エレーヌ   (副題 「生きる喜び」)
          アンドレ・ルッサン 作
           能 美 武 功 訳

     登場人物
エレーヌ
メネラッス
エテオネユッス
エルミオンヌ
テレマッック

(三幕とも同じ場。メネラッスの宮殿の一室。装置担当者は、この部屋が人々に出会い、会話、議論、に適するよう気をつけること。トロイ戦争が終了した時のスパルタでのこと。)

     第 一 幕
(幕が開くとエテオネユッス一人。老人であるが、矍鑠としている。観客に語りかける。飾らない態度。)
 エテオネユッス 神々は見ていたのです。神様だけじゃない、召使いの私達だって。世の中のことって、当たり前には動きません。世の中が逆さまになるようなことだって起きるんです。それはここに今いらして下さっている皆様方に判断をお任せ致しましょう。でも、もう十五分早く来て下さってたら。・・・皆さんは一大活劇をお見逃しになったんですよ。惜しかった。ほらほら、遅く来られた方、早く席について。今からでも大丈夫。遅過ぎじゃありません。一部始終は私がお話しますから。だって私はここに居合わせたんです。ちゃんとこの目で見て、その興奮がまだ覚めやらないのです。私はこれまで起こったことを一大活劇って言いましたね。ですから言いますけど、本当の活劇は実はこれから起こることなんです。何故って、これからも随分思いがけない事が起こるんです。
 皆様、お揃いですか? 静粛にして下さらなければ、そして耳を傾けて下さらなければいけません。私は、私の主張する論点、私の怒りを理解して戴きたいのです。そのためには皆さんもこの家族の一員になって下さらなければ。私はこの家族のことはよく知っています。だってもう三十年もこの家に仕えてきているんですからね。でも皆さん、皆さんにはこれまでに起こった出来事を思い出して戴かないと。あれから相当時が経ってますから、忘れていらっしゃるかも知れない。さてここですが、ここはメネラッスの宮殿です。メネラッス、あのスパルタの王です。エレーヌの夫。ええ、あの有名なエレーヌのです。私はエテオネユッス。この宮殿の門番。門番だって言うと皆さん、私が昔やった大事なことをすぐ思い出すでしょうね。そう、私はパリスのために門を開けてやったんです。するとパリスはエレーヌを奪った。エレーヌだけじゃない、この家の中で、持ち運び可能なもの一切合財奪って行ったのです。するとメネラッスは・・・私の御主人ですよ、そしてエレーヌの夫・・・そのメネラッスは、兄さんのアガメムノーンとその仲間達と共に、武器を取り、エレーヌを取り戻しに行ったのです。
 えー、ちょっと皆様にこの家族のことを思い出して戴きましょう。よく理解して戴くためには、思い出して戴かないと・・・ 次のことは本当によく忘れられているのです・・・メネラッスとアガメムノーン、この兄弟がそれぞれエレーヌとクリテムネーストル、この姉妹と結婚したのです。たいして複雑な話ではありませんよね、本当は。でも兄弟姉妹同志のこの結婚は何故か忘れ易いですね。それから、お互いの子供達、それも分からなくなって・・・子供の方も簡単なんですよ。いいですか、エレーヌとメネラッスの娘、それがエルミオンヌ。アガメムノーンとクリテムネーストル、この夫婦の子供がオレストとエレークトル。本当はもう一人いたんです。でも、可哀相なイフィジェニー。イフィジェニーがどうなったかはご存じですね。お父さんのアガメムノーンが生贄(いけにえ)に捧げたのです。港に風が吹くように、そして船をトロイに向けて発進出来ますようにと。酷い話です・・・残酷な。でもこれが歴史ですね。さて、ですから、クリテムネーストル、アガメムノーン、オレスト、エレークトル、この人達は家(うち)の人達ではありません。この人達はアルゴスに住んでいるのです。私達はスパルタですよ。さて、メネラッスはエレーヌが誘拐された時、復讐を誓いました。必ず妻を取り戻し、殺すと。いや、まあ、とにかく復讐です。そして戦争、つまりトロイ戦争が起こったのです。それが十年かかってやっと終り、メネラッスはエレーヌを奪い返し、今スパルタに凱旋して来ました。
 そしてたった今、私が見たもの、それが皆さん、想像つきますか? 皆さんがここにいらっしゃるちょっと前に私が見たものを? メネラッスはエレーヌを連れて帰ったんですよ、この家に! エレーヌの死骸じゃない、生きたエレーヌをです! それも獲物とか、虜(とりこ)とか、そういう恥辱の資格ではなく、立派な、自分の愛する妻としてです! そう、こう言ってもいいでしょう。最愛の妻としてです。呆れたものです。皆さんに申し上げますがね、私はまだぼうっとしていて、意識が戻っていないんです。(整理をつけるために)独り言でも喋ってみないと気がすまないんです。それほどびっくり仰天です。見たのは私一人じゃないんですよ。召使い全員揃ってメネラッスを迎えに出たのです。お慰めして、これから先も忠誠を尽しますと。その忠誠を表そうと・・・そうしたらどうですか、婚礼を終えて宮殿に新しい女王を連れて来る王様の入場ですよ、まるで。エレーヌの方だって、こっちは棺(ひつぎ)が運ばれて来ると思っていたんですからね。 夫に刺し殺された・・・そうでなければ囚人として。ところがどうですか。満面に笑みを浮かべて。あの笑顔・・・あれは人生で最高という笑顔です。顔中に笑みが光り輝いている・・・そして言ったもんです。「あーら、皆さん、暫くね。私、帰れて嬉しいわ。」冗談じゃありませんや。
 そこにエルミオンヌが進み出ました。四歳の時にエレーヌが捨てて行った娘、今は十六歳になっています。その母親が何と言ったと思います?「ああ、あなたがエルミオンヌ? 言われないと分かりっこないわね。」そして笑ったんです。(何ですか、一体。)そしてメネラッスも一緒に笑ったんですからね。(呆れたものです。)いいですか。私は笑いませんからね。私はメネラッスにはっきり言うつもりです。そのために私はここで待っているのです。メネラッスは鎧のあと片付け。あの人の趣味なんです、あと片付けが。私がこういう性分なのはメネラッスもよく承知していますからね、単刀直入に言ってやります。私の方だってあちらを知っているんです。エレーヌのやり口だって分かってるんです。メネラッスが約束通りエレーヌの頭上に刀を振り上げる。トロイでエレーヌを見付けた時にですよ。その時エレーヌはこう言ったんです。決まってます。「あなた、刀なんか振り上げて何してるの、メネラッス。馬鹿な真似は止めて。品がないわ。」これでもう殺すなんて約束はおじゃんですよ。
 そう、私は言ってやります。「メネラッス・・・」そうそう、私はメネラッスのことを「メネラッス」と呼んでいます。エレーヌも「エレーヌ」です。(「王様」とか「女王様」なんて言いません。)こうでなくちゃ。それが伝統というものです。ここはスパルタですからね。ヴェルサイユじゃありません。「メネラッス、私の声は民の声です。私の意見には伝統があります。私はあなたに言うことがあるのです。」こう言うと、「留守中はどうだったんだ、エテオネユッス、 何事もなくて欲しいものだが。」
「いいえ、メネラッス。大ありです。」
「大あり?」
「そう。大ありです。」
ちゃんと説明してやります。かなり荒れた場面になるでしょうね。今からお目にかけますよ。それに、エルミオンヌとオレストのいちゃいちゃの話があります。これも私の大いに気に食わないことで・・・(メネラッス登場。)あ、丁度。
 メネラッス ああ、エテオネユッス! ここにいたのか。まづはお前に会いたいと思っていた。留守中のことを色々と訊きたいんだ。(召使い達が、刀類、鎧、兜を運んで来る。)勝利の甲冑か。ここだ!(二枚の鎧かけを指し示す。そこへ召使い達は武器と鎧をかける。)留守中はどうだったんだ、エテオネユッス。何事もなくて欲しいものだが。
 エテオネユッス いいえ、メネラッス、大ありです。
 メネラッス 大あり?
 エテオネユッス そう。大ありです。小さい事から大きい事まで。大問題です。
 メネラッス よし、手際よくやれ。
 エテオネユッス どの順序で?
 メネラッス 順序?
 エテオネユッス ええ。大きい方からか、小さい方からか。
 メネラッス 小さい方からにしろ。お前のあのいつもの癇癪を突然聞くのはかなわん。小さい方からじわじわとやれ。
 エテオネユッス この話をお聞き終りになって、まだその軽口がたたけるものか、疑わしいですな、メネラッス。
 メネラッス ドスの効いた出だしじゃないか。話してみろ!
 エテオネユッス メネラッス、あなたは私という人物を御存じです。私は門を守る男、そして昔風の考えを守る男です。伝統と私、それは一体なのです。
 メネラッス 分かっている。変わらないな、お前は。十年前と全く変わらん。嬉しいぞ、年を取っていないということなんだ、それは。
 エテオネユッス ではまづ小さいことを。オレストが来て強引に門を開けろと。あなたの留守中にやって来たのです。
 メネラッス オレスト? 兄貴の息子か?
 エテオネユッス そうです。アガメムノーンの長男です。あそこには男の子は一人だけです。それから言うまでもありませんが、あなたの連れあいの姉、クリテムネーストルの子供でもあるんですからね、このオレストというのは。
 メネラッス いやにしつこく言うじゃないか、分かりきったことを。
 エテオネユッス あなたがトロイに発たれる時家の守りを頼む、一人残して行くエルミオンヌも、同じく地下室に残しておく宝物類も頼んだぞ。そう言われたのです。ある時オレストが来ました。そう以前のことじゃありません。私はパリスのことがあってから、用事もなくただ好意だけをあてに家に泊めろという客を警戒するようになりましたからね。門を開けず、外に放り出しておきました。私はエルミオンヌを守る義務があります。違いますか。
 メネラッス それはよくやった。
 エテオネユッス すると私を口汚く罵りだしました。
 メネラッス 何だって?
 エテオネユッス 妻の駈け落ちという醜聞で名を上げるだけだは足りず、人のもてなしという礼儀を忘れるところまで堕落したのか、と。で、売り言葉に買い言葉、こっちも言ってやりました。夫を騙す前に家出をする方がまだましだぞ。夫が戦争に行っているのをいいことに、その家の屋根の下で夫を騙すよりはな。オレストはその場に釘づけになりました。私の言うことが分かったのです。怒ったのはそれから暫く時間が経ってからでした。
 メネラッス あいつに分かったというのは何なのだ。
 エテオネユッス 私の買い言葉の意味です。まだご存じない筈ですが、あのことはもう公然の秘密です。アガメムノーンがトロイ戦争に出発したその日、クリテムネーストルはエジストと関係を持ったのです。
 メネラッス クリテムネーストルが? エジストと?
 エテオネユッス ええ、その通りです。
 メネラッス アガメムノーンの出発の日に?
 エテオネユッス そうです。
 メネラッス ああ、エジストにとって、それは高くつくぞ。アガメムノーンが家に帰る。すると・・・今度の戦争で、兄貴は経験を積んだからな。妻を奪った男に対してはどう扱うべきかを。
 エテオネユッス このスパルタでは、メネラッス、観点が少し違います。
 メネラッス 観点が違う?
 エテオネユッス  そうです。スパルタでは経験を積むべきところは、妻を奪った男に対してどう扱うかではなく、奪われるに任せておいた妻に対してどう扱うか、なんです。
 メネラッス ふん、それか。それは別の問題だ・・・
 エテオネユッス 別ではありません。それこそがここでは問題なのです。考えを言ってみろと仰ったではありませんか。ですから言わせて貰います。一番小さいことからやれ、と。それでオレストの話をしました。いいですか。売り言葉に買い言葉、やりあった後私は門を開けてなんかやりません。閉め出しました。しかしまるで閉め出しの効果などありませんでした。
 メネラッス どういうことだ。
 エテオネユッス つまり、それでも入って来たということです。
 メネラッス どこから。
 エテオネユッス 分かるもんですか。好きな時に自由にエルミオンヌと会っていたようです。壁抜けの術でも知っているんでしょう、きっと。
 メネラッス それでお前は何も言わなかったのか。
 エテオネユッス ええ、何も。
 メネラッス じゃあ何のためにこんな話をしたんだ。
 エテオネユッス オレストはここに新式の考えを持ちこんで来たのです。ある日私はクリテムネーストルのことをエルミオンヌに話したのです。信じて戴けるかどうか。エルミオンヌは伯母さんの味方をしたのです!「人はいろんなことを言います。言わせておけばいいんです。」と。これにはオレストが絡んでいます。新式の考えです! これがお留守中の私の経験です、メネラッス。だから心配なんです。あなたも戦争なんかやってきて、新式の考えをひょっとして拾って来はしなかったかと。
 メネラッス 何だと?
 エテオネユッス 申し上げましょう。大きな心配は最後に言えと仰いましたね。心配というのは、あなた・・・メネラッス・・・私の御主人様・・・なのです。
 メネラッス 私? お前はこの私に不満があるというのか? エテオネユッス。
 エテオネユッス 御主人としてお慕い申し上げております。それだけに。
 メネラッス 分かった。言ってみろ。
 エテオネユッス これは民衆の声です、メネラッス。そして特にあなたの召使い達の声です。私はそれを代弁しているのです。昔のしきたりでは夫と子供を残して愛人と駈け落ちした妻は、辱めを受け、可能ならば罰せられたものです。それにトロイへと出発した時のあなたの目的、それは妻を罰することだった筈です。ところがどうですか、やったことと言えばただエレーヌを連れ帰っただけ。エレーヌは死んでもいないし、虜でもない。辱められてさえいない。私達召使いはこれをどう考えたらいいのでしょう。そして私達のあの人に対する態度は? エレーヌはもうあなたの妻ではないのですから・・・
 メネラッス 沢山だ、エテオネユッス! お前どうかしているな。自分を何だと思っているんだ。早く持ち場につけ! お前は門番だぞ。 いいか、エテオネユッス、二度とあれのことについてあれこれ言ってはならん。この私の耳にそんな話が届かないよう気をつけるんだ。私が何故あれを殺さなかったか。簡単なことだ。あれが美しかったからだ。お前はな、いいか、美しくはないんだ。これを肝に銘じて言葉に気をつけるんだな。
 エテオネユッス はあ、分かりま・・・
 メネラッス それから新式の考えとか言っていたな。私は慥に多少新式の考えを取り入れているかもしれん。戦場で戦っているものは、ただ門の傍で靴拭きマットを守っている者よりは新式の考えになりやすい。私は十年もの間戦場にいたんだからな。あれがパリスと一緒に逃げた時、私はあの二人両方とも殺すつもりで追って行った。勿論だ。戦争が終り、あれを見付け、私は昂然と頭を上げてあれをこの家に連れ帰った。驚いたか。そうかもしれん。将来にわたっても、お前にこれほどの新しい考えはあるまいからな。骨壷に灰を入れて持ち帰るかと思いきや、なんと血も肉もある私の妻、生きた儘が戻って来たんだ。驚くのも無理はない。確かに戦争を境に、私は考えを変えた。お前も考えを変えるんだな。さもないと私との間に面倒なことが起きるぞ。
 エテオネユッス 分かりました、御主人様。(去りながら。)戦争に行くと誰でもああなるのか。歯に衣着せない言い方だ。やれやれ、トロイ戦争か!
(エテオネユッス退場。)
 メネラッス あれで門番か。「民衆の声」、その方がよっぽど新式の考え方だ。民衆に声があった例(ためし)なんかないじゃないか。声があるのは新聞だけさ。
 エレーヌ(舞台裏で。)どこなの、どこ? あの子は。私、あの子に会いたい、今すぐ。(登場。)ここにもいないわ。(舞台裏を見ながら。)すぐ捜して来て、アドラスト。あの子、自分の部屋にいる筈。私はここで父親と一緒に待っていますからって。(メネラッスに。)十二年間家を留守にしていて、帰ったその日に自分の娘と話も出来ないなんて。何? 一体。
 メネラッス 帰って来てちょっとあの子を抱いたかと思うと、すぐ、「じゃあ、後でね」なんて言うからさ。
 エレーヌ あんな大旅行の後だもの、お風呂ぐらい入らなくちゃ。
 メネラッス そりゃそうだ、エレーヌ、やっと家に帰ったんだ。今日は偉大な日だよ。好きなだけ風呂にでも何でも入るがいい。(エレーヌを抱擁する。)ああ、懐かしいこの匂い。いつもの香水だね。
 エレーヌ 偉大な日、分かったわ。でも今はエルミオンヌよ。あの子が問題。今すぐ会わなくちゃ。私はあの子に係わって、理解してやって、導いてやらなければ。 私はあの子の母親、あの子は私の娘なんですからね。私はあの子の人生の中で重要な役割を演じなければならないの。
 メネラッス あの子はもう赤んぼじゃないぞ、エレーヌ。もう十六歳だ。
 エレーヌ 何故そんなことを言うの。
 メネラッス 何だか急に教育ママの役を演じようとしているように見えたのでね。それとも本当に教えたいことが何かあるのかい? たとえあったとしても、もう遅過ぎはしないか。
 エレーヌ あの子の年を態々(わざわざ)言ったりして。何? それ。あなた、私がもう二十歳ではないって、そんなことを言いたいの? 私があの子を生んだのが十六歳の時。だから今私は三十二歳。三十二歳って女が顔を赤らめねばならない年かしらね。あなたって人の嫌がることを言う天才だわ、メネラッス。
 メネラッス  そして君はね、エレーヌ、無駄な議論を吹きかける天才だよ。いや、ここで口喧嘩は止めておこう。僕は厨房へ行く。
 エレーヌ 厨房? 厨房で何をするって言うの。エルミオンヌを呼んでいるのよ。あなた、自分の娘に会いたくないの? あなただって十二年間会っていないのよ。
 メネラッス 君達の初めての出会いを邪魔したくないんでね。どうやら相当重要な意味がありそうだ。僕は厨房に用があるし。
 エレーヌ 厨房に用? 王様が十年間国を空けていて、帰って来て一番に用がある場所が厨房? 普通の場合だって王様が厨房にいるなんて奇妙な話よ。そのこと自体随分新式なんじゃ・・・
 メネラッス そうかもしれない。しかし民衆の声というものを聴かなければ。それには厨房が一番いいんだ。それに、言っておくけど、民衆の声を聴くというのは、君のためでもあるんだ。さ、君は娘に会って。じゃ、後で。
 エレーヌ 民衆の声! 厨房で? 気まぐれだこと! 「トロイ戦争より帰還後、厨房においてコック達と話すメネラッス」。 ギリシャの彫刻家達が好む題材ね。きっと歴史に残る作品になるわ。(エルミオンヌ登場。)ああ、エルミオンヌ。お前、どこに隠れていたの? 隠れていたんじゃないのなら、忙しかったため? さあ、こっちに来て、顔を見せて。さっきは顔がちょっと見えただけ。そうそう、声も聞かせて。お前の声も知りたいの。一番最近に聞いたお前の声って、赤ん坊の声だもの。お前には分からないだろうね、赤ん坊の時に別れたきり会ってなくて、急にこんな立派な娘になっているのを見るのがどんなに気恥ずかしいものか。奇麗だよ、お前は。本当に奇麗。それにお前、ブルネットなんだね。赤ん坊の時は慥か、ブロンド系だと思っていた。少なくともそれがお前の小さい時の思い出なの、私の。
 エルミオンヌ  私よく伯母様のクリテムネーストルに似てるって言われるの。本当? お母様。(私、厭だわ。)
 エレーヌ まあ、なんてことを言うの、お前。伯母さんと似てるって言われて嬉しい筈よ。だってあんなに奇麗な人そうそう居(い)はしなかったわ。
 エルミオンヌ いたわ。お母様だわ!
 エレーヌ そうね。人はよくそう言ってくれた。
(エレーヌ、エルミオンヌにキス。)
 エルミオンヌ ええ。それに今でも。
 エレーヌ 赤ん坊のお前の頭に、私のどんな姿が刻まれていたのかしらね。私の横から見た立ち姿? 顔? それとも、目?
 エルミオンヌ いいえ、着物。着物だけだわ。
 エレーヌ 着物?
 エルミオンヌ ええ、緑色の。金の縫い取りが足元で揺れていたわ。子供は床に住んでいる。子供の目に止るのは、床から大人の膝までの位置にあるもの。私の覚えているのは、だから、あの着物の裾、それにお父様のふくらはぎ。
 エレーヌ おかしな子! で、今度私に会ってどうだった? このお前の母親は、お前の気に入ったかしら。それともがっかり?
 エルミオンヌ いいえ。お母様は伝説そのまま。奇麗だわ。
 エレーヌ でも戦争があったわ。戦争の後ではよく人は言うものよ。「戦争前のあの人、それは大変なものだった」って。
 エルミオンヌ あら、お母様。私に褒めて貰いたいの?
 エレーヌ それはそう。お前がすぐ褒めなかったらね。でもお前、気に入ったと言った。だから満足。お前を見れば昔のことを思い出すのが当たり前じゃないの。お前を見たから私は色々思い出したんだよ。
 エルミオンヌ 私はまだ子供。
 エレーヌ 当たり前! 丁度今、そうお父さんに言ってたところ。お互い、よく分かり合わなくちゃね、エルミオンヌ。やっと私、お前のことを構ってやれるようになったんだから。私の世話がお前にはきっと必要なの。お前はきっと私の言うことを理解してくれて、私の言う人生の生き方も分かってくれると思う。お前には人を魅了する力がある。いいことよ。私は嬉しいの、それが。話をする時だって上品だし、うっとりさせるわ。ほら、話して、何か。そう、私のことでも、何か。きっと馬鹿なことを山ほど聞かされているだろうね。話して、何でも。このスパルタでの噂を。私のこと、私の帰国のことについて。
 エルミオンヌ お母様、そのことはもう心配しなくていいわ。私、みんなに話してすっかり誤解はといてしまったもの。白い目をしてお母様を見る人なんて誰もいないわ。昔と同じよ。肩身の狭い思いなんか、何もないのよ。それは本当に大丈夫。
 エレーヌ 肩身の狭いこと?
 エルミオンヌ ええ。何もないわ。
 エレーヌ お前、私が肩身の狭い思いをしないようにしたって言うのね?
 エルミオンヌ  そうよ、お母様。今ではみんなが知ってるわ。パリスとお母様の間で、いけなかったのはパリス。お母様は濡れ衣だったって。
 エレーヌ 濡れ衣? 何のこと? 犯罪でもあったっていうの?
 エルミオンヌ 「犯罪」ではないわ、勿論。でも私、みんなが考えていることが分かるの。もうその年頃にはなっているわ。みんなは思っていたの。パリスはお母様の恋人。そのパリスと二人でギリシャから逃げて行ったって。でも今では真実は一つだけ。私の話だけが信じられているわ。
 エレーヌ 何かしら、そのお前の話っていうの。何だかひどく面白そうね。
 エルミオンヌ 単純な話よ。パリスは家に入って来て、金目の物を盗んだの。その時お母様を、知らないまに共犯者にしてしまった。仕方がないのでお母様はパリスについて逃げるしかなくなった。ところが風の向きがパリスの思惑をすっかり駄目にした。神様がお母様の味方だったっていう証拠ね。船はトロイに行く代わりにエジプトへ流されて行った。そこでお母様はトニスとポリダームに助けを求めた。二人ともいい人。トニスなんて、「人はもてなせ」っていう法律を正直に守って、パリスを殺すどころか、わざわざ船を仕立ててトロイに一人送り返した、お母様は残して。だからお母様はお父様が迎えに来るまで、ずっとエジプトにいたの。
 エレーヌ それでおしまい?
 エルミオンヌ ええ。それで充分だったわ。
 エレーヌ それでトロイ戦争はどうなるの?
 エルミオンヌ トロイ戦争?
 エレーヌ(今の話なら、トロイ戦争は不要でしょう?)トロイ戦争は起こらなかったと、みんなをうまく言い包(くる)めたの?
 エルミオンヌ 戦争はあった。でもそれは誤解のため。そう説明したわ。
 エレーヌ 誤解?
 エルミオンヌ ええ。お父様達はトロイに着いて、お母様を出せと言った。でもお母様はエジプトにいるんですもの。勿論トロイの人達はいないと言った。それでもお父様は疑い深くて、トロイ方の悪い冗談だと思った。だってパリスの方はここにいると、はっきり言ったんだから仕方がないわ。それで戦争は始まった。トロイの人達は本当のことを言ったんだけど、お父様はそれを冗談ととったのね。それが結局トロイ戦争なの。
 エレーヌ じゃあ、みんなが生きたのも死んだのも、全部その筋書きの上でなのね?
 エルミオンヌ ええ。そう。
 エレーヌ 私はどうなるの?
 エルミオンヌ どうなるって?
 エレーヌ 馬鹿な子。トロイ戦争、それは私なの。ああ私、神様にどんな悪いことをしたっていうんでしょう。家に帰ってみると娘がこんな風になっているなんて。私の肩身が狭くないように! 呆れた子! そう、お前は私の姉に似ている。身体つきも、考えも。肩身を広くする、それも嘘で築きあげて。その考え、クリテムネーストルそのものよ。ただの奇麗ごと! 恥ずかしくないの、お前。肩身の広い人生、大手を振って生きて行ける人生、それだけに興味のある、馬鹿なエルミオンヌ。よく聴くんです。いいですか。パリスは家具など盗みません。あの人と私はまっすぐトロイに行きました。神様は丁度それに合う風をトロイへと帆いっぱいに膨らませたのです。それからね、私があの人と行きたいと言ったのです。そうでなければ、どうしてあの人が私を連れて行けたでしょう。
 エルミオンヌ まあお母様、なんて酷い話を!
 エレーヌ これが酷い話? お前の方がよっぽど酷い。私に罪がなかったと証明しようとするなんて。よくお聴き。私に罪など最初からないのです。「愛した」。そう、私は愛した。それがお前には罪なのね? いいでしょう。百歩譲るわ。でも譲ったって、せいぜい言えるのは、それが大きな不幸、世界中のどんなものを持ってきても、それを逃れることは出来ない不幸、その程度ね。さ、これが私の無実の証明。あの時まで私、男の人から愛されるのには慣れていた。誰もかれも、私が求めなくても、すぐ私に何でもしてやろうと言い寄って来た。だけどあの時は、私の方が愛したの。お前のお父さんと結婚した後だったから、これは確かに不幸よ。運命だった。避けることは出来なかったわ。でも私には少なくとも、そこで嘘をつかないでいられる力があったわ。その力が「自由」というものよ。「私の自由」。それに人はこういった事に寛容でなければいけないんじゃない? だって同じことがその人に起こってご覧なさい。その人、私と同じように不幸になるのよ。いいえ、私は私の本当の話を皆に知って貰いたいの。お前が蒔き散らしたあんな惨めな作り話よりはね。もう一度はっきりさせて置きましょう。トロイ戦争、それは私! それを否定することは、私自身を否定すること。いい? あの悲惨な戦争、それによって引き起こされた不幸、その責任は全て私にあるのです。私はそのことをうやむやにしたくはないのです。私が原因で不幸になった人々、その人々に対する償いを私がすることが出来る、それを私は誇りに思っているのです。私は今日お前が世間体ばかりを気にする女に育っていることに気づきました。こんな風にお前を長い間ほったらかしていた私の責任だわ。私、このことは悔やむわ、きっと。私が育てていたらこうはならなかった。まづ何はさておいても、真実を愛することを教えたでしょうからね。パリスが私を力づくで奪ったなんて、そんな考え、どこから来たのかしら。
 エルミオンヌ 解釈としては、お母様に一番通りがいいと思って。
 エレーヌ あら、他にも解釈があったのね? 私に相応しくないから捨てられた解釈。知りたいわ、どんなのか。
 エルミオンヌ(神様だっていう話。)こんなに進んだ世の中で、神様が魔法をかけたなんて、とても言う気はしなかったわ。
 エレーヌ 何を言っているの、お前。神様の魔法、それこそみんなに話してしかるべきことでしょう? だって、それが真実なんですからね。私は確かに自分の意志で家を出て行きました。でも、そんな気にさせた神の魔法が心の中で動いているのを感じていたのです。お前にもそのうち分かるでしょう。愛される、なんてただの夢だって事がね。ただ、その夢、その錯覚が・・・よく覚えておおき・・・それこそが愛の真実なのです。その錯覚こそが大事なのです。
 エルミオンヌ 私、すみませんけど、その意見に賛成ではありませんわ。
 エレーヌ お前、愛を知っているのかい? 愛について私にお説教をするつもりなんじゃあるまいね。
 エルミオンヌ 私、愛とは何か知っています。だって、愛しているんですもの。
 エレーヌ 愛している? 誰を。
 エルミオンヌ オレストです。
 エレーヌ いとこの?
 エルミオンヌ ええ。
 エレーヌ お前今までに、オレストに裏切られたことは?
 エルミオンヌ そんなこと、一度も。
 エレーヌ ということはね、お前はあの人に幻想を抱いたことがない、つまりお前はあの人を愛していないということ、残念だけど。幻想、それは愛の第一歩なんだからね。
 エルミオンヌ 私も残念ですけど、お母様に賛成出来ませんわ。私、オレストを愛しています。それにお母様は率直を一番尊んでいらっしゃるようですから、私はっきり言いますけど、お母様のあの大恋愛の話を聞いて私、私の方がよっぽどお母様より年寄りっていう気がする。ええ、私、こう言ってもちっとも恥ずかしくない。私、人に後ろ指を指されないで生きて行きたいの。普通に結婚をして、誠実に生きて行く。普通で何の変哲もない人生、そういう人生を作りたいの。
 エレーヌ オレストと結婚して?
 エルミオンヌ ええ。
 エレーヌ 決めたのね、お前は、それを。
 エルミオンヌ ええ。心の底から。
 エレーヌ 私に相談したいことなど、何もないのね?
 エルミオンヌ だってお母様が私の立場に立つことは無理。それなら私の愛を理解するのも無理ですわ。
 エレーヌ まあま、帰って来て早々にこんなこと聞かされるとはね。
 エルミオンヌ オレストと結婚するのに、何か悪いことでもあるのかしら。
 エレーヌ あるわね、残念ながら。私の目から見ると、酷く悪いことがあるわ。
 エルミオンヌ それは?
 エレーヌ そのことはまづお父様に話してから。
 エルミオンヌ あら、丁度いらしたわ。
 エレーヌ 厨房で随分あの人、手間取ったわ。ちょっとお父様と二人だけにしてね。
 エルミオンヌ じゃあ私、庭に出ていますわ。
 メネラッス(両手に鎧などを磨く道具を持って登場。)何だ、エルミオンヌ、私はお前に会おうとして出て来たというのに、お前は出て行くのか。
 エレーヌ 出て行って欲しいと言ったのは私。私、あなたにお話があるの。それも急ぎのね。あまり遠くには行かないのよ、エルミオンヌ。
(エルミオンヌ退場。)
 メネラッス どうしたんだい、一体。
 エレーヌ 少なくとも厨房での事と同じぐらい大切なこと。
 メネラッス あの子に会って、何か心配事でも?
 エレーヌ そう。大変な心配事。有り難い話、私はトロイなんかには行っていなかっただって。信じられる? これだけだって、充分心配の種。 この話はまた後で。でもその後の話はもっと重傷。
 メネラッス ほう。
 エレーヌ そう。あの子は幼稚。私の姉にそっくり。
 メネラッス ほほう。
 エレーヌ あの子はね、メネラッス、馬鹿なの。
 メネラッス だけどクリテムネーストルは馬鹿じゃないぞ。
 エレーヌ 姉と似ているところ、それは世間体を気にすること。
 メネラッス それはまあ・・・
 エレーヌ(メネラッスの手から、鎧を磨く布とか油類を取り上げて。)それがいいと仰るの? あなた。
 ネラッス(取り返そうとしながら。)いいも悪いも・・・
 エレーヌ それにあの子、オレストと結婚しようとしている。
 メネラッス ほほう。
 エレーヌ 理由がお分かり?
 メネラッス それは愛しているからだろう?
 エレーヌ(磨く道具をテーブルの上に置いて。)出だしはね。でもそれだけじゃないの、理由は。・・・誠実に生きたい、裏切るのが厭だから結婚するっていうの。
 メネラッス(笑って。)ほほう、それは深刻な事態だ。
 エレーヌ あの子はこういったことについて、何の教育も受けていないの、メネラッス。それが深刻なのよ。何しろ、ずっとほったらかしだったんですからね。
 メネラッス それはなかなか良い指摘だ。だけどその責任は一体誰にあるのか、お聞きしたいものだ。
 エレーヌ 私は出て行ったわ、確かに。
 メネラッス そうだろう!
 エレーヌ でもあなたも出て行ったわ。勿論私のために出て行ったとは言えるけど、それでも出て行ったことには違いないわ。理由はそれぞれ違ったけれど、とにかく二人とも出て行ったのよ。あなたがもっと早く勝利を手に入れていたら、私を取り戻すのも早かったでしょうし、そうしたらあの子も教育を受けられたのよ。
 メネラッス なあ、エレーヌ・・・
 エレーヌ でもすんだことは仕方がないわ。あなたの戦争の仕方に難癖をつけるのは止めましょう。
 メネラッス そう。難癖ね。君は僕に何だって言えるよ。
 エレーヌ(よしましょう、こんな話。)二人とも家に帰って来たんですからね。これからは家の問題を片付けるのが仕事。
 メネラッス 分かってる。しかし家の問題って何だ? エルミオンヌの考えていることに、何かまづいことでもあるというのか? あの子をオレストに嫁がせたいと二人で思ったこともあるじゃないか。それが具体化するんだ。僕には大変結構なことに見えるがね。
 エレーヌ あの子が三歳の時に私達が考えた事、それが具体化するのが結構なことなのね。
 メネラッス そうさ。それにあの子がオレストを愛しているというに到っちゃ、よけいだ。
 エレーヌ じゃ、経験はどうなるの? 何の役に立つの?
 メネラッス 経験? 何だい、経験て。
 エレーヌ あなたの、そして私の。つまり私達の経験。
 メネラッス 分からないな。
 エレーヌ 簡単な話よ。オレストはあの子の夫に相応しくない。それだけの事。
 メネラッス それなら分かった。君は勝手にこの結婚は駄目だと決めて、僕に相談するような顔をしてその実、君の決定を僕に押しつけようとしている、そういう話なんだな? 僕の方もだから簡単に答えよう。オレストは全く僕の好みにあっている。エルミオンヌが夫として望んでいるなら、僕は賛成だ。
 エレーヌ あなたはオレストのことを知らないわ!
 メネラッス 君も知ってはいない!
 エレーヌ 確かに知らない。でも分かっていることがある。オレストは私の姉、それにあなたの兄さん、その二人の間の子供だっていうこと。私にはそれで充分。ここからでも手に取るように分かるわ。
 メネラッス 君の姉さんについて君がどう考えようとそれは君の勝手だ。しかし僕の兄についての判断は勝手にして貰っちゃ困る。
 エレーヌ アガメムノーンを判断する、簡単でしょう? だって同じ家族の血をひいているあなたの兄さん。分かって当然よ。
 メネラッス 血をひく話はあまり前面に出さない方がいいんじゃないか、エレーヌ。僕と兄貴、君と姉さん、それを二つ並べて比較したら、こちら側が有利になるのは目に見えているからな。
 エレーヌ 有利? 何が有利なの。
 メネラッス 君が逃げて行ったもうその日に、僕は兄貴に相談した。なんとかして僕の名誉を挽回しようとね。彼はすぐさま兵をあげ、船出してくれた。また十年間ずっと僕と共に戦ってくれた。ところで君の姉さんの方はどうだ。夫が戦(いくさ)に発って行ったもうその日から・・・これはたった今エテオネユッスから聞いたのだが・・・我々の醜聞以来の大スキャンダルだ。クリテムネーストルは夫をエジストに置き換えたのだ! いくら君だって、これには一言もないだろう。これが二人の兄弟と二人の姉妹のやったことさ。比べて見るがいい。(メネラッス、道具を取り戻し、勝ち誇って鎧を磨き初める。)
 エレーヌ 比べるって簡単よ。戦を遂行した二人の戦士、それに愛を遂行した二人の女、それぞれ自分の役を演じたまでよ。
 メネラッス これは御立派な御考察、デリカシーのある御判断・・・
 エレーヌ 判断しろと言ったのはあなたでしょう? それに姉が他に恋人を持ってたって私、異常だとは思わない。十二年間も家をほったらかしにする夫なんですからね。
 メネラッス アガメムノーンが帰って来て、これから恐ろしい事件が発生するぞ。僕は兄貴という男を知っているからな。
 エレーヌ とにかく姉の行動がオレストとエルミオンヌの結婚には有利に働かないことは確実ね。
 メネラッス そうだ。しかし立ち戻って考えれば、オレストはオレスト。この件にオレストは何の関係もない。一番いいのは、オレストに来て貰って我々が判断することじゃないか。
 エレーヌ 判断なんかすんでるわ、私は。オレストは母親そっくり。だからこそエルミオンヌとうまが合うの。娘は父親に似、息子は母親に似る。これはよく知られた事実だわ。
 メネラッス おいおい、エレーヌ。よく知られた事実って言えば、子供は屡々(しばしば)その両親よりは用心深く生きる、ということも、そのこと以上によく知られているんだぞ。
 エレーヌ それは子供達に経験がないから。そして教育がまた、なってないからよ!
 メネラッス それそれ。それが君の馬鹿な論理なんだ。
 エレーヌ 何ですって!
 メネラッス 用心深さが教育の欠如のせい? 一体どこからそんなことが言えるんだ?
 エレーヌ 若い時に用心深く生きるなんて、下らないの。それは駄目なの! 入り口から堂々と入らないで、出口からこっそり入るようなもの。若い時にはまづ生きる喜びを持つのよ!
 メネラッス と言うと?
 エレーヌ 生への歓喜よ。目茶苦茶を恐れない気持ち。
 メネラッス だけどあの二人、好きなことをやっているぞ。親の許容範囲いっぱいにね。エテオネユッスもさっきそう言っていたな。
 エレーヌ こんな時にどうしてエテオネユッスなんかが出てくるの。一体あの男が何だっていうの。靴拭きマットの傍に突っ立って人を観察する、それがあの男の出来る精々のところ。それにオレストについてあの男が何を知っているっていうの。聞きたいものだわ。
 メネラッス それが、時々家にやって来たという話なんだ。
 エレーヌ そう。親がいないのをいいことに、門番は逢引を勧めたって訳ね。
 メネラッス 逆だよ、それは。オレストに対してすっかり腹を立てている。二人で相当やりあったらしい。
 エレーヌ でもとにかく入れてやったんでしょう?
 メネラッス オレストは勝手に自分の許可を取ったということになるか。
 エレーヌ 立派な門番! 言うことなしね。
 メネラッス この話はまあいい。脱線はやめて本題に帰ろう。エルミオンヌに教育が欠けているという話をしていた。それから、生きる喜び、将来持つべき夫、それも欠けているという話だった。それで一体、君の言いたいことは何なのだ、本当のところ。
 エレーヌ これはちゃんと聞いて戴きたいわね。
 メネラッス(今まで鎧を磨いていたが、それをおいて。)分かったよ。で?
 エレーヌ あの子は今、危機に立っている。私達はそれを救わなくちゃいけないの。あの子が救えないないようだったら私、あの子をほったらかしておいた責任を取らなくっちゃならない。だからなの、あの子に言い聞かせなきゃと思っているのは。オレストとの結婚は駄目。これはどうしても言わなきゃ。だって破局が来るに決まっている。何故ってあの子、男なんてあのオレストしか知らないんですからね。結婚後もし誰か「男」に出会ったら・・・私が「男」と言える男のことだけど・・・そしたらあの子、早すぎた結婚を必ず後悔するの。そして苦しむの。分かった?
 メネラッス ほ、ほ、ほう。これは厳しい。
 エレーヌ あの子にはまづ「経験」が必要なの。今すぐにでも恋人をあてがってやらなきゃ。結婚はその後!
 メネラッス なるほど。ということはつまり僕は、誰かあの子がぽーとなるような男を見付けてやればいいというわけだ。あの子がちゃんとそいつと駈け落ちして、それからは結婚後も結婚した相手に忠実でいた方がいいと思わせるような。
 エレーヌ 駈け落ち? まあそうね。あなた、冗談を言う時の方が的を射てるわ。それ、私の考えを通り越しちゃっているけど、筋はそういうこと。出来ることならすぐ実行に移さなきゃ。あの子を駈け落ちさせなきゃ。ピタリよ、あなたの考え!
 メネラッス だけど具体的にはどうしろっていうんだ。今の今、やれることがあるのか? 時々僕は君が狂ったんじゃないかと思うことがあるよ。
 エレーヌ 駈け落ちがどんなことか私にはよく分かっている。ちゃんと分かってるんですからね。あなたには分かってないの。
 メネラッス 駈け落ちは知らなくても僕は娘は知ってるんだ。僕の娘だからな。真面目で、まともで、バランスの取れている子だ。どうしてあの子をほうっておけないんだ。君だって自分の生きたいように生きてきてるんじゃないか。
 エレーヌ 生きたいように生きる、それをあの子にやって貰いたいのよ。あの子がそうしないから困ってるんじゃないの。いとこと結婚するなんて言っているけれど、それがお利口なこと、二つの家族の絆を固めることだと思ってのことなの。あの子は私の娘。結婚後、本当に心を動かされる男が現われた時、自分の感情を抑えきれず、早く結婚しすぎた事をひどく後悔することになるの。生きる喜びを見付けて、それがもう手遅れだと知るのは、あの子のタイプにはとても危険なの。私の場合どうなったか。分かるでしょう?
 メネラッス そんな時は夫も考えるんじゃないか、対策を。あの子の場合はオレストが。
 エレーヌ オレスト! あれに何が出来るっていうの。真面目一本槍の、何の経験もない、ユーモアのセンス、ゼロの、あんな男に。ああいうタイプの男、ちょっと見ただけであとは空(そら)で言えるわ、私。まづ人生をそのまま受け取ることをしないで、欠点を先に見てしまう。するとそれが気になって仕方がない。どうしたらそれを矯正出来るか、その対策を捜す。(その後は実行。)このタイプの男は実行あるのみ。必要なら犯罪でもやる。神の意志だと信じ込むと、もう待ってはいられない。「自意識過剰」っていうの、こういう人を。何ていう人種かしら。ああ、メネラッス、お願い、エルミオンヌを助けてやって!
 メネラッス どうやら君の辿(たど)った道をあの子にも辿らせるしか他に手はなさそうだな。
 エレーヌ それは駄目! 私はいや! あの子にはもっと輝かしい人生を送らせたいの。もっと愛情に溢れる人生を。ああ、今ここにピリュッスがいたら。あの人がいたらどんなにいいか。
 メネラッス ピリュッス? アシッルの息子の?
 エレーヌ そうよ。
 メネラッス あの男をどうするっていうんだ。
 エレーヌ 婿にとるのよ。当たり前でしょう!
 メネラッス ははあ、それで分かった。それが君の考えって訳だ。だいたい君はあの子に、あの男を夫にしたいかどうか、ちょっとでも訊いてみたことがあるのか? あの子にだって選択の権利というものがある。それにピリュッスという男をあの子は今までに見たこともないんだぞ。
 エレーヌ ないわ。でもこれからひょっとして出会うという危険性があるわ。だから手遅れにならないうちに、今のうちに会わせておくのがいいのよ。ピリュッスは、そうね、女だったら、男ならこうあって欲しいと夢みるもの、それを全て備えている。あの子がピリュッスに出会う・・・それが何時かは分からないけど・・・その時あの子は身も心もぼうっとなってしまうの。そしてもうそれ以前の冷静さには戻れないの。
 メネラッス 僕はピリュッスにはしょっちゅう会ってる。あいつを見て身も心もぼうっとなるなんて一度もないぞ。そんな魔法のようなものは何もありゃしない。
 エレーヌ 私にとってはあるわね。じゃあその父親のアシッルはどうだった? あの人にも魔法なんて全くなかった?
 メネラッス 君ねえ、生きる喜びだか何だか知らないけど、それは君のおはこだ。勝手に何とでも言えばいい。だがね、アシッルは僕の仲間だ。君よりはよく知っている筈だよ。いや、堅くそう信じているよ。噂通りとすれば、君とアシッルはあの戦いの間中ずっとこっそり会っていたことになるんだが、僕はそれを決して信じていないからね。
 エレーヌ 私、あの人に会ったことなんか一度もない。
 メネラッス そうだと思っていたよ。
 エレーヌ でも、会えればなあと、何時でも思っていたわ。
 メネラッス だけどこれもまた確かだな。もし奴に会っていたとしたら、君は今みたいな憧れの気持ちでは決してあいつのことを話しはしない、とね。アシッルはもう伝説が一人歩きしている男なんだ。それだけだよ。あいつは確かに軍の士気を高めた。それは言える。しかし君が思っているあいつの像、それは単なる神話だ。それはともかく、あいつが世界中のあらゆる美徳を持っていたとしても、息子とはまた何の関係もない。君のピリュッスを讃美する根拠にはならないよ。
 エレーヌ あなた、お願い。ピリュッスを家に招(よ)んで。今すぐ。
 メネラッス 何を言うんだ、エレーヌ。気が狂ったか。あんな奴と一緒に同じ屋根の下に寝るなんて僕はまっぴらだからね。
 エレーヌ あら、何故?
 メネラッス 何故って・・・あいつを家に招ぶのは厭なんだ! それだけだ。・・・よく君にそんなことが言えたもんだ、しゃあしゃあと。呆れたものだ。娘の結婚の話にかこつけて自分の要求を通そうというのか。それで僕が言うことをきくとでも? 全く呆れた話だよ。君は妻として最も基本的な「貞淑」という感情を持ち合わせていないのか。君はここに帰って来た最初から、僕を騙していたんだ。・・・そうだよ、二人でこの話を始めた最初からだ。・・・娘の結婚、将来、に対して母親づらをして、その実、娘の将来なんか全く念頭にない。君の本心は今出て来たそれだ。今の君の計画はな、君自身のためなんだ。自分のために招びたいんだ。エルミオンヌのためなんかじゃない。君はアシッルを愛していた。そして今でも愛しているんだ。生きていようと死んでいようとね。だから彼の血を引いている唯一の人間、そいつを僕が招待しなきゃならないんだ! 娘がそいつに会えるようにとね! パリス、エクトール、アシッル・・・まあ年のことは言わないことにしよう、エレーヌ。だけど君はね、もう女ざかりは過ぎているんだ。もうとっくにね。少しは程ということを考えてくれなきゃ。汚名を着る相手も一世代どまりにして貰いたいよ。次の世代にも攻撃を仕掛けるのは止めてくれ。(甲冑から刀を取ろうとする。)
 エレーヌ お黙りなさい、メネラッス。そのような侮辱の言葉をこれ以上黙って聞くわけにはいきません。いいですか、これっかぎり、はっきりさせて戴きます。私をここで尊敬する妻として留めておくのか、それともここで私を殺すのか。さあ、決めて下さい。もしあなたにとってこの私が必要でないなら、私はこの家に一時間と留まってはいません。私を殺して少しは胸がすくのなら、あなたの武勇赫々たる刀のもとで死にましょう。あの刀はどこ? 食堂に置いてきたのね? さあ、早くどちらかに決めて下さい。
 メネラッス それは誤解だ、エレーヌ。僕は単にピリュッスが来るのが厭で・・・
 エレーヌ 早く決めて! さっさと。
 メネラッス 決めるって何を。
 エレーヌ 言っておきますが、今日私が発てば二度と連れ戻すことは出来ません。いいですね。それから留まるとすれば条件は唯一つ。あなたからの侮辱の言葉を決して私が聞くことがない。これが条件。さあ早く。
 メネラッス 君が出て行けば・・・
 エレーヌ 殺してもいいのです。繰り返しますけど。
 メネラッス  馬鹿なことを言うな。トロイで殺さなかったじゃないか。今頃殺してみろ、なんて反応の鈍い男だ、と言われるだけだ。
 エレーヌ じゃあ?
 メネラッス 君には苛々するな、エレーヌ。そちらが自分で決めたらいいだろう? 出て行くか、留まるか。もし留まるなら、僕をあまり怒らせないようにしてくれ。僕も思っていることを口に出さないよう努力するよ。
 エレーヌ 駄目! 口に出していけないことは考えても駄目!
 メネラッス 努力するよ。僕が約束出来るのはこれが精々だ。
 エレーヌ 分かったわ。さあ、ではさっき出てきた人達のことをはっきりさせましょう。まづパリス。私はこの人を愛しました。この話はもうすみ。次にエクトール。私は尊敬した。崇拝したと言ってもいい。でも愛しはしなかった。あの人は不吉な人なの。今まであなたに何度も言ってきた「生きる喜び」、それがないの。朝から晩まで「戦争は悲惨なものだ。戦争からは何も生まれない」なんて言ってる癖に、その舌の根も乾かないうちに、「どうか神様、私の息子を音に聞こえた、私に劣らない立派な勇者にして下さい」なんて祈るの。エクトールってそんな男。次がアシッル。怒らないでね、メネラッス、あの人、もし私が知る機会があったら、多分命のある限り愛した人だわ。偉大な人、ギリシャ、トロイ、全軍の中で最高の人。それははっきりしているわ。愛について一番大切なこと、それは尊敬出来る最高の人は必ず愛さなくちゃならないっていうこと。そういう人を愛さないことぐらい愛を侮辱した話はないっていうこと。これであなたにももうはっきりした筈よ。 私があの偉大な人の子供に会いたいというのは、私のためじゃなく、娘のためだっていうことが。さあ、これで疑いはすっかり晴れたわね。今すぐピリュッスに来るように言って頂戴。分かったわね、メネラッス。
 メネラッス 厭だ! 僕を懐柔しようとしたって無理だ。今だろうと、これから先だろうと。
 エレーヌ 今すぐです!
 メネラッス 駄目だと言ったろう。あいつなどに一歩もここを踏ませるものか。
 エレーヌ (メネラッスの道具類をさっさと片付けながら。)エルミオンヌを呼んで来ます。あの子に話して頂戴。私は厭。あの子のあのしおらしい顔を見ていると鳥肌が立ってくる。さ、これを始末して。(道具類をメネラッスの両手に押しつけて。)いいですね。すぐピリュッスを呼ぶんですからね。
(エレーヌ退場。)
 メネラッス(一人になって。)やれやれ、何て女だ。あいつが分かる人間なんているのかな。くそっ! 何ていう話だ。だいたい神々に耳はないのか。あいつの言うことが神々の耳に達しないのか。しかし達したとして、神々はどうするかな。くそっ! これが戦場に出て戦ってきた男達の運命なのか。戦争で最も辛い時俺達は神々にどれだけ捧げものをしたか。生贄を捧げたか。命が助かるようにと、子羊、犢(こうし)、自分の娘だって捧げたんだ。お陰でか、確かに命は助かった。家に帰る。すると女房だ。今度は女房連の攻撃に遭うんだ。畜生! 女房の気のすむように、それだけのためにエルミオンヌを生贄に捧げる、そんなことを俺がするものか。(エルミオンヌ登場。)
 エルミオンヌ 何か私にお話? お母様が今そう仰ったけど。
 メネラッス 来たか。あの「しおらしい顔」か! そう、話があるんだ、エルミオンヌ。ここへ来て。聞きたいことがある。正直に答えてくれ。お前に「生きる喜び」ってものがあるのか。
 エルミオンヌ 何ですの、それ、お父様。
 メネラッス そういうふうに聞き返されるのは困るんだ。それは止めて、とにかくこっちの質問に答えてくれないか。お前は生きているのが楽しいか。
 エルミオンヌ 当然ですわ、お父様。
 メネラッス ふん。それで、充分楽しんでいるのか。
 エルミオンヌ 充分? 何のこと?
 メネラッス とにかく答えてくれ。これは口頭試問と言ってもいい。お前は本当に、心から、いとこのオレストと結婚したいと思っているのか。
 エルミオンヌ ああ、そのこと。そのことならそうよ。心から。
 メネラッス そうか。それで分かった。お前は生きる喜びを持っていないことになる。
 エルミオンヌ どうして、お父様。何のことかさっぱりだわ。
 メネラッス 私にもさっぱりだ。しかしお前の母親から見ると、それは明らかなんでね。従ってお前は、そのことを前提にこれから行動しなければならない。
 エルミオンヌ それを前提に?
 メネラッス そうだ。お前誰か、駈け落ちしたい男がいないか。つまり、「ああ、あの人にこの身も心も奪ってほしい」っていうような。
 エルミオンヌ 身も心も奪って? そんな人いるわけないでしょう。結婚したい人、オレストがいるのよ。
 メネラッス 的の外れている答だ、それは。いいか、まづお前は、誰かに奪って行かれねばならない。これがお前の母親の公式な見解だ。もっともあれも、お前が賛成するとは思っていないがね。
 エルミオンヌ まあ。でも奪われるなんて、何故?
 メネラッス あれの考えによれば、女というものは、遅かれ早かれ、誰かに奪われて行かねばならぬ運命にある。彼女自身、身をもってこれを体験し、かつそれが遅過ぎたことに鑑み、お前は早いうちにこれを実行しておくことが得策である。まあこうだ。お前、二、三日ピリュッスと会ってみたくはないか。
 エルミオンヌ ピリュッス? 誰、それ?
 メネラッス 何を言ってるんだ。知ってる筈だぞ。アシッルの息子だよ。
 エルミオンヌ 私が会ってみたいかって、どうして?
 メネラッス それはその・・・お前の視野を拡げるんだよ。ヴェールで覆われた日常生活、そのヴェールを上げるのがピリュッスだ。明けても暮れても同じ毎日、それからの解放だ。お前はすぐあの男に夢中になる筈だ。
 エルミオンヌ でも私、もうオレストに夢中なんですから・・・
 メネラッス そこでお前はピリュッスの魅力の虜となり、あの男のもとへ走ることになる。暫くしてそれが幻想であったことに気づき、結局オレストと結婚する。ここにいたって初めてこの結婚は安全なものになる。
 エルミオンヌ お父様、ちょっと失礼して私、部屋に下がってもいいかしら。私、こういう冗談あまり好きじゃないんです。
 メネラッス いや、まだいてくれなきゃいかん。ちょっと坐って。私も自分の考えを整理しなきゃならんのだ。お前とオレストについてさっき長い間お母さんと話したんだが、お母さんは私を完膚なきまでにやっつけてしまった。あれの意見はだ、オレストは本来お前に相応しい人物ではない。お前の夫として不適格だとね。この考えはあれの口から直接お前に聞かされることになる。しかしその前に、私はお前に予め警告しておいた方がいいと思った。お前の夫の選び方について、私とお前との間でなら、冷静に、客観的に判断出来るんじゃないかとね。だから正直に言ってくれないか。オレストというのはどんな種類の人間なんだ?
 エルミオンヌ あの人、魅力ある人ですわ、お父様。
メネラッス うん。まあそうだろうな。だけど魅力はこの際やめにして・・・そう、長所は何だろう。気質、性格で。
 エルミオンヌ どう言ったらいいかしら。・・・そうね、あの人、自己の確立があるわ。自意識がしっかりしている・・・
 メネラッス ははあ。
 エルミオンヌ 物事をきちんと考える人。真面目なの。真面目過ぎるくらい。あの人のそばにいると私、自分がなんていい加減なんだろうと思ってしまう。特に自分の義務に対して敏感・・・そう、自分でこれが自分の義務だと思ったら、必ずやり遂げようと・・・
 メネラッス 分かった。素晴らしい性格だ・・・と、私は思うんだがね。しかし、いいかい、エルミオンヌ。お前のお母さんがこのことについてお前に訊いたら、その答はまづい。それは止めとくんだな。
 エルミオンヌ え?
 メネラッス 駄目なんだ、あれじゃ。もっとあいつの変わったところ、例えば欠点だな、それを言うようにする。
 エルミオンヌ 欠点? ないわ、あの人には。
 メネラッス そいつはまづいな。もしあいつがそれほど完璧な男だとすると、全く望みはない。婿になんて絶対したくないと言うだろう。お前は選択を迫られる。母親か、オレストか。
 エルミオンヌ そんなのとっくに決まってるわ。あの人の方よ。
 メネラッス そりゃそうだろうな。しかしお前の母親は、のけものにされてその儘引き下がっているような女じゃないんだ。そうだ、ところで両親に対してはどういう態度なんだ、オレストは。
 エルミオンヌ 父親は尊敬しているわ。
 メネラッス 母親は?
 エルミオンヌ 最近家で起こったことには随分胸を痛めている。でもとにかくあの人の実の母親のことなんですし、伯父さんの方にも非難されるべきことがあるのは分かっている様子よ。
 メネラッス それから姉に対しては? つまり、あの、・・・エレークトルに対してだが。
 エルミオンヌ エジストがあそこの家を牛耳るようになったわ、するとすぐエレークトルはオレストを、危ないからと家から遠ざけたの。だからあの人はあっちに隠れこっちに隠れ、父親の帰りを今か今かと待っていた。
 メネラッス 分かった。いいね、エルミオンヌ、よく聞いてくれ。私はオレストに対して全く何の偏見も持ってはいない。しかしすぐ結婚というのはどうだろうか。これから先がちっとも見えてないんだ。エジストのことがあるからね。私は奴と事を構えたくはないんだ。それにまたアガメムノーンのことがある。彼が帰ってどうなるか、あの家でどう事が納まるか。お前の結婚はそれを待たなきゃならんのじゃないか。
 エルミオンヌ そんなの。私、結婚を急ぐなんて言ったこと一度もないわ。私、結婚するってことはとてもはっきり分かってるの。でもそれは先の話。お母様が、誰か好きな人いるって訊いた時も、オレストって答えたし、結婚したいとも言ったわ。でも私、お母様の心配は分かっていたわ。物事を面倒にするのは誰だって厭ですもの。
 メネラッス お前の考えは分かった。だけどとにかく・・・この際一番の悩みはクリテムネーストルだ。私は正直言って、家族内の喧嘩はもううんざりなんだ。やっと自分の家が一段落したところなんだからな。一息つきたいんだ。お前の母親が特にかっとこない、つまり問題のない人物をお前が好きになってくれれば、私は嬉しいんだがね。
 エルミオンヌ 誰のことを言ってるの?
 メネラッス お母さんには考えがあるんだよ。その考えをお前に予め話すことにする。但しお母さんがこの話をお前に始めた時、驚いた顔をするのを忘れてくれるな。さっきも言ったが、それがピリュッスなんだ。この男とお前を、あれは結婚させたがっている。
 エルミオンヌ だって私、その人知らないわ。ピリュッスだなんて、そんな聞いたこともない人のこと。馬鹿げてるわ。それにだいいち、その人一体、私と結婚したいの。それだって分かってないんでしょう?
 メネラッス そうなんだよ。丁度その通りのことを私もあれに言ったんだ。ぴったり同じことをね。
 エルミオンヌ それなのにまだ言うの?
 メネラッス うん。どうしてだろう。本人に直接訊いたら何て言うだろう。どうしてひとの結婚に口なんか出すようになったか。まあ、私の意見を言わせて貰えば、あれが年をとった証拠だよ。あれは昔から活力溢れる女だった。今だってそうだ。肉体的、外見から見ればね。しかしそれがどうだ。(自分のじゃない、ひとの結婚に口を出そうという。)主役を演じられなくなると、つい他人の演技に口を出したくなるというが、役者生命の終りということか。
 エルミオンヌ ピリュッスって、美男子?
 メネラッス それはもう。
 エルミオンヌ じゃあお父さまのその結論どうなのかしら。役者生命の終っていう、その結論。
 メネラッス(突然思い当たり、はっとして。)えっ? お前もそう思うのか。
 エルミオンヌ そうって、どう?
 メネラッス どうって、つまりその・・・エレーヌが、ひょっとして、その・・・ピリュッスに恋してると・・・
 エルミオンヌ まあ。私、そんなことを言ってないわ。でもお母様はちっとも年なんかとっていない。その逆だわ。生き生きしていて。そうね、あれを活力って言うんだわ。私よ、私の方が年寄りなの、お母様の傍にいると。私、たった十分よ、一緒にいたの。それで私の方はくたくた。なんていう力なんでしょう!
 メネラッス そう。力だ。うん、ピリュッスには一歩もこの家に足を踏み入れさせないぞ。これだけははっきり言える。時間が経てば話は別だ。しかし今現在、これはどんなことがあっても・・・
 エルミオンヌ でも私の言いたかったこと、それとは違うわ、お父様。
 メネラッス ピリュッスには一歩も足を踏み入れさせない。エレーヌに会っていの一番に言う言葉はこれだぞ。
 エルミオンヌ じゃ今すぐ言うのね、お父様。お母様だわ。
(エレーヌ登場。)
 メネラッス エレーヌ、さっき言ったことを繰り返す。僕は決心を固めた。ピリュッスは家に招待しない。一歩も足を踏み入れさせないぞ。
 エレーヌ そう。それが結論ね。嬉しいわ、あなたの問題提起。私さっき庭にいて考えたの。そしてあなたにエルミオンヌを任せても何にもならないってことに気がついた。あなたには私の代わりは勤まらないの。
 エルミオンヌ お母様、私今お父様にお話したところ。私、ピリュッスと結婚したくありませんわ。
 メネラッス そらみろ。これで話は終だ。この子と私は同じ考えでね。ピリュッスを招待するのは危険なんだ。
 エレーヌ 危険? 誰があの人に危害を加えるっていうの? お客様には危険はないものでしょう?
 メネラッス まあ多分客にはね。しかし客を受け入れる側に危険があるんだ。率直に言うことに
しよう。率直が君のお好みだからね。エルミオンヌも僕も、あの男がやって来て何の利益も受けないんだ。君がここにいる。すると・・・エルミオンヌには悪いが、あの男は君の魅力にすっかり虜になって君に娘がいるなんてことも気づかない・・・いや、夫がいることにも気づかないだろう。こいつは駄目だよ、エレーヌ。うまくないよ。現在この時点までで君の業績は赫々たるものなんだ。成功をそのへんで留めておくのが配慮ある態度というものじゃないのか。
 エルミオンヌ お父様、私そんなことを言いたかったんじゃ・・・
 エレーヌ そうでしょうね。続きは? メネラッス。
 メネラッス 続き? ないよ。これで終だ。
 エレーヌ 違うわね。そんな話を夫が妻にして、それにご丁寧に娘の前でやって、それで続きがないなんて、そんな馬鹿な話はないわね。さっきこの話が出た時私は言ったわ。もしこれと同じ侮辱の言葉が再び出るようなことがあれば、私はあなたとはもう暮らしませんと。その侮辱の言葉があなたの口から出てしまったわ、メネラッス。私は出て行きます。あなたはよく考えて行動するのよ、エルミオンヌ。私が言えるのはピリュッスに会わずにもしあなたがオレストと結婚するようなことがあれば、あなたは必ず後悔するということ。本当に一生後悔するのよ、もしピリュッスと会ってオレストと比べてみようという気にならなかったら。比べていたらどうなっていただろうって、昼も夜も思い続けることになるの。これは予言しておきます。さあ、これで言うことは全部。あとはどうぞお父様とお好きなようにおやりなさい。私はこれで永久にさようなら。
 メネラッス しかしだな、エレーヌ。
 エレーヌ まだ侮辱し足りないの。
 メネラッス 僕は忘れていたんだ。すっかり。
 エレーヌ 忘れていようといまいと、侮辱は侮辱。いいわね、エルミオンヌ、これだけは気をつけてね。お父様は、私が出て行くことについて、あれはアシッルとのならぬ恋のせいなんだ、なんて言うかもしれない。それは違うっていうこと。いいこと? 私が出て行くのは、そういうことを言うこの人の精神、それが厭だからなの。
 メネラッス エレーヌ、恥を考えてくれ我々二人の。いや、二人の恥などお前は一笑にふすだろう。だけどこの子の恥を。この子は我々の喧嘩には何の関係もないんだ。
 エレーヌ 恥? ええ、あるかもしれないわね。でもそれは全部私にだけふりかかるもの。
 メネラッス 僕にもふりかかるさ、一部は。
 エレーヌ  二度も妻に逃げられた夫に、恥などある筈がないでしょう。「また?」と言われるだけ。道化の役割。あなたには悪いけど、御自分の責任よ。
 メネラッス エレーヌ、行かないでくれ!
 エレーヌ 暫くしたら発ちますわ。私と、私のお付きの者達を受け入れてくれそうな家、二三軒思いついたの。最初はイドメネーの家。きっと・・・
 メネラッス 頼む、エレーヌ、残ってくれ。この子の前で言う。僕は無条件で君に従う。僕が悪かった。君に対して言った言葉、あれは酷い仕打ちだったよ。
 エレーヌ そう。その通り。でも悪いけど私、行きます。
 エルミオンヌ お母様、お母様が留まって下されば私、ピリュッスの招待、受け入れますわ。オレストと結婚する前に。
 エレーヌ 招待は当然。私がいようといまいとね。それにお父様は私などいない方が好都合でしょう。危険がないでしょうからね。
 エルミオンヌ でもまた家に騒動があったって分かったら、あの人家には来ないわ。だってまたどこかの国との戦争に狩り出されると思うわ、きっと。
 エレーヌ そうだわね、それは。私、ここからでも聞こえるわ、あの人の笑い声。ピリュッスの、お父さんのアシッルにそっくりの笑い声。
 メネラッス よし、僕は自分の義務を果たさねば。エレーヌ、君が留まってくれれば、僕は今すぐピリュッスに使いを出す。
 エレーヌ それはあなたの勝手。どうぞお好きなように。一時間前までは私、あなたの妻だった。娘の将来を考える幸せなあなたの妻。今は違います。どうぞ御勝手に。あなたの自由です。
 メネラッス 分かった。提案の順序を変える。僕はとにかくピリュッスを呼ぶ。君、残ってくれるね!
 エレーヌ もうあなたとは取引はしないの、メネラッス。分かるわね?
 メネラッス 分かった。君の勝だ。僕はとにかくすぐピリュッスに使いを出す、すぐにだ。この決定は僕一人で行なうものだ。僕自身の決定だ。君には関係ない。使いは今すぐ出す。留まってくれるか。
 エレーヌ なかなか良い決定だわ。さ、早く使いを出すのね。
 メネラッス で、留まってくれるのか。そっちの方が問題なんだ。
 エレーヌ あら、なーに。結局取引なの。それなら駄目ね。私行くわ。
 メネラッス くそっ、何ていう女だ。よし、とにかく僕は使いを出しに・・・
(メネラッス退場。)
 エルミオンヌ お母様、ピリュッスが到着するまではいて下さるわね。あの人について随分いろんなことを聞かされて私、会うのが怖いわ。お母様が助けて下さらなければ。
 エレーヌ 分かってます。あの人が到着するまで私は行きません。それにオレストが来るまでは。だって私の主義はえこ贔屓しないっていうことですからね。お前がピリュッスに会うのなら私もオレストに会わなければ。オレストにも、ちゃんとあなたが言っている通りの人物かどうかを、私に知って貰う権利があるでしょうからね。お前、あの人をここに連れて来るようには出来ないの?
 エルミオンヌ そう出来たら嬉しいんですけど。でもあの人、身を隠していて、その場所を私知らないの。私はただ待つだけなの。
 エレーヌ そう。・・・じゃあ待つしかないわね。早く来ればいいけど。遅く来過ぎて自分の切り札を使えなくなってはいけないわ。エルミオンヌ、お前よく私の言うことを聞いてピリュッスに会う気持になってくれたわね。有難う。お前のその気持、大切にするわ。
 エルミオンヌ お母様、ちょっと部屋に下がる前にお訊きしたいことが・・・好奇心が強いねって言われそうだけど・・・イドメネーって誰なの? お父様、この名前を聞いたら、顔色が変わったわ。
 エレーヌ 私への求婚者の一人。あの人を私、決して近づけなかったの。だって若い女の子に近づく時の礼儀を全く知らないんですから。あの人、それから後もずっと変わり者。まだ結婚もしていない。私、言ったわね。 適齢期の女の子は、求婚者だろうと誰だろうと、夫になる可能性のある人は全員よく調べなきゃ駄目、と。ね、それはこの人のことを考えてなの。どんなに真剣になって物を見抜こうとしても、なかなかそうはいかないものね。
                   (幕)

    第 二 幕
(場にはエレーヌとメネラッス。メネラッスは兜を磨いている。)
 エレーヌ そうすると、あの子とオレストとの話はあなた、あの門番から聞いたっていうのね。呆れた! こう言ってはあなたに悪いかもしれないけれど。
 メネラッス あいつはオレストが気に食わない。オレストの考え方に何か不穏なものを感じたんだな。そのことを僕に言いに来たんだ。そのうち話がエルミオンヌのことに移って行った。これが成り行きだよ。つまらないことで喧嘩をするのはもうよそう、エレーヌ。エテオネユッスが今問題じゃないんだ。問題はアガメムノーンだ、当然だろう? もう少しすると兄貴のアルゴス帰還の報が来る。兄貴は例の家の問題はさっさと片付ける。そうすればこっちも兄貴を招待して、子供のことを話すことにしよう。
 エレーヌ アガメムノーンをよぶことには私、何も反対はしないわ。それよりピリュッスは大丈夫なの? さっき私にはそう言ったけど、ちゃんと使いは出したんでしょうね。
 メネラッス うん。使いは確かに出発した。
 エレーヌ あら、あなたの相談役の御登場だわ。
 メネラッス 相談役?
 エレーヌ エテオネユッスよ。ほら! 私、席をはずしましょうか?
 メネラッス いや、いてくれ、エレーヌ。君がそんなに言う程僕があいつと親しいか見てくれなきゃ。
(エテオネユッス登場。エレーヌを見て立ち止る。)
 エテオネユッス あ、失礼。
 メネラッス どうした、エテオネユッス。
 エテオネユッス  失礼致しました、メネラッス様。お一人だと思いましたので。 (訳註 エレーヌの前では「様」をつけることにした。)
 エレーヌ どうやら私が邪魔のようね、メネラッス。出番になるまで私、下がってるわ。
 メネラッス 何だ、今の言葉は、エテオネユッス。私一人だと思ったとは。私が妻と一緒にいるのが不都合だとでもいうのか。お前は確かにいっぱしの人物だ。それは認める。しかし私の家族全員に対して、敬意を払ってくれなければならんと、先日も頼んだ筈だぞ。このことはもう繰り返し言うのは止す。よく心にとめておくんだ。よし。で、何の用なんだ。ひょっとしてピリュッスが私の招待を断って来たとでも言うのか。
 エテオネユッス いいえ。まだ使いが先方に届いていない筈です。実は兄上様に関することで。
 メネラッス アガメムノーンのこと? 家に帰ったのか?
 エテオネユッス はい。恙(つつが)なく、御壮健にてお帰りとのこと。これを私に話してくれた男は・・・この男から今の今聞いたばかりなのですが・・・アガメムノーン王その人が、二輪の馬車から降り、荷物、分捕品、それにあの美人の虜、カッサーンドルと共に自分の屋敷へと進んで行くのを見たと申します。特にこの女奴隷の美しかったこと、と。
 メネラッス そのようだな。うん。それでどうなった。
 エテオネユッス いえ、何も。王、その他お付きの者達は全員屋敷にお入りになりました。
 メネラッス 屋敷に入って、それからが見物(みもの)なんだ! 中でどうなったか、それが知りたいものだ。
 エテオネユッス 私もです。話してくれた男は、何分ただの通りすがりの商人で。その後何かが起こるかもしれないなどという話は知るよしもなく。私がその可能性のことを話してやりますと、「しまった、発つのが早過ぎたか」と。
 メネラッス その男はクリテムネーストルは見なかったのか。
 エテオネユッス いえ、見たそうです。門から出て王を迎え、屋敷に導いて行ったと。カッサーンドルに対しても優しい態度であったと、態々その男は付け加えて言いました。
 メネラッス ふん、そうか。で、エジストは? エジストは出迎えたのか。
 エテオネユッス 見なかったそうです。とにかく時間がなかったのです。
 エレーヌ そう。すると今現在、夫、妻、恋人、それが何らかの合意に達しているということね。まあま、知りたいわね、その合意。
 メネラッス 合意? 合意なんかあるものか。解決法は一つしかない。アガメムノーンがエジストを殺す、これだけだ。するとクリテムネーストルはカッサーンドルを殺さねばならん。エテオネユッス、私はすぐ出発する。急だが、全員用意だ。いいな。
 エレーヌ 発つ? どこへです。
 メネラッス 兄貴のところだ。
 エレーヌ メネラッス、もしあなたが発つ方がいいと判断なさるのなら、止めは致しません。でも私の考えでは、今はじっとしていた方がよろしいのでは? 何かが起こるとすれば、もう終っている筈。それが何であっても、とにかく今では手遅れ。私だったら、知らせを待っていますわ。
 メネラッス そうかもしれん。しかし発たねばならん。ねばならんのだ! 俺がこの目で事態を見届けねばならんのだ。
 エレーヌ 事の成行きは知らねばならないでしょう、あなたは。でもその目で見届ける必要はないのではありませんか。私ならすぐさま使いを出して事態を知り、その後でゆっくり考えますわ。もし死者が出ていたとすれば(片がついているのですから)あなたは余計者、それにもうすることがない筈です。また、あの夫婦が仲直りしていたとしましょう。すると軍隊を連れて行ったあなたは滑稽なだけでしょう。きっと夫婦手に手を取って唇に皮肉な笑いを浮かべて、助けに飛んで来たあなたを冷やかに眺めますわ。どうぞよくお考えになって。
 メネラッス こんな時に和解など不可能だ。
 エレーヌ 和解が不可能な場合ってそう多くはない筈よ、あなた。
 メネラッス 君だったらどうする。僕の立場で。
 エレーヌ ええ。私だったらアガメムノーンを招待する使者をたてますわ。それに対するあちらの応対によってこちらも対策が立てられましょう。
 メネラッス で、もし和解が成立していて、兄貴がクリテムネーストルも連れて来たら?
 エレーヌ それはそれで仕方ないでしょう。結局あれは私の姉ですものね。家族の集まり、いい機会ですわ。エルミオンヌとオレストの結婚のことでも話しましょう。
 メネラッス お前の姉、あれは好かん。和解しようとしまいと、あの所行、あれはぞっとする。・・・そうか、使者をたてる。いい考えかもしれない。エテオネユッス、誰か一人、すぐ発てるよう準備させろ。今すぐだ。(エテオネユッス退場。)あの男の前で心配を露(あらわ)にするのはまづいと思って言わなかったが、エレーヌ、何か兄貴にひどいことが起こっているような気がしてならないんだ。君はどう思う?
 エレーヌ 今のこの時間には、その悲劇、もう終っているんじゃないかしら。
 メネラッス そこまでなげやりになると、もうどうしようもないな。
 エレーヌ 死体の運命は死体しかないのよ、メネラッス。それは認めなくちゃね。
 メネラッス それは誰のことを考えて言ってるんだ?
 エレーヌ あなたのこと。
 メネラッス 僕のためを思って言ってくれているのは分かってる。誰の死体のことだ。
 エレーヌ はっきりした考えはないの。和解が成立しない。すると運命は必ず死体を作るでしょう。でも私の今考えているのは見てきたっていうあの商人のこと。あなたどう思って? あの話。
 メネラッス どう思うって?
 エレーヌ あの話、信じた?
 メネラッス 勿論信じたさ。
 エレーヌ 怪しいと思う、私。エテオネユッスが、自分の知っていることを全部話してないか、それともあの商人が、知っていること全部をエテオネユッスに話していないのか、どっちかね。さっきの話には何か作り話の感じがあったわ。商人だったら必ずスキャンダルは嗅ぎ付けるし、一旦嗅ぎ付けたらあんな場合さっさと立ち去るようなことはしない筈。たとえどんなに急いでいたって。
 メネラッス すると門番の奴、もっと知っているということか。
 エレーヌ 門番か、それとも商人ね。
 メネラッス よし、あいつをもう一度呼ぶ。その点をはっきりさせなきゃ。
 エレーヌ  私はこの話を娘にしてやります。あの子には切実な問題よ、これ。私達よりも。エテオネユッスには、「エレーヌは私に「留まっていた方がいい」と言うんだがね」と言うの。そうすればあの人、その理由を教えてくれるわ。
 メネラッス えっ?
 エレーヌ やって見れば分かるわよ。
(エレーヌ退場。すぐにエテオネユッス、さっき退場した昇降口から登場。)
 エテオネユッス お一人になられる時を窺っておりました、メネラッス。今ならお話しできます。実は全部をお話してはいませんで。
 メネラッス あ? ああ。それで?
 エテオネユッス さっきは私、あの商人が、スキャンダルのことを知らなかったと言いましたが、あれは嘘です。よくそのことは知っていまして、一部始終を見届けたかったのです。しかし町中の人間が、命が惜しければ立ち去った方がいいと忠告するので・・・
 メネラッス 命がか。
 エテオネユッス そうです。「クリテムネーストルとエジストはアガメムノーンを計略にかけ、殺す準備をしている。一人の目撃者もいないようにし、その死に対しては、辻褄の合う話をでっち上げておく」と。
 メネラッス いかん。エテオネユッス、すぐ出撃だ。全員を召集する。出撃だ! 直ちに!
 エテオネユッス 私なら発ちませんが、メネラッス。
 メネラッス 俺は行く。すぐに出撃だ!
 エテオネユッス 今頃オレストには多分、私からの伝言が行っている筈です。多分ではなく、きっと。
 メネラッス オレストに? じゃあお前、あいつの隠れ家を知っているのか。
 エテオネユッス 連絡方法を見つけたのです。あなたのあの立派な鎧も、思いきって送ってやりました。(メネラッス、明らかに不快の意を示す。)オレストがこの件では動く筈です。こういう問題の時には、私はオレストの味方です。息子とはこういうものだというお手本を示すでしょう。アガメムノーンを助けるのはオレストの仕事です。もうこの時刻には発っています、きっと。あの方の勇気がどのようなものか、見るいい機会です。
 メネラッス なるほど。話の筋は分かったぞ、エテオネユッス。とにかく(アルゴスに)使いは出してくれ。私は・・・その答を待つ。(エテオネユッス退場。エレーヌとエルミオンヌ、議論しながら近づいて来る声。)くそっ、またあいつらか。
(メネラッス、急いで退場。まづエルミオンヌ、それを追ってエレーヌ、登場。)
 エルミオンヌ 違うわ、お母様。お母様の話を聞いていると、世の中で変わらないものは何一つないってことになるわ。でも私にはある。私には決して変わることのない「夫への愛」があるわ。
 エレーヌ この子は本当に分かってないわ。いいですか。私はね、その愛を尽くすことが出来やすいようにと、それだけなの。それだけを願っているの。その夫への愛を本当に楽に実行できるような、そんな夫を選んで欲しいの。オレストとだったら、必ずその後で、誰か別の人をお前は愛するようになる。まるで運命の導きのようにね。繰り返し私はそう言っているわね。お前はその二番目の愛は退(しりぞ)けなければ、と言うでしょう。それはそれでいいわ。じゃ、どうして一番目の愛に対してはその勇気がないの。
 エルミオンヌ 今の話その儘に受け取れば、お母様、お母様は夫への愛を一番大切なものと思ってらっしゃるのね?
 エレーヌ そうよ。その愛、それにしか真実はないの。
 エルミオンヌ じゃどうしてお母様、パリスと逃げて行ったの。その二番目の愛を退けて、お父様への愛に留まるべきだった筈じゃないの。 お母様は御自分の説に、とっても善い模範をお見せになっていらっしゃるわ。
 エレーヌ お前、一体何のことを話しているの。それは今ここでの話とは何の関係もないでしょう?
 エルミオンヌ そうかしら。
 エレーヌ 過去は過去なの。もう変えることは出来ない。私はお前の将来のことをとても気にしている。それは、それがこれから先のことだからなんですからね。(いいですね。)お前、またさっき私に言いましたね。ピリュッスはけだものだって。何故?
 エルミオンヌ だってあの人の手、真っ赤な血に染まっているじゃない。だからよ! 私、人殺しなんかと結婚しない!
 エレーヌ あの人、偉大な戦士よ。お前、オレストの方が好きっていうのは、オレストが戦争に出たことがないからなの?
 エルミオンヌ その理由は違うってお母様もご存じでしょう? トロイが落ちた後、ピリュッスはポリクセーヌを殺したでしょう。あれを言ってるの。あの人、アシッルの墓にどうしてもポリクセーヌを生贄に捧げると言ってきかなかった。どうしてそんなことを。私ちっとも分からない。あんなの人殺しよ。アウリスから船を出したいと、イフィジェニーを生贄にした、あれと同じ。なんて忌まわしい! 人は言うわ、昔はよかった。いい伝統があった。それがどんどん失われてゆくって。結構なものよ、本当に、伝統なんて。守って、誇りに思って。さぞかしその価値があることでしょう! ただ戦争に負けたくないだけ。それで女の子の首をかき斬る。戦争に勝つ。それでまた別の女の子の首を。ああ、船を出すのにいい風が吹かない。すると何でもいい、近くにあるものを血祭りにあげる。牛でも、若い女の子でも、羊でも! でも女の子にはもっと価値があるのよ! 血、血、いつでも血を流さないと気がすまない! ここからでも見えるようだわ。あのピリュッス! いたいけなポリクセーヌを、髮を掴んでアシッルの墓まで引きずって行って、頭を上に向かせて咽をかき斬る姿。まるで獣(けだもの)を殺す時のよう! ご立派なお姿! 気高いお姿! 女の人が見て、惚れぼれして、いっぺんにあの人が好きになってしまう。そんなお姿! 本当。もう一度言うわ。あの人自身が獣(けだもの)。忌まわしい人殺し。私、見なくたって分かるわ。お父さんのアシッルだって野卑に決まってる。あの奇麗な若いアマゾン、ペンテシレイアを殺したじゃない。槍で刺し貫いたのよ。こんな連中に私を結婚させたいの? お母さんは。ピリュッスの隣で床につくなんて、考えただけでもおぞましいわ。
 エレーヌ たしかにお前の言っている通り、私達の習慣にはいやなものがあるわ。でもね、習慣は習慣。掟は掟なの。それをどうかしようとしても無理。ただ私は戦争のことだけはお前に話しておかなければ。戦争には神聖な大義というものがある。男も女もすべてこの大義のために犠牲にならねばならない。そう少なくとも人々は考えている。犠牲になる人達にとってそれが良かろうと悪かろうとね。それは私達が判断することではないの。お前はイフィジェニー、ポリクセーヌが生贄になったことをひどく悲しんでいるけれど、あの二人がその儘生きていて、それでどんな将来が二人を待ち受けていたか、誰にも分からないのよ。ひどく単調な人生、何の事件もなく、毎日が溜息の連続、食事をとること、夜睡眠をとること、それだけの・・・。それよりはたった一瞬でもいい、それに自分の強い、深い感情を凝縮させる人生の方がいいと言えないかしら。
 エルミオンヌ 凝縮した一瞬は良かったわ。首をかき斬られたあの人達が、何て言うかしら。もう死んでしまってそれについての意見が聞けないのが残念だわ。
 エレーヌ そう。私も。私も心の底からは、その凝縮した一瞬が分かっていないの。幸せな人々にはそれが与えられるんでしょうけどね。
 エルミオンヌ お母様がそんなことを仰るの? トロイ戦争はお母様のせいで起こったのよ。それなのに。
 エレーヌ トロイ戦争。ええ。・・・そうね。それらしい瞬間、慥に二、三度は勿論あったわ。例えばアシッルがエクトールを殺した日。あれは素晴らしい日だった。もう二度とあんな時は来ないでしょう。勝負の獲物は私だった。あの二人が戦ったのはこの私のせいだった。エクトールは私を守るため、アシッルは私を奪うため。そう、あの一閃の光線と共に真直に突いてきたアシッルの刀、それをエクトールはまともに受けてしまった。ああ、エルミオンヌ、その時、私の胸はカッと熱くなったの。お前には分からないだろう。アシッルに刺し貫かれたのは、この私なの。そして勝利者の足元に倒れ伏しているのもこの私なの。何ていう人でしょう。お前には決して分からないだろう。生きる喜びを感じさせることの出来る人物、それはこういう男だけなの。さあ、それでお前のお父さんはどう。トロイが落ちた夜、あの人は私を見つけた。刀をふりかぶって私に近づいて来た。私はただ両手で上衣の胸を開いて、その一撃を待った。で、あの人はどうしたか分かる? あの人は私の胸を見たの。そして振り上げた刀を力なく落としたの。
 エルミオンヌ 殺された方がよかったの?
 エレーヌ  いいえ。でも私を怖れさせることは出来た筈だわ。それはいい思い出になったでしょうに。いいわね、エルミオンヌ、もしお前が生きる喜びを持ちたかったら、オレストとピリュッス、どちらを選ぶかなんて簡単。アシッルの息子に決まっているのよ。
 エルミオンヌ ああ、お母様。この話はもう止めにしましょう。生きること、そのことに対して考えが全く違うんですもの。
 エレーヌ いいわ。もう止めましょう。これが最後。だってもう私の言えること、知っていること、ほとんど全部話してしまったもの。教えることはもうほとんど終。だからこれが本当に最後の一つ。いいですね。お前は自分で選んだ人物を自分の夫にする。いいでしょう。それが恋した女の願望なんですからね。でもその時、普通の女は、「自分で選んだ」っていうところに価値を置き過ぎるの。そして選ばれたその男がそれまでにお前以外の女を愛したことがない、そういうことを望むようになる。いいですね。言っておきますけど、これが馬鹿なことなの。一人の女を本当に幸せに出来る男とは、沢山の女性を愛することが出来た男、その沢山の女と一緒に生きることが出来た男・・・丁度ピリュッスのようにね、ピリュッスはきっとそう・・・そして結局、その全部の愛を自分の最後に選んだ女性にすべて捧げる、こういう男なの。お前は最上の夫とは、以前に誰も他の女を愛したことがない男だと思っている。これは厳かに言い渡しておきます。「それは間違いだ」と。お前にもすぐ分かるようになるの。こういった男は、人を充分に愛すことは出来ないのだと。それが誰であってもね。私を不道徳な人間だと思うだろうね、お前は。
(この時までにメネラッス、登場している。右の台詞の「一人の女を本当に幸せに出来る男とは」のところから登場している。)
 メネラッス そうだ、確かにね。呆れるばかりの君の今の話だ。ここに入ってくるのがはばかられた程ね。君はどうしてそんな馬鹿な話を娘にするんだ。
 エレーヌ 馬鹿な話じゃありません、これは。真実です。娘には私の経験を活かして貰いたいの、私は。
 メネラッス この子を自分より幸せにしてやりたいというのが、いつも君の話の主題なんだが、その度に出てくる理想の夫というのが何時でも僕とは全く違うタイプの男だ。つまり君の示していることは、つづめて言うと、君が僕と一緒で不幸だった、少なくとも君がアシッルやピリュッスと一緒だったらどうだったか、に比べてね。どうなんだ、エレーヌ。それでいいのか?
 エレーヌ あなたと一緒にいて幸せだった、なんて話をこの子にする方がよかったっていうの? 私はあなたをほったらかしにして出て行った。あなたは私を力づくで奪い返した。こんな事実がある時に、この子が感づかないわけがないでしょう? 二人の間に何かしっくりしないものがあったらしいって。事実はその事実通り話すのが私は好きなの。それにあなただって現実の世界が案外と好きなの。私、時々それに気がついたわ。
 メネラッス そう、確かに現実が好きだ。時々はね。今まで君は横暴な夫に称賛の声をあげてきた。何度もな。今僕は急にそれを現実のものにしたい気になっている。君はだから僕の命令に従うんだ。ピリュッスは確かにここに来る。それはいい。あたたかく迎えよう。但し結婚の話は一切しない。そしてあいつが帰ったらすぐあの子はオレストと結婚する。いいな。綸言汗の如し。一度言ったら後には戻らないんだ!
 エレーヌ 私の見るところどうやらこの子はピリュッスを見てもやはりオレストと結婚しそうね。でも今のあなたの話では、万一この子がピリュッスを望んだ場合でも、あなたはオレストと結婚させるのね。それ、どういうことか分かる? あなたが横暴な夫じゃない、ただ横暴な父親だってことなのよ、メネラッス。
 メネラッス そんな皮肉を言われたって僕は怯(ひる)みはしないぞ。僕の意志は充分に示したつもりだ。君にも結果は見えている。この子はオレストと結婚するんだ。ピリュッスが来れば僕は礼儀正しくもてなそう。但しそれ以上の域は出ない。そしてエレーヌ、君は食事の時、僕が一緒にいる時、しか現われてはいかん。この命令に従わないなら、鍵を締めて一室に監禁する。勿論見張りつきだ。有無は言わさない。そしてピリュッスには説明しておく。「妻に対して充分な尊敬を払ってはやりたいのだが、何分あれの私に対する態度に問題があって」と。必要なら君の詳しい話をしてやればいい。あいつだって理解を示す筈だ。君という女はしようのない女なんだ、エレーヌ。人間に毒をまく、そのためにこの世に生をうけたのだ、君は。
 エレーヌ 智恵そのものの言葉ね、メネラッス。お心づかい感謝しますわ。本当にお優しい。でもあなたの言う通りかも知れない! あなたとピリュッスを比較しなければならないとなったら、知性、容貌、態度物腰、いづれを取っても勝負は決まり・・・そうね、私、見ない方がいい。それに万一あの人が訊きでもしたら・・・どうしてあなたみたいな人と結婚したのか。特に、どうして一体帰って来たりしたのか・・・私、何て答えたらいいか、つまってしまうものね。
 メネラッス 何だ? それは。そうだ。それなら訊く。何故一体僕と結婚なんかしたんだ。それに何故一体戻って来たんだ。
 エレーヌ 単なる間違いよ。誰だって間違いはあるでしょう?
 エルミオンヌ ねえお父様、お母様。お帰りになったのはつい今日の朝のこと。それなのに私がオレストと結婚したいっていう話をしてからこっち、ずっと喧嘩と口争い。 それも私の相手が良いか悪いか、それのため。でも私、お二人を見ていて、そして話を聞いていて、結婚の相手なんかそんなに大切な問題じゃないと思うようになったわ。そんなことを考えるより、どうでもいいから誰かと結婚して、悪かったら逃げ出す、その方がよっぽど騒ぎが少なくてすむんじゃないかしら。
 エレーヌ 御立派、エルミオンヌ。それはその通り。私はもう何も言うことなし。ピリュッスも来る必要なくなったわね。招待を強引に頼んだのは私。お前に良かれと思ってね。でもこの人が何だかんだと難しいことばかり言って。だから今のお父様のお気持ちでは、到底お客様に充分なおもてなしをして上げられないわ。ですからね、メネラッス、もういいの。私、オレストでいい。もうこの話は止めましょう。ピリュッスの招待、それを反古にして下さいな。
 メネラッス 何だって?
 エレーヌ そう。使者を立てて、言わせるの。アガメムノーンが帰ってまいりまして、また凝らしめるべき猫が現われました。(また遠征の話です。)と。猫・・・まあ、言葉はもっといいのを考えて。
 メネラッス 駄目だ! ピリュッスはよぶ。あいつをよんだのはこの私だ。命令を翻すようなことは僕は決してしないぞ。そうか。君の考えが見えてきたぞ。君は怖いんだ。僕があいつに君の話をするのが。僕が君を一室に監禁しているという話をふれ回されるのが。だからあいつが来る前に玄関ばらいしたいんだ。ピリュッスは来させる。そしてエルミオンヌには、出来るだけ早くオレストと結婚させるんだ。
 エルミオンヌ お父様、お願い。お母様に優しくして。お母様の言う通りにして。お願い。
 メネラッス 優しくなんかないんだぞ、私は。自分の家では私が主(あるじ)。私が命令するんだ。
 エルミオンヌ お願い、お父様。ピリュッスはよばないで。今ではもう誰もあの人が来るのを望んではいないもの。
 メネラッス いる。この私がいる。
 エルミオンヌ お母様は私達家族の幸せを思って言って下さっているのよ。それを誤解しないで、お父様。
 メネラッス 何と言っても駄目だ。遅すぎだ。
 エレーヌ アガメムノーンが急いでこっちにやって来ている所よ、きっと。それにはどうするつもり?「残念ながら家に客が来ていて、客間にほうっておく訳に行かないんだ。」とお答えになるおつもり? 私は客のお相手は出来ませんからね。誰かさんのやっかみがあってはとても無理ですもの。
 メネラッス 兄貴は僕を必要とはしない。考えてみれば、こいつは確実だ。エジストとのことで誰かの助けを借りようなどと兄貴は決して思いはしない。それにオレストがすでに駆け付けている途中だ。
 エルミオンヌ オレストが? 駆け付けて? どこへ?
 メネラッス 父親のところへだ。
 エルミオンヌ その話を誰がお父様へ?
 メネラッス エテオネユッスだ。連絡を取れるくらいの付き合いはあったらしい。それに勝手に私の甲冑を貸してやるくらいのな。
 エルミオンヌ  何故オレストが? お父様よ。お父様の方がずっと助けになった筈よ。あの人には経験がないわ。まだ一介の・・・
 エレーヌ「一介の」じゃありません。あなたの夫に相応しい人物なら、もう一人の「男」です。父親のもとに駆せ参じるのがあの人の当然の務めです。今あの人がいる場所、それが一番あの人に相応しい場所なのです。
 メネラッス 実はな、エルミオンヌ、私もすぐ駆け付けるべきじゃないかと思ったんだ。そして今お前の言うことを聞いていると、なんだかそうした方が良かったんじゃないかと思ってきた。それをとどめたのはお前の母親なんだが・・・
 エレーヌ そう。私が止めたの。でもね、メネラッス。あなたは私の言うことなんかを聞く必要はなかったの。
 メネラッス 何だって?
 エレーヌ 私の言いなりになると、私の目にはあなたが小さく映るようになるの。アシッルだって、ピリュッスだって、そんな用心深さは全くないんですからね。勿論私はあなたの安全のためを思ってああ言ったわ。それは当然でしょう? あんなところへ駆け付けたら命も危ない。それからお笑い草になるかもしれない。でも自分の兄を愛している男にとって、そして多少の勇気を持ち合わせている男にとってお笑い草になるなんてこと問題かしら。確かに私は言った。もしあの夫婦が和解していたら、あなたは道化に見えるでしょうって。でもあなた以外の人だったら、誰だって言い返したでしょうよ。「もし喧嘩が終っていなければ、俺も、俺と一緒にかけつけた一隊も、必ず喜んで迎えられる筈なんだ」と。 あなたのとった態度、それは覇気のない男がやることなの!
 メネラッス 僕は行く。兄貴のところへ駆け付けるぞ。君が言う通りだ。勇気を示すのに、遅すぎるということはあり得ない。
 エレーヌ あ、誰か来たようよ。
 メネラッス 誰だ。入れ。ああ、エテオネユッス、お前か。扉ごしに話を聞いていたのか。それはどういうことなんだ。なぜ扉をたたかなかった。
 エテオネユッス はいったものかどうか、迷っておりました。
 メネラッス 何故だ。どうかしたのか。
 エテオネユッス 次から次と不幸の知らせで。お知らせするのが躊(ためら)われます。
 メネラッス 話せ。どんな衝撃にも耐えられる体は持っている。
 エテオネユッス  それはその筈でございましょうが、とにかく私としては衝撃をできるだけ抑えるようにお話を。事実だけをお話いたします。つまり「アガメムノーン様がお亡くなりに。」
 エレーヌ 姉だわ。殺したのは!
 メネラッス 兄貴が、死んだ?
 エテオネユッス エジストが殺したのです。
 エレーヌ エジスト?
 メネラッス それはあり得ない! 何かの間違いだ。尋常な戦いをしてエジストに勝ち目はない。エジストなどアガメムノーンの敵ではないのだ。
 エテオネユッス ですから尋常な勝負ではなかったのです。アガメムノーン様は家に帰りました。そして勿論安心しきって甲冑を脱ぎ、剣を刀かけに立てかけました。その時です、奴等が斬りかかったのは。
 エレーヌ 「奴等」?
 エテオネユッス 私は辛うございます。誰か他の者の御報告をお聞きになって戴きたく・・・
 メネラッス 誰だ。誰が兄貴を殺したのだ、エテオネユッス。お前の知っていることをみんな話すんだ!
 エテオネユッス 勿論主犯はエジストで。私はそう信じております。しかし聞くところによりますと、クリテムネーストル様も御一緒に一撃を浴びせたと。
 エレーヌ 分かっていたわ私には、最初から。エジストでありっこないの、それは。
 メネラッス 何だって?
 エレーヌ 私には分かっていた。いつか姉はアガメムノーンを殺すだろうって。姉はあの夫がたまらなく厭だったんですからね。エテオネユッスは私のことを考えて、言葉を選んでくれました。でもやったのは姉。私は平気。エジストではありません。
 メネラッス 違う、エレーヌ。君にも僕にも、これは辛い瞬間だ。今僕は君に面と向かってきつい言葉を言わなければならない。しかし僕は信じない。僕は君の姉がこんな大罪を犯したなどと信じたくない。君の血筋の人間が・・・いや、信じたくない。信じることはできない。それに僕はエジストのような、あんな不実な人間のやることはとっくにお見通しだ。もし君の姉さんが本当にこれをやったのなら、それはたいした殺人だ。芝居になる話だ。それで却って名声を得るだろうし、悲劇の女王にもなれるだろう。しかし違う。違う、違う。この犯罪にはちゃんと署名がしてある。エジストと!
 エレーヌ いいえ、クリテムネーストルです。分からないの? あなたは。姉はもう二十年間も夫を殺したいと思っていたのです。
 エルミオンヌ いいえ、お母様、これはお父様が正しいわ。伯母様である筈がないわ。
 メネラッス 考えてみれば分かるだろう。エジストは罠をしかけた。クリテムネーストルが手をかしたように噂をまいたんだ。ああいう卑劣な男のよく使う手だ、これは。
 エルミオンヌ それにあのこともある。オレストがエジストに敵(かたき)を討ちに行っていること。もし伯母さんが共犯者だったら、あの人、伯母さんにも害を及ぼさなきゃいけなくなるわ。
 メネラッス おいおい、エルミオンヌ。オレストはまさか母親を殺しもしまいよ。敵(かたき)を討つと言ったって、自ずとその限界というものがあるさ。他には? エテオネユッス。
 エテオネユッス 公けの発表をアルゴスの人々は聞いています。クリテムネーストル様の口から直接に。「アガメムノーン殺害の原因はすべてこの私にある」と。
 エレーヌ ほら、私の言った通りでしょう。あの人、それを自分で表明するのを怖れもしなかったんだわ。
 エテオネユッス そしてカッサーンドルの殺害も。
 エレーヌ そんな! カッサーンドルも?
 エテオネユッス 出来ればそれは避けたかったと、クリテムネーストル様は表明されました。しかし事態がこうなっては・・・とも。
 エルミオンヌ お父様、オレストに手をお貸しになって。今すぐ。その方がいいんじゃない?
 メネラッス うん。一時間以内に出発する。この話になった時、私はもう決めていた。
 エレーヌ 出発って、どこへ?
 メネラッス エジストを罰するんだ。オレストを助けて。
 エテオネユッス(口を出そうとして。)それは・・・
 エレーヌ エジストと姉も?
 メネラッス ああ、それはしない。決して。後悔の念にさいなませておけばいい。敵はエジストなのだ。あの男には、自分が蒔いた種は自分で刈り取らせるんだ。私はすぐ戻って来る。ピリュッスを迎えるのに間に合うようにな。
 エレーヌ その時姉にお会いになったらどうします。姉の恋人を斬り殺している最中に、御自分の義理の姉に対してそれに相応しい儀礼を行なう。それはなかなか大変ではありませんか。それからエジストが死ぬ。その後はもっと気まずいのでは? よくお考えになって。アガメムノーンが死んでいる今となっては、もう姉と和解するのが一番ではないのかしら。
 メネラッス クリテムネーストルと?
 エテオネユッス でもあの方は・・・
(全員、エテオネユッスの言葉を封じる動き。)
 エレーヌ(前の言葉に続けて。)そう。姉とです。エルミオンヌとの結婚を進めるために。姉のことをお嫌いになっていたとしても、今ではオレストの親はあの人しかいないのです。いいですね、メネラッス、とにかくあちらの諍(いさか)いには全く触らないのが一番。特にオレストが母親の怒りに充分対処出来ている今は。
 エテオネユッス(口を切りたい。)申し上げねばならないことが・・・
 エルミオンヌ(それを無視して。)私の意見は違いますわ、お母様。お父様としたら、伯父様の死のことを考えずにはもう誰とも・・・伯母様だろうと私だろうと・・・誰とも接することが出来ない筈ですわ。ですからお父様にとって一番いいのは、今すぐオレストに手を貸しに行くことですわ。私はオレストと結婚します。伯母様の同意などもう必要ではありません。私、伯母様となんか、今後どんなことがあっても、お付き合いするつもりなどありませんもの。
 メネラッス(心配して。)エルミオンヌ、それは考え直さないと・・・
 エルミオンヌ 充分考えた末のことですわ。
 メネラッス 伯母さんはそうなったらお前の義理の母親なんだぞ。
 エテオネユッス しかしその、お許し願えれば・・・
 メネラッス 黙っておれ、エテオネユッス。いいか、エルミオンヌ、義理の母親を無視は出来んぞ。お前、考え直した方がいい。この時点になってこういうことを言うのは何だが、やはりこの結婚自体に問題がある・・・これはこの話が出た最初の時に私は言ったんだが・・・
 エルミオンヌ 何ですって? じゃ、お父様は考えをお変えになるって言うの?
 メネラッス 変えはしない。決して! しかし、私の言うことも一応は分かって貰いたいんだ。私は今までに劣らず今でもオレストが好きだ。気に入っている。ただ結婚というのは、親を抜きにしては考えられない。結婚はひどく社会的な制度なんだ。その点を考慮に入れない訳には行かない。アガメムノーンが生きていれば、私は彼と話をせねばならんだろうし、彼が死んだ今となれば、その妻がこういうこと全てに責任がある。今や家族の長なんだからな。それで話がすっかり変って来るんだ。
 エテオネユッス ええ、しかし・・・
 メネラッス  そこでお前をあの息子に嫁がせるとなれば、どうしても私はあの姉と交渉を持たなければならない。私の兄を殺したあの姉と。私はそんな気には到底なれない!
 エルミオンヌ 伯母様の子供だと思うからいけないんです、お父様。ただ単にお父様の兄の子供と思って下さらなければ。
 メネラッス 「ただ単に」などと考えられるか! 家族というものはそれだけで複雑なんだ。ところがこの我々の家族ときたら・・・二人の兄弟が二人の姉妹と結婚しているんだ。・・・迷路みたいなものなんだ。お前だって分かるだろう。ちょっと進むだけで、兄に姉に義理の妹に、ぶち当たる。私は自分の妻の姉を殺す訳にはいかないのだ。こいつは不可能なんだからな。
 エルミオンヌ 伯母さんを殺すなんて、そんなこと!
 エテオネユッス 実は丁度その事を・・・
 エレーヌ この人、何か話したい様子・・・
 メネラッス(怒って。)話すのはこの私だ! 大事なことなんだ、これは!(エテオネユッス、再び一歩下がる。)いいか、エルミオンヌ、もしあの姉が私の兄を殺したことがはっきりしていれば、私は姉を殺さねばならん。殺すのはオレストではない、この私だ! 従って私の取るべき行動はだ、エルミオンヌ、私が姉を殺さず、お前とオレストの結婚を姉に頼むか、又は私が姉を殺し、姉の子供であるオレストが、母親を殺したこの私の娘であるお前と結婚出来なくなるか、そのどちらかだ。私が姉を殺すか、殺さないか、それにお前の結婚はかかっている。だからこの際一番いいのは、この問題をもう少し先に延ばすことだ。私は出発する。すぐ出発して、オレストに対して私がいかなる助力をしてやれるか、それを見届けねばならぬ。姉には出来るだけ会わないようにしよう。その方がいい筈だ。こちらに戻ってから行ったことを知らせたっていいんだ。この間私の命令は、「待て」だ。
 エルミオンヌ お父様はお待ちになったらいいわ。私の決心はもう出来ています。私はもうオレストのもの。あの人が窮地に立っている今、私はそれを却って強く感じている。
 エレーヌ お父様のことを少しは考えるの、エルミオンヌ。お父様はオレストに手を貸すと仰っているのよ。その助力があれば、お前達二人の結婚は自然の成り行きで成立するのよ。
 メネラッス それは違うぞ、エレーヌ。私があれの父親の敵を打つからといって、私があれと一生結びついているなどと思わない方が彼のためだぞ。さあ、エレーヌ、出発の準備だ。手伝ってくれ。
 エレーヌ 本当にお発ちになるんですの? メネラッス。
 メネラッス(坐りながら。)これから出発するという男に見えないかな、私は。
 エテオネユッス 御出発の前に、私の話を終っておきたいのですが。
 エレーヌ 終っておきたい? 話は終っていなかったのか。
 エテオネユッス はい。まだ。
 メネラッス 何故もっとさっさとやらなかったのだ。
 エテオネユッス この十五分間、それだけを申し出ておりましたが、皆様が一向にお許し下さいませんでしたので・・・
(全員飛ぶようにしてエテオネユッスのところに集まる。)
 エレーヌ さ、じゃ、どうぞ話して。
 エテオネユッス つまり、その、オレストが・・・
(エテオネユッス、躊う。)
 エルミオンヌ え? オレストが?
 エテオネユッス このお知らせは良くって同時にまた悪い、というものでして。つまりその、お知らせは二つあるというわけなのです。一つは、「オレストがエジストを殺した」と。
 エルミオンヌ 何てこと。今までお前、それを黙っていたのね。そしてオレストは? 大丈夫だったの? 怪我は?
 エテオネユッス なしで。全く。
 エレーヌ 呆れたわね。今まで私達、敵(かたき)を誰が討つかって、ずっとそれを議論していたのよ。
 エルミオンヌ (膝まづいて。両腕を上げて。)ああ、やっぱり。私の目に狂いはなかった。あの人、男だったわ!
 メネラッス そうだ。万歳だ。何ていう良い知らせだ。(エルミオンヌに。)さあ、エルミオンヌ、これで安心だな。あいつはきっと一人でこの難局を打開するだろうと私も信じていた。父親の汚名をそそぐのに相応しいのは、勿論息子が一番だからな。これは実に喜ばしい出来事だ。
 エレーヌ そんなに喜びを表すものではないわよ、メネラッス。まるであなた、兄の敵を討つのが厭だったみたいに聞こえるわ。
 メネラッス 何を言ってるんだ。僕は出発していたところだぞ。それは疑わんでくれ。
 エレーヌ それはもう証明するすべがないわね。さ、話して、エテオネユッス。どんな具合だったか。
 エテオネユッス はい。あまり話はないのです。アガメムノーンを殺した後エジストは、多分殺害の時に使った短剣の影がしつこく彼につきまとったのでもありましょう。清めの祈りを神に捧げようと、お付きもつけずこっそりと礼拝堂に赴いたのです。オレストはこうなるだろうと予感していました。彼の心理的繊細さを示すものです。そしてそこで待っていたのです。エジストは祭壇の前で頭を上げ、胸に手を組んで祈っている。その時オレストは首をかき斬ったのです。
 メネラッス あっぱれな奴。賞賛に価するぞ。で、母親はその時・・・
 エルミオンヌ 子供がそんなに立派に事を成し遂げたのです。母親のことなど、お父様、うっちゃっておけないのですか。
 エテオネユッス そのことなんですが・・・あの可哀相な母親・・・
 エレーヌ えっ? 何の話? クリテムネーストルに何か・・・
 エテオネユッス お亡くなりに。
(エレーヌ、エルミオンヌ、メネラッス、三人とも同時に坐る。)
 メネラッス そうか。だからオレストは復讐出来たんだ。母親が既に死んでいたんだからな。
 エルミオンヌ どうして亡くなったの?
 エテオネユッス オレストに殺されたのです。
 エルミオンヌ そんな。オレストはしないわ。そんなこと決して。
 エテオネユッス いいえ。殺したのです。
 メネラッス 自分の母親を!
 エルミオンヌ オレストが。そんなことありえない。
 メネラッス 兄の死よりも酷いぞこれは、エレーヌ。許され得ない所業だ。この地上でも天上でもだ。オレスト、あいつの魂は呪われている。それに比べればクリテムネーストルの行為など立派なものと言えるじゃないか。
 エレーヌ エルミオンヌが気分悪そう。
 エルミオンヌ いいえ、大丈夫。 お父様の仰ること、よく分かるわ。私、お父様を恨んだりしない。でも信じて、オレストはそんなことしないわ。私、この目でその現場を見たとしても、そんなこと信じない。あの人、親子の間の情は本当に深いんですもの。
 エテオネユッス ということはつまり、母親を殺してはいないと仰りたいのでしょうか。残念ながらしかし、殺害はあったのです。あの方の子供としての義務は父親と母親との間で鬩(せめ)ぎあい、最後にきっちりと自分で決着をつけたのです。
 メネラッス エレーヌ、君は今までに言ってきた。「あなたの兄さんを殺した人をこの家に迎えるなんて、そんなこと一体出来て?」と。それの当然の帰結だ。君の姉、クリテムネーストルを殺した男を迎えることは問題外だ。この家の門はオレストに対して、金輪際開くことはない。それは無理な話だ。
 エレーヌ そんなに結論を急ぐものじゃないわ、メネラッス。「自意識の強い、ああいう人物は何でもしてしまう。犯罪でも何でも」と私、言ったわね。 私の言った通り。呪われたあの人の魂! でもね、メネラッス、私あの人が必要以上に呪われることはないと思っている。あの人が自分のやったことを振り返ってみる。その時の不幸な気持ち、私想像がつく。是非とも、出来るだけ早く、あの人を捜し出さなくちゃ。そうよ。捜しに行って。どうか、今すぐ。
 メネラッス あいつを? 捜しに? 正気か、エレーヌ。飛躍しすぎている、その考えは。
 エテオネユッス 私もそう思います。新式過ぎて、とてもその考えにはついて行けません。エジストの殺害、これは義務。当然の処置でしょう。しかし自分の母親を殺す、こんな男にこの家の敷居をまたがせるものですか。
 エルミオンヌ お母様、私あの人にここには来て貰いたくありません。一人で、どこか別の場所で、私、会った方がいいと思う。
 メネラッス 駄目だ、駄目だ。ここだろうと、他だろうと、どこでも駄目だ。オレストなど、我々にとってはもう存在しない。もしピリュッスがお母さんの言う通りの人物なら、お前は彼と結婚する。いいな。彼にも少しは欠点はあるだろう。しかしそれですめば御(おん)の字だ。
 エルミオンヌ 私、お許しを戴いて、下がらせて下さい。私、一人になりたい。
 エテオネユッス お下がりになる前に、もう一つお話しておかねばならないことが。オレスト様のことで。
 エルミオンヌ まだ何か?
 メネラッス 他に誰か殺したのか。
 エレーヌ メネラッス!
 メネラッス いや、次から次だからね、つい・・・
 エテオネユッス 実はその、ひょっとすると、実際に手を下されたのではないかも知れないという・・・
 エルミオンヌ 馬鹿! なんてことを、お前。それで黙っていたの。そんなことを黙ってるなんて、お前こそ下手人よ。
 エテオネユッス 私は「ひょっとすると」と申し上げました。噂では、あの方は、母親を殺したくはなかった。だからただ、その行為が行なわれている間、何の行動もとらず、成り行きに任せていたのだ、と。
 エルミオンヌ ああ、そうであってくれれば・・・
 エレーヌ よく分からないわね、何のことか。
 メネラッス 同じことだ、それは。彼自身が手を下したのと何の変わりもない。
 エテオネユッス その通りです。差は殆どありません。しかしエルミオンヌ様はこれで少し心が慰むかと・・・
 エレーヌ で、誰が姉を殺したっていうの? オレストでなければ。
 エテオネユッス エレークトルで。オレストの姉の。
 エレーヌ エレークトル?
 メネラッス 自分がやる代わりに姉に殺させたというのか。
 エテオネユッス その辺ははっきりしません。とにかくエレークトルは母親のクリテムネーストルに、ちょっと自分の部屋に来て戴きたいと言い、クリテムネーストルは何の用心もせずそこに行った。最初お子様達二人は、優しく迎え、次に殺害した。そういう話です。
 メネラッス お前がこの話に一言つけ加える度に話はひどくなってくる、エテオネユッス。もう止めろ。暖かく迎えるという仮面をかぶって母親を騙した。殺害する目的で自分の部屋に招いたのだ。最悪の話だ。人間にとって一番大切な義務、両親に対する尊敬、それが果たされたと思うと、そのすぐ後に「殺害」の義務が続くとは。
 エルミオンヌ 私の理解は固まっていますわ、お父様。殺したのはエレークトル。あの人がオレストを唆(そそのか)したの。姉さんへの義理であの人、罪を一緒にかぶったの。でも殺したのはエレークトル一人。それは確実だわ。だからみんなが思っているほどあの人、酷くないんだわ。
 メネラッス そう。酷くない! そうするとお前はまた蒸し返して、オレストと結婚すると言うんだな。
 エルミオンヌ あの人は私の夫。オレストは私の夫。このことは何度言っても言い過ぎることはないわ。
 メネラッス お前は自分の母親を殺すような、そんな男と結婚するというのか。
 エルミオンヌ 結婚するわ。(メネラッス、エルミオンヌを平手うちする。)私はもうオレストのもの。不幸な時も、逆境の時でも。今あの人を棄てるようなことをしたら私、自分で自分を呪うことになる、きっと。戦場ではお父様は命知らずだって聞いたわ。お母様は恋愛のことになると命知らず。だから義務となったら命知らずの人間がいてもいい筈でしょう? それに義務だったら貫き通すしか他にやりようがないでしょう? だって、義務は遂行するものなんですもの。
(平手うちされて後のエルミオンヌの台詞は、泣きながら言われる。小さな子供のように。)
 メネラッス 自分の母親を殺すことを、お前は義務に命知らずだというのか。呆れたぞ、お前には。
 エルミオンヌ オレストのことを考えて言ったんじゃないわ。私。自分のこと。オレストへの私の義務のことを考えて言ったんだわ。私、最後までこの義務はやり遂げるわ。
 エレーヌ この子は休ませた方がいいわ、メネラッス。いいえ、この子だけじゃない、私達みんな一旦下がって少し考えた方がいい。今私達に必要なのは時間。こんな事が起こった後ですからね。少し落ち着いて考えるのが一番大切なことなのよ。沈思黙考。あなたが命令なさる言葉はこれよ。重い一日だったわ。あなたもそう思うでしょう?
 メネラッス 「重い一日」えらく軽く言ったもんだな。君の姉とその恋人のために、僕の兄が殺され、その二人は我々の甥によって殺された、そういう日なんだ。「重荷で押し潰された一日」とでも言いたいね。
 エレーヌ 軽く言っておく、ということが出来ないの、あなたは。とにかく今はもう終。一旦事実から離れた方がいいわ。
 メネラッス いや、今こそ現実を直視すべき時だぞ。それにもう新しい見通しは出来上がっている。エルミオンヌはピリュッスと結婚するんだ。他の誰ともさせはしない。
 エレーヌ さあ、エルミオンヌ、行きましょう。お父さんには勝手に自分の夢を見ていて貰いましょう。
(二人退場。メネラッス、暫くその場に立ちすくむ。その間じっとエテオネユッスを見つめる。)
 メネラッス お前は家族というものを持ったことがなかったんだな、エテオネユッス。
 エテオネユッス はい。もの心ついた時は孤児でしたし。
 メネラッス それ以後もなしか。結婚はしなかったんだな。
 エテオネユッス はい。何故そのように私をご覧に?
 メネラッス その顔・・・さぞかし幸せな人間の顔なんだろうと思ってな。
                (幕)

     第 三 幕
(場にはメネラッスとエテオネユッス。)
 メネラッス 結局何も分からんというのだな。エルミオンヌは行方不明。六日間の捜索も無駄だったと?
 エテオネユッス は。不明で。
 メネラッス 現代というのはそういう時代なのか。まっ昼間娘が親のもとを出て行き、完全にその行方をくらますことが出来るという・・・
 エテオネユッス ええ。その・・・時代には限りませんようで。娘というものはいつの時代でも・・・
 メネラッス ピリュッスをよんでおいて、娘が逃げたとあいつに言えるか。何が何でもエルミオンヌは見つけるんだ。これは至上命令だ!
 エテオネユッス メネラッス、私はピリュッスの来訪を待ってここでの務めを終る予定です。それはお約束ずみだった筈。
 メネラッス 確かに私は約束した。しかしエルミオンヌが帰って来るまではお前にいて貰わないとな。
 エテオネユッス しかしメネラッス、私はもうお話しました。私は年寄なのです。今日のこの世の中ではあの仕事は私では勤まりません。門番の仕事には必ず道徳の問題が絡んできます。私の今持っているような考えでは、今日のこの風潮に合いません。私にはよく分かりました。エルミオンヌの帰宅を待つなどと、そんなことは出来ません。第一もうお帰りにならないでしょう。すると私は一生涯ここにいなければならなくなります。
 メネラッス それは私の望むところだが。
 エテオネユッス 分かっております。しかし理由はすでに詳細にわたって申し上げました。辞職の時期がきているのです。
 メネラッス 分かった。ではこうしよう。あの子が見つかるまではいて貰う。あの子が自分で帰ってきてもよい。とにかくあの子の所在が分かり次第、お前は自由だ。そしてピリュッス来訪があるまでにあの子が見つからなければ、ピリュッスがこの屋敷を去る時、その同じ時刻にお前も役を解く。二つのどちらの場合でも、自由を許すという条件だ。
 エテオネユッス つまりエルミオンヌが見つかりさえすれば、私はすぐ自由に?
 メネラッス そうだ。
 エテオネユッス ああよかった、それは。私はすぐ出て行けます。
 メネラッス 何?
 エテオネユッス エルミオンヌです。
 メネラッス え? どこに。
 エテオネユッス そこ、後ろです。
(エルミオンヌ、丁度登場。)
 メネラッス エルミオンヌ! どこに行ってたんだ。それにこれはどういうことだ。
 エルミオンヌ その話は後で。まづお父様、お母様、お二人にお話しなければならないことがあります。
 メネラッス お前が言う前にこっちにも言うことがあるぞ。お前は考えたことがあるのか。お前のこの行動が私達にかけた心配、不安・・・
 エルミオンヌ 馬鹿なことを言わないで。お母様はどこ?
 メネラッス(立って扉に進み、エレーヌを呼ぶ。)エレーヌ、エレーヌ。エルミオンヌが帰って来たぞ。
 エテオネユッス ではこれで私はおいとまを戴いて・・・
 メネラッス エレーヌ!
 エルミオンヌ 私が言うことでお前が聞けないことはない筈よ、エテオネユッス。私、お前には留まって貰いたいの。
 エテオネユッス その話はもう終っていることです。(あなたが帰って来た今となっては・・・)
(エレーヌ登場。)
 エレーヌ あーら、エルミオンヌ。帰って来たのね。嬉しいわ。
 エルミオンヌ 帰って来たのではありません、お母様。来ただけ。私は帰って来たのではないの。私はある事をお知らせにやって来ました。そしてそれはお父様、お母様にあまり有り難い知らせではない筈ですわ。
 メネラッス 相変らずだな。六日間外にいてもそれは変わらぬものと見える。ピリュッスに会ってそういう調子だと問題だな。少しは尊敬の念がある方がいい。あいつはお前の無礼な言葉を黙って聞くような男ではない。これは予め言っておく。
 エルミオンヌ ということは、お父様はまだピリュッスがここにやって来ると思っていらっしゃるのね。
 メネラッス 今到着したと知らせが来ても、ちっともおかしくない。招待は受けたと、すでに連絡は来たんだからな。丁度いい時にお前は帰って来てくれたよ。
 エルミオンヌ  さっき「ある事をお知らせに来た」って言いましたわね。丁度その事なの、私の言いたかった事。ピリュッスは来ないわ。
 メネラッス 何だって? いい加減なことを言うな。私の招待状を受取り、出発して現在途上にあることは分かっているんだ。そうだな? エテオネユッス。
 エルミオンヌ ええ。でも、あの人来ませんわ。
 メネラッス ふん、そういうこともないとは言えん。しかし約束を果たせなくなったとすれば、その理由を知りたいものだ。
 エルミオンヌ あの人、オレストを侮辱したの。
 メネラッス オレストを侮辱? 何の話だ。我々の招待客をオレストが選ぶとでも言うのか。何の関係があるのか。さっぱり分からんな。
 エルミオンヌ 道でオレストと私、ピリュッスとばったり出会ったの。
 メネラッス 「道でオレストと私」? 二人で何をしていたんだ!
 エルミオンヌ  関係ないわ。二人いたの。私達、ピリュッスに遭った。ピリュッスだ、って私にはすぐ分かった。でも私は何にも言わなかった。あの人、立ち止って私達に道を訊いた。その時、名乗りもしないのにお互い相手が何者か分かってしまった。ピリュッスはさっと緊張した。そして言ったわ。「私はお宅の客になる人間、いや、既に客となっている人間だ。従って御身の危急に際しては、その身をお守りせねばならぬ。」するとオレストが訊いた。「お守りする? 誰からだ?」「母親殺しをするような男からだ。」とピリュッスは答えた。その瞬間二人は刀を抜いた。
 メネラッス まさか! 二人は戦ったのか。
 エルミオンヌ ええ。それも充分に。ピリュッスは死んだわ。
 メネラッス 死んだ! ピリュッスが! オレストが私の客を殺したというのか。
 エルミオンヌ ええ。あの人、殺したわ、お父様。
 メネラッス 人をもてなすとはどういうことをするものか、オレストの奴、よく見せてくれたものだ。ああ、この場で死んだ方がましだぞ、この俺は。
 エレーヌ ピリュッスはこちらで招んだ客だとオレストは知っていたの? エルミオンヌ。
 エルミオンヌ 知っていたわ。あの人侮辱されたの。殺すの当然よ。あの人がやっていなかったら、私がやらなきゃいけなかったこと。法律で保証された正当な防衛だわ。
 メネラッス クリテムネーストル二世か。やれやれ!
 エレーヌ 何にしても、まあ、大変なおもてなしね!
 メネラッス こうなったら打つ手は全くなしだな。ところでエルミオンヌ、お前まだこのオレストという名の人殺しと結婚することを考えているのか。
 エルミオンヌ 考えてなんかいません。終っています。
 メネラッス 何だって?
 エレーヌ ああ、やっぱり。
 エルミオンヌ 今はもうオレストは私の夫。結婚の決心はもうお二人にはお話してあった筈。ピリュッスに出会った時には私達まだ、夫婦じゃなかった。そして私はその時気がついた。ピリュッスを殺した時私達が二人でいたということが皆に取り沙汰されるだろう。すぐ結婚しなければ、と。オレストも同じ考えだった。それで結婚したわ。
 メネラッス すまないが、エテオネユッス、私の娘であったこの女に門を開けてやってくれないか。これはもうここを去る他はない。
 エルミオンヌ 有難う、エテオネユッス、私もここでぐずぐずしている気持はないの。これだけでも充分オレストを待たせたわ。さようなら!
 エレーヌ ちょっと待って。「打つ手なし」ってよく言ったわ、メネラッス。でもオレストとエルミオンヌが二人でちゃんとこの危険に対する責任は取ったわ。(訳註 エルミオンヌが結婚したので殺人の責任はすべてオレスト夫婦にあり、スパルタに害が及ばないということらしい。)私達には全く害が及ばない。私達仲良くしておいた方がいいんじゃないかしら。
 メネラッス それは駄目だ。
 エレーヌ 駄目じゃないの、メネラッス。馬鹿なこと言わないで。あなた自分で過ちを犯したことない? 私はあったわ。すると本人は罰を受けたり受けなかったり。いろいろだわ。でもその人の家族も、友達も、その過ちに対する罰は受けなくていいの。それを決めるのは神様の仕事。ほうっておけばいいの。すんでしまったこと、それはもう仕方がないと思うことにしてるの、私は。そして新しい道を行くの。未来に向かって。オレストって運の悪い人。エルミオンヌもそうね。だってオレストと運命を共にしようとしているんですものね。だから私達の役目は、あの子達の荷を軽くしてやること。だって困った立場に今あるんですからね、あの子達。
 メネラッス あの子達! 冗談じゃない。オレストは俺の子じゃないぞ。
 エレーヌ あなたの甥でしょう? そして父親も母親もいなくなった今、あなたが一番近い親戚よ。あの人が助けを必要とする時、一番近しいのはあなたなのよ。
 メネラッス 君の姉を殺し、僕の客を殺したあいつがか?
 エレーヌ それを許してやることはないの。私は許さない。許さないって、ただこれから決してこのことについては話さない、それが許さないっていうこと。それだけ。ね、エルミオンヌ、私に関する限り、この家はあなた方をいつだって歓迎よ。お前も、お前の夫も。
 メネラッス それは駄目だ。金輪際駄目だぞ。
 エレーヌ 大歓迎なんですよ。勿論ここに住むって訳にはいかない。今のところそれは誰にとっても困ることでしょうからね。それにお前達は結婚したばかり。自分達だけの片隅を持った方がいいわ。でも、ちょっとでもここに来たいっていう気持になったら、思い出して。この家はお前達を愛情を込めて待っているんだって。他のどんな所よりもね。
 メネラッス この子にはそうだ。しかしオレストに対しては違うぞ! 夫によく分からせるんだ、エルミオンヌ、この家はお前にだけ開かれているのだとな。あいつなど論外だ。
 エレーヌ ちょっと待って、メネラッス。これには違った見方があるわ。(その見方からすると)この子に頼んでオレストをすぐここに連れて来て貰わなければ。それはね、誤解はどうしても避けなければいけないということ。今までがあまりに誤解ばかり。オレストとの誤解は解かなければ。いいわね、メネラッス。オレストと話すのに誰かを介しては駄目よ。必ずあなた自身が話すの、直接。
 メネラッス 何だって? 冗談は止めてくれ。オレストにはこの家に一歩も踏み入れさせない。それに一言だって言葉を交わす気持ちは僕にはないんだからな。
 エレーヌ じゃあ私が招待するのは? あの人が殺したのは私の姉。それにあの人はピリュッスも殺したけど、そのピリュッスをよべと言ったのはこの私。 だから私はあの人とどうしても決着をつけなければならない。オレストと話す権利を私は主張するわ。どこなの? あの人は、エルミオンヌ。どのくらいでここに来られるの。
 メネラッス ここは駄目だ、エレーヌ。
 エレーヌ ここ以外のどこかで会うなんて私達の目的に全くそわないでしょう? メネラッス。それに、ここ以外の場所で私が会って、私の安全が保てるの? 私にはあなたの保護がないのよ。さ、エルミオンヌ、どれぐらいで来られるの、あの人。
 エルミオンヌ お父様が反対していらっしゃるんですもの、あの人、来させません。
 エレーヌ でももうお父様は反対を取り消したわ。
 メネラッス 取り消しただと? 何時?
 エレーヌ そうよ、メネラッス。(さっき言ったでしょう?)便宜だけでもここで会った方がいいでしょう? オレストと二人だけで、どこか別の場所で会う方がいいの?
 メネラッス そうか。(便宜か。)その意味でなら、そうだな。
 エレーヌ じゃ、これで決まりね。いつ来られる? オレストは。
 エルミオンヌ あの人、ここには来ないわ、お母様。私心配ですもの。あの人が来たらここで何が起こるか。
 メネラッス おいおい、エルミオンヌ、私のいう歓待はオレストのとは大違いだ。あれに会いたいと言っているのはな、エルミオンヌ、お前の母親なんだ。ここへ来ていいと私が言えば、あいつの身は安全だ。ここで何も起こる訳がない。
 エテオネユッス あいつが来るのなら、その日付を教えて下さい。背を向けて知らないふりをする方法を、新しい門番に教えてやらなきゃなりませんから。あんな奴に作法通りの歓迎の意を示すなんて、出来るわけないんですからね。
 エレーヌ 新しい門番? 何のこと?
 ネラッス おいとまを戴きたいと言われてな、エレーヌ。エルミオンヌが見つかれば許すと約束してしまったんだ。
 エレーヌ あら、エテオネユッス。あなた私達をほうって出て行くの? そんなの無理よ。あなたは私の古くからの友達、新婚で初めてここに来た時、門を開けてくれたのはあなたよ。私はあの時初めてここの敷居をまたいだの。
 エテオネユッス そしてトロイからお帰りになった日に開けたのもこの私。でももう開けて差し上げることは出来ません。この世界の回転の速度は私よりずっと速い。世界の動きとの競争から、もう私は引退すべき時期なのです。
 エレーヌ じゃあ、その話はまたあと。二人でね? エテオネユッス。
 メネラッス それがいい。これでお前は残ることになる。よかった。成り行きは見えてる。
 エテオネユッス いいえ。私は発ちます。これはもう決めたことですから。
 エレーヌ いいでしょう。でも私にはさよならを言いに来るんですね?
 エテオネユッス はい、勿論。
 メネラッス それが間違いでね。お前は残ることになる。・・・さあ、エルミオンヌ、いつお前はオレストを家(うち)に連れて来るんだ? えーと、つまりその、いつオレストをお前の母親のところに連れて来るんだ?
 エルミオンヌ すぐ連れて来ますわ。ここから遠くない所にいるんです。
 エレーヌ じゃあ急いで。婿殿が出来たんですもの。仲良くやっていきたいわ。
 メネラッス あれはお前の姉を殺した人物でもあるんだぞ、エレーヌ。いいんだな?
 エレーヌ もう蒸し返すのは止めて、メネラッス。オレストは第一に娘の夫なの。さ、エルミオンヌ、連れてらっしゃい。
(エルミオンヌ退場。)
 メネラッス もう一度言うからな、エレーヌ。僕は自分の客を殺した男とは会わないぞ。
 エレーヌ 大丈夫よ、それは。オレストを迎えるのは私の係。
 メネラッス 庭であいつを出迎えて貰いたいな。いい天気だし、庭の小道へ出てよもやま話をするというのは、なかなか親切なんじゃないか?
 エレーヌ そうだわね。あなた、言葉通りの意味で「同じ屋根の下には」居たくないのね。それから「迎えるのはこの私」っていうのを徹底したいのね。いいわよ。あなたのその妥協案、よく頭に入れて置くわ。オレストが着いたらすぐ私、テラスに出て、外で迎えることにしましょう。ね、分かるでしょう? 私、あなたの意志は尊重しているの。
 メネラッス(退場しながら。)それは有り難いよ、エレーヌ。
 エレーヌ あなた、ここを出て行くって言ってるのね、エテオネユッス。悲しいわ。きっと原因は私なのね。
(メネラッス、戻って来る。)
 メネラッス そうだった、エレーヌ。エテオネユッスが僕の鎧をあいつに貸しているんだ。あれは大事でね。あいつに思い出させて欲しいんだ。
(メネラッス退場。)
 エレーヌ そう。どういう理由かは分からないけど、あなたが出て行くなんて、私、そんなの厭よ。それに、私がその原因だとしたら、私本当に困ってしまう。
 エテオネユッス 留まる方がいい。何故でしょう。
 エレーヌ お前が去って行く、その事が嫌なの。私から人が去って行く、そういうことに慣れてないの、私。
 エテオネユッス もうお気づきになっていらっしゃると思いますが、私のように昔の考えに凝り固まっているものがいては、家は収まりがつきません。それに私も、これまでにもう二、三回ひどい煮え湯を飲まされました。私はこういう目にあうと、胃の具合がおかしくなる性質(たち)で、これが限界なのです。
 エレーヌ 分かるわ、エテオネユッス。でもお前、こういうことには必ず終があると思わない? この家にこれから先もあんな悲劇がまだ次から次と襲ってくるとはお前も思っていないでしょう? もうこの辺でだいたいお仕舞いなのよ。
 エテオネユッス お仕舞いということはありません。まだ生きている人がいますから。
 エレーヌ あらあら、みんなに死んで貰いたいっていうような言い方ね。
 エテオネユッス だってオレストなんかどうです。(充分に悲劇のたねです。)誰かに殺されていい筈の人物です。「昔風の」考えからすれば、それが論理的な結論とも言えます。
 エレーヌ そうかも知れないわね。でもあなたの言う「新式の」考え方からすれば違った結論よ。「何も心配することはない」っていうこと。本当よ。
 エテオネユッス 舞台裏でまた何か大芝居の準備がなされているかも知れません。また昔のパリスのような男が客に来て、一目惚れしてしまったらどうします。また駈け落ちをなさるんじゃありませんか。
 エレーヌ それはそうよ。
 エテオネユッス 見てご覧なさい。やはり私はこれでお暇(いとま)した方が。終ったばかりのところからまた始めるなんてもうこりごりです。とんでもない話です。
 エレーヌ ああ、エテオネユッス、そんな心配はもうまるでないのよ。ああ、そして、この私! 私にはもうそんな危険は起こりようがないの。
 エテオネユッス その仰り方ですと、また出て行ければとお思いに?
 エレーヌ 望みがどんなところにあるのか、自分でも分かってはいないの。ただ、感覚が錆びつかないように気を付けなければ。日常の決まり切った生活に押し流されて、何を見聞きしても何の感動もない。こうならないように。ああ、エテオネユッス、本当に生きる喜びを知っている者は、ただ時が流れて行く人生に決して満足はしないの。ああ、神様、どんなことでもいい、何でもいい、何かは起こってくれなくちゃ。
 エテオネユッス 何か非常に強い感情を持ってトロイからお帰りのようですね、エレーヌ。そのせいか、次から次と事が起こっているようですが。
 エレーヌ ええ、そうね。でも結婚をめぐっての議論、それに家族同志の殺し合い、それはいづれも女性にとって強い感情を引き起こす事柄ではないわ。私はね、エテオネユッス、今までの人生で、本当に強い、本当に深い、感情を経験したことがないの。だからついつい私に似た人達を観察して、それで人生を理解しようとしてきた。でもこのやり方良くないの。あまり他人を見ていると、微笑むことを覚えてしまう。全てのことに微笑んでしまう。ついには自分のすることにも微笑んで・・・すっかり泣くことを忘れるの。でも泣くことは、女性にとって・・・それが好きだろうと嫌いだろうと・・・それしか女性にとって大切なものはないの。
 エテオネユッス ああ、エレーヌ、そんなに悲しそうなエレーヌを私は見たことがない。こちらまで悲しくなってきます。
 エレーヌ じゃ、留まってくれるのね。
 エテオネユッス いえ、そうは言っていません。
 エレーヌ でもそう言ってくれるのね?
 エテオネユッス もう私は年を取り過ぎています。
 エレーヌ 年が問題じゃないわ。メネラッスも私も、お前がいいの。年をいくら取ってたって、友達は友達でしょう?
 エテオネユッス そういうお心でしたら・・・留まります。
 エレーヌ 良かった。
 エテオネユッス でも・・・私のような偏見を持った男では・・・
 エレーヌ 何を言ってるの! 偏見がない人間なんて、人間と言える?
 エテオネユッス トロイへとお発ちになったことは私は非難しません。でも・・・
 エレーヌ 帰って来たことは非難するのね。それもいつか折り合いがつくわよ、エテオネユッス。留まってくれて有難う。お前の言っていることが分かっているという証拠に、お前、オレストのために門を開けなくていいわ。私がやる。それから、庭へ案内も。お前はほうっておいて。
(エレーヌ退場。)
 エテオネユッス いろんな人がいろんな事を言うが、エレーヌ・・・あれは違う。
(メネラッス登場。)
 メネラッス 人殺しが来たぞ。夫婦そろってな。
 エテオネユッス エレーヌが自分で開けると仰って。私には拷問に等しいあの仕事を免除して下さいました。
 メネラッス やるもんだね。石段に花でも蒔いて歓迎するんじゃないか、あれは。なあ、エテオネユッス。俺の女房ときたら・・・
 エテオネユッス どうぞ悪口は仰らないで。今申し上げようと思っていたばかりなのです。どうも私はあの方に不当な評価をしていた。それに、色々勘違いをしていたと。今までさんざんに言って来た事、あれは取消しです。もう仰らないで。全面的に取消しです。今あの方と話をしたばかりなのです。
 メネラッス ははーん、成程ね。あいつの顔を見たという訳だ。分かるよ、お前の取消しは。承認だ。美だ。美が攻撃力を失わせるんだ。お前だけじゃない、やられるのは。
 エテオネユッス そうとは思いませんが。
 メネラッス エレーヌの美のせいだと思わないのか? 美の力だとは?
 エテオネユッス  美のせいだとは思いません。私の年になりますと、もう。何のせいか。その・・・何て言うか、ちょっとうまく言えない何かが・・・どうも説明は難しいです。でも何かがあるんです。
 メネラッス  なあ、エテオネユッス。美とは言ってみれば、今お前が言ったようにしか定義出来ないものなんだ。今お前が言った通りのこと。つまり「その・・・何て言うか、ちょっとうまく言えない何か」、それなんだ。(エルミオンヌ登場。)ああ、オレスト夫人だ。ちょっと外(はづ)してくれないか。
(エテオネユッス退場。)
 エルミオンヌ お父様、今オレストとお母様が話をしているところ。丁度都合がいいので私、お父様にお別れを言いに来ましたわ。夫と私、今日発ちますの。
 メネラッス お前が出て行くのは寂しいよ、エルミオンヌ。出来れば留まっていて貰いたかった。よりによってあんな・・・
 エルミオンヌ もう仰らないで、お父様。あの人のことを分かって戴ける日がきっと来ますわ。
 メネラッス 「分かる、理解出来る、だから愛せる。」という訳にはいかないんでね。新婚旅行にはどこに行くつもりなんだ? 訊いてよければ。
 エルミオンヌ まだはっきりとは決めてないの。デルフ(デルフォイのこと)はどうかってオレストは言うんだけど。私はあまり行きたくないし。とにかく大切なのはあの人の気を晴らすこと。
 メネラッス で、何時頃帰って来るんだ?
 エルミオンヌ 分からないわ。すぐって訳にはいかないでしょう、きっと。あの人、自分の家には帰れないし。私達もっと世の中のことを見てみたいし。
 メネラッス うん。それでお前達のこれからだが、私の目に一つだけ確かなことがある。それは二人ともこれから死ぬほど腹をへらすだろうということだ。お前達に持たせてやるものを命じようと思っている。食料一箱と宝石類だ。人夫を一人つける。どこか目的地を言ってくれればそれに運ばせる。
 エルミオンヌ 有難う、お父様。でもあの人、一人でうまくやって行くわ、きっと。
 メネラッス どうやって? 一銭も金はない。それに友達もいないんだぞ。
 エルミオンヌ お父様の仰る通りだとしても、贈り物はやはりお断りします。勿論お父様が考えを変えて、あの人を受け入れて下さるのなら話は別ですけど。
 メネラッス いや、あいつとは口をきかん。問題外だ。
 エルミオンヌ だからお分かりよね。贈り物は戴けませんて。じゃ、さようなら、お父様。
 メネラッス うん。さようなら。
 エルミオンヌ お父様に一つだけ。これは言って、後は忘れるつもり。お父様、お母様に厳し過ぎるわ。
 メネラッス 私が? あれに厳しい? こいつはいい。何時からだ。
 エルミオンヌ トロイから帰ってからしか私には分からないけど。お父様は時々酷いことを仰ったわ。お母様のような繊細な心の人にはとても聞いていられないようなむごい事を。お母様と私はちっとも似てない。でも私には分かってきたの。お母様の良い所は何か。それは大らかさ。さもしくないの。
 メネラッス ははあ。そいつを見つけたっていうんだな。大らかさか。それでこの私が、「さもしい」と非難するんじゃないだろうな。あれに対して寛大でなかったと。
 エルミオンヌ お二人の差を定義しようなんていう気持はないの。ただ私、お母様が事ある毎に示してきた、あの心の広さ、それを感じるの。伯母さんの死が知らされた時、お母様はほんの一瞬の間に立ち直ったわ。「私はオレストをこの家から排除などしません」と。
 メネラッス なかなか巧妙な考察だ、それは。しかし私にとっては、オレストはきれいさっぱりと、この家庭からは排除されている。エレーヌの大らかさだが、まあこれは私にも一言(いちげん)ある。お前だってそれは認めるだろう。
 エルミオンヌ 私、お母様が取った行動が、お父様に親切だったなんて言うつもりはないわ。それにあれが妻が夫に対して取るべき行動だったなどと決して思ってはいない。でもお母様のことをおおらかって私が言うのは、お母様が自分の意見とは全く違う意見が出てきても、それを認めるっていう態度を言っているの。頑固じゃないの。お父様はその点少し頑固だわ。認めるでしょう? 私、これから家を出て行く。だからお父様、お母様にはどうしても幸せに暮らして戴きたいの。 その幸せに一番障害になるのは、多分お父様のその・・・
 メネラッス そう。「お父様のその・・・」次に私の欠陥が来るんだ。お前、相変らずなまいきだね。私はあれのことは空で言える程知っているんだよ。あれのことなら見なくても何をしているか、直感で分かるくらいだ。それも親しい気持で理解しているんだ。そうだ、この話をしよう。まだ誰にも言ったことがないんだが、話すとさっぱりするかも知れない。最初あれに会った時は今ほど美人じゃなかった。が、そのういういしい魅力といったら・・・あれほどの魅力を出せる女は他にはいない。あれは沢山いる求婚者の中から私を選んだ。「夢を見ているようだった」とは言わないことにしよう。しかし私はその時すぐ、あれが過ちを犯した、と分かった。何か心配なものがあったのだ。そして結婚した。するとすぐ分かった。あれの目には私は小さな赤ん坊のように見えたのだ。あれの考えはどうやらこうだった。「あの人に与えるこの私の美、それをあの人は崇めたいのね。さ、崇めて頂戴、どうぞ。でも可哀相なおちびちゃん。あなたは私の上には立てないの。」それは本当だった。私はあれの上に位することは出来なかった。本当にそういうことは今まで一度もない。それでまた私には分かったことがある。それは私以外のどんな男でも、きっとそうだろうということだ。私には分かっている。パリスだって、私と何の違いもありはしなかったと。あの戦争が終った時、トロイであれを見つけた夜、私はあれを殺さなかった。それはあれが光り輝くように美しかったからだけではない。処女のういういしさがあったからだ。私の前に立っていたのは、奇妙にも若々しい一人の娘、純粋な人間の愛ではどうしても近づくことの出来ない女の姿があった。一旦あれの腕に抱かれると男達は小さくなってしまった自分、価値のなくなった自分を感じる外はないのだ。男達の誰一人・・・パリスを含めて・・・あれをしっかりと捕えたものはいない。これでどうして私があれを罰することが出来る。あれは私を裏切った。しかし当のあれの相手が、単なる影なのだ。世間にはこの逆がいくらでもある。亭主から逃げては行かないが、実質的な裏切りをしている例が。なあ、エルミオンヌ、これが私のあれに対する理解だ。そしてあれの秘密を知っているのはこの私一人だ。そう私は信じている。だからこれから私の出来ることは、あれが捕えたいと望んでいるものを与えること。少なくとも与えようと努力すること。もう一つは、理想の恋人など諦めさせること。この二つだ。理想の恋人など今まであったためしがないし、これからもある筈もないんだからね。
 エルミオンヌ 嬉しいわ、お父様、そういう話し方をして下さって。これで安心して発てるわ、私。お母様と一緒に暮らそう、幸せにっていう決心が、よく感じられたもの。随分お母様を愛していらっしゃるのね。でも当然ね。お父様が思ってらっしゃるよりずっとずっとお母様は美しいもの。
 メネラッス そうだ。お前にこれを言ってどうかと思うが、あれの魅力というのは実は決して女には分からない筈なんだ。男にとってはまたそれは別物だからね。
 エルミオンヌ あら、私怖くなったわ、お父様。今オレスト、お母様と一緒だわ。
 メネラッス そう。それで今あの二人に何が起こっているか、私にははっきり分かる。いいかい? 今夜どこかでお前達は宿を取る。ベッドに入ってやさしいキスだ。しかしそのキスとキスの間にオレストが夢見るような目つきをしているのに気がつくんだ。そしてお前の方からは問いもしないのにあいつは話し始める。お前と当然その話をしていたかのように。「君のお母さん、何かすごいね。人に話し掛ける時の何ともいえないあの調子。君、分かってる?」・・・
 エルミオンヌ もう仰らないで。さようなら。あの人、すぐ連れて行かなきゃ。家庭のいざこざはもう沢山!
(エルミオンヌ退場。)
 メネラッス(一人で。)あの議論はもっと早くに考えておくべきだったな。(口にしてみて初めて整理がついた気がする。)あの子は母親を警戒している。だからオレストはもうここの敷居はまたげない。哀れなオレスト。可哀相な奴だ。あいつに対する正直な気持はこれだ。エルミオンヌのやつ、結婚生活で何が待ち受けているか、何も知ってはいない。可哀相に。全てを捨てて三重の殺人を犯した男と結婚する女などこの世には決していはしない、と噂されるに決っているのに。とにかくこの私の家庭は普通ではない。こんなにまで変わっているというのは一体何故なのだ。 あの子はエレーヌの方が私より頭がいいと言わんばかりだった。・・・本当にそうだろうか。そのせいで俺はあいつに近づき難いと感じているのか。自分には足りないものがあると感じて仕舞うのか。違う・・・違うぞ、それは。あいつが美人だから。それで説明は充分じゃないか。それに美人と頭の良さは両立しないと相場が決まっている。そんなうまい話はありえないんだ。・・・そうさ、言いたい奴には言わしておけばいい。エレーヌにそんな魔法の薬など作れっこない。勿論こっちだって出来っこないが。魔法の薬・・・しかしそんなもの、あるかな。
(エレーヌ登場。)
 エレーヌ あの子達、発ったわ。オレストとのやさしい別れ。あなた立ち会うべきだったんじゃないの? 残念だわ。
 メネラッス あいつ、いい奴だったか?
 エレーヌ いいえ、普通。あの年頃であの態度。まあまあ尋常ね。(いろんなことやっても、)魔法の薬は作れなかったようね。
 メネラッス はっはっは。
 エレーヌ あら、何か可笑しい?
 メネラッス いや、ちょっと思い出し笑いだ。
 エレーヌ でも控え目で機知もあって、今の酷い状態を考えに入れれば、あれでかなりいい方じゃないかしら。
 メネラッス それでまた悩殺したんだね。
 エレーヌ 話しているうちに緊張がほどけて来るのが分かったわ。エルミオンヌが捜しに来た時、あの人、別れが早過ぎるって顔をしたわ。少なくとも私はそう感じた。
 メネラッス うん。そうだろう、それは。
 エレーヌ さあ、これで私達たった二人ね。結婚式の終った夜の、手持ち無沙汰な父と母。・・・子供達が巣を離れて行ったんですからね。
 メネラッス おいおいエレーヌ。結婚式の終った夜、父と母は、「疲れたな」という感想しかないんだぞ。手持ち無沙汰なんかじゃない。来客を全部さばいて、ああやれやれ、と言うべきところだ。
 エレーヌ 自分達の子供が結婚して出て行ったのよ。普通の来客とは少し違うでしょう?
 メネラッス 突然おセンチになってしまったんじゃないか? だいたい君はエルミオンヌとは全くうまが合わなかったんだ。あいつがいなくなって悲しくなる気持が分からないね。
 エレーヌ 越えなきゃならない一つの過程。
 メネラッス そう。これからは義理の母親の役も演じることになるんだぞ。
 エレーヌ そうよ、メネラッス。これからは私、優しい思いやりなんていう感情にも立ち入って行くことになるわ。あなたがいつも避けてきた。ね? 私ってあなたに対してもなかなか殊勝な心掛けなのよ。
 メネラッス やさしい気持? 僕にはそんなものはない。たとえあったとしてもそういう形では表面には出て来ない。なにしろ戦うのが僕の仕事なんだ。自分の感情ぐらい制御出来なきゃね。
 エレーヌ あなたは幸せな人なのね、メネラッス。自分自身を制御し、自分の環境を制御して。神様に喩(たと)えたらゼウス。万物の長(おさ)ね。
 メネラッス そうさ。幸せでない訳がない。
 エレーヌ 妻はいるし、家はあるし・・・
 メネラッス その通り。君がさっき入って来た時、丁度そのことを考えていたんだ。
 エレーヌ そのことって?
 メネラッス 僕ら二人のことだよ。それから家庭生活のこと。それから今君の言った我々の幸せのこと。結婚生活の強固な基礎の上に我々はこれから出発する。その時期なんだ。違うのか?
 エレーヌ あらま、怖いわね、その言い方。
 メネラッス 僕はね、エレーヌ、君のことについては、色んな角度から考えてみた。そして一つの結論に達したんだ。多分間違ってはいないと思う。君は恋人なんか今まで持ったことはないんだ。
 エレーヌ 思いがけない言葉ね、メネラッス。
 メネラッス 言ってること、分かる?
 エレーヌ 分からない。はっきりとは。
 メネラッス 恋人とは一体何か。女の優位に立てる男。主(あるじ)になれる男のことを言うんだ。君は一体、自分の主を見つけたことがあるのか? ないんだ、そういうことは。君があんまり奇麗なもんだから、君の前に出ると男達はみんな萎縮してしまう。その途端、君は相手に対する興味を失ってしまうんだ。だから君はどんな男も好きになったためしがない。
 エレーヌ あらあら。それでその議論の行き着く先はどこなの?
 メネラッス 行き着く先はこうさ。今まで君に起こらなかったことはこれからも決して起こらない。だからそのうち「勝負は終」ということになる。その日からはもう「これからどうする」を考えることが問題ではなく、「どこまで来たんだろう」と考えることが問題となるんだ。
 エレーヌ 「どこまで来たんだろう」って? どこまでかしら?
 メネラッス それは君、母親が娘を嫁にやったところまで来たさ。
 エレーヌ ま、そうね。
 メネラッス だろ? 人によって勿論その年齢は違うけどね。
 エレーヌ 分かるわ。
 メネラッス その中では君は一番年が若いだろうな、多分。だけど・・・
 エレーヌ ええ。だけど・・・どうなの?
 メネラッス だけどとにかく僕がさっき言ったように、君の夢に叶う男は今まで現われたことはないんだ。確実になかったんだ。だからもうそれを考えるのは止めにするんだ。つまり君の言う「生きる喜び」は止めて、僕の言う「生きるやさしさ」「折り合いをつけながら生きてゆく」、そちらの方に切り替えて欲しいんだ。君と結婚してもうそろそろ丸十八年だ。それなのに僕は、妻が自分の家にいて一緒に暮らすということはどういうことか知らないんだ。君は家にいたことなんかないんだからね。普通の結婚生活っていうのは一体どんなものなのか、僕は知りたいよ。
 エレーヌ 違うわよそれは、メネラッス。私達のこの生活、これは普通の生活なの。
 メネラッス 妻を取り戻すためにトロイ戦争をする。これが普通の夫のやることだって言うのか。
 エレーヌ 私は「生きる喜び」。愛のために生きて、パリスと出て行った。あなたは戦士。トロイ戦争を戦った。これは普通の人の普通の生活よ。もう前にこのことは言ったと思ったけど。
 メネラッス じゃあこういう言い方にしたらどうだ。その方が「普通の人生を送る」という言葉にもっと相応しい。つまり、「生きる喜び」は追求するけど、君ほどは突き詰めない。僕も戦士として生きるが、トロイほどには突き詰めない。これが僕の提案だがね。
 エレーヌ それは結局「生きる喜び」を諦めろということね。あなたの方は戦争を諦める。これには問題なんかなさそうよ。だから比べると、少し違うんじゃない?
 メネラッス 「生きる喜び」を諦めろっていうんじゃないよ、エレーヌ。それを復活させようと言うんだ。君が気づいていなかった新しい「生きる喜び」だ。これまで君は幽霊を追っかけていた。この世には存在しないものを。それの追求に「生きる喜び」と名前をつけていたんだ。僕は今、君に新しい生き方を提案する。君が思いもかけなかった、新鮮で、目の醒めるような生き方だ。・・・「いざこざのない結婚生活」・・・良いだろう? 我々のような人生を送って来たものにとっちゃ、新しく開拓された宇宙だ。この新宇宙の単純で幸せな図・・・それを描写してみようか。君は周囲の暖かい空気に包まれてゆっくりと老いてゆく。その美しさは全然失わずに。そして君の傍には友達が寄り添っている。心変わりのしなかった昔からの、忠実な。
 エレーヌ 私、あなたがトロイで私を見つけた時、私を殺さなかった理由が分からなかった。でも分かってきたの。それはね、あなたが話をするのが好きだから。そして聞き手が欲しかったからなのよ。あなたが年とった時のために予め聴衆を確保しておきたかったの。それが本当の理由。これを知ってるのは私一人だわ、きっと。
 メネラッス 僕が本気で喋ると必ず君は茶化すんだね。
 エレーヌ 茶化してなんかいないわ。あなたの今の長い話で、たった一つだけ心を打たれたことがある。こんなこと初めてだけど。それは私を見下すことが出来る男の人を見つけられなかったっていうこと。それは本当よ、メネラッス。あなたに感謝するわ、この悲しい事実を見抜いて、そして話してくれて。今のこの年になってそんなことを確認するって、悲しいことね。アシッルだったら多分・・・
 メネラッス あいつは死んでるよ。
 エレーヌ そうね。
 メネラッス それから言っとくけどね、あいつだって同じさ。怒鳴ることにかけちゃ誰にも負けなかったがね、君の前に出れば犬っころも同じさ。ひどくがっかりしたろうよ。さ、どうだ、エレーヌ。生きる喜びを、生きるやさしさに取り替える気になったかい?
 エレーヌ あなた、私に新天地を開いてくれるって言うのね、メネラッス。それ、砂漠でないって保証できる?
 メネラッス その点もよく考えてあるさ。君のお伴は僕だけじゃないんだ。
 エレーヌ あら、そう。
 メネラッス 君の想像もつかないような、素晴らしいお伴だよ。可愛いし、懐(なつ)き方がまたいいんだ。朝から晩まで話をしていても飽きることはない。相手からの反応も快いものなんだ。
 エレーヌ 唖の道化?
 メネラッス 犬だよ。素敵な! 君、犬を飼ったことないだろう?(間。)そうだろ? 嫌じゃないね?
 エレーヌ そうね、メネラッス。私あなたの言う通り、きっと年とってしまったんだわ。以前だったらあなたがもしこんな提案をしてきたら、きっと頭に花瓶を投げつけていたでしょうからね。年のせいで少しやさしくなったのかしら。あなたって多分良い夫なのね。私もいい妻になるよう努力するわ。犬を撫でてやりながら暖炉の傍であなたの話を聞く・・・
 メネラッス それが幸せっていうもんだよ。生きる喜びなんて一時(いっとき)のものだ。分かるだろう? 僕が君を連れて行こうとしている新天地。お互い友達でいるという関係、それなんだ。勿論ただの友情ではない。過去の素敵な香が漂っている。昔は恋人同志だったんだからな・・・
(エテオネユッス登場。)
 エテオネユッス 失礼、メネラッス。一夜の宿をと、門に若者が。美男子です。どうしようかと思いまして・・・通すべきか、どうか。
 メネラッス 何だ、エテオネユッス。その年でもうボケが始まったのか? こんな時にこんなことを言わなきゃならんとはな。「通すべきか、どうか。」だと? 何が言いたいんだ。通してやらないとでも言うのか。私はな、昔旅に出たものだが、その度にどこでも大変歓待されたものだ。我々だって通りがかりの旅人に親切にしてやるのは当たり前じゃないか。
 エテオネユッス(出て行きながら。)どうなってるんだ、これは。さっぱり分からん。
 メネラッス そうだろう? な、エレーヌ。(振り返って見ると、エレーヌいない。)あれ!(考える。)若い男がやって来たと聞いて逃げたのか。薬が效きすぎたかな。劣等感を植えつけるつもりはなかったんだが。
(エテオネユッス、素晴らしい若者を連れて登場。客の到来を告げる。(声なしで。)それに対しメネラッス、歓迎の大きな身振り。エテオネユッス、前へ進み、観客に話しかける。)
 エテオネユッス さてこれで私の門番としての役割は終りました。ここに戻ったのは、最初の時のように、これから起きることを皆様に御説明するためです。説明・・・じゃなくて、見せる・・・いや、これから起こることに説明をつけるために。
(パントマイムが始まる。エテオネユッスの話の通りに役者によって身振りがなされる。)
 この若者はまだメネラッスに自分の名前を名乗っていません。暫く茫然と、導き入れられたこの屋敷の素晴らしさに見とれています。「これは素晴らしい。こんな素晴らしい家がこの世にあるだろうか。」と言っています。「天界のオリンポス、そのジュピターの住みかでも、これほど豪華だとは思えない。」
 メネラッスが言います。ほら、なかなか謙遜な態度ですよ。「ああ、君君、神様の住みかと比べたりしてはいけないよ。それはもうこれ以上欲しいものといっては、ないがね。」勿論メネラッスは建物に限って言ってるんですよ。
「だけど」と続けて言います。「この富も大部分は手放さなければ。私は長いことよそで暮らして人生を無駄に使った。 それを取り返したいんだ。それにトロイで死んだ友人達、戦争が終って帰国する途中で亡くなった者達。彼らを篤く弔ってやらねば。勿論人間は誰でもいつかは死なねばならない。連中の中にも、トロイ戦争がなくったって今頃墓に入っているっていうのもきっといるだろう。(しかしそれはそれで話は別だ。)僕はね、中でも最も親しかったユリッスがどうなっているか、それが心配なんだ。」
「ユリッス。 あいつには本当に恩義がある。しかしどうなっているんだ。すっかり消息を断って仕舞った。生きているのか、死んでいるのか、それさえ分からない。あいつの父親、(もし生きていれば、)随分心を傷めていることだろう。それにあの貞淑なペネロップ。それから赤ん坊・・・今では大きくなっているだろうな。・・・あの二人、どうなっているんだ。」
 ユリッスの名が出た時、若者が頭を上げたのが皆様、見えましたね。でも丁度その時、エレーヌが登場して来ました。
 「エレーヌ」、ああ、これがあの人か、と近づいて来る人物を見て若者は思います。「なんて若々しい、いや、ういういしいんだ!」 若者は呟きます。「まるで処女神ディアンヌ(ダイアナのこと)だ。」
 エレーヌがメネラッスに言います。「自分から名前を名乗る前に「誰?」って訊くのは失礼よね。」「それとももう名乗った?」 
 「いや」とメネラッス。
 「あの人がいいって言えば、私あの人の名前をあててみたいわ。」
 しかしどうやらエレーヌには閃いたものがあるようです。 正面から若者を見据えます。若者の方は? ・・・そう。エレーヌに見つめられる時の効果は、観客の皆様御自身で見て戴きましょう。見るだけで充分な筈ですよ。エレーヌははっとします。
 「こんなにそっくりな二つの顔がこの世にあっていいのかしら。メネラッス、あなた、気がついた?」
 「いや、何も。」
 「言わなきゃ分からないかしら? ユリッスよ。ほら。」
 「本当だ! 驚いたな。そうか、テレマックなんだ、これは。あの赤ん坊が大きくなったんだよ。いや、驚いた。君が来るちょっと前に僕は君の親父さんの話をしていたんだ。」
 「テレマック、本当にあなたなのね?」とエレーヌは訊きます。
 「ええ」とテレマックは答えます。 「ピロスに行っていました。父の消息を訊こうとネストールに会いに。それからここに伺ったのです。何かご存じではないかと。」
 「ああ、残念ながら私は何も知らないんだ。」とメネラッスが答えます。「ユリッスのことも他の皆のことも。丁度さっきその話をしていたんだよ。」
 その時召使い達が食事を運んで来ます。ほら、見えますね? メネラッスは話を聞いてくれる相手を見つけました。彼は話します。次から次と。・・・面白いですね。ほら見てご覧なさい。聞き手は全く違うものに興味を示しているでしょう?
(テレマックが真剣にエレーヌの方を見つめているのが観客に見てとれる。)
 さあ、エレーヌが葡萄酒の入った杯を持って来ましたよ。テレマックは消息不明の父親のことを思いだして泣いていましたが、・・・ほら、杯を受け取って、どうなると思います? 魔法の酒なんです。飲むと悲しみを忘れるんですよ。
 テレマックの手がエレーヌの手に触れます。エレーヌはにっこり。
 テレマックは酒を飲みます。ほら、悲しみが去って行った様子ですね。
 なんだ。魔法の酒のせいじゃないかも知れませんね、これは。魔法は他のところにある? 「さあ、席について、席に。まづスープだ。」メネラッスは陽気に言います。メネラッスまで魔法にかかっているのかな?
 そうです。この食事は新結婚生活の初めての食事なんです。メネラッスは「生きる楽しみ」と言っていましたが、その穏やかな空気の中でとる初めての食事。「ああ、やっと結婚した。」二十年たった今、初めて言える言葉ですね、これは。やっと妻に安心出来たんですから。そして客には、自分の最も親しい友人の子供が来ているんです。熱心に、ほら、皿にある豆を一心につっついていますよ。
 そしてほら、エレーヌ。テレマックに寄り添うようにして。ほーら、微笑みあっています。さ、こうして食事は進んで行きます。メネラッスは御機嫌です。
 エレーヌが話し始めましたよ。「生きる喜び」について。
                (幕)




Acknowledgment
I thank Mrs. Christianne Estrop who sent me the works of Roussin all the way from Switzerland. She wrote to me that she liked this 'Elene' best.

I thank Mr. Said Kazaoui whom I meet in the commute bus at Tsukuba (departure time 8:12, for
Kogi-in) and who helped me understand French. Without his help I could not have finished this
translation.
             
 平成七年(一九九五年)十二月七日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html



Cette comedie (Elene) a ete creee au Theatre de la Madeleine le 12 decembre 1952, avec une mise en scene de Louis Ducreux decor et costumes de Georges Wakhevitch.
HELENE Sophie Desmarets
MENELAS Pierre Dux
ETEONEUS Louis Ducreux
HERMIONE Anna Gayle
TELEMAQUE J. Gabriel