フィルメーナ・マルトゥラーノ
          エドゥアルド・デ・フィリッポ 作
            能 美 武 功 訳
          (Carlo Ardito の英訳からの重訳)

   登場人物
フィルメーナ・マルトゥラーノ
ドメニコ・ソリアーノ
アルフレード・アモローゾ
ロザーリア・ソリメーネ
ディアーナ
ルチーア 女中
ウンベルト
リッカルド
ミケーレ
ノチェッラ 弁護士
テレズィーナ 美容師
ウエイター一
ウエイター二

     第 一 幕
(舞台はソリアーノ家。)
(広々とした居間。正確に一九二0年代流行の家具が置かれている。但し中庸をゆくもので、ケバケバしくない。一八00年の終りから一九00年にかける世紀の変わり目の時代の絵画と装飾品も、注意深く壁と家具に飾られているが、これはこの家の主人、ドメニコの子供の頃のもので、部屋の他の調度品と調和しないこと甚だしい。左手前面に、寝室へと通じる扉。左手奥に大きな窓。その向こうに花で覆われたテラス。そしてそれに影を落している明るい縞模様のテントが見える。右手は奥が深くなっていて、そこを半分閉じた絹のカーテンで仕切られている。その向こうはドメニコの書斎。そこもまた一九二0年代のイタリア独特のスタイルで設えてある。ガラスのショーケースあり。その中にドメニコの馬が競馬で勝った沢山のトロフィー。正面の壁、書き物机の上方に、小さな旗が二本クロスさせて飾ってある。モンテヴェルジンヌの競馬で優勝した記念。本も新聞も手紙類も、この部屋にはない。書斎は清潔で、よく整頓されているが、全く特徴がない。部屋の真ん中にテーブル。二人分の食器がきちんと並べてある。テーブルの中央に切ってきたばかりの薔薇。晩春。夏に近い。夕暮れ。テラスから日没の最後の光。)
(寝室の扉の傍にフィルメーナが立っている。挑むように両手を組んでいる。長くて白い夜着姿。髪はバサバサ。それを急いで纏(まと)めたばかり。素足に寝室用のスリッパ。過去の長い間の精神的葛藤が顔に現れている。またそれを隠そうとしない。態度もの腰に飾りがなく、話し方は率直できっぱりしている。自分独自のやり方で人生に直面した方がよいと思っている女。四十八歳。若さが漲(みなぎ)っている。ただ、髪にところどころ白髪が混じっている。それが本当の年を表しているが、目に力があり、若々しい。典型的なナポリの黒い目。今は顔色が蒼い。死に顔のように。一つの理由は、たった今演じたばかりの芝居の扮装にもよるが、もう一つの理由は、その演じた芝居の結果起ることになっている大嵐に対処するための緊張のせい。しかし、フィルメーナは怖れを見せてはいない。却って、傷ついた獣(けもの)が、敵に反撃すべく身構えているよう。)
(ドメニコはフィルメーナの右手に立っている。今起ったばかりの事件に怒り狂っている。五十代前半のがっちりした男。裕福でのんびり育ったせいで、生き生きした若い表情が保たれている。彼を甘やかして育てた父親、レイモンド・ソリアーノは、ナポリで最も成功したナポリいちの菓子商。ヴェルジーニ、フォルツェッラ、トレードとフォリアに店を持っている。トレードとフォリアの店は非常にモダンで上品。ドメニコの若い頃・・・当時はドン・ミミ・ソリアーノと呼ばれていたが・・・遊興があまりに豪勢だったため、未だにナポリの語り草となっている。競馬に非常な興味があり、旧友たちと何日も自分の持ち馬の大活躍の思い出話を語ることで知られている。今は急いでズボンを履き、パジャマの上衣をひっかけ、やっとボタンをかけたという姿。蒼い顔をして、怒ってフィルメーナに対している。何故なら、今やドメニコは、フィルメーナの支配下に落ちてしまいそうだからである。)
(ロザーリアは部屋の左手、テラスへ通じる隅に立っている。柔和で謙(へりくだ)った態度。七十五歳ぐらい。髪は白と灰色。但し、白が目立つ。黒い、喪服に近い服装。腰が少し曲っているが、まだ元気。ロザーリアは昔、ヴィコ・サン・リボーリオの、マルトゥラーノ家の向かい側の家の地下室に住んでいた。フィルメーナのことは小娘の時から知っている。そして、常にフィルメーナの力になり、相談相手になってきた。それは、イタリアの労働階級の女ならよく知っている主従関係。身動きもせずじっとドメニコの動きを見つめている。心配で、片時も彼から目を離せない。怒った時のドメニコが、どんなに恐ろしいか、よく知っているからである。)
(アルフレードは右手奥に立っている。六十歳。がっちりしていかつい身体つき。厭味のない男。渾名はジョッキー。実際、若い頃はジョッキーとしてならしていた。ドメニコが彼に職を与えてからは、主人のためなら何でもやるドメニコの右腕となっている。主人の身代わりにも、女を取り持つ男にも、相談相手にも。とにかく忠実に主人につかえている。ちょっと擦り切れている灰色の上衣。色違いのズボン。頭にはベレー。少し傾いで頭の上にのっている。チョッキには金鎖。)
(幕が上ると、部屋の四隅にそれぞれの人物。無邪気な遊びでも始まりそうな配置。しかし実際は、敵意に満ちた二組の睨みあい。)
 ドメニコ(自分の顔を怒って叩いて。)俺は馬鹿だ。馬鹿だ、馬鹿だ。大馬鹿だ。
 アルフレード(穏やかに。)今度は何です?
(ロザーリア、椅子からショールを取り、フィルメーナの肩にかける。)
 ドメニコ 俺の身体はもぬけの空だ。何も詰まってない。鏡の前に立って唾でも自分に吐きかけて、身体があるかどうか試してみなきゃならん!(フィルメーナを憎々しい目付きで睨んで。)お前にな、この俺は二十五年間のこの俺の命を、俺の健康を、俺の力を、俺の脳味噌を、使い尽したんだ。残りなどないぞ。これ以上お前はこのドメニコ・ソリアーノから何が欲しいというんだ。この俺から絞れるだけ血を絞り取って、こっちは真っ蒼になっているんだ。(矛先が三人全員に向けられ、怒り狂って。)お前ら三人、この俺をいいように手玉に取って(今度は自虐的に。)俺は自分でイエス・キリストにでもなった気でいたんだ。そうしたらどうだ、その間にちゃーんと俺を料理したんだからな。お前に、お前に、お前。それにこの町、この地方、ナポリ、いや、世界中だ。それがよってたかって俺を虚仮(こけ)にしたんだ!(フィルメーナが自分を罠にかけた、そのことを思い出し、さらにかっとなって。)ああ、あれを思い出しただけでこっちは気違いになりそうだ。そうだ、分ってもよかったんだ。あんなことはお前しか考えつくことは出来ないんだからな。お前は昔からそうだった。三つ子の魂百まで、だ。二十五年ぐらいでお前のような女が変る訳はないんだ。だけどな、うまくいったなどと思ったらとんでもない間違いだぞ。ちっともうまくなどいっちゃいないんだ! お前を殺してやる! それからお前に加担した奴全部だ。医者も坊主も・・・(ロザーリアを指さす。ロザーリア、怖れの小さな叫び声を上げる。そして次にアルフレードを指さす。こちらは到って平気。)そしてこの二人・・・何年も俺が食わしてきてやったのに・・・悪党めらが・・・三人とも殺してやる。銃だ。・・・俺の銃を出せ!
 アルフレード(落ち着いて。)オーバーホールで、修理屋に出してあります、お言い付け通り。
 ドメニコ フン、俺もいろんなことを言ったもんだ。いや、たいして言っちゃいないぞ。まだいくらでも言うことがあるんだ。まあいい。もう終りだ。これからやることは決った。(フィルメーナに。)お前はこの家を出る。・・・穏やかに出て行かないとなりゃ、人夫に担がせてでも追い出してやる。世界中の誰が何と言ったって、いや、神様が言って来たって、俺の決心は変らないぞ。お前達全員、詐欺罪で訴えてやる! 俺には金があるんだ。地獄の沙汰も金次第と言うんだ。いいかフィルメ、金に物を言わせて、お前をキリキリ舞いの目に会わせてやるからな。お前が育ってきたあのいかがわしい場所の連中はみんな俺の味方になる。俺はお前を叩き潰してやる。覚悟はいいか、フィルメ!
(間。)
 フィルメーナ(穏やかに。自分に自信あり。)終ったの? あなた。もう言うことはそれでお仕舞?
 ドメニコ(猛然と。)黙れ! 喋るんじゃない、一言も。・・・お前の言うことなど聞く俺だと思っているのか。(彼女の声を聞くだけでも苛々してくる気持。)
 フィルメーナ いつでも黙りますよ。私のここに(自分の胃の辺りを指さす。)蟠(わだかま)っているものをすっかり吐きだしてしまえばね。それまでは黙るもんですか!
 ドメニコ(侮辱をこめて。)お前は淫売だ。町の女なんだ、お前の正体は。
 フィルメーナ そんなことを今さら事新しく持ち出して何になさろうって言うんです。私が昔何だったか、あなたが私をどこで見つけたか、みんなが知らないとでも思っていらっしゃるのですか。私が働いていたお店に、あなたはよくいらした。あなただけじゃない、他の男達もね。私はあなたも、あなた以外の男もおんなじように扱った。あなたを特別に扱ったとでも思っているの? とんでもない。それがこっちの仕事。それに男なんてみんな同じ。そうでしょう? 私の過去の職業、それに、私のやったこと、それはみんな自分だけ、自分の良心だけに関ること。でも、今はもう違う。私はあなたの妻なんですからね。警察だって、私のことを追い出せはしない。いいえ、私に指一本触れさせもしないわ!
 ドメニコ 妻? 誰の妻だと? フィルメ。お前、頭がどうかしちまったんじゃないのか。一体お前、誰と結婚したって言うんだ。
 フィルメーナ(冷たく。)あなたとです!
 ドメニコ お前は全く気違いだ。あれが正式とでも思っているのか。見え見えの嘘、汚いひっかけだ。ちゃんとそれを示す証人も揃っているぞ。(アルフレードとロザーリアを指差す。)
 ロザーリア(躊躇わず。)私は何も知りませんよ。(こんな重大な事件には関りたくないという明らかな態度。)私に分っているのは、ドンナ・フィルメーナが、病気にかかられて、寝床につかれて、だんだんお悪くなって、臨終の息づかいをなさり始めたということだけ。
 ドメニコ(アルフレードに。)お前はどうなんだ。あの臨終が猿芝居だっったと、お前には分っていなかったのか。
 アルフレード ドン・ドゥンミ、お願いですよ。ドンナ・フィルメーナが私のことを、見るのも厭なのは御承知の筈です。そのドンナ・フィルメーナが私にそんな大切な秘密を漏らすとでもお思いですか?
 ロザーリア(ドメニコに。)では神父様はどうなんです? 神父様を連れて来いと仰ったのは旦那様御自身だった筈ですよ。
 ドメニコ それは勿論あいつが・・・(フィルメーナを指差して。)連れて来いと言ったからだ。俺はあいつが・・・安らかにと思ったんだ。
 フィルメーナ これでこいつはくたばるんだ、うまく行った、やれやれ、やっとお払い箱だ、と大喜びだったのよ。
 ドメニコ(苦りきって。)その通りだ。やっとお前に天からの使いが下った。神父はお前と二言三言交した後、私に言った。「臨終の床にあるこの婦人を娶(めと)るのです。さあ。それがこの婦人の遺言なのですから。神の御心に従い、この結婚の絆(きづな)を拒むことのないよう」と。だから俺は言った・・・
 フィルメーナ そう。あなたは独りでほくそ笑んで言ったのよ。「結婚したところでどうだって言うんだ。何も失うものはない。どうせこいつは死ぬんだからな。もう二、三時間もすれば御陀仏。はい、さようならさ。」(嘲るように。)ドゥンミ、あなた、肝っ玉が吹っ飛んだでしょう、あの神父様がいなくなった途端、私はベッドから飛び起きて言ったんですものね。「さあ、ドゥンミ、あなたにも幸運を! 私達二人、これで夫婦なのよ!」
 ロザーリア まあまあ、驚くやら、嬉しいやら。私、笑って、笑って、お仕舞には涙が出てきた。(思い出して笑う。)本当にお腹が破けそうだった。
 アルフレード(こちらも笑う。)あの、今にも死ぬという騒ぎは何だったのでしょうね。
 ドメニコ うるさい! お前達二人。いいか、今に、すぐにでも死ぬのはお前達二人にしてやるぞ!(間。)そんなことは起らん。そんなことになってたまるか。(突然、誰かのことが頭に浮ぶ。その人物だけにはちゃんと責任を取ってもらわねば、と。)フム・・・そうだ、あの医者だ。あの医者の奴め!・・・何が科学だ、一体。死にかけている人間か、人を騙そうとして仮病を使っている人間か、それさえ区別がつかない・・・何て馬鹿な・・・
 アルフレード いや、あの医者はただの診断ミスで・・・
 ドメニコ 黙れ、アルフレ!(腹を決めて。)よーし、あの医者に責任を取らせるんだ。あの医者に損害を賠償させねば。そうだ、あの医者はお前らとグルだったんだ!(フィルメーナに、意地悪く。)お前、あの医者を買収したな。そうだろう・・・
 フィルメーナ(侮辱され、憤慨して。)金よ、あなたに分るのは金。金しかないの。欲しいと思ったものを手に入れる入れ方、それは全部、金、金、金! この私だって、あなたは金で買ってきた。あなたのことをみんなはドン・ミミ・ソリアーノと呼んで敬(うやま)っている。それも金で買ったもの。・・・最高級の仕立屋、最高級の下着屋・・・あなたの競走馬・・・そう、あなたは馬を走らせる・・・でもね、よく覚えておくことよ。手綱を握ってあなたを走らせているのは、この私なんですからね。あなたも競走馬。どういうレースを走っているか、自分でも分っていないでしょう。でもあなたは走り続けるの。これからもずーっと、ずーっと。(間。)あの医者に何が分っていると言うの! ただ騙されただけよ。それにどうして騙されないでいられますか。あなたの傍で二十五年間も働いた女だったら、誰だって死の床につくに決っているのよ! 私はあなたの奴隷だったんですからね、二十五年間。(ロザーリアとアルフレードに。)可哀相な奴隷・・・二十五年間も。お前達二人が一番よく知っている。この人はちょっとした楽しみのためにすぐ出て行く。ロンドン、パリ、それに競馬・・・残された仕事はみんな私の役目。フォルチェッラの工場、ヴェルジーニの仕事場、トレードとフォリアのお店。私がもし管理しなかったら、従業員達にみんな持って行かれる。それこそ身ぐるみ剥がれるのがおち。(ドメニコの口真似をして。)いやー、お前は素晴らしい女だよ、フィルメ・・・お前がいなけりゃ、俺は何一つ出来んさ・・・こうやって私はこの人を甘やかしてきたの。聞いて気分がよくなるようなことばかり聞かせてやった。今じゃない、その昔。可愛い女の子だった頃に。だけどこの人、私に一度だって感謝したことはありはしない。一度だって! まるで私を奴隷扱い。蹴飛ばして、こき使って・・・
 ドメニコ お前こそこの俺に、かけらでも理解を示したことがあるのか。俺達二人の間で、事がどうなっているか、考えようとしたことがあるのか。いつも渋い仏頂面ばかりして。俺は自分によく聞いてみた。俺が何か悪いことをしたかな? あいつを怒らせるような何かしたのかな。とんでもない。お前はただ、冷たくて、厳しい女なんだ。お前を知ってからこのかた、俺はお前が泣くのを見たことがない。普通の人間は泣くものなんだ。
 フィルメーナ フン、泣くなんてことが出来ますか、あなたの前で。
 ドメニコ 確かに、お前は奇妙なところのある女だ。涙を流すのを俺は見たことがないが、ひょっとすると、食べたり飲んだり眠ったりもしない女じゃないのか? そうだ、今思い出してみると、俺はお前が眠っているのも見たことがないぞ。そうだ、お前はどこか、別の星からやってきた生物だ。
 フィルメーナ 私の眠っているのを見たことがない・・・当たり前でしょう、そんなことは。自分でわざわざその機会を潰しておいて。あなたは夜まともに家に辿り着いた時が何日あるっていうの。クリスマスだって、イースターだって、私はいつも独りぼっち。それから泣く話。あなた一体、人がどういう時に泣くか知っているの? 人が泣くのは、幸せがどういうものか知っていて、それで幸せになれない時、その時に泣くの。幸せがどういうものか知らなくて、惨めさしか知らない時に、人はどうして泣けるの。そう。フィルメーナ・マルトゥラーノは泣いたことがない。あなたは正しいの。あなたはね、この私を塵芥(ちりあくた)のように扱った。私は幸せを知らされなかった。その私が何故泣けるの。(ロザーリアとアルフレードに。この二人は今フィルメーナが喋っていることの証人。そしてその証人はこの二人しかいない。)それにまあ、一体何でしょう。この人がまだ若い時なら分るわ。顔もいいし、お金もあるんだからって、人は言うかもしれない。でも、今、この年で。この人、五十二歳。それで真っ赤な口紅のついたハンカチを持って家に帰って来るんですからね。色気違いの豚!・・・(ロザーリアに。)どこ? あれは。
 ロザーリア 私の物入れの中に。鍵をかけて。
 フィルメーナ それでこの人がそのハンカチのことを気にすると思ったら大間違い。私に見つかったら困るな、棄てておこうか、なんてとてもとても。まるでその逆。あいつに見つかればいいんだ。一体それでどうするつもりだ。あいつが俺に何の権利があるっていうんだ。そして自分はまるで盛りのついた犬よ。追っかけ廻して。
 ドメニコ(急所をつかれて、怒って。)何だ、それは。どういうことだ。
 フィルメーナ(矛先を緩めない。ドメニコの口調に合わせて。)盛りのついた犬! あの売女(ばいた)を追いかけて! あなたの狙いがどこにあるか、私に分っていないと思っているの? 困った事にね、あなたは嘘が下手なの。あなたはもう五十二よ。それで何? 二十二の小娘とよろしくやって行きたいっていうんですからね。恥ずかしくないの? その子を看護婦にしたてて、家にまで上らせて・・・勿論この私は、今すぐにでもくたばるんだからと・・・(呆れ返って物が言えない、という調子。)そう。今からたった一時間前、神父さまがまだ来ていない時、私はもう長くはない。おまけに目も見えなくなった・・・そうしたら何? 私のベッドの足元で、その小娘と、抱きあうやら、キスするやら!(うんざりという顔。)全く、何て豚なの! あなたは。そして本当に私が死んだら、何をあなたはやろうとしたの!・・・(テーブルを指さす。)ほら、見て。二人分のナイフとフォーク。あなたとあの偽看護婦、その二人分よ! 私が死んだその瞬間に、二人で仲良く晩餐。全くいい気なもの!
 ドメニコ フン、するとお前が死ねば、俺は飯を食っちゃいかんという訳か。餓死でもしろと言いたいのか。
 フィルメーナ ・・・それに見て。テーブルの薔薇・・・
 ドメニコ 薔薇がどうした。
 フィルメーナ 赤よ、その薔薇。
 ドメニコ(怒って。)赤だろうと緑だろうと、紫だろうと、知ったことか。何色にしようと、俺の勝手だ。お前が死んで、俺は嬉しい。その嬉しさを表してどこが悪いというんだ。
 フィルメーナ でも、私は死んではいませんからね。(意地悪く。)それからね、ドゥンミ、まだ暫くは死ぬつもりもありませんの、お生憎様。
 ドメニコ 糞っ、そいつが問題なんだ。(間。)しかし、よく分らないな。お前にとっちゃ、俺は他の男どもと何の違いもないんだ。いつでもお前はそう言ってる。じゃ、何故俺との結婚にそんなに拘(こだわ)るんだ。それに、もし俺が女に惚れて、そいつと結婚したいからと言って・・・俺はあのディアーナと結婚するんだからな。いいか・・・それがお前に何の関係がある。そいつが二十二だろうと何だろうと、知ったことはない筈だぞ。
 フィルメーナ(皮肉に。)全く笑わせるわね。あなたって言う人、本当に可哀相な人。そう。あなたの言う通り。知ったことじゃないの、あなたのことなんか。あなたが何をしようと。首ったけになった女がいようと、どうだろうと。私が大芝居をうったのは、あなたのためだなどと思ったら大間違い。私のような女は・・・そう、あなたは口癖のようにしょっ中これを言っていたけれど・・・計算なしでは何一つ行動しない女。ところが今、あなたは私にとって役に立つ人間になった。忘れるんじゃないのよ。二十五年間私は働いたんですからね。黙って私が荷造りをして、この家を出て行くだろうと思ったら大間違い。
 ドメニコ(勝ち誇ったように。突然、フィルメーナが何故このような大芝居をうったか理解して。)なあんだ、それなら金なんだ。だが変だな、そんなことなら黙っていてもお前にしてやった筈だ。お前自身がそれを一番よく知っている。レイモンド・ソリアーノの息子、ドメニコ・ソリアーノ。ナポリ中で一番大きな、一番誇り高い菓子屋を持っているこの俺様が、お前をただでほっぽり出すとは、まさかお前、考えてもみないだろう? どこかのアパートをお前に都合つけてやり、必要な金銭的な問題はすべて片をつけて・・・
 フィルメーナ(ドメニコの鈍さに呆れて。)まあまあ、呆れたわね。あなたって何も分っちゃいない。金ですって? 金なんか自分で好きなようにすればいいの。私が欲しいのは違うもの。あなたは私にそれをくれるの。よく聞いて、ドゥンミ、私には三人の息子がいるの。
(ドメニコとアルフレード、驚きで蒼くなる。ロザーリアは全く平静。)
 ドメニコ 三人の息子? フィルメ、お前、何を言ってるんだ。
 フィルメーナ 私には三人の息子がいるの。
 ドメニコ(処置なし、という顔。)それで・・・誰なんだ、父親は。
 フィルメーナ(冷たく。ドメニコの恐怖は承知の上。)まあ、あんたのような男ね。
 ドメニコ フィルメ、いいか、子供となれば真剣な話だ。冗談じゃすまされないぞ。何だ、その「あんたのような男達」とは。
 フィルメーナ だって、男はみんな同じようなものですからね。
 ドメニコ(ロザーリアに。)知っていたのか、お前は。
 ロザーリア ええ、存じておりましたわ。
 ドメニコ(アルフレードに。)お前は。
 アルフレード(いつでも返事は「自分は悪くない」という調子。)どうして私が知っていましょう。・・・ドンナ・フィルメーナは私のことがお嫌いなんですから。御存知でしょう?
 ドメニコ(とても信じられない。独り言のように。)息子が三人!(フィルメーナに。)何歳なんだ。
 フィルメーナ 一番上が二十六。
 ドメニコ 二十六・・・
 フィルメーナ そんな怖い顔をしなくていいの。御安心なさい、あなたの子供じゃないんだから。
 ドメニコ(何となくほっとして。)しかし・・・連中はお前のことを知っているのか。お前は会うことがあるのか。連中はお前が母親だと知っているのか。
 フィルメーナ いいえ。私が母親であることは知りません。でも、私は時々は会うわ。お喋りをすることだってあります。
 ドメニコ どこに住んでいるんだ。何をして食っている。
 フィルメーナ あなたのお金が食わせたのね。
 ドメニコ(驚いて。)俺の金が?
 フィルメーナ そう。あなたのお金。あなたから私が盗んだの。あなたの鼻の先で、あなたの財布から盗んだの。
 ドメニコ(軽蔑の表情。)盗っ人!
 フィルメーナ(動じない。)そう。あなたから盗んだの。そう、盗んだだけじゃない。売ってお金も作った。あなたの洋服、靴・・・あなた、ちっとも気がつきやしない。あのダイヤの指輪、無くしたと思っていたでしょう。あれはなくしたんじゃない。私が売ったの。こうやってお金を作って、私の子供達を育てたのです。
 ドメニコ(うんざりして。)そうか。俺は今まで泥棒を家に飼っていたのか。(間。)何ていう奴だ、お前は。
 フィルメーナ(この台詞を無視して。)三人のうちの一人は、すぐ傍の角に店を持っている。鋳掛屋(いかけや)をしているわ。
 ロザーリア(訂正して。)水道屋。
 ドメニコ 何だって?
 ロザーリア 水道屋です。蛇口を直したり、座金を取り換えたり。市の噴水の修理もするわ。(二番目の息子に移る。)そう、次の子供・・・何て言ったっけ・・・ああ、そうそう、リッカルド。何てハンサムなんでしょう。旦那様にお似合い。あの美男子。ヴィア・チアーイアに店を持っている。ワイシャツ作り。そう、オーダーメードのワイシャツの店。馴染みの客なんか、もうたーくさん。次がウンベルト。
 フィルメーナ ああ、あの子はインテリ。勉強が大好き。会計士になっている。新聞にも記事を書くわ。
 ドメニコ(せせら笑って。)おやおや、この家から作家まで出たか。
 ロザーリア(フィルメーナの母親としての業績を讚えて。)あの三人に、なんて素敵な母親役をやってきたことでしょう。本当に面倒見のいい母親! いろんなものを買ってやって・・・そう、私はもうこんな年寄り。嘘などつく必要は何もないの。あの三人、お金で手に入るものなら何でも持っていた。
 ドメニコ 糞っ! 誰の金だと思っているんだ!
 ロザーリア(苛々と。自制を捨てて。)誰の金? ドブに捨てているような金づかいをしている癖に!
 ドメニコ お前らの知ったことじゃない、そんなことは。
 フィルメーナ 放って置きなさい、ロザーリア。
 ドメニコ(癇癪を抑えようと努力しながら。)フィルメ、いくら何でも、これはやりすぎだぞ。物には限度というものがある。俺のことをかかしだと思っているのか。その三人の男だがな、俺には全くの赤の他人だ。どこの馬の骨とも分らん連中だ。いいな。その馬の骨が、今、この瞬間、こう考えているというんだな?「まあいい、どうせ俺達の後ろにはドン・ドメニコの金がついているんだ」と。
 ロザーリア(途中で遮って。)いいえ、それは違います。あの子達は何も知りません。ドンナ・フィルメーナは、いつでも物事を折り目正しく処理なさいます。注意深く、用心深く。水道屋のミケーレが店を出す時には、ちゃんと間に弁護士を立てて金を渡したのです。弁護士はミケーレに言いました。匿名でお前の助けになりたいという婦人がいてな、その人からの金なんだ、と。シャツの仕立屋リッカルドにも同じ方法。会計士になったウンベルトにはもっと細かく月ぎめで、大学を出るまで仕送りをしたのです。旦那様は全く何の関りもありません。
 ドメニコ(苦々しく。)フン、俺の役目はただ、金を出すだけか!
 フィルメーナ(すぐに。)「そんな子供達、生む前にさっさと始末しておけ。」あなたはそう言いたいんでしょう。どんな女だってそうしている。「お前もさっさとそうしておけば良かったんだ」と。そうでしょう。「フィルメーナ、よく考えるんだ。始末するんだ。堕胎だ。」さ、答えて頂戴。その時あなたに分っていたら、そう言ったのね? あの頃一緒に働いていた女達はみんな私に言った。「何をぐずぐずしているの。さっさと片付ければそれで終りだろう?」あなたも同じね? きっと。
でも私は違った。私は考えた。もしそんなことをして、一生後悔するようなことになったら。そして考えて、考えた。そうしたら・・・ああ、何て有難いこと・・・目の前に現れた方がいたの・・・薔薇の天使様・・・(ロザーリアに。)薔薇の天使様・・・お前、覚えているね?
 ロザーリア 覚えているかですって? 私達の守り神、毎日恵みを与えて下さる薔薇の天使様!
 フィルメーナ(不思議な出逢いを思い出しながら。)あれは夜中の三時だった。私はたった一人で通りを歩いていた。それより半年前に私は家出をしていた。(最初の妊娠に気づいたという意味で。)生れて初めてのことだった。私はどうしたらいいんだろう。考えに考えた。誰に相談すればいいのか。女達の言った言葉が耳もとで鳴っている。「何をぐずぐずしているの。さっさと片付ければそれで終りだろう? いい人を知っているんだ。すぐすむんだ。・・・」私は歩いて・・・歩き続けた。そしてふと気がつくと街のお社(やしろ)の下にいたの。薔薇の天使様のお社の下に。思い切って私は言ったわ。(両手を気をつけの姿勢で、ピンと伸ばし、仮想のお社に向って、あたかも女と女、一対一で話しかけるかのように薔薇の天使に話しかける。)私はどうしたらいいの? あなたは何でも御存知なのでしょう? 私がどうしてこんなことになったのか、それだって御存知の筈。じゃ、私、どうしたらいい?・・・答はなかった。(興奮して。)さあ、答えて頂戴。早く! そう、分った。黙っていればいるほど、みんなはあなたを信じるって訳ね? 駄目! 私は今訊いているの!(命令口調で。)答えるの! あなたは!(間。霊から出て来た声を真似て。)「子供は子供。授かりものですよ。」・・・私は石になった。そこに立ちつくした。(仮想の社を見上げて。)もしあの時、ひょっとして後ろを振り向いたら、私はその言葉を言った人を見つけたかもしれない。開いた窓から・・・道の向こうに・・・曲がり角に・・・でも私は自分に言い聞かせた。薔薇の天使様の声でなくったっていい。丁度その時、丁度ピッタリあの時に、その声が聞こえたのは何故? このあたりの人は誰も、私の今の悩みを知ってはいない。・・・じゃ、やっぱり薔薇の天使様の声じゃない。私は天使様のところへ来て、申し上げて、天使様が答えて下さったんだ。誰かの人間の口を借りて。そう、「さっさと片づければ、それで終りだろう」って言われた声だって、やはり天使様の声。あの言葉で私を試されたのだわ。私は今日、今でもまだ分らない。あの時「そう、その通り」と、首をこっくりしたのは(自分で頷く。「そう、分ったわね」と言うように。)この私だったのか、薔薇の天使様だったのか。子供は子供、授かりもの。私はその時誓いを立てた。(ドメニコに、猛烈な勢いで。)だからなのよ、あれからあなたにつき纏(まと)ったのは。あの子達のためなの。あなたに、そして、あなたの酷いやり口に我慢してきたのは。私と結婚したいと言った若い男のことを覚えているわね? あなたと私とはもう、その五年前から一緒だった。あなたはちゃんと自分の家に正式な妻がいた。私はサン・ピュティートのアパート。最初に私にあてがってくれた家がそれ。私のいたあの宿から、あなたがここに入れてくれるまで、五年かかったわ。私に結婚を申し込んだあの可哀相な男。拝むようにして私に頼んだわ。でも、あなたはやっかんで、やっかんで、それは大変。今でもあなたの声が聞こえる。・・・僕はもう結婚しているんだ・・・君とは結婚出来ないんだ。ああ、君とあいつが結婚したら、僕は・・・そして泣きだした。私はその真反対。泣いてなんかいられるか! 私は自分に言い聞かせた。そうなの。そういうことになっているの。ドゥンミはあれでも私が好き。あれがあの人の好きっていうこと。どうやっても私とは結婚出来ない。だって、妻の座はもう塞がっているんだから。・・・それで二人はサン・ピュティートのアパートに住んだ。そして二年たって、あなたの奥さんは亡くなったわ。でも私は考えた。ドゥンミはまだ若い。たった一人の女に自分を縛りつけたくないんだわ、まだ。きっとそのうち落ち着いて、正気に戻るわ。必ず。どれだけ私があの人のために働いたか分る筈。覚えてるの? あなた。私はあの頃、よく言ったわ。「ドゥンミ、ほら、向かいのあの娘、結婚したのよ。聞いた?」・・・でも、あなたはただ笑うだけ。あの嘲るような厭な笑い。贔屓にしていた女の家の階段を登りながら、あなたとあなたのお仲間達が笑うあの笑い。淫売宿のあの階段の途中でやるあの嘲り。私は決して忘れない。売春宿でやるあの笑いは、誰がやっても、いつでも同じ。あの笑いをやっているあなた。ああ、殺してやりたい!(ぐっと我慢して。)私は待った。私は二十五年間待った。今はあなたは五十二歳。あなたは年寄りなの。そう、もうあなたは年寄り。それなのにまだ、若い雄鶏(おんどり)のような気分でいる! スカートを見るとすぐに追い掛けて、馬鹿な真似をして、口紅を塗りたくったハンカチを家に持って帰る。・・・淫売をこの家に連れて来る。(脅すように。)いいわね? 今はもう私はあなたの妻なの。あの女をこの家に入れるような真似をしたら、あなたも、あの女も、二人とも追い出してやる。よーくその頭に入れておくのね。あなたと私は結婚したんです。神父様が正式に私達を結ばせたの。これは私の家なんですからね!
(玄関のベルが鳴る。アルフレードが開けに立つ。)
 ドメニコ お前の家だと?(笑う。皮肉をこめた笑い。)全く呆れたもんだ。
 フィルメーナ お笑いなさい、勝手に。あなたが笑うのを聞くのは気分がいいわ。私の話が終った時、その笑いがどうなるか、見ものですからね。
(アルフレード、戻って来る。他の三人を困ったように見る。言い難いことを言わねばならないという顔。)
 ドメニコ(乱暴に。アルフレードに。)何だ。何だったのだ。
 アルフレード レストランからで、その・・・夕食を持って来たんです。
 ドメニコ 分った、分った。食べればいいんだろう? 食べれば。
 アルフレード(自分の過失ではないという含みで。)そんな、ドン・ドゥンミ・・・(玄関に怒鳴る。)おーい、入れ・・・
(近所のレストランからのウエイター二人、蓋のついた皿、物を入れた籠、を持って登場。)
 ウエイター一(ペコペコ頭を下げ、媚び諂(へつら)う調子。)夕食でございます、旦那様。(ウエイター二に。)そこに置け。(籠と皿をウエイター一が指差した場所に、二人で置く。)鶏は一羽なんですがね、旦那様。それが大きいやつで。四人で食べても大丈夫なほど。それから、御註文戴いた品は全部、それは本当に一級品でございまして・・・(並べたり、いろいろ準備に取り掛かろうとする。)
 ドメニコ(動作で二人の準備を止めさせる。)おい、聞くんだ。俺の言うことを聞け。いいか、もういい。出て行け! 今すぐ出て行くんだ!
 ウエイター一 へえ?(籠からプディングを取り出して、テーブルに置く。)あの御婦人の大好物でして、これが・・・(壜を出して。)そして、ワインと・・・(ウエイターの言葉に、誰も何も言わない。ウエイター、周囲の雰囲気に全く気づかず、お喋りを続ける。次の台詞は諂うように。)それから・・・お忘れではありませんね?
 ドメニコ 忘れる? 何をだ。
 ウエイター一 この夕食を御註文にいらした時のお言葉をですよ。ね? 私はお訊ねしました。そろそろ、お捨てになろうと思っていらっしゃる古いズボンはありませんでしょうか、と。旦那様は、今夜家に来るんだ。その時にな、お前にいい話があるかどうか、教えてやる。今夜はな、俺が待ち望んでいることが起きるかもしれんのだ。そのいい話が起きたら、俺は背広を新調する。古いやつはお前にくれてやるさ。と、まあ、こんな具合に。(全員、厭な沈黙でこれを聞いている。間。ウエイター、だんだん心配になってきて。)じゃあ、いい話はなかった訳で?
 ドメニコ(獰猛に。)出て行け! すぐにだ!
 ウエイター一(ドメニコの剣幕に驚いて。)はいはい、分りました。行きます、行きますよ。(ドメニコを見て悲しそうに。)行こう、カルル。旦那様には、いい話がなかったようだからな、どうやら。俺もついてないよ。(溜息。)お休みなさい、みなさん。(右手から退場。ウエイター二も、その後から退場。)
 フィルメーナ(間の後。皮肉に、ドメニコに。)食べたらいいでしょう。ほら、食べなさいよ。食欲がなくなったの?
 ドメニコ(気まづい。怒って。)その気になったら食べる。そのうちにな。
 フィルメーナ(前に話に出てきた女のことを当てこすって。)そうね、そのうちあのお待ち兼ねの女が現れるでしょうから。その時ね、食事は。
(ディアーナ、中央扉から登場。美人。二十二歳。或は、実際の年は二十七で、二十二歳に見せているのかもしれない。わざと拵えた上品さ。スノッブ。人を上から見下すような態度あり。部屋に入って来ながら、自分の優越を示すために、特定の誰にともなく話す。フィルメーナがいることに気づいていない。小さな医療用の鞄と薬を持っていて、それをテーブルの上になげやりに置く。椅子から白い看護婦用の上っ張りを摘(つま)み、それを着る。)
 ディアーナ 本当に、あの薬局の込み方ったら!(命令するような口調で。)ロザーリア、私にお風呂の用意をね。(テーブルの上の薔薇に気づいて。)ああ・・・赤い薔薇! 有難う、ドメニコ。何ていい香り。私、少しお腹がすいているわ。(テーブルから薬壜を摘んで。)カンフルとアドレナリンはなんとか手に入れたんだけど、酸素は薬局ではきらしていたわ。(ドメニコ、床に釘づけになったように動かない。フィルメーナ、瞬(まばた)き一つしない。じっと待っている。ロザーリアとアルフレードは、これから始まる場面を楽しみにしている様子。ディアーナ、観客に向って坐り、煙草に火をつける。)私、ちょっと心に浮んだことがあるんだけど・・・駄目・・・こういうことは言ってはいけないの。でも・・・もし、あの人が今夜死んだら、明日一番で私、出て行くわ。知りあいの女の子が車に乗っけてくれるって言ったの。私、ここにいても邪魔なだけだもの。ほら、ボローニヤではいろいろ私、やっておくことがあるでしょう? 手筈を整えたり・・・ね? 十日したら帰って来るわ。あなたに会いに。あの人、どうなの? まだ御陀仏じゃないの? 神父様は呼んだ?
 フィルメーナ(もう我慢が出来ず、ゆっくりとディアーナの方に近づく。計算された、慇懃な言い方で。)神父様はちゃんと呼びにやりましたよ・・・(ディアーナ、驚く。二、三歩後ずさりする。)そして、私の臨終の姿を御覧になって・・・(猛烈に。)脱ぐんです、それを!
 ディアーナ(うろたえて。)何のこと?
 フィルメーナ その上っ張りを脱ぐんです!(辛抱強く。)さ、早く脱いで。
(ディアーナ、危険を感じて、上っ張りを脱ぐ。)
 フィルメーナ(ディアーナが脱ぐのを監視して。)椅子の上に置いて。そう、椅子の上です。
(ディアーナ、言われた通りにする。)
 フィルメーナ(再び計算された、慇懃な言い方で。)それで、神父様はいらっしゃいました。私の状態がひどく悪いのを御覧になって、ドン・ドメニコ・ソリアーノに忠告をお与えになったのです。私との結びつきを・・・そう、ドン・ドメニコと私の、二人の結びつきを・・・最終的なものにするように、と。(ディアーナ、何をすべきか、手持ちぶさた。テーブルの真ん中に活けてある薔薇を一本取って、匂いを嗅ぐ。フィルメーナ、鋭い目付きでをそれを見て。)元に戻しなさい!
(ディアーナ、軍隊の命令を聞いたかのように、花瓶に戻す。)
 フィルメーナ(元の慇懃な調子に戻って。)あなたにお話するまでもないでしょうが、ドン・ドメニコは、神父様のその御提案をまことに尤もな話だと思いました。この人はきっと心の中でこう言ったのでしょう。うん、なるほどな。この可哀相な女は、俺のところにもう二十五年もいたんだ・・・それに、いろいろ、いろいろ・・・これ以上細かい話をして、あなたを退屈させてはいけないわ。それにどうせこんなこと、あなたには何の関係もないことですしね。神父様は、私のベッドの傍に来られて、ドメニコと私はカトリック教会の仲立ち、そして祝福を受けて、正式に結婚したのです。(間。)その結婚の儀式が病を癒す力、それに健康を与える力、を持っていたのでしょう。「この二人を夫と妻、と宣言する」という言葉を聞くと、私はいっぺんに力が蘇えってきました。私はベッドから跳ね起きて、死はどこかかなたに飛び去って行ったのです。つまり、こうなればもう、看護婦なんていらないっていうこと。死にかけた患者、病人は、もういないんですからね。看護婦がいらないだけじゃない。厭らしい、汚らしい、いちゃいちゃもいらないの。(こう言いながら、右手の人差指でディアーナの頬っぺたを弾く。ディアーナは弾かれる度に「厭!」と言うように頭を振る。)厭らしいこと、人が死にかけているのをいいことに、(指で弾くのを続ける。)その女の目の前で、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ・・・そんなことはどこか他へ行ってやるんだ!(ディアーナ、「一体これは何?」という表情で、ニヤニヤ笑いをしている。)出て行け! お前なんかいらないんだ、ここでは!
 ディアーナ(相変らず顔にニヤニヤ笑いを浮べて、入口の扉に進む。)そう仰るなら、仰せの通り・・・
 フィルメーナ よくお聞き。本当にお前さんに相応しい、ちゃんとした仕事につきたいのならね、私が昔いた店で働くことね。
 ディアーナ 店って、どこです?
 フィルメーナ(ドメニコを指差して。)あの人に訊くのね。教えてくれるわ。よく通ったもの、そういう店に、あの人は。名誉ある、立派なお客だった。だったんじゃない! 今でもそうなのよ! だからお前もさっさとそこに行くことね!
 ディアーナ(急に不安になって。)お勧め、有難う!(右手奥の扉へ後ずさりする。)
 フィルメーナ どう致しまして!
 ディアーナ お休みなさい!(退場。)
 ドメニコ(この時まで、何か物思いに耽って、この場の状況とは関係のない、あらぬことを考えていた様子だったが、ここでフィルメーナの方を向き。)それがあの女性に対するお前の言葉なのか?
 フィルメーナ あれで充分。まだ勿体ないぐらい。(「厭な奴」という仕種。)
 ドメニコ お前は毒虫のような奴だ。お前が現れたら、誰もが用心しなきゃならん。お前が言う一言一言は、全部証拠として書きとめて、註をつけて、意味をよく吟味しなきゃいかん。このことは肝に銘じて、決して間違いをしないようにせねばな。お前は毒虫のような奴なんだ。お前が触るものは全部壊れる。さっきお前は俺に何かを言った。それを今考えていたんだ。さっきお前は言ったな。「金ですって? 金なんか自分で好きなようにすればいいの。私が欲しいのは違うもの。あなたは私にそれをくれるの。」(間。)確かに金である筈がない。もうとっくにこっちから、ふんだくられるだけふんだくっているんだからな。(叫ぶ。狂ったように。)他に何が欲しいというんだ! 狙いは何なのだ! 答えろ!
 フィルメーナ(静かに。)あなた、この歌を知っているわね? ドゥンミ。「教えて上げよう、小鳥ちゃん・・・お前は何にも知らないの」
 ロザーリア(空中を見上げて。悲しそうに。)ああ、とうとう・・・
 ドメニコ(用心深く。疑いと怖れの気持。)何だ。それはどういう意味だ。
 フィルメーナ あなたはこの歌の小鳥ちゃんなの。
 ドメニコ 謎々など止めろ! 俺をこれ以上怒らせるな。
 フィルメーナ(誠実に。)子供は授かりもの。
 ドメニコ それがどうした。何の意味だ、それは。
 フィルメーナ あの子供達に、自分達の母親が誰かを教えてやらなければ。私があの子達のためにしてやったことを全部話してやります。あの子達は私のことを愛さなければならないの。(熱を込めて。)あの子達が役場に行って、出生証明書等、書類を請求する時、恥をかいてはいけないの! 私生児の扱いなど、決してさせない! そして家庭が必要なの。あの子達にも、寛(くつろ)いだり、鬱憤(うっぷん)を晴らしたり、困った時には相談が出来、忠告を受けられる、家庭が必要なの。(間。)あの子達には私の名前を名乗って貰います。
 ドメニコ お前の名前? 何だ、お前の名前は。
 フィルメーナ 私の名前? 決っているでしょう? 結婚したんですからね。私の名前はソリアーノ!
 ドメニコ(勢いこんで。)やっぱりだ! 俺には分っていた。その言葉がお前の口から出るのを待っていたんだ。その罰あたりのお前の口からな。この事だけでも、お前をこの家から追い出すに充分な理由なんだ。お前は毒蛇だ。その牙にかかって死んでたまるか。お払い箱にするのは当り前だろう。全く、どこの馬の骨とも知れない人間を、この家に入れて、おまけに私の名前をつける? 呆れた話だ。結局のところ、そいつらが何の子供か正体は分っているじゃないか、インバ・・・
 フィルメーナ 何の子供? ええっ? 何の?
 ドメニコ お前のだ。とにかくお前の子供だ。誰の子供かと訊かれれば、結局、正直なところ、お前の子供じゃないか。何度訊かれたって答は同じだ。お前以外の誰の子供だと言えるんだ。俺には答えられないぞ。俺は知らないんだからな。それからな、言わして貰えば、お前にだって誰か分っちゃいないんだ。とにかくお前の子供だ。そいつらに対して良心の呵責(かしゃく)があったんだ。それがこの家に連れて来ることですっかり重荷もなくなった。何かも丸く収まる、そう思ったんだ。馬鹿を言うな! 冗談じゃない。連中に一歩でも踏み入れさせるものか!(穏やかに。)それは誓うぞ。俺の父親の墓にかけても!
 フィルメーナ(誓いの途中で遮って。)誓わないで、ドゥンミ! 何年も私が魂の抜け殻みたいになったのは、私が昔やった誓いのせい・・・あなたも誓いなんかしては駄目。夜も眠れなくなる。私の足元にひれ伏さなきゃならなくなる・・・
 ドメニコ(フィルメーナの言葉にハッとなり、一瞬呆然とする。しかしまた、怒りで我を忘れて。)まだ何か企(たくら)んでいるんだな。この魔法使いめ! なに、怖がったりするものか。お前など、なにが怖い! 怖いことなどあるものか!
 フィルメーナ(挑むように。)そう。怖くないの?
 ドメニコ うるさい! 黙れ!(アルフレードに。パジャマの上衣を脱いで。)俺の上衣を持って来い。(アルフレード、黙って書斎に行く。)明日お前はここを出て行くんだ。俺は弁護士のところに行ってこの件を調べさせる。証人はちゃんといるんだからな。法律手続上で、万一お前の方に分があるようだったら、その時はお前を殺してやる。いいか、殺してやるぞ、フィルメ! エーイ、お前をふん縛って、吊るしてやったらどんなに胸がすくか・・・
 フィルメーナ(皮肉に。)吊るすの? どこに?
 ドメニコ お前を最初に見つけた場所にだ。お前のよって来たる場所にだ。(今やはっきりと、相手への攻撃の態度を明らかにしている。アルフレード、主人の上衣を持って来る。ドメニコ、ひったくるようにそれを取り、着る。)いいか、アルフレード、お前は明日、弁護士のところへ行くんだ。(アルフレード、頷く。)それからフィルメ、その後、俺達は話だ。
 フィルメーナ ええ、話しましょう。
 ドメニコ 俺が何者か、目にもの見せてやる!(左手の扉の方に行き始める。)
 フィルメーナ(テーブルを指さして。)ロザーリ、何か食べましょう。きっとお前もお腹がすいている筈ね。(観客を正面に見る方向にテーブルにつく。)
 ドメニコ 幸運のあらんことをお前に祈るよ、フィルメ。
 フィルメーナ(歌う。)「教えて上げよう、小鳥ちゃん・・・お前は何にも知らないの」
 ドメニコ(フィルメーナが歌うのを聞き、唸り、次に笑う。フィルメーナを侮辱するように、傷つけるように。)この笑いをよく覚えておくんだな、フィルメーナ・マルトゥラーノ。(退場。後ろについて、アルフレードも退場。)
                     (幕)

     第 二 幕
(次の日。同じ部屋。椅子(複数)は、テーブルの上、或はドメニコの書斎、或はテラスに移動してある。ルチーアが床を磨くためである。敷物がテーブルの下に敷いてあるのだが、これも畳まれている。よい天気。ルチーアは家事万端を受け持っている女中。明るく健康な女。二十三ぐらい。ほとんど掃除は終って、雑巾をバケツの上で絞っているところ。それから掃除用具をテラスに収めに行く。)
 アルフレード(見るからに疲れている。そして眠い。ルチーアが敷物を広げている時、中央扉から登場。)お早う、ルーチ。
 ルチーア(アルフレードが部屋の中に進むのを止めて。)大きな足の裏で、部屋を歩きまわるのは止めて。
 アルフレード じゃ、手で歩くのか?
 ルチーア 今丁度掃除を終えたところなんだから・・・(まだ濡れている床を指さして。)大きな足でペタペタ、ペタペタ歩き廻って。駄目じゃない。
 アルフレード 言葉に気をつけろ、ルーチ。大きな足とは何だ。私はくたびれきっているんだ。(テーブルの傍に坐る。)くたびれきっているというのがどんなものか、お前分るか? 夕べ一晩中、旦那様のお付き合いをしたんだ。一晩中、海岸のベンチにじっと坐っていなさるのを、寝ずの番をしたんだ。寒かったのなんの、全体、何故私がこんな仕事をしなきゃならないんだ! いやいや、私は不平を言っているんじゃない。とんでもない。旦那様はいつも公平無比。百歳までも生き長らえて下さいますように。それも静かな平和な人生を。私ももう若くはない。六十だ。吹き曝(さら)しの海岸で一晩過すには年を取り過ぎている。ルーチ、いい子だ。私にコーヒーを一杯くれないか。
 ルチーア(アルフレードが話している間に、椅子を全部元に戻す。アルフレードの話はよく聞いていない。)コーヒーはないよ。
 アルフレード(がっかりする。)ないのか、コーヒーは。
 ルチーア ありません。昨日の残りのコーヒーがあるだけ。余分が一杯分あったけど、ドンナ・ロザーリアがいらないといって、ドンナ・フィルメーナに譲って上げて。あと、最後の一杯は旦那様のためにとってある。帰って来られた時のために。
 アルフレード(まさかという気持。)帰って来られた時のため?
 ルチーア そうよ。今日のコーヒーは淹れてないの。ドンナ・ロザーリアが淹れなかったんだから。
 アルフレード お前はコーヒーは淹れられないのか。
 ルチーア 私、コーヒーは淹れられない。誰も淹れ方を教えてくれないんだから。
 アルフレード(なってないな、という気持。)何だ、コーヒーも淹れられないのか。今日、ロザーリアはどうして淹れなかった。
 ルチーア 今朝早く出かけたわ。ドンナ・フィルメーナから頼まれて。至急の手紙を三通届けに行ったの。
 アルフレード(聞き耳を立てる。)手紙を三通? ドンナ・フィルメーナに頼まれて?
 ルチーア そうよ。三通。一・・・二・・・三。
 アルフレード(疲れた身体の話に戻って。)やっぱりコーヒーが欲しいなあ。そうだルーチ、いい考えがある。旦那様のコーヒーを半分私に分けるんだ。そしてあとの半分を水で薄めればいい。
 ルチーア もし見つかったら?
 アルフレード とてもお帰りになるとは思えない。とにかく暫くはな。ヴィア・カラッチオーロの真ん中にあるお屋敷で過すつもりでいらっしゃるようだ。それに、帰って来られようと、来られまいと、旦那様より私の方がコーヒーがいるんだ。私の方が年よりなんだからな。全く、何のつもりなんだ、一晩中海岸の吹き曝しの中で過すなんて。
 ルチーア 分りました。暖めて持って来ます。(左手の扉の方に向う。その時右手から入って来ようとするロザーリアに気づき、立ち止まり、アルフレードに警告する。ドンナ・ロザーリアよ・・・(アルフレード、黙ってルチーアの方を見る。)どうしましょう、コーヒーは。やっぱり持って来ますか?
 アルフレード 当たり前だ! ロザーリアが帰ったのなら、ドン・ドメニコには新しくコーヒーを淹れさせればいいんだ。(ルチーア退場。ロザーリア登場。アルフレードに気づく。しかし、気づいていないようなふりをする。フィルメーナのためにやって来た使いがいかに大事なものであったを考え、まだそのことで頭が一杯。フィルメーナの寝室の方へ進む。アルフレード、自分を無視しているその態度を許さず、ロザーリアの後姿に皮肉な声で呼び掛ける。)お前さん、舌を無くしたのかね? ロザーリア。
 ロザーリア(関心なく。)あら、見えなかったわ。
 アルフレード 見えなかった? すると私は透明人間というわけか。どこへ行っていたんだ。
 ロザーリア ミサよ。
 アルフレード(疑わしそうに。)ミサに? するとドンナ・フィルメーナから預かった手紙は配らなかったのか?
 ロザーリア(図星をつかれて、慌てないよう、ぐっと自分を抑えて。)そんなによく知っているのなら、何故訊いたりするの。
 アルフレード(無関心を装って。)まあ、格好の暇つぶしになるからな。どこに手紙を配ったんだ。
 ロザーリア(「あんたは秘密を守られない男でしょう?」と言わんばかりに。)お喋りが酷いのよ、あんたは。いつもペラペラと噂話。それに、人のことを探ってばかりいる。
 アルフレード 人のことを探る? この私が? 探る? いつ私がお前さんのことを探ったりした。
 ロザーリア 私? 私のことなんか、誰が探るものですか。私の生涯なんて、開けっ広げそのもの。(以下単調に、まるで暗記していることを繰り返すかのように。)私は一八七0年の生れ。年を知りたかったら計算して御覧なさい。両親は貧しかったけれど、きちんとした暮しをしていた。母、ソフィーア・トロンペッタは洗濯女。父、プロコーピオ・ソリメーネは鍛冶屋。私、ロザーリア・ソリメーネはヴィンチェンツォ・バリオーレと結婚。ヴィンチェンツォは帽子職人。内職に傘直しもやっていた。結婚式は一八八七年十一月二日。厳かに、とどこおりなく執り行われる。夫婦には三人の子供が恵まれる。実はこの三人は三つ子。産婆が、このお目出度い知らせを夫に知らせに仕事場に駆け付けると、夫は流しに顔を突っ込んで・・・
 アルフレード ・・・顔を洗っていた・・・
 ロザーリア(最後の台詞を繰り返す。アルフレードに、途中で口を挟むのは悪い趣味であることを教えるように。)流しに顔を突っ込んで、死んでいた。どうやら、急な卒中の発作のため。こうして、まだ若い働きざかりの夫を、家族から奪われてしまい、両方の赤ん坊はたちまち孤児。私は・・・
 アルフレード 両方はおかしい。三人だからな。
 ロザーリア(これを無視して。)・・・この腕一本で三人の子供を育てなければならない身となる。私はヴィコ・サン・リボーリオへ移り、蠅叩きを売って生計を立てる。蠅叩きの他に、死人を祭る蝋燭、お祭りの時の紙の帽子を売る。蠅叩きは自分で拵えた。その僅かな稼ぎで子供を育てた。ヴィコ・サン・リボーリオに移って、暫くして私は、ドンナ・フィルメーナを知るようになった。まだ小さい女の子で、私の息子達とよく遊んでいた。息子達は二十一になっても職がなく、一人はオーストラリアへ行き、あとの二人はアメリカに行った。それから三人とも音信不通。私は相変らず蠅叩きと蝋燭と紙の帽子を売って暮した。ドンナ・フィルメーナがドン・ドメニコの家に住むようになった時、ドンナ・フィルメーナは私も一緒に連れて来て下さった。このような暮しが出来ているのも、みんなあの方のお陰。こうやって救って下さらなかったら、きっと今ごろは、どこかの教会の階段で、物乞いをしていたところだった。御来場、洵に有難うございました。これで映画はお仕舞い。
 アルフレード(微笑んで。)次の映画の予告編はないのか? さあ・・・さっきの三通の手紙はどこに持って行ったんだ?
 ロザーリア 秘密の使いよ。そんなこと、明かすものですか。特にあんたみたいなお喋りにはね。
 アルフレード(がっかりして。同時に急に意地悪く。)何て厭な女なんだ、お前さんは。厭味がその顔に現れている。全く厭な顔だ。そんな穢い顔の上じゃ、薪を割る気にもならない。
 ロザーリア それで結構。あんたを旦那様に持ちたいなどと、ちっとも思っていないんだから。
 アルフレード(まるで悪口を言ったのを忘れているかのように。いつもの親しい調子で。)上衣の釦が取れちゃってね。つけてくれないかな。
 ロザーリア(寝室の方へ歩き始めて。)明日。もし時間があれば。
 アルフレード それにズボンに穴が開いちゃってね。つぎをあてて欲しいんだ。
 ロザーリア あてるつぎをまづ買って来るのね。そうしたらやって上げるわ。(嘲るように。)じゃ、私はこれで・・・(退場。)
(ルチーア、左手からコップに半分ついだコーヒーを持って登場。玄関のベルが鳴る。アルフレードの方向に歩いていたが、ベルを聞いて玄関の方へ引き返し、扉から退場。)
 ドメニコ(間の後、登場。蒼い顔。疲れている。その後ろにルチーア登場。まだカップを持っている。ドメニコ、そのカップに気づく。)それはコーヒーか?
 ルチーア(「どうしようもないわ」という表情でアルフレードを見る。アルフレードは、この時までに立上っている。)はい、そうです。
 ドメニコ こっちによこせ。(ルチーア、ドメニコにカップを渡す。ドメニコ、ゴクゴクと飲む。)うん、欲しかったところだ、コーヒーが。
 アルフレード(不満そうに。)私もです。
 ドメニコ(ルチーアに。)じゃあ、こいつにも持って来てやれ。(テーブルの椅子に坐る。両手で頬杖をついて、考えこむ様子。)
(ルチーア、アルフレードに、仕種で、これから持って来るコーヒーは水で薄めたものであると、知らせようとする。)
 アルフレード(苛々と。)何でもいい。持って来てくれ。
(ルチーア、左手から退場。)
 ドメニコ 何だ、あれは。
 アルフレード(無理に笑いを浮べて。)コーヒーは冷たい、と言うんです。だから、それでもいいと。
 ドメニコ 暖めればいいじゃないか。(考えていたことに戻って。)弁護士には会って来たのか。
 アルフレード はい。
 ドメニコ いつ来る。
 アルフレード 時間が出来次第です。少なくとも今日中には。
(ルチーア、コーヒーカップを持って登場。ニヤニヤ笑いながらアルフレードに渡す。振り向いて、ゲラゲラと笑って退場。アルフレード、諦めの表情。酷いものを飲まねばならないと、覚悟を決める。)
 ドメニコ(自分の考えを追っていたが、その最後の部分を口に出して言う。)・・・フム、しかし、もしまずくなったらどうしたらいいんだ。
 アルフレード(諦めて。ドメニコの言葉がてっきりコーヒーのことだと思い。)ガタガタ文句を言っても始まりません。さっさと出かけて、角のコーヒー屋で口直しをしますよ。
 ドメニコ コーヒー屋で口直し? 何を馬鹿なことを言ってる。俺は弁護士の話をしているんだ。こっちが勝つ見込みがなくて、あいつとの結婚を破棄出来なかったらどうしたらいいだろうと・・・事態は実に・・・
 アルフレード(一口飲んで。あまりの不味さに顔を顰めて。)不味い!(傍の家具の上にカップを置く。)
 ドメニコ まずい。たしかにまずい。しかし、お前にどうして分る。
 アルフレード(コーヒーの味には通だと言わんばかりに。)どうして分ると言われても・・・吐き気がしますよ、これは。
 ドメニコ よく言った。吐き気がする。(間。)まあいい。あいつにはどうせ出せっこないんだ・・・(法廷には・・・)
 アルフレード そうなんですよ、ドン・ドゥンミ。あれにはどうせ出せっこないんです・・・(コーヒーはルチーアには・・・)
 ドメニコ まあ、心配するな。こっちは最後には法に訴えるという手が残されている。最高裁にでも出してやる。
 アルフレード(驚いて。)最高裁? そんな大袈裟な。たかがコーヒー一杯で・・・
 ドメニコ 何がコーヒーだ! 自分の話をしているんだぞ、俺は!
 アルフレード(奇妙な顔。よく意味が分らない。)はあ・・・(誤解に気づき、微笑む。)ああ、そうですか・・・(笑う。)なるほど・・・(ドメニコの機嫌を損ねることを怖れて、すぐ真面目な顔になり、主人の苦境を分かち合おうという気持で。)そうですね・・・いや、やれやれです。
 ドメニコ(その顔を見て、すぐ相手の心の動きを見抜き、アルフレードとこの問題を話すのは諦めて。)こんな重要な話をお前にしようとしたのが、どだい俺の間違いだったな・・・そうだ、お前と出来る話というのは、どんなものだ? 過去だな、多分。現在のことは駄目だ。(改めてアルフレードを見る。今初めて会ったかのような顔。優しい声で。)ああ、アルフレード、アルフレード。お前はどうなってしまったんだ? 何ていう姿になってしまったんだ。顔は皺だらけ、頭は白くなって。すっかり老け込んでしまったじゃないか。
 アルフレード(ドメニコの言ったことに逆らわない。強く賛意を表しておいた方が得策だと判断して。)全くです!
 ドメニコ(自分も同様に年をとっているのだと気づき、自分もすっかり変ったのだと自覚して。)時は過ぎて行く。誰しも一様にな。俺も例外じゃない。(思い出して。)(思い出しながら。)お前、ドン・ミミ・ソリアーノを覚えているか?
 アルフレード(他のことを考えていて、聞いていない。しかし興味があるようなふりをして。)いえ、覚えてはいないと思います。亡くなった方ですか?
 ドメニコ(苦々しげに。)当たり前だ。死んでいる。ドン・ミミ・ソリアーノは死んだのだ。
 アルフレード(馬鹿なことを言ったことに気づき。)ああ、あの方のことをお話しで・・・(失敗を後悔して。)糞っ、馬鹿なことを!
 ドメニコ(自分がかって若かった頃を思い出し、少し元気が出て。)そうだ、あの頃は俺も若かった。小さな黒い口髭、背骨をピンと立てて。夜昼なしに遊んだものだ。徹夜など平ちゃらだった。あの俺はもう死んだのだ。
 アルフレード(あくび。)そうでしたねえ!
 ドメニコ 丘の上にいたあの女、覚えているか? 好かったなあ、何て凄い女だったんだ、あれは。それに、獣医の連れ合い。・・・ああ? 好かったじゃないか。
 アルフレード ええ、思い出しますねえ。そうそう、獣医の連れ合いには義理の妹がいて、私はそっちに首ったけ・・・でも、どういう訳か、うまくいきませんでしたね、彼女とは。
 ドメニコ 街に出ると、俺はもっともてたぞ。公園を馬で散歩して・・・
 アルフレード 旦那様の乗馬姿は本当に天下一品・・・
 ドメニコ うん、そうだった。俺の好きな馬は、栗毛か葦毛・・・絹の帽子に銀の拍車・・・一番の名馬を持っていたなあ、あの頃は。「銀の瞳」を覚えているか?
 アルフレード 「銀の瞳」! 葦毛でしたね、あれは。(うっとりと思い出して。)何ていう名馬! あの尻! 満月そのもの! あの尻を真直ぐ見ると、天国の扉を見るようでした。私はあれに惚れていましたよ。あれを売ってしまわれた時、私は失恋した気分でした。
 ドメニコ(アルフレードの思い出にブレーキをかけて。)パリでの・・・ロンドンでの・・・競馬! 俺は世界のトップをきっていた。何でも出来た。やりたいことは何でも。(急に思い出して。)俺に命令する奴など誰もいなかった。山でも動かせたんだ。海を干上がらせることも出来たんだ。・・・自分の運命は自分で決めていたんだ! ところがどうだ、今日のこの俺のざま! 事破れて、何もかも終だ。よし、このままで終にするものか。昔の俺が生きていることを見せてやる。(決意をもって。)闘うんだ! ドメニコ・ソリアーノに敗北はないぞ!(静かに、アルフレードに。)俺がいない間、ここではどんな具合だったんだ。
 アルフレード(言い渋りながら。)どうも掴めませんで。誰も話してくれないものですから・・・旦那様も御存知の通り、私はドンナ・フィルメーナからは嫌われていまして・・・その・・・ルチーアが話してくれたことしか私は知りません。ロザーリアが、ドンナ・フィルメーナから託された三通の手紙を届けに行った、と・・・
 ドメニコ(自分の疑念が確かめられた様子。)誰にだ。
(アルフレード、答えようとするが、フィルメーナが入って来るのを見てやめる。)
 フィルメーナ(部屋着姿。少し髪が乱れている。ドメニコとアルフレードを完全に無視。フィルメーナの後ろにロザーリアがベッドシーツをもって登場。フィルメーナ、大きな声で呼ぶ。)ルーチ!(ロザーリアに。)鍵を貸して。
 ロザーリア(鍵を渡す。)はい。
 フィルメーナ(鍵をポケットに入れて、ルチーアの来るのを苛々しながら待つ。)まだかしら。ルーチ!
 ルチーア((登場。ひどく心配そうな様子。)はい。何か・・・(御用で・・・)
 フィルメーナ(みなまで聞かず。)このシーツを持って(ロザーリア、シーツを渡す。)書斎の次の間にソファがあるわね?・・・あのソファをベッドにして。
 ルチーア(驚いて。)はい、分りました。(出ようとする。)
 フィルメーナ 待って、ルーチ。あんたの部屋も使うの。(ルチーア、驚く。)ほら、見て、シーツ。それに毛布が二組。あんたは台所の非常用のベッドに寝なさい。
 ルチーア(ムッとして。)私、持ち物がありますけど。それも動かすんですか?
 フィルメーナ 言ったでしょう? 私、あなたの部屋が必要なの。
 ルチーア(声を上げて。)じゃ、私の物はどこに置くんです。
 フィルメーナ 廊下にある戸棚に置けばいいでしょう。
 ルチーア 分りました。(退場。)
 フィルメーナ(ドメニコがそこにいるのに初めて気がついたという顔で。)あら、あなた、そんなところに・・・
 ドメニコ 俺はここに住んでいるんだぞ。(冷たく。)何をどうするのか、俺に説明してくれる奴はいないのか。
 フィルメーナ 勿論私が説明します。夫婦の間で秘密などあってはならないものですからね。もうあと二つベッドが必要。それだけのことよ。
 ドメニコ 何のためだ。
 フィルメーナ 子供達用のです。最初は三つの予定でしたけど、一人は結婚して四人の子供もいますから、今まで通りの所に住まわせようと。
 ドメニコ なるほど・・・もう俺達は孫までいるということか・・・(相手を怒らせるように。)それで、今までお前が隠してきたその部族の、苗字は一体何というんだ。
 フィルメーナ(自信たっぷりに。)私の苗字。一時的ですけどね。暫くすればあなたの苗字になるのですから。
 ドメニコ 俺の同意なしに、そんなことになるとは思えないがな。
 フィルメーナ あなたの同意? そんなの、そのうちですもの。(退場。)
 ロザーリア(ドメニコに、これ見よがしの服従の態度で。)では、失礼します。(フィルメーナに従って、寝室に退場。)
 ドメニコ(突然怒って。その後ろから怒鳴る。)そいつらを追い出してやる! いいか! この家に一歩も足を踏み入れさせんぞ!
 フィルメーナ(舞台裏で。皮肉をこめて。)さあ、ロザーリ、扉を閉めて。
(ドメニコの顔の前で、扉が閉まる。)
 ルチーア(奥の扉から。)ミス・ディアーナがいらっしゃいました。男の方と一緒です。
 ドメニコ(元気が出て。)通すんだ。すぐ。
 ルチーア お入りになりたくない御様子です。私、お二人にどうぞ、と言ったんですけど、旦那様の方に、出て来て戴きたいと。ドンナ・フィルメーナに脅(おび)えていらっしゃいます。
 ドメニコ(怒って。ルチーアに。)俺がテロリストにでも捕まっていると言うのか。心配はいらんと言え! すぐにはいれ。俺はここいると言うんだ!
(ルチーア退場。)
 アルフレード あの女の人が、ドンナ・フィルメーナに見つかったら、何をされるか、私は安全を保障出来ません。
 ドメニコ(隣の寝室に聞こえるように、大きな声で。)馬鹿なことを言うな、アルフレ。この家の主人はこの俺だ。あいつなど(フィルメーナの寝室を指さす。)勘定に入らん!
 ルチーア(奥の扉から登場。ドメニコに。)入りません、とのことです。とても怖くて、と。
 ドメニコ しかし、独りじゃないんだろう? さっきお前はそう言った筈だが。
 ルチーア はい。お友達の弁護士の方と一緒に。(ちょっと考えた後。)弁護士の方も少し怖がっていらっしゃるようです。
 ドメニコ 何を言ってるんだ。俺を入れれば男が三人だぞ。
 アルフレード 私のことはどうか数には入れないで。今朝のこの気分では、とても御期待にそえるような働きは出来ません。(決心を固めて。)私はここでは不要の人物です。ちょっと顔を洗いに・・・台所の方へ・・・御用の時はお呼び下さい。(許可の言葉を待たず、奥の扉に退場。)
 ルチーア どう致しましょう、旦那様、私は。
 ドメニコ 俺に任せろ。(ルチーア、左手奥の扉から退場。ドメニコ、右手奥の扉に退場。すぐディアーナとノチェッラを従えて登場。)冗談にも、ああいうことは言うな。ここは俺の家なんだ。
 ディアーナ(敷居のところで躊躇う。脅えて、後ろにいるノチェッラに縋るようにして。)ご免なさい、ドメニコ。でも昨日のあの騒ぎ・・・私、もう怖くてあの人には顔を合わせられないわ。
 ドメニコ(大丈夫だと諭(さと)すように。)ディアーナ、頼む。私が馬鹿みたいに見えるじゃないか。入るんだ。怖がるんじゃない。
 ディアーナ 怖がってはいないわ。全然よ。でも、余計ないざこざは避けた方がいいもの。
 ドメニコ 見えるだろう? 私がここにいるじゃないか。
 ディアーナ 夕べだって、あなたいたわ。
 ドメニコ 夕べは違う。夕べは不意打ちを食らってアタフタしていたんだ。今日はそんなことはない。保証する。さあ、入って、ミスター・ノチェッラ。楽にして下さい。
 ディアーナ(用心深く前に進む。)あの人、どこ?
 ドメニコ 心配はいらん。さあ、坐って。(椅子を三つ引きだす。三人がテーブルの周りに坐る。ノチェッラが真ん中、ドメニコ、その右、ディアーナ、ノチェッラの左。ディアーナ、寝室の扉を心配そうに見ている。)さてと。それで? 
(ノチェッラは四十代。ひどく普通の男。きちんとした服装。ディアーナによって嫌々ながら、このソリアーノの件に引っ張られて来たという様子。彼の取る態度には、この件に関する関心がまるでないことを示す何かがある。)
 ノチェッラ 私は、ミス・ディアーナの近所のものです。同じ下宿に住んでいるんです。私達はそこで出会ったんです。
 ディアーナ ミスター・ノチェッラは力になって下さるわ。私にも、それから、あなたにも。
 ノチェッラ(関り合いになりたくない。)夕食の時にお会いしたんです。つまり私が偶々下宿に帰っている時に。客があるものですから帰りはいつも遅いんです。ですから普段はいつも私一人で・・・
 ディアーナ(やっとのことで心配な気持を抑えているが、屡々ギクリとして寝室の扉を向く。いつ何時フィルメーナが飛び出して来るか分らないため。)ねえ、ドメニコ。私、今のそのあなたの席がいいわ。替わっていいかしら。
 ドメニコ いいよ。
(二人、席を替わる。)
 ディアーナ 夕べ、夕食をこの方とご一緒しながら、あなたのことをお話したの、私。
 ノチェッラ その通りです。二人とも大笑いで・・・
(ドメニコ、ディアーナをぐっと睨む。)
 ディアーナ 違います。私、笑ったりしませんでしたわ、ちっとも。
(ノチェッラ、奇妙な顔をしてディアーナを見る。)
 ドメニコ ディアーナにはここで看護婦の役を演じて貰った、確かに。
 ディアーナ(苛々と。)演じたんじゃないわ。私、看護婦よ。証明書を持っているわ。私、あなたに話さなかったかしら。
 ドメニコ(ちょっと驚く。)いや、聞いてない・・・
 ディアーナ 取り立てて話すようなことじゃありませんもの。そう、私夕べ、この方に話しました。何の共通点もない女と一緒になるなんて、あなたがどんなに厭がっているかっていうことを・・・
(玄関のベル、鳴る。)
 ドメニコ(心配そうに。)あ、ちょっと書斎の方に移って戴いていいですかな。誰か来たようだ。
(ルチーア、右手奥から登場。左手奥へ進む。)
 ディアーナ(立上りながら。)ええ、その方がよさそうね。
(ノチェッラも立上る。)
 ドメニコ(二人を書斎に導く。)どうぞお先に。
 ノチェッラ 有難うございます。(最初に書斎に入る。)
 ドメニコ(ディアーナに。)何か分ったか?
 ディアーナ(二人だけの内緒の話、という雰囲気で。)後でね、可愛い子ちゃん。少し顔色が悪いわよ、あなた。(ドメニコの頬を愛撫して、書斎に入る。その後からドメニコも退場。)
 ルチーア(ウンベルトを部屋に入れながら。)どうぞ。
(ウンベルトは背の高い、がっちりした若い男。穏やかな趣味の服装。本好きの勉強家タイプ。物を聞き、話す時の態度に鋭さがあり、それが人を落ち着かせない気分にさせる。)
 ウンベルト(登場。)有難う。
 ルチーア どうぞお坐り下さい。奥様はどのくらい時間がかかるか分りませんの。
 ウンベルト ああ、有難う。
(ウンベルト、テラスに近い左手に坐る。ポケットから取り出した手帳に、何か書き留める。ルチーアは左手の扉に進む。しかし、玄関のベルを聞き、途中で戻る。右手の扉から退場。少しの間の後、リッカルドを導き入れて登場。)
 ルチーア どうぞ。
 リッカルド(魅力のある男。派手な服装。入って来るとまづ、腕時計を見る。)早くして貰えないかな。僕は用があるんだ。(この時までにルチーア、左手の扉に進んでいる。リッカルド、その姿を感心して眺めていて、引き留めようとする。)ねえ君。君、いつ頃からこの仕事をしているの?
 ルチーア 一年と半年ですわ。
 リッカルド 君、綺麗だね。
 ルチーア(嬉しがる。)あら、有難う。
 リッカルド 僕の店に時々は来てくれよ。
 ルチーア あなた、店を持ってるの?
 リッカルド ヴィア・チアイアにあるんだ。七十四番地。ビルの玄関の丁度入ったところさ。ワイシャツ、いいのを作ってやるぜ。
 ルチーア あらまあ、男のワイシャツなんか着たら、どんな風に見えるかしら。ほっといて頂戴。
 リッカルド ワイシャツって言ったけど、シャツの仕事は男性用のものも女性用のものもやってるんだ。男のなら作るし、君みたいな綺麗な女性なら、そのシャツを脱がせる仕事をね。(こう言いながら、ルチーアの手を握る。)
 ルチーア(もがいて、振りほどこうとする。)ほっといて。ほっといてったら!(やっと振りほどいて。)あんた、気違い? 私を何だと思ってるの。奥様に言いつけてやるから。(ウンベルトが無表情にこちらを眺めているのを指さして。)ほら、あの人だって見ている!
(玄関のベル、鳴る。)
 リッカルド(ウンベルトを見てにやりと笑う。)なあんだ・・・見えなかったな。二人だけだと思ったんだ。
 ルチーア(怒った声で。)私はちゃんとした女なの。分ったわね。
 リッカルド(誘うように。)ねえ、いいだろう? 店に来てくれよ。な?
 ルチーア(到頭折れて。)七十四番地?
 リッカルド(「待ってるぞ」という口調。)・・・ヴィア・チアイア。
 ルチーア そうね。・・・(右手の扉に進み、開く。そして承諾の言葉。)いいわ。
 リッカルド(部屋をあちこち歩く。ウンベルトが自分の方を見ているのに気づく。ルチーアとの今の行為を正当化する必要があると考えて。)な? 悪くないだろう?
 ウンベルト 私には何の関係もないことですな。
 リッカルド(ムッとして。)何だあんたは。坊さんか何かか。
(ウンベルト、答えず、また何か手帳に書き留める。)
 ルチーア(ミケーレと共に登場。)こっちよ、ミーケ。
(ミケーレ、水道屋の青いつなぎの服を着、道具箱を持っている。健康で、元気のよい若い男。複雑な感情のない、陽気な男。)
 ミケーレ(帽子を脱ぐ。)今度はどこが悪いんだ? ルーチ。風呂がまた漏ってるなんて話はないよな。この間直したばかりなんだぜ。
 ルチーア お風呂はいいのよ。
 ミケーレ じゃ、どこが漏ってるんだ。
 ルチーア どこも漏ってないのよ。ちょっと待ってて。奥様を呼んで来るわ。(左手から退場。)
 ミケーレ(リッカルドに。)やあ。(リッカルド、ちょっと頭を下げて、この挨拶に答える。)店をほったらかしにして出ちまったんだがなあ・・・(ポケットから半分吸った煙草を引っ張り出して。)火ある?
 リッカルド(横柄に。)ないね。
 ミケーレ じゃ、煙草は止めとくか。(間。)あんた、俺の親戚か?
 リッカルド 何ですか。公式の質問なんですかな? それは。
 ミケーレ ええっ?「コウシキ」? 何だい、「コウシキ」ってのは。
 リッカルド お前さん、お喋りが過ぎるって言うことさ。こっちは違うんだ。
 ミケーレ 何だと? 偉くお高くとまってるんだな。一体自分を何だと思ってるんだ。
 ウンベルト(口を入れる。)この男は強姦魔さ。
 リッカルド ええっ? 今何と言った。
 ウンベルト 君はここに入りこんで来るや、断りもなく、ここが他人の家であることも構わず、女中にうるさく付き纏い始めた。それから私にも絡(から)んできた。そして今、この可哀相な男が現れるや、得たりと踏み潰そうとしている。
 ミケーレ(怒って。ウンベルトに。)俺が「可哀相な男」だと? それに、踏み潰す? 俺が踏み潰されるような男だと思っているのか。(リッカルドに。)フフン、ここは面白い人間に会える場所らしいな。
 リッカルド どうやら本気で絡んで来る気だな。するとお行儀を教えてやる必要がありそうだ。
 ミケーレ(怒って。道具箱を置いて、ゆっくりとリッカルドに近づく。)何を! よし、やってみろ。俺にお行儀を教えてみるんだな。
 リッカルド(ミケーレに近づいて。)お前みたいな奴を怖がる俺だと思っているのか。
(ウンベルト、喧嘩が始まりそうだと感じ、止めに入るために二人に近づく。)
 ミケーレ この野郎!(リッカルドに素早いパンチを浴びせる。リッカルド、ウンベルトがミケーレを抑えたため、そのパンチを危うく躱(かわ)すことが出来る。ウンベルトに。)おい、お前。邪魔するな!
(ミケーレとリッカルド、殴り合う。ウンベルトも間に入って三つ巴。殴ったり、蹴ったり。しかし、決定的な打撃は入らない。三人、怒鳴りあう。)
 フィルメーナ(左手から登場。恐ろしい勢いで怒鳴り、喧嘩を止める。)止めなさい!(この時までにロザーリアも登場していて、フィルメーナの丁度後ろに立っている。)誰の家にいると思っているの!
 ウンベルト(殴られた鼻をさすりながら。)二人を引き分けようとして・・・
 リッカルド 僕もだ。
 ミケーレ 俺もだ。
 フィルメーナ じゃ、誰と誰が喧嘩をしていたの。
 三人(声を揃えて。)私じゃありません。(僕じゃないです。)(俺じゃない。)
 フィルメーナ 恥を知りなさい。全く。フーリガンのような真似をして。殴り合うなんて。(間。)それで、あんた達・・・(どう話を切り出していいか分らない。)どうなの? 仕事は。
 ミケーレ お陰様で。順調です。
 フィルメーナ(ミケーレに。)子供達は元気?
 ミケーレ 元気です。でも先週一人、熱を出したんです。母親の見ていない隙を狙って、葡萄を四ポンドも食べちまったんです。可哀相に、腹がパンパンにはっちまって、まるで太鼓でさあ。まあ、四人も子供がいりゃ、誰か一人は何かやってますがね。幸いなことに連中はみんな肝油が好きで。一人が一粒飲むというと、他の三人も必ず自分にもくれと言う。それから怒鳴ったり叫んだり、一騒動あって、一人づつちゃんと一粒づつ貰ってやっと落ち着くんです。全く子供ってやつはこれですからね。
 ウンベルト 奥さん、私は奥さんから連絡を貰っても、何のことかさっぱり分りませんでした。それから、手紙の上の方にある住所を見てやっと、いつも夕方、新聞社に立ち寄る時、道でお会いする婦人なのだと気がついたのです。それに一度、奥さんは足をひどく痛めて、お家までお送りしたことがありました。それで多分・・・
 フィルメーナ ええ、そう。あの日は私、随分びっこをひいていたわ。
 リッカルド(単刀直入に。)ぶっきら棒で悪いんですが、何の用でお呼びになったのか、教えて下さいませんか。
 フィルメーナ(リッカルドに。)あなた、お店はどう?
 リッカルド まあまあです。有難いことに、客は奥さんみたいな客ばかりじゃありませんからね。奥さんみたいな客ばかりじゃ、全くやって行けませんよ。一箇月でこっちは破産です。奥さんが来ると、鈍器で頭を殴られたみたいになっちゃまいますからね。棚から、ありったけの在庫を下ろさせ、これは模様が駄目、あれは色が駄目、こっちはいいけど、買うならあっちね・・・お帰りになる頃にはもう店中竜巻にやられたような具合です。これじゃ元に戻すのに、店員のアルバイトを雇わなきゃならないって・・・
 フィルメーナ(母親のように。)あら、これからは気をつけるわ。
 リッカルド いや、いいんです。お客様は神様なんですから。でもとにかく、奥様がいらっしゃると内心ビクビクものだっていうことで。
 フィルメーナ(楽しそうに。)いいですか。あんた達を呼びにやったのは、非常に大切な話があるからです。ちょっとこっちへ来て。(左手の扉を指さす。)あそこでの方が落ち着いて話せますから。
 ドメニコ(書斎から登場。その後ろからノチェッラ登場。ドメニコ、元気を取り戻した様子。機嫌よくきっぱりした態度。)これ以上ジタバタするのはよすんだな、フィルメ。自分から事をもっと悪くする必要はない。(ノチェッラに。)あんたが来るずっと前から、私には分っていた。お日様の光よりもっと明らかだからな、こんな事は。(フィルメーナ、「何を言っているか」という顔でドメニコを見る。)ああ、こちら、ミスター・ノチェッラ。弁護士さんだ。この人が法律の何たるかを教えてくれる。(ウンベルト、リッカルド、ミケーレの三人に。)お前さん達には悪いが、どうやらドンナ・フィルメーナが勘違いしたらしい。ご足労戴いたが、それは許してくれ。・・・お前さん達をもうこれ以上お引き留めはしない。
 フィルメーナ(三人が出て行こうとするのを。)ちょっと待って。私は勘違いなどしていません。ちゃんとお前さん達だと分っていて呼んだのです。(ドメニコに。)あなたには何の関係もないことです。
 ドメニコ(しっかりと。)公衆の面前で自分の家の内輪もめを出そうというのか、お前は。
 フィルメーナ(何か自分には予期出来ない、自分に不利なことが起きたらしいと感づく。ドメニコの落ち着いた、決意溢れる様子からもそれを察して、三人に。)あんた方三人、ちょっとの間、テラスに出ていて頂戴。
 リッカルド(腕時計を見て。)待て待て、って、これはいくら何でも酷過ぎますよ。私は家にいっぱい用事があるんです。
 フィルメーナ(抑えつけるように。)言われた通りにするんです。外で待っていなさい! 他の二人も待つの。だからあなたも待つんです。
 リッカルド(断固としたフィルメーナの調子に押されて、仕方なく。)分りました。じゃあ・・・(二人の後に嫌々続く。)
 フィルメーナ(ロザーリアに。)三人にコーヒーを出してやって。
 ロザーリア はい、只今。(三人に。)じゃ、あっちの方に出て。もっと離れたあっちの方。その方がいいわ。(方向を指さす。)今すぐコーヒーを持って来ますからね。(左手奥の方に退場。三人もテラスに退場。)
 フィルメーナ(ドメニコに。)それで?
 ドメニコ さっきも言った。こちら弁護士さんだ。この人の話を聞くんだな。
 フィルメーナ 弁護士などと話をする時間はないの。あなたの話なら聞きましょう。
 ノチェッラ 最初にこのことは申し上げておかないと、奥様。つまり私は、お宅の事には全く関ってはおりませんので。
 フィルメーナ 関ってない? じゃ、ここで何をしているの?
 ノチェッラ 関っていないと申しますのは、つまり、ここにおられる紳士の事件を私が担当している訳ではないということでして。つまり、この紳士は私の顧客ではないという意味なので・・・
 フィルメーナ でも、ここにちゃんと来ている・・・
 ノチェッラ いえ、その・・・ええ、まあ・・・
 フィルメーナ(皮肉に。)誰かがあなたをここへ連れて来たっていうことね?
 ノチェッラ ええ、まあ・・・普段、第三者の指示によって動くことはやらない主義なのですが・・・その・・・
 ドメニコ(フィルメーナに。)この人に話をさせたらどうなんだ。
 ノチェッラ 実はその、私がこの件に関心を持ったのはつまり、この若い婦人が・・・(と言って後ろを振り向く。そこにディアーナがいないので驚き、書斎の方に目をやる。)あの人はどこです。
 ドメニコ(苛々と。)この件に関心を持った理由など、どうでもいいでしょう。早く話の要点を。
 フィルメーナ(皮肉をこめて。乱暴に。)あそこでしょう。ここへ出て来られないのよ。意気地がないからね。(ノチェッラに。)それで?
 ノチェッラ エー、つまり、この紳士から説明を受けたところによりますと・・・いや、あの婦人の説明だ・・・とにかく、第一0一条・・・ここに書き抜いておきましたが、(一枚の紙を取出し、皆に見せる。)・・・この第一0一条によれば全く明らかです。標題は、「まさに当該契約に入らんとする一組の男女のうち一人に、切迫した、ないしは、現実の、生命の危険がある場合・・・」云々、云々。ここで条件文は終ですが、この件の場合、生死の危険は存在しなかったと私は判断致します。切迫も、或は、現実の危険もです。何故なら、ここにおられる紳士の証言によれば、全てのことが嘘だったからであります。
 ドメニコ(急いで。)証人がいます、ちゃんと。アルフレード、ルチーア、門番、それにロザーリア。
 フィルメーナ それに看護婦!
 ドメニコ そう。看護婦もだ。全員だ。神父がいなくなったそのとたん、飛び起きたんだからな。まるでびっくり箱の人形だ。そして、「ドゥンミ! 私達、夫婦なのよ!」ときた。
 ノチェッラ(フィルメーナに。)そうするとこの際、第一二三条がきいてきますな。(読む。)「強制、或は故意の虚偽によって同意が導かれた契約下にある男女においては、その婚姻の有効性に異議を申し立てることが可能である。」この際、虚偽は明らかです。従って、第一二三条により、異議申し立てが可能となります。
 フィルメーナ 何のことかさっぱりね。
 ドメニコ(彼にも意味は不明なのだが、法の正しい解釈を、相手に示して、さっさと議論を終にしたいために言う。)つまりだ、お前が死にさえすれば、私はお前と結婚していただろうということさ。
 ノチェッラ 失礼ながら、それは違っています。結婚は条件付きでなされてはならないことになっています。第何条か、はっきりと覚えていません。が、しかし、法律は疑問の余地なく次のように述べております。「もしも当該男女が、結婚に際し、条件つきである場合には、担当の戸籍係、或は式を司る神父・・・当該結婚の場合に応じていづれでも・・・式を継続することが出来ない。」
 ドメニコ しかしあんた、今さっき言ったぞ。生死に関る危険は全くなかったと・・・
 フィルメーナ(突然。)何を言ってるの、あなた。こんな法律の話、あなたにもどうせチンプンカンプンなんでしょう?(ノチェッラに。)もっと分る言葉で話すんですね。
 ノチェッラ(フィルメーナに紙を渡して。)これが法律です。ご自分で読んで下さい。
 フィルメーナ(全く見もしないで、その紙を破る。)字は読めないの、私は。それに、知らない人から手紙など、私は受取りませんからね。
 ノチェッラ(怒って。)ではこういう言い方にしましょう。あなたはすぐ死ぬ、という状態ではなかった。ですから結婚式は執り行われなかったと同じである。つまり、結婚式は無効だ、と。
 フィルメーナ じゃ、神父様はどうなるんです。
 ノチェッラ 神父も、私の言った通りを確認することになるでしょう。それだけではない。あなたが神の冒涜を行ったと言うでしょう。とにかく式は無効です。
 フィルメーナ 無効・・・でも、もし私が死んでいたら・・・ ノチェッラ ああ、それなら・・・
 フィルメーナ ええ、それなら?
 ノチェッラ その場合には、結婚式は有効だったでしょうな。
 フィルメーナ(ドメニコを指さして。ドメニコの方はこの時まで阿呆面をしている。)その場合にはこの人は、私の死んだ後すぐまた結婚式を上げていたわ。子供も出来ていたかもしれない。
 ノチェッラ その通り。結婚していたでしょう。勿論、男やもめとしてです。ミスィズ・フィルメーナ・ソリアーノなる女房を亡くした男やもめとして、次の結婚式にのぞむ、という訳です。
 ドメニコ(フィルメーナを指さして。)こいつが、ミスィズ・ソリアーノ?・・・ああ、これが死んでいた場合にか・・・有難いことに。
 フィルメーナ(苦い皮肉をこめて。)その方があなたには向いていたかもしれないわね。でも、それが法律っていうもの? 一生かけて、家族みんなが一つになって暮せるように努力して、結局最後は法律がそれを許さないって。
 ノチェッラ 状況がどんなに同情をかうものであっても、もしそれが相手方に対する策略を伴う場合、法はそれを決して支持することはありません。ドメニコ・ソリアーノは、あなたと結婚する意志は、過去にもなく、また現在もないのですから。
 ドメニコ そうだ、お前もここのところは性根を入れて聞いておくんだな。この点でお前に何か疑問があるなら、お前の方でも弁護士を雇えばいい。どうせそいつも同じことしか言わんだろうがな。
 フィルメーナ その必要はないわね。あなたが言っていることを鵜呑みにしているんじゃないの。そこの誰かさんがそう言ってるからでもないわ。あなたのその顔を見れば分る。あなたまた、立ち直ったわ。嘘をつく時はあなた、決して人の顔をじっとは見ない。今までだってあなたは嘘はつけない人だった。今あなたが言ったことは、だからみんな本当なの。
 ドメニコ ミスター・ノチェッラ、どうか先に進めて・・・
 ノチェッラ ええ、では・・・
 フィルメーナ(ちょっと考えた後、ノチェッラが最後に自分に言った台詞に対する答を言う。)そう。私にもない、この人と結婚する意志なんて。(ドメニコに。)分ったわね。あなたとなんか結婚したくないの。(ノチェッラに。)そう、あなたは「先に進める」ことね。私はこの人なんかいらない。私が死にかけていたっていうのは嘘。それは認めるわ。たしかに策略。私はただ、この人の名前が欲しかったの。(テラスの三人を呼ぶ。)さあ、あんた方、入ってらっしゃい。
 ドメニコ(優しく。)なあお前、いいじゃないか・・・
 フィルメーナ 黙っていなさい!(テラスからリッカルド、ウンベルト、ミケーレ、登場。同時にロザーリア、右手奥から、コーヒー三カップを盆に載せて登場。しかし、コーヒーの時間ではないらしいと、机の上に置き、自分も坐る。フィルメーナ、三人に言う。)ここにいる二人はね、世間で成功者って言われている人達。困ったことや、不都合なことがあれば、紙の上に字を書いて、自分を守るの。(今度は自分を指さして。)この私、フィルメーナ・マルトゥラーノは違う。困ったことがあっても涙さえ出さない。ドゥンミ、そう言ってるのね? 世間では私のことを、「あいつが涙を流しているの、見たことあるか?」って。そう。私は何でも真直ぐにやってきたの。涙なんか流している暇はなかった。見て、ほら。私の目はすっかり乾いている。(じっと三人を見て。)私はお前達三人の母親です!
 ドメニコ フィルメ!
 フィルメーナ(しっかりと。)お黙りなさい。子供達の前で、私が母親だと言って、どこが悪いの。(ノチェッラに。)これを禁ずる法律でもあるのですか。(挑むように。)そう。お前達は私の子供。そして私はフィルメーナ・マルトゥラーノ。・・・これ以上言う必要はないわね? お前達はもう大人。この私がどういう女か、もうきっと噂で知っている筈。(三人、まるで化石したよう。ウンベルトは真っ蒼。リッカルドは困って自分の靴を見つめている。ミケーレは驚き、同時に心を動かされた様子。)私がこうなったのは十七歳の時。(間。)ミスター・ノチェッラ、あなた、スラム街ってどんなところかご存じ? サン・ジオヴァンニに、ヴェルジニに、フォルチェッラに、トゥリビュナーレに、パルネットに、ある、あのスラム街を。黒く煤けた小屋。・・・中の部屋には人がいっぱい。夏は暑くていられない。冬は寒くて、歯の根があわない。私はそういうスラム街の出。ヴィコ・サン・リボーリオの。家に人がどれだけいたか。あまり多くて数えたこともない。その人達がどうなったか、私は何も知らない。正直を言えば、知りたくもない。覚えているのはただ、その人達の、いつも啀(いが)み合っている餓えた顔。夜寝る時、「お休み」の一言も言ったことがない。朝起きた時、「お早う」の挨拶さえない。優しい言葉など交されたことがない。ただ一度、私にかけられた優しい言葉・・・それは父親からだった。あの言葉を思い出す時、今でも私はぞっとする。あの時私は十三歳だった。父親は言った。「お前はもう大きい。それに、うちには食い物はあまりないんだ」と。それからあの暑さ。夜、戸を閉めると息がつまりそうだった。みんながテーブルの周りに坐った。大きな皿、一品だけ。それに何本のフォークがついていたことか。私には分っていてもよかった。でも、皿の中に私のフォークが入る度に、みんなは私を睨んだ。まるで私が食べ物を盗んでいるかのような目で。十七歳になった時、とても綺麗な格好をしたいる人達に気づいた。綺麗な靴を履いて通りを歩いている・・・私はただじっと見ていた。ある晩私は昔知っていた女の子に出会った。あまり綺麗になっていて、最初は誰だか分らなかった。あの頃私は今よりはずっとああいうことに価値を置いていた。その子は私に言った。(注意して一言一言を言う。)あなたはね、こうすればいいの・・・そしてこうして・・・そしてこうすれば・・・。私はその晩、一睡もしなかった。それにあの暑さ。(ドメニコに。)その時よ、あなたと会ったのは。(ドメニコ、ギクッとする。)あの「家」! 私の目にはあれでも宮殿に見えた。その夜私は、ヴィコ・サン・リボーリオの家に帰った。私の心臓は破裂しそうだった。きっとみんなは家に入れてくれない。目の前で戸を閉められてしまう! でも違った。誰も一言も言わなかった。それどころか、一人は椅子を出してくれた。一人は頬をさすってくれた・・・みんなが私を見ていた。まるで尊敬しているかのような目付きで。皆は私の前で、居心地が悪かった。違ったのは母親だけ・・・私は母親に近づいて、「さよなら」と言った。母親は顔をそむけて、涙を流した。私は二度と家には帰らなかった。(大声で。)私は息子達を殺さなかった! 私は二十五年間、私の家族の面倒をみたんだ!(リッカルド、ウンベルト、ミケーレに。)私はお前達を育てた。大人にしあげた。あの男から盗んだのよ。お前達が育つように!
 ミケーレ(優しく、フィルメーナに近づいて。)分りました。でも、どうか落ち着いて。精いっぱいやって来られたんです・・・
 ウンベルト(近づいて。)お話したいことは沢山あります。でも、僕は口べたで・・・そう。手紙を書きます、僕は。
 フィルメーナ 私は読めないわ。
 ウンベルト じゃ、僕が自分で読んであげます。
(間。フィルメーナ、リッカルドを見る。何か言って欲しい。リッカルド、一言も言わず、退場。)
 フィルメーナ 行ってしまった・・・
 ウンベルト(同情をもって。)あいつはいつもああなんだ。よく分ってないんですよ。明日私が店に行って来ますよ。よく話をしてやります。
 ミケーレ(フィルメーナに。)僕の家に来て下さい。一緒に住みましょう。小さい家ですけど、何とかなりますよ。小さなバルコニーだってありますからね。(楽しい事を心に描いて。)うちの子供達はみんな、「家にはおばあちゃんはいないの」って「どこにいるの? おばあちゃんは」って、よく言うんですよ。その度に、こちらも馬鹿な言い訳を言ってきたんです。でも二人で家へ帰ったら大声で言えますよ、今度は。「さあ、これがおばあちゃんだ」ってね。みんな飛びついて来ますよ。(促すように。)さあ、一緒に行きましょう。
 フィルメーナ(決心する。)そうね。行くわ、あなたの家に。
 ミケーレ さあ、行きましょう、じゃあ。
 フィルメーナ ちょっと待って。下で待っていて頂戴。(ウンベルトに。)お前もこれと一緒に下りていて。五分もかからない。私、ちょっとドン・ドメニコに言うことがあるの。
 ミケーレ(嬉しく。)じゃあ、すぐにね。でも、急いで。(ウンベルトに。)行ってましょうか?
 ウンベルト うん。
 ミケーレ じゃあ、皆さん、失礼。(右手の扉に進みながら。)何かあるな、と思っていたんだ。だから来た時お喋りになっていたんだ・・・予感がしたんだよ・・・(ウンベルトと共に退場。)
 フィルメーナ(ノチェッラに。)一、二分私達二人だけにして下さい。いいですか?(書斎を指さす。)
 ノチェッラ ええ。どうせ出ようと思っていたところですから。
 フィルメーナ いいえ。出ては行かないで。まだちょっといて戴きたいの。この人との話が終ったら、お話があるの。(ノチェッラ、嫌々ながら書斎に退場。ロザーリア、自分で判断して右手奥の扉から退場。フィルメーナ、自分の鍵を取出し、テーブルに置く。)私は出て行きます、ドゥンミ。あの弁護士に、法律上の手続きをとるよう言って下さい。私は言われる通りします。あなたはもう自由なの。
 ドメニコ それしかお前には手はない筈だ。だいたい何故最初から金でことをすませなかったんだ。何故わざわざ芝居をうったり・・・
 フィルメーナ(決心は堅く。)明日、私の荷物は取りに来させます。
 ドメニコ(動揺して。)お前は馬鹿だよ。あの連中は放っておいてやれば良かったんだ。何故あんなことをわざわざ話したんだ。
 フィルメーナ(冷たく。)何故って。それはあの三人のうち一人があなたの子供だから。
 ドメニコ(フィルメーナの今の言葉で呆気にとられる。内心の動揺を必死に抑えようとする。)そんなこと、この俺が信じるか。
 フィルメーナ あのうちの一人があなたの子なんです。
 ドメニコ(静かに。)嘘だ、それは。
 フィルメーナ 三人ともあなたの子って言った方が本当はよかったの。その方があなただって信じ易い筈だったの。
 ドメニコ 嘘だ。
 フィルメーナ いいえ。本当です、ドゥンミ。それは本当なの。あなたは覚えていっこない。でもね、これだけは言っておきましょう。あなたはいつもどこかへ出かけていた。ロンドン、パリ・・・馬のため・・・女のため・・・あなた、覚えているわね、そういう時にはいつも私に百リラ札をくれたの。その晩、あなたは私に言った、「フィルメ、二人は愛しあってる・・・そういうふりでもしようや。」そして灯(あかり)を消したの。あの晩私は、本当にあなたを愛した。でもあなたは違った。灯をまたつけて、あなたはいつもの百リラ札をくれたわ。その札の端っこに、私は日付を書いておいた。私は字を知らない。だから普通の数字じゃないわ。それからあなたは旅行に行った。私はじっとあなたの帰りを待った。それがいつのことか、あなた、覚えてはいないでしょう。あなたが帰って来た時、私はしっかり隠していた。変りはないわよ、とあなたに言った。だって、あなたは何にも気づきはしなかった。だから生活を変えるなんて決してしない方がよかった。
 ドメニコ(荒々しく。心配を怒りで隠そうとするように。)どいつなんだ。俺の子は。
 フィルメーナ(きっぱりと。)いいえ。それは決して教えません。
 ドメニコ(一瞬躊躇った後。衝動に負けて。)そいつは嘘だ。本当である筈がない。その時に俺に言った筈だ。俺を縛っておけるからな。俺に子供が出来たとなればフィルメ、それはお前の武器になる。それをお前が利用しない訳がない。
 フィルメーナ 話したらあなた、きっと私におろさせたわ。私はとても言えなかった。あの頃のあなたの考え、今だってちっとも変ってはいない。ええ、あなたきっと私におろさせたわ。あなたは私に感謝するべきなの。ちゃんとあなたの子供が生きているんですからね。
 ドメニコ どれなんだ、それは。
 フィルメーナ 言いません。三人とも同じ扱いを受けなきゃいけないの。
 ドメニコ(意地悪く。)じゃ、三人とも同じ扱いだ。三人ともお前の子なんだ。俺には何の関りもない。あいつらのことは・・・そのうちの一人だって俺は知らないぞ。さっさと出て行け!
 フィルメーナ 昨日あなたに言ったわね? 私は。守れもしない誓いは立てるなって。覚えているわね? 私は言ったわ。あなたも誓いなんかしては駄目。夜も眠れなくなる。私の足元にひれ伏さなきゃならなくなるって。・・・そう、ドゥンミ、あなた、今私が言ったことを決して子供達には言わないの。いいわね? もし言ったりしたら、私、必ずあなたを殺す。これはあなたが私にしょっ中やる、安っぽい脅しとは違うの。私がいったん殺すと言えば、私は本当に殺す。分ったわね?(書斎の方に呼ぶ。)ミスター・ノチェッラ! 入って来て・・・(ディアーナにも。)あなたも入って。噛み付きはしないわ。あなたの勝。私は出て行きます。(再び呼ぶ。)ロザーリ、ちょっと来て頂戴。(ロザーリア登場。フィルメーナ、ロザーリアを抱擁。)私、家を出る。明日荷物を取りに人をやります。(ノチェッラ、書斎から登場。その後ろにディアーナ、アルフレードも奥から静かに登場。)これで決着。さようなら、みなさん。ミスター・ノチェッラ、こんなことに引っ張り込んですみませんでしたね。(ルチーア登場。)ドゥンミ、私の言ったこと、よく分っているわね?(強いて陽気に。)この人達みんなの前で、ちゃんとあなたに言っておくわ。私の言った事、決して漏らさないことね。誰にも。じっとあなたの胸にしまっておく事。(首にかけていたロケットを開け、汚い紙幣を取出し、角(かど)の小さな部分を切り取り、ドメニコの方を向く。)昔書きとめた場所はとっておくわ。残りはあなたのもの。(紙幣をテーブルに置く。侮蔑の陽気さで、つけ加える。)お金で買えないものが世の中にはあるの。(退場。)
                     (幕)

     第 三 幕
(同じ部屋。十箇月後。午後遅く。)
(到るところに花。花束に、花のついた小枝。贈り主からのカードがそれについている。花は赤や白のけばけばしいものでなく、落ち着いた色。お祭り気分が漂っている。書斎と居間とを分けるカーテンが引かれていて、書斎は隠されている。ロザーリアが一張羅の服を着て、右手奥の扉から登場。と同時にドメニコ、書斎から登場。ドメニコはすっかり前幕とは変っている。怒り狂う調子は見られない。今や静かな謙遜を絵に描いたような表情。髪は少し白いものが多くなっている。)
 ドメニコ(ロザーリアに。)外出していたのか。
 ロザーリア ええ。ドンナ・フィルメーナのお言い付けで。
 (ドメニコを揶(からか)うように。)あらまあ、やっかんでいらっしゃる・・・ヴィコ・サン・リボーリオにですよ。
 ドメニコ 何の用でだ。
 ロザーリア(ゲラゲラっと笑う。)まあまあ・・・本当にやきもち!
 ドメニコ 何がやきもちだ。馬鹿!
 ロザーリア 揶っただけですよ。(フィルメーナの寝室の扉をちらと見て。)お教えしますよ。でも、私が言ったなんて奥様には仰らないで下さいよ。知られたくないんですから、奥様は。
 ドメニコ それなら、言わなくていい。
 ロザーリア 知って戴いた方がいいんです。あの方の名誉になることなんですから。ヴィコ・サン・リボーリオの薔薇の天使様の像に、五十本の蝋燭と千リラを寄進して来なさいって言われたんです。あそこの傍に、おばあさんが住んでいて、あの像の面倒を見ているんです。その人に、丁度六時に、五十本の蝋燭全部に火をつけて貰うよう頼んで来いって。どうしてか分りますか? 結婚式が六時だからですよ。ここで式が行われる丁度その時、あそこの薔薇の天使の像で蝋燭に火が灯(とも)るのです。
 ドメニコ なるほど。
 ロザーリア あの方は聖女。旦那様は聖女と結婚なさるんです。お美しくって、それにお若いわ。私、前からずっとあの方に言っていた。旦那様があなたをお捨てになるなんて、そんなことありっこありません。結婚を御破算にしたのは、旦那様の主義から出てきた話・・・必ずお戻りになります・・・
 ドメニコ(ロザーリアのお喋りに少し飽きて。)分った分った、ロザーリ、行って、手伝でもしたらどうなんだ?
 ロザーリア ええ、ええ。すぐに。(しかし動かない。)みんな、みんな、ドンナ・フィルメーナのお陰。あの方がいらっしゃらなかったら、私なんかどうなっていたでしょう。私、ここにいていいと仰るんです。死ぬまでここにいていいって。
 ドメニコ 好きにするさ、お前の。
 ロザーリア 私、みんな用意しましたわ。帽子にレースの縁取りのある白いガウンに、下着に、白いストッキングに。全部きちんと箪笥に入れて。ドンナ・フィルメーナは何がどこにあるかちゃんと分っていらっしゃいます。私に着せて下さいます。だって他に誰がいるっていうんです? ああ、これで息子達さえ帰って来てくれれば・・・これはじっと待つしかないわ。さ、私はもう行かなくちゃ。(左手から退場。)
 ドメニコ(一人になり、花を眺める。二、三、カードを読む。最後の部分だけを声に出す。)・・・お幸せに、か。
(舞台裏からウンベルト、リッカルド、ミケーレの声がする。)
 ミケーレ(舞台裏で。)分った、分ったよ。だけど式は六時にならなきゃ始まらないんだろう?
 リッカルド(舞台裏で。)そりゃそうだ。しかし約束は五時だったんだ!
 ウンベルト(舞台裏で。)とにかく私は時間通り来た。
(三人、話しながら登場。)
 ミケーレ 五時の約束だった。それは分ってる。だけど僕は、四十五分遅れただけなんだ。
 リッカルド 遅れた「だけ」か。四十五分も遅れておいて。
 ミケーレ いいか、約束ってのは普通、三十分の余裕はあるものなんだ。だから五時に約束すれば、五時半は普通。だから五時四十五分は許される時間なんだ。
 リッカルド(皮肉に。)うん、まあ、次の日でもな。いや、次の月でもいいわけさ。
 ミケーレ それに、うちには四人もいたづら小僧がいるんだ。だから時計は持たないことにしている。この間、持っていたやつを滅茶滅茶に壊されちまった・・・
 ウンベルト(ドメニコに気づく。丁寧に挨拶する。)今晩は、ドン・ドメニコ。
 リッカルド(こちらも礼儀正しく。)今晩は、ドン・ドメニコ。
 ミケーレ 今晩は、ドン・ドメニコ。
(三人黙ってドメニコの前に一列に並ぶ。)
 ドメニコ 今晩は。(長い間。)おいおい、急に黙っちまったな。さっきまで賑やかにやっていたじゃないか。
 ウンベルト(困って。)ええ、その、話してはいましたが・・・
 ミケーレ ・・・会話が丁度終になって・・・
 ドメニコ 私を見たとたん、か?(ミケーレに。)お前はどうやら、みんなを待たせたらしいな。
 ミケーレ ええ、そうなんです、ドン・ドメニコ。
 ドメニコ(リッカルドに。)君はちゃんと時間通りだった。
 リッカルド はい、そうなんです、ドン・ドメニコ。
 ドメニコ(ウンベルトに。)君は?
 ウンベルト 私は定刻につきました、ドン・ドメニコ。
 ドメニコ(独り言で。)定刻につきました、ドン・ドメニコ、か。(間。他人行儀の「ドン・ドメニコ」が気に入らない。三人に。)さあ、みんな、坐ってくれないか。・・・(三人坐る。)まだ時間は充分ある。神父さんは六時にならなきゃ来ない。それまではこの四人だけだ。フィルメーナは客が大勢なのを嫌ってな。二人の立会人をつけるのは仕方がないが、他には招(よ)ばなかったんだ。いや、実は・・・私の言いたいのは・・・これは大分前にも言ったと思うんだが・・・その・・・私のことを言う時にだが・・・何か・・・工夫があってもよいだろうと・・・
 ウンベルト(おづおづと。)ええ、まあ・・・
 リッカルド(同様に。)ええ、その・・・
 ミケーレ ええ、確かに・・・
 ウンベルト でも、はっきりこう呼べと、具体的には・・・
 ドメニコ うん、まあ、具体的には、私はまだ言ってはいない。君達が自分で考えてくれるのが一番だと思ってな。今夜私は、君達の母親と結婚する。それから弁護士とも、もう話はついているが、君達のことも決っている。明日からは君達は私の名前、つまり、ソリアーノと名乗る訳だ。・・・
(三人、顔を見合わせる。何と言っていいか分らない。誰かが何かを言って欲しいという気持。)
 ウンベルト(勇気を出して。)ええと、三人に代って私がお答えします。多分三人とも私と同じ気持だと思いますので。正直のところ、ご期待に沿う呼び名・・・これは当然、我々に要求されてしかるべきものですし、またそれがお心の広さを表して下さっていることなのですが・・・その呼び名でお呼びする気持になれなくて・・・自然に、本能的に、そう呼べる気持になりませんと・・・
 ドメニコ(心配そうに。)つまり、君達は、本能的にそう・・・呼べないと? つまりその・・・何ていうか・・・私をその・・・「お父さん」と・・・
 ウンベルト ええ・・・まあ、その・・・それ以外の呼び方をするのは、大変失礼だとは思いますが・・・ええ、今のところは、ちょっと・・・
 ドメニコ(リッカルドに。)君はどうだ。
 リッカルド すみません。しかし、同じ意見で。
 ドメニコ(ミケーレに。)君は。
 ミケーレ 僕もみんなと同じで、ドン・ドメニコ。
 ドメニコ まあいい。そのうち考えが変るかもしれんしな。(間。)いや、君達が揃って来てくれて、私は実に嬉しい。君達はみんな私によく似ている。それぞれの分野で、勤勉に働いている。辛抱して立派な働きぶりをしているんだろうな。いや、頼もしい若者だ。(ウンベルトに。)君は事務所で働いているんだね? 何か書いてもいるという話だが。
 ウンベルト ええ、ちょっとした短い話を・・・
 ドメニコ 偉大な作家になろうというんだな?
 ウンベルト いえ、そんな野心はありません。
 ドメニコ いや、そのぐらいあったっていい。まだ若いんだ。君の職業で成功するためには、それはかなりの克己を必要とするが、君は多分それを生れついて持っている・・・
 ウンベルト いえ、私にはそういう才能はどうも、生まれつき持ち合わせていないようで。ちょっと仕事がうまく行かなくなると、すぐ「待てよ、この職業は俺には向いてなかったんじゃないか? 本当は別の仕事の方が・・・」と考えたものです。
 ドメニコ(自分に似ているな、と興味を引かれて。)ほう、そうか。すると、他にどんな職業が向いていると思ったんだ?
 ウンベルト よく分りません。若い頃はさんざん色んなことを考えるものですから・・・
 リッカルド 何が向いている職業か、って話になれば、まづ運というものを考えなきゃ。僕は今ヴィア・チアイアに店を持っていますが、どうして持てるようになったと思います? 運ですよ。運。丁度その頃、僕はシャツ仕立屋の綺麗な女の子に惚れちまったんですよ。
 ドメニコ(こちらが怪しいと感じて。)ほほう、すると君は、すぐ女の子に惚れるタイプだね?
 リッカルド ええ、次から次ですね。(ドメニコ立上り、リッカルドを近くからじろじろ見る。自分の若い頃の動作、口ぐせ、など発見できないかと。)実を言うとですね、ピッタリ自分のタイプっていう女の子をどうしても見つけることが出来ないんですよ、僕は。ちょっと女の子を見る。するとすぐ好きになって考えてしまう。あ、あれは僕のタイプだ。もう少したつと、よし、あれと結婚しよう。それからまた別の綺麗な女の子を見る。ああ、こっちの方が前よりもっと僕のタイプだ。こんな調子で、一人に決まるってことがないんです。少し先に行くと、すぐ前のよりいい女の子が現れてしまうんですから。
 ドメニコ(ウンベルトに。)君は彼みたいにフワフワしてはいないんだろう? 女の子に関してはかっちりとした何かがあるんじゃないか?
 ウンベルト ええまあ、ある程度は。でも、今の女の子達って、こちらに落ち着いて考える暇をくれないんです。あっちを見る。いい女の子。こっちを見る。いい女の子。それに、どれもこれも、すぐなびいて来そうな素敵な目付き。選ぶのは難しいですよ。こういう時にはどうしたらいいんでしょう。仕方がないから当座は相手に合わせてこちらもウロウロするだけです。そのうち本当にピッタリのが見つかるでしょう。
(ドメニコ、がっかり。ウンベルトとリッカルドはどちらも自分と同じ性癖。)
 ドメニコ(ミケーレに。)君は女好きっていう訳じゃないんだな?
 ミケーレ 僕は若くして結婚したんです。今の女房に会って、まあ、成行きで。ところが、こいつの手綱が厳しくて。うちの女房を知ってりゃ、僕が身動きがならないことはすぐ分って戴けますよ。仕方がないから、僕は真直ぐ歩いてますがね。目移りがしないなんてことは、全くありませんよ。とんでもない。でも、女房が怖いですからね。
 ドメニコ(がっかりして。)そうか。君も女好きか。(間。それから、別の手を考える。)若い頃私は歌を歌うのが好きでね。七、八人、同じ仲間が集まって、青空の下で連中と食事をして、その後歌うんだ。ギター、マンドリン・・・君達も歌うのは好きかね?
 ウンベルト 私は駄目ですね。
 リッカルド 僕も駄目です。
 ミケーレ(明るく。)僕は好きです。
 ドメニコ(喜んで。)おお、好きか。
 ミケーレ 仕事中は歌はかかせませんからね。店では僕はいつでも歌っていますよ。
 ドメニコ(希望をもって。)じゃ、聞かせてくれないか。
 ミケーレ(急に赤くなって。)僕が? 何を歌うんです?
 ドメニコ 何でもいい。好きなものを。
 ミケーレ いや、それは・・・僕は恥ずかしがりやで。
 ドメニコ でも、今言ったばかりじゃないか。いつでも歌っているって。
 ミケーレ それは話が別で・・・まあいいや、「コーレ・ングラート」を知ってますか? こいつはいいんだ。(歌い始める。ひどい調子外れ。それに艶のない声。)Core, Core. 'ngrato -- t'hai pigliato 'a vita mia -- tutto e' passato -- io non ce pienzo cchiu' ...
 リッカルド(割って入って。)あれなら僕でも歌える。あれが声って言えるのか、一体。
 ミケーレ(少し怒って。)どういう意味だ、それは。
 ウンベルト 私でもあれよりはましだ。
 ドメニコ 誰だって、あれよりはましだろう。(リッカルドに。)じゃ、聞かせて貰おう。
 リッカルド 僕は駄目です。あいつほど厚かましくはありませんからね。でも、まあいいや。Core, Core. 'ngrato -- t'hai pigliato 'a vita mia -- (ウンベルトも加わる。)tutto e' passato --(ミケーレも加わる。) io non ce pienzo cchiu' ...
(とても聞けたものではない。ひどい合唱。)
 ドメニコ(途中で遮って。)もういい。もういい。分った。(三人、歌い止める。)どうも三人とも、今日は調子が悪いらしいな。・・・(傍白。)呆れたもんだ。・・・ナポリ生れが三人。それが三人とも歌えないとは!
(フィルメーナ、左手から登場。素晴らしい新しいドレス。ナポリ風のファッションで髪を「アップ」にしている。真珠の首飾り二巻きに、クリップ式のイヤリング。若く見える。フィルメーナは仕立屋のテレズィーナと言い争っている。テレズィーナはロザーリア、ルチーアと共に、フィルメーナの後から登場。)
 フィルメーナ 何かピッタリしないわ。どこか仕立てを間違ってるのよ。
(テレズィーナは典型的なナポリの仕立屋。客の癇癪や侮辱にはびくともしない。その落ち着き払った態度が腹立たしいほど。)
 テレズィーナ 勝手にそう思ってらっしゃるだけですよ、ドンナ・フィルメーナ。ピッタリの仕立てですよ。私はもう何十年と仕立屋をやってきているんですからね。自分の仕事くらい知っていますよ。
 フィルメーナ 厚かましいね、あんた。私が言っているのよ、ピッタリしないって。私が言ってるんだから言うことを聞いたらいいでしょう。
 テレズィーナ じゃ、どこが合わないのか、仰って下さい。
 ミケーレ 今晩は、お母さん。
 リッカルド 今晩は。それから、おめでとうございます。
 ウンベルト 今晩は。
 フィルメーナ(嬉しい驚き。)ああ、あんた達、もう来ていたの。今晩は。(テレズィーナに。しつこく。)どうしてピッタリしないか教えて上げましょう。いいですか。あんたはね、お客から生地(きじ)を受取ると、あんたの子供にその生地を切って、服を作ってやるの。だからなのよ。
 テレズィーナ まあ、何てことを・・・私はそんな・・・
 フィルメーナ 前にあったの。私の註文した生地があんたの娘の洋服になっていた。その残りで私の服を作ったに決ってる!
 テレズィーナ そんな言い方ありませんわ。私、怒りますよ。勿論、お客様の洋服の仕立てが終って、生地が余れば・・・(フィルメーナ、非難するようにじっとテレズィーナを見る。)でも、お客様が必要な分まで取るなんて、そんな・・・そんなのはインチキになりますわ。
 ロザーリア(感心して。)まあ、ドンナ・フィルメーナ、お綺麗ですこと! 本当に、本当に、花嫁さん!
 テレズィーナ じゃ、どういう風に服を仕立てたらいいって言うんです。
 フィルメーナ(怒って。)渡した生地を盗まないで作るのよ。それが作り方っていうもの!
 テレズィーナ(傷ついて。)盗むなんて言わないで下さい。生地が余ってるなんて思ったらとーんでもない間違い。(手でほんの少ししか残っていないという動作をする。)
 ドメニコ(この時まで、何か苛々と二人のやりとりを見ている。心ここにあらざる様子。)フィルメ、お前に話があるんだ。
 フィルメーナ(ドメニコの方にびっこをひいて近寄る。新しい靴が合わない。)まあ、この靴ったら!
 ドメニコ 痛いのか? じゃ、脱いで、別のを履くんだ。
 フィルメーナ 何なの? 話って。
 ドメニコ テレーズィ、ちょっと外して貰いたいんだ。
 テレズィーナ ええ、構いませんとも。行きますわ。(運んでいた黒い布を畳んで、片手にかけ。)おめでとうございます。どうぞお幸せに!(ルチーアに。出て行く時に。)奥様の次のドレスはどんなのにするか、教えて頂戴ね。(退場。ルチーア、その後から退場。)
 ドメニコ(リッカルド、ウンベルト、ミケーレに。)書斎に行っていてくれ。立会人の人達の面倒をみてな。ロザーリ、お前もだ。
 ロザーリア(頷く。)畏まりました。(他の三人に。)さ、行きましょう。(書斎に入る。)
 ミケーレ(二人の兄弟に。)じゃ、行くか。
 リッカルド(ミケーレを揶って。)素晴らしい声じゃないか。お前、商売を間違えたよ。実にカルーソーばりの声だ・・・
(三人、笑いながら書斎に入る。)
 ドメニコ(フィルメーナを感心して眺めながら。)フィルメ、何て綺麗なんだ。どこから見ても若い娘だ。私は頭ははっきりしているぞ。その姿で街を歩いたら、男どもみんな、振り返って見る。そいつは請け合うよ。
 フィルメーナ(故意に話題を外して。次にドメニコが言う台詞が想像出来るため。)用意は全部整っているようよ。私、嬉しいわ。
 ドメニコ 私は違う。私は心配だ。どうも落ち着かない。
 フィルメーナ(故意にドメニコの言葉を誤解して。)心配することなんかないのよ。ルチーアの指示通りすればいいの。勿論アルフレードもロザーリアもいるわ。でも本当に頼れるのは・・・
 ドメニコ 私の心配はお前には分っている筈だ、フィルメ。知らないふりは止めてくれ。この胸が今どうなっているか。(間。)お前には出来るんだ、この胸のつかえを取り除くことが。
 フィルメーナ 私が・・・出来る?
 ドメニコ お前が望んでいたものを叶えてやろうとしているんだ。それでお前は満足じゃないのか? あの時結婚は一旦無効になった。その後、私はお前の家を訪ねて行った。・・・一度だけじゃない。何度もだ。その度に家のものに留守だとお前は言わせた。しかし私は諦めなかった。そしてお前に頭を下げて頼んだ。フィルメ、結婚してくれ、と。
 フィルメーナ そうね。だから今夜結婚するの。
 ドメニコ お前、嬉しいのか? 少しは。
 フィルメーナ ええ、勿論。嬉しいわ。
 ドメニコ じゃ、私も幸せにしてくれないか。さ、坐って。聞いてくれ。(フィルメーナ、坐る。)この二、三箇月、何度私はお前に言いかけたか。私の胸のつかえを無理矢理抑えつけようと、どんなに苦労したか。しかし駄目だった。私がお前にある質問をして、お前に答えて貰おうとする。お前には大変迷惑なことは分っている。しかし、私達は今から結婚するんだ。そうなれば、話はすっかり違って来るじゃないか。もう少しするとお前と私は神の前に膝まづく。しかし、若い男女として膝まづくんじゃないんだ。愛さえあれば後は自然に何もかもうまく行くと信じきっている若い男女としてじゃない。私達はそういう時代を通り越して来たんだ、フィルメ。私は五十二、お前は四十八だ。これから踏みしめて行く一歩一歩をよく見つめ、理解し、そして責任をもって進まなければならん。そのまづ第一歩だが、フィルメ、お前は何故私と結婚しようとしているか、自分でよく分っているようだ。私には分っていない。私はだ、あの三人のうち、誰か一人が私の子だと、お前が言ったから結婚する。それだけが分っているのだ。
 フィルメーナ それだけ? 理由は。
 ドメニコ いや、それは違う。勿論お前を愛しているからでもある。私達はもう二十五年も一緒に暮してきた。その思い出、歴史、を考えれば、殆ど一生分だ。お前がいなければこの私は、ないも同じだ。・・・いや、本当にそう思っているんだ。お前がいなければ私は駄目・・・これは私の信念だ。私はお前がよく分っている。だからこういう話も出来るんだ。(真面目に。悲しそうに。)私はもう、夜、眠れないでいる。これが十箇月続いている。あの時以来だ。・・・覚えているな? 私は眠れない。食べられない。どこにも心の平安がないんだ。私がどれだけ悩んでいるか、お前には分らないだろう。呼吸をしても途中で止まるような気持だ。こうやる・・・(胸いっぱい空気を吸おうとする。)・・・ところが、ここで止まるんだ。(喉のところを触る。)こんな風にしては生きては行けない。お前は優しい、成熟した女だ。私のことはよく分ってくれている。そして少しは愛してくれてもいるだろう。お前は以前言った。「誓っては駄目。誓わないの、ドゥンミ!」・・・だから私は誓わなかった。お前が正しかったよ、フィルメ。今の私はこうだ。お前の膝に縋(すが)っている。そうなるだろうとお前が予言した通りだ。膝をついて、お前の両手に、両足に、接吻して・・・教えてくれ。どうか教えてくれ。どれが私の子・・・私の血と肉なんだ! お前は言ってくれなきゃいけない。それで初めてお前が狡くないことになる。そうでなければ、その私の弱みにつけこんで、私を結婚へと追い込んでいる、そう私は思うかもしれない・・・いや、お前とは必ず結婚する。それは誓う!
 フィルメーナ(長い間。その間じっとドメニコを見る。)あなた、本当に知りたいのね? いいでしょう。教えます。でも、私がそれを言ったとたん、あなたはどうするか、あなた分ってるでしょう? あなたは必ずその子を贔屓(ひいき)にする。その子をどこへでも連れて行く。その子にいろんな計画を立ててやる。それに勿論、他の二人より、もっと沢山の金を残してやろうとする。
 ドメニコ それで?
 フィルメーナ 分りました。じゃあ、お好きなようにするのね。どうせその子にはそれだけの援助が必要なんですから。四人も子供がいるんですからね。
 ドメニコ いかけ屋か!
 フィルメーナ(頷く。)水道屋。ロザーリアの言い方では。
 ドメニコ(傍白。考えているうちにどんどん計画が膨れあがる。)あいつはいい奴だ。なかなかハンサムときてる。それに身体もいい。確かにちょっと結婚を早まったが・・・あんな小さな店じゃ、稼ぎも伸びやしない。援助が必要だ。もう少し資本をつぎこめば仕事場も大きく出来るし、人も雇える。あいつは勿論、社長だ。店を大きくして今どきの器械を入れるんだ。(ひょっとフィルメーナを見る。急に疑惑の雲が湧いて来る。)フン・・・それは何と言ってもいかけ屋・・・水道屋だ。・・・それはそうだ。女房も、それに子供が四人もいるんだからな。他の二人より助けがいるに決っている。
 フィルメーナ(残念そうな表情。)母親なら当り前でしょう? 一番弱いものの味方になってやるのが。いいでしょう。見抜かれたら仕方がないわ。頭がいいのね。分りました。言いましょう。リッカルドです。自分で商売をしている。
 ドメニコ シャツ屋か。
 フィルメーナ いいえ・・・ウンベルト。物書きの。
 ドメニコ(頼みの綱も切れた気持。)ああ、この最後の最後になっても、お前は私を助けようとしてはくれないのか。
 フィルメーナ(ドメニコの悲しみを見て心をうたれ、何とかして彼の納得の行く説明を与えようとする。)よーく聞いて、ドゥンミ。そして、もう二度とこの話は蒸し返さないの。(今まで抑えていたドメニコに対する愛情を一挙に表して。)私は好きだった・・・あなたのことが、昔からずーっと・・・大好きだった。あなたは私の全部だった・・・私は今でもあなたが好き。きっと、今までより、もっと、ずっと好き・・・(自分がこんなに素直になれたことにびっくりして。そして、ドメニコの驚きに気づいて。)あなたのその苦しみって、一体何なの? ドゥンミ。自分でわざわざ呼び込んで来ているものでしょう? あなたは男が欲しいと思っているものはみんな持っているのよ。健康、容姿、お金・・・それにあなたは、私だって手に入れている。そう。確かにあなたに心配をかけないためには、子供のことなんかは言わない方が良かったかも知れない。ええ、そう。こうなったら私、年を取って、死んで行く時だって、もうあなたには子供のことは言わない。・・・そしてあなたは・・・あなたはあの三人の子供を立派に育てた、心の広い人ということになるの。(間。)だから、もう私に訊かないで。私は言わない。言えないの。あなたは私に強要するような野暮な人ではないわね? 私、あなたを本当に愛しているものだから、気持が弱っている時に、いつか漏らしてしまうことがあるかもしれない。でも、そうなったら大変。何もかも駄目になるわ。分るでしょう? 水道屋がそうだって私が言ったとたん、あなたは浮き上がってしまった。お金のことを言い出す・・・それも大金・・・それから、大きな店・・・あなたは当り前のことと言うでしょう。どうせお金はあなたのものなんですから。でも、続きがあるの、これには。じゃ、どうしてこれをあいつに話して悪い。後の二人は誰の子なんだ。何の権利があって俺の金を・・・もっと悪いことだって起きる。金が問題になったとたん、あの子達は反目するようになる。三人とも大人なんですからね。殺し合いだってやりかねない。ねえ、ドゥンミ。自分のことを考えないで。私のことも考えないで。あの子達のことを考えてやって。子供達と楽しむ一番良い時期は、もう過ぎているの。一番良い時期は、赤ん坊の頃。抱いてやれる時。痛がっている時に、その痛いところも親に教えてやれないような時。親のところに大きく手を広げて駆け寄って、「パパ!」と叫ぶ時。冷たい手をして、真っ赤な鼻をして学校から帰って来て、「おやつ!」と叫ぶ時。でも、大きくなってしまったら、大人になってしまったら、もうすっかり話は違うの。(間。)でも大丈夫。あなたには私がいるの。私、あなたのこと、ちっとも悪く思ってやしない。子供とのことはこのままにしておきましょう。そして私達二人、別の道を行くの。
(舞台裏で、結婚式の讃美歌の練習の声が聞こえる。)
 ロザーリア(登場。その後に続いてミケーレ、リッカルド、ウンベルト、登場。)いらっしゃいましたわ・・・神父様が。
 ミケーレ お母さん・・・
 ドメニコ(立上り、みんなを見る。そして決心したように言う。)・・・うん、このままにしておこう。そして我々は二人、別の道を行くのだ。(子供達に。)お前達三人に言っておくことがある。(三人、緊張して次の台詞を待つ。)私は紳士だ。君達を裏切る気持など全くない。いいか・・・
 リッカルド、ミケーレ、ウンベルト(一緒に。)ええ、お父さん・・・
 ドメニコ(心をうたれて。フィルメーナに一瞥を与え、決意をこめて。)有難う。本当に有難う。(事務的な調子で。)よし。結婚式では通常、花嫁を先導するのは父親だ。今日の場合、父親がいない。だから、子供がその代りをする。君達のうち二人が花嫁を先導する。もう一人は花婿の介添えだ。
 ミケーレ じゃ、お母さん、僕らが。(フィルメーナの傍に行き、リッカルドに手招きする。)
 フィルメーナ(急に何かを思い出して。)今、何時?
 リッカルド 六時五分前です。
 フィルメーナ(ロザーリアに。)ロザーリ・・・
 ロザーリア 心配しないで。六時きっかりに、ちゃんとお言い付け通り灯はつきますよ。
 フィルメーナ(ミケーレとリッカルドの腕に縋って。)じゃ、行きましょう。
(三人、書斎の方へ進む。)
 ドメニコ(ウンベルトに。)じゃ君、私の介添えを。
(五人列を作って書斎に退場。ロザーリア、その場に留まって手を叩く。舞台裏でオルガンが結婚行進曲を演奏する。ロザーリア、泣く。アルフレード、ロザーリアを促し、二人、書斎に退場。照明、暗くなり、すっかり照明、消える。テラスからゆっくりと月の光がさす。次にシャンデリアが部屋を照す。時間の経過を表す。)
 フィルメーナ(書斎から登場。その後ろにウンベルト、ミケーレ、ロザーリア、登場。左手の方に進む。)ああ、疲れた!
 ミケーレ 休まないと、お母さん。僕達はもう行きます。明日はまた、朝早くから仕事ですから。
 ロザーリア(空のグラスを載せた盆をもって登場。)おめでとうございます。何て素敵な結婚式だったこと! 長生きをするんですよ。百歳までね。あなたは私の娘みたいなもの。
 リッカルド(舞台裏で。書斎から出てきながら。)素晴らしい結婚式だった。
 フィルメーナ(ロザーリアに。)お願い、お水を一杯。
 ロザーリア はい、只今、ミスィズ・ソリアーノ。(右手に退場。)
 ドメニコ(書斎からとって置きのワインを持って登場。その封印のワックスの厚さから、それと知れる。)客もなし。披露宴もなし。だけど、内輪でワインぐらい飲まなきゃ。(左手のテーブルから栓抜きを取る。)こいつが眠り薬の役目を果してくれるぞ。
 ロザーリア(小さい皿の上にグラスを載せて登場。)はい、お水。
 ドメニコ 水?
 ロザーリア(ドンナ・フィルメーナに頼まれましたので、と言うように。)奥様に・・・
 ドメニコ ドンナ・フィルメーナに言うんだ。今夜だけは水は駄目だってな。それからルチーアに声をかけて。・・・おお、忘れてはいかん。アルフレード・アモローゾにも頼む。かの有名なジョッキー、競馬馬にかけては右に出るものなしの、通の中の通を。
 ロザーリア(右手の方に呼ぶ。)アルフレード、アルフレ! 来て、旦那様と一緒に一杯飲んで。ルーチ、あなたもよ。
 アルフレード(ルチーアと共に登場。)はい、只今。
 ドメニコ(この時までにグラスに注ぎ終っていて、みんなに配る。)さあ、フィルメ、乾杯だ。(全員に。)乾杯!
 アルフレード(飲む。)おめでとうございます。
 ドメニコ(愛情をこめて、この昔からの相棒を見て。)俺達の馬がよく走っていた、あの頃を覚えているか?
 アルフレード そりゃ、もう。覚えておりますよ。
 ドメニコ あいつら、もう走るのを止めちまった。もう大分前から走っちゃいない。しかし、私はそう考えるのが厭でな。頭の中ではいつも奴等が走っていると想像していたんだ。今となってみれば、あいつらがもうずっと前から走ってはいないと認める他はないな。(若い三人を指さして。)今はこいつらが走っているんだ。自分の力がどれだけあるか、試している。連中は若い。サラブレッドの若駒だ。俺達は勝負にならんな。レースからもう外れだ。
 アルフレード 外れですなあ・・・すっかり。
 ドメニコ さあ、飲んでくれ、アルフレ。(二人、飲む。)子供は子供・・・一家に三人も四人も子供が出来ると、どうしても父親ってやつはそのうち誰か一人を贔屓にしたがるものだ。それも奇妙な理由をつけてな・・・身体が弱いから、顔がみっともないから、他の連中より頑固だから・・・それで他の子供は、別に何とも思わない。それが父親の特権だ、ぐらいに思っている。ここの家の場合は違うぞ。つい今になって家族になったんだからな。これが一番いいのかもしれん。誰かに独り占めされていたかもしれない愛情が、平等に三人に行き渡るんだからな。(飲む。)乾杯!(フィルメーナ、何も言わない。この時までに胸からオレンジの花の花束を取り、時々その匂いを嗅いでいる。ドメニコ、三人の方を向く。)なあ、お前達、明日は夕食を食べに来るな?
 三人 有難うございます。
 リッカルド(フィルメーナに。)僕達はもう行かなければ。(キスをして。)お休みなさい。
 ウンベルト(同じようにキスして。)お休みなさい、お母さん。
 ミケーレ(キスをする。)お休みなさい。
 ウンベルト(ドメニコに。)お休みなさい、お父さん。
 リッカルドとミケーレ お休みなさい、お父さん。
 ドメニコ(感謝をこめて。)じゃ、また明日だ。
(三人、退場。アルフレード、ロザーリア、ルチーアも、その後から退場。ドメニコ、彼らが去って行くのをじっと見送る。それからテーブルに近づき、グラスに注ぐ。フィルメーナ、肘掛け椅子にどっかと坐り、靴を脱ぐ。)
 フィルメーナ 疲れたわ。本当にぐったり。一度にどっと来たわ。
 ドメニコ(優しく。)酷い一日だったな、お前には。この二、三日、難問に次ぐ難問だったからな。休むんだ。じっと静かに坐っているんだ。(グラスを取り、テラスの方へ進む。)ああ、綺麗な夜だ!
(フィルメーナ、喉の辺りに何かの塊(かたまり)が詰まったような気持。小さな唸り声を出す。じっと空中を見つめ、何かが起って来るのを待っている。顔が涙に濡れてくる。)
 ドメニコ(心配して。)フィルメ、どうしたんだ。
 フィルメーナ(幸せそうに。)私、泣いているの、ドゥンミ・・・ああ、何ていいんでしょう、泣けるって。
 ドメニコ(優しく、フィルメーナを抱擁する。)ほら、もういいんだ。お前は走り続けたんだ。・・・走り続けだ。そして障害にあって、バッタリ倒れた。しかし、起き上がった。また自分を取り戻した。その胸に耐えきれない重荷を抱えていた、すっかり疲れたんだ。もう終だ。走るのは終だ。心配も止めるんだ。よく休むんだ。(テーブルに行き、また注ぐ。)子供は子供・・・扱いは同じにしなければ。お前が正しいよ、フィルメ。お前の言う通りなんだ。(ワインをぐっと飲む。その時・・・幕)

  平成十四年(二00二年)五月二十六日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

This (English) version was first produced in Great Britain on BBC Radio 4 on 6 May 1988 with the following cast:

Domenco Robert Stephens
Filumena Billie Whitelaw
Alfredo Peter Sallis
Rosalia Patricia Hayes
Diana Joanna Mackie
Lucia Joan Walker
Nocella Laurence Payne
Umberto Ian Michie
Riccardo Mark Straker
Michele Ken Cumberlidge

Directed by Glyn Dearman