九 
 リリアン・ギッシュに例えられるのは、ドナルド・ラックマンにしてみれば、嬉しくなかったろう。もっとも妻のデビーなら嬉しがるところだ。いずれにせよ、二人とも、誰か暗い男が、暗い部屋で、暗い考えを巡らせていたなどと、知る由もない。ドナルドがやろうとしていたのは、彼のボスの意向に沿った銀行を捜すことだ。頭取のフォアマンからは、最初はのんびりやれと言われている。直接にはあたるな。チューリッヒがいい。ルガーノは止めろ。チューリッヒではスイスの全銀行の動きが分る。それに、チューリッヒでは誰も秘密は漏らさない。だからラックマンはチューリッヒに行ったのだ。
 国によっては、銀行の内情を調べるのは決して難しい事ではない。しかしスイスではそうは いかない。スイスの銀行は怪物だからだ。勿論普通の銀行の仕事はスイスの銀行でもやる。預貯金、小切手、融資。しかし、スイスの銀行は、株の売買までやるのだ。スイス・フランで、アメリカのドルで、ブラジルのクルゼイロで、イランのリアルで。それも公式のルートでやるだけではない、灰色の・・・いや、全く暗闇のルート・・・つまり、闇市ででもやるのだ。だから顧客も多岐に渡っている。スイスの普通の主婦、亡命キューバ人、アメリカ本国で不当な税金を取られるのをなんとか躱(かわ)そうとしている在スイス・アメリカ人。スイスの銀行は保険会社を持っていたりする。いや、時計会社だって、軍事武器の会社だって、海運会社だって・・・いや、時にはイランに巨大な銀の鉱山だって持っていたりする。
 普通、銀行には限らない、何か会社を買収しようとする時に、まづやらなければならないのは、財務諸表を重箱の隅を爪楊枝でつつくように調べることだ。こうした調査は、監査事務所に依頼しても、何週間もかかる。書類が多い時には、何箇月もかかることがある。しかしスイスでは違う。スイスでは、一人で一時間もかければ充分だ。何故なら、スイスの会社で発行される財務諸表はCIAの年次報告と同程度にしか役に立たないからだ。会社ではなく、スイスの銀行で発行される財務諸表に到っては、殆ど情報量はゼロなのだ。
 ドナルド・ラックマンも、この財務諸表による調査が無益なことにすぐ気がついた。シシリア・アメリカ国際銀行の簡単な貸借対照表を手に入れていたが、これから得るものは何もなかった。そこで彼は第二段階に進むことにした。噂によってその銀行の全体像を作ろうというものだ。特に、「こちらはこれだけ知っているが、そちらはそれ以上のことを知っているか?」と誘い出して情報を得るのだ。アメリカではこれはよく行われるやり方で、大抵誰でも快く協力してくれる。「僕はあそこの会社の競争相手、これこれを知っているけど、君は他に知っているか。」「あそこの社長は酷い呑んべえだ。重役で何か噂を知っているか。」「あの銀行の一番の得意先はどこどこだと思うが別のところかな?」「あの銀行に金を貸す気になったとする。君はいくらまでなら貸せる?」「あの銀行をそっくり買収しようと思う。いくらでなら買う? 百万や二百万ドルは誤差に入れてさ。いくらだ?」といった具合だ。
 しかし、これもアメリカとは違って、スイスではうまくいかない。特にがめつい小鬼の國チューリッヒでは駄目。ここでは「今何時ですか?」という質問でさえ疑いの目をもって見られるんだから。
 ラックマンにもようやく難しさが分ってきた。有能な人物が相手をしてくれない、という訳ではないのだ。なにしろ、全米第九位の大銀行の頭取であるジョージ・フォアマンの紹介状があるラックマンな のだ。彼を無視するわけにはいかない。しかし、だからといって、彼等が腹を割 って本当の話をしてくれるわけではない。ラックマンの最後の切り札はスイス総合銀 行のウォルター・ホーファー頭取だったが、ほどなく彼がチューリッヒにいないこと が判った。パリに居るらしい。会ってくれたのは、最高幹部の一人 、博士号を持つケラーマンであった。「それはそれは、喜んでお会い致しましょう。」との御挨拶。「そうでした」とケラーマン。「フォアマン頭取からの紹介状を頂戴しておりま した。頭取には昨年サンフランシスコでお目にかかりましてね、御親切にして頂きました。あの街は本当に素晴らし いですね。ところで、御行とは預金を持ち合っておりましてね。もうずいぶん前から になります。現在の残高は大した額ではないんですが。もちろんもっと高額になって当然なのですよ。特にチューリッヒでは。この事ですか? お話というのは。」
「いいえ、ちょっと違うんです。」
「ああ、そうですか。ええ、ええ。それじゃ如何でしょう。昼食でも御一緒しながら、も う少し詳しいお話を伺うというのは?」
という次第。以下は昼食時の会話。
「さてと、ケラーマンさん」ウィンナー・シュニッツェルの最後の一切れを平らげる と、ラックマンが話を切り出した。「実を申しますと、スイスのある銀行について、 ちょっとお伺いしたいと思って参りました。」
「はあ?」
「ええ。その銀行はルガーノにあるんです。シシリア・アメリカ国際銀行という名前なんですが。」
「ほう、なるほど?」
「で、どういう御意見でしょう、重役、お宅様の銀行から見て、この銀行は。」
「ルガーノにありますな、確かに。存じております。」
「ああ、ご存知なのですね?」
「ええ、まあ。」
「ああ…そうですか。それで、例えばの話ですが、この銀行を買うとしたら、評価と してはネットで幾らぐらいのものでしょうかね?」
「ネットで幾ら?」
「つまり、いわゆる不良債権だとか、その類のものをすべて償却したあとの、資本金 と積立金の合計ということですが。」
「いや、それはどうも、難しいですな。」
「難しい?」
「そう。どうも、難しいです。」
「分りました。それでは、ほんの感想というので結構ですのでお答え頂きたいんです が、「信用」の面じゃいかがでしょう、この銀行は。例えば、銀行間融資の時の融資の上限をどの程度になさっているんでしょう。」
「上限ですか。話題にしたことがないですな。」
「そうですか。でも、お取り引きはあるんでしょう?」
「ちょっと係のものに調べさせなければ詳しいことは分りません。私の受け持ちでは ないものですから。」
「分りました。全般的な評判ということではどうでしょう?」
「特に悪い噂は聞いておりません。もっとも、いい噂も取りたてて聞こえてくるわけ でもありません。しかしこれも・・・」
「受け持ち外で?」
「そのとおりです。」
「この銀行の最新の財務諸表、といっても大雑把なものですが、これを見ますと、資 産勘定の中の「関連出資」の項目にかなりの金額が計上されているんです。」
ラックマンは貸借対照表を見せる。ケラーマンは眼鏡をかけて書類を子細に調べる。
「確かにそのようですな」
「これは普通のことですか?」
「え? 普通といいますと?」
「こんな形でこんなに多額の投資をするということがですが」
「えーと、「関連投資」の項目のことを仰っているのですか?」
「そうです」
「それは普通とも、異常とも言えませんな。この項目にはいろんな勘定を含められま すので」
「例えば?」
「そうですね。非常に安全なAT&Tの株を買い取る時にも使いますし、何かの工場を買う場 合にもこの項目に入れることがあります。まあ、ちょっとリスクの多いケー スで使うことが多いかもしれませんが。」
「すると、この銀行のこの場合も…」
「まったく想像がつきませんね、何が含まれているか。」
「実は、もう一つ驚いたことが有るんです。」
「ほう?」
「脚注。ただの脚注なんですが、そこには貸付金を国内向けと外国向けに分けて示してあります。ところが、スイス以 外の国への貸し付けの比率が異常に大きい。私にはそういう気がします。」
ケラーマンがもう一度書類を見る。
「そう、確かにそうも言えるかもしれない。でも、まあ…」
ラックマンは書類を鞄にしまう。
「重役、もうひとつだけ聞かせて下さい。この銀行のオーナーは誰なんでしょう? ヒントだけでもいいですから教えて頂けませ んか。」
「いや、それがスイスでは一番答えにくい質問なんです。ご存知の通りスイスでは殆 どの銀行の株式、またどんな形にせよ殆どの会社の株式は無記名方式を採用しており ます。だからオーナーの名前が表に出ることは有りませんし、又有り得ません。だい たい、個人にせよ会社にせよ、ある瞬間を取り上げて、誰がオーナーだとか言ってみ ても、何の意味もないんです。株主はしょっちゅう変わっているんですからね。」
「でも、株主総会はどうなるんです? オーナーが出てこないわけには行かないでしょ う?」
「そりゃ、当然のご質問です。でもスイスでは株主総会なんていったって、殆ど誰も 出やしないんです。出席するのは弁護士だけ。その弁護士を操っている人物をお知りになりたいと?」
「それは無理でしょうね。」
「その通りです。」
 ラックマンはあきらめて、かばんに書類をしまったあとで言った。
「色々教えて下さって有難うございます、ケラーマンさん。大変お世話になりまし た。」
「お役に立てて嬉しいです、ラックマンさん。お帰りになったら、フォアマン頭 取に是非宜しくお伝え下さい。」

 ホテルではデビーが夫の帰りを待って居た。夫の顔を見るなり、彼女は言った。「ま たあなた、空振りだったんでしょう。」
「そのとおり」
「それで、これからどうするつもり?」
「それが分らないんだ。」
「もういや。わたし我慢できないわ。こんなろくでもない部屋で。それに一日中一人ぼっちで居るな んて。貴方はいいわ。毎日、豪華なスイスのランチ。でも肥るわね。」
「一日中ひとりぼっちとは何だ。まったく・・・」ラックマンは思う。「きみの夢だったんじゃないか。ヨーロッパ! ス イス! それがたった三日でもうこれか。」
「デビー、この部屋をろくでもないなんて言うんじゃないよ。一日六0ドルもかかって るんだぜ。」
「六0ドルね。でもシャワーは出ないし、エアコンも無いわ。それにコーヒーを飲みにバーに下りると、ここのバーテンダーたら私のことを変な目で見 るの。きっと私のことを商売女だと思っているんだわ。それも嬉しい推測ね。だって、私、商売女だったら、少なくとも何か考えることがあるわ。今私、退屈。退屈で退屈で何もすることがないの。だから、何か考えることがあるなんて、嬉しいことよ。」
 ドナルドは妻を黙って見る。四月のスイスでエアコンだ? 冗談じゃない。
「ねえあなた、私、何か変だと思うんだけど。」
「何が。」
「買収したい銀行って、ルガーノにあるんでしょう?」
「うん。」
「それなら、どうしてチューリッヒになんかに居るのよ、私たち?」
「デビー、いいか? こういう問題の場合、慎重第一なんだ。 ここで聞いて回る方がルガーノでやるよりずっとうまく行くのさ。ここは銀行が集まっているところなんだ。アメリカ人が来たって誰も何とも思わない。ルガーノじゃそうは行かな い。アメリカ人が来たとなると、連中の方がこっちを調べる。こっちがあっちを調べるよりも前にね。」
「だからどうしたって言うの?」
「だから、馬鹿なことはできないってわけだよ。」
「貴方の方よ、馬鹿なことをやっているのは。あなた、銀行を買うんでしょう? どっ ちみち、その銀行のことを直接調べないわけにはいかないじゃない。貴方がやっているこ とって、電話で女の子を諄(くど)こうとしているようなものよ。」
「そんな比喩は当らないな。面白くもないよ。」
「そうかなあ。当っているんじゃない?」
「わかったよ。じゃ、僕にどうしろって言うんだ?」
「今すぐ荷造りして、ルガーノに行きましょ。」
「駄目だね、デビー、そいつは駄目だ。これだけはいくら君が言っても動かない。僕らはここにいるんだ。」
 彼は上着をつかんで立ち上がった。
「貴方、何をするの?」
「昼寝だ、一人で昼寝だよ。」
「じゃ、私はどうすればいいの?」
「読書。買い物。その他何でも。」
 デビーはロビーに下りる。タイム、ヘラルドトリビューン、プレイボーイそれに ドイツ語の絵入り雑誌シュテルンを買う。彼女が部屋に帰ってみると、ドナ ルドはもういびきをかいている。三時間後電話のベルが鳴った時もドナルドは相変わらずいびき。ベルで目覚めたが、受話器を取ったのはデビーだった。
「貴方によ」とデビー。「サンフランシスコから。」
 ドナルドは受話器を受取る。二三度「はい、分かりました」と答え、電話の脇のメモ帳に数字を書く。さらに二三回「はい、分かりました」を繰り返し、受話器を置く。
「随分丁重ね。誰なの?」デビーは聞く。「あなたのお母さん?」
「デビー、冗談がきついよ。」
「じゃあ誰?」
「フォアマン頭取だ。」
「へえ?」
「そう。」
「それで?」
「明日出発だ。」
「ひどい。いくら頭取だって、それはないわ! 私たちここに着いたばかりよ。こんな短い間に何が出来たっていうの。奇跡が起せた筈だっていうの?」
「止めろ、デビー。出発だ。だがな、アメリカじゃない。ルガーノだ。」
 やれやれ何とか面目は保てたか。つい彼は、にやりとしてし まう。デビーの方こそ得意だ。夕食が終るまでに口がすっぱくなるほど言っているのだ。「調査はルガーノですべきだ」と。しかし彼女の言葉は短かかった。「ほらごらん、言ってた通りでしょう?」

 二人はチューリッヒ発七時三0分のTEEに乗り、一一時五八分、ルガーノに到着する。真っ直 ぐホテル・ヴィラ・カスタニョーラに向かい、予約しておいたスィートルームにチェ ックイン。ドナルドは早速電話をかける。前日フォアマン氏から言われた電話番 号だ。打ち合せはラックマンの部屋で午後五時から。デビーは五時五分前に 寝室に引っ込む。ただしもちろん、ドアーをちょっとだけ開けたままにしておく。
 五時きっかりにドアーを開けて入ってきたのは長身で日焼けした男。スポーツジャケッ ト姿。グローブのように大きな手で握手をしてくる。
「ニック・トッピングです。上着を脱いでいいでしょうな?」
「どうぞ、どうぞ。ハンガーをお持ちしましょう。」
「いや、お構いなく。ここに掛けときゃいい。」
「何か飲み物はいかがですか?」
「いや、結構。あとでなら、多分。坐りますよ。」
 ラックマンは上着を着たまま。銀行マンは皆これだ。
「私が此処に来た理由をもちろんご存知でしょうな。」
「いえ、正確なところは知らないんです。昨日、本部から電話があって、ここに来て貴方に会うよう言われて・・・実のところ、それだけなんです。」
「ま、いいでしょう。では、取りあえず自己紹介から。私はパナマの国際鉱業コンサル タント会社でPR部門を任せられてましてね。」
「なるほど」
「そう。それでと、実は私はこのルガーノであんたと同じ物に興味を持ってい るんですよ。」
「私と同じものにですって?」
「そう。シシリア・アメリカ国際銀行。」
「え? それは・・・私、聞いていませんが。」
「大丈夫。私の説明を聞けば分かる。」
「どうして興味があるのです?」
「この銀行が持っているある物に関心があるってこと。いやこの銀行が持っていると言うのは推 測だし、ひょっとすると、持っているのは一部だけかもしれない。ただ、そいつは、もしお 宅がこの銀行を買収するとしても、多分お荷物になると思う。」
「何でしょう? それは。」
「その事は後回しにしよう。」
「それは、銀行の書類の中にあった「関連投資」の中に上げられていたものですか?」
「その通り! いやー、あんた見かけより冴えてる。」
「あの海外からの借金もそれに関係しているんですか?」
「多分そうだろう。」
「あの負債は全部で二千五百万ドル、銀行の全資産の四分の一にもなります。」
「これもその通り! しかし、さっきもいったように、それはお宅ではお荷物になると思う。リスクが大きすぎる。」
「それ以外の点ではどうですか、この銀行?」
「良い内容だよ。ま、買い物でしょう。」
「売りに出ていれば、ですけどね」
「それはそう。その点については、うちの会社であんたの代わりに気をつけていよう。但 し、始めにいくつかチェックしておかなくちゃいけないんで・・・と。よし、明日から始 めよう。」
「どうするんです?」
「まずはちょっと一緒に旅に出てもらいます。」
「一緒に旅? どこへです。」
「クエート。」
「クエート?」
「そう。手続きはみなこっちでする。あんたの方は、すぐ出られるようにパ スポートとスーツケースを用意しておいてもらいます。」
「ちょっと待って下さい。何を始めようとしているのか分りませんが、私が貴方と一 緒にどこかへ行くなんてとんでもない事です。私がルガーノに来たのは銀行の調査に 来たのですから。クエートだろうがどこだろうが、私は行くつもりはありませんよ。」
「いや、結局は行く事になるな。」トッピングは続ける。「悪い事は言わない、今すぐサンフランシスコのお宅のボスに電話するんですね。」そして、腕時計を 見ながら言った。「今だったら、まだベッドに入っちゃいない。丁度つかまる時間だ。」
 トッピングは立ち上がる。
「こっちからまた、今夜中に電話する。その時に飛行機の時間も。」
 ラックマンは驚いて相手を見詰める。相手は陽気に続ける。
「あんたにやっておいてもらいたい事がもう一つある。もちろんボスに電 話して許可を得てからのことだが。」
「何ですか?」
「あんたが、クエートのロンドン中近東銀行の総支配人に、明日の午後会えるようにするんだ。ただし私の事は決して言わないこと。もし向こうが奇妙に感じるようなら、ただの御機嫌伺いの訪問だと。ホラ、銀行さんがしょっちゅ うやってるあれ。」
「他に何か?」少しいらいらして、ラックマンが聞く。
「いや、それだけでいい。」ニック・トッピングは上衣をつかんで、大きな手で、握手を 求める。
「じゃ、明日また。今日は飲めなかったが、こんどは一緒に一杯やれるといいですな。」
 そして彼は去る。
 ドアーが閉まる。間髪を入れず、デビーが寝室から飛び出て来る。
「ドナルド! 一体これどういう事?」
「聞いていたんだな。」
「聞かずにはいられないでしょ。あの人の声、湖の向こうからだって聞こえるわよ。 体も大きいの?」
「大きいなんてものじゃないよ」
「あの人の話、ちょっと変よ。なんだか怪しいわ。」
「怪しい。僕もそう思う。」
「ねえあなた、これ、合法的なの? 不正はないっていうの?」
「ねえ、デビー、君はフォアマン頭取がどんなに堅い人物か知っているだろう? あの人が不正な事件なんかに巻き込まれるとでも 思っているのかい?」
「ううん、それはないと思うけど・・・わかったわ。じゃ、クエートへ行きましょう、一緒に。」
「僕は行くよ、勿論。でも君はここに居るんだ。本部は二人で行けとは言っていないからね。」
「いやよ、そんなの。あなた約束したじゃないの、これからは何でも一緒にやるんだ って。私は絶対にいや、こんなところに一人ぼっちで居るなんて。チューリッヒの 時だって一人ぼっちだったんだから。」
「いや、君は一人でいてくれなきゃ駄目だ、デビー。僕がいない間に旅行でもどうだ? 北イタリー だっていいし、アルプスだっていい。こんな場合だ、費用だって銀行で見てくれ るさ。」
「いやよ、あなた。パッケージツアーなんてまっぴらだわ。どこかに行くんだった ら、私の好きなところに勝手に行くわ。自分でアレンジして。」
「そう、わかったよ。」小さい声で「やれやれ」とつぶやきながらドナルドは答える。
 そうして、すぐサンフランシスコへの電話だ。フォアマン頭取は、間髪を入れず電話口に出た。彼の指示はぶっきらぼうでそのものずばりだった。・・・なんであれ、トッピングと一緒に行動すること。この段階では一切疑問をさしはさまな いこと。トッピングがペルシャ湾へ行くというのなら、さっさと同行すること。帰ったら報 告すること。
「かしこまりました。頭取」
 ファーストネームでのやり取りなど、この電話では一切無しだ。
 電話が終わっても、デビーは彼の方を見向きもしなかった。その日しばらくたってか ら、彼は翌日の早朝にクウェートに出発する事を妻に伝えたが、「そんなこと私に何の関係があるの?」というあからさまな態度。俺の留守中、こいつ何をする気だ。まあいい、好きなようにするさ。子供じゃない。自分で考え るさ。トラベラーズチェックに何枚かサインしておいてやるよ。
 翌日夜が明けて間もなく彼はそっとベッドを抜け出した。妻を起こすべきかどうか、一瞬迷ったが、まあ止めとけ、と勝手に決める。
 彼は短いメモを残した。「電話が通じたらの話だが、その時は出先から帰りの予定を連絡する。」それでもやはり、いざ寝室を出ようとした時、ドアの隙間から中を覗いてやさし く、「じゃあね。」と囁きかけないわけにはいかなかった。廊下に出た時かすかに声がしたような気がした。
「出て行け、オタンコナス。」
 でも、それは彼の思い過ごしだったのかもしれない。

     一 0
 クェートという都市はアラブ世界で間違いなく最悪の都市だ。ここにあるビルとい うビルは、米国ニュージャージー州にあるスタンダードオイル社の文化部からたっぷり 報酬を受けているガラス・カーテンウォール派の建築家連中が設計したものばかり だ。この町でのエアコン設備の都市面積当たり密度はマンハッタンとほぼ同じ。キャデラック社製のリムジンの数もマンハッタンと多分同じ。それに「金」。これも間違いなく同じ くらいある。銀行が多いのもこれで説明がつく。その数もマンハッタンとほぼ同じだ。
 ロンドン中近東銀行のクエート支店の建物に入った時、ドナルド・ラックマンは緊 張していた。何故なら、彼はこれから行われようとしている陰謀の片棒を担いでいるからだ。これ を成功させるためには、繊細さ、巧妙さ、そして冷静さが絶対に必要だ・・・これはトッ ピングから実行計画を聞かされた時にいわれた事だ。あんたの役割はこの銀行の支店 長に上手に話をして、アーガ・ファードーシという男との関係を聞き出すことだ。
 アー ガ・ファードーシって何者なんです? イラン人だ。そのイラン人がルガーノの銀 行とどういう関係があるんですか?   そのうち分かる。あんたはとにかくそこへ行くんだ。そ うして自分の勘を働かせるんだな・・・これがトッピングの思わせぶりな答えだった。
 ロンドン中近東銀行のクウェート支店長は、赤ら顔でセイウチのようなひげを生やしており、大きな声で話す男 だった。多少の個人差は有っても、スエズ以東に居るイギリス人のお定まりのコース を歩いてきた男。アメリカ人と見ると「You、Chaps(なあ、お兄さん)」を 連発するのがこの手の男だ。ここ湾岸の住民達を「Wog(ここの連中)」と呼ぶの も連中のお定まりの言い方だ。ChapもWogも進化論でいえば同じ進化段階に有 ると思っているに違いない事は態度で分かった。この男はクエートにやってきた若 いアメリカ人の銀行屋にアドヴァイスがしたくてうずうずしていた。そして、それは 大きな声で発せられた。
「いやあ、さかんにいらっしゃいますな、アメリカのお兄さん方(Chaps)は。あなたもその・・・」
 この瞬間ラックマンは割って入った。・・・カリフォルニア・ファースト・ナショナ ル銀行はクウェートに進出しようなんて考えていません。・・・そうですか、そうですか、それならいいんですがね。と慇懃無礼な同意。ラックマンはかまわず続ける。我々が是非伺いたいのは、最近御行に高 額の融資を申し込んできた連中についての御行の評価についてです。ファードーシと いうChap(お兄さん)ですがね。ラックマンはイラン人も例の呼び方のカテゴ リーに入れていいものかどうか分からなかったが、これに賭けて見た。そして彼は賭 けに勝った。
「いいChapです、ファードーシさんてのは。実にいい人ですよ。イランの名門の一人です。名門中の名門。彼個人の名義で五百万。ドル建てです。ポンド建てじゃあ りません。美人の妹がいるそうですよ。正真正銘の美人。残念ながら、私はまだ会った事はありません。スイスにも金を置いているんです。かなりの額です。それが増え続けている。銀取り引きの大物、ファードーシ。湾岸で最大と聞いています。ど こで銀を確保しているのかは良く分からない。もちろんウチには何の関係ありませんがね。」
「そのスイスの銀行の名前を教えてはもらえませんかね。多分私どもも彼等の事を調 べてみたいという事になりそうですので。」
「小さい銀行です。ルガーノにあります。これまで聞いたことがありません。なにか シシリア人と関わりがあるようです。社員もあんまり多勢居るとは思えません。何で したら、ファイルを調べてみますが…」
「いえいえ、それには及びません。ルガーノにあることさえ分れば、あそこには銀行はあまりありませんから。」
「私がこんなことをお訊きしたのは、どうか御内聞に願います。」イギリス人との別れの握手の時、ラックマンは頼んだ。
「いや、もちろんですとも。どうぞご心配無く。我々イギリスの銀行屋は秘密の守り 方は十分心得ておりますよ。」

 クエート・ヒルトンホテルではニック・トッピングが彼の帰りを待っていた。
「どうだった?」
「やっぱり銀だった」勝ち誇ったように答える。
「銀・・・図星か。しかし違うかもしれない。とにかくあっちの話を聞かせてくれ。それからだ、次に打つ手は。」
 ラックマンは銀行での話をする。トッピングはそれをじっと聴く。一度も遮らない。
 ラックマンが話し終えると、にっこり笑ってトッピングが言う。
「よくやった。ファードーシとあの銀行には緊密な関係ある。そいつは間違いなさそうだ。」
「でも、銀はどこで絡んでくるんでしょうね。」
「銀はファードーシと絡んでいるのさ。何箇月か前からファードーシが突然銀取り引きの世界でのビッグマンになったと いう噂がこの湾岸地帯で囁かれている。この話が本当だとすると、銀はイランから・・・つまりイランで新しい銀鉱が発見されたということになる。しかしこいつは確かめなきゃならんことだ。」
「しかし、そんなことなら、確かめるなんて簡単でしょう?」
「どうやってやるんだ?」
「ファードーシ所有の土地を調べるんですよ。どうせ銀鉱はイランにあるんでしょう?」
「そいつはやってみたんだ。目星をつけた場所があるんだが、そこは猛烈にガードが堅い。まるで国王の宮殿だ。そこでウチの人間が一人殺されたんだ。」
「設備の方はどうなんです? 大きな鉱山業を始めるとしたら、トン単位の器械設備が必要でしょう? イランの税関で聞いてみればいいじゃありませんか。」
「坊やだね、あんた。密輸入だよ。そんなものにまともに関税を払っている奴がいる訳ないだろう? このあたりに。」
「それだけの器械設備を誰にも知られないであなた、密輸入が出来るとでも思ってい るんですか?」
「思っている? 冗談じゃない。知っているんだ、こっちは。密輸入と決まっているんだ。」
「よろしい。じゃ、密輸入だとしておきましょう。それで、今のあなたの話を聞いていると、どうやら狙いは銀の鉱山にあるんですね? じゃ何故ファードーシに直接会って、買収交渉をしないんですか?」
「それは銀鉱の持主がもう彼一人じゃないからさ。経営権も多分もうない。おそらく経営に関与さえしていないだろうな。多分ルガーノの銀行がやっているんだ。覚えているだろう?「関連出資」の あの項目を。」
「なるほど」ラックマンは言った。「そういうことか。」
「ところで」とトッピング。「あんたはもうこれ以上嘴(くちばし)を突っ込まない方がいい。これだけでももう知りすぎだ。今はリーダーに黙ってついて くればいいんだ。そしてリーダーは俺なんだ。分かっ ているな?」
「分かった。それで次ぎは?」
「ドバイだ。」
「ドバイ? ドバイに何があるんです?」
「銀さ。あたりまえじゃないか。」
「銀鉱はイランにあるとばかり思っていましたが。」
「そうだよ。」
「じゃ、なぜドバイに銀が?」
「イランからの銀の行き場所がそこだってことさ。少なくとも一時的にはな。」
「移動中を狙うという訳ですか。本元の銀鉱ではなく・・・」
 ラックマンはちょっと浮き浮きした気分になってきた。デビーの居るところから十二時間も離れていると腹が坐って来る。
「いいとこを突いているよ、あんた」とトッピング。「その切れ方じゃ、今頃あんたの銀行じゃ、あんたがいなくて困っているんじゃないのか? 移動中を狙う・・・図星だ。しかし、盗むんじゃない。ただ確かめるんだ。銀が確かにそこにあるって事をな。」
「でもあんたはもう、それは分ったって言ったんじゃありませんか?」
「推測だ。まだ分っちゃいない。分ってたら、こんなくそ暑い砂漠に何で俺達はいなけりゃならないんだ? いるこたあないだろう? 俺達は噂を聞いた。ただそれだけの話だ。始めは湾岸での噂を。次は、もうちょっと確からしいが、あんたの知り合いのクエートの銀行屋さんから。でもまだ分かっちゃいない。俺達はドバイに行く。そして、もしドバイで運が良ければ、そいつが分るってことよ。」
「なるほど」とラックマンが答える。「それで、いつ出発するんですか?」
「明日だ。ドバイ空港に十一時。連中が俺達を待っている。」

 確かに「連中」がそこに立っていた。連中とは誰か。金持ちとも正直者とも見 分けられない脊の低いアラブの黒人が一人だ。その男のコミュニケーションの手段は押し殺した小さなシューシューという囁き声のみ。そして今その声が向けられているのはトッ ピングの耳、正確に言うと左の耳だ。ホテルに着く直前、彼等が乗った車が停まり、空港で待っていた汚いアラブの黒人がそこで目立たぬように車を降り、そして同じように汚い群衆の中に消えて行く。そこは、どうやらドバイの中心広場らしい。
「何ですか、これは一体。中古のラクダでも買い込もうっていうんですか?」
「ドナルド。あんたは今、湾岸地帯で一番嫌がられている連中とお知りあいになれたんだ。彼、それに彼の仲間ときたら皆、ちょっとした盗みだって身の汚れることだと思って いるんだからね。」
「どうやら彼、風呂に入る事も身の汚れることだと思っているようですね。」
「うん。確かに奴は何かえらい悪臭を放っていたね。まあいい、臭いぐらい。あの男なんだからな、こっちの問題を解決してくれるのは。細工は流々。今夜中にでもだ。」
「解決? 今夜?」
「そうだな、まあこう言っておこう。我々の臭い友達が「死体」を拵えてくれると約束してくれて るんだ。」
「死体!」
「驚くことはない。単なる比喩的表現だ。ラテン語で言うCorpus  delicti (他殺死体)かな。」
「誰の死体なんです?」
「まあ、そのうち分るさ。」
 ホテルにチェックインし、昼食を終えると、ニック・トッピングはこれから昼寝すると いう。ラックマンはちょっとドバイの街中を見に出かけるつもりで出たが、十分後に その焼けつくような暑さに耐えられず、あきらめて戻って来る。その時突然デビーの 事を思い出す。ルガーノに繋がるまで二時間もかかる。電話の向こうにデ ビーがやっと出る。ラックマンは堰を切ったように、これまでの二十四時間の出来事を詳し く説明する。デビーにも彼自身の興奮を共有してもらいたかったからだ。しかし返って きたのはおざなりな「あ、そう。」「あ、そう。」の連続。最後は「じゃあね。せいぜい楽しんでいらっしゃい、アラブのスッテキなお友達と。」だった。デビーは電話を切 る。ラックマンは胃の当たりに何かむなしい感じが残る。一体どうしてあいつは いつでもこんな風に僕の勢いをくじくような言い方をするんだ。冷たいシャワーを浴 びて少し気が安らぐ。だが、ベッドに入っても寝付かれない。かわいそうにこ んなに疲れているというのに。彼はベッドに横たわったまま、デビーの事を考え、次 にドバイについて考え、そしてまたデビーの事を考え始める。その時電話のベルが鳴る。トッピングだ。九時にホテルのロビーで待っているという。
 二人がこのデラックス・アンバサダー・ホテルを出て歩き始めた時、街はもう暗くな っていた。彼等はすぐにバザールへと行ったり来たりする群集の中に呑みこまれてしまう。いろんな国籍の人々でごった返している。ほとんどはもちろんアラブ人だ が、中国人、イラン人、アフリカ黒人等も居る。白人はわずかだ。ニック・トッピング はエキゾチックな周りの風景など殆ど見ようともせず、狭い街路を進んで行く。旧市街の息苦しいような熱気と臭いから突然解き放されたと思うと、そこは港だ。 悪臭はむしろ強くなり突き刺すような感じだが、ペルシャ湾から吹いてくる風がある。港は込んでいる。大きくてモダーンな外洋航海用ヨットが幾つも繋 がれている。それに無数のジェルバ船や石油タンカー・・・それらが皆、駐船スペースを確保 しようとひしめき合っている。
 陸の方では、驢馬達が水夫達と混じりあい、籠の中の鶏達はクワックワッとう るさく鳴いて、哀れみを請う乞食達の声と競い合っている。突然一人の男が群集から抜け出 てきてトッピングの肩をつかむ。トッピングは傷ついた虎のようにすばやく反応 し、くるっと回転すると身体を低くして身構える。そして、そこにいる男が誰だか分 かるや、急にまた、やれやれという安心した表情。
「二度とこんなことをするんじゃねえ。さもないと、ただじゃおかねえぞ。」
 空港で会ったアラブ人の小さい黒人だった。この脅し文句に何の反応も示さず、勇敢にもトッピ ングを真っ正面から見つめて言う。
「私と一緒に来てください。まだ時間は早いです。」
 三人は薄汚れたインド風のカフェに入る。と、アラブ人はすぐ奥まったテーブルへ行き、トッピングに向かって言う。
「あと一時間です。お茶でいいですね? それまで。」
 薄汚れた欠けた茶碗に緑茶が入っている。アラブ人は自分のカップに スプーン山盛り四杯の砂糖を入れる。トッピングとラックマンは何も入れない。アラブ 人はどうやら話は無用と考えているらしい。トッピングも同じだ。だが、ラック マンは違う。
「これは一体何の真似です?」
「もうすぐ分かるさ。」
 そう言われては話は終りだ。そのカフェーはどう見ても一時間の暇を過ごすのに理想的とはいえない場所だっ た。カレーの臭いがどこかから漂い、蝿でいっぱいだ。天井の扇風機はただのろのろ回っているだけで、とてもカレー混じりの重たい空気を吐き出す力はない。空気をむなしくかき混ぜているだけだ。ラックマンは時計を見る。何度も。それが十度目になった時、別の男が現れる。相棒のアラブ人に顎をしゃくる。坐っていた相棒が言う。「どうぞ。こっちです。」これが出発の合図だった。
 店を出てみると、外はもう、とっぷりと暮れている。群集の数は減っていたが、それ でもまだ沢山の人々があたりを徘徊している。今度はカレーに代わって魚の臭いがそこ ら中に漂っている。気温はかなり下がっている。他の三人は速足。ラックマンは負けないよ うについていくのが精一杯だ。水際に並んでいる種々雑多な船。その傍を急ぎ足に通り過ぎる。
「これです。」小さくて汚いジェルバ船の前で立ち止まるとアラブ人が言う。ラッ クマンは殆ど真っ暗闇の中を他の連中に続いてやっとの事で船に這い上がる。
 程なく、小さなエンジンが始動し、船はゆっくりと湾内へ進んで行く。しかしそんなに 遠くではない。水際から約二百ヤード。水際ではまだいろんな船が船荷の積み下ろしで忙しい 。エンジンが切られる。船は完全な闇夜の中でゆっくり揺れ ている。メイン埠頭のほのかな明かりでは、闇夜を遠くまで見透かす事は出来ない。 ラックマンは右舷の手すり際にある粗末なベンチに一人で坐っている。他の三人は何 故か姿が見えない。その時二人、例のアラブ人とトッピングが再び現れる。
「あれです」アラブが言う。彼が指差す先には入港したばかりらしい少し大き目の漁 船が見える。
 二人は大きな双眼鏡をかざして船を見詰める。夜間用の双眼鏡だ。このジェルバ船は見 かけ以上に種々の装備を整えている。
「来ました!」アラブが言う。
 ラックマンは目を凝らして埠頭の方を見る。しかし彼の目には特に目を引く物も人も、何も捜せない。
「白い服を着た男か?」トッピングが双眼鏡を十度ばかり右へずらした時、アラブに訊く。
「そうです」
「一人だけか?」
「そうです」
 二人の男はかれこれ十五分もの間身動きもせず埠頭の方を見つめて立っている。
「先頭のトラックは荷物を積み終わった。今出発するぞ。」ついにトッ ピングが口を開く。「よし、仲間に合図してくれ。」
 アラブ人は双眼鏡を眼から離すと、ジェルバ船の船尾の方に歩いていく。箱の中から 新しい装備を取り出す。信号燈だ。ほんの十秒足らず、彼はそれをチカ、チカチカ、と使う。ラックマンは成り行きにただただ呆気に取られている。全てがうまくいっているようだ。しかし、少しもそのように見えない。
 アラブ人は信号燈をしまうとトッピングの居るところへ戻り、双眼鏡を目に、再び見張りの任務に就 く。
 十分が経過する。「トラックが動き出したぞ。」トッピングが言う。「お前の部下は腕は確かだな? タイミングを間違えないな?」
 始めてだ。トッピングの声に興奮した調子が出る。さらに三分が無言のうちに過ぎる。そうして、
「やった!」今度はアラブが叫ぶ。二つの双眼鏡がきちんと並んで岸壁に向けられる。「うまく行きました。あっちは転覆です。」
「そうだな。」トッピングが答える。「よーし、ここを出よう。」
 すぐにエンジンがかかる。相変わらず無灯火のまま、ドバイ港のもとの停泊地に向かう。ジェルバ船が陸に着くや否や、トッピングとアラブ人は、船 の係留作業をもう一人のアラブ人に任せて飛び出して行く。ラックマンも船 を降りる。しかし二人にはるかに引き離されている。必死に二人を追いかける。
 百メートル走ったろうか、前の二人が立ち止まる。再び例のインド風カフェの真ん前だ。そ の五十メートル先で、黒山の人だかりがしている。二台のトラックが、港に沿った広いコンクリート道路の真ん中で衝突した ようだ。一台のトラックは転覆しており、積み荷の一部が放り出されている。積荷はいくつかの木箱で、長さ九十センチ厚さ六十センチぐらいの大きさ。人だかりの真ん中 で五六人の男達が、大急ぎで散らかった積み荷を三台目のトラックに積みこもうとし ている。熱帯用の白スーツを着た男が指揮をとっている。二十分もしないうちに作業 は終わり、第三のトラックは走り去る。あとには、二台のトラックの何も積んでい ない残骸とその周りに興味津々で集まってきたアラブ人達が残された。誰も怪我をし た様子はない。こんなことは、ペルシャ湾岸の港湾地帯では殆ど毎日のように起 こっている事故の一つに過ぎなかった。
「もう一度お茶にしましょう。」トッピングのコンサルタント役の汚い黒人ががポツ リと言う。三人は先刻のインド風カフェの奥のテーブルに戻る。時刻は既に午後十一時になろうとしている。そこには別のアラブ人が待ってい た。始めて見る顔だ。男は三分間ほど早口のアラブ語で何やらしゃべり続ける。アラブ人コンサルタント氏が三つの質問をする。男は答える。と、突然立ち上がって去って行く。
「ようし。」トッピングが言う。「説明してもらおうじゃないか。」
「これで全部はっきりしました。」例のアラブ人が答える。ちょっとつっかえるよう な独特の発音だ。スタッカート風とでも言おうか。「木箱の中身は銀です。一つ壊れ た箱があってウチから遣った二人が、そこから銀が覗いているのを見ました。間違い有りません。」
「トラックの行く先はどこだったんだ?」
「インド人、ミスター・ネッブの倉庫です。これは確かです。あのイラン人と組んでいるんです。この倉庫は警戒が厳重です。働いている連中は口が堅いです。何も聞き出せません。なにしろ、たっぷり給料を貰っているんです。しかも 全員インド人。雇い主に忠実です。」
「銀がそこへ行くのは確かなんだな?」
「確かです。ウチの者が一人、倉庫を見張っています。今夜のトラックの出入りはちゃんと調べてあります。明日からの二三日も調べま す。これでファードーシが陸揚げしている銀の総量がかなり正確に掴めます。」
「ファードーシの見張りはまだやってくれているのか?」
「やってます。今夜空港に着いたのがほぼ六時。それからずーっとつけています。ついでですが、泊りは皆さんと同じデラックス・アンバサダー・ホテル。妹が一緒に来ています。」
「ようし、アリ。よくやった。いつもの事だが、たいした働きだ。お前も、お前の部下の連中も。おまえさんの手下の連中の働きも。ところで金だが、今欲しいか?」
「欲しいです。約束通りキャッシュで。ただ、最初の見積もりより、今回はちょっと高いです。」
「何故だ?」
「トラック一台丸々駄目にしました。こいつが予定外で。」
「分かった。」トッピングは上着のポケットを探り、封筒と財布を取り出す。何枚かの札を財布から抜き取り、封筒の上に載せる。 テーブルの向こうの相手に札ののった封筒をぐいと押しやる。札と封筒は、出てきた時と同じ経路を逆に辿り、アリの ポケットに収まる。
「お役に立ててよかった、ミスター・トッピング。あとの経過も追って報告しま す」アリは立ち上がり、レストランを突っ切り、ドアーから暗い闇の中に滑 りだすように消える。
 ラックマンも立ち上がる。しかしトッピングが言う。
「坐ってろ。連中と一緒にいるところを必要以上に見られたくないんだ。」
「私だって同じです。あなたと一緒にいるところを人に見られたくなんか無いですからね。」とラッ クマン。今回は、その声にひとかけらのユーモアも感じられない。
「どうしたんだ。どうかしたのか?」
「どうかした? どうもこうもないですよ。今日のあれは全部、あんたとあの連中が仕組んだことなんでしょう?」
「そう。もちろんだ。」
「あの衝突で死人が出ていたら一体どうするんです。」
「誰も死ななかったからな。」
「とにかく、何なんですか一体、これは。」
 答はない。そして二分後、
「オーケー。ホテルに帰ろう。今度は歩きだ。」
 二人は一言も話さずに歩く。二十分後デラックス・アンバサダー・ホテルに着く。
 白の上下を着込んだ男がフロントで鍵を貰っているところだった。そばには若くて美しい女 性が立っている。
 ラックマンは思わず声を出す。「ほら、ニック、見ろよ。あれは・・・」
「シーッ。」トッピングはラックマンの脇の下に腕を突っ込むと、ちょうど停まって いた空のエレベーターに押し込み、五階行きのボタンをすばやく押す。
「ちょっと俺の部屋に寄ってもらおうか、ラックマン。あんたにちょっと説明して おかなければならない事がある。」
 部屋に入るとトッピングは大きなウイスキーのボトルを取り出すと、二つのグラスに 注ぐ。「氷は?」などと聞かない。だいたい、ここでは氷は手に入らないのだ。ラックマンはそんなことはどうでも良かった。椅子に腰掛けるまでに、もうグラスの 半分を空けてしまっている。
「よーし、手短に行こう。階下に居たのはアーガ・ファードーシ。隣の女は、奴の妹。例のトラックの銀は奴のジェルバ船で運ばれたものだ。あの船が今夜の二番目の荷だ。アリとその手下の連中がそいつを聞き込んで知らせをよこし た。だが俺は納得しなかった。今じゃ、納得している。筋書きはこうだ。ファードーシとル ガーノの銀行が、イランで馬鹿でかい銀の鉱山を当てた。スイスに本拠地に置いて、銀をロンドンやニューヨークに売りさばく。その中継基地がドバイって訳だ。」
「あんたのその話は筋が通っている。だけど、それだけのこと をはっきりさせるのに使ったあんたの回りくどい手段、そいつは筋が通っていないぞ。怪しいチンピラは雇う、大事故にもなりかねない危なっかしい芝居は打つ。お蔭でこっちは逃げ隠れして歩かなきゃならない。あんたはさっき言った。ファードーシの土地を調べていた男が殺されたと。その時は、あんたが 大法螺を吹いてるんだと思っていた。だけど私はもう沢山だ。こんなやり方は。」
「いいか、よく聞くんだ、ラックマン。あんたはルガーノの銀行を、出来たら買収する・・・そのために調査して こいと言われているんだ。俺の方は、例のドバイ経由でやってく る銀の出どころがどこか、それを調べてこいと言われてるんだ。それで、もしそ れがイランだったらその銀の鉱山を買収して来いともいわれている。ところがあんたのお目当ての銀行が 俺のお目当て銀の鉱山の所有権を一部持っているんだ。それどころか、ファードーシを自身の首根っこまで抑えてしまっているらしい。奴はこのプロジェクトの必要資金をあんたのお目当ての銀行から目いっぱい借りているん だからな。いいか、よーく気をつけて聞けよ。俺達はあんたのためにあの銀行を乗っ取ってやる。だからその見返りに、銀の鉱山の方は俺達がそっくり頂きたい。金はたん まり払うつもりだ。いいか、うまく行けば結局こういうことになるんだ。あんたはあの銀行を買う。そこで、あんたが支払った同額の金を俺達が出して、あの銀行が持っている銀の鉱山の権利を、俺達が買い取る。つまりあんたは「ただで」、あの銀行を手に 入れる事になるんだ。そうなりゃ、サンフランシスコに帰って、あんたは大手柄っ てことになるんじゃないのか?」
「違うな。ヤクザな連中と取り引きしたって事が分かれば、大手柄どころか、だ。」
「おいおい、ずいぶんなことを言うな。何がヤクザなんだ?」
 ラックマンは眼を細めて何か考えている。
「それで? 考えた結果は?」
「全部がヤクザって訳でもない。あの事故の芝居以外は。それにこの芝居だって、イランへの突破口だし・・・私の知らない何やかやも、あれで多分わかったんだろう。しかし、もう一つ、とても突破出来ない大事なことが残っているぞ。」
「突破出来ないこと? 何だ、それは。」
「あの銀行を今のオーナーから買収しようったって、出来ない相談じゃないか。少なくとも合法的にはあり得ない。ファードーシと組んで、あの銀行は今、大きな資金源を持っている。そいつが実にうまく稼動しているんだ。一体どこの誰がこういう銀行を手放すって言うんです?」
「そいつはこっちにまかしとくんだ。俺を信用してな。全部合法的にやってみせる。俺達はいつだって、上手くやっているんだ。」
「どうやらそうらしいですね。でも、それで思いついた事がある。その「俺達」って、一体誰の事なんです。」
「銀に興味を持っている人間たちさ。」
「それで説明ですか? 大いに参考になりますよ。」
「いいか、よく考えるんだ。カリフォルニアにいるあんたのボスが、俺達が誰だか知らずに この俺をあんたと組ませると思うのか?」
 ラックマンは再び考え込まざるを得ない。
「うん。それは知ってるな、うちのボスは。」
「それで、あんたのボスはあの銀行を買いたいと思っているんだろう?」
「そうらしい。」
「どうやればうまく行くのかあんたには分かっているのか?」
「いや。さっき言ったように、合法的にはまず打つ手はありません。そりゃべらぼう な金額を払えば別です。」
「よし、さっきの話に戻ろう。こっちには、あの銀行を手に入れる方法は分っているんだ。ただ、ちょっとだけあんたの助けがいる。ほんのちょっとだけだ。それからこれは約束する。六十日以内に全部終わらせる。これは正真正銘の約束だ。まあ、六十日はかからない。それよりはずっと早くすむ。あと二日はドバイにいなければならない。ファードーシがどれだけの量の銀を持ち込むのかを調べ る必要がある。俺の使っている連中がそいつを調べるのに最低二日はかかるんだ。あん たはちょっと休んでいるんだな。ただ一つだけやってもらわなければならない事がある。あんたのボスへの電話だ。俺がさっき言った通りの事をボスに伝えて欲しいんだ。そ して聞くんだ。これから先それを実行して良いかどうかをな。結果を教えて欲し い。俺の方はホテルを出たり入ったりしている。適当な時に頼む。」
 一時間後にラックマンは電話をかける。
 フォアマンの特命が出る。「その線で行け。それから、迅速にだ。」その夜ラックマンは安心して寝る。なにしろ頭取の許可が下りているんだ。

     一 一
 ガンドリアという名の村についてミシュラン緑版には次のように紹介されている。「ルガーノ湖畔の小村。芸術家 に人気がある。花一杯のテラスやパーゴラ、つたの這うアーケードを持った家並みが 絵の様に美しい」と。ミシュラン赤版のレストラン案内には「アンテ ィコ」という名のレストラン一軒しか載っていない。その店は三つ星どころか一つ星さえ貰って いないが、ヴィラ・カスティニョーラ・ホテルのフロント係はデビー・ラックマンに言った。こりゃあ全くも ってフランス人に独特の偏見ですよ。フランスでは料理に濃い赤ワインから作ったソー スをかけたりしますが、我々イタリア人には考えられないことです。わざわざ味を台 無しにしてるんですからね。あのフランスのタイヤ会社の調査員連中は、イタリアのレストランと見ると、みんな「原始的」と思っているんですからね。タイヤ会 社なんかに料理の事が分るはずがないでしょう? 奥さん。見事な論理。反駁の余地がないわ。そこで、デ ビーは夕食の予約を取って貰う事にした。一人分である。何時にしますか? 八時 頃にして頂戴。それにハイヤーもお願いね。ベンツのリムジンを。銀行が払ってくれるんだもの。あれ だけの大銀行なんだから、恥ずかしい真似は出来ないわ。豪勢に行かなくちゃ。
 村の家々は崖っぷちにしがみつくように建っており、直ぐ下は湖の水面だ。狭い坂道 はフィアット500でさえ入れない。いわんやベンツのリムジンには無理だ。仕方なくデ ビーは上のパーキングから二百ヤードほどは、歩いて下りる。ミシュランにあった例の「パーゴラ」を尋 ねて歩いたが、もともと「パーゴラ」とは何か分らない。それに夕方の薄明かりの中では捜すのは無理だ。そのかわり、樹木で出来た緑のあずまやが充分目を愉しませてくれた。「アンティコ」は想像以上に素晴 らしい店だった。湖に面した岩山に穿たれた洞窟にすっぽりはめ込まれるようにし て、それは建っていた。テラス席はクローズされていた。全ての席は予約済みだったが、客はまだ誰も来ていない。奥の小さなバーに、男が一人、ぽつんと坐っている。
「これだわ」とデビーは思う。やっぱり、あんなホテルにもう一晩たった独りぼっちでいるなん て馬鹿みたいよね。それに、こんな素敵なバーがあるんだもの。一杯やらなきゃ、ほ んとに馬鹿みたいだわ。
 バーテンダーは、意味ありげに彼女を見た。特に首筋から腰のあたりにかけて。彼は 唇を一寸なめてから言う。「ブオナ・セーラ・シニョーラ。」彼女がアメリ カ人である事は百も承知だ。それに、アメリカ人というのは誰か自分より上品で洗練されて いる者と取り違えられるのが大好きな事も。バーテンダーはゲームを続ける。またイタリア語で「クアント・キエデ・アッローラ?」
 デビーの戸惑った表情を見て、奥のバーで一人坐っていた男が助け船を出す。
「失礼ですが、奥様。バーテンダーのやつ悪乗りして困ったもんです。私でよければお 力になりましょう」
 意味ありげに相手を見るのは、こんどは、デビーの番だ。・・・あら、悪くないわ。
「ご親切に。有難うございます。」デビーは答える。
 細身で、背の高いその男が席を立ってきて、握手を求める。
「自己紹介をさせて下さい。私は、ジアンフランコ・ピエトロ・アッヌンツィオ・デ・シラク ーサと申します。」
「あら」とデビー。「私はデボラ・ラックマンと言います。」
「デボラ・・・素敵な名前ですね。さ、何か飲み物は? 何になさいますか? これは私から。」
「ダイキリをお願いします。」
 公爵が鋭いイタリア語を発する。バーテンダーは慌てて仕事に戻る。その顔から薄笑いはすっか り消えている。
 公爵はシャンペンを飲んでいた。ダイキリが来るとデビーの方にグラスをあげて言う。
「最高に素敵な偶然に乾杯! なんて素晴らしい方! いっぺんに夜が光り輝いてきましたよ。」
 デビーの身体は震えた。寒かったからではない。痺れるような刺激のせいだ。こ れがヨーロッパなんだわ。あの退屈なチューリッヒに着いて以 来、ずーっと私が追い求めてきた本当のヨーロッパ。・・・ああ、貴方! 何処かへ行ってしまわな いでね。早く何か話さなくっちゃ。
「こちらのお生まれ?」ちょっと間の抜けた質問だ。しかし、それはそれで役立った。
「いえいえ。生まれはシシリア島、シラキューズです。」
「こちらへはお仕事で?」
「まあそんなところです。もっとも、本職はビジネスマンじゃありませんが。貴女 は?」
「私は・・・エート・・・主人と一緒に・・・主人は銀行に勤めておりますの。」
「ルガーノでですか?」
「いえ、サンフランシスコです。ルガーノには銀行を買いに参りましたの。」
「ほほう!」公爵は思わず大きな声でいった。「気を付けた方がいいですよ。ご主人におっしゃって下さい。」
「どうしてそんな事をおっしゃるのです?」
「そういう関係では、私もちょっとしくじった事が有りますので。」
 そう言って公爵、時計をちらと見る。
 デビー、急に気をそがれて。
「すみません。お引き止めして。」
「いいえ、いいえ。飛んでもない。違うんです。全然かまいません。友達を待っているんですが、どうも遅 れているらしいのです。それでつい・・・ちょっと、ご提案があるんですが。」
 返事を待たずに、
「夕食をご一緒できませんでしょうか? 勿論どなたかを待ちでな かったらですが。あ、ご主人と待ち合わせですか?」
「いえいえ」彼女は答える。「主人は今中近東の何処かにいるんです。」
 デビーはちょっと躊躇いながら言う。「ご一緒できるなんてとても嬉しく思っ ておりますの。でもごめんなさい。私、お名前をちゃんと聞き取れなかったんで す。イタリア語って随分速口なんですね、誰でも。」
「あ、ジョンと呼んで下さい。アメリカ人の友達は皆そう言うんです。さあ、テーブ ル席の方に参りましょう。坐り心地は、あちらの方がいいですから。」
 二人が席を替わると、まもなくレストランは客で一杯になり、夜のさんざめきが店を 満たす。このあとの三時間はデビーにとって夢のように過ぎる。酒をシャン ペンに変える。もう二人で三本目のボトルにかかったところで、会話も弾んでいた。そこに男が現れ、公爵 の肩に触れて言った。
「やあ、済まん済まん。大遅刻だな。」
「ドック。まさか。現れるとは思っていなかったですよ、もう。」
「でも、一人で淋しい、という様子じゃないね。」テーブルの向こうを見やりながらドッ クが言う。言われて公爵、急いで立ち上がり、言う。
「どうも失礼。紹介しなくちゃ。」
「マシュー、こちらはミスィズ・デボラ・ラックマン。サンフランシスコからいらしたんだそうです。」
 ドックは手を差し出す。デビーは優雅にその手を握り返しながら思う。こちらの方がもっと素敵。今夜は本当にどうなっちゃってるのかしら。
「お目にかかれて光栄です。」低く甘い響きのする声だ。「是非ご一緒させてくださ い」言うが速いか、となりのテーブルから椅子を引き寄せる。そしてボーイを呼ぶ。
「グラスをもう一つ。それから、シャンペンをもう一本。」
 こんどはデビーが時計を見る番だった。
「でも・・・」
「でも・・・はないでしょう」ドックが言う「私の大遅刻の穴埋めに公爵と付合って下さったんです。お礼にナイトキャップを差し上げる事ぐらい許して下さらなければ。」
「公爵?」
「ああ、彼話してなかったんですか?」
「ええ、全然。」公爵と聞いて彼女は、畏敬のまなざしでジョンを見ながら答える。
「いや、イタリアではこんな地位、なんでもないんですよ」とか何とか、アッヌンチオ、もごもごと呟く。
「ドック」と公爵は続ける。そして、興味のある話題に切り替えようと、「彼女のご主人は銀行マン で、ルガーノに銀行の買収の仕事でいらしてるんです。」
「ほう、どこかお目当ての銀行でも?」
 デビーは答える「ええ、なんだかシシリアとアメリカに関係があるとかいう・・・」
「そいつは面白い。ご主人はアメリカのなんと言う銀行に?」
「カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行ですの。」
「ああ、聞いた事があります。ずいぶん大きな銀行なんでしょう?」
「ええ。貴方も銀行の方?」
「私達は・・・」と公爵が話し始める。途端にドックが遮る。
「私達は投資関係の仕事をしています。でも、夜のこんな時間に仕事の話でもありませんね。」その時のドックの、公爵をじろりと睨み付けた目つきは凄かった。デビーはぜんぜん気がついていない。そりゃそうだ、こんなにアルコールを飲んだあとだ。焦点を定めようというのが、土台むりなのだ。会話は突然遊びの話に移る。スイスのイタリア側は、他のスイスとは全く違いますね。楽しいですよ、とにかく。そこに住んでいる人達にとっても、訪問者にとっても。奥さん、どこか御覧になりたいところがありませんか? 私がガイドの役を喜んで、とドック。ホテルにお電話しますよ。
 たっぷり二時間後、三人はおぼつかない足取りでレストランを出る。村の上のパーキングまで登り、さよならを言う場面で、デビーは二人のほっぺたにお別れのキスをすると言って聞かない。そして、デビーのドックへのキスはただの挨拶にしてはちょっと長すぎたし、ドックが彼女の背中に回した手の動きも偶然とは思えない「たゆたい」があった。ホテルへ帰る車の中でデビーは、鼻歌で同じ旋律を何度も何度も繰り返す。運転手は堪(たま)らず、ラジオをつけてささやかな抵抗を試みようとする。が、思い止まる。待てよ、これはほっといた方が金になりそうだぞ。さすがにイタリアのタクシー運転手。降りる時にデビーが彼に渡したチップはなんと五十フラン。但し、デビーのつもりでは十フランだったのだが。

 シシリア・アメリカ国際銀行は朝九時に開店する。待つほども無くここは、両替目的の観光客たちや為替手続きに来る地元の会社員達、預金を預けに来る主婦達で大忙しとなる。十時前後には、もう少し重要なタイプの顧客が到着し始める。彼等は目立たない様にエレベーターに案内され上の階のどこかで、銀行の上級職員に迎えられる。ここでの会話は、アメリカの経済動向、米ドルの弱さやドイツマルクの強さとかココア価格の暴騰と言った話題だ。こうした会話の結果として、しばしば何百万ドルの金が今の市場から別の市場へ移動したり、ある通貨が別の通貨に買い変えられたりする。こうした移動・変換に伴って手数料が入る、コンサルティング料が入る、利ざやがある場合の金利等々がどんどん積み上げられる。開設から一年も経たぬうちに、シシリア・アメリカ銀行は利益率の良い超優良企業に成長した。その原因は何か。この銀行はなすべき時に真に成すべき事をやれる不思議な技を持っているらしい。噂は広まる。金がどんどん流れこむ。
毎朝十時、会議室で役員会が開かれる。ほとんどの場合会議は五分とはかからない。そして、殆ど毎回全員がアルバート・フィオーレの話に注意深く聞き入る。そこでは、日々変わる銀行の戦術・戦略が極めて注意深く、細部に渡って語られる。始めのうち、新入社員達・・・といっても、銀行同士の引き抜き合戦を通じて獲得したスイス人の銀行マン達だが・・・は、アルバートが命令することに、非常に懐疑的だった。彼はまだ若くて世の中を知らない、それにアメリカ人だ、日頃の振る舞いも切れ者の金融マンというより子供っぽい学者先生のようだ。しかしこうした疑いは本当にちょっとの間だけだった。何故なら、彼の言うことはいつも当たったからだ。
 この日の朝、会議は遅く始まった。理由は、ドックが昨日の夕方のガンドリアでの事件をどうしてもアルバートに伝えておきたいと思ったからだ。彼等は廊下で小さな声で話し合った。いや、話し合ったというのは正しくない。ドックが喋る、アルバートは時々うなづきながら黙って聞いている。ドックが話おえると、アルバートが結論を出した。
「ドック、これはいい事か悪い事か、どっちかです。中間はありません。何れにせよ、今動くのは軽率だと思います。もう少し大きな変化があるまで待ちましょう。対応するのはその時に。さあ、今は会議にしましょう。」
 公爵は議長席で辛抱強く待っていた。ドックとアルバートの姿を見た途端、皆静かになる。いつもの通り、議長として公爵が型通りの挨拶を終えると、後の進行をアルバートに委ねる。
「皆さん、」彼は始める。「今朝は商品相場についてお話します。商品市場のしくみについてあまり知識のない人のために、簡単に基本的な事だけをお話します。実際、実に簡単な事なのです。メモを取る必要はありません。この会議の後で、何か疑問が出て来た時には、どうぞ直接私のところに聞きに来て下さい。」
 アルバートは金融の新しい領域について説明する時、決まって今のこの前置きをする。今から基本的なことを話す、メモは取るな、質問があれば来い。ひどく簡単だ。
「三つの基本的なコンセプトを理解すればすむ事です。三つの言葉・・・それは、ロング(買い)、ショート(売り)、フューチャー(先物)です。」
 メモは要らないとアルバートが言っているにも拘らず、公爵やドックを含め、席に居た全員が三つの言葉を書きとる。
「ロングから始めましょう。商品市場で「私はロングで行く」ということは、「私は買う」ということです。「将来のある時を期してある商品をその売り手側から買い取る」と言う契約を結ぶ事です。例えば「私は、一オンス一、六0ドルで銀一0、000オンスを貴方から買う事に同意します。納期は三箇月後。」と言う具合です。何か問題がある人?」
 彼は部屋を見回す。「ロングで行く」は買い手になると言う事。何の問題も無い。
「いいですね。じゃ、「ショート」に行きましょう。「ショート」は「売り手」になると言う意味です。貴方は一0、000オンスの銀を一オンス一、六ドルで契約相手に売る。そして、今から三箇月後にその銀を出荷する事に同意するのです。分りますか?」
みんな、分る。
「「フューチャー(先物)」はこの種の取り引きを総称する言葉に過ぎません。契約は今だが、実際の商品の引き渡しは将来の或る決められた日になる。さっきの例で言うと、一0、000オンスの銀は今から三箇月後に「ショート」の人即ち「売り手」側から「買い手」側に引き渡されなければなりません。分りましたか?」
 まあ何とか。
「さて、ここからが肝心なところです。通常商品先物市場で売りに出る側は商品そのものを自分が持っているわけではないのです。そして、買う側もその商品を本当に使う目的で「買う」わけではないのです。分りますか?」
 いや、今度は全く駄目だ。
「どうして、」会計担当の役員の一人が質問する。「自分で持っていないものを売る事が出来るんです?」
「それは何故かと言うと、商品仲買人という者がいて、この仲買人が、引き渡し日が来た時に、買い手に商品を引き渡してくれるからです。売り買いの契約はこの仲買人を通して行われるのです。」
「仲買人は何故そういう事が出来るのですか?」
「それは、受け渡しのために、売り手、買い手から保証料が支払われるからです。これは現金払いです。商品取引ではこれをマージンと言っています。このマージンという言葉で混乱するといけません。受け渡しのための、普通の保証金だと思ってください。」
 そこで、一番若いメンバーが発言する。彼はあご髭を蓄えている。二十三歳と言う年齢を隠すための髭だが、殆ど役立っていない。
「自分が持ってもいないものをどうして売ったりするんですか?」
「金を儲けるため。」アルバートが即座に答える。
「これで金が儲かるんですか?」
「そう。儲かる。さっきの銀の話で考えてみましょう。私が売り、君が買う。つまり、君は今から三箇月後に一0、000オンスを私から買い、私は君にそれを売る契約をしたとする。君が私に一オンスあたり一、六0ドル支払う事にも我々はお互いに同意しているわけです。そうですね?」
「その通りです。」この男は誉めてやらなければ。何故なら「馬鹿な」質問をする事をちっとも恐れていなかったのだから。
「よーし。この三箇月の間に銀の価格が下落する。そう、一オンス一、三0ドルになったとしよう。私が君に銀を渡さなければならない日、勿論私はその銀を持っていないので、私は出ていって実際にそれを買う。そしてそのあとすぐ私は君にそれを渡す。君の方は私に代金を支払う。しかし君は私に一オンスあたり一、六0ドルで支払わなければならない。私は同じ物をちょっと前に一オンス一、三0ドルで買ったばかりです。どうです? 一オンス三0セントの儲け。一0、000オンスでは三、000ドルの儲けです。」
「私はどうなるんです?」若者が聞く。
 ドックが割って入る。「お前は、やられたってことだよ。」笑いが緊張をほぐす。今度はもうちょっと年配の男が質問をする。
「銀の値段が下がるんではなく、上がった場合はどうなるのか説明してくれませんか」
「いいですよ。今私が売りです。その時に銀が値上がりした場合は、契約の期間が来て実際に銀を仕入れる時、最初の状態より高い金を払わなければならない。例えば一オンス一、九0ドル。契約の相手には一オンス一、六0ドルで売らなければならないのだから、私は三000ドルの損。つまり、相手が三、000ドル儲けることになる。」
「銀などの場合、価格の上がり下がりは何によって決まるのですか?」 別の男が質問する。
「需要と供給です。これは他のすべての市場にも共通する原理です。しかし、商品市場の場合もうちょっと込み入っています。ここでの価格決定要因は、将来における需要と供給に対する人々の予測です。何故かと言うと、ほとんどの商品取引は将来の引き渡しの契約で取り引きされるからです。仮に今、銀が不足しているとしましょう。或る人々はこの不足状態は将来ますます厳しくなる、だから銀の価格は上昇するだろうと予測する。この人々は当然「買い」を選びます。一方、そう考えない人がいる。何らかの理由で銀がこれから大量に出回る、だから銀の供給過剰によって、価格は下落する、と予測する。こういう人々は「売り」に出ます。つまり、現在の銀の価格はこの二種類予測を持つ人々のバランスで決まる。先ほど「決定要因は、予測だ」、と言ったのはこの意味です。
 出席者達は納得する。しかしもう一人の男が質問に立つ。
「アルバート、さっきのマージンについて説明してくれませんか。」
「いいでしょう。これはとても大事な事です。実はそれが商品相場を非常に面白くしてもいるし、非常にリスクの大きいものにもしているのです。すべての商品先物取引きに共通の鍵はマージンにあります。マージン、つまり現金による商品引き渡し保証金は、普通、実際の商品の価値の一0パーセントです。繰り返しますが、これは契約時に現金で支払われます。さて我々の銀の話に戻って考えてみましょう。売買契約時の銀の価格は、一オンス一、六0ドル、従って一0、000オンスでは一六、000ドル。そうですね?」
 アルバートはちょっと間を置く。
「そこで仲買人には、その一0パーセントつまり一、六00ドルだけ現金を渡す。わかりますね。」
「分かります」誰かが皆を代表して答える。「つまりこの一、六00ドルが投資金額に相当するわけですね。さっきの儲かる例では、三箇月の間に三、000ドル儲けるわけですから、元手一、六00ドルをかけて、三、000ドルを得たと言うことですか。どんな取引きだってこんな事は考えられません。」
「その通りです。商品取引では非常に短期間で金を二倍、三倍、時には四倍にだってする事が出来るわけです。」
「反対に、すっからかんになる事もあるわけだ。」と、若いあご髭男。
 アルバートは腕時計を見る。それから続けて、
「みなさん、私がこの話題を持ち出したのは、我々が非常に近い将来、顧客に、納期が三箇月の銀の買いを薦める、つまり「ロングに出る」べきだと、提案しなければならないからです。何故なら、銀の価格が上昇中だからです。ではみなさんに、その上昇傾向がどういう風に現れているかをグラフでお見せしましょう。」
 アルバートは大きな図面を広げ、公爵に手伝ってもらってそれを壁に鋲で留める。


P174のグラフ


「これはこの六箇月間の銀の価格の推移です。銀の価格は去年七月までは一オンス一、二九ドルで、その後一方的に上がり続け、年末には二、四0ドルまで上がりました。そのあと一旦下げに入り、二、00ドルまで下げ、今また上がり始めています。この買いの原因には二つあって、一つは、アメリカで小口の投資家に銀買いブ ームが起こっている事です。時機を逸しまいと、数十万人の人々が買いにはいっているようです。去年の夏、相場師達が扱う先物契約の総額は二億オンスを大きく下回る量でしたが、今ではそれが五億オンスに膨れ上がっている。去年の二倍以上です。これは銀の市場に一0億ドル以上の金がつぎ込まれていることを意味しています。この傾向は日に日に強まる一方です。「欲張りさん」がどんどんつぎ込むからです。私は好意的な意味でこの「欲張りさん」という言葉を使っています。理由はこの「欲張りさん」の連中がものすごく儲ける事になりそうだからです。少なくとも暫くの間は、です。どうしてかというと、こうした小物達だけでなく、最近では大物達、いや、複数ではなく、一人の本物の大立者が買い占めに走っている気配があるからです。上げ基調。小物も大物も同じ方向を向けて走っている時は、我々もこれに乗るべきではないでしょうか? これがさっき、皆さんに「ロングに出る」ことを提案した理由です。」
「さて皆さん」とアルバートは続ける。「このグラフをもう一回見て下さい。小さなxがありますね。ここが今我々がいる位置です。大きなX、これが、私が予想する銀の価格の到達点です。もしそれが当たると、今日、五月、マージンベースで一万ドル投資した金が、夏、つまり八月までには三倍になります。」
 アルバートはちょっと間を置く。
「お客さん達は多分喜ぶと思います。」
 部屋にいたものすべての表情が明るくなる。アルバートのやつ、またやったぞ。お客さん達は多分喜ぶ? 冗談じゃない。感極まるさ!
「技術的にはどういう行動をしたらいいのでしょう?」スイス・ユニオン銀行から二倍の給料で引き抜いた年配の会計担当役員が質問する。
「私のデスクに注文を伝えて下されば結構です。」アルバートが答える。「その後については私が管理します。」
 五分も経たないうちに、シシリア・アメリカ国際銀行の電話交換台は、非常な勢いで光が点滅する事になる。まるでクリスマス・ツリーだ。十箇国以上の、特に選ばれた顧客宛へ電話。「銀が買い得です!」
 銀行内でややためらいがちなのは ドックだけだった。彼は皆がいなくなった後、会議室の後ろの方にアルバートと二人で残った。
「アルバート、一つだけ心配な事がある。イランの我々の鉱山が、もう気違いのように銀を掘り出している筈だぞ。あそこで掘り出した銀のせいで、銀の価格が下るんじゃないのか?」
「多分下がります。しかし、夏の終わり頃までは大丈夫です。ファードーシの計画では、その頃になって初めて生産がフル稼働になる筈なんです。夏の終になったら、もう一度全体を見直す事にしましょう。」
 ドックは肩をすくめる。こいつに物を訊くと何時だって正解が返って来る。訊くだけ無駄だ。
「その間に」アルバートが続ける。「投機家を「買い」に走らせて、価格を充分に釣り上げておくんです。そうすれば、イランから来る我々の銀が、もっともっと高く売れます。それと同時に、商品先物市場で銀行の顧客に一儲けさせる事が出来ます。これが本当の一石二鳥です。」
 この答にドックは満足する。可愛い坊やだと思っていたアルバートが心の中では結構「悪(わる)」なのだと分り、安心もする。
 ヨーロッパには、「リンゴはその樹の近くにしか落ちない」と言うことわざがある。ジョー・フィオーレは自分の息子を「悪」の点でも自慢できそうだ。

     一 二 
 デビーはホテル・ヴィラ・カスタニョーラで入浴中だった。彼女の従事していた動作は、ただ身体を洗うためだけのものだった。すぐ手の届くところに本物があると言うのに、子供っぽい遊びなんか駄目よ、ときっぱり自分に言い聞かせたのだ。本物の方がいいに決まってるの!
 デビーはちょっと変っていた。浮気をしたいという気持が全然なかったのだ。ドナルド以外の男と関係を持ったのはたった二人しかいない。男と関係? いや、男とは言えない。少年だ。大学時代の話、二0年も昔の事。ドナルドに会うよりずっと前の事だ。しかし、どういう訳か、何がきっかけなのか、よくは分らないのだが、これではいけない、とハッと気がついたのだ。正確にいつというのは難しい。が、一年以上経っているのは確かだ。どんなことがあっても、ドナルドへの貞節は守ろうと思っていた気持が、ぐらりと揺らいだのだ。その時までは諦めの気持・・・残りの人生を、セックスについては控えめにして、いわば上手に生きて行くしかないと思って生きてきた。しかし、突然考えが変った。もう二、三年すると四十歳を超える。そうすると、そっちの方ではもうチャンスは無い。今の世の中、お婆ちゃんを誰が相手にしてくれる。しかし困ったことに、そう決心したところで、自分の家の近所、ロス・アルトス・ヒルズじゃ、そこそこ若い女にだって、色目を使う男がいないのだ。勿論、デビーはロス・アルトスなどでそんな素振りを見せることはしない。しかし、カクテル・パーティーなどでは多少それらしきことをやってみた。一再ならずだ。最も大胆だったなと思うのは、ロジャー・ライトの台所でのことだった。その時のロジャーの反応ときたらなかった。酒の支度でロジャーを手伝っていた時だった。彼ったら氷のキューブを床一面にばらまいて。助けてくれ、とばかりに、皆のいる居間に逃げ込んじゃった。何? あれ。姿、形は人間だけど、人間とはかかわれない妖精ちゃんじゃないの? ちょっとハンサムな男って、みんなその傾向があるのかしら。マシューがそうだったらどうしよう!
 でも、絶対それはないわ。あり得ない。今日は昼過ぎに私を迎えに来てくれて、そのあとティチーノ地方をあちこち車で案内してくれた。そう。完璧。最初から最後まで。非の打ち所無し。そのあと、ホテルまで送ってくれた。
 そして、「今夜ご一緒に夕食はいかがでしょう。」と。何処で、ですの? 彼が住んでいる村の小さなレストランで。夕食後、私の別荘にちょっとお寄り下さい。就寝前の一杯。如何です?
 如何も何もない。いいに決まっている。だからその申し出は受け入れられた。では八時にお迎えに。あら、もう三十分で八時だわ。早く着替えなくちゃ。

 ドックはガローナで、彼の車に乗りこむところだった。「彼の」・・・いや、正確にはマーヴィンのMGだったが。MGの方が彼自身の車よりはこの際適している。ただ、デボラ・ラックマンを誘惑する道具としてはそれほど上出来とも言えないが。
「まあいいじゃないか」ドックは車を転がして屋敷の門を後にしながらつぶやく。「少なくともあの女、顔はいいし、オッパイは大きいし・・・」
 しかし彼は自分がそれほど乗り気でないことに気づいていた。問題は最後の最後、行き着く先をどこにするかだ。他の場所はどうしても駄目だ。結局この別荘へ、そして自分の寝室にせざるを得ない。その場所は、シリーン・ファードーシこそ彼の生涯でたった一人の女性であることに 気がついたところだった。一夜の気まぐれでなく、本心からそう思ったのだ。どうし たことだろう。四十四歳の男がまるで十七歳の若者のように振る舞ったものだ。しか し彼は考えた。神かけて、彼女は俺の全てだ。彼女だけが俺を「幸せ」にしてくれる 女神だ。「幸せ」・・・忘れかけていた言葉だったが、シリーンと共にあの夏の輝かしい八日間を過 ごしたあとの彼には、決して忘れられない言葉になっていた。実際、今でも彼女のこ とを思うと胸が痛くなるのだ。二人はなんと毎日、手紙を交換し合った。そして、週 に二回も電話で話だ。お互いに、書いたり話したりしなければならない用事があったわけ ではない。しかしドックは、毎朝手紙が着くのが待ちきれない。電話をかける水曜日と土曜日は、彼女の声を聞くまでがもどかしい。そして今日は、その電話の土曜日じゃないか、畜生!  受話器はもう多分十回は取り上げている。しかし、今夜 自分がするつもりのことを考えると、相手を呼び出す決心がつかない。ええい、糞っ!。
 八時きっかりに、ドックはホテル・カスタニヨーラの正面に車を乗りつける。デビーはロ ビーで待っていた。ビシッと決めている。首まできっちりと釦のついている黒いドレス。それが却って、彼女のセクシーな体の線を際立 たせている。成熟した身体。しかし、日焼けした健康なカリフォルニアの少女の雰囲気を失っていない。ロビーにいたイタリア男達は、妄想を逞しくしている。この女と出来たら何ていいんだ。何て素晴らしいボディーなんだ。イタリア男は女を誘うところまでは、八方手をつくすのだが、いざ「性」の問題になると、意外に想像力に欠ける。ただ単純に、速くて、熱々で、ボリュームたっぷり・・・昼食のスパゲッティ・ミートボールみたいなもの・・・が大好きだ。ドックが現れ、鼻の先の獲物を、さっと攫っていってしまった時に は、ロビー中に失望が広がった。しかしイタリア人は、その長い歴史の中で、負け戦 を上手に次の戦いへの教訓にする事を覚えてきた民族だ。夕方八時にデビーの出現 が彼等の心に呼び起こした妄想は、その夜遅くなって結果が表れた筈だ。ママ達が突然のパパのハッスルによって、 何故か分らぬまま、愛の喜びを味わった家庭は、五軒ではきくまい。
 ドック自身でさえ、彼女を見た途端一寸めまいを感じたほどだ。全く・・・彼は思った。俺もいろんな女に出合ってはいるが、これだけの女はめったにいないな。二人は、互いに挨拶を交わすと、すぐにぎこちない気分になる。その日の午後ずっと一緒にいた後だというのに。
 そのぎこちない気分は、二人がガローナに向かう道でも続いていた。また、そこの田舎風のレストランでの食事の間中でも。二人ともこれから起こることが分かっていた。が、勿論それを口に出すことはしない。店の勘定をする時になって、ようやくドックが訊く。
「寝る前の酒を私と付き合うっていう約束でしたね? まだ覚えていらっしゃいますか?」
 デビーは一言も言わずに、ただ彼の目をじっと見詰め、それから椅子を後ろへ引く。ドックはさっと立ち上がる。デビーの肘を取り、出口へとエスコートする。その時ドックの手は、そしてデビーの腕も、汗ばんでいる。
 二人はたった百メートルの距離を、車に乗る。車を降りる。中庭には灯がともされている。プールも照らされている。しかし屋敷は闇に包まれている。ただ、居間だけが明るい。小さなテーブルランプが灯り、暖炉には火が燃えている。どうやら二人が到着する頃を見計らって、誰かが火をつけたらしい。デビーはそれに気がつく。しかし何も言わない。暖炉の前の長椅子に横たわる。ここに来るまでの百メートルはちょっと寒かった。当り前だ。MGのオープンカーなのだから。屋敷にはいるや、ほっとするような温かさだ。薪が燃える心地よい匂いが充ちており、暫くしてコニャックの香りがそれに加わる。
「まあ、」ドックが隣に坐ってきた時、デビーはつぶやく。「これがあれなのね。」
「うん、これがあれなんだ」ドックは同じ言葉を繰り返している自分に驚く。言葉だけではない。気分までその気なのだ。ただ、相手がもう一人の方の女だったら、どんなにいいか。しかし、そうは言っても、この自分の目の前にいる女性がとてつもなく魅力的な女だという事は確かだ。彼の下腹部は正直に反応していたので、自分で自分を押えられなくなってきている。本当は、彼女の夫の狙いがどこにあるのか、それを聞き出す絶好のチャンスなのだが・・・しかし、気がつくと、彼は相手の黒いドレスの背中のボタンを外しにかかっていたし、デビーの手も夢中でドックのベルトを緩めていた。一瞬の間に二人は暖炉の前の絨毯の上で抱き合っている。ドックはデビーの中に入って行く。デビーは震える。体を押しつける。ドックをしっかり包みこむ。この三つの動きが、恐ろしい一つの動きとなる。そしてその動きがほんの少しの間続く。と、ドックは大きなうめき声をあげる。と同時にデビーの中に注ぎ込む。デビーはしっかりと男の身体を引付ける。出来るだけ長く自分の身体の中に留めておきたい、と。その間に声が出る。何度も。しばらくして、デビーの痙攣が収まってくる。ほっと溜息をついて、ドックの腕の中で緊張が収まって行く。
「有難う、マシュー」彼女は優しく彼の頬を撫でながらつぶやく。
 ドックは自らを恥ずべきだと思いたかった。しかし出来ない。この風変わりな女性が好きでたまらなくなったからだ。愛している訳ではない。それは確かだ。しかし、お互いに温かいものが通い合ったのだ。お互いに相手が自分と同類の人間だと感じあったのだ。何年もの間、自分の感情を押し殺して、外に出さないよう懸命に努力してきた人間、そういう二人なのだと。そして今、その押し殺してきたものを、あっさりと外に吐き出せた、二人で同時に。それが幸せだったのだ。
 まだコニャックは残っていた。しかしドックは彼女の手を取り、一言も言わずに二階の寝室へ導く。ベッドに入ると瞬く間に二人は再び一つになる。今度は長い。最初の出会いの時は夢中だったが、今度はお互いに与え得る肉体の喜びを出来るだけ長持ちさせたいと思ったからだ。
 朝の四時まで、デビーはこれまで一度も経験した事の無い野生的な交わりに耽った。そして深い眠りについた。ドックも同じであった。

 翌朝二人が目覚めたのは九時三十分であった。最初の言葉はデビーからだった。
「マシュー?」
「ああ」
「後悔してる?」
「何言ってるんだ。君の方こそどうなんだ?」
 デビーは上半身を上げ、ドックを上から見る。両手でドックの顔を鋏み、チュッと挨拶のキス。それから突然ベッドから舞い降りる。
「幸せだわ、私。お腹すいちゃった。お風呂に入りましょ。一緒に。それから朝ご飯。」
 二人は一時間近くも、子供のように水かけをして戯れ合う。一段落して、階下に降りると、ベーコン・エッグの香ばしい香り、それにマリーアが二人を迎える。朝食の部屋で給仕をする間、マリーアは二人から視線を逸らしている。ドックへのマリーアの想いもこれからは少し違ったものにならざるを得ないだろう。
「マシュー」と、突然デビー。「私が結婚しているのをあなた、ご存知ね?」
「勿論。だけど僕は、君の家庭生活の話なんか、する気ないよ。」
「それは分っているわ。ただ、私、ドナルドの事をちょっと話しておきたいと思って・・・」
「ねえ、デビー、そんな話はいいんだ、本当に・・・」
 再びデビーが遮る。「でも私、話したいの。私あなたから、しょっちゅう浮気をしている女だなんて、思われたくないの。十七年間であの人を裏切ったのは今度が始めてなのよ。」
「分かってるよ、デビー。そんな事問題じゃない。」
「私が言いたいのは、こうなった理由についてなの。あの人と私、この十何年で、だんだんと心が離れてきていた。それで急にヨーロッパ行きの命令。私、嬉しかった。これで元の二人に戻れるんじゃないかって。第二のハネムーンでしょう? 結局のところ。でも、あの人、ちっともそんな気なんかなかった。私をただ、足手まといの荷物としてしか考えていない。何てこと! マシュー。私こんなのって絶対に嫌。」
 ドックは肯くだけ。
「最後の糸は木曜日に切れたわ。あの人ったら中近東へ・・・クエイトヘ行くなんて言い出したの。それも誰か男の人と二人でだって。私をここでただ一人、おいてきぼりにして。それがまた、気違いじみた話なの。スイスの銀行にイランの銀の鉱山が絡(から)んだ何か計画があるんだって・・・」
 ドックは始め、デビーを利用できるだけ利用しようというつもりだった。しかし今は? ゆうべの後では? それはそんなに易しい事ではなくなっている。とはいっても、やらなくてはならない仕事は、やらなければならない。
「それで? それからどうしたんだい?」
「私の知っているのはそれだけよ。でも、その訊き方・・・あなた、うちの主人に何か興味があるの?」
「それには訳が有るんだ。でも、悪いことは言わない。もうこのことについては一切 忘れたほうがいい。きれいさっぱり忘れるんだ。君がいくら首をつっこんだって、君自身にいいことなんかちっともない。いや、僕にだって御主人にだって、何もいいことはないんだ。」
 ドックは立って、デビーの後ろへ回る。肩をそっと抱き優しく髪をなでる。
 マリーアがいれ立てのコーヒーを盆に載せて朝食の部屋に戻ってきたが、二人の様子を見る と立ち止まり、さっと台所へ逃げる。一体何のつもり? あの女。
 十分後デビーとドックは曲がりくねった坂道を下ってルガーノへ向かっていた。ドッ クは一緒に昼食が取れないことを謝る。気にする事無いわ。どっちみちうちの亭主、お昼前にはホテルに帰っていると思う。そうか、それならどうしようもない。ヴィラ・カスタニョーラ・ホテルの外で彼女を降し、空ろな顔で見送るデ ビーを残してドックは去る。そして、街の中心部へとスピードを上げる。

     十 三 
 ドックはこれまでの経緯を、アルバート、公爵、マーヴィンの三人に話して聞かせ る。聞いているうちに、三人は段々白けてくる。話が終わるとアルバートが口火を切 る。
「ドック、それはまるで辻褄があいませんよ。」
「辻褄が合わないとは何だ!」と、ドック。声が荒い。「俺達は、巨万の富を目の前にしている。ところが、そいつを狙っている奴がいるんだ。ボヤボヤしていると、連中にみんな持って行かれるんだ。忘れるな、アルバート。お前の親父さ んや、その仲間達はモルモン教の信者じゃないんだ。慈悲の精神など、ここにはないんだからな。」
「だから、その狙っているっていうのが辻褄が合わないんです。アメリカの大銀行というのはそんな考え方や、そんなやり方をする筈がないんです。何かがあります。銀行以外の何かが関っています。その女の人は言ったんでしょう? ペルシャ湾に行ったのは、亭主だけじゃない、誰か別の男がいたと。」
「うん、言った。」
「その女の人は、その別の男のことをもう少し詳しく話さなかったんですか?」
「話さなかった。しかし俺の勘では、そいつは銀行屋じゃない。」
「銀の鉱山のことをどうやって嗅ぎつけたんでしょうね?」これは公爵。
「それとも、ファードーシが俺達と連中の二股をかけたのかも知れない」これはドック。公爵を睨み付けて言う。「おい、ジアンフランコ、お前、ファードーシと二人で何かたくらんでいるんじゃあるまいな?」
 公爵はただ押し黙って坐っている。
 アルバートが遮って言う。「いや、それは出来ませんね。」
「何故出来ない?」
「ファードーシは、我々に百パーセント、下駄を預けています。我々がファードーシに融資した時の借用書の条件を覚えていますね? ファードーシはこれらすべての借用書の連署人になっているんです。借りた金は 返還要求が有れば三十日以内に返さなければならない契約です。もしも返済できない 場合は、銀採掘の仕事の半分の権利を我々に譲り渡さなければならない。あの人はそれをよく知っているんです。」
「多分ね。」と、嫌々ながらドック。「だけど、奴は俺達を厄介払いして、この銀行を乗っ取ろうとしているんじゃないか。そのためにあの二人の男を利用した。銀の仕事を独り占めにしようとしてな。」
「いやドック、それは違う。」とアルバート。「たとえ誰かが、この銀行を乗っ取ったところで、乗っ取った人間は同じ借用書を引き継ぐことになります。その時の条件も一緒にです。だから乗っ取っても何の役にも立ちません。これは追求の方向が間違っています。」
「じゃ一体正しい方向はどこなんだ?」
「正直言って、」と、アルバート。「僕にも実は分からないんです。しかし確かなことは、誰かが銀を欲しがっているらしいってことです。銀行そのものは二次的な興味です。銀行なんてスイスには掃いて捨てる程あるんですからね。どうしてもこれは銀の筈です。」
 ちょうどこの時秘書がメモを持って入ってくる。一瞬誰に渡そうかためらった後、ドックにそれを渡す。
「何だこいつは。」ドックは吠える。「ほら、見てみろ!」
 彼はメモをアルバートに渡す。
「二人に読んでやれ」ドックが言う。
 アルバートが読む。「ニコラス・トッピングという方が応接室でお待ちです。イランにおけるお互いの利益について、どなたかとお話がしたいとのことです。」
 公爵が呆気に取られた顔になる。アルバートもだ。マーヴィンだけが、いつものように、何の感情も外に出さない。
「どうする。」ドックが会議用のテーブルを見回しながら聞く。
「こちらで考えるのは、もう無駄です」と、アルバート。「この男ですね、きっと。自分が筋書きを全部決めたと思っているのは。それなら、話を聞こうじゃないですか。」
「その人をここへ。」ドックが秘書に言う。「そして、いいというまで、この部屋には誰も通さない。いいね。」
 そして公爵に向かって「あんたが議長役だ。俺はしばらく向こうに坐ってそいつを観察する。」
「マーヴィン」と、彼は続けて言う。「ここを出て手配しろ。その男の顔写真を撮るんだ。前後左右。その男が出て行ったら、後をつける。お前一人でだぞ。その男の居場所を知りたい。」
 マーヴィンが外に出る。とすぐ、秘書がドアを開ける。ニック・トッピングが秘書のすぐ後ろに立っている。今日はスポーツジャケットではない。紺サージの背広に白いワイシャツ、よく磨いた靴。それに薄皮のブリーフケースまで。敷居の向こう側で一旦立ち止まる。敵の最初の出方を待っている。
 公爵の出番だ。「トッピングさんですね。」
「そうです。」大きい、はっきりした声だ。
「私の名はジアンフランコ・ピエトロ・アッヌンチオ・ディ・シラクーサ。この銀行の頭取です。こちらの二人、銀行の者です。」
 ゆっくりと片手を伸ばし、テーブルに着いている二人を指し示す。紹介をする気持は無い。ドックもアルバートも立上る気配はない。
 トッピングは、そんな不作法に気がつかないふり。
「まあ、坐ってください。ミスター・トッピング。どうぞそちらに。」公爵はテーブルの反対側の端を指し示す。トッピング、示された場所に坐る。真正面の窓から太陽の光がまともに目に入る。公爵はその真向かい、長い樫のテーブルの反対側の端に坐る。ドックとアルバートはその中間の位置で向かい合って坐っている。トッピングは代わるがわるこの二人を見る。非常に注意深く。それから太陽を見、胸のポケットからサングラスを取り出し、掛ける。
 暫く誰も何も言わない。公爵が口を切る。
「さて、ミスター・トッピング。お互いの利益について話し合いたいという御用件と伺いましたが?」
 トッピングはこの質問を無視。公爵の存在自体をも完全に無視して、ドックの方に顔を向ける。
「長いラスベガス生活の後で、どうですか? このルガーノは、ミスター・スマイス。ああ失礼、ミスターではなく、ドクター・スマイスでしたな。」
 ドックはただ黙って相手の顔をじっと見るだけ。そこでトッピングは、反対側のアルバートの方を向く。
「ミスター・フィオーレ・・・ですね? 今度お父上に会われたら、どうぞ宜しくお伝え下さい。お父上とは二三年前マイアミでちょっとぶつかった事がありましてね。我々には共通の友人がいたんです、キューバ人の。あの時は、お互いの利害はどうやら一致していたとは言えませんでした。しかし、今回はそうありたいと心底願っていますよ。」
「分った、トッピング」遂にドックが口を開く。「無駄な話は止めよう。何なんだ? そっちのお目当ては。」
「まず、あのカーテンを引いて欲しいな。こう眩しくちゃ叶わない。」
 ドックは公爵に合図する。カーテンが閉められ、トッピングは眼鏡を外す。
「うん、これでいい。ところでここは誰が取り仕切ってるんだ?」
 公爵が何か言おうとする。すぐにドックが遮って言う。「俺だ、トッピング。」
「そうすると、あのお猿さんは誰なんだ?」トッピングは僅かに頭を回してテーブルの反対側を顎で示す。公爵の顔、真っ赤に変る。
「気にするな。放っとくんだ。」ドックが答える。
「分った。ところで、マーヴィンはどこだ。」
「あいつは出た。お前の写真を撮る手配でな。」ドックが答える。「どうやらその必要も無いようだ。」
「その通り。そして俺の跡をつけるのも無駄だ。俺はメトロポールホテル、六一二号室にいる。」
「それで、どうだったんだ、ドバイからの空の旅は。」
「快適だったさ。」
「で、相棒はどうしたんだ?」
 トッピングはちょっと眉を上げる。答えない。
「おいおい、トッピング。お前さんはなかなか切れる男だ。しかしこの点に関しては切れ方が足りなかったぞ。何故ラックマンを連れてこなかった。」
 トッピングはにやりと笑う。
「ドック、あんたは噂通りの男らしいな。あんたとはうまくやっていけそうだ。」
「あてにして欲しくないね。」ドックが答える。「ところで、あんたのボスは、どんなに厄介な事に首を突っ込んだのか、自分で分っているのかね。」
「止すんだ、ドック。あてずっぽうを言ってこっちが騙されると思ったら大間違いだぞ。恥を知るんだな。」
 ドックはにやりと笑う。
「分った、トッピング。そっちが切り札を出すのを、ゆっくり待つとするよ。」
「よーし、それなら話がしやすい。なあドック、俺の依頼人達はこの銀行を買収したいと言っているんだ。かなり高い金額でだ。いや、誤解しないで欲しい。お前さん達を嵌めようっていうんじゃないんだ、これは。今も言ったが、本当に高い金を払うつもりでいる。ただその条件だが、素早く、静かに、綺麗にやる。それが出来ればだ。」
「売らないと言えばどうなるんだ。」
「ドック、俺の口からそれを言いたくはないんだ。自分で考えてくれないか。俺達の付き合いを最初から台無しにすることはないだろう?」
「はっきり言うんだな、トッピング。さもないと今すぐ、そのケツを蹴っ飛ばして追い出してやる。」
「分かったよ、ドック。そうでない場合はな、俺達は、可哀相な、疑いを知らない、無垢なスイス人達に、連中の聖域中の聖域である銀行界に、マフィアが侵入してきた事を知らせるだけよ。ジョー・フィオーレ、ドック・スマイス、それにその仲間についての情報なら、厚さで十フィートじゃきかないくらいの資料を持ってるんだ。もしその資料がベルンの銀行管理委員会に送られたら、一週間もたたないうちにあんたらはビジネスの世界から追い出される。まあ、こんなもんでいいかな?」
「おい、トッピング、一つ言って聞かせておかなきゃならんようだな。お前さん、ここから生きて帰れると思っているようだが、なかなかいい度胸だ。ところが、その窓から、ルガーノの歩道のゴミになって捨てられるかもしれないんだからな。いいな。」
「おいおい、ドック。この話は紳士的に頼むぜ。」
 ドックはまたにやりと笑う。本来の自分に帰れて嬉しそうだ。この場面を楽しんでいる。
「そうだな、トッピング。ところでお前さんの事をニックと呼んでいいな?」
「勿論だ。こっちのことを仲間と思って貰いたいんだ。」
「よーし、なら、ニック。いいか、これはお前さん一人の筋書きだ。依頼人などいないと見た。くだらない芝居は止めるんだな。」
「芝居じゃない。いるんだ本当に、依頼人は。」
「銀行の買収がその依頼人の目的なんだな? じゃ、イランの話は何なんだ。さっき秘書に言っていた、イランの話は。」
「ドック、その話を持ち出してくれて嬉しいよ。忘れてしまうところだった。」今度はトッピングがにやりと笑う。
「初めお前さんがイランを持ちだした時」と、ドック。「俺達はてっきり絨毯売りの商人がやって来たと思ったんだ。トッピングっていうのはアルメニア人の名前だろ?」
 トッピングは大声で笑う。
「あんたは絨毯に興味があるのか? ドック。」
「そうさ、興味どころか、渋味も甘味もあるよ。」という答え。アルバートはこういう無駄口は好みでない。本論に戻るべきだと思う。
「ミスター・トッピング」と、アルバート。「あなたの身分証明書を見せてもらえると有り難いのですが。」
 トッピングの顔から薄笑いが少しずつ消えて行く。彼はドックを見つめる。肩をすくめる。そして、ブリーフケースを開ける。そこから二枚の小さな名詞を取り出し、一枚をアルバートに、もう一枚をドックに渡す。公爵には渡さない。
「ニック、」ドックは名詞をちらりと見て、吐き出しそうな不愉快な声で聞く。「こんなインチキなものを出して、一体何のつもりだ。国際金属コンサルタント。住所、パナマ市及びリベリアのモンロヴィア。何だこれは。恥ずかしくないのか、ニック。」
 トッピングはまた薄革のブリーフケースに手を突っ込む。今度は一通の手紙を取り出す。ちょっとためらう。それからその手紙をドックに渡す。ドックは読む。もう一度最初から読み直す。そして、その手紙をアルバートに渡す。
「これは本物のようですね。」数秒の後アルバートが言う。
「本物だよ。」トッピングが答える「だから、返してくれ。」アルバートは返す。
「どうしてまた、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行ともあろうアメリカの大銀行の頭取がお前さんの持っているようなちっぽけな会社と代理人契約なんか結んだりしたんだ。」ドックが聞く。
「きっと頭取のフォアマンが俺様の正直さと率直さについての世界的な評判を知っていたからだろうね。」
 ドックはこの冗談が気に入る。
「買収の値段の腹積もりはあるんですか?」話を遮ってアルバートが尋ねる。
「ああ、ある。ここでは口頭でやるしかないが。」
「分かりました。」アルバートが答える「言ってください。」
「キャッシュで五千万ドル」
「こんなちっぽけな銀行に?」信じられないというドックの反応。
「そうだ、五千万だ。ただ、あんた方に一つやって貰うことがある。何、たいした事じゃない。」とトッピング。「まず、ファードーシに貸している金を全部棒引きにする。その代わり、ファードーシの持っている土地、不動産をそっくりそのまま銀行の資産として頂戴する。その後だ。その銀行をこちらが五千万ドルで買い取る。」
「ファードーシ? 何だそれは?」ドックが聞く。
「イラン人さ。美人の妹がいる。その男は、あんた方の銀行にかなりの金を借りている。銀獲得のための資金らしい。ドバイでの噂だがな。」
「五千万では安過ぎです」とアルバート。静かな話し方だ。
「そちらの言い値は?」とトッピング。
「六千五百万。」アルバートが答える。
「五千五百万でどうだ。」
「間を取るしかありませんね。」
「六千万か。そんなところか、落ち着き先は。」
「おい、待て!」ドックが大声を出す。「アルバート、お前何を馬鹿なことを言ってるんだ。こいつは銀行だけじゃない、あの銀の鉱山も含めて六千万で買うと言ってるんだ。鉱山だけでも二億ドルの価値はあるんだぞ。」
「分ってます。」アルバートが答える。「でもスイスの銀行管理委員会が動き出し たら、我々に残るものは何一つないんですよ。銀行も鉱山も、何も。係争財産保管人や清算人が、銀行の資産を全て競売にかけるんです。まあ、狡いことをして、良いものはスイス人に安く、残った物をアメリ カ人、ドイツ人その他に高い金で売りつけるんです。銀の鉱山は恐らくスイス人でしょう。」
「おい、アルバート、お前どっちの味方なんだ。まるでこいつの肩を持っているみたいだぞ。」と、訴えるようにドック。
「ドック、僕は現実主義者なんです。」一瞬アルバート・フィオーレの声は彼の父親の声かと疑うほど似ていた。そして、眼鏡の奥の目。こちらも親父とそっくりな冷た く青い目だ。しかし、ジョー・フィオーレを思い出しても、ドックの怒りは収まらない。こぶしを挙げ、テーブルに思い っきり叩き付ける。
「俺は現実主義者なんかじゃないぞ。いいかトッピング、貴様だとか、貴様の後ろに付いているカリフォルニアの銀行屋連中なんかに、この銀行を取られてたまるか。よく聞け、俺は本気だ。これが乗っ取られるぐらいなら、まずお前を先に片付けてやる。」
 トッピングの表情が初めて少し不安そうな色を帯びる。そしてアルバートの方に目を向ける。
「ドック、」辛抱強くアルバートが言う。「この人を片付けても解決にはならないんです。」
「分ってる。少し黙ってろ。いいかアルバート、俺達はちっぽけな銀行をこの腕で一人前にしてきたんだ。これは自 慢したっていいんだ。俺達は百パーセントまともにやってきている。お前も、俺も、それにあのマーヴィンもだ。俺達はやった。力を合わせてやったんだ。それをみすみす乗っ取られて。お前には誇 ってものが無いのか?」
 アルバートは黙って坐っている。
「それに、ファードーシ兄妹はどうするんだ? あれはあれで俺達のためにやってくれ た。お前はそういう義理も無視して、あの兄妹の財産を処分しようってえのか。そいつは汚ないぞ。お前って奴は何なんだ。歩くコンピューターが 聞いて呆れるよ。そういうことをお前、計算に入れているのか。」
 アルバート、これを無視。トッピングに訊く。
「トッピングさん、その六千万ドルはどこから出るんですか。」
「カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行が出す。この銀行が、俺の依頼人の代行を引き受けたんだ。そして、さっき手紙を見せたが、俺がその銀行の代理人をやっている。金の引き渡しはエスクロウ(条件付き発行証書)で行く。つまり、ロンドンのどこかの銀行にカリフォルニア・ファースト・ナショナルが六千万ドル預けておく。条件が達成されると・・・つまり、例のイランの土地、不動産の入手が終り次第だ・・・そのロンドンの銀行から自動的にシシリア・アメリカ銀行の所有者、或はそれが指名する人間、に六千万ドルが送金される。勿論、それと引き換えにシシリア・アメリカ銀行の全ての株式がそのロンドンの銀行に送られることになるが。ここの銀行の株式は無記名なんだな?」
「そうです。」
「ここで一番厄介なのは、例のイランの土地、不動産の入手だ。あんたらは、これを交渉する立場にあるんだろうな。」
「あります。」
「どのくらいかかる。」
「こういう交渉は、大抵三十日はかかります。」
「具体的に、この件の場合は?」
「同じですね。ただ、ファードーシが裁判に持ち込んだりすると、そうは行きません。」
「その可能性は?」
「あれだけの金です。何が起こってもおかしくありません。」
「すると、ごねられる可能性があるということか。」
「あります。ただ、やり方一つで・・・」
「何のやり方だ。」
「ファードーシへの説明です。それに大きくよります。ファードーシの財産を何もかもかっ攫(さら)って逃げてしまうなんて、そんなことは出来ません。こちらがイランの土地、不動産を入手するには、ファードーシに充分な代償を支払わねばならないでしょう。それに、何故こういう事態に立ち至ったのか、そこをはっきりと説明する必要があります。つまり、もし我々が友好裏に事を運ばなければ、スイス当局がかなり非友好裏に事を運ぶだろうと。これは御親切にもミスター・トッピングが御指摘下さった事なんですがね。」
「フム。で、誰がそのことをファードーシに説明するんだ?」
「多分、公爵ですね。気心が知れているのは公爵なんですから。」
「今、充分な代償を支払うと言ったが」とトッピング。「何をあてるつもりでいる。」
「もうそちらは先刻御承知でしょうが、ドバイにかなり大量の銀の在庫があります。先月ひとつきで、鉱山の生産量は三百万オンスでした。その殆どが倉庫に入っています。この銀をそっくりファードーシに渡すんです。」
「そいつは、考えていなかった。」とトッピング。
 アルバートが肩を竦めて、「それぐらいはしなければ、裁判になるでしょう。それも長い裁判に。」
「そいつは金がかかるな。」とトッピング、顔を顰める。
 アルバートはまた、肩を竦めるだけ。
「ひとつきで生産量が三百万オンスだっていうのは、どうやって知ったんだ。」とトッピング。
「一番最近の報告です。ドバイから来た倉庫の荷物受領書にそうありましたからね。」
「アルバート、俺はあんたが気に入った。」とトッピング。「あんたは正直だ。ドバイでの在庫はこっちも調査してある。その数字はこちらの予想とピッタリだ。それで、今年の終りまでにどれだけとれる予測なんだ?」
「八月までは月間生産量は増加して行くでしょう。八月がピークで、月の生産量は五百万オンス。それ以降はこれの横ばい。」
「それがどれぐらい続くんだ。」
「判断は難しい、とファードーシ のところの技術屋の話です。しかし当分ピークは続くだろう、とも言っています。」
「すると年間六千オンスか。」
「おう、たいした頭だ。すぐ計算出来るじゃないか」とドック。「とにかく、金勘定はアルバートよりずっと上だ。おいアルバート、その銀は、だから年間でいくらになると思っているんだ。」
「今の相場だと一億ドルは下らないでしょうね。」アルバートは静かに答える。
「そうだろうが!」ドックが怒鳴る。「だったら、なんだって、お前は、このうすのろ野郎に、さっさと消えちまえって言ってやらないんだ?」そして、こんどは少し静かに。「アルバート、こいつに騙されるんじゃないぞ。こいつは嘘つきなんだ。俺の言うことを聞け。この話はこれで終りだ。いいか。」
 今度もアルバートは答えない。
「おいトッピング、とにかくこれは時間の無駄だ。ここにいる三人とも・・・勿論アルバートも含めてだ・・・この銀行を売る権利などありはしない。それにな、この俺が保証する。誰も売ろうなどと、そんな馬鹿なことを考えちゃいない。お前が買いたい? いいだろう。オーナーに直接話すんだな。オーナーがいいと言うんなら、俺も文句はない。だがな、俺はオーナーがどんな人間かよく知っているんだ。そんなことをオーナーが一言でも聞こうものなら、お前がどんな目にあうか。ここに乗り込んで来たことをお前さん、さぞ後悔することだろうよ。」
 ドック、立上り、蝶番が外れんばかりの勢いでドアを閉め、会議室を出る。
「どうやらドックはすぐカッとなる性質(たち)なんだな。」とトッピング。
「ミスター・トッピング、」とアルバート。「どうぞあなたもお引き取りを。どんなことにも、やり過ぎというものがあります。今御覧の通りです。」
 トッピング、納得する。去る前にもう一つ質問する。
「電話は俺からか? それとも・・・」
「こちらから致します。それまではこの銀行には立ち入らない方がいいでしょう。」
 公爵は坐っている。何か深く考え込んでいる様子。
「実に残念だ」と公爵、アルバートと二人で部屋を出る時呟く。

 トッピングは銀行からホテル・カスタニョーラに直行する。ラックマンがロビーで彼を待っている。五階のラックマンのスイートルームに入る。
「それで?」とラックマン、ドアが閉まるとすぐ訊く。
「連中は売るな。」
「いくらでです?」
「六千万」
「それをドルに直すと?」
「何を考えているんだ。これはドルだよ。」
「六千万ドル? 冗談じゃない。そっちこそ何を考えているんです。」
「なあラックマン、あんた頭が悪いんだよ、前にも何度か言ったけど。」
「そんな大金、うちの銀行が払ったことなど、今まで一度もありませんよ。」
「あんたの所で払えなんて誰が言ってる。」
「六千万ドル!」畏れを含んだ声でラックマンが叫ぶ。そして、「もう以前に説明したと思いますけど、うちの銀行は、あんなちっぽけなスイスの銀行をこんな法外な値段で買うなんて、そんなことは絶対にありません。これ以上議論すること自体が無駄、愚の骨頂です。話だけは頭取に報告しますが、それでお宅とは永久におしまいでしょう。それは保証しますよ。」
 トッピングは無言。黙って薄革のブリーフケースを開ける。
「ここに手紙が有る。今朝ホテルに帰った時に渡されたものだ。読んでみるんだな。」
 ラックマンは手紙を読む。そして、もう一回読み直す。
「馬鹿な。頭取があんたをうちの銀行の代理人に指 定した? 嘘だ。」
「いや、それが本当なんだ。頭取に電話して馬鹿呼ばわりされない前に、頭を冷やした方がいい。何かちょっと飲むんだな。俺も付きあう。飲みながらこの話の筋をひとわたり説明してやるよ。前にも言った通り、俺はあんたをヒーローにしてやろうとしてるんだ、なあラックマン。さあ、その手紙は返してくれ。」ラックマンは手紙を返す。
 トッピングは時計を見る。
「そうだ、やる事がある。まだ荷物もほどいてないんだ。すまない、飲むのは五時にしてくれないか。俺がここに来る。このホテルは気に入った。ちょっと あばら屋風なのが良い。ここのバーで会おう。」

 ヴィラ・カスタニョーラのバーは柳の家具で揃えている。だが、このバーのドライ・ マテニときたらヨーロッパ中で、不味さで一二を争う代物。要するに最低と言うこ とだ。一口すすったラックマン、その不味さからおさらばするために、残りを一気に飲み干す。しかし不味さはそれで逃げはしない。 思わず顔を顰める。丁度この時トッピング、彼のテーブルにやって来る。
「すごい顔だな、ラックマン。俺の言った事がそんなにこたえたのか?」
「こたえたなんてもんじゃ、きかないですね。」
「何それ? 飲んでるの。」椅子を引き寄せながら言う。
「マテニ。とびきり上等なんですよ。やって見ませんか?」
「そいつは御免だ。」トッピングはカンパリ・ソーダを注文する。
「さあ、仕事に戻るか。」
「そうしましょう。どうせそんなに時間はかからないんでしょう?」
「ドナルド、あんた、俺の事を信用していないんだな?」
「いいじゃないですか、そんなことは。話を進めましょう。」
「分かった。話は簡単なんだ。第一にやること・・・シシリア・アメリカ銀行はファードーシに対し、彼が共同署名している融資の回収を迫る。ファードーシは急な返済は不可能。そこで銀行は、担保物件であるイラ ンの銀山の権利の半分を手に入れる。この結果、銀山の権利は百パーセント、銀行の物 になる。次にやること・・・カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行が六千万ドルをエスクロウ勘定 で、ロンドンのウィンスロップ銀行に振り込む。この金はシシリア・アメリカ国際銀 行の全社外株式がウィンスロップ銀行に送付された時、これと引き換えに振り出される。現経営陣の手に移るまでは、発行株式は五万株だった。それが、新経営陣になり、預金高の増加に伴い、資産増を目的に増資を行ってきた。その結果、今では二十五万株の社外株式が存在する。連中は、ウィンスロップ銀行にある六千万ドルを手に入れるためには、この二十五万全ての株式を送付しなければならない。」
「この銀行は最高に見積もっても一千万ドルがいいところです。六千万ドルなどと、気違い沙汰ですよ。しかしまあいい。とにかくそっちの話を今のところは聞くことにしましょう。それでどうなるんです?」
「これでお前さんのところの銀行は、ルガーノの銀行を買収したことになる。それも、六千万ドルの値打のあるイランの銀山を含んでな。そこで次に、またウィンスロップ銀行にエスクロウ勘定を作る。売りに出すのは今度は、そちらの方だ。売り物はイランの銀山の権利全部。我々がこいつを、八千五百万ドルで買い取る。」
「我々とは誰の事なんです?」
「リヒテンシュタインにある会社だ。名前はフレンドシップ・インターナショナル」
「なるほど。だが、待って下さい。イランの銀山は六千万ドルじゃなかったですか? 何故八千五百万ドルも払うんです。」
「それはな、ルガーノの銀行がイランの銀山の半分を所有していたからさ。長期支払いだから、貸借対照表上、資産勘定で二千五百万ドルで計上されている。我々がそれを買い取ろうっていうんだよ。おいおい、ラックマン、あんた銀行マンだろう?」
「それで?」とラックマン。まだ少し飲み込めない所がある。
「それだけさ。我々は銀山を貰い、あんたのところは銀行を手に入れる。しかも元手ゼロでだ! あんたもさっき言ってたろう、この銀行の価値は一千万ドルくらいだと。俺 の言ってる事が分かったのかな? ラックマン。あんたはこれでヒーローじゃないか。」
「単純明解ということか・・・」
「そうとも。ただ大したことじゃないが、一つだけちょっとしたことがある。」
「やはりね。来ると思っていましたよ。」
「どういう意味だ?」
「いや、何でもないですよ。ただ私も、ちょっとしたことがあるような気がしていましたから。」
「心配は無用だ。本当に何の害にもならないものだ。」
「何なのです?」
「あんたはルガーノの銀行を買収をするに当たって、その基礎資料を作るんだろう? つまり、完璧な報告書をだよ。」
「勿論ですよ。」
「そいつは会計検査報告書の一種なんだろう?」
「そうです。銀行の本部に居る人間が、電話一本でこんな大金を出す訳はありませんからね。」
「それはそうだろう。それで、最終的にはこの報告書はお宅の銀行の役員会にかけられるって訳だ。そうだな?」
「勿論です。ただ、繰返しますが、私は頭取がこんな買収話に乗りっこないと思っています。仮にです、仮に取り上げられたとすればの話ですが、当然役員会にかけられます。それも、全員出席の役員会に。五百万ドル以上の買収案件は、すべて全員出席の役員会決済事項ですからね。しかし、実態としては事後承認ですね。特にうちの銀行は、フォアマン頭取個人の力で、まったくのゼロから、僅か三十年で今のような大銀行にのし上がったのですから。現実の決定となれば、フォアマン頭取の腹一つです。」
「そういうことを俺は訊いているんじゃないんだ。結局は役員会は、その議決に預かるんだろう?」
「実態は、頭取が決めるんですからね。そういうのは議決に預かるとは言わないでしょう?」
「いや、形式的には、役員会にかけるんだろう? 役員連はやはり議決に預かるんだ。少なくとも、あんたの作った報告書を見る。そこが問題だ。あんたのところの役員連中はお喋りだからな。秘密なんてことが守られたためしがない。」
「止めて下さいよトッピング、いくら何でも酷いです、それは。まあいい。先に進むために訊きましょう。秘密が守れないとどうだって言うんです?」
「つまりな、俺達はアメリカ中に、イランの銀山の話をばらまいて欲しくないってことさ。だから、あんたの作るルガーノの銀行の会計検査報告書から、銀山の資産の話はすべて消して欲しいのさ。」「それは無理ですよ。出来る訳が無い。それだと、帳簿から二千五百万ドルの資産が消えて、勘定が合わなくなる。」
「無理でもないさ。何か別の資産をでっち上げるんだ。その二千五百万ドル分のな。」
「例えばどんな?」
「そこが思案のしどころじゃないか、ドナルド。何かいいアイデアはないかね?」
「馬鹿馬鹿しい。そうだ、イランにある売春宿全部ってのは名案じゃないですか? まてよ、それでも二千五百万ドルにはならないか。」
「銀行は、そんな資金を寝かせるような投資はしないだろう? もっと他に思いつくものはないのか?」
「待ってくださいよ、トッピング。あんた本気なんですか?」
「勿論だ。本気も本気、大真面目だ。」
「重大な法律違反になるんですよ。分かっているんですか?」
「法律違反? どこの国の法律に違反するっていうんだ? スイスのじゃないぞ。スイスで文書偽造をしようとしているんじゃないからな。アメリカの銀行への報告書を作ろうとしているだけだ。スイスとは何の関係も無いんだ。」
「それじゃアメリカでは?」
「全く問題なし。その点は調べてある。アメリカ国内の銀行が外国の銀行を買収する場合に、それを連邦準備銀行に報告しなければならないなんて規則はないんだ。規則がなきゃ、破りようが無いだろう?」
 一寸の間ラックマンは黙り込む。ここは彼の不案内な領域だ。確信が揺らぐ。トッピングがいう事に一理あるらしい。なに、最後には簡単にチェック出来る。
「女郎屋が駄目なら、他にどんな案があるんです。」
「イランと言えば、最初に頭に浮かぶのは何だ?」トッピングが聞く。
「石油ですね。」
「良く出来ました。さて、ファードーシの持っている土地は、どこかイランの油田の近くなんじゃないのか?」
「そんな事知りませんよ」
「そうなんだ。ちょうど境界のところにあるんだ。」
「それで?」
「だから一番辻褄のあう商売といえば、倉庫施設への融資ということになる。原油を満タンで溜めておいて需要に応じて出荷する大きな原油の貯蔵タンクさ。世界中の大きな油田には必ずこういうタンクが隣接して作られている。そして、銀行はみなこれが好きなんだ。原油でいっぱいの巨大タンクくらい担保価値のある物は無いからね。」
「そう言えば思い出しました。二三年前の事でしたよ、確か。アメリカン・エキスプレス銀行が、サラダオイルは絶対安全な担保物件だと思っていたんですね。イリノイとテキサスでそいつを詰めた巨大なタンクがあったんです。ところが、チェックしてみたらタンクは空だった。」
「今やっている話とそれが、何の関係があるっていうんだ?」
「別に。ただその時文書偽造をした男は、今牢屋に入っていますからね。いつ出られるかのかな、そいつは。」
「ラックマン、君はひどく頓珍漢なものを引きあいに出すね。それは詐欺の話だ。誰かが大金を失っている。こっちの話は全然違う。誰一人損をする者はいないんだぞ。誰も金を取られなければ誰も訴えたりはしない。これが、ニック・トッピング様の、人間行動の第一原理だ。」
「分かりましたよ、トッピングさん。その原理を覚えておきましょう。まあ、あと数分間はね。ところでこの馬鹿げた会話をもう少し続けることにして、お訊きしますけどね、原油で満タンだというその偽タンクの証明書を一体誰が作るんです?」
「そいつは簡単、打ってつけの男がいるんだ。マーヴィン・スキナーといってな、例のルガーノの銀行にいるんだ。奴は証明書類の偽造にかけては世界一なんだよ。」
「そんな男が、銀行で働いてるっていうんですか?」とうとうラックマン、最初の自信がぐらつき始める。
「そうさ。でもこいつは口外無用だ。奴はイランの貯蔵タンクの原油貯蔵証明書を、エクソンも見破れぬぐらいの出来栄えで偽造できる。」
「銀行の現経営陣も、このスキナーという男を知っているのですか?」
「おいおいラックマン、そう大袈裟に考えるな。スキナーはあんたが銀行を買収した後まで居残るわけじゃない。そうだろう? あの銀行の重役連の一人なんだぞ、あいつは。あんたがあの銀行の経営権を握った時に、あの重役連が居残っている訳がないだろう。それともあんた、スキナーに残っていて貰いたいのか?」
「冗談は止めて下さいよ。でも、さっきの言葉で私はちょっと心配になってしまいましたね。銀行の書類をみんなあの男が改竄(ざん)しているってことはないのかな。貸借対照表の残りの部分も全部。そうじゃないってことが言えるんですか?」
「そうじゃないからそうじゃないとしか言えないな。しかしどっちみち、あんたは銀行に行ってそのことを確かめるんだ。それがあんたの一番の仕事だ。そうなんだろう?」
「買収するってことになればそうですけど、どうせこの話はここでペチャクチャ喋るだけで終りの筈ですよ。フォアマン頭取はこんな取引に手を出すはずがないですからね。」
「またそれか。買うか買わないかの結論は頭取が出すんだろう?」トッピングはそっけなく答える。「まあどっちに決めるにしろ、フォアマンは時間をかけずに結論を出さなきゃならん。俺達のグループがこの取引を急いでいるからな。だからフォアマンとしちゃ、皿に載せられた料理を食うか棄てるか、手っ取り早く分る方が有難いんだ。ということは、あんたの報告書の結論次第ってことさ。これで話は終りだ。さあ、全体の筋道をもう一度おさらいだ。今度はメモを取りながら行こう。」
 今度はラックマン、メモを取りながら話を聞く。全部が終わった時、トッピングは言う。「さあ、すぐフォアマンに電話するんだ。」そしてトッピングは去る。

     一 四 
 このあと一時間の間に、三つの重要な会話が電話で交わされる。これらの会話が原因となって一連の事件が起こることになる。まずスイスの銀行業会が大揺れに揺れ、世界の銀相場が恐慌に陥り、うぶな投資家達が文字通り数十億ドルもの損害をこうむり、二三のずる賢い投資家が大儲けをする。これら全てが電話一本で起きるのだ。アレクサンダー・グラハム・ベルも罪なことをしたものだ。植物学でもやっていたらよかったのだ。そうしたら、世界はどんなに平和だった事か!
 第一の電話。それはルガーノのホテル・ヴィラ・カスタニョーラにいるドナルド・ラックマンからサンフランシスコのカリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行のジョージ・フォアマン頭取宛だ。こんな具合だった。
「フォアマン頭取ですか? スイスのラックマンです。」
「ああ、ちょっと待ってくれ。」誰かが十五分ばかり頭取室を出るよう命ぜられたようだ。「さあいいぞ、ラックマン。続けてくれ。」
「頭取、頭取はルガーノのシシリア・アメリカ銀行の買収に関してニコラス・トッピン グを当行の代理人にされたと理解しておりますが、それで宜しいんですね。」
 ラックマンは自分の内心のすねた気分が声に出ない様に喋ったつもりだったが、駄目だった。
「その通りだ。ラックマン」
「トッピングがこれまでやってきた事をそのままご報告します。私の意見は一切つけ加えませんが、それでよろしいでしょうか。」
「そうしてくれ、ラックマン。余計な注釈は一切不要だ。」
「トッピングによると銀行の買収は出来ると言っています。それにあのイランの鉱山 も丸々百パーセント、その権利を買収できるだろうと言っています。鉱山というのはつまり、以前ドバイからの電話でご説明したと思いますが、トッピングが買おうとしている例の 鉱山のことです。」
「鉱山の話は聞いた。それでいくらで買えるんだ、その銀行は。」
「問題はコストではなく、基本的にはリスクだと思います。トッピングは途方もない金 額を言ってきています。大変な金額です。彼が完璧で、非の打ち所のない会社を代表 しているのなら別ですが、私は・・・」
 フォアマン頭取が途中で遮る。「非の打ち所のない会社を代表しているんだ、彼は。トッピングは 我々の銀行の少なくとも四、五倍の資産を持つ機関に属している。その上、 その機関はたった一人の男が所有し経営している。フランク・クックだ。君でもこの名前は聞いたことがあると思うがね、ラックマン。」
 確かに聞いたことがあった。そして、ブツブツとその旨、電話に向って呟く。
「クックと、私とは、しょっちゅう綿密に連絡を取り合っている。ロンドンと西海岸だ、そう便利という訳でも無い。しかしそれに関係なくだ。だからな、い いか。君のその頭に叩きこんでおくんだ。トッピングがやったことをそのまま私に報告すればいい。君の注釈などは一切不要だ。トッピングはフランク・クックの言う通りに動いている。こっちも同じ。君は私の言う通りに動くんだ。取引をするかしないかは、クックと私が決める。決めた後の細かいことは君とトッピングがやる。これからはそのつもりで行動するんだ。分ったな。」
「分りました、頭取。ただ、今の今まで私は・・・」
「・・・知らなかった。今では分ったんだな?」
「はい、頭取」
「では、報告の続きだ。私はひどく簡単なことを君にきいた。覚えていないだろうから繰り返す。いくらで買えるんだ、その銀行は。」
「ただで買えます。」
「銀行は、値打ちとしては?」
「分りません」
「見当でいい」
「一千万ドル・・・です。」
「それがただで買えるんだな? その仕掛けは。」
「それが、ちょっと込み入ってるんです」ラックマンは答え、慌てて次を続ける。
「まず我々は、スイスのこの銀行の社外株券全部を六千万ドルで買います。ロンドンの銀行のエスクロウ勘定で行います。次に我々はイランの不動産分をこのスイスの銀行から引き出し て第二のエスクロウ取引にいれます。フランク・クック・グループは、リヒテンシュタインの会社を使って、これを八千五百万ドルで買います。これで我々は差し引き二千五 百万ドルのプラスとなりますが、この二千五百万ドルは、そっくりそのままスイスの銀行に返されます。つまり、イランの不動産分の弁済にあてる訳です。これで我々に残る金はゼロ。イランの不動産分のなくなったスイスの銀行は我々の手に入る。つまり、ただで銀行が買える訳です。」
「今の話のどこが込み入ってるんだ」とフォアマン。
「ええ、ここまでは込み入っていません。しかし、相手は奇妙なことを言ってきているのです。銀の鉱山に関する書類を一切合切、これから我々が・・・いや 私が、作る会計検査報告書からはずせ、と言うんです。」
「それで?」
「はい、頭取、私の意見では、いくらなんでもこれは・・・」
[ラックマン、君は今スイスにいるんだぞ。カリフォルニアにいるじゃないん だ。そっちでの銀行やビジネスの世界は我々の所と、とんでもなく違っている。 イタリアやフランスの連中を見てみろ。奴等は税金だって払わない。こういう世界で 成功するにはどうするか? 答は「郷に入れば郷に従え」だ。そんなことを気にしてどうする。」
「しかし・・・」
「いいか、私は君に命令する。トッピングの言う線に沿って進めるんだ。」
 ここまで言われてはラックマン、どうしようもない。
「かしこまりました、頭取。」
「一刻も早く銀行に行き給え。そうして、会計検査報告書を作るんだ。全部揃ったら、すぐに私に送る。「当該銀行の買収を適切と判断する」という君の意見書を添えてな。」
「かしこまりました。」
「それから、エスクロウ取引はロンドンのどこの銀行を使うんだ。」
「ウィンスロップ銀行です。ロンバード・ストリートです。」
「分った。会計検査報告書と一緒に、特別ファンド新設申請書を入れておいてくれ。 ウィンスロップとはこちらが直接あたる。勿論君の会計検査報告書で全て問題無し と分った上でのことだ。」
「分りました。」
「よくやっているぞ、ラックマン。丁度こちらにうまい話が転がり込んできたのを、君は実に見事に処理している。私も、最後の手打ちの時に合わせて、出来るだけ早くそちらに行く。家内も一緒だ。この間、あのカントリークラブでは楽しかったな。あの続きをそちらでやろう。楽しみにしているぞ。マージョリーは君の奥さんのことを気に入っている。奥さんに宜しく言っておいてくれ。」
「はい、申し伝えます。」
 電話が終わるときカチャっと言う音が二回した。ひとつは五千マイル向こうのカリフ ォルニアでフォアマンが受話器を置くときの音、もう一つは、数ヤードしか離れ ていない隣の寝室でラックマンの妻が受話器を置く音だ。

 第二の電話はルガーノのメトロポールホテルにいるニック・トッピングと、英国バッ キンガムシャーのマーロウ・オン・ザ・テムズの直ぐ近くにある屋敷のフラン ク・クックとの間に交わされたものだ。こちらは、それほど長くない。
「会長ですか? トッピングです。」
「ああ、ニック」
「どうやら八千五百万で買えそうです。」
「本来、どれほどのものなんだ?」
「現在は月産三百万オンスです。しかし生産量は増加していて、八月半ばまでには月産五百万オ ンスになる予定です。ということは、ピーク時は年生産量六千万オンス、時価で一億ドルです。あとどれだけ埋蔵されているかは誰にも 分りません。多分その三倍くらいはあるでしょう。ですから、私の読みでは最低でも 二億五千万ドルにはなると思います。」
「そして、そいつを暫くの間地下に眠らせたままでおけば、価値はもっと膨らむという訳だ。」
「そうです。二倍の価値には出来ます。おっしゃるとおりです。今現在は先物相場で買いに出て、価格を充分釣り上げてから、現物の銀も売りに出すって言う戦略ですね。」
「ラックマンはどんな具合だ。」
「想像していた通りの男でした。ちょっと鈍いです。でも、会長からサンフランシスコの方に手を打って下されば、うまく動いてくれると思います。」
「もう手は打ってある。」
「ああ、それなら大丈夫です。」
「ところで、いつ終るんだ? この仕事は。」
「多分、二週間ぐらいで。」
「すると、それまでに現金八千五百万ドルを用意すること、か。」
「はい、そうです。何か問題がありますか?」
「いや、別に。具体的にはどうやるんだ。」
「エスクロウ取引を使います。フィオーレ・グループは銀行の株式券全部と鉱山の権利書をエスクロウに入れ、これと引き換えに、カリフォルニア銀 行はフィオーレ・グループに六千万ドルを支払います。」
「それで?」
「カリフォルニア銀行は、鉱山の権利書を二番目のエスクロウに入れ、これに対し て我々は八千五百万ドルを支払います。カリフォルニア銀行は六千万ドルを自分の手許に残し、鉱山の資産分として、二千五百万ドルをスイスの銀行に入れます。これで全て完了です。」
「フィオーレ・グループがゴネはしないか?」
「多分ゴネません。アルバートが、合理的に物を考える男なんです。ただ、ドック・スマイスがひどく頭にきていて。でも、そのうち冷静になる筈です。」
「フム。それで、例のイラン人は?」
「事態が分ると、ちょっと暴れるかも知れません。しかしどの道、鉱山は手放さざるを得ないでしょう。ただ、彼に少しは残しておいてやらなければいけません。例えば、ドバイの倉庫に既に入っている銀とか。」
「よくやった、トッピング。一段落したらロンドンに帰って来てくれ。さっきのエスクロウ取引には、君にも立ち会ってもらいたい。」
「そう致します。」

 第三の電話は会議電話だ―少なくともスイス側はそうだ。参加しているのは、ルガーノのシシリア・アメリカ銀行にいるドックとアルバート、それにラスベガスのジョー・フィオーレ、この三人。電話がつながると、ドックが口火を切る。
「ボス、こちら、ドックです。これは会議電話で、もう一つの受話器にはアルバートがいます。」
「何かまずいことか。」
「もしもし、お父さん?」これはアルバート。
「どうしたアルバート、何かまずい事が起きたのか。」
「まずいかまずくないかは、考え方によるんですが。」
「とんでもない」とドックが口を挟む。「考え方になんかよりはしない。ひどくまずいことになったんです、ボス。我々だけで何とか片がつけられますが、そちらからの援助も必要なんです。」
「何をぐだぐだ言ってるんだ、馬鹿野郎! 何が起きたかを早く言うんだ!」
「銀行を乗っ取ろうとしている奴がいるんです。」
「何だと! そんなことをさせてたまるか!」とジョーが金切声を上げる。
「そうです。俺もそう言ったんです。」とドック。
「誰なんだ? 乗っ取ろうって奴は。」
「ニック・トッピングという名前の、ちょっと頭の切れる野郎です。ボスを知っているといってました。」
「トッピング?」
「そうです。でっかい野郎です。年は四十五、六。マイアミだの、キューバだの、何かさかんにボスの話をしていました。」
「ああ、あのトッピングか。」しばらく沈黙が続く。
「どうしたんです? ボス。まずいんですか? この男は。」
「まずいな。」
「こいつの親玉ってのは誰なんです。」
「大物中の大物だよ。フランク・クックという男だ。」
「マイアミの野郎ですか?」
「何をとぼけた事を言ってるんだ。こいつは世界でも十の指に入る金持ちだ。」
「その男の下で、トッピングは何をやっているんです?」
「クックの懐刀だ。一時、財務省で働いていた。麻薬にも関係したことがある。それから、ラテン・アメリカの電信電話会社に移った。そのあと、ベルギーの会社に入ってコンゴで働いた。ひどく危ない男、本物の糞野郎だ。」
「カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行というのを聞いたことがありますか?」
「ウム、名前は聞いたことがあるな。」
「でっかい銀行です。トッピングはその銀行の代理人をやっていると言っています。」
「馬鹿なことを。あいつは正真正銘クックの手下だ。銀行など関係ない。」
「そうですボス、その筈なんです。でも何かワケがあるんじゃないでしょうか、このカリフォルニアの銀行を前面に出しているのは。」
「フム。」
「はっきりとは俺にも分らないんです。でもこれだけは言えます。トッピングは銀行そのものには全然興味がない。銀の鉱山なんです、狙っているのは。」
「それだ。クックは銀の業界を牛耳っているからな。」
「どうしてボスはクックのことをそんなによく知ってるのですか?」
「昔一時期、彼はここでホテル事業をやっていたんだ。ヒューズが乗り出す以前の話だ。そのあと、どういう訳か、急に身を引いた。」
「トッピングはこっちの正体を全部知っているようです。」
「それがあいつの手なんだ。うまいだろう? やり方が。」
「うまいです。」
「買収価格は言って来たのか?」
「五千万、と言ってきました。アルバートが提示した金額が六千五百万。まあ、本当に買収となれば、落ち着く金額は六千万です。」
「フン、俺はせいぜい一千万くらいだと思っていたがな。」とジョー・フィオーレ。
「ボス! まさか売るつもりじゃないんでしょうね。トッピングの奴にしてやられても平気なんですか。」
「トッピングじゃノーだ。しかし、フランク・クックなら仕方が無い。」
「そのクックって野郎はスーパーマンなんですか?」
「まあな。」
「ねえボス。俺達二人は長いこと一緒にやって来ましたよね。」
「そうだ。」
「俺は一度だってボスに物を頼んだことはありません。頼まれたことをやってきたんです。それも立派にやってきた。そうですね?」
「そうだ。」
「今度だけはこちらから頼みたいことがあるんです。」
 しばらく沈黙が続く。そして、
「よし、言ってみろ。」
「連中の言いなりにならないで欲しいんです。少なくとも、もう暫く待って欲しい。抜け出せる方法がある筈です。そいつを捜してみます。今までだって俺は必ず見つけて来たんです。頼みます、ボス。」
「ドック、今度ばかりはお前の敵う相手じゃない。」
 この時始めて、アルバートが割って入る。
「お父さん、実は銀行の買収だけじゃ収まらないんです。他にもとばっちりを食った人間がいるんです。」
「誰なんだ、それは。」
「ファードーシ兄妹です。イランの銀の採掘で、我々と組んでいる人達です。去年の夏、お父さんも会ったでしょう? あの二人も巻き添えを食っているんです。」
「どういうことだ。」
「敵の本当の狙いは、銀行の買収ではなく、イランでの銀の採掘の完全停止なんです。そのためにあの銀の鉱山を、ファードーシから買い取れ、そしてクック側に渡せ、と言われているんです。」
「それは出来るのか?」
「出来ます」
「出来るならいいじゃないか。何が問題なんだ?」
「急いでやらなければならないということが一つ。もう一つは、ファードーシがごねる可能性がある。」
「アルバート」父親は言う。「そいつはお前の手にはおえないな。お前はまだ若過ぎる。」
「その通りだ。」ドックが遮って言う。
「ドック、お前は黙っていろ。」ジョー・フィオーレが抑えて言う。「アルバート、お前の考えを言ってみろ。」
「公爵と僕と二人でイランへ行ってファードーシ兄妹に、事と次第を正直に話すんです。」
「馬鹿を言うな。」ドックが言う。
「ドック」フィオーレが注意する。「お前は黙っているんだ。それでアルバート、何故公爵なんだ。」
「一番気心が知れているからです。それに、親類同士でもあります。」
「ちょっと待て」再びドック。「そんな必要はない。」
「さっき言った通りです、ボス。ここは俺にまかせて下さい。必ずいい手を見つけます。俺にチャンスを下さい。」
 電話の向こう側、ラスベガスで長い沈黙。
「OK」とうとう、ジョー・フィオーレが答える。「ドック、お前の好きなようにやってみろ。ただ、この取引を打ち壊すのは駄目だ。いいな。それからアルバート、お前は公爵と一緒にファードーシの説得に行ってこい。ただいいか、二人に言っておく。このところはずっと、俺達がフランク・クック側の話に乗っているように見せておくんだ。特にドック、お前は気をつけるんだぞ。分ったな。」
「俺の考慮時間の期限は?」
「アルバート、」父親が聞く「お前の方の仕事はいつまでに終る。」
「一週間、長くても十日です。トッピングははっきり言っています。急いでいると。」
「分かった。ドック、お前には一週間与える。それが過ぎたらお前達二人とも俺の所へ戻って来い。それからドック、もう一度注意しておく。お前が完璧な対策を見つけない限り、絶対この取引きを棒に振るなよ。フランク・クックに抵抗するのは難しい。あの男は負けるのが嫌いなんだ。俺達に負けるぐらいなら、銀行だろうが、銀の鉱山だろうがみんな潰れたって構わないと思っている。あの男をやっつけるには、よっぽどすごい手を考えつかなきゃ駄目だ。これは容易なことじゃない。まず無理だろうな。しかしまあいい、お前に一週間やる。頑張ってみるんだな。」
「分った、ボス。」ドックは落ち着いた声で答える。しかしこの返事がやっとというところ。
「それからアルバート、」ジョーは言う、「イランでは気をつけるんだ。いいな。」
「はい、気をつけます、お父さん」
「ボス、もう一つ聞いておきたいことがあるんですが。」とドック。
「何だ?」
「俺はまだここを任されているんですね?」
「そうだ、そこはお前の担当だ。俺の命令に従う限りな。」

     一 五 
 ドックは確かに銀行の仕事を続けたかった。ドックが昔から確保したいと願っていたもの、それも生涯ずっと確保したいと願っていたもの、が、今やっと手に入ったと思ったからだ。確保したかったものは何か。それについて誤魔化そうなどと、ドックは思っちゃいない。尊敬だ。
 尊敬。社会からの尊敬。仲間からの尊敬。ドック自身が自分に対して持ち得る尊敬。彼は最近になって考えるのだが、それは、彼のような人間にとっては到底達成出来ない夢だったのだ。ドックは父親というものを知らない。母親は、全ての幻想を取り外してみれば、単なる売春婦でしかなかった。それも高級なものではない。単なる安っぽい売春婦だ。そしてドックの本名は、シェンキエヴィッチだ。ミルウォーキーの人間にさえ、この名前は嘲笑に値した。学歴などある訳がない。仲間の浮浪少年と街で覚えたこと、刑務所の訓練用の中庭で覚えたこと、それが全てだ。職業は、徒党を組んでやる犯罪だ。他人の金を盗む。必要とあれば、相手を傷つけても。悪意からやるのではない。必要に迫られてやるのだ。
 しかし今では、その必要はなくなったのだ。いや、過去の話ではない。これからずっと不要なのだ。彼、ドック・スマイスは、ついに他の普通の人間と同様になったのだ。普通の人間の生活を送る。いや、いかがわしい目的のためにその振りをするのではない。彼、アルバート、マーヴィン、それに公爵、が力を合わせた結果なのだ。正直の話、今ドックが持っている金は正真正銘自分自身で稼いだ金なのだ。糞っ!
 しかし折角手に入れたその物が、この新しい事態を乗り越えなければ、保って行けないのだ。ドックはうぶな男ではない。しかし、ジョー・フィオーレとの電話で、最初は奇妙な感じ、次に失望、それからむかっ腹がたって来た。自分がその一員になろうとしていた社会、所謂「まともな」社会は、実際はまともではなかったのだ。銀行家は紳士だとされている。会社の重役達はルールブック、つまり中流の上に位する男達の会社及び家庭における善悪の基準が示されている本、に書いてある通りの生活を送るものとされている。腕づくのごり押し、ニック・トッピングのような輩(やから)、強請(ゆすり)、のようなものは、ドックの昔の社会に属するもので、この新しい社会にはないものと決めてかかっていた。
 ところがそれは、両方の社会に通じるものだったのだ。全く同様に。違うのはただ、使用される言葉だけだ。ジョー・フィオーレの類はボスとは呼ばれず、社長。その用心棒は、セキュリティー・コンサルタント。偽造の名人マーヴィンの類は、クリエイティヴ・アカウンタント。それからアルバートは? まあ、コンピュータか。そのホワイト・カラーの御主人と同様、全く倫理感抜きの。それから公爵は? これは簡単だ。広報宣伝係だ。マスコミ、政治家、それに浮気な女まで、何でも手玉に取るのがその役目。
 もう十一時はとっくに回っていた。外でじっと坐っていられる程ではないが、暖かかった。ドックは一人で外気にあたっていたかった。そこで散歩に出ていたのだ。まず山道を登って、ガローナの上にある行き止まりのところまで。それから引き返して、本当に自分の「家」になってしまった、例の別荘まで。これほど自分の住み家だと思った家は今まで一度もない。
「だが待てよ」と、その家の光が見えてきた時、ドックは考える。「連中は殺しまでやるか。これが二つの社会の本当の違いではないのか。これがギリギリの境界だ。確かに連中は人間をやっつける。小突いたり、押しのけたり、ゴミの山に頭を押し付けたり、職を、金を、名声を、人間から奪ったりして。しかし、殺すまではしない。
 この質問は全然ドックにとって机上の空論ではない。何故ならドックはこの時点で既に、結論が出ているからだ。フランク・クックは殺さなければならない。勿論、前段階はある。クックに会い、取引をし、食い下がる。しかし、うまく行かない時には殺すまでだ。
 クックがいなくなれば、振りだしに戻るに決っている。例えばジョー・フィオーレが殺された場合だって同じだ。後継者争いの間、暫くは混乱がある。犯罪の世界でも実業界でも、これほど絶対的な力をふるっていた人物の後を継ぐには周到な用意が必要だ。簡単には誰も動きがとれない筈だ。
 その間にドックは例のルールブックに戻ることが出来る。何故ならドックは、未だにルールブックの存在するよき社会がこの世にあることを確信していたから。それがこの世の大多数の善人の生きる道なのだ。フランク、ニック・トッピングのような輩(やから)、それにカリフォルニア銀行、こいつらが狂っている。例外なのだ。どんな上流の社会にも、変種は現れるものなのだ。
 やっとドックが別荘に入った時、いつものようにアルバートは居間で本を読んでいた。
「それで?」とアルバート。「打開策は?」
「まだだ」と不機嫌にドック。
「じゃ、さしあたりすることは?」
「トッピングと例のカリフォルニアの銀行の男と会って、書類だけは揃えるんだ。それから、お前はイランに発つ。但し、公爵があちらで事を即座に纏める自信がなきゃ駄目だ。」
「それでドック、あんたは何をやるんです。」
「また考えることにする。いい手が浮ぶまでな。お前も少し手伝ってくれると有難い。」
「いいですよ。どう手伝うんですか?」
「このフランク・クックって奴の狙いは何なのだ?」
「あの鉱山から、銀の生産を即座に停止させたいらしいですね。」
「何故だ。」
「世界の銀の総量を少くしたいんですよ。今まででももう、一・二九ドルから二・四五ドルに上りました。供給が少なくなれば、三ドル、或はそれ以上に跳ね上がりますからね。」
「それがクックの狙いなのか。」
「ええ、どうやら。」
「このクックって野郎はそんなことを一人でやれる程力があるのか。」
「そうですね。投資家達を一斉に同じ向きに並べることが出来さえすれば、です。」
「どういう意味だ、それは。」
「世界中の人達が、銀はどんどん足りなくなってきている、と思えば、みんな商品取引で買いに回るんです。だから銀の値段は上る。しかし、もし急に、銀が大量に出回り始めたと連中が思うと、値段が下るだろうと判断する。手持ちの銀で損をすることを怖れて、売りに回るんです。すると、ドンドン銀の価格は下る。最初の一・二九ドルにまで。するとクックの手持の大量の銀は、価値がなくなる。」
「そうすると、我々の銀山の話を大衆投資家連中が知るなんてことは、クックにとってはひどく悪いニュースな訳だ。」
「そうです。だから我々の帳簿から、銀の項目は出来るだけ早く消したいんですよ。」
「有難う、アルバート。やっぱりお前は頭がいいや。」
「それで、これからどうするんです、ドック。」
「さっき言った通りだ。考える。」
 しかし、考えている間にも、行動に移すべきことはさっさとやらねばならない。次の朝八時半にドックはニック・トッピングに電話する。十一時には、ドック、アルバート、マーヴィンは重役室で相手方の現れるのを待っている。公爵は自分の事務室からイラン宛の電話を繋ぐのにかかりきりだ。
 トッピングとラックマンは十五分遅刻して現れる。重みをつけようというトッピングの考えだ。一晩中ほとんど眠れなかったラックマンだったが、シシリア・アメリカ銀行に一歩足を踏み入れるや、その不安は吹っ飛ぶ。銀行は彼の馴れ親しんでいる場所だ。受付窓口の前の行列、受付の向こうでカタカタと鳴る手動の計算機、大理石の床、間接照明、押し殺した囁き声、濃紺のスーツ。
 重役室に着いて一番ラックマンの目を惹いた男はマーヴィンだった。だがそのマーヴィンの格好を見てラックマンは、最初の不安が再び戻って来る。マーヴィンは紺の背広ではないのだ。格子縞の替え上着、黄色のオープンシャツ、緑色のズボン、モカシンの白い靴。それに加えて、顔いっぱいに拡がるその笑い顔だ。
 ラックマンの不安を見て取ったトッピング、揶(からか)わずにはいられない。
「マーヴィン」とトッピング。「最近、スイス紙幣は作っていないのか?」
 ドックもこの冗談が気に入る。
「おいマーヴィン、二三枚見せてやれよ。ああそうだ、俺が自分で持っていたな。」ドックはポケットから札入れを取出し、百スイスフラン紙幣を引き出す。そしてトッピングにそれを渡す。トッピング、それを光ですかして見、匂いを嗅ぎ、擦(こす)ってみる。
「出来たてじゃないな。よく乾いている」とトッピング。「今までのマーヴィンのドル紙幣よりは出来がいいんじゃないか。」
 トッピング、紙幣を裏返す。「おお、裏はヌードの女か。大きなオッパイ、肩の線もいい。それに、綺麗な花。マーヴィン、あんたが遥々スイスまで来た理由が分ったよ。百ドル紙幣のベンジャミン・フランクリンの絵を描くのにうんざりしたんだな? そりゃ、スイスの札の方がずっと面白いからな。」そしてドックに「こいつは貰っていいのか?」
「いいさ」とドック。「ただ、昼飯はそっちのおごりだ。」
「よし、その取引、のった。」
「ミスター・ラックマン」とアルバート。「こういう馬鹿なやりとりは無視して下さい。多分そちらのお役目は、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行の代表として、我々の銀行の帳簿を調べることにあるのだと思っていますが、如何です?」
「その通りです。」
「身分証明書はお持ちですか?」
「ええ」と言ってラックマン、見せる。
「どこから始めましょう。」
「スイスの会計検査官からの報告がありますね? 期毎に出される・・・」
「ええ、あります。」
「何語で書かれていますか?」
「イタリア語です。しかし、英訳も作ってあります。正確な訳だという証明もついています。」
「最後の検査はいつでしたか?」
「一箇月前です。」
「ああ、それは仕事がしやすい。では、その報告書から始めましょう。そのうちから、重要なものを後で拾って行くことにして。」
「そういう順序になるだろうと思っていました。この階の一室をすっかり開けておきました。どうぞそちらをお使い下さい。それから、全て御質問に応じるよう会計課長に言ってありますので、御自由に何でも彼にお訊き下さい。」
「英語が分る秘書が欲しいのですが。」
「それも手配してあります。そうだ、銀行内に回覧を廻しておきましょう。ミスター・ラックマンの質問には、全て協力するようにと。残念ながら、我々執行部は、明日から今週末までこの町を離れます。ですから、必要な手続は今日中にとっておきたいのです。勿論マーヴィンは残りますが。」
「つまり、ミスター・スキナーのことで?」
「そうです。もしよろしければ、今すぐミスター・スキナーが御部屋に御案内致しますが。じゃ、マーヴィン、頼みます。」
 ミスター・スキナーはお役に立てるのが大変嬉しそうである。その時、電話が鳴る。ドックが受話器を取る。ちょっと聞いて、受話器を下ろす。
「ジョンだった。ファードーシは家にはいない。テヘランだ。アルバート、明日の朝は出発だ。飛行機の手配は今ジョンがやっている。お前はファードーシにサインして貰うための書類作りだ。すぐにかかってくれ。」
 アルバートは部屋を出る。残ったのはドックとトッピング。
「ニック」とドック。「奢ってくれるその昼飯にはまだ早過ぎかな?」
「食うには早過ぎだが、飲むにはもういい時間だ。」
「ドナティスを知ってるか?」
「いや。しかし、お前を信用しているよ。少なくとも食い物に関してはな。」
 ドナティスは、銀行から五ブロックのところにある。だから二人は歩く。隅のテーブルを取る。「ああ、フラスカーティーを頼む。それから急がなくていい。」これをちゃんとイタリア語でやってのける。
「なかなかいいガイドじゃないか、ドック」とトッピング。「イタリア語なんか、どこで覚えたんだ。」
「公爵さ。」
「使える男じゃないか。どこで見つけたんだ。」
「俺が見つけたんじゃない。ジョー・フィオーレだ。」
「ジョーもだいぶ年がいったな。昨日のあの話のあとで、勿論ジョーから連絡があったんだろう?」
「あった。」
「それで、そちらの態度はどう決めたんだ?」
「お前達との交渉は続けろってさ。勿論お前達がその気でいる限りにおいて、という条件だがな。ただ、俺が今「お前達」と言ったがそれはなトッピング、お前のような使い走りを指して言ってるんじゃないぞ。」
「ハハア、まだ俺に話してないことがあるな? ドック。」
「そうさ。お前が誰のために動いているか、それがはっきり分ったんだ。」
「なるほど。それで? 次が聞きたいね。」
「だからな、ここでゲームのルールが新しくなったんだ。つまり、俺はその本人と直接取引をする。」
「無理だな。」
「そういう前に、まずお前がクックに訊いてみるんだな。」
「お前如きがそんなことを考えて何になる。ミスター・クックの狙いは大きい。雑魚は相手にしない。」
「そうらしいな。アルバートもそう言っていた。」
「アルバートがどう言っていたんだ。」
「さすがはクックさんだ。銀の市場を料理する気でいるってな。」
「それで?」
「どうしてもネタがばれては困る筈だと。」
「何のネタだ。」
「ペルシャの鉱山からザクザクと銀が出るという、さ。」
「誰がばらす。」
「俺さ。」
「どうやるんだ。」
「電話だね。信頼出来る筋に二三人。」
「お前に出来る訳がないだろう。ジョー・フィオーレに殺されるぞ。」
「ジョーは今、ベガスだからな。」
「ミスター・クックに何かして貰いたいんだな。」
「愛情と理解というところかな。俺の年金の増額にも一役買ってもらいたい。」
「そんなこと、ミスター・クックの手を煩(わずら)わすまでもないよ。このニック・トッピング様がしかるべく手を打ってやるさ。」
「さっき言った筈だぞ。俺は使い走りとは取引しない。ところで、そのミスター・クックってのはどこに住んでるんだ。」
「イギリスだ。」
「何でまた?」
「一人で静かにしているのが好きなんだ。それが確保出来るのはイギリスが一番てことよ。ドック、話は違うがお前、この銀行が終ったら、何をするんだ。」
「考えたことないな。」
「フィオーレ一家にはもううんざりっていう気持のようだな。」
「図星だ。」
「俺達の方から口をきいてやっていいんだぜ。」
「俺達の「達」には、フランク・クックも入っているのか?」
「うん。俺が話してやる。いいか、こっちから声をかけるまでに、変な真似はするなよ。ジョー・フィオーレ、フランク・クックの両方から狙われるのは、お前も有難くない筈だぞ。」
「声をかけると言ったな。いつだ。」
「今晩だ。それなら待てるか。」
「よし、待ってやる。ワインはどうだ? ニック。」
「うん、貰おう、ドック。」
 その夜、約束通りトッピングはクックに電話する。しかしクックはファードーシの説得が終るまでは会わないと言う。説得は多分水曜日までには終るだろう。従ってドックをイギリスに連れて行くのは、木曜日とする。そこでもし、ファードーシの件がうまく行けば、次の朝クックの家に連れて行くという段取りだ。
 このことをトッピング、ガローナの別荘にいるドックに電話する。ドックはこの遅延を好まなかった。が、同意する。ということはつまり、フランク・クックの命が三四日延びたということだ。

     一 六 
 パン・アムでヨーロッパからテヘランへ飛ぶフライトは非常に多い。ヨーロッパからテヘランへ行きたい人間が多いからではない。ヨーロッパからインド、タイ、香港、シンガポールへ飛ぶ時の、燃料補給中継所として理想的だからである。シンガポールで給油した飛行機は更に日本、或はオーストラリアに飛ぶ。
 ミラノからテヘランまでは四時間。ニューヨークからロスアンジェルスまでの飛行時間とほぼ同じだ。しかし面白さから言うと、ミラノ=テヘラン間の方が格段に上だ。異国情緒がある。サリーを着たインドの女性達、仕事用の背広に身を固めた日本人達・・・但し、似合った背広を着ている日本人にお目にかかったことは皆無だが・・・口の大きなオーストラリア人達。それに一九六八年は、アメリカ、ヨーロッパの人間がどっと東南アジアの国々に押しかけて行った年だ。アンクル・サムがこの地方に大量のドルを流し、その上がりで、土着の人々の間に混じって優雅に暮そうという腹なのだ。
 七0七機に乗り込んだ公爵とアルバートの気持は「優雅に暮す」などという気分からほど遠かった。
「アルバート」と公爵。これがアルバートを呼ぶ三度目の声だ。「うまく行くんだろうか、この話は。」
「ミスター・ファードーシがこちらのことをどう思うかですね。あの人のこちらの立場に対する理解いかんです。」
「でも私は、皆さんがどういう人間であるか、正確にあの人に話したことはないんです。有名なアメリカの銀行家だろうとあちらは思っていますからね。」
「これからそれを正確にすればいいことでしょう? ジョン。」
「さあ、それが・・・」と、ゆっくり頭を振りながら公爵。「なにしろファードーシと言えば、イランでは旧家で、尊敬されているんですからね。」
「それなら、いよいよこちらに協力するしか手がなさそうですね。」と、アルバート。「僕の親父や、ラスベガスの親父の友人達と関係を持つなどというのは世界的なスキャンダルです。立派な家柄の人達が、そんなスキャンダルに自ら好き好んで巻き込まれたいなどとは到底考えられませんね。」アルバートの言い方は実にそっけないもので、そこに悔しさ、残念さなど、微塵もない。
「そう。あんたの言う通りだ、アルバート。そうなって欲しいよ、私も。」二人はまた長い沈黙に入る。飛行機は東の方に向きを変える。そして、
「アルバート、あんた、ドックのことをどう思う?」
「好きですね、僕は。」
「私もです。非常に。でもあの人、何を考えているんでしょう、今。」
「実のところ、僕にも分らないんです。」
「ひどく悪いこと・・・っていう可能性がありますかね?」
「まあそうでないことを期待していますが。でもドックのことですからね、何をやらかすか、知れたものではありませんよ。」
「ドックは本当に親切な人なんですけど・・・最初私は、あの人が怖かったんです。それで今、また怖くなっているんです。」公爵は溜息をつく。「実は、妹の方には、少し話したんです。」
「妹?」
「ええ、シリーンです。」
「で?」
「ドックのことを訊くんですよ。来るのか、来ないのかって。」
「ドックのことが好きなんですかね。」
「そうらしいです。でも、ドックの正体など全く分っていないんですからね。」
「人は変るものです」と、アルバート。「シリーンに何もかも話す必要なんかありませんよ。ドックが好きで、それでどうだって言うんです?」
「私の感じでは、ドックと結婚したいんじゃないかと・・・」
「それは気違いじみていますね。何故結婚なんかしたいんです?」
「シリーンはイランから出たいんです。イランではまだ女性は召使のようにしか扱われていません。いや、それ以下かも知れません。存在していないかのように。二、三年前まで、アラブのある地方では、子供を生んだ時、もしそれが女だと、殺す権利がその父親にはあったぐらいです。」
「それは酷い。」
「イランではそんなことはしません。でも・・・やはりシリーンのような女性が住む場所ではありません。あの人は御存知のようにイギリスで教育を受けたのです。どうしてもヨーロッパに戻りたいと思っているんです。」
「それならさっさと行けばいいでしょう。ドックを巻き込むことはない。」と、アルバート。「ドックとこのことについて話したことがあるんですか?」
「一度だけ。」
「何と言ってました?」
「あの人のことはよく知っているでしょう? あんたの知ったことじゃないだろう? って、それで終りです。」
 再び長い沈黙。
「アルバート」と、再び公爵。
「ねえアルバート、私のことなんだけど、これが終ったらどうなるんでしょう。」
「イタリアで何か仕事があるんでしょう?」
「まあね。でも、見つけるのが難しくて。」
「難しい? 貴族の称号があっても?」
「それが却って厄介なんですよ。イタリアではこれが物笑いの種なんです。過去の遺物、馬鹿げた物、堕落した制度の置き土産。私はもう耐えられないんです。ドックが何とかしてくれませんかね。」
「ドックに訊くんですね。」
「でも、どうも怖くて。アルバート、あなたが訊いてくれませんか?」
「いいですよ、ジョン。でもとにかく、まずは当面の仕事です。テヘランでどうなるか。」

 アーガ・ファードーシは、空港のゲートで待っていた。挨拶は至っておざなりなものであった。今のこの三人の間に流れている空気では、それは仕方がなかった。
 運転手つきのメルセデスが外で待っている。三人をのせたその車は、大きな並木道に沿って進む。その並木道の名前がふるっている。イランのゴルフチャンピオン、キアバン一世の名を取って、キアバン一=アイゼンハワー、というのだ。街の中心地には、キアバン一=パーレビという道があり、ここで車は北に曲る。神秘的な東洋の街テヘランを期待してきた旅行者達には、ここは全く味気ない。ずんぐりした面白くもない建物、痩せた街路樹、世界一の・・・勿論東京は除いての話だが・・・交通混雑。二十分後三人は既にテヘランの郊外に出ている。世界の主要都市のどこへ行っても見つかるヒルトンの看板がある。しかしそこは通り過ぎる。夜の空に微かに輪郭が見える山。その麓を登り始める。三人の目的地はダーバンド・ホテル。夜中でもここは煌々と照明がついている。アーガが一歩車を出ると、さすがに地方の名士。すぐに周囲の目が集まる。公爵とアルバートには二つの寝室つきの大きなスイートが予約されている。両方の寝室に花、それに大きな果物籠が置かれている。支配人からの特別な配慮だ。「階下のレストランで待っています。では二十分後に」と、ファードーシ。すぐに仕事の話にしたいのだ。ここの時点まで三人は、一言も銀の話題を口にしていない。
「この雰囲気は気に入りませんね」と、公爵と二人だけになるとすぐアルバートが言う。
「私もです。だいたい彼らしくないですよ。」と公爵。
「シリーンはどこなんでしょうね。」
「分りませんね。でもこれは訊かない方がいいと思いますよ。」
「ジョン、ファードーシとの話の口火を切るのはそちらにお願いしたいんです。」
「分りました。ただ、技術的な問題になったら頼みますよ。」
「ええ。ブリーフケースを持って行った方がいいでしょうね。」
「それはそうでしょう。今晩決めてしまわないと、この問題は永久に片がつかなくなるんじゃないでしょうか。」
 二十分後に二人はレストランに入る。アーガ・ファードーシは隅のテーブルで二人を待っていた。妹はいない。彼一人だ。
 アーガは挨拶のため立上る。
「多分、機内で十分食事は出た筈だと、ここでは私の方で勝手に、軽いものを註文しておきました」とアーガ。
 軽いものとは、キャビアにウオッカ、それにシャンペンであった。もうグラスは三人とも注いである。ファードーシはウオッカのグラスを持ち上げる。「我々の末長い成功のために、そして、友情のために・・・乾杯!」
 三つのグラスがカチンと鳴る。次に気まずい沈黙。
「何か問題なんだな? ジアンフランコ」とファードーシ。
「ええ。」と公爵。
「深刻な?」
「ええ。」
「では話してくれ。今すぐ。」
 公爵が話す。まずジョー・フィオーレの話。最後にスイス当局は、銀行の封鎖命令を出すだろうという見通し。何もかも引っ括めて差し押さえられるだろうという。つまり、ファードーシが預けた金も一切合切。
「それはつまり」と、やっとアーガが言う。「私は銀の鉱山を失うということなのか?」
「三十日以内に二千万ドル用意すれば大丈夫です」と、始めて口を開いたアルバートが言う。「銀行に停止命令が出る前に、鉱山の資産部分を買い戻しておくのです。ここにその手形があります。」
「二千万ドル? 冗談じゃない」と、ファードーシ。「しかしその前に」と、彼は続ける。「私にはどうも理解し難いことがあるぞ、ジアンフランコ。あんたはこの銀行がマフィアのボスによって運営されていたって言うのか。」
「ええ。」
「ドックもその一味なのか。」
「ええ。」
「ここにいるアルバートもか。」
「ええ。」
「どうして最初にそれを私に話してくれなかったのだ。」
 公爵はただ肩を竦めるだけ。アルバートは黙っている。ファードーシはゆっくりと頭を振る。
「もうあんたには何度も注意してきたんだ、ジアンフランコ」とファードーシ。「アメリカ人と仕事の話は危いと。連中はニコニコ笑い、冗談を言い、弁護士つきで書類を山のように持って来る。仕事には穴がない。能率もいい。事はスラスラ運ぶ。いつでもフェアープレーの精神を説き、相手の外国人の考え方を学ぼうという姿勢を見せる。「永久に友達だ、あなたとは」・・・これだ。そしてお互いに契約書にサインする。それからだ、ビックリ仰天が始まる。みんな大嘘、騙しなのだ。」
 ここでまたファードーシ、公爵の方を向き、「あんたも喜んでその片棒を担いでいるんだ、ジアンフランコ。恥を知るがいい。」最後の言葉は実に苦々しく発せられる。「これで私も無一文だ。あんたの父親がシシリアでやった二の舞だ。私もあんたと同じ、売春婦の身の上か、ジアンフランコ。ああ、シリーンはどうなる。」
「ちょっと待って下さい、ミスター・ファードーシ」と、アルバート。「まだ、お分かりになっていないことが・・・」
「お分かりになっていないことだと?」ここでファードーシの声が始めて上る。「あんた、そんな口がきける立場だと思っているんですか。あんたはこの私の従兄弟より酷いんです。あんたの仕事は盗みなんだ。弱い者いじめなんだ。イランではあんたのような人間は、撃ち殺すことになっているんだ。」
「ねえアーガ」と公爵が口を挟む。「頼むよ、ここは彼に話をさせてやってくれないか。酷いことにはなっているんです。だけど、想像した程ではないかも知れないんだから。」
「想像した程ではない?」ここまで来るとファードーシ、絶叫している。「何世紀も私の家族のものだった財産を、私は失うのだ。何百万ドル、何千万ドルを生みだしたかもしれない仕事を私は失うのだ。それに、今まで貯めてきたなけなしの金を、あんたとマフィアの運営する銀行に預けてスッテンテンにしてしまったのだ。」
「ミスター・ファードーシ」と、アルバートが再び遮る。「それは違います。まあどうか、聞いて下さい。」
 ファードーシ、椅子にどっかと坐る。この時までにウオッカのグラス三杯とも注がれている。ファードーシ、すぐに自分のグラスを空ける。公爵もそれに倣う。
「じゃ、やってくれ」と、ファードーシ。今度は平静に言う。
「まず第一に、今のお話の預金です。昨年我々共に、あなたは五百万ドル預け入れされましたね?」
「そうだ。」
 アルバート、ブリーフケースを開ける。
「ここに小切手があります。利息を含めて五百五十万ドルです。ニューヨークのチェイス・マンハッタン銀行で発行されたものです。名義はあなたです。」
 アルバート、これをファードーシに見せる。但し、両手でしっかりと握ったままの状態で。
「まあ、多少の意味はあるでしょう。」恨みがましくファードーシが言う。
「まだ続きがあります」と、アルバート。
「それは?」
「ドバイの倉庫にある銀は、どのくらいの量ですか?」
「御存知の筈です。毎週倉庫からの受領書をそちらに送っていますからね。」
「約四百十万オンスです、こちらの計算では。」
「だいたいそんなものです。ええ。」
「実際には、これはそちらとこちらの共有財産です。」
「それは勿論だ。」
「それを全部そちらの財産にして戴こうというつもりです。」
「いつです。」
「今です。但し、お互いの了解事項を片付けたた後ですが。ここにその書類を持って来てあります。」アルバート、ブリーフケースを指し示す。
 ファードーシの顔、始めて明るくなる。
「その書類を見せて戴けますか。」
「勿論です。」
 その書類は「銀の半分の量に対する銀行側の権利をファードーシに譲渡する」という内容のものだ。倉庫の受領書が添付されている。スイス側の経営陣の、必要なサインは全てすませてある。
「あの銀は、現在の価格で約一千万ドルほどだが」と、ファードーシ。
「そうです。」
「だから、最初提示された二千万ドルには、あと五百万ドル足りない・・・しかし」とファードーシが続けて、それから何かを思い出したように元気になる。「その五百万ドルはクエートで借りられるでしょう。いや、必ず借りられます。ドバイの銀の受領書を担保にすればよい。いや、さっきから仰っていたことの意味が分りましたよ、ミスター・フィオーレ。先ほど申し上げた失礼の数々、謝罪致します。するとこの不幸の落ち着く先は結局、我々の共同事業が解散するということだけですむのですな。私の財産はそっくりそのまま無傷で私のものということなのですね。」
「それは違います」と、アルバート。
「違う? どういうことです。」
「無傷で私のもの、というところが違うのです。それはまだ、あなたのものではありません。」
 再びファードーシの声が上る。「じゃ、今までの話は一体何なのだ。私の金は全部私に戻ると今言ったばかりじゃないか。」
「そうです。しかしミスター・ファードーシ、私は同時に、いろいろな手続きのお話も致しました。それがすむまでは、あなたの預金も、ドバイにある銀も、まだあなたのものではありません。はっきり申し上げますと、私共があなたにそれを差し上げるまでは、です。」
「差し上げる? あれは私のものじゃないか。何が差し上げるだ!」再びファードーシ、絶叫している。
「単純な話です。私共がそれを所有していて、あなたはそれを所有していないからです。」
 さあ、これで切り札は全部机の上だ。そしてファードーシもこのことは重々承知している。苛々とファードーシ、テーブルナプキンで口の周りを拭き、次に額を拭く。
「そちらの条件は何なのだ。」
「鉱山です。つまりクジスタンにあるあなたの所有地全部です。」
「あの千五百万ドルはもともと私のものだ。それを私が取り戻すために自分の財産、それも、どんな富を生みだすか、とても想像も出来ないようなな財産を譲れというのか。」
「ドバイの銀はあなたのものではありません。」
「半分は私のものだ。我々は共同経営者なんだからな。」
「いいでしょう、解釈はどうであろうと。それによって状況が変るというものではありません。我々の要求を繰り返します。現金五百五十万ドルと四百十万オンスの銀、それと引き換えに我々は、あなたの不動産が戴きたいのです。この要求をのむものまないも、あなたの勝手です。どうぞ御自由に。」
「もし私がのまなかったら? すると私にドックを寄越すんですね? それがあなた方の遣り口なんでしょう。」
 アルバートはブリーフケースを取り上げる。小切手と銀に関する契約書を再びその中に入れる。パチンと音をさせてそれを閉めて、椅子の傍に置くため、身を屈める。
 レストランの端にある舞台で、急にオーケストラが音楽を奏で始める、と同時に、公爵がパッと立上る。驚いたアルバート、その拍子に眼鏡が鼻にずり落ちて来る。片手でそれを支え、片手はブリーフケースの安全の確保のための動作。何だ一体、これは。イラン流襲撃というやつか。
 とんでもない。シリーン・ファードーシが登場したのだ。アルバートはほっとする。なあんだ、そうだったのか。その反対にアーガ・ファードーシは怒り狂う。公爵が止める暇もあらばこそ。アーガ、怒鳴る。
「シリーン、部屋に引込んでいろと言った筈だぞ!」
 シリーンはアーガを全く無視。公爵にしがみつく。
「ジアンフランコ、ああ、ジアンフランコ!」そして、ワッと泣き出す。
 居合わせた金遣いの荒いイランの客達・・・いや、イギリス大英帝国の亡命者達も含まれていたかもしれない・・・は、大盤振る舞いをしただけのことはあった筈だ。レストランでワッと泣きだす婦人は、世界中どこででも高く評価されるものだ。特にその女性が美人であれば。そしてシリーン・ファードーシは正に美人なのだから。しかし、うろたえるようなジアンフランコではない。窮地に立たされてその真価を発揮するとは、このような男をいうのだ。片手でシリーンをしっかりと支え、もう一方の手でウエイターを手招きする。ウエイター、すぐに公爵の方に駆け寄る。
「花を」と、公爵。どういうわけか、数秒も経たないうちに花束が現れる。どこか近くの空いたテーブルから取って来たのだろう。ウエイターの手からそれを受取り、公爵、大仰なお辞儀と共にそれをシリーンに差し出す。
 涙は引っ込み、くしゃくしゃの微笑みがそれに取って代わる。
「あなたったら、ジアンフランコ」と、シリーン。「大きな、大きな・・・なんて言ったかしら・・・そう、道化よ。」そして、公爵にキスする。
 レストランの客達はニッコリする。アルバートは呆気に取られ、アーガ・ファードーシは怒鳴る。
「坐るんだ、二人とも。馬鹿なことをやりおって。」
「アーガ」と、公爵。「そんなイラン人丸出しの怒り方は止めて。さあ、シリーン、私達はシャンペンだ。」
 再び公爵はウエイターを手招きする。「ドン・ペリニオンを一本頼む。十分以内にだぞ。」今まで飲んでいた、訳の分らないどうでもいいシャンペンとは訳が違う。
 それからシリーンに席を一つ・・・すぐにだぞ・・・それに、キャビアだ。四人分。黒だ。赤じゃない。註文が終ると公爵、シリーンに話し始める。フランス語で。
 コンピューター化されたアルバートの頭脳には、今の一連の動きはさっぱり理解出来ない。二十七歳にして、女性はアルバートにとって全くの謎だ。解くことに興味をそそられる題材ではない。これがアルバートの昔からの結論だった。女性の感情は、論理とはほど遠い、予測可能な領域から遥かに隔たった所に存在するものなのだ。従って、つい今し方展開された成り行きを全く無視し、現在進行中の、仕事の話に戻る。
「ミスター・ファードーシ」と、アルバート。「どうやらこちらの要求はのまないことに決めたようですね。」
「これを議論するのは止める、と決めたんだ。」と、アーガ、吐き捨てるように言う。
「それでは結論はやはり同じになります。」
「違う。考えなきゃならんのだ。」
「そんなに時間はないのです。」
「いつまでだ。」
「この週の終まで。それ以上は駄目です。」
「それまでには返事をする。私とシリーンはこれで失礼する。」ファードーシは突然立上る。あまり突然なので、椅子が倒れる。
「来い!」と、アーガ、シリーンに言う。
 シリーンの顔は公爵からアーガへと向く。
「ねえ兄さん」と、シリーン。「まだよ。どうなさったの、一体。」
 アーガ、乱暴にシリーンの手を握り、引っ張り上げ、無理矢理シリーンを立たせる。
「我々は行くんだ。」
 再び公爵が遮る。「アーガ、あなたが行くのならどうぞ。私とシリーンは踊るんですから。」
 次に起った事は、間にシリーンを挟んだ綱引きである。とうとうアーガ、怒りと運動で顔を赤くし、手を放す。公爵とシリーンがダンスフロアーに去ると、その後ろ姿を睨みつけ、じっと立ちすくむ。
「ミスター・ファードーシ」と、アルバート。「どうかもう一度お坐りになって。ジアンフランコはあれでも気をつかってくれているのです。」
 睨みつけられるのは、今度はアルバートの番だ。しかし、アルバートを憎み続けるのは難しい。特に眼鏡が鼻の先にチョコンとずり落ちている時には。
 そこでファードーシは椅子を拾い上げる。坐る。ムッツリと。
「全く破廉恥極まりない。」
「何がでしょう。」
「あんた方欧米人がこの国にもたらした習慣だよ。あの女達の格好を見てみろ!」
 確かに沢山のミニスカートが、ペルシャ音楽版「夜の異邦人」のオーケストラに会わせてヒラヒラとかなり高く舞い上がっている。その中にひときわ目立つのが、公爵とシリーンのペア。二人とも背が高く、黒い髪。驚くべき美男、美女。それが優雅にダンスフロアーの上をすべって行く。
「少なくともジアンフランコだけは認めてやらなきゃならんか」とファードーシ。「なにしろ、名門の学校を出ているんだからな。」
「近い親戚なんですか?」とアルバート。空気を和らげるために言う。
「あんたの知ったことではない」とファードーシ。「が、まあ、答はノーだ。随分昔に遡(さかのぼ)らなきゃならん。それにひどく複雑だ。あんた方には分らんよ、こういうことは。」
 音楽が止み、シリーンとジアンフランコも動きが止まる。
「どうだ? もう一杯、ウオッカは」と、不機嫌な声でファードーシ。アルバートはこんなに強いものは到底耐えられない。しかし、つきあう。
「まあ、いいこともある」とファードーシ。「これでやっとドックのことは、シリーンの胸から綺麗さっぱり消えただろうからな。」
 アルバート、この台詞は聞き流すことに決める。
「ミスター・フィオーレ」と改めてファードーシ、口を切る。「さっきの話、あれはみんな本当のことなのかね。」
「私のことはアルバートと呼んで下さい。それから、質問の答はイエスです。全部本当なのです。」
「あんた方のことを暴くと言って来た奴は何なのだ?」
「非常に力のあるグループです。あまりに強力で、こちらは手も足も出ないのです。それが私の結論、それに、私の父の結論でもあります。」
「何者だ、それは。」
「ちょっと私の口からは言えません。すみません。でも、こういう具合なのです。」
「銀の商売をしているんだな? 連中は。」
「そうです。」
「犯罪者なのか、そいつらは。」
「ええ、まあ、その類(たぐい)です。」
「申し越しのこの提案を私がのむと、次にどういうことになるのかね。」
「銀の生産を停止します、即座に。」
「停止?」とファードーシ。「そんな馬鹿な!」
「そうかもしれません」とアルバート。「しかし、その組織の要求がそれなんです。ですから、もしあの要求をのんで下さると決れば、すぐあなたと私、それにジョンは鉱山に行って停止の手続きをしなければなりません。」
「なるほど。所有権はなくても、私も行けと。停止すると口だけでは駄目ということか。」
「そうです。」
「ジアンフランコもこれに賛成だというのだな? 私とシリーンをこんな目にあわせるというこの要求に。」
「ええ。公爵も他に打つ手はないのです。それに、逃げ道としてはこれが一番いい、あなたにも、シリーンにも、と。」
「少しは我々のことを考えてみてくれているのかね。我々はまず家を引き払わねばならない。大勢の使用人を路頭に迷わせなきゃならない。連中は何代も私の家に仕えてくれた、誠実な人間なのだ。」
「鉱山が動き出せば、また仕事につけます。」
「いつ頃になる見通しだ? それは。」
 アルバート、ただ肩を竦めるだけ。
 アーガは再びウオッカを注ぐ。ロシア人と同様イラン人も、ウオッカ育ちなのだ。
「他にどんなものにサインするのだ。」
「サインする?」
「あんた方の要求を私がのんだ時のことだ。」
 アルバート、再びブリーフケースに手を伸ばし、新しい書類を出す。
「これだけです」と、それをファードーシに渡す。分厚いものだ。
 ファードーシ、パラパラと二三枚めくる。そしてテーブルの上に置く。
「何なのだ、これは。」
「権利放棄です。」
「ホウキ?」
「手を変え品を変え、色々な言い方がしてありますが、要するにあなたが、私達を決して訴えないという約束です。スイスでも、イランでも、この地球上のどこでも、決して。」
「なるほど。つまり、そちらは私が訴えると思っていたということだな?」
 再びアルバート、肩を竦める。
「さっきの奴をまた見せてくれ。」
「銀の譲渡に関する書類ですか?」
「そう。それから小切手と。」
 アルバートは書類を渡す。それから今度は、五百五十万ドルの小切手を、相手の手に取らせる。
 ファードーシ、小切手を読む。繰返し読む。そしてもう一度。それからもう一杯ウオッカ。一気に飲み干す。
 ファードーシ、片手を上着の内ポケッとに入れる。ペンを取り出す。
「どこにするんだ、サインは」とファードーシ。
「ここです」とアルバート。「そして、ここです。」
 ファードーシ、サインする。丁度二つ目のサインが終った時、突然音楽が止む。ファードーシの額から汗。それが光っている。シリーンと公爵、ダンスフロアーからテーブルに戻って来る。そしてアーガの様子を見つめる。
「兄さん」とシリーン。「どうかなさったの?」
「何でもない、シリーン。何でもない。全ては終ったのだ。」
「何を言ってらっしゃるの?」
「何もかも私は売ってしまった。私達はこれからジプシーだ。ジアンフランコの境遇だ。」
「兄さん、具合が悪いんじゃないの?」アーガは今や、冷汗をかいているだけではない。顔が真っ青になっている。
「いや、大丈夫だ。ちょっと私に構わないでいてくれ。暫くしたら説明する。その間、荷造りを頼む。」
「荷造り? 何のこと?」
「明日の朝、私達はアバダンに発つんだ。」
 シリーンの顔が曇る。
「ジアンフランコも一緒だ。」ファードーシが続ける。「さあ、二人とも坐るんだ。まだシャンペンもキャビアも沢山残っている。ダンスをする時間だってある。今はもう話題を変えよう。私は詩が好きだ。特にオマール・ハイヤームがね。」そこでまたウオッカを二三杯ひっかけ、ルバイヤートを吟じ始める。最初は原語で、次に英訳で。アルバート、熱心にそれに聴き入る。聴き入るのはいつものアルバートの癖だ。

 次の朝、四人全員、空港に行く。アルバートはロンドン直行便のBOACに乗る。公爵、アーガ、シリーンはイラン航空00七便に。テヘラン=アバダン=クエート=ドバイ、行きである。
 何故かアバダンでは、この三人、飛行機を降りない。

     一 七 
 ロンドン空港に着くと、アルバートは真直ぐホテルに向う。ホテルから二つ電話をかける。いずれも短い。一つはラスベガスにいる父親宛。イランでの一部始終を話すと、ジョー・フィオーレの答は短い。「フム」と一言あるのみ。「後はシシリア・アメリカ銀行の株式を持って来て貰う仕事だけが残されています。株式全部をです。今や銀行があの鉱山を百パーセント所有しているんですから、株式を渡すことによって、六千万ドルがこちらに入って来ます。」「分った。株式はすぐ送る。こちらから人を送って、手渡す。」どこの誰がその使いをするのか、ジョー・フィオーレは言わない。ジョーは電話が嫌いなのだ。「ドックからお父さんの方に何か連絡がありましたか?」「いや、ない。お前が直接話すんだな。それからドックにはよく言っておけ。変なことをしてみろ、厄介なことになるんだからな、と。分ったな? アルバート。」
「はい、分りました。」
「それから、金が入ったら、イギリスに置いておくんだ。いいな。そこでいい使い道が出てくるかもしれん。」
「分りました、お父さん。」
「いい子だ、お前は。」
 それからアルバートはドックに電話する。「スイスでは計画通り事は運んでいますか?」「まあな、かなり順調だ。あのラックマンの奴、真面目過ぎるんだ。それにあれこれとうるさくてな。しかしどうやら、シシリア・アメリカ銀行の会計検査報告書は、週末までには出来そうだ。」
「イランはどうだったんだ、アルバート。」
「ファードーシは同意してくれました。書類に二つともサインを。ここに持っています。」
「そいつはすごい。するとあの鉱山は丸ごと今、俺達の手にあるんだな?」
「ええ、今のところはそうです。ついさっき親父に電話したんですがね。」
「親父さん、何て言ってる。」
「株式はすぐ送る、と。それから、ドックに言えと、伝言がありました。面倒事は起すな、と。」
「十日は待ってやる、と言っていたがな。」
「ええ、知っています。」
「まだその期限は来ていないんだ。」
「しかし、親父の言い方はかなりきつかったんですが・・・」
「きつかろうと何だろうと知ったことか。期限はまだあるんだ。」
 アルバート、何も言わない。
「おいアルバート、お前、どこからかけてるんだ。」
「カールトン・タワーからです。」
「どこにある。」
「ウエスト・エンド、カドガン・スクエアーです。」
「木曜の夜から、一部屋とっておいてくれ。」
「一部屋だけでいいんですね?」
「そうだ。ラックマンもトッピングも、自分で予約する筈だ。」
「マーヴィンは?」
「マーヴィンはこっちに残る。ガローナの家を引き払う手続きがまだあるんだ。」
「犬は?」
「犬? 何だ、犬とは。」
「リンゴーですよ。」
「知るか、犬のことなど。お前とお前の親父さんが取り仕切るんだろう? すべてを。」
 アルバート、再び何も言わない。
「そうだ、もう一つある、アルバート。公爵は筋書き通り動いているんだろうな?」
「ええ。今朝、クジスタンに行きましたから。」
「ファードーシから貰ったサインは確実なものなんだな? インチキはないな?」
「大丈夫です。」
「そうか。とにかく今週末にはそちらに着く。」

 次の日の午後六時、フロントからアルバートの部屋に電話がある。誰かが大きな小包を届けて来ました。そちらにお持ちしましょうか。うん、頼む。
 大きな厚紙の箱だ。中味は何百枚もの縁飾りのある証券だ。これ一枚がシシリア・アメリカ銀行の百株を代表している。持参者が所有権を有するものとす、と記載がある。総額いくらだ? 全てがうまく行けば、六千万ドルだ、勿論。
 アルバートは箱を押し入れに入れる。それからレストランの「リブ・ルーム」に行く。ここだ、ロンドンで最高のローストビーフを出すところは。そしてアルバートはローストビーフに目がない。

 ドックがロンドン行きのアリタリア航空に乗り込んだのは、一九六八年五月十二日だった。この頃ではまだ、空港にはX線による危険物発見装置は備えられていなかった。上着の内ポケットに隠し持ったベレッタ0・三二口径のピストルのことで心配する必要は全くない。心配する必要があったのは、デビー・ラックマンだった。ドナルド・ラックマンが女房同伴でドックのホテルに迎えに来たのだ。リムジンの前の座席にはトッピング。ドックは後ろの座席、夫婦の隣に坐る。デビーの隣だ。デビーとの会話は公式な挨拶だけ。しかし、ルガーノから高速道路をミラノまで走る途中、車の中で二つの身体が時々執拗に接触することは避け得ない。ドナルド・ラックマンとの会話はもっと短く、おざなりなもの。また、車中ではドナルド、膝の上にあるブリーフケースをしっかりと神経質におさえているのみ。その中には、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行に、ルガーノの、ある小さな銀行を六千万ドルで買収すべきだという意見書、それに会計検査報告書が入っている。
 これだけの大仕事を可能にしてくれた立役者トッピングは、さかんに隣のイタリア人の運転手に話しかけている。四人の中で唯一人幸せそうな人物だ。
 飛行機がアルプスの上空を飛んでいる頃、トッピングは相変らず上機嫌だ。
「なあ、おい」と、隣のドックに話しかける。「あのデビー・ラックマンてのはなかなかだぞ。」
「気がつかなかったな」とドック。
「しかし、可哀相に。あの旦那!」とトッピングは続ける。「これが全部終る頃には、あいつ、心臓麻痺を起すんじゃないか? あいつの報告書を読んだか? お前。」
「部分的にはな。」
「お前さん達、たいしたものじゃないか。あのちっぽけな銀行を、よくあれまでに仕上げたよ。だがな、一番傑作なのは、何と言ってもマーヴィンが書いたところだ。あのデッチアゲ! 凄いものだぞ、あれは。それに、あいつのニヤリと笑う、あの笑顔がいいね。こっちでもああいうのを一人雇いたいところだ。」
「まあな」とドック。「使えない時もあるさ。」
「どうしたんだ、ドック。何かまづい事でもあるのか? イランではアルバートが万事うまくやったと報告があったんだろう? それなら今は心配など何もない筈じゃないか。」
「フム。何もないか。」
「おいおい、あんな銀行のことなど考えるのはもう止めろ。それに、フィオーレ一家のこともだ。お前をミスター・クックに会わせる手筈は整えたんだ。お前のことはきっと気に入る筈なんだ、ミスター・クックは。」
「手筈? いつだ。」
「明日の朝だ。十時。」
「どこでだ。」
「あちらの家だ。」
「それはどこにある。」
「田舎だ。」
「どうやって行く。」
「俺が連れて行く。ホテルはどこだ。」
「カールトン・タワー。」
「九時に迎えに行く。いいな?」
「分った。何かあった時にはどこに連絡すればいい。」
「ミスター・クックの家に電話してくれ。」
「番号は今分るのか?」
「ああ。ロンドンからだと市外だ。バッキンガムシャーのマーロウ。番号は八六0八三。いいな?」
 ドック、これを航空券の裏に書きとめる。
 それからドック、足を伸ばすために立上り、通路に出る。すぐにラックマンが近寄って来る。
「銀行の株式が耳を揃えてロンドンにあるって、本当なんですかね?」とラックマン。
「そう私は言った筈ですよ」と不機嫌な返事。
「全部揃っていてくれないと。頭取が明日サンフランシスコからやって来るんです。午後には売買契約はすませたいという考えなんですから。」
「どうしたんです? 急に買収に熱が入ってきたようじゃないですか。」
「熱なんか入っていませんよ。ただ確かめたかったんです。明日の三時きっかりに、あなた方にウィンスロップ銀行に行って貰いたいんですよ、銀行の株式全部、それに例の・・・つまりイランの不動産の・・・百パーセント所有権譲渡の証明書を持ってね。」
「さもないとミスター・フォアマンがあんたのお尻をピンピンとひっぱたく。そういうことですね。」
「とにかく明日には全て準備完了という事態を要求しているんです、頭取は。お願いしますよ、明日二時にホテルに電話を。」
「かしこまって候。他にはありませんね?」
 そう言ってドック、さっさと自分の席に戻る。ロンドンに着き、税関を出るとドック、他の二人にはさよならも言わず、ホテルへ直行する。ホテルの内線でアルバートに電話する。二人はバーでスコッチを一杯飲む。
 ドック、アルバートに明日の計画を話す。三時にウィンスロップ銀行だ。ロンバート通りにある。株式を全部持って来てくれ。揃っているんだろうな? 揃っています。
「お前とはここのロビーで二時半に落ち合う」と、スコッチの代金を払った後、ドックはアルバートに言う。
「朝食も昼食も一緒じゃないんですか?」とアルバート。「少なくとも昼食ぐらいは・・・」
「いや、俺は忙しいんだ。」
「ええっ?」
「それからなアルバート、何か事が起ったら、俺はここだ。ここに電話してくれ。」航空券の端を切り取ったものをアルバートに渡す。
「ドック、おかしな真似を・・・」
「おいアルバート、もう寝ろ。明日は大変な一日だぞ。」
 アルバートはベッドにもぐる。しかし、どうやっても寝つかれない。ドックは違う。すぐ眠る。
 ドックはもうずっと以前に学んでいるのだ。仕事の前には充分な睡眠が必要だと。
 ナイツブリッジからバッキンガムシャーへの道は難しくない。ハイドパークを横切ってサーペンタインに出る。ロイヤル・ランカスター・ホテルを回って、二三ブロック北へ。ウエスタン・アヴェニューに出る。そこを左、オックスフォードの方向A四0を下る。最初は工場が並んでゴミゴミしているが、そこを通り抜けると急に緑の気持のよい郊外に出る。イギリス独特の風景だ。
「車でどのくらいかかるんだ」とドック。
「一時間だな。しかし、この時間だともっと早く着くかもしれん」とトッピング。
「都心から離れたところに住んでるんだな、フランク・クックは。何故だ?」
「一人で静かにしているのが好きなんだ。」
 九時半頃には、ジェラーズ・クロスまで進み、暫くしてビーコンズ・フィールドに出る。ここを左に曲るとテムズ・ヴァレーの方向だ。
「おいトッピング、何でこのあたりをバッキンガムシャーと言うんだ?」
「俺が知る訳ないだろう。」
「道の反対側を走るのか、お前は。馴れたもんだな。」
「そうさ。こっちを走ると早いんだ。」
「俺がヨーロッパに長くいつくと思っているようだな。何故なんだ。」
「そうなんだろう?」車のスピードが上る。
「ニック」と、長い間の後、ドックが聞く。「ここから一番近い空港はどこなんだ。」
「何だってそんなことを訊くんだ。」
「ここはよさそうな場所だ。住むようになるかもしれない。」
「思ったほどよくはないかもしれないぞ。空港は近くだ。ヒースローがある。ここから逆方向にロンドンへ向う途中、ジェラード・クロスがあったろう。そこを右に曲って、ウィンザー・ロードを行く。」
「それから?」
「その道をずっと行って、スローまで行く。ここで四号線に入れば、十分でヒースローだ。」
 思ったより近いんだな、とドックは考える。問題は飛行機に乗って、それからどこへ行くかだ。ヨーロッパにはいられない。そいつは確かだ。アメリカも駄目だ。ジョーが頭に来ているだろうからな。
「会長の家には召使なんかが沢山いるんだろうな?」
「どうしてそう思うんだ」とトッピング、逆に訊ねる。
「でかい商売をしているんだろう? だから・・・」
「うん。でかい商売だ。しかし家ではやらん。ひどい婆さんの秘書が一人。ビー玉を噛んでいるような喋り方をする女だ。それと運転手。これは庭師も兼ねている。」
「それだけなのか?」
「さっき言ったろう。一人で静かにしていたいんだ。ロンドンの事務所には、ひとつきに二回。事務所に来たって、二三時間しかいない。大抵は電話ですませるんだ。さあ、もうすぐだ。」
「河のほとりにあると言わなかったか?」
「そうさ。随分いろいろ訊きたがるんだな。どうしたんだ、急に。」
 いや、こっちのことだ、と腹の中でドック。
 車はもうすでにマーロウの郊外に来ている。左に曲ると生け垣のある小道に入る。小道の行き止まりに大きな門。門の両側は高い煉瓦の塀だ。トッピングは車を降り、左側の壁に埋め込まれているスピーカーに近づき、その下に備え付けられている釦を三度押す。大きなベルが三度鳴る。二三分たって、庭師の服装をしたがっちりした男が現れる。
「ミスター・トッピング」と庭師。「会長には予め伝えてありますか?」
「ああ、ヘンリー、伝えてある。」
「会長にお知らせします。」門の右側の壁にある木の箱から電話を取り、二言三言話す。受話器を置き、何も言わずに門の鍵を外し、開ける。
 「有難う、ヘンリー」とトッピング、車を運転して入りながら怒鳴る。殆どすぐに門は閉まり始める。
 簡単だよとトッピングは言ったが、そうでもないな、とドックは考える。しかしまあ、やはり簡単か、とも。
 屋敷に並んで厩(うまや)、そしてその前に広い場所があり、灰色のダイムラーが駐車してある。トッピングはその横にフォード・コーティナをつける。最近刈られたらしい芝から、いい匂いが漂っている。二人は車を降りる。静かだ。犬はいないな、とドックは記憶に留める。
「河が見たいのか?」とトッピング。
「そうだな。あればの話だが」とドック。
 屋敷の後ろには広々とした庭、芝生があり、そのずっと先に確かに河がある。これがテムズか。ロンドンで見慣れた汚れた大きなテムズではない。むしろエイヴォン河といった方が近い。金曜日だ。もう多くのイギリス人にとっては週末は始まっている。メイドゥンヘッド、或はボーンエンドで借りたモーターボートを、水門を次々と越えて河の上流へと走らせている。イギリス人は生まれながらにして船乗りだと誇示するかのように。
「うん、いいところだ」とドック。
「うん」とトッピング。
 以上、観光客のための話。脱線。この日は陽射しが強かった。そこでドック、サングラスをかける。ところが実はこれは失敗。裏庭からテラスに通じるフレンチウインドウを開け中に入ると、暗いのだ。暗いばかりでなく、冷たい。ドックは鳥肌がたってきた。
 トッピング、腕時計を見る。
「まだ二分あるな。坐ろう。」
 サングラスをはずし、目をならして、部屋を眺める。広々として、厚い絨毯が敷いてあり、美術品が並べてある。足つきの花瓶から重々しい額入りの油絵まで。照明は一箇所だけ・・・隅にある大きなガラス製の箱からくる光のみ・・・だ。
「驚いたな」とドック。「これはみんな本物なのか?」
「翡翠か? 勿論。会長は、世界でも有数の収集家だ。エジプトから追放を食った時、ファルークから買ったものが殆どだ。その頃で百万ドル以上払ったというから、今じゃどれだけの値打ちか。大変なものさ。」
 部屋の向こうの端の扉が開く。非常に痩せた中年の女性がそこから現れる。
「会長がお会いになります」と言う。トッピングの言った通りだな、とドックは思う。パンを口いっぱいに頬ばったような声だ。
 トッピングが前を歩く。部屋に入ってドックの目を奪ったものは、本だ。何千という本が、壁の本棚に並んでいる。次に暖炉だ。普通の、石炭による暖炉ではない。ゴウゴウという薪の火だ。その火だけがまた、この部屋の照明になっている。窓はあるらしい。しかし、厚いカーテンで覆われている。そのカーテンの前に、重々しい樫材の机。その上には一枚の書類もない。机の後ろにフランク・クックが坐っている。
 痩せた男だ。髪は白く綺麗に櫛の入ったオールバック。青いジャケット。中心に銀のボタンが並び、両袖にも銀のボタン。しかし、これら全てのものは、彼の一つの顕著な特徴を際立たせる小道具に過ぎない。その特徴とは、目だ。それは光っていた。事実は、薪の光を反射している単なる鏡の役割でしかないのかもしれない。しかしその目は、誰もが忘れることの出来ないものだ。それから眉毛も。房々とした、真っ白な、ベン・ガリオンの眉毛そのものだ。まぶたは半分閉じている。そしてそのままじっと動かない。丸々一分間、フランク・クックはじっとドックを見つめている。またたきもしない。その間ドックは催眠術にかかったように突っ立っている。
「坐ってくれ。いや、こっちだ。」フランク・クックの左手が机の丁度真向かいにある二つの椅子を指し示す。声は平坦である。オックス・ブリッジでもアメリカンでもない英語。といって、ヨーロッパ訛りがある訳でもない。ドック、指定された椅子に坐る。この時までに、さらに二つのことに気づく。クックの右手が隠れたままであること。ドックが椅子に坐ると、相手の頭は自分の頭より三十センチばかり高くなっていること。
「ミスター・スマイス、私に会いたいとのことだな。何の用です。」
「チョーガ・ザンビルにある銀の鉱山についてです。」
「それが?」
「鉱山は今、我々の手にあります。百パーセント。」
「それで?」
「あなたと直接取引がしたいのです、私は。」
「どういう取引だ。」
「まず、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行は引き下がって貰います。」
「それで?」
「我々はルガーノでの銀行の仕事を続けます。鉱山の半分の権利はそちらに無償で譲渡します。そして鉱山全体の経営はそちらに任せます。我々は隠れた協力者の地位に留まります。」
「なるほど。こちらに何かを無償でくれると言うのだな?」
「そうです。」
「しかし、その方法はそちらも無償で何かを取ろうとしていることになる。つまり、鉱山の半分の権利をだ。」
「こちらのことではなく、そちらのことを考えてみましょう。現状では、あの鉱山の取得のためそちらはほぼ一千万ドルを出さねばなりません。私の提案では、一銭も出す必要はないのです。」
「あの鉱山の値打はどれだけなのか。」
「多分、二千五百万ドルです。」
「その半分、つまり、一千二百五十万ドルを君は私から取ろうとしているのだ。」
「そうです。そういう表現なら、そうなります。しかし、現状でもそちらは一千万ドルの出費をしなければなりません。一千万ドルと一千二百五十万ドルはそう大きな差ではありません。それに、この私の提案を採用すれば、我々は鉱山経営に伴う半分のリスクを肩代わりすることになります。鉱山にはリスクはつきものです。たとえこのイランの銀の鉱山でもです。」
「スマイス、なかなか良い話の筋道だ。非常に良い。しかし、答はノーだ。いや、君の論点に誤った点があるからではない。それは筋が通っている。しかし、私には、仕事をする上で決して破ってはならない基本原則がある。これは決して破ってはならないのだ。その原則に反するからなのだ。それは何か。知りたいかね?」
 ドックは答えない。
「それを言おう」とクック。ここまでの間、フランク・クックの身体で動いたものは唇だけである。頭、手、胸、何一つ微動だにしていない。そしてその目は、相変らず半分開いたまま、じっとドックを見つめている。「他人と組むことは決してしない。これが原則だ。今のこの話も。相手が誰であろうと。相手が君であろうとだ。」
 ドック、次の台詞を吐くのに二秒とはかからない。「私と組むぐらいなら死んだ方がましだ、ということですねそれは。」
「ミスター・スマイス」とクック。「他につけ加えることがないようなら、これでお引き取り願おう。」
 ニック・トッピングはドックの右、約一メートル三十センチのところに坐っている。フランク・クックは約三メートル前方。秘書は既に部屋から去っている。両側の壁にはぎっしり詰まった本箱。前方の窓には厚いカーテン。これぐらい完璧な防音効果も珍しい。また、庭師がすぐ外の廊下にいるなどと、これもありそうにもない。
 と、急に電話が鳴る。フランク・クックは鳴ったままにしておく。ドックから一瞬たりとも目を離さない。ドックもまた睨み返している。トッピング、二人の行動が解(げ)せない。電話をそのまま放っておけず、言う。
「電話です、会長。」トッピングが口を開いたのはこれが初めて。クックはトッピングを見る。
「出るんだ、お前が。」トッピングが立上る。と、クックの目は再びドックに。非常に微かな微笑が口の周りに浮ぶ。
 トッピング、受話器を取り上げ、耳に当てる。四、五秒経たないうちに、その顔に奇妙な表情が現れる。
「ドック、お前にだ。アルバートからだ。」
 ドック、立上り、受話器を取りに行く。フランク・クックの右手がほんの少し動く。しかし、いまだに見えないまま。ドック、緊張のあまり五感がはち切れそう。ウワーっと大声を上げそうになるのをやっとのことで抑えている。何故かフランク・クックには全てお見通しの様子なのだ。
 ドック、受話器を耳に当てる。聴く。三分間・・・百と八十秒間・・・一言も言葉を挟まず。それから、
「分った、アルバート。聞こえている。用件は分った。」そして、ゆっくりと受話器を下ろす。
 席に戻り、椅子に坐った時、ドックの身体は何故か縮んで見える。顔は真っ青。両手が震えている。
「悪い知らせのようだな。」クックの目は何事も見逃さない。
「ええ。どうやらここへ来たこと自体が、時間の無駄だったようです。」
「相棒が君を裏切ったんだな?」
「ええ、まあそうです。」
「私がついさっき言った通りだ。他人と組むのはよくない。決していいことはない。」
 ここでクックの右手が机の上に現れる。スミス・アンド・ウエッソン四五口径がその手にある。威力充分なピストルだ。それを机の上に置く。
「いずれにせよ」とクックは続ける。「君の思惑は外れていた筈だ。しかし、それを思いついたのは立派なものだ。」
 右手が下に下り、引き出しを開け、ピストルをその中にしまう。そして静かに引き出しを閉じる。
「スマイス、これが終った時、君と話がしたい」とクック。「君はトッピングの評価通りの男だ。いや、ずっとそれ以上だ。君とは一緒に仕事が出来そうだ。勿論君と組むという意味ではない。」フランク・クック、突然立上る。そして右手を差し出す。
 ドックも立上る。提案された事柄を充分考えた様子。そして、その手をしっかりと握る。
「ミスター・クック」とドック。「あなたの勝ちです。どうやらあなたは勝つのに慣れていらっしゃるようだ。しかし、いつかはあなたにも負ける時が来る。その時が来るまでには、今の御提案、よく考えておきましょう。」
 それからトッピングに言う。「さあ、さっさと出よう、こんなところは。」
 トッピング、フランク・クックの方を向く。クック、了承の頷きを与える。
 屋敷から出るとドック、眩しくて目が眩む。帰路、ドックもトッピングも一言も言わない。ロンドンへの道のりの半分にまで達した時、やっとトッピングが沈黙を破る。
「ドック、お前、本当にピストルを持って行ったのか。」
「そうだ。」
「馬鹿な奴だ。」
「それほど馬鹿じゃないさ。お前だって似たようなもんだ。あの電話がなきゃ、次の機会を狙ったろうな。」
「全く気違い沙汰だな、お前も。しかし、会長はお前が気に入ったようだ。俺の見込み通りだった。」
 トッピングはカールトン・タワーでドックを下ろす。ドックは真直ぐバーに行き、一杯ひっかける。そしてもう一杯。二時三十分にロビーでアルバートと会う。アルバートは両腕に大きな厚紙の箱を抱えている。三時にロンドンの由緒正しい銀行ウィンスロップに、二人は入る。
 サー・ロバート・ウィンスロップ本人が、二人を出迎える。相手方は既に来て、二階で待っている。二人が部屋に入っても、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行頭取ジョージ・フォアマンは、立上ろうともしない。ドナルド・ラックマンも同様。立上るどころかフォアマンは、ドックとアルバートの存在そのものを無視する。フォアマンがサー・ロバートに「皆さん、お揃いになりましたか?」と訊ねた時、その目は二人の方に向いてさえいない。サー・ロバートはもうここに勤めて四十年も経つベテランの銀行家だ。奇行を持つ人間には慣れている。四人の顔を一人一人確かめた後、言う。「はい、どうやらお揃いのようで。」
 それからサー・ロバートは重々しく挨拶を述べる。この度はエスクロウ取引代理店として我がウィンスロップ銀行をお選び下さいまして、洵に有難うございます。三二九年の長き歴史を持つ我がウィンスロップ銀行は、この間に世界でも有名な・・・また後になって金融界の里程標とみなされるに至る・・・数々の取引を手がけて参りました。そしてこの度、由緒正しいカリフォルニア・ファースト・ナショナルそしてシシリア・アメリカ両銀行のお役に立つ機会に恵まれましたことは、当銀行の栄誉と致すところでございます。後者が由緒正しくないことは、サー・ロバートにとって全く関心のないことのようである。
 次に両者によって行われた手続きは、ものの五分とかからなかった。まずアルバートが厚紙の箱を開け、シシリア・アメリカ銀行の、百株を代表する証明書の束を取出し、テーブルの上に積み上げる。ラックマンがテーブルのその側に進みより、証明書を三、四枚取り上げ、調べ、フォアマンに大丈夫である旨頭で合図。そして自分の席に戻る。
「よろしいですか?」とサー・ロバート。
「よろしい」とジョージ・フォアマン。
 それからフォアマン、「六0、000、000ドルと0セント」と記入されている一枚の小切手を、ドナルド・ラックマンの助けを借りてブリーフケースから取り出す。
「この六千万ドルを」とサー・ロバート、手渡された小切手を見ながら言う。「ミスター・ジョセフ・L・フィオーレ及びミスター・アルバート・P・フィオーレ合名の銀行口座に振り込めばよろしいわけですな?」
 アルバートが短く「はい」と答える。
「では御両者は」とサー・ロバートは、この会合の最初からテーブルの上にのっていた会計検査報告書を取り上げ振り回しながら、続ける。「当該物件の所有権の変更を条件に、六千万ドルの振込みに同意されたという訳ですな?」
「そうです。」フォアマンとアルバートは同時に言う。
 サー・ロバートは満足の笑みを浮かべる。「では只今から、当方の事務員二人を呼び入れます。御両者に署名して戴くための書類を作らせてあります。御両者とも、御署名の儀、よろしうございましょうな?」
「よろしいです。」そして署名がなされる。
 ここでサー・ロバートは最後のお祝いの言葉をブツブツと呟く。ドックとアルバートは立上る。会議室のテーブルを回って相手方二人と握手をするつもり。しかしジョージ・フォアマンに近づいた時、彼は急に二人に背を向ける。そこでドナルド・ラックマンも同様に背を向ける。ドックとアルバートは、それ以上何も出来ず、ただ部屋を去るのみ。
 さて、かくして一九六八年五月十三日金曜日を機に、ドック・スマイスとアルバート・フィオーレの銀行家としての経歴はなんとなく不面目な終止符を打つことになった。
「いけ好かない糞野郎だ!」と、ロンバート街でタクシーに乗り込みながら、ドック。しかし、この台詞を吐いた時の彼の顔は、実に満足そうにニタリと笑っている。

 三十分後、サー・ロバートのたっての勧めでシェリーを付きあったジョージ・フォアマンとドナルド・ラックマンは、ウィンスロップ銀行を出る。大層華々しいベントリーが、彼ら二人を、それほど華々しくはないロンドン・ヒルトンに連れ帰った時、二人の気持は多いに高揚していた。
 エレベーターに乗った二人の行く先は当然、祝杯を上げるべき最上階のフォアマンのスイート。しかしラックマンは十二階の自分の部屋に途中下車。妻と書類を拾って行こうという訳だ。書類はあったが、妻はいない。何のことはない、書類を持って最上階へ行ってみると、妻は既にそこにいたのだ。ここで再び四人はデビー=マージョリー、ジョージ=ドナルド、の関係に戻る。またジョージはバーテンダーの役を演じる。
「ドナルド」とフォアマン。「今回は実に目覚ましい働きだったな。あの会計検査報告書は、正に絶品だよ。」
 ドナルドは顔を赤くする。何か意味不明のことを呟く。そして、今持って来た書類をフォアマンに手渡す。「これはすぐに目を通して戴かなければ、と思いまして。水曜日にフランク・クックと交渉する時の基礎資料となるものですので。」フォアマン、書類を見る。
「ハハア」とフォアマン。「銀の鉱山だな。」
「ええ。地質学上の精密な調査です。それに、一週間毎の生産量に関する概要がのっています。粗生産量、精製、そして輸送。詳しいことは私にはよく分らないのですが。」
「フランク・クックもこの資料を持っているのか?」
「ええ。例のトッピングが、今週の始めこれを全部コピーして行きました。ミスター・クックはこれを研究するに十分な時間があった筈です。」
「よし、私も研究だ、ドナルド。今度はな、助けが誰もいない。私一人でやらねばならないからな。」
「それはどういうことで?」
「君がいないということさ。君には今すぐルガーノに戻って貰いたい。今日が無理なら、明日までには。君があの銀行の支配人だ。月曜日には誰一人それを知らないものはいないようにする。手始めにやることは、あの銀行の名前を変えることだ。そうそう、あのいかがわしい連中は、全員辞表を出しているんだろうな?」
「その筈です。彼らも、それからマーヴィン・スキナーという名前の男も。三人ともルガーノのスキナーの家にいます。」
「連中はルガーノからも追い出すんだ。そのスキナーも一緒に。二度とあの銀行の敷居を跨がせちゃならん。」
「分りました。」
 マージョリーの鼻声が、この会話を遮る。「ジョージ、もう仕事の話はお仕舞い。いいわね?」
「分ったよ、マージョリー。」
「でも、一つだけ仕事の話。デビーはね、スイスには行かないの。私と一緒にこのロンドンに残るの。そうでしょう? デビー。」
 デビーは頷く。
「分ったでしょう? ジョージ。あなた方男性軍が仕事の話をしていた時、こっちも忙しかったのよ。計画を立てていたの。今夜は四人で外へ出るの。「サウンド・オブ・ミュージック」の券、四枚もう取ってありますからね。いいでしょう? それから、明日の晩は黒人楽団の歌よ。ほら、白人が顔を黒く塗って、バンジョーに合わせて歌う、あれ。私って音楽の趣味、いいでしょう? ジョージ。月曜日はデビーと私、買い物よ。まず最初はハロッズ。それから・・・」次から次と計画が述べられる。
 デビーはただそこに坐って、チビリチビリ、ジンをやっている。「サウンド・オブ・ミュージック」の幕間でもジン。次に続く夕食の時もジン。夕食はトレーダー・ヴィックで。マージョリー・フォアマンがここで食べようときかなかったのだ。ヴィックだったらカリフォルニアにもあるわ。ロンドンのヴィックで食べてきたと話したら、カリフォルニアのヴィックさん、きっと驚いてしまうわよ。ベッドに入る時間までにデビーはすっかり御酩酊。翌日の朝、土曜日。夫がベッドから起きて飛行場へといつ発ったのか、まるで分らない。正午にデビー、マージョリー・フォアマンに電話する。私、ちょっと頭が痛くて。多分昨日一日の刺激が強すぎたのですわ。恢復するために、あと二十四時間はじっとしていたいのですけど。
 マージョリー、これを了承する。
「よく休むのよ、デビー」とマージョリー。「ジョージも私も、本当にあなたのこと気に入っているのよ。どうぞごゆっくりお休み。気分がよくなったら電話を頂戴。いなかったら伝言を残しておいてね。」
 次の二、三時間デビーは確かに電話をする。しかしマージョリーにではない。少なくとも十五回、ロンドンの一流ホテルと言われるところに、次から次と。そしてやっとドック・スマイスを突き止める。それから一時間後、ドックはデビーの部屋に現れる。
 二人は次の二十四時間中二十三時間をベッドで過す。後の一時間は食うための時間だ。スコットランド産スモークサーモンを大皿に一杯、二十四個のエスカルゴ、それにヴーヴ・クリコのマグナム一壜。日曜日の朝十時にエスカルゴの料理など出来っこありませんよ、とルームサービスが文句を言う。エスカルゴ一個につき一ドルのチップだ、の一声で、即座にガーリックの効いた最上級品が出て来る。正午にデビーはマージョリーに伝言をする。月曜日までは私、ちょっと無理ですわ。そしてドックとベッドに入る。
 アルバート・フィオーレもホテルの自分の部屋に引き籠ったまま。但し彼の相手は女ではない。電子計算機である。

     一 八 
 次の日、つまり一九六八年五月十六日は、銀の相場師にとっては、忘れられない日となった。少数の相場師には良い思い出が伴う日、大多数の相場師にとっては、思い出したくもない嫌な日として。何故ならこの日が、これまでの歴史で銀の最高値を記録した時だからだ。一オンス二、六四ドル。ニューヨークでもシカゴでも、ロンドンでもチューリッヒでもどこでもいい、商品取引ブローカーがいる都市で誰でもいい、投資家の一人を掴まえて、「銀はどうだろう」と訊いてみれば、その答は決まって、「上る」である。
 この情勢では、賢明な投資家だけではない、ありとあらゆる野次馬連、一発屋が、アメリカ他いたるところの国において銀で一獲千金を狙い始める。そして事実、それが成功しているのだ。
 アルバートが予告したように、一、二月の停滞・・・一オンス二ドルにまで落ちる・・・の後、値段は上り始めたのだ。二、一0ドル、二、二0ドル、二、三五ドル、ついに二、五0ドル。これは新高値だ。ウワー。噂が流れる。株など目じゃないぜ、これからは商品取引だ。銀を買え。一万オンス。一オンス二ドルで二万ドル。仲買人にマージンを十パーセント。二万二千ドル出せば、一万オンスの銀が手に入るんだ。高級料理屋で飯を食って消えてなくなる金じゃないんだ。銀・・・貴金属・・・が、自分のものになるんだ。しょぼくれた電気洗濯機・・・使っているうちに、だんだん壊れてくる・・・そんなものじゃない。雨のバーミューダ島で新婚の二人が過す休暇・・・ほんのつかの間の楽しみ・・・そんなものでもない。銀の延べ棒だ。未来永劫、目減りのしない正真正銘の財産だ。いや、ただの財産じゃない。増えて行くんだ。二月に二ドルで買った一万オンス、二万ドルが、五月に二、五ドル。つまり二万五千ドルに膨れ上がっているんだ。たった二千ドル手数料を取られるだけで、二箇月に五千ドル。つまり二千ドルの投資で三千ドルの利益。二箇月で利率百五十パーセントだ。一週間に十八と四分の三パーセント、一日に二、六八パーセントの利益率だ。クリスマスまでには大金持だぞ。銀の方でやらなくちゃならないのは、一オンス三ドルになることだけなんだからな。
 もし五ドルになってみろ、濡れ手に粟。十ドルになった日には、もう今の仕事は引退して、左団扇だ。
 どうして損なんかするんだ。専門家が口をそろえて言っているじゃないか。世界中で銀が不足していると。消費は伸びて生産は停滞している。貯蔵量が底をついてきている。そうじゃないか。値段は上る一方さ。
 アメリカの夢ってやつは、こういうもので出来上がっている。アメリカの本質は、まず金を作ること、次に金で大金を生むこと、それから大金が次の大金を生むことなのだ。この観点から見れば、今やドイツも日本もスイスも、たいした違いはなくなって来ている。まあいい、外国のことなど。とにかく最初ドカンとあてなきゃ駄目なんだ。貯金なんか何にもならない。投資信託? 遅すぎる。それなら保険の方がまだましだ。株? 株もいいが、大損することがあるからな。国債? 何を惚(とぼ)けたことを言ってるんだ。とにかく、最初のドカンという大当たりが必要なんだ。何千が何万になり、次に何十万になるってやつがな。それさえ当てりゃ、後は矢でも鉄砲でも持って来いってんだ。こちとらはもう、大金持ちなんだからな。
 これが有象無象の連中が考えた夢だった。そして最後には銀行を襲うようになる連中の。しかし、労働者連中のやることはこれ止まりだ。教育のある人間はやることが違う。まず自分の頭を使う。自分の受けた教育を生かすことを考える。コネを利用する。自分の立っている場所の見極めをつける。自分のよって立つ基盤の評価をはっきりさせる。ブローカーを呼ぶ。そして利鞘(りざや)を稼ぐのだ。商品取引所でこれを実行する。大豆に対して、小麦に、冷凍オレンジ・ジュースに、ベニア板に、豚の内臓に。投資の世界の外の範囲で研究を怠らないのだ。とてもとても、単なる労働者の身分で出来ることではない。歯科医、航空機のパイロット、IBMのセールスマン、マクドナルドのフランチャイズ店所有者、ぐらいの地位で初めて出来ることだ。
 そして、一九六八年の春、世界は沸き立った。今は銀を買っておけ、明日の日はお前のものだ。虫歯になっても治療する医者がいない。航空会社のダイヤは乱れっぱなし。コンピュータは配線ミス。ハンバーガーは玉葱抜きだ。銀の価格でアメリカ中が催眠術にかかってしまった。二セント上昇。二千ドルの儲けだが、これは手数料の分。それから十セント上昇。一万ドルの純益だ。それもたった一日で。この儲かった一万ドル、そっくりそのまままた銀の買いだ。また儲かれば、またつぎ込んでやる。このいっときが勝負だ。後は左団扇、楽な人生が待っている。
 銀の価格さえ上ってくれりゃ、文句はないんだ。そして確かに上った。
 そしてもう一日。それから、落ち始めたのだ。
 買い一辺倒の銀の相場の終りの時は、五月十六日午前九時きっかりに、ロンドンで始まった。その日のウインスロップ銀行の最初の客はアルバート・フィオーレとドック・スマイスだった。二人の用件は普通でなかった。六千万ドル引き出したいというのだ。それもすぐに。二人は十時十五分まで待たされる。ロバート・ウインスロップのおでましを待たねばならない。こんな大金の処理の決定は、頭取自らが行う必要がある。金額に応じて高い地位の人間が処理するのが商業銀行の決まりだ。要求が頭取にたいして改めて言われる。何の躊躇もない。「よろしうございます」という答。勿論、現金で渡されるのではない。世界中のいろいろな銀行から電報為替で送られて来るのだ。バハマから、ケイマン島から、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、リベリア、ベイルート、シンガポール、ホンコン、から。時差の違い、或は銀行の対応速度の差などの理由から、アルバートはこの日のうちに金を使うことは出来ない。名義は父親のジョー・フィオーレの、実質は他の仲間との合同の所有になっているものだが・・・これを使えるのは、あくる日の十七日だ。しかしアルバートとドックは次の日に動くための下工作はやっておく。商品取引所四箇所に廻る。その四つとも、ロンドンとニューヨークに直通の通信回線を持っており、そのうちの一つはシカゴ、もう一つは中東、極東に直通回線を持っている。その四取引所は、共通した点がある。それは、フランク・クック、或はその関連会社とは取引がないということだ。
 次の日、五月十七日は暖かくて気持のよい日だった。イギリスで生きていて本当によかったと感じられる日だ。十一時に、ドック・スマイスとアルバート・フィオーレは、カールトン・タワーでタクシーをひろい、シティーまで行く。ウイッティントン・アヴェニーまで言ってくれ。ええっ? ウイッティントン? 聞いたことがありませんね。イギリスのタクシーの運転手を困らせるのは大変に難しいというのが定評だ。その通り、暫くすると思い出す。 そうか、コーンヒルからリーデンボロー市場へ抜ける短い通りだ。
 ウイッティントン・アヴェニーは、着いてみると、イギリスの街角でも有数の綺麗なところであることが判明する。ちょっと狭い道、野外の物売りのテント、オールド・ファッションの店。野菜と果物を売るクック・パーヴェイヤー、肉屋のフィルターズ、魚屋のアッシュダウン・オイスターズ、一杯飲み屋のラム・タバーン。非常に奇妙なことに、こういう種々の店のある町の真ん中に、高い柱に掲げられている看板がある。これはリーデンホール市場の規則を載せたもので、その二十条には次のように書かれている。

 当市場の監視人は、以下の如き人物をこの市場に発見した場合、速やかにその人物を当該市場から退去せしめるべし。また、この監視人の退去命令に従わざる場合、当該人物は、五ポンド以下の罰金を徴せられるものとす。その人物とは下記。
 一、賭け事をしている者。
 一、賭け事を目的として当市場に立ち寄ったと思われる充分な理由がある者。
 一、怠け者。
 一、当市場の規律を乱す者。
 一、ならず者。
 一、浮浪者。
                以上。

 奇妙だというのは何故か。それは、この看板から二十ヤードも離れていないところに、ロンドン金属取引所 (London Metal Exchange) があるからだ。ここでは、世界で最も洗練された博打打ちがその腕を競っているのだ。その掛け金たるや、ラスベガスで最高金額をはるような大元締の博打打ちでも脅えてしまうほどの金額なのだ。何百万、何千万ポンドの金が、毎日世界の金属に対して賭けられる。銅、錫、鉛、亜鉛、そして銀に。その博打打ちの間で買い人気が強ければ価格は上り、売り人気が強ければ下る。一九六八年五月、一番人気の金属は勿論銀だった。そして、勿論殆どが買いに打って出ている。
 ロンドン金属取引所は、そこにたむろする博打打ち達の間で誇らしげに語られる通り、古代ローマ時代の商業市場だった場所にある。正面玄関の上方にデカデカと「ロンドン金属取引所」などと看板があると思うと大間違い。扉の隅のところに小さな金属の札がかかっているのみだ。訪問者は秘書課の事務員によってチェックされる。取引所の職員の紹介が必要で、紹介者の名前も記載される。
 ドックとアルバートの訪問は、非常に慎重になされ、紹介者の記載も省略することが出来た。二人は単なる客として来たことになる。ここでの銀の取引は、午前の部が二回、そして午後の部が二回行われる。午前の部の最初が、一二時0五分から一二時一0分までの五分間。次が一三時00分から一三時0五分までの五分間。午後の取引は、最初が一五時五五分から五分と、一六時三0分からの五分。この間、売りと買いの人間が、声を限りに、全く気違いそのものの形相で値段を怒鳴りあう。まず、午前の部の二つの五分間が過ぎると、三人からなる委員会により、「公正な」この日の朝の銀価格が決定される。そして、銀はその所有者を変更する。ここで決定した銀価格が、その後、午後の取引までの世界の銀価格の基準となる。つまり、この価格が、ロンドンからニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコに波及し、次に香港その他へと伝わって行く。
 この日の第一取引で、銀は最後の上昇を示した。理由は簡単だ。ある仲買人が、売りに出ているあらゆる銀を一人で買い占めたからだ。居あわせている仲買人達は勿論その男の正体を知っている。フランク・クック・グループの代表だ。価格は二、七0ドル。次の取引の終り値は多分一オンス三ドルだろうというのが、専門家達の一致した意見だった。
 しかし、一三時の取引で、売りに出る男が四人現れた。この四人は現物の銀を売るのではない。先物の銀の売りである。そう、かなり先の売りである。しかしなにしろ売りには変りがない。午後の取引になった。一五時五五分、そして一六時三0分。成り行きは全く変らない。フランク・クックの仲買人が買い手、そして四人の新顔が売り手。価格は同じ位置に留まる。二、七0ドルだ。
 次の日には、午後の第一取引で、なんと二、六0ドルに下ったのだ。
 ドックとアルバートはその日も取引所の隅に陣取って、静かにこの成り行きを見ている。この二、六0ドルに収まった午前の第一取引を告げるベルの音が鳴る丁度一二時0五分に、また別の客が現れる。ニコラス・トッピングだ。入るや否や、真直ぐドックの方に進みよる。
「貴様ら二人、ここで何をやっているんだ。」
「言葉に気をつけろ。貴様らとは何だ」とドック。
「なら、お前ら、だ。お前ら、聞いたんだろう、あの話を。」怒りに震えならがトッピング。
「あの話? 何のことだ。」
「おいドック、知らぬ顔の半兵衛を決め込もうったって、そうはいかないぞ。」
「トッピング、俺は何も決め込んだりはしてはいない。どうしたって言うんだ。」
「あの食わせ者の野郎が、こっちを引っ掛けやがったんだ。」
「誰だ、食わせ者とは」とドック、用心しながら訊く。
「あの糞忌忌しいカリフォルニア銀行の糞馬鹿頭取の奴だ。」
「頭取が何をしたって言うんだ。」
「例の銀の鉱山の買収については、今朝最終結論を出した筈だ。今朝の十時にだ。そうだろう。」
「まあお前がそう言うならな、ニック。」
「あいつ、またぐちゃぐちゃ言い出したんだ。ミスター・クックとの合意をひっくり返して。あの二倍欲しいと言って来たんだ。二倍だぞ!」
「そいつはお気の毒だな。」
「お気の毒だと? お気の毒ですむようなことじゃないぐらい、お前が一番よく知っているんだ。こっちは銀の取引に首までつかって勝負しているんだからな。それも買いでの勝負だ。売りに出て来た奴がいて、お蔭で毎日、大量の銀を買わされているんだ。」
「そうらしいな。」
「それにな、その売りに出ている奴らの正体が、貴様らだっていう情報を得ているんだ、こっちは。」
「ほほう、情報か。何の根拠がある。」
「お前達の片棒を担いでいる仲買人の名前を言ってやろうか。そいつらがこの二十四時間、お前達のためにどれだけ使ったかも筒抜けなんだぞ。」
「驚いたなニック、イギリスって国は、こんなに堕落したのか? ガセネタで人を脅すとはな。全く呆れ返って物が言えない。」
「まあいい。だがな、どうも俺に分らないことがある。お前達、どうやって知ったんだ。」
「知った? 何を。」
「カリフォルニアのあの糞ったれ銀行が、こっちに背負い投げを食わせたってことをだよ。」
「そんな情報はこっちには入ってない。」
「じゃ、何なんだ。何故気違いのように売りに出ているんだ。」
「それは値段が下ると思っているからさ。」
「何故下る。」
「これから数箇月、大量の銀が出回るようになるからさ。いや、数箇月じゃきかない。何年もだ。」
「例の銀行がイランのあの鉱山をフル稼働させて、銀を出回らせる。そいつを全部フランク・クックは買わざるを得ない。そういう筋書きになると見ているんだな。」
「いや、その筋書きじゃない。」
「じゃ、何だ。」
「それはお前には言えない。フランク・クックにだけ話せることだ。」
「分った。いつ。」
「今夜だ。」
「何時。」
「そうだな。八時。」
「どこで。」
「フランク・クックの屋敷だ。銀行は関係ない。個人的な話だ。」
「よし、じゃ、七時に迎えに行く。」
「いや、こちらから車で行く。住所はもう分っている。今度は行くのは俺一人じゃない。」
「アルバートもか。」
「うん。それに、もう一人。」
「変な真似をするんじゃないぞ。」
「心配するな。だが、ミスター・クックには予め話しておいて欲しいことがある。」
「何だ。」
「今度ばかりはミスター・クックといえども、組む相手が必要になる筈だ、と伝えて欲しい。生涯初めてのことでしょうが、と。お互いの利益のためなんだからと。」
「分った。伝える。」
 アルバートとドックはもう暫くロンドン金属取引所に残っている。後の取引で、またまた売りに出る。大量の銀取引だ。全て売り。この日、終り値は二、五0ドルまで下る。
 この日の夕方までに、計算上での彼らの利益は、百万ドルを超える。ドックがホテルに帰って、計算機と首っ引きで十分間計算した結果がこれだ。
 カールトン・タワー・ホテルのドアマンが、アルバートとドックのためにシルヴァー・クラウドを予約してくれる。バッキンガムシャーへ行くための車だ。一行は少し遅れて出発する。トッピングに、来ると予告した第三の人物が、空港から着いて着替えるのに手間取ったためだ。
 クックの屋敷へ着くまで、ほぼ一時間かかる。ニック・トッピングが屋敷の前で車を待っている。そこから直接屋敷へと導く。フランク・クックは客を待たせるようなことはしなかった。四人が居間に入り、まだ坐らないうちに、図書室に通じる扉が開き、フランク・クックが現れる。そしてすぐドックに言う。
「ミスター・スマイス、客人の紹介は君にやって貰おう。」
「分りました。これがアルバート・フィオーレです。父親のことは御存知ですね?」
「始めまして、アルバート。」
「そしてこちらは、イランからやって来たアーガ・ファードーシ、我々の銀行の共同経営者です。」
 アーガはフランク・クックの手をしっかりと握る。
「どうぞ、お坐り下さい、ミスター・ファードーシ。」
 そこで全員着席する。飲み物は出ない。
「さっそくだが、ミスター・スマイス。どうやら、私は間違いをやってしまったらしい。銀の鉱山に対する君の申し出を受け入れておくべきだった。この間に起ったことは、ミスター・トッピングから既に聞いていると思うが?」
「ええ、しかし、あの決定は過りではありません、全く。」
「過りではない? しかし、今となっては、法外な値段でしか、あの鉱山は手に入らない。もし手に入れなければ、銀は大量に産出され、市場に溢れ、こちらは相当な損害を被(こうむ)る。銀の価格は崩れるだろうからな。今の私の立場は酷くまずい。鉱山を買わねば大損、買えばまた大損なのだ。」
「必ずしもそうとは限りません。」
「そうとすれば大変面白い。理由を聞かせて貰えないか。」
「ええ。これにはちょっとユーモアのセンスが必要なのですが。」
「それはあまりないという評判だが。まあいい。話してみてくれ。」
「どうやらミスター・クック、我々はひどくインチキな話で担(かつ)がれたらしいんです。」
「担がれた?」
「ええ。ペルシャには、銀の鉱山などないということなのです。今もないし、かってあったことも全くないと。」
「何ていう話だ」とクック。その顰め面は、この話に何の冗談も見い出せないということを示している。「私はそのない鉱山を買おうとしていた。一億ドルをただで持って行かれるところだったんだぞ。その話は本当なんだな。」白いハンカチを出し、額を拭う。
「本当です」とドック。
「銀は全然ないんだな?」フランク・クックは怒っていた。無理もない。しかし、その目に急に光が出て来る。ひょっとしたら、いつものようにこの難局も乗りきれるかも知れない。安心の目の光だ。
「銀が全然ないというのではありません、ミスター・クック。私は銀の鉱山がないと言ったのです。」
「もう一回頼む。」目の光が消える。
「実に簡単なことです。ここにいるファードーシが、我々みんなを担いだのです。彼にはどうしても、銀の鉱山をでっち上げる必要があった。それで、それを拵えたのです。そして我々みんなをその話に巻き込んだのです。アーガ、後はあなたが説明した方がいい」ドックがアーガの方を見た時、その目には尊敬と友情の気持が籠められている。
 アーガ・ファードーシは咳払いをする。
「実は」とアーガは始める。そして一回り、聞き手全員の目を見る。「私はただの密輸商に過ぎないのです。インドに金を持って行き、銀を取って来る。金を高く売り、銀を安く買って来る。最初は取るに足らない規模でした。しかし、世界的に銀の価格が上昇して来たため、インド人で銀を売ろうという人間が急に増えて来たのです。金と交換したいためです。この三百年間、貯めに貯めたインドの銀が、今では三十億オンスにもなっているのです。これは世界がよってたかって使っても、二十年や三十年で使いきれる量ではありません。さてその密輸ですが、私がこの仕事をやらなければ、どうせ他の誰かが思いついてやりだすに決まっています。私は他の人間にこの仕事を取られたくない。しかし残念なことに、私には資金が十分でなかった。拡大して行くこの商売を維持して行くためには、どうしても資金が必要です。膨大な量の資金がです。まず最初に、金を手に入れる必要があります。勿論現金でです。次にドバイからインドに行くジェルバ船の連中に金を支払わねばなりません。これも現金。それから、買ってきた銀を倉庫に入れておかねばならない。これも現金。勿論インドの税関に賄賂として払う金があり、これがまた現金・・・」
 ここでフランク・クックが遮る。「そこは分った。次の話を。」
「銀行は密輸に対しては資金を出してくれません。それがどんなに率のよいものでも、です。そこで、銀行がウンと言ってくれる何かの仕掛けを作る必要が出てきたのです。私の仕掛けは、銀の鉱山でした。全くの荒唐無稽な話ではなかったのです。スサの近くには鉱山があってしかるべきだったからです。考古学者、聖書、それに地質学者も同意見です。しかし、あるべき物はそこにはなかった。それで私が、言ってみれば「その状況を拵えた」訳です。しかし私は「ない物をあると言う」点では人を騙した訳ではありません。私は共同経営者に約束した銀は、ちゃんと拵えて見せたからです。事実、約束した以上の銀をです。ただそれは、ペルシャから、或は、地の底からの銀ではない、インドから、ジェルバ船の船底からの銀だったのです。」
「なるほど」とフランク・クック。「少なくとも、あなたの言っていることは分りました、ミスター・ファードーシ。しかし・・・」と今度はニック・トッピングの方を向く。「君に分らなかったというのが解せないな、トッピング。」
 ニック・トッピングは断固として答える。「それはこの人が言った通りの理由からです。全く荒唐無稽な事ではないからです。それに私は、実際にドバイから銀が入って来るのを、この目で見ているのですから。私だけではない、カリフォルニア銀行の例のラックマンも目撃しているのです。イランから来る前、それがインドの銀だったなどと、どうしてこの私に想像出来ますか。それに、それを裏付けるスイスで手に入れた科学報告書だって読んでいるのです。銀の分析結果、地質学者の研究、銀埋蔵量に関する推定、一週間に精製出来る銀の量・・・」
「分った、トッピング。君の言う通りだ。」
「それに、会長自ら、この報告書を信じこまれた筈です」とトッピング。
「そう、私も信じた。ミスター・ファードーシ、この報告書は誰の手になるものなのです?」
「ロン・ハワードというローデシアの鉱山技師です。」
「今、彼はどこに?」
「アフリカに帰りました。」ここでファードーシに関する話題は全て終る。
「しかし、銀の鉱山がないという話は、相変らず奇妙な感じだ」と、クック。そして四人を見回しながら、「それで、その鉱山に、実際に降りて行った者はいないのか?」
 勿論そんな者は、誰もここにはいない。
「どのくらい前からこのことを知っていたのだ? スマイス。」
「先週の金曜日の朝です、ミスター・クック。」
「この屋敷に朝電話してきた、あの時か。」
「そうです。」
「ミスター・ファードーシから聞いたのか。」
「いいえ、アルバートからです。」
「アルバートはどうやって。」
「その話は複雑なのです。辞めていった、シシリア・アメリカ国際銀行の共同経営者がいまして、彼がドバイから電話してきたのです。」
「私のいとこです」と、ファードーシ。「シシリア出身の男です。」
「何故?」
「何故シシリア出身かとお訊ねで?」
「違う。何故彼はアルバートに話したのだ。」
「悪いと思ったからです。それに、ドックが何をしでかすか、それが恐かったとも言っています。」
 フランク・クックは頷く。「ドックは殆ど、しでかすところだった。その君のいとこなる人物に私は借りが出来ているようだな、ミスター・ファードーシ。しかし、この話題は、当面の問題からちょっと外れている。元に戻そう。現在君の、ドバイにおける銀の「産出高」はどのくらいなのかね。」
「毎月約五百万オンスです。この夏には、これを倍にすることが出来ると考えています。勿論そのためには、運転資金も倍増する必要がありますが、今では私と妹だけでなく、いとこも協力者になっていますから、そして、いとこが口をきいてくれて、この二人にも・・・」とドックとアルバートを指さし、「協力を求めていますから、事情はすっかり好転しています。アルバートのこれに対する計画も、なかなか立派なものなのです。」ファードーシは微笑む。
「うん」とクック。「アルバートの計画はたいしたものだろう。私がこの何箇月かで、やっと築きあげた銀の高値相場を、あっという間に崩すぐらいだからな。」
「それは違います、会長」とアルバート。「あの価格崩しは、会長との、この会談を可能にするための手段だったのですから。そうでもしなければ、会っては下さらなかった筈です。」
「図星だ。それで、この会談の目的は何なのだ?」
「我々の銀市場に対する計画が成功するように。これが目的です。」
「君達の計画とは何なのだ。」
「我々は暫くショートで行こうと思っています。平均一オンス二、四ドルで、二億五千万オンスを売る。六十億ドルの売り、マージンは一0パーセントで六千万ドル。つまり六千万ドル投資しようという計画です。」
「そして、君達の銀が出回って、銀が安くなる。半額、つまり、一、二0ドルにまで下る。一オンス一、二0ドルの利益を狙うという訳か。」
「それほど楽観視してはおりません。精々多くて一オンス一ドルの利益です。これで我々としては充分です。」
「さっきのこちらの問にはまだ答えていないぞ。この会談の目的は何なのだ。君達の計画が成功するためには、今の話を私に決して話さないというのは正しい戦略のように思うがね。銀の買い手は私及び、私の関連会社なのだ。そして、商品取引とはゼロサム・ゲーム、つまり、誰かが儲かれば、誰かが損をしなければならない。君達が儲かれば、この私が損をするのだ。その損をする男に、この話を出来るだけしないでおくというのが、君達の取るべき立場の筈だぞ。」
「ええ、そうです。しかし我々は、会長がそう長くは買いの立場に留まっていないだろうと見越しているのです。あのイランの鉱山さえ閉めておけば、銀は出てこないだろうと思いきや、どんどん出て来るのですからね。あの鉱山の存在を怪しむ最初の人が会長の筈です。」
「おやおや」とクック。「忘れていたが、あのカリフォルニアの銀行はえらいことになるという訳だぞ。」
 すぐにアルバートがクックの言葉の言葉を遮る。「そうです、会長。しかし、その話はまた後ほどに。さて、鉱山の存在と銀の産出に何の関係もないと会長がお分りになった時、ファードーシの銀のからくりもすぐ発見されてしまうでしょう。インドからの無尽蔵の銀。価格は崩れる。すぐに会長は、ショートに戦略を転じられる筈です。売りに出て、損失を最少に留めようとなさる。」
「そうだ。その通りだろうな、私のやることは。」
「それでは困るので、私達はやって来たのです。何故困るか。それは、我々のような大きなグループが二つとも売りに回れば、銀はあっという間に値崩れするからです。そこで、二億五千万オンスもの銀を抱え込んだ我々の逃げ道はなくなるでしょう。会長の方もです。値下げはゆっくりと、何箇月もかけて、いや、出来れば何年もかけて、行わなければなりません。何故なら、商品取引はゼロ・サムのゲームだからです。我々は、この取引で損をする人間を充分に確保しておかなければいけない。そのために私達は、会長に会いにやって来たのです。我々ドバイからの銀を支配するグループ、それに、銀の産業では確固たる地位を既に築いている会長のグループ、この二つのグループが手を握るべきだと申し上げるために。」
「どう手を握るのだ。」
「銀の投資家達の心理をヴァイオリンを奏でるように操るのです。現在の状況では、まずドバイの倉庫にある銀を吐き出して売りに回ります。勿論その現物の出所を明かさずにです。小さなパニックが起きます。投資家達は、銀が世界中で不足しているという情報は怪しいと思い始めます。どこかで誰かが、莫大な銀を保有しているのではないかと。すると我々も売りを止めます。会長の方も止めるのです。そしてまた、世界における銀の不足が長期的に見て必然であることを印象づけます。投資家は戻って来ます。以前損をした分まで取り返そうと買いに回ります。これで我々・・・つまり、ドバイグループと会長グループ・・・は、彼らの買いに合わせて少しづつ売って行くのです。そこでまた、パニックが起きる。連中は疑い始める。・・・これを繰り返すのです。」
 アルバートは続ける。
「しかし、何と言っても、我々の成功のために決して外してはならないことは、次の二つのことです。一つは銀の現物を我々二つのグループでどれだけ市場に出すか、きちんとおさえること。二つ目は、売り取引の過熱を我々二つのグループで調節すること。これが出来れば必ず成功します。何故なら通常、商品取引の投資家達は、自分が売買している商品の現物を見たことなどない。ところがこっちは、現物を見ているだけでなく、現物の出入りを制御出来る立場にあるのですから。この取引は今世紀最大の、そして今世紀最長の売りの勝負になる筈です。そして我々の得る利益は、それぞれのグループで、二億五千万ドルに上ることになります。」
「なかなか良い計画だ、アルバート。しかし完璧ではない。もし失敗したらどうする。ドバイから市場に送り込む銀が、価格を充分に落しきれなかったら。そして私の倉庫から、手持ちの銀をはたいても、まだ下らなかったら。売りで勝負している我々は、莫大な損失を被ることになるぞ。これは昔からある、例の「売りの罠をしかけて、自分でそれにひっかかる」というやつだ。」
「その可能性はあります、確かに。どんな計画でも、完全なものはないのです。しかし、もし会長がこの計画に一枚加わって下されば、我々は勿論喜んでこの賭けに身を投じます。ドックの見立てでは、僭越ですが、会長はこの種の勝負に打って出ることを好まれる人だと判断しています。」
 少なくとも二分間、部屋は沈黙に包まれる。全員の目はフランク・クックに注がれている。ついにクックが口を開く。
「ドックの見立ては正しい。この勝負は気に入った。世界中の銀の使用者は知らず知らずのうちに我々の味方になってくれる筈だ。連中は銀が安ければ安いほどいいんだからな。それから群小の投資家の奴らを買い気分に酔わせるように・・・つまり、世界全体で銀の不足は避けられない趨勢なのだと・・・信じ込ませる。これはうまく行く。少なくとも二年は大丈夫だ。私が知っている銀関連企業の連中に、銀不足の話をしてやることにしよう。そうすればこの取引での成功が保証される訳だ。」
「これで私達がここへ来た理由は明らかですね」とアルバート。そして、クックの返事を待たずに付け加える。「このアイディアは、実はドックがこのひとつき考えた末に出て来たものです。会長グループと我々とは利害を共にしているのだ。買い気分を起させては、こちらの銀を高く売りつけるという、その手段も全く同じ。それなら我々が争うのは損ではないか。何故なら・・・ああ、この後はドックに任せます。」
 ドックの出番だ。「会長、もし我々のことをそちらの第一の仲間と見て下さるならば、我々は本当に光栄に存じます。」
 フランク・クックはすぐさま立ち上る。何のためらいもない。ドックの方に進み出て、その手を握る。
「ドック、光栄なのはこっちの方だ。」
 これで銀の取引で一儲けしようという群小投資家達の運命は決まった。可哀相に、歯科医、航空機のパイロット、保険のセールスマン、慾の皮のつっぱった未亡人達!
 しかし、ここで運命を決められてしまったのは、彼ら群小投資家達だけではない。カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行の頭取、ジョージ・フォアマン、そして同じくそのルガーノ支店長に任命されたばかりのドナルド・ラックマンの運命も決ってしまったのだ。この日の夕方遅く、フランク・クックからフォアマンに電話がある。生涯で、この電話ぐらいフォアマンを当惑させたものはない。と同時に、非常な心配がフォアマンを襲う。受話器を置くと、フォアマンの妻マージョリーは、ショックを受けて夫を見る。
「ジョージ、あなた一体どうしたの?」
「フランク・クックと交渉中の話が、一挙に御破算になったんだ。」
「相手の戦術じゃない? ただ、交渉を有利に運ぶために・・・」
「いや、これは違う、マージョリー。いいからこちらに構わんでくれ。」
 フォアマンは受話器を取る。ルガーノのホテル一二一七号室を呼び出す。
「デビーか。」
「はい。」
「ドナルドはどこだ。」
 デビーは答える。それから「何か悪いことでも?」
「いやいや、ちょっと話したいことがあって。」それだけを言い、フォアマンは受話器を下ろす。
 二分後にはラックマンが捕まる。
「電話をして下さって嬉しいです、頭取」と、まずドナルド。「スケジュール通りことは運んでいます。譲渡はすべて順調です。スイスの銀行所有に関る権利筋にあたりましたが、名称変更については・・・」
「いいかラックマン、よく聞くんだ。イランの例の鉱山に行って貰いたい。どうも気にかかることがある。」
「どういうことですか? 気にかかるとは。」
「いっぱい食わされたのではないかと、だ。それも、どうでもいい金じゃない、天文学的なやつをだ。すぐにイランに飛んで、あの銀の鉱山が本当に存在しているのかどうか、確かめるんだ。すぐにだ!」
「まさか。御冗談でしょう!」
「これぐらい本気なことは生涯にない。」
「でも、イランには行ったことがないんですが。」
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。どこにあるかぐらいは知っているだろう。」
「ええ、それは。」
「じゃ、行くんだ。」
「言葉の問題がありますが。」
「誰かをつけてやる。フライト・ナンバーとアバダン到着時刻を電報でよこすんだ。後はこちらで手筈を整える。それから、いいな、ラックマン。あちらで何か分ったらすぐ知らせるんだぞ。すぐにだ。いいな?」
 フォアマンはすぐにまた電話する。今度はロンドン駐在アメリカ大使館だ。すぐに繋がる。フォアマンは、この大使館に貢献している人物の、上から五十人以内に入っている。「ええ、ミスター・フォアマン。我々はクジスタンに領事館を持っております。クジスタンのクーッラムシャーです。・・・勿論喜んでお世話しますよ。・・・ああ、銀行の方がいらっしゃる。じゃ、その領事館からアバダンに人をやりますから。・・・いえいえ、お安い御用です、ミスター・フォアマン。そのためにあるのですから、領事館なんてものは。」
 第三の電話は、サンフランシスコ宛である。カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行の法律担当のトップ、スィッド・チェインバースの自宅宛だ。スィッドは作ったばかりの国際部に属している。この電話は非常に短いものだった。
「スィッド」とフォアマン。「ここでまずいことが起きた。」
「どういうまずいことです?」
「電話では言えない。すぐにロンドンに来て欲しい。」
「分りました。今どこです。」
「ヒルトン・ホテルだ。七、八個、部屋は予約する。」
「七、八個、部屋をですか?」
「そうだ。君だけじゃない、他の連中も呼んで来て欲しい。証券取引の専門家、税金の専門家、従業員の雇用に関する法律の専門家も必要だ。とにかく法律関係の会議が開けるよう、アメリカ、イギリス、スイス、フランスの、この方面の関係者を総動員だ。」
「どうなさったんです、頭取。何か恐ろしく厄介なことのようですね。何なのです。」
「さっきも言ったぞ、スィッド。電話で話せるようなことじゃない。ただ、私の言ったようにやってくれ。」
「分りました、頭取。」
 二日後、最悪の事態がイランから届く。ファードーシの財産には、トマト、イチゴ、アルファルファ、その他の農産物あり。但し、銀はなし。銀どころか、ここらあたり誰一人として鉱山の話など聞いたことがない、と。ドナルド・ラックマンはルガーノに帰れと指令を受ける。追って連絡する、と。
 この時までにロンドンのヒルトン・ホテルは、このホテルのドアボーイの数よりも大勢の法律専門家が集まって来ていた。サンフランシスコから二人、ニューヨークから一人、ワシントンから一人、ロンドンから二人、パリから一人、ジュネーブから二人。
 ジョージ・フォアマンの特別室も、これだけ人間が集まると小さかった。フォアマンが事態を要約する。全員声もなくシンとして聞き入る。容易な事件ではない。法律家一人でも考えが纏まらないような代物だ。九人もいたら纏まるどころではなかろう。
 イギリスの弁護士がまず口を切る。
「すると頭取、こういうことになるでしょうか。つまり、あなたにスイスの銀行を売却したこれらアメリカ人は、自分の銀行はイランに、非常に価値のある銀の鉱山を所有していると説明した。しかし、実際にはその鉱山はなかった、と。こういうことに。」
「その通りだ。」
「それなら事は簡単ではありませんか。ただスイスの警察に言って、その連中を逮捕させて、あなたの支払った資金を差し押さえればいい。取引はウィンスロップでなされたという話でしたね。」
「そうだ。」
「勿論詐欺がなされている部分は、そのスイスの銀行がイランに銀の鉱山を持っているというところです。従って、我々はその鉱山に関する書類、特にその銀行の貸借対照表における、その鉱山部分の資産金額を確かめる必要がありますが、それが確かめられさえすれば、後は簡単な筈です。」
「しかし問題はまさにそこにあるのだ。」
「説明願います、頭取。」
「この取引の基礎資料は、わが社のドナルド・ラックマンによって作られたシシリア・アメリカ銀行の会計検査報告書あるのみなのだが・・・」
「ええ。」
「それには銀の鉱山のことは一行たりとも述べられていない。」
 この言葉に、出席者の幾人かは、当然のことながら、非難の目をフォアマンに向ける。そんな馬鹿な・・・
 フォアマンは続ける。自分はこれを説明することが出来ない。送られて来た会計検査報告書をきちんとは読んだことがない。私はただ、このラックマンの口頭説明を全面的に信頼しただけだ。彼を疑う理由は何一つないのだから。すると貸借対照表には、鉱山相当の資産が何か別の項目で上げられているのか? 例えば、油田及びその施設、として。しかし、どうやらそれもなさそうだ。
 「すると」とイギリスの弁護士。「この銀行は、貸借対照表を故意に偽造している。そして我々はその証拠を持っているということですね?」
「いや、それは違う」と、フォアマン。「我々が持っている証拠はただ、ラックマンの作ったこの銀行の貸借対照表に関する報告書に誤りがあったという点だけなのだ。」
「どういう意味ですか、それは。」
「前の銀行の所有者は、イランに銀の鉱山があることを確信していた。そしてそれが百パーセント銀行の財産であり、その資産額を貸借対照表の中に何らかの形で反映させていた。私はこの点に関しては、非常に強い確信がある。」
「すると奇妙なことになりますね」と、今度はニューヨークからの弁護士。「ラックマンがこちらの銀行宛の報告書を作る。前の銀行の所有者は、その報告書に誤りがないか、目を通す。その時、鉱山部分の記載がないことに気づいた筈ですがね。」
 ジョージ・フォアマンはただ肩を竦める。しかし、だからと言って、前の所有者を相手取って裁判を起すのは難しい。この方向で議論を進めるのはどうも的を外しているように思う。明らかに詐欺行為がどこかに入り込んでいるのだが、誰がそれに責任があるのか、実はここに集まるまでに、よく私は考えた。そして、論理的には、ただ一つの答しかない。私が自分の直属の部下、ドナルド・ラックマンに騙されたのだ。ラックマンはイランの人間と共謀したのだろう。何かの具合で、この鉱山がインチキであることを発見し、イラン人達からその口止め料を貰ったのだろう。イラン人達は、銀行の前の所有者から相当の金額を受取ることになっている。そしてその相当の金額は、銀行をカリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行に売却した時に入って来る。従って、その売却が成立するまでは、ラックマンにどうしても口を閉じていて貰わねばならない。前の銀行の所有者、イタリアの公爵は、勿論この陰謀に一枚加わっていた筈だ。しかしこのイタリア人、その他前の銀行の取締役達は、今はもうスイスにはいない。この男を連れ戻すのは困難だと思われる。ここでジュネーブからの弁護士が、フォアマンの言葉を裏書きする。そうです、詐欺の疑いで外国から人を強制引き渡しさせるのは、殆ど不可能です。各国で、詐欺の定義が異っていますから。そこで、とフォアマンは結論を下す。我々は現実的にならねばならない。詐欺は証明され得る。ラックマンを首謀者にすればよい。出席者の諸君、これに賛成だな? 全員賛成である。よろしい。するとこの件で、保険会社から少なくとも千五百万ドルを引きだすことが可能だ。この金額になるな? サンフランシスコからの弁護士が、これを肯定する。残りの損失は経費として落せるな? つまり、アメリカ合衆国は実質的に、損失の五0パーセントを差し引いてくれる計算になる。どうだ? この推定は。ニューヨークからの弁護士が、その通りだと言う。さて、ジョージ・フォアマンが支払った金額は、総額六千万ドル。うち千五百は保険、残り四千五百万のうち、アンクル・サムが引き受けてくれる金額が二千二百五十万。実質的損失が二千二百五十万。まず多く見積もって二千五百万の実質損となる。大変な金額だ。しかしもっと酷いことになってもおかしくはなかったのだ。ルガーノの銀行はどうする。こんなどたばたがあった後だ。閉鎖するしか手はなかろう。売り払うのだ。これでまた一千万ドルは損失が加わるだろう。それが最もよい対策です、とジュネーブからの弁護士。スイスの銀行の権威筋から白い眼をして見られ、世界中のスキャンダルに巻き込まれるよりはずっと賢明です。どれぐらいその噂が続くか知れたものではありません。スイス銀行委員会に釈明する役は私にお任せ下さい。但し、預金者に、一人として損失を与えることはないと、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行が保証することが第一の条件。もう一つの条件は、スイスにおける詐欺行為の廉(かど)でドナルド・ラックマンをその罪に相応しい刑罰を与えること。先ほど頭取が言われた、この点をもう一度確認したいのですが、如何でしょう。いや、勿論ラックマンを起訴するつもりだ。
 そして次の日、約束通りフォアマンはラックマンを起訴する。ジュネーブの弁護士がその任にあたる。ドナルド・ラックマンは、中近東から帰り、スイスの土を踏んで五分と経たないうちに逮捕される。その同じ日、ルガーノのシシリア・アメリカ銀行の扉は封印される。スイスの銀行秘密厳守法が実行にうつされ、ジョージ・フォアマンは一個中隊の弁護士連に囲まれて、カリフォルニアへの帰国準備を始める。
 ただ一人真実を知っており、且つそれを話したい人物は、デビー・ラックマンだった。夫の逮捕の翌日、つまりフォアマンがアメリカに帰国する予定の日、デビーは狂気のように、十分毎にフォアマンに電話をかける。やっとフォアマンを掴まえる。フォアマンは二分間デビーの嘆願を聞く。そして、「すまないがミスィズ・ラックマン、この件はもう私の手には負えない。私に電話しても全く無意味なことだ。もうこんなことは止めるんだね」と。
 マージョリーが夫の電話中傍にいた。夫が受話器を置くとすかさず言う。これがこの事件全体の締め括りの言葉だ。「私、あの夫婦って、好きじゃなかったわ。あの女よ、結局。こんなことを夫にやらせるよう焚き付けたのは。」
 デビーの最後の拠り所はドック・スマイスだった。電話で呼ばれてドックは、ヒルトンに行く。二人でヒルトンを出る。しかし勿論、ドナルドを救うべき手立てがこの二人にあるわけはない。

 スイス当局は、この件の調査に二年を費やした。そしてドナルド・ラックマンに十年の強制労働を宣告した。彼は巨額の・・・つまり、何千万ドルにも上る金額の・・・詐欺を行ったのだ。これだけでも罪が十分に問われるべきところをこの詐欺は、銀行に対して、それもこともあろうにスイスの銀行に対して行われたのだ。全く許し難い犯罪である。法の許す限りの刑が要求されたのは当然であった。
 これだけでもラックマンには不利な事態だった。が、それに加え、ラックマンが自己を守ろうとして行った陳述がまた、奇妙キテレツなものだった。第一に、自分の行動は全て自分の銀行の頭取の指示に従ったものだと主張したのだ。勿論ラックマンはこの申し立てを裏打ちする書類は何一つ持っていない。そんなことをスイス当局が信じる訳がない。ジョージ・フォアマンの地位にいる者が、こんなことに巻き込まれる筈はないのだ。スイスの主力三銀行が、この申し立てが無効であることを直ちに証言する。そしてこの方面からの調査は即座に打ちきられる。第二にラックマンは、これら全ての背後に、億万長者フランク・クックとその使用人ニコラス・トッピングがいるのだと主張。スイス当局は、この二人の調査に乗りだす。しかしこの二人がシシリア・アメリカ銀行及び架空の鉱山に関係したという一枚の書類も、一かけらの証拠も発見することは出来ない。即ち、この方面からの調査も徒労に終る。第三のラックマンの主張は、シシリア・アメリカ銀行の執行部の一人、マーヴィン・スキナーは、プロの偽金造りであり、自分の作った会計検査報告書のもとになった書類は、彼の手になるものだという。スイス当局は、この男の調査も余儀なくさせられる。調査の結果は、確かにマーヴィン・スキナーなる人物は存在する。ロンドンの北西約三十マイルの、ペンなる場所に数匹の犬を飼って住んでいる。アルザシアン犬である。イギリス警察当局の証言によれば、スキナー氏及びその犬達の評判は申し分のないもので、疑わしいところは一切なしと。この三点の調査の結果、ラックマンは精神鑑定の必要があるとの結論。これにかけられるも、不幸なことに結果は「不確定」と。
 裁判それ自体は非常に短いものであった。銀行の秘密に関るものであったため、勿論「非公開審理」で行われる。海外の証人は誰一人いない。不要と判断されたからである。ただ一つ、スイス当局が当惑した事は、このような大事件でありながら、ラックマンの共犯者、つまりイラン人及びイタリアの公爵を逮捕出来なかったことである。二人とも完全に消えてしまったのだ。裁判の面からは、これが全てであった。
 買い取られた銀行の清算はゆっくりと、しかし着実に行われた。全てが終るのに約三年を要したのだ。銀行の主たる財産であったイランにおける農業用地は、クエートの銀行を通じて中近東のある会社に、予期に反した高い金額で売却された。しかし、折角のこの思いがけない利益も、銀を取り扱っていた商品取引部の、これまた思いがけない大きな損失により食われてしまい、全体としては大きな穴を開ける結果になってしまった。思いがけない損失とは、この銀行は銀の先物取引の証券をかなり沢山持っていたのだが、清算を担当する責任者達が、これの売りをしぶり、売りの先延ばし作戦を取ったからである。この点は後にファースト・ナショナルの取締役会議で追求されることになったのだが、清算責任者達は勿論、銀が安定な投資であると判断したためである。当然彼らは当時、様々な人物にこの件に関する相談をしたのだが、誰もが、銀価格は必ず上るとしか言わなかった。しかし現実は何故か、その反対の方向に進んだ。その結果彼らは、銀価格が底の底をついた一九七一年十月二十二日、一オンス一、二九ドルの時に売らざるを得なかったのだ。

     第 三 部 (一九七六年)

     エピローグ
 その銀価格が底をついた十月二十二日を記念して、フランク・クックは毎年この日に、ロンドンのアスィーニアム・クラブで小じんまりした昼食会を催すことにしている。銀を売りで勝負する戦略は、実に大成功に終ったのだ。一九七二年、第一回の昼食会には、アーガ・ファードーシもジアンフランコも出席した。しかし、この後はこの二人は出席していない。理由はインドにおける銀収集作戦が完全に止まったからだ。アルバートが予言した通り、金と銀の交換比率は全く変ってしまった。一九六八年あるいは一九六九年のよき時代には、銀一オンス約二ドル、金は三十五から四十ドル。つまり、金一オンスを手に入れるためには、銀を十七から十八オンス出せばよかった。インド人達は先を争ってこの交換をした。しかしその後、金価格は跳ね上がった。一オンス一七0ドル或はそれ以上。銀の方は下る一方。一九七0年代初め、一オンスの金を得るためには、銀を六0或は七0オンス出さねばならなくなった。これでは金銀交換の商売は成り立たない。勿論この時までに、ロンドン銀カルテル(つまりフランク・クックのグループ)は売り取引をとっくに終了させていたし、それどころか、最近の動きに合わせて今度は買いに回っていた。何故なら、銀の潜在的不足は、そのうち顕在化することを知っていたからだ。実際、この年、つまり一九七六年のフランク・クックの記念昼食会の日の朝、銀は一オンス六、二五ドルだった。ロンドン銀カルテルはこの段階で、五千万ドル以上の儲けを記録していたのだ。
 ドック、アルバート、マーヴィン、それにフランク・クックの昼食はしかし、質素なものだった。アスィーニアム・クラブではそれも致し方あるまい。なにしろここに来る人間の大半は、イギリス国教会の僧正達だし、連中は贅沢はいかなる形式においても反対。特に公衆の面前での大食(おおぐら)いには顔を顰める人間達だ。従ってこの四人も、いつも通り、ふやけた三種の野菜のついたラム・チョップのみだ。格式を大切にした長い木のテーブル上での昼食なのだが、格式では腹は膨れない。それに話さえはずまない。フランク・クックのマナー帳に、食事中商売の話は厳禁、というのがある。食事後二階へ上り、ゆっくりとコーヒー、コニャックとなり、初めてこれが話題に出来るのだ。
 ニック・トッピングは食事に遅刻する。勿論故意にである。コニャックの時間には間に合う。二階に上って来る時の顔は、なかなか神妙なものだ。ドックの隣に坐り、クックに会釈。クックが勧めるコニャックを受取り、ドックに話かける。
「どうだ調子は?」とニック。
「うん。どうだった、今日の金属取引所は。」
「静かなものだ。デビーはどこなんだ?」
「友達と昼食だ。フォートナム・アンド・メイソンで。」
「友達? 俺の知っている人間か?」
「うん、まあな。シリーン・シラクーサだ。」
「ああ、そうじゃないかと思っていたよ。」
「何故?」
「銀で今、噂しきりの話があるんだ。」
 アルバート、マーヴィンの二人が、おや? という表情。フランク・クックも半分耳を傾ける。
「実はな」とトッピング。「取引所で今日、妙な話が出てきたんだ。聞きたいか?」
 勿論、全員興味がある。
「例のシシリアの公爵がこの話に登場するんだ。イラン王家出身の誰かと、この公爵は組んでいるという話だ。そしてそのイラン王家の人間の妹と公爵は結婚している。勿論その妹というのは、ダーク・ビューティーってやつさ。この三人が、今週ロンドンにやって来て、共同経営者を探しているというんだ。ただその、共同経営者側からの出資金なんだが、五千万ポンドという金額が提示されている。」
 今やトッピングは全員の熱い視線を受けている。
「こんな膨大な資金を何に使うんだ、という質問が出るところだ。それはな、この三人が二、三年前に、あるイランの農耕地を買収したんだそうだ。その地所というのは、あるスイスの銀行の公売資産だったそうだ。ところが、その土地から今世紀最大の銀の鉱脈が出てきた。その場所だがな、クジスタンのチョーガ・ザンビル。スサと言われる場所のすぐ隣なんだ。ここからの話がまた驚きだ。いいか、聖書でスサの記述を読んでみろ。ここは、いたるところ銀だ。銀また銀だぞ。エステル書を読むとな、「寝台は金と銀で出来ている」とある。分るか? それで、その聖書の銀がどこから出たか。答はチョーガ・ザンビルさ。金属取引所の連中の噂では、埋蔵量が一億オンスを越えるというんだ・・・」
 トッピングの話が終るまで、誰も口をきかない。それから活発なやりとりが行われる。当り前だ。誰もペルシャの銀の鉱山を見た者はいないんだ。あるともないとも結論など出る訳がない。ただ確実なのは、この話が本当とすれば、銀の価格が確実に下るということだ。
 この話に乗らなかったのはアルバートただ一人である。何故か。散会する直前にアルバートが説明する。アーガ・ファードーシに僕は三回しか会ったことがないんですけど、二、三年前にテヘランで酒を飲みながら、あの人の好きな詩を教えて貰ったんですよ。聖書にある詩じゃないです、ええ。オマール・ハイヤームです。十二世紀に書かれたものなんですけどね。含蓄がありますよ、これは。

 受取るなら現金にしろ。遠くから聞こえて来る太鼓の音など、あてにはならん。

 全員、納得だ。含蓄どころか、こいつは図星ってやつだぞ。オマール・ハイヤーム、お前は正しい。
 しかし、聖書が間違っているだなんて、そんな馬鹿な。
                       (終)

 (題名に関する註 原題は Silver Bears 。Bear というのは売りに出る人達のこと。反対に買いに出て勝負する人達を Bull という。普通は強気に出る人が買いで、弱気の人が売り。この本では、売りで儲ける人のことを指している。つまり、原題の意味は「銀を売りに出る人々」のこと。原題を直訳して「銀の熊たち」もどうかと思ったが、結局「銀売りに賭けろ」にした。
 尚、作者の名前は Paul E. Erdman)