駝鳥の卵
           アンドレ・ルッサン 作
            能 美 武 功 訳
     
  登場人物
イッポリット
テレーズ
ロジェ
マダム・グロンベール
アンリ
レオニ

     場
二幕とも同じ場。ある実業家のアパートの客間。上品でさっぱりした装飾。あちこちに奇麗な昔の家具、綴れ織、あるいは絵画。これらはいづれもこの一家の先祖代々の持物であるらしい。全般にゆったりとして趣味のよい雰囲気。

     第 一 幕
(幕が上がると食事の最後のコーヒーが出されているところ。アンリはコーヒーを飲んでいる。イッポリット、玄関で人の去る物音を聞いた後、口を開く。)
 イッポリット あいつは行ったな。二時十五分だ。まだ時間はいいか?
 アンリ 大丈夫だ。
 イッポリット おいどうだった? 君。あいつの顔見たろう? 僕は君に食事前、予め話しておくことはしなかった。食事の最中にも出来るだけ控え目にしていたんだ。先入観を持たない、君自身の人物評を聞きたいと思ってね。それに本人に会わないうちに話したって嘘だと思われても仕方がないし、苛々させるだけかも知れないからね。君は長い間あいつに会っていない。あいつのまだほんの子供の頃の思い出があるだけだろう。今じゃあいつは若者だ。若者・・・若者かどうか、怪しいもんだ。あの髪形。部屋で飼う犬の頭だ。デコレーションケーキの飾り付けだ、まるで。やっと平衡を保って、落っこちないでいる。指輪のこんなでかいやつをして。腕には豪勢な鎖。それにあの黄色いハンカチ。あれを見たら鸚鵡(おうむ)でもキャッと叫ぶぞ。それから見たかい? あの人を軽蔑するような薄笑い。たまに話しかけでもしようものなら、まるでご機嫌ななめの法皇様だ。・・・な、見たろう? あいつを。あれが俺の息子なんだ。あいつのどこがこの俺に似ているんだ。驚いたもんだよ。そう、分かるだろう? あれが新しい世代っていうやつなんだ。あいつらのなり、格好。俺の服って言えば、見ろ。質素なものだ。こんなのを二年毎に一着作らせるだけだ。それに引替え、あいつの着るもの。ワイシャツを見たか、あいつの。それにあの背広の生地! 最高級品だ。趣味の悪い格子縞の靴下なんか履きおって。またネクタイの厭らしさ! こちとらはこの二十年間、あくせくと暖房器具を売ってどうにかこうにか暮らしを立ててきた。そして子供をやっと育てあげたかと思うと、突然・・・鼻の下に五、六本髭が生えてきたと思うと・・・急に東洋の王子様になっちまうんだからな。絹と金鎖に包まれて、テーブルに踏ん反り返り、声をかけるとやっと瞼(まぶた)をお上げになり、お有り難くもこちらにお言葉をおかけ遊ばすというわけだ。これが人生というものか。なあ君、君は一人もので実際運が良かったよ。
 アンリ(笑いながら。)それは違うよ・・・
 イッポリット 僕とは違う意見だと言うのか? 君は。
 アンリ シャルルに関する限り、君はちょっと大袈裟だよ、考え方が。
 イッポリット あいつに関する限りだと? あいつの弟だって同じだ。同じ・・・じゃない。全く反対だ。だが似たようなものだ。あいつの守備範囲は鉄道と芸術の間だ。年がら年中汚い格好。まるで豚だ。十本の指は必ずデッサン用の炭か絵具がついている。片方のポケットには詩の本がはみ出して、もう一方には乾電池、それに電線、歯車、ゴムのチューブ。こういうがらくただ。画家で詩人で発明家か。そのうちのどれで名を上げようというんだか・・・今のところは三つ全部に夢中だ。今日はあいつには会わせなかったが、とにかく似たようなものだ。普通の人間などあいつの目にはいないも同然。存在する人間、例えばランボー、エジソン、それからピカソ、・・・そう、ピカソだ。・・・こういう連中でなければ人間じゃない。普通の人間なら、いつ消えて下さっても結構。犬の糞、単なるアホでしかない。ピ、カ、ソ、・・・これこそ人間。この間僕はピカソの絵を見た。例の鳥の絵だ。展覧会場の入口にでかでかと飾ってあった。単純な絵だ。あんなものなら俺だってかける。目のところから足を生やして、耳から尻を出す。それで出来上がりだ。これが天才よ。呆れるね。それでロジェとかあの連中の言い草といやあ、「天才でなければこの世にうろうろしていることはありません。さっさとお消え下さい。」だ。「お消え下さい」ときた。怖れいったよ。十七歳でだぞ、君。それがまたあの野郎、眉一つ動かさず、平然として言うんだからな。「お消え下さい」さあどうぞ、絞首台へ。父親も母親もそれで一巻の終りよ。
 アンリ そいつはいくら何でも大袈裟じゃないか。
 イッポリット 笑うのか? 僕は笑わないね。まあいい。ロジェのことはおいておこう。まあ心配はいらないか。こっちのことを馬鹿にしているが、年のせいでもあるだろう。困ったのは、もとに戻るがシャルルの方だ。全く髮など染めやがって、一体何を・・・
 アンリ いや、正直なところを言うと、僕は彼は気に入ってるね。いい顔してるじゃないか。君に何か言う時のあの顔の赤らめ方。彼のことを君は反抗的だと言ってるがね、単に内気なだけなんだ、あれは。僕の意見はどうかって君が訊くから言うんだが、あれは恥ずかしいからなんだよ。感覚が繊細に出来ているせいなんだ。
 イッポリット あいつが繊細? 雷が落ちたってびくともしないよ、あの体は。それにあの神経。あいつの爆発を目撃していないからそんなことが言えるんだ。まづ顔が蝋燭のように白くなる。次に真っ赤になる。それから女みたいな金切声を上げて立ち上がる。今日はどうやら用心に用心をしていたらしい。(だからそんなことはなかったが)あいつの正体はこの僕には分かってるんだ。全くお有り難い籤をひいたもんさ。一等大当たりだよ。
 アンリ それで僕に何か出来ることがあるのかな。
 イッポリット まづ成り行きを話そう。一昨日君に電話して三人で食事をしようと言ったね。あの時はその十五分前から僕は不愉快極まりない気持だったんだ。一と月前僕はあいつに学校を辞めさせた。置いといても何にもならないと判断してね。それにシャスランからあいつを彼のやっている保険会社で使ってやるっていう話があったのでね。まあ、いい話だ。で、僕はシャルルに言った。・・・僕はもうあいつのことはちゃんとシャルルと呼ぶことにした。女房と女房の母親はあいつをロロなどと呼んでやっているがね。冗談じゃない。・・・まあこんなことはどうでもいい。あいつに言ってやった。「もうすぐでお前には仕事について貰う。少しは真面目になって仕事でも覚えてくれなきゃな。さあ、行った行った。」不当な扱いだと君は言うかも知れない。あいつに興味があるのは布切れなんだからな。女性のために衣服を作るというやつだ。女性の衣服! 「フルフル」か。(訳註 「フルフル」は女性のスカートの裾が揺れる音。)気違いだ、全く! で、会社に行かせた。どうなったと思う。きっちり二週間は行った。その後はトンズラさ。二週間以上でも以下でもない。きっちり二週間だ。何の説明もなしにだ。一言礼の手紙はシャスランに出したらしい。この成行きは一昨日シャスランから電話があって初めて知ったんだからな。「保険会社ではああいうタイプの人間はどうも必要ないんでね。」それからまたこうも言った。こっちのことを考えながら言葉を選んでね。「他に従業員もいることでね。ああいうタイプの人間はどうも連中に善い影響を与えるとは言えないんだ・・・」全く聞いていて涙が出るほど嬉しい話さ。つまりだ。シャルル、またの名ロロ、はこの四十八時間、その脱色して染めた頭を、保険会社に一度も覗かせたことがないということだ。そこで僕は考えた。「いとこのアンリがいる。親戚、友人中で彼が唯一、芸術の分野で仕事をしている。彼に相談してみよう。」だからこの二日間、耐えに耐えた。本来なら怒鳴りつけているところだがな。何も言わなかった。一言もだ。まづ君にあいつの顔を見て貰おうと思ったからだ。あいつはこっちの意図など知る由もないさ。三人で普通にあれやこれや話したろう? そして最後のコーヒーを飲んで出て行った・・・それで君、あいつのことをどう思った? 僕はもうあいつをどう扱ったらいいか分からないんだ。お手上げなんだよ。
 アンリ そう言われても実はちょっと困るんだ。僕の仕事は編集でね。そういう芸術的なことは関係がないんだよ。
 イッポリット 僕が思ったのはね・・・
 アンリ イラストが好きだって言うんなら、話は別だよ・・・挿絵担当の同僚もいるし、紹介もするさ。だけどそれは彼の場合駄目だろう?
 イッポリット ああ、そいつは駄目だ。あいつのは描くんじゃない、才気だ。分かるだろう? インスピレーションなんだ。「何かを描く」なんて、てんであいつの頭にはない。描くという行為があいつには問題外なんだ。
 アンリ それじゃしようがないな。僕はさっき言ったことを繰り返すしかない。僕には何も・・・(言えないよ。)
 イッポリット まあ待って。さっきも言ったじゃないか。編集者・・・それはいろんなことを扱う仕事だ。・・・その分野でならあいつだって何か出来る仕事が・・・
 アンリ だけど君のさっきの話では、彼は女性の服を作るのに情熱を燃やしているんだろう?
 イッポリット そうなんだ。あいつの手にかかったら、それはお茶のこさいさいなんだ。煙草を巻く紙からでも服を作るんだからな。それもあっという間。慣れた手付き、「ほら出来上がり」っていう具合だ。あいつの部屋はあいつの作った服でいっぱい。部屋とは言えん。あれはアトリエだ。ひらひらの生地がそこいら中に散らかっている。女房に言わせると、「まあなんて凄い柄、形・・・」ってことになるんだが、僕にはよく分からん。
 アンリ それじゃあ君、おかしいよ。
 イッポリット おかしい? 何が。
 アンリ そういう彼を保険会社に入れるっていうことがさ。そんなところに閉じ込めて何をやらせるっていうんだ。それに僕から編集の仕事を聞いたり。彼には天性の職業というものが見えているじゃないか。それにしか彼は興味を持っていないじゃないか。
 イッポリット すると君はああいうものをまともな職業と考えているのか。
 アンリ ファッション。立派な職業じゃないか。
 イッポリット はっ、ファッションが職業! 十六歳の息子が、ファッション業界に入る。そんなのが正常と言えるか。ファッションなんか職業なんて言える代物じゃないんだ。・・・少なくとも僕の理解による職業じゃない。だいたいろくな奴はいない、ああいうことをやっている連中に。装飾デザイナー、ファッションデザイナー、インテリアーデザイナー。こいつら皆、十人が十人、せいぜい表現を柔らかくして言っても「変わり者」なんだ。僕はうちの息子がこういう連中の仲間になるなんて真っ平だね。
 アンリ だけどね君、そういう職業についている連中の中にも、まともな人間はいるぞ。
 イッポリット それはそうだろうが・・・
 アンリ それに、今そこに問題はない筈だぞ。君は今言った。「僕の息子がそういう連中の仲間になるなんて真っ平だ」とね。しかし彼はもうこういう連中の仲間なんだ。
 イッポリット えっ? もう仲間に入っている?
 アンリ 君の彼を表現する言葉一つ一つがそれを示しているじゃないか。
 イッポリット そんなことをしていて見ろ。殴り倒してやる。
 アンリ しかし君はもうそれを知っているんだよ。
 イッポリット いや、知らない。知っている訳ないだろう。
 アンリ いや、知っている。さっきから君の喋っていることは全部それなんだ。彼の指輪、腕輪、染めた髮の毛、苛立った時の金切り声、それに気味の悪い猫撫で声・・・そうだろう?
 イッポリット 本当にそうなら、あいつを殴り倒してやる。
 アンリ 君はそんなことはしないのさ。
 イッポリット 何だって?
 アンリ いいかい? 僕は君から相談を受けたから言うんだけどね、事は在りの儘に見なくちゃいけない。シャルルはああいう風に生まれたんだ。自分でもどうすることも出来ないし、君にもどうすることも出来ない。シャルルは女なんだ。こいつは明らかだよ。そうだ、彼が五つの時・・・うん、覚えている。・・・その男を君は保険会社に入れるとはね。
 イッポリット しかし女だって保険会社で働いているぞ。
 アンリ それはそうだ。ただ彼は本物の女の好みを持っている。化粧が好き、宝石が好き、衣装が好き・・・
 イッポリット 着物が好きでも男でいられる筈だぞ。僕が良い証拠だ。僕は着物が好きだぞ。
 アンリ 違うね。
 イッポリット 違う?
 アンリ 君はスカートが好きなんだよ。それは話が別だ。
 イッポリット それはまあ・・・(にやりと笑う。それからまた怒って。)戻るんだ、さっきの話に!
 アンリ さっきの話?
 イッポリット そうだよ。俺の息子が気違いだと、君はそう言ったんだ。
 アンリ そうさ。態々僕の台詞を繰り返すことはないよ。
 イッポリット 繰り返すことはない、ね。
 アンリ そうさ。ただ君はそれを認めようとしなかったがね。
 イッポリット 当たり前だ! 認める訳がないだろう! 今の今まで僕は正常な家系に属していたんだからな。僕の祖父がこれを聞いたら・・・知事をやったことがある、その祖父がもし生きていて、そしてこれを聞いたら・・・自分の曾孫(ひまご)がファッションの仕事をしていると知ったら・・・
 アンリ うん、知ったら?
 イッポリット ぶっ倒れるね。それは確かだ。
 アンリ なんとかなるんだよ、お祖父さんだって、そのうちには。君だって同じだ。ほっとけばいいところに収まるのさ。そんなことで死にはしないよ。
 イッポリット 収まる。死にはしない。気楽に言うがね。僕はそうはいかないぞ。その反対だ!
 アンリ 君は怒りっぽいからね。何にでもすぐ怒るんだ。まあ落ち着いて。今のところ何もしないことだね。そして事態をよく見て考えることだ。
 イッポリット 考える暇などあるか。胸くそが悪くなる。何が「事態」だ。くそ食らえだ。あいつがそんな奴なら、今夜にでも家から追い出してやる。大きな面、それに大きなけつをしやがって。その気になりゃこちとらにも覇気があるところを見せてやる。「出て行け」だ。玄関から蹴り出してやる。みんな苦労して生きているんだ。少しはその苦労を知って見ろだ。
 アンリ 君、ちょっと悪いけど僕はもうそろそろお暇しなきゃ。次の待ち合わせの時間になってきたんだ。
 イッポリット えっ? ああ・・・、ああ、そう・・・。いや、有難う。
 アンリ 何が有り難いんだい?
(扉開く。)
 テレーズ 怒鳴り声が聞こえましたけど、また爆発したんじゃないかと思って・・・すみませんね。この人、怒りっぽくて。怒りっぽいなんて言い方、弱すぎるかも知れませんけど。
 イッポリット 何が怒りっぽいだ。くそ食らえだ、そんなことは。
 テレーズ まあま、何てお上品なもの言い。
 イッポリット 馬鹿もん! 上品が何だ!
 テレーズ パシン! パシン! この人との会話、それはピンポン。一言言うとパシンと返って来る。年がら年中「馬鹿たれ!」だの「糞ったれ!」だの、品の悪い言葉を聞かされているの。一日にこれが二十回以下だったら、何か調子が悪いんだってすぐ分かる。風邪か何か。咽が痛いか熱が出ているか。今日は普通の日。二時間にこの調子なら、夕方までにはゆうに二十回は越えるわね。
 アンリ イッポリット。相変らずだ。昔とちっとも変わらない。いつもいつも元気いっぱい。
 テレーズ 元気がいっぱい。それに大盛のお替わりまでおまけに。
 アンリ 若さの秘訣ですね、それが。ほら見てみて。腹も出ていない。矍鑠(かくしゃく)と・・・
 テレーズ 朝から晩まで怒鳴りまくって。いい気なもの。
 イッポリット 何が一日に二十回だ! 細かい事まで観察しおって・・・だけど言っとくがな、俺が怒鳴るのは怒鳴るだけの理由があるからだ。分かってるな。
 テレーズ(笑って。)そうね。きっとそうなんでしょうよ。でもこちらには、何でもないことに怒鳴っているように聞こえるから可笑しいわね。
 アンリ じゃ、僕はこれで。(テレーズに。)ちょっと早くて申し訳ないんですけど、約束の方が・・・今もう三時二十分で・・・
 テレーズ 約束に遅れてはいけませんわ、それは・・・
(二人、退場。)
(暫くしてテレーズ戻って来る。)
 イッポリット(怒鳴る。)テレーズ、いいか、話があるんだ、話が。
(マダム・グロンベール登場。)
 マダム・グロンベール もう帰ったの? お前のいとこは。
 テレーズ 今帰った所ですわ、お母様。よろしくと言ってました。
 マダム・グロンベール あの子可愛いわね。最近会ってないけど。落ち着いていて、上品で・・・どうして結婚しなかったんだろう。素敵な夫になっていただろうに。
 イッポリット ええ、ええ、お母さん。実はその、話があるんです。
 マダム・グロンベール あらそう? どんな話?
 テレーズ コーヒーが冷えてますわ、お母様。レオニに言って、温めさせますわ。
 マダム・グロンベール いいの、いいの。逆なんだから。私、冷めてるのしか飲めないの。お前、昔から知っていることじゃないか。
 イッポリット 私の話、また他の時にって仰るんでしたら私は・・・
 マダム・グロンベール 何を言っているの、イッポ。お前の話ぐらい笑えるものはないんですからね。お前の話は私の楽しみなの。
 イッポリット しかしどうですかね、お母さん。この話はどうだか、私には自信ありませんが。
 マダム・グロンベール 大丈夫。面白いの。決まってるの。
 イッポリット じゃ、言いましょう。息子ですよ。私の息子達のことです。あの子達にとんでもないことが起こってるんです。この家系に前例を見ない、とんでもないことが。まづロロですがね、ロロ・・・お母さんがそう呼んでいるからついこの名前が出るんですが、その、シャルルのことですが・・・
 マダム・グロンベール ロロがどうかしたの?
 イッポリット ロロだなんて、本当は口に出してもいけないんです。
 テレーズ あらあら、どうしてかしら。
 イッポリット いいか、ロロは駄目なんだ。その意味がいかんのだ。
 マダム・グロンベール (笑って。)分からないわね、イッポリット。
 イッポリット いいですか、これは確かなことなんですからね。シャルル、別の名をロロというこの男は、性変換したんです。いいですか。性変換ですよ。私はついさっき、そう、十分ほど前にこれを確信したんです。お母さんも、お前も、これはもう諦める以外ないですな。
 マダム・グロンベール 政変? 政変て何? 共産主義にでも変わったの? それであの子に何か関係でも?
 イッポリット 「かん」、「かん」・・・変換。
 マダム・グロンベール だから、変換して、どうだっていうの。
 イッポリット 性・・・変換。
 マダム・グロンベール ああ、性変換。それで?
 イッポリット 何ともないんですか? それで。
 マダム・グロンベール 何か悪いこと? 手術か何か必要なの?
 イッポリット いや、まいったな。お母さんの無邪気なのには呆れますね。シャルルがただの病気、なんて話じゃないんですよ。シャルルが男じゃないって言ってるんです。はっきり言わなきゃ分からないんですからね、言うんですけど。
 マダム・グロンベール 何ですか、イッポ。男ですよ、あれは。あの子が生まれた時、ちゃんと私は見たんですからね。
 イッポリット いいですか、お母さん。あいつが正常に生まれたかどうかってことは今は関係ないんですからね。
 マダム・グロンベール 何ですって?(突然何の話か了解して。)ああ、そういうこと・・・(笑う。)なあんだ。それはちっとも私、思いつかなかったわね。あなたの話、さっぱり分かっていなかったわ。(真面目にその点を考慮して。)なるほどね。それはそうよ。
 イッポリット それはそう?
 マダム・グロンベール それはそう。あの子、確かに男じゃない。女よ。とてもボクサーになって相応しいタイプじゃないものね。(あっけらかんと笑って。)それは違うわ。
 イッポリット それ、それだけですか? たった。男じゃなくて驚きもしないんですか。
 マダム・グロンベール 驚く? 何を言ってるの、イッポ。あの子が五、六歳の頃から、私達ちゃんと見てるじゃないの。あの子ったら、そこらへんに転がっている端切れで、人形に素敵な着物を作ってやっていた。ちょっと大きくなると、今度は着物の形とか生地などをよく覚えていて、私達随分驚いたものだわ。女の人の着ているものをちょっと見て・・・そうね、ほんの二分ね・・・それでその後三年も経って、その細かいところまでよーく話して聞かせてくれたりしたわ。
 イッポリット その分、歴史でも地理でも詰め込んでおけば良かったんだ。
 マダム・グロンベール 休みの時間を全部返上して、人形を作る。それを保育所に寄付して来る。大きくなると突然、自分で作った服を着始める。・・・少し変わってる。・・・そりゃそうでしょう。・・・だからお前が「ロロは女だ」と言ったって、私は驚かない。その驚かないことにお前がびっくりしたんじゃ、どうしようもないわ。勿論ロロは女です。可哀相に。
 イッポリット はっはっは。これはいいや。完璧だ。それならまるで問題ないんですね。(テレーズに。)お前もか? 申し分ない成り行きなんだな、これが。お前にとっても。ロロのあの踊り子のような格好。マニキュアをした爪。でかい宝石のついた指輪。あれはみんな素晴らしいんだ。大抵の人間の目には、あいつはキャバレーの女王だ。そんな息子を持って嬉しいんだな、お前は。分かったよ。残念ながら私はね、私は反対なんだ。いいな! 俺はあいつに言うことがある。「お嬢さま」がそれに耐え得る神経があろうとなかろうと構うものか。俺は言ってやるんだ。
 テレーズ もうそれは遅すぎなのよ。
 イッポリット 何だって?
 テレーズ 遅すぎって言ったの。やるんだったら、もっと早いうちにでなきゃ。
 イッポリット この儘じゃ済まされんぞ。糞ったれ。糞、糞、糞の、糞ったれ!
 テレーズ あらまあ、お久し振り。その言葉聞くの。
 マダム・グロンベール(笑って。)あなたの言葉って本当に下品なのね、イッポリット。あなたと一緒に暮らしてもう二十年になろうっていうのに、まだその言い方に慣れないわ。
 イッポリット まあ言わせてもらえば、これから先だって、とても変わるとは思えませんな。私は自分の思想を一番よく表す言葉を選んで喋ってるんです。もしそれが仰るように「下品」なら、私は少なくとも女じゃないっていう証拠ですよ。私の言葉は生き生きしているんです。私の言いたいことそのままがこの言葉なんですからね。
 マダム・グロンベール(笑って。)まあ、そうでしょうね。
 テレーズ だから知らない人が聞いても、あなたが軍隊にいたことがすぐ分かるってことね。それと違う話し方は決してしないんですもの。それにママを除いて、私達みんな、あなたのことを認めているんだわ。だって私は洗濯女のような言葉遣い、子供達も御同様。あなたの言葉が私達にうつっちゃったのね。
 イッポリット 俺は俺の好きなように言葉を使うんだ。誰に習ったんでもないぞ、この言葉は。侯爵夫人だとか、伯爵夫人だとか、そんなシャナリシャナリの言葉を使う連中の中でだって、俺は昂然と俺の言葉を使うんだ。だいたいな、こちとらは連中とは心意気ってものが違うんだ・・・
 テレーズ(笑って。)そしてあいつらの性根は腐ってる、と来るんでしょう?
 イッポリット そうだ。腐ってるんだ。
 テレーズ 徹底的にね。
 イッポリット そうだ。徹底的にだ。
(マダム・グロンベール、笑う。)
 テレーズ 次のあなたの台詞は分かってるわ。「俺達はな、軍隊にいたんだ。」
 イッポリット 俺の言葉は乱暴だが、はっきりしてるんだ。上品にお茶など飲んでブリッジをして暮らしている連中の言葉とは訳が違う。
 テレーズ そうね、あなたはお茶が嫌い、ブリッジは知らない・・・
 イッポリット 俺がやってきたのは戦争だぞ。本物のだ。どこかの誰かさんがやるような、ピカピカに磨いた靴を履いてやるような、お上品な戦いじゃない。一兵卒だ。歩兵二等卒として戦うんだ。食う物と言えば毎日まずい缶詰、二週間脱ぐことも出来ない泥の入った靴・・・
 テレーズ 将校になったら良かったのよ、お上品でいられたのよ、そうしたら。
 イッポリット 将校? 将校はご免だ! お断わりだ。袖章をつけたいなんて思ったことは俺は一度もないぞ。
 テレーズ そんなこともないでしょう? 曹長にまではなったんだから。
 イッポリット 下士官だ、曹長は。袖章はない。俺は袖章をつけないと言ったんだ。
 テレーズ 袖章、いいじゃないの。もう一度訊くけどどうして嫌だったの?
 イッポリット 何故かって・・・
 テレーズ ただなれなかったからなのよ。
 イッポリット 違う。そいつは違うぞ。「ただなれなかったから」・・・そいつは大違いだ。お前には言っとくがな、何故って言やあ、俺は連中が怖かったからだ。本当だぞ、これは!
 テレーズ 怖かった?・・・将校が?
 イッポリット そうさ。将校がさ。それからな、軍隊っていうものそれ自身が、俺には怖かったんだ。それからあのイギリス野郎の上官だ。連中の茶、会議、上からこっちを見下して見るあの目つき。こちとらはフランス人の可哀相な一兵卒よ。いつも連中にぶん殴られるばかりのね。それがこの俺様だったのよ。
 テレーズ わざとその地位にね。
 イッポリット わざとさ。当たり前だ。
 テレーズ でも言っておくけど、私だったら連隊長になったわね、きっと。
 イッポリット まあ、それでも駄目さ。結局ぶん殴られる。上には上があるんだからな。幸せなことだ。
 テレーズ しかしとにかく現実は、あなたはぶん殴られはしなかったってことね。
 マダム・グロンベール(笑って。)そうね。結局それはそうね。
 イッポリット お前にはそれが残念なんだろうが。
 マダム・グロンベール あらま、イッポリット、そんなこと言うもんじゃないわ。(笑って。)それに言っておくけど、私達、お前と知り合ったのは、戦後なんですからね。
 イッポリット 戦後、戦後! 戦後になる前にちゃんと爆弾が命中して将来の旦那様を消していてくれたら。まあそう思っていたでしょう、うちの奥さんは。そうしたら戦後ノルマンディーの砂浜でお近づきになるなんてこともなかったでしょうからね。
 マダム・グロンベール あら、そうだったわね。あの夏は良かったわ。椰子の木の下でのあの婚約披露パーティー。楽しかったわ。
 イッポリット あの夏、娘が足の骨でも折ってくれていたら、どんなによかったか、なんて時々思ってるんでしょう。
 テレーズ おやめなさい、そんな馬鹿なことを言うのは。本当に苛々するわ。
 イッポリット 俺は思ってることを言ってるんだ。
 マダム・グロンベール あらあら、まあま。
 イッポリット それにお前が思っていることもな。
(テレーズ、皮肉な表情で、頭を上に上げ、微笑する。)
 マダム・グロンベール イッポリット、もう止めるんです。テレーズにそういうことを言うのは許しません。
 イッポリット こいつの方ですよ、お母さん。口答えするのは。今のでよく分かったでしょう。
 マダム・グロンベール そうよ、テレーズ。お前もいけません、口答えは。
 テレーズ ほうっておくとこの人、独り言を言うからよ、お母さん、私が口答えするのは。怒ってるっていうのをいいことに、椅子の間を熊みたいに歩き回って、一人でぶつぶつ喋るの。それが一時間も続く・・・いえ、半日喋りっぱなしってことだってあるわ。この家に部屋がいくつもあるのならほうっておいても構わない。でもそうじゃないから、私達のいるここでやるの。だから私、何か答えた方がいいんだろうと思って。するとママも時々口を出す。それがこの家での会話っていうものなんでしょう。
 マダム・グロンベール それに今のその将校だの、下士官だのっていうのは何の話? どうしてこんな話になったのか、何が何だか訳が分からない。
 イッポリット 出だしはロロなんです。覚えてますか、お母さん。この儘じゃすまないんだ。私はそう言ってるんです。
 テレーズ(母親に。)しっ、黙ってて、ママ。何か言うとこの人、また爆発だから。
 イッポリット(急に呟くような口調で。)いや、俺は怒鳴らない。怒鳴ったりするもんか。お嬢さまならお嬢さまの生き方がある。それを教えてやるんだ。指輪に腕輪、それにパーマをかけさせて。よーしやってやる。さっそく今夜からだ。
 テレーズ それでどうするっていうの?
 イッポリット 追い出すんだ。あの玄関からな。ベリーダンスでもフラメンコでも何でもどうぞだ。カスタネット、ブルロック、何でも飾ればいいんだ。ただこの家ではご免こうむる。
 テレーズ ただ? ただ追い出すだけ?
 イッポリット ただだ。ただ追い出すんだ。ややこしいことは言わん。やっこさん、他の連中と同じように働くのがお嫌だという。布なんかいじくりまわして。それで大成功疑いなしと思ってるんだ。たいしたもんさ。大天才なんだからな。棚からぼた餅でも落っこってくるとでも思ってるんだからな。
 テレーズ それで?
 イッポリット 「それで?」もへちまもあるもんか。勝手にやれってんだ。人生がどんなもんか、やってみりゃ分かるさ。食っていくだけだって並大抵じゃないんだ。それがあいつには全く分かっちゃいない。顎のあたりに二、三発食らえば分かるのさ。この家庭ってやつもまんざらじゃなかったなってな。あの馬鹿な親父が何だかんだと躾をして、少しは勉強でもしろと言ったことも成程ってことになる。結局は男は男。頭を染めて、やれスカートだ、フリルだ、なんだの、かんだのとアホなことをしおって。何にもならん。それが分かるんだ。・・・それで分からんなら、もう勘当しかない。
 テレーズ と言うことは?・・・
 イッポリット と言うことはだ・・・
(両手を拡げて意味不明の声を発する。)
 テレーズ 分かったわ。と言うことはあれね、この十五分間あなたがアンリと話していて、その会話の間にチラチラと出てきたいろんなことからあなた「見つけた」っていうのね。・・・あなたは認めた・・・いいえ、認めざるをえなくなったのね、多分。アンリがはっきり言ったもんだから・・・もうとっくにそんなことあなたには、そして私にだって分かりきっていたことなんだけど、今になって・・・つまりロロが他の男の子達とは違うってこと、そしてそのためにあなたの言い方で言えば、「追い出してやる」ってことになったのね。
 イッポリット 俺はな、俺は男じゃない息子なんか・・・
(電話が鳴り、イッポリット、途中で言葉を切り電話に出て怒鳴る。)
 イッポリット もしもし。・・・何だって? よく聞こえんぞ、おっさん!・・・何だって?
(そして突然、慌てふためいて、片手を頭に当て、平身低頭、何度も御辞儀をしながら。)
 イッポリット ああ・・・どうも、どうも失礼致しました、奥様。どうぞお許しを。この通り、最敬礼でございます。・・・いいえ、いいえ、そんなことは。ただこのうちの電話器がどうも、ひどいボロでして、その、人の声を変えてしまうんです。お電話を戴きまして、実に、誠に、その光栄に存じます、奥様。・・・ええ、ええ、それはもう感激でございまして。・・・いえいえ、そんな。お邪魔だなどと。めっそうな。お声に接することができまして、この上もない喜びでございまして。・・・はい・・・ああ(微笑する。)次の日曜日で?・・・それはもう、奥様。・・・小生のようなものまで考慮に入れて戴きまして・・・(三拝九拝。)そのような大役を・・・ええええ。去年も売るには売りましたが、たいした成果はございませんで。今年もそれは運次第で。うまく行くとは限りません・・・そんな御冗談を・・・才能、才能だなんて、そんな。・・・いえいえ、・・・それは本当に御親切に・・・えーと、それほどまでにお勧め下さるのでしたら、それはもう光栄なことでして。もう喜んでお引き受けを・・・
(この上品な言葉つきに、マダム・グロンベール、素直に感嘆の溜息をもらす。)
 イッポリット いいえ、飛んでもないことで・・・ええ、それはもう、必ず。次の日曜日、五時でございますね?・・・いえ、どう致しまして。・・・ああ、女房ですか。いたって元気にしております。今ここにおりますが、申し伝えます。申し伝えます。・・・息子達? はあ、それはもう、図体ばかり。・・・ええ、そうでして。そのファッションて奴で。・・・大好きなもので、大変な収集家ですよ。・・・ええ、ええ、未だにその方面ばかりで。・・・いえいえ、それにはまだ若すぎまして。まづは学校の方を終えませんことには。・・・まあ、なるようにしかなりませんもので・・・ではこれで失礼を・・・くれぐれもどうぞ宜しく。では。
(受話器を下ろし、体を起こす。というのは、見えない相手の手に接吻せんばかりの姿勢になっていたから。)
(この電話の最初から。つまりイッポリットが人違いをした時点からもう、マダム・グロンベールはゲラゲラと笑いっぱなし。テレーズもこのおかしな会話の間中ずっと微笑んでいるだけ。ただ会話の最後の部分、ロロとファッションの話が出た時に母親と目配せをする。「ほら、聞いて」という風に。そして頭を縦に振る。)
(イッポリット、受話器を置くと二人の方には目を向けず、片手を頭に、片手を口に当てて、失策をやったという大きな動作。マダム・グロンベール、ゲラゲラと笑い出す。)
 マダム・グロンベール(笑いながら。)イザベルだったのね?
 イッポリット(無理に愉快そうな様子を作って振り返り。)「おっさん」って言っちまった。モリッスの奴と勘違いしてしまって。無理もないんですよ、男の声なんだから。
 テレーズ そうね。無理もないわ。
 マダム・グロンベール どうして?
 イッポリット どうしてもありませんよ。あだ名が「青髭」なんです。「青髭」・・・そうとしか皆は呼んじゃいませんよ。
 マダム・グロンベール マダム・ドゥ・メプワを「青髭」?
 イッポリット そうです。イザベル・マダム・ドゥ・クロキ・メプワ・・・「青髭」。
 マダム・グロンベール 知らなかったわ。ああ、それでだわ。やっと分かった。あの人、いつも三銃士みたいな格好しているのが。あの格好ったら。いつだって私、笑いが止まらないの。
 イッポリット(テレーズに。)「よろしく」って言ってたぜ、お前に。
 テレーズ 光栄だわ。
 マダム・グロンベール でも知らなかったわね、その「青髭」の話・・・全然・・・
 イッポリット 「青髭」だって親切なもの。それに魅力たっぷり。しかし亭主の身になれば話は別。明けても暮れてもダルタニアンが女房じゃ、辟易ってもんでしょう。(マダム・グロンベール、笑う。)しかし私には関係のない話ですからね、これは。全く。
 テレーズ そう。あなたの妻はダルタニアンじゃない。その心配はないわね。
 マダム・グロンベール でもとにかくあなた、たいしたものよ。あの優しい電話の受け答。最高ね。あれ以上うまくやろうったって到底無理っていう程。やろうと思えば出来るのね、イッポリット。
 テレーズ フランスの偉大な世紀、ルイ十四世の時代の軍隊でだって十分通用するわ、あなた。
 イッポリット 何が言いたいんだ。
 テレーズ 家庭ではあなた、酷い言葉しか使わないから、こっちだって右へならえしてたけど、今のを聞いていたら、あなたは一歩家から出るとルイ十四世に対しても「光栄でございます、奥様。いや、実に光栄で・・・」なんて言って・・・
イッポリット 全くよく言うね。だがな、ルイ十四世は男だ。「奥様」とだけは言わんぞ。(マダム・グロンベール、笑う。)それにな、相手は電話で腰を低くして頼んで来ているんだ。どうぞお願いします。私の慈善団体「グロニエ・ヌワール」で競売を行なって戴きたいの。引き受けざるを得んだろう、これじゃ。怒鳴り返してやれって言うのか。俺だって喜び勇んでやりたいっていうんじゃない。翌日は必ず声が出なくなってるんだからな、怒鳴り過ぎて。
 マダム・グロンベール あなたって競売の腕は抜群よ、イッポリット。抜群以上。天才ね。本当に笑わせてくれる。去年だってみんな体をよじって笑っていたわ。今年だって成功間違いなしよ。さ、これで私の出番は終り。あとはお二人さん、よく話し合ってね。
 テレーズ そうして頂戴、お母さん。私達だけで二三、話したいこともあるし。
 イッポリット 何だって? お前、何か話したいことがあるのか?
 マダム・グロンベール とにかく喧嘩だけは止めてね。それだけは頼みますよ。
 イッポリット どうして喧嘩ですか。私は落ち着いたもんです。「落ち着いたもの」に加えて、上機嫌ときている。
 マダム・グロンベール そうね。その気になればあなた、いくらでも上機嫌になれるのよ。結局は可愛い人なの!
(マダム・グロンベール退場。)
 テレーズ 私だって落ち着いているの。まあ、私の場合はいつだってそうですけど。あなたも上機嫌だって言ったわね。丁度いい機会だわ。さっきの問題に決着を付けましょう。
 イッポリット さっきの問題?
 テレーズ その言い方、何なの? あなた丸々十五分間怒鳴りっぱなし。ロロは勘当だ。追い出してやる。丁度そこに電話がかかってきて中断。終わって私が話を戻そうとしたら・・・だって私も少しは関心がある問題なんですからね・・・そうしたら、「何のことだ?」って? どういうこと? これ。
 イッポリット ああ、あれか。あれはもう今日はいい。
 テレーズ 何ですって?
 イッポリット また別の機会に話すことにしよう。
 テレーズ 考えを変えたっていうこと?
 イッポリット いや、考えを変えたんじゃないさ。ただ気分が変わったんだ。決定は下した。腹がすわったんだ。もうあのことは考えない。それだけさ。
 テレーズ それで映画にでも行くつもりでいるのね、きっと。
 イッポリット いや、何もしようとは思ってない。ただ他のことを話すことにしただけさ。
 テレーズ そう。私は違うわ。悪いけど。
 イッポリット おいおい、今度はそっちが怒鳴りまくるっていうのかい?
 テレーズ そうよ。怒鳴るの。今度はこっちの番。怒鳴るのはあなたの専売特許と思ったら大間違い。二つ三つ言うことがあるの、私。あなたはそれを聴くの。静かにね。
 イッポリット(新聞を取り上げる。)謹聴致しましょう。
 テレーズ まづ言っておきますけどね、ロロを家から追い出すっていうあの決定を今夜実行なさろうとしているなら、無駄なことよ。だってロロは今夜家に帰って来ませんからね。月曜日まであの子、外出です。
 イッポリット 外出? 誰の許しを得た。
 テレーズ 私の。あなたを怒らせてまた二十分間お説教を聞くなんて馬鹿馬鹿しいと思いましたのでね、あの子も私も。すぐ許しが出て当然なことなんですから。
 イッポリット 許しが出て当然? 俺がやっとのことで入れてやった会社を追い出される。そんな奴に休暇を許すのが当然だと言うのか、お前は。
 テレーズ 部屋に監禁して、パンと水だけを与えようって言うおつもりだったの? まさか。このパリでバーからバー、最後に映画なんていう生活をさせるより、田舎でゆっくり二十四時間過ごさせる方がいいでしょう?
 イッポリット それで、誰と一緒なんだ、ロロは。
 テレーズ きっとロベールでしょう。あの二人、いつでも一緒ですから。
 イッポリット ロベールと、いつでも一緒? よくお前平然とそれが言えるな、俺に。
 テレーズ 言えますわ、好きなだけ。ただ私は平然とでしたけど、あなたの方がどうでしたかね。
 イッポリット お前の平然で俺が怯(ひる)んだとでも言うのか。とんでもないぞ、それは。
 テレーズ 少なくともこの二年間ずっとあの子、あのロベールと付き合っていたんですからね。週末や休暇には二人で旅行、二十回は下らないわね。あなたがそれをご存じかどうか。
 イッポリット 知ってるにきまってる!
 テレーズ あら、それなら、いつもロベールと一緒と言った時、何故あなた怒ったのかしら。それから、今日二人で出かける話をした時、あなた、「よく平然とそんなことが言えるな」って私に言ったわ。知ってるのなら何故そんなことが言えるの?
 イッポリット よしよし、分かった。それでいいんだろう? もうこの話は止めよう。俺も黙る。「いつも一緒のロベール」とまた出かけるんだ。おめでとう。それがあったり前のことなんだろう? 分かったよ。
 テレーズ 私の言いたいのはね、あなたがそれをこの二年間あったり前のことだと思っていたっていうことなの。
 イッポリット この二年間俺はそんなこと想像もしていなかった・・・いや、とにかく俺は考えたくなかった・・・まあいい。俺は黙るよ。
 テレーズ そうなの。あなたのはいつもそれ。「俺はとにかく考えたくなかった」なの。ただこの私はね、あなたのその台詞に何年も付き合ってきたって言いたいの。それからもう一つ、あなたが「考えたくないこと」それはロジェのこと。十七歳のあなたの息子ロジェ。いいですか、あの子はもう十七歳。少しはお金も必要な年よ。それをあなたは「考えたくない」、だから金なんか決してやらない。あの子が要求しないのを不思議とも思わない。食事の時にあのポーランド人の伯爵夫人のことであの子をからかって、さんざんあの人を肴にしているくせに、ロジェがあの人の思い者で、囲われているのも同然だってこと、思い付きもしない。あなたってそうなの。決して思い付きはしない。そして私がそれを言うと、宙に飛び上がって、「何だって?」とくるの。
 イッポリット ロジェが? 思い者? 囲われているだと?
 テレーズ そうよ。さ、爆発するのね。
 イッポリット あいつがお前にそう言ったのか。
 テレーズ あの子が言う訳ないでしょう。私が分かったの。それだけ。目が見えない訳じゃありませんからね・・・駝鳥みたいに砂の中に頭を突っ込んでいるんじゃないの、私は・・・だからこれははっきりとこうだなって、結論が出たの。
 イッポリット しかし俺はあいつらにちゃんと金を出してやっているぞ。食い物は食わせているし、着物は着せてやっている。それに教育費もだ。
 テレーズ それはそうね。でも十七歳にもなれば、映画にも行くし、好きな本だって買いたいし、煙草も吸う。それに女・・・
 イッポリット 女? 女だと?
 テレーズ そうよ。女よ、女。これに関してはあなたの方が私より詳しいはずね。そして子供が近づくと危ないこともあるって、それもご存じね・・・特にその子にお金がない時には余計。
 イッポリット しかしまさかお前、そんなものに俺の子供が・・・
 テレーズ とにかく私の言いたいことはお分かりになった筈ね。
 イッポリット そいつはいい。おい、喜べ。あいつは伯爵夫人と寝てるんだ。街の女なんかじゃない。やったぞ、こいつは乾杯ものだ。
 テレーズ そう。精々喜ぶことね。
 イッポリット 伯爵夫人に囲われるか。ふん、たいしたもんだ、その夫人ってやつも。
 テレーズ これでみんな分かったわね、あなたにも。
 イッポリット 何故もっと早く話せなかったんだ。
 テレーズ このことで一言私が口を開くと、すぐあなた、「くだらん」ですからね。「伯爵夫人! 一体何をお前、考えてるんだ」。この後はあなたの一人芝居。冗談に次ぐ冗談。真面目な話もみんな茶化して馬鹿な話を大声で怒鳴りまくって、最後に「糞ったれ、この!」で終わるの。
 イッポリット 御明察怖れ入ったよ。
 テレーズ いいですか、今から私、思った通りのことを言わせてもらいますからね。だってあなたさっき随分勝手なことをロロについて喋りましたね。「あいつを教育する時の俺の教育方針」だなどと。
 イッポリット そうだよ、教育方針だ。
 テレーズ 言わせて貰いますけどね、教育方針など何もありはしなかったの。ロロにだってロジェにだって。全然!
 イッポリット しかしな・・・
 テレーズ(突然猛烈な勢いで。)何がしかしよ! あるもんですか。抗弁なんかしないの! そんなことしたらこっちが怒り狂ってしまう。本気よ。この怒りはね、男爵夫人何の誰それが私に電話してきて、ちゃらちゃらとお世辞など振りまいたって、収まるものじゃないの。これは保証する。私だって一生に一度は怒鳴ります。あなたは黙ってるの。いいですか、あなたっていう人は決して、決して、教育ってものに関わったことはないの。あなた、参観日に行ったことある? そして先生と話したことが? それはいつも私の仕事。それからあの子達の宿題、それもみんな私。それが夜。お昼には穴のあいた靴下をかがる。あなたなんかいい気なもの。俺には大原則があるんだ、「大原則」・・・もう十万回も聞いたわ、あなたのおじいさん、つまり市長さん、そしてその後に続く家系の話。これが「大原則」。だけどあなたの若い時の勉強の話は決してしない。ただ先生の悪口を言うだけ。「何だ、先生なんて。何も知っちゃいない。アホな奴らだ」。そして先生達の真似。挙げ句の果てに言う、「あんな職につくぐらいなら、餓え死にした方がましだ」。こんなことを聞いた翌日、あの子達がどんな気持ちで先生の話を聞くと思うの。それから軍隊の話だってそう。「あれは与太者の集まりだ。動物で言えば牛が精々さ。あれで軍隊とは聞いて呆れる。」その後、その言葉を裏打ちするように、軍隊での真似。それからある日、ロロが何とか兵役を逃れたいってあなたに言う。兵舎になんか足を踏み入れるのも厭だって。その時のあなたの言い草は何? ロロをさんざんこき下ろしたのよ。この偉大なフランスという国をお前はどう考えているんだ。若い連中のこのデカダンを一体どうしたらいいんだ。ただあの子は平気なもの。あなたが突然怒鳴り始める、どうせ意味もないことを喋りちらす、それにはもう慣れている。だけどあの子達、あなたがいつ本気なのか分かりはしない。いつが道化で、いつが道徳の先生なのか。
 イッポリット やれやれ、終わったら合図してくれよ。
 テレーズ そう簡単に終わるもんですか。いくらでも話すことはあるんです。あの子が突然馬鹿でかい指輪を嵌めて、とんでもない髪形にした時、あなただってすぐ気がついたのです。私は何とかしようと少しは小言を言いました。あの子が聞いてくれた事もあったわね、少しだけど。私はとにかく、教育者としては失格だった。だけどあなたのは何? 怒って怒鳴って、侮辱して。あの子の方はそれをじっと耐えて黙って聞いている。そして翌日になる。あなたはもうそんなこと、考えたこともないって顔。あの子のやる事を受け入れてしまっているの。次の怒りが来るまでね。そしてその怒りだって、それまでのと何の変わりもありはしない。ただの線香花火。これがあなたの「教育」っていうもの。「原則」ってあなたが言っているのも同じもの。「これが原則だ」って怒鳴りちらす。その舌の根が乾かないうちにもう違うことを言っている。その態度からもうそんなことに何の価値もおいていないことが見え見え。戦争くらい大事なものはないんだ、我々の神聖な義務なんだ、と言っている傍から、それに従事している人達を馬鹿、アホ扱い。ある原則に合わないからと言って自分の息子を屑だ、滓だと、家から追い出そうとする。その一方で、レスビアンの男爵夫人に三拝九拝、床に頭をつけんばかりの御辞儀。駄目よ、そんなの! あんまりいい加減よ!(少しの間。)勿論私だってロロが普通の子供だったらどんなにいいだろうって思う。だけど現実はそうじゃない。あの子は違うの! そしてそれはどうしようもないの。あなただって私だって。あんなに丸々と肥って無邪気な顔をしているけど、あれでひどく傷つきやすいの。普通の子と違うから敏感なの。あなたには私、あの子の髮の毛一本だって触らせはしない! 私が言いたいことはこれ。そしてこれだけ。あなたがあの子を家から追い出すなら、私も家を出て行きます。出て行く場所ももう決めています。こんな風になるって、ずっと前から分かってましたからね。さ、これであなたの方も決心がついたでしょう。私の方も、もうずっと以前にこう決着をつけておくべきだったの。そうしなかったのは、ただ子供達のため。それだけ・・・
(突然胸が詰まって涙が溢れてくる。)
(間。イッポリット、立ち上がり、一言も言わず退場。)
(また間。それからロジェ登場。十七歳。若い百姓といった風貌。ばんから風を魅力ある格好と思っている。)
 テレーズ あら、お前、いつの間に?
 ロジェ どうしたの? ママ。
 テレーズ どうもしないの。訊かないで。私、機嫌が悪いの。
 ロジェ パパと喧嘩したんだね。
 テレーズ 何でもないの。その話はやめ。
 ロジェ ねえ、ママ。ロロがまづいことになっちゃって・・・
 テレーズ えっ? ロロに何か?
 ロジェ 偶然、本当に偶然にね、僕、ロロに会っちゃったんだ。
 テレーズ ええ。それで・・・それで?
 ロジェ ロベールのこと知ってるだろう? あのロベールが・・・ロロをふっちゃったんだよ。
 テレーズ 何ですって? でもたった今のはずよ。アンヴァリッド駅で二人が待ち合わせたのは・・・
 ロジェ うん。そうなんだけど・・・来たのはロベールじゃないんだ。代わりの使いに子供をよこして、ロロに手紙を渡したんだ。何て書いてあったか分かる? あの汚いロベールの奴、手紙に、女の子と発ったって言うんだ。
 テレーズ 女の子?
 ロジェ こんなことが出来るなんて、女って何なんだ。けだものじゃないか。牛だよ。人間じゃない、牛だ。
 テレーズ でもロロはどこなの? 今。お前にどうしてそれが分かったの?
 ロジェ それが、今話したろう?・・・本当に偶然だったんだ。・・・バック街で食事をすませて・・・うん、ま、いいや。僕は・・・ほら、トニャースカ伯爵夫人だよ。あの人の家で。それから友達の家へ行くところだったんだ。グルネル通りまで来たら突然ロロが目の前にいるじゃない。顔中涙だ。通りにいる人はみんなロロを見てるんだ。そして僕のことは気がつきもしない。僕は呼び止めた。そしたら僕の肩に顔を埋めてわあわあ泣き始めたよ。僕はもう自分がどこにいるかも分からなくなった。二人はバーに戻った。そこでロベールからの手紙を見せてくれたんだ。相変らず一言も言わないままね。それぐらいショックだったんだ。僕は、タクシーに乗って家へ帰ろうよ、と言ったけど、肩をすくめるだけ。しようがないから僕は・・・トニャースカ伯爵夫人のところへ行こうと言った。とにかくあれは僕の友人ではあるんだから。でもそれも駄目だって言うんだ。バーの前を見たらそこにホテルがあって、それでやっと行く気になった。僕は部屋をとったよ。その方がロロも落ち着いて考えられるからね。家に電話をするのは止めた。分かるだろう? だって・・・お母さんが来てくれるならそれはきっといいと思うんだけど・・・
 テレーズ 帽子を取って来るわ。
 ロジェ 外にタクシーを待たせてある。
 テレーズ すぐ行くわ。
 ロジェ 分かった。僕は先におりてる。パパに会うと面倒くさくなるからね。特に機嫌の悪い時には余計。
(二人、それぞれ退場。三秒後、イッポリット、どすんどすんとテレーズが退場した扉から登場。手に手紙の束を持っている。)
 イッポリット よーし、これが証拠だぞ。危うくこちとら、盲めっぽう暴れまわる獣(けもの)になるところだったぞ。
(自分一人しかいないのに気付く。)
(すぐにマダム・グロンベール登場。)
 イッポリット テレーズはどこですか。
 マダム・グロンベール 自分の部屋に戻ったわ。
 イッポリット お母さん、お母さんだってこれは面白いと思われますよ、きっと。ロロの部屋で手紙の束を見つけたんです。子供の交際について親が少し嘴(くちばし)をいれるぐらいは許される筈ですからね。あの子はまだ未成年なんですから! ほら、見て下さい。(手紙を一つ一つ取り出しながら。)「ロロットちゃん」「私の大きな林檎ちゃん」「巻き毛のロロットちゃん」「大きなお馬鹿ちゃん」「ロロットちゃん」。見て下さい。「ロロットちゃん」です。シャルルという名の息子を持って、そいつを人にロロットちゃんと呼ばれているんですからね!
(玄関の扉が乱暴に閉められる音。)
 イッポリット 笑っちゃうじゃありませんか。これですめばいいですよ。だけど・・・今の音、玄関のですか?
 マダム・グロンベール テレーズが出て行ったのね、きっと。さっき帽子を被って、バッグに何か詰めていたから。
 イッポリット バッグに詰める? 何のためにです。
 マダム・グロンベール さあ、行きがけにちょっと、「今夜は戻りませんから」と言っただけだから。
 イッポリット 戻らない?
 マダム・グロンベール そう言ったわね。
 イッポリット そんなことを言って、それですませられるんですか。
 マダム・グロンベール ひどく急いでいた様子だったからね。「今は説明出来ません。心配しないで。」って言ったし。
 イッポリット で、どこへ行ったかは?
 マダム・グロンベール 知らないわね。
 イッポリット 知らないって・・・いや、まいった。こいつはいいや。また一つ大傑作だぞ。妻が一晩外出して・・・(突然)そうか。あれがどこへ行ったか、分かったぞ。男のところへ行ったんだ。あいつには男がいるんだ!
 マダム・グロンベール(笑って。)やれやれ、あなたにも呆れるわね、イッポリット。
 イッポリット お母さん、お願いです。止めて下さい、その笑うのは。私は笑われるのはもううんざりなんです。今私が言ったこと、これは冗談じゃないんです。あれには恋人がいるんだ! あれはさっき私にそう言ったんです。私にそれを言った時の口調、あれは今までとはまるで違った口調でした。喧嘩を売ってきたのはあっちからです。もうあなたとは終り、お別れよっていう言葉ですよ、あれは。呆れたもんだ。これで私にははっきり分かりましたよ。最後にあれはこう言ったんですからね。私が家を出る時、その時には私の泊る場所は決まっているんですからね、と。それから捨て台詞が、「もうずっと前にやっていなきゃいけなかったわ」ときた。だから行った所は決まりきってる。恋人の所ですよ。前からあれには恋人がいたんです! 知りたくもなかったことがまた一つだ。そして何年も前から当然知ってなきゃならなかったことがまた一つということだ・・・さあどうぞ、お母さん、思いっきり笑って下さい。その椅子に坐って。そこからよーくあなたの婿殿を見て、体を揺すりながら。その価値は充分にあるってものです。寝取られ男! 淫売女の亭主! なんて素晴らしい家族。家族万歳だ。笑いましたよ、私は。この家庭にいて。大笑いです。いいですか、お母さん。私はもう許しはしません。あなたの娘も、あのロロも、もう二度とこの家には足を踏み入れさせませんからね。分かりましたね。
 マダム・グロンベール 何を言ってるの、イッポリット。あなたはそんなことは決してしないの。二人ともちゃんと家に帰る。そしてあなたはそれを許すのよ。
 イッポリット いや、帰らせはしません。お母さんはこの私を知らないんです。
 マダム・グロンベール そんなことはないの。あなたのことはよーく知っているんですからね、私は。あなたはね、自分の正体を人に知られたくないだけ。本当は魅力のある人物なの。
 イッポリット 魅力のある人物、結構! 本当にそうかどうか。私はとにかく今夜は家に帰りませんからね。私の方も今日はトンズラです。さよなら!
(イッポリット退場。)
 マダム・グロンベール(体を揺すって小声で笑う。)「私の大きな林檎ちゃん」!(笑う。)あの年頃の子供達って・・・酷いからね・・・
(マダム・グロンベール、再び静かに笑う。)
                  (幕)

     第 二 幕
(次の朝。同じ広間。窓は開いている。)
(年寄りの女中。頭にハンカチを結わえて掃除を終えているところ。羽根帚ではたくのは終り、家具や置物を並べ直している。)
(イッポリット、左手の扉から登場。頭には帽子。眉をしかめて少し青い顔。手に鍵束を持っている。)
 女中 ああ、お早うございます、旦那様。
 イッポリット お早う、レオニ。
 レオニ 掃除は終りました、旦那様。窓を閉めて出て行くところなんです。
 イッポリット 時計が止っていてね・・・ゆうべ巻くのを忘れていたんだ。今何時頃かな。
 レオニ 十時頃だと思いますが、あっちに(時計が・・・)
 イッポリット 十時か・・・(時計を十時に合わせる。そしてねじを巻く。)
 レオニ 今のはおよその時間ですけど。台所に行って正確な時間を見てきますわ。
 イッポリット いや、今はこんなものでいい。大奥様はもう起きてる?
 レオニ はい。奥様と。
 イッポリット 奥様と?
 レオニ ええ。
 イッポリット あれは家にいるのか。
 レオニ ええ、旦那様。奥様はたった今ロロと一緒にお帰りになりました。ロロは病気なんです。
 イッポリット ロロ? ロロも一緒なのか?
 レオニ はい、旦那様。奥様が寝かしつけて・・・旦那様は? とお訊きになりましたので、今朝早く週末でお出かけに、と申し上げました。
 イッポリット 私は出かけたんじゃない。今朝帰って来たんだ。
 レオニ ああ、ゆうべお発ちに? それは全く存じませんで。朝食はおすみに?
 イッポリット すんだ。有難う。お前今、奥様はシャルルと一緒に帰ったと言ったな?
 レオニ ええ。ロロと。
 イッポリット シャルルと言うんだ。もうあれは子供じゃない。そうだろ? で、二人はどこへ行って来たんだ。
 レオニ どこへって、旅行ですわ。ゆうべは夕食をここではおとりにならなかったんですから、あのお二人も。
 イッポリット ふん、そうか。
 レオニ 旦那様がここにいらっしゃることを奥様にお知らせしましょうか?
 イッポリット えっ?・・・ああ、それはいい。
 レオニ いいって・・・言わない方が、ですか?
 イッポリット いや、言ってくれ、私がここにいると。
 レオニ 奥様は今ロロと一緒に・・・えー、シャルルと一緒に・・・変ですわ、これ。
 イッポリット 変? 何が変なんだ。
 レオニ シャルルって呼ぶのは。
 イッポリット じゃあ何て呼びたいって言うんだ。あいつはもう大人だ。違うか?
 レオニ さあ、どうですか。
 イッポリット 何だって? 大人じゃないって言うのか。
 レオニ そうじゃありません。ただ、呼び難いんですわ。あまりお小さい時から存じているものですから。そのせいですわ。
 イッポリット 今ちょっと考えたが、あれには会わん。奥様には何も言わないで置いてくれ。最初に大奥様だ。
 レオニ お化粧中ですけど。
 イッポリット 行くからと言っておいてくれ。
 レオニ はい、旦那様。
(レオニ退場。)
 イッポリット また何だって言うんだ。病気だ? 何の? 朝十時に母親が連れて帰った? 全体、何ていう馬鹿な話なんだ。これからどんな話を聞かされることになるんだ、実際。この糞ったれのうんこたれ! 糞、うんこ、そんなものしか吐き出せやしない。何時になったら止むんだ、この! 俺はもう爆発しそうだぞ。
(マダム・グロンベール登場。部屋着姿。)
 マダム・グロンベール あなたがここにいるって、レオニから聞きました。
 イッポリット ええ、お早うございます、お母さん。
 マダム・グロンベール 挨拶のキスをして頂戴、イッポリット。何処に行ってたの? あなたって随分酷いことをするものね。一晩どこに泊ってきたの。テレーズと私、随分心配したのよ。
 イッポリット テレーズ? 心配? 何時ですか。
 マダム・グロンベール それは・・・さっきよ。・・・今よ。・・・あれが家に帰ってから。病気のロロを連れ帰ったんですからね。可哀相に、テレーズ。すっかりくたくたになって。
 イッポリット で、何があったんです。
 マダム・グロンベール ロロにかい? 私は知らないね。テレーズの話だと、とにかく具合が悪くて・・・夜っぴて看病してやらなきゃならなかった。
 イッポリット 夜っぴて? 看病? どこで。
 マダム・グロンベール どこでって、どういうこと?
 イッポリット 看病をどこでって訊いてるんです。
 マダム・グロンベール 知らないね、そんなこと!
 イッポリット ご存じない。
 マダム・グロンベール ええ。
 イッポリット あれが一晩どこで過ごしたか、訊きもしなかったって言うんですか。
 マダム・グロンベール お前、私にあれこれ馬鹿なことを言わないで欲しいわね、イッポリット。お前だってゆうべ私をたった一人置いてきぼりにしたんだよ。そのため私は心配で心配で、ゆうべはよく寝ていないの! 本当のことを言えば、一睡もしていないんですからね。
 イッポリット それは私だって同じです。睡眠のことをいやあ、私だって一睡もしちゃあいない。
 マダム・グロンベール あら、そう? 何故?
 イッポリット 何故? 何故とはご挨拶ですね、お母さん。でも今だって一人って仰いましたね。どうしてです。ロジェがいたじゃありませんか。
 マダム・グロンベール いませんよ!
 イッポリット じゃ、ロジェも今朝帰って来たって言うんですか。
 マダム・グロンベール 違います。あの子はまだ帰ってないの。
 イッポリット 帰ってない? どこにいるんです、じゃあ。
 マダム・グロンベール 知るもんですか、そんなこと。ゆうべはみんなどうしたって言うの。みんなみんな外で夜あかし。こんなこと今までにあったためしがないのに。どうしたっていうの、一体。
 イッポリット お母さんの方が私に説明してくれるものとばかり思っていましたがね。
 マダム・グロンベール 私が? 私が知っている訳ないでしょう? テレーズよ、知ってるのは。でもあの子も何も説明してくれやしない。ロロを寝かせに家に帰って・・・事情を聞こうとしたって部屋から出て来ないんだから。
 イッポリット そして、ロジェ。あいつまでが一晩中フラフラ・・・
 マダム・グロンベール ゆうべあの子は家に帰って来たわ。私と夕食を取ろうと。食事の時私はお前が今夜外泊すると、あの子に教えた。だってそう言ってお前は出て行ったんだからね。食事が終わるとあの子、私に言ったわ。「おばあさん、パパがいないんだから僕、映画に行って来る。帰りは遅くなるから先に一人で寝てていいから。」何かやりたいとなるとはっきりしているわよ、あの頃の年代は。(笑う。)分かった? だからゆうべ私はたった一人になっちゃったの。
 イッポリット そうですか。ゆうべはね。・・・だけど続きがありますからね、話には。今からちょっとたてば、この家はまた満員になりますよ。
 マダム・イッポリット きっとそうね。私もそう思うわ。
 イッポリット えっ?
 マダム・グロンベール そう、きっと。そのうちロジェだって帰って来る。
 イッポリット へーえ。
 マダム・グロンベール 映画に行って、こんな時間までどこをほっつき歩けるって言うの。映画館は遅くても十二時には閉まるのよ。そして今はもう十時半。
 イッポリット えっ? それは正しい時間ですか?
 マダム・グロンベール 十時半。ゆうべラジオでちゃんと直したんですからね。十時半、ピッタリの筈。
(イッポリット、自分の時計を直す。)
(レオニ、扉に登場。)
 レオニ 旦那様、正確な時間を聞いてまいりました。今丁度十時です。今朝教会の鐘に柱時計を合わせておきましたから。
 マダム・グロンベール 十時? 私の時計では十時半よ、レオニ。
 レオニ 大奥様の方が間違いです。
 マダム・グロンベール 間違いではありません。ゆうべ私はラジオに合わせたんですからね。
 レオニ では大奥様の時計は進むのでございます。私の方は今朝合わせたのですから。
 マダム・グロンベール いいえ、私の時計が進むなんて。進みはしません。正確です。きっちり動くんです。母の形見なんですからね、この時計は。進みも遅れもする訳がありません。
 レオニ じゃあ、大奥様がラジオの聞き違えをなさったのですわ。
 マダム・グロンベール そんなことはありません、レオニ。私はしっかりと聞きました。聞き違えなんて、お前よくそんなことが言えたわね。
 レオニ それならラジオの間違いですわ、大奥様。
 マダム・グロンベール(笑い出す。)ラジオが間違えるなんて、レオニ、お前ったら。なんて馬鹿なことを言うんだろうね。
 イッポリット(この時までに受話器を上げてダイヤルを回している。)シッ!(間。電話を聞く。)ふん、これで解決だ。電話の時刻サービスによれば、今丁度十時十七分だ。有難う、レオニ。
 レオニ なら、その電話が間違ってるんですわ。
(レオニ退場。)
 マダム・グロンベール(不本意ながら時計をなおす。鼻に手眼鏡をあて、時計を眼鏡のレンズにくっつくほどに近付ける。)変なことね、電話とラジオとで時刻が違うなんて。二つともどうせろくでもないのよ。お前だってそう思ってるんだろう?(プッと笑って。)それにしてもレオニったら、柱時計をかばってずいぶん頑張ったわね。
 イッポリット さ、この話は終りです、お母さん。時間のことで大事な話が中断しました。別のことを話していたんですからね。するとシャルルに何があったか、お母さんはご存じないんですね。それからテレーズについても。昨日午後、私がここを出てから、あれに何があったかも。あれがどうやってロロを見つけたか、それも。お母さんは何もご存じないんですね。
 マダム・グロンベール さっきから私はそう言ってるだろう?
 イッポリット ロジェに何があったかも。
 マダム・グロンベール あの子に事故でも起こったとでも思っているのかい。そうね、確かにあの子達には自分の所在を明らかにしておく癖はつけた方がいいわね。全く分からないって、困りものだもの。
 イッポリット お母さん、そういった件に関してはこれからはすべてテレーズに願います。そういったことには私は一切口を出さないと決心したんです。子供達を育てる、私にこれが出来たためしはないんです。私は道化です。あの子達にちょっと説教をする、あるいはそうした方がいいと私の意見を述べる、そんな時私がやることといったら、ただ教会でミサを歌っているようなものなんです。
 マダム・グロンベール(笑って。)まあまあ、そんな・・・
 イッポリット その結果は・・・ゼロです。私が喋ろうと喋るまいと、結果は同じなんです。みんな私を馬鹿にしている。それだけじゃない。テレーズに私は怒鳴られましたよ。
 マダム・グロンベール そんなことはないわ、イッポリット。違うわね。あの子はあなたを愛しているわ。
 イッポリット だからもうミサは止めです。道化も止めです。もう店を出すのは止めだ! 私は教育家なんかじゃないんです。大事な話になった時にちゃんとした喋り方を知りやしないし、すぐ脱線してとんでもない方向につっ走ってしまう。こういうことはみんなテレーズが主導権を握ればいいんです。二人の息子に相応しい言葉遣いも、あれは知っているんです。だからもう息子達に関する質問は私には止めて下さい。テレーズにして下さいよ。
 マダム・グロンベール お前随分苛々してるのね、イッポリット。お腹がすいているんじゃないの?
 イッポリット 苛々してるからって、腹がへってるとは限らないでしょう? 私は四つもクロワッサンを食べてます。お気遣いどうも。朝食は充分です。
 マダム・グロンベール じゃ、睡眠ね。睡眠が足りないのよ。
 イッポリット 一睡もしてませんよ!
 マダム・グロンベール お前の表現で言えば、「ど嵌めを外した」のね?
 イッポリット 「ど嵌めを外す」元気もありませんでしたね。
 マダム・グロンベール まあそうね。冗談に言ってるだけだし勿論そんな表現に意味なんてある訳ないし。
 イッポリット その気になればやって見せますよ、「ど嵌めを外す」ぐらい。それに成り行きによっては、案外近い将来にやるかもしれませんよ。
 マダム・グロンベール 成り行きって何?
 イッポリット あれは言わなかったんですか、お母さんに。どこに行くつもりかって。そしてお母さんは疑いもしなかったんですか。いや、見抜けなかったんですか。あれには恋人がいるんですよ。
 マダム・グロンベール 何? 恋人って。
 イッポリット 恋人、テレーズのですよ。
 マダム・グロンベール イッポリット、お前どうかしたんじゃないかい? テレーズにそんなもの、いる訳ないでしょう?
 イッポリット 私はいるって言いますね。もうゆうべお母さんにはお話した筈ですよ。テレーズ本人なんですからね、そう言ったのは。
 マダム・グロンベール あらあら。だからだったのかい? ゆうべ一晩中帰って来なかったのは。
 イッポリット そうですよ。お陰でパリ中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり。まるで独楽(こま)です。誰なんです、それは。お母さんは誰か知っている筈です。
 マダム・グロンベール あーあ、こんな話は相手になっていられませんよ、イッポリット。私は歯磨き顔洗いをすませて来ますからね。そういう事はテレーズと話して頂戴。
(テレーズ登場。)
 マダム・グロンベール ああ、丁度。ロロはどう? どんな具合?
 イッポリット まづ、お早う、だ。
 マダム・グロンベール あの子は病気なの?
 テレーズ お早う。同時に話すのは止めて、お願い。それに一度に沢山の質問も。それから叫ぶのも駄目。あの子達に声が聞こえてしまいますからね。
 マダム・グロンベール でも私は本当に知りたいんだよ。あの子は病気なの? 事故だったの? どこであの子を見つけたの?
 テレーズ あのね、お母さん。あの子は病気でもないし、事故でもなかったの。もう少ししたらゆっくりお話します。落ち着いて。あの子のことは暫くほうっておいて、お母さんは歯磨き顔洗いをすませて、お風呂を少し流しておいて。私、後で入りますから。
 イッポリット そうです、お母さん。ちょっとすみません。二人だけにしてくれませんか。
 マダム・グロンベール 分かりましたよ。じゃあ、お前達二人だけで。
 テレーズ さっきレオニに、紅茶をって頼んでおきました。出来てたらここへ持って来るように、お願いしますわ。
 マダム・グロンベール はいはい。お風呂の用意もしておきますよ。ただ喧嘩だけは止めて頂戴。
 テレーズ したいなんて思ってるわけないでしょう?
 マダム・グロンベール 分かりましたよ。じゃあ後でね、イッポリット。あまり怒らないのよ。(退場。)
 イッポリット ちょっと事情を説明してくれると私は有り難いんだがね。ゆうべはどこにいたんだ? それからシャルルだが、あいつは週末で出かけたんじゃなかったのか。それがどうしてお前と一緒になったんだ。
 テレーズ あの子は週末で出かけたんじゃないの。
 イッポリット ははあ、成程。それなら分かった。
 テレーズ 週末で出かけたんじゃないの。そしてあの子の友達があの子を捨てたの。それだけ。
 イッポリット 「友達があの子を捨てたの」・・・何だ、それは。
 テレーズ 言葉通りよ。「友達があの子を捨てたの」。絶交っていうことをあなた、御存じない? それよ。だから私、昨日の午後からずっと残骸のお相手。苦しんで、泣きじゃくって、なんと言っても慰めようのない残骸のね。あの子のことを教えてくれたのはロジェ。すぐ迎えに行ったわ、私。その時すぐあなたに知らせるなんて、そんな気は起こらなかったわね。だって全くの無駄ですもの。
 イッポリット それは御親切に。
 テレーズ ええ、それが親切・・・
(間。)
 イッポリット フン、とんだ親切さ。こちとら、どんなことがあったって驚くもんじゃない。エッフェル塔とパンテオンが一晩で場所を変えたって・・・
(レオン、紅茶をもって登場。テーブルに置き退場。)
 テレーズ 可哀相に。あの子もう、半気違いの状態だったわ。
 イッポリット そして次に来る台詞は、「とにかくすごかったわよ、あなた」ってなところだ。
 テレーズ 何ですって?
 イッポリット ほほう、「何ですって」とおいでなすった。しかしそうだろう? 我々の息子がその「お友達」にお捨てられ遊ばしたんだ。落ち着いてこんな風に話している場面じゃないぞ。お前の言ってるのを聞いてりゃ、「可哀相に、あの子もう半気違いの状態だったわ」だ。落ち着いたもんだ。まるでこの世で当然のことが起こってるっていった調子じゃないか。
 テレーズ あなた、当然とか、当然じゃないとか、そんなことを考えてるの? 私は違う。私はあの子の苦しみのことを考えてる。なんて苦しみ。あなたも私もあんな苦しみを味わったことはないわ、有り難いことに。
 イッポリット ご尤も。シャルル殿が皮切りでござんすな。愛の苦しみ、その十字架、その最初の経験者、それがシャルル殿だというんだ。
 テレーズ 一晩徹夜でもしていてご覧なさい。冗談なんかとても言う気にはならないわ、きっと。
 イッポリット こいつはいいや。
 テレーズ 「こいつはいいや」ですって? 何てことを。あなた、「劇的なこと」がこの世の中にあるっていうことが分からないの? あの子の年頃では、この「劇的なこと」が、簡単に悲劇にまで発展するの。それがあなたには分からないのよ。ロロは「愛していた」の。私の表現がお気に召さないかも知れませんがね。とにかく愛なの、あれは。あの子は「愛していた」の。それが本気だって気付いたのは私、昨日から。そしてあの子の反応ったら・・・どんなことでもやりかねない、そんな風だった。
 イッポリット どんなことでもやりかねない? 捨てられた情婦みたいにな。女の腐ったような奴だ、全く。
 テレーズ それがどうしたっていうの。女の腐ったような奴だろうと獣(けだもの)だろうと・・・そう、獣だっていいわ・・・大事なことは一つしかないの。それはあの子が悲しんでいるということ、あの子が不幸だっていうことなの!
 イッポリット お前にはそれしかないんだ、何時だって。「あの子が今どんな状態でいると思ってるの?」これだ。
 テレーズ それしか考えることはない筈でしょう?
 イッポリット あいつが「愛していた」? 聞いて呆れるよ。お前の言うことを聞いていれば、例の「お友達のロベール」ってところは全く考慮しちゃいないじゃないか。ロベール! 男だ。呆れ返って物も言えないよ。(こう言っちゃ悪いが。)
 テレーズ 女の子が原因だったって、何の違いもないでしょう? 苦しみに。それにこんなことを話しても何にもならないの。
 イッポリット あいつがそんな、お前が言っているような状態になってるなんて、そんな馬鹿なことがあるわけないじゃないか。
(テレーズ、「何を言ってるの」という風に頭をぐいと持ち上げる。)
 イッポリット そうか。すると我々はその悲劇とやらに直面しているという訳だ、この瞬間。そしてその理由ってのが「お友達のロベール」があの子を捨てたから! そんな話は論外だね。私の想像力をはるかに超えている。
 テレーズ そう。あなたはその線でしか考えられないの。
 イッポリット そうさ。それで何が悪い。
 テレーズ でも事実は私の言っている通り。
 イッポリット そう。事実の前には御辞儀をして「他にどうしようもありませんな」と認めるしかない。おまけにそれが当然という顔をして。またその話し方ときたら、まるで娘が婚約者に振られたっていう時の真面目で困った、普通の親の話し方だ。そんな当たり前の話じゃないんだぞ、これは。とんでもない。世の中には普通の顔で喋ってはいられない呆れ返った話がある。これがそれなんだ!
 テレーズ でもこれがこういう成り行きにならなかったら、もっとご不満なんじゃなくって?
 イッポリット 何だって?
 テレーズ あの二人の愛が続いていたらあなた、もっと気にいらない筈よ。
 イッポリット そりゃ当たり前だ!
 テレーズ でしょう? こうまづくいったっていう事であなた、喜ばなきゃならないの。本当は怒る理由は何もないのよ。
 イッポリット(暫くして。)で、どんな奴なんだ・・・そのロベールってのは。
 テレーズ 知らないわね。あなた、あの子と付き合っている人間を全部知ってる訳じゃないでしょう? 私だって知るもんですか。私に分かっているのはただ、その男が女のロロを捨てたっていうこと。
 イッポリット 女のためにか?
 テレーズ そう。
 イッポリット 何だ、あの野郎。変わってるっていうだけじゃすまされないな。そいつは筋が違うってやつだ。
 テレーズ あなたは父親なんですからね。正しい筋の方に戻って喜ばしいっていうところね、きっと。
 イッポリット 父親ね。実際、父親の顔が見たいよ。大層御立派な紳士様でいらっしゃるよ、多分。ここからでも見えるようだ。
 テレーズ 立派! それはあなたと同じぐらいね。
 イッポリット 呆れた。全く呆れ返ってものが言えない。たいした世界だよ、実際。きれいさっぱり、箒か何かで掃き出してせいせいしたいよ。さっさとね。どろどろっとした汚いものをほうり出すんだ。空気が欲しい、空気が。畜生!
 テレーズ 掃き出すって、父親を? それとも息子を?
 イッポリット 何もかもだ。親父も、息子も、同じ籠に入っているもの全部をだ。糞っ、この世での生き方、そいつを俺が教えてやる! そんなに長い説教じゃない。(軍隊式に)足並みを揃えるんだ!
 テレーズ ええ、分かったわ。でも今はちょっと坐って下さると有り難いわ。ゆうべは私、寝ていないの。あなたがそこで動き回ると、それだけでくたびれるわ。
 イッポリット ああそうだ。その「ゆうべ」っていうやつについてちょっと話そうじゃないか。ゆうべはお前、どこにいたんだ。
 テレーズ ホテルよ。
 イッポリット ホテル? ほほう、どこのホテルだ。
 テレーズ グルネル通りのホテル。そこでロロを見つけたの。あの子の滞在場所が分かったので、私もそこに泊ることにしたわ。
 イッポリット それであいつは何をしていたんだ。そのホテルで。
 テレーズ ちょっと・・・私、今あなたから訊問を受けたい気分じゃないの。
 イッポリット そしてこっちはね、これ以上君をくたびれさせないで訊こうとしているんだ。あの子と一緒に誰の家に泊ったかをね。それを言うのが不都合じゃなかったらね。
 テレーズ 言ったでしょう? それは。
 イッポリット うん。しかし、生憎ね・・・
 テレーズ 「しかし、生憎」? 私の言っていることを信じてないって?
 イッポリット うん、まあ。
 テレーズ 有難う。
 イッポリット どう致しまして。とにかく昨日君が私に言った台詞はこうだったからな。「私が出て行くことになれば、誰の家に行くかはもう決めている。」
 テレーズ そう。
 イッポリット じゃ、そう言ったんだな?
 テレーズ ええ。
 イッポリット それはどういうことなんだ。
 テレーズ お願い、今は止めて!
 イッポリット 何? 今は止めてだと? ゆうべお前は出て行った。はっきりと自分に恋人がいるってことを私に分からせてな。旅行鞄を抱えて、一晩外で過ごしたんだぞ。それで私に「ゆうべお前一晩どこに行ってたんだ」と問う権利もないというのか? よろしい。言ってもらおう。私はこの家で余分な人間なのか。父親でも夫でもないのか。家中であいつは何故出て行かないんだと不思議がっているのか。さ、言え、「出て行け」と。「この家では誰もあなたの味方はいないの。それにこの十年間あなたはずっと寝取られ亭主だったのよ」とな。(叫ぶ。)言うんだ、そいつを!寝取られ亭主だってな!
 テレーズ お黙りなさい! そう言って上げたいところよ、本心は。でも残念ながらそうじゃないの。
 イッポリット まだホテルに泊ったなんていう作り話を信じさせようっていうのか。昨日お前は俺にこう言ったんだぞ。「私が出て行く時、どこに行けばいいか私には分かっているの。」それにこうも言ったんだぞ。「もうずっと前にこうしていなきゃいけなかったの。」そう言ったのか、言わなかったのか、どうなんだ。
 テレーズ 言ったわ。
 イッポリット じゃ、はっきりした奴がいるんだな。そう言うことを言う限り。
 テレーズ ええ。
 イッポリット 誰なんだ、そいつは。そのお前が思っている奴ってのは。
 テレーズ アンリ。
 イッポリット いとこの? こいつはいいや。アンリがお前の思いもの? 何時からだ。
 テレーズ 「あいつの方がいいんじゃないか」って最初あなたが言った日から。
 イッポリット 俺が? 「恋人にはあいつがいい」と言った? こいつはいいや。大笑いだ。
 テレーズ こうも言ったわ。「あいつはお前には完璧だ。それにあいつ、お前に会う度に、気があるって顔をしてやがる。」
 イッポリット アンリがお前に気がある?
 テレーズ そう。目を開いて下さったのはあなた。でも私、気に入られているのは知っていた。
 イッポリット それでお前はあいつのもとに?
 テレーズ 御推察通り。昨日。
 イッポリット 俺の御忠告に従ったというわけか。
 テレーズ ゆうべはあなた、酷過ぎたわ。限度を越えていた。私、我慢が出来なかったわ。
 イッポリット それで、行くところまで行ったのか。
 テレーズ そうはなれない訳があったわ。重大な訳が。それは、もしそうなったら、私はもうここには住めない。だから結局あなたにあの二人の子供を任せなきゃいけない。そう思ったの。あの人は私の言うことが分かった。それでこう言ったわ。当たり前って言えば本当に当たり前の台詞だけど、あなたの私への態度がどうしても我慢ならなくなったら、その時には何時でも僕のところに避難しに来るんだなって。
 イッポリット 急がないって訳か。いい頃合を見計らうってやつだ! お前がその決心をする時まで待つということか。あの野郎、一体何だと思ってやがるんだ。俺がお前にいたたまれなくしたかどうか、俺に判断がつかないとでも思っているのか。
 テレーズ そう。あなたには判断がつくの。それならあなたが故意にやったかどうか、私の方ではそれを身極めなくちゃいけないっていうことね。
 イッポリット 故意に? だいたい俺がお前に、この家にいたたまれないようにしたことがあるのか?
 テレーズ そうね、あなたはそんなこと、気がついたためしはないんでしょう? 私のことにしたって、子供のことにしたって、あなたに火の粉が振りかかりそうだと思うと、あなたはすぐ見ない振り。私がこう言ったら、あなたどう言うかしら。私は愛(と言えるもの)に育つかもしれない感情と闘ってきた。それも子供達のために。ここで生き続けて行く力は持たなければと。それにこう言ったらどう言うかしら。結婚して二十年、あなたの怒鳴り声、怒号、下品な言葉で私はもう殺されている。そしてこの二十年間、ほとんど毎晩、ああ、もうこんな生活いや! あなたもママも子供達も、何もかも全部ほっぽって出て行きたい、と思っていた、と言ったら。・・・でも答は同じでしょうね。「あ、知らなかったな。ああ、全く気がつかなかった。」こうでしょうね。まあ、お気の毒様ね。だって今、みんな分かっちゃったんですからね。自分で知りたいって言ったんだから仕方ないでしょう。・・・そう、ゆうべロロに何が起こったか分かって? あなたとやったあの喧嘩の後、私は荷物を纏めた。もうあの晩にもアンリの家へ避難しようと心に決めたわ。そしてこれは言っておきますけど、私ゆうべこそは必ずあの人の腕の中で過ごそうって決めていた。そんなことにならずにすんだあなた、運がよかったのよ。全部ロロのお陰よ。あの子のあの時の状態を見たら他の問題なんかふっ飛んじゃった。あの子をほったらかしてあのホテルを出るなんて!(とても考えられもしない。)今度のことはあなたのいい薬になったの。いつも知らぬ顔の半兵衛を決めこんでおいて、それから突然驚いたような顔をして、「俺は知らなかったぞ、何だこれは。」と、あたり構わず怒鳴り散らす、そんなのは駄目。ちゃんと見ていなくちゃいけないの。それだけ! 目があるんでしょう? 目が。人間なんでしょう? もう二度と目なんか使いたくないっていうのなら仕方ない、残念だけど。あなたのその精神じゃ、その精神に相応しいものしか得られはしないの。
 イッポリット わざと見ない? 呆れたことを言う奴だ。するとこの私の責任だと言うんだな、お前は。あいつがあんな風な男に育ったというのもこの私がわざと・・・
 テレーズ 黙って! お願い、黙って! とにかく今は!
 イッポリット いいや、私は黙らんぞ。そいつは全く呆れた考えだ。シャルルがあんな風になったというのが、この俺の、この俺のせいだとお前に本気で・・・
 テレーズ 分からない。私にもそれは本当は分からない。でもとにかく、これだけは確かよ。あの子を作り上げたのは私達二人だっていうこと。
 イッポリット フン、どうかな。俺には疑わしくなったな。
 テレーズ 冗談じゃない。何を言ってるの。そのことについては頭を悩ませることは何もないの。ロロはあなたの子。それは保証するわ。
 イッポリット 俺も保証出来ることがあるぞ。いいか、俺の家系からは誰一人自然の道理に反した人間を出してはいないぞ。(少しの間。)そうだ、お前の叔父さんのアルフレッドだ。アルフレッド叔父さんの血を引いたんだ。これではっきりした。あの人は変わっている。何を言ったってききはしないし、それにあの尻の振り方はどうだ。くねくね、くねくね。そうだ、糞ったれ! あったり前の話じゃないか。あの変わり者の、あの叔父さんだ、原因は。俺の方の筋じゃ決してない。
(マダム・グロンベールの頭が現われる。髮をカールで巻いている。)
 マダム・グロンベール お風呂が湧いてるわよ、テレーズ。早くして。水が抜けてしまうんだからね。
 イッポリット まだ栓が直ってないのか。もうずっと前にこの話はした筈だぞ。
 マダム・グロンベール 大丈夫。まだ大丈夫だから。怒らないで、イッポリット。
 テレーズ お願い、怒鳴らないで。扉が開いてるんだから。
 イッポリット 知るか。俺は怒鳴りたい時に怒鳴るんだ。
 テレーズ 私、お風呂にはいるわ。
(テレーズ退場。)
 イッポリット(独りで。)そのうち扉だって開けられなくなるぞ、この家じゃ。
(間。)
 イッポリット そうさ・・・
(長い間。)
 イッポリット 遂にこうなったか・・・
(また非常に長い間。イッポリット、荒れた感情がすっかり収まる。目をゆっくりと身の回りの物に向ける。壁に、家具に、写真(複数)に。傍(はた)から見て哀れを催す顔つきになる。立ち上がってテーブルに近づく。そこにテレーズの写真あり。それを取り上げる。ちょっとの間、見る。特に表情は変わらない。ぼんやりした顔。それから写真を元の場所に戻す。両腕が力なくだらりと垂れる。テーブルの回りに置いてある肘かけ椅子を
相手にやっと聞こえるか聞こえないかの小さい声で呟く。)
 イッポリット シャルル、ロジェ、話はこうなんだ。
(自分の前にいると自分で決めている聴衆に、自分の言葉をしっかり聴いてもらえるように、真直目を向けて。)
 イッポリット お母さんの言う通りかもしれんな・・・私はただの阿呆なのかもしれん。すぐにかーっとなる。兵隊のような話し方をする。そして周囲の人間に迷惑をかけるだけ。・・・二十歳からの私は、ただ一つの心配事、それにかかりっきりだった。お前達を食わせてゆくために、稼がなきゃならん。何を怠けていたんだと、お前達から後で非難されないようにと、それが私の強迫観念だった。この闘いで私はいつもたった一人だった。私にはたいした学歴はなかった。だから結婚してから、私は自尊心のすべてをかけて、それなりの地位に就こうとやっきになった。私は働いた。真黒になって。毎晩疲れ果てて家に帰ってきた。昼間の仕事の延長で、家でも神経が高ぶっていた。それがお前達にはひどく嫌なものだったらしいな。私は気付いていなかった。そして知らないうちにお前達の母親、あれをこの世で最も不幸な女にしてしまっていた。お前達はこの私を愛してはいないし、あれももう私を愛してはいない。おまけにこれら全てのことが、私には見えていなかった。いや、見えていなかったんじゃない。ただ見たくなかったんだ。それが今・・・すっかり明らかになった。なあ、シャルル、お前には勿論自分でどうすることも出来ないだろうが、お前は、私が理解できない部類の人間だ。私が我慢出来ない部類の人間と言った方がいいかもしれん。これはもう議論の余地はない。我慢出来ないんだ。抑えようったって、力に余るんだ。厄介神に魅入られてしまったんだ。お前がこの私の息子であるってのは、二人でいがみ合わなきゃならんというのは。私はお前の父親・・・それでいて、同じ家族の人間とはいえん。そうだ、お前のお母さんはしょっちゅう悲劇悲劇と言っているが、考えてみればお前と私、これが悲劇の最たるものじゃないか。私はお前の人格そのものを認めてやりたい、そして愛してやりたい。しかし同時に、お前が私の傍を通る時にぶん殴ってやりたい気分なのだ。(肩をすくめて、「どうしようもない」という仕草。)今お前が悩んでいる悩み、その同じ悩みを同時にこの私が悩んでいる。こんな、お前が今までに聞いたこともないような調子でお前に話しかけている。それはそのせいだ。私はお前の母親を愛していた。あれのことを怒ったり、怒鳴ったり私はしたが、今でも愛していると思っている。そう、確かに今でも。あれは私の妻だ。そして、それなのに、私とあれの距離は遠くなっている。私とお前の距離の方がまだ近いくらいだ・・・
(唇が震える。体を固くして、涙が出ないよう怺(こら)える。物が言えるようになるまで暫く待つ。)
 イッポリット そうだ、こうしよう。お前のおばあさんから任された金は全部返そう。それとは別に、お前の母親には定期的に仕送りをしよう。それでお前達は充分やって行ける筈だ。私は出る。住みかなどどこにでもあるさ。どこだって構わん。お前達をこんなに不幸にした私、この私を許してくれ・・・
(少しの間の後、人の近づく声を聞き、帽子を取る。テレーズの写真に再び目をやる。左手の扉に一歩進む。ロジェ登場。父親との突然の出会いに驚き、立ち止る。)
 ロジェ ああ、お早う、パパ。ここにいたの?
(ロジェ、当惑の表情。)
 イッポリット ああ、お早う。
 ロジェ ママももう帰ってる?
 イッポリット うん。
 ロジェ ああ、帰ってるのか。ロロと?
 イッポリット お前の兄さんとな。うん。
 ロジェ パパは出かけてたんでしょう?
 イッポリット お前こそ出かけてたんだろう。違うのか。
 ロジェ うん、まあ。
 イッポリット 「うん、まあ」とは何だ。出かけてたんだろう。
 ロジェ うん。
 イッポリット 父さんもお前の母親も、ここでは寝ないって分かったから、お前も出かけることにした。そうなんだろう。
 ロジェ そりゃ・・・
 イッポリット 父さんが家にいたらどうなんだ。それでもお前は外出していたか?
 ロジェ ええ、それは。
 イッポリット 本当か?
 ロジェ ・・・
 イッポリット しかしいいか、もしお前がそんなことをしていたら、朝になれば分かるんだ。分かるな?
 ロジェ ええ。
 イッポリット じゃお前、父さんに分かってもいいって言うのか。そんなことをするのは馬鹿じゃないか。
 ロジェ ええ。まあ、そういうことです。
 イッポリット じゃ、お前は馬鹿だ。
 ロジェ ・・・
 イッポリット お前は母親も父さんもとても認めっこないと知っていて、あることをやった。おまけに、それが二人にばれるだろうと分かっていてだ。そうなんだな。答えるんだ。
 ロジェ ええ、まあ。
 イッポリット ということは、お前は認めているんだな。父さんが今お前を叱っても、お前を折檻しても、それは仕方がないと。そういうことだな。
 ロジェ ええ、だけど・・・
 イッポリット 「ええ、だけど」とは何だ。何か言い訳があるのか。
 ロジェ ・・・
 イッポリット まあいいだろう。ちょっと違うことを話そう。父さんはお前を叱ろうとも思っていないし、折檻しようとも思っちゃいない。父さんは大事なことについて、お前と落ち着いて話したいんだ。
 ロジェ 僕と?
 イッポリット お前とだ。それだけの年はとっている筈だ。ゆうべのお前は自分が馬鹿であることを証明したようなもんだが、同時に、ただのおねんねでもないことを示した訳だ。まあ、坐れ。
 ロジェ(狼狽して。)うん。
 イッポリット ロジェ、私はね、ゆうべお前、どこに泊ったんだ、なんて訊きはしないよ。私は知っているんだ。伯爵夫人のところなんだな? まあいい、返事もしなくていい。私は知っているんだ。ところでちょっと気がついたことがあってな。それはつまり、お前が決して私に金をねだったことがないということなんだ。お母さんに訊いても、お母さんにもねだったことはないという話だ。それなのにお前は外出する、放課後には映画にも行く・・・まあ放課後であることを期待しているがね・・・それに煙草だ。これは金がいる筈だ。そうだろう? どこでお前はこの金を手に入れているんだ。
 ロジェ ソニアがくれるんだ。
 イッポリット ソニア?
 ロジェ 例の伯爵夫人。
 イッポリット 「例の」?
 ロジェ うん。
 イッポリット これは驚いた。そんなに気楽な調子で白状するとは思わなかったな。
 ロジェ どうして?
 イッポリット どうしてってことはないだろう。当たり前じゃないか。伯爵夫人、そんな年寄りと・・・
 ロジェ 年寄りじゃないよ、彼女は。二十二歳だ。
 イッポリット 二十二?
 ロジェ そうだよ。二十二だよ。十七歳半でポーランド人と結婚したんだ。そして三年前、その人が落馬して死んじゃった。それで彼女が遺産を全部相続したんだ。
 イッポリット だけどお前、そいつと寝るんだろう? そいつと。
 ロジェ そうだよ。
 イッポリット それでお前に金をくれるっていうのか。
 ロジェ そんな言い方ってないよ。金が欲しいからしてるなんて! 僕は彼女が好きなんだ。だから寝てるんだ。彼女だって僕のことを愛してるって。
 イッポリット 愛してる?
 ロジェ 僕が面白い男だって。
 イッポリット じゃ、お前が面白い男だから金をくれるっていうのか。
 ロジェ 違うよ。僕に金がないのを知っているからだよ。
 イッポリット それでお前はそれを受け取る・・・
 ロジェ 当たり前じゃないか。あっちは腹なんかちっとも痛みはしない。金はうなる程あるんだから。断ったりしたら本気で怒るから、って言うんだ。僕は断ったりしない。
 イッポリット よし、分かった。いいか、ロジェ、今日からは金はお母さんに言うんだ。お前に必要な金はお母さんがくれる。それからまづ当座に、ほら、千フランだ。
 ロジェ 有難う、パパ。だけど、この千フランで僕にどうしろっていうの?
 イッポリット どうしろ? どうでも出来るだろう? 煙草だって五六箱買える。映画にだって二三回行けるだろう?
 ロジェ そりゃ行けるよ。でもそんなのじゃ何にもならないよ。千フランだったらママに口紅でも買ってあげたら? いや、美容院に行くのもいいや。その方がずっといいよ。僕がここで金をねだらないのはそのためなんだから。ソニアがお金くれるから、うちではその分、経済なんだ。
 イッポリット いいか、ロジェ、お父さんはな、人に物乞いなんかしたことはないんだぞ。一銭たりともだ。
 ロジェ ええ、知ってます。
 イッポリット ルーマニア女だろうが、ポーランド女だろうが、この家を養ってくれるなんて話はまっぴらだ。
 ロジェ ソニアは親切で言ってくれているんだ。だって彼女にとっちゃ、たいしたことじゃないんだから。
 イッポリット 親切なんて糞くらえだ。それにたいしたことだろうがどうだろうが、こっちの知ったことじゃない。
 ロジェ それは違うよ、パパ。この間僕、ロロについていいことを思いついたんだ。店の金をソニアに頼むんだよ。
 イッポリット 店? 何だ、店とは。
 ロジェ アパレルの店だよ。パパったら、分からないんだから! ブティックだよ。ロロが自分の家みたいに出来る、仕立ても製造もそこで出来る・・・
 イッポリット まさかお前、あいつがファッションデザイナーになるなんて思っているんじゃあるまいな。
 ロジェ 「まさか」って何? ロロの作るものってすごいんだから! ソニアも賛成なんだ。ロロのためだったら金なんて惜しくないって言ってるんだ。二百万でも、三百万でも。もし必要なら。
 イッポリット 三百万?
 ロジェ そうだよ。すごい奴だよ、ソニアは。金なんて使うためにあるんだっていつも言ってるんだ。それに僕だって、発明がある程度進んだら特許を取らなきゃいけないけど、それにだって出してくれるさ。
 イッポリット ふん、そうか。でもまあいいや。それまでに当座、ほら、二千フラン。だから頼む。以後伯爵夫人は止めにしてくれ。会うのは止めるんだ。お前次第なんだろ、行くのも行かないのも。だってそうだろう? 言っちゃ悪いが、お前の勝手な想像なんだ・・・その娘にとってはお前だけが男じゃない。そうなんだろう?
 ロジェ 何言ってるんだ、ソニアには僕しか男はいないんだ。
 イッポリット そう? お前には分かるのか?
 ロジェ 分かるに決まってるじゃないか。僕には分かってるんだ。そりゃ、付き合う奴は他にもいるさ。だけどそんなの問題じゃない。
 イッポリット 「問題じゃない」ね。
 ロジェ そうだよ。そんなことはどうでもいいんだ。とにかく僕のことが一番好きなんだ。
 イッポリット そう言ったのか? その娘が。そしてお前はそれを信じてるのか。
 ロジェ お世辞なんかじゃないんだ。そんなこと言ってくれなんて僕は頼みやしない。僕は乞食じゃないんだ。だから彼女がそう言ったら、彼女がそう思ったからなんだ。それに、これが本当でなきゃならない別の理由があるんだ。それは・・・それはね、僕に関するものは全部、神聖なものだからなんだ。
 イッポリット お前に関するものは全部神聖なもの?
 ロジェ そうだよ。ママだって、ロロだって、パパだって。
 イッポリット パパも? パパもお前にとって神聖?
 ロジェ パパだってさ。だからもしパパが仕事で金が必要になったら、(僕は言うよ。そしたら、)きっと彼女、出してくれるよ。
 イッポリット やれやれ、ポーランドの伯爵夫人殿にこの一家が丸抱え! そんな馬鹿な話になってたまるか。お前のそのソニアって女、ちょっとおかしいんじゃないのか?
 ロジェ そりゃおかしいさ。変わってるんだ。誰にだって親切なんだ。もしパパが彼女と知り合いになったら・・・
 イッポリット さ、この二千フランを持って行くんだ。そして彼女の話はもうしない。いいな?
 ロジェ 嫌だよ、パパ。それは駄目だ。
 イッポリット 何だって? 私からだと駄目? それであの娘(こ)からだといいって言うのか。
 ロジェ それはそうさ。彼女と僕、愛しあっているんだからな。全く話が違うよ。
(テレーズ登場。部屋着姿。ロジェを見て立ち止る。)
 テレーズ ああ、ロジェ。あんた帰ってたの? パパもママもゆうべは外泊っていうのをいいことに、あんたも外泊したのね。おばあさんに聞いたわ。
(テレーズ、ロジェに近づき、突然ロジェの顔を平手打ちする。)
(二人、暫く睨み合う。)
(ロジェ、頭を下げ、黙る。)
 テレーズ さ、部屋に帰りなさい!
(ロジェ扉に進む。)
 テレーズ それから静かにね。兄さんが寝ているんだから。
(ロジェ退場。)
 テレーズ あなただってあんなこと、あの子に認める訳ないでしょう?
 イッポリット しかし今のは驚いたな。
 テレーズ 驚いた?
 イッポリット 何故殴ったんだ。
 テレーズ 殴られていいようなことをしたからよ。
 イッポリット たしかに折檻には値するが・・・
 テレーズ そうでしょう? 今のがその一つ。
 イッポリット 方法としては最低のやつだ。
 テレーズ それはそう。
 イッポリット 私はな、言って聞かせていたところだ。
 テレーズ お札の力でね。
 イッポリット えっ? ああ。
(イッポリット、金をポケットに入れる。)
 テレーズ お金をやろうとしていたのね? あの子に。
 イッポリット うん。お前が話してくれた昨日のあの話、なかなか尤もだと思ってな。(だから筋道を立てて話していたんだ。)そこでお前がやって来て突然ひっぱたくんだからな。最低なやり方だよ、全く。
 テレーズ そうね・・・とにかく私、むかっときていたの。あなたには分からないわ。
 イッポリット 最低だ!
(テレーズ、急に退場。)
 イッポリット(一人残されて。)何ていうご都合主義なんだ、教育なんて。こっちが怒って叱っていりゃ、女房が出て来て「何て野蛮なことを!」こっちが落ち着いて言って聞かせていりゃ、今度は自分でひっぱたく。(呆れたもんだ。)俺は止めたぞ、教育なんか。・・・やれやれ、殴ったのが俺だったとしてみろ。どれだけお小言を聞かされたか。いや、この場だけじゃすまされなかったぞ。十年だ。十年間ずっと事ある毎に聞かされる嵌めになっていたぞ。
(マダム・グロンベール登場。着替えている。)
 マダム・グロンベール 誰か叩かれたのね。音が聞こえたわ。
 イッポリット 聞こえましたか? ロジェです、叩かれたのは。
 マダム・グロンベール よくやったわ、イッポリット。今度のことでは叩くのが一番。私は賛成。子供達は時々は思い知らさなきゃ駄目。守らなきゃならない最低水準ってものがありますからね。時々は思い出すわよ、今日のことを。よくやりました!
 イッポリット そう、よくやりました。
 マダム・グロンベール 本当にそうよ。あなたはね、イッポリット、今まで子供を殴ったことなんか一度もなかった。それはよいことよ。そりゃあなたは怒鳴る、噛みつかんばかりにね。おまけに汚い言葉遣い・・・これはね、あなたはいくら変えようったって変えられはしないの。でもあなたって本当は素敵な父親なの。息子達を心から愛している。子供達に不当な扱いをしたことなど一度もないの・・・でも今日はよくやったわ。大変結構。人生にはね、逃してはならない瞬間てものがあるの。私はね、男の兄弟が四人いた。だからその辺の機微はよく心得ている。父親がちゃんとしていましたからね。あれはアルフレッド兄さんが十九になった時だった。父親はあの人を殴ったわね。ちゃんとこの目で見たわ。父親が子供に手を上げたなんて後にも先にもあれ一回きり。だからアルフレッドはその叩かれるっていうのが欠けていたのね。この日でそれも充当。(笑う。)そうね、断言してもいいわ。あの日はそれこそ、あの人まともに食らったのよ。十九歳。それでもきっちり二発。まあそれはいい音! 人生のいい思い出よ。まあ立派なものね、アルフレッド兄さんも。
 イッポリット それでそのご立派なアルフレッド兄さん、一体何をしでかしたんですか。
 マダム・グロンベール さあ、何のせいだったかしら。よく覚えていないけど、小間使に何か悪戯ね、きっと。
 イッポリット 小間使? まさか、あのアルフレッド伯父さんが・・・
 マダム・グロンベール そんな。はっきり覚えちゃいないわよ。昔の話。私は十四歳だったんですからね。田舎のことだし。私はそう理解していたっていうことね。家でだったかしら、畑でだったかしら。とにかく何かあったのよ。よく覚えていないけど。その頃、野良仕事を任せていた作男がいて、それをうちの父はひどく嫌がっていたわ。小間使のその話の時に、その作男も何か係わりがあったんでしょうね。その日のうちに暇を出してしまったんですから。思い出すわ。(笑う。)
 イッポリット(独り言。)作男! まあ、そういう話はそういう筋から出るもの・・・相場はね。しかしあの伯父さんがね・・・
 マダム・グロンベール 何か言った?
 イッポリット いえ、こっちの話で。
(レオニ登場。)
 レオニ 旦那様、たった今教会の鐘が鳴りまして・・・(玄関のベルの音。)
 イッポリット 玄関も鳴っているぞ。
 レオニ それで今、十時四十五分という訳なんで・・・
 イッポリット それがどうした。
 レオニ(マダム・グロンベールに対して意味ありげに。)つまりその、台所の時計は正確だったということで・・・
 イッポリット 分かった分かった。その話はいい。玄関に出てくれ。
 レオニ はい、只今。居留守は使いませんよ。いいですね。
(レオニ、部屋を横切って退場。)
 マダム・グロンベール 朝の訪問は私、嫌い。私は退散するわ。
 イッポリット どうぞ、お母さん、お好きなように。
 マダム・グロンベール これは原則ですからね。
(マダム・グロンベール、笑って退場。)
(レオニ、再び登場。)
 レオニ 旦那様、アンリ様です。
 イッポリット アンリだって?
 レオニ 旦那様が御在宅かどうか、ですって。在宅ですと申しましたわ。
 イッポリット 不在の方が良かったんだが・・・ま、いいや。お通しして。
(アンリ登場。)
 イッポリット 何だ。何の用なんだ。
 アンリ おう、さぞかし君、満足だろうな。
 イッポリット 満足?
 アンリ まさか知らんふりを決め込むつもりじゃあるまいな。
 イッポリット 何の話だ、一体。
 アンリ しようがないな。君の息子の大成功の話じゃないか。
 イッポリット 大成功?
 アンリ えっ? まさか本当に知らないんじゃないだろうな。
 イッポリット 知らないって、何をだ。
 アンリ 知らないのか? 本当に。君の息子が賞を取ったんだよ。
 イッポリット 二人いるけど?
 アンリ シャルルだよ。シャイヨー宮で。ゆうべ表彰があったよ。シャルルはファッションデザイン賞一等入選だ。
 イッポリット 一等入選?
 アンリ 賞金二十万フラン・・・
 イッポリット 二十万フラン・・・
 アンリ そうだよ。二十万だ。
 イッポリット シャルルが?
 アンリ シャルルが。
 イッポリット これは初耳だ。
 アンリ 知らなかったのか。
 イッポリット 全く。何も。
 アンリ じゃ、まあいい。とにかく最初に教えたのはこの僕ということになる。お祝いを言うよ。
 イッポリット 有難う。二十万フラン・・・本当に二十万って言った? 十万フランの聞き違えかな。
 アンリ いや、二十万だ。
 イッポリット 二十万・・・
 アンリ そう。十万の二倍。
 イッポリット 十万の二倍・・・
 アンリ そう。
 イッポリット ある賞があって、その賞金が二十万フラン。そいつをシャルルが取った・・・そうか?
 アンリ そう。
 イッポリット 坐ってくれないか。その賞って何なんだ。
 アンリ パリ及びその周辺在住の有名なファッションデザイナー全てに開かれたコンクールだ。コンクールの名前はスメーヌ・ドゥ・パリ。芝居の衣裳係り、舞台係りでもいい。衣裳を着せられた人形が出品され、それが審査される。
 イッポリット それでシャルルが入賞?
 アンリ そうだよ。君は自分の子供が出品したのを知らなかったって言うのか?
 イッポリット 知らなかった。全然。
 アンリ まあいい。僕が教えた訳だ。
 イッポリット しかし分からんな。君の今の話だと「有名なファッションデザイナー全てに開かれた」の筈だぜ。あの子がどうして有名な・・・
 アンリ 衣裳係りでも舞台係りでもいい・・・
 イッポリット あいつはそのどっちでもないぞ。
 アンリ 素人も参加可能なんだ。但し最終審査に行く前に予備審査があって、それに受かる必要がある。シャルルはそれに受かったってことだよ。
 イッポリット すると有名なデザイナーすべてを差し置いて、あいつが最終審査で一等になったということか。
 アンリ そうさ。
 イッポリット そいつはしかし、お笑いだぜ。
 アンリ だけどその場に居合わせたんだ、僕は。
 イッポリット ゆうべか? シャイヨー宮で?
 アンリ そうだよ。一等賞、シャルル・バルジュス。優勝者を捜した。ところがいないじゃないか、どこを捜しても。その居ないっていうことでいよいよ名が上がってね。そこいら中名前が呼ばれて、審査員のテーブルに態々彼の人形がのせられたんだ。僕も見たよ。素敵だよ。奇麗なものだ。居る? 彼。とにかく知らせてやらなきゃ。だろう?
 イッポリット ちょっと待って。ちょっと・・・
 アンリ そうか。まだぼうっとしているんだな。
 イッポリット うん。正直言って全く予期しないニュースだ、これは。
 アンリ しかしこんなに朝っぱらから僕が態々やって来たのは、このニュースを知らせる為じゃないんだ。これはもうとっくに君の耳に入っていると思っていたからね。実は仕事の話があるんだ。それも昨日出されたホヤホヤの話さ。それを言いに来たんだ。鉄は熱いうちに打てというからね。
 イッポリット 仕事の話?
 アンリ 奇跡ってあるものだ、時々は。恐るべき偶然のなせる技。こういうことを軽視してはいけない。だからなんだ、こんな朝っぱらからでもすぐやって来た方がいいと思ったのは。丁度ゆうべ、僕は友達とあそこへ行っていた。そいつは、左前になりかかったファッションの店を自分の手で梃入れすることにしたんだ。それで新ファッションの制作を担当するデザイナーがいないかと物色中だった。どうやら君の息子を捜している様子なんだな。驚いた話だよ。僕は言ってやった(知らん顔をしてね)。僕の親戚に若い男がいてね・・・ま、結局シャルルのことなんだけど、彼の話をしたんだ。丁度その時だよ、コンクールの結果が発表された。誰だ、一等は? シャルルじゃないか! 今僕が褒めたばかりの。その褒め言葉がその場で証明されたって訳だ。すぐに話は決まりだ。あいつは承諾して、それで僕はここにやって来たって訳だ。
 イッポリット 承諾して? 何を。
 アンリ シャルルのことだよ。もし君がやらせていいっていうことになれば、君を共同経営者にしようっていうことだ。マルラティエのことは僕はよく知っている。真面目な男だ。あいつが何かの事業に興味を持ったということになれば、それは熟慮の結果なんだ。あいつとなら安心して組める。僕が言えるのはこれだけだ。後は君自身が考えればいい。ゆうべのシャルルの賞獲得があるんだから、共同経営の最初の青写真は君の方から出せるんじゃないのかな。
 イッポリット うん・・・
 アンリ それからもう一つ別の話がある。マルラティエはこの仕事に二千五百万フラン注ぎ込むつもりでいる。それでもう五百万あるといいんだがと言っている。まあほうっておいてもやつは自分で投資者を捜してくるだろう。僕は心配してはいない。それでこれに対する君の考えはどうかな。もしその五百万が、君の方から出たら、シャルルの立場は随分違ったものになるんだがね。本当の意味で共同経営者ということになるんだが。
 イッポリット 五百万? 呆れたね。ない袖は振れぬってことを知らないのかね、そのマルラティエ氏は。五百万なんて大金、僕に何が出来るっていうんだ。
 アンリ だから訊いてるんだけどね。
 イッポリット 答は簡単だよ。簡単過ぎて全く何のためらいもないね。僕は銀行じゃないんだ。そんな金、ある訳ないだろう?
 アンリ 自分で出すことはない。捜してくればいいんだ。これから世に出るという人間の後押しをしたいっていう人間は案外といるもんじゃないのか。なにしろシャルルはコンクールで一等を取ったんだ。それにもう既に一人、後ろ盾がいる。マルラティエだ。ただ僕は繰り返し言う。もしシャルル自身が出資金の一部を出せば、彼の地位は全く違ったものになるんだ。
 イッポリット うん、それは・・・しかし、夢だな。
 アンリ まあいい。僕はもうこれ以上は言わない。よく考えるんだな。僕の電話番号は分かってるね? 何か進展があったら知らせてくれ。マルラティエはとにかく丸二日間は待つと言っている。しかし、繰り返し言うが、一生のうちでこんなチャンスが二度あるとは思えない。またとないチャンスだ。
 イッポリット 分かるよ。
 アンリ おめでとう、イッポリット。とにかく良かった。テレーズにもいい話だ。結局は金の話だってうまくいくさ。君だって、そんな野暮天じゃない。分かってるんだ。
 イッポリット お褒めを戴いて、どうも・・・
 アンリ 本当だよ! いや、思ってることを言うとね、君のことがおかしいんだ。笑えるんだよ。
 イッポリット 僕が、君におかしい? 笑える?
 アンリ 君が偉そうな顔をする時ね。それから顔を赤くする時にも。
 イッポリット 僕はね、君のテレーズの間に立って、青くなったり、赤くなったりだ。動物で言えば、女房の時は駝鳥、君の時はライオンだ。もし君に差し支えなければ、動物園はもう願い下げだ。僕をそっとしておいてくれないか。
 アンリ 怒るなよ、イッポ。怒ることはない。僕は出る、今すぐ。テレーズには会わない。
 イッポリット そう。それがいい。
 アンリ 僕からよろしくと・・・
 イッポリット 分かってる。ちゃんと伝える。ところで話は違うが、君、結婚しないのか?
 アンリ 随分違う話だな。何だい、それは?
 イッポリット いや、姑(しうとめ)がね、君に会う度に僕に訊くんだ。あの人に近々結婚の話はないのかね、とね。
 アンリ そうか・・・「ない」って答えといてくれ。
 イッポリット 理想的な女性がまだ現われないということか?
 アンリ そうさ。
 イッポリット 成程。それを待ってるっていう訳だ。
 アンリ 「それ」? 何だい、それって。
 イッポリット そう。それを待ってるんだな?
 アンリ まあいいや。そうだよ。
 イッポリット そうか・・・そんなもの待つもんじゃない。もう帰れ!
 アンリ えっ? 何だい、一体。変なイッポ!
(二人、意味もなく笑う。二人、部屋から出る。)
(イッポリット、部屋に戻る。)
 イッポリット あいつめ、ライオンを食わしてやるぞ。何ていう話だ! シャルルの奴、人形なんかいじくり回して何をするっていうんだ。しかし、そんなくだらないことをやっていて、二十万フラン稼ぐってのは一体どういうことなんだ。こちとらは一日中どてっ腹に穴を開けながら暖房器具を売ってるんだ。大変な苦労だぞ、これは。一等賞に二十万フラン。どうぞお受け取り下さい、か。ちょいとお訊きしますがね、人形にちょいちょいと布を巻き付けて、はい、二十万フラン! 一体世の中どうなってるんだ。全く呆れたもんだ。しかしこれが現実なんだからな。これはいくら言っても言い過ぎじゃないぞ。この世は狂ってる。今は狂った時代なんだ。だからなんだ、椿姫の真似事なんかやりおって、ほうっておくと愛のベッドで御心中なんてことに・・・冗談じゃないぞ。ロジェ! ロジェ! あいつひっぱたかれて、がっくりきてるんじゃないだろうな・・・おーい、ロジェ!(ロジェ登場。)
 ロジェ 何? パパ。
 イッポリット ああ、ロジェ。お前、知ってるか? お日様が落っこって来ちゃうような話を今パパは聞いたんだ。人形のコンクールで、お前の兄さんがゆうべ一等を取ったってな。シャイヨー宮で。
 ロジェ パリのマネキン・コンクール?
 イッポリット そうだ。
 ロジェ えっ?
 イッポリット お前、知らなかったのか? 二十万フランだ。お前は何ていうか私には分からんが。
 ロジェ 十万フラン?
 イッポリット 二十万フラン。
 ロジェ 二十万?
 イッポリット そう。一等だったんだ、シャルルは。それで二十万フラン。
 ロジェ すごい。
 イッポリット あいつが応募したのをお前、知ってたのか?
 ロジェ うん。二週間前に予備審査は通ったって聞いた。
 イッポリット じゃお前、知ってたんじゃないか。
 ロジェ パパには言わないでくれって言われてたから。
 イッポリット パパへの思い遣りか。
 ロジェ 賞を取ったらパパを驚かせようって。そう思ってたんだよ。一等だって? よし、僕、知らせてくる。
 イッポリット 落ち着け。ちょっと待って。
 ロジェ パパは嬉しくないの?
 イッポリット 嬉しい? そりゃ嬉しいさ。ただ、ちょっと待て、一分。お前もあいつにチヤホヤしたことを言うんだろうな。ここからでも見えるようだ。お前の兄さんが得意そうに言ってるのが。「これで芽が出たぞ、やっと」。パパはね、あいつがどんな奴か知ってるんだ。エジプトの王様にでもなった気分だ、多分。
 ロジェ でもパパ、「芽が出た、やっと」、この言葉ピタリだよ。いや、もっとだ、今の状態は。
 イッポリット 「もっと」? 何だ、「もっと」とは。
 ロジェ だってまづ二十万フラン。これは出だし。大抵はこれぐらいから始まるさ。だけどこれから後、それは大変だよ。本当にすごいよ、きっと。
 イッポリット 「大変だ」、「すごい」、こればかりじゃないか、お前の言葉は。本当に大変ですごいのはな、こんな人形のコンクールみたいなものに二十万フランも出すっていう馬鹿な奴がいるってことだ。そうだ、これこそ大変なことなんだ。だけどなロジェ、ここだけの話、あんな賞なんか取ったって、お前の兄さんがどうなるものでもないんだろう?
 ロジェ 「どうなるもんでもない」って、それ、どういう意味?
 イッポリット よく考えてみたんだよ、私は。よーくね。つまりその、いろんなことを考えに入れると、審査員があいつに一等をつけたと言ったって、そんなに嵌めを外して喜ぶべきことか、その辺にちょっと疑問があってな。だいたいそうじゃないか。あのコンクールには有名なデザイナーは全部参加していたっていう話だ。それなら何故あいつが一等を取れるっていうんだ。そうだろうが。
 ロジェ 知らないよ僕、そんなこと。だって一等を取ったって教えてくれたのはパパなんだよ。
 イッポリット 私に知らせたのは、アンリおぢさんなんだ。
 ロジェ じゃあ、そうなんじゃないか。
 イッポリット そうって、何がそうなんだ。
 ロジェ それが本当ってこと。
 イッポリット 私はね、それが嘘だって言ってるんじゃないんだ。それは考えられない、とても本当とは思えない。そう言ってるんだ。
 ロジェ だけど結局本当なんでしょう? だから・・・
 イッポリット いいか、本当だから、とても本当とは思えないんだ。どう言ったら分かるんだ!
(電話が鳴る。)
 ロジェ ロロに僕、言ってきていい?
 イッポリット ちょっと待て。・・・もしもし、何ですって? ええ、うちですが。・・・何ですって? パリ・プレッス?
(マダム・グロンベール登場。ロジェ、彼女に急いで近づき、何か小声で言う。)
 イッポリット ええ、私が父親ですが。・・・ああ、これはどうも。今日は。・・・ええ、実は知っておりまして・・・インタヴューですって?(ロジェ、疾風のような勢いで退場。)えっ? 今すぐに? それはちょっと困るんですが。・・・じゃ、二時では如何でしょう。・・・えっ? オンセイトラック? 何ですか、オンセイトラックって。・・・あ、ラジオのために。分かりました。承知しました。そちらで必要でしたらどうぞ。サン・ペール街三十四です。・・・え、そうです。三十・・・四。三階。二時きっかりに。分かりました。ではその時に。失礼します。
 マダム・グロンベール 素敵じゃない!
 イッポリット(受話器を置きながら。)インタヴュー。ラジオ。プレッス!
 マダム・グロンベール 今ロジェから聞いたわ。二十万フランだってね。一財産じゃないの、イッポリット。
 イッポリット 二十万フラン。
 マダム・グロンベール そうよ。
 イッポリット そうそう、一財産、確かに。でも用心しないとこんなもの、一遍に空中分解ですよ。あっという間によってたかって食い潰されて、シャルルが受け取る時には何も残っちゃいない、そんなことになりますからね。
 マダム・グロンベール 私はいつも言ってきたわ、ロロは輝いてるって。そうよ、あの子は輝いてるの。あの子が作るものっていつだって誰にも習ったことのないものばかり。いい星の下(もと)に生まれたのね、きっと。輝いているんだもの。
 イッポリット どんな星の下か知りませんが、一つだけはっきりしていることがありますね。とにかくその星は変わってるってこと、奇妙な星だってことですよ。
 マダム・グロンベール あの子は素敵なものを拵えるわ。それだけは認めてやらなくちゃね。妖精の手を持ってるのね。ロロって妖精なのよ。
 イッポリット 妖精!
 マダム・グロンベール そうなのよ。イッポリット、あなた本当は、心の中では、嬉しいんでしょう?
 イッポリット 嬉しい。やれやれ、お母さんまでその「嬉しい」って言葉を使うんですか。でもとにかく、私が妖精の父親であるなんて、そんなの気味悪いですよ。「気味悪い」、こう言う権利ぐらいはある筈ですよ、私に。
 マダム・グロンベール いいじゃないの。妖精の父親!
 イッポリット お母さん! お母さんは何でも物事を良い方にとるんだから。
 マダム・グロンベール 金(きん)をもたらす妖精よ!
 イッポリット ええええ、分かってますよ。その次に来る台詞。ペペットが出て来ればみんな幸せ。だからいつか私だって街角(まちかど)に立つわ。「ねえ、ちょっと、今夜、どう?」そしたら誰もかれもみんな幸せ。
 マダム・グロンベール(プッと吹き出して。)イッポリット、あなたってどうしようもないわね。
 イッポリット だってその通りでしょう、結局。
 マダム・グロンベール 街角に立って男の袖を引いているあなた、酷い姿ね。
 イッポリット まあいいでしょう。でもお母さんはあのシャルルという男の正体が分かっていますか? あいつは予備審査に受かろうと受かるまいと、一等を取ろうと取るまいと、全く興味がないんですよ。全く、何の興味も。あいつは週末に遊びに出かけたんですからね。ファッションコンクールなんかまるで眼中にないんです。こんな男はどう扱ったらいいっていうんですか。自分のことを色々心配してくれる人間に対しても、あいつは冷たいものなんですからね。
(電話鳴る。)
 マダム・グロンベール あらあら、また電話。いよいよ始まったわよ。栄光よ、イッポリット。栄光! それなのにまだテレーズは何も知らないのね。
(マダム・グロンベール退場。)
 イッポリット(電話に。)もしもし・・・ええ、私ですが・・・何ですって? ああ、あなたの息子さん?・・・いませんね。うちの子と一緒じゃありません。・・・そりゃちょいと分かりませんな。・・・うちの子は今家にいますが・・・承知致しました。必ず。ところでお許し戴けるならば、ちょっと申し上げることがありますが。つまりその、あんたの息子もかなり勝手なもんですな。さっさと家を出たりして。・・・そりゃ相手は女ですよ。男じゃない。男じゃ。・・・そうそう、お子様方にご立派なご教育をお授けのようですな、お宅では。いや、脱帽ものです。しかしお子さんご自身はたいした代物のご様子で・・・いえいえ、ご挨拶はこちらの方で。じゃあ。
(イッポリット、電話を切る。)
 イッポリット ざまをみろ。あの野郎、今度こそは分かった筈だぞ、こっちがどう思っているか。これでいいんだ、これで。
(テレーズ登場。)
 テレーズ 何の話なの、一体。ママとロジェが話してること。
 イッポリット アンリが知らせてくれたんだ。
 テレーズ 電話で?
 イッポリット やって来たんだよ。もう出て行ったけど。
 テレーズ 信じられない話だわ。
 イッポリット 丁度二時にインタヴューだ。
 テレーズ 二時に? あの子の今の状態じゃ、とても無理よ。
 イッポリット やれやれ、あの子の「今の状態」だって? 聞いて呆れるよ。今の状態をどうかお変え遊ばされるべく候だ、全く。冷たい水に頭をザブッとつけるんだ。そうすれば考えも変わるんだ。ベッドから起き上がる気分にもなるのさ。少しは顔を見せたって罰はあたらないんだ。あいつのためにこの家が蟻塚になっているんだからな。人が出たり入ったり、みんなが右往左往。その癖あいつは何も知らないでいる。何も見ちゃいない。いい気なもんだ全く。アルルの女だよ。二時になって起き上がって、少しは普通の人間らしく振る舞うんだ。それで死にはしないさ。いいか、ラジオがやって来るんだぞ。この家に音声トラックを持って来るって言ってるんだ。・・・そんな時あいつらに、「あ、許して頂戴今は。僕ゆうべ、ロベールにふられちゃったの」なんて言えるか?
 テレーズ 分かりました。何とかやってみましょう。アンリはそのことを言うために態々うちまで?
 イッポリット えっ? ああ、あいつ、ゆうべシャイヨー宮に行ってたんだ。このあたりまで来て、それで家に来る気になったんだな。
 テレーズ 優しいわ。
 イッポリット うん、まあ・・・
 テレーズ それでその賞を貰って、あの子どうなるのかしら。
 イッポリット 知らんよ、俺は。
 テレーズ とにかく成功なんでしょう? とても大きな?
 イッポリット お前は嬉しいのか。
 テレーズ それは・・・嬉しいわ。これ以上はないっていう結末よ。この線でその後が続けば、あの子にとって、そりゃいいことなんだけど・・・
 イッポリット その後ってどんな後を考えてるんだ。
 テレーズ そんなの分からないわ。
 イッポリット 風呂には入った?
 テレーズ ええ、いいお湯だったわ。あなたは? 顔は洗ったの?
 イッポリット 顔?
 テレーズ ゆうべ家に帰らなかったんでしょう? さ、キスして頂戴。随分いやなことを言いあってしまったわ。忘れましょう、みんな。忘れること、出来るわね? さ、髭を剃って。
 イッポリット しかし冗談で怒鳴ったんじゃないんだ。あれは本気で・・・
 テレーズ 分かってるの。分かってます。
 イッポリット とにかくこれだけは約束してくれ。僕が寝取られ亭主にだけはならないと。
 テレーズ さあね。
 イッポリット 「さあ」?
 テレーズ もう止めにしましょう。お風呂に入ってらっしゃい。
 イッポリット まづロジェをよこしてくれ。
 テレーズ また殴るんじゃないでしょうね。あれは私のでおしまい。私達キスしたのよ。あれでもうおしまい。
 イッポリット 分かってる。大丈夫だ。とにかくよこして。
 テレーズ じゃ、呼ぶわ。(退場。)
(ロジェ登場。)
 イッポリット やあ、来たか、ロジェ。いや、ロジェと呼び捨てはいかんかな。ロジェ殿か? お前、いくつになったんだ、正確のところ。
 ロジェ 十七歳。
 イッポリット ほう、十七か、もう。
 ロジェ どうして?
 イッポリット いや、何でもない。時が経つのは早いものだ。もうお前は子供じゃないんだ。ある日、はっと気がついてみると子供は大人になっている。そういう訳だ。
 ロジェ ええ、まあ・・・
 イッポリット うん。まあ坐れ。・・・お前、のどは乾いてないか?
 ロジェ のどが乾く?
 イッポリット いや、その・・・話をする時には何か飲むもんじゃないかと・・・
 ロジェ 食前酒?
 イッポリット うん。どうだ?
 ロジェ いいけど、ここには何もないよ。
 イッポリット 何もない?
 ロジェ 飲まないんだから、ここじゃ。決して。
 イッポリット ああ、そうか。そうだな。
 ロジェ じゃ、僕がひとっ走り行って、買ってこようか。
 イッポリット いいいい。まあ、そのまま坐って、そのまま。お前に話すことがあるんだ。
 ロジェ ・・・
 イッポリット さて、まづだな、ちょっとお前の助けを借りねばならん。そのお前の器用な腕の助けをな。実はお前の兄さんが手紙の束をほうり投げていて、それが今私の手元にあるんだ。・・・私はたまたま見つけただけだぞ。しかしな、これがあれの母親・・・ということはおばあさんにも、ということになるが・・・に、見つかってみろ、女どもは大ショックだ。お前、兄さんがどこに手紙などを入れているか知ってるんだろう?・・・あいつの部屋の机の中・・・小さい引き出しだ、きっと・・・まあ、左側の引き出しの筈だがな・・・私は知らんよ、私は。シャルルってのは、こういうことに敏感だからな。あいつが引き出しを開けて手紙がない、となった時、どんな事を考えるか、知れたもんじゃない。・・・大袈裟にことを考える奴だからな、あいつは。ほら、これがその束なんだ。ちゃんと返せるな? お前。お前のその技量で。シャルルが何も気付かないように元に戻せるな? この二、三日は特別にあいつに気を遣ってやらなきゃいかんのだ。なにしろこたえているだろうからな、あのことでは。・・・頼まれてくれるか? お前。
 ロジェ いいよ、パパ。何でもないことだよ。安心して。
 イッポリット うん。良かった。それでな、お前・・・実はその・・・ちょっとお前にはその・・・奇妙に聞こえるかも知れんのだがな・・・私はその・・・一人の男として、その・・・責任ある態度・・・つまり、お前も私も・・・その、男だ・・・まあ、私はその・・・一家のあるじ、父親だ・・・するとその・・・どうしてもその、しなきゃならん時が・・・まあ、状況を判断してだな・・・解決法がこれこれしかないとなればだな・・・最初に現われてきたその救済策にだな・・・その、頼るしかないと・・・お前、分かるな? 分かってるな?
 ロジェ ええ、まあ・・・その・・・
 イッポリット 分かってるな、お前。その・・・これは「夢のような話」と言ってもいい。そう・・・私から見れば「夢のような話」だ・・・しかし、その・・・お前の兄さんにその夢を叶えさせてやれれば、まあ・・・私は幸せなんだ・・・分かるだろう?・・・そりゃお母さんだって喜ぶ筈なんだ。それは確信している、私は。・・・いいな、ロジェ・・・うん。・・・それからな、もう一つ。私はお前を一人前の男として話している。この話はな・・・約束してくれ・・・ここだけの・・・二人だけの話にしてくれ。お母さんも、ロロも、これについては決して知ることはない・・・お前を信用していいな?
 ロジェ うん、大丈夫だ、パパ。
 イッポリット なあ、ロジェ、・・・という訳なんだ。・・・だからな、成り行きでな・・・どうも思いがけない展開なもんだから、その・・・いや、私は別に駝鳥みたいに頭を砂の中に隠したりしちゃいない。・・・私は問題を正面に見据えている・・・つもりだ。・・・女の話は今置いておこう。な? お前と私、男と男だ。・・・だけどお前、言ったよな、例の伯爵夫人、彼女はきっと喜んで出してくれ・・・まあいい。男と男だ。なあ、ロジェ・・・
(電話鳴る。)
 イッポリット 糞っ! 電話の奴、五分待と落ち着いて話が出来ないのか。こんなものがあるせいだぞ、畜生! もしもし、もしもし。ああ、お前か。こんな時に電話なんかしやがって・・・あ、どうもこれは。失礼をば、奥様。
(イッポリット、ロジェに「大失策をやらかした」という独特の仕草。)
 イッポリット(電話に。)申し訳ありません、奥様。またこのうちの電話のせいでして。・・・そうなんです。もうご存じなんですか。・・・そうなんですよ。一等賞なんです。・・・それはご親切に、奥様。・・・それはもう必ず・・・ええええ、勿論・・・ええ、そうなんです。あの子は奥様、並みの男とは違うんですよ・・・
(イッポリット、悦にいって受話器に笑いかける。その間ロジェ、父親のその姿を横目で眺めて微笑む。)
                                            (幕)

           Aix-les-bains Juillet 1936

Le Monestier-de-Clermont Juillet 1937

   一九九七年(平成九年)二月二十五日 訳了


    Acknowledgment
I thank Mr. Said Kazaoui of Kogi-in. Without his help I could not have finished this translation.




  Les Oeufs de L'Autruche a ete creee pour la premiere fois le 22 novembre 1948 sur la scene du theatre de la Michodiere, a Paris, avec la distribution suivante:
Hippolyte Barjus Pierre Fresnay
Therese Barjus Marguerite Cavadaski
Roger Barjus Thierry Clement
Mme Grombert Germaine de France
Henri Jean-Henri Chambois
Leoni Germaine Laneay

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html