ドン・キホーテ
        (四幕九場 セルバンテスによる)
          
           ミハイル・ブルガーコフ 作
            能 美 武 功 訳

   登場人物
アロンソ・キハーノ ラマンチャの騎士ドン・キホーテ
アントーニア 彼の姪
鍵番の女 ドン・キホーテ家の食料倉庫の鍵番
サンチョ・パンサ ドン・キホーテの従者
ペロー・ペレース 村の司祭
ニコラス 村の床屋
アリドンサ・ロレンソ 百姓女
サンソン・カラスコ 学士
パロメーク・レーフシャ 旅篭(はたご)屋の主人
マリトールネス 旅篭屋の女中
ラバ追い
テノリオ・エルナンデス 旅篭屋の客
ペドロ・マルチネス 旅篭屋の客
マルチネスの召使 旅篭屋の客
その他、旅篭屋の客
公爵
公爵夫人
公爵の懺悔司祭
公爵の執事
医師アグエロ
付添婦人ロドリゲス
公爵の小姓
豚飼い

老人一
老人二
僧侶一
僧侶二
召使一
召使二
馭者達
公爵の家来
(十六世紀終り、スペインでの話)

     第 一 幕
     第 一 場
(夏の夜。ドンキホーテの家の中庭。厩、井戸、ベンチ、それに二つの木戸あり。一つは舞台奥、道路に通じる。もう一つは右手、村に通じる。舞台の左手はドンキホーテの家の内部。家の内部には帳(とばり)のついた大きなベッド、肘掛け椅子、机、古い騎士の甲冑、そして沢山の本がある。)
 ニコラス(床屋の道具一式を持って中庭に登場。)おーい、鍵番! いないのか!(家に近づき、扉を叩く。)セニョール・キハーノ! 誰もいないらしい。(ドンキホーテの家に入る。)姪御殿!・・・一体みんな、どこへ行ったんだ。床屋を呼んでおきながら。まあいい。待つとしよう。どうせ急ぐことなど何もないんだからな。(床屋で使う洗面器を床に置く。甲冑に目を止める。)何だ、この物は! どこから持って来たんだ、一体。ああそうだ、屋根裏からだな。馬鹿馬鹿しい!(坐る。机の上から本を取り、読む。)カ・・・ガ・・・ミ、・・・キ・・・シ・・・の・・・フム、騎士のどこが面白いっていうんだろう。全く訳がわからんな。
 ドンキホーテ(舞台裏で。)ベルナルド・デル・カルピオ! ベルナルド・デル・カルピオ!
 ニコラス あ、おっさんの声だぞ。こっちに来る。(窓から乗りだす。)
 ドンキホーテ(舞台裏で。)ロンセバルにおいて、偉大なるベルナルド・デル・カルピオは、魔法にかけられたるドン・ロルダンを絞め殺したり。
 ニコラス(窓から外を見ながら。)何をぶつくさ言ってるんだ。
 ドンキホーテ(裏手の木戸から登場。片手に本を、片手に剣を持っている。)ああ、この私、ラマンチャの騎士ドンキホーテに、仇(かたき)と狙う敵に遭遇せしめよ。たとえそれが、私の人生においてなした、死に値するほどの愚劣な行為を罰するためのものであれ、善きことをなしたる褒美としてのものであれ。ああ!
 ニコラス 何の騎士、ドンキホーテだと? ヘッヘッヘ、どうも、おっさん、かなり悪いらしいな。
 ドンキホーテ ああ、もし敵との遭遇を果たさせて下さるならば・・・あの蛇皮の巨人ブランダバルバランとの遭遇を・・・
 ニコラス ブランダバル・・・フム、おっさん、ついに気が狂ったか。
 ドンキホーテ さすればこのドンキホーテ、騎士ベルナルドの例に倣(なら)い、巨人グランダバルバランを目よりも高く差し上げ、地面に叩きつけ、その息の根を止めてくれようものを!(本を投げ捨て、剣で空中を斬り始める。)
 ニコラス おお、神様!
(ドンキホーテ、家に入る。ニコラス、甲冑の後ろに隠れる。)
 ドンキホーテ 誰だ、そこにいるのは。誰だ!
 ニコラス 私です、親愛なるセニオール・キハーノ。私です。
 ドンキホーテ ああ、やっと私に幸運が舞い込んで来たぞ。ついに現れたか、不倶戴天の敵。いざいざ、ござんなれ! 敵に後ろを見せ、物陰に隠れるとは卑怯なり。いざ、尋常に勝負だ。
 ニコラス お情けを! セニオール・キハーノ。何を言ってらっしゃる。私が何故不倶戴天の敵ですか。
 ドンキホーテ 嘘をついてもすぐ分る。お前の魔法など、この私には効かないぞ。お前の正体はちゃんと見抜いている。狡猾な魔法使い、フリストンめが!
 ニコラス セニオール・アロンソ。正気に帰って下さい。お願いです。私のこの顔をよく見て。私は魔法使いなどではありません。床屋ですよ。あなたの無二の親友。ほら、ニコラス小父ですよ。
 ドンキホーテ 嘘をつくな!
 ニコラス お願いですったら・・・
 ドンキホーテ さあ、わしと勝負だ。
 ニコラス ああ、何ということ。ちっとも言うことを聞いてくれない。セニオール・アロンソ! 正気に帰って下さい。あなたの前にいるのは、キリスト教信者ですよ。魔法使いなんかじゃありません。そんな恐ろしい刀なんか、収めて下さい、セニオール!
 ドンキホーテ さあ、武器を取れ! 外へ出ろ!
 ニコラス ああ、守りの天使様、お助け下さい。(窓に駆けより、外へ出て横の木戸を通って逃げる。)
(ドンキホーテ、落ち着く。坐る。本を開ける。塀の向こうに誰かが通る。弦楽器が鳴る。低いバスの声で歌う。(訳註 バスとあるので、アリドンサの声とは思えないが?)
   
   ああ、紛れもないあなたの美しさ。
   日の光より輝いているあなた。
   あなたはどこに。私のあなた。
   それとも、私のこと、忘れてしまったの?)

 アリドンサ(中庭に登場。手に籠を持っている。)鍵番さん! 鍵番さん!
 ドンキホーテ これは何の声だ? またもや魔法使いが現れたか・・・おお、これはあの人の声!
 アリドンサ 鍵番さん! お家ですの?(籠を下に置く。扉に近づき、ノックする。)
 ドンキホーテ これは扉が鳴っている音か? いやいや、私の胸の高鳴りだ。
 アリドンサ(家に入る。)あっ、ご免なさい、旦那様。いらっしゃるとは思いませんでしたわ。私です。アリドンサ・ロレンソです。鍵番さん、いらっしゃらないんですか? 塩豚を私、持って来て。あそこの下、台所に置いておきました。
 ドンキホーテ お嬢様、丁度よいところにいらした。わがはいは只今、かのマメンドラーニヤ島の君主、巨人カラクリアーンブロに会いまみえるべく、旅立たんとせしところ。その意図こそ、かの巨人を倒し、あなた様のところへ遣わし、膝まづかせ、あなた様の御命令を何なりとかの巨人に聞かせ、実行させるべく・・・
 アリドンサ ああ、旦那様。それ、何の話ですの? ちっとも分りませんわ。
 ドンキホーテ かくなるラマンチャの騎士ドンキホーテとの一騎打ちの模様、必ずかの巨人をして、あなた様に話さしめます。・・・おお、つれないお方よ、あなた様の前に侍(はべ)っておりますこの私こそ、ドンキホーテにございます・・・
 アリドンサ セニオール・キハーノ、どうなさったのです、膝などおつきになって。私、本当にどうしていいか分りませんわ。
 ドンキホーテ 巨人カラクリアーンブロは、あなた様に一部始終を語るでありましょう。多分このように・・・(本を取り上げ、読み始める。)「頬豊かなアポロンが、地の表面に彼の神々しい金髪の光を落し、金色の巻き毛を持つオーロラが、羽根布団の中にいる嫉妬深い夫の傍を離れるや否や・・・」
 アリドンサ どうか、旦那様、もうお止めになって! 私はただの小娘。そんな朗読を聞くに相応しい人間ではありませんわ。
 ドンキホーテ(読む。)「さてこの時、ドン・ベリアニスは、己が馬にうち跨(また)がり遍歴の旅にと出発したのであった・・・」(剣を手に取る。)
 アリドンサ 私、行こう。鍵番さんに話さなくちゃ・・・(そっと退場。)
 ドンキホーテ ベリアニスをここでは、ドンキホーテと換えておこう。ドンキホーテは、遍歴の旅にと出発したのであった。何のために? 危険を求めて、はたまた、苦難を求めて、ただただ、我が愛しのドゥルシネーア・タボースカ姫のために!(見回す。)いない! 輝く光が消えたぞ! するとあれは幻? 何故、何故手招きをしておいて、私を見捨てるのだ。いや、誰に騙されて汝は・・・。私はまたたった一人。暗い魔法の闇が私を取り巻いている。何を! 私はお前など怖れはせぬぞ!(空中に一撃を与える。それから静まり、本を取り上げ、坐り、読む。口の中でモゴモゴと何か呟く。)

(黄昏。塀の後ろに小さな音で、奇妙な口笛が聞こえる。塀の上にサンチョ・パンサの頭が現れる。サンチョ、再び口笛を鳴らす。それから頭がまた塀の後ろに隠れる。サンチョ、灰色のロバの手綱を引いて中庭に入る。ロバの背には沢山の積荷。袋と革袋。サンチョ、ロバを繋ぎ、用心深く辺りを見回し、階段を上り、ドンキホーテの部屋に入る。予めもう一度口笛を吹く。)
 サンチョ 旦那様!
 ドンキホーテ おお、また現れたか、魔法使いめ! 忙しい奴だ。今度こそは逃げられぬぞ。その場で降参しろ。
 サンチョ(膝まづいて。)降参します。
 ドンキホーテ(サンチョの額に鋭い剣を突き付けて。)さあ、お前は私の意のままだぞ。ずる賢い魔法使いめ!
 サンチョ 旦那様、私の目を刳(く)り貫(ぬ)く前に御自分の目をおっぴろげて、よく見て下さいよ。私は二重にも三重にも降参しているんです。降参も降参、完全に、後戻りなしに、永久に、です。ほら、よく見て下さい、この私を! 私が一体全体どうして魔法使いですか。サンチョ・パンサですよ、私は!
 ドンキホーテ フン、これは不思議だ。この声は聞き覚えがあるぞ。お前、嘘はついていないな? お前は本当に私の味方、サンチョなんだな?
 サンチョ そうですよ、旦那様。私なんです。
 ドンキホーテ じゃ、どうしたんだ、合図の口笛は。何故鳴らさなかった。
 サンチョ 旦那様、私は三度も鳴らしたんです。でもきっと悪い魔法使いの奴め、旦那様の耳に蓋をしていたのです。鳴らしたんですよ、私は! 旦那様。
 ドンキホーテ フム。間一髪だったな、お前の命は。すぐ降参することに思い到ったのは良かった。賢者顔負けの判断だ。真に勇気あるものとは、どんなに狼狽した状況においても、常に最善の行動を取る人間を言うのだからな。
 サンチョ 思い到りましたすぐに、降参するのは。だってひどく気味が悪いですからね、目の前にさっと刀を突き出されては。
 ドンキホーテ その通りだ。そうだ、ところでお前、何か本で読んだことはなかったか? 私より勇気ある騎士が、この世のどこかにいるという話を。
 サンチョ いいえ、旦那様。そんな話は読んだことがありません。私は本を読んだことがないんです。読み書きが出来ませんから。
 ドンキホーテ なるほど。まあ坐れ。今誰も家にはおらん。いい機会だ。お前とすべて話をつけておくことにしよう。とにかくお前は、私の従者になることに同意したんだな? そして世界遍歴の旅において、私の傍に常につき従ってくれると。
 サンチョ 同意しました。旦那様が、どこかの島を戦い取って下さって、私をその島の領主にして下さるという約束でしたからね。
 ドンキホーテ 騎士に二言はない。その通り私は約束した。今までにも騎士に忠実に仕えた従者が、ある領地の領主になった例は沢山ある。私もなるべく早い機会に、そのような領地を戦い取るつもりでいる。私自身は領地など全く欲しくはない。だからお前がそこの領主になるのだ、サンチョ。
 サンチョ それについて一つ考えなければならないことがあるのですが・・・
 ドンキホーテ 考えること? 何だ、一体。
 サンチョ 私の女房、つまりフアナ・テレサなんです。どうもあの女に、女王の冠は似合いそうもないので。ただの総督夫人ぐらいの地位に止めておく方が無難ではないでしょうか。
 ドンキホーテ 全て神の御意向にお任せしよう、サンチョ。しかし、お前自身が志を低くすることはないぞ。お前の身に相応しい地位を望めばいいのだ。
 サンチョ でもやはり、国王の地位は私は欲しくはありません。領主になれと言うのなら、否やは申しませんが。
 ドンキホーテ 分った。これで全て話は終ったな? それでは今からこっそりと出発だ。誰もいないこの隙を狙ってな。
 サンチョ ええ。でも旦那様、私はどうもあの鍵番の女が・・・正直なところ、私はあの女が・・・ええ、おっそろしく怖くて、あの女が・・・
 ドンキホーテ 甲冑をつけるぞ。手伝ってくれ。
(サンチョ、ドンキホーテに甲冑を着せるのを手伝う。)
 ドンキホーテ 見ろ、サンチョ。私の作ったこの素晴らしい兜を。
 サンチョ 私はちょっと心配なのですが、旦那様。本当にそれ、頑丈に出来ているんでしょうか。
 ドンキホーテ 全く疑い深い男だな。よし、では試してみることにする。お前はそれをかぶれ。私が力いっぱい刀で撃ちすえる。それで兜がびくともしなければ、お前も納得するだろう。
 サンチョ 分りました、旦那様。(兜をかぶる。)
(ドンキホーテ、刀を取る。)
 サンチョ ちょっと待って下さい! 何だか妙な予感がしてきました。別のやり方で試してみましょう。これを机の上にのせるんです。(兜を机の上にのせる。)
 ドンキホーテ お前の臆病にも呆れるな。そら、見てみろ!(刀を兜の上に振り下ろす。兜、粉々に割れる。)
 サンチョ ああよかった、あそこにこの私の頭がなくて。ああ、天の神様!
 ドンキホーテ いやはや、なんたること。こいつは取り返しがつかんぞ。兜なしでは遍歴の旅に出ることは適(かな)わぬ。
 サンチョ 旦那様、こんな兜なら、いっそのことない方がましではありませんか。
 ドンキホーテ フーム、どうしたものか。実に嘆かわしい事態だ。・・・おお、サンチョ、見てみろ!(床屋の洗面器を指さす。)捨てる神あれば救う神あり、とはよく言ったもんじゃないか。有難いぞ。卑怯未練なフリストン、貴様、逃げる時に自分の兜を忘れおったな!
 サンチョ 旦那様、あれは床屋の洗面器です。兜だなんて、とんでもない。
 ドンキホーテ お前の目は魔法にかかっている。いいか、よく見るんだ。見て納得するんだ。(洗面器を頭にかぶる。)サラセン王マンブリーノの兜だ。
 サンチョ それにしても、床屋の洗面器によく似た・・・
 ドンキホーテ 盲(めくら)!
 サンチョ でも、旦那様のおよろしいように、どうぞ。
 ドンキホーテ さあ、これで用意は出来た。お前の前にいる男は、もはや渾名(あだな)を「御人好し」といった地主のアロンソ・キハーノではない。ラマンチャの騎士、ドンキホーテ、それが新しく自分につけた名前だ。
 サンチョ 分りました、旦那様。
 ドンキホーテ そしてまた、心に女性を抱かざる騎士は、葉のない木と同じだ。従って私も憧れの女性として、この世で最も素晴らしい婦人・・・ドゥルシネーア・タボースカ姫を選んだ。お前も多分、この女性を知っておる筈だ。アリドンサ・ロレンソという名を名乗っておるからな。
 サンチョ アリドンサ! 知らない訳がありません、旦那様。でもあの女を女王様と呼ぶにはちょっと・・・ただの百姓女ですからね。いや、そりゃ、可愛い女でさあ。もう健康そのもので、見ているだけで嬉しくなるくらいのもんだ。あの女なら、どんな騎士殿だって、泥の中に落っこったのを、頬髭をぐいと掴んでひっぱり上げますよ。
 ドンキホーテ 止めろ。下らんお喋りは。お前の目にドゥルシネーアが高貴な婦人に見えず、ただの百姓女であっっても、私は一向に構わん。私の目に、どんな女より素晴らしい、高潔な、善良な婦人に見えれば、それでいいのだ。ああ、サンチョ、私はあれを愛している。その愛しているということだけで、あれが女神ダイアナを凌駕していることになるのだ。私はあれを愛している。ということはつまり、私の目には、あれは雪のように白く、額はエリセイの野原のように、眉は天の虹のようだということだ。おお、愚かな従者サンチョよ、詩人と騎士は、血と肉が拵えたものを愛し、詩に歌うのではない。疲れを知らぬ幻(まぼろし)が創作したものを愛し、歌うのだ。私はあれを、私の夢に現れたあれの姿で、愛するのだ。つまりサンチョ、私は自分の理想を愛するのだ。分るか。お前にはこのことが分るのか。それとも、この「理想」という言葉が分らないか。
 サンチョ その言葉は知りません。でも旦那様のことは分りました。今やっと自分が馬鹿で旦那様が正しいということが。そうです、旦那様は正しいですよ、「苦(にが)り顔の騎士」殿!
 ドンキホーテ えっ? お前今、何と言った?
 サンチョ「苦り顔の騎士」殿と言ったんです。私に怒っては困ります、旦那様。
 ドンキホーテ 何故そんな言葉を思いついたのか、お前は。
 サンチョ 今旦那様を月の光のもとで見ていたのです。すると何かとても悲しそうなお顔で・・・私は見てはいけないものを見たような気がしたのです。何か戦いで、お疲れになっているのか、それとも前か右か、歯が抜けているんじゃありませんか。誰かに歯を折られてしまったのではありませんか?
 ドンキホーテ そんなことはどうでもよい! お前の頭にそんな利口な考えが浮んで、口からそういう名言が飛び出して来るとは実に面白い。よし、今この瞬間から、私は自分を「苦り顔の騎士」と呼ぶことにする。そして楯にも、この悲しい顔を彫りつけさせることにしよう。
 サンチョ 旦那様、何故そのような無駄使いをなさいます。そのお顔で、ただ立っていらっしゃれば、誰だって自分の目の前におられる方が何者かはすぐ分る筈です。
 ドンキホーテ ほほう、その一見鈍い顔にも似合わず、なかなか鋭いことを考えておるな、サンチョ。よし、これからは私は「苦り顔の騎士」だ。この名前を誇りに思うぞ。しかし、この苦り顔の騎士が、何のために生まれたか、それはこの不幸な鉄の時代を、輝かしい金の時代に変えんがためだ。いいかサンチョ、この私には、危険と不幸が付き纏っている。しかし私は同時に、偉大な武功を上げる騎士でもあるのだ。さあ前進だ、サンチョ。かの有名な円卓の騎士達を再びこの世に蘇らせようではないか。世の中に飛び込もう。そして弱きものを助けるんだ。冷酷でかつ暴虐なる者に虐げられたる弱き者達を救わんがために。汚された名誉を恢復せんがために。この世界から永遠に失われんとしているもの・・・正義・・・を取り戻さんがために!
 サンチョ ああ、旦那様、仰る通りになったら、なんて素晴らしいでしょう。そうなったら、「羊の毛を刈りに行きます」って出かけて行って、帰って来たのを見たら、自分が丸坊主、なんて話は聞かないですみますよ。
 ドンキホーテ おいおい、変な話をするのは止めてくれ。こっちの頭がおかしくなって来る。さ、サンチョ、行こう。家の者が帰って来ないうちに。
(二人、庭に出る。)
 ドンキホーテ さあ、私の馬を見てみろ。マケドニアのアレクサンダー大王が乗ったブツェファールに、勝るとも劣らんだろう。(厩の扉を開ける。)名前はロシナンテとつけたぞ。
 サンチョ(ロシナンテを見ながら。)何ですか、そのマケドニアって。
 ドンキホーテ 途々(みちみち)話して聞かせよう。さ、急ごう。そうだ、ところでお前は何に乗るのだ?
 サンチョ ロバです、私の。
 ドンキホーテ フム、ロバか。・・・騎士の従者がロバで行く・・・聞いたことがないな。
 サンチョ 素晴らしい、頑丈なロバですよ、旦那様。
 ドンキホーテ まあ致し方あるまい。行こう! 生まれ故郷の忘れがたい村よ、さらばだ! 出発だ、サンチョ。月が行く手を照している。朝までには、遥かかなたまで進んでいるぞ。さあ、出発だ。
 サンチョ さあ、出発だ!
(二人、馬、ロバに乗って退場。)

     第 二 場
(夏の朝。道が二手に分れている。片方は森へ、片方は野原に通じる。粉ひきの風車(複数)が見える。ドンキホーテとサンチョ、馬とロバに乗って登場。立ち止まる。)
 ドンキホーテ 分かれ道に来たな、サンチョ。どうやらこのあたり、冒険の種がごろごろ転がっているような気がするぞ。(遠くを眺める。)
(サンチョ、ロバから降り、道の傍らにロバを繋ぐ。)
 ドンキホーテ どうやら我々に幸運が降りかかってきたようだぞ。サンチョ、あそこを見ろ!
 サンチョ 私には何も見えませんが、旦那様。
 ドンキホーテ 何だ? お前、盲か? 何故驚いて腰を抜かさん。骨ばった長い手をして巨人達が、隊伍を組んでこっちに向って来るではないか。
 サンチョ 失礼ですが、旦那様。あれは風車が並んでいるだけですよ。
 ドンキホーテ お前は騎士の行う冒険を何と心得ておる。よく見ろ。あれは悪い巨人の魔法使いだ。私はすぐさま奴等に決闘を挑むぞ。やつら一族をものの見事に殲滅(せんめつ)させてやる!
(風車、風で羽根が動き始める。)
 ドンキホーテ そんなことで驚くような私ではない。たとえ貴様達の手が巨人ブリアレイの手より大きくてもだ! 逃げるな! おぞましい怪物達め! 貴様らに対するは、ここなるドンキホーテただ一騎。しかし貴様らに負けるドンキホーテではないわ!
 サンチョ 正気に返って下さい、旦那様。何をなさろうというのです。
 ドンキホーテ そうかサンチョ。怖気(おじけ)づいたか。よし、そこの木の下に坐ってお祈りでも上げておれ! かの美しきドゥルシネーア、その妖しくも厳しく騎士の心を奮(ふる)い立たせるドゥルシネーア姫の名にかけて、突撃!(ロシナンテに拍車を入れ、退場。)
 サンチョ 旦那様! 待って下さい! 旦那様、どこへ行くんです!(両肘をついて。)神様、神様! 旦那様は一体何を! ああ、何ということ。槍をもって風車に突進だ! 旦那様! 止めて下さい! ああ、やった。引っ張って、引っ張り上げられて・・・ああ、神様、お助け下さい。なんて馬鹿な!
(舞台裏で、大きな落ちる音。洗面器の兜が転がり出て来る。次に折れた槍の破片。次にドンキホーテが落ちて来る。そしてそのまま動かない。)
 サンチョ だから言わないことじゃない。・・・神様! ああ、終っちゃったのか。冒険は何て早い終り方だ。たった昨日のことだったじゃないか、あんなに元気に、あんなにピンピンして、希望に溢れて出発したのは。それに、あの話だってまだ最後まで聞いてないぞ、あのマケドニアのアレクサンダー大王の素晴らしい馬の話だって。その暇もないうちに旦那様、あの立派な旦那様が、肋骨を折ってそのまま天に召されるとは。あー、あー、あー・・・(ロバから革袋を取ってドンキホーテの隣に坐り、酒を呑む。)どうやってこれを家に運んだものかな? 鞍にうつ伏せにして、横づけに乗っければいい。だけど、どっちの鞍にするかな。(遠くを見る。)何だ馬のやつ、麦をつめた袋みたいにのびている。しようがない、乗せるのはロバの方だな。可哀相にロバ君、お前さんこんな悲しい荷物を運んだことは今までにないだろう?
(ドンキホーテ、呻(うめ)く。)
 サンチョ 呻き声が聞こえたぞ。旦那様が呻くってことはありえないな。死んでいるんだから。すると俺かな? 呻いたのは。悲しくて呻いたんだ、多分。(酒を呑む。)
 ドンキホーテ(弱々しく。)サンチョ・・・
 サンチョ 何だ? 今の声は。生きていらっしゃるんですか? 旦那様。
 ドンキホーテ 声が出たろう。出たということは即ち、生きているということだ。
 サンチョ ああ、有難や、旦那様! 私はもう、死体をロバに乗せて村へ持って返って、旦那様に相応しい敬意を表して埋葬しようと、もう諦めていたんです。だけどあの鍵番の女が何て言うかと考えますとね、もう、それを考えるだけで頭が痛くなっちまってたんですよ。ご免なさい、ちょっと一杯・・・ああ、旦那様、旦那様、だから言ったでしょう? 私があれは風車なんですからって。
 ドンキホーテ 自分で何も分っていない事を、あれこれ判断するものではないぞ、サンチョ。いいか、我々の前に見ているものは、魔法そのものだ。魔法によって姿を変えられた物なのだ。すべてはかの憎むべきフリストン。・・・忌々(いまいま)しい知恵者のなしたる業(わざ)。巨人の列の先頭を切っていた奴、そいつの手に私が槍を突き刺したとたん、かのフリストンの奴め、巨人達をすべて風車に変えおったのだ。私から勝利の旨酒(うまざけ)を取り上げんがためだ。ああ、フリストン、フリストン。いつまでお前の私に対する憎しみと羨望は続くのか。・・・さ、サンチョ、馬を引いてくれ。
 サンチョ ちょっとそれは、さすがのフリストンでも出来ないことではないでしょうか。あの可哀相なロシナンテ、ピクリともせず横たわっています。あれにとって一番いいのは、寝かせておいてやることですよ。もし神様の思し召しがあれば、自分で起き上がるでしょうし、もし起き上がらないとなれば、やることは唯一つ、あの古皮を剥ぎ取って、行き着いた最初の市場でその皮を売り飛ばすことです。そうでしょう? 旦那様。
 ドンキホーテ 私の槍を持って来るんだ、サンチョ。
 サンチョ こんなもの、旦那様、何の役にも立ちませんよ。(槍の折れた残骸を渡す。)
 ドンキホーテ ああ、何という損失! 槍なしで騎士に何が出来るというんだ。いや、悲しんでいる場合ではない。そうだサンチョ、お前も多分、読んだことがあろうが・・・
 サンチョ ああ、旦那様、もう私はお話した筈ですよ・・・
 ドンキホーテ そうだったな、お前は読めない。
 サンチョ そうです。読めないんです。読めませんのです。
 ドンキホーテ よし、では話してやろう。勇敢な騎士ドン・ディエゴ・ペレース・デ・バルガスが戦いの真っ最中、武器を奪われた。がしかし、それで怯(ひる)むようなバルガスではない。すぐさま樫の大枝を切り取り、それで敵、ムーア人どもを薙(な)ぎ倒した。敵の死骸は中庭に横たわる薪のごとくであった。
 サンチョ その人の名は? 旦那様。
 ドンキホーテ ドン・ディエゴ・ペレース・デ・バルガスだ。私にがっしりした枝を取って来てくれ、サンチョ。
 サンチョ 畏まりました、旦那様。(退場。巨大な枝の先に槍の先端を取り付けて戻って来る。)さあ、これが新しい槍です。例の何とかさんに負けず、ムーア人をやっつけて下さいよ。えーと、何だったかな、綺麗な名前だったがスルリとどこかへ抜けて行って・・・
 ドンキホーテ ドン・ディエゴ・ペレース・デ・バルガスだ。ムーア人をやっつけたのはなサンチョ、彼一人でではない。アンテケール城の城主、勇猛果敢なロドリーゴ・ナルヴァエースキイもいたのだ。彼はムーア人アビンダラエースを虜にしたが、丁度その時、このアビンダラエースが恐ろしい「レニニエース」なる突撃の叫び声を上げたのだ。
 サンチョ その時ですね? 旦那様も一緒に薙ぎ倒されたのは。
 ドンキホーテ そうだサンチョ、恐ろしい痛みが身体中を走ってな。しかし、こういう時に泣き言を言うのは騎士には禁じられている。従って私はぐっと怺(こら)える。
 サンチョ それは勿論、騎士に禁じられていてはどうしようもありません。ぐっと我慢しなければ。でも私のことですが旦那様、私は呻(うめ)いたり泣き言を言っても構わないでしょうね? そういったことが起った時。それとも従者にも同じようにそれは禁じられているのでしょうか。
 ドンキホーテ いや、騎士の規則には、従者にまではこの条項は適用されぬ、とある。
 サンチョ それを聞いて安心しました。
 ドンキホーテ おや? ちょっと待て。あの埃(ほこり)は何だ? いやあ、この場所は実に冒険に事欠かない所だ。しかしサンチョ、お前には予め言っておかねばならん。いかに血気に逸(はや)ろうとも、お前は決して刀に手をかけてはならん。たとえ私がどんな危険にあおうとも。お前が手を出せるのは、敵のうちお前の身分のものが攻撃してきた時だけだ。いいな。
 サンチョ 同じ命令を二度繰り返す必要はありません、旦那様。
 ドンキホーテ あそこを見ろ! 私の言う通りだ。仮面を被った黒服の男二人、そしてその後ろには馬車だ。分りきったこと、あの二人は魔法使いだ。そして馬車の中には奴等のために囚(とら)われの身となった王女がいるのだ。
 サンチョ 旦那様、それは少しお考えをお変えになった方が。あの黒服の二人は僧侶です。その後に続くのは召使達で。ちっとも魔法使いなんかじゃありません!
 ドンキホーテ お前は近眼か! それとも盲(めくら)か!
 サンチョ 旦那様、こいつはまづいですよ。風車よりもっと酷いことになりますよ。
 ドンキホーテ 邪魔するな! お前はただ、これから起る戦いを見守っておればよい。それから、我々の手に入ってくる莫大な獲物を確保すればよいのだ。
(二人の僧侶、登場。)
 ドンキホーテ 待て! 黒い悪魔め!
(サンチョ、木の陰に隠れる。)
 ドンキホーテ 待て! そこなる馬車の中にいる婦人に即刻自由を与えんことを余は要求する。汝らが、哀れなるかの婦人を、奸計をもって馬車に閉じ込めたりしこと、日を見るより明らかなり!
 僧侶一 一体何ですか、これは。何のことか私どもにはさっぱり分りません。婦人とは何のことで。私どもはおとなしい人間・・・ベネディクト派の僧侶です。あの馬車は私どもと何の関係もありません。私どもが歩いておりますと、横道から入って来て、偶々一緒になっただけで・・・
 ドンキホーテ 人を瞞着するそのような言葉、聞く耳持たんぞ!
 僧侶一 旦那様、何か大変な誤解をなさっていらっしゃる御様子で・・・
 ドンキホーテ 黙れ!
 サンチョ(木の陰から。)黙れ!
 ドンキホーテ 腹黒い奴らめ! 余の剣の力、受けて見よ!
(刀を抜く。)
 僧侶一 助けてくれ! 誰かある! 下男ども、出会え、出会え! 強盗だ!(走り退場。)
 僧侶二 助けてくれ!
 ドンキホーテ(僧侶一の後を追って走って退場。)待て、逃がさんぞ。この悪党め! 待て!
 サンチョ(金切り声を上げて、木の陰から飛び出して来る。僧侶二に飛び掛かる。)レニニエース! 逃がさんぞ。こっちのものだ!
 僧侶二(両膝をついて。)ああ、神様、お助け下さい!
 サンチョ 着物を脱げ、この悪党。ペレース・デ・バルガスめ!
(僧侶二から帽子とマスクを取る。)
 僧侶二 何でも差し上げます。命だけはどうか!(着物を脱ぎ、サンチョに渡す。)
(この時、下男二人、走って登場。)
 僧侶二 助けてくれ!(走って退場。)
 下男一 天下の公道で、強盗を働くとは、不届き千万!
 下男二 追いはぎめが!
 サンチョ おいおい、ほっといてくれ、諸君。お前さん達には何の関係もないことだ。これはこちとらの獲物。それだけのこと。私は魔法使いをやっつけたんだ。お前さん達がやっつけたんじゃない!
 下男二 何をいう、浮浪者め。ずうずうしい!
 下男一 やっつけろ!
(二人、棒をもってサンチョに襲いかかる。)
 サンチョ ええい、お前達、血迷ったか! 旦那様! 助けて! 折角の獲物を奪う奴がいます! 旦那様の従者から!
 下男一 エーイ、こいつ、イカサマ野郎!
 下男二 こうしてやる!(サンチョの髭を引き毟る。)
(下男二人、容赦なくサンチョを殴る。)
 サンチョ 旦那様・・・旦那様・・・旦那様・・・レニニエース!
(サンチョ、倒れて動かなくなる。)
 下男二 街道で追い剥ぎをやるならな、よく見ておけ、こうやるんだ。
(下男達、僧侶の衣服を取って走り退場。)
 ドンキホーテ(走って登場。)逃げ足の速い奴、まるで野の兎だ!・・・おや、どうした。死んだのか? さて、どうしたものか、この私は。
 サンチョ うう・・・
 ドンキホーテ お前、生きているのか。
 サンチョ 声が出るということは・・・糞ったれ、あいつらめが!・・・どうやらまだ私は生きているらしいです・・・エーイ、今度もう一度出会ったら・・・
 ドンキホーテ ああ、私としたことが、何という物覚えの悪い! 家を出る時、フィエラブラーソフのバルザームの壜を持って来るのを忘れるとは! ああ、あれさえあれば、どんな傷でも怖るるに足らんのだが。
 サンチョ 何です? そのバルザームというのは。
 ドンキホーテ バルザームというのはなサンチョ、奇跡のように効く薬だ。私が戦いでこの身体を上下真っ二つに斬られたとしよう・・・まあ、こういうことは遍歴の騎士にはよくあることなんだが・・・お前はうろたえてはいかん。二つに斬り離された、その上の部分と下の部分を持って来て、切り口を合わせる・・・ただ、勿論正確にやってくれなきゃ困るが・・・そうして、このバルザームを二滴でいい、私に飲ませるのだ。見る間に私は起き上がり、両足で立ち、元気溌溂、まさにリンゴのようになる。いいかサンチョ、バルザームの効き目、かくの如くだ。
 サンチョ 旦那様、村を発つ時にお約束の、どこかの島の領主にして下さるという話、あれはもういいです。この妙薬バルザームの作り方を教えて下されば、もうそれで。
 ドンキホーテ 心配するなサンチョ、バルザームの作り方どころか、もっともっと驚くべき秘密、お前の人生に素晴らしい恩恵を与えてくれる秘技を伝授してやる。
 サンチョ ああ、それでこそ旦那様に従って、この遍歴に旅だった甲斐があるというもの・・・おや? それを聞いて痛みもどこかへ行ってしまったようだな。(ロバの荷物の袋を取って開け、食料を取り出す。)ちょっと元気をつけましょう、旦那様。それとも旦那様は、こんな私の食べるような下賎の物は召上りませんか?
 ドンキホーテ お前は遍歴の騎士に関して、何か誤解があるようだな、サンチョ。騎士というものは、自分の名誉のために開かれる宴会の時には、それは確かに素晴らしい物を食う。しかし、普通の時、つまり遍歴を行っている時には、偶々手に入る物で食事はすませるのだ。そして多くの場合、それもかなわず、花と夢ですませるのだ。
 サンチョ 花の持ち合わせは今ありません、旦那様。パンににんにく、チーズ、それに樫の実ならあります。夢の方なら私にはたった一つあります。今のバルザームの作り方を知りたいということです。どうぞ旦那様、お召し上りになって。
 ドンキホーテ お前も坐れ、サンチョ。何故立ったままなんだ。何を考えている。
 サンチョ 遍歴の騎士の旦那様が、この粗末なものをどうやってお召し上りになるかと、それを考えて・・・
 ドンキホーテ 私は違うことを考えていたぞ、サンチョ。お前今、私の食べ物の話をした。私の食べ物、お前の食べ物・・・こういう、私の、とか、お前の、とかいう言葉がなかった時代のことを私は考えていたのだ。その時代には、今お前と私とがこうして緑の草の上に坐っている、丁度そのようにその頃の人々も親しく車座に坐り、豊かな大地が与えてくれる自然の恵みを気持よくみんなで分け合ったのだ。そうだ、放牧して育てたものを、何故人間はお互いに隠したりする必要があるのか。綺麗な泉が水を、森が果実を、人に与えてくれていたのだ。嘘、騙し、卑劣な行為、そして欲張り、を生んだ金(きん)なるものは、まだこの世になかった。そしてその金(きん)がない時代こそ、黄金時代というものなのだ。そしてこういう明るい世の中を再び実現させることこそ、お前には、もう何度も話したが、遍歴の騎士の夢なのだ。ああサンチョ、私には偶々この遍歴の騎士なる、胸躍る使命が課せられ、私の義務としてこれを全うする運命にあるのだが、もしこれがなければ、私は羊飼いになっておったぞ! 私の名前はキホティース、お前の名前はパンスィーノ。二人で山や野原を駆け回り、恋歌(こいうた)を歌って、胸いっぱいに空気を吸うのだ。日中の熱い太陽は樫の木の豊かな葉がその陽射しを和らげてくれ、夜には優しい星が二人を照らすのだ。ああ、お前にも分るだろう、これで初めて人間の生命は本当の幸せを見つけたと言えるのだ。これで初めて本当の人間の運命と言えるのだ。
 サンチョ 旦那様は学者さんですからね。面白いことを沢山御存知なんです。それでお話しを始めなさると、ついついこちらも聞きたくなって、耳がそちらに向くんです。でも、何といっても一番面白いのはあのバルザームですよ。とにかく、今ここであれの作り方をお教え下さいませんか? 時間が経つとひょっとして冒険なんかに紛れて、忘れてしまってはいけませんし・・・
 ドンキホーテ 何だ、私はまた、お前はこの黄金の世紀のことに没頭しているとばかり。まあ待て。屋根のあるところへ行きついたらすぐバルザームを作ってやろう。お前にその製造の秘密を伝授してやる。
(遠くに男達の声。誰かが歌も歌っている。)
 サンチョ(耳をすませて。)ああ旦那様、あれはどうやら、ヤングエース地区の馬追いの連中のようですよ。あのヤングエースの連中は乱暴ですからね。それから、団結が堅いんです。どうやら市場からの帰りのようです。
(遠くで笑い声がする。)
 ドンキホーテ 連中は何を笑っているのだ。
 サンチョ 仲間の一人があのロシナンテをやっつけたんです。それを笑っているらしいです、旦那様。
 ドンキホーテ 何だと? 狼藉(ろうぜき)者めが。いやしくも騎士の馬に手を触れるとは何たる不届き。よーし、私は誓ったぞ、きやつらに思い知らせてやるまでは一歩も退かぬぞ。
 サンチョ ちょっと落ち着いて下さい、旦那様。思い知らせると言ったって、あっちは少なくとも二十人はいますよ。こちらはたった二人です。いや、正確に言うと、一人半です。
 ドンキホーテ お前は私が一騎当千であることを忘れたか。連中の百や二百、ものの数ではないわ。
(三人の馬追い登場。)
 ドンキホーテ サンチョ、奴等に聞け。問い質(ただ)すんだ!
 サンチョ(馬追い一に。)おい、どうしてお前は人の馬に手を出したんだ。
 馬追い一 人の馬? 何の話だ。
 サンチョ 知らぬふりは止めろ!
 馬追い二 ああ、あれのこと? 足を全部上に向けて倒れている・・・いや、あれが馬だとは思いもかけなくてね。骸骨だと思ったんだ。
(馬追い四登場。)
 ドンキホーテ ええい、この大騙(かた)りめ。天下に名高き騎士の所有する馬を貴様は笑いものにするのか。
 サンチョ そうだ、この大騙りめ。さあ、さっさと答えろ。答えられるか。
 馬追い二 答えられるさ。
 サンチョ 何? 答えられるだと?
 馬追い達 答えられるさ。
(馬追い五登場。)
 サンチョ えーい、これでも食らえ。(馬追い二の頬っぺたを殴る。)
 馬追い二 フン、これがお返しだ。(サンチョを殴り返す。)
 サンチョ 助けて! 旦那様。
 ドンキホーテ(槍を棒として使って、馬追い三を打って。)さあ来い。このならず者めが!
 馬追い三 助けてくれ! みんな・・・
 馬追い一 助けてくれ、みんな! 仲間がやられているぞ。
(馬追い六、七、走って登場。)
 馬追い四(サンチョに殴りかかりながら。)こいつだ、みんな。こいつが仲間を殴ったんだ。
 馬追い五(ドンキホーテに殴りかかりながら。)負けるな、みんな。やっちまえ。
 馬追い六(ドンキホーテに飛び掛かり、槍を奪い取る。)退くな。こっちのものだぞ、みんな。
 馬追い七(サンチョを殴りながら。)こいつだ。こいつが仲間を殴ったんだ。
(馬追い八、走って登場。)
 馬追い達(ドンキホーテに襲いかかり、地面に押し倒す。)負けるな。やっちまえ。(サンチョを殴る。)
 サンチョ(身を防ぎなが。)助けて、旦那様。やられる!
 馬追い四 油断するな、みんな。俺達を殴った奴だぞ。
(馬追い達、サンチョとドンキホーテを死ぬほど殴る。馬追い九、十、十一、走って登場。サンチョとドンキホーテに襲いかかる。)
 サンチョ 衛兵! 衛兵!・・・出て来い・・・旦那様!
 ドンキホーテ(ぜいぜい言いながら。)下賎の奴等め! サンチョ、助けてくれ!
 サンチョ アビンダラエース・・・(静かになる。)
 馬追い十二(走って登場。)止めろ、馬鹿者ども! 止めるんだ! 腹は癒えた筈だ、それで。仕返しは終りだ! 見てみろ。二人とも息もしていないぞ。
 馬追い一 止めろ。おい、止めるんだ。
 馬追い二 もう充分だ。止めろ。
 馬追い達 止めろ。止めろ。おい、止めろ・・・
 馬追い一 おい、もういい、みんな。二人とも思い知ったろう。喧嘩っ早い奴等だ。
 馬追い二と三 全く、驚かせやがって。
 馬追い二 こいつ、俺の頬っぺたをぶん殴りやがった。
 馬追い一 こいつらの魂、抜け出て、地獄へ飛んで行くさ。さあ行こう、みんな!
 馬追い達 さあ、行こう、行こう。
(馬追い達、全員退場。草原にドンキホーテとサンチョ、ピクリともせず伸びている。悲しい顔をしたロバ、二人の傍に立っている。)
                   (第一幕終)

     第 二 幕
     第 三 場
(夏の夕暮。パロメーク・レーフシャの宿屋。舞台後方に井戸と門。開けっ放しの納屋。納屋の屋根には穴があいており、二棟の袖(の建物)が出ている。その一つの袖の窓から、笑い声とコップのかち合う音が聞こえてくる。納屋の客達の楽しい夕食である。)
(マリトールネスが物干し竿に洗濯物をかけている。)
 マリトールネス(歌う。)
   ほらここに、静かに羊が倒れている。
   その胸には、大きな血のあと。
   可哀相に、何故お前、死んだの?
   恋の傷を受けて死んだのね・・・
 ラバ追い やあ、別嬪(べっぴん)さん!
 マリトールネス あっ! いやね、人のことを驚かしたりして。今晩は。
 ラバ追い 今晩は、マリトールネス。長いこと会わなかったな。お前に会えなくて悲しかったよ。それにしてもこのところ、ずいぶん綺麗になったじゃないか。
 マリトールネス いや! 冗談ばっかり。
 ラバ追い 冗談じゃないよ、マリトールネス。本当だ。なあ、ちょっとこっちに来てくれよ。いい話があるんだ。
 マリトールネス まあ厭らしい!
 ラバ追い 何だい、聞きもしないで厭らしいとは。何を言おうとしたのか、お前分ってるのか。
 マリトールネス 近寄って耳に囁く・・・分りきってる言葉じゃないか。(歌う。)
   「羊が横たわっている、身動きもしない・・・」
 ラバ追い なあ、聞いてくれ。今夜は俺はここに泊ろうと思ってるんだ・・・だからさ、みんなが寝静まったら・・・俺に合図してさ・・・
 マリトールネス ホーラ、やっぱり。駄目よ。絶対に駄目。でもあんた、ここのどこに泊る気?
 ラバ追い 納屋にしようと思ってるんだ。
 パロメーク(袖から。)マリトールネス! どこにいる! やくざな女め!
 マリトールネス 何をそんなに怒鳴ってるの。私はここ。他のどこにいる訳もないでしょう?
 パロメーク 何をしているんだ、そこで。
 マリトールネス 見れば分るでしょう? ほら、洗濯干しですよ。
 パロメーク 洗濯干しは分っている! 全く目が離せない奴だ、お前は。
 ラバ追い(洗濯物の中から出て来て。)やあ親父さん、今日は。セニヨール・パロメーク・レーフシャ!
 パロメーク そーら見ろ、これが洗濯物だ! 目が離せないと言ったばかりだぞ、この女(あま)め! 全く呆れたもんだ。ちょっと目を離すとすぐ隠れてこそこそと!
 ラバ追い 違いますよ、親父さん。そんな叱り方をするなんて濡衣(ぬれぎぬ)です。いい娘さんじゃありませんか。私はついさっきここに入って来たばかりで、それで二言三言ちょっと話しかけただけで・・・
 パロメーク 二言三言にも色々あってな。長い話よりよっぽどたちの悪い二言三言があるもんだ。なにしろこれは評判の美人なんだからな・・・
 マリトールネス 家では家で厭なことばかり。働きに宿屋へ来てみれば、そこでも親父さんが・・・
 パロメーク おいおいおい、もういい。泣き言は止めてあっちへ行ってろ。
(マリトールネス、離れたところへ行く。)
 パロメーク 私に何の用だ。
 ラバ追い 一晩泊めてほしいんだ。
 パロメーク 満員だ。空きベッドは一つもない。納屋は空いているが・・・納屋はどうだ?
 ラバ追い 空の覆いには星を使っているところか? 屋根に穴が開いているんだからな。
 パロメーク おやおや、これは失礼致しました。立派な立派なお客様。このむさい私共の旅篭(はたご)を御利用になると予め分っておりましたならば、屋根は黄金で葺(ふ)き、蒲団は絹のものを用意致しましたのに。まあ、気に入らなきゃ止めるんだな。野っぱらで寝りゃいいんだ。こっちは泊って貰いたいなどと思っちゃいないんだ。みんな塞がっているんだからな。
 ラバ追い 分った、分ったよ。納屋でいいよ。
 パロメーク なら、これでも敷け。(窓から馬用の毛布を投げる。)馬に使う毛布だ。これで寝るんだな。羽根蒲団がわりだ。王様気取りでな。みんなが羨ましがるさ。
(ラバ追い、馬用の毛布を取る。マリトールネスの傍を通り過ぎながら、何か秘密の合図をする。)
 マリトールネス(小さな声で。)厭だわね、また・・・(歌い始める。)
  「可哀相に、何故お前、死んだの?
   恋の傷を受けて死んだのね・・・」
 エルナンデス(袖(の建物)の中で歌う。)「ああ、マンチュアのわが侯爵、わが叔父よ・・・」
(門からサンチョ登場。ひどく腰を屈め、手綱でロバを引いている。ロバの上には半死半生のドンキホーテ。その後ろにびっこをひきながらロシナンテ。その背には、よれよれになった甲冑と手製の槍。サンチョの頭はボロ布(きれ)で包帯がしてある。目の下は打撲による痣(あざ)。顎鬚の半分は引き抜かれている。)
 サンチョ やれ有難や、宿屋に着いたぞ。ああ・・・(井戸の端に坐る。)おーい、そこのお女中・・・お女中・・・ここに来てくれ。
 マリトールネス おやおや、まあまあ。こんなの今までに見たことがないわ。
 サンチョ(ドンキホーテに。)旦那様、目を醒して下さい。宿屋に着いたんですよ。
 ドンキホーテ 何?
 サンチョ 元気を出して下さい、旦那様。そんな格好じゃ、堆肥(たいひ)と間違えられてしまいます。ほら、宿屋に着いたんです。
 ドンキホーテ 今何と言った? サンチョ。着いた? 城に着いたのか? フム。待っていろ。今小人がやって来て、ラッパを吹き鳴らす。すると巻き上げられていた橋が下ろされ、我々は入城する・・・
 サンチョ 何が城・・・何が小人ですか。旦那様、目を醒して下さい。
(豚飼いの笛が丁度鳴り響く。)
 ドンキホーテ 人の言うことを信じない従者だ、お前は。今聞こえたろう、ラッパの音が。我々を出迎えるために鳴らしたのだ。(呻(うめ)きながらロバから降りる。)
 マリトールネス おやおや、これは面白いわね。気晴らしになるわ。
 ドンキホーテ(マリトールネスに。)おお、類いまれなる貴婦人殿! 拙者に自己紹介をお許し召されい。拙者は遍歴の騎士、ラマンチャのドンキホーテ、またの名を「苦り顔の騎士」とも申す。拙者の武功こそ、かの赤く燃えたる剣(つるぎ)を持つレイナルド・デ・モンタリバンがマホメットの黄金の像を盗まんとせしを防ぎ、これを倒したるにあり。慎みて拙者、貴殿の前に平伏するものなり!
 マリトールネス おお、これは御丁重なる御挨拶、洵にいたみいるぞ、騎士殿!(サンチョに。)この人、随分立派に・・・ええ、随分立派にお話しになるわね。でも、何のことやらさっぱりだわ。
 ラバ追い(納屋からこれを見て。)ええっ? こいつは何だ。あの毛の抜けたねずみ野郎、マリトールネスに近づいていやがるぞ。
 マリトールネス(サンチョに。)あの人、何? ギリシャ人?
 サンチョ そうそう、ギリシャ人だ。いいからとにかくお女中、一晩泊れるようにしてくれないか。
 マリトールネス 親父さん! 親父さん!
 パロメーク(窓から顔を出す。)何だ。どうした。
 マリトールネス お客さんだよ。
 パロメーク(ドンキホーテに気づき、驚く。じっと見る。そして出て来る。)何、御用で?
 ドンキホーテ 城主殿、かくなる拙者は、遍歴の騎士ドンキホーテなる称号を持つ者。そしてこれは拙者の従者なり。
 パロメーク 今何と仰いました? 遍歴の騎士ドンキホーテなる称号?
 ドンキホーテ 貴殿の城に一夜の宿をお借り申すことが出来るならば我々、洵に感謝致すところなるが・・・
 パロメーク 騎士殿、実はあらゆる部屋、あらゆる寝台、が現在予約ずみ、即ち、自由なる部屋、自由なる寝台は一つもなき有様にて・・・どうかお許しを・・・
 ドンキホーテ 我々は僅(わづ)かなもので満足なのだ。何となれば、騎士にとっては戦場がその休息の場、贅を必要とする物はその武器のみ。寝床など、切り立つ岸壁でもよしとする覚悟だからだ。
 ラバ追い おいおい、大きな事を言って。何のつもりだ。
 パロメーク ほほう、そうすると旦那様、うちの納屋ぐらい旦那様に格好の場所はありませんが。
 ラバ追い 何を言ってるんだ親父、納屋を俺が泊るんだとさっき言ったばかりだぞ。
 パロメーク 三人ぐらいわけなく泊れるんだ、あそこは。(ドンキホーテに)ところで旦那様、どうしてそんなお姿に?
 サンチョ 断崖絶壁から落ちたのだ。
 マリトールネス あら、断崖絶壁ってどこですの? ここらへんにはありませんけど。
 サンチョ 私は今断崖絶壁からと言った筈だぞ。私がそう言えば、それはあるに決っているんだ。
 パロメーク(サンチョに。)するとあなたも御同様、絶壁から落ちなすった訳で?
 サンチョ そうだ、私も・・・いや、私は落ちてはいない。ウーン、私は見たんだ、旦那様が落ちるのをな。するとなんだか、こっちも身体中が痛くなってな、傷だらけだ。
 マリトールネス ああ、あるある、そういうことって。私もいつか、どっかから落ちた夢を見た。起きてみたら、身体中、傷だらけ。
 パロメーク フン、お前、ほんとにその時に見た夢、人には話せないだろう。(家の中の人間に呼びかける。)おい!
(使用人登場。)
 パロメーク 馬とロバを厩に入れろ。
 ドンキホーテ(使用人に。)城番殿、どうぞ呉々もよろしくお頼み申す。この馬の扱いには特にお気をつけて戴きたい。この馬こそは、いかなる遍歴の騎士も羨む名馬。かって世に並び無き名馬によって。
 ラバ追い 何だ?(パロメークと動作で言い交す。ドンキホーテが気がふれているらしいと。)
(使用人、ロバとロシナンテを引いて行く。)
 サンチョ(ドンキホーテに。)旦那様、マケドニアの大王の馬の話をしなければ、とても分っては貰えませんよ。さ、納屋に行きましょう。(ドンキホーテを納屋に連れて行く。)
(他の全員、中庭から退場。)
 サンチョ(ドンキホーテを導きながら。)これからどうなさるおつもりですか? 旦那様。もう少ししたら私達二人、足を暖めながら寝てしまうんです。私はもう何も言いません・・・まだ旅を続けますか?
 ドンキホーテ いやサンチョ、今まで起ったすべてのことをつらつら考えると、悪かったのは全部この私だ。言い訳の言葉もない。騎士の称号のない人間に対して私は刀を抜いてはいけなかったのだ、どんなことがあっても。もし今日のようなけしからぬ奴等が我々を襲ってきたら、これからはこうすることにしよう。私はもう決して刀には触らない。お前が自分のを引き抜いて、連中をバッサバッサ叩き斬るんだ。もし奴等の中から騎士が出て来た場合には、その時には、私が登場してお前を助ける。いい考えだろう。
 サンチョ 実にいい考えです。全く呆れて物も言えないとはこのことです! いいですか旦那様、まづ第一に私は人間を愛する男なんです。大人しい静かな心の優しい、人の言うことをよく聞く・・・そういう男なんです。第二に、私には刀はありません。実に有難いことに、刀は持っていないのです。第三に、だから私は刀を抜くことは致しません。誰に対してもです。平民に対してだろうと、貴族、百姓、騎士に対しても。いや、山羊飼いだろうと、豚飼いだろうと、鬼だろうと、悪魔だろうと、刀は抜きません!
 ドンキホーテ 私がこのように痛みで息絶え絶えになっているのは実に残念だ。さもなければお前に対して立派な反駁の論を唱えてみせるのだが。ただ、一つだけは言っておく・・・お前のような心の優しい人間は、羊飼いパンスィーノになるのが一番相応しい、ということだ。島の領主になるなどと、以ての外。領主たるもの、敵と渡り合わなねばならぬからな。そのためには、男らしさが必要なのだ。哀れな奴め! 今日我々が遭遇した嵐は、我々遍歴の騎士たるものには切っても切れない関りがあるのだ。もしそれがないとなれば、この仕事のどこに魅力があるのだ。
 サンチョ 一つだけ教えて下さい、旦那様。今日あったような事件は、次から次とひっきりなしに起るものでしょうか。それとも事件と事件との間には少し隙間があるものでしょうか。いえ、その、もし隙間なく起るとすると、三番目の事件の時にはもうすっかり立ち上がれなくなるのではないかと思いまして。
 ドンキホーテ 我々を襲ったあの事件を考えるのはもう止そう、サンチョ。時間の経過と共に、思い出は必ず薄れて行くものだ。それに、痛みだとて、死ねば必ずなくなるものだ。さあ、今から特効薬フィエラブラーソフのバリザームの製造に着手しよう。
 サンチョ(急に元気が出て。)製造には何が必要なんでしょう、旦那様。どうかお教えを。おーい、誰か。誰かいないか!
 マリトールネス はい、何の御用で。
 サンチョ おお、来たか、御女中。我々は今からバリザームを製造する。
 マリトールネス バリザームですって?
 サンチョ そうだ。おまけにただのバリザームではない。魔法のバリザームだ。戦闘で真っ二つになった男にだ、いいか、このバリザームをちょっと呑ませると、たちまちまた一つになって元気いっぱい、戦い始める。そういう・・・
 マリトールネス まあ、そんな素敵な薬、私にも少し呑ませて下さいよ。私、胸が時々痛くなるの。猫の爪でガリガリって引っ掻かれるような気持!
 サンチョ それは任せろ。必ずやる。(ドンキホーテに。)それで、必要なものは何ですか? 旦那様。
 ドンキホーテ 大きな鍋を持って来てくれ。
 サンチョ(マリトールネスに。)聞こえたな? 鍋だ。
 マリトールネス はい、鍋。
 ドンキホーテ 甘い赤ワインを五本、それに注ぎ込む。
 サンチョ(マリトールネスに。)分ったな?
 マリトールネス 分りました。
 ドンキホーテ にんにくを摺り下ろしたもの、手のひら一杯分。
 サンチョ(マリトールネスに。)分ったな? にんにく、手のひら一杯分だ。
 ラバ追い(登場。)何だ何だ。何が出来るんだ。
 マリトールネス この人達、バリザームの作り方を知っているの。それで今・・・。それがまたすごいバリザームで・・・ねえ、聞いて。真っ二つに斬られた人間が・・・
 ラバ追い ああ、知ってる知ってる・・・
 ドンキホーテ 塩大サジ四杯か五杯。
 サンチョ(マリトールネスに。)ほらちゃんと聞いて!
 ラバ追い 俺が覚えてる。塩大サジ五杯だ。うん、これは合ってる。
 マリトールネス(指を折って。)五。
 ドンキホーテ 赤胡椒一つまみ、すり下ろしたどんぐり、掌(てのひら)一杯、桐油を壜三本分、硫酸を小サジいっぱい。
 ラバ追い そうだ、その通りだ。このバリザームは私は知ってるんだ。
 ドンキホーテ 全部をよく掻き混ぜる、そして煮る。
 マリトールネス 分りました。今すぐ。
 ラバ追い 俺も手伝おう。これはよく効くバリザームなんだ。ラバにもよく効く。特に皮膚病に罹った時にはな。
(マリトールネス、ラバ追い、サンチョ、台所に退場。)
 パロメーク(納屋に登場。)ご立派な旦那様、女中が申しますには、あなた様は何にでも効く万能の薬、バリザームの製法を御存知とのこと、そのようなお方が私共のところにお泊り下さるとは天の配剤、必要な品々はすべて先ほど女中に渡しました。出来上がりました時、私にもその薬を多少お分け下さる訳にはまいりますまいか。最近私は腰の調子が酷く悪くて。お返しとして、私に出来ますことは何なりと御助力致す所存でございますので。
 ドンキホーテ 喜んでそちらの望みを叶えて遣わすぞ、城主殿。
 パロメーク ああ、痛みます、腰が。刃物で切られたように!
 日雇い人夫(ジョッキを持って登場して。)旦那様。
 パロメーク 何だ、何の用だ。
 日雇い人夫 バリザームを少し戴きたいんで・・・目に大きな物もらいが出来たんです。
 パロメーク 物もらい? 物もらいじゃ死にはせん。駄目だ、駄目だ。
 ドンキホーテ いや、追っ払うことはない、城主殿。可哀相ではないか。その男にも分けてやろう。
 パロメーク いいでしょう、旦那様がそのように寛い心でいらっしゃるなら。
(マリトールネス、両手に鍋を持って登場。サンチョ、ラバ追い、それにドン・マルチネスの召使、三人とも手にジョッキを持って登場。)
 マリトールネス 出来ました、旦那様。
 パロメーク(マルチネスの召使に。)何だ、お前は。
 マルチネスの召使 私の御主人ドン・ペドロ・マルチネスが、このバリザームの話を聞き、自分にも一杯戴きたいと、私を寄越したのです。
 パロメーク ヘッヘッへ・・・(マルチネスの召使に。)二レアル出すんだ。
 マルチネスの召使 さあ、どうぞ。(パロメークに金を渡す。)ただ、一番よく効くところを頼みます。
 マリトールネス ほらみんなに、旦那様。冷めないうちに。
 ドンキホーテ ・・・(両手を鍋の上に差し出し、何かの呪文を呟き始める。)
(パロメーク、マルチネスの召使、それにラバ追いの三人、帽子を脱ぐ。)
 ドンキホーテ 飲んでよろしい。
 パロメーク 待て待て。順番だ、順番だ。(ジョッキにバリザームを注ぎ分ける。)
(マルチネスの召使、袖の建物に走って退場。他の者達、バリザームを飲む。最初にドンキホーテ、気分が悪くなる。仰向けに倒れる。)
 パロメーク おお・・・おお・・・おお・・・何だ、これは!
 マリトールネス 親父さん、私に司祭様を呼んで・・・私、最後の懺悔をしなければ・・・私、もう駄目・・・もう死ぬ・・・
(袖の建物から聞こえていた音楽、突然止む。食器が音をたてて落ちる。笑い声が聞こえる。)
 サンチョ 何だ、このバリザームは。旦那様、お作りになったバリザームは酷いものじゃないですか。こんなもの、未来永劫、決して・・・
(パロメーク、急にその場を離れ、走って退場。その後にマリトールネスと日雇い人夫、突進して退場。袖の建物から、ドン・ペドロ・マルチネス、走って登場。その後ろにマルチネスの召使、ジョッキを持って走って登場。)
 マルチネス これは毒じゃないか。何てものを飲ませるんだ。人殺し!
 マルチネスの召使 旦那様、私達は二レアル払ったんですよ。二レアルですよ。それも端た金を払うような気持で。とにかく最上のバリザームなんですからね。御命令通り買ったんです!
 マルチネス 人殺し!(走って退場。)
 マルチネスの召使 何を怒ったんだろう、親方は。俺も飲んでみよう。(バリザームの残りを飲み干す。暫くして足踏みを始め、それからマルチネスが退場した方向に走って退場。)
 サンチョ(ラバ追いに。)何のつもりなんだ、あんた。みんなを酷い目にあわせて・・・
 ラバ追い(ゆっくりとバリザームを飲む。口を拭う。サンチョの方を向く。)あんた、何か文句あるのか?
 サンチョ 寄るな、傍に寄るな。
 ラバ追い どういうことになっているか教えてやろう。もう少し胡椒が少ないのが正しいバリザームなんだ。胡椒をこんなに入れるやつは、きついバリザームだ。ラバの病気を治す時に使う。こいつを飲ませるとラバのやつ、最初猛烈にもがいて、辺りを蹴りまくる。しかし、その後は一年間、強いのなんの、鉄のようだ。それに働くこと、石弓で飛ばした矢のようなものさ。だからあんたも心配はいらない。もうあと少しまだ気分は悪いが、その後は元気溌溂、飛び回るようになる。
 サンチョ 厭な野郎だ、あんたって奴は。あっちに行ってくれ。目の前に立っていられると余計気分が悪くなる。
 ラバ追い まあ元気を出しなってことよ。おおっ! 来たぞ、来たぞ。どうやら俺の番らしい。(歩いて退場。)
 ドンキホーテ 分ったぞサンチョ、何故お前が気分が悪くなったのか。お前は騎士になる儀式を正式に受けておらん、だから・・・
 サンチョ そういうことは旦那様、最初に言っておいて下さらなきゃ困るじゃありませんか。
 ドンキホーテ 私はもう楽になってきたぞ。さて、ではゆっくりと眠るとしよう。(眠り始める。)
(パロメーク、マリトールネス、日雇い人夫、登場。)
 パロメーク この宿屋に飛んでもない奴がやって来たもんだ。実際私はこんな奴、今までに見たこともないぞ。
 マルチネス(自分の召使に伴われて登場。)フーム、これは結構、なかなか良いもんだぞ。最初は気分が悪く、たまったものじゃないが、それが過ぎると楽になる。もう一杯買っておくんだ。あのやぶ医者から。
 マルチネスの召使 畏まりました、旦那様。(マルチネスと一緒に袖の建物に退場。)
(納屋にラバ追い、登場。)
 サンチョ 全く、何の罰(ばち)があたったんだ、この私に。昼間には二度もぶん殴られる目にあって、夜はこのバリザーム・・・ねえ、旦那様、旦那様は私を破滅させようとなさるのですか? 何でしょう、この私の人生は・・・
 ラバ追い 二度もぶん殴られる? 岸壁から落ちたっていう話だったぞ。
 サンチョ うるさいな。どうでもいいだろう?
(すぐ暗くなる。月がくっきりと現れる。パロメークの窓に灯がともる。それから消える。袖の建物では、もう暫く笑い声、コップのかちあう音が聞こえる。)
 マルチネス(袖の建物で。)さあ諸君、乾杯だ!
(それから、袖の建物の方も静かになる。窓の灯が消える。中庭にマリトールネス登場。)
 マリトールネス(納屋にこっそり忍び込む。)どうやらみんな、寝ついたみたい。(耳をすませる。)うん、寝てる・・・あら、嫌だわ・・・ラバ追い・・・あんた、寝てるの?
 ドンキホーテ(目を醒して。)何の声だ?
(納屋の中でマリトールネス、ラバ追いの寝台を捜す。)
 ドンキホーテ(マリトールネスの手を掴み。)おお、素晴らしき貴婦人殿・・・
 マリトールネス あんたなの? ね、今小さい声で何か言ったの、あんた?
 ドンキホーテ おお、素晴らしき貴婦人殿。しかるべき程度に貴殿とお見知りおき願えれば、これに過ぐ幸せは・・・
 ラバ追い(目を醒して。)何だ? これは。
 マリトールネス ああっ、違うの、違うの。あんたじゃないの・・・
 ドンキホーテ おお、怪我をした私、その私に運命が寄越してくれたこの幸せ・・・
 マリトールネス ああ、放して。どうか、旦那様・・・
 ドンキホーテ 貴婦人殿・・・
 ラバ追い ヘッヘッへ、この山羊髭の旦那、なかなか遣り手じゃないか。顔だけ見ると人畜無害だが、バリザームは作る、絶壁からは落ちる、それに・・・
 ドンキホーテ 貴婦人殿、お気持は分っておる、さあ・・・
 マリトールネス 放して、放して・・・
 ドンキホーテ 貴婦人殿、私には比類なきドゥルシネーア・タボースカなる姫をお慕いしておるのだが・・・
 ラバ追い 何だこの野郎、下らん寝言を!(ドンキホーテに忍び寄り、洗面器で頭を殴る。)
 ドンキホーテ あっ! 闇討ちとは卑怯なり!
 マリトールネス あっ!
 サンチョ(目を醒して。)おや? これは何だ? 誰なんだ? お前さん、可愛い子ちゃん、ここで何をしているの?(マリトールネスの手を握る。)
 ラバ追い 何だ貴様! 他人の事に手を出すな!(サンチョを殴る。)
 サンチョ ええっ? また始まったのか。くわばら、くわばら。(馬の毛布の中に潜り込む。)
 ドンキホーテ(刀を掴む。)よし待っていろ、曲者(くせもの)! 物陰から隠れてこの私を襲うとは。おい、サンチョ!
 サンチョ 私は眠っています、旦那様。
 マリトールネス 私、どうしよう、どうしよう。
 ラバ追い ここにいちゃ駄目だ。親父が起きて来る。見つかっちまうぞ。(パロメークの窓に灯がつく。)
 ラバ追い そうだ、屋根から逃げろ。(マリトールネスを押し上げる。マリトールネス、屋根を通って納屋から逃げる。ラバ追い、ベッドに飛び込み、馬の毛布に包(くる)まる。)
 ドンキホーテ 呪われたる城め! ここには魔法使いがいるぞ! エーイ、どこだ、貴様達! どこに隠れている! 悪霊めら! 貴様達は雲霞(うんか)の如くいて、こちらは私ただ一人。しかし怖れはせぬぞ、この私は。(酒の入った革袋を刀で斬り付ける。)見ろ、黒い血が迸(ほとばし)ったぞ。貴様の負けだ。悪霊め!
 マルチネス(袖の建物で。)何の騒ぎだ。おい、灯をつけろ!
 パロメーク(中庭に走り出る。)何だ? 納屋だな? 何が起ったんだ。そうだ、この首を賭けてもいい。あのあまっ子のマリトールネスの仕業だ。おい、マリトールネス、どこだ。このあまっ子!
 ドンキホーテ 敵は仕留めたぞ!
 マリトールネス(窓から。)どうしたんです、親父さん。この真夜中、せっかく眠りこんでいる人達を起したりして。
 パロメーク 何だ? お前、まだここにいたのか。もうとっくに納屋に行っていると思っていたがな。
(中庭に刀を持ってエルナンデスとマルチネス登場。マルチネスの召使も火掻き棒を持って登場。また、もう一人の泊り客、灯明皿を持って登場。)
 マルチネス 何者だ、襲って来た奴は。それで、どうなった。誰が死んだんだ。
 エルナンデス 盗っ人か? どこだ、盗っ人は。おお、あそこだ。納屋だぞ。
(夜が明けて来る。)
 ドンキホーテ 敵はやっつけたぞ。城主殿。見て下され、敵の血がこのように!
 パロメーク(灯明皿を落す。)敵の血! あんたの血を見た方がよっぽど嬉しいぞ、私は。みなさん、見て下さい。この気違いめが、酒の入った革袋を切り割きおって!
 ラバ追い(寝ていたふりをして。)うるさいな。うるさくて寝られやしない。
 サンチョ 全くだ。私だけじゃない、御主人の遍歴の騎士殿だって、寝られやしない。
 ドンキホーテ 他の奴等は逃げたぞ。サンチョ、さ、馬を引け。後を追うんだ!
 サンチョ 合点(がってん)でさあ、旦那様。潮時(しおどき)です。悪い予感がしていたんでさあ。何か目茶苦茶なことが起るんじゃないかってね。(厩へ走り、ロシナンテとロバを引きだして来る。)
(日雇い人夫とマリトールネス、登場。)
 パロメーク 皆さん、ご覧下さい。この二人の気違いがしでかしたことを。酒を・・・ああ、私の一番大事な酒を・・・
 エルナンデス いや、全く。しかしあれは妖怪の仕業です! そうですね? セニヨール・マルチネス。
 マルチネス つまりその・・・バリザームを作った男なんだな?
 マルチネスの召使 はい、さようでして、旦那様。
 マルチネス フム、素晴らしいバリザームだった。しかしいくら上出来のバリザームでも、夜中に人を起す必要はあるまいに。
 ドンキホーテ(鞍に坐って。)城主殿、洵に相済まぬが、余はこの居心地のよいお城を急いで出立(しゅったつ)せねばならぬ。敵の追跡を余儀なくされておるのだ。余と余の従者に示してくれた城主殿の御親切、衷心より感謝する。ではこれで、さらばだ。
 ラバ追い また寝言が始まった。別れにあたって、首を一発どやしつけなきゃならんかな。
 サンチョ もう挨拶は沢山です。旦那様、早く行きましょう。
 パロメーク 感謝の言葉などちっとも有難くないぞ、薬剤師殿。それより、宿泊代、飯代、それに一番大切な、この宿屋でお前さんが駄目にしたあの酒の代金を払うんだ!
 ドンキホーテ 何? これは宿屋だと? それは本当の話か? ということは即ち、余は誤解しておったということか。ここは城だとばかり・・・しかし、そんな誤解は何でもない。夏の焼けつくような暑さ、冬の凍りつくような寒さ、が遍歴の騎士を苦しめる。しかし、それをものともせず人々の幸せのため世界中をさすらうのだ。そういう騎士から、何かを支払うよう要求するなど、この世で誰も、どこでも、いかなる場合にも、出来はせぬ。それが騎士に対する掟なのだ。では諸君、さらばだ!
 パロメーク 待て! 裁判にかけてやる。さあ、皆さん!
 ドンキホーテ(槍で脅して。)エーイ、命が惜しくば、寄るな! 強欲な宿屋の主(あるじ)め!(門の方へ馬で退場。)
 パロメーク 裁判だ! 裁判にかけてやる。この私から盗みおって! 二人目は取り押さえろ。(日雇い人夫に。)門を閉めろ!
(人々、サンチョを取り巻く。)
 パロメーク この騙(かた)りめ! お前は払うんだな? どうだ。
 サンチョ 夏の焼けつくような暑さが・・・遍歴の騎士を苦しめる・・・放せ・・・私を放すんだ!
 パロメーク 諸君、分ったな? こういうインチキ野郎なんだ、こいつは。
 エルナンデス そうだな。おい悪党、お行儀を教えてやろうか。
 マルチネス さっきも言った。奴め、なかなか立派なバリザームは拵(こしら)えた。しかし本当は、こそ泥なんだ。おい、毛布を返せ1
 サンチョ 助けて! 旦那様・・・逃げるなんて卑怯ですよ。助けて下さい!
(ドンキホーテの頭、塀の向こう側に現れる。人々、サンチョに襲いかかる。サンチョを押し倒し、上衣を取ろうとする。)
 ドンキホーテ(塀の外から。)ろくでもない奴らめ! 私の従者から手を離すんだ! 今すぐ!
(みんな、サンチョから手を離す。)
 パロメーク(間の後。)じゃ、払うんだな?
 サンチョ 喜んで払いたいところだが、今ない、一銭も。
 パロメーク なんだと? よし、それなら、毛布で簀(す)巻きにして、空に胴上げしてやる!
 マルチネス もういい、これぐらいで充分だ。さ、もうこんな奴は放っておけ!
 パロメーク(サンチョから革袋を取って。)革袋をかせ! 私の目の前から失(う)せやがれ、この悪党め!
 (全員、中庭から退場。サンチョ、マリトールネス、ラバ追いだけが残る。)
 ラバ追い 私はこの男が気に入ったぞ。あの強情なところはどうだ。結局は一銭も払わなかったじゃないか。偉いもんだ!
 マリトールネス(サンチョに。)さ、水よ。これを飲んで・・・
 ドンキホーテ(塀の外から。)その水を飲んではならん、サンチョ。その水には毒が入っている。ここにまだバリザームが一壜残っている。それを飲みさえすれば、お前はすぐ元気を取り戻すのだ。
 サンチョ その残りは大事にとっておいて下さい、旦那様。これからまだまだ大事な戦いがありますからね。レイナルドス・モンタリバンとも、黄金の怪物マゴメートとも、その他いろいろ化物達とやりあうんですから。私のことは放っておいて下さい。
 ドンキホーテ 哀れな奴め! お前が毒殺されるのを見るのはとても忍びない。私は行く! 毒だぞそれは。いいか、目を醒すんだ!(塀から離れる。)
 サンチョ お女中、頼む、酒をくれ。(囁き声で。)金は払う。
(マリトールネス、酒を持って来る。)
 ラバ追い 俺にも一杯くれ。
 サンチョ 有難う。(マリトールネスに金を払おうとする。)
 ラバ追い 金はいい。俺の奢りだ。奢(おご)りだ。そのお前さんの強情なところが俺は実に気に入った。
 サンチョ この宿屋は厭な奴ばかりだった。だがあんたは別だ。あんたは親切な男だ。そう、お女中、あんたの品行はちょっと感心しないが、まあ私は人のことをあれこれ言うのは嫌いだ。とにかく色々有難う。これでさよならだ。
 マリトールネス さようなら。
 ラバ追い(サンチョを門のところまで見送って。)いいか、もう少し胡椒を少なめに入れるんだ。そうすりゃ、一杯一レアルで売れる。忘れるな。

     第 四 場
(ドンキホーテの家。昼。部屋にはアントーニア、鍵番の女、ペレースとニコラス。)
 ペレース さて、これからどうするか、だが・・・昔から毒をもって毒を制すという。つまり、あの手しか・・・
 ニコラス 司祭様、全く仰せの通りです。あの手しか、確かに・・・
 ペレース 何が何でも武勇をたてたいという気持で家を出たからには、その武勇というのを成就させてやるに限る。そうすれば家に帰って来る。このセニヨール・ニコラスと一緒に考えたのだが、なあアントーニア、お前には魔法にかけられた王女様の役をやって貰わねばならん。
 アントーニア どうもよく話が分りませんが、司祭様。
 ニコラス 今この包みをほどく。するとあんたにもすぐ分る。(包みをほどき、中から立派な女性用の着物、大きな付け髭、ギター、それにマスクを取り出す。)
 ペレース いいかアントーニア、お前は魔法にかけられた王女、ミコミコーンだ。父親はグヴィーニャヤ国の王、ティナークリオ・ムードゥルイ、母親は女王ハラミーリヤ。勿論お前はこの国の後継ぎだ。ところが腹黒い巨人パンドフィランド・カソーイが、お前の国を奪い取ってしまった。そこで我々は、お前のあの頭のおかしくなった叔父さんを追いかけ、涙ながらにこちらの擁護に立ってくれと訴えるのだ。私のためにこの巨人と闘って、国を奪い返して欲しいと。
 鍵番の女 やれやれ、何ていう話! 馬鹿馬鹿しい!
 ニコラス これならあのおっさん、引っ掛からない訳がない。どこへでも行くと言うに決っている。そうでなければ私はこの村の床屋を廃業だ。
 ペレース そこでその国の場所だが、このラマンチャを越した向こうにあると言う。これを忘れてはいかん。
 アントーニア ああ、それで分りましたわ。
 ニコラス(衣装とマスクをアントーニアに渡して。)さあ、着替えて、アントーニア。
 アントーニア はい、分りました。(隣の部屋に退場。)
 鍵番の女 全く何て旦那様なんでしょう。自分の家に帰らせるのに、こんな罠をかけなきゃならないなんて! あんな遍歴の騎士の本なんか、悪魔にでも、盗っ人のヴァッラーヴァにでも持って行って貰えばいいの。あの本のせいなんですからね、ラマンチャいちの良い頭が狂ってしまったのは。それから、本と一緒に太鼓腹のあのサンチョもよ。旦那様に家出を唆(そそのか)したりして。(退場。)
 ペレース ではニコラス、さっそく衣装を・・・
(ペレース、顎鬚をつける。ニコラスは女性用の衣装に頭飾り、そしてマスクをつける。そしてギターを手に取る。アントーニア登場。立派な衣装、そしてマスク。)
 アントーニア あら、これがニコラス小父さん? これからは誰におなりになるの?
 ニコラス 私は王女の付添の婦人、追放を悲しんでいる王女を慰める役目。名前はドロリーダ。覚えておいて。(ギターをかき鳴らす。)
 ペレース 私はなアントーニア、お前の叔父だ。お前の死んだ父親ティナークリオの弟だ。
 アントーニア ええ、ええ、分ったわ。
 ペレース 大事なことは唯一つ、お前のあの叔父さんを、ここへおびき寄せること。連中に出会ったら、状況に応じて適宜考えながら事を運ぶ。
(この時中庭に、ロバに乗ったサンチョ登場。また丁度この時、台所から鍵番の女、走り出て来る。)
 鍵番の女 あら、あいつだ! あいつだよ! 私のこの目が狂っていなければね。
 サンチョ そう、私だよ、鍵番。
 鍵番の女 何が「そう、私だよ」だ! この浮浪者、旦那様を唆(そそのか)して・・・
 サンチョ そう私だ、で悪いか、この・・・
(アントーニア、ペレース、ニコラス、窓に飛び出てこの場面を見る。)
 鍵番の女 人の言葉の真似しかできないこのろくでなしの鸚鵡(おうむ)! 旦那様はどこなんだ! どこにあの方を隠した! お前一人なのか! 答えるんだ! お前一人で帰って来たのか!
 サンチョ なあ鍵番、私は見ての通り、一人だ。これを二人で帰って来たふりをするほど私は馬鹿ではない。
 鍵番の女 じゃ、この薄(うす)馬鹿! 旦那様を一体どこに置いて来た!
 サンチョ 誰か、誰か来て! 助けて! 待て、待ってくれよ、鍵番。このところ毎日毎日私は殴られてばかりだ。だがな、いつだって、その日の終り、泊るところに落ち着いてからだ、殴られるのは。ところが今日はどうだ、ここの門に鼻を突っ込むと、もう折檻(せっかん)が始まるんだからな。助けてくれ!
 アントーニア あら大変、あのままではサンチョはのびてしまう!
 ペレース おいおい、待て待て。今私達が問い糺(ただ)してやるから・・・
 鍵番の女 旦那様をお前はどこにやったんだ!
 サンチョ 助けてくれ! この女をおさえてくれ! 旦那様は大丈夫、旦那様は元気だ! 私を殴るなんて、お前には出来ない筈だぞ。今日ではなくても、明日には私は領主になる身なんだぞ!
 鍵番の女 こんな話、みなさん、聞いたことがありますか。こら、間抜けの欲張り! 誰がそんな馬鹿な考えをこの頭にぶちこんだんだ。さあ、旦那様はどこだ。何故お前黙っている!
 サンチョ ああ神様、お助け下さい。鍵番の手から、この私を救ってくれる人は誰もいないのですか? このままでは雛鳥のように捻り潰されてしまう!
 ペレース さあさあ鍵番、もう怒りは抑えて。お前の怒りは的外れだ。この男はどの点から見ても、全く罪のない男なのだ。
 サンチョ そう仰って下さるあなた様は、一体どなたで?
 鍵番の女 駄目です。旦那様をどこで捨てて来たか、それを言うまでは駄目です。
 ペレース そんなやり方でより、我々の方がずっと簡単に聞き出してみせる。さあ鍵番、さっきからやっていた仕事を忘れてはいかん。私達に食事の用意を。私達はこれから遠い旅に出かけるのだからな。
 鍵番の女 分りました。それではきっと探って下さるのですね? あの可哀相な旦那様、セニヨール・アロンソ・キハーノの行方を。(退場。)
 ペレース ああ、お前さん。そのロバはどこかに繋いで。さあ、こちらへ入って・・・
 サンチョ(部屋に入りながら。)おお、これはこれは、御立派な皆様方、お初にお目にかかります。
 ペレース おや、これはいかなこと、この御仁ではないか!
 ニコラス いや全く。このようなことが・・・自分の目が信じられません!
 ペレース そうです王女様、これがかのサンチョ・パンサ。遍歴の騎士ドンキホーテの従者ですぞ。従者殿に接吻をお許し願わねば。それが終るまではこの胸、収まることはありませぬ。
 アントーニア いいえ、いいえ、私ですわ。私が最初ですわ!
 ニコラス いやいや、それは何と言ってもこの私が最初。(サンチョを抱きしめる。)私の心は波うっております。こんな時、その胸のときめきを抑えることが出来るものは、この世に唯一つ・・・音楽です!
(ギターを弾く。)
(ペレースとアントーニア、サンチョを抱擁する。)
 サンチョ これはこれは。音楽に抱擁と、身に余るおもてなし。しかし何故、私のことを御存知で?
 ペレース 御主人の騎士殿の勇名は、世界中に、まさに燎原の火の如く広まっております。従って勿論、その従者の名前も・・・即ち、あなた様の名前も・・・また同様に知れ渡っておるのです。どうぞ従者殿、お坐り下さい。そしてどうか、現在どこに貴殿の騎士殿がいらっしゃるのか、お教え願いたい。
 サンチョ ああ、喜んで坐りますぞ。鍵番に先ほどさんざん殴られ、疲れ果てておりますから。しかし、私の主(あるじ)がどこに今いるか、は教えられません。
 ペレース それはまたどうして。
 アントーニア 何というお話でしょう。残酷な従者さんですこと。私の最後の頼みの綱を切っておしまいになろうという・・・
 ニコラス 一体どうしてなのでしょう、あなたの御主人の居所を私達には明かさないと仰せのその理由は・・・
 サンチョ 何故なら、主人は私に、それを秘密にしておけと命じたからです。
 ニコラス おやおや、従者さん、それは奇妙な話ではございませんか。あなた方はお二人でここを出られた。そして帰って来られたのはあなたただお一人。人はどう考えるでしょう。あなたがこのドンキホーテを殺したのではないかと・・・
 サンチョ 殺すのが運命の人には殺させておきましょう。でも私はそのようなことは決して・・・誰にでもそれは分っています。
 アントーニア いえいえ、この人は必ず教えてくれます、ドンキホーテの居所を。よいかサンチョ、お前の目前にいるこの私・・・この私こそ、王女ミコミコーンなるぞ!
 サンチョ ははあ、これは面白い。私は生涯で唯一度も王女なる人を見たことがありませんので。
 アントーニア 今やお前は、お前の主(あるじ)の居所を私に明かしてくれるであろう。何故なら私は、お前の主の助けと庇護をどうしても必要としているからなのだ。
 サンチョ いいえ王女様、それでも私は明かしません。
 アントーニア それならば、血も涙もない従者よ、私の人生の悲しい物語をお聞かせしよう。私は豪華絢爛たる父の宮殿に、何不自由なく暮しておった。父の名はティナークリオ・ムドゥローイ、そして現在、慰めようもなく悲嘆に暮れているその弟・・・
 ペレース そう、それが私・・・お前さんの目の前にいるこの私が・・・
 アントーニア そう、彼が私の父の弟。宮廷においては誰もが私にかしずき王家への礼儀を守り、私は昼間は黄金の玉座に坐り、夜には必ず誰から私の部屋の窓辺、王女の庭で、ギターをかき鳴らし、セレナーデを歌ったものだった・・・
(ニコラス、ギターを鳴らす。)
 サンチョ この話、なかなか面白うございますが、まだ何も悲しいことはありませんようで・・・
 アントーニア 先まで聞くのだ。悲しいことはこれからだ。ある日、それは恐ろしい日でした。巨人パンドフィランドの群がわが王国を攻撃したのです。
 サンチョ いかん、そいつはまづい。・・・私のその様子ははっきりと心に描くことが出来ます。群・・・群・・・たいした群じゃなかったが、私も馬追いの群にやられたことがありますからね・・・あれからというもの、私は・・・ああ、この話はいい。話す価値がある訳じゃない。それでどうなりました?
 アントーニア 私の母、女王のハラミーリアと、父の・・・つまり父の・・・
 サンチョ ええ、ティナークリオを?
 アントーニア そうそう、ティナークリオ・・・その二人をバッサリ・・・
 サンチョ それで二人とも死んだと?
 アントーニア ええ、二人とももうお墓に。
 サンチョ(ペレースに。)それでよくあなた、命が助かりましたね。王様の弟さん。きっと降参したんですね。うろたえた時にはどんな勇気のある人でも、命だけは助かりたいと思うものですからね。
 ニコラス(ペレースに。)全く飛んでもない言い掛かりをつけて人の話を聞くもんですね。呆れたものです。
 ペレース(ニコラスに。)いやいや、この話にひどく感動しての言葉のようだ。
(ニコラス、ギターを弾く。)
 アントーニア そこで私は、この侍女ドロリーダと共に、ラマンチャの騎士ドンキホーテを捜しに旅立ったのです。その庇護を得ようと。もうこれで勿論あなたも納得したでしょう。さ、今あの方はどこに?
 サンチョ 言いません。
 ニコラス(ギターを放り出して。)ええい、何て強情な。
 ペレース おお、おお、優しいドロリーダ、怒ることはない。この従者殿は立派に御主人から託された秘密を守ろうとなさっておられる。そうだ、親愛なるサンチョ殿、ここに一人で立ち戻られたのは如何なる理由あってのことですかな?
 サンチョ 御主人の姪御さん宛の手紙を託されたのです。
 ペレース 姪御さんは司祭様、そしてここの村の床屋殿と三人で出て行きましたが・・・
 サンチョ 司祭様、それにニコラス殿・・・二人とも私はよく知っているな・・・
 ニコラス そうそう、ニコラス殿、素晴らしいお人じゃ、この方は。
 サンチョ ひどく狡い人なんだ、これが・・・
 ニコラス ええっ? 何と?
 ペレース まあ待て・・・三人は行方不明の叔父上について、何かの消息をと、街に出て行った。ところでお前さんは手紙を持って来たと?
 サンチョ 非常に大事な、そして何と言っても、楽しい手紙で・・・
 ペレース さあ、早くそれを・・・
 サンチョ この私めの忠実な奉公の御褒美に二頭のラバを与えよという命令も含まれている・・・(ポケットを探る。)ああっ・・・あっ・・・あっ・・・
 ペレース どうなされた?
 サンチョ ああ、このサンチョめの馬鹿! 阿呆! この私は人間じゃない、豚だ! ええい、死ね、死ね! こんな奴!(自分の頭を殴る。)ええい、こうだ、こうしてやる!
 アントーニア どうなされた、従者殿。
 ニコラス 如何なされた? 頑固な従者殿!
 サンチョ みなさん、この私を殴って下さい。お願いします。自分で自分を殴るのはどうも不便で。ああ、私は手紙をなくしてしまった。それと一緒にどうやらラバもなくしてしまったらしい。ああ、どんなに女房が喜ぶか、どんなにあのフアナ・テレサが喜ぶかと、ロバの背にゆられながら一晩中そればかり考えてきたのに! ああ、ラバ・・・ラバ! 私のラバ! 私はもう嬉しくて震えが止まらなかった。あのラバの身体を実際にこの手で触ってみたかのように。ああ、その毛並みを優しくなでてみたかのように。私の小屋に入っているラバを、この目で見ているかのように! あの手紙がなかったら、誰が私の言葉を信じるでしょう。旦那様が本当に私にラバをくれると約束したなんて。ああ、パンドフィランドよ、お前はあのテイナークリオ・ムードロイの代りに、何故この私を斬り殺さなかったんだ。
 ペレース うん、そいつはまづいことになったな。
 ニコラス ラバが手に入るという夢とも、もうお別れですね?(ギターを鳴らす。)
 サンチョ 止めろ! ギターは。全く何ていう酷い癖だ。何か厭なことがおっぱじまると、すぐにギターをかき鳴らす!
 ペレース いや、落ち着くんだ、サンチョ。誰にそのお前の悲しみを慰めることが出来るか。私にはよく分っている。このお方・・・この、万人に心を開く王女ミコミコーンだ。このお方がただ一言鍵番の女に言葉をかければ、ラバはたちどころにお前の手に入るぞ。
 サンチョ あの強情な鍵番が王女様の言うことなら聞くとでも?
 ペレース それは私が請け合う。しかし、そんな寛大な処置を受けて、まさかお前、ドンキホーテの居所を教えないという法はあるまいな?
 サンチョ(考えて。)言います。
 アントーニア おお、それでこそ優しいドンキホーテの従者!(窓に向って。)鍵番さん! 鍵番さん!
(ペレース、ニコラス、サンチョ、窓に身体を乗りだす。)
 鍵番の女 何、御用でしょう。
 アントーニア いいですか、鍵番さん。旦那様のアロンソ・キハーノからの命令です。このサンチョにラバ二頭、すぐに渡しなさい。
 鍵番の女 まあ、何てことを。ラバ・・・ラバを二頭も・・・
 サンチョ そーら、見たことか!
 鍵番の女 とんでもない、こんなろくでなしに・・・そんなことをするくらいなら、この私の心臓をここから引き抜いて・・・
 サンチョ やっぱりね、言わないことじゃない。
 ペレース(静かに。窓越しに。)お前さんいいかね? 旦那様のアロンソをお前が見たいと言うのなら、すぐさまこのサンチョに・・・
 鍵番の女 え?・・・え?・・・何ですって? このサンチョに?・・・ああ、そういうこと! それなら喜んでラバ二頭・・・さあ、こっちへ来るんだ、このろくで・・・さあ、サンチョ。さあ、小屋を開けて、ラバ二頭! さあさあ! ああ、神様、一体この世の中、どうなっちまったんだろう。(退場。)
 サンチョ おお、嬉しいぞ。また戻ってきたこの喜び! 白状しましょう。私は今の今までこの人が王女ミコミコーンだなんて、ちっとも信じてはいませんでしたよ。でも、事がこう運んで・・・これはもう信じますね。確信です。
 ペレース うん、それはよかった。しかし、忘れては困るぞ、さ、ドンキホーテの居所を。
 サンチョ スィエラ・モレーネの峡谷に。
 アントーニア そんなところで一体何を・・・?
 サンチョ ドゥルシネーア・タボースカ姫のつれなさに絶望して、自暴自棄な事をしでかそうと決心したんです。ロタランダとアマンディサのお手本を見習って、そこへの道は私がお教えします。
 アントーニア さ、すぐに参りましょう。あの方に何か悪いことが起らないうちに。
 サンチョ その前にどうか、親愛なるティナークリオ・ムドゥローイ、どうか接吻をお許し下さいまうよう。(ペレースをぐっと抱擁する。その拍子に付け髭が落ちる。)おお、これは! 司祭さんでは?
 ニコラス(すぐにサンチョを抱擁し。)え? 誰ですって? 司祭さまとはまた、何を・・・どこに司祭さまが?
(この間にペレース、髭をつける。)
 サンチョ どうやら嬉しさのあまり、私は目を悪くしてしまったようです。いや、それともあのパンドフィランドの奴が、一瞬私の目の前で、あなたの髭を取り去り、司祭様の姿に変えたらしいですな。いやいや、もう大丈夫。あれは幻(まぼろし)だったと、今はっきり分っています。・・・おお、何て嬉しいこと!(中庭に走り出る。厩に行き、扉を開ける。)おお、おお、私のラバちゃん、ラバ、ラバちゃん!(叫ぶ。)そーら、ここでこそかき鳴らして下さらなければ、お女中殿。ギターですぞ、ギター・・・
(ニコラス、ギターを鳴らす。馬車がやって来る音がする。)
 アントーニア さあ、スィエラ・モレーネへ!
 ペレース そうだ、スィエラ・モレーネへ!
               (第二幕 終)

     第 三 幕
     第 五 場
(ドンキホーテの家。昼間。木戸から巨大な馬車が入って来る。その中にドンキホーテと、変装したアントーニア、ペレース、ニコラスが乗っている。馭者の隣りに坐っているニコラス、ギターをかき鳴らしている。馬車の後ろに、ロバに乗ってサンチョ登場。最後にロシナンテが現れる。その手綱はサンチョの鞍に繋いである。台所から鍵番の女が走り出る。)
 鍵番の女 まあまあ、よくお帰りで、セニヨール・アロンソ! おめでたいことに! 本当におめでたいこと! 誰もみんな大喜びですよ。やっとこの生れ故郷にお帰りになったんですからね。ああ、セニヨール・アロンソ! 本当におめでたい!
 ドンキホーテ おお、おお、お前か、鍵番。今帰ったぞ!
(アントーニア、ペレース、ニコラスの三人、ドンキホーテが馬車からびっこをひきながら降りて来るのを手助けする。馬車、退場。サンチョ、ロバとロシナンテを連れて厩に退場。)
 ドンキホーテ 姫、御紹介申し上げる。これが我が家の忠実な鍵番です。
 アントーニア これはこれは、どうぞお見知りおきを。
 ドンキホーテ(紹介して。)こちらはドロリーダ殿・・・鍵番です・・・最初の一目でお互いに気に入る筈だが・・・如何かな?
 ニコラス 何という嬉しい出会い。これを私、夢にまで見ておりましたわ。(鍵番の女を抱擁する。)
 ドンキホーテ さあどうぞ。みなさん、中へ。
(アントーニア、ペレース、ニコラス、何度もお辞儀をしながら屋敷の中へ入る。)
 ドンキホーテ アントーニアはどこだ。
 鍵番の女 姪御さんは家です、旦那様。もう王女様をお迎えしたかどうか、私には分りませんが・・・それから、あの髭のお方を・・・
 ドンキホーテ(長椅子に坐りながら。)おいおい、「髭のお方」ではない。あれは随分位の高いお方だ。もっとも位は高くても、ひどく不幸なお方だが・・・あの王女の叔父上なのだ。私はいまだにあの方の兄上の恐ろしい悲劇のことで頭がいっぱいだ。パンドフィランド・カソーイにバッサリ斬られたあのグヴィーニャヤ国の王のことで。
 鍵番の女 ああ、グヴィーニャヤの王様には神の御加護がありますように。でも、その王様、斬り殺されてしまったんでしょう? どうしようもないですよ。あの世へもう旅立っているんですからね。それとも旦那様、その方を蘇らせるとでも仰るのですか? 私は旦那様のために、脂(あぶら)のよくのった雄鶏二羽、斬り殺しましたよ。旦那様においしいスープを作って上げようと。斬り殺すなら雄鶏ですよ。この方がグヴィーニャヤの王様よりよっぽど役に立つ!
 アントーニア(普段の着物に着替えて、家の中から登場。)まあ、大事な大事な叔父様! お帰りなさいませ。何て嬉しいんでしょう。
 ドンキホーテ おおアントーニア、只今。お前、王女様とお付きの方の世話はちゃんとしたんだろうな?
 アントーニア 何を仰っているんです、叔父様。ちゃんとやっている証拠に、ほら、聞こえるでしょう? 私の部屋でお付きの人、ギターを弾いていらっしゃるわ。
 サンチョ(納屋から出て来て。)ああ、また弾いているな。神様はあの女からまだあの楽器を取り上げていなさらん。しかし私としては、魔法をかけられたどこかの馬の骨でもいい、あのギターを彼女から奪い取ってくれれば、こんな嬉しいことはない。何だかだと理屈をつけては、四六時中弾いているんだからな。
 ドンキホーテ お前が生来粗野だからそうなんだ、サンチョ。音楽は愛するものだ。音楽あるところ悪はない、と言うではないか。
 サンチョ 焼き鳥だって、朝から晩まで食べていれば飽きてしまいます。あの音楽を聞いていると、時々垣根から飛び出して行きたくなるんですよ。そうだ旦那様、ちょっとお許しを願って、女房のところへ行って来ていいでしょうか?
 鍵番の女 さあさあ、行け行け、サンチョ。誰も引き止める者などいやしない。
 ドンキホーテ うん、行っていいぞ。しかし、すぐに帰って来るんだ。
 鍵番の女(囁き声で。)さあ、行っちまうんだ。それから、もうここには帰って来ないんだぞ、いいな?
 サンチョ しかし、旦那様が・・・
 鍵番の女(囁き声で。)帰って来るんじゃないよ、いいね。その顎鬚の残りを引き毟(むし)られたくなかったら・・・分ってるね? この私のことを。
 サンチョ お前を知らない奴など、どこにもいやしない・・・やれやれ、進退窮(きわ)まれりだな。(退場。)
 ドンキホーテ さあアントーニア、家の中へ入ろう。(アントーニアを伴って家に入る。)
(鍵番の女、台所へ退場。部屋の中でアントーニア、ドンキホーテが甲冑を脱ぐのを手伝う。それからドンキホーテを肘掛け椅子に坐らせる。内側の扉から普段の衣装を着たペレースが登場。)
 ペレース これはこれは旦那様、ようこそお帰りで。床屋のニコラスと私に知らせがありましてな、お帰りになられたと。それで何はともあれ、ご挨拶に参った次第でして。
 ドンキホーテ おお、来てくれるとは、これは嬉しいぞ、司祭殿。アントーニア! ここに王様の弟君をお連れして。ペロー・ペレース殿を弟君にお引き合わせしたい。
 アントーニア はい只今、叔父様。(ドンキホーテにキスする。)
(この隙にペレース、隣の部屋へすべるように退場。)
 アントーニア 今お呼びしますからね、叔父様。(隣の部屋へ退場。)
 ペレース(扉から顎鬚をつけた姿を見せて。)セニヨール・ドンキホーテ・・・
 ドンキホーテ ああ、閣下! どうぞどうぞ、こちらへ・・・
 ペレース(扉のところで。)正装をしておりませんので、セニヨール・ドンキホーテ。
 ドンキホーテ なんの! 正装など・・・旅の身ではありませんか。どうぞ無礼講で・・・
(ペレース、扉の向こうに隠れる。)
 ドンキホーテ さあ司祭殿、あちらに王様の弟君が。どうかお近付きに・・・おや? 司祭殿はどこに? ついさっきまでここにおられたが・・・?(出口の扉へ進む。)
(ペレース、髭なしの姿で隣の部屋から登場。)
 ペレース 私はここですが? セニヨール・ドンキホーテ。
 ドンキホーテ 驚いた! これはいかなこと。今いないと思ったら、また・・・どこかへ行っておられたかな?
 ペレース いや、別に・・・
 ドンキホーテ フーム、どうもこの私の家は怪しい。何かおかしいぞ。アントーニア! どこだ、お前は。
 アントーニア(王女の服装をつけて。)お許し下さいませ、騎士殿。お待たせ致しまして・・・
 ドンキホーテ あでやかな姫ミコミコーン殿、お許しを願ってどうか私の友人を紹介させて戴きたい。こちらはセニヨール・ペロー・ペレースです。
 ペレース お初にお目にかかります、王女様!
 アントーニア お噂はかねがね・・・
 ニコラス(ドロリーダの服装で。)私も参りましたわ、騎士殿。
 ドンキホーテ ああ、やっとこれで全員揃ったか! いや、違うぞ、かの尊敬すべき・・・だが少し我儘な・・・王の弟君がいないぞ。
 ペレース 私が捜して参りましょう。(隣の部屋へ退場。)
 ドンキホーテ それに、床屋のニコラスはどこだ?
 ペレース(王の弟の衣装で。)そーら来ました、やって来ましたよ、私が。
(ニコラス、隣の部屋へすべり抜けるように退場。)
 ドンキホーテ いや、王の弟君、あなたに私の友人達を御紹介いたそうと思ってな・・・司祭殿と床屋のニコラスを・・・エッ? おーい、ニコラス!
(ニコラス、普段の衣装を着て隣の部屋から登場。アントーニア、ベッドの帳の後ろに退場。)
 ペレース おお、おお、これがかの徳の高い床屋のニコラス殿、貴殿のお噂は山々聞きましたぞ。お噂通りのそのお顔を拝し、嬉しう存じますぞ。
 ニコラス いえいえ、お噂はこちらの方が伺いました。何とまあ恐ろしいお話。かの卑劣なパンドフィランドが貴殿の兄君の一家になした残酷無残な所業・・・
 ドンキホーテ アントーニア! もうそろそろ出て来たらどうだ!
 アントーニア(帳から出て来て、普段の服装で。)はい、叔父様、私、ここですわ。
(ペレース、ドンキホーテの椅子の後ろに隠れる。)
 ドンキホーテ 私はな、王の弟君の口から直接に、この恐ろしい話をお前に聞いて貰いたいのだ。司祭殿、あなたもどうか、もっとこちらへ。
 ペレース(髭をつけずに顔を出して。)ええ、ええ、勿論、全身これ耳にして聞いておりますぞ。(椅子の後ろに隠れ、髭をつけて。)おお、パンドフィランド、あの残忍な巨人の姿は未だに私の目にこびりついて離れません。(椅子の後ろに隠れる。髭を取って再びドンキホーテの前に出て。)そう、そうでもございましょうね。尊敬すべき王の弟君殿!
 ニコラス(アントーニアに。)そろそろ姿を消す時間だ!
 アントーニア(ニコラスに。)さ、魔法使いを出して!(ドンキホーテに。)ええ、ええ・・・ねえ叔父様、何て怖いお話なんでしょう。
 ペレース(髭をつけて、椅子の後ろから現れ。)どうやら話を短く刈り込んだ方がいいようですな、姪御殿。そのように怖がっていらしては失礼に当たりましょうから。
 アントーニア いえいえ、どうぞ、どうぞ、お続けになって。
 ドンキホーテ そうそう、そのまま続けて欲しい。しかしどうか、お願いだ皆さん、家の中ではじっと坐って、落ち着いて戴きたい。さもないとどうも・・・正直のところ私はなんだか目がチカチカして・・・
(ニコラス、隣の部屋へ滑り抜ける。ペレース、窓に突進する。)
 ドンキホーテ ・・・それに時々、私にはよく分らなくなって・・・自分の目の前にいる人間が誰なのだか・・・
(舞台裏で食器の割れる大きな音が響く。ペレース、鎧戸を閉める。部屋が暗くなる。)
 ドンキホーテ 何だ! どうしたんだ、これは!
 ニコラス(舞台裏で。)助けて! 魔法使いだ!
 ペレース 助けて!
 ドンキホーテ(刀を掴む。)何? どこだ、魔法使いは!
 ニコラス(走って登場。)王女様を、ミコミコーン様を、魔法使いが・・・この私の目の前で!
 ペレース 王の弟君はどこだ!
 アントーニア ドロリーダ様もいない!
 ドンキホーテ この事態は予期していなければならなかったのだ! 話にすっかり気を取られてしまっていた! 卑怯な奴め、フイに飛び込んで来おって! 従者はどこだ。追跡だ!
 ペレース それは無駄です、セニヨール・ドンキホーテ! 空は飛べないでしょう、あなたは!
 ニコラス 私はこの目で見たんです、黒いマントを着たあいつが、屋根の上を飛んで行ったのを! 王の弟君の髭を掴んで引きずるようにしながら・・・
 ドンキホーテ 何故奴の手を斬り落してしまわなかったのだ!
 ニコラス 撃ち損じまして・・・
 ドンキホーテ ああ、何という私の失策。この自分を私は許さないぞ。見張りはどこだ。楯を持て! 馬だ、馬を引け!
 アントーニア 叔父様、どうかお願い! 落ち着いて!
 ドンキホーテ 姫はこの私の保護のもとにあった。私は助けると約束したのだ! そこをどけ! お前達は怖れで身体も動かんだろうが、奴など私は怖くはない。追うぞ! 空を飛んで行こうと、風より速く進もうと! さ、通してくれ、私を!(刀を落し、肘掛け椅子に倒れるように坐り込む。)
 アントーニア 叔父様! どうなさいました。
 ドンキホーテ ああ、傷口が開いてしまった・・・急に力が抜けて・・・奴め、私に魔法をかけおったな・・・
 アントーニア 叔父様、どうかこの姪の言葉をお聞き下さい。叔父様を心から愛しているこの私の言葉を。叔父様は休んで、まづ力を蓄えなくては。ね、叔父様。言うことをお聞きになって!
 ペレース そうです。私達の言葉を聞いて下さい、騎士殿。ベッドに横になって・・・安らかな夢がきっと力をつけてくれますから・・・
 ドンキホーテ そうだな・・・今はどうも動ける状態ではない・・・魔法で身動きが出来ぬ。鎖をかけられ、金縛りにあったようだ・・・
(アントーニアとペレース、ドンキホーテをベッドに運ぶ。寝かせる。)
 アントーニア(ベッドの帳を引き、すっかりドンキホーテを隠し。)眠ってしまった。可哀相な、可哀相な叔父様!
 ペレース 姪御殿、もう心配はいりません。寝れば元気も出てきます。それに、改めて目を醒してみれば、落ち着かれるかもしれません。さあニコラス、行こう。では失礼しますぞ、姪御殿。夕方までに二人で様子を見に参ります。
 アントーニア ではこれで。本当にいろいろお世話になりました、あの叔父のために・・・本当に・・・
 ペレース いやいや、私らは自分の務めを果したまでのこと。
(ペレース、ニコラスと退場。)
(アントーニア、台所の方に退場。間の後、道路に通じる木戸から、サンソン・カラスコ登場。)
 サンソン おお、この懐かしい中庭! 丁度二年ぶりだ。私のいない間に、どこも、何も、変っていない・・・ここにベンチがある。二年前、ここにアントーニアと二人で坐ったなあ・・・誰か! 誰かいらっしゃいませんか!
(鍵番の女とアントーニア、登場。)
 アントーニア あっ!
 鍵番の女 あら、まさかあんたは・・・?
 サンソン 私です、私ですよ、鍵番さん!
 鍵番の女 まあまあ、立派になられて・・・あの水呑み百姓のバルトロメオ・カラスコの息子が、学者・・・立派な紳士におなりになって、お帰りとは。ああ、サンソン! 私達、もうあなたの傍にも寄れないわ。
 アントーニア そうよ。あなた、もう私達のことなんか、知らぬふりね? サンソン。あ、失礼、私、セニヨール・カラスコって言おうとして・・・
 サンソン 大切な、大切な鍵番さん、あなたの言っている事のうち一つだけは正しいですよ。確かに私は学者になりました。この私は、サラマンスキイ大学の学士です。懐(ふところ)には学士の証明書が四通あります。月桂樹の枝で名誉も受けています。でも、その他の言葉は正しくありません。傍にも寄れないなんて、私はそんな大(だい)それた者にはなっていません。さ、その証拠に、挨拶の抱擁を!
 鍵番の女 ああ、サンソン、何て嬉しいんでしょう。その心が高慢ちきになっていなくて。昔の仲間を優しく迎えて下さるなんて!
 サンソン アントーニア! 何て綺麗になったんだ! いやいや、高慢ちきだなんて、私には全く無縁のもの。たとえこの私が二十倍も学者になったって!(アントーニアを抱擁。)
 アントーニア ああ、セニヨール学士さん!
 鍵番の女 ああ、何て立派なこと。だってこの人、ちっとも変っていない。昔からのこの村の人、私達と同じ地面の上で育ち、私達を照したその同じ太陽に照された人なのよ。
 サンソン でも、私の胸は心配でドキドキしている。生まれ故郷に戻って来たから、そして特にアントーニア、あなたのお顔を見て余計・・・(アントーニアを抱擁するため突進する。アントーニア、身を躱(かわ)す。サンソン、鍵番の女を抱擁する。)そう、それに大切な鍵番さん、あなたに会って・・・(アントーニアの方に手を伸ばし、その手に接吻して。)あなたのことは何度となく夢に見ました。
 鍵番の女 ああ、サンソン、私もだわ。
 サンソン ねえアントーニア、あなた、私が帰って来て、ほんの・・・ほんの少しでも嬉しいと思って下さっているのですか?
 アントーニア 私、嬉しい・・・嬉しいですわ・・・
 鍵番の女 私もよ、私も嬉しい・・・
(急に二人の女、泣き始める。)
 サンソン おやまあ、嬉しさが涙で表現されるって、そんなの見たことないな。どうしたんです?
 アントーニア 叔父が気が狂って・・・
 サンソン え? 何ですって?
 鍵番の女 忌まわしい本のせいなんです。それがすっかりあの聡明で心優しい旦那様の頭を狂わせてしまって。
 アントーニア 錆びた甲冑を着込んで家を飛び出して行ったのです。何とかっていう巨人と戦って王女様を救うんだとか・・・頭には床屋の洗面器を被って、刀を振り回して・・・近所のサンチョ・パンサの頭をすっかり混乱させて自分の従者にして。そのサンチョも自分と一緒に連れて、出て行ったのです。私達は計略をねってこの家まで戻すには戻せたんですけど・・・そうそうサンソン、あなたきっとお腹がすいているわね。鍵番さん、この人に何か作ってあげて。
 鍵番の女 はいはい、只今。やっと故郷に、昔馴染みの家に帰って来たんですもの、何か食べなければ・・・(台所に退場。)
 サンソン 可哀相にアントーニア、それは随分御心配ですね。
 アントーニア あなたは昔から頭が良かったわ。それに今じゃ学士様じゃない。どうしたら私達、この不幸から逃れられるか、もしあなた、考えて下さったら・・・ね、サンソン・・・私、あなたにいっぱいキスして上げるのに・・・
 サンソン えっ? 何ですって? いっぱいキス? そうそうアントーニア、私にはね、いい考えがあるんだ! さ、キスして、アントーニア!
 アントーニア えっ? それ、本当?
 サンソン 私は、この村では正直者で通っているんですよ、アントーニア。嘘なんか言うもんですか。
 アントーニア そうね、私を騙すようなことはしないわね、サンソン。
(アントーニア、サンソンにキス。丁度その時、サンチョの頭が生垣の上に現れる。)
 サンソン チェッ、全く間の悪い。サンチョですね? あれは。
 アントーニア ええ、そう。
 サンソン そうだ、思いついたあの考え、もっとはっきりして来たぞ。サンチョと二人だけにしてくれませんか? アントーニア。
 アントーニア ええ、ええ。あなたを信用するわ、サンソン。(台所へ退場し、扉のところで顔を覗かせて。)サンソン・・・
 サンソン キスをもう一回・・・アントーニア・・・
(サンチョの頭、再び生垣の上に現れる。)
 アントーニア 後で。(扉の後ろに隠れる。)
 サンソン(サンチョに。)何を躊躇(ためら)っているんです。顔を出したり引っ込めたり。来たんでしょう? 入ったらどうなんです。
 サンチョ 毒蛇(どくへび)がいるんじゃないかな?
 サンソン 毒蛇? 何のことを言ってるんです? 
 サンチョ 毒蛇と呼ばれる者は他にはいない。勿論鍵番だよ。
 サンソン ああ。台所ですよ。
(サンチョ、ロバを中庭に入れ、隅に結ぶ。)
 サンソン どうやらあんたはサンチョ・パンサ。
 サンチョ これはあのやくざな魔法使い、フリストンの仕業ではないだろうな。ここにいるのはこの村の、あの年寄りのバルトロメオの息子、サンソンではないか!
 サンソン そう、フリストンなど出る幕はない。私はサンソン!
 サンチョ そうか。驚いたな。学士さんのサンソン!(サンソンにキスする。)
 サンソン しかし、一体まあ、どうしたんです、その顎鬚の残りの半分は。
 サンチョ 首吊り人が出た家ではな、縄の話はしないものだ、セニヨール・カラスコ。それとも大学で、まだこれは習っていないのかな? いや、この一週間、お前さんの懐(ふところ)に金がたまって行くのと同じ速さで、この髭がバサッバサッと抜かれてな・・・
 サンソン それは悲しい話ですね、セニヨール・パンサ。でも大丈夫、すぐ新しく生えますよ。それも以前生えていたのよりもっと立派なのが。
 サンチョ そう、あんたも大丈夫。立派な知識が身についてくるさ。私の髭に劣らない、立派なのが。
 サンソン いや、これは実にうまい答! あなたもサラマンカ大学に通っていたことが?
 サンチョ いや、私には学歴など不要だ。そんなものがなくても、もう近々、私はある島の領主になるんだからな。
 サンソン えっ? どうやってです? 教えて下さいよ、私だって領主になりたいんですから。
 サンチョ お前さんにいくら教えたって何の役にも立たないね。まづは偉大なるラマンチャの騎士、ドンキホーテの従者にならなきゃ。
 サンソン やれやれ、気違いは伝染するというが、この目で見るとはな。
 サンチョ えっ? 何と言った?
 サンソン これは独り言で。
 サンチョ 独り言は人に聞こえないように言うものだ。
 ドンキホーテ(目を醒して。)サンチョ! いるか!
 サンチョ ほらほら、あれは旦那様。私を呼んでいる。
 サンソン これは好都合。私も一緒に・・・(サンチョと一緒に家に入る。)
 サンチョ 旦那様、お客です。
 ドンキホーテ それは嬉しい。
 サンソン どうか自己紹介をお許し下さい。ラマンチャのセニヨール・ドンキホーテ。あなた様のお名前はあまねくしれ渡り、この取るに足らない私、あなたの僕(しもべ)サンソン・カラスコの耳にも届きましたのでございます。
 ドンキホーテ 君はバルトロメオ・カラスコの息子だな?
 サンソン はい、そうです。
 ドンキホーテ わが同郷の人間で、学問の世界において、かくの如き高い位に達した人物を、我が家にお迎え出来るとは、実に幸せなことです。
 サンソン 私こそ、その武勇が国中くまなく響き渡っている騎士殿のお宅に、お客として迎えられるとは、光栄至極に存じます。
 ドンキホーテ どうかお坐り下され、学士殿。あなたはこの私が不幸のどん底に落ちている、その瞬間にお見えになったのだ・・・
 サンソン それはそれは、お気の毒に、セニヨール。
 ドンキホーテ 私の宿敵、狡猾な魔法使いフリストンが・・・そう、このフリストンのことは学者のあなただ、もう何百回と書物でお読みになったことと思うが・・・きやつが、私の庇護を求めてやって来た可哀相な孤児、王女ミコミコーン、その血の繋がった叔父、そしてお付きの婦人ドロリーダを、この家から攫(さら)って行ったところなのだ。
 サンチョ(狼狽して。)アビンダラエース・デ・ヴァルガス! ええい、この私、よくよく呪われた運命なのだ!(帽子を投げつける。)
 ドンキホーテ ほら学士殿、見て下され。正直な話、この男ぐらい鈍い男も珍しいのですぞ。その彼がこの通り、気違いのようになるほどなんですからな。
 サンチョ 当り前でしょう、気違いのようになったって。領主になれるほんの一歩手前だったんですよ! もう領主のマントに手がかかっていた。巨人の軍隊を打ち払い、こっちのものにするんだと、夢に見ていたのに。
 ドンキホーテ 丁度その矢先、敵にしてやられてこの有様だ、学士殿!
 サンソン 実に、聞くだに哀れな物語。それでこれからどうなさるおつもりで?
 ドンキホーテ 今から直ちに、奴の追跡にかかるのだ!
 サンソン それはもう変更不可能な計画なんですね?
 ドンキホーテ 何故そのようなことを訊くのだ。これは私にとって、神聖な義務なのだぞ!
 サンチョ お前、ひょっとしてあのヤングエース地方のならず者とぐるじゃあるまいな?
 サンソン 何?
 サンチョ いや、こっちの話だ。全く話すほどのこともない話だが・・・たった二人に十五人が、よってたかってかかって行って、顎鬚を半分毟(むし)り取って・・・
 サンソン 何のことやら・・・(ドンキホーテに。)ところで、どこをお捜しの予定なんでしょう、王女とその誘拐者を追跡すると言っても・・・
 ドンキホーテ どこかのよい魔法使いが夢で知らせてくれた。誘拐者は北東の、ある公爵の領地に向ったと。私もそこへ出発だ。サンチョ、鎧を着せてくれ。
(サンチョ、甲冑をドンキホーテに着せ始める。)
 サンソン このことはどうか教えて下さい、セニヨール。もし不幸にも運命が敵の方に傾いて、あなたが負けるようなことがあったら・・・
 ドンキホーテ そんなことは分りきっている。敵の出した条件に服するのみだ。もし敵が負けた時には、この私の条件に相手は服するのだからな、当然の話だ。
 サンソン よし、すぐにもお出掛け下さい。遍歴の騎士ドンキホーテ殿!
 ドンキホーテ 学士殿、あなたは名誉とはいかなるものであるか、私と同様に熟知しておられるようだな。サンチョ、馬をひけ!
(ドンキホーテとサンチョ、中庭に出る。台所から料理を持って鍵番の女、登場。そしてアントーニア登場。)
 鍵番の女 まあ、何ていうこと! 旦那様がまた甲冑を! それから、あの太っちょの変人、もうロバを引き出して来ている。今度は四本とも足を折ってしまうのがおちなのに・・・
 サンチョ 鍵番さん・・・お願いだ、見逃して・・・(素早く門からロバに乗って退場。)
 ドンキホーテ さらばだ、アントーニア。さらば! 鍵番殿!
 鍵番の女 ああ、何て悲しいこと。またまた気違いの門が開いて、旦那様はまっしぐらにその門へ突進。後は目を瞑(つぶ)って死んでおしまいになるだけ。
 アントーニア 叔父様! 何をなさっていらっしゃるの! 気を確かにお持ちになって! サンソン! あなた、私に約束したでしょう! さあ、早くお諌めして!
 ドンキホーテ(鞍の上から。)ほほう学士殿、この私をお諌め遊ばすのか? 名誉とは何か、それで御存じとはな。
 サンソン 諌めるなどと、飛んでもない! どうぞ御出発を、ラマンチャの騎士ドンキホーテ。私は心から御成功をお祈り致します。
 ドンキホーテ ではみんな、さらばだ。お前達が私を気づかってくれているのは分る。しかし、これ以上引き留めるな。それから、悲しむのも止めるのだ!(馬に乗って退場。)
 鍵番の女 学士さん! 私達が悲しんでいるのに、あなたのその態度は何? ああ、あなたに何て言って罵(ののし)ればいいの! あなた、自分の手であの可哀相な気違いを木戸から追い出すようにしたんじゃないの! 勉強ばかりして、とうとう良心のかけらまで磨(す)り減らしたのね。不幸なことになった可哀相な人々のことを同情出来ないだけじゃない、その人達のことを嘲笑うのよ、あなたったら!
 サンソン 仕舞いまで話を聞くんだ! 聞いてからにしろ、結論は!
 鍵番の女 お前さんの言うことなど聞くものか。サラマンカの大学なんて糞食らえよ!(木戸の方に走って退場。ドンキホーテを追う。)セニヨール・アロンソ! お願いです。帰って来て・・・
 サンソン アントーニア!
 アントーニア 近寄らないで、サンソン! 私、自分の目も耳も信じない! 私をこんな目にあわせるなんて、あなたって何て人! 言って、これ、何のためなの? 私達があなたにどんな悪いことをしたって言うの?
 サンソン アントーニア!
 アントーニア あなたって卑怯なのよ。叔父を喜ばせるように、引き留める代りに追いやるようなことを言って。あれじゃ狂気は酷くなるばかりでしょう? 私をよくも騙しましたね、サンソン!
 サンソン ええい、黙るんだ。私が卑怯? よし、私がどんな卑怯者か、しっかり見るんだ。それから、後でその自分の言葉を身に沁みて後悔すればいい。いいか、わからずや。私は君に、叔父さんを助けると言った。一旦そう言えば、私は必ず助けるんだ。
 アントーニア もうあなたなんか信じない!
 サンソン 取り乱すんじゃない! 私を侮辱するのも止めるんだ。私は今から叔父さんを追っかける。そして連れ戻してみせる。今度連れ戻したら、もう叔父さんは決して出はしない。もしこれをうまくやれなければ、私は二度とここへは戻って来ない。これは悲しいことなんだアントーニア、だって私は君に会うために、そのためにこの村に帰って来たんだから。ええい、どうなろうと運命だ。うまく行かなきゃ、君とは二度と会えない。もう今は時間がない。詳しくは話せない。叔父さんを見失ったら大変だ。さらばだ、アントーニア。(走って退場。)
 アントーニア サンソン! サンソン! あなたのこと、信じるわ。何なの? 考えたことは。
 サンソン(遠くから。)今は話せない!
 鍵番の女(遠くの方で。)セニヨール・アロンソ! 待って!

     第 六 場
(昼間。公爵の中庭。)
 公爵(登場して。)誰か! 誰か!
(召使、走って登場。)
 公爵 まもなくこの城に、客がやって来る。ラマンチャのドンキホーテと名乗る例の気違い貴族と、その従者だ。万事遺漏(いろう)のないよう、手厚く迎えるんだ。この男、自分が遍歴の騎士であると思っている。その点に関し、特に注意しておく。それに対して決して疑いの素振り、言動を取ってはならん。(執事に。)お前と(医者アグエロに。)お前には、郊外の城に行って貰う。城を上げてその従者をそこの領主として迎えるのだ。そこはバラタリア島だと思わせろ。四、五日したら、その従者の頓珍漢(とんちんかん)な働きを、妻、公爵夫人と二人で見に行くことにする。
 執事 畏まりました、閣下。
(アグエロ、執事、その他二、三の小姓、退場。お付きの女ロドリゲス、その他侍女数名、小姓数名が残る。角笛の音。公爵夫人登場。持っていた鷹を小姓に渡す。公爵夫人の後ろから、ドンキホーテとサンチョ、登場。)
 公爵夫人 ドンキホーテ殿、お先にどうぞ。
 ドンキホーテ(扉のところで。)いいえ、お後から参ります。どうぞ。
(サンチョ、先に入る。)
 ドンキホーテ 心のお広い公爵夫人殿、どうかこの馬鹿をお許し下さい。
 公爵夫人 どうぞ御心配なく、セニヨール。ななかな可愛いですわ、この単純さ、純朴さは。
 公爵 騎士に相応しい対応がどんなものかお見せ出来るのは嬉しいですぞ、セニヨール・ドンキホーテ。
 ドンキホーテ 幸せ至極に存じます、閣下。(サンチョに。)
この間抜け、頓馬(とんま)。私を辱(はづかし)めるようなことをもう一度やって見ろ、お前のその頭、胴体から切り離してやる。
 サンチョ 私が何かやっちゃいけないことをしでかしましたか? 旦那様。約束しますよ、今後は申し分ない振舞いをして見せますと。でももし私が何か馬鹿なことをやっても、私がいけなかったってことじゃありません。それはもう決して。
 ドンキホーテ 黙れ!
 公爵 どうぞ、セニヨール・ドンキホーテ。あちらの部屋で旅の埃(ほこり)を洗い流して下され。
(公爵夫人退場。)
 公爵 サンチョ、御主人に手伝って差し上げてくれ。
 サンチョ お後から参ります、閣下。(お付きの女ロドリゲスの方を向き。)お女中、私は、あの門の傍に、ロバを置いて来た。あれを厩(うまや)に引いて行くよう、言ってくれないか・・・いや、言うよりも、お女中、あなた御自身でやって戴きたい。私はあれを人に任せるということをしないもので。ただ、注意して下さいよ。あれはひどく神経質なロバですからな。
 ロドリゲス お前さん、気違いか。そんなことをこの私に頼むなんて!
 サンチョ 私が? いやいや、旦那様が昔話してくれましたからな、騎士ランスロットが客に行くと、男達がランスロットの世話をし、お付きの女達がその馬の世話をしたと。確かに私はロバでやって来た。しかし、あのロバはどんな馬にも負けないロバだからな。
 ロドリゲス 何て馬鹿な話! ロバに乗ってお城にやって来たものを、よくよく見たら乗っている者もロバとはね。私・・・お付きの女ロドリゲス・・・が、ロバの世話をやいて厩へ? これでも食らえだわ。(軽蔑の意の握り拳(こぶし)(親指を人差指と中指の間に入れた握り拳)を見せる。)
 サンチョ ほほう、これか。良かろう。(ドンキホーテに。)ちょっと旦那様、暫くお待ちを。(囁く。)ここの婆さんが今私に馬鹿野郎握りをしたんです。
 ドンキホーテ こらサンチョ、嘘を言うな。
 サンチョ いいえ、本当なんです、旦那様。こんな侮辱を受けてどうするんですか? 放っておくんですか?
 ドンキホーテ それはこの私の命に関ることだぞ、サンチョ。
 公爵 どうしました? セニヨール・ドンキホーテ。
 ドンキホーテ ああ閣下、どうかこの者の言うことは打ち捨てておかれますよう。
 サンチョ 何故打ち捨てておくんです。(公爵に。)あの女、私に馬鹿野郎握りを・・・
 公爵 ロドリゲスがか? うん、あいつには嫌らしい性格がある。よろしい、同じようにあの女にもしてやりなさい。
 サンチョ 勿論です。私は憤慨しているんです。
 ドンキホーテ 閣下! それは・・・
 公爵 よいよい。さあ、行きましょうセニヨール・ドンキホーテ、身体を流しに。(ドンキホーテと共に退場。)
 サンチョ(ロドリゲスに。)さあお前さん、これがお返しだ!
 ロドリゲス ああ・・・ああ・・・ああ・・・(走って退場。)
(サンチョ、ドンキホーテを追って退場。音楽。召使、ワインの用意をする。暫くしてドンキホーテ、公爵夫人、公爵、登場。テーブルにつく。サンチョ、ドンキホーテの椅子の傍に立つ。公爵の懺悔司祭、登場。少し離れて坐る。)
 公爵夫人 ドンキホーテ殿、それで、その魅力のある、素晴らしい女性ドゥルシネーア・タボースカヤからは、もう長いこと便りがないのですね?
 ドンキホーテ ああ、公爵夫人殿、私の不幸は底知らずのようです。私は巨人を倒すこと一、二に留まりません。そして降伏させた巨人どもを、彼女に膝まづかせるため村に帰るよう命ずるのですが、そのどれ一人として彼女を捜し当てることが出来ません。実は悪い魔法使いの力が、彼女の姿を見るも浅ましい百姓女に変えているからなのです。
 公爵 可哀相に。
 司祭 これは一体何という話ですか。(公爵に。)閣下、このような話には、最後の審判の時でさえお返事などする必要はありません。閣下はこのような気違い二人をのさばらせて、大方の者達への悪影響を考慮なさらないのですか。(ドンキホーテに。)いいですかな、あなた。どこでどう頭を打ったのか、呆れたものだ。自分が遍歴の騎士であるだの、巨人を打ち負かして虜にしただの。息を切らしてヨロヨロ歩き廻るのはもう止すんだ。善男善女の物笑いになるのが落ちだぞ! もう正気に戻るんだ。我が家に帰り、もしお前さんに子供がいるなら、子供達を教えるのもよし、家の仕事に携(たづさ)わるのもよしだ。このスペインの一体どこに、遍歴の騎士がいる、巨人が、そして誘拐された王女がいるというのだ。馬鹿馬鹿しい! そんなことをしてお前さんは、ただ人をまごつかせているだけなのだぞ。
 公爵 ちょっと、司祭様・・・
 公爵夫人 司祭様、お願いです・・・
 ドンキホーテ いいえ閣下、どうか私に言わせて下さい。(司祭に。)いいですかな、司祭殿。私は今、公爵殿の客としてここにいます。それから司祭殿のその地位にも敬意を払って、やっと怒りを抑えているのです。さもなければ司祭殿、ただですんではおりませんぞ。さて、ここでは私も、そちらの使用している武器、即ち言葉、によって戦うことに致します。まづお訊きしましょう。私の狂気のうち、何が一番気になって、私にはいもしない子供達の教育をしたらよかろうなどと言われたか。確かに世を遍歴する人間は楽しみを求めてこのようなことをしているのではない。茨(いばら)の刺(とげ)の中を、気も狂わんばかりに、無為に時間を失いながら、旅を続けている。人間はいろんな生き方を選んでいる。あるものは虚栄の道をよたよたと進む、あるものは屈辱的なおべっかの道をエイエイとよじ登る。またあるものは偽善と詐欺の狭い道を擦(す)り抜けながら行く。この三つのどれかの道を私は選んだだろうか。いや、私はそのいづれも選ばなかった。私は騎士の険(けわ)しい道を選んだのだ。そして世間的幸福、世間的名誉を蔑(さげす)んできた。私は巨人との戦いに足を踏み入れた。これが司祭殿のお怒りに触れたところだが、巨人との戦いとは何か。それは力によって虐(しいた)げられた弱き者を助けることだ。どこでもいい、もし悪を見つけると、私はすぐさまその悪の怪物、罪の怪物に命を賭けた戦いを挑んだ。そんな怪物など、どこにもいないと仰るか? それは目が悪いというものですぞ、司祭殿。私の目的ははっきりしている。生きとし生けるものを、善良な、他人に害を及ぼさない人間にさせることだ。そう、私がこういう目的を持つ人間だからこそ、私は司祭殿、あなたの叱責を受けるに値するのだ。私は本当に気の狂った騎士なのか。もしそうであれば、私の胸は深く深く傷つくだろう。しかし司祭殿、今のあなたの言葉など、私は一顧だにする価値のないもの、馬鹿げたものにしか見えません。
 サンチョ 何て素晴らしい演説、これは私の旦那様の勝ちだ。さあ私に、私の御主人が勝った時の約束の御褒美、領主の地位をお願いします。
 司祭(サンチョに。)正気に返れ、哀れな気違い! 何が領主の地位だ。馬鹿も休み休み言え、この無学な奴め!
 サンチョ(小声で、ドンキホーテに。)こいつ、何でしょう。私を怒鳴ったりして。
 公爵 ああ、いやいや司祭殿。それは間違っています。私はこの従者サンチョ・パンサに、私の領地の一部バラタリア島の領主の地位を約束しております。
 公爵夫人 ああ、あなた、それは何ていう素晴らしい決定なんでしょう。
 サンチョ(司祭に。)ほらほら、無学な奴とはあんたのことだ。ああ残念、ここに妻のフアン・テレサがいたらなあ。あいつ、喜び過ぎて死んでしまうかもしれない。
 ドンキホーテ さあサンチョ、公爵殿に感謝するんだ。やっとお前の念願がかなったんだぞ。
 司祭 閣下、閣下はどうやらこの男達と全く同様の無鉄砲さを発揮されましたな。閣下の決定を覆(くつがえ)す力は、私にはどうやら、ない様子。ここで閣下を非難申し上げても、所詮は無駄。私はここで失礼を致します。
 公爵夫人(ドンキホーテに。)あなたの、司祭殿に対するお答、大変立派なものでしたわ、セニヨール。あなたへの怒りは全く根のないものであることが明らかになりましたもの。
 公爵 全くその通りだ。さあサンチョ、島へ発って欲しい。住民達は五月の雨を待ち焦(こ)がれるようにあなたを待っている。
 ドンキホーテ 閣下、少々お許しを戴いて、この男に二三言って聞かせてやりたいのですが。何しろ、甚だ重要なこの新しいお役目、間違った道に足を踏み入れさせたくありませんので。
 公爵 うん、それは良い考えだ、セニヨール。
 公爵夫人 私どもは退散致しますわ。どうぞお二人だけで。
(全員退場。ドンキホーテとサンチョ、残る。)
 ドンキホーテ いいかサンチョ、よく聞くんだ。私は心配している。どうも胸騒ぎがするのだ。お前が今、手に入れたその地位は、普通ならばとても無理な代物(しろもの)なのだ。信じられないほどの努力をし、或は功名心、強欲をもって追求し、また時には汚い手段にまで手を染め、それでも大抵の場合失敗に終るような、そんな地位なのだ。何故こんなことをお前に言うのか。それは、棚牡丹(たなぼた)で手に入れたその地位を、まかり間違っても、自分で獲得したなどと決して思ってはいけないからだ。そんなことを思ってみろ、自信で膨れ上がったイソップの蛙(かえる)のように、自ら破裂するんだ。ひどい中傷にあい、どんな高貴な地位の人がお前を救おうとしても、手の打ちようもなくなるのだ。それからなサンチョ、自分が卑しい百姓の出であることを誇りに思うのだ。このことを屈辱的だなどと決して思うんじゃないぞ。お前に説明してやる必要もない筈だ。貧乏でも潔白な人間は、高貴でも罪深いやくざな人間より、ずっとずっと立派なのだ。もう一度言う。自分の生まれ、育ちを隠すんじゃないぞ。あと、何を言うのだったか。ああ、そうだ。お前は他人を裁かねばならぬ時が来る。人を裁くのは難しいぞ、サンチョ。よく聞け。そして忘れるな。いいか、人を裁く時に、自分の好き嫌い、自分の気まぐれを入れるな。いいな? 分ったな?
 サンチョ はい、分りました、旦那様。
 ドンキホーテ うまずたゆまず真実を求める。金持ちの断言に心を動かされるな。むしろ貧乏人の涙に、心を動かされるのだ。特に金持ちの賄賂に気をつける。それから、法には従うこと。但し、法が厳し過ぎる時に、その厳しさに任せてあらゆる受刑者を抑えつけようとしてはならん。厳しい裁判による名声より、寛大な裁判による名声の方が大事なのだ。裁判にはあらゆる人間が出て来る。例えばお前の目の前に、お前の年来の敵が現れるかもしれぬ。そんな時お前はどうする。いいか、彼らがお前に対して行ってきた全ての悪を、その場で忘れるんだ。そいつらを生まれて初めて見た人間であるかのように、判断を下すのだ。しかしサンチョ、お前も人間だ。どうしても裁判に、狂いが出そうになると感じることがあるだろう。その時はこのことだけに注意を払うんだ。いいか、誰かが何かをお前の耳元で囁きながら、チャラチャラ鳴る物を袋に入れて、お前の目の前にチラつかせる。これにだけは決して心を動かしてはならん。判断が狂いそうになった時、いいかサンチョ、私にもし後で軽蔑されるのが厭だったら、その時の判断は「同情」を頼りに判決を下すんだ。他に言うことはなかったかな? そう、身分の低い者に対して粗暴な扱いはいかん。それから・・・お喋りに気をつけろ。いいか、お喋りってやつは、最後にはお前を絞首台にまで連れて行く。口が軽いとはそういうものだ。いいか、口数を少なくするんだぞ。今の私の忠告を聞いてくれれば、お前が新しいこの地位についても、きっと幸せに生きることが出来る。分ったなサンチョ、今私の言ったことが。
 サンチョ どうぞ御心配なく、旦那様。よく分りました。
 ドンキホーテ 私の目をじっと見るんだ。よし、お前のことを信じよう。さあここでお別れだ。二度とお前に会うことはなかろう。お互い、これからは違った道を進むんだ。私は暫くこの公爵の城に留まり、また旅に出る。私の果すべき義務をやり遂げるためにな。
 サンチョ ああ、旦那様・・・
 ドンキホーテ 何だ。何を溜息をついている。
 サンチョ 従者なしで、旦那様がどうやって旅をお続けになるかと、それを考えまして・・・
 ドンキホーテ まあ誰か、別のを捜すさ。
 サンチョ 旦那様について行くような人間が他にいるでしょうか。それが問題です。そうだ、これを御忠告します。また、島の領主にしてやると約束するんです。私が旦那様とまた御一緒してもいいのですが・・・
 ドンキホーテ いやいや、分っている。大丈夫だ。
 サンチョ それから旦那様、お別れにあたり、旦那様に二三御注意を申し上げたいのですが。そう、何を申し上げようとしたのだったか・・・そうだ、私には予感がします。旦那様はまた殴られる。ですから、殴り合いの時は必ず頭に気をつけて下さい。相手のげんこつでも、棒でも、杖でもいい、とにかくその下に頭が来ないように気をつけるのです。旦那様の頭にはいっぱい大事な考えが詰まっています。ですから、土鍋のように割れて粉々に飛び散ってしまうのは残念なのです。相手の棒は、頭ではない脇の方へ、肋骨一二本でも何でも、とにかく他のところへ行かせるのです。・・・他に何かあったかな? ああそうだ、フィエラブラーソフの特効薬、バリザームがもう一壜残っていましたね? あれは全部空けてしまうんです。捨てるんです。馬鹿馬鹿しい。あんなもの、たとえ殴り合いで息が残っていても、あのバリザームで息の根を止められてしまいますよ。さあ、私の忠告、聞いて下さいますね? 旦那様。どうぞ旦那様、新しい状況におかれてもお幸せに! 旦那様がいらっしゃらなくて、私はきっと寂しい思いを致しますが。
 ドンキホーテ 有難うサンチョ。よくこの私のことを心配してくれた。ではこれで、さらばだ。
(ラッパの音が響く。扉が大きく開き、公爵夫人、公爵、領主の衣装を持った小姓、登場。)

     第 七 場
(公爵の、郊外にある城の一室。裁判を行う玉座。帳(とばり)つきのベッド。ラッパの音が響く。サンチョ、領主の衣装を着て、お付きの者達に伴われ、登場。玉座に坐る。)
 執事 領主殿、このバラタリア島では、昔から伝わった習慣がございます。即ち、新領主は、もろもろの実務を遂行する前に、まづ公開の場において、二三の難しい裁判を行わねばならない。この結果により島民は、新領主が、賢い人間であるか、或は決定的な馬鹿であるかを、すぐさま判断することが出来、喜ぶべきか絶望に陥(おちい)るべきか、これによって決めるのであります。
 サンチョ よし、では早速裁判だ。
 執事 畏まりました、領主様。
(争っている二人の老人、登場。二番目の男は手に杖を持っている。)
 サンチョ どうしたのだ、お前達は。
 老人一 領主様、私はこの男に金貨十枚を貸しました。そして期限が来た時、返して欲しいと言ったのです。するとこの男は、もう返したと言うのです。でもそれは違います。私は返して貰ってはいません。しかし私の言うことを証明出来る人は誰一人いません。それに、いくら裁判に持ち込んでも、私は何も出来ないのです。何故ならこの男、神に誓ってその金は返したと断言するのですから。どうか私をお助け下さい、領主様。
 サンチョ(老人二に。)お前はこの男から、金貨十枚を借りたのだな?
 老人二 借りました。確かに借りました。しかし私は、返したのです。
 老人一 それは嘘です。私は返して貰ってなどいません。
 老人二 嘘をついているのはあっちです。私は耳を揃えて返しています。
 サンチョ(老人二に。)お前は誓えるんだな、そのことを。
 老人二 はい、誓いならいつでもやってお目にかけます。
 サンチョ よろしい。では、今誓え。
 老人二(老人一に。)ではちょっとこの杖を持っていてくれ。
(老人一、老人二に杖を持っていてやる。)
 老人二(サンチョの笏を手に取って。)この男が私に貸してくれた金貨十枚、私は確かに返却した。これを神の前に誓う。
 老人一 ああ、何ということ。何故神はこの男に罰を与えないのだ。
(老人二、手を伸ばし、老人一から杖を返して貰おうとする。)
 サンチョ いやいや、この男は誓いの最中には正しい事を言っていたのだ。だからその杖は、そのままお前のものとして受け取っておけ。
 老人一 はあ。しかしこの杖が、金貨十枚の値打があるというのですか?
 サンチョ ある! 金貨十枚の値打が確かにある。そうでなければ、この私の脳味噌が、煉瓦で出来ていることになる。さあ、その杖を折ってみろ。
(杖が折られる。そこから金貨が転がり出る。)
 老人一 あ、私の金だ! ああ、何ていう偉い領主様!
 老人二(膝まづいて。)お許し下さい、領主様!
 サンチョ 出て行け! ずる賢い詐欺師め! よく覚えておくんだ。またこのような悪い手で人を騙そうとしたら、今度はただではすまないぞ。
 老人一 おお、偉大な領主様!
 執事とお付きの者達 偉大な領主様!
(二人の老人、退場。女、登場。その後ろに豚飼い、登場。)
 女 正しいお裁きを! どうぞ正しいお裁きを! この地上でそれが得られないようなら、私は天にまでそれを求めて参りましょう。
 サンチョ 一体何が起ったのだ? 娘さん。
 女 領主様、このごろつきが、今日野原で私を見つけて、手込めにしたのです。
 サンチョ(豚飼いに。)ほほう、見たところどうやら、あんたは・・・
 豚飼い(狼狽して。)領主様、私は見ての通り豚飼いで・・・
 サンチョ 豚飼いがどうした。そんなことは何の関係もない。関係があるのは、お前がその・・・やったことだ。
 豚飼い ええ、そうです、領主様。私は野原で今日、この女に確かに出会いました。豚を四匹市場で売って、丁度その帰りだったので・・・それでつい、馬鹿なことをしでかして・・・でもあれは、お互いの気持でやったんで・・・それに金だって払ったんです・・・
 女 嘘です、それは!
 サンチョ そうか。うん。それで豚飼い、お前はまだそこに、手持ちの金があるんだな?
 豚飼い あります。銀で二十ダカットです。
 サンチョ 分った。それをこの女に払ってやれ。
(豚飼い、いやいや女に財布を渡す。)
 女 いや、御立派な領主様だ。神様、どうぞこの領主様に長生きをさせて下さい。虐(しいた)げられた者達の味方になって下さいますよう・・・(退場。)
 サンチョ(豚飼いに。)どうした。何を悲しんでいる。
 豚飼い ああ、あの無くなったお金のことを考えると、胸がはりさけそうです!
 サンチョ うん。そんなに悲しいなら、追っかけて、財布を取り戻して来い!
(豚飼い、飛び出して行く。舞台裏で金切声が聞こえる。それから女、豚飼いを後ろに引きずって、走って登場。)
 女 領主様、何ていうことでしょう。この泥棒、こともあろうに、真っ昼間、私から財布を取ろうとしたんです。判決で決ったこの財布を。
 サンチョ そうか。それで、取られたのか?
 女 取られるものですか。これを取られるぐらいなら、私は自分の心を取られた方がまし。こいつが私にライオンの爪を向けて来たって取られはしません。
 豚飼い 金を返せ!
 サンチョ(女に。)財布を返すんだ、この男に。
 女 何ですか、領主様。それはどういうことで?
 サンチョ さあ、早く財布を出すんだ! その金を守る時のように、自分の貞操を守っていれば、たとえヘラクレスが来ようと、お前をままには出来なかったろう。出て行け! この欲張り女め!(豚飼いに。)さあ、お前の財布だ。
 豚飼い 有難うございます、お心の寛(ひろ)い領主様!
 サンチョ いやいや・・・分るな、豚飼い。もう馬鹿なことは止めるんだぞ。もう行ってよい。
 豚飼い(退場しながら。)どうぞお元気で、領主様!
 執事 島民達はみんな有頂天です、領主様。裁判はこれで終りました。食事の用意が出来ております。
 サンチョ それなら私も有頂天だ。さあ、食事をしよう。
(立派に食事の用意が出来たテーブルが現れる。サンチョ、その席につく。サンチョの椅子の後ろに、医者アグエロ登場。サンチョ、どれかの料理を取ろうとする。と、すぐさまアグエロ、その皿を錫杖で触れる。すると召使、その皿を持ち去る。)
 サンチョ どういうことだ、これは。
 アグエロ 領主様、私は特別に派遣された医者です。私の役目は、領主様の傍に侍(はべ)り、その大事なお身体に毒となる食物をおとりにならないよう、気をつけることです。あの皿は、領主様のお身体にさわる料理でした。
 サンチョ フン、それならシャコの肉を持って来い。
 アグエロ 申し上げます。医学の祖、あらゆる医者の教師でありますヒッポクラテスによりますと・・・
 サンチョ 分った分った、そいつが言うなら仕方がない、兎だ、兎の肉を持って来い。
 アグエロ 兎? 兎ですと? 領主様。
 サンチョ ちょっとお聞きするが、医者殿、医者の修業はどこでなされたか? それに、お名前をお聞きする。
 アグエロ 私の名はペドロ・レスィオ・デ・アグエロ。カラクエラとアリマダヴァル・デル・カンポの間にある村の出身。医学の博士号はアッスーンスキイ大学で受けました。
 サンチョ よろしいかな? 親愛なる医師ペドロ・レスィオ・デ・アグエロ殿、アリマダヴァル・デル・カンポの村出身であろうとなかろうと、そのアッスーンスキイ大学で拝領した帽子を持って、さっさとここを出て行け! さ、出て行くんだ!
 アグエロ 領主殿!
 サンチョ 聞く耳持たぬ! 出て行け!
(アグエロ、走り退場。)
 サンチョ 兎を出してくれ。
 執事 畏まりました、領主様。
(サンチョ、食べ始める。ラッパの音がなる。)
 執事(サンチョに手紙を渡す。)領主様に公爵様よりお手紙です。
 サンチョ ここだ。私の秘書は誰なのだ?
 執事 私でございます。
 サンチョ お前、読めるか。
 執事 また、何を仰しゃいます、領主様。
 サンチョ 読んでくれ。少しづつ読んでくれれば分る筈だ。
 執事(読む。)「親愛なる領主殿、今情報が入った。近々夜に、そちらの島を襲う計画をたてている。しかるべき方策をたてるように。」
 サンチョ 兎を持って行け。食欲がなくなった。(執事に。)読んでくれて大変有難う。しかし文字が読めるというのも悲しいものだな。心から同情する。
 執事 まだ何か書いてありますが・・・
 サンチョ さ、早く読め。私にとどめを刺すんだ。
 執事(読む。)「以上の他に、次のことをお知らせする。敵はそちの命を狙っている。食事の時には注意するように。毒殺の可能性がある。公爵より。」
 サンチョ フン、終りは始まりよりはまだましになるだろうと思っていたが。さ、すぐにテーブルを片付けろ! 全部持って行け!(立上る。)やれやれ、仕事の後で落ち着いて食事もとれぬというのか。それなら眠るぐらいはゆっくり眠らせてくれ。
 執事 畏まりました、領主様!
(暗くなる。サンチョ、ベッドの帳の方へ導かれる。サンチョ、ベッドに潜り込む。テーブルは片付けられる。静かな音楽。それから、緊張を知らせる鐘の音。遠くで騒音。)
 サンチョ(帳から顔を覗かせて。)何だ、あれは。
(遠くで鉄砲の音。)
 サンチョ ははあ、始まったか。あの忌々しい手紙に書いてあったことが。(帳の中に隠れる。)
 執事(刀を持って走って登場。)領主様! 領主様!
 サンチョ(帳から顔を出して。)何事だ。島は平穏無事なはずだぞ。
 執事 それが違うのです。敵が急に島を攻めて来たのです。武器をお取り下さい、領主様。武器を! 戦(いくさ)の先頭にお立ち下さい。さもないと我々全員、雛鳥(ひなどり)のように斬り殺されてしまいます。
 サンチョ 武器を取れだと? ああ、今ここに旦那様がいらっしゃればなあ。私の言うことは放っておくんだ!(帳の中に入る。)
 執事(帳を引き退(の)けて。)領主様、何をぐづぐづしていらっしゃるのです。
 お付きの者達(松明を持って部屋に突入する。)武器を取れ!
 執事 さあ、ここに楯を二つ持って来い!
(お付きの者達、二つの大きな楯でサンチョを挟み、縛る。サンチョ、大きな亀のような格好になる。)
 執事 前進です、領主様、前進です!
 サンチョ 身動きも出来ないのに、何が前進だ!
 執事 領主様を持ち上げろ!
(家来達、サンチョを持ち上げ、移動する。戦いの音、松明の光。一旦外へ出された楯、逆に転がりこんで来る。身動きの出来ないサンチョ、頭を楯の中にひっこめる。そのまま横たわる。その傍を、乱暴に家来達が踏み付けて行く。窓の外は叫び声と鉄砲の音。)
 執事(サンチョの楯の上に飛び乗って、指揮する。)進め! 島の諸君。進め! 煮えた油をここに! よし! さあ、ぶっかけろ! 立て掛けて来る梯子(はしご)を叩き落せ! 進め! 進め! よーし、敵は退却して行くぞ! 手傷を負った者に包帯をしろ! さあ、ここだ。こっちに!(楯の上で踊る。)
 家来達 敵は退却したぞ!
     逃げたのか?
     勝利だ!
     勝利だ! 
(戦闘の音、止む。)
 執事(楯から飛び降りて。)勝利だ! 領主様をほどけ!
(家来達、サンチョをほどき、助けおこす。)
 執事 領主様、おめでとうございます。誠に見事な軍隊の指揮。お陰で島民は敵を撃退致しました。さあ、勝利を祝いましょう!
 サンチョ 酒をいっぱいくれ。
(家来、酒を出す。)
 サンチョ いや、飲まない方がよさそうだ。酒にも毒が入れてあるかもしれない。いらない。私のロバを連れて来てくれ。
 執事 畏まりました、領主様。
 サンチョ 道を開けてくれ、みんな!
(家来達、脇へ退く。サンチョ、帳の中へ隠れる。部屋の外に繋がっているテラスから、家来がロバを引いて登場。)
 サンチョ(帳から出て来る。いつものサンチョの服装。)こっちへ来い、私の灰色のロバ! こっちに来るんだ、忠実な私の友達!(ロバを抱く。)ちょっと前までは、私達は二人で暮してきたなあ! 私はお前のために、お前は私のために。あの頃は、私には何の心配もなかった。心配と言えば唯一つ。お前に腹一杯食わせてやれるかどうか、それだけだった。あの頃は、時は幸せに流れて行っていた。家でも放浪の旅に出ていても。ところがどうだ。私が野心を起してこの高い地位に登ったとたん、山のような心配事だ。悲しまなきゃならないことが、この身体を何千、何百と流れて行く。さあ諸君、これで終りだ。私は旅に戻る。以前の生活に私を戻してくれ。私はラマンチャの騎士ドンキホーテの元へ帰る。私は領主などに生まれついていないのだ。私は葡萄の枝切りは出来る。しかし、島の統治は出来ない。両手で鎌(かま)を持つことには慣れている。しかし錫杖を持つのは面白くもないし、慣れてもいない。私は草の上にならゆったりと眠る。が、領主の敷くシーツは、私には柔らか過ぎる。普段着のジャンパーは、領主の着るマントより、着て暖かい。さあ諸君、さらば、さらば。公爵への報告に忘れず言って欲しい。私はここへ着いた時と同じ貧しさで立ち去ったと。私は何も失わなかったし、何も取っては行かなかったと。見てくれ、この空っぽのポケットを。私は何も盗んではいないぞ! さらばだ!(ロバに跨がる。)
 執事 領主様! どうかここにいて下さい。
 家来達 どうか、留まって下さい!
 サンチョ いや、私は身体も踏み付け歪(ゆが)められたが、心も踏み付けられ、歪められた。もういい!
 アグエロ 領主様、それによく効く膏薬(こうやく)があります。心にも特効薬が!
 サンチョ 駄目だ。どんな薬を使っても、この私の頑固の性(しょう)を取り去ることは出来ない。私はサンチョ家の血をひいている。私が一言何かを言えば、もう動かすことは出来ない。
 執事 領主様、その智恵と機知、私達はすっかり好きになったのです。どうかお留まりを!
 サンチョ いや、私は行く! さあ、道を開けてくれ!
 執事 では致し方ございません。さようなら、サンチョ・パンサ! あなた様は今までこの島を治(おさ)めたどの領主よりも、清廉潔白で、良い方でした。さようなら、サンチョ・パンサ!
 サンチョ さらば!(ロバに乗り、去る。)
                 (第三幕終)

     第 四 幕
     第 八 場
(公爵の庭にあるテラス。庭には松明。音楽が聞こえる。公爵と公爵夫人、テラスに坐っている。)
 ドンキホーテ(舞台裏から。)「おお、嫉妬よ、愛の国における恐ろしい女王よ、この枷(かせ)を取り払い・・・」
 公爵夫人 あの人、また発作ですわ。お聞きになって? 音楽に合わせてあんな大声で詩を。私、あの人が可哀相で。時々やって来るあの発作さえなければあの人、相当な人物ですのに。幻が現れていない時には、判断は正しいですし、考え方も正常ですわ。
 公爵 いやいや、お前がそう考えるのは誤りだ。あの男は決して治らない。ただ一つ期待が持てるとすれば、あの狂気が人を楽しませ得るかどうか、それだけだ。
(ラッパの音。小姓登場。)
 小姓 公爵様、只今この城に遍歴の騎士なるものがやって来ました。城に入れて欲しいとのこと。
 公爵 遍歴の騎士? 何者だ。
 小姓 それが、城中誰も知る者はいませんので。鎧を着、兜を被っています。
 公爵 お前の出鱈目(でたらめ)だな。執事か誰かが、かつごうとしているんだろう。
 小姓 いいえ、公爵様。本当なんです。その男を誰も知る者はいません。それに、名を名乗るのは断ると言って。
 公爵 そうか。よしよし。とにかく座興になる。ここへ連れて来い。
(小姓退場。ラッパの音。サンソン登場。甲冑に身を堅め、楯と刀を持っている。胸には月が描かれている。)
 サンソン 失礼をば致します、公爵殿。このように、御招待も受けませず、お城におしかけまして。
 公爵 いや、大変嬉しい。で、名は何と言う。
 サンソン 私は・・・「騎士、白い月」。
 公爵 ほほう、これは面白い。(公爵夫人に。)ということはつまり、今この城には二人気違いがいるということだ。(サンソンに。)それで、理由は何なのだな? 騎士殿、貴殿がこの城へ来た。予めこれは言っておくが、その理由が何であれ、私は貴殿に会えて実に喜んでいる。
 サンソン ここにドンキホーテがいるという噂を聞きまして。彼と合いまみえたくやって来た次第。
 公爵 うん、ドンキホーテはここにいる。喜んで貴殿にお会わせ致そう。(小姓に。)ドンキホーテを呼べ。
 小姓 畏まりました。(退場。)
 公爵夫人 私、何か胸騒ぎがしますわ。この出会いに何か危険なことが起きはしないかと。
 公爵 心配することはないよ。請け合う。どうせ宮廷でのお笑い草だ。
 ドンキホーテ(舞台裏で朗唱。)そうだ、私の死は近づいている・・・私は死ぬのだ。しかし死後に何かを期待するのではない。それは、生前何も期待しなかったのと同様だ。・・・(甲冑姿で登場。兜はなし。サンソンを見て。)誰だ、これは。(公爵に。)公爵殿! 今早速司祭殿を呼びにやらねば。司祭殿の口癖、スペインには騎士などいない! 怪物もいない! その口癖も、今ここに遍歴の騎士のいることを見れば納得されるでしょう。なにしろ、私以外に二人目が、これこの通り目の前にいるのですからな。いや、実に二人目の騎士! ご覧あれ、あの甲冑には松明の光が映え、その目には、戦いに賭ける勇者の目が輝いている。その兜の廂(ひさし)の下にはっきりと私はそれが見えますぞ。さて聞こう、私をここへ呼んだ理由は?
 サンソン 私はラマンチャの騎士ドンキホーテに会うためにやって来たのだ。
 ドンキホーテ ドンキホーテ、それは私だ。
 サンソン ドンキホーテ、私の名は「騎士、白い月」。
 ドンキホーテ 何のためにやって来られた。
 サンソン ドンキホーテ、私は貴殿に決闘を申し込むためにやって来た。私の婦人・・・その名が何であろうと・・・その私の婦人の方が貴殿の婦人ドゥルシネーア・タボースカより素晴らしいと貴殿が認めることを私は要求する。もし貴殿がこれを認めないとならば、即刻その場で私と勝負に及ばねばならぬ。二人のうち一人が負ける。敗者は勝者の言うがままに従う。さあ、貴殿の返事を待つぞ。
 ドンキホーテ 「騎士、白い月」・・・正直のところ、こんな名前は本でもお目にかかったことがない。それに、その武勇の噂も聞いたことがない。貴殿の武勇により、私が驚くのなら話は分る。しかし、私が驚いているのは、その貴殿の思い上がりだ。ドゥルシネーア・タボースカを貴殿は見たことはあるまい。さもなければ、かかる言辞を敢て弄(ろう)するなど、とても考えられぬ!
 サンソン 私がどんな言辞を敢て弄しようと、それは私の勝手だ。私は決闘を申し込んでいるのだからな。さあ答えろ。この決闘を受けて立つのかどうか。
 ドンキホーテ よかろう「騎士、白い月」、この申し出で受けて立とう。(小姓に。)私の兜と楯を! 公爵殿、どうか二人を隔てる場所に灯(あかり)を!
 公爵夫人 決闘ですって? 怖いわ!
 公爵 何を言う。面白いではないか。おい! 松明を持て!
(松明(複数)が持って来られる。小姓がドンキホーテに床屋の洗面器と楯を渡す。)
 公爵 騎士、白い月、貴殿はどの場所に立つか。
 サンソン 今いるこの場所で結構。
 公爵 それではドンキホーテ殿、こちらへ。
 ドンキホーテ 二人のうちどちらが正しいか、おお、ドゥルシネーア・タボースカ、我に力を与えよ!
 公爵 さあ、始め!
(ドンキホーテ、サンソンに撃ちかかる。サンソンの刀を撃ち落とす。サンソンの左手、効かなくなる。)
 サンソン あっ!(ドンキホーテに突進する。怒り狂って、ドンキホーテの刀を撃ち落とし、楯と甲冑を壊し、頭から床屋の洗面器を打ち落す。)
(ドンキホーテ、倒れる。)
 公爵夫人 もう終! お仕舞い! 負けよ、あの人!
 公爵 止め!
 サンソン 待て! 私に近寄るな。我々は二人だけで話がある。(ドンキホーテの喉(のど)に鋭い刀を突き付けて。)降参せよ、苦り顔の騎士、お前は負けたのだ。敗者の条件を実行して貰わねばならぬ。私の後について言うんだ。いいな。「お前の言う通りだ。騎士、白い月よ、貴殿の婦人は確かにドゥルシネーアより素晴らしい」。さあ、言うんだ!
 ドンキホーテ「そう、貴殿の婦人は・・・」いや、私には言えない。私は負けた。確かに負けた。それは認める・・・しかし、この世にドゥルシネーアより素晴らしい人間がいるなどと、それは認められぬ。あの婦人より素晴らしいものは、この世にはいないのだ! いや、待て。そのお前の鋭い刀よりもっと恐ろしい何かが、今私の頭に浮んだぞ。そのお前の目だ!・・・お前のその冷たい残酷な目付き・・・そのお陰でドゥルシネーアはこの世にはいないのではないかという気がしてきた。そうだ、いないのだ、あれは。ああ、この考えで額が冷たくなってくる・・・あれはいない・・・まあいい、こうなったら同じことだ。お前の決めた通りの言葉を言ってやろう。「あれより素晴らしいものはこの世にいない!」ところでお前の鉄のような冷たい心には、このことは分るまいな。さ、殺してくれ。私は死など怖れぬぞ。
 サンソン よし、殺してやる!
 公爵 止めろ! これは命令だ!
 サンチョ(登場して。)旦那様!・・・ああ、大事な私の旦那様・・・間に合った!・・・島からずっと走って来たんです。もう領主ではなくなったんです。さ、あなたの従者の忠告を聞いて下さい・・・負けを認めるんです。(公爵に。)公爵様、どうかこの清廉潔白な、そして二人といない賢い人の命を救って下さい!
 公爵夫人 決闘は終です。これ以上は許しません!
 サンソン もう一度繰り返す!・・・二人だけで話があるんだ!(ドンキホーテに。)お前に次のことを宣言する。そして決闘の条件は満たしたことにしよう。ドゥルシネーアのお前の夢は、今お前が言った通りでよい。あれはこの世にはいない。それで私は満足だ。私の婦人は、この世に生きていて、従って当然、お前の婦人よりは素晴らしい訳だからな。しかし、お前はもう一つ宣言しなければならぬ。いいか、私の後について繰り返すのだ。「私を撃ち負かした騎士、白い月の要求により、私、ドンキホーテは、以後自分の故郷ラマンチャに永久に引き籠り、武勇を求めて旅に出ることは疎(おろ)か、そこから一歩も外へ出ぬことを誓う。」
 ドンキホーテ 冷たい・・・まるで石の心だ。
 サンソン さあ誓え。こっちの我慢も限界だ。
 公爵夫人 誓って!
 サンチョ 誓って下さい!
 ドンキホーテ 私は誓う・・・私は負けたのだ・・・
(サンソン、刀を鞘に収める。ドンキホーテから離れる。)
 ドンキホーテ 誰かいないか・・・サンチョ・・・サンチョ、助けてくれ。鎖骨が折れているようだ。
 サンチョ さあ、手伝って! 持ち上げて下さい!
(小姓達、ドンキホーテに駆けより、持ち上げる。)
 公爵夫人 医者に連れて行きなさい!
(ドンキホーテ、運び去られる。公爵とサンソンだけが残る。)
 公爵 冗談も随分暇がかかったな。さ、そろそろ、その兜の廂(ひさし)を上げて、名を名乗って戴こう。
 サンソン(兜の廂を上げて。)私はラマンチャのサンソン・カラスコという者。大学を卒業したばかりの男です。騎士などになったこともなければ、なりたいと思ってもいません。哀れな地主、アロンソ・キハーノを可哀相に思い・・・何故なら私は彼を愛しもし、尊敬もしているのですから・・・彼の狂気と苦しみに終止符を打ってやることにしたのです。
 公爵 フム・・・その行い、なかなか立派なものだ。お陰でその左腕、効かなくなったようだな。しかしそれこそ名誉の負傷だ。だが一方では、アロンソ・キハーノの冒険がこれでお仕舞いになるのは実に残念だ。主人とその従者二人で、随分笑わせてくれたからな。
 サンソン 残念がるのはお止し下さい、公爵殿。この世にはいくらでも楽しいことがあるではありませんか。鷹狩り、松明の灯(あかり)のもとで行う舞踏会、酒宴、それに決闘・・・高貴な方々には世の中に楽しみは不足してはおりません。それともそういう自然の営みから来る楽しみだけでは足りず、全く楽しみなどというものを知らない人間を慰みものにして、楽しみの数を増やそうというおつもりなのでしょうか。
 公爵 貴殿の言葉には何か私に教訓を与えようという意図が感じられる。この私はそのようなことには全く慣れておらんぞ。
 サンソン まさかそのようなだいそれたことを私が! 公爵様に教訓だなどと。私はそんな厚かましい男ではありません。只今のは、自分自身に対して行った考察だとお考え下さい。
 公爵 フム、自分自身に対する考察か。それなら自分の家でやるのが一番相応しいぞ。貴殿のそのような意図が最初から分っていたら、そもそもこの城に貴殿を入れるのではなかった!
 サンソン ええ、それは分っておりました。さればこそ、座興として城に入った次第。これならば公爵様はきっとお喜ばれ遊ばすと。
 公爵 もういい! さらばだ。
(サンソン、廻れ右をし、退場。)
 公爵 おい! 「騎士、白い月」が城を出るぞ。門を開けてやれ!
(ラッパの音。)

     第 九 場
(ドンキホーテの家の中庭。夕暮れ。部屋も中庭も無人。垣根の向こう、丘の小道に、腰を屈(かが)め、杖に凭(もた)れたドンキホーテ、登場。手に包帯を巻いている。そしてロシナンテとロバを引っぱって、サンチョが登場。ロシナンテの背には甲冑が積んである。騎士が折れた槍を構えて馬で進んでいるような姿。)
 サンチョ さあ、村に着きましたよ、旦那様! おお、待ちに待った故郷よ、お前の息子サンチョ・パンサを見てくれ。そして、その懐(ふところ)に抱きしめてくれ。相変らず名もない男として帰って来たが、経験だけは山のように積んで来たぞ。旅の間、災厄あり、心配事あり、その他ありとあらゆる不幸ありだったからな。実際、いろんな目に逢ったよ。何の防御もないこの可哀相な身体を、雨あられと杖で打たれたり、従者とは何ものか全く分っていない奴等から、揶揄(やゆ)や嘲笑を浴びせかけられたり、果ては領主などという飛んでもない高い地位を突然任されたりだ。それから、この領主という地位は煙のように消え去り、杖で殴られた痛みもなくなり、ほら、出て行ったその生まれ故郷に帰って来たぞ、サンチョ・パンサは。その生まれ故郷の木の陰に、その井戸の傍に!(ロシナンテとロバを繋ぐ。)
(その間ドンキホーテ、丘の上にじっと立ったまま、屋敷の前でじっと遠くを見ている。)
 サンチョ 姪御殿! 鍵番殿! もう鍵番だって怖くないぞ。大声で叫べるんだ。私には分っているんだ。あの恐ろしい爪で引っ掻こうとはしない筈。それに悪口雑言(あっこうぞうごん)を浴びせはしないと分っているからな。・・・あの悪口雑言・・・どんなに元気のある男でも、あれにあっちゃシュンとしてしまう。さあ、私は帰ったぞ。もうどこにも行かないからな・・・そうか、今日は土曜日。鍵番殿は教会か・・・セニヨール・ドンキホーテ、どうなさいました? 何を見ていらっしゃるのです?
 ドンキホーテ 太陽だ。ほら、あそこ。空の目。いつも変らず地上を照らす松明、音楽の神、人間を癒す医者。しかし時が過ぎ、夜が近づく。すると抑え難い力が太陽を下に引っ張る。それからもう少し時間が経つ、すると大地の下に消えて行く。そこで闇がやって来る。しかしその闇は、長くはないんだ、サンチョ! また時が経つ。すると地の端から光が迸(ほとばし)り出、再び人間が直視出来ない、眩(まばゆ)い天(あま)駆(が)ける戦車が現れる。あれを見て私は考えたのだ、サンチョ。私が乗り、天駆けた戦車は、地の下に落ちて行く。しかし、もう二度と空に登ることはない。私の日が終る時、二度目の日はもう来ないのだ。この暗い考えが私を捕え、離さないのだ。たった一日の私の日は、もう終ろうとしているのだからな。
 サンチョ 旦那様、恐ろしいことを言わないで下さい。傷口が開(あ)いてきたんですよ、それは。身体が疼(うづ)いてくると、心も疼く。これは誰でも知っています。旦那様は病気なのです。もう、すぐにベッドに入って、じっとしていなきゃいけません。
(ドンキホーテ、中庭に入ってベンチに坐る。)
 サンチョ さ、行きましょう、旦那様。私が食事を差し上げます。ベッドを用意します。眠ればすっかり恢復しますよ。
 ドンキホーテ まだ行かぬ! 村を見ていたい。・・・見てみろ、葉が黄色くなってきている。・・・うん、日が沈んで行く。はっきりと分る。私は怖いのだ、サンチョ。私の日が沈んだ後、その空白を何物によっても埋めることは出来ないのではないかと。
 サンチョ 何が空白です? 旦那様。その悲しい考え・・・いや、奇妙な考えは、私にはさっぱり分りません。領主になった時には私もずば抜けていい頭をしていたんですが・・・まさか、あの禄でもない「騎士、白い月」が、その最初の決闘で旦那様の、そのどうでもいい身体だけでなく、不滅の心まで叩き斬ってしまったんじゃないでしょうね? 丁度熟れ過ぎたメロンを切るように。
 ドンキホーテ おいおいサンチョ、あいつの刀が私に与えた傷など、実に軽いものだ。それに心だって、あの攻撃によって何の変形を受けてはいない。ただ心配なことがある。奴は私の心を抜き取って、別の心を入れたのではないかということだ。奴は私から、神から与えられた一番大切なものを奪い取って行った。・・・それは自由だ! 世の中にはなサンチョ、いろんな悪がある。しかし、囚われの身ほど悪いものはない。奴は私に枷(かせ)を嵌めたのだ。サンチョ、見ろ、! 太陽が半分食われてしまった。大地がどんどん上に登って行く。そして太陽を食い尽して行く。囚われの太陽に大地がのしかかって行く! 大地は私をも食い尽すのだ、サンチョ。
 サンチョ ああ、旦那様の話を聞けば聞くほど、何のことか分らなくなってきます。私に分っているのは唯一つ、旦那様がふさぎの虫に取りつかれているということです。そして私にはそれをどうすることも出来ない! どうやったら旦那様に元気を取り戻せましょう。あの遍歴の騎士はどこに行ったのです。まあいいでしょう、あいつが旦那様をやっつけた。もう遍歴は止め、刀を抜くのも止め。でも、思い出して下さい。いよいよとなったら、羊飼いをやりたいと言ったじゃありませんか。私も旦那様と一緒にやりますよ。もしラバをもう二頭下さったら。だって旦那様とは、もう長い付きあいです、すっかり慣れているんですから。ねえ、黙っていないで! あっ、天の助けだ。いい人がやって来た。私には分りますよ、旦那様の目にさっと光が現れましたよ。さあさあ、もう考え込むのは止めだ。立って下さい。ドゥルシネーア・タボースカが来ましたよ!
(村へと続く木戸から、アリドンサ・ロレンソが籠を持って登場。ドンキホーテを見て驚く。)
 アリドンサ あら、またあんた? 厭だわ! それに気違いの地主さんまでそこに!
 サンチョ 美しい王女様。偉大な女王様! 汝の前にはいるのは、その美しさに魅了されたラマンチャの騎士ドンキホーテ!
 アリドンサ まあまあ、あんたまで気違い? 太っちょのサンチョ・パンサ。それとも、私を揶(からか)おうって言うつもり? そんなの、私には止めて、別の誰かにして。それから、私を通して頂戴。ドゥルシネーアなんて呼ばれるのは真っ平。私は昔からアリドンサ。これからもずっとアリドンサ。そのドン・アロンソを見るたびに、みんなは私のことを思い出して笑うの。可哀相なドン・アロンソ! いいわね? この籠を鍵番さんに渡してね。さ、通して!
 サンチョ これの言うことなど聞くことはありません、旦那様。この女、まだ魔法にかかっているんです。
 ドンキホーテ アリドンサ!
 アリドンサ 何ご用です? 旦那様。
 ドンキホーテ お前は私が怖いか?
 アリドンサ ええ、怖いですわ。だって私に、変な話し方をなさるんですもの。私、どうとっていいのかさっぱり・・・
 ドンキホーテ お前が何者であるか、今はっきり言おう。お前は隣村の百姓女、アリドンサ・ロレンソだ。お前はドゥルシネーア・タボースカであったことは一度もない。私はお前をそう呼んだこともあった。しかし、あれは私の頭がはっきりしていなかった時のことだ。私を許してくれ。さあ、どうだな? 私がまだ怖いか?
 アリドンサ いいえ、怖くはないわ。じゃ、ちゃんと私だって分っていたの?
 ドンキホーテ 分っていたんだ、アリドンサ・・・さ、もう行っていい。お前の邪魔はしない。サンチョ、これを引き留めるでないぞ。
(アリドンサ、走って退場。)
 サンチョ ああ、これで分りましたよ、旦那様。あの「騎士白い月」は、本当に旦那様の頭を入れ換えたんですね! ええい、それでも私は信じるぞ。あの遍歴の騎士がこれから先もずっとこの頭の中に現れる。きっとだ。そうでなかったら、このサンチョ・パンサの首を吊ったっていい!・・・旦那様、旦那様と一緒に村に帰って来る時、私達の二人の後から、騎士の影がずっと後をつけて来ているような気がしていたんですよ、私には。
 ドンキホーテ それは影ではない、サンチョ。確かにいたのだ。あの野原で、私達二人の後を、本当につけて来ていた。ただ、騎士ではない。騎士であったこともない。そう、確かに騎士ではない。だがそれにも拘らず、最高の騎士だ。我々が放浪の旅で出会ったどんな騎士よりも騎士らしい・・・しかし、恐ろしい騎士だ・・・
 サンチョ 参ったな、この謎は。この世で最高の領主様も分らないぞ!
 ドンキホーテ さ、家に入ろう。
(二人、家に入る。その時サンチョ、甲冑も運ぶ。部屋の中に入るとサンチョ、甲冑を隅の方に立て、ベッドの帳(とばり)をぐいと引き開ける。)
 サンチョ どうやら旦那様は御病気のようですよ。すぐ寝て下さい。私は今、司祭様と床屋のところへ、飛んで行って来ます。あの人達はきっと助けになります。すぐ戻って来ますからね。旦那様!(走って屋敷から出る。ロバを連れて退場。)
(暫くしてアントーニア、中庭に登場。そして垣根の外の道路の上、小高くなっている所に、甲冑を着たサンソンの姿が現れる。サンソン、ゆっくりと歩く。左腕にドンキホーテと同様、包帯を巻いている。)
 アントーニア まあ驚いた! 誰でしょうあれは。叔父様かしら。いいえ、叔父様じゃないわ。私、あまり悲しいので、頭がどうかしてしまったのかしら。黄昏に、騎士の姿が見える。そんなのおかしい。沈んで行く太陽の光が、私に悪戯(いたづら)をしているのよ。あ、胸には月が、兜の上には羽根が揺れている! 私達みんなの方が狂っているのかしら。叔父様一人が気が確かで・・・叔父様は騎士は世の中にいるって言ってた。本当だったのかしら・・・あなた、誰?
 サンソン(屋敷に入って来て。)アントーニア、私だ。(兜を脱ぐ。)
 アントーニア サンソン!
 サンソン 待ってアントーニア、腕に怪我をしているんだ。
 アントーニア あら、怪我? サンソン。どうしたの?
 サンソン いや、何でもない。(甲冑を脱ぐ。)地獄か・・・月の絵のある楯、それに剣だ!
 アントーニア サンソン、あなた、約束したわ、帰って来る時は・・・叔父様はどこ? まさか死んだのでは・・・
 サンソン(家を指さして。)家にいる。私は約束を果したんだ、アントーニア。アロンソ・キハーノはもう決して生まれ故郷からは去って行かない。
 アントーニア 家?・・・家にいるって! まあ! 本当にそうならサンソン、あなた魔法使いよ。大学に行ったの、無駄じゃなかったわ! 学士さんて、世界で一番賢いんですもの。出来ないことなんかない筈ね! 私って何を言っているのかしら・・・頭、おかしくなっちゃったわ。・・・でも、嬉しいから、嬉しいからなのよ、サンソン。あなた、どうやってやったの? ね、サンソン! サンソン!(サンソンにキスする。)
 サンソン 私は卑怯者だ。ペテン師だ。君のキスに値しない人間だ。
 アントーニア ああ、私があの時に言った仕返しね? それ。でも、言わないで、卑怯者だなんて。どうしてあなたが悪い人? あの時は私、本当に悲しかった。だからあんな言葉が出たの。いいえ、いいえ、サンソン。あなた、心からの私の味方。本当に素敵な、優しい人!(サンソンにキス。そして、走って家の中に入る。)
(太陽はもう沈んでいる。暗くなっている。)
 アントーニア 叔父様! どこ?
 ドンキホーテ(帳の後ろから。)誰だ、その声は。
 アントーニア 私よ、叔父様。私、アントーニアよ!(帳をさっと開く。)
 ドンキホーテ 私は・・・息が苦しくてな、アントーニア。
 アントーニア さあ、横になって! もう一度横になるのよ!
 ドンキホーテ いや、息苦しい・・・それに、頭が重い・・・坐っている方がいい・・・そうだ、誰か呼んでくれないか、アントーニア。誰かを。
 アントーニア 叔父様、ここにサンソンがいますわ。サンソンでもいい?
 ドンキホーテ ああ、あいつが来たか。待っていたんだ。ここに呼んでくれ。今すぐ。
 アントーニア サンソン! サンソン!
 サンソン サンソンです、セニヨール・ドンキホーテ。
 ドンキホーテ 何故その名で私を呼ぶのだ。君こそ一番よく知っているんじゃないか、私がラマンチャのドンキホーテではなく、「御人好し」の渾名(あだな)のある、あのアロンソ・キハーノであることを。まあ、そう言えば君だって、「騎士、白い月」ではなく、学士サンソン・カラスコなのだ。
 サンソン 御存知だったのですか。
 ドンキホーテ 分ったのだ。兜の廂から覗いていたその目、そして、絶対服従を要求するあの無慈悲な声・・・あの決闘の時にだ。丁度あの時、私の理性は闇が霽(は)れていた。城の、赤黒い血のような松明の光の中で、君が私の目の前に立っていた。丁度あの時、私の頭ははっきりしたのだ。・・・そして今、私は君の姿が見える。それですっかり分ったのだ。
 サンソン お許し下さい、セニヨール・キハーノ。あなたをやっつけてしまって。
 ドンキホーテ いやいや、私は君に感謝している。狂気の虜(とりこ)になっていた私を、刀の一撃で正気に戻してくれたのだからな。しかし残念ながら、感謝のし甲斐もないようだ。私はもう・・・アントーニア、太陽は沈んだか?・・・ああ、彼女がやって来た・・・
 アントーニア 叔父様、落ち着いて! ここには誰もいませんよ。
 ドンキホーテ ああ、アントーニア、お前こそ落ち着いて。私は怖がってなどいない。私には予感がしていた。今日、朝から待っていたのだ。そうしたら、ほら、今やって来た。来てくれて私は嬉しい。私の理性が曇っていた時、忌まわしい亡霊が次から次と出て来ていたものだ。それをサンソンが一挙に追い払ってくれた。しかし、亡霊が追い払われてみると、残ったものはぽっかりと開いた穴だ。空白があるだけだ。さあ、そこで今、彼女がやって来てくれた。私の空っぽの甲冑に、何かを詰めてくれる。私を黄昏の光に包んでくれる・・・
 サンソン アントーニア、ワインを! 早く!
 ドンキホーテ アントーニア・・・お前は嫁いで行くんだ、騎士伝に夢中になっていない、しかしそれでも騎士の心は持っている男にな・・・サンソン、確かに君には婦人がいる。本当にドゥルシネーアより素晴らしい婦人だ。・・・それに、君の婦人は生きている・・・鍵番を呼んでくれ・・・いやいや、サンチョだ。サンチョを呼んでくれ・・・サンチョ!(倒れる。)
(中庭を横切って、サンチョ登場。家に入る。)
 サンチョ ああ、学士さん! 旦那様を助けて!
 サンソン アントーニア! ワインを! サンチョ! 灯(あかり)を!
(アントーニア、走って退場。)
 サンチョ セニヨール・キハーノ! 死なないで! セニヨール・ドンキホーテ! 私の声が聞こえますか。私を見て! 私です、サンチョです! 二人で羊飼いになりましょう。私も一緒にやります!・・・どうして答えて下さらないんです・・・
 アントーニア(燭台を持って、走って登場。)どうしましょう、サンソン! どうしたらいいでしょう!
 サンチョ 答えてくれない。ああ・・・
 サンソン 私にはどうしようもない。死んでしまった。
                     (終)


   平成十四年(二00二年)九月十八日 訳了


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http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


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