脱出
           ミハイール・ブルガーコフ 作
             能 美 武 功 訳
             城 田  俊  監修
      
      不滅とは、静かに光り輝いている対岸である。
      我らの道は、そこへ辿り着こうという必死の突進。
      ゆっくり休息するがよい、その足掻きを終えた者よ。
                 ジュコーフスキー

   登場人物
セラフィーマ・ヴラヂーミロヴナ・カルズーヒナ 若い婦人(ペテルブルグ出身。)
セルゲーイ・パーヴロヴィッチ・ガルプコーフ  観念論哲学の教授を父にもつ男(ペテルブルグ出身。)
大主教  シンフェローポリ(都市の名)とカラス・バザールスキーの大主教。名前はアフリカーン。白軍の従軍大主教。赤軍に追われている時は化学者マーフロフを名乗る。
パイースィイー 僧。
修道院長  よぼよぼの老人。
バーイエフ ブヂョーンヌイ騎兵隊の隊長。
騎兵 ブヂョーンヌイ騎兵隊の。
グリゴーリイ・ルキヤーナヴィッチ・チャルノータ 元はサポロージェッツのコサック騎兵。現在は白軍の司令官。
バラバーンチカヴァ 臨月の女。チャルノータがこの女性に変装している。
リュースィカ チャルノータ将軍の女。
クラピーリン チャルノータの部下。雄弁が災いして最後を遂げる。
デ・ブリザール 白軍軽騎兵隊の隊長。
ラマーン・ヴァレリヤーナヴィッチ・フルードフ 
ガラヴァーン コサック軍の大尉。フルードフの副官。
守備隊長
駅長
駅長の妻
オーリカ 四歳の女の子。駅長の娘。
パラモーン・イリイッチ・カルズーヒン セラフィーマの夫。
チーヒイ 諜報機関の長。
スクーンスキー 諜報部員。
グーリン 諜報部員。
白軍総司令官
マーリヤ ゴキブリレースの券売所の女
アルトゥール・アルトゥーラヴィッチ ゴキブリレースの胴元。
主計将校の肩章をつけ、山高帽を被った男。
トルコの女
美貌の売春婦
ギリシャ人のドンファン
アントゥワンヌ・グリッシェーンカ カルズーヒンの下男。
修道士達
白軍の将校達
白軍のコサック兵達
諜報部員達
防寒用長靴をはいたコサック兵達
イギリス、フランス、イタリアの水夫達
トルコとイタリアの警察官達
トルコとギリシャの子供達
窓から顔を覗かせるアルメニア人数人とギリシャ人数人
コンスタンチノープルの群衆

第一の夢 ・・・ クリミア半島の北。一九二○年十月。
第二、三、四の夢 ・・・ クリミア半島。一九二○年十一月。
第五、六の夢 ・・・ コンスタンチノープル。一九二一年夏。
第七の夢 ・・・ パリ。一九二一年秋。
第八の夢 ・・・ コンスタンチノープル。一九二一年秋。

     第 一 幕
     第一の夢
    ・・・修道院の夢を見た・・・
(重々しく、地下室で修道士達が聖歌を遠く微かに合唱しているのが聞える。「乞い願わくは聖ニコライよ、我々のために神に祈られよ・・・」。舞台は最初真っ暗。暫くしてイコンの傍にある蝋燭(ろうそく)が乏しくゆらめき、修道院の内部が見えて来る。まづ事務机。その上に売り物の蝋燭が置いてある。その傍の大きなベンチ。それから格子が嵌まっている窓。聖者の像のチョコレート色の顔。セラフィーム(六枚の翼を持つ天使)の色褪せた翼。その頭の後ろにある金色の後光。窓の外は陰鬱な十月の、雨と雪まじりの夕暮れ。ベンチの上には馬用の毛布を頭から被ったバラバーンチコヴァが横になっている。羊の毛皮外套を着たマーフロフ(大主教が変装している化学者の名前)が窓の傍に坐っていて、外のものを何か見極めようと一心に見ている。修道院長の坐る背の高い椅子に、黒い毛皮外套を着たセラフィーマが坐っている。顔色から判断するとセラフィーマは病気のようである。セラフィーマの足下のベンチに、ガルプコーフが坐っている。その傍にスーツケース。ガルプコーフは、ペテルブルグから来たと見られる若い男。黒い外套に、手袋を嵌めている。)
 ガルプコーフ(合唱を聞きながら。)聞えますかあれが、セラフィーマさん。ここには地下室があるんですよ。何て奇妙なんだ、地下室から歌だなんて。僕は時々、夢を見ているんじゃないかって気分になるんです。あなたと二人で逃げて来て、これでもう一箇月。村を通って町を通って・・・でも、遠くへ来れば来るほど辺りの様子が奇妙になってきます。ほら見て。今僕達は修道院にいるんですよ。それから一体僕はどうなってるんだろう。今日あの激しい撃ち合いがあった時、故郷のペテルブルグが懐かしく浮んできたんです。それもはっきり。僕の部屋のあの緑色の電燈が・・・それで僕、急に恋しくてたまらなくなって・・・
 セラフィーマ そんな気分になるなんて危険よ、セルゲーイ。何かから脱出する時には、脱出以外のことは考えないようにしなければ。それとも残っていた方が良かったとお思い?
 ガルプコーフ いいえ、とんでもない、そんなこと。何が起ろうと腹は決まっているんです。それに、こんなに辛い旅なのに、それが僕にとって何故素晴らしいものになっているのか、あなたはもう御存じです・・・街燈の薄暗い光の中に貨車があって、僕らは偶然そこで出会ったのです。あれから実際は、たいして時間は経っていません。でも僕はあなたのことをもうずっとずっと昔から知っているような気がしています。この陰鬱な秋の霧の中を、やっとのことで進む脱出の旅。その辛さも、あなたのお蔭で軽くなっているのです。あなたを無事クリミアにいる旦那様のところへ届けたら、僕はきっと自分を誇りに思うでしょう。それであなたとはお別れになりますけれど、あなたの幸福を考えて、僕も幸せな気持になりましょう。
(セラフィーマ、黙って手をガルプコーフの肩に置く。)
 ガルプコーフ(セラフィーマの手を撫でながら。)あ、少し熱がある。
 セラフィーマ いいえ、馬鹿な。熱などありません。
 ガルプコーフ 何が馬鹿です。熱ですよ。これは熱です。
 セラフィーマ いいえ、セルゲーイ、たとえ熱でもすぐひきます。
(遠くに砲声が聞える。バラバーンチカヴァ、寝返りをうって、呻き声を上げる。)
 セラフィーマ ねえあなた、このまま放っておいてはいけないわ。産婆さんを呼んで来なくちゃ。私達のうちの誰かが、町へ行って来ますけど・・・
 ガルプコーフ 僕が行きます。
 (バラバーンチカヴァ、黙ってガルプコーフの外套の裾を握り、行くのを止める。)
 セラフィーマ ねえ、どうしてお嫌なの?
 バラバーンチカヴァ(意地を張る調子で。)必要ないの。
(セラフィーマとガルプコーフ、とりつくしまなし。)
 大主教(静かに、ガルプコーフに。)謎だ、その婦人は。何を考えているのか・・・
 ガルプコーフ(囁くように。)ひょっとして、もうすぐ(生れるのでは?・・・)
 大主教 ひょっとしようとどうしようと、私は知らない。この動乱の最中(さなか)だ。何が起ろうと当たり前だ。修道院に奇妙な女が寝ているぐらい、何の不思議もあるものか。
(地下室からの歌、静かになる。)
 パイースィー(黒衣の修道士。音を立てずに現れる。脅えた様子。)身分証明書を、皆さま。身分証明書を御用意下さい。(蝋燭を一つだけ残して、あと全部吹き消す。)
(セラフィーマ、ガルプコーフと大主教、身分証明書を取りだす。バラバーンチカヴァは片手を突きだして、馬用の毛布の上に身分証明書を置く。)
 バーイェフ(登場する。興奮している。短い毛皮外套(半コート)を着ていて、それには泥が撥ねかかっている。バーイェフの後ろには、カンテラを持った、赤軍騎兵兵士。)(訳者註 赤軍騎兵軍団はブジョーンヌイ将軍が指揮している。)何だ、これは。坊さんばかりごろごろしていやがって。ぶっとばしてやれ。坊さんのねぐらか、ここは。おい、神父! 鐘楼へ上る螺旋階段はどこだ。
 パイースィー ここです。ここです・・・
 バーイェフ(騎兵に。)おい、見て来い。
(騎兵、カンテラを持って鉄の扉から退場。)
 バーイェフ(パイースィーに。)鐘楼に明かりが見えた。何があるんだ。
 パイースィー 明かりなどと。とんでもない。決して・・・
 バーイェフ 明かりが見えたんだ! ちかちかってな。よし、鐘楼にもし何か見つけたら、お前ら、壁に一列に並べて銃殺だ。お前もだぞ。このくそったれ。お前、鐘楼の上で明かりを振ったな。白軍に合図したな。
 パイースィー と、とんでもない。
 バーイェフ ええっ? 何だこいつら。お前、修道院にはよそ者は一人もいないと言ったな。何だこれは。
 パイースィー 避難民なんです、この人達は。避難民・・・
 セラフィーマ 将校さん、ここにいる私達は町で銃撃戦に遭遇したのです。それでこの修道院に逃げ込んだのですわ。(バラバーンチカヴァを指さして。)ほら、ここには、臨月の女性も。もうすぐ生れそうですわ。
 バーイェフ(バラバーンチカヴァに近づく。身分証明書を取り、読む。)バラバーンチカヴァ、既婚者・・・
 パイースィー(脅えきって。激しく小声で。)ああ、神様、神様、どうかお助けを。(逃げんばかりに。)聖ドゥミートリー様、どうか、どうか・・・
 バーイェフ 夫はどこだ。
(この時までにバラバーンチカヴァ、呻き声を上げている。)
 バーイェフ よりによってこんな時に、こんな場所で臨月とは。偉いもんだ。(大主教に。)身分証明書!
 大主教 これです。私はマリウーポリから来ました。化学(ばけがく)の専門で。
 バーイェフ 化学(ばけがく)? 化学の専門が多過ぎるぞ、この前線には。
 大主教 ちょっと食料を買いに出たところ・・・つまり、胡瓜を・・・
 バーイェフ 胡瓜だと?・・・
 騎兵隊員(突然登場して。)バーイェフ隊長。鐘楼には何もありませんでした。しかし・・・(バーイェフに近づいて何事か耳打ちする。)
 バーイェフ 何だと! どの方向からだ。
 騎兵隊員 暗くてはっきりとは。しかし隊長、間違いはありません。
 バーイェフ そうか。分かった。行こう。(身分証明書を差し出していたガルプコーフに。)まただ。後で来る。(パイースィーに。)おい、坊主、お前、内戦に参加するのか。
 パイースィー いいえ、とんでもない。
 バーイェフ ただお祈りか? それで、どっちが勝てと祈るんだ? 知りたいもんだな。俺達赤軍のためにか? それともあの糞ったれの敵のためにか。まあいい、またやって来る。明日な。その時だ、身分証明書の改めは。(騎兵隊員と共に退場。)
(窓の外で号令が鈍く微かに響く。静かになる。何事も起らなかったような静けさ。)
(パイースィー、しきりに十字を切る。蝋燭をつけ、退場。)
 大主教 何も見つからなかった。空騒ぎだったか。よく言ったものだ、「その印(しるし)、手に、そして額に、鮮やかにぞ記されぬ。」・・・あの五つ星の肩章に気付かれましたかな? 皆さん。
 ガルプコーフ(囁き声で、セラフィーマに。)一体どうなっているんでしょう。ここは白軍の支配下にある筈でしょう? 赤軍がどうしてここにいるんでしょう。奇襲でもやったんでしょうか。何なのでしょう、一体。
 バラバーンチカヴァ 大将のクラープチコフが大馬鹿野郎のカスのウンコ野郎だからですよ。(セラフィーマに。)あ、これは失礼。マダーム。
 ガルプコーフ(機械的に。)ええ、それで?
 バラバーンチカヴァ 「それでも」もへちまもあるものですか。後方から赤軍騎兵隊の急襲ありと至急電報が入ったのに、あの馬鹿はそれを解読しもせず、朝までトランプにうつつを抜かしていたからですよ。
 ガルプコーフ ええ、それで?
 バラバーンチカヴァ あの野郎、ウジ虫めが。
 大主教(小さな声で。)ほほう、これは随分変った女性だ。
 ガルプコーフ 事情に通じていらっしゃるんですね。お訊きしていいですか? 僕は噂に聞いたんですが、このクルチュラーン辺りに、チャルノータ将軍の本部があるという話ですけど・・・
 バラバーンチカヴァ おやおや、詳しいのはそちらではありませんか。ええ、たしかに、チャルノータ軍の本部が置かれていました。でも、どこかへ行ってしまったんです。
 ガルプコーフ で、そのどこかというのは、どこなんです。
 バラバーンチカヴァ そんなこと、決まってますよ。地獄の一丁目でしょう。
 大主教 随分詳しいですね。どこでそんなことをお知りになったのですか、マダーム。
 バラバーンチカヴァ 随分知りたがり屋でいらっしゃること、大主教さん。
 大主教 私のことを大主教とお呼びになりましたな。失礼ですが、それはどういうわけで?
 バラバーンチカヴァ 分かりましたよ。こんな話、ろくでもない。もうお仕舞い。あっちへ行って下さい。
(パイースィー、走って登場。再び蝋燭を、一つを除いて全部吹き消す。窓の外を見る。)
 ガルプコーフ 今度は何です?
 パイースィー ああ、あなた。私にも分かりません。神様は今度は何を送って来られたのでしょう。ああ、私達は生きてこの一夜を明かせるでしょうか。(地面の下の穴に、消えるかのように退場。)
(沢山の馬の蹄の音、物凄い響き。窓には炎の反射が、踊るように動く。)
 セラフィーマ 火事?
 ガルプコーフ いいえ。たいまつの明かりです。何だかさっぱり分かりません、セラフィーマさん。あれは白軍です。本当です。白軍ですよ。ああ、神様。僕達、また白軍の手に戻ったんです。肩章をつけている将校さん達ですよ。
 バラバーンチカヴァ(坐る。しっかりと毛布を身体に引き付ける。)お黙りなさい、インテリさん! あんたは糞よ! 「肩章」「肩章」何が肩章ですか。ここはペテルブルグではない、ターヴリアです。土地柄からしても狡い。肩章があったって、白軍とは限りません。制服を着替えているかも知れないんですからね。
(突然、柔らかく鐘の音。)
 バラバーンチカヴァ フン、鐘を鳴らし出したか、坊さん達は。(ガルプコーフに。)ズボンの色は?
 ガルプコーフ 赤・・・あ、また来たぞ。今度は青地に赤い線が入っている。
 バラバーンチカヴァ「また来た」? 「赤い線}? 糞っ! 線とは? 「飾りの筋」?
(デ・ブリザールの重々しい号令。「第一騎兵中隊・・・下馬」)
 バラバーンチカヴァ 何だ、こいつは。思いもかけない事態だな。あいつの声だ。(ガルプコーフに。)よし、怒鳴れ。俺が命令する。大声で怒鳴るんだ!
(馬の毛布とぼろ切れを身体から投げ下ろすと、チャルノータ将軍の姿が現れる。チェルケス風の裾長のコート。そのコートには皺くちゃになった銀色の肩章がついている。手に握っていたピストルをポケットに突っ込む。チャルノータ、窓に掛けより、さっと開き、怒鳴る。)
 チャルノータ おーい、騎兵隊! おーい、ドン・コサック! ブリザール大佐、入れ。
(扉が開き、最初にリュースィカが走り寄る。リュースィカは頭に看護婦のつける三角巾。革のジャンバー、ズボン、靴は拍車のついた長い革靴。リュースィカのあとに、顔中髭のデ・ブリザール。それから松明を持った伝令のクラピーリン。)
 リュースィカ グリーシャ、グリーシャ!(チャルノータの頸に飛び付く。)信じられない! 生きてるのね? 助かったのね! (窓から大声で。)我々騎兵隊は赤軍からチャルノータ将軍を奪還したぞ!
(窓の外からざわめきと喚声。)
 リュースィカ もうあなたのお葬式をやらなくっちゃーって話していたのよ、私達。
 チャルノータ 死が目と鼻の先だった。危ない危ない。俺は本部のクラープチコフに会いに行った。ところがあの豚野郎、俺にトランプの相手をさせやがったんだ。あの蛆虫(うじむし)野郎めが。そうしたら突然機関銃だ。ブジョーンヌイの奴等の急襲を食らったんだ。あっという間に本部は壊滅。俺は撃ちまくって窓から畑へ飛びだした。知りあいの教師バラバーンチコフの家に駆け込んだ。身分証明書を貸せと言った。慌てふためいて俺に渡したさ。俺はそれを持ってこの修道院へ逃げ込んだ。身分証明書を見たら、何と連れあいの物じゃないか。マダム・バラバーンチカヴァさ。おまけに臨月の証明書までついていやがる。周囲は赤軍だ。ええい、ままよ。ここにいてやれ。横になって臨月の真似だ。すると拍車の音が聞えてきた。カチャン、カチャン!
 リュースィカ 誰なの?
 チャルノータ ブジョーンヌイ軍の将校さ。
 リュースィカ まあ!
 チャルノータ さあ、いらっしゃい、ブジョーンヌイの将校さん、毛布の下にはお前さんの死が待っている。さあ早く毛布を剥いでみろ。さあ剥ぐんだ。今なら坊さん達が聖歌も歌っている。あの世行きには持って来いだ。あいつは、身分証明書は見た。しかし毛布は剥がなかった。
(リュースィカ、口笛を吹く。)
 チャルノータ(外に走り出る。扉のところで、大声で。)コサック兵、万歳! よくやったぞ!
(それに答える喚声。リュースィカ、チャルノータの後から走り出る。)
 デ・ブリザール 俺はそんなへまはやらんぞ。毛布は必ず剥ぎ取ってみせる。面白半分にでも、この修道院で誰かを縛り首にしてやる。赤軍の奴等は慌ててその暇がなかったらしいからな。(大主教に。)おい貴様。貴様の正体など、その髪の長さで分かりきっている。身分証明書の改めなど不要だ。クラピーリン、明かりを持って来い!
 パイースィー(飛んで来る。)何事です。何てことを。このお方はダッ、ダッ・・・大主教閣下ですぞ。
 デ・ブリザール たわ言をぬかすな、貴様。何が閣下だ。
(大主教、帽子と毛皮外套を脱ぎすてる。)
 デ・ブリザール(大主教の顔を覗きこみ。)ええっ、これは。大主教閣下。本当に閣下なのですね。どうしてまあ、こんなところに。
 大主教 コサック軍の栄光を讚えるために、私はクルチュラーンに到着した。すると赤軍の襲撃だ。私は捕虜になった。幸い修道士達が身分証明書を都合してくれて、ここまでは逃げおおせたのだ。
 デ・ブリザール 全く、何て話だ。(セラフィーマに。)おい、身分証明書!
 セラフィーマ 私は商業省次官の妻です。夫はもうクリミアに行っております。私はペテルブルグで出発が遅れて、今夫に合流しようとしているのです。これが赤軍への偽の身分証明書。こっちが本当の身分証明書です。私の名前は、セラフィーマ・カルズーヒン。
 デ・ブリザール 大変失礼致しました、マダーム。おい、平服を着た青虫! お前、まさか、「私は実は枢密顧問官で・・・」などと言うんじゃあるまいな。
 ガルプコーフ 私は青虫でも枢密顧問官でもありません。父はよく知られた観念論哲学の教授ガルプコーフで、私自身も大学で助教授をしています。ペテルブルグで仕事をするのは不可能になってしまいましたので、白軍のいるあなた方のところへ逃げて来たのです。
 デ・ブリザール これはこれは。やれやれ、ノアの箱船か、(白軍は。)
(床にある鉄のハッチが開き、そこから年老いた修道院長が上って来る。その後に蝋燭を持った修道士達が続く。)
 修道院長(大主教に。)大主教閣下!(修道士達に。)兄弟よ! 我々は大主教閣下を不信心な共産主義者達の手から、お救い申し上げることが出来ましたぞ。
(修道士達、あがり気味の大主教にマントを着せ、笏杖(しゃくじょう)を持たせる。)
 修道院長 大主教閣下、どうか笏杖をもって、我々弱き信徒に、新たな力をお与え下さいますよう。
 大主教 神よ、天上から、我々葡萄の木に目を向けさせ給え。
 修道士達(突然歌い始める。)エイス・ポレーテー・デスポータ・・・(ギリシャ語「大主教に栄光あれ・・・」)
(扉にチャルノータ登場。その後にリュースィカ。)
 チャルノータ 何だこれは。気でも狂ったか。こんな時に祈祷! おまけに合唱つきとは!(動作で「解散」と指示する。)
 大主教 皆さん、解散して下さい!
(修道院長と修道士達、地下に戻る。)
 チャルノータ(大主教に。)閣下、こんな時にお祈りとは。退却です。敵はもう眼と鼻の先です。ブジョーンヌイの奴、我々を海へ追い落す腹です。味方は全軍、既に逃げています。なんとしてもクリミアまで、ラマーン・フルードフ将軍の麾下(きか)に入らねば。
 大主教 ああ、神様、どうかお助けを。(自分の毛皮外套を掴んで。)馬にひかせる二輪車はお持ちでしょうな。私を頼みますぞ。(退場。)
 チャルノータ 地図を貸せ。それに明りだ。クラピーリン・・・(地図をじっと見る。)逃げ道はない。一巻の終だ。
 リュースィカ ああ、あのクラープチコフの奴。(トランプなんかにうつつを抜かすから・・・)
 チャルノータ 待て、いい考えがある!(デ・ブリザールに。)お前の部隊はまづアルマナーイカに行く。敵をちょっとの間、そちらに引き付けるんだ。それからバービイ河に出る。首まで水に浸かっても河を渡るんだ。俺はコサック部隊と、お前の後に動く。こちらはドゥホボール教徒の住む村に直行する。お前の隊とはアラバーツクで落ち合う。いいな。お前の隊は五分後に出発だ。
 デ・ブリザール 畏まりました、閣下。
 チャルノータ フー! ・・・(デ・ブリザールに)おい、俺に一杯くれ。
 ガルプコーフ セラフィーマさん、今のが聞えましたか? 白軍は退却するんです。私達も一緒に行かなくちゃ。でないとまた赤軍の手に落ちてしまいます。セラフィーマさん、どうして答えて下さらないのですか。
 リュースィカ(デ・ブリザールに。)私にも頂戴。
(デ・ブリザール、リュースィカに水筒を渡す。)
 ガルプコーフ(チャルノータに。)将軍、どうかお願いです。私達も連れて行って下さい。この婦人は病気なんです。クリミアに行こうとしているんです。野戦病院はありますね? きっと。
 チャルノータ 君、君はたしか大学は出た筈だね?
 ガルプコーフ ええ、勿論です。
 チャルノータ 呆れたもんだ。何が大学出だ。野戦病院・・・無教養の男としか思えんな。いいか、バービイ河を渡る時に頭を打ち抜かれるかも知れないんだ。野戦病院が何のたしになる、あ? 「レントゲン室はあるんでしょうね」、が次の質問か? 全く呆れたもんだ、インテリという奴は。おい、ブランデーをよこせ。
 リュースィカ この人綺麗だわ。連れて行かなくちゃ。赤軍の手に渡ったら可哀想。
 ガルプコーフ セラフィーマさん起きて下さい。行かなくちゃ!
 セラフィーマ(元気なく。)ねえ、ガルプコーフさん。私、本当に悪くなってきたみたい。あなた一人で行って。私残る。この修道院で寝ているわ。私、熱があるの。熱くて。
 ガルプコーフ とんでもない、セラフィーマさん。残るなんて駄目です。さ、立って下さい。
 セラフィーマ 水が欲しい・・・帰りたい、ペテルブルグに・・・
 ガルプコーフ どうしたんだ、これは。
 リュースィカ(したり顔で。)チフスだわ、これはチフス。
 デ・ブリザール 奥さん、ここから出なければ。逃げるんです。赤軍につかまるのはまづい。駄目だ。俺は口べただ。クラピーリン、お前は弁が立つ。説得するんだ。
 クラピーリン 奥さん、行くんです。行かなくちゃ。
 ガルプコーフ セラフィーマさん、行きましょう。
 デ・ブリザール(腕時計を見て。)時間だ。(走って退場。)
(デ・ブリザールの号令が聞える。「出発!」――それから馬の蹄の音。)
 リュースィカ クラピーリン、立ち上らせて。力づくで。
 クラピーリン 分りました!(ガルプコーフと二人がかりでセラフィーマを持ち上げる。脇の下を両側から抱える。)
 リュースィカ 二輪車に乗せて。
(四人退場。)
 チャルノータ(一人残って水筒のブランデーを飲み干す。時計を見る。)時間だ。
 修道院長(ハッチから現れる。)白軍の将軍殿! どちらにいらっしゃる。あなた様に隠れ家と救援の手をのべた修道院を、まさかお見限りになるのでは?
 チャルノータ 何ですと? 修道院長殿。私の邪魔をなさろうとでも? 鐘の舌(鐘を鳴らすもの)はちゃんと紐で結わえて、地下室でじっとしていることです! では、さらば!
(チャルノータ退場。)
(外でチャルノータの声、「騎乗! 騎乗!」。それから、ものすごい蹄の音。そして、静かになる。パイースィー、ハッチから登場。)
 パイースィー 修道院長! どうしたらいいでしょう、これから。赤軍はもうすぐにでもやって来ます。私達は白軍に鐘で合図をしたんですからね。受難者の冠を被ることになるのでしょうか。
 修道院長 大主教閣下はどこに?
 パイースィー 逃げておしまいに。軍の二輪車に乗り込んで。
 修道院長 その名に値しない羊飼い! 面倒を見てやるべき羊達はそのままに、御自分だけ逃げておしまいになるとは!(地下室に元気なく叫ぶ。)兄弟達! お祈りを!
(地下から陰気に、「聖なる父、ニカラーイ、どうぞ私達を・・・」という歌が響く。)
(暗闇が修道院を覆う。第一の夢、終。)

     第 二 の 夢
    ・・・私の夢は愈々重苦しくなって行く・・・
(暗闇から、クリミア北方のある鉄道の駅の一室が現れる。部屋の後方に非常に大きな窓。窓の外は真っ暗な夜。こちら側の青い電燈の光で、よけい暗く感じられる。クリミアの十一月にしては異常な、狂ったような寒さ。スィバーシュも、チョンガールも、ピェレコープも、そしてこの駅も凍結してしまっている。窓も氷結して霜で覆われている。その霜を通して時々通り過ぎる列車の灯が、蛇のように流れて行く。鉄製の携帯用ストーブ(複数)が燃え、机の上には灯油のランプ(複数)が灯っている。奥の方に出口の扉。その前方に段。扉の上方に革命前の綴り字で、「参謀本部」と書かれた札。ガラスで仕切られた部屋あり。そこは駅長が指示を出す部屋。官から支給されたものと分る緑色のカバーのついたランプ。それに線路見回り等の時携帯する緑色の二つ球のランプ。これはまるで化け物の目のように見える。その隣に槍で、鱗のある龍を退治している馬上の騎士の絵が裸電球に照らされている。この騎士はセント・ジョージ。その前方に多様な色の光を出すカットグラスの照明。この部屋に今、白軍将校達が働いている。彼等のほとんどは防寒頭巾を被り、耳あてをしている。無数の野戦連絡用の電話。旗の印が立ててある地図(複数)。奥にはタイプライター(複数)。電話が鈍い音を立てる度に、電話に付いているランプが様々な色の光を出す。)
(前線本部はこの駅に本拠地を置いて今日で三日経つ。三日間全員は不眠不休。機械のように働きづめ。注意深い観察者なら、ここにいる全ての人間の表情に不安の色が現れているのを見つけるかもしれない。しかしまた同時に、彼等が、昔一等食堂だったある一区画に目をやるとき、彼等の目に希望と怖れが浮ぶのを認めるかもしれない。その一区画とは、背の高い食器戸棚で区切られた場所で、その中に背の高い斜面机がある。その机の奥に高いストゥールがあり、それにラマーン・ヴァレリアーナヴィッチ・フルードフがこちら向きに坐っている。フルードフの顔は白。髪は黒。ポマードで固められ、梳(くしけづ)られていて、将官らしくきっちりと分けてある。鼻はパーヴェル一世のような獅子鼻。髭は剃ってある。ここにいる将校達の誰よりも若い顔。しかしその目は年をとっている。着ているものは軍人外套。ただ帯の締め方はだらしなく、部屋着を着るときのような締め方。両肩にはラシャの肩章。その上から将軍の肩書きを示す黒いジグザグの布がなげやりに縫ってある。くすんだ色の記章がついている汚れたカーキ色の廂(ひさし)のある戦闘帽を被っている。両手にはミトン(親指だけ離れた手袋)。フルードフは武器を携帯していない。フルードフは病んでいる。身体全体、頭のてっぺんから足の爪先まで病気だ。顔が顰められ、身体が震える。物を言う時にその口調が始終変る。自分自身に質問を出し、それに対して声を出して答える。微笑もうとする時には、無理に歯を出して笑う。彼は部下に脅威を与える。フルードフは病気だ。彼の傍に机。電話が数個置いてある。そこにガラヴァーン大尉が坐ってタイプを打っている。ガラヴァーンはフルードフに心酔している腹心。)
 フルードフ(ガラヴァーンに口述。)「・・・コンマ。しかし赤軍司令官フルーンゼは馬鹿ではない。軍事演習時の敵軍、のような見え見えの行動は取らなかった。これは戦争だ。チェスでもなければ、記念碑的なツァールスコエ村での戦闘でもない。ピリオド。署名、フルードフ。ピリオド。」
 ガラヴァーン(打ち上がった文章を伝令に渡して。)暗号に直して本部に伝送。
 参謀将校一(電話から出る信号の灯で顔が照らされる。電話に出て、呻く。)はい。もしもし・・・もしもし。ブジョーンヌィ? ブジョーンヌィ?
 参謀将校二(電話に出て、苦しそうに。)タガナーシ・・・タガナーシ・・・
 参謀将校三(電話に、苦しそうに。)違う。カールポヴァ・バールカを・・・
 ガラヴァーン(電話の信号灯に照らされて、電話に出る。フルードフに受話器を渡す。)電話です、閣下。
 フルードフ(受話器に。)そうだ。・・・そうだ。・・・違う。・・・そうか。(受話器をガラヴァーンに返し。)守備隊長を呼べ。
 ガラヴァーン 守備隊長!
(「守備隊長!」「守備隊長!」と次々に声がリレーされる。蒼白い顔をしたやぶにらみの、赤い丸帽を被った士官が慌てて走って登場。机をかき分けてフルードフの前に立つ。敬礼。)
 フルードフ タガナーシ線の装甲列車「アフィツェール」は何故来ないんだ。一時間も待ったぞ。何故だ。何故だ。何故だ。
 守備隊長(消え入るような声で。)駅長の報告によりますと閣下、装甲列車「アフィツェール」を進ませることは無理だそうでして。
 フルードフ 駅長を呼べ。
 守備隊長(走って出て行く。途中、そこにいる士官に、泣きそうな声で。)私に何が出来るって言うんでしょう。
 フルードフ やらかしたな。悲劇だぞこいつは。装甲列車が麻痺状態だ。杖に縋(すが)るようにだが、走って来てはいたんだ。それが完全に停止だ。(ベルを鳴らす。)
(「諜報部」と札のかかった壁にスポットライトがあたる。ベルの音でチーヒイがそこから出て来る。チーヒイ、フルードフの前に立つ。静かにフルードフの命令を待つ。)
 フルードフ(チーヒイの方を向き。)我々は誰からも好かれておらん。問題はそこから来たんだ。それがこの悲劇を招いたのだ。芝居とは違うぞ、これは。何故黙って放っておくんだ。
(チーヒイ、黙っている。)
 フルードフ(激怒して。)ストーブから毒ガスが出ている。どうしたんだ。
 ガラヴァーン 毒ガスではありません、閣下。大丈夫です。
(守備隊長登場。フルードフの前に立つ。その後ろに駅長。)
 フルードフ(駅長に。)装甲列車はもう動かないと報告したそうだな。
 駅長(動き、喋りはするが、この一昼夜の緊張で疲れ果てて、殆ど死んだも同然の状態。)その通りでして、閣下。物理的にもう力の限界です。手動でなんとか転轍機(てんてつき)を動かそうとしたのですが、全く駄目です。凍りついているんです。
 フルードフ ガスが出ているぞ。あっちのストーブじゃないのか。
 ガラヴァーン はっ、只今!(横にいる男に。)あっちのストーブを消せ。
 駅長 ガスです。ガスです。
 フルードフ(駅長に。)臭いがするぞ、お前は。赤軍といい関係にあるようだな。怖がらなくてよい。洗いざらい私に話したらどうだ? 誰にだって主義主張はあるものだ。わざわざ隠すことはない。卑怯者め!
 駅長(恐怖のあまり、しどろもどろに。)そんな疑いを、何故この私に、閣下。私には子供達が・・・お仕えしてきたのです私は。皇帝ニコライ・アレクサーンドゥロヴィッチに・・・子供、子供は娘のオーリカに、息子のパーヴェル・・・三十時間眠っていないのです・・・どうぞ信じて下さい・・・市議会議長ラッジャーンカも私のことは懇意にして下さって・・・いえ、私はあの方はそれほど好きという訳でも・・・私には子供が・・・
 フルードフ 誠実な人間じゃないか。見ろ。愛がなきゃならん。戦争では愛がなくては何も出来はしない。(チーヒイに向って。非難するように。)私を愛するものは誰もいない。(冷たく。)工兵を出せ。突くんだ、動かすんだ、転轍機を。十五分与える。その間に装甲列車を本線にまで移動する。この十五分間でこれが出来なかった時は守備隊長を逮捕する! 駅長は信号機に吊るす。絞首刑だ。その下に「サボタージュ」と札をかける。
(この時遠くから優しいゆっくりしたワルツの曲が聞えてくる。かって中学校のダンスパーティーで演奏されていた曲。)
 駅長(元気なく。)閣下、私共の子供はまだ学校にも行っておりませんで・・・
(チーヒイ、駅長の脇の下に手を入れ、連れ去る。その後から守備隊長、退場。)
 フルードフ 何だあれは。ワルツか?
 ガラヴァーン チャルノータです、閣下。彼の部隊です。
 駅長(ガラスの囲いの中で、狂気のように受話器に怒鳴る。)フリストーフォル、頼む。第四区と第五区を総動員してくれ。至急タガナーシへ行かせるんだ。工兵もそこへ行くことになっている。何が何でも列車を通過させてくれ、頼む。
 駅長の妻(駅長の傍に来て。)どうしたの? あなた。何なの?
 駅長 ああ、お前。大変だ。うちの家族はどうなるのか。オーリカを、オーリカを呼んで来てくれ。すぐに。
 駅長の妻 えっ? オーリカを? オーリカをね?(退場。)
(ワルツ、急に止む。プラットフォームに繋がる扉が開き、チャルノータ登場。コサックの毛皮外套に円筒型の帽子。フルードフに近づく。チャルノータと一緒に走って来たリュースィカ、扉の傍に、舞台奥に留まっている。)
 チャルノータ 騎兵部隊総員、只今チョンガールから到着致しました。
(フルードフ黙っている。チャルノータを見つめる。)
 チャルノータ 閣下!(騎兵隊がいることを見せるため、外を指さす。)閣下、どうなさいました?(突然帽子を脱ぎ捨て。)何をやっているんだ! やめろ、ラマーン! お前は本部の人間だぞ! 黙っていないで何か言うんだ! ラマーン!
 フルードフ 黙れ!
(チャルノータ、帽子を被る。)
 フルードフ 輸送物資はここに置いておく。部隊はすぐ出発だ。カールポヴァ・バールカへ行って、そこで敵を食い止める。
 チャルノータ はっ、出発します。
 リュースィカ どこに行くの?
 チャルノータ(陰気に。)カールポヴァ・バールカだ。
 リュースィカ 私、一緒に行くわ。負傷者とチフスのセラフィーマはここに置いて行くわ。
 チャルノータ 行けば死ぬぞ。
 リュースィカ 死んだっていいわ。(チャルノータと退場。)
(列車のガタンガタンという音。それから喘ぎ喘ぎやっと発することが出来たというような汽笛の音。駅長の妻、ガラスの囲いに入って来る。上半身大きなスカーフで覆われた娘のオーリカを手に引いている。)
 駅長の妻 連れて来たわ。さ、オーリカ。
 駅長(電話に。)フリストーフォル! やったな、有難う! 有難う!(オーリカを両手で抱き抱えて、フルードフの方へ走って行く。)
(駅長の後に、チーヒイと守備隊長も。)
 フルードフ(駅長に。)やったな。本線まで持って来られたんだな? 
 駅長 成功です、閣下。動きました。動きました。
 フルードフ どうしたんだ、その子供は。
 駅長 娘です。オーレチカです。・・・賢い子供です。ええ、私は二十年間ここに仕えました。二昼夜寝ていないのです・・・
 フルードフ そうか、子供か。・・・お前、輪投げ出来るか? どうだ?(ポケットからキャラメルを取りだす。)ほら、キャラメルだ。ほら・・・医者は私に、煙草を吸ってはいかんと言うんだ。神経がやられるからと言ってな。代りにキャラメルを舐めろとな。しかし何の役にも立たん。私は相変わらず煙草だ。ほら、どうだ?
 駅長 戴きなさい、オーレチカ。さあ。優しいお方なんだ、将軍様は。ほら、お礼を言うんだ、「メルスィ」って・・・
(駅長、娘を両手で抱えて間仕切りの方へ連れて行く。駅長の妻、オーリカと退場。)
(再びワルツが聞え、それが遠ざかって行く。パラモーン・カルズーヒン登場。チャルノータが入って来た扉とは別の扉から入って来る。カルズーヒンは見るからにきざな男。眼鏡をかけていて、非常に高価な毛皮外套。手には手提げ鞄。ガラヴァーンに近づき、名刺を渡す。ガラヴァーン、フルードフにそれを渡す。)
 フルードフ 御用は?
 カルズーヒン(フルードフに。)始めてお目にかかります。私は通商省次官、カルズーヒンと言います。我が省は、次の三つの質問について、閣下にお答え願うよう、私に全権を下しました。私はつい先程、セバストーポリから着いたばかりです。まづ最初の質問。シンフェローポリで五人の労働者が逮捕されました。五人は閣下の指示により、この本部へ送られました。が、どのような処置を取られたか、それをお聞きしたい。
 フルードフ なるほど。そうか、あなたはそっちのプラットフォームから入って来られましたな。ガラヴァーン、次官殿に逮捕者のところへ案内して差し上げろ。
 ガラヴァーン どうぞこちらへ。(部屋中緊張。その中を舞台奥の中央扉の方へとカルズーヒンを導く。扉を開け、上方を指さす。)
(カルズーヒン、身体が震える。ガラヴァーンと共にフルードフの方に帰る。)
 フルードフ 第一の質問はこれでいいでしょうな。第二の質問をお聞きしましょう。
 カルズーヒン(おどおどしながら。)第二は、我々の省に直接関係するものでして・・・この駅に、我が省にとり特別に重要な物資が、滞(とどこお)ったままになっています。閣下の特別な御許可と御支援を願って、いち早くこの物資をセバストーポリに発送して戴きたいのですが。
 フルードフ(優しく。)で、その物資とは?
 カルズーヒン 輸出用の毛皮製品です。
 フルードフ(微笑して。)ああ、毛皮製品! で、貨車の番号は?
 カルズーヒン(書類を出す。)これです。
 フルードフ ガラヴァーン大尉! ここに書いてある貨車全部、引き込み線に入れろ。ガソリンをかけて貨車ごと燃やせ。
(ガラヴァーン、書類を持って退場。)
 フルードフ(優しく。)で、第三の質問は? 手短に願いますよ。
 カルズーヒン(怖れで殆ど口がきけない。)前線の様子は?
 フルードフ(あくびをしながら。)なるほど。前線の様子をお知りになりたいと。まあ、ワヤですな。大砲がドカンドカン。作戦本部には毒ガス入りのストーブを持って来て、鼻の下からガスをかがせる。総司令官が援軍を送ってやると言って、クバーンのコサック兵を派遣して来る。ところが見ると、靴を穿いていない。裸足の兵隊だ。何が援軍だ。ここには食堂もなければ、給仕の女もいない。丸裸の陣地だ。そこで止まり木にちょこんと坐っているんだ。(口調を変えて抑えた声で言う。)前線の様子だと? さあカルズーヒン次官、さっさとセバストーポリに帰るんだ。そして後方にいる蛆虫どもに「早く荷物を纏めて逃げるんだ」と教えてやるんだ。いいか、明日にも赤軍はここにやって来る。それからもう一つの伝言だ。連中が外国に囲っている女達への黒貂(くろてん)の毛皮のお土産は全部灰になったとね。「毛皮製品」が聞いて呆れる!
 カルズーヒン 何という無法な!(逃げ場を捜すかのように、辺りを見回す。)このことを総司令官閣下に報告しますぞ。
 フルードフ(礼儀正しく。)どうぞ、御自由に。
 カルズーヒン(後ずさりしながら横の扉に進み、退場。進みながら、誰にともなく。)この時間、セバストーポリ行きの列車は何時ですか?
(誰も答えない。カルズーヒン退場。列車が近づく音が聞えてくる。)
 駅長(真っ青な顔。フルードフの前に来て。)ケルマーン・ケルマーリッチから特別列車です。総司令官閣下です。
 フルードフ 全員、気をつけ!
(全員起立。直立不動の姿勢。カルズーヒンが出て行った扉から、警護の二人のコサック兵登場。暗赤色の防寒頭巾を被っている。二人、扉の両側に立つ。その後から白軍総司令官登場。高い毛皮の円筒型の帽子(首の後ろのところで折り曲げてある。)に、長い軍用外套。腰にコーカサスの軍刀を帯びている。その後ろに大主教。本部の士官達に十字を切って祝福する。)
 総司令官 御機嫌よう、士官諸君!
 士官全員(声を合わせて。)御機嫌よう、総司令官閣下!
 フルードフ 閣下、内密の御報告があります。お人払いを。
 総司令官 分った。諸君、席を外してくれ。(大主教に。)大主教、私はちょっと前線指揮官から内密の報告を受けますので。
 大主教 分りました。では、私も。
(全員退場。フルードフと総司令官、二人だけ残る。)
 フルードフ 三時間前、敵はユーシュニを占領しました。赤軍はもうクリミアに入っています。
 総司令官 すると、終か。
 フルードフ 終です。
(間。)
 総司令官(扉に向って。)大主教!
(大主教、心配そうな顔で登場。)
 総司令官 重大な事態です。西側の大国には見放され、狡猾なポーランドには裏切られて、今や我々の頼るところは神しかありません。
 大主教(一大事の出来(しゅったい)を理解して。)ああ、神様、どうなるのでしょう、私達は。
 総司令官 大主教、お祈りを、どうか。
 大主教(セント・ジョージの絵の前に行き。)おお、天にまします我らが神よ。何故かくの如き試練をまた新たに、汝の名付け子達キリストの軍隊に、お与えなさろうとするのですか。我らには十字架の力あり、神の祝福を受けた武器を持ち、敵を倒してきました。しかし・・・
(ガラスの仕切りの後ろに駅長登場。怖れと心配がその表情に見える。)
 フルードフ 大主教閣下、失礼ですがどうぞお止め下さい。お祈りをしても神様には迷惑なだけです。神様はもうずっと以前からはっきりと我々の味方であることを止めています。いや、神様など味方についていて呉れたことなどありはしない。もうとっくに流れはあちらにあるんだ。赤軍は芝居の舞台を走るように易々(やすやす)とここまで来てしまったのです。聖ゲオルギーは大笑いだ。へそで茶を沸かしていらっしゃる。
 大主教 将軍! あなたのような勇敢な方が・・・
 総司令官(フルードフに。)けしからん。そういう調子の物言いは固く禁ずる。君は病気なのだ、将軍。一目見て分る。言わんことではない。夏に休暇を取って外国で治療を受けるようにとあれほど言ったではないか。それを・・・
 フルードフ 私が休暇? なんて話だ。ピェレコープで白軍はもちこたえることが出来ました。私以外の誰に指揮が取れたというのです。チャルノータはたった今、チョンガールから到着しました。敵を食い止めるため、私は彼の部隊をカールポヴァ・バールカに向わせました。彼はワルツを弾かせて進軍中です。私の他に誰が彼に命令出来ますか。私は絞首刑の命令も下した。これを一体、誰がやるのです、閣下。
 総司令官(口の中でもごもごと。)それはその・・・つまり・・・何だ・・・
 大主教 おお、神よ、どうか我らに注目を、そして力を与え給え。このまま帝国が二分され、崩壊するのを打ち捨てて置かれるのか。おお神よ。
 総司令官 こんなことを言っている時ではない。
 フルードフ そうです。もう時間がありません。閣下はすぐにセバストーポリへお帰り下さい。
 総司令官 そうしよう。(封筒を取りだす。フルードフに渡す。)ここに指示が。すぐに開封して。
 フルードフ なるほど。準備は完了でしたか。この事態は予見していたと。いいでしょう。では大主教殿、あなたの僕(しもべ)の出発に際し、どうぞお祈りを。・・・(大主教、祈る。)よし。(声を上げて。)総司令官閣下の御出発! 列車準備! 護衛! 総員、集合。
 駅長(仕切の後ろで電話に飛び付く。)ケルマーン・ケマーリチー方面! 発車準備!
(総司令官の護衛二人と、席を外していた士官達全員、登場。)
 総司令官 前線総司令官は・・・
(全員、挙手の敬礼。)
 総司令官 ここに次の命令を下す。神よ、我々にこのロシアの動乱を生き抜く力と智恵を与え給え。ここではっきりと宣言する。我が軍が保持している場所はクリミア半島のみであることを。
(突然扉が開き、デ・ブリザール登場。頭に包帯。総司令官の前に立つ。)
 デ・ブリザール 御機嫌麗しう、皇帝陛下。(後ろを向き、士官達に、謎めいた調子で。)「たった一度のこの逢瀬、ああ、伯爵夫人。ああ、我が心、我が心のたけを・・・」
 総司令官 何だ、これは。
 ガラヴァーン コサック騎兵隊長デ・ブリザール伯爵です。敵弾で脳挫傷です、これは。
 フルードフ(夢の中でのように。)チョンガール・・・チョンガール・・・
 総司令官 伯爵も私と一緒の列車だ。セバストーポリに。
(総司令官、突然退場。二人の護衛、その後から退場。)
 大主教 主よ、み恵みを!(全員に祝福の動作。そして、さっと退場。)
 デ・ブリザール(二人の士官に抱えられながら。)すまない! 「ああ、伯爵夫人、この逢瀬に・・・」
 二人の士官 セバストーポリです、伯爵。セバストーポリへ・・・
 デ・ブリザール すまない・・・すまない・・・(運び去られる。)
 フルードフ(封筒を開ける。中味を読む。歯を出して気味悪くにやりとする。ガラヴァーンに向って。)カールポフ行きの伝令を出せ。バルボーヴィッチ将軍に次の命令だ。「退却せよ。ヤルタまで全速力だ。そして、そこで乗船する。」
(あちこちの士官達から一瞬、「アーメン」という囁き声。それからまた全くの静けさ。)
 フルードフ クチェーポフ将軍にも伝令だ。「退却せよ。セバストーポリに行き、乗船する。」ファスチーコフ将軍にも。「クバーンコサック隊と共にフェオドースィアへ。」カリーニン将軍に。「ドン・コサック隊と共にケールチへ。」チャルノータ将軍に。「セバストーポリに。全員乗船だ。」当本部も引き揚げる。セバストーポリだ。クリミアから退却だ!
 ガラヴァーン(急いで外に出て怒鳴る。)伝令! 伝令!
(士官達、解散の準備。地図は転がして丸く畳み、電話は電話線共に片づける。列車の汽笛。次に走り去る音。空っぽになってゆく部屋。混乱。扉がパッと開き、チャルノータ登場。その後ろにマント姿のセラフィーマ。ガルプコーフとクラピーリンが後ろから彼女が入るのを止めようとしながら登場。)
 ガルプコーフ セラフィーマさん、駄目です、ここは。正気に返って下さい。(驚いている士官達に。)チフスなんです、この婦人は。
 クラピーリン そう。熱に浮かされているんです。
 セラフィーマ(よく通る声で。)ラマーン・フルードフはどこだ。
(このとんでもない質問に、部屋中シーンとなる。)
 フルードフ 構わん。通してやれ。フルードフ・・・それは私だ。
 ガルプコーフ 本気にしてはいけません。病気なのです、この人は。
 セラフィーマ 私はペテルブルグから逃げて来たの。みんな逃げて来ている。誰を頼って? 決まってる。ラマーン・フルードフを頼って。誰もがみんな、フルードフ、フルードフ・・・夢にまで出て来たわ、このフルードフは。(微笑する。)やっと拝顔の栄に浴したわ。当の御本人は鎮座ましましている。その周囲を見た? 絞首刑で死んだ人達、その首に被せられた袋、袋、袋よ! 狼! けだもの!
 ガルプコーフ(狼狽して。)この人、チフスなんです。譫言(うわごと)です、全部! 僕達はチャルノータ将軍の部隊と一緒にやって来たんです。
(フルードフ、ベルを鳴らす。仕切り壁から諜報部員、チーヒイとグーリンが登場。)
 セラフィーマ さあ、いらっしゃいましたわね。首つり役人の仕事が始まるのよ!
(士官の中から囁き声、「赤だ、赤だ。共産党員だ。」)
 ガルプコーフ 何てことを! この人、通商次官カルズーヒンの奥さんです。熱で自分の言っていることが分らないんです!
 フルードフ なるほど。自覚せずにする話というのは分かり易いものだな。この我々仲間の話はみんな自覚した上でのものだ。しかし分かり難い。そこから真実など、とても掴めん。
 ガルプコーフ もう一度言います。この人、通商次官カルズーヒンの奥さんなんですよ!
 フルードフ 待て待て。カルズーヒンの妻? ははあ、毛皮製品か。つまりあのズル野郎には共産党員の女房がいたという訳だな。こいつはお誂え向きの話だぞ。ズル野郎めに一泡吹かせてやる。あいつはもう発ったか? まだいるのならひったてて来い。
(チーヒイ、グーリンに合図。グーリン退場。)
 チーヒイ(静かにセラフィーマに。)あなたの名前は?
 ガルプコーフ セラフィーマ・・・セラフィーマです。
(グーリン登場。カルズーヒンを連れて来ている。カルズーヒンは真っ青。悪いことを予感している。)
 ガルプコーフ あなたがパラモーン・カルズーヒンさんなのですね?
 カルズーヒン そうだ、私はカルズーヒンだ。
 ガルプコーフ 有難い。やっと、やっと。あなたは私達を引き取りに来て下さったのですね?
 チーヒイ(優しく、カルズーヒンに。)あなたの奥様セラフィーマさんがペテルブルグから遥々(はるばる)あなたに会いにやって来られたのですよ。
 カルズーヒン(チーヒイとフルードフの目を見て何かの罠を嗅ぎつける。)セラフィーマなど、私はそんな名前を聞いたことがありません。私はこの婦人を生れて始めて見ました。ペテルブルグから私のところにやって来る者など誰もいません。そちらの話は作り事です。
 セラフィーマ(カルズーヒンをじっと見て、低い声で。)「生れて始めて」・・・よくもまあ、この私のことを。この卑劣漢!
 カルズーヒン 罠だ、ゆすりだ、これは!
 ガルプコーフ(狼狽して。)カルズーヒンさん、何を仰っているのです。こんな酷いことを。お願いです、どうか!
 フルードフ どうなんです? 本当にこの婦人を御存じない? いいでしょう、カルズーヒンさん。その方がいいと言うなら、あなたの勝手です。さ、毛皮製品さん、どうぞお引き取りを。
(カルズーヒン退場。)
 ガルプコーフ お願いです。僕らを訊問して。必ず証明して見せます、この人があの人の妻であることを。
 フルードフ(チーヒイに。)二人を連れて行け。訊問だ。
 チーヒイ(グーリンに。)セバストーポリまで連れて行くんだ。
(グーリン、セラフィーマの脇を抱える。)
 ガルプコーフ あなた方はものの分った人の筈です。必ず証明して見せます。
 セラフィーマ でも道で会った私の知りあいといったら、あなたしかいない。・・・ああ、クラピーリン、あなた、弁舌爽やかな人でしょう。どうして私を助けて下さらないの?
(セラフィーマとガルプコーフ、グーリンに引き立てられて退場。)
 クラピーリン(フルードフの前に立ち。)そうだ、あの婦人の言った通りだ。あんたは狼だ! 兵隊を処刑するだけで戦争に勝てるなどと、大間違いだ。ペェレコープに軍隊を送って全滅の憂き目にあった。あれですまないのか、この獣(けだもの)! たまたま一人の婦人がやって来た。怒鳴った。だけどそれはただ、処刑された兵隊を見て、驚いて哀れんだ。それだけのことだ。それで彼女も処刑か。あんたの前に出て無事にすむものは誰もいない! とっ捕まえて、袋を被せて吊るす。それがあんたの仕事だ! 屍肉(しにく)を食って生きているんだ、あんたは。
 チーヒイ ふん縛りましょうか、閣下。どうなさいます。
 フルードフ いや、戦(いくさ)のやり方について聞くべきところがある。続きを言うんだ、お前。それから何だ。
 チーヒイ(指で手招きをする。諜報部の仕切りから二人の諜報部員登場。二人に小声で。)板の用意だ。
(第三の諜報部員登場。ベニヤの板切れを持っている。)
 フルードフ 何というんだ、お前の名は。
 クラピーリン(絶望的になって、いよいよ雄弁に。)名前が何だって言うんだ。名乗ったって誰も知りやしない。ただの二等兵、クラピーリンだ。ここに至っちゃ、あんただって八方塞がりだ、この人食い狼め。ただそこに坐って待つだけさ。(にやりと笑って。)いや、違う。コンスタンチノープルへ脱出だ。やれやれ、あんたが勇敢な時、それはただ、罪のない女や民衆を吊るす時だけか!
 フルードフ それは違うぞ、二等兵。チョンガールの戦闘で私は軍楽隊と共に突撃した。そして二度負傷している。
 クラピーリン はっ、軍楽隊! あんなもの、唾でも吐きかけてやりゃいいんだ。(突然我に返る。身震いする。両膝をつく。嘆願する。)閣下、どうかこのクラピーリンにお慈悲を。私は我を忘れておりました!
 フルードフ 手遅れだ! 下らん奴め! 出だしはよかった。終が駄目だ。膝などつきおって。こいつを吊るせ! 顔を見たくもない!
(諜報部員二人、クラピーリンに素早く黒い袋を被せ、引っ立てる。退場。)
 ガラヴァーン(登場して。)閣下の命令は果たしました。伝令は出発しました。
 フルードフ 全員、乗車! 大尉、私の護衛をプラットフォームに待機させておけ。
(全員退場。)
 フルードフ(一人残って、受話器を取り、指示を出す。)こちらは前線司令官。装甲列車「アフィツェール」が出発する。まづタガナーシに向う。途中、火器による攻撃。タガナーシ到着後、一斉射撃。地面が凹(へこ)むほど撃ちまくる。白軍最後の力を見せつけねば。そこで引き返し、一路セバストーポリに向う。終。(受話器を置く。ストゥールに背中を丸め、坐る。)
(装甲列車の汽笛が遠くから聞えて来る。)
 フルードフ 病気か? 俺は病気に罹っているのか?
(装甲列車からの一斉射撃。これは凄まじいもので、耳を聾するばかり。駅の構内の電気が暫くして消え、氷が張っていた窓硝子が空気の振動により割れて落ちる。そのためプラットフォームの様子が見えるようになる。一番近い鉄の柱に、長い黒い袋が垂れ下がっており、ベニヤ板がその下につけてある。ベニヤ板には「クラピーリン二等兵・・・ボリシェヴィキー」と書かれてある。次の柱にも袋。それより奥は見えない。)
 フルードフ(半分暗闇の中を一人坐って、吊るされているクラピーリンを見る。)俺は病気だ。しかし、何の病気だ。それが分らん。
(暗闇の中をオーリカ、半狂乱の体で登場。恐怖のあまり床の上をあちこち駆け回る。)
 駅長(登場。暗闇で、子供を捜す。夢うつつで呟く。)ああ、全くしようのない。女房のやつ。・・・オーリカ・・・どこだ、オーリカ。・・・オーリャ、どこへ行ったんだ。(オーリカを捕まえて。)さ、オーリカ、お父さんだよ。ほらほら、あっちを見ちゃ駄目。・・・(子供がそちらを見なかったことに安心し、暗闇の中に消える。第二の夢、終。)
                      (第一幕終)

     第 二 幕
     第 三 の 夢
    ・・・針が、夢の中で光る・・・
(薄暗い照明。秋の黄昏(たそがれ)。セバストーポリにある、諜報部の部屋。窓は一個。書き物机。長椅子。隅の方に小さい机。その上に沢山の新聞。食器棚。カーテン。私服を着たチーヒイが書き物机についている。扉が開いてグーリンがガルプコーフを部屋に入れる。)
 グーリン ここだ・・・(退場。)
 チーヒイ どうぞお坐り下さい。
 ガルプコーフ(外套を着ている。手には帽子。)有難うございます。(坐る。)
 チーヒイ どうやらあなたはインテリのようだ。
(ガルプコーフ、おどおどして、咳をする。)
 チーヒイ だから当然のこととして、あなたにはお分かりでしょう、我々にとって、即ち軍の統率にとって、真実を知るということがいかに重要なことであるかは。我が諜報部に関して、ボリシェヴィキーの連中は、不愉快極まる噂を流している。我々の仕事はボリシェヴィキーに対してロシアを守ることにある。そのために日夜懸命な努力をしているのです。このことに異論はありませんね?
 ガルプコーフ 私は、・・・その・・・
 チーヒイ あなたは私が怖いのですか?
 ガルプコーフ ええ。
 チーヒイ ここセバストーポリに連行されて来る間に、何か不愉快な目にあわれたとでもいうのですか?
 ガルプコーフ いいえ、いいえ。決してそんなことはありません。
 チーヒイ どうですか、一本。(煙草を差し出す。)
 ガルプコーフ 有難うございます。私は吸いませんので。お訊きしていいでしょうか、あの人はどうなっているか。
 チーヒイ あの人とはどの人のことですか。
 ガルプコーフ あの人・・・セラフィーマさんです。私と一緒に逮捕された。お願いです。あの人は熱を出していたんです。発作なんです、あれは。逮捕なんて馬鹿げたことです!
 チーヒイ どうか落ち着いて下さい。あの人については後ほどお話致します。
(沈黙。)
 チーヒイ(突然怒鳴る。)大抵にするんだ、貴様! 何が大学助教授だ。茶番劇は沢山だ! この馬鹿め! 自分を何様だと思っているんだ。のうのうと坐りおって! 立て! 立つんだ! 気をつけ!
 ガルプコーフ(立ち上って。)これは・・・一体・・・
 チーヒイ もう一度訊く。貴様の本当の名前は何だ。
 ガルプコーフ しかし・・・本当の名前がガルプコーフなんです!
 チーヒイ(ピストルを取りだす。ガルプコーフに狙いをつける。ガルプコーフ、両手で顔を覆う。)貴様は俺の手にある。いいか。貴様を助けに来る奴は誰もいないんだ。分ってるな?
 ガルプコーフ 分っています。
 チーヒイ よし、いいな。これからは本当のことを話してもらう。ここを見ろ。もし貴様が嘘を言いだしたら、この針に電気を入れて(針に電気を通す。電気で針が熱くなり、光り始める。)貴様にあてる。分るな。(電気を止める。針の光、消える。)
 ガルプコーフ しかし私は、本当に・・・
 チーヒイ 黙れ! 質問にだけ答えるんだ!(ピストルをしまう。ペンを取る。抑揚のない声で、機械的に。)どうぞお坐り下さい。お名前は?
 ガルプコーフ セルゲーイ・ガルプコーフです。
 チーヒイ(書き留める。機械的に。)住所は?
 ガルプコーフ ペトログラードです。
 チーヒイ 赤軍支配地帯から白軍駐屯地へ来た理由は?
 ガルプコーフ ペトログラードではもう生活状況がひどく悪くなっており、大学で働くことも難しくなってきていました。従って、もうずっと以前からクリミアへ移ることを考えていました。その機会が来て、汽車に乗り込みました。そこで同様の理由でクリミアに発とうとしていたセラフィーマ・カルズーヒンと知りあいました。そして二人はここに着いたのです。
 チーヒイ セラフィーマ・カルズーヒンと自称している女性が白軍駐屯地にやって来た理由は?
 ガルプコーフ 私は固く信じて・・・いや、私は知っているのです。あの女性が本当にカルズーヒンの妻であることを!
 チーヒイ 駅であなたも目撃した筈です。カルズーヒン本人がそれを否定した。
 ガルプコーフ あれは嘘です。誓って言います!
 チーヒイ 何故彼が嘘を言う必要があるのです。
 ガルプコーフ 怖かったのです。何か危険を察知したのです。
(チーヒイ、ペンを置く。針の方に手を伸ばす。)
 ガルプコーフ 何をするんです。私は真実を喋っているんです!
 チーヒイ 神経がどうかなっていますね、ガルプコーフさん。御覧の通り、私はあなたの報告書を書いているだけですよ。何もしちゃいません。さあ、言って下さい。あの女性はもう長いこと共産党員だったのですか。
 ガルプコーフ そんなこと、ある筈がない!
 チーヒイ よろしい。さあ。(ガルプコーフに紙とペンを渡す。)今あなたが証言して下さったことを全部お書き下さい。今から私がそれを口述します。あなたはただ書けばよい。その方が簡単でしょう。但し予めこれだけは予告しておきます。あなたが書くのを躊躇えば、即座に針を当てます。書いて下さっている間は何もしません。どうぞ御安心を。(針に電気を入れる。針、光る。その針で紙を照らす。)
(ガルプコーフ、口述に従って書く。)
 チーヒイ 「下に署名のある私、セルゲーイ・ガルプコーフは、一九二○年十月三十一日、白軍諜報部本部において、以下の証言を行った。コロン。パラモーン・カルズーヒンの妻セラフィーマ・カルズーヒンは」――ペンを止めるな! ――「共産党員としてペトログラードから南ロシアに駐留する白軍の支配下にある地方に派遣された。その目的は、共産主義の宣伝及びセバストーポリに根拠地をおく地下活動との連絡係である。ピリオド。ペテルブルグ大学助教授・・・」そのあと署名だ。(ガルプコーフから紙を取る。針の電気を止める。)誠意ある証言に感謝します、ガルプコーフさん。あなたの無実は当方ちゃんと信じています。時に厳しい言葉を使いましたことはお詫び致します。どうぞお引き取り下さい。(ベルを鳴らす。)
 グーリン(登場。)お呼びですか。
 チーヒイ 嫌疑は霽(は)れた。この男は白だ。外に出してやれ。
 グーリン(ガルプコーフに。)来い。
(ガルプコーフ、グーリンと共に退場。帽子は置き忘れる。)
 チーヒイ スクーンスキー中尉!
(スクーンスキー登場。酷く陰気な男。)
 チーヒイ(机の上のランプにスイッチを入れる。)その書類を見ろ。どうだ、カルズーヒンはいくら出す? これを買い戻すために。
 スクーンスキー 船に乗る前なら一万ドル。コンスタンチノープルに着いてしまえば安くなるでしょう。妻の方からも、自白の文書を取っておいた方がいいです。
 チーヒイ そうしよう。何とか口実を作って、カルズーヒンの乗船を阻止するんだ。少なくとも三十分は。
 スクーンスキー 私の取り分は?
(チーヒイ、指で「二」と示す。)
 スクーンスキー 分かりました。すぐ手配します。妻の方も早くなさって下さい。遅くなると手遅れです。もうすぐ騎兵隊も積込みを始めますから。(退場。)
(チーヒイ、ベルを鳴らす。グーリン登場。)
 チーヒイ 逮捕したカルズーヒンの妻だが、正気に戻っているか。
 グーリン 丁度今はなんとか正常のようです。
 チーヒイ 連れて来い。
(グーリン退場。暫くしてグーリン、セラフィーマを連れて登場。セラフィーマ、まだ高熱。グーリン退場。)
 チーヒイ まだ熱が出ている御様子ですな。長くお手間は取らせません。どうぞ長椅子の方に。さあ、こちらへどうぞ。
(セラフィーマ、長椅子に坐る。)
 チーヒイ 宣伝のためにここに来たと自白して下されば、すぐお返しします。
 セラフィーマ 何ですって? ・・・宣伝と仰いましたか? 何のです? ああ私、何故こんなところに?
(ワルツの音楽が聞えて来る。それが近づいて来る。それと共に、馬の蹄の音。)
 セラフィーマ 何ですか、あのワルツの音は? 
 チーヒイ チャルノータ将軍の騎兵部隊が波止場の方へ進んでいるのです。さ、話を逸らさないで。あなたの共犯者のガルプコーフが証言しています。共産主義の宣伝のためにあなたはやって来たのだと。
 セラフィーマ(長椅子に凭れる。荒い息を吐いて。)皆さん、どうか部屋を出て。私、眠りたいの。
 チーヒイ ならん。目を覚まして! これを読むんだ。(ガルプコーフの書いたものを見せる。)
 セラフィーマ(目を細めて読む。)ペテルブルグ・・・ランプ・・・あの人、頭がどうかしたのよ。・・・(突然読んでいた紙を握り皺くちゃにし、窓に駆け寄る。肘で硝子を割り、叫ぶ。)助けて! 助けて! 脅迫です! チャルノータ! 来て! 助けて!
 チーヒイ グーリン!
(グーリン、走って登場。セラフィーマを掴む。)
 チーヒイ 書類を取り返せ。糞! 何をしやがるんだ、この女は。(ワルツ、鳴り止む。窓から円筒形の帽子を被った顔が覗きこむ。声「どうしたんです」、その他の声。扉にノックの音。騒ぎ。扉開き、チャルノータ登場。コーカサス風マントを着ている。その後から同様の姿の兵二人。スクーンスキー、走って登場。グーリン、セラフィーマを別の部屋へ連れて行こうとする。)
 セラフィーマ チャルノータ、来てくれたのね。お願い、助けて。この人達、私に酷いことを。見て、これ。あの人を脅迫して書かせたのよ。
(チャルノータ、書類を取る。)
 チーヒイ 諜報部のやることに口を出さないで欲しいですな。
 チャルノータ 口を出すな? なまいきな。この婦人に何をしようというのだ。
 チーヒイ スクーンスキー中尉、護衛を呼べ。
 チャルノータ 護衛ならここにいる。(ピストルを抜く。)言え、この婦人に何をしようというのだ。
 チーヒイ スクーンスキー中尉、電気を消せ!
(灯が消える。)
 チーヒイ(暗闇の中で。)高いものにつくぞこれは、チャルノータ将軍・・・
(暗いまま、第五の夢終る。)

     第 四 の 夢
 ・・・そして様々な人種の大勢の人々が彼等と共に行きけり・・・
(黄昏。セバストーポリの宮殿の一室。荒れている。窓にかかっているカーテンのうち、一つは半分引き千切れている。壁には正方形の白っぽい跡が見える。地図が貼付けてあったのを剥がした跡。床には木箱。書類が入っている様子。暖炉に火。暖炉の傍に、頭に包帯をしたデ・ブリザールが坐っている。白軍総司令官登場。)
 総司令官 どうだ? 頭は。
 デ・ブリザール 痛みは収まりました、閣下。医者が鎮痛剤をくれましたので。
 総司令官 うん・・・鎮痛剤か。(苛々と。)おい、ブリザール、どうだ。私はアレクサンダー大王に似ているか。
 デ・ブリザール(驚く様子もなく。)ちょっとお答は致しかねます、閣下。このところ陛下のお顔をあまり拝見しておりませんので。
 総司令官 陛下? 陛下とは何だ。
 デ・ブリザール アレクサンダー大王陛下のことで、閣下。
 総司令官 アレクサンダー大王が陛下か。フーム。大佐、君はまだ休養が必要だ。君をこの宮殿においておくことが出来てよかったと思っている。祖国のために立派な働きをしてくれた君だからな。しかしもう出発の時になった。君もここを出る。
 デ・ブリザール どこへ行けと仰るんで? 閣下。
 総司令官 これから船に乗る。国境を越えて、あちらに着いたら、君のことはまた考えてやる。
 デ・ブリザール 分りました。赤軍に対し勝ちを収めました暁には、自分はクレムリンにおいて陛下の御前、一番乗りを果たす所存であります。
 総司令官 大佐、もう少し事を落ち着いて考えてくれなきゃ困るな。君の見方は少し極端だ。まあいい。今までのこと、よくやってくれた。行ってよし。
 デ・ブリザール 畏まりました、閣下。(出口まで進み、立ち止まり、奇妙な歌い方で。)「たった一度のこの逢瀬、ああ、伯爵夫人。ああ、我が心、我が心のたけを・・・」(退場。)
 総司令官(後ろの扉の方に行き、扉の向こう側にいる当番兵に命令する。)宮殿に泊っていた残りの者に言え。三分間おきに一人づつ私のところへ来るように。残り時間がある限り一人づつ会う。それからコサック兵を一人、デ・ブリザール大佐につけて、私の船室に案内させろ。それから船の軍医に伝えろ。デ・ブリザールに鎮痛剤は駄目だ。役に立たん。患者はもう狂っているんだと言え。(暖炉の方へ戻る。思い出しながら。)何がマケドニアのアレクサンダー大王だ。馬鹿な!
(カルズーヒン登場。)
 総司令官 何だ。何の用だ。
 カルズーヒン 通商省次官、カルズーヒンです、閣下。
 総司令官 実にいいタイミングだ。いづれにせよ呼びにやろうと思っていた。他にいろいろ取り込み中だが、これを放っておく訳にはいかん。カルズーヒン次官、私はアレクサンダー大王に似ているか?
(カルズーヒン、困る。)
 総司令官 私は真面目に訊いている。似ているのか。(暖炉から新聞を一枚取り、カルズーヒンに突きつける。)この新聞の編集者はお前だ。ここに書いてあることはすべてお前に責任がある。分っているな? いや、この記事にはお前の署名がある。編集長カルズーヒンとな。(読む。)「総司令官はマケドニアの大王アレクサンダーの如く、プラットフォームを闊歩せり。」馬鹿なことを書きおって。何が「如く」だ。アレクサンダー大王の時代にプラットフォームがあったか?「如く」ならば俺の顔がアレクサンダーに似ているとでもいうのか。それから次だ! (読む。)「彼の悠揚迫らざる微笑を見ると、戦局に対するいかなる疑惑の種(たね)も雲散霧消してしまうであろう。」種は粒だ。雲や霧とは違う。何故雲散霧消するのだ。俺が微笑していただと? 微笑など何処から来る。プラットフォーム上どこを捜してもそんなものはなかった筈だ。白軍総撤退の二日前に、こんな恥曝しなものをよくも印刷したな! コンスタンチノープルに着いたら軍法会議にかけてやる! 頭が痛むか。それならアスピリンでも飲むがいい!
(隣の部屋で電話がけたたましく鳴る。総司令官退場。扉をバタンと音を立てて閉める。)
 カルズーヒン(やっと我に返り。)自分のザマを見たか、カルズーヒン。自業自得だ。こんなところにわざわざ何のためにやって来たというんだ。勿論人に頼るため。しかし頼ろうとすると毎回そいつは気が狂っている。ああ、セラフィーマは連中に捕らわれている。しかしこの俺に何が出来る。ええい、あいつが死んでも、それは運命だ。何故俺まで命を投げ出す必要がある。アレクサンダーの比喩が何だって言うんだ。軍法会議? 冗談じゃない。お生憎様。こちらはパリ行きだ。コンスタンチノープルになど行くものか。パリなら皆さんさようならだ。金輪際、永久にさようならだ。(扉へ突進する。)
 大主教(登場して。)アーメン。ああ、カルズーヒンさん、お発ちですか?
 カルズーヒン ええ、ええ。(次の大主教の台詞の間に、そっと逃げ出すように退場。)
 大主教(書類の入った箱を見て。)ああ、とうとう。「おお、神よ、神よ。かくしてイスラエル人(びと)六十万は、徒歩にてラームセスよりサクホーフへと向かひたり。・・・ああ、そして様々な人種の大勢の人々が彼等と共に行きけり。・・・」
(突然フルードフ登場。)
 大主教 おや閣下。そうだ、ここにカルズーヒン氏が・・・あれ、どこに? 不思議なこと・・・
 フルードフ 我が隊宛、小生に、大主教閣下は聖書を寄贈して下さいましたな?
 大主教 そうだ、それは・・・その・・・
 フルードフ 車中で無聊(ぶりょう)に任せて読みましたよ。こんな部分は覚えるまでね。「汝、気を吹(ふき)たまへば、海かれらを覆ひて、彼等は猛烈(はげし)き水に鉛のごとくに沈めり。」誰のことを言っているのでしょうね、この下りは。「敵は言ふ。我追(おふ)て追(おひ)つき、掠取物(ぶんどりもの)を分(わか)たん。我かれらに因(より)てわが心を飽(あか)しめん。我劍(つるぎ)を抜(ぬか)ん。わが手かれらを亡(ほろぼ)さんと。」なかなかいい記憶力でしょう? この記憶のよい私を総司令官は正常でないと言うんですからね。ところで閣下、今頃何をこんなところで油を売っておいでに?
 大主教 油を売る? ラマーン・フルードフ! 総司令官閣下をお待ちしているのだ!
 フルードフ「求めよ、さらば与えられん。」ですかな、聖書流に言うと。しかし、今ここでただ待って与えられるのを求めていると、やって来るものは何でしょうな。
 大主教 何がやって来るというんだ。
 フルードフ 赤軍です。
 大主教 もうそんなに近いのか、奴等は。
 フルードフ 何が起っても不思議はありません。我々はここでこうやってのんびりと聖書の引用などをしている。その間にも御想像下さい。北方からセバストーポリ目指して敵の騎兵隊がまっしぐらに走って来ている。(大主教を窓のところへ導いて。)ほら、御覧なさい・・・
 大主教 明けて来ている。おお神様!
 フルードフ そう。まさに暁です。さあ、船へ、閣下。乗船です、すぐに。
(大主教、十字を切りながら退場。)
 フルードフ とっとと失せろ!
 総司令官(登場して。)ああ、やれやれ。いたか。苛々しながら待っていたぞ。それで、全員乗船はすんだのだな?
 フルードフ 騎兵隊はパルチザンに相当てこずったようですが、もうほぼ乗船完了です。私自身は実に快適な旅でしたな。車両の隅っこにじっと身を潜めて、誰もいじめることもなく、また誰からもいじめられず、薄暗がりの、台所の、ゴキブリの運命、それが私でしたな。
 総司令官 何のことだ。さっぱり分らんな。何がゴキブリだ。
 フルードフ ええ。昔、私の子供の頃でしたな、あれは。私は一人、薄暗がりの中で台所にいました。かまどの上にうじゃうじゃとゴキブリ。私がマッチをする。シュッ。するとパッと連中は逃げる。マッチが消える。すると足音が聞える。ガサガサッ、ゴソゴソッ。私は今ここにいる。あたりを見廻す。考える。どこへ逃げるんだ、俺達は。ゴキブリ同様、バケツの中にか。かまどの縁(ふち)からバケツの中に・・・ボチャン!
 総司令官 感謝している、フルードフ将軍。このクリミアで、その軍事的才能をフルに発揮して、ここまで切り抜けて来てくれたことを。もうこれ以上は引き留めない。私も今からホテルに移ることにする。
 フルードフ 逃げやすいように波止場に近い部屋ですな。
 総司令官 まだ止めんのか、その生意気な調子を! 大抵にしないと逮捕だぞ。
 フルードフ そう来ると思っていました。外に私の護衛が控えています。この勝負はあなたには不利でしょう。私には人気という味方がありますからな。
 総司令官 そうだったのか。やっと分った。お前のは病気ではなかったんだ。この一年間、その道化の台詞で本心を隠していたが、実は私を憎んでいるということだ。
 フルードフ 憎んでいる。
 総司令官 嫉妬か、権力への邪魔者としてか。
 フルードフ 馬鹿なことを言うな。この不毛などさくさに、俺を巻き添えにしたことに対してだ。友軍の約束はどこに行った。ロシア大帝国はどこに行った。自分に何の力もないことを知りながら、何故戦争を始めたりするのだ。貴様にだって分る筈だ。何をやったってどうにもならないと自分で分っていて、それをやらせる人間。こういう野郎ほど憎たらしい奴はいないんだ。俺は病気だ。貴様がその原因なのだ!(静かになって。)くだらん。今さら何の意味がある。どうせ二人ともこれで一巻の終なんだからな。
 総司令官 一巻の終がそんなに好きなら、この宮殿に残っていることだな。それが一番確実な方法だ。
 フルードフ 一理ある。そこは考え抜かねばならないところなのだが、私にはまだ結論が出ていない。
 総司令官 私は引き留めはしないぞ。
 フルードフ 忠実な部下をそうやって追い払うのですな。「汝のため吾は、果てしなき戦いに水の如く、吾が血を流せり・・・」
 総司令官(傍にあった椅子を掴み、振り上げ、床に叩き付ける。)この、道化!
 フルードフ アレクサンダー大王は英雄だ。何故椅子を叩き付けたりする。
 総司令官(アレクサンダー大王の言葉でまた激怒する。)もう一度言ってみろ。只では・・・
 護衛(音もなく登場。)閣下、シンフェローポリから騎兵隊訓練学校の一隊が着きました。
 総司令官 そうか。すぐ行く。(フルードフに。)これが終ではないぞ。もう一度会って、始末をつけてやる。(退場。)
 フルードフ(一人残る。扉に背を向けて、暖炉の前に坐る。)一人か。それもよかろう。(突然不安な表情で立ち上り、扉を開ける。暗い部屋(複数)が一列に見渡せて(アンフィラードの造りになっている。)、その部屋部屋の中のシャンデリアがモスリンの袋で覆われているのが見える。)おーい、誰かいるか。誰もいないのか。(坐る。)さてと、残って赤軍が来るのを待つか。いや、この問題はそれでは解決しない。(振り返る。誰か見えない者に話しかける。)また現れたか。無駄なことだ、いくら出て来ても。お前などさっさと通り抜けられるんだ、俺は。列車が霧を軽々と突っ切るのと同じだ。(何かを通り抜けるかのように前へ進む。)見ろ、突き抜けた。何の造作もない。(坐る。黙る。)
(扉が静かに開き、ガルプコーフ登場。外套を着ている。無帽。)
 ガルプコーフ お願いです。ちょっと入っていいですか?
 フルードフ(ガルプコーフに背を向けたまま。)入ってよし。どうぞ。
 ガルプコーフ 大変失礼なことは分っているのです。でもさっき、こちらへ伺ってもよいと言われたので。それに、みんなどこかへ行ってしまって、誰もいませんので、私はここまで・・・
 フルードフ(振り返らずに。)私に何の用だ。
 ガルプコーフ 私が敢えてここまでやって来ましたのは閣下、諜報部において恐ろしい犯罪が行われていることを御説明するためです。それは卑劣極まる犯罪です。そしてその責任者はフルードフ将軍です。
(フルードフ、振り返ってガルプコーフを見る。)
 ガルプコーフ(フルードフであると分かり、後ずさりする。)ああっ!
 フルードフ 面白い。失礼だが、あんたは生きている人間だな? 吊るされてはいないんだな? よろしい。何だ? 願いの筋は。
(沈黙。)
 フルードフ あんたはいい人相だ。どこかで見たことがある。そうだ、どうか教えて欲しい。願いの筋とは何なのだ? どうかおどおどするのは止めて。喋るためにやって来られた筈だ。どうか喋って欲しい。
 ガルプコーフ よし、それなら言う。一昨日、駅であなたはある婦人の逮捕を命じた。
 フルードフ 覚えている、たしかに。そうだ、思い出した。あんたのこともはっきり思い出した。ところで私を訴えようと、誰のところにやって来られたのですかな?
 ガルプコーフ 総司令官閣下へ。
 フルードフ 遅かった。もういないな。(窓を指さす。)
(遠くに光がちらついている。夕焼けが見える。)
 フルードフ 水の入ったバケツか。あいつもこれで永遠に存在をなくしたわけだ。つまりフルードフ将軍を訴えようにも、今はその上司は誰もいないぞ。(机に進み、並んでいる受話器の一つを取り、話す。)フロントか? ・・・ガラヴァーンを頼む。・・・ガラヴァーンか? 護衛を連れて諜報部に行ってくれ。そこに私の名で婦人が逮捕されている。・・・(ガルプコーフに。)カルズーヒンだったな? 名前は。
 ガルプコーフ ええ、ええ。セラフィーマ・カルズーヒンです。
 フルードフ(受話器に。)セラフィーマ・カルズーヒンだ。もし銃殺されていなかったら、今すぐここへ、宮殿へ連れて来い。(受話器を置く。)待とう。
 ガルプコーフ 銃殺ですって? 「もし銃殺されていなかったら」? 銃殺したんですか。もしそんなことをしたんだったら・・・(泣く。)
 フルードフ おいおい、泣くんじゃない。男らしくするんだ。
 ガルプコーフ まだ人をからかっているんですね。よし、男らしくやってやる。もしあの人が生きていなかったら、お前を殺してやる!
 フルードフ(元気なく。)なるほど。殺すか。思ったよりいい考えかもしれんぞ、それは。いや、駄目だ。お前には人など殺せはせん。黙っているんだ。
(ガルプコーフ坐る。黙る。)
 フルードフ(ガルプコーフから向きをかえ、誰かに話しかける。)俺に付き纏うのはもうよせ、二等兵。もし付き纏いたいのなら、口をきいたらどうだ。黙っていられるとやりきれなくなる。まあ声だって、嗄(しわが)れていて聞いてはいられないものだろうが・・・もううろつくのは止めにしたらどうだ。お前だって知っている筈だ。この俺が意志の強い人間で、幽霊ごときに簡単にまいるような男ではないと。幽霊などいつかは消える。分っているだろう。お前はたまたま車輪の下敷になり、骨が砕け、消えて行ったのだ。俺のせいではない。それなのに何故俺に付き纏うのだ。聞えているか、お前。口の達者な二等兵。
 ガルプコーフ 誰と話しているのです。
 フルードフ 誰と? 話す? 今すぐ分る。(片手で空を切る。)誰とでもない。自分にだ。あの女はあんたの何なのだ。コレか?
 ガルプコーフ とんでもない! たまたま出会った人です。でも僕はあの人を愛している。ああ、何て馬鹿なんだ、この僕は。何故何故あの修道院で、病気なのにあの人を無理矢理立たせ、説得し、逃げようと言ったんだ。行く先と言ったら、こんな牙をむいた獣達のところじゃないか。ああ、僕は何て馬鹿だったんだ。
 フルードフ 全く馬鹿げている。何故あんたはこんなところに飛び込んで来た。わざわざこの私のところへ。組織も機構も今はバラバラ。私には何の力もない。その私に「女を返せ」だ。無理に決まっている。あの女などとっくにいないさ。銃殺されている。
 ガルプコーフ 悪党! 悪党! 目茶苦茶だ、お前は!
 フルードフ 両側からだな、攻撃は。生きていて口のきける馬鹿と、口をきかない二等兵か。どうしたんだ、私は。言葉が霞んで聞えるぞ。水の中で音を聞いているようだ。身体が半分づつ分れて、こいつら二人の男が片方づつ俺の足にぶら下がって引っ張って行く。水の底に沈んで行く。鉛のように。暗闇の中で誰かが俺を呼んでいる。
 ガルプコーフ 分ったぞ、僕には。お前は気が狂っているんだ。寒さでやられたんだ。あのチョンガールの氷の中で。それに、人を吊るす時のあの黒い袋で。ああ、どうなっているんだ、僕の運命は。セラフィーマを救うことが出来ず、絶望の淵の中だ。それもみんなこいつのせいなんだ。こいつの無差別の殺人の! しかしこいつをどうしようと、どうなるというんだ。気が狂っているんじゃないか。
 フルードフ ほら、愚痴って何になる。(ピストルをガルプコーフに投げ渡す。)さあ、俺を撃つんだ。撃て!(空中に、見えない相手に向って。)お前の役目ももう終だ。こいつが俺を撃ち殺してくれるだろうからな。
 ガルプコーフ いや、僕には撃てない。可哀想な奴。恐ろしい奴。違う。胸糞の悪い奴なんだ、お前は!
 フルードフ そうだ。喜劇だ、これは。しかし最後の最後、幕ひきはどうなるのだ?
 (遠くに足音が聞える。)
 フルードフ 待て待て、人が来る。多分あいつだ。これで成り行きが分る筈だ。
(ガラヴァーン登場。)
 フルードフ 銃殺されていたか?
 ガラヴァーン いいえ。
 ガルプコーフ じゃあ生きて・・・生きているんですね? どこです。今どこにいるんです。
 フルードフ 慌てるな。(ガラヴァーンに。)それなら、何故連れて来なかったのだ。
(ガラヴァーン、「ガルプコーフがいてはまづいのでは?」という動作。)
 フルードフ 構わん。言え。
 ガラヴァーン 分りました。今日午後四時、チャルノータ将軍が諜報部に侵入。拳銃をつきつけて、逮捕していたセラフィーマ・カルズーヒンを強奪、そして連れ去りました。
 ガルプコーフ どこへです。どこへ?
 フルードフ 静かに。(ガラヴァーンに。)どこへだ。
 ガラヴァーン 汽船「ヴィーチャスィ」に乗り込みました。「ヴィーチャスィ」は、午後五時港を離れ、それ以後は海の上です。
 フルードフ 分った。御苦労。だから生きている。君の大事なセラフィーマは生きている。
 ガルプコーフ ええ、生きて・・・生きて・・・
 フルードフ ガラヴァーン、護衛に旗を持たせ、先頭に立たせろ。全員「スヴャチーチェリ」に乗船だ。私もすぐ行く。
 ガラヴァーン 失礼ですが、閣下・・・
 フルードフ 私は大丈夫だ。気分もちゃんとしている。必ず行く。すぐ行く。
 ガラヴァーン はっ、分かりました。
(ガラヴァーン退場。)
 フルードフ すると今、彼女はコンスタンチノープルに向っているわけだ。
 ガルプコーフ(上の空で繰り返す。)そう・・・そうそう。コンスタンチノープルに。・・・僕はここで取り残されたりはしませんよ。あそこに灯が見えます。港の灯です。ほら。僕も連れて行って下さい。
 フルードフ 下らん。・・・実に下らん・・・。
 ガルプコーフ フルードフ! 行きましょう。もう出なければ!
 フルードフ 静かに!(独り言。)見ろ、少なくともこれだけはやり遂げたぞ。お前とこれでゆっくり話が出来る。(空中に。)何だ、お前の望みは。ここへ残れというのか? そうか。答はなしか。蒼白い顔。離れて行くのか? 霧につつまれた。あ、行ってしまった。
 ガルプコーフ(心配して。)フルードフ、幻です、それは。病気なんです。そんなもの、うっちゃって。急がなければ。船は出て行きますよ。遅れますよ!
 フルードフ 下らん。・・・実に下らん。・・・セラフィーマとか言ったな。・・・コンスタンチノープルか。・・・よし、行こう。行こう。(急に立ち、急いで退場。)
(ガルプコーフもその後を追い、退場。闇。第四の夢、終。)
                   (第二幕 終)

     第 三 幕
     第 五 の 夢
    ・・・ヤヌィチャール(トルコ王の親衛兵)が倒れたぞ・・・
(種々雑多な音が同時に聞えて来る。まづトルコの人が歌っている声(複数)。手回しオルガンで、ロシアの曲「別れ(ラズルーカ)」を演奏している音。街頭にいる物売りの声。路面電車がきしむ音。それから急に、夕暮れのコンスタンチノープルの風景が現れる。聳え立つ回教寺院の塔(ミナレート)。家々の屋根。中央に普段見かけない櫓(やぐら)がある。回転木馬に似ていて、表面にフランス語、英語、ロシア語で、次の表示が大きく貼付けてある。
 「見ないと損だよ。コンスタンチノープル名物、ゴキブリレース」
 「ロシア式賭競技。警察の許可取得。」
  "Sensation a Constantinople!"
"Courses des cafards!"
"Races of cock-roaches!"
 この櫓には各国の国旗が飾られている。
 券売所があり、次の札が掛かっている。
 「単勝」「複式」
 それから、次の看板がフランス語とロシア語で。
 「午後五時開始」
"Commencement a 5 heures du soir"
その横に、戸外のレストラン。金色の月桂樹が植えてある。レストランの領域が、桶(複数)で囲ってある。
 レストランの看板は、
 「ロシアの逸品、カスピ海産ローチ料理 一人前五十ピアストゥル」(訳注 ローチは鯉科の一種。)
 その看板の上に、ベニヤを切り取って作った、フロックコートを着たゴキブリの像。泡立ったビールを給仕している姿。それに簡潔な記載。
 「ビール」
 このあたり一帯、うだるような暑さ。狭い小道にヴェールを被ったトルコの女達、赤いトルコ帽を被った男達、白い服を着た外国の水夫達、時々は籠を積んだロバ、が通る。椰子の実を売る売店あり。ボロボロの軍服を着たロシアの兵隊達も時々見られる。レモネード売りの呼び声。どこかで子供が新聞を売る黄色い声、「夕刊・・・夕刊・・・」。
 小道から出るところ(櫓の下)にチャルノータ。少し酔っている。この暑いのにチェルケス風軍用外套(肩章ははぎ取ってある。)を着て、不機嫌な顔でゴム製の人形(複数)を売っている。人形は舌を出し、飛びかかるような恰好をしている。首から紐で吊るした木箱の中にそれを入れて売っている。)
 チャルノータ 割れないよ。破けないよ。とんぼ返りをうつよ。ケー・ジー・ビーの人形だよ。子供が喜ぶよ。さあ、買った買った。マダーム、マダーム。アシュテ・プル・ヴォートル・アンファン!(仏語 「子供のおみやげに如何?」)
 トルコの婦人 ブヌーン・フィア・トゥイ・ナードゥイル?(トルコ語 「いくらするの?」)コンビアン?(仏語 「いくら?」)
 チャルノータ センカーン・ピアストゥル。マダーム。センカーン。(仏語 「五十ピアストゥルです。マダーム。」)
 トルコの婦人 オー・イオッホ! ブー・パハールイ・ドゥイル。(トルコ語 「いやよ。高いわ。」)(行ってしまう。)
 チャルノータ マダーム! 四十でいい! カラーン。(仏語 四十。)糞っ。お前なんか消えちまえ。お前なんかに子供が出来てたまるか! ゲーエン・ズィー・ゲーエン・ズィー。(独語 「行っちまえ。行っちまえ。」)ハーレムに帰りやがれ! 何だここは。全く厭な町だ。腐っていやがる。
(コンスタンチノープル全体がチャルノータに音を浴びせる。レモンの売り子がテノールで叫ぶ、「アンブリャースィー」「アンブリャースィー」。これに合わせるようにクリーム売りがバスの声で、「カイマーキー」「カイマーキー」。猛暑。券売所から小さな顔が覗く。チャルノータ、券売所に近づく。)
 チャルノータ マーリヤ!
 マーリヤ 何か用? グリゴーリィ・チャルノータ。
 チャルノータ なあ、頼まれてくれないか。・・・ヤヌィチャールに賭けたいんだ。かけで売ってくれないか。
 マーリヤ 駄目よ、グリゴーリィ。駄目って分ってるじゃないの。
 チャルノータ どうして? 私はペテン師じゃないよ。ごろつきでもない。お前だってよく知っている人間じゃないか。元将軍、ゴキブリレースの横で人形を売っている堅気(かたぎ)の男じゃないか。
 マーリヤ それはそうだけど・・・じゃ、胴元に、アルトゥールさんに自分で訊いてみて。
 チャルノータ アルトゥール! アルトゥール!
 アルトゥール(櫓の上に、人形が衝立から顔を出すような様子で現れる。燕尾服の釦(ぼたん)を苦労してかけながら。)何の用だ。俺を呼んでいるのは誰だ。ああ・・・何か用か。
 チャルノータ なあ、頼みたいことがあるんだ・・・
 アルトゥール 駄目だ!(中へ入る。)
 チャルノータ けしからん。無礼だぞ。人の話を聞きもしないで。
 アルトゥール(再び現れて。)聞かないでも分っているからさ。
 チャルノータ 面白い。じゃ、当ててみろ。
 アルトゥール 当てるより、こちらの返事を聞く方が面白かろう。
 チャルノータ 面白い。何だ、返事は。
 アルトゥール かけでは売らん。誰にもだ。(中へ入る。)
 チャルノータ ええい、糞っ!
(レストランに二人のフランス人水夫が現れる。怒鳴る。"Un bock! Un bock!"(仏語「ビール一杯。」)
 マーリヤ グリゴーリィさん。肩に南京虫がいるわよ。取ったら?
 チャルノータ 取るもんか。馬鹿馬鹿しい。俺のことなど噛みやしない。ああ、なんていう町だ、ここは。有名な町という町は全部、俺は行っているんだ。だけどこんな町・・・。そうだ、いろんな町があった。平和な町、魅力的な町・・・
 マーリヤ どんな町を見て来たの? グリゴーリィさん。
 チャルノータ ああ、いくらでもだ。ハーリコフ、ロストーフ、キーエフ。ああ、キーエフはよかったよ、マーリヤ。修道院(ラウラ)が聳え立って、キラキラ光っている。それからあの河、ドゥニェープル! ドゥニェープル! なんとも言えない空気、光、草原、干し草の匂い。丘があって、谷があって、それに盆地だ。ああ、思い出すなあ、キーエフでの戦い。素晴らしい戦闘だった。温(あった)かくって、お日様があたって。温(あった)かいが暑くはないんだ、マーリヤ。それに虱(しらみ)だ。勿論虱。これこそ昆虫の中の昆虫だ。
 マーリヤ まあ、何て話なの、グリゴーリィさん。虱だなんて。
 チャルノータ 「何て話」じゃない。虱は昆虫でも集団で動く。戦争が出来る虫だ。南京虫など、単なる寄生虫だ。虱は隊伍を組む。そうだ、あいつらは騎兵隊なんだ。そして一旦集合、整列して攻撃態勢を取ったら、後は一大決戦あるのみなんだ。(やるせなくなって。)アルトゥール!
 アルトゥール(燕尾服姿で覗く。)何だ。怒鳴ったな。何か用か。
 チャルノータ おお、出て来たな、アルトゥール。お前の姿を見ていると、眩(まばゆ)いばかりだ。それ、その燕尾服姿。お前は人間じゃないぞ。大自然の王者だ。ゴキブリの王様だ。うまくやってやがる。いや、お前の人種は誰でもうまくいくんだ。
 アルトゥール 反ユダヤ人思想の説教をまたやらかそうというのか。それならこの話は打ち切りだ。
 チャルノータ 何だ? お前ユダヤじゃない。ハンガリー人だと行っていたじゃないか。
 アルトゥール それでもだ。
 チャルノータ まあいい。聞け。ハンガリー人というのもうまくやる奴等だ。俺はなアルトゥール、決心した。この人形売りをそっくり御破算にしようと思うんだ。(木箱を見せる。)
 アルトゥール 五十なら買う。
 チャルノータ 五十・・・何だ。金の単位は。
 アルトゥール ピアストル。
 チャルノータ 俺を馬鹿にする気か。俺はこの人形一個を五十で売っているんだぞ。
 アルトゥール じゃ、そのまま商売をやるんだな。
 チャルノータ 吸血鬼だ、お前は。
 アルトゥール こっちは押し付けちゃいない。そっちからもちかけて来た話だ。
 チャルノータ お前も運のいい奴だぞ、アルトゥール。これがクリミヤの戦場だったらどうなるか。
 アルトゥール 有難いことにここはクリミヤの戦場じゃないからな。
 チャルノータ この胸に縫い付けてある銃弾筒はどうだ。銀製だぞ。
 アルトゥール 銃弾筒、それに人形一式。二リラ五十ピアストル。
 チャルノータ よし、取って行け。(木箱と銃弾筒をアルトゥールに渡す。)
 アルトゥール よし、金だ。(チャルノータに金を渡す。)
(三人の男が櫓にやって来る。三人とも孔雀の羽根のついた帽子、袖無しの上衣、それにアコーデオンを持っている。)
 アルトゥール(一旦引込む。又出て来て怒鳴る。)五時です! 始まりますよ! さあ、どうぞ皆さん!
(櫓の上に帝国ロシアの三色旗が掲げられ、はためく。櫓の中では陽気な行進曲が、アコーデオンで演奏される。チャルノータ、真っ先に券売所に突進する。)
 チャルノータ マーリヤ、二リラ五十ピアストル分全部ヤヌィチャールだ。単勝で賭ける。
(券売所に沢山の人が集まる。イタリアの水兵達の一団、その後ろにイギリスの水兵達。これは売春婦を連れている。(訳注 売春婦は後の展開にイタリア語を話す。またイタリアの水兵達の味方なので、イタリアの水兵達の後について来たものと思われる。)雑多な種類の掏摸(すり)、こそ泥。黒人も混じっている。行進曲は一段と大きな音になる。レストランでは給仕が大忙し。ビールのジョッキを客に運んでいる。アルトゥール、燕尾服姿に山高帽を被り、櫓の上に上る。行進曲、止る。)
 アルトゥール ムッシュウ、ダーム。レースが始まります。世界で類のない、ロシア宮廷での遊び、ゴキブリのレース! クールス・デ・キャファール! カールソ・デル・ピアチェッロ! レイス・オヴ・コックローチ! ツァールスコエ・セーロの宮殿で、故ロシア皇后陛下の愛されたゴキブリレース。ラミュズマン・プレフェレ・ドゥ・ラ・デファント・エムペラトゥリッス・リュッス・ア・ツァールスコエ・セーロ!
(二人の警官登場。一人はイタリアの、もう一人はトルコの。)
 アルトゥール 第一ラウンド。出走ゴキブリ。一番「黒真珠」二番、人気第一「ヤヌィチャール」
 イタリアの水兵達(拍手して叫ぶ。)エッヴィーヴァ! (万歳!)
 イギリスの水兵達(口笛を吹いて叫ぶ。)アウェイ! アウェイ!
(山高帽を被り、主計将校の肩章をつけた男が、汗をかきかき、興奮して駆け込んで来る。)
(声「まだだぞ。急げ。」)
 アルトゥール 三番「バーバ・ヤガー」四番「泣くな、よい子」灰色で黒い点々のあるゴキブリだよ!
(叫び声。「万歳」「泣くなよい子」「野師だ、野師だ。」
 アルトゥール 六番「フーリガン」七番「釦」
(口笛。叫び声、「いんちきだ」「いんちきだ」。)
 アルトゥール アイ・ベッグ・ヨール・パルドーン! いんちきなど全くありません。ゴキブリは平らな板の上を、紙で作ったジョッキーを背にして走ります。普段はゴキブリ達は、封印された箱の中で、昆虫学者の管理のもとに暮しております。このまた昆虫学者が皆さん、なんと赤軍の手から辛くも逃げおおせた、カザン帝国大学の教授なのです。(櫓に入る。)
(群衆も櫓に入る。子供達が登場。ただで見るために、石の塀に上る。櫓の中で群衆のどよめき。それからシーンとなる。次に、アコーデオンで「月の光」が演奏される。音楽の中にゴキブリの走るシューシューという足音が演奏される。櫓の中から「走れ! 走れ!」の声。)
(まるで悪魔の子のようなギリシャ人の男の子が、塀の上で踊りながら、「ハスレ! ハスレ!」と叫ぶ。)
(櫓の中から叫び声。「ヤヌィチャールが倒れたぞ。ヤヌィチャール失格だ。」群衆のどよめき。)
 チャルノータ(券売所の傍で。)何? 倒れた? そんな馬鹿な!(櫓の中から声。「走れ、泣くなよい子!」「黒真珠! 黒真珠!」「それいけ!」)
 チャルノータ アルトゥールの野郎! 殺してやる!
(マーリヤ、心配そうに券売所から顔を出す。警察、心配そうな動き。櫓の中を覗く。)
 見物人の一人(櫓の中から走り出て。)いかさまだ! アルトゥールがヤヌィチャールにビールを飲ませたんだ!
(アルトゥール、櫓から突き飛ばされて出て来る。燕尾服の二つの尻尾が千切れて、山高帽はペシャンコ。カラーはなくなっていて、顔中血だらけ。その後から群衆、追いかけて出て来る。)
 アルトゥール(必死に叫ぶ。)マーリヤ、マーリヤ。警察を呼んでくれ! 
(マーリヤ、引込む。警察が笛を吹く。)
 イタリアの水兵達(叫ぶ。)Ladro! Scroccone! Trufatore! (伊語「ペテンだ。野師だ。いかさまだ。」)
 売春婦 ジャンニ! 殴っちまえ、アルトゥールを!(アルトゥールに。)Inganatore! (伊語「人でなし!」)
 イギリスの水兵 Hip, hip, hurrah! 「釦」の勝ちだ。ばんざーい。
 売春婦 みんな、みんな、聞いて。ヤヌィチャールが負けるように、誰かがアルトゥールを買収したのよ! 見たでしょう? あのヤヌィチャール。ひっくり返って、足を上に上げて、ブルブル、ブルブル。酔ったのよ。へべれけよ! ヤヌィチャールが倒れるなんて、そんな馬鹿な話、聞いたことある?
 アルトゥール(必死に。)皆さん、ゴキブリが酔うなんて、そんな話、聞いたことがありますか? Je vous demande un peu. Ou est-ce que vous avez vu un cafard saoul? Police! Police! ・・・警察! 助けて!
 売春婦 Mensonge! (仏語「嘘よ」)嘘よ! みんなヤヌィチャールに賭けたのよ! イカサマ野郎! 殴っちまえ!
 イタリアの水兵(アルトゥールの胸倉を捕まえて叫ぶ。)A marmalia! (伊語「この。人間の屑!」)
 イタリア人の見物達(叫ぶ。)Canalia! (伊語「悪党!」)
 アルトゥール(声を出すのがやっと。)殺される・・・
 イギリスの水兵の一人(イタリア人に。)Stop! Keep back! おい、放してやれ!(イタリア人を掴む。)
 見物の一人 あいつもやっちまえ!
 売春婦(イギリスの水兵に。)あんた、アルトゥールの味方をするのかい?
(イギリスの水兵、イタリアの水兵を殴り倒す。)
 売春婦 A socorso, fratelli! 助けて、皆さーん! イギリスの奴を殴って! イタリアの人、助けて!
(イギリス人達とイタリア人達、掴みあう。イタリア人、ナイフを出す。ナイフを見て群衆、叫び声を上げて四方に散る。ギリシャ人の子供、壁の上で踊りながら叫ぶ、「イギリス人が切られるよー」。小道から呼子を吹きながら大勢のイタリアとトルコの警察が、拳銃を持って駆け込んで来る。チャルノータ、券売所の傍で頭を抱える。)
(第五の夢、急に終る。)
(暗闇。全く静かになる。次の夢が始まる。)

     第 六 の 夢
      ・・・お別れよ、あんた。永久にお別れ・・・
(糸杉(複数)のある庭。一階のぐるりが回廊になっているトルコ風の屋敷。石の壁の傍に池。水が湧き出ていて、静かにその滴りの音が聞える。木戸の傍に石のベンチ。屋敷に沿って小道が曲りながら上に上っている。人影なし。回教寺院の塔が背景にあり、そこに太陽が沈んで行くところ。黄昏のはじまり。静寂。)
 チャルノータ(屋敷に入りながら。)「釦」の勝ちか。畜生め! いや、釦にあたってもしようがない。問題はそこにはない。問題は俺がスッテンテンになっちまったことだ。あいつに油を絞られるな。とことん油を絞られるぞ。逃げ出すか? どこへ? グリゴーリィ・チャルノータ、お前一体どこへ逃げる。ここはクリミアじゃないぞ。一体どこへ逃げるっていうんだ。あーあ、やれやれ。
(一階の回廊の扉が開き、リュースィカ登場。着物をだらしなく着ている。飢えている。そのため両眼が妖しく光っている。肩で息をし、辛そうであるが、そのためか、この世のものと思えない束の間の美しさがある。)
 リュースィカ 閣下、ようこそお帰りで! ボンジュール・マダーム・バラバーンチカヴァ!
 チャルノータ 今帰った、リュースィカ。
 リュースィカ 早いわね。どうしたの? 私があんただったら、遅くまでブラブラしているわね。どうせ家に帰ったってろくなことはない。食料はなし、金はなし。でもその楽しそうな顔。人形も木箱も、それに銃弾筒もなし。きっといい知らせがあるのね。ははあ、私分ってきたわ、何があったか。さ、お金出して頂戴。私もセラフィーマも昨日の夜から何も食べていないんですからね。さ、お願い。
 チャルノータ セラフィーマはどこなんだ。
 リュースィカ そんなことはいいの。洗濯よ。さ、お金。
 チャルノータ いや、一大事が出来(しゅったい)したんだ、リュースィカ。
 リュースィカ そう? 銃弾筒はどこなの?
 チャルノータ それをだよ、売ろうと思ったんだ、リュースィカ。グランバザールに行ってな、木箱の上にそれを置いて、ちょっとしている隙に・・・
 リュースィカ 盗まれたの?
 チャルノータ うーん・・・その・・・
 リュースィカ 勿論黒い顎鬚の男だわよね、その盗んだ人。
 チャルノータ(弱々しく。)どうしてだ、黒い顎鬚の男って・・・
 リュースィカ グランバザールで盗みを働く人、それは必ず黒い髭があるの。そして盗まれる方、それはみな下司。するとそうなのね?・・・盗まれたのね?
(チャルノータ、頭を縦にふる。)
 リュースィカ そう? そうなの。じゃ、グリゴーリィ、あんた、自分が何者か分ってる?
 チャルノータ 何者って、何だい。
 リュースィカ 最低の卑劣漢よ、あんたって!
 チャルノータ 酷いじゃないか、それは。
(セラフィーマ、バケツを持って登場。立ち止まる。喧嘩をしている二人はそれに気付かない。)
 リュースィカ 当たり前よ。あの人形と木箱、あれは私の金で買ったんですからね。
 チャルノータ お前は俺の女房だ。お前の金は俺のものでもあるじゃないか。
 リュースィカ 亭主は人形を売って金にする。女房は全く別のものを売って金にする。そして「お前の金は俺のもの」。いい気なものよ。
 チャルノータ 何の話だ、それは。
 リュースィカ そう。勝手にすっ惚(とぼけ)ればいいの。先週私はフランス人と出かけた。教会にでも行ったと思ってるの? その後五リラあるからね、と私が出したとき、「どうした金?」って、あなた訊いた? その五リラでこの一週間、あなたと私とセラフィーマ、三人が暮したのよ。もっと言うことがある。今はそれだけじゃすまないわ! 人形と木箱、それに銃弾筒はグランバザールになんかない! ゴキブリレースでスッテンテンよ。それで私達、どうなるっていうの? 諜報部に殴り込んで、騎士道精神を発揮した。お蔭で軍隊から逃げ出す嵌めになって、今じゃコンスタンチノープルで乞食生活。私もいいとばっちりよ!
 チャルノータ すると私がセラフィーマを救ったことをお前は非難しているのか? それともまさか、セラフィーマを非難しているんじゃないだろうな。
 リュースィカ いいえ、非難するわ私。あの人のことを・・・(言っているうちに自分で抑えが効かなくなって。)あの人だけいい子になってりゃいいんでしょう? 純潔で無垢で。行方が知れなくなったガルプコーフのことを考えて溜息でもついていりゃいいの。チャルノータ将軍だって、のうのうと暮していりゃいいのよ。リュースィカが身を売ったお金で!
 セラフィーマ リュースィカ!
 リュースィカ 盗み聞きはあんたには似合わないわ、セラフィーマ・カルズーヒン!
 セラフィーマ 盗み聞きなんて、そんなこをしようとも思っていなかった。本当に偶然。でも良かったわ、聞けて。どうしてあの五リラの話、私にしてくれなかったの?
 リュースィカ するもしないもないでしょう? 話さなくたってそんなことぐらい誰だって分る筈よ。
 セラフィーマ 誓って言うわ。私、本当に分らなかった。五リラは将軍が持って来たんだと思っていた。いい、安心してリュースィカ。私、ちゃんと返すわ。
 リュースィカ 返す! まあまあ、お高くとまっちゃって!
 セラフィーマ 怒らないで。喧嘩は止めましょう。それより、これからのことを考えて・・・
 リュースィカ 考えることなどあるわけないでしょう? 明日大家のギリシャ人が来て、ここから私達を追いだすのよ。そして食べるものはなし、売るものはなし。(再びかっとなって。)いいえ、落ち着いてなんかいられるわけない! こんな風になったの、みんなこの人がいけないの。(チャルノータに。)さあ、答えて頂戴。全部すっちゃったんでしょう。
 チャルノータ 全部すった。
 リュースィカ ああ、あんたったら・・・
 チャルノータ 俺の身にもなってみろ。人形売りなど出来るか、この俺が。戦争が商売だったんだ。
 セラフィーマ リュースィカ、黙って! お願い。二リラ半ぐらいのお金、あったってどうなるって言うの?
(沈黙。)
 セラフィーマ ああ、本当に私達よっぽど酷い運命を背負い込んでしまったんだわ。
 リュースィカ 「運命を背負い込む」・・・綺麗ごと言って!
 チャルノータ(急に気が付いて、リュースィカに。)リュースィカ! お前、あのフランス人と寝たのか!
 リュースィカ うるさいわね。ほっといて頂戴。
 セラフィーマ 黙って! 黙って! 黙って! 喧嘩は止めて! 今から私、夕食を稼いで来るわ。
 リュースィカ ほっといて、セラフィーマ。柄にもないことをやらないで頂戴。さっき私が言ったこと、あれは気にしないで。この道に落ちるように私はなっているのよ。食べないで飢えて死ぬなんて私には無理。私には主義なんかないの。
 セラフィーマ 食べないで飢えて死ぬなんて、私にも無理。それに人を犠牲にして自分だけ食べてるなんて、それも私には無理。・・・今は私、あなたが実際に行って稼いで来たことを知っている。それなのに、ただここにのほほんと坐っているなんて、そんなの卑劣。卑劣極まりないわ! そう、あなたどうして行く前に私に話してくれなかったの! 私達一緒よ。一緒にこの境遇に落ちたのよ。切り開く時だって一緒じゃないの!
 リュースィカ この人がピストルを売ってくれるわよ。
 チャルノータ ああ、リュースィカ、ズボンだって売る。何だって売る。だがピストルだけは駄目だ。ピストルなしでは俺は生きてはいけない。
 リュースィカ 命より大事なのね、そのピストル。まあいいわ、女をあてに食っていけばいいの!
 チャルノータ 止めろ! これ以上俺を怒らせるな!
 リュースィカ 指一本でも触れてご覧なさい。夜中に毒殺してやるから!
 セラフィーマ 止めて! どうして喧嘩ばかりするの! 言ってるでしょう? 夕食は持って来て上げる! お腹がすいているからよ、そんな喧嘩をするのは!
 リュースィカ 夕食だって? 馬鹿な人。何をする気なの。
 セラフィーマ もう馬鹿じゃないわ。さっきまでは本当に馬鹿だった。何を売って稼いで来たって、同じじゃないの! みんなみんなくだらないこと!(回廊へ行く。部屋から帽子を被って再び登場。それから出て行く。)待ってて。ただ、お願い。喧嘩は止めて。
(どこかで手回しオルガンの曲「別れ」が聞えて来る。)
 リュースィカ セラフィーマ、セラフィーマ!
 チャルノータ セラフィーマ!
(沈黙。)
 リュースィカ コンスタンチノープル・・・ああ、なんていやな町! 南京虫・・・ボスフォラス海峡・・・あんたよ、こんなところに・・・
 チャルノータ うるさい!
 リュースィカ ああ、いや。嫌い! あんたも。私も。ロシア人なんか誰もかれも! 神に見放された人種なのよ、ロシア人なんて!(二階の回廊に退場。)
 チャルノータ(一人。)どこに行く。パリか。ベルリンか。それともマドリッド・・・スペインはには行ったことがない。ああ、賭けてもいい。どうせ下らんところさ。(しゃがむ。糸杉の下を捜す。吸い殻を見つける。)ギリシャの連中ときたら、どこまで業突(ごうつく)張りなんだ。先の先まで吸っていやがる。畜生め! リュースィカの奴に俺は賛成しないぞ。ロシア人がいやな奴だと? 馬鹿言え。よっぽどいい、ずーっとましな人種だぞ、ロシア人は。(吸い殻に火をつけ、回廊に退場。)
(敷地にガルプコーフ登場。イギリス風詰め襟軍服、ゲートル、それにトルコ帽を被っている。手に手回しオルガン。それを地面に立て、「別れ」を演奏し始める。それから行進曲。)
 チャルノータ(回廊から顔を出し、怒鳴る。)止めろ! トルコの乞食め! 胸くそが悪いぞ、変なものを弾きやがって!
 ガルプコーフ あれ! 将軍! グリゴーリィ・・・グリゴーリィ・チャルノータ! そのうち見つかるって言われていたけど、とうとう!
 チャルノータ そういう君は? ああ、助教授殿!
 ガルプコーフ(貯水池の端に坐って、興奮して。)見つけた!
 チャルノータ(ガルプコーフの方に駆け寄る。)私のことを捜していたのか?・・・トルコ人かと思った。よく来た!(ガルプコーフにキス。)しかし人相が変ったぞ。老けたよ、君は。ボルシェヴィキーの仲間入りかと思っていた。どこをぶらついていたんだ、この半年間。
 ガルプコーフ 最初のうち収容所に。そのうちチフスに罹って病院に二箇月。それからやっとここ、コンスタンチノープルで放浪生活。フルードフ将軍の家に居候です。あの人、降格されて、軍隊を追われてしまったんです。御存じでしたか?
 チャルノータ 聞いている。私も今はもう軍人じゃない。しかしまあ、この町にはいろんな人間がいるが、手回しオルガンを弾いている男に会ったのは始めてだな。
 ガルプコーフ これは実に便利がいいんです。門毎に立って、弾いて、捜せますからね。そうだ、教えて下さい。あの人はどうなりました? セラフィーマさんは。死にましたか? 正直に言って下さい。心の準備は出来ているんです。
 チャルノータ ああ、あの人か。死んでるものか。チフスは治っている。今はピンピンしているよ。
 ガルプコーフ よかった! あの人も一緒なんだ!(チャルノータに抱きつく。)
 チャルノータ 確かに生きてはいるが・・・なあ、セルゲーイ、我々は酷い状態になっちまってなあ。堕ちるところまで堕ちている。つまりスッテンテンなんだ。
 ガルプコーフ ええ、ええ。で、あの人は? あの人は今どこなんです。
 チャルノータ ここにいるんだ。すぐ戻って来る。ペーラに、男を捕まえに行ったんだ。
 ガルプコーフ 何ですって?
 チャルノータ 私にあたっても困るんだ。何しろ、食うものがない。飢えだ。銃弾筒も売っぱらった。売るものはもう何もない。
 ガルプコーフ だけど、ペーラに行った? そんな! 嘘でしょう!
 チャルノータ 君に嘘を言っても始まらない。煙草も吸ってないんだ、一日中。マドリッドはどうだろう?・・・一晩中マドリッド行きのことを考えたんだが・・・
(声が聞えて来る。敷地にセラフィーマとギリシャ人のドンファン、登場。ギリシャ人は買物袋を持ち、両手に酒壜。)
 セラフィーマ 大丈夫よ。大丈夫だったら。ちょっと坐ってお話しましょう。・・・私達、酷い家に住んでるんだけど、でも・・・
 ギリシャ人のドンファン(酷くなまりのあるロシア語で。)ここ、素敵! ここ、素敵! 私、あなたの邪魔・・・いけない。心配、マダーム。
 セラフィーマ ちょっと待って。紹介するわ・・・
(チャルノータ、首だけ廻してセラフィーマの方を見る。)
 セラフィーマ 不作法よ、チャルノータ。ちゃんとこっちを向いて!
 ギリシャ人のドンファン 始めまして! 嬉しい! 嬉しい、ある。
 セラフィーマ(ガルプコーフを見て。)まあ!
(ガルプコーフ、眉根に皺を寄せて、貯水池の縁に腰をかけていたが立ち上り、ギリシャ人に近づき、その横っ面を殴る。)
(ギリシャ人のドンファン、買物袋を落す。非常に驚く。周囲の家の窓が開き、心配そうな顔をしたギリシャ人達、アルメニア人達が外を覗く。リュースィカが回廊に出て来る。)
 ギリシャ人のドンファン 何ですか。これは何ですか。
 セラフィーマ 何てことをするの。酷いわ。酷いことよ。
 チャルノータ おい、ギリシャ人!
 ギリシャ人のドンファン ああ、私、蝿取り紙にかかった、ある。ここ、悪者の巣窟、ある。(泣きそうな顔。)
 セラフィーマ ご免なさいね、あなた。本当にご免なさい。なんて酷いことを! 無茶苦茶よ。こんな酷いこと!
 チャルノータ(ピストルを取りだし、窓から覗いている人々に。)引っ込め! 何を見ている!
(窓の顔引っ込み、窓が閉まる。)
 ギリシャ人のドンファン(悲しそうに。)ああ、神様!
 ガルプコーフ(近づいて。)この・・・
 ギリシャ人のドンファン(財布と時計を出し。)財布です。時計です。勇ましい人! 私、命、大事・・・家族ある。店ある。子供ある。・・・警察行かない。話さない。・・・助けて。親切な人!・・・ああ、ああ、神様・・・
 ガルプコーフ 失せろ、この野郎!
 ギリシャ人のドンファン ああ、イスタンブール、この町、酷い町になった、ある・・・
 ガルプコーフ さあ、買物は持って行くんだ!
(ギリシャ人のドンファン、買物袋を拾おうとする。が、ガルプコーフの顔をじっと見つめて思い直し、命からがら逃げる。)
 リュースィカ あら、ガルプコーフさん? 丁度一時間前だったわ、私達あなたのことを噂していた。多分ロシアにまだいるんだわって。でも素晴らしいタイミングでおでましになったわね。ピッタリだわ。
 ガルプコーフ ああ、セラフィーマさん。何てことをなさるんです。僕は、船にも揺られ、歩きもしました。病院にもぶちこまれて・・・ほら、見て下さい。(トルコ帽を脱ぐ。頭は丸坊主になっている。)剃られもしたんです。・・・そして、走って・・・ただあなたに会いたいために。それが、それが・・・どうしてこんなことを・・・
 セラフィーマ 私を非難する権利があなたにどうしてあるの?
 ガルプコーフ 僕はあなたを愛しているんです。それを言おうと、ここまでやって来たのです!
 セラフィーマ ほっといて頂戴! もう何も聞きたくない! 何もかもうんざり! どうしてあなた、また私の前に現れた来たの? 私達みんな、最低よ! 私、あなたから逃げる・・・一人で死にたい! ああ、なんて恥! なんて恥晒し! さようなら!
 ガルプコーフ 行かないで! お願いだ!
 セラフィーマ 駄目! もう決して帰らない!(退場。)
 ガルプコーフ よし、それなら!(チャルノータが差している短刀を鞘から引き抜き、セラフィーマの後を追う。)
 チャルノータ(ガルプコーフを取りおさえ、短刀を取り上げる。)馬鹿野郎! 気でも違ったか。監獄行きだぞ!
 ガルプコーフ ほっといて下さい。何が何でも捜して、また連れ戻します。見ていて下さい。(貯水池の傍に坐る。)
 リュースィカ 一大活劇ね。立派だこと。ギリシャ人達もびっくりよ。さ、一段落。その袋を開けて、食べましょう。私、お腹すいたわ。
 ガルプコーフ 袋に手を触れるんじゃない!
 チャルノータ そうだ。それは開けるな!
 リュースィカ 何ていう話! それ。もう我慢出来ない。沢山よ。あんた達にも沢山。この町、コンスタンチノープルも沢山! 沢山! 沢山!(回廊に駆けこみ、帽子と何か包みを抱えて出て来る。)さあ、グリゴーリィ・チャルノータ、元気にお暮しなさい。一緒の生活はこれでおしまい。ここにやって来るオリエント急行で私、知りあいが出来ていたの。リュースィカは馬鹿だった。こんなところに半年もうろうろしてたなんて! さようなら!
 チャルノータ どこへ行くんだ。
 リュースィカ パリよ! パリへ行くのよ! もう永久にさようなら!(小道に退場。)
(チャルノータとガルプコーフ、貯水池の石の縁に坐る。間。トルコ人の子が誰かを案内してやって来る。その男に手招きして言う。「ここだよ。ここだよ。」男の子の後にフルードフ登場。民間の服装。老けて、白髪になっている。)
 チャルノータ これはラマーン・フルードフ! 彼まで現れたか。何を見ている、フルードフ。私に銃弾筒がないのが気になるのか。私もあんたと同じだ。軍人は止めた。
 フルードフ そのようだな。いや、暫くだ、グリゴーリィ・チャルノータ。ここはまるで吹きだまりだな。次から次と人がやって来る。(ガルプコーフを指さして。)あいつのチフスを俺が治してやった。今度はあいつがこの俺を治すつもりでいるらしい。時間がある時は、あの手回しオルガンを弾いて歩く。(ガルプコーフに。)おい、それで、また駄目だったのか。
 ガルプコーフ いいえ、見つけました。ただ・・・それ以上訊かないで下さい。決して。何も。
 フルードフ 俺は訊きはしない。お前のことだ、それは。俺の知ったことじゃない。ただ、俺にとっちゃ、見つけたかどうか、それだけだ、知りたいのは。
 ガルプコーフ フルードフさん、僕は一つ、たった一つだけあなたに頼みたいことがある。これはあなたにしか出来ないんだ。あの人は僕から逃げて行ったんです。捜して、連れ戻して、引き留めて下さい。町の女にならないように。
 フルードフ 何故俺に頼む。どうしてお前がやらないんだ。
 ガルプコーフ この貯水池の傍で僕は考えたんです。そして結論に達しました。僕はパリに行きます。カルズーヒンを捜します。あの人は金持なんです。妻を助ける義務があります。あの人が破滅させたのですからね。
 フルードフ どうやって行く。フランスには身分証明書が必要だぞ。
 ガルプコーフ 密入国です。今日波止場で手回しオルガンを弾いていました。船長が聞いて呉れて、僕のことが気に入ったんです。船倉でよければマルセイユまで連れて行ってやると、言ってくれました。
 フルードフ それで俺があの女の番をする。・・・長いことか?
 ガルプコーフ 僕は必ず、すぐに戻って来ます。そして、誓います、これが終ったらもう、あなたには決して頼み事はしないと。
 フルードフ あの、駅での一件は随分高いものについたな。(廻れ右をしながら。)いや、駄目だ、これは駄目だ。
 チャルノータ(囁き声で。)フルードフが女の番か。無理だな、これは。
 ガルプコーフ(囁き声で。)あちらを見ないで。あの人、必死に考えているところなんです。
 フルードフ それで今、女はどこにいる。
 チャルノータ 彼女の考えることなど、簡単に想像がつきます。ギリシャ人の店ですね、今ごろは。さんざん謝っているところですよ。シーシラにある店。質屋。私は行ったことがあります。
 フルードフ よし、引き受けよう。
 ガルプコーフ ただ、出て行かないように。町の女にならないように!
 フルードフ 俺から出て行く? 俺からは誰も逃げ出すことは出来ん。二等兵の奴が言っていたが、図星だ。俺から逃げようったって、それは無理なのだ。いやもういい、昔のことは。これからのことだ、問題は。(ガルプコーフに。)金がないんだろう。
 ガルプコーフ 金なんかいりません!
 フルードフ 馬鹿を言うな。ここに二リラある。今はこれしかない。(時計の鎖からメダルを外し。)このメダルを持って行け。いよいよとなったら売るんだ。(退場。)
(日が暮れてくる。回教寺院の塔から、回教の祈祷時間を告げる人の声「ラ、イリャ、イラ、イリャ・・・」の綺麗な声が響く。)
 ガルプコーフ 日が暮れてきた。・・・酷い町だ、ここは! とても我慢の出来ない町。息が詰まりそう。そうだ、ぼんやりこんなところに坐りこんではいられない。もう時間だ。夜には船に乗っていなくちゃ。
 チャルノータ 私も君と一緒に行こう。カルズーヒンから金など取れっこない。私がいても無理だろう。そんなことは当てにしていない。ただ、私はここにはいられない。どこかへ行かなきゃならん。さっきまではマドリッド行きを考えていた。しかしパリだっていいじゃないか。いや、パリの方がいいかも知れない。行こう。大家のギリシャ人の奴、驚くだろうな。いや、大喜びだ、きっと。
 ガルプコーフ(行きながら。)全く、涼しくなるってことがない・・・昼も、夜も!
 チャルノータ(二人で退場しながら。)パリだ。さあ、パリだぞ!
(トルコ人の子供が一人、手回しオルガンに駆け寄る。ハンドルを廻す。行進曲が鳴る。祈祷の時間を告げる声、綺麗に響く。)
(暗くなる。灯がそこここにつく。空に金色の三日月。それから真っ暗になる。第六の夢終る。)
                   (第三幕 終)

     第 四 幕
     第 七 の 夢
   ・・・三枚札、三枚札、三枚札・・・
(パリ。秋の黄昏。カルズーヒンの邸宅の一室。非常に堂々とした造り。調度品の中に混じって、耐火金庫あり。書き物机の他にトランプ用のテーブル。その上にトランプの用意がしてあり、火のついていない二本の蝋燭。)
 カルズーヒン アントゥワンヌ!
(非常に品のよいフランス人の風貌をした召使、アントゥワンヌ、登場。緑色の前掛をしている。)
 カルズーヒン Monsieur Marachand m'avait averti qu'il ne vient pas aujourd'hui. Ne remuez pas la table. Je me servirai plus tard. (マルシャン氏が今日来られないと連絡してきた。テーブルはそのままにしておいてくれ。食事は後でそこでするから。)
(間。)
 カルズーヒン Repondez-donc quelque chose! (何か言ったらどうだ。)どうやらお前、何も分らないようだな。
 アントゥワンヌ はい、さようで、旦那様。皆目分りません。
 カルズーヒン 「はい、さようで」をフランス語で言ってみろ。
 アントゥワンヌ それも言えませんで、はい。
 カルズーヒン 怠け者だぞ、お前は、アントゥワンヌ。いいか、覚えておくんだ。ここパリではな、ロシア語は活字に出来ないような言葉で人を罵る時と、政治スローガンを怒鳴る時にだけ役に立つと考えられているんだ。そのどちらもパリにとっては有難くないものだ。だからアントゥワンヌ、フランス語を覚えるんだ。さもないと不都合なことになるぞ。Que faites-vous maintenant? 今何をやっている。
 アントゥワンヌ ジュ・・・ナイフを洗っているところでして。
 カルズーヒン ナイフをフランス語で言うと?
 アントゥワンヌ レ・クト、です。
 カルズーヒン そうだ。覚えるんだ、いいな、アントゥワンヌ。
(ベルが鳴る。)
 カルズーヒン(素早く、着替えるためにもうパジャマの釦を外しながらアントゥワンヌに、別室へ行きながら。)出るんだ。一勝負やろうという客かもしれん。Je suis a la maison. (仏語 「私は在宅だからな。」)(退場。)
(アントゥワンヌ退場。それから戻って来る。後ろにガルプコーフ。ガルプコーフは水夫の着る黒いズボンに擦り切れた灰色の上着。手には鳥打ち帽。)
 ガルプコーフ Je voudrais parler a monsieur Korzukhin. (仏語 「カルズーヒンさんとお話がしたいのですが。」)
 アントゥワンヌ ヴォートル・カールト。名刺を戴きたいのですが。
 ガルプコーフ ええっ? ロシア人なのか? フランス人だと思っていた。これは有難い!
 アントゥワンヌ ええ、私はロシア人で、名前はグリッシェーンカなんです。
(ガルプコーフ、アントゥワンヌと握手。)
 ガルプコーフ 実はその、名刺はないんだ。コンスタンチノープルからガルプコーフが来たと言ってくれればいい。
 アントゥワンヌ 畏まりました。(退場。)
 カルズーヒン(既に背広に着替えている。ぶつぶつ言いながら登場。)何だ? ガルプコーフとは。・・・ガルプコーフ・・・どんなご用件でしょう。
 ガルプコーフ 私のこと、ひょっとして御記憶にはないかも知れませんが・・・一年前、あの恐ろしい夜、クリミアで・・・駅でお会いしました。あなたの奥様が逮捕された時です。奥様は今、コンスタンチノープルにいらっしゃいます。破滅の際に追い込まれていらっしゃるのです。
 カルズーヒン 破滅の際? ちょっと待って下さい。第一に、私には妻などというものはありません。第二に、駅など私は全く記憶にありません。
 ガルプコーフ 記憶にない? あの夜ですよ。物凄い寒さのあの夜ですよ。クリミアが占領された、あの夜を覚えていないと?
 カルズーヒン 残念ながら、何も覚えておりませんな。何か勘違いをなさっているのでは?
 ガルプコーフ 勘違い? 何を言っているんですか。あなたはパラモーン・カルズーヒン! ちゃんと私は顔を覚えています。あなたはクリミアにいたんです!
 カルズーヒン 確かに私はクリミアにいたことはあります。丁度あの時は、気の狂った将軍が荒れ放題に荒れ狂っていました。でも、考えてもみて下さい。私はロシアを捨てているんです。あの国とは私はもう何の関係もありません。関係を持ちたいとも思っていません。私はフランス国籍を取得しました。私には結婚の前歴はありません。そしてこのことをよく頭に入れて戴きたいのです。つまり、今私の家には三箇月前から、ロシアからの亡命者でフレジョーリという名前の女性が住み込んでいるということです。彼女もフランス国籍を取得済みで、私の秘書の役を果してくれています。大変魅力のある女性で、私は非常に気に入り、あなたには打ち明けてお話致しますが、近々結婚しようと思っているのです。これであなたにもお分かりでしょう、私に妻がいたとか、そういった類いの話が私にはひどく不愉快なものであることが。
 ガルプコーフ フレジョーリ・・・なるほど。するとあなたは生きている人間を否認しようというのですね。あの人はあなたに会おうと、遥々出て来たんですよ。覚えていらっしゃる筈です、逮捕された時のことを。極寒の夜でした。窓には霜、外には街燈・・・それに青い月・・・
 カルズーヒン ええ、青い月、極寒の夜・・・諜報部員が私を恐喝しましたな。共産党員の私の妻がどうのこうのと作り話をして。あなたとのこの会話は、私には実に不愉快です、ガルプコーフさん。私は繰り返しこのことを申し上げます。
 ガルプコーフ そうですか。やれやれ。すると私は夢を見ていたということになりますね。
 カルズーヒン そう。夢です。間違いありません。
 ガルプコーフ 分りました。あの人はあなたには邪魔だということですね。よろしい。あの人はあなたの妻ではない。そうしましょう。その方が私にも有難い。それからいいですね、私はあの人を愛しているんです。どうしても今の貧困からあの人を救って上げたいのです。ほんのちょっとでいい。そのためにあなたの手をお貸し戴きたいのです。あなたは大金持です。その金は全て、ロシアから来たものです。それは誰でも知っています。私に千ドル貸して下さい。私達二人が一本立ち出来るようになったら、即座にお返し致します。それだけの働きは必ずやって見せます。神かけてお返し致します。
 カルズーヒン ムッシュー・ガルプコーフ。失礼ですが、あらぬ妻の話から、急にドルの話になりました。・・・そういうことでしょうか? 千ドル? ・・・私の聞き違いではないでしょうね?
 ガルプコーフ いいえ。千ドルです。どうかお願いです。お貸し下さい。必ずお返しします。
 カルズーヒン ああ、あなたにはドルというものが全く分っていないのですな。よろしい。千ドルの話をする前に、ドルとは一体何か、それをお話しましょう。(話し始めると急にインスピレーションが湧いて来る。)ドル! この偉大なる、無限の力ある息吹! それは至る所に潜んでいる。ほら、あそこを見たまえ! あの家々の屋根の上。太陽の光が明るく反射している、そのすぐ傍に黒い猫が・・・いや、あれは怪物キマイラか。・・・空中高く背を丸めて睨んでいる。ドルはそこにある。怪物キマイラがそれを見張っているのだ。(地面を謎めいた様子で指さして。)奇妙な感覚・・・音ではない、ざわめきのような・・・何か地面の膨れ上ってゆく、息吹のようなもの。その地面の上に汽車が矢のように走る。あっちにも、こっちにも。そこにドルがある。さあ、目を閉じて想像するんだ。暗闇を・・・その中に山のように大きな波が進む。霧と波。・・・海だ。恐ろしい海、人を飲み込む海。その上に怪物が走って行く。シューシューいうボイラーの音。何万トンの水をかき分け、火を乗せて、呻きながら走る。裸の水夫達が、地獄の火のような窯の中に石炭を投げ込む。怪物は進む。喘ぎ、喘ぎ。何故だ。何故そんなにしてまで行くのか。背負っているものが黄金の子供、神の心臓とも言うべきもの・・・つまり、ドルだからだ。そして世界がさっと緊張する!
(どこか遠くの方で、軍楽隊の音楽が聞えて来る。)
 カルズーヒン そして行進曲が始まる。ザック、ザック、ザック、ザック! 何千人、それから何百万人! 彼等の頭には鉄かぶと、ザック、ザック、ザック、ザック! それから走り始める。次に突貫だ。叫び声を上げ、鉄条網に体当たりする。何故だ。何故突貫するのだ。何故なら誰かが、どこかで神聖なドルを侮辱したからだ。さあ、しかし静かになった。世界中至るところの大都会で、喜びのラッパが鳴る。ドルの復讐がなされたのだ。ドルへの忠誠に、人間は歓呼の声を上げる。(興奮。それから高揚が醒めてゆく。)
(音楽、止む。)
 カルズーヒン さあ、ムッシュー・ガルプコーフ、お分かりになりましたな? この上まだ私が見知らぬ若者に千ドルもの金額を手渡すだろうなどと、よもや考えはなさるまいと思いますが? しかしそれでもまだ要求なさいますかな?
 ガルプコーフ 分りました、要求は止めます。が、カルズーヒンさん、お別れに当たり、これだけは申し上げておきます。あなたのような卑劣で冷血な人は、私は今までに見たことがありません。この報いは必ずあなたにやって来るでしょう。それもすぐ近い将来に。そうです、必ず。すぐにも! では。(行きかける。)
(ベルが鳴る。アントゥワンヌ登場。)
 アントゥワンヌ  ジェネラル・チャルノータ。
 カルズーヒン ふむ・・・ロシアデイだな、今日は。よし、入って貰え。
(アントゥワンヌ退場。チャルノータ登場。チェルケス風外套は着ているが、銀のベルトも短刀もない。穿いているものは真っ黄色のズボン下。表情から、彼にはもう失うものは何もないということが明らか。)
 チャルノータ(馴れ馴れしく。)おい、パラモーン!
 カルズーヒン どこかでお目にかかりましたでしょうか。
 チャルノータ しらばっくれるない。どうした貴様、パラモーン。寝惚けとるのか。セバストーポリを忘れたか。
 カルズーヒン ああ。ええ、ええ・・・これはお珍しい。たしか兄弟の杯を酌み交わした仲でしたな?
 チャルノータ 兄弟の杯? よく覚えておらんが・・・まあ、出会ったんだ。杯ぐらい酌み交わしもしたろう。
 カルズーヒン ところで失礼ですが・・・その・・・ズボン下の恰好で?・・・
 チャルノータ 驚くことはなかろう。俺は女じゃないんだからな。どんな恰好をしようと勝手だ。
 カルズーヒン その姿でパリを歩いていらしたのですか?
 チャルノータ 町中(まちなか)ではちゃんとズボンは穿いていたさ。お前のところの玄関で脱いだんだ。馬鹿な質問だよ、全く。
 カルズーヒン いや、これは失礼。
 チャルノータ(小さい声で、ガルプコーフに。)呉れたか?
 ガルプコーフ いいえ、僕はもう行きます。さ、出ましょう。
 チャルノータ 出てどうするというんだ。(カルズーヒンに。)ケチな野郎だなお前も、パラモーン。祖国を同じくする人間だ。それもお前のために、お前の目の前でボリシェヴィキーと闘った人間だ。それに、たいした金額を要求している訳じゃない。端(はし)た金だ。そいつを断るとはな。コンスタンチノープルでセラフィーマは飢えているんだ。分ってるだろう?
 ガルプコーフ お願いです。もう黙って下さい、グリゴーリィ。もういいんです。行きましょう。
 チャルノータ いや、私も馬鹿だったな、パラモーン。あの時一瞬だけボリシェヴィキーに鞍替えしとくんだった。貴様を撃ち殺したらまたすぐ白軍に戻るんだがな。ところで何だ? これは。トランプじゃないか。お前、やるのか? これを。
 カルズーヒン そう、やりますよ。トランプは大好きですからね。
 チャルノータ ほう、トランプをやる? なるほど。それで、何の勝負だ? やるのは。
 カルズーヒン バカラですね、やるのは。
 チャルノータ 俺と一勝負、どうだ。
 カルズーヒン 喜んでお相手致しましょう。但し当方、現金のない相手とは勝負致しかねる。
 ガルプコーフ 勝負なんてグリゴーリィ、そんな、賭け事にまで身を落すことはありません。さ、行きましょう。
 チャルノータ 「身を落す」話なんぞ、どこにもないぞ。(囁き声で。)おい、最後の最後に使えと言われたものがあったろう。こいつがそれだ。これが最後でなくて、何が最後だ。おい、フルードフのメダルを出せ。
 ガルプコーフ さあどうぞ。僕はもうどうでもいいんです。行きますよ、僕は。
 チャルノータ 馬鹿を言え。出て行く時は一緒だ。そんな面(つら)のままここを出してたまるか。その顔じゃ、ほっとくとセーヌ河に身投げだ。そうはさせん。(カルズーヒンにメダルを渡す。)いくらだ。
 カルズーヒン フーム・・・なかなかの物ですな。・・・よろしい。十ドル。
 チャルノータ ところがなパラモーン、こいつはそんな安物じゃないんだ。が、まあいい。貴様もこういうものに詳しい訳じゃないしな。よし、よかろう。
(カルズーヒンにメダルを渡す。カルズーヒン、十ドルを渡す。チャルノータ、机につく。チェルケス風上着の腕をまくる。トランプをシャッフルする。)
 チャルノータ お前の奴隷の名前は何と言ったかな?
 カルズーヒン えー、アントゥワンヌですが?
 チャルノータ(よく通る声で。)アントゥワンヌ!
(アントゥワンヌ登場。)
 チャルノータ おい、酒だ。それからオードブルを用意しろ。
 アントゥワンヌ(驚く。が、微笑んで、恭しく。)畏まりました。・・・ア・ランスタン。(仏語「ちょっとお待ちを。」)
 チャルノータ いくら賭ける?
 カルズーヒン その十ドル、丸々だ。カードを。
 チャルノータ 九だ。
 カルズーヒン(払う。)そちらの総額を。(賭ける。)
 チャルノータ(カードを配る。)九だ。
 カルズーヒン そちらの総額を。
 チャルノータ もう一枚?
 カルズーヒン もう一枚。・・・七だ。
 チャルノータ こちらは八。
 カルズーヒン(ニヤリと笑う。)なるほど。よし、又そちらの総額だ。
 ガルプコーフ(突然。)チャルノータ! 何をやっているんです。相手は必ず倍々で来るんです。いつかはこちらはゼロになりますよ!
 チャルノータ ほほう、この勝負のことを、私よりよく知っているんだな。それなら私の代りにここに坐れ。
 ガルプコーフ 僕は出来ません。
 チャルノータ それなら黙って見てろ。もう一枚か?
 カルズーヒン もう一枚・・・畜生、カスだ!
 チャルノータ こっちは三だ。
 カルズーヒン 三? 三でカードを要求しなかったのか。
 チャルノータ たまにはな。
(アントゥワンヌ、食事を持って来る。)
 チャルノータ(酒を飲む。)ガルプコーフ、一杯どうだ?
 ガルプコーフ 僕はいりません。
 チャルノータ 貴様はどうだパラモーン、一杯。
 カルズーヒン 結構。もう済んでいる。
 チャルノータ ははあ・・・まだやるな?
 カルズーヒン 勿論。百六十ドル。
 チャルノータ よし。「たった一度のこの逢瀬、ああ、伯爵夫人。ああ、我が心、我が心のたけを・・・」九だ。
 カルズーヒン こんな話は聞いたことがないぞ。よし、三百二十!
 チャルノータ 失礼だが・・・どうか、現金を御用意願います。
 ガルプコーフ もう止めて! チャルノータ。お願いです。もうこれでおしまい!
 チャルノータ おいおい、邪魔は止めてくれ。何かすることがあるだろう? そうだ、そこのアルバムでも見ているんだな。(カルズーヒンに。)おい、現金だ。どうした。
 カルズーヒン 分った。(金庫を開ける。けたたましくベルが鳴る。辺りにその音が響き渡る。)
(灯が消え、またつく。アントゥワンヌ登場。手にピストルを持っている。)
 ガルプコーフ 何ですか、今のは。
 カルズーヒン あれは防犯ベル。アントゥワンヌ、大丈夫だ。今のは私が開けたのだ。
(アントゥワンヌ退場。)
 チャルノータ なるほど。防犯ベルか。よし、勝負。八。
 カルズーヒン 掛け金、六百四十!
 チャルノータ 駄目だ。胴元は応じない。
 カルズーヒン なかなかいい駆け引きだ。いくらなら応じる?
 チャルノータ 五十だ。
 カルズーヒン よし。五十。・・・九!
 チャルノータ こちらはカス。
 カルズーヒン 五十戴く。
 チャルノータ そら。
 カルズーヒン 掛け金、五百九十!
 チャルノータ おいパラモーン、お前、熱くなっているぞ。そいつは貴様の弱点なんだ。
 ガルプコーフ チャルノータ、もういいよ。お願いだ。行こう!
 カルズーヒン もう一枚・・・こっちは七だ!
 チャルノータ 七と半分。・・・はっはっは、冗談だ。八だ。
(ガルプコーフ、呻き声を上げて耳を塞ぎ、長椅子に横になる。カルズーヒン、鍵で金庫を開ける。再びけたたましい音。暗闇。また灯。場は既に夜。カードテーブルに電気スタンド。薔薇色をしたスタンドの笠。カルズーヒンは上着を脱ぎ、髪はもしゃもしゃ。窓にパリの灯。どこかで音楽が聞える。カルズーヒンとチャルノータの前にはお金の山。ガルプコーフは長椅子で寝ている。)
 チャルノータ(鼻歌。)「これで致命傷か?・・・三枚札・・・三枚札・・・三枚札・・・」・・・カスだ。
 カルズーヒン 四百だ。こっちに四百! 三千行こう!
 チャルノータ よし、三千。そちら、現金をどうぞ。
(カルズーヒン、金庫へ突進。音。電気が消え、音楽。それから灯がつく。パリはうっすらと夜明け。静寂。音楽も聞えない。)
(カルズーヒン、チャルノータ、ガルプコーフの三人、影のように見えてくる。床にはシャンペンの壜がいくつも転がっている。ガルプコーフ、夢うつつで金をポケットに突っ込んでいる。)
 チャルノータ(カルズーヒンに。)おい、金を包む新聞はないか。
 カルズーヒン ない。こうしたらどうだ。その現金をこちらに呉れ。今小切手を書く。
 チャルノータ 何だと思っているんだ、パラモーン。二万ドルの小切手を、股引き姿の男に銀行が換金してくれると思っているのか。ご免こうむる。
 ガルプコーフ チャルノータ、あのメダルを。フルードフに返すんだ。
 カルズーヒン 三百ドルだ。
 ガルプコーフ そら。(無造作に金を投げる。)
(カルズーヒン、メダルを投げ返す。)
 チャルノータ じゃ、あばよ、パラモーン。長居したな。これで行くぞ。
 カルズーヒン(扉を背に、行く手を遮って。)駄目だ。止れ! 熱に浮かされていたんだ、私は。何も覚えていないぞ。・・・この病気をいいことに、私を騙したんだ! さあ、金を返してくれ。示談の金として、五百ドルは渡そう!
 チャルノータ 「御冗談を、と腹黒い獣は言いました」とさ。
 カルズーヒン よし、それなら今すぐ警察に電話するぞ。強盗にやられたとな。お前達は即刻逮捕だ。その哀れな恰好じゃな。
 チャルノータ(ガルプコーフに。)聞いたか、あれを。(ピストルを抜いて。)さあパラモーン、パリの聖母マリア様に祈るんだな。お前の最後が近づいた。
 カルズーヒン 泥棒! 人殺し!
(この絶叫を聞いてアントゥワンヌ、寝巻姿で駆け付ける。)
 カルズーヒン ああ、みんな寝ている。誰も熟睡だ。屋敷中誰も聞き付けるものはいない。私が掠奪されているというのに。泥棒!(カーテンが開き、リュースィカ登場。パジャマ姿。チャルノータとガルプコーフを見て立ちすくむ。)
 カルズーヒン お前、寝てたんだね、リュースィー。その間に何が起ったか。お前のパトロンが襲われたんだ。二人のロシア人の強盗に!
 リュースィカ ああ、神様! 私はまだ世の苦杯を舐めつくしてはいないのでしょうか。ここでやっと落ち着いた住み家を得たと思っていましたのに。ああ、それなのに。・・・神様!・・・ああ、無理もないわ、夕べゴキブリの夢を見たのも。でも、気になることが一つ・・・あなた方二人、どうやってここへ?
 チャルノータ(愕然として。)まさか、こんな話が・・・
 カルズーヒン(チャルノータに。)あんた、知ってるのか、マドゥムワゼル・フレジョールを。
(リュースィカ、カルズーヒンの後ろで膝を付き、両手を組んで拝むようにする。)
 チャルノータ 知るわけないだろう? 会った覚えなど、何もないな。
 リュースィカ そうね。だから自己紹介するのがいいわね。私、リュースィー・フレジョールよ。
 チャルノータ 私はチャルノータ。
 リュースィカ そう。さて皆さん、何があったのですか?(カルズーヒンに。)カルズーヒン、あなた、何を怒鳴っていたの? 何か酷い目にでもあったの?
 カルズーヒン トランプで二万ドル取られたんだ。私は返して欲しいと言っている!
 ガルプコーフ そんな卑劣な話は聞いたことがありませんね!
 リュースィカ カルズーヒン、それはあなたの方が無理を言っているわ。負けたんでしょう? 仕方がないじゃない。あなた、子供じゃないのよ!
 カルズーヒン アントゥワンヌ! お前どこでこのトランプを買って来たんだ!
 アントゥワンヌ それは旦那様御自身でお買いになったもので。
 リュースィカ アントゥワンヌ! なんて恰好をしてるの、私の前で! 早く下がりなさい!
(アントゥワンヌ退場。)
 リュースィカ お二方、お金はあなた方のものです。その点に関して一切誤解はありません。(カルズーヒンに。)あなたもう寝なさい。寝なきゃ駄目。ほら、目の下に隈が出来ているじゃない。
 カルズーヒン アントゥワンヌだ。あいつがいけないんだ。明日すぐさま首にしてやる。もうロシア人はうんざり。家には決して入れないぞ。(啜り泣きながら退場。)
 リュースィカ 同郷の方にお会い出来て幸せでしたわ。もう二度とお会い出来ないでしょうね。それは残念なこと。(囁き声で。)勝ったのね。よかったわ。さ、逃げるのよ。(大きな声で。)アントゥワンヌ! 
(アントゥワンヌ、扉のところに顔だけ出す。)
 リュースィカ お二方がお帰りよ。お見送りして。
 チャルノータ オルヴァール・マドゥムワゼッリ!
 リュースィカ アディユ!
(チャルノータとガルプコーフ、退場。)
 リュースィカ ああ、行ってくれた。・・・やれやれ。もう安心と思っていた時に。・・・なかなか楽にはならないものだわ。
(静かな通りから、二人の去って行く足音が聞える。)
 リュースィカ(こっそり辺りを見廻して。窓へ走りより、開け、小さな声で呼びかける。)さようならガルプコーフ、セラフィーマを大事にね! チャルノータ、ズボンを買うのよ!
(それから暗闇。第七の夢 終。)

     第 八 の 夢 (終りの夢)
    ・・・十二人の盗賊が住んでいた・・・
(絨緞の敷いてある部屋。低い長椅子と水煙管(みずぎせる)あり。舞台奥は一面の硝子。その一部が硝子製の扉(フレンチウインドウ)。硝子の後ろにコンスタンチノープル。夕焼けの燃えさかる風景。回教寺院の塔(ミナレート)、大修道院、それからゴキブリレースの櫓の頂上が見える。秋の夕暮れ。夕焼けが様々に展開して行く。)
(部屋にはフルードフ一人。絨緞の上に坐っている。トルコ風の坐り方。見えない誰かと話している。)
 フルードフ お前はもう十分に俺を苦しめたぞ。だからなのか、俺にははっきり見えて来た。そうだ、はっきり見えて来たんだ。だが、お前も覚えていてくれなきゃ困る。俺の傍には今、お前だけじゃないんだ。もう一人いる。生きている者がな。そいつが俺の足にぶら下がって、俺の荷物になっている。妙なものだ。運命だ。運命がこの三人を結んで、今じゃもう結び目を外そうにも外れないのだ。俺はもうこれに慣れっこになってしまった。一つどうも分らないことがある。袋は沢山あったのだ。街燈に吊り下げられて鎖のように連なっていた。その中で何故お前一人が抜け出て来たのだ。永遠の休息を何故撰ばなかった。お前一人じゃなかったんだ。他に沢山いたんだ。それを何故お前だけが・・・(呟く。)そう、何人いたんだ、あそこには・・・いや、思い出せない。(考える。急に老ける。うなだれる。)あんなことをやって・・・無駄だった。全くの無駄。それでやって来たものは・・・敗北だ。闇だ。逃亡だ。それから・・・猛暑。毎日、毎日、ゴキブリレースの櫓が廻る。しかし・・・おい、俺を追いたてているお前! 随分と遠くまで追っかけて来たものだな。俺は捕まった。お前の袋に捕まってしまった。もうこのぐらいで良かろう。苦しめるのは止めろ。俺は降参だ。決心したんだ。ガルプコーフが帰り次第、俺は行く。今帰って来たら、今行ってやる。さあ、俺の心を軽くしてくれ。頷いてくれ。一度でいい。頷くんだ。弁の立つ二等兵、クラピーリン!・・・よし! 頷いたな。これで決まりだ。
(セラフィーマ、静かに登場。)
 セラフィーマ またなのね、ラマーン・フルードフ。また。
 フルードフ 何がまただ。
 セラフィーマ 誰とあなた、話しているの? 部屋にはあなた以外、誰もいないのよ。
 フルードフ 聞えたか。どうも独り言を言う癖があってな、私には。誰にも邪魔にはならんと思っているんだが・・・どうだ?
 セラフィーマ(絨緞の上にフルードフと並んで坐って。)これでもう四箇月よ。私、夜はあの壁の後ろにいて、その独り言を聞かされるの。生易しいことじゃないのよ、聞かされるのって。そんな夜はもう私、ちっとも眠れない。今度は昼も? 可哀想な・・・可哀想な人!
 フルードフ よし、分った。部屋を変えてやる。しかしやっぱりこの近くだ。あんたのことを監視出来る所でなきゃならんからな。私は指輪を売った。だから金はあるんだ。明るい部屋、ボスフォラス海峡の方に窓は向いている。勿論快適な住み心地という訳にはいかない。あんたには当然分っていよう。下らんことだ、負けたんだからな。壊滅しておっぽり出されたんだ。どうして負けたか、あんた分るか。(肩の後ろを指さして、秘密を打ち明けるかのように。)あいつと私だ。それをよく知っているのは。この・・・あんたと一緒にいなきゃならんというやつだが、私にも厄介なことなんだ。しかし約束は守らなきゃな。
 セラフィーマ ねえフルードフ、あなた覚えているでしょう? ガルプコーフが出て行った日のことを。あなた、私を追って来て、力づくでここへ連れて来たわね?
 フルードフ 狂いかけたら仕方がない。暴力をふるう以外には手はない。あんただけじゃない。みんなおかしくなっていたんだ。
 セラフィーマ ラマーン、私、あなたのこと可哀想になって来たの。だからよ、私がここに残っているのは。
 フルードフ 乳母など私にはいらない! あんたにいるんだ!
 セラフィーマ 怒っちゃ駄目。怒ると苦しむのは結局あなたなの。
 フルードフ そう、全くだ。・・・私にはもう他人を苦しめる力はない。あの夜を覚えているか? あの駅でのこと。・・・「ラマーン・フルードフはどこだ。・・・狼! けだもの!」
 セラフィーマ もうずっと昔のこと。忘れたわ。私にはもう思い出せない。あなたも思い出さないで。
 フルードフ(呟く。)分った、分った。・・・いや、私は覚えていなきゃ。・・・忘れてはいかん・・・忘れては・・・
 セラフィーマ ねえラマーン、ゆうべ私、夜っぴて考えたんだけど・・・もう私達どうにかしなくちゃいけないわ。こうやって何もしないでただ待っているの、何時まで続けるつもり?
 フルードフ そのうちガルプコーフが帰って来る。あっという間に縺(もつ)れは解(ほど)ける。私はあんたを引き渡す。すると全員、各自の行く方向に散って行くさ。勿論このうんざりする暑い町にもお別れだ。
 セラフィーマ ああ、あの時何て馬鹿なことをしたんでしょう! あの人に行かせるなんて、決してしちゃいけなかったんだわ。あの人が恋しい! リュースィカよ、悪いのはリュースィカ・・・私のことをあんな風に言うもんだから私、つい・・・私、今ではもう眠れないの。あなたと同じ。だってあの人が行き倒れているかも知れない。・・・ああ、あの人もう死んでいるかも知れないの。
 フルードフ 全く暑い。暑い町だ! それにあの気違い沙汰・・・ゴキブリレース! 俺が気が狂っているだと? どっちが気違い沙汰だ! しかしあんたの話も、全くその通りだな。何故あいつを行かせたんだ。金を取って来るという話なんだな? あんたの夫から。
 セラフィーマ 私には夫などいませんわ。もう忘れました。呪ってやりたいぐらいですわ。
 フルードフ それで、これからどうすると言うんだ?
 セラフィーマ 現実はそのまま受け入れなければ。ガルプコーフは死んだの。生きてはいない。それに赤軍はコサック軍の帰国を許したって聞いたわ。だから私も今日決めました。私もペテルブルグに帰ります。一体何のつもりだったんでしょう、ロシアを出るなんて。気が狂っていたんだわ。
 フルードフ なるほど。賢明な考えだ。大変賢明だ。あんたはボリシェヴィキーに対して何もしちゃいない。安心して帰国出来るさ。
 セラフィーマ ただ私、心配なことがあるの。たった一つ。それで決心がつかないでいる。・・・それはあなたのこと。あなた、どうするの? フルードフ。
 フルードフ(秘密を打ち明けるように、手招きをする。セラフィーマ近づく。その耳に囁く。)その「たった一つ」、私のことだが・・・帰るのはあんたにとっちゃ何でもない。ただこの私には、諜報部が付き纏っていてな・・・連中が・・・(囁き声で。)実はな、私もロシアに帰る。今日の夜にもな。夜に船が出るんだ。
 セラフィーマ 偽名を使うんでしょう? こっそり入国でしょう?
 フルードフ 本名だ。出頭して言うつもりだ。「私はフルードフ」とね。
 セラフィーマ 気違い沙汰よ! すぐに撃ち殺されてしまうわ!
 フルードフ その場で・・・だろうな。(ニヤリと笑って。)即座にか。更紗(さらさ)の白いシャツ。地下室。雪。・・・構え! ズドン! これで背負っていた荷物もなくなる。ほら、見てご覧。あいつ、逃げて行った。もうあんなに遠いところだ。
 セラフィーマ そう、それなのね、あなたが長い間ブツブツ、ブツブツ独り言を言っていたのは。あなた、死にたいのね? 本当に気違いよ。ここに居た方がいい。治るかも知れないわ。
 フルードフ もう治ったんだ、今日。今は全く正常だ。バケツにドボンと落っこちるゴキブリでもない。あの時のことがはっきりと見えているんだ。軍隊、戦争、雪、柱、街燈、黒い袋・・・その街燈の下を行く私の姿。
(扉に大きなノック。セラフィーマすぐ立ち上り、開ける。ガルプコーフとチャルノータ、登場。二人とも立派な身なり。チャルノータの手には手提げ鞄。間。)
 セラフィーマ セルゲーイ!・・・セルゲーイ!
 チャルノータ やあ! どうした? 何故黙っている。
 フルードフ そら見ろ。帰って来た。言った通りじゃないか。
 ガルプコーフ セラフィーマ! ああ、セラフィーマ! よかった!
(セラフィーマ、ガルプコーフを抱きしめる。泣く。)
 フルードフ(額に皺を寄せて。)外に出よう、チャルノータ。話がある。(チャルノータとフルードフ、硝子の扉から外へ出る。)
 ガルプコーフ 泣かないで。泣かないで。泣くことはないじゃないか、セラフィーマ。僕は帰って来たんだ。
 セラフィーマ 死んだと思っていた! ああ私、今までどんなに悲しかったか。あなた分って?・・・私、今本当に自分のことが分った。(あなたが好きだって)・・・でもとにかく私、待ちおおせたわ。もう行かせない、私。あなたのこと、決して、どこへも行かせないわ。
 ガルプコーフ どこへも行くものか! もう決して! 全部終ったんだ。これからは将来のことを考えるんだ。ここでどうしていたセラフィーマ、僕がいなくて。ねえ、何か言って!
 セラフィーマ 苦しかった。眠れなかったわ。あなたが行ってすぐ私、気が付いたの。あなたを行かせちゃいけなかったんだって。私、行かせた自分を許せなかったわ。よく一晩中、まんじりともしないで、あの町の灯を見ながらあなたのことを考えていた。今パリでボロを着て、お腹をすかせてうろついているんだって。・・・そう。フルードフが病気なの。大分いけないわ。恐ろしい時もあるわ。
 ガルプコーフ しっかりして、セラフィーマ。しっかりするんだ。
 セラフィーマ あなた、私の夫に会ったの?
 ガルプコーフ 会った。会った。妻などいないって。妻は別にいるんだ! それが誰か・・・ああ、つまらない話だ。・・・それで・・・うん、とにかくこれでいいんだ。君は自由なんだ!(外に叫ぶ。)フルードフ! 有難う!
(フルードフとチャルノータ、登場。)
 フルードフ さあてと、これで調整は取れたんだな? どうだ?(ガルプコーフに。)お前、この人が好きなんだな? 誠実に愛するんだな? よし。それならこの人が言う通りのところにお前も行くんだ。さあ、これで私も諸君にさよならだ!(外套と帽子、それに手提げ鞄を取る。)
 チャルノータ どこへ行くんだ、フルードフ。
 フルードフ 今夜船が出る。それに乗るんだ。何も言わんでくれ。
 ガルプコーフ フルードフ! 考え直して! そんなことをしてはいけない。
 セラフィーマ 私、もう話した。言っても聞かないの。
 フルードフ チャルノータ、どうだお前、俺と一緒に来んか?
 チャルノータ おいおい、これは参ったね。私には今分った。そうか。行くというのは、ロシアへか。全くえらいことを考えるもんだ。又何かとんでもない狡い計略を考えたか? 無駄に参謀本部の将校を務めてはいなかったという訳か? それとも自滅しようってのか? ああ、そう。そういうことか。じゃ、いいなラマーン。精々生きることだ。船から引きずり下ろされて、一番近くの壁に立たされるまでな。あ、それから、そこに引っ張られるまでの途中で、群衆に身体を引き裂かれないよう、番兵だけは頑丈な奴をつけて貰え。連中に、あんたは強烈な印象を与えてしまっているんだからな。いや、強烈な印象はあんただけが与えたんじゃない。こっちだって同じことだ。二人でやった、随分。・・・好きなだけな。私はただ、人を吊るしたことがないだけだ、あの街燈の光の下にな!
 セラフィーマ チャルノータ、何てことを言うの! この人、病気なのよ!
 チャルノータ いや、思い留まらせようと思って言ってるんだ。
 ガルプコーフ ラマーン! 行っちゃいけない。ここに居なくちゃ。
 フルードフ チャルノータ、お前も恋しくなるぞ、ロシアが。
 チャルノータ 言ってくれるな。もうとっくだ、恋しいのは。キーエフ、大修道院(ラウラ)、それに戦闘・・・恋しくてたまらんさ。・・・俺は死を怖がって逃げたことは一度もない。しかし、わざわざ死を求めてボリシェヴィキーのロシアに戻ることもしないぞ。あんたにもそんなことだけはして貰いたくないんだ。行くなラマーン!
 フルードフ さあ、私は行くぞ。さようならだ。じゃあな! (フルードフ退場。)
 チャルノータ セラフィーマ、引き留めるんだ。きっと彼は後悔する!
 セラフィーマ 駄目。もうどうしようもないわ。
 ガルプコーフ 誰が言っても聞きませんよ。ああいう人です、あの人は。
 チャルノータ 魂が運命を求めているということか! 仕方がない、それならそれで。で、お前達はどうするんだ。
 セラフィーマ 許可を取りましょうセルゲーイ、ロシアへ帰る許可を。私、随分考えたの。今夜出発しましょう!
 ガルプコーフ 帰ろう。帰ろう! これ以上放浪するのは止めだ。
 チャルノータ そうか。お前達なら帰国に問題はないな。よし、じゃ、金を分けよう。
 セラフィーマ 何のお金? ひょっとして、カルズーヒンの金じゃないの?
 ガルプコーフ トランプの勝負でカルズーヒンから二万ドルせしめたんだ、この人。
 セラフィーマ あら! でも私、そんな金受取らないわ。
 ガルプコーフ 僕も金はいらない。ここまで辿り着いて、もうそれで十分。今までに戴いたもので何とかロシアには着けます。
 チャルノータ しつこいが、もう一度だけ言う。本当にいらないか? そうか。清廉潔白で行くか。よかろう。すると我々の取る道はここで別れることになる。これも運命だな。彼は死に場所を求めて、お前達は故郷に逆戻り、俺はどうする? 俺は何者だ? 国を持たないユダヤ人、さすらいのオランダ人・・・一生放浪か。捨て犬だな、まるで。
(時計が五時を打つ。硝子越しに見えるゴキブリレースの回転櫓に旗が上る。アコーデオンの音が聞え、それに合わせてゴキブリレースのコーラス「十二人の盗賊が住んでいた。頭(かしら)のクデヤールは・・・」が響く。)
 チャルノータ はっ、聞えるか? あのゴキブリレースの櫓、まだ動いていやがる!(バルコニーに通じる硝子の扉を開ける。)
(コーラスの歌詞がはっきり聞えて来る。「沢山の盗賊が、敬虔なキリスト教徒の血を流し・・・」)
 チャルノータ ゴキブリの胴元アルトゥール、再び見参(けんざん)だ! 今度こそ貴様の鼻を明かしてやる。この俺様が本気になるとどうなるか、思い知らせてやるからな。(退場。)
 ガルプコーフ もうこの町は二度と見ることはない。聞くこともない。
 セラフィーマ この一年半、あれは一体何だったのかしら、セルゲーイ。夢? 説明して! どうして私達、逃げて来たのかしら。あの寒い駅、プラットフォームの街燈、ぶら下がっている黒い袋・・・それからこの猛暑・・・ああ、私、早く帰ってあのカラヴァーンナヤ通りを歩いてみたい。雪を見てみたい。今までのこと、全部忘れたい。今まで何もなかったんだっていう気持になれたら・・・
(コーラスが、さっきより大きく響く。「神よ、我らは祈る。昔、昔、大昔のこと・・・」)
(遠くから祈祷時間を告げる声「ラ、イリャ、イラ、イリャ・・・」)
 ガルプコーフ 何も起らなかったんだ。本当に何も。全ては夢だ。忘れよう。忘れるんだ! ひとつき経つと、もうロシアに着いている。帰り着いているんだ。その時にはきっと雪が降っている。僕らの足跡もその雪で分らなくなるんだ。・・・さあ、行こう。行こう!
 セラフィーマ 行きましょう。もうこんなところはお終い!
(二人、フルードフの部屋から走って退場。コンスタンチノープルは暗くなり始め、ついには全く暗くなる。)
                     (終)


    平成十二年(二○○○年)十二月十六日 訳了
 
http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html