犬の心臓
          ミハイール・ブルガーコフ 作
             脚色者   不明
             能 美 武 功 訳
             城 田 俊  監修
     
   登場人物
フィリープ・フィリーポヴィッチ・プレアブラジェーンスキー(教授)
犬(ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ・シャーリコフ)
若い女
新聞記者一、二
イヴァーン・アルノーリドヴィッチ・バルメンターリ
ズィーナ(ズィナイーダ)・ブーニナ
フョードル
ダーリヤ・ピェトローヴナ
怪しい男
シュヴォーンヂェル
ヴァズニェスェーンスカヤ
ピェストゥルーヒン
フレンチコートの男一
フレンチコートの男二
フレンチコートの男三
工業月報の記者
患者一、二
年寄りの女の患者
緑色の髮の患者
六十歳ぐらいの男の患者
痩せた女
軍人
警官
検事


     第 一 幕
(バックにオペラ「アイーダ」のアリア。非常に奇麗な女性の声。舞台左、柱に引き幕が掛かっており、それが強い風にはためいている。引き幕には「永遠の若さ、不死を保つ新光線発明。プレアブラジェーンスキー教授の快挙」と書かれている。舞台右手、アパート。表玄関は荘重なしつらえながら、板で釘付けになっている。吹雪が強い。教授が柱に凭(もた)れて震えている。)

 教授 ウー、さむさむさむさむ。(訳註 教授は犬と実際に会話が出来る訳ではない。演出には工夫を要する。バックで声を出すのも一工夫。)(柱の陰から犬が這い出て来る。)
 犬 ウー、さむさむさむさむ。
 教授 ウー、さむさむさむさむ。
 犬 あー、皆さん。この僕を見てくれ。僕は死にそうだ。僕を見てくれ。
 教授 あー、諸君、この犬を見てやってくれ。
 犬 僕は死にそうだ。
 教授 あ、諸君、彼は今にも死ぬぞ。
 犬 吹雪で、先生。あー、皆さん、吹雪で門の隙間が鳴っている。まるで葬送の音楽だ。それに合わせて僕も唸(うな)っている。ああ、もう駄目だ。
 教授 ウー、さむさむさむさむ。
 犬 ウー、さむさむさむさむ。この大馬鹿たれ!
 教授 誰のこと?
 犬 国民生活正常化食堂のコックの奴。熱湯をくんだかと思うと、僕の左脇腹にぶっかけおった。あの馬鹿野郎! それでもプロレタリアだとはな。
 教授 熱湯を?
 犬 そう。ぐらぐらしている。
 教授 それでプロレタリア?
 犬 それでプロレタリア。
 教授 可哀相に。それは痛いだろう。ねえ、諸君。
 犬 痛い、痛い。鉄面皮のぬすっと奴! 骨まで熱湯が届いちまった。ああ、酷いことになったぞ。もう先は見えた。僕の将来はないぞ。
 教授 その様子じゃあ、明日になると膿(うみ)がでてくるだろうな。
 犬 治療しようったって、どうすりゃいいって言うんだ。夏だったらサコーリニキーの森に行けばなんとかなるさ。あそこは避暑地だ。草もとびきり上等・・・だけど今は冬じゃないか。
 教授 そうだ、今は冬だ。な、諸君。
 犬 長靴を履いた足で蹴られたことがありますか?
 教授 あるとも・・・
 犬 蹴ったんですからね、本当に。それに煉瓦をぶん投げられたことがありますか。
 教授 がつんとか? きっとがつんとだろうな。
 犬 この世のいやなこと、何もかも味わってきましたよ。それは慥に体が痛かったり、寒かったり、そういう時は泣く。だけど、それも心がまだ死んでないという証(あかし)を見せるためなんだ。死ぬもんか。しかしまいった。この痛さには。熱湯が毛を通して食い込んできちゃ・・・
 教授 どうやら左の脇腹は、防御が甘かったようだな。
 犬 甘かった。
 教授 それじゃ君、肺炎になっちゃうぞ。
 犬 肺炎なんかになったら、階段の下の正面玄関で寝てなきゃならない。そしたら、僕の代わりに誰がゴミ箱をあさって、食料を取って来てくれるって言うんだ。誰が。
 教授 そうだよ、実際誰がやってくれると言うんだ。
 犬 食い物がない。体は弱る。動けない。そんな犬をやっつけるのは訳はない。棒でがつんとやられればそれでおだぶつだ。守衛がその死骸の足を捕まえて、やってきたゴミ収集馬車にポイと捨てる。これが運命だ。コックと言ってもピンからキリまであるもんだ。あの亡くなったヴラース・プレチースチェンキー。あの人はどんなに沢山の犬の命を救ったことか。あの方にどうか神様のお恵みがありますように。トルストイ伯爵家の名誉あるコック、あれこそ本当の人間。犬に骨をふるまってくれたこともあるという。
 教授 ああ、諸君。どれだけ彼は沢山の犬の命を救ったことか。
(教授退場。)
 犬(教授の後を追いながら。)本当に彼は命を救ったんですよー。あれっ? どこへ行っちゃうんだ? ウー、ウー、ウー。中央百貨店なんかにどうして行こうちゅうんだ。あのおんぼろ店じゃ、買う物もないじゃないか。買おうと思や、アホートヌイ・リャートの市場で充分足りる筈だぞ。
(若い女、走って登場。吹雪のため体が回る。スカートが膝のところまでまくれ上がる。)
 若い女 可哀相に、キャンキャンないて。誰に苛(いじ)められたんだい? シャーリク。(訳註 シャーリクはロシア語で「犬」への呼び掛けの言葉。)
 犬 この俺が「シャーリク」だなんて呼ばれる柄かい。食い物をたらふく食って、丸々と肥った犬、そして血統書つきの両親を持った犬。それで始めてシャーリクと呼べるってもんだ。ところでこちとらときちゃ、ハラペコの干涸(ひから)びた宿なし犬じゃないか。シャーリクでなんかあるもんか。
 若い女 なんて天気だろう。・・・ね、シャーリク。
 犬 そう。この吹雪なんだ。皆さん。・・・この吹雪!
 若い女 それにおなかが痛くて・・・
 犬 そいつは塩豚のせいだ。まったくなんて奴らだ、あいつら。「おまけ料理一皿つきのシチュー定食、四十カペイカだよ」なんて言いやがって。あんなもの、精々が十五カペイカ。あとの二十五は食堂支配人の懐(ふところ)に収まっているっていう寸法さ。しかしそんなもの食ったってあんた、何の役に立つって言うんだい? あんたの右肺の上の部分はもう相当いかれているんだぜ。
 若い女 足が冷たい・・・
 犬 それに胃も・・・
 若い女 ああ、胃が痛い。それに股引きが・・・
 犬 そうだ、股引きが寒いんだ。レースでできた薄いやつ。どうやらそれしか・・・
 若い女 私の彼が・・・
 犬 そうだ。彼氏がうるさいんだ。少しでも厚いフランネルの股引きを履きたいなどと言おうものなら・・・
 若い女 俺はな、うちのかあちゃんなど飽き飽きしてるんだ。フランネルの股引きにうんざりしてるんだ。今は俺の天下だぞ。俺は議長なんだ。いくらでもちょろまかせる。ちょろまかしたものはみんな女、女だ。女に注ぎ込める。アブラウ・ヂュルソだ。じゃんじゃん飲(や)れる。
 犬 そうさ。若い頃はさんざん腹をすかせていたんだからな。それを埋めあわせるのさ。それに今じゃいくら悪いことをしたって構いはしない。あの世ってものがなくなっちまったんだからな。(訳註 革命で宗教禁止のため。)
 若い女 あーあ。ねえシャーリク、こんな生活から何時になったら抜け出せるのかしら。
(若い女、退場。)
 犬(震える。)ああ言ったって、あっちには少なくともあったかい家はあるじゃないか。
(教授登場。)
 犬 何だろう、あれは。あの右のポケットに入っているものは。ソーセージだ! にんにくと胡椒の匂い。ああ、天国の匂いだ。ソーセージ! ああ、呉れっこないな。ああ、あなた様、どうかお恵みを。死にそうなんです、僕は。なにしろこちとらあ、運が悪い。だから心もひねくれてくらあな。だけどあんたさんは学者だぜ。それに世界的に有名な。腐った馬の肉のソーセージなんて不要ですよね?・・・呉れない。いや、何を言ったって呉れやしないさ。
 教授(ソーセージを一部切り割って。)さ、シャーリク、食べていいよ。
 犬 シャーリク! 何て僕に相応しい名だ。いいんだ。何とでも呼んでくれ。ああ、何ていう御馳走。この私めに!お有難うございます。(ガブッという音をさせてソーセージに噛みつく。)ああ、この手にキス。ああ、このズボンにキス。おお、救い主様。
 教授 首輪をつけてないな、この犬は。
 犬 首輪はありません。
 教授 これは好都合だ。この犬にしよう。
 犬 そう。僕にして下さい。殴られたって、蹴られたって、一言だって(秘密を)漏らすもんじゃありません。あなた様のためなら・・・そう、あなた様のためなら、地の果てにだって行きまさあ。(猫がいるように感じて。)あ、猫だぞ。えーい、くそ猫め。お前なんかにソーセージを取られてたまるか。
 教授 さ、食べるんだ。
(教授、もう少しソーセージを割り与える。)
 犬 変だぞ。あっちの方が俺に関心があるらしい。なーに、構うもんか。お前さんのためなら、たとえ火の中、水の中、さ。
 教授 さ、行こう。
 犬 行きます、行きます。行きますとも。あんたさんならまさか塩ブタの脂身(あぶらみ)なんて酷いものを食うこともあるまい。だいたいそんなものをあんたに出したということになりゃ、大スキャンダルだ。新聞が書きたてるさ。
(この時まで壁の中に凍えて埋めこまれていた新聞記者一、薄い夏用のコート姿で壁から剥がれるようにして登場。)
新聞記者一 凍え死にそうだ。何ていう天気だ!
教授 失礼ですが、あなた、傍に寄らないで下さい。
 犬 ウー、ウー、ウー
 新聞記者一 お願いです。凍え死にそうなんです。私は新聞記者。どうか、どうか、一分だけ。一分だけでいいです。インタヴューの記事を取らせて下さい。あなた様の天才的大発明についてのインタヴューを。その国民経済における役割について・・・
 教授 シャーリク、君の出番だ。
 犬 そこをどくんだ。(荒々しく吠える。)ウー、ワンワン。さ、これでもう邪魔者はいませんよ。二階に逃げて行っちゃいました。ほら、あの排水管を伝って。
(新聞記者一、いなくなる。)

(訳註 ここで教授と犬、暫く歩いた後、教授のアパートに着く。)
 教授 フュー、フュー。(口笛を吹いてフョードルを呼ぶ。)
 犬 ほほう、オーブホフの高級住宅街か。愛情と献身に溢れた町! 見ただけで分かるさ。ここじゃ皆が腹一杯食って、盗みを働く奴などいやしない。安心して住める町だ。なにしろ満ち足りているんだからな。
(フョードル登場。)
 教授 さ、シャーリク、こっちだ。
 犬 気をつけ!
 教授 そう。
 犬 危ない顔だな、番人より危ない。お仕着せを着た人殺しだ。
 教授 うん、まあね・・・
 フョードル あ、先生、お帰りなさいませ。
 教授 うん、今帰ったぞ、フョードル。
 フョードル 実はその、上履きのゴム靴が・・・
 教授 また盗まれたのか?
 フョードル ええ、あれが最後のやつでした。(犬を追い払う動作と声。)
 教授 フョードル、何をやっているんだ。この犬は私が連れて来たんだ。
 フョードル(優しい声で。)シャーリク!
 教授 何ていう人物なんだ、この人は。このアパートは住宅管理委員会の管理の下にある家だぞ。そこに道で拾ってきた犬をさっさと入れてへいちゃらだとは・・・
 フョードル 名犬のようですね。
 教授 名犬だ、フョードル。まさに名犬だ。
 犬 この悪党め。どうやら僕には指一本触れようとはしないぞ。
 フョードル それに姿、形、・・・優美ですな。
 犬 目も良く見えないらしいや。しかし何ていう偉大な人物なんだろう。こんなに尊敬されているっていうのは。
(犬、体を掻く。)
 フョードル 蚤がいるようですね。・・・この掻きぶりじゃ、だいぶいるんじゃないですか。
 教授 いるらしいな、フョードル、だいぶ。
 犬 お、こいつは殴られるぞ、かなりこっぴどく。
 教授 あ、フョードル、私に手紙は来ていなかったか?
 フョードル いえ、何も。ブンヤはまた来ましたがね。(小声で教授のうしろから内緒の話のように。)それから三号室に住宅管理委員会が新しい住人を許可しました。
教授(階段の途中で鋭く振り向き、手摺りから下を見て。)ほほう、そうか。
 フョードル はい、そうです。四人も入れたんです。
 教授 やれやれ、このアパートがどんな酷いことになるか、想像がつくな。で、四人はどんな様子なんだ。
 フョードル は、特に変わった様子もなく・・・
 教授 持ち主のパーヴロヴィッチさんは何と言ってる。
 フョードル 仕切り板と煉瓦を買いに行きました。部屋の中に仕切りを拵(こしら)えるんだそうです。
 教授 どうなるだろう。困ったもんだ。
 フョードル 先生のお持ちの部屋以外は何でもかでも人を入れる様子ですよ。今日総会があって、新しい住宅管理委員を選挙したんです。前の委員会は首ですよ。
 教授 やれやれ、どうしようもない話だな。(口笛を吹いて犬を呼ぶ。)フュー、フュー。
 犬 はいはい、まいりますよ、すぐに。ほら見て下さいよ、この横っ腹(ぱら)。痛くて痛くて・・・

(暗転。場面、変わる。)
(教授の部屋。玄関に大きな鏡、傘たてに傘(複数)、ふくろうの剥製、鹿の角。また衣装掛け。毛皮外套(複数)が掛かっている。それにオーバーシューズを掛けておくもの。)
 ズィーナ どこでこんな犬を拾っていらしたんですか、先生。(教授の狐の毛皮で出来たこげ茶の外套を脱ぐのを手伝いながら。)先生、この犬、ひどい皮膚病ですわ。
 犬 俺は皮膚病なんかじゃないぞ。
 教授 皮膚病? そんなはずはないがな。
(外套を脱ぐと下は黒い服。腹のところに金鎖が見える。)
 犬 (訳註 ズィーナが指差している場所を見て、位置を変えて隠そうとしながら。)それは皮膚病なんかじゃないやい。
 教授 こら、動くんじゃない。馬鹿たれ。フム、これは皮膚病とは違うな。こら、動くなと言ってるだろう。分からん奴だ。・・・うん、これは火傷(やけど)だ。
 犬 あのコックの奴だ。盗人(ぬすっと)コックめ。
 教授 ズィーナ、この犬をすぐ診察室に。それから私に白衣を。
(教授退場。)
 ズィーナ ここにいるのよ、シャーリク。その足ぐらいは洗ってやらなきゃ。ね?
(ズィーナも退場。犬、一人残される。とすぐ、そこにあった籠に足をかける。籠にはステッキ(複数)と傘(複数)が入っている。ステッキの中の一本には銅の握りがついていて、それには名前が彫り込んである。)
 犬 あの人は一体誰なんだろう。神様なんだろうか。(ステッキを銜(くわ)えて文字を読み始める。)犬でもモスクワに住んでいりゃ文字ぐらい読めるさ。読めないなんて犬はよっぽどのアホだ。ピーヴァ、こいつはビールという意味だが、ピーヴァのペー。ルイバ、こいつは魚、ルイバのレー。アグロカミテート、こいつは組織委員会、のオー。プロ・・・(訳註 プロフェッサーと書いてある。プロまで読めたということ。)次は右下が膨らんでいる字だぞ。何だ、これは。ミャーサ、肉、ミャーサのメー? 違うな。スイルイ、チーズ、スイルイのセ? いや、これも違う。・・・ガストロノーミヤ、おそうざい、ガストロノーミヤのゲー? ヴィノー、ワイン、ヴィノーのヴェー? もとイェリスェーイェフ兄弟会社のイェー? いやー、違うな。ペー・エル・オー、プロ・・・まさかプロレタリアじゃないな。そりゃ無理だ。ここはプロレタリアなんて、匂いもしないや。(訳註 出てくるものはみんな食品広告用の看板であることに注意。)
(ズィーナ、戻って来る。白い作業用の上着と帽子。)
 ズィーナ シャーリク!(両手を拡げて犬に近づく。)
 バルメンターリ(登場して。)ズィーナ、それを早く診察室に! こらっ、畜生。じっとするんだ。
 犬 そうか、分かったぞ。治療室に連れて行くんだ。えらいことになったぞ。あんなソーセージなんかに釣られてしまって。
 バルメンターリ ズィーナ。さ、首根っこを抑えて・・・
 ズィーナ 抑えたわ、ほら。
 犬 いやな薬を飲まされるぞ、無理矢理。
 バルメンターリ ・・・ほら、首を抑えて・・・
 ズィーナ 首を抑えて・・・
 犬 手術用ハサミで切り刻まれるんだ。体中が痛いぞ。負けるもんか。
 バルメンターリ ズィーナ、ほらほら、首を捕まえて・・・
 ズィーナ 近くに寄れば捕まえられるわ。でも寄って来なくちゃ駄目だわ。
 バルメンターリ そーら、寄せて行ったぞ。ほら、首を捕まえて・・・
 ズィーナ もっと、もっと近寄ってくれなくちゃ捕まえられないわ。
 バルメンターリ ほーら、もう一歩寄って、ズィーナ。首根っこを捕まえて・・・
 ズィーナ もう少し、もう少し寄ってくれなくちゃ。首は掴めないわよ。
(犬、バルメンターリの足に噛みつく。)
 バルメンターリ よーしと。これで捕まえた。
(教授登場。)
 バルメンターリ まだ用意が出来ていません、先生。なかなか捕まらなかったんです。近づいて、首根っこを捕まえて、とさっきから言っていたんですが、ズィーナがなかなか・・・
 ズィーナ こっちに追って下さいって私は言ってたんです、さっきから。そうしたら捕まえられるからって・・・
 バルメンターリ この犬、とにかくすばしこくって、どうもうまく・・・そうしているうちに・・・(時間が過ぎて)
 ズィーナ 噛まれちゃったんです!
 教授(犬に。)よしよし、何をもがいてるんだ、お前は。うん、分かった、分かった。(ここで注射。)・・・ダーリヤ・ピェトローヴナ!
 ダーリヤ・ピェトローヴナ はい、ダーリヤ・ピェトローヴナ、まいりました。
 犬(注射が効いてきて夢うつつになって。)コックだっていろいろあるからな。・・・分かった、分かった・・・さあ、連れて行け、どこへでも。
教授(バルメンターリに。)あ、君、ちょっと。ズィーナ!(狂犬病予防の注射の用意をして。)・・・フョードル!
(フョードル登場。)
 フョードル やっと片付いたか。
(フョードル、犬を運び去ろうとする。)
 犬 さらばだ、モスクワ! 僕は天国へ行くぞ。犬としてあれだけこの世で辛抱したんだからな。助けてくれ、兄弟!人殺し! どうしてこの僕を(殺したりするんだ。)ああ、僕は終りだ。僕は死ぬ!

(暗転。)
 犬 やはりやったか、畜生。しかし、らくちんだ。
(犬、両目をあける。バルメンターリの脛(すね)を見る。その脛が自分の噛んだもので、ヨードチンキをつけられているのを見て。)
 犬 僕がやったんだ。殴られるぞ、こいつは。
 教授 なあ、宿なし犬、どうしてバルメンターリ先生に噛みついたりしたんだい?
 犬 ウー、ウー、ウー。
 バルメンターリ 私は痛くもなんともありませんから、先生。それに大丈夫です。でも先生、一体どうして選りに選ってこんな犬を拾ってきたんです? こんな苛々犬を。
 教授 優しくしたら情がうつって可哀相になってね、バルメンターリ君。こいつは宿なし犬なんだ。どこといって住む場所がないんだ。・・・ズィーナ!
(教授、ズィーナの用意した注射器でバルメンターリに注射する。)
 犬 なんだ、ここは犬のための病院じゃないんだ。
 教授 この可哀相っていう気持ちがね、バルメンターリ君、生き物との付き合いを可能にしてくれる唯一の手段なんだ。テロじゃ駄目だ。その生き物が生物進化のどんな段階にあったとしても、テロじゃ生き物に何の影響も与えることは出来ない。この事を私は断言してきた。今も断言するし、今後も断言し続けるだろう。そうだ、テロを用いても何もなりはしない。それがどんな種類のテロだろうとだ。白かろうと、赤かろうと、褐色だろうと。(訳註 褐色のテロとはナチのテロのこと。)テロは人間の神経組織を破壊するのだ。ああ、もうこの話は止めよう。ズィーナ、私はね、この宿なし犬のためにほら、一ルーブリ四十カペイカ出して、ソーセージを買ってきてやったよ、クラコーソーセージをね。犬が起きたらこれを食わしてやってくれないか。
 ズィーナ クラコーソーセージ! まあ! あんな犬のためなら屑ソーセージでも買ってきてやればいいんですよ。二十カペイカも出せば充分です。クラコーソーセージなら私が戴きますわ。
 教授 充分君は年をとってるんだよ。それなのに子供みたいに何でも口に入れようとする。駄目だよ、ズィーナ。それにいいかい? 万一それでおなかが痛くなったって、私もバルメンターリ先生も診てあげないんだからね、そんなことをしたら。
 バルメンターリ いいね、ズィーナ、これは毒なんだよ。
 フョードル 人間にはな。
 教授 そうだ。さ、こっちにソーセージを。
 犬 早くくれ! (ふくろうの剥製を見て。)よーし、あのふくろうの奴、いつかやっつけてやる。
(ズィーナ、ソーセージを持って来る。犬、がつがつと食う。)
(フョードル、手を振り上げる。)
 教授 犬って、元気なものだ。メンサーノ・イン・コルポレ・サーネ。(ラテン語。健全な精神は健全な肉体に宿る。)なあ、フョードル!
 フョードル はい、分かります、先生。
 教授 バルメンターリ君。さ、これからはよほど注意してかからなきゃな。とにかく良質な死体が必要なんだ。
 フョードル 私が行ってきます、先生。
 教授 良質の死体だ。
 バルメンターリ ねえ先生、私は先生のためならどんなことでも・・・
 教授 分かっている。それ以上言わなくてもいい。いいか、死人に行き当たったら、手術台からすぐに培養液に移すんだ。そしてここに持って来る。
 犬 気持ちいーい。(ソーセージも食べたし、暖かいし。)だけど一体全体、こんな人が僕に何の用があるっていうんだろう。ちょっと目配せでもすれば、どんな犬だって手に入れられる筈なのに。
 教授 優秀な死体を頼む。
 バルメンターリ 検死官が約束してくれていますから・・・
 犬 ああ、これは夢じゃないかな。目が覚めると何もない。この暖かさも満腹のこの気分も。またあの嫌な生活が、アパートの玄関口での、あの生活。いてついたアスファルトの、餓えの、意地悪な人間達の、大衆食堂の、あの生活が・・・ああ、辛いなあ、また・・・
(隣の部屋に物音がする。)
 ズィーナ 患者ですわ、先生。
 教授 患者か。診察を始めなきゃいかんな。
(ズィーナとバルメンターリ、退場。)
 教授 シャーリク、さ、こっちに。お馬鹿さん。何してるんだい?
(ズィーナとフョードル、登場。)
 ズィーナ 先生、患者じゃなかったんです。
 教授 じゃ何故入れたんだ。追っぱらって!
 フョードル 令状があるって言うもんですから。
(フョードル、紙を見せる。教授、見て、怒りのために息がつまる。)
 教授 よし、入れなさい。令状とはな。呆れたもんだ。
(若い男、即ち新聞記者二、登場。)
 教授 何の用ですか。私は忙しいと申し上げた筈ですが。
 新聞記者二 只今、只今、すぐ行きます。本当に申し訳ございません、先生の大切なお時間をお取りして。でも私共の雑誌では、先生の説明記事を戴きたくて・・・
 教授 私にそんなものを話す義務はありません。
 犬 義務はない。ウー、ウー。
 新聞記者二 そう仰っても先生、ちょっとお願いです。どんなお仕事をなさっておられるのでしょうか。
 教授 実験がきっちり終わるまでは、何も公表する気持ちはありません。
 新聞記者二 新しい生命を作り出す光線を発明なさったと聞きました。本当なんでしょうか。
(新聞記者二、教授にこの質問をした後、答を書き留めようとメモを構える。)
 教授 いいですか。これだけはよく理解しておいて戴きたい。この光線はまだ実験段階なのです。しかしもし完成すれば、原形質の生存機能を高めることが出来ます。
 新聞記者二 どのくらい高めることが出来るのですか。
 教授(叫ぶ。)千倍です!
 新聞記者二 千倍! そうすると噂は本当なんですね。患者を若返らせることも出来るっていう・・・
 教授(叫ぶ。)そうです! 永遠の若さです!
 新聞記者二 すると不老不死の薬が発明されたと・・・
 教授 その通り! 不老不死の薬です!(訳註 誇らしげに言うのではない。煩わしい一心である。)
 新聞記者二 するとこれは我々の畜産業界に大変革をもたらしたことに・・・
 教授 そうです。あなた方の畜産業界に大変革をです。さ、これでいいですね。まだ他に何か?
 新聞記者二 ちょっと写真を取らせて戴きたいのですが。
 教授 何ですって? 私の写真? あなた方の雑誌に! あなたの顔を見ればすぐ分かります。どうせ酷い顔の写真が載ることになるんです。
 新聞記者二 しかし先生、モスクワのプロレタリアに先生の顔を・・・
 バルメンターリ 先生、(興奮なさらないで・・・)
 新聞記者二 モスクワのプロレタリアートに知らしめるのも先生の義務では・・・
 教授 義務ですと? 私には義務などありません! 何をする義務も、誰に対する義務も! さ、すぐ出て行って下さい。私の仕事の邪魔は止めて下さい!
 犬 噛みついていいですか?
 教授 フョードル! さ、この方をお返しして。
 フョードル 死体ですね先生、必要なのは。立派な死体。
 新聞記者二 告訴してやる。(そこにあったメンデレーエフの肖像写真をひっ掴んで退場。)
 教授 メンデレーエフの写真を取って行ったぞ、あの男。・・・するとメンデレーエフが私だぞ。(雑誌に載ると。)
(ズィーナ登場。)
 ズィーナ また患者でない人なんです。任命されてやって来たと言っていますけど。
 教授 任命? 任命がどうしたって言うんだ。私と何の関係がある。糞ったれ。
 犬 いいえ、これは捨てては置きませんよ。
 教授(ドイツ語で。)糞ったれ!
 犬 今こそお役に立てる時だぞ。
 教授(ドイツ語で。)糞ったれ!
 犬 僕がここにいるのも偶然じゃないんだ。
 教授 じゃ通して。それから・・・フョードル!
 犬(僕には魅力があるんだ、きっと。ひょっとすると僕の正体はこんな雑犬じゃなくて・・・)そうだ、おばあさんが立派なヴォドラース犬と浮気して出来た由緒正しい犬かも知れないぞ。ちゃんと口の下には白い斑点もあるし・・・そうだ、案外僕は・・・ハンサムなのかも知れない。ここの先生は趣味のよい人だ。行きあたりばったりどんな犬でも連れて来るなんて、そんなことをする訳がない。(急にふくろうの剥製を見て。)あのふくろうの奴め、いつかやっつけてやる!
(片眼鏡をかけた「怪しい男」登場。)
 教授 シャーリク、こっちへ。
 怪しい男(ウー、ウーうなっている犬をなだめるように。)シャーリク・・・
 教授 どういった御用件でしょうか。
 怪しい男 教授殿、まづその、葉巻を一つ、許可、よろしいか?(たどたどしいロシア語。外国人。)
 教授 どうぞ。許可します。
 怪しい男 素晴らしい。素晴らしい。えー、お坐りになる、よろしいか?
 教授 どうぞ。許可します。
 フョードル(入って来て。)先生、控え室には誰もいません。
 教授 そうだろう。だからここにお客さんだ。もういいよ、フョードル。
 フョードル(退場しながら。)じゃ・・・バルメンターリ先生、バルメンターリ先生!
 怪しい男 先生、お忙しい。私、よく分かっている。
 教授 そうです。私は忙しい。
 怪しい男 ええ、時は金なり・・・失礼。先生の光線の話、もう世界津々浦々に広がっています。
 教授 光線て、何ですか。
 怪しい男 新しい命の光線。先生の発明の。
 教授 新しい命? 何ですか、それは。雑誌社のでっち上げです。
 怪しい男 謙遜・・・本物の学者の本物の飾り、それが謙遜。えーと、お名前を・・・
 教授 プレアブラジェーンスキーです。
 怪しい男 そう。プレアブラジェーンスキー。世界中でその名前を繰り返しています。世界中が息を呑んであなたの実験の進展の様子を見守っています。しかしまた、誰にも明らかなことがあります。それはソヴィエトロシアにおいては、科学者の状況が極めて厳しいという・・・
 教授(怒って。)御親切、痛み入る!
 怪しい男 アントル・ヌ・スワ・ディ。(フランス語 「ここだけの話」)・・・ここには怪しいものは誰もいませんな?
 犬 いない。
 怪しい男 この国には科学者の業績を評価出来る人物はいません。そこなんです、私が先生と内密にお話したいと思っていたのは。外国のさる国が、先生のお仕事に対し、全く無償でお金を貸したいという提案をしています。
 教授 バルメンターリ君!
 怪しい男 聖書にだってあるじゃありませんか。豚に真珠を与えたって、何の役にも立ちはしない。その国から見たら、もう明らかなんです。ヘッヘッヘ。革命後十九年、二十年、ソ連では科学者がどんなに辛い生活を送っているか。ええ、そりゃもうこれは絶対の秘密ですがね。その国から見たら、また明らかなんですよ。先生が個人の診療所を開いてやっと糊口をしのいでおられる。怪しげな関係の二人の男女に青春を与える、しなびたようなご婦人を若返らせる。こんな実験を行なってやっと・・・つまり、その国の提案はこうです。教授殿はその国にご自分の実験結果を報告する。するとその国は教授殿に資金を提供する。そうですね、手始めに端金(はしたがね)ですが、手付金五千ルーブリ、この場で即座にお受取りになれます。領収書は不要・・・
 教授(恐ろしい声で怒鳴る。)出て行きなさい。今すぐ。さ、出て行くんです。
(怪しい男、こそこそと退場。驚いたバルメンターリあとズィーナ、走って登場。ズィーナはオーバーシューズを手に持っている。)
 バルメンターリ あいつの上履きです。
 ズィーナ あの人、忘れたんですわ。
 教授 そんなもの、投げ捨てなさい!
 ズィーナ でも、もし取りに来たらどうしましょう。
 教授 住宅管理委員会だ。そこに送っておきなさい。受取は取って。
 フョードル 靴は戴きます。
 教授 そうだ、KGBに送りつけなさい。スパイ達にスパイの靴、よく似合ってる。
 フョードル 靴は何が何でも戴きます。
(ズィーナとバルメンターリ、オーバーシューズを持って退場。教授、まだ腹の虫が収まらず、受話器を握る。)
教授 もしもし・・・KGBにつないでくれ。そう、ルビャーンカだ。(訳註 KGBの本部のある場所。)メルスィ・・・誰につないだらいいか教えて欲しい。・・・私のアパートに今、オーバーシューズを履いた怪しい人物が現われた。・・・私? 私はプレアブラジェーンスキーだ。医学博士。
(ズィーナ、走って登場。)
 教授 返したのか?
 フョードル 駄目でした。
 ズィーナ 自分で来たんです。
 教授 靴が・・・自分で?
 ズィーナ 住宅管理委員の人達です。
(シュヴォーンヂェル、ヴァズニェスェーンスカヤ、ピェストゥルーヒン、登場。)
 教授 何の御用ですかな、市民諸君。
 ヴァズニェスェーンスカヤ(女性なのだが、ズボンを履いて、鳥打帽を被り、背広を着ている。男のように見える。)まづ第一に、我々は「市民諸君」ではない。同志と言って戴きたい。
 教授 どんな違いがありますかな、同志。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 私は女です。
(そう言って、顔を赤くする。その後ろを歩いて来たピェストゥルーヒン(これはブロンドで三角帽を被っている)も真っ赤になる。)
 教授 そうですか。なるほど。では鳥打帽はそのままでどうぞ。こちらのお二方は頭の被り物はお取りになって戴きましょうか。
(フョードル、ピェストゥルーヒンの頭から三角帽を取り上げる。)
 シュヴォーンヂェル 我々が来たのは他でもない・・・
 教授 ちょっとお待ち下さい。まづその、「我々」の意味を御説明願いたいですな。
 シュヴォーンヂェル 我々は、この我々の建物の新しく選出された住宅管理委員会です。私はシュヴォーンヂェル、これがヴァズニェスェーンスカヤ、これが同士ピェストゥルーヒン。で、我々がここに(来たのは・・・)
 教授 するとヴァスィーリイ・パーヴロヴィッチの部屋に住むようになったのが、あなた方なんですな?
 シュヴォーンヂェル そうです。
 教授(狼狽して、また呆れて。)おやおや、もう駄目だ、この建物も。
 シュヴォーンヂェル 我々のことを笑い者にしているんですね、教授。
 教授 笑う材料など何処にあるっていうんです。私はただ、酷く困ったことだと思ってるんです。これから先どうなるんだろうと。例えば、セントラル・ヒーティングが止りはしないかと。
 ヴァズニェスェーンスカヤ それは我々のことを馬鹿にしている言葉じゃありませんか、教授。
 教授 とんでもない。真面目な話です。・・・ところで何の御用でしょう。てっとり早くお願いしたいですな。食事に出るところだったんですから。
 シュヴォーンヂェル 我々がここにまいりました理由と致しましては、管理組合総会を開いた結果と致しましては、問題の所在を探求した結果と致しましては、この建物の増員問題と致しましては・・・
 教授 なるほど。問題の所在の探求を致したんですな。結論を簡明に願います。
 シュヴォーンヂェル 問題はこの建物の増員可能性にあるのです。
 教授 分かりました、その点は。ただ皆さんはご存じでしょうな。今年の八月十二日の委員会の決定により、私個人の所有になる部屋には、これ以上他人の居住を許さないと。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 分かっています。
 シュヴォーンヂェル 教授殿、我々には何もかも分かっているんです。いいですな。ただ、我々新管理委員会といたしましては、新しい結論を下しました。つまり、一般論的にまた各論的に申しまして、教授殿一人で占めていらっしゃる面積は広すぎると。
 ピェストゥルーヒンとヴァズニェスェーンスカヤ 全く広すぎる。
 シュヴォーンヂェル 教授殿お一人で、七部屋を独占しておられる。
 教授 そうです。私一人で七部屋を占拠しています。そして出来れば八部屋目を要求したいのです。この仕事ではどうしても図書室が必要ですからな。
(三人、あっけにとられる。)
 ピェストゥルーヒン 八部屋目? ほほう、これはいい。こいつは驚きましたな。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 呆れた話!
 教授 私が占拠している部屋は、第一にここ、応接室。ご覧下さい、図書室も兼ねています。第二に食事をとるための部屋。第三に書斎。第四に診察室。第五に手術室。第六が私の寝室。第七が使用人のための部屋。以上。これでもう用事はない筈ですな。では食事に行かせて戴きましょうか。
 ピェストゥルーヒン いや・・・失礼ですが・・・
 ヴァズニェスェーンスカヤ 失礼ながら、それは・・・
 シュヴォーンヂェル 失礼ですが、丁度今お話のあった食事をとるための部屋について少し申し上げねはならないことが。総会と致しましては教授殿が、労働者たるものの生活の原則に基づき、御自分の意志で自発的に、食事をとるための部屋の所持を放棄されることを要請します。モスクワのいかなる家庭にも、現在食事をとるための部屋を別に取っているところはありません。
 ヴァズニェスェーンスカヤ マヤコーフスキーの妻、イサドラ・ダンカンにもない。
 シュヴォーンヂェル この部屋、応接室も不要です。診察は書斎で充分間に合いますし・・・
 教授 すると私はどこで食事をすることになりますかな。
 三人(声を揃えて。)寝室で。
 バルメンターリ 先生! 抑えて!
 教授 私は大丈夫だ、バルメンターリ君! 食事は寝室で。手術は使用人の部屋で。それから診察は食堂で。なるほど、イサドラ・ダンカン女史がそれでいいなら、それはそれで文句はありますまい。しかし、私はイサドラ・ダンカンではない。私は食事は食事のための部屋で、手術は手術室で行ないます。このことをどうぞ総会にお伝え下さい。
 シュヴォーンヂェル そういうことですと教授殿、我々は職務執行妨害のかどで、この件を告訴することになりますが・・・
 教授 ははあ、なるほど。(ここで教授の声、重々しく、かつ、「こんなことをしていいのか?」というような口調になる。)暫くお待ち願えますかな。
 シュヴォーンヂェル 待ちましょう。
 犬 これこそ男の中の男だぞ。丁度僕みたいだ。そうだ、今すぐに逆襲だ。噛みつくぞ、きっと・・・
(教授、受話器を取る。)
 教授 ピョートル・アレクサーンドロヴィッチをお願いします。・・・こちらはプレアブラジェーンスキー。
 犬 この足長野郎。靴の上のふくらはぎのところを噛んでやるぞ、ガブッと。ウー、ウー、ウー。
 教授 プレアブラジェーンスキーです。・・・ああ、ピョートル・アレクサーンドロヴィッチ。ああ、いらっしゃいましたか。運が良かった。・・・有難うございます。元気にやっております。・・・実は、ピョートル・アレクサーンドロヴィッチ、予定しておりました手術のことですが、中止です。あなたの手術だけではありません。手術という手術は全部中止です。モスクワで診療を止めたのです。いや、ロシアではもう止めました。今私のところに三人の人物がやって来ました。一人は男の格好をした女性。あと二人はピストルを持って私に部屋の権利を譲れ、さもないと命はないぞ、と・・・
 シュヴォーンヂェル ちょっと、教授殿・・・
 教授 言い換えれば、私に診察室を手放すように提案してきているのです。それは即ち、あなたの手術を、私が今まで兎の肉を切り刻んでいた場所でやれということです。このような条件では私は医者の仕事をすることは出来ませんし、またする権利もありません。従って私は、この仕事はもう止めます。アパートは引きはらってソチへ引っ越すつもりです。鍵はシュヴォーンヂェル氏に渡しますので、どうか彼に手術をやらせて下さいますように・・・
(三人凍りついたようになる。)
 教授 どうしろと仰るので? 私だって不愉快極まりないことなのです・・・何ですって? いえ、それは駄目です、ピョートル・アレクサーンドロヴィッチ。もううんざりなんです。堪忍袋の緒が切れたのです。今年の八月から、これでもう二度目です。何ですって? ほほう・・・しかし一つ条件があります。今後いかなることが起きようと、私の好きに出来る、これです。しかしこれにはもう少し確固たる保証が戴きたい。即ち、この条件がある限り、シュヴォーンヂェル氏であれ、誰であれ、私の部屋の玄関には決して近寄ることは出来ない。これで全部です。言いたいことは終りました。彼らとの接触を絶つこと、あたかも私が死んだ如くであります。・・・あ、それはまた別の話で・・・分かりました。電話を替わります。その儘お待ち下さい。今連中が出ます。
 シュヴォーンヂェル 教授殿、随分違った話にしてしまったじゃありませんか、我々の話とは。
 教授 「違った話」ですと? そんなことを私の前でよく言えますな。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 落ち着いて、同士!
 シュヴォーンヂェル(すっかり狼狽した様子で受話器を取る。)もしもし。・・・はい、管理委員会の委員長ですが。・・・しかし我々は規則に従って・・・
 ピェストゥルーヒン 五部屋も残そうとしているって言ってやるんです!
 シュヴォーンヂェル 待てと言ったら!・・・いえいえ、こちらの男に言った言葉で・・・はい、教授の仕事については重々承知しております。
 ピェストゥルーヒン 五部屋も・・・
 シュヴォーンヂェル だから待てと言ってるだろう。・・・いえいえ、あなた様への言葉ではないんでして、これはこちらの・・・しかし教授殿にはあまりに特権が与えられておりまして・・・(ヴァズニェスェーンスカヤとピェストゥルーヒン、口を挟む。)だから待ってろと言ってるだろう。・・・いえいえ、これは違うのです、これは・・・
 ピェストゥルーヒン 寝室で食わせろ。寝室で食事をさせるんだ!
 シュヴォーンヂェル は? 私が何者かと?・・・(訳註 ロシアでは罵倒の言葉が定着しており、ここで観客には言われた言葉が推察できる。観客爆笑の場面。)どうなってるんだ、これは。えらいことだぞ・・・
 犬 やった、やったぞ。何てこの家は安泰なんだ。よし、ぶん殴られたって、何をされたって、僕はここを離れないぞ。
(ピェストゥルーヒンとヴァズニェスェーンスカヤ、侮辱されてがっくりきているシュヴォーンヂェルを見る。)
 犬 さあ、同士シュヴォーンヂェル君。静かにするんだ。騒ぐんじゃない。
 シュヴォーンヂェル えらいことになりおったぞ。どうなるんだろう。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 公開討論よ。今ここで公開討論がありさえすれば、私はピョートル・アレクサーンドロヴィッチに反論出来るのに。
 教授 悪いですな、今ここで公開討論が行なわれないというのは。
 ヴァズニェスェーンスカヤ それは皮肉ですね、教授殿。さ、もう我々は行きます。ただ私、文化部部長としては、ここで緊褌(きんこん)一番・・・
 教授 ちょっと・・・女性は緊褌とは言わないものです。
 ヴァズニェスェーンスカヤ えっ? ああ、とにかく、ひとつお願いしたいことがあります。(明るい色の新聞をズボンの間から数枚取りだして。)ドイツの子供達のために、このうち何枚かお買い求め願えませんか。一部五十カペイカですが。
 教授 いえ、お断りします。
(三人ともぎょっとして顔を見合わせる。)
 ヴァズニェスェーンスカヤ 何故お断りに?
 教授 欲しくないからです。
 ヴァズニェスェーンスカヤ ドイツの子供達が可哀相だとは思わないのですか。
 教授 可哀相ですな。非常に。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 五十カペイカが惜しいんですか!
 教授 惜しいわけではありません。
 ヴァズニェスェーンスカヤ では何故。
 教授 欲しくないからです。
(間。)
 ヴァズニェスェーンスカヤ いいですか、教授。もしあなたがヨーロッパ有数の学者でなかったら、そしてもしあんなとんでもないやり方であなたを擁護する人物が(ここでピェストゥルーヒン、ヴァズニェスェーンスカヤの袖を引っ張って止めさせようとする。が、彼女はお構いなく言葉を続ける。)・・・この人物とは早晩白黒をつけるつもりでいますがね・・・こんな擁護者がいなかったら、あなたはとっくに逮捕ですからね。
 教授(好奇心から。)ほほう。罪状は?
 ヴァズニェスェーンスカヤ プロレタリアートを憎んでいるからです。
 教授(ついにたまらず、怒鳴る。)そうです。私はプロレタリアートは嫌いなんだ!
(目立たないフレンチコートを着た三人の男、登場。)
 フレンチコートの男一 KGBだ。
 ヴァズニェスェーンスカヤ(喜んで。)これはこれは同士諸君!
 フレンチコートの男一 教授殿、ここに何者か、怪しい男が現われたそうですな。オーバーシューズを履いた。そう、これはシャーリク、犬だ。怪しいもんじゃない。ところでこの方々は?(管理委員達三人を指さす。)
 教授 さあ、知りませんな。気がついたら何時の間にか入っていましたね。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 私達は住宅管理委員会のものです。
 教授 あ、そうそう。新住宅管理委員会とかなんとか・・・
 フレンチコートの男一 では証人になって貰いましょう。さて、教授殿、オーバーシューズはどこですかな。
 教授 これです。
 フレンチコートの男二 オーバーシューズは、証人立会のもとに受領致しました。(オーバーシューズを受取り、新聞紙にくるみ、持ち去る。)
 シュヴォーンヂェル みなさん、私は住宅管理委員会の委員長として申し上げますが・・・とにかくお話にもならない酷いことで・・・
 フレンチコートの男一(シュヴォーンヂェルには目もくれず。)教授殿、その怪しい男の人相をお教え戴きたいですな。
 教授 人相なんてものじゃありません。酷いご面相で。
 フレンチコートの男一 酷い御面相・・・具体的には?
 教授 ピテカントロプス・ペキネンシス。
 フレンチコートの男一 ピテカントロプス・ペキネンシスと・・・片方の目が義眼、入れ目ではありませんでしたか?
 教授 入れ目・・・というよりも・・・出目でしたな。
 フレンチコートの男一 出目・・・あ、あいつだ。
 フレンチコートの男三 いや、あいつは領収書なしでは金を出しっこない。こいつはもっと大物です。
 教授 すると、相当な悪党ということですか? 来た男は。
 フレンチコートの男一 いや、けちな野郎です。しかしとにかく今晩起こったことは誰にも決して漏らさないで下さい。さて、これからはもう御安心下さい。どんな奴が来たって、教授殿に指一本触れさせるものじゃありません。診療室の話だろうと、この建物の話だろうと。我々がやって来たのは、うるさい訪問客から教授殿をお守りするためです。私共は二十四時間体制で、この玄関に詰めておりますから、どうか・・・あ、老婆心ながらつけ加えますと、この我々の監視は、勿論バルメンターリ先生のためでもあります。即ち、イヴァーン・・・
 フレンチコートの男三(細かいことも、つまり名前なども、当然知っているのだという口調で。)アルノーリドヴィッチ・・・
 フレンチコートの男一 ・・・バルメンターリ先生のためでもあるわけでして。ではこれで。ひとまづ失礼!
 教授 有難う、諸君。ところで、新聞屋を撃ち殺してくれると助かるんですがね。
(フレンチコートの男一、三、楽しそうに笑う。)
 フレンチコートの男一 ちょっと出来かねますな。ではもう一度・・・失礼!
 教授 ではもう一度・・・有難う、諸君。
(住宅管理委員会の三人、フレンチコートの男一、三、退場。)
(ダーリヤ・ピェトローヴナとズィーナ登場。)
 ダーリヤ・ピェトローヴナとズィーナ お食事の用意が出来ました。
 教授 バルメンターリ君、さ、こっちに。・・・(ダーリヤに。)これがあれだね?
 ダーリヤ はい、そうです。
 教授 バルメンターリ君、ちょっとこいつを今すぐ食べてみてくれないか。旨いはずだがね。万一旨くなかったら、それは一生君に恨まれても仕方ないね・・・どうだい? 旨いかい? まずい?
(教授、バルメンターリに前菜を勧める。ワインをつぎ、目には輝きが増し、バルメンターリを見つめる。)
 バルメンターリ 申し分ないです。
 教授 さ、シャーリク、うまく受けるんだぞ。(フォークの先に前菜を刺して、犬の方に投げてやる。犬、名人芸でそれを口で捕える。)
 ズィーナ 食卓で犬に餌をやってはいけませんわ。これから先パンで犬の気を引こうとしても引けなくなってしまいますわ。
 教授 まあいい。犬は今腹ぺこなんだ。なあ、バルメンターリ君、本来温かくして食べるべきスープとか前菜を冷たい儘食べて平ちゃらっていうのは、ボルシェヴィキーに殺され損なった(育ちの悪い)地主達だけだよ。自尊心のある立派な人間はそういう前菜は必ず温めて食べる。ねえ、バルメンターリ君、物を食うということは決して疎(おろそ)かにしてはいけない。大抵の人間は、物を食う食い方というものを全く弁(わきま)えていない。物を食う、それは、何を何時どこで食べるか、それだけ分かっていればすむというものではない。それを食うにあたって、何を喋るか、それも問題なのだ。蝶鮫を食う時に話す話題、ローストビーフを食う時に話す話題、それは自ずと異なるものなんだよ。
(教授、テーブルからつと立ち上がって玄関に行き、階段の踊り場に通じる扉を開ける。そこにフレンチコートの男三が隠れていて、教授とばったり顔を合わせる。)
 教授 ああ、君ね。・・・そこで君、何を食べてるの?
 フレンチコートの男三 あ、どうぞ、御心配なく、教授殿。そろそろ交替の時間ですので。邪魔者はいませんな? 大丈夫ですな?(フレンチコートの男三、退場。)
 教授 いやあ、それにしても君、たいしたものだろ? この仕事への忠誠心、この手際のよさ。(テーブルに戻って。)それからね、バルメンターリ君、一つ忠告だ。食事中には政治の話は禁物だよ。
(怪しい男登場。)
 怪しい男 五万ルーブリでは如何です? 教授。
 教授 出て行け、出て行け、出て行け。
(怪しい男、退場。)
 フレンチコートの男三(舞台裏から。)邪魔者はいませんな? 教授。
 教授 君、止めてくれんかね。・・・食事中政治の話は禁物だと言ったがね、バルメンターリ君。医学の話も駄目だ。それに・・・食事の前に新聞を読むのもいかん。私は診療中、三十例に当たってみたんだが、新聞を読む人間は膝蓋筋(しつがいきん)反射が鈍い。それにどうも食欲不振の傾向がある。
(階上からコーラスが聞こえる。)
 教授 ズィーナ、あれはどういうことなんだ?
 ズィーナ あれって? ああ、あれはまた、管理委員会の総会なんです。
 教授 また。それはそうだ。今や事の運びはまことに滑らかになったんだからな。万事順風満帆。最初にまづトイレでパイプが凍りつき、次にスチーム・セントラルヒーティングのボイラーが破裂、その他諸々だ。なんていうアパートになったんだ、ここは。
 バルメンターリ 先生はあまりに将来を暗く見過ぎていらっしゃいますよ。急激に連中も変わってきているんですから。
 教授 バルメンターリ君、私はね、根拠のない仮定に基づく議論は嫌いでね。私は事実の男なんだ。私が何か議論をする時、その後ろには必ず事実が裏打ちされている。このことはロシアの科学者だけじゃない、ヨーロッパ中の科学者に知られている。さて、今の議論にどういう事実があるか。そら、あのオーバーシューズの棚だ。
 バルメンターリ そう、あれは面白い話に・・・
教授 私がこの家に住むようになったのが、一九0三年。それから革命が起きるまで住宅に係わる事件は何一つ起こった試しがない。これは赤鉛筆でしっかり下線を引いておかなきゃならない。それがどうだ、その後ときたら、玄関からオーバーシューズはみんな消えてなくなり、ステッキは三本、外套、それに守衛のところのサモワールもなくなる。このざまだ。私はもうスチーム・セントラルヒーティングなんて贅沢は言わないよ。一旦革命が起こったからには、もう部屋なんか暖めなくてもいいんだろう、きっと。そう、暖房は不要。それならそれでいい。しかし私は訊きたい。何故オーバーシューズを盗まれないように鍵をかけなきゃいけないんだ。玄関の階段から何故絨毯を取り払わなきゃならない。カール・マルクスが階段に絨毯を敷くのを禁じてでもいるのかね。彼の著作のどこかに、玄関は板で釘づけにし、家に入る時は裏庭から大回りしなければならないと書いてあるのかね。こんなことが一体何故必要なんだ。何故プロレタリアート諸君はオーバーシューズを階下にそっとしておいてくれないんだ。それから大理石を何故泥で汚さなきゃならないんだ。
 バルメンターリ(びくびくしながら。)でも先生、連中はオーバーシューズなんか持っていませんよ。
 教授 そんなことはない! 連中にはちゃんとオーバーシューズがある。つまり私の持っていたやつだ。丁度その私の持ち物を持っているんだ。それでいけしゃあしゃあと「盗んだ奴は誰か」だと? この私じゃないかだと? 冗談じゃない。そうでなきゃ、この家の持ち主、(教授、指で天井をさして。) ヴァスィーリー・パーヴロヴィッチじゃないか、だと? よくもまあこんなことが言えたもんだ。そんなことを思いつくことさえ笑止千万だ。それに(簡単なことでちゃんとしていないことを上げれば、)花だ。花を一体何故踊り場から盗んでゆかなきゃならないんだ。ついでに言うと、電気だ。この二十年間、電気が消えたことなどありはしなかった。それが今じゃどうだ。一箇月に一回は必ず停電じゃないか。
 バルメンターリ 荒廃です、先生。荒廃が起きたんです。
 教授 いや、違うな。荒廃ではない、バルメンターリ君。荒廃というその言葉を気安く使わないよう気をつけてくれ。荒廃とは一体何か。魔女がいて、窓ガラスを全部ぶっ壊してゆく。明かりを全部消してしまう。そんな魔女などいはしない! この荒廃という言葉によって君は何がいいたいのか。(教授興奮して、ふくろうの剥製に訊く。そして自分でふくろうの替わりに答える。)いいか、荒廃とはこういうものだ。例えば私がこの家で診察をすることを止めて、その代わりにコーラスを歌い始める。これが「私に荒廃が起こった」ということの意味だ。例えば私が小便に行く・・・尾籠な例えで恐縮だが・・・そこで便器にちゃんと入れずに、そこいらに放尿する。そうだ、私だけじゃない。ズィーナも、君もそうするとする。すると便所の荒廃が始まる。しかしこの例で分かるだろう。実は便所なんかに荒廃があるんじゃない。われわれの頭の荒廃なんだ、これは。だから「荒廃をくいとめよう」と心から叫ぶ時に、我々が最初にすべきことは、自分の頭を、後頭部を、ちゃんと叩いてはっきりさせることなんだ。充分に頭を叩いて、まぼろしを頭から追い出す。つまり頭の中をきちんと整頓してはっきりさせる。これが第一にしなければならないことなのだ。そうすれば荒廃の問題など自然になくなってしまう。
 犬(有頂天になって。)ウ、ウ、ウ。ル、ル、ル。
 教授 おお、シャーリク。どうした?
 犬 ウッラー!
 教授 お前、「荒廃」と言ったのか? そうだ、バルメンターリ君、あの歌が止まない限りこのアパートで何一つ変わることはあり得ない。あのコーラスがなくなって初めてこの家の状態は好い方向へ向かうのだ。
 犬 あの弁舌なら集会に出て話したらさぞかし金になることだろう。しかし金はうなる程ある様子だなあ。
 バルメンターリ(冗談に。)反革命の弁ですね、先生。
 教授 私の言葉に反革命の弁など何処を捜したってありはせん! 合理的思考と、人生による経験、それしかない。やれやれ、今日は何も出来ないな。今日はバリショイ劇場でアイーダをやる。長いこと聞いてないな、アイーダ! ズィーナ、着替えるぞ!
 バルメンターリ 間に合うんですか? 先生。
 教授 何事も急ぎさえしなければ、必ず間に合うものだ。勿論私が(偉いサンになっちゃって)会議会議と引っ張り回され、声を張り上げて演説などぶつようになったら終だ。暇はなくなり、間に合うなんてことは出来なくなるね。私は職業は分業化すべきだという考えだ。歌はバリショイ劇場に任せる。私は手術。これでいい。これで荒廃もなくなる。さ、 シャーリク、こっちへ来い。
(犬、教授に擦り寄る。教授、ガラス戸棚から・・・このガラス戸棚のガラス越しに、人間の脳の標本が入れてある罎が見える・・・幅の広いキラキラ光る首輪を取り出し、犬に嵌める。教授とバルメンターリ、退場。犬だけが残る。)
 犬 首輪だ・・・(独り言を言う)そうか、すると僕はこの家のものだ! 首輪・・・こいつはこの家から鞄を貰ったのと同じだぞ。僕には御主人様が出来たんだ! こげ茶色の狐の革のコートを着ている御主人様・・・この狐のコートの素晴らしさ。光線が毛に反射してスパンコールみたいにキラキラ輝く。あの狐のコートの御主人様! みかんの匂いのする、ベンジンの匂いのする、葉巻の匂いのする、香水の匂いのする、オーデコロンの匂いのする、ラシャの匂いのする、御主人様! その声! 凱旋喇叭(らっぱ)のように家中に響きわたる! 運命の宝籤、僕は一等賞を引いたぞ! 僕はここに住むんだ! 蚤は取ってくれる! 愛してくれる! 僕は甘えたっていいんだ。御主人様のズボンを噛んだって、靴を齧(かじ)ったって、あの方は何でも許して下さる。だっていい人なんだからな、あの人。犬のお伽話にあったな慥か、全智全能の神様だ! ああ、人生に光明が見えてきたぞ。横腹の火傷も直っちゃった! ああ、御主人様! 僕は好きになるぞ、大好きになるぞ、あの人を・・・
(素晴らしいソプラノの声。アイーダから。暗転。)

(教授登場。)
 教授 何だ、こいつめ。お前は何てことをしでかしたんだ。ふくろうがズタズタじゃないか。
(そう言いながら教授、白い上衣を着る。)
 ズィーナ 私、わざと片付けておかなかったんです、先生。この有様を見て戴こうと思って。(と言いながら、ズィーナも上衣を着る。)
 教授 何故ズボンも噛んだんだ? ミューチュニコフ(訳註 日本ではメチニコフと呼ばれている。)の肖像も壊しちゃって・・・何故なんだ?(総主教の帽子に似た、白い背の高い帽子を被る。)
 ズィーナ(優しく。)先生、この犬、鞭で叩かないと駄目ですわ。でないと甘やかされる一方ですわ。
(といって、白い帽子を被る。)
 教授 叩くのは駄目だよ、ズィーナ。このことは繰り返しては言わない。よく憶えておくんだよ。
(教授、ズィーナの手助けにより、上衣の上にゴムのエプロンをつける。また手にはゴム手袋を。)
 ズィーナ この一週間、この犬、家にある食物という食物を見つけ次第ガツガツと食べたんですよ。よくまだ破裂しないで生きてるわ。不思議!
(ズィーナ、手術用の机を拡げる。)
 教授 ねえ、ズィーナ、憶えておくんだ。人にでも動物にでも、何かを無理矢理やらせるってことは誰にも出来ない。精々が暗示だ。
(ズィーナ、電灯にスイッチを入れる。ひどく明るく輝く。 バルメンターリとフョードル、登場。二人、大きなトランクを引きずっている。)
 ズィーナ はい、分かりました、先生。
 犬 どうしたんだろう、みんな。あの白い上衣。僕は火傷はもう直っているのに。逃げよう・・・
 バルメンターリ 死体です、先生。
 教授 死亡時刻は?
 バルメンターリ 三時間前です。
 教授 (ガーゼのマスクをかけ、ゴム手袋を嵌めた指を動かしながら。)よし。
 犬 しかしどこに逃げたらいいんだ。僕はもう高貴な犬だ。すでに上流の生活を経験した、インテリなんだ。
 教授 とにかく犬に気をつけて。怖がらせないように。
 犬 自由、自由・・・何が自由だ。自由なんて煙だ、蜃気楼だ、幻だ。民主主義信奉者の嘘っぱちだ。
 教授 さ、捕まえて。・・・手術台にのせて。
 犬 相手は四人か。捕まえられるものなら捕まえてみろ。糞っ、恥を知れ、恥を! 自分の目つきを見てみろ、虚ろだぞ。悪いことを企(たくら)んでいる目だ、それは。糞っ、恥を知れ、恥を!
(バルメンターリ、フョードル、ズィーナにしっかり掴まれて手術台の方に引きずられる。手術台にのせられ、バルメンターリに口はさるぐつわ、体はベルトで固定され、静かになる。)
 教授 扉は全部閉める。電話は鳴っても出てはいかん。誰も入れてはならん。いいな。
 フョードル 畏まりました、先生。
(フョードル、急いで退場。)
 ズィーナ(犬にシーツを被せて。)先生、私、出てもいいですね?(教授からの答を待たずに出る。)
 教授 なんだか可哀相になってきたな、この犬。慣れてきていたんだからな。バルメンターリ君、君が頭蓋骨を開けて脳にまで行ったら、その死体の脳をこちらに分岐してくれ。それから器械にスイッチを入れるんだ。いいね? 犬は寝ているね?
 バルメンターリ はい、よく寝ています。
 教授 さ、成功を神に祈って・・・始めよう。
(バルメンターリ、小さなテーブルから鋸を取り、犬の体に覆いかぶさるようにして手術を始める。絨毯と壁を通して住宅管理委員会のコーラスが聞こえてくる。)
 教授 まただ。何ていう奴等だ。みんな地獄へ堕ちてしまえ!
(ここで電気が消える。)
 教授(恐ろしい叫び声。)糞っ! こんな時に! ズィーナ、ズィーナ、ズィーナ!
(壁を通してコーラス、以前より大きな声になる。手に蝋燭を持ってズィーナ登場。手術台をそれで照らす。しかし手術を見ないように首をねじり、顔をそらしている。)
 フレンチコートの男一(カンテラを持って登場。)教授殿、邪魔をする奴はいませんな?
 教授(バルメンターリに。)動くんじゃない・・・こっちに来て。
(バルメンターリ、小さな台の上にある道具を、鋏を捜してがちゃがちゃ鳴らす。フレンチコートの男一、カンテラを持って近づいて来る。)
 フレンチコートの男一 ほら、ここに鋏。(差し示すだけ。手には取らない。)
 教授 注射器!
 バルメンターリ 脈がひどく落ちて来ました。
 教授 何をぼやぼやしている。アドレナリンを打つんだ!
 バルメンターリ ズィーナ、注射器!
 フレンチコートの男一 はい、ここです。消毒済み。私がやりました。
 教授 糞っ! この犬は五回死んでいたっておかしくないぞ。暗闇で手術だとは。考えられない・・・
 フレンチコートの男一 考えられない・・・(語尾をむにゃむにゃと発音する。)
 教授 考えられるだと?
 フレンチコートの男一(はっきりと。)考えられません!
 教授 血止め!
 フレンチコートの男一 血止め!
 教授 メス!
 フレンチコートの男一 メス!
 教授 また血止め!
 フレンチコートの男一 また血止め!
 教授 気をつけるんだ!
 フレンチコートの男一 気をつけるんだ!
 教授 死体の脳!
 フョードル はい、只今。(トランクを開ける。)
 フレンチコートの男一 足!
 フョードル 靴!
 フレンチコートの男(ポケットを探って。)ワイン!
 フョードル ロゼ!
 フレンチコートの男一 死体の脳!
(ズィーナ、気絶して倒れる。)
 フョードル 気絶!
 教授 ズィーナ!
 ズィーナ(飛び起きて。)消毒済み!
 フレンチコートの男一(フョードルに。)行ってよし!
 教授 メス!
 フレンチコートの男一 メス!
 教授 血止め!
 フレンチコートの男一 血止め!
 教授 また血止め!
 フレンチコートの男一 また血止め!
 教授 死んだか?
 バルメンターリ 脈が極めて微弱です。
(工業月報の記者、登場。)
 工業月報の記者 教授殿! ドアに鍵が掛かっていませんでした!
 教授(フレンチコートの男一に。)こっちに! 立っとれ!
 フレンチコートの男一(工業月報の記者に。)お前じゃない!
 工業月報の記者 工業月報社です。読者諸氏のため、どうかお仕事の紹介を!
 教授 脳切開器!
 フレンチコートの男一 脳切開器!
 フョードル(工業月報の記者に。)出て行け。どんなことになっても知らんぞ。
 教授 メス!
 フレンチコートの男一 メス!
 六十歳ぐらいの男の患者(入って来て。)先生、ベルも鳴らさず侵入しまして申し訳ありません。でもどうしてもお礼を言いたくて・・・
 工業月報の記者(カメラのついた三脚を据えて。)ほんのちょっとのインタビューでいいんです。先生のご発明の役割について・・・
 六十歳ぐらいの男の患者 先生はすごいです。魔法使いです。私は若がえりました。毎晩女の子がわんさと夢に出るんです。
 工業月報の記者 失礼しました、先生。ご機嫌よう!
 教授 気をつけて、バルメンターリ君! ターキッシュ・サドルにかかるぞ。
 フレンチコートの男一 ターキッシュ・サドルにかかるぞ。
 怪しい男(登場して。)十万ルーブリでは如何でしょう、教授殿!(退場。)
 フレンチコートの男二 教授殿、邪魔者はいませんな?
 フレンチコートの男三 教授殿、邪魔者はいませんな?
 六十歳ぐらいの男の患者 先生、パロル・ドノール(仏語 「名誉にかけて」)最近は、二十五年前、私がパリで暮らした頃の調子ですよ。
 工業月報の記者(登場して。)これは本当なんですか、教授殿、今度の発明は生殖能力の巨大な増加を保証するという話ですが・・・
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ(七面鳥の料理を運んで来て。)先生、お食事ですよ。
 フレンチコートの男一 教授殿、食事です。
 六十歳ぐらいの男の患者(ダーリヤ・ピェトゥローヴナに。)美人ちゃん!
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ 私はここのコックなんですからね。先生、七面鳥の料理ですよ。お召し上がりになりますね? でないとパサパサに乾いてしまいますよ。どこに置きましょうか。
 フレンチコートの男一 七面鳥は台の上だ。(自分で皿を受け取って、手術器具のある台の上に置く。)
 六十歳ぐらいの男の患者 美人ちゃん、私は惚れちゃったなあ・・・
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ フョードル!
 フョードル お前、消毒が済んでない・・・
 工業月報の記者 はい、チーズ!(写真を取る。)おわり!
 教授 縫合!
 六十歳ぐらいの男の患者 それで先生、発明って何のですか。
 教授 針!
 フレンチコートの男一 教授殿は新生命光線を発明されたんだ。電気で動く。何だい君、その髮の毛は?
 六十歳ぐらいの男の患者 畜生! 染料がまた剥げたか。詐欺だ、これは。先生、若返らせるんなら、髮も若返らせて下さいよ。
 フレンチコートの男一 時間がないんだ。それはまただ。今は行ってよし。
 六十歳ぐらいの男の患者 ああ、コックさーん。
 フレンチコートの男一 コックは右。あっちに。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ はい、分かりました。
 六十歳ぐらいの男の患者 ああ、私は惚れた。決定的に惚れたぞ。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ さ、こっちに・・・こっちに。(六十歳ぐらいの男の患者を引っ張って行く。)
 バルメンターリ 縫い上がりました、先生。
 教授 ズィーナ、器械のスイッチを入れて!
 フレンチコートの男一 教授殿、こっちこっち。立っとれ。・・・失礼。これは犬に言う言葉でした。
 教授 ああ、さっきは失礼。(訳註 手術中教授、フレンチコートの男一に高飛車に口をきいたことを謝っている。四十七頁のやりとりを参照。)
 フレンチコートの男一 どうか落ち着いてお仕事を、教授殿。誰にも邪魔させはしません。
 教授 死ぬぞ。・・・犬の奴、可哀相に。可愛い奴だったが。しかし狡くもあったな・・・書き留めておいてくれ、バルメンターリ君・・・研究用の犬・・・雄・・・呼び名、シャーリク・・・種類・・・番犬。
 バルメンターリ あ、動きました。
 教授 まさか。生きてるって言うのか? 書いてくれ。濃い毛並み・・・肥りぎみ・・・死後三時間の人間から摘出した脳、及び生殖腺の移植という、世界最初の手術のために飼われた犬・・・書いたか?
 バルメンターリ はい、書きました。
 教授 手術の目的・・・光線の直接照射の下で移植を行ない、その影響を観察すること。
 バルメンターリ 犬が動きました。
 教授 書いて。
 バルメンターリ 何をです?
教授 「犬が身体をかいた」と。
 バルメンターリ 毛が落ちて来ました。
 教授 書いて。
 バルメンターリ 何をです?
 教授 最初の光線照射により犬の体毛、部分的に抜け落ちる・・・可哀相な犬だ!
 バルメンターリ 書くんですか?
 教授 何を。
 バルメンターリ 「可哀相な犬だ」と。
 教授 ああ、それは不要だ。書いて。体毛の抜け落ちる現象、犬の身体全体に広がる。
 バルメンターリ 手当ての方法は?
 教授 手当ての方法など分かっていない。書いて。手足の伸張、頭骨の発達、が見られる。・・・全く予期せぬ現象だ!
 犬 ウー、アー。
 教授 書いて、今の声。
 犬 ウー、アー。
 教授 赤ん坊の泣き声に似ている。
 バルメンターリ 何に似ているんですって?
 教授 落ち着いて、バルメンターリ君。我々は科学者なのだ。赤子に似ている。脈も正常だ。
 バルメンターリ 目を開けました。
 教授 書いて!
 バルメンターリ 書きます。
 犬 アー、イー。ウヨギヨギ。
 バルメンターリ 何か喋りました。
 教授 確かに喋った。書いて。「ウヨギヨギ」と、はっきり吠えたぞ。
 犬 ウヨギヨギ。イアミク。ウヨギヨギ、イアミク!
 バルメンターリ どう書きましょう?
 教授 「イアミク」と書いて。
 犬 イアミク、ウヨギヨギ!
 バルメンターリ(書きとめる。)イアミク、ウヨギヨギ。先生、逆さに読むと、漁業組合になります!
 教授(犬の頭を眺めて。)やったぞ、シャーリク。偉い!
 犬 糞ったれ。何を押すんだ。やめろ。馬鹿!・・・イアミク・・・おっちゃん・・・ウヨギヨギ・・・おっちゃーん・・・イアミク・・・
 教授 書き留めて、バルメンターリ君。書いておくんだ。
 バルメンターリ 書きます。書きますよ、これは!
 教授 どうやら人間になってきているらしい。書いて、バルメンターリ君。光線の効果は全く意外な結果を生んだ。即ち、犬に完全な人間性を与えたのだ。
 犬 ちゃんと並べ、この! 列になってるのが分からんのか、この馬鹿!
 教授 こいつの知能程度が分かるな。あの死体はどんな男だったんだ? バルメンターリ君。お里が知れるな。
 フレンチコートの男一 名前はクリーム。クリーム・リゴーリエヴィッチ。二十五歳。犯罪をおかすこと、三度。但し、第一、第二回目の裁判では、プロレタリア出身のため無罪。第三回目は有罪となる。執行猶予つき、十五年の懲役。死因、プレアブラジェーンスキー訊問所の傍のビアホールにおいてナイフで刺される。
 教授 有難う。
 フレンチコートの男一 教授殿! おめでとうございます。ファウスト博士のように、悪魔との契約をなさらず、教授殿は人間の製作に成功なさいました。外科医のメス一つで新しい人間一単位の生命を創造なさったのです。教授殿、実におめでとうございます。
 バルメンターリ 先生、先生は創造主です・・・
 教授 バルメンターリ君、僕は自分でもこんな成功を生むとは思っていなかったよ。ズィーナ、ズィーナ。これに服を着せてやって。(ズィーナ、食事を取りに退場。)
 犬(ズィーナを目で追いながら。)いい女だ!
 教授 ズィーナ!
 バルメンターリ ズィーナ!
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ(フョードルと一緒にズィーナを抱えて来て。)先生、ズィーナは気分が悪くなって・・・
 犬 この野郎! しつこい奴だ。そこをどけ。馬鹿!・・・(背中を肩越しに噛もうとして身体を回す。)
 フョードル どうやら蚤がいるらしい。
 犬 そこをどくんだ、この野郎! 糞っ。
 教授 蚤らしいな。風呂に入れてやらなきゃ。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ ズィーナ、お風呂! お風呂!(と言いながら桶を持って入って来る。)
(フョードル、水の入った容器を持って登場。二人、人間に変身した犬を、衝立の後ろへ連れて行き、そこで身体を洗ってやり、着物を着せる。衝立の後ろから声がする。)
 犬 右や左の旦那様、哀れな乞食に、煙草をお恵みを。・・・こいつめ、ぶん殴ってやる!
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ ほーら、いい子ちゃんね。洗う時にはじっとしてるのよ。いい子、いい子。
 犬 この野郎、ぶん殴ってやる!
 バルメンターリ こら、シャーリク。何を言う!
 教授 おいおい、バルメンターリ君、もう少し優しく。いいかい? 現われ出たものはもう犬じゃない。あそこにいるのは人間だ。新しく生まれ出た新世人間なんだ。(訳註 「新世ソ連」が謡い文句だった。それへの皮肉。)
                      (幕)

     第 二 幕
 教授 バルメンターリ先生の引越は終わったかね?
 フレンチコートの男一 はい、引越は終りました。
 教授 有難う。(訳註 冷たく。)
 フレンチコートの男一 そう。引越を終えたんです。(訳註 自己の力を誇示するための台詞。)
 教授 有難う。(訳註 冷たく。)分かっています。(犬に対する注意書を声を出しながら書き止め、ズィーナに渡してゆく。)「口汚く罵ることを禁ず。プレアブラジェーンスキー教授。」ズィーナ! 「床に唾を吐かないこと。プレアブラジェーンスキー教授。」これはここに貼って。・・・よしよし、それでいい。「食べた向日葵(ひまわり)の種の殻を散らかすべからず。プレアブラジェーンスキー教授。」これはこっちの方に。
 ズィーナ(靴下を見つけて。)先生!
 教授 何? 先生って。ああ、靴下。・・・(しようがないな。)「小便は便器にちゃんと。プレアブラジェーンスキー教授。」よしと。これは私が貼ってくる。
(教授退場。)
 人間に変わった犬(机の下から這い出てきて。)嫌だなあ、親父さんたら。「食べた向日葵の種の殻を散らかすべからず、プレアブラジェーンスキー教授」。親父め、嫌な奴だ。「口汚く罵ることを禁ず。プレアブラジェーンスキー教授」「床に唾をはかないこと。プレアブラジェーンスキー教授」。あーあ、親父さんたら・・・
(犬、ピアノの方に進む。キイを強く叩く。教授とバルメンターリ、登場。)
 人間に変わった犬 音が出るぞ。・・・こいつはすごい。音だ、音だ。(教授とバルメンターリ、近づく。)ド・・・ド・・・
 バルメンターリ(ピアノの椅子に座って。)ドー。これがド。
 教授 違うなあ、それは。ドー・・・これがド。
 人間に変わった犬 レー。
 教授 レー。はい、もう一回。
 バルメンターリ レー。
 人間に変わった犬(教授に菓子を渡して。)はい、これ、あんたの。
 教授 有難う。じゃ、続き。
 人間に変わった犬 ル・・・、ル・・・、ミー。
 教授 ほら、ちゃんと。ミー。
 人間に変わった犬 ミー。
 教授 ファー。
 人間に変わった犬 なんて胴太でくだらん字だ。ファは止めだ。
 フレンチコートの男一 具合はどうですか、教授殿。(人間に変わった犬、フレンチコートの男一を舐めるので。)舐めるな! 教授殿、新聞に我々のことが載っています。(人間に変わった犬に。)舐めるなと言ってるだろう。(教授に。)ほら、見て下さい。「オーブホフ街に不思議な人物が現われた、なる噂は根も葉もないものである。この噂はスハリョーフ市場の商人達によって故意に流されたものであり、その流言を広めたかどにより、商人七人が逮捕された。」あ、失礼。これ以上お邪魔しません。
 教授 バルメンターリ君!
 バルメンターリ ファー。
 人間に変わった犬 ファー。(くんくんと匂いをかいで。)どこだ、この匂いは。殺してやる! その場で、いちころだぞ。コロシテヤルー。えーい、糞。お前達ブルジョワがこんなものを育てたんだ。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ お風呂にいるんですよ、先生。
 ズィーナ 先生、あれ、猫のことなんです。
 教授 優しくして。辛抱してやって!
 フレンチコートの男一 風呂場にいるんです、この猫は。
 フョードル 先生、患者です!
 教授 バルメンターリ君、患者をなだめに行ってくれ。今日は診察はなしだ、と。
(人間に変わった犬、風呂場に飛び込む。)
 フレンチコートの男一(風呂場の扉を叩いて。)開けろ、すぐ開けるんだ。
(年寄りの女、登場。)
 教授 何の用ですか。
 年寄りの女 言葉を話す犬はどこかな。珍しい。見てみたい!
 教授 出て行くんです。今すぐここから、出て行きなさい!
 フレンチコートの男一 何ですか、教授殿。さっきの言葉をお忘れですか。優しくして。それから、何とかで、何とかで・・・
 教授 辛抱して、だ。辛抱・・・
 フレンチコートの男一(年寄りの女を指差して。)この人は?
 教授 言葉を話す犬が見たいんだそうだ。珍しいんだと。
 フレンチコートの男一 そいつはお任せ下さい。(風呂場の扉を叩く。すると何かあちらから答える。)俺が何だって?(訳註 ロシア語には「貴様は何何だ」という酷い言い回しあり。「俺が何だって?」と言い返すのを聞けば相手の言っている言葉はすぐ想像つく。三十一頁参照。)
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナとズィーナ あの人ですわ、そんなことを言っているのは。
 フレンチコートの男一 御婦人方の出る幕じゃありません。ちょっと出てて下さい。(扉を叩く。また何か言われる。)失せろ、だと?(訳註 これも酷い言い回しあり。ロシア人には想像がつく。)
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナとズィーナ 何て言ってるんですか?
 教授 さあさあ、御婦人方の出る幕じゃないと言っているでしょう。早く出て。
 バルメンターリ 先生、待合室にもう十七人も来ています。
 教授 ああ、今日は診療は出来ない。皆を返して下さい。
(フョードル、突然ゲラゲラっと笑う。)
 教授 あの男、何か言ったんだな。
 フョードル あいつの言い草がいいでさあ・・・
 教授 止めなさい、フョードル。(風呂場に。)こらっ、早く出て来るんだ。今すぐ。
 人間に変わった犬 鍵が閉まっちゃって、開きやがらねえ。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ 先生、あの人、予備のロックまで下ろしちゃったんですよ。
 教授(中から水の音。それを圧するように大声で。)鍵の下にボタンがあるな? そいつを下から上に押し上げるんだ!
 フレンチコートの男一 上から下だ。下に下ろすんだ。ボタンを押せ!
 人間に変わった犬 (いったん姿を消してまた小窓から顔を覗かせる。)何も見えないぞ。
 教授 だから早く電気をつけるんだ!
 人間に変わった犬 あの糞ったれ猫めが。あの野郎、電灯をぶっ壊しやがって・・・こっちも怒ったんだ。あいつの足を思いきり引っ張ってやった。そしたら畜生、カランを捩じ切りやがった。どこに行ったんだ、カランは。
(バルメンターリ、緑色の髪の毛をした患者と登場。)
 バルメンターリ どうかお帰り下さい。今日は診察はありません。
 緑色の髪の毛の患者 じゃあ、手術はいつやるんですか。
 バルメンターリ 今日はありません。どうかお願いですから出て行って下さい。パイプが破裂したんです。
 緑色の髪の毛の患者 ですから、手術はいつやるんですか。
 バルメンターリ いいですか? この家でパイプが破裂したんですよ。
 緑色の髪の毛の患者 だからそれで、手術はいつあるんですか。
 バルメンターリ 分からんのか! こいつめ。教授の具合が悪いんだ!
 緑色の髪の毛の患者 上履きを持ってくればよかった。(年寄りの女の患者を見て。)奥様・・・私は決定的に恋に落ちました・・・私は今はもう若いんです。若くなっちゃったんです!
(フョードル、脚立(きゃたつ)を運んで来る。風呂場の小窓に登り、そこから言う。)
 フョードル 扉を開けましょうか。水圧が上がっていますが・・・
 ズィーナ でもとにかく開けなきゃ仕方がないでしょう?
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ それは開けないと、先生。
 教授 開けなさい、フョードル。
 フョードル 畏まりました、先生。
 フレンチコートの男一 どうぞ。お好きなように。
(フョードル、扉を開ける。水がどっと溢れ出て来る。フレンチコートの男一、水を避けて逃げる。)
 教授(人間に変わった犬が風呂場から出て来ないので。)おい、お前。どうしたんだ。何故出て来ないんだ。
 フョードル あいつ、怖いんでさあ。
 人間に変わった犬 こんな大騒動を起こして・・・俺のこと、殴る?
 教授 馬鹿な。
 フレンチコートの男一 階段の方に水が流れて行きます。
(ズィーナとダーリヤ・ピェトゥローヴナ、スカートを持ち上げて水に濡れないようにする。人間に変わった犬とフョードル、ズボンをまくり上げ、濡れた雑巾で床を拭き、それをバケツに絞る。)
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ 先生、こんな雑巾じゃ駄目です。水を吸いません。
 教授 ああ、この儘じゃ、部屋が駄目になるぞ。
 人間に変わった犬(優しく。)何処まで有害な動物なんでしょう。反革命分子ですよ、この野郎は。
 教授 君、誰にそのことを言ってるんだね。
 人間に変わった犬 猫ですよ。あの猫の野郎・・・
 バルメンターリ どれだけ猫を追っかければ気がすむんだ! 恥晒しな奴め! 全くみっともない! 野蛮人だぞ、まるで。お前のやっていることは。
 人間に変わった犬(落ち着いて。)私が野蛮人ですって? とんでもない、何が野蛮人ですか。猫です。猫がアパートにいると我慢出来ないんだ。猫を教化したいと思ったんだ。
 バルメンターリ 自分で自分を教化したらいいだろう。少しは自分の顔を見てみろ。さ、早く行って着替えて来い。
 人間に変わった犬(汚い濡れた手で目を擦りながら退場。)めん玉が飛び出るところだったぞ。猫だってああなるんだ、ブルジョワに育てられると。
 フョードル 先生、全部拭きました。
 教授 君、濡れたね、フョードル。ダーリヤ・ピェトゥローヴナのところへ行って、ウオッカを一杯やって来たまえ。
 フョードル 有難うございます。・・・それから、先生。これは言い難いんですが、その、七号室の窓ガラスを弁償しなければならないんで・・・その・・・ほら、そこの、あいつが、(人間に変わった犬を指さして。)その・・・石を投げて割っちまいやがって・・・
 教授 石? 猫に投げたのか。
 フョードル それがその・・・七号室、家主のヴァシーリー・パーヴロヴィッチさんに。怒ってます。訴えてやるって言ってます。
 教授 訴える? 何をだ。
 フョードル(また、人間に変わった犬を指さして。)あいつが、家主さんの料理女に抱きついたんです。
 人間に変わった犬 あの料理女! お高くとまりやがって。何様のつもりだ。
 教授 で、ガラス代は?
 フョードル 一ルーブリ半です。
(教授、金を渡す。)
 人間に変わった犬 あんなごろつきに一ルーブリ半やるなんて。あいつこそ料理女を・・・
 バルメンターリ 言うな! それ以上。
 フョードル そうですよ、本当に。こんな恥知らずは生まれてこの方見たことがない。先生、こいつをぶん殴っていいですか?
 教授(悲しそうに。)何を言ってるんだ、フョードル。・・・止めてくれそんなことを言うのは、フョードル、頼む。
(明かりが消える。住宅管理委員会のコーラスが壁を通して聞こえて来る。)

(場には教授一人。教授、戸棚の方に行き、ガラス製の容器を取りだし、それを明かりに当ててじっと見る。人間に変わった犬、登場。)
 教授 あ、お前か・・・えっ? 何だ、その奇妙なものは。
 人間に変わった犬 奇妙なもの? 何のことですか?
 教授 そのネクタイだよ、私の言ってるのは。
 人間に変わった犬 最高でしょう?
 教授 それから靴。バルメンターリ先生がそんな趣味の悪いものを選ぶ筈がないぞ。
 人間に変わった犬 エナメルでなきゃ駄目だって言ったんだ。俺だって一人前の人間だぞ。クズニェーツキーに行きゃ、誰だってエナメルなんだからな。
 教授 首からすぐ外すんだ、そいつを。まるでチンドン屋だ。お前の罵声を聞くのはもううんざりなんだ、私は。それから唾を吐くのも止めてもらう。トイレでも、もっと正確に便器に入れるんだ。それからズィーナと話しちゃいかん。いかなる会話も許さん。あの子は私に文句を言ってきた。お前が暗闇でしょっちゅう待ち伏せしているとな。いいか、ここは(女といちゃつく)飲み屋じゃないんだ。さ、早く靴を脱いで! ネクタイを外して! 早くするんだ!
 人間に変わった犬 どうして・・・僕にはこれがやっとなんだよー・・・おとうちゃーん、お願いだよー
 教授 「おとうちゃーん」だと? そんなもの、どこにいるんだ。
 人間に変わった犬 お願いです、教授殿。・・・僕に書類を! 僕にも、先生、書類がいるんです。
 教授 書類とは何だ。
 人間に変わった犬 第一に、住宅管理委員会用に。
 教授 管理委員会? 何だ、それは。
 人間に変わった犬 階段で出会ったんです。そしたら訊かれて。「あなた様、ちょっとお訊きします。登録証は?」と。
 教授 フラフラと階段なんかに出る奴があるか! 絶対禁止だと言っておいた筈だ。出ちゃいかん。で、その我等が尊敬すべき管理委員殿は何と仰せられたんだ。
 人間に変わった犬 そんな、敬語を使って皮肉っても駄目です。ほら、(声を出して新聞を読む。)「これが実際は、彼の不義の息子であることは確実であり、いかなる疑いも差し挟むことは出来ない。かくの如くして、ブルジョワ、偽科学者は、不義密通に耽(ふけ)っているのである。シュヴォーンヂェル。」立派なもんだ。利益を代表した発言だ。
 教授 ズィーナ!(ズィーナ登場。不機嫌に新聞を掴んでズィーナに渡す。)暖炉にほうり込むんだ! 早く! (人間に変わった犬に)誰の利益を代表しているっていうんだ。
 人間に変わった犬 誰のって、明らかじゃありませんか。労働者階級の利益を代表しているんです。
 教授 で、お前は「労働者階級」だって言いたいんだな。
 人間に変わった犬 そうです。僕は成金じゃありませんから。
 教授 お前を登録なんて無理なことじゃないか。まさか忘れていはしまい、お前は実験室から生まれてきたんだ。だから苗字も父称も名前も、何もありはしない。
 人間に変わった犬 名前なんかつけるのは訳はありません。ただ自分で選んで、それを新聞に載せればそれで終です。
 教授 じゃ、どういう名前にするつもりなんだ。
 人間に変わった犬(ネクタイをしごいて。)ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ。(訳註 ロシアではここは爆笑の筈。「印刷所」という意味。ただ音が格好いいだけの名前。)
 教授 何だって?
 人間に変わった犬 ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチですよ、先生。
 教授 そんな馬鹿な名前があるか。私は真面目に話しているんだぞ!
 人間に変わった犬 どうもよく分かりませんな。私の方は馬鹿馬鹿と叫ぶのはいけないのに、先生の方は、一言何か言う度に、「馬鹿、馬鹿」と言うじゃありませんか。このロシア共和国においては、教授殿には人に馬鹿馬鹿と罵ることが出来るんですね。
 教授 いや、どうも失礼。神経が少し疲れているらしい。ただ、お前のその名前はあんまり奇妙だからね。一体そんな名前、どこから引っ張ってきたんだね。
 人間に変わった犬 暦にありました。名前をつけるための暦に。
 教授 何だって? どんな暦を見たって、そんな奇妙な名前が載っている訳はない!
 人間に変わった犬(にやにや笑いながら。)それはおかしいですね。ここに掛かっている暦を見て捜したんですがね。
 教授 ここに?
 人間に変わった犬(壁から暦を下ろして。)これです。ほら、ここに。(訳註 暦には勿論何とか印刷所と隅の方に書いてある。)
 教授(暦を見て。)ズィーナ! さ、これを。すぐ燃やしてしまいなさい!
(ズィーナ、急いで暦を受取り、持ち去る。)
 教授 それで、苗字は。
 人間に変わった犬 苗字は今まで通りに。
 教授 今まで通り?
 人間に変わった犬 ええ。シャーリコフで。同志諸君! 入って!
(シュヴォーンヂェル、ヴァズニェスェーンスカヤ、ピェストゥルーヒン、新聞記者一、二、工業月報の記者、年寄りの女の患者、登場。)
 シャーリコフ あ、私、シャーリコフです。
 シュヴォーンヂェル おめでとう。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 同志、シャーリコフ!
 新聞記者一 今日は、同志、シャーリコフ!
 シャーリコフ あ、シャーリコフです。
 新聞記者二 同志、シャーリコフ!
 工業月報の記者 工業月報の記者です。・・・(年寄りの女の患者に。)そこどいて・・・はい、チーズ。取りましたよ。
 シュヴォーンヂェル(教授に一枚の紙を差し出して。)さ、教授殿、ここにサインをお願いします。「この書類を提出する男、ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ・シャーリコフは、確かに出生の起源をこのアパートに持ち・・・」
 ヴァズニェスェーンスカヤ そう、正にこの建物にです!
 教授 糞ったれ! そんな書類に何の意味がある。何が出生の起源だ。馬鹿馬鹿しい。
 新聞記者一 出生だ! 出生だ!
 シュヴォーンヂェル(落ち着いて、皮肉を込めて。)教授殿、シャーリコフが生まれたのです。
 シャーリコフ それも簡単に、スポーンと。
 教授 会話に口を挟むんじゃない。分かるな、シャーリコフ。それから、今、「簡単に」と言ったな。事実はその反対だ。簡単どころか、ひどく複雑だったんだ。
 シャーリコフ(傷ついて。)会話にどうして僕が口を出しちゃいけないんだ。
 シュヴォーンヂェル シャーリコフ氏の言う通りです。自分自身の運命は自分自身で当然判断できる筈です。今は出生の問題、即ち、書類が問題になっているんですからね。書類、書類ほど大切なものはないんですからな、この世で。
 新聞記者二(写真を取る用意をしながら。)教授殿、このおばあちゃんも一緒に入れていいですね?(年寄りの女の患者に。)そこのおばあちゃん。おばあちゃんもどうぞ。さ、取りますよ。
 教授(記者達に。)出て行け! 出て行くんだ!
 フレンチコートの男一 出て行け!
(記者達、退場。)
 教授(シュヴォーンヂェルに。)馬鹿馬鹿しい。何が書類だ。書類が何だっていうんです。
 シュヴォーンヂェル 書類のない住人をその儘受け入れる訳にはいきませんな。
 ヴァズニェスェーンスカヤ 我々は許しません。
 シュヴォーンヂェル 資本主義陣営と戦うようになった時、どうやって召集すればいいんですか。
 ピェストゥルーヒン 今日なくたって、明日にでも起きるかもしれないんですぞ。
 シャーリコフ 戦争なんか僕、行かないよーだ。
 ヴァズニェスェーンスカヤ(ピェストゥルーヒンがピストルを取り出すのを見て、それを抑えて。)早まるんじゃない! 同志、ピェストゥルーヒン!
 シュヴォーンヂェル シャーリコフさん、その発言は非常識極まりないですぞ。最高に非常識だ。兵役の義務は決して忌避出来ないのですからな。
 シャーリコフ 忌避出来なくても、厭だよ、僕は、戦争は!
教授(皮肉に。書類にサインしながら。)さ、これでいいでしょう?
(教授、書類を差し出す。シュヴォーンヂェル、赤面する。)
 シャーリコフ 僕は手術したんだ! まだ傷が深いんだ! ほら、見て、見て、この顔の傷!
(シャーリコフ、額の傷を見せる。それから顔の猫によるひっかき傷を。)
 ヴァズニェスェーンスカヤ(ピェストゥルーヒンに。)落ち着くんだ、同志!(シャーリコフに。)お前さん、アナキストなのかね。アナキストで、個人主義なのかね。
 シャーリコフ 命が惜しいよー。僕には保護が必要なんだー。保護証明書が欲しいよー。
 ヴァズニェスェーンスカヤ(ピェストゥルーヒンを抑えて。)同志! 同志!
 シュヴォーンヂェル(驚いて。)今は待て。今はまだいいんだ! 今はまづ教授殿のサインしたこの書類を警察に届けることだ。
 シャーリコフ 警察にだって? 厭だよー。
シュヴォーンヂェル(シャーリコフと書類を取り合いをして。)そうすれば警察で証明書が出るんだ。・・・警察で・・・警察で・・・警察で・・・
教授(突然シュヴォーンヂェルに。)そうだ。今思いついたんだが・・・このアパートに、その・・・空室がありませんかな? なんならそれを買い取って・・・
シュヴォーンヂェル (復讐するように。)いいえ、教授殿。誠に残念ながら、空室など到底ありません。
(シュヴォーンヂェル、ヴァズニェスェーンスカヤ、ピェストゥルーヒン、退場。)
フレンチコートの男二(舞台裏から。)教授殿、邪魔者はいませんね?
フレンチコートの男三(舞台裏から。)教授殿、邪魔者はいませんね?
フレンチコートの男一 大丈夫だ。誰もおらんぞ。
シャーリコフ(鼻歌。)「復讐の雄咆(おたけび)高く・・・」さあてと・・・食べるぞ。・・・さ、みんなも・・・バルメンターリせんせ、食べよ。
バルメンターリ(シャーリコフに。)さ、ナプキンを膝にかけるんだ!
シャーリコフ 嫌だよ、ナプキンなんか。面倒くさい。
バルメンターリ 早くかけるんだ!
(バルメンターリ、席につく。)
教授 有難う、バルメンターリ君。私はもう注意するのも疲れてしまった。
(教授も席につく。)
バルメンターリ(シャーリコフに。)かけない限り食事は取らせない。ズィーナ、シャーリコフからマヨネーズを取り上げて。
シャーリコフ 「取り上げる」なんて、酷いよ。かけますよ。かければいいんでしょう。
(シャーリコフ、左手でズィーナにたべものを取られないように左手を皿の上にかざし、右手でナプキンを、床屋の客のように襟に突っ込む。)
バルメンターリ ズィーナ、今は行ってていいよ。ただこいつにフォークを持ってきてやって。
シャーリコフ(溜息をついて。)それから、出来ればちょっとウオッカが欲しいなあ。
バルメンターリ まだ足りないのか。近頃ウオッカを馬鹿にやるじゃないか。
シャーリコフ 勿体ないんだな。けちるなよ。
教授 馬鹿なことを!
バルメンターリ 先生、私が言って聞かせます。いいか、シャーリコフ、馬鹿なことを言うのはそれだけでもよくない。しかしもっと悪いのは、それを全く無反省にやることだ。
教授 バルメンターリ君、もっと優しく。
バルメンターリ 私は別にウオッカが惜しい訳じゃない。それは私のじゃない。先生のだからな。ただ毒だと言ってるんだ。それが第一。二番目にだ、お前は酒が入らなくても行儀が悪い。他の人にまづお勧めするんだ。手始めに先生に、次に私だ。最後に自分が飲む。
シャーリコフ お前さん達の話を聞いていりゃ、何もかもお行儀だ。ナプキンはそこ、ネクタイはあっち。やれ、「失礼しました」、やれ、「どうぞ」、やれ「メルメルシー」。(これじゃまるで機械だ。)人間的なあいつがちっともない。帝政時代と何の違いもありゃしない。息が詰まりそうだ。
 教授 ちょっと訊くが、その「人間的なあいつ」というのはどんなものなのかね?
 シャーリコフ 「人間的なあいつ」とは、その・・・それはつまり・・・(グラスを上げて。)では、乾杯!
(シャーリコフ、一息にウオッカを飲み干す。顔をしかめる。黒パンのかけらをつまんで(クーンと)匂いを嗅ぎ、両眼に涙が浮かぶ。)
 教授 さすがだ。年期のいったものだ。
 バルメンターリ クリーム・チュグーンキンだ。(訳註 この犬にクリーム・チュグーンキンの脳を移植した。一幕の終(五十三頁)を参照。)どうしようもないですね。
 シャーリコフ さあ。じゃ、今夜は何をしようか。どこへ行こう。そうだ、サーカスだ。サーカスにかなうものはないからな。
 教授 毎日毎日サーカス。私だったら、芝居に行ってみるがね。
 シャーリコフ 芝居なんか、行かないよ。
 バルメンターリ どうしてかね、芝居が好きじゃないっていうのは。
 シャーリコフ(空のグラスを望遠鏡のように目に当てて。)時間の無駄だからな、あれは。・・・喋って、喋って・・・喋くるだけ。
 教授 どうして。歌を歌うこともあるぞ。
 シャーリコフ なにしろ、どうせ反革命なんだ、あれは。
 バルメンターリ シャーリコフ、お前、少し本を読んだらどうだ。イアミク・ウヨギヨギじゃ、どうしようもないだろう?
 シャーリコフ そのー、読んではいるんだがなー。
(非常に素早く、荒っぽい手つきでウオッカを自分のコップに半分注ぐ。)
 教授 ズィーナ、ウオッカはもう片付けなさい。それ以上はいかん。(シャーリコフに。)読んではいると言ったな。何を読んでいる。お前に貸したのは慥か、ロビンソン・クルーソーだった筈だが。
 シャーリコフ それじゃありません。エート、・・・何だったかな、題名。・・・エート、何と言ったかな、エート、往復書簡・・・そうだ、エンゲルスとカウツキー。馬鹿野郎のカウツキーとの・・・
(バルメンターリ、フォークで肉をさして、口に持って行こうとしていたが、途中で動作止る。教授も驚いてワインをこぼす。シャーリコフ、その隙を狙ってウオッカをぐっと一息に飲む。)
 教授 じゃ、その読んだものについて、何か話してみてくれないか。
 シャーリコフ 反対だな、僕は。
 教授 ほほう、どちらにかね? エンゲルスに反対なのかね、それともカウツキーに?
 シャーリコフ 両方。
 教授 ほほう、両方ともに反対。そいつは面白い。どうして?
 シャーリコフ 書いて、書いて、書くだけ。・・・会議、ドイツ人・・・頭が痛くなる。個人の所有をすべて放棄させ、これを平等に再配分する。・・・
 バルメンターリ 「平等に再配分する」こんな言葉がお前に分かるのか?
 シャーリコフ(ウオッカを飲んで舌が滑らかになり。)あったりき。「平等に再配分」の原則に合わないもの・・・例えば一人で七部屋を占有する、ズボンは四十本(ぽん)も持っている、そんな人物(やつ)がいると思えば、食い物がなくてゴミ箱を漁るものもいる、これだ。
 教授 七部屋を占有している、それは私へのあてつけなんだな。
 シャーリコフ いやあ、一般的な話だよ。
 教授 よろしい。私もその「平等に再配分」の考えに賛成なんだ。バルメンターリ君、昨日我々は何人診療を断ったんだったかな。
 バルメンターリ 三十九人です。
 教授 一人十ルーブリ。三百九十ルーブリの損害だ。これを三人で平等に配分することにしよう。ズィーナとダーリア・ピェトゥローヴナは勘定に入れない。お前は私に百三十ルーブリの借りがある。私にこれを返すんだ。
 シャーリコフ(驚いて。)何ですか、これは一体。何の理由だ。
 教授(怒鳴る。ついに堪忍袋の緒が切れる。)カランの修理代だ! それに猫だ!
 バルメンターリ(教授の身体を心配して。)先生、どうか・・・
 教授 いや、バルメンターリ君、これは我慢がならない。(シャーリコフに。)マダム・パラスーヒナの猫を殺したのはどこのどいつなんだ!
 バルメンターリ それから、シャーリコフ、お前、三日前に階段のところで、あの奥さんに咬みついたな。
 シャーリコフ あいつは俺の顔を殴ったんですぜ。粗末にしていいって言うんだすかい、この顔を。まるで公共のもの扱いだ。
 バルメンターリ 殴られるのも仕方ないだろう? あの人のおっぱいをつまんだりすれば。いいか、よく聴け。だいたいお前は人間の成長の段階から言うと・・・
 教授(あとを引き取ってシャーリコフに怒鳴る。)最低だ。最低の段階にあるんだ! それから脳の発育状態もやっと原始人程度なんだ! そのお前が何だ。大学の教育を受けた人物のいる前で、いい気なもんだ。勝手な真似をし放題にして。挙げ句の果てに、エンンゲルスを引用して、「平等に再配分」・・・それで何だ、お前のやっていることは。歯磨き粉のチューブを咬み切る・・・
 バルメンターリ ええ、三日前の話です、それは。風呂場で。
 教授 いいか、シャーリコフ、少しは黙って人の言うことを聴く、勉強して少しでもこの社会主義社会に相応しい人間になるよう努力する、このことをよく胸に収めておくんだ。それでさっきの本だが、誰なんだ、それをお前に渡したのは。
 シャーリコフ(両側から怒鳴られてつんぼのようになって。)あんた方にかかっちゃ、誰も彼もろくでなしだ。分かりましたよ。シュヴォーンヂェルさんですよ。あの人が読めって渡したんだ。だけどシュヴォーンヂェルさんはろくでなしじゃない。僕が成長するようにと言って貸してくれたんだ。
 教授(叫び声が悲鳴のようになって。)お陰様でたいした成長だ!(ズィーナを呼ぶ。)ズィーナ!
 バルメンターリ(叫ぶ。)ズィーナ!
 シャーリコフ(怒鳴る。)ズィーナ、ウオッカ!
(ズィーナ、走って登場。)
 教授(自制を失って。ズィーナに。)待合室にあるんだ!(シャーリコフに。)そうだな? 待合室だな?
 シャーリコフ(丁寧に。)待合室です。緑色の。ただ、あれは政府のものなんですからね。図書館に(属している)・・・
 教授(ズィーナに。)緑色の本だ! エンゲルスともう一人の馬鹿者との往復書簡集だ・・・そいつを暖炉にほうり込むんだ。
(ズィーナ、急いで退場。)
 教授 あんなシュヴォーンヂェルなんか絞首刑だ。それも、出たとこ勝負、最初の枝に引っ掛けてやる。
(不愉快な沈黙が支配する。シャーリコフ、ポケットから潰れた煙草を取り出し、吸う。煙草を吸っているのを隠すため、煙を袖の中に入れる。)
 教授 バルメンターリ君、頼む、こいつをサーカスに連れて行ってやってくれ。ただくれぐれも頼むよ。プログラムをよく見て、猫が出ないことを確かめてな。
 シャーリコフ 猫! あんなやくざものをサーカスに入れる? そんなことを許す奴がどこにいるか。
 教授 どんなものでも入れるさ。お前だってな。いいか、先生の言うことをきくんだぞ。食堂に行ったら、口をきいてはいかん。それからバルメンターリ君、こいつにビールをやってはいかんよ。ビールは厳禁だ。
(バルメンターリとシャーリコフ、サーカスに出かける。シャーリコフのいでたちは、鍔(つば)が鴨の嘴(くちばし)のようになっている鳥打帽。襟をたてた外套姿。)

(暗転。同じ部屋。シャーリコフ登場。)
 シャーリコフ やったぞ! 仕事を見つけたぞ。
 教授 フョードル! シャーリコフ、お前、昨日、飲んだくれた二人を家によんだな。朝になったら、玄関に置いてあった孔雀石の灰皿とビーバーの革製の私の帽子がなくなっていた。あいつらは誰なんだ。あのろくでなしは。
 シャーリコフ 個人的に知っている連中じゃありません。でもろくでなしというのはどうも・・・いい奴等です。
 教授 おまけに二十ルーブリ盗んでいきおった。たいしたものだ。よく盗めたものだ。あんなにぐでんぐでんに酔っ払っていて。
 シャーリコフ 金なんか盗んじゃいませんよ。そんなことどうして・・・それにここに住んでる人間は私だけじゃありませんからね。
 教授 成程。すると君はバルメンターリ先生が盗んだって言いたいんだな。
 シャーリコフ とんでもない。先生だなんて。それに私でもありません。ひょっとすると・・・フョードル?・・・いや、ズィーナが・・・
(ズィーナ、金切り声を上げてシャーリコフに飛びかかる。)
 シャーリコフ 止めてくれ! あっちに行け、ヒステリー女め! 俺は一人前なんだぞ。仕事を見つけたんだ。立派な仕事を。
 教授 ズィーナ、ズィーナ、そのくらいにしておいてやれ。(シャーリコフの書類を眺めながら。)「採用通知書。ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ・シャーリコフ。モスクワ清掃局清掃課無宿動物整理係係長に任ず。特にのら猫の駆除を命ず。モスクワ中央管理庁長官。」誰なんだ一体、お前の就職の世話をしたのは。・・・ああ、どうやら想像はついてきたな。
 シャーリコフ(衝立から出てきて。)そうです。シュヴォーンヂェルさんが・・・
 フレンチコートの男一(玄関の扉のところに現われて。)教授殿、何か騒がしいようですが、大丈夫ですか。誰か邪魔者じゃありませんか。
 教授 シュヴォーンヂェルだ。・・・そうだ、奴を撃ち殺して貰う訳にはいきませんかね。
(フレンチコートの男一、微笑む。首を振る。そして退場。)
 シャーリコフ 仕事を見つけたぞ。そして結婚したんだ。(フレンチコートの男二に。)さ、おい、君君、あれをここに頼む。
(おずおずと辺りを見回しながら、着古したボロ外套を着た痩せた女、登場。)
 教授 何のつもりだ、これは、シャーリコフ。
 シャーリコフ こいつと私は結婚したんだ。こいつは役所で、私のタイピストをやっている女なんだ。これからは一緒に暮らすんだ。さあ、バルメンターリ先生には待合室を出て行って貰います。あの人には自分のアパートがあるんですから。
 教授(痩せた女に。)あなた、ちょっとお話があるのですが・・・ちょっと私の部屋に来て戴けませんか。
 シャーリコフ(疑い深く。)私も行きます。これ一人ということはない。
 バルメンターリ いや、君はここにいるんだ。先生は二人だけで話したいんだ。
(シャーリコフ、二人の後を追おうとする。)
 バルメンターリ こらっ!
(痩せた女、立ち止る。)
 教授 さ、行きましょう。・・・こちらへどうぞ。さあ。
 バルメンターリ(シャーリコフに。)そして我々は残るんだよ。いいね。(ドイツ語で詩を読む。)待って・・・待って・・・さ、歩いて。シャーリク、さ、歩きましょう。
(バルメンターリ、机の上にある首輪を掴む。)
 シャーリコフ あ、首輪だ。・・・すると僕はこの家のものだ! 首輪、こいつはこの家から鞄を貰ったのと同じだぞ。さ、歩こう、歩こう。

(暗転。暫くの間の後、教授と痩せた女、登場。)
 痩せた女 「額の傷は戦争の時に」なんて、あの人、私に嘘をついて。酷いわ。
 教授 そう。だからそれは嘘。ね、だから分かったでしょう、娘さん。役所での地位がいいからといって、始めての出会いですぐこんな風になるのはいけませんよ。本当にこういうのは、破廉恥なことです。・・・ですから・・・ちょっと失礼ですが、・・・これをその・・・どうぞ受け取って・・・
(教授、財布から金を取り出す。)
 痩せた女 私、毒を飲んで死のうと思ったんです・・・毎日毎日塩豚の脂身。食べるものはそれしかない。・・・その時、あの人が言ったわ・・・「お前を首に出来るんだぞ。・・・俺は赤軍の将校だ。俺と一緒なら贅沢なアパートに住んで、毎日パイナップルが食べられる。・・・俺は心持ちは優しいんだ。嫌いなのは猫だけなんだからな。」そして記念にって指輪を取って行ったわ。
 教授 そうそう、心持ちは優しい。成程ね。・・・(痩せた女に。)そう。辛抱するんだ。まだ若いんじゃないですか、ね。・・・お金は受け取るもんだよ。人が貸してくれるって言った時には。
 痩せた女(シャーリコフに。)ごろつき!
 教授(シャーリコフに。)そうだ、その額の傷はどういう理由によるものだったかな。この御婦人に説明を頼む。
 シャーリコフ 前線に出て負傷したんだ。カルチャーク軍(白衛軍)との闘いでだ。
 教授 止めろ! 馬鹿な話だ。
 バルメンターリ 指輪を返すんだ、シャーリコフ。さ、返せ。
(シャーリコフ、大人しく指輪を自分の指から抜く。)
 バルメンターリ(痩せた女に。)こいつなんか、怖がらなくていいんだからね。
 シャーリコフ 分かったよ。明日どうなるか見てろ。さっそくお前を首にしてやる。
 バルメンターリ(安心しなさい、娘さん。)こいつにそんなことはさせやしない。
(バルメンターリ、シャーリコフを睨みつけて詰め寄る。シャーリコフ、怯(ひる)んで後ずさりし、棚に頭をぶっつける。)
 バルメンターリ この娘さんの苗字は何だ。お前が言え! 言うんだ!
(バルメンターリ、いよいよ恐ろしい形相になる。)
 シャーリコフ ヴァズニェツォーヴァ。
 バルメンターリ(シャーリコフの襟首を手慣れた手付きでおさえ。)毎日役所に問い合わせるからな。いいか。私が自分で問い合わせる。この人が首になってはいないか。毎日。
 教授 バルメンターリ君・・・
 バルメンターリ ヴァスニェツォーヴァはいるな、と。
 教授 君!
 バルメンターリ それでもし貴様が・・・
 教授 頼む!
 バルメンターリ そしてもし貴様が・・・貴様が・・・首にしたとなれば私は、自分の手で貴様を撃ち殺してやる。
 教授 落ち着いて。落ち着くんだ。
 シャーリコフ(無理に落ち着きはらって。)俺だってピストルぐらい捜してくらあ。
(それからシャーリコフ、突然扉へ突進する。フョードル、痩せた女を庇(かば)って道をあける。教授疲れ果て、急に年老いて、肘掛け椅子にどっかと坐る。住宅委員会のコーラスが聞こえる。)

(暗転。場面変わる。)
 教授 私は疲れた・・・この二週間で私は過去十四年分よりもっと疲れた。
 バルメンターリ 先生、思い出します。インターンの時、先生にお教え戴いた時のことを。あれは決して忘れません。食うものも食えずにいました。その私を先生は講座に引き止めて下さいました。
 教授 手術の時、時々君のことを叱ったね。許してくれたまえよ。(私は何てことをしてしまったんだ。)固いベンチに坐らせられて、鞭でたたかれて丁度いいんだ。そのためになら五十ルーブリ出したっていい。・・・とにかく私は働いた。五年間びっしり。研究、研究。脳下垂体をしごいたり、絞ったり・・・・そして、世界で初めてという手術を・・・人間というこの「種」を改良しようと試みたのだ。バルメンターリ君、君は私がこれをお金のためにしたんだと思ってはいまいね。私はこれでも学者なんだ・・・
 バルメンターリ 先生、先生はお疲れです。綿のように。その先生に申し上げるなんて失礼かもしれませんが、でも、どうかよく御自分をご覧になって。すっかり憔悴なさって。そんなに働いては、先生、本当に身体に毒です。
 教授 そう。もうこれ以上は駄目だ。
(風呂桶ががたがた大きな音をたてる。ガラスの割れる音が響く。人々の叫び声がする。ダーリヤ・ピェトゥローヴナとズィーナ、登場。ダーリヤは夜着。ズィーナのブラウスのボタンは外されて、はだけている。それを片手で覆いながら。ダーリヤ、力強い手でシャーリコフの襟首を捕まえて引きずってくる。シャーリコフはブカブカの革製の上衣(これは共産党員の印。)あと革製のズボンを履いている。)
 ズィーナ 言わないで。お願い・・・言わないで。
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ(ジャガイモの入った袋を揺するようにシャーリコフを揺すって。)先生・・・ほら見て、先生。この居候のテレグラーフ・テレグラーフォヴィッチの顔を。(何てことをするんでしょう、この人は。)私は結婚していた身です。(だからまあいいです。)でもズィーナは無垢な娘じゃありませんか。それを・・・本当に私、目が覚めて良かった。
 ズィーナ それ以上言わないで!
 教授(バルメンターリがシャーリコフを手荒く扱っているのを見て、あまり乱暴にはしないようにと止める。)無茶は止めるんだ、バルメンターリ君!
 バルメンターリ(シャーリコフの喉を掴んで。)さあ、言え。「悪うございました」と。
 教授 もういい。頼む、バルメンターリ君。
 バルメンターリ 「許して下さい、ダーリヤ・ピェトゥローヴナ様・・・」
 シャーリコフ ダーリヤ・ピェトゥローヴナ・・・
 バルメンターリ 様というんだ、様と。
 シャーリコフ ダーリヤ・ピェトゥローヴナ様・・・
 バルメンターリ 「それからズィナイーダ・・・」
 ダーリヤ・ピェトゥローヴナ 「プラコーフィエヴナ・・・」
 シャーリコフ(喉を締められて苦しい息から。)プラコーフィエヴナ・・・
 バルメンターリ 「私は破廉恥にも部屋に押し入り・・・」
 シャーリコフ 破廉恥にも!
 教授 バルメンターリ君!
 シャーリコフ 破廉恥にも部屋に・・・
 バルメンターリ 「誰にも見られないよう、抜き足差し足・・・」
 シャーリコフ 締めた、締めた、昨日は。猫の首を。
 バルメンターリ 何だって?
 シャーリコフ それが俺の仕事なんだ。放せ、バルメンターリ。
 バルメンターリ 苗字を呼び捨てとは何事だ。「さん」と言え、「さん」と!
 シャーリコフ じゃ俺にだって「さん」づけで呼べ。
 教授 あんな汚らわしい名前はこの家では禁止だ。私が許さん! 親しく呼び捨てて「シャーリコフ」と呼ばれるのが嫌なら、お前を「シャーリコフ殿」と呼ぶことにする。
 シャーリコフ 俺は「殿」じゃない。「殿」はみんなパリに亡命したんだ。
 教授 シュヴォーンヂェルの仕業だ、これは。あいつが吹き込んだのだ、こんな考えを。よし、今日にでも新聞に広告を出す。お前の部屋を捜すんだ。
 シャーリコフ(すっかり酔が醒めて。)フン、見損なっちゃいけない。俺はここから出て行くような馬鹿じゃないんだ。
(バルメンターリ、殴ろうと拳を固める。)
 シャーリコフ まあ待って、バルメンターリ殿。ちょっと待って。(ポケットから新たに一枚の書類を取り出して。)ほら、私は住宅管理委員会の委員なんだ、今。プレアブラジェーンスキー教授の部屋、即ち五号室に居住する権利が私個人に与えられることになっている。十六平方アールシンの面積分の権利だ。ほら、ここにある通りだ。
 教授 シュヴォーンヂェルの仕業だな。よし、ただでは置かんぞ。私はこの手であいつを殺してやる。
 バルメンターリ(驚いて、たしなめるように。)先生! フォルスィッフティッフ!(訳註 ドイツ語らしいが、不明。)
 教授 しかしこんな卑劣な手段で来るなら・・・
(これ以後二人はドイツ語で会話を行なう。)
 シャーリコフ(その二人の会話にかぶせて。)あんた方は俺に生きるな、と言っているのか。だいたい俺は手術なんかしてくれとあんた方に頼んだ覚えはない。そこらへんにうろついている動物をひっ捕えて来て、頭蓋骨をメスで切り裂いて・・・(それから後はほったらかし。)話しかけてもくれやしない。こんなことが分かってりゃ、手術に同意なんかしてるもんか。俺だけじゃない。俺の同類で誰が同意するっていうんだ。こんな事態になったことを俺は訴えてもいいんだ!
教授 すると君は人間になったのが不満だって言うんだね。またゴミ箱からゴミ箱へと餌を求めて走り回りたいんだね?
 シャーリコフ(新聞を立てて、その後ろに隠れるようにして。)何故僕のことを非難するんです。ゴミ箱、ゴミ箱。僕はこれでもちゃんと自分の食べ物は自分で手に入れていたんですからね。それでもしあの時、手術が失敗して僕が死んでいたら、一体これに対しては、同志諸君、どう弁明するんですかね。
 教授(辛抱強く。)私は君の「同志」ではない。
 シャーリコフ そりゃそうです。どうせ俺達は・・・分かりますよ、それは。俺達があなた方の同志・・・そんなことはどうせありっこないんだ。俺達は大学に行ってない。一人で十五部屋占領して、ゆったり暮らしたこともない・・・だけど今はそういう時代じゃないんだ。今はみんなが平等に権利を・・・
(シャーリコフ、突然右腕の下のところに頭を持って行き、何かを噛む。・・・これは犬の動作。)
 教授 指だ! 指で取るものだ、蚤は! 一体全体、君。どこから蚤を拾って来たんだ。
 シャーリコフ どうも蚤に好かれる体質なんだな。そうだ、昨日も猫を殺したからな・・・殺して、殺して、殺しまくったから・・・
(シャーリコフ、退場。)
 バルメンターリ 先生、もしお許し戴けるなら、私が自分の責任でやります。あいつに毒を盛りますが・・・
 教授 いや、それは許さない。私だって無駄に年をとってはいない。君に忠告の一つぐらい言える。悪を用いて善は生みだせない。悪からは悪しか出て来ないのだ。相手がどんな奴であっても、君は悪に手を染めずに命を全うした方がいい。
 バルメンターリ 私は子供じゃありません。そんなことをすればどんなことが待ち受けているか、それぐらいのことは分かっています。でも私には分かるんです。他に解決策はありません。・・・先生、先生は世界的名声のある学者です。連中は先生には指一本触れることはない筈です。
 教授 だから余計、その線は駄目だ。
 バルメンターリ 何故、どうしてです。
 教授 それは君、君が世界的名声のある学者じゃないからだよ。危機に立ち至ったから仲間を捨てて自分だけ逃げる、それも世界的名声を盾にね。そんなことは私はしない。私はね、バルメンターリ君、かつてはモスクワ大学の学生でね、シャーリコフとは違うんだ。
(教授、誇らしげに胸をはって、背中をピンとさせる。フレンチコートの男一、二、三、登場。そろって敬礼。軍人登場。位の高い軍人。)
 教授 行って、バルメンターリ君。出ていてくれ!(しかしバルメンターリ、少し離れるだけで部屋に留まる。教授、軍人に。)どこかまた痛いんですか? 調子の悪いところでも?
 軍人(坐りながら。)いやいや、有難うございます、先生。今日はちょっと別の用件で・・・先生、先生を尊敬申し上げている身でこのような事を言わなければならないのは、その・・・(ポケットから一枚の書類を取り出す。)しかし良かったですよ、私に直接報告がきて。
 教授(書類を素早く目で読んで、顔色が変わる。)「・・・そしてまた、住宅管理委員会議長、同志シュヴォーンヂェルに対し、これを、殺すぞと脅迫した。この事実から明らかにこの人物がピストル等の火器を所持していることが明らかである。また、反革命的な言辞を弄し、あまつさえエンゲルスの著作を女中ズィナイーダ・プラコーフィエヴナ・ブーニナに命じ、暖炉で焼却させた。・・・」
 軍人 「その行為からして、明らかにメンシェヴィキーと思料される。また、共犯者一名。同じアパートに、許可なく、秘密に居住しおる彼の助手バルメンターリなり。・・・」
 教授 「目撃者、清掃局清掃課係長、かつ住宅管理委員会委員、ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ・シャーリコフ、これを証す。住宅管理委員会委員長、シュヴォーンヂェル。・・・」
 軍人 「及び秘書、ピェストゥルーヒン。」
 教授 フン、なかなかよく出来ている。・・・それでこれを私に保管して貰いたいと? それともひょっとして、裁判の手続きをするため、君がとって置きたいということかな? 欲しいならいいですよ。どうぞ、どうぞ。
 軍人(傷ついて。)先生・・・先生・・・そんな、私を疑ってかかるのは止めて下さい。嫌ですよ、先生。
(と言いながら、紙は自分のポケットに入れる。)
 教授 いや、君、悪かった。君を傷つけようなどと思った訳じゃないんだ。ただね、君、あの男は実際、実にやっかいな男で・・・
 軍人 先生、分かっています。困ったもんですなあ。煮ても焼いても食えませんな、あの男は。
(軍人、両足の踵をかちりと鳴らして退場。フレンチコートの男一、二、三、敬礼をして、その後に続き退場。)
 教授 終だ。フィニータ・ラ・コメーディアだ、バルメンターリ君。万事休すだ。・・・そうだ、バルメンターリ君、君はどう思うかね。この私が解剖学生理学について何か知っている、いや、もっと言えば、人間の脳の構造について何か知っていると思うかね。
 バルメンターリ 先生、何を仰るんです。
 教授 私はね、脳の構造の知識については、このモスクワでそれほど遅れをとってはいないと思っていたんだが・・・
 バルメンターリ そんな。ロンドンでだって、オックスフォードでだって、誰にもひけを取るもんじゃありません。
 教授 しかしね、君・・・(ここで日記を取り出して。)読んでみてくれ。あいつを人間にするのはどうしても無理だ。読んでみて、後で私の言葉を引用して皆に話してくれ。例えばこうだ。「プレアブラジェーンスキー氏は遂に言った、「フィニータ」と。」読んでみてくれ。君は古い友達だ。だから君には言うが、この老いぼれの阿呆、プレアブラジェーンスキーは、まるで大学の三年生のような甘っちょろい考えで、この手術を思いついた。新光線を発明し、世界で初めて手術に成功した。・・・しかし、何故こんなことを。・・・一体何故?・・・私の発明した光線は、可愛らしい犬を、一目見ただけで鳥肌が立つような酷い人間に変えた。それは勿論、スピノザの脳、あるいはこの類(たぐい)の、世にも恐ろしい頭脳を用い、かつ実験される可哀相な犬が、手術中に死なないと仮定すれば、それはかなり立派な何かを創り上げることが出来るだろう。しかし何故、一体何故、人工的にそんなものを拵(こしら)え上げることが必要なんだ。その時になれば普通の女性がちゃんとそういうものを生んでいるじゃないか。あの立派なロマノーソフを、その母親はコルモゴールイ村で生んでいるのだ。ねえ君、人類はその段階的発展の中で、毎年十人程の、世界を震撼させる天才を生んできている。これを理論的に何故と問うこと、それは面白いかもしれない。しかし、実行上の話、一体何が面白いだろう。もういい。シャーリコフはなるようにしかならない。これはもう終だ! 「フィニータ・ラ・コメーディア」だ。
 バルメンターリ しかしもしシュヴォーンヂェルが黒幕だとすると・・・
 教授 シュヴォーンヂェル! そうだ。あいつが馬鹿の中でも一番の馬鹿野郎なんだ。自分が主役だと思っている。シャーリコフをけしかけてこの私をたたいている。何のことはない。今度は自分の番だ。別の誰かが、シャーリコフをけしかけて、シュヴォーンヂェルを襲わせる。すると骨までしゃぶられて何も残りはしない。
 バルメンターリ そうでした。猫がいい例です。
 教授 猫・・・あれは一時の慰みだ。もう二、三箇月もすれば飽きてしまう。猫止まりでいるというのがあいつには一番なんだが。(ほうっておくと今度は人間を狙ってくる。)とにかく恐ろしいことには、今やあいつには犬の心じゃなく人間の心が入っているんだからな。それもこの世で最低中の最低のやつがな。
(シャーリコフ登場。ピストルを取りだし、撃鉄を上げる。)
 教授 荷物を纏めて出て行け! この家からさっさと出て行け!
(シャーリコフ、教授に狙いをつける。バルメンターリ、飛びかかる。シャーリコフ、右手でもピストルをポケットから取りだし、バルメンターリを狙う。揉み合いの後バルメンターリ、シャーリコフを床に組み伏せ、枕で喉を抑えつける。)

(暗転。場変わる。)
(ライトがあたると、フレンチコートの男一、登場。)
 フレンチコートの男一 教授殿、警察と検事がやって来ましたが・・・
 教授 これはこれは。どうぞお通しして。
 フレンチコートの男一 入れ!
(フレンチコートの男二、三、警官、検事、シュヴォーンヂェル、ヴァズニェスェーンスカヤ、ピェストゥルーヒン、フョードル、ダーリヤ・ピェトゥローヴナ、登場。)
 患者(突然登場して。)診療はいつですか。
 検事(迷惑そうに。)困りましたなあ、教授殿。不愉快極まる。この部屋の捜査令状が出ているんですからな。そして事と次第によっては、逮捕もあり得るのです。
 教授 ほほう。もしよろしければ、お聞かせ願えませんか。いかなる罪状で、またいかなる人物を。
 検事 モスクワ清掃局員、無宿動物整理係係長、ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィッチ・シャーリコフ殺害の容疑による。容疑者は、プレアブラジェーンスキー、バルメンターリ、ズィナイーダ・ブーニナ、ダーリヤ・ピェトゥローヴナ、それに、フョードル・フィリーッポフ。
 教授 よく分かりませんな。シャーリコフと言いましたか? ああ、失礼。私のところで飼っている犬のことですな?この間私が手術を行なった・・・
 検事 失礼ですが、教授殿、「犬」というのはちょっと・・・
 シュヴォーンヂェル もう犬じゃなくて、人間になっていた。だから問題なんだ!
 教授 奴は確かに言葉を喋りました。しかし喋ったからといって、人間という訳じゃない。・・・ま、とにかく、今はそんなことは問題じゃありません。あの犬は現在存在していますし、誰も殺してなんかいません。
 検事 それならばさっさと出して戴きましょう。行方不明になってから九日も経っているんですよ。まずいですな、これは。
 教授 バルメンターリ先生、シャーリクをこの人達にお見せして。
 バルメンターリ シャーリク! さ、入って!
(犬、跳びはねながら登場。首輪のついた綱を銜(くわ)えている。机の回りを駆け巡る。暫くして少し落ち着き、肘掛け椅子に坐って、足を(人間のように)組む。警官、驚いて十字を切る。(訳註 ソ連では宗教禁止。十字も公けには許されない行為。)
 検事 これがどうして清掃局になんか勤められたのか。
 教授 私が働けと勧めた訳ではありません。シュヴォーンヂェルですな、どうやら。彼を推薦したのは。
 検事 何が何だかさっぱり分からない。(警官に。)あれがそうか?
 警官 そうです。正真正銘、これが彼です。
 フレンチコートの男一、二、三 そう。これが彼。
 フョードル そう。やくざな奴。・・・これはあいつだ。ただまた毛が生えてきたな。
 シュヴォーンヂェル(叫ぶ。)こいつ、口をきいたぞ!
 教授 喋るんです、まだ。ただだんだん少なくなりましたな。だから喋るなら今のうちです。そのうち何も言わなくなります。
 検事 何故です。
 教授 動物を人間に変える、その手段がまだ現代科学にないのです。私もやってはみました。しかしご覧の通り、失敗です。喋って、喋って、そしてまた原始人に戻る。それから・・・
 犬(大きな声で。)優しさだよ、大事なのは君、優しさだ・・・
(と言って犬、立ち上がる。検事、鞄を取り落とし、気絶する。警官、検事を脇から、フョードルは後ろから支える。全員、混乱状態。)
 教授 気つけ薬を! これは気絶だ。
 バルメンターリ よく覚えておくんだ、シュヴォーンヂェル。今度この部屋に現われたら、階段からたたき落としてやる。
 シュヴォーンヂェル 今の言葉、報告書に残されるよう願います。
 フレンチコートの男一 さあ、諸君、今のところは解散です。出て行って下さい。
(教授とフレンチコートの男一、を除き全員退場。フレンチコートの男一、何か訊きたそうに立っていて、それから。)
 フレンチコートの男一 教授殿、これからどうなさるおつもりで?
(教授、もう既に誰の声も聞こえない。何か考えながら、鼻歌を歌い始める。人間の脳の標本の入った罎を棚から取りだす。)
 フレンチコートの男一 どうぞ安心して研究を。誰にも邪魔させないよう、私が見張っていますから。
(フレンチコートの男一、静かに退場。後ろ手にしっかりと扉を閉める。教授、じっと罎の中の脳を見つめる。犬、教授の足元にうずくまる。素晴らしい女性の歌声(アイーダからの)、響く。)
                    (幕)


   平成八年(一九九六年)十二月六日 訳了




Acknowledgement
I thank Mr. Evgeny A. Jadin for sending me all the way from Russia a copy of manuscript of 'Dog's Heart' theatre veresion.
I thank Mr. Andrei B. Gorbatikov who helped me understand this play. Without his help, I could not have finished the translation.

     あとがき
三人の住宅管理委員会の委員、特にシュヴォーンヂェルの言葉は、成り上がり者にありがちな、上品にあるいは、官僚の言葉つきを無理に真似ようとする為に、却っておかしな言い方になり、それを教授に揶揄される。訳者のこの言葉つきの知識のなさにより、充分にその滑稽さが出ていない。この点は改良すべき部分であることをここに記す。
二十七頁に「と致しましては」を連発させたのはその一工夫である。どこかで「させて戴く」を連発させるとよいかもしれない。
住宅管理委員会が歌うコーラスは革命歌。アイーダではない。


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html