大脱出
              ノエル・カワード 作
                能美武功 訳

(題名に関する説明 この芝居の原題は Fumed Oak.  直訳すると「いぶした樫の木」。いぶした樫の木の家具は貴族の象徴。カワードはこれを皮肉った。しかし日本ではそれは分かり難いので、標題の題名を採用した。)

   登場人物
 ヘンリー・ガウ
 ドリス その妻
 エルスィー その娘
 ミスィズ・ロケット ヘンリーの義理の母(ドリスの母)

 第一場 朝
 第二場 夕方

(場 ロンドンにあるガウ家の居間。)
(時 現在。)

     第 一 場
(ガウ家の居間は、郊外ではごくありふれたもの。ちょっと鼻につく程洗練されている。舞台奥にフレンチ・ウインドウ。庭の狭い小道に通じている。フレンチ・ウインドウにレースのカーテンあり。カーテンの金具はペルメットで覆われている。カーテンの両側に、ちょっと色褪せたケースメント・クロス。右手にタイルの張られた暖炉。フレンチ・ウインドウと暖炉の間にアップライト・ピアノ。左手にいぶしオークの食器戸棚。戸棚の下方に、玄関ホールと階段に通じる扉。また、これもいぶしオーク材で出来ている食事用テーブルと六個の椅子。暖炉の前にソファと肘掛け椅子が一個づつ。ラジオ。部屋全体に、小さい飾り物、そして小さい額縁入りの写真、が細々と飾られている。)
(幕が上ると、春の朝、八時三十分頃。外は雨。フレンチ・ウインドウに、雨の滴の跡。朝食がテーブルに並べられている。)
(ミスィズ・ロケットが暖炉の前の肘掛け椅子に坐っている。傍に小さなテーブル。その上に紅茶のカップと縫い物などの手仕事用の籠。ミスィズ・ロケットは小太りで、灰色の髪。ブラウスとスカート、それに胡麻塩模様の偽シルクのジャンバー。柄つき眼鏡がしょっちゅう目と胸の上のクリップの間を往復している。年のせいで足が悪く、厚いキルトのスリッパを履いている。)
(ドリスはテーブルについて、薬味の壜に新聞を立て掛け、読んでいる。三十五歳くらい。かっては美しかったかもしれないその顔も、今は、への字に曲げた唇と、優しさのない表情で、すっかり原型を留めていない。得体のしれないフロック・コートのような服、腕輪(スレイヴ・バングル)と琥珀のビーズのネックレスをしている。エルスィーはドリスの娘。十四歳くらい。ドリスの向かい側に坐って、トーストを短冊切りにしている。ゆで卵につけて食べるため。ストレートヘアの、普通の女の子。セーラー服に赤い皮のベルト。)
(全員無言。時々スプーンがカップをがちゃがちゃ鳴らす音と、風邪気味のエルスィーが鼻をすする音がするのみ。)
(ヘンリー・ガウ登場。長身で痩せ型。青いサージのスーツをキチンと着ている。縁無し眼鏡。頭の側面に少し白髪。天辺は少し薄い。無言でテーブルにつく。ドリスは機械的に立ち上って出て行き、すぐ帰って来る。手にタラの皿。それをヘンリーの前に置き、また自分の場所に戻る。ヘンリー、自分で茶を注ぐ。ドリス、新聞から目を離さず、ミルクと砂糖をヘンリーに渡す。やがてエルスィーが沈黙を破る。)
 エルスィー ママ。
 ドリス 何。
 エルスィー 私、髪をアップにしていい?
 ドリス(びしりと。)まだ早過ぎます。
 エルスィー グラディス・ピアスは上げてるのに。私と同い年じゃない。
 ドリス グラディス・ピアスは関係ありません。さっさと朝食を食べなさい。
 エルスィー じゃあ、カットは駄目? このままよりはましだけど。
(この台詞は無視される。)
 エルスィー メイズィー・ブレイクは先週切って、すごく可愛くなったんだけどなあ。
 ドリス メイズィー・ブレイクも関係ありません。あんなつまらない家柄の子。
 エルスィー プリチャード先生とは意見が違うのね。先生はメイズィー・ブレイクが大好きだよ。ショートヘアにして良く似合うって。
 ドリス(苛々と。)何。
 エルスィー 髪の話。
 ドリス いい加減に朝食を食べなさい。遅刻しますよ。
 エルスィー(すねて。)ひどい・・・
 ドリス 鼻をすするのは止めなさい。ズルズル、ズルズル! ハンカチはどうしたの。
 エルスィー 持ってる。でも、新しいの。
 ドリス 構いません。使いなさい。
 ミスィズ・ロケット あんた、子供は風邪をひくもんだよ。
 ドリス 風邪をひいたとしても、鼻はかめるでしょう。
 エルスィー(誰にともなく。)ドディー・ワトソンはひどい風邪を引いたの。何週間も治らなくて。風邪菌が頭から胸に降りて、また胸から頭に上って行ったの。
 ミスィズ・ロケット 学校の中でも最低の学校だね。しょっちゅう風邪やら何やらうつされて来るじゃないか。
 エルスィー プリチャード先生はドディー・ワトソンに意地悪を言うのよ。「それ、うんざりだわね」だって。
 ドリス 何がうんざりだって?
 エルスィー 風邪よ。
(再び沈黙。隣の家から赤ん坊の泣き声がしてきて沈黙破られる。)
 ミスィズ・ロケット またあの赤ん坊。お蔭で夕べ一晩中眠れなかったよ。
 ドリス お気の毒。お可哀相に。
 ミスィズ・ロケット(縫い物の袋の中を探りながら。)あんたに同情して貰うことはないよ。
 ドリス その前の晩はスチームのパイプの音だったわ。
 ミスィズ・ロケット そうそう、あれは見て貰わなきゃ駄目だろう?
 ドリス 時々ああいう音がするんです、あのパイプは。そういうものなの、あれは。お母さんも御存知じゃありませんか。
 ミスィズ・ロケット(針に糸を通しながら。)どうして修理屋を呼ばないんだい。
 ドリス(横柄に。)私が必要だと思わないからです。
 ミスィズ・ロケット 私の部屋で寝てみりゃいいんだ。あんただって必要と思うに決まってる。ガーガーガーガー、一晩中鳴っているんだから。あんたはいいわよ。通路の端の部屋で寝るんだからね。
 ドリス(含みのある言い方。)わざわざあの部屋で寝ることはないんですよ、お母さん。
 ミスィズ・ロケット それはどういう意味なんだい?
 ドリス 意味なんか、とっくに分ってるでしょう?
 ミスィズ・ロケット(声を上げて。)いいかい? ドリス・ガウ。私はね、ここで不満があったら、ちゃんとその不満を言う権利があるんですからね。私はちゃーんと金を払って住んでるんだから。そのことは、その頭によく入れて置くんだね。
 ドリス どうしたんですかお母さん、この頃。口を開けばブツクサ文句ばかり言って。
 ミスィズ・ロケット 文句ばかり! この私が? 呆れたね、あんたには。全く呆れたよ。
 ドリス そうです。文句ばかり。頭が痛くなってくる。
 ミスィズ・ロケット あんたのその頭痛は何とかしなくちゃいけないね。ほんのちょっとしたことですぐ出て来る。
 ドリス 二言目には「金を払って住んでいる」。これは止めて戴きたいわね。
 ミスィズ・ロケット だってそうでしょう? ただで住んではいないの。
 ドリス まるで私達がお母さんを利用しているように聞えるでしょう?
 ミスィズ・ロケット だってそうじゃないか。「利用している」・・・当らずとも遠からずの表現よ。
 ドリス まあ、何てことを! しみったれで、チビチビとしか出さない癖に!
 ミスィズ・ロケット そう。それ以上出しているとは言わないよ。でも、いくら出したって同じよ。思い遣りってものがないんだからね。
 ドリス じゃ、ノーラの家に行ったらどうなの。気分が変っていいでしょうに。
 ミスィズ・ロケット ノーラの家じゃ、空いた部屋がなくってね。
 ドリス フィリスの家ならあるわ。鉄道の線路に面している素敵な空き部屋が。あそこだったら、スチームパイプがガタガタ言うこともないわ。もともとスチームなんて、あそこにはないんだから。
 ミスィズ・ロケット 勿論あんたが、私をここに置いておけないって言うんなら、私は養老院にだって、どこへだって・・・
 ドリス また! 行けるもんですか。
 ミスィズ・ロケット 私はね、置いておけないっていう家に、無理矢理居座ろうなんて腹は、まるっきり・・・
 ドリス もう止めて頂戴。いつでもこれ・・・
 ミスィズ・ロケット(誰に言うともなく。)どうも誰かさん、寝起きが悪かったみたいね。ベッドの降り方を間違えて、いつもの逆から降りたのね。
 エルスィー ママ、もう少しトースト、食べていい?
 ドリス 駄目。
 エルスィー 自分で出来るけど? 台所へ行って。
 ドリス 駄目って言ったら駄目。あんた、駄目っていう言葉も分らないの? もう十分食べてるの、あんたは。それに学校に遅れるでしょう? 早くしないと。
 ミスィズ・ロケット 大丈夫よエルスィー。ほら、二ペンス。これでパレットさんの店でスポンジケーキを買いなさい。
 エルスィー(金を受取って。)有難う、おばあちゃん。
 ドリス 駄目よ、買い食いなんか、エルスィー。道路の真ん中でお菓子を頬張っている子なんか、うちの子じゃないんだからね。
 ミスィズ・ロケット(優しく。)お店の中で食べるんだよ。いいね? エルスィー。
 ドリス 遅れますよ。早く行きなさい。
 エルスィー でもママ、まだ十分前なのよ。
 ドリス 言われた通りになさい!
 エルスィー ウーン、分った。
(エルスィー、すねて、部屋から出る。階段をわざとドスンドスン音をさせて上って行くのが聞える。)
 ミスィズ・ロケット(苛々と。)可哀相に。
 ドリス エルスィーを甘やかさないで下さい、お母さん。
 ミスィズ・ロケット 甘やかす! 全くよく言えたものよ。満足に食事も与えないで。
 ドリス(かっとなって。)まあ。私が食事をけちっているとでも?・・・
 ミスィズ・ロケット ええ。そうじゃないの。あんた、ろくに食事を出してないよ。エルスィーは身体が大きくなってきている。それなのに、トースト一枚しか出してやらない。あの子は卵を食べるのにそれを使っていただろう? 私はちゃんと見ていましたからね。
 ドリス お母さんはあの子に構わないでほっといて下さい。それに、二ペンスだって馬鹿になりませんからね。ちゃんととっておいて、後で困らないようにして下さいよ。
 ミスィズ・ロケット(傷ついて。)分りましたよ。あの子が可哀相で、何かしてやる度に、こうあれこれ言われるんじゃね。私だって・・・
 ドリス あんなことされちゃ、私があの子を虐(いじ)めているように思われるでしょう?
 ミスィズ・ロケット その通りでしょう? 叱ってばかりいて。
 ドリス そんなことはしていません。お母さんは黙っていればいいんです。
(ドリス、ぱっと立ち上り、窓の方へ行く。窓枠を指で苛々と叩く。ヘンリー、ドリスが落した新聞を静かに畳み、テーブルの上に置く。)
 ミスィズ・ロケット(猫なで声で。)癇癪(かんしゃく)を起しちゃいけないね。
 ドリス 癇癪なんか、起していません。
 ミスィズ・ロケット あんたが今のエルスィーの年頃の時、私に分ってたらね・・・あんたが将来、こんな風になると私に分っていたら・・・もっとちゃんと行儀をしていたのに。
 ドリス お生憎(あいにく)でしたわね。行儀が足りなくて。
 ミスィズ・ロケット ただね、言っておくけど、私はね、子供を育てる時食べ物をけちったことはありませんからね。
 ドリス 子供の育て方にいちいち口を出さないで。私には私のやり方があります。
 ミスィズ・ロケット あの風邪はもう何週間も続いている。それなのにあんたは何の世話も・・・
 ドリス ちゃんと吸入をやらせています。だから、家中があの吸入の薬の臭いです。それ以上何をやれって言うんです。
 ミスィズ・ロケット 風邪が一番酷かった先週の土曜日、ブリストウ先生に見せなきゃいけなかったんだよ。あの先生だったら、すぐに治っていた筈なのに。
 ドリス まあまあ、ブリストウ先生は、お母さんにあっちゃ、神様ね。
 ミスィズ・ロケット 肺炎にでもなったらどうするの。ヘンダスン家(ち)のミュリエルをご覧なさい。風邪をこじらせて、到頭肺炎になったのよ。もう息もつけなくなって、一晩中やかん二つを焚きっぱなしにしてやっと・・・
 ドリス そこでまたブリストウ先生のおでましなのね、きっと。それを先生から聞いたって言うんでしょう?
 ミスィズ・ロケット そうですよ。それで先生はあのミュリエルの命を救ったの。ミスィズ・ヘンダスンに聞いてみたらいいの。
 ドリス あんな人に私が何かものを訊くなんて。あんな生意気な女に。
 ミスィズ・ロケット ミスィズ・ヘンダスンは素敵な女性ですよ。ただ、物静かで、全てに控えめなんです。それがあんたには生意気に見えるのです。
 ドリス 何様だと思っているの一体、あの女。レイディー・マウントバッテンだとでも思っているんだわ。
 ミスィズ・ロケット あんたには本当に呆れてしまうわね、ドリス。大抵にするものよ。
 ドリス お母さんがそんなにあの女が気に入っているのなら、もっと頻繁にあの家に行ったらいいじゃないの。それほどは行ってらっしゃらないようだわ。
 ミスィズ・ロケット(威厳をもって。)私は招待された時に行くんです。
 ドリス(勝ち誇って。)そうでしょうねえ。
 ミスィズ・ロケット あの人はね、人を簡単に家によぶような人じゃないの。アミー・フォーセットとは違うんです。
 ドリス アミー・フォーセットがどうしたって言うんですか。
(エルスィー登場。レインコートと雨用の帽子を被っている。音をたててピアノまで行き、楽譜の積み重なっているところを乱暴に何か捜す。)
 ミスィズ・ロケット まづ第一に、あの人は下品なの。髪を染めてみたり。それに、人の言葉につられる人。首尾一貫しないの、私から言わせると。
 ドリス 勿体ぶっていないっていうことでしょう?
 ミスィズ・ロケット それは勿体ぶれないでしょうね。ああいう人生を歩んできた人にはね。
 ドリス どういう人生を歩んで来たって言うんですか、あの人が。
 ミスィズ・ロケット 誰だって知っています。ただ、あの女を見さえすれば分ることですからね。私にだって、経験というものがあります。私に目隠しをしようったって、そうは行きませんからね。
 ドリス(エルスィーに。)物を放り投げたりしないんです! 何を捜しているんですか!
 エルスィー 「ピクスィーの行列」。夕べはちゃんとあったの。
 ドリス 青い表紙だったら、その一番底にあるのがそうじゃない?
 エルスィー 違うわ。・・・ああ、どうしよう。なかったら私、プリチャード先生に怒られちゃう・・・
 ミスィズ・ロケット 自分の鞄の中に入れたんじゃないのかい? ほら、見せてご覧・・・(椅子の背にかかっているエルスィーの鞄を開け、中を探る。)これかい?
 エルスィー そう。有難う、おばあちゃん。
 ドリス さあ、早くなさい。遅れますよ。
 エルスィー 分ったわ。じゃママ、行って参ります。おばあちゃん、パパ、行って参ります。
 ヘンリー 行ってらっしゃい。
 ミスィズ・ロケット じゃあね。おばあちゃんにキスは?
(エルスィー、ミスィズ・ロケットにキス。)
 ドリス 帰り、道草を食わないんだよ。
 エルスィー うん、分ってる、ママ。
(エルスィー退場。玄関のバタンと閉まる音、家中に響く。)
 ドリス(苛々と。)やれやれ。
 ミスィズ・ロケット(馬鹿丁寧に。)あんた今朝、町に出るかい? もし出るんだったら御面倒でも、白い毛糸一巻き買って来ておくれでないか?
 ドリス あら、一緒にいらっしゃるんじゃなかったの?
 ミスィズ・ロケット ちょっとそんな気分でなくなってね。
 ドリス 買物リストに加えておくわ。
(ドリス、サイドボードの引きだしから紙を取出し、何か書く。)
 ミスィズ・ロケット 通り道でなかったらいいんだからね。いつだって大丈夫なんだから。
 ドリス ヘンリー、あなたもう時間過ぎてますよ。
 ヘンリー(見上げもせず。)知ってる。
 ドリス 遅刻しますよ。
 ヘンリー 構わんさ。
 ドリス 何ていう言いぐさなの、それ。
 ミスィズ・ロケット うちの人が生きていたら、何て言うでしょうね。あの人は時間厳守だった。あの人に遅刻なんて、天地がひっくり返ったってありっこなかったわ。
 ドリス ヘンリーはしょっ中よ。何でしょうね、一体。
 ミスィズ・ロケット(糸を歯で切って。)こっち側はこれで終り。
 ドリス(ヘンリーに。)立って頂戴。片付けるわ。
 ヘンリー(立ち上りながら、上の空で。)うん、分った。
 ミスィズ・ロケット イースルはどこ?
 ドリス ベッドの後片付け。(訳註 このイースルというのは女中。)
(ドリス、サイドボードの傍の壁に立て掛けてあった盆を取り、その上に朝食のものをのせる。)
(ヘンリー、黙って部屋から退場。)
 ドリス まあ、こんなに残して。(残り物を暖炉の火に投げ込む。)
 ミスィズ・ロケット あの人、どうかしたのかね。
 ドリス 私に訊かないで。訊かれたって答えられっこないんだから。
 ミスィズ・ロケット 夕べ、随分帰りが遅かったよ。トイレに行く音が聞えたからね。(間。)水の出る時のあの音!
 ドリス また! 音、音、音!
 ミスィズ・ロケット しようがないだろう? 音がするんだから。
 ドリス(ティーポットをガシャンと音をたてて盆にのせて。)すみませんね、大変。
 ミスィズ・ロケット あの人夕べ、どこに言ったんだろう。
 ドリス 知るわけないでしょう? あの人に訊くなんて、そんなみっともないこと、出来ますか。
 ミスィズ・ロケット 飲んで来たのかしら。
 ドリス そんなわけないでしょう。
 ミスィズ・ロケット 飲んで来たようだったわ。私はそう思った。何だか騒がしかったもの。
 ドリス あの人、一滴も飲まないのを知っているでしょう?
 ミスィズ・ロケット そう。あの人がそう言っているのは、知っているわ。
 ドリス うるさいわね、お母さん。みんながみんな、お父さんみたいってわけじゃないのよ。
 ミスィズ・ロケット 何だいそれは、ドリス。あんた、お父さんのことを悪く言おうって言うのかい?
 ドリス そんなつもりはないわ。
 ミスィズ・ロケット(怒鳴る。)あるの! あんたは! あんた、またお父さんの悪口を!
 ドリス(盆を持ち上げて。)お父さんは飲んだくれ。お母さんだって、百も承知。それに、誰だって知っている。
 ミスィズ・ロケット あんたは悪い女だ。
 ドリス 本当だからしようがないでしょう?
 ミスィズ・ロケット あんたの父親は紳士だったの。あのヘンリーなんて比べものにならない紳士。夜学には通っていたし、本は読んでいたし・・・夜学なんだからね。本当に!
 ドリス さあ、今度は誰のことを悪く言おうっていうの?
 ミスィズ・ロケット(怒って。)そう。言いますよ。言って悪いのかい?
 ドリス どう悪く言おうっていうの?
 ミスィズ・ロケット(皮肉たっぷりに。)夕べあの人、夜学にでも行っていたんでしょうよ、きっと。
 ドリス(大声で。)それがお母さんに何の関係があるって言うの!
(ヘンリー、レインコートに山高帽を被って登場。)
 ヘンリー どうしたんだい?
 ドリス 夕べあんた、どこへ行ったの?
 ヘンリー どうして?
 ドリス お母さんが知りたいって。それに、私も知りたいわ。
 ヘンリー 店が遅くなってね。それで町で食事をして来たんだ。
 ドリス 誰と?
 ヘンリー チャーリー・ヘンダスンとだ。
(ヘンリー、テーブルから紙を取り上げ、退場。暫くして玄関の扉が閉まる音。)
(隣の家の赤ん坊が、大きな声で泣き始める。)
 ミスィズ・ロケット あの泣き方だわ、また。あれはお腹がすいている泣き方よ。
 ドリス 行って二ペンスやってきたら。これでスポンジケーキを食べなさいって。
(ドリス、足で扉を開け、盆を持って退場。その時、舞台暗くなる。)

     第 二 場
(午後七時半頃。エルスィーがピアノの稽古をしている。音の大きくなるペダルを踏みっぱなしにしながら。)
(ミスィズ・ロケットは暖炉の傍の椅子に坐っている。しかし、よそ行きの服装。黒い帽子を被って、それにベールもつけている。)
(ドリスも外出着。外出のため、洗い物を省くためか、紙製の食器が使われていたが、それを丁度片付けているところ。)
(テーブルの端に布があり、その上にパン、ハムの皿、二個のトマトがのっている皿、エーワン・ソースの瓶、紅茶のポット、砂糖壷、牛乳入れがのっている。)
(ヘンリー登場。レインコートを脱ぐ。部屋の様子を眺め、再び玄関ホールへ行き、レインコート等をかけに行く。エルスィー、ピアノを止め、ドリスのところに行く。)
 エルスィー 私達、もう行くの?
 ドリス もう少しよ。
 エルスィー ミッキー・マウスに遅れちゃうわ。
 ドリス 帽子を被りなさい。心配しなくていいの。
 エルスィー(サイドボードから、自分の帽子を取って来て。)うん、分った。
(ヘンリー、再び登場。)
 ドリス 夕食は用意出来ているわ。お湯がいる時は薬罐(やかん)がガスストーブにかかっているから。私達はもうすませました。
 ヘンリー すませた?
 ドリス そんな。虐(いじ)められたような顔をしなくてもいいでしょう?
 ヘンリー そうか。
 ドリス あなた、もう少し早く帰って来られたら、随分手間が省けるのに・・・
 ヘンリー(愛想よく。)ああ、ご免、ご免。
 ドリス ご免ご免と言っていればすむのね、あなたは。この二、三週間、あなた、どんどん遅くなって来ているわ。そんなに毎日残業があるって、どういうことかしら。
 ヘンリー 分ったよドリス、連中に言っとくよ。
 ドリス さ、エルスィー、これを片付けて。
(ドリス、エルスィーに紙の食器類を渡す。エルスィー、受取ってサイドボードの左手の食器棚に置く。)
 ヘンリー(テーブルについて。)ほほう、コールドハムか。こいつは参ったな。
 ドリス(ヘンリーを鋭く睨んで。)どうかしたの?
 ヘンリー いや、分らんな・・・まだ。
 ドリス コールドハムに文句あるの? 買いたてよ。古くなんかないわ。
 ヘンリー どうしたんだ? よそ行きなんか着て。
 エルスィー 映画に行くの。
 ヘンリー なるほど。
 ドリス 食べ終ったら、全部を盆にのせて、台所に運んでおいて。イースルが遣りやすいように。
 ヘンリー 優しい優しいイースルさんか。
 ドリス(驚いて。)何ですって?
 ヘンリー 優しい優しいイースルさん、と言ったんだけど。
 ドリス 何? その馬鹿な言い方。
 ミスィズ・ロケット(ヘンリーをじろじろ見ながら。)どうしたの? あんた。今日は。
 ヘンリー 別に何も。何故ですか。
 ミスィズ・ロケット ちょっと様子が変だから。
 ヘンリー 変か・・・様子がね・・・
 ミスィズ・ロケット あんた、呑んで来たのね。
 ヘンリー あたり!
 ドリス ヘンリー!
 ミスィズ・ロケット やっぱり。そうだと思った。
 ヘンリー 町でウイスキーソーダを一杯。それからプロウで、もう一杯。
 ドリス(呆れて。)何のために?
 ヘンリー ちょっとね。呑みたい気分になってね。
 ドリス 恥を知りなさい、恥を。
 ヘンリー 実は、もう一杯行く予定なんだ。もう少したったらね。
 ドリス そんなこと、させません。
 ヘンリー その帽子、嫌らしい色だねえ。
 ドリス(かっとなる。)私に向って、何てことを言うんです。
 ヘンリー ほほう、何故言っちゃいけないのかね。
 ドリス(ちょっと困る。)あんたにそんなことを言わせたくないからです。決まってるでしょう。
 ヘンリー 実に下品な帽子だ。見られたものじゃないね。
 ドリス(見上げた自制心で。やっと。)いいですかヘンリー・ガウ、今度あんたが外で呑んで来て私を侮辱するようなことがあれば・・・
 ヘンリー(優しく、途中で遮って。)・・・するようなことがあれば、どうなるのかな、ドリー。
 ドリス(怒って。)私にも覚悟があるんですからね。よく肝(きも)に命じて置きなさい。
 ヘンリー どんな覚悟か知りたいもんだね。しかし肝に命ずるほどとは到底思えないがね。(笑う。自分の冗談が気に入る。)
 ドリス 何の真似ですヘンリー・ガウ、この無法な言動は。
 ヘンリー お祝いなんだ、これは。
 ドリス お祝い? 一体、何のことです。
 ヘンリー 今日は我々の結婚記念日なのでね。
 ドリス 何を馬鹿なことを! 結婚記念日はまだ先。十一月でしょう!
 ヘンリー いや、僕の言っているのは、実質的な方なんだ。今夜が君と初めて関係を持った記念すべき日でね。そして君が孕(はら)んだ日なんだ。
 ドリス(金切り声を上げる。)ヘンリー!
 ヘンリー(計算通り事が運んでいるのを喜んで。)ばんざーい、だな、こいつは。
 ドリス(我を忘れて。)何てことを言うんです。おまけに子供のいるところで!
 ヘンリー(物語を語る口調で。)その素晴らしい夜のあと、三年ちょっと経ってから素敵な赤ちゃんが生まれましたとさ!(普通の言い方に戻って。)エルスィー、お前、三年もお母さんのお腹にいたのなら、随分いい子になって出てくる筈なんだが。たいしていい子じゃないよ、お前は。呆れたものだ。
 ドリス 二階へお上がりなさい、エルスィー。
 ヘンリー ここにいるんだ、エルスィー。
 ドリス 言われた通りになさい!
 エルスィー だって、ママ・・・
 ドリス お母さん、早く。お願い。これは喧嘩になるわ。
 ヘンリー(しっかりと。)その子に構うな。坐るんです、お母さん。
(ミスィズ・ロケット、躊躇う。)
 ヘンリー 坐りなさい! 早く。
 ミスィズ・ロケット(椅子に坐る。)全く、こんなことって・・・
 ヘンリー(嬉しそうに。)ほーら、なかなか効き目があるもんだ。魔法みたいだぞ。
 ドリス 恰好いいところを見せたつもりなのね。いい気なものよ。
 ヘンリー なかなか悪くないだろう? ちょっとうまくいって、正直のところ、御機嫌なんだ。
 ドリス もう寝なさい!
 ヘンリー 私に命令するのは止めるんだな。私に横柄に構えたり、息まいたり、何の権利があってお前にそんなことが出来るんだ。何の権利もありはしない。ここの家賃を払っているのはこの私だ。お前達のために働き、お前達を養っているんだ。そのお返しにお前は何をしてくれた。知りたいものだね。何もないじゃないか。朝食のためにテーブルにつく。するとお前は、母親と啀(いが)み合いだ。いつも機嫌が悪くて「おはよう」一つ言ったことがない。一日中私は働いて、疲れて帰って来る。それで私に、お前の手で料理したものを出したことが何回ある。いつも出来あいのただ買って来たハムだのソーセージだの。今日だって、見ろ! ハムだ! こんなもの毎日亭主に食わせるものだと思っているのか!(ドリスの足下にハムの皿を投げ付ける。)それにトマト! 出来あいのエーワン・ソース!(トマトもソースも投げる。)
 ドリス(金切り声を上げる。)ヘンリー! 絨毯が!
 ヘンリー(バターの入っている皿を下向きに絨毯に投げて。)何が絨毯だ。こんなもの、これで丁度いいんだ!
 ドリス ああ私、こんな目にあうなんて。自分の夫にこんな目に合わされるなんて。自分の結婚した男がこんな男だったなんて!
 ヘンリー 取り乱すのはまだ早過ぎるぞ。今からそう自制心をなくしていたんじゃ大変だ。これからまだ、沢山私の台詞を聞いて貰わなきゃならない。その時にはもっと自制心が必要だからね。
 ドリス 何よ。偉そうに!
 ヘンリー 坐れ! みんな坐るんだ。一度ぐらい映画を見損なっても仕方がない。
 ドリス エルスィー、来なさい。
 ミスィズ・ロケット そう。二人とも行きなさい。
(ドリス、扉の方に進む。が、ヘンリーの方は素早い。ヘンリー、扉に鍵をかけ、鍵をポケットにしまう。)
 ヘンリー これからやる場面は、もう昔からやりたくてうずうずしていたんだ。そこからお前を逃げ出させるようなヘマをやって、その大事な場面を台なしにしたくはないのでね。
 ドリス(涙が出そうになる。)出して、この部屋から。
 ヘンリー 言うことが終るまでは出させはしない。
 ドリス(わっと泣きだして、テーブルにつっぷして。)ああ、ああ、ああ・・・
 エルスィー(こちらも泣きだす。)ママ・・・ああ、ママ・・・
 ヘンリー ほら、エルスィー。行って、サイドボードからポートワインを持って来なさい。お母さんに飲ませるんだ。早く! 言う通りにしなさい。
(エルスィー、恐怖に捕われて、催眠術にかかったように従順に、サイドボードへ行き、病人用のポートワインとグラスを取って来る。その間中、鼻をすすって泣く。ドリス、泣き続ける。)
 ヘンリー よし。それでよし。
 ミスィズ・ロケット(静かに。)酔っ払いの獣(けだもの)!
 ヘンリー(陽気に。)そんなものでは済みませんね、お母さん。僕はもっと、ずっと酷いものです。今に分りますよ。
 ミスィズ・ロケット(これを無視して。)ポートワインをお飲み、ドリー。気分が落ち着くわ。
 ドリス とても飲めないわ。・・・むせるわ、きっと。
 ヘンリー(少し注いで。)さあ、飲むんだ。
 ドリス 来ないで。あっちへ行って。
 ヘンリー 飲むんだ。そして泣くのは止めるんだ。
 ドリス あんたのこと、決して、決して許さない。一生涯許してやるもんですか。(少しポートワインを飲む。)
 ヘンリー(飲んだのを見届けて。)よし、それでいい。
 ミスィズ・ロケット この人のこと、構うんじゃないよ、ドリー。酔っ払いなんだ、この人は。
 ヘンリー 私は酔ってはいない。ウイスキー・ソーダを二杯飲んだだけだ。最初の一撃がうまくいかないとまづいと思って、景気づけにね。いや、実に怖かった。実際にこれを実行することを想像している時は本当に怖かった。今はしかし、ちっとも怖くなんかない。想像していたよりもずっと簡単だった。今となって悔やまれるのは、何故もっと早くに、やっておかなかったかという事だ。ドリー、お前のことを私がどう思っていたか、そいつをお前の目の前でぶちまける。この何年間ずーっと思っていたことをだ。それから、この可愛げのないガキに。それから、お前の母親の、その糞婆バアにだ。
 ミスィズ・ロケット(金切り声を上げる。)ヘンリー・ガウ!
 ヘンリー 聞えたでしょう? 私はちゃんと糞婆バアと言ったんです。それも正真正銘、本気でね。
 ミスィズ・ロケット この部屋から出して。私は自分が侮辱されるのを黙って聞いているような女ではありません。すぐ私を出すのです!
 ヘンリー いいえ。いて戴きます。私が満足のいくまで、ここにいて貰います。
(ミスィズ・ロケット、驚くべき素早さで、フレンチウインドウに駆け寄り、ウインドウの一つを引き開ける。ヘンリー、ミスィズ・ロケットの片腕を掴む。)
 ヘンリー そうはさせません。
 ミスィズ・ロケット 放せ! 放せ!
 ドリス お母さん、隣に聞えるわ。止めて!
 ヘンリー 放したりはしませんよ。決してね。
 ミスィズ・ロケット(急に大声で怒鳴る。)助けて! 助けて! 警察を呼んで! 助けて! ミスィズ・ハリスン・・・助けて!
(ヘンリー、ウインドウからミスィズ・ロケットを引き離し、半回転させ、顔に軽い平手打ちを与える。ミスィズ・ロケット、ピアノによろよろとぶつかる。その間ヘンリー、ウインドウを閉め、鍵をかけ、鍵をポケットに入れる。)
 ドリス(ヘンリーを恐怖の表情で見て。)まあ、まあ、何てことを。何てことを。
 エルスィー(わっと泣きだして。)ああママ、ママ。パパがおばあちゃんを・・・ああ、ママ・・・
(エルスィー、ドリスに駆け寄る。ドリス、エルスィーを守るように片腕を背中に廻す。)
 ミスィズ・ロケット(喘ぎながら。)ああ・・・心臓が・・・気絶しそう・・・ああ、苦しい・・・
 ヘンリー 心配はいりません。気絶してもちゃんと戻して上げます。
 ミスィズ・ロケット ああ・・・ああ・・・ああ・・・
(ミスィズ・ロケット、ピアノに縋(すが)っていたが、ずるずると床に落ちそうになる。それを辛くも避けて、ピアノのストゥールに縋りつく。)
(ドリス、テーブルから飛び上るように立つ。)
 ドリス お母さん!
 ヘンリー いいから。そこにいるんだ!
(ヘンリー、サイドボードに行き、水をグラスに注ぐ。ドリス、ヘンリーの言うことを聞かず、母親に駆け寄る。エルスィーは泣いている。)
 ヘンリー どきなさい、ドリス。濡れても知らないぞ。
(グラスを持って近づく。水をかける。ミスィズ・ロケット、弱々しく坐る。)
 ミスィズ・ロケット(遠くからのような声。)ここはどこ?
 ヘンリー クラファム、クランワース・ロード、十七番。
 ミスィズ・ロケット ああ・・・ああ・・・
 ヘンリー いいですか、お母さん。変な誤解があるといけませんから、これだけははっきりさせて置きますよ。私は今お母さんを殴りました。溜飲がおりました。胸がスーっとしました。ちっとも嫌じゃなかったんですからね。お行儀よくしなければ、私はいくらでも殴りますよ。さあ、自分の椅子にきちんと坐って。それから、気絶しそうになったら、グラスに水がちゃんと用意してありますからね。
(ヘンリー、ミスィズ・ロケットを導いて、暖炉の傍の彼女の椅子に坐らせる。ミスィズ・ロケット、倒れるように椅子に坐り、ぼんやりとヘンリーを見る。)
 ヘンリー さてと。坐るんだ君も、ドリー。ぼーっと突っ立ってると馬鹿に見えるぞ。
 ドリス(ぐっと自制して、やっと声が出る。)ヘンリー・・・
 ヘンリー(ゆっくりと。しかし非常にしっかりと。)坐るんだ! それから、エルスィーを黙らせろ。黙らないと同じ目にあうぞ。
 ドリス(威厳をもって。)さ、ここに、エルスィー。静かになさい!
(ドリス、エルスィーとテーブルの椅子に坐る。)
 ヘンリー それでよし。
(ヘンリー、黙って部屋を歩き廻る。三人を時々見る。非常な満足の表情。暫くして暖炉に近づく。ミスィズ・ロケット、また殴られるのではないかと、びくっとする。ヘンリー、安心させるように微笑み、煙草に火をつける。その間ドリス、怖れが退き、だんだんと怒りが込み上げて来る。しかしまだ、じっと見つめたまま黙っている。)
 ヘンリー さて、説明を始めるとする。よく分るようにゆっくりとね。
 ドリス 随分楽しそうだこと。
 ヘンリー そう。実に楽しい。
 ドリス(勇気を出して。)十分にほくそ笑んでいればいいわ。そのうち私が徹底的にやっつけてやるから。
 ヘンリー(乱暴でなく、丁寧に。)そうだねドリー、十分にほくそ笑まして貰いましょう。
 ドリス 何がドリーよ。止めなさい、そんな呼び方。酔っ払って帰って来て、可哀相に、お母さんを叩いて、エルスィーを半狂乱にさせて。
 ヘンリー エルスィーにはいい薬になるさ。いや、二人とも勉強になったろう。少しは家(うち)にも、興奮するようなことがなくちゃ。今までは退屈そのものだったからね。
 ドリス(苦々しい皮肉。)恰好いい! 素敵な台詞だわ。
 ヘンリー 十五年・・・いや、十六年前の今日の夜だった、あれは。なあドリー、スタンスフィールドの君の伯母さんの家で、君と僕とは絡み合っていたんだ。
 ドリス ヘンリー!
 ヘンリー(ドリスの言葉を無視して。)丁度日曜日だった。絡み合う家も提供されたのさ。下宿人のミスター・スィモンズと伯母さんはよろしくゴールデン・カーフへとお出ましになるという筋書きでね。言うまでもないが、この下宿人、伯母さんの所謂(いわゆる)「いい人」でね。
 ミスィズ・ロケット 何て下司(げす)な話。私、聞く耳持ちません!
 ヘンリー(ミスィズ・ロケットの方を向いて。)お黙りなさい! しっかり聞くんです!
 ドリス この人の言うことなど気にしないで。気違いなのよ、この人。
 ヘンリー ええと、どこまで行ったか・・・ああ、そうそう、スタンスフィールドだったな。君はもうずっと前から僕に目をつけていたんだ、ドリー。その時には全然僕は気がついていなかった。が、後ですぐに分った。君はどうしても結婚の相手が必要だった。妹のノーラも、弟のフィリスも婚約していて、年上の君が残るような外聞の悪いことは出来なかった。急がなきゃならない。それで僕に決めたんだ。君は十分に美人だった。僕は見事にひっかかった。身も心も、ってやつだ。スタンスフィールド・ロードのことがあって、二箇月経った。君は妊(みごも)ったと言った。泣いて、喚(わめ)いて、母親に知れたら、母親は恥のため死ぬだろうと言った。僕はその頃勿論知らなかった、その母親っていうのがどんなに面(つら)の皮が厚くて、とても恥などで死ぬようなタマではないって事をね。
 ミスィズ・ロケット(わっと泣きだす。)何てことを! 何てことを!
 ヘンリー(その泣き声を制するように。)勿論この筋書きを作ったのは母親のあんただ。筋書きなんだから、これほど露骨じゃなかったかも知れない。しかし成り行きは一から十まで承知していた。ドリーが妊娠していないことぐらい、男の僕が妊娠していないのを知っているのと同じ程度に分っていたろう。だけど僕らは結婚した。親子二人の計画通りだ。僕の方は自分の計画を捨てた。船でボーイ長の仕事にでもついて、世界中を見てやろうというつもりがあったんだが、そういう計画はすべておじゃんだ。二人で家に引込んで、僕はファーガスン・メリヤス会社に務めた。
 ドリス 私の人生の最上の年月を私はあなたに捧げたの。それを忘れないで頂戴。
 ヘンリー 君が僕に何を捧げたって言うんだ。何も捧げやしなかった。君のその身体だってだ。エルスィーだって、嫌々やっとのこと生んだのさ。
 ドリス(猛烈な勢いで。)それは嘘! エルスィー、耳を塞ぎなさい! お父さんの言うことを聞いてはいけません。意地悪・・・意地悪なんだから。
 ヘンリー(陰気に。)嘘じゃない。君自身が一番それをよく知っている。
 ドリス(金切り声を上げる。)あんたは私と結婚して良かったのよ。得をしたのよ! あんたは私を利用したの。そうじゃない! 純真無垢のこの私を、いいように利用して。少しぐらい損があったっていい気味なのよ。
 ヘンリー おいおい、ドリー。随分なことを言うじゃないか。純真無垢はこっちだったんだ。君じゃない。君が僕を騙したのは、もうとっくの昔に気がついていた。気がついて、確かに騙されたとはっきり分った時、今度は僕が君を騙すことにしたんだ。さあいいか、心の準備をするんだ。こいつを聞いたら、君は本当に怒るんだから。僕はな、ずーっと貯金してきたんだ! もう十年以上になる。毎週の稼ぎは、君が思っているよりは少し多いんだ。そうしてコツコツ、コツコツ、倦(う)まず弛(たゆ)まず貯めに貯めて、今五百七十二ポンド貯まっている。聞えるか? 五百七十二ポンドだ。
 ミスィズ・ロケット(パッと立ち上って。)ヘンリー! そんなことが!・・・あなた、まさか・・・
 ドリス(こちらも飛び上るように立って。)そんなことが・・・ばれる筈よ・・・私、きっと見つけていた筈・・・
 ヘンリー まあまあ、そう興奮しないで。これを言えば怒るとは思っていたけど、まあちょっと落ち着いて。ここに持っている訳じゃない。銀行にあるんだ。それに、君に使って貰おうというんでもない。僕のための金だ。まあそのうちの五十ポンドは君に渡す。僕から君が受取る最後の金だ。
 ドリス ヘンリー! そんな残酷なこと! そんな卑劣な真似、まさかしないでしょうね。
 ヘンリー 僕はお互いに公平だと思うところで線を引いた。ちょっとこの公平は、君に甘過ぎているかも知れないが。僕はこの家の権利を放棄した。今ではこの家はすっかり君の名義になっている。君は住む場所で困るようなことはないんだ。それに、いよいよ困った時には、下宿人を置けばいい。下宿人として住んだ奴こそいい災難だろうけどな。
 ドリス 五百七十二ポンド! それを持ってあんたは家を去って行くの? 私達には飢え死にが待っている・・・
 ヘンリー 何が飢え死にだ。冗談もほどほどにするんだ、ドリー。まあお母さんの貯金通帳をちょっと見てみるんだね。君が死ぬまでゆったり暮せるだけのものが入っている。父親がアルコールですっかりいかれてしまう前に、ちゃんと父親から巻き上げられるものは全て巻き上げてあるんだから。
 ミスィズ・ロケット 嘘よ! そんなこと。
 ヘンリー 嘘とは一体何ですか。誰に向って言っているんです。さっき僕から一発食らいましたね。もう一発欲しいんですか。その口のきき方では、そうとしか受取れませんね。
 ミスィズ・ロケット 私だって、出来ることがあるんですからね。警察に訴えて、あんたを逮捕させます。
 ヘンリー 警察ですか。それはかなり素早い対処を必要とするでしょうね。僕の船は明日の朝一番で発ちますから。
 ドリス(ぎょっとなる。)船!
 ヘンリー 僕は出て行く。切符はこのポケットに、パスポートもね。僕のパスポートの写真は一大傑作なんだ。見せてやりたいところなんだが、僕の新しい名前を知られたくないのでね。
 ドリス そんなこと、出来るわけありません。法律で止めさせてみせます。家族遺棄じゃありませんか。
 ヘンリー そう。その通りだ、ドリー。よく知っていたね。これは法律上は、家族遺棄というやつだ。
 ドリス(息を切らせて。)どこへ行くのあなた。言って。どこへ行くの?
 ヘンリー 知りたいだろう? アフリカかも知れないな。それとも中国か、いや、オーストラリアかな。君が何一つ知らない場所が、世界にはいくらでもあるんだ、ドリー。僕が本を読むと君はよく笑った。何になるんだ、とね。だけど僕は本からいろんな事を学んだ。いやという程ね。南の海にはいろんな島があって、そこには椰子の木が生え、亀がいて、一年中太陽が輝いている。そこでは殆ど何もしないで生きてゆける。オーストラリアやニュージーランドには、ほんの少し金を出せば、土地が買えて、羊を飼って生きて行ける。ちょっと想像してみるんだ。見渡す限り野原が拡がっている、良い食べ物、新鮮な空気。素晴らしい生活だ。僕にピッタリの生き方だ。南アメリカだってある。コーヒーのプランテーション、砂糖の、バナナのプランテーション。もし僕が南米に行ったら、木箱でバナナを送ってやるよ。「バナナ召ちあがれ、ドリー。バナナ召ちあがれ。」
 ドリス ヘンリー、あなた、こんな恐ろしい事を・・・いいえ、あなたは出来ないわ。決して。ねえ、もし私を愛していないのなら、エルスィーのことを考えてやって。
 ヘンリー(まだ夢心地で。)それから海だ。あそこらへんにあるワーズィングのちっぽけな海じゃない。規則正しく潮が満ち、潮が退(ひ)き、波止場で楽隊が音楽を演奏するような、けちくさい海じゃない。本物の海だ。ジョセフ・コンラッドが書いたような荒々しい海、ルードヤード・キップリングや、その他沢山の作家が書いているあの海。砕ける大波、泡立つ水、台風、飛び魚、それに電灯がつけられたように光る燐光。この作家達は確かにいいことを知っている。チャンスさえ与えられれば、人生はどんなに素晴らしいものになり得るか。「洗練された物」だの「いぶしたオーク材で出来た家具」だの「レースのカーテン」だの、そんなものに気を取られて一生惨めに年老いて行くだけじゃないんだ、人生は。僕はもう中年だ。しかし幸いに健康はまあまあだ。くたばるまでに本物の人生を味わう時間がまだ残っている。僕はまだ仕事をする力が残っている。本物の仕事をだ。お辞儀をしたり、揉(も)み手をしたり、馬鹿なお婆さん連中に「レースはこちらで」「陶器はあちらでして」「バーゲン会場は地下でございます」と、神経を磨り減らす偽物の仕事ではなく、本物の仕事だ。
 ドリス(ヒステリックに。)神様の罰(ばち)があたるわ。きっと神様が・・・
 ヘンリー もう罰(ばち)はこの十五年間、あたり続けたんだ。そろそろ神様も手を退(ひ)いてくれる頃なんだ。君みたいな女に目をつけられて、その毒牙にやすやすと引っ掛かるような男には、僕のような罰があたるのは当然なんだ。僕はこの十五年間、しっかりと神様に罰(ばつ)を受けたんだ。
 ドリス(戦略を変えて。)ヘンリー、どうかお願い。どうかそんな残酷なことはしないで・・・
 ヘンリー 泣き落しもやめた方がいい。僕の心の中の氷がそれで融けると思ったら大間違いだ。僕は君の正体はうんざりする程見てきている。君は今、ただ恐ろしくなっただけだ。その恐ろしい気分は本物だろうけどね。しかし、君にほんのちょっとでもチャンスを与えてみろ、君は今までより、もっともっと悪くなるんだ。なあドリー、君は悪い奴だ。世間で普通言っている「悪い奴」ではない。僕が言う類いの「悪い奴」なんだ。狡くて、冷たくて、気位だけが高い、そういう人間なんだ。じゃ、ドリー、これで僕は行く。
 ドリス(ヘンリーに縋(すが)り付き、わっと泣き出す。)ねえヘンリー、聞いて、聞いて頂戴。私達が飢えてもいいって言うの? 私達を道に放り出す気? もし私が悪い妻だったとしたら、謝ります。私、改める。良くなるよう努力するわ。神かけて誓います・・・ねえヘンリー、こんな残酷なこと、あなたには出来ないわ。もし私を許すことが出来ないなら、お願い、エルスィーのことを考えて。どうか、可哀相なエルスィーのことを・・・
 ヘンリー 可哀相なエルスィー! 聞いて呆れる。エルスィーって奴は酷い子供だ。小さい時からじっと私は見て来た。この女は、ただ泣けばいいと思っている。泣きさえすれば、自分の欲しいものは手に入る。それもただで・・・
 エルスィー(泣く。)ママ! パパの言ったこと、聞いた? 酷い・・・酷いわ、パパ・・・
 ミスィズ・ロケット(エルスィーをあやして。)ほら、ほらほら、パパの言うことなんか、聞かないの・・・
 ヘンリー 一、二年したらエルスィーはもう働きに出られる。その間ドリー、君は働きに出るんだ。君はまだ若い。健康だ。いくらでも働ける。さあ、さっき言った五十ポンドだ。
(ヘンリー、ポケットから封筒を取出、テーブルの上に投げる。それから扉に進む。ドリス、追いかけて、ヘンリーの片腕に縋る。)
 ドリス ヘンリー、ヘンリー、行っちゃ駄目。行っちゃ・・・
 ヘンリー(振りほどこうとして。)そこを放せ。
 ドリス お母さん、お母さん、手を貸して。行かせないで。
(ヘンリー、ドリスを振りほどき、両肩に手をかけて、無理矢理椅子に坐らせる。それから扉の鍵を回し、扉を開ける。)
 ヘンリー 君の顔をよーく見ておくことにする、ドリー。もう一生その顔を見ることはないだろうからな。
 ドリス お母さん! ああ、神様・・・神様。
(ドリス、両腕に顔を埋めて激しく泣く。エルスィーも駆けより、同じように泣き叫ぶ。ミスィズ・ロケット、椅子に坐ったまま、人を殺さんばかりの目をしてヘンリーを睨みつける。)
 ヘンリー(静かに。)女三代か。祖母、母、娘。同じ骨、同じ筋に筋肉、それに同じリンパ腺。何百万のこれと同じ造りの女がいるんだ。何百万とね。お母さん、あんたはもう、この馬鹿騒ぎの中心人物じゃない。一歩下った過去の人。ミュージック・ホールの笑いのネタ。小金をため込んでいる義理の母親だ。ドリー、君にはまだチャンスがある。あと二、三年が勝負どころだ。君にガッツがあるなら、これが見せ場だ。僕のこの行動が、長い目で見た時、君の腐った魂を救うかも知れない。それならなかなか良いことだ。しかしまあ、無理だろう。その魂は腐り過ぎだ。生まれつきのずるで、見栄っぱりで、弱いもの虐(いじ)めなんだ。顔を見るのもうんざりだ。いい機会だ。ついでに言うが、その腕輪、僕は大嫌いだ。もう昔からだ。最後にエルスィー。お前にはほんの微かだが脈がある。但しほんの少ししかないぞ。よく聞くんだ。お前が働いて独立したら、「見返りを要求せずに与えること」を学ぶんだ。いいか、一生見返りがないことが分っていて、与えることだ。そうすれば、何とかちゃんとした人間らしくなるチャンスもある。それからもう一つ。この残酷な、恩知らずの父親の忠告をもし聞いてくれるなら、もう一つ忠告がある。働いて最初に稼いだ金で、そのお前の扁桃腺を切って貰うんだ。じゃ、これで最後。さよなら。君達に会えて良かったよ。
(ドリスとエルスィーの泣き声、ヘンリーの退場と共に大きくなる。ヘンリー、後ろ手に扉を閉める。その大きな音。)
                      (幕)


   平成十三年(二○○一年)七月三日 訳了

 謝辞 この作品の翻訳にあたり、井上友博、玉置麻衣、の協力を得た。ここに感謝の意を表す。
 また、Sarah Wright には、不明な部分の助力を仰いだ。併せて感謝の意を表す。
 この芝居の他に九個の一幕劇が書かれ、三個づつ、"To-Night at 8:30" という名前で演じられた。三個の組み合わせは色々であった。ここに全十個の題名を書いておく。
  We Were Dancing, The Astonished Heart, Red Peppers, Hands Across the Sea, Fumed Oak, Shadow Play, Family Album, Star Chamber, Ways and Means, Still Life.
 この最後に上げてある Still Life は Brief Encounter(日本での題名は「逢引」)という名前で映画化された。

First London production: Phoenix Th., Jan. 1936. First programme, 9Jan., with Family Album, The Astonished Heart, and Red Peppers; second programme, 13 Jan., with Hands Across the Sea, Fumed Oak, and Shadow Play; the other plays being introduced into repertoire to give three groups of there plays, with the exception of Star Chamber, which played on 21 March only (dir. Coward; des. Glayds Calthrop; with Coward, Gertrude Lawrence, Alan Webb, and Alison Leggat).


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


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These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Coward plays in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.