衣装
森本薫 作   

人・勢喜、舞子、千紗、嶺、日疋。

 洋家具の入つた部屋。左手に扉、正面は左の方がニス塗の引戸で次の部屋に続き、右の方に大きな桃心木のピアノが目立つてみえる。右手に窓。早い春の夜。

 勢喜、舞子、嶺。舞子ひとりだけが煙草をふかしてゐる。
嶺 (思い出したやうに)しかし、ストオブを取払つちやつたのは一寸早まつた。
舞子 昼間は随分暖いのよ。
嶺 昼間来れやよかつた。日あたりが良いんだね、察するところ。
舞子 とつても! そこの窓からね、・・・この辺へ・・・こつちかな。
嶺 さうぢやないだらう、あんたの起きる時分には。
舞子 あら失礼な。
勢喜 嶺さん初めてでしたかしら、こつちへ来てから・・・。
嶺 さうです。僕は・・・。
舞子 引つ越し手伝はなかつたから初めての筈よ。
嶺 暇な連中と違つて勤め人だからな。
勢喜 あれで前の家は随分暗うござんしてね。
嶺 さういへばさうなやうな気もしますね。何方向いてるかな、あの家は。
舞子 解つたやうな顔しなくつたつていいのよ。
嶺 自分が知らないからだらう。
勢喜 西? (舞子に)ねえ。
舞子 さうなるのかしら。
嶺 ははん。それでも女のつもりだつてね。
舞子 千紗と、どう?
嶺 あれや、また、言語道断だ。
勢喜 (笑つて)言語道断ですね。
嶺 お母さんまで賛成なんですね。
勢喜 ―――(笑つてゐる)
嶺 少し弱つたな、それや・・・。
舞子 張り合ひがないな、さうなると。
嶺 姉と云ふ奴がよろしくないと思ふよ、僕は。
舞子 姉はいいさ。
嶺 なぜ。
舞子 ぢや、なぜ悪い。
嶺 何故も糞もない。何処も彼処も悪いとこばかりだ。(咳をする)煙草は止せ。
舞子 あんたの負けよ、それぢア。
嶺 ん?
舞子 何ていふ顔。アツケラカンとして・・・。
嶺 日本語で云ふとどう云ふことになる。
勢喜 面白いんですかねエそう云ふことが。(立上る)
舞子 寝るの、母さん。
勢喜 寝やしないよ、まだ。
舞子 ぢや、お茶でも焙れて来なさいよ。
勢喜 来なさいよ? あべこべだね、まるで。来なさいよ、だつて・・・。
嶺 打つちやつときなさい。自分で焙れて来りやいいぢやないか。
舞子 あんたのを云つたげたのよ。
嶺 そんな好意があるんなら自分で起てよ。
舞子 ところが、それほど迄は無いの。
勢喜 嶺さん、姉妹二人、揃ひも揃つてどうしたかうなんでせうね。(正面から去る、引戸を開くと明るい日本間と派手な夜着がみえる)
舞子 母親嘆く・・・。
嶺 誰だつて嘆くさ。末世に及んだね、かう云ふ女が現れるやうぢやア。
舞子 気はやさしいのよ、みんな。
嶺 気はやさしくて力持だらう。
舞子 そんなにプンプンするな。
嶺 貰い手がないわけだな、これぢやア。
舞子 行つてやらないからいいよ。
嶺 今に廉売りの札を出すんだらうがね。
舞子 余計なお世話だい。
嶺 気の毒だからね。他人事とは思へん。
舞子 苦労性なのね。
嶺 相手になるな。一々逆らやがる。
  間。
  時計の十時を打つ音。
嶺 十時か。ぼつぼつ・・・(立上りさうにする)
舞子 もう帰るでせう。
嶺 帰らなくつたつていいさ、あんな不良少女。
舞子 ほんとに、何処をうろうろしてゐるのかなア、今頃。夕方迄には帰るつて云つてたのよ。
嶺 行先は決つてるんだらう。
舞子 それやわかつてるけどさ、何時迄も其処にゐるんだかどうだか・・・。
嶺 少しは厳しくしないと駄目だぜ。
舞子 したつて駄目さ。
嶺 試めしにやつてみりやいいぢやないか。始つから放り出しといて・・・尤も意見する方があんたぢや・・・。
舞子 ぢやあ自分で云ひ給ひ。自分のあれぢやないの。
嶺 こつちが云ふんぢや追着かねえや。
舞子 そんなに、やきもきしなくつたつて大丈夫よ。
嶺 やきもきするんぢやないがね。あれぢやア、見てる方がはらはらする。
舞子 ほんとに心配しなくつたつていいのよ、さう云ふことなら。
嶺 ここの家は、をかしな家だな。
舞子 信用してるのね、みんなが。
嶺 みんな曲つとると云ひたい。
舞子 でも、あんたも割合に物好きね。どうするつもり、あんな子を奥さんにして。
嶺 生きたまま使ふよ、潰しにもなるまいぢやないか。
舞子 潰しも利かないつてことよ。
嶺 なにしろ傍に附いてる奴が悪いからね。二人で決めてるのかい、結婚なんかしないつて。
舞子 決めてなんかゐやしないわ、そんなこと。
嶺 さうか。僕はまた約束してるのかと思つた。
舞子 あれね、男なんてものはどれもこれも・・・結局・・・(にやにや笑ふ)どうしよう後・・・。
嶺 親父さんが生きてたら、そんなことを云はしてもおかないだらうに・・・。
舞子 生きてたつて・・・さうね・・・女ばかりの家つて駄目よ・・・。
嶺 それみろ!
舞子 それも男なんてものがゐるからよ。
嶺 男の所為にしてるのか。その癖男と遊んでばかりゐるんだから世話ない。
舞子 そいで、どう云つてるの、千紗。
嶺 どうつて、何さ。
舞子 イエスなの、ノオなの。
嶺 ノオ! 猛烈にノオだよ。
舞子 威張らなくつたつていいわよ。
嶺 僕には彼奴の気が知れん。あんたに気兼ねしてるんぢやないかしらん。年上のあんたが家にゐるのに・・・。
舞子 そんな莫迦な!・・・筈がないわよ。
嶺 さうかな。しかし・・・(云ひ切つて)有る。
舞子 家ぢや絶対にないのよ、そんな・・・他所の家なら知らないけど・・・。みたつてわかるでせう。
嶺 僕は、本当に厭なら厭で、別に無理に・・・。
舞子 さうぢやないのよ、何云つてるの。
嶺 ぢや、どうなんだ。
  格子戸に附けたらしいベルの音。
舞子 帰つて来たんぢやないかな。(立上る)
嶺 わからん、女の子の腹ん中なんて。
  みえない所で障子の開く気配、勢喜の声で「いらつしやいませ」と云ふやうな挨拶。続いて男の声、何か云ひながら別の部屋に消えて行く。舞子、扉に迄行くがそのまま引き返して来る。
舞子 違ふらしい。
嶺 お客様だね。(立上る)
舞子 いいのよ、放つといたつて。
嶺 ここんち、二階あるのか。
舞子 あるわよ。何故。
嶺 お客をするやうに出来てるんだな。
舞子 張り飛ばすよ。莫迦なことを云ふと。
嶺 どうも怪しい。始終お客のある家だな。
舞子 余計な心配ばかりしてるね、君は。
嶺 苦労性なもんでね。(ピアノの傍へ行く)いぢつてもいいのかい、これ。(ガンと叩く)
舞子 子供が起きるぢやないか。
嶺 あ、びつくりした。鳴ることは鳴るんだな。
舞子 お父さんの形見よ。立派でせう。
嶺 立派過ぎる。栄華の名残りか。
舞子 ふツ! 可笑しくつて・・・。
嶺 子供、寝てるのか。
舞子 ―――(次の部屋を指す)
嶺 パストラルだね、あの子は。中々よろし。(ちよつと戸を開けて覗くが慌てて締める)其処にゐるんだ、まづいまづい。
舞子 そんなにソワソワしないで、ちやんとしててよ。目触りで仕様がないわ。
嶺 ゆかなくつていいのか、あんたは。
舞子 いいわよ、煩い。
嶺 そんなら、’いいけど。僕は帰るよ。
舞子 あら何故、も少しゐればいいぢやないの、どうせ今から帰つたつて、あれでせう、何にも・・・。
嶺 また、来るよ。(出てゆく)をばさんによろしく。
舞子 厭な人ね。(蹤いてゆく)言ふことがあつたら、言伝しといたげるわ。(扉口に凭れて)
嶺 お前みたいな仕様のない奴は無いつて云つといて呉れ。
舞子 そ云つとく。ん。
嶺 あんたもね。(格子のベル)失敬。
  舞子、扉を閉めて次の間へ入りかけるが思ひ返して元の場所へ行く。
  「舞子、舞子」と言ふ勢喜の声。舞子、知らん顔をしてゐる。
  勢喜、お茶を焙れて出てくる。
勢喜 おや。
舞子 帰つたわよ、もう。
勢喜 なんだい、そんならさうとお前・・・。
舞子 お茶、妾貰ふ。
勢喜 御挨拶くらゐなさいよ。折角いらしつてるのに、ちょつと・・・。
舞子 ―――。
勢喜 それとも、こちらへ来て戴いた方がいいかしら、窮屈だから・・・。
舞子 どうでも・・・。
勢喜 いいだらう、それでも。
舞子 妾はどつちでも、つて云つてるぢやないの。
勢喜(やれやれと言ふ格好で出て行く)
  舞子、玄関の方へ出て行かうとする。日疋、勢喜。
日疋 さう言ふことはないが、やつぱり、そりや洋服だとね・・・。
舞子(糞丁寧に)いらつしやいまし。
日疋 いや、どうも・・・。
勢喜 さ、どうぞ。とりちらかしてをりますけれど・・・。
日疋 いやいや、構はないで下さい。いいですよ、そのままで・・・。
勢喜 舞子。(坐れと云ふ身振り)
舞子 なあに。(知らん顔をして突立つたまま)
日疋 中々いい住居ぢやありませんか。新しいのが第一ね・・・それに木口も悪くない。此の頃は安くつて悧巧な家が建つやうになつてゐますからね。
勢喜 はあ・・・何時も何時も勝手ばかり・・・一向御相談にも上らないで・・・。
日疋 なあに、そこは此方でいいやうにやつて戴く方が私の方も勝手です。一々御相談に上られちやア却つて困るでせう。(笑ふ)
勢喜 御尤もで・・・前の所は日当りがよくないと申して、みんなが嫌ひますものですから・・・。
日疋 ああそりや、何と云つても明るい方がいいな。おや、(舞子に)ピアノが此処だね。時を得て世に出たと云ふ形ですね。かうしてみると、どうしてなかなか・・・。
舞子 おいといても無駄だから売つちやはうつて云つてるんですの。(すうつと出て行く)
日疋 は! は! ピアノを売り払つて酒庫でも建てるかね。それなら賛成だが・・・。
勢喜 我儘な子で・・・どうも仕様がございません。
日疋 舞子さんと私とはどうも肌が合はんらしい。
勢喜 いえ、何方様でもあのとほりなんで、他人様のおゐでの時などは随分気を揉むこともございます。片親になりますと皆ああなんでございませうか。
日疋 私なぞは別に気にもしませんがね。まあ、歳をとつてくればよくなりますよ。あの人なんかまだまだ、これで・・・。
勢喜 はあ・・・もう、分らないと云ふ歳でもないのですが・・・。
日疋 まあ、さう云へば・・・幾つでしたかな、お姉さんは・・・。
勢喜 もう、六でございます、あなた。
日疋 六ですか、すると・・・。
勢喜 わからないでやつてゐますんなら、またそのうちには、と云ふこともがざいませうけれど、よくわかつててああなんですから・・・
日疋 いやもう子供を育てるつて云ふことは・・・私がお世話しませうかな、ひとつ・・・こんな縁談はどうでせう、私の会社にもう七年ばかり、学校を出てからずうつと・・・。
勢喜 はあ、それも、色々お話もございますんですが、当人がどうしても嫌だと申しますもので、無理にと申しますともう、まるで悪いことでも勧めるやうに云つて怒るんでございます。
日疋 は! は! そいつは手厳しい。成程ね。そんな風になりましたかねエ。尤も嫁入りしたつて今日此の頃ぢやア・・・。
勢喜 之が男の子ですと、まあ、そんなにしなくつともと云ふやうなものですが・・・。
日疋 誰かあるんでせう、そりや。中々男のお友達も多いやうだし、その中にお気に召したのがあるんぢやないですかな。案外お母さんなどの気の附かない・・・。
勢喜 それが、一向そんな様子もございませんのです。男なぞと云ふものはどれもこれも・・・。
日疋 いや、もうその後はよくわかりました。
勢喜(恐縮して)いえ、決して之は・・・妾・・・。
日疋 なになに、いんですよ。まつたく、男と云ふ奴はよろしくありませんな。これで、ぢつと慍柔しくしてゐれば、別に後で困ることもいらないし、後悔することもないんだが、時々妙な謀叛心を起すものでね。(笑ふ)いや、どうも・・・。
勢喜 恐れ入ります。
日疋 しかし、傍から焦つてみたつて、当人の気持ちが決まらなきや、此奴ばかりはどうにもなりませんからな。(煙草を出す)
勢喜 左様でございます。(慌ててマツチを摺らうとする)
日疋(制して)結構です。(もう火が点いてるんで)さうですか。(顔を寄せる)
勢喜 もう妾も、此の頃では成可く考へないやうに致してをります。あれの考へなんか汲みとらうとしたつてまるで無駄みたやうな気が致しますもので・・・
日疋 何か商売でもやりませんかねエ。水商売のやうなものでも・・・ああいふ人にはいいかもしれませんよ。それなら私が一つ力を入れてみても・・・
勢喜(気無く)さあ・・・。
日疋(諦めて)私ぢやア、あんまり役に立ちさうにもありませんな。
勢喜 いいえあなた、もうあなた様にはこれ以上御迷惑はお掛け出来ないのです、妾達。今迄にもいろいろ御迷惑・・・。
日疋 いやいや、さうぢやない。さう云ふつもりぢやないが・・・。まだあれで、千紗とはちよつと流儀が違ふんですな。
勢喜 どう云ふものでございませうか。(愛想笑ひ)
日疋 いや、御同様気だけは若くつても駄目ですなア、年をとると。
勢喜 御冗談を・・・。
日疋 御冗談ぢやない。ほんとですよ。まあ、あなただからかう云ふことも云へるんだが、もう何だか億劫でねエ、此処の閾をまたぐのが・・・舞子さんは勿論だが、私は此頃千紗の顔をみるのも怖くなりました。
勢喜(―――俯向いて)妾はもう、三年此のかた、子供達にのびのび話の出来たことはございません。
日疋 時代が違ふんですな。ざっと三十年ですからな。これで、子供でもなかつたら、私も、此の家へはとつくに足が向かなくなつたかもしれませんよ。(笑ふ)
勢喜 あの子達に致しましても、一体あれでお互どう思つてゐるんでせうか。たつた二人の姉妹なんですが・・・。
日疋 それや、お母さん。あんな姉妹と云ふものも先づないでせう。私もあれだけには謝りましたよ。
勢喜 はあ。でも、此の頃ぢやア・・・両方から・・・何て云ふんでせうか、斯う・・・。
日疋 私が出入りするのがいけないんでせうな、やつぱり。
勢喜 まあ、あなた、どうしてそんな・・・。
日疋 いや、さうなんですよそれや。それは私にもよくわかつてるんですが、やつぱり、気になると、捨てておけない気がしてつい・・・。
勢喜 左様でございますともあなた。そんなことを兎や角思つては罰が当たります。
日疋 まあ、舞子さんにも、も少し我慢して貰つて、そのうちには千紗のことも何とか・・・。
勢喜 滅相な。舞子があなた・・・命を拾つて戴いたのも同様なあなた様をどうしてそんな・・・。
日疋 いや、それを云はんで下さい。それを云はれると全く穴へでも入りたい。
勢喜 舞子にしましても、病気が癒つたからと申して以前のやうにお店に出ると云ふわけでなし、と云つて、いくらやかましく申しましても縁談には耳も傾けて呉れませんし。御近所の手前でも・・・。
日疋 まあ働くと云つても女の仕事なんて楽ぢやありませんからなア。殊にあの人のやうに長い病気の後ぢやア、そいつはちょつと・・・。
勢喜 あなた様の黙つておゐでになるのをいいことにして、みんなみんな仕たい三昧をしてをります。それを考えると妾は、ほんとに申し訳ない気が致します。
日疋 お母さん、困りますなア、いつもいつもそれぢやア。
  表は開く、乱れた足音。
嶺の声 さあ、這入れ! 酔つ払ひ!
千紗の声 嶺! もう歩けない妾。
嶺の声 嘘つけ、歩いてたぢやないか、そこ迄。
千紗の声 嘘よう。そこ迄車で送つて貰つたのよ。家の前で降りるときまりが悪いから・・・横町の煙草屋の前で・・・。
嶺の声 そんなこと、どうでもいいから這入れ。ほら、人がみてるぢやないか。
勢喜 帰つて来たやうでございます。(立上る)
日疋 さうらしいですね。
舞子の声 あら、たうとう帰つて来たのね。何処で遊んでたの今時分迄。さあ、手を持つたげるから・・・駄目よ、そんなにフラフラしちや、態つとしてるのね・・・。
  舞子と嶺に支へられた千紗。子供子供した少女風。
嶺 骨を折らせやがつた、ほんとに。女の酔つ払ひなんて仕末に悪い。(日疋に気が附いて会釈する、日疋も慌てて応える)
勢喜 それはどうもお世話さまでした。何処でお会ひになりましたのですか。
嶺 帰らうと思つたら、横町からフラフラやつてくるのがどうも見た事あるやうに思へたもんで、引き返してみたら、果して・・・。
勢喜 まあ、それや・・・。
千紗(扉口に寄掛つたまま、にこにこして)見たことあるつて何だい。自分の恋人のことぢやないか。
舞子 あんたどうしたの、オーヴァの裾がこんなに汚れてるわよ。膝をついたんぢやない、何処かで・・・。
千紗 ううん。妾、知らん。
舞子 さ、お脱ぎなさい。脱がしてあげるから。そら、手を出して・・・そつちも・・・厄介な女の子ね・・・(まるで母親以上の優しさで)手袋片つ方どうしたの。
千紗 手袋と・・・ポケツト・・・ぢやないかな。
舞子(探してみて)無いわよ。何処かへ放つて来たのね。
千紗 さうかなア・・・そ云へばポツケツトへ入れた憶へはないや。
嶺 何云つてやがる、憶へなんかあるかい、そのざまで・・・。
千紗 まあいいや、一つでまけとけ。姉さん、あんた飲んだことある、あれ・・・。
舞子(オーヴアや帽子をピアノの上へ持つて行きながら)あれぢや、わからないよ。何さ。
千紗 ほら、ね。何とか云ふ、活動でよくやるでせう。嶺は?
嶺 ないよ、こつちは。
千紗 ぢや何て云ふの、あれ。教へてよ。教へるだけならいいでせう。
嶺 他人の飲んだもの迄知るもんか、自分で憶ひ出せ。
千紗 まあ、どつちでもいいや、そんなこと。ああ、頭が痛い。割れさうだ。
日疋 掛けたらどうだい、此処へ来て。
千紗 日疋さん。いらつしやい。気が附かなかつた、妾。(にこにこ笑ひながらその場へ坐つてしまふ)長い間待つた?
嶺 おいおい、こんな所で坐つてしまつちやいかん。(起たせやうとして手を引つ張る)起たないか、おい。ひつぱたくぞ。
千紗 抜けるぢやないか、そんなに引つぱると。ぢやア、抱つこしてつて呉れるか。
嶺 此奴! バケツで水をぶつかけてやりたいな。恥しいと思はないのか、女の癖に酒なんか飲みやがつて。
舞子 嶺さん、照れてないでさつさと引つ抱へて来てしまひなさいよ。他人が見てたつて構はないわよ。(日疋の方を見据ゑて)ねえ、母さん。
勢喜 ―――(もぢもぢする)
嶺 うつかり傍へ寄つて小間物店でも出されちやア困るからね。
舞子 大丈夫、そんなに酔つてやしないわよ。そんな風をしてるだけなのよ。
勢喜(舞子に)あなた!
千紗(嶺に)嶺。妾のお姉さんはね?・・・妾のことをいけない女だと思つてるのよ。知つてる。ちやんと妾・・・知つてるんだ。
舞子 莫迦ね。そんなこと思つてなんかゐやしないよ。
千紗 いいえ、思つてる。ぢや・・・思つてないなら、なぜ・・・妾に・・・今みたいな・・・。
舞子 何よ、今みたいな・・・。
千紗 何か云つたわよ、今さつき・・・何て云つた、嶺・・・。
嶺 知らんよ俺は。酔つ払つて煩いと云つたんだらう。
千紗 それはあんたが云つたのよ・・・あんたの云ふことなんか妾はちつとも気にしてやしないんだ。彼女は・・・妾を・・・軽蔑してゐる。
舞子 酔つ払ふとすぐそれだ。自分の勝手で自分が酔つ払ふんだからちつとも構はないけれど、酔つ払つたやうな顔をして妾を虐めるのは止して頂戴。
千紗(大きな声で)妾が?(ひょろひょろ立上がる)妾がお姉さんを虐めるんですつて・・・。
嶺 止せ。
千紗 嶺。あんたは何も知らないのよ。だから黙つてらつしやい。あんたは、自分ぢや何でもかんでもひとり呑み込んだやうな顔してるけどね・・・ほんとは何にもしらないのよ。だから可哀相なの。妾嫌ひぢやないわよ、あんんた。だけどね・・・それとこれと・・・は・・・。
勢喜 千紗、あなたもう寝たらどう。随分疲れてるらしいから。母さん宵からちやんとお床取つて、温めておいて上げたのよ。
日疋 さうださうだ。さうしなさい。今夜はもう寝た方がいいね。
千紗 いやよ。こんなにみんな来てるのに、妾ひとりお寝間に入つて寝ちまふの。これから妾も遊ぶのよ。みんなで何かしませう、何か・・・暑いわね、この部屋。あすこの窓開けていい?(その方へ行く)
日疋 私はぼつぼつ失礼しよう。ちよつと寄つてみただけなんだから・・・。
勢喜 まあ、あなたおよろしいぢやございませんか、折角・・・。
嶺 僕も・・・。
千紗 こらこら。みんな帰つちや駄目よ。折角妾が帰つて来たのにみんな行つちまふつてことが、(窓が開かないもんで)嶺さん、ちよつと手伝つて。ひとが困つてるのに気が利かないな。
舞子 駄目よ。栓がささつてるぢやないの。(開けてやる)
千紗 有難う。お姉さん仲良ししようね。(窓枠へ腰かけようとしてやり損ふ)
舞子 危ないわよ、そんなことして。庭へ落つこちたらどうするの。(子供にするやうに上げてやる)そらそら、ちやんとして・・・。
千紗(舞子の肩を押へたまま)みんな、お坐りなさいつたら、そんなに突立つてゐないでさ。妾がお酒飲んで来たからつてそんなに逃げるやうにしなくつたつていいでしよ。日疋さん、(嶺を指して)あの人ね、何時か云つてたでしよ、妾の好きな人よ。
  男二人苦笑する。
日疋 大変な御機嫌だが、何処へ行つて来たんだい、今日は。
千紗 今日ね。初めは、久賀先生んとこへ行つたのよ、遊びに来い来いつて云ふもんだから、大学の先生よ久賀・・・久賀何とか云つたつけ、嶺さん知つてるでせう。
嶺 ―――
千紗 そしたらね、お客さまがみえて、それからみんなしてホオル行つちやつたん。
嶺 またホオルか、いつそのことダンサアになるといいんだな。
千紗 自分が踊れないもんだから偉さうに云つてらア。面白いわよダンスつて。(舞子に)ねえ。あんたにも教へたげる、そのうち・・・一度やりだしたら、とても・・・。
嶺 教へて欲しくないよ、そんなもの・・・。
  舞子、ちよつと手を上げてそれを制し、耳をすませる。
舞子(勢喜に)母さん、起きた。違ふかしら。
千紗 誰? ああ、連れてらつしやいよ、此処へ。妾が遊んでやるわ。嶺さん、あんた子供好き?
嶺 一概には云へないな。僕を好いて呉れる子供なら好きだよ。
  勢喜、出て行く。
千紗 あの子はどうかなあ。あんたみたいに始終恐い顔してる人、子供は厭がるわよ。
舞子(話を外らして)そいで、今迄遊んでたの、ホオルでずうつと・・・。
千紗 ううん・・・それからね・・・バアへ行つたのよ。みんなして。面白いとこよ。みんなが面白がつて妾に・・・嶺が恐い顔してるから止さう、この話。
嶺 何云つてやがる、そんな事を気にする柄かい。
千紗 日疋さん、日疋さんつたら。
日疋 何だよ。
千紗 あの人ね、妾に奥さんになれつて云ふのよ。どうしようかしら、妾。
日疋 いいぢやないか。
千紗 さう。いいかしら。
嶺 止せよ、おい。
日疋 あなたにしたつて、お姉さんにしたつて、何れは何処かへお嫁に行かなきやならないんだから、さう云つて下さる人があつたら、私はいいと思ふな。
嶺 僕はもう帰るよ。また正気の時にやつて来る。(立上る)
千紗(飛び下りて、嶺と傍へ行く)厭! 帰さない。
嶺 帰つたつていいぢやないか。
千紗 いやよ、そんなに怒つたやうな顔をして帰つちまふの。後で淋しいんだもの。
嶺 怒つてやしないよ、何も。だが今日は君は酔つてるんだ。もう黙つて寝たまへ。後で疲れるぜ。そんなに飲めもしないんだらう。
舞子 さうよ、飲んで帰つた晩はきまつて妾が介抱役よ。
千紗 お姉さん、あれで強いのよ、とつても。いくら飲んだつてぴりつともしないから呆れたもんだ。
嶺 やれやれ、あんたもやるのか。
舞子 好きぢやないわ。さう云ふ質なの、幾ら呑んでも酔へない・・・。
嶺 どうも驚いた女達だな。
千紗 何感心してるの。愛想が盡きた?
嶺 それや、ずつと前に盡きてるがね。
舞子 ほんとに嫌はれるわよ、いい加減にしとかないと。
千紗 あんたみたいな男も少ないわね。酒は嫌ひ、煙草は喫はん。
嶺 女も嫌ひ、と迄はいかんな。
千紗 はツ、それなら岩見重太郎だ。
嶺 何だい、岩見つて・・・。
千紗 何時か聴いたわよ、ラヂオで。
嶺 ああ云ふことだけは憶えてやがる。
千紗 寝よう寝よう。また叱られさうだ。寝るわよ、嶺。お寝み、日疋さん。寝るわよ。
日疋 ああ、お寝み。
千紗(戸口のところで立止つて)妾、とつてもよく寝るのよ。自分でも可笑しいくらゐ。さうさう(日疋に)何日か雲仙に行つたでせう船で・・・(舞子近づいてくる)船へ乗つかるといきなりぐうぐう・・・景色も何も見られなかつたわ、折角楽しみにしてたのに・・・可笑しかつたわねあの時は・・・お昼過ぎんなつてボオイさんが起こしに来て呉れる迄死んだやうに寝てたわ・・・そしたらボオイさんが来てね・・・お父さんはもう御飯をお済ましに・・・お父さんは、つて云ふの・・・。(クスクス笑ふ)
  舞子、黙つて千紗を引つ張つて行つて了ふ。
  千紗の「お父さんだつて・・・」と繰り返し云ふ声。
  笑ひ声。
  間。
日疋(何時迄も黙つてゐるのが不安らしく)失礼ですが・・・。
嶺 何かお話ですか。
日疋 いや、さう云ふわけぢやア・・・。
嶺 僕は前の家の方が好きですね。借家普請のくせに厭に大まからしくみせてあるのが癪にさはる。底が見え透いてね。
日疋 ?
嶺 此の頃は流行るんですかね、かう云ふのが。
日疋 さあ、どうですかな。建築に興味をお持ちですか。
嶺 御冗談でせう。僕は銀行員です。給料は・・・。
日疋 いや、さう云ふことは・・・。
嶺 給料だけは、余計なことでしたがね。
日疋 突然、こんなことを云つて何だが、あなたは千紗を、本当に貰つてやつて下さる気がお有りですか。ぶちまけた話です、これは。
嶺 それを、あなたに御返事するのは、少し筋が違ふと思ひますね、僕は。
日疋 まあ、さう喧嘩にならんで下さい。折入つての話なんですよ。あナたと私ぢや、年も違ふ。此処で喧嘩をしても始まらんと思ふんだが。
嶺 殴られるのは痛いでせうからね。
日疋 痛いも痛いが、話がわからんでは意味ないぢやありませんか。
嶺(笑つて)話がわかつたら殴つてもいいんですか。
日疋 余程自信がお有りらしいですな。
嶺 ボオトを少しやつた経験があるもんでね。體にはいいですよ、中々。喧嘩に使つてみたことはまだないんだが。(腕を撫する)
日疋 私は喧嘩は不得手です。どうしても殴ると仰しやるんだつたら、逃げて帰りますよ。
嶺 逃げて帰るはよかつた。
日疋 しかし、考へてみると可笑しい。私があなたに殴られるのは可笑しい。さうぢやありませんか。ねえ。
嶺(顎を撫でてゐる)
日疋 私があなたを殴ると云つたら、あなたはどうします。
嶺(苦笑して)さうですね。しかし、どうしてあなたは、僕に殴られさうだと思つたのです。
日疋(之も苦笑して)さあ、何故でしたかな。さう云ふ気がしたのですね、ぼんやり。
嶺 その方が自然だつたんぢやないかな。僕も殴りさうな気がしましたよ。
日疋 何としても、しかし、それや逆ですよ。そんな可笑しな話はないな。
嶺 順序から云へばね。何なら、始めつからやり直してもいいです。
日疋 やつぱり私に引け目があるからですな、これは。
嶺 莫迦な!
日疋 お話ししなけりやわからないんだが、かう云ふことになつた理由と云ふのが、ちよつと厄介なんでして・・・。
嶺 その前に、お伺ひしたいんですが・・・あの子供は・・・何方の子供です、二人のうち・・・。
日疋 ―――。私の・・・。
嶺(唸る)何方かのだとは思つてたが・・・。
日疋 さうはみえんでせう。
嶺 酷い人だな。あなたは。
日疋 まあ、さう責めんで下さい。その代り今んなつて困つてるんですから。
嶺 困ることはないぢやありませんか。何も。若くて、美しくつて、それに・・・。
日疋 さう突つ離されるとそれ迄の話だが。真面目に聞いて戴けんかな、ひとつ・・・。
嶺 ―――
日疋 実は、あれの姉さん、舞子ですがね、あの人が・・・まあ、酷い肋膜をやつて、とても困つてたらしいんですね、その頃。それをこつちがちつとも知らなかつたもので、こつちはただの遊びのつもりだつたが、向うにしてみると・・・。
嶺 それが、どうしたと仰しやるんです。面目づくで老人と遊ぶと云ふのは、それは、あるかもしれないが、まづ無いと云つていいでせう。千紗がさう云ふ例外でなかつたとしても・・・それや別に・・・。
日疋 あなたにはわからんかもしれんな、千紗や舞子が私をどう思つてゐるかと云ふことが・・・。
嶺 別に怨んでると云ふわけでもないでせう。兎に角あなたのお蔭で・・・(部屋の中を見廻す)なるほどね・・・。
日疋 いや、そこですよ。そこんところが私にも納得がゆかないのです。女を世話して、おまけに怨まれるんぢや割の悪い話ですからな。
嶺 話が大袈裟でもうひとつ実感が伴はんな。ここの家の人間がそれほど潔癖だかどうだか・・・。
日疋 それは、此の頃の千紗のやつてゐることを御覧になればわかると思ふんだが。以前はああでもなかつたのです。
嶺 以前はね。(間)さうでせう。それや、千紗の感情が子供だと、云ふことも出来る。
日疋 いや、さうかもしれません。しかし私は子供のお守りなら自分の子供だけで沢山です。もうあれには蹤いて行けない気がしますよ。まつたく仰しやるとほり此の頃の若い女のやることには際限つてものがありませんな。
嶺 は! は! は!
日疋 いや、笑ひごとぢやないですよ。それに御承知のとほり、ここの家庭と云ふのが以前は・・・。
  舞子。
嶺 もう寝たの。
舞子 まだぐづぐづ云つてるわ。中々寝やしないのよ、あんなことばかり云つて。平常正気で云へないことを、あんな時云ふのね。態と酔つ払つたやうな顔をして・・・。
嶺 そいつは、どうかな・・・。
舞子 今日初めてのことぢやないのよ。
嶺 時々あるのか、あんなこと。
舞子 あんた初めて?
嶺 ん。中々面白いぢやないか。
日疋 私は失礼しよう。大分遅くなつたやうだ。
嶺 まあ、いいぢやありませんか。僕ももう引き上げます。
舞子 あんた、も少しゐらつしやい。話があるの妾。
日疋 ぢや。
舞子 さうですか、失礼しました。母さん! お帰りになりますよ。(扉を開ける)
日疋(嶺に)あなたさへ了解して下さるなら、子供のことは何とでも・・・。
嶺(苦笑して)まあ、考へときませう・・・。
  日疋、出て行く。
  舞子、直ぐ扉を閉める。外で勢喜の声がして、やがて、表戸の開く音。
嶺 何だい、話つて。
舞子 あんた、気がついたでせう。
嶺 何さ。お爺さんのことか。
舞子 もつと早く気がづくかと思つてたのよ、妾は。
嶺 何となく感じてはゐたんだがね。
舞子 まだ、さう云ふ経験がないからよ。見る人がみれば、直ぐわかる。
嶺 子供はあんたの子かと思つてたよ。
舞子 妾もさうぢやないかと思つてたのよ。さうならさうにしとけばよかつた。
嶺 酷いことを云ふな。何だつて黙つてたんだ、そんなこと。
舞子 自分で云ふと思つたからよ。妾の口から云へるものか。
嶺 それや、まあ、さうだが。それでわかつた。
舞子 何が。
嶺 いや、何でも。彼奴も案外気が小さいんだな。
舞子 小さいのよ、とても。だからこんなことになつちやつたのよ。
嶺 相談づくか。
舞子 かういふこと? まさか。妾が承知すると思つて?
嶺 それや、あんたは知らんかも知れないが、お母さんは・・・。
舞子 母さんも知らなかつたのよ。みんなが知つた時にはもうどうにもならない時だつたの。
嶺 やつぱり殴つてやればよかつたな。胸糞がわるい、どうも。
舞子 誰?
嶺 お爺さんに聞いたよ。
舞子 妾、あのまま療養所から帰らなけれやよかつたと思ふわ、時々・・・。
嶺 それぢやアあの子が助からないだらう、折角・・・。
舞子 莫迦よ、あの子は。幾ら子供で考へがないつたつて・・・そんなの・・・。
嶺 少女小説の影響だらう。そんなのないか。するとラヂオの方かな、やつぱり。(考へて)十七ぐらゐで子供を慥へるやうな女は、生れつき違ふのかもしれんな。
舞子 自分ぢや、自分のやつたことが妾達に知れたら決して喜ばれないつてことを、よく知つてるのよ。それやさうぢやないの、いくら命が助かりたいつたつて・・・また母さんにしたつて娘を・・・
嶺 後から云へばさうだらう。
舞子 見栄なのよ、あの子の。助かりたくなんかないわよ。
嶺 昔の生活の禍だな。
舞子(悩ましく)さうなの。さうなのよ。そんな気になるものかしら。いつそ不思議な気がするわ。他に方法がないわけぢやないでせう。
嶺(慰める気で)済んぢやつたことは仕様がないさ、ただ僕の気に喰はんのは、その後だがね。
舞子 後なんかどうだつていいぢやないの。
嶺 よくない。あんたと千紗の生活の何処が違ふ。違ふのはただ・・・まあ、そこ迄は云へんがね・・・。
舞子 構はないわよ、云ひたけりや云つたつて。
嶺 よく知らんからね、僕は。だが、煙草は喫ふ、酒は飲む、男の取巻は慥へる。妹の不良を奨励してゐるとしかみえないがなア。
舞子 妾、これで一生懸命なのよ。それより他に妾があの子にしてやれることつてないぢやないの。こんなことつて思つたほど楽ぢやないわ。
嶺 さういふことがかい。売場で八時間立ちつ切りなのよりは楽だらう。
舞子 あの子のやることと云へば、何でもやつてみたわ。ただあの子のやつたことで妾のしなかつた事と云へば・・・だつてそれや無理よ・・・あの子には、善い悪いを忘れて夢中になつて了ふ理由があつたけれど、妾にはそれがないんだもの、それ迄は出来やしないわ。
嶺 さういふ愛情が正常なものとは思へんよ、僕には。
舞子 手を取つて泣けばいいんでせう。さうすればよかつたのかもしれないわ。
嶺 ―――(苦笑する)
舞子 でも、妾にはそんなこと出来なかつたの、とても。そんな小さな出来事とは思つて済ませなかつたのよ。
嶺 その気持が千紗に通じてゐるかどうか、怪しいもんだと思ふ。
舞子 通じ? 通じる通じないの話ぢやないわよ、もう。
嶺 しかし、それがわかればいいんぢやないか。わからないからいろんな・・・。
舞子 銀行屋だけあつて、云ふことがはつきりしてるのね。あんたの云つてることはよくわかるのよ。
嶺(頭を掻いて)銀行屋は恐縮だがよくわからん。
舞子 もういいの。わからなくつたつていいのよ。あの子は莫迦な女だわ。妾だつてさうよ。でも・・・いいの、それでいいのよ。可笑しいかしら。迷信みたいなものね。
嶺 神秘主義だな。
舞子 構やしないわ。それだのにあの子は、妾や母さんの前へ出るとびくびくしてるのよ。始終びくびくして、みてゐられないのよ。自分を恥じてるのね。だからたまらない気がするの妾は。
嶺 それは、さうかもしれんな。
舞子 あの子の気持ちを安心させる為になら、妾どんなことでもしてやりたいと思ふの。今に、してやるわ。どんなことだつて、やらうと思へば出来るわ妾だつて。
嶺 止せよ、気味の悪い。厭だよ、そんな変な話を聞くのは。こつち迄妙な気になりさうだからな。迷信のお附合ひなんて真平だよ。
  勢喜。
勢喜 舞子。あなた、何か云つたの千紗に。
舞子 別に何にも云はなかつたわ。どうして。
勢喜 酔つてるんだから、夜着を外してるといけないと思つて覗いてみたらあんた、寝てやしないのよ、あの子。
舞子 ―――
勢喜 蒲団を頭からスッポリ被つてるから、よくはわからないけれど、(嶺に気を兼ねて)確かに泣いてるらしいんだよ。(溜息)
  間。
嶺 ヒステリイの一種だな。さう云ふ徴候があるものだ。
舞子 妾、見てくる。(行きかける。止る。嶺に)どつちがいいかしら。
嶺 放つておくのと?
舞子(哀願するやうに)あんた、行つてみてやつてくれない?
嶺 女の寝室なんて、入つたことがない。
舞子 いいわよ、そんなこと。
嶺 しかし・・・(躊躇する)
勢喜 舞子!
舞子 いいのよ、母さん。二階へ上つて右の部屋よ。
嶺(決心して)神秘主義だぞ、いよいよ。えい、どうともなれ。(入つて行く)
勢喜 そんなにして、ほんとにいいのかい舞子。
舞子 心配しなくつたつてよろしい。母さんは何にもわからないでゐる方が仕合せなのよ。
勢喜 だつて、嶺さんつて、どう云ふ人だか妾にはまだよくわからない。大丈夫なんだらうね。
舞子 大丈夫にも大丈夫でないにも、千紗や妾達の暮しなんてこれ以上危なくなりやうがないぢやありませんか。
勢喜 ―――
舞子 妾、母さんに何か云つてるんぢやないわよ。嶺つて人は平凡な男よ、大学の法科をやつと出て、銀行か何かに勤めてゐる、ちよつとその辺を見廻したらザラにゐる種類の・・・でもさう云ふ当り前さつて云ふものが妾達にはないんでせう。千紗だつて、ひよつとしてさう云ふ当り前な暮らしをもう一度する気になつてくらたら、それが妾達の仕合せぢやないかしら。
勢喜 それは、千紗がさうなつてくれたら、母さんだつて嬉しいと思ふけれど・・・。あの方はまだ、いろんな事をまるで御存知ないんだらう。
舞子 知つてるわ。妾、みんな喋つちやつた。それよりも前から、薄々気は附いてたらしいの。
勢喜 そんな事を知つてて、どうして・・・。
舞子 あの子が自分で云へばよかつたのね。それが云へなかつたのよ、きつと。だから、自分ひとりで苦しい思ひをしてたのよ。あの子のは何時だつてさうなのね。
勢喜 親娘や姉妹の間でそんなことつてないと思ふよ、母さんは。どうして、そんなに水臭いことしなきやならないんだらう。妾だつて、あの子の為になら、どんなことでもしてやります。何も自分が思ひに餘る事があるからと云つて、黙つて何処かで酔つ払つて帰つて来なくつたつて、ひとこと母さんに・・・(涙ぐむ)
舞子 妾達の愛情が足りないのよ、やつぱり。あの子の為にならどんなことでもしてやる、それがいけないのよ。こんな風に考へてる間は、どうしてもあの子の本当の心に近づく事は出来ないんだわ、きつと。
勢喜 母さんには、もうこれ以上は務まりません。あんた達二人して母さんを困らせてゐるとしか思へませんよ、妾には。
舞子 何云ふのよ母さん、つまらない。
勢喜 さうぢやないか。お父さんが生きてゐらつしやつたら、まさかこんなことにはならなかつたと思ひます。みんなして母さんを蔑にするんです。何一つ母さんに相談もしてくれず、打明けても呉れず、それで母さんは、お父さんの傍へ行つてどう云つて申し訳をします。子供達は立派に私の手で育ててみせます、さう受け合つた云ひ訳がどうして出来ます。(泣く)あなた達にはもう母娘の情愛つてものがまるで・・・。
舞子 母さん母さん。泣かないで下さいよ。母さんを蔑になんか誰もしてやしないわよ。さ。嶺さんがゐるぢやありませんか。
勢喜 みんな、それと云ふのも母さんがいけないからなんです。母親としての務めを・・・満足にして上げられなかつた妾の・・・。
舞子(勢喜の肩を押さへて)そんなことないわ、母さん。母さんの所為ぢやないのよ。さ、もう止して頂戴。これからだんだん妾達もよくなるわ。千紗さへ、仕合せになつて呉れたら、妾だつてお嫁入りします。お嫁入りして母さんに、孝行して上げます。
勢喜 孝行なんかして戴かなくつて、ようござんす。ただ、みんなが前のやうに・・・。
舞子 だから、みんなが前のやうになれるわ。妾だつて、他所の人にやうにお嫁入りはしたいわよ。だけど千紗ひとりあんな風にさしといて、どうして自分だけが平気でお嫁入りしたり、他所の人と同じやうにお店に出たり出来ます。あの子の身體さへ極つてくらたら、妾だつて自分のことはちやんとします・・・だから・・・。
勢喜 お前・・・ほんとかい、それ。ほんとだらうね、千紗さへよくなつて呉れたら・・・。
舞子 ほんと。ほんとよ、母さん。(ほろりとする)
  嶺。
嶺(顔の色が変つてゐる)あの子はヒステリイだと思つてゐたら、あれや、ほんものの気狂ひだ。僕はもう失敬しますよ。
舞子(慌てて)まあ嶺さん、どうしたの、あなたに何を云つたと云ふの、あの子が。
嶺 どうもかうも、お話にならんです。あの子は、あのお爺さんと別れることが出来ないとわかつたのださうだ。親子ほど年の違ふ男と別れることが出来ん。これは君、神秘主義どころの騒ぎぢやないよ。
舞子 まあ!
嶺 僕はもう、あんな子と遊んでゐるのは御免だ。実に不潔極まる。
舞子 妾達の暮らし向きやなんかのこと考へてるんぢやないのかしら。それなら妾だつて・・・。
嶺 それも云つてみた。だがさう云ふことぢやないらしい。
舞子 ちよつと待つてて・・・待つててね(出て行かうとして引戸を開ける。嶺を追つかけて出て来たらしい千紗とぶつかりさうになる)あら!
  間。
舞子 あんた、ほんとなの、それ。
千紗 ―――
舞子 嘘だらう。また何時もの嘘なんでせう。ええ。さうでせう。
千紗 ―――
勢喜(まるでがつかりして)嶺さん。あたしやもう、死んでしまひたうございます。こんな話を聞いてゐるくらゐなら、いつそ亡くなつた主人の・・・(云ひ止む)

                            ―――幕―――