炎の道(Flare Path) テレンス・ラティガン作 (1942年)
 
 原題のFlare Pathは、「夜の滑走路」の意味。夜の滑走路には両側に灯がつく。それを言う。従って「夜の滑走路」が適当な題名かとも思ったが、カイルのパトリシアに対する恋の炎がかけてあることは明らかなので、「炎の道」とした。
 「涙なしのフランス語」に続くラティガンのヒット作。この二つの間にAfter the Dance と Follow My Leader (いづれも邦訳なし。)がある。前者は真面目な作品。(愛していることが相手に分かると捨てられはしないかと、却ってギスギスした関係を続けている夫婦の破局を描いたもの。)批評家の絶賛を浴びたが、興行的には失敗。後者はヒトラーのパロディーで、当時の検閲にひっかかり、許可が下りなかった。(英政府はドイツとわざわざ事を構えたくなかった。まだドイツとの好関係を保とうと、期待していた。)ドイツと交戦してからは勿論許可が下りたが、時すでに遅く、ヒトラーのパロディーが冗談で通る時代はもう過ぎていた。
 
 「炎の道」はイギリス空軍の話。
 1942年8月13日の暑い日が初日。空軍大将チャールズ・ポーターも観に来ていた。ラティガンは「涙なしの」の時の験(げん)を担ぎ、頭を短く刈り、彼の母親もその時にやったように、夕食時のシャンパンのコルクをハンドバッグに入れていた。
 三幕の半ば頃、指定席の客が声を上げて泣き出した。ラティガンは隣に坐っていた演出のアスキースに、「ヒットしそうだね」と囁いた。最後の幕の時に奇妙なことが起った。下がる途中で、幕が止まり、少し上に上がり始めたのだ。これで芝居は終、と思って拍手し始めた観客は戸惑った。が、2、3分後に割れるような拍手になり、幕も予定通り下まで下りた。「涙なしの」以来の暖かい観客の反応であった。空軍大将ポーターはラティガンを自分のボックスに呼び、祝いの言葉を与えた。
 新聞の批評はよいものではなかった。タイムズは「爆撃機乗りと、彼らのドイツ空爆からの帰還を待つ婦人達の話が、現在ロンドンの観客を引き付けるのは当然のことである。同じこういうものを扱うのなら、もっと現実味のある設定にすべきである。」スペクテイターも同様の批評。
 しかしラティガンは観客の心理を知っていた。3組の男女すべてをハッピーエンドに終わらせるメロドラマに仕立て上げておいたことが、成功の鍵であったようだ。
「炎の道」は679回のロングランとなった。
 
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年5月10日 記)