深く青い海

            テレンス ラティガン作
             能 美 武 功 訳

     登場人物
   フィリップ・ウェルチ
   エルトン夫人
   アン・ウェルチ
   ヘスター・コリアー
   ミラー
   ウィリアム・コリアー
   フレディ
   ジャッキー・ジャクソン
   
     第 一 幕
(場面 ロンドンの北西にある家具つきアパートの一室。第一次世界大戦後にアパートに替えられたもので、もとは大きく陰気なヴィクトリア朝の大邸宅であったもの。 此処はその二階。大きな部屋。しかし煤けて汚い感じ。この感じがすぐ隣の空襲を受けた建物と同様に「落ちぶれた」という事情により、余計強められている。)
(右手奥に扉。これはこのアパートの階段に通じる。この二つの間に小さな扉。これはこの家がアパートに改造された時につけたもので、奥の小さな台所に通じている。)
(右手に窓。今はカーテンが掛かっている。左手の壁に暖炉あり。石炭用の暖炉だが、今はガスストーブが置いてある。暖炉の前の床にヘスター コリアーが横たわっている。部屋が暗く薄ぼんやりとしか見えない。絨毯で覆われている頭がストーブに非常に近い。ストーブには火がついていない。)
(階段の踊り場に声がする。フィリップ――若い男――の声がし、エルトン夫人の声がそれに答える。)
 フィリップ (舞台裏で。)エルトンさん! エルトンさん!
 エルトン夫人 (舞台裏で。)分かったの? ウェルチさん。
 フィリップ (舞台裏で。)此処かららしいですよ。
 エルトン夫人 (舞台裏で。)三号室から? すぐ行きます。
(間。アンの声がもっと遠くから聞こえる。)
 アン (舞台裏で。)どうかしたの?
 フィリップ (舞台裏で。)ガス漏れなんだ。マッチをつけたら駄目だよ。
 アン (舞台裏で。)うちじゃないわよ。ガス漏れなんか。
 フィリップ (舞台裏で。)分かってる。此処なんだ。
(扉にノックの音がする。)
 エルトン夫人 (舞台裏で。呼ぶ。)誰かいないんですか。ペイジさん。奥さん! (答なし。舞台裏で。)いいわ。合鍵があるから。
(錠に、鍵の音がして、扉開く。敷居にエルトン夫人。このアパートの管理人。五十五歳ぐらい。エルトン夫人の後ろにフィリップ ウェルチ。約二十四歳。服装の様子から、サラリーマン。)
 エルトン夫人 ああ、やっぱり此処だわ。何か掛けっぱなしにしたのね。ひどい無駄使い。(部屋に入る。)
 フィリップ エルトンさん、気をつけて。口を何かで覆わないと・・・
 エルトン夫人 それほどひどくはないわ。台所からね、きっと。
(窓に近づき、さっとカーテンを開け、窓を開ける。)
 エルトン夫人 鍋を一晩中掛けっぱなし。そんなところよ。夜遅く帰って来る。一杯きこしめしていい気持ちになってるもんだから、お茶でも沸かそうって。目に見えるガスの栓はみんな開けちゃう。そのうちこの家ごと吹っ飛ばされて仕舞う。ああ、いやだいやだ。
(ぶつぶつ言ううちに、台所に扉へ進み、開けて中へ入っている。その間フィリップは二、三歩部屋に入っていて、うつ伏している、火の傍のヘスターに気付く。)
 フィリップ あっ! (エルトン夫人を追い掛け、急を知らせる。)エルトンさん!
(エルトン夫人、台所から出て来る。)
 エルトン夫人 此処ではなさそう。
 フィリップ エルトンさん! 早く! 医者を呼ばなくっちゃ。
(ヘスターの頭をストーブから遠ざけ、絨毯を取り除く。)
 エルトン夫人 まあ!
 フィリップ (ガス栓を捜して。)ええい、何処を捻るんだ、これは。
 エルトン夫人 ペイジさん! ペイジさん! (ヘスターの手を取る。)死んではいないでしょう?
 フィリップ 分かりません。死んではいないでしょう。(自棄になって。)分からない、何処なんですか、栓は。
 エルトン夫人 私にやらせて。閉まってるわ、これ。(栓を両側に捻って。)開いてなかったの、始めから。
 フィリップ そうですか。
 エルトン夫人 あ、メーターだわ。メーターの所で自然に切れたのよ、きっと。
 フィリップ 窓際へ連れて行きましょう。足の方を持って下さい。
 エルトン夫人 かわいそうに! 何故こんな事をしなきゃならないのかしら。こんな事をして何になるっていうの?
(フィリップ、肩の方を持つ。ヘスターがよれよれの普段着を着ているのが観客に分かる。エルトン夫人足を持
ち、二人で、窓の方へ運ぶ。)
 フィリップ この椅子にかけさせましょう。窓の方へ顔を向けた方がいい。よーしと。これでいい。
 エルトン夫人 これは警察沙汰だわ。二十三年間このアパートで、事が起こったことなどないのに。それも選りに選って、ペイジさんがこんな事をするなんて!
(フィリップとエルトン夫人、ヘスターを椅子に下ろす。フィリップの妻、アン――これもどこかの事務員――外の踊り場に登場。)
 アン (呼ぶ。)フィリップ? 此処にいるの?
 フィリップ うん。ここだ。入ったら駄目だよ。
 アン 役所に遅れるわ。
 フィリップ 先に行ってて呉れ。僕は後からすぐ行くって連中に言っておいて呉れないか。
 アン 何かあったの? (部屋に入る。)
 フィリップ (乱暴に。)入るなと言ったろう。
(アン、ヘスターを見、駆け寄る。)
 アン ガス?
 フィリップ (妻の落ち着きに少し驚いて。)そう。
 エルトン夫人 息はあるわ。
 フィリップ 医者は? 一番近くの。
 エルトン夫人 ブラウン先生。でも駄目。今日は休み。ああ、ミラーさん。あの人がいいわ。
 アン 上の? あのミラーさん?
 エルトン夫人 (扉に行きかけて。)そう。
 アン でもあの人、お医者さんじゃないでしょう?
(エルトン夫人は既に走り去っている。「ミラーさん、ミラーさん」と叫びながら階段を上がっている。)
 アン ヒステリー気味よ、あの人。ミラーさん、医者じゃないのよ。
(フィリップはまたガスストーブの傍に行っている。その間アン、肘掛椅子の傍にいる。)
 フィリップ ほら、これ。(床から小さな空の壜を摘み上げる。)アスピリンだ。空になってる。
 アン まあ。
 フィリップ 此処にコップ。(コップを取り上げる。)磨り潰した後がある。ほら、見てご覧。
 アン 薬で麻痺させておこうと思ったのね。ガスが・・・
 フィリップ ガスは止まっていたんだ。栓は開けたんだけど、ガスが止まったんだ。メーターの所で切れたらしい。
 アン ご主人はどうしたのかしら。
 フィリップ 知らない。(寝室を開け、中を覗く。)ベッドは寝た形跡がないよ。
 アン 何とかして、居所を捜さなくちゃ。
 フィリップ 出来るかな、そんな事。どうやったら捜せる?
 アン (興奮して。)あ、眼を開けたわ。
(フィリップ、椅子に近づく。)
 アン ペイジさん! ペイジさん!
 ヘスター (低い呟き。言葉は殆ど聞き取れない。)終わったのよ、フレディ。終わったの。
 フィリップ ペイジさん――大丈夫です――もう大丈夫なんですよ。
 ヘスター (低い呟き。)眠るみたいに――眠れれば――幸せよ、フレディ。でも分からない――でしょうね。――でも分かって頂戴。汚い字――御免なさい――フレディ――かわいそうな――フレディ。
(悪い夢を見ているような呻き声。頭を振りながら、眼を閉じる。)
 アン 心配しないで、ペイジさん。心配はいらないの。みんな助けに来たんですからね。
(エルトン夫人に従って、ミラー急いで登場。髭を剃っていず、見すぼらしい夜着。およそ四十歳。ドイツ訛あり。使い古した器具入れを持っている。真っ直ぐ椅子に進み、かなり乱暴にアンとフィリップを押し退ける。ヘスターの前で膝をつく。慣れた素早い動きで患者を診る。明らかにプロの動作である。)
 アン さっき気がついて喋りました。フレディって繰り返し言って、幸せ、眠りみたい、だとか・・・
 フィリップ それから、汚い字、とか・・・
 アン 汚い字で御免なさいって。
 フィリップ 御免なさい、は聞こえなかったな。僕は汚い字っていう所しか。これが床にありました。
(アスピリンの壜を渡す。ミラー頷き、ポケットに突っ込む。それから急にヘスターの頬を強く叩く。ヘスター、驚いて眼を開ける。ミラー、ポケットからアスピリンの壜を取り出し、ヘスターの眼の前に出す。)
 ミラー 何錠ですか。
(ヘスター、眼をつぶる。ミラー、又叩く。)
 ミラー 何錠ですか。
 ヘスター(はっきりと。)十二錠。(再び眼をつぶる。)
 ミラー (エルトン夫人に。)寝室は?
 エルトン夫人 (急いで扉を開けながら。)此処です。
(ミラー、ヘスターの軆の下に両腕を入れて扉の所まで運ぶ。)
 ミラー(エルトン夫人に。)箱を持って来て。
(寝室までヘスターを運ぶ。フィリップ、箱を持ち上げる。)
 エルトン夫人(ヘスターを運びながら。)エルトンさん、お湯を一杯。
(寝室に行く。フィリップ、あとからついて行く。)
 エルトン夫人 はい、すぐに。
(エルトン夫人、居間に戻り、台所に入る。フィリップ、寝室から出て来る。)
 フィリップ ねえ、アン。君はもう役所に行った方がいいよ。僕は構わないけど、君が遅刻するのはうまくないよ。
 アン 役所の人、分かってくれる筈よ。月曜日にはする事は大してないし、それに自殺なんて毎日あることじゃないわ。
 フィリップ (寝室をちらと眺めて。)あいつ自分の仕事をちゃんと知っているっていう調子だな。未遂に終わればいいんだが。
 アン かわいそう。どうしてこんな事したんでしょう。フレディって言ってたけど、あの人のご主人ね、きっと。
 フィリップ そうだろうな、うん。 下で、あの人宛の手紙を見たことがあるよ。フレデリック・ペイジ殿ってね。
 アン 私、あの人の目付き、好きじゃなかったわ。
 フィリップ 譫言では、「かわいそうなフレディ。」って言ったんだ。ご主人に逃げられたっていうようには思えない言葉だよ。
 アン じゃ、何処にいるの今、あの人。
 フィリップ 妻を連れて行かずに仕事をしなけりゃならん。男にはそういう事があるんだ。
(エルトン夫人、湯をコップに入れて、台所から出て来る。寝室に行き、ノックし、入る。)
 アン 捜して上げられるといいんだけど。
(暖炉を見ていて、何かを見つける。素早く暖炉に行き、上にあった手紙を取る。)
 アン あると思ったわ。
 フィリップ 何が。
 アン (手紙を見せて。)書き置き。最初から気がつくべきだったわ。
 フィリップ 誰宛になってる?
 アン (読む。)「フレディ」鉛筆書きよ。ひどくうすいわ。
 フィリップ 「汚い字で御免なさい。」それのことなんだな。多分アスピリンを飲んだ後で書いたんだ。
 アン 開けてみましょうか。
 フィリップ 駄目だよ。それは警察から要求されるものだよ。
 アン 警察? まあ。
 フィリップ (困ったように。)警察には電話しなきゃならんだろうな。
(アン、手紙を素早く暖炉の上に戻す。)
 アン 自殺ってひどく面倒なものね。自殺しようと思った時、そういう事も考えるのかしら。警察だとか、検死官だとか。私達、証拠を提出しなきゃいけないんでしょう?
 フィリップ 審問があればね。だけどそんなことにまでならないよう願いたいね。
 アン 意図した自殺は罪なんでしょう? 牢屋に入らなくっちゃいけないんでしょう?
 フィリップ うん。
 アン じゃ、警察に電話しちゃいけないわ。少なくとも、まだね。
 フィリップ だけど、誰かとは連絡をとらなくちゃいけないな。ご主人が帰ってくれればいいんだけど。あの手紙があるっていう事は逃げたんじゃないっていう事、読むと思ったから置いてあるんだからね。元あった所に正確に戻しておくんだよ、アン。
 アン 置いておいたわ。
 フィリップ 違うな。もっと見えている部分が少なかったよ。時計の後ろに半分は隠れていた。
(アン、用心深く言われた通りに置く。エルトン夫人、寝室から出て来る。)
 フィリップ(エルトン夫人に。)具合はどうなんですか。
 エルトン夫人 あの人、何も説明してくれないけど、いいみたいよ。何か注射をうったの。気分が悪いのはそのせいらしいわ。私、コーヒーを淹れてくる。
(台所へ行く。フィリップ、扉までついて行く。)
 エルトン夫人(舞台裏で。)あ、此処に少し残っている。ちょっと暖めれば大丈夫。
 フィリップ (後ろから呼ぶ。)エルトンさん、僕等二人、考えたんだけど、どうしてもご主人を捜さなくちゃいけないんじゃないかな。何処にいるのか、本当に見当がつきませんか。
(エルトン夫人、扉の所に現れる。)
 エルトン夫人 見当つかないわね。
 フィリップ よくお出かけになるんですか。
 エルトン夫人 時々ね。でも普通はせいぜい一晩止まり。
 フィリップ 務め先は?
 エルトン夫人 分かりません。決まっていない様子。一日中此処に居ることが多いわ。それは分かっているの。飛行機に関係のあるお仕事をしているか、していたか。
 フィリップ 飛行機を売る?
 エルトン夫人 いいえ。飛ばすかなにか。テストパイロット・・・とか言うのかしら。
 フィリップ 会社の名前が分からないかな。
 エルトン夫人 知りません。それに今はもうやっていないかもしれない。
(台所に再び入る。)
 アン ロンドンに親戚か何かある筈よ。其処に連絡つかないかしら。
 フィリップ そうだな。(台所に扉に進み、呼ぶ。)エルトンさん。ペイジさんはロンドンに親戚か何かありませんか。
(エルトン夫人、再び現れる。台所の扉は開けた儘。)
 エルトン夫人 さあ、知りませんね。
 フィリップ じゃあ、特別に親しい友達は? 誰かの噂をしていた事はありませんか。
 エルトン夫人 ないわね。いつも話題はご自分の事に限っていたわ。
 アン お客様はあったでしょう?
 エルトン夫人 それが殆どなし。あってもあの人のお客様ではないの。
 フィリップ 名前が分かりますか。
 エルトン夫人 いいえ、分かりません。
 フィリップ なんとか思い出して下さいませんか、エルトンさん。これは非常に大切なんです。
 エルトン夫人 すみません、驚いてしまって・・・頭が・・・(働かないんです。)
 フィリップ ええ、ええ。分かります。でもよく考えてみて下さい。ペイジさんと関係のある人で、僕等が接触出来る人はいませんか。
 アン 弁護士だとか、銀行の支店長だとか・・・
(間。エルトン夫人、顔を顰めて考える。)
 エルトン夫人 (やっと。)勿論、あの人の夫にあたる人はいますけど・・・
 フィリップ (やれやれといった表情。)それは分かっていますよ。。でもその人は何処にいるか皆目・・・
 エルトン夫人 その人のことを言っているんじゃ・・・(はっと我に返って。)思いつきません、誰も。
(振り向いて、台所へ行こうとする。)
 アン (鋭く。)エルトンさん、「夫にあたる人」ってどういう意味ですの?
(エルトン夫人、ゆっくりと振り返る。)
 アン ペイジさんはあの人のご主人ではないっていう事?
(間。)
 フィリップ あの人の本当の苗字は何なんです。
 エルトン夫人 え? 本当の苗字って?
 フィリップ ねえ、エルトンさん、警察が来たらどうせ何もかも話さなくっちゃならないんですよ。勿論仰りたくない事をお話しになる必要は全くありません。でももしあの人の本当の夫にあたる人を御存知なら、その人に電話をかけて、起こった事をお話しになるのが義務ではありませんか。
 エルトン夫人 あの人の本当の夫なんて知りません。それに私、誓ったんです。この事は決して誰にも話さないって。偶々あの人の配給の通帳を拾って、それで訊いたら分かった事なんですからね。あの人隠そうなんてそういう態度はこれっぱかしもありませんでした。離婚したいのに、どうしても相手が承諾してくれないっていう事もね。かわいそうに。私がすぐ他の人に話すと思ったんでしょう。あの人、その晩にはもう荷作りを始めて引っ越そうとしているんです。馬鹿な事をするもんじゃありません、と、私は言ったんです。私が主人にこんな事を話すもんですか。だって他の人が口出しする問題じゃないでしょう? 私だって、主人だって。誰だって。
(台所に行く。フィリップとアン、目配せする。)
 アン 私の勘は当たっていたのよ、フィリップ。このペイジっていう人、あの人を捨てて逃げて行ったのよ。だからあの人、もう頼る人が居なくなって・・・家族の人とも喧嘩しているし、友達だってあの人の事見捨ててしまっているし・・・
(エルトン夫人、盆の上にカップと皿を持って現れる。)
 エルトン夫人 じゃ、あなた方は私があの人のご主人に、この事を話すのが義務だって言うのね。
 フィリップ そうです、エルトンさん。それこそ一番最初にしなきゃいけない事ですよ。
 エルトン夫人 分かりました。じゃ、やって頂戴。私はどうしたらいいか分かりません。あの人の本当の苗字はコリアー。CーOーLーLーYーEーR。ご主人の名前は新聞にしょっちゅう出ています。一度あの人が見せてくれた事もあります。皆さんはコリアー判事って呼んでいる様子ですから、判事さんじゃないかしら。
 アン サー・ウィリアム・コリアー。
 エルトン夫人 ええ、そう。サー・ウィリアム・コリアー。
(寝室へ行く。)
 フィリップ (畏敬の念を籠めて。)驚いたな。
 アン 連絡する勇気ある? フィリップ。
 フィリップ あるさ、そのぐらい。
(既に電話帳を掴んで捜している。)
 アン (慌てて。)どんな事があっても、内務省に務めていますなんて言ったら駄目よ。
 フィリップ (腕時計を見る。)九時十五分か、家に掛けた方がいいな。ああ、此処だ。コリアー・・・ウィリアム・・・二人いる。こっちはチズウィック。これは違うな。イートンスクエアー、これだ。(ダイアルする。)
(アン、フィリップの傍にいる。)
 フィリップ(暫くして。)もしもし、サー・ウィリアム・コリアーをお願いしたいのですが・・・いいえ、私の名前は申し上げない方がいいと思います。お伝え下さい。本当に急用なんです。サー・コリアーの奥様に関係する事で・・・奥様です・・・ええ、お待ちします。
(アンの手を握り、優しくそれを押す。自分が男らしい態度をとっている事が自慢の様子。妻にいいところを見せているという自覚あり。)
 フィリップ  もしもし、サー・ウィリアム・コリアーですか。残念ながら、いいニュースではありません。奥様が、エー、事故に遇われて・・・ええ、電話ではちょっとお話ししづらいのですが・・・分かりました。そうおっしゃるなら。ガス中毒。それに薬の多量服用で・・・いいえ、ただひどくお悪いので・・・私が電話している事は御存知ありません・・・あの人はいません・・・二十七番地ウェイブリッジヴィラ・ラドグローブです・・・ええ、二階、三号室です・・・玄関は開けておきます・・・はい、医者は来て呉れています――つまり、そのー、治療は受けているという意味ですが。(受話器を下ろす。)すぐ来るそうだ。
 アン 驚いた様子?
 フィリップ ちょっと分からない。ペイジはいるかって訊いたよ。
(エルトン夫人、寝室から出て来る。)
 フィリップ エルトンさん、電話しました。すぐ来るそうです。
 エルトン夫人 (ゆっくりと。)本当に電話なんかしてよかったのかしら。
 アン こうするのが一番。本当よ、エルトンさん。
 フィリップ あの人の具合は?
 エルトン夫人 今は起き上がって、落ち着いてコーヒーを飲んでいるわ。勿論まだ軆は弱っているけれど。
 アン ちゃんとしたお医者様を呼ばなくていいのかしら。
 エルトン夫人 憚りさま。あの人、どんなちゃんとした医者よりずっとちゃんとしているの。主人をハーリー街のいろんな専門医に見せていたけど、あの人に診てもらうようになってからはもう行った事がないわ。診察料が高くっても駄目なものは駄目。
 フィリップ ご主人は如何ですか。
 エルトン夫人 この湿っぽい天候がなければ、随分といいんですのにねえ。関節炎が痛むんですよ。私が一晩中枕を直してやって・・・(扉に進む。)さあ、六号室にお茶を持って行かなくっちゃ。それにホールの掃除だって終わっていない。じゃあ用事があったら呼んで頂戴ね。
(フィリップ、アン、頷く。ミラー、寝室から出て来る。)
 エルトン夫人 私まだしなくちゃならない事がありますか、ミラーさん。
 ミラー ありません。
 エルトン夫人 じゃこのドアは錠が出た儘にして置きますからね。
(退場。)
 ミラー (フィリップに。)煙草をお持ちでは?
 フィリップ ああ、あります。(箱を出す。ミラー一本取り、火をつける。)ウェルチと言います。この上の五号室に住んでいます。これは妻です。
(ミラー、アンに会釈する。)
 ミラー あの人の御友人?
 アン いいえ。この人が今朝この・・・事故を発見したんです。あの人に何かお役に立てる事があるかと今迄待っていたんですけど・・・
 ミラー 何もありません。
 アン (びっくりして。)え? あの人死んじゃうんですか?
 ミラー (微笑む。)いいえ。その逆です。
 フィリップ じゃ、治る?
 ミラー アスピリンでは六十錠飲んでも子供一人死にはしません。ガス中毒もひどく軽いものです。
 フィリップ それはメーターの所で、ガスが自動的に切れたからです。
 ミラー そうです。随分へまをやったものです。さて私はこれから朝食を取りに行かねば。貴方方も、もう此処に残っている必要は全くありません。では失礼。
 アン でもあの人、本当に大丈夫なんでしょうか。
 ミラー 大丈夫です。ベッドで二十四時間休養。その後は完全に回復です。
 アン ええ、それは軆の事。でも精神は?
 ミラー (面白がって。)成程、精神を肉体と分離しましたか。よろしい。精神も健全です。精神異常のいかなる徴候も認められない。皆無です。
 アン ええ、でもあの人、自分からガスに・・・
 ミラー そうらしいですな。
 アン どうしてそんな事をしたのかしら。
 ミラー (短い間。)死にたかったんでしょう、どうやら。
 フィリップ じゃ、またやろうとするかも知れませんね、先生。
 ミラー 私は医者ではありません。先生は止めて下さい。
 フィリップ はい。(分かりました。)あの人、またやるんじゃないでしょうか。
 ミラー 私は予言者でもないんです。(言ってみれば、私はその逆の人物です。つまり、)俺は予言者だという顧客達の自惚れで生計を立てているんです。しかしまあ、試しに一度くらい賭けをする方に廻ってみろと仰るなら、私はあの人がまたやる方に賭けますな。それもすぐ。
 アン (憤慨して。)何か私達に出来る事がある筈じゃありませんか。
 ミラー (優しく首を横に振って。)ないです。
(退場する。)
 フィリップ なんだ、あの豚野郎奴。
 アン くわせものよ、あの人。 そうに決まっているわ。「精神異常の徴候」だなんて、あれで専門用語のつもり。医者らしく見せようったって駄目よ。勿論あの人、正常ではないのよ。面倒を見てあげる必要があるわ。
(寝室の扉が開いて、ヘスター出て来る。夜着を着ている。髪は整えてあり、化粧もしてある。この正常な状態で彼女を観察すると、我々は、彼女が三十代半ばで、非常な美貌というのではないが、思慮のある、冷たい雰囲気の女性である事が分かる。)
 アン あら、もうベッドを出てもいいんですか。
 ヘスター 煙草を取りに来たんですの。ゆうべまだ一箱あった筈。
 フィリップ どうぞ、此処から。(自分の箱を出す。)
 ヘスター 有り難う。自分のにします。慥か一箱持って来てある・・・(テーブルの上を捜す。)ああ、ありましたわ。
(一本抜く。フィリップ、火を付けてやる。)
 ヘスター 有り難う。貴方、ウェルチさんね。一階でお会いした事があります。そうでしたね。
 フィリップ ええ。
 ヘスター そして、こちらが奥さん。
 アン はい。
 ヘスター 始めまして。私、座らせて戴くわ。まだ少しふらふらして。(座る。)
 アン ベッドにお戻りになった方がいいんじゃありません?
 ヘスター いいえ。こうやって少し頭を立てていた方が気分がいいの。有り難う。
 フィリップ でもどうなるのかと思うくらいお悪かったんですよ。
 ヘスター あら、でも今は平気。ちょっと頭がボーッとしているだけ。私って本当に不注意だわね。すみませんでしたわ。ご迷惑をおかけして。
 フィリップとアン (呟くように。)そんな事ありませんけど・・・
 ヘスター どうしてこんな事になったのかしら。自分でもよく分からないわ。ゆうべは一人で映画に行って、此処へ帰って来て、ちょっと寒いなと思ってストーブに火を付けた所までは覚えているんですけど、後はよく小説にある通り、「記憶がない」の。マッチを捜せなかったのね、きっと。そのうちガスで頭がぼんやり・・・
 アン (少し怒って。)メーターに予めお金を入れるのを、お忘れになったんです。 それが幸運だったのですわ。
 ヘスター メーターですって?
 フィリップ ええ、自動的にガスが切れたんです。
 ヘスター ああ、そう。そうだったの。(間の後。)ええ、それは幸運でしたわ。(椅子の背に寄り掛かって、目を瞑る。)
 アン 本当に大丈夫なんですか。
 ヘスター (目を開けて。)ええ、全く大丈夫。有り難う。
 アン ちゃんとしたお医者様に診て貰った方がいいんじゃないかしら。
 ヘスター あの人はちゃんとした医者じゃないって仰るの?
 アン 素人の医者なんです。だって本職は馬券屋の事務員か何かをやっているんですもの。
 ヘスター 馬券屋の事務員にしては変わった趣味ですこと。でもとてもテキパキとしていたわ。恐ろしいくらいテキパキ。あら。お二人をお引き止めしてしまって。もう本当にいいですわ。どうぞお引き取りになって。御親切に、有り難うございました。
 フィリップ エート・・・(アンに助けを求めるように。)実はちょっとお話しなければならない事があって・・・
(ヘスターの視線が部屋のあちこちに止まる。アンがそれを見ている。)
 アン 何かお捜しですか。
 ヘスター ええ、手紙を。どこかへ置き忘れている筈・・・
(アン、暖炉へ進み、時計の後ろから手紙を取る。)
 アン これですか。(ヘスターに渡す。)
 ヘスター (何気ない様子で手紙を見て。)ええ、それですわ。(夜着のポケットに突っ込む。フィリップに向かって丁寧に。)何かお話になりたいっていう事でしたわね。
 フィリップ ひどくお怒りになるんじゃないかと思って・・・
 ヘスター そんなお話でない事を望みますわ。
 フィリップ ええ。こちらもそうでない事を望んではいるんですが・・・実は、今朝はひどくお悪いように見えたんです。そこに倒れていらした時。本当にもうこれでお終いじゃないかと思うくらい。
(ヘスター、暖炉を見る。しかし何も言わない。間の後、フィリップ続ける。)
 フィリップ ペイジさんは外出中だったし、どうやって連絡をとったらいいかも・・・
 ヘスター 私に訊いて下さったらよかったの。あの人、サニングデイルのキングズヘッドホテルにいるの。
 アン (すぐに。)今朝お帰りになるっていう御予定でしたの?
 ヘスター いいえ。今はゴルフの最中ね。(微笑む。)私、ゴルフウィドウなんです、ウェルチさん。いつも週末になると、一人取り残されるんです。酷いわね。(フィリップに。)それで、お話は?
 フィリップ (もう観念して。)で、誰かに連絡するのが、私の義務と思って。御両親の住所も分かりませんし・・・
 ヘスター 二人とももう亡くなっていますわ。
 フィリップ 誰かお友達でもと・・・
(ヘスター頷く。)
 フィリップ で、電話をする事に決めたんです。迂闊だったかもしれませんが・・・サー・ウィリアム・コリアーに。
(間。ヘスター立ち上がり、煙草を消す。)
 ヘスター 何てお話になって?
 フィリップ 事故があったと。
 ヘスター 此処の住所は?
 フィリップ 言いました。行きますとの事。
 ヘスター 何時頃?
 フィリップ これからすぐ、と。
(ヘスター、寝室の扉を見る。逃げる時間があるかどうか、考えている様子。)
 フィリップ すみません。悪いことをやってしまったんですね。判断がつかなかったのです。
 ヘスター ええ。判断がつかないわね。
 アン (誠実に。)私がいけなかったんです、レイディ・コリアー。電話しなさいと言ったのは私なんです。
 ヘスター ええ。その名前は使わないで下さい。
 アン すみません。
 ヘスター エルトンさんね。話したの。
 フィリップ 偶然口に出してしまったんです。アンと私に関しては、この秘密は絶対大丈夫です。
 ヘスター (微かに微笑む。)私の隠されたこの秘密、ね。それは有り難いわ。
 フィリップ (固い表情で。)じゃ、失礼しなくちゃ。行こう、アン。
(アンとフィリップ、扉へ進む。)
 ヘスター (後悔して。)さようなら。本当に助かりました。有り難う。
 フィリップ いいえ、そんな。何か私に出来ることがあったらどうぞ、いつでも。
 ヘスター 一つだけあります。どうかこの馬鹿な・・・事故についてはお話にならないで下さい。一言も。誰にも。
 フィリップ 言いません。
 ヘスター 御存知かしら。私の主・・・フレディ・ペイジを。
 フィリップ いいえ、存じません。
 ヘスター あの人に会う事があったら、特にこの事については一言もお話にならないようお願いしますわ。あの人に余計な、不必要な心配をかける事になりますから。
 アン 言いませんわ・・・二人とも。
 ヘスター 有り難う。では・・・
 フィリップ では失礼します。
 アン 失礼します・・・ペイジさん。
(アン、フィリップを追って退場。間の後、ヘスター、踊り場に出る。)
 ヘスター (呼ぶ。)エルトンさん! エルトンさん!
 エルトン夫人 (舞台裏で。)はあい、今すぐ。(入って来る。)起きてるのね。寝てなきゃいけないのに。
 ヘスター (ぶっきら棒に。)エルトンさん、サー・ウィリアム・コリアーが来ても、私は会いませんからね。
 エルトン夫人 あ、御免なさい。あの二人が無理矢理訊きだすものだから・・・
 ヘスター ええ、そうね。
 エルトン夫人 あの方には何と申し上げたら・・・
 ヘスター どうお話になっても構いません。ただ会わなくてすむようにして下されば。
 エルトン夫人 分かりました。(本当に御免なさい。)もう少しコーヒーを淹れて来ましょうか。
 ヘスター いらないわ。ありがとう、エルトンさん。本当に欲しいものはもう何もないの。
 エルトン夫人 ペイジさんは何時お帰り?
 ヘスター 分かりません。いづれにせよ、夕方だわ、きっと。
 エルトン夫人 じゃ私、来ましょうか。お話でも。帰って来られるまでの間。まだちょっと少しお掃除など残っていますけど、そのあと・・・
 ヘスター 有り難う、エルトンさん。でも一人で本当に大丈夫ですわ。
 エルトン夫人 (疑わしそうに。)一人で大丈夫? 本当に?
 ヘスター ええ、本当に。ご心配かけるような事は決して。
 エルトン夫人 あら、そういう意味で言ったんじゃ・・・
 ヘスター (優しく。)そう? そうかしら?
 エルトン夫人 (怒って。)本当に、誰でしょうね、あんな事するよう仕向けたのは。
(間。)
 ヘスター (背凭れに凭れて、両目を瞑って。)悪魔だわ、きっと。
 エルトン夫人 そうね、悪魔だわ。あなた、カトリック?
 ヘスター (眠そうに。)悪魔って、その悪魔じゃなかったわ。でも結局同じものなのかしら。どんな種類の悪魔でも、その悪魔と、深く青い海のどちらかを選べって、そうなると、深く青い海の方に引き寄せられる事が時にはあるものね。ゆうべがどうもそうだったよう。
 エルトン夫人 何のことかさっぱり分からない。あなたは意地悪じゃない。でもゆうべやった事、あれは意地悪よ。意地悪で残酷。だってそうでしょう。もしあなたじゃなくて、ペイジさんだったら? 帰ってみたらペイジさんがそこに横たわっている、どう思うかしら。
 ヘスター びっくりするでしょうね。
 エルトン夫人 びっくり、だけ?
 ヘスター いいえ、勿論それ以上。ずーっと、ずーっと、それ以上。(微かな微笑を浮かべて。)でもそこに横たわっていないわ。あの人今、ゴルフをしているの。
(間。エルトン夫人、あっけにとられてヘスターを見る。)
 ヘスター あの人がゴルフから帰って来た時、ゆうべは此処では何も起こらなかったんですからね。エルトンさん、分かっていますね。何も起こらなかったんですよ。
 エルトン夫人 その方がいいと仰るなら。
 ヘスター その方がいいのです。
(間。)
 エルトン夫人 お金の為じゃないでしょうね。
 ヘスター ええ、お金の為じゃないの。
 エルトン夫人 もしお金の為だったら、このアパートのお代は・・・
 ヘスター (すぐに遮って。)御親切に、エルトンさん、感謝致します。でもお申し出はお受けできませんわ。ひと月分溜めていますけど、きっとお払いします。この一日二日で、必ず。あそこに二枚絵があるでしょう? あれが欲しいっていう人が見つかったんですの。(壁の二枚の絵を指さす。)
 エルトン夫人 あら素敵な絵。(一枚を指さして。)これは桟橋ね。
 ヘスター ええ、ウェイマスの。
 エルトン夫人 (丁寧に。)そうね。ウェイマスのってすぐ分かるわ。よく似ている。こういう絵ってどのくらいするものかしら。
 ヘスター そうね。二枚で私、二十五ポンドって言っているの。
 エルトン夫人 二十五ポンド。高いのね、思ったより。(少しの間。)こんな事、お訊きしてどうかと思うんですけど・・・ペイジさん、職についていらっしゃる?
 ヘスター いいえ、今は。でも市役所に仕事はどうかなって・・・
 エルトン夫人 (今まで聞いた事のない話なので。)あら、そう? じゃ、そのうち安定するわね。今はそれほど厳しくなくなって来ていますしね。
(扉の方へ進む。扉に大きなノックの音。立ち止まる。ヘスターに扉から見えない所に行けと合図し、扉を開ける。コリアーが敷居の上に立つ。四十代半ばの迫力のある男。短いモーニングコートに縞のズボン。)
 コリアー ペイジ夫人は?
 エルトン夫人 申し訳ありませんけど、お入りになってはいけません。ペイジさんは大変お悪いので。
(コリアー、エルトン夫人を苛々と押し退けて部屋に入る。すぐにヘスターを見る。二人、無言で見つめあう。エルトン夫人、二人の間で、どうしようもなく、バタバタする。)
 コリアー (ヘスターに。)行って貰ってくれ。
 ヘスター エルトンさん、もういいわ。有り難う。
(エルトン夫人、肩を竦めて去る。コリアーとヘスター、お互いにまだ見つめている。ヘスターの脅えた表情はもう消えている。夫が現実に目の前に立っており、腹が据わったからである。)
 コリアー 大丈夫なのか。
 ヘスター ええ。
 コリアー どうしたのだ。
 ヘスター あの坊や、電話でどの程度話したのかしら。
 コリアー 君が嘘をついてもばれる程度にはね。
 ヘスター これからの発言は気をつけなくちゃいけないのね。自殺は罪なんでしょう?
 コリアー そうだ。
 ヘスター それに話している相手が判事様なんですものね。
 コリアー 話している相手は君の夫だよ。
 ヘスター 精神異常が原因って言えないかしら。
 コリアー 馬鹿な。君ほど精神のしっかりしている人物はまずいないよ。
 ヘスター あなたと別れてから変わったかもしれないわ、私。あら、これは言わない方がいいわ。そう言っていたって判事さんに言質(げんち)をとられてしまう。
 コリアー 僕のことを見損なっているよ。
 ヘスター 判事さんを見損なう。不敬罪だわね。
(ヘスターがコリアーを見つめている間、間あり。)
 コリアー ロンドンにいるって何故知らせてくれなかった。
 ヘスター 最後にお会いした時の言葉は「お前の消息なんか金輪際知りたくもない。」でしたわ。
 コリアー 最後に会った時言った言葉、あれは訳も分からず言った言葉だよ。カナダから帰ってどのくらいになる。
 ヘスター 三、四箇月。 フレディが職をなくしたの。もっとも、なくしたというより、自分でやめちゃったのね。あまりいい職ではなかったし、第一、二人ともオッタワがあまり好きではなかったわ。
 コリアー 僕の手紙に返事をくれなかったね。何故?
 ヘスター 手紙? 知らないわ。
 コリアー 受け取らなかった? オッタワの航空会社宛「親展」としておいたんだが。
 ヘスター ああ、あそこは割合早く引き払ったの。それに転居先を言っておかなかったから。手紙には何て書いたの、ビル。
 コリアー もし、まだ正式な離婚を望むなら、同意する、と。
 ヘスター まあ。
 コリアー 返事が来ないから、的外れの事をやったんだと思っていた。
 ヘスター 的外れじゃない。今でも正式離婚が希望だわ。有り難う、ビル。でも以前話がでたスキャンダルの事、判事さんになったんですから、もっとあたりが強くなるわ。
 コリアー あの時には、僕は態と大袈裟に話したんだ。君の邪魔が出来るなら、どんなものにでも縋りたい気持ちだったからね。
 ヘスター 坐って、ビル。立っていても、しようがないわ。会ってみると懐かしいわね。煙草如何?
 コリアー (差し出された箱は無視して。)いや、いいよ。(ヘスターに火をつけてやる。)一人で家か。おいてきぼりだね。
 ヘスター サニングデイルでゴルフをやっているわ。最近はあそこでよくやるの。出くわした事ない?
 コリアー あれからサニングデイルには行った事ないよ。
 ヘスター まだこだわっている?
 コリアー それが僕だ。分かっているだろう?
 ヘスター ええ、でもこんなに時間が経っても? そうね、十箇月ってそう長い時間じゃないわね。昔、そう思っていたものだから、つい習慣で長いと思ってしまったけれど。
 コリアー 昔は長いと思っていた?
 ヘスター (静かに。)ええ。十箇月って、殆ど一生の長さ。
(間。)
 コリアー あいつが他の女に移ったから?
 ヘスター いいえ。
 コリアー まだ君のことを愛している?
 ヘスター (少し間。)十箇月前と同じ。多くも少なくもなく。
 コリアー で、君はまだあいつを愛している。
 ヘスター ええ。愛しているわ。
 コリアー じゃ金なのか。
 ヘスター いいえ、金ではないわ。
 コリアー まだ職にはついているんだな。
 ヘスター ええ。でも、テストパイロットは暫く前に止めたの。今は市役所に務めているわ。
 コリアー 市役所では月曜日に休ませてゴルフに行かせるんだな。
 ヘスター 自由契約なの。時間に縛られない。
 コリアー 成程。で、サラリーは?
 ヘスター 追求の方向が的を外れているわ、ビル。でも、いい。答えだけはしましょう。慥かに一箇月分の家賃を溜めています。でもこれは、あれとは何の関係もないの。
 コリアー じゃ、何なんだ。
 ヘスター ビル、私は証言台に立っているんじゃないのよ。それに無理矢理言わせようとしても無駄よ。筋道のたった理由なんかないんですからね。
 コリアー しかし、自殺を試みたんだろう?
 ヘスター 一時的な精神のバランスの乱れによるもの。これが法律用語だったわね。
 コリアー 君の精神のバランスを乱したものは何だったのだ。
 ヘスター まあまあ。(本格的訊問ね。)知らないわ。脈絡のない雑多な感情。それが大きな潮のように迫ってきたのね。
 コリアー その感情に名前をつけられないかね。
 ヘスター つけられるわ、多分。怒り、嫌悪、それに恥。それが三つとも同じ大きさで。
 コリアー 怒り・・・あいつに対してか。
 ヘスター ええ。
 コリアー で、嫌悪は?
 ヘスター 勿論私に対して。(間。)それから、生きて居る事の恥。
 コリアー 成程。
 ヘスター 分かる?
 コリアー いや。分かっていないと思う。(間。)出来る事が何かないかな、僕に。
 ヘスター いいえ、ビル。誰も、何も、出来ないわ。
 コリアー うん、そうか・・・少なくとも僕は、君にまた会う事が出来たよ。
 ヘスター 私の事捜したの? 本気になって。
 コリアー いや、捜さないでいた方が、君の自尊心を傷つけるだろうと考えてね。馬鹿な考えだ。
(ヘスター、答えの代わりにただ微笑む。)
 コリアー 君に分かって貰いたいんだ。僕はこういった事にはまるで経験がなくって。
 ヘスター (優しく。)私もよ、ビル。殆ど貴方と同じくらい経験がないの。
(同情を込めて、コリアーの腕に触る。コリアー、ヘスターの腕輪を握る。)
 コリアー 君がまだこれをつけてくれていて嬉しいよ。
 ヘスター え? (やっとのこと思い出して。)ああそうね。結婚記念日のお祝い?
 コリアー 七周年のね。
 ヘスター (しっかり覚えていないので恐る恐る。) あの晩のパーティー素晴らしかった。いい友達ばかり。ね?
(コリアー頷く。)
 ヘスター サイビルの新しい本、読んだわ。この間のものの方が良かった。そうそう、法務長官になったでしょう、デイヴィッド。あの人、いよいよそっくり返っているんじゃないかしら。
 コリアー いや、それほどでもない。
 ヘスター アリスは何時ものように陽気なのかしら。(コリアー頷く。)ああそうだった。(昔の事を思い出して溜め息。)あのパーティでした私のスピーチ、大成功だったわね。
 コリアー うん。老マースデン卿がひどく感激していたな。
 ヘスター やはり牧師の娘だわ。ああいう離れ技をやるのね。その気になれば私、何時だって貴方の学識あるお仲間達を唸らせる事が出来たわ。フレディの友達にもそれが出来たらなあ、ってよく思うわ。
 コリアー 連中にはうまくいかない?
 ヘスター 駄目。一杯飲み屋では私、陸(おか)に上がった魚みたい。
 コリアー 一杯飲み屋?
 ヘスター 貴方にはショックね。でもあれぐらい品のある所は世界中どこを捜してもないわ。品のあるっていう言い方が当たらなければ、あれぐらいしんみりする所・・・
(間。)
 コリアー ヘスター。
 ヘスター なに?
 コリアー いや、いいよ。訊こうとしている事柄が大き過ぎて、一つの文章では収まらないようだ。
 ヘスター (ゆっくりと。)答の方は一言ですみそうね。
 コリアー 君と僕とでは違うだろうね、その一言が。
 ヘスター 多分違わないでしょう。その事を当たり触りなく言う場合と、意地悪く言う場合の違いはあっても、結局は同じ感情ですものね。(絵の一つを指差して。)これが一番最近のもの。
 コリアー ああ、いいね。ペイジにはどういう事で怒ったんだ。
 ヘスター いろんな事。何時だって同じ事。
 コリアー それは?
 ヘスター 今私達が言いかけていた言葉。「愛」って言えば、当たり触りがないでしょう。時間の節約にもなるわ。
 コリアー あいつの君に対する感情は、あれから変わっていないって、さっき言ったんじゃないのか。
 ヘスター 変わってはいないわ、ビル。それは変わりようがないの。最初からゼロなの。少なくなりようがないでしょう?
(間。コリアー、手で腕の長さの所までヘスターの顔を離して、目を覗き込む。)
 コリアー 何時それに気がついたんだ。
 ヘスター 最初から。
 コリアー だけど、君は最初僕に・・・
 ヘスター 違う事を言ったかもしれないわ、ビル。嘘を言っていたら御免なさい。私の育ちのせいだわ。子供の頃から教えられてきたのね。こういった場合、愛を与えるのは女じゃなくて、男の方。その方が相応しいって、だから・・・
(間。)
 コリアー しかし、愛を与える代わりに何のお返しもしないような男。君はさっきそう言ったね。そんな男を愛し続けるなんて、一体出来るのか。
 ヘスター ええ。でもあの人、お返しに私に与える事が出来るものがあるの。そして与えてくれるわ、時々は。
 コリアー 何だい、それは。
 ヘスター あの人の軆(からだ)。
(コリアー、ヘスターを見つめる。間。)
 コリアー そうだ、ヘスター。君の言う通りだ。ひょっとすると、君を助ける事が出来るものは誰もいないのかもしれない。
 ヘスター (自嘲するように。)「君以外はね。」って言おうとしたんでしょう?
 コリアー うん。
 ヘスター そうだろうと思った。(絵の方を向く。)かなり良い絵でしょう。ね?
 コリアー うん。売るつもりなのか。
 ヘスター ええ、そのつもり。買ってくれる人があれば。
 コリアー 僕が買おう。
 ヘスター (怒りを含んで。)駄目よ。
 コリアー どうして。
 ヘスター 買って貰いたくないから。それが理由。
 コリアー それじゃまるで、子供のだだこねじゃないか、ヘスター。僕はあの絵が気に入って、手に入れ・・・
 ヘスター (怒って。)この話はもう止して。貴方の感想が欲しかったの、私。貴方のお金じゃなく。
(扉にノックの音。)
 ヘスター (外に。)どなた?
 ミラー (舞台裏で。)ミラーです。
 ヘスター (コリアーに。)今朝私を診てくれた人。入って貰うわ。
(コリアー頷く。ヘスター、扉を開ける。ミラー入る。正装しているが、見すぼらしい。)
 ミラー 横になっていなさい、と申し上げた筈ですが。
 ヘスター 御診察の御陰ですっかり気分がよくなりましたの。こちらはサー・ウィリアム・コリアー。こちら、ミラーさん。
(二人、会釈を交わす。ミラー、好奇の目でコリアーを見つめる。)
 ミラー (ヘスターに向き直り。)明るい所へ来て。ちょっと見させて下さい。(目を調べる。)舌を出して。
(ヘスター、舌を出す。ミラー、脈を取る。)
 ミラー 成程。なかなか頑丈な軆ですな。(少し微笑む。)相当なお婆さんになる迄生きられますよ。
 ヘスター (皮肉に答えて。)勿論、事故・・・がなければの話ね。
(ミラー、出ようとする。コリアー、止める。)
 コリアー ミラーさん、いろいろと妻に・・・エー、そのー、ペイジ夫人に、して戴いて、感謝しています。
 ミラー 感謝されるには及びません、サー・ウィリアム。エー、ペイジ夫人にした事といっても、たいした事ではありません。
 コリアー (言い難い事を思い切って言う時の緊張をもって。)ミラーさん、私の見るところ、どうやら貴方は医者の免許を持っておられない様子ですが・・・
 ミラー お察しの通りです。
 コリアー お訊ねしたのは、実は、ちゃんとした医者の場合、こういった微妙な事故の時は、ある特別な規則を厳格に守らねばならない筈だと思いまして・・・
 ミラー ええ、そのようですね。しかし、この規則はイギリスの小学生の不文律によって無効にされているんじゃありませんか。つまり、「言いつけっこなし。」
 コリアー (厳しく。)英語の慣用句をよく御存知ですな、ミラーさん。御立派なものです。
 ミラー 一九三八年からこっち、他の言葉は話していませんのでね。一年間の監獄暮らしの間は別でしたが。どうぞご心配なく、サー・ウィリアム。それに、エー、ペイジさん。私も「言いつけっこなし。」です。ちょっと寝室に消毒液の壜を置き忘れたんです。取って来ていいですか。
 ヘスター どうぞ。
(ミラー、寝室に行く。)
 コリアー どうもあいつの顔つきは気にくわないな。心配だ。
 ヘスター あの人、見るからにゆすりやっていう顔をしているわ。とても本物のゆすりやとは思えない。
 コリアー ふん。君は信用するのか。僕は駄目だな。あ、畜生! 少なくとも診察料は渡して置くんだった。
 ヘスター 受け取らないわ、きっと。侮辱されたと思うでしょう。
 コリアー どうかな。受け取れば強請屋(ゆすりや)か。良い試験だ。
(ミラー、手に壜を持って、寝室から出て来る。)
 コリアー ミラーさん、もし貴方が免許を持った医者なら、もう一つしなければならない事がある筈です。
(ミラー、怪訝な顔でコリアーを見る。)
(コリアー、財布を取り出し、五ポンド紙幣を出し、慇懃にミラーに渡す。)
 ミラー (間の後、微笑を浮かべて。)有り難うございます。後程領収書を。
(紙幣を受取り、出て行く。コリアー、そら見たろう、という表情でヘスターを見る。)
 ヘスター 貴方の勝ね。
 コリアー 人間の性格の研究。これが結局僕の商売なんだ。あいつと何か揉め事が起こったら、すぐに僕に知らせるんだよ。
 ヘスター (疲れた声。)ええ、ビル。
 コリアー (腕時計を見て。)もう行かなければ。十五分後には法廷にいなければいけない。
 ヘスター 車でいらしたの?
 コリアー うん。
 ヘスター まだあのオースチン?
 コリアー いや、新しいやつだ。古いやつと言った方が当たっているかな。だけどロールスなんだ。
 ヘスター あら、見てみなくちゃ。(窓へ行き、覗く。すぐに元に戻って来る。)何をやってるの、貴方! フリットンに運転なんかさせて。「こんな見すぼらしい場所に来させるなんて、一体誰の所なんだ。」と思ってるわ、きっと。貴方、言わなかったでしょうね。
 コリアー 勿論、言わないさ。
 ヘスター どう、あの人?
 コリアー 元気だね。
 ヘスター 懐かしいわ、あの人。 (あの人に限らない。)家の人達みんな、懐かしい。ミス・ウィルソンだって。あの人、私が出てからは、それこそ勝ち誇ったようにタイプを叩いているでしょうね。
 コリアー うん。確かに、打ち方に独特の華やぎが見えるね。(暖炉の上の絵を指差す。)あの絵は本当にいいね。
 ヘスター 差し上げるわ。
(間。)
 コリアー (静かに。)それは有り難い。なんて嬉しい贈り物だ。
(ヘスター、コリアーの手を優しく握る。)
 コリアー そうだ。贈り物っていう言葉で思い出した。昨日の誕生日、おめでとう。
 ヘスター 有り難う、ビル。(絵を指差して。)今持っていらっしゃる? それとも後で送りましょうか。
 コリアー (少しの間のあと。)取りに来ていいかな。
 ヘスター 何時(いつ)?
 コリアー ペイジは何時帰って来る?
 ヘスター 七時かそれ以後。
 コリアー じゃ、お茶の時間に。
 ヘスター 五時?
 コリアー 五時二十分。
 ヘスター 分かったわ。
 コリアー じゃ、その時。
 ヘスター さようなら。
(二人、握手する。少しはにかんで。)
 コリアー 何か君の役に立てるような事がないか、考えてくれると有り難いんだが。
 ヘスター (静かに。)考えてみるわ。
(コリアー、微笑み返し、去る。ヘスター、一人残ってポケットから煙草を取り出す。火をつけて窓へ行く。カーテンの後ろへ隠れて外を眺める。車のドアが閉まる音が聞こえ、車が去って行く音がする。それからソファへ行き、扉に背を向けて坐る。本を取り上げる。暫くして膝の上に本を置き、前方を見つめる。見つめてはいても、物は見えていない。扉が開き、フレディ・ペイジ登場。二十代後半、又は三十代前半。年齢を示さない少年の顔。スーツケースとゴルフバッグはガラガラと引っ張って隅に置く。ヘスターには彼が入って来るのが明らかに聞こえる。しかし顔をそちらに向けない。次のシーンの間、その指示がある所までは決して彼の方を向かな
い。)
 フレディ やあ、ヘス。調子はどうだい。グレートウェストじゃ、九十三で回ったよ。凄いだろう。ジャッキー・ジャクソンが車で送ってくれた。最後のゴルフは止めにしたんだ。雨が降ってきやがって。サニングデイルじゃ、引っ繰り返すような大雨さ。ところで何だい、あのロールスは。俺が入ろうとした時、丁度出て行きやがった。誰なんだ、ありゃ。ヘス、お前、知ってる?
(ヘスター、相変わらず前を見つめた儘、答えない。)
 フレディー 此処の大家の奴、なけなしの貯金を全部はたいて買ったのかな。ラストスパートのつもりで。驚くにゃ、当たらんか。俺達からしこたま絞り取ってるんだからな。
 ヘスター いい週末だったの?
 フレディ 悪くなかったね。勝負二回とも勝ちさ。ジャッキーから五ポンド戴き。マッチプレーもちゃんと抑えて、バイバイさ。あいつ蒼くなってた。倍乗せようって初め言ったんだが、あいつ厭がってな。
 ヘスター 全部で幾らの勝ち?
 フレディ 七だ。
 ヘスター 少し戴けないかしら・・・お家賃なの。
 フレディ あの絵を売るんじゃなかったのか。コーヒー残ってないかな。
 ヘスター もう売らないの。
 フレディ どうして。
 ヘスター あげちゃったのよ。
 フレディ (優しく。)そいつはひどく馬鹿な事をしたもんだな。
 ヘスター そうね、馬鹿な事だったわ。
 フレディ ええい、畜生! いいや、三ポンドやるよ。残りは昼食代にいるんだ。南米のある男をリッツに招待することにしてるんだ。この俺がリッツで誰かに奢るなんてな!
 ヘスター 南米の人?
 フレディ 昨日ゴルフで会った奴だよ。飛行機の仕事をしている。で、いつもの宣伝文句を並べ立てたのさ。イギリスいちのテストパイロットの一人。DFCでDFO。昔のスピットファイアーでの大法螺。かなり感銘を受けたって顔をしていたな。
 ヘスター そうでしょうね。
 フレディ 勲章って変なもんだ。あんなもの貰うなんてただの運さ。戦時中は三文の値打ちもありゃしない。ただ法螺を吹く時に役に立つだけさ。だけど戦争が終わると役に立つんだなあ。この野郎、金は唸る程持っていやがる。イギリスのヴィッカーズ社とタイアップして何かやっているらしい。だから俺に仕事を捜してくれそうな気がするんだ。
 ヘスター そうだといいわね。
 フレディ とにかく接触しておいて損はない相手だ。なあ、ヘス。お前、俺の方を一度も向いてくれてないぜ、俺が帰って来てから。
 ヘスター そうだったかしら。
 フレディ どうしてなんだ。
 ヘスター だって見なくても、どんな顔してるか分かっているもの。
(手足を無様(ぶざま)に伸ばして坐っていたフレディ、肘掛椅子から立ち上がり、ヘスターに近づく。)
 フレディ (何か悪い事をしたんじゃないかと、心配そうな顔をして。)何か俺、しでかしたかな?
 ヘスター (微笑む。)いいえ、フレディ。何もしでかしてはいないわ。
 フレディ ゆうべの事で怒っているんじゃないだろうな。連中、今日もプレイをやりたがってね。もし俺がすっぽかせば・・・
 ヘスター それはいいの。
 フレディ そう言えば、電話の声もおかしかったな。ゆうべ俺が夕食に帰って来なきゃならない特別な何かがあった?
(ヘスター、相変わらずフレディの方を向かない。そして返事をしない。背中を向けた儘、ソファから立ち上がる。フレディ、突然思い当たる。)
 フレディ (爆発的に。)あ、畜生! (気まずい間の後。)誕生日、おめでとう!
 ヘスター 有り難う、フレディ。
 フレディ くそっ! 土曜日にもちゃんと思い出したんだ。バーカー(デパートか)を通り過ぎる時、考えたんだ。今からじゃ、もうプレゼントを買うには遅すぎだ。日曜日に開いている所を捜さなくちゃ。煙草か何かってね。それが・・・夕食、張り込んだ?
 ヘスター 張り込むっていう程のものじゃないわ。ステーキとクラレット一本。
 フレディ 今晩それだ。
 ヘスター ええ。
 フレディ 元気を出してくれよ、ヘス。膨れっ面はもう終わりだ。頼むよ。御免よって言ったろう? これ以上謝ろうったって、出来ないだろう?
 ヘスター 出来ないわ。
 フレディ (宥めるように。)元気を出してくれよ。素晴らしいその青い瞳を見せてくれないか。もう丸二日見てないんだぜ。
(ヘスター、振り向いて、フレディを見る。)
 フレディ これが俺。フレディ・ペイジだ。まだ覚えてる?
 ヘスター 覚えているわ。
(フレディ、前に進み、ヘスターに口づけする。ヘスター、即座に反応する。激しい感情。殆ど醜悪な程。暫くしてフレディ、ヘスターをひきほどき、頬を優しく叩く。)
 フレディ フレディ君に拗ねたりして、悪い子だぜ。さあ着替えた、着替えた。ベルベデアーで一杯いこう。まず軽いお祝いだ、誕生日の。
 ヘスター (寝室の扉の所で。)この南米の人との食事に、私も行った方がいいかしら。
 フレディ いや、必要ないよ。君のその青いめんたまがこっちを向いてると、好い台詞も出なくなるからな。
 ヘスター さっきは「素晴らしい青い瞳」だったけど。
 フレディ 二人で行くとめんたまになっちまうのさ。さあ、早く行こうぜ。
 ヘスター (フレディを今までじっと見つめていて。)ええ。
 フレディ (おどけて。)まだ、愛してる?
 ヘスター (しっかりと。)まだ、愛してるわ。
(ヘスター、寝室に入る。暫くして再び扉を開ける。――扉は寝室の内側に開くようになっている。――話しながら、夜着を脱ぐ。扉の釘に夜着を掛ける。)
 ヘスター フレディ、貴方、今日の五時から六時まで何処にいる?
 フレディ 別に決めてないけど、何故だい?
 ヘスター 外に出ていて下さらない? その時刻に人が来るの。私一人で会いたいのよ。
 フレディ 絵の客かい?
 ヘスター ええ。
 フレディ オーケー。新しく出来たクラブがある。あそこへ行っていよう。
 ヘスター (微笑む。)酔っ払っちゃ駄目よ。お祝いの夕食があるんですからね。
 フレディ 分かってるさ。
(ヘスター、寝室に入る。扉は開けた儘。シャワーの音が聞こえる。フレディ、ポケットに手を入れて煙草を捜
す。空の箱が出て来る。)
 フレディ (呼ぶ。)ヘス、煙草が切れちゃったんだ。持ってないか。
 ヘスター (舞台裏から。)夜着のポケットに少し残ってる筈よ。
 フレディ 分かった。
(寝室の扉に進み、夜着のポケットを捜す。最初に手紙が出て来る。次に箱。手紙を元に戻そうとして封筒を見る。眉を上げる。手紙を持って戻る。坐る。煙草に火をつける。封筒をあけ、読み始める。)
 ヘスター (舞台裏から。)あった?
 フレディ (眉を顰めながら、手紙を読んでいる。手紙、かなり長い。)何? ああ、あった。有り難う。(読み続ける。)
                                                (幕)
   
     第 二 幕
(一幕と同じ場所。同じ日の午後五時頃。フレディ、だらしなく肘掛椅子に坐っている。一幕と同じ坐り方。友人のジャッキー・ジャクソン、もう一方の肘掛椅子に坐っている。テーブルにはウィスキー一本にサイフォン。二人ともグラスを手に持っている。)
 フレディ (憤慨した調子で。)ひどく馬鹿げた話だろう? なあ、おい。俺が誕生日を忘れたっていう、それだけの事でだぜ・・・
(ジャッキー、そうだな、という相槌を打つ。フレディ、陰気にまたウィスキーを一口飲む。)
 フレディー 畜生め。亭主が女房の誕生日を忘れるとすらあ。そして家に帰ってみる。と必ず自殺の置き手紙と女房の死体が待ってるって事になってみろ。男やもめがなあ、列を作りゃーだ。此処から・・・ここからジョンノー・グローツまで・・・
 ジャッキー もっと行くぜ、おい。
 フレディ いや、其処止まりだ。そこから先は海だからな。
 ジャッキー 違うな。グローツまで行ってまた帰って、ずっと先まで・・・
 フレディ (怒って。)うるさいな、ジャッキー。冗談じゃないんだ、これは。俺はお前の助けが欲しいんだ。教えて貰いたいんだ。くだらん冗談を聞く為に態々呼んだんじゃないんだぜ。
 ジャッキー 悪かった、フレディ。だけどなあ、お前の話を聞いてるとあまりに馬鹿げているんでなあ。本当に本気だったのか。ただお前にお灸を据えようっていう腹だったんじゃないのか。
 フレディ 違うってさっきから言ってるだろう。
(この時までにフレディ立ち上がっていて、ジャッキーの手からお代わりを注ぐためにグラスを取っている。)
 ジャッキー ああ、すまんな、フレディ。
 フレディ エルトンばあさんに話はみんな聞いたんだ。それに今頃は死んでたんだぜ、もしあいつがちゃーんとメーターの中に一シリング入れてたらな。(この時までにコップ二つともたっぷりお代わりを注ぎ終わっている。)
 ジャッキー なら、ヘスは本気じゃなかった。そういうことになるんじゃないのか。(フレディからグラスを受け取って。)いやー、すまん。乾杯。
 フレディ お前、想像力ってものがないのか。これでおしまい、あの世行きっていう時にだ、メーターのことなんか考えるか。
 ジャッキー (自分は違うといった顔。)俺なら考えるがな。
 フレディ ほほう。着陸の時、車輪を出し忘れて、スピットファイアー三機も駄目にした男の言う台詞か、それが。呆れたもんだ。
 ジャッキー それは話が違うぜ。あの時俺はあの世行きしようと思っちゃいなかったからな。
 フレディ しかし、かなりそんな風に見える事故だったぜ。
 ジャッキー (冗談じゃないという顔。)おいおい、馬鹿なことを言うなよ。あの時、査問委員会でな、ちゃんと・・・
 フレディ また脱線だ。ジャッキー、俺たちはもっと大事な事を話してたんだぜ。
 ジャッキー 何を言ってるんだ。お前が始めたんじゃないか。俺はただメーターが・・・
 フレディ お前がさっきメーターについて言ったことは分かった。しかしそれは間違ってる。俺はすっかり調べあげたんだ。これだけは信じてくれ。あいつは本気だった。本気でゆうべ自殺しようとしたんだ。
 ジャッキー それからお前がヘスの誕生日を忘れたっていう、それだけの理由でだろう? リズが俺によくやるお灸の手だよ。俺はいつもそれに悩まされているんだ。
 フレディ 分かったよ。だがな、ジャッキー。俺はこいつには参ったよ。完全にノックアウトだ。
 ジャッキー うん、分かる。
 フレディ (爆発するように。)ええい、くそっ! 女って奴は。
 ジャッキー (同情するように、頷いて。)ヘスは今どこにいるんだ。
 フレディ 俺を捜してるんだろう、多分。(ジャッキーのグラスを再び取る。)
 ジャッキー もういいよ。
(フレディ、喋りながら自分のグラスに注ぐ。)
 フレディ あいつはシャワーを浴びていた。手紙を読み終わると俺はすぐエルトンばあさんのところへ下りて行った。それからあとはトンズラさ。一杯やらなきゃ収まる訳がないだろう。あいつのところへ行って、両膝をついて、「おお、我が愛しき人よ、小生は重大な罪を犯してしまった。汝の誕生日を忘れるなどと。以後このようなことは決してしないと、神かけて約束する。汝もガス自殺など以後決してしないと小生に約束するか。」てなことが言えるかってんだ。全体、最初から最後まで、あまり馬鹿馬鹿しくってお話にもなりやしない。
 ジャッキー 何か他にあるんじゃないか。
 フレディ 他には何もないんだ。
 ジャッキー (恐る恐る。)お前、他に女がいるんじゃ・・・
 フレディ あいつしかいない。
 ジャッキー 喧嘩は? 最近。
 フレディ いや。逆なんだ。この二、三箇月、以前よりはかなりうまく行ってるな、と思っていたぐらいだ。
 ジャッキー (明らかにリズのことを思い出しながら。)何か一悶着あっての話の筈だがな。
 フレディ そりゃ、ひどく軽いやつは二、三回あったさ。だけど最初の頃の本物のいがみ合いとは性質(たち)が違う。
 ジャッキー どんなやつだった?
 フレディ (具合わるそうに。)つまらんことさ。
(ジャッキー、フレディが続けるのを待っている。)
 フレディ (爆発して。)くそったれ! ジャッキー、お前は俺っていう人間を知ってるだろう。四六時中、女にベタベタなんて、俺には出来っこないんだ。
 ジャッキー 誰が出来るってんだ。
 フレディ あいつに言わせりゃな、人間は誰でもそうしなきゃならんのだそうだ。全部が駄目なら、少なくとも男はな。
 ジャッキー 随分はっきり言うじゃないか。
 フレディ そりゃそうさ。牧師の娘。オックスフォード高級住宅地育ち。最初に結婚を申し込んできた男と結婚し、最初に秋波を送ってきた男に恋をした。そういう女なんだからな。(少しの間。)くそったれ! 俺はあいつに惚れてないんじゃない。 勿論惚れてるんだ。今までだってそうだし、これからだってそうに決まってる。だけどなあ、物にはほどってものがあるぜ・・・まあこいつは俺のモットーなんだが・・・(テーブルに手を伸ばし。)もう一杯どうだ。
 ジャッキー じゃ、少しだけ。
 フレディ (自分に注ぎながら。)この点に関しては俺は疚(やま)しいことは何もないぞ。あいつがいくら教養があったって、そんなもの俺に通用するもんか。だいたい俺とこうなった時、俺って男をあいつは知っている筈じゃないか。
 ジャッキー ヘスが気にしてるのは結婚とか離婚とか、そういった事じゃないのか。
 フレディ いや、違うんだ。それを気にしたのはあいつじゃない。俺の方なんだ。俺の方は今だって、離婚成立がいつかいつかと、待ちきれない気持ちでいる。こんな風に人の陰でこそこそ生きて行くってのは俺の性に合わないからな。
 ジャッキー ヘスも気にしてるんじゃないのか・・・牧師の娘だぜ。
 フレディ 一年前からもうそんなことはあいつの問題じゃなくなってる。俺の方は待とうって言ったんだ。あいつは待つのを嫌がった。これが第一発目の喧嘩よ。(ウィスキーを陰気に飲む。考え込む。)畜生! 不公平な話だぜ。あいつがもしゆうべ死んでいてみろ。他の連中が俺のことをどう言ったと思う。なんていう奴だ、この男は。他人(ひと)の幸せな結婚をめちゃめちゃにして女も自殺に追い込んだ。軆(てい)のいい人殺しだ。一体あいつはこの事を考えたのか。それに、さっき俺がお前に話したような理由を誰が信じると思う。
 ジャッキー (無意識の皮肉で。)お前を知ってる奴なら信じるさ、そりゃ。
 フレディ (俺を知ってる奴だけに分かって貰ったってしようがない。)これは新聞の一面に出るんだぜ。どんな新聞にでも出るんだ。 そいつを考えてみろよ。そしてこいつを(手紙を振る。)法廷で読み上げるんだ。ひでえ話よ。これでリンチを受けなきゃ儲けものってとこじゃないか。検死官がそれにとんでもない参考意見ってやつをくっつけやがらあ、きっと。俺は今日、リッツで昼飯を食いながら考えた。レストランなんかに行っちゃいられなかったぞ。あっちでもこっちでも、人のことを指差して、ひそひそ、ひそひそ・・・
 ジャッキー うん、そりゃ分かる。あ、そうだ。お前今日ロペスとの話はどうだったんだ。
 フレディ (怒って、乱暴に。)話を逸らすな。この話が厭なら厭と、はっきり言え。そしたら天気の話でもすらあ。
 ジャッキー すまん。ロペスが何か仕事の話を持って来たかと思ってな。それだけだ。ヘスの話をしよう、それなら。
 フレディ (ぶつぶつ呟く。)畜生! 俺はこいつには全く参ってるんだ、ジャッキー。怒鳴ったりして悪かった。
 ジャッキー いや、構わんよ。
 フレディ ロペスの話だったな。あいつ仕事の話は確かに持っては来てくれたよ。
 ジャッキー そいつは良かった。
 フレディ (むっつりと。)テストパイロットだ。南米の。
 ジャッキー ええっ? お前、南米くんだりまで行くつもりか。
 フレディ 俺はどこにも行きたくないよ。テストパイロットだったら。
 ジャッキー お前はピカ一って言うことになってるからな。
 フレディ そうだ。一年前ならな。あれから少し事情が変わっちまった。(コップを指差す。)こいつは度胸にも、判断力にもいいことはない。医者もそう言ってらあ。それにおれはもう年だ。この仕事は二十五がせいぜいだなあ。俺は一週間ともたない、多分。空気に乗るのはもう終わりだ。そろそろ椅子に乗っかって仕事がしたいよ。飛行機乗りはもう一生分やったって事よ。(お代わりのために立ち上がる。)どうだ、もう一杯。
 ジャッキー いや、いいよ。まだやるのか。
 フレディ やらなきゃおさまらん。なんで訊くんだ。酔ってるって言うのか。
 ジャッキー いや。だけどお前、朝からやってるんだろう?
 フレディ そうだ。 それに夜になってもやってるだろうな。こいつを(手紙を指差す。)忘れるまでやらなきゃ。
(自分に一杯注いで、椅子にどっかと坐る。話し方、態度では酔っているとは分からない。しかしこれ以降、荒々しさと、苛々を示し始める。これは常習の酒飲みが適量を越した時、通常示す徴候である。)
 ジャッキー (フレディの手にある手紙を指差して。) その手紙で、何かもっと他の原因ってのを探れないのか。
 フレディ じゃ、読んでみろよ。
 ジャッキー いや、止めとくよ。
 フレディ フン。お堅いもんだ。
 ジャッキー だって、そういったものは・・・大分内輪の、夫婦だけの話じゃないか。
 フレディ フン。さぞ夫婦だけの話だろうよ。法廷で検死官に読まれたらなあ。そうだろう。
 ジャッキー そういうこともあるなあ。成程。
 フレディ「そういうこともあるなあ。成程。」ってことよ。よーし、俺が検死官だ。お前が傍聴人だ。いいか、よく聴いてろよ。(読む。)「フレディ、ついさっきまで、アスピリンを飲むまでは私、貴方に言う言葉ははっきり分かっていたの。心の中で何度も何度もこの手紙を書いたわ。だから文章がだんだん雄弁に、上品に、洗練されたものになった。それなのに今、心の中からそれを出そうと思っても、何も出て来ない。なぜ?理由は簡単だわ。今私は、本当に死ぬんだって分かっているから。」
 ジャッキー(ひどくいたたまれない気持ちになって。)おい、フレディ。やめとけよ。俺は俺なりにヘスとの付き合いがあるんだ。あとは聞かない方がいい。
 フレディ 聞かない訳にゃいかない。お前しか聞く奴がいないんだからな。
 ジャッキー だけどそれはお前宛だ。他の奴に宛てたんじゃないんだ。
 フレディ 他の奴に宛てちゃいない。そんなことは分かってる。だけど新聞を読む奴がみんなこれを読むんだ。そうなってたんだ。だからつべこべ言わずに聞くんだ。(読む。)「明日の朝、貴方はこれを読むでしょう。すると貴方の私に対する感情、それはほんの少しぐらいはあったでしょうけれど、それもすっかり貴方の心の中から出て行ってしまうの。永久に。私にはそれが良く分かっている。かわいそうなフレディ、かわいそうな、大好きなフレディ。ごめんなさい。」(ジャッキーに嘲るように。)ごめんなさいときた。な? いいか。こっからが、だから、理由になるんだ。(読む。)「貴方は理由を知りたいでしょう。私も本当に貴方に分かって戴きたいの。だって分かって貰えれば、許しても戴けるでしょうから。でも今から私がすることを分かって貰うためには、私が今感じていることの百分の一でも貴方が感じて下さっていなければ駄目なの。そしてそれは無理。とても無理って私には分かっている。でもこれは貴方のせいじゃない。貴方が悪いんじゃないの。本当よ、フレディ。これだけは信じて頂戴。貴方は貴方以外の誰にもなれない。私も私以外の誰にもなれない。誰が悪いか強いてあげれば、天上の神様ね。冗談に、神様達が、あいつら二人を会わせてみようか、などと考えたのがいけないんだわ。(ヘスター、静かに登場。ジャッキー気がつき、フレディに合図する。フレディ気がつかない。)汚い字、ごめんなさい。薬が効いてきたみたい。」
 ヘスター (落ち着いた声。)今日は、ジャッキー。
 ジャッキー ああ、こんちは。
 ヘスター 調子はどう?
 ジャッキー うん、上々だよ。
 ヘスター 今までどこにいたの、二人共。
 ジャッキー (当惑の極。)フレディと一緒に飲んでいたんだ。家にいたら電話があって、話があるというんで・・・
 ヘスター そう。(フレディに。)貴方何処にいたの、フレディ。
 フレディ いろんな所さ。
 ヘスター そのいろんな所へ全部行ってみたわ。
 フレディ そんなところだろうと思った。
 ヘスター その手紙下さらない?
 フレディ 何故。
 ヘスター 私のですもの。
 フレディ 別の考え方もあるな。封筒には俺の名前が書いてあるぜ。
 ヘスター 手渡されないうちはまだ送り主のものでしょう?(軽く。)お願い。
(ヘスター、片手を差し出す。フレディを見つめる。フレディ、手紙を渡し、ヘスターから離れる。ヘスター、正確に二分の一、四分の一と破っていき、屑箱に捨てる。次にウィスキーの壜を取り、食器棚に進む。)
 フレディ 何をするんだ。
 ヘスター 片づけるの。
 フレディ そいつは俺のウィスキーだ。自分で金を出して買って来たんだ。(ヘスターからひったくり、テーブルに戻す。)
 ヘスター (軽く、ジャッキーに。)昨日のゴルフどうだったの、ジャッキー。
 ジャッキー うん、まあまあだ。
 ヘスター フレディが勝ったそうね。少しは上手になったのかしら。
 ジャッキー あのハンディはもうとっ払うべきだよ。 ありゃインチキだ。なあヘス、僕はこの辺で失礼しなきゃ。
 ヘスター まだ帰らないで。お願い。二、三分したらこの人出て行くの。貴方が一緒だと、この人も助かるわ。(フレディに。)五時になったら出て行ってくれるわね。覚えているでしょう?
 フレディ うん、覚えてる。今、何時だ。
 ヘスター もうそろそろよ。(夫に約束した絵に進み、壁から外す。)
 フレディ で、勿論君はこの哀れな俺の姿を、その美術愛好家殿に見せたくない訳だ。
 ヘスター 哀れな姿かどうか、そんなことは知りません。五時過ぎに出ていて頂戴って今朝お願いした事を頼んでいるだけ。
 フレディ (ヘスターが抱えている絵を指差して。)そいつは遣(や)っちゃうんじゃなかったのか。
 ヘスター そうよ。包もうと思ってるの。
 フレディ じゃ、そいつに何を売るつもりなんだ。
 ヘスター (扉の所で、明るい微笑み。)その人が買いたいって言うもの、何でも。
(絵を持って入る。)
 フレディ (嘲るように、閉まった扉に。)はっはっ。
 ジャッキー (心配して。)おい、フレディ。お前本当にヘスとよく話し合った方がいいよ。俺は消えるから。
 フレディ あいつと話せだと? 話す時間なんて腐る程あらあ。これから先、死ぬまで鼻突き合わせて話せるんだ。まあ残ってろ。(また自分に注ぐ。)
 ジャッキー おい、もう大抵にしろよ。
 フレディ 言ったろ。飲まずにゃいられないんだ。こいつを忘れなきゃ。
 ジャッキー なあ、フレディ。こいつはお前を怒らせるかも知れないんだが、お前ちょっと芝居がかっちゃいないか。(ヘスはあんなに落ち着いてるじゃないか。)
 フレディ 芝居? 芝居をしてるのはヘスの方だぜ。俺じゃない。あの冷静な、落ち着き払った、余裕のある態度、あれを見たろう。あいつはあれを楽しんでるんだ。こちとらは何だ。ただ悲しくって、惨めで、酒を食らってるだけじゃないか。(芝居なんか薬にしたくてもありはしない。)
 ジャッキー ヘスだって悲しい筈だぜ。そりゃ、お前はヘスのあの態度を何とでも言えるけどなあ。
 フレディ そうだな。ヘスがリズで、お前が俺だったとすりゃ、あいつを抱いて、キス、キス、キス、キス、だろうな。
 ジャッキー 俺だったら、まず話をするな。俺の何処(どこ)が拙いのか、それを聞くよ。それからどういう風に直せば良いかをなあ。
 フレディ それが何の役に立つって言うんだ。俺が読んだのを聞いたろう。「かわいそうなフレディ、貴方は貴方以外の誰にもなれない。」図星だ。あいつの言う通り。俺が自分をどういう風に直せばいいか? 聞いて呆れらあ。俺が他の誰かになれってのか。さぞ助けになるだろうよ。
 ジャッキー 少しは振りをするってのは・・・
 フレディ 馬鹿な事を言うな。 振りだって? ジャッキー、お前も少しは頭を働かせてみろ。あのヘスが俺の「振り」で騙されると思うか。お前、新聞の人生相談に載せる程度の問題と思ってるんだな。「貴方の妻に優しい言葉をかけ、優しく口づけをしてお上げなさい。そうすれば、そのちょっとしたいざこざは自ずと解決されるでしょう。」これだ。とんでもない。あいつはゆうべ、ガス自殺をはかったんだぜ。
 ジャッキー(悲しそうに呟く。)悪かったよ、フレディ。俺の手に負える問題じゃないんだな。
 フレディ 手に負える? よく言った。そいつだ。俺にも手に負えない。それから俺はこの「手に負えない」ってやつが一番嫌いなんだ。畜生! 俺は他人の感情と俺の感情とがもつれ合って手に負えなくなるのが心底厭なんだ。それだけは避けようと、今までずっと気をつけて来たんだ。だけど何時でもこんな風になってしまいやがる。何時でも。(間の後。)お前、ドットを覚えているか。戦争中の。俺が中隊に二、三度連れて来た女だ。
 ジャッキー うん。覚えてる。あいつは好い奴だったなあ。楽しかったよ。
 フレディ 楽しかった。うん。だけど、ある時あいつ、俺のピストルに手を出しやがって・・・
 ジャッキー まさか。
 フレディ いや、手を出したんだ。幸い、誰も怪我せずに済んだんだがな。あいつも、俺も、誰も。だがな、楽しいなんて気分はふっとんじまったぜ、あれから。それに、あれもあったな・・・(言い止める。)いいや、こんなこと。とにかく感情のもつれだ。ぐちゃぐちゃになってきやがる。これぐらい手に負えないものはない。
 ジャッキー 妖夫だな。「フ」は婦人の婦じゃなくて夫(おっと)だ。
 フレディ (静かに。)笑い事じゃないんだ、ジャッキー、これは。正直、笑い事じゃないんだ。ヘスに言わせりゃ、俺は何の感情も持ち合わせちゃいない。 ひょっとするとそうかも知れない。しかし少なくとも俺は、心の中で傷つく何かは持ち合わせている。それが今傷ついているんだからな。(あるのはあるんだ。)俺は他人の不幸の原因にはなりたくない。サディストじゃないんだ。だけどこんな事をいくら言ったって誰も聴いてくれはしない。あいつはしようもない奴だと後ろ指を差すだけで誰もこっちにちゃんとした理由があるなどと思いはしない。だけどこういう風に考えたらどうなんだ、ジャッキー。今、AとBとがいる。AはBを愛している。BはAを愛していない。まあ少なくとも、AがBを愛しているようには愛していない。愛したいとは思う。しかし出来ないんだ。そいつはBの性格にないんだ。勿論BはAに愛してくれなんて頼んだ覚えはない。Bは全く普通の男だ。親切で、他人にはよくしてやろうと心掛ける。だから好い友達にはなれる。いい夫にもなれる筈なんだ。それが許されさえすればな。だけど、いい夫にだけはなれないように出来ている。これが俺の言いたい所なんだ。つまり本来なれないものになれっていう要求が出ているってことさ。もし無理してやってみろ。そいつは人を騙している事になる。騙したって何もうまくいきっこないんだ。だから、正直にして誰も騙さない。・・・さあ、すると皆が言うんだ。あの豚野郎、血も涙もありゃしない。検死官だったら、その他に参考意見とか言って、他にいろんな事を言うだろう。俺の言いたいのは・・・何だ聴いてないのか。(ぐっと残りを飲み干す。)おい、起きろ。出かけようぜ。
(上着を取りに立ち上がる。扉にノック。フレディ、開ける。ミラーがいる。)
 ミラー 失礼ですが、ペイジ夫人は?
 フレディ いいえ、ちょっと今は。ミラーさんですね。
 ミラー ええ。で、ペイジさん?
 フレディ そうです。お入り下さい。ちょっとお話ししたい事が・・・
 ミラー では、失礼して。
 フレディ 妻を診察して下さったんですね、今朝。
 ミラー ええ、診ました。
 フレディ (紹介して。)こちらはジャッキー・ジャクソン。(こちら)ミラーさん。
(二人、会釈。)
 フレディ (ミラーに。)一杯やりますか。
 ミラー 有り難うございます。
 フレディ 妻がどの程度貴方にお話ししたか、それをお聞きしたいと思いまして。エルトン夫人の話では、妻と二人でお話しになったとか。(ジャッキーを指差して。)この男は心配いりません。一部始終を知っているんです。
 ミラー 何も仰いませんでした。
 フレディ 何も。何故こんな事をしたかについて。
 ミラー ええ、何も。
(フレディ、コップを渡す。)
 フレディ 理由を御存知で?
 ミラー いいえ。
 フレディ お話ししましょう。
 ジャッキー(間に入って。)フレディ、やめとけよ。
 フレディ 私があれの誕生日を忘れたからなんです。
 ミラー 成程。
 フレディ 驚かれませんな。
 ミラー 驚きません。そういった事だろうと思っていました。
 フレディ そんなつまらない事で?
 ミラー どんな事でも、それが自殺を引き起こす原因になったとすれば、つまらない事とは言えませんな。
 フレディ しかし、誕生日を忘れる事、それは・・・
 ミラー それは勿論つまらない事です。
 フレディ 謎のような事を言う人ですね、貴方は。よし、それなら本当の理由は何ですか。このつまらない事の後ろにあるものは何なのですか。
 ミラー それは貴方が一番よく御存知の筈です。
 フレディ(そうかも知れない。しかし)とにかく、他人(ひと)が説明するのを聞いてみたいんです。
 ミラー (それならば、失礼して・・・)それは、貴方ご自身でしょうな。
 フレディ 成程。では、私は人殺し。
 ミラー (慇懃に。)そう。その通り。
 ジャッキー(遮って。)ミラーさん。失礼ですが、そんな言い方って・・・
 フレディ 黙ってろ、ジャッキー。これはこれでいいんだ。
 ジャッキー だって事実は何も知らないのに・・・
 フレディ 事実? 事実がこれに何の関係があるって言うんだ。事実の裏に有るもの。それが問題なんだ。そうですね、ミラーさん。
 ミラー その通りです。
 フレディ そして事実の裏にあるもの、それが私だと仰る。
 ミラー そう思います。
 フレディ 無意識の、人殺しの、俺、か。
(ミラー、頷く。)
 フレディ よし、分かった、ミラーさん。で、もし貴方がこの私だったらどうなさるでしょう。
 ミラー それは馬鹿げた質問ですな。自殺に追い込む程の愛を女に引き起こす能力、私はそういう能力を持ち合わせては、生まれて来なかったのです。
 フレディ それは運がいいと言う事ですか。
 ミラー ええ、運がいいです。どうやら。
 フレディ じゃあ、自殺に追い込む程の愛を女に引き起こす能力、それを持ち合わせた男は、どうすればいいんです。
 ミラー 女を愛するのを、全く止めるんですな。
(間。フレディ、ウィスキーの壜の方を向く。)
 フレディ もう一杯如何ですか。やれやれ、もうお終いか。(ミラーのコップに最後の一滴を注ぐ。)
 ミラー 有り難うございます。
 フレディ 今の話、あれは馬鹿げています。ひどいもんです。
 ミラー 恐らくそうでしょう。この方が御指摘になったように、私は何一つ事実を知りませんからな。
 フレディ 先程の問題の男ですが、こいつは全く隠遁生活にはいるつもりがないのです。まだそれほどの年ではないですから。これが事実の一つです。
 ミラー 成程、それはそうでしょう。
 フレディ そう、まだ隠遁する気はないんです。エー、ミラーさん。この議論を徹底的にやりませんか。丁度新しいクラブが四時から開店です。
 ジャッキー なあ、フレディ。すまんが俺はこれで失礼しなきゃ。リズが変に思ってるよ、今頃。
 フレディ (からかうように。)リズが変に思ってるか、今頃。(ジャッキーの方に手でバイバイと合図しながら。)幸せな結婚生活を送っている男の顔ですよ、これが、ミラーさん。家に帰っても、愛する妻がガスストーブの前で倒れていはしないかと心配することなど全くない・・・
(ヘスター、入って来る。絵は綺麗に包まれ、紐がかけてある。ヘスター、それを横に置く。)
 ヘスター (ミラーに。)ああ、今日は。
 ミラー 今日は。
 ジャッキー 丁度出るところだったんだ、ヘス。
 ヘスター 帰るの?
 ジャッキー うん、帰らなきゃまずいんだ。だけどどうせ追い出すところだったんだろ?
 ヘスター(訴えるように。)ええ、でもフレディの相手をしてやって下されば有り難かったんですけど・・・
 ジャッキー 残念ながら、駄目なんだ、ヘス。客が来るんでね。
 フレディ 運が悪いんだ、ヘス。かわいそうなフレディちゃんにはお守(も)りがいないってよ。
(上着を着ようとする。が、少し手こずる。ミラー、手伝う。)
 フレディ 勿論このミラーさんがその役を買って出て下されば話は別だがね。
 ミラー 残念ながら、私も仕事があって。
 フレディ 仕事? 何の仕事ですか。他人の愛情問題の治療ですか。
 ミラー いいえ。セントレジャーの最新の価格表を発送する仕事です。
 フレディ え? 馬券売りですか?
 ミラー そうです。
 フレディ それは思いも寄らなかったな。メイクシフトのオッズは?
 ミラー 百対七です。
 フレディ 百対六・二が僕の評価だが・・・僕も買えるのかな・・・
(ミラー、ノートを取り出し、何か書きつける。)
 ミラー 雇い主に貴方の名前を報告して置きます。
 フレディ 貴方が雇い主じゃないんですか。
 ミラー ええ。雇われている身です。
 ジャッキー (扉の所で。)じゃあな。あばよ、フレディ。(ミラーに。)失礼します。
 ヘスター リズによろしくね。
 フレディ 俺からはよろしくなんて言わない方がいいぜ、ジャッキー。どうやら俺が女によろしくなんて言おうものなら、命が危ないようだからな。
 ジャッキー じゃ、失敬。
 ヘスター (ジャッキーに。)さようなら。
(ジャッキー退場。)
(ヘスター、フレディが出て行くのを扉の所で待つ。フレディ、テーブルの所で立ち止まって、壜を取り上げ、屑箱に入れる。)
 フレディ 後片付けだ。(扉へ進む。)
 ヘスター(自分の心配を隠そうと努めながら。)フレディ、貴方、今日はもう外出は取り止めたら?
 フレディ 出て行ってくれって、君から言われてるんだぜ。絵の客が・・・
 ヘスター(取り消すわ、私。)エルトンさんに言っておけば大丈夫よ。 別の日に来て貰いましょう。ベッドでゆっくり横になったら?
 フレディ いや、僕はお利口さんなんだ。一度出ていらっしゃいと言われれば、出て行くのさ。(ポケットを探る。ミラーに。)一シリング貸して下さいませんか。
(ミラー、一シリング出し、彼に渡す。フレディ、それをテーブルに投げる。)
 フレディー 俺が夕食に間に合わなかったら、それで・・・
(フレディ出て行く。ヘスター踊り場に出て、フレディが降りて行くのを見る。酔ってはいるが、彼の足はかなり確かである。――今迄もそうであったが。――ヘスター、部屋に再び入る。)
 ヘスター (切迫した面持ち。)あの人、何処に行くのか御存知ですか。
 ミラー はずれの、新しく出来たクラブです。
 ヘスター 本当にお仕事ですの? それとも単なる口実でしたか?
 ミラー 本当に仕事があるんです。
 ヘスター そうですか。(窓の方へ心配そうに進む。)
 ミラー 彼は一人でいる方が嬉しいんです。私が一緒より。
 ヘスター 何故お分かり?
 ミラー あの人の良心が底の底まで分かってしまったのです。(そしてあの人は私がそれを知っている事を感づいているので。)
 ヘスター (苦しそうに。)あの人の良心? あの人に、私の知らないものを発見された御様子ですね。
 ミラー (そうです。しかし貴女が見つけるのは無理。だって、)恋は盲目って言うじゃありませんか。
 ヘスター その諺は、恋人が相手の欠点に気付かない時に使いますわ。相手の長所に気付かない時には使いません。それに、私の目はよく見えるんです。本当によく見えるんです。
 ミラー よく見えるようですな。よく見えすぎる。
(ヘスター、ミラーを見る。)
 ミラー 目を開いた儘人を愛するのは、時として人生をとても難しくします。
 ヘスター 耐え難くします。
 ミラー 私は難しくと言いました。
 ヘスター あの人を一人にして置くのは心配です。
 ミラー 宜しい。志願しましょう。
 ヘスター 有り難うございます、ミラーさん。感謝します。
 ミラー 感謝には及びません。(絵を指差す。)あれはご自分で?
 ヘスター ええ。
 ミラー お訊きしたのは、他の画家達にない、ある独特のスタイルがあるように思ったからですが。
 ヘスター 十七歳の時ですわ、描き始めたのは。
 ミラー そうですか。(詳細に見る。)面白い。美術学校には?
 ヘスター 行った事がありません。
 ミラー 繊細さがあります。新鮮さがあります。そこが際立っている。
 ヘスター 急いでフレディを。お願いします。ひどく心配なのです。
(扉にノックあり。ヘスター、進み、開く。コリアー、敷居の所にいる。入って来る。)
 ヘスター 時間より早かったわ。
 コリアー うん、法廷から真っ直ぐやって来た。
 ミラー 私は丁度出て行く所です。サー ウィリアム。エー、ペイジ夫人に頼まれた仕事がありますので。あ、ところでこれを投函する予定でした。が、お渡しする方が早い。(封筒をポケットから取り出し、コリアーに渡す。)
(ミラー退場。)
 ヘスター 予め電話を下さるようお願いしておくんでしたわ。フレディが急に帰って来て、今丁度出て行ったところですの。(封筒を指差して。)何かしら。領収書?
 コリアー そうだろうと思う。 (封筒をあけ、五ポンド紙幣を取り出す。)これは失敬な。裏に何か書いてある。「素人医者の診察に対する謝礼、正に領収仕候。K・ミラー」(コリアーが紙幣を財布に戻す時、ヘスター微笑する。)成程、どうやらこれは僕の負けだ。君があいつに頼んだ仕事っていうのは?
 ヘスター そんなこといいの。お茶を出すって私、約束したわね。
 コリアー 構わんでくれ。時間の方が惜しい。台所へ行ってガタガタやっている暇がね。一寸話をしたいんだが暫くいいかな。
 ヘスター ええ、いいわ、ビル。どうぞ。
 コリアー 今、ペイジを見た。
 ヘスター 貴方、見られた?
 コリアー いや。車の中で、丁度こっちの通りに曲がる所だった。すぐ新聞を持ち上げたから、あっちからは見えなかったろう。それに酔っているようだった。
 ヘスター そう? 酔っているってどうして分かって?
 コリアー 足がかなりふらついていたからね。
 ヘスター(明るく。)その人、フレディじゃないわ、きっと。あの人今さっき出て行ったばかりですもの。
 コリアー(非難するように。)ヘスター。(テーブルの上のコップを指差す。)
 ヘスター 友達と飲んでいたの。
(コリアー、屑箱から空の壜を摘み上げる。頭が見えていたからである。)
 ヘスター (怒って。)しようがないわね、ビル。いくら判事さんでも、時々は想像力を働かせるのを休むべきよ。(壜を取り上げ、食器棚にいれる。)
 コリアー やりだしてからどのくらい経つんだ。
 ヘスター 何の事?
 コリアー 昔はあいつはアルコールには決して手を出さなかった。
 ヘスター(短く。)そう。覚えてないわ。
 コリアー 君が覚えていない訳はない。あいつはサニングデイルでは決して飲まなかった。パイロットとしての判断力が鈍るからと、よく言っていた。
 ヘスター(静かに。)分かったわ、ビル。十箇月前から酒を飲むようになったとすれば、それは私のせいでそうなったのね。
 コリアー(同じように静かに。)そして、君を自殺にまで追い込んだのは、あいつだ。
 ヘスター いいえ、それは私。私が自分を追い込んだの。
(間。)
 コリアー ヘスター、どうしてこんな事になったんだ。
 ヘスター 愛よ、ビル。愛でこうなったの。貴方の大好きなジェイン・オースチンとか、アンソニー・トゥロロープの作品に出てくる愛。あの同じ愛のせいよ。「愛、それは朝の露のように天上から降りて来る。」違ったわ。どうだったかしら。「それは、雨の後の太陽のように人の心を慰め・・・」
 コリアー 拙いものを引用して来たようだね。次はどうだったか覚えてる?
 ヘスター いいえ、忘れたわ。
 コリアー「愛は雨の後の太陽のように人の心を慰め、情欲の結果は太陽の後の嵐なり。」
 ヘスター 太陽の後の嵐? フレディに対して私が感じている気持ち、それがもし単にこれだったら、大層適切な表現ね。
 コリアー 飾りっけなく単純に言ってしまえば、そうなるんじゃないのか、ヘスター。
 ヘスター(怒って。)何を言ってるの、ビル。貴方、本当に、私がフレディに対して感じている気持ちを飾りっけなく単純に言えるとでも思っているの。私は曇りのない精神を持っている、あまりにも物がはっきり見え過ぎるって、今言われたばかり。ああ、だから、もしそれが精神だけの問題だったら(どんなに事は簡単でしょう)・・・でも私がフレディに対して感じている気持ちを飾りっけなく単純になんて、誰が説明出来るでしょう。貴方だって、私だって、他の誰だって、出来る訳がない。それが単に情欲だなんて。そんなちっぽけな包み、ちっぽけなレッテルで片づけられると思っているなんて。もっと大きいの。もっとごちゃごちゃしたものなの。情欲が人生の全てではないわ。でもフレディは・・・私の人生の全てなの。生きる事も死ぬ事も、あの人に賭けている。そういうものにレッテルを貼れるものなら、貼ってご覧なさい。(急に振りかえる。)ああ、あの人、少しぐらいウィスキーを残して置いてくれればよかったのに。
 コリアー 外へ出ようか。
 ヘスター それは駄目。家にいないと。何かが起こるといけないから。
 コリアー 何かが起こる?
 ヘスター そう言っても分からないわね。フレディが荒れると何が起こるか分からないの。
(ヘスター、坐る。コリアーの正面に。離れて。コリアー、暫くヘスターを見つめた儘。)
 コリアー(やっと口を開く。)あの夏どうしてサニングデイルにしたんだったかな。
 ヘスター(窓の所で。)貴方の発案よ。ゴルフがいいからって。
 コリアー 君は行きたくなさそうだった。覚えているよ。海の方がいいと言って。
 ヘスター(ぼんやりと。)ええ。
(間。)
 コリアー 最初はどんな風に始まったのか、話してくれた事なかったね。
 ヘスター ないわ。多分。
(話を始めるまでに間あり。 話している間、ヘスター、コリアーを見ない。 自分自身に話しているような調子。)
 ヘスター あれは会長杯のコンペの時だった。貴方、参加したわね。
 コリアー うん。覚えている。
 ヘスター その後、ヘンダースン家でのパーティーに二人で出席の予定だった。私は車で貴方を迎えに行った。貴方はまだ外でプレイしていた。フレディが一人でホールにいた。早くから脱落していて、機嫌が悪かった。クラブで他の人達と一緒のあの人を何回か見たことはあった。でもあまり注意を払ったことはなかった。普通の人より特に美男子だとも思わなかった。それにあの人の飛行機乗り特有の言葉遣いが気になった。時には一寸苛々した。今時あんな言葉、時代錯誤だわ。(訳注 言葉遣いの例。as dated as gadzooks and odds my life  は、訳を省略。)
 コリアー あいつはそうやって自分を際立てようとしているんだ。
 ヘスター 違うわ。 あの人の人生が一九四〇年で終わって仕舞ったからなのよ。一九四〇年があの人の人生の花。そういう人がいるものよ。 空軍を去ってからは本当に幸せだった時なんてないの。(少しの間のあと。)そう、あの日貴方は長かった。長いこと上がって来なかった。
 コリアー うん。ゲームがひどく長引いたんだ。覚えている。
 ヘスター フレディと私は少なくとも一時間はベランダに一緒に坐っていた。何故かあの人、ひどく率直に自分の事を話した。聴いていて、はっと胸を打たれるような、そんな話しぶり――将来が心配だ、とか、生きる目的、方向が全くない、だとか、貴方の事が羨ましい――立派な弁護士で・・・
 コリアー お褒めに預かって嬉しいよ。
 ヘスター あの人、心からそう言ったの。それから突然私の腕に手を置いて、ひどくありきたりの事を言った。「だけど立派な弁護士という理由だけで羨ましいんじゃない。他に理由があるんだ。」私は笑った。あの人も何か悪いことをした子供のような顔で笑い返した。「本当にそうなんだ。ただのありきたりのきまり文句じゃないんだ。君は今まで僕が見た女の人の中で、一番魅力的な人だよ。」何かこんな言葉。私は一つ一つの言葉はよく聴いていなかった。だって私には分かっていたの。その時、その短い時間に、二人でそんなに親密になって、一緒に笑っている時に、私には何の希望もない事が。全く何の希望もない事が分かっていたの。
(間。)
 コリアー その夜なんだな。君がロンドンに帰ろうとひどく言い張ったのは。
 ヘスター ええ。
 コリアー 次の週末にもサニングデイルには行きたくないと言ったんだね、慥か。
 ヘスター ええ。
 コリアー 正確に言うと何時なんだ、その・・・
 ヘスター 九月。あの人と一緒に芝居を観るからと、私がロンドンに行ったのを覚えていて?
 コリアー しかし会長杯のコンペは六月じゃなかったか?
 ヘスター 六月二十四日。
 コリアー(静かに。)その二箇月間、君はどうして話してくれなかったんだ。
 ヘスター もし話していたら何て仰ったかしら。
 コリアー こう言うだろう。君が愛していると言っているこの男は、知的にも、道徳的にも、君より数段劣っており、君とは何の共通点もない。君が現在悩んでいるものは、ありふれた情欲、もっとはっきり言えば、泥にまみれた肉欲に過ぎない。君は出来る限りの意思の力を奮って、正気に戻るよう努力しなければならない。それが君の単純で明解な義務なのだ。
(ヘスター、頷く。間あり。)
 コリアー これに対してどう答えたろう。
 ヘスター その通りだわ、と言ったでしょう。 でも成り行きは同じだったでしょうね。(自分の腕時計を見る。)
 コリアー(時間をおいて。)子供が出来ていたら違っていたろうか。
 ヘスター 現実に起こった事を考えるのでもやっとだわ、ビル。
 コリアー と言うことは、子供がいても同じだったろうと?
 ヘスター そういうことを言っているのではないの。
 コリアー サニングデイルのあの別荘を借りようと思い立った事から全てが起こったと考えると全く厭になる。
 ヘスター そういう風に物を考えて、自分を苦しめてもしようがないわ、ビル。あの人と私は出会う事になっていたの、いずれにせよ。もうそろそろ貴方、帰る時間よ。
 コリアー 君は、生まれる前から見えない糸で結ばれている二人、という話を信じるのか。
 ヘスター(素朴に。)フレディと私は、いつかは会うようになっていたんだ、と思うわ。
 コリアー 結局ひどく悪い相性だった。
 ヘスター いい相性っていうものがあるんですもの、悪い相性だってあるでしょう、きっと。贈り物を忘れないでね。折角私が一生懸命包んだのですから。
(包みの所に行き、取り上げる。鍵の音がして、扉が突然開き、フレディが立っている。暫く扉の所にいて、コリアーを見、次にヘスターを見る。中に入り、後ろ手に扉を閉める。少し酔いが醒めているように見える。)
 フレディ そうじゃないかと思った。こんな所に黒いでかいロールスで来る奴なんてざらにいないからな。
 ヘスター ミラーさんは?
 フレディ ミラー?
 ヘスター クラブであの人を見掛けなかった?
 フレディ クラブには行かなかったんだ。(コリアーに。)同じ運転手じゃないか。
 コリアー そう。
 ヘスター 私の・・・事故について、誰かがビルに電話したの。だから来たの。
 フレディ 分かってる。(コリアーに。)これの・・・事故の話は聞いているんだろう?
 コリアー うん。
 フレディ ヘスの誕生日を忘れた事は? 今までに。
 コリアー ない。
 フレディ そうだろうな。忘れっぽい性質(たち)じゃない筈だ。判事殿になったって? 今は。
 コリアー そう。
 フレディ うなる程金を稼いでいるんだな。
 コリアー 一定の金額は。
 フレディ ヘスをまだ愛している?
 ヘスター(鋭く。)答えないで、ビル。この人酔っぱらっているの。フレディ、寝室へ行って横になってらっしゃい。
 フレディ すごい剣幕だろう? こんな剣幕で叱られた事はなかったろうな、あんたは。
 ヘスター フレディ、黙って。お行儀良くして。
 フレディ ほほう。お行儀が悪い? 判事さんにちょっとした質問をしただけだがな。答が知りたいんだが・・・どっちみち同じか・・・
(寝室に進み、入る。鍵が閉まる音がする。)
 ヘスター 御免なさい、ビル。
 コリアー 構わんよ。
 ヘスター もう行った方がいいわ。
 コリアー うん。
(帽子と上着の方に進み、取り上げ、どうしようかと迷う風。ヘスター、コリアーの方を見ず、寝室の扉を見て
いる。)
 コリアー そうだ、その通りだ。
 ヘスター(意味が通じない。)何ですって?
 コリアー ペイジが今訊いたろう。あれの答えだ。そうだ。今でも愛している。
(間。)
 ヘスター ビル・・・もうその話は・・・
 コリアー 悪かった。(寝室を指差して。)一人で大丈夫なのか。
 ヘスター ええ、勿論。何でもないわ。
 コリアー あいつは変わった。別の人間を見ているようだ。
 ヘスター 最近調子がよくないの。
 コリアー そうか。(片手を差し出す。)じゃあ、これで失礼する。
 ヘスター 御免なさい、ビル。本当に御免なさい。この言葉以外に言えることがあるかしら。
 コリアー ないだろうな。(微笑む。)
(ヘスター、突然コリアーの頬にキスする。)
 ヘスター さようなら、ビル。
(コリアー、再び微笑み、去る。ヘスター、後ろ手に扉を閉め、急いで寝室に進む。ノックする。)
 ヘスター (呼ぶ。)フレディ、開けて頂戴。お願い。
(答なし。ヘスター、扉から離れ、煙草を取りに行く。火をつけている時に、フレディ、寝室から出て来る。青い背広に着替えている。)
 ヘスター あら、フレディ。随分立派よ、(その服。)お出かけ?
 フレディ うん。
 ヘスター どこ?
 フレディ 仕事の話なんだ。
 ヘスター 誰?
 フレディ ロペスだ。さっき電話をかけておいた。
 ヘスター ロペス?
 フレディ 昼飯を一緒にした南米の男だよ。
 ヘスター ああ、そうそう。忘れていたわ。調子はどうなの?
 フレディ うん。まあまあだ。
 ヘスター よかったわ。仕事につけて。
 フレディ うん、まあね。かなりはっきりした提案なんだ。勿論最終的には、あいつの上司が決めるんだが。
 ヘスター 一寸見せて。(服装を調べる。)あら、ワイシャツも着替えなくちゃいけなかったのに。
 フレディ 綺麗なやつがないんだ。
 ヘスター そうだったわ。今週もクリーニングの配達、遅れているの。明日一枚、私が(手で)洗うわ。
 フレディ うん。ひどくまずいかな。
 ヘスター それほどはね。大丈夫でしょう。靴を磨かなくっちゃ。
 フレディ 自分でやるよ。
 ヘスター 駄目駄目。脱いで。私がする。(台所へ行く。)貴方がやると、必ず顔に靴墨をくっつけてしまう。どうしてかしら。
(台所に入る。フレディ、靴を脱ぐ。ヘスター、靴墨と靴ブラシを持って、戻って来る。フレディから靴を受け取り、磨き始める。かなり長い沈黙。)
 ヘスター 仕事は何なの?
 フレディ(呟くように。)そうだ。それを話さなきゃな。
(ヘスター、ちらりとフレディを見る。)
 ヘスター そうよ、フレディ、私知りたいわ。
 フレディ なあヘス、僕はこれからちょっとした話をしなきゃならない。これは実は楽じゃないんだ。だからすまないが、間で口を挿まないでくれないか。君はいつだって途中から割り込んで来て、ガンガンガンとやるんだけど、今日の僕はすっきりと話の筋道がたてられたんだ。だからこれを途中でごちゃごちゃにされたくないんだ。
 ヘスター 御免なさい、フレディ。すぐに口を挿んじゃって。今日のあのお昼の状態で、どうしてすっきりと話の筋道を立てられたの?
 フレディ もう大丈夫なんだ、ヘス。コーヒーをブラックで飲んで、そのあと暫くだ。これから何をやろうとしているかは、はっきり分かってるよ。
 ヘスター やろうとしている事? それ何?
 フレディ テストパイロットだ。南米に行くんだ。
 ヘスター テストパイロット?  だけど貴方、何度も言っていたでしょう? もう俺はあの仕事は終わりだって。カナダでのあの事故以来、もう度胸も判断力もなくなったって。
 フレディ 度胸も判断力も戻ってくるさ。あの時は飲み過ぎてた。知っての通りさ。
 ヘスター ええ、分かってるわ。査問委員会でもそれは知っていたものね。このロペスっていう人も知っているの?
 フレディ 勿論知らない。これからも知るはずはない。僕の度胸と判断力は心配しなくていいよ、ヘス。一、二箇月乗ってりゃすぐ勘は戻って来る。「一つ間違えば死。」っていう生活にも慣れるさ。
 ヘスター(鋭く。)厭なことを言わないで、フレディ。そんな言い方嫌い。(優しく。)気にした? 御免なさい。だけどこんな大切な話を(している時に、そんな言い方をするのはいけないわ。)
 フレディ うん。大切な話だ。
 ヘスター 南米のどの辺?
 フレディ どこかリオの近くだ。
 ヘスター そう。(機械的に、靴を磨いている。)ここを引き払うのはいつかしら。
 フレディ 引き払わない。
 ヘスター え?
 フレディ 君は残るんだ。僕の話っていうのはそれなんだ。僕は一人で行く。
(ヘスター、静かに靴を置く。フレディを見つめた儘。)
 ヘスター(やっと。)どうして、フレディ。
 フレディ 元の飛行機乗りに戻るとすれば、俺は一人でなくちゃ駄目なんだ。
 ヘスター(囁くような声。)一人でなくちゃ?
 フレディ ええい、畜生! こいつは本当の理由じゃないんだ。なあ、ヘス。本当の理由って言やあ・・・
(言葉を見つけようと必死になって歩き回る。その間、間あり。ヘスター、フレディを見守る。)
 フレディ 君はいつも言っていた。僕が本当には君を愛していないって。確かに君の基準でいけば僕は君を愛していないのかもしれない。だけど僕が君に感じているこの気持ちは今まで僕が他のどんな人に感じてきたものよりも強いんだ。いや、これから先だって、こんな強い感情は決して有り得ない。だからこそ君と二人でこの生活を始めたんだし、だからこそ、今までこの生活を続けて来たんだ。そして、だからこそ今僕は君と別れようとしているんだ。
 ヘスター (長い間の後。)予め台詞を拵えたスピーチのように聞こえたわ、フレディ。
 フレディ うん、拵えた台詞みたいだったかもしれない。此処へ来る時歩きながら考えたんだ。だけど中身は本当なんだ、ヘス。僕は君が好きだ。だからこの儘にして置けないんだ。あの手紙には参った。頭をガーンとやられたような気がした。そりゃ、君が悲しそうなのは知っていた。君だって僕が塞いでいるのに気がついていた筈だ。だけど、二人の感じ方の違いの為に、どれだけ君が苦しんでいたか、それが僕には分からなかった。これから先もまだ、何も起こらなかったような顔をして、この生活を続けるような奴がいたらそいつは鬼だよ。だってそうじゃないか。自分が一番好きな人を自殺に追い込んでいたっていう事、そしてそれはそいつのせいだったって、もう事実として分かっちゃってるんだぜ。
 ヘスター (低い声で。)貴方がいなくなりさえすれば、私は自殺をしないだろうって、そう思うの?
 フレディ (あっさりと。)これは賭だ。僕はその賭をしなきゃならない。僕だけじゃない。二人でやらなきゃならない賭だ、これは。
(間。)
 ヘスター フレディ、脅かさないで。私・・・
 フレディ 脅しじゃないんだ、ヘス。これは本気なんだ。
 ヘスター 朝になったらすっかり違った考えになっている筈よ。
 フレディ これは朝になっても変わらないよ、ヘス。今度は違うんだ。それに朝、僕は此処にはいない。
 ヘスター 何処に行くの?
 フレディ 分からない。何処かだ。今夜ここを出るんだ。
 ヘスター 駄目よ、フレディ。駄目。
 フレディ 今夜出た方がいいんだよ、ヘス。君と議論するのは僕は怖いんだ。(熱を込めて。訳注 相手が何か言いそうにするから、熱を込める。)この方がいいんだ、ヘス。僕には分かってるんだ。君が何か言うだろう? すると僕は何が何だかまた分からなくなっちゃうんだ。
 ヘスター 言わないわ、フレディ。何も言わないって約束する。でも今夜だけはいて、お願い。今夜だけ。
 フレディ (悲しそうに。)駄目だ、ヘス。
 ヘスター 本当に今夜だけ。本当に一晩。
 フレディ 御免、ヘス。駄目だよ。
 ヘスター 酷いわ、フレディ。残酷よ。随分残酷。
 フレディ ヘス、これが最後のチャンスなんだ。(君だって分かってるじゃないか。)これを逃したら、僕等は終わりだ。二人はお互いにとって破滅なんだ、君と僕は。
 ヘスター 違うわ。それは違う。
 フレディ 違わない。そうなんだ。君は僕よりも前からそれに気付いていたんだ。僕は馬鹿で、それに気がつかなかった。僕はとっくの昔にこうしていなきゃいけなかったんだ。そうなんだよ。僕等二人の頭の上には大きな燃える悪魔の字で、「こいつら二人は、お互いにとって破滅なんだ」と書かれているんだ。
(ヘスター、抑えようもなく泣いている。フレディ近づき、靴を取る。)
 ヘスター まだ終わってないわ。
 フレディ これでいいよ。(履き始める。)御免よ、ヘス。ああ、本当に御免。泣かないで。泣かないでくれないかな。ああ、胸が張り裂けそうだよ。
 ヘスター 今行くのは止めて。もう少しだけ待って。今だけは止めて。お願いよ、フレディ。
(フレディ、靴を履き終わる。ヘスターの反対側を向く。目を袖で拭く。)
 ヘスター (フレディに近づいて。)貴方のもの、全部此処にあるわ。荷造りをしなくちゃ。
 フレディ 使いを寄越すよ。
 ヘスター 夕食を一緒にするって約束したわ。
 フレディ うん、約束した。すまない。(素早くヘスターにキスをして扉に進む。)
 ヘスター (狂気のように。)約束をこんな風に破るなんていけないわ、フレディ。そんなこと駄目よ。夕食にだけは帰って来て、フレディ。夕食だけでいいの。私、喋らない、決して。誓うわ。それから出て行ったっていいじゃない・・・
(フレディ退場。ヘスター、追って扉まで行く。)
 ヘスター フレディ、帰って来て。行かないで。今夜一人にして置かないで・・・今夜だけは・・・今夜だけは一人にして置かないで・・・
(この時までにヘスター、扉の外へ出ている。)
                                               (幕)
   
     第 三 幕
(場所は同じ。幕が上がると、ヘスターが坐っている。微動もしない。張り詰めて瞬きもせず、前方の一点を見つめている。かなりの間の後、電話が鳴る。ヘスターの反応は内心の緊張をよく表している。まず、受話器に手を伸ばし、手をおとし、電話器の傍に立ち、二、三度鳴る儘にして置き、それから受話器を取る。)
 ヘスター もしもし・・・いいえ、いません・・・ええ、そうです。どちら様?・・・ああ、今晩は・・・いつ帰って来るか、ちょっと。今何時でしょう?・・・十一時十分?そんなに遅くなりましたか・・・いいえ、眠っていたんじゃないんですの。本を読んでいて・・・ええ、もう暫くすれば、戻って来る筈です・・・ゴルフの話ですね。ええ、電話を掛けさせますわ・・・電話番号はこちらで知っていますわね・・・ええ、申し伝えます・・・おやすみなさい。
(受話器を置く。暫くの間、立った儘受話器を見つめる。衝動的に受話器に手を掛ける。止める。手を伸ばした状態で止まる。 駄目というように手を落とす。回れ右をして椅子に戻る。一番最初の姿勢にぴったりその儘戻る。扉にノックあり。ヘスター開ける。エルトン夫人がいる。)
 エルトン夫人 あのー、ちょっと・・・
 ヘスター 何ですの、エルトンさん。
 エルトン夫人 ちょっと、どんな具合かしらと思って、お軆。(見回して。)ペイジさんいないの?
 ヘスター ええ、いません。
 エルトン夫人 火をつけなくて大丈夫? 急に寒くなったわよ。
 ヘスター いいえ、火はいりません。
 エルトン夫人 まあ、カーテンも閉めてない。
(半分開いた扉にノックあり。アン・ウェルチ、扉から頭を覗かせる。)
 アン あ、失礼。
 ヘスター 今晩は。
 アン 今晩は、ペイジさん。ひょっとしてフィリップがお邪魔しているんじゃないかと思って。
 ヘスター フィリップ? ああ、ご主人ね。いいえ、どうしてご主人が?
 アン ペイジさんがもう帰っていらして、そして、フィリップも・・・
 ヘスター (目付きが変わる。)二人は一緒?
 アン ええ、そう思って・・・
 ヘスター で、何処に・・・
 アン 知りません。私は御一緒出来なかったんです。仕事があって。でももう出て行ってから、二時間にもなりますし・・・
 ヘスター (アンに。)どうやってあの人にお会いに?
 アン ベルベデアーで夕食をとっていたんです。ペイジさんはバーにいて、それから私達のテーブルにいらしたんですの。
 ヘスター ええ。
 アン 勿論今までペイジさんとお話などした事なかったんですけど、あの方随分親切に、優しく、話し相手が欲しいんだ、とか仰って、私達にブランデーを奢って下さったわ。そのあと、新しく出来たクラブにちょっと付き合わないかって、フィリップに。
 ヘスター どの新しいクラブ?
 アン 名前は分かりません。
 ヘスター あの人、どんな具合でした?
 アン どんなっていうと? お酒に・・・
 ヘスター ええ、酔ってはいませんでしたか?
 アン 酔っていたって、はっきりは言えません。勿論これは二時間前の話ですから(今は分かりません。)フィリップは全く飲みませんから、それは大丈夫なんですけど、心配なのは、(変な女の人に・・・)私って本当に馬鹿なんです・・・でも一人家に残されていると、心配でたまらなくて・・・
 ヘスター (微かに微笑む。)ええ、分かりますわ。心配はいりません。ご主人はすぐお帰りになります。
アン 本当にそうだといいんですけど。此処に戻りましたら、すぐ私のところへって、お願いしますわ。
 ヘスター ええ、必ず。じゃ、お休みなさい。
 アン お休みなさい。
(アン退場。)
 ヘスター エルトンさん、新しいクラブの名前、御存知?
 エルトン夫人 いいえ、何だったかしら。
 ヘスター 慥かカードが来ていたわ。(突然。)そう、クロウズ・ネスト。
(素早く電話帳の所へ行き、捜し始める。)
 エルトン夫人 そうそう、何かそんな名前。
(ヘスターが番号を捜し、ダイアルするのを心配そうに見守る。)
 ヘスター もしもし・・・エート、すみません。ペイジはそこにいますか・・・ペイジです・・・そう・・・そうですか。どのくらい前に?・・・三十分。そう・・・何処に行ったか分かりますか・・・いいえ、いいんです・・・もし帰って来たら、ミシィズ・ペイジから電話があったと伝え・・・(狂気のように。)待って、ウェイターさん。切らないで・・・何も言わないで下さい。決して何も。電話の話など決して言わないで・・・ええ、そうです。失礼します。
(電話を切る。エルトン夫人、頭を振る。)
 エルトン夫人 あの人、こんな事をするなんて、一体何を考えているんでしょう。ゆうべあんな事があったっていうのに。あなたを一人ぼっちで放って置くなんて・・・
 ヘスター(つっけんどんに。)エルトンさん。アパートのお仕事、ほったらかしじゃないんですか。
 エルトン夫人 (静かに。)ええ、そう。ほったらかし。(扉へ進む。)
 ヘスター (急いで。)御免なさい、エルトンさん。私、意地悪なことを言って。
 エルトン夫人 (振り返って。)いいえ、そんな事。あなたっていう人はとても意地悪なんかにはなれないの。そんな人じゃないの。私の秘密をおしえましょうか。あなたは私の贔屓、お気に入りなの。
 ヘスター 私が?
 エルトン夫人 (頷いて。)悲しい事ね。人って、いつも善い人よりも、素敵な人を好むのね。そう思うでしょう?
(扉をもう既に開けている。オーバーを着たミラー、外にいる。かなり大きな革のバッグを持っている。)
 エルトン夫人 あら、今晩は、ミラーさん。今日はお仕事、お早かったんですね。
 ミラー ええ。(ヘスターに。)お軆の具合は如何ですか。
 ヘスター 御陰様で有り難うございます。いつもお仕事、こんなに遅いのですか。
 ミラー ええ、時々は。
 ヘスター 随分おそろしそうなバッグですね。何が入っているんですか。
 ミラー 何も。何も入っていません。(振り返って、階段に向かう。)
 エルトン夫人 ああ、ミラーさん。またお願いして悪いんですけど。主人を診て下さらないかしら。今日はよくないんです。
 ミラー 五分後にまいります。
 エルトン夫人 すみません。本当にお手数をお掛けして。
(ミラー階段を上る。)
 エルトン夫人 あのバッグの事を訊いてはいけなかったの。あの人、それを訊かれるのがとても嫌いなの。
 ヘスター (うわの空。)すみません。本当に知りたいと思った訳じゃなく、ただ話のための話だったんです。(電話器を見つめている。)
 エルトン夫人 今夜はもうアスピリンは止めた方がいいわ。私だったらそうするけど。
 ヘスター そうね、そうします。(腰を下ろす。)
 エルトン夫人 ベッドの方がいいんじゃない? あついコーヒーでも持って来ますよ。
(ヘスター、首を振る。)
 エルトン夫人 それとも眠り薬をミラーさんから貰って上げましょうか。
 ヘスター あの人勿論お医者様なんでしょう?
 エルトン夫人 ええ、お医者さんだったの。
 ヘスター やっぱり。何かあった人だなって思っていました。
 エルトン夫人 あら、どうして?
 ヘスター 私も何かあった女だからでしょう、きっと。
 エルトン夫人 まあ。ええ、あの人、あったの。酷い災難。酷い酷い災難。
(ヘスター頷く。)
 エルトン夫人 私が言ったって言わないで頂戴ね。かわいそうなミラーさん。本当にお気の毒。あの人、いつもそれを気にして、こっそり生きていかなきゃならないの。
 ヘスター あの人が自分で話したんですか、その事。
 エルトン夫人 いいえ。あの人が此処へ来たばかりの頃、手紙が来たんです。「クルト・ミラー医学博士殿」ってね。それであの事件を思い出したの。新聞にいっぱい書きたてていましたからね、当時。勿論私、「私は知ってます」なんて顔はしませんでしたよ。でもあの人すぐ感づいたのね。ある時、あの人の部屋を見て、「何時も随分綺麗にしていらっしゃるのね。」と言ったの。そしたら「ええ。監獄で学んだ事といえばそれしかありませんからね」って。言い方もそっくりこの通りよ。でもこの話をしたのはこれが最初で最後。その後暫くして主人を診てくださる事になったの。世間の人のあの人に対する態度ったらないわ。あれは意地悪よ。あんな立派な人が馬券売りの事務をやってるなんて。勿体ないったらありゃしない。
 ヘスター 何故馬券売りの仕事なんか・・・
 エルトン夫人 だって贅沢なんか言っていられないのよ。あの人の昔の患者に馬券屋さんがいた、その人がかわいそうに思ったのね。人間は食べていかなくちゃならないもの、ね? あのバッグに何が入っているか、お教えしましょう、本当に知りたいなら。あの人毎晩小児麻痺の病院に通っているの。勿論無料奉仕。それが専門だったのね。どうやら治療の一部を担当しているみたい。
 ヘスター 正式の医者に戻る事は?
 エルトン夫人 いいえ。全く希望はないの。お役所ってどんな所かよく御存知でしょう? それにあの人がやった事はおいそれと皆が許すような事じゃないの。ありふれた普通の人だったら許さないわ、とても。
 ヘスター あなたは許すのね、エルトンさん。
 エルトン夫人 ええ、そりゃ。私はね、あなた。この仕事をして、人生っていうものをつくづく知らされたんですよ。こんな事ぐらいじゃ、腹は立ちません。でもまあ、いろんな人がいて世の中が出来ているのね、結局。そうでしょう? そう言えば、十一号室にある時夫婦者が引っ越して来て・・・(突然言い止む。)あ、あの足音、ミラーさんだわ。
(エルトン夫人、扉を開ける。ミラー、階段を降りているところ。)
 エルトン夫人 ちょっと待って下さいね。今から主人の用意をしますから。
 ミラー 分かりました。
 エルトン夫人 ペイジさんにはアスピリンより、眠り薬の方がいいんじゃないかしら。ミラーさん、如何?
 ミラー 私もそう思っていた所です。
 エルトン夫人 そう。(ヘスターに。)じゃあね。お休みなさい。なにか御用の時は遠慮なく電話をするんですよ。主人と私でちゃんと夜中も起きているんですからね。遠慮なくね。
(エルトン夫人退場。ミラー、部屋に入って来る。壜を出し、二錠取り、ヘスターに渡す。)
 ヘスター 有り難うございます、先生。(テーブルの上に置く。)
 ミラー 先生と言わないで欲しいと、前に申し上げましたが。
 ヘスター すみません。また忘れてしまって。
 ミラー これからすぐお休みになるんですね。
 ヘスター ええ。一、二分の内に。
 ミラー (振り返って行こうとする時。)その一、二分があまり長くない事を望みますな。
 ヘスター 今夜は誰もが私の身をひどく案じて下さるわ。
 ミラー 驚きましたか? 階段から声が筒抜けだったんです。
 ヘスター フレディと私の声が?
(ミラー、頷く。)
 ヘスター じゃあ、アパート中の人達はみんな・・・(聞いたのね。)いいえ、みなさん御立派な人達ばかりですもの、肘でつつきあって、「ほらほら、あの女の連れ合い、酔っぱらって、女をほったらかしにして出て行った。いい気味。」なんて陰口をたたいたりはしないわね。
 ミラー 私は言いませんでした。勿論、私はこのアパートの立派な住民ではありませんけど。
 ヘスター (素直な言い方。)私、どうしたらいいでしょう。
 ミラー 私が相談にのれる人物とでも・・・
 ヘスター ええ。ガスストーブの傍に随分近づいた事がおありの筈ですもの。
(間。ミラー、突然顔を背ける。)
 ミラー エルトン夫人ですね。(ヘスターの方に向き直る。つっけんどんに。)私にどうしたらいいか訊ねましたね。その薬を飲んで、今夜はぐっすり眠るんです。そして明日の朝――また生きていくんです。
(扉にノック。ヘスター開ける。コリアーがいる。夜会服を着ている。)
 ヘスター ビル・・・
 コリアー 用事があって来たんだ。僕の意思だけじゃない。会わなければならない用があって・・・
(コリアー、中に入る。入る時ミラーを見る。)
 ミラー (ヘスターに。)分かりましたね。この忠告には曖昧な所は全くありません。どうか従って下さい。では失礼。
(コリアーに会釈し、出て行く。コリアー、今まで手に持っていた手紙を黙ってヘスターに渡す。ヘスター、筆跡を見て息をのむ。素早く読む。)
 ヘスター 何時来たの?
 コリアー 知らない。二十分前に見つけた。ベルを鳴らさず、郵便受けに投げ込んだのだろう。
(ヘスター、再び読む。ぼんやりと。)
 コリアー そこに書いてある事は本当なんだな。
 ヘスター (疲れた声。)ええ、そう。(手紙を返す。)
 コリアー 何時の話だ。
 ヘスター 六時頃。貴方が帰った丁度そのあと。
 コリアー 理由は何なのだ。
 ヘスター ゆうべの事。あの人が酔う程飲んだのもそれが原因。「僕たち二人は、お互いにとって破滅だ。」そう言ったわ。
 コリアー 「酒に真実あり。」か。
 ヘスター それを言った時はそれほど酔ってはいなかった。
 コリアー するとあいつは僕が思っていたよりも洞察力があるって事になるな。これから何で食って行くつもりなんだ、あいつは。
 ヘスター テストパイロット。南米で。
 コリアー 成程。(手紙を見ながら。)この文句はなかなか良い。「ご迷惑をお懸けした。謝る。」イギリス空軍特有の言い方だ。簡にして要を得ている。
(コリアー、手紙をちぎって、屑箱に入れる。)
 コリアー (間のあと。)ヘスター、君の苦しい所だ。同情する。
 ヘスター (背中を向けた儘。)私は大丈夫。遅かれ早かれ、こうなる運命。そうだったらしいわ。
 コリアー 丁度今、君がどのくらい辛いか、僕は少しは分かるよ。
 ヘスター (振り返って、強く、明るく。)ええ。でも、そのうち治るわ。パリッとしているわね。何処へ行って来たところ?
 コリアー 家からだ。夕食に人を呼んでね。
 ヘスター 誰を?
 コリアー オリーブ。プレストン夫妻。アメリカの判事とその妻・・・
 ヘスター オリーブ、ちゃんとやってる?
 コリアー かなりね。あいつ傑作な事を言ったな。
 ヘスター なんて?
 コリアー 畜生! 忘れたよ。まてよ、思い出したぞ。だけど今考えてみると、そう傑作でもないな。あいつの言い方だったのかな、あれだけ傑作に聞こえたのは。アメリカの判事の顔がね、怒ったキューピッドみたいだって言ったんだ。
 ヘスター 怒ったキューピッド? オリーブのそれを言う時の口調まで分かるわ。
(ヘスター、笑い始める。その冗談の効果が続くと思われる時間より長く笑う。)
 ヘスター 怒ったキューピッド!
(笑いが急に啜り泣きに変わる。ソファのクッションに顔を埋める。必死に自分の感情を抑えようとするがうまくいかない。コリアー、ヘスターの隣に坐る。)
 コリアー ヘスター、頼む。君の助けになる言葉が何か言えたらいいんだが。(ヘスターの頭を撫でる。)
(ヘスター、やっと自分自身を取り戻す。)
 コリアー ここでこんな事を言っても、今の君には何の慰めにもならないかも知れないが、(それでも言ってみよう。)君はこの出会いを、悪い相性だったと自分から言っていたんだよ。
(ヘスター、涙を拭きながら答えない。コリアー、部屋を見回す。)
 ヘスター 泣いたりして御免なさい。でも、止まらなくて・・・
 コリアー このアパートはすぐ出なくちゃいけないな。そもそも、一晩でも此処においてきぼりになるっていうのからして良くないよ。
 ヘスター 私は大丈夫。
 コリアー 僕は心配だ。今夜出た方がいい。
 ヘスター 今夜?
 コリアー ゆうべも此処で一人だったんじゃないか。
 ヘスター 出て行くと言っても、行く所がないわ。
 コリアー これは一時的な提案だが・・・当座のしのぎに・・・フレディがあの手紙に書いていたように・・・
 ヘスター 駄目よ、ビル。それは無理。
 コリアー 絵を取りに来た時、君に言った事、もう忘れてしまった?
 ヘスター (声が上擦る。)ビル、止めて。お願い。
(コリアー、ヘスターの声の調子に驚いて沈黙する。ヘスター立ち上がる。少し足が不確か。食器棚へ進む。)
 ヘスター いっぱいやった方がいいっていう気持ちね。
 コリアー それはいい考えだ。
 ヘスター あら忘れていた。フレディがウィスキー全部飲んじゃったんだわ。
 コリアー いいよ、それなら。
 ヘスター 待って。ここにこれがあったわ。(ワインの壜を取り出す。)クラレットよ。ゆうべ一旦栓は抜いちゃったけど。それに近くの酒屋で買って来たものだから、お口に合うかしら。ワインにうるさい貴方の。
 コリアー これは美味い筈だよ。(栓を開ける。)
(ヘスター、コリアーにコップを二つ渡す。コリアー、注ぐ。)
 コリアー よーしと。じゃ、何に乾杯しよう?
 ヘスター 「これからの人生に」にしましょう。
 コリアー 「これからの我々の人生に」は駄目かな。
 ヘスター (重々しく。)いいえ、ビル。「我々の」は止めて。
(二人、黙って飲む。)
 ヘスター 味は?
 コリアー なかなか良い。(間。)で、「これからの人生」は?
 ヘスター まだ考えていないわ。
 コリアー 考えなきゃいけないんじゃないか。
 ヘスター どこか他を捜すまで、此処にいて・・・出来れはアトリエを借りて一生懸命、絵を描いて、売れなかったら、職を捜す・・・
 コリアー どういう職?
 ヘスター 何か出来る事がある筈よ、私に。
 コリアー (静かに。)計画としては、あとの人生はずっと一人で暮らす?
 ヘスター 計画なんかないわ、ビル。計画なんか考える気分じゃないの、今。
 コリアー そういう気になった時、全く違った人生の計画も候補に入れて貰いたいんだが。
 ヘスター (怒って。)ビル、止めてって、さっき頼んだでしょう。
 コリアー (同様に怒って。)ヘスター、僕が君に申し出ようとしている事を少しは考えてみてくれ!
 ヘスター 貴方こそ私がそれを拒否するのがどんなに辛いか少しは考えてみて。
 コリアー じゃ何故拒否するんだ。
 ヘスター それが私の義務だから。私はもう貴方の妻ではないの、ビル。だから貴方の妻として帰る事は出来ない。 この一年間の事を全くなかった事として綺麗に拭い去ってしまう。そんな事は出来ない。分かるでしょう?
 コリアー 僕に分かる事はただ一つだ。僕は君を愛している。この思いは結婚式の時よりも強いぐらいだ。
 ヘスター(静かに。)貴方は結婚式の時に、私を愛してはいなかったわ、ビル。貴方は今でも私を愛してはいない。今まで私を愛した事など一度もなかったの。
 コリアー ヘスター。
 ヘスター 私はただの貴重品。一旦盗まれたから余計大切になった貴重品。ただそれだけ。
 コリアー(傷ついて。)何を言ってるんだ、ヘスター。
 ヘスター(狼狽して。)貴方が言わせたのよ、ビル、無理矢理。私が貴方の心を傷つけて楽しい訳がないでしょう。特に貴方を。もう今日は終わりにしましょう。また別の機会に話しましょう。もっと二人とも落ち着いた時に。
 コリアー 今でなきゃ駄目だ。君は僕等が結婚した時、僕が君を愛していなかったと言うのか。
 ヘスター ええ。私を愛してはいなかったわ。
 コリアー じゃ何故僕が君と結婚したっていうんだ。他に君の持っている何が欲しくて結婚したっていうんだ。
 ヘスター(遮って。)分かってるの、ビル。貴方のものの考え方。ああ、私達、なんて夫婦として失敗だったんでしょう。態々思い出す事もないわ。何時だってそれを感じていたんですもの。貴方が私と結婚したのは愛の為だったって事、それはそうでしょう。でもその愛は、愛ではなくて、愛ってこういうものと貴方が思い込んでいたものなの。私も同じだった。私が愛だと思い込んでいたものの為に、私も結婚したの。でも、その思い込んでいたものは、二人で違っていた。私はもっともっと貴方に与えたかった。なのに貴方は要求しなかったの。
 コリアー そんな事がよく言えるな。僕は君にずっと愛を要求・・・
 ヘスター いいえ、ビル。貴方は私に愛らしい妻である事を要求しただけ。これは天と地との差だわ。
(間。)
 コリアー 今君が言ったアトリエと職の話。あんなものを、僕が信じると思っているのか。君が考えているこれからの人生、それは僕には分かっている。(ヘスター、無言。)君はあいつを南米なんかに行かせはしない、ヘスター。 君には出来ないんだ、そんな事。(ヘスター、無言。コリアー、訴えるように。)ヘスター、聴いてくれ。 君が今僕について言った事、僕の感情について言った事、それは正しいかもしれない。でも僕は路頭に迷っている君に、生きるチャンスを与えようと言っているんだ。何故受け入れてくれない。振り返ってみれば、かなり幸せな結婚生活だったじゃないか。
 ヘスター ええ、そうね。幸せな・・・
 コリアー それなら・・・
(ヘスター答えない。コリアー、ヘスターを抱き、接吻する。ヘスター、避けようとはしない、が、全く反応しない。暫く後に、コリアー、ヘスターを放す。)
 ヘスター ね、ビル。私はもう以前と同じ人間じゃないの。
(間。)
 ヘスター 出て行って。
(コリアー、ヘスターから目を離し、部屋を見回す。)
 ヘスター (苛々と。)私は大丈夫。
(コリアー、頷き、扉へ進む。)
 コリアー それなら、離婚の手続きはしたいんだな。
 ヘスター ええ。それが一番いいわ。
 コリアー いろいろ話し合わなきゃならんだろうな・・・事務的な事を。
 ヘスター ええ、そうね。
 コリアー 当座、金は大丈夫か。
 ヘスター またよ、ビル。
 コリアー 分かった。じゃあ、さようなら。
 ヘスター さようなら。
(コリアー、どう考えていいか分からぬという顔。またどうしていいか分からぬという表情。最後にもう一言話し掛けようとする。ヘスター、コリアーから視線を外す。コリアー、肩を竦めて、去る。ヘスター、一人残ってワインをちょっと飲む。椅子に近づこうとした時、鍵の音がする。ヘスター、キッと振り向く。台所の引っ込んだ所に隠れる。正面の扉からは見えない場所。扉、恐る恐る開き、フィリップ・ウェルチの姿。ヘスター、隠れていた場所から出る。)
 ヘスター フレディ?
(フィリップ、鋭く振り返る。ひどく狼狽した顔。)
 フィリップ あっ。
 ヘスター どうやって入って来たんですか。
 フィリップ ペイジさんが・・・エート、鍵を僕に渡して・・・スーツケースを持って来てくれと頼まれて。下着類が全部入っているらしいんです。で、今夜それがいるっていう・・・
 ヘスター 今夜はあの人、何処に?
 フィリップ (言い難そうに。)知りません。
 ヘスター 今は何処に?
 フィリップ エー、場所の名前を知らないものですから。
 ヘスター どのあたり?
 フィリップ ウェストエンドの何処か。
 ヘスター グリーク街?
 フィリップ (頑固に。)知りません。
(間。)
 ヘスター そう。何時頃からあの人と一緒?
 フィリップ 九時から。
 ヘスター 三時間もあればあの人、随分喋ったでしょうね。酔っているんですから、余計。
 フィリップ 酔ってはいませんでした、あの人。少なくとも話の筋道は通っていました。
 ヘスター (苦しそうな表情。)そう。
 フィリップ (少し教え諭すような調子。)レイディ・コリアー、僕少し生意気かも知れませんが・・・ペイジさんはひどくあっさりと洗い浚い話してくれたんです。 特別にあの人にそう仕向けたんじゃないんですよ、本当に。で、事情はすっかり分かったんです。だからどのように今感じていらっしゃるか、僕にはよく分かるんです。
 ヘスター そう。
 フィリップ 僕もそういう状態になった事があるんです。ええ。一年ぐらい前のことだったんですが。殆ど結婚生活が駄目になる所でした。ある女にイカれちゃったんです。本当にくだらない、どうしようもない女の子だったんです。もしその儘行ったらひどい事になっていたでしょう。でも僕はいくら好きな女の子でも諦めなきゃいけないって知っていたんです・・・こんな話をして、ひどく失敬だと思っていらっしゃるんじゃないですか。
 ヘスター いいえ、全然。
 フィリップ (大胆になって。)エーと。僕は思うんです。そのー。心を強く持って、お二人にとって最もよいと思われる事をきっぱりと実行なさる事。これが義務だと思います。ああ、それがどんなに辛いか、僕は知っています。で、僕の場合なんですが、この女の子・・・この子は女優だったんです。有名だとか何とか、そういう事は何もないんですけど・・・僕はある日、たった一人で一日中坐って考えました。そして自分に言い聞かせたんです。なあ、フィリップ。こいつは肉体的な面ではお前が欲しいと思っているピッタリの女だ。だけど、他の面では何だって言うんだ。ゼロじゃないか。で、僕はあいつに手紙を書いた。それから丸々二週間、一人っきりで旅に出たんです。勿論さんざんな気分でした。でも次第次第に、そう、言ってみれば、心の整理がついたんでしょう。家に帰って来た時は、道に迷っていた森から出た気持ちでした。
 ヘスター それは良かったわ。旅に出たって、何処へ?
 フィリップ ライム・レジスです。
 ヘスター 好い所ね。知ってるわ。
 フィリップ 勿論あなただったら、イタリアとか南フランスのような所の方が良いでしょうけど・・・
 ヘスター ライム・レジスには叶わないわ。
 フィリップ ええ。環境の全く違ったところで・・・天気はいい、誰も知っているものはいない。一人で考えていられる充分な時間・・・それに、離れたところから静かに素直に考えれば、こういった事は全て何でもない、つまらない事に見えてくるものです。お説教みたいに聞こえたら申し訳ないんですけど、結局のところ、この世で本当に大切なのは、精神的価値なんですね。肉体的価値なんてそれに比べたら、塵(ごみ)みたいなもんです、客観的に見れば。そう思われませんか。
 ヘスター(重々しく。)客観的に見ればね。(立ち上がる。「もう用はすみました。お帰り下さい。」の意思表示。)どうも有り難う、ウェルチさん。有益な御忠告でしたわ。感謝します。
 フィリップ いやあ、そんなお礼を言われるなんて。逆に叱られるんじゃないかと思っていたんです。そうでなくて嬉しいです。ペイジさんはいろいろ話してくれて、僕もひどく興味があったんです。何故って、こういうことは、そのー・・・「人間とは何か」という問題に光をあててくれますからね。本当に。
 ヘスター ええ。光をあててくれますわ。
 フィリップ じゃあ、頼まれたスーツケースを持って行きたいんですが・・・
 ヘスター あの扉の向こうですわ。
(フィリップ、寝室へ行き、スーツケースを持って再び部屋へ戻って来る。)
 ヘスター あの人、それを何処に持って来いって言いました? 駅かしら、ホワイトエインジェルかしら?
 フィリップ ホワイト・・・(急に言い止める。)
(間。)
 フィリップ (ばつが悪そうに。)今いるところへ持って来いと。
 ヘスター (静かに。)それは其処に置いて、どうぞ出て行って下さい。
 フィリップ 残念ですが、それは出来ません。約束したんです、持って行くと。では失礼。
(扉へ向かう。ヘスター、その前に扉に行き、錠をロックする。鍵を引き抜いて、ポケットに入れる。電話器に行き、そこで電話帳を捲る。)
 ヘスター こんな芝居がかったことをして御免なさい。でももう暫くお引き止めしなければなりません。(ダイヤルを廻す。)長くはお引き止め致しません。クラレットが壜に少し残っています。もしよろしかったらどうぞ。
 フィリップ (硬い表情。)結構です。(扉に進む。)
 ヘスター その錠は開きません。内側の鍵がないと駄目なんです。
 フィリップ (怒って。)何ですか、この真似は一体・・・
 ヘスター お坐りなさい。「人間とは何か」のお復習い(おさらい)の好い機会ですよ。
(ヘスター、ダイヤルを廻す。フィリップ、立って見ている。)
 ヘスター もしもし・・・ホワイトエインジェルですか。そちらにペイジさんいらっしゃいますか・・・(より大きな声で。)ペイジさんです・・・そうです・・・ああ、いらっしゃる・・・こちらジャクソンです・・・いいえ、ジャクソン・・・ええ。(フィリップに。)あちらが騒がしくて。(間。)・・・もしもし・・・フレディ? 私、ヘスター・・・切らないで。泣いたりしない。決して・・・泣かないから。お願い。仕事のことを知りたいだけなの。それだけ・・・(より大きく。)仕事・・・あの人に会ったの?・・・よかったわ・・・よかった・・・そう。それはよかったわ。いつから?・・・そんなにすぐ?・・・ああ、フレディ。(訳注 「そんなにすぐ行くなんて酷いわ」の口調。)・・・あっ、御免なさい。貴方の言い方が気になったの。それだけ・・・ねえ、お使いが此処にいるの。貴方のスーツケースの・・・三日分だったら、あのケースにはその半分も入ってないわ。出発するまで何処にいるの?・・・いいわ、いい。言わなくて。言いたくないなら。田舎かしら、こっちかしら、と思っただけ。ちょっと待って。フランネルのは入っているから、あとツイードがいるわね・・・分かったわ。他のものはどうしたらいい?・・・ああそう?・・・手紙? 何時出したの?・・・じゃあ明日は着くわね・・・チャーリングクロスの一時預け?・・・分かった。やって置くわ・・・ねえ、フレディ。最後に一つだけお願いがあるんだけど・・・最後にお願いがあるって言ったの。自分でこれを取りに来て下さらない?・・・さよならを言うだけ。それだけ。決して何もしないから・・・本当に何も、何もしない。しないって約束する。誓うわ。名誉にかけて。一番大切なものにかけて。引き止めたりしないって。話し掛けさえしない。もし貴方が厭なら。ただスーツケースを取りに来て下さればいいの・・・もう一度貴方を見たいの。それだけ・・・フレディ、お願い。お願いよ、フレディ・・・切らないで。切らないで、フレディ・・・
(ヘスター、虚ろな目で受話器を見る。置く。少しの間、受話器を見る。もう一度掛けたものかどうか、考えている風。掛けてもしようがないと、諦める。扉へ進む。錠に鍵を差し込み、開ける。フィリップに仕種で出て行くよう示す。)
 フィリップ (躊躇う。)ツイードの上着について何か言いませんでしたか。
 ヘスター そう? あ、そうね。あの扉のところよ。
(フィリップ、スーツケースを持った儘、寝室へ行く。ヘスター、暖炉の方へゆっくりと進む。ガスストーブを見る。フィリップ、腕にツイードの上着をかけて再び現れる。)
 フィリップ (扉へ進みながら。)では・・・お休みなさい。
 ヘスター お休みなさい、ウェルチさん。ああ、そうそう。貴方のこと、奥さんが心配していたわ。フレディのところへ行く前に顔を出しておいた方がいいわ。
 フィリップ そうします。(真面目に。)お一人で大丈夫ですか。変なこと、今夜はなさらないでしょうね。ゆうべのことで懲りて下さらないと困るんです。
 ヘスター ええ。懲りましたわ。
 フィリップ お気の毒です・・・本当に。
 ヘスター ありがとう。
 フィリップ あの人、自分で荷物を取りに来るべきだと思います。
 ヘスター そうね。
 フィリップ 勿論引き止められそうだって、あの人が思っている時、帰ろうとしないのは分かります。でも・・・あんなに誓いの言葉を言って、決して引き止めないと約束した後だったら・・・
(ヘスター、それまではフィリップの方を見ていない。が、此処まで来た時ゆっくりと彼の方に顔を向ける。)
 ヘスター 次のことをお話ししたら、貴方の精神的価値とかいうものへの参考に少しはなるんじゃないかしら、ウェルチさん。私は慥かに誓いましたわ、この世の最も神聖なものにかけて、名誉にかけてね。ですけどそれを守る気なんか、これっぽっちもありませんでしたわ。フレディがもし今夜やって来たら、留まらせるよう最善の努力をしたでしょうね。勿論あの人はそれをよく知っていたのです。ですから来ようとしなかったの。
(フィリップ、ショックを受け、ヘスターを黙って見つめる。ヘスター、フィリップを見る。)
 ヘスター 私の父が生きていたらそれとそっくり同じ顔をしたでしょう。目に見えるようだわ。父は精神的価値を信じていましたからね。そして肉体的なものに全く価値を置かなかった。
(間。)
 ヘスター さあ、フレディに持って行って頂戴。タクシー代はあるんですか。
 フィリップ ええ、あります。(扉の所で。)伝言でも何でも、お申しつけ下されば致しますが・・・
(間。)
 ヘスター (静かに。)「私の愛を。」とだけ。
(フィリップ頷き、去る。ヘスター、扉を閉める。暫く全く動かない。その後、窓へゆっくりと進み、静かに閉める。自分のバッグへ行き、硬貨を捜す。無いので、素早くテーブルに進む。フレディが一シリング置いたことを思い出したからである。硬貨を拾い、ガスメーターへ行き、入れる。落ちる音がする。出口の扉へ行き、鍵をする。絨毯を注意深く、扉と床にかかるように置く。ポケットに手を入れて、ミラーがくれた眠り薬を取り出す。テーブルからコップを取り上げ、台所へ行く。水を満たして戻って来る。ヘスターの息、だんだん激しくなる。此処までの動作はゆっくりしたものであるのに、激しい運動をした後のように喘ぐ。扉にノックの音。薬を口に入れようとした動作、これで止められる。)
 ヘスター (苛々と。)はい、何方(どなた)?
 ミラー (舞台裏で。)ミラーです。
 ヘスター 御用は何ですか。今から寝る所なんです。
 ミラー (舞台裏から。)ちょっとお話があるんです。
 ヘスター 明日の朝では駄目ですの?
 ミラー (舞台裏から。)駄目です。
(ヘスター、苛々と扉へ進み、絨毯を取り、ソファーに投げる。が、絨毯、床に落ちる。ヘスター、鍵を廻し扉を開ける。ミラー、入って来る。)
 ミラー(鍵を指差して。)邪魔が入らないように、ですな。
 ヘスター 夜には何時も閉めていますけど。
 ミラー ゆうべは閉めて置かなかった。幸運でしたな。
 ヘスター(コップの水を指差して。)薬を丁度飲む所でしたの。
 ミラー どうやらそのようですな。
 ヘスター この薬、充分強いんでしょうか、先生。効かなかった時の為に、もう二、三錠戴けません?
(ミラー、それには答えず、絨毯を床から拾い上げ、ソファの上に置く。それからヘスターの見ている前で、ガスストーブに近づき、足でタップを軽く蹴る。シューシューというガスの音がする。また蹴って、元に戻す。)
 ヘスター もう二、三錠戴け・・・
 ミラー 聞こえています。「駄目です」が、答です。
 ヘスター 何故?
 ミラー もう警察沙汰は御免です。放っておけば今度は、自殺の意思ある患者に、眠り薬を与えたかどで御用です。(片手を差し出す。)
 ヘスター 想像力の働かせ過ぎじゃありませんか。
 ミラー いいえ。どうかその薬をお返し下さい。
 ヘスター 何故ですの。
 ミラー 扉に絨毯を置く時には、次からは、明かりを消してからにした方がいいですな。
 ヘスター (ヒステリックに。)何故私のことを監視するのですか。どうして独りで放って置いてくれないんです。
 ミラー あなたが生きようと死のうと、私が決めることではありません。決めるのはあなたです。それにあなたには、どちらに決めるにしても、それを実行するだけの勇気があります。
 ヘスター(絶望的な叫び。)勇気ですって!
 ミラー そうです。自分自身に死を宣告するにも、勇気がいります。大抵の自殺は逃避です。あなたのは違う。あなたは、自分に生きる価値がないと宣告を下す。それから死ぬ。それだけの勇気があるのです。そうでしょう。
 ヘスター(荒々しく。)そんなことを考えている余裕なんか私にある訳がないでしょう。私はもう生きてゆけない。人生に立ち向かう気力がないの。
 ミラー 立ち向かわなくても生きればいいのです。大抵の人はなんとか生きているじゃありませんか。
 ヘスター 希望がなく生きる。そんなことが出来ますか。
 ミラー 簡単なことです。希望がないという事は、希望に裏切られる事もないということですからね。
 ヘスター 言葉だけの話ですわ。現実は・・・
 ミラー 現実も言葉で表現されます。言葉で辻褄が合えば、現実への助けになるのです。(ヘスターを荒々しく自分の方に向かせる。語気鋭く。)あなたのフレディは出て行ったのです。もう帰っては来ないのです。どんな事があっても。決して。
(一つの言葉が発せられる度毎に、一回殴られているかのように、ヘスター、打撃を受ける。)
 ヘスター(荒々しく。)分かってます。分かっています。それに立ち向かうことが出来ないのです。
 ミラー(野獣の荒々しさで。)とんでもない。出来ます。まづその「出来ない」という言葉に立ち向かうのです。そうすれば人生に立ち向かうことが出来る。希望を通り越した向こう側で生きるんです。それしか生きる道はありません。
 ヘスター 希望の向こう側には何があるんですか。
 ミラー 生きること。「生」があるのです。どうか信じて欲しい。これは本当です・・・私は知っているのです。
(ヘスターの涙の嵐が収まってくる。頭を上げて、ミラーを見る。)
 ヘスター(間のあと。)貴方の場合はまだ生きる目的がおありです。
 ミラー どういう目的です。
 ヘスター 病院でのお仕事。
 ミラー 私にとって人生の目的は、それを生き抜くことです。病院での仕事は、慥かにその助けにはなります。が、それだけのことです。あなただって捜せば何かの助けを見つけられると思いますよ。
 ヘスター どんな助けがあるでしょう。
 ミラー あれがあります。あなたのお仕事が。
(絵の方を見せる仕種をする。)
 ヘスター ああ、あれ。(疲れた声。)あれは何の逃げ道にもなりませんわ。
 ミラー ええ。あれとか、あれ、は駄目でしょう。(大きな仕種で、最近の二作品を指差す。)でもひょっとすると、あれなら(昔の作品を指差す。)私は絵の専門家ではありません。でもこれには才能が見える。ちょっとした火花に過ぎない。しかし、火花でも大切に扱えば、小さなともしびくらいまでには成長するかも知れない。世界を照らすような大きな炎、そんな大それたことを言ってはいない。しかしこの世界は暗いんです。小さな、小さなともしびでも、大歓迎な程、暗いのです。
(ミラー、ヘスターに、水の入ったコップを渡す。 ヘスター、受け取って水を飲む。ミラー、その絵の方を向く。)
 ミラー あれを譲って下さいませんか。
(ヘスター、気乗りなく絵を一瞬見る。それから疲れた様子で立ち上がり、絵をミラーに手渡す。ミラー、微笑む。)
 ミラー いくらですか。
 ヘスター 差し上げます。
(ミラー、首を振る。やはり微笑んだ儘、財布を取り出し、二ポンド出す。ヘスター、首を振る。ミラー、紙幣を机の上に置く。)
 ミラー お金は此処に置きます。今の私にはこれがやっとなんです。この絵の価値がこれだけだと思っているのではありません。後で売りたくないというお気持ちになった時には、この金を封筒に入れて、私宛て送って下さい。残念ですけど、絵をお返しします。お休みなさい。
 ヘスター お休みなさい、先生。
 ミラー (振り返って。)先生は止めて下さい、どうか。
(間。)
 ヘスター お休みなさい。大切な私のお友達。
 ミラー「大切な友達」、これを信じていいんでしょうね。
 ヘスター(静かに。)何故お疑いになるの。
 ミラー(こちらも静かに。)疑わなくてもよかったのだという証拠が欲しいですな・・・明日の朝。
 ヘスター 私が生きる方を選べば、貴方も生きるのが少し楽になる・・・そう考えていいのかしら。
 ミラー(微笑む。)新しく出来た素敵な友人を失ったら悲しいに決まっています。(いや、悲しむ権利がある筈です。)特にその人を私が大変好きで、尊敬しているのですから。
 ヘスター(苦しそうに。)尊敬する?
 ミラー ええ。尊敬です。
 ヘスター どうかもうこれ以上優しい言葉はお止めになって。
(ミラー、素早くヘスターに近づき、両肩を掴む。)
 ミラー よく聴いて下さい。世間が見る目で自分自身を見る。それは大変勇気のいることです。しかし同時に馬鹿げてもいる。気の弱い精神病患者、生きているより死んだ方がましな奴、連中のそういう考えを何故受け入れるのですか。連中にそんな判断を下す権利があるとでも言うのですか。あなたにそういう判断を下すためには、連中にあなたが感じるように感じる能力がなければなりません。その能力が一体、誰にあるっていうんです。千人に一人もいやしません。もっと言えば、あなた一人です。あなたの意思とあなた以外の人達の意思との戦い。これがどんなに不公平なものだったか、あなただけが御存知なのです。
 ヘスター「私は最善をつくした。しかし駄目だった。」どんな犯罪者でもこの形式で言い訳を言うのではないですか。
 ミラー その形式で正しく述べられていれば、それは正当な言い訳なのです。
 ヘスター それで(死の)宣告を免れると仰るのですか。
 ミラー ええ。もし裁判官が公平ならば――彼の目が犯罪者に対する憎しみで曇らされていなければ――丁度今のあなたです。自分に判決を下す時に、目が曇ってはいませんか?
 ヘスター ああ、私のこの重荷が少しでも軽くなる理由を見つけて下されば・・・たった一つでもいい。私自身を尊敬出来る理由を見つけて下されば・・・ほんの少しでも・・・
(扉、急に開く。フレディがいる。)
 フレディ やあ。
 ヘスター 今晩は。
(間。)
 ミラー(ヘスターに。)その理由は自分で捜さなければいけません。
(ミラー、ヘスターの手に触り、出て行く。)
 フレディ 何か俺、邪魔したかな。
 ヘスター いいえ。話は終わっていたわ。
 フレディ あのミラーの奴、とびきりいい男みたいだな。
 ヘスター ええ。そう。スーツケース?
 フレディ うん。
 ヘスター ぼうやが持って行ったわ。
 フレディ そうか。エインジェルに置いといてくれるだろう。心配はいらない。
 ヘスター お入りなさい、フレディ。扉の所に立っていてもしようがないわ。
(フレディ、中へ入る。)
 ヘスター 調子はどう?
 フレディ まあまあだ。
 ヘスター 来てくれたわね。有り難う。
 フレディ あのぼうや、寄越すんじゃなかったよ、どうやら。
 ヘスター 食事は?
 フレディ うん。ベルベデアーですませた。君はどう?
 ヘスター ああ、私はあとでちょっと食べるわ。
(間あり。フレディ、心配そうにヘスターを見ている。)
 ヘスター 正確には、リオへは何時発つの。
 フレディ 木曜日。言ったと思うけど。
 ヘスター ああ、そうだったわね。船で?
 フレディ いや。飛行機だ。
 ヘスター あ、そうね。アゾレス経由?
 フレディ いや。ロンドン――西アフリカ。それからナタールに出る。
 ヘスター わくわくする旅ね。
 フレディ どうかな。エート、話は違うんだが・・・此処の家賃。僕のゴルフクラブが三十か四十で売れる。家賃と借金はそれで大丈夫な筈だ。
 ヘスター ゴルフの道具はいらないの?
 フレディ いや、あれは持って行けない。
 ヘスター 今夜、他のものは全部詰めて、朝チャーリングクロスに持って行くわ。
 フレディ そう急がなくってもいいよ。
(間。)
 フレディ これからどうするつもりだ、ヘス。
 ヘスター まだはっきりはしないのよ、フレディ。暫くは此処にいるつもり。
 フレディ ビルの家に手紙を放り込んで置いたんだ。あいつ、もう少ししたらやって来ると思うがな。
 ヘスター もうやって来たわ。
 フレディ へえー。それで?
 ヘスター 断ったわ。
 フレディ 悪かったなあ。
 ヘスター もういいのよ。やり直すなんて駄目に決まっているわ。
 フレディ そうだろうな。(あいつが来たとは)知らなかった。絵をやるのか、これから。
 ヘスター ええ、そうね。美術学校へ入って、また一からやり直そうかって思ってるの。
 フレディ それはいいね。「始めるのに遅すぎるってことはない。」そう言うんだったっけ。
 ヘスター ええ、そうね。
(長い間。フレディ、ヘスターが何か言うのを待っている風。しかしヘスター、彼を見つめるだけで何も言わない。)
 フレディ(やっと。)じゃあ!
 ヘスター(澄んだ、落ち着いた声。)さようなら、フレディ。
(間。)
(フレディ、扉の方へ進む。ヘスター相変わらず動かない。フレディ振り返る。ヘスターが何か言うのを待つ。ヘスター無言。フレディ、突然彼女に近づく。)
 フレディ 有り難う。随分世話を掛けた。
 ヘスター 有り難う。貴方にも。
(フレディ、ヘスターにキスする。ヘスター、抱擁を受けるが、全く反応しない。)
 フレディ 君のことを思い出すだろうな、ヘス。
(間のあと、ヘスターを離す。扉に進む。振り向く。まだ何か困ったような訴えるような様子あり。)
 ヘスター(大きく、はっきりと。)さようなら。
(フレディ、ヘスターを見つめる。外へ出る。扉を閉める。ヘスター、硬直して立っている。顔の表情全くなし。急に部屋を横切って、寝室の上手にあったスーツケースまで行く。スーツケースを椅子の上に置く。これには、F・T・PAGE とラベルが貼ってある。玄関の釘に掛かっているフレディの服を取りに行く。これらを一つ一つ取っては入れる。そのうちに硬い姿勢が崩れて来る。掛かっているレインコートに顔を埋めて暫くその儘の姿勢。それから乱暴にレインコートを釘から外し、他の衣服と一緒にソファに投げる。電球の光で目が痛む。テーブルランプのみを残し、全部消す。ストーブに行きガスをつけ、マッチで火を點ける。火の傍に行き、暫く立って、炎がオレンジ色から赤に変わるのを待つ。ソファに戻り、静かにフレディのスカーフを畳む。その間に幕。)
                     (幕)
   
       平成二年(一九九〇年)十月十八日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


The Deep Blue Sea was first produced at the Duchess Theatre, London, on March 6th, 1952, with the following cast:

Philip Welch David Aylmer
Mrs. Elton Barbara Leake
Ann Welch Ann Walford
Hester Collyer Peggy Ashcroft
Mr. Miller Peter Illing
William Collyer Rooland Culver
Freddie Page Kenneth More
Jackie Jackson Reymond Francis

The play directed by Frith Banbury
Setting by Tanya Moiseiwitsch



Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.