エドアルド・デ・フィリッポ 年譜

(昴 劇団すばる第一七回公演「誰か一人があなたの子」のプログラム(昭和五五年六月二0日発行)中、白石定雄作の年譜による。)

 一九00 五月二十四日 ナポリに生る。
 一九0四 実父エドアルド・スカルペッタ作「ゲイシャ」に日本人の子供役で初舞台を踏み、一九一0年までエドアルド・スカルペッタ劇団で子役をつとめる。その後、エドアルド・スカルペッタの子、ヴィンチェンツォ・スカルペッタ劇団に移る。
 一九一一 学校の寮に入るが、夏休み中は舞台に立つ。
 一九一三 夏エンリコ・アルティエリ劇団で働く。
 一九一四 ヴィンチェンツォ・スカルペッタ劇団の正式の劇団員となり、一九二0年まで所属。夏、再びアルティエリ劇団で働く。
 一九二0 兵役につく。兵隊を集めて劇団を作り、自作を上演する。処女作「薬局」(一幕)他。
 一九二二 兵役が終り、フランチェスコ・コルビンチ劇団、次いでショー専門のペッピーノ・ヴィッラーニ劇団に入る。
 一九二三 ヴィンチェンツォ・スカルペッタ劇団に戻る。夏だけヴィッラーニ劇団で働く。
 一九二七 プロデューサーのセバスティアーノ・ブーフィーと出演契約を結び、カリーニ=ファルコーニ劇団に参加。
 一九二八 ドリシー・ペンニングトンと結婚。しかしこの結婚は長続きしない。
 一九二九 夏、姉のティティーナ、弟のペッピーノと共にコカッセとトリコショーに出演。(コカッセはマリオ・マンジーニ、トリコはエドアルド自身の変名)
 一九三0 ショー専門のモリナーリ劇団に入る。
 一九三一 兄弟三人でデ・フィリッポ・ユーモア劇団を結成、活動は一九四四年まで続く。十二月二十五日「クピエッロ家のクリスマス」初演。
 一九四0 十二月八日「お前には払わない」初演。
 一九四五 ティティーナとエドアルド劇団を結成。ティティーナは一九五四年まで共演する。第一回公演は三月二十五日、ナポリのサンカルロ劇場で「ナポリ女百万長者」(能美註 能美訳では「ナポリの女成金」)を上演、以来イタリア及び外国各地で上演活動を行い、今日に至る。
 一九四六 一月七日「この幽霊ども」初演。十一月七日「誰か一人があなたの子」(能美註 能美訳では「フィルメーナ・マルトゥラーノ」)初演。
 一九四八 一月十四日「化けの皮はすぐにははげない」初演。十二月十一日「心の声」初演。
 一九四九 十二月十二日「大魔術」初演。
 一九五二 妻ドロシー・ペンニングトンとサンマリーノ共和国で離婚。
 一九五四 戦争で破壊されたナポリのサン・フェルディナンド劇場を買取り改装、一月二十一日開場する。ラスカルペッティーナ劇団の主宰者としてエドアルド・スカルペッタの作品を次々と脚色上演。彼自身は五年間舞台に立たない。
 一九五五 一月十六日「私の家族」初演。十一月十一日「君のためならどんな事でも」初演。妻ドロシー・ペニングトンとの離婚がイタリアでも認められる。パリの国際演劇フェスティバルで「この幽霊ども」を上演。
 一九五六 テア・プランディーと結婚、すでに彼女との間にはルーカ、ルイゼッラの二人の子供がいた。
 一九五九 テア・プランディーと別居。十一月六日「土曜、日曜、月曜」初演。
 一九六0 娘ルイゼッラが十歳で死去。その数ヶ月後にテア・プランディー死去。パリの国際演劇フェスティバルでアルタヴィッラ作「ナポリで幸運を探すプルチネッラ」を上演。十二月九日「健全地区のボス」(能美註 能美訳では「地方の顔役」)初演。
 一九六二 ソ連、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、ベルギー各国を巡業。
 一九六五 一月八日「芝居の技術」初演。
 一九六七 十月十二日「契約」初演。
 一九六九 七月十三日 演劇活動に対して「シモーニ賞」受賞。
 一九七0 十一月二十四日「記念碑」初演。
 一九七一 十二月五日「アムブロージョ賞」受賞、ナポリ市名誉市民となる。
 一九七二 五月、世界演劇シーズンに参加、ロンドンのオールドヴィック劇場で「ナポリ女百万長者」を上演。十二月十八日 リンチェイ国立アカデミーより「一九七二年演劇部門アントニオ・フェルトネッリ賞」受賞。
 一九七三 十二月十九日「試験はいつまでも終らない」初演。
 一九七四 三月より心臓疾患のためペースメーカーを手離せなくなるが、相変らず精力的に劇作家、俳優、演出家の活動を続ける。シカゴでドニゼッティー作「ドン・パスクワーレ」を演出。九月八日 長年の演劇活動に対してイタリアドラマ協会より特別賞受賞。
 一九七五年 十二月十六日、ジョヴァンニ・レオーネ大統領より「一九七五年演劇ピランデッロ賞」受賞。
 一九七七 一月四日 ナポリでイザベッラ・クワラントッティーと結婚。六月十五日 イギリスのバーミンガム大学より劇作家、俳優、演出家としての功績に対して名誉文学博士号を受く。