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\begin{document}
     時間・我・死\\    

    対談  大森荘藏・中島義道\\
                  (理想一九九0年冬号)\\
\\          
  原生的な時間概念\\
 中島 本日は大森荘藏先生に、長年の夢でしたが、時間について心ゆくまでお
ききしたいと思っております。先生は最近時間について、非常に衝撃的な目をあ
らわれるようなご発言を重ねられており、特にこの前の「過去の制作」(岩波新
哲学講座1いま哲学とは」所収)というご論文において、それらが見事に結晶化し
ているように思います。個人的な体験で恐縮ですが、私はしばらく前から、カン
トの時間論について考えているのですが、このご論文を読みまして、これがカン
トと非常にうまい具合につながるのではないかという感じがしておりました。こ
の機会に、大森先生とカントをどうにかつなげられたら、と願って
おります。とはいえ、実はまともに立ち向ってはとうていかないませ
んので、カントという武器をもって、大森哲学の時間論にアタックしよ
うというこんたんです。さて、先生はさまざまな観点から通俗的な時間
概念、ないし物理的な時間概念に対して非常に鋭い批判を展開なさって
おりますが、その基本的な論点についえまずおうかがいできたらと思います。\\
 大森 第一に、カントを引き合いに出されて空恐ろしいのですが、私
にとってははなはだ光栄です。これまで時間論としていろいろなものが
出ておりますが、大半は物理的な時間、普通の時間について議論されて
いるように思うのですが、私の感じでは物理的な時間の底にはもっと直
接な、もっと常識的で、もっと体験に近い原始的な時間概念があると思
うんです。そこまで戻って、もう一度物理的時間を見直してみたい。物
理的時間というのは、今言いました現象的なあるいは原始的な時間から
積み上げられてきていると思うのです。いわばその制作過程をわかるとこ
ろまでつめてみたいと思っております。\\
 中島 先生が物理的時間とおっしゃるのは、いわゆる物理学で使わ
れている(スモール)tというような直線表象で、ある点を現在と定
めて、その片方を過去、反対側を未来と定義されたものですね。先生
は、これが最も基本的な時間の定義づけではないとおっしゃりたいの
でしょうか?\\
 大森 いえ、物理的時間は我々の原体験の中にある原生的時間の上に組
立てられている。そしてそのいちばん簡単なのが、中島さんが言われたリ
ニア時間・直線時間です。その直線時間は、原生的な時間体験の主要部分
をちゃんと表現していると思うんです。例えば後先(あとさき)ですね。
これを認めた上で、どうして人工的な物理的な時間がそれを表示しえたか
ということを理解したい訳です。そうしますと、元へ戻りまして、原生的
時間の中の、以前以後という順序をいったいどこで我々は体験しているのか。
これは後程お話する機会があると思いますけれども、この頃では、自我概念に
根ざして、時間の以前以後が出てきていると思いだしたわけです。その点で中
島さんに教えていただきたいんですが、カントがどこかで、自分の肉体を基準
にして時間概念が出てくるということを言ったと思うんですが。\\
 中島 カントが自分の肉体を時間概念の基準にしているということを、
私がここで言いますと、専門のカンティアーナからさまざまな攻撃を受ける
と思いますので、あくまでもカッコつきの私の観点ですが、それはカントの
思想の底にあった考えだと思います。つまり「主観の形式」とか「直感の形
式」の中には身体のもつ形式が素直にうつし重ねられているのではないかと
前から思っております。あるいはカントが時間の継起や測定はある持続的な
ものを前提とするという場合でも、その持続的なものとして、物理学的なエ
ネルギーとか質量とかを挙げる前に、まず我々の肉体が持続して
いるという基本了解に目を向けるべきだと思います。このあたりは
つめておりませんので、今正確には申し上げられませんが、大森先生
が、カント自身におききになったら明解な答えを得られるのではないか
と思います。\\
 大森 いえ、私は中島さんを通してきくつもりでおりますが。
少し私にしゃべらせていただいてよろしいでしょうか。\\
\\
     自我概念の形成\\
 時間の前後というところをまず考えてみますと、例えば何かある出来
事、運動会なら運動会を目で見ておりますね。そうするとその中で、
例えばかけっこだったら、誰が誰を抜いたか、スタートラインと決勝
線でどちらが後だったか先だったか、これを理屈抜きで、自明にわかっ
ている訳ですね。これはある色が赤であることが自明的だということ
と同じでわかっている。一つの連続した知覚風景の中ではそうだと思
います。その次に、間に切れ目が入った知覚風景、例えば、午前中眺
めていて、それから一時間ばかり休んで、次に眺め直すというとき
の、時間の前後のとり方は、今のように知覚風景の中だけでは与え
られていないと思います。すると、何をたねにして前後が判定され
ているかというと、自分という連続自我が午前中にあって、昼寝に
帰り、それからまた出かけて行った、ということを基準にせざるを
得ないように思います。\\
 しかし、こういうことを言うためには、先ず、自我というのは何
を指して言うのかという点があると思う。ちょっと長くなります
が、私は手を上げ、それから坐る、いろんな動作をしますね。そ
ういう身体動作の主体になるもの、これを自我の中で最も単純に
理解しやすいもの「動作主体」と呼ばせていただきます。すると
問題は、運動会を眺めるだとか、あるいは私がいろいろ考えごと
をするような、非常に広くとって認識主体、あるいは認識主観と
でも言いましょうか、これと動作主体が、常識の中では結びついて
いる、同じものだと思います。それはどうしてかということを先ず
最初に理解しなければいけない。今言いました、身体動作主体とし
ての私がありますね。次にそれにつながって心と身体(からだ)
、心身混合の動作というべき種類があると思います。これはス
トローソンが考えたものですが、「散歩をする」とか「手紙を書
く」というのです。これは手も動かします、目も動かします、と
同時に普通でいって頭が働いている訳です。そういうものを出発
点にしますと、例えば、本を朗読するというのもそうですし、
歌を歌う、もっとはっきりしているのはスポーツ選手の動作です。
弓や鉄砲で的をねらう、野球の選手がバットを構える、あるいはピ
ッチャーがストライクを投げる、これは心身混合動作です。そのほ
か例えば感情については、笑うというのは心身混合動作です。可笑し
いという気持ちと、それから口を開けて笑います。泣くのも、怒るの
もそうです。これも心身混合動作だと思います。それから肝腎の運動
会を眺めるという、見る方向へいきますと、目を向ける、目を閉じる、
目をそらす、物を見つめる、これは今言った混合動作ではありません。
純粋な身体動作です。純粋な身体動作ですが、そのときに、目を向ける
とある景色が見えてくる訳です。そして目をそらすとちがうものが見え
てくる訳です。そういった意味で、先程の笑う、泣くだとか、スポーツ
の動作と同じように混合動作だということは言えると思います。\\
 私の仮説というのはこうです。先ず最初に純粋な身体動作の主体とし
ての私がある。その主体が延長されて、あるいは拡大されて心身混合動
作の主体になっていく。例えば、バットを構えるといったときの主体
ですね。それを通して、さっきの目を向けるだとかの知覚に関係する
動作へ移行していく。そして結局、物が見えるのは私が見る。ヨーロ
ッパ語で言うと、知覚動詞を使うときの主語になっている私という
のは、こういう経路を通してみますと、最初の出発点にあった動作
主体と同じものである。この結論は、ごく常識の生活の中での自我
概念に合うと思います。それを通して、次には、混合ではなしに純
粋なメンタルな動作があります。例えば考える、想像する、思い出
すといった一連のメンタル・アクティヴィティがある。これは心的
動作とでも呼びましょうか。そして今の混合動作のときの主体が、私
が純粋な身体的な動作の主体であったけれど、それが更に、延長ある
いは拡大によってつながって、こんどは心的動作、考える、思い出す
なんかの主体になってくる、というのが私の仮説です。\\
 だから結論として身体動作の主体である私が、最終的には心的動作
の主体になるし、その特別なケースとして、物を見る、音を聴くとい
う知覚の状況の場合には、知覚動作の主体になる、というんではない
かと。これは仮説です。こまかいところはいろいろ欠点があると思い
ますが、ご指摘いただきたい。\\
 こうして、「自我」という概念が、割合に素直に、どんな人間にも
形成されてくるんではにかと私には考えられる。\\
 中島 何かあまりにも私が準備してきたのとちがって、まったく新
しい大森先生のお話をきく感じがしまして、とまどってしまうのです
けれども、その場合に、心的なものと身体的なものの二元論と申しま
すか、それはごく普通に日常的に了解しているところでよろしい訳で
すか?\\
 大森 そうです。そこから出発します。普通の常識的なとり方にし
ていただきたいと思います。\\
 中島 それから主体ないし自我も単純に日常的に理解している私
であると、それでよろしい訳でしょうか?\\
 大森 ええ、私の結論も日常的な心身を通じての私というとこ
ろに落着く訳です。\\
 中島 そうしますと、やはり私はいる訳ですね? 実体としては
ともかく。\\
 大森 いるという意味が、ごく普通の世間通りの意味ならそうで
す。ただ、ひんまげて哲学みたいなことを言いだすのでしたら、も
っときかなければわからないけれども。\\
 中島 動作主体としての私を認めることはやぶさかではないが、
認識主体としての私を認める訳にはいかないというのが、これまで
の大森哲学の大枠であったような気がするのですが、ただ今のお話
では、連続的に動作の主体としての私から心の主体としての私へと
動いていくと・・・\\
大森 これはですね、決してこれまで言ってきたことに反している
訳じゃありません。これまでは、ただ把握し難いので、壁に穴をあけ
といたんです。そした、今日チャンスだと思って、考え直して、一応
言葉にしてみたんです。変節ではないのです。穴埋めです。\\
中島 カントの場合、行為主体としての自我は非常にストレートに認
める。しかし、認識主体としての自我となりますと、途端に超越論的
主観という抽象的な、個々の自我ではないようなものを持ち出してくる
傾向があるわけです。大森先生の場合には、超越論的主観の方にはいか
ないようにして、行為的な主体から出発して、そこに自我というものを
了解する原点ですか、根源があるとする。それが我々が生活していくう
ちに、ごく自然に、認識主体の了解に、さらに行為主体と認識主体との
同一性の了解に移行するという仮説ですね。\\
 大森 ええ、そうです。そして非常に単純化して言えば、肉体的動
作も心の働きも同じように、日本語で言えば「・・・をする」という形
として、いわば同一種類のものとして把えて、そして両方のする主体が
心身共通の自我だということになっていくんじゃないかということで
す。さっき申し上げたように、ブリッジになるのは心身混合動作だろ
う。それをブリッジにして、前からの動作主体である私は、純粋な心
的動作まで移行するだろうと思うんです。勿論これは完璧な証明でも何
でもないです。それが自然だろうというぐらいです。\\
 超越的主観というのは、悪く言えば、理解を超越している主観とい
う意味で(笑)、良いとか悪いとか言う前に私には理解不可能なもので
すから、むしろそれに対する反感から、常識的に考えている私を・・・\\
 中島 超越論的主観についてはまた後で擁護したいと考えております
が、そうしますと、身体をもたない限り、あるいは基本的な動作をしな
い限り、我々は「自我」という概念を理解しないと言っていいでしょ
うか。\\
 大森 それは非常に仮説的な状況ですから、何とも申せませんけれ
ども、仮にそういった想像上の事態があったとしたら、そこで形成され
る自我の概念は、我々のもっている自我の概念とは、とんでもなくちが
ったものだろう、ということだけは言えるんではないですか。\\
 中島 例えばウィトゲンシュタインの言う、世界の限界としての自
我とか、抽象的な単に物を見るような主体は、自我ではないとも言えま
す。つまり大森先生の今までの「立ち現れ一元論」における自我の否定
も、意地悪く申しますと、知覚の場面に限った上でそこには自我が登場
しないではないか、と主張されている訳で、当然のことをおっしゃって
いる訳です。つまり、知覚の場面に話を限定すること自身が、自我概念
を把えそこなうのではないかと思いますが、こう言ってよろしいわけで
すか?\\
 大森 その通りだと思います。認識の場面での日常的自我を何かの
「もの」とするのは誤りでしょう。単に「私が・・・を見る」という
状況があるだけで、私という「もの」などはどこにもありません。日常的
自我とは単に「私が・・・を見る」という状況命題の中での主体主語であ
るというにとどまります。\\
\\
     自我と時間\\
 中島 そして問題はそういった自我概念と時間との連関ですが、
それについて・・・。\\
 大森 じゃあもう少し話させていただきます。我々は、知覚のいち
ばん根本の状況では、大体見えているものを三次元の物体だと考えて
います。しかしですね、眺めてみると、実際に見えてるのはその物体の
一側面です。このときの物体という了解と側面という了解の二つの間の
関係ですが、例えばフッサールの場合は、その二つの関係を、側面の方
はアップシャッテン(射映)するとしてですね、志向性という概念をみ
つけていったと思うんです。そしてカントの場合は、これは中島さんの前で恐縮だけれども、その二つの間の関係を綜合として把えていったんじゃないかと思うんです。しかしそういう解釈の一つ手前に、じゃあその側面は何かと言ったら、物体の側面なんですね。じゃあ物体のどういう側面かと言ったときに、平たく言ってしまえば、私に見える側面である、ということだと思うんです。そこに、その基本的状況の中で、さっき言ったような認識主観的な意味での自我が生まれざるを得ないと思うんです。そしてそれが生まれた結果が何かといいますと、ある三次元の物体があって、そして私がある場所を占めて、そこからその物体を眺めて、私が見る、それがその側面だということになってくると思うんです。これはややこしいことではなしに、ごく常識的な普通の人間が誰でもそうだろうと思ってくれると思うんですが。
 そこで、こんどは先程言いました知覚風景の側面の中での時間の後先
(あとさき)は、もう与えられたものとしてよろしい。しかし問題は、
中断された二つの知覚風景の見えたものの順序です。それは結局のところ、
物体としての風景、物体の配置です。その中へ、私がどこにおって眺めた
か。私が二つの場所をとります。A という場所におってある眺め方をして
いる。それからだんだん動いていってB という場所にいってある眺め方を
している。そのA からの眺めとB からの眺めの前後は、私自身の物体世界
の中の運動上の前後によって決めるのがいちばん普通だと思います。これ
がなければ、さっき言いましたように中断された知覚風景の中の時間前後
はありえないと思うんです。したがって、結局時間の前後は三次元物体の
配置の中の私の肉体の運動上の順序によってつける以外にちょっと考えら
れません。その意味で、時間の関係の根本的問題である順序関係が決定で
きるのは、三次元の物体の配置の中での私の肉体の動きの上での前後です
ね。これに依存せざるを得ない。その点で、カントは複雑なことを言って
いると思いますが、カントも大まかなに言うならばその線で考えたから、
先程言いましたように、自分の肉体を時間の基準じゃなしに、時間の前後
関係の基準においたんじゃないかと思うんです。それは中島さんに教えて
いただきたいのですが。\\
 中島 いまの先生の――あえて解釈と申しますが――解釈はカント解釈
としてはストローソンの解釈に近いように思います。\\
 大森 あ、そうですか。\\
 中島 あるいは読み違いかも知れませんが、ストローソンの場合でも諸物
体の存在する空間を我々の物体=肉体がさまざまな光景を見ながら動いてい
くというところに、我々の認識のいちばん基本的な順序、すなわちたんなる
知覚の順序ではない認識の順序が決まるんだ、ということを言ってるように
思います。\\
 ストローソンのカント解釈が妥当かどうかという話は専門の先生方にお
まかせするとしまして、今のことにつきまして、基本的な質問があるんで
すが。先ず、私の肉体の運動上の順序づけという場合、既に想起と申しま
すか、過去の話に入ってきていますよね。このとき「自我」はいつ現れる
んでしょうか。つまり三次元空間の中の物体をさまざまなアップシャット
ゥングで、眺めていたことを想起することによって初めて自我が現れてく
るのでしょうか。それとも想起以前に自我というものは了解されていると
いうことですか?\\
 大森 この場合だけではなしに、どちらが先という問いはどちらか
というと不毛だと思います。簡単に言ってしまえば、全部が一緒くたです。
「私がアップシャットゥングを想起する」という想起体験の中で、私とアッ
プシャットゥングは不可分離的に出現している、と言うべきでしょう。\\
 中島 非常にこれも想像しにくいことですが、我々が諸対象をきっちり
と知覚しながら空間内を運動していても、瞬間瞬間わすれているようだっ
たら時間は構成されませんね。このとき「私」という概念も生じないとい
うように考えていいんじゃないでしょうか?\\
 大森 それが事実起きているのは睡眠ですね。間(あいだ)に一晩寝ま
すと前後関係は怪しくなる(笑)。\\
 中島 このあたりで先生の時間論のいちばん基本であります過去の想起論、
すなわち、想起という体験に過去の原理的な意味があるという論点とつながる
んではないかと思います。想起と自我との連関は今日はじめておききすること
ですので、そのあたりのところをもう少しお話し願えればと思います。\\
 大森 自我が先にあって想起が後か、想起の中にあって初めて自我という概
念が出てくるのか、それは私はどちらが後か先かは、鶏と卵でわかりません。
ただ、今言われたように、時間の前後、時間順序を我々が具体的に判定する場
合それを思い出さなければそれを判定できないのは当然です。\\
 中島 そうしますと、端的に想起をするだけで私は時間の前後関係をつけら
れると考えてよろしい訳ですか?\\
 大森 前後関係をつけられるというか、つけているんだし、それで通し
ているんですね。\\
 中島 あえてここでフッサールの時間論と較べてみますと、今おっしゃ
ったことはいわゆる現在が過去になりゆくという場面なわけですね。\\
 大森 はい、でもちょっと待って下さい。その現在が過去になって
いくという、そういう風な譬喩的な感じがフッサールを迷わせたと
私は思うんです。つまり、現在の知覚はだんだん流れてきて、変質
して過去になっていく。それに私は反対したい。想起というのは知
覚の何かの形の再現だと。しかも大分画質のおちた古いビデオテー
プのような感じは間違いだと思っているものですから、今のおっし
ゃり方はちょっと受け入れかねる。\\
 中島 前に先生が「過去の制作」などで扱われました過去論と
いうのは、フッサールで言いますと再想起に当たる訳であって、去
年の海辺の風景というような状況を設定されていますね。\\
 でも今のお話は、私が知覚しながら、非常に近い過去をつくって
いくという過程ですね。つまり、過去の海辺の光景ではない、まさに
目の前の物を見ながら、ある意味において過去をつくっていくという
過程をおっしゃっていると思うのですが、その場合の想起でも知覚の
変様ではないということですね。\\
 大森 と私は思います。そこはこういう風に考えて下さい。さっき
の流れていって過去になるという間違ったイメージに冒されている
と思うんです。例えば、自動車が走ってるのを見ているとします。
そうすると今見ているときの一秒前の車は、例えば十メーター右手
にあるわけですね。もしそいつが知覚的な形で残ってるんだった
ら、自動車はずーっと流れて、ずい分長い自動車が見える筈です。
そうじゃないでしょうか? そんなことはないんで、あくまでも見
えているのは現在という瞬間の自動車の姿だけです。そして向こうか
ら走ってきているのを思い出すのは、知覚的映像で思い出すんではな
しに、最終的に言うと言語的に思い出すんです。昔の言葉で言えば概
念的に思い出すんです。今の自動車は、例えば少し前にはずっとこち
らにあったという言葉を頭の中で言う訳じゃありません。あたかも言
ったような了解で自動車を見ているんですね。そしてそのときの速さ
も、あの門のところにあったのがここに来たというのと、木のところに
あったのがここへ来たというのとでは、ちがって見える訳ですね。フッ
サールやブレンターノが想起のパラダイムとするのはメロディーのよう
な連続継時知覚です。長い説明は他にゆずりますが、(*)こうした
継時知覚は想起ではなくて、運動知覚とも言うべき知覚だと思います。
仮現運動がその好例です。\\
 中島 なるほど。知覚が先か想起が先かという議論を先生はなさ
らないのですから、いつでもその両方に直接に我々は関って
いると・・・\\
 大森 こうは言えると思うんです。知覚というのは目で見た
り、耳で聴いたりしますね。要するに感覚を通します。ところが
想起、思い出すということは今言いましたように、知覚的ではない
のですから、感覚を通して思い出す訳じゃない。思い出されたもの
も、原則的には感覚的なものではないと思います。何か残りものみ
たいなものがあるように思いがちなことは認めますが、そうじゃない
と思うんですね。あくまで感覚に代わるものは言語、概念だと思います。
「舌足らず言語」と間に合わせ的に言いたいようなものです。\\
\\
     過去の真理性について\\
 中島 そうしますと、今日うかがいました先生の新しい過去論も
やはり「過去の制作」と呼んでよろしいでしょうか? あるいは構
成という風に。\\
 大森 そこがですね、最近少し考え直しているんです。「過去
の制作」というあの論文で書いたときには、私自身の独我論的な形
で書きましたけれども、中島さんがおそらく頭にもっている過去の
真理性ですね、それがいったい何処へいっているのか。私が言うよ
うに、想起内容は知覚の場合と同様間違いっこないものだと言った
ら、世の中にたくさんある思い違いや記憶違いというのはいったい
どうなるんだということになるでしょう? これも今初めて申し上
げるんで欠陥だらけだと思いますけれども(笑)。最終的には、一
人一人のお互いの思い出しの中では、今見ている空の色が青い、そ
れが間違いがあり得ないように、昨日私が泳いだ海が何処だったか
ということは間違いっこないと思います。まず一人一人がそういう
風な過去の想起の体験をもっても、世の中は通らない。お互いに話
し合って、裁判所みたいなことをやるわけです。そして合議制にお
いてある標準の下で、一つの社会の大部分が承認したものが客観的
な過去だと、我々は是認してると思います。これはちょっと言いに
くいが、実は過去の問題だけじゃない。知覚の場面までその合議制
がいっているんじゃないかと思いだしている所です。\\
 中島 時間の長さについても、小さいときから「お前が寝てい
る間に五時間経ったんだよ」ということを我々は認めるように教
育される。\\
 大森 ええ、それもそんなに困難なしに。\\
~~ 中島 それは自然なものなのですか? 「まだ十一時だ」と
言われたとき何故我々は、「いや、俺の
腹時計では十二時だ」ということを、強引に・・・\\
~~大森 言ってもいいですけれど誰もききません。(笑)。\\
~~中島 それはどうしてですか。いつでも実感から出発しておきながら、
それを超えたところに我々は何か求めている。\\
~~大森 いったん社会化されたところに今さらもとの実感を出しても
何の意味もないと思いますよ。\\
~~中島 このあたりにカントの超越論的な時間の輪郭があるだろう
と思うのですけれども、それはやはり駄目でしょうか。個人の
体験を超えている時間を、当の個人が超えているということを
認識しながら承認するという構図ですね。言い換えれば超越
論的な主観を各自が引き受けているという図式です。今の刑法
で、擬制であろうととにかく私が死刑を執行される場合ですら、
それを私が承認するという形をとる。つまり合議制でも、私
が承認すると最後は自分に帰ってきますから・・・\\
~~大森 ええ、社会的には承認します。しかし、やっぱり、ど
こかおかしいという感じが残るのが普通でしょう。また残ってると
思います。\\
~~中島 特に過去の場合には、端的に言って承認するものが見えない
訳ですね。\\
~~大森 そうです。\\
~~中島 見えないにもかかわらず非常にどっしりとした存在感を持って
いる。しかもその場合、過去が取り返しのつかないものとして決定
されてしまっているという感じがありますよね。過去の出来事の
順序は今からもはや変えようもなくはっきりと決まっている。でも
その順序はさしあたり我々にはわかっていないというわけで、皆で
寄ってたかってすでに決まっている順序を明らかにしていく訳
ですよね。\\
~~大森~~それも私は哲学史の中の一つの妄想だと思うんです。つまり、
常識でもあるものなんですね。過去に起きたことってのは、どっしり
この世界で起ってきた。そしてそのことを何らかの形で、私たち
一人一人何が起ったかを、まあ、神様のおなさけで知ることに
なっているんだ、と。あくまでも本物はビタ一文動くもんじゃない。
その観念ですね。これはちょうど知覚の世界の場合の妄想とパラレル
だと思います。これはレーニンが言ったように、客観的に事物があ
る、そしてそれをかろうじて我々は眺めているんだ、というとり方
とパラレルだと思う。レーニンから言わせれば、それに反対する
のはブルジョア観念論なんでしょうが、ブルジョアの観念論の
側から言えば過去世界の唯物論的実在性こそ一つの妄想である。
そうではなしに、知覚的に何があるかということは、最終的には
合議制で決めているんだ、それがまさに自然科学の基礎的手続き
だ、ということを承認するならば、この客観的過去というもの
も、我々は合議制で決めていく。その手続きは何かというと、
やはり自然科学と法律学、裁判所が決めているあの手続きです。
証人を呼び、証拠調べをし、一つのストーリーをつくりあげて、
そのストーリーが人間の理性にとって受け入れられるものであれば、
それが真実だ、と。まあ、真理説によれば、コレスポンデンス・
セオリー(対応説)ではなしに、コーヒーレンス・セオリー(整
合説)のいわば畸形的な場面だと言っていい。だから私は躊躇
するんです。まだ寿命があれば、この奇妙な観念で何年か生きて、
どこか不都合ができるかできないか試してみます。まあ、死ぬ
までに間に合えばいいですが。\\
~~中島~~その過去における整合説にもう少ししつこく反論してよろしい
でしょうか?\\
~~大森~~はい。\\
~~中島~~つまり、超越論的主観を認める場合でも、細部にわたって過去
が既に決まったものでなくともよい。ただ、世界の基本的な形式
だけは決まっていて・・・\\
~~大森~~そうした形式だって不動ではない。例えば自然法則ですね。\\
~~中島~~個々の自然法則ではなくて、例えば、空間の三次元性とか、
時間が一方向に流れるとか、因果律が出来事を決定している
とかは未来永ごう変らないだろうし、過去にも変らなかっただ
ろうとと信念のもとにカント哲学はあります。そうしますと、私
たちがある過去の事象を現実のものとして確定する場合には、
すでに知っている先後関係のアナロジーで未知の先後関係を発見
していくことになります。つまり過去の時間順序は発明じゃなくて、
発見という感じがある訳です。先生の「過去の制作」における
「制作」という言葉に非常に感心しましたのは、これがカントの
コンストゥルクツィオーン(構成)に非常に近いんではないかと
思ったからです。眼前のものをつくりあげていくと言えばお伽話
みたいですが、過去の出来事に関しては、我々はまったく創造
する訳でもなく、まったく与えられる訳でもなくて、まさに
先生のお言葉通り、質料的なもの、アモルフなものを言語的に
探っていって、意味的に確認していくという感じがありますね。
こうした受容性と自発性とが共に働く場面で過去が詩作的に
立ち現れる。こういうことを、見事にまさに言語化されたのが、
先生の過去論だと思います。つまり、すっかり決まっているのが
過去ではなく、こういった受容性と自発性との共働制作の場を
私は過去と考えているのですけれども、それは先生の現在の
お考えでもあると言ってもよろしいでしょうか。\\
~~大森~~おっしゃるとおりです。私は放送大学の論理の教科書の
中で知覚の場面にうつして、それを強弁したんです。つまり、あそこは
一つの実験室で、いろんな人たちが納得すれば、まあいいんです。
この場合は残念ながらうまくやれてませんけれど。過去の
状況から始めて現在の状況。これはもっと納得させにくいわけですね。
例えば、外に電話ボックスが見える。「電話ボックス」という言葉
を知らない人間にとっては、見え方は全くガラッと変って見える
だろう。それを広げると、世の中の家だとか道路だとか、すべて
そうだろうと思う。要するに言葉があって、あれが電話ボックス
で、これが電信柱だということは、あなたにそういう風に
見えてくるからだ。ならば、あなたが見てるのは言葉が見せてる。
言葉がなければ、そんなものはガラクタ同然で意味はない。\\
~~人間が始まって以来、全く無意味な物理的な世界にいます。これ
は全く人間にとっては意味はないのに、営々として生きるために意味
づけてきた、その集積が言葉。だからその言葉は人間であるあなたに
世界を見せている、ということはおかしくないだろうと思う。\\
~~中島~~ただ言葉を強調なさる場合でも、知覚の場面と想起の場面
を先生はあくまでも区別される訳ですね。\\
~~大森~~今の論点については、過去の場合の説得が苦しいとなれば、
知覚の場面から始める。知覚の場面がおかしいぞという人には、
過去の場面から始める。\\
~~中島~~しかし、我々は通常の場合には、知覚の場合は否応なしにそう見えて
しまうという感じがするわけですね。一方過去の場合には言語をたよりに
して、それを使って、その横には何があった、前には何があった、とこういう
風にして確認していう感じがしますよね。\\
~~大森~~ええ、過去の方がスキが多いというか流動的ですね。
それはその通りです。\\
~~中島~~それに能動的な感じがしますよね。つくっていく感じがします。
まさに制作という感じで。\\
~~大森~~ですから、このことを説得するための戦略としては過去
から始めるのが有利だと今思っています。\\
~~中島~~ということは、現在の先生のお考えでは「現在の制作」と言って
もよろしいわけですか?\\
~~大森~~躊躇しながら、そうなんです。\\
\\
~~~~~~~~~~想起と一般概念\\
~~中島~~そうしますと私が準備していた攻撃の矛先がゆるんでしまうので
すが。あえて突っ込みましょう。\\
~~知覚された赤と想起された赤が、体験内容としては全くちがう
ものにもかかわらず、我々はそれに対して同じ赤という言葉をごく自然に
使うんですね。そして、先生は両者のちがいを強調される訳ですね。つ
まり想起される赤はかって知覚された赤をもう一度知覚するのではない
とか、あるいは、想起される痛みは今全然痛くないとか、端的な体験
に引きつけて論証される訳ですけれども、その場合知覚の対象と想起
の対象はそれ程ちがうものであるとすると、何故我々はかくも自然に
両者を同じ赤と呼ぶのであろうかという疑問が生じてくるんです。\\
~~大森~~私は全くその疑問にずっと苦しめられておりまして、答えはまだ
わかりません。ただ一つの慰めは、フッサールも同じ苦しみをもっていた
ことです。フッサールの場合は言語的な「予想」ですね。ある街を歩いて、
ある街角を右へ回れば何かがある。例えばとり小屋がある、と。そして
行ってとり小屋を見て、先程の予想に当ったかどうか。たしかフッサール
はエアフュレン(意味充実)という言葉を使っていたと思いますが。その
ときに、フッサールが何も説明できずに、ただ予想と実景のデッケン
(重なり)という言葉を一つ持ち出してきただけだと思います。要するに
曰く言い難しだと思います。私にもわかりません。ただ、おそらく解決
の方向は一般概念の問題になる。そして一般概念の問題で、昔考えた
ことである程度切り込めるんじゃないかと今思っています。\\
~~中島~~ここで大森先生やフッサールを悩ませている難問に私なんぞ
が答えようとするのは、非常に恐れ多いことなのですけれども、
それにもかかわらず、ちょっと言ってみたい気がするんです。つまり、
想起における赤を赤理解の基準と考えることはできないでしょうか?
もし我々が知覚された赤だけを理解していて、想起における赤を理解
しなければーーこれもある想定なのですけれどもーー我々は果して赤
という言葉を理解するでしょうか?\\
~~大森~~おそらく理解しないでしょう。それは私の今考えている理解
方向と同じ線上です。\\
~~中島~~多くの場合、知覚の赤を基準として判断論をやってきた訳で
すね。むしろ「赤かった」ということを判断の基準にしたらうまく
いく・・・\\
~~大森~~それを別に言うと、しいて過去形じゃなしに言語的な赤という
ものを基準にして・・・\\
~~中島~~赤さ、赤の意味了解が・・・\\
~~大森~~そうです。特に一般概念のですね。\\
~~中島~~そこで一般概念につながる訳ですね。\\
~~大森~~今までの一般概念の了解で躓きの石になったのは、一般
概念は言語的了解しかできないということを忘れてしまって、知覚
的了解をしようとしたから、例えばイギリス経験論でも起きた
ような事態、つまり、三角形一般とはどういうものかというような
バークレーなんかにひやかされるようなことになったと思います。
そしてフッサールも同じ線上にある。そうじゃなしに、例えば赤
を取り出します。一般概念の赤は色ではない訳です。赤だと
考えるものなんですね。どう考えるかというと、世の中にたくさん
赤があります。これも赤、これも赤とこうやって、あとはあ
やしいときもある。そのときの処置として、そういう風に指
さしていって見える赤、それが一般概念だと思う。考える
ものなんですね。知覚されるさまざまな無限の赤、$r_1, r_2,
... r_n$ がすべてその事例であると考える色、それが一般概念
の「赤」です。だから、考える能力があるならば、新しい色を
出されたとき、これは赤だと言えるんだろうと思います。もう
少しことは複雑で、こんな言い方では駄目でしょうがね。\\
~~中島~~まず、知覚と一般概念とをどうにかして直接結びつけ
ようとするんではなしに、その中間項に「思い」における赤
を入れればうまくつながる。\\
~~大森~~もう少し適確に言うと、集合論的に考える。つまり外延
として考える。今迄はあまりにも内包として考え過ぎた。しかし
それはやめてしまって、これは現代の数学基礎論にも通じること
ですが、全ての一般概念を外延として処理してしまう。数学基礎
論では技術上のことだったけれども、そうじゃなしに、今の
問題にも使えるというか、正しい方向じゃないかと感じます。\\
~~もう一度時間の問題に戻って、先程の過去の問題ですが、
過去というのは客観的位置をもって、だんだん遠去かるんだと。
たしかにフッサールにはそういうところがありますが、あれも物理
的な直線時間の妄想にとりつかれているんじゃないかと思い
ます。フッサールは時間の流れと言いますね。要するに、岩
みたいな格好があって、時間の流れがあって、我々は小舟に
乗せられて、そこから引き離されてしるというイメージですね。
それはいけないと思うんです。例えば、岩のようにある過去、
例えば、太平洋戦争なら太平洋戦争を今私が思い出すとします
ね。そうすると、今この状態で太平洋戦争というのは今から
半世紀前に終ったものと考える訳です。そういう風に太平洋
戦争は、私たちの思い出すという中にある訳です。そして現在
の私との距離も、約五十年として思い出されているんです。
またあと十年経って思い出すとすると、こんどは六十年と
して思い出される訳です。フッサールはその二つの太平洋
戦争が、単純に全く同じものだという風にとってますが、
数的に数えるなら私はちがうと思います。その数的には異
なる二つの戦争がちょっと複雑な手続きで再めて同一だと
いうことはできますが、フッサールの考えているように、
不動の太平洋戦争というのがあってだんだん時代が経って、
それから遠くなるというのは間違いだと思います。\\
\\
~~~~~~~~~~「時間」は風呂敷概念である\\
~~中島~~そうしますと、アリストテレス以来の時間論の
基本構図と対立することになりませんか。つまり運動とか、
意識の流れとか持続などをよりどころとして時間論を展開
する場合でも、我々は運動自身、意識の流れ自身、持続
自身が時間であると考えるのではなくて、更にそれに何
か新しい意味を込めて時間を語る訳です。そして、その
込められた意味とは客観的な測定能力ですね、たいてい
の場合。\\
~~大森~~つまり、こう言ったらどうでしょう。そこは多く
誤解されていると思いますが、「時間」というのは名詞
になっていますね。すると、ウィトゲンシュタインが
たびたび注意するように、一つの名詞があると、何か
その名詞に名指されるものを考えがちなことはたしか
です。時間の場合もそうです。そして多くの物理学者
が考えるときそういう風になります。しかしそうでは
なしに、時間というのは何かというと、一つの風呂敷
概念ですね。とりこぼしなしに、包んでしまう風呂敷、
それが時間概念です。ですから、体験の流れの上に
時間というなにものかが新しくできてくるというのでは
なしに、我々の体験の中に様々な形で時間関係というのが
あると思うんです。前後関係もあります、連続関係
もあります、あるいは時間経過、長さもあります。
測定方法もいろいろ。そういうのをとにかく莫大
なものをひっくるめて「時間」と言うのですから、
もともと我々の体験の中にあると思います。\\
~~中島~~アウグスチヌスの言うように「時間とは何
か」と問うと答えられなくなる。\\
~~大森~~ええ、問い方が悪い訳です。時間を名詞扱い
したからだと思います。「面積は何か」とやぶから
棒に言ったら、いまだに多くの人は答えられない。何
か具体的な公理にバラせば答え易い。時間とは?と
一挙に問うのがいけない。\\
~~中島~~まさに先生が今おっしゃったことはカントが
よく知っていたことです。つまり時間という概念は
定義することもできなければ演繹することもできず、
ただ我々が既に知っているさまざまな場面で使われる
時間概念を、明らかにしていくことができるにすぎ
ない。カントは「純粋理性批判」の「感性論」にお
いて、時間概念の「究明」という言葉を使っています。
つまり既に知っている時間概念を明らかにしていく
過程が時間概念の究明ということであって、時間に
迫るそれ以外の方法はないという訳ですね。\\
~~大森~~なるほど、カント学者からこういう実例
を挙げられると大変おもしろいですね。そうすると
カントが使った「究明」のいちばん近い意味は、この
一世紀の分析哲学者が使っている「分析」の意味です
ね。\\
~~中島~~ですからカントは「分析」という言葉
を使っています。数学的な概念はすべて綜合である
と。「三角形」は単純概念から綜合$=$ 合成できる
わけですね。ところが「時間」とか「魂」とかは
分析するところから出発するしかない。\\
~~大森~~すると日本のカント学者と分析学者の不倫
な結合になりませんか(笑)。\\
~~中島~~ただ分析哲学者が、魂の問題とか神様の
問題までもっと切実にやってくださると、いち
ばんカントが敏感だったところで勝負ができる訳
ですが。\\
\\
~~~~~~~~~~現在とは何か?\\
~~このあたりで「現在」の問題に移ってよろしい
でしょうか。現在を、先生は今何々をしている最中
というところから理解されていると思うのです
けれども、まずこれをご説明願いたいのですが。\\
~~大森~~普通、物理的にはリニア時間をもとにおいて
「現在とは何だ」という風に言いますと、現在と
いう言葉は今僕が言っているから、現在とは発声
中だと、それから次は発声中だって間(あいだ)
があるじゃないかということで、「現在」のゲの方
の始まりである、という風なことになって、要する
にクルクルととんぼを手を回して気絶させる、あんな
感じになるわけですね。結局「現在」って何だか
わからないということになる。ですからこのアプローチ
は、結局のところそのリニアの時間に毒されているん
じゃないかと思うんです。それをやめて、もっと
普通の生活の中で「今」という言葉がどういう使
われ方をしているかと問うと、そんなバカな使われ
方はしていないのです。普通の世の中では、今何
してるんだ、今風呂に入ってる最中だ、今飯を
食ってる最中だ、というこの最中だと思うんです。
いつでも何かの最中ですから、いつだって何かの
今であるという形で、今何かの最中というところ
を手掛かりにして、「今」というものを考えて
いくのがいちばんじゃないかと思うんです。そして
「今」を時刻名だとする誤解から遠のくのです。\\
~~ですから、過去の想起との関連はどうなるか
と言うと、今思い出し中だということです。だからこそ
思い出されたことと、思い出してることとの関係
が、今と過去との関係になる訳ですね。\\
~~中島~~その限りでは私も非常によくわかるのです
が、ただ、過去における今という意味を、もし我々
が知らないとしたらどうでしょう。むしろ、いつも
今なのですからあらためて今と言う必要がない
訳ですね。これは自明のことですから。\\
~~大森~~それは私はこう考えます。例えばです。
お風呂の中にじっとつかって、これがだんだん
過去になって思い出してくるんだということ
を、いくら想像しようとしても駄目なんです。
結局それは何かに化かされている、でこの実験
はやめます。じゃどうしてそんな気が起きるの
かということを考える。何でそんな変な気に
なったか。一般に、何かを思い出すときは、その時
の今何かを思い出します。例えば、昨日の運動会
を思い出すと、その運動会は昨日の今だったと、
これは当り前のことですね。そのことを逆算して、
今はまた過去の何かにならなければいけない、我々
はこの軽率な逆算に誘惑されることになるの
です。ですから、はじめの半分は認めます。思い
出された中の過去のことは、その時の今である。
これは動かし難いことである。しかし、そこで
ピリオドを打つべきなのです。外へ出て、だから
この今もだんだん過去になってくるんだということ
は勇み足です。そういう問いかけ自体をおやめ
なさいと・・・\\
~~中島~~私はまったく逆のことを考えているの
です。今、「今」と語っている人はむしろ今とい
うことを語る必要がないぐらいに無意味なこと
を言っているのであって、あの時は今であった、
あの時は最中であったという過去形において、今
という言葉の原始的な理解が生じるのではないか
と思います。いつもどちらが先かという議論で
恐縮なんですが、そういう風にして、今をある
時間を表わす言葉として発言するとしますと、
それは既に今ではない、過去における今の了解
から出発すると考えられるのではないでしょう
か?\\
~~大森~~ちょっと言い直します。今あなたが指摘
したことには私はまったく賛成で、今は時刻の
名ではない。日常生活の中で、今ということ
を時刻の意味で使うことはまずない。どこで
使うかというと、何々の最中の意味でしか使
われてないと思います。では自然科学の中で、
今というのを使うかというと、これもほとんど
使われていない。例えば、普通の物理の教科書
を一冊とって、その中に今という言葉がない方
へ私は賭けます。\\
~~中島~~しかし、「今」と「ここ」とは連繋して
いるのではありませんか。今ここに私がいる訳
ですね。\\
~~大森~~私は今ここにいるという言い方は疑問
です。そう言う時私もまだリニアな時間に毒
されてます。そのせいで、今解毒中です。(笑)。
もう半年も経てば、そんな疑問は捨てられると
思います。今のところまだ残っていますが。\\
~~中島~~「今、ここで」というように、今
というのはここという空間的なものと不可
分な・・・\\
~~大森~~その言い方には何かいかがわしいものが
あります。つまり、何も意味がない、日常では
使わないような言い方、今ここ。電話で相手に
「今どこにいるんだ?」というような使い方が
正常な使い方であって、哲学屋の、今ここの時
の今は何だ、というような問い方はグロテスク
で間違いだと感じます。\\
~~中島~~また昔のことを持ち出して恐縮です
が、先生は「今」と「ここ」と「私」と呼ばれる
アモルフなものが何かあると、どこかでお書
きになっていたような気がしますけれども。\\
~~大森~~昔の話ですから、ずい分病気が重
かったんです(笑)。今は軽くなっています。
しかし重いときを想像すれば、その頃はまだ
自我というものをよく把えていない。hic et
nunc だとかいう横文字に毒されていた、そう
いう感じだとしか言えませんね。\\
~~中島~~すると、「今」と「ここ」と「私」
という基本的な概念をもって時間および自我
に迫るという方法に対しては、現在先生は
批判的であると言ってよろしいですね。\\
~~大森~~今この段階で言うと、批判的じゃ
なしに、効果が薄いだろう、うまくいかない
だろうと思いますね。悪い手(笑)だという
ことですね。\\
~~中島~~なかなか先生の新しいお考えの
核心に入っていけないもどかしさを覚える
のですけれども・・・。では「私」とは何
ですか?と、この問いはいけないのかもし
れませんがやっぱり問いたくなりま
す(笑)。よく知っているじゃないかと
言われればそれまでですが。\\
\\
~~~~~~~~~~内的経験と他我問題\\
~~つまり私がここで問題を提出しようと
思うのは、カントが内的経験と呼ぶもの
の意味内容です。カントの図式でいきます
と、我々が世界の中を動いていくうちに
必然的に外的世界と内的世界を区別する
のではないか、つまりパブリックな外的
世界のただ中で私は、固有の内的経験
をもっているという感じがあります。こう
いった内的経験について、先生はどうお
考えでしょうか?\\
~~大森~~内的経験の意味は昔からカントの
使い方がわからなくて、亡くなられた
久保さんにもしつこくきいていた問題
なんですが、むしろ中島さんがあと何年
かしてわかったときに教えていただく
のがいちばんだと思うけれど、私のは
まったく素人の、それに当たる感じ方
というか、こういうものだと思う
んです。最初に自我のときに身体動作
からずっといきましたね。あのプロセス
の中で、やがてある種類の動詞「考える」
だとか「想像する」だとか、あるい
は、手紙を書く場合は、「文章を
考える」というようなことが、一(ひと)
くるみになってくるんだと思うんです。
シャーレに入れた肝細胞が自然に集
まってくっつく様に。どうして一くるみ
になるか、これはわかりません。恐らく
は外的経験に対する斥力からでしょうか。
それとも仲間同志の引力。何となしに一
くるみになっている。それが何か私の
内的な経験のように感じてくる。
それは自然なことです。カントはそれを
ことごとしく内的経験と言ったん
じゃないか。\\
~~中島~~内的経験とは、固有の意味で
私の経験である。つまり、アウグスチヌス
も言っていますが、過去における私
と今の私が出会う場という感じがある
んですね。つまり広大な可能的世界
の中で、これまでその一部しか、
\underline{現に}知覚してこな
かった。そして、私が現に知覚し
てきたことの固有の系列が私をつくって
いるのだという感じがあります。過去
においては、私が経験できたであろう
ことと、現に経験したことの区別を
つけることの意味が大きくなる。ここ
には、当然倫理的な問題が入って
くる訳であって、人を現に殺したか、
可能的に殺すことができたかはまるで
ちがいますよね。その限り、私が
現に体験したことの固有の系列を
特に\underline{内的}と呼びたい
訳です。\\
~~大森~~なるほど。やはり、自働的
分画ですね。\\
~~中島~~逆に言いますと、そういう固有
の系列がもしなければ、内的経験と外的
経験という区別もなくてよいであろう、と。
私は以前にこうした内的経験の成立過程を
カントの「自己触発」という概念に重ねて
考えてみました。私が公共の世界の中を
動いていくうちに、必然的に自分を触発
して自分固有の世界をつくっていくと
いう過程・・・。\\
~~大森~~大変面白い。面白い理由は、例えば自然科学のやり方と
非常に似ています。つまりデータから全体像を構成していく。例えば、
地質学だとか、天文学にいちばん多いですね。二十世紀なら二十世紀
に集められたデータというのは限りがあります。その中で大陸移動なら
大陸移動を、あるいはマントルの状態を組み上げていく訳ですね。そのとき
に与えられた手にすることのできたデータを、カントに従えば自然科学的
な内的経験とか二十世紀科学の内的経験と呼んでもいいような感じがした
もんですから(笑)。ただ、今の点が逆に自然科学のそういう手続きに似
すぎている点がカントの内的経験のまずいところであるということもあり
得ますね。\\
~~中島~~もう少しカントの代弁者としてお話してよろしいでしょうか?\\
~~大森~~はい、どうぞ。\\
~~中島~~カントによりますと、こういった内的経験を構成しないような作用
源ないし作用体があるとしても、それは主観ではない。つまり、世界の事象
をことごとく眺め、それらを正確に報告するにしても、自分固有の世界を
つくらなければ、カントが考えている意味での私でもなんでもない訳です
ね。こうした背景で、時間は内的感官の形式であるとか、時間は主観に
帰属するということをカントは言います。この主観(超越論的主観)も
けっして傍観者的にただ世界を見ているだけではなくて、まさに経験を
しつつ自分の世界をつくっていく主観であるわけですね。われわれが
よく知っている普通の私という訳です。ですから以上の意味で、内的
経験が、私が私であるためのいちばんの中核を占めると考えますけれ
ども。\\
~~大森~~完全に理解したと言えませんが、今うかがったところ大変興味
をそそられますので、よくそれを展開されたら読ませていただきたい
と思いますね。\\
~~中島~~では、もう少し話を一般化しまして、先生は内的・外的という
区別についてはどうお考えでしょう。\\
~~大森~~私自身では常識的なもの以外には感じません。むしろどこか
そのきき方は悪いという感じです。\\
~~中島~~知覚の場面ですと内的・外的という言葉をことさら使わなくて
もすみますね。各人はパースペクティヴがちがっているだけで、同じ
ところからは同じものを見るということをごく自然に信じていますよ
ね。\\
~~大森よくいわれるように、人間の境界というのは皮膚でも、どこ
でも切れる。\\
~~中島~~しかし、どうも想起・過去の場合になりますと、他人が固有
の過去を引きずっており、その中に入れないという感じがあります
ね。他我問題に一般的に入る力は今私にはありませんが、もし現在
の知覚の場面だけで他我問題を考えていくとすると、それは片手
おちどころか両手おちという感じがします。つまり、過去の場合、
最も他人の中に入り切れないという感じがするのではないでしょう
か?\\
~~大森~~私はだんだんそうじゃなしに、立ち入れるし、お互いに立ち入って
るんじゃないかと思いだしました。他我問題の根幹にある一つの誤解と
いうかまずい点なんですが、私が犯したまずい点に対する東北大学の野
家君の批判が正しいと思いはじめました。要するに他人がわかるとか、
他人の中に立ち入るってのは、あたかもその人になりきって、知覚的
に理解したりという不当な要求を出せば、これはできない。しかしそれ以外
の、話し合うだとか、行動を見るだとかということで、あの人は何を望
んでるんだろうとか、考えて理解するという形だったらできるんじゃないか。
とことんまで勿論できません。しかし相当部分できると思います。人
の過去にずい分立ち入れるんで、いちばん簡単なのはその人の過去を
語ってもらうこと、履歴書を書いてもらうことですね。それで大半
のことは知ることができるんじゃないですか?\\
~~中島~~しかし他人の過去を知ったとしても、それはその人と同じ体験
をしたのじゃないですね。\\
~~大森~~ですから、知覚的に体験することが本当の了解の方式だという誤解
をもてば、そういう言い方になる。\\
~~中島~~多分カントもそう誤解していた側に入ると思います。\\
~~大森~~それは野家君に言ってやろう。カントも・・・(笑)。\\
~~中島~~しかし、カントも場合には、過去が本来的には実践的な場面で
働いてくる訳であって、私が何を見たかではなく何をしたかという
ところで働いてくる訳ですね。被告人が人を殺すに至った過程をこと
ごとく裁判官が了解しても、裁判官は殺人者ではない。そこで、誰に
どういう責任を帰すかという場合、どうしても個別性が残り、これこそ
内的経験の中心問題だおtカントは答えると思いますね。つまり、他人の
過去を了解できるということは、他我問題の一番重要なポイントではなくて、
いちばんの中核は、他の人が経験したことを私は経験しなかったという、
まさにこのことです。\\
~~大森~~それはそうです。\\
~~中島~~これが人称を区別することである訳でしょう。\\
~~大森~~そうです。他我問題の一つの、原因物質ですね。\\
\\
~~~~~~~~~~未来について考えるとは?\\
~~中島~~どうもカントに半分よりかかりながらあやふやな内容を繰り
返しているだけのような感じがしますので、これまでに致しまして、
次に未来についておききしたいと思います。先生は未来においても
実物が立ち現れるということをいろいろなところでお書きになって
いらっしゃいますが、未来と過去は非常にちがうということは誰
でもよく知っていますよね。だがこのちがいを一歩つっこんで語る
と非常に語りにくい。過去について考える(想起する)のではなく
未来について考えるとはどういうことなのか、このあたりからお話
下さいませんでしょうか。\\
~~大森~~未来一般ではなしに、例えば、明日何かの会合に行く、結婚式
に行くというとき、われわれは未来を考えるわけですね。女の人なら
どうしう洋服を着ようかとか。僕だったらどういう酒がどのぐらい
出るだろうかとか(笑)。それが未来を考えることですけれども、
そのものずばり、例えば酒がワインだったら、どんな味がするだろうかと
僕は考える。ビールだったらどれくらい飲めるかなと考えます。そこで
大事なのは、勿論まだ飲んでいないんですから、味は知覚的にはわからない。
しかしあいつは金持だから、いいワインだったらあの手の味だなと、
僕が知っている味で想像することはできる。そういう知り方をします。\\
~~そして過去の場合は、昨日行った会合だったら、ワインの味は、飲んで
いるんですから、今思い出すことはできます。勿論、舌の上に思い出すん
じゃなくて考えて思い出すんです。味だとかいうものを考えて思い出す
のは、いかにも迂遠なように思いますが、ーー私も今でも迂遠に感じ
ますがーーやっぱりそうじゃないですね。今ここに五、六種類のワイン
を並べて、飲んでどれにいちばん近かったと判定できるわけです。
昨日飲んだのはこれにいちばん近い。その程度確かなこと、しかも
それを考えているんですね。\\
~~中島~~カントはあるところではっきりと、未来と過去との区別
はア・プリオリであると書いております。つまり、先程の内的経験
と外的経験の話にかけますと、未来においては別に私の固有の経験
があるわけではありません。世界はまだ未決定なものとして、外的
と内的の区別のないものとしてありますね。先生の場合ーー私の誤解
かも知れませんがーー過去と未来を直接知覚できないという点で
非常に近いもの、同質のものとして考えていらっしゃるのでは・・・\\
~~大森~~両方とも現在とは違います。しかし、過去と未来の質的な
相違もあります。それは今言いました。片方は味がわかるし、片方は
味がわからないですね。うまけりゃいいな、という希望だけです。\\
~~中島~~じゃ、質問を変えまして、先生は\underline{ある}という
言葉を知覚に限定して使用するのはまずい。過去にも広げて
\underline{ある}という言葉を使って、どこが悪いかとお書きに
なっていますね。すると\underline{ある}は未来に広げてもいい
わけですね?\\
~~大森~~ただし、過去の場合は過去形でね。\\
~~中島~~未来においては未来形で。\\
~~大森~~それが普通の人がやっていることです。\\
~~中島~~しかし、あることがまだ実現していないからこそ未来な
訳ですね。\\
~~大森~~そうです。シュアーじゃないというだけですね。\\
~~中島~~そうしますと、未来にもやはり私固有の世界はあるんで
しょうか?\\
~~大森~~未来の私ですか?\\
~~中島~~はい。\\
~~大森~~何から何まで経験という限りで、\underline{私の体験}
というのは先程言った自我概念から出てくると思います。何か
すること、それが未来であっても、もし\underline{したら}、
それは私の経験です。どこか具合が悪いですか?\\
~~中島~~いえ、ホンネをはきますと、私はただ未来をなるべく
消したいのです。あるとき、見田宗介先生のご本「時間の
比較社会学」を読んだのですが、アフリカの部族の多くでは、
未来を表す固有の言葉がないという有力な説を紹介しておられます。
よく考えてみますと、日本語でも英語でもドイツ語でも、過去と
現在の区別は非常にはっきりしていますね。しかし未来は推量
と変らない言葉を使っているのであって、少なくとも言語の
レベルでは現在と未来を近く考えているという気がします。この
ことは何かを示唆しているんではないかと思うのですけれども。\\
~~大森~~それは見田さんの早トチリです(笑)。\\
~~中島~~いえ、あくまでも私個人の責任で申し上げるのですが、
つまり未来と今知らないこと、はっきりしないことはほとんど
同じことを意味しているのではないでしょうか。\\
~~大森~~僕はそれはちがうことだと思いますね。それは常識
の中で明らかにちがう。つまり、不確実なことが全て未来
だとは言えませんね。例えば、道で逢った女の人の年齢
です。不確実ですが、未来だおいうのは意味をなしません。\\
~~中島~~なるほど。では見田先生のお話は、やはり全部ここ
で消したほうがよいかも知れません・・・(笑)。\\
\\
~~~~~~~~~~私は今もう死んでいる\\
~~このあたりからかなり私の個人的思い入れを自覚して申し
上げますと、過去と未来を我々はかなりちがった態度で把え
ている。先程申しましたように、現在は過去によって一方的に
規定されていると普通我々は考えておりますね。今の状態が遡って
過去の状態を変えることはできない。しかし、未来とは何らかの形
で現在変化を加え得るものとして理解している。つまり自由ということ
ですね。また、このあたりは私が何故時間論をやるかということにも
関係し、先生との長いお付き合いの中で、先生も同じ穴の狢ではない
かと勝手に思っていることにも関係しますが、未来というのは私が死ぬ
時ですね。我々は生まれる前は何でもなかった。そして、そのとき不幸
ではなかった。だからまたもとの無に返っても痛くも痒くもない。不幸
でも何でもないという議論がギリシャ哲学以来ありますけれど、これは
大きな間違いです。もともと無いのと在るものが無くなるのとはちがう
のであって、私が今存在するからこそ単純にこれが無くなることが不安
であり恐怖であるわけですね。つまり、私がなくなることが、いちばん
外側で私の未来をつくっているわけです。\\
~~この図式は非常に残酷な図式だと思いますが、もっと残酷なのは、
リニアな時間を認めますと、何十憶年か世界が続いていて、その中の
ほんの一瞬各人がフッと息をして死んでしまうという、現在ほとんどの
人が受け入れている図式です。このように残酷極りない図式を受け入れ
ながら、多くの人がのほほんと生きていることが私には不思議なんです
けれども、我々は何故自分の利益にはなはだしく反するこうした世界
の基本構図を認めざるを得ないのでしょうか?これは空虚なつまらない
問いでしょうか?\\
~~大森~~その質問にはもっとつまらない答弁をする以外にないですね
(笑)。そのギリシャの慰めよりもっといい慰めを見つけてきて。
この頃自分に言いきかせているんですが、つまり、死ぬのが怖いのは今
生きているのが死ぬから怖い。じゃ逆に今既に死んでると思えばどうだ。
そして私は今もう死んでいると思っています。この世界は生き生きした
ところが全然ない。\\
~~中島~~それがなかなか思い切れないところが苦しいところであっ
て・・・。\\
~~大森~~この慰めの手は日本の昔からの、はかなさとか無常の言い抜
けです。今お前の生きているのが諸行無常なんだ。今生きているんだ、
そう思っても実は生きていない。死んでいるんだ。だから二度死ねない
ぞ。あるいは死んでも同じことだから怖くないだろうという言い方
ですね。\\
~~中島~~そうしますと、先生にとってご自分が死んだ後の世界につ
いて語るのは、全く無意味なのでしょうか。普通我々は自分が死ん
でも世界が存在するように信じていますよね。\\
~~大森~~私は、百パーセント無意味だとは思えませんね。しかし、私
自身が死んだ後のことをある程度考えますと、その考え方はどういう
考え方かという点では、ファンシー(虚想)で考える。さっきあなた
が言われた、他人の過去がわからない、それにもかかわらず我々は
ファンシーできるんだと言えます。するとファンシーってのはおかし
な夢遊病的な想像かというと、そうではない。ちゃんとした自然科学
のがっしりした考えも全部ファンシーに裏付けられて、虚なる思考に
裏付けられて実になるんだという、ちょっと易者みたいな話になる
んです。\\
~~中島~~カントも自然科学の描く世界を最もリアルな存在とは
みていない。がっしりと存在していることを認めながら現象と呼んだ
訳ですね。カントはその意味で、こうした何十億年の時間の中、
各人がかげろうのように生きる苦痛を少々軽くしたとは言えると
思います。問題は、我々凡人には先生のように
\underline{既に死んでいる}と実感することがいかに難しいかと
いうことであって、やはり・・・\\
~~大森~~いや、今自分に説得している最中で、これには練習が要るん
です。昨年ある女子大学で話をたのまれたときにやりまして、まだ
それは最初で、できがごく悪いんで、これからだんだん自分でも
納得できるようにレトリックを変えていくつもりです。\\
~~中島~~個人的な関心で恐縮ですけれども、では現在先生は死への
恐怖は全くないということですか。\\
~~大森~~これは哲学をやったおかげで、全くじゃないけれどずい分薄れ
ました。\\
~~中島~~やはり哲学をやると利点もあるのですね。\\
~~大森~~あります。偶然ですが。しかしね、結局死ぬのが怖くなくなった
途端、ポックリいくということになりますよ(笑)。それを好まれる
かどうか。私はそれでもかまわんと思っていますが。今さら引き
返せないから。\\
~~中島~~結局いちばん深刻な問題を笑いとばしてしまうという、
哲学談義の常道を示して終ってしまうようです。本日は大森先生
の新しい時間論自我論をおききするチャンスが与えられながら、それに
いまひとつ迫ることができませんでした。私の無能力を恥じる次第
です。最後に、失礼ながら、このお年齢(とし)になられても
なお新しい展開が先生から期待できそうで、先生にはまだ当分の
間生きながらえていただきたいと思います(笑)。\\
~~大森~~ありがとうございます。\\
~~中島~~本日はどうもありがとうございました。\\
\\
~~~~~~~~~~(*)記憶とメロディー\\
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(大森荘蔵)\\
~~よく知られているように、フッサールやマイノングが記憶について
考えたとき、彼等が記憶の典型的事例としてとったのはメロディーで
あった。その理由を推測するのは難しくはない。われわれがメロディー
の一節を聴くときに、或る一時刻に耳に達しているのは音符の一つに
当たる音でしかない。それにもかかわらずその時刻にメロディーがき
こえていることにはまず疑いの余地がない。それはすなわちメロディー
を構成する他の音符もまた現存していることではないか。だがその
時刻に耳に達しているのは先の一つの音符の音だけであって他の音符
の音は既に鳴り終って過去の音になっているはずである。すると、これら
過去の音がその時刻に尚も残存してメロディーを聴かせていることになる。
もちろんそれらの音はその時刻には知覚されていないが過去に知覚された
音である。だが過去の知覚音が後刻に残存するとはまさに記憶に外ならない。
過去に聴えた音は記憶されて想起される、そう考える以外にあるまい。\\
~~以上述べたような事情が記憶のパラダイムとしてメロディーがとられてきた
ものだろうと推測しても、さして間違ってはいないだろう。しかし、記憶に
ついての探求においてその出発点をどこにとるか、就中どのような事例を記憶
の典型とみるか、はそれ以後の考え方を方向付ける程影響が大きいものである。
私自身は記憶の典型としては全く別の事例、むしろ対極的ともいえる事象を
とるべきであると考えてきた。その事象とは過去経験の想起である。そして、
過去の想起を探求する出発点としては常識と多くの哲学者に共通する一つの
誤解をとった。その誤解とは、記憶とは過ぎ去った知覚経験の保持、保存であり
想起とはそうして保持された過去の知覚経験の再生ないしは再現である、と
いう広く一般に流布している誤解である。この誤解を否定する議論そのものが
記憶の正しい本性に導くことになる。\\
~~そしてこの誤解はまた、メロディーを記憶のパラダイムとする考え方の
母体でもある。過ぎ去った音知覚が再現するのがメロディーの記憶だと
考えるのだから。\\
~~しかし、メロディーを聴きとる経験を理解するために、メロディーを
歌うという経験に目を向けてほしい。或る既知のメロディーを歌うとき、
そのメロディーがあざやかに、あるいはかすかに耳の奥で鳴っているのが
聞えていて、それに合わせてそのメロディーを歌う、というのでは
\underline{ない}。そのようなメロディーの音知覚の再生のようなもの
はどこにもない。それにもかかわらず、われわれはメロディーを
\underline{知って}いる。そしてこの知っているメロディーを歌うので
ある。メロディーのこの知り方は明らかに知覚に類した模擬知覚風のもの
ではない。つまり、知覚の再生とか再現といったものではない。だからそれを
「メロディー了解」と呼ぶことにしよう。すると、メロディーを歌うの
ではなくメロディーを聴くときにわれわれが経験するのもまたこの
メロディー了解であってメロディーの知覚的再経験などではないといえる
だろう。だから、メロディーの記憶などではないのである。\\
~~ではこのメロディー了解とは一体何だろう。それをかくかくしかじか
と描写することは絶望的に難しい。しかし、次のことは言えよう。すなわち、
メロディー了解は一連の音を継起的に知覚する時に伴なう経験である。つまり、
それは一連の音知覚を想起することではなく、一連の音知覚によって生じる
経験なのである。その一連の音知覚は継起的である故にたとえ僅かであって
も或る有限の時間を要する。その有限の時間間隔のどの時点でメロディー
了解が発生し、その時点まで持続するのか、こういった精しい細部について
述べることはできないし、また必要でもない。そうした質問は音知覚の記憶
解釈の下で造られたものである。メロディー了解は一連の音知覚によって
ひき起こされる経験である、ということで十分である。\\
~~このメロディー了解を軸にして一般の変化了解を考えてみる。変化する
色や形や肌ざわり(風とか波とか)の了解、特に運動する物体を見る時の
運動了解である。人の歩行とか投手の投球での手の動きや球の動きを
見るときに、先行する時点での視覚風景の記憶を想起することがその運動
了解であるという記憶解釈をここでもしりぞけたい。一連の連続する視覚
風景が見えることによって端的にその動き、またその動きの速さが了解
される。それ以上でも以下でもない。そこにそれを仲介したり媒介したり
する記憶などの余計なものを挿入するのは誤りであろう。運動了解
のこの無媒介性、直接性をみてとるために心理学の仮現運動の実験
が役立つだろう。離れた二つの場所に時間をおいてパッパッと閃光を
見せるとわれわれにはその二点を動く光点の運動が見える。このことの
背後に記憶だとか残像だとか、何か「残存するもの」を仮定しがちである
がその必要は少しもない。端的に光点運動が見える、唯それだけでは
あるまいか。それと同様に、投手の腕が次々と連続的に位置を変えて見える、
そのときわれわれはその腕の運動を了解する、唯それだけであって、
その不必要な説明のために残像や記憶を持ちだす誘惑に負けてはならない
のである。\\
~~以上述べたことが正しいとすればメロディーを記憶のパラダイムとする、
いや記憶の一事例とすることすら有害無益であることになる。\\
\end{document}