ダンスの後で
          テレンス・ラティガン 作
            能 美 武 功 訳

  登場人物
ジョン・レイド
ピーター・スコットファウラー
ウイリアムズ
ジョウン・スコットファウラー
ヘレン・バナー
ドクター・ジョージ・バナー
ジュリア・ブラウン
スィリル・カーター
デイヴィッド・スコットファウラー
モヤ・レクスィントン
ローレンス・ウォルターズ
アーサー・パワー
ミス・ポター
客達

 第一幕 八月のある朝
 第二幕 第一場 その一週間後 午後
 第二幕 第二場 その同じ夜
 第三幕 六箇月後 午後遅く

(場はすべてメイフェアーにあるスコットファウラー家のアパートの居間。)

     第 一 幕
(場 メイフェアーにあるスコットファウラーのアパートの居間。ここはアパートの最上階。一九二0年代初めの様式で飾られているが、それほど大仰にしてはいない。左手奥にピアノ。左手に扉。これはデイヴィッドの寝室に通じる。左手奥に扉。これはホールと他の部屋に通じる。開くと観客には、ホール、玄関の扉、そしてジョウンの寝室の扉が見える。中央奥に大きなフレンチ・ウインドウ。この外には小さな四角いバルコニーがあり、ハイド・パークの木々の頂上、それに遠方の建物の屋根が見える。)
(幕が上るとジョン・レイドが仰向けになってソファに横たわっている。およそ三十七歳。肥っていて、赤い顔。パジャマの上に部屋着を着ている。タイムズ紙が腹の上に拡げて置かれている。読みながら眠りこんだらしい。ピーター・スコットファウラーがジョンに背中を向けて机についてタイプを叩いている。二十一歳の若い男。執事のウイリアムズが左手奥の扉から登場。手にオレンジジュースのグラスとコーヒーポットののっている盆。部屋を通り、デイヴィッドの部屋の扉を叩き、入る。ピーター、頭の上の柱時計を見る。今十二時三十分である。)
 ピーター そうか、デイヴィッドは生きているんだ。たいしたもんだ。(タイプを続ける。三、四語打った後、手を止めて。)ウィッテルスバッハの綴りはどうでしたっけ、ジョン。
(答なし。ピーター、椅子の上でぐるりと回り、ジョンが眠っているのを知る。疲れたように頭を振る。また仕事を続ける。ウイリアムズ、デイヴィッドの部屋から出て来て、ソファのところへ行き、ジョンを見下ろす。軽い咳払いをする。効果がないので、ジョンを手で揺する。ジョン、身体は動かさず、目だけを開ける。)
 ウイリアムズ ミスター・ジョン 、旦那様があなた様の炭酸ソーダを使ってよいかどうか、お訊ねです。旦那様は切らしてお仕舞いになられたようで。
 ジョン 僕のベッドの傍のテーブルに壜があるよ。
 ウイリアムズ 有難うございます。
(ウイリアムズ退場。)
 ジョン 僕は今、何て言った?
 ピーター 何も言ってませんよ。酔っ払って、寝込んで、寝言一つなしです。
 ジョン 僕はまだ一滴も飲んじゃいない。
 ピーター 今はね。だけど二日酔いなんです。
 ジョン 違うな。今朝はひどく気分がいい。
 ピータ(向き直って。)本当に二日酔いじゃないんですか。
 ジョン ないね。
 ピーター 世の中不公平に出来てますね。あなたとかデイヴィッド、それに他の人達が飲んだ八分の一も僕は飲んでいませんよ。それなのに僕の頭、今にも破裂しそうだ。どうやってるんです? みんなは。
 ジョン 自分を信じる力だね。
 ピーター それに炭酸ソーダと。
 ジョン(眠そうに。)まあね。(目を閉じる。)
 ピーター ちょっと眠り込む前に教えて下さいよ、ウィッテルスバッハの綴りを。
 ジョン 大事なのか?
 ピーター ええ。
 ジョン(やっとのことで。)WーIーTーTーEーLーSーBーAーCーH。
 ピーター すみません。
 ジョン 君、何してるんだ? デイヴィッドの本を代わりに書いてやっているのか?
 ピーター あの人がゆうべ口述したものをタイプしているんです。午前中には仕上げたいんです。ですからどうぞもう、寝て。邪魔しないで下さい。
 ジョン ゆうべ? ということはつまり、ゆうべデイヴィッドが君に口述したっていうのか?
 ピーター ええ。まあ、正確には、今朝というべきですが。二時から五時まで。
 ジョン しかし、僕が寝た時、彼も僕と同じぐらい酔っぱらっていたぞ。
 ピーター 口述されたものはちゃんと意味の通るものですが。
 ジョン 子供には酷な仕事だなあ。秘書っていう職業がそのためにあるんだ。そういう仕事は秘書組合とか何とか、そういうところへ持って行けばいいだろう?
 ピーター 僕は構わないんです。二週間も何もせずにここで暮してたんですから。やっと気晴しが出来たようなものです。
 ジョン まあまあ、働き蜂のいう台詞だね。
 ピーター(怒って。)何が言いたいんです、それで。僕は時間を浪費するのは厭なんです。それに、何もしないで週五ポンド貰っているのも好きじゃないんです。
 ジョン 何故?
 ピーター 何故なら、僕は「働かざる者、食うべからず」の信奉者だからです。
 ジョン(伸びをしながら。)面白い格言だね。ただ、今まで僕は聞いたことがない。
 ピーター それはそうでしょう。
 ジョン しかしだよ、君は現在、働かなくても食える幸せな立場にあるんだ。それなら何も大騒ぎすることはないんじゃないのか?
 ピーター 大騒ぎしますよ。自分が貧乏で、金持の従兄弟(いとこ)からお情けを受けているんですから。
 ジョン そりゃ、自分が貧乏人であることは大騒ぎするだろうな。だけど、お情けを受けていることを何故大騒ぎするんだ?
 ピーター あーあ、あなたと話をしたってしようがありません。「毎日が日曜日」のこの生活に、僕がどんな気持でいるか、到底あなたには分かりっこないでしょう。
(ピーター、再びタイプを打ち始める。ジョン、立ち上がって伸びをし、酒壜が並べてあるテーブルに進む。一杯注ぎ始める。)
 ピーター お願いですから、もう黙って。僕にこの仕事を続けさせて下さい。
 ジョン どうしてそんなに急ぐんだ?
(ウィリアムズ、盆の上に炭酸ソーダの壜を一本のせて、登場。)
 ピーター もしこれを昼食までに仕上げないとデイヴィッドが怒るからですよ。
(ウィリアムズ、デイヴィッドの部屋をノックし、入る。)
 ジョン 心配はいらない筈だがね。だって、デイヴィッドは君に何かを口述したことを覚えているとは思えないし、ましてやそれをタイプしろだなんて、まづ覚えているのは無理だからね。
 ピーター お願いです、もう寝て下さい。
 ジョン(クッションを整え、そこにゆったりと坐って。)いいかい? 今君と僕がここにいる。二人とも有産階級には属していない。しかし、ある一人の有産階級の家に寄生虫として暮すことによって、彼らと同等の暮しが保証されている。君は血縁関係という繋がりで、僕は昔の宮廷の道化の役割を果すことによってだ。君と僕・・・二人とも、この金持のアパートに住んで、彼らが享受するところのあらゆる便宜を彼の支出によって彼らと同様に享受している。
(ウィリアムズ、デイヴィッドの部屋から出て来る。)
 ウィリアムズ(ピーターに。)旦那様からの伝言です。夕べ口述したものを見せて貰えないかと。
 ピーター(慌てて。)ああ、言ってくれないか。まだ全部は終っていないって。昼食までには終らせられる筈だ・・・但し、ミスター・レイドが少しの間、口を閉じていてくれればの話だが、と。
 ウィリアムズ 畏まりました。
 ピーター それからこれを渡して。今までやった分だ。
 ウィリアムズ 畏まりました。
(ウィリアムズ、デイヴィッドの部屋に退場。)
 ピーター ほら、やっぱりでしょう?
 ジョン いや、すまなかった。もう邪魔しないよ。
(ジョン、タイムズを取り上げる。ピーター、タイプを続ける。ウィリアムズ、デイヴィッドの部屋から登場。)
 ウィリアムズ(ピーターに。)旦那様からの伝言です。残りは打つ必要はありませんと。まづ今までのものを読んでからの話にするとのことです。
 ピーター ああ、有難う。
(ちょっとがっかりした様子で、タイプライターを片付け始める。)
(ウィリアムズ退場。ジョン、タイムズを脇に置く。)
 ジョン やっぱりだ。言った通りだったろう。我々二人ともデイヴィッドのおかげで寄生虫の生活が出来る結構な身分だと・・・
 ピーター もう止めて下さい。確かにもう話をしたって仕事の邪魔にはなりませんよ。でも退屈なんです、その話は。
 ジョン 寄生虫と言われるのは厭なんだな。
 ピーター 厭です。
(ジョン、くすくすと笑う。)
 ピーター 何を笑っているんです。
 ジョン いや、君達オックスフォード出の若くてピチピチした連中のことを考えてね。連中はみんな、ゼロから出発して、一廉(ひとかど)の者になろうとして懸命なんだ。一廉の者・・・これは君達の口癖だがね・・・それで何が起きる? 勿論仕事など何も見つからないってことだよ。仕事なんか、一廉の者だった誰かが、もうとっくにその席を占めていて、懸命に働いてゼロに行きつこうと頑張っているのさ。
 ピーター(怒って。)またまたジョン・レイド一流の言い回しだ。言い回しは新しいかもしれないが。だけどちっとも独創性はありはしない。何の意味もないし、第一、可笑しくもない。
 ジョン(眠そうに。)ちょっと怒らせちまったかな? 君を。
 ピーター 全然。あなたが何を言おうと、僕が怒る訳がない。
(ジョン、目を瞑ったまま、微笑する。)
 ジョン(ちょっとの間の後。)君がね、急に明日から週十ポンドの仕事にありついたと仮定しよう。君が最初にすることは何か分るかい?
(ピーター、新聞を取り上げ、読むふりをする。)
(ジョン、頭を持ちあげる。)
 ジョン いや、僕には分ってる。あの女の子・・・ヘレン何とか言ったな・・・あの子と結婚するんだ。バラムかどこかのアパート・・・二DKぐらいかな? そこに二人で収まる。最新式のガス台に、清潔なキッチン。毎朝八時に起床、そして冷たいバスタブに飛び込む。(急に吐き気がしたらしいく、片手で口を押さえる。)ウム、これは言わない方がよかった。(暫く目を閉じてじっとしている。再び口を開くと、元のような元気はなく、少し眠そうな声。)時間はゆっくりと過ぎて行き、サラリーは週十二ポンド十シリングに上がる。そこで赤ん坊を作ることになる。二、三人かな? そこいら中這い回り、汚い手であちこち触り・・・いやはや、煩わしいものだ・・・居間にも、ベッドにも、ベッドの下にも、台所にも・・・(声、だんだん聞き取り難くなる。呟きになり、最後に静かになる。ピーター、新聞を投げ捨て、ソファに行く。ジョンの寝顔を、立って眺める。ジョンの顔、安らかなもの。)
(ジョウン・スコットファウラー登場。パジャマの上から部屋着を羽織っている。三十代前半。かっては美人だったが、かなり衰えている。年以上の衰え方。この登場の時は、もっとそれが著しい。起きたまま出て来て、顔の繕いをしていないからである。)
 ジョウン(片手を顔に当てて。)さあ、借金の証書でも、何でも持ってらっしゃい。サインしてあげるから。
 ピーター ああジョウン、どう? 気分は。
 ジョウン まだ分らないのよ、それが。(ジョンを見る。ソファに近づき、ジョンの耳に口をあて、大きな声で。)ブー!
 ジョン(目を開けて。)お早う、ジョウン。酷い顔だよ、それ。
 ジョウン あなただって自慢出来る顔じゃないわ。素敵な今朝のこの光の中ではね。ジンをもう、ぐっとやったわね?
 ジョン まだ残ってるよ、沢山。
 ジョウン 私にも頂戴、ジョン。
 ジョン(動かない。)自分でやるんだね、ジョウン。
(ピーター、飲み物のテーブルに行く。)
 ピーター トニック? それともソーダ?
 ジョウン あら、有難うピーター。じゃ、トニック。
 ジョン おお、ここには紳士なるものがいたんだな。忘れていた。
 ジョウン(ジョンに。)人を怒らせるようなことばかり言って。あなたが家にいて、どうして我慢出来ているのかしら、私もデイヴィッドも。
 ジョン こっちもですね。お二人にどうして我慢出来ているのか不思議ですよ。(ジョン、見回す。言い過ぎて恥づかしい気持。)これはちょっと言い過ぎた・・・ですね?
 ジョウン そう。言い過ぎ。
(ピーター、飲み物をジョウンに持って来る。)
 ジョウン 有難う。本当に御親切に。(ピーターを下から見て。)あら、まあ、あなた、どうなってるの? ちょっと顔を見せて頂戴。
(ジョウン、熱心にピーターの顔を見る。)
 ジョウン 素晴しい。どうやったら出来るのかしら。
 ピーター 出来るって・・・何がです?
 ジョウン 朝の五時まで起きていて、そんな顔がどうして出来るのかって。
 ピーター 五時まで起きてるって、僕はそんなにいつもはやらないんです。だからでしょう、きっと。
(ピーター、部屋の向こうへ行く。)
 ジョン ピーターは今丁度例のあの気分になっているんだ。つまり、我々みんな偽貴族の、傍観者の、浪費家の、屑の、滓(かす)だって感じる、あの気分に。
 ジョウン そんなこと感じてはいないわよね? ピーター。
 ピーター 勿論そんなことを口に出して言ったことはありません。
 ジョウン 口には出さない・・・まあ、随分酷い否定の仕方ね。
 ジョン 彼をあまり責めちゃいけないな。僕は今言っていたところだ。それがこの世代の人間の誤りだってね。
 ジョウン この世代の人、ちっとも悪くないじゃない。ただ真面目なだけよ。それに、真面目っていいことだと思うわ、私。
 ジョン そんなこと、ちっともあなたは思っちゃいないな。思ってるのは、連中が退屈な奴らだって。そして僕もそれには賛成。我々が若かった頃、人が僕らのことを何て言ったか、それは散々なことを言っただろう。ただ、「退屈な奴らだ」とだけは決して言わなかった筈だなあ。
 ジョウン 「我々が若かった頃」? それどういうこと?
 ジョン 我々は若い時もあった。もうずっと昔にね。それとも、それも忘れてしまったのかな?
 ジョウン 私、今朝のあなた嫌いよ、ジョン。寝室に入って寝たらどうなの?
 ジョン それはかなり良い考えのようだな。(立ち上り、伸びをする。)昼食は何?
 ジョウン 何かのシチューだと思ったわ。
 ジョン 夕べの夕食の時食べたあの老いぼれ雌鶏(めんどり)の残りを使おうっていうんだな。どうして僕はこんな家に留まっているんだろう。さっぱり分らない。(左手から退場。)
 ジョウン あなたお昼、食べて行く? ピーター。
 ピーター いいえ、ヘレンと一緒にどこかで。言っておけばよかった。失礼しました。
 ジョウン いいのよ、そんなこと。ヘレン、ここに来るの?
 ピーター ええ、一時頃。構いませんか?
 ジョウン まあ、私が構う訳がないでしょう? 何てことを言うの?
 ピーター 分りません。ちょっといつも甘え過ぎているんじゃないかって、ふと思ったんです。あなたとかデイヴィッドに、何も断らずにさっさと人を連れて来たり・・・
 ジョウン だって私、ヘレンのこと大好きよ。いい人じゃない。それにあの人、この頃しょっちゅう家に来るもんだから、もうここの家の人のようなものでしょう? あなた、近々あの人と結婚するんじゃない?
 ピーター(唐突に。)事情が許せばすぐにでも。
 ジョウン まあ、どうしてそんなに急いで?
 ピーター とても愛しているんです、彼女のことを。
 ジョウン じゃ、別に急ぐこともないでしょう? あなたはあの人が好き、あの人もあなたが好き、何の心配があるの?
 ピーター 僕は毎日毎日が心配なんです。いつ彼女が僕のことを好きでなくなってしまうかって。
 ジョウン あの人にふられてしまったら、あなた、どれぐらい困るの?
 ピーター そのことは考えたくないんです。
 ジョウン でも、とにかくあなた方二人、オックスフォードで一緒だったということはつまり、もう、今まで二年間は二人で一緒に暮して・・・
 ピーター 一緒に暮して?
 ジョウン ピーター、まさかあなた方二人、童貞と処女だって言うつもりじゃ・・・そう、私には分らないわね、あなたも、ヘレンも。
 ピーター 分らないでしょうね、ジョウン。
 ジョウン まあ、なんて酷いの、二人とも。可哀想に。あなた、何とかしなきゃ駄目じゃない。それもすぐによ。
 ピーター ええ、だから何とか仕事につこうと懸命なんですよ。
 ジョウン どのくらいあったらやってゆけるの? 今、新婚の夫婦が。
 ピーター よく知りません。まあ、週十ポンドですね。
 ジョウン(ちょっと言い難そうに。)たったそれだけのことなら、デイヴィッドはすぐ喜んでやってくれる筈だけど。
 ピーター ええっ?
 ジョウン(急いで。)そう、あなたの・・・その・・・サラリーっていうんですか?・・・それを例えば週十ポンドに・・・上げる。あなたはずっとここで働けるわけだし・・・だから、ボーナスなんかじゃなくて、ただ額を上げる・・・
 ピーター(遮って。)このことをデイヴィッドに話したこと、おありですか?
 ジョウン いいえ。勿論ないわ。でもあの人、喜んで・・・
 ピーター 御親切に。有難うございます、ジョウン。お心遣い、感謝します。でも僕は、とてもお受け出来ません。
 ジョウン よく考えてみたら?
 ピーター 考えても無駄です。とてもお受けする訳には行きません、本当に。
 ジョウン そうね、あなただったらそう言うのね。
 ピーター 理由はお分りでしょう?
 ジョウン 分らないわね。でも、受け取らないだろうっていうのはやっぱり分っていたわ。
 ピーター 恩知らずの豚だなんて思わないで欲しいんですが。
 ジョウン 豚だなんて。小学生ね、まるで。私、そんなこと、考えてもいない。ただ、あなたって馬鹿ねって・・・そう思うだけ。
 ピーター ええ、馬鹿かも知れません。
 ジョウン さ、もうこの話は止めましょう。(立上がり、グラスをテーブルの上に置く。)さあ、私、どうしたものかしら。あの魅力溢れる夫の部屋に入って行ったものかしら。(扉の方を見る。)もう目は覚めているの?
 ピーター ええ、もう。
 ジョウン 気分はどうなのかしら。あなた、分ってる?
 ピーター いいえ。僕、まだ会ってはいないんです。
 ジョウン 私、あの人が「横腹が痛む」って言い出してから、どうも心配なの。私が入って行ったその時に死ぬなんて・・・そんなの厭ですもの。
 ピーター 単に肝臓だって言ってましたよ。
 ジョウン ええ。でも、そう言われて安心出来る訳ないでしょう? 肝臓なんでしょう? 人間で肝心要(かなめ)のものは。
 ピーター 医者に見せなきゃいけないんですよ。
 ジョウン 勿論見せなきゃ。でも誰が一体あの人を医者に連れて行けるっていうの? あの人、医者はみんなインチキ、盗人(ぬすっと)、それに退屈な連中だって思っているのよ。(ちょっと考えた後。)まあ、勿論そうには違いないけど。
 ピーター でもとにかく、あの人、今朝は気分がいい筈ですよ。夕べやり上げた例のものを今読んでいるところなんですから。
 ジョウン 夕べデイヴィッドがやったこと、私、あと何年経っても許す気にはならないわね。朝五時に私を起したのよ。そして、あの退屈な本について話したんですからね。二時間ちょっとそれにかかりきりだったって、とても威張っていたわ。可哀想に。ねえピーター、正直に言って、あれ、どうなの?
 ピーター 本のことですか?(用心深く。)良いと思います。
 ジョウン 「正直に」って、私、言ったわよ。
 ピーター テーマはとても退屈なんです。・・・いえ、その・・・ナポリのボンバ王の生涯なんか、誰が読みたいって思うでしょう。つまりえー、・・・ボンバ王なんて、重要な人物じゃありませんから・・・歴史的には。そうでしょう?
 ジョウン デイヴィッドにそれを言っちゃ駄目よ。殺されちゃうわ、あなた。本当のことを言えば、私、あなたに賛成。ボンバ王なんて退屈で死んじゃう。
 ピーター でも、本自体は面白いんですよ、ええ。あの人、歴史に対して素晴らしいセンスがあるんです。ただ、そのセンスを・・・(言い止む。)
 ジョウン もっと活(い)かすようにすべきだっていうのね?
 ピーター ええ、そう。そう言おうと・・・
 ジョウン あなたって、真面目な質(たち)ね。
 ピーター(怒って。)ええ、真面目です。悪いですか。
 ジョウン いいえ、ちっとも。ちっとも悪くなんかないわ。デイヴィッドには周りにあなたのような人がいるのがとてもいいの。もしあなたのお陰であの人がボンバの本を書き上げたとしたら、私、あなたにとても感謝するわ。
 ピーター(驚いて。)本当ですか? 何故です?
 ジョウン 分らない。ただ私、思うの、もし書き上げられたら、あの人にきっといい筈だって。やってる時はとても厭でしょうけどね。
 ピーター(ちょっとの間の後。)時々人を驚かせるようなことを言うんですね。
 ジョウン(はっきりしない言い方で。)そう・・・私が? 何故かしらね。私にも分らない。
(玄関のベルが鳴る。)
 ジョウン あら、まあ・・・客だわ。今朝は誰にも会いたくない気分。私、デイヴィッドの部屋に隠れるわ。
(ジョウン、デイヴィッドの部屋に進む。それから何かを思い出して、テーブルの方に駆け寄り、もう一杯注いでぐっと飲む。)
(ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ ミスター・アンド・ミス・バナーです、奥様。
 ジョウン(叫び声を上げる。)ミスター・バナー? ヘレン、結婚したのよ、ピーター。ね、あの子、結婚しちゃうって言ったでしょう?
 ピーター ヘレンの兄さんですよ、きっと。でも、分らないな。兄さんだとしても、何のつもりでヘレン、兄さんなんか連れて来たんだろう。
 ジョウン いいじゃないの、ピーター。兄さん、大歓迎よ。
 ウィリアムズ お通ししましょうか? 奥様。
 ジョウン そうして頂戴。
(ウィリアムズ退場。)
 ジョウン あなた、私の代わりにお相手してね、ピーター。(デイヴィッドの部屋の扉のところで。)飲み物など、全部揃っていると思うわ。(飲み物のテーブルの方を曖昧に指さす。)もっと必要だったら、ウィリアムズを呼んで。(デイヴィッドの扉をノックし、開ける。)デイヴィッド、最愛の妻よ、入れて頂戴。
 デイヴィッド(舞台裏で。)さあ、入って。扉を閉めて。日の光はかなわないんだ。
 ジョウン 鎧戸を開ければいいのに・・・
(ジョウン、部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。その時ウィリアムズ登場。ヘレン・バナーとジョージ・バナー、その後に登場。ヘレンはおよそ二十歳。ジョージはおよそ二十五歳。)
(ウィリアムズ退場。)
 ヘレン(部屋を素早く見回して。)今日は、ピーター。
(ピーター、ヘレンに近付き、キス。)
 ピーター 今日は早かったね。素晴らしいよ。さ、今からお昼を食べに行こう。
 ヘレン まだちょっと駄目。理由はすぐ言うわ。兄のことは知ってるわね? きっと。
 ジョージ オックスフォードでお会いしたことがありましたね。今日は。
 ピーター 今日は。
(二人、握手。)
 ピーター まだ大学に?
 ヘレン 医者になれたのよ、ピーター。
 ピーター ああ、それはおめでとうございます。じゃ、めでたく試験をパス・・・
 ジョージ カスカスでしたがね。
 ヘレン(興奮して。)ねえピーター、デイヴィッド、もう起きてる?
 ピーター いや、まだだけど。どうして?
 ヘレン 実はね、ジョージに会わせたいと思って。
 ピーター ああそれは・・・デイヴィッド、そのうちすぐ起きて来るから・・・
 ヘレン いいえ、会わせるって、そういうことじゃないの。ジョージにデイヴィッドを診させたいの・・・つまり、医者として。
 ピーター つまり、医者の診断をさせたい?
 ヘレン そういう公式なものじゃないの。私の頼みを聞いてくれて、私的に・・・デイヴィッドが病気なのはあなたにも分っているでしょう? あの人、病気なの。勿論自分で認めようとはしないし、医者にも診せようとはしない・・・私達がどんなに頼んだって。だから私、兄を、社交の場に登場する普通の人として連れて来たらいいんじゃないかと思ったの。そうすればあの人だって、無礙(むげ)には断れないんじゃないかと思って・・・
 ピーター 君はあの人をその程度にしか知らないんだ。あの人、カンカンになって怒るよ。
 ヘレン いいえ、そんなことはないわ。
(ジョージ、窓の方はブラブラと進み、外を見る。)
 ピーター(困って。)ヘレン、君、こんなことをするなんて、気狂い沙汰だよ。
 ヘレン 何故?
 ピーター あの人はね、他人から自分のことを干渉されるのが一番嫌いなんだ。それに、第一君、君に一体何の関係があるんだい?
 ヘレン あの人は病気。あの人くらい病気だったら、誰でも医者に診て貰う必要があるの。
 ピーター あの人は病気じゃないよ。
 ヘレン いいえ、病気です。あの人を一目見れば誰だってすぐ感じるの、この人どこかおかしいって。
 ピーター おかしいところはわざわざ君に教えて貰わなくても、僕にも分っている。飲み過ぎだ。
 ヘレン ええ、そう。だから兄にそう言って貰おうと思ってるの。これ以上飲んだら危ないって。
 ピーター なるほど。ということはつまり、君が相手に言う台詞まで兄さんに教えているって訳だ。
 ヘレン ええ、そうよ。もし私達の誰一人あの人に飲むのを止めさせられないなら、誰かに脅かして・・・それもひどく脅かして・・・貰うしかないでしょう?
 ピーター 君、随分しょってるね。
 ヘレン 馬鹿なことを言わないで頂戴、ピーター。
(ジョージ、窓のところで、今までの会話を聞いていないふりをしている。ここで振り返る。)
 ジョージ ロンドンでこんな風景が見られるとはね。ここはロンドンよりニューヨークにいるって感じですね。
(ピーターとヘレン、すぐに振り返る。が、また自分達の会話に戻る。)
 ピーター 悪いけどヘレン、君はデイヴィッドという人をまだよく知らないんだ。その話はちょっと・・・(言い止める。)
 ヘレン ちょっと・・・何なの? ピーター。
 ピーター 君のこの計画が分った時、あの人、突然怒鳴りつけたりするんじゃないかと思って・・・
 ヘレン いいわ、それでも。私、やってみる。
 ジョージ 面倒なことになったのでしょうか?
 ピーター(あまり確信の持てない言い方。)いや、そうでもないとは思うんですけど。そうだ、ジョウンに言われていました。お客様をもてなすようにって。(ジョージに。)何か飲みますか?
 ジョージ いや、私はやりませんから。
 ピーター 君はどう? ヘレン。
 ヘレン お昼には私、飲まないわ。
 ピーター じゃ、とにかく坐りましょう。デイヴィッドはまだまだ起きては来ませんから。
(三人、坐る。)
 ピーター(間の後。)あれからどうだった? ヘレン。
 ヘレン どうって、たいしたことはなかったわ。ああそうそう、私、昨日、職捜しに行ったの。
 ピーター(熱心に。)そう。どうだった? 脈ある?
 ヘレン なさそうね。応募者女性五百何人が面接室。みんなタイプライターの名人。たいていは一分間百語。私、六十語だもの。馬鹿に見えたわ。学校でギリシャ語の詩を書く練習より、タイプでも教えてくれたらよかったのに。
 ジョージ おいおいヘレン、それは法螺(ほら)じゃないか。君はギリシャ語なんか、読めもしない筈だぞ。
 ヘレン 学校に行ってた時には、ちゃんと出来たわ。
(扉でベルの音。)
 ヘレン あらまあ、今朝誰かお客様の予定?
 ピーター さあ、聞いてないけど・・・だけど、ここには誰だって、いつでも不意にやって来るからね。
 ヘレン そうね。それも大抵は相当酷いのが。
(ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ ミスィズ・ブラウン、それから、ミスター・カーターがいらっしゃいました。
(ウィリアムズ、ジュリアとスィリルを導き入れ、退場。ジュリアはおよそ三十五。乱れた服装。一見して社会的地位のない女。その外見通り、言葉も仕草(しぐさ)も酷いもの。スィリルは二十代始め。パリッとした服装。ハンサムである。)
 ジュリア(ヘレンに近づいて。)あらヘレン、会えて嬉しいわ。(ヘレンにキス。ピーターの方に近寄って。)まあまあピーター、お元気?(両腕をキスされるように前に出す。ピーター、仕方なくその両手にキス。ヘレンに。)あなた、日毎に綺麗になってるのね。どうしてそんなこと、出来るの?
 ヘレン あなた、兄のジョージには会ったことないわね?
 ジュリア あら、今日は。今までどうしてお会いしなかったのかしら。
 ジョージ さあ、分かりませんね。
(二人握手。ピーター、こっそり口を拭く。)
 ジュリア 私達、丁度ル・トゥーケーから帰って来たところ。そう、たった今。私、臭ってるでしょう?(椅子に坐る。)飛行機に乗る時、ブランデー一本持って入ったの。だから勿論クロイドンに着くまでに空けてしまわなきゃならなかったのよ。だって税関でお金取られたら馬鹿馬鹿しいもの。
(その時までにスィリル、もじもじして背広の裾を引っ張ったりしている。他の者達はその姿を見て、これも当惑している。スィリルが紹介されるのを待っているのである。)
 ジュリア この週末・・・ほんとに酷い目にあったわ。どんなに酷かったかお話しましょうね。私、ズボンをなくしちゃったのよ。
 ジョージ(何か言うことが期待されていると感じて。)ああ、そいつは大変だ。
 ジュリア 本当に大変だったのよ。私、いろんなことがちゃんと出来ないの。私が八を出すと相手はいつも九。全く洒落にもならないわ。
(スィリル、咳払いをする。自分の紹介がすんでないことを示すため。ジュリア、スィリルを見る。)
 ジュリア スィリルは賭けてボーリングをやったの。少し稼いだのよね? スィリル。そうそう、この話をしなくちゃ。私、バカラで親をやっていたら、いちゃもんをつけられたの。酷いご面相の小さい男に。私、ちょっとした間違いをした。よくあるでしょう? 少し飲んでいる時にやると誰だって・・・そうしらそいつ、私のことを「飲んだくれの婆あ」っていうの。それもフランス語で。英語よりもっと悪い。だから私かっと来て・・・
(スィリル、再び咳払い。頭を振って、他の人達の方を指し示す。)
 ジュリア あなた、飛行機で風邪をひいたんじゃないの? スィリル。
 スィリル(酷いコックニーの訛りで。)僕はまだ紹介されてないんだ。
 ジュリア ああ、ご免。こちら・・・ミスター・・・(躊躇う。)・・・あ、私、忘れた。
 スィリル カーター。
 ジュリア そう、ミスター・カーター。
 ヘレンとピーター 初めまして。
 スィリル 今日は。
 ジュリア(ピーターに。)ねえあんた、ちょっとあれ・・・ほら・・・ティンギー・ウィンギーは?
 ピーター えーと、その・・・何でしょうか。
 ジュリア ほら、飲み物じゃないの・・・ね?
 ピーター ああ、失礼。(飲み物のテーブルに進む。)何がいいんですか?
 ジュリア ブランデーね。飛行機からそれだから。
 ピーター(スィリルに。)そちらは?
 スィリル 僕も同じ。
 ジュリア あの化物、ジョウンとデイヴィッド、まだ起きて来ない?
 ピーター ああ・・・まだだと思います。(ジュリアにブランデー・ソーダを渡す。)
 ジュリア 夕べパーティーがあったの?
 ピーター パーティーはありませんでしたけど。
 ジュリア まあ、あんた、ハンサムなのね。見てるだけで素敵よ、ピーター。
(ピーター、急にジュリアに背を向ける。)
 ジュリア ヘレン、あんた、なんて運がいいの。
 ヘレン ええ、私もそう思う。
(ピーター、スィリルに飲み物を渡す。)
 スィリル 有難う、どうも。
(ジョウン、デイヴィッドの部屋から登場。)
 ジョウン まあ、ジュリアじゃない。どう? 調子は。
 ジュリア 朝からもうぐでんぐでん。どう? そちらは。
(ジュリアとジョウン、抱擁。)
 ジュリア スィリルにはもう会ったことあるわね?
 ジョウン 会ったことあるかしら? スィリル。
 スィリル ええ、先週の木曜日。一緒に外へ。
 ジョウン このところどうしてたの? ジュリア。いっぱい話すことあるんでしょう? さあ、私に部屋に来て。私がお風呂に入っている間、いろいろ話して頂戴。
 ジュリア(立ち上がりながら。)そう、いろんな話・・・酷い話があるわよ。あなた、アーサー・パーク・ウェストンを知ってたわね?
 ジョウン ええ、女の子を撃ち殺して逃げた人でしょう?
 ジュリア そう、その人。(ジョウンの部屋の扉のところで。)さ、スィリル、いらっしゃい。(ジョウンに。)さ、ジョウン、どう? この人。そんな風には見えないでしょう? 今私、この人を困らせてやる。いい? ジョウン、そのアーサー・パーク・ウェストンがね、ル・トゥーケーでこのスィリルと一緒にいたの!
(二人、ジョウンの部屋に入る。スィリル、陰気な顔で後に続く。)
 スィリル(扉のところで、厭そうに。)全く、何だこれは。(二人の後から部屋に入る。)
 ヘレン(笑って。)まあまあジョージ、あなた、ショックを受けた?
 ジョージ ショックなんかないさ、勿論。ただ、面白いって感じだね。ああいう人種に出くわしたのはこれが僕は初めてなんだ。本でしか読んだことなくてね。
 ピーター ええ、気分分かりますよ。ジュリアだとか、あの手の連中がこのアパートで大声上げて喚きたてているのを聞くと僕はいつも、何だか連中が、存在しない人間に見えて来るんです。
 ヘレン あの人達は実際、存在しないのよ。
 ジョージ ほほう、すると、今僕が見たのは何かな? 二本足の「お化け幽霊」?
 ヘレン あら、すごい言葉!
 ジョージ 二度言う気はしないからね、悪いけど。
 ピーター ヘレンの言いたかったことは、連中は自分を取り繕うのに忙しくって、本当の自分になる時間がなくなってるってことでしょう?
 ジョージ 本当の自分っていうのがそもそもないんじゃないのかな。
 ヘレン いいえ、本当の自分はあるの。時には素敵な自分を持っている人だっているの。どうしてあんなに自分を出すのを恥づかしがっているのか、私知りたいわ。
 ピーター 自分が退屈な人間だと思っているからだよ。そう、この「退屈な」っていうのが連中の好きな言葉なんだ。(ヘレンに。)そうそう、今朝ジョンが僕に言ったよ。「君は退屈な男だね」って。僕がまともな職につこうとしているもんだから。
 ヘレン あの人達の本当の問題は何か分ってる? それはね、お金があり過ぎるっていうこと。
 ジョージ そういう問題なら、僕は喜んで引き受けたいね。
 ヘレン いいえ、冗談じゃないの。悲劇なのよ、これ。ちょっとしたチャンスさえ与えられれば、あの人達、すっかり違った人間になれていたの。働かないで大人にならなきゃならないっていうのは、とても酷いことなのよ、きっと。
(デイヴィッド、自室から登場。フランネルのズボンにツイードの上衣。丁度袖に腕を通しているところ。三十八歳。片手にタイプした紙を握っている。)
 デイヴィッド(扉を開けながら。)ピーター、レオポルド一世はベルギーの王じゃない。ベルギー人の王だったんだ。違うんだよ、この二つのことは。(部屋に入って来る。)ああ、ヘレン。
 ヘレン 今日は、デイヴィッド。これ、兄のジョージです。
 デイヴィッド(握手して。)始めまして。飲み物はやらないんですか?
 ジョージ いえ、今はちょっと。
(デイヴィッド、飲み物のテーブルに行く。)
 デイヴィッド 他に誰か?
(ピーターとヘレン、首を振る。)
(デイヴィッド、自分にウイスキー・ソーダを作る。ヘレン、心配そうにそれを見る。)
 ヘレン 今日、身体の具合どう? デイヴィッド。
 デイヴィッド まあ、いつもの通りだ。変りないね。
 ヘレン 痛みは? この間言ってた・・・
 デイヴィッド 痛み? 何の。
 ヘレン 昨日言ってたでしょう? 脇腹が痛むって。
 デイヴィッド ああ、あれ! クリミア戦争に行って来た時の古傷だ。雨の降る時出て来る。それだけの話だ。
 ヘレン(苛々と。)デイヴィッド、お願い!
 デイヴィッド ちょっと失礼。少しだけ仕事の話をさせて貰うよ。(ヘレンに背を向けて、ピーターに近づく。)ピーター、夕べ君か僕、どっちかはひどく酔っていたんじゃないか?
 ピーター(少し機嫌悪く。)僕は酔っていませんでした。
 デイヴィッド それならこの私が酔っていたんだ。
 ピーター どうしてです。夕べやったあの物が気に入らなかったんですか。
 デイヴィッド アメリカ人の表現を使うとね・・・これは「臭う」。
(デイヴィッド、ピーターにタイプした紙を渡す。)
 ピーター(ちょっと目を通して。)かなりよく書けていると思いましたが?
 デイヴィッド その「よく書けている」というのがまづいんだ。あまりにもうま過ぎる。ヘクター・ボリソーの真似だ、まるで。
 ピーター ええ、でも読まれるようにと文章を作ったんでしょう?
 デイヴィッド そう。読まれるようにね。しかし、ヘクター・ボリソーの読者に読まれたいと思っては作らなかった。
 ピーター ヘクターはいい文章を書きます。
 デイヴィッド あいつが下手だと言っているんじゃない。しかしどうやら、あの章はもう一度やり直しだ。
 ピーター いいですよ。今日の午後ですか?
 デイヴィッド いや、今日の午後じゃない。またいつかだ。(ぐるっと回って。)そうだヘレン、例の応募していた仕事、とれた?
 ヘレン いいえ、駄目だと思いますわ。
 デイヴィッド なに、どうせあんな仕事、ついていたって厭でたまらなくなった筈だよ。
(デイヴィッド、肘掛け椅子にドサッと坐る。ヘレン、おずおずとデイヴィッドに近づく。)
 ヘレン デイヴィッド、私、お願いがあるんです・・・どうしてもっていう・・・
 デイヴィッド どうぞ。何でも・・・僕に出来ることなら。
 ヘレン あの・・・兄のジョージは医者で・・・(ここで言い止む。)
 デイヴィッド(礼儀正しく。)ああ、そう。(ジョージに。)それはいい仕事ですね。有望な・・・
 ヘレン(絶望的に。)兄が偶々ここにいるんです。ですから、お身体、兄に見せて戴けませんか? いい機会だと思うんです。何か悪いところがあってはいけませんわ。ええ、勿論何もない筈です。でも、それを確かめるだけでもいいんじゃないかと思って・・・
(間。デイヴィッド、ヘレンをじっと見る。)
 デイヴィッド(優しく。)ヘレン、こんなことをしてはいけないね。
 ヘレン 仕組んだんじゃないんです。兄が偶々ここに来ることになって・・・私、急に・・・
 デイヴィッド 急にインスピレーションが湧いて・・・か。なるほど。ドクター・バナー御自身はどうお考えですかな。
 ジョージ 勿論私は喜んで診させて戴きます。もし何か御心配なことでもおありなら。
 デイヴィッド 僕は自分の身体のことでは、何の心配もしていない。
 ジョージ(自分の役割を演じようとするが、上手でない。)しかし、ヘレンの話ですと、どうもお身体でどこか具合の悪いところがおありのようだと・・・昔やった何かの病気だとか・・・とにかく一、二分で何かが分れば、それにこしたことはないと・・・
 デイヴィッド(悲しそうに頭を振って。)まるで病人扱いですね。大変御親切に。
 ジョージ 勿論私の診察がお嫌いというのでしたら・・・
 デイヴィッド いやいや、お申し出、感謝しています。しかし、率直にいって、診察の要があるとは思えませんね。
 ジョージ そうですか。それでは(時計を見る。)私は行かなければ。昼食の約束がありますから。
(ヘレン、身振りでジョージを止める。)
 ヘレン デイヴィッド、私からのお願い。どうか・・・
(間。デイヴィッド、飲み物を飲み終える。グラスを置く。)
 デイヴィッド あなたの妹さんからの頼みで、私を診て下さいますかな? ドクター・バナー。
 ジョージ(ヘレンをチラと見た後。)最初からそう申し出ておりました・・・私は。
 デイヴィッド では私の部屋で。
 ジョージ 分りました。
 デイヴィッド(自室の扉を開けて相手を招く。ジョージ、その方向へ進む。その間に。)ヘレンが私に言わんとしていることは勿論、私があびる程飲んでいるという点です。しかし、こんなことで死ぬとは思っていないという私の意見を予め申し上げておいた方がいいでしょう。たとえあなたがそう言ってもです。
 ジョージ(中へ入りながら。)私がもし死ぬと申し上げれば、やはり死ぬからそう申し上げるとしか言えませんが。
 デイヴィッド それでもやはり、私は信じないでしょうな。
(ジョージとデイヴィッド、部屋に入る。ヘレンとピーター、しばし沈黙。)
 ヘレン ね、ピーター、そんなに怖がること、なかったでしょう?
 ピーター 僕は驚いた。本当に驚いたよ。あんなことをもし僕が、或いはジョウンがやったら、二人とも、頭を食い千切られているよ。
 ヘレン まあ。デイヴィッドはそんな鬼じゃないわ。
(ヘレン、ちょっと微笑んで、デイヴィッドの部屋の扉を見る。ピーター、その様子を苛々と見る。)
 ピーター とにかく、実質的な意味はまるでないよ、こんなことをしても。あの人を怖がらせて、それで酒を止めさせようなんて、出来ると思ったら大間違いだ。
 ヘレン(独りで悦にいって微笑んで。)まあ見てて御覧なさい。
 ピーター ヘレン、ナイチンゲールみたいな顔は止めるんだ。
 ヘレン あら、そんな顔になってた? ご免なさい。
(ヘレン、椅子の方に進み、坐る。)
 ピーター どうして君がこんな大騒ぎをするのか、僕には分らないね。それに、どうしてデイヴィッドなんだ? ジョウン・・・いや、ジョンでもいい。いや、あのさっきの女の客、ミス・ブラウンでもいい。連中に酒を止めさせたらいいじゃないか。
 ヘレン だって、デイヴィッドはその値打のある人だからよ。その三人合わせたよりも、もっと。
 ピーター 誰がそんなことを言った。
 ヘレン 私よ。あなた、あの人、どうしてあんなに飲むのか分る?
 ピーター 僕に分る訳ないだろう? ウイスキーの味が好きなんだろう? きっと。
 ヘレン ほらね。あなたは生れてからずっとデイヴィッドを見てきている。でも、あの人のことは何も知らないのよ、本当は。
 ピーター そう。そして君は、女性特有の直感から、彼を知って一と月しか経たないうちに、その本質を見抜くことが出来る、という訳か。
 ヘレン ピーター、喧嘩は止めましょう。こんないい天気なのに。
 ピーター(坐りながら。)そう、喧嘩は止めよう。デイヴィッドのためなんかのために。
(ピーター、デイヴィッドという名前を、軽蔑するように言う。ヘレン、傷ついて、もう少しで言い返しそうになる。が、止める。ヘレン、ピーターに近づき、その椅子の腕に坐る。ピーター、ヘレンの手を取る。)
 ヘレン 私まだ、あなたの話、聞いてないわ。
 ピーター ないね、話なんか何も。
 ヘレン 先週の木曜日以来よ。あれから何かあったでしょう?
 ピーター ああ、待って。(顔を上げてヘレンを見て。)そうだヘレン、今朝もう少しで君と結婚出来そうになったよ。
 ヘレン あら、そう?
 ピーター 週十ポンドの口があるっていうんでね。
 ヘレン そう。どこの銀行?
 ピーター いや、銀行じゃない。銀行だったら僕も断りはしなかったよ。実はその口っていうのは、ここなんだ。
 ヘレン 何? ここって、どういうこと?
 ピーター 週十ポンドでここで働かないかって言われたんだ。君と結婚できるようにって。(ピーター、ヘレンの手を軽く叩く。ヘレン、急に手を引っ込める。)
 ヘレン(ちょっとの間の後。)つまり、デイヴィッドが申し出たのね?(ピーター、ヘレンの緊張をすぐ感じとって、振り向いてヘレンの顔を見る。)
 ピーター(軽い調子で。)そうだよ。
(ヘレン、立ち上がり、窓の方へゆっくりと行く。)
 ピーター 勿論僕は断ったさ。
 ヘレン(気乗りしない様子で。)どうして断ったの?
 ピーター デイヴィッドのお情けを受けて結婚するなんて、君嫌だろう? だからさ。
 ヘレン ええ、私・・・嫌だわ。
 ピーター(軽い調子で。)でも、それにしてもデイヴィッド、とても親切だ・・・ね?
 ヘレン(今では落ち着いて、軽い調子で。)ええ、そうね。
(ジュリア、スィリル、ジョウンの三人、ジョウンの部屋から登場。ジョウンはまだ夜着姿。ジュリアが話している。)
 ジュリア 駄目なの、残念だけど。もっといたいのよ。でもスィリルと私、モヤ・レクスィントンとお昼を一緒にすることになっているの。
 ジョウン あら、あの人、今家に帰っているの? 知らなかったわ。
 ジュリア 知らなかった? 一と月前にあそこは出たのよ。
 ジョウン で、どうなの? 調子。
 ジュリア ええ、今はもうすっかりいいわ。
 ジョウン まだ・・・これ?・・・(微かな動作・・・腕に皮下注射をするような・・・をする。)
 ジュリア ええ、勿論まだ。でも、保健所の人達の監督下にあるの。まだ一個師団の兵隊を駄目にするくらいの量打っているけど・・・勿論だんだん量は減らしているわ。一九八0年ぐらいには、普通の量に収まって行くわ、きっと。さ、私もう行かなくちゃ。モヤとフィッツロイで会うの。フィッツロイがどこにあるか知ってるでしょう? あのいかがわしいブルームズベリーの真ん中にあるのよ。
 ジョウン いかがわしいなんて言っちゃブルームズベリーに可哀想よ。あなただってあのパルプの人と結婚した時、あそこの辺りに住んで喜んでいたでしょう?
 ジュリア(その話を持ち出されて厭な気持で。)ああ、あの頃のブルームズベリーは今とは違ったわ。
 ジョウン じゃ今はあそこ、チズウィックみたいなもの?
 ジュリア あそこで私がパーティーを開いたの、覚えてる? 自分の好きな歴史上の人物に仮装して、皆に来て貰ったの。
 ジョウン ええ、面白かったわ、あれ。
 ジュリア デイヴィッドは摂政の宮の格好・・・で、あなたは・・・何だったかしら。
 ジョウン(困って。)覚えてないわ。
 ジュリア あ、私、覚えてる。ジェイン・オースチンよ。あれ、さえなかったわ。何かもっと気のきいた人にすればよかったのに。でも、あのパーティー良かったわ。マーティン・ヘッジズが階段から転げ落ちて足の骨を折ったの、あなた、覚えてる?
 ジョウン そうだったわね。あの人、自殺しようとしたか何かね? それとも誰かに押されたのかしら。覚えてないわ。
 ジュリア 酔っぱらっていただけよ。それで落ちたの。それだけのこと。さ、もう行かなくちゃ。(ジョウンを抱擁。)さようなら、ジョウン。また会えて嬉しかったわ。十五日のここでのパーティー、来るわ。今日から何日目かしら。忘れないようにしなくちゃ。そう、丁度一週間後ね?
 ジョウン そうよ。パーティーなんて大袈裟なものじゃないの。古い友達が少し集まるだけ。
 ジュリア 昔に返れるわ、きっと。スィリル、覚えていて頂戴。今日から一週間後、ここでパーティー。十時よ。
 スィリル オーケー。
 ジュリア(ヘレンの方を向き、キスして。)さようなら、ヘレン。会えて嬉しかったわ。
 ヘレン さようなら、ジュリア。
 ジュリア(ピーターの方を向いて。)さようなら、美男子ガニミードさん。
 ピーター ああ、よして下さい・・・
 ジュリア スィリル、あなた、先に降りて行って、タクシーを拾っといて。
 スィリル オーケー。(扉のところまで行き、そこで振り向いて、腰をかがめる丁寧なお辞儀。)みなさん、失礼します。
(スィリル退場。)
 ジュリア モヤとの約束、遅刻だわ。あの人怒るわ、きっと。
 ジョウン 私からよろしく言って。
 ジュリア ええ。そうそう、一番最近してくれたモヤの話し、聞いた?
 ジョウン いいえ。
(ピーター退場。)
 ジュリア 本当の話なのよ、これ。モヤから直接聞いたんだから。きっとこれ、あの人の全盛時代の頃の話ね。・・・療養所へ入る少し前、あの人の名誉を称(たた)える公(おおやけ)の昼食会があったの。英国の名声を支えた、偉大な女流飛行家、云々、云々で。あの人、市長さんの隣に坐らせられたの。式典の丁度真ん中あたりで、あの人、どうしても一つ打たなきゃならない気分になって、注射器を取り出しての。そして、足に打ったのよ。ところが、その足が足違いで、自分の足じゃなくて、市長の足だったのね。市長、大声を上げて気絶しちゃったんだって。勿論救急車が来て運び出されたわ。いい話でしょう? いつかあの人に自分で話させてみてよ。
 ジョウン ええ、やってみるわ。さようなら、ジュリア。
 ジュリア さようなら。デイヴィッドによろしくね。
(二人、左手の扉へ行き、ホールに出る。観客からホールにいるのがまだ見え、その話声も聞こえる。)
 ジュリア ところであなた、スィリルのことどう思う?
 ジョウン 酷いものね。
 ジュリア そうね。酷いわね。じゃ、また来週の今日・・・
(ジュリア退場。ジョウン、後ろ手に扉を閉める。部屋に戻って来て、飲み物を注ぐ。)
 ジョウン ジュリアは朝来ると大変。そう思わない?
 ヘレン あの人、いつ来たって大変。朝に限らないわ。
 ジョウン あらヘレン、私達、朝の挨拶をまだすませてないわ。「お早う」が足りない。厭な気持!
 ヘレン(微笑んで。)蛇が蛙(かえる)を睨みつけるような顔で、もうこれで今朝二回お会いしたわ。
 ジョウン あら、本当にご免なさい。社交的儀礼のために一瞬だって時間を使わせるものかっていうジュリアの態度だからつい・・・お早う。(ヘレンにキス。)あーら大変。あなた、お兄さんを連れて来ていたのね。お兄さんにも睨みつけるだけで・・・もうお帰り?
 ヘレン いいえ、まだいます。
 ジョウン あら、このアパートの立地条件などを調査中?
 ヘレン いいえ、デイヴィッドとあそこの部屋で。(デイヴィッドの部屋を指さす。)兄は医者なんです。それで、デイヴィッドの脇腹の痛みが何かを今診ているところなんです。(少しの間。)いい考えでしょう?
 ジョウン それ、誰の考え? デイヴィッドの?
 ヘレン 誰の考えだとお思いになる?
 ジョウン ああ、勿論あなたの。
 ヘレン 結局、何か原因がある筈ですもの、あの痛み。
 ジョウン すきま風かもね。
 ヘレン たとえそうであっても、確かにそうだって確かめるべきよ。それにデイヴィッド、医者が嫌いでしょう? だから私・・・
 ジョウン そうね。あの人、医者が嫌いだわ。あなた、奇妙に思うかもしれないけど、私、デイヴィッドのことは割合よく知っているの。結婚してたった十二年だけど、経ちましたからね。
 ヘレン ご免なさい。出過ぎたことをして。最初にお聞きしておくべきでしたわ。
 ジョウン(優しく。)いいえ、そんなこと必要ないわ。
 ヘレン もしお気になさるってことが予め分っていたら、私こんなことしなかったんです・・・
 ジョウン いいえ、分っていてもあなたはやったわね。
 ヘレン 分りました。分っていてもやったかもしれません。デイヴィッドが飲み過ぎて死ぬのを誰かが止めなくちゃいけないの。連れ添っている人がちゃんといて、何もしないでいても。
(ヘレン、これを言ったとたん、事の重さに驚き、怖れる。しかしジョウンは怒りから程遠い態度に見える。)
 ジョウン もっと、それ以上のことを言っても、当っているわね。あの人の連れ合いは、飲むのを奨励しているって。(自分の言っている通りだと言わんばかりに、ぐっと飲み物を飲む。)ヘレン、あなた、変なことに気を回さなくていいの。私、ちっとも怒ってなんかいません。あなたこそ本当に親切だわ。・・・だって、あなたが殆ど何も知らない人に対して行っている親切ですものね。
(ヘレン、黙っている。ジョウン、グラスをテーブルの上に置き、伸びをする。)
 ジョウン(時計を見て。)あら、もうこんな時間? 遅いわ。もう十分したら、お昼御飯。ちょっと着替えて来なくちゃ。(隅にあるラジオ蓄音機にぶらっと進みよって。)ラジオで何か陽気な音楽やってないかしら。(スイッチを回す。最近流行りのスイングのダンス音楽がかかる。数秒聞いて、スイッチを切る。)最近の音楽は嫌い。蓄音機にしましょう。(「アヴァロン」の少しガリガリいうレコードを載せる。)ああ、いい曲。これが流行っていた頃、あなたまだ生れていなかったわね?
 ヘレン いいえ、生れてました。乳母がよく口ずさんでいたのを覚えていますわ。
 ジョウン その乳母の人、趣味がいいわ。あなた、戦中派?
 ヘレン いいえ、戦争が終ったその時、一九一八年の十二月生れです。和平協定派って言うんですか?
 ジョウン じゃあやっぱり戦中派に入るんだわ。その年の初めの方はまだ戦中だったんだから。まあ、このメロディー、泣けてくるわ。
(ジョウン、そのメロディーを口ずさみながら自室に入る。一人残されてヘレン、煙草に火をつける。レコード、酷くガリガリ言う場所に来て、そこが何度も繰替えし鳴る。)
(ヘレン、苛々と煙草の火を消し、蓄音機に進み、スイッチを切る。ジョージ、デイヴィッドの部屋から出て来て、後ろ手に扉を閉める。)
 ヘレン(真剣に。)どうだった?
 ジョージ お酒をすっかり止めてしまわなければ、あなたはすぐに死にますって言ってきた。
 ヘレン(共謀者の口ぶり。)よくやってくれたわ、兄さん。それであの人、信用した様子だった?
 ジョージ 分らない。ただ、非常に丁寧に礼を言って・・・それだけだ。
 ヘレン 何か怪しむような素振りはなかった?
 ジョージ どういう意味だ? それ。
 ヘレン ちゃんと兄さん、本当に聞こえるように話した? 兄さんの診たてがちゃんとその通りだって思えるように・・・
 ジョージ ヘレン、お前、分っていないようだね。僕があの人に言ったのは本当の話なんだ。
(間。ヘレン、思わず片手を口に持って行く。)
 ヘレン 何ですって?
 ジョージ 初期肝硬変の、明らかな徴候が見られるからね。
 ヘレン でも、本当にその診たて、正しいの?
 ジョージ 正しいね。勿論、今まで習って来たことが全部嘘なら話は別だけど。まあ、誰かもっとこの方面の専門家に診て貰った方がいい。ただ、そうは言っても、あの人は決して診せようとはしないだろうから、君はただ、僕の意見を信用するしかないだろうがね。
 ヘレン あの人が飲むのを止めたら・・・つまり、すっかり・・・そうしたら、身体は大丈夫?
 ジョージ それに加えて、僕が指示した食餌療法を守りさえすれば・・・
(二人、左手の扉の方に進む。そしてホールに出る。まだ二人の姿、見える。)
 ジョージ さて、僕はもう行かなくちゃ。君の頼みだからやったけど、他の誰でも、今朝のような仕事はご免だね。
(デイヴィッド、部屋から出て来る。前と同じ服装。煙草を吸っている。伸びをした後、飲み物のテーブルに進む。)
 ヘレン(玄関ホールで。)有難う兄さん、恩に着る。本当よ。
 ジョージ いいんだ。金持ちの患者に繋がることもあるかもしれない。じゃヘレン、お利口にして。
 ヘレン さようなら、兄さん。
(ヘレン、玄関の扉を閉める。その間デイヴィッド、ウイスキー・ソーダを作っている。ヘレン部屋に戻り、これを見る。デイヴィッドが飲もうとしているところを、さっと近づき、グラスを取り上げ、床に叩きつける。)
 ヘレン 止めなさい! 何ていう馬鹿なことを!
(デイヴィッドの最初の反応は勿論、強烈な怒り。しかし、すぐそれを抑える。)
 デイヴィッド ねえヘレン、僕のグラスをテニスボールの代わりにしてくれては困るね。いいグラスなんだ。それに、いい絨毯も滅茶滅茶だ。ベルを鳴らしてくれないか?
(ヘレン、ベルに進み、押す。デイヴィッド、割れたグラスを拾い、テーブルに進み、別のグラスを取り上げ、もう一杯注ぐ。)
 ヘレン(どうしようもなく。)デイヴィッド、お願い!
(ヘレン、デイヴィッドの方に進む。デイヴィッド、グラスを手にしてヘレンと向き合う。)
 デイヴィッド さっきと同じことを君、もうしないね? ああいうことが効果があるのは、最初の一回だけなんだ。二度同じことをやっても意味はない。
 ヘレン 何てことをしているんです。グラスを戻して!
 デイヴィッド そのつもりではあるんだがね・・・
(ヘレン、デイヴィッドに近づこうとする。その時ウィリアムズ登場。ヘレン、立止まる。)
 ヘレン 気違いよ、あなた。
 デイヴィッド いいかいヘレン、僕は君の話を信用している。君の兄さんの話もね。僕は肝硬変の初期であり、もう暫くすれば死ぬ。そう彼が思っていることもね。
 ヘレン じゃ、その見立て自体が間違いだっていうのね?
 デイヴィッド いや、見立て自身合っているかもしれない。ただ、診る医者、診る医者が全部同じことを言うもんだからね。今朝また言われても、ただ「飲むのは自殺行為、やっぱりね」ぐらいの気分だね。
 ヘレン(絶望的に。)それ、生きて行きたくないっていうことなの?
 デイヴィッド すぐには答えられないね、その質問には。ちょっと時間がいる。
 ヘレン(戦略を変えて。)ああ、デイヴィッド、私、あなたが思っているよりずっとよくあなたのことが分っているのよ。私、あなたが何故飲むのか分ってる。その理由に同情しているわ。でも、それだからこそ余計(飲むのは止めなくちゃ)・・・
 デイヴィッド(苛々しながら。)君の頭はロマンチックな小説で詰まっているんだろう、ヘレン。僕が酒を飲むのは、好きだからだ。それから、昔から飲んでいるからなんだ。僕に分っている理由はこの二つだけ。それから、その二つだけで充分飲み続ける立派な理由なんだ。いくら君の兄さんの恐ろしい忠告があってもね。
(ヘレン、首を振る。デイヴィッド、苛々して立上がり、ヘレンに近づく。)
 デイヴィッド いいか、その頭にちゃんとこれは入れておいてくれ。僕のは決して病的な例じゃない。ノイローゼや抑鬱病(よくうつびょう)でもないし、妙な固定観念が頭の中で荒れ狂ったりしてもいない。赤ん坊の時母親が僕を取り落として、頭から下に落ちた、なんてこともない。僕は全く正常な人間なんだ。それで且つ飲むのが好き。それで説明は充分だろう?
 ヘレン いいえ、充分ではありません。
 デイヴィッド フン、じゃ、何が不足なんだ。
 ヘレン 戦争が・・・
 デイヴィッド(両手で自分の頭を掴んで。)何だ! 戦争だっていうのか! 塹壕の恐怖・・・血・・・泥・・・僕の腕の中で戦友が死んで行く・・・その記憶が僕の頭にこびりついて・・・ヘレン、君は全く小説の読み過ぎだよ。僕は戦争に行ったこともないんだ。召集が来ないかって一箇月待ち望んだんだが・・・
 ヘレン それはそうでも、やっぱりあなたの暮し方、夢の中の人生よ。その理由は戦争なの。
 デイヴィッド 夢の中の人生というのは賛成出来ないね。だけどとにかく、戦争がそれに何か関係があるっていうのか、君は。
 ヘレン いい? あなたが十八の時、もう二十二歳の人は誰もいなかった。二十二どころか、二十五歳の人も三十の人も三十五歳の人も。相談相手になれるような人は誰も。戦争でみんな死んじゃったから。それに、四十以上の人の話なんか、あなた聞く訳がない。結局、スポットライトが当っているのはあなたただ一人。だからあなたは、若者でもないの。あなたは子供なの。
 デイヴィッド 立派な二十歳の娘さんだからね、十八歳の若造を軽蔑するのは無理もない。なかなか面白い議論だ。
 ヘレン ああ、私も子供。それは認めるわ。
 デイヴィッド フン、なるほど。それで、そのスポットライトがどうだっていうんだね。
 ヘレン 子供だったら誰でもやることをあなたもやったのよ。あなた、その光の中で踊ったの。
 デイヴィッド 議論の出来ない言葉を使っちゃいけないね。「踊る」とはどういう意味なんだい?
 ヘレン あなたには私の言っていることがよーく分っているの。あなたはとんでもないよい暮しをしてきた・・・金がありあまるほどあって、誰もがあなたにちやほやして、あなたのおどけた芝居に拍手を送ったの。
 デイヴィッド(思い出すように。)ああ、そんなもんじゃなかった。その言い方、表現としては最も内輪なものだ。当時の生活で最高潮の時、それはもう、たいしたものだったんだ。
 ヘレン(興奮して。)そう、分るわ。でも、その「たいしたもの」は、今じゃ何の意味もないの。だからもう、そんなことは求めてはいけないものなの。
 デイヴィッド(我に返って。)なかなか洞察力のある意見だね。実に女学生趣味だ。
 ヘレン ああデイヴィッド、あなた、私の言おうとしていること、分っているんでしょう?
 デイヴィッド うん。つまり僕は飲んだくれの役立たずだと言いたいんだ。
 ヘレン デイヴィッド、そんなことじゃないって分ってるでしょう? あなたが飲むのは、人生からの逃避なの。あなたは自分の人生を嫌っているの。だから飲むのよ。
(間。デイヴィッド、急にヘレンから離れ、坐る。)
 デイヴィッド ねえヘレン、僕はね、自分の人生には充分満足しているんだ。
(これを言う時デイヴィッド、ヘレンの方を見ない。ヘレン、デイヴィッドの椅子の後ろに行き、上からデイヴィッドを見下ろす。)
 ヘレン あなた方みんな、どうして過去に戻りたがるの? 何故ジョウンは十五歳の時のレコードをかけるの? 何故昔のパーティー、昔の日々、昔の事・・・しか話そうとしないの? 何故?
 デイヴィッド(むっつりと。)自分で答えるんだな。答は君が一番よく知っている。
(デイヴィッド、相変わらずヘレンを見ようとしない。)
 ヘレン(間の後。)あなた、どういうものに一番なりたかったの?
 デイヴィッド 今のこの僕にだ。
 ヘレン もし今のあなたになれなかったとしたら?
 デイヴィッド(間の後。低い声で。)分らない。何も思いつかない。
 ヘレン 歴史学者になりたかったんじゃないかしら。偉大な伝記作家に。(間。)違う?
 デイヴィッド(呟く。)今からでも無理じゃないね。
(間。)
 ヘレン 後を振り返るのはあなたに似合わないの。前を見るのが似合うのよ。
(デイヴィッド、答えない。ヘレン、片手を伸ばし、デイヴィッドの腕に優しく触る。)
 ヘレン(静かに。)今から始めるの。きっと出来るわ。
 デイヴィッド(同じ調子。)いや、出来ないね。
 ヘレン 誰か手助けする人がいれば、必ず出来るわ。
(デイヴィッド、何も言わない。ただ前方を見つめている。ヘレン、静かにウイスキーのグラスをデイヴィッドの手から取り上げる。デイヴィッド、抗(あらが)わない。ヘレン、グラスを窓のところまで運び、中身を窓の外に捨てる。)
 デイヴィッド(優しく。)参ったね。勇気あるよ、君は。下にいる誰かにウイスキーをぶっかけたよ、きっと。
 ヘレン(微笑む。)あの中庭には人はいないの。いつだって。
 デイヴィッド 植木鉢にあければよかったんだ。
 ヘレン それは駄目。花が枯れるわ。
(ジョウン、部屋から出て来る。着替えている。デイヴィッドを見、それからヘレンを見る。床に布が落ちているのを見て拾いあげる。)
 ジョウン どうしたの? こんなところに落として・・・
 ヘレン(陽気に。)ああ、それ? 私、ウィリアムズのところへ持って行く。さっきグラスをひっくり返して・・・
 ジョウン ピーターはどこ? あなたをほったらかして・・・あの人。
 ヘレン いいえ、自分の部屋で仕事を。今連れ出して来ます。私、おなかがすいたわ。
(ヘレン退場。)
(ジョウン、その姿をじっと見送る。それから目をデイヴィッドに移す。デイヴィッド、さっきから全く姿勢を変えていない。)
 ジョウン お医者様の診たては? どうだったの?
 デイヴィッド(聞いていない。)何だって?
 ジョウン ほら、さっきの、ヘレンの兄っていう人の・・・何て言ったの?
 デイヴィッド 別に何も。すきま風だろうって。(立上がり、窓に行く。)
 ジョウン(安心する。しかし、声は心配そう。)そうだとは私も思っていたけど・・・
 デイヴィッド そうに決ってるんだ。
 ジョウン あの医者、随分若いわ。信用出来るの?
 デイヴィッド まあね。とにかく僕は何でもない。騒ぐことはないよ。
 ジョウン ヘレンって随分な心臓ね。医者を連れて来るなんて。
 デイヴィッド うん、心臓だ。
 ジョウン あの子、あなたに本気で惚れている・・・尋常じゃないわ。・・・それともあなた、気がついてない?
 デイヴィッド いや、気がついてる。(ブラブラとピアノまで行く。)
 ジョウン ピーターは分っているのかしら。
 デイヴィッド 知らない。とにかく関係ないだろう?(ピアノを弾き始める。「ダイナー」の最初のところを少し。)
 ジョウン まあね。ただのロマンティックな女学生・・・すぐにあなた、飽きるわ、きっと。
(デイヴィッド、弾き続ける。ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ お昼の用意が出来ました、奥様。
 ジョウン 有難う、ウィリアムズ。
(ウィリアムズ退場。)
 ジョウン ジョンを起して来なくちゃ。あの二日酔いの豚ちゃんを。
(ジョウン退場。デイヴィッド、「ダイナー」からショパンに曲を変える。少ししてヘレン登場。デイヴィッド、それに気づかない。ヘレン、デイヴィッドの後ろに立つ。ピーター、ヘレンの後ろから登場。)
 ピーター デイヴィッド、今日の午後、もし僕に用がないんだったら、ヘレンを映画に連れて行きたいんだけど。
(デイヴィッド、ぐるっと振り向いた後、ショパンを「ダイナー」に戻す。)
 デイヴィッド 何を見るんだい?
 ピーター「ヴィクトル・ユーゴーの生涯」・・・ポール・ミュニー主演。
 デイヴィッド 午後の過し方としては最低だね。
 ピーター じゃあ、あなたの過し方は?
 デイヴィッド うたた寝だね、出来れば。
 ピーター 行ってはいけませんか?
 デイヴィッド いや、勿論構わないよ。
(ジョンとジョウン、登場。)
 ジョン シチューのために起されるなんて、全くかなわないな。
 ジョウン あなたは出されたものをちゃんと食べて、それがおいしいと言えばいいの。
 デイヴィッド お早う、ジョン。
 ジョン えっ? これが今日初めて? もう会ったと思っていたがな。
 デイヴィッド それは夢だ。
 ピーター ヘレン、もうそろそろ出よう。
 ジョン 昼飯かい?
 ピーター ええ、そうです。
 ジョン 二人に合う食い物は分っている訳だ。
 ジョウン あなたも一緒に行けば?
 ジョン 金さえ払ってくれれば行くがね。どこに行くんだ?
 ヘレン ライオンズ・コーナー・ハウスよ。
 ジョン コヴェントリー街の、あの奇妙なレストラン? 噂は聞いてる。めしはうまく、給仕も行き届いているって。
 ピーター でも、一緒には来ないんでしょう?
 ジョン うん、当りだ。
 ピーター さ、ヘレン。じゃ、みなさん、失礼します。
(ピーター退場。)
 ヘレン(扉のところで。)じゃね、デイヴィッド。
 デイヴィッド さようなら、ヘレン。
(ヘレン、ピーターの後ろから退場。)
 ジョン(デイヴィッドに。)おお、ヘレンへのさよならは特別誂(あつら)えだな。
 デイヴィッド いや、そんな気はないね。
 ジョウン(飲み物のテーブルの傍で。)さ、飲み物は各自注いで。食堂にそれを持って行って。
 ジョン やれやれ、するとお昼にはワインなしか。
 ジョウン 御要望があれば、一壜あけますよ。
 ジョン(行儀正しく。)いいえ、どうぞお構いなく。ジンの方がいいですから。
(ジョウンとジョン、銘々自分の飲み物を注ぐ。)
 ジョン あの若い二人、全く退屈な人種だ。ライオンズ・コーナー・ハウス? 呆れたね。
 ジョウン 「若い二人、若い二人」ってうるさいわね。私達だってみんな若いのよ。デイヴィッド、ここよ。(ウイスキー・ソーダをデイヴィッドに渡す。デイヴィッド、受け取って、テーブルの上に置く。ジョウン、蓄音機に進む。)食事の間に音楽を聞きましょう。いいわね?
 ジョン 厭だな。
 ジョウン 意地悪ね。私が好きなのを知ってるでしょう?(さっきかけたレコードをかける。)
 ジョン ああ、この曲は僕、好きだな。胸にジーンとくる思い出がある、これには。
 ジョウン 私も。
 ジョン この曲が最初出た時のことを覚えてる? アーサー・パワーズのパーティーで一晩中休みなしにこの曲を演奏したんだ。
 ジョウン(扉の方に進みながら。)あれはいいパーティーだったわ。ジョニー・ベンスンのこと、あなた、忘れるわけないわね? 殆ど素っ裸で、シャンデリアに乗っかってブランコ。行儀のよいおばあさん達が片めがねでそれを、目を丸くして見ていた・・・
 ジョン 可哀想に、ジョニー。
 ジョウン ええ。可哀想に、ジョニー。あんな事故が起きるなんて。欄干が急に崩れて、下にまっ逆さま。さ、食事よ。行きましょう。
(ジョウン退場。デイヴィッド、考えながらジョンとジョウンを見ていたが、ジョウンの後について退場。ジョン、蓄音機の傍に行く。)
 ジョン まあちゃんと聞くとなれば、もっと大きくしなきゃな。
(ジョン、ボリュームをいっぱいに上げる。その時デイヴィッドのウイスキー・ソーダがテーブルにあるのを見つける。ジョン、取り上げる。)
 ジョン(大きな声で。)おーいデイヴィッド、ウイスキーを忘れてるぞ。
(ジョン、二人の後を追って退場。レコード、あと数秒続き、その後、同じところを繰り返す場所に来る。)
                     (幕)

     第 二 幕
     第 一 場
(場 同じ。一週間後の午後四時頃。ジョンがソファに横たわって本を読んでいる。表紙のケバケバしさから、探偵小説らしいと分る。ピーターが隅でタイプを打っている。デイヴィッド、大きなノートを片手に持って、あちこち歩き回っている。)
 デイヴィッド(書き取らせている。)丁度ヨーロッパは未だメッテルニッヒの黒い影の影響下にあり、ナショナリズムとリベラリズムの二つの力がまだその頭を擡(もた)げていない時期であった・・・
(ピーター、注意深くこれをタイプしている。それから振り向く。)
 ピーター それで大丈夫ですか?
 デイヴィッド 何が大丈夫なんだ。
 ピーター 二つの力が頭を擡げる・・・それに黒い影・・・影の下から頭を擡げるのは少し・・・
 デイヴィッド(怒って。)君、よく覚えておくんだな。君は僕の言ったことをタイプするのが仕事だ。共同執筆者が欲しい時にはその旨ちゃんと君に言う。
 ピーター すみません。
(ピーター、向き直り、タイプライターに向かう。)
(間。デイヴィッド、額を拭く。)
 デイヴィッド 分った、こうしてくれ。「リベラリズムとナショナリズムの二つの力は、まだその影響力を表に出していなかった」。その前の黒い影の「黒い」は消す。ただ「影」だ。
(ピーター、言われた通りにする。デイヴィッド、またあちこち歩き始める。)
 ピーター(直し終って。)はい、出来ました。
 デイヴィッド ナポリ王の王としての位置は安泰であり、後にやって来る思いがけない転覆の危機は未だ・・・
 ジョン(突然。)なあんだ、犯人は内相か。しようがないな。
 デイヴィッド(驚いて。)何だって?
 ジョン 前にだから、僕は言ったろう? 「内相さ、犯人は」って。だけど、すぐ訂正した。だって、それじゃあまりに見え見えで筋にも何にもなりやしない。だから内相の母親が犯人の筈だって。ところが結局、内相が犯人なんだ。カーステアーが彼を強請(ゆす)っていた。内相になる前、エトラスクの花瓶を盗んでいて、それをネタにね・・・
 デイヴィッド(カンカンになって。)えーい、ジョン、こっちの仕事が出来やしないじゃないか。毎回毎回どうしてそう邪魔ばかりするんだ!
 ジョン 毎回邪魔? とんでもない。ちっとも邪魔なんか、僕はしてない。
 デイヴィッド とにかく黙るんだ。頼む。
 ジョン(傷ついて。)誰が犯人か、君が知りたいだろうと思って言ったんだ。だいたい内相がやっただなんて、理屈に合わないんだ。
 デイヴィッド(怒鳴る。)理屈もへちまもあるか。黙れ!
(ジョン、肩を竦める。本を投げ出す。あくびをし、背伸びをする。その後再びクッションの中に気持ちよくおさまる。)
 デイヴィッド どこまで行ったかな? ピーター。
 ピーター(読み上げる。)「後にやって来る思いがけない転覆の危機は、未だ・・・」
 デイヴィッド「転覆の危機は未だその影響力を表に出していなかった」
 ピーター ああ、それは駄目です。その前の文章の終り方が、「・・・の二つの力はまだその影響力を表に出していなかった」ですから。
 デイヴィッド(ピーターに襲いかかるような勢いで。)えーい、糞っ!
 ピーター すみません。僕がいけませんでした。
(ピーター、タイプライターに向き直る。デイヴィッド、ばたんとノートを閉じ、坐る。)
 デイヴィッド ここらへんで止めた方がいい。こんな状態で続けるのはよくない。
 ピーター すみません。
 デイヴィッド いいんだ、君の責任じゃない。
 ジョン(威厳をもって立上がり。)僕がここにいるせいで仕事が捗(はかど)らないのなら、僕はどこか他のところへ行く。
 ピーター 食堂には行けませんよ。今パーティーの準備中ですから。それに、御自分の部屋も、今日はクロークに使えるよう模様替えをしています。
 ジョン(殉教者の気持で。)開いた押し入れか何かある筈だがな・・・(ジョン、行こうとする。)
 デイヴィッド 馬鹿なことはよすんだ、ジョン。まあ坐れ。僕が悪かった。今日は午後からどうも考えが集中しない。脳味噌がどうかなってる。
 ジョン 当り前だ。
 デイヴィッド 当り前? 何故だ。
 ジョン 酒を絶ったりするからだよ。そんなことをして脳味噌にいいわけがない。
 デイヴィッド そんなことを君が知っているなんて信じられないね。
 ジョン 酒を絶った男を一人僕は知ってるんだ。それで思い出した・・・(飲み物のテーブルのところで。)いいかな?
 デイヴィッド 勿論。そんなことをいちいち聞くなんて、どういうことだ。
 ジョン 君が禁酒だからね。少し気にしているんだ。(飲み物を注ぐ。)その男は気違いになったよ。
 デイヴィッド 誰が気違いになったって?
 ジョン その、酒を絶った男さ。
(ピーター、自分のタイプライターをケースに入れる。振り向いて。)
 ピーター 自分の部屋でこれを打っておきます。
 デイヴィッド 今しなくていいんだ、ピーター。
 ピーター パーティーの前に仕上げておいた方がいいと思います。明日、その次が出来ますから。
 デイヴィッド そうだな。その方がいいかもしれない。
(ピーター、扉の方に進む。)
 デイヴィッド ああ、ピーター、今日の午後、ヘレン来るかな。
 ピーター 何もそのことについては言っていませんでしたけど。何故です?
 デイヴィッド 彼女と一緒に君、夕食をとるんだろう?
 ピーター ええ、ブラッスリーで会う約束です。
 デイヴィッド えっ? どこで?
 ピーター ブラッスリー・・・大学の食堂です。
 デイヴィッド やれやれ。
 ピーター(デイヴィッドに。)出かける前に打ち終えてお渡しします。では。
(ピーター退場。)
 ジョン(飲み物を持ってソファに戻り。)あり金全部賭けたっていいけど、ピーターはヘレンに、ここにはもう二度と来るなって言ったね。
 デイヴィッド 来るなって? どうして。
 ジョン あいつは頭の回転はあまりよくない。しかし、あいつにだって、彼女が君にどんな感情を持っているかに気づかない程回転は悪くはないからね。
(デイヴィッド、黙っている。ジョン、いつものゆったりした坐り方。)
 ジョン 「駄目だよ、ヘレン」と、あいつは言う。「駄目だ、ヘレン、もうあそこへ行っちゃいけない。彼はいけない男・・・悪い男だ。君の純潔さ、君の純粋な気持を利用して、悪いことをしかけられるんだ。」
(ジョン、見上げて、デイヴィッドの反応を確かめる。)
 ジョン ところで・・・したのか?
 デイヴィッド した?・・・何を。
 ジョン 悪いことをだよ。彼女に仕掛けたのか?
 デイヴィッド 時々僕は、何故君をこのアパートから追い出さないのか、我ながら不思議に思うことがある。
 ジョン ほほう、それが答か。すると、仕掛けた・・・ということだな?
 デイヴィッド 何を馬鹿な。するものか。
 ジョン それはたいしたものだ。
 デイヴィッド 君はそう思うのか。
 ジョン 彼女は君のタイプだからね。金髪で、鼻が高くて、すれてない。あれは僕のタイプでもある。
 デイヴィッド それを聞いて彼女は喜ぶだろう。
 ジョン 随分穏やかな切り返しだな。もっと辛辣なのが返って来る筈なんだぞ。酒をやめてもちっとも鋭くなっていない。
 デイヴィッド 陳腐な男とはどんな奴か、酒を飲まなくなってはっきりと分ったんだ。
 ジョン 酒を飲まなきゃ、誰だって陳腐な奴さ。
 デイヴィッド いや、誰でもじゃない。
 ジョン いや、誰でもさ。ああ、何を話していたっけ・・・そうか、ヘレンのことを話していたんだ。そうだったな?
 デイヴィッド そうだ。しかし、もう止めろ。僕が君だったら、これ以上は止めるな。
 ジョン(びっくりして、目を大きく開ける。)ええっ? 何故?
(デイヴィッド、脅すような口ぶりを止める。自分が馬鹿に見えると感じたため。ジョン、面白がって続ける。)
 ジョン さてと、ヘレンは実にいい女だ。ハックスリーがいみじくも言っていた、霊感を持つ女、であると同時に、彼女は知的なものも持っている。この二つを兼ね備えているのは稀なケースだ。勿論その知性の使い方は間違っている。同世代の女の子達と、そこは同じだ。彼女と二人だけで二週間も暮そうものなら、大抵の男は気が狂ってしまう。しかし、そうは言ってもやはり、彼女はピーターには勿体ない。いや、勿体なさ過ぎる。ここで一つ彼女に・・・いや、君にかな?・・・お世辞を言うことにすれば、彼女は君のガールフレンドになった方が、何層倍か相応しいというものだ。
 デイヴィッド いいかジョン、僕は本気だ。そんな話に僕は全く飽き飽きしている。もしすぐやめないと、僕は君に馬鹿なことをしでかすぞ。
 ジョン(無邪気に。)えっ? 僕、何か変なこと言った?
(デイヴィッド、ジョンに背を向け、自分のノートを取り上げる。ジョン、デイヴィッドを見てくすくす笑う。)
 ジョン まあ、現実には無理だな。しかし、それでもやっぱり僕の言った通りではある。
 デイヴィッド(振り返って。)何だ、それはどういう意味だ。
(ジョウン、自分の部屋から出て来る。帽子とコートを着ている。)
 ジョウン あら、喧嘩? 言い合い? こういうの、何て言ったかしらね、普通。
 ジョン 違う、違う。ただ仲良くあれやこれや話していただけ。
 ジョウン 違うわ。あなた、私の大事な夫を虐(いじ)めていたわね。この人の顔を見ればすぐ分る。
 ジョン ただ良心が咎(とが)めたんだよ。だから、顔が赤くなっているんだ。良心のせいで、僕の責任じゃない。
 ジョウン いい? ジョン。あなた、気をつけなくちゃ駄目。私、あなたにこの人を虐めさせてはおきませんからね。私には大変価値のある人なんですから。
 ジョン 価値ね。年に五千か。
 ジョウン 七千よ、もし配当がよければ。
 ジョン 多ければ多いほどいいね。もう君は昔ほど若くはないんだ。誰か若くてピチピチした誘惑者が、君のお株を奪うかもしれないからね。
 ジョウン 例えばヘレンね?
 ジョン そう。例えばヘレン。
 ジョウン ああ、それはあまり私、心配していないの。変なことがあれば、さっさと弁護士に言うんだから。
 ジョン 別居手当をしこまたふんだくるんだな?
 ジョウン 別居手当だけじゃないわ。慰謝料もよ。南フランスで金持の魅力的な離婚婦人として生きるんだから。
 ジョン それはいい。そしたら僕は、半年は君のところで、半年はデイヴィッドのところで暮せるよ。
 デイヴィッド 君の身柄引取りに僕は反対するね。ジョウンが年十二箇月君を預かってくれるよ。
 ジョン 僕は法廷で泣き喚(わめ)く。そうすりゃ、君は引取らざるを得ないさ。
(玄関でベルの音。)
 ジョウン ジュリアでも、他のどんな人でもあなたが相手になって。私は行かなきゃならないの。
 デイヴィッド ジュリアは僕は駄目だからね。本気で。
 ジョウン 私、本当に行かなきゃならないの。すぐに帰っては来るわ。パーティー用のグラスをウルワースで買って来なくちゃ。通りの向うの店・・・
 デイヴィッド(陰気に。)ああ、このパーティー、延期出来たらなあ。考えるだけでもうんざりなんだ、パーティーなんて。
 ジョウン 分るわ、その気持。飲まないで一晩あの人達と付合うって、酷い話。だから飲めばいいのよ。今晩だけ。
 デイヴィッド いや、それは駄目だ。ここは乗りきらなきゃ。何が何でも。
(ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ ミス・バナーです、奥様。
(ちょっと沈黙。ジョン、坐り直す。デイヴィッド、ジョウンからジョンへと視線を移す。)
 デイヴィッド よしウィリアムズ、お通しして。
(ウィリアムズ退場。)
 デイヴィッド ピーターは、さっき彼女は来ないって言ったがな。
 ジョン あいつ、何もかも知ってるって訳ではなさそうだな。
(ウィリアムズ登場。ヘレンを通す。)
 ウィリアムズ ミス・バナーです。
(ウィリアムズ退場。ヘレン登場。小脇にタイプ打ちの原稿を抱えている。)
 ジョン ああヘレン、暫くだったね。
 ヘレン 今日この時間に来るなんて、酷い話だったんですけど・・・今夜のパーティーの準備で大忙しの筈ですから。
 ジョウン いいのよ、そんなこと。ただ私、ウルワースへ行かなきゃならなくて。閉まる前にどうしても。ご免なさい。でも、すぐ戻って来るわ。
 ヘレン ええ、どうぞどうぞ。本当にすみません。
 ジョウン ピーターは今いるのかしら。
 デイヴィッド 自分の部屋で仕事中だ。
 ジョウン じゃ、ウィリアムズに呼んで来させましょう。
 ヘレン いいえ、本当にいいんです。私、デイヴィッドに用があって来たんですから。
 ジョウン あら!(ぼんやりと。)あなた、ここになさるのね? デイヴィッド。
 ヘレン お話することがあるんです。(タイプ打ちの原稿を叩く。)まあ・・・仕事ですわ。
 ジョウン じゃ私は出てた方がいいのね? さようならヘレン、また後で。
 ヘレン じゃ・・・
 ジョウン 仕事の話なら、邪魔者は追い払った方がいいわよ。そこのソファの上にある大きな塊(かたまり)・・・それは食堂に追っ払って、パーティーの手伝いでもさせるのね。
(ジョウン、出て行く。)
 ジョン 大きな塊・・・どうやら僕のことらしいな。
 ヘレン まさか、ジョン。あなたである訳ないでしょう。
 ジョン 若い娘(こ)の皮肉ってやつが、一番こたえるな。
(ジョン、デイヴィッドの部屋の方に進む。)
 ヘレン 食堂はあっちよ。
 ジョン いや、こっちなんだ。
(ジョン、デイヴィッドの部屋に入る。)
 デイヴィッド おい、ジョン。僕の部屋で何をするんだ。
 ジョン(頭を覗かせて。)僕の部屋はクロークにする準備中でね。君の部屋を使うしか手はないんだ。
 デイヴィッド 盗まないでくれよ、頼むから。
 ジョン(威厳をもって。)ベッドに横になって、そこらへんに投げ散らかしてある君宛の手紙を読むだけさ。盗む! やれやれ、侮辱されるように出来ているんだ、僕の人生は。
(ジョン、頭を引っ込め、扉を閉める。デイヴィッド、笑う。)
 ヘレン 可哀想に、ジョン。あなたを笑わせる台詞をいつも考えてなくちゃならないなんて。かなりのストレスだわ。
 デイヴィッド(驚いて。)駄目だよヘレン、そんなことを言っちゃ。
 ヘレン ご免なさい、デイヴィッド。
(ヘレン、この時までにテーブルの上に乗せておいたタイプ打ちの原稿を取り上げる。・・・間。)
 デイヴィッド(熱心に。)それで?
 ヘレン ええ、読みましたわ。
 デイヴィッド 随分早かったね。
 ヘレン ゆうべ殆ど徹夜で。
(間。デイヴィッド、その続きが聞きたい様子。ヘレン、続きを言う気持なし。)
 デイヴィッド 黙っている・・・それは気に入らなかったということらしいね。
 ヘレン 正直に感想を言えということでしたわね?
 デイヴィッド 勿論。
 ヘレン じゃ、はっきり言うしかないわ。これは駄目。
 デイヴィッド ああ。
 ヘレン 言いたくなかったわ、デイヴィッド。私、「これはいい」って言いたかった。
 デイヴィッド 何が駄目だったのかな?
 ヘレン 何もかも。
 デイヴィッド 希望の持てる台詞じゃないね、それは。
 ヘレン ええ、希望などないわ。
 デイヴィッド 捨ててしまえっていうことかな?
 ヘレン ええ、全部。
 デイヴィッド(突慳貪(つっけんどん)に。)そんなことは無理だ。僕は五年間の研究の成果をそこに入れたんだ。
 ヘレン いいえ、それは違うわ。五週間の研究をそこに入れて、それを五年間に引き延ばしただけ。問題はあなたにあるの。そこに書かれていることには問題はない。あなた自身の怠惰から来ているの、問題は。
 デイヴィッド もっと分りやすく説明してくれないかな。
 ヘレン あなたは読むべき書類、文献にあたっていないの。だから、ここにあるのは、大学二三年生の書く作文に過ぎない。聞き齧(かじ)りで、読んで調べていないところはすっとばし、あなたが好きなところだからといって、大事でもない部分をひどく強調して書く・・・
 デイヴィッド ナポリ王、フェルディナンドについて、君がそんなによく知っているとは意外だな。
 ヘレン そんな人のこと、これっぽっちも知らないわ。知りたくもない。とにかく下らない人、この人。
 デイヴィッド じゃあ、君はこの本を判定する能力がある人間とは言えないね。
 ヘレン 良い本か悪い本かは私、読めば分るの。
 デイヴィッド 頭がいいんだ。
 ヘレン ただ目がよく効くだけ。
 デイヴィッド(厳しく。)いや、お手間を取らせてしまった。感想を聞かせてくれて有難う。
 ヘレン それ、もう帰れっていう合図なのね?
 デイヴィッド 僕はやる事がある。気にしないで欲しい。
(デイヴィッド、背を向ける。ヘレン、肩を竦め、本をソファの上に投げ、扉の方へ進む。)
 デイヴィッド 君が僕の本を偶々(たまたま)気に入らなかった・・・それだけでこんなに不機嫌になっているのを見て、随分子供っぽいと思うだろうね。
 ヘレン デイヴィッド、あなた、私に正直に言えって言ったのよ。
 デイヴィッド 僕は君に、ぶっ壊してくれと頼んだつもりはないんだ。僕にとって非常に大事な、意味のあるものを、完全にたたき壊してくれとはね。
 ヘレン あんな本があなたに大事な意味があるなんて、それが間違いよ。ね、デイヴィッド、あれは一顧だにする価値さえないもの・・・正真正銘の滓(かす)なのよ。
 デイヴィッド(振り返り、猛烈な勢いで。)勿論あれは滓だ。君が今言ったことで、僕が知らないことがたった一つでも君はあると思っているのか!
 ヘレン じゃ、どうして私に読めと?・・・私、分らない。
 デイヴィッド そう、君には分らない。そこなんだ、僕が決定的に間違っていたのは。君には・・・そう、君だけには分って貰えると思ったんだ。
 ヘレン(困惑して。)ご免なさい、デイヴィッド。私、何か酷いことをしたみたい。
 デイヴィッド そう、酷いことだ。君が今まで僕に何を話してきたか・・・僕は下らない人生を送っている。実に無意味な・・・それは変えなければ・・・もっと良い生活に変えて行かなきゃ・・・それが君の僕に話してきたことだ。
 ヘレン そうよ。私、それ、いつも本気で言ってたわ、デイヴィッド。
 デイヴィッド じゃ、どうして君は、僕が架けようとしている橋をぶっ壊そうとするんだ。今のこの無意味な生活と、未来の良い生活を繋ぐ架け橋を。
 ヘレン(考えながら。)ああ、私、分ったわ。私、馬鹿だった。正直に思ったことを言っちゃいけなかったのね。
 デイヴィッド 僕は君に嘘をついて貰いたかった。一世一代の大嘘をね。「良かった・・・面白かったわ、あの本」・・・そして僕はそれを信じたかった。君だけだったんだ、その台詞を僕に言って、僕が喜ぶことが出来る人間は。
 ヘレン 私、あの本自体に意味があると思っていた・・・あの本の内容、それ自体に・・・何か別の役割を果しているなんて、思ってもみなかったわ。
 デイヴィッド 内容それ自体に何の意味があるっていうんだ、あんな酷い出来のものに。
 ヘレン もう一度やり直せば、意味のあるものが出来る筈だわ。
 デイヴィッド 馬鹿なことを言うもんじゃない。二度見るなどうんざりだ。
 ヘレン あなたって、世界一意気地(いくじ)なし、骨のない人間よ。
 デイヴィッド よく見抜いてくれたね、僕という人間を。
 ヘレン でも私、幸せ。こんなに幸せな気持になったこと、生れて初めて。
 デイヴィッド 何故。
 ヘレン だって、あなたが私を必要としているってことが分ったんですもの。
(デイヴィッド、ヘレンを見つめる。それから後ずさりする。)
 デイヴィッド それは違う。僕は君を必要としてなんかいない。
 ヘレン いいえ、必要としているの。
 デイヴィッド(背を向けて。)もうピーターのところへ戻ったらどうなんだ。僕のことを追い掛けるのは止めて。
(ヘレン、微笑む。デイヴィッドに近づき、その肩に片手を置く。デイヴィッド、その手を払いのけ、ヘレンの方を向く。)
 デイヴィッド ああ、君が嫌いになれれば!
 ヘレン 嫌いになんかならないで。お願い。あなたが私を愛するのを止めたら、私、きっと死んでしまうわ。
(デイヴィッド、ヘレンの両肩を掴み、揺する。)
 デイヴィッド いいか、ヘレン。僕は一度だって君を愛しているなんて言ったことはないんだ。分ってるな?
 ヘレン そんなこと、言う必要なんかないわ。ずっと分っていたもの。
(デイヴィッド、一瞬じっとヘレンを見つめる。それからヘレンを引き寄せ、荒々しくキスする。)
 ヘレン(全く落ち着いて。)どうしてもっと早くにこうしなかったの? 私、分らない。さあ、坐りましょう。
(ヘレン、ソファに坐る。デイヴィッドを自分の近くに引き寄せる。)
 デイヴィッド(当惑して。)君は一体、人間なのか。魚じゃないのか、ひょっとして。
(ヘレン、デイヴィッドの手を取り、自分の心臓にその手を当てる。)
 ヘレン 人間みたい? この鼓動。
 デイヴィッド こんなことを続けていると、死んでしまうぞ。
 ヘレン あなたのはどう?(自分の手をデイヴィッドの心臓に当てる。)私のよりずっとゆっくりだわ。
 デイヴィッド そう、君のよりはずっと確かだ。確かな鼓動だ。
(デイヴィッド、ヘレンをキスしようとする。ヘレン、それを押し退けて、拒む。)
 ヘレン デイヴィッド、そんなことは言わないで。私、怖くなってしまう。
 デイヴィッド 何故?
 ヘレン これは愛なの。私、他の女と一緒にして貰いたくないの。一晩だけ寝て、後はすっかり忘れてしまう。そんな女に話し掛けるような言葉、私、厭なの。(デイヴィッドをソファの反対側に押しやって。)さ、しゃんとしましょう。
 デイヴィッド(呻く。)ああ、どうしてこんなことに・・・どうして君がこんなに恋しいんだ。ああ、何故僕を放っといてくれないんだ。
 ヘレン 私もう、あなたを生涯、決して一人にしてはおかないわ。
 デイヴィッド 怖い台詞だね、それは。今まで聞いた中で一番怖い台詞だ。
 ヘレン ええ、怖い台詞。今から十五年人生を遡(さかのぼ)って、そこからやり直す、そういう怖い台詞。
 デイヴィッド 僕にそれをやれって言うのか。
 ヘレン そう。
 デイヴィッド 「誰か助ける人がいれば、やり直せるわ」・・・そう君は言ったね? 覚えている?
 ヘレン ええ、「それは無理だ」っていうのがあなたの答だったわ。(デイヴィッドの手にキスして。)でも無理じゃない。決して無理じゃないわ。
 デイヴィッド(ゆっくりと。)そうならいいんだが。(デイヴィッド、屈んでヘレンの手にキスする。)ああ、本当にそうならいいんだが。
 ヘレン このこと、ジョウンはどう思うかしら。
(デイヴィッド、ゆっくりと頭を上げ、ヘレンを見つめる。)
 デイヴィッド それは・・・必要かな?
 ヘレン ええ、必要だわ。
 デイヴィッド 言わなきゃならないとすると・・・骨の折れる仕事だ。
 ヘレン ええ。でも言わない訳には行かないわ。ジョウン、どう思うかしら。ねえ、デイヴィッド。
 デイヴィッド(坐り直して。)それは平気な筈なんだが。(ヘレンの髪に指を通しながら。)ああ、それは僕が言わなきゃな。
 ヘレン 私が言うわ。
 デイヴィッド いや、僕が言わなきゃ。
 ヘレン いいえ、私が言います、デイヴィッド。
 デイヴィッド 僕の弱点をよく知っているんだね、君は。
 ヘレン 私の方が言い易いの。(間の後。)あの人、あなたのことを愛してはいないんでしょう?
 デイヴィッド そりゃ、愛しちゃいないさ、僕のことなんか。
 ヘレン 昔、そういう時があったの?
 デイヴィッド いや、一度もないと思う。
 ヘレン じゃ、どうして二人は結婚したの?
 デイヴィッド さあね。見当がつかない。まあ、偶然のなせる業(わざ)だね。ずっと関係があって・・・ある時二人がひどく酔って・・・結婚するのは面白いんじゃないかって・・・
 ヘレン じゃ、あの人、たいして気にしないとあなた、思うのね?・・・私達のことを・・・
 デイヴィッド まあ、自分の感情は殆ど表面に出さないだろうな。君にはちょっときついことを言うだろうがね・・・ただ、遠回しだ、それも。
 ヘレン そんなの平気。私、うまくやれるわ。ジョウンは好きなの、私。あなたもあの人のこと、好きなんでしょう?
 デイヴィッド 勿論。あれと結婚して、色々な点でうまく行ったよ。いや、あらゆる点でうまく行った・・・この十二年間。ピーターはどうかな?
 ヘレン あの人、ひどく傷つくわ。可哀想に・・・ピーター。
 デイヴィッド 彼には僕が話した方がいい。
 ヘレン(微笑んで。)まあ、デイヴィッド、犠牲的精神ね。男らしくて好きだわ。でも、全くあなたらしくない・・・
 デイヴィッド 有難う、褒めてくれて。
 ヘレン いいえ、私がピーターには話すわ。今夜はあの人と食事の予定。その時に話すわ。(間。デイヴィッド、立上がる。)どうしたの? デイヴィッド。
 デイヴィッド 僕を捨ててピーターのところへ戻る、そんなことないね? 約束してくれ。
 ヘレン そんなことあり得ないわ。私、あの人を愛していると思っていただけ。好きだわ、今でも大好き。あなたに会っていなかったら、あの人と結婚していたでしょうね。
 デイヴィッド 年格好はピッタリだ。その他何もかも二人は合っている。
 ヘレン(立上がって。)でも、あなたと会ってからは、私、あの人との結婚なんか考えられない。どうしてもあなたと結婚したいわ。だから・・・ね? デイヴィッド、結婚して下さるわね?(片手をデイヴィッドに差し出す。)
 デイヴィッド(溜息をついて。)分ったよヘレン、どうやら君と結婚しなきゃならないようだ。(出されたヘレンの手を取り、身体を引き寄せて。)僕の希望はただ一つ・・・君をそれほどは惨めにさせないですませたい・・・それだけだ。
 ヘレン 惨めなんて・・・そんなの私、平気。
(玄関に鍵の音。ヘレンとデイヴィッド、さっと離れる。)
 ジョウン(舞台裏、玄関ホールで。)酷い錠前・・・これ。すぐに入らないんだから。(大きな包みを持って登場。それをテーブルに置く。)五十個・・・一個三ペンス。あのお店ったら、つい買っちゃうわ。ヘレン、あなたにプレゼントよ。(バッグから何か出し、ヘレンに渡す。)
 ヘレン 有難う、ジョウン。優しいわ。何かしら。
 ジョウン 帽子につけるもの。デイヴィッド、鬚剃り用の石鹸を買って来たわ。
 デイヴィッド 鬚剃り用の石鹸なんか、僕はいらないよ。
 ジョウン いつかいるようになるのよ。
 デイヴィッド そうか。まあ、有難う。
 ジョウン どう致しまして。あの店に行くと何でもかでも欲しくなっちゃって。店ごと買って来ちゃいそう。(包みを取り、扉の方へ行く。呼ぶ。)ウィリアムズ!(ヘレンとデイヴィッドに。)ジョンにはお風呂の中で遊ぶアヒルを買って来たの。気に入るかしら。
 デイヴィッド それは気に入るね、きっと。
(ウィリアムズ登場。)
 ジョウン ああ、ウィリアムズ、これ今夜使うグラス。気をつけてね。壊さないように。
 ウィリアムズ はい、畏まりました。(包みを受け取る。)
 ジョウン 食堂での用意は進んでる?
 ウィリアムズ はい、順調に。
 ジョウン 私も今すぐに行くわ。
(ウィリアムズ退場。ジョウン、帽子を脱ぎ、飲み物のテーブルに進む。)
 ジョウン(溜息をついて。)あーあ、パーティーなんて、どうしてやるのかしら。(飲み物を注ぐ。)デイヴィッド、私今、ふっと思いついたんだけど、あなた、地下室に行ってちょっとワインを取って来て下さらない?
 デイヴィッド ウィリアムズじゃ駄目なのか?
 ジョウン あの人にそんな時間ないわよ。あなただって分るでしょう? それにあの人、「イギリス製品を買おう」の熱烈な支持者よ。フランス製のワインなんか持って来ずに、イギリス製のウイスキーでも持って上るのがおちよ。
 デイヴィッド ワインなんかどうせ誰も飲みやしないよ。
 ジョウン ええ、分ってるわ。でも、あるのとないのとでは大違い。あれば賑やかよ。
 デイヴィッド 何本いるんだい?
 ジョウン 十二本。
 デイヴィッド 僕の手、何本あると思ってるんだ? 君は。
 ジョウン ジョンに手伝わせるわ。あの飲んべえさん、どこにいるの?
 ヘレン デイヴィッドの部屋。
(ジョウン、デイヴィッドの部屋に行き、ノック。)
 ジョウン(呼ぶ。)ジョン、出て来て。(ヘレンとデイヴィッドに。)中で気持よく気絶しているのよ、きっと。
(ジョン、扉を開ける。)
 ジョン 気絶はしてないね。ギボンを読んでいたんだ。
 デイヴィッド ギボンね。そうか。
 ジョウン ジョン、あなた、デイヴィッドに手伝って、地下室からワインを運んで下さらない?
 ジョン 地下室ってのは、あの、階段があるやつだな? 駄目だよ。
 ジョウン 階段て、そのお腹(なか)をへこますのにいいのよ。
 ジョン デイヴィッド一人じゃ出来ないのかな?
 ジョウン ぐずぐず言わないの。いい子にして手伝って。帰って来たらプレゼントがあるのよ。
 ジョン 今貰いたいな。その価値があるかどうか、見てからにする。
 ジョウン いいわ。ほら。お風呂の時使うの。
 ジョン 有難う、ジョウン、これはいいや。
 デイヴィッド ジョンが風呂に入ると、そんなもの、入る隙(すき)などないと思っていたがな。
 ジョウン 鍵は台所にあるのよ、デイヴィッド。私は隣の部屋に行ってウィリアムズの様子を見て来るわ。
(ジョウン退場。)
 デイヴィッド さあジョン、厭な仕事をまづ片づけるとしようか。
 ジョン 先に行ってワインを選んでおいてくれ。二分後に僕も降りる。ちょっと一杯やってからにしないと、少し頭が・・・
 デイヴィッド ギボンのせいだな。ヘレン、ちゃんと降りて来るよう見張るんだぞ。
 ヘレン 分ったわ。
(デイヴィッド退場。)
(ジョン、飲み物のテーブルに行く。)
 ジョン おめでとう・・・この言葉を言うのは、僕が最初の筈だが・・・
(ヘレン、ぐるっと回る。ジョンを見つめる。)
 ヘレン あなた、聞いていたのね!
 ジョン 一部分だけだけどね。しかし、ある部分はどうも甘ったるくて・・・いや、僕みたいな男にも、あれはやりきれなかった。
 ヘレン 厭らしい・・・げすのやることだわ。
 ジョン そう。全くげすのやることだ。悪い習慣でね。昔から止(や)めようとは思っているんだが、ちっとも止められない。(飲み物を持って戻って来る。)さっきお祝いは言ったんだがね、あれは全く本気じゃない。君達二人は酷い過ちをおかしている・・・これが僕の真摯(しんし)な感想だね。
 ヘレン あなたがどう思おうと、私、全く関心がないわ。デイヴィッドもきっとそう。
 ジョン それはそうだろう。しかしここで、この際一言警告を出さないで引っ込むのは、後で僕自身がひどく後悔することになりそうだから・・・
 ヘレン あなたが後悔しようとしまいと、知ったことではないわ。自分の腹一つに収めておくことね。
 ジョン(これを無視して。)僕は小学校から奴と一緒だった。それからこっち、ずっと付合ってきている。君はまだ一と月の付合いだったね?
 ヘレン そんなの問題じゃないわ。私、あなた方の誰よりもあの人のことをよく知っているわ。
 ジョン ねえヘレン、君はあいつに惚れているんだ。だから、いいようにあの男を美化して見ている。つまり君が今見ているのは、君の想像の外では全く存在しない彼の幻(まぼろし)なんだ。若いロマンティックな女の持つ夢に過ぎないんだ、君の見ている彼の姿は。
 ヘレン そんなの嘘。いいですか、私は・・・
 ジョン(これを無視して。)君に充分な頭脳があると信じているから言うんだがね、デイヴィッドの性格で大抵の人間が見落としていることが一つある。君は、あの男が現在のあの生活から抜け出て、新しい人生を送ろうとしている・・・そう思っているんだろう。
 ヘレン ええ、そう。あの人はその努力をしているの。
 ジョン そう。丁度そう思っているところに、君達二人の大きな誤解があるんだ。(語気を強めて。)あの男には、それは出来ないんだ。いいかいヘレン、彼のその野望を、君のやり方で現実のものにするのは不可能なんだ。何故なら、その野望そのものが、現実のものじゃないからだ。だから、君がそれを現実のものにしようとすれば、ただ空中でパッと消えてなくなるだけなんだ。こんな具合にね。(ジョン、軽く空中で指を鳴らす。)
 ヘレン 私、そんなこと信じない。
 ジョン それは信じる訳がない。君はあいつに惚れているからね。(ジョン、立上がり、テーブルに進み、空のグラスをテーブルに置いて。)さてと、仕事に戻らなきゃ。そう、これだけを言って終りにしよう。今さらデイヴィッドには後戻りは出来ない。たとえ後戻りしたくても。それだけの腹があいつにはないんだ。僕には勿論その腹はある。その気持さえあればあいつには止めさせる。ただ、勿論僕には全くその気はない。すると残るのは君だけだ。分るだろう? これが人生だ。よく考えるんだね、ヘレン。考えるだけの価値のあることだよ、これは。
(ジョン退場。ヘレン、一人残って、そわそわ歩き回る。デイヴィッドの原稿を取り上げ、苛々と目を通す。それから衝動的に、書き物机に近寄り、その横にあるゴミ箱にそれを入れる。扉のところまで行き、開ける。)
 ヘレン(呼ぶ。)ジョウン!
 ジョウン(舞台裏で。)なあに?
 ヘレン(呼ぶ。)私、お話、出来ないかしら。
 ジョウン(舞台裏で。)あら。そうそう、あなた一人だったわね。ご免なさい。(登場。)まあ、失礼なことしちゃったわ。
 ヘレン いいえ、全然。私、お話があるんです。
(ジョウン、ヘレンの口調に、見た目にもはっきりと、何かあるなと反応する。部屋から出、扉を閉める。)
 ジョウン(静かに。)ええ、何? ヘレン。
 ヘレン これ、あなたには随分ショックかもしれないわ。でも、今のこの時が、お話しするのに一番いいと思って・・・私、今言います。
 ジョウン ええ、分ったわ。何なの?
 ヘレン デイヴィッドと私、愛しあっているんです。
(間。ジョウン、何の感情も表さない。)
 ジョウン ええ、知っていたわ。
 ヘレン それなら言うの、楽だわ。どうして分ったの? デイヴィッドが話したの?
 ジョウン いいえ。でもちょっと前からあの人があなたを愛しているのは気がついていたわ。
 ヘレン 私がお酒を止めさせた時から?
 ジョウン ええ、最初に分ったのはその時。で、今この話を私にしているのは何故?
 ヘレン 私達、結婚したいからなんです、ジョウン。
 ジョウン ああ・・・そう。
(ジョウン、ゆっくりと坐る。)
 ヘレン つまり、あなたはあの人と離婚しなきゃいけないんです。
 ジョウン ええ。ええ、そうね。
 ヘレン ご免なさい、ジョウン。こんなことをお話しなきゃならないなんて、私、酷いんですけど。
 ジョウン あの人が私に話さなかったのはどうして?
 ヘレン 話すって言ったんです。でも私、私の方が言い易いからって。
 ジョウン そうね。あの人の方が難しいわ。
(間。ジョウン、部屋を虚(うつ)ろな顔で見る。)
 ヘレン ジョウン、今のこの話、あまり悪くとらないで下さいね。
(ジョウン、目を上げてヘレンを見る。)
 ジョウン ねえヘレン、私、ついさっきデイヴィッドと、丁度この話のことで冗談を言って、二人で大笑いしたの。
 ヘレン じゃ、あの人と私のことを話したのね?
 ジョウン ええ、冗談にね。何か起りそうだなって感じて、それが起って欲しくないと思った時、それについての冗談を言うとそれが遠退(の)くように思えるものだから。
 ヘレン ご免なさい、ジョウン。そんな風に感じているのね?
 ジョウン 十二年も経つといろんなことに慣れてくるの。
 ヘレン 分るわ。でもよかった。あなたがデイヴィッドのことを愛してなくて。愛してたらもっと辛い筈だから。
 ジョウン ええ、そう・・・よかったわ。
 ヘレン あの人、あなたとの結婚の時の話をしてくれたわ。
 ジョウン いい話でしょう? あの人のおはこ。いい一口話。
 ヘレン 私が聞いたのは、結婚した時、お互いに愛してはいなかったいうことだけ。
 ジョウン じゃ、結婚式の後やったパーティーの話はしなかったのね? 警官が何事が起ったのかとやって来て、その警官までパーティーに加わらせて、二人の健康を祝して乾杯させて・・・それから次の日、二人が目を覚して、あの人が言ったの。「ああ、君、何か忘れてない? 今日は二人の結婚式の翌日なんだよ」って・・・その他まだ沢山・・・いくらでもあるわ。本当に可笑しい話。十二年も経って話が少し実際より大袈裟になっているけど、それでもやっぱりいい話・・・
 ヘレン 可哀想に、ジョウン。
 ジョウン(立上がって。)ヘレン、この話、またいつかゆっくりやりましょう。あなた、それでいい?
 ヘレン ええ、勿論。
 ジョウン いろんな細々した下らない手続きがあるわ・・・離婚についての。
 ヘレン それはお互い、弁護士にやらせましょう。
 ジョウン そうね、それがいいわ。(笑いを誘うように。)落着いたこじんまりした離婚にしましょう。お客には親戚だけを呼ぶ・・・
 ヘレン 有難うジョウン、このことをそんなに気持よく受取って下さって。
 ジョウン 私、そんなに気持よく受取ったかしら。分らないわ。
 ヘレン いいえ。本当に気持よく受取って下さったわ。(躊躇いがちに。)私・・・是非・・・こんなことがあっても・・・今までと変って欲しくないんです。・・・デイヴィッドはあなたのことが好きなんですし、もしあの人が、あなたにもう会えないなんてことになったら厭だろうって思うんです。
 ジョウン それは親切だわ。
(ヘレン、玄関の扉の方に進む。)
 ヘレン 私、もう行かなければ。私、言い過ぎたかしら。心配だわ。でも、他の言い方は分らないし、それに、今言うしか言う時はないと思って・・・
 ジョウン 言い方・・・とても友好的・・・こういう表現でいいのかしら。友好的・・・だったわ。
 ヘレン もう私のこと、大っ嫌いって・・・そんな風にならないで欲しいんですけど・・・
 ジョウン どうしてあなたのことを嫌うのかしら?
 (ジョウン、ヘレンのために扉を開けてやる。ヘレン、扉の向こうへ行く。)
 ジョウン さようなら、ヘレン。あなた、今日のパーティーに来るわね? 酷い酷いものだけど。来なきゃ駄目よ。来なかったら、私、一生恨むわよ。
 ヘレン(玄関ホールで。)ええ、勿論。楽しみにしていますわ。
 ジョウン 嘘つきね!
(ヘレン、玄関の扉を開けようとするが、手こずる。)
 ジョウン 何て錠前なの! それ、いつだってスラッと開きやしない。ぐっと回して。錠前を驚かせるの。分るわね? この意味。
(ヘレン、扉を開ける。)
 ジョウン そう、それでよかった。さようならヘレン、また後で。
 ヘレン(ホールで。)さようならジョウン、それから、有難う。
(ヘレン退場。ジョウン、扉を閉める。一瞬ぼんやりと前を見たまま立ち尽くす。それから右手の暖炉の上にある鏡に進む。映った自分の顔を眺める。ジョン、左手から登場。左腕の小脇に何本かワインの壜を抱えている。テーブルの上にそれを置く。ジョウンに近づき、片手をその肩に置く。)
 ジョン フン、どうやら彼女、話したらしいな。
(ジョウン、鏡を見ながら頷く。)
 ジョン(誠実に。)可哀想に、ジョウン。
(ジョウン、急に振り返り、ジョンの肩に頭を埋める。ヒステリックに泣く。ジョン、じっと最初の興奮がさめるのを待つ。)
 ジョン 何て馬鹿なんだ! あいつに惚れてるって、何故彼女に言わなかったんだ。
 ジョウン 言ったって何にもならないわ。
 ジョン やってみる価値はあったんだ。彼女は知らないんだからな。
 ジョウン それに、意味ないわ。あの人はヘレンを愛しているんですもの。
 ジョン 本当に愛しているとはとても思えないな。
 ジョウン いいえ、本当に愛しているわ。
 ジョン 気違いだよ、あいつは。
 ジョウン あの人、自分のやっていることは分っているの。私、もうあの人の役には立たない。もう私、年をとってしまったもの。
 ジョン(間の後。)愛しているんだってことを知らせておくべきだったんだ、あいつに。あいつは誰かに愛されていなけりゃならないんだ。その自覚があって初めて生きて行ける男なんだよ。
 ジョウン 私では駄目。私に愛されていても駄目なの。そんなことが分ったらあの人、心底うんざりするわ。私には分るの。
 ジョン 十二年間も誤解しあって暮した二人・・・君達二人ほど酷い例はまづないね。
 ジョウン 私、あの人に知らせなかったの、いけなかったかしら。
 ジョン まあ、あいつが一番知りたかったことだろうな、それが。
 ジョウン もうとにかく、今じゃ遅いわ。
 ジョン どうするつもり? 今から。
 ジョウン 分らない。ああジョン、私、あの人がいるの。どうしても。ヘレンよりも私の方がいるの。
(ジョウン、再び泣く。)
 ジョン 忘れるさ、あいつのことなんか。
(ホールで誰かの物音。ジョンとジョウン、離れる。ジョウン、扉を背にして、急いで目を拭く。デイヴィッド、何本か壜を抱えて登場。)
 デイヴィッド(テーブルの上に壜を置いて。)全部で九本か。まあこれでいいだろう。ここでいいの? それとも食堂へ持って行くの?
 ジョウン 食堂。
 デイヴィッド よし。さあジョン、一緒に運ぶんだ。
(デイヴィッド、壜を持って退場。ジョン、テーブルに行き、残りを持つ。)
 ジョン この家の奴隷か。やれやれだな。
(ジョン、壜を運んで退場。)
(ジョウン、急いで鏡へ行き、化粧を直す。振り返り、部屋を出ようとする。ゴミ箱に捨てられたデイヴィッドのタイプ打ちの原稿が箱の上に覗いているのが目にとまる。それを拾い上げ、眺めている。その時デイヴィッド、部屋に入って来る。)
 ジョウン どこかの馬鹿が、あなたの本をゴミ箱に捨てていたわ。
 デイヴィッド ああ、有難う。実のところを言うと、そいつは全部破棄して、新しく最初からやり直そうと思っていてね。
 ジョウン 本当にそんなことをしていいの? 私はこれ、いいと思うけど。
(デイヴィッド、首を振る。)
 ジョウン あなた、本当に初めからやり直すつもり?
(デイヴィッド、頷く。)
 ジョウン でも、捨てるのはお止めになって。とっておいて頂戴。全く意味がなくても・・・ただの思い出としてでも。今はもう価値のないものかもしれないけど、あなたが成功して、年とって、昔のことを振り返った時、それを見て楽しい気持になるかもしれないわ。(ジョウン、本を渡す。)私、隣の部屋に行って来る。あの要領の悪いウィリアムズ、何もかもごちゃごちゃにしているんじゃないか、心配。(扉の方に向かう。)あなた、ジン・トニックを持って来てね。あまり薄めちゃ駄目よ。私、ちゃんとジンを飲みたいんだから。
(ジョウン退場。)
(デイヴィッド、机の引き出しに本を入れる。それから飲み物のテーブルに進む。)
                    (幕)

     第 二 幕
     第 二 場
(場 同じ。その晩のおよそ午前一時。パーティーたけなわ。ジョンとピーターを除いて、今までの登場人物全員。男も女も正装をしていない。大抵の人は汚らしい、くだけた格好。年齢は全員三十代中後期。)
(幕が上がって、最初の印象は、ただやかましいだけ。誰もが同時に大声で喋っている。蓄音機が大きな音を立てている。ウィリアムズともう一人の給仕が客の周りを回って、飲み物を渡している。一組の男女が左手の扉からこっそり抜け出る。右手に立っている男と女は、明らかに口喧嘩をしている。だんだんとこの二人の声が大きくなり、他の声を圧してこれだけが聞こえるようになる。この女の方の名前はモヤ・レクスィントン。男の方はロレンス・ウォルタース。)
 ロレンス 馬鹿なことを言うんじゃない!
 モヤ どっちが馬鹿よ。馬鹿はあんたじゃない。
 ロレンス そのあんたの顔をぶん殴ってやりたいよ、全く。
 モヤ フン、殴るのならどうぞ。殴り返してやるだけよ。
 デイヴィッド そう。殴ったら殴り返す、一方的に殴るのは駄目ですよ。
 ロレンス デイヴィッド、モヤがね、分らず屋のことを言うんだ。
 デイヴィッド それはそうでしょう。(デイヴィッド、優しくモヤの腰に片手を回す。)ねえモヤ、君はいつだって分らず屋だものね?
 モヤ デイヴィッド、素敵ね、このパーティー。ジョウンは素敵だし、あなただって、私の大贔屓(ひいき)。
 ロレンス 話を逸(そ)らすんじゃないぞ、モヤ。
 モヤ 分ってる。この人に言ったら? 私、ちっとも恥と思わない。
 ロレンス モヤは言うんだ。あのマークス兄弟の芸って、全くつまらないとね。
 デイヴィッド(厳しく。)オーストラリアくんだりまで単独飛行なんかやって来ると、頭がおかしくなるんですよ。
 モヤ デイヴィッド、あなたにもう話したかしら。私、来月には北極まで単独飛行しようと思っているのよ。
 デイヴィッド ええ、新聞で読みましたよ。
 ロレンス(意地悪く。)それに、あんた言ったな、ドナルド・ダックよりミッキーマウスの方がいいだなんて。
 モヤ ええ、当然でしょう。
 ロレンス(何をか言わん、という表情。)やれやれ、呆れたもんだ。
 モヤ あああれ、ドリスだわ。あのタクシーの運転手の話、本当かどうか訊いて来なくちゃ。
(モヤ、部屋の一方の隅に進み、ドリスと優しく抱擁。)
 ロレンス デイヴィッド、素敵なパーティーだね。いやあ、昔のままだよ、これは。
 デイヴィッド 相当昔ですがね、残念ながら。
 女(登場して来て。)やれやれ、酷い目に合ったわ、私。
 モヤ(誰に言うともなく、そのあたり一群の人々に。)あんた達、聞いた? 私、北極を飛ぶのよ。
 男 どうして北極なんか。
 スィリル それだけ勇敢っていうことでしょう?
(ジョウン登場。)
 ジョウン(大きな声で。)今晩は、みなさん!
(客達、話すのを止め、振り向く。)
 ジョウン まだ食べていない人がいたら、今すぐ行って食べた方がいいわよ。でないと何にもなくなっちゃいますよ。もう入ってガツガツ食べている人がいますからね。負けないで!
(ほぼ全員、扉の方へ向かう。ジョウン、モヤへ駆け寄る。)
 ジョウン モヤ、久し振り! 私にこっそり黙って入って来たのね?
(客達、喋りながら隣の部屋へ退場。)
 モヤ もうずっと前から来てたわよ。あなただって私にもう二回も「やあ」って声をかけたわ。
 ジョウン 私が? 酷い話ね、忘れるなんて。私、酔っぱらってるのよ。
 モヤ それがあなたにはお似合いよ。あなた、今日、本当に素敵。
 ジョウン 褒められて信じちゃいそう。それくらい酔ってるわ。
 モヤ ジョウン、あれ、酷かったわ。ドリスとタクシーの運転手の話よ。あれ、本当じゃなかったんだって。
 ジョウン あらあら。私、よその家におよばれに行く度にあの話をしてきたのよ。酷かったわ。他に何かニュースないかしら? モヤ。
 モヤ 他にはないわ、あまり。私が来週、北極を飛ぶ話、もう知ってるわね? あなた。
 ジョウン(ぼんやりと。)そう? 沢山着て行かなきゃ寒いわよ。
(ジュリア、ジョウンに近づく。デイヴィッドとジョンも。その後ろにアーサー・パワーも寄って来る。モヤ、他の客と一緒に隣の部屋へ退場。)
 ジュリア さっきからずっと、あなたに声をかけたがっている人よ。分る? この人。
 ジョウン アーサー! あーら、アーサーだわ。私の初恋の人。お元気? アーサー。もう何年も会っていないわね。今何してるの?
 ジュリア あら、あなた聞いてなかった? マンチェスターで窓ガラスを拭いているのよ。だから私達につれないの。
 ジョウン そんなこと私、信じない。アーサーがつれなくするなんてあり得ないもの。素敵な人よ。昔私、この人と結婚するところだったの。もう少しで。
 ジュリア よかったのよ、あなた、結婚してなくて。結婚してたら今頃あなたも窓ガラス拭きよ。あなたはちゃんとデイヴィッドにくっついているの。そっちの方がずっとお似合い。
 デイヴィッド 窓ガラス拭きをやると他のみんなにつれなくなるなんて話、信じられないね。窓ガラスを拭いていれば陽気になる筈だ。他人に対する洞察力も出来てくるしね。
 ジュリア ね? 昔のアーサーとはまるで違うでしょう?
 アーサー それを言うなら、若い時のアーサーと違うと言って貰いたいな。
 ジュリア ほらね、こんなことしか言わなくなったの、この人。きっと私達のことだって、厭な奴って思っているんだわ。そう、昔の友達たーくさん、そんな風になっちゃった。そうでなかったら死んじゃってるの。有難いわ、デイヴィッドとジョウンがいつまでも変らなくて。二人ともこれからも必ずここにいるのよ。いいわね?
 デイヴィッド 隣の部屋に行って何か食べない?
 ジュリア いい考えね。私、お腹ペコペコ。
 ジョン 僕はもう夕食を二度食べてね。いくら僕でも三度は食べられないよ。
 アーサー 私もお腹はすいてない。
 ジュリア さ、いらっしゃい、デイヴィッド。夜のこの時間に食べるって素敵。朝起きた時気分がいいもの。
(デイヴィッドとジュリア、退場。)
 ジョウン(少し酔った風に。)私、アーサーともう少しで結婚するところだったの、昔。奇妙でしょう?
 ジョン いや、別に。
 ジョウン 私、奇妙な感じ。
(ジョウン退場。今はアーサーとジョンだけが舞台にいる。)
 ジョン どうだいアーサー、このパーティー、面白いかな?
 アーサー こんなパーティー、糞食らえって感じだ。
 ジョン 何故。
 アーサー 小学校のお祭で騒いでいる生徒達だ、まるで。それが中年の男女なんだからな。全く卑猥としか言いようがない。みんな気のきいたことを言い、若返った気分でいる。ところが実際は、頭も働かず、若くもなしだ。
 ジョン あれがこの世を逃げる手段なんだ。それがいくら子供っぽくても、貶(けな)すことはないんじゃないかな。僕は頭のいいやり方だと思うがね。
 アーサー こんな世の中だ、そこから逃げようっていうのは賢いかもしれない。しかし、勇気があるとは言えないね。
 ジョン 勇気を持ちたいなんて、誰が思っているかね? 今頃。僕はこの世から逃げ出せて幸せだな。
 アーサー 次の戦争が起って、世界が君を木っ端微塵(こっぱみじん)に吹き飛ばすまではね。
 ジョン そうだね。或いは通りでバナナの皮を踏んでスッテンコロリと転がるまでか。どっちも僕には違いがないね。
 アーサー 誰かがそのバナナの皮を拾っておいてくれれば、転がることもない。戦争だってその予防のための努力を誰かがしていれば、起らなくてすむんだ。
 ジョン 誰かがやってくれるとは有難いね。僕はその誰かに感謝するさ。
 アーサー 前大戦の後、僕らにはそれをするチャンスがあったんだ。だけど僕らはみんな、それから逃げた。酷いのは、その後も逃げ続けた。今夜はそれを痛感したね。
 ジョン 君はそれから逃げてはいない。窓を拭いているからね。
 アーサー そう。僕は窓を拭いている。
 ジョン 窓を拭いて、まともに人生に向き合っている・・・しかしそれだって、結局生計のためなんだ。
(アーサー、黙っている。)
 ジョン 世間一般の、そこらへんに転がっている大抵の奴らは、みんな君のように、日常的な平凡極まる生活に腰を落ち着けている。全く嘆かわしいよ。
 アーサー そう、有難いことに、世間の大勢(おおぜい)はそうなんだ。君とかデイヴィッド、ジョウン、それに今夜ここに集ったあの連中は、時代遅れもいいところなんだ。まあ君達にはそれが分っているようだが。 
 ジョン 勿論みんな分っているさ。だから余計面白いんだ。
 アーサー こんなことをやっていて飽きないのか?
 ジョン うん、めったに飽きることはない。
 アーサー なあジョン、君、僕のところで働かないか?
(ジョン、アーサーが冗談を言ったかのようにゲラゲラ笑う。)
 アーサー 真面目なんだ。どうだ?
 ジョン いや、失敬。冗談だと思った。
 アーサー いや、僕は真面目だ。僕には共同して助けてくれる人間がいる。僕は君がいいんだ。
 ジョン いくら払う。
 アーサー 週五ポンドでどうだ。
 ジョン 僕がもしそれを受けたら、さぞかし君は怒るだろうな。
 アーサー いや、驚くかもしれないが、僕は喜ぶよ。勿論君はマンチェスターに住んでくれなくちゃ困るが・・・これは条件だ。
 ジョン 僕がこれを受けたら、君は後悔するに決っている。そして早速首にしようとかかるだけさ。
 アーサー これは真面目な提案だ。受けてくれないか。
 ジョン(独り言。)週五ポンド・・・マンチェスター住まい・・・(アーサーに。)いや、止めとく。
 アーサー 週六ポンドでどうだ。
 ジョン マンチェスター住まいじゃね。糞っ! 僕は酔っているらしい。マンチェスターで窓拭き・・・この僕がか!(威厳をもって立上がり。)よくも釣ろうとしたな!
(アーサー、笑う。)
 アーサー この提案はずっと有効だ。受ける時にはいつでも言ってくれ。
(ジョウン登場。ヒステリックに、止めようもなく笑いながら。口がきけるようになるまで暫くかかる。)
 ジョン ああいう話の後では、この話はよさそうだな。
 ジョウン モヤがね、ロレンスに言ったの、「この薬、ちょっと嗅いでみてよ」って。ロレンスは言ったわ、「止めとく。癖になるとまづいから」「何が癖になるっていうの。馬鹿なこと。私なんかこれ、十四年もやってるのよ」だって。本当にこう言ったのよ。私、直接に聞いたんだから。
(ジョウン、身体を折り曲げてまた笑う。アーサーもジョンも全く笑わない。ジョウン、やっとのことで笑い止む。)
 ジョウン どうしたの? 馬鹿ね、二人とも。どうして可笑しくないの、これが。
(ジョウン、坐る。)
 ジョン さあ、暫くここでじっとして・・・
 ジョウン 駄目。私、いっぱいすることがあるの。(ジョウン、ぼんやりと部屋を見回す。)ああ、この部屋、まるで蒸し風呂。
(ジョウン、舞台奥のフレンチウインドウに行き、さっと開ける。二人の男女、熱烈なキスの真っ最中。パッと離れる。)
 ジョウン ああ、ご免なさい。
 男 どう致しまして。
 ジョウン エート・・・もしよかったら、次の間で食事が用意してありますけど・・・
 男 有難う、助かるなあ。
(男、女の手を優雅に取り、腕を組んで二人で退場。)
 ジョウン 呆れたわね。今の見た? ピギー・ウェアリングのボーイフレンドとペリーの女よ。早速モヤに話さなきゃ。モヤ、大笑いよ、きっと。
(ジョウン退場。)
 アーサー やれやれ、ジョウンは変ったなあ。
 ジョン あれに本気で惚れていたんだろう? 昔。
 アーサー どうしてあんな風になっちゃったんだ。昔はああじゃなかったのに。
 ジョン 習慣って恐ろしいもんだ。モヤの「薬」と同じさ。
 アーサー だけどきっかけがあるだろう。何なのだ、きっかけは。
 ジョン デイヴィッドを喜ばせるためだね。
 アーサー なるほど。
 ジョン 君に分りっこないさ。まあこの話はここまでにしておこう。(立上る。)さあ、僕は隣の部屋に行く。面白いものを見逃したくないからね。
(ピーター登場。帽子を被り、コートを着ている。)
 ジョン ああ、ピーター。
 ピーター デイヴィッドは食堂?
 ジョン うん、そう思う。
 ピーター 自分であそこに入りたくないんです。申し訳ありませんが、ちょっと僕が会いたいと言ってくれませんか。
 ジョン いいよ。客から引き剥がして来てやる。アーサー、君、来る?
 アーサー うん。まあ、行こう。
(ジョンとアーサー、退場。暫くしてデイヴィッド登場。)
 デイヴィッド ああ、ピーター、何か話があるって?
 ピーター ええ、一分だけですが。話です。
(デイヴィッド、部屋に入り、扉を閉める。)
 ピーター このアパート、今日限りで出て行きます。そのことをお話ししようと思って。友達と暮すんです。今夜出ます。
 デイヴィッド ピーター、僕はそれを許す訳には行かない。
 ピーター 心配はいりません。ちゃんとやって行けます。
 デイヴィッド 心配だね、こっちは。君のお母さんが死んでから、僕は君には多少とも責任があるんだ。生計はどうする。
 ピーター 仕事につきます。ちゃんとした仕事に。こんなアパートなんか、出て行けて清々(せいせい)します。
 デイヴィッド 仕事が見つかるまで、金がいる筈だよ。
 ピーター あんたの汚い金なんか、誰がいるもんですか。自分でとっておいたらいいでしょう。僕はこれから一生、あんたの顔なんか見たくもない。話をしたくもない。ヘレンに対しても同じです。
 デイヴィッド(間の後。)ピーター、すまない。
 ピーター(激しい口調で。)何がすまないだ。糞っ! 憐れみなんか誰がいる。僕は嬉しいんだ。こんなに勉強になったことは、今までにないくらいだ。そう、僕は常識的な男だ。いいこと悪いことがあると信じている。そういう男は退屈な人間なんだ。あんたやジョンに言わせれば・・・いや、ヘレンに言わせてもだ。そう、僕は「退屈」な男。これからもずっと退屈な男でいてやる。もしヘレンがあんたのような人生を送りたいのなら、勝手に送ればいい。僕は幸運を祈るだけだ。そういう女だということが、手遅れにならないうちに分って、僕は神に感謝するだけだ。
 デイヴィッド(間。)ピーター、君、まだ時間が経ってないからそんな風に考えるんじゃないのかな。君はまだ成長していないんだ。成長すればきっと君、忘れるよ。今の君の気持、それは僕は分るけど。
 ピーター ああ、分るんですか。(振り返り、デイヴィッドを睨みつける。)さようなら。(扉の方へ進む。)
 デイヴィッド ピーター、どこへ行けば君が見つかる。
 ピーター(扉のところで。)どこへ行ったって無駄です。
 デイヴィッド(絶望的に。)頼むピーター、仕事が見つかるまでは、僕の助力を受けてくれないか。
(ピーター、バタンと音をさせて扉を閉める。デイヴィッド、一瞬それを見つめる。それから疲れたように肩を竦め、回れ右をする。テーブルの上の箱から煙草を取る。ヘレン登場。コートを持っている。)
 ヘレン 私、行くわ、デイヴィッド。(公式のお世辞の挨拶。冗談に。)素晴しいパーティーでしたわ。私、どれだけ楽しんだか、とても言葉で言えませんわ。
 デイヴィッド 今ピーターと話したところなんだ。
 ヘレン あら。(コートを下に置く。)やり難かったのね?
 デイヴィッド 僕に言える言葉は何一つなかった。
 ヘレン 可哀想に、デイヴィッド。
(デイヴィッド、ヘレンに背を向ける。)
 デイヴィッド 「可哀想に、ピーター」って言ってやるべきじゃないのか。
 ヘレン いいえ。私達、ピーターのことは忘れなきゃいけないの。
 デイヴィッド ああ、忘れられたら・・・ついさっきまで僕は、ピーターなんて、簡単に処理出来る、抽象的で実体のない問題だと思っていた。どういう訳か、血の通った人間・・・可哀想な若い男・・・として考えてはいなかったんだ。
 ヘレン そんなことは言わないの。さ、来て、私にキスして。
(デイヴィッド、ヘレンに近づき、キス。)
 デイヴィッド ヘレン、君は僕をどうするつもりなんだ。
 ヘレン 元気を出して。最悪のところは終ったわ。話さなきゃならない二人には言っちゃったし、そのうちの一人はとにかく、素敵な態度で受け止めてくれたわ。
 デイヴィッド(微笑もうと努力しながら。)素敵な態度過ぎたよ。君の話で僕は少し傷ついた。
 ヘレン まだ彼女とは話していないのね?
 デイヴィッド そのチャンスがないんだ。パーティーに身も心も打ち込んでいる。傍に近寄ることも出来ないでいるんだ。
 ヘレン あの人とは、私達が結婚してからも友達の関係でいるんでしょう?
 デイヴィッド 勿論。彼女に二度と会えないって考えるのはたまらないからね。だけど、もう一人の方が僕は心配なんだ。
 ヘレン(警告するように。)デイヴィッド、さっき言ったでしょう? ピーターのことは考えちゃいけません、て。
(デイヴィッド、無言。明らかにヘレンの忠告を聞いていない。デイヴィッド、ヘレンから顔をそむける。)
 ヘレン(鋭く。)デイヴィッド、ここに来て。
(デイヴィッド、再びヘレンに近づく。微笑み、キスする。ジョウン登場。扉のところに立ち、二人を見る。回れ右をし、出て行こうとする。この時ヘレン、ジョウンに気づく。)
 ヘレン あら、ジョウン!(ヘレン、デイヴィッドを全く何げない風に放す。)私、今あなたに言いに行くところだったの。何てこのパーティー、素敵だったんでしょうって。
 ジョウン もう帰るんじゃないでしょうね? まさか。パーティー、まだ始まったばかりよ。
 ヘレン 私、行かなきゃならないの、本当に。(自分の時計を見て。)あら、もう一時半だわ。
 ジョウン(疲れたように。)まだ一時半? 私、もっと遅いかと思っていた。
 ヘレン 私にとってはもう充分遅い時間だわ。さようなら、ジョウン。本当に有難う。
 ジョウン さようなら、ヘレン。
(二人、握手。)
 ヘレン 私、明日、また来ます。もしよろしければ、あなたに会いに。
 ジョウン(ぼんやりと。)明日?
 ヘレン それとも何か予定がおあり?
 ジョウン 明日の予定? 何もないわね。
 ヘレン じゃ、午後の適当な時間に。遅くまでお休みになる筈ですものね。・・・さようなら、デイヴィッド。
 デイヴィッド さようなら、ヘレン。
(ヘレン退場。ジョウン、デイヴィッドを見る。それから急に回れ右して、空のグラスを片づけ始める。盆にのせ、隅に持って行く。その間無言。デイヴィッドも無言。デイヴィッド、明らかに当惑の表情。)
 ジョウン(やっと。)あの子、いい子だわ。あの子と一緒であなた、きっと幸せになるわ。
 デイヴィッド 君がこのことをあまり気にしないでくれて、本当に助かったよ。
(ジョウン、機械的に空のグラスを片づける作業を続ける。デイヴィッド、続けて。)
 デイヴィッド 君、本当に気にしてないんだ。そうだね?
 ジョウン 遅かれ早かれ、こうなることになっていたんだわ。
 デイヴィッド すまない。結局なってしまって。
 ジョウン すまないとは思ってないわ、あなた。だから、そういうことは言わないの。
 デイヴィッド すまないの意味はね、僕らはこんなに長く一緒に、楽しく暮してきた、それを急に断ち切るっていうのは馬鹿げているってことなんだが・・・
 ジョウン 十二年と七箇月。結婚した時は、そんなに続くって思ってもいなかったわ、私達。そうでしょう?
 デイヴィッド(微笑む。)君がそう言うとはね。僕は一生続くことを望んでいたんだ。
 ジョウン そう? 本当?
 デイヴィッド 君は違った?
 ジョウン 続くことを望んでいたのと、続くとは思っていなかった、の違いね。
 デイヴィッド お互いに愛し合うなんていうへまをしなかったのは幸いだったよ。僕は時々、こういう基礎の上に成り立っているのが理想的な結婚じゃないかと思ったりしたんだがね。
 ジョウン ええ、ひょっとすると。
 デイヴィッド 僕らの場合は、非常にうまくいったんじゃないかな。
 ジョウン 愛し合っていたらもっとうまく行っていたかもしれないわ。あなたとヘレンのように。
 デイヴィッド 愛となると話は別だ。僕には自分がヘレンを人間として好きなのかどうかさえ分っていない。僕が君を好きなのとは話は違うんだ。僕に分っているのは、あの子を愛しているっていうことだ。これは説明出来ない何かなんだ。
 ジョウン あなた、ヘレンを愛すようにはなりたくなかったのね?
 デイヴィッド 愛すまいと非常な努力をしたよ。
 ジョウン 地獄よね、それ・・・愛すのを止めようとするその努力は。
 デイヴィッド 努力は無駄だった。残念ながら。
 ジョウン それが出来れば人生はもっと楽なんだけど。私、もう一杯飲むわ。あなたは?
 デイヴィッド いや、止めとく。
 ジョウン ああ、そうね。忘れてた。(自分用に注ぐ。)ねえデイヴィッド、私も禁酒に力を貸していたかもしれないわ。ただ、そんなに止めたいということが分っていればの話だけど。
 デイヴィッド 止めたくはなかったんだ。ただ、続けると肝硬変で死ぬのでね。それだけの話さ。
 ジョウン あら。あなた、そのことを話して下さらなかったわ。
 デイヴィッド 退屈な話だからね。そんなことで君の心を煩わせる必要はないんだ。
 ジョウン 私、やっぱりいい妻ではなかったわ。
 デイヴィッド(微笑む。)でも、素晴しい妻だったよ。
 ジョウン デイヴィッド・・・私、あなたについて馬鹿な誤解をしていたわ。あなたって、ヘレン・・・みたいな人と付き合うのは好きじゃないって・・・それから、禁酒なんて考え・・・それに、真面目な人生を送るっていう・・・そんなこと、退屈に思っている人だって。あなたの仕事だって、少しお手伝いした方がよかったって分っていたら・・・私もやっていたわ・・・今ヘレンがしているように。ただ、勿論、あの人のように上手には出来ないでしょうけど。
 デイヴィッド 君に僕のそちらの面を見せるのは恥づかしかったんだ、きっと。とにかく君にはそういう退屈なことはやらせないようにしたろうな。
 ジョウン 本当に可笑しいわね。私、きっと、そういうこと、ちっとも退屈と思わなかったわ。
(隣の部屋から騒がしい笑い声が聞こえて来る。)
 デイヴィッド 僕が行って連中をこちらに移動させる。君はここに坐って休んでいて。酷く疲れている筈だからね、君は。
(デイヴィッド、扉に進む。)
 ジョウン いいえ、行かないで。(デイヴィッド、立ち止まる。)何か弾いて。ね? ピアノの音を聞いたら、みんな戻って来るわ。
 デイヴィッド いや、僕が行った方がことは・・・
 ジョウン いいえ、何か弾いて。
 デイヴィッド(ピアノの方へ行く。)分った。何にする?
 ジョウン 「アヴァロン」。いい?
 デイヴィッド 殆ど忘れてるけど・・・まあやってみる。(弾き始める。)
(ジョウン、デイヴィッドの後ろに来る。)
 デイヴィッド この曲、好きだったな。
 ジョウン 私、今も好き。
 デイヴィッド どうもうまく弾けてないな。
 ジョウン いつだってうまくはなかったわ、あなた。
(デイヴィッド、暫く弾き続ける。やさしくメロディーを口ずさむ。ジョウン、デイヴィッドの頭の上にキスする。デイヴィッド、手を伸ばしてジョウンの手を取る。)
 ジョウン さ、続けて弾いて。
(デイヴィッド、掴んでいた手を放し、また弾き始める。ジョン、静かに入って来て二人を見る。ジョウン、舞台奥のフレンチウインドウにゆっくりと進む。)
 ジョウン これ、もう少し弾いてて、デイヴィッド。いいわね?
(デイヴィッド、頷く。ジョウン、バルコニーに退場。その後からカーテンを閉める。)
 デイヴィッド ああジョン、もう全部知ってるって聞いたよ。
 ジョン うん、全部・・・そう。
 デイヴィッド 僕のこと、とんでもない大馬鹿だと思っているんだろう。
 ジョン 馬鹿なんかじゃすまされない。もっともっと酷いものだ。
(ジョン、ソファに横になる。デイヴィッド、弾き続ける。客達、食堂から三々五々入って来る。)
 モヤ 人を引きつける曲ね、これ。つられて出て来ちゃったわ。
 ジュリア この曲、また聞くなんて、辛いわね。
 モヤ そう。身を切られるような辛さ。
 ジュリア この曲をいつ歌っていた人がいたわね。あの素敵な人、誰だったかしら。
 モヤ あら、あの人、オーストラリアへ行っちゃったのよ。
 ジュリア 酷い話ね!
(およそ十人の客、ピアノを囲み、歌い始める。酔っぱらいの感傷的な歌い方。)
(ジョン、立上がる。バルコニーに出る。戻ってカーテンを大きく開く。バルコニーは無人。ジョン、デイヴィッドの注意を引こうとする。デイヴィッドと客達、歌い続ける。)
                     (幕)

     第 三 幕
(場 同じ。およそ三箇月後。午後遅く。)
(ミス・ポッター・・・およそ四十歳。厳しい顔つきをした女性・・・角縁の眼鏡をかけている・・・が、肘掛け椅子に坐って編み物をしている。ジョン、本箱の前に立って本を引き出しては、見開きを眺め、本箱に戻すか、テーブルの上に置くかしている。)
 ジョン 僕の気に入らない小説が二三冊あるんだがね、ミス・ポッター。持って行きますか?
 ミス・ポッター 有難うございます、ミスター・レイド。でもそれは、誰か他の人に差し上げて下さい。私は小説はめったに読みませんから。
 ジョン じゃあ、一日中何をしているんです?
 ミス・ポッター 仕事がない時は編物ですね。
 ジョン すると近いうち、一日中編物をするようになるな。
 ミス・ポッター それは、近いうち私に仕事が殆どなくなるっていう意味なんですの?
 ジョン(趣味の悪い返事だと言わんばかりに。厭そうに。)そう。その含みで言ったな、僕は。
 ミス・ポッター それが当っていれば、有難いですね。
 ジョン 「仕事なし」に反対じゃないんだね。
 ミス・ポッター 反対の人なんかいますかね。
 ジョン あなたの祖先は反対だったろうな。
 ミス・ポッター そんな女、馬鹿よ。
 ジョン 女じゃない。男・・・それも、若い男。それなら分るんじゃないか?
(ウィリアムズ登場。腕いっぱい、靴下、ハンカチ、シャツを抱えている。)
 ジョン ああ、ウィリアムズ、テーブルの上にあるのが荷造りする本だ。
 ウィリアムズ 畏まりました。
 ジョン 抱えている物は何だ?
 ウィリアムズ 引き出しにあったものです。ハンカチ六枚、靴下四足、シャツ三枚です。
 ジョン それで?
 ウィリアムズ 旦那様の・・・スコットファウラーのイニシアルがついているのです。それで、これは旦那様にお返しすべきかどうか、迷いまして。
 ジョン 迷うことはないよ。さっさと行って、それも荷造りすればいい。
 ウィリアムズ(疑わしそうに。)旦那様が、なくなったことにお気がつかれた時には?
 ジョン その時には送り返すさ。しかし、気などつきっこない。それに、いづれにせよ、旦那様には僕に贈り物をする義務があるんだ。
 ウィリアムズ はい、分りました。
 ジョン で、どうだ? 状況は。
 ウィリアムズ はい、順調に進んでいます。荷造りは殆どすみました。
 ジョン(時計を見る。)三十分後にタクシーを呼んでくれ。
 ウィリアムズ はい、畏まりました。
(ウィリアムズ退場。)
(ジョン、窓のところに行き、外を見る。)
 ジョン 春の気配だね、ミス・ポッター。わくわくする気分かな? どうだね?
 ミス・ポッター いいえ、全然。私から言わせると、褒められ過ぎの季節ですわ。色として緑は私、好きじゃありませんし、小鳥の声はうるさくて。
 ジョン よく春になると言うね。生きる喜びを感じるだとか何だとか。そんな気分にはならないかな?
 ミス・ポッター 春は風邪をひき易いです。それに、歯が痛んで来ますからね。
 ジョン 僕もそうだな。それでも僕は春は好きだ。(窓の外を見る。)マンチェスターでは、お日様が上がることはないという話だが?
 ミス・ポッター 馬鹿な話ですよ。日はいくらでも射しますわ。勿論リヴィエラと比べる訳には行きません。でも、マンチェスターで日が射せば、普段射さない分だけ余計、楽しい気分になります。
 ジョン 元気が出るなあ、そういことを聞くと。しかし、薄汚い街だっていう噂はやはり噂通りなんだろう?
 ミス・ポッター 薄汚い・・・そういう話は知りませんわ。私が住んでいたのは子供の時ですから。
 ジョン いやいや、それは誤解だ。赤線地帯の話をしているんじゃないんだ。肌がべとつかない程度の清潔さを保つには、日に二三度は風呂に入らなきゃならないっていう話を聞いたんだがね。本当かどうか知りたくて。
 ミス・ポッター 勿論空中に煤(すす)がある程度混じってはいますわ。でも、手や顔を汚すだけです。日に三度のお風呂なんて、誇張です。
 ジョン 手遅れにならないうちに思い直した方がいいかな? ミス・ポッター。
 ミス・ポッター いいえ、それはいらした方が。きっといい街だとお思いになりますわ。それは確かに、綺麗な街ではありませんけど、あそこの人達みんな親切で、魅力がありますもの。「ようこそ。いい出会いの街、マンチェスター」・・・お分りですね? 私の言ってること。
 ジョン 勿論。分り過ぎるくらい分るな。だからもうあの街の話は止めよう。一言話される度に、僕の決心が鈍ってくる。
(ヘレン登場。ジョンの方に親しそうに微笑みながら近づく。)
 ヘレン ああジョン、私、お別れの挨拶を言いに、ちょっと寄ったの。今日は、ミス・ポッター。
 ミス・ポッター 今日は。
 ジョン それは有難う、ヘレン。
(ジョンとヘレン、握手。)
 ヘレン どう? 出発の気分は。ちょっと怖じけづいているんじゃないかしら。
 ジョン 怖じけづくなんてもんじゃないね。絶望に追い込まれているよ。ミス・ポッターのマンチェスター寸描のお陰でね。
 ヘレン 今世紀最大の奇跡ね、これ。私、まだ信じられないわ。
 ジョン(陰気に。)僕もだ。
 ヘレン 随分急な話だったわ。デイヴィッドが話してくれたのがつい先日。あなた、いつ決めていたの?
 ジョン アーサーが働かないかと言った時からなんだ。決定を行動に移すのに三箇月かかったんだな。
 ヘレン 一週間したら帰って来るわ。賭けてもいい。
 ジョン いや、決して帰ることはない。僕は自分の墓場に行くんだ。煤(すす)にまみれた「ようこそ。いい出会いの街、マンチェスター」にね。じゃ、ちょっと失礼するよ、ヘレン。荷造りの監督をしなきゃならないんでね。
(ジョン退場。)
 ヘレン ミス・ポッター、あなたのマンチェスター描写が、あの人のお気に召さなかったようよ。
 ミス・ポッター 今幻滅するのは結構なことですわ。行ってみたらそれほどでもないと安心するでしょうから。
(ヘレン笑い、箱から煙草を一本取る。この家の持主のような態度。)
 ヘレン 旦那様はどこ?
 ミス・ポッター お部屋だと思います。
 ヘレン お仕事?
 ミス・ポッター さあ、分りません。
(ヘレン、テーブルの上にある二三冊の本を取り上げる。)
 ヘレン ロンドン・ライブラリーから借りて来てくれたのね? これ。
 ミス・ポッター はい。昨日行って借りて来ました。
(ヘレン、一冊づつ取り上げる。)
 ヘレン(題名を読む。)ダフ・クーパー著「タレーラン」・・・「タレーランの生涯とその時代」「タレーラン回想録」・・・
 ミス・ポッター 図書館の司書長が推薦してくれたものです、全部。
 ヘレン 夕べ旦那様は、この本をお読みになったの?
 ミス・ポッター いいえ、タイムズのクロスワード・パズルをなさいました。私もお手伝いしましたわ。
 ヘレン 夕べは必ずお仕事をするって約束なさったのに。・・・だからお邪魔にならないよう、夕べは私、ここに来なかったの。
 ミス・ポッター 今夜からお始めになるのですわ、きっと。
 ヘレン 一週間ここにいて、する仕事が何もないんじゃ、きっとあなた、退屈ね。
 ミス・ポッター いいえ、全然。何も仕事がないのは幸せですわ。
 ヘレン あなたを雇えば、旦那様、きっと仕事をお始めになると思ったんだけど。
 ミス・ポッター でも、奥様をお亡くしになったばかりですもの、お仕事に打ち込めないのは無理はありませんわ。
 ヘレン 旦那様がそう仰ったの? それが理由で仕事が出来ないんだって・・・
 ミス・ポッター いいえ。奥様のお話は決して私にはなさいません。でも勿論私、あの事故のことは新聞で読みましたし、あれが旦那様にとってどんなにショックだったか、私よく分りますわ。
 ヘレン 旦那様にショックだったのは当り前よ。私達みんなにとってもショックだったんですからね。でも、もうあれから三箇月経っているの。ですから、もし何か仕事をお始めになれば、それがあの方の気を紛らわす手段になる筈です。
 ミス・ポッター(好奇心を出して。)あの晩、パーティーにいらしてたんですか?
 ヘレン ええ、でも、あれが起きた時は、私、もう出ていたの。
 ミス・ポッター 私、この間の晩、バルコニーに出て、あの欄干に坐ってみましたわ。あの方がなさったと思われる通りに。どうしてあれが起きたか、それは簡単に想像出来ますよ。ちょっと寄り掛かり過ぎて、急に下を見たら、バランスを失うに決ってますからね・・・特にあの方・・・エー・・・ちょっと気分がお悪かったんでしょう?
 ヘレン 気分がお悪かった?・・・どういう意味です?
 ミス・ポッター 事情聴取の時、みんなが異口同音に言ってましたからね。「一二杯、ちょっと飲み過ぎていたようだ」って。あなた、そのことに気がついてました? あの晩。
 ヘレン(冷たく。)あの晩のことはみんなで忘れるようにした方がいいんです。
(デイヴィッド、自室から登場。いつものツイードの上着とフランネルのズボン。但しネクタイは黒。手に本を持っている。)
 デイヴィッド ああヘレン、君がここにいるのは知らなかったな。どうして知らせてくれなかったんだ?
 ヘレン 仕事中だと思って。だから邪魔したくなかったの。
 デイヴィッド これ以上暇にしようと思っても、ちょっと無理だね。
(デイヴィッド、本をソファの上に投げる。ヘレン、それを取り上げる。)
 ヘレン(題名を読む。)「アルバート・ホール殺人事件」
 デイヴィッド あまり面白くはない。でもよかったら持って行ったら?
 ヘレン いいえ、結構です。
(デイヴィッド坐る。)
 ミス・ポッター 今日の午後、私、何かすることがございますか? 旦那様。
 デイヴィッド ないよ。
 ミス・ポッター では自室に引っ込みまして、ちょっと手紙を書きますわ。(扉の方に進む。)私、お茶を自室で飲んでよろしいでしょうか。
 デイヴィッド いいよ。寝室でも構わない。いや、どこで飲んだっていい。
 ミス・ポッター 有難うございます。
(ミス・ポッター退場。)
 デイヴィッド あれで思い出した。僕はお茶が飲みたいな。そう、お茶なしだとどうしていいか分らないくらいだ。全く中毒だよ、これは。お茶で肝硬変なんて、まさかならないだろうな? 一日に十杯も飲むようになったよ。
 ヘレン(笑う。)ねえ、デイヴィッド、禁酒がこんなに続いているなんて、私、本当に感心しているのよ。
 デイヴィッド 実は僕も自分に感心しているんだ。まあ、想像していたよりちょっと楽だったという面がある。君のお陰でね。
 ヘレン 今はもうちっとも欲しいと思わないの?
 デイヴィッド この間、ウイスキーの匂いを嗅いでみたんだ。驚いたことにね、もう少しでそこらへんにぶちまけるところだったよ。可笑しいだろう?
(デイヴィッド、ヘレンに両手を拡げる。ヘレン、行き、キス。それからソファに坐っているデイヴィッドの隣に坐る。)
 デイヴィッド 突然の出現だね、ヘレン。今日会えるとは思っていなかったよ。嬉しいな、これは。
 ヘレン ジョンにさよならを言わなくちゃって思ったの。可哀想なジョン。あの人、酷く落ち込んでいるわ。
 デイヴィッド 僕もだ。彼が出て行くって考えただけで厭になってくる。
 ヘレン 思い留まらせようとしなかったの?
 デイヴィッド 勿論したよ。何時間も議論した。行くなってね。
 ヘレン ああ、そんなことをしなくてもよかったのに。だって、やっぱりあの人にとっては行く方がいいんですもの。あなた、利己主義だわ。
 デイヴィッド だって僕は利己主義だからね。君はよく知ってるよ、そのことを。
 ヘレン ええ、そうね。
 デイヴィッド 君もそうなんだ、ヘレン。だからそんな得意そうな顔をしなくていいんだ。
 ヘレン 私、利己主義なのはあなたに関してだけ。他のものには全然利己主義じゃない。(ヘレン、デイヴィッドの手をぎゅっと握る。)ねえ、デイヴィッド、私、ジョンが今まで嫌いだったの。でも今は好きだわ。変でしょう?(考えながら。)あの人、ジョウンのこと、好きだったわね? ジョウンが死んだからあの人変ったんだわ、きっと。
(デイヴィッド、ヘレンの手から自分の手を外す。少し後ろへ退く。)
 デイヴィッド(違う声で。)うん、僕もそう思う。
 ヘレン ジョウンのことを私が話すの、まだ嫌いなのね?
 デイヴィッド あれはとにかく、思い出したくない。それだけだ。
 ヘレン ねえデイヴィッド、あのことは何かの機会にしょっ中思い出さされるのよ。それは致し方のないこと。諦めなくちゃ。だから今、ジョウンのことを心を傷めないで話せるよう、訓練するの。そうすれば将来の、そういう色々な不愉快な場面を切り抜けて行けるのよ。
 デイヴィッド 君にはきついところがあるね、心の芯に。僕にはそれがない。
 ヘレン きついんじゃないの。ただ、正直なの。
 デイヴィッド まあ、どう呼んでもいいがね。やっぱり僕にはない。
 ヘレン 持たなきゃいけないのよ。
(デイヴィッド、ヘレンから目を逸らす。ヘレン、デイヴィッドの袖を掴む。)
 ヘレン ご免なさい、デイヴィッド。
 デイヴィッド いいんだ。こっちも悪いんだ。(間。)昨日会うって言ってた男には会った?・・・ピーターの友達の男・・・
 ヘレン ええ、会ったわ。でも駄目だった。その子もピーターを捜しているって。
 デイヴィッド ロンドンから出て行ったんだな、きっと。
 ヘレン そうね。あの人が泊りに行きそうな友達には全部電話したんだけど・・・
 デイヴィッド 何て馬鹿なんだ、あいつ。
 ヘレン(静かに。)それを言わないで、デイヴィッド。
 デイヴィッド どうやら話題を変えるのは今度は君の番らしい。
 ヘレン 私、話題あるわ。昨日、不動産屋に行って来たの。ねえデイヴィッド、私達にぴったりの小屋があったわ。
 デイヴィッド 小屋?
 ヘレン まあ、家と呼んでもいいぐらいの・・・寝室が四部屋。とてもいいお風呂。階下に大きな部屋・・・これは居間と食堂を兼ねればいいわ。その後ろに小さな部屋・・・ここがあなたの書斎。全部で五エーカー。ニュー・フォレストにあるの。
 デイヴィッド 電気は?
 ヘレン(陽気に。)ないわ。
 デイヴィッド 水道は?
 ヘレン なし。庭師が毎朝水を汲み上げるの。
 デイヴィッド 汲み上げる?・・・ああ、知ってる。あの酷い騒音。朝早くあれをやられて目を醒まさないでいられるのは、全くのつんぼだけだ。
 ヘレン いいわ、それ。あなたが早起きが出来るもの。
 デイヴィッド ニュー・フォレストはロンドンから随分遠いぞ。
 ヘレン だからいいのよ。
(デイヴィッド、立上がる。)
 デイヴィッド まだ何もしていないだろうな?
 ヘレン 手付けは打ったわ。
 デイヴィッド で、いつ入るって?
 ヘレン すぐに。乗り気じゃなさそうね。どうしたの?
 デイヴィッド ねえヘレン、僕は君と結婚したいよ。それも出来るだけ早く。でも・・・
 ヘレン でも?
 デイヴィッド ジョウンが死んでまだあまり経っていないんだ。人が何て言うか・・・
 ヘレン 人が何て言うかなんて、問題になるとは思えないけど。
 デイヴィッド それはそうかもしれないんだが・・・僕は気になる。いや、僕ら二人のために気になるんじゃなくて、ジョウンに対してね。正直のところ、僕はもう少し待ってからがいいと思うんだ。
 ヘレン 私、待つのって、嫌いなの。
 デイヴィッド 僕だって嫌いな筈だろう?
 ヘレン そうあって欲しいわ。
 デイヴィッド そうあって欲しいって、どういうことなんだ。君はよく知っているじゃないか、僕が君なしでは一日も生きて行けないのは。
(デイヴィッド、ヘレンにキス。間の後、まだ両手でヘレンを抱いたまま。)
 デイヴィッド 君、今夜家に来る? それとも一緒にどこかへ行く?
 ヘレン 私、今夜はあなたを一人にしておくの。これが始められるように。(ヘレン、ロンドン・ライブラリーの本を指差す。)
 デイヴィッド まさか、本気じゃないだろう? 一人でなんて。
 ヘレン いいえ、本気。私のせいで出来なかったなんて言わせないため。
 デイヴィッド 仕事をしなかったのを誰かのせいになんかする気は全くないよ。君が今夜僕を一人にしておくなら、僕はミス・ポッターとまたクロスワード・パズルをやるだけだ。夕べと同じにね。
 ヘレン ねえデイヴィッド、あなたが私との約束を守って、本当に仕事に取りかかって下さったら、私どんなに嬉しいか・・・ね、分って。
 デイヴィッド その君の酷い小屋に行けば、ミスター・タレーランを勉強する時間などいくらでもあるじゃないか。あ、そうそう、ところで、その小屋の名前は?
 ヘレン ローズ・コテッジ。
 デイヴィッド 薔薇か・・・そうじゃないかと思っていたんだ。酷い名前だ。「すいかずらの家」に変えよう、名前は。薔薇があったら、全部家の後ろに植え替えだ。今夜夕食はどこにする? ジョゼフはどう?
 ヘレン 私、一緒に夕食はしないって言ったでしょう、デイヴィッド。
 デイヴィッド 七時半だ。七時半にジョゼフね。待ってる。その後、気分が出たら、グレタ・ガルボでも見よう。
 ヘレン 分ったわ。酷い人。
 デイヴィッド ミス・ポッターも連れて行く。夕食の時タレーランについて素敵な考えが浮かんだら、書き取らせるよ。
 ヘレン 書き取るのは私がやります。私、ミス・ポッターに焼いてるの、少し。あの人のあなたを見る時の目付き、独特。心配なの。
 デイヴィッド ところでね、今夜モヤがパーティーを開くんだ。僕ら二人、招待されている。君、どう? 夕食前に覗いて見ない? 面白そうだよ。
 ヘレン(非難するように。)デイヴィッド!
 デイヴィッド 何だい?
 ヘレン 私がモヤのことをどう思っているか、よく知っているでしょう?
 デイヴィッド 僕がどう思っているかだって、分ったものじゃないよ。だけど、彼女の開くパーティーは面白いんだ。
 ヘレン あなた、行きたいならいらっしゃい。でも私は駄目。どんな誘いがかかっても行かないわ。
 デイヴィッド ああ、分ったよ。
 ヘレン(ちょっとの間の後。)私、退屈な女になっているようね、デイヴィッド。
 デイヴィッド ちっとも。僕はよく分る。君はモヤのパーティーに行きたくない。だから、二人ともモヤのパーティーには行かない。それだけさ。
 ヘレン あなた一人でいらしたら?
 デイヴィッド 行くかもしれない。一人で行くとどんな気分か、試しだ。
 ヘレン 私、あまり行って貰いたくないんだけど。
 デイヴィッド じゃ、何故「一人でいらしたら」なんて言うんだい。
 ヘレン わがままを出すまいとしたのね。正直なところを言えば、私、あなたに、もうああいう人達とは付きあって欲しくないの。
 デイヴィッド 朱に交われば赤くなるって言うからね。
 ヘレン 馬鹿なことを言わないで、デイヴィッド。
 デイヴィッド でも、君の言いたいことじゃないか。
 ヘレン 私の言いたいことは、あなたにはお見通しなの。
 デイヴィッド ああ、この話題はもう止めよう。
 ヘレン あなた、パーティーに行くの?
 デイヴィッド(大きな声で。)いや。君がそんなに嫌うならね。とにかくああいったこと全てが酷くつまらないものに見えてきたよ。
 ヘレン 本当? デイヴィッド。これは私にはかなり大事なことなの。
(玄関にノックの音。)
 デイヴィッド(鋭く。)どうぞ。
(ピーター登場。非常にみすぼらしいオーバーを着ている。)
 ヘレン ピーター!
 ピーター 自分の鍵を使ったんだ。構わないだろう?
(ピーター、ヘレンとデイヴィッドを見ないよう気をつけている。ヘレン、ピーターに駆け寄る。)
 ヘレン ああ、ピーター。あなた、馬鹿よ。今まで一体、どこに隠れていたの。
 ピーター(ヘレンを見ないようにして。)パット・モリスのところに暫くいた。それから後は、ハマースミスの下宿屋だ。
 デイヴィッド 会えてとても嬉しいよ、ピーター。
(デイヴィッド、握手のため手を伸ばす。ピーター、それを無視する。)
 ピーター ああ、デイヴィッド。
 ヘレン 呆れた。パット・モリスのところ! 他の人は大抵思いついたわ。でも、パット・モリス、あの人は無理。ピーター、あなた、大丈夫? 身体、壊してない?
 ピーター 大丈夫だ。有難う。
 ヘレン きちんと食べてる? 毎日? 今日、何も食べていないんじゃない?
 ピーター 大丈夫だ、僕は。
 デイヴィッド 坐るんだ。お茶か何か飲むか?
 ピーター いらない。長くいられないんだ。あんたと二人だけで話したい。
 デイヴィッド ヘレンは?・・・
 ピーター いない方がいい。
 ヘレン いいわ。私、行く。(自分の持物を取り、振り返ってピーターを見て。)あなたのこと、怒ってるのよ、私。ロンドン中捜し回ったのよ、あなたのこと。どれだけの手間だと思ってるの?
 ピーター 何故僕なんかにそんな手間をかけるのか、全く分らないね。
 ヘレン そう?
(ヘレン、ピーターに微笑む。)
 ヘレン 逃げ出すなんて、そんな必要、全くなかったのよ。分るでしょう?
(ピーター、相変わらずヘレンを見ない。)
 ヘレン 明日会いましょう。ね? お昼を一緒に。どう?(ピーターが答える前に続ける。)一時。私の家に拾いに来て。あなたに話すこと、沢山あるの。パット・モリスのこと、話して。あの人まだ真っ赤っか?
 ピーター 今は以前よりもっと過激だ。
 ヘレン 無理ないわね。あの人の影響を受けたの? あなた。それともまだ、前と同じ穏やかなピンク色?
 ピーター 知らない。何色もへちまもない。僕は何者でもないんだ。
 ヘレン この瞬間、何者かではなきゃならないのよ、あなたは。ただそこに突っ立って爆弾が落ちるのを眺めている訳には行かないのい。
 デイヴィッド(不機嫌に。)政治的議論はまた後にしよう。ピーターは私に話があるようだ。
 ヘレン ええ。私、行くわ。さようなら、ピーター。明日のデイト、忘れないで。それから、また逃げるのは駄目よ。分ったわね? さようなら、デイヴィッド。
(ヘレン退場。間。ピーター、無意識を装って煙草の箱を取り上げる。手が少し震える。)
 ピーター いい?
 デイヴィッド どうぞ。
 ピーター 今の一場はかなり印象的だったな。見ている人に、ひょっとして彼女、僕に会って嬉しかったと思わせんばかりだ。
 デイヴィッド 君に会えて嬉しかったんだ、彼女は。
 ピーター どうして。あんたにもう飽きたのか。
 デイヴィッド(静かに。)話は何なんだ? ピーター。
 ピーター(デイヴィッドに背を向けて。)金が欲しい。
 デイヴィッド 何だ。それが理由だったのか。
 ピーター まさか儀礼的訪問だと思った訳じゃないだろう。
 デイヴィッド(言い難そうに。)ひょっとして、もう僕を許してくれているんじゃないかと・・・もう随分経っているからね。
 ピーター 随分経っている? たった三箇月じゃないか。それに、許すことなど何もない。
 デイヴィッド すまなかった。もっと違った雰囲気を想像していたんだ。
(ピーター、答えない。煙草の火を消し、デイヴィッドを見て。)
 ピーター 二十ポンド欲しい。そのうちの大部分は借金だ。残りは、僕も食べて行かなきゃならない。
 デイヴィッド 勿論。だが、まづ坐って・・・少し話をしよう。
 ピーター 悪いけど、もう出る。今貰えないかな。
 デイヴィッド 分った。(ポケットから小切手帳を取り出し、書き物机に行く。)本当にこれで充分なのか?
 ピーター 当座は。
 デイヴィッド 実は知り合いが電話会社をやっている。そいつが働き手を捜している。タイプが出来て、夜勤を苦にしない人間をだ。僕は君がいいと思ったんだが。勿論連絡方法がなくて・・・(デイヴィッド、小切手をピーターに渡す。)
 ピーター いくら出す。
 デイヴィッド 最初はただ同然だと思う。しかし、将来は非常に有望らしい。
 ピーター(短く笑う。)将来! なかなかいい展望だ。
 デイヴィッド そう、確かにこのところ、世の中不安定だ。しかし、何が起るか不安だからというだけの理由で有望な仕事を投げ出すのはどうかな。
 ピーター あんたの口からそんな意見が出ると、ちょっと奇妙だ。こんなことを言うと失礼だが。
 デイヴィッド そうだろうな。しかし、君のこととなると・・・僕は本気で言っている。
 ピーター 有難う。でも、いづれにせよ、その仕事を引き受ける気にはならない。
 デイヴィッド じゃ、他に何か心当たりでも?
 ピーター ない。
 デイヴィッド じゃ、どうするつもりなんだ。
 ピーター 分らない。どうでもいいんだ、そんなことは。
(デイヴィッド、ピーターをじっと見る。ウィリアムズ登場。ピーター、ウィリアムズに背を向ける。)
 ウィリアムズ ミスィズ・ブラウンがいらっしゃいました。
 デイヴィッド(苛々と。)今は誰にも会わない。
 ウィリアムズ ミス・レクスィントンのパーティーにいらっしゃる途中だそうで、ミスター・レイドにお別れが言いたいと仰っています。
 デイヴィッド 分った。じゃ・・・ミスター・レイドの部屋にお通しして。今荷造り中だ。
 ウィリアムズ 畏まりました。
(ウィリアムズ退場。)
 デイヴィッド ピーター、どうなっちゃったんだ、君は。
 ピーター ちょっとばかり成長した、それだけだ。この間、最後に会った時にあんたが言った言葉だ・・・成長しろって。覚えていないのか。
 デイヴィッド そんなことを言ったか?
 ピーター あんたとヘレンについての僕の態度が未熟だってね。「成長すればきっと君、忘れるよ」・・・これがあんたの台詞だ。
 デイヴィッド すまなかった。馬鹿な台詞だったよ。ヘレンが君にとってどういう意味を持っているか、あの時には分っていなかった。
 ピーター 今じゃ分っているのか。
 デイヴィッド 分っている・・・今は。
 ピーター 信じられないな。あんたは生涯、誰に対しても、真実味のある感情は一切持ったことがないんだ。ある人が自分にはどうしても必要だって感じなんか、分るものか。
 デイヴィッド いや、分る。
 ピーター とにかく・・・何て馬鹿な話だ! 僕はこんなことで泣きはしない。そう、ひょっとするとあんたの言う通りだ。いつかこれに慣れる時が来るかもしれない。
(デイヴィッド、黙っている。)
 ピーター(小切手を取りながら。)これ、有難う。
(ピーター、ポケットに小切手を入れる。扉のところまで行き、振り返る。言い難そうに、おづおづと。)
 ピーター ジョウンは可哀想なことだった。デイヴィッド。
 デイヴィッド 有難う。ピーター。
 ピーター 僕はあの人、大好きだった。酷いショックだったろうな。
 デイヴィッド うん、そう。手紙を有難う。
 ピーター いや。じゃ、これで。
(ピーター、振り返って、行こうとする。デイヴィッド、それを止めて。)
 デイヴィッド ピーター、ちょっと。僕は偽善者ぶりたくはない。君が僕のことをどう思っているかはよく分っている。それも無理のない話だと思っている。しかし、これだけは言わせてくれ。僕は自分の人生を九割方駄目にしてしまった。君はどうか、そんなことのないよう・・・頼む。
(間。)
 ピーター ああ、僕は新しいデイヴィッド・スコットファウラーより、昔のデイヴィッドの方が好きだ。デイヴィッドが退屈な男になるなんて、思いもかけなかったな。
(デイヴィッド、無言。何を言っても無駄だと、顔を背ける。ジュリア登場。)
 ジュリア デイヴィッド、あの飲んだくれの豚、あなたのワイシャツを全部荷物に入れているわよ。あれは止めさせなくちゃ。あら? ピーター。まあまあ、ピーターがここにいるなんて。美男子さん、どうしてるの? この何箇月、一体どこに隠れていたの?
 ピーター 僕は・・・ちょっと遠くに。今出て行くところだ。・・・さよなら。
(ピーター、扉の方に進む。)
 ジュリア どこに行くの、ピーター。どこか行くところ、決ってるの?
 ピーター ハマースミスに。
 ジュリア(金切り声を上げる。)ハマースミス! ああ、だからなのね、そのツイードの上着を着ているのは。いいこと? あなた、私と一緒にモヤのパーティーに来るの。いいわね? モヤ、あなたを見てすごーく喜ぶわ。
 ピーター パーティー?
 ジュリア そうよ。今私、一杯飲む。待ってて。それから一緒に行きましょう。
 ピーター 分った。有難う。
 ジュリア そう。良かった。(デイヴィッドに。)ブランデーをちょっとね、デイヴィッド。
 デイヴィッド ピーター、君、パーティーは止めにしたらどうだ?
 ピーター いや。行ってどこが悪い。
(デイヴィッド、急に振り返って、飲み物のテーブルに行く。)
 デイヴィッド(ジュリアに。)ソーダはどのくらい?
 ジュリア 沢山入れないでね。ああ、それぐらい。(ピーターに。)ねえピーター、あなた、元気でやってる? 変なのね、あなた、こんなに長い間隠れていて、ちっとも私達のところに姿を見せなかったなんて。あなた、スィリルの噂、聞いた? 酷い話なのよ。お話するにも言葉がないくらい。私、がっくりきているの。
 ピーター どうしたんです? 死んだんですか?
 ジュリア まあ、そんなようなものね。徴兵されたの。恐ろしいことでしょう? 可哀想に、あの子、勇気のあるところを見せていたわ。私だってそういうふりはした。だって、今がイギリスでは一番大変な時代ですものね。あなただって分ってるでしょう?
 ピーター ええ、まあ、そんなところでしょうね。
 ジュリア ねえデイヴィッド、あなた、この頃どう?
 デイヴィッド うん、まあまあだ。有難う。
 ジュリア 私、この家に来なくなって随分になるでしょう? 本当を言うとね、このアパートに来るのが厭だったの。あのバルコニーを見る度に私、ぞっとするんだもの。
(ジュリア、ブランデーを飲む。バルコニーの近くにブラブラと歩いて行く。ちょっと上から覗いて、身震いしながら回れ右する。)
 ジュリア 可哀想に、ジョウン! あの人がいなくなってから、すっかり変っちゃったわ。あの人、あんなに面白かったから。
 デイヴィッド 黙って、ジュリア。頼む。
 ジュリア あなたがどんな気持か、私、よく分るわ、デイヴィッド。私達みんな同じ気持。でも一つだけ慰めがあるわ。あの人、一秒だって自分に何が起きたか分っていなかった筈だもの。もう先(せん)、ジョニー・ベンソンが欄干から落ちたけど、あれと同じだったのよ、きっと。
 デイヴィッド 黙るんだ、ジュリア・・・頼むから黙ってくれ!
 ジュリア あーら、ご免なさい、デイヴィッド。私、あなたを怒らせるつもりなんか、ちーっともなかったのよ。
(ジュリア、ブランデーを飲み終る。)
 ジュリア さあ、ピーター、行きましょう。さようなら、デイヴィッド。あなた、モヤのパーティーに来るわね?
 デイヴィッド いや、行かない。
 ジュリア 来ないの? 来たらいいのに。素敵なパーティーになるわ。ピーター、あなたまだ二十歳になってないでしょう?
 ピーター いいえ、二十二歳です。
 ジュリア ああ、それはよかったわ。
 デイヴィッド ピーター、まだ行かないでくれ。話がある。
(ピーター、ホールに出る。ジュリアのために玄関の扉を開けてやる。)
 ジュリア(ピーターに。)モヤはね、このパーティーをガスマスク・パーティーにしようって思ってたの。でもそれじゃ、何も飲めないって気がついたらしいわ。だから、どんなパーティーにするのか、私には分ってないの。
(二人退場。デイヴィッド、ソファに坐り、新聞を取り上げる。すぐに放り出す。部屋をうろうろと歩き始める。ジョン登場。飲み物のテーブルに行く。)
 デイヴィッド ピーターがやって来たんだ、さっき。
(間。ジョン、鋭い動きで反応を示す。)
 ジョン じゃあ、全ては水に流したってことだな?
 デイヴィッド いや、違う。金を借りに来ただけだ。借金を返すとか何とかで。
 ジョン(考えながら。)可哀想に、ピーター。どんなに厭だったろうな。借りに来るなんて。
 デイヴィッド あれは変ったよ、ジョン。一途(いちづ)に何かをしようという気力を全く失ってしまったようだ。
 ジョン フン、そいつはなかなか喜ばしい。
 デイヴィッド 今はもう感じる力がなくなっている。僕を嫌う気持さえ見てとれない。
 ジョン 感じないということは、満足していることでもある。(グラスを上げて。)これなしでそこに到達出来るとは、ピーターも幸せな奴だ。
 デイヴィッド 仕事も断った。
 ジョン そうか。あいつにはいいところがあると、前から気がついていたんだ。
 デイヴィッド 警句は止めろ、ジョン。僕は心配しているんだ。
 ジョン どうして。
 デイヴィッド あいつに、自分の人生をぶっ壊して貰いたくないんだ。
 ジョン そう言ったのか? あいつに。
 デイヴィッド 言った。
 ジョン やれやれ、たいした台詞だ。
 デイヴィッド あいつの後見人なんだ、僕は。
 ジョン 余計悪いね。人の頭を壜でしたたかに殴っておいて、気絶するとは怪しからんと、その男を叱るようなものだ。おまけに、殴った奴が、その男の後見人ときているんだからな。
 デイヴィッド つまり僕が悪いっていうことか。
 ジョン 違うのか。
 デイヴィッド なるほど悪いのは僕だろう。しかし、僕に何が出来るっていうんだ。
 ジョン 何かしたいって、本当に思っているのか?
 デイヴィッド 勿論だ。
 ジョン することは、ある。そんなに難しいことではない。
 デイヴィッド ある? 何が出来る。
 ジョン 僕にそれを本当に言わせたいのか。
 デイヴィッド 勿論。
 ジョン ヘレンを諦めるんだ。
 デイヴィッド 警句は止めろと言った筈だぞ。
 ジョン 警句を吐く人間の辛いところは、そいつが真面目に話していても、警句と見られてしまう事だ。
 デイヴィッド まさか。本気で言ってるんじゃないだろうな?
 ジョン 勿論本気だ。しかるべき考慮の結果、出て来た唯一の解決策だ。
 デイヴィッド つまり、僕に出来ることは何もないという意味なんだな?
 ジョン いや、ある。さっきから言っている。ヘレンを諦めるんだ。
 デイヴィッド 君は今からここを出て行く男だ。そいつに向かって乱暴な口をききたくはない。しかし君、君はまさか気づいていないんじゃあるまいな? 僕とヘレンがお互いに愛しあっている事を。
 ジョン いや、それは気がついている。
 デイヴィッド それなら君は、僕がピーターだろうが、他の誰だろうが、そいつのためにヘレンを捨てるような犠牲を払うと思っているのか。それにヘレンだってそうだ。ヘレンも僕を捨てるような、そんな犠牲を払う訳がない。
 ジョン ヘレンに相談することはない。君がただ闇の中に消えて行けばいいんだ。ロマンティックにね。スィドニー・カートン流にだ。
 デイヴィッド スィドニー・カートンは自殺したんだぞ。分ってるんだろうな。
 ジョン まあ、それもいいだろう。それだけの価値はあるさ。
 デイヴィッド(笑う。)おいおい、酔ってるのか?
 ジョン いや、まだだ。まだ酔ってはいない。
 デイヴィッド すると君は、僕がヘレンを捨てるのを真面目に提案しているのか。
 ジョン そう。実に真面目に提案している。
 デイヴィッド いいかジョン、今君が僕の目の前で、拷問にかけられて、死にかけている。そこで、僕がヘレンさえ諦めれば、君の命は救われる。そういう事態でも、僕はヘレンを捨てないね。そんな犠牲はどこの誰のためにだって、僕は払いはしない。
 ジョン ヘレンのためにでもか?
 デイヴィッド 何だって?
 ジョン ヘレンのためにでも、ヘレンを捨てるという犠牲を払わないか、と訊いているんだ。
 デイヴィッド 君は酔っていないとすれば、気違いだ。
 ジョン 僕の考えでは、君がもしピーターのためにヘレンを捨てるのは厭だというのなら、ヘレン自身のためにヘレンを捨てるべきだと思っている。勿論こんなことは僕とは何の関係もない。それはとっくに承知している。
(ジョン、立上がり、盆の上にグラスを置く。デイヴィッド、面喰らってジョンを見ている。)
 デイヴィッド つまり君は、ヘレンが僕を愛していないと言おうとしているのか。
 ジョン そんなことを言ってはいない。ヘレンは充分に君を愛している。君も彼女を、だ。ただ、君と彼女の愛し方の違いを言えば、これから一年経つと、彼女は今よりずっと君を愛するようになっているだろう。そして君は彼女を見るのも厭という程嫌うようになっている。その違いさ。
 デイヴィッド(自分をやっとのことで抑えて。)どうしてだ。
 ジョン もう君は半分嫌い始めているからな。彼女と君のこの一箇月、僕はちゃんと見て来た。
 デイヴィッド そう、喧嘩はしている。しかし、あれは何の意味もない。
 ジョン それだけの意味はあるんだ。彼女が君の生活に口を出して来るのを、君が嫌いはじめた証拠さ。
 デイヴィッド 僕の生活を変えようとする努力じゃないか。禁酒と同じだ。怒りっぽくなるだろうし、苛々する。しかし、僕自身、生活を変えたいんだ。それには彼女の助けがいる。時々はそれを嫌うのは仕方がない。
 ジョン デイヴィッド、君は今、ヘレンと話しているんじゃないんだ。僕を相手に芝居なんか打たなくてもいい。
 デイヴィッド 芝居なんか打ってはいない。
 ジョン それが芝居だというのは、君が一番よく知っている。いいか、しっかりと自分自身に訊いて、それから正直に僕に答えてくれ。これから熱心な小学生の女の子と二人だけで田舎に引っ込んで、その女の子の指図に従って、一日十時間働かされる。それで、自分が幸せと思えるかどうか。
 デイヴィッド 思えるさ。
(ジョン、微笑む。肩を竦める。)
 デイヴィッド 分ったよ。失敗するかもしれない。だけど、何の害もありはしないさ。
 ジョン そう。君には何の害もないだろう。田舎の別荘で数週間、退屈な日々を送るだけのことだ。ロンドンに帰って、今までの怠惰な生活に戻れば、そんな日のことはすぐ忘れるよ。
 デイヴィッド そういう生活に堪えられない僕だと君は思っているのか。
 ジョン デイヴィッド、僕はね、君がそうだと思ったりはしない。君がそういう人間だと、知っているんだ。
 デイヴィッド いいかジョン、それなら、僕がそういう弱い男だと仮定しよう。それならヘレンの方が僕の生活に合わせて行けばいいじゃないか。少なくとも僕は、その段階までは、彼女の生活に合わせようと努力はしたんだからな。
 ジョン そう。君は努力した。そしてヘレンは君に合わせようと努力するだろう。そして君は彼女を殺すんだ。丁度君がジョウンを殺したようにね。
 デイヴィッド(ヒステリックに。)何を言う! 何てことを言うんだ!
 ジョン じゃ、誰がジョウンを殺したか、君は知っているのか。
 デイヴィッド(さっきよりは静かに。)出て行け! 出て行くんだ!
(長い間。ジョン、動かない。デイヴィッド、ゆっくりと坐る。)
 ジョン 君は終始逃げてばかりいる。君はこの三箇月(訳注 原文では六箇月となっているが、三箇月の誤りと思う。)ジョウンが死んだのは君のせいだとちゃんと分っていた。しかし、それに面と向かおうとは決してしなかったんだ。
 デイヴィッド あれがそんなに気にしていた訳がない。
 ジョン いや、気にしたんだ。
 デイヴィッド 自殺なんかすることはなかった。
 ジョン 彼女に出来ることと言えば、あれ唯(ただ)一つだったんだ。
 デイヴィッド どうしてあれは僕にそのことを言わなかった。
 ジョン 君に言えば、君を退屈させるだけだと思ったんだ。この十二年間、君を退屈させたくないばっかりに、単純で素朴な女の子が、死ぬ直前のああいう女に自分を変えて行ったんだ。彼女の人生は贋(にせ)ものだった。君のためを思ってやった芝居だったんだ。
 デイヴィッド そうだとすれば、僕にも見てとれる筈だ。僕は気違いじゃないんだからな。
 ジョン そう。君は正気だった。しかし、見えはしない。あまりにも自己中心的で、君以外の誰の感情も君には興味がないんだ。
 デイヴィッド(間の後。)ヘレンに対しても僕は同じことをやるだろう・・・と君は言うんだな?
 ジョン 大いにあり得るな。
 デイヴィッド しかし、ヘレンはジョウンとは随分違うぞ。
 ジョン 十二年前のジョウンと比べれば、たいした違いではない。まあジョウンよりは少し魅力に欠け、ジョウンよりは少し気が強い。しかしたいした違いはない。
 デイヴィッド 君はジョウンに惚れていたんだろう。
 ジョン まあ、そうだな。
 デイヴィッド 何故あれに何もしてやれなかったんだ、君は。
 ジョン 僕に何が出来たっていうんだ。ジョウンが惚れていたのは君なんだからな。
 デイヴィッド 君はぼくには真実を話すことが出来た筈だぞ。
 ジョン 君にそれを言ったところで、ジョウンには何の助けにもならない。そうだろう。
(デイヴィッド、立上がり、ゆっくりと窓のところへ行く。)
 デイヴィッド 僕に対する君の観察は当っている。確かに僕は利己主義だ。しかし、だからこそ、今ヘレンを諦められないんだ。どうしても駄目だ。
 ジョン まあ、君には出来ないね。よく分るよ、僕は。
(ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ(ジョンに。)タクシーが参りました。
 ジョン 荷物は?
 ウィリアムズ 門番が今、タクシーに積み込んでいるところです。
 ジョン よし。
 ウィリアムズ これを風呂場で見つけました。これはひょっとすると・・・(ウィリアムズ、セルロイドのあひるを取り出す。)
 ジョン ああ、それは僕のだ。コートのポケットに入れて行く。有難う。
(ウィリアムズ退場。)
 ジョン さてと、あの厭な街へと出発か。さようなら、デイヴィッド。
 デイヴィッド 君が出て行くのは残念だ。
 ジョン 同じく・・・僕もだ。
 デイヴィッド ソファの上に、あのでかい図体(づうたい)があるのに随分慣れてしまったからな。
 ジョン そう。僕もあのソファには随分慣れた。あれから離れるのは悲しいよ。
 デイヴィッド さっき僕は怒鳴った。すまなかった。
 ジョン いいんだ。この家から出て行けと言われたのは、あれが最初じゃない。
 デイヴィッド そうだな。何度も言った。
 ジョン 本当に僕がこの家から出て行くなんて、奇妙な感じだな。
 デイヴィッド うん。現実とは思えない。
 ジョン うん。じゃ、さよならだ。
 デイヴィッド 一階まで降りよう。
 ジョン いや、止めてくれ。そこで言う台詞が思いつかない。それに、二人でわっと泣き出して、門番をびっくりさせても悪い。
 デイヴィッド じゃ、さよなら。
(二人、握手。)
 ジョン マンチェスターの入口の絵葉書を送るよ。
 デイヴィッド それは有難い。急ぐんだ。汽車に乗り遅れるぞ。
 ジョン 遅れるのだけは避けなきゃ。食堂車がついているんだ。どうしても、このマンチェスターを見る最初の一目は、アルコールで霞んだ目でやらなきゃ。やれやれ、何故この僕がマンチェスターくんだりまで・・・
(ジョン退場。)
(デイヴィッド、一人残り、無意識に部屋を歩き回る。ロンドン・ライブラリーの本を一冊取り上げ、ちらと眺め、それからそれを、ソファの上に投げる。暗くなってくる窓のところへ行く。少し躊躇い、それからバルコニーに出る。非常な努力をして、やっとのことで欄干に乗り出し、下を見る。数秒そのままの姿勢で留まり、それから部屋に戻って来る。窓を閉める。)
(ウィリアムズ登場。)
 ウィリアムズ 失礼します、旦那様。
(デイヴィッド、ゆっくりと振り返る。)
 デイヴィッド 何だ?
 ウィリアムズ 夕食は外になさいますか? それとも家で?
 デイヴィッド 家で食べる。
 ウィリアムズ 畏まりました。何人分で。
 デイヴィッド 二人だ。私とミス・ポッター。
 ウィリアムズ 畏まりました。
 デイヴィッド ああ、ウィリアムズ。
 ウィリアムズ はい。
 デイヴィッド レストラン・ジョゼフを知っているな?
 ウィリアムズ はい、存じております。
 デイヴィッド そこに七時半、手紙を持って行って貰いたい。ミス・バナー宛だ。それからウィリアムズ、荷造りをしてくれ。
 ウィリアムズ 荷造りでございますか?
 デイヴィッド そうだ。荷造りだ。私は明日から旅行だ。
 ウィリアムズ はい、畏まりました。
(ウィリアムズ退場。)
(デイヴィッド、素早く全てのカーテンを閉め、ピアノの傍の電気をつける。それから、衝動的に個人の電話帳を取り、受話器を外し、ダイヤルを回す。受話器に返事が出るまで、ピアノのキーを叩く。「アヴァロン」の最初の四つの音符。)
 デイヴィッド ああ、モヤ・・・デイヴィッドだ。・・・デイヴィッド・・・ああ、聞こえる。いいパーティーらしいね。ちょっとそこにピーターいる? 彼を頼む。・・・あ、ちょっと待って。僕だっていうことは言わないで。・・・そう。・・・ピーター・・・頼む、切らないでくれ。大事なことなんだ。・・・いいから僕に喋らせるんだ。・・・説教なんかする気はない。ニュースがある。君にはいいニュースな筈だ。それを知らせたいだけなんだ。・・・それが何かは、今は言えない。その時が来れば自然に分る。聞くんだ、ピーター。明日のヘレンとのデイト、絶対にすっぽかしちゃ駄目だぞ。大切なんだ。・・・冗談を言ってるんじゃない。・・・君にも、彼女にも、本当に大事なんだ。・・・約束してくれ。・・・有難う。・・・うん、それだけだ。・・・モヤを出してくれないか。・・・ああ、モヤ。夕食の後は何をする予定?・・・そう。そいつはいい。じゃ、僕も行く。・・・誰が来る? 昔の連中、みんなだろうな?・・・いや、今は行けない。ちょっと手紙を書かなきゃ。長い手紙なんだ。・・・うん。後から必ず。・・・淋しくなるからね、これから。
(デイヴィッド、受話器を下ろす。それからゆっくりとウイスキーのデカンターに手を伸ばし、自分の方に引き寄せる。)
                   (幕)

  平成十五年(二00三年)十二月四日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

After the Dance was first produced at the St James's Theatre, London on 21 June 1939, with the following cast:
John Reid Martin Walker
Peter Scott-Fowler Hubert Gregg
Williams Gordon Court
Joan Scott-Fowler Catherine Lacey
Helen Banner Anne Firth
Dr George Banner Robert Kempson
Julia Browne Viola Lyel
Cyril Carter Leonard Coppons
David Scott-Fowler Robert Harris
Moya Lexington Millicent Wolf
Lawrence Walters Osmund Willson
Arthur Power Henry Caine
Miss Potter Lois Heatherley

The play was produced by Michael Macowan


Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
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These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.