ド ン キ ホ ー テ
                               
エフゲーニイ・シュヴァルツ 作
(セルバンテス 原作)
                能 美 武 功    訳
                城 田  俊   監 修
   
     シナリオ
 ラマンチャのある村。夏の夜が次第に明けてゆくところ。村の白い壁、瓦の屋根が、闇の中にうっすらと見える。二つの灯が塀に沿って動く。斜面の急な道路を登って行く。(この村の)二人のお偉方が、手に提灯を持って急いでいるところである。二人とは、司祭、ピェロー・ピェレースと床屋の主(あるじ)ニコラースである。二人はじっと一点に目を向ける。坂の上の険しい小道の行き着く先、その方向をじっと見つめる。
 床屋「本の読み過ぎですよ。あのアロンゾ・ケハーノさんは。ああ詰めて読んでは体に毒です。」
 道路の行き着いたところ、小高い丘の上に、そう立派でもない貴族屋敷が聳えている。玄関には紋章がつけてあり、屋根の下にはほんのり明るくなっている闇の中にくっきりと四角形の窓が光っている。
 司祭「あんなに蝋燭を点して。そんな金はないっていうのに。住み込みの家政婦が医者を呼んで診て貰おうと思ったんだが、なんのことはない。家中集めても、金が十レアールもないんじゃ・・・」
 床屋「成程。やっこさん、最近なけなしの領地まで売りに出したっていう話ですが、無理もない話ですな。あの小川の傍にあるやつで。」
 司祭「妙なことに取り付かれてしまったものだ。あるだけの金を全部注ぎ込むとは。荷車二台半、騎士の物語を買いこんで、今朝は五時までそれを読み耽っている。だいたい本など読むと、頭がおかしくなるんじゃないのか。」
 床屋「それはその人の血が何で出来ているかによるようです。読むと考えこんでしまう人間がいますが、それは血がこってりと重い場合です。読むと泣き始めるのもいます。これは水気の多い血の場合です。やっこさんの場合は、火のつくような血ですからな。作家のこしらえた、馬鹿な、ありもしない話ならなんでもそのまま鵜呑みにして、崇高な書き物のように信じているんです。それで、我々にある不幸の原因はすべてこのスペインに遍歴の騎士がいなくなったからだと。」
 司祭「それがこの今の世の中にだ! 今じゃ騎士どころか、騎士の曾孫(ひまご)だって生きてはいないというのに。今は西暦一六0五年なんだ。冗談もいい加減にして貰いたいもんだ。一六0五年なんだからね。」
 このように話しながら、二人の連れは屋敷の開け放たれた門に入って行く。するとドンキホーテの家政婦、年の頃およそ四十の女性が、来客を迎えて飛び出して来る。
 家政婦「やれ有り難や! どうぞ、どうぞ、お入りになって。司祭さまに床屋さま!今台所でみんな泣いていたところです。」
 広々とした台所。ここは食堂でもある。焼き串がかかっている大きないろり。銅の食器の入っている棚。その下、壁の上に、玉葱とにんにくが乾燥した葉で結わえられて、掛かっている。大きな黒いテーブルで、頭を両手に埋めて、ドンキホーテの若い姪が泣いている。
 司祭「泣くんじゃない、姪御殿。神様は哀れな孤児に必ず手をお貸し下さる。」
 床屋「涙というものは、人間の体で大切なもの。とって置くと体に良い。役に立つんだ。それを出してしまってはな。」
 家政婦「ああ、旦那様方。これがどうして泣かずにいられましょう。可哀相に、この子の身寄り、それはたった一人、叔父さんしかいないっていうのに。その人が気違いになったんですからね。そんな訳で、旦那様方を朝早くからお起こし致しました。どうぞお許し下さいませ。」
 姪「叔父は朝から晩まで、騎士の物語を読んでいます。私共はすっかりもうそれに慣れてしまいました。(でもそれですむものではありませんでした。)叔父は父祖伝来のアロンゾ・ケハーノという名を捨て、自分のことをラマンチャの騎士、ドンキホーテと名乗っています。私共は女で、それはいけないとも言えず・・・」
 家政婦「それに今日は何か訳の分からない、恐ろしい事が始まったのです。」
 司祭「ほほう、それは何ですかな、家政婦殿。」
それに答えるかのように、屋敷中に響き渡るような恐ろしい声がする。
 家政婦「ほら、あれです。それで皆様をお呼びしたのです。あのお可哀相な旦那様が書斎で何をなさっているか。さあ、見てみましょう。私共女二人ではとても怖くて・・・」
 上の方、二階に・・・とは名ばかり、正確には屋根裏部屋と言った方が当たっているが。幅の広い木の階段が、台所から通じている。家政婦は長い銅製の手燭(先に蝋燭がついている)を持って先に登って行く。他の者達は爪先立ちで後につく。
 書斎の扉は暗い廊下に面していて、その隙間から光が漏れ、暗闇を照らしている。
 家政婦が灯を消す。ドンキホーテの友人達、それぞれ自分の背の高さの隙間を選び、中を覗く。彼等の視線に飛び込んできたものは、傾斜した高い天井の部屋。部屋いっぱいに本が散らかっている。あちこちの机の上に置いてあるもの、背の高い椅子(複数)に置いてあるもの、その他、丁寧に横に寝かせて積んであり、直角の塔のように(床から)天井まで達しているもの。
 彫刻のされた木製の、幅の広い書台に、最終ページ近くが開かれている大判の二つ折り判の本の両側に、二本の蝋燭が立っている。
 本を読むのに、遠視のためか、今読みつつあるものに対する敬意のためか、これらすべての本の持ち主、可哀相な貴族、アロンゾ・ケハーノは立ち上がっている。その姿は、まさにラマンチャの騎士、名も高きドンキホーテ、といったところ。この男は、歳の頃およそ五十。ひどく痩せているが、がっちりした体躯。その立居、振る舞い、表情には、老人のもつ弱々しさはない。着ているものは甲冑。頭は今は無帽。傍に小さなテーブルがあって、そこに兜がおいてある。右手には剣。
 床屋「なんだ、これは。ああ、神様・・・」
 司祭「騎士の甲冑など、どこで一体手に入れたのか。」
 家政婦「屋根裏部屋を捜したんです。」
 姪「甲冑は、祖父の、兜は曾祖父の、そして剣は曾曾祖父の代のものです。私がまだ小さかった頃、叔父が見せてくれましたわ。」
 騎士ドンキホーテの痩せて厳しい顔が、キラキラと輝く。白髪まじりの頬髭が震える。彼はただ本を読んでいるのではない。本の一頁一頁に書いてあることに対して、丁度音楽家が楽譜を読む時のような反応を示す。ドンキホーテの動きから、それを見ている人は容易に彼が読んでいる事柄を見抜ける。ある時は見えない馬に拍車をかける。ある時は剣を振り上げて、床を猛烈な勢いで叩く。床が削れて木の屑が飛び、家中に音が鳴り響く。
 「炎のつるぎを振りかぶり、騎士は「やっ」とばかりに切り付けた。炎一閃(いっせん)、二人の大男は二人ともまっ二つ。「見たか、魔法使いフレストーン。お前の罠などには引っ掛からないぞ。」と、騎士は大声で笑う。」
 と、ドンキホーテは呟く。
 「それから再び馬に乗る。騎士は突然、この世のものとは思えない、美しい少女に出会う。その髪は金に溶かしたかと見紛(みまが)うばかり。素晴らしい金髪。そしてその口は・・・」
 ドンキホーテ、ページをめくる。
 「ひどい罵りの言葉を吐く。」
 ドンキホーテ、ぎょっとなって黙る。
 「罵りの言葉とは何だ。どういう事だ。またフレストーンの罠なのかな。(ドンキホーテ、本を見直す。)なんていう馬鹿だ、このわしは。ページを間違えた。(ページを前に戻す。)そしてその口は、まるで薔薇の花びら。美しい娘は泣いている。あたかも両親をなくした子供のように。」
 ドンキホーテ、啜り泣きをする。涙を拭く。そして再び全霊をこめて読み耽る。声は出さず、唇が動く。両眼がギラギラと光る。(あっと言う間もなく、)剣を振り上げたかと思うと、本の塔を真二つに切断する。本は倒れ、ドンキホーテの頭上に落ちかかる。彼に向かってまっすぐ、雪崩のように崩れる。本は書台をひっくり返し、蝋燭を消す。大きな窓の四角形の形が部屋の暗闇の中ではっきりと浮き出る。

 夜明け。
 ドンキホーテ、暫くの間、打った頭を掻きながらじっと立っている。それから大声で怒鳴る。
「いいか、いまいましいフレストーン、かくのごとき忌まわしい貴様の悪戯も、わしの決心を鈍らせることは出来んぞ。魔法使いの中でも最も狡賢いフレストーン、貴様はわしの本をめちゃめちゃにしおった。馬鹿奴、(それでわしの決心が鈍らせるとでも思っているのか。)騎士の献身的な功(いさおし)はもうとっくに本からこのわしの心に移っているのだ。さあ、前進だ。進め、一歩も退(ひ)かんぞ。」
 ドンキホーテは甲冑を脱ぐ。肩からマントをかけ、つばの広い帽子をかぶり、テーブルから兜と(兜の)頬当てを掴み、窓の敷居の方へ行き、またぐ。窓の横木の上で止り、手を目の上にかざして左右を見回す。
 床屋「わざわざ何故あんな危ないところから?」
 姪「親切心からですわ。みんなを起こしてはいけないと思って。可哀相に・・・」
 ドンキホーテの屋敷の庭。
 ドンキホーテ、窓の横木に立って辺りを見回す。村の先の方にある野原、まだ人通りのない大通り。それが遠くの森に続いていて、そこで道が見えなくなっている。それを目で辿(たど)る。
 ドンキホーテ、庭に飛び降りる。軽々と。少年のように。
 彼は進む。深い物思いに耽りながら。辺りは全く見ずに。洗濯の下着類が紐にかけて干してある。そのピンと張ってある紐に胸をぶっつける。ドンキホーテ、ぶつかった勢いで紐に跳ね返される。
 ドンキホーテ、剣を掴む。
 夜明けの薄明かりの中で、前方に何か軽いゆらゆら揺れている幽霊のようなものがうっすらと見える。いろんな色の混じった二つの目が、ドンキホーテをぐっと睨む。それがますます幽霊らしく見える。口が無遠慮に薄笑いを浮かべる。
 ドンキホーテ「また貴様か、フレストーン。」
 ドンキホーテ、剣を振り上げる。しかし最後の瞬間に振り下ろすのを思い留まる。
 自分自身の下着が物干にかかっている。家政婦が彼の下着の到る所につぎをあてて繕っていたのだ。ドンキホーテを睨んでいたのは幽霊ではなく、彼の夜着だ。目はそのあてられたつぎだったのだ。
 ドンキホーテ「卑劣な策だぞ、フレストーン。しかしこれしきの悪巧みで貴様の前にひれ伏す俺様と思うのか。」
 ドンキホーテ、剣の向きを変え、地面に水平にして、物干の紐を地面に押しつけ、大変な努力をして大股にそれをまたぎ越える。
 ドンキホーテ、町の通りを歩いている。
 奇麗に刈り込んだ生垣のある貧しい農家の前に来てドンキホーテ、突然立ち止り、恭しく自分の(つばの広い)帽子を脱ぐ。
 豚飼いが通りに豚を追ってやって来る。そして角笛を吹く。
 ドンキホーテ「おお、角笛だ。角笛の音だぞ。さあ、城の橋が降りて、姫がバルコニーに降りて下さるぞ。あのトボーソのドゥルシネーヤ姫が。」
 ドンキホーテ、前方に突進する。背の高い痩せた豚にぶつかり、つまづく。豚の群の真ん中に倒れる。豚、フンフン、ブーブーと怖れの声を上げ、ドンキホーテを蹄で踏み付けながら疾走する。
 ドンキホーテ、埃の雲の中に立ち上がる。埃を払う。着ているマントの皺をのばす。それから彼独特の、厳しい、またどことなく憂いを含んだ表情になる。
 農家の外庭に牛小屋あり。その小屋から怒った声が響く。
「どこをほっついとる、この馬鹿娘!」
 ドンキホーテ、身震いする。
 怒鳴り声「アリドーンサ!」
 ドンキホーテ、柵に近づく。
 外庭を横切って牛小屋へと、若い、眠そうな目をした、愛らしい娘が走って行く。
 ドンキホーテ、アリドーンサを見ると子供のように顔を赤くする。両手を心臓にあてる。と、すぐにその力がないかのように、だらりと垂らす。
 「おお、いとしの君!」と、アリドーンサを目で追いながら囁き声で言う。「この私の、豚のように低劣な心に、騎士の魂を吹き込んでくれる、これこそ騎士の愛。それが私の力を功(いさおし)へと向けてくれるのだ。
おお、ドゥルシネーヤ!」
 トボーソのドゥルシネーヤ・・・実はアリドーンサ・ロレーンサであるが・・・が、牛小屋から走って出て来る。ドンキホーテに気づく。恭しく膝を屈めて御辞儀をする。
 アリドーンサ「ケハーノ様! 随分お早いご起床ですこと。下賎の者と同じ。あら、どうしましょう。こんなことを申し上げて。お許し下さい。そうじゃなかったわ。神様の小鳥みたいに早起き!」
 怒鳴り声「アリドーンサ! この馬鹿娘! 塩はどこだ。早くしろ。」
 アリドーンサ「家中大喜びなんですよ、ケハーノ様。牛が赤ちゃんを生んで、それが一度に二頭も。二頭とも大きくって。ただちょっと痩せているのが・・・あなた様みたいに。あら、私ったら。教育がないからすぐこう。嬉しくて嬉しくて。自分で何を言っているか分からないんだわ。」
 怒鳴り声「アリドーンサ!」
 アリドーンサ「父もそう。聞こえるでしょう? 嬉しくて嬉しくて、気が違いそうなの。」
 怒鳴り声「アリドーンサ! ぶっ殺してやる。この馬鹿娘!」
 アリドーンサ「今行きます、パパ! さようなら、ケハーノ様。」
 アリドーンサ、退場。
 ドンキホーテ「さようなら、おお、トボーソのドゥルシネーヤ姫。ああ、あなたほど高潔な人間がいるだろうか。自分がどんなに素晴らしいかを知らず、自分がどんな不幸な目にあっているかを知らず、朝から晩まで働きづめ。フレストーンの仕業なのだ。それなのに誰もあなたに感謝するものはいない。感謝? それどころか、怒鳴りつけて、説教して・・・おお、忌まわしい魔法使いめ! わしは誓う。お前からその魔力を奪いとるまで
は、わしは刀を鞘に収めはしないぞ。おお、いとしい人。我が唯一の愛、トボーソのドゥルシネーヤ姫!」
 サンチョ・パンサ・・・頑丈で、陽気で、赤ら顔の農夫、およそ四十歳・・・が、働いている。鎚をふるって、懸命に頬当てを兜にくっつけているところ。ドンキホーテ、サンチョの家からベンチを引っ張りだして来て、その傍で坐っている。ドンキホーテの足元に毛の長い、犬の子が、気持ち良さそうに横たわっている。ドンキホーテ、剣の先でその横腹の毛づくろいをしてやっている。
 ドンキホーテ「ラマンチャ中捜したって、お前ぐらい頑固な人間はいないぞ。答えろ、とわしはさっきから言っているんだ。」
 サンチョ「答えたいとは思っているんです。本当です。答えない方がよっぽど苦しいくらいで。でももう少しわしに、騎士の言葉というものを聞かせて下さいませんか。そうすればわしも少しは考えます。」
 ドンキホーテ「いいか、サンチョ・パンサ。わしらが明日、夜明けと共に功名、冒険を求めてここを発ったとする。連中はわしらのことをどういう風に書くか。(厳かな声で。)「金色の卷毛を持つアポローが、地の表面に彼の神々しい金髪の光を落とし始める頃、森の中で小鳥が声を合わせて歌い始め、頬艶やかなオーロラの女神
に挨拶をする頃」・・・」
 サンチョ「わしは死ぬ。こんな奇麗な文章、ああ。」
 ドンキホーテ「繰り返す。そのような神々の仕業がこの空、この森になされようとする丁度その頃、かの有名なラマンチャの騎士ドンキホーテは、名も高きかの馬ロシナンテにうちまたがり、忠実かつ勇敢な従者、その名もサンチョ・パンサ・・・」
 サンチョ(涙を流さんばかりに。)「そう、その通り。正に・・・」
 ドンキホーテ「二人は意気揚々とラマンチャの原を疾駆する。強きを挫き、弱きを助けるため。」
 サンチョ(啜り泣きをして。)「そうだ。行かなければ。兜の用意もほら、出来ています。さあ、どうぞ。か
ぶって。」
 ドンキホーテ、注意深く頬当てがつけられた兜を調べる。それをサンチョに返す。
 ドンキホーテ「かぶれ!」
 サンチョ(兜を被り、頬当てを下ろす。)「こりゃよく出来た。こりゃまるで籠に入った鳥だ。鳥籠だが、餌箱がないだけだ。」
 ドンキホーテ「その切り株に坐れ。」
 サンチョ「はい、坐りました。」
 ドンキホーテ、従者の頭の上に剣をふりかぶる。しかしこちらは毬のように身軽に、脇に身を避ける。急いで兜を脱ぐ。
 サンチョ「旦那、それは駄目です。旦那の狩のおともは一度や二度じゃありません。その腕っぷしの強さはよ
く知っていますからね。」
 ドンキホーテ「兜をかぶるんだ。」
 サンチョ「それはかぶりますがね、今すぐは駄目です。まずわしの頭以外のものでやってみてから。牛でも大事に扱えば百年も生きますからね。」
 ドンキホーテ「騎士アマディース・ガーリスキイの武功という本で、わしは甲冑を不死身にする薬の成分を知ったのだ。それを調合してちゃんとその兜には擦り込んである。お前は何か、騎士の小説を信じないというのか。」
 サンチョ「信じないなんて。滅相な。ただ一番最初は試しにその樫の木のベンチに置いて・・・さあ、これで。どうぞ。お好きなように。」
 ドンキホーテ、距離を計り、それから兜に恐ろしい力で切り付ける。
 サンチョ、頭を抱えながら金切り声を上げる。
 騎士の力は兜を、まるで胡桃を割るように打ち割り、がっちりした樫の木のベンチも真二つに斬る。
 サンチョ「旦那! 気を悪くせんで欲しいんですが。でもわしは行きません。ちょっと考えなきゃ。怒らないで、旦那! かあちゃんがそれに許しっこない。かあちゃんは海だって言い負かすんですからね。聖者だってかあちゃんにかかったらおしまい。法皇さんが出てきたって叶わない。お日様だってかあちゃんの一睨みで沈んじゃう。」
 ドンキホーテ「サンチョ!」
 サンチョ「それに、行くって言ったって、お手当てがいくらかさえ決まっちゃいない。」
 ドンキホーテ「こんな時に給金の話など! いいか、これから諸国を行脚する。そこで最初に征服した島の総督だ、お前が。総督になってから一月も経てばお前が自分でその島の法律を作ることになるんだぞ。」
 サンチョ「そいつは前からのわしの夢だ!」
 ドンキホーテ「どこへ行くにも馬車。食べるのも飲むのも金の食器。」
 サンチョ「食べる、飲む。いいぞ。えーい、どうなったって構うものか。出発は何時ですか、旦那?」
 ドンキホーテ「明日、日の出と共にだ。」
 サンチョ「よし、いいです。行きましょう。」

 日の出。
 ドンキホーテ、首から下は完全に騎士としての武装。但し、頭には兜なし。ひどく痩せた、背の高い馬に乗って田舎道を街道の方へと進んで行く。街道は幅が広く、車の轍が深く刻まれている。
 サンチョは、小さな灰色のろばの背に乗ってその後をついて行く。
 大きな街道に出てドンキホーテ、厳しい表情で、まるで猟師の目つきで、片手を眉にあて、辺りを眺める。武功の種を捜している。
 何も見えないので、ロシナンテに拍車をかける。
 ドンキホーテ「急げ、急げ! 我々の一秒の遅延は、全人類に損害を与えるんだぞ。」
 そう言ったと思うや、彼の体は鞍からロシナンテの頭を越えて、前方に飛んでいる。なぜならロシナンテが両前脚を穴に踏み込んだからである。
 サンチョが自分の主人のところにやっと助けに駆け寄った時には、すでにドンキホーテ、鞍に乗って何事もなかったように、前に進んでいる。
 サンチョ「この穴め、こいつが悪いんだ。」
 ドンキホーテ「違うぞ、サンチョ、穴が悪いんではない。」
 サンチョ「なんですと? 穴のせいではないとおっしゃるんで? いや、この穴に決まっています。わしの荷車だって、夜明けにここを通って、何度この穴に落ちて壊れたか知れやしません。わしだけじゃありません。村中でこの穴にはぶつくさ文句を言っているんです。わしも隣の奴によく言われるんです。「サンチョ、お前あの穴を埋めるんだ。」ってね。なに、わしが埋める? とんでもない。言ってやるんでさあ。「なんでわしが。お前やれ。」すると「俺が? なんで俺が。お前こそ。」「なんでわしが。」「なんで俺が。」「なんでわしが。」・・・」
 ドンキホーテ「もういい。黙るんだ、サンチョ!」
 サンチョ「旦那、これでもまだわしは百分の一も話してやしません。わしはそれで言ってやるんです。こっちが正しいんですからね。こっちが理屈に合ってるんですから。「なんでわしが。お前こそ。」で、またあの大馬鹿野郎、このわしに、「なんで俺が。お前こそ」・・・」
 ドンキホーテ「いいか、この穴はな、魔法使いが爪で掘ったんだ。魔法使いフレストーンがな。これから先もあいつにはしょっちゅう出会うことになる。しかしな、わしは尻込みもせん。震えもせん。前進だ。前進だ。一歩も退かんぞ。」
 (そう言ったかと思うと、突進し、)騎馬武者ドンキホーテは埃の渦の中に消える。
 道の両側が背の高い深い森になっている。
 ドンキホーテ、手綱を引き、馬を止める。
 ドンキホーテ「聞こえるか?」
 サンチョ「聞こえますとも。 葉っぱがさらさら鳴っています。いい天気で森も喜んでいるんですよ。ああ、
素晴らしい!」
 森の中から哀願の泣き声が聞こえてくる。
 「ああ、ご主人様、許して下さい。ああ、ご勘弁下さい。イエス・キリストの受難にかけて誓います。もう決してしません。」
 ドンキホーテ「聞こえるか、サンチョ。」
 サンチョ「聞こえます、旦那。早く行きましょう。目撃者だの何だのと、巻き込まれるのは厭ですよ。」
 ドンキホーテ「ついて来い、この卑怯者め。泣いているではないか。」
 騎士はロシナンテの向きを変え、まっすぐ森の深い茂みへと進む。
 森の中の野原。木に雌馬が括られている。馬は静かに落ち着いて草を食っている。その傍の樫の木に、十三歳くらいの男の子が縛りつけられている。
 筋骨逞しい農夫が、その子供をすごい剣幕で革の笞で殴っている。殴りながら言う。
 「けだもの! ぬすっと! 人殺し! 今日からお前の名前はアンドレスじゃない。気違い狼だ! わしの羊をどこにやった。誰が金を払ってくれるんだ。答えろ、この気違い!」
 すると突然、あたかも晴天の霹靂(へきれき)のように、口笛、叫び声、が轟く。牧童も農夫も恐怖で身を縮める。
 ロシナンテ、野原に飛びだして来る。
 逞しい農夫の頭上に槍が突き付けられる。
 ドンキホーテ「風上におけぬ奴! さあ馬に乗れ。決闘だ!」
丁度この時サンチョ・パンサの顔が茂みから現われる。帽子を盗賊のように眉のところまで下ろして、目深にかぶっている。口笛を吹き、足を踏み鳴らし、奇妙な叫び声を上げ、怒鳴る。
 「ペドロ、まだ出て来るんじゃないぞ。アントーニオ、お前もまだだ。いいか。ただ用意だけはしておくんだ。斧も、何もかもだ。」
 「旦那様、」と驚いた農夫は叫ぶ。「私は何も悪いことはしていません。ここで野良仕事をしているだけです。それからこいつに今教えこんでいるところで。」
 ドンキホーテ「その子供を放すんだ!」
 農夫「子供? 何を仰る。こいつは子供なんかじゃありません。牧童なんですよ。」
 ドンキホーテ、槍を振り回す。
 農夫「分かりましたよ、旦那。分かりました。放します。放します、旦那。アンドレス、さあ行け。行っていいぞ。(結び目をほどく。)行きなさい、小鳩ちゃん。お前、行っていいんだよ、アンドレス様。」
 サンチョ(厳しい声で。)「お手当ては?」
 農夫「お手当て? 何のことです?」
 サンチョ「お前らがどういう類(たぐい)の人物かは分かっているんだ。牧童、何箇月お手当てなしで働いた?」
 アンドレス「九箇月です。ひとつき七レアールで。みんなが言ってくれるんです。それなら六十三レアールになるって。」
 農夫「嘘です。」
 ドンキホーテ(槍を振り上げる。)「こいつで一突きだぞ。さあ払うんだ。」
 農夫「金は家です、騎士様。家においてあるんです。こんな物騒な世の中に金なんか持って出たらどうなります。すぐ追いはぎにやられてしまいますよ。大事な大事なアンドレス、この小鳩ちゃんには帰ってすぐ払ってやりますから。」
 ドンキホーテ「すぐ払うと誓え。」
 農夫「払います。誓います!」
 ドンキホーテ「もっとちゃんと誓うんだ。」
 農夫「あらゆる聖なるものにかけて誓います。私はこの大事なアンドレスに金を支払うことを。またこれ以後この子が一言でも私のことを悪く言ったら、どうか私を地獄に落として下さい。天国にかけて誓います。約束を守って満足させます。」
 ドンキホーテ「いいだろう。さあ行け、子供。金は払ってくれよう。」
 「どこのどなたかは存じませんが、有難うございます。聖者は馬には乗らないっていう話ですけど、きっと聖者様なのでしょう。お願いです。もう少しここにいて下さい。折角助けて下さったんじゃないですか。私一人でここに残ったら、皮まで剥がされてしまいます。大殉教者みたいに。恐ろしいです、一人で残っているのは。でもお二人と一緒に逃げたら六十三レアールが駄目になるし。すごい金! どうか行かないで!」
 ドンキホーテ「さあ立つんだ、子供よ。あの男はあらゆる聖者にかけてお前をいじめないと誓ったじゃないか。はした金が惜しくて(誓いを破り)自己を破滅させるような、そんな馬鹿をやるはずがない。」
 サンチョ「うーん、どうかな、それは。」
 アンドレス「どうか行かないで下さい!」
 ドンキホーテ「実はな、アンドレス君、不幸な人間は君だけじゃないんだ。何千もの人間が私を待っているんだ。」
 アンドレス「とにかくお助け下さって有難うございました。長い間生きてきましたが、一度として私を助けてくれる人など出て来ませんでした。」
 アンドレス、騎士の靴に接吻する。
 ドンキホーテ、顔を赤くする。アンドレスの頭を撫で、馬に拍車をかける。
 再び騎士とそのお伴は、広い通りを(馬で)進んでいる。
 サンチョ「可哀相。慥にあの牧童は可哀相ですがね。どうも今度の武功はわしの性にあいません。他人のもめごとには口をだすな(小さな親切大きなお世話)って言いますからね。郷に入れば郷に従え、ともね。私が総督になった暁には・・・」
 ドンキホーテ「黙るんだ、このまぬけ! あの子供はこのわしに感謝しておったじゃないか。ということはつまりだ、フレストーンがあの子の魂までは毒で曇らせてはいなかったということだ。あの子の清い魂は、我々の放浪の暗い日々の慰めとなるであろう。お喋りはこれで終だ。先を急ごう。我々の遅滞、それは全世界の人類に損害をもたらすのだ。」

 塔のように切り立った岩の間にある谷間。道にその岩のぎざぎざした影が落ちている。ドンキホーテとサンチョ、その岩の間を馬で行く。
 ドンキホーテ、馬を止める。
 サンチョ「何か見えましたか、旦那。」
 ドンキホーテ「準備はいいか、サンチョ。この辺りは必ず龍が住み着くという地形だ。騎士が近づくと見るや、必ず現われるぞ。一匹でも出て来てみろ、このわしが息の根を止めてやる。」
 サンチョ、ろばを止めて恐ろしそうに辺りを見る。
 サンチョ「龍ですって? 薄気味悪い。やまかがし(蛇の名。毒なし。)でもおっそろしいんです。それなのに龍。爬虫類はご免です。でもまあ、いないんでしょう?」
 ドンキホーテ「世の中には不信心な奴がいてな。そいつらの話によれば、世の中で困っている人間は、全部自分が悪い。自分が馬鹿だからだ。悪い魔法使いだとか、龍だとか、この世にいる訳がない、こう言うんだ。」
 サンチョ「それは正しくない。」
 ドンキホーテ「わしの考えはだ、我々の不幸、悲しみ、それは全部、龍、悪い魔法使い、とんでもない大悪党、やくざもののせいなのだ。こういう奴をすぐ見つけ出して罰さねばならん。聞こえるか?」
 ここで悲しげな、長く尾を引くような、泣き声とも金切り声ともつかぬ声がする。
 サンチョ、恐怖の顔つきでドンキホーテを見る。ドンキホーテもサンチョを見る。そして驚愕で青くなったサンチョの顔が突然赤くなり、いつもの赤紫色に戻り、笑みがこぼれる。
 ドンキホーテ「何を笑っているんだ。龍だぞ、あれは。」
 サンチョ「旦那、あれは車輪が鳴っているんですよ。」
 ドンキホーテ、従者を射殺すような目つきで睨みつける。馬に笞をあて、岩の多い小高い丘を進ませる。
 サンチョ、後に続く。
 予期通り騎士は、遠くに馬車の姿を見る。車が回転するにつれ、甲高いキイキイという音を出している。五人の馬に乗った男達が馬車を取り巻いている。馬車の前には二人のベネディクト派修道僧が、背の高いらばに乗って、旅行用の眼鏡をかけ、傘をさして進んでいる。二人の馬曵きが徒歩で、繋がれている馬のそばを行く。
 馬車の中には、遠目からもそれと分かる美女。
 ドンキホーテ「見えるかな、サンチョ。前方のあの黒い大きな魔法使い達が。」
 サンチョ「旦那、旦那、そんなことを言ったら、宗教裁判にかかって処罰されますよ。ベネディクト派修道僧達は酔っ払いって言われているんです。この言い方には連中、慣れている筈ですが、魔法使い、これはいけません。旦那、修道僧にしときましょう。」
 ドンキホーテ「あいつら、何のつもりだ。」
 サンチョ「旅は道連れって言いますからね。あの馬車の連中の仲間に入れて貰ったんです、きっと。旅では警護の者がいる方が安心ですからね。」
 ドンキホーテ、ロシナンテに鞭をくれ、旅行者達の方へ突進する。サンチョ、丘に留まり、遠くで起こることの成り行きを見守る。騎士ドンキホーテ、馬車の窓のところまで来て、手綱を引き締め馬を止める。窓から美女、悠然とした微笑みで騎士を見る。
 ドンキホーテ「おお、素晴らしきご婦人! この私、ラマンチャの騎士、ドンキホーテに何事であろうとお打ち明け下され。こいつら見張りの連中に遠慮などいらぬ。ここで捕われの身となっておいでなのか。」
 婦人「ええ、すっかり捕われの身にね、勇敢な騎士さん。」
 ドンキホーテ、槍を下げるや、修道僧達に撃ってかかる。一人はろばから落ち、砂利道に倒れる。もう一人は向きを変え、もと来た道へと逃げ去る。
 高貴な婦人の下僕達は、騎士に飛び掛かろうとするが、騎士、狂ったような大活劇で下僕達を追い払ってしまう。下僕達はあまりの成り行きに、自分達の方が数でも有利だと気づく間がなかったのである。
 婦人微笑む。ゆったりとした姿勢。劇場の平土間で芝居を見ているような様子。
 下僕のうちの一人、他の連中より主に忠実。馬車の反対側の窓から枕を引っ張り出し、騎士に向かって行く。枕を楯のように使って身を守りながら。
 しかしそれも駄目。
 恐ろしい一撃でドンキホーテ、枕のカバーとなっている山羊革を切り裂く。枕の羽根、雲のように空中に飛び散る。忠実で頑固な下僕、鞍から落ちる。
 ドンキホーテ、馬から飛び降り、仰向けになった敵の喉に剣を突き付ける。
 ドンキホーテ「降参しろ!」
 騎士、降参しない頑固な敵を刺し殺そうと剣を振り上げる。しかし優しい小さな、女性の声が、それを止める。
 「お待ちなさい。殺すのは可哀相よ。」
 騎士、辺りを見る。馬車の窓から婦人が彼を見ている。
 ドンキホーテ「あなた様のお望みは、私にとって法則も同様、おお麗(うるわ)しき貴婦人殿! さあ立て!」
 下僕、膨れ面をして起き上がる。頭から足まで掛かっている羽根を払い落とす。
 ドンキホーテ「悪党奴。命だけは助けてやる。但し一つ条件がある。お前はかの美しきこと比類なき、トボーソのドゥルシネーヤ姫のところに赴き、膝まづき、わしが果たしたこの武功について報告して貰わねばならぬ。」
 婦人「そこは遠いのですか。」
 ドンキホーテ「道は私の従者が教えるでありましょう、貴婦人殿。」
 婦人「騎士殿、私の下僕達の中でも最も信頼出来る男、それを奪おうとなさるのは、如何なものでしょう。」
 ドンキホーテ「下僕? 何ですか、貴婦人殿、これは。先ほどは私に、すっかり捕われの身にと・・・」
 婦人「ええ、旅の憂さの虜(とりこ)にね。でもお前様のお陰ですっかりそれも晴れました。それに私、お前様に対するこの私の役割で、いいことを思いつきましたわ。私がお前様の心に誓った婦人となるのです。そうすれば、この下僕だって、どこにも行かなくてすむでしょう? だって今の武功は私のこの目の前で行なわれたんですからね。さあどう? そうなさい! それともお前の愛にこの私は相応しくないとでも? さあ、私をよくご覧! さあ!」
 ドンキホーテ「いや、先程から眺めておる。」
 婦人「さあどう? お気に召して?」
 ドンキホーテ「哀れな騎士を誘惑するのは止めて戴きたい、どうか。どうかこのわしを誘惑するのは。わしは心に決めているのだ。決めたことそれは、わしの心に誓った婦人、それはトボーソのドゥルシネーヤ姫だということ!」
 婦人「その人には言わないんだから大丈夫。私もお前も。」
 ドンキホーテ「駄目だ、それは。誓って言う。それは駄目だ。」
 婦人「黙っていれば・・・」
 ドンキホーテ「駄目だ。」
 婦人「誰にも分かりはしないわよ。」
 ドンキホーテ「駄目だ。絶対に。ああ、貴女の目がこの私の心に突き刺さるようだ。あちらを向いて下され、
貴婦人殿。この私を苦しめるのは止めて。」
 婦人「さあ馬を降りて。さあ馬車に。この私の隣へ。ここでゆっくり話しましょう。夫がメキシコに発って、今別れて来たところなの。私、愛について誰かと話したい気分。ねえ、さあ・・・早く!」
 ドンキホーテ「分かりました、では・・・いや、駄目だ。絶対にそれは。」
 婦人「アリチシドーラ・・・いい名前でしょう?」
 ドンキホーテ「いい名前です。」
 婦人「それが私の名前。さあ、今からはそれがお前の心に誓った婦人の名・・・アリチシドーラ。」
 ドンキホーテ「駄目だ。それは駄目だ。さらばじゃ!」
 騎士、槍を立て敬礼する。そしてロシナンテの向きを変えるが、まだ茫然とした儘。
 婦人、突然爆笑する。彼女一人ではない。彼女の下僕達全員が爆笑する。
 ドンキホーテ、ロシナンテに拍車をかけ、頭を下げ、いっさんにそこを逃げる。風が体についた羽根を吹き飛ばす。爆笑がその後を追いかける。
 婦人(下僕に。)「従者に聞いて、あの男の住所を確かめよ。これほど馬鹿馬鹿しい冗談も珍しい。(これから会いに行く)大公殿へのよい土産話だ。」

 夕闇。
 道の両側にあった岩の多い丘陵はすでに切れて、今、騎士とその従者は開墾された野原を進んでいる。オリーブの木々が生えている。後ろの方に白く人家が見える。かなり大きな部落。その後方が大きな森になっている。
 サンチョ、再び主人の傍をろばで進んでいる。主人の方を心配そうな顔をしてちらちらと見る。
 ドンキホーテ(悲しそうに、考え深そうに。)「考えても考えても分からん。わしの言葉のどこがそんなにおかしいのか。」
 サンチョ「わしもてんで分かりません。旦那、わしは真面目な、まっとうな男です。でもさっきの話のどこが可笑しいのか、さっぱり。じゃあ、内のかあちゃんが正しいのか。わしが可愛い子ちゃんにキスしようとする。
するとかあちゃんの奴、ギャッと声を上げる。まるでわしが可愛い子ちゃんを殺すんじゃないかっていうような声だ。だけどやっぱりかあちゃんが正しいか。女の子ってみんな同じ。おんなじよ。酒よ、違うのは。酒ならいろんな種類がある。種類の違いごとに楽しませ方が違う。それに人から力を奪ったりはしない。人に力を与えるんだ。羊の肉だってそうだ。煮たり、焼いたり、胡椒をかけたり・・・だけど恋なんて・・・恋に実体なんてあるのか。明るい日の光で見りゃ、何もありはしない。ただの思い込みだけ。」
 騎士と従者は深い物思いに沈みながら、道を行く。やがて夕闇の中に姿が消える。

 ドンキホーテ家の屋敷の台所。大きなテーブルに彼の友人と近しい者達が集まっている。
 夕方遅く。
 窓に雨が吹き付けている。風が唸り、ヒューヒューいう。家政婦が、小さな粘土の鉢にいんげん豆を選り分けている。姪が、灯の傍で刺繍をしている。司祭と床屋が暖炉の傍にいる。
 姪「可哀相な叔父さん。家を出てからもうずいぶん経つわ。こんな恐ろしい天気の時はどうしているのかしら。」
 家政婦「どうせまた何か無茶苦茶なことをやっていなさるんでしょう。他の人には皆、ちゃんとした旦那様がついているのに、私の旦那様だけがどうして有名になるんでしょう。スペイン中の噂。一日としてあの方の噂のない日がないっていう具合。」
 扉にノックの音。
 家政婦「そーら、まただ。どうぞ!」
 アリドーンサ登場。
 家政婦「やれありがたや。アリドーンサ一人だけだわ。それなら大丈夫ね、きっと。お前どうしたの? 雛でも持って来てくれたのかい?」
 アリドーンサ「いいえ、おばさん。ここの小父さんのことで大変な話があったの。」
 家政婦「ほーら、言わないこっちゃない。それでどんな? 怪我? 病気? それとも死にそうなの?」
 アリドーンサ「小母さん、何てことを! でもこのニュースはそれよりずっとずっと驚き。小父さんは恋をなさったの!」
 姪「あらまあ。」
 アリドーンサ「私もそれを聞いてびっくりしたわ。私が聞いた話はこう。一語一語聞いた通りを言うわね。我々の騎士はトボーソのドゥルシネーヤ姫という名のご婦人に恋をしたって。私の父はトボーソ出身でしょう?
子供の時にそういう名前の人を聞いたことがあるって。」
 家政婦「ということは、その女の人、もう年寄りっていうことね。」
 アリドーンサ「でも私達は考えたの。きっとその人の娘か孫娘なんじゃないかって。だって小父さんたら心の底からすっかり惹かれているんですもの。その人の名誉の為なら、地位も身分も関係なく、誰にだって打ってかかるのよ。そして何日も徹夜で溜息をついたり。その人の為に歌を作ったり、そしてその人の話をする時は、子供のこと、小鳥のことを話す時みたいに優しくなるんだって。私、羨ましいわ。」
 家政婦「羨ましいって?」
 アリドーンサ「だって私をそんなに好きになってくれた人、誰もいないんですもの。」
 姪「でもペドロがいるじゃない。」
 アリドーンサ「あの人、体を押しつけたり、つねったりするだけよ。あーあ、トボーソのドゥルシネーヤ姫って幸せな人。」
 扉にノックの音。
 家政婦「あらまた。どうぞ!」
 扉が開く。ずぶ濡れのマントを着た男が部屋に入って来る。目と鼻が赤い。但しそれは天候の為でも、生まれつきでもない。長い口髭が陰欝に垂れ下がっている。男はその口髭を、部屋に入って来るなり威嚇的に捻り上げる。
 見知らぬ男「ここが自称ラマンチャの騎士、ドンキホーテと名乗っておる男、地主アロンゾ・ケハーノの家か。」
 家政婦「さようでございます。」
 見知らぬ男「彼は在宅か。」
 家政婦「いいえ。」
 見知らぬ男「それは残念。実に残念だ。まっこと遺憾に堪えん。いさえすれば、すぐさま逮捕出来るところなのに。」
 姪、叫び声を上げる。アリドーンサは隅っこに身を隠す。
 床屋と司祭は立ち上がる。
 見知らぬ男「残念だ。が、仕方がない。まあ、またの機会というものがあるさ。ところで一杯ぐっとやりたいんだがな。あるかな?」
 家政婦「あります。ございますとも。どうぞ、マントをお脱ぎになって。お坐り下さいませ。どうか、こちらの方へ、火の傍に。」
 司祭「ちょっとお訪ねします。失礼ですが、サンタ・エルマンダードの取調べ所の方で?」
 見知らぬ男「そうだ。わしはかの有名な、トレドにあるサンタ・エルマンダード取調べ所の射手だ。もう何年も前から我々は犯罪と闘ってきておる。ところがその犯罪の数ときたら。いや、有難う。(ワインに対する礼。)増えるばかりときておる。うん、いい酒だ。」
 家政婦「私共の主人が何か、それで・・・」
 射手「何かじゃない。多すぎて数え上げるのが無理な程だ。例えば床屋を襲った。」
 床屋「なんと!」
 射手「そして髭剃り用の銅製の洗面器、価にして七レアール、これを盗んだ。」
 司祭「何の為で?」
 射手「これは魔法の金の兜だとぬかしおってな。(早速頭にのっけおった。)あの男、今でも被っておる。」
 床屋「なんと!」
 射手「これでとどめておればそれで良かったのだ。ところがだ、ある村で干魃が長く続いて、農民たちが・・・信心深い分別のある人々なのだ・・・彼らが一堂につどい、干魃は自分達の罪であると、己に鞭打つ業を行なうことに決めたのだ。いや、有難う。素晴らしい酒だ。何の話だったかな。あ、そうそう、業を行なおうと聖母マリヤの像を中央に立て、敬虔な気持で己に鞭をあてていたのだ。自分の罪を懺悔し、心から泣き、鞭の手は全く弛めずにな。全員分別のある、立派な農民よ。そこへ突然ホーッホーッホーッ、パッカパッカと、我等が気違いの旦那が馬で乗り込んで来たんだな。オーッオーッオーッ、ウーイウーイウーイ、農民達を追っ払ってしまった。この不信心者めが。聖母マリヤの像を、誘拐して虜にされているお姫様か何かと思ったんだな。」
 司祭「これはまた、なんと!」
 射手「そう、なんと! なんと! だ。こんな恐ろしい話はあるものではない。わしは普通の人間、この銘酒がなければ、わしの髪は見事に総毛だっているところだて。それから気違いの旦那、羊の群に突進して行った、悪い魔法使いの軍隊が来たと叫んでな。なに、牧童共はその旦那を殴った殴った、半殺しにするまでみんなで殴った。お嬢さん、泣くんじゃない。あんたの親父さんは強い人だね。一段落したら、立ち上がって去って行った
のさ。」
 姪「あれは父ではありません。叔父です。」
 射手「なら余計だ。泣いてやることはない。勿論正気であんなことをやっているんじゃないことぐらい、わしらにも分かっている。しかしな、気違いでも役に立つのと害になるのとあって、この旦那の場合は害の方でな。いやいや、もう充分戴いて・・・まてよ、もう一杯戴くとしようか。あらあら、わしの鞄に何か入れて・・・お菓子に財布? 何でまた? まあ良かろう。あんた方が自分の意志でなさることだ。婦人方と争ってもなんだからな。はっはっは。そのまづいことに旦那の場合、気違いは気違いでも、そのつまり、害に・・・あー・・・皆が訴えて来ておってな。さようわしからの忠告だ。こうしなさい。家におびき寄せるんだ。小鳥を籠に誘うように。計略を使うんだ。そう。家にいじめられている人間がいるとかなんとか言って。さあさあ、助けて下さい、とか何とか。それで一旦家に入ったら、ぱたっと。それで錠をおろす。」
 司祭「そうです、あなた。その手でいきます。」
 射手「わしの言うことは正しい。地位としてはほんの射手だが、わしはいつだって正しいんだ。有難う。(酒に対して言う。)姪ごさん、それに家政婦殿、そんなに陰気な顔はもうやめて、こちらの方がお仕えする身。そうそう、来週の水曜日、異端者を処刑するんだった。鉄の首輪で絞め殺す刑だ。見に来たらいい。ちょっとわしに声をかけてくれれば、アローンゾと言ってな。そうすりゃ、絞首台のすぐ傍のバルコニーに席を取ってやる。遠慮はいらない。あ、それから、土曜日には魔女を火焙する。これも見に来るといい。遠慮は無用。観客席の第一列目、番兵のすぐ後ろの席を取ってやる。ドンキホーテの旦那のことはもう、トーットットットで籠の中さ。万事うまく運ぶ。万事めでたしめでたしさ。」
 射手退場。
 司祭、心配のあまりぱっと立ち上がる。
 「もう一分も猶予はならない。あれは親切な男だ。名案を授けてくれた。」
 床屋「もとはと言えば、本が悪い。あの本全部処分することから始めなきゃ。」

 ドンキホーテの書斎の扉が蝶番から外される。司祭と床屋、作業服に着替えてせっせと働いている。書斎への入り口を煉瓦で塞ぎ、石灰で塗込める仕事。
 家政婦も傍に陣取っている。近くで縫い物をしている。
 姪がベンチに坐っている。手に革の表紙の小さな手帳を持って、それを見ながら、女教師が生徒達に問いただすように、司祭にあるいは床屋に、打ち合わせの復習をやっている。
 姪「さあ、最初から復習ですよ。まづ最初道で叔父を見つけます。、そうすると・・・」
 司祭「そうすると、私は仮面、ニコラースは顎髭をつける。ニコラースが膝まづき、私は傍に立ち深く御辞儀をする。」
 姪「そう。そこで言う台詞は・・・」
 床屋(厳かに。)「おお、ラマンチャの騎士、ドンキホーテ! どうかこの世で最も不幸な最も可哀相な王女をお救い下さい。(普通の声で。)よしいいぞ。これが最後の煉瓦だ。こいつさえしっかり嵌まれば、このいまいましい書斎も日の目を見なくなる。」
 司祭「この石灰さえ乾けば、どこに扉があったか誰にも分かりはしない。さあ、今すぐにも旦那を捜しに行こう。家に連れ帰るんだ。それから一旦入れたらもう何があっても出させはしない。」
 家政婦「それにもう出る気にはならないでしょう。だって害毒を流すあの本が墓穴の中に閉じ込められたんですからね。これで私にも分かりました。司祭様、床屋様、お二人は本当に私達のお味方ですわ。これでお二人があの旦那様を籠にうまく入れて下さったら、私もうお二人を聖者様だと思いますわ。」

 早朝。
 ドンキホーテとサンチョ・パンサ、街道を進んでいる。
 騎士、鐙を踏んで腰を浮かせて、辺りを見る。
 武功の種を捜している。
 サンチョの方は何か別のことをしている。指を折って何かを数えている様子。それに伴って、唇を動かし、額に皺を寄せ、目を空に向ける。曲り角に来た時ドンキホーテ、従者の方を向き、彼の動作に気づく。
 「お前、何をぶつぶつ言っているのだ。」
 「数えているところなんです。旅に出てからもうどのくらいたつか。」
 「それで、どのくらいになるな?」
 「打撲からすると、いやつまりその、打ち身だとか痣(あざ)になった場所を数えますと、二十年はたったという計算です。それを下ることはありません。」
 「騎士は傷など数えたりはせぬ。」
 「暦に沿って数えたって、日曜日から日曜日までの数からいっても、もう充分長いです。こんなことを言ってはどうも厚かましくって気がひけますが旦那、例のわしが総督をやるという島はどこにありますかな。もう毎日闘いのない日はないぐらい闘っているんです。でも御褒美がいっこうに貰えませんね・・・」
 「うん、そこはわしの方に少し見込違いがあったようだ。フレストーンの奴、人間の心をこれほどまでに破壊していたとはな。人間の理性という理性、それを徹底的にいためつけていた。わしは家にいて、これほどまでとは思わなかったのだ。」
 騎士、辺りをみまわす。そして言葉を切る。槍を下げ、攻撃の構えになる。
 床屋の洗面器を白髪の頭に正しくかぶり直す。
 道の前方に鎖の音がする。丘の上から、約十二人ほどの囚人が現われる。彼らは長い鉄の鎖で数珠のように一列に繋がれている。囚人の護送隊は、二人の騎馬の銃士、それに二人の刀と槍を持った徒歩の兵士。
 ドンキホーテ、自分の馬を横にして止め、その行く手を塞ぐ。
 ドンキホーテ「その不幸な者たちは何者だ。」
 護送兵「徒刑囚達だ。王の命で捕われの身となっている。ガレー船を漕がせることになって、今引き連れて行くところだ。」
 ドンキホーテ「何の咎(とが)で。」
 護送兵「連中に直接訊いてみたらいい。我々は今から馬に水を飲ませる。こいつらの唯一の楽しみと言えば、
自分のやった胸糞が悪くなるような悪事を詳しく語って聞かせることですからな。」
 護送兵達は、道の脇の地面に埋め込まれた石の飼馬桶の方に馬を連れて行く。
 囚人達は陽気にドンキホーテを見る。嘲るように笑う。ドンキホーテ、囚人の一人に近づく。
 ドンキホーテ「お前さん、こんな目にあうなんて、どんな罪を犯したからなのだ。」
 囚人一「(大きな声で、堂々と。)この私をたばかったのは愛。(小さな声で。)但し、愛の対象は衣類の入った籠。(大きな声で。)ああ、私はその愛をこの胸に抱きしめた。(小さな声で。)その籠の持ち主が現われて、キャーと言ったのさ。(大きな声で。)だがしかし、悪だくみにより、哀れ我が愛とは離ればなれ。」
 ドンキホーテ「なんという忌まわしい! で、お前さんは? まさかお前さんも愛のためでは?」
 囚人二「俺か? 愛なんかじゃない。優しさの故にだ。」
 ドンキホーテ「優しさ?」
 囚人二「そうだ。俺は根っから優しくてな。拷問にかけられて、もう「違う」とは言えない。「そうだ」と言
っちまったんだ。「そうだ」なんて短い言葉だぜ。その一言で懲役六年さ。」
 ドンキホーテ「で、お前さんは?」
 囚人三「俺様の財布に十ダカット見つからなかったのが運のつきさ。金で十ダカット、こいつが早いとこ見つ
かってりゃ、弁護士の脳味噌は随分と活気づいたはずなんだ。そして裁判官の心を和らげたはずなんだ。」
 囚人四「ここで止めだ。お前さんも楽しんだ、俺達も笑った、それでもう充分だ。」
 ドンキホーテ「護送兵殿! わしはこの男達に訊問した。この男達をガレー船に送り込むのは正当でない。この連中にちゃんとした保護者さえいれば、裁判官もきっと全員釈放に同意するはずだ。」
 囚人達、がやがやと同意の呟き。
 「そうだそうだ。聖書に書いてある通りだぜ。こいつ俺達囚人の仲間じゃないのか。旦那、旦那こそ我々の保護者になってくれませんか。」
 ドンキホーテ「よし、なってやる。」
 囚人、黙る。
 ドンキホーテ「わしは遍歴の騎士だ。不幸な者達、迫害されている者達を助けることを誓ったのだ。護送兵殿! わしはお前さん方に命令する。この不幸な者達を放してやれ!」
 護送兵「自分の頭の上にある洗面器の方向でも直すんだな。ぼやぼやしていると一発お見舞い申し、型なしにしてくれる。」
 ドンキホーテ「何を、この豚野郎奴!」
 この言葉と共にドンキホーテ、護送兵に飛び掛かる。
 彼の突撃があまりに急だったので、敵はどうと地面に落ち、落ちたまましばし唖然とする。
 埃の雲が沸き上がり、それ以後の成り行きは見えない。ただ囚人達の叫び声と鎖の音が聞こえる。また埃の雲の中から時々、背の高いドンキホーテの、刀を振り回している姿が、あっちに見えたり、こっちに見えたりする。
 銃の音。
 埃の雲の中から護送兵が姿を現わし道から畑へと懸命に逃げて行く。闘いの場から、後をも見ずに、一目散に。囚人達、石の飼馬桶のところへ行き、地面にある石を拾い上げ、それで鎖を叩き割る。鎖は切れ、足が自由になる。
 囚人達、歓声を上げる。大声で怒鳴り、叫ぶ。鎖を鳴らしながら、野生の獣のように吠える。
 そこへドンキホーテ、全速力でとって返して来る。
 囚人達、彼を見向きもしない。その場で、お互いに抱き合い、げんこつでお互いを叩きあい、勝利を祝っている。思いがけずやって来た自由に酔っているのである。
 ドンキホーテ「おい諸君、いいか、聴いてくれ。」
 囚人一「何だ、言ってみろ。」
 ドンキホーテ「諸君、今からわしが言う場所に、速やかに行って欲しい。」
 囚人達、すぐに静かになる。
 囚人四「そこに俺達を匿(かくま)ってくれるのか。」
 ドンキホーテ「とんでもない! そこにはわしの心に誓った婦人がいるのだ。お前達はそこに行って、わしが姫の為に成し遂げたこの武功について報告するのだ。」
 囚人達、急にゲラゲラ笑う。
 囚人三「俺達を怒らせると、痛い目にあうぞ。」
 ドンキホーテ「諸君、諸君に自由を与えたのはこのわしだぞ。そのわしに向かって何という無礼な。このわしの言葉に背くのか。」
 囚人四「旦那、旦那もご存じでしょう、あのサンタ・エルマンダードの取調べ所っていうやつを。連中がまた俺達を捕まえに来るんですぜ。」
 ドンキホーテ「感謝の情は恐怖に打ち勝つのだ。」
 囚人六「感謝? 感謝が聞いて呆れらあ。俺一人を逃がしてくれたというなら俺は感謝もしよう。だけどお前さん、一度に全員やっちまったんだ。」
 囚人七「襲撃をやらかすのはいいが、やり方っちゅうもんがあるぜ。」
 囚人八「きっと今頃は、教会という教会で警鐘をならしているさ。」
 囚人九「その洗面器の下には何がついているんだ。頭か、それともかぼちゃか。」
 ドンキホーテ「わしは命ずる。お前達はわしに感謝の意を表さねばならぬ。」
 囚人四「旦那、お手柔らかに願いますぜ。俺達は虐げられた人間なんだ。」
 ドンキホーテ「わしはお前達のことを思って・・・」
 囚人十「(獣のような顔をした大男。)やっつけろ。あいつは官憲の手先だ。」
 ドンキホーテに石が投げ付けられる。ドンキホーテの頭から洗面器が打ち落とされる。
 サンチョ「皆さん、考えてみて下さい。どうしてこの人が手先ですか。あなた方を助けた人じゃありませんか。」
 囚人十「助けただと? 忘れたな、そんなこと。どうせその後内通したんだ。やっちまえ!」
 雨霰と石がドンキホーテに飛んで来る。

 夕暮れ。
 ロシナンテ、小股にとぼとぼと道を行く。ドンキホーテ、頭を包帯で縛り、高い鞍の上で体がふらふらしている。が、やっと落ちないですんでいる。
 サンチョ、後ろをとぼとぼと進む。
 前方、遠くの方、森の向こうに、壁と屋根が見える。
 サンチョ「旦那! もう少し行くと宿屋です。やっと辿りつけます。でも旦那、どうしても一つだけお願いしておきたいことがあります。宿屋の連中にも、宿屋の客にも、わしらが殴られているということを知られちゃ駄目です。何故かっていうと、弱っていると見れば人は余計襲いかかって来るものだからです。片輪と見ればすぐそれを揶(からか)う奴が出て来る。ちんばと見れば倒して見たくなる。弱っていたり、病気になっているのを見れば、あの弱い兎だってしめたと思うものです。分かりますね、旦那。」
 ドンキホーテ「遠くから声がしているような気がする。どうも耳鳴りがしてな。」
 サンチョ、主人を眺める。そして突然大声を上げて叫ぶ。
 ドンキホーテ「どうした。」
 サンチョ「旦那をこうやって眺めていて、何て青い顔だろう、なんて慈悲深い顔だろうと思っていたら、急に
名案が浮かんで来たのです。驚くと勿論大声を出しますが、悲しみでも大声が出るものですね。わしの頭にふと素晴らしい、騎士道ぴったりの名案が浮かんだのです。いや、これは実際奇跡だな。はっはっは・・・いやはや・・・こんなことがあろうとは・・・はっはっは。名案だ。」
 ドンキホーテ「早く言ったらどうだ。」
 サンチョ「こうするんです。旦那のそのラマンチャの騎士、ドンキホーテという名誉ある名前がありますね、それに異名をくっつけるんです。つまり、憂い顔の騎士、と。」
 どもりながらドンキホーテ、非常に小さな声で。
 「分かった、サンチョ・・・ではそうすることにしよう。昔の騎士はすべて異名を持っていた。騎士、炎の剣、だとか、騎士、汚れなき処女、だとか、騎士、滅亡、だとか。それでわしは憂い顔の騎士、になるわけだ。どうやら将来わしの武功の全記録を作ってくれる賢者が、お前の頭にその名案を吹き込んだようだな・・・何故ならわしの頭の方は・・・その・・・ひどく耳鳴りがしていて・・・おお、城だ。」
 サンチョ「城ですと? 旦那、違います。あれはただの宿屋です。」
 ドンキホーテ「いや、わしはお前に請け合う。何が何でもあれは城。魔法にかけられてああなっているだけだ。」
 サンチョ「このわしの驢馬がいなくなったって構わない。あれは普通の宿屋です!」
 ドンキホーテ「城だ!」
 サンチョ「宿屋!」
 ドンキホーテ「城だ!」
 サンチョ「旦那、殴ることにかけては名人、そういう奴らが今日わしらを殴ったんです。何も分からなくなるのも無理ありませんや。」

 騒音。陽気な音楽の断片。歌。馬小屋の床を馬の蹄が叩いている音。
 宿屋の門の傍で、見るからに見持ちの悪い様子の二人の若い女。近づいて来る旅人をじっと見つめている。
 女一「あそこのあの二人まで私らに興味を示さなかったら、私らはもう終よ。」
 女二「そうね。泊まり賃、食事代をまさか年増みたいに自分で払うなんて、そんなに落ちぶれたくはないものね。」
 ドンキホーテ、高い鞍の上でふらふらする体をやっと支えながら宿屋の門に近づく。
 サンチョ、騎士の後に続く。
 ドンキホーテ(刀を使って敬礼し。)「名誉ある城だ。主(あるじ)殿が我々の到着を嘉(よみ)したまい、二人の貴婦人を迎えに出されたか。おお、貴婦人殿! いつの日か汝が純潔を守るため、騎士を必要とされる時も来よう。その時は遠慮なく拙者をお呼びあれ。わしは汝等が名誉を胸に抱き、死守するであろう。」
 女二人、顔を見合わせ、突然走り去る。笑いをこらえているため、鼻息をたてながら。

 切れ切れの音楽、馬小屋の床をうつ蹄の音、大きくなる。
 細い柱で支えられた屋根付きの回廊が、二階の部屋の外全部につながっている。その回廊で、また廂(ひさし)の下で、人間がごったがえしている。四人の男がトランプをしている。見物人がそのまわりに集まって見ている。
 賭博者一「俺は誓って言う。この札が負けてみろ、お前を斬り殺してやる。」
 賭博者二「それならこの札を出すのは止めだ。殺されちゃかなわん。脅しをかけられちゃ、賭けはできはせん。」
 歯医者が両手でペンチを握って叫び、患者を説得している。患者の方はベンチに坐り、傲慢な、横柄な顔をして、唇を締めて開かない。
 歯医者「わしはトルコのスルタンの歯だって、中国の皇帝の歯だって、この県の書記の歯だって抜いたことがあるんだ。連中はみんなこのわしに感謝しとる。中国の皇帝など、もう二本抜いてくれんかとわしに頼んだくらいだ。このわしの腕が気に入ってな。だから、ほら、口を開けるんだ。」
 患者「(口を開けないよう気をつけながら。)男が一旦駄目と言ったら駄目なんだ。」
 患者の妻「歯が痛くてあんた一人が辛いのなら私、何にも言わないわよ。だけどあんた、痛い痛いって、うるさくてしようがない。ほら、早く口を開けなさいったら。」
 患者「男が一旦駄目と言ったら駄目なんだ。」
 マリトールネス・・・偉丈夫の女中、男のように力が強い・・・が、テーブルクロス、ナプキン等を洗濯している。その横で女友達が耳に何か囁いている。どうやらひどく面白い話らしい。マリトールネス、熱心に耳を傾け、目を輝かせている。
 蒸気の中から、彼女の赤く、濡れた顔が現われる。
 マリトールネス「それであの人は?」
 横の女、また囁き声で話。
 マリトールネス「それであんたは?」
 横の女、また囁き声で話。
 マリトールネス「それであの人は?」
 横の女、また囁き声で話。
 マリトールネス「そんなの無駄さ。私はね、生まれてこのかた、約束を破ったことなんかないんだからね。男に一旦「いいわ」って言ったら、世界が崩れてこの頭におっこちて来たって「いいわ」なんだから。そう、それに言うとね、あれで楽しめるんだもの。それに、生きているうちにね。あの世に行っちまう前にね。」
 二人の女(最初門のところにいた売春婦)、ゲラゲラ笑いながら走って登場。
 先を争って自分の言いたいことを言おうとする。
 「ねえ、ねえ、早く、早く来て。気違いがやって来たわ。本当に可笑しいんだから。笑い転げて死んじゃうわよ。」
 賭博者「仕事の邪魔をするんじゃない。」
 女一「仕事ばかりしてないで、少しは気晴らしってものをしなくちゃ。」
 女二「あんな可笑しい気違い、宮廷にだっていないわよ。その人、私達のことを、「純潔な貴婦人殿」って言ったのよ。」
 ゲラゲラと笑い声。
 ドンキホーテ、よろよろしながら登場。
 全員穴があくほど注目。お互いにつつきあいながら、笑いを押し殺している。観客が廊下にいっぱい。欄干にも鈴なり。
 ドンキホーテ「いや、諸君、おはつにお目にかかる。早速だが、この城に不幸な者はいないか。迫害されたり、故なくして罪を負わされていたり、奴隷の身となっているものはいないか。もしいればすぐさま申し出られたい。このわしがその者に正義を復帰させるであろう。」
 皆、ゲラゲラ笑いを必死にこらえている。背の高い中年の男が叫ぶ。
 「これはひどい。ひど過ぎだ。」
 押さえに押さえられた笑い声。その中から喚く声。
 「黙ってろ。言わせるんだ。」
 腰に鍵束をぶら下げた肥大漢・・・この宿屋の主(あるじ)・・・が、家の中から飛んで出て来る。
 ドンキホーテ「運命の導きにより、わしはこの城にやって来た。わしはラマンチャの騎士、ドンキホーテ。憂い顔の騎士、だ。」
 押し殺された笑い。囁き声「シッシッ。馬鹿なことをするな。余計なことをしてみろ、折角の楽しみが台なしだ。」
 宿屋の主「仰せ、承りましてございます。憂い顔の騎士殿。ただ一つ、困ったことが・・・只今部屋が全部塞がっておりまして、騎士殿に御提供出来ますものは、ただ屋根裏部屋のみでございまして。」
 マリトールネス(手を拭きながら。)「行きましょう、旦那。私が連れて行って上げる。何がおかしいんだ。この人が病気なのは見れば分かるじゃないか。ほら、立っているのがやっとなんだ。」

 屋根裏部屋。どうやら見たところ、長い間飼馬小屋として使われていた様子。右の隅に、馬に被せる布と鞍で出来たベッドあり。左の隅には荒削りの四枚の板が二個のベンチの上に置かれてある。ベンチの高さ、不揃い。
 その板の上には藁で作られた煎餅布団。穴から藁の端が突きだしている。それに目の粗い粗末なシーツ。
 ドンキホーテは左の隅に寝かせられている。マリトールネスが彼の打ち身と擦り傷に膏薬を貼っている。
 マリトールネス「可哀相に。誰に殴られたの? こんなに。」
 サンチョ「殴られたんじゃないんだ、娘さん。岩から飛び降りてね、それだけさ。この人を殴るなんて、飛んでもない。仕返しが怖いんだから。」

 中庭では、廂の下で相談の最中。
 背の高い男「いいか、聞いてくれ。私は判事だ。いいこと思いついたぞ。こうすりゃ正義だとか何だとか言ったってあいつはもうぺちゃんこさ。」
 人々、囁き合う。
 ふくろうに似た男「違う。私の考えはこうだ。私は事務を扱ってきて、くたびれ果てている。金勘定、銭勘定でな。だから旅に出ると私ぐらい面白いことを考え付く男はいないんだ。騎士、あんな奴はやっつけてやらにゃ。こうすりゃどうだ? ・・・」
 人々囁き合う。
 女一「待って。私達の考えを聞いて。あのマリトールネスっていつでも一番素敵な男を捕まえるの。それに一銭も取らない。ただなのよ。」
 女二「私達商売あがったりよ。あいつに思い知って貰う時期よ、もう。あの人の今の恋人は騾馬曵き。あの騎士さんと同じ屋根裏部屋に泊まっている。だから私達・・・」
 人々、囁きかわす。大声で笑う。

 一方マリトールネス、屋根裏部屋でドンキホーテの包帯をし終わったところ。
 騎士、まどろんでいる。
 サンチョ「(囁き声で。)わしにも膏薬を少し残しておいてくれないか、娘さん。」
 マリトールネス「(囁き声で。)あんたも岩から落ちたのかね。」
 サンチョ「(囁き声で。)わしが落ちるわけがない! この人が落ちて行くのを見て、全身に震えがきてな。」
 マリトールネス「(囁き声で。)そうそう、あるわね。私もよく塔から落ちる夢を見る。そうしたらその日は一日中体が痛いもの。」
 轟音。
 サンチョとマリトールネス、驚いて振り向く。
 騾馬曵きが敷居の上に立っている。山賊のような顔の片幅の広い堂々たる体躯の若者。また轟音。ここでその音の正体が分かる。騾馬曵きが怒りのあまり床を足でドンとならしているのだ。
 騾馬曵き「お前、そいつとこそこそ喋ってるのか。」
 マリトールネス(微笑んで。)「あーら、馬鹿ね。やいてるわ。私、やいてもらうの大好き。意外だわ! あんたと私、いちゃいちゃだけじゃないんだわ。本当の愛よ、これ。神様、嬉しいわ。本当の愛を有難う。」
 轟音。
 マリトールネス「下に行ってなさい! 私もすぐ下に降りるわ。この人とそりゃ、こそこそ喋っていたわ。だってこちらの病人さんを起こしたら気の毒じゃない。さあ早く行って行って。でないと殴るわよ。足でじゃなくてげんこつでね。それに床じゃなくてその首の付け根をね。行きなさい!」
 騾馬曵き、むすっとして出て行く。
 マリトールネス「(囁き声で、優しく。)あの人、私が、相手が男でもへっちゃらでやっつけちゃうって知ってるの。勿論やきもち焼かれるのって嬉しいわ。でも男をただ甘やかすのも駄目なの。」
 サンチョ「それはそう。わしだって浮気などするような男じゃない。だけどあんたの囁き声を聞いているとまるで春の風だ。うっとりしてくる。」
 マリトールネス、げんこつを見せる。
 サンチョ(肩をすくめて。)「だけど本当のことは本当なんだから仕方がない。」
暗くなっている。
 ドンキホーテ、眠っている。
 サンチョ、ドンキホーテの足元、藁布団の上で鼾をかいている。
 突然トランプ賭博の四人の男が入って来る。足元を照らす役目は例の二人の女。手に蝋燭を持って、笑いを押し殺している。四人の男、ドンキホーテの(ぐらぐらしている)寝床を持ち上げて、右の隅の方に騎士もろとも運ぶ。次に右にあった鞍と馬衣でできた寝床を左の方に移動させる。

 下の方、中庭を、回廊の円天井から下がっている提灯が照らしている。食事をしたり酒を飲んだりしている者あり、女中と馬鹿話をしている者あり。中庭の真ん中では、ふくろうの顔をしたやり手らしい男、カスタネットを使って勇ましくファンダンゴを踊っている。彼のお相手を、売春婦の一人が務めている。トランプ賭博の男達はタンバリンをたたいている。やり手らしい男、肥満体で重い体にも拘わらず、踊りは正に名人芸。情熱が篭っている。突然(何かに驚いたように。)ぱっと飛び上がり踊りを止める。
 オーケストラも音楽を中断する。
 ふくろうに似た男「女がいろのところに行くぞ。」
 階段をハンカチで顔を隠してマリトールネスが駆け上がって行くところ。
 女一「さあ、続けて続けて、音楽を。でないとあいつに気づかれちゃう。」
 ファンダンゴ、再び始まる。
 ふくろうに似た男「鳩が子鳩のところへ行ったぞ。さあ判事さん、あの騾馬曵きを一分でも引き止めておいて下さい。その間に騎士殿、あの娘にかっか、かっか。」
 判事(騾馬曵きに。)「ちょっと、君! 君、ひどい騾馬を掴まされたんだってね。あまりひどくて、誰も借りようという客がいないって話じゃないか。」
 騾馬曵き「そうなんですよ、旦那。あんまりひどいんで、あいつの性質がこっちに乗り移って、こっちの方が悪魔になっちまいますよ。」
 判事「ちょっと坐って話そうじゃないか。話していると智恵が出るかも知れない。」
 ファンダンゴの音楽、速くなる。それにつれダンスも。全部が加速される。
 マリトールネス、屋根裏部屋に入る。右側の隅の方へ進む。そこには今はドンキホーテが眠っている。
 暗闇で手探りしているうちにマリトールネス、眠っている男の片手にあたる。
 マリトールネス「なんだお前さん、もうここにいるのかい? 私より早く来ているなんて。どうかしたの?あんたはまだ働いていると思ってたよ。言うことを聞かないからって騾馬にしつけをしているってね。あれ?どうしたんだい、お前さん。その抱き方。えらい怖る怖るじゃないか。」
 ドンキホーテ「伯爵夫人! わしはぶん殴られ、痛めつけられ、痛みで体が麻痺しとる。そちが来てくれた嬉しさもはっきり感じ取れないくらいじゃ。」
 マリトールネス「どうしたんだい、お前さん。丁寧が過ぎるよ。一体お前さんなのかい?」
 ドンキホーテ「丁寧が過ぎる? いや、わしには心に誓った婦人が他にいる。その人に身を捧げているんだ。だから痛みが止って正気に返れば騎士というもの、父としての抱擁しか許されはしないのだ。」
 マリトールネス「誰、この人? どうして私こっちの方に? 働き過ぎて、右手と左手の区別もつかなくっちゃったのかしら。ご免なさい、あなた。私、ベッドを間違えたらしいわ。」
 ドンキホーテ「行きたまうな、貴婦人殿。殴打された後、かくの如き柔らかき手の感触、なんと快いことか。なんと優しいことか。騎士の道義からすれば、女性が近づいて来ても断らねばならぬ身。しかし、どうか暫くお待ち下され。敵意、忘恩、その仕打ちのあと、優しさ、暖かさ。行きたまうな。お願い申す。わしはいつも唯一人。他はすべて敵だった。行きたまうな。」
 マリトールネス「行かないわ。」
 怒鳴り声。
 「浮気女め!」
 恐ろしい一撃がドンキホーテの頭上に落ちる。
 ドンキホーテ、大声を上げて飛び上がる。
 「トボーソのドゥルシネーヤ姫、いづこにありや。今お助けに参るぞ!」
 扉の外で足音。笑い声。
 サンチョ、目を覚まし、大声で叫ぶ。
 「火事だ。体が焼ける!」
 屋根裏部屋は、手に提灯を持ち、興奮している見物人達でいっぱい。
 大声で笑う声。
 半分裸のドンキホーテ、騾馬曵きと闘っている。騎士の両手には一本の剣。騾馬曵きは鞭。ドンキホーテ、女から愛を示され、打ち身、体の不調は全て治っている。鞭は一度たりとも彼の体に触れない。うまく攻撃を避け、飛び上がり、逆に攻めもする。
 やがて茫然としていたマリトールネス、我に返る。
 マリトールネス、騾馬曵きから鞭をもぎ取り、どんと押す。騾馬曵き、たまらず倒れる。マリトールネス、次に提灯を持って集まって来ている見物人に進撃する。
 「この人に指一本触れるんじゃないよ。さあ、行くんだ!」
 判事「でしゃばり女め。何てことをしやがる・・・」
 ふくろうに似た男「俺達に怒鳴るとはな。お高くとまりやがって。」
 マリトールネス、笑っている見物人に進撃する。見物人達、少しも陽気な気分をそがれることなく、階段の方に下がって行く。
 扉の向こうで笑い声、騒ぐ声。
 ドンキホーテ「サンチョ! 見たか、貴族の血というものの力を。伯爵の娘、この城の主(あるじ)の娘が、わしのために獅子奮迅の闘いを見せてくれたじゃないか。」
 サンチョ「旦那、あれは主の娘じゃありませんや。あれは女中ですぜ。」
 ドンキホーテ「お前もか! サンチョ。」
 サンチョ「全体、「お前もか!」とは何の話で?」
 ドンキホーテ「フレストーンの魔法にかかっているのだ、お前も。正気に返るんだ。この城は魔法にかかっているんだぞ。聞こえるだろう、扉の向こうのあのざわめき、囁き、悪魔の笑い! フレストーン! 覚悟はいいか。今度はこっちの攻撃だ! 一歩もひかんぞ。」
 騎士、両手に剣を持って、扉から突進する。しかしすぐさま倒れて、急な階段を真逆(まっさか)さまに落ちて行く。扉のすぐうしろに縄が引いてあったのである。
 笑い声の主達の手で、提灯があざけるように動く。
 ドンキホーテ(床の上に倒れたまま。)「騙されないぞ。わしは騙されない。悪い魔法使いなどに騙されてたまるか。わしは信じる。お前達すべて立派な人間なのだ。」
 ドンキホーテ、立ち上がり、二、三歩あるく。
 ドンキホーテ「わしは信じる。お前達すべて立派な、申し分ない人間なのだ。わしは心底・・・」
 氷水のはいった水差しが予めしかけてあって、騎士、それに触り、ひっくり返す。頭から足まで水びたしになる。
 ドンキホーテ「(悲しい声になって。)わしは心底お前さん方を愛している。騎士道の中でも最も成就しがたい武功、それはフレストーンに被せられたそのマスクの下に人間の顔を見つけることなのだ。しかしわしは見つける。必ず見つけるぞ。さあ(階段を)上がって・・・」
 (地下室への)昇降口が騎士の足元で開く。騎士、地下室に落ちる。
 地上では大歓呼。狂ったようになっている。宿屋の主は子供のように跳びはね、判事は女のようにヒイヒイと金切声をあげて笑う。二人の売春婦は、手にあたる人間誰とでも抱き合って、笑い過ぎて、力が抜けた状態。
 一方ドンキホーテは地下室で両手に抜身の剣を持ち、立っている。
 騎士、辺りを見まわす。
 壁にかかっている酒の入った革袋(複数)に気がつく。
 天井の昇降口から落ちて来るまだらな光で見ると、その革袋は、馬鹿な唇の厚い大男の、笑っている顔に見える。
 ドンキホーテ「なんだ貴様、ここにいたのか。わしの武功を笑うとは。大抵にしろ。いいか、小学生でも知っている真理を、このわしの口から説明しなけりゃならん。これがわしにとって楽な仕事だと貴様は思っているの
か。説明だけではすまない。時にはそれの為に闘わねばならんのだ。そうでもしなけりゃ、何も得ることは出来ない。分かるか。分からんだと? 貴様、相変らず笑っているな。くそっ、死ね!」
 ドンキホーテ、革袋に撃ってかかる。
 切り裂かれた袋から酒が急流のように流れる。
 ドンキホーテ、酒の中で、片膝をつく。よろよろしている。
 ドンキホーテ「助けてくれ、サンチョ。相手はやっつけた。しかしどうも具合が悪いんだ。サンチョ、サンチョ、何処にいる?」
 一方サンチョは中庭で空に届くほど舞い上がっている。浮かれてきた客達が毛布を使って彼を胴上げしているのだ。
 サンチョ「旦那! これじゃ死んじゃうよ。ふっ飛んじゃうよ。助けてくれ! 止めてくれ!」

 街道。
 ドンキホーテ、以前よりもさらに痩せた顔。その顔にペタペタ膏薬が貼ってある。サンチョ、青白く陰気な顔。二人が並んで進んでいる。
 ドンキホーテ「今となってはサンチョ、お前にも明らかだろう。あの城、あるいは宿屋は、実際魔法にかかっていたのだ。魔界の連中、我々をさんざん慰みものにしてくれおった。」
 サンチョ「わしも旦那の言うことに賛成して、喜んで貰えればとは思っているんです。でも、無理です。私を毛布で投げ上げたあの連中は、普通の、本当に普通の人間達なんです。」
 ドンキホーテ「普通の人間を悪く言うな!」
 サンチョ「いいでしょう。普通の人間を悪く言うのは止めましょう。私も嫌いですから。でも、普通の人間がやったことを幽霊のせいにするのもわしは反対です。あそこで大騒ぎした連中は人間、普通の人間です。普通の名前を持ったね。ペードロ・マルチネースだとか、テペールノ・エルナンデースだとか、宿屋のあるじだってギッチョのフアン・パロメケーって言うんですからね。魔法使いのフレストーンなんてあの宿屋にいるもんです
か。今わしを総督にさえして下されば、すぐにでもとって返して・・・」
 ドンキホーテ「黙れ!」
 サンチョ「はい。」
 二人、黙って進む。
 突然騎士の顔が明るくなる。両眼がいつもの閃きに満ちた輝きを持つ。得体の知れない二人の男が、潅木の茂みから道路の真ん中に飛び出して来る。二人とも騎士道物語の本にある通りのいでたち。一人は長く黒い顎髭で顔が覆われており、その髭が膝まで垂れている。もう一人は、仮面で顔が隠されている。
 サンチョ、唾をぺっと吐き、十字を切る。
 「あれで事はすまなかったか。一難去ってまた一難だぞ、これは。」
 仮面の男「(囁き声で。)床屋さん、あんたの出番だ。」
 床屋、つけ髭を道の埃につけるように膝を曲げ、ドンキホーテに低く御辞儀をする。仮面をした司祭、帽子を取り、恭しい姿勢を取り、そのまま止る。
 床屋「おお、勇敢なラマンチャの騎士、ドンキホーテ。この世で最も哀れな、最も不幸な王女をお救い下さいますよう。」
 サンチョ「驚いた! 髭を生やした王女とは。」
 司祭「名誉ある騎士、ドンキホーテ殿、それに負けずとも劣らぬ名誉ある従者殿、ここに王女はいないのでござる。某(それがし)、ここに控えし者、我々は、その使者なのでござる。」
 ドンキホーテ「立たれよ。わしは膝をついておられるのを見るとかえって苦しくなる。」
 床屋(立ち上がりながら。)「おお、騎士殿。音に聞こえたその名誉、音に聞こえたそのお腕前、それに縋(すが)ってお願い申す。どうか不幸な王女ミコミコーナをお救い下され。」
 司祭(こっそり手帳を盗み見しながら。)「王女は只今遠くエチオピアの地に。悲しみ、不幸、からなんとか
抜け出そうと、はるばる私共を使者として遣わしたのです。」
 ドンキホーテ「人間の力の及ぶことならば、いかなることでもお引き受け致そう。」
 司祭「おお有り難や、騎士殿。ではまいりますので、どうか私共のうしろにおつき下さいますよう。」
 野原の真ん中に、牛にひかれている荷車があり、それには大きな籠が載せてある。それは小鳥用でもなければ、犬猫用でもない。背の高いもので、人間が立っても楽に入れる大きさ。牛は眠そうに頭を下げ、反芻のため口を動かしている。
 ミコミコーナ姫からの使者達は、道路から野原の方へと進む。ドンキホーテ、後に続く。サンチョ、不安な気持ちながらロシナンテと彼の驢馬の轡をとって後に続く。
 籠のところまで来ると司祭、扉をさっと開ける。
 司祭「おお、勇敢なる騎士殿、ミコミコーナ姫は巨人に・・・その名もパンダフィラーンド・スヴィレプグラーズイ・・・に魔法をかけられている身。姫の身を解き放つ手段は唯一つ、勇者がこの籠に入り、姫にとりついた巨人の魔法を、勇者の方にとりつかせることなのです。」
 床屋「おお、騎士殿! どうかこの籠にお入り下さり、姫をお救い下さいませ。」
 サンチョ「長いことか?」
 ドンキホーテ「サンチョ、邪魔するな。」
 サンチョ「旦那、しかしこれは籠ですぜ。王女は王女でいいでしょう。でも籠に入るっていうのは冗談じゃありません。そうだ。ここにどれぐらい入っていればいいんだ。それを言え、エチオピア人!」
 司祭「籠に入った勇者はそこで暫く静かに横になって、運命の定めた場所に赴かねばなりません。この行為により始めて不幸な姫は恐ろしい龍の爪から逃れることが出来るのです。」
 サンチョ「フン、じゃ、書類を見せろ。」
 床屋「書類とは何の?」
 サンチョ「お前さん方が本当に姫から送られたエチオピアからの使者であるという・・・」
 ドンキホーテ、激怒してサンチョに槍を振り回す。あたかも目の前に自分の従者がいるのではなく、にっくき敵がいるかのよう。
 ドンキホーテ「ろくでなし! 娘が助けを請うている。それなのに何だお前は。書類など要求して。まるで王の下に働くこっぱ役人だ。」
 騎士、一跳びに籠の中に飛び込む。
 司祭「おお、これでこそ名誉ある騎士、勇敢なる騎士!」
 サンチョ「名誉。何が名誉だ。お前達が籠に入りゃいいことじゃないか。この豚野郎! 他人のふんどしで相撲を取るってやつだぜ。」
 床屋「さあ、出発。急げ!」
 荷車、ギイギイ音をたてながら道を行く。
 初秋の落ち葉がくるくると舞って道に落ちる。
 サンチョ「藁ぐらい下に敷いたらよさそうなものに。旦那、旦那、大丈夫ですか。尻が痛くはありませんか?」
 ドンキホーテ「馬鹿もん! わしの傍に寄るな。わしは魔法にかけられているんだからな。」
 荷車、ゆっくりと道を進む。

 夕方。
 焚火が焚かれている。
 牛が草原で草をはんでいる。
 ドンキホーテ、深皿から野菜スープを飲んでいる。籠の外でサンチョ・パンサが皿を支えている。騎士、檻の囲いの棒の間からスプーンを差し込み、端正な姿勢でスープをすくっている。
 サンチョ「旦那! わしは子供の頃から聞いていますがね、魔法にかけられた人間は、食べたり飲んだりしないんですよ。ああ、心配だ。旦那は魔法にかかっているんじゃなくて、わしらの武勲を喜ばない連中の計略に嵌まっているんじゃありませんか。」
 ドンキホーテ(静かに、確信をもって。スープを飲みながら。)「いや、サンチョ、わしは今魔法にかかっている。わしにはそれが分かる。何故なら、わしの心が落ち着いているからだ。こんな籠の中にただじっと坐っていても、可哀相な王女がこのわしの助けを必要としていると思えば、少しも恥じるところがない。この何年というもの、わしはこんな気分になったことがない。わしは魔法にかかっている。だからこのように食欲があり、子供のように落ち着いていられるのだ。」

 ドンキホーテ、籠の中で平和に、子供のように眠っている。
 牛は急ぐ様子もなく、ゆっくりと道を進んでいる。
 うっすらと寒い秋の朝。
 司祭と床屋、先を行く。
 サンチョ、籠の後ろをロシナンテと彼の驢馬をひいて行く。
 サンチョ「一体これはどうなってるんだ。わしも魔法にかかったのか。どう見てもこの景色、わしらの村に帰っているように見えるが。」

 この芝居の最初の頃出てきた屋敷の門。
 王女の使者二人、中庭に入る。
 牛がその後から入って来る。
 サンチョ、門のところで尻込みしている。
 扉が大きく開く。
 家政婦と姪、家から泣きながら、笑いながら、走って出て来る。ドンキホーテ、飛び上がる。籠の中で立ちつくす。顔が蒼くなる。恐ろしさで辺りを見回す。何も分からない。罠にかかった獣のようである。
 ドンキホーテ「王女は・・・」
 家政婦「ああ、旦那様、旦那様。ここに王女様などいはしません。ここでは日常の細々したこと、年寄りに相応しい事しかありはしません。どうぞ旦那様、お家にお入り下さい。ベッドでお休み下さい。寝室は暖めてあります。下着も奇麗に洗濯してあります。」
 姪「叔父さん、叔父さん。どうしてそんな顔をしているの。罠にかかったっていうような。私、私なのよ。叔父さんの大事な姪なのよ。叔父さんは何時でもよその人のことを哀れんでいらっしゃる。でもこの私も哀れんで頂戴。可哀相な孤児なのよ、私だって。」
 家政婦「さあ、早く。もうここに来て、ニコラースさん、司祭さん。手をかして!」
もう仮面も取り、仮装のマントも脱いだ司祭と、顎髭を取り去った床屋が、籠の扉を開け、騎士を脇の下に手をやって家へと導く。
 皆が家に入り、サンチョ一人となる。サンチョ、音が出るほど大きく息を吸う。
 サンチョ、ロシナンテの鞍を外し、他の馬具も取る。その後、ロシナンテを軽く叩いてやる。ロシナンテ、ゆっくりと自分の廐へと進む。
 再びサンチョ、溜息をつく。
 自分の驢馬にまたがる。
 「だから言ったんだ、「書類を見せろ」って。」
 サンチョ、自分の家の方へ向かう。
 一方ドンキホーテは台所の真ん中に坐っている。そこでは暖炉が赤々と燃え、近しい者達が彼を取り囲んでいる。
 家政婦「旦那様、旦那様。ああ、なんてお窶(やつ)れになったんでしょう。世界中の不幸を背負って、背中は曲がっておしまいですわ。それなのにまだこの世の中を正そうとしていらっしゃる。お休みなさいませ、旦那様。その弱ったお体を私達が治して差し上げます。もう決してこの家からお出し致しませんわ。」
 姪「叔父様、どうか言って、何か一言でいいから。だって私には世界中、叔父様しかいないのよ。」
 ドンキホーテ「暫くだったな、お前。話をしたいが、また後でな。ちょっと書斎に行かせてくれんか。少し読んで考えてみたいんだ。」
 ドンキホーテ、階段を上がる。
 全員彼の後について行く。
 騎士、驚いて立ちすくむ。
 書斎への入り口が消えている。
 壁、隙間のない壁、かって書斎への入り口があった筈なのに、その影さえない壁、が、騎士の行く手を遮る。
 騎士、両手で、まるで盲のように、壁に触れる。
 仲間の方を向く。
 ドンキホーテ「フレストーンが?」
 家政婦「さようでございます、旦那様。他に誰がこのような。あの不作法者、ここまで飛んで来て、さんざんガタガタ音をたてて、煙を出して、旦那様の大切な書斎を部屋ごと、それに本という本も全部攫って行きました。」
 ドンキホーテ「全部・・・」
 ドンキホーテ、ぐらりと体が揺れ、そのまま床にくずおれる。
 司祭と床屋、やっと間にあって両手を支え、倒れるのを防ぐ。

 ドンキホーテの寝室。
 冬の日。窓の外はみぞれ。
 騎士、ナイトキャップをかぶり、ベッドの中。以前より痩せて、青白い顔。ベッドの前に肘かけ椅子。そこに獅子鼻の、口の大きい、目が機敏に動く、若い男が坐っている。
 男、じっと、医者の目つきでドンキホーテを見る。
 「私が分かりますか。」
 ドンキホーテ「分からない訳がない。この村のバルトローメオ・カラースコの息子、サムソン・カラースコだ。お前さん、学生だったな。サラマーンカで勉強している。そうだったな?」
 カラースコ「共に貴方様の健康を喜ぶことにしましょう。私がいなければ、今も病気中の筈ですよ。私は学生時代に世界中のあらゆる科学的知識に興味を持ったのです。料理で羊の腿(もも)肉ににんにくをどっさり詰めるのがありますね。あれと同様、私は医学的新知識ってやつをうなるほど詰め込んで村に帰って来たのです。」
 ドンキホーテ「それでわしの病気の治療をしてくれたと?」
 カラースコ「姪ごさんに頼まれましてね、ケハーノさん。まあ、考えてもご覧なさい。現代の科学が証明つきで、血を取る日は偶数日に限ると分かっている時に、この村では、無教養の連中が、貴方の血を奇数日に取っていたんですからね。その正確な放血のお陰で、貴方の血の密度は薄くなった。即ち理性が戻って来たという訳です。勿論今となってはこの家を出てどこかへいらっしゃろうなどとは決して・・・」
 ドンキホーテ「わしは行く。健康が戻ればすぐ。」
 カラースコ「ケハーノさん!」
 ドンキホーテ「一日回復が遅れれば、一日分の損害を全世界に与えることになる。」
 カラースコ「学位を持っている人間の話を少しは聞くものです、ケハーノさん。遍歴の騎士の時代は終わったのです。すんで、死んで、もう気も抜けてしまっているんです。新しい時代が来ているんですよ、ケハーノさん、新しい。西暦一六0五年なんです。馬鹿なことを言うのは止めにしましょう。」
 ドンキホーテ「その現在の今の年だろうが、一年前だろうが、その前の年だろうが、いや、百年前だって構わん。不幸な人間が助けを呼んでいるのだ。そして幸せな人間はそれに耳を塞いでいる。その中でただ我々、遍歴の騎士のみが・・・」
 カラースコ「それが何人いるとおっしゃる。」
 ドンキホーテ「そんなもの、数えるのがわしの仕事じゃない! わしの仕事は闘うことだ。」
 カラースコ「ここから出させはしませんよ、ケハーノさん。そう、決して決して出させはしません。最近の科学で分かったことは、気違いに対しては、厳しく処さねばならないということですからね。門にも閂をかけます。私は番犬のように貴方から目を離しません。いいですか、あの気違いのドンキホーテから、優しい紳士のケハーノさんを私は守るのです。」

 春の夕暮れ。
 騎士の寝室の窓の下に、古い巴旦杏(はたんきょう)の木あり。花が満開である。花の枝が窓を覗いている。
 ドンキホーテ、木の後ろに隠れているサンチョと話をしている。
 巴旦杏の花の後ろから赤くて幅の広い従者の顔が見える。
 ドンキホーテ「サンチョ、わしはもう待ってはいられない。このまま旅に出ないでいればわしはもう気違いになるぞ。」
 サンチョ「分かりますよ、旦那。わしだって・・・腹は出っぱっとるし、馬鹿なこのわし、それでも春が来ると、家にじっとしちゃいられないでさあ。毎日毎日同じことの繰り返し。毎日毎日、ぴったり同じ、ぴったり同じ場所、この顔のここのところをぶん殴られる。旅に出た時だって、殴られはしましたぜ、そりゃ。だけど少なくとも同じ場所を殴られはしませんや。」
 ドンキホーテ「魔法のせいか、それともわしの良心がうずくのか、わしには分からないのだがな、サンチョ、毎晩わしに不幸な人間どもが、助けを呼びに来るのだ。」
 サンチョ「つまり、(不幸な人間どもは)大変困っているのですね。」
 ドンキホーテ「明日、夜明け時に門のところまで驢馬で来るんだ。偶々やって来たというようにな。」
 サンチョ「分かりました、旦那!」
 サンチョ、巴旦杏の花の後ろに消える。

 真夜中。
 空には満月。
 花の咲いた巴旦杏の木の枝の影が、床、壁にはって、動いている。丁度その様子は、まるで生きている何かが、騎士の寝室に入り込むかのよう。
 騎士は眠っていない。目がらんらんと輝いている。耳をすませている。
 突然、風のざわめき、枝のサラサラいう音に混じって、明らかに溜息と分かる音。
 騎士、身を起こす。
 「誰だ。」
 「哀れな老人です。借金のせいで家を追われ、今日は犬小屋で寝ています。年をとって、体がひからびて、子供のように体が小さくなっています。誰も私のことをかばってはくれません。」
 呻き声。
 ドンキホーテ「誰だ、そこで泣いているのは。」
 「騎士さん、騎士さん。許婚者が婚約指輪を買いに出かけた留守に、人買いが私の部屋の鍵を壊して入って来ようとしているの。私、売られて行くわ。騎士さん、騎士さん!」
 ドンキホーテ、寝床の上に起き上がる。
 子供達の声。
 「騎士さん、騎士さん。僕達、人喰いの大男に売られてしまったよ。僕達あんまり痩せているから、まだ大男は食べないで、仕事をやらせているんだ。糸を紡いだり、はたを織ったり。それでご褒美はただ一つ、「フン、よく出来た。今日は食べないでおこう。明日まで生かしておく。」これなの。騎士さん、助けて!」
 ドンキホーテ、飛び上がる。
 鎖の音。
 陰欝な低い声。
 「声を出す力もない。わしらは無実だ。故なくして閉じ込められている。自由なる人間よ、わしらのことを忘れるな。わしらは手にも枷、足にも枷なのだ。」
 鎖の音。
 「聞こえるか。お前らは自由、わしらは手にも枷、足にも枷なのだ。」
 鎖の音。
 「お前らは自由。わしらは手にも枷、足にも枷なのだ。」
 ドンキホーテ、敷布団の下を探る。
 鍵の束を取り出す。
 隅にあった長持ちを開ける。
 そこには彼の騎士用の甲冑が光っている。

 夜明け。
 ドンキホーテ、すっかり騎士の身支度を整えて、窓の傍に立っている。
 銅の床屋用洗面器が灰色の髪の上にのって、輝いている。
 ずっと遠くの方から、馬のいななきが響く。
 ドンキホーテ(小さな声で。)「行くぞ、ロシナンテ。」
 ドンキホーテ、窓の敷居をまたぐ。
 両手で窓にぶら下がり、庭に飛び降りる。
 大股で、しかし音もなく走り、廐へ向かう。
 鞍のついたロシナンテにまたがり、廐から出て来る。
 馬を門の方に進める。と、突然大声が響き渡る。
 「そうはさせんぞ! 皆出て来い!」
 垣根の傍のベンチから、サムソン・カラースコが飛び出て来る。彼はマントに身を包み、そこで眠っていたのだ。
 カラースコ「(陽気に。)旦那! 旦那も頑固ですがね、この私も頑固なもので。皆出て来ーい。」
 ドンキホーテ(槍を振り回しながら。)「そこどけ!」
 カラースコ「旦那! 知り合いを殺すなんて。子供の時からのお付き合いじゃないですか。皆出て来ーい。」
 叫び声。
 「叔父さん! 叔父さん! 旦那様、旦那様。」
 家政婦と姪、家から走って出て来る。騎士の膝に縋り付く。
 「私を殺さないで、叔父さん。旦那様、御身をもっと大切に。」
 騎士、頭を下げる。
 サンチョ、驢馬に乗って駆け付ける。屋敷の高い垣根ごしに、起こっている事を眺める。
 サンチョ「終だ。これじゃ、どこへも行けない。巨人なら何とか切り抜けられるのだが、いかんせん、身内のものじゃなあ・・・」
 家政婦「旦那様、旦那様。さ、お家に入りましょう。朝早くて寒いじゃありませんか。それに、こんな年でどこへいらっしゃるというのですか。入りましょう。しぼりたての暖かい牛乳を入れますよ。それを飲めば、もうすっかりこんなことお仕舞いですよ。」
 カラースコ「本当ですよ。さあ、ケハーノさん、入りましょう。」
 ドンキホーテ、身動きせずつっ立っている。
 カラースコ「何を待っているんです? 奇跡でも起こるかと? 一六0五年には奇跡など起こりはしません。おやっ? あれは何だ。」
 喇叭が轟く。
 しゃがれた声が門の向こうから叫ぶ。
 「どこだ。かの人物の住みかは・・・かの人物・・・えー、音に聞こえた、えー、・・・ラマンチャの騎士・・・ドンキホーテの。」
 サンチョ、鞍から飛び降りる。
 「ここでーす、皆さーん。ここがその人の住みかでーす。ああ、丁度よい時に来て下さいました!」
 屋敷の門、ギーっと音がして開く。
 門の後ろにサンチョ。
 陰気な疲れた騎馬の一隊・・・先頭に白髪の、気難しい顔をした士官・・・が、ドンキホーテの屋敷の中庭に入って来る。
 サンチョ「ここでーす。ここでーす。誰かの力になってやる必要が生じたんですね。魔法使い達、いや、巨人達とかな? もめごとになったんでしょう。言わないこっちゃない。長いこと家にい過ぎたんです。わしらは丁
度人類の敵達に闘いを挑もうと出かけるところだったんです。」
 士官「待つんだ。それよりバケツに一杯水をくんで、この馬に飲ませて欲しい。あなたですかな、ラマンチャの騎士、ドンキホーテとは。」
 ドンキホーテ「そうだ、わしだ、士官殿。」
 士官「えーと、えー、・・・ええい、くそっ。こういう要請は今までやったことがないんだ。素晴らしきご婦人が汝に懸想(けそう)なされ、この屋敷に立ち寄る許可を求めておられる。こら、動くな。この・・・(これは馬に言っている言葉。)静かにせんか。そうでなくとも(こんな仕事は厭で厭で)たまらんのだ。(これも馬に言っている言葉。)で、ご婦人には何とお答えなさる。」
 ドンキホーテ「承知つかまつった!」
 士官(喇叭吹きに。)「馬鹿たれ。早く吹くんだ。」
 喇叭吹き、吹く。すぐに中庭に、ゆっくりと馬に乗った婦人が入って来る。その馬は雪のように白い。但し少し泥が跳ね上がってはいるが。鞍は銀で出来ており、馬具は緑色。お伴は非常に大勢いる。
 婦人はヴェールを上げる。すると我々はそれがあの素晴らしいアリチシドーラであることが分かる。
 ドンキホーテ「わしをまたからかいにやって来られたか。」
 アリチシドーラ「今はそれどころではありません。この村に来るまでの道と言ったら、それは大変だったもの。でも忘れましょう、そのことは。愛が女を駆り立てて、このような最悪の旅をも我慢させたのだから。」
 喇叭の音がすでに村中を起こしている。
 中庭は人で一杯。司祭と床屋も息を切らして駆け付けている。
 アリドーンサ(自分の連れ、元気で頑丈な若者に。)「あの人がトボーソのドゥルシネーヤ姫なのかしら。」
 若者、全く顔の表情は変えずに、返事の替わりにアリドーンサを抓る。
 アリチシドーラ「ドンキホーテ様、私は貴方様の勇気と誠実を大公様にお話したのです。大公様はご自分の目で、名も高きその騎士殿に会いたいと仰って、私をお遣わしになったのです。大公様のお城ではみんなで貴方様をお待ち申し上げておりますわ。」
 カラースコ「なんという話!」
 司祭「そんな無茶なことを、奥様!」
 床屋「三日前に放血をやったばかりなんですよ。」
 アリチシドーラ「大公様の御希望は法律も同じです。もし命令がきかれないとなれば、これら騎馬の者達、力づくでもということに。ドンキホーテ殿、ご返事は?」
 ドンキホーテ「行くぞ、わしは!」
 光り輝くアリチシドーラとそのお伴、ドンキホーテとサンチョと共に消える。
 カラースコはむっとした表情で、拳を握り締めながら見送る。
 カラースコ「旦那をどこに連れて行こうと、必ず連れ戻して見せる。サラマーンカの私だ。こんな冗談をそのままにしておけるか。泣かないで、どうか。姪ごさん!」

 ラマンチャの騎士、ドンキホーテと光り輝くアリチシドーラは、並んで進む。堂々たるお伴の者達を後に従えて。
 サンチョは金ぴかのきらびやかな騎馬の一隊から少し遅れ、埃の雲の中、驢馬を、踵と肘で急がせながら、小刻みなだく足でついて行く。
 突然、前方を行く騎馬の一隊が止る。馬は手綱のいう事を聞かず、耳を立ててあとずさりする。光り輝くアリチシドーラの馬も怖けずいて、後足で立つ。
 道路の向こう側から、小さい旗(複数)で飾られた荷車がやって来る。荷車の上に大きな箱がのっており、箱は蓆(むしろ)で覆われている。
 この箱は重く、騾馬十二頭でひかれている。二列に六頭づつ。それでも辛そうにやっと動いているという様子。突然その謎めいた箱の中から、力強い叫び声が響く。
 馬達、驚いて皆後脚で立つ。例外はロシナンテ。誇り高き平静を守って、そのままの姿勢。
 アリチシドーラ「馬曵きよ、その荷車は誰のものか。また、その中に何を運んでいるか。」
 馬曵き「荷車は私自身のものでして、はい。荷物は箱で、その中にライオンが。オランの知事殿が陛下へとの贈り物でございます。」
 アリチシドーラ「蓆を上げよ。」
 馬曵き「かしこまりました。」
 馬曵き、ござを上げる。
 箱の太い檻の中に、巨大な獣が横になっていて、目を細めて外を、軽蔑するように見る。馬達、皆あとずさりする。但し、ロシナンテは例外。
 サンチョ、やっと自分の主人に追い付く。
 サンチョ「こりゃ驚いた。また騙されて箱の中に入った奴がいる。おい、馬鹿。お前さん、どこの王女を救おうとしたんだい?」
 ライオン答えて、煩さそうに低く唸る。
 アリチシドーラ「立派な獣だ。そうだ、ドンキホーテ殿、貴殿の勇気を我々に示すよい機会だ。このライオンと闘って欲しい。」
 サンチョ「そんな無茶なことを、奥様。うちの主人はそうでなくとも逸りたつ男なんです。どうか、心を静める方に回って下さい。」
 アリチシドーラ「心配はいらぬ、村の男。騎士なるものの気質は私の方がよく知っている。女性のこととなるとすぐかっときて我を忘れる。ライオンの爪で少し目を覚ました方が良いのだ。さあ、どうなるか。始まり、始まり。」
 そう叫んでアリチシドーラ、馬に拍車をかけ、疾風のように遠くに退く。光り輝く騎馬の一隊もえんどう豆がはじけるように四方に散る。
 馬曵きもいなくなる。
 サンチョ、溝に這って逃げる。
 ドンキホーテ、槍をさっと動かし、檻の扉を閉じている掛け金をはずす。
 扉開く。
 ライオン、出口の敷居に立つ。
 じっとドンキホーテを見る。
 サンチョ、溝から覗く。恐ろしさに体を震わせて成り行きを見守る。
 ドンキホーテ「どうだい、君? このスペインで独りぼっちのようだね。」
 ライオン、吼(ほ)える。
 ドンキホーテ「わしも独りぼっちなんだ。お互い気持ちはよく分かるな。しかし運命というものは残酷なものだ。我々はどちらか死ぬまで闘わねばならぬ。」
 ライオン、吼える。
 ドンキホーテ「有難う、有難う。これでわしもすっきりした。これで病気になっていた時は、わしも随分いろいろ考えたものさ。子供達だって問題をやる時、何度も間違いをやる。書いては消し、書いてはまた消す。最後にやっとなんとか正解が出来るのさ。わしが武功をたてる時だって同じだ。大事なことは、なげないこと、騎士道からはずれないこと、それに卑怯未練にこそこそと隠れないことだ。一つ一つと武功を積み重ねる。するといつかこの世界が見違えるようになるのだ。さあ、出て来い。始めよう。あの甘やかされた、気違い女に教えてやるのだ、この世にはまだ、名誉も献身も存在するということを。そうすればあの女だって少しは分かるだろう。さあ、決闘だ。出て来い!」
 ライオン、一声吼えて、ゆっくりと扉から出て来る。前脚で堂々と十字の形を作り、(闘いは止め、という意味か。)後向きになり、檻に入る。
 この瞬間にサンチョ、蛙のように溝から飛び出し、檻の扉に走りよる。扉を閉め、掛け金をかける。
 サンチョ「決闘なんて、旦那。あのライオンだってちゃんと分かってるんですよ。この世の終が来たってあんな女に何も分かる訳がない。我々の武功があの女に何の効き目があるっていうんですか。(叫ぶ。)エイ、エイ、オー。勇気だ。勇気だ。危険は去ったぞ。さあ、これからはもう一つ異名が出来たぞ。「憂い顔の騎士」の他に、「ライオンの騎士」だ。」
 再び華麗なる騎馬の一隊、道を疾駆する。

 黒いビロードのクロスがしいてある机の向こうに、大公と大公妃が坐っている。
二人とも若い。ちょっと顔色の青白さが目立つ。美男に美女。度をこした真面目さ、それに控え目な表情。笑い声をたてることはなく、せいぜい微笑む程度。大抵は優しい表情。時々稍蔑むような表情。まれに陽気になることあり。大声で話さない。どんな言葉でも彼らから発せられれば、人は熱心に聴くことを知っているからである。
 二人の前の机の上に書類がのっている。
 侍従長が恭しく大公の命令を聞いている。
 大公「祭日は陽気に、華麗に、祝わねばならぬ。用意するものを言う。棺(ひつぎ)、蝋燭、喪(も)のための掛け布。」
 侍従長「かしこまりました、大公様。」
 大公妃「葬送のためのコーラスをお忘れですわ、あなた。」
 大公「そうそう、コーラスを忘れていた。有難う、お前。楽しみは大きくして楽しまなければ。(書類をめくる。)悪いニュースにはもう飽き飽きだ。大麦の種を蒔いたと思うと雹(ひょう)が降ってくるし、奴隷と胡椒を積んだ、大砲を充分に装備してある我が輸送船は、海賊に乗っ取られるし、領地の森の鹿はきれいに密猟者に取られてしまうし。こんな中で慰みといったら、あの新しくやって来る道化のことしかないな。」
 大公妃「そうですわ。真面目な道化は楽しめますわ。真面目であればある程。子供と同じ。でも子供を揶うわけにはいきませんもの。可哀相ですからね。」
 大公「あの道化は、慰みにと、神様が与えて下さったものだ。おもちゃと同様にな。だから充分楽しむということは、また神意につながるのさ。」
 侍従長「有難うございます、大公様。道化については、私共はいつもそのように考えております。大公様が、今のお言葉のようにそれを後押しして下さるとは。」
 大公「宮廷のものたちを入室させよ。それから客人を呼べ。」
大公夫妻のうしろに、宮廷の懺悔僧が現われる。大きな体格。しかし痩せた顔。粗野な顎。広い額。大きな目。
時々その大きな目を閉じるが、それはあたかもこの世の愚劣さを見るのが我慢ならないといった風。また時に宙を見つめて、唇を動かすことがあるが、それが祈っているのか、呪いの言葉を吐いているのか不明。
 宮廷の人達、御辞儀をして登場。
 一同、無言。
 全員起立している。微動だにしない。教会でのように真面目な顔。
ゆっくりと、繻子とビロードの服を着た小人が入って来る。肩には短いマント。腰には剣。大公夫妻と同じように、あるいは宮廷人と同じように、真面目に、また退屈そうに、後に控えている。
 小人「(小さな声で。宮廷人一に。)金をくれ。さもないとお前の悪口を言いふらすぞ。」
 宮廷人一(唇のはじから。)「金集めが急に忙しくなったな。新しい道化が来たらお前さんお払い箱だからな。」
 小人「新しい道化など怖くはない。所詮道化が出来る話などこの世で三つしかないんだ。内臓に関する冗談、他人の欠点を仄めかすこと、女性のいやらしさを誹謗すること、この三つさ。」
 小さい鐘の音が響く。
 侍従長(来客を告げる。)「誉れ高きラマンチャの騎士、ドンキホーテ殿、そしてその従者、サンチョ・パンサ殿。」
 アリチシドーラ、ドンキホーテを導き入れ、席につかせる。それから脇の宮廷人達に加わる。その位置からアリチシドーラ、じっと大公夫妻の顔を見つめる。彼女一人のみではない。他のすべても夫妻が客をいかに扱うか、緊張の面持ちで眺めている。
 例外は小人。小人は片眼鏡を取りだし、その道の通がそうするように、注意深くドンキホーテを観察する。
 大公「素晴らしい。道化じみた所は何一つない。」
 大公夫人「それからあの目つき。罪のない、女の子のような。」
 サンチョ登場。不安そうに辺りを見まわす。
 大公(サンチョを見て。)「自然まさに自然。」
 大公妃「生き物そのもの。」
 大公「誇り高き騎士殿、よくぞはるばるおいで下さった。名誉に思う。ここは城といってもはずれにある城、むづかしい儀礼は省略だ。宮廷の者達、それぞれに客人のお相手をするように。」
 宮廷の女一(サンチョに。)「あの、従者さん。あなた、何か落ち着かないご様子ね。」
 サンチョ「はい、落ち着かないです。」
 宮廷の女一「私に何かお手伝い出来ませんかしら。」
 サンチョ「勿論やって戴くと助かります。わしの驢馬を廐に引いて行ってもらえませんか。」
 宮廷人達の間に動揺あり。押し殺した笑いのようなもの。
 ドンキホーテ「(脅すように。)サンチョ!」
 サンチョ「旦那! わしは驢馬を中庭の真ん中に置きっぱなしなんです。あのあたり、宮廷の人達がいっぱいうろついていたんです。前にも一度盗まれたことがあって・・・」
 大公妃「心配はいりません、従者殿。驢馬は私が責任を持ちます。」
 サンチョ「有難うございます。ただご注意申し上げますが、あいつはくつわを横からすぐ取らなきゃいけません。尻尾の方から近づくと、必ず蹴ります。」
 以前よりはっきりした笑いの反応。
 ドンキホーテ(立ち上がって。)「殺すぞ、この・・・」
 大公「いや、騎士殿、このような素朴な人物は大切にしなければ。ここらでは、なかなかお目にかかれない。さあ坐って、騎士殿。今までになし遂げられてこられた武功の数々、(お疲れであろう。)ここらで少しお休みになられたら。」
 ドンキホーテ「いや、とんでもないことでございます、大公殿。わたくしは力を惜しまず努力をしてきました。しかしこのスペインは、未だに乞食、無宿人でいっぱいです。また村は荒廃しています。」
 軽い動揺。宮廷人達、注意深く大公を見る。しかし大公は表情を変えず、穏やかに微笑んでいる。
 大公妃「騎士殿、旅でのこと、村でのことを暫くお忘れ下さい。ここはお城、伺候している者達は皆あなたの仲間。それより話して下さいませんか、何故この素敵なアリチシドーラの申し出、意中の人となりたいという申し出をお断わりになったか。」
 ドンキホーテ「わたくしの心は既に永遠にトボーソのドゥルシネーヤ姫に捧げてあるのです。」
 大公妃「トボーソには人をやって調べさせました。あそこにはそういう名前の女性はいませんでした。実在するのですか、その人は?」
 ドンキホーテ「それは神のみの知るところです。このような事柄については、真実はどうだとあれこれほじくるものではありません。わたくしには彼女は理想の女性として、はっきり見えています。そしてわたくしは、誠実にこの女性に仕えているのです。」
 大公「貴族の出なのですね。」
 ドンキホーテ「ドゥルシネーヤは平民です。」
 大公「有難う、騎士殿。こういうのを本当に楽しい会話というのだ。我々は貴殿の口にした言葉一つ一つをすべて信じた。これは我々のような地位にある人間にとって実に珍しい。」
 大公の懺悔僧、あたかも地上で起こった罪深い出来事を怖れ、急に目を覚まし、天から降りて来たかのように
飛び出して来る。そして黒いクロスのしいてある机の前で止る。
 懺悔僧「大公殿、このドンキホーテなる人物、馬鹿、道化なりとのふれこみにて来たる者なれど、決してそのような者ではありませぬ。この者の言いよう、いちいち教会の掟に反するものなれば、その儘聞き捨てるとあらばその過ちを奨励することになりまするぞ。」
 大公、懺悔僧の台詞をいつもの優しい、微笑をもって聞く。ただ、その他の宮廷人達は全て、教会にいるかのように立っており、神妙な態度をとり、こっそり仲間の者達と目配せをしている。
 懺悔僧、ドンキホーテの方に再び向く。
 懺悔僧「貴殿は自分が遍歴の騎士なりと名乗っておるが、誰がそのようなことをその頭に吹き込んだのか。ラマンチャは貧乏な町、一寸法師を食わせるのもままならぬというのに、そこでどうやって巨人を捜し出せたのか。この世をなすこともなくぶらついてよいと、誰が許可を与えたというのか。お人よしの人間をその戯言(たわごと)で当惑させ、賢明なる人間を(その晦渋なる言葉で)けむにまく。(何たるけしからぬ行動か。)さあ、すぐに故郷に帰るのだ。分かりもせぬことに嘴(くちばし)を入れるのは即刻やめにし、年貢を取り立て収支を合わせるという自分の仕事をやっておればよいのだ。」
 ドンキホーテ「ここは大公殿、大公妃殿の御前でござる。只今のような無礼な言葉にそのまま無礼な返事は、残念ながら出来もうさぬ。欲得の道を行く者あり。これを非難されたことがおありか。また阿諛追従を事としている者あり。彼らを叱責したことがおありか。また虚偽を述べ、詐欺を事としている者あり。それを暴(あば)いたことがおありか。かくの如き者達を見過ごし、ただ小生を見る時にのみ我慢ならぬとは何事であるか。非難さるべき者、叱責さるべき者、暴(あば)かれるべき者、それは今お話したやからではないのか。虐げられた者達を救い、真理のために闘い、悪を罰するこのわたくしを、即刻故郷に返そうとなさる。それも年貢のために、収支を合わせるために。何のつもりか、年貢とは。わたくしには年貢など今やありもしない。お気をつけになったがよかろう、聖職者殿。世俗のことなどわたくしは意に介しはしない。しかし名誉となると話は違います
ぞ!」
 懺悔僧「悔い悛(あらた)めるという気持はないのか、この男には!」
 懺悔僧、大股でドスンドスンと退場。
 宮廷人達、顔を見合わせる。微笑みが浮かんでくるのを抑えている顔。用心深くお互いに目配せはするが、敬虔で控え目な表情は保つ。
 大公「御立腹なさるな、騎士殿。我々、そしてここに控えおるものすべて、貴殿の御意見に賛成である。さあ、御逗留頂く御部屋へと御案内つかまつろう。」
 ドンキホーテ、その言葉に感謝し、有り難く御辞儀をする。サンチョも横目で騎士をちらちら見ながらそれに倣って御辞儀をする。
 大公「サンチョ、聞くところによれば、貴殿は総督になりたいとのこと。」
 サンチョ「おお、大公様、なんというお耳の早さ。でもその大公様という地位、御注進、御注進と何処からでも御注進。お耳の早いのも無理はない。たしかに的の真ん中、図星でございます。わしは出来ればなんとか、総督の地位をと願っておりました。」
 大公「サンチョ・パンサ殿に島を一つ与えるように。すぐさま手続きを。」
 侍従長「かしこまりました、大公様。」
 大公「では私のあとを、騎士殿、総督殿。」
 大公、部屋へと案内する。
 大公、ドンキホーテと並び、大公妃はサンチョと並んで、退場。
 宮廷人達、二列に並んで後を行く。
 宮廷人一(小人に。)「あの新しい道化の冗談はなかなか新しみがあったじゃないか。お前さんのより効き目があったぞ。その地位も危なくなってきたな。」
 小人「あいつは道化じゃない。言ったことはみんな大真面目だ。だから、お前さん方馬鹿とは一緒に長くは暮らせはしない。(だから俺は安心さ。)」

 明るい太陽の光。陽気な鎚(つち)の音。狭い通り。通りに面して金属を扱う小工場。これはまた、小売店にもなっている。色々な金属製品を作り、売っているのである。
 竿がかかっており、それに銅製の金だらい、金属性の鏡、皿、水差しなどがぶら下がっている。
 主人が働いている。痩せた、歯の全く抜けた、しかし非常に陽気な男である。その傍で、見習工達が鎚でガンガン音をたてている。
 肥った馬が傍の柱に繋がれていて、鎚を鳴らしている人間を不安そうに横目で見ている。
 馬の持ち主は、籐の椅子に坐って、自分の頼んだものが出来上がるのを待っている。
 サムソン・カラースコである。拍車つきの長い編み上げ靴、手には鞭を持っている。
 店の主人と見習工達は、全員一つのことにかかっている。騎士の甲冑の調整である。
 主人「お客さん、いいですか、言うと驚くようなことをお話しましょうか。」
 カラースコ「聴こう。」
 主人「この甲冑をどこで手に入れたか、私は知ってますぜ。サラマーンカに学生のお友達がいらっしゃるんです。その人が牧師さんを相手に、さいころで一勝負、甲冑を巻き上げたんです。その牧師さんは、古いものを集めるのが趣味の人でね。(大声で笑う。)図星でしょう?」
 カラースコ「分かって当たり前じゃないか、その友達がここの土地のものなんだから。そいつだよ。あんたのところへ行けと教えてくれたのは。じゃあ、これは当てられるかな。この楯をどこで手に入れたか。」
 主人「知り合いの役者に貰ったんでしょう。(大声で笑う。)だけど、どうも分かりませんな。堂々たる学士様じゃありませんか。それが何故騎士の鎧、兜などを。カーニバルにはまだ遠いですぜ。」
 カラースコ「陽気な人間にとっちゃ、毎日がカーニバルでね。」
 主人「ちょっと失礼。着てみて下さい。(カラースコに鎧を着せる。)さてと、腕の付け根、ここが少し引 張りますな。つけかえましょう。(鎧を脱がせ、大声で笑う。)」
 カラースコ「その笑いはどういう意味かな?」
 主人「狙いは何だろうと思いましてね。私はこういうことにかけては目から鼻に抜ける男でして。それどころじゃありませんや、鼻からまた歯に抜ける。その証拠に、ほら、歯なんぞ一本もありませんや。ま、実はこれはあっしの女に友達がキスをしていやがって、水をぶっかけてやったら、怒ってね。それで殴られて抜けたんだが。いい奴でしたよ。(大声で笑う。)いいでさあ、陽気なのは。」
 カラースコ「何ですか、あの連中は。皆、えらい勢いであっちの方へ掛けだして行ってますね。」
 主人「広場ですよ。今日、我々の総督殿が到着なさるんです。」
 カラースコ「総督? こんな小さな町で、総督?」
 主人「それが、バラトーリアは小さな町じゃないんですよ。」
 カラースコ「ほう。じゃ、何なんだね。」
 主人「島ですよ。はっはっは。勿論ここへは陸つづきで来られましたね。そんなことは関係ないんです。うちの大公のことをご存じないからお分かりになり難いでしょうが。とにかく、その大公からの御命令ですからね。この町は島なんだと。そうなりゃ、話は終。ここは島なんです。」
 カラースコ「なるほど。その大公っていう人がどういう人物か、およそ想像がつくなあ。」
 主人、見習工達、一緒になって笑う。突然、嬌声、口笛、騒音で、この笑い声が中断される。主人、急に立ち上がる。
 主人「子供達が走っているぞ。あいつらの目で見て面白いことが何かあるんだ。」
子供の陽気な一団が、叫び声を上げながら通り過ぎて行く。
 「総督だぞ、すげえ!」
 「俺達のかしらになって貰おう。」
 「あの調子なら退屈しないぞ。」
 主人「おい、ちょっと待て。何が起こったんだ。」
 年長の子供「言ったら、いくらくれる?」
 主人「こっちにだって分かってるんだ。金なんか出すか。総督が来るんだろう。それで何がニュースなんだ。」
 年長の子供「じゃ、何に乗ってる?」
 主人「馬車だろ? 馬? じゃ、輿(こし)に?」
 子供達「言うんじゃないよ。ただで聞き出そうってんだ。行こう。」
 口笛、騒音、と共に子供達退場。
 カラースコ「総督の名前は?」
 主人「サンチョ・パンサ。」
 カラースコ「さあ、広場に行こう。一方は見つけた。もう一方もすぐだぞ。」

 広場に宮殿が聳えている。あまり大きくはないが、そう小さくもない。旗(複数)が塔に翻っている。召使い達が宮殿の、高く、幅の広い階段つきの玄関で待っている。群衆が広場に既に集まっている。総督が通る道を一本開けて。
 大公の侍従長が玄関に立っている。ハンカチを振っている。喇叭が鳴り響く。鐘が鳴る。この時までに群衆に小工場の主人とサムソン・カラースコが加わっている。
 叫び声「総督殿、万歳!」
 ところがそこで、総督その人が隅っこから驢馬に乗って登場する。群衆驚いて沈黙する。二、三秒間、沈黙が続く。それから大爆笑。
 この間にサンチョ、広場の真ん中に辿り着いている。人のよさそうな微笑みを浮かべて、爆笑している人達を眺める。片手を上げる。
 群衆、沈黙する。
 サンチョ「諸君、有難う! 総督が涙で迎えられたのでは、これはいかん。諸君は笑ってくれている。つまりわしが気に入ったんだ。」
 そうだ、そうだ、というどよめき。
 サンチョ「総督が驢馬に乗っている。これはおかしい。しかし、驢馬を総督に据えたとしたら。これは笑い事じゃない。(註 驢馬はロシア語では馬鹿の代名詞。)」
 笑い声。陽気などよめき。
 サンチョ「わしが何故驢馬に乗るか。それを説明しよう。何故なら驢馬は背が低いからだ! 馬に乗っていたら、諸君の不平、訴えも、あるいは聞こえないかも知れない。ところが驢馬なら、これは歩いているのとたいして違いはしない。同じ高さだ。ここにわしがいて、ここが地面。諸君はそこだ。そうだろ、諸君?」
 叫び声「総督殿、万歳!」
 サンチョ「有難う、諸君。今日はこれまでだ。わしは総督。しかし平民同様昼寝がしたい。ではまた明日。それぞれの仕事に戻ってくれ。では!」
 喜びの、そして興奮した叫び声、「総督殿、万歳!」がどんどん強くなり、宮廷から来た家来達、ニヤニヤ笑いを止め、恐ろしそうに顔を見合わせる。
 サンチョ、驢馬から降り、侍従長に驢馬を渡し、品位をもって御辞儀をし、玄関の階段を登る。

 総督の寝室。
 その広い窓から、石で出来た広々とした回廊が見える。回廊は宮殿の二階全体に繋がっている。
 寝室の真ん中に、おそろしく背の高い豪華なベッドあり。その上に天蓋がついている。
 侍従長、総督を導き入れる。
 侍従長「何かご命令は? 総督殿。」
 サンチョ「ある。一人にしてくれ。昼寝がしたい。」
 侍従長、一礼して去る。
 サンチョ、これからの休息のことを思い、気持ちよく伸びをする。ベッドによじ登り、横になる。
 しかし、やっと目を閉じたかと思うと、耳を聾する、天をつんざくような音がし、サンチョ、ベッドから寝室の石の床に落ちる。
 オーケストラが轟く。楽器はトルコ風太鼓とクラリネットが主体。
 サンチョ、扉をさっと開く。
 音楽家達が懸命に弾いている。サンチョ、大声を上げるが、音楽の方が大きく、聞こえない。
 やっとのことサンチョ、指揮者の腕を捕まえる。オーケストラ、沈黙する。
 サンチョ「何だ、これは。」
 指揮者「エチケットでございます。総督様の御寝室の扉のところで音楽を演奏し、総督様のお休みになるのをお助けするのが。」
 サンチョ「それを言うなら、総督様のお亡くなりになるのをお助けするのが、だろう。こんな子守歌じゃ、酔っ払いだって目を覚ましてしまう。おい、見張り!」
 士官、四人の兵士と共に登場。
 サンチョ「おい、こいつを地下室にぶちこめ。二、三箇月後、暇なおり、こやつの取調べをやることにする。」
 指揮者「総督殿、お許しを。私共は、命令はただ聞くだけしか出来ない奴隷のようなものなんです。侍従長殿
が私共に弾けとお命じに・・・」
 サンチョ「フン、ふざけたことを。分かったぞ、誰の仕業か。おい、お前、侍従長の寝室はどこか知っているか。」
 指揮者「はい、知っています。」
 サンチョ「地下室に閉じ込められたくなかったらな、そこへお前の、あの腹をへらした狼どもを連れて行くんだ。それからな、侍従長の耳元で、怒鳴ってがなって、太鼓を敲くんだ。猛烈にだぞ。あいつのベッドのすぐ傍でだぞ。あいつが寝入るまでか、死ぬまでか、構うことはない。分かったな。おい、見張り。お前とそこの四人は、こいつらと一緒に行くんだ。今の命令がちゃんと実行されるか見張るんだ。いいな。」
 士官「はっ、喜んで。そりゃ大喜びで、総督殿。(兵士達に。)命令は聞こえたな? 前へ進め!」
 士官、兵士達を伴って退場。
 サンチョ、溜息をつき、ベッドの上に坐る。
 黙考。
 サンチョ「ああ、旦那、旦那。わしはこの何年か、辛い時、悲しい時にはいつも旦那と一緒だったからなあ。旦那、今どこですか。旦那、ラマンチャの騎士、あっしのドンキホーテ!」
 総督の寝室、消える。

 ドンキホーテ、自分の寝室で、蝋燭を手にして床を這い回っている。
 ドンキホーテ「ああ、サンチョ、サンチョ。お前がいないと不便だ。今も針をなくして、見つかりはしない。いまいましい針め! あれは最後の一本の絹糸なのに。道中の為に蓄えていた最後の一本。それがあの針に通してある。靴下がほころびたのだ。サンチョ、あのアリチシドーラがわしにどうしても会いたいと言って来てな。公園のあずまやで。明日の朝早く。わしに対する燃え上がる恋について、これが最後、是非お話したいと。わしも行ってもう一度はっきりと言うつもりなのだ。「わしのこの身が滅びるまで、心はトボーソのドゥルシネーヤ姫に捧げてある。」とな。こういう奇麗な言葉は、靴下に穴が空いていては言えはせん。ああ、貧乏生活。貧乏生活は何故高潔な人間につきまとい、不潔な人間にはつきまとわないのか。そして何故貧乏な紳士はいつも足に塗料を塗ってごまかさなきゃならないのか、そして何故いつも、腹は減って空っぽ、心は悲しみでいっぱいなのか。あ、あった。」
 儀式ばった動作で騎士、糸のついた針を床から持ち上げる。
 ドンキホーテ「おお、おお、あった! サンチョ、聞こえるか。これで恥をかかないですむぞ。」
 足をスツールにかけドンキホーテ、真剣に靴下をかがる。
 扉に軽いノックの音。
 ドンキホーテ「今行く!」
 糸から針を抜き取り、糸をかがった場所で結び目を作り、針をらしゃの板に巻いてある残った糸に注意深く刺し、それを小箱に入れる。
 鏡の前で服装をなおす。
 部屋を出る。
 小さな小姓が、黒いマントを着て扉の外で待っている。
 小姓、黙って、長い宮殿の廊下を進む。
 ドンキホーテ、後に続く。
 二人、公園の暗い小道を進む。だんだんと木々の頂上で空が明るくなってくる。
 突然、この夜の静寂を破って、深い、よく通る鐘の音がカーンと鳴る。
 ドンキホーテ、立ち止る。小姓も止る。
 もう一度、もう一度と、鐘が鳴る。そして遠くからコーラスの声が聞こえて来る。
 ドンキホーテ「宮廷で誰か死んだのか。」
 小姓、答えない。
 小姓、再び道を進む。ドンキホーテ、不安な、悲しい気持ちを持って後に続く。
 だんだんと葬式のコーラスの歌声、大きくなる。
 オルガンが響く。
 ドンキホーテ、高いあずまやに到着する。窓はすべて灯がついている。葬式の鐘の音が響いている。
 ドンキホーテ「お前の御主人はどこなのだ。」
 小姓「お棺の中です。」
 ドンキホーテ「どうして亡くなったのだ。」
 小姓「騎士殿への愛のためです。」
 あずまやの扉がさっと開く。何百という蝋燭があかあかと燃えている。壇の上に黒い棺があり、その中に黒い布で覆われて、アリチシドーラが横たわっている。
 宮廷の人々が棺の傍に集まっている。彼らの喪服は豪華である。全員いつものように真面目な表情。手を組んで祈りの形で立っている。悲しそうに頭を下げている。
 大公と大公妃が前列にいる。
 ドンキホーテが、棺がしつらえてある壇に近づくと、コーラスの歌急に止む。オルガンも鳴り止む。
 死の沈黙の中でドンキホーテは全員の注目のもとにある。
 ドンキホーテ「許したまえ、おお、素晴らしきアリチシドーラ。わしは知らなかった、かくの如き強き力で、わしが汝に愛されおりしことを。」
 騎士、膝を曲げ、姿勢を正す。
 丁度その時、微かに聞こえるほどの大きさで、あたかも笑いの影といった具合に、笑い声が宮廷の群衆の上に広がる。彼らはお互いに目で(合図しあい、)騎士の長い足を差し示す。ああ! 膝を折り曲げた時、かがってあった穴が再び開き、靴下の穴が広く口を開けたのである。
 ドンキホーテ「残念だ。死神に決闘を申し込んでも応じてはくれないだろう。わしは闘って、打ち負かしてこの残酷な仕打ちを元に戻させてやるのに。アリチシドーラの若き命と引替にこのわしの命を取らせてやるのに。ああ、民衆は見て取るのだ、ここに、ピラミッドの頂点にいる女性が、名や地位が高いだけではない、人間として最も崇高な感情をも持ち合わせていたことを。おお、汝の愛について歌が作られ、叶わぬ恋に苦しむ者達に対する安らぎと慰めになるであろう。わしの心は張り裂けそうだ。自分の子供を亡くした時のようだ。神も御照覧あれ、わしはあれしかやりようがなかったのだ。わしの心にはただ一人の女しかいない。わしは唯一人しか愛さない。これは騎士道の掟なのだ。」
 ドンキホーテ、再び膝をつく。彼が再び立ち上がった時、以前より少し大きな笑い声が響き、騎士、怖れをもって辺りを見回す。二つの靴下に一つづつあった穴に加えて、騎士の気づかないうちに、三個目の穴が出来たのである。
 ドンキホーテ(宮廷の女達に。)「女性の皆さん、そんなにお若いのに、何ていう残酷さ。亡くなったのはあなた方の友達ですよ。その人はある騎士への愛のために死んだ。その男のことをあなた方はあざ笑うのですか。」
 「それが間違いなのです。干し鱈(だら)殿!」
 ドンキホーテ、ぎょっとなって振り向く。
 アリチシドーラ、生き返っている。自然で落ち着いた様子で、棺にいるが、その肘を枕に、(仰向けではなく、)横の姿勢になっている。揶うように、また冷たく微笑んで、ドンキホーテを見ている。ドンキホーテ、怖れのため後ずさりし、あずまやの壁まで到達する。その窓のところに突然小人が、黒い繻子のマントをつけ、ドンキホーテの背中のところに現われる。小人、両手に何か持っている。
 アリチシドーラ「どうやらあなたは本当に私が、あなたの為に死んだと思ったようね。そんな鈍感男、そんな棗(なつめ)やしの種、そんなおんぼろの抜け作の為に死んだとね。なんて厚かましい想像でしょう。私のような地位のものが、お前を、らくだを、愛するだなんて。お前なんか古い木の切り株。私の心に少しでも触れることがあったなんて、そんなこと思ったら大間違い。」
 笑い声、今までより少し大きくなる。
 大公「ドンキホーテ殿、怒りたまうな。冗談だ。喜劇だ。この世のすべてがそうであるようにな。それに貴殿はこの冗談、喜劇にかけては天才だ。今も非常な説得力をもって我々に示したではないか。有徳の行為は滑稽、誠実はお笑い草、愛は激した思いが拵(こしらえ)る単なる想像に過ぎぬとね。」
 大公妃「そして私の感謝も受けて下さらなければ、騎士殿。本当にお上手でしたわ。」
 大公妃の合図によって、小さな小姓がドンキホーテに金のはいった袋を渡す。
 ドンキホーテ「何ですか、これは。」
 大公「受け取って欲しい、騎士殿。その褒美を稼ぐに充分値する貴殿の行為であった。但し、これでお役ご免という訳ではないぞ。」
 ドンキホーテ「(小姓に。)小姓、この金を取っておけ。(大公に。)大公殿、わしはこの城を退出いたす。御許しを戴きたい。」
 一礼してドンキホーテ、出口に向かう。この時、この場始まって以初めて宮廷の人々、雷のような大っぴらな笑い声を出す。
 小人、ドンキホーテの背中に、黒い厚紙をピンで止める。それには白い字で、「気がおふれ遊ばした」とある。
 ドンキホーテ「えーい、フレストーン、背中にまわって人をあざ笑うのは大抵にしろ。今日こそお前を見つけてやるぞ。一騎打ちだ。そしてどちらかが死ぬまで闘うのだ。サンチョ、サンチョ、お前はどこだ。」
 ドンキホーテ、あずまやから出る。
 小人、窓の敷居から滑り降りる。疲れた様子で宮廷人達の間をゆっくりと進む。
 小人、宮廷人一に、唇の隅でほんの微かな声で言う。
 「金を出せ。悪口を言われたくないならな。」
 宮廷人一「分かっている、道化殿。ほら、二枚だ。」
 道化の掌に金を握らせる。

 総督の離れ家。
 サンチョ、肘掛け椅子に坐っている。後におつきの者達。前方に民衆が半円形を作って坐っている。
 サンチョ「訴えたい事がある者は出よ。」
 騒音。その中にひときわ高く、半狂乱の女の叫び声が響く。
 「お裁きを、お裁きを。」これがその女の声。そして群衆をかき分けて総督の椅子のところへ一人の女が飛び出して来る。片手に若者を引っ張っている。服装からしてこの若者は牧童である。
 女「お裁きをお願いします。もし叶わぬなら、私は大公に、大公が駄目なら王様に、王様が駄目なら、私は神様に直接訴えます。」
 サンチョ「静かに、女よ! 何が問題なのか。まっすぐに話してみよ。」
 女「まっすぐには駄目です、総督様。女の慎みというものがございます。」
 サンチョ「それならここへ来て、この耳に囁くがよい。」
 女「喜んで、総督様。」
 女、話す。サンチョ、聽く。話が進むにつれてサンチョの顔、変化する。大声で笑う。しかしそのすぐあと、
 サンチョの表情、厳しくなり、怒った顔になる。
 サンチョ「力づくで?」
 女、また囁く。
 サンチョ「破廉恥な。おい牧童、お前、この婦人を手込めにしたな。白状しろ。」
 牧童「とんでもない、総督様。これまでは全部そっちの口から出た話です。私の側から言えば、単に挨拶のお返し、作法に則った行為に過ぎません。私は通りを歩いていました。すると野原の方からこの女が私を呼んだのです。呼ばれるまま私は野原へ入って行きました。そこから先は男と女のお決まりのあれです。でもその後だって睦まじいものでしたよ。私が丁度その日四頭の豚を市場で売って来たっていう話をするまではね。まあ、よりによって馬鹿な話題を思い付いたもんです。すると急にこの女、私に有り金全部よこせと言いだしたんです。財布ごとです。私は言いました。「何だこれは、新税法か。」するとこいつは言います。「悪党、よこすんだ。さもないとあんた、酷いことになるよ。」で私は・・・」
 サンチョ「分かった、静かに。ちょっと考える。」
 サンチョ、考える。民衆、沈黙を守る。
 サンチョ「牧童、この女に財布を渡してやれ。」
 民衆、沈黙を守る。
 牧童、泣く泣く、命令を実行する。
 総督に御辞儀をし、女出て行く。群衆の中に消える。
 サンチョ「さあ、牧童、女を追いかけて、今の金を取り返せ。」
牧童、言われるが早いか、女を追って突進する。
 金切声響く。群衆、心配顔。人を突き飛ばし、こづき回し、進んで来る者がいる。さっきの女である。再びサンチョの前に現われる。女は牧童の襟髪を引っ張っている。
 「人殺し!」と女は叫ぶ。「総督様、この男が私から金を取り返そうっていうんです。総督様が裁判で返せとお決めになったこの金を。」
 サンチョ「それで、取り戻されたのか。」
 女「とんでもない! 財布を取られるぐらいなら、この命を取られる方がましよ。釘抜きだろうと、金槌だろうと、いや、ライオンの牙を持って来たって、私からこの財布を取り戻せるものですか。そう、財布を出すぐらいなら、魂を出した方がましよ!」
 サンチョ「立派な言葉だ。よろしい。財布をわしに見せなさい。」
 女「どうぞ、総督様。」
 サンチョ、財布を受取り、牧童に渡す。女、一歩前に踏み出そうとする。しかし総督が大声で言う。
 「そこ動くな。まんまと嵌まったな、お前さんは。財布を守る時暴露したお前さんの力、その力の半分を使ったって自分の操ぐらい守れた筈だ。たとえ巨人がお前さんをおかそうと思ったってな。さあ、即刻去るんだ。ここに留まっていることは許さぬ。この島から去れ。さもないと笞で二百叩きを命ずるぞ。厚かましい奴め。さっさと立ち去れ!」
 女、消える。
 群衆、叫ぶ。
 「総督殿、万歳。」
 サンチョ「おお、褒めてくれるか。と言うことはつまり、わしが正しい裁きを行なったと分かったんだな。」
 群衆「分かりました!」
 サンチョ「すると、何が正しく、何が不正か、お前達には区別がつくと言うのだな。」
 群衆「区別がつきます!」
 サンチョ「そう、ちゃんと分かって、区別が出来ると。それなら何故正義、正しいこと、に沿って生きようとしないのだ。何が汚く何が奇麗か見分けるのに、いちいち鼻をつっこんでみなきゃ分からないと言うのか。わしはこの町を見回ってみた。牢屋の中にも差があるとはどういうことだ。同じぶちこまれた奴でも、金持ちなら高級レストランにいるような生活、貧乏人は地獄の生活だ。屠殺場では肉がちょろまかされている。市場では重量をごまかして売っている。酒には水を混ぜる。いいか、この「酒に水」の罪に関してはわしは特別に厳しくするつもりでいる。憶えておくんだぞ。ああ、お前達に人間の道を教えるのはなんと難しいことか。特に困ったことはこれだ。わしがお前達に笞打ちの刑を命ずるとする。すると手伝う奴はいくらでもいるのだ。しかしお前達を優しく扱い、話を「うん、うん」と聞いてやることにする。すると見回したって、わしを手伝う奴は誰もいない。」
 群衆「総督殿、万歳!」
 有頂天になった群衆に伴われてサンチョ、宮殿に消える。そして宮殿内の部屋に入る。すぐその後、慌てふためいた蹄の音が響き、広場に大公の急使が到着する。
 汗だくの馬から飛び降り、急使侍従長に封印のされた包みを手渡す。
 大公からの手紙を読み終り、侍従長にやりと笑う。
 この時既に民衆は広場から去っている。広場の警備をしていた士官が号令をかけ、番兵達を集め、宮殿に行かせようとしているところ。
 侍従長「士官殿、大公の居城へと御帰還下され。」
 士官「しかし、総督殿が・・・」
 侍従長「もうあれは総督ではない。(大公の手紙を士官に差し出す。)大公の要請にも拘わらずドンキホーテは城を去ったとのこと。従ってここのバラトーリア島の冗談も陽気に幕を閉じよ、との御命令。」

 サンチョ、肘掛け椅子で眠っている。
 轟音、叫び声、鐘の音、口笛の音、笛の音。
 サンチョ、飛び起きる。
 総督邸の召使い全員が、寝室に入って来ている。下僕達、小姓達、コック達、剣を振り回し叫ぶ。「武装だ。武装だ。」
 侍従長、サンチョの足元に二つの大きな楯を投げる。
 侍従長「敵が大挙してこの島を攻めて来ています。武装して指揮を取って下さい、閣下。」
 サンチョ「すぐにドンキホーテ殿を呼びにやるんだ。あの方が来れば、敵など一撃だ。で、わしの兵達はどこなんだ。」
 侍従長「戦闘中です。」
 サンチョ「さあ、わしに武装を。」
 宮殿を取り巻いている石の回廊に、総督立つ。
 二つの巨大な楯が縄で括り付けられる。一つは背中に、一つは胸に。その結果総督殿は亀のような格好になる。この馬鹿げた武装の為サンチョ、一歩も動けない。辺りを見ることも出来ない。この間に宮殿の召使い達、彼の背後で口笛を吹き、叫び、金切り声を上げる。
 侍従長「さあ、総督殿。出発です。我々を指揮して下さい。」
 サンチョ「指揮など出来んぞ! 楯が邪魔だ。」
 侍従長「では閣下、どうかお跳び下さい。(それが命令に。)」
 サンチョ、提案された通り跳ぶ。鐘が鳴る。呼び笛(こ)が吹かれる。人々が突撃の声を上げる。
 サンチョ、回廊の床に倒れる。宮殿の召使い達、サンチョの体につけられた楯の上を踊る、宙返りする、その上を跳びはねる。
 侍従長「もういい。起こしてやれ。」
 下僕達、サンチョを起こす。楯をほどく。
 サンチョ「そうか、分かった。わしはもう総督ではないということか。出て行くさ。平民はいつだってなんとかやって行ける。だがな、侍従長。お前さん、その職を追われたらどうするつもりだい。お前さんに何が出来るっていうんだ。この居候、おべっか使い!下がれ、この野郎!」
 サンチョ、げんこつを振り上げる。宮殿の召使い達、サンチョに襲い掛かろうとしていたのだが、この剣幕に気押されて引き下がる。

 サンチョ、驢馬に乗って町を出て行くところ。
 サンチョ「さあ、急ぐんだ、驢馬よ。どんどん走れ。そうだ、相棒、お前もわしも運の悪いやつさ。それにしてもお前の馬具を洗ったり、お前に水を飲ませたり、そんな心配をしていた時が、日々が、年々が、一番幸せだったなあ。ドンキホーテの旦那は何故このわしに他人の心配をすることを教えこんだのか。こういう心配をやったって、いつでも終り方は同じなんだ。幸せな奴らがこちとらの横っ腹をぶん殴り、不幸せな奴らはやはり不幸せな儘なんだ。」
 ドンキホーテ、バラトーリア町のある広々とした丘の谷に、馬で速足でやって来る。
 丁度その時サンチョ、道に出る。遠くからサンチョ、背の高い自分の主を認める。声を限りに呼ぶ。
 「旦那! おやじさーん。わしの大事なおやじさーん。わしはここだー。ここにいるー。わしは総督を止めたー。旦那ー。」
 ドンキホーテ「サンチョか。」
 二人は馬を、驢馬を駆り立てる。二人、下馬する。抱き合う。
 ロシナンテは頭を昔からの友、驢馬の首にかけ、喜びと友情を示す。
 ドンキホーテ「もういい、もういい、サンチョ。もう泣くのは止そう。喜ぼうじゃないか。わしもお前も自由を求めて逃げて来た。自由、自由こそ天から与えられた永遠の贈り物なのだ。自由のためなら自分の命も賭けられる。いや、賭けねばならぬのだ。奴隷、虜の身、これが不幸の中でも最大の不幸なのだ。さあ、馬に乗ろう、サンチョ。出発だ。フレストーンがこの辺りにうろついている。闘うんだ。そして全世界に自由を与えるんだ。進め、進むんだ。一歩も退くな!」
 ドンキホーテ、先頭に立って馬を駆る。サンチョ、急いで後を行く。サムソン・カラースコが完全武装をして、その二人の後を丘の上から追う。カラースコはずっと前に騎士とその従者を追い抜いており、今は二人を待ち伏せていたのである。
 突然ドンキホーテ、手綱を引き、埃の渦巻きの中に止る。
 丘の上にドンキホーテ、風車を見つける。風車は翼を回している。
 「そうか、お前はここにいたのか。」
 サンチョ「どうしました、旦那。」
 ドンキホーテ「フレストーンだ。丘の上に立って、手をぐるぐる回している。有り難い。こちらの挑戦に応じてくれたな。」
 サンチョ「旦那、あれは風車です。」
 ドンキホーテ「お前はここに留まっているんだ。口も出すな。どうせお前には、魔法使いも風車も区別がつかないんだからな。いや、運がよかった。全人類の不幸の種、それが音を立てて崩れるのだ。そしてわが同胞は全員自由を手に入れるのだ。進め!」
 ドンキホーテ、休息して元気になったロシナンテを駆り、速足で丘を駆け上がる。
 サンチョ、狂気のように叫ぶ。
 騎士、風車に突進する。
 風車の羽根、騎士を捕える。上に持ち上げる。回す。ゆっくりと、おちついた調子で。まるで騎士の重量も感じないかのように。
 しかしドンキホーテ、勇気を失わない。灰色の乱れた髪の毛は風に吹き散らされ、目は見開いて、正真正銘の狂気が騎士を虜にしたかのよう。騎士の声、喇叭のように響く。
 「やあ、フレストーン、お前にこれだけは言っておく。わしは人間を信じているのだ。お前が人間の顔にどんなに仮面を被せても、わしは決して騙されはせんぞ。それからわしは騎士道を信じている。心から信じているのだ。お前みたいな悪党を誰が信じてやるものか。いくら回されたって、目を回されたって。わしには見えているんだ、愛が、誠実が、慈悲の心が、最後には勝つということが。見ろ、貴様、キイキイ言っているな。悔しくて歯噛みしているんだろう。ざまを見ろ。笑うのはこっちだ。人間万歳。悪い魔法使いなどみんな死ぬんだ。」
 こう言って騎士は風車の羽根から落ちる。草の中に甲冑のどさっと落ちる音をたてる。
 騎士、すぐさま立ち上がる。よろよろとする。
 風車まで馬を駆って来たカラースコ、ここで馬を止める。
 サンチョ、自分の目を疑うようにドンキホーテの足と手に触る。
 サンチョ「旦那、大丈夫ですか? 本当のことを言って下さいよ。わしのことを心配して、嘘なんか言っちゃいやですよ。しかしこれは奇跡だ。勇者と酒飲みは雷にもあてられないとは昔からよく言ったもんだよ、本当に。しかし鴨は水にゃ溺れないが、焼き串が待っているとも言いますからね。(気をつけて下さらなきゃ。)もう旦那、お分かりでしょう、あれは風車だって。」
 ドンキホーテ「あれは風車だ。しかしわしが闘ったのはフレストーンだ。」
 やっとのことでサンチョの助けを借りドンキホーテ、馬によじ登る。丘から道路へと降りて行く。
 サンチョ「雄鳥にお祈りを教えても、コケコッコーとしか言わない。熊には踊りを仕込めたが、馬鹿には作法は仕込めない。いくら魔法使いや騎士を求めて捜しまわっても、出会うのはやくざな連中と馬鹿ばかり。魔法使いなんかいないんですよ、旦那。それから、わしら二人以外にはこのスペイン中どこを捜したって、遍歴の騎士なんぞいやしません。えっ? これはどうしたことだ。あれは何だ。」
 二人を道路で待っていたものは、頬当てを目深におろした騎士。
 ドンキホーテと同様、頭のてっぺんから足の爪先まで武装している。
 楯には光り輝く月が描かれている。
 二人を認めるや騎士、声高く宣言する。
 「おお、誉れ高きラマンチャの騎士、ドンキホーテ。待っていたぞ。わしの婦人かおぬしの婦人か、どちらがより素晴らしいか、武器によって決めるのだ。さあ、野原へ引き返そうではないか。」
 サンチョ「騎士殿、病人と闘うなんて道にはずれています。わしらは丁度今、風車を相手に一勝負したばかり。まだ鞍にしっかりと腰が落ちついていないのです。」
 ドンキホーテ「黙れ! 騎士にとって病気を治す一番の薬は決闘だ。おぬしの名は?」
 騎士「騎士白い月。」
 サンチョ「トルコからやって来たか。」
 ドンキホーテ「教養のない奴め。黙っておれ。トルコ人なら満月ではない、半月だ。さあ、好きな場所を選べ、白い半月。始めよう。」
 騎士白い月、広々とした野原へ向きを変える。
 二人、別れて距離をとる。
 互いに向き合い、同時に馬に拍車をかける。
 ロシナンテが二人の間の距離を三分の一行く間に、騎士白い月の馬、こちらはよく肥えた堂々たる体躯の馬、力いっぱい速度を出し、ロシナンテの胸目掛けてまっすぐに突進する。
 サンチョの半狂乱の声。ロシナンテ倒れる。
 ドンキホーテ、跳ね飛ばされ、鞍から落ちる。
 サンチョ、自分の主人の方へ駆け寄る。が、騎士白い月、既に仰向けになった敵の傍に立ち、剣を喉につけている。
 騎士白い月「降参しろ、ドンキホーテ。」
 ドンキホーテ、弱い、暗い声で答える。
 「トボーソのドゥルシネーヤ姫は世界中で最も素晴らしい女性だ。そしてこのわしは、世界中で最も不幸な男だ。しかしわしは真実を捨てはせぬ。それを守る力がなくなってもだ。さあ、ひと思いにやってくれ。」
 騎士白い月「トボーソのドゥルシネーヤ姫、その美しさがその名誉のうちに花開かんことを! 私の要求は唯一つだ。汝、ドンキホーテが自分の村に帰ること、そして私が指示する一定期間そこに留まること、これだ。私は勝者なのだ。そして騎士道によれば、敗者は勝者の命に従わねばならない。」
 ドンキホーテ「分かっている。」
 騎士白い月、自分の剣を鞘に収める。
 サンチョ、ドンキホーテを助け起こす。ロシナンテは自分で立ち上がる。ロシナンテ、今しがたの敗北は忘れ、いつものように満足そうに草を噛み、むしって食べる。
 勝者は兜を脱ぐ。サンチョ、叫ぶ。
 「あ、お前さんはあの・・・」
 騎士白い月、大きな口を開け、笑いながら答える。
 「さよう、医者の卵、サムソン・カラースコです。とは言え、打ち負かしたのは騎士道にちゃんと則ってですからな。さあ、帰りましょう、ドンキホーテ殿。さあ、早く。」

 白髪のドンキホーテ、悲しそうに、背をかがめて、まるで三、四歳急にふけたかのように、道を歩いて行く。ロシナンテの轡を引いて。
 隣にカラースコ。彼も馬を降りている。馬の轡を取っている。
 サンチョは驢馬に乗っている。陰気な顔をして、二人の後を小股でついて行く。
 空は灰色。ポツポツと雨が降ってくる。
 ドンキホーテは騎士の甲冑を脱いでいる。一式ロシナンテに背負わせている。
 カラースコ「ドンキホーテ殿! よく考えてみて下さいよ。この今の世の中に遍歴の騎士なんて誰が必要としますか。騎士なんかいたって何が出来るっていうんですか。みんなと同じように分別をもって生きましょうよ。」
 暫く三人、黙って進む。
 雨、どんどん強くなる。
 カラースコ「そんなに塞ぎこんではいけません。最近の医学によって分かったんですがね、塞いでいると血液が脊髄の方に流れて、啖が溜まりやすくなるんです。何が心配なんですか。」
 鎖の音。
 カラースコ「哲学が我々に教えてくれているじゃありませんか。どんなことにも驚くことはない。中年以降になったら、人間どんな場合にも哲学的平静を保っていれば充分なのだ、とね。そのように生きなければ。」
 囚人達が数珠のように長い長い鎖に繋がれて三人の行く手に現われる。その数、百人以上。囚人達、疲れていて、全く何事にも無関心である。ドンキホーテを見さえもしない。一方ドンキホーテ、彼らを見つめ、目を放さない。
 カラースコ「もし哲学的平静というものを手に入れることが出来れば、本当の自由が開けてくるのです。」
 既に夕方近くなっている。
 カラースコ「ケハーノさん、相変らず塞いでいますね。人生っていうものはもう生きているだけで幸福っていうものなんです。御自分のために生きるようにしなければ、ケハーノさん。」
 大きな樫の木あり。道路にかぶさるように枝が出ている。
 その枝の一本一本に、人間がつるされている。
 ドンキホーテ「サムソン・カラースコ、君の分別はもっと殺人的だ。わしの狂気などものの数ではない。」

 夜。
 道路に近く、野原で、焚火が燃えている。
 ドンキホーテ、切り株に坐っている。サンチョとカラースコ、飯盒の世話をしている。飯盒からは湯気がたっている。
 サンチョ「旦那、食べて下さい。」
 突然、闇の中から十三、四歳の男の子が、今にも殴られるのを心配して、きょろきょろしながらやって来る。
 子供「この牧童めに何か食わせて下さい。その飯盒からあんまり良い匂いがするものですから、五百歩離れたところからでも匂いがしましたよ、ああ。」
 ドンキホーテに飛び付き、その両足を抱く。
 ドンキホーテ(喜んで。)「アンドレスじゃないか。」
 アンドレス「ええ、そうですが。あっ、旦那。」
 ドンキホーテ「見ろ、カラースコ、わしが遍歴して闘ったのも無駄じゃなかったぞ。わしはこの子がなぐられているのを助けたのだ。あれから何年も経っているのに、この子はそれを忘れていないぞ。アンドレス、お前、このわしに何か頼みたいことがあるのか。」
 アンドレス「はい、旦那様。」
 ドンキホーテ「言ってみろ。恐れることはない。何だ。よく聞いてろよ、カラースコ。」
 アンドレス「遍歴の騎士様、もう私を助けるのは金輪際止めにして下さい。私がばらばらに引き裂かれようとです。私の不幸は私の不幸で、その儘ほうっておいて下さい。だってもっと酷い不幸が待っているんです。助けて下さこと、それは災難なんです。これ以上の災難はないくらい。もうあんな優しさなんか、それから遍歴の騎士なんか、糞食らえです。旦那は私の主人を怒らせた。そしてその儘、行ってしまった。良い気になって。あれが親切なものか! あの後、主人は私を殴って殴って。あれから夢にまで出てきましたよ、殴られるところが。」
 ドンキホーテ「許してくれ、君。わしは親切を施そうとした。しかしその力がわしにはなかったのだ。この子にスープをやってくれ。」
 ドンキホーテ、立ち上がり、闇に消える。

 冬。
 夜。
 ドンキホーテの寝室。ベッドに重く病んだドンキホーテ。窓の外にはみぞれ。
 病人の周りには友人達、近しいもの達が集まっている。
 姪、家政婦、司祭、床屋。サムソン・カラースコが、病人の脈を取っている。
 ドンキホーテ「さあ、これで終だ、皆さん。皆さんそれぞれのやり方でわしのことを思い出して欲しい。諸君の気のすむようにな。ラマンチャの騎士、ドンキホーテ、あれがわしではないと言うなら、(あの人物がこのわしであるとして憶えて頂けないというなら、)それはそれでも良い。わしのことは可哀相な地主、アローンゾ・
ケハーノだと、その行ないからすれば、善良な人間だったと。そう思い出して欲しい。さあ、一人にしてくれ。眠りたい。」
 全員、どうすべきか訊ねるようにサムソン・カラースコを見る。
 カラースコ「脈はまだ安定しています。治りますよ。必ず治ります。ケハーノさんを無理矢理連れ帰ったのは、死んで貰う為じゃないのです。生きて貰う為なんです。皆と同じように。」
 ドンキホーテ「皆と同じ、それだけはわしには出来んぞ!」
 カラースコ「眠るんです。さあ、体の為に。(さあ、皆さん、)行きましょう。行きましょう。」
 部屋、空になる。
 突然吹雪が止む。
 窓がすっかり開け放たれる。
 もうすっかり雪はなくなっている。巴旦杏の枝が窓から覗く。
 満月が空にかかっている。
 木の枝の影が床、壁に走る。まるで生きている何かが、病人の寝室に入り込んでそこにいるかのよう。
 囁き声が響く。
 小さな声が明瞭に発音される。
 「旦那様、旦那様。私を捨てて行かないで。」
 ドンキホーテ、ベッドに起き上がり坐る。
 「わしを呼んでいるのは誰だ。」
 「私よ。トボーソのドゥルシネーヤよ。」
 騎士、飛び起きる。両手を心臓に置き、それから力が抜けたように両手を落とす。
 目の前に豪華なビロードと錦の衣装をつけて、金と銀と、また高価な宝石を身につけて、キラキラと光り輝くアリドーンサが立っている。
 ドンキホーテ「有難う、ドゥルシネーヤ。死ぬ前によく夢に出てくれた。」
 アリドーンサ「死ぬなんて、許しませんよ、ドンキホーテ。分かりましたね。心に誓った婦人の言葉には従わねばなりません。」
 ドンキホーテ「しかしわしは・・・」
 アリドーンサ「疲れたと仰るのね? そうね? でも私はどう?」
 アリドーンサが次の台詞を言っているうちに、次第にキラキラ光る高価な宝石は消え、錦もビロードも消えて
ゆく。途中からは目の前に、すっかり百姓の着物を着たアリドーンサがいる。
 アリドーンサ「でも私はどう? 駄目、ドンキホーテ。死んでは駄目。こんな失礼なことを言う私、教育のない私を許して。でも死なないで。どうぞ。どんなに疲れていらっしゃるか、私には分かるわ。私も同じですもの。腕もお疲れでしょう。背中だって今にも折れそうなのね。そう。私も朝から晩まで働いて。だから分かる
わ。倒れるまで働いて、翌朝ベッドから起きるのがどんなに辛いか。でも他に道はない。死んでは駄目。私の大事な人。私の小父さん。私達、子供の頃から年寄りになるまで、最後の力を振り絞って働くんだわ。貧乏だとしゃがんでなんかいられない。一息ついてる暇もない。それは小父さんも同じ。私を一人ぼっちにしないで。死なないで。駄目よ。死んだら駄目。」
 ドゥルシネーヤは消える。そしてすぐに巴旦杏の花のついた枝から、赤ら顔のサンチョ・パンサが現われる。
 サンチョ「ああ、死なないで、死なないで下さい。旦那、わしの言うことを聞いて生きて下さい。死ぬなんて人間の出来ることの中で一番厭らしいことなんですから。旦那を殺そうとしているのは誰だと思います? 憂鬱ですよ。憂鬱なんて魔法使いのばあさんですよ。そんな奴、首筋を一発ガンと殴って、また遍歴に出ましょうよ。森へ、野原へ。憂鬱なんか、かっこう(註 鳥のかっこう)に任せておけばいいんです。わしらの仕事じゃ
ない。前進だ、旦那。前進ですよ。一歩も退くもんじゃありません。」
 ドンキホーテ、突然騎士の身支度になっている。窓の敷居をまたぐ。騎士と従者、月の下でいっさんに通りを馬で駆けて行く。
 幅の広いサンチョの顔、幸せで輝いている。サンチョ、訊く。
 「旦那、旦那。騎士の言葉で何か言って下さいよ。そうしたら、わしほど幸せな人間はこの世で捜そうったっていませんぜ。」
 ドンキホーテ「疲れも知らず闘い続け、生きるんだわしらは、サンチョ。栄光の世紀が来る、その時まで。欺瞞、狡猾、奸計、そんなものは真理と広やかな心の前では、敵ではない。平和、友情、和気が、世界を統べるのだ。前進、前進だ。一歩も退かんぞ。」
 さらに、さらに速度を上げて、月の光の下、ラマンチャの騎士、誉れ高きドンキホーテとその忠実な従者サンチョ・パンサは疾駆する。

         平成六年(一九九四年)八月二十二日 訳了
                    
         平成六年(一九九四年)九月二十九日 城田監修

     
     謝辞
 この作品も、いつものように城田俊氏の監修を得た。同氏に心からの感謝を捧げる。
また偶々ロシアから気象研究所に研究員として来日中のイェフゲーニイ・アレクサーンドロヴィッチ・ジャーヂ
ン氏は、訳者の質問に一つ一つ答えてくれ、また、話すロシア語の不得手な訳者の為、英語でこれを行なってく
れた。厚く感謝の意を表する。


    Acknowledgement
As usual, this translation was corrected by Shun Shirota. Translator expresses his heartful thanks to him.
And Evgeny Alexandrovich Jadin, who happened to visit Meteorological Research Institute as a special researcher of Science and Technology Agency, helped me replying my questions in English because of my poor speaking ability of Russian. Here I express my sincere thanks to him.



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これは、文法を重視した翻訳であり、上演用のものではありません。
上記芝居  (Don Kikhot) の日本訳の上演は、必ず国際パテント貿易株式会社(上記住所)へ申請して下さい。

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