銀売りに賭けろ
            ポール・E・アードマン 作
             坂本 進 能美武功 共訳

プロローグ
 ペルシャの南西部はほとんどが沙漠である。今日、この地はクジスタンと呼ばれている。この地域で最も有名な都市、アバダン。ここではイランで産出する膨大な量の原油が精製され、世界中の貯蔵庫へ送られている。三千年前、アバダンはチグリス・ユーフラテス河の河口に面した住む人もない沼地に過ぎなかった。直ぐ北に接した地域から産する石油は、今は何でもないことのように自動車の燃料に使われているが、当時この地では、石油は迷信を生み出すもとであり、特にゾロアスター教を生み出した。ゾロアスター教においては、地中から魔法のように吹きだす「火」こそは、信仰の中心をなすものであった。いうまでもなく、この火は地下の油田から発生するガスの燃焼によるものであった。当時この地方はエラムと呼ばれており、その首都はシュシャンであった。別名をズサあるいはスサと呼ぶ。スサはペルシャ最大の都市であるばかりでなく、古代世界で最も重要な都市の一つである。紀元前四千年頃には既に人が住んでおり、紀元前六百年から紀元前三百五十年頃までが、その最盛期である。この時期は、ネブカドネザール、シリウス、ダリウス、クセルクセス、そしてアルタクセルクセスまで歴代の王が支配する王国の首都であった。しかし紀元前三二六年、アレキサンダー大王の侵攻を契機にシュシャンは衰退期に入る。プルタークによれば、アレキサンダーは、進攻の途上で、ほとんど棚ぼた式に、何億ドルにも相当する貴金属を戦利品として奪い取ったという。しかし、彼はこの富を使いきる暇もなく、数百マイル西方のバビロンの戦いで敗死する。
 聖書には、エラムとその首都シュシャンについて、かなり詳細な記述が残されている。まず創世記の第十章に、ノアの曽孫の一人がこの地に住みついたことが記されている。さらに第十四章には、エラムの王が数人の王子達と共に邪悪の都市ソドムとゴモラを攻撃したことが述べられている。このことは、シュシャンやその周辺の人々が過剰な好色扇情性、猥雑さ、あるいは偶像崇拝、を好まなかったことを示している。ダニエル(訳者註、ユダヤの預言者)は、シュシャンの人々がどれほど偶像崇拝を嫌っていたかを、身をもって体験した。エラムの王ネブカドネザールは、ダニエルがゾロアスター教の、爪先で立って踊るラインダンスに加わらず、宮殿の窓辺に膝まづいて、ヤーヴェという名の神に祈っているのを発見した・・・そのとたん・・・あっという間にダニエルは、ライオンの穴倉行きの刑に処せられる。(訳註 老婆心ながら、ダニエルはこれで死にはしなかったことを付け加えておく。詳しくはダニエル記をどうぞ。)しかし、エステル記にはシュシャンの支配者たちが遊びやゲームに関して、特に女性たちとの遊びに関してはこの逸話ほど厳しくはなかったことが述べられている。これを裏付ける話の主人公は、舌を噛みそうな名前の王、つまり、アハシュエロス王というのだが、この王がある時、妃ワシテを追放する。その後継者選び、即ち、世界最初のミス・ワールド・コンテストに、この王は独特の方式を打ち出す。王の寝室での夜とぎの成果で判断するというものである。十二箇月の後、本当の恋よりはよほど草臥れる仕事に違いなかった筈だが、黒い瞳のユダヤ人女性エステルを後継者に決めた。エステルは早速ワシテの冠を継ぎ、アハシュエロス王のベッドでのゆるぎない地位を築く。
 さて、王妃、美人コンテスト、ライオンの洞穴の話はこのくらいにするとして、面白いのはそのベッドなのだ。エステル記第二章第六節によればシュシャンの宮殿のベッドは金と銀で出来ていたという。第五章にいくと、同じアハシュエロス王がハマンという男に、ほんのポケットマネーといった感じで銀貨一万枚を与えたことが記録されている。当時、銀貨一万枚は六十ミナスに相当し、一ミナスは六十シュケルに、一シュケルは純銀二百五十二と三分の二グレイン(訳者註 一グレインは0・0六四八グラム)に相当する。掛け合わせると一八、八四0、000トロイ・オンスとなり、今の貨幣価値に換算すれば、ゆうに一億ドルに相当する銀をハマンは得たことになる。これらの事実はエラムの地、そしてその首府シュシャンが大量の石油ばかりでなく、銀という資源にも恵まれていたことを示している。
 ただ、この銀にはいろいろな問題があったようである。即ち、エラムの石油は疑いもなく神の恵みであったが、シュシャンの銀は悪運をもたらす傾向があったようだ。アレキサンダー大王と同じようにハマンも新しく見つけた富を使いきれぬまま生を終えた。聖書には次のように書かれている。「そこで人々はハマンを、モルデカイを処刑するために準備してあった絞首台に、掛けた。」彼の容疑は「陰謀」であった。聖書には、処刑のやり方が述べてあるが、絞首台の高さが五十キュービット、即ち約七十五フィート(訳註 約二十三メートル)であったそうだ。一体どうやってこの高さまで彼を引っぱり上げたのか、誰しも興味を持つところである。縄でか?
 今日、シュシャンまたはスサはただの四つの白い丘に過ぎない。それはペルシャ湾岸のアバダンから、中央イランのザグロス山脈の麓にあるディズフルまで、の間の幹線道路(道路と呼べるとしたらだが)の西側約二マイルのところにある丘(道路からやっと見えるかどうかの丘だが)である。シュシャンの華々しい銀についてのこの聖書の話も、この都市とともに忘れ去られる。此の伝説がふたたび日の目を見るのは一九六0年代も終わりに近づいてからである。日の目を見たとたん、アメリカやヨーロッパだけでなく、世界中の、何万人という商品相場師たちがこれに翻弄され、巧みに仕組まれた二十世紀最大の市場操作によって、元も子もなくしてしまうのである。しかし、ほんの少人数だが巨万の富を得た者がいる。背後にはまたもやシュシャンの陰謀があった。しかし本当に何が起ったかを知る者は、今日に至るまで、いないように思われる。何故ならシュシャンの秘密は、今回はあるスイスの銀行の金庫の中に、そしてこの陰謀に参加した生き残りの連中の頭の中にだけ、しっかりしまい込まれているからである。
 そのうちの何人かはアメリカ人である。彼等の、事件との関りは沙漠で始まった。それもペルシャ南西部の沙漠ではなく、アメリカ合衆国南西部の沙漠である。時は西暦一九六七年三月下旬のことである。

     第 一 部 (一九六三年)

     一
 三月の終りのグランド・キャニオンは荒涼たる場所である。その南の縁にあるビッグ・ロッジ・ホテルのロビー・・・普段は旅行客と、彼らが連れて来るうるさいガキどもでごったがえすそのロビー・・・でさえ、全く人影はなかった。何故なら、ただ三月であるだけでなく、それは日曜日の朝だったから。神を恐れるアリゾナの人達は、教会に行っているか、或はやや自責の念にかられながら、まだベッドに潜り込んでいるか、どちらかだったのだ。
 十時四十五分頃、黒いキャデラックが乗り込んで来て、この完全な静けさが破られた。車から出て来たのは胡麻塩頭の、黒づくめの服を着た男だ。彼は回転ドアを押してホテルに入る。回転ドア・・・この荒れた西部の街には似付かわしくない装置である。そしてフロントに進んだ。あたりには人っ子一人いない。しかし呼鈴があった。そこでその男はそれを叩いた。三度。強く。割合と小さなベルだった。しかし恐ろしい音をたてた。いや、それほどでもなかったかもしれないが、この男の来る前に辺りを支配していた静寂が、その音を際立たせた。聴覚的刺激はすぐに視覚的結果を生んだ。デニムのズボンに、格子縞のシャツ姿のフロントの男が現れた。二、三の言葉が交され、フロントの男は黒福の男に鍵を渡した。二個の鍵である。一個はロビーのすぐ後ろにあるラウンジのためのもの。ラウンジは通常この時期には一般の使用を禁じてある。公開しても、使用頻度は極端に少ないことが分っているからである。黒衣の男はラウンジに進み、鍵で扉を開け、中を見る。うしろから従順について来たフロントの男に、「よろしい」と頷いて見せ、再び扉を鍵で閉める。男は階段を登り、フロントの男は客のただ一つの荷物、小さな黒い手提げ鞄を下げて、その後ろに従う。二人はロビーから消える。
 数分して、フロントの男はロビーに戻って来る。新しい客が入って来た。これも連れのない一人客。中年。濃紺のサージの上下、ピンクのシャツ、赤いネクタイ、それに茶色の葉巻。荷物はなし。どうやらコーヒーショップを捜していた様子だが、それは丁度階段の向かい側にあった。ロビーと同様、そこは客がいず、だらしなさそうなブロンドの女の従業員が一人いるだけ。紺サージの男の註文したコーヒーは、五分かかって出てきた。続く三十分はホテルへの客は上向きだった。次々と五人、同様に黒っぽい服装の男達、うち四人が葉巻。五人ともコーヒー屋に入る。葉巻なしの男はガムだ。六人は、年取った烏(カラス)のように、一列に止まり木に坐る。烏・・・少なくともそれが、六人に対してブロンドの女の持った印象だった。十一時四十五分に、まるで魔法のように六人は立ち上り、ロビーに出る。あとに残ったものは葉巻の煙、六個の空のコーヒー茶碗、微かなフルーツの香り(これは香水)、五人分のチップ七十セント。ロビーには鍵を持った黒服の男が立っていて、六人に軽く頷き、顎でラウンジの扉を示す。七人はラウンジに入り、扉が閉まり、鍵をかける音。そしてこのビッグ・ロッジ・ホテルのロビーに再び静寂が戻る。三月の終り、日曜日の朝、外は寒いが、太陽が明るく照っている。
 ラウンジの中で急にボソボソと会話の声が上がり始める。各自椅子を取って、部屋の真ん中にある背の低いテーブルに席を取ったのだ。真ん中のテーブルは、粗削りの材木を釘で打ち付けて作ったもので、本物の西部の大工の手になるものと思われた。六人を呼び出した黒服の男ジョー・フィオーレは、その巨体を部屋にあった一番大きな肘掛け椅子にドスンとのっけ、ついでにテーブルの上に、ピカピカに磨きたてた二つの靴をガタッとのせた。しかし、テーブルに上った靴は彼のものだけではなく、既に何個かがその時までにのっていたのである。
「完璧だろう? どうだ?」とジョーが訊く。
「ああ」と他の者達か異口同音の答が返って来る。
「誰もつけられなかったな?」とジョー。
 誰もつけられていなかった。ニューヨークからの男は、まづフェニックスまで飛び、一晩泊った後、エイヴィスのレンタカーでやってきた。シカゴからの男は、アルバカーキ空港経由で、こちらはハーツ(の車)を借りてきた。マイアミからの男はレノを中継地にしていた。ボストン、ロサンジェルス、セントルイスからの男達も同様だった。全員、西部にあるそれぞれ異った空港に前日の夜着き、それから完全に人気(ひとけ)のない高速道路を何百マイルも自分で運転して、この辺鄙(へんぴ)なグランドキャニオンの会合にやって来たのだ。主催者のジョー・フィオーレだけは別で、彼はラスベガスから直接自分の黒くて長いキャデラックで来たのだった。
「ここへ来るのに厄介な手順を踏んで貰ってすまなかった。しかし、この御時世だし、用心に越したことはないからな。」
 誰もがこれに賛成した。この御時世どころか、いつの時代でも用心に越したことはない。それからニューヨークからの男が口を開いた。
「まあそれはいい。俺達はみんな来た。大仕事っていうのは何なんだ。」
「大仕事というのはなトニー、お互いのこの財政的苦境を打開する手段についてなんだ。知っての通り、銀行が、一万ドル以上の金融取引に関しては全て複写写真の証拠を取るようになってから、こっちは上がったりだ。取引は全部キャッシュでやるしか他に手段がなくなった。しかし、もう大丈夫だ。良い手を見つけた。こいつを実行に移しさえすれば、取引は以前のように、楽々と出来る。おまけに連邦政府だろうと何だろうと、こっちの取引の追跡は不可能なんだ。」
「ほう、どうするんだ。」
「いいか、スイスの銀行を通してやるのさ。」
 一瞬全員が黙ったのは、名案だと感心したからではなかった。次の瞬間、「馬鹿な!」と半分呆れ顔で、全員が反撥した。
 それからシカゴの男が言った。
「おいおいジョー、そのどこが「良い手」なんだ。俺達が金を隠すのにスイスの銀行を使っているというのは、大昔からの噂なんだ。この噂をお前、知らなかったって言うのか? 寝ぼけているんじゃないだろうな。」
「まあちょっと待て。」とフィオーレ。「俺だって、その噂はよく知っているさ。しかし、お前達のうちで、スイスの銀行の誰かを知っている奴がいるか?」シカゴを指さす。
「お前はどうだ。」今度はニューヨークを。次にマイアミを。
 全員、顔を見合わせる。いや、誰もスイスの銀行と取引した者はいない。ジョー・フィオーレは顔を綻(ほころ)ばせる。
「そら見ろ。」とフィオーレ。「口だけだ。誰もやった奴はいない。」
「だがなジョー」とロサンジェルスが言う。「世界中のあらゆる新聞がその偽の情報を流しているんだ。俺達がスイスの銀行を使ってるってな。今更連中の中で、俺達と取引しようって気になる奴がいるとは思えないな。そいつは必ず面倒に巻き込まれるだろうし、自然にこっちにまでおっかぶさって来るさ。」
「その通りだ。」とフィオーレ。「俺は試してみた。スイスへ行って、チューリッヒの大きな銀行で口座を開いてみたんだ。するとどうだ。誰かからちゃんと何かを聞くんだな。暫くしたら、俺の金をどこか別のところへ移せと手紙が来たよ。それも一週間以内に移せとな。」
「そら見ろ。それで一体どうしてなんだ、こんな地の果てのような所へみんなを呼んだのは。」ボストンが聞く。
「それがな、実に完璧な解決法を見つけたからさ。スイスの銀行を一つ、丸ごと買い取ったんだ。これで他のスイスの銀行の奴らは全く用がなくなったのさ。我々だけでやって行けばいいんだからな。俺達の子供を使って、俺達自身の金でな。」
「それで、本当に管理している人間が誰か、分った時はどうなるんだ。」ボストンが聞く。
「そいつも解決ずみだ。表に立ってくれる恰好の人物を見つけたんだ。公爵だ。本物だ。だからそいつと俺はうまく行ってなきゃならんが、それは大丈夫だ。こっちの組織のことも分っている。だから、漏らすようなことはない。絶対にな。」
 ビッグ・ロッジのラウンジに疑いの雲がかかる。セントルイスからの男が口を開いた。この男は優しくて上品、博打と売春にしか手を染めず、たとえ割がよくても、暴力の伴う仕事には決して手を出さない。
「おいみんな、ジョーの言うことを良く聞いてみようぜ。何か裏にあるのかも知れないだろう?」そしてフィオーレの方を向いて、「なあジョー、そいつはどういう風に機能するんだ?」
 ジョー・フィオーレは、この「裏にある」という言葉に傷ついた。ひどく傷ついた。しかし続けて言う。
「まづ、定期便サービスというものを作る。つまり、こっちから定期的に人間を送る。そして、お前達の余ったキャッシュを引き取る。集めた金はメキシコ経由でスイスのこちらの銀行に入れる。あっという間に現金は見えなくなるさ。」ここで大きな音をたてて指を鳴らす。「それからは投資だ。ロスチャイルドとか他の錚々たる連中がやっているのと同じやつさ。俺達の取引相手は全世界だ。いいか、俺達の息子に堅気(かたぎ)の仕事を与えるいいチャンスでもあるんだ、これは。この銀行が大きくなれば、そこでの仕事も沢山出てくる。息子達のいい勤め口になる。そろそろ俺達も将来のことを考える時期なんだ。確かに俺達のやってきた仕事はたいしたものよ。だがな、子供に同じことをやらせるのかどうか、ここは一つ、頭を使って、子供も金も生かすことを考えなきゃな。これでいけば子供達に、合法的で、社会的地位も高い仕事につかせられるんだ。」
 訴えは熱の籠(こも)ったものだった。もしこれがニューヨークのエリート金融業者の集まりでなされた演説だとしたら、拍手喝采で迎えられたことだろう。何故なら、ウオール街でちょっと歴史に興味のある人間なら、この国の最も大きな金融組織は、今この冬の朝のアリゾナに集合した男達と同じ、非常に単純で、影のある仕事に元々由来していることを百も承知だからである。確かに国を支える程の大組織になるまでには、色々な道があったろう。しかし、そのような組織に育てる最も速い、最も確かな第一歩は、組織の要(かなめ)と言えるもの、つまり銀行、を始めるに越したことはないのだ。
 このようなジョー・フィオーレの卓見を見抜くことが出来る人物は、その仲間にはいなかった。それは次のニューヨークからの男の返答によって見ることが出来る。
「おう」と彼は言う。「俺の息子は、やけに頭がいい奴だがな、今まだ十三だ。そいつが副頭取になってそこを切り盛りするまで、誰が銀行を見るんだ?」ニューヨークはどうやら遅い結婚だったらしい。
 ジョーはニューヨークのこの冷やかしも、またそれに続くみんなの笑いも無視することにした。
「こちらの組織から、あちらでの業務を引き継ぐため、若干名からなるチームを拵えた。今晩スイスへ発つ予定だ。連中は最高のスタッフだ。そいつは信用してくれ。お前達に聞きたいのは、この仕事に興味があるかどうかということだ。興味があるなら、早速こちらは一連の行動をとることになる。例えばまず最初に、一人八パーセントの株式をお前達に配る。俺の購入した初期の価格でだ。見返りに要求することは、定期的に預金を入れて欲しいということだ。」
 沈黙。
「どうだ。賛成の奴は?」とジョーが訊く。
 相変わらず沈黙。
 それからニューヨークのトニー・レガッツォが言う。「おいジョー、こいつはちょっと時間をくれなきゃ駄目だな。お前がまずスイスに行って、仕事の状況を俺達に知らせるんだ。その報告を見て俺達は参加するかどうかを決めるさ。今は駄目だ。」
 他の者達も全員これに同意する。
 そこでニューヨークは続けた。「よーし、これでこの件は決着だ。それで俺から話がある。みんなが集まっているからいい機会だ。俺のシマに誰かヘロインを入れて来た奴がいる。先月からだ。市場は滅茶滅茶だ。モントリオールからだ、という噂を聞いた。こういうことが一箇所で起ると、すぐ他のところにも・・・」
 全員ほっとした表情。これで日常の問題に戻れる。訳の分らん話はご免だ。ジョー・フィオーレはちょっとの間その話を聞いていたが、すぐに部屋を抜け出て、ロビーの公衆電話に向った。
 ベガスはすぐ出た。
「おう、ジョーだ。ドックを出してくれ。」
 少しの間。
「ドックか? よし。あの計画は予定通り実行だ。今晩手筈通りのフライトでロスに発ってくれ。それから、お前達の手で銀行が手に負えない時は俺が出る。個人的にな。もう一つある。いいか、ちょっとでも変なことがあれば、・・・いいか、ちょっとでもだぞ・・・お前達、面倒なことになるんだからな。分るな? この仕事は百パーセント、文字通り百パーセント、正攻法で行く。いいな?」
 ドックの確約の返事。
「それから、アルバートの面倒をよろしく頼む。分るな?」

     二
 九時、ミラノ・マルペンサ国際空港行きのアリタリア航空九六七便はロサンジェルスを出発した。DC8の大きな機体が、水平飛行の高度まで上った時、マシュー・「ドック」・スマイス、マーヴィン・スキナー、アルバート・フィオーレの三人は、すぐに機の前方にあるカクテル・ラウンジに行く。スマイスは三人のビールを註文する。ビールが来る。マーヴィンはそれを少し飲み、辺りを見回し、それから訊ねる。
「ドック、本当にこの飛行機で大丈夫なのか?」
「いいかマーヴィン、」とドック・スマイスは答える。「俺が一度大丈夫だと言えば、何回訊いたって大丈夫なんだ。俺の言う通りにしろ。ちゃんとうまく行くから。」
「一度お前がそう言ったのは覚えているさ。だがな、この飛行機はイタリア行きだぞ。スイス行きじゃない。」
 スマイスは溜息をつく。「そうさ。いいか、これが最後だぞ。もう説明はしないからな。ルガーノってのは、スイスでもイタリア側にあるんだ。言葉もイタリア語だ。何故か。それはな、ルガーノがイタリアとの丁度国境近くにあるからだ。それでイタリア語なんだ。」
「それでどうなんだ?」
「それで説明は終りだ。」
「おいドック、怒らないでもいいだろう。」
「怒っちゃいない。怒っていない証拠に、もう一言説明する。ルガーノには空港がない。ミラノにはある。だから・・・」
「分ってる。それはもう聞いた。だけどやっぱり変なんだ。今、日本に行こうとする。中国は日本に近い。言葉も似ている。だから・・・」
「マーヴィン」とドックは遮(さえぎ)った。「いい加減にして、俺をほっといてくれ。変だと思ったらアルバートに訊いてみろ。」
「アルバート」とマーヴィンは言う。返事がない。アルバートは読書中だ。
「アルバート」とドックが叫ぶ。「おい、頼む。マーヴィンがお前に何か訊きたいんだ。」
 アルバートは顔を上げる。「何ですか?」
「マーヴィンはこの飛行機で大丈夫かって訊いてるんだ。」
「ええ、分ってます。」
 ドック・スマイスは持て余して、助けを求める目付きをする。そして再び言う。
「なあアルバート、こいつに、次の二つの声明のうちの一つを宣(のたも)うてやってくれないか。一つは、「そうだ、この飛行機で大丈夫だ」、もう一つは「駄目だ、この飛行機じゃ着かない」のどっちかを。」
 アルバートはマーヴィンの方を見る。「マーヴィン、この飛行機で大丈夫だ。」
「ああ」とマーヴィンは言う。「そうか。」
 ドックの目は再び宙を仰ぐ。
「マーヴィン、どうしたんだ。俺にはあれだけ食い下がって来た癖に、アルバートなら何も言わないのか。」
「アルバートはいつだって正しいからな。」
 それで三人は黙る。ドックもほっとする。実際、マーヴィンの言う通りだ。アルバートって奴は奇妙な男だ。あんなに頭のいい奴は見たことがない。おまけに学がある。全くすごい学歴だ。それなのに、もの静かで、威張った所がない。父親のジョーとは真反対だ。ジョーが最初に自分の息子をベガスの部下達に紹介した時、とても息子だなどと信じられなかった。分厚い眼鏡、蒼白くて痩せた顔、華奢(きゃしゃ)な手、それに何よりもかによりも、小学生のように顔を赤らめたのだ。だから誰も彼を相手にしなかった。ベガスであんな奴、何の役に立つっていうんだ。それからジョーが彼に事務所を与えた。そして勝負の確率の計算の仕事をさせた。結果はすぐに伝説的なものになった。こいつは「十代の預言者、ニック・ザ・グリーク」だ。いや、実際は十代じゃない。アルバートは二十六歳だったから。しかし十六歳にしか見えないんだから。まあいい、次のような具合なんだ。もし彼が一九八七年のワールドシリーズで、セントルイス・カーディナルスが、六ゲームで優勝する確率が六七%だと言えば、さっさと翌日、ブッシュ・スタジアムに行って、「六ゲームでカーディナルスの勝ち」の券を、子供の分と一緒に買うんだ。景品で、その後十年間ただで、十月のミズーリ州の太陽のもと、ホットドッグとビールが楽しめるってものさ。またもし彼が、サンディエゴの八月の終りのウイークエンドに、二回雨が降る確率が五十%だと言えば、南カリフォルニアにその頃旅行する奴で、傘を持って行かないとすれば、そいつは大馬鹿なんだ。どうしてあの男にこんなことが出来るんだ。
 ドックは以前アルバートに、よせばいいのに、「どうしてこんなことが出来るんだ」と訊いたことがあった。アルバートの答はこうだった。十六歳の時、マサチュセッツ工科大学で、ポール・サミュエルソンに経済学を習っている時に、二人の外国人の確率論にすっかり魅せられてしまった。一人はジョン・フォン・ノイマン、もう一人はオスカー・モーガンスターンだ。この時「ランダムウオークの理論」をマスター、その後シカゴ大学でミルトン・フリードマンに師事し、金融分析の技術を身につけた。アルバートによれば、この二つの分析理論を連動させて、自分は、確率が絡(から)んでくるいかなる物事・・・つまり、競馬、株、サッカー、エレクトロン、等々・・・にも適用出来る技術を開発したのだ、と。参った、参った。ドックはアルバートに二度とこういう馬鹿な質問をしなかった。こんな訳の分らない答を聞いて何になるというのだ。それにドックは、自分の無知をわざわざ人に晒すような男ではない。自分だって知的人間だという確固たる評判は作り上げて来たのだ。
 マシュー・「ドック」・スマイスほど頭が廻り、想像力に富んでいて、ハンサムな男は東部全体を捜しても、二人といるものではない。ミシシッピーの西側に住んでいるものなら、こういう評判がどういうことを意味するかよく分っている。何故なら、ここでの競争は実に激しいからだ。スマイスは信頼と尊敬を生み出す何かを、顔から滲み出させていた。彼は全身から磁気のようなものを発散させて、周囲の人々に、「ああ、あいつ、知っている男だぞ。好感の持てる奴だ。誰だったかな」という気にさせていた。テレビの有名なニュースキャスター、ウエールズの上院議員、こういう人物に間違えられるのだ。たっぷりしたウエーブのかかった髪、意志の強そうな顎、鋭い青い目、がっしりした体躯、軽々とした足取り・・・女性にももてる姿だ。それも、十六歳から六十六歳までの。彼の深みのある声は、時にはイートン訛りに響き、時にはハーバード訛りになるのだが、会議のテーブル越しだろうと、カジノの喧騒の中でだろうと、人々の耳を惹付けずにはおかなかった。中西部で、偽画家という小さな役柄から身を起し、レーヴェンワースで三年修業し、ドックはアメリカの犯罪機構の中で、徐々にトップにのし上がって行った。名前も最初のミルウォーキーのチャック・シンキエヴィッチから、現在のマシュー・D・スマイスに変えた。そして、自ら自分に授与したPhDの称号、並びに何か怪しい意味不明のLLDの称号も彼の演じる新しい役柄の大事な小道具であった。大抵の人間は、この小道具を見て、この男はこんなものに頼らなければならない弱い男なのかと誤解するのだが、その誤解に気付いた時は既に手遅れであった。この滑らかな外装は、ほんのベニア一枚の薄いもので、その下にはこの仕事で成功を収めるに必要な彼の同僚全てに匹敵する性質が隠されていた。即ち、皮肉、残酷さ、通常の人間が大切と思っている価値を冷やかに眺める能力、特にそれらを失っても平然としていられる能力、である。フィオーレ・グループが、このスイスの銀行の契約に手を染めた時、ドックは最初から、本業からほど遠いこの仕事の実行を任されたのだ。彼はもう既に、ボスの唯一の片腕の地位にあったにも拘らずである。彼の説明は、「いや、面白いんだ、この仕事は」であった。ドックはこのスイスの銀行の仕事を、自分の才能の腕試しぐらいに考えていた。ボスがどういう理由でか、この仕事は正攻法で行く、と言っているからでもある。しかし、正攻法はどのぐらい続けるつもりなんだ。ジョーの息子も一緒につけてきたとなると、万一には常にそなえておかなきゃならない。坊やがもしヨーロッパの法律にひっかかるような事をやらかせば、一遍に正攻法もへちまもありはしない。そのためだ、マーヴィン・スキナーもつけたのは。頭は鈍いが、書類の偽造にかけては西半球いちの腕前だ。それに荒っぽい立ち回りになれば、フィオーレ・グループでマーヴィンの右に出るものはいない。ボスが本気で終りまで正攻法でやるつもりなら、マーヴィンをつけたりはしない筈だ。自分の考えをこのように纏(まと)めて、やっと落ち着き、ドックは深い眠りに落ちる。飛行機は東に向って飛んでいる。

 アリタリア航空九六七便の乗客が、移民及び税関のチェックを受けて通り過ぎる時、マルペンサ空港のコンコース内の大時計は午後六時を指していた。
 その大時計の下に、背の高い、痩せた男がいた。素晴らしい仕立ての外套、黒い山高帽、灰色の手袋、それにステッキ。三人が自分の方に近づいて来るのを認めると、自分も出迎えるように前に進んだ。
「ドットーレ・スミース?」と彼は訊ねる。「イエス」の返事を聞くや、典型的なイタリアの挨拶。両手でラスヴェガスからのドクターを抱きかかえる。
「これはこれはようこそお出でに。」ドック・スマイスをやっと無事放免して、次にアルバートに向う。
「そしてこれは、可愛いアルベルトさんでしょうな。お父上のジウゼッペさんから、お噂はかねがね。」第二の抱きかかえの儀式。
 次がマーヴィン。彼は畏怖と茫然の混ざった目でこのイタリア式挨拶を見ていたが、彼も同様の扱いを受ける。
「さて」と出迎えの男が言った。「皆さんに一つお願いがあります。私のこの名前のことなのですが、つけられた当時、私にはまだ、自分の運命に対する発言権がありませんでして。与えられた名前は、プリンチッペ・ジアンフランコ・ピエトロ・アッヌンツィオ・ディ・シラクーサなんです。しかし、アメリカからの友人はみんな私のことを、ジョンと呼んでいます。ですから、是非みなさんも私のことをジョンとお呼び下さい。いいですな?」
「喜んで、ジョン」とドックが言う。「それなら私の方もどうか、学術的敬称は抜きで願いたいです。どうか、ドットーレはおやめになって、ただ、マシューとだけ。」
 マーヴィンはポカンと口を開けて立っているだけ。スミース! ドットーレ! ジョン! どうやら、正しい飛行機も結局のところ、間違っていたかも知れない。しかし「ジョン」はマーヴィンにそれ以上の考察の時間を与えなかった。
「皆さん」と彼は言う。「リムジンを予約しておきました。ルガーノのホテルに、出来るだけ早くお移りになりたいでしょうから。荷物はこちらの運転手にお任せ下さい。」
 スイス国境へと高速道路を進んでいる間に、北イタリアの空に夕闇がかかってきた。一時間かからないうちに彼らはルガーノの郊外に着く。景色は驚くべきものだった。市の中心の道路の両側を飾っている棕櫚の並木、湖の静かな水、そして水に写っている辺りの景色、それを囲んでいる山々、そこに点在している集落の灯。それはお伽話の世界。ラスヴェガスのキンキラキンの人工的な夜景に慣れた三人のアメリカ人にとって、本物の景色とは信じ難いものだった。ドック・スマイスも、思わず感嘆の声を上げる。
「こんなに綺麗なところとは想像もしなかったなあ。」
「そうです。でも、こうなんです、ここの景色は。」と公爵。「ラ・ベッラ・シュヴィッツェーラ。(伊「美しいスイス」)美しい国。金のある国。」
 リムジンはホテルの玄関に着き、三人のドアマンが出迎える。公爵はすぐ支配人を呼ぶ。支配人の公爵個人に対する丁重な挨拶、また、その名誉あるアメリカからの客に対する慇懃なお辞儀。公爵はぐずぐず時間を伸ばすようなことはしない。三人は長旅で疲れているだろうとの配慮だ。「では、明朝九時に。ロビーで。」
 
 リムジンが再び動き、リヴァ・カッチアを下っていた。まだ朝九時ちょっと過ぎでしかない。ヴィア・マンツォーニでリムジンは左に曲る。そして、リフォールマ広場に入る。公爵は運転手に、止まれと言う。彼とアメリカ人は車から人込みの広場に出る。
「さあ、着きました。」とアッヌンツィオ公爵は言う。
 ドックは十階建ての建物の重厚な玄関を見上げる。玄関はガラスと金属から成り、その前に大理石の階段がある。銀行の顧客達が急ぎ足で出入りする。その度に制服姿のドアマンが扉を開けてやっている。
「すごい。こいつは大当たりだぞ。」とドックが言う。まだ彼の意識は、ネヴァダ州の沙漠、博打の巣窟から、この国際的な銀行の上品な雰囲気に切り替わっていないものと見える。言葉の選び方からそれが窺える。
 ドックは続けて言う。「さあ、行くとするか。・・・一丁やってやる。アメリカンスタイルでな。」
 ドックは一歩踏み出す。アルバートとマーヴィンがそのすぐ後に続く。そして大理石の階段に進む。
「モメーント。ちょっと待って。」と公爵が言う。
 ドックは立ち止まる。
「ああ、何か儀式でもやるのか?」
「いいえ。」と公爵は答える。「儀式はいらないんですが。」
「じゃ、行くだけだ。」とドックは階段を上ろうとする。
「モメーント。」と公爵は繰り返す。「行く先が違っています。」
「行く先が違う? どういうことだ。」とドック。
「建物が違うんです。我々の銀行はあっちの建物です。」
 三人は公爵の指さす方向に目を向ける。指さされたのは、十字路の向こう側、ただのレストラン。それもかなり質の悪いレストランである。正面はピンク色の煉瓦で出来ていて、その上に青い字で、レストランの名前が書いてある。但し、ところどころ青いペンキが剥げ落ちている。

 トラットーリア・モンテ・サン・サルヴァトーレ

「公爵、何だあれは。」ドックの声に突然刺(とげ)が含まれる。「俺達を馬鹿にするなよ。あれはお前、ピザを食わせる店じゃないか。」
「ええ、そうです。」とジアンフランコ公爵は答える。「でも、勿論飯屋のことを言っているのではありません。二階です。レストランの上です。」
 ドックは横目で公爵を見る。両手の拳(こぶし)がしっかりと身体の両脇で握り締められている。
「公爵、誤魔化しは止めにしようぜ。さっさと銀行を見せるんだ。黙ってな。」
 四人が近づいた建物には、隣り合った二つの入口がある。そのうちの一つには、長い粘着性の紐が何本も垂れ下がっている。ピザにたかる蠅を撲滅・・・とはいかないまでも、減らそう・・・との努力であろう。もう一方の入口には、扉・・・閉まってはいなかったが、扉の役目は果たす・・・があり、暗く狭い階段に続いている。四人は一列縦隊になって、手探りで上って行く。電灯はもともとないのか、あっても切れているのか。
 踊り場があり、そこで曲り、また上る。二つ目の踊り場が二階の扉に繋(つな)がる。今度はちゃんと閉まっている。しみのついた小さな紙が貼付けてあって、

    BANCA INTERNAZIONALE
DI SICILIA E AMERICA
IN SVIZZERA S.A.

 もう一枚紙がある。これは新しいもので、英語の訳、

   在スイス シシリア・アメリカ国際銀行

 それを殆どよく見もせず、ドックは公爵を押しのけ、扉を開ける。
「ここの係は誰だ。」とドックは訊く。
 小さな男、多分六十五ぐらいだろう、が机について元帳の上に屈みこんでいたが、立ち上る。
「私です、シニョーレ。私が主任会計士です。」それからおずおずと「どのような御用件で。」
「聞いている筈だ。この銀行の所有者が変ったことは。」
「はい、ここの総支配人だったシニョール・マッテリがここを発つ時にそのことを言いおいて行きました。しかし、詳しいことは何も。」
「シニョール・マッテリは今どこにいる。」
「私には分りませんで。多分シシリアに帰ったものと思います。新しい経営方針は、新しい所有者から示される筈だからと。それがあなた様で? シニョール。」
「そうだ、私だ。それから、これが仲間だ。」傍にいる三人を示す。が、それ以上の紹介はしない。
「銀行の持つ不動産はこれだけなのか?」
「ええ。部屋は三つあります。普通はこの部屋では、女の子が働いているんですが、今日は二人とも休みです。することがないんです。私の部屋は隣で、助手と二人で会計の仕事をしています。助手も今日は来ていません。病気なんです。もう一つの部屋はシニョール・マッテリの事務室で、やはり今日は・・・」
「分ってる。」ドックが遮る。「シシリアのどこかにいる。」
「これが銀行の帳簿か。」机の上の元帳を指さしてドックが続ける。
「はい、さようで。」
「借りるぞ。アルバート、」ドックがアルバートに命じる。「帳簿を調べてくれ。マッテリの部屋を使え。この男を連れて行くんだ。俺は公爵に話がある。下へ行く。調べがついたら、俺達のところに降りて来るんだ。マーヴィン、お前は俺達と一緒に下に降りる。」
 二時間後、彼らは・・・即ち、公爵と二人のアメリカ人は・・・まだ下のピザ屋のテーブルを囲んで坐っていた。ドック・スマイスは、三杯目のエスプレッソを飲みながら、疲れた様子で公爵に質問を続ける。
「なあ」とドック。「どうも俺にはよく分らないんだが、あんたはこの銀行を見に来たんだろう? 場所を見たんだろう?」
「いや、そうでもないんです。」
「そうでもないとはどういう意味なんだ。じゃ、どうしてここにあるのが分ったんだ。」
「周旋人が教えてくれましたから。」
「何の周旋人だ、それは。」
「パレルモ(訳註 パレルモはマフィアの故郷)の周旋人です。」
「そいつは何者なんだ。」
「その男はただの周旋人です。前の持主とこちらの間を取り持っただけです。」
「それで前の持主ってのは誰なんだ。」
「古いパレルモの一家です。」
「フン、大層な古い一家だ。パレルモが聞いて呆れるよ。」
「ジョー・フィオーレはそうは考えていなかったようです。私も交渉相手はかなりきちんとした出の人達だと思っていました。」
「きちんとした出の人達? こんな汚らしいところで店を構えて、行商みたいなことをやっていた連中がか?」
「私に分る訳がありません、そんなことは。」と公爵は抗議する。「出だしをちょっとやってくれと頼まれただけなんですから。それから、ジョーは私に新しい銀行の頭取になれと。但し名前だけだ。箔がつくから、と言って。」
「全く、何て話だ。」とドックが怒鳴る。「それで俺はどうしてもこれだけは聞きたい。あんたはこの仲介役でいくら貰ったんだ。」
「全くゼロです。」と公爵も怒鳴る。「友達の間を取り持つ役をしただけです。」
「ジョーからの礼金もか? パレルモ側からのリベートもか?」
「勿論なしです。」
 ドックはテーブルに身を乗りだし、公爵の腕を掴む。
「いいか、俺の思っていることを言ってやろう。貴様は嘘をついてるんだ。」指がぐっと締まる。「俺は嘘つきは嫌いだ。特にイタ公の嘘つきは大っ嫌いだ。貴様はな、俺が今までに知った嘘つきの中でも、最悪の嘘つきだ。」
 この時アルバートが入って来る。いつもは陽気でのんびりしている彼の顔が、憔悴した表情になっている。
 ドックは公爵の腕から手を放し、アルバートの方を向く。アルバートは隣の椅子に坐る。
「どうだった。」
「まずいです。実にまずい。細かい帳簿にも全部目を通しましたが、全く無駄でした。連中は綺麗さっぱり、何もかもゼロにして引き揚げて行きました。金庫に色々の国の紙幣と小銭で、千六百ドル相当あるだけです。」
「預金とか貸し出しとか、そういう類いのものは?」
「なしです。私の調べたところでは、どうやらここの銀行は、所有者とその親戚の預金だけを扱っていたようです。つまり、ここは税金逃れのための、トンネル会社だったらしいです。」
「じゃあ、さっきの話のマッテリってのは何をしていたんだ。」
「分りません。記録が全部処分されていますから。残っているものは台帳だけで、それを見る限り全くインチキはやっていない様子です。つまりマッテリってのは、言われた通り正直に会計を実行していたようです。」
「それで、俺達はこれからどうすればいいと思う。」とドックは訊く。
「すぐ飛行機に飛び乗って、帰るんですね。」とアルバート。
「まあ、早まるのはよそう。」とドック。「暫く善後策を考えてみよう。しかしこれだけは言っておく。俺達がアメリカに帰るとなりゃ、こいつも・・・」と公爵の腕を再び掴み、「俺達と一緒だ。」
「私は何と言ってよいか」と公爵は吃る。
「それなら口を噤(つぐ)んでおくんだ。」とドック。
「それからなアルバート、お前の親父さんの金なんだが、少なくともそれぐらいは取り戻す方法はないのか。」
「ドック」とぶっきら棒にアルバートが答える。「こっちがまさか、裁判所に訴えることは出来ないでしょう。」
「じゃ、ここで一丁、銀行をおっ始めるってのはどうなんだ。」
「それは理論的には可能です。この銀行は、あらゆる取引の免許が取ってあります。スイス以外の世界各国に対してもです。支店もあるし、その定員も補充することが可能です。ただ、今のところ全く何の活動もしていない。ゼロです。やるとすれば私達がやらなければなりません。預金、貸し付け、外国為替、担保の業務・・・こういうものを立ち上げる必要があります。しかし、理論と現実は違います。三人とも大西洋のこっち側は全く暗いですからね。」
「いや、違うぞ。」とドック。「三人は暗いが、テーブルの向こう側に鎮座まします御仁は、明るいぞ。なあ、そうだろう、公爵閣下殿。あんたには、このヨーロッパ中に、うちの銀行と取引したいっていう友達がゴマンといる筈だな? それから、この他に言っておかなきゃならないことがある。もしあんたがこの件に関して何か打開策を持って来なかったら、それも早急にだ・・・あんたは生きちゃいられないんだ。分るな?」
 この最後の言葉はゆっくりと、穏やかに喋られた。
 ドックは立ち上る。「さあ、アルバート、マーヴィン。俺達はホテルに帰るぞ。公爵、あんたには丁度二十四時間の猶予を与える。逃げるな。逃げても無駄なことは分ってるな?」
 三人のアメリカ人は去る。今や空っぽのレストランに、シシリアの男が一人ぽつねんと残っている。

 次の日正午に、ホテルのドックの部屋にノックがした。
「マーヴィン、開けろ。」とドック。
 公爵である。顔色は悪い。しかし、三人のアメリカ人と握手する時には、その手に力が籠っていた。
「OK」とドックが言う。「聞くことにしよう。嫌な話は忘れてな。」
 公爵は部屋を見回し、椅子を引き寄せ、坐って、足を組む。
「まづ最初に」とドックを真直ぐに見つめて公爵は言う。「これからは、皆さま方三人に、紳士的な態度を取って戴きます。それから、紳士として恥ずかしくない言葉を。」
 公爵は煙草に火をつける。
「いいですな。」と公爵は続ける。「さて、当面の問題ですが、私は銀行のための良い仕事を捜しあてた・・・と、自負しています。大きな仕事です。私が説明を終るまで、みなさんには黙っていて戴くようお願い致します。」
 公爵は部屋を見回す。
「飲み物はありませんか。」
 何の返事もない。やっとアルバート。「ありません。何か飲みますか?」
「ええ、ちょっとワインを。」ドックの方に顔を向けて「頼んでくれませんか。電話はそのすぐ横にあります。」
 ドックの顔の怪しみの表情は更に深くなる。しかし、何も言わず、身体を伸ばして、ベッドの横の小さなテーブルの上の電話を取り上げ、言われた通り註文する。
「有難う。」とアッヌンツィオ。それから再び口を開く。「私のこの計画には、イラン・・・ペルシャと言った方が分り易いですかな・・・が関っています。私の家族は昔からイランとの繋がりがあります。シシリアの貴族とイランの貴族との間で、昔は沢山の国際結婚が行われたのです。これは奇妙なことと思われるかも知れませんが、シシリアと中近東との関係は、サラセンの時代から何世紀も、非常に緊密なものだったのです。ですから、ミラノとかチューリンの新興貴族達の中に、我々シシリア人達をヨーロッパのアラブ人と呼ぶものがいる程です。それはそれとして、とにかく私が接触を保ってきたイランの家族は、大変金持ちで、イランの南西部、カジスタンに広大な土地を持っています。そこは昔、沙漠だったのですが、数年前、その北の山に巨大なダムが建設されました。ダムは私の親戚の一人の名をとって、シャー・モハメッド・レザ・パーラビと名づけられました。その結果、大量の潅漑用水が確保され、私の親戚の沙漠は地球上でも有数の生産力のある農業地帯となったのです。」
「面白い。」とドック。「しかし、それほどでもない。カリフォルニア州の中央峡谷に、同じようなことをしているからな。で、その話が俺達と何の関係があるんだ?」
 公爵は言葉を続ける。ドックを完全に無視。
「この数年で私の友人は、巨大な利益を上げました。彼は用心深い人間で、そのために金を現金で保持してきました。イランのリアルでです。しかし彼はこの金をもっと安全なものにしたい、つまり、外貨で保持したいと思っています。一九五0年代にモッセデーという社会主義者が現れ、イランを殆ど社会主義国に変えそうな勢いだった。その記憶がまだ新しいのです。外国で財産を保持しておけば、母国にまた不幸な事態が起っても安心ですからね。」
 公爵は間を置く。今度はドックから何も反応はない。
「しかしイランはイラン居住民に、リアルを外国に送金すること、或は国内でドルに換金することに対して、非常に厳しい法律を設けています。また、違反者は最高十年の投獄に合います。これは厳し過ぎると思われるかも知れませんが、麻薬取引に関った人間は軍の法廷で本人の釈明を一切聞かず銃殺刑に処すという法律があるほどの国なのですから、当然とも言えます。」
 公爵は再び間を置く。イラン法廷に関する情報は、アメリカ人の腹によく入るまで時間のかかるもののようであった。しかしドックはまるで何の感慨も持たなかったようだ。公爵は拍子抜けがする。
「すると」とドック。「あんたの親戚の連中は、自分でやるのは怖いから、俺達に代りに送金をやって貰いたいという訳だ。」
「その通りです。」
「どのくらいの金なんだ。」
「約四億リアル。」
「ドルでは?」
「約五百万ドル。」
「フン」とドック。「とっかかりとしちゃ、いい金額だ。こっちの銀行に入れる時の相手の条件は?」
「最初にこちらへ送金が成功したら、五%の運送手数料が出ます。こちらの銀行への預金期間は無期限。但し、勿論利子等は普通の条件で。」
「そいつはお互いに満足のいく条件だ。」とドック。「いつ出発する。」
 公爵は一瞬、最初の落ち着きを失う。「今私のお話したことが、全部分っているんですか?」
「勿論だ。どうした。何か問題があるのか。」
「イランでは法律がいかに厳格に実行されるか、ちゃんと説明したつもりですが。」
「聞いたよ。ちゃんと説明を。」
「あのような状況では、私達の誰かが直接関るのは拙(まづ)いのではないでしょうか。リスクが大き過ぎて・・・」
「じゃ、誰を送るんだ。あの会計士をか?」
「いいえ。でも私にはシシリアに友人がいて、この種の取引は手慣れたものですが。」
「まあ友人はいるだろうな。だがもう、シシリアの友人は懲り懲りだ。心底沢山だ。あんたの話してくれた計画は確かに素晴らしい。だから、この仕事はあんたと俺、二人で手をつける。いいな?」
「俺も行っちゃ駄目か。」とマーヴィン。
 ドックはちょっと彼を見る。「駄目だね。お前とアルバートはここに留まるんだ。」
「何故です?」とアルバート。
「何故もへちまもない。誰かはいなきゃならんだろう。それにな、お前に万一のことがあれば、俺は親父さんに殺されるんだぞ。特に法律が絡めば、尚更だ。だからなアルバート、お前はここにいる。マーヴィン、お前はアルバートの面倒を見るんだ。こっちが行っている間、ここの状況をなんとか良くすることを考えるんだ。まづ無理だとは思うがな。」
 その時扉にノックの音。ワインが来たのだ。ウエイターが盆を置くと、ドック、ベッドの傍のテーブルまで行き、そこから一ドル紙幣を投げてやる。
「公爵」とドック。「お前さんのパーティーだ。注いでやってくれ。」
 公爵、全員に注ぐ。
 溢れんばかりのグラスを手に、用心しながらベッドから身を起し、ドックが言う。
「諸君、俺達はどうやらシシリアからの友人を見縊(くび)っていたようだ。今までのことは忘れて、これからは一緒に仕事だ。」アッヌンツィオに近づいて、「ジョン、ペルシャでの成功に乾杯だ。」
 ジアンフランコの顔が明るくなる。「マシュー、私達は良い友達になれそうですな。」
「なれるとも」とドック。「よーし、それにも乾杯だ。」
 四人は杯を空ける。公爵は素早くまた四人のグラスをいっぱいにする。十五分後、四人は下の食堂に下りる。三日後、即ち一九六七年四月三日、ドックと公爵はマルペンサ空港から、アバダン行きエア・インディアで発つところだった。アルバートとマーヴィンは送迎テラスからドックと公爵二人が七0七機に入る時、手を振っていた。

     三
 ペルシャ湾は地中海やカリブ海に比べれば小さくてみすぼらしいものだ。チグリスとユーフラテス両河が流れ込む北岸においては、特にみすぼらしい。もう既に薄暗く、黒色になっている海に、茶色の廊下のような二つの河が流れ込んでいる。エア・インディア七0七機は、この二つの河の上を低く飛び、河のイラク側の岸に生えている椰子の木々の長い列をかすめるように降りて来る。このような瑞々しい木々によって一瞬、沙漠のパラダイスかと思わせられるが、機がアバダンの滑走路に近づくにつれ、その幻想はたちまち壊される。機の逆噴射により砂と埃の渦巻きがコンクリートの長い滑走路の両側にもうもうとたつ。そしてその先は全く平らな、不毛の荒野である。
 空港ターミナルの建物は、小さな木造のバラックで、人の気配はなかった。ルガーノからの二人の男は、そこに歩いて行く。給油の時間は短い。他の客の殆どは、機内に留まった。次はデリーである。乗客達は、この荒涼たる景色に慣れているのか、一向に気にしている様子はない。二人が建物に入ると、待ち構えていたのは四人の兵隊である。四人とも肩から機関銃を吊るしている。その後ろに三つの背の低いテーブルがあり、その後ろに二人の事務員が立っている。二人ともカーキ色の制服姿である。すぐに別の扉から、二人の背の低いアラブ人が、彼らの荷物を運んで来る。スーツケース二個がテーブルの上に置かれる。
「パスポート」と事務員の一人が言う。
「スーツケースを開けろ」ともう一人が言う。四人の兵隊のうちの二人は、滑走路に通じる扉の前に行き、歩哨に立つ。
「随分と友好的なお出迎えだな」とドックがパスポートを出しながら呟き、スーツケースのロックを外す。
「イランに何の用だ。」パスポートの男が言う。もう一人はスーツケースの中味を汚いテーブルの上にあけ始める。
「おい、何をするんだ。」事務員がウイスキーの壜の蓋を開け、臭いを嗅ぐので、ドックは大声で言う。
「何故イランに来たんだ。」と前よりもっと陰気な声でパスポート係の男が言う。
 公爵が口を挟む。「訪問のためです。ファードーシ家の招待でやって来ました。外に迎えの車が来ている筈です。」
「ファードーシ?」
「ええ。」
 二枚のパスポートはすぐ返却される。ドックのスーツケースの中味はすぐ元に戻される。
「大変失礼致しました。」とパスポートの男が言う。「予め知らされておりませんでしたので。どうぞ、こちらから。荷物はすぐ後から運ばせます。」ちょっと頭を下げて、自分の後に続くよう合図をし、二人をビルから外へと導く。淋しそうに一台の車が待っている。黄色のレンジ・ローヴァーである。運転手は車に寄り掛かって煙草を吸っていたが、事務員と税関の男二人が近づくと、慌てて気をつけをする。
「アッヌンツィオ公爵で?」と運転手は訊ねる。大変喋り難そうである。英語は苦手なのだろう。
「そうだ。」この答は効き目があった。事務員は後ろの座席に荷物をお入れしますと言ってきかなかったし、税関の男は車のドアを開けると言い張った。車が出発する時、二人の役人は、恰好よく敬礼した。
「公爵」と、ドックは言う。言葉は公爵の要求通り、丁寧になっている。「ここはあんたに任せるよ。どうやらあんたの親戚は、このあたりに随分仕掛けをしているようだ。これは楽勝の仕事になる予感がするぞ。私の出る幕はどうやらなさそうだな。」
 外の景色は、楽しみという点ではゼロに近かった。空港から出てすぐに、大きな交差点がある。やはり四人一組の機関銃を吊るした兵隊が監視している。右へ行くと、アバダンの繁華街。車は左に曲る。と、すぐ、巨大な石油貯蔵タンクがずらりと並んでいる。そして次が石油精製の装置。これがまた、煙突に次ぐ煙突。それぞれ煙を吐き出している。
「ピッツバーグのようだな」とドック。「臭いは東セントルイスに近い。」
「ドック、東セントルイスには、ラクダがいましたかね。」と無邪気に公爵が訊く。それは確かに違いだ。五頭のラクダが、早速現れる。その後ろに六頭の汚いロバ。それから、それよりも汚いアラブ人二人が出て来て、車の行く手を遮る。
「ジョン」とドックが言う。「ここではどうやらあんたが主役になりそうだな。」
 運転手は警笛の上にのしかかって警笛を鳴らし続ける。動物の群れは嫌々ながら道から離れて行く。レンジ・ローヴァーは、平らで真直ぐな道をスピードを上げて走って行く。文明の影もない。全くの荒野である。道路の半分だけが舗装してある。運転手が走るのは、その舗装してある部分である。対向車の可能性は殆どゼロに近い。焼けたアスファルトの上を転がって行くタイヤの音。それに、開けた窓から入って来る熱い、乾いた、砂漠の空気。二人の旅行者の頭はぐたりと垂れ、心地よい眠りに落ちる。
 道はクラムシャー、次にアクワーズを抜け、カルン河の乾いた河床を突っ切り、真直ぐ北に進む。全くの荒野である。人間の生存は、道から遥か遠くにポツンポツンと黒いテントの集まりが見える時に感じられるだけである。二百キロ進んだ時、前方右手の地平線に、山々が浮き出て来る。そのいくつかの頂きには雪らしき白いものが、遅い午後の太陽に光って見える。ところどころ荒野の中に草の生えた部分が斑点のように現れるようになり、夕暮が急に迫ってくる頃、初めて人の気配がしてくる。馬やロバに曳かれた荷車、小さな少年に連れられている山羊の群れ、ついにはトラックも現れる。何か葡萄酒らしきものを積んでいる。そして、人と動物が溢れんばかりに乗っている。古い橋まで来ると、沙漠の交通渋滞に直面する。徒歩で行く人の群れ、黒いベールを被った婦人達、裸足の子供達、アラブ世界特有の、あの汚い灰色の着物を着た男達。レンジ・ローヴァーのひっきりなしの警笛の音は、やがて二人の旅行者の目をすっかり覚まさせてしまう。
 橋を越えると、車は徐行である。ディズフルの街を突っ切るには徐行しかあり得ない。その狭い通りは、そのまま東洋の市場になっている。天井から得体の知れない鳥の死骸がぶら下がっている食料品の店、雑然と、形の崩れた壷や道具類の並べてある荒物屋、靴屋、絨毯屋、それから勿論真鍮の瓶(かめ)をぶら下げたロバ。その周りに客が屯(たむろ)してお茶を飲み、喋っている。それにガラクタ、香辛料、埃(ほこり)・・・
 突然レンジ・ローヴァーは左の小道に入る。それから五十メートル進んで、また曲る。今度は広い並木道、急に行き止まりになると、そこは背の高い鉄の門。門は開いている。その門を入ると、そこは別世界である。沙漠のオアシスとはこのことだ。緑の芝生、ハイビスカスの薮、棕櫚の木、花々。どこからともなく照明があてられている。正面に別荘。ナポリのどこかにあっても不思議でない佇まい。やはり照明に照らされて、美しく水が踊っている噴水が二つ。二つの噴水に挟まれた階段。これが別荘の正面玄関に通じている。車は止まる。スイスから来た二人の銀行家は、イラン南部の暖かいアジアの夜に足を踏み入れる。
 と、同時に別荘から二人の人物が現れ、車から下りた二人に歩みよって来る。
「ジアンフランコ」と男の方が呼びかける。「暫くでしたね。遥々のお越し、光栄です。」
 女性の方は美人そのものである。顔だけではない。ハスキーで、低い、魅力のある声、アッヌンツィオの両手を取り、挨拶の抱擁。
「お電話を下さってから、この時を待ち焦がれていましたのよ、ジアンフランコ。懐かしい従兄弟。なんて嬉しいんでしょう。」
 ジアンフランコは優雅に彼女の手にキスし、抱擁する。
「シリーン、お元気そうだ。綺麗になって。それに素敵なお出迎え、本当に有難う。でもまずはアメリカからの友人を紹介しなければ。こちら、ドクター・マシュー・スマイス。ルガーノの銀行の同僚。マシュー、こちらは私の従兄妹、アーガ・ファードーシとシリーン・ファードーシ。」
 ドックは前に出て、シリーンの手にキスをする。優雅なその姿は、イタリアの相棒のそれに劣らない。アーガと握手を交し、四人は階段を上がり、別荘に入る。広い客間は、殆ど西洋のそれと変らない。多分、絨毯と綴れ織りが豊富なところだけが西洋風との差であろう。まず飲み物が出される。行儀正しく、黙って給仕をする色の黒い男。白い上衣、足はサンダル履きである。次が夕食。これも西洋風。ワインはしっかりとフランス製。アイスクリームはどうやらアメリカ製のようである。仕事の話は一切なし。十一時ちょっと過ぎ、全員は寝室へと退(しりぞ)く。アーガが明日の朝かなり早い起床となる旨、伝える。長い視察旅行の計画がしてあるらしい。
 九時に、アーガ、ドック、公爵は、スポーツ着でレンジ・ローヴァーに乗り込み、別荘を出発する。気温は既に二十七度に上っている。
 最初は相も変らぬ砂と埃である。しかし、やがて広大な緑が目の前に現れる。そして、レンジ・ローヴァーはその中に入り、周囲は一面の豊かな農作物となる。
「ちょっと説明致します」と助手席に坐っているアーガが手を左から右に動かしながら言う。「五年前までは、ここは沙漠でした。ところが、あの地平線に見える山々にダムを建設し、その水を利用出来るようになってから、私達はここを地球上でも有数の肥沃な土地に変えているところなのです。いや、変えているというのは当らない。その昔に戻してやっているところなのです。三千年前、ここは潅漑の水路が縦横に引かれて、そこに建設された何百というダムから、豊かに水が供給されていたのです。後でその昔のダムの一つをお見せしましょう。三十世紀を越えて、これは生き残ってきたのです。長さ六百メートル、幅二十二メートル、そしてナン・イ・ダレイアン河の水位より約二メートル高めることが出来ます。二メートルというのはたいした高さではないとお思いでしょうが、ご覧の通り、ここは大変に平たい土地です。ですから、二メートル水位を上げることによって得られる水量はかなりなものとなり、潅漑用水として用いられたのです。我々はこの過去に学びました。ご覧の通り、ポンプは全く使用していません。ダリウスやクセルクセスによって採用された、その同じ方法が・・・つまり、重力を利用して・・・沙漠を蘇らせているのです。」
「これが全部あなたの所有になる物なのですか?」ドックが訊く。
「ええ、私の家族の。もう何代も前から、ずっと。つまり、何世代も前からずっと不毛の土地だったということです。父の時代にもまだ。しかし、今の国王がすっかり状況を変えました。我々が石油で上げた大きな所得から税金を取る。しかし、取った税金をまた我々に戻してくれたのです。道路として、鉄工業として、ダムとして。ここクジスタンは、イランの石油資源の大元ですが、王はここに大きなダムを作ってくれました。ダムの名前は王にちなんでつけてあります。」
「水の値段は?」とドック。
「最初の二十年はただです」とアーガ。「イランの人々のために使っているからです。ほら、あそこを見て下さい。トマトです。何百万とあります。こっちは苺です。毎週、飛行機二機を飛ばして、テヘランに送り込みます。さあ、今度はアルファルファです。一年四毛作を行って、牛の飼料にしています。あそこには木が見えますね。まだあまり大きくありませんが、二、三年経つとここは、中近東最大のオレンジ林になります。イスラエルのオレンジ林より、もっと生産量は多くなるでしょう。実はこの計画の立案及び導入には、イスラエルの技師達に大きな援助を受けたのです。彼らは沙漠をエデンの園に変えることに、大変慣れています。」
「しかし、アラブの人達は、イスラエルの人々と問題があるんじゃありませんか?」とドックが訊く。
「いいえ、私達は確かにマホメット教徒ではあります。それに、ここには、特にこのクジスタンには、アラブの人達が少しいるにはいるのですが、もうお気づきのことと思いますが、私達はアラブ人ではないのです。私達の文化、祖先から引き継いできたものは、アラブのものではありません。私達イランの人間はイスラエル人とは喧嘩をしません。現在イランはイラクを除いて、どことも喧嘩をしていません。イラクは湾のこのあたりの土地は自分達のものだと主張しているものですから、喧嘩になっているのです。イラク人は幼稚なんです。とにかく私は、政治的問題には関らないことにしています。さあ、次に何が来るか、よく見て下さい。」
 レンジ・ローヴァーは潅漑用の溝の上にある橋をいくつか渡り、今までで一番青々とした植物のただ中に入って行く。
「これは何ですか。」
「砂糖黍(きび)です。私達は世界で最も近代的な砂糖精製工場を作ったのです。あちらに見えるのがそれです。」
「土地はどれくらいあるんですか?」とドック。
「ここからあの山の麓(ふもと)まで。それから幅もそれぐらいの幅ですね。」
「仕切りの柵はないんですか?」とドック。
「ええ。少なくとも今のところは。この土地は今までずっと遊牧民には勝手に使用を許してきました。遊牧民はまだこのあたりに、何十万人と住んでいます。夏には彼らは山地に、或はこの辺りに、或はもっと北のルーリスタンで暮して、家畜に草を食わせます。冬になると、谷や平野に下りて来ます。ここら一面、お二人の目にはただの沙漠に見えるでしょう? でも、よく見ると草があります。それはたしかにまばらではありますが、あるのはあるのです。遊牧民に必要な程度には。だから、私達の潅漑した土地に入って来ることはありません。」
 砂糖黍畑が終りになると、見えてきたものは大きな建設現場である。大きなキャタピラ・トラック、シャフト、クレーン、トラック、巨大な波形の鉄板の囲い、トロッコ用のレール。
「砂糖精製工場をここにも?」と公爵。
「いやいや、これはチョーガ・ザンビルです。」
「チョーガ・ザンビル? 何ですか? それは。」
「ええ。今、説明します。」
 三人がそこに歩いて行くと、輪郭がはっきり現れる。それは新たに何かを建設しようという計画ではない。言ってみれば、再構築である。巨大な考古学の発掘現場である。
 沢山の壊れた壁、それが倒れている。中には何百メートルもの大きさの壁もある。かってここが文明の栄えた場所であることを示している。しかしすぐ二人の目を惹いたのは、巨大な石の塔のように聳(そび)え立つ建築物である。地上から優に三十五メートルはある。見たところ、形はピラミッド状だ。
「馬鹿でかいものですね。」と公爵。「何ですか、これは。」
「ズィグラット(ピラミッド型寺院)です。ペルシャの中で、これが一番保存が良いのです。」
「どのぐらい古いものなのですか?」
「三千年前です。一、二世紀の誤差がありますが。」
「何に使われていたのでしょう。」
「宗教です。ペルシャの各都市には、このような寺院があって、そこを中心に宗教活動が営まれたのです。勿論今日まで残っている寺院は少ないです。掠奪あり、単なる時の風化作用あり、ですから。」
「この寺院はいつ発見されたのですか?」
「四年前です。ここが丁度潅漑用水用の溝の主線が通る場所にあたっていました。ブルドーザーがここまで進んで、急にこの埋もれていた都市を発見したのです。掘り返して再建し、四年かけてここまで出来上がったのです。」
「そういう作業は勿論イラン政府が?」
「いいえ、我々です。我々ファードーシ一族の手でやってきました。」
「しかし」とドック。「随分金のかかる事でしょう? どうしてそんな工事を自分の手で?」
「我々一族は現在のイラン政府にも恩義がありますが、過去のペルシャ王国にも恩義があります。我々の祖先はここでの偉大な文明の担い手でした。現在に到るまで、アジアのこの地方の主(あるじ)として君臨して来たのです。我々一族はこのことを再確認しなければと考えています。このような歴史的遺産の存在をイラン国民に知らしめ、我々一族が世界の歴史の中で重要な役割を果たし続ける運命にあることを示すのは良いことだと考えたのです。」
「しかしですね」とドック。「たとえそうは言っても、第一には、政府の責任じゃありませんか、そういう仕事は。個人でこういうことをやると言うのは・・・」
 アーガ・ファードーシは、すぐに遮って口を出した。人の言葉を遮るなど、これが初めてのことである。「ええ、別に理由があるのです。そのことは後ほどお話しましょう。今はまだ、行くところが。」アーガは急に廻れ右をする。他の二人はアーガについてレンジ・ローヴァーに戻るしか他に手はない。
「もう一つだけ、どうしてもお見せしたいものがあって」と、車が動き始めるとアーガが言う。「それから屋敷に帰って、仕事の話にしましょう。」
 約十キロ進むと、幹線道路に入る。暫く行くと城が見えてくる。一見中世ヨーロッパから続いている建物に見える。
「ドイツの城みたいですね」と公爵。
「いや、フランスの城です」とアーガ。
「こんな何もない場所に、随分物好きなことをしたもんですね。」
「ええ。フランス人の仕業です。ドゥ・モルガンという名前の人ですが、十九世紀の終りに建てたのです。その人はフランス考古学使節団の団長でした。目的は、ひどく現実的なもので、自分の身を守るため、そしてここで掘り当てた宝物を守るためです。ここは西からはアラブ人が、北からは遊牧民が掠奪にやって来ますからね。城を建てるというのは実に正しい考えだったのです。結局彼の命も、彼の宝も生き残りました。一九二0年代までは、この地一帯の人は、外部の人間に対して非常な敵愾(がい)心がありました。一九四0年代になって、軍隊がここクジスタン地帯を制圧し、それでやっと旅行者にも安全な場所となったのです。」
「この場所の名前は?」
「スサ・・・或は、聖書で使われている呼び名で言うと、シュシャンです。」
「聞いたことがないな。」とドック。
「でも、ダニエルとライオンの洞窟の話は御存知でしょう?」
「それは勿論。」
「その舞台になった所がここです。シュシャンです。」
「ほう。」
「そうなんです。帰ってからもう少しこの話をやりましょう。今はただ、ここの地下数十メートルの所が、かってペルシャで最も栄えた都市・・・巨大な富の蓄積があった場所だ・・・とだけ言っておきます。さっき見たチョーガ・ザンビルは、我々ファードーシ一族が発見したものですが、このシュシャンの繁栄の源泉となるものだったのです。」
 ドックは奇妙な顔をした。チョーガ・ザンビルが何故・・・ただの教会じゃないか、あそこは・・・しかし、それ以上質問はしなかった。三人は車を降り、城壁の後ろの発掘の場所を歩く。巨大な城の基礎の一部が掘り起こされていた。しかし、チョーガ・ザンビルとは違い、見るべきものはあまりなかった。花崗岩の大きなブロック数個、その横に投げ出されている沢山の柱、宮殿の床・・・或は中庭の床か・・・のモザイクのかけら。キリスト生誕の何世紀も前に、ここに建てられていた巨大な建築物を心に描くには、相当の想像力を必要とする。アーガもそれにはたいした助けにはならなかった。五分後、彼らは帰途につくことに決めた。昨日の夕方飛行場から来た時に通った、あの狭い橋を渡る。今度は真っ昼間。よく見える。アーガが河を塞(せ)き止めている大きな石の積み重なっているのを指さす。
「あれがバンク・ディ・キザールです。さっきお話した大昔のダムの跡ですよ。もうこんな話は飽きてきましたね、きっと。早速昼食にしましょう。」
 別荘に帰ると、シリーンと昼食が待っていた。サラダ、果物、ヨーグルト、茶。会話は抑制のきいたものだった。ジアンフランコはこういう種類の会話をリードする技術を持っている。それも数カ国語で。アーガ・ファードーシは、だんだんと苛々して来る。やがて、場所を外に移そうと言う。外は暑かった。しかし、棕櫚の葉が十分な影を作ってくれている。プールが彼等を誘っていた。入れば気持がいいぞ、と。しかし、そういう訳にはいかない。テラスに出て、四人がデッキチェアーに収まると、早速アーガは仕事の話を始めた。
「不作法に思われたくはないのですが、今すぐ本論に入りたいのです。」
 アーガは従兄弟の方を向く。「ジアンフランコ、お察しの通り、勿論電話で詳しい話は出来ない。何がどうなっているか知れたものじゃないですからね。だけど、とにかく本当にいい時に電話を下さった。スイスにあんたの銀行がある。・・・何ていう好機、願ってもない幸運なんですよ、これは。まずは現金・・・リアルで・・・これが処理出来る。ここに、この家に、金庫二個分リアルが貯まっている。大きなスーツケース二個分です。スーツケースも、もう用意してあります。」
「スーツケース二個・・・それも大きなやつ?」とドック。
「そうなんです、残念ながら。様々な金額の紙幣です。銀行で高額紙幣に代えるのはとても無理で。従って、かなりな量の紙を扱って戴かなければなりません。これは問題でしょうか。」
「問題ですね、正直言って」とドック。「もっとずっと小さな包みのことを考えていました。スーツケース二個・・・相手に開けさせないで通す・・・これはかなりなリスクだ。御承知の通り、最近ではハイジャックのせいで手荷物のチェックがいつ行われるか、予測がつきませんからね。特に、大きくて重いスーツケースとなると・・・」
「ああ」とファードーシが遮る。「そこは大丈夫なんです。手はうってあります。イラン石油会社の、私の友人が、自分達の客として、あなた方二人をヨーロッパに連れ返してやると言ってくれました。連中はジェットの専用機を持っていて、定期的にアバダンーロンドン間を飛んでいます。ロンドンに入りさえすれば、問題はありません。ロンドン空港では、リアルの出入りに制限はないのです。」
「ロンドンはいいとして、ここを出る時はどうなんです?」
「イラン石油会社の人間はアバダンではフリーパスです。アバダンはイラン石油会社の所有ですからね。それは私が請け合います。」
「するともう、何もかも準備は整っているということですか?」と公爵。
「そうです。」
「すると、出発の日時まで?」
「ええ。今夜です。夜八時の離陸です。つまり、もう二時間で、ここを発つという訳です。私が飛行場までお伴します。」
 公爵もドックも、これには驚く。
「しかしまだ、細々した銀行との取引契約の話がありますが?」と、この急な展開に呆れて、躊躇(ためら)いながらドック。
「取引契約?」
「ええ。預金としてお預けになるのか。そういったことを。銀行のフォームは持参して来ましたが・・・」
「ちょっと失礼。まだ我々がみなさんの銀行に、どういう立場で関与するのか、こちらの立場を明らかにしていませんでしたね。今お話したお金と、私個人とは、全く何の関係もない。これが基本的なことです。勿論私が、暫くしてスイスに行った時には、そちらと何らかの契約は交します。しかし、この国では全く・・・全く何も書いたものでは残しません。今だけではありません。将来に渡ってもです。これはしっかり理解して戴きたいのです。持って来られた書類一式は、ここで焼き捨てます。いいですね?」
「勿論どうぞ」とドック。少し狼狽している。「ただ、その、契約のことは訊いておかないと、と思って・・・」
「しかし」と公爵。「その金をどう運用したいのか、あらましは聞いておかなくちゃ。そちらの希望は、正確に、また即座に実行すると約束しますよ。」
「それは勿論です、ジアンフランコ。運用のことは言わなくちゃ。最初は単なる預金・・・定期預金にでもしておいて欲しいのです。ドルかスイスフランで。どっちでも構いません。とにかく金がイランから外へ運ばれ、外国で利用可能な通貨に変えられるということが、第一目的なのです。しかし実は、これだけに留めておかない。随分考えた結果、あなた方との関係はもっとずっと踏み込んだものにしようと、私は決心しました。」アーガは言葉を切る。「この話の続きに入る前に、お二人に秘密を守るという絶対の約束を戴かなければなりません。私の家族・・・シリーンと私ですが・・・その運命は、この約束にかかっているのです。」
 こう言ってアーガはドックの顔を真直ぐ見つめる。
「どうでしょう、あなた。誓って下さいますか?」
「約束します。誓って。」と、あっさりとドック。
「私もだアーガ、誓う。」と公爵。自分の従兄弟を好奇心いっぱいの目つきで見つめている。
 アーガはシリーンを見る。シリーンは微かに頷く。
「よし、では。ひどくあっさりとお話しましょう。私はこの私の土地に、銀の鉱脈を見つけたのです。これは多分、世界中に現存するどの銀鉱よりも大きな埋蔵量があるでしょう。」
 沈黙。
「どこにです? 具体的には。」
「チョーガ・ザンビルです。覚えておられますな? 発掘現場・・・ピラミッド型教会の。」
「ははあ、それでだったんですね? あのドリル、それにシャフト・・・」
「そうです。」
「しかし」と公爵。「それがどうして秘密なんです? 銀鉱を見つけたって、不法なことは何もないじゃありませんか。ここはどうせあなたの土地なんだし。」
「勿論見つけても不法なことはどこにもありません。しかし、税金なんです、問題は。イランでは没収に近い税金を課しますからね。利益の六十、いや七十%を取って行きます。しまいには国営にすると言います。油田がいい例です。そんな危険を冒す訳にはいきません。特にそんな必要が全くない時には。そして今のこの場合には、国に知らせる必要など全くないのです。チョーガ・ザンビルで現在使っている人員は、昔からファードーシ一族のために働いてきてくれた者達ばかりです。我々に忠誠心があり、はるかテヘランにあるイラン政府になど忠誠心はありません。それに、現在までチョーガ・ザンビルが本当に目指しているものが何か、連中には分っていません。それだけの教育がないのです。」
「分りました」とドック。「しかし、そのような仕事をするには技術者が必要でしょう。教育のない者ばかりでは手に負えない筈です。」
「勿論その通りです。しかし、今までは何とかその問題は対処出来ました。ロン・ハワードというイギリス人が、すべてをやってくれているんです。彼は相当長い間アフリカで、リオ・ティント社で働いていたんですが、何かゴタゴタがあったんでしょう。私はよく知りません。とにかく非常に有能な人物です。イラン政府には全く興味がなく、自分の利害にのみ関心があります。我々の狙いも分っていて、ここでの仕事が成功すれば、世界中のどこへでも裕福な人間として定住出来ると知り、それを希望しています。このイランには不法滞在なものですから、その点でも我々には有利と言えます。」
「しかし、一人では到底無理でしょう。先ほどの話では、世界一の埋蔵量だとか。堀り出して、精練して・・・イギリス人一人では駄目でしょう。」
「その通りです」とアーガ。「人員もいりますし、設備、機械が必要です。」
「それで、そのための見通しは?」とドック。
「それをあなた方にお願いしたいのです。」
「しかし、鉱山の知識は何一つありませんよ、我々には。」と公爵。
「私もゼロです」とアーガ。「しかし、そういう知識が問題なのではありません。お二人は金に通暁していらっしゃる。このような仕事に必要な資金繰りの見通しを立てることとか・・・」
「最初はどんなものが?」
「必要な機材購入のための資金です。それから、資金をもっと必要とするようになれば、株式を発行して、売ることも。しかし、当面必要なのは、近代的な精練設備と、それに要する技術者です。具体的に何が必要か、またどこでこれらを手に入れるかについては、万事よく分っているのです。」
「どこで手に入れるのですか?」
「ローデシアです。ハワードが来たのもそこからです。ハワードがリオ・ティントのもとにいた時、サリスベリーの会社から精練のための機械を沢山購入しました。サリスベリーは精練の技術で知られた町です。サリスベリーから直接購入したわけではありません。ローデシアはその人種差別政策のため、世界の殆どあらゆる国から交易を閉ざされています。従って、南アフリカ連邦を通して購入します。つまり、ローデシアは我々が必要としている二つの知識に通暁しているというわけです。一つは精練の技術、もう一つはどこかを通して輸入する技術。それにローデシアは、交易閉鎖以後、これら交易をいかに秘密裏に行うかという技術も身につけているのです。」
「で、技術者はどうするのです?」
「やはりローデシアからです。ハワードの話によると、こういう風来坊の技術者を、この国は引き寄せる魅力があると言っています。だから必要な人員は、一週間あれば捜せると。従って、今や我々に必要なものは銀行だけという状態です。但し・・・もう充分お分かりと思いますが・・・それはイラン国外でなければならないのです。」
「ちょっと待って下さい。まだもう一つ、この計画には穴があるように思いますが。」
「それは?」
「機械、技術者をどうやってイランに入国させるのですか? ハワード一人ならそれは何でもないでしょう。しかし、何トンもの機材、それに、何人もの技術者をローデシアからとなると、そうおいそれにとは行かない筈でしょう?」
「アフリカ東海岸に沿って船を走らせ、ドバイまで運ぶのです。我々のいるこの場所は、ペルシャ湾からたった二、三百キロしか離れていません。石油は確かにこの湾で大事な商売ですが、それを除けばこの湾で活躍する仕事は唯一つ、つまり密輸なのです。金、時計、牛、さらには奴隷に類するものまで、品目を上げ出したらきりがありません。これら取引の本拠地はアブダビかドバイです。ここから内陸に、即ちイラン、サウジアラビア、パキスタン、あるいはインドへと運ばれます。我々の取引場所はドバイです。ここで本船からジェルバ船に積みかえられます。ジェルバ船は何百、いや、何千もあります。最近は単なるジェルバ船ではなく、二個のエンジンにレーダーを装備したものが流行ってきました。陸に上げられると、我々自身の大型トラックが湾からここに運びます。従って、何の問題もありません。」
「で、資材が全部ここに来ると?」
「つまり、他人が見る危険ですね? 今朝私はお二人に、我々の土地の広さをお見せしました。この土地は個人の、つまりファードーシ一族の私的な財産です。私的財産は尊重されねばならないと実力で示すつもりでいます。そのための人員も新たに雇います。野菜の収穫の安全のためと、古代遺跡の保護のためだと言います。町の人、あるいは政府の役人は、これを認めてくれる筈です。遊牧民には見られてしまうでしょうが、連中が問題を起す心配はありません。ただ、連中とはいざこざを起さないように気をつける必要があります。どうです? かなり念入りに色々なことが考慮されているでしょう?」
「それで精練された銀ですが」と公爵。「その銀をどうやって国外に出すのですか?」
「資材を運んだ時と同じ方法でです。内陸はトラックで、次にジェルバ船、或はもっと速いものがいいですが・・・それでアブダビまたはドバイへと運びます。そこからは飛行機で、どの国へでも。」
「誰にも知られないで?」と疑わしそうな公爵の反応。
「ジアンフランコ、どうやらあなたは、この辺りのことは何も御存知ないようだ。では手短かにお話しましょう。ドバイは金塊、銀塊の巨大な取引の中心地です。そしてそれは、全て法をくぐって行われています。その原動力になっている場所はインド大陸です。そこでは金の輸入は禁止されているのですが、大昔からインド・パキスタン両国の人達は、金を崇めまた安全な投資と考えているのです。従って、金への恒久的な、大きな需要がここにあります。ドバイの商人はこれに目をつけて、沢山のインド人との取引を行い、ジェルバ船で現物を運びます。ここでの価格は、世界の相場より高い。でも取引はCIF・・・保険料、運賃込みの価格・・・で行われます。勿論、顧客の正体、金塊の出所(でどころ)は、当たり前のことですが、完全な秘密です。」
「その話が、銀取引の安全性と何の関係があるんですか?」とそっけないドックの質問。
「ええ、それが大ありなんです。その金を買うために、インド人達は何を支払うと思いますか? それが銀なのです。何十万トン、何百万トンの銀なのです。何千年もの昔から、インド人は銀を貯め込んできました。インドのどの家庭でも、銀製品は日常普通に使われています。銀の延べ棒、装飾品、宝石類、貨幣。インドは銀保有量に関しては、今日でも世界一です。これを金の購入に使うのです。ドバイからのジェルバ船を使って。ドバイからは、これら銀は空輸でヨーロッパに行きます。従って私も、自分の銀の取引には、現存するこのルートを使おうと思っているのです。なにしろこのルートは、既に何百万トンの銀の取引を可能にしてきているものですから。」
 この最後の台詞は自信に溢れていた。
「フーム、問題は全て考慮ずみか」とドック。「どうやら輸送関係の問題は完璧のようですね。するとその出発点の問題が、やはり気にかかります。チョーガ・ザンビルの地下に、そんな大きな銀の鉱脈があるという、そのことなんですが。どうしてそんなに自信たっぷりなのでしょう。」
「では証明してみましょう。ちょっとお待ち下さい。」
 五分もたたないうちにファードーシは、高さ五十センチ以上のものを重そうに抱えて戻って来る。そしてそれをテーブルの真ん中に慎重に置く。大理石で出来た古代の女王か王女の像である。顔かたち、衣服から、古代エジプトの墓の写真によくある姿に似ている。しかしこれは二次元の写真ではなく、三次元のものだ。保存も非常によい。驚いたことに、身につけている宝石類も保存されている。ネックレスは七本以上、王冠、長い金属の輪が繋がっているイヤリング、それに両腕に腕輪、全部で十二本は確実にある。全てが銀製である。おまけに、この像を支える分厚い台も銀で出来ている。
「アーガ」と公爵。「自分の目が信じられないな。」
「ところが、本物なんですよ」とアーガ。「殆ど四千年前のものです。しかし、完璧に保存されています。これはシュシャン出土のものです。つまり、午前中我々が行った、あの場所で出土されたものなのです。この宝石を見て下さい。精巧に出来たミニチュアです。これと同じ像で実物大のものも、私は持っています。テヘランの銀行の金庫室に入れてあります。やはり装飾品は銀製ですが、王冠は沢山の宝石が鏤(ちりば)めてあります。ルーブルにもこれと同様の像がありますが、宝石がありません。大英帝国博物館にも同様の像があり、腕輪とイヤリングがついています。しかし王冠を保持しているのは、我々の像だけです。そしてミニチュアですが、宝石類に全く手がつけられていないのは、この像だけです。私の父がこれら全てを収集したのです。」
「それで、銀の鉱脈とこの話の関係は?」とドック。
 再びアーガは立ち上る。「またちょっとお待ち下さい。」
 数分後アーガが戻って来る。今度は大きな金属の箱を抱えて。アーガ、それを開け、中から鈍い光の金属の塊を取り出す。両手でそれを支えながらアーガは言う。「これは銀のインゴットです。この家にはこれと同じものが、あと十二個あります。全部チョーガ・ザンビルで見つけたものです。」
 低いヒューという感嘆の口笛の音がドックの口から漏れる。
「さて」とアーガ・ファードーシ。「ここからが決定的に重要な事柄なのです。」そしてまた箱の中に手を突っ込み、今度は何かの書類を取り出す。
 数部同じものがあるらしい。その一部を二人に渡す。
「これは」とアーガ。「銀の分析結果です。ロンドンの会社に頼んだものです。父のコレクションの古い銀製の装飾品を分析して貰ったのです。いいですか。どれ一つとして同じ場所からの銀ではありません。あるものはアブラハムの生地ウルの銀。ウルは、ここから三百キロも南の方に位置しています。勿論シュシャンからの銀もあります。アシュールからのものも、テル・アスマールからのもの、ウルックからのものもあります。すべて古代メソポタミアの銀製の装飾品、かつ宗教上大事な品物です。さあ、見て下さい、その銀の成分を。いづれの銀製品も、同じ分析値であることがお分かりでしょう?」
 続く数秒は、ちょっと気まづい時間であった。何故なら、ドックも公爵も、出された書類が急には把握出来なかったからである。しばらくしてやっとドックが、分析値が同じであることを認めた。
「OK」とファードーシ。「今見て下さっているのは、最後のページの分析値ですね? 銀九三・五%、銅六・一0%、金0・0八%、錫0・一五%。こちらから送った色々のサンプルの分析値は全てこの値です。いいですね?」
「いいです。」
「さて、今度はこっちの書類の最後のページを見て下さい。これは、ここで産出されて銀の分析値です。つまり、チョーガ・ザンビルで採掘された銀の。」
 二人は値を見る。
「お分かりでしょう?」とファードーシ。明らかに興奮している様子が見える。「様々な場所に散らばっている銀製品の源は、同じインゴットなのです。つまり、銀の出所は同じこの場所、チョーガ・ザンビルなのです。分析値が同じですからね。」
 間。長い間がある。
 やおらドック。「このような証拠を見せられてはぐうの音も出ませんね。いいところを突いていますよ、アーガ。しかし」と続けて、「やっぱり大事な問題が残っています。それだけ沢山、世界中に銀をばらまいて、まだここに埋蔵されているものかどうか。」
「それは簡単にお答えしましょう。我々はシャフトを立て、五、六百のボーリングを試みました。結果はいづれも良好です。銀の鉱脈は二筋あって、いづれも地表から百フィート以内の深さにあります。その二層とも、巨大なもので、銀の含有量もたっぷりなのです。精練して分析してみると、昔のインゴット、つまり昔の銀製品の分析値と同じになりました。謎の輪はこれで一つ閉じたのです。長い間古代ペルシャの銀は謎だったのですが、これで明らかになったのです。」アーガはここで立ち上る。「ここら一帯は」と外を指差しながら「エラムという場所です。エラムの中で最も栄えた都市です。古代アジアで群を抜いて富んだ都市だったのです。その理由は何世紀もの間シュシャンから莫大な量の銀が採れたことにありました。しかし今日まで、その鉱脈がどこにあるのか見つけた者はいません。シュシャン自身にその鉱脈があろうとは思えません。そして誰もそれがチョーガ・ザンビルにあるだろうとも思いませんでした。シュシャンからたった十キロしか離れていないんですからね。勿論今日では沢山の人がチョーガ・ザンビルに例のピラミッド型教会ジグラートの遺跡があることは知っています。しかし昔の銀の精練所がそこにあり、まだその下に銀の鉱脈があることを知っているのは我々だけです。」
 突然アーガは坐る。
「いやあ、こいつは参った」ドックが叫ぶ。「どうやら、このシュシャンを牛耳っていた連中は、仲間の口を閉じさせるのが実にうまかった奴らしいぞ。」
 ファードーシは時計を見る。「もう時間が迫って来ています。具体的な話に移らなければ。私の提案は、ある種のジョイント・ベンチャーをやろうということです。あなた方の方は金融の面倒をみる。私の方はその他一切を。」
「金融の、その金額ですが、およそどのくらいの額を想定しているのですか」とドック。
「約五百万ドルです。」
「つまり、その金額を今我々は持っているという訳ですね? 但しドルではなくリアルでですが」とドック。
「いや、あれを全部つぎ込むということではありません」とファードーシ。「私の金はそちらの銀行への預金のつもりです。銀行には他の預金者もいるでしょうし、そちらの資本金もある筈です。この仕事を私一人のリスクで処理しようという気はありません。それなら別に私が、共同参加の者を捜す必要はありませんからね。」
「それはそうです」とドック。「しかし、リアルを外に持って行って貰う人間は必要なんでしょう?」
「勿論です。ジアンフランコがもうあなたにお話したでしょうが、このリアルの移動に対して充分な報酬をお支払いするつもりでおります。しかし、今話しているこの仕事は、言葉の本当の意味での共同事業だと、私は考えているのです。これから私の提案を申し上げますが、きっとお二人もこれが双方にとって妥当なものであると思って下さる筈です。」
「分りました。どうぞ。まずこちら、金融側の仕事から。」
「私は、事は単純なほどうまく運ぶという主義です。まづ適当な数字を組み合わせた銀行口座を作ります。そちらの銀行がそこ宛に必要な資金を投資として入れます。こちらはそれに対して、その同じ銀行口座に、抵当として、こちらの鉱山の権利一切・・・いや、ここの財産全部を入れます。次にそちらの銀行は、クエートのある銀行に、その資金を移転します。それに対してこちらは必要な信用状を取ります。信用状は多分ロンドン中近東銀行のものにすると思います。この銀行と、私は今、取引関係がありますし、クエートとローデシアの両方で安全な経営を行っていますから。勿論そちらの銀行で信用状を出した方がいいとお考えなら話は別ですが。」
「いえいえ」とドックがすぐ答える。信用状なるものの知識が百科事典に書いてあるものより覚束ないのだ。「金融関係の話は分りました。それで販売の方はどっちがやるんです?」
「ドバイで必要な手続は全てこちらで。」
「いいです」とドック。「それで、利益の分配の話ですが、それは?」
「半々です。全ての利益は共同の努力によるものです。取り分は同じにしましょう。」
「イランでの支出の管理は誰がするんです?」
「支出の管理など誰もしません。ただ私を信用して下さいと申し上げるしかありません。私の秘密をお二人が守って下さるのを、私は信頼しています。それと同様に。」
「その話は納得だ。よし、これでお互いの了解は出来た。あんたはどうかな? ジョン。」
 公爵は強く首を縦に振り、同意する。
「よし。やることはこれで分った。次はタイム・スケジュールだ。」
「まづ最初に」とファードーシ。「こちらへの送金が必要です。そちらからこちらのクエートにある銀行に、資金を入れて貰います。信用状を入手次第、ハワードと私は、ローデシアに飛んで、二週間以内に資金を入手します。」
「ほぼ他のことは予定通り進んだとして、銀がドバイに着くのはいつ頃になるでしょう?」
「多分、六箇月後ですね。もう少しはかかるかも知れませんが。出荷はしかし、最も遅くて、一九六八年一月一日までには始まる筈です。」
「銀の最初の出荷量がどのくらいになるか、推定値がありますか?」
「ええ。ハワードの概算では、初年度五千万オンスです。但しこれは、機材が百%の効率で働いた場合のことですが。」
「それは金額にすると?」
「約六千五百万ドルです。現在銀は一オンス一・二九ドルですから。」
「で、そのうち費用は?」
「多分一オンスあたり五十セントです。ただ計画がどんどん実行に移されて行くにつれて、運転資金の増加が必要になり、銀行からの借入金も増えることと思います。銀行の支払利息も増加します。しかし一方では、その間ドバイにある倉庫には銀が相当に保有されることになり、これが担保物件となり、銀行からの借入れを容易にしてくれる筈です。この時の保険の業務をそちらの銀行で請け合って下さることを望みます。」
「それは調整出来る筈です。これでタイム・スケジュールもおよそ見当がつきました。残り、たった一つ決めておかなければならないことが。書類がお嫌いなのはよく分りましたが、共同事業なのですから、避けて通れない最小限度のことがあります。共同の銀行口座は必要になるでしょうし、そちらの財産の抵当権に関すること、それに、銀行からの借入金の話もあります。いつか・・・それもかなり近い将来、またお会いして、最終的な取り決めをしなければなりません・・・書いたもので。」
「分りました。しかし、スイスの弁護士も、処理のスピードということでは、イランの弁護士とたいした変りはないでしょう。こちらでの準備がすみ次第、私はすぐスイスに行くつもりでいますが、書いた契約がないからといって、事を先伸ばしにする必要は全くありません。資材導入はどんどん進めるのが得策だと思いますが。」
「それはそうです。スイスへ帰り次第それを一番に手掛けることにします。」
「お願いします。当座はこちらからのキャッシュの預金が運転資金になる筈です。たしか銀行の人達は、事をこういう風に処理するのが通例でしたね?」
「その通りです」とドック。俄(にわか)銀行家として、はなはだ心もとない返事だが。
 再びファードーシは時間を見る。それから妹を見て、
「シリーン、お前、一言も口をきいてないね? 何か心配事でもあるのかい?」
 最初返事がなかった。それから、「アーガ、随分これは大きな仕事。それに複雑。私、話の筋道を追うのがやっと。・・・でも・・・ただ、私・・・」
「何だい?」
「何でもないわ。あなたとかお二人のお客様には何の関係もないこと。今話された計画はきっと全部うまくいくと思っています。ただ・・・」
「おいおいシリーン、まさかお前、あのお伽話のことを言ってるんじゃないだろうね。」
「あれはただのお伽話じゃないの! お父さまがいつも話していたこと、覚えているでしょう?」
「ああ、あれは迷信だ。あんなものは早く忘れるんだ。他のことはこれでいいんだね?」
「ええ、いいわアーガ。」
「よし。じゃあ、ここに出して来たものを私達は引っ込めます。その間にみなさんは荷造りをして。三十分後には出発です。」

 今回人間の輸送に使用された車はレンジ・ローバーではなかった。濃紺の、長いキャデラック・グルーが、別荘の外に待っていた。アーガ・ファードーシ自身がハンドルを握り、助手席に公爵が坐る。ドックとシリーンは静かに後ろの席につく。やがて車は動き、ディズブルを抜け、南へと沙漠を下って行く。アーガとジアンフランコはフランス語でお喋りをしている。どうやら英語よりは話し易いらしい。ジアンフランコが何か笑い話をする。アーガが声をたてて笑う。会話を楽しんでいる様子。
 後ろの席で沈黙が続くにつれて、ドックはだんだん居心地が悪くなってくる。しかしシリーンは相変わらず固い表情で、近づきがたい。それから急に、シリーンがドックの方を向く。
「マシュー」とシリーン。「ご免なさい、私・・・私、他のことを考えていて・・・私、お客様を迎える役として失格でしたわ。家にいらしてから私達、交した言葉、十個もなかったんじゃないかしら。」
「ああ」とドック。「当然ですよ。気にしないで。ひどく真剣な問題でしたからね、終始。時々は大変気にかかる話も含まれていたと思います、ミス・ファードーシ。」
「どうかミス・ファードーシはお止めになって。私、友人達とはシリーンですの。どうぞ私を、あなたの友達と見て下さいね。」
 ドックは微笑む。
「嬉しいです」とドック。「そう言って下さってほっとしています。何か私に厭な気持を持っていらっしゃるのではないかと心配していました。アメリカ人がひょっとしてお嫌いなのではないかと。」
「いいえ、そんなこと」と強くシリーンは否定する。「家には来客は滅多にありませんの。家は世界から切り離されている・・・いえ、テヘランからでさえ切り離されていますわ。お二人が突然いらして・・・本当に天から舞い降りていらっしゃったようなものですわ、私にとっては。ですから、心を落ち着けるのに、もう少し時間が欲しいのです。」
「でも、ヨーロッパにはいらっしゃるんでしょう?」
「ええ、昔はよく。でも、一九六五年からは一度も。また行きたいですわ。でも兄が言うんです。今のところ、私達の義務はこの地にあるのだから、と。」
「お兄さんに話してみますよ。お兄さんがルガーノに来る時には、妹さんも必ず一緒に、と。何と言っても、私達は今や共同事業者なんですからね。」
「ええ、私行きますわ。兄も今度は賛成するでしょう。ああ、その時が待ち遠しいですわ。」
 黄昏がかかってくると、車の中は暗くなった。シリーンが寛(くつろ)いだ気分になってくれたらしく、座席の隅っこにピッタリ固くなって坐っていたのが、徐々にこちら側に移動してきた。それがドックには嬉しかった。最初彼女の腕がドックの腕に擦(こす)れた。それから車の中に一段と暗闇が訪れると、二つの身体は突然ぶつかり、女の固い胸が左の腕に当たるのをドックは感じた。シリーンはそれでも何も言わず、またその姿勢をすぐ解こうともしなかった。
 それから一時間経ったろうか。沈黙の愉しい一時間。やっとドックが口を開く。「シリーン、さっき家で話していたことは何?」
「家で話していた・・・ああ、私の心配事?」
「そうです。」
「いいんです、あれ。多分あれ、アーガの言ってた通り。ただのお伽話。迷信ですわ。」
「でも、何についての話なのですか?」
「神話ですの。ペルシャには御存知の通り、沢山神話があります。時々は本当のペルシャの歴史なのか、ただのお話なのか、区別がつかなくなるぐらい。」
「ええ。でもシリーン、あなたが心配している神話っていうのは?」
「それは、銀に関する神話なのです。父は昔の銀の装飾品を、憑(つ)かれたように収集していましたが、何か良いものを見つけては、私達に見せていました。その度に必ず私達に話しましたわ。エラムの銀には呪いがある。シュシャンの銀に手をつける他所者(よそもの)には必ず恐ろしい死が待ち受けている。或は悲劇がな、と。」
「ねえシリーン、銀はただの金属なんですよ。呪いなんか関係ありません。」
「ええ。勿論私だって、冷静な時には、銀をただの金属だって考えるんです。でも父は奇妙な人で、宗教的にはイスラム教徒でもなかったのです。生涯この国の、昔からの色々な宗教、特にゾロアスター教にひかれていました。その昔には金と銀は、今よりもっと特別な宝物と考えられていて、金は太陽に、銀は月に関るものとされていました。ニヌルタという神が金と銀に、自分自身を守り、敵を害する魔法の力を与えたのだと言います。父はこういう話を信じていて、エラムの銀がなくなったのは大変よいことだとよく話していました。ねえマシュー、小さい時からこんな話を聞いて育てば、どうしてもふと思い出さずにはいられないことはお分かりですわね? それに、この話を信じていたのは父だけではないのです。このあたりの何千という人々は、相変わらずこの神話を信じ、ゾロアスター教を信仰しているのです。」
「不思議ではありませんよ、それは。アメリカだって沢山の人がまだ、天体による占いを信じているんですから。」
「話題を変えましょう、マシュー。私、変なことを考えて、馬鹿なことを言いそう。アーガが正しいの。そしてあなたの言っていることが正しいんだわ。もう私、この話決してしない。このことを考えると私、ぞっとしてくるんですもの。」
 話題はアメリカのことに移る。ラスベガス、ケネディー、ハリウッド、仕舞いには、フランク・シナトラまで。午後七時三十分、車はアバダン空港に着く。門のところにイラン石油会社と印のついた車が待っている。その運転手は、二言三言ペルシャ語でアーガと話す。二台の車は咎(とが)められることなく門を通り過ぎる。そこに立っている護衛は、二台の車が目に入らぬかのようである。十分後、二人の乗客の四個のスーツケースは機のポケットに収められ、ジェット機のドアは閉じられる。ウワンウワンというエンジンの音と共に、ジェット機は滑走路の、出発地点まで進み、そこで向きを変え、停止することなく前方に加速する。三十秒後にはジェット機は夜の空に消えている。

     四
「快適ですね?」とジアンフランコ。
「うん。」とドック。
「こういうのに、今まで乗ったことは?」
「ある。」
「私は初めてです。」
「うん、そうらしいな。」
「どうしたんですか、ドック。何か心配事でも?」
「いや。」
「ひどく静かなもんだから・・・」
「ちょっと考え事があって。」
「私も黙っていた方がいいんですか?」
「いやいやジョン、悪かった。時々こんな風になることがあって」
「分りますよ。私もですから。でも、私は逆になりますね。心配事があると、お喋りになるんです。どうも今はそれですね。そちらは?」
「そう。当たりだ。」
「それを聞いて安心しましたよ。このまま行って、何か面倒なことになりますかね?」
「さあどうなのか。ないとは思うが、物事は分らないからな。」
「ちょっと言い難いんですが・・・」
「うん、何だ?」
「割に合うんでしょうか、こんなこと。」
「どういう意味だ?」
「この仕事全体の話なんです。結局私達の首がかかるんですよ。いや、首でなくっても、少なくとも牢屋へぶち込まれる危険はあります。つまり、我々の経歴に傷がつく危険を冒すんです。」
「しかし、じっと家にいて編み物をしていたって金は入らない。」
「ええ。でももっと安全な道はありますよ。」
「悪い方向からばかり見たんじゃ駄目だ。金を運ぶのは、それはイラン国民にとっては違法だろうが、我々はイラン人じゃないんだ。それに、もうちょっと飛べばイラン国境は過ぎる。そうすれば、こっちはただのビジネスマンだ。いや、ただのじゃない。今日の話からすると、えらいビジネスマンになれそうなんだ。そう、それにこの話、俺が言い出したんじゃない。そっちからの提案なんだぞ。」
「分っています。しかし、あまりに急な話で、ここまであっという間に進んでしまって、ちょっとばかりビビっていますね。分るでしょう? 私のこの気持。」
「よく分るよ、ジョン。しかし忘れよう。こういう類いのことは、俺はもう十六歳の時に卒業してしまったんだ。つまり、自分の蠅は自分で追え。さもなきゃ、傷つくのは自分だってことだ。当面の問題、そして自分に一番身近な問題・・・今の場合は我々の利益だ・・・そいつに集中しろってことだ。俺達は誰かを傷つけるか? 誰も傷つけちゃいない。それに、イランの君の親戚を助けているんだ。」
 二人のいるキャビンは小さいが豪勢な設(しつら)えである。前方、操縦席に通じる扉が開き、操縦席の一人がやって来る。副パイロットらしい。
「快適ですか?」
「ええ。ところで、どのあたりでしょう? 今。」
「イランとトルコの国境に近づいています。アバダンから真直ぐ北に飛んで来ました。これが通常のルートです。イラクの上空は飛ぶなと厳しい命令が下っています。連中はイランが嫌いで、ミグ戦闘機を出動させたりします。こいつに出遭ったりすると、一騒動です。すぐにダッダッダと撃ってきますからね。どうせ当たりはしないんですが、わざわざ危険を冒すことはありません。天気さえ許せば、ヨーロッパへはこちらのルートを取るのです。」
「天気は大丈夫なんですか?」と始めて心配になり、公爵が訊く。
「大丈夫です。全く問題はありません。前方に山が見えますね。頂上のあたりに雷雲が発生してきていますが、こちらは三万五千フィートですからね。軽く越せる筈です。その山を過ぎるとイスタンブール、アテネ、ローマ・・・全部晴れです。ローマで燃料を補給して、そこでまた、天気は確かめます。どうぞ気楽にして下さい。コーヒーは如何ですか?」
「お願いします」と二人の乗客は同時に言う。
 暫くするとコーヒーカップ二杯が運ばれる。
「あまり美味くはありません。それに熱くもないのです。でも、コーヒーはコーヒーですから。」と副パイロット。
「あなた、イギリスの人?」とドック。
「いいえ。オーストラリアです。」
「イランでは、何をしに?」
「金のために飛んでいるんです。ヨーロッパでこの仕事をしているオーストラリア人は多いです。普通は定期便の仕事です。私も二年ばかりKLMで働いていました。それからこの石油会社に。給料はKLMよりよくて、自由時間も多いですから。」
 機体が少し傾(かし)ぐ。向きを変えているような具合だ。副パイロットは首をかしげる。奇妙だという表情。それからまた機体が傾ぐ。
「失礼。」副パイロットは操縦席に戻る。
 ドックは公爵の方を見る。公爵は今や、両手でしっかりとコーヒーカップを掴んでいる。
「ジョン、気持は俺も同じだ。」
 微かに機体がガタガタと揺れ始める。ゆっくりと機体の撹乱が始まる。再び前方の扉が開く。副パイロット、今度は顔だけを突きだして言う。
「さあ、お二人さん、シートベルトを締めて、コーヒーは捨てて下さい。前方、かなりひどい状態です。覚悟して下さい。」
「どうしたんです?」とドックが叫ぶ。
「右舷のエンジンに故障です。不時着します。アンカラは視程ゼロで、着陸不可能なので、イスタンブールです。この雷雲を突っ切れば大丈夫ですから。でも暫くは揺れます。」
 にっと笑って見せて、副パイロットは引込む。今回は扉は開けたままである。
 外の嵐はかなり激しいものになってくる。真っ暗な中に、時々稲光が走り、それがだんだんと頻繁になってくる。機体にぶつかって来る風は、前方から、横から。非常に強いらしい。一瞬、機のあかりが全部消え、少し瞬いたあと、またつく。
 次に空中の真空域に入ったような状態になる。機は吸い込まれるように落ち、また落ちる。
「ウウ・・・」強く尻もちをついた公爵が唸る。機は空気の層のいたずらで、再び上に飛びはね、次に斜めに滑り落ちる。「サンタ・マドンナ・ミア・ファンミ・ラ・グラツィア。」
 機内はまたぱっと明るくなる。稲光のやつ、翼の先端でも見ようとしたのか。
「シリーンの親爺さんの祟(たた)りかな」とドックが呟く。機全体が呻(うめ)き声を上げる。空気の層が捩(ねじ)れているのか、それに合わせるように機は捩れ、捻(ひね)られる。
 それから急に静かになる。全くの静寂。聞えてくるのは、人を安心させる落ち着いたエンジンの音だけ・・・といっても、これは左舷だけのエンジンの音か? もう一度ブルブルっと小さな揺れ。しかし、心配になるほどのものではない。すぐに機は自信を取り戻す。原始的な自然の猛威に抗して、近代技術が勝ちを収めたことを見せ付けるかのように。
「どうやら無事だったようだ」と静かにドックが言う。
「どうやら無事だったようですね」とジアンフランコ、ドックと同じ言葉を言う。
「ジョン、そっちには窓がある。外を見てくれ。」
「沢山のあかりですよ。」
「すると、イスタンブールへ近づいているということか。」
「やれやれ。」
「一難去ってまた一難か。」
「どういう意味ですか」とアッヌンツィオ。「嵐を逃れてもよくないことがあると?」
「うん」とドック。「これから我々は誰の手に委ねられるか、それが問題だな。」
 公爵、ドックのいう意味が分らない。
「ジョン」とドックが続ける。「この旅行の目的を思い出すんだ。我々は現金、それも手持ちで、五百万ドル持っているんだ。」
「でも、問題はイラン国内でだけだ、国外に出ればもう大丈夫だ、という話だったでしょう? 今はもうイランを出ています。心配ないんじゃありませんか?」
「そうかもしれないが・・・」
 着陸自体は全く問題がなかった。主滑走路に導かれる必要さえなく、小さな滑走路に滑り込み、中央ターミナル・ビルディングからずっと離れた航空機格納庫に直接向った。エンジンの音はブーンという尻下がりの音と共に小さくなり、室内にあかりがチカチカとつく。副パイロットが上着に腕を突っ込みながら現れる。
「いや、どうも失礼」が挨拶である。「どうやら、このフライトはここでお終いです。」
「どういう意味です?」とドック。
「飛んで来る時に、ここの連中と無線で話したんですがね、ここにはスペアー・エンジンはないんです。治す技術を持った人員もいない。つまり、アバダンから新しく仲間が飛んで来るまで、ここにいるしか手がなさそうです。」
「どのくらいで来るんですか。」
「三、四日ですね。」
「それからは?」
「状況によります。」
「状況とは?」
「アバダンの事務局が何と言ってくるかです。その飛行機に乗ってロンドンまで行くか、その飛行機に乗って帰るか。多分帰ることになるでしょうね。もともと我々の目的は、ロンドンまで行って、人をのっけて来ることだったのですが、その人は別の手段を見つけるでしょうからね。そうすれば、我々の仕事は当面ないわけですから。」
「私達はどうなるんでしょう。」
「まあここで、航空券を買うんですね。」
「そうですね」と躊躇った様子を見せずドック。「しかし、まずはとにかく、ここまでの旅に区切りをつけなければ。今夜のイスタンブールの泊りはどこがお奨めですか?」
「ヒルトンホテル。いつも我々はそこなんです。一緒に行きましょう。街まで案内します。その他細々したこともお任せ下さい。」
「じゃ、お願いします。で、スーツケースはどうしましょう。」
「それもお任せ下さい。クルーのタッグをつけます。そうすれば、税関でやいのやいの一晩中待たされることもないですから。最近は奇妙な具合になっているんですよ。税関の連中は、誰もかれもが大麻を一、二トン運びこもうとしていると思っているようですからね。」
「それでまた、一、二トン運び出そうと?」
「ええ。連中は爆発物も捜しているんです。とにかくトルコでは、触らぬ神に祟りなしです。お役所に関って、ろくなことはありません。そうそう、一度六時間も拘束されたことがありますよ。それも二、三千ドル私が手持ちで持っていたからという理由でです。私はクルーですよ。それなのに。トルコの奴、私が通貨を密輸出しようとしていると言いはってね。私はロンドンに預金するためだと言ったんです。トルコからじゃない。イランからだとね。この石頭の連中には参りましたよ。何か裏があるって聞かないんですからね。」副パイロットは時計を見る。「おやおや、もう遅いですね。航空機格納庫の中に、小さな事務所があります。そこへ行きましょう。他のことは任せて下さい。」
 三人はタールとマカダムの舗装道路を横切って、大きな建物に入る。事務所は吹曝しで汚い。副パイロットが二人を待たせて中に入ると、公爵が口を切る。「どうなるんでしょう、我々は。さっきの話、聞きましたか?」
「分らない。一杯やるのが先決だ。それで考えなきゃ。とにかく、ここで喋るのはまずい。」
 暫くすると副パイロットが戻って来る。主パイロットと一緒だ。こちらもオーストラリア人。茶色のシボレーを運転してやって来た。
「我々の荷物はどうなったんでしょう」とドックが聞く。
「トランクの中ですよ。」ドックと公爵は後ろの座席に潜り込む。
 車はスピードをあげて航空機格納庫から出る。門を通り抜ける。そして高速道路へ。副パイロットの話だと、荷物を改められるところがある筈だが、誰も止める者はいない。やれやれだ。ハンドルを握っている主パイロットも、どうやら早く一杯やりたいらしい。三十分もたたないうちに、大きな駐車場に着く。椰子の木が隣の土地との境界に植えられ、下から緑色の照明があてられている。トルコのラスベガスといったような風景だ。ドックも息を吹き返す。
「ジョン」とドック。「こいつは悪くないぞ。」
 イスタンブールのヒルトンは、内側から見るとただのヒルトンではない。玄関もロビーもレストランも、高級な佇(たたず)まい、広々としていて、設計に独特の工夫が施されている。ちょっと内側に引っ込めてあるラウンジ、ボスフォラス海峡を見下ろす手の込んだテラス。費用チェック担当者が故意に見逃したか、ホテルから美を取り去ったらホテルではないと信じている気の狂った建築設計者がうまく誤魔化したか、どちらかである。チェックインの手続はいつもドックの係りだが、その間公爵も、びっくりした目で大理石の床、それに大理石の柱を眺めている。十一階のベッド二台つきの部屋も、驚くほど大きい。それに、それほど高くない。一晩三十七ドルだ。二人とも着替えるような真似はしない。チップ用に小銭を確保するや、エレベーターへとすぐ出て行く。居間の絨毯の真ん中に四億リアルの現金の詰まったスーツケースを二つ残したまま。
 階下に降りると、「ナイトクラブかアメリカ風のバー、どっちにする?」と。二人ともベリーダンスを見る気分ではない。それじゃバーだ。パイロット側の奢りだ。これは無理もない。手回しよく、二人のパン・アムのスチュワデスがついて来ている。
「さあ、一杯行きましょう」と副パイロット。「あんなフライトの後じゃ、こっち持ちでなくっちゃ。」
 これを合図に、お互いに自己紹介が始まる。副パイロットはジャック、主パイロットはフランク。スチュワデスは、ビリー・ジーンとスウ。まずスコッチの水割りを頼む。スコッチはディンプル。だって壜が可愛いじゃない、とビリー・ジーン。ビリー・ジーンが可愛いと思ったものは他にもある。公爵だ。ビリー・ジーンに関しては先買権のあるフランクは、この新しい展開を気にする様子はない。普段はオーストラリアの法律によって、夜遅くまで飲めないが、こういう思わぬ事故で心おきなく飲める時にはいつでも、女のことは二の次にしてしまうようだ。ドックの顔は、「えらいことになったぞ、こうしてはいられないんだが」、という不安の表情。酒が三杯目になる頃にはもうジャックはスウの左のおっぱいにしっかり縋り付き、ビリー・ジーンは公爵のお尻をなで回していた。ビリー・ジーンは大柄な女で、ジアンフランコを自分の身体とバーの仕切りとの間に挟んで、身動き出来なくさせている。ちょっかいは彼女の思うまま。ドックとフランクはただ飲んでいる。物もあまり言わない。それからドックの顔がパッと明るくなる。
「フランク、あの車はどこで手に入れたんです?」
「空港の近くにいる友達の車だけど?」
「その友達、車を売る気持ありますかね。」
「トルコで車なんか買ってどうするんです?」
「どうということもないんですが、どうせここにいるんですから、観光でもどうかと思って。」
「じゃ、レンタカーでいいんじゃないですか?」
「シボレーなら安く買って、また売ればいいんじゃないかと思って。費用は同じくらいでしょう? それに、ここでレンタカーだと、多分車はみんなヨーロッパ製でしょう? アメリカ製の使い慣れたやつの方がいいし。」
「そういう考えもありますがね。どうでしょうね。」
「一かばちか。まあやってみますよ。」
「分りました。いくら出すつもりですか?」
「千です。」
「千・・・何ですか?」
「千ドル。キャッシュで。」
「千ドル? それは張り込み過ぎですよ。五百で充分です。ここではキャッシュのドルは強いんです。」
「よし、じゃ決まりです。残りの五百はあなたの取り分。ただ、書類関係はきっちりよろしくお願いしますよ。二三、国境を越えますから。」
「オーケー。そいつは引き受けましょう。で、金は?」
「ここです」ドックは財布を出し、束を引き抜く。
「いつまでに車は?」
「明日の正午までに。」
「オーケー。さあ、これでシボレーの一九六一年はあんたのものだ。おめでとう! お祝いにもう一杯いきますか?」
 二時半にパーティーは終る。ビリー・ジーンはベロベロで、エレベーターまで運ぶのに苦労する。スウとジャックがちゃんとベッドに入れると請け合う。公爵は全く何でもない様子。フランクはもう一日いると言う。ドックはもういい。明日は発つと言う。公爵もドックと同意見。二人が十一階の自分の部屋に戻った時、その目は一様に部屋の中央にあるべき物に走る。あった。二個のスーツケースは、触られた様子もなく・・・見たところ・・・そこにあった。ドックは早速中味を確かめる。二人は「お休み」を言い交わし、この長い、なんとなくごちゃごちゃした一日は、これで終る。
 
 部屋の掃除係の女が、何度も扉を開け、閉めて出て行く、ことを繰返し、十時三十分になってようやくドックは目を覚ます。すぐに居間に行ってスーツケースを確かめる。二つとも無事だ。居間の外には小さなテラスがある。その外は少しひんやりしているが、青い空と明るい太陽が春の暖かい一日を約束している。ドックは満足だ。再び中に入り、三箇所に電話する。ホテルの交換手は有能だ。手早く用件が片付く。四番目の電話はルーム・サービスへ朝食の註文。朝食が運ばれて始めて公爵を起す。五分後、綺麗に髭を剃った、濃い赤の部屋着を着たジアンフランコが、コーヒーを飲むために坐る。
「やあ、ジョン」とドック。「随分今朝は楽天的な顔だぞ。」
 アッヌンツィオは歯を出して笑う。「新しい日の、新しい太陽。これで新規まき直し。シシリアでは昔からそう言っていますよ。」
「うん、一理ある。」
 トーストはかなりうまかった。しかしバターがいけない。臭いがする。山羊の乳で作ったバターか。コーヒーはネスカフェ。粉の入った小さな容器、それに熱湯の入ったポット。
「さてとドック」と公爵。「次の手は?」
「丁度正午に出発だ。」
「だけど、あのパイロットが言っていたあの話を聞いたでしょう? 空港の税関で何が起きるか。空港に行くその手はちょっと・・・」
「いや、空港には行かない。車で国境を越える。夕べ俺は車を買ったんだ。」
 公爵はむせて、飲みかけのコーヒーをコーヒーカップに咳とともに吐き出す。そのあと、ひどい咳が止まらない。
「ちょっと落ち着くんだ、ジアンフランコ」とドック。
「無理ですね、落ち着くなんて」とやっとのことでおさまった公爵。「トルコの国境の向こう側に何があるか、分ってないんじゃありませんか? ブルガリアかギリシャですよ。つまり、共産主義か独裁主義です。連中がこの四億リアルを見つけた時、「フン」と言って肩を竦めて、あけて通してくれると思っているんですか? ドック。あんた、飲み過ぎで頭がおかしくなったんじゃありませんか?」
「いやいや、ギリシャにもブルガリアにも行かない。南なんだ、行く方向は。」
「南? ここの南ってどこなんだ? よく分らないけど・・・そうか、シリアか。そこまでちゃんと道があるかどうか、まずそれが問題ですね。でもまあ、ブルガリアとギリシャに比べればずっといい考えですよ。しかしまてよ。国境で何だかんだとありますよ。やっぱり駄目だな、これは。アラビア語かトルコ語が出来なきゃ話にならない。私は出来ない。あんたもこの言葉、駄目でしょう?」
「まあ待って、アッヌンツィオ。ちょっと今説明するから。」
「説明? まあいいけど」と不満そうに公爵。
「南、つまり海。つまり船で行くんだ。人間も車も。」
「船で?」
「そう。こいつが何てったって一番安全な筈なんだ。第一に港ではいつでもやたらに忙しい。次に、船旅をする人間、これが世界の旅行者の中で一番疑われない人間だ。それに船旅だと、人と車は別々に運ばれる。積み込まれる時間も別の時だ。誰も車になんか注意を払いはしない。忙し過ぎて、車に構っちゃいられないんだ。二、三年前、俺はカリブ海へ船旅に出たんだが、その時にこいつに気がついたのさ。それにもう一つ大事なことがある。空港ではいつだって、爆弾、ピストルの類いのチェックがある。ハイジャックが怖いからな。だけど、客船を襲う奴はいない。いや、例外は一つ、俺の記憶が正しければ、たった一つだ。たしかポルトガルの革命家がやったことがある。しかしそれは随分昔の話だ。」ドックが間を切る。「これでいいかな?」
「ドック」と公爵。思わず大きな声になる。「あんたは天才だ。実に名案ですよ、これは。」朝食のテーブルから立ち上り、ドックにどうしてもと、握手を求める。
「さて」と、部屋の中を歩き廻りながら公爵が続ける。「すると次は船の選択ですね。」
「そいつが実はまだなんだ。ホテルで聞いたところ、イスタンブールには船会社は三つあるんだが、少なくとも今日から向こう十日間は客船が入って来ない。船旅にはまだ時期が早過ぎるってわけだ。しかし、イズミールに行けばきっとあると言う話だ。地中海の南、ここから車で丸一日かかる。どうやらこの時期でも動いている客船は、ヨーロッパとエジプトの間だけらしい。アルテミスの宮殿を拝みに来る客は、この時期でもいるんだな。だからエフェソス(アルテミスの宮殿の所在地)に行く。ついでにその帰りにイズミールに寄るというわけだ。エフェソスはイズミールの丁度反対側にあるらしい。だからさっき俺が南だと言ったのは、このイズミールのことなんだ。」
 一時間もたたないうちに、二人の荷物はホテルの正面玄関に出ていた。勿論荷物は、公爵の、忠実なそして少しおどおどした、護衛つきで。フロントでチェックアウトをすませ、トルコリラを片手いっぱいに買ったドックが、門番の男と何か交渉している。ドルをちょっと握らせると、欲しい結果がすぐ現れる。かなり最新のロードマップ。その上にイスタンブールからイズミールの間の行程をフロントの男が、太く赤い線で書いてくれている。ピッタリ正午にシボレーが現れる。洗車までしてある。オーストラリア人の主パイロットは、ドックの気まぐれをひどく面白がっている。どうだ? お別れに一杯。いやいや、そうしてはいられないんだ。
「フランク」とドック。「一杯はまたの機会に。イズミールへ行きたいんだ。まずボスフォラスへの道を教えてくれないかな。」
「簡単だよ、そいつは。ホテルを出たら右に曲る。真直ぐ行って最初の信号を右に曲る。下り坂だ。そこをずっと下って行きさえすれば、ボスフォラスだ。You can't miss it. (間違いっこなしさ)アメリカ英語ではこう言うんだったな。丁度丘の下にフェリーの船着き場がある。三十分毎に出ている。海峡を渡るのに十五分かかる。つまり、午後一時前までにはあんた達はもうアジアにいるってわけだ。」
「ガソリンは入っているんだな?」
「満タンだ。あ、そうそう、オイルは気をつけた方がいい。大分古い車だ。オイルは早くいたむ。」
「有難う、フランク。ルガーノに来ることがあったら、必ず顔を出してくれ。」
「分った。」
 ボスフォラスはフランクの言った通り、すぐに分った。しかしフェリーに乗り込む段になると、話は違う。いろんな型の車・・・古いのから新しいのまで・・・がわんさと詰めかけて来ている。それが、獲物の兎を捜すグレイハウンド犬の群のように、我先に。この場合の獲物の兎とは何か? 呼び笛(よびこ)を銜(くわ)えた小さな男だ。この男が現れるや、車は物凄いエンジンの音を響かせ、スロープへ、次に船へ、と殺到する。ドックはすっかり度肝を抜かれて、暫く何が起っているのか理解出来ない。やっと我に返って、こいつはいかんとエンジンをふかした時、隣からルノー・ドーフィンが飛び出して来る。構わず進む。ルノー、ハンドルを切り、海に危うく落ちるところ。ルノーがそのフェリーに乗った最後の車になる。ドックは辛うじてその一台前。
「フュー」とドック。「面白いじゃないか、これ。」
 ヤーロヴァで下船する。車は南西へ向う。道路は広く、舗装も悪くない。ボスフォラスを出てちょっと行くと、もう車はひどくまばらになる。時々トラックが現れるくらいのものだ。なだらかな起伏の道で、シボレーは快適に飛ばす。道路標識も、ここがどこだという表示も全く何もない。しかし二人は心配しない。ここらあたりには幹線道路は他にないのだ。この道を行きさえすればよい。イスタンブールを出て初めての町らしい町についた時、陽は落ち始めた。そこはブルサである。ブルサは遠くからでも見える。丘の上にあるからだ。その丘の頂上に、目の覚めるようなモスクがある。そのドームは緑色に輝き、その塔・・・ミナレット・・・は、対比をつけるように真っ白だ。近づくと、そこには大きな広場があり、大勢の人が集まっている。遠くから見えたモスクの他に、もう一つ大きなモスクがあり、そのモスクの群衆だ。
「ドック」と公爵。「ちょっと止まってみませんか。モスクが面白そうですよ。」
「止まってはみるがね、ガソリンを入れるためだ。」
 モスクの真ん前に、全く無粋に、シェル石油のガソリンスタンドが立っている。店員は英語らしきものを喋る。ひどく熱心に、イズミールへ行くのは今日は止めろと忠告する。ここからイズミールまでホテルはない。日が落ちるとガソリンスタンドは全部閉まってしまう。満タンのタンク一つだけじゃ、とてもイズミールまでは無理だ。じゃ、ブルサなら? いいホテルがあるんですよ。アナトール・パレスと言ってね。アジアいち豪華なホテルですよ。行ってみる。広々とした、堂々たるホテルだ。但し、豪華さは古風なところにあり、十九世紀イギリスの海岸避暑地といった風情。二人はここに泊ることにする。
 次の朝、夜明けとともに二人は出発する。風景は昨日のものとはうって変り、茶色の草が一面に生えている大きな丘が、次から次と続く。ドン・キホーテの国、かっての風車の国である。何百マイルも進んだ間に出会った交通機関と言えば、十二台のトラック、とぼとぼと歩いて行くラクダの小隊が三隊のみ。通り過ぎた村の数、六つほど。みな原始的なたたずまい。やっと十時頃になって、バリケスィールに着く。ここでガソリンスタンドが現れる。ブルサのシェルの男は嘘を言ってはいなかった。正午近く、イズミールの郊外に着く。今までの風景との何という相違。リバプールのような街だ。汚くて、ごった返している、それでいて寂(さび)れた港の街だ。道路はそのまま真直ぐ港そのものに通じている。港に着くや、二人はすぐ雑踏に見舞われる。積荷はあちこちに無造作に置いてあり、トラックが、雑談をしている男達の群れを払いのけるように進む。波止場には、錆びた汽船、よれよれの石油タンカー、酷い臭いを放っている漁船、が舫(もや)ってある。しかし、いくら見渡しても客船らしきものは見当たらない。しかし、岸の方に、あったあった。救いの神だ。ただ一つ、確かにそれらしいキチンとした建物があり、デカデカと「イタリア汽船」と看板だ。
「ベリッシモ!」と公爵が叫ぶ。「これが捜していたものですよ。」
「そうだな」とドック。「頼むぞ、ジョン。言葉が出来るのはそっちだ。俺は車の中のものを見張ってる。」
 丁度十五分後に公爵が帰って来る。その後ろにイタリア汽船の男。黒々とした鼻髭、真っ白の背広姿。ジアンフランコ、車の開いた窓からドックを覗きこむ。
「どうだった」とドック。
「あっちで聞いた通りじゃありませんでしたが、まあまあの状況です。」
「と言うことは?」
「今週いっぱい、イズミールから出る客船は、なしです。」
「おいおい、それで「まあまあの状況」か?」
「ええ。ここまでだとまずいんです。でも、続きがあって。ロードスからなら、明後日、ベニス行きのイタリア船があるんです。」
「ロードスから?」
「ええ。ロードス島。」
「どこにあるんだ。」
「地中海です。」
「それはそうだろう」とドック。話の進まないのにうんざりという表情。「それで、その続きは。」
「トルコ沿岸にある島です。ここから約二百マイル南に行ったところに。」
「島にはどうやって行く。」
「マーマリスというところからフェリーが出るんです。」
「イズミールから直接フェリーはないのか。」
「今のこの時期だと、なしです。」
「たいしたもんだ。」
「待って下さい。ここにいるイタリア汽船の男が引き受けると言っているんです。我々二人と車をサン・クリストファー丸に予約を取ってやると。フェリーはマーマリスにいる友人に電話して、これも大丈夫だと。その友人というのは、マーマリスでホテルを経営しているんです。今夜はそのホテルに泊って、明日フェリーでロードスに渡って、明後日、サン・クリストファー丸に乗ればいいんです。」
 ドックは頷く。それから静かに言う。「こっちには厄介な代物があるのを忘れちゃいないだろうな。」
「厄介な代物?」
「声が高い。ほら、車のトランクの中だ。」
「大丈夫ですよ。あいつは英語はからっきし駄目なんです。」
 再び公爵とイタリア汽船の男はイタリア語独特のやりあいに入る。
「マーマリスの彼の友人というのが、何もかもやってくれるって言っています。その男はその町の有力者で、マーマリスの町自体も人口千人ぐらいだと言いますから、安全ですよ。」
「そうか。大丈夫そうだな。」
 マーマリスとの電話連絡等、全て完了し、二人のイタリア人が再び現れる。これはうまく行った。どうしても飯前の一杯をやらないではすまない。イタリア汽船の事務員が言う。車は見張らせますよ。カンパリ・ソーダをちょっと。いいじゃありませんか。小さなカフェが、ほら、すぐそこを曲った所にあるんですよ。三人は入る。ドックは一言も口をきかない。しかし公爵がそれを埋め合わせる以上の大活躍。喋り始めると止らない。ひとしきり進んで、やっと英語でドックに言った台詞は、「ここで、昼飯はどうだろう」。即座にドックは拒否権を発動する。フェリーにも汽船にも乗り遅れたくないんだ。まだマーマリスに着いている訳じゃないんだからな。
 後ですぐ分るが、ドックは正しかった。イズミールの南三十マイルのところにあるエフェソスを過ぎると、道は急に狭くなり、舗装もない酷いものになる。ここからイランに舞い戻った方がまだ早いというほど。南に行けば行くほど山は高くなり、最後に登りついた山など、優に海抜千メートルはある。その頂上らしき所から、今度は下り。そこが身の毛がよだつような急な坂。舗装なしの砂の道。車がやっと一台通れる道幅。ガードレールは勿論なし。片側は断崖絶壁。一歩踏み外せば深い谷。夕方六時、やっと降り着く。平らで水のある柔らかい緑の植物のある平地だ。急に道は、西に曲り、川は中程度の幅になり・・・と見ると、あった! 海だ。素晴らしい青。完全にないでいる。泳いでくれと言わんばかりの涼しそうな波打ち際。次に立て札。立て札らしき物は、この数時間見たことがなかった。「マーマリス・リド・ホテル。百メートル先。」ホテルはただのバンガローのようなもの。木の柵で周囲が囲ってある。ドックはシボレーのブレーキを踏み、警笛を鳴らす。派手な服を着た男が現れる。両手を空中に上げ、激しく振りながら。二人が車から出ると、このホテルのオーナー、ドックなど目に入らない。一直線に公爵へと飛びかかる。やはり人を知るものは人だ。ここでもそれが証明される。
「プリンチッペ」とオーナー。「待っていました。待ち焦がれておりました。さあさあ、こちらへ。どうぞ全て御任せ下さい。キイは車の中に置いて。飲み物をすぐ用意します。ああっ、そのままそのまま。」ドックがトランクを開けようとすると、急いでそれを止める。「こちらにお任せ下さい。」
 さすがのドックもお手上げ。ジントニック・・・田舎のいかさまのジントニックではない。シュウェップを使った本物のジントニック・・・が、またたく間に飲み干される。トルコの山・・・いや、暑くて、埃っぽくてやりきれませんや。まづこのジントニックで洗い流して・・・大声のイタリア語があたりに響き渡る。そこに現れたのがオーナーの妻。でっぷり肥ったキンキン声。会話の声は一段と高くなる。そしてずんぐりした中学生の娘。こちらはドックに、学校英語の試しと、英語でおずおずと話しかける。両親が無理矢理やらせるお客様への礼儀を、娘は当惑しながらやっと実行している様子。続く夕食は、豪華絢爛。パスタは完璧、魚は近くの海の取れ立て、ワインはフラスカーティー。よく冷やしてあり、実に美味い。三本がまたたく間に消え、次にコニャック。これはイタリア産。従って少し甘口。ドックは会話の間をかいくぐって、フェリー、汽船、その他明日の行動について話そうとする。が、その度に六本の腕が上がり、まあまあまあまあ、そんな話は・・・。みんな用意は出来ているんですから。と、これは主人の言葉。かくの如くして全員、つまりプリンチッペ、アメリカ人、そしてマーマリス亡命のイタリア人夫婦、は十二時少し前、実に満足してベッドに入る。
 
 次の日、即ち一九六七年四月七日の夜明けは素晴らしいものだった。地中海のアジア側のこの岸は、暖かい日の光に輝いている。そよ風もそよとも吹く気配はない。朝食は九時過ぎ。ホテルの裏側のテラスで。外海から岩山の連なりで区切られた「潟」と表現してぴったりの、プールのような海。水晶のように綺麗な水。何千という小さな魚がテラスからでも見える。十時に二人は車に乗り、港へと向う。ホテルの支払等は、ここでは公爵の仕事。目立たぬように、いつの間にかすませている。
 それからだ、問題が起ったのは。
 まづフェリー。フェリーなどありませんよ。何か間違いでしょう。ええまあ、フェリーという名前のものはあります。だけど、車は積み込めませんなあ。人間だけです、乗せられるのは。それに日曜日しか出ませんよ、フェリーは。何でしょうね、こんな行き違いがあるなんて。トルコの電話は調子が悪いですからね。ええっ? 何ですって? ああ、何だ。あの方ですか。あなたがあの方? それなら問題ありません。ちゃんと準備は出来ています。桟橋に車を出して下さい。桟橋がない? ありますよ。そこにあるでしょう? 狭いコンクリートの、ほら、五十メートルぐらいの長さの・・・それからどうなるかって? いや、そこでまず待っていて下さい。二人は待つ。そのフェリー係の男もそこに。
 岸辺に来るものは誰もいない。十時三十分、制服姿の三人の男が現れる。税関と移民の役人だ。心配はありません、全く。何が全くだ。心配ないなら、何故こんなに喋りまくるんだ。最初がトルコ語、次がイタリア語、それから次が両方。ここは出る幕ではないとドック、賢明な判断。五人から離れた所へ引き下がる。突っ立って、煙草を吸って、ただ待つだけ。暫くすると五人は、傍の建物の中に入って行く。建物は町役場か何かなのだろう。もしその入口の傍の曲ったポールに立ててあるトルコの国旗がそれを示すものだとすれば。みんなが建物から再び出て来た時、団体は六人プラス、ロバ、プラス、荷車、に増加している。荷車には長い板・・・厚さ二インチ、幅六インチの・・・が乗せてある。これが一列になって桟橋の先端に行列して行く。人々の騒ぎは、先に行くにつれてだんだんと大きくなって行く。ドックと車は完全に無視される。しかし、すぐ風向きが変る。信号が赤から緑に変った時のように、全員、叫び声のような話し声と共にドックの方に進み、車を取り囲む。制服組のうちの二人は、シボレーの前に膝まづき、車の下の幅、車輪などを測り始める。
「おいおい、ジョン」とドックは考える。「何をやらせているんだ、全く。」
 しかし再び大声が上る。また行列は桟橋の端に逆戻りする。船だ。船が来た。フェリーだ。しかし、来たものは・・・これが船か? これがフェリーか? とんでもない。古いポンポン船だ。それもひどく小さな。組み立て式屋外便所ほどの大きさのキャビンの上に煙突があり、そこから古いディーゼルエンジンのポンポンという音と共に煙が上っている。この音と煙で、やっとこさ、この船が帆で走らなくてすむらしいと推定出来る。ゆっくりと船は桟橋に近づいて来る。と、色の黒い、がっしりした男がこちらで待っている男達に縄を投げる。男達は大童(おおわらわ)だ。船をもやうという名誉ある仕事を許された、喜び勇んだ子供のように縄に取り付く。ドックもゆっくりとそれに加わる。船は近くから見るとさらに失望を増す。甲板らしき甲板はない。船の真ん中に大きな穴がある。何か特別な物を運ぶのに使用するらしい。その前方に、三メートル四方ほどの平らな場所、穴の後方に例の煙突のついたキャビン。前と後ろの行き来のために、穴・・・つまり船倉。そしてその両側に細い通り道がある。船の平らな部分は桟橋より高い位置にある。約三フィート。九十センチ以上だ。
「さあ」と公爵。この厄介な代物を眺めているドックを見つけて、「こいつがフェリーですよ。」
「そうだろうな」と静かにドック。「他にはいなさそうだ。」
「我々の車をこいつに乗っけなきゃいけませんね。準備をしなければ。」
「うん」とドック。「準備・・・大変よろしい。一体、何をやるんだ?」
「船とこっち側との間に、車のタイヤの幅に合うように、四、五枚、板を敷くんですよ。ガソリンスタンドで、オイル交換の時に車を乗せるリフトがあるでしょう? あれと同じですよ。そこをあんたが運転して行けばいい。」
「板の上をか?」
「何か問題でも?」
「問題でも? じゃない。大ありだ。もしその板にちゃんと車が乗っからなければ、あの船倉に落っこちるんだぞ。真直ぐあの穴の底にだ。おまけに俺まで一緒にだ。とにかく無理だ。見てみろ。船の縁は桟橋より九十センチ以上も高いじゃないか。シボレーをあの高さまで飛ばせっていうのか?」
 九十センチも飛ばすのかと言われて公爵は納得する。こいつは無理だ。すぐに振り返って、イタリア人のフェリー係に、恐ろしい剣幕で怒鳴りたてる。次にフェリー係は同じ調子のトルコ語を怒鳴りまくる。この攻撃を受けるトルコ側の人数は、三人の税関の男、ロバを曳いている男の四人に、船から降りた二人が加わり、六人になっている。フェリー担当のトルコ語のピッチが最高潮に達する前に、船から下りて来た二人の男のうちの一人・・・これはどうやら船長らしい・・・が、また敏捷に船に戻り、船倉に下りて行く。もう一人の船の男もそれに続く。と、すぐに、奇妙な音がし始める。船から出るべき音とは到底思えない。石切場から聞えてくるべき音である。
「何だこれは。何をやっているんだ」とドック。
「あれがどうやら解決策のようです」と公爵。「簡単なことだったんです。バランスをとるために小石が入れてあって、船の桟橋側の舷を下げるためには、その小石をこちら側に移動すればいいんです。桟橋と同じ高さにまで下った時に移動を止める。で、あんたがシボレーを船に入れる。」
「まあ、結果を見てからだ。」
 この石切場のような音は、小石の移動のせいだ。これが約二十分ほど続く。船のこちら側の舷は、見事に予定した高さに下る。四人のトルコ人が、木の板を船と桟橋に渡す。ああでもない、こうでもない。結局、二枚づつ二箇所に渡せば十分であるという結論。一組は桟橋から船まで、もう一組は船の船倉の上に跨がせる。簡単だ。後は運転の技術のみが問題と。
 それはドックの役目だ。ドックは車に戻る。エンジンをかける。全く躊躇う様子なく、車を一気に走らせ、桟橋から船へ、船の船倉に渡してある二枚の板の上へ。綱渡りのようなものだ。ドックはまるで何でもないことのような調子でその上をぐいっと走り、ぱっと止まる。車が船に乗った時の反動で、船は激しく横ゆれし、傾く。車を止めた瞬間、危うくバランスを崩して船倉に落ちるところ。かすかに踏みとどまる。サーカスのような運転が終り、ドック、半分だけ開けた車の扉から、平たい姿勢で擦り抜け、板の端を車を避けながら歩き、桟橋に辿り着く。煙草に火をつけて言う。
「こんなところはもううんざりだ。早く出よう。」
 素早く車はタイヤの下にある板に縛りつけられ、ディーゼルエンジンが動き始める。パスポートにハンコが押され、握手がなされ、十分後には「マーマリスの誇り」号は、普段とは少し違う積荷をのせて、エーゲ海に出て行く。
 トルコ人の乗組員は船尾のキャビン、ドックと公爵は船首の方に位置を取る。黙って景色が後ろに流れて行くのを眺める。岸は小さな入江がつながっている。岩で出来ていて、切り立っている。ポンポンと音を出しながら、約三百メートル岸を離れ、それから北に向う。陸にも海にも全く人影はない。殆ど正確に予定通り、三時間半経つと、船は西に舵を取る。と、そこは外海。ここで船ははっきりとトルコを離れ、ロードス島に向う。
 最初波が荒くなったのは自然に見えた。外海に出たのだ。陸の保護を受けなくなったのだ。当然のことだ。しかし、北からの風が強くなってくる。それと共に、空に小さな白い雲の筋が現れて来る。船のポンポンというエンジンの音が早まる。風も勢いが強くなる。白い雲の筋は、黒い雨雲に変って行く。嵐の到来は必至だ。
「マルテーンペ!」公爵は叫ぶ。その声も、強い風で吹き飛ばされて聞え難い。
「何だって?」
「マルテーンペ! 悪い風です。」
 舳先(へさき)が激しく上ったり下ったりする。しかし、横揺れの方がもっと怖い。車は、とても安定からはほど遠い状態で船に縛りつけられているのだ。船に直角に固定されている二トンもあるシボレーの前方及び後方のバンパーは、船の手すり用の縄で、辛うじて止められてある。車のトランクは、北西からやって来る雨と風で吹きあおられた水に、洗われている。全体の船の動きは、もし前方への進行を無視すれば、シーソーの動き。それも巨大なシーソーの。つまり、万有引力の法則に挑むかのような動きをしてくる。七個目の大きな波がやって来た時、さすがにトルコの乗組員にも転覆の危険があることは察知したらしい。キャビンから船長の部下が現れ、間に合わせで出来ているような梯子を伝って船倉に下りる。また例の石切り場でのような恐ろしい音が、雨風の音を圧して響きわたる。砂の位置を変えて、船のバランスを保とうというのだ。五分するとその効果が現れ始める。揺れは最前ほどはひどくなくなり、船全体には安定を取り戻した様子だ。しかし、船首の方にいる二人の乗客にとっては、この動きの変更はちっとも有難いものではない。船首は以前より揺れが激しくなったのだ。
「こいつは危ないぞ」とドックは感じる。
「おい」とジアンフランコに叫ぶ。「財産を波に攫(さら)われるぞ。」
 公爵はドックの言っていることが聞えない。小さく身体を縮めて蹲(うずくま)っている。仕方なくドック、傍まで行く。ジアンフランコの耳に直接怒鳴る。
「いいか」大声で言う。「トランクからスーツケースを出すぞ。ほっといちゃ危ない。」
 公爵、やっと聞え、頷く。
「よし」とドック。「俺がトランクから取り出す。あんたはあそこで受取って、ここまで運ぶ。この梁の下に置くんだ。ここだぞ。」船首の梁の下の場所を何度も指さす。
 再び公爵、了解の意を頷いて示す。
「さあ行くぞ。」
 二人は浮き沈みしている船の左舷の細い道を手すりのロープを頼りに車に近づく。車の後方についたドックの作業は、かなりな技術を要する。左手でしっかり後輪の上部にある鉄の枠を掴み、腹はピッタリと後部の尾鰭(おびれ)にくっつけて身体を安定させ、右手でトランクのホイールを探る。船の左舷は・・・そしてシボレーの後部も、ドックも・・・三度、泡立つ波の下を潜り、ずぶぬれになる。
 それからやっと成功。トランクのドアがパッと開く。ドックが身体の半分までトランクにつっこみ、スーツケースを引っ張り出す。まづ一個目。
「ジョン」ドックが怒鳴る。「早く・・・」
 ジョンはそこにいる。ジョンにしては素早い。ドックが手渡してくるスーツケースを掴み、次の波がやって来る寸前に船首へと駆け込む。梁の下に押し込む。素早く二番目のものを取りに駆け戻る。ドックのズボンを引っ張り、戻って来たことを示す。ドック、身体を捻りながら、第二のスーツケースを相棒の広げた手の中に入れる。
 入れた・・・と思ったが、充分に真ん中ではない。
 取り落されたスーツケースは、あわやエーゲ海の藻屑(もくず)と消えるところ。ジアンフランコの狂気のような手と腕の動きでその物体は、船の外ではなく内側に落ちる。ドサリと船倉の底へ。
「やった!」とドックは叫ぶ。この下手な操作を嘆く声か、曲りなりにも金が無事だったことを喜ぶ声か。
「やれやれ、ついてたな」と、二人が船首の狭い場所に辿り着いてドックが言う。「間一髪、二万ドルにおさらばするところだ。」
 公爵は、気弱な笑いを浮かべるだけ。一体どっちが下手だったって言うんだ。
「心配するな」とドック。「金は無事だったんだ。それに嵐も止んできたようだ。」そう。嵐は止んできた。三十分前から、急に起った時化(しけ)は、起った時と同じ速さでまた急に凪(な)いできている。太陽も雲の間から見えるほどだ。
「待ってろよ、ジョン。俺は今から下りて行って落ちた金を取って来る。あんたのいとこの虎の子をな。」
 ドックは船倉を覗く。そこでドックは、虎の子を取りに下りるのが自分だけの独創ではないことを見て取る。船長の部下が、既に船倉に下りていて、札束をかき集めている。まさか天からの贈り物だとは思っていないだろうが、外国の神様のお乗り遊ばす戦車からのおこぼれだ、ぐらいには思ったかも知れない。どうやらスーツケースのロックが、落ちた拍子に吹っ飛んでしまったらしい。二億リアルが船倉の床一面にばらまかれている。こいつはかなりな紙の量だ。船倉に下りて行った船長の部下も、「かなりな量」という点では意見が一致したらしい。ポケットに入る量じゃないな。そこでまた梯子を登る。キャビンに消える。暫くすると今度は船長自身が現れる。手には短い縄がある。もう一方の手には鉄の長い棒だ。エンジン室での廃棄物らしい。船倉の反対側から、じっとこの様子を見ていたドックを一瞥しただけで、船長は下りて行く。束また束を掴んでは元のスーツケースに詰め込む。綺麗な詰め込み方とはお世辞にも言えない。しかし、全ての束を元に戻す。持って来た縄でスーツケースを縛り、束が出て来ないことを確かめる。今度はドックの方など見向きもせず、梯子を登り、キャビンの中に消える。と、急に船は向きを変える。船首が風の中をぐるっと廻り、躊躇い、またぐるっと廻る。
「引き返すつもりだ」と公爵。
「ジョン」とドック。「あんたはここにいろ。俺は一言先方に話がある。」
 ドック、船倉に下り、底を横切り、向かい側の梯子を登る。丁度キャビンの前方左手に足をかけて上ろうとする時、逞しい手がドックを掴む。ドック、両膝をつく。
 船長自らのおでましだ。ドック、押し返す。船長、よろける。ドック、体勢を立て直し、船長に飛びかかる。船長、鉄の棒を降り下ろす。ドック、これを額数ミリのところで躱(かわ)す。
 それからドック、奇妙な行動を取る。逃げたのだ! キャビンの後ろ側に消える。船長はかくれんぼなどする気分では毛頭ない。すぐにドックの後を追う。ドックは待っている。船の手すりに背を凭(もた)せて・・・右手はベレッタ三二口径を構えて。ドック、全く慌てる様子なく、船長の右肩を狙って撃つ。弾丸の、目の眩むような痛みと船の揺れのため、船長、ばったりと倒れる。ドックの足下に。ドック、その顔を情け容赦なく蹴る。船長、気絶する。その気絶が確かなものか、ドック、一瞬待つ。船長の手が緩み、鉄の棒が握りから外れ、転がる。ドック、これを拾い、船外に投げ捨てる。
 船長の部下、キャビンから現れる。今度は用心して、錆びた鉄のパイプで武装している。しかし、船長が甲板の上で伸びており、ドックの右手にあるベレッタを見ると、悪者を退治してやるという高揚した気分は吹っ飛んでしまう。最初考えたことは「海に飛び込め」だったが、トルコの船乗りの伝統で、自分がカナヅチだったことをからくも思い出し、止める。そこでデッキに坐り込み、何か理由があるのだろう、頭を両腕で抱える。
 そこにジアンフランコが現れる。怖いという表情。
「ジョン」とドック。全く平静な口調。「あんた、船を動かせないか?」
「動かせます」
「じゃ、やってくれ。こいつの向きを百八十度変えるんだ」
 ジョン、それを軽々とやってのける。ドックは公爵の傍に立って、ただ感嘆の表情でそれを見ている。ベレッタは右手にぶら下がったまま。
「ロードス島がどこか、分っているのか?」
「西の筈です。日が沈む方向に。」
「見つかると思うか?」
「大きな島です。それにもう大分近づいている筈ですから。」
「いい腕だな。操縦はどこで習ったんだ?」
「シシリアでさんざんやりました。私は心配いりません。それよりあっちの二人を。」
「あいつらは俺に任せておけ。何も出来はしない。」
「ここでのことじゃないんです。ロードス島に着いてからどうしたらいいかと思って。」
「大丈夫だ、そいつも。俺が面倒をみる。」
 公爵は黙る。それから後、全く表情を変えない。無表情のまま。水平線にロードス島の山々の姿が見えた時も、その港の防波堤の輪郭が見えた時にも。やがてフェリーは外海の大きな波から保護された半円形の港に入る。午後六時だ。外壁で囲まれた町は、向って右手にあり、その反対側、向って左手に波止場がある。公爵は波止場の方に船を進める。波止場には流線型で真っ白な二隻の船が停泊している。その二隻の中間に、公爵は船首を向ける。フェリーは見事に港入りする。船首、船尾と、ドックがプロ並みの手際のよさでロープを操り、波止場に横付けする。トルコ人の二人は? 船長の方は、今やすっかり正気に戻り、ただ甲板に坐りこんでいる。仏頂面をして、肩の傷を手で抑えて。その部下はまだ、頭を抱え込んだままの姿勢。
 波止場には誰も人がいない。全くの無人だ。
「これは奇妙です」エンジンを止めて公爵が言う。
「ここらへんの波止場人足は、今はやりの時間厳守ってやつか。六時のベルが鳴るとさっさと家に帰るんだ。」
「でも、税関の役人なんか、どうしたんでしょう。」
「知るもんか。波止場に出て来るのは止めて、門ででも待ってるんだろうさ。そうだ、もう六時は過ぎてる。あいつらもどこかへ行ってるさ。」
「どうしましょう。」
「運ぶのさ、ブツを。」
「どこへです?」
「あそこだ。」
 指差されたところは船。大きな字で「サン・クリストファー丸」と書いてある。五十メートルと離れていない。
「でも・・・」
「でももへちまもない。あそこへ直接移せばいい。こっちの目的地はロードス島じゃないんだ。さっさとあっちに行けばいいんだ。ロードス島の手間を煩わせることはない。そうだろう?」
「で、車は?」
「持って行かない。上げるにはクレーンがいる。つまりクレーンを動かす人間が必要ってことだ。それから、そいつには口があり、喋るだろう。つまり車は置いておくってことよ、そのままあそこにな。あのオンボロフェリー船には、即刻立ち去って貰うんだ。あの二人もただでシボレー一台手に入るんだ。文句があるどころじゃない、協力するさ。」
「そんな馬鹿な。そんなことをするぐらいなら、最初から運ぶなんて手間をかけずにあっちに置いておけば良かったじゃないですか。」
「その通りだ。だけど、こういう展開になるとは俺達は思っちゃいなかった、あの段階ではな。税関の目を擦り抜けるにはどうしても車が必要だと思ったんだ。だけど直接あの船に上げてしまえば、税関はもう終だ。車のお世話にもならないでいいってことさ。」
「だけど、ドック、もし・・・」
「もしはこの際もうなしだ。サン・クリストファー丸に突進あるのみだ。パーサーっていうのか何か知らないが、そいつに百ドル掴ませて、荷物を上げて貰うため数人よこしてくれと言うんだ。それから、もう百ドル掴ませて、入国手続きだの何やかやは省略してくれと言うんだ。」
 全ては思惑通りに行く。客船のイタリア人が来、フェリーのトルコ人二人は去る。それに、ロードス島の誰がこんなことを気にするだろうか。六時過ぎになっていた。公爵は、シャワー、ひげ剃り、それに服を着替えると、例の颯爽とした姿に変る。その夜二人は船長と一緒のテーブルで食事を取る。船長は食後の酒はイタリア汽船のおごりだと主張する。ということは即ち、午前三時まで飲み、酔いつぶれ、這うようにベッドに潜り込む、という成り行き。酔った頭でドック、思い出してみると、乗船してスーツケースの中味を整理、入れ換えをしている時、床の上に落ちていた何かを、チップにしてしまった。濡れた札だったぞ。そうだ、一万リアルの紙幣だ。

     五
 ドック達の午前三時は、ルガーノ湖を挟んだルガーノ市の対岸にあるカンピオーネでは、午前一時だった。小アジアの西から、時差二時間のところにイタリアがあるからだ。三センチ以上もある分厚いガラスの向こうで、タキシードを着た男が札を数えている。リアルではなく、リラだ。そしてガラスの下の隙間からその束を押しだす。受取るのは正面にいる若い二人の男。
「いくら儲かったんだ? アルバート」とマーヴィン。
「三千四百です。」
「驚いたな。ゆうべより多いじゃないか。」
「ええ。なかなか調子がいいです。でも、今日はもう、帰った方がいいと思います。」
 そこでアルバートとマーヴィンはカジノを出る。並木道を通って、門を出ると、疲れた顔の船係の男が手を振る。待っていたモーターボートが近づき、二人を乗せ、十五分後には、対岸に着く。午前二時には、二人ともスイスでぐっすり眠っている。
 次の日、いや、次の日だけではない。その週いっぱい、アルバートとマーヴィンは猛烈に忙しかった。日中は電話。人に会うこと。値段の交渉。それから夜はカンピオーネのカジノ。土曜日の夜、二人がカジノに姿を現すと、非常に丁重に、しかし非常にきっぱりと、入ることを断られる。七日のうち十四回通ったカジノを去り、湖を引き返す時、アルバートはマーヴィンに言う。「まあいいでしょう、これでも。」
 それから五日後、ルガーノのマジェスティック・ホテルに、陽にやけた二人の男が入って来る。背の高い方の男がフロントに言う。「アルバート・フィオーレの部屋に案内してくれ。」
「ミスター・フィオーレ? チェックアウトなさいました。」「何時だ。」「昨日です。もう一人のアメリカ人の方と一緒に。」「どこへ行ったんだ。」「それは分りませんで、シニョール。」「バーは開いているのか。」「はい、シニョール。」「あのポーターに俺達の車を見てくれるよう頼んでくれ。」「喜んで、シニョール。お心付け誠に有難うございます。」
 バーは確かに開いている。しかし、人はいない。昼間に飲むのはスイスでは好まれない。
「ブラディー・メアリーを二杯。あっちのテーブルに頼む。」
 バーテンダーは勿論異議を挟まない。
「あいつら、チェックアウトするなんて、一体どういうことなんだ?」とドック。
「あの客船からでも電話するべきだったんですかね。」と公爵。
「アルバートはこういうことはしない男なんだがな」とドック。「マーヴィンならやるだろうが、アルバートはしない。」
 誰かドックの肩を叩くものがある。ドックは人に触られるのが嫌いだ。怒りの表情でさっと振り向く。マーヴィンの大きくにやりと笑っている顔がある。
「やあ、ドック。」
「マーヴィンか。なんだ、消えたのかと思っていた。アルバートはどこだ。」
「忙しいんだ。」
「忙しい? どこだ。」
「教えないと約束しているんだ、アルバートに。お前さん達を驚かせようと思ってな。」
「遊んでいる場合じゃないんだぞ。おい、マーヴィン、早く言うんだ。アルバートはどこにいる。」
 マーヴィンはただにやにやしているだけ。
「分ったよ。好きにやるんだな。まあ坐れ、マーヴィン。最近どんなことをやっているのか話してくれ。」
「まあ忙しくやってるよ。坐れと言われても、坐っちゃいられないんだ。お前さん達を見つけたら、すぐに連れて来いって言われてるんだ。だからもう行った方がいい。」
 ドック、すんでに癇癪を起すところ。そこをぐっと我慢する。
「さあジョン、行こうか。マーヴィンの言うことを聞いてやるとしよう。」
 三人はホテルを出る。外には真新しいMGのコンバーチブルがあり、マーヴィンはさっとそれに乗り込む。
「さあ、乗った、乗った」とマーヴィン。
「うん」とドック。ドックの目は、真っ赤なMGからマーヴィンへ、次にまたマーヴィンから真っ赤なMGへと移る。「まあいい。こいつに何を言ったって、何も出てきはしない」と諦め、黙って乗る。
「乗ったか? それでいいんだ」とマーヴィン。「まあ、俺に任せておくんだな。」車は走り出す。二、三度、エンジンに活を入れる。これがまた、ドックの勘に障る。
 最初の交差点でマーヴィン、右に曲る。と、すぐに急な坂道になる。十分経つと、もうずいぶん都心から離れ、雁行の路になり、ハンドルを右に大きく、次に左に大きく切って進む。もう十分過ぎると、横に中世風の塔が見える。そこからは古くからある山村という風景。道路標識にはガローナ、海抜九三六メートルとある。いや。こう言い切ってしまうのは正しくない。と、書いてあるらしい。何故なら、全部イタリア語で、読んだのは公爵だから。村の端まで来ると、急に小道に逸れ、また突進。門らしきものを通り過ぎる。左側に高い石塀が続いている。行き過ぎたのかマーヴィン、バックに切り替える。不意をうたれてドック、姿勢を崩す。少しバックして、ギアを入れ換え、その門に入る。ちょっと離れた所に、プールがあり、そこにアルバートが立っている。車が停り、ドックと公爵、車から下りる。
 黒い服に白いエプロンをかけた女の子が屋敷から出て来て、二人にお辞儀をする。マーヴィンが紹介する。
「ドック、これはマリーアだ。荷物を運んでくれる。力はある。大丈夫だ。」
「そうだろうな」とドック。「さてと、プールの方に行って、アルバートと話をしなきゃな。」
「やあ、ドック」がアルバートの最初の言葉だった。「お腹がすいているんでしょう? もうすぐお昼にするつもりだったんですよ。」
「そうか、そいつは有難いよ、アルバート。しかしその前に、ちょっとここに坐っていいかな?」
「どうぞどうぞ。椅子はそこです。ジョン、あなたもどうぞ。また会えて嬉しいですよ。旅行はどうでした?」
「いや、有難う。思ったより暇をくってしまった。しかし、全て予定通り運んだんだ。」
 それからまたドックが言う。「アルバート、ちょっとお前に訊きたいことがあるんだがな。」
「いいですよ。どうぞ。」
「じゃ、まず最初にだ。この家はどうしたんだ。」
「買ったんです。」
「なるほど。それで、MGは。」
「あれも買ったんです。」
「なるほど。すると、あの女中も、家と一緒についてきたというんだな?」
「そうですよ。どうして分りました?」
「自然にそういうことになるじゃないか。まあいい。だが、分らないことが一つある。」
「ええ、何です? それは。」
「一体その金はどうしたんだ。」とドック。これは怒鳴り声である。
「怒らないで下さいよ、ドック」二人で稼いできたものなんですから。」
「稼いだ?」
「ええ。カジノがあるって聞いたんですよ、イタリアに。このルガーノ湖の反対側なんです。スイスでは賭博禁止ですが、イタリアはいいんです。それで皆、対岸に行くんですよ。外国に行くなんて感じじゃありません。散歩の気持です。誰が行ってもいいんです。理由は分りません。詳しく調べた訳じゃありませんから。でも、イタリア政府の方針か何かで。賭けについては、僕は昔から試してみたい方式があって、そいつを少しやってみたんです。最初はちょっと実験程度に。そうしたら、かなりうまく行って・・・それで続けてやってみることにしたんですが、その後もずっとうまく行って・・・ただ、最終的結論を出すには、実験の回数がまだ少な過ぎるんです。単なる幸運が続いただけのことかもしれません。シカゴ大学でIBM三六0を使ってやった時でも、あの方式の有効性は、最終的には・・・」
「アルバート、ちょっと待ってくれ。シカゴ大学の話はまた後で聞くことにする。その前にはっきりさせておかなきゃならんことがあるんだ。」
「ええ、何ですか? それは。」
「賭けを始めた時の最初の金は何だったんだ?」
「ドルです。マーヴィンの金なんです。だいたいカジノへ行こうって最初考えたのはマーヴィンなんですから。」
「フン、マーヴィンのか。いくらだ。」
「五万ドルです。」
「フン、マーヴィンの五万ドルか。」
「そいつは俺が・・・」と家の方に行きかけていたマーヴィンが言う。
「いい。黙ってろ、マーヴィン。お前はそこにいるんだ。アルバート、その五万ドルは、紙幣だったのか? どんな金だった。」
「百ドル紙幣です。マーヴィンは五百枚、百ドル紙幣を出してきたんです。」
「新札か?」
「ええ、新札です。どうして分りました?」
「マーヴィンのやることはおよそ察しがつくんだ、こっちはな。」ドック、マーヴィンのシャツの胸倉を掴む。
「おい、マーヴィン、何の金だ、その五百枚は。」
「大丈夫ですって。アメリカから持って来たんです。心配は無用だ、ドック。最上の出来のやつを持って来たんだ。アメリカでだって、見つかる訳がないんだ。俺の全生涯で一番の傑作なんだ。」
「ええっ? じゃ・・・」とアルバート。眼鏡の後ろで眉が顰められているのが見える。
「そうだ。「じゃ・・・」なんだ」とドック。「お前の推定通りな。」
「マーヴィン」とアルバート。「そいつは話しておいてくれるべきだったな。」
「おいおい、もういいじゃないか。もう終ったことだ。忘れようや。」
「もし連中が見つけたらどうなるんだ」とドック。「カジノじゃ、身元を調べられただろう。」
「調べられてるよ」とマーヴィン。「だけど、俺だけさ。賭けは全部俺一人がやったんだ。アルバートはただ後ろに立って、俺に指図していただけだからな。それに俺のことは心配はいらんよ。」
「どうして。」
「連中に見せた俺のパスポートも偽造だからな。」
「やれやれ」とドック。「分ったよ。それでいくら勝ったんだ。」
「四十万ドルだな。勿論元手の五万ドルも含まれている。」
 公爵、危うく椅子から落ちそうになる。ドック、ただ首を振っている。前に、後ろに、また前に、後ろに・・・約一分間、この動作を繰り返して、やっと言う。
「その金で、この屋敷と車を買ったんだな。他には。」
「他にも実はある。銀行の用地、建物だ。リース等の手続はもう全部終っている。家に入れば図面も見せられる。気に入る筈だぞ、ドック。いい場所なんだ。アメリカン・エクスプレスの事務所さ。連中が新しいところへ移るんでな。ホテルのバーで偶々その支配人に会って、話をしたんだ。とんとん拍子に話が進んでな。」
「それで、全部でいくら使ったんだ。」
「二十五万だ。だからまだ少しは残っている。」
 ドック、椅子から立ち上る。
「腹が減ったな。さっき話していた昼飯にしよう。」
 マリーアは待っていた。四人が優雅な食堂の席に着くや否や、大皿に山盛りにした湯気の立ったスパゲッティーが出て来る。四人、またたく間に平らげる。
「素晴らしい腕前ですね。実に美味いですよ」と公爵が褒めると、マリーアの顔が赤くなる。従って勿論、コーヒーは最初に公爵へと出される。次に出たのが黄色い色をした液体だ。
「何だ、これは」ガブリと一口やった後、ドックが驚いて言う。「もの凄いものだな、こいつは。」
「グラッパですよ」と公爵。「このティッチーノでは最高のグラッパが出来るんです。いや、最高は言い過ぎでも、少なくとも、世界で一番強いグラッパはここで出来るんです。九十パーセントの濃さにまで上げられると言います。」
「あの娘はどこで手に入れたんだ、こいつを。」
「ここの地下室で・・・我々のワイン貯蔵庫からです」とアルバート。
「我々の・・・ワイン貯蔵庫?」とドック。次に「糞ったれ!」と出るところを、ぐっと呑み込み、その話題はやり過ごす。
「アルバート」と突然ドックが言う。「お前、銀のことを知っているか。」
「取引としての銀ですか?」
「そうだ。」
「一オンス一・二九ドルです。」
「値段は変動しないのか。」
「過去数年間は変動なしです。アメリカ政府がこの価格にほぼ固定する政策をとっているからです。」
「どうしてアメリカはそんなことをするんだ。」
「銀が金と同様、貨幣価値の基準になっていた頃の名残りです。まあ実際、銀は貨幣の基準になっていますからね。貨幣の大部分は今でも銀で出来ているんですから。アメリカ合衆国には膨大な銀の貯蔵量があります。それは貨幣鋳造のためだけでなく、第一次原材料としての価値が非常に高いからです。軍事産業にはなくてはならないものですからね。だからアンクル・サム(アメリカのこと)は、銀の市場に介入し、価格を安定させているんです。」
「で、俺達は銀を簡単に買えるのか?」
「勿論です。」
「どこでだ。アメリカ政府からか。」
「違います。商品取引所です。ニューヨークにも、シカゴにも、ロンドンにもあります。」
「誰でも買えるっていうことか?」
「ええ。勿論仲買人を通さなきゃ駄目ですがね。それは株を買う時と同じです。でもドック、銀の話を持ちだして来たとは、実に今の段階では適切ですよ。最近の動きですが、大勢の人達が銀は世界的に不足し始めていると感じてきたらしいんです。」
「お前さっき、アンクル・サムには膨大な銀の貯蔵量があるって言わなかったか?」
「ええ、言いましたよ。しかし、銀の価格を一オンス一・二九ドルに保つために、政府は随分銀を商品市場に放出しているんです。でも、これはそう長くは続きません。いづれ放出を止めねばならない時が来ます。何しろ、銀は非常に重要な原材料ですからね。貯蔵量をそんなに減らすことは出来ない筈です。」
「それで?」
「銀の値段は恐ろしい勢いで上昇するでしょうね。」
「おい、アルバート、お前に内証で秘密を教えてやろう。俺達はな、世界で最大の銀の鉱脈の、二分の一を保有する権利を得てきたんだ。」
「どこです? それは。カナダですか?」
「いや。イランだ。」
「イランに銀の鉱脈? 聞いたことがありませんね。」
「そこが付け目なんだ。誰もこの話は知らない。それに、知らせることは決してしない。秘密なんだ、あくまでも。」
「そんなことを秘密にするなんて、無理ですよ」と、アルバート。「銀の発掘なんて大きな仕事が、どうして秘密にしておけるんです。」
「イランでなら可能なんだ。ジョンと俺とで、そこはうまくやって来たんだ。秘密に出来るんだ。な? ジョン。」
「出来ますよ。絶対。」
「分りましたよ、ドック。あんたがそう言うなら」とアルバート。しかし全く信用している様子なし。
「なあアルバート、実は少し技術的な点で不備なところがあるんだ。お前の智恵を借りたいんだがな。」
「ええ、いいですよ。」
「お前、銀行に特別な口座が作れるか? それに五百万ドル入金するんだが。そんなこと、出来るかな?」
「口座を作ることぐらい簡単ですよ。だけど、その五百万ドルです。それをどこから手に入れるんですか?」
「リアルでならあるんだ。四千万リアル。」
「でも」と公爵が口を出す。途中で口を挟むのはこれが初めてだ。「アーガは言ってましたよ。あの金を全部つぎ込むのではないと。」
「最終的にアーガに悪いようにならなければ、アーガも文句はないんだ。それに、とにかくアーガは金が銀行に預けられるのを望んでいたんだ。そして、一旦預けられたら、その金をどうするかは銀行が決めることなんだ。」
「ええ、でも・・・」
「そこはそれで終りだ。ところでアルバート、お前、リアルについて何か知ってるか?」
「かなりよく知っています。」
「どうやって知ったんだ。」
「我々の外国為替担当者からです。」
「我々の? 担当者?」
「ええ。先週の木曜日に雇ったんです。それに、保険の担当者も。」
「誰の許しを得た。」
「ドック、あんた言ったじゃないですか。俺のいない間、ここの状況をなんとか良くすることを考えろって。だからやったんですよ。」
「どこで見つけてきたんだ、その二人は。」
「やはりアメリカン・エクスプレスからです。」
「アメリカン・エクスプレスっていうのは、旅行会社じゃないのか?」
「アメリカではそうです。でも、ここでは銀行もやっているんです。」
「潰れかかった俺達の銀行に、どうして入る気になったんだ。」
「もう潰れかかっちゃいないんですよ。これから出来る我々の新しいビルを見て下さい。出来上ったら、たいしたものになるんです。二人が来る気になったのはそのせいですね。それに、今までの給料よりずっと張り込んだんです。」
「どうやって払うつもりなんだ。」
「ドック、ここまでは実にうまく運んでるんですよ。それに、これからだってきっとうまく行きます。」
「お前の言う通りだ、アルバート。確かに俺達は前進あるのみだ。さもなきゃ、潰れるだけなんだからな。それに、例の銀の取引っていう大物が控えている。ちゃんとやればうまく行くんだ。そうだ、さっきの質問だ。リアルはどうなってる。」
「リアルの市場はジュネーブにもあります。イラン以外の国では、正式にはリアルを所持することは出来ないことになっていますから、これは半分闇の市場です。でも、ジュネーブでは正式レートの二パーセント安だけですから、損な取引ではありません。新しく雇った外国為替の担当者によると、リアルを受け入れたその日のうちに処理出来るという話です。」
「なかなかいい、アルバート。こいつを言うのはちょっと癪なんだが、お前とマーヴィンは実によくやった。ところでマーヴィンはどこだ? 一言も言わずにどっかへ行っちまったな。」
「そうですね。どこへ行ったんだろう。ああ、きっと犬だ。リンゴーのところへ行ったんです。」
 この時マーヴィン、再び現れる。リンゴーを連れている。リンゴーは、ひとわたり部屋を眺めると、真直ぐドックの方に進む。前半身をドックの足の下に入れる。
「ここから追いだせ」とドックが怒鳴る。
「酷いことを言うんじゃないよ。あんたのことが気に入ってるじゃないか」とマーヴィン。
 リンゴーの尻尾がマーヴィンの言葉を証明している。歓迎の意を込めて、勢いよく振られている。ついでに尻尾は、テーブルの上のコーヒーカップまで尻尾で床に振り落す。ドックの顔を舐めるために舌を出す。ドック、少し怖れをなすが、思いきって試しに頭を軽く叩く。
「そう。確かにこいつは俺のことが気に入っているんだ。マーヴィン、お前知らないだろうが、俺は実は大変な犬好きでな。」リンゴー、その言葉で、またドックの顔を舐める。
「よーし、もういい」とドック。「お坐り!」
 リンゴー、すぐに坐る。尻を床につけて、前脚を伸ばして、ドックの顔をじっと見て次の命令を待っている。
「うん、なかなかいい犬じゃないか、マーヴィン。どこで見つけて来たんだ。」
「家についてきたんだ。」
「訊くんじゃなかった。いいか、マーヴィン。こいつはただのボロ犬じゃないぞ。リンゴーは生粋のアルザシアンだ。アルザシアンていうのは、大食いなんだ。それに贅沢なものを食う。お前はこいつに今まで何を食わせてきた。」
「ハンバーガーだ。」
「そりゃ駄目だ。もっとちゃんとした肉を食わさなきゃ。それから、散歩をさせなきゃいかん。長い散歩だ。」
「分ってるよ、ドック。俺がやってやる。飼っていいか?」
「勿論だ。実にいい犬だ。なあマーヴィン、俺も飼うのに一役買うよ。どうせ番犬はこの屋敷じゃどうしたって必要だ。」
「ドック、今散歩に連れて行っていいかな?」
「いいさ。だけど、車に気をつけるんだぞ。縄をつけて行くんだ。」
 公爵はスイスの土を踏んでから急に無口になっている。しかし、ここで口を開く。
「ドック、私に考えがあるんだが。」
「考え? 何だ。」
「さっきあんたが言っていた通りだ。私達は、前進あるのみです。さもなければ、潰れるのが落ちです。そうですね?」
「そうだ。」
「丁度今、新しいビル、新しいスタッフ、何もかも新しくなっているところです。」
「そうだ。」
「ここで我々がやらなきゃならないことは宣伝じゃないでしょうか。皆の注目を集めて、顧客を引き入れるために。」
「そうだな。それで、どうやる。」
「私の考えですが、大パーティーをやるんです。ルガーノで今まで一度も行われたことがないような大パーティーを。私は、私の友達を全員招待します。きっと来てくれます。私の友達といっても、馬鹿になりませんよ。ヨーロッパ中に名の知れた人物だっているんですから。それから、ここスイスの人達もよびます。来てくれますよ、きっと。スイスっていうのは、自分の国に貴族がないものですから、貴族と名のつくものが好きなんです。この点はアメリカ人に似ているんです。」
「アルバート」とドック。「お前、どう思う?」
「これはいい考えですよ、ドック。いい考えどころじゃない。とびっ切りの考えです。もし公爵が言う通りの筋書きになれば。」
「言う通りの筋書き?」公爵はこの言い回しを知らない。
「そうです。言う通り実行出来れば。例えば、予定している客が、その通り来てくれるとか・・・」
「そんなもの、来てくれるに決まっていますよ。勿論費用はこっち持ちというのが条件ですがね。」
 こっち持ち、という言葉にドック、一瞬シュンとする。しかし・・・
「まあ、いいじゃないか」とついにドック。「もしうまく行けば、つぎ込んだドルはそのままこちらに返って来るんだ。それで行こう。で、いつだ。」
「建設会社の話だと、六月中には新築が完成するそうです」とアルバート。
「では、七月の一日にでも?」と公爵。
「いや」とドック。「七月四日にしよう。アメリカ独立記念日だからな。勿論壁にはわんさとアメリカの国旗を・・・勿論スイスの国旗もだが・・・飾るんだ。パーティー終了の時には、花火もな。そうだ、ジョン、在スイスアメリカ大使も必ず招ばなきゃ駄目だ。それに・・・」

     六
 一九六七年七月四日は金曜日だった。ルガーノでは通常は七月四日は何でもない日だ。ヨーロッパの他のどこでもそうだ。しかし、その年は違った。ルガーノにアメリカの金持の銀行家が進出してきて、この日に大パーティーをやるんだそうだ。やっぱりアメリカ人だ。やることはどこでも同じだ。とは言うものの、無視は出来ない。そのパーティーに招待された地元の人間となれば大威張りだ。だって、ヨーロッパの貴族は半数はその日にここに集まって来るそうだからな。信頼出来る筋によると、モナコのグレース王妃も必ず出席するとの返事だったそうだ。それに、次の噂もかなり強烈だった。エリザベス・テイラーが、私を招待しないって法はないでしょうと言ったとか。噂の主は誰か、などと言ってみたところで、どうせ噂の主は噂である。スイスのテレビ局も当日取材をと、頼もうとしたが、スイスのさる大銀行の頭取がストップをかけたとのこと。まあ、この頭取が断らなくても、アッヌンツィオ公爵は許可しなかった筈だ。特権階級の儀式なのだ。大衆が軽々とテレビなんかで覗き見出来るものではないのだ。公爵はその他、パーティーに関するありとあらゆるところに気を配った。ただ、費用に関しては、彼は他の人間に任せた。他の人間、即ち銀行のスタッフにだ。その数はこの記念すべき初日を迎える頃には、二十二人に増加していた。シシリーアメリカ国際銀行には、何とも言えない成功の雰囲気が漂っていた。
 きっかり四時に、第一のリムジンが銀行の正面に到着する。そこには既に、制服姿のドアマンが控えている。乗りつけて来たのは時間厳守で有名なプリンツ・ヨハンネス・フォン・ウント・ツー・ホーエンローエと、プリンツェス・ヒルデブルーンの二人。自分達が一番乗りであることなど全く意に介していない様子。堂々と車から降りて来る。見るとまだ、歓迎者の方は列が乱れている。しかしアッヌンツィオ、すぐに乱れを直す。勿論先頭に立っているのは公爵その人。その隣がジョー・フィオーレ。満足な気分ではち切れそう。いや、大枚千ドルをつぎ込んで仕立てたタキシードも、着馴れない身体のせいか、どこか不具合で、はち切れそうな姿だ。ジョーの次がドック。そして最後がアルバート。これだけ立派なパーティーに、歓迎の列がたった四人とはみすぼらしい。しかし、これも主催者側の奥ゆかしさだと、一般には理解されたようだ。
 二番目に到着したのは、ダンネシー侯爵夫人。夫の侯爵は、もう二十年以上も前に祖先の人々と一緒に墓に入っている。侯爵夫人の燃えるように赤い髪は、オレンジ色のリボンで結ばれ、その巨大な胸は、アッヌンツィオが優雅に腰を屈め、彼女の手にキスする時、ぐっと盛り上がる。ジョー・フィオーレも同様に腰を屈め、手にキスをしたが、その動作にラスベガス特有の小粋な味が含まれていたかもしれない。おまけにジョーは、何やらフランス語らしい挨拶の言葉まで発したのだ。「アンシャンテ・マダーム」。次に到着したのは、今までとは全く雰囲気の異った、背の低い、肥った男である。歓迎の列の一人一人に、几帳面に踵を鳴らす気をつけをし、握手、そして、パキパキした発音で、「バウエル・ハインリッヒ・ホッホチーフバウ・デュイスブールグ。ゼーア・アンゲネーム」と挨拶する。誰も何のことか分るものはいない。後で説明され、やっと、この人物が、ハインリッヒ・バウアーという名前で、以前ドイツ・デュイスブールグのホッホチーフバウ建設会社の社長、現在はその税金コンサルタント達とルガーノにいる、ということが分る。次に到着したのは、ファードーシ兄妹、アーガとシリーンだ。シリーンは明るい緑の、胸の大きく開いたドレス。ドックと目が合うと、顔がパッと輝く。そして握手の時、彼女の手袋を嵌めた手は、歓迎の儀式として許されるよりやや長くドックの手に留まる。ドックはシリーンの登場にすっかり心を奪われ、挨拶の言葉もろくに出てこない始末だ。ルガーノ市長夫妻が次に現れ、アメリカ大使とその妻、ミスィズ・ランドルフがその次だった。大使夫妻はこのパーティーの主役を演ずる客なので、アッヌンツィオが直々に歓迎の間に導き、最初の飲み物を勧める。この頃になると、通りは到着客でごった返してくる。また、少なくとも百人以上の野次馬が、一目モナコのグレース王妃、或はリズ・テイラーを見ようと待ち構えていた。しかし、この二人は現れなかった。映画スターで現れたのは唯一人、スイスでは名の知られている、一九三八年の映画「ハイジ」においてハイジの父の妹、つまりハイジの叔母を演じた、アーシュラ・マンディングであった。
 五時半までには、もう既に銀行の中で進行しているパーティーは大成功だった。飲み物などを配る給仕達は、銀行のスタッフの連中に助けられて、客を充分に楽しませていた。銀行のスタッフは、何カ国語も話すスイス人で、客のそれぞれの言葉を用い、気楽な気分にすることが出来たのだ。ジョー・フィオーレはやっとのことで歓迎の列から解放され、即席に作られている建物の中のバーに直行する。頼んだものは勿論、バーボンのストレート。それから息子のアルバートを手招きする。
「おいお前、こいつは凄いじゃないか。大成功だ。大変な散財だったろうが、金をかけるだけのことはある、これなら。そうだ、今から俺が個人的に呼んで来た奴に、お前を紹介する。あそこだ。ドックと話している。」二人はそこに進む。
「トニー」とジョー。「これがうちの息子のアルバートだ。まあこの銀行の屋台骨の一人でな。アルバート、これはトニー・ラガッツォーニだ。ニューヨークから来た。」
 ジョーが満面に笑みを浮べている傍で、トニーはアルバートを大きく抱擁する。
「アルバート」とトニー。「今丁度ドックに話していたところなんだ。この間お前の親父さんから我々の仲間に、この銀行に一口乗らないかと話があったんだ。俺達はみんな、くだらない、と一言で片付けちまった。だけどな、言っとくが、この俺は考えを変えたぞ。」
 そこでジョー・フィオーレが口を挟む。「そう来るだろうと思っていたよ、トニー。だがな、こっちも考えを変えたんだ。この仕事はもう、俺のファミリーだけで行く。俺の一家の仕事にするんだ。」
「おいおいジョー、それはないぜ。本気じゃないよな?」
「いや、本気だ。この話はここまでにしておこう。だがなトニー、俺のファミリーの仕事だといっても、お前達の協力はいらないっていうんじゃない。アリゾナで俺が話したことはそのまま生きているんだ。俺達はお前さん達の金を預かって、ちゃんと運用してやるさ。決して表には出ない。そうだな? ドック。」
「そうです。もうそのことについてはトニーと話し合ったんです。来週早々にも百万ドル送ってくれることになっています。それに、ニューヨークのトニーの組織からだけでも、もう一千万ドル入れることが出来るだろうという話です。こちらにその金を送る算段も今丁度すませたところです。」
「本当か、トニー。」
「なあジョー、俺はここの仕事にぞっこん惚れちまったよ。俺にも何かやらせろよ。な? 片棒担がせろよ。まあいい。これはまたの話だ。今のところはここまでだ。」
 そこにマーヴィンが現れる。「ミスター・フィオーレ、アルバートをちょっとお借りしていいですか?」
「何の用だ。」
「アムステルダムから来たという男がいて、銀について訊きたいって言うんです。」
「銀! 銀のことなんかこいつが知る訳がない。そうだな? アルバート。」
「いや、知っているんですよ、お父さん。それについてはまた後で。いいですよマーヴィン、その人、どこにいるんです?」
 その男はリチャード・フォン・デア・ツイダーという名前だった。いや、私はプリンチッペ・ジアンフランコ・アッヌンツィオ・ディ・シラクーサとはヨット友達でして。彼から私は、銀がよい投資の対象になると聞いたものですから。これは本当なんでしょうか。ええ、本当ですよ。じゃ、アメリカ政府が、銀相場から手を引くということなんでしょうか。ええ、私の感じではそうですね。それも近々。するとどうなります? 一オンス二ドル以上に、いや、それよりもっと跳ね上がるでしょう。かなりの金額を銀につぎ込んでみようと思っているのです。お宅の銀行で引き受けて下さるでしょうか。勿論です。どうぞ月曜日にこちらにお越し下さい。十時では早過ぎましょうか。いいえ、いいえ、お待ちしています。ではその時にアムステルダムから銀行関係の書類を持参します。
 この時までにドックの方は、ファードーシ兄妹と話をしている。ただ、相手をしているのがドック一人ではない。自称ドゥ・ラ・トレッラ伯爵なるいかがわしい人物が、シリーンの注目を独り占めしようと、ずうずうしく傍にいる。一目彼女を見た時から、その機会を窺っていたのだ。一方アーガに近づいている人物もいる。ハインリッヒ・バウアーだ。イランで一儲け出来る仕事はないですかな? 彼の英語はひどく覚束ない。しかし、長く話しているうちに自然と、今自由になる現金が二千万マルク手持ちにあり、それで最低十パーセントの利益を得ようとしていることがアーガに伝わる。しかしドックがそこにやって来ると、すぐに十パーセントは最低五パーセントでも構わないのだが、という話になる。お宅の銀行では五パーセントの利益、大丈夫ですかね? ドックが答える。月曜日に詳しくその件を話しあいましょう。昼飯でも御一緒に如何ですか? ハインリッヒに否やはない。ヤーヴォール、昼飯とは実にいい考えですな。ではデュイスブールクから銀行関係の書類を持参します。
 その後ドックなんとか他の客をまいて、アーガと二人で隅の方に引込む。
「アーガ」とドック。「計画はうまく運んでいますか?」
「ええ、だいたい。少し計画よりは遅れていますが、それはあなた方のせいではありません。例の資金は、私が思っていたよりずっと早くクエートに来たんです。それに、信用状もその二日後には出来てきました。例のイギリス人のハワードと私は、ローデシアに三週間行って来ました。勿論技術者と機材確保のためです。残った問題は運送だけになりました。機材は九月にドバイに着きます。ということは、十二月には第一の銀塊が出荷出来るということです。」
「アメリカ政府の銀についての政策が変化するという噂を知っていますか?」
「ええ、勿論。この仕事がもっとやり易くなるっていうことですね。ところで、私達の契約の文書ですが、進んでいますか?」
「ええ。あとはサインだけというところまで。」
「よかった。時間と場所を指定して下さい。早速行きます。勿論シリーンも。この件に関しては私達二人、同等の権利を持つのです。」
「分りました。ルガーノ以外の場所の方がいいと思います。それに、あなたとシリーンはここルガーノでは、私達のお客様です。滞在諸費用は当然こちらがもちます。どうかお気のすむまでいらして下さい。」
「本当にいいんですか?」
「勿論です。喜んで。」
「では、お言葉に甘えて。ああドック、ここではこの話は打ちきりにしましょう。これ以上詳しく話す場所ではありませんから、ここは。」
「賛成です。あ、それにどうやら、移動する時間のようですね。」
 六時半にアッヌンツィオは五カ国語の宣言により、客の喧騒を宥めることに成功。宣言文は、皆様、只今外にリムジンが待っております、と。確かに壮観だった。アッヌンツィオは五十台の豪華な車を用意していたのだ。メルセデス六00から始まって、リンカーン、ベントレー、シトロエンヌ。ジュネーブは勿論、チューリッヒ、ミラノ、遠くはフランクフルト、のレンタカー会社から最高級の車をかき集めて来たのだ。その噂はルガーノ中、あらゆるバー、レストラン、家庭、で話題になった。五十台の高級車の列は、ルガーノ市を過ぎ、スイス=イタリア国境を越え、延々と続く葡萄畑を突っ切る狭い、曲りくねった道路を二十四キロ進み、コモ湖のほとり、メナッジオに着く。そこで汽船が待っている。湖を横切るのに二十分かかり、ベッラージオにあるヴィラ・セルベッローニの桟橋に着く。ヴィラ・セルベッローニは、それ自体が半島をなしているような、巨大なホテル。その広いテラスへと繋がる回廊の両側に、真っ白なお仕着せ、真っ白な手袋をした三十人のウエイターがずらりと控えている。各自盆を持ち、その上に七個のシャンペングラスがのっている。オーケストラはこの雰囲気に合わせてギイ・ロンバルディーの「クアンド・クアンド」を高らかに演奏する。但し、オリジナルのギイ・ロンバルディーの味はすっかり変形してはいるが。
 一九六一年に、いや、あれは一九六二年だったか、ここで行われたジャックリーヌ・ケネディーの大パーティー以来、白紙の小切手でパーティーが催されたのはこれが初めてだ。ホテルの経営陣が、こんなうまいチャンスをみすみす放っておくようなことはしない。テラスの縁には何百という提灯がぶら下がり、ラーゴ・コーモ(コモ湖)から吹いてくる暖かい風にやさしく揺れている。食器皿は一八九0年代のセーブル焼き、グラス類は一九一0年代のバカラ・クリスタル、銀器は光り輝くジェッツラー製。各テーブルにピンクとブルーの花が活けてある。その中央に背の高い蝋燭が立ち、銀器に揺らめく光をあてている。テーブルの上にある女性の名札には、小さな蘭の花が添えてある。席順はアッヌンツィオがひどく頭を痛めた問題であった。丸二日間これにかかりっきりで、やっと出来上がった芸術作品である。客達が各々自分の席に坐り、いつものパーティーと同様、隣の客と退屈な時間を費やさねばならないと覚悟を決め、くたびれた頭を持ち上げると、あにはからんや、自分自身に対する正当な配慮が施されていることに気付き、安堵の色が浮かぶ。主客のテーブルには大使夫人がアッヌンツィオの右手に。その正面、ランドルフ大使の横にはシリーン・ファードーシ。大使が喜んでいることは言うまでもない。市長夫人の隣にはジョー・フィオーレ。市長の隣はルクセンブルグの伯爵夫人。その他、ヨーロッパ貴族陣、いづれも同国人とは隣合わない、見事な配置である。
 ほとんど待つ間もなく食事が運ばれる。イタリアではまず例外なく前菜にメロンとプロッシュートが出るものだが、今夜は違った。シュトラスブール産フォアグラを詰めたアーティチョークに白トリュフをあしらった料理が運ばれる。最初に出たワインは、一九五七年シャブリ・グラン・クリュ。これは次の料理に正にピッタリという選択。マスタード・ソースで微妙に味つけされたグリルド・イタリアン・スカンピ。このソースはスイスアルプスで取れたクリームを使ったシェフ秘伝のものである。次の口直しには、あっと驚くものが出される。居並ぶ客からは、小さな拍手が起ったほど。レモン・ソルベット。そのキラキラ光る氷の上に、客の後ろに並んだ三十人のウエイターが、一斉にピンク・シャンペンを注ぐ。ヴィラ・セルベッローニのシェフ、ジウゼッペ・ポンティは、この絶品の口直しの後は、暫く料理を出さないことに決めている。やっと三十分たってから、メインコースが現れる。スパイスの効いたパイヤール・ディ・ヴィテッロ。別名フローレンス・ステーキだ。付け合わせの野菜は、白いアルザシアン・アスパラガス。ワインは一九四九年シャトー・マルゴー、デザートはシュルプリーズ・ロワイヤッル。カッサータ(アイスクリームの一種)の上にメレンゲがかけてあり、その上にマラスキーノ酒をふりかけて火をつける。真夜中、十二時きっかりにコーヒーとコニャック、それにシガーが出る。
 誰もが料理の出来を褒めちぎる。傑作中の傑作だと。事実、米国大使チャールズ・ランドルフの最後のスピーチはこの言葉で始まったのだ。大使の名調子は続いて、「私はここスイスにおいて、七月四日の、このアメリカの記念日が祝われたことを、誠に光栄に思うものであります。ご覧下さい、掲げられているアメリカの国旗、イタリアの、そして、スイスの国旗を。実に感動的ではありませんか。」実際にはイタリアの国旗はなかった。しかし、用意された原稿にそう書いてあったのだから仕方がない。「私はヨーロッパとアメリカが、平和と調和の中で共に生きている、ここ新世界スイスの一員であることに誇りを持っており、また、私の妻ロレーヌを誇りに思っております。何故なら、在スイス、アメリカ大使として、今日この日にも、沢山の他の招待も受けております。が、妻のたっての頼みが、この記念すべき祝賀会への出席だったからであります。では皆さん、この素晴らしい新しい銀行の門出を祝って、乾杯しようではありませんか。」
 スピーチは丁度一分であった。ルガーノ市長は十分。もし市長夫人が厳しい目つきで夫を睨みつけていなかったら、もっと長いものになっていたであろう。アッヌンツィオは六カ国語で、ただ「有難う」を形式的に述べることに留めた。但し、六番目の言葉ペルシャ語は、食事中シリーンに即席に習ったものである。食後のダンスは大受けだった。ジョー・フィオーレは市長夫人と組み、大満悦で、流されたワルツは一つも逃さず踊った。ランドルフ大使はブラッセルの、ほろ酔いの伯爵夫人に申込み、年齢もアルコールもチャチャチャを踊るのに何の支障もきたさないことを証明してみせた。ドックとシリーンは、午前三時まで殆ど休みなしに踊り続けた。
 それからオーケストラは「アリヴェデルチ・ローマ」を、物悲しく演奏し、パーティーの終りを告げる。ラーゴ・コーモを再び渡るべく桟橋で待っていた客船に乗り込んで、客達はみんな幸せな、満足な気分だった。対岸のメナッジオでは、五十台の車が待っており、そこからそれぞれ客の指定する場所へと客を送り届ける。
 一九六七年七月五日の朝、招待された客達はシシリー・アメリカ国際銀行が、たいした銀行であると、しっかり印象づけられている。ところがこの判断は、後の展開で明らかになるように、やや早まったものであることが判明するのだ。

     第 二 部 (一九六八年)

     七
 カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行の十六人の重役は、毎月第三木曜日午後二時に、役員会のため集まることになっている。役員会は通常きっかり一時間で終る。何故なら、頭取のジョージ・フォアマンが、いかなる会議も六十分以上続くのを極端に嫌っていたからだ。が、それに加え彼には毎週ゴルフの約束があるからだ。サンフランシスコの繁華街から車で四十五分の位置にある、アサートン・カントリー・クラブ、木曜四時十五分である。実はこれは木曜日には限らない。火曜日も金曜日も、であるが。
 従って、一九六八年四月十九日木曜日、二時五十九分にジョージ・フォアマンは役員会を散会した。重役達は三十六階にある広い会議室を出て、重役の肩書きから通常の肩書きにと戻る。つまり、石油会社の社長、エレクトロニクス綜合会社の部長、顧問料がおっそろしく高い高級法律事務所の役員、等々へと。しかし、例外が一人いる。頭取の弟、サム・フォアマンである。彼はさっさとモンゴメリー街のバー「ハリー」へと一杯やりに行く。この銀行では、縁故採用はひどく嫌われていたが、これは例外の人事である。銀行の重要事項決定において、普通人の感覚を取り入れる必要があるとの判断のためで、サム・フォアマンは、頭取の弟ではあるが、その役にピッタリであると重役達に認められているのだ。
 しかし、誰もが解散した訳ではない。頭取は、二人の男に残っているよう合図をした。一人は副頭取のスィッド・チェインバース、もう一人は単なる部長、ドナルド・ラックマンである。実際はラックマンはこの役員会のメンバーではない。メンバーであるためには、常務取締役でなければならないが、彼はただの取締役でさえないのだ。ただの部長なら、この銀行には四十七人もいる。しかし、頭取は彼に出席を命じた。例外処置だ。勿論予め役員会には断ってあった。だから出席していたのだ。
「役員会は順調に終ったな? どうだ?」
 どうやらこの質問は二人のうちどちらかに発せられたものではないらしかった。そこでチェインバースとラックマンは、期せずして声を合わせて答える。「はい、順調でした。」
「議題の最後に上げておいた、「国際的活動」の項目に関して君達二人に動いて貰わねばならない。それで残って貰ったんだ。スィッド、君も知っての通り、我々は国際舞台では他の銀行に大分水をあけられている。バンク・オヴ・アメリカは、世界中に支店を持っている。ウェルズ・ファーゴも海外に少なくとも十支店はある。ロスアンジェルスの隅で細々とやっているように見えたセキュリティー・パシフィックだって、UCBだって、ヨーロッパとアジアに進出する計画を立てている。ところが我々はまだ、この国から一歩も外へは出ていない。役員会で私が発言した通りだ。この状況は変えねばならない。それも早急にだ。役員連中の反応も見ただろう。あの大馬鹿野郎のアナライン・ケミカルの社長まで賛成しおった。こんなことは役員会始まって以来のことだ・・・」
 三人とも、この冗談にゲラゲラっと笑う。そう、このフォアマン頭取は、いやらしいところがあるにはあっても、確かにユーモアのセンスは認めてやらねばなるまい。
「だからだ」とフォアマン。「連中は私に白紙委任状をくれた。費用はこの際問わない。速度が問題だ。」フォアマンはここで時計を見る。三時十五分だ。四時十五分の待ち合わせ、四時半が第一打だ。ティーオフまであと七十五分しかない。「私は以下の決定をした。ここで役員会の決めた国際部会を設置する。最低三人いれば充分だ。人数が多くなると、ただ喋るだけで何も決まらん。」
 ここまで何の反対の声も上らない。
「では私がこの部会の議長を勤める。スィッド、君が副議長だ。この部会は小部会をいろいろ立ち上げることになるが、小部会毎に海外に行って貰わねばならん。世界の銀行家たるもの、世界を知らねばならないからな。スィッド、君が小部会の上に立って行って来るんだ。」
 春にはローマ、夏にノルウエー、秋に香港に行くというのは、スィッドにはそれほど負担の仕事とは思えなかった。フォアマンとは長い付きあいだ。足が地についた地道なことしかやらせないに決まっている。
「いいな、スィッド、それが君の仕事だ。さてラックマン、君はこの部会の第三番目の人物だ。この部会の全責任を負うことになる。従って、君を新しく出来る国際部の部長且つ常務取締役に任命する。君の給料もその任に応じて近いうち調整する。」
 ドナルド・ラックマンは呆然となる。まだ彼は四十二歳なのだ。ファースト・ナショナル銀行で、五十五歳以下の常務取締役など、今まで聞いたことがない。この銀行の常務取締役はとんでもない高い地位なのだ。
「返事がないな、ラックマン。この役が気に入らないのか。」
「いいえ、とんでもないです。ただその、呆気にとられて・・・」
「早く我に返るんだな。さもないと断ったのかと思うぞ。」
 ここでジョージ・フォアマンはさっと立ち上る。後の二人も、間髪を入れず立つ。立ち去る前にフォアマンはもう一言話すことに決める。
「ラックマン、これからは君と共に過す時間が多くなる筈だ。この件に関する君の意見を聞いておきたい。私の意見も君に聞いておいて貰いたい。今夜我々夫婦と食事を一緒にどうだ。アサートンのカントリー・クラブ七時半。ミスィズ・ラックマンも一緒だ。」

 ドナルド・ラックマンは普通六時十八分に帰宅する。ユニオン・パシフィック線のステイション・バーでたっぷり一杯のマテニを飲み、五時十六分の電車に乗る。これは五時四十七分、パロ・アルトに着く。駅のそばの駐車場からフォルクスワーゲンを運転し、ロス・アルトス・ヒルズにある四万二千ドルした自分の家に着くまでの時間、およそ三十一分。それで六時十八分となる。六時二十分には、その日二杯目のマテニに口をつけている。妻が専用の水差し一杯、マテニを用意しているからだ。但し、時には水差しの半分が空になっている。妻の喉の渇き具合で、予め消費されている場合である。
 しかし、この一九六八年四月の午後は、違った。慣例が破られたのだ。第一に、ステーション・バーではマテニなし。次に、五時十六分の電車ではなく、四時六分だ。最後に、フォルクスワーゲンの所要時間が二十六分とカットされた。これは一九六六年、妻を緊急に病院に運んだ時の記録以来の大記録だ。病気の原因は、推定によるとマテニに入れたオリーブが腐っていたためらしい、と分ったが。電車の時間が三十一分、これで四時三十七分、それに二十六分、つまり五時三分に、ドンはサンライズ・レイン二七一九番地の扉を開ける。
「おい!」とドンは叫ぶ。
 応答なし。
「デビー!」
 相変らず応答なし。
「デボラ!」
 それからやっと、ドンの耳に達するものがある。浴室からの水の音だ。デボラ・ラックマンはもっと興奮する暇つぶしに没頭していた。泡の風呂に入り、傍らにはドライ・マテニのグラスを置き、片手にはエロ本。そしてもう一方の手は泡の下で忙しく動いている。丁度オーガスムに達しようというところ。グローブ社の本、なかなかいいじゃない。その時に、なんて無粋な、気のきかない人。
 ドンが浴室に入って来た時、まだデビーは息をきらしている。そしてむかっ腹を立てている。ところが、ふと気づく。ああ、いい時にやって来たのよ、この人。
「ドン、早く服を脱いで。入って来て。私、あの気分なの。」
「デビー、馬鹿なことを言うなよ。」
「ちっとも馬鹿なことじゃないわ。その気分なのよ。ほら、長いことなかったじゃない・・・」
「またその話題か。もういいよ。それよりすごいニュースがあるんだ。」
「銀行が焼け落ちたんでしょう?」
「真面目に聞けよ。」
「あなたの秘書がレスビアンだって分ったのね。」
 デビーがこれをやりだしたら、何を言っても無駄だ。こちらが勝ったためしがないのだ。仕方がないのでドン、ダンマリの戦術を取る。デビーも勿論、何も言わない。黙って湯から上がり、タオルを使い始める。三十八歳の女性にしては、よく体形を維持している。無理に難点をあげれば、バストが張りすぎていることぐらいか。大き過ぎるのだ。デビーはそれを意識している。却って誇りに思っている。水を拭き取って最後の仕上に、ピンクのタオルで右の胸をマッサージ、次に左を。乳首も「コスモポリタン」誌で定義しているアメリカの標準からすると、少し大き過ぎる。その乳首がピンと立つ。タオルをドンの足下に投げつけ、さっさと寝室へ進む。
「何をやってるんだ」とドン。
「あんたなんか、知らない!」
 ドン、タオルをまたいで浴槽に進み、縁に置いてあるマテニのグラスをつまみ上げ、飲み残りをさっと湯槽(ゆぶね)に捨てる。
「ドン?」デビーは寝室から呼ぶ。ベッドに腹這いになって、両手で頬を支えている。身体はベッドに直角、浴室の方を向いている。
「早くいらっしゃいよ、ドン。」
 ドンはその言葉に従う。
 デビーのゲーム・プランは二段階に分れている。第一段階は、オーラル・ジェニタル。浴槽で読み終ったばかりのグローブ社の本によれば、第一段階で非常に大きな成功を収め、エレクションが巨大であったが、急に、在アメリカ、コンゴ交換学生と同じ大きさに縮小したケースありと。それから性行為にそれが使用されたとのこと。デビーは現実派だから、そんな馬鹿なことはやらない。しかし、第一段階は実行出来そうな状況だ、お互いの合意がなくても。相手の道具がありさえすればいいのだし。それは現実に一メートル先、目の前に見えている。そこでデビーは手を伸ばす。到達からまさぐりへと移ろうとする時、ドンが一歩退く。
 結婚して十七年たつが、ドンは相変らず異常に走ることを好まない。あれは土曜日のみ。しかし、たとえ暗くしたとしても、伝道宣教師の姿勢に限られている。まれに・・・奇妙なことにこの「まれ」は、いつもクリスマスの頃になるのだが・・・その時だけ、伝道宣教師の姿勢でない姿勢が採用される。しかし今は四月だ。
「デビー」とドン。「もう、大抵に止めてくれよ。今から僕の言うことを聞くんだ。いいね?」
 こう言われては仕方がない。デビーは耳を傾ける。
「僕は常務取締役に指名されたんだ。」
 残念なことに、アイヒラー製バンガローの壁は木で出来ていたにも拘らず、震えなかった。しかしデビーは感動した。
「ドン!」とデビーは金切り声を上げる。「やったわね!」ベッドから這い下りてドンに飛びつき、力強く抱擁。当たりが強過ぎてドン、身体がふらつく。
「ああドン、私、あなたが誇らしいわ。」
「まあ、本気で言ってくれてるんだろうな。」
「本気よ」と、もう一度抱擁。今度は少し感情が籠っている。
「それから、まだあるんだ。大きなやつがね。聞きたいかい?」
「勿論よ。言ってみて。」
「今晩、夕食に招待してくれた人をあてたら偉い。アサートン・カントリー・クラブでの食事だぞ。」
「ドン!」
「そう。ジョージ・フォアマン頭取夫妻だ。七時三十分、ミスター・アンド・ミスィズ・ドナルド・ラックマン夫妻に御越し戴きたく、御招待申し上げ候だよ。服装は平服にて。」
 一瞬デビーは何と言っていいか分らない。それから彼女は顔を顰(しか)める。
「何一体これ? ドン!」これには何かある。何もなくってこんな話、あるわけがない。まだこれは表面をかすってもいないらしいわ。
「おいおいデビー、変な顔をするなよ。これにはちゃんとした話があるんだ。」
 顰め面は続いている。
「僕は銀行の国際的活動を任されたんだ。支店を作るんだ。ヨーロッパかもしれない、アジアかもね。これからは二人で外国だ。何箇月もだ。」
「いつ。」
「すぐだよ。今晩の夕食からそれが始まるんだ。この国際部はフォアマンの虎の子になっているんだ。だから僕はフォアマンの秘蔵っ子というところさ。」
「ドン」とデビー。声はいよいよ落ち着き払い、いよいよ人を追求する厳しいものになっている。「これ、ただのあなたの夢ね。そうでしょう。私をからかったりして。殺してやるんだから、あんたなんか。」言葉の最後の部分はかなり荒々しい言い方である。ドンの方はそれに気がつきもしない。カリフォルニアで十七年間結婚生活を送ると誰でもこうなる。
「デビー、僕は生涯でこれほど本気なのはないくらいだよ。さあ着替えよう。今夜は二人の人生で最高の夜になるぞ。」
 それを証明するためにドン、デビーをベッドへと誘う。しかしやはり四月だ。伝道宣教師の姿勢で終るのはやむを得ない。

 アサートン・カントリー・クラブでの夕食は誰もが想像するような素晴らしいものではない。クラブのメンバーは平均六十五歳。今日はちょっと変った食い物にしようかと言って註文されるものは、せいぜいがウエルダンのサーロイン・ステーキの代りにレアーのサーロイン・ステーキ。普通のクラブと違っているところを無理に捜すとすれば、食い物ではなく飲み物。食前酒に、たっぷり入れたカクテル三杯は普通である。そしてそのアルコール吸収中に話される話題は、決まって「今の若いものは」であり、「マリファナで毒されたあの連中、一体将来はどうなるんだ」である。
 ジョージ・フォアマンはスコッチ・・・シヴァス・リーガルしか飲まない。一インチの水と四角の氷二個でわったもの。彼の妻マージョリーはジン。ゴードンのストレートである。従ってラックマンがその晩ラウンジで頭取夫妻と一緒になった時、ドンはスコッチ、シヴァス・リーガルを一インチの水と氷二個でわったものを、デボラはジン、ゴードンのストレートを註文する。ミスィズ・フォアマンが言う。「まあ、何て素敵なんでしょう。飲み物の好みがこんなにピッタリ一致しているなんて。」それからまた、「デビー、あなた、私のことをマージョリーとお呼びなさい。」フォアマンもドンに、自分のことをジョージと呼べと言う。これから先、我々はしょっ中会うんだからな。それに、年の差などたいしたことではないのだ。本当? まさか。そんなことを真に受ける奴がどこにいる。四人は食前酒をすませて、夕食のテーブルに移動する。食事が出てくる前、デビーはマージョリーから、マージョリー自身の健康状態についてタップリと聞かされる。心臓・・・良好。腎臓・・・やや不調。子宮切除手術・・・成功。デビーも自分の秘密を明かす。去年左の胸に、はっきりしたしこりが出来ましたの。でも単に、脂肪の塊だったんですの。本当にホッとしましたわ。それから食事が運ばれる。
「さてと、ドナルド」コーヒーまで来た時、フォアマンが言う。「君とデビーは、この新しい任務に実にピッタリだ。ママは賛成だろう? そうだな? ママ。」
 ママは賛成する。
 男性軍はここで喫煙室へと退くことをフォアマンが提唱する。女性軍はラウンジで、女性同志の話があるだろう。ジョージ・フォアマンは、この計画についてドナルドの考えを聞きたいのだ。
 次の三十分間にラックマンが知らされたことは、六つの質問とその答だった。いずれも短い質問である。ジョージはこの件は十分考慮ずみであり、行動を伴うところまで問題は煮詰めてあった。ドナルドはヨーロッパのどこか適当な銀行を捜さねばならない。適当な銀行が見つかると、それを買収する。適当な、とは何か。成長している銀行である。即ち、利益が上っている銀行である。大きさは? 資産約一億ドル相当。これは一千万ドル出せば買収出来るだろう。資産十ドルにつき買収価格一ドルというのが、ジョージが過去行ってきたアメリカでの買収の値段だった。左翼急進派が、裁判所でアンチトラスト法をぶち上げる時が来るまで、ジョージは国内の銀行の買収を随分やった。このアンチトラスト法のせいで、一層ファースト・ナショナルは、ワシントンに知られつくしている司法権外の、海外への進出の必要に迫られることになったのだ。ヨーロッパのどこがいい? ロンドンか? ロンドンは誰でも最初に狙う場所だ。アムステルダム、或はチューリッヒ。場所はそれほど問題ではない。
 一千万ドルもの金を何だと考えているんだ、いい加減な! と怒る人間もいるだろう。しかし、何十億もの資産を持つ銀行を切り盛りしたことがある人間の考え方は違う。誰かが言ったように、物の考え方は相対的なものだ。
 ジョージ・フォアマンにとっては、この計画はたいして大きな企てではないということだ。以上の考えを独り言のようにブツブツと言って、二杯コニャックを註文する。レミー・マルタンだ。「水は別に頼む。」
 コニャックを啜る間、二人は無言だった。それからフォアマンが最後の決断の言葉を発する。これがいつものフォアマンのやり方だ。
「ラックマン、君は来週から動き始める。海外行きの切符を手配することになる。そうだ、二枚だな。君の奥方は、なかなか元気がいい。一緒に連れて行くと助けになるぞ。」
 それからフォアマンは身を乗りだして、小声で言う。「いいかラックマン、これだけはよく頭に入れておくんだ。この件は誰にも口外無用だ。ヨーロッパ市場にこのことが漏れでもしてみろ。みんな足元を見て値段を釣り上げて来る。しっかり秘密にしておかなきゃならん。具体的なところまで話が運ぶまではな。」
 その十五分後、ラックマン夫妻の偉大な夜は終った。一時間以内に二人はロス・アルトス・ヒルズで深い眠りに落ちていた。今夜は二人とも、眠り薬ヴェイリウムは、十ミリグラム必要だった。普段は五ミリグラムなのだ。ドナルドが今や常務取締役になったのだ。それぐらいの興奮は当然であろう。

 ジョージ・フォアマンが家に着いた時・・・彼の家はアサートン・カントリー・クラブから五分のところにある・・・ヴェイリウムも飲まず、寝床にも入らなかった。妻にお休みを言うと、テレビをつける。テレビのスイッチを入れると、いつもの椅子に坐る。チャンネル四がつく。この何年もの間フォアマンは、五時間以上は睡眠をとることが出来ない。つまり、カントリー・クラブからベッドまでには、かなりの時間があるということだ。四チャンネルはトニー・カーソン・ショーだ。彼が暇を潰してくれる。フォアマンは時間のことを考えるのが厭なのだ。「七十歳の誘惑」という年代に入っている・・・つまり、生涯の最後の、どでかい仕事を夢見ているのだ。
 ジョニー・カーソンは、今日の番組の説明などの前置きを終えて、いよいよ招待客ツァ・ツァ・ガボールを招き入れるところ。多分これが彼女の八十九回目の出番だ。フォアマンはガボールが嫌いだ。スイッチを切る。
 と、その時電話が鳴る。自動的にフォアマンは時計を見る。十二時二分前だ。間違い電話か、嫌がらせだ。
「もしもし」と用心深く答える。
「ジョージ・フォアマンか?」嫌がらせの電話とは思えない声だ。
「私はフランク・クックだ。ヨーロッパに乗りだそうという計画らしいな。」
 こいつはいたずら電話だ。フランク・クックと直接話が出来る男が世界に何人いるというのだ。俺がその数に入っている訳がない。しかし、用心して丁寧に答える。
「どこからの電話ですか?」
「ロンドンからだ。」
「そちらでは真夜中の筈ですが。」
「そうだ。」
「ミスター・クック、疑って大変申し訳ありませんが、今まで一度も取引のない方ですので、この電話が本当に御本人からのものかどうか、判断つきかねるのですが。」
「それもそうだ。まあ、本人自身からの電話だと信じることだな。」
「我々がヨーロッパ進出に興味を持っていると、どうしてお分りになったのですか。」
「今日の役員会の議題の最後の項目に出ていたからだ。他の項目が何であったか、ここで言おうか? 例えば核開発株式会社に貸した五百万ドルの貸し倒れの話とか・・・」
「いいえ、もう分りました。」
「よかろう。ではこの電話の本当の目的に入っていいんだな?」
「はい、どうぞ。」
「スイスのルガーノに、シシリア・アメリカ国際銀行という名前の銀行がある。これが君の捜しているピッタリの銀行だ。かなり安い値段で手に入る。それもすぐにだ。我々も力になろう。ただ一つ条件がある。今すぐ動くならばだ。」
「何故でしょう。」
「それはあとの話だ。」
 フランク・クックとは議論は出来ない。
「当方では、こういうやり方では事を進めない主義なのですが。」
「分った。では、この電話はなかったことにしてくれ。」
「ちょっと待って下さい」タイミングが少し早過ぎた。しかし、フォアマンは狼狽していた。だから仕方がない。
「何だ。」
「こちらの態勢をまず整えておきたいので。」
「分った。ただ、今すぐとりかかる事が条件だ。」
「月曜日にヨーロッパに、ある男を出す予定にしています。」
「何という名前だ。」
「ラックマンです。ドナルド・ラックマン。」
「分った。来週木曜か金曜に、こちらからも人を送る。ラックマンと連絡を取らせる。」
「どこでです。」
「お互いに連絡を取って決めて行く。いいな?」
「分りました。」
「よし。じゃあな、ミスター・フォアマン。君と仕事をするのは始めてだな。楽しみにしている。」

 フランク・クック!
 ジョージ・フォアマンは、真夜中に一人で飲んだ。この十年間決してやったことがないことである。フランク・クックの同時代人で、彼と同じ地位を築き上げた人間は、世界に十人といない。グルベンキアン、ルードウィッヒ、ヒューズ、ハント、ゲティー、エングルハルト。世界を相手にまわした大実業家達だ。本物の億万長者だ。とてもジョージ・フォアマンごときが夢見て到達出来る高さではない。オナシス夫妻程度の高さにあって初めて夢見ることが出来、到達出来るかもしれない高さなのだ。何故なら、連中のやる賭けは桁が違っているからだ。銀行家が理想としていること・・・安全第一・・・の真反対の世界なのだ。しかし、この世界はまた、男と生まれてきた限り、何らかの魅力を感じない訳には行かない世界でもある。そして、ジョージ・フォアマンは銀行で、部下からどのような陰口をたたかれていようと、内心はこの「打って出る」ことが好きな男なのだ。そこで彼は真夜中に受話器を取り上げた。実にこの二十年間やったことがない行為だ。相手方のベルは十分間鳴り続けた。そしてやっと誰かが受話器を取る。
「ラックマンか。」
「はい。」
「ジョージ・フォアマンだ。明日八時に私の事務所に来て欲しい。八時きっかりにだ。お休み。」
 フォアマンは殆ど叩きつけるように受話器を置く。
 いい気分だ。突撃開始だ。ついにこの俺は、世界のエリートと一緒に仕事をするんだ。六十八歳にしてこのチャンスか。悪くない。しかし、小骨が喉に刺さったような、いやな感覚がある。
 何故フランク・クックがこの俺に?
 フランク・クックの狙いは一体何なのか。

     八
 フランク・クックの狙いは何か。世界の銀の市場を牛耳ることだ。
 この考えはもうずっと以前から彼の心に浮んでいたものだった。しかし、一九六七年七月十四日までは、とても可能性はなかった。理由は簡単である。銀の保有量を誇るアメリカ合衆国政府が、市場を支配していたからだ。フランク・クックといえども、アメリカ政府を相手には戦えない。
 しかし、一九六七年七月十四日に、アンクル・サムは市場支配を諦めたのだ。理由は何か。一オンス一、二九三ドルで銀を買いたい顧客には、無条件で売ることにして、この価格を固定していたのだが、政府保有の銀が十分でないと判断されるようになったからである。銀の消費はこのところ、気違いじみてきた。写真産業が使う、エレクトロニクス工業が使う、核産業が・・・それに、昔からの消費者、銀食器、宝石類関係の企業が使う。銀の鉱山が一年間に掘り出す産出量を遥かに越える消費量だ。それに加えて、個人消費者が急に銀を溜め始めたのだ。ケネディーの顔がある五十セント銀貨、スイスの五フラン銀貨、それに、ただの銀の延べ棒まで。みんなインフレーションの用心をし始めたのだ。紙のお金を持っていては何もならないらしいぞ。インフレ対抗策など、そうざらにあるものではない。しかし、一番確実なのは何と言っても貴金属だ。特に銀。アメリカ政府は早速銀貨の発行を中止した。十何カ国がアメリカに倣(なら)った。それから銀貨を回収し、溶かして、銀の保有量を挽回しようとした。しかし到底そんなことでは流出を防ぎきれない。アメリカはついに、戦時にそなえ、銀最小保有量を制定した。これは軍管理局(General Sevices Administration)が、その管理にあたることになる。従って、この最小保有量に達するまでに、なんとか流出を食い止めねばならない。その最も簡単な方法は価格が上るにまかせることだ。そうすれば、需要は減って行き、年生産量に見合う価格で値上がりは止まるだろう。
 そこでアメリカ政府は銀価格の支配を中止した。
 勿論すぐに価格は上昇した。グーンとである。一九六八年一月には・・・つまり六箇月後だが・・・一オンス二、四0ドル。丁度二倍だ。一オンス五ドルになったって何の不思議もない。このまま需要の増加が続き、供給がそのままだったとすればだ。一個人、或は一企業が需要を操作出来る訳がない。しかし、供給の方は? これはまた別の問題だ。ダイヤモンドがその例である。ハリー・オッペンハイマーは工業用ダイヤモンドを木炭から製造する技術を開発した。即ち、供給が彼一人の手に握られた。しかし、銀の供給を一手に握れるか。フランク・クックには可能だったのだ。
 何故彼に可能だったのか。何故なら、アメリカ政府を除けば、彼・・・つまり彼の傘下の会社・・・が、世界中で最大量の銀を保有していたからだ。クックのグループは、銀の取引において、仲介役を演じている。コダックが銀を必要とすると、フランク・クックのところへやって来る。ジェネラル・ニュークリアーも、ドイツのメタル・ゲゼルシャフトも、ベルギーのゲーヴェルトも、フローレンスの宝石会社も、イギリスの銀食器メーカーも同様だ。勿論直接フランク・クックのところへ来るわけではない。ニューヨークのインターナショナル・プレシャス・メタルズへ、ロンドンのプレシャス・メタルズへ、フランクフルトのインテルナツィオナル・エーデルメタルへ、パリのメト・プレスィオ・アンテルナスィオナッルへと、足を運ぶのだ。顧客に売り渋りながら銀を供給し、市場に決して余分な銀が出回らないように充分に気を配って、フランク・クックは銀の価格が着実に上昇して行くのを眺めていた。確かにそれは見る見るうちに上って行った。それは勿論、彼の在庫の銀の価値も上って行ったということである。そしてつまり、彼の利益も。しかし、商売には決済の期限というものがあり、そこでは現金或は銀行の信用が最後の頼りだ。いくらフランク・クックといえども、現金、信用には限度がある。商売が膨れ上がった時には、この出入りに気を配っておかねばならない。彼のコンピューターがある時、「これ以上取引をするのは危ない。但し、銀価格が今まで通り上昇して行けば、話は別だが」と判定を下した。つまり、銀の産出量が、これ以上増加しなければ、と。
 ところが一九六八年一月に、まさにそのことが発生したのだ。最初は二十万オンスぐらい。それから五十万オンス、次に百万オンス。買い一辺倒に出ていた相場師達・・・結局はフランク・クックの片棒を知らず知らずのうちに担いでいた訳だが・・・は、急に心配になった。これは思っていた程、銀は不足していなかったらしいぞ。もっと銀は出てくるのかも知れない。ロンドンとニューヨークの商品取引所で、銀の上昇は止まり、たゆたい、そして下り始めた。二月二十三日には、一オンス二ドルまで下る。フランク・クックは面白くない。実に不愉快である。
 そこで彼は・・・彼の部下達は・・・漏れを捜し始めた。香港で、パナマで、チューリッヒで、シンガポールで。一体全体、どこから銀が出て来るんだ。最後の手段、フランク・クックは自分のとっておきの切り札、ニック・トッピングに銀の出所の発見を命じる。ニック・トッピングは発見する。ドバイだ。そこから調査は、素早く進み、ファードーシという名前の男に行きあたる。イラン人だ。しかし、一介のイラン人だ。彼独自であれだけの銀を操作出来る訳がない。金の出所はどこだ。再びトッピングは動く。そして正解に辿り着く。ルガーノにある銀行、シシリア・アメリカ国際銀行だ。この六箇月にファードーシはそこに三回も行っている。銀行を調べてみる。そこで働いている人間達には、何か胡散臭いところがある。ということはつまり、うまくやればこの銀行は買収出来るということだ。銀行を買収する。そしてファードーシを買収する。そして銀の市場への流入を食い止めるのだ。勿論、その銀行とファードーシが組んでいる場合の話だ。このことはとにかく確かめなければならない。
 しかし、フランク・クックはこんな銀行を買収したくはなかった。いや、これに限らない、銀行の買収そのものが嫌なのだ。銀行屋の仲間になる、つまり銀行の仕事に自らの手を染める・・・これだけは避けなければならない。銀行に対しては常に顧客であって、競争相手になってはならないのだ。もし彼が、この銀行を買収したりすれば、ヨーロッパはもとより、アメリカの銀行からの信用も台無しになるだろう。買収は駄目だ。しかし、誰か別の人間に、つまりどこかの銀行にやらせたらどうだ。そしてこっちは遠隔操作するんだ。しかし、そんな銀行があるだろうか。
 何週間も何事も起らなかった。それから一気に事が進むことになった。ほんのちょっとした情報からだ。商売とはいつだってこんなものだ。この場合のそれは、米国西海岸にあるエ レクトロニクスの会社の社長からの「宜しくお願いする」旨の簡単な挨拶のテレックスだった。このエレクトロニクス会社の社長はカリフォルニアのファースト・ナショナル銀行の取締役の一人 でもあり、その数日前、この銀行の役員会に出席したのだが、その会議の席上でカリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行がヨーロッパに進出することが決まり、そのことを伝えてきたのだ。特にフランク・クックに連絡したのは、ヨーロッパで今後ビジネスで協 力する事もあろうかと思われたからであり、実際 ただそれだけのことだった。
 ところが、驚いた事にフランク・クック自らが電話をかけて よこしたのだ。しかも丁寧に礼を言い、カリフォルニア・ファースト・ナショナル銀行についてもう少し知りたいと言ってきた のだ。カリフォルニア男は卒倒せんばかりだった。フランク・クックは直ちに行動に移った。いや、はた目には「ただちに」とは見えなかったかもしれない。何故なら、電話を切った後、彼は真っ暗な書斎に籠ったまま次の戦略を考えてじっと坐ったきりだったから。しかし、これが彼の「直ちに」なのだ。彼は重要な行動を起す前には、必ず一人で、夜中に、家に籠って、何時間でもじっくり考えるのが習慣だったから。
「やはりこいつはトッピングにやらせよう。」彼は決めた。「そしてフォアマンがよこして来るラックマンの手伝いをやらせることにしよう。」ラックマン・・・フランク・クックにかかっては、こんな名前を覚えるのは朝飯前だ。名前を覚えて初めて信用をかちとり得るのだ。
「ラックマン、どうせお坊ちゃんだ。トッピングにかかっちゃ、ひとたまりもないだろう。女優リリアン・ギッシュ登場のリングに、モハメッド・アリを対抗馬に上げるようなものだ。」
 フランク・クックはにやりと笑った。