ヘンリー四世
              ルイジ・ピランデルロ 作
               能 美 武 功 訳
            (ミッシェル・アルノー仏訳からの重訳)

   登場人物
 ・・・(ヘンリー四世)
 マチルド・スピナ 侯爵夫人 
 フリーダ その娘
 カルロ・ディ・ノルリ 若い侯爵(フリーダの婚約者)
 ティト・ベルクレディ 男爵
 ディオニスィオ・ジェノーニ 医者
 ランドルフ ヘンリー四世の小姓その一
 ハロルド ヘンリー四世の小姓その二
 オルドルフ ヘンリー四世の小姓その三
 ベルトルド ヘンリー四世の小姓その四
 ジョヴァンニ 年寄りの執事
 鉾槍を持ったヘンリー四世のお付きの兵士一
 鉾槍を持ったヘンリー四世のお付きの兵士二

(時 現在(一九二一年))
(場 イタリア、ウンブリア地方の田舎のある寂しい別荘)
(註 この悲劇の効果を、速度によりさらに高めたい場合には、一幕と二幕の幕間は不要。)

     第 一 幕
(別荘の大広間。ドイツのゴスラーに、昔(十一世紀)あったヘンリー四世(ハインリッヒ四世)の玉座の間を正確に模倣して内装されている。しかしその古風な設(しつら)えの中に、観客の目をひく、その場にそぐわない二つの物がある。それは十一世紀にはありえない近代的な二枚の油絵。等身大の肖像画。後ろの壁から少し前方に出ている。後ろの壁の中央に、天蓋つきの玉座があり、玉座の前方はそのまま床であるが、玉座の両側は壁に沿ってずっと、彫刻の施された少し高い台になっていて、観客から見える台の区切りは、ベンチのように腰掛けられる。前に述べた二つの絵は、玉座の両側に飾られている。一つは若い男、もう一つは若い女。仮装行列の時の姿。男は「ヘンリー四世」、女は「トスカナのマティルド侯爵夫人」。それから右手と左手に一つづつ扉。)
(幕が開くと、台の上に寝ころんでいた二人の鉾槍(ほこやり)を持った兵士、不意をつかれたように飛び起き、鉾槍を立てて持ち、玉座の両側に気をつけの姿勢で立つ。不動の姿勢。彫刻のよう。暫くすると、右手の扉から、ハラルド、ランドルフ、オルデュルフ、ベルトルド、の四人が登場。ヘンリー四世の小姓の役目を務めるために、カルロ・ディ・ノッリ侯爵に雇われている四人の若者。小姓、即ち、下級貴族の身分で、ヘンリー四世(のお眼鏡に叶い、)招かれ、相談役を務めるよう要請され、城に住んでいる男達。従って、十一世紀のドイツの騎士の服装をしている。四人目のベルトルドは(彼の本当の名前はフィノであるが、)この仕事はこれが始めて。他の三人が、この男をからかいながら、役の説明を行う。この場面はスピードと活発さが必要。)
 ランドルフ(この部屋に入る前からの話の続きのように、ベルトルドに。)それからな、これが玉座の間だ!
 ハラルド ゴスラーにある、な。
 オルデュルフ いや、ハルツの城の玉座の間でもいい。場合によってはな。
 ハラルド 或は、ワームスだ。
 ランドルフ お好みに応じて何処にでもなる。あのおっさんがその気になった何処へでもだ。この同じ部屋があっちへ行ったり、こっちへ来たりさ。
 オルデュルフ サックスにも。
 ハラルド ロンバルディーにも。
 ランドルフ ライン河のほとりにでもだ。
 鉾槍を持つ兵士一(彫刻のように不動のまま、押し殺した声で。)来ないのか? おっさんは。
 オルデュルフ ああ、来ない。眠ってる。休んでいいぞ。
 鉾槍を持つ兵士二(兵士一と同時に姿勢を崩して、大きく息をし、再び元のように台の上に寝そべる。)何だ、早く言ってくれなきゃ困るぜ!
 鉾槍を持つ兵士一(ハラルドに近づいて。)おい、マッチ持ってないか?
 ランドルフ マッチ? 駄目だぞ、パイプは。ここはパイプ禁止だ。
 鉾槍を持つ兵士一(ハラルドがすったマッチを近付けている時に。)いや、パイプじゃない、普通の煙草だ。
(鉾槍を持つ兵士一、マッチに煙草を近付けて火をつけ、これも台の上に寝そべる。そして煙草を吸う。)
 ベルトルド(この時までこの状況を、半分驚いて、半分呆れて、見ているが、部屋の様子にも目を配っている。それから自分の着ているもの、それから仲間の服装を見ながら。)でも、これ、一体何なんです? この部屋・・・この衣装・・・ヘンリー四世って、どのヘンリー四世なんですか?・・・僕にはよく分らないんですが・・・フランスのヘンリー四世なんですか?
(この質問に、ランドルフ、オルデュルフ、ハラルド、大声で笑いだす。)
 ランドルフ(笑い止まず、ベルトルドを指さして、他の四人の仲間達に、(他の四人も笑い止まない)「お前達もからかってやれ」と言わんばかりに。)「フランスのヘンリー四世ですか」っときたぜ!
 オルデュルフ(ランドルフと同様の口ぶり。)こいつ、フランスの王様だと思っていやがる。
 ハラルド ドイツのヘンリー四世だよ。サリアン王朝のな。
 オルデュルフ 偉大な悲劇の王様さ。
 ランドルフ カノッサのな。ここでは毎日毎日が冷酷きわまりない戦争なんだ。国と教会のな。
 オルデュルフ 教皇党対帝国!
 ハラルド 法皇派対反法皇派!
 ランドルフ 国王派対反国王派!
 オルデュルフ サクソンに対抗する戦争だ。
 ハラルド 反抗する貴族全員が相手だ。
 ランドルフ その中には皇帝自身の息子達まで含まれている。
 ベルトルド(次から次と押し寄せてくる情報から身を守ろうと、頭を両手で抱えて。)分った、分った! 道理でさっぱり分らなかったんだ。こんな服装も、こんな部屋も、まるで合点がいかなかったんだ。これは十六世紀の衣装じゃないじゃないかって。
 ハラルド 十六世紀だと? 何を言ってるんだ。
 オルデュルフ 今は十一世紀と十二世紀の間なんだぞ。
 ランドルフ 自分で計算してみりゃ分るだろう? カノッサに行っていたのが一○七七年一月二十五日だとすりゃ・・・
 ベルトルド(いよいよ混乱して。)大変だ。そうだったとしたら、今まで僕がやって来たことはめちゃめちゃだ。
 オルデュルフ あったり前だぜ。フランスの宮殿だと思ってたんじゃ・・・
 ベルトルド 僕の歴史の準備は全部・・・
 ランドルフ そうさ、その四百年前だ。全くおねんねだよ、お前さんは。
 ベルトルド(怒って。)それなら最初からフランスのじゃなくて、ドイツのヘンリー四世だと言っておいてくれりゃいいじゃないか。もう二週間もこの準備をやってるんだ。猛勉強だったんだからな。何冊も本を読んで。
 ハラルド 何だ? するとお前は、お前の前任者のチトが、ブレームのアダルベールだったのを知らなかったっていうのか?
 ベルトルド アダルベール? 何寝言を言ってるんだ。この僕がアダルベールが何者か知るわけがないじゃないか。
 ランドルフ じゃあ、お前のような新人が何故必要になったか、そのいきさつを話してやろう。いいか、チトが死んだんだ。そうしたら、我々の御主人、ディ・ノッリ侯爵が・・・
 ベルトルド そうだ、その侯爵にだ、僕が文句を言いたいのは。一言どうして、ドイツのだって言ってくれなかったんだ。
 ハラルド そりゃきっと、お前が知っているものとばかり思ってたんだな。
 ランドルフ 侯爵はチトの代りの人間なんか、誰も雇おうとは思っていなかったんだ。我々残りの三人で充分やっていけると思ってな。ところがおっさんが言った。いや、怒鳴り始めたんだ。「連中がアダルベールを追放したのなら、こっちも考えがある」ってな。何故なら・・・分るか? おっさんはチトが死んだなんて全く信用していないんだ。あいつはブレーメンの主教だった。だから政敵のコローニュとマイヤンスの主教に追っ払われた、そうとしか思っちゃいないのさ。
 ベルトルド(頭を両手で抱えて。)何が何だか、そんな話僕にはさっぱりだ。
 オルデュルフ まあそうだろうな。チンプンカンプンだろうさ。
 ハラルド ところがこいつの困ったところは、俺達にもお前さんが何者かさっぱり分らん、ということなんだ。
 ベルトルド えっ? そちらにも僕の正体が分らないんですか?
 オルデュルフ まあな。「ベルトルド」以外はな。
 ベルトルド でも、何者なんですかベルトルドとは。どうしてベルトルドなんですか。
 ランドルフ「連中は私のアダルベールを追放したのか。ならば致し方ない。私はベルトルドを要求するぞ! すぐベルトルドを呼べ!」こう怒鳴り始めたのさ。
 ハラルド 我々三人は顔を見合わせたよ。そして目でお互いに訊ねあったさ。何者だ一体、このベルトルドって奴は。
 オルデュルフ それで今、お前がベルトルドって訳なのさ。なあ、ベルトルド。
 ランドルフ 素敵なベルトルドになって頂戴ってことよ。
 ベルトルド(嫌がって、逃げ出しそうにしながら。)飛んでもない、ご免こうむりますよ、僕は。嫌ですよ本当に。僕は行きますからね。
 ハラルド(オルデュルフの助けも借りてベルトルドを引き留めて、他の二人と同様、笑いながら。)まあまあ、落ち着け。落ち着けったら。
 オルデュルフ ベルトルドっていう男が出て来るお伽話があったな? あの役をやらされると思って心配しているのか? そんな馬鹿なことはやらせはしないさ。
 ランドルフ それからお前に安心して貰うために、少し話してやればな、実は俺達だって、自分が何者か何も分っちゃいないんだ。こいつはハラルド、こいつはオルデュルフ、俺はランドルフ・・・おっさんがそう呼んでいる。それで俺達もそう呼ばれるのに慣れてしまった。で、俺達が一体何なんだってことになれば、ただその時代にあった名前だってことだけさ。お前のその「ベルトルド」だって、その頃そういう名前があったんだろうよ。俺達の中で唯一人違うのは、あの可哀想なチトさ。チトはちゃんと歴史の中で役割が当てられていた。ブレーメンの主教という、な。いや、あいつは偉かったよ。あの哀れなチトは。
 ハラルド そうだよ、あいつは自分の役をどう演じたらいいか、事細かに本で調べたのさ。
 ランドルフ そうなんだ、あいつはおっさんに・・・いや、陛下に、命令までしていた。ここはこうしろ、あそこはああしろってな。陛下の家庭教師、いや、本物の顧問の役だ。俺達だって正式に言えば、陛下の「私的顧問官」ってやつさ。ただ頭数を揃えるためだけなんだがな。歴史の本にちゃんと書いてある。ヘンリー四世は、高い位の貴族には嫌われていたので、宮廷では低い位の貴族達に囲まれていたとな。
 オルデュルフ つまりそれが俺達さ。
 ランドルフ そう、我々は王に仕える身分の低い家来、王には忠実だが無頼で陽気な男達・・・
 ベルトルド すると僕も陽気でないといけない?
 ハラルド そうだよ。俺達のようにな。
 オルデュルフ それがやってみると案外難しくてな。
 ランドルフ いや、難しいって話になりゃ、もっともっと厄介なことがある。いいか、この部屋を見てみろ。内装だって、装飾品だって一流のものだ。我々の着ている服だって、どんな歴史的建造物にこいつを着て行っても全く恥ずかしくない立派なものだ。この衣装、この造作の中に何か事件を入れたいとなれば、ヘンリー四世の歴史の中には、そんな事件には事欠かない。それに相応しい悲劇はいくらでもあるのさ。ところがどうだ。我々四人、それにあそこの二人(鉾槍を持つ二人の兵士を指さす。)・・・あいつらは玉座の下で、直立不動の姿勢で歩哨の役をするのが仕事だが・・・いいか、この我々六人に、こうしろああしろと指図する奴は誰もいない。我々に全て任されているんだ。しかし、何をすりゃいいんだ。そこが厄介なところなんだ。形式は整っている。しかし、中味がないんだ! 我々のこの状況は、ヘンリー四世の、本物のお付きの連中よりもっと悪い。連中は勿論、こうしろああしろと指図などされなかった。それは俺達と同じだ。しかし、誰それの役を演じろという枠もなかったんだからな。そんなもの、自覚する必要もなかった。自分の役を演じりゃいいんだ。結局それは役じゃない、連中自身の生活なんだ。他人の金をちょろまかして懐(ふところ)に入れてみたり、お上から頂戴した勲章を売り飛ばしたり、その他何を売り飛ばしたか、知れたもんじゃないぜ。とにかく連中自身の生活さ。ところがこっちはどうだ。こんななりをして、この荘厳な玉座の部屋に鎮座ましまして・・・何をするんだ。自分の意志では何もしやしない。誰かの動きに合わせて、こっちもああやったり、こうやったり。壁にひっかけられて、糸で動かされている六個の操り人形とたいした違いはありゃしない。それから誰かの台詞に合わせて、こっちも口をパクパクさせるのさ。
 ハラルド おいおい、口をパクパクじゃすまないぜ。お生憎様、そんな楽なことじゃない。調子ってものがあらあ。王様に答える時のあの調子。あいつでやらなきゃならないんだ。こっちもたいした教養が必要だぜ。とにかくおっさんに気に入るような口調を身につけなきゃいけないんだからな。
 ランドルフ そうだ、それは本当だ。
 ベルトルド ええっ? さっきは簡単だって言ってたでしょう? 僕はどうしたらいいんですか。そんな口調出来っこありませんよ。だって、僕の勉強したのは、フランスのヘンリー四世なんですからね。今さら急にドイツのだって、そりゃ無理ですよ。
(ランドルフ、オルデュルフ、ハラルド、大声で笑い出す。)
 ハラルド 分った分った。まあ、すぐにやり直すんだな。
 オルデュルフ 心配するな。俺達が助けてやるさ。
 ハラルド あっちに書類が整っている。綿密な、行動と台詞の注意書きだ。パラパラっとめくって大略を掴めば、まづ最初は乗りきれるさ。
 オルデュルフ しかしまあ、当座、とにかく知っておかなきゃならんことはあるな・・・
 ハラルド 見てみろ!(廻れ右をして、マチルド侯爵夫人の肖像画を指さす。)例えばこれだ。これが誰か、お前分るか。
 ベルトルド(絵を見て。)この人ですか? でもその前に、僕の感じを言うと、これ少しおかしいですよ、この二つの絵は。だって周囲がこんな荘厳な、十一世紀の佇(たたず)まいにしているのに、この絵は全く写実的な、現代のものじゃありませんか。
 ハラルド その通りだ。実際、最初はこの二つの絵は、ここに置かれていなかった。ここは二つのへきがんに作ってあって、十一世紀の頃に相応しい彫像を入れる予定だったんだ。ところが、そいつがうまく出来なくて、へきがんだけが残ったんだ。それで、そいつを埋めるために、その二つの肖像画で塞いだって訳だ。
 ランドルフ(すぐに後をついで。)だからもしそれが、絵だということになれば、十一世紀にはそんなもの、ある訳がない。つまりこの部屋全体の虚構が暴露される訳だ。
 ベルトルド ええっ? それじゃ、これは絵じゃないというんですか?
 ランドルフ そりゃ勿論、触って見りゃ分るさ。そいつは絵だ。しかし、おっさんにとっちゃ、(幽霊を指さすような手付きで右手の部屋をさして。)・・・おっさんは触ったことは決してないんだ・・・
 ベルトルド すると絵じゃないんですね? あの人にとっては。じゃ、何なのです。
 ランドルフ よし。じゃ、解説してやる。よく聴けよ。まあ、俺はこの自分の解釈が、根底のところではあっていると思っているんだ。あれはな、おっさんにとっては、自分の影のようなものなんだ。影・・・影じゃ分らないか。まあ、鏡に写った自分の姿だ。もしその方がお前に分り易いのなら。ただ、おっさんにとっちゃ、あれ(ヘンリー四世の方の絵を指さして。)は、生きているんだ。あの当時の服を着て、この玉座の間に、ヘンリー四世の姿をして、生きているんだ。それはお前、そんなに気味悪がるほどのこともないぞ。お前だって、鏡を前に置かれて、しげしげと見ていりゃ、その鏡の中の人物も生きているって気になる筈さ。(訳註 ここ、原文はもっと複雑。却って分り難いと判断し、訳では省略。)だからな、あの二つの絵は、二つとも生き物なんだ。立派にこの世に実在する二人の人物なのさ。・・・まあ落ち着け。お前だって、ここで暫く生活すりゃ、分って来るさ。お前の目にも、あれが生きているように見えて来るってことよ。
 ベルトルド だけど僕は・・・僕はそんなことを真面目に考えて、気違いになりたくはありませんよ。
 ハラルド 真面目に考えて気違いになる? 冗談じゃない。真面目どころか、笑えるんだ。随分楽しめるぞ。
 ベルトルド そうですか? でも皆さん、どうしてこんなに物知りになったんですか?
 ランドルフ そりゃなるな。八百年も歴史を遡(さかのぼ)って生きてりゃ、少しは物ぐらい覚えるさ、厭でもな。
 ハラルド まあその歴史の入口に早速入って貰わなきゃな。俺達が教えてやるよ。
 オルデュルフ お前も物知りになるぞ。この俺達の学校でな。
 ベルトルド お願いします、今すぐその学校を。少なくとも、基本的な知識だけは知らなければ。
 ハラルド 任しとけってことよ。まづはあっちを少し、次にこっちを少し・・・(てな具合にな・・・)
 ランドルフ お前に紐をつけてな、それを手繰ったり、緩めたりしてお前を歩かせるんだ。実に優秀な操り人形にしてみせるさ。さ、行こう。
(ランドルフ、ベルトルドの腕を取って、連れて行こうとする。)
 ベルトルド(立ち止まり、女の方の肖像画を見て。)待って! この人が誰か、まだ教えてくれていませんでしたよ。これはヘンリー四世の奥方なんですか?
 ハラルド いや、違う。皇帝の奥方はスューズのベルトだ。つまり、サヴォアのアメデ二世の妹だ。
 オルデュルフ 皇帝はいつまでも若くありたかった。それは俺達とちっとも違わない。それで奥様のことが見るのも厭、いつも遠ざけていたのさ。
 ランドルフ(肖像画を見せて。)これは皇帝の最大の敵、トスカナのマチルド侯爵夫人なんだ。
 ベルトルド ああ、そのマチルドなら僕も知ってる。法王の宿にと自分の城を貸した・・・
 ランドルフ そう。つまりカノッサの城だ。
 オルデュルフ 法王グレゴリウス七世の宿にと。
 ハラルド つまりこれが我々の仇敵さ。さ、行こう行こう。
(四人、右手の第二扉、つまり入ってきた扉の方に進む。その時、左手の扉から、年取った執事、ジョヴァンニが、現代の服装で登場。)
 ジョヴァンニ(急いで入って来て、心配そうに。)おい、フランコ、ロロ!
 ハラルド(立ち上り、振り返って。)何だ? どうしたんだ?
 ベルトルド(現代風の服装を着た人間が入って来たので驚く。)ええっ? この人が、例のあの人?
 ランドルフ 二十世紀の人間め! 即刻去れ! 
(ランドルフ、ジョヴァンニを迎えて、急いで近寄る。他の二人も進み、ジョヴァンニを冗談に脅し、かつ、追い立てる。)
 オルデュルフ 出て行け! グレゴリウス七世の密偵め!
 ハラルド 出て行け! 出て行け!
 ジョヴァンニ(自分の身を守って、苛々と。)止めろ、止めろったら。
 オルデュルフ 駄目だ。ここに足を踏み入れることはならん。
 ハラルド ここから出るんだ! 立ち去れ!
 ランドルフ(ベルトルドに。)見てみろ。これは魔法だ。な? ローマの魔術師によって、命を吹き込まれた悪魔だ。さあ抜け! 抜くんだ!
(ランドルフ、刀に手をかけ、抜こうとする。)
 ジョヴァンニ(叫ぶ。)お止めなさい、悪ふざけは! 旦那様がいらしたのですよ、お客様をお連れして。
 ランドルフ(両手をこすりながら。)ああ、お客様、そいつはいいや。勿論女だろうな。(訳註 気違いのヘンリー四世は、屡々売春婦を連れて来ることを命じた。そのため、小姓達は、このような反応をする。)
 オルデュルフ(ランドルフと同様の態度で。)年増? それとも若いの?
 ジョヴァンニ 殿方が二人。
 ハラルド でも女がいるだろう、女が。どんな奴だ。
 ジョヴァンニ 侯爵夫人とそのお嬢様で。
 ランドルフ(驚く。)侯爵夫人? 何だ一体、それは。
 オルデュルフ(こちらも驚く。)こっちの聞き間違いじゃないんだな? 侯爵夫人と言ったな?
 ジョヴァンニ そうです、侯爵夫人。私はちゃんと侯爵夫人と言いました。
 ハラルド それで、二人の殿方というのは?
 ジョヴァンニ 分りません。
 ハラルド(ベルトルドに。)どうやら、もう少し中味を充実させようという腹らしいぞ。分るな? お前。
 オルデュルフ みんなグレゴリウス七世の回し者だ。こいつは随分からかってやれるぞ。
 ジョヴァンニ 私に話させてくれないのですか?
 ハラルド 失礼、失礼。どうぞ。
 ジョヴァンニ その二人の殿方のうち一人はお医者様だと、私は思うのです。
 ランドルフ はっ、医者! 例のやつだな。ここからでも見えるようだ。(訳註 医者と名乗る人物は普通、売春宿の主、或は女衒。)
 ハラルド おいベルトルド、お前は幸運をもたらす男だな。
 ランドルフ 俺達が奴をきりきり舞いさせるのを、お前とっくりと見られるぞ。
 ベルトルド どうも僕は悪い予感がします。とんだヘマをやりそうだ。
 ジョヴァンニ ちょっと皆さん、聞いて下さい! お客様方はここに、この部屋に来ると仰っているのです。
 ランドルフ(驚く。どう考えていいか分らない。)何だって? 侯爵夫人が・・・ここに?
 ハラルド 中味の充実なんて言ったが、それじゃ、充実のしすぎだ。えらいことになるぞ。
 ランドルフ ここからは喜劇が悲劇に変るか。
 ベルトルド(好奇心をそそられて。)何故です? その侯爵夫人が来られると、何故悲劇なんです。
 オルデュルフ(肖像画を指さして。)だってな、いいか、あの絵、あれが侯爵夫人なんだ。
 ランドルフ その娘が俺達の御主人、つまりディ・ノッリ侯爵の許嫁(いいなづけ)なんだ。
 ハラルド しかし、その客達ってのは何をしに来るんだ。それが知らされていないのか。
 オルデュルフ もしおっさんが、侯爵夫人を見ることになったら、こいつは一騒動あるぞ。
 ランドルフ しかし、ひょっとすると、もうおっさん、侯爵夫人本人が来ても、それと分らないかも知れないな。
 ジョヴァンニ 皆さんには、あの方が目を覚まされても、あそこから動かさないようにして戴きたいのです。
 オルデュルフ おっさんを動かさない? どうやればそんなことが出来るって言うんだ。冗談じゃない。
 ハラルド おっさんがどういう気質の人物か、お前だってよく知っているじゃないか。
 ジョヴァンニ 必要なら、腕力を使ってもと・・・これが旦那様からのご命令です。さあさあ、早く。
 ハラルド 命令なら仕方がなかろう。じゃ、今すぐだな? この時間なら、もうおっさん起きているかもしれないぞ!
 オルデュルフ さ、早くしよう。
 ランドルフ(他の三人の後を追いながら、ジョヴァンニに。)しかしな、一段落したら、必ず俺達に教えるんだぞ、これが一体何の意味なのか。
 ジョヴァンニ(四人に叫ぶ。)鍵はロックして下さいよ。(右手の別の扉を指さして)あっち側の扉もロックです。いいですね。
(ランドルフ、ハラルド、オルデュルフ、ベルトルド、右手第二の扉から退場。)
 ジョヴァンニ(鉾槍の二人に。)君達もあっちに。あっちの扉から出て行ってくれ。(右手第一の扉を指さす。)ちゃんとロックして、鍵は隠すこと。
(二人の兵士、右手第一扉から退場。ジョヴァンニ、左手の扉に進み、開け、ディ・ノッリ侯爵を入れる。)
 ディ・ノッリ 私の指図は伝えたんだね?
 ジョヴァンニ はい旦那様、どうぞ御安心下さい。
(ディ・ノッリ、客を呼ぶため、少しの間、退場。ティト・ベルクレディ男爵と医者のディオニスィオ・ジェノーニが最初に登場。その後から、マチルド・スピナ侯爵夫人、その娘のフリーダ、が登場。ジョヴァンニ、一礼して退場。)
(マチルド・スピナ侯爵夫人は四十五歳くらい。まだ美人。彫像のような顔。年齢による美貌の崩れを厚化粧で糊塗しているが、いやらしくなる程ではない。北欧神話のヴァルキリーのような荒々しい顔。但し口の形の綺麗な女性で、これが化粧の濃さと釣り合いがとれない。夫に死なれたのが早く、寡婦である期間が長かったためか、その間にティト・ベルクレディーを友人としている。)
(ティト・ベルクレディーは、少なくとも表面上は、誰からも真面目に相手にされない男。彼がマチルドにとって本当は何であるか、は、彼のみが知っており、従ってマチルドが彼との関りは何もないという態度を取ると、マチルドを嘲るように笑う。また、他の人がいる時マチルドが彼をだしにして他の人を笑わせようとすると、逆にこれを嘲るように笑う。痩せて年の割に白髪が多い。マチルドより少し若い。頭の形が、奇妙に鳥の頭に似ている。本来は生き生きしたしなやかな肉体の持主。(従って、恐ろしい決闘家にもなれた筈。)しかし、アラブ流の怠慢、眠り癖のため、その能力は発揮されないままになっている。眠り癖の証拠は、その独特の、鼻にかかった、単語を少し長くのばして発音する声、に現れている。)
(マチルドの娘フリーダは十九歳。傲然とした、また非常な美人の母の後に立ち、フリーダは日陰の人生。加えて、母の惹き起こす他人からの中傷が、母で留まっておらず、娘にまでかかってきて、傷ついている。しかし、幸いなことに、カルロ・ディ・ノッリ侯爵と婚約が調っている。)
(ディ・ノッリは自己に厳しい人間。他人には非常に寛大。但し、世の中に自己の存在を示す権利ありと判断する場面では、それがどんなに小さいものであろうと、断固として他に譲らない心構え。しかしそれがどんな場面であるか、彼自身でもはっきりとは分っていない。とにかく彼は現在でも既に、支えきれない程の責任の重みで・・・と、少なくとも彼は思っているのだが・・・喘いでいる。だが彼以外の他の連中は・・・と彼は思っている・・・運のいい奴等だ、思ったことを口に出し、人生を楽しんでいる。しかし、自分には出来ない。したくないからではない、してはいけないからだ、と。ディ・ノッリは深い喪服姿。最近母が亡くなったため。)
(医者ディオニスィオ・ジェノーニは美男。好色な、赤い顔。飛び出た目。先の尖った灰色の短い顎鬚。頭は禿げている。立ち居振る舞いが洗練されている。)
(ディ・ノッリ以外の四人、即ち、マチルド、ベルクレディー、ジェノーニ、フリーダ、は、動物園の檻に入るような、恐る恐るの様子。入ると、辺りを見回す。話はまづ、小声でし始める。)
 ベルクレディー ああ、これはいい。これは素晴らしい。
 ジェノーニ よく出来ていますな。狂人のためにここまで作るとは。いや、彼の目に自然に見えるように、細部に到るまで。たいしたものだ。確かに素晴らしい。
 マチルド(この時まで自分の肖像画を捜していたが、見つけて近づき。)ああ、ここだわ。(眺めるのに適当な位置まで離れる。その間、様々な感慨が去来する。)そう・・・そう・・・本当に・・・(娘を呼ぶ。)フリーダ、フリーダ・・・御覧・・・
 フリーダ ああ、これ、お母さまの絵ね。
 マチルド 違いますよ、よく見てご覧。ほら、私じゃない、これ。これはあなたよ。
 ディ・ノッリ でしょう? お話した通りでしょう?
 マチルド でも、こんなにまで似ているなんて。とても想像出来なかった。(背中にゾクゾクっと寒けが走ったように震えて。)どうしたの? フリーダ。(フリーダを引き寄せて、腰に片手を廻して。)ほら、見えるでしょう? お前が。私の中のお前が。
 フリーダ ええ。でも私、本当のことを言うと・・・
 マチルド そう思わないって? そんな馬鹿なこと・・・(ベルクレディーの方を向いて。)さあ、ティト、あなた見て。そしてこの子に言ってやって。
 ベルクレディー(肖像画を見ず。)ああ、私は見る必要なんかありませんよ。私から言わせれば、そんなもの見るまでもなくアプリオリーに「似ていない」ですからね。
 マチルド お馬鹿さん。あれで私にお世辞を言っているつもりなのよ。(ジェノーニに。)先生、お願い。先生はどうお思いになるかしら。
(ジェノーニ、絵の方に行きかける。)
 ベルクレディー(背を向けて。秘密の隠れ場から人を呼びとめるように。)駄目駄目先生、行っちゃ駄目ですよ。お願いです。
 ジェノーニ(驚く。しかし微笑んで。)何故です? 何故行っちゃ駄目なんです?
 マチルド その人の言うことはほっといて。さあ、いらして。お願い。本当にしようがないんだから、その人。
 フリーダ その方の言うことは聞かないで。馬鹿なことをするのがその方の仕事なんですから。
 ベルクレディー(二人の方に近づく。ジェノーニに。)ほら先生、気をつけて。危ない、危ないですよ、足を見て、自分の足を。
 ジェノーニ(驚いて。しかし微笑んで。)足? どうかしましたか? 私の足が。
 ベルクレディー その靴、鉄で出来ているんですよ。
 ジェノーニ 鉄で?
 ベルクレディー そうです。そして、あちらの四個の靴はガラスで出来ている。
 ジェノーニ(大きく笑って。)それで、近づくと割れるって言うんですか? そんな大袈裟なことじゃありませんよ。だって、娘が母親に似ているなんて、普通のことじゃありませんか。
 ベルクレディー(ジェノーニが二人のところに着くのを見て。)ガチャーン! そーら、やった。
 マチルド(怒ってベルクレディーに近づきながら。)何のこと、そのガチャーンていうのは。何が言いたいため? このお医者さんに、何を言いたいっていうの。
 ジェノーニ(無邪気に。)このお医者さんは、公平に判断するかもしれませんよ。
 ベルクレディー(マチルドの質問に答えて。)この先生は、娘が母親に似るなんて、普通のことだと言ったんですよ。ところがそちらはさっきから、驚いた、驚いた、って騒いでいるでしょう? それが今になってお医者さんに賛成して、普通のことだと仰るのなら、説明が欲しいですな。
 マチルド(怒りがだんだん増してきて。)馬鹿! 馬鹿! これがあまり普通のことだから、だから驚いているんじゃないの。娘は母親にそっくり、だからあの絵は娘の肖像画でもいい筈。でも違うの。(絵を指さして。)あれは私の肖像画なの! だから私が一番驚いているのは、最初あれを見た時、「娘だ!」と思ったこと、「あ、あそこに娘がいる!」って。「似ているんだから当たり前、驚くことはない」なんて、決して言わせませんからね。私の驚きは真摯なもの、それを疑わせたりするもんですか!
(激しいこの反論のため、一瞬、気まづい沈黙。)
 フリーダ(困って、小さな声で。)あーあ、困ったこと。何時だって同じ。何でもない小さなことで、すぐ言い争い。
 ベルクレディー(こちらも小さい声で。恥じて、言い訳の口調で。)いや、そちらが驚いているのを、疑ったりはしていませんよ。(フリーダの方を向いて。)だけど君は、最初から驚いちゃいなかったね。それはお母さんとは随分違っていた。それに、たとえ驚いたとしても、それは、お母さんが驚いたから驚いたっていうことだった。お母さんがあまり君と絵とが似てるって言うもんだからね。
 マチルド 当たり前でしょう! 娘には似てるってことが分る筈がないんです。この絵の年頃の私を、娘は知らないんですからね。私はそれを知っていて、それと今のこの子とを比べることが出来るんです。
 ジェノーニ その通りですな。絵とは、ある瞬間を固定して、それを永久に保存するものです。ですから、フリーダさんがこの絵を見る時、過去の一瞬しか見ることが出来ません。付随する思い出など一切なしです。ところがお母様にとっては、この絵は周辺の全てを思い出させるものです。この絵が描かれた時の、動作、態度、目を付けた場所、微笑み・・・そういう全てのものです。
 マチルド ええ、本当にその通り!
 ジェノーニ(話を続けて、マチルドの方を見て。)で勿論、そういったもの全てが今、この娘さんに生きたものとして蘇(よみがえ)っているという訳ですね?
 マチルド そうですとも。それなのにこの人ったら、すぐぶち壊しにかかる。私がほんのちょっとしたきっかけで少しでも感傷的な気分になると・・・丁度今やったように。私を苛々させるのが楽しいんですよ、この人は。
 ジェノーニ(絵に関する自分の見解の素晴らしさに自分でも驚いて、医者の口調でその先を展開しようとベルクレディーに。)似ているということはですね、ベルクレディー男爵、屡々到底想像も及ばない所に現れるものです。事実そうであるからこそ・・・
 ベルクレディー(意見の開陳を遮って。)そう、あなたと私とだって、どこか似ている所を捜してくれる人がいるかも知れませんからな。
 ディ・ノッリ そこまで! そこまでにしておいて下さい。(右手の二つの扉を指さして、誰か聞いている人物がいるかも知れないからと、注意を促して。)来た早々、ちょっと横道に逸れ過ぎて・・・
 フリーダ やっぱり。(ベルクレディーを指さして。)この人が一緒だと何時だってこう。
 マチルド(激しく。)だから言ったの。この人を連れて来ちゃ駄目って。
 ベルクレディー 私をだしに、随分笑って楽しんだくせに。恩知らずってもんですよ。
 ディ・ノッリ もう止めて、ティト。先生がここにいて、僕らも揃っている。それは非常に大事なことのためだって、分っているでしょう? 僕はもうその事で頭がいっぱいなんですからね。
 ジェノーニ ええそう、その大事なことですが、予め二、三の点をはっきりさせておきたいのです。失礼ですが奥様、お訊きしていいでしょうか。この奥様の肖像画は何故ここにあるのでしょう。あの方にその昔、贈り物として差し上げたのですか?
 マチルド 贈り物だなどと、飛んでもない。あの人に贈り物だなんて、私、どういう立場で出来たっていうんです? あの頃私はまだ、この娘の年頃で、私達は婚約してはいなかったんですからね。あの事故があって三年か四年たった時です、(ディ・ノッリを指さして。)この方のお母さまからどうしてもと言われて差し上げたのですわ。
 ジェノーニ つまりあの人の姉にあたる方からの要請ということですな?
(「あの人」と言う時、右手の第二扉を指さして、「ヘンリー四世」のことであることを示す。)
 ディ・ノッリ そうです、先生。その母は、ひとつき前に亡くなりました。こうやってお集まり戴いたのは、母の遺言を実行しようとしてなのです。これがなければ(フリーダを指さして。)僕達は今頃ここにはいません。新婚旅行に行っていたでしょう。
 ジェノーニ 先日のお話では、お母さまはただ単に医者を呼べというのではなく、他に色々と・・・
 ディ・ノッリ ええ、そうなんです。母は死ぬ直前、弟が正常に戻るのはもうすぐだ、と非常な確信をもっていたのです。
 ジェノーニ それで・・・お訊きしていいでしょうかな。何故母上がそのような確信を持たれるようになったのか、あの人にどのような兆候が現れたのか。
 ディ・ノッリ 母に非常に奇妙なことを言ったらしいのです。母が死ぬちょっと前に。
 ジェノーニ 奇妙なこと。何て言ったんでしょうな。それが分ればとても役に立つ筈なんですが。
 ディ・ノッリ 具体的に何と言ったのか、それは分りません。僕が知っているのは、ただ母がその最後の訪問から帰って来て、ひどく興奮していたことです。その時母は言いました。「あの人は私に、今まででは考えられないほど親切だった。まるで私の死が近くて、二度と会えないことを知っているように」と。母は死の床で私に約束させたのです。「あの人を決して見捨てないこと。会いに行って、専門の医者に診て貰うこと。」と。
 ジェノーニ 分りました、そこはよく。それで、と・・・この病は屡々、ほんのちょっとしたことが原因で治るものです。ですから・・・あの肖像画など・・・
 マチルド まあ先生、あんなものにあまり重きを置いてはいけませんわ。それは確かに、私はびっくりしました。もう何年も見ていなくて、それで今初めて見たんですからね・・・
 ジェノーニ ちょっと待って、お願いです。私に(話させて・・・)
 ディ・ノッリ そうです、もう何年も・・・十五年は経っているでしょう?
 マチルド 十五年ではききません。もっとです。今からだと、十八年以上・・・
 ジェノーニ ちょっと、ちょっと待って下さい。私はまだみなさんに何をやって貰いたいかについて、何も言っていませんよ。あの人の治療のために、個人的には私は、あの二つの肖像画に非常に期待しているのです。この絵はたしか、例の行列・・・かの有名な、そして大変不幸な・・・例の仮装の騎馬行列が行われる前に、描かれたのでしたね? 後ではなくて。
 マチルド 勿論、前です。
 ジェノーニ そう、そこです、私が言いたかったのは。つまりこの絵は、あの人がまだ正常だった時のものだと。それで、奥様が御自分の絵を描いて貰う気になったのは、あの人の要請によるものなのですか?
 マチルド 飛んでもない。あの行列に参加する人達は、殆ど全員描いて貰ったのです。記念になりますからね。
 ベルクレディー 私もですよ先生、「アンジュー公、シャルル」の扮装でね。
 マチルド 仮装の服装が出来次第。
 ベルクレディー 一人一人描いて貰った後、全部を集めて、飾ろうって話になっていたんです。行列を行った会場の壁に、美術館のように。仮装行列の記念ですよ。ところがみんな、自分で絵を持って置きたいっていう気になったんです。
 マチルド 私の絵は先程お話したように、ここに・・・そんなに残念だとは思いませんでした・・・この方のお母さまの頼みで・・・
 ジェノーニ それで、その絵を所望した人があの人本人だったか、
それともあの人の姉さんだったか、それは分らないんですね?
 マチルド ええ、それは。ひょっとすると本人自身、ひょっとするとこの方のお母様が弟への愛情のために・・・
 ジェノーニ 分りました。もう一つ別のことを。全体この・・・仮装行列というのは、誰の発案だったのです?(右手の扉を指さして。)あの人の?
 ベルクレディー(非常に強く。)いいえ、私です。私の発案なんです。
 ジェノーニ(マチルドの発言を促すように。)どうぞ・・・
 マチルド この人の言っていることは違います。ベラッスィー伯爵です、発案者は。
 ベルクレディー ベラッスィー? 違うよ、それは。
 マチルド(ジェノーニに。)可哀相に。ベラッスィー伯爵はあの行列の後、二、三箇月で亡くなったんですわ。
 ベルクレディー だっていいか、ベラッスィーなんて例のあの場にさえいなかったじゃないか、ほら・・・
 ディ・ノッリ(また新しい議論が持ち出されるのを嫌がって。)先生、ちょっと申し訳ありませんが、この・・・発案者が誰かっていうことは、本当に大事なことなのですか?
 ジェノーニ ええ、これは私には役に立つのですが・・・
 ベルクレディー とにかく発案者は私なのです。別に喜んでこんなことを言いたくはないのです。だって、その結果がこれなんですからね。発案を自慢するなんて飛んでもないことです。実は先生、思い付いたのはクラブでなんです。はっきりと覚えています。十一月の初めのある夕方でした。私はぼんやりとドイツの雑誌をめくっていました。勿論絵を眺めていただけで、文字を読んでいたのではありません。私はドイツ語が読めませんからね。その中の一つに、カイゼルの写真があったのです。カイゼルが大学時代にいた街での・・・何て言いましたかな、あの街・・・
 ジェノーニ ボンです。ボン。
 ベルクレディー そう、ボンです。カイゼルは馬に乗っていました。ドイツには昔、学生のギルドがありましたが、その伝統的な、奇妙な衣装を着ていました。貴族の学生の一団が、これも全員馬に乗り、同様の衣装をつけていましたが、行列を作ってその後に続いていました。この写真を見て私は、例のアイディアを思い付いたのです。その年の謝肉祭には、クラブで仮装舞踏会を開くことはみんな考えていたんですから。で、私は歴史を背景にした仮装行列をしようと言ったんです。歴史と言ったって、バラバラでいいんです。まあ、バベルの塔のような仮装行列と言った方が当たっているかもしれません。クラブの面々は歴史上の人物を選び、王、皇帝、皇太子、になりその傍に、女王、女帝、貴婦人を従える。勿論女性も馬に乗る。馬もその時代にあった馬飾りをつける。この提案がそのまま採用されたのです。
 マチルド 私にその話をしたのは、ベラッスィーだったわ。
 ベルクレディー その時ベラッスィーが自分の思い付きだと言ったとしたら、間違いだな。繰り返しますが、クラブで私がこの提案をした時、ベラッスィーはいなかったんです。ついでですが、(右の扉を指さして。)あの人もいませんでしたな。
 ジェノーニ それであの人はヘンリー四世を選んだのですね?
 マチルド ええ。私が、自分の名前につられて、たいして考えもせずに、「私、トスカナのマチルドになるわ」って言ったんです。そのせいですわ。
 ジェノーニ 私にはどうも・・・その関係がよく分りませんが。
 マチルド それは無理ですわ。私だって、最初あの人が、「それなら私はヘンリー四世になって、あなたの足下にひれ伏しましょう。彼がカノッサでやったように」と言った時、何のことか分らなかったんですもの。勿論カノッサは聞いたことがありました。でも、その詳しい話は正直のところ、知らなかったんです。それから私は仮装のため、歴史の本をあれこれ読んだのですが、あの人がヘンリー四世を選んだのが最初奇妙に思えましたわ。だって、マチルドは法王グレゴリウス七世の、非常に忠実で、熱心な支持者で、そして法王はドイツ皇帝ヘンリー四世と、恐ろしい対立関係にあったのです。つまり、私のなるマチルドという人物とヘンリー四世は敵対関係にあったのですから。でも、カノッサの話まで進み、行列ではマチルドの傍にヘンリー四世がいるのが自然だと知り、何故あの人がヘンリー四世を選んだのか、はっきり分ったのですわ。
 ジェノーニ ああ、つまりその・・・きっと・・・
 ベルクレディー そうです、先生。つまり(右扉を指して。)あの人は熱烈にこの人に求婚していたのですよ。そして勿論この人は・・・
 マチルド(烈火の如く怒って。)そりゃ勿論でしょう。勿論に決まっているじゃありませんか。うら若い人なら「勿論」は当然・・・
 ベルクレディー(マチルドを指さして。)そうです、とてもたまらなかったんですな、あの男が。
 マチルド 「たまらない」なんて、飛んでもない。私、あの人がちっとも嫌いじゃなかった。逆だわ。でも、男の人がちょっとでも本気になると・・・ええ、ちょっとでも自分を真面目に取って貰いたいという素振りが見えると、私・・・
 ベルクレディー (続けて。)その男が馬鹿に見えてしまうの。馬鹿丸出し。
 マチルド 違うわ。あの人の場合はそうではなかった。だってあの人、あんたみたいな馬鹿じゃなかったんだから。
 ベルクレディー だけど僕は自分を真面目に取って貰いたいなんて思ったことはないぞ。
 マチルド あんたはそう。分っています。でもあの人の場合は違った。(調子が変る。ジェノーニの方を向いて。)私達女には、本当に悪い癖があるんです、先生。悪い癖の中で最もひどいもの。女を見つめる二つの目、永遠までも約束する、純真そのものの目、それがじっとこちらを見ている。女はそういう場面に出くわすことがあるのです。(甲高(かんだか)い声で笑う。)何て可笑しい! 男はその「永遠までも約束する」その目を自分で見てみたらいいのよ。――こういう時私は、いつでも笑った。今やったように。あの当時はもっとだわ。でも正直のところ・・・ええ、あれから二十年たった今だから言えるんですけど、あんな風にあの人のことを笑ったのは、可笑しかったからだけではなかった。あの人が怖かったから。そう。あの人の目には、その約束を人に信じさせる力があった。そしてそれを信じるなんて、大変危険なことですもの。
 ジェノーニ(強い興味をもって。考え込みながら。)なるほど、危険ですか。大変危険・・・どういうことでしょうね。
 マチルド(軽く。)それはあの人が他の人とは違っていたからですわ。それに私もいけなかった。さう、私も・・・いいえ、正直に言えば、少しどころか・・・(穏やかな表現を捜して。)大変心が狭かった。真面目一本槍で、息苦しいものに対して容赦しなかった。でもあの頃私は・・・分って下さいますわね?・・・若かったんです。女だったんです。我慢すべきだった。そんな勇気なんかとても持てるとは思えませんけど。あの時、我慢する勇気がなくちゃいけなかった。でもなかった。だから笑った。あの人のことをゲラゲラ。私はすぐ後悔した。後悔どころか、自分の馬鹿さ加減に怒り狂った。だって、あたりの人皆も、あの人のことを笑っているんですからね。なんて馬鹿な奴等。でも私もその中の一人だった。
 ベルクレディー 彼も僕と同じ役を演じた訳だ。
 マチルド 飛んでもない。大違い。あなたの場合は、自分で自分を卑しめて笑わせるの。あの人の場合は全くその逆。雪と炭ほどの違いがあるわ。あなたのことを人が笑う時はあなたの鼻の先で「フン」と言って笑うのよ。
 ベルクレディー 陰でこそこそ笑われるよりはましさ。鼻の先で笑われた方がね。
 ジェノーニ 本題に戻りましょう、本題に。すると、私が理解していると思っていることを述べますと、あの人は仮装行列の前、既に相当興奮していたということですかな。
 ベルクレディー そうです。しかし、その興奮の仕方が一風変っていたのです。
 ジェノーニ と言いますと?
 ベルクレディー つまり・・・冷静に興奮しているって言うんでしょうか・・・
 マチルド 冷静に興奮? 何を言っているんです。「冷静に」なんかじゃありません。内面から来る強い生命力のせいなんですよ、先生。興奮している時、霊感を受けたようになるのです。
 ベルクレディー 冷静に興奮と言ったって、僕は別に、興奮したまねをしているなどと言っていやしない。その反対だ。本気で興奮した。しかし、これは誓ってもいいです、先生。彼は興奮したその瞬間に、自分の興奮した姿を自分で見てしまうのです。いや、正確に言うと、これは興奮した瞬間には限らない、何かを感じて不意に起す動作の時には、必ず彼はその姿を自分で見てしまう。彼はそういう自分に苦しんでいたのではないか、私はそう思っています。時々滑稽なほど自分自身に怒り狂うことがありましたからね。
 マチルド そう。その通りだった。
 ベルクレディー(マチルドに。)じゃ、そんなに怒り狂ったのは何故なのか。(ジェノーニに。)僕の意見を言えば、瞬間的に自分の姿を見る、自分の姿を見せ物として見るこの能力が、あの人の心に生じた本当の感情と、あの人自身の間に亀裂を作ったのだと思うのです。何かを見る、ある感情が湧く、これは誠実なものです。これを身体で表わそうとする。それに知的な価値を与えようとする。その瞬間、自分の姿を見てしまう。すると最初に感じた誠実な感情が萎(しぼ)んで行き、熱の冷めるのを感じる。今度はそれを補おうとやっきとなる。うまく行かない。自分に嫌気がさす。ですから彼が即興的に何かをやり始めたり、大袈裟なことを言ったり、羽目を外したりする時は、そういう自分を自分の目から見えなくさせよう、そういう自分の言葉をもう聞くまい、としてなのです。だからなのです、彼が移り気、気取り屋、時には滑稽にさえ見えたのは。
 ジェノーニ するとあの人は、社交的でなかったんですな?
 ベルクレディー 飛んでもない。社交的なことをやらせて彼の右に出るものはいませんでした。活人画、お芝居、舞踏会、慈善のバザー、彼が音頭を取ると必ずうまく行ったものです。勿論参加者は全員アマチュアですよ。それから芝居では、実に優秀な役者でしたよ。
 ディ・ノッリ そして今は狂気のために、優秀を越えて鬼気迫る名優ですよ。
 ベルクレディー いや、正気の時から名優だったんです。だから先生、例の不幸が起った時、つまり彼が落馬した時・・・
 ジェノーニ たしか落馬して、後頭部を打ったのでしたな?
 マチルド ああ、あの時の恐ろしさったら。あの人、私の横にいたのです。後脚で棒立ちになった馬の、その二本の脚の間にあの人が倒れているのを見たんですもの。
 ベルクレディー しかし最初は、彼がそんなにひどい打撲を受けたなんて、誰も思ってはいませんでした。たしかに行列はちょっと止まり、混乱がありました。何が起ったんだろうと、皆知りたがりました。でもそんなのは、近くの者が彼を助け起して別荘に連れて行った後でしたからね。
 マチルド それにあの人、全くかすり傷一つなかったんです。一滴の血も出てはいませんでした。
 ベルクレディー ただ気絶しただけなんだと・・・
 マチルド それから約二時間後に・・・
 ベルクレディー そう。二時間後に別荘の大広間に彼が現れ、丁度僕がさっき言ったように・・・
 マチルド ああ、あの現れた時のあの人の顔。私は何が起ったか、すぐ分ったわ。
 ベルクレディー まさか。それは違いますね。我々の誰一人、事態に気づいた者はいなかったのです。分りますね? 先生。
 マチルド 何言ってるの。みんな大騒ぎしたじゃないの。馬鹿みたいに。
 ベルクレディー 事態に気がついて騒いだんじゃないんだ。ヘンリー四世の役を面白がって騒いだんだ。全くバベルの塔そのままの勢いだった、あの時は。
 マチルド 先生に想像がおつきになるかしら。私達本当に、心の底からぞっとしたのですわ。あの人がヘンリー四世を、演技でやっているのではなく、本気でそう思っているんだって分った時。
 ジェノーニ すると、その時なんですな、つまり・・・
 ベルクレディー そうなんです。あの人は集まりに再び加わった。我々は彼が治ったものと思い、我々と一緒に芝居をやっているのだと思っていた。さっき言ったように、芝居は誰よりもうまかったんですから、やっていることは我々より真に迫っている。
 マチルド それで皆が、あの人のことをからかい始めたんです。
 ベルクレディー すると・・・勿論あの人は剣を帯びています。王様なんですからね。その剣をさっと抜きはなって、我々にうってかかったんです。それはもう大変な騒ぎになりました。
 マチルド あの場面は私、生涯忘れることはありませんわ。こちらの全員もマスクを被ったような、恐怖で引きつった顔、それがあの人の恐ろしい顔と向き合っている。その恐ろしい顔はもうマスクではない。狂気そのものがそこにあったのです。
 ベルクレディー ヘンリー四世、そう、怒り狂ったヘンリー四世その人がそこにいたんです。
 マチルド 先生、私の考えでは、あの人にそれだけの影響を与えたものは、あの丸々一箇月の、あの人の仮装行列に対する執着だと思うのです。いえ、このことに限りません。あの人は何をするにも、一旦こうと決めたら非常な執着を持ってやりましたわ。
 ベルクレディー あの準備のために彼が読んだ本といったら! ほんのささいな、つまらない事でも決してほうっておくことはしなかった・・・
 ジェノーニ ああ、それで分りました。その準備による一時的な脳の錯乱が、落馬及び後頭部の打撲により、一種の凍結をおこしたのですな。そしてその凍結が、時間の経過と共に、永久的なものに変化して行ったのでしょう。このような場合、その痴呆状態が高じて、本当の気違いになることがあるのです。
 ベルクレディー(フリーダとディ・ノッリに。)人生というのは、全く酷いいたずらをするものです。(ディ・ノッリに。)その頃あなたは四、五歳でしたな。(フリーダに。)あなたはまだ生まれていなかった。生まれるどころか、お母さんはあなたのことを想像だにしていなかった。あの絵を見て、あなたと自分の区別がつかないぐらいですけれどね。私と言えば、もうこんな白髪です。ところが(ヘンリー四世の絵を指さして。)あの人ときたら、ドスン! 後頭部打撲・・・それでもう「時間よ、止まれ」ですからね。永久にヘンリー四世のあの年のまま。
 ジェノーニ(この時までに熟考に沈んでいたが、この時になって、顔の前に両手を広げ、聞き手の注意を促し、自分の科学的な説明を始めようとする。)皆さん、ですから、私の考えによれば・・・
(しかし、第一の扉が急に開き、ベルトルド登場。顔が歪んでいる。)
 ベルトルド(もう堪忍袋の緒が切れて、猛然と侵入してきて。)お願いです。失礼ですが、私はもう・・・(しかし途中で言い止める。そこにいた人達の彼の登場による動揺があまりに激しかったからである。)
 フリーダ(恐怖の叫びを上げて、逃げ場を捜しながら。)どうしよう! あの人、あの人だわ!
 マチルド(驚いて、片手を上げて侵入者を見ないようにしながら、後ずさりして。)あの人なの? あの人?
 ディ・ノッリ(強く。)違います。安心して。これは違います。
 ジェノーニ(驚いて。)じゃ、誰なんです。
 ベルクレディー 仮装行列からの脱走兵のようですね。
 ディ・ノッリ あの人の狂気を支えるために雇った、四人の若者の一人なんです。
 ベルトルド 失礼ですが侯爵、私は(辞めさせて戴きます)・・・
 ディ・ノッリ 失礼も何も・・・どうして出て来たんです。私は鍵をかけておくように言った筈です。勿論ここには決して来るなと。
 ベルトルド ええ、分っています。でももう耐えられません。私は辞めさせて戴きます。
 ディ・ノッリ ははあ、君は今朝初めてこの仕事についたんだね?
 ベルトルド そうです。でも、繰返しますが、私はもう耐えられません・・・
 マチルド(ディ・ノッリに。ひどく驚いて。)まあ、じゃ、あの人、静かにしていないんですか? 今までの話と違うじゃありませんか。
 ベルトルド(強く。)いいえ、いいえ。それは違うんです。あの人のせいじゃないんです。同僚の三人なんです、耐えられないのは。今「狂気を支える」と仰ったでしょう? 侯爵様。だけど、連中は「支える」なんてもんじゃありませんよ。ぶち壊しているんです。連中の方ですよ、気違いは。私が初めてここに来て、何にも知らないっていうのに、私を助けようともせず・・・
(右手の同じ扉から、ランドルフとハラルド、登場。心配して、急いで。しかし、人がいるので憚(はばか)って敷居の所に留まる。)
 ランドルフ 入っていいでしょうか。
 ハラルド いいですか、侯爵?
 ディ・ノッリ 入れ。しかし一体どうしたんだ。ここに来るとはどういうことだ!
 フリーダ ああ、私、怖い。私、行くわ。出て行くわ。
(フリーダ、左の扉から出ようとする。)
 ディ・ノッリ(強くそれを止めて。)駄目だ、フリーダ。
 ランドルフ(ベルトルドを指さして。)侯爵、この大馬鹿者は・・・
 ベルトルド(抗議して。)何を言ってるんですか。こんな話、聞いたことがありません。私は勤まりません、こんな仕事。私は辞めます。
 ランドルフ 何だって? 辞めるだと?
 ハラルド こいつのお蔭でぶち壊しなんです、侯爵。ここへ逃げ込んだりして・・・
 ランドルフ こいつのせいで王様はすっかりカンカンになったんです。もう王様をあの部屋に引き留めておくことは無理です。こいつを逮捕しろ、すぐに裁判にかける、と、玉座から命令したんです。どうしましょう。
 ディ・ノッリ すぐに扉を閉めて! 閉めるんだ、早く! 何をぐずぐずしている!
(ランドルフ、扉を閉めに行く。)
 ハラルド オルデュルフ一人では荷が勝ち過ぎです。王様を引き止めて置く仕事は。
 ランドルフ いい考えがあります、侯爵。今すぐ皆さんの到着を王様に伝えることにしたらどうでしょう。目先が変る筈です。どういう役柄で王様にお目通りになるか、それはもう、決まってお出でなのですね?
 ディ・ノッリ うん、それはもう決まっている。(ジェノーニに。)先生、今からすぐ、病人を診て戴けるんですね?
 フリーダ 駄目、私は駄目よ、カルロ。私は出る。もう帰る。ね、ママ、お願い。一緒に帰って。
 ジェノーニ ちょっとお訊きしますが、あの人はその・・・もう武器は持っていないんでしょうな。
 ディ・ノッリ 武器ですって? 飛んでもない。そんな。(フリーダに。)フリーダ、まずいよそれは。君、怖いことなんかないじゃないか。君は自分で来たいって・・・
 フリーダ 違うわ。私、そんなこと言わない。ママよ。ママが来たいって言ったんだわ。
 マチルド 私なら大丈夫。何でもやります。でも、実際には何をやればいいんですの?
 ベルクレディー 失礼ですが、我々が誰か昔の人間に変装しなければならないというのは、本気の話ですか? どうしても、なんですか?
 ランドルフ ええ、それはもう、どうしてもです。残念なことに、(扉の方を指さして。)あの方にはちゃんと目があって、私共を見るのです。(自分の衣装を指さして。)気をつけて下さい、皆さん。今着ていらっしゃるそのような現代の洋服を見ようものなら・・・
 ハラルド あの方は悪魔の変装だと思います。
 ディ・ノッリ この連中の衣装が我々には変装に見えますね? それと全く同様に、あの人には我々のこの服装が変装に見えるのですよ。
 ランドルフ 勿論、そう見えるだけのことならたいしたことはないのです。ですけど、あの方の場合、それは必ず、あの不倶戴天の、敵のまわし者だと思うのです。
 ベルクレディー 敵・・・つまり、法王グレゴリウス七世の?
 ランドルフ その通りです。あの方は、法王のことを「非キリスト教徒」だと言っているのです。
 ベルクレディー 法王が「非キリスト教徒」? これはいい。
 ランドルフ ええそうです。「非キリスト教徒」で、死者を蘇らせたりする。グレゴリウス七世はそういう悪魔的な術(わざ)を使うと言って責めています。こういう術に極端な恐怖を抱いています。
 ジェノーニ 「被害妄想」というやつですな。
 ハラルド 荒れ狂って手に負えなくなるのです。
 ディ・ノッリ(ベルクレディーに。)失礼ですが、あなたは立ち会われる必要はありません。先生が一人で診断なされば十分で、我々はみんなこっちに引込んでいましょう。
 ジェノーニ 何ですって?・・・私が一人で診ると?
 ディ・ノッリ(三人の若者を指さして。)一人じゃありません。連中がちゃんと・・・
 ジェノーニ いや、それじゃやはり、私一人ということになる。たしか侯爵夫人は・・・
 マチルド 勿論私、参りますわ。私、どうしてもご一緒に。私、あの人が見たいのです。
 フリーダ でもどうして? ママ。お願い、私ともう帰りましょう。
 マチルド(命令するように。)うるさいよ、お前。何のために私がここへ来たのか、考えたら分るでしょう。(ランドルフに。)私は皇帝の義理の母親、アデライーデになりましょう。
 ランドルフ それはいい考えです。皇帝の后(きさき)ベルトの母君ですね? それなら公爵位の冠を戴いて、今着ていらっしゃるものの上からすっぽりマントを被って下されば大丈夫です。(ハラルドに。)さ、ハラルド、衣装を!
 ハラルド 待って。(ジェノーニを指さして。)この方は?
 ジェノーニ えーと、こちらの話ではたしかクリュニーのヒューグ司教だとか・・・
 ハラルド つまり、クリュニーの大主教ですね? いいです、この人物なら。クリュニーのヒューグ大主教様。
 ランドルフ もうこの人は、何度となくここにやって来ていますから。
 ジェノーニ(驚いて。)何ですって? もう来たことがあるのですか?
 ランドルフ ご心配は無用です。このための変装は、慣れたものですから。
 ハラルド もう何度も、同じ衣装で試してあります。
 ジェノーニ しかし私は一度も・・・
 ランドルフ 人間の方は覚えていないのです。人間そのものより、その着ている着物に、より注意が向けられるのです。
 マチルド 私の場合にもそれは都合がいいわ。
 ディ・ノッリ フリーダ、僕らは行こう。さ、ティト、あなたも一緒に出ましょう。
 ベルクレディー いや。(マチルドを指さして。)あの人が残るんですから、私だって・・・
 マチルド あんたなんか、全く必要じゃないのよ。
 ベルクレディー 必要じゃないことぐらい、私にも分ってるよ。僕はあの男を、この目でしっかり見てみたいんだ。それは出来ない相談なのかな。
 ランドルフ いや、多分、二人よりは三人の方がいい筈ですね。
 ハラルド すると、・・・何者になさいます?
 ベルクレディー 何か簡単に変装出来る人物がいい。捜してくれないか。
 ランドルフ(ハラルドに。)それはクリュニーの僧がいいです。
 ベルクレディー クリュニーの僧? 何ですか? それは。
 ランドルフ クリュニー大主教のベネディクト派の僧服を着ればいいんです。大主教のおつきの者という役割です。(ハラルドに。)さ、早く衣装を。(ベルトルドに。)おい、お前は消えるんだぞ。今日一日、もう姿を現すんじゃない。いいな?(ベルトルドが行きかけると。)ちょっと待て。(こっちを向いたベルトルドに。)お前はハラルドが選んだ衣装を受取って、ここへ戻って来るんだ。(ハラルドに。)こいつに衣装を渡したら、すぐに陛下にお知らせしろ。アデライーデ公爵夫人とクリュニーのヒューグ大主教がお出でだとな。(ベルトルドに。)分ったな。
(ハラルドとベルトルド、右手の第一扉から退場。)
 ディ・ノッリ さ。じゃ、フリーダ、僕らは退散しよう。
(二人、左手の扉から退場。)
 ジェノーニ(ランドルフに。)その・・・陛下は、このクリュニーのヒューグ大主教なる私の役の人物に、好意を持っているんですな?
 ランドルフ ええ、それはもう、大変好意を持って。どうぞご安心下さい。ヒューグ大主教はいつでも、最大の敬意を払って応対されてきました。それからマチルド侯爵夫人、あなた様の役も全くご心配はいりません。法王グレゴリウス七世が、あの方、つまり陛下に会おうとなさらず、カノッサの城の外で、雪の中を二日間ほうっておかれた。陛下は寒さのため殆ど死なんとされていた時に、あなた様、そしてヒューグ大主教のとりなしによって、やっと謁見を許されたのです。それを陛下は忘れることがありません。
 ベルクレディー それで・・・私の役は?
 ランドルフ あなたですか? 少し下った場所に、尊敬の意をもって、じっと控えていて下さればいいのです。
 マチルド(苛々して。ひどく興奮して。)あんたなんか、帰ればいいの!
 ベルクレディー(低い声で。怒って。)そんなに興奮することはないだろう?・・・
 マチルド(大声で。)興奮ですって? 何を言ってるんです。私の勝手でしょう!
(ベルトルド、衣装を持って登場。)
 ランドルフ(それを見て。)ああ、衣装が来た。このマントが侯爵夫人のお召しになるものです。
 マチルド 待って。今この帽子をとるわ。
(脱いだ帽子をベルトルドに渡す。)
 ランドルフ(ベルトルドに。)それはあっちに持って行って。(マチルドに公爵位の冠を頭にのせる恰好をしてみせて。)私がお被せ致しましょうか?
 マチルド あらまあ、ここには鏡というものがないのかしら。
 ランドルフ あちらには沢山ありますが。(左手の扉を指さす。)ご自分でおやりになりますか?
 マチルド ええ、ええ。その方がいいでしょう。じゃ、行って来ます。すぐ終りますから。
(マチルド、自分の帽子をベルトルドから受取り、冠を渡す。ベルトルド、衣装と冠を持ち、マチルドの後に従って退場。その間、ジェノーニとベルクレディー、自分でなんとか、ベネディクト派の修道服を着る。)
 ベルクレディー 正直言って、修道僧の役を演ずることが、生涯にあろうとは思いもかけませんでしたね。しかし、考えてみるとこれは、随分金のかかる狂気と言えますな。
 ジェノーニ まあ、気違いというものは、どの道高くつくものではありますがね。
 ベルクレディー しかし特にここの場合、狂気を支えるために一財産つぎ込んでいるんじゃありませんか?
 ランドルフ 全くその通りなんです。あちらにある衣装箪笥には、当時の衣装でいっぱいです。昔のデザイン通り、完璧に仕立てるのです。これの係は私でして。ちゃんとした劇場の衣装係にしか作らせません。大変な支出です、これは。
(マチルド登場。冠を被り、衣装をつけている。)
 ベルクレディー(大きな声で。感心して。)おお、これはすごい。素晴らしい。王家に相応しい、堂々たるもんだな。
 マチルド(ベルクレディーの恰好を見て噴き出す。)あら、酷いわね、これは。駄目。駄目駄目。もう消えて! なんて恰好、これ。駝鳥が僧服を着てる図じゃないの。
 ベルクレディー じゃ、先生はどうなんだい。
 ジェノーニ そんな・・・私のことは放っておいて下さいよ。
 マチルド まあ! 先生はいいじゃないの。これはいいわ。・・・あなたよ、あなたが漫画なの。一目で噴き出しちゃう。
 ジェノーニ(ランドルフに。)それで謁見は・・・普通三人ぐらいづつなのか?
 ランドルフ 場合によります。誰々を呼べと、名指しで一人呼ぶ時もあります。すると、その役を演じて貰う人を捜すのです。時々はその・・・女を呼べと・・・
 マチルド(怯む。しかし、それを隠して。)ああ、女も・・・そう?
 ランドルフ ええ、一時期は・・・かなり頻繁に。
 ベルクレディー(笑って。)はっはっは、こいつはいい。勿論当時の扮装をさせる訳だ。(マチルドを指さして。)こんな具合にか?
 ランドルフ つまり、当時のその種の・・・
 ベルクレディー つまり、その種の服装をか。なるほど。(意地悪そうに。マチルドに。)気をつけた方がいいぞ。間違えられたら一大事。くわばら、くわばら。
(右手の第二扉が開き、ハラルド登場。皆に私語を止めるよう、慇懃な動作で指示。その後、厳かに宣言する。)
 ハラルド 皇帝陛下のおなり!
(最初に歩哨二人登場。玉座の両側に歩哨のいつもの位置につく。それからヘンリー四世、オルデュルフとハラルドをその後に従え、登場。五十に近い年。非常に蒼白い顔。首筋あたりの髪は、もう白髪。しかし額、それから正面のあたりの髪の毛はブロンド。染めてあるからであるが、その染め方はあまりの幼稚で、見え見えである。頬骨のあたりに紅を塗ってあるが、これもあまりに見え見えで、その顔色の蒼さとの対比が悲劇的にさえ見える。王としての衣装の上に、カノッサの時に身につけた懺悔服(麻で出来た粗末な布切れ)を重ねて着ている。一点を苦しそうに見つめるその目は、見る者に恐ろしさを感じさせる。身体の方は屈辱と後悔のみを表し、またその態度が、「このような卑下する態度を取っても何の報いも得られない」という感情を表しているので、一層悲劇的に見える。)
(オルデュルフは両手で王冠を持ち、ハラルドは鷲の彫刻がしてある王笏と、上に十字架のついている球、を持っている。)
 ヘンリー四世(まづマチルドの前にお辞儀。それからジェノーニに。)妃殿下・・・大主教猊下・・・(ベルクレディーを見て、これにもお辞儀をしようとする。が、その時までに、傍によって来たランドルフに、小声で、疑いを込めて。)これはピエール・ダミアンなのか。
 ランドルフ いいえ陛下、この方は大主教猊下おつきの、クリュニーの司教殿でいらっしゃいます。
 ヘンリー四世(再びベルクレディーを疑いの目でじろじろと見る。ベルクレディー、振り返って、マチルドとジェノーニに助けを求めるように見る。その様子を見て、姿勢を起し、叫ぶ。)これはピエール・ダミアンだ。(ベルクレディーに向って。)ダミアン殿、貴殿はアレクサンダー神父の命でここに来たのだな。いやいや、アデライーデ公爵夫人に口添えを頼もうと思っても、それは無駄というもの。(マチルドの方を向き、危険を払いのけようとするかのように。)どうぞご安心下さい、公爵夫人殿。あなた様の娘、私の妻ベルタに対する私の敵意はなくなりました。私の心はすっかり変ったのです。(ベルクレディーを指さして。)もしこのダミアンが、アレクサンダー神父の命を受けてここにやって来なかったとしたら、確かに私は、妻ベルタとの縁を切ったことでありましょう。この縁切りを望んでいた司教達は多かった。例えばマイヤンスの司教だ。縁を切れば、百二十の領地を提供しようとまで・・・(ランドルフを見て、叱られた子供のような表情を浮かべる。そしてすぐ付け加えて。)いや、ここは司教達の悪口をいう場ではない。(再びベルクレディーに。恭順な態度で。)ピエール・ダミアン殿、私はあなたに感謝する。信じて欲しい。本当に感謝している。この縁切りを止めようとわざわざ来てくれたことを。私の一生は、恥と屈辱の連続だった。まづ母親、次にアダルベール、それからトゥリビュール、それにゴスラー、最後にそら、この衣装、麻の懺悔服だ。(急に口調を変える。まるで括弧に入ったト書きを早口で言うかのような調子。)くだらん、こんなことは。大切なのは、役柄をはっきり掴むこと、洞察力、確固たる態度、そして敵の中にあって揺るがない忍耐だ。(それから、みんなに向き直って、重々しい後悔の念をもって。)私は私の過ちをいかにして償うべきかを知っている、ピエール・ダミアン殿。あなたに対してもだ。私はこの通り、恭順の意を表する。(ベルクレディーの前に深くお辞儀をし、その腰をかがめた姿のままで、じっとしている。そのうち奇妙な疑いが沸き起こり、その疑いが重く背中にのしかかってくる。そして、腰をかがめたのはこの疑いのためだったかのような気分になり、ついに、最初腰を曲げた時には思いもよらなかった、次のような言葉を、脅すように発することになる。)但し、一つ条件がある。もし次の噂があなたの口から出たものであるなら、私は恭順の意などもっての他ですぞ。私のあの立派な母、アグネスと、アウグスブルグのアンリ司教との間にいやらしい関係があったとの恐るべき噂だ。まさか、これを言いふらした張本人は、あなたではないでしょうな!
 ベルクレディー(ヘンリー四世が腰をかがめたまま、右手の人差指を自分の方に向けており、その姿勢を変えないので、仕方なく両手を胸にあて、その言葉を打ち消す。)いいえ・・・私ではありません・・・決して・・・
 ヘンリー四世(姿勢を真直ぐにして。)フン、あなたではない。・・・もしそうだとすれば、これはあなたにとりひどい汚辱ですからな。確かに。(暫くベルクレディーの顔を見た後。)なるほど、あなたに出来る代物でもあるまい。(ジェノーニに近づき、いたずら好きの目付きで目配せをして、その袖を引き。)何時でも「奴等」ですな。「奴等」と相場は決まっているんです。そうですな?
 ハラルド(溜息と一緒に低い声で。プロンプターが台詞を教えるように。)そうです、強欲な司教の連中が・・・
 ジェノーニ(ハラルドに。自分の役目をまっとうすべく。)そうです、いつも連中です。いつも・・・
 ヘンリー四世 全く連中のあのあくなき強欲・・・私はただの子供だった。可哀相に・・・知らぬまま王にさせられていたのですが、大主教殿、あの年では遊びに夢中になるのは当然のこと・・・私は六歳でした。連中はこっそり私を母から引き離していたのです。私をだしに使い、母を悪者にし、私の陰で王家の権利に穴をあけ、あらゆるものを汚(けが)し、盗みたいだけ盗んだ。われがちにです。ハノンはエチエンヌに負けじと、エチエンヌはハノンに負けじと・・・
 ランドルフ(小声で、「この場をお弁(わきま)え下さい」と言うように。)陛下・・・
 ヘンリー四世(すぐに気付いて。)そうだ、お前の言う通りだ。ここは司教達の悪口を言う場ではない。・・・しかし大主教殿、母に関するこの中傷たるや、正に限度を越えたものだったのですぞ!(マチルドを見る。憤慨が収まり、気持が優しくなり。)公爵夫人殿、私は母のために涙を流すことさえ出来ないでいるのです。あなたは母親の気持がどのようなものか、ご存知の人だ。ですから私は敢てあなたに申し上げるのです。およそひとつき前のことでした。母は修道院からわざわざ出て来て、私に会いに来てくれました。それから母は亡くなったという話です。(長い間。重苦しい雰囲気。それから突然、悲しそうに微笑んで。)母のことを今泣いてやる訳にはいきません。何故なら、皆さんがいらっしゃる訳ですからね。それに私だってこんな服装・・・喪服ではありません、これは懺悔のための衣装。(自分の懺悔服を見せる。)ということは、私は今二十六歳だということです。
 ハラルド(小声で。慰めるように。)ということはつまり、母君、皇太后陛下はまだ生きていらっしゃるということです、陛下。
 オルデュルフ(ハラルドと同様に。)今現在、ちゃんと修道院にいらっしゃるのです。
 ヘンリー四世(二人を見るために振り返って。)そうだ。だから私は母の喪に服するのはまだ将来に延期出来るのだ。(マチルドに。自分の染めた髪の毛を見せる。マチルドの歓心を買おうとするかのように。)ほら、見て下さい。まだ白くなっていない、ブロンドの髪です。(それから小声で。秘密を打ち明けるように。)あなたがいらっしゃると知って、染めたのです。私自身のためなら、白髪だろうと、ブロンドだろうと、構いはしませんからね。しかし、外から見た姿が大事な場合があります。そうですな? 大主教殿。時の経過を計るもう一つの言葉とも言えますからな。(マチルドに近づき。その髪を見て。)ああ、公爵夫人殿、どうやらどうやらあなたもですな?(マチルドに目配せする。手で「染める」動作をして見せて。)いやいや、女性ですからな。イタリア風、イタリア風・・・(「インチキをしている」という風な言い方。但し全く意地悪の気持なし。それどころか、「たいしたものだ」という感嘆の表情。)これが他人を欺こうとしているから不快になる? 驚く? とんでもない。軽い装(よそお)いの気持ではありませんか。誰だって、あの運命の力・・・年齢を背負わせるあの目に見えない運命の手を、認めたくはないのです。我々の意志ではどう動かすことも出来ないのですからな、この手は。どうせ人は、生まれてくれば死ぬのです。生まれる・・・大主教殿、あなたはこれを望まれましたかな? 生まれてよかったと?・・・私は違います。生まれる・・・死ぬ・・・この我々の意志とは無関係なこの二つの出来事の間に、何て色々なことが起きるのでしょう。そしてそれらは全て、我々が心から起きて欲しくないと願い、起きてしまえば仕方がないと諦める、そのようなものばかりなのです。
 ジェノーニ(何かを言わねばならにと感じて、相手をじっと観察しながら。)そうです。全く!
 ヘンリー四世 そう。諦めるしかない。でも、もし諦めなかったら・・・気まぐれな気持が湧いてくるのです。女の人なら「ああ、男に生まれたかった」・・・年寄りなら、「ああ、もう一度若返ってみたい」・・・そして、この気持だって本物なのです。嘘をついたり、ふりをしているんじゃない。誰からも後ろ指をさされるようなものではありません。だから、この気まぐれによって、自分に都合のよい自分の姿を勝手に拵えても、やっぱりそれは本物なのです。ほら、皆さんだって、そこでしっかりと両足を踏ん張って、立っていらっしゃる。両手を着物にあてて、堂々と。それも本物なのです。しかしその本物のあなた方の姿から、自分でも気付かない間に、何かがそーっと取れて行っている・・・何かがすーっと逃げて行っている・・・捕まえどころなく、まるで蛇のように。命です、逃げているのは。そしてその逃げて行った命が、あなたの目の前で形を作る。あなたはそれを見る。見たあなたはどんなに驚くことか。怒りを、そして悔恨の情を込めて、それはあなたを見つめるのですから。ああ、この過去の悔恨の情が私を見る目付きと言ったら。それは確かに私の顔です。私には違いありません。でも私にはあまりに恐ろしく、まともにそれを見つめることは出来ない。(マチルドに近づき。)あなたにはそういうことはありませんか? 過去のあなたの顔はいつも同じ顔であなたの目の前に現れるのですか? ああ、でもあの時、あの時どうしてあなたは、あんな顔が出来たのです。どうしてあんなことが・・・(ヘンリー四世、しっかりとマチルドを見据える。マチルドが怯(ひる)むほど。)そう、まさしく「あの時のこと」です。私が何のことを言っているのか、分っていますね? ああ、大丈夫、ご安心下さい。誰にも言いはしません。(ベルクレディーの方を向いて。)しかし、ピエール・ダミアン殿。一体あの男はあなたの友達と言えるのですか? 例のあの・・・
 ランドルフ(大きな声で。)陛下!
 ヘンリー四世(こちらも大きな声で。)大丈夫だ。名前は言わぬ。言えばあの男を怒らせることになるからな。言いはせん!(ベルクレディーの方を向いて。全く気楽な調子で。)例のあの男です。どういう意見だったのです? あの男に対しては。・・・しかし我々はみんな、一度自分で形づくった考えは、他の誰がどんなことを言っても、変えようとしないものですからな。
 髪の色と同じです。年取ってからも、元の色がいいと、染めたりするのですから。みんな自分の納得のため、自分を騙すためです。あなた方が私のこの染めた髪を見て、「何だあれは。偽物じゃないか」などと思っても、そんなことは問題じゃありません。・・・でも公爵夫人、あなたが髪をお染めになる。それは自分を騙すためでもありませんね。勿論他人を騙すためでもない。ええ・・・ほんのちょっと・・・すこーしだけ・・・写った鏡の姿を騙したいのです。だからあなたのは真面目、私のは冗談。でも、いくら真面目におやりになっても、それが仮装であることには変りありませんからね。 いえいえ、「仮装」と言ったって、別にその高貴な冠、公爵位を表わすその衣装を言っているのではありません。それは本物だ。だからこそ私は恭しく腰をかがめるのです。
 髪。私が髪のことを何故「仮装」と言うか。それは、あなたの現在ではない、過去の思い出だからです。過去の思い出・・・それはブロンドだったかも知れない・・・あなたが心から気に入っていたブロンド・・・或はブルネットだったかも知れない・・・あなたの青春の消え行く思い出のブルネット。思い出が現在に生きているのです。
 あなたの場合は逆だ、ピエール・ダミアン殿。あなたの昔の姿、あなたがかって行ったこと、それは全てあなたには夢と同じでしょう。つまり、過ぎ去ってしまい、ただその痕跡が自分に残っている、それを認識するだけ。現在には生きていない。
 私も同じ・・・過去は夢だ。だから過去の出来事はつじつまが合わない。どの出来事を見ても。ああ、そんなことは当たり前だ。そうですね? ピエール・ダミアン殿。今私達がここにいる、このことだって明日になれば夢なのだ!(突然かっとなって、着ている懺悔服を握り締め。)こんな懺悔服など!(狂暴とも言える狂喜の表情で、乱暴に懺悔服を引き千切って脱ごうとする。驚いたハラルドとオルデュルフがそれを止めようと駆け寄る。)ええい、糞っ!(後ろに下がり、二人をよけて、懺悔服を脱ぎ、二人に叫ぶ。)グレゴリウス七世など、正統な法王ではない。偽の僧侶に過ぎん! あいつは免職だ。明日司教二十七名を伴って、私はブレッサノンに乗り込み、免職の署名を行ってやる!
 オルデュルフ(他の二人もヘンリー四世を宥(なだ)めて黙らせようと。)陛下、どうかお静まり下さい。陛下!
 ハラルド(ヘンリー四世に懺悔服を着るよう促しながら。)どうかお言葉にお気をつけになって!
 ランドルフ 大主教猊下と公爵夫人様がいらして下さっているではありませんか。それは他でもない、とりなしの労を取って下さるということ・・・
(ランドルフ、そう言いながら、こっそりジェノーニに、何でもいいから何か言って欲しいと手まね。)
 ジェノーニ(狼狽して。)そう、そうです・・・私達はそのとりなしを・・・
 ヘンリー四世(すぐに自分のしたことを後悔し、また恐れて、三人の小姓が懺悔服を頭から被せるのに任せ、痙攣するように自分の身体にその布を引き付けながら。)失礼した・・・実に・・・実に失礼を・・・大主教殿、公爵夫人殿、どうぞお許し下され。・・・破門の重荷を心から・・・心から感じております。どうぞ、どうぞ、宜しくおとりなしを・・・
(腰をかがめて、両手で頭を抱える。まるで何かが自分を押しつぶすのを予期して、それに具えているように。暫くそのままの姿勢。ややあって、全く別の声の調子で、但し、姿勢はそのままで、低い声で、三人の小姓に、こっそりと。)
 ヘンリー四世 今日はどうしたことだ。私は謙(へりくだ)った気持になれないでいる。あの男を前にするとどうしても。
(ヘンリー四世、こっそりとベルクレディーを指さす。)
 ランドルフ(小声で。)陛下、それは当たり前です。あの人のことをピエール・ダミアンだと思い込んでおしまいになったからです。あの人は違います。ピエール・ダミアンではないのです。
 ヘンリー四世(下の方からベルクレディーを覗きこみ、疑わしそうに。)違うだと?
 ハラルド 違います陛下、一介の修道士の方ではありませんか。
 ヘンリー四世(悲しそうに。しかし声にはまだ苛立ちが残っている。)全く、人間が衝動的に事を行うと何をやりだすか知れたものではない。公爵夫人殿、あなたにはこの辺のことがよくお分かりでしょう。女性ですからね。
(ピランデルロ原註あり。「以下の二十数行は劇のスピーディーな進行のため、上演時には省略すべし」と。)
 衝動的に事を行うということが、いかに危険であるか、それをお話しましょう。今この瞬間は、実に決定的とも荘厳とさえ言えるものです。いいですか、私が今こうやって話している間にも、私はやろうと思えば、ロンバルディアの司教達の支持に同意し、法王グレゴリウス七世を、城ごと攻囲することが出来るのです。彼を虜にし、ローマに走り、新しい法王をたて、ロベール・ギスカールと手を握るのです。グレゴリウス七世はこれで終です。しかし、私はこの挙に出ない。この誘惑にぐっと耐えています。信じて下さい。私のこの決心は正しいのです。私は今のこの時代の風潮を敏感に感じとっている。そしてこの法王グレゴリウス七世の真の偉大さを知っているのです。このような屈辱的な決心をしている私を、みなさんは笑いますか? 笑うとすれば、そちらこそ馬鹿なのです。それは私が今、このような懺悔服を身につけている、その政治的な知恵が分っていないということなのです。いいですか? 明日、法王と私が、その役割が逆になったとしましょう。明日法王が囚人服を着ている。みなさん、法王のことを笑いますか? 笑うとすれば馬鹿なことです。法王も私も、演ずる役柄が違うだけ。結局はお互いさまなのです。今日は私は懺悔服の仮面のもと、明日は法王の方が囚人服の仮面のもと。真に哀れむべき人間とは、自分の役柄を弁(わきま)えない人物、仮面の被り方・・・その仮面が、国王であろうと法王であろうと・・・その被り方を知らない人間をいうのです。まあ、現在法王は、その仮面を被っているにしては、少し残酷過ぎるとは言えますが。
(ピランデルロの原註で省略すべしとあるのは、ここまで。)
 ヘンリー四世(マチルドの方を向いて。)そうでしょう、あなたの娘ベルト、私の妻ベルトは今、・・・そう、私はさっきも言いました。繰返し言いますが、私のベルトへの考えは今ではすっかり変っています・・・(突然ベルクレディーの方を向いて、その顔に叫ぶ。まるでベルクレディーがそれに反対しても、自分の気持は変らないと言わんばかりに。)そうだ、変っているのだ! あのベルトが、この私の困難な事態に対処するため、愛情と献身の情をあれほどまでに示してくれるとは!(言い止む。怒りのために我を忘れそうになる。その自分を抑えようと懸命になり、咽喉から苛立つ唸り声が出てくる。それから再びマチルドの方を向き、優しい、そして苦しい謙(へりくだ)りの気持をもって。)ベルトは私について来てくれたのです。今下に、中庭にいます。乞食同然、薄着のまま・・・私を救おうと。どうしても来ると言って聞かなかったのです。雪の降る戸外で、丸々二晩・・・あれは寒さに凍えています。あなたはあれの母親です。娘が可哀相ではありませんか。どうか(ジェノーニを指さして。)大主教と二人で、法王にとりなしを・・・私の法王への謁見が可能となりますように・・・
 マチルド(震え声で。ほとんど聞きとれぬ呟き。)ええ、ええ。勿論。・・・すぐに・・・
 ジェノーニ 私達がここに来たのはそのためなのですから・・・
 ヘンリー四世 もう一つ、もう一つ言わなければならない事が。(自分の傍にみんながやって来るよう手招きして集め、秘密を打ち明けるように、小さな声で。)謁見を賜るだけでは実はすまないのです。ご存知でしょう? 法王は「何でも」出来る。そう。「何でも」です。死者を蘇らせることだって!(自分の胸を叩いて。)私です、例えば! 御覧なさい。あの人に出来ない魔法など、何一つない。いいですか皆さん、私への罰は、この身体・・・(ヘンリー四世の肖像画を恐ろしそうに指さして。)いや、あれと言った方がいい。私はあの魔法から逃れられないでいるのです。御覧の通り私は謹慎の生活を送っています。法王の謁見を賜るまでは、必ずこれを続けるでしょう。それは誠実に、必ず。お二人のとりなしのお蔭で破門の罪が許され、私はこの謹慎の生活が解かれたとしましょう。でも、それだけでは足りないのです。もう一つ、もう一つ別のことをお願いして戴きたいのです。(また肖像画を指さして。)あの牢獄から私を自由にして戴きたいのです。私は自分の人生を生きたい。たとえそれがどんなに惨めな人生であろうと。私はその自分の人生から、締め出されているのです。二十六歳からどうしても抜け出ることが出来ないとは一体どうしたことでしょう。どうかこのことを法王に・・・そしてあなたの娘さんのためにも公爵夫人殿、どうか・・・娘さんが私に示してくれた、あの深い愛情。私は心から打たれました。その愛情に応えて、私はあれを愛したい。あれに対する私の気持はすっかり元に戻っているのです。お二人のおとりなしにより、この願いが叶いますように。私の身はそっくりお二人のその手の中に。(腰をかがめて。)では公爵夫人、大主教殿!
(ヘンリー四世、腰をかがめたまま、右の第一扉から退場しかける。ベルクレディー(彼は三人でしていた話をよく聞こうと前に出ていたが、この時)が、舞台奥の玉座の方に目をやったのを見て、王冠を盗もうとしているのだと判断し、走って舞台奥に行き、王冠を懺悔服の中に隠す。全員、これを見て呆気にとられる。ヘンリー四世、唇と目に狡い笑いをいっぱいに浮かべ、再び二、三回腰をかがめてお辞儀をし、退場する。マチルドはあまりに動揺し、ほとんど倒れるようにベンチの縁にくづおれる。)
                     (幕)

     第 二 幕
(別荘の別の部屋。玉座に隣接する部屋で、古めかしく、荘厳にしつらえてある。右手に教会の合唱団の立つ台のような、手すりつきの壇(高さ約五十センチ)あり。その前面に壇に上るための二段からなる階段。壇の上には、テーブルと五個の古くていかめしい椅子。椅子の位置は、一個が奥に、二個づつその両脇に。主要な扉は舞台奥。左手に庭に面する二つの窓。右手に玉座に続く扉。同じ日の午後遅い時間。)
(マチルド、ジェノーニ、ベルクレディー。男二人が話の最中。マチルドは少し離れた場所。マチルドはふさいでいる。二人の会話に苛々している。しかし聞かずにはいられない。彼女には、やってみたい計画があって、それを実行するための細かい部分も考えなければならないので、この際会話など聞いていられる場合ではないのだが。それでも聞かずにはいられない。苛々しながらも二人の会話を聞くのは、実は彼女自身も何か支えが欲しいからである。)
 ベルクレディー ええ、ええ、それは先生の仰る通りかも知れません。でも私の印象は先ほど申し上げた通りでして。
 ジェノーニ それに反対している訳ではありませんよ、私だって。しかし、ただ、ご自分でも仰っておられるように、それは「印象」に過ぎない訳ですから・・・
 ベルクレディー いやしかし、自分でちゃんとそう言っているんですよ、あの男は。「印象」だけじゃありません。(マチルドの方を向いて。)たしかにそう言いましたね? 侯爵夫人。
 マチルド(上の空。振り向いて。)何て言ったですって?(賛成せず。)ああ・・・でも、そう言ったのは、あなたの言う理由からじゃないわ。
 ジェノーニ あの人には、私達の変装を見破っているような口ぶりがありました。(マチルドを指さして。)「奥様のマント、我々のベネディクト修道僧の服装」、その言い方に何か子供っぽいところが・・・
 マチルド(怒って。再びこちらを向いて、強い口調で。)子供っぽい? どうしてそんなことを仰るんです。
 ジェノーニ でも確かに子供っぽいところが一面ありました。まあ、ちょっとお聞き下さい。一面子供っぽいところがあっても、これは実は非常に複雑なものを含んでいるのです。
 マチルド 私にはその反対に、簡単そのものに見えますけど。
 ジェノーニ(専門家がその素養のないものに対して浮かべる独特の微笑で。)まあ、こういったことの理解には、どうしても気違いの心理学を学ぶ必要があるのですが・・・どうぞ私の話を聞いて・・・いいですか? 気違いというものには特別な感覚があって、自分の前にいる人間の正体をすぐ見抜いてしまうのです。即ち、その人間の変装をすぐ見破ってしまうということです。しかし、たとえ見抜いてもそれを変装した方の人間として受取ってくれる。つまり、子供はよく、遊びと現実をごっちゃにしますが、それです。私が今、「子供っぽい」という言葉を使ったゆえんです。しかし同時に、複雑でもある。あの肖像画(隣の部屋にある絵の位置と同じ場所を指さし、それと分るようにして。)が、自分と同じものであると意識している様子ですからね。単なる絵画としては受取っていないようです。
 ベルクレディー そう。確かにそう言っていました。
 ジェノーニ そうでしょう! さて、彼のイメージがあそこにある。そしてその前方に別のイメージがある。即ち、我々のイメージです。いいですね? すると、彼の狂気の中では・・・この狂気は鋭く、また明晰なものなのですが・・・この二種類のイメージは明らかに異っている。彼のイメージ、即ち「絵」と、我々のイメージ、即ち「変装した我々」の差は、彼にとって明らかなものです。つまり、我々のイメージに何かしら嘘を感じるのです。そして彼は用心する。気違いというものは、必ず用心で身を固めています。何か怪しい、何か怪しい、といつもピリピリしているのです。ですが、とにかくそれだけのことです。我々は彼の遊びの中に入ろうとした。しかし彼にはそれが、同情してやれるほどには真面目なものに見えなかった。だから逆に彼の方から、これは遊びだと我々に示そうとしたのです。我々に挑むように。それほど気違いの用心は完璧に出来ている。お分りですか? ですから、彼が遊びだと主張すればするほど、我々には悲劇に見えて来る。そうです。遊びだと我々に示そうとしたのです。出て来る時からしてそうではありませんか。こめかみの所の髪を染め、頬には紅を塗って、おまけに口でもはっきり言っている、「あなたがいらっしゃると知って、染めたのです」と。
 マチルド(再びかっとなって。)違います先生、それは。全く大間違いです、そんなこと!
 ジェノーニ 何故です。どこが違うというのです。
 マチルド(はっきりと。震える声で。)あの人は私のことが分ったんです。私が誰か、はっきりと。
 ジェノーニ そんな・・・無理です、それは。あり得ません。
 ベルクレディー(同時に。)馬鹿なことを! 何てことを言うんです。
 マチルド(もっと強く。我を忘れて。)私が誰か分ったのです。あの人が私のすぐ傍に来て、私の目をじっと見た・・・ええ、じっと私の目の奥まで。そして誰か分ったのです。
 ベルクレディー でも彼は終始あなたの娘のことを話していたんですよ。あなたについてじゃなく・・・
 マチルド いいえ、あれは私のこと。私について話していたんです。
 ベルクレディー そりゃ確かに、あんたの髪のことは・・・
 マチルド(非常に強く。自尊心を捨てて。)そう。私の髪のことを言った。そしてすぐ付け加えて言ったでしょう。覚えていますね。「或はブルネットだったかも知れない・・・あなたの青春の消え行く思い出のブルネット」と。私が昔どうだったかを思い出したからです、あれは。私の髪はブルネットだったんですからね。
 ベルクレディー 思い出した? 飛んでもない。違いますよ。
 マチルド(ベルクレディーを無視して。ジェノーニに。)先生、本当にブルネットだったのです、私の髪は。娘の髪と同じ。だから娘のことを話し始めたのです。
 ベルクレディー 娘のことを話し始めた? 馬鹿な。あの男はフリーダを見たこともないんだぞ。
 マチルド 当たり前でしょう! 何も分っていないのね、あんた! あの人はフリーダにかこつけて、私のことを話していたんじゃないの。私があの頃どうだったかを!
 ベルクレディー おやおや、気違いってのは伝染しやすい。
 マチルド(低い声で。軽蔑的に。)何が伝染よ。何も分っちゃいない癖に。
 ベルクレディー だいたいあなたのことを話すと言ったって、あなた、あの人の妻だったことがあるって言うんですか? 気違いの理解であの人は、あなたの娘スューズのベルト、つまりあの人の妻のことを話していたんですからね。
 マチルド だから、その「私」のことを話しているのではないというのは、それでいいんです。その「私」っていうのは、ベルトの母親、つまりあの人の妻の母親、もうブルネットの髪ではなく、ブロンドの髪、の「私」。つまり、アデライーデのことを話しているのではありません。だけど、あの人はフリーダのことも話しているのではない。フリーダを見たことはないんですからね。あなたもちゃんとそう言ったでしょう? だからあの人が「昔ブルネットだ」と言えば、それは私のことなのです。
 ベルクレディー 何を言っているんですか。あの人が「ブルネット」と言ったのは、一般的な話として出しただけのことです。女の人がいる。昔ブロンドかブルネットだった。とにかく昔の自分の姿を保っておきたい。だから昔ブロンドだった人はブロンドに、ブルネットだった人はブルネットに染めるのだ、と。その単なる例としてブルネットが出てきたんだ。すぐそれが自分だと思い込む。想像に走り過ぎだよ、いつものように。先生、全くこれで、私がここへ来るべきじゃなかったなんて言うんですからね。来るべきじゃなかったのは、この人の方ですよ。
 マチルド(ベルクレディーの言葉にちょっと納得する所あり。暫く怯む。少し考えるが、再び反撃。少し苛々も含まれている。何故ならさっきほど自信がないから。)違う。違います。あの人は私のことを話していたんです。・・・そう、私のことばかり。他の話はなかった。ずっと私の話だけ・・・
 ベルクレディー これは驚いた。あの人はこの私に一瞬たりとも休む暇を与えませんでしたよ。私は息もつげない程緊張させられました。その間にも、あなたのことを話していたっていうんですかね。そうです。ピエール・ダミアンと話している時にもあなたのことを仄めかしていたとでも?
 マチルド(挑むような顔。虚飾をかなぐり捨てて。)そうかも知れないでしょう? 誰に分るって言うの。あの人、一目あなたを見た時から、あなたに反感を持ったのよ。最初の一目からね。これが違うって言える? それにその理由は単純そのものでしょう?
(この口調からして、「あなたが私の愛人だと分ったから」が、その答であることは明らか。ベルクレディーにもそれはすぐ分る。従って、何も言えない。唇に薄笑いを浮かべるのみ。)
 ジェノーニ(マチルドとベルクレディーに。)失礼ながら、その反感の理由ですが、別室で予め知らせてあった訪問客は二人だけ。つまり、アデライーデ公爵夫人とクリュニーの大主教です。予め知らされていない三人目の人物は、どうしても怪しむことになるのでは・・・
 ベルクレディー そうですよ。それです。その怪しみが彼に、自分の敵のことを思い出させた。つまりピエール・ダミアンです。でも、この人の言う一瞬の認知・・・つまり、一瞬はっきりと彼はこの人が分ったという話ですが・・・
 マチルド それは疑う余地がありません。あの人の目がはっきりとそれを。あんな風に人を見る時って・・・間違う訳がありません。それは確か。でも続かなかった。一瞬の出来事だったのです。
 ジェノーニ 一瞬といえどもこれは見逃す訳にはいきません。大事です。一瞬の正気・・・覚醒・・・
 マチルド ええ、そうかも知れません! それから、あの人の言ったことは、全部引っ括(くる)めてたった一つのこと、つまり、私の、そして、あの人の青春が無駄に失われたことを嘆いていた。つまり、あの人に恐ろしい事が起り、あの人はあそこ・・・あの状況・・・あの仮面・・・から、抜け出ることが出来ないでいる、本当は何とかして自由になりたいのに、と。
 ベルクレディー そう。あなたの娘を愛することが出来るように、と。いや、あなたの意見によれば、あなたを愛することが出来るようにと、ということになりますか。とにかく、あなたの彼への同情が効きましたよ。
 マチルド ええ、同情しましたとも! 本当に、心からね!
 ベルクレディー ええ、同情はよーく見てとれましたよ、アデライーデ公爵夫人。その大きな同情のお蔭で、あとちょっと魔法をかけさえすれば、奇跡は必ず成就するという訳です。
 ジェノーニ(二人に。)ちょっと一言、いいでしょうか。私は医者です。魔法を使うのではありません。奇跡を行おうというのでもありません。私は今日、彼が言ったことを非常な注意を払って聴いたのですが、これだけははっきり繰り返して申し上げます。気違いには一般に、類似化機構というものがあって、これが自分を誰か別の人間に見立てさせるのですが、この機構が、彼の場合著しく・・・どう言ったらいいか・・・その柔軟性を失ってきている。つまり、狂気を構成している要素がもはや確固としたものでなくなっているということです。私の印象ではもはや、自分がそうであると見立てている人間の人格と、平衡状態を保つことが難しくなっている。それも、さっき話の出た、突然の記憶の戻りが原因と思われますが、これは実によい徴候です。彼のあの沈思の状態は、無関心の初期状態ではなく、反省的メランコリーに身を任せている状態であると診断出来、これは即ち大脳の活発な働きを証拠立てています。繰返しますが、これは実によい徴候です。従って、我々は今、かなりな荒療治を計画していますが、それを実行に移せば・・・
 マチルド(窓の方を見て、病人が自分の病気を嘆いているような声で。)でも、どうして車がまだ帰って来ないんでしょう。もう三時間半たっている・・・
 ジェノーニ(びっくりして。)何と仰いました?
 マチルド 車です、先生。もう三時間半たっているのに、まだ・・・
 ジェノーニ(懐中時計を取り出して見て。)なるほど、四時間以上ですな。
 マチルド 三十分以内であちらには着いている筈。すると、またいつものように・・・
 ベルクレディー いや、衣装が見つからないのかもしれない。
 マチルド(苛々が高じてきて。)だって、あれだけきっちりと、ある場所を教えたのに! むしろフリーダに行かせた方が・・・あの子は今どこです。
 ベルクレディー(窓に寄り掛かるようにして。)庭ですよ、きっと。カルロと一緒に。
 ジェノーニ 侯爵は多分、フリーダに、怖がることはないからと、色々話してやって・・・
 ベルクレディー 違いますよ、先生。フリーダはちっとも怖がってなんかいません。こんな話にうんざりしているだけですよ。
 マチルド 先生、お願いですから、あの子には私以外の人が頼むようにして下さいよ。私は厭です。あの子を知っていますから。
 ジェノーニ 辛抱強く、ここは待ちましょう。一瞬ですむことですからね。それに、どうせ夜中です、実行するのは。そしてもし、お話しましたように、この荒療治によって彼を揺さぶることが出来たら、つまり虚構の世界に彼を結びつけている絆(きづな)をたち切り、彼自身が要求していたものを与えることが出来れば・・・彼ははっきり言いましたからね、「二十六歳からどうしても抜け出ることが出来ないとは一体どうしたことでしょう」と。・・・彼の要求、即ち、「永遠の二十六歳」からの脱却ですが、それを与えることが出来れば・・・。即ち、一言で言えば、この荒療治の一瞬の間に、彼に時間の隔たりの感覚を与えることが出来れば・・・
 ベルクレディー(強く。)彼は治る!(それから、皮肉に一語一語切りながら。)いや、我々は、彼を狂気から解き放ってやれるのだ。
 ジェノーニ そう。我々は長い間動かなかった時計を動かそうとしているのです。片手に時計を握って、再びチックタックと音が出るのを待っている。・・・さあ、そこで一つ大きく揺すってみます!・・・時計は音をたててくれるでしょうか。そして同時にその時計の針が突然現在の時刻を指してくれるでしょうか。
(カルロ・ディ・ノッリ、奥の扉から登場。)
 マチルド ああ、カルロ・・・フリーダは? 今どこ?
 ディ・ノッリ 私の後から。もうすぐです。
 ジェノーニ 車は来たのですか?
 ディ・ノッリ ええ。
 マチルド あら。それで衣装は持って来たの?
 ディ・ノッリ もう随分前に着いています。
 ジェノーニ ああ、それは良かった。
 マチルド(震え声で。)それで、あの衣装は? どこにあるのです? 今。
 ディ・ノッリ(肩を竦める。仕方なしの微笑。嫌々ながら、意味のない冗談に付き合わされているという表情。)ああ・・・衣装も来ますよ。(奥の扉を指さして。)ほら・・・
(奥の扉からベルトルド登場。敷居の所に立ち、厳かに宣言する。)
 ベルトルド 妃殿下、カノッサのマチルド侯爵夫人のおなり!
(すぐにフリーダ登場。絢爛たる美女ぶり。「トスカナのマチルド侯爵夫人」の衣装。母親が仮装の時に着たもの。玉座の肖像画に生写し。)
 フリーダ(お辞儀をしているベルトルドの傍を通る時、傲慢に、軽蔑するように。)カノッサじゃないの。トスカナのマチルドよ。カノッサは沢山あるうちの一つの城。トスカナのマチルド!
 ベルクレディー(感心して。)フーム、こいつは驚いた。全く誰かさんの引き写しだ。
 マチルド そう。私の。まあ、何てそっくり。・・・動かないで、フリーダ。・・・ね、先生、あの肖像画の私にそっくりでしょう?
 ジェノーニ ええ、ええ、完璧です、これは。あの肖像画の生写しです。
 ベルクレディー ウーン、これは文句のつけようがない・・・全く肖像画通りだ。言うことなしだぞ、本当に。
 フリーダ 笑わせないで。私、噴き出してしまいそう。でもママったら、昔ずいぶんウエストが細かったのね。これを着る時、締めて締めて、私、死にそうだったわ。
 マチルド(衣装をあれこれ直してやりながら。胸がいっぱいになって。)待って、動かないで。・・・この襞(ひだ)・・・お前、そんなに締めたの?
 フリーダ 息が詰まりそう。早くして貰わなくちゃ、私、死にそう。
 ジェノーニ でも、夜中になってからですよ。夜中まで待って下さらないと。
 フリーダ 夜中なんてとても無理。そんなに私、もたないわ。
 マチルド どうしたの? 一体。こんなに早く着てしまって。
 フリーダ これを見たら、もう着てみたくてたまらなくなって・・・
 マチルド 私を呼んでくれればよかったのに。着付けの手伝いが出来たのに・・・あらあら、ここにまだ皺がある。
 フリーダ その皺、ちゃんと見たわ。でもずっと前からのもの。取るのは大変なのよ。
 ジェノーニ それぐらい何でもありません、侯爵夫人。幻影には十分です。(マチルドに近づき、娘から少し離れて立つよう導いて。)いいですか? もう少し離れて・・・ええ・・・もう少し・・・あ、ちょっと行き過ぎ・・・
 ベルクレディー 二十年の隔たりを、距離で表わす。つまりこれが・・・これになるか。(フリーダを指し、次にマチルドを指す。)
 マチルド(微かにベルクレディーの方に顔を向け。)二十年後の女・・・悲劇ね。
 ベルクレディー そんなことを言ってるんじゃない。大袈裟な。
 ジェノーニ(困って。)いや、私はただ・・・私は、この衣装がその・・・
 ベルクレディー(笑って。)でも先生、この衣装のことを考えて距離を計るとなったら、二十年では効きませんよ。八百年ですよ。深い深い深淵がここに横たわっているんです。彼にこの淵を本気で飛び越させるつもりなんですか?(フリーダからマチルドを指さして。)あそこから、こっちへ? 彼は木っ端みじんですよ。かけらを捜して集めるのに籠がいりますよ。よく考えて下さい、みなさん。私は真面目に話しているのです。あの衣装、それに例の仮装行列、我々にとっては二十年です。しかし、彼にとっては、先生の仰った通り、時間は止まっているのですからね。もし彼があの子と(フリーダを指す。)生きていたとすれば、八百年です。彼にやらせようとしているこの跳躍は、目の眩むようなものではありませんか。とてもこちらまでは無理・・・
(ジェノーニ、指で「違う」という印。)
 ベルクレディー 違うと仰るのですか?
 ジェノーニ 違います。無理ではありません。人生は粉々にはなりません。置き変るのです。あの人の場合ですが、この我々の生活が、あの人にとっても現実になるのです。そしてそれも、一瞬のうちに。あの荒療治により、八百年は瞬く間に二十年になり、そして現在に飛び込んで来るのです。そうです。これに似た儀式がフリーメイソンにありますね。空中を飛ぶと、それが世界のひとまたぎ
になるという。しかしあれだって、数十センチの跳躍に過ぎません。
 ベルクレディー そうか、時間をまたぐ、そのことによって進むのだ。これはえらい発見だぞ。そうだ、見て下さい、フリーダとその母親を。どちらが進んでいると仰いますか? それは親、つまり我々年寄りの方です。若いものは自分達の方が、なんて思っているでしょうが、間違いです。過ぎ去った時間の分だけ、我々が先に進んでいるのですからね。
 ジェノーニ その、過ぎ去った時間が我々から逃げ去っていなければ、の話ですがね。
 ベルクレディー 飛んでもない。それが逃げ去っている訳がないでしょう。この人達は(フリーダとディ・ノッリを指す。)これからまだまだ長い時間をかけて、我々が既にやって来たことをしなければならないんです。我々がやって来た、馬鹿な失敗を我々と同じように繰り返して。そして年をとってゆく・・・(過ぎ去った時間とはそういうものですからね。逃げ去ることなどあり得ない。)そうだ、あそこにいるフリーダは、我々より八百年若いのです。あと八百年分の人生を生きて、我々の時代になるのですからね。すると世界で一番若い人間はアダムということだ。(訳註 右の文は訳者の作り変え。原文は次のようになっている。しかし意味不明。「人は普通、自分の前にある扉を通って人生を経る、と考えているが、それは誤りだ。人間は生まれた時から死が始まる。だから最初に人生を始めた人間が一番進んでいる。だからアダムが一番若いのだ。」ベルクレディーは悪役だから意味不明のことを言わせた、という考えは賛成出来ない。ピランデルロは屡々、悪役によい台詞を言わせている。)さあ、フリーダを御覧なさい。我々より八百年若い女性、トスカナのマチルド侯爵夫人を!
(ベルクレディー、深々とフリーダの前にお辞儀。)
 ディ・ノッリ ふざけるのは止めて、ティト。お願いですよ。今はそんな時じゃないでしょう?
 ベルクレディー ええっ? 僕がふざけてるって?
 ディ・ノッリ だってそうじゃないですか。ここに着いた早々からもうずっと・・・
 ベルクレディー ふざけっぱなし? 飛んでもない。ちゃんと僕は修道院僧の衣装だって着たんですからね。
 ディ・ノッリ そうです。衣装だけは着たんです。でも折角他の人は真面目にやっているのに・・・
 ベルクレディー 分った、分ったよ・・・他の人はみんな真面目なんだ。で、僕だけが・・・で、今フリーダが本気で・・・(ジェノーニの方を向いて。)そうだ先生、僕は本気で分らないんですがね。一体これから何をやろうとしているんです?
 ジェノーニ(苛々して。)そのうち分りますよ。私に任せておいて下さい。今あなたに分らないっていうのは当たり前じゃありませんか。侯爵夫人だって、まだこの現代の服を着ている訳だし・・・
 ベルクレディー ははあ、するとこの人も衣装を?
 ジェノーニ 当たり前です。さっき着たのとは別の衣装を。(フリーダを指さして。)丁度このカノッサのマチルド侯爵夫人と会っているとあの人が思った瞬間・・・
 フリーダ(この時までディ・ノッリと低い声で話していたが、ジェノーニが言い間違えているのを聞いて。)トスカナのです! トスカナのマチルド!
 ジェノーニ(苛々しながら。)同じことでしょう、そんなことは!
 ベルクレディー ああ、分りましたよ。つまり、はっと彼が見ると、マチルド侯爵夫人が二人いるという寸法ですな。
 ジェノーニ そうです。その通り。それで・・・
 フリーダ(ジェノーニを離れたところから呼ぶ。)(訳註 この時までに中央扉から鉾槍の兵士一が登場していて、ベルトルドに何か囁き、それをベルトルドがフリーダに伝えたため。)先生、ちょっと・・・ちょっといらして戴けません?
 ジェノーニ はい、すぐ行きます。
(ジェノーニ、ベルトルドと鉾槍の兵士一に近づき、何か指示を与えている。)(訳註 ここでディ・ノッリも加わってジェノーニの指示を聞く。)
 ベルクレディー(低い声で、マチルドに。)しかしまあ、全く・・・
 マチルド(振り返って。平静な声で。)全く・・・何だって言うの?
 ベルクレディー そんなに面白いのかな。そこまで力を貸してやる気になるとはね。それほど肩入れするなんて、たいした女だよ。
 マチルド 普通の女だってやるわ。
 ベルクレディー いや、違うね。普通じゃ出来ない。そこまではね。こいつは本当の犠牲的精神というやつだ。
 マチルド 私はあの人に借りがありますからね。
 ベルクレディー 嘘仰い! それほど卑下する気はない癖に!
 マチルド あら? じゃ、さっき犠牲的精神と言って下さったのはどうなったの?
 ベルクレディー 他人から見て自分を卑しめてはいないという、ギリギリの線まで。だけど僕から見れば、不愉快千万なところまで身を落して。
 マチルド 今この時点で、あなたのことなんか気にする人がどこにいますか!
 ディ・ノッリ(近づいて。)さあ、そこでこれから我々がすることですが・・・(後ろから来るベルトルドに気付いて。)あ、君、残りの三人のうちの誰でもいい、一人呼んで来て!
 ベルトルド はい、畏まりました。
(中央扉から退場。)
 マチルド することと言っても、まづは陛下にお暇を乞わなければ?
 ディ・ノッリ そうなのです。だからあの男にそう指示を与えたのです。(訳註 このあたり、指示を与えているのがジェノーニとディ・ノッリの二人になっている。分担していると見なければならない。)(ベルクレディーに。)あなたはお暇のための謁見は必要ないんですからね。あなたはここに留まるという設定にするんですから。
 ベルクレディー(皮肉に、頭をぐっと上げて。)そう。私は必要なし・・・必要なしさ。
 ディ・ノッリ わざわざまた謁見をやって、あの人に疑いの気持を起させたくありませんからね。
 ベルクレディー そうそう、その通り。つまり私は余計者っていうことだ。
 ジェノーニ あの人にははっきりと、アデライーデ公爵夫人とクリュニーの大主教は出発したのだと納得して貰わなければなりません。これが絶対の条件なのです。
(ベルトルド、その後からランドルフ、右手の扉から登場。)
 ランドルフ 入ってもよろしいでしょうか。
 ディ・ノッリ ああどうぞ。エート、君だったかな、確かロロというのは。
 ランドルフ ロロでも、ランドルフでも、どちらでもお好きな方を。
 ディ・ノッリ そうか。今からお暇の謁見に入る。アデライーデ公爵夫人とクリュニーの大主教の二人だ。
 ランドルフ 分りました。法王の謁見の許可が下りました、と言えば十分です。陛下は今、自室におられます。後悔の念に嘖(さいな)まれておいでになります。言いたいだけのことを言い放題言ってしまった。これで決して法王の謁見の許可は下りないだろうと。お気持が皆さまにお分かりかどうか・・・では、再び衣装をお召し下さいますよう・・・
 ジェノーニ うん、それはもう・・・
 ランドルフ ちょっとその前に。私から、一つだけ提案がございます。それは、法王に謁見する人物として、お二人の他にもう一人、トスカナのマチルド公爵夫人を加えて戴きたいということです。
 マチルド ほら御覧なさい。あの人は、私が誰か分ったのよ。だから・・・
 ランドルフ いいえ、奥様。そういう理由からではありません。法王の滞在のために自分の城をお貸しになったこのマチルド侯爵夫人という方を、陛下は大層怖がっておられまして・・・これは大変奇妙なことですが、歴史書によりますとどんなことになっているのでしょうか。・・・皆さまの方が私よりずっとお詳しいことと存じますが・・・このヘンリー四世という方は、マチルド侯爵夫人をひそかに愛しておられたなどという史実が、記録に残っておりましょうか?
 マチルド(非常に強く。)いいえ、そんなことはどこにも書いてありません。どちらかというと、その逆です。
 ランドルフ ええ、私も歴史書を読む限り、その筈だと。しかし、陛下・・・いや、あの方は、自分は彼女を愛したことがあるのだと。このことを繰返し話しておられます。それで今、あの方は大変恐れてお出でになるのです。つまり、その、かって愛したという事実がマチルド侯爵夫人のご不興を買い、法王への請願の際、悪い影響を与えはせぬかと。
 ベルクレディー 侯爵夫人の、彼に対するそのような不興はない、とはっきり伝えるんだ。
 ランドルフ はい、それなら宜しいのですが。
 マチルド(ランドルフに。)そう、そうして下さい。(ベルクレディーに。)あなた、そこのところを歴史で読んだかどうか知らないけれど、そこははっきりこう書いてあるわ。法王がヘンリー四世の謁見を許したのは、クリュニーの大主教とマチルド侯爵夫人の懇願があった故にだと。だから私・・・いいですか、ベルクレディー・・・私はね、あの仮装行列の時、あの人にこの歴史の事実を話してあげようと思っていたんですからね。そして、あの人が勝手に想像している、私のあの人への反感など、全くないのだ、と言おうと思っていたのです。
 ベルクレディー 素晴らしいですよ、マチルド侯爵夫人殿。ここはひとつ、歴史上の事実とご自分とを一致させて行動なさらなければ・・・
 ランドルフ ええ、そういうことならば、奥様が二度変装する手間が省けます。(ジェノーニを指さして。)大主教と、トスカナのマチルド侯爵夫人の変装でお出でになりさえすれば・・・
 ジェノーニ(強く。命令的に。)駄目です、それは。それだけは止めて戴かなければ。そんなことをすれば、計画は滅茶滅茶になります。マチルド侯爵夫人との出会いは突然で、雷が落ちるように強烈でなければなりません。これだけはどうしても。さあ、侯爵夫人、もう一度アデライーデ公爵夫人の変装で参りましょう。陛下にお暇乞いをするのです。どうしても我々が立ち去ったのだとあの人に信じて貰わなければなりません。さあ早く。急いで。時間を無駄にする時ではありません。夜までにはまだ色々準備があるのですから。
(ジェノーニ、マチルド、ランドルフ、右手の扉から退場。)
 フリーダ でも私、またとても怖くなってきたわ。
 ディ・ノッリ またかい? フリーダ。
 フリーダ さっきみんなと一緒に、あの人に会っておけばよかった。
 ディ・ノッリ 大丈夫だって。あの人、何も怖いことなんかないんだから。
 フリーダ 恐ろしいこと、しない?
 ディ・ノッリ しない。決して。おとなしい人なんだから。
 ベルクレディー(わざと怖がらせるような調子。皮肉に。)じっと物思いに耽るたちでね。話を聞いた? 君のことが好きなんだよ、フリーダ。
 フリーダ 嫌だわ。脅かしたりして。でも私、そこが一番恐ろしいの。
 ベルクレディー 愛してるんだもの。君に恐ろしいことなんかしっこないよ。
 ディ・ノッリ それに、あっという間に終るんだ、君の役は。
 フリーダ でも、あそこに、暗い所で、あの人と二人だけで・・・
 ディ・ノッリ ほんのちょっとの間なんだよ。僕は君のすぐ傍にいるし、他の人だって扉のところで見張ってくれている。何かあったらすぐ出てこられるようにね。分るだろう? あの人が君を見た後、君のお母さんがいることに気付く。そうすると、もう君の出番は終なんだ。
 ベルクレディー 私の心配は全く別のところにあるんだがな。要するに、こんなこと、全くの無駄骨じゃないのかと。
 ディ・ノッリ またそれを始めるんですか。止めましょう、それは。個人的には、これは大変有効な実験だと思いますね。
 フリーダ 私も。私もそんな気がする。だからなの、だから身体中震えてくるの。
 ベルクレディー しかしね、君達。気違いってのは、我々とは全く違った感覚を持っているんだ。どうもそこがよく分かっていないようだが。幸せなものさ・・・
 ディ・ノッリ(苛々して。途中で遮って。)幸せ? 何が幸せだって言うんですか。失礼な!
 ベルクレディー(強く。)連中は論理で物を考えないんだ!
 ディ・ノッリ 失礼ですが、今我々がやっているこのことと論理と、何の関係があるっていうんですか。
 ベルクレディー だって我々がやろうとしているのは論理から出た結論からだろう? あの男がまづ(フリーダを指し。)君を見る。それから君の母親を見る。それで事が起るはずだ。・・・だけど、こんな論理づけはみんな、我々正気の人間の組立てたものに過ぎないんだ!
 ディ・ノッリ 違いますよ、それは。論理だけで組立てたものではありません。我々がやろうとしていることは、あの人が潜在的に持っている現在と過去の二つの像を、明るみに出して、あの人にその矛盾を気付かせようというものなのです。
 ベルクレディー(突然思いついたことを口にするという調子で。)何だ一体、あんなものをやって医学博士の博士号が取れるというのは。訳の分らない話だよ、全く。
 ディ・ノッリ(意味が分らず。)あんなものをやってって、何のことです?
 ベルクレディー 精神分析だよ。精神分析をやって医学博士とはね。
 ディ・ノッリ 精神分析が駄目だって言うんですか? では何をやるべきだと?
 フリーダ だって精神分析医というんでしょう? 医学の一つなんでしょう?
 ベルクレディー そう。法律ではね。法律では、あれは立派な医者だ。だけど連中のやることと言ったら。言葉、言葉、また言葉だ。お喋りをやりさえすれば褒められる。「類似化機構」「二十年の隔たりを距離で表わす」・・・その癖、連中が真っ先に言う台詞は、「我々は奇跡を起そうとしているのではありません」だ。我々が本当に必要としているのは、その「奇跡」だというのに。そして、性質(たち)の悪いのは、連中はよく心得ているんだ、「我々は、魔法使いではありませんから」と言えば言うほど、信用を増すってね。連中は奇跡など起しはしない。しかし、何も起らなくても、それなりに辻褄を合わせる。こっちの方が奇跡なんだ、全く!
 ベルトルド(この時までに、右手の扉のところへ行って、鍵穴から隣の部屋の様子を窺っていたが。)あ、大変だ、こっちに来る。こっちに来ますよ、あの人達が!
 ディ・ノッリ えっ、本当か。
 ベルトルド ええ。あの人が・・・陛下がみんなを誘っている様子です。ここへ来ます! ここへ!
 ディ・ノッリ さ、それでは出ましょう。すぐに!(ベルトルドの方を向いて。出る直前に。)お前はここに残って!
 ベルトルド えっ? 私が?
(ベルトルドに答えず、ディ・ノッリ、フリーダ、ベルクレディー、中央扉から退場。ベルトルド、途方に暮れたまま残る。右手の扉開き、ランドルフ登場。すぐにお辞儀。その後ろからアデライーデ公爵夫人の衣装で、マチルド登場。同時にクリュニー大主教の衣装のジェノーニ登場。二人に挟まれて、王の衣装のヘンリー四世登場。その後ろからオルデュルフとハラルド、登場。)
 ヘンリー四世(玉座からの続きの会話で。)私がそんなに頑固だということになれば、私は狡いという悪徳からは免れていると考えてよいのでしょうな。
 ジェノーニ 頑固ですって? 飛んでもない、そのようなことは・・・
 ヘンリー四世(微笑んで。満足して。)なるほど。すると大主教殿の目から見ると、この私は、本当に狡い人間であると?
 ジェノーニ いいえ、いいえ、狡いことも、頑固なこともありません。
 ヘンリー四世(立ち止まり、優しく、同時に皮肉に。大きな声で、「そんなことはあり得ぬではないか」という調子で。)大主教殿、頑固と狡猾の二つの悪徳を並べられて、頑固の欠点が私にないと弁護して下さるのなら、少なくとも私には狡猾さの欠点は残しておいて下さらなければ。私には、この狡猾という欠点は非常に大事なものでして、もしも大主教殿がこれを独り占めされるというのでしたら・・・
 ジェノーニ ええっ? 私が? 私が狡猾だと仰るので?
 ヘンリー四世 いやいや、そんなことは! 飛んでもない話です、それは。そんな顔は全くしておられませんよ、大主教殿は。(言葉を切って、マチルドと話をするために。)ちょっと失礼を。アデライーデ公爵夫人殿とお別れするにあたり、一言申し上げたい事がありますので・・・(マチルドをちょっと離れた場所に導き、心配そうに、また非常な秘密であるというように。)公爵夫人殿、あなたにとって、娘御は本当に大事なものなのでしょうか?
 マチルド(困って。)ええ、それは勿論。
 ヘンリー四世 娘御に対する私の愛情、献身、は先程お示し致しました。私が以前、あれに対して犯した私の重大な過ちに対し、それでもなお償いをする必要があると、あなたはお考えでしょうか。私の敵どもが、私の放埒(ほうらつ)な生活を非難しておりますが、これは勿論、信用してはなりませぬ。
 マチルド ええ、ええ、勿論私も信じてはおりませんわ、そのようなこと・・・
 ヘンリー四世 それでどうなのでしょう。さらに償いを?
 マチルド(困って。)と、申しますと?
 ヘンリー四世 つまり、私は再び娘御を愛さねばならぬのかどうか。(マチルドをじっと見る。そして警告とも怖れともとれる奇妙な声で。)トスカナのマチルド侯爵夫人と親しくしてはなりませんぞ。それだけは決して!
 マチルド でも、繰返し申し上げますが、あの方は陛下の破門のお許しを法王に請願する件に、私共に劣らず熱心なのですよ。このことを心から望んで、法王にお慈悲をと・・・
 ヘンリー四世(強く。低い声で。震えながら。)ああ、それを仰らないで、公爵夫人殿。それだけは言わないで戴きたい。ご覧下さい、その話が出ただけで私の身体はこのように・・・
 マチルド(それを見た後、非常に低い声で。自分の秘密を打ち明けるかのように。)陛下はまだあの方を愛していらっしゃるのですか?
 ヘンリー四世(ぎょっとなって。)「まだ」? 「まだ」とはどういうことでしょう。あなたはひょっとして、このことを御存知で? いや、誰も知らない筈だ! 誰もこれを知ってはならないのだ!
 マチルド でもあの方は・・・ええ・・・あの方はきっと御存知なのですわ。だからこそ陛下のための、法王への懇願に、あのように熱心なのですわ。
 ヘンリー四世(ちょっとマチルドを見て。)それでは、お聞きしますが、アデライーデ公爵夫人殿、あなたは御自分の娘御を本当に愛しておられるのかな?(ちょっとの間。ジェノーニの方を向いて、嘲りの口調で。)ああ、大主教殿、私に自分が妻帯者であるという自覚が出るのはいつのことでしょう。自分に妻があるという自覚が・・・これからずっとずっと後のことであるに違いありません。今、この時点でも、私にはその自覚がない。妻は確かにある。それは疑うべくもない。しかし、神かけて言えます。私はあれのことなど一顧もしたことがない。これはきっと罪なのでしょう。しかし私はあれに、何の感情も持つことが出来ない。私の心に、あれが入り込む余地が全くないのです。それはそれで仕方がない。しかし驚いたことは、あれの母親の心にも、あれが入り込む余地が全くないということです。正直に言って下さい、アデライーデ公爵夫人殿、あなたは自分の娘のことなど、お構いなしだった。(ジェノーニに。苛々と。)私に話したのは、他の女のことについてです。(だんだんと苛々の度が高まり。)それもしつこく。何というしつこさだ、あれは。私にはまるで理解することが出来ない!
 ランドルフ(恭しく。)陛下、陛下はずっと、トスカナのマチルド侯爵夫人に対して敵意を持っておられた。その誤解を解こうと、お義母上様は陛下にあのように・・・(勝手にこんなことを口に出したのが怖くなって、すぐにつけ加える。)いえ、勿論、現在只今の状況では・・・
 ヘンリー四世 マチルド侯爵夫人は私の味方だと言うんだな? お前も。
 ランドルフ はい陛下、現在では・・・
 マチルド 勿論私は、その誤解を解こうと・・・
 ヘンリー四世 なるほど。私はあの女に敵意を持っていたので、その誤解を解こうとされた。つまりあなたは、この私があの女を愛していたなどと、夢にも思っていなかった。そういうことですな。分りました。よく分りました。そんなことは誰も想像だにしなかった訳だ。よろしい。そういうことにしておきましょう。この話はここまで。もうこの話は止めにしましょう。(急にジェノーニの方を向き、今までとは全く違った調子で。)大主教殿、お調べになってお分かりのことと思いますが、法王が私の破門を解くにあたり、出した条件は、私を破門した時の理由と全く・・・そうです、完全に、全く、何の関係もないものです。どうぞ、法王グレゴリウス七世にお伝え下さい。我々は再びブレッサノンで会いまみえるのだ。そのお覚悟を、と。それから、アデライーデ公爵夫人殿、この城の中庭で、もし娘御にお会いになるようなことがあれば、私からあれに、何と言って貰いましょうか。どうか上って来るようにと。あれが私のごく近くに、皇后として・・・いや、妻として、ごくごく近くに侍ってくれるかどうか。私も努力してみましょう。今まで私の傍に、自分はベルトだと言ってやって来た女は数知れぬほどいる。何度となく私はあれを要求した。何の悪いこともありはせぬ。あれは私の妻なのだからな。来た女は勿論、一様に、自分はスューズの出身だ、自分はベルトだと言う。その癖、私が連中をその名で呼ぶと、私にはその理由が分らぬのだが・・・実に例外なく・・・ゲラゲラと笑う。(内証のように小さく。)そこで大主教殿、寝床ですが・・・私は勿論、王の衣装は脱いでいます。あれも同じように脱いで・・・二人とも裸・・・単なる男と女・・・まあ、当たり前の話ですが・・・自分が何者であるかなど、頭の片隅にもありはしません。そこでふと上を見る。すると私の脱いだ衣装がかけてあるのが見える。幽霊のように。(今までとは違う口調で。)ところで幽霊ですが、大主教殿、幽霊などというものは、我々の精神のちょっとした不調から来るものに過ぎません。眠りの一歩先まで来れば、本来消えてなくなるべきものです。ところが、目覚めても、昼の日なかにも現れる。そして人を怖がらせるのです。私は夜中に、私の目の前に、奇妙な姿が現れ、それが馬から降りて、ヒッヒッヒと笑う。その時、心の底から恐ろしくなるのです。時々はまた、真夜中、シーンと寝静まっている時、私は自分の血管に脈打っている自分の血液の音を聞くことがある。ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。それが遠くの部屋に、重く鳴り響く・・・いや、もう止しましょう。もうお二人をお引き留めし過ぎてしまいました。ではこれで失礼を。アデライーデ公爵夫人殿、クリュニーの大主教殿・・・(ヘンリー四世、二人を中央扉まで導き、そこで丁寧にお辞儀。二人もお辞儀を返す。マチルドとジェノーニ、退場。ヘンリー四世、扉を閉める。こちらを振り向くや、全く違う人間になる。)あの馬鹿めらが! ざまを見やがれ! こっちの操る通り、蒼くなったり、赤くなったり。いや、黄色でも、緑でもこちらの意のままだ。それにもう一人、あのピエール・ダミアン・・・はっはっは。完全に度肝を抜いてやったぞ。急所をズブリだ。二度目は怖くて現れもしなかったじゃないか。(部屋を歩き廻りながらこの台詞を言う。心から上機嫌。目は部屋のあちらこちらを見ながらだったが、最後にベルトルドの姿が目に止まる。ベルトルドはヘンリー四世のあまりの変りように、茫然としている。ヘンリー四世、ベルトルドの前に立ち止まり、他の三人の方を向く。他の三人も同様に茫然としている。ヘンリー四世、三人にベルトルドを指さして見せて。)おい、見てみろ、こいつを。口をポッカリ開けて私を見ているじゃないか。ほら・・・(ベルトルドの両肩を掴んで、揺すって。)分るな、お前。連中にいっぱい食わせたのは、この私なんだ。あんな衣装を着させ、その人物にならせて、それらしい振舞いをさせたのは、この私なんだ。連中は脅(おび)えきっていた。この私に仮面をはがされないようにな。それがあの馬鹿者共の一番の心配事だった。ところがこれは、考えてみると奇妙な話さ。こっちの愉しみで連中にああいう役をやって貰っているんだからな。こちらの愉しみを支えるために、連中はあんなにビクビクしたという訳だ。
 ランドルフ、ハラルド、オルデュルフ(驚いて、呆気に取られ、お互いに顔を見合わせる。)何だって? この人、何を言ってるんだ? どうなってるんだ、これは。
 ヘンリー四世(三人の驚きの声を聞き、すぐにそちらの方を向き、大声で。)うるさい! 黙るんだ! もううんざりだ!(すぐに今言ったばかりの、一歩引いた、落ち着いた気持を後悔するかのように、そして三人の客がやって来たことが、未だに信じられないかののように。)糞っ! 今になって、何という厚かましさだ。どの面下げてあの女、この私の前に現れることが出来るというのだ。それも、自分の色男を連れて、いけしゃあしゃあと、連中は喜劇に付合ってやろうというようなつもりでやって来たんだ。世の中に捨てられ、時間に捨てられ、いや、人生そのものに捨てられた男を相手に、同情の籠った場面でも拵えてやろうと。そうでなければあの色男、私があいつに対して演じた暴力にぐっと耐えてなんかいられはしなかったさ。連中は耐えるのに慣れちゃいないんだ。他人が自分達の命ずるままに動くのを当然だと思って暮しているんだ。そしてこいつが暴力ではないときている。そう、暴力じゃないんだ、連中にとっては。まあ、考え方だ、感じ方だ。人にはそれぞれやり方があるからな。そう、お前達にだってお前達のやり方ってものがあるだろう。群衆のやり方ってやつだ。貧弱で、不安定で、おずおずしたやつさ。それがまた、連中の思う壷なんだからな。連中の考え方を押し付け、強制するにはもってこいのお前達のやり口さ。おかげでお前達も連中の感じ方考え方で、感じ、考えるようになってるって訳だ。いや、少なくとも、それが連中が勝手に自分で想像している事だ。だが本当は違うかも知れん。押し付けると言ったって、出来ることは精々が、言葉を繰り返させることだけなんだからな。お前達はお前達の理解できるやり方でしか、その言葉を繰返しはしない。こうしていわゆる「世論」というものが作られて行くのさ。その「世論」の一番簡単なやつが、ある人間に「あほ」だとか、「気違い」だとかレッテルをはることだ。こう決めつけられた人間はいい迷惑さ。いつの間にか、身に覚えのないそういう標識がついているんだからな。いるんだ、世の中には、お前さん達への自分の評価を他人に何が何でも植え付けたいって奴がな。こんな奴がいて、一体平気でいられるか?「気違い」「あいつは気違いだ」・・・いや、私は今の私の話をしているんじゃない。今は冗談に気違いの真似をしているだから構いはしない。私は前の時の話をしているんだ。馬から落ちて、頭を打つ前の時の・・・(四人がいよいよ怖れ、茫然としているのを見て、突然言い止める。)ハハーン、お互いに顔を見合わせているな。(四人の表情を大仰に真似て。)エエッ? おっさん、正気なのか? まだ狂っているのか? エーイ、狂っているに決まっているだろう!(恐ろしい形相で。)糞っ! おい! 膝まづけ! 膝まづくんだ! 三回頭を床につけろ! 気違いの前ではやれと言われたことはやるんだ! さあ!(四人が従うのを見て、急に意地悪な冗談の気分がひいてゆき、嫌気がさして。)もういい! 立つんだ。羊のように大人しいんだな。・・・私の言うことをそのまま聞いたりして。私に無理矢理拘束服でも着せればよかったんだ。言葉で人を押さえ付ける、これぐらい簡単なことはない。ところが、言葉って一体何だ。下らない、蠅みたいなものだ。ところがこの蠅みたいな下らないものに押し潰(つぶ)されながら人間は生きている。人生は言葉で押し潰されているのだ。つまり、死人(しにん)に押し潰されている。私を見ろ。まさか真面目にヘンリー四世が今の世に生きているとは思ってはいまい。しかし、今もやった通りだ。私がお前達に命令する。生きたお前達にだ。そして私の言いなりになる。茶番劇に見えるだろう。死人が生ける人間を支配するのだからな。そうだ、ここでは確かに茶番劇だ。しかし一歩外に出る。生ける人間の世界に出てみる。さあ、夜が明ける。暁だ。時間はお前達の前に無限に広がっている。さあ自由だ。したいことは何でも出来るぞ。お前達はそう言う。ところがどうだ、出来るのか? 全ての伝統という伝統におさらば出来るのか? 全ての習慣にさよなら出来るのか。さあ、一言でも喋ってみろ。今までに言われた言葉を繰り返すのが関の山じゃないか。死んだ人間の人生を、自分の歯で噛み直すだけじゃないか。(ベルトルドの前に行く。ベルトルド、全く茫然自失。)おい、何のことかさっぱり分らんようだな。何て言うんだ、お前の名前は。
 ベルトルド 私ですか? ベルトルドです。
 ヘンリー四世 ベルトルド? 馬鹿なことを言うな。今は他に誰もいない。名前は何だ。
 ベルトルド えー、本当は・・・フィノと言います。
 ヘンリー四世(三人がベルトルドに「止めろ」と言う動作を微かにするのを見て、それを制止し。)フィノ、フィノか。
 ベルトルド ええ、そうです。フィノ・パリウカです。
 ヘンリー四世(再び残りの三人の方を向いて。)まさか私が知らないとでも思っているのではないだろうな。お前達は何度も本名で呼び合っていたぞ。(ランドルフに。)お前はロロだ。
 ランドルフ ええ、そうです・・・(嬉しそうに。)ああ、じゃあ・・・
 ヘンリー四世(すぐに。)じゃあ・・・何だ?
 ランドルフ(すぐに。呟くように。)いいえ、・・・その・・・
 ヘンリー四世 私が気違いではないのかと? 勿論もう私は気が狂ってはいない。そう思っている奴をからかって楽しんできたのだ。お前達もな。(ハラルドに。)お前はフランコ。(オルデュルフに。)お前は・・・待ってくれ・・・
 オルデュルフ モモ!
 ヘンリー四世 そうだ、モモだ。たいしたもんだろう?
 ランドルフ(驚く。)じゃあ・・・一体これは・・・ああ・・・
 ヘンリー四世(すぐに。)じゃあ・・・何だ? 何もありはしない。さあ、五人で腹の底から笑うことにしよう。(笑う。)はっはっはっはっは。
 ランドルフ、ハラルド、オルデュルフ(お互いに顔を見合わせ、どう考えるべきか決めかねて。喜びと当惑とが入り混じって。)治ったのか? そんなことが・・・どうなっているんだ?
 ヘンリー四世 静かに、ちょっと静かに。(ベルトルドに。)お前は笑っていないな。まだ怒っているのか? 怒ることはない! 私が気違いの真似をしていたからと怒っているんだな?(訳註 原文ではここは、「私はお前に言っているのではない」とある。これは不明。作り変えた。)しかしな、誰かをどうしても気違いにした方が都合がいいんだ。みんなにとってそう。みーんなにとって都合がいいんだ。そいつを閉込めておけるからな。何故閉込めたいか分るか。そいつに喋らせたくないからさ。そいつの言うことを聞いていられないんだ。例えばこの私だ。この私にもし喋らせてみろ。そうだな、今さっき来ていたあの客の批評でもするか。公爵夫人になった女は淫売、大主教は詐欺師、ダミアンになった男がごろつきさ。・・・まあ、これは違うさ。誰もこんなことは信じないんだ。・・・しかし、誰もが私の言うことに耳は傾ける。恐ろしい目をしてな。それで、私の知りたいのは、相手が気違いだと何故こうなるのかだ。気違いの言っている事を皆本気にしてはいない。それなのに皆聞くんだ。目を丸くしてな。何故だ?・・・おい、(ベルトルドに。)お前、言ってみろ。何故なんだ。私は落ち着いている。大丈夫だ。さあ、言ってみろ。
 ベルトルド でも、それは勿論・・・いや、多分・・・みんなは・・・
 ヘンリー四世 いや待て、・・・ほら・・・よーく見るんだ、この目を・・・いいか、気違いは本当のことは言ってはいない。・・・本当のことなどありはしない・・・さあ、よく見るんだ、この目を・・・
 ベルトルド ええ・・・はい・・・それで?・・・
 ヘンリー四世 分ったろう。それでお前には分ったろう。身をもってお前には分ったんだ。気違いの言うことには、耳を傾けるってことがな。お前は今、目の色を変えた。お前は一瞬私が気違いだと思った。それが証明だ。それが証明なのさ。(笑う。)
 ランドルフ(三人を代表して。勇気を出して。苛々しながら。)それが証明だって、何が証明なのですか。
 ヘンリー四世 びっくり仰天だよ。お前達のその、仰天だ。また私が気違いになったと思っただろう。だがな、馬鹿野郎! お前達はそれに慣れっこになっているんだ! お前達はこの私が狂っていると思っている。無理もない。今までずっとそう思ってきたんだからな。そうだろう、どうだ!(四人をジロリと見る。また四人が怖れているのを見て。)分かったろう? びっくり仰天は、次に恐怖となる。それは足の下の地面が急になくなる、或は吸っていた空気がなくなるような恐怖だ。それは仕様のない事だ。気違いの前に出れば誰だってそうなる。何故か分るか? 人間は生きて行くために論理を作り、その論理を駆使して雁字搦(がんじがら)めに、自分自身も構築し、自分の周囲も構築してきた。気違いには全くこの構築物がないのだ。こういう奴を目の前にして、どんな気がする。薄気味が悪くなるに決まっている。それが強い場合は恐怖だ。しかし、連中も幸せな奴らだ。論理なしで生きるとは。いや、連中独自の論理か。羽根のように軽い、フワフワとどこへでも飛んで行く論理。気まぐれ論理だ。今日はこうで、明日は・・・「どうなろうとままよ」だ。お前達正気の人間は、論理でよーく確かめた後でなければ一歩も進めやしない。しかし連中はそんなことお構いなしだ。気まぐれ・・・気まぐれだ。ある事に関してお前達は言う、「ああ、そんなこと、不可能だ」と。しかし連中にとっては全てが可能なのだ。何故そう見える? 何故なら、お前にも、お前にも、お前にも、(次々に三人を指さし。)その他何百万人もの他の奴等にも、ありそうになく思われるからさ。ところがどうだ、正気の連中の景色は。実に壮大なものさ。気違いでない他の何百万人が賛同する、論理の花で組立てられたその景色は! ああ、私は子供の頃、井戸に映った月の影は本当に月だと信じていた。その他どんなに色々な事を本当の物だと信じたことか。人が話してくれること全てを信じた。私は幸せだった。何故なら、今日そう見える事をそう見えている通りに信じ、明日そう見えるだろう事を明日そう見えるだろうと、本気で信じられる人間が真に幸せなのだ。昨日までああ見えていたのだからと言って、現にこう見えている事を見えている通りに信じることが出来ない程不幸なことはない。(ああ、狂気はそれを不可能にするのだ。)私のように本当の狂気の底に落ちて行った者・・・自分のすぐ隣に、自分の目を覗き込んでいる人間がいつでも控えている・・・私がそうだった。そういう目を覗き返していたのだ。・・・そして乞食のように扉の前に立っている。私自身はその扉の先には決して行けないのだ。私は、私が見た通りの世界、私が触れた通りの世界・・・つまり私自身・・・を連れて、その扉を越えることは出来ない。越えて進むのは他でもない、私の隣の人物だ。私を見、私に触れ、そして彼自身の頑丈な世界を持った、私とは赤の他人が、私であるかのような顔をして、その扉を越えて行く・・・(長い間。部屋は影が濃くなる。四人の困惑と茫然の感は深くなり、ヘンリー四世のの姿からだんだん離れて行く気持。ヘンリー四世の方は、自分自身の惨めさに思いを凝らすと同時に、それが世界の惨めさであることを感じている。ヘンリー四世、我に返り、自分の傍に四人がいることを忘れて、四人を目で捜し、それから言う。)随分暗くなったな。
 オルデュルフ(すぐに。前に進んで。)ランプをお持ち致しましょうか。
 ヘンリー四世(皮肉に。)ランプか。いいだろう。・・・どうだ、お前達、私が知らないだろうと思っているだろうな? 石油のランプを持って恭しく進むお前達が、一旦この私が背を向ければ、寝る時にはちゃんと電気をつける。この部屋でも、あちらの玉座でも同じだ。・・・まあ、見て見ぬふりをするのだが・・・
 オルデュルフ ああ、それでは電気を?・・・
 ヘンリー四世 いや、眩し過ぎる、きっと。ランプにしてくれ。
 オルデュルフ はい。多分扉の後ろにもう用意は出来ている筈です。
(オルデュルフ、中央の扉に行き、開け、ちょっとの間出る。すぐ戻って来る。手に古いランプ。把手が上部にあり、輪になっていて、そこを掴んでいる。)
 ヘンリー四世(ランプを受取って。壇の上のテーブルを指さして。)ああ、あかりが来たか。さ、そこのテーブルのまわりに坐ろう。ああ、それは駄目だ。そんなにしゃちほこ張らない。ゆったりと坐る。・・・(ハラルドの。)おい、フランコ、こんな風にだ・・・(ハラルドを坐らせ、次にベルトルドに。)さあ、フィノ、お前もだ。(ハラルドにやったのと同じようにして。)そうそう。・・・(自分も坐る。)私も・・・こうやって・・・(窓に目を向ける。)ああ、月が出ている・・・絵のような月だ。・・・月というのはいいものだ。本当にいいものだ。月は私にはなくてはならない。二時間も、三時間も、私はこの月を見て過す。それがしょっ中だ。あれをこうやってじーっと眺めていると、あれから八百年が経っているなどと、とても信じられない。私は何処の誰とも分らぬ哀れな男ではなく、本当のヘンリー四世。今、そのヘンリー四世があの月を眺めている。・・・そうだ、この我々の姿、素晴らしい夜の絵じゃないか。四人の小姓に囲まれて月を見るヘンリー四世。どうだ、この一幅の絵は。
 ランドルフ(ハラルドに。小さな声で。この今の空気を壊さないように。)おい、なあ、これが最初から分っていたらな。最初から嘘だって・・・
 ヘンリー四世 何だ? 嘘だ?
 ランドルフ(躊躇いながら。言い訳をするように。)いえ、その・・・今朝こいつに・・・(ベルトルドを指さして。)いや、こいつは今日初めてここの仕事だったものですから。・・・私は言ったんです、「全く残念なことだぜ・・・こんないいなりをして・・・どんな立派な服だってこっちの意のままに着られて・・・(隣の部屋を指さして。)あんなすごい玉座の間に住んで・・・」
 ヘンリー四世 それが、何が残念なんだ。
 ランドルフ だって、本当には何も出来ないんですから・・・
 ヘンリー四世 何も出来ない・・・するとお前達は、この芝居を本気ではやっていなかったと言うことか?
 ランドルフ いえ、勿論本気でやっていました。だって・・・
 ハラルド(助けの手を貸して。)だって、本当の狂気だと思っていましたから・・・
 ヘンリー四世 何だって? じゃあもう、今度はこれは本気ではないというのか?
 ランドルフ ええ、さっきその事をお明かし下さったので、その・・・
 ヘンリー四世 馬鹿野郎! だからお前達は馬鹿だというんだ。幻想は自分で作るものなんだぞ。いいか。私が狂気だろうと正気だろうと、そんなことは関係ない。芝居は私の前だけ、或は時々やって来る客達の前だけでやるんじゃない。ここで今こうやっているように、何時だって・・・お前達がたった一人でいる時でも、芝居をしていなきゃいけないんだ。(ベルトルドに。片方の手を取って。)この虚構を自分自身で生きるんだ。分るな? その虚構の中で飯を食い、眠り、背中がかゆくなった時にも、その虚構の中で手を後ろにやり、背中を掻くのだ。(他の三人にも。)十一世紀の歴史の中に生きているようにだ。お前達の皇帝、ヘンリー四世の宮殿で生きているようにだ。そしてこの、遠い遠い八百年前の時から、この色鮮やかな、しかし墓場のように陰気なこの時代から、二十世紀の人間のことを思い遣る。連中は自分達の運命がどうなるか全く分らないまま、不安の中で日々の闘争、齷齪(あくせく)を行っている。彼らを不安と苛立ちの中に追い込んでいる様々な事件のからみが今後どのような展開になるのか、誰も知るものはいない。ところがお前達はその反対に、既に歴史の中にいるのだ。私と一緒にな。私の運命がどんなに悲しいものであろうと、敵との争いがどんなに厳しく、生きる環境がどんなに悲惨だろうと、すべては既に歴史の中にあり、変ることはない。変り得ない。全ては永久に固定されているのだ。だから我々はじっとここに身を落ち着け、歴史の進みを眺めることが出来るのだ。完全な論理により、原因が結果を生み出して行くその過程を、そしてどんな事件も、その細部に至るまで正確に、その事件に密着して、成り行きを眺めることが出来るのだ。つまりこれこそが歴史の醍醐味、これほど大きな喜びはないのだ!
 ランドルフ ああ凄い。これは凄いです。
 ヘンリー四世 うん、そうだ。しかしもうこれで終だ。お前達が分ったと言えば、もうこちらは続ける気がしなくなった。(寝るためにランプを取り上げながら。)それにお前達もそうだろう。私とずっと暮してきながら、その意味が全く分っていなかったんだからな。私は今となってはもう、何もかもうんざりだ。(自分自身に対して。まだ残っている怒りをぶっつけるように。)あの女め! ここに来たのを後悔させずにはおかんぞ! 何という厚かましさだ。この私の義理の母になってやって来るとは! それに、修道僧に化けてやって来たあの男! それにあの二人は医者を連れてきおったのだ。この私を診察させるために! こちらがもう治っているとはつゆ知らず・・・馬鹿め! あの三人のうち少なくとも一人・・・あの野郎には平手打ちを食わせてやる。あいつはたしか、決闘では名を知られた男だったな。この私を刺し殺すか?・・・いや、まあ成り行きだ。成り行きだ。(中央扉にノックの音。)誰だ?
 ジョヴァンニの声 デオ・グラシアス!
 ハラルド(悪ふざけの種がやって来た、と喜んで。)ああ、あれはジョヴァンニだ。僧侶の役だ。夜にはいつもやって来るが、今夜も来たぞ。
 オルデュルフ(ハラルドと同じそぶり。両手を擦り合わせて。)そうだ、そのままやらせるんだ。そのままな。
 ヘンリー四世(すぐに。厳しい声で。)馬鹿たれ! 何て馬鹿なんだ、お前は。私への愛情のために芝居をうってくれるあの年寄りを、お前はからかいの材料にしようというのか。
 ランドルフ(オルデュルフに。)今まで通りだ。今まで通り、全てが本当のように。いいな?
 ヘンリー四世 その通り。全てが本物のようにだ。真面目に演じることによってのみ真実は茶番劇にならないですむものだからな。(行って扉を開け、ジョヴァンニを導き入れる。ジョヴァンニはフランシスコ派修道僧の姿。小脇に羊皮紙の巻物を抱えている。)さあさあ、入って、修道士殿。(悲壮な重々しさ、そして陰鬱な恨みを込めた口調で。)私の生涯、及び私の統治に関する書類は、全て敵の手によって故意に跡形もなく消し去られてしまっている。破壊を免れた書類はただ一つ、私に尽してくれた、つつましい修道僧の手になる、私の自叙伝だ。その彼を、まさかお前達は馬鹿にするつもりではあるまいな。(ジョヴァンニの方を優しく向いて、テーブルにつくよう、誘う。)さあ坐ってくれ、そこに。ランプを近付けてな。(まだ自分の手に持っていたランプを、ジョヴァンニの傍に置く。)さあ、書いてくれ。
 ジョヴァンニ(羊皮紙の巻物を広げて、書く用意を整え。)さあどうぞ、陛下!
 ヘンリー四世(書き取らせる。)マインツにおいて公布された平和宣言は、貧しい者、信心深い者達に幸福をもたらし、よこしまな者、権力をほしいままにする者達に不幸をもたらした。(幕、降り始める。)前者には富が、後者には飢餓と困窮を与えた・・・
                     (幕)

     第 三 幕
(薄暗がりの玉座の間。奥の壁が辛うじて見える程度。二つの肖像画は取り去られ、その奥に刳貫(くりぬ)かれたへきがんの中に、丁度肖像画と同じ服装をした二人が立っている。一人は「トスカナのマチルド侯爵夫人」の恰好をしたフリーダ、もう一人は「ヘンリー四世」の恰好をしたカルロ・ディ・ノッリ。)
(幕が開くと、ちょっとの間無人(に見える)。左手の扉が開き、ヘンリー四世、ランプを下げて登場。舞台裏の方を振り返り、隣の部屋にいる四人の小姓とジョヴァンニに、お休みを言う。第二幕からの続き。)
 ヘンリー四世 いや、ほっといてくれ。大丈夫だ。一人で着替える。お休み。
(扉を閉める。疲れて、悲しい気分で、部屋を横切り、右手の第二扉へ向う。そこには王の寝室がある。)
 フリーダ(ヘンリー四世が玉座の位置を少し越えたところまで進んだ時、へきがんの中から声をかける。怖れで自分も気絶しそうな声。)ヘンリー!
 ヘンリー四世(その声に立ち止まる。背中に短刀の不意打ちをくらった時のように、奥の方に顔を向ける。驚愕の表情。本能的に、自分の身体を守るように両手を上げる。)誰だ、私を呼ぶのは。
(これは質問ではない。怖れから出た、絞り出したような震え声の叫び。勿論この部屋を支配している暗闇と沈黙から答など期待していない。一方では、自分が本当に気違いになったのではないかという突然の不安が襲う。)
 フリーダ(ヘンリー四世の怖れを見て、自分の役柄の実行にいよいよ恐怖の念を抱きながら、もう少し大きな声で繰り返す。)ヘンリー!
(しかし、この言葉を言う時、与えられた指示通りを実行しようとはするが、つい、頭をへきがんの外に出し、もう一方のへきがんの方を覗いてしまう。)
(ヘンリー四世、うめき声を上げ、持っていたランプを落す。頭を両手で抱え、その場から逃げようとする。)
 フリーダ(へきがんから飛び出して、狂気のように叫ぶ。)ヘンリー・・・ヘンリー・・・私、怖い・・・私、怖い・・・
(ディ・ノッリもへきがんから飛び出し、台から床に降りて、フリーダへと駆け寄る。フリーダはまだ叫び続けていて、気絶しかかっている。その間、左手からジェノーニ、マチルド(これもトスカナのマチルド侯爵夫人の扮装)、ベルクレディー、ランドルフ、ハラルド、オルデュルフ、ベルトルド、ジョヴァンニ、登場。その中の一人がすぐ電気のスイッチを入れる。光は天井に隠された小さな電燈(複数)で、上方のみ明るくなるような奇妙な光。全員、ヘンリー四世の方は放っておいて、フリーダの方へ駆け寄る。フリーダはディ・ノッリの両腕に抱かれて、全身震えている。ヘンリー四世は、大勢の思い掛けない侵入に茫然としている。先刻の驚愕がまだ収まらず、全身震えたまま。全員口々に何かを言う。)
 ディ・ノッリ 怖がらないでフリーダ。もう大丈夫だ。私はここにいる。大丈夫だ。
 ジェノーニ(みんなと共に駆け込みながら。)そこまで! 終だ。止めるんだ。もう無駄なんだ。
 マチルド 治ってるのよ、あの人! もう治ってるの! 分る?
 ディ・ノッリ(驚いて。)治ってる?
 ベルクレディー(フリーダに。)ふりをしていたんだ! あいつは。落ち着くんだ!
 フリーダ(全身震えて。ディ・ノッリにしがみついて。)いいえ、いいえ、私、怖い。私、怖い!
 マチルド だって、何が怖いの。ほら、あの人を見て。あの人、もう気違いじゃないのよ。もう気違いじゃないの!
 ディ・ノッリ(相変わらず茫然として。)気違いじゃない? どういうことですか? 治ったというのですか?
 ジェノーニ ええ、どうやら。私の判断では・・・
 ベルクレディー(四人を指さして。)治っているんだ。この四人が教えてくれたんだ!
 マチルド ええ、もうとっくに。あの人が自分でそう言ったって・・・
 ディ・ノッリ(驚くと同時に。今度は憤慨して。)何ですって? じゃ、ついさっき、三人が会いに行った時も?・・・
 ベルクレディー そうなんだ! 我々三人をだしに、あいつは茶番劇を演じて見せたんだ! こっちは心からあいつのことを思って・・・
 ディ・ノッリ でも、そんなことが・・・そんなことが出来るものでしょうか。あの人の姉さんが死ぬ時にまで、そんな気違いの芝居が・・・
(この時までヘンリー四世、じっと一人一人、自分を非難する相手の顔を窺っている。その大きく見開いた目により、怒りが強過ぎてまだ正確に反撃の手段がまとまっていないことが分る。が、ついに、彼らが陰険に用意した虚構を、そのまま受け入れるという逆襲の方法をきっぱりと決め、ディ・ノッリに叫ぶ。)
 ヘンリー四世 それからどうした! その続きは何だ!
 ディ・ノッリ(この叫びに棒立ちになり、驚いて。)続きですって?
 ヘンリー四世 死んだ姉さんというが、それはただ「お前の」姉ではないのか。
 ディ・ノッリ(いよいよ驚いて。)私の? 飛んでもない。「あなたの」です。あの人はあなたのために、臨終の日が近くなってもあなたに会いにやって来たじゃありませんか。あなたの母アグネスの姿をして。
 ヘンリー四世 だからあれは、「お前の」母親でもあるのだ。そうだろう。
 ディ・ノッリ そうです。あれは私の母です。その通りです。
 ヘンリー四世 しかしあれは、お前のために死んだのではない。お前はたった今、あそこから(へきがんを指さして)、若く、溌溂とした姿で降りて来たんだからな。あれは、つまりお前の母は、この「古い私」のために死んだのだ。私は泣いた。深くあれを悼んで。このような王の衣装のまま、こっそりどれだけ泣いたか。到底お前には想像もつくまい。
 マチルド(当惑して。他の人々を見ながら。)この人、何を言っているんでしょう。
 ジェノーニ(じっとヘンリー四世を見ながら。非常に心配そうに。)静かに! 黙って! お願いです。
 ヘンリー四世 何を言っているのか? そうあなたは訊きましたな?「アグネスはヘンリー四世の母親ではなかったのか」・・・それが私の質問だった。(フリーダの方を向いて。フリーダが本当にトスカナのマチルド侯爵夫人であるかのように。)マチルド侯爵夫人殿、あなたなら御存知の筈だ、きっと。
 フリーダ(まだ恐怖に震えて。ディ・ノッリにしがみついて。)知りません、私。私、知りません。
 ジェノーニ これはまた狂気だ! 静かにして下さい、皆さん。
 ベルクレディー(憤慨して。)何を言ってるんですか。狂気が聞いて呆れる! 芝居ですよ、先生。これは芝居です。
 ヘンリー四世(すぐに。)芝居はお前達だ。二つのへきがんを開け、私の姿、ヘンリー四世の姿で片方から登場するとは!
 ベルクレディー もう茶番劇は終なんだ!
 ヘンリー四世 茶番劇とは何だ!
 ジェノーニ(強い口調で。ベルクレディーに。)お願いです。止めて下さい。この人を刺激しないように!
 ベルクレディー(言うことをきかず、こちらも強く。)しかしこれは、彼らが(再び四人を指さして。)教えてくれたんですからね。彼らです! この四人です!
 ヘンリー四世(振り向いて。四人を見て。)お前達か。お前達が茶番劇だと言ったのか。
 ランドルフ(困って。おずおずと。)いいえ・・・実はみなさんが治ったと仰るものですから・・・
 ベルクレディー もういい。沢山だ。結構・・・(マチルドに。)どうですか。全く馬鹿馬鹿しいとは思いませんか。正気の男の前で(ディ・ノッリを指さして。)こんな衣装、そしてあんただって、こんな恰好をして。
 マチルド お黙りなさい! 衣装が何ですか。あの人が本当に治ったのなら、こんなに喜ばしいことはないじゃありませんか。何が馬鹿馬鹿しいですか。
 ヘンリー四世 治っている。そう。私は治っている。(ベルクレディーに。)お前にしてやられたな。こんなに早く明かすつもりはなかったのだ。(攻撃するように。)だがな、この二十年間、ただの一度でも、私の様子を見る目的で訪れた者はいなかったのだ。今回お前がやって来たようにはな。或は、この人(ジェノーニを指さす。)が来たようには。
 ベルクレディー 知っている。俺達が最初だ。俺だってちゃんと衣装を着てお前の前に現れたのだ。
 ヘンリー四世 修道僧に化けやがって・・・
 ベルクレディー そして俺のことをピエール・ダミアンだと言ったな。お笑いだ、全く。あの時何故俺が笑わなかったか、それは・・・
 ヘンリー四世 相手が気違いだからだ! それで今どうなんだ。私は治っている。彼女はあの衣装だ。笑うのか、お前は。いや、お前は却って昔を思い出して・・・(言い止む。無念と腹立たしさで。)ああ!(すぐにジェノーニの方を向き。)あなたは医者。そうでしょう。
 ジェノーニ ええ。そうです。
 ヘンリー四世 それで、あなたなのですね。あの二人にトスカナの侯爵夫人の恰好をさせたのは。あなたは大変な危険を冒したのですよ。それを少しは自覚しているのですか。私の脳は再びもとの暗闇に戻るところでした。肖像画に物を言わせる。生きてその枠から飛び出させる・・・(まづフリーダとディ・ノッリを見、次にマチルド、最後に自分の着ているものを見る。)フム、恐ろしい名案だ。二つのカップルか。・・・非常にいい、非常にいい考えだ。相手が気違いなら。・・・(手で微かにベルクレディーを指さして。)しかしどうやらあの男は、これが季節外れの仮装行列だと思っているようだ。(ベルクレディーの方に向き直って。)そうだな、お前の言う通りだ。もう私もさっさとこんな衣装が脱ぎ捨てる時だ。お前と二人でどこかへしけこもうということなんだな?
 ベルクレディー 俺と? 冗談じゃない。みんなでだ。
 ヘンリー四世 どこへだ。クラブへか? タキシードに白いネクタイか。それとも、マチルド侯爵夫人宅に、二人を招待して戴くか。
 ベルクレディー それはお望みのところへだ。まさかこんなところへたった一人で残りたいと言うんじゃあるまい。いくらあの仮装行列の不幸な思い出が大切なものだったにしろ・・・そうだ。どうして続けられたのだ。信じられないことだぞ。お前は正気に戻ってからもずっとこれをやっていたんだからな。
 ジェノーニ そうです。それで、狂気はどのくらい続いたのですか。
 ヘンリー四世(ジェノーニに早口で。)約十二年です。(またすぐベルクレディーの方を向いて。)なあ、いいか、お前、あの仮装行列の日以降、私は長いこと何も見ていない。起ったこと全て・・・諸君に起ったことばかりじゃない、自分に起ったことも・・・知らない。物事の変化・・・友人が私を裏切ったかも知れない。私の所有だった物を奪われたかも知れない。愛する女の心が変ったかも知れない。いや、こんなことは何一つ起っていないかもしれない。誰が死んだかも知らなければ、この町から誰がいなくなったかも知らない。全くの闇だ。分るな? これは私にとっては、茶番劇なんてとうてい言えるものじゃない。お前には言えるらしいがな。
 ベルクレディー それは違う。俺の言っているのは、その後のことだ。
 ヘンリー四世 ああ、その後か。ある日のことだった。・・・(言い止む。ジェノーニの方を向く。)非常に面白いケースです、これは。私をよーく研究してみて下さい。(話しながら、全身が震える。)独りでに・・・神だけが御存知です。・・・ある日のこと、変だったここが(額に触る。)・・・治ったのです。目で見ている物がだんだん分るようになり、・・・そう、最初は眠っているのか、目覚めているのか、よく分らなかった。・・・しかし、しっかりと目が覚めたのです。私は物に触って見ました。一つ、また一つと。それでまた、いよいよはっきり見えるようになりました。ああ・・・彼(ベルクレディーのこと。)が言った通りのことを勿論考えました。さあ、何もかもこれでさよならだ。こんな悪夢、こんな仮装、・・・さあ、窓を開けるんだ。新しい命だ。新しい生活だ! さあ外へ出よう。急げ!(この有頂天が急に止まる。)それで? どこに行く。何をしに。「あれがヘンリー四世さ」と蔭でこそこそ噂をされるためにか。ここにいるのとは訳が違う。昔親しかった友人達全員が腕を組んで、よってたかって囁きあうのだ。
 ベルクレディー そんなことはない。何故だ。そんな馬鹿な話!
 マチルド 今になって誰がそんなことを。誰も思いつきもしないわ。そんな酷い事。だってあれは事故だったんじゃないの。
 ヘンリー四世 しかし、あの事故以前から私は気違い扱いされていた。(ベルクレディーに。)お前が一番よく知っているんだ、その事は。私の弁護に立つ奴を片っ端から論破したのがお前だからな!
 ベルクレディー あれはただの冗談だったじゃないか!
 ヘンリー四世 さあ、この髪を見ろ。(ヘンリー四世、うなじの髪を見せる。)
 ベルクレディー それはこっちも同じだ。灰色だ。
 ヘンリー四世 しかし私の灰色は、お前のとは大きな違いがある。これは私がヘンリー四世だった時になった灰色だ。つまり全く知らないうちにだ。ある時、あの目が見えるようになり始めたある時だ・・・突然気がついた。それは恐ろしいことだった。私はすぐ分かった。灰色になったのは髪だけじゃない。あらゆるものだ。あらゆるものが灰色になったんだと。全ては崩れ去り、全ては終った。狼のような空腹をかかえて、やっと宴会に辿り着いて見れば、食事はもうずっと以前に終っていた。そういう事態なんだと。
 ベルクレディー しかし、その宴会の出席者は・・・
 ヘンリー四世(すぐに。)勿論私が治ると思ってはいなかった。当然のこと、私の乗っていた馬を、血が出る程突き刺した私の後ろにいた男も、まさか私が治るとは・・・
 ディ・ノッリ(驚いて。)何ですって?
 ヘンリー四世 そう。馬を棒立ちにさせて。私を落馬させるために。
 マチルド(すぐに。憤慨と茫然で。)まあ、何ていうこと。今日初めて聞いたわ!
 ヘンリー四世 それもその男にとってはお笑いの一部だったのでしょう。
 マチルド でも誰がそんなことを! 誰だったの、私達二人の後ろにいたのは。
 ヘンリー四世 誰! そんなことはどうでもいい。その宴会を続けた者達全員、それが私には問題だ。私が今、腹を減らして到着すれば、連中は残り物を投げてよこすぐらいが関の山。よだれでぐしゃぐしゃした同情、汚い皿にこびりついた魚の骨のような後悔、それを私の鼻の先に。沢山だ、そんなものは。(すぐジェノーニの方を向いて。)どうですか先生、こんな症例は学会誌にもなかったでしょう。私はそのまま気違いでいることに決めたのです。ここには新しい楽しみがすでにそのまま準備されていることが分ったからです。私の狂気を生きる楽しみです。しかもそれをはっきりと意識しながら生きるという。そうすることにより、私の頭骸骨を麻痺させた憎い石に仇が討てると思ったのです。そして孤独に・・・そう、私は正気に返った時、恐ろしい孤独感に襲われました・・・その孤独に着物を着せてやろうと決心しました。あの仮装行列の日のあらゆる色彩、あらゆるきらびやかさを、全て残りなく着せてやろうと。そうです。あの時、侯爵夫人、あなたは(マチルドを見て、それからマチルドにフリーダを指さして。)素晴らしかった。その素晴らしさも全て着せてやろうと。そしてそれ以後、私の前に現れる人物には、私の辿った足跡をそっくり歩いて貰おうと、つまり、昔のあの仮装行列・・・私には苦しみ、他の連中には気晴らしだった・・・あの仮装行列を、再び演じて貰おうと決心したのです。そうすることにより、あの仮装行列はもはや気晴らしではなく、現実、正真正銘の狂気による現実となるのです。ここではその準備が全て調(ととの)っている。玉座の間に訪れる者は全てその気持で、またその衣装を着てやって来る。それに私の四人の小姓つきだ、勿論・・・(四人の方を急に向いて。)この裏切り者め! 私が治ったことを知らせて一体何の得があったのだ。私が治ってしまえば、お前らには用はない。即刻首だぞ。人に秘密を打ち明ける・・・全く気違い沙汰だ! ああ、しかし、今度は私の方がお前達を裏切る番だ。こいつらは私を気違いにして、みなさんにいっぱい食わせてやろうとしたんですからね。(ヘンリー四世、大声で笑う。マチルドを除き全員、多少面食らってだが、釣られて笑う。)
 ベルクレディー(ディ・ノッリに。)今のを聞いたか。こいつはなかなかいいや・・・
 ディ・ノッリ(四人に。)本当なのか、お前達・・・
 ヘンリー四世 連中は許してやらなきゃ。(自分の着ている服を引っ張って見せながら。)この衣装、これが曲者なのだ。私にとってはこれはただの変装の道具、あの仮装行列の続き・・・今や、私にとっては四六時中、演じていなければならない芝居の道具の一つ・・・仕方なくこの部屋に入ることになった操り人形にとっても、その衣装は道具。しかし、我々は仮面をつける時、知らず知らずのうちに、その仮面の人物そのものも身につけてしまう。この衣装をつければヘンリーに、あの衣装をつければ四人の小姓に。連中を許してやってくれ。彼らは衣装を着た瞬間にその人物になってしまう。自分自身と、演ずる人物の境界が分らなくなるのだ。(ベルクレディーの方を見て。)分るだろう? こういう部屋にいては、だんだんにそうなって行くのも無理はない。簡単に悲劇の人物になってしまう。(悲劇的な歩き方をしてみせる。)そうだ、先生! 今私は、ある神父のことを思い出しました。多分あれは、アイルランドの神父でしょう・・・なかなかの美男子でした。それが日なたぼっこをして、寝ていたのです。十一月のある日。公園のベンチで。片方の手を背もたせにかけて。素晴らしい日和(ひより)で、実に心地よさそうに。多分彼にとっては夏の気分だったでしょう。その瞬間には、彼は自分が神父であることも、公園にいることも知らなかった筈です。勿論、彼の夢が何であったかは、こちらに分る筈もありませんが。その時、いたずらっ子が通りかかりました。手に、根こそぎ抜いてきた花を持っていましたが、通りがかりにその神父の首をそれで擽(くすぐ)ったのです。神父の目はにっこりしました。口も広げられてにっこり。夢が連動していたのでしょう。それから、嬉しそうに声をたてて笑ったのです。何もかも忘れて。ところがその瞬間、すぐに、そう、瞬時にです、神父は黒く長い、例の神父の着る着物の乱れを直し、顔には私がついさっきやった悲劇のあの深刻な表情が現れたのです。アイルランドの神父は、その顔に常にカトリックの信仰を表わす真面目な表情がなければなりませんからね。真面目な表情は、世襲で受け継いだ君主の権利を持つこの私、ヘンリー四世にとっても、守らねばならない大切なものです。私は治りました、皆さん。私がここで狂気を演じ、しかもそれを冷静にやってのけたことから示されている筈です。世の喧騒の中に生きている皆さんも、狂気の中に生きている。しかし、私と比べてもっと不幸なことは、自分の狂気に気付いていない、それを冷静に見て取っていないことです。
 ベルクレディー やーれ、やれ。こいつはあっきれ返った結論だ。今では気違いは俺達だとさ!
 ヘンリー四世(怒る。しかしそれをぐっと抑えて。)気違いはそちらだ。気違いでなければどうして(マチルドを指さして。)二人揃ってこんなところにやって来られる!
 ベルクレディー 正直なところを言えば、ここへ来ればお前という気違いが見られると思ったからさ。
 ヘンリー四世(すぐに。大きな声で。マチルドを指さして。)じゃあ、彼女もか。
 ベルクレディー ああ、彼女か。俺は知らん。しかしこれだけは言える。今までのお前の話にぞっこんだ。お前のその「自覚のある狂気」ってやつに魅了されている様子だぞ!(マチルドの方を向いて。)もうそれで衣装も整っている。どうでしょう侯爵夫人、ここにお留まりになって、お二人でお暮しになるのは。
 マチルド なんて無礼な!
 ヘンリー四世(すぐに。マチルドを宥めて。)ほっといて。あいつの言うことを気にしちゃ駄目だ。私を刺激するなと先生に言われているのに、ちっとも止めやしない。(ベルクレディーの方を向いて。)まさかお前はこの私が、まだ拘(こだわ)っていると考えているんじゃあるまいな。彼女に関して、二人で争い、お前が勝ちを占めた、その過去のいきさつを。或は、(今度はマチルドの方を向き、ベルクレディーを指さして。)あなたはどうです。現在のあの男のあなたへの役割を、私が嫉妬していると思っているのですか。私の人生はこれだ! 君達の人生を私は生きちゃいない。君達二人が生きて、年を取ってきた、その人生を私は生きてはいないのだ。(マチルドに。)そうか、我々の人生は全く違うのだと言いたかったんだな? 医者の忠告を聞きわざわざそんな衣装を着て私の前に現れたのは、それを私に示したかったんだな。確かにいい考えでしたよ先生、実に名案だ。「あの時の我々二人、そして現在の我々二人」。しかし先生、私は先生の基準でいうところの気違いではありません。私にはよく分っている。(ディ・ノッリを指さして。)彼が私ではあり得ないことを。何故なら、ヘンリー四世、それは私だからだ。この二十年間ずっとここにいる、そしてこの仮面をつけて永遠に固定された、この私だからだ。その二十年を(マチルドを指さして。)彼女は生きた。十分に享楽した。もう私には、その人と見分けられる彼女ではないのだ。私にそれと見分けられる彼女は(フリーダを指さして。)あれだ。(フリーダに近づいて。)私には、彼女は常にこうだった。私が怖がらせようと思えばすぐに怖がる・・・幼い子供のような・・・(フリーダに。)ああ、お前、さぞ怖かったことだろう。みんなは冗談半分にお前にこの役をやらせたのだ。私にとってそれがどんなに恐ろしい意味があるか、連中には想像もつかなかったろうからな。私の夢がお前という姿をとって、生きて現れたのだ! お前はもう、あそこに命なく立っている像ではなく、生きた存在になったのだ! お前は私のもの、私のものだ。はっはっは・・・権利からして、私のものだ!(気違いのように笑い、フリーダを抱きしめる。他の全員、恐ろしい叫び声を上げる。男三人がヘンリー四世をフリーダから引き離そうと駆け寄る。ヘンリー四世、物凄い形相になり、四人の小姓に命令する。)抑えろ! 何をしている! 三人を取り抑えるんだ。
(四人の小姓、茫然となり、魔法にかけられたように、ディ・ノッリ、ジェノーニ、ベルクレディーを抑える。)
 ベルクレディー(振りほどき、ヘンリー四世に飛び掛かりながら。)放せ! 彼女を放すんだ。お前は気違いでも何でもないんだ!
 ヘンリー四世(電光のように、近くにいたランドルフの刀を抜く。)私が気違いでないと? それなら、これでも食らえ!(ベルクレディーの腹を突き刺す。)
(ベルクレディー、恐ろしい叫び声を上げる。口々に何か叫びながら、皆ベルクレディーに駆け寄る。)
 ディ・ノッリ 本当に刺したのか。
 ベルトルド 本当です。本当に刺しました。
 ジェノーニ だから・・・言わんことじゃない。
 フリーダ まあ・・・何てこと!
 ディ・ノッリ フリーダ、さ、こっちへ来て!
 マチルド 気違いよ、あの人、気違いよ!
 ディ・ノッリ 彼を抑えろ! 早く!
 ベルクレディー(ベルクレディーを皆が左手の扉から隣の部屋に運んでいる間に、狂気のように反論する。)違う、あいつは気違いじゃない。気違いであるもんか。気違いじゃないぞ!
(左手の扉からみんな口々に何か言いながら、ベルクレディーを運び出す。舞台裏から、その騒ぎがまだ暫く聞える。それからマチルドの鋭い叫びが他の声を圧して大きく響き、その後沈黙。)
(ヘンリー四世は、ランドルフ、ハラルド、オルデュルフと、その場に残っている。両眼をカッと開き、自由の作っていた虚構がついに殺人を惹き起こす結果になった、その虚構の力に茫然となっている。)
 ヘンリー四世 今となっては・・・是非もない。(三人を自分のまわりに集め、自分を守るように。)ここに残らねば・・・みんなで・・・永久に!
                     (幕)


   平成一三年(二○○一年)四月二六日 訳了

謝辞 Frederick May の英語訳 Henry Fourth は大変参考になった。ここに感謝の意を表す。

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html