人生は短かすぎる
           アンドレ・ルッサン 作
            能 美 武 功 訳

  登場人物
ブリュノ
スィルヴィ
セスィッル
ブリジット
フェリックス
マダム・ランベール

     第 一 幕
(ヌイイ市にある別荘の一階の居間。)

     第 一 場
(部屋にブリュノとスィルヴィ。外の扉が開く音がして、次に、居間の扉が開き、セスィッル登場。)
 セスィッル 遅刻じゃなかった?
 ブリュノとスィルヴィ いいえ、いいえ、ピッタリよ。
 スィルヴィ 今兄さんと言ってたところ。ママはあの事故の前までは時間通り来たことなんてなかったって。
 セスィッル どう? 元気? 二人とも。
 ブリュノ 見ての通り。だけどそれを訊くのはこっちの方だよ。何? あの修道院に行くって話。突然ママ、抹香(まっこう)臭くなっちゃったの? それに、そんなこと、僕らに一言だって話したことなかったじゃない。
 セスィッル だって、決めたの、突然だったからね。
 スィルヴィ 突然も突然、大突然! パパにも手紙ですませるっていうんですからね。パパ、ママが気違いになったと思ってたわ。
 セスィッル あ、まだ挨拶もしていなかったわね。
(セスィッル、二人にキス。)
 ブリュノ ゆうべパパに会ってどうだった? パパ、怒ってなかった?
 セスィッル いいえ! 良い機嫌よ。怒るって、どうして?
 ブリュノ だって、妻から急に手紙で修道院に入りましたなんて書いてきたらびっくりするでしょうに、誰だって。
 セスィッル 私、修道院になんかいなかったわ。
 スィルヴィ じゃ、話して! 二人に来るように、って言ったのはママの方よ。何か話すために呼んだんでしょう? ママは。
 セスィッル ええ、二人に話すことがあるわ。
 ブリュノ 全身耳にして聞いているよ。
 セスィッル 何か飲む物があった方がいいんじゃない?
 ブリュノ 飲み物なんか・・・話が先だよ。
(三人、坐る。)
 セスィッル エート、そうね・・・私、四日前、急に発ってしまったから、びっくりしたでしょうね。それからゆうべ電話で、お前達に来て頂戴って言ったことも。四日前の家出・・・家出っていうのかしらね・・・これはただ一人で闇雲(やみくも)に決めたんじゃないの。マルチンヌ・ギイと電話で話して、それから決めたこと。あの人もつい最近同じことをやったのよ。いろいろ問題を抱えて、気分が落ち込んで、それで・・・丁度素敵な人がいたんだって。その人がすっかりあの人の息を吹き返らせてくれたんだって。四日間一人で閉じ籠って、それであの人の場合はすっかり元に戻ったっていう話。私、この話がすっかり気に入っちゃって、その場で出発を決めたの。
 スィルヴィ その人、ドメニコ派の人?
 セスィッル 誰が?
 スィルヴィ その、息を吹き返らせてくれた人。
 セスィッル 修道院だのドメニコ派だの、一体何の話? そんなこと何の関係もないわ。とても綺麗な家がルワレにあるの。そこにいろんな人が来て、ゆっくり休息したり、瞑想にふけったり・・・ジェルマンさんという人の話が一日に二度あって、そのあとみんなでお互いに話をするの。ジェルマンさんは、その家に奥さんと住んでいて、その活動を維持しているの。
 ブリュノ ルワレの教祖様っていう訳じゃないか。
 セスィッル 教祖? どうして?
 ブリュノ だって、結局それじゃ、魂の導き手・・・なんでしょう? だから・・・
 セスィッル お前達が考えているのとは大分違うわよ。その人、特別に誰かに話をするっていうのではないの。ただ話すの。そこへ来ている人達だって、聞きたくなければ聞かなくていいの。誰も個人的な問題をその人に打ち明けたりしないし、その人も、どうこうしたらいいなどと忠告を与えたりしない。その人、一日に二回話をして、みんなはその中で自分の気に入ったこと、自分に合った事をするの。
 ブリュノ それこそ教祖様じゃないか。で、ママに、そのマルチンヌさんから電話があって、すぐその話を聞く気になったの? ママに何か困った事でもあったの? そのマルチンヌさんと同じような何か問題が・・・
 セスィッル ええ、そうね・・・まあ・・・お前達に今日会おうと思ったのもそのためなの。だって結局はお前達に直接関係のあることなんですものね。問題なんて決して独り歩きはしない。必ず他の人と関るものよ。
 ブリュノ ママ、ママは僕らに「一体何なんだろう」って思わせる名人だね。僕らはもう降参だよ。早く話して。
 セスィッル そんなに急がないで。これを話すのはそんなに簡単じゃないのよ。困った子供達ね。
 ブリュノ いいよ。どうぞごゆっくり。
 セスィッル 二人とも、私の心配事からは本当にほど遠いところにいるのね。よく分ったわ。
 ブリュノ ママは僕らより四日間先を行ってるんだ。だからそんなに厭な顔をするもんじゃないよ。それに、一日に二回の講義だってあったんだからね。僕らよりずっと先にいるのは当り前だよ。
 セスィッル 四日前からじゃないの、私の心配は。事故の後、ここに帰って来た朝から。・・・そう、あの時私、心から命拾いしたと思った。ぎりぎりのところで死ななくてすんだんだ、そして、新しい人生が目の前に開けているんだって。それから三月、私に与えられたこの新しい人生を、私、何とか過去の私と結びつけようとした。私の骨は、過去の私の骨と繋がってくれたわ。でも私は、今の私を過去の私と結びつけることが出来なかった。私は四十五歳。最初の二十五年間は、お前達二人を生み、育てることで自然に過ぎた。私の関心事は、お前達だけだった。病気、勉強、長期休暇・・・冬はスキー、夏は海。時々は(スィルヴィに。)お前はテニス、(ブリュノに。)お前はサッカー。それから二人に共通の水泳。ひどく手のかかる子供達じゃなかった。でもやっぱり私の手はかかった。そしてそれは全部、私がやったの。パパは駄目・・・仕事、 模型キャタピラ自動車、それに切手の収集。全く頼りにならなかった。そう、それから大学。また長期休暇、旅行、着る物、気晴らし。(スィルヴィに。)お前の友達。(ブリュノに。)お前の友達。(スィルヴィに。)お前の恋人。(ブリュノに。)お前の大学入学資格試験。みんな私が面倒をみた。別に不平を言っているんじゃないの。みんな私のしなきゃいけなかった事。そして私はそれをしてきた。私は完全にやり遂げて、もう今はしていない。結婚する前、私はスポーツマンだった。スキーが得意で、全仏のチャンピオンにもなった。結婚して、お前達を生んで、スポーツは辞め。お前達にかかりっきりになった。スキー、あの危険、練習のあの骨の折れること・・・それを物ともしなかった情熱にはさよならしたけど、後悔はなかった。
 ブリュノ 骨折りに関して言えば、少し遅かったけど、結局やってきたんだね。まあ、チャンスは逃さないってことか。
 スィルヴィ 全身で九箇所ですものね!
 セスィッル さ、それはそこまで。お前達二人とも今では結婚して、自分の家がある。二人とも幸せ。私はお役ご免。そうでしょう? それで私はどうなる?
 スィルヴィ 「どうなる?」ってどういうこと? 三箇月死ぬか生きるかの目にあって、今はちゃんと生きているのよ。
 セスィッル その通り! 私がもしあのままだったら、それはそれでよかったでしょう。私の役目は終って、すっかり私も片付いて、万事終り! でも実際は違った。私はまだ終っていない。で、私はどうなるの? あのお父さんと顔を突き合わせて暮すの? いいえ、あの人が嫌いだっていうのじゃないの。お父さんのことは好き。・・・それは二人とも知っているわね? それにあの人、私の好き勝手に何でもやらせてくれた。不満など何もないの。それに、自分の専門分野ではあの人、ちゃんとした評判をとっていて、その道の権威でもあるわ。でも、家ではあの人ゼロ。模型キャタピラ自動車と切手収集だけ。お前達二人が家にいれば、それは大丈夫なの。私は二人にかまっていればいいから。でも今・・・こうなった時・・・私、あと二十五年もあの人と二人だけで生きて行く気はないわ。それは無理なのよ。ね? あの人と一体何を話すっていうの? 何も・・・本当に何もないのよ。分るでしょう? お前達にだって。二人顔を突き合わせて、黙って食事。二人椅子に坐って、ただ黙っているその姿。退屈なのよ、あの人。可哀相に。そして日曜日になったら私を公園に散歩に連れて行こうとするわ。でもあの人とサン・キュキュファの散歩道を歩くだなんて、考えただけでもぞっとする。私を待っている残りの人生がこんなものだとしたら、生き返ったりなんかしたくはなかった。そう。いい? だから言いたかったのはね、「私は出て行く」っていうこと。お父さんとはさよならするって。(ブリュノとスィルヴィ、顔を見合わせる。)そう・・・きっと驚くと思った。でも、他に道はないでしょう? 分るわね? 二人とも。
 ブリュノ 驚いたなあ。その、例の宣教師の奴! ママをすっかり虜(とりこ)にしてしまったのか。
 セスィッル あの人なんか、何の関係もないの。ちょっと二三日考えたら、ちゃんと出てきた結論なのよ、これが。
 ブリュノ ママがもう後二三日、ちょっと考えると、その考えが遥か彼方(かなた)に行っちゃうんだよ。
 セスィッル 私の立場になって考えてくれたら分るのよ。
 スィルヴィ それは無理よ。それにパパのことも考えて。
 セスィッル 可哀相に。あの人にはこれ、酷い話だって、私、分ってるの。私を愛しているんですもの、あの人。
 スィルヴィ ママの事故でパパがどんなになったか、分ってないでしょう!
 セスィッル 分ってるわよ。
 ブリュノ いや、ママには分ってないよ。事故があって、暫くママの行方が分らなかった時、パパがどんな風だったか。窶(やつ)れ切ってしまったんだ。酷いものだったよ。その後、事故だったと分った時のパパ! 自分が事故にあったみたいだった。僕は言うけどね、三箇月前ママが、死ぬか生きるか分らなかった時、パパの命だって危なかったんだ。結局ママは助かって、パパも何とか恢復した。だけどその時ママ、パパに何て言った?「あんたなんかうんざり。勝手になさい。」
 セスィッル そうよ。だから私、すぐお前達二人を呼んだの。お前達の意見を聞こうと思ってね。
 スィルヴィ そこはママの良いところだわ。それで、私の意見?・・・そう、私はね・・・ママが聞くから言うけど・・・その決心、ちょっと野蛮だと思うわ。
 セスィッル でも私、丸々三箇月このことを考えて、その揚句(あげく)に出した結論よ。いい? 私、事故の後、自分が生きているって感じたとたん、事故の前にぼんやり考えていたことが急に、酷く切実になったの。お前達だって同じな筈。あれぐらい死に近づいたら必ず、命が信じられない程大切になるの。私、やっとのことで、また命に縋(すが)りつくことが出来た。だから、この命を無為に捨てるなんて、とても出来るわけないでしょう?(間。)昔はね、子供を嫁がせた私ぐらいの年の女の人は、もう人生を変えようがなかったの。もう変えようにも遅過ぎ。何が出来た? 残りの時間で。あの人達は若くして死んだの。この年で寿命が尽きていたの。でも今は何かが出来るの。自分の興味のあることを。四十五歳だったら、あと四十年あるかもしれない。それに、その夫だって! 今は人は簡単には死なないの。私がそのいい例。十年前だったら、私は確実に死んでいたわ。お医者さんもそう言っていた。手術と医薬の進歩のお陰。結構なこと! それで? さっきの質問をもう一度するわ。どうすればいいの? 私は。子供がいる時・・・それはいいでしょう。でも、もしいなくなったら? 夫婦は四十年間、ただただ顔を突き合わせていろっていうの? 人間の寿命が伸びたって、誰もが喜んでいるけど、伸びた寿命で何をするか考える人なんかいやしない。おまけに、定年は年々早まっている。考えてもご覧なさい。二十五歳で結婚した男女が、朝から晩まで顔を突き合わせて・・・そう、二十四時間・・・その次がまた二十四時間・・・これを四十年間! 私がそうでなくちゃならないのなら、私、死ぬわ。私、すぐ死ぬ。その方がいい。人生は長過ぎ。
 スィルヴィ(笑う。)まあまあ、名ぜりふね。誰だって唸ってしまう。
 セスィッル お前は唸らない?
 ブリュノ でもやっぱり、もうちょっと考える必要があるんじゃないの?
 セスィッル 三箇月間、その「考える」ってことしかしなかったのよ。言ったでしょう?
 ブリュノ それを例のムッシュー・ジェルマンに話したの?
 セスィッル 全然。さっきも言ったでしょう? あの人は個人的な問題には関らないの。個人の本質に関る調和的発展に寄与する時にだけ登場するの。簡単でしょう?
 スィルヴィ 簡単だわね。でも、個人にとって何が本質かってところが難しいわ。
 セスィッル そう。だから自分の本質は自分で捜すの。ね? 神秘的でも、複雑でもないでしょう? あの人は預言者まがいのことはしないの。現代人。冷静で、明晰で、問題を単純化してくれる。新しい事柄の発見なんて、何一つさせない。ただ、自分の頭でこねくり回して何が何だか分らなくなった問題を、組み立て直させるの。私がやらされたのはそれだけ。そして結局、最初「いけない」と思っていた事が、「良い事だ」って分ったのよ。あの人が「それで良し」と言ったの。
 ブリュノ で、結局はその人が「それで良し」と言った結果なんだね? パパと別れるのを決めたのは。
 セスィッル 違うわ!
 ブリュノ その点はかなり明らかなように思えるがな。
 セスィッル それは全く違うわ。誰か教養のある人に感化されたなんて、そんなことは決して思わないで頂戴。私は今までインテリの真似などしたこともない。今からだって決してそんなものになりたいなどと思わない。「私は二十年間、子供を育てるために費やした。さあ、これからはインテリになるために勉強しよう」なんて思うような馬鹿じゃないの。私はそういう人種とは違う。でも、たとえ結婚が、子育てのための二十年或は二十五年だとしても、それがお前達のいうように、義務として六十年になるなんて話、おかしいわ。人間的じゃないわ。そんなことが大事な事柄である訳ないでしょう? 無理な話よ、残念だけど。
 スィルヴィ 実際は、ママに必要なのは、本気で打ち込める仕事なのよ。仕事じゃなくても、何か打ち込めるもの。それともいっそのこと、もうあと二人、子供を産むのね。
 セスィッル まあまあ、思ってもいなかった解決策ね。
 ブリュノ パパはそりゃ、きっと喜ぶよ。
 セスィッル 冗談もいい加減になさい。
 スィルヴィ ママは働くって言ってるけど、何をするの?
 セスィッル まだ決めてないの。
 ブリュノ じゃ、それを決めるっていうことから始めたらいいじゃないか。まづやりたいことが何か。そして、そのうち自分で出来ることを捜す・・・それからは成行きだ。一日中働いて、満足して夜家に帰って夫を見る。二人は今までよく分りあってきたんだ。パパはきっとママの仕事のよい理解者にもなる。わざわざ破局から始めることはないんじゃないか。それ以外のことから始める、そして後は様子を見る。とにかくパパとまづくなっているんじゃないんだからね。ママは今まで働いたことがない、それに職業の訓練も何一つ受けていない。だから仕事を見つけるって言ったって、そう簡単じゃない筈だ。まづ捜すこと。それだけでも時間は潰れるよ。
 セスィッル どうもお前達、何も分ってないようね。私は自分の人生を、仕事やその他、時間を潰すことで麻痺させようとしているんじゃないの。私がやりたいことは、具体的にちゃんと持っているの。例えば旅行。私、今まで旅行をしたことがない。お前達もよく知っているでしょう? 二箇月間、どこかへ行ってみたい。例えばイタリア、それにギリシャへ。
 ブリュノ 行ったらいいじゃないか。
 セスィッル お父さんを一人残しては厭なのよ。
 スィルヴィ どうして?
 セスィッル あの人には分らないから。私が何故二箇月間一人で出て行くのか。
 ブリュノ 二箇月出て行くっていうのは、お父さんには分らない・・・だけど、永久に出て行くっていう話になれば分る・・・と思っているの?
 セスィッル 私があの人に旅に出たいって言うわね。そうしたら必ず言うわ。私に大変な譲歩をさせておいて、「僕が一緒に行ける時まで待ってくれ」って。
 スィルヴィ それはそうなりそうね。
 セスィッル それなら私、行かない方がまし! あの人と旅行なんか真っ平だわ。
 ブリュノ それは酷いな。もうお父さんが我慢ならないって言うの?
 セスィッル 頼り合って生きて行くっていうのが、我慢ならなくなったの。まるで二人の囚人みたい。同じ牢屋に入って、世話をみあって・・・或はシャム双生児ね。私が一人で出たいと言う。すると必ずあの人がついて来る。私が家で休む。二人とも休まなきゃならない。私が芝居に行きたいと言う。あの人はショックを受ける。でも、黙ってついて来る。私を喜ばせようと。でも、私の方が今度はショック。だってあの人にはちっとも面白くないのが分っているから。万事がこの調子。テレビを見る時だってそう。私が見ると必ず一緒に見る。私がそこにいるから。でも、私が面白いと思うところで茶々を入れ、私が楽しめる場面で「つまらん」と声を上げる。結局私はチャンネルを変える。あの人に少しは違うことを言って貰いたいから。あの人、悪い人じゃない。ただ口が悪いの。だから、悪い人よりもっとたちが悪い。もう頼りあって生きるなんて真っ平。もう沢山。あの人にも分っていい頃よ。でも、私が出て行かなくちゃ、あの人には分らない。私はもう自分だけの家で、一人で暮したい。誰にも頼らないで。そんなにとんでもない考えじゃないわ、これは。時々はお昼とか夕食を、あの人と食べてもいい。それは喜んで。少なくとも何か話すことぐらいあるでしょうからね。でも、一緒に住むこと、お互いに頼りあうこと、は、もう終り。もう私、我慢出来ない。
(舞台裏から、歌曲の練習の声。絶望を表す歌。高くて鋭い声。これはマルキータの声。)
 スィルヴィ あら、またマルキータが練習を始めたわ。あの子もやっぱり悩みがあるのよ。自分流の解決法、それがあの悲しく歌うこと。ママも歌うのを練習したら? 気分が休まるのよ。ほら、あの、今にも死ぬっていう歌い方・・・
 セスィッル いけないわね、あんなに叫ぶように歌うのは。まるで気違い! やるんだったら、原っぱの真中でなくちゃ。ここをどこだと思っているのかしら。
(セスィッル、「マルキータ」と呼びながら退場。)
 ブリュノ 参ったね、これには。大分いかれてるよ。
 スィルヴィ かなりなことは予想していたけど、まさかあそこまで! 本当にやる気かしら。
 ブリュノ どんな奴か知らないが、説教師のおっさんにコロリと騙されたって感じだな。
 スィルヴィ 自分では違うって言ってるけど・・・
 ブリュノ とにかくママがいなくなればコトだよ。後は滅茶滅茶だ。本当に家を出て、永久に帰って来ないとなれば、まづパパは変になるな。女狂いでもおっ始めるかもしれない。
 スィルヴィ そうね。パパのこと、ママはもう我慢がならないみたい。
 ブリュノ ママの危機だよ、これは。ドン・ジュアンにでも会ったのかな、全く!
 スィルヴィ それはないわね。目もくれない筈よ。
 ブリュノ ということはつまり、交通事故のせいか。電気ショックの効果があったのかな。空中に消えてみたい、と言い出しているんだからな。それもキッパリ。パパには・・・(身振りで「おさらば」をする。)
 スィルヴィ パパとママ、まだ寝るの、続いているのかな。
 ブリュノ 寝るの? 僕の印象じゃあ、まだその方面ではあるんじゃないかな。ママが捨てられているって感じはしないよ。
 スィルヴィ パパはあれで、若い子が嫌いじゃないの。落ち着いているふりはしてるけど、私には分ってる。
 ブリュノ 僕の意見を言えば、ママもちゃんと目があって、ちゃんと見抜いている。でも貞淑に、知らないふりをしているんだ。それにママもパパの浮気が、それほど厭じゃないんだ。その間自分は放っておいてくれるから有難いって・・・
 スィルヴィ どうしたらいいかしら。ママに思い留まらせるの? どうする?
 ブリュノ ママには今までパパしかいなかった筈、それは確かだ。生き方をすっかり変えるような今度のことがあった時でも、その影に別の男がいるなんて様子は全くないんだからね。そんな男がいれば、却って正常なんだ。例えば旅行したいって言った時、一緒に行きたいっていうような誰かがね。ママはまだ魅力的なんだ。そうだろう? ママはまだ、そちらの方面には何も気づいていない。だけどこれだけは確かだ。このまま行けばきっとそっちの方に進んで行く。(ベリー地方の訛りで。)あいつは轡(くつわ)を噛まされていた牝馬だ。外れて仕舞った今、誰にあいつが止められる。(玄関でベルが鳴る。)あ、いかん、うまくここを抜け出さなきゃ。パパだぞ。二人が来て会議中、なんて見られたらことだ。
(セスィッルとブリジット、登場。)
 セスィッル ほら、誰が来たと思う?
 ブリュノとスィルヴィ まあ、ブリジット伯母さん!
 ブリジット そう、不意打ちのブリジット伯母さんよ。思いもかけないところにさっと現れる。あなた方もそう?「引退」の噂を聞いてやって来たのね?
 ブリュノ ええ、まあ。
 スィルヴィ(キスして。)今日は、伯母さん!
 ブリジット 私の毎日の行状なんか、あなた方とっくに御存知ね? あのガタビシ二馬力の車でいつもお出掛け。窓からキョロキョロ外を眺めるの。今日もブーローニュの森まで・・・毎朝の日課。いい男がいないかってキョロキョロね。そして帰りにこの家の前を通ったら、どう。セスィッルの車がチャーンとあるじゃない。「あらあら」、私、呟いたわ。「あの人帰って来たのかしら。いとしの尼さん、カプチン会修道女様、行いすました我等の聖母様がお帰りだわ、って。
 セスィッル ゆうべ帰ったの、私。
 ブリジット そう? そうなの。それで・・・それで修道院ではお食事よかった?
(みんな笑う。)
 セスィッル そんなところにはいなかったのよ。
 ブリジット あら、いなかったの? この間弟から電話があって、「セスィッルが修道院に入ってしまった」って・・・
 セスィッル あの人、完全に狂ってるのよ。
 ブリジット そうそう、弟のことは私、よく分ってる。狂った者、馬鹿同志だから。
 セスィッル あの人? あなた、あの人が狂ってるって思ってるの?
 ブリジット 私のやり方でね。つまり私は狂っている。だから狂っていない弟は、私から見ると狂ってる。
 セスィッル ああ、それなら分るわ。
 ブリュノ ママ、スィルヴィと僕、ちょっと失礼するよ。
 ブリジット ブリュノ、あなた、どういうこと? 私が二人を追っ払ってるってこと?
 ブリュノ とんでもない。違いますよ、伯母さん。
 ブリジット じゃ、行かないで。二人とも忙しいの? 大事な妻、夫が、あなた達を待ってるの? ああ、でも、待って。そう、あなた達二人、母親と話していたんだわね? それじゃ、私の方が邪魔ってことじゃない。ああ、ご免なさい、私が出るわ。今すぐ・・・
 スィルヴィ 違うのよ。違うったら!
 セスィッル ブリジット、駄目よ、逃げたりしちゃ。それから、あなた方二人とも、もう暫くいなさい。伯母さんが来たついでに、私、全部話して、判断して貰うわ。
 ブリジット あーら、何かで喧嘩してたのね? 子供はそれで、あなたに反対。分ったわ。公平無私な私の判断に任せなさい。「さてさて、何事やならん」とフォックが言いましたとさ。(フォックは不明。)
 ブリュノ ママはパパと別れようとしているんだ。
 ブリジット あら、まあ。(セスィッルに。)いい男が現れたのね? そう、いつかそういう日が来ると思っていたわ、私。
 セスィッル 違うわよ。違います。あなたやっぱり、狂ってる。自分のことしか考えてないんだから。
 ブリジット じゃ、「いい人」じゃないって言うの?
 セスィッル じゃないの。それは誓って。
 ブリジット じゃ、あなた、誰のためにあのフェリックスと別れるっていうの?
 セスィッル 誰のためでもないの。あの人と一緒に暮したくない、それだけのため。
 ブリジット あの人がうるさいのね? 分るわ。確かにうるさいもの。あの人が四つの時、もうあの人、うるさかった。そういう性分なの、あの人。私の義理の弟、後妻の子なの。あの後妻じゃ、うるさくなるのも無理はないわ。死んだ父親も、面白くも何ともない男だったから、その血をひいていても、別におかしくもないわ。あんなフェリックスみたいな男と一緒に暮せって言われても、私はご免こうむるわ。そうすると、そのため? あなた、引き籠るって言うのは。
 セスィッル そのことをよく考えるため・・・静かに。
 ブリジット それで、決心はついたの?
 セスィッル 今朝、だから、子供達に話そうと決めて、今話し終ったところ。あなたにも私の考えを聞いて貰おうと思ってるの。
 ブリジット あなた、それじゃ、出て行かないわ。
 セスィッル 何故?
 ブリジット 何故って、あなたが私達の意見を聞こうとしているから。人は出て行こうとしたら、さっさと出て行くものよ。説明なんかその後。説明を最初にしたら、出て行きはしないの。それが私の物の見方。私がちょっと狂っているのは認めるわ。でも、出て行くっていうのは、多少とも狂っている人の話。だから、これは私の専門。生涯、私は家出の人生だった。一緒になったどの男も、ある晴れた日・・・ある荒れた夜の方が多いか・・・家にいない時を見計らって私、家出したの。トランク二個下げてさっさとさよなら。二馬力のあの車で。家に帰って見ると私がいない。さあ大変っていう次第。そう、私、あなたより一枚上手を行っていることがあるわ。それは、今までこのことで、決してお役所の手を煩(わづ)らわせなかったこと。(訳註 正式な結婚をしたことがないということ。)だから、トランク二個のバイバイが楽だったわけ。それに、二十年以上同じ男っていうのもなしね。それよりずっと前に、男にうんざり。でも私、自分にはうんざりしないの。これは私の特技。一人だと私、決していやにならない。だから話は簡単だったの。男が私を楽しませてくれさえしていれば、私は理想的な伴侶。台所にいたって、風のように明るく、素敵な女。でも、「あれっ? 私、こんな男と一体何をしてるんだろう」って思ったが最後、さっと決心、はいさようなら。私ってあなたがつけてくれているレッテル通りの女・・・「風のように身の軽い女」なの。
(ブリュノとスィルヴィ、笑う。)
 ブリュノ 参ったな。伯母さんのは一流だからな。
 セスィッル あなたにはまともに付きあっていられないわね、ブリジット。
 ブリジット とんでもない。私は気違い。でもまともなの。「人生はあまりに長くて、とても退屈なんか出来ない」・・・これが私の考え。ということは、真面目っていうことでしょう?
 セスィッル あら、それ、私が考えていることと全く同じ。つい今さっき私が言ったばかりの言葉よ、「人生は長すぎる」って。
 ブリジット そう。じゃ私、あなたの代りも出来るのね?
 スィルヴィ 死に直面してから、ママったらゼロから再出発なんて言い出したの。
 ブリジット やれやれ、その再出発は無理ね、どう考えても。
 セスィッル どうして。
 ブリジット その事故のせいで、あなた、死ぬ目にあったんでしょう? そしてフェリックスは気が狂いそうになった。そんなショックの後で、再出発だなんて、それは無理よ。
 ブリュノ そう。伯母さんが来る丁度前に、僕らもそれを言ってたんです。
 セスィッル 簡単に言えばね、私、あの事故のお陰で生きる意味が十倍になって、その結果、あの人のお陰で死ななきゃならないっていうこと。
 スィルヴィ ママは死なないわよ!
 セスィッル あの退屈・・・あれが死ぬっていうこと。
 ブリュノ 気晴らしなら僕らが見つけるよ。もう孫が産まれるのは間近だ。
 ブリジット いい男を見つけるためにブーローニュの森に連れて行ってあげるわよ。
 セスィッル あなた方三人とも、私のことをちっとも分ってくれてないのね。もう黙ってた方がいいみたい。
(舞台裏で男の「おおっ、おおっ」という声がする。)
 セスィッル あら、あの人だわ。
 声(舞台裏で。)セスィッル、いるのか?
 セスィッル 居間よ! みんないるわ。
(フェリックス登場。)
 フェリックス ああ、家族会議だな。帰って来たばかりのママの話をみんなで聞きに来たってわけだ。(セスィッルにキス。)どうだい? 母さん。スィルヴィもブリュノもうまくやってるか? 姉さんも元気? 相変らずお盛んなんでしょう? ああ、お前達、今夜は大当りだ。一八四0年もののヌッヴェル・カレドニが手に入った。それからいいニュースがあるんだ、セスィッル。(手に持った書類を振り回す。)ママがロワレで逼塞(ひっそく)している時、僕もちゃんとパリで虎視眈々・・・夕べはまだ、この秘密は隠していたんだ、セスィッル。まだ書類が整っていなかったからな。今朝はちゃんと持って来たぞ。ほら!
 セスィッル 何? これ。
 フェリックス 新築する家の設計図だ。
 セスィッル 何ですって?
 フェリックス 僕も考えたんだ。子供達が家に住まなくなってから、この家は僕ら二人では大き過ぎる。それにヌイイはもはや田舎じゃない。都会だ。高速道路が出来たお陰で、イヴリンヌはパリからたった三十五分で着いてしまう。だから、暇そうにしていた友人のグランジエに頼んで、二人だけで住む理想の、こじんまりした家の設計を頼んだんだ。森の外れで眺めがいいんだぞ。簡単な一階建て。芝生の庭つきだ。あんなショックを受けた後だからな、本物の田舎住まいにこしたことはないと思って。こういう所なら、どこか他に引き籠る必要もあるまい。な? 野菜畑だってある。鶏だって飼えるんだ。いい考えだろう? な? お前は百姓をするんだよ! さあ、お前達も見てみろ。(図面を拡げる。)ここが居間だ。綺麗な部屋だろ?・・・食堂とキッチンが直角にくっついていて・・・これがなかなかいいアイディアなんだ・・・ここが二人の部屋・・・二人で部屋は共有だ。・・・それからお前の家事用の部屋がここ・・・週末に必要な時があるだろうからな。(セスィッル、さっと立って、いなくなる。)なあお前、どう思う?(見回すが、セスィッルがいないのを見て。)あれ? どこへ行ったんだ?(他の三人を見て。)一体どうしたっていうんだ。気でも狂ったのか。
 ブリジット 百姓なんかやりたくないんじゃない?・・・人さまざまだからね・・・

     第 一 幕
     第 二 場
(幕が上るとフェリックスの母、マダム・ランベールが肘掛け椅子に坐っている。苛々しながら人を待っている。)
 マダム・ランベール 嫁の奴、わざと私を待たせているんだ。まあ無理もない。あちらで会いたい人間である筈がないんだ、この私は。(フェリックス登場。部屋着姿。鬚を剃ってもいない。髪ももしゃもしゃ。哀れな様子。)ああ、お前? 私はあんたの女房がいないかって訊いたんだがね。まあ、訊いたって分る訳がない。あのポルトガルの間抜けな女中じゃ。まるでフランス語が通じやしないんだから。私が来たって聞いてお前、服も着替える暇がなかったのかい?
 フェリックス いや、時間はたっぷりありました。でも、これでいいんです。
 マダム・ランベール しかし、酷い格好だね、それは。
 フェリックス すみません。でも、いらっしゃるとは知りませんでしたから。
 マダム・ランベール まあとにかく、お早う。
 フェリックス お早うございます。で、何の用なんです?
 マダム・ランベール お前のことじゃないか。
 フェリックス すみません。で、誰が電話しました?
 マダム・ランベール ブリュノよ。スィルヴィに頼まれたからって言ってたわ。
 フェリックス アラブ式伝達電話か。
 マダム・ランベール 何がアラブ式よ。ただ電話。伝達するために電話があるの。そんなのをアラブ式と言ったら、電話はみんなアラブ式になるでしょう?
 フェリックス で、ブリュノは何て言ったんです。
 マダム・ランベール セスィッルが一昨日帰って来た。昨日の朝全員でここで話した。セスィッルは修道院から出て来て、お前と別れる決心をした。そういう話よ。だから私が来たの。あれと話しにね。
 フェリックス 朝早く出かけましたよ。
 マダム・ランベール また別の神父さんを探しにかい? まあ、結構なお指図をなさいますからね、神父さんというものは。
 フェリックス あれは神父なんかと話しちゃいませんよ。何ですか? その話は。
 マダム・ランベール 修道院に行ったんじゃないのか? セスィッルは。
 フェリックス いいえ、違います。全然。
 マダム・ランベール そう。じゃ、私の間違いね。まあいいわ。それであの人、どうなったの?
 フェリックス 気が狂ったんです。家を出ると言い出したんです!
 マダム・ランベール そう。そこまでは分っていた。
 フェリックス 昨日、田舎に家を建てるという話を僕が持ちだしたところ、急に話が妙な具合に・・・つまり、僕が新築の話をしかけたとたん、さっきのとんでもない話をやり出したんです。「あなたには分りっこないと思っていたわ。私はここには住みたくない。あなたと一緒も真っ平。」こんなに狂っているとは思ってもいませんでしたよ。ゆうべ、それでも事ははっきりさせて置きたいと思って、あれの意図をもう一度真面目に訊いたんです。そうしたらひどく簡単な答です。「ね、お願い。もううるさく言わないで。私の気持はもう言ったでしょう? アパートを捜すまでの時間はここにいさせて。」
 マダム・ランベール そう。それで今日、日曜日の朝、アパート捜しって訳ね?
 フェリックス そうです。
 マダム・ランベール それで?
 フェリックス それで・・・何です?
 マダム・ランベール それで、何て言うの? お前は。
 フェリックス 何て言えばいいんです。僕は完全に打ちのめされましたよ。ゆうべ一睡もしていないんです。お母さんが来たっていうんで、寝床から出たんです。
(間。)
 マダム・ランベール お前、寝取られたね。
 フェリックス 何ですって?
 マダム・ランベール あれの相手の男が誰か、お前には分ってないの?
 フェリックス 何てことを言うんです、お母さんは。セスィッルに男だなんて。今まで浮いた話など一度もなかったんですよ。
 マダム・ランベール まあ勿論、お前には分らないのよ。
 フェリックス 僕には分っているんです。とにかく実際に起ったことを考えてみて下さい。三箇月前病院から出て・・・
 マダム・ランベール ピンピンの状態。傷が治って・・・
 フェリックス そう、ピンピン。奇跡だったんです!
 マダム・ランベール そんなにピンピンしていて、すんでのところで死ぬところだったあの人が、お前以外の男を欲しいと思わなかったっていうの? それに、見つけられなかったって? 修道院で四日間、あの人が寝ないで横にならなかったって、お前、本気で思っているの?
 フェリックス あれはそういうタイプじゃないんです。
 マダム・ランベール タイプもへちまもないの。女っていうものはそういうものなの。
 フェリックス 女はそんなことしか考えないと思ったら間違いですよ。
 マダム・ランベール 一瞬でもそれを考える時間があれば、それで充分なのよ。
 フェリックス セスィッルの興味の対象は別のところにあるんです。
 マダム・ランベール じゃ何よ、例えば。
 フェリックス つまりあれは、真面目な女だっていうことです。
 マダム・ランベール そう。つまり、真面目に他の男に興味が持てるの。
 フェリックス あれは理知的な女ですよ。
 マダム・ランベール そう。だから、理知的に愛すのよ。
 フェリックス もういいですよ。何か他の話をしましょう。
 マダム・ランベール 他の何の話があるっていうの。私はお前に一番興味のある話をしているの。私の言いたいのはね、自分の夫と暮したくない女は、他に暮したい男がいる・・・これが普通の話だっていうこと。
 フェリックス あれに限って違います。
 マダム・ランベール どうして分るの。
 フェリックス あれのことを知っているからです。
 マダム・ランベール 私も知っている。家で切り盛りしたのは全部あの人。家では、お前はただ切手の収集をしていただけ。あの人は二人の子供を育て、結婚させた。お前はただ「うん、いいよ」と言ってきただけ。
 フェリックス それで二人はうまくやってきたんですよ。
 マダム・ランベール 多分ね。あの人は二人の子供にかかりっきりだったから。でも、子供がいなくなった今になって出て行きたい、というのはきっと、お前だけじゃ物足りないの。いい? あの人は死ぬ一歩手前まで行ったのよ。そうなれば、生きるっていうことにもっと強い意義を感じるに決まっているでしょう?
 フェリックス 勝手に意義を感じればいいんです。誰もあれが生きるのを邪魔しやしません。でも「生きる」ってどういうことです? それに、あとどうせ二十年ぐらいしかないんですよ、生きるって言ったって。
 マダム・ランベール そこなのよ。あと二十年しかない。だから一瞬も無駄にしたくないと思ったのね。
 フェリックス 何をするためにです。
 マダム・ランベール それを知ろうと私はここへ来たんじゃないか。(間。)フェリックス、お前も可哀相に。踏んだり蹴ったりだからね。
 フェリックス 御心配有難うございます。
 マダム・ランベール お前の父親も踏んだり蹴ったりだったが・・・お前の場合どの辺まで踏んだり蹴ったりになるかねえ・・・
 フェリックス そんなことを言うためにやって来たんですか、お母さんは!
 マダム・ランベール 私はね、何が起きたのか知るためにやって来たの。あんたの女房が家を出ると言っている。それは理由を知らなきゃならないだろう? ところがね、私には二つの場合しか考えられないの。それはね、あんたが踏んだり蹴ったりか、そうでないか、の二つの場合だけ。あんたが踏んだり蹴ったりだと思っているとすれば、あの人が出て行く理由は決まっている。あんた方男っていうのはね、ちっとも物事を真正面から見ようとしない。お膳立てしてくれたものをそのようにしか見ない癖がついているのよ。(この場合の理由は後で言うけど、)もしあんたが踏んだり蹴ったりだと思っていなかったとする。その時は、あの人に他の男がいるの。あんた、どっちがいい? どっちかを決めるのはあんた。決めないでフラフラしていたら、あんたには何も分りっこないの。その二つの間っていうのはないんですからね。どっちかなの。(そう、始めの方だった時の理由だけど、)あんたは男だから女房の気持は分らない。だけど亭主に女房がうんざりしたとなると、これは並大抵のうんざりじゃないの。言っとくけど、それはもう地獄。勿論火炎攻めはないわ、確かに。でも地獄なの。私は十七年間あんたの父親の元でほとほとうんざりした。それは分ってくれるね?
 フェリックス でも、だからと言って、家出はしなかった。
 マダム・ランベール それはそう。あっちが出て行ったから。
 フェリックス パパが? 家出? いつ。
 マダム・ランベール 死んだ時。
 フェリックス ああ。
 マダム・ランベール お前がいたからよ、そこまで辛抱したのは。お前はまだ子供だったからね。その年で父親と離れるのはよくないと思ったの。だけど、お前がもう家にいなくなった時に、私がまだあの父親のところに留まっていただろうなんて思ったら、それは大間違いよ。
 フェリックス そういう話を聞くと、あれが事故にあったのがまづかったので、理想的なのは、僕が事故にあっていればよかったということか。僕は今頃まだ病院にいる・・・そういう話の方が・・・
 マダム・ランベール 母親にそんな恐ろしい話をするものじゃありません。縁起でもない。お前が死ねば、私だって死ぬんですからね。
 フェリックス じゃあ、二人とも生きることにしましょう。でも、パパが死んだのが一番の幸せだったなんて言っちゃ駄目だ・・・
 マダム・ランベール そうは言ってはいないよ。
 フェリックス そのままじゃなくても、ほぼそれに近いじゃない。
 マダム・ランベール 丁度いい時にあの人は逝(い)ってしまった。これでいいだろう?
 フェリックス ええ、分ってます。それで、その後は幸せだった?
 マダム・ランベール それからは私、毎日競馬に行った。それまでは行ったことなかった。ブリッジをしたわ。あの人は嫌いだった。私はその時したいと思ったこと、それまでしたいと思っていたことをやったの。男と女のドラマ、それは常に相手のしたくないことがしたくなること。アパートでたった一人で暮すことがどんなにいいか・・・狭い部屋でぶつかりあう・・・相手はもう二十分も電話をかけていて、こっちがかけたくてもかけられない・・・映画に行きたいと思うと、「馬鹿な筋だ。止めとけ」だの、「行列で大変だ」などと言って水をさされる・・・こういう事は一切ないの。分るわね、フェリックス。一人でいれば会話はないし、沈黙が素晴らしいの。柔らかい羽根布団のよう。でも、二人でいて沈黙は・・・それは、お互いを仕切るガラスの壁。そこから出ようったって出られはしない。牢屋に入っているのと同じこと。一人でいれば冷たさはないの。お前の父親と一緒にいると・・・こんなことを言うのは悲しいことだけどね・・・私はいつも、心の底まで冷え切っていた。だからお前、一体どうだったんだい? セスィッルと二人でいた時。相手が少し凍えているんじゃないかって、自分で自分に訊いてみたことはなかったのかい?
 フェリックス 僕らは二人とも、自分の思ったことを話しているんです。
 マダム・ランベール 自分が寒いってことをあれは言ってたかもしれないよ。ただお前がそれを理解出来ずに・・・
 フェリックス あれは、夫婦のことは喋らないんだ。分るでしょう?
 マダム・ランベール それで、お前はどうなんだい。
 フェリックス 僕だって喋りません。何を言うっていうんです、一体。
 マダム・ランベール 少しは自分達のことを話せば、あの人も心が暖まるっていうものだろう?
 フェリックス セスィッルは特別心が冷たくなる性質(たち)って訳じゃないんですよ。
 マダム・ランベール そう。それで、この私は冷たくなる性質だって言うんだね? あの年の時、私が冷たくなる性質だったって・・・あの人は私に似ている。あなたが私の息子であるより、あの人が私の娘である方がよっぽど自然なくらい、あの人には私の気質があるの。私達は二人とも心が熱いのよ。だからじゃないか、私達が、冷たいのが嫌いなのは。そう、お前の田舎の新築の家って一体何だい? お前には気に入った考え・・・でも、あの人にはまるで駄目だったっていう・・・
 フェリックス ここの家は僕ら二人には大き過ぎると思ったんです。丁度その時、友達が田舎にいい売り家のあることを教えてくれて・・・で、二人で田舎に引込もうと・・・
 マダム・ランベール 田舎? どこ。
 フェリックス イヴリンヌです。それはもう、喜ぶだろうと思って・・・
 マダム・ランベール それが裏目に?
 フェリックス ええ。
 マダム・ランベール お前はあの人を田舎に埋葬しようというのかい? その話を最初に聞いていたら、寝取られ男の話はしていなかったわね。あの人がお前から逃げたい理由がこんなに目の前にあるんだから。全くお前っていう男はよくよく人の心が読み取れない人間だよ。
 フェリックス あんな事故の後ですからね、空気のよい静かな場所に移すってのは悪い考えじゃないと思ったんですよ。
 マダム・ランベール あの人が「トーッ、トットット」って鶏に餌をやったり、乳牛の乳を絞ったりするのを、お前、見たことがあるって言うの? 自分はさっさとテレビで切手の番組でも見ようっていう腹?
 フェリックス 分りました。分りましたよ。田舎は止めます! しかし子供を全部結婚させて、後は夫とだけの生活になるなんて女は、この世にわんさといる筈ですよ。あれが何かをしたいっていうのなら、僕は別に邪魔などしません。何かを捜すという時にだって。あれは自分の好きなようにすればいいんです。一日のうち全部の時間をそれにかけられるんですよ、あれは。朝から晩まで僕は事務所だ。僕が何の邪魔になるっていうんです。家を出なきゃならんなどと、どこからそんな話が出るんです。全く馬鹿げていますよ。
 マダム・ランベール それはお前の言う通り。だから、それでも出たいって言うのなら、よっぽどお前を見るのが厭なの。ということは、これはかなり難問ってことだわ。
(玄関の扉を叩く音。)
 フェリックス あ、帰って来た。(今の扉を開け、舞台裏にいるセスィッルに言う。)セスィッル、お母さんが来ている。君、相手をしていてくれないか。もうお昼だというのに、僕はまだ顔も洗っていないんだ。僕は上ってる。(セスィッル登場。その前を通りながらフェリックスが言う。)ママ、お昼は僕らと一緒に?
 マダム・ランベール いいえ、リュスィアンが外で、車で待ってるのよ。私、家で食べるわ。ロンシャン(競馬場)には早い時間に行きたいから。
(フェリックス退場。)
 セスィッル 今日は、お母さま。
 マダム・ランベール お前の邪魔をしようっていうんじゃないの。私、フェリックスに会いに来たの。
 セスィッル 邪魔なんかではありませんわ。どうやらアラブ式伝達電話が効いたようですわね?
 マダム・ランベール あら、あなたもその「アラブ式」っていう言葉、使うの?
 セスィッル えっ?
 マダム・ランベール アラブ式伝達の中心にいるのはあなた。フェリックスもさっき、私がここに入るとすぐそう言ったの。
 セスィッル どうやら、あの人と私、同じことを考えているみたいですわ。
 マダム・ランベール そうね。ブリュノが電話してきて、ガスに水が溜ったからと言ってきたの。するとあなたはきっと今朝は外出・・・じゃあ私、フェリックスに会おうって。それで来たの。
 セスィッル 時間を無駄にすることはありませんわ。お母様はもう御存知なんですのね?
 マダム・ランベール ええ、知ってるわ。それに、これが理解出来るのは私一人って思ってもいるの。
 セスィッル ああ、お母さまはお分りに?
 マダム・ランベール これがあなた以外の人だったら、すぐ思うところね、他に男が出来たんだわって。でもあなたじゃ、それは違う。私にはすぐ分った。
 セスィッル ええ、そうなんです。
 マダム・ランベール あなたは頭はちゃんと働く人だから。
 セスィッル でもフェリックスは、私が狂ったと思っています。
 マダム・ランベール あなたを百姓女に変えようとするなんて、あっちの方が気が狂っているのよ。あなたも可哀相に。あなたが堆肥(たいひ)の中を歩き回ったり、鵞鳥(がちょう)の喉(のど)に餌を突っ込んだり・・・そんなことをするために家を出ようっていうんじゃないの。そんなの当たり前。
 セスィッル ええ。
 マダム・ランベール あの人がうんざりだからでしょう?
 セスィッル ええ、そうです。
 マダム・ランベール その話を今十五分ばかりあの子にしていたところ。きっとそうだと思っていたの、私は。
 セスィッル あの人に分りました?
 マダム・ランベール いいえ。男って、「人があんたにうんざりしてるのよ」って言ったって、決して分りはしない。でも、ただ一つ確かなことがあるわ。それは、あの子があなたを大変愛しているってこと。
 セスィッル ええ、私、それは分っているんですの。それに、事故が起ってからのあの人の態度、それは完璧でしたわ。ですから私、三箇月間、ずっと悩みました。でも結論は・・・
 マダム・ランベール 一人で暮す・・・
 セスィッル ええ。
 マダム・ランベール 月火水木金の会社から帰った後、それから土日・・・それだけでも、顔を合わせるのはうんざり?
 セスィッル もう譲歩するのは厭なんです。私がしたい時に、したいようにする・・・
 マダム・ランベール まるで自分を見ているような気分ね。そんな風に私も、どれだけ考えたかしら。だって、フェリックスの父親は、フェリックスよりもっとずっとうんざりな男でしたからね。でも私は家を出なかったわ。
 セスィッル 父親が亡くなった時、フェリックスは十五歳だったんでしょう? 亡くなる前に離婚なさらなかった・・・それは分りますわ。それに、その後ではもう問題はなくなってしまっているし・・・
 マダム・ランベール まさかあなた、私が運がよかったって言ってるんじゃないでしょうね。夫がいい時に死んでくれた、と。
 セスィッル いいえ、そんなことは言いませんわ、お母さま。
 マダム・ランベール そんなことを言ったら許しませんからね。いくらあの人が・・・そう、あなたにこっそり打ち明けるわ・・・ええ、あの人は本当に退屈な人だった。私、自分がどうしてあんな人と結婚したのか訳が分らない。共通の趣味はないし・・・今だって毎日後悔しているわ。あなたには分らないでしょうね、たった一人で暮すということがどういうことか。年老いた女が四つの壁に囲まれて、ただ一人いるということがどういうことか。
 セスィッル 失礼ですがお母様、私、この家に嫁いで来てからずっとお母様を見てきましたけれど、退屈なんて人生にはないっていうお暮しぶりだと思っていましたわ。八面六臂のご活躍じゃありませんか。競馬には毎日いらっしゃる、二日に一回はお芝居、ブリッジのクラブ、走ることがもしお出来になれば、サッカーだっておやりになるんじゃないかって・・・たった一人で淋しいなんて・・・何か足りない「もの」、或は「人」があるだなんて・・・外からはとても想像出来ませんわ。私の生きる時のお手本、それはお母様ですもの、今でも。
 マダム・ランベール そうやって自分の目を眩(くら)ませているの。生きるための智恵よ。私がたった一人で生きているから、それでなの、あれは。
 セスィッル お父様がお亡くなりになった時、結婚なさればよかったではありませんか。
 マダム・ランベール それはそう。
 セスィッル じゃ、どうして・・・
 マダム・ランベール もうその時には、今のあなたの年だったの。
 セスィッル ああ!
 マダム・ランベール ええ、でもその年っていうのは食わせ者なの。その時になる・・・もう二十年間も結婚生活を味わわされている・・・そうすると一人で・・・自由に・・・暮したくなるの。私の場合、孤独がじわじわと喉を締めつけてくる。そして悲しみに押さえ付けられながら、ゆっくりと死に近づいて行くの。
 セスィッル すみませんけどお母様、そんな悲しみ、お母様にあるとはとても思えませんわ。
 マダム・ランベール いいえ。これは本当の話。悲しみに押え付けられているの、私は。一人でいれば周(まわ)りにあるのは沈黙だけ。この、取り巻いている沈黙は氷の層のようなもの。その中に閉じ込められて、凍りついて行くの。独り身の年寄りの女、これぐらいこの世で悲しいものはない。誰も家の扉をノックするものはいない。電話を使う時、誰も同時に使おうとして邪魔が入ることはない。何をしようと、誰もそれに興味を持つものはいない・・・と、はっきり分っている。それが一番辛いの。苛々する議論を吹っ掛けて来る人もいない。そんな人が恋しくなるなんて、思いもかけないでしょう? それからもっと思いもかけないこと、それは、時間が物凄い速さで去って行くということ。特に今のあなたの年と、私の年との間に。
 セスィッル お母様には、それが速かったのですか?
 マダム・ランベール とても想像もつかない速さ。
 セスィッル そうだと思った! お母様が決して退屈なさらなかっていう証拠なんだわ、それが。素敵だわ!
 マダム・ランベール 何ですって?
 セスィッル 勿論そう。そして私が望むのも、そんな生活。私、これから先の三十年が速く過ぎ去って欲しいの。そうでないと、人生は長すぎるわ。それからさっき、旦那様が生きていらっしゃる時の話を伺いましたけど、あの、矢のように過ぎ去った三十年も、少し状況が違えば、永遠に続く三十年に感じられたかもしれませんわ。ええ、お母様、お母様と私、全く同じ考えなのですわ。それに私、そのことは分っていましたの。私の決心をきっとお母様は当然のことと思って下さる、そして賛成して下さるって。
 マダム・ランベール それはあなたが自分でした決心だからでしょう?
 セスィッル ええ、正直に言えばそうですわ。それからさっきの孤独の話・・・氷の沈黙で囲まれた老いた女性の話・・・あれは私、すみませんけど、納得がいきませんわ。
 マダム・ランベール でもあれは本当、正真正銘の・・・
 セスィッル 私の望みは唯一つ、お母様と同様に、生き生きと今のそのお年に達すること、そしてその時間が、お母様と同様に素早く過ぎ去って欲しいということ。
 マダム・ランベール どうやら決心は固いようね。
 セスィッル ええ、固い決心。
 マダム・ランベール それで、私の子供は? あれのことをどうするつもり? 母親として子供のことを思うのは当然ですからね。
 セスィッル 男が傍にいない人生がいかに孤独かって、さっきお話しになったのは、フェリックスのことを考えてでしたの? 冗談は止めましょう、お母様。切札は切札らしく、真面目なものだけをテーブルに出しましょう。お母様のような充実した人生は、決してあのお父様みたいな重荷を抱えては送れっこなかった筈ですわ。
 マダム・ランベール あの人は死んでいるんです! 死んだ人を侮辱するなんて許しませんよ!
 セスィッル ではお父様の話は止めます。フェリックスの話にしましょう。ある時からあの人が浮気を始めたのを私はよく知っています。でも、それについてとやかく私は言いませんでした。私はただ、あの人のよい友達・・・その役割を果しました。勿論浮気を手助けするなんてことはありません。そういうのは嫌いですから。ただ見て見ないふり。でも、あの人は私が何も知らないと思っている筈です。私はこのように知性を働かせて、あの人との友好関係をじっと保ってきたのですから、今私が出て行くと言っても、あの人が私に、私がとった同様の態度をとってくれるのが筋だと思いますわ。あの人がさっさと私以外のいい女を見つけてくるだろうって、簡単に想像つきますもの。お母様もよく御存知でしょう? あの人、自分の使っている秘書にとても弱いんです。
 マダム・ランベール 私は知りませんよ、そんなこと。
 セスィッル 私の目の前にいる方が、もう少し話の分った人でしたら、私だって違った話し方をしたでしょうけれど。
 マダム・ランベール やれやれ、あなたがこんな分らず屋だったとはね。
 セスィッル 私はいたって普通の女ですわ。
 マダム・ランベール あなたのやろうとしていること! それでも普通の女!
 セスィッル 孤独なんて知りもしないくせに孤独を振り回すような人よりは、ずっと普通の女ですわ。
 マダム・ランベール あなた、フェリックスのことを哀れと思わないの?
 セスィッル ちっとも。
 マダム・ランベール つまりあなたはあの人といるのが我慢ならないのね?
 セスィッル あの人は私が出て行ったって、たいして不幸になる訳ではありません。私の方は残れば確実に不幸になるのです。どうして私が残る必要があるでしょう。私はある生き方をしてみたい。お互いこの年ですし、二人の間に良好な関係があるのです。ですから、私が出て行ったところであの人に何か大事が起るとはとても考えられません。
 マダム・ランベール あの子に大事など起ったら、あなたを殺してやる!
 セスィッル そんなこと、あの人には何の関係もないでしょうよ。
(間。)
 マダム・ランベール これからどうするつもり?
 セスィッル いつからのことです?
 マダム・ランベール ここを出て行った後。英語を習うの? それとも古典ダンスかしら。
 セスィッル まだ決めていませんわ。ただ、ブリッジをしないことだけは確か。
 マダム・ランベール 働きたいのね?
 セスィッル ええ、多分。
 マダム・ランベール 手に職もない癖に。変な話。失業者がウロウロしている御時世よ。働く必要もない人間が、他の人から職を奪おうっていうのね。
 セスィッル 誰の職業も奪うようなことはしませんわ。私だけに出来る仕事を捜しますから。
 マダム・ランベール 職を捜すことを先にしたらいいじゃないの。それからでも遅くはないわ、出て行くのは。
 セスィッル 状況がさっぱりする方が、私は好きなんです。出て行きたいと思った時が、もうすでに出ている時。誤魔化しは駄目。
 マダム・ランベール すると、明日出るっていうことね?
 セスィッル あの人と喧嘩別れはしたくないんです。友好的に・・・それに、もう少し時間が必要ですわ。アパートを捜す時間・・・引っ越しのための時間・・・
 マダム・ランベール それはそうね。あなたを急がせるようなことはしないわ。
 セスィッル いづれにせよ、そんなに長くはかかりません。
 マダム・ランベール あの子、これからどうなるのかしら。
 セスィッル 「あの子」って言ったって、もう五十ですからね。分別のある男にはなっている筈ですよ。
 マダム・ランベール 突然今思いついた。そう、あなたが出て行った時、あの子をここに一人残してはおけないわ。フランス語の分らないあのポルトガル女中だけではとても駄目。私が来ます。私があの子と一緒に暮してやります。
 セスィッル お母様が? ここに?
 マダム・ランベール あなたは出て行くんですからね。あの子を一人にはさせません。私も一人で暮すのを止めます。
 セスィッル お母様がここに・・・そうですわ。見事にこの家をお収めになることでしょうね。フェリックスも大喜びですわ、きっと。
 マダム・ランベール ええ、これはいい考え・・・あっ、二時に競馬が・・・早く行かなければ。
(マダム・ランベール、立上る。フェリックス登場。)
 フェリックス 多分まだお母さんがいると思って・・・
 マダム・ランベール ええ、でも今出て行くところ。
 セスィッル さようなら、お母様。勝馬をお当てになるように!
 マダム・ランベール さようなら、セスィッル。(セスィッル退場。フェリックスに。)ねえ、フェリックス、私はね、やれるだけのことはやってみた。でもあの女、強情。まるでロバ。いいかい? 私の言うことをよく聞くんだよ。あの女にはこう言うんだ。「お前の言うことはよく分った。僕は君が出て行くことに賛成だよ」ってね。
 フェリックス どうしてです。
 マダム・ランベール あれが家を出て行かないようにする最後の手段なんだよ。それから今、最後の最後の瞬間に思いついたことがあってね。捨て台詞で言ったんだけど、お前と一緒にここで私は暮すってね。
 フェリックス 何ですって?
 マダム・ランベール それが頼みの綱かもしれないよ。ほらね、やっぱりお前はこの私ってものがついているのよ、幸せなことにね。

     第 三 場
(場にはセスィッルとスィルヴィ。二人とも陰気な顔。マルキータが舞台裏でまた歌っている。)
 セスィッル(疲れたように。)まあまあ、まただわ。止めるよう言って来て。こんな時にあんな陰気な歌。嫌になっちゃうわね、全く。
(スィルヴィ退場。歌、すぐに止む。スィルヴィ、戻って来る。)
 スィルヴィ 今度はあの子、泣き始めたわ。
 セスィッル また? じょうろね、まるで。
 スィルヴィ ママ、少し奥で休まない? 私はここで、このまま横になる。だからママは、ゆっくり休んだらいいのよ。
 セスィッル いいえ、私はあなたと一緒にここで待ってるわ。(玄関にベルの音。ああ、お母さんでなければいいんだけど・・・
 スィルヴィ おばあさんを門で待たせたりしたら大変よ!
 セスィッル どうして来るのかしら、何も分っていない癖に。来る理由は何もない筈よ。お願い、あなた見て来て。
(スィルヴィ、扉を開ける。マダム・ランベール登場。)
 マダム・ランベール やっぱり! 私には分っていた。田舎で家族会議・・・そんなの嘘だって! 来てよかった。今日は、セスィッル、スィルヴィ。あの子、病気なの?
 セスィッル 今日は、お母様。
 マダム・ランベール どうなってるの、あの子は。事務所に電話してみたら、田舎で家族の集まりがあるからっていう答じゃない。変だなってすぐ思った。あの子、病気? 家族の集まりがあるんだったら、私がのけ者にされる訳がないものね。私はあれの母親なんですから。
 セスィッル 会社から電話があって、私がそう答えたんです。
 マダム・ランベール どうして病気だって言ってやらなかったんだい?
 セスィッル それは勿論、病気だったら病気って答えたんですけど・・・
 マダム・ランベール ええっ? どういうこと?
 セスィッル 病気じゃないんです。
 マダム・ランベール そう、病気じゃないの・・・
 セスィッル ええ。
 マダム・ランベール じゃ今、どこにいるの? あの子は。田舎にもいない、事務所にもいない、病気じゃない。じゃ、どこに。
 セスィッル ええ、だからそれなんです、変なのは。私にも分らないんです。
 マダム・ランベール 何ですって? あなたにも分らない?
 セスィッル ええ、さっぱり。
 マダム・ランベール いなくなったの?
 セスィッル ええ、四日前から。
 マダム・ランベール 四日! じゃ、あの子、もう死んでるわ。あの子が死んでる・・・それなのに、四日経ってやっっと知らされるなんて! どこで死んだの。
 セスィッル 死んじゃいません!
 マダム・ランベール いなくなったのなら、死んだっていうことでしょう。
 セスィッル いいえ、違います!
 マダム・ランベール 日曜日にどうして電話をくれなかったの。それに、その後だって・・・
 セスィッル 最初はお母様に余計な心配をかけることはないと思って・・・それからは、時間が経つにつれて、今すぐ戻って来ると・・・
 マダム・ランベール 時間が経って、夜が過ぎて、昼が過ぎて・・・その間私は何も知らなかったのよ! ブリッジをして、競馬に行って、寝ていたの! いつからいなくなったの。
 セスィッル 日曜日の朝はお会いになりましたわね?
 マダム・ランベール ええ、あなたにもね。
 セスィッル お母様がお帰りになった後、二人でお昼を食べました。あの人、一言も口をききませんでしたわ。食事の後、私、ちょっと上に上って休みました。一時間経って、あの人を呼んだんです。でも返事はありませんでした。あの人の部屋へ行ってみると、ベッドの上に「僕のことを待つな」とだけ書いた紙がのっていました。
 マダム・ランベール たったそれだけ?
 セスィッル 「僕のことを待つな」、それだけ。その夜、帰って来ませんでした。月曜日の朝も。そしてそれからずっと・・・
 マダム・ランベール それから今日はもう木曜日。あの子は日曜日に死んでいるわ。それなのに私が何も知らなかったなんて! かなり酷い話だわ、これ。
 セスィッル 理由はさっきお話しました。
 マダム・ランベール 警視総監に電話しなくちゃ。
 セスィッル 必要な手はすべてうちましたわ。火曜日から捜索班が組織されて、写真と乗っていた車を手掛かりに動いてくれていますわ。
 マダム・ランベール 車の番号は? あなた知ってるの?
 セスィッル いいえ。でも車のモデル名、色は言ってあります。
 マダム・ランベール 捜索班じゃ駄目。警視総監でなくちゃ。あなた、知らないの?
 セスィッル 存じません。
 マダム・ランベール 私も。フェリックスは付き合いがあったかしら。
 セスィッル ないと思います。
 マダム・ランベール ええ、ないわね、きっと。でも、私はいつも言ってたわ、あの子に。政治家でない限り、パリで知りあいになっていなきゃならない人は何と言っても警視総監。困ったことがあれば、すぐやってくれますからね。警視総監を呼んで、あなた。私が話します。
 セスィッル いいえお母様。もう言いましたけど、必要な手は全部うってあるんです。警視総監が何かを知りたいとなれば、聞くところは捜索班です。ですから、そちらに聞くなんて無駄なんです。捜索班は私の電話番号を知っています。何かが分れば知らせを受けるのはこの私が最初になります。ですから、火曜日から私はここを動いていないんです。それに、今朝も電話がありましたわ。日曜日からこっち、自動車事故、全てをあたりましたって。フェリックスは事故に遭っていません。怪我人が運ばれた病院は全部チェックされて、その中にフェリックスはいなかったんです。
 マダム・ランベール フランス全土?
 セスィッル ええ。
 マダム・ランベール スイスは? スイスに行っている可能性もあるでしょう?
 スィルヴィ でもママ、パパは身分証明書を持ってるのよ。事故があればすぐこちらに直接電話がある筈じゃない。
 マダム・ランベール 自分で焼いてしまったら、身分証明書なんかないでしょう。海にもし落ちたとしたら、車もないし、証明書もないわ!
 セスィッル スイスじゃ海には落ちられませんわ。
 マダム・ランベール 湖になら落ちられます!
 スィルヴィ 湖に落ちるって・・・どうして?
 マダム・ランベール あの子がその気になるかもしれないってこと。
 セスィッル それもかなり難しいわ。
 マダム・ランベール 易しいって誰が言いました!(セスィッルとスィルヴィ、下を向いてクスクス笑う。)「僕のことを待つな」・・・どういう意味? これ。「待つな」・・・何時かは帰るってこと?
 セスィッル それなんです、はっきりしないのは。それがはっきりしていたら、心配なんかしないですむんです。
 マダム・ランベール 死ぬのは何も自動車事故に限ったことではありませんよ。気違いもいます。盗っ人も、殺し屋も。今の世の中、何があっても不思議ではありません。誘拐だってあります!
 スィルヴィ 誘拐は普通、大金持で知られた人に限られます。パパは該当しないわ。それに、身代金を要求してくる筈。まだそんな徴候、何もないもの。
 マダム・ランベール じゃ、ただ待っていて、それでいいって言うのね?
 セスィッル 他にどうしようもないんです。ですから、お母様にはお知らせしなかったのですわ。ただ待つのはきっとお嫌いだろうと・・・
 マダム・ランベール 余計な配慮よ。そう、私、待つのは嫌い。だけど今度の場合、その価値があるわ。私、待つ。待つだけでなく、何か出来る筈!
 セスィッル 何が出来ます?
 マダム・ランベール 何かがです。待つだけでは解決になりません。
 セスィッル でも、解決なんてありませんわ。唯一つの解決・・・あの人が戻って来ること以外には。
 マダム・ランベール もし死んでいたら、戻って来ることなどありえません!
 セスィッル 無理矢理悪い方に考えるのは止しましょう、お母様。
 マダム・ランベール あなたはあの子が死んでいるなんて思わないから・・・だからなんだね?
 セスィッル 三日三晩私はあの人を待って眠っていないんです。お母様が考えつくような疑いは全部とっくに考えていますわ。それに、今でもああだろうか、こうだろうかって。ですから、これ以上私を疲れさせたり心配させたり、それは止めて戴けませんか。私、自分でも悪い方に考えないよう精一杯やっているんです。ですからどうか、それを逆に煽(あお)るようなことはしないで・・・そう、お茶でも飲みましょう。そして気分を落ち着けて。スィルヴィ、あなた、マルキータとお茶を用意してくれない?
 スィルヴィ はい。
(スィルヴィ退場。間。)
 マダム・ランベール あの子、今女と一緒なのかしら。
 セスィッル 分りませんわ。
 マダム・ランベール あなた、言いましたね? あの子にはいつも他に女がいたって。
 セスィッル ええ、でも今のこの場合、私、別の考えがあるんです。
 マダム・ランベール 別の考え? 他の線で考えるなんて全く無駄でしょう? これが一番分り易い。だってあの子にあなたははっきり言ったの、「一緒には住みたくない」って。あの子は悩んだ。惨めになって、女に電話する。そしてその女に、二三日慰めて貰う。ひょっとしてあなたの代りをその女が出来るんじゃないかって。そりゃそうでしょう? あなたは「あんたなんかうんざり」ってあの子に言ったんですからね。あの子にうんざりしていない女を考えてみる・・・大いにあり得るわ。どんな男でもそうするわ、きっと。(間。)だけど、どうしてあの子に女がいたの? あなた達二人、うまくいっていなかったの?
 セスィッル いいえ、うまくいっていましたわ、とても。
 マダム・ランベール あっちの方はちゃんとあったの?
 セスィッル そんな質問、厭ですわ。別の話にしましょう。
 マダム・ランベール じゃ、あなたとは何の話も出来ないって言いたいの? とんでもない。この質問が何故悪いの。あれは私の子。あなたはあれの女房ですよ。あなたが出て行くと言い、それであの子が先に家を出て、帰って来ない。私がこの質問をするのは当り前でしょう? あなたも答える義務がある! あの事故の前、あなた方二人は寝たことなかったの?
 セスィッル ええ、ありませんわ。それだけ仰るなら。
 マダム・ランベール もう長いこと?
 セスィッル ええ、かなり長いこと。
 マダム・ランベール 何故。
 セスィッル したくなかったんでしょう、きっと。
 マダム・ランベール どっちが。あの子、それともあなたが?
 セスィッル そんなこと話したことがありませんわ。黙っていて自然にそうなったんです。お互いの合意でしょう。
 マダム・ランベール 合意・・・黙っていて合意だなんて、そんなことある筈ないでしょう。
 セスィッル ありますわ。
 マダム・ランベール じゃあなた、もうとっくにあの子の妻じゃない。あの子が他の女を求めたってちっとも驚くにはあたらないでしょう。
 セスィッル ええ、驚きもしませんし、怒りもしません。もうずっと前から。
 マダム・ランベール じゃ、あなたが出て行きたいというのは、別の男を見つけたいからなのね。
 セスィッル それはもう話しましたわ。そんなこと、私の頭には全くありませんと。私は四十五歳、二十五歳じゃありませんからね。そういう問題に心を向ける気持は全くないんです。
 マダム・ランベール 女である限り、それが問題にならない筈はありません。四十五歳だろうと・・・いいえ、それ以上でも。
 セスィッル いつかそれが問題になるようだったら、私、その時に考えますわ。
 マダム・ランベール この状況であの子が出て行ったとなると、それはどうしても、あなたが家を出るということが原因であるのは間違いないわ。あの子はあなたを愛していて、あなたが出て行くのが耐えられなかった。あなたがあの子を殺したのよ。これは掛値なしにそう。言い逃れしようとしたって駄目よ。責任はあなたにあるんですからね。それに、あの子から去るって、一体どういうこと! 何が不満って言うの。あの子が何をしたって言うの! 辻褄が合わないでしょう!
 セスィッル そのことは日曜日にもうお話した筈です。それにあの時お母様が私に最初の言葉は、「分るわ、あなたの考え」でしたわ。思い出して戴きたいわ。
 マダム・ランベール 私はあなたがあの子を悲しみで殺すようなことがあれば、私はあなたを殺す、とも言いましたからね。
 セスィッル あの人が悲しみで死ぬなんて、とても考えられませんわ。さっきも話が出ましたけど、今の今、もしあの人が女と一緒だとしたら、悲しみで死ぬなんて話、笑いが止まらないでしょうよ。
 マダム・ランベール こんな時にあの子が女と一緒だなんて。あなたよくそんなことが考えられるわね! 今は女どころの話じゃないでしょう?
 セスィッル 「女に慰めて貰っているのよ、あの子」って仰ったのはお母様の方ですわ。それもついさっき。
 マダム・ランベール あの子はそんなに簡単に慰められるような男ではありません。女の尻を追っかけ回す男とは違うんです。非常に繊細に出来ているんです、私のように。そして理想主義者。あなた、お嫌でしょうがね、あの子の理想はあなたなんですよ。それをあなた、あの子に向って、「あんたの理想なんか、もううんざり」って言ったんですからね。自分の弱みを見せないために、その悲しみを隠すために、あの子だって「うんざり」って言うに決まっています。あの子は内気なんです。言葉の少ない男なんです。でも誇りは持っている誇り高き男なんです。その男に向って「うんざり」だなんて。それは短刀でぐさっとやるようなものです。それであの子、致命傷を負った。でも、死んではいないもんだから、湖に飛び込んで死のうとしたのよ!
 セスィッル 言っておきますけど、私はあの人に直接「うんざり」って言ったことはありませんからね。
 マダム・ランベール それは私が話しました。
 セスィッル 全く余計なことを!
 マダム・ランベール でもあの子が「うんざり」なら、あなたが何とかうんざりでないようにする手を色々考えるべきでしょう? あの子がまづあなたに興味を持つように、あなたそのものなくっても、あなたでなければならない何かに! それなのにあなた、あの子がキャタピラ自動車しか興味がないのをそのまま放っておいたりして・・・
 セスィッル ええ、それに切手収集にね! 全く子供よ! それは誰の責任です? それ以外の物に興味を持つ夫は私が嫌うとでも思っていらっしゃるの? 全くあんな、子供のままでいる男・・・それは誰の責任かしら。
 マダム・ランベール あの子は切手が好き・・・それが私の責任だっていうの? あなたは。
 セスィッル そうです。お母様の責任です。いつでもあの人を支配して、圧倒して、あの人の代りに何でもかでもしてやった・・・あの人に羽根を伸ばしてやることは一切せず、気違いじみた専横と病的な独占欲であの人を甘やかし、保護し、お仕舞いには窒息させてしまった。それがあの人の少年時代、青年時代の生活。だから今、あの人はああなんです。土性骨(どしょうっぽね)のない、本当の自分を持たない男。私が二度と一緒に暮したくない男に作り上げたのはお母様なんです。お母様にその責任があるのです!
 マダム・ランベール それで何? あなたじゃないの、そのあとをついだのは。あれから二十五年間、あの子の手綱を握ったのはあなたですよ。
 セスィッル ええ、そういうことでしょうね。でもそれは、まだ繋がっていてお母様との間の臍(へそ)の緒を切るため、お母様のくびきから引き離すため、それもお母様と必死で戦いながら。、
 マダム・ランベール その苦労が私のせいだっていうの? 私があの子をあなたと結婚させたんじゃありませんからね。
 セスィッル ええ、それはそうですわ。でもあの人が私と結婚する気になったのは何故か・・・もしあの人が私を愛したとすれば、それは母親にすがって生きる癖がついていたから・・・私にお母様のような体質があることを感じたからですわ。私にすがっていれば大丈夫っていう気になったんです。そう、そうやって休むためなら、実に正しい選択だった。二人の子供を育てたのはこの私・・・私一人の手でです。あの人は何の手も下したことはありません。勉強も休暇の過ごし方も、何もかも。全ての家事は私の担当、すべて私がやった。あの人は全てを避けて通った。自由に振舞いたいために。模型キャタピラ自動車、地理学の本、異国情緒のある切手! そんなことは知らずに私はあの人と結婚した。切手収集家という魂の抜殻(ぬけがら)と。
 マダム・ランベール どうせあなたは魂の抜殻と結婚するはめになっていたのよ。あの子には限らないわ。何故って、あなたも私と同じ。命令の好きな女なんですからね。
 セスィッル 命令をしない夫の妻が必ず言われる言葉ですわ、それは。自分では何一つ決めない夫を持つのは楽しいとでも思っていらっしゃるのかしら。それに、口をきかない時にはいつだって夢の中にいるような、ぼんやりした顔。ああ、最初からこうだって分っていたら・・・
 マダム・ランベール 馬鹿なことを言うものじゃありません。あなたにはちゃんと分っていたんです、自分が何故あの子と結婚するのか。それはね、まづ第一にあの子が魅力的だったから。魅力的でしたからね、本当に。それから沢山の他の女の子達があの子を素敵だと思っていたから。あなたはその子達の鼻をあかしてやりたかったの。でも一番の理由は、あなたにはあの子の正体がすぐ分った。あの子と一緒になれば、自分のやりたいように出来るって。そう、そしてその通り実行してきたの。
 セスィッル そういう人間と暮して、或る時ふと自分の好きなことを自分一人でやりたくなる時が来たっていうことですわね。或は、自分と生活を共にしてくれる誰かと、その夫とを取り替えたくなる時が・・・日常の陳腐な生活は捨てて・・・
(間。)
 マダム・ランベール 豚ね、あなたの性格って。自分で分ってるの?
 セスィッル 私よりよい性格の人間なんて誰もいませんわ。フェリックス自身が私と同じ意見ですからね。
 マダム・ランベール よくもまあ、そんな厭らしいことが言えるわね。それもとんでもない出鱈目(でたらめ)を。分ってるの? あなた。
 セスィッル お母様こそ何も分っていらっしゃらないですわね。うるさくされると私、噛みつく癖があるんですのよ。
 マダム・ランベール そう、あなた、野蛮な女。でも私、好きだわ。
 セスィッル じゃもう、こんな話止めましょう。
(スィルヴィ、お茶の盆を持って来て登場。)
 スィルヴィ あのマルキータったら、フランス語も出来るようにならないし、お茶だってまだ出せやしない。あれでよく料理が出来るものね。お湯だって満足に沸かせないのよ。湧かないように水におまじないでもかけたのかしら。
 セスィッル 有難いわ、お茶。ほっとするわ。
 マダム・ランベール まづ第一に礼儀は守らなくっちゃ。あの馬鹿、私達を怖がらせて面白がっている。誰も怖がったりしてはいないわ。馬鹿なことをやってと思っているだけ。それをちゃんとあの子に見せてやらなきゃ。ご免なさい、お父様の悪口を言って。でも私からみるとあの子はただの子供ですからね。あの子があなた達のママのところに帰って来た時、あなた方はあの子に何て言うでしょうね。私は自分の言う台詞はもう決めてある。今すぐにでも帰って来ればいいのにと思っているわ。
 スィルヴィ(お茶を出して。)はい、おばあさま。ミルク? レモン?
 マダム・ランベール どちらでもいいの。でも、濃いお茶にしてね。チョコレートみたいな色になっているのが、私は好きなの。有難う。・・・ああ、急に変なことを思い出したわ。こういう隠れんぼ、あの子は最初じゃなかった。子供の時にも一度やったことがある。夏休みの時、泳ぎにトゥーケーに連れて行ったことがある。四、五歳の頃だわ。本当に小さかった。おやつを食べて、ちょっと後、急にいなくなったの。完全に消えてしまった。私は気違いのようになった。勿論溺れたとばかり。みんなで捜した。大声で呼んだ。三、四時間も。もう夕方近くなって、砂の窪地に何か動いているのを見つけたら、それがあの子だった。どうしてそんなところにいたの、と訊くと、「僕は沙漠にいたんだ。太陽とたった一人で向きあってたんだ」って。可愛いかったわね、そう言った時のあの子。天国から降りて来た天使のようだった。そう、あれは天使の導き、悪い天使のね。だから今度も、その同じ天使の導きで、と思ったら・・・怖いわ・・・
 セスィッル 帰って来たら、あの人にお灸をすえるおつもりですの?
 マダム・ランベール そう。子供のような過ちをやった時は、子供を叱る時のようにしなくちゃ。でもね、今の話を思い出したからってたいしたことじゃないの。五歳の時の隠れんぼと五十四歳の時にやる隠れんぼじゃ、もともと質(しつ)が違いますからね。
 スィルヴィ(笑う。)そうね、質が違うわ、確かに。
 マダム・ランベール そう、砂の窪地に隠れられる訳もないし、こっちもこっちでゆったりお茶を飲んでいる。質が違うわ。でも、一体今頃どこにいるっていうの・・・(玄関のベルが鳴る。)あ、帰って来た。あの子よ。
 セスィッル いいえ、あの人は鍵を持っています。ベルを鳴らしたことはないですわ。
(スィルヴィ、扉を開ける。)
 スィルヴィ あら兄さん、何か分った?
 ブリュノ 警察に行って来たんだ。おばあちゃんはもう知ってるの? 今日は、おばあちゃん。
 マダム・ランベール ええ、知ってるわ。今日は、ブリュノ。それで?
 スィルヴィ それで?
 セスィッル 早く! 話しなさいよ。
 ブリュノ 分った。ちょっと待って。
 セスィッル 新しいことが何か分った?
 ブリュノ トゥーケーの浜辺にパパの財布があったんだ。
 マダム・ランベール 強盗にあったんだ。財布を狙う・・・あの子は殺されたんだ!
 ブリュノ 見つかったのは財布なんだよ。パパの死体じゃないんだ。
 マダム・ランベール じゃ、溺れたのよ。トゥーケーで溺れ死ぬなんて。五歳の時に隠れんぼでいなくなった、あのトゥーケーで! 恐ろしいこと! 何て恐ろしい! 溺れ死ぬなんて!
 ブリュノ 溺れ死んだなんて、誰も言っちゃいないよ。財布が見つかったっていうだけのことだよ。
 マダム・ランベール 背広は?
 ブリュノ なかったよ。
 セスィッル 車も?
 ブリュノ 車の跡(あと)など何もないんだ。今日の午後散歩した人が見つけて、警察に持って行った。パパの身分証明書がその中に入っていたから、トゥーケーの警察はヌイイの警察に電話したんだ。
 セスィッル その話、今聞いてきたばかりのこと?
 ブリュノ 丁度僕はブラブラ街を散歩していてね、警察によってみようかなってフト思ったんだ。運がよかったよ。僕が入る二分前にトゥーケーから電話があったんだって。
 マダム・ランベール でも、浜辺に財布が落ちていたとすれば、それは溺死よ、どう解釈したって。結論は溺死ただ一つ。あの子、身元が分るように残しておいたのよ。さあ、速く立って! トゥーケーに行くのよ。さ!
 セスィッル でも、お母様!
 マダム・ランベール たとえ溺死じゃなくっても、とにかくあの子はトゥーケーにいる。さ、行きましょう!
 ブリュノ ちょっと待って。僕の知っていることみんな聞いてからにして。
 マダム・ランベール まだ何かあるの?
 ブリュノ トゥーケーの警察は、パリに電話する前にホテルというホテルには全部電話したんだって。その財布の持主がそこに泊らなかったかどうか。パパはソフィテッルにまで来ていたみたい。今朝そこを発ったって。
 セスィッル 今朝?
 ブリュノ うん。
 マダム・ランベール じゃ、あの子はまだ今朝は生きていた。そして財布はまだその時にもっていたってことね。
 セスィッル 何故ですの?
 マダム・ランベール ホテル代を払うのに財布が必要でしょうが!
 セスィッル あの人はお金は財布に入れません。証明書だけです、入れるのは。お金と小切手帳はいつもズボンのポケット。
 マダム・ランベール そうしたら、とにかくホテル代は払ってそこを出て、浜辺へ出て行って、溺れ死んだ・・・
 セスィッル それなら浜辺にあの人の車があった筈ですわ。どうしてそう、何でもかでも溺死させたいんです? 少しは物を考えて言って下さい。
 マダム・ランベール いやにあなた、自信があるのね。
 セスィッル 自信など何もありません。すぐには最悪の事態を想像しないっていうだけのことですわ。財布をなくすなんて、誰だって迂闊(うかつ)にやって仕舞うことです。あの人がトゥーケーにいて、今朝出発したっていう話だけでも随分ほっとすることですわ。それは、今からあの人が帰って来るかもしれないっていうことでもありますからね。
 マダム・ランベール 溺死していたら、帰っちゃ来ないよ。
 ブリュノ こんな寒い時に浜辺へ出て行くなんて人はどこにもいやしない。だから、服を着たまま水に入って行く人がいれば、必ず誰かに見つけられる筈だよ。
 マダム・ランベール 誰が見つけるって言うの。
 ブリュノ えっ、どういうこと?
 マダム・ランベール 誰が見つけるの、こんな寒い時に浜辺へ出て行く人なんて誰もいないんでしょう? お前がその口で今そう言ったんだよ。浜辺で誰もいなきゃ、溺れる人を見る人間だっていやしないだろう?
 ブリュノ 僕が言いたいのはね、泳いだりするために浜辺に出て行く人はいないって言ったんだ。だから、浜辺はごった返してはいなかった。それにトゥーケーのような広い浜辺だったら、必ず散歩をする人ぐらいいるものなんだ。
 マダム・ランベール 浜辺には誰もいないと言ってみたり、散歩をする人ぐらいいると言ってみたり、自分の言っていることが分っているのかね、全く。
 セスィッル 浜辺に財布を置いて水に入って行く人なんかいないでしょうに。
 マダム・ランベール 財布を置いて溺死するから、誰が死んだか分るんじゃないか。名刺が入っているからね。
 ブリュノ ああ、言うのを忘れていたけど、警察は、死体が浜辺に打ち上げられた事実はこの二三日全くないって言ってた。
 マダム・ランベール 海はね、死体を打ち上げるのに何日もかかることがあるのです。時には一週間以上も。
 セスィッル 不吉なことばかり言うのは止めにしましょう。今朝あの人がホテルを出たというのなら、それはいい徴候だわ。
 マダム・ランベール あなただったら、あの子がイギリスに行って、これからまだ二週間何の知らせもなくったって、いい徴候って言うに決まってるわね。
 セスィッル どうしてイギリス行きの話になんかなさりたいんです?
 マダム・ランベール イギリスで身投げするのよ、テムズ河で!
 セスィッル 全く、溺死しか考えられないんだから。
 マダム・ランベール 溺れ死ぬ場所をどこにしたって、こっちの勝手でしょう? 私、やっぱりトゥーケーに行く。小さい頃迷子のあの子を見つけたのはトゥーケーだったんですからね。
 セスィッル お引き留めは致しませんわ、お母様、でも・・・
 マダム・ランベール そう、私が行ってもあなたちっとも構わないのね?
 セスィッル ええ、でもその旅、結局無駄足になる筈ですわ。だって今朝あの人はそこのホテルを出たんですからね。きっと今はパリか、とにかくどこかトゥーケー以外のところへ行っているところですわ。
 マダム・ランベール そんなことぐらい言われなくったって、私も・・・
 セスィッル ですから、あの人を捜しに行って、確実にあの人がいない場所がトゥーケーだっていうことですわ。
 マダム・ランベール そう。じゃ、あなたはお気の毒様ね。私、ここに残っているわ。あの子が戻って来るまでいますからね。あなたは寝ていなさい。私はここで待っています。どうせ自分の家にいたって寝られはしないんだから。
 セスィッル お母様が・・・ここに?
 スィルヴィ いいえ、おばあさま、今夜は私がママに付添ます。ママを一人にしておきたくありませんから。それにママ、ちょっと休まなければ。
 マダム・ランベール 私が言ったのもそれ。付添うのは私。
 セスィッル そのソファで、お母様が一晩明かす訳にはいきませんわ。あの人が帰って来たら必ず御連絡しますから・・・
 マダム・ランベール 私がここにいるのがうんざりっていうことね? 息子が死んでいるかもしれないっていう時に、その知らせを家でたった一人で待つなんて厭なことだわ。
 セスィッル 私は別にどっちにして戴いても・・・お帰りになろうと、留まっていたいと仰ろうと・・・でも、もう死んでる、もう死んでる、って二分おきに言われるのは沢山!
 止めて戴きたいわ。
 マダム・ランベール 確かにあの子は夢見がちな男だわ。でもトゥーケーで五日間もボーっと夢見心地になっているのは無理だからね。
 セスィッル あそこからあの人、もう発っているんです!
 マダム・ランベール 発ってるっていうことは、それまではそこにいたということです!(誰かが扉を叩く音。みんな顔を見合わせる。間。扉開き、フェリックス登場。非常に気の抜けた表情。)おや、お前じゃないか・・・どうしたんだい、一体。
 セスィッル 心配させて、どういうこと! これ。
 フェリックス 僕は今幸せだ。よく考えてみる必要があった。セスィッル、君が家を出ることはない。僕の方が家を出るから。
(セスィッル、呆気にとられてフェリックスを見る。)
 マダム・ランベール 大馬鹿者!
(マダム・ランベール、どっとソファに腰掛ける。)
(ここで幕下りる。幕間を取る場合はここで取ること。)

     第 二 幕
     第 四 場
(幕が上ると場は居間。灯で照されている。セスィッルが自室から登場。フェリックス、玄関の扉から登場。)
 セスィッル もういいの? お母様はお帰り?
 フェリックス 車まで送って行ったところだ。
 セスィッル お母様と二人にしておいた方がいいと思って・・・それに私、少し休みたかったし。お母様ったら、もうとても我慢出来なくて・・・次から次に酷い話を・・・
 フェリックス で、元気だった? 僕のいない間・・・
 セスィッル よくそんなこと、落ち着いて私に訊けるわね。
 フェリックス え? それ、どういうこと?
 セスィッル 四日間もあなた、何も連絡をくれなかったのよ。考えてもみて。
 フェリックス つまりそれは、心配してくれてたっていうこと?
 セスィッル 家出なんて・・・無意識にやったの? それともわざと?
 フェリックス 僕に何か起きたと思った?
 セスィッル 失踪した人に起きそうなことは全部考えてみたわ。あなたなんて嫌い。こんなこと、許されないことよ。何日経ったか分ってるの? もう木曜日よ。
 フェリックス 時の過ぎるのは早いものだな。
 セスィッル それ、私の言う台詞でしょう? 全くいい気なもの。
 フェリックス 心配をかけたんだったら謝るよ。僕はまさか君が心配するとは思っていなかったから。
 セスィッル そこよ、私があなたを非難するのは。
 フェリックス 一言書いて出て行ったんだよ。僕は一旦前線を退いて、自分のいる位置を確かめたかったんだ。
 セスィッル 位置を確かめるのに四日かかったって言うの?
 フェリックス うん。
 セスィッル 位置を測定する機械が駄目になってるのね。取り替えなきゃ。
 フェリックス 今まで替える必要がなかったからね。
 セスィッル それに、警察は総動員であなたを捜していたのよ。
 フェリックス 僕は別に隠れてはいなかったがね。
 セスィッル あなたの車の番号は知らなかったけど、青いBMW五二五型だとは、ちゃんと言ったわ。
 フェリックス 訊問など全くされなかったな。
 セスィッル ホテルでも? 道路でも?
 フェリックス 全然。
 セスィッル ちゃんと警察には申告しておいたのに。とにかくあなたはトゥーケーにいたのね?
 フェリックス うん。
 セスィッル まるで毎週そこに行っているような言い方ね。私が驚いているのが不思議なの? いっそのこと、ツンブクツーにでも行ってたらよかったのよ。
 フェリックス でも、ここを出る時に、トゥーケーに行くとは思っていなかったからね。
 セスィッル それにしては用意周到ね。歯ブラシ、ひげ剃り、パジャマ、それに着替えをちゃんと。
 フェリックス うん。しかしどこへ行くかは決めてなかった。昼食の後、僕は出て行った。夕方、気がついてみるとトゥーケーにいたんだ。
 セスィッル 雨だった?
 フェリックス いや、ずっと晴れていた。今朝なんか、あまりいい天気だったもんだから、浜辺でジョギング。腕に上衣を抱えてね。だから財布を落したんだ。子供の頃おふくろがあそこの浜辺へ連れて行ってくれた。浜辺を見ていたら、その時のことを思い出したよ。
 セスィッル でも、家を出る時には決めていなかった・・・
 フェリックス うん。たまたまあそこに着いていたんだ。
 セスィッル そして四日間、そこにいたの?
 フェリックス うん。快適だった。誰もいないし。浜辺で一人だった。あったのは海と空と僕だけ。
 セスィッル 暫くいなくなることを事務所にも知らせなかったの?
 フェリックス うん。
 セスィッル だからね? 事務所から電話があった。私、家族のことで、今田舎に帰っているって言っておいた。
 フェリックス ああ、それはいい答だったよ。
 セスィッル 事務所のことも気にならなかったっていうことね?
 フェリックス うん。
 セスィッル それがあなたには普通のことに見えたのね?
 フェリックス うん。事務所も一番大事なことじゃなかった。
 セスィッル じゃ、何だったの? 一番大事なことは。
 フェリックス 砂浜で、たった一人、空を眺めながら考えたことだ。
 セスィッル すると空を眺めながらトゥーケーに住もうって決心したのね?
 フェリックス トゥーケーに? 何故?
 セスィッル だって、帰って来て、一番最初に言ったことは、「僕は出て行く」だったでしょう? だから、住所をトゥーケーに移して、そこを足場にしてこれからは活動をする、っていうことだと・・・
 フェリックス 君は一人で暮したいって言ってたね。もうアパートなんか捜さなくていいよ。それから、生き方を急に変える必要もない。僕がこの家を君に残して行く。その方がずっといいだろう?
 セスィッル あなたは?
 フェリックス 僕は・・・
 セスィッル どこに行くつもり?
 フェリックス 大きな計画があってね。事務所は共同経営者に譲るつもりだ。僕の持分はかなり大きいから、いつか仕事を始める必要にかられた時でも、簡単に自分で出来る。仕事はよく分っているし、いざとなった時に協力してくれる人間もいるからね。
 セスィッル もう当座は働かないっていうこと?
 フェリックス うん。
 セスィッル これからどうするつもり?
 フェリックス 聞いたら君、驚くよ。
 セスィッル 四日間考えたのよ。何を言われても平気。
 フェリックス 沙漠を探険する。いろんな沙漠を。
 セスィッル 沙漠を? いろんな?
 フェリックス うん。いろんな沙漠があるからね。沙漠とは何か、発見するんだ。
 セスィッル 公認会計士、会計のプロ、それが沙漠の探検家に?
 フェリックス うん。
 セスィッル 探険の旅行に出るっていうの?
 フェリックス うん。
 セスィッル 誰と。
 フェリックス 一人でだ。
 セスィッル サハラを旅する男一匹ってな具合?
 フェリックス うまい、その通りだ。
 セスィッル キャタピラ式自動車で?
 フェリックス 今じゃ、もっといいのがある。地面の状態がどんなところでも走るやつだ。試してみたこともあるよ。車じゃなく、キャラバンで・・・ラクダの背に乗って・・・旅行することも考えている。沙漠での生活はこうでなくちゃ。驚いた? 君。
 セスィッル いいえ、ちっとも。でもあなた、キャタピラ式自動車にずいぶん興味があったけど、そんな沙漠への情熱がその後ろにあったなんて、ちっとも思わなかったわ。
 フェリックス そうだろうね。最初に行く沙漠はタマンラッセにしようと思っている。十三のとき僕はフーコー神父の伝記を読んで、それ以来ずっとタマンラッセにいつかは行きたいと思っていたんだ。
 セスィッル そんな話、してくれたこともなかったわね。伝道の仕事もやってみようと思ってるの?
 フェリックス いや、とにかく沙漠だ、知りたいのは。これを決心したとたんに、僕の身体にスーっと新しい空気が入ってきた気分だった。僕はそれから、呼吸をするのが楽になったよ。君、僕と一緒にはもう暮さないって、言ったね。あれは結局素晴らしい考えだったんだ。理由は二人で違っているけど、二人は同じ結論に達したんだ。君の方は酷い事故で死ぬか生きるかの目にあった。それで、生きるという事がどんなに大切か分って、重要でないことは自分の生活からみんな遠ざけようと決心したんだ。だから、自分にとって本当に大事なことは何か、これから考えようと一人で生きることにしたんだ。僕の方は、君が家から離れて行く、ということがそのきっかけになった。僕は棍棒で殴られたような気分だった。正直に言って、あれは電気ショックだったね。日曜日にここから出て行ったけど、あれはまるで夢遊病者のようなものだった。殴られて、半分気絶した男だよ。遠くに来て一人になって、僕も新しい人生が必要だと感じたんだ。僕自身の根本に繋がる、新しい人生がね。それで昔、強く感じたフーコー神父の話が自然に浮んできた。強烈な閃(ひらめ)きだったよ、これは。この世に、もう一度生まれた気分だった。でもこの誕生の時は、一度目と違って、この世に現れて来る瞬間をはっきり意識出来たんだ。それで僕にも分った、君もこの二度目の誕生ってやつを、あの事故の後はっきり感じたんだなってね。僕は思った、これは凄いぞ、誰も苦しむものはいないな。君も僕もゼロから出発・・・二人ともそれぞれの理由から・・・おまけにその出発が同時だとは・・・凄い! これは凄いってね。
 セスィッル この二十五年間、あなた、こんなに長い話したことがなかったわ。
 フェリックス 僕のこと、うんざりって、本当?
 セスィッル まあ、それは・・・
 フェリックス まあ、それは・・・そうだってこと?
 セスィッル それは、まあ・・・
 フェリックス 僕のことが厭でたまらなかった・・・
 セスィッル そうでないと言えば嘘に・・・
 フェリックス だって、ちっとも面白い話がない・・・
 セスィッル ええ、あなた、喋ってくれないでしょう? ただぼうっとしているだけで。
 フェリックス 喋らないと言えば君だって・・・。とにかく僕とはね。
 セスィッル あなただって、私とは・・・
 フェリックス 君だって、僕とは・・・
 セスィッル あなた、ちっとも話さなかった。あなた自身のことも、あなたの考えも、あなたのした事も。
 フェリックス それは君に同じお返しが出来るね。子供達に関すること以外は、君はまるで唖(おし)だ。君には僕はうんざりしていた。
 セスィッル 私に? あなた、私にうんざりしていたの?
 フェリックス 厭になるほどね。
 セスィッル 本当?
 フェリックス 何から何までね。サンキュキュファの森で、日曜日に散歩をしたね?
 セスィッル 行こうと言ったのはあなたよ。
 フェリックス 君を喜ばせようとしたんだ。
 セスィッル 余計なお世話だったのよ。あなたの後をついて歩くのは苦痛だったわ。
 フェリックス 何かはしなきゃと思ったんだ、君と。歩けば無理に話さなくてもいいからね。君が早く歩けば、僕はゆっくり歩いた。家で黙って顔をつき合わせているのは、もっとたまらないからね。
 セスィッル 私に話かけられないって、どうして?
 フェリックス 君がそうさせていたんだ。
 セスィッル 私が?
 フェリックス 沙漠の話をして、君を圧倒しようと思えば、出来たけどね。
 セスィッル 結局、もし本当にその話だったら、私・・・
 フェリックス でも君は、ノンフィクションは嫌いだからね。
 セスィッル そう。でもあなたは他のことには目もくれなかった。
 フェリックス だから僕は独りぼっちだったんだ。君を退屈させまいと思ってね。君の興味のない話をしても、結局は駄目なんだ。
 セスィッル でも今日は大成功じゃない。あなた、言葉を取り戻したわ。
 フェリックス それは喋ることが出てきたお陰だ。
 セスィッル もう何年になるかしら・・・会話らしい会話をしなくなってから。・・・今日が本当に初めて・・・
 フェリックス だって、あの話は話して価値のあるものだからね。僕はいくらでも喋れる気がするよ。
 セスィッル さあ、たっぷりおやりになって。ホッガー沙漠へ行ったら、たった一人になって、喋ろうにも・・・
 フェリックス 僕は若い時、もうその趣味があったんだ。でもママがああだろう? 何しろ暴君だからね。ママには背けなかった。ママは僕に、ママの思い通りのことをさせた。数字、数字、数字・・・。だけど、僕はそれほど数字が嫌いじゃなかった。法学をすませて、僕は会計士の仕事をやり始めた。「沙漠の男」が会計のプロに、税務の権威になったんだ。そこで君に出会った。二人は結婚した。ブリュノとスィルヴィが生まれた。君も僕も全く同じことをする運命になった。僕は沙漠をほったらかしにし、君はスキー競技を諦めた。
君は、刻苦勉励の世界、勝負の世界、を捨て、僕は沙漠の夢、人に知られない世界に沈む夢、を捨てた。二人とも自分の心の奥底にあったものを押し殺したんだ。子供がいる間は押し殺してもそれはそれで当然だった。しかし、子供が結婚した今、僕ら二人、顔を突き合わせて一体どうすればいいんだ。これから四十年間、ただ年をとるだけなのか。ただ年をとるだけじゃないなら何をする。これが君の考えたことだろう? 君はこの考えに呆然となった。それで先週、家を出ることに決めたんだ。違う?
 セスィッル 違わない。
 フェリックス そうだと思った。そして、家を出てからよく考えて、一人で生きることを決め、もう不要になった僕との麻痺した結合をたち切ることに決めた。その予定だったんだろう?
 セスィッル ええ。でもあなた、その時には分っていなかったわ。
 フェリックス その時にはね。そう。僕は生活を変えなきゃいけないと感じていた。だから、イヴリンヌに家を新築しようと思ったんだ。しかしこれは馬鹿な考えだった。これは生活の変化じゃなくて、ただの引越しだ。景色は変るけど、生活は変らない。もっと高度な問題が僕には見えなかった。それが見えるようになったのは、君のお陰だ。君は確かに僕より先にそれを見つけた。問題はまさに生活の変化・・・それも強烈な変化だ。君にはそれが必要不可欠に見えた。僕も同じだ。僕にとっての本質がはっきり見えたとたん、僕にはもう何の躊躇(ちゅうちょ)もなかった。賽(さい)は投げられたんだ。
 セスィッル 探険に行くのね?
 フェリックス 君と同じように、僕もはっきり分った。この水準まで本質に近づくと、他の細々(こまごま)した下らない問題はすっかり色褪(あ)せて消え去ってしまうということだ。元々大事な問題じゃなかったんだ、そんなものは。だけど、僕らはみんな愚かにもそれに拘(かかづら)わって、時には息も出来なくなるほど鼻を突っ込んでしまう。
 セスィッル しかしたいしたものだわ。こんなに早く帰って来られたなんて。日曜日には意気消沈。頭をぶん殴られたような気持だったんでしょう? それが、たった四日でここまで。おめでとう。
 フェリックス 僕が見つけられたのを本当に喜んでくれているんだろうね?
 セスィッル さっきのお母様との話で、このことは出たの?
 フェリックス いや、分ってはくれないだろうと思ってね。
 セスィッル あなた、かなり芝居がかった御帰還だったわね。あなたの最初の言葉を聞いて、まづはお母様と二人にしておこうって、スィルヴィと話したの。お母様、あなたがどこへ行こうとしているか、お訊きになったでしょう?
 フェリックス 旅行に行くつもりだって言っておいた。
 セスィッル ホッガー沙漠に? たった一人でって?
 フェリックス はっきりしたことは話さなかったんだ。
 セスィッル それはよかったわ。話していたら、今もお母様、ここにいたでしょうよ。まあ、いづれは話さなきゃならないにしても。
 フェリックス それはそうだ。でも、認めようと認めまいと、僕は諦めることはしない。もう僕は子供じゃないんだ。
 セスィッル まあ、こんなにしっかりしているあなたを見るのは初めてだわ。
 フェリックス そうだろうね。僕も自分の欲しているものがこんなにはっきり分ったのは初めてだからね。君に感謝しなくちゃいけない。僕より先にそのことを見つけたのは君だから。
 セスィッル でも、具体的な話、ずーっと沙漠にいっぱなしっていうんじゃないでしょう?
 フェリックス 勿論いっぱなしじゃない。最初の三、四箇月はホッガーとナイジェリア・・・まあ、僕のアフリカ横断旅行だね。ここらの地理には、僕は詳しい。長いこといろんな本をよく読んできたからね。四箇月したら帰って来る。君達みんなに会うよ。旅行の話をしたいね。それから、次の探険の準備だ。毎年一度は出て行く。
 セスィッル 第二の住みかね。・・・それが砂の上! 子供達が恋しくない?
 フェリックス 帰って来た時に会うからね。
 セスィッル 何もかも考えてあるのね。驚いたわ。
 フェリックス 気違いじみてるって思う?
 セスィッル 全然。ただちょっと・・・意外。
 フェリックス ねえ君、僕、悪い夫だった?
 セスィッル 何て話。ちっとも。まあ少しボーッとしている人だったけど。
 フェリックス 子供達が僕には興味を持ってくれなかったように思うんだ。君には興味を示していたけど。
 セスィッル あなたがあの子達に興味を示さないからそうなっただけ。お陰で私、年がら年中あの子達に振回されていたわ。あなた、サハラを歩く時、私達のことを少しは考えるふりでもするのね。そうすれば、家族と一緒にいる気分になるわ。
 フェリックス 君と僕とはあの意味でいう結婚生活は、もう長いこと送っていない。何故か君、分ってる?
 セスィッル そのことを話題にするの、お互いにとってよいことかしら?
 フェリックス はっきりさせておいた方がいいんじゃないかと思ってね。理由はね、ある時から、僕らの親密な関係は終った。君はもう、それが長く続くことを望んではいない、って僕が感じたからなんだ。単純なことだ。君が感じている事を僕は尊重したいと思った。僕は間違ってはいなかったろう?
 セスィッル あなたの言うことにはいちいち反駁しないことにしているの、私は。少なくとも真面目にはね。この問題でも、他のどんな問題でも。
 フェリックス それでも僕の君への愛情は変らなかった。そうでなかったら、僕と一緒に住みたくないと君が言った時、あんなに取り乱したりはしなかった筈だ。
 セスィッル 幸いなことにあなた、すぐ恢復したわ。四日ってそんなに長くないもの。
 フェリックス 幸せなことに、か。ここを出た時、僕の心は真っ二つに割れていたんだよ。君は去って行く! 必殺の一撃だ。僕は空中に分解して飛び散ったんだ。
 セスィッル それがどう? 今はたいしたものじゃない。「沙漠万歳」ね!
 フェリックス その通りだ。沙漠万歳だ! 細かいところまで計画を見せよう。地図は全部持っているんだ。この三十年間、内心ではこの問題を暖めていた。だけど、この話は君にはちっともしなかった。利己主義なんだね、僕は。今は僕は、君に興味がある。今日はこの家でたった二人で夕食をとるのは止めだ。盛り上がりそうにないからね。今夜の夕食はどうしても盛り上がらなきゃ。レストランに行こう。今夜は二人で外だ。喋ることはいくらでもあるぞ。まづ第一に、君のこれからのことだ。一人で生きる女性の人生、その設計図が知りたい。二人で乾杯しよう。君と僕に乾杯だ! さ、着替えて来て。僕は待っている。
(セスィッル、フェリックスを見つめる。何か言おうとする。が、結局止める。考えこみながら退場。)

     第 五 場
(昼の日光。ブリジットの甲高い声が聞こえる。)
 ブリジット トントン! 入ってもいいかしら?(半分開いた扉から頭を覗かせる。)ホーラ、不意打ちの伯母さんよ!(部屋に入る。)あら、誰もいないの? もうここは沙漠? でもラクダがいないわね。それとも瘤(こぶ)の数え方が悪いのかしら。
 スィルヴィの声 だあれ?
 ブリジット 不意打ちの伯母さんよ! 沙漠で迷って、おまけに南十字星が見えないの。
 スィルヴィの声 今行きます!
 ブリジット ガラガラ蛇に気をつけて!
(スィルヴィ登場。)
 スィルヴィ あら、ブリジット伯母さん!
 ブリジット お邪魔かしら? 私って、来るのはいつも邪魔な時だから・・・
 スィルヴィ 全然! どこもかしこも缶詰だらけ! 天井に届くほど! 手伝ってるの。私、鼻の頭に埃がついてる筈。でもいいわ、挨拶のキス、させて頂戴。
 ブリジット 今日は、スィルヴィ。じゃあ、あの話、本気なのね?
 スィルヴィ 何が本気?
 ブリジット サハラに行くって・・・あの話。私の理解力じゃ、何が何だかさっぱり。
 スィルヴィ 本気も本気、これぐらい本気なことってないくらい。この一週間、沙漠で着る衣装の話ばっかり。ターバンだの、ジェラバだの、ガンドゥラだの・・・夏用、冬用、春秋用・・・パパはタルギしか着ようとしないし、話といったら、アセクレム沙漠、アタカール沙漠・・・そこでたった一人で生きる時の孤独の話・・・
 ブリジット あの「アトランタ大陸」の読み過ぎよ。アンティネア姫とでも恋におちたのね。全く、子供にかえるってこのこと。フェリックスならありそうなことよ。で、ママもすっかりその気なの?
 スィルヴィ ママ? ママはいつも通り。仕事となったらとことん動き回る、例の調子。命令を受けて、自分でそれを消化して、今度は計画を建てて人を差配して、全勘定をして・・・蜜蜂の女王様。家中いろんな品物でいっぱい・・・まるで駅の倉庫。
 ブリジット そしてママが駅長さんね。頭に駅長の帽子、手には呼び笛(こ)・・・
 スィルヴィ まあそんなところ。そしてパパったら、もうまるで別人。今までのパパなんかどこかに吹っ飛んで、あちこち、あちこち、走り回って、怒鳴りちらして・・・
 ブリジット 怒鳴りちらす?
 スィルヴィ 急に恐ろしい人になっちゃったの。自分が必要なものはきちんと分っている。暑い時、寒い時、昼間にはこう、夜にはこうって。沙漠で生きて行くためのあれだけの知識、どこで仕入れてきたのかしら。今までずっとサハラで暮してきたって言われてもおかしくないわ。ホッガー沙漠のことを、まるでサンクルー街、フォンテヌブローの森のことを話すように気軽に話すの。今まで殆ど口をきいたことのないパパのことを、今ではみんなパパの言うことしか聞かないわ。
 ブリジット 男って測り知れない神秘なところがあるものね。誰かがもし昔こう言ってたら・・・五十歳になったらフェリックス、何もかもほったらかしにして、急にお喋りになって、サハラに旅立つだって・・・そんなことを言ったとしたら、その誰かのことを気違いだと私思ったでしょうね。でも、フェリックスがなったのも結局のところ気違い。それで別に私、気分悪くないけど、やっぱり少しは驚いたわ。沙漠の砂には魔法があるのかしら。砂だわね、あの人の頭を狂わせたのは。砂のたてる蜃気楼のせい。小さい時のトゥーケーでの隠れんぼのせいかもね。でも素敵。あなたのパパがこんな無鉄砲なことが出来るなんて。とにかく素敵!
(セスィッル登場。両手に大きな、紙を巻いたローラーを抱えている。)
 セスィッル あらブリジット! あなた、風邪はどう?
 ブリジット 風邪なんて捻り潰してやったわ。もう終。私、何か手伝うわ。それ何? 一体。
 セスィッル あの人を驚かせてやるの。
 ブリジット それ、ばんそうこう? 傷が出来たら、貼ろうっていうの?
 セスィッル スィルヴィ、そこの入口の踏台を取って。これをどこかにちゃんと置くの。
 スィルヴィ はいはい、畏まりました。
 セスィッル ブリジット、あなた、その肘掛け椅子に上って、そこにかかっている絵を取って下さらない?
 ブリジット 私が? 勿論! すぐに。働き蜂の仕事、喜んでするわ。
(スィルヴィ、踏台を持って来る。)
 スィルヴィ 待って、おばさん。私、手伝うわ。
 ブリジット 大丈夫よ。絵ぐらい外せるわ。
 スィルヴィ 重いのよ、それ。
 ブリジット 引っ越し人夫顔負けの筋肉があるのよ、私。そーら。(絵を外す。)あら、重いのね。見た目には軽い水彩画がこんなに重いなんて! どこに置くの?
 セスィッル 床に置いて。それからスィルヴィ、あなたはその踏台をそこに置いて。今度は私が登るから。(踏台の位置を少し変えて、上る。)さ、見て頂戴。
(親指と人差指で紐をつまんで、ぐっと下に引く。巻いたものがほどけて、床まで落ちて来る。サハラ砂漠の旅の行程の地図が布に描かれたもの。アルジェリアからタマンラッセまで、それからナイジェリアを越えてアガデスまでの。非常に綺麗に描かれている。)
 ブリジット まあ、素敵ね。うっとりするわね。これ何?
 セスィッル ね? 綺麗でしょう? あの人の旅の行程。地図の専門家に描(か)いてもらったの。いい出来栄えでしょう? ね?
 スィルヴィ でもママ、これ、何にするの?
 ブリジット 砂の上に拡げて、自分のいる場所に目印をつけるのよ。毎晩、「ここまで来たぞ」って、バツ印をつけるの。面白いでしょうね、フェリックス。
 セスィッル まさか。こんなもの持って行ける訳ないでしょう?
 ブリジット あら、それもそうね。
(セスィッル、踏台から下りる。)
 セスィッル これ、あの人の最初の旅の記念よ。
 スィルヴィ ああ、帰って来た時のパパへのお土産?
 セスィッル いいえ、出発する前のお土産。あの人きっと大喜びよ。出かける前の一週間、いつもこれを見つめているわ。その眺めている時には、私、あの人を荷物の山の中にほったらかしにして置かない。ね? 綺麗なものでしょう? この絵。アルジェー、ガルダイア、エル・ゴレア・・・この背景・・・素敵な棕櫚(しゅろ)の木。アンサラがここ、そしてここがホッガー、タマンラッセにフーコー神父の修道院。タマンラッセまでの道程はちゃんと色をつけてある。今では誰でも車や飛行機で行ったりする。でもそんなのはただの観光。遊びだわ。たいした面白みもありはしない。でもフェリックスはタマンラッセで車は終り。そこからニジェールまではキャラバンに入れてもらって行くの。沙漠の本当の生活はトゥアレグ族とラクダの背に乗ってでなくっちゃ。車は駄目。だから私達、沙漠用の服を集めたの。皆に手伝ってもらって数を揃(そろ)えたけど、沙漠で着る物ってそれは大変なものよ。フェリックスったら、それをみんな空で覚えているんだから。そう、キャンプ用の品物、食事のための道具、薬・・・何だって分ってる!
 ブリジット 蛇がいるでしょう? 蛇のための用意はしてあるの?
 セスィッル 蛇はいないわ。
 ブリジット サハラに・・・蛇がいないって?・・・じゃ、ガラガラ蛇は?
 セスィッル あの人の友達が何箇月もサハラで暮して・・・それで見たことがないんだって。素敵なのは夜なんだって。沙漠に穴を掘って、そこで寝るのよ。完全な静寂・・・場所によってはジャッカルが近づいて来ることもあるけど・・・でも、精々がそれだけ。
 ブリジット(羨ましそうに。)砂の穴のベッドにいて、周囲にジャッカル・・・いいわね。急に友達になれるんじゃない? でも私、暗闇が怖くて・・・ジャッカルの方で私をかもしかと間違えるんじゃないかしら。でもこんなこと、人によって違うわね、勿論。でもいいわセスィッル、何て素敵なんでしょう。あなた、フェリックスに負けないぐらいもう沙漠の女ね。あなたって驚きだわ。あなたの話を聞いてたら、あなたも今までずっと沙漠に凝り固まっていたんじゃないかって思うわ。
 スィルヴィ この一週間、沙漠、沙漠、沙漠。沙漠しかなかったの。
 ブリジット それが理想的な伴侶っていうものね。私、いつも言ってたわ、それを。でもあなた、すぐにその考えになったの?
 セスィッル その考えって、何の考え?
 ブリジット 夫はもう沙漠探検家になるんだって考え。
 セスィッル ええ、そうよ。
 ブリジット それで驚かなかったの?
 セスィッル ええ、驚いたわ、少し。最初の日は。あの人がそのことを言った時、私、確かに・・・ええ・・・驚いたわ。
 スィルヴィ それはそうでしょう!
 セスィッル でも、あの人とても詳しく説明してくれたわ。母親のせいで、自分がどれだけ沙漠への情熱を抑えていなきゃならなかったか・・・代償作用で、キャタピラ自動車、ドキュメント映画、専門家の本にどれだけ浸(ひた)ったか・・・あの人がその知識を披露するのを聞いて、私、あの人がこの問題にどれだけ真面目に取り組んでいたかを知ったの。それで私は降参。驚いて納得。あの人の夢を適(かな)えて上げるのが当然という気分になった。本当よ。反対するなんて馬鹿げている。私、出来るだけ手助けしようって決心した。沙漠の時期のこともあって、出発は一週間後がいいっていうことも。
 ブリジット 一週間後?
 セスィッル だからこんなに急いでるのよ。
 ブリジット お母様は御存じ?
 セスィッル 最初の日、母親にはあの人、話せなかったの。
 ブリジット 無理もないわ。
 セスィッル 二、三日経ってから話したの。分るでしょう? お母様、とんでもない叫び声を上げたのよ。でも、どうやら落ち着いた様子。探険中に土日のいつか行ってもいいかって・・・それだけ。
 ブリジット ホッガー沙漠に? あの母親、子供よりもっと気が狂ってるわ。
 スィルヴィ そう、もっと。
 ブリジット いい? ちょっと私、この話をずっと聞いていて、変なことに気がついたわ。あなた、どうしてあの人と一緒に行かないの?
 スィルヴィ 何ですって!
 ブリジット ほら、あなたもこの人の子でどうして気がつかないの? この人、行きたくてたまらないのよ。もう十五分も前から気づいていたわ。この人、一緒について行く気よ。
 セスィッル(笑う。)ブリジット! あなたの目、千里眼ね。
 ブリジット 千里眼?
 セスィッル 丁度いいわ。今二人ともいるからお話しましょう。私も発つの。
 ブリジット そうだと思った。
 スィルヴィ 何ですって?
 セスィッル パパには内緒にしているの。驚かせてやろうと思って。
 ブリジット 素敵だわ。
 スィルヴィ でもママ、それ気違い沙汰よ。
 セスィッル パパほどじゃないわ。私達二人、二十五年間もお行儀よく暮してきた。だから少し気分を変えたっていいのよ。情熱を押し殺していたのはパパだけじゃなかったの。私だってそう。娘時代私は雪に情熱を持っていた。そして雪と雲の間の孤独を愛していた。そこに私の幸せがあったのよ。そうしたらあの人も同じだったんじゃない。あの人の方は沙漠の中の孤独だけど・・・だから私、あの人と一緒に行くことに決めたの。気違い沙汰かどうかは私には分らない。でも、理詰めで考えるとこうなるでしょう? さ、これであなた方二人には言ってしまった。もう私、ぐずぐずしてはいないわ。あの人が帰って来たら早速言いましょう。言う言葉はもうとっくに決めてあるの。
 ブリジット あなたって素敵! ジャッカルを撃ち殺すためのカービン銃をちゃんと枕元に置いて、砂の穴に寝るのね? そのあなたの姿が見えるようよ。
 スィルヴィ ママ、私、気絶して倒れちゃいそう。
 セスィッル 気を確かに持つのよ。
 スィルヴィ 本当に本気なの?
 セスィッル あの人を驚かせる権利、私にある筈よ。私、行くための準備もこっそりやってあるの。あの人に必要な物は全て二人分。だからこんなに荷物が多いの。
 スィルヴィ それでパパがもし反対したら?
 セスィッル ああ!(それは考えていなかった様子。)そうね、その時は・・・私は辞める。それだけ。私、あなた方二人の前で、あの人にこの話をする。だから、ちゃんと証人になって頂戴。あの人がどういう反応をするか。勿論あなた方はこの話、初めて聞くのよ。知ってるなんて顔、駄目よ。私がこの話をする。そしたら二人ともビックリ仰天。スィルヴィ、あなたは気絶して倒れるの。
 スィルヴィ 今でもその気分よ。
 セスィッル じゃ、気を確かに持って。(扉を叩く音がする。)あ、あの音、あれはそうよ。
 ブリジット さあ、キャラバンの男、登場!
 セスィッル パパの扉の叩き方分るのね? すごい!
(フェリックス登場。)
 フェリックス ああ、来てた? 今日は。(垂れ下がっている絵を見て、ピタッと立止まる。)ウーン、いいね。何? これ。
 セスィッル あら、あなた、分らないの?
 フェリックス いや、それは分るさ。でもこれを荷物と一緒に持って行けって言うんじゃないだろう?
 ブリジット 沙漠の男に妻が贈る贈物よ。
 フェリックス 贈物?
 セスィッル あなたの旅の行程よ。お気に召して?
 フェリックス 綺麗なものだね。でも、変だな。どこで見つけてきたんだ?
 セスィッル 見つけたんじゃないの。描かせたの。
 フェリックス 特別誂え? 画家に描かせたの?
 セスィッル そう。特注!
 フェリックス 少し気違いじみてるね。でも、よく気がついたね。優しいよ。有難う。
 セスィッル あなたのお部屋に置いて。出かける前に行程をよく見ておけるし、帰ってからも見るの、楽しいわ。
 フェリックス 有難う、本当に。とにかく色が綺麗だよ。
 セスィッル スィルヴィ、あなた、お茶の用意、お願い出来るかしら。
 スィルヴィ 勿論。今すぐ。
 ブリジット サハラの男には緑茶をね!(スィルヴィ退場。)ねえフェリックス、あなたってとんでもないことをする人ね。
 フェリックス 僕が?
 ブリジット あなたがよ。あなた以外に誰がいるっていうの。だいたいあなた、フォンテヌブローの森で沙漠の練習、やっていないでしょう? サハラでたった一人、どうするつもり? あの森にはちゃんと沙漠もあるのよ。知ってた?
 フェリックス 掌(たなごころ)を指すように頭に入っているよ。
 ブリジット でも、日曜日に練習はしなかったのね?「本番は突然」っていう主義ね。
 フェリックス よく分ってくれてるね、姉さん。セスィッル、この缶詰の箱はどうしたんだい? 入って来てすぐ目に入ったけど。
 セスィッル 食糧よ。軍隊で使う牛肉の缶詰。
 フェリックス 僕に?
 セスィッル あなたが沙漠で何か食べてるから、私もここで保存用食糧を食べるって言うの? そんなこと、しないわ、私。
 フェリックス 僕も缶詰はいらないよ。沙漠でそんなものは食べない。トゥアレグ族はイスラム教徒だからね。忘れては困るよ。「モノッド」の本を渡したろう? ああ、まだここにある。まだ開いてもいないのか? ページに栞(しおり)を挟んでおいた。(本を取って。)五十四ページと五十五ページだ。この旅行者が自分の日記から転写したサハラのメニューのサンプルがある。いいかい? 四月十四日。昨夜の夕食。サハラの茶三杯、ヨーロッパ風の緑茶、煎じたもの三杯。米一杯。羊の乳一リットル。
 セスィッル まあ豪勢ね。トゥール・ダルジャンなみ!
 フェリックス 四月二十六日。ダイエットのため朝食は抜き。
 セスィッル いいわ、そのダイエットのやり方。私も行けないなんて残念!(ブリジットに目配せする。)
 フェリックス 十一時。茶四杯。ケッセラ一欠片(かけら)。夜、茶、米、それにパイ。
 ブリジット ケッセラって何?
 フェリックス 沙漠の砂で焼いた小麦のビスケット。
 セスィッル 素敵!
 ブリジット お茶ばかりそんなに飲んだんじゃ・・・少しはたしになるもの、腹に詰め込まなくちゃ。
 フェリックス いいかい? セスィッル、次を聞いて。十月二十二日フライパンいっぱい米を煎(い)る。
 セスィッル すごい!
 フェリックス 十月二十三日、メニューに二品。とうもろこしの粉に米の粉。
 ブリジット 御馳走!
 フェリックス 十月三十日、大麦の粥(かゆ)に焼いたキリギリス。緑茶に羊の乳。
 ブリジット あらあら、焼いたキリギリス。そんなに有難いって感じしないわね。
 フェリックス 分るだろう? セスィッル。沙漠の食事はヨーロッパ風には行かないんだ。蛋白質はせいぜいがカモシカの肉、それにとかげ・・・
 セスィッル それにキリギリス。たいしたものね。
 フェリックス 君が食べるんじゃないからね、セスィッル。
 セスィッル それもそうね。
 ブリジット セスィッルがさっき話してくれたけど、サハラには蛇がいないんだって・・・本当?
 フェリックス 水のあるところには蛇などいくらでもいる。そこから離れるに従っていなくなる。でも、用心にこしたことはない。でも丁度いい。ほら、これ。今日貰って来たんだ。非常に珍しいもの、とても手に入らない代物。沙漠で長いこと暮した神父さんが、特別に僕にくれたんだ。
 セスィッル そんな神父さんと、どこで会って来たの?
 フェリックス ノートルダム寺院だ。そこに修道院があってね。(ポケットから包みを取出し、開く。)ほら、これは「黒い石」って言われている。土着の人達でもこれを持っている人は少ない。世界でも珍しい物質だからね。だから手に入れるのは大変なんだ。僕はたまたまこれを持っているという神父さんを知っていて・・・「黒い石」と言っても本当は「石」じゃないんだ。固い固いゴムのようなものだ。これで蛇の毒に対抗出来る。沙漠には冷蔵庫はない。だから、毒蛇のワクチンなど持って行けないんだ。この「黒い石」がその代りの役をする。蛇に噛まれるとすぐこれをその場所にくっつける。肌に触るとこの石は吸入を始める。蛇の毒を吸い上げるんだ。毒は完全に体外に出てしまう。それだけじゃない。吸入が終って石を牛乳の中に浸すと、毒はまた牛乳の中に出てしまって、次の事故の時にまた使用出来る。素晴らしいだろう?
 ブリジット でもそれは結局、沙漠には蛇がいるっていうことじゃない。
 フェリックス とにかくすごいだろう?
 ブリジット 全く子供ね。おもちゃで遊んでるみたい。十四歳の男の子よ。
 フェリックス 命を救うおもちゃだよ。いいおもちゃじゃないか。
 ブリジット その黒い石よりもっと驚いたことがあるわ。それはあなたのその話し方よ。そんなに喋るあなたを私、初めて見たわ。
 スィルヴィ(訳註 スィルヴィはどこかで戻って来ている。)ほらね? 言ったでしょう? パパは前とは今はすっかり違う。話が次から次に出てくるの。
 セスィッル それは分ってあげなくちゃ。これから先、昼も夜も、誰にも話が出来ないんですからね。出発前ぐらいは喋りたいだけ喋らなければ。それはそうと、トゥアレグ族って、フランス語は話さないんでしょう? 何語?
 フェリックス タマシェク語。
 セスィッル 何もかも分ってるのね。で、あなた、そのマタシェク語、習った?
 フェリックス いや。でも、ガイドがいてね、それが南アルジェリア人で、フランス語も喋るんだ。問題はないよ。
 セスィッル 素晴らしいわ。何もかも解決ずみなのね。ちょっと待ってて。私、電話をかけなくちゃ。
 フェリックス 缶詰屋に電話して、あの箱全部引き取って貰ってくれ。
 セスィッル 焼きキリギリスをあなたに送って貰おうかしら。
(セスィッル、ブリジットとスィルヴィに目配せして、退場。)
 フェリックス ママはね、気分だけは沙漠にあるけど、全く頓珍漢(とんちんかん)だ。沙漠のことなんかまるで分っていない。それなのにこの地図、えらいことを考えつくもんだ。一体どういうことなんだ? 僕の出発を聞いてママ、少し興奮ぎみなんじゃないか?
 スィルヴィ ママのことはパパ、よく知ってるでしょう? 何でも中途半端にはやらない人よ、ママは。パパの探険のこともまるで自分が行くような気分でいる筈だわ。
 フェリックス ママが僕と一緒に行くだなんて、第一足手まといじゃないか。いや、たとえ万一ママがそんな気を起したとしても、沙漠での食事のメニューをさっき話したね? あれを聞けばどんなにその気になっていたって、決定的に熱がさめる筈だよ。サハラについて僕が喋ると必ずこうなるんだ。
 スィルヴィ ということは、パパは賛成しないってことね?
 フェリックス 賛成しない? 何に?
 スィルヴィ ママが一緒に行くことに。
 フェリックス まあ・・・冗談は止めにしておこうよ。
 スィルヴィ 冗談じゃないの。じゃ、駄目っていう腹づもりにしておかなくちゃ。
 フェリックス 何だって?
 スィルヴィ パパの反応を見て、私、これは言っておいた方がいいって思ったの。ママは一緒に行く気よ。本気で。
 フェリックス まさか!
 ブリジット スィルヴィと私にそのことを宣言したの、あの人。あなたを驚かせようって。あなたには黙っていたけど、今度はあなたを含めた三人の前で宣言するつもりでいるわ。
 フェリックス まさか、そんな!
 スィルヴィ ママはパパが賛成してくれるものとばかり思っているわ。だから私、内緒だったけどパパに話したの。その返事をうまくして貰うため、時間稼ぎに。ママはパパの反対にあったらきっとショックよ。あの絵のことであんなにママを喜ばせた後だから余計・・・
 フェリックス 一緒に発つ! それは驚きだな。
 スィルヴィ ママの気持では、当然という感じよ。
 ブリジット 冒険と大きな空間・・・あなたが自分と共通の興味を持っているってことが分ったのね。あの人は雪、あなたは砂、その違いはあっても、それは大きな空間、そして孤独・・・
 フェリックス でもね、君達、考え落していることがあるんじゃない?
 スィルヴィ 考え落しているって?
 フェリックス その意味するところだよ。ママが一緒に行きたいっていう・・・
 スィルヴィ 意味するところって、つまり、ママはパパと別れたくないってことじゃない。
 フェリックス そこ、それなんだ。凄いよ、これは。ね?
 ブリジット 予期せざる出来事ね。でも・・・やっぱり悪いことじゃないわ、これは。結果はなるようにしかならないだろうけど。
 フェリックス 地面にばったり倒れるね、僕は。
 スィルヴィ あら、パパもそう言うの?
 フェリックス どうかした? この言葉。
 スィルヴィ ママがさっき宣言した時に、私が言ったのがその言葉。
 フェリックス やはり出る言葉だよ、こういう事態なら。
 スィルヴィ それで?
 フェリックス それで・・・何だい?
 スィルヴィ 反対? それとも連れて行く?
 フェリックス そう、そこだな。・・・そこだ、問題は。とにかくママがその事を言い出す時には二人とも席を外してくれないか? こんなのは家族会議で決めることじゃない。ママと二人だけで決めることだからね。
 ブリジット 分ったわ。任せといて、消えるの。
 スィルヴィ あまり邪険にしたら駄目よ。それから、私達何も言ってないんですからね。気をつけて!
 (玄関にベルの音。)
 フェリックス また缶詰じゃないだろうな?
(スィルヴィ、扉を開けに行く。)
 スィルヴィ(戻って来て。)おばあさんよ。
 マダム・ランベール フェリックスいる?
 スィルヴィ ええおばあさん、みんな揃ってるわ。
 マダム・ランベール あらブリジット、来てるって分ったわ。玄関に二馬力の、例のあの車があったからね。いつものようにバタバタ羽根を動かしていたわ。
 ブリジット 羽根を動かし始めてからもう二年も経つわ。
 マダム・ランベール 身が軽いのね。あなたと同じ。あなた、まだあれで空を飛んではいないの?
 ブリジット ええ、離陸しそうだなって思ったことは何度もあるけど。
 マダム・ランベール 今日は、みなさん。(フェリックス、母を抱擁。マダム・ランベール、沙漠の絵を見る。)おや、これはお前が今から行こうとしている場所の絵だね。木陰で、快適に見えるわ。私、長居は出来ないの。五時にブリッジの会があって、遅刻は出来ないから。
 フェリックス でもまあ、坐るぐらいはいいでしょう。
 マダム・ランベール そう。ちょっと休んでから出かけます。セスィッルはいないの?
 スィルヴィ 部屋に戻って電話をかけているところなんです。
 マダム・ランベール ここへ来たのはねフェリックス、お前にお土産があるからなの。
 フェリックス 僕にですか? それは御親切に。いや、今日はお土産攻めの日だな。それに、嬉しい不意打ちの日だ。
 マダム・ランベール このお土産はね、お前、きっと喜ぶよ。とても変った物でね、そんじょそこらにはない物なんだ。沙漠の男だけが持っている。世界にも稀(まれ)な代物(しろもの)だよ。私はね、本当に特別に、沙漠にいたある白人の神父さんからこれをね・・・
 ブリジット 黒い石・・・ね!
 マダム・ランベール どうして知っているんだい? お前。
(全員大声で笑う。)
 フェリックス じゃ、黒い石なんですね?
 マダム・ランベール お前も知っているのかい?
 フェリックス(自分のを見せて。)神父さんがくれてね、今丁度みんなに見せたところ。
 マダム・ランベール シャルル神父?
 フェリックス そう。みんながその人のところへ行けと言うから。
 マダム・ランベール 私も。
 フェリックス ノートルダム寺院の?
 マダム・ランベール そう。すぐにくれた?
 フェリックス いいえ、世界中捜してもそう多くはないものだって・・・
 マダム・ランベール どうやらシャルル神父、かなり沢山持っているらしいわ。怪しいわ。蛇の毒を吸い取るっていうこの石、どうやら沙漠の初心者をかつぐ材料みたい。そうそう、あの人、お前にも分けたっていうのね? 修道院に寄付をしろって言わなかった?
 フェリックス 二万フラン。
 マダム・ランベール 旧フランで?(訳註 百旧フランが一新フラン。)
 フェリックス 当り前です。
 マダム・ランベール 私には四万フラン。あの神父、カプチン派だっていうけど、ギリシャ系ユダヤ人ね。明日、あの頬髭を引き毟(むし)りに行ってやる。たいした商売人よ、全く。
 フェリックス 二人ともまんまと騙されたようですね。ひとつきに三個づつ売ったとして、今頃は一財産作っていますよ。
 マダム・ランベール あの石、ミシュランで作らせているのね、きっと。タイヤのゴムにそっくりだもの。(笑う。)さ、これで用事は終。黒い石が用件だったんだけど、大失敗。私、自分が失敗するの、好きじゃないの。私って、そうは失敗しない人間なのに。さ、みんなにお別れのキス。そして、行くわ。セスィッルにもよろしくね。
(マダム・ランベール、立上る。扉が開き、セスィッル登場。カーキ色のブラウスに小さな半ズボン。それに狩猟用の帽子。)
 セスィッル ほーら!(マダム・ランベールを見て驚く。)ああ、お母様! いらしてるって知りませんでしたわ。
 マダム・ランベール 私達に何か歌ってくれるっていうの? その格好。
 セスィッル いいえ、私・・・
 マダム・ランベール 荷造りをするのにボーイ・スカウトの格好がいいっていうのね? 確かにそれ、あなたによく似合うわ。
 セスィッル いいえ、これはフェリックスを驚かせるための衣装。この衣装、気にいるかなと思って。そして「私も一緒に沙漠に行くわ」って言ったら、気に入るかな? と思って・・・
(ブリジットとスィルヴィ、両方同時に言う。)
 ブリジット まあ驚いた。聞いたことのない話! 驚いた話だわ!
 スィルヴィ まさか。本気じゃないでしょう? 私、床に倒れちゃうわ。
 マダム・ランベール まあ、これは驚いたわ。驚きと同時に安心。私はあの子がたった一人で発つっていうのが気になっていたの。あなたのような偉丈夫が一緒なら私も安心。どんな危険が来たって、これならあの子、立ち向かえるわ。それから、私はね、考えに連続性のある人間が好きなの。一週間前にはあなた、フェリックスとは顔をあわせるのも厭だった。それが今日、沙漠でフェリックスとたった二人で四箇月も暮そうって言う。こうでなくちゃね。これが論理というものよ。おめでとう! あなたの衣装、大成功だったわね。さ、私はこれからブリッジ。そうそう、それからね、フェリックス、あなた、あちらにいるとき盲腸炎には気をつけるのよ。サッカリンをつけてキリギリスを食べてると、なるかもしれない。その時には必ず私に電話で知らせて。すぐ外科医と二人で駆けつけるからね。じゃ、さよなら。
(マダム・ランベール退場。)
 ブリジット 私、一緒に行くわ。
 スィルヴィ 私も。
(二人、マダム・ランベールと一緒に退場。)
 セスィッル あら、どうしてみんな行っちゃうの?
 フェリックス 車のところまで見送りじゃないか? 君、そのサハラ行きの衣装、いいね。どこで捜してきたの? よく似合うね。ピッタリだ。それから、あれはおかしかったね。ママがすっかり君の冗談にひっかかって・・・
 セスィッル 何? 冗談て。
 フェリックス あれじゃないか・・・君がさっき言った・・・
 セスィッル でもフェリックス、あれは本気よ。
 フェリックス 本気?
 セスィッル ええ、あなたへの贈物。
 フェリックス 冗談じゃないって?
 セスィッル ええ、勿論。
 フェリックス 君、本当に僕と行くの?
 セスィッル ええ。
 フェリックス まさか。
 セスィッル いいえ、本当に、よ。
 フェリックス 全く大変なことを言う女だよ、君は。
 セスィッル そんなに高くつくの?
 フェリックス まあね。
 セスィッル 連れて行きたくないの?
 フェリックス だって・・・気違い沙汰だよ、これは、ね? セスィッル。
 セスィッル どうして?
 フェリックス どうしてって・・・他に言いようのない気違い沙汰なんだよ。そのボーイスカウトの格好で出てきて、突然。おまけに、もう決り切った事っていう調子で宣言するとはね。
 セスィッル そう・・・
 フェリックス とにかく呆れたよ。
 セスィッル 驚いて・・・喜んでくれると思ったんだけど。
 フェリックス だってね、分りそうなものだよ、ね、セスィッル・・・
 セスィッル 私に、分ってない?
 フェリックス そう。
 セスィッル 何が?
 フェリックス 何がって、勿論無理だってことがだよ。
 セスィッル どうして? あなた、私に汚いことが出来ないって思っているんでしょう。それは誤解よ。焼きキリギリスだって、砂の中で焼いたビスケットだって、何だって食べるわ。私の胃、駝鳥の胃と同じよ。
 フェリックス 食べ物の話だけじゃないんだ。
 セスィッル 暑さのこと? 目の中に入って来る蝿? ラクダの臭い? ガラガラヘビを怖がると思って? ガラガラ言いたいなら、言わせておけばいいの。私、ちゃんと聞こえます。つんぼじゃないの、私は。
 フェリックス たいした勢いだね。だけど、一人で行くっていうのと、二人で行くっていうのは自(おのずか)ら全く違ったことなんだ。
 セスィッル そう、違うでしょう。二人で行った方がずっと楽しいのよ。そんなこと決っているでしょう?
 フェリックス でもね、セスィッル・・・
 セスィッル さっきから、「ね、セスィッル」「ね、セスィッル」ね。どうしたの? あなた。
 フェリックス いや、君の魅力に参ってるんだ。
 セスィッル 何かしら、魅力って。
 フェリックス この事に君がそんなに本気になってくれるなんて信じられない。何て言ったらいいか分らないくらいなんだ。
 セスィッル 何も言わなくていいの。もうこれで充分。
 フェリックス 君に辛い思いをさせたくないんだ、僕は。
 セスィッル まああなた、私、辛い思いなんかしないわ。あなたが私に辛い思いなんかさせられる訳がないでしょう? 一緒に行きたいっていうのは私の考え。面白いだろうなって思ったから。でも私、馬鹿だからそんなの大切なことじゃないの。私のことは御存知でしょう? 明日になればまたすっかり考えが変って大丈夫になるの。私のことは心配御無用! あなたが賛成してくれないからと言って、ごねたりなんかするものですか。私はそんな女じゃないの。でも、もしあなたが叫んでくれたら!「そいつは嬉しい。何ていう名案だ! これ以上の幸せは僕にはないよ」と叫んでくれれば、それはまた大変なことよ。そうなれば、あなたと沙漠の宏大さ、その秘密、その沈黙、その危険を共にするのよ。素敵だわ! それにこの二十五年間の結婚生活の間中、お互いに共通の趣味なんて何一つないと思っていたのが、宏大な空間の中で冒険という共通点を持っていた・・・それもその発見した時が二人で共に「これではいけない。すっかり生活を変えなくちゃ」って感じた時だったなんて・・・おかしいわ。気が狂ってるみたい。二人共急に二十歳になったの。子供に生まれ変ったの。ゼロから再出発、それも沙漠から始める! そう、この年になって二人で一緒に若さを見つけるなんて! 何て思いがけない、何て素敵な事なんでしょう。ああ、でもあなた、反対なのね? あなた、私と一緒じゃ厭なのね? 分ったわ。私、あなたの足手纏(まと)いにはなりません。もうこの話は止めましょう。簡単なこと! もう話題にしないの! 私、半ズボンを脱ぐわ。
(フェリックス、ゲラゲラっと笑い始める。)
 フェリックス とんでもない。話題にするんだ! そう、このことしか話さないんだ。いや良かった。素晴らしい考えだ。それに、僕はこんなに幸せになったことは一度もないよ。
 セスィッル 何ですって?
 フェリックス(笑う。)なななかいい芝居だったろう? 僕は。
 セスィッル 何のこと? 分らないわ。
 フェリックス ほら、今僕がやった芝居だよ。君を連れては行けないって顔をして・・・うまかったろう?
 セスィッル まあ・・・そう?
 フェリックス そうさ、行けるんだ!(セスィッル、驚いて言葉なし。)君は完全だった。完璧だったよ。あんなにうまくやるとは思わなかった。
 セスィッル じゃ、今のは冗談だったのね? あなた子供よ、悪戯っ子。それに意地悪だわ。子供と同じ。
 フェリックス 君だって僕を担(かつ)ごうとしたじゃないか。僕と一緒に発ちたいのを僕には隠して、ちゃんと衣装なんか用意して。スィルヴィとブリジットが君の秘密をばらしておいてくれたお陰で最後の瞬間のショックは緩んでいたので良かったんだ。
 セスィッル(ちょっとの間の後。)じゃ次のショックが来るわよ、ちゃんと身構えて。
 フェリックス 次の? いつ?
 セスィッル 今よ。あなた、私の「ふり」が読めなくて、すっかり騙されちゃったの。
 フェリックス 僕が・・・君の「ふり」を読めなかった?・・・すっかり騙された?
 セスィッル あなたと一緒に発ちたいという・・・「ふり」・・・
 フェリックス 何だって!
 セスィッル だって、それはそうでしょう?
 フェリックス じゃ、君、行かないの?
 セスィッル あなたのお母様・・・あの人はすぐこれが冗談だって分ったわ。あの人、ちっとも騙されなかった・・・一秒も。私、お母様には一緒に行くというのを信じて貰いたかったわ。でも、全く駄目だった。だから、あんな風に出て行くのを止めもしなかったの。
 フェリックス じゃ、結局君は一緒に行かない・・・
 セスィッル だってフェリックス、当り前じゃないの。
 フェリックス 何故?
 セスィッル 本当に行くと思ったの? だってちょっと考えたら分るじゃない。
 フェリックス 何を考えたら・・・?
 セスィッル だって、考えたら・・・無理よ!
 フェリックス 何故無理? 何が無理なんだ? 君、怖いの?
 セスィッル ええ、怖いわ。何もかも。蛇も、ラクダも、ジャッカルも。それに私、暑いのは駄目。いつだって私、水ばかり飲んでいるじゃない。
 フェリックス じゃ、どうしてあの二人に一緒に行くなんて言ったんだ。
 セスィッル 二人があなたに話す、そうすればあなた、信じるだろうと思って。二人がやってくれるのは分っていたの。だからあなたとあの二人だけにして私は出たの。
 フェリックス 嘘だろう?
 セスィッル いいえ、これは本当。
 フェリックス 僕にそんな酷い罠を?
 セスィッル まあね。
 フェリックス 酷い奴だな・・・これは酷いよ。
 セスィッル いいえ、これは遊び。あなたと同じ。これはあの時の敵(かたき)討ち。それから・・・今のが一番よく効いた冗談。あなた、本当にいっぱい食わされたでしょう?
 フェリックス ええっ?・・・「今のが」?・・・いっぱい食わされた?
 セスィッル ほーら、驚いた!(笑う。)うまく騙したでしょう?
 フェリックス 全く! 一体どうなってるんだ、この話は!
 セスィッル お母様は私の言うことを全く信じていなかった。あなたは私のサハラ行きを予(あらかじ)め知らされたけれども、信じなかった。最初そう私に言ったでしょう? だから私、本当に馬鹿な役どころになってしまった。おまけにあなたはきっぱりと「連れて行かない」と言う。これじゃ仕返しはどうしても必要じゃない?
 フェリックス じゃ、さっきのは僕を騙したということか。
 セスィッル どうしてもこれはやらなくちゃ・・・って。
 フェリックス 全く怪物だよ、君は。こんな怪物、僕は見たこともない。
 セスィッル 人って、子供に返ると怪物になるの。この十分間、あなた、私に随分意地悪だったわ。私、傷ついたのよ。
 フェリックス 本当?
 セスィッル 本当よ。
 フェリックス じゃ、実際のところ、この話はどうなっているんだい?
 セスィッル 一週間後に二人で出発。私、みんな二人分買っておいた。
 フェリックス 君、本当に一緒に行きたいの?
 セスィッル あなた、本当に私を置いて行きたいの?
 フェリックス 一週間前までは僕と暮すのはうんざりだって言ってたんだぞ。
 セスィッル あなたといても、もううんざりはしないの、全然。
 フェリックス これから僕がまた君をうんざりさせたら?
 セスィッル あり得ないわね。この一週間、あなた、どんなに私を面白がらせたか・・・
 フェリックス これはお優しい。
 セスィッル あなた、急にお喋りになって・・・まるで鵲(かささぎ)みたい。それに、人を担(かつ)ぐの。あなたは私にピッタリの人よ。お喋りに冗談・・・これを続けてね。
 フェリックス 驚いたな。二人とも二十歳に逆戻りだ。
 セスィッル 二十歳以下よ!
 フェリックス 初めて出会った二人っていう感じだ。
 セスィッル びっくり仰天ね。
(フェリックス、セスィッルに腕を差し出す。)
 フェリックス さ、二人で進むんだ。
 セスィッル 処女地に!
 フェリックス それも、もうすぐ・・・人生の偉大な冒険へ!(これをコミカルな調子で言って、その後。)セスィッル!
 セスィッル(非常に優しく。)何でしょう? あなた。
 フェリックス 君って、たいした恋人だよ。
 セスィッル 私、あなたと別れるって、もっと早く決心すればよかった。
 フェリックス 君、その考え、売れるよ。
 セスィッル 誰が買うって言うの?
 フェリックス 自分の夫にうんざりしている全ての女性にだよ。君、一財産出来るよ。
 セスィッル じゃ、沙漠から帰ったらそれを始めようかしら。
 フェリックス あっ、ちょっと待って。僕ら二人はもう一生の付き合いだ。良い時も、悪い時も。帰ってから僕を捨てるんじゃないだろうね?
 セスィッル 帰ってから?
 フェリックス 最初の探険からだよ。もう僕は次の計画もたてているんだからね。それは来年だ。その次も、その次も。僕らは沙漠を見なくちゃ! サハラだってフランスの十五倍あるんだ。それも終ってない。それから、アラビア、ソマリー、メキシコ、コロラド・・・沙漠は他に沢山ある!
 セスィッル ねえフェリックス、それ、気違い沙汰よ。そんなの全部見られる訳がないでしょう?
 フェリックス どうして?
 セスィッル(フェリックスに寄り添って。)だってあなた、人生は短か過ぎるんですもの!
(フェリックス、一緒に笑う。セスィッルを受け入れるように、両腕を拡げる。)
                 (幕)

   平成十五年(二00三年)九月十六日 訳了