドンにいたって話は聞いていたけど。
 デザヴェーヌ ロンドンは三年。
 マダム・ダンタン 誰かが言ってた。あなた、新聞に何か書いたんだって。どの新聞か忘れたけど・・・私、嬉しかったわ。
 デザヴェーヌ 僕は新聞にはめったに書かない。それに、新聞に書いてもちっとも嬉しくない。
 マダム・ダンタン あれから随分経ったわ。
 ドゥニーズ(真面目な声。)叔父さまはフランスを出るんですって。
 デザヴェーヌ そう。僕はインドに行くことになった。
 マダム・ダンタン(驚いて。)インド?
 デザヴェーヌ そう。インドに友達がいて、決めてくれた。
 マダム・ダンタン まあまあ、インド・・・何をしに?
 デザヴェーヌ 本を書くため。それから、英語でインド人達に講義・・・一週に何時間か。
 マダム・ダンタン インド人に講義! 何の? 一体。
 デザヴェーヌ 文学の・・・教えることによって生活はすっかり安定する。死ぬ最後の時までね。
 マダム・ダンタン 死ぬ・・・最後の時・・・
 デザヴェーヌ 多分ね。だから、出発前にここに来ようと思って・・・
 マダム・ダンタン(涙ながらに。)まあ、可哀想なエドゥワール・・・可哀想な・・・
 デザヴェーヌ 可哀想ってことはないんだ、僕は。
 マダム・ダンタン 結局のところ、国外追放の憂き目にあうなんて。
 デザヴェーヌ 「結局のところ」とはどういうことですか。「憂き目」も違いますね。それに、国外追放だなんて・・・
 マダム・ダンタン だってエドゥワール、天晴れ晴れ舞台に出て行くっていう話じゃなさそうでしょう? あなたの話を聞いていると。(デザヴェーヌ、頭で、「そんな話じゃない」と否定しながら笑う。)あなたっていつでも自分の生活に余裕がなかったんですからね。
 デザヴェーヌ(立上がりながら。)そう、確かに生活はギリギリだった。でも姉さん、僕はちゃんとやって来たんだ。自分が生きたい人生・・・それには達していたし、そのために充分なだけは稼いだ。確かに辛い目にしょっちゅうあった。しかしこの僕の人生の旅は、自分で選んだ道を自分の足で進むやり方だった。それで、厭なことがあろうと、それを避けず、日照りや嵐があっても、それを苦にせず・・・
 マダム・ダンタン まあそうでしょうね。でも、私が言った「生活の余裕」は、「自分の地位を作る」っていうことでもあるのよ。
 デザヴェーヌ ははあ、金を儲けるってことですね? つまり、自分の存在により財産を拵える・・・いいえ、僕はそれはしなかった。したくなかった。
 マダム・ダンタン(急に怒りがこみ上げて来る。それをうまく隠せない。)自分の存在により財産を拵える、それはしたくなかった・・・でも、したいことはあった・・・そういうこと!
 デザヴェーヌ 何ですって?
 マダム・ダンタン(怒りを相変わらずうまく隠せない。)何でもありません。
 デザヴェーヌ 何でもないことはないでしょう。僕がしたかったこと、それは何ですか。
 マダム・ダンタン 自分が一番よく知っているでしょう。
 デザヴェーヌ いいえ。何ですか、それは。
 マダム・ダンタン 自分から求めて財産を拵えることはしない。しかし母親が死んだ時、製材所から六万フランの借金をするのは平気だった。そういうこと!
 デザヴェーヌ(苛々しながら。)借金? そうですか。相続の時僕が製材所の仕事を引き継がず、自分の取り分をそのまま受け取った、あの事を言っているんですね? これこそ「自分の道を行く」と言った僕のさっきの話通りじゃありませんか。
 マダム・ダンタン 私達は分り合えないの、エドゥワール。この問題で、お前と意見が合ったためしがない。この話を蒸し返すのは無駄。
 デザヴェーヌ 蒸し返したのは一体誰なんだ。僕でないことは確かだぞ。一番嫌いなんだ、僕はこの話が。しかしこれだけはもう一度はっきりさせておく。(一語一語はっきりと。)僕達の母親が死んで、製材所とこの家が遺された。綿密な調査の結果、総額で十二万フランと見積られた。そうだな?(マダム・ダンタン、腕を組んで頭をそらせ、空中を見ている。返事はしないと決心したしるし。少しの間の後、デザヴェーヌ、続ける。)義兄さんはもうその時、製材所の仕事を引き継いでいた。それで、自分の勘定で仕事を続ける決心だった。それでこの僕だが、ちゃんと清算して、財産の半分を受取る権利があった筈だ。そこを姉さんはどう考えている。
 マダム・ダンタン(大声で。)勿論あなたには受取る権利はありましたよ。ありましたが、いいですか、エドゥワール、あなたの義務というものがあった筈でしょう! こちらの仕事を助けるという。それをあなたは、自分の権利を主張して、財産を半分に減らして、そのためこちらは六万フランの借金が出来たのです。
 デザヴェーヌ そんなことは・・・
 マダム・ダンタン(続けて。)その利子と元本の返済のため、私達がどれだけ働き、どれだけ節約したか・・・それであなたといったら、その金で・・・
 デザヴェーヌ(かっとなってテーブルを叩き。)一体何だって言うんだ、それが・・・
 マダム・ダンタン(娘達に。)出てなさい、お前達は!
(アンリエット、奥の部屋に素早く退場。ドゥニーズはゆっくりと退き、続きの会話の途中で立止り、窓の傍に少し隠れて立つ。)
 デザヴェーヌ ・・・それが何だって言うんだ! 僕が提案したように、製材所を現金に替えていれば、その丁度半分づつをお互いに手にしたまでだ。それを、苦労を買って出て工場の所有者になると決めたのは、そちらの勝手で決めたことだ。それに伴う節約は当然のことでしょう。製材所はそちらの完全な所有物になったんですからね。義兄さんが死んで、あそこを売却した時、自分の取り分を僕は要求したりはしなかった。当時の倍にはなったろうな、あの製材所。
 マダム・ダンタン ええ、ダンタンの働き、ダンタンの力のお陰。でもこれは別の話。あなたが受取った六万フランのうち、どうして少しでもこちらの助けに使ってくれなかったかということ。母が死んで、資本が足りないことはあなただってよく知っていた筈。あなたの財産のよってきたところに少しはお金を残しておく、という考えがどうしてあなたになかったか、それを非難しているの。
 デザヴェーヌ(台詞の間、戸棚の中の物を眺めながら。)それは一つの考えだ。僕の考えじゃない。僕はいつ必要になるか分らない自分の金を、商売なんかに投資したりはしない。
 マダム・ダンタン 何の必要だやら、あなたの必要なんて! あなたがどんなことにお金を必要としたか、あの雑誌の発行のため・・・青二才の、束の間の情熱・・・それに湯水のように使って・・・その間こっちは・・・
 デザヴェーヌ 僕は自分の好きなように使ったんだ、金は。
 マダム・ダンタン それであの六万フランが、お前に何か利益を齎(もたら)したのならよかったけれど。
 デザヴェーヌ(マダム・ダンタンの方に戻って来て。)そこは安心してくれていいんだ、姉さん。僕はあの雑誌に全財産をつぎ込んだんじゃない。つぎ込んだのはほんの少しで、大半は飲み食いに使った。ある女性とね・・・
 マダム・ダンタン(両手を両目の前において。)まあお前、何て・・・何てことを・・・ああ・・・
 デザヴェーヌ(ゆっくりと、自分自身に言うように。)僕が愛した・・・そして愛してくれた・・・僕の現在があるのは、あの女性のお陰だ・・・
 マダム・ダンタン もう止めて、そんな話。お前に少しでも嗜(たしな)みがあるなら・・・私への思いやりがあるなら・・・ドゥニーズ! 何をしているの、そんなところで! 出て行きなさいと言ったでしょう。(ドゥニーズ、アンリエットの入った部屋に入る。)あなたにほんのちょっとでも良心というものがあれば、そんな乱痴気(らんちき)騒ぎをするために私達の仕事への協力を断ったなんて話は、しなかったでしょうけれど。
 デザヴェーヌ 乱痴気騒ぎ! 馬鹿なことを言うもんだ、姉さんは。乱痴気騒ぎ! この言葉通りの意味で姉さんが僕に言うのなら、僕はこれを本当に僕に対する侮辱ととりますよ。
 マダム・ダンタン 財産を飲食いに使うこと・・・女と一緒に。これが私のその言葉の使い方。あなたに、私がどんな馬鹿に見えようとね。
 デザヴェーヌ(怒って、大声で。)姉さん、僕のことはほっといて貰います! 僕はイタリアで、ある女性と二年間暮した。僕には勿体ない女性だった。それは僕の人生で最高の二年間だった。姉さんはその間ここで、工場とその収益のために腐心した。だけど僕は、そんなことより、ずっとずっと豊かな二年間を送ったんだ。情熱のありったけを、信仰のありったけを賭けてね。それは姉さんがその間豊かになったものに比べて、何層倍か・・・
 マダム・ダンタン(途中で遮って。)信仰のありったけ・・・呆れたもの。あなたの教会への侮辱は最初から分っていたわ。
(長い間。その間マダム・ダンタンは、神経質に指でテーブルを叩き、デザヴェーヌは両手を後ろに組み、床を見詰めながら歩き回っている。)
 デザヴェーヌ(少し和らいで。)いや・・・僕はやっぱり、あの時ここに留まることは出来なかった。それに、工場に投資するのも無理だった。最初の頃、義兄さんがやった仕事を僕がやろうと言ったんだからね。それも、ほぼ実現しそうにもなった。その時だ、姉さんが猛烈に僕を非難したのは!
 マダム・ダンタン 私が? あなたがするのを?
 デザヴェーヌ そうだよ。それも酷くしつこくね。まだお母さんが生きていた頃だった。
(間。)
 マダム・ダンタン(涙を流して。)ああ、エドゥワール、あなたって何て残酷なの。私が苛々して、怒りに任せて口走った言葉を捉(とら)えて・・・あなた、私の性格はよく知っているでしょう? それを・・・(泣く。)私だって・・・私だって、あなたが当時言った言葉を覚えていない訳じゃないのよ。
 デザヴェーヌ 何も僕は言葉尻を捉えて言っているんじゃないよ。まあ僕だって義兄さんと姉さんにはかなり酷いことを言った。それは確かだ。・・・(間。疲れたように。)いや、僕がここに来たのは、何もそんな昔の言い争いを蒸し返して何かしようというつもりでじゃ、全くないんだ。もう止めよう。それに、いづれにしたって、僕はもう出発しなきゃ。
 マダム・ダンタン もう出発? 夕食は食べて行かないの?
 デザヴェーヌ 無理だ。夕食を食べていたら、汽車は真夜中発になる。パリに夜八時半に着くためには、五時の急行に乗らなきゃならない。
 マダム・ダンタン ここで寝たっていいでしょう?
 デザヴェーヌ ああ、それは全く駄目だ。
 マダム・ダンタン まあ! あなたの昔の部屋に一晩泊りなさい。今あそこはドゥニーズの寝室。ドゥニーズは私と一緒に寝るわ。
 デザヴェーヌ ああ、ドゥニーズの寝室・・・いや、有難いが駄目だ。パリを出る前に沢山やることがある。それに二日後にはインドに着いてなきゃ。
 マダム・ダンタン 明日の朝早く発てば?
 デザヴェーヌ 今夜のうちにパリに着かなきゃいけない。やることがある。ここに来るのも、そのやることのうちの一つだった。姉さんに会うことと、二人の姪に会うこと・・・そうだ、もう二人を出してやらなきゃ。(部屋の扉を開けに行く。)さあ、出ていいぞ。二人とも懺悔の時のような顔をしている。さあ、もうお前達の耳を汚(けが)すようなことは言わないからな。
(ドゥニーズ、次にアンリエット、部屋から出て来る。デザヴェーヌ、二人の出た後、その部屋を再び眺める。そして扉を閉める。)
 マダム・ダンタン エドゥワール、五時の汽車にのるのなら、もう殆ど時間はないわ!
(マダム・ダンタン、柱時計を見る。)
 デザヴェーヌ うん、だけど、まだちょっとある。
 マダム・ダンタン 何か食べて行きなさい。お茶は?
 デザヴェーヌ いや、いらない、本当に。僕は食事と食事の間には食べない主義なんだ。
 マダム・ダンタン(嘆願するように。)マラガ酒をちょっと! 姉の家で何も食べなかったなんて、そんなことを言われたら私・・・ビスケットにマラガを・・・ね?
 デザヴェーヌ じゃ、マラガをちょっと。
(アンリエットとドゥニーズ、急いで食器棚からグラスとビスケットを出す。)
 マダム・ダンタン マダム・ベルソネのマラガを出して。私の部屋・・・私の箪笥の中にあるわ。(デザヴェーヌに。)素晴しいマラガを作るお友達がいて、私に作り方まで教えてくれるって言うの。でも、出来が良過ぎて女中にこっそり飲まれてしまう。だからいつも箪笥の中・・・鍵までかけて。今丁度暇を取っているわ、三日間。妹の結婚式があるからって。
 デザヴェーヌ 姉さんを待っている間、ドゥニーズからそれは聞いた。
 マダム・ダンタン まあ、私を待ってた・・・長いこと?
 デザヴェーヌ いや。
 ドゥニーズ(マラガを注ぎながら。)ママを呼びに行こうと思ったんだけど、叔父さんを一人にしておくのはいけないと思って・・・
 マダム・ダンタン 言い逃れのようね、それ。ビスケットは? エドゥワール。
 デザヴェーヌ いらない。ドゥニーズとお喋りをしていたよ。可愛いね、この子は。それに・・・とても利口だ。
 マダム・ダンタン でもまだ子供。何にでもすぐ興味をもって。
 デザヴェーヌ それは悪いことじゃない。
 マダム・ダンタン ドゥニーズと同じ年頃の時、アンリエットはずっと真面目だった。
 デザヴェーヌ アンリエットが真面目じゃなかった頃を知っているぞ。六つか七つの時だったな、あれは。覚えてる? アンリエット、あの頃を。
 アンリエット(引きつった微笑。)少し・・・
 デザヴェーヌ 僕の膝の上で、ピョンピョン跳ばせていたら、僕のズボンがびしょぬれ・・・覚えてる?
 アンリエット(当惑して、低い声で。)いいえ。
(ドゥニーズ、ゲラゲラっと笑う。)
 マダム・ダンタン エドゥワール! あなたはいつもそれ! 若い娘の前で言うことですか、そんなこと。それよりそのマラガ、どう?
 デザヴェーヌ 素晴しい。素晴しい。
 マダム・ダンタン じゃ、もう少し?
 デザヴェーヌ いや、いい。もう終。
 マダム・ダンタン 二階をちょっと見て来るのはどう? さっと・・・
 デザヴェーヌ いや、いい。ここに着いてママの部屋、姉さんの部屋を見るだけで充分・・・
 マダム・ダンタン 何も変っていないでしょう? 二階に上っても同じ。全く昔通り。
 デザヴェーヌ(懐中時計を出して、それから柱時計と見て。)あの時計、あってる?
 マダム・ダンタン 駅の時計には少し遅れているんじゃないかしら。
 アンリエット あれは教会の時計に合わせてあります。
 マダム・ダンタン あなた、どうしても今日発つつもりなのね。それなら乗り遅れるのはいけないわ。でも、本当に決めたの?
 デザヴェーヌ それはもう、どうしても。(外套かけに近づくが、一歩早くドゥニーズ、外套を取り、デザヴェーヌに渡す。)有難う、ドゥニーズ。
 マダム・ダンタン 駅まで送ります。
 ドゥニーズ(デザヴェーヌが自分の方を見て微笑んでいるのを見て。)ええ、私、駅まで行くわ。
 アンリエット ママ・・・マドゥムワゼッル・ポーリンヌがいらっしゃるけど・・・
 マダム・ダンタン マドゥムワゼッル・ポーリンヌ! そうだったわ。そう、お前達は家にいて。あの方のお相手をお願い。私は叔父さまを駅まで送ります。
 デザヴェーヌ(強く。)いやいや、それは止めて。姉さんも家だ。時間が迫っている。僕は早足になるから。
 マダム・ダンタン(帽子を捜しながら。)冗談じゃない、エドゥワール、駅まで行きます。さ、アンリエット、私の帽子を。マドゥムワゼッル・ポーリンヌはただ、ピアノのお稽古の打合せのためだけ・・・待って下さるわ。
(アンリエット、帽子を持って来る。)
 デザヴェーヌ(命令口調で。)不要だ、見送りは。さ、帽子をおいて。挨拶のキスだ。駅での見送りぐらい所在ないものはない。残る者も出て行く者も、とても間が悪いものだ。
 マダム・ダンタン(涙を流して。)あなたって、おかしな人、エドゥワール。ひょっとして、ひょっとして、これが最後になるかもしれないというのに。
 デザヴェーヌ それほど確かじゃないよ、それも。じゃあ、姉さん。(二人、キス。)必ず手紙を書く。
 マダム・ダンタン あちらに着いたらすぐよ。
 デザヴェーヌ 着いたらすぐ。じゃ、アンリエット。
 アンリエット さようなら、叔父さま。(キス。)
 デザヴェーヌ じゃね、ドゥニーズ。(キス。)絵葉書を送るからね。集めるんだったね?
 ドゥニーズ ええ、絵葉書の収集・・・有難う、叔父さま。
 デザヴェーヌ ああ、それはいい! さ、見送りはいい。出発前に皆に会えて本当に良かった。
 マダム・ダンタン エドゥワール!
 デザヴェーヌ(扉を開ける。)ギリギリだ、時間が。さようなら。
(デザヴェーヌ、最後に部屋をぐるっと眺め、それから退場。マダム・ダンタン、次にドゥニーズ、次にアンリエット、退場。デザヴェーヌの声が舞台裏から聞える。)さようなら、さようなら!
(アンリエット、最初に登場。次にドゥニーズ。ドゥニーズ、指で素早く涙を拭う。マダム・ダンタン、少し遅れて登場。鼻をかんでいる。)

     第 三 場
 マダム・ダンタン(少しの間の後、溜息をつきながら。)あーあ、やれやれ・・・さ、テーブルを片付けて。(アンリエット、マラガを部屋に戻しに行く。ドゥニーズはビスケットの皿を戸棚にしまう。)そう、あれがお前達の叔父さんという人!
 アンリエット(戻って来て。)叔父さんがいなくなって私、ほっとした。ねえママ、私、一晩泊るって言い出すんじゃないかって、ハラハラしたわ。ママだって、私達だって、それは迷惑・・・
 マダム・ダンタン 引き止めるのが礼儀ですからね。(感情を込めて。)あれが私の弟! ここに来る気になっただけでも偉いもの。
 ドゥニーズ ええ、よく来て下さったわ。
 マダム・ダンタン とても私、来るなんて、思いもつかなかった。来たって分った時、一番最初に浮んだのは、金をせびりに来たんじゃ・・・ってこと。
 アンリエット ママ、明日のためにレンズ豆を水につけておかなきゃ。
 マダム・ダンタン あら大変。レンズ豆、選り分けてもいなかったわ。ドゥニーズ、取って来て頂戴。すぐ選り分けなきゃ。
(ドゥニーズ、右手に退場。)
 アンリエット マドゥムワゼッル・ポーリンヌがいらっしゃるわ。
 マダム・ダンタン お客様の前ではそんな仕事は出来ないわ。さ、早くやってしまわないと。
(ドゥニーズ、レンズ豆のいっぱい詰った紙袋とボウルを持って登場。アンリエット、小さい丸テーブルの上にあった新聞紙三枚をテーブルの上に拡げる。三人、レンズ豆の前に坐る。ボウルがテーブルの真中におかれる。)
 マダム・ダンタン エドゥワール、ここから駅までの間に誰か知らない人に逢わなければいいけど。
 アンリエット ドゥニーズ、あなた、可哀想だったわね、私達が来るまでたった一人で叔父さんのお相手をしていなきゃならなくて。
 ドゥニーズ(少しぶっきら棒に。)いいえ、全然。叔父さま、とても親切だったわ。
 マダム・ダンタン そう、あの人、その気になればちゃんと出来るの。ちゃんとどころか、とても立派に。でも、その気にあまりならないの。(ドゥニーズに。)どんな話をしたの?
 ドゥニーズ(相変わらず少しぶっきら棒。)いろんな話・・・田舎のこと・・・ここらあたりの・・・クレイさんちの池・・・(急に元気に。)ああ、そうそう、とても心を打つ話をして下さったわ。昔ブランおじいさんが、あそこの庭の池で溺れた話・・・
 マダム・ダンタン(笑って、途中で遮って。)娘が挨拶をしないのを気に病んで、自分から池に飛び込んだって話ね?
 ドゥニーズ(困って。)ええ。
 マダム・ダンタン お前もそんな話を聞かされて・・・可哀想に。その話であの時、みんなで弟をからかった。でも、あの人は結局あの話を信じたのね。
 ドゥニーズ でも、ママ・・・
 マダム・ダンタン 要するに、弟はそういう点に関してはいつでも十歳(とお)ぐらいの子供だった。母も子供っていうことでは、弟と同じように子供だったけど、比べてみると弟ほどは酷くなかった、有難いことに。
 アンリエット 頭が変になって、池で溺れ死んだっていう、あの話? それ。
 マダム・ダンタン そう。酷い気違い沙汰。
(長い間。)
 アンリエット そうそう、取り紛れて忘れていたわ。ドゥニーズはまだ知らないのよ、教会でのあの大ニュース!
 マダム・ダンタン あら、そうだったわ。
 ドゥニーズ 大ニュースって?
 アンリエット 教会の月刊新聞が来ればすぐ分ることだけど・・・「カトリック婦人協会新聞」・・・
 ドゥニーズ(興味がない。)ああ!
 アンリエット 私、秘書に指名されたの。マダム・ブランソンと二人・・・
 マダム・ダンタン ねえアンリエット、今度もまた新聞の原稿書きはみんな神父様がなさるわ。大変なお仕事。・・・私、ここからでもそのお姿が見えるよう。それはそれでいいことですけど・・・
 アンリエット ええ、それは・・・でも、私達秘書は、これからは神父様の肩の荷を軽くしてあげるつもり。経営のこと、お知らせの通知、新聞購読の予約、広告、新聞の配達・・・
 マダム・ダンタン あのマダム・フリアンが、慈善事業の記録のことを担当するって言っているんでしょう? 全く呆れた話。
 アンリエット そんなことをあの人にやらせたら、どんなことになるか・・・まあまあ。
 ドゥニーズ ねえママ、三年前にダンタンのいとこが家に来たわね? あそこの家、パリで何をやっているの?
 マダム・ダンタン 仕事? 知らないわね、それは。お店か何かでしょう?・・・どうして?
 ドゥニーズ ただちょっと・・・
 マダム・ダンタン レンズ豆をもう少し頂戴。
(ドゥニーズ、母親の前に少し袋をあける。)
(間。)
 ドゥニーズ 叔父さん、私に絵葉書を送るって言ってくれたわ。
 マダム・ダンタン まあまあ、絵葉書の半分でも来たら大変なことよ。
 アンリエット そうそう、お母さんが提案していた、教会へのお礼のお金のこと。私、エルネスチンヌとセスィッル、それにマダム・ベルソネに話して、その他二三人と私とで、小さな会を開いたの。それで、金額を決めたわ。
 マダム・ダンタン それはよかったわ。皆、だいたい私と同じ意見?
 アンリエット 全員同じ。これからはずっと同じ金額にしようって。神父様には二フラン、助任司祭様には一フラン五十・・・こんな具合。
 マダム・ダンタン よかった。
 アンリエット 皆この考えが素晴しいって、他の人達全員にこの指示を出すことにしたわ。(ドゥニーズ、この時までにレンズ豆の選り分けを終えて、椅子の背に寄りかかってぼうっとしている。そのドゥニーズに。)ドゥニーズ、あなた、聞いているの?
 ドゥニーズ(びっくりして。)ええ、ええ・・・
                  (幕)

           一九二二年三月から六月まで

   

平成十八年(二00六年)七月十七日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html