地方の顔役
              エドアルド・デ・フィリッポ 作
               能 美 武 功 訳
           (Carlo Ardito の英訳からの重訳)

  登場人物
アントーニオ・バッラカーノ
アルミーダ     その妻
ジェラルディーナ   その子供
ジェンナリーノ    その子供
ファビオ・デッラ・ラジオーネ  医者
アルトゥーロ・サンタニエッロ
ラフィルッチオ・サンタニエッロ  その息子
リタ・アモローゾ   ラフィルッチオの許嫁
インマコラータ・カンペーゼ
ヴィチエンツォ・クオッツォ
パルミエッロ
ナイト
カティエッロ
パスクワーレ・ナゾーネ
パスクワーレの妻
ペッペ
ツィバッキエーロ
ルイージ
ヴィンチェンツェッラ

     第 一 幕
(ヴェスヴィアス山の麓にある町・・・例えば、テルツィーニョ、或は、ソンマ・ヴェスヴィアーナ・・・の大きな屋敷の一階にある明るい、居心地のよい居間。室内の装飾品は高価なもの。家具も堂々としていて、重い。大きなフレンチウインドウから、青々としたオリーブの林、次に棚に絡んでいる葡萄の蔓、が、遥か遠くに続いていて、その後ろにナポリ湾の青い海が見える。九月上旬の澄みきった夜が明けようとしている時間。押し殺したような通用門からのベルの音。インマコラータ・カンペーゼ、自室から寝間着の上に部屋着を引っ掛けながら登場。上手の壁に進む。ベル、再び鳴る。ひどく苛々した調子の音。インマコラータ、壁から絵を外す。小さなへきがんの中に押しボタンあり。それを押す。へきがんは通話用の穴になっており、そこに耳をあてて聞く。)
 インマコラータ(聞く。そして通話用の穴に向って言う。)分りました。(部屋の別の壁に行き、絵を外す。へきがんの中のボタンを押す。別のベルが鳴る。こちらの通話器に向って言う。)門を開けて。(蝋燭に火をつけて、急いで隣の部屋に行く。暫くして戻って来る。また別の部屋に行く。暫くして戻り、また別の部屋に入る。)
(インマコラータが最初に入った部屋から、ジェラルディーナ登場。ジェラルディーナはアントーニオ・バッラカーノの三番目の子供。女。末っ子。気質は父親に非常によく似ている。衝動的で、寛大で、誇り高く、決意が堅い。悪に負けるよりは、銃殺刑を受けた方がまし、という態度。魅力的。背が高く、黒い目、黒い髪。形のよい手と足は、生まれの良さを表わしている。何を考えているかを外に見せないその黒い目は、人をまごつかせることがある。今丁度目覚めたばかり。懸命に隠そうとしているが、やはり眠い。インマコラータと同様、部屋着を着ている。戸棚へと向う間に、バラバラになっている髪の毛を束ね、ヘアピンで止める。戸棚を開け、四角い、白い、大きな布と、外科手術用の上っ張りを取り出す。白い大きな布を中央のテーブルに、テーブルクロスを敷くように、広げる。上っ張りは椅子の背に掛ける。ジェンナリーノ登場。約二十三歳。妹よりは無造作に、別の戸棚を開け、外科用器具の入っている大きな錫製の箱を取り出す。それから、クロム製の消毒皿、二つの大きな壜・・・一つはヨードチンキ、もう一つはマーキュロクローム・・・それに、アルコール・バーナー、を取り出す。インマコラータ登場。二つの白いエナメルの洗面器、包帯、大きな木綿の布、白いタオルを数枚重ねたもの、を運んで来る。これから先暫く、三人は無言でこの部屋を手術室に変形して行く。三人とも躊躇うことなく、決まった手順で行っているという様子。台所のがっしりした四つの椅子は、四角形をなすように置かれ、その上に三枚の板が敷かれてテーブルになる。二人の女性がその上にシーツを置き、その傍にジェンナリーノが明かりを持って来る。急場の手術台である。)
(ファビオ・デッラ・ラジオーネ(医者)登場。約六十五歳。気持のよい人物。表情豊かな顔。非常に知的な目。但し、見掛けとは違い、性格としては冷たく、運命に身を任せる決意のある男。ズボンの上にパジャマの上着を着ている。テーブルに近づき、準備されている物に欠けたところがないか、素早い一瞥。インマコラータ、近づいて、外科用の上っ張りを着せる。ジェラルディーナ、洗面器に外科用アルコールを入れる。)
(ジェンナリーノ、箱から手術器具を取出し、その洗面器に入れる。インマコラータ、マッチをつける。アルコールが燃え上がり、四人を照らす。四人の影、壁にゆらゆらと幽霊のように揺れる。)
(舞台裏から、三人の押し潰された声と、重い、引きずるような足音が聞えてくる。三人は、パルミエッロ、ナーイト、カティエッロである。カティエッロはバッラカーノ家の門番。この一家に非常に忠実。)
 パルミエッロ(舞台裏で。)ああ、神様・・・神様・・・(あまりに痛く、声が出る。それを止めるために手で口にふたをする。右足を撃たれている。)
 カティエッロ(舞台裏で。)静かに・・・静かに! もうすぐだ。
 パルミエッロ(舞台裏で。)痛い、猛烈だ・・・歩けない!
 ナーイト(舞台裏で。)しっかりしろ。おい!・・・大丈夫だ。
 カティエッロ(舞台裏で。)人間なんだろう、お前さん。鼠じゃないんだろう?
 パルミエッロ(舞台裏で。)ちょっと休ませてくれ。
(三人、立ち止まる。)
 カティエッロ(舞台裏で。)さあ、行くんだ。
 ナーイト(舞台裏で。)早くしないと、膿むぞ。
 カティエッロ(舞台裏で。)先生も待ってるんだ。
 パルミエッロ(舞台裏で。)ああ、神様。どうぞお助けを・・・どうぞ・・・
(三人、また歩き始める。)
 カティエッロ(舞台裏で。)傷のことは考えるな。考えないようにするんだ。
 ナーイト(舞台裏で。)別のことを考えろ。いいか。何か歌うんだ。
 パルミエッロ(舞台裏で。)歌えない。歌なんか無理だ。ああ、神様・・・
(三人登場。パルミエッロ、手術台の上に乗せられる。以下行われる場面は、病棟での能率のよい手術の場。各々その持ち場で、仕事を知っている動き。インマコラータ、フレンチウインドウのシャッターを閉める。ジェンナリーノ、手術台の上にある電球をつける。明るい光の筋がパルミエッロを照らす。ジェラルディーナ、医者に手袋を渡す。インマコラータ、音を立てないようにして、台所へ退場。)
 ファビオ(ナーイトに。)お前は誰だ。
 ナーイト 私が撃ちました。名前はナーイトです。
 ファビオ(ジェラルディーナに。)注射器!
(ジェラルディーナ、注射器を取り上げ、ファビオの指さす薬をその中に注入する。)
 パルミエッロ(急に痛みが出て。)ああ、神様・・・
 ファビオ 騒ぐな。ドン・アントーニオが眠っておられる。(ナーイトに。)お前が撃ったと言ったな。
 ナーイト はい、そうです、先生。
 ファビオ(ジェラルディーナから注射器を受取って。)で、何をやったんだ。
 ナーイト あれは二時十五分だったんです。ヴィア・マリーナをちょっと行った所、十字路がありますね。右に曲るとサン・ジオヴァンニ、左に曲るとポンペイ高速道路に行く・・・
 パルミエッロ(痛くて。)助けて!
 ファビオ(冷静に。)騒ぐなと言った筈だぞ。(ジェンナリーノに。)ズボンを上げて。(ジェンナリーノ、右のズボンの裾を上げる。ファビオ、注射をうつ。)痛みはこれで取れる。ジェラルディーナ、ズボンを切って。
(ジェラルディーナ、鋏を取り、右のズボンを下から上へ切り上げる。洗面器の中の消毒用アルコールの火が消え始める。ファビオ、ピンセットで洗面器の中にある手術用の器具を選び、摘み上げる。)
 ファビオ(ナーイトに。)それで?
 ナーイト そこまで行って・・・二人で撃ち合ったんです・・・最初はこいつが。それがスカで・・・(ポケットからピストルを取り出す。)これがこいつのピストルです。(誰かに手渡したいかのように、それをあたりの人に廻す。)
 ファビオ(すぐに。)誰も触っちゃならん。この男の脇にあったのを取って来たんだな?
 ナーイト はい、そうです。
 ファビオ それならお前のポケットに戻しておくんだ。人に渡してどうなる、そんなもの。それで?
(ナーイト、ピストルをポケットに戻す。)
 パルミエッロ(痛みを堪(こら)えて、歯を食い縛りながら。)血がどんどん出るもんだから、俺は助けを呼んだんだ。だけど誰もいない。この野郎は自分の弾が当たって俺が倒れたと見ると、さっさと逃げ出しやがった。
 ナーイト 誰かが来て、俺を引っ立てるのをぼんやり待ってろって言うのか? とんでもない。普通に行けばさっさと駅の裏の道を通って逃げていたさ。だけど遠くへ行けば行くほど、こいつの怒鳴る声が大きくなる。助けてくれ! 助けてくれ!・・・俺は心配になった。本当にひどい傷を負わせたんじゃないかってな。俺のせいであいつが死んだら、俺はどうなるんだ。その間にも声が大きくなってくる。助けてくれ! 助けてくれ! だ。真夜中でこの声じゃな。誰だって気味が悪くなるさ。それに、よく考えてみりゃ、こいつと俺とは仲間のようなもんじゃないか。だからな、先生、俺は走った。走って、走って、今でもまだ心臓がどきどきしてらあ。やっとタクシーを見つけて、こいつのところに戻った。それからこいつをタクシーに乗っけて、真直ぐここに来たんでさあ。
 パルミエッロ 最初俺はこいつだとは分らなかった。ただの通りがかりの男だと思ったんだ。こいつだと分ってりゃ、その場で撃ち殺してやっていたよ。
 ナーイト お前をほったらかして逃げる訳にはどうしてもいかなかったんだ。死んだりしちゃ、可哀相だからな。
 パルミエッロ(痛いのを我慢して、やっと手を伸ばして。)有難う。
 ナーイト(嬉しくて、両手でその手を握って。)いいってことよ。友達じゃないか。これぐらいのことはやらなきゃ。いいか、よくなることを考えるんだ。それだけを考えるんだ。
 パルミエッロ 俺がよくなったら、今度こそ撃ち損じることはないぞ。必ず当ててやる。
 ナーイト 当てる? 当てる練習なら、練習場でやればいいんだ。
 ファビオ うるさい。黙るんだ、二人とも。どうやらとんでもない馬鹿な理由で撃ちあいをやったらしいな。
 ナーイト いえいえ、決して馬鹿な理由じゃないんでさあ。理由は大事なもんで・・・こいつが・・・
 ファビオ(ぶっきら棒に。)お前らには全く頭に来る。理由などどうでもいい。黙るんだ。(下らないことで始めた喧嘩だと決めつけた後、ついでに、この二人の属している無法者の社会について、口を挟んで。)全く、お前らの言うことは、二言目には殺してやる、だ。まあ結局、お前達のせいばかりとは言えないな。そういう馬鹿に育ったということが問題なんだろう。
(インマコラータ、盆に、湯気のたったコーヒー・ポット、カップ等をのせて登場。ファビオにまづ注いで出し、他の人物にも。)
 パルミエッロ(不満そうに。)水をくれ。少しでいい・・・
 ファビオ 飲んじゃ駄目だ、お前は。
 パルミエッロ(痛くて声を上げる。)ああ、痛い!
 ファビオ 静かにしろと言っているだろう。お前など、可哀相だと思ってやる必要もないんだ。撃ちあいを始める前に、こうなるぐらいのことは分っている筈だろう。
 パルミエッロ(ナーイトのことを。)こいつが大馬鹿だからだ。
 ナーイト お前こそ大馬鹿なんだ。
 ファビオ(コーヒーを飲みながら。)お前達二人とも、大馬鹿なんだ。
 ナーイト 何故こんなことになったか、話しましょうか。
 ファビオ 興味がない。洗面器を。
(この時までにジェラルディーナ、パルミエッロの足を出し、切ったズボンをたくし上げ、傷が見えるようにしている。手術が始まる。ジェラルディーナ、インマコラータ、ジェンナリーノが助手。三人は消毒液の入った水に両手を入れ、取り出し、乾かす。ファビオ、コーヒーカップを横に置き、ゴム手袋を嵌め、両手を消毒液の中につける。助手のうちの一人が木綿を用意し、二人目はガーゼを、三人目は足の傷の周囲にヨードチンキを塗る。それから助手の一人がファビオの要求する手術の器具を渡してゆく。すべて能率のよい動き。手術は五分間続く。)
(パルミエッロ、身体を捻る。が、ジェンナリーノの強い両腕がそれを抑え、真直ぐにする。パルミエッロが唸り声や叫び声を上げようとする度に、インマコラータがその口に手を押し付ける。)
 ファビオ(落ち着いて手術を進める。いよいよ弾丸を傷から抜き取る場面に来る。)よし、ハンカチだ。
(インマコラータ、真っ白いハンカチを取出し、開き、素早くパルミエッロの口の中にそれを押し込む。ファビオ、手術を進める。完全な沈黙。近くの道路から馬の苦しそうな鈴の音が聞こえて来る。山のように荷物を積んだ荷車を市場に引いて行く、栄養の足りない馬の首にかけた鈴の音が。それと、馭者の眠そうな、単調な馬曳きの歌。父の代から伝わったに違いない馬曳きの歌のかすれた声。ファビオ、弾丸を抜く。消毒の後インマコラータ、鎧戸を開ける。それからジェラルディーナがパルミエッロの足に包帯をしているのを手伝う。戸外は明るくなってきている。パルミエッロは気絶しているが、脈は確か。ジェンナリーノ、患者を抑えていた手を緩める。この休みを利用してコーヒーをすする。)
 ナーイト(心配して。)こいつ、大丈夫ですか。
 ファビオ(ナーイトに弾丸を見せる。)二十五ミリだ。
 ナーイト フー・・・(神様のお蔭で仲間の命が助かったと感じて。)聖母マリア様に弾(たま)は捧げなくちゃな。
 ファビオ 弾をお供えするのは止めとくんだな。またまた弾なんか捧げられて、マリア様も迷惑だ。今までにもう、何百と捧げられているんだ。(皮肉に。)古代の遺跡の傍にでも置いておくんだ。文明の発達がそれで読み取れるかもしれないからな。さ、この男を外の空気にあてよう。気分がよくなるだろう。インマコラータ、椅子を外に出して。(インマコラータ、椅子を出す。)毛布を掛けてやるんだ。気がついたら、もう家に帰っていい。
 パルミエッロ(弱々しく。)でも・・・ドン・アントーニオにお会いして話を・・・
 ナーイト 俺もだ。
 インマコラータ(はっきりと。アントーニオの眠りは決して邪魔されるべきものではないことを示すように。)旦那様はまだ眠っておいでです!
 ジェンナリーノ それに遅い起床ならその方がもっといい。
 ファビオ(インマコラータに。)ゆうべ、すぐに床につかれたのか?
 インマコラータ はい、あまり何も仰いませんでしたが、私は旦那様の動作でお気持は分ります。花火は十一時半に始まりました。
 ジェンナリーノ 競争に参加したのは三社です。トゥッレーゼ、パキアローネ、それに、サイベリアン・ドゥウォーフ。
 ジェラルディーナ(感嘆に堪えぬという調子で。)トゥッレーゼは素晴らしかったわ。
 ジェンナリーノ パキアローネもよかったな。
 ジェラルディーナ 何を言ってるの。パキアローネなんて、比べ物にならなかったわ。何と言ってもトゥッレーゼ。まづ、すごい勢いでロケットが上った。見上げるのに首が痛くなるぐらい。それから、扇のような形にそれが開いて、あ、もう終りなのかな、と思ったら、次にまたドン! と来て、それからまたドン!・・・最後にこれで全部終りっていう時に、五、六回ドン、ドン、と来たのよ。その最後の三回はあんまりすごくて、家の窓がガタガタ揺れたぐらい。私、建物が崩れるんじゃないかと思った。
 インマコラータ 旦那様はじっと見ておられました。最後の爆発の時には、みんなが旦那様の顔を見ました。どうなんだろうって。そうしたら旦那様は、こう・・・(アントーニオの、承諾の頷きを真似して、頷く。)「ウン、これはいい」って言わんばかりのお顔。
 カティエッロ パキアローネの順番になると旦那様は怖い顔になられて、それからサイベリアン・ドゥオーフの番で、二三発上った時、「何だつまらん。こんなものか」と言うように、ただ「お休み」と言われたんです。そう。周りにいる友人達に「お休み」とだけ言われて、寝床にお入りになったのです。
 インマコラータ 勿論みんなも旦那様に敬意を払って、同時に立ち上りました。十二時半頃でしたでしょう。それから十分経って私、いつものように旦那様の寝室を覗いてみました。もうぐっすりとお休みでしたわ。
 ファビオ すると、奥様の事故のことは御存知ないんだな?
 インマコラータ ええ、御存知ありません。お休みになって暫くたったあと、起ったのです。
 ファビオ 奥様の経過は? 何かお前、聞いているか?
 インマコラータ すぐナポリの病院に運ばれました。十二針も縫う手術だったそうです。
 ファビオ 運の悪い話だ。私が町から遅く帰って来た時に、こんな事故があるなんて。私がいればすぐ処理出来たのに。
 ジェンナリーノ 母は、私と兄で車にのせて病院に連れて行きました。
 ファビオ 今夜一晩は、病院で過すことに?
 ジェンナリーノ いいえ。手術が終った時、母はまだひどく具合が悪くて、ここまで車で帰るのは無理でした。それで、ナポリの弟の家に行くことにしたのです。よくなったらすぐ、多分今日明日にでも、ここに連れて帰ると、兄は言っています。これは適切な処置でした。とても顔色が悪かったし、それに連れて帰ったりしたら父は目を覚ますでしょうし、そうなったらどんなことになるか・・・
 インマコラータ 今朝三時にアメデオ様は私に電話を下さって、奥様の具合は順調だ、今休んでいらっしゃると御連絡がありました。
 ファビオ ドン・アントーニオに私は何度となく注意したんだ。あの方の犬好きは分ってはいるんだが・・・とにかく酷いものをお好きになるものだ。何時間もあの犬達の面倒を見て・・・連中が危険なものであることにちっとも気づいておられない。あの二匹の犬は、この家の恐怖だ。言わぬことではない。奥様に噛みついたのはマラヴィータだ。あれは犬なんかじゃない、狼だ。
 インマコラータ マラヴィータが口を開けると、その口が地獄の門に見える・・・ああ、何て恐ろしい、あの犬・・・
 ジェンナリーノ 噛みついた方は撃ち殺さなければ。どっちでも、やった方をだ。ムナチェッロでもマラヴィータでも。
 ジェラルディーナ お父さまがその言葉をお聞きになったら、何て仰るかしら。とんでもないことだわ。
 ジェンナリーノ お母さんにやったことを考えれば、いくらお父さんでもきっと殺すよ。
 ファビオ それはそうなさるでしょう、きっと。
 インマコラータ 旦那様は奥様を愛していらっしゃいます。噛んだ犬がそのまま無事にすむとはとても思えませんわ。
(この会話の間にジェンナリーノ、カティエッロ、ナーイト、三人でパルミエッロを持ち上げ、外のベランダの椅子に置く。その後手術用テーブルを片付け、部屋を元通りにする。)
 ジェンナリーノ 僕はシャワーにかかって、着替えをして来る。朝食をすませたらすぐ、ナポリに行かなくちゃ。店で僕を待っている筈だから。
 インマコラータ ではすぐに朝食の用意を。
 ジェンナリーノ では先生、僕はこれで。
 ファビオ どうぞ、どうぞ。
(ジェンナリーノ退場。)
 ジェラルディーナ 私、もう少しコーヒーを戴くわ。(自室に退場。)
 インマコラータ 先生は如何でしょう。何かお持ちしましょうか?
 ファビオ コーヒーはもう私はいらない。
 インマコラータ では後ほど。
 ファビオ ああ、こうしてくれ。ドン・アントーニオが起きて来られて君が朝食を用意する時に、私には冷たいミルクを頼む。ミルクで朝食の御相伴をしよう。
 インマコラータ それとビスケットを少し?
 ファビオ うん、そうだな。
 カティエッロ 私も失礼します。ひどくお腹がすきました。胃がぐーぐー鳴っています。昨日の残りのスパゲッティーがありますから。行っていいでしょうか。
 ファビオ よし、もういい。
 カティエッロ(右手の壁の絵を指さして。)用事があったら呼んで下さい。
 ファビオ 今日は来る人間が多いのか? どうなんだ?
 カティエッロ 多くありません。十人ほどの予定だったのですが、昨日旦那様がリストの中から七人は延期するようにと仰って。なにしろこのテルツィーニョには休息をとるためにやって来たんだからな、と。
 ファビオ その通りだ。たった三週間で、またあのナポリに帰らなければならないと思うと実際嫌になる。次から次と・・・
 カティエッロ ええ、次から次にです。旦那様はサニタ地区だけじゃありません。ナポリの中心地にまで影響力があるのです。
 ファビオ そうだな。請願者が列をなして並んでいる日があるからな。
 カティエッロ 今朝は三人に絞ってあります。まづはパスクワーレ・ナゾーネ・・・
 ファビオ 何なのだ、そいつは。
 カティエッロ 下らない事件です。時間は取らない筈です。旦那様がこの件に興味があるらしいと知ると、このパスクワーレの奴、うるさく言って来て。でも簡単な事件です。このパスクワーレを訴えているのが二人目のヴィチエンツォ・クオッツォで、一緒に来ることになっています。とにかく二人は、旦那様の前で仲良く握手をして、一件落着となる筈です。三人目はラフィルッチオ・サンタニエッロ、パン屋の息子です。その親父というのは、ヴィア・ジアチント・アルビーノに大きな店を構えています。ラフィルッチオは昨日も一昨日もここにやって来て、旦那様は、今日は会ってやると約束なさったのです。この三人です。ですから、そんなに酷い一日ではありません。
 ファビオ そうあって欲しいがな。
 カティエッロ(ナーイトとパルミエッロを指さして。)あの二人、どうしましょう。
 ファビオ 出て行く時にフレンチ・ウインドウは閉めて行ってくれ。二人には、もしドン・アントーニオにどうしても会いたいのなら、外で待つように言ってくれ。
 カティエッロ 分りました。(外へ出てベランダでナーイトに。)手を貸してくれ。こいつをもっとあっちに運ぶんだ。(少し遠くを指さす。)あそこなら朝日がよくあたる。(ナーイトの助けでパルミエッロを椅子ごと、指さした場所に運ぶ。観客からは見えない。少し経ってカティエッロ、ベランダから入って来てファビオに。)すませました。私は行きます。
 ファビオ 戸を閉めてくれ。(カティエッロ、フレンチウインドウを閉める。そして退場。)
 インマコラータ(登場して。)旦那様がお目覚めです。
 ファビオ こんなに早く? まだ六時十五分前だ。
 インマコラータ 三度ベルを鳴らされました。ということは、それよりずっと以前にもうお目覚めだということです。あら、起きていらっしゃる!
(インマコラータ、ドン・アントーニオの部屋の方に走って行く。が、ドン・アントーニオがこちらの部屋に入って来るのを見て、立ちすくむ。)
 インマコラータ もういらっしゃった。
 ファビオ 寝苦しい夜だったからな。
(アントーニオ、扉のところに登場。七十五歳。しかし、それより若く見える。背中をシャキッとさせ、堂々たる雰囲気。赤銅色の彼の顔は、本来その目の白い部分を際立て、はっきりさせる筈なのだが、自分を本能的に守る習慣があまりに長かったため、いつでも周囲を観察し、目が半眼にしか開かない。その結果、いつも一見眠そうな目に見える。たまにであるが、目が大きく開かれ、好々爺のようにニッコリ笑うことがあると、目の両側に皺が出来、その目の中に、人は、何か悲しい目つきを認めることが出来る。その目つきは丁度、長い間檻に入れられ、人間に飼いならされた動物に固有の、あの独特の目の表情である。よく仕立てられた濃緑の部屋着を着ている。その下にはまだ白い夜着が見える。夜着のカラーは赤い紐の縁飾りがついている。ズボンは旧式で、くるぶしのところが紐で結わえてある。足は素足にスリッパ。ファビオ、アントーニオを見るや、パッと立上り、お辞儀をする。インマコラータ、二三歩後ろに下がり、恥ずかしそうな、困ったような笑顔。インマコラータはアントーニオの動作から、機嫌が悪いことを見てとり、何と言われるか戦々恐々。どうしても主人との行き違いは避けねばならない。アントーニオ、二人にお辞儀を返して、軽く二度頷く。ゆっくりテーブルに近づき、坐る。長い間。その間インマコラータとファビオ、沈黙のやりとりあり。ようやくアントーニオ、ファビオを見、ちょっと間をおき、テーブルの向かい側の席を顎で示す。ファビオ、そこに坐る。)
 アントーニオ(両手で両足を擦りながら、ファビオの方に顔を向けず、ファビオに言う。)お前はひばりと共に起きるのか。
(ファビオとインマコラータ、顔を見合わせる。どちらにその言葉が言われたものか分らない。ドン・アントーニオ、相変らず足を擦りながら、いつもの重いまぶたの下から二人を見て。)インマコラータはいつだって早く起きる。ファビオ、お前に訊いているのだ。
 ファビオ は? 勿論私に仰ったものと・・・
 アントーニオ それで?
 ファビオ 手術がありまして・・・
 アントーニオ(無関心に。)なるほど。
 ファビオ 撃ちあいの傷です。ナーイトとパルミエッロが撃ちあいをやりまして。(報告書を読むような言い方で。)四時半過ぎのことです・・・
 インマコラータ 三時四十五分でした。
 ファビオ そうだったか? まあいい・・・
 アントーニオ(左手を上げてファビオの言葉を止める。)今はいい、報告は。後で聞く。(ファビオ、右手を自分の口にあて、左手で「もう何も言いません」という動作。)インマコラータ。
 インマコラータ はい。
 アントーニオ 例のどうしようもないものを持って来てくれ。
 インマコラータ(全く分らない。)どうしようもないもの・・・ですか?
 アントーニオ 嘘をつかないものをだ。
 インマコラータ(ファビオに。)何のことなのでしょう?
(ファビオにも分らない。)
 アントーニオ 本当のことしか言わない、世界で唯一のもの・・・鏡だ。
 インマコラータ 私としたことが、ちっとも分りませんで。はい只今。
 アントーニオ(少し考える。間。そのあと。)いや、唯一と言ったのは誤りだったな。もう一つある、嘘をつかないものが。死だ。人間という奴は常に二つの顔を持つ狡い奴だ。つんぼのふり、唖のふり、盲、麻痺、結核、気違い・・・何にでも化ける。酷い時には死ぬ一歩手前だというふりさえ出来る。そうして医者というものは・・・君を含めてだがな・・・大変な時間の浪費をせねばならない。その病気が本物かどうかを。しかし、一旦死んでしまえば、その心臓が真実を告げる。止まるからな。その時だ、医者が安心して診断書が書けるのは。ただ心臓止まったと書けばいいんだ。そうだな? ファビオ。
 ファビオ はい・・・ええ、それはそうですが。
 インマコラータ(鏡を持って登場。)はい。真実を告げるもの・・・です。(アントーニオに鏡を渡す。)
 アントーニオ(鏡を見て、鏡に話しかける。)お前のやり方は全く一流だな。一体それで私に何が言いたいのだ。私が七十五歳だと教えようというのか。それがどうした。年を食うのは罪だというのか。こいつのことか?(眉と眉の間の皺を指さす。)これは年とは関係がない。ジアッキーノだ、こいつをやったのは。ジアッキーノはマルヴィーッツァの屋敷の夜回りをしていた。あの男を覚えているか?(ファビオの方を向く。顎がつき出され、両目は殆ど閉じる。思い出すように。)ジアッキーノ!
 ファビオ ジアッキーノはもうずっと前に死んでいます。死んでよかったんです、あんな奴は。
 アントーニオ この傷跡は、私が十八の時、もう出来ていた。他の傷跡にもまた、他の思い出がある。なあ、ファビオ、私の顔の中で、私の年齢がすぐ分ってしまう場所がある。ここだ。この場所を指で抑えると、ドーナツを押さえた時のように穴があく。手を放してもそのまま穴になっている。そして、暫くかかってやっと元に戻るのだ。
 ファビオ(相手を納得させるように。)年だなどと、ドン・アントーニオ。頑健な身体を持っていらっしゃいます。鉄のような筋肉、鋼(はがね)のような神経。
 アントーニオ それなら鉄工業でも始めるんだな!(インマコラータに鏡を返す。)さあ、真実に面と向うのは、時には不愉快なものだ。(インマコラータ、鏡を受取る。)インマコラータ。
 インマコラータ はい。
 アントーニオ 私は着替える。
 インマコラータ 畏まりました。先にシャワーになさいますか?
 アントーニオ シャワーはすんだ。
 インマコラータ 私をお呼びにならずに?
 アントーニオ お前の助けはいらなかった。まあ、自分でやってみたかったんだ、今朝は。そうだ、まづ朝食にしよう。それから着替えだ。
 インマコラータ はい、只今、すぐに。(退場。)
 アントーニオ(あくびをしながら。)お前のくれた眠り薬では、やっと三時間しか眠られなかったぞ。
 ファビオ あれはトランキライザーです。眠り薬はお身体によくありませんので。
 アントーニオ 私は少なくとも五時間の睡眠が必要なのだ。三時間では足りん。
 ファビオ やはり私のトランキライザー二錠の方がいい筈です。夕食の前に一錠、そして食後に一錠。
 アントーニオ それに、玄関に車の止まる音が聞こえた。カティエッロの声も。ここで起ったこともみんな聞こえた。外科手術のようだったな。ただ私は出なかった。私に用があれば、起しに来る筈だからな。
 ファビオ ええ、お起き戴くまでもありませんでした。非常に簡単な事件です。
 アントーニオ ジェラルディーナは手伝ったのか。
 ファビオ ええ。ジェラルディーナ、それにジェンナリーノとインマコラータです。
 アントーニオ アメデオはどうしたのだ。
 ファビオ ここにいませんでしたので。
 アントーニオ どうしていない。
 ファビオ ナポリに行きました。
 アントーニオ それは奇妙だ。ゆうべ、花火の後、もう遅くなったので、ナポリに帰るのは止めて、ここに泊ると・・・
 ファビオ 事故があったのです。
 アントーニオ 事故?
 ファビオ どうかまづ朝食を。それからお話し致します。
 アントーニオ 食事をとりながらでは話せないような深刻なことなのか。
 ファビオ いいえ、それほどでは。それほどでしたら、お起ししていました。ただ、ちょっと困った話でして。それが起った時、私はここにいませんでした。いれば良かったのですが。
 アントーニオ(少し心配になる。)アルミーダはどこにいる。
 インマコラータ(十九世紀の、花の模様のある卵型の盆を持って登場。その上に、ミルクの入った壷、ミルク用のコップ二個、ナイフ一本、焼き立ての自家製のパン一片、がのっている。)朝食をお持ちしました。(盆をテーブルの中央に置く。)ハムといちぢくは今すぐお持ちします。
 アントーニオ 待て。(ファビオの方を向いて。)さあ、話は?
 ファビオ さ、インマコラータ、君が話した方がいい。君は家にいたんだから。
 インマコラータ 話せと仰るのは・・・何を?
 アントーニオ(冷たく。)妻に何が起きたのか。
 ファビオ ドンナ・アルミーダは、犬に噛まれました。
 アントーニオ いつ。(ナイフを取り、パンを切り始める。)
 インマコラータ(コップにミルクを注ぎながら。)夜中の一時頃です。私達はみんな寝ていました。(二人の男にミルクを注いだコップを渡す。)奥様はいつも一番後にお休みになります。一日の整理はいつもお一人でなさりたいと。他の人がいると邪魔だと仰って・・・次の日の用意などもこの時間に。とにかく私は叫び声を聞いて、駆け付けました。奥様は半分死んだようにおなりになって、ドレスは破れて血だらけでした。(アントーニオは自分に関係したことではないかのような表情で聞いている。ミルクにパンを浸し、食べ始める。ファビオ、ミルクを飲む。)ジェンナリーノ様とアメデオ様が車でナポリの病院に連れていらっしゃいました。旦那様をお起ししようかと思いましたが、奥様がお止めになりました。旦那様の睡眠を邪魔してはいけないと。
 アントーニオ(冷たく。しかし、この知らせに明らかに動揺しているのが見てとれる。)このパンは美味い。パンとミルク、これに叶う朝食はない。
 インマコラータ ミルクは農場からの取れ立てです。
 ファビオ 夜寝る前にも一杯召上った方がいいです。
 アントーニオ いや、夜は駄目だ。(間。)今、あれはどこにいる。
 インマコラータ ナポリのアメデオ様の家です。アメデオ様が病院から真直ぐそちらへ連れていらっしゃいました。
 アントーニオ アメデオはこちらに電話して来たか。
 インマコラータ ええ、それはもう。夜中の二時半にありました。奥様はよく眠っていらっしゃる。よくなったらすぐにこちらに車で運ぶからと。
 アントーニオ どっちがやった。ムナチェッロか、マラヴィータか。
 インマコラータ 奥様は仰いませんでした。
 アントーニオ(暫く考えて。)ムナチェッロではないな。ムナチェッロは頭がいい。それに、アルミーダによく馴れている。マラヴィータだ。あいつは野蛮だ。誰にでも噛みつく。
 ファビオ あのマスチフ犬は二匹ともひどく危険です。
(インマコラータ、雑用のため、出たり入ったりする。)
 アントーニオ 真夜中の手術の話をしていたんだったな。
 ファビオ そうです。
 アントーニオ どういう状況だったのか。
 ファビオ 撃ちあいをやった二人はあそこにいます。(ベランダを指さす。)全くやくざな二人です。ナーイトとパルミエッロ。何故撃ちあいになったのか、聞いていません。きっと御興味はおありにならないだろうと。
 アントーニオ 何故まだここにいるのだ。
 ファビオ 話を聞いて貰いたいのでしょう。事を纏めて欲しいと。
(インマコラータ、移動式洋服掛けを引いて登場。アントーニオの、よくアイロンのかかった背広、装身具、シャツ、ネクタイ、ハンカチ、靴、金鎖の入った宝石箱、時計、カフスボタン、指輪、が入れてある。)
 アントーニオ(インマコラータに助けられて、部屋着と夜着を脱ぐ。)それでファビオ、決心はついたのか。
 ファビオ ドン・アントーニオ、御存知の通り、私という男は、何もかも単刀直入にやる性質で・・・
 アントーニオ 私は、決心したのかどうかと訊いているんだ。
 ファビオ ドン・アントーニオ、ここはお互いにはっきりと物を言うことにしましょう。私はここを去ると申し上げました。それは御不快なことに違いありません。三十五年も私はここで、あなたと一緒にやってきました。二人の関係は、こう敢て言えば、友情と言ってもよいものだと自負しています。ですから、私の今回の決定は必ずしもあなたを喜ばせるものではないかもしれない。頼りにしていた人間がいなくなるのですから。これからは多分お一人で、仕事もしづらくなることでしょう。確かにこれは私の我儘です。でも、どうしても私なしでやって下さらなければ。確かに私は必要な人物ではありました。事件総数の三分の二は私も関っていたものだったのですから。そうですね?
 アントーニオ(この時までに、インマコラータに助けられて、ズボンを履き、靴下、靴を履いている。そしてインマコラータが宝石箱から金のカフスボタンを取り上げているのを見て。)インマコラータ、何度言ったら分るのだ。台所の汚い手のままで出て来てはいけないと言ってあるぞ。
 インマコラータ(両手をアントーニオに見せて。)私の手は汚くありません!
 アントーニオ(ぶっきら棒に。)ジェラルディーナを呼んで。
 インマコラータ(諦めて。)畏まりました。お嬢様をお呼びします。(退場。)
 アントーニオ そう。お前の言う通りだ。それで?
 ファビオ(きっぱりと。決断した調子で。)私はどうどう巡りをするのに疲れたのです、ドン・アントーニオ。このまま続けることはとても無理です。
 アントーニオ いつ発つのだ。
 ファビオ 明後日です。
 アントーニオ 飛行機でか。
 ファビオ はい。切符も買いました。
 アントーニオ(意図がはっきりしないように言う。)フム・・・明日は金曜日だ。金曜日に発っても構わないのか? 旅には縁起の悪い日だというぞ、金曜日は。まあ、君の決めたことだ。しかし、どの飛行機に乗ったとしても、金曜日に発つのなら、遅くとも土曜日にはニューヨークに着いているな。
 ファビオ(心配になる。)どういうことですか? それは。
 アントーニオ 私の友人達が、君のお迎えにニューヨークに行っていなければならんと思ってな。君に対する私の尊敬は、十分に示されなければ。
 ファビオ(急に危険を感じて、真っ青になる。間。)ドン・アントーニオ、これは脅迫ですか?
 アントーニオ いや、脅迫ではない。単なる警告だ。(誠実に、自分の公明正大さを信じて。)なあファビオ、私は夜、床について、頭を枕にのせる。だが私は、自分が正しいことをしているという自覚がはっきりするまでは、眠られないたちなのだ。だから、誰かに、あるきっぱりした処置を取ると決めた場合・・・今の場合、この「誰か」は、君なのだが・・・私はどうしても、他のいかなる処置も不可能だということが十分納得できなければならない。そして納得したあかつきには、その誰かに警告を発することにしている。私の言っている意味は分るな?
(ジェラルディーナ登場。インマコラータ、その後から登場。)
 ジェラルディーナ お早う、パパ!(アントーニオに駆けより、愛情を込めて抱擁する。)
 アントーニオ(優しく。)ああ、ジェラルディーナ・・・
 ジェラルディーナ(キスを浴びせて。)パパ、よく寝られた?
 アントーニオ まあまあな。
 ジェラルディーナ(両手を見せて。)ね? 綺麗でしょう? 私がカフスをつけて上げる。(つけ始める。)
 アントーニオ ジェンナリーノはどこだ?
 インマコラータ 旦那様のネクタイを選んでいらっしゃいます。まづ私に、どの背広なんだ、とお訊きになって。私がこの背広のことを申し上げますと、私が選んだこれ、(ネクタイを見せる。)は全然駄目だ、と仰って。
 アントーニオ(喜ぶ。)あいつは趣味がいい。見てみろ。きっと四五本持って来て、私に選ばせるんだ。そうしておいて、それは駄目だと言って、さんざん私と言い合った揚句、自分の選んだやつを無理矢理させるんだ。
 ジェンナリーノ(ネクタイを六本持って登場。)お早う、パパ。
 アントーニオ お早う。さあ、お早うのキスだ。(キスする。)
 ジェンナリーノ(ネクタイを見せて。)どれがいい?
 インマコラータ(予め自分の選んだものを取り上げて見せて。)これのどこが悪いの?
 ジェンナリーノ ネクタイというのは個人の趣味で決めるものなんだ。だからつける人が決めなきゃいけない。パパは誰の忠告も必要としないんだよ。(アントーニオの方を向いて。)どれがいい?
 アントーニオ お前はどれがいいんだ。
 ジェンナリーノ 僕だったら、正直に言うとこれだな。(一番派手なのを取り上げる。)
 アントーニオ ジェンナリーノ、私は七十五歳なんだぞ。いつになったらお前は私の年を覚えてくれるのだ。こんな派手なものが、どうして私に出来る。
 ジェンナリーノ 七十五、七十五、何が七十五だ。お父さんを見て、誰も七十五だなんて思うものはいないよ・・・
 アントーニオ それはそうかもしれない。しかし、私はそれを感じるんだ。
 ジェラルディーナ そんなの嘘よ。私のパパはまだ若いの!(両腕を父親に廻して、さっきと同じようにキスする。)
 ジェンナリーノ その背広に一番合うのは、これなんだよ。
 アントーニオ 分った分った、じゃそれにする。これでネクタイ選びはお仕舞だ。(そのネクタイを取り、結び始める。)何時に出かけるんだ? お前達は。
 ジェンナリーノ パパが急げば、一緒に行けるよ。
 アントーニオ 私は今日は出かけない。ここで仕事があるんだ。
 ジェンナリーノ 僕はナポリで仕事だ。インテリアの仕事が三つも取れたんだよ。新婚さんの家、三組もだ。もう契約もサインがすんで、値段も決って、手付けも打ってくれた。これで僕がいくら儲かるか、パパ、知りたくない?
 アントーニオ 私には関係のないことだよ。
 ジェンナリーノ それを言ったらパパ、きっと喜ぶんだけどな。
 アントーニオ お前が喜んでいるのを見るだけでパパは嬉しいよ。もうそれだけで充分だ、私は。
 ジェンナリーノ パパがそんなに元気なのが、僕とっても嬉しいよ。
 アントーニオ(インマコラータに。)犬に餌はやったのか。
 インマコラータ まだです。
 ジェラルディーナ ママのこと、もう聞いた?
 インマコラータ 旦那様は御存知です。
 ジェンナリーノ パパ、僕、パパの許しを貰って、あの犬を殺すよ。
 ジェラルディーナ 可哀相に。
 インマコラータ 可哀相なもんですか! お母さまはショックで死にそうだったんですよ。
 ジェンナリーノ 犬のことは僕に任せて。眉間に一発ぶちこむ。それで全部終りさ。
 インマコラータ アーメン。でも可哀相は可哀相。私、マラヴィータは本当に好きだった。でもあの犬がいなくなれば、きっと安心出来る。旦那様、まだ餌をやっていませんのは、二匹分用意したものかどうか、それが分りませんものですから。
 アントーニオ(ジェンナリーノに。)犬は私の仕事だ。お前が手を下すことじゃない。(インマコラータに。)二匹分の餌だ。いつも通り。
 インマコラータ ええええ、分りました。
(アントーニオ、すっかり着替えが終る。ジェラルディーナ、金時計、鎖、様々な指輪、を渡す。)
 ジェラルディーナ(感嘆の声。)ああ、パパ、立派だわ!(抱擁してキスする。)私に、いつ結婚するのって訊く人がいたら、私こう言うわ。私のお父さんみたいな人をどこで見つけたらいいのかしらって。(この時までにジェラルディーナ、アントーニオのスリッパを取り上げて夜着をくるんでいる。そしてそれを持ってアントーニオの部屋に退場。)
(インマコラータ、テーブルを片付ける。ジェンナリーノ、残ったネクタイを片付けるために退場。)
 ファビオ(静かに。)ドン・アントーニオ、話の続きでした・・・
 アントーニオ 君の出発のことか。
 ファビオ そうです。
 アントーニオ なあファビオ。君は生きようと思えば、神様が君に与えた命を全うすることも出来る。またそれに早く終止符を打ちたければ、今この瞬間にでも死ぬことが出来る。それは君次第だ。君がもしここを去るというのなら、このアントーニオ・バッラカーノの言葉にかけて、君の命はかなり若くして終止符を打たねばならぬ。それをここに宣言しておく。(ファビオ、怖れの表情。)君はさっき、それは「脅しか」と言った。・・・ウン、君とはもう長い付きあいだ。私の性格は君にはよく分っている筈だ。その私がどうして脅しなどする。脅しなど何の役にも立たぬ。脅しは相手に対して自分が優位に立とうとして行われる。しかし、もしそれが失敗した時は、事態は何も変化しない。いや、それどころか、脅しをかけた方が劣勢になるのだ。何故なら、相手は脅しを無視するという英雄的な行為を行ったことになり、片やこちらは大口をたたくだけの馬鹿な男となり下るからだ。脅しなどではない。私は自分の行動を決定したのだ。君の行動を決定するのは、君自身だ。説明したように、これは脅しではない。単なる警告だ。
 ファビオ 私達二人はこの三十五年間、様々な決定を行ってきました。そのいづれにもあなたは何の疑問も挟むことはないのですか。今行った決定に何らかの影を落すような、そういう疑問はないのですか。
 アントーニオ(ちょっとの間、考える。)フム・・・疑問の余地はある。さっき君はどうどう巡りをするために疲れたのだと言った。それはどういう意味か説明してくれないか。
 ファビオ(辛い表情を見せてアントーニオをじっと見つめる。それから重荷を下ろすことを決心する。)この年になって、私はやっと気がついたのです、ドン・アントーニオ。私達二人の正体が一体何であるかに。私は馬鹿な腰ぎんちゃく。あなたはしようもない気違いだということです。
 アントーニオ 私は・・・何と言ったんだね?
 ファビオ(アントーニオの落ち着いた声に、いよいよ苛立って。)しようもない、全くの気違いだってことです。それがあなたの正体なんです。運悪く私は三十二歳の時、あなたに会った。そしてあなたが正しいと思ったんです。私は犬のようにあなたに従った。あなたを助けた。その私の苦労に対して、一体あなたは私にどうむくいてくれたというのです。私はもう六十四歳です。私はおいぼれてきています。この年になって、何か大きなことをしようなんて、そんな気持は全くありません。働き盛りの三十年といえば、殆ど一生の長さです。それを私はあなたのために、そして犯罪者達の保護のために使ってしまったのです。この国の恥になるような犯罪者のために、あなたと私は、監獄にぶち込まれる危険を冒してきました。何百回となくです。それも、何のために。最も卑しむべき無頼漢、この国のカス、この国の腫れ物のためにです・・・
 アントーニオ この国の犠牲者のためにだろう? 彼らに名前をつけるなら、そう言ってやらなければ。
 ファビオ 犠牲者?
 アントーニオ そうだ。連中は貧乏で、無知な負け犬なのだ。そして、社会の方は連中からどう絞り取ればよいかよく知っている。そうだ、この社会っていうやつは、人を掴まえて引きずり廻して、絞り取って、肥えてゆく機械なのだ。そして犠牲者はいつも今言った負け犬だ。この無知な負け犬は、株式や債券と同じように、金を生む・・・利子を、配当を払ってくれる。こういう無頼の徒を一人傍に置いておけば、その時から後の生涯、左団扇だ。しかしそうそう負け犬の方だって黙ってはいない。裁判にかけようとする。しかし、金といいコネがない限り、こっちには勝ち目はない。いくらこっちが正しくても、裁判にかけて何になる。相手には金とコネがあるんだ。三四人証人を雇いさえすれば、相手はそれで勝ちだ。証人など金次第だ。ちゃんと支払いさえすれば、どんなことでも証言する。そういう偽証人の予備軍はいくらでもいる。「嘘の証言はしてはならない」、これがイエス・キリストの言った言葉だ。当時でも、もし彼が本気でこの言葉を普及しようとしていたのなら、大変な大事業だったに違いない。今でも勿論大事業だ。(裁判官の厳しい口まねで。)「汝は誓うな? 真実を、そして真実のみをここで証言することを。」雇われた四人の証人は陽気に証言するのさ。そんな奴は偽証罪で訴えればいいなどという気のいい奴がいる。馬鹿な。どこに偽証罪の証拠がある。そんなもの、どこを捜したってありはしない。たとえあったとしても、とっくの昔に消えている。金が動けば何でもなくなるのだ。だから偽証罪を告発した気のいい奴は、四人の証人の名誉を毀損した廉(かど)で逆に召喚されるはめになるのだ。そんな馬鹿な役を誰がやるというんだ。だからそいつは裁判にかけるなどという、余計なことはしない。真直ぐ相手のところへ行って、白黒つけるまでのことだ。勿論自分はどうせ牢屋へぶち込まれることになるだろう。しかし、少なくとも敵はしっかり死んでいるという満足は得られるのだ。(間。)どうだ? ファビオ。私は人を殺した人間ではないのか。あのジアッキーノはどうだ。マルヴィッツォの屋敷で用心棒をやっていた、あのジアッキーノは。あいつをやったのは私じゃないのか。何故私がやったか、君は知っているか。
 ファビオ いいえ。それに、私は今日までこのことをお訊ねしたことはありません。
 アントーニオ 私の方が正しかった。それは信じてもらわなければならない。だから、私のやったことは正しかったのだ。あの男は死なねばならなかった。私はしっかりしたアリバイを作り、偽証人を八人用意した。自己防衛だ。実に簡単明瞭な話だ。私は無罪放免になった。それ以来今日まで、私の経歴には何の傷もない。火器所持の許可までとっている。
 ファビオ 話の要点は何なのです。
 アントーニオ 要点は、金とコネとがあれば、世の中は楽に泳げるということだ。
 ファビオ それがない人間はどうなんです。ただ惨めに死ぬだけなのですか。
 アントーニオ いや。そういう人間は私のところへ来る。
 ファビオ しかし、私達がどんなにそういう人間のために物事を処理してやっても、相変らず殺し合いは止みません。
 アントーニオ 君は忘れているのか。我々がどれだけの数、人殺しを未然に防いできたか。
 ファビオ でも、その守備範囲が大き過ぎます。それに、私は疲れました。割られた頭を縫い付け、胃の手術をし、足から、腕から、肩から、弾丸を抜き取る・・・(だんだん自制が効かなくなる。右腕にまづ神経的な震えが来て、それがゆっくり全身に回って行く。声が上ずってきて甲高くなる。ヒステリー症状の典型。)あなたを知って私には良かったのか、悪かったのか。お蔭で私は、散々な人生を送ることになったのです。私はあなたの囚人ですか。人質ですか。三十年間ここに留めておいて、アメリカの私の弟が航空券を買ってくれたのが、これで三度目です。一緒に住もう、引退して落ち着いた、品位のある生活を送ろうと誘ってくれているのです。あなたの邪魔はこれで三度目です。もう邪魔など止めて、さっさと殺したらいい。アメリカでわざわざやらなくても、今ここで。(両手を広げ、胸を両手で突く。)さあ、やって下さい。これで一つ、問題が処理出来るってもんです。(叫ぶ。)私は由緒正しい医者なんだ。私の父、オレステ・デッラ・ラジオーネは、四十年間ナポリ大学の医学部長を務めた人だ。(片足で床を叩き、子供のように泣き崩れる。)私は彼の名に泥を塗った。・・・ああ、私は駄目な奴だ・・・
 ジェラルディーナ(走って登場。何事が起ったかと。)何? 何なの?
(インマコラータ、同様に登場。)
 ジェンナリーノ(登場。)何を騒いでいるんです。
 ファビオ(歯がカタカタと鳴る。言葉を発するのが困難。)わ・・・わ・・・私は・・・ベ・・・ベ・・・ベッドへ・・・(自分の脈に触る。)五・・・五・・・五分したら・・・わ・・・私は、ね・・・熱がでます・・・
 インマコラータ(心配して。)ああ、先生・・・
 ジェンナリーノ ブランデーを飲んだ方がいい・・・
 ファビオ い・・・いや・・・す・・・す・・・すぐベッドには・・・入った方が・・・そ・・・それに熱いお湯を・・・(インマコラータ、部屋を出る。)わ・・・わたしを部屋に・・・誰か・・・(ジェラルディーナとジェンナリーノ、部屋へと導く。)
 アントーニオ(無表情にそれを眺めていたが、きっちりとファビオの急所をついて。)熱が出るようだと、長い旅はとても無理だな。
 ファビオ え・・・ええ・・・た・・・多分、駄目です。
 アントーニオ しかし、その発作はすぐ直る。直ったら行くのか。
 ファビオ(少しの間。)分りません。い・・・今はこの発作を、な・・・直さなければ・・・(ジェラルディーナとジェンナリーノと、三人で退場。)
 カティエッロ(おずおずとフレンチウインドウから登場。)ドン・アントーニオ、もしよろしければ、その・・・
 アントーニオ 誰だ。
 カティエッロ パスクワーレ・ナゾーネ、ヴィチエンツォ・クオッツォ、それに、ラフィルッチオ・サンタニエッロです。ラフィルッチオは女の子を連れて来ています。
 アントーニオ ラフィルッチオ・サンタニエッロ?
 カティエッロ はい。パン屋の息子です。
 アントーニオ ああ、そうか。他には。
 カティエッロ ナーイトとパルミエッロがいます。ちょっと話を聞いて戴きたいと。
 アントーニオ(丁度この時入って来たジェラルディーナに。)ジェラルディーナ。
 ジェラルディーナ はい。
 アントーニオ クオッツォ・ナゾーネのファイルを取って来てくれ。
 ジェラルディーナ(書類戸棚から何冊かファイルを出してきて、テーブルに置き、坐って名前を見ながらそのファイルを捜す。)ナゾーネ・・・ナゾーネ・・・クオッツォ・・・クオッツォ・・・どこかしら・・・
 アントーニオ(カティエッロに。)通せ。
 カティエッロ 全員ですか。
 アントーニオ そうだ。
 カティエッロ はい、分りました。(フレンチウインドウから退場。)
 ジェラルディーナ(ファイルを捜す。)これだわ。
 アントーニオ 何の話だったかな。
 ジェラルディーナ 三万リラの借金の話。ヴィチエンツォ・クオッツォがパスクワーレ・ナゾーネに借りたの。
 アントーニオ うん、今思い出した。週十パーセントの利率だったものを、一箇月後に週四十パーセントにしたのだな?
 ジェラルディーナ ええ、そう。
 アントーニオ ラフィルッチオ・サンタニエッロの問題は何だ。
 ジェラルディーナ ファイルがないわ。今日が初めてなのよ、きっと。
 アントーニオ ナーイトとパルミエッロは?
 ジェラルディーナ 今朝撃ちあった二人よ、それは。
 アントーニオ そうか。・・・分った。よし、通せ。しかし・・・その後やって来るというのはどういう事なんだ?
 カティエッロ さあ、入るんだ。(フレンチウインドウを開ける。)
(ヴィチエンツォ・クオッツォ、パスクワーレ・ナゾーネ、ナーイト、パルミエッロ、ラフィルッチオ、サンタニエッロ、リタ・アモローゾ、登場。リタは貧しい服装。殆どボロ布、妊娠六七箇月である。その服装のためよけい哀れに見える。顔は真っ青。栄養不足が明らかに見て取れる。幸いなことに、まだ微笑むことは出来る。そして、人々に自分を可哀相と思わせないため、その微笑みを屡々出す。実は立っているのもやっとである。しかしラフィルッチオが・・・ハンサムな男であるが、服装はリタ同様ひどいボロ・・・いたわりの気持を込めて彼女を支えてやっている。ヴィチエンツォは家具の大工。きちんとした服装。しかし、うちひしがれ、苦悩が表情に出ている。入って来る時に帽子を取り、アントーニオに向う。)
 ヴィチエンツォ ご免下さいまし、ドン・アントーニオ。
 パスクワーレ(道徳という観念からほど遠い男。淫売宿の亭主と賭博屋の主人を、たして二で割ったような顔。派手な服装。やたらに宝石をつけている。アントーニオに対しては卑屈な、取り入るような態度を示す。)まっぴらご免なさいまし、ドン・アントーニオ。
 ラフィルッチオ お早うございます、ドン・アントーニオ。
 アントーニオ(それぞれの人物に、軽く会釈をして。)お前がラフィルッチオ・サンタニエッロなのだな?
 ラフィルッチオ はい、そうです。(リタを指さして。)私の許嫁(いいなづけ)です。
 アントーニオ(間。その間にリタの妊娠した腹を見る。「やれやれ」という言葉が出そうになるのをぐっと抑える。)フム・・・許嫁か。もう少し時間が経つと、結婚式と子供の洗礼とが同時になるな。
 ラフィルッチオ(幸せそうに。)そうなんです!
 アントーニオ それで、私に用があるというんだな?
 ラフィルッチオ 正直申しまして、私の問題は大変厄介なものでして・・・
 アントーニオ なるほど。いつものことだな。この問題はみんなが終ってからにする。ちょっと娘を連れて、散歩にでも出ていてくれ。少し経ったら呼ぶ。
 ラフィルッチオ それでは出ています、ドン・アントーニオ。(リタに。)さあ、行こう。
(二人、退場。)
 アントーニオ 次はナーイトとパルミエッロだ。
 ナーイト はい!
 パルミエッロ 私はここです。
 アントーニオ 坐って待っていろ、二人とも。
 ナーイト はい。(ちょっと離れたところにパルミエッロと二人で坐る。)
 アントーニオ(パスクワーレ・ナゾーネに。)どうだ、パスクワーレ、最近は。
 パスクワーレ はい、元気にしております。妹に子供が生まれまして、これで全部で六人になります。二人が男、四人が女です。
 アントーニオ 神のお恵みを祈るんだな。
 パスクワーレ アーメン。不平などとんでもないことで・・・
 アントーニオ(ヴィチエンツォを指さして。)さて、お前達の問題を解決しなければならんな。
 パスクワーレ 解決とはどのようにでしょう。
 アントーニオ ヴィチエンツォにも子供がある。
 ヴィチエンツォ 六人です。
 パスクワーレ 神のお恵みを祈らないとな。
 アントーニオ いいかパスクワーレ、私はくだくだと喋る男ではない。要点だけを話す。お前達の問題はこういう具合になっているんだ。先日私は、買物に町に出て行った。その時このヴィチエンツォに偶然出会った。この男の父親を私はよく知っている。立派な紳士だ。私の大切な友人でもある。さて、長い話を短くつづめると、この男は三十万リラの借用証書のため、もう二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなっているということだ。何しろ、その証書で、この七箇月、一週三万リラの利子を払い続けたというのだからな。それで、とこの男が言うには、ここから抜け出るには、お前を撃ち殺すしか他に手段はないと言うのだ。
 パスクワーレ 私を撃ち殺す?
 ヴィチエンツォ(絶望で震えながら。)そうですドン・アントーニオ。この男は私を破滅させたのです。私と私の家族を。一週間に三万リラなんか、私は稼げっこありません。それを七箇月も払い続けてきたのです。それで借りは相変らず三十万リラです。子供達は餓えています。このブタ野郎は、全く容赦がない。毎月の終り、どうやって切り抜けようか、私には算段がつかない。それで女房は寝具を全部売り払いました。私は日曜日の一張羅の背広がありましたが、それも売ってしまったのです。
 パスクワーレ 全く、言うことがいいや。借りる時には喜んで借りておきながら。まさか返さなきゃならなかった金だとは知らなかった、と言うんじゃないだろうな。それに一週間で返していりゃ、笑うのはそっちの方だったんだ。三十万の借金が三万で借りられたんだからな。やれ有難や、だったんだ。ドン・アントーニオ、世の中には事がどう動いて行くものか、まるで分ってない連中がいるもんですな。
 ヴィチエンツォ あの三十万はどうしても必要だったんだ。娘の手術で、病院に支払わなければならなかったんだ。
 パスクワーレ 分った、分った。だがな、こっちだって商売なんだ。あの金が返ってこないとなりゃ、こっちだって路頭に迷うんだぞ。養わなきゃならん家族はこっちにもあるんだからな。
 ヴィチエンツォ 路頭に迷う? 何ていう嘘っぱちだ。新品の車だって持っているだろう。それを時間ぎめで人に貸すんだ。何のためだか、言えたもんじゃない。それに、お前の女房だって、家に客を取っているんだ。それもお前が家にいる時に。
 パスクワーレ 俺に道徳を説いて聞かせようっていうのか。それよりまづ金を返して貰おうじゃないか。
 アントーニオ よし、それではこの件を決着することにしよう。
 パスクワーレ 決着? だけどこの男は、私を殺すって言ってるんですぜ。まづこいつに、あと三十年牢屋に入る気なのかどうか、そこをはっきりさせましょうや。
 アントーニオ 殺すというのは、この男が先日言ったことだ。しかし、それから考えを変えた。ゆうべ私のところに自分でやって来て、その変えた考えを話してくれたのだ。
 ヴィチエンツォ(呆気に取られて。)私が・・・ゆうべ、ここに?
 アントーニオ(冷たく。)お前は黙っているんだ。ゆうべ、お前はここに来て、この男に借りた三十リラを私のところに預けて行った。
 ヴィチエンツォ(いよいよ呆気に取られて。)私が・・・?
 アントーニオ くりかえして言う。ヴィチエンツォは私に三十万リラをゆうべ預けて行った。
 パスクワーレ ちょっと待って下さい、ドン・アントーニオ。どうしてこの男は直接私にこれを返しに来なかったんでしょう。
 アントーニオ このところ利子の返却が滞っている。その利子分までは返せないから、私からよく言って、そこはお前に許して貰いたいと頼んだのだ。考えても見ろ、お前の三十万リラが、利子だけで七箇月、七四、二十八週、一週三万リラで八十四万リラになったのだ。お前が慈悲深い人間であるならば・・・いや、私はお前を人間らしい人間だと理解している。だからこの際、あとの利子分は我慢して、元金返却でよしと言うだろうと期待しているのだ。
 パスクワーレ(安心して。また、元金が返ると知って喜んで。)どうして私がドン・アントーニオ・バッラカーノにノーと言えましょう。ドン・アントーニオの言葉は命令です。
 アントーニオ 借用証書は持って来たな?
 パスクワーレ はいはい、ここに。(財布から取出し、見せる。)
 アントーニオ(注意深くそれを受取って。)私がこの契約の調停人となる。いいな?
 パスクワーレ はい承諾します。
 アントーニオ 全部一万リラ札だが、構わないんだな?
 パスクワーレ ええ、全く。この内ポケットに充分入ります。
 アントーニオ それはよかった。ジェラルディーナ、机の引きだしを開けてくれ。
 ジェラルディーナ どの引きだし? お父さん。(机には引きだしがない。)
 アントーニオ この引きだしだよ、ジェラルディーナ。(机の真中下を引きだしがあるかのように引っ張る。)さあ、ここにある。十万リラの束が三つだ。(三つの束を取り出すふりをする。)一、二、三。(一つづつテーブルの上にのせる真似。そしてパスクワーレの方を向く。)私は受取っただけで数えていないのだ。パスクワーレ、お前が自分で数えてくれるか? 私の前で。
 パスクワーレ(まだアントーニオの意図が呑込めない。じっとアントーニオを見つめる。自分か相手か、どちらかが狂っていると思っている様子。)何を・・・何を数えるんでしょう? ドン・アントーニオ。
 アントーニオ この金だ。
 パスクワーレ(「冗談はやめにしましょう」と言わんばかりに。)しかし、ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ 数えろと言っているんだ。(冷たい目。じっとパスクワーレを見つめている。)
 パスクワーレ(アントーニオの催眠術にかかったかのように。怖れ戦(おのの)いて。そしてまた、ここから抜け出るためには数えるしかないと分って。数え始める。アントーニオの鋭い目。そして他の人々の好奇の目のもとで。)一、二、三、四、五、六、七、八、九、十・・・
 アントーニオ それで十万リラだ。次の束を。
 パスクワーレ 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十・・・
 アントーニオ それで二十万リラ。次の束だ。
 パスクワーレ 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十・・・
 アントーニオ それで三十万リラ。これでいいんだな?
 パスクワーレ はい。いいです。
 アントーニオ さあ、握手するんだ。これでお互い、恨みっこなしだ。
 ヴィチエンツォ 私の方はこれでいい。(パスクワーレに手を差し出す。)
 パスクワーレ こちらも・・・(その手を握る。)
 アントーニオ よし。
 パスクワーレ 私はもう帰った方が・・・(扉へ行き始める。)
 アントーニオ 金は置いて行くのか? さ、取って行くんだ。取るんだ。
 パスクワーレ でも・・・ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ 私は取れと言っているんだ。
(パスクワーレ、テーブルに進み、三つの束を取るふりをする。それからゆっくりと部屋を出る。)
 アントーニオ(テーブルから借用書を取り、ヴィチエンツォに見せる。)これが借用書なんだな?
 ヴィチエンツォ そうです。
 アントーニオ これは破った方がいいな?(破る。)
 ヴィチエンツォ(我を忘れて喜んで、また、感謝の気持を言葉では充分に表すことが出来ず。)ドン・アントーニオ、どうか百まで長生きを。私の命の恩人・・・私の家族の恩人・・・(アントーニオの前に膝まづき、両手でアントーニオの片手を取り、何度もキスする。)聖者の手です。ああ、これは聖者の手です。(これで満足せず、頭を下げ、アントーニオの前に屈みこみ、足にキスする。)
 アントーニオ 私を何だと思っている・・・聖ペテロじゃないぞ。
(ジェラルディーナとカティエッロ、ヴィチエンツォをアントーニオから引き離す。)
 ヴィチエンツォ(泣き出しながら。)ドン・アントーニオ、われらの父! ナポリ中の父、ドン・アントーニオ! 私達はお慕いしています。敬っています! ドン・アントーニオ!
 カティエッロ(ヴィチエンツォを部屋から外へ出しながら。)分った分った。もう分った。さあ、これで用件はすみだ。
 ジェラルディーナ(カティエッロと同時に言う。)父はまだやることがあるの。他の人達が待っていますからね。
 ヴィチエンツォ(繰返し同じ言葉を言う。部屋から押し出されながら。)ドン・アントーニオ、私達はお慕いしています・・・(ナポリ中の父! ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ さあ、仕事だ。(ジェラルディーナに。)次は誰だ?
 ジェラルディーナ(ファイルを見て。)サンタニエッロです。
 ナーイト さっきから待っているのですが。
 アントーニオ お前は誰だ。
 ナーイト ナーイトです。
 アントーニオ(びっこをひいているパルミエッロに気づく。)お前は昨日足を撃たれた男だな。
 パルミエッロ そうです、ドン・アントーニオ。パルミエッロと言います。
 ナーイト 港で私は客引きをやっています。船乗り達が陸に上ると、私は金のありそうな男に近づいて、自分の名前を言い、ヴィア・マリーナにあるナイトクラブ「コロラド」に連れて行きます。このところ私は身体の具合が悪く・・・湿った場所で夜遅くまでやっていたのが祟(たた)ったのでしょう・・・それで三週間肺炎で休んでいたんです。すると(パルミエッロを指さして。)この野郎が勝手に「コロラド」の支配人に客引きの仕事は自分にくれと。ドン・アントーニオ、私は生きていかなきゃならないんです。
 パルミエッロ あっちが俺に頼んだんだ。俺が頼んだんじゃない。
 アントーニオ(パルミエッロに。)お前はどこのシマのものだ。
 パルミエッロ モンテ・カルヴァーリオです。
 アントーニオ(ナーイトに。)お前は。
 ナーイト ここのシマのもので。サニタ地区です。
 アントーニオ(ナーイトに。)ピストルは? 今持っているのか。
 ナーイト はい。
 アントーニオ 机の上に置け。(ナーイト、置く。)この件には二つの違反事項がある。一つはパルミエッロがナーイトに対して置かしている事柄だ。(パルミエッロに。)「コロラド」はこの男の領分だ。二度と荒らすな。分ったな。
 パルミエッロ はい。分りました。
 アントーニオ こちらの部下に、お前を監視させる必要があるかな?
 パルミエッロ いいえ、もうやりません。決して。
 アントーニオ もう一つの違反はナーイトの方だ。誰に対する・・・私に対する違反なのだ。
 ナーイト(心配になって。)そんな・・・ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ パルミエッロは確かに他人の領分を冒した。しかし、だからと言って違反者をお前が勝手に撃つ権利などないのだ。お前はこのサニタ地区のものだ。何故最初に私のところにやって来なかった。それから、相手が倒れた時、何故病院に連れて行かなかったのだ。法律が怖かったのか。
 ナーイト いいえ。ただ、こいつが仕返しをしたければ・・・
 アントーニオ(遮って。)やらせてやろうという腹だった。そう言いたいんだな? それが気違い沙汰だというんだ。命は大切なものだということが分らないのか。私がお前を撃つ。お前が私を撃ち殺す。私には兄弟がいる。その兄弟が出る。義理の兄弟、父親、叔父、次々に出て撃ち殺す。どんどん大きくなって、仕舞いには大虐殺だ。いいか、よく聞くんだ。お前はサニタ地区の者だ。そいつを忘れるな。この件でお前が牢屋に入るようなことになれば、私はコップ一杯の水さえ差し入れてやらんぞ。綺麗なハンカチ一枚もだ。お前はそこで腐って行くんだ。分ったな。この件はこれっ限り終りなんだ。さ、握手しろ。(ナーイトとパルミエッロ、ちょっとの間、目を見交わす。そして握手する。)それからお前だが・・・(と言って、右手に嵌めた思い認印つきの指輪を外し、それを左手に持って。)
 ナーイト 私のことで?
 アントーニオ(素早く、そして突然、ナーイトを殴る。充分に強い一撃。ナーイトが息を飲むほど。)いいか、この次にまた勝手な真似をして撃ちあいなどやったら、このアントーニオ・バッラカーノの名前を忘れたも同然なんだ。忘れるな、この名前を。ピストルを使いたくなったら、まづこの名前を思い出せ。そして私のところにやって来るんだ。(ピストルを取り、ナーイトに渡す。)
(ナーイト、まだ呆気に取られた顔でアントーニオからピストルを受取る。ナーイトの足がふらつく様子を見てパルミエッロ、支えてやる。他の者も息をのんでこの様子を見守る。)
 パルミエッロ(間の後、ナーイトに囁く。)行こうか。(ナーイトの返事を聞かず、ナーイトを扉へと導く。)
(ナーイト、放心状態。導かれるままに進む。アントーニオ、この場の結果に全く無関心な様子。二人を見もしない。ナーイト、ベランダへ出ようとする時、アントーニオの方を振り返り、じっと見る。パルミエッロ、心配になり、相棒の動きを注目する。)
 ナーイト(ピストルを持った右手を上げ、アントーニオの方へ向けるかのような動き。次に自分の方に向け、ピストルを調べるかのようにし、考えに沈む。やがてピストルをポケットに入れ、他の者達がいる方に目を向け、微笑む。)さようなら、みなさん。(外へ出る。パルミエッロ、その後に続く。)
 アントーニオ サンタニエッロを呼べ。
 ラフィルッチオ(リタと共にベランダから登場。)参りました、ドン・アントーニオ。
 アントーニオ さあ、坐って。これは難しそうだ。ゆっくり話してくれないか。
 ラフィルッチオ 有難うございます。(リタのために、椅子を引いてやる。次に自分の椅子を引き、リタの隣に坐る。)
 アントーニオ それで?
 ラフィルッチオ 私のことを覚えて下さっていますか?
 ジェラルディーナ ええ、私、覚えているわ。あなたのお父さんはヴィア・ジアチント・アルビーノでパン屋をしているのね?
 ラフィルッチオ 父は今、もう店を二つ持っているんです。
 ジェラルディーナ そう。繁盛しているのね。
 ラフィルッチオ ヴィア・ジアチント・アルビーノの店はそのままあります。二年前、ヴィア・ローマに開いた店は、本当に最新式です。入口が二つもあります。父が、商売が上手なのです。ナポリでも錚々たる人がお客様にはいます。
 ジェラルディーナ 私の小学校は、ヴィア・ジアチント・アルビーノにあって、私朝はいつもあなたの店で、お茶の時のロールパンを買ったわ。私のこと、覚えてる?
 ラフィルッチオ ええ、勿論。
 ジェラルディーナ あの素敵な黒い髪の御婦人はどうなさったかしら。中央のカウンターにいつもいて・・・そうそう、綺麗な金のネックレスをしていた人・・・
 ラフィルッチオ あれは私の母です。私が六歳の時に亡くなりました。爆弾があのあたり酷かったですから・・・母はもともと心臓がよくなくて、防空壕に入ることが出来なかったのです。その空襲の時母は二階にいて、隣の家に三発落ちました。その破片が窓から入って・・・母は即死でした。
 ジェラルディーナ お可哀相に。
 アントーニオ 本論に戻ろうか。
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ、このことは二人だけでお願いしたいのです。酷く厄介なのです。どうか・・・
 インマコラータ(登場して。)奥様がお帰りです。ドンナ・アルミーダのお帰りです。
 ジェラルディーナ ママのお帰り! なんて素敵!(飛び上がるように立って、ベランダに走って行く。)ママ!
(アルミーダ、息子のアメデオと共に登場。アルミーダはおよそ四十五。まだ魅力あり。顔は蒼白く、寝起きのため目が赤い。肩に毛のカーディガン。鼈甲(べっこう)の櫛で髪を留めている。髪は急いで整えた様子。肩から胸にかけて包帯。)
 アルミーダ(ジェラルディーナの迎えの言葉に感動して。)お早う、ジェラルディーナ。(ジェラルディーナ、母親を抱きしめようとするが、アルミーダ、それを手で制する。)ああ、止めて。ね。(ジェラルディーナ、すぐ分り、後ろに下る。)丁度今、とても痛むの。(左の胸を指さす。夫に気づく。)あなた!
 アントーニオ アルミーダ!・・・一体、お前、どうしたのだ。
 インマコラータ まあ、お顔が真っ蒼!
 アメデオ 十二針も縫ったんだ。・・・ねえ、お父さん(父親のところに歩み寄る。)
 アルミーダ ええあなた、そうなの。(出てきそうになる涙をぐっと堪える。夫を安心させるため、無理に微笑む。)
 アメデオ マラヴィータの奴、覚悟はいいんだろうな。
 ジェンナリーノ(丁度この時までに登場していて。)ねえお父さん。僕に任せて、マラヴィータをやるのは。(ポケットからピストルを出す。)
 アメデオ お父さん、その役は僕の方が相応しい筈です。(こちらもピストルを取り出す。)
 アルミーダ(母親としての心配で。)ピストルなんか出して、怪我でもしたら大変・・・
 アントーニオ ちょっと待て。アルミーダ、お前に一つ訊かなきゃならんことがある。マラヴィータのことだが、あれを処分する段になれば、それは私だ。私以外にはない。訊かねばならないのは、マラヴィータがお前を襲った場所はどこだったかということだ。お前の部屋でか。
 アルミーダ いいえ。
 アントーニオ ではどこで襲われたのだ。
 アルミーダ あれは夜中の一時頃でした。私は鶏小屋で卵を取っていたのです。
 アントーニオ アルミーダ、私がお前を愛しているのは知っているな?
 アルミーダ ええ、勿論。
 アントーニオ そして、お前は私を愛しているのだな?
 アルミーダ 何故そのようなことを・・・
 アントーニオ お前が夕べ、どんなに痛かったか、そして今もどんなに痛いか、よく私には分っている。しかし、言ってくれ。今この瞬間、お前と私とどちらがより大きな痛みを抱えているか。
 アルミーダ あなたですわ。
 アントーニオ そしてお前の胸のその傷は、私のどこにかかっているか。
 アルミーダ あなたの心臓に、ですわ。
 アントーニオ マラヴィータは番犬だ。家を見張ってくれている。家族もそれに、鶏(にわとり)もだ。事を起したのはお前なのだ。(息子達に。)ピストルを収めろ。(アメデオとジェンナリーノ、従う。マラヴィータの行動は正しい。(誰も一言も言わない。アルミーダ、この判決に納得した表情。)気分はどうだ。
 アルミーダ(怪我を軽く見せるように。)ええ、大丈夫。いいわ。でもやはり、ちょっと横になっていた方が・・・
 インマコラータ ご一緒に参りましょう。ベッドに温かいスープをお持ちしますわ。
(家族の者達、アルミーダを自室に連れて行く。)
 アルミーダ(退場する時に。)病院で狂犬病の予防注射を打たないといけないって言われたわ。
 アメデオ それは不要だよ、きっと。獣医が出した、マラヴィータの健康診断書を見せれば大丈夫だ。
(家族の者、全員退場。残ったのはアントーニオ、ラフィルッチオとリタ。)
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ 御覧の通りだ。今日は日が悪い。明日また来てくれないか。
 ラフィルッチオ すみませんが、ドン・アントーニオ。事は深刻で、急を要するのです。
 アントーニオ 二十四時間が待てない程急なことではあるまい。(退出しようとする。)
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ、僕は明日、父親を殺さなければならないのです。
 アントーニオ(扉から出ようとするところで立ち止まる。振り返りラフィルッチオを信じられないという表情で見る。間。)よく分らない話だな。
 ラフィルッチオ(平静な声で。)僕は明日、父親を殺さなければならないのです。
(リタ、わっと泣きだす。啜り泣きを押し殺したうめ呻き声。ラフィルッチオもアントーニオもそれに気づいている様子はない。)
 アントーニオ(やっと二人の惨めさに気づき、二人をじっと長い間見つめる。)君はどうやら、その決心をしているようだね。
 ラフィルッチオ(静かに。)ええ、そうです。
 アントーニオ それではこの件は暇がかかりそうだ。二時間ぐらいしたら、またここに来られるかね?
 ラフィルッチオ 二時間ですか。分りました。まいります。
(リタ、ラフィルッチオの手が自分の肩にかかるのに気づいて、話が終ったことを知る。二人、退場。リタ、啜り泣きを止めようとするが、うまく止まらない。リタの唸るような声はベランダに出てそこから屋敷の外に行くまで聞こえて来る。アントーニオ、リタの悲しみの声が聞こえなくなるのを待たない。その声を少し聞いた後、頭を下げ、妻の部屋へと進む。その時・・・)
                    (幕)

     第 二 幕
(場 第一幕と同じ。二時間後。アルミーダ、肩にウールのショールをかけて、ベランダの傍の肘掛け椅子に坐って、背中を日光に当てている。ジェラルディーナとインマコラータ、その両側に坐っている。ファビオがその三人の正面に、テーブルを隔てて、観客に背を向けて、坐っている。)
 アルミーダ 今何時?
 ファビオ(腕時計を見て。)九時十五分前です。
 アルミーダ アントーニオ、どうしたのかしら。遅いわ。
 ジェラルディーナ 市の衛生課の犬係のところに行くと、いつも時間がかかるわ。
 インマコラータ ここからは随分遠いですわ、犬係のところへは。それに、係の人達が犬を連れて行ってからまだ一時間たっていませんもの。
 アルミーダ ジェンナリーノはどうして一緒に行かなかったんだろう。
 ジェラルディーナ 兄さんたらいつだって、「時間通りに店に着かなきゃ」でしょう? 今日だって、さっさと車で行っちゃったわ。
 アルミーダ アメデオは?
 インマコラータ 旦那様が急用でナポリにお行かせになりました。何のことか、あまり意味が分らなかったのですけど、とにかく私に聞えましたのは、「アメデオ、車ですぐ行ってくれ。あの男をすぐ連れて来るんだ」という言葉でした。
 アルミーダ 「あの男」って誰のことでしょう。
 インマコラータ 私にはさっぱり。
 アルミーダ(ファビオに。)あなた、どうしてアントーニオと一緒に行かなかったの?
 ファビオ ドンナ・アルミーダ、私は熱が出て臥せっていたのです。寒くて歯がガタガタ鳴るほどだったのです。そうだな? インマコラータ。
 インマコラータ 熱いお湯を持って行きました。二本も。ひどい熱でしたわ。
 ファビオ 今はもう気分は良いのです。でも、今起き上がったばかりで・・・
 ジェラルディーナ 変だわ。だって、あなた、遠くへ旅行するって決めた時には、いつも何かが起きるんですもの。そして高熱が出るの。
 ファビオ アメリカの気候がどうも私に合わないんですね。それでもう、行く前から私の健康に遠くから影響を及ぼすんです。
 アルミーダ(アントーニオのことが相変らず気になって。)市の衛生課って、遠いのかしら。
 ファビオ そんなに心配なさることはありません。犬を検査に連れていらっしゃるのは、これが初めてではないんですから。
 アルミーダ あの人の気質は御存知でしょう? 本当はとても気が優しいの。でも、社会との関り、特に法律のことになると、自分自身の独特の解釈を当てはめようとする。だから、衛生課でちょっとでも自分の犬が粗末に扱われたりしたら、きっとひどく怒って相手がお上であることを忘れてしまうわ。そして収まるべきところにも事は収まらなくなって、ひどい結末になってしまう・・・
 ファビオ 奥様は、失礼ですが、ドン・アントーニオのことをよく御存知ないのです。いえ、勿論夫としてのあの方のことは御存知でしょうけれども、ドン・アントーニオ・バッラカーノとしてのあの方のことは、私の方がよく分っています。あの方の裁判所での態度、それはもう、謙(へりくだ)ったものです。深くお辞儀をして、「ではどうぞ宜しく、裁判長殿」(その時のドン・アントーニオの様子を真似て、帽子を上げ、お辞儀をしてみせる。)
 アルミーダ ええ、でもそれは裁判長の前での話ですから・・・
 ファビオ いえいえ、裁判所のどんな地位の低い人間、例えば、門衛にだってそうです。その人物が少しでも公(おおやけ)の仕事に携(たづさ)わっていれば、その人をないがしろに扱うことは決してしません。公の義務と責任がその肩にかかった国家公務員なのですから。本当に心配はいりませんよ、奥様。今日犬と一緒に帰っていらっしゃいますよ。おまけに犬の首に縄をつけて。
 ジェラルディーナ そうは思わないわ、私。この間なんか、二週間もあの犬を留め置かれたわ。
 ラフィルッチオ(走って登場。息を切らしている。)ああ、すみません。
 アルミーダ この人、誰?
 インマコラータ 朝から来ていた人です。旦那様に用があるのです。
 ジェラルディーナ この人、ラフィルッチオ・サンタニエッロよ、お母さん。
 ラフィルッチオ 始めまして、奥様。
 ジェラルディーナ どうかなさったの? あなた。
 ラフィルッチオ 連れの女の子なんですが、ちょっと・・・
 インマコラータ さっき一緒に歩いていた、あの女の人ですね?
 ラフィルッチオ ええ。二時間後に来いとドン・アントーニオに言われまして、二人で外に・・・納屋のところに・・・いたんです。外に行き場もないものですから。まだ二時間経っていないのですが・・・まだ二十分ぐらい早いと思います。でも、きっと陽射しのせいでしょう・・・リタは身体が弱っているものですから・・・どうやら気分が悪いらしくて、ひどく心配なのです。
 インマコラータ 可哀相に!
 ジェラルディーナ 今、どこ?
 ラフィルッチオ 庭の外れのオリーブの林のところに。
 インマコラータ 先生・・・
 ファビオ ここへ連れて来なさい。診て上げます。
 ジェラルディーナ 一緒に来て、インマコラータ。連れて来ましょう。(退場。)
 インマコラータ さ、行きましょう。(ラフィルッチオと退場。)
 ファビオ パン屋の息子だな、あれは。ヴィア・ジアチント・アルビーノにある・・・
 アルミーダ で、女の子は?
 ファビオ 知りません、私は。いかがですか具合は、奥様。
 アルミーダ 少しいいわ。有難う。
 ファビオ 夕べ事故の時に、私がいませんで失礼しました。夜中に痛くなるといけません。薬局に誰かをやって、眠り薬を取って来させましょう。
 アルミーダ 有難う。
 インマコラータ(舞台裏で。)もう少しですよ。
 ジェラルディーナ(舞台裏で。)さあ、ゆっくりとね。私につかまって。
 リタ(舞台裏で。)有難うございます。よくなって来ましたわ。気を失ったのですわ。暑さのせいだわ、きっと。
 インマコラータ(リタを支えて登場。リタはジェラルディーナにもすがっている。)心配はいらないのよ。(二人の女性が部屋の中央へ進み、リタをテーブルの椅子に坐らせている間、ラフィルッチオはベランダの傍によっている。)あの人が言っていた通り、太陽が強過ぎたんですね。ここでお休みなさい。暫くしたら気分が収まりますからね。
 アルミーダ 先生に診て貰った方がいいんじゃない? この子、妊娠しているわ。
 リタ(微笑んで。誇りをもって。)これで七箇月ですの。
 アルミーダ(ラフィルッチオに。)あなたの奥さんなのね?
 ラフィルッチオ(男の誇りをもって。)そうです。私の女です。
 インマコラータ 先生、どうしたんですか。早く診て上げて下さい。
 ファビオ 診る必要はないんだ。気分が悪いのは妊娠とは関係がない。この子は栄養失調なのだ。栄養が足りなくて気絶したんだ。(リタに近寄る。)ほら、顔色がこんなに悪い。目の下に隈(くま)が出来ている。(片手を取る。)冷たい。可哀相に、凍えそうなんだ。(脈をみる。)やっぱり。ひどく薄い脈だ。(リタに。)食事は? 最後の食事はいつ?(リタ、目を逸らす。そして啜り泣き、呻き始める。)かなり前から何も食べていないね?
 ラフィルッチオ(苦い肯定の言葉。)そうです先生。かなり前から何も食べていないのです。
 ファビオ こういう状態が長い間続いているね。何箇月も充分には食べていないんだろう。
 ラフィルッチオ ええ、そうです。何箇月も。
 ファビオ やれやれ、何て話だ。よくそれで君は言えたね、さっき。それも誇りをもって「これは私の女です」などと。飯一つ食わせてやっていないんじゃないか。
 ラフィルッチオ(ファビオに近づいて。)先生、いいですか。よーく見て下さい、あの女を。先生が診察して下さったあの女を。骨と皮です。床に落ちている汚いゴミです。床に落ちているやつをつまんで・・・(何かを摘み上げる真似をする。)そして言うんです。何だ、汚いゴミだ。こんなもの、ゴミ箱に捨ててしまえ。さあ、見て下さい。あの子は綺麗な服を着ていますか? とんでもない。絹の靴下を? とんでもない。美容院で髪を整えて貰っていますか? とんでもない。だけど、あの骨と皮、それにあの素敵な目・・・ああ、あの汚いゴミが・・・私の女なのです。さあ、それからこの私を見て下さい。さあ、よーく見て下さい。そう、この靴を(片足を上げ、その底を見せる。底はボロボロ。)さあ、それからこの服を。(腕を曲げて持ち上げる。肘のところに大きな穴が明いている。)それからワイシャツを。(上衣を脱ぐ。ワイシャツはつぎはぎだらけ。)何と言いますか先生は、この私のことを。こいつも汚いゴミだな。そうです。邪魔だ、こんなもの、と蹴飛ばして捨てるようなゴミです。(片方の足を強く床にあてて擦り、厭なものを蹴って捨てる動作。)えーい、こいつもゴミ箱だ。そしてこの男、どうしようもないこの屑が、この女にとっては何か。彼女の男なのです。
 リタ(打たれて。)そうよ。そうだわ。
 ラフィルッチオ 波止場で担ぎ屋の仕事を時々やります。・・・でも、この仕事もいつもはない。私のようなのがわんさといますから。必要な人数が取れると、目の前で門を閉められてしまいます。仕事さえあれば何にでも食い付いて行きます。日雇い、運び屋、見張り、走り使い、便所掃除・・・稼いだ金はそっくり彼女に渡します。食料にありつける時には二人で分けあい、ありつけない時は・・・二人でなしですますのです。
 ファビオ そんなことをしていると、餓えで二人とも死んでしまうぞ。
 ラフィルッチオ 三人ともということですね? これの中には三人目がいます。私の息子です。
 ファビオ その父親としての誇りは立派なものだ。しかし、今すぐここで何か食べないと、その子はまた気絶してしまうぞ。いや、もっと酷いことになるかもしれない。
 アルミーダ(心配して。)インマコラータ、面倒を見て上げて。
 インマコラータ(台所に進みながら。)可哀相に、こんなことって・・・本当に・・・
 ファビオ(この時までにポケットから処方箋の用紙をポケットから出していて、リタのために何かを書く。それをラフィルッチオに渡す。)薬局に行って、これを調合して貰うんだ。
 ラフィルッチオ(少し困った様子。処方箋を持ったまま。)今すぐですか?
 ファビオ そうだ。あの子をここに一人で置いておくのが心配なのか?
 ラフィルッチオ いいえ、しかし・・・
 リタ(事務的な話をしている風を装(よそお)って。)この人、お金は持たないことにしているんです。すぐ無くしてしまうからって。お金を持つのは私の係。(ハンカチに包んで縛ってある物を取り出す。結び目を解こうとするが駄目。目の焦点が合わない。何度もやってみるが駄目。)
 ラフィルッチオ さあ、こっちに。僕がやる。(結び目を解く。中にある物を見る。)これはバスの切符。帰りの切符を二枚買っておいたのです。無くしたら大変。テルツィーニョで足止めになってしまう。(切符を元に戻す。)これは君のブレスレット。(安物のケバケバしい模造サンゴで作られたもの。)
 リタ 紐が切れているの。注意して。落したら駄目よ。
 ラフィルッチオ 金はどこだ? ああ、ここか。(取り出す。百リラ硬貨が三枚。ファビオに。)三百リラで足りますか?
 ファビオ さあ、どうかな。
 アルミーダ 薬局にはバッラカーノ家からの使いだと言いなさい。
払いはこちらでします。
 ラフィルッチオ どうして払いをそちらで・・・
 アルミーダ たいした金額ではありませんから・・・
 ラフィルッチオ お受けする訳にはまいりません。
 ジェラルディーナ そんな。ねえ、それに私、あなたには借りがあるわ。
 ラフィルッチオ 借り? 私に?
 ジェラルディーナ 学校へ行く途中で私、あなたの店にお茶の時のロールパンをよく買ったわ。その時、いつもあなた、お父さんに内緒で私にドーナツをくれた。私、好きだったわ、あのドーナツ。何年もあなたが私にくれたドーナツ。全部あわせたらいくらになるでしょう。薬局でそんな薬の代金払ったって、沢山お釣りが来るわ、きっと。
 アルミーダ(ラフィルッチオに。)さあ、早く。すぐ行ってらっしゃい。
 ラフィルッチオ(心をうたれて。)では、お言葉に甘えて。(退場。)
 インマコラータ(チーズ、ミルクと果物。それに湯気のたっているスープの載った盆を持って登場。)スープは暖めてありますよ。お肉も入っていますからね。(テーブルの上に盆を置く。)
 アルミーダ(リタに。)さあ、あなた・・・ほら、召上って・・・
(リタ、目を落す。そして黙っている。)
 ファビオ さあ、まづスープから。
 ジェラルディーナ そうよ。温かいうちにスープとお肉を。それからミルク・・・それにチーズもあるわ。さあ。
(リタ、食べようとしない。)
 アルミーダ あなた、お腹すいてないの?
 インマコラータ すいていますわよ。ゆっくりと。ね? ちゃんと食べるわね? それとも、恥ずかしいの?
 ジェラルディーナ 私達がいない方がいいの?
 リタ ラフィルッチオがいないと。あの人も一緒に食べないと・・・
 ジェラルディーナ 薬局へ行っているのよ、あの人。だから、お先にどうぞ、召上れ。
 リタ(諦めて。)じゃあ・・・
 ジェラルディーナ(傍白。他の者達に。)この人、一人にしておいた方がいいわ。でないと、ちゃんと食べられないのよ。
 インマコラータ ええ、では・・・
 アルミーダ 今晩は酷くなりそう。肩がズキズキしてきたわ。(自分の部屋へ退場。)
 インマコラータ(アルミーダに続いて。)私がついて差し上げますから・・・
 ファビオ(アルミーダに。)カティエッロを使いに出して、薬局からまた痛み止めを貰って来ましょう。(アルミーダ、インマコラータと共に退場。)
(リタ、暫く間の後、あたりを見回す。それからフォークを取り、スープの中の肉をすくい上げる。注意深くそれを見て、一人分にも満たないのを知り、残念な顔をする。別の皿にそれを取りわけ、上からスープをかけ、また別の皿でそれに蓋をする。こうしておいて、スープをすくい上げ、試しに食べてみる。だんだん食べる速度が早くなる。少しづつ彼女の餓えの状況が当然要求する速度にまで上って行く。)
 アントーニオ(リタがスープを呑込んでいる時に登場。その様子を面白そうに眺めて。)そんなに急がなくてもいいんだよ、娘さん。誰も追いかけてはいないからね。
 リタ(驚く。スプーンをボールの中に落す。何かを盗んでいる現場を押さえられたかのように、テーブルを離れる。)奥様が、食べろと仰ったんです。私はいいですと言ったのです。
 アントーニオ じゃ、食べたらいい。栄養がとれる。
 リタ いいえ、もうスープはいいです。ちょっとチーズを戴いてもいいでしょうか。
 アントーニオ さあ。これは優秀なチーズだ。(大きな塊をリタのために切り取り、与える。)
 リタ 有難うございます。(食べ始める。)
 アントーニオ 君はラフィルッチオの許嫁(いいなづけ)なのかね?
 リタ 許嫁っていう訳ではないのです。
 アントーニオ ラフィルッチオはそう言っていたぞ。
 リタ 私を、知らない人に紹介する時には、あの人はそう言うのです。でも、本当によく知っている人には、あの人は「私の女だ」と言います。
 アントーニオ どういう意味なのかな? それは。
 リタ 私には分っています。あの人がすっかり説明してくれましたから。
 アントーニオ じゃ、それを私に話してくれないか。
 リタ お分りにならないっていうことですの?
 アントーニオ 多分私には分っていると思う。しかし、ラフィルッチオが、私の言う意味でその言葉を使っているかどうか、それが知りたいのだ。
 リタ じゃ、そちらの方から先にお願いしますわ。私、それを聞きながらこれが食べられますから。
 アントーニオ よろしい。「私の女」というのは、許嫁にも、女房いも使われない。許嫁、或は女房は、男に「私の女」と言われれば、気分を害するだろう。女房は女房だ。男は必ずその女のことを、「私の女房」と言わなければならない。言葉を注意して使う人間が「私の女」という時には、二つの場合がある。一つは自分の愛人・・・とかそういう相手。もう一つは・・・そう、どう言ったらいいか・・・ある種の女を・・・具体的には、売春婦だ。それを酔っ払いなどから庇(かば)う・・・つまり、その女性の一時的な所有権を要求する時だ。「手を離すんだ。そいつは俺の女なんだ」という具合に。
 リタ 昔はそういう風に使われていたかもしれませんわ。旦那様は昔の人ですもの。でも、今は違います。ラフィルッチオが、私に説明してくれたのは、それとは違います。それは・・・私は孤児なのです。両親とも私は知りません。トッレ・デル・グレコにある慈善団体、シスターズ・オヴ・チャリティーで育てられました。十五歳になった時・・・今から八年前です。・・・ヴィア・ジアチント・アルビーノにある立派な家柄の家に、女中にやられました。私はそこで大変可愛がられました。同じ通りにあるラフィルッチオの父親の店によくパンを買いに行きました。パンを買いに行くようになってから七年間、人は何と言うか知りませんが、私はラフィルッチオを見たことがありません。そしてあの人も私を目にとめたことなど一度もありません。私は店に入り、二三個パンを買って、さっと家に帰っただけです。
 アントーニオ 何の関係があるのだね? これが・・・
 リタ もう少し話させて下さい。ある朝・・・一年ぐらい前のことです。いつものように店でパンを買っていました。すると「今晩、映画に行きませんか」と・・・
 アントーニオ それがラフィルッチオだったのだね?
 リタ いいえ。若い店員で、あの人ではありませんでした。「すみません。私、知らない人と映画には行かないんです。」すると、その店員は言いました。「ああ、そう。じゃ、僕はラフィルッチオと一緒に行くよ。」するとラフィルッチオが言いました。「今晩は駄目だ。」そして、私をじっと見つめながらその店員に言いました。「僕は今晩九時、サンタルチア映画館のロビーで待ち合わせているんだ。」そう言った後も、じっと私を見つめました。私は分りました。その晩九時に映画館に入ると、ラフィルッチオの手が私の腕の下にすべり込んで来ました。私、天にも昇る心地でした。・・・何も目に入らなくなりました。あの人が何か言ってくれないかと。そしてやっとあの人が言いました。「僕のこと、愛してる?」「ええ、愛してるわ。この七年間、ずっと。」それから私は訊きました。「あなた、いつ私に気がついたの?」「七年前だよ。」二人は七年間、同じ気持でいたのです。その晩から何もかも問題ではなくなりました。誰も、何も。あの人と一緒にいると私は幸せなのです。二人ですることは何でも正しいのです。ラフィルッチオは説明しました。お互いが相手のために作られている二人の時には、必ずこうなるんだって。そう。女はその女にピッタリの男に出会った時に、初めて完全な人間になれる。男もそうだっていうこと。私はラフィルッチオを見つけて、あの人は私を見つけたのです。
 アントーニオ なるほど。双子の心。そしてその出会いか。そうだ、教えてくれないか。ラフィルッチオがさっき言った決心のことだが、知っていたのかね?
 リタ(すぐ頷く。)ええ。(ワッと泣きだして。)あの人、頑固なんです。一度決心したら、もう他の人は何も出来ない。もう何箇月もあの人、このことばかり考えて・・・
 アントーニオ 彼の決心を君は正しいと思っているのか。
 リタ(まだ啜り泣きながら。)あの人と二人になって、そしてあの人が私に説き伏せるんです。そうすると、その時は正しいと思うんです。でも、私一人になると、そしてあの人が言ったことを心の中で繰返してみると、ちっとも正しくないんです・・・
 アントーニオ あの男の心を変えることは君の力では無理なのか?
(ラフィルッチオ登場。フレンチウインドウのところで立ち止まる。)
 リタ 私には無理です。あの人にとっては、これはただ頭の中で考えていることだけじゃないんです。もう病気なんです。他のことは考えられないんです。夜も眠られないんです。お願いです、ドン・アントーニオ、あの人を助けてやって下さい・・・
 ラフィルッチオ(リタに近づいて。)ここに二人で来たのは、君がドン・アントーニオに話すためじゃない。僕が話すためだぞ。(アントーニオの方を向いて。)この女の失礼を許してやって下さい。あなたがどんなに偉い人か、これには分っていないのです。(リタに。)あれだけ言っておいただろう? 僕のいないところでは口を開いてはいけないって。
 アントーニオ いや、私なのだ。私がこの子に質問をしたのだ。
 ラフィルッチオ 物を訊ねられたのだったら、「私には分りません」と答えればいいんだ。「どうかラフィルッチオにお聞き下さい」てな。(リタ、泣き始める。)それから、泣くんじゃない。泣くのは身体に悪いんだ。最近、いつも泣いてばかりいまして・・・
 アントーニオ よし、お若いの。私に話があるのなら、今やるがいい。
 ラフィルッチオ リタ、君は散歩にでも行っていなさい。僕はドン・アントーニオと話をするんだ。
 リタ お願いです。ここにいさせて下さい。この人が何を言うのか、私は知りたいんです。
 ラフィルッチオ(頑固に。)さあ行くんだ、外へ。
 リタ どうか、ドン・アントーニオ。私をここにいさせて。
 ジェラルディーナ(登場して。)どうだったの? お父さん。
 アントーニオ マラヴィータに異常はなかった。来週には連れ戻せる。
 ジェラルディーナ(リタに。)あなた、ちゃんと食べたの?
 リタ ええ、有難うございます。
 インマコラータ(登場して。)この人、食べたんですか?
 アントーニオ スープとチーズを少しな。台所に連れて行って、もう少し食べさせなさい。まだ足りない。
 インマコラータ(テーブルを片付けて。)さ、あなた、いらっしゃい。(取り分けてある皿を片付けようとする。)
 リタ あ、それは駄目。ラフィルッチオに私、とっておいたの。ね、ラフィルッチオ、食べて。肉よ。
 ラフィルッチオ 僕は腹が減っていない。(インマコラータに。)持って行っていいよ。
 リタ 食べて。お願い・・・私を幸せにすると思って。
 ラフィルッチオ 腹が減っていないんだ。
 アントーニオ じゃ、その皿は残しておいて、食欲が出たら食べればいい。今は二人にしておいてくれ。話すことがある。
 インマコラータ(リタに。)さ、いらっしゃい。
 リタ 今すぐに。(ラフィルッチオに近づき、両手を握る。愛情の籠った目で長い間ラフィルッチオを見る。)私、言われた通り、行くわ。ドン・アントーニオとよくお話して。きっと良い忠告を下さるわ。それから、私はあなたの女、それを覚えていてね。(囁き声で。)肉を食べるのよ。あなた、朝食を食べていないんですからね。
 ラフィルッチオ 分った、分った。心配しないで。
 リタ(インマコラータとジェラルディーナに。)どこですか? 台所は?
 ジェラルディーナ こっちよ。(三人、退場。)
 アントーニオ 優しい子だ。
 ラフィルッチオ 素晴らしいんです。
 アントーニオ 坐って。
 ラフィルッチオ はい。(坐る。)
 アントーニオ それで?
 ラフィルッチオ(困って。)ドン・アントーニオ・・・実は・・・
 アントーニオ ああ、口を開く前にちょっと言っておこう。私はいろんなことを見てきている。人の話を聞いて様々な決定も行ってきた。だから私に対して恥かしいなどと思うことはないぞ。君は二時間前、数学のような確固たる態度で、父親を殺さねばならぬと言った。今の君を見ると、言い淀んでいるようだ。君は決心を変えたと言いたいのではないのか?
 ラフィルッチオ いいえ。私はただ、あがっているだけなのです、ドン・アントーニオ。私があなたにお話をするのはこれが初めてで。それに、沢山のことを私はあなたについて聞かされてきました。あなたの名前が出ると誰もみな、姿勢を正します。あなたへの尊敬のせいで、口がよく回らないのです。でも、私は決心を変えてはいません。二時間前にお話したころは、今でもそのままです。
 アントーニオ つまり明日までに、君は父親を殺さねばならないと?
 ラフィルッチオ そうです。他には道はありません。
 アントーニオ しかし、どうしてだ。誰がそんなことを言った。まあいい。他に道がないということにしよう。君はそれを決心し、実行する予定にしている。しかしそれなら、何故私のところにやって来た。礼儀として知らせに来たのか。新聞の特ダネをくれるようなつもりで。私はそんなことには興味がない。或は私のことを懺悔僧の代りだと思っているのか。もし君が私に忠告を求めてやって来たのなら、私は喜んで力になろう。しかし、自分の気持は変らないと言って来たのなら、私は何の役にも立たない。君にはまだ学ばねばならぬことがある。それは、本当に男らしい男は、間違ったと思った時には、潔(いさぎよ)く自分の決定を取り下げる。そして決定を取り下げたことを恥と思わないのだ。本当に自分が間違っていて、それに責任が絡んでいる時には、そこで償いも行う。立派な人間を立派な人間として認め、謙(へりくだ)ってその意見を聞こうという勇気がある男、自分の勇気と自分の恐怖とを正確に測ることが出来る男・・・いいか、ラフィルッチオ。私はそういう男だ。君はここでそのまま帰るか、それとも私の忠告を聞く気があるか。
 ラフィルッチオ(迷っている。)ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ(重々しく。)相手は父親なのだ。分っているな。
 ラフィルッチオ あちらの方では、私のことを息子と思っているでしょうか。私がこの世に生まれてきた時、父親は確かにこの世にいました。自分の家までちゃんと持って。しかし、あの人が生まれた時には、私はこの世にはいませんでした。ドン・アントーニオ、アルトゥーロ・サンタニエッロは、私の父親なんかではありません。腐った下司野郎です。
 アントーニオ 私のところへ来たのが忠告を求めるためだったとすれば、腐った下司野郎かどうかは、私が判定してやろう。しかしそうでないのなら、腐った下司野郎は君の方かも知れぬ。
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ さあ、続けよう。最後に父親を見たのはいつなのだ。
 ラフィルッチオ 一年と一箇月前です。
 アントーニオ 何故家を出たのだ。
 ラフィルッチオ 私にこう言ったのです。「お前をもう私の息子としては認めない。どこか別のパン屋で仕事を見つけるのだ。家へ戻って来るな。今夜には限らない。もう永久にだ。」これがその言葉です。
 アントーニオ それから人は盛んに君の父親に告げ口しただろうな。君が父親のことを散々悪く言っていたと。それから人は君にも告げ口した筈だ。君の父親が君のことを盛んに悪く言っていたと。それからは会っていないんだな?
 ラフィルッチオ 会っていません。
 アントーニオ 君は学校には行ったのか?
 ラフィルッチオ(打ち拉(ひし)がれて。)いいえ。九歳の時、小学校を止めて、それっきりです。学校などいらん。お前は商売を習った方がいいと、店に入れたのです。でも読み書きは出来ます。
 アントーニオ 私は読み書きも駄目だ。(笑う。)いや、少し読むことは出来る。書くのは駄目だ。新聞は読める。活字体、特に見出しはな。筆記体の、手紙などは読んで貰う。少なくとも君は、生活には困らない知識はありそうだ。
 ラフィルッチオ はい、そう思います。
 アントーニオ 私もそうだ。さて、君と父親の喧嘩がどうして起ったのか、私は聞かない。しかしどんな貧しい教会でも、鐘は二つある。私もその二つに耳を貸すことにしている。一つの鐘は役に立たない。それは死者のための鐘だ。
 ラフィルッチオ(右の人差指を上げて。)ドン・アントーニオ、喋っていいですか?
 アントーニオ うん。何だ? ラフィルッチオ。
 ラフィルッチオ 御忠告、よく分りました。どうか父に、私の意図をお伝え下さい。そしてもし父が、息子として所有する権利のある物を、私に渡さないというのなら・・・
 アントーニオ 君に私は今言ったばかりだ。片方の鐘は役立たずだと。もう一つの鐘を聞く必要がある。(間。)武器を持っているんだな?
 ラフィルッチオ(間。)はい。
 アントーニオ ピストルか。
 ラフィルッチオ はい。
 アントーニオ テーブルの上に置きなさい。
 ラフィルッチオ(ポケットからピストルを取出し、テーブルに置く。)これです。
 アントーニオ これだけなんだな?
 ラフィルッチオ これだけです。
 アメデオ(登場して。)今帰って来ました。お父さん、全て、手筈は整いました。(ラフィルッチオに気づく。)あ、お早う。
 ラフィルッチオ お早うございます。
 アントーニオ 連れて来たのか? あの男を。
 アメデオ 今外にいます。ここに連れて来ましょうか?
 アントーニオ 待て。(この時までにインマコラータが登場している。そのインマコラータの方を向いて。)外に人が来ている。(ベランダを指さして。)あそこからお通しして。
 インマコラータ 畏まりました。(退場。)
 アントーニオ ラフィルッチオ、急な用が出来た。君のことは暫くアメデオに任せることにする。
 アメデオ(ラフィルッチオに。)さあ、こっちへ。
 ラフィルッチオ(怒って。)後で会って下さるんでしょうね・・・
 アントーニオ うん。終り次第、また来る。
(アメデオとラフィルッチオ、退場。)
 インマコラータ(戻って来る。その後ろにアルトゥーロ・サンタニエッロ。)こちらにどうぞ。旦那様がお待ちです。
 アルトゥーロ(登場して。)有難う。(約六十歳。厳しい顔つきだが、美男。頑健で、健康そう。頑固な人間に特有の、視線を固定する目付き。よく仕立てられた服。)
 アントーニオ ドン・アルトゥーロ・サンタニエッロ・・・ですね?
 アルトゥーロ そうです。こちらは旦那様にお仕えする身です、ドン・アントーニオ。
 アントーニオ お会い出来て嬉しい。
 アルトゥーロ(ベランダを越した方向を見ながら。)あそこは全部、こちらの地所で?
 アントーニオ ここにいて見るだけでは全部の地所は見えません。右手は三マイル行ってオリーブの森まで。左手も同じ長さ。向かい側は、真直ぐ海まで。それが私の地所です。
 アルトゥーロ たいした広さだ。
 アントーニオ 四十年前、アメリカから帰って来た時に買ったものです。非常に安い買い物でした。
 アルトゥーロ あの頃は土地は安かった。そうはかからなかったでしょう・・・
 アントーニオ はした金でした。それから少しづつ私は土地を開拓しました。屋敷を建て、別荘を作り・・・
 アルトゥーロ 景色のよい場所ですな、ここは。建築事務所や建設会社に頼んで、全てを・・・
 アントーニオ とんでもない。建築事務所? 建設会社? そんなものに頼んでいたら破産してしまいます。いや、私が自分でやったのです。うちの門番が大工の親方でもあって・・・それに、ここらには職にあぶれている者達が沢山いた。つまり、非常に安く建てることができたのです。娘が会計、資材購入の仕事を一手に引き受けました。セメント、石、煉瓦、梁、壁土・・・
 アルトゥーロ しかし、設計図を役所に認めて貰う必要はありましたでしょう?
 アントーニオ いや、こっち側の、この辺鄙な場所では、認可など全く誰も気にしてはいませんでした。それに、設計図が何だというのですか。ただの紙切れではありませんか。
 アルトゥーロ はあ・・・
 アントーニオ 紙・・・そう、人類の発明の中で、ラジオ、テレビ、原子爆弾、スプートニクなどたいしたものではない。最大の発明は紙だ。
 アルトゥーロ(面白がって。)まさか。
 アントーニオ 紙で出来るものをちょっと思い浮べてみて下さい。
 アルトゥーロ それはいろいろと沢山・・・
 アントーニオ 図面、契約、切手、本、新聞・・・
 アルトゥーロ パスポート、免許証、ポスター・・・
 アントーニオ それに紙幣だ。
 アルトゥーロ ええ、確かに・・・紙幣も。
 アントーニオ ここまでは紙の上に書かれたもの。しかし、紙で作られたものもある。
 アルトゥーロ 何でしょう、それは。
 アントーニオ たいした発明だ。これを考えついた男は天才だ。勿論私はそれが誰か知らない。紙を四角く切って、角々(かどかど)のところを折り曲げて、三つは貼付けておき、もう一つは開けたままにしておく。その開けた部分の縁(ふち)に糊をつけて乾かしておく。舐めればすぐにくっつくようにして・・・
 アルトゥーロ 封筒!
 アントーニオ そう、封筒です。しかしこの封筒に、もし紙幣・・・これもさっき出た通り紙から出来たものですが・・・紙幣を入れて蓋を糊で貼れば、実に特別な、世界中どこでも通用する潤滑油となる。いいですか? ドン・アルトゥーロ、この種の封筒がなければ、何も仕事は動かない。原子爆弾もこれがなければ発明されることはない。況んや建築家も、設計図も、何も動きはしない。よく詰まったこういう封筒があって初めて、人の住む家も出来上がって行く。
 アルトゥーロ そうです。大変面白い。先ほども言いましたがドン・アントーニオ、お会い出来たのは実に嬉しいことです。
 アントーニオ こちらこそ。
 アルトゥーロ ヴィア・ジアチント・アルビーノでよくお見掛け致します。あのあたりにお住いだという噂を聞いておりますが。
 アントーニオ そう。あのあたりに。
 アルトゥーロ それにずっとずっと昔、お若い時に、私はよくお見掛け致しました。
 アントーニオ ということはつまり、アメリカで私を?
 アルトゥーロ いいえ、ナポリでです。四十年ぐらい前に、法廷で。
 アントーニオ ははあ、つまり、傍聴人で来ていらしたと?
 アルトゥーロ そうです。あれは実に興味のある事件でした。話と言えばこの事件のことしか出なかった程の評判で。あの頃私は殺人事件には特別な興味を持っていたものですから。
 アントーニオ 裁判のやり直しを要求したのはこの私でした。そう聞いてもあなたは驚きはしないでしょう。あの事件のあと・・・あれは、私が十八歳の時だったか・・・アメリカにいる私の知りあいが、イタリアから出国するのを助けてくれました。その人はまだ生きていますがね、八十三歳で。未だに時々手紙をやりとりしています・・・
 アルトゥーロ 何というお名前で?
 アントーニオ そこまで聞いてどうしようというのです。
 アルトゥーロ あ、失礼しました。
 アントーニオ とにかく私はアメリカへ密航しました。その間にこちらで私に対する判決が下ったのです。私はアメリカに十七年間いました。アメリカのこの私の知りあいは、私を可愛がってくれて、彼の助けで私はかなり稼ぐことが出来ました。何をやったのかというのですか? 彼のために働いたのです。(アルトゥーロの「危ないことをやったんでしょう」という顔つきに答えて。)いやいや、インチキなことは一切なしです。血が流れたことはありました。しかし、正義のためにです。私は波止場の人足、靴磨き、ピザのパーラー、フィッシュ・アンド・チップス屋、家のペンキ塗り・・・その他つける職業になら何でもやりました。勿論私が貯めた端(はし)た金はアメリカでは何の価値もないものだったでしょう。しかし、イタリアではそのドルをリラに換えると、為替の具合で一財産になったのです。そこで私はイタリアに帰り、この土地を買い、裁判のやり直しを要求したのです。有名なデ・フォンゼカが私の弁護を引き受けてくれました。様々な新しい証拠、それに・・・そう、私の側の証人が八人。結果は無罪。正当防衛の殺人だったと。
 アルトゥーロ 証人は本物だったのですか?
 アントーニオ 違います。雇ったのです。
 アルトゥーロ デ・フォンゼカは何と言いましたか。
 アントーニオ 彼は何も知らない。裁判に勝とうとするのなら、自分の弁護人に打ち明けるのを止めることだ。弁護は懺悔僧と同じようなものです。懺悔僧・・・こんな制度は、私は反対だ。証人は雇ったものであっても、正義はこちら側にあった。そう。私の方が正しかった。私の肋骨は二本折れている。そして下顎の半分は鉄板だ。あの時にやられた傷跡だ。やった奴はマルヴィッツァの領地の管理人、ジアッキーノ。そう、私が奴を殺した。地獄で腐って行くがいいんだ、あんな奴は。私はたった十八歳だった。山羊飼いだった。そう、私は下層民の出だ。山羊を飼って暮していた。ジアッキーノは、マルヴィッツァの領地の草を家畜が食うのを許していた。その家畜が私の山羊でなければだ。しかし私の山羊には許さなかった。私の人相、それとも私の何かが、気にくわなかったのでしょう。私はよく奴に言った。何故俺だけは駄目なんだ。すると奴は銃を傍に引き寄せて答えた。俺がそう言っているからだ。俺がここの管理人なんだかならな。行きやがれ。行かんと頭をぶち抜くぞ。ある朝私はチーズとパンを食べて眠ってしまった。その間に、山羊が行って草を食べていた。私がいなければマルヴィッツァの領地に踏み込むのは、山羊の習性だったのでしょう。私は殴られて目が覚めた。身体中をです。自分は夢を見ているのか、とさえ思ったぐらいだ。しかし、あの野郎の声が聞こえた。「これでちっとは言うことを聞く気になるな!」あいつが殴り終って行った時、私の顔は血糊と泥で出来た面(めん)だった。病院で私は何も言わなかった。ただ谷から落ちたのだとしか。日が過ぎて行った。私は眠れなかった。食べ物を食べることが出来なかった。母親は私に言った。「どうしたんだい? お前。」父親も私に言った。「どこか悪いのか。」事実私は憔悴していた。いろんな医者を呼んでくれた。しかし、誰も私のどこといって悪いところを見つけることは出来なかった。私は道路を歩く。すると目の前にジアッキーノが出て来る。夜、ベッドで、暗闇の中で見る。見えるものは全部ジアッキーノだった。私が考えること、それはただ一つだった。ジアッキーノが死ななければ、この私が死ぬんだ。そして私は死にたくなかった。(その当時自分で繰返し言っていた言葉を声に出して。)あいつか俺だ・・・あいつか俺だ・・・あいつか俺だ。私は飛び出しナイフを買ってマルヴィッツァの領地へ行った。ジアッキーノは銃を構える暇もなかった。お前は俺を殴ったな? と私は言った。俺じゃない、殺さないでくれ・・・お前じゃない? なら誓え!・・・俺は誓う・・・神の前で誓うか・・・神の前で誓う。もし私に「殴ったのは俺だ」と言ったら、あいつを助けてやったかもしれない。あれから五十七年がたっている。しかし私は、まだ完全にはジアッキーノに留めをさしている気がしない。
 アルトゥーロ しかしドン・アントーニオ、肋骨が二本も折れて、顎を叩き割られて・・・それならその男を逮捕させられたのではないですか。
 アントーニオ しらを切っただろう。殴られた現場にいたものは、あいつと私、それに山羊だけだ。山羊は証人にはなれない。だから訴えて何になる。あいつは皆の前で、神かけて誓う。私を殴りはしなかったと。人間は二つの種類に分けられる。まともな人間とジアッキーノのような下司野郎と、二種類だ。法律は柔軟には出来ていない。刑法は二六六頁、七三四条で出来ている。ジアッキーノのような奴らが何と言っているか。「俺に当てはめる法律を言ってみな。ちゃんとその穴を掻い潜ってみせる。」こんな奴らを裁判官がどう出来る。裁判官には証拠が必要だ。証人の証言が必要だ。裁判官が人間としてたとえ被告の無実を信じたとしても、法律に沿って裁かねばならない。判決文は規則通りに作られねばならない。丁度数学の問題を解いて答を書く時にように。悪いのは法律ではない。他人を食い物に生きて行こうという奴らがいけないのだ。つまり、どう言えばいいか・・・頭のいい奴は負け犬を食い物にしているからだ。私が関るのはいつもこういう場合だ。負け犬を弁護してやるのだ。
 アルトゥーロ(納得していない。しかし、ここで抗(あらが)う必要はない。微笑んで。)そうですね。
 アントーニオ 失礼した。横道にそれてしまったようです。時間を無駄にしてしまいましたね。
 アルトゥーロ いいえ、どう致しまして。私に、このように開けっぴろげにお話下さるとは光栄です。
 アントーニオ ここに二人だけでいるからです。誰か別の人間がいれば、そう開けっぴろげには話しはしません。
 アルトゥーロ 分ります。
 アントーニオ ドン・アルトゥーロ、今日来て戴いたのは、私の個人的なお願いを聞いて戴こうと思ってなのです。そしてもし可能ならば、不愉快なある問題について、手助けをお願いしたいのです。
 アルトゥーロ 喜んで。私の出来ることでしたら、ドン・アントーニオ、何でもどうぞ。
 アントーニオ それは御親切に。実は聞くところによれば、あなたと、あなたの息子さんとの間には、何か確執があるらしい。
 アルトゥーロ(わざと知らぬふり。)私に息子があると?
 アントーニオ 私の前で芝居は無用だ、ドン・アルトゥーロ。男と男の話として答えて欲しい。あなたにはラフィルッチオという息子がいる。どうですか。
 アルトゥーロ いた、というのなら。そう。私にはラフィルッチオという息子がいました。もしその名前が出なければ思い出すこともなかったでしょう。
 アントーニオ それほどなのですか、その確執は。
 アルトゥーロ 私の切り札をテーブルに並べましょう、ドン・アントーニオ。私は十二歳の時パン屋の仕事を始めました。大変な重労働と、私個人を犠牲にして働いたお蔭で、いや、言わせて戴くなら私は商売が上手だった。そのせいで今、私は非常にうまく行っている店を二つ持っています。この年になっても私はまだ、昔と同じように懸命に働いています。朝は五時起きです。あいつは違う。どうぞ、御心配は無用です。あいつは怠惰に生まれついた。父親なんか、一顧だにしない。よくあいつに言ったものです。最初の頃ですがね・・・後になっては言ったって無駄だと分りましたから、言いもしませんでしたが・・・よく言ったものです。今夜は家にいろ。私の相手をするんだ。テレビを見よう。トランプでもしないか。すると・・・いいえ、駄目です、お父さん。次から次と言い訳です。やれデートがある。やれ、今朝のうちに言ってくれればよかったのに・・・要するにあいつは、自分の父親より友達の方が大事なのです。
 アントーニオ 彼はまだ若い。同じ年の少年達と遊びたいのは当たり前ではないのかな。
 アルトゥーロ 市役所に出す書類がある。私は言う。明日が締め切りなんだ。忘れるなよ、お前。分ったよ。気をつける。出しておくよ。・・・そして一週間後にもまだ書類はあいつのポケットの中にある。まだある。金曜日には私はいつもふかしたタラを食べる。金曜日の朝、私は言う。おいラフィルッチオ、お前、タラを水につけておいたか? 勿論だよ。つけておいた。あいつは請け合う。その夜私は家に帰って来る。ラフィルッチオはいない。タラもない。父親に対するあれの愛情なんてこんなものです。死んだ女房の写真がある。それを私は引き伸ばして額に入れている。店に私の写真がありますが、それと同じ額です・・・毎月第一金曜日に私はその女房の写真の前に花と蝋燭を置く・・・これが死んだ女房への私の敬意なんですが・・・おい、ラフィルッチオ、明日は蝋燭がいるんだ。全く壁に向って言った方がまだましだ。分りますね? ドン・アントーニオ、私の言っていることが。あいつは蝋燭の用意などしやしない。女房の写真にも、私の写真にも、蝋燭はないのです。とにかく、あいつは怠け者だ。・・・私は稼ぎ手、あいつは寄生虫。だからうまくいかないんです。おまけに父親に対する尊敬はなしときている。
 アントーニオ しかし、もし、助けの手を差し伸べれば・・・
 アルトゥーロ つまりあいつに金を渡せ、ということですか?
 アントーニオ 赤の他人ではないのです。息子さんなのですよ。・・・ウン、なるほど。あなたの考えていることも分る。金を出す時だけ親を尊敬する。そう言いたいのでしょう。
 アルトゥーロ そうです。
 アントーニオ しかし、子供などというものは大抵そんなものではありませんか。まづ親が世に出してやる。それから貸しを取り戻す。
 アルトゥーロ 貸しなど取り戻そうとは思っていません。
 アントーニオ あなたには二つの仕事があるという話でしたね。
 アルトゥーロ ヴィア・ローマにある店の話でしょうか。あいつにあそこを持たせる訳には行かない。あそこは最新式の造りにしてある。女の子だけを置いて・・・青い上っ張り、髪にはそれに合うリボン・・・ナポリいちのスマートな店です。支配人にスイスの女性を置いています。ヴィア・ジアチント・アルビーノの店は私が直接見ています。あれをそこでは働かせられない。特に私がいたのでは。それに・・・大変申し上げ難いことですがドン・アントーニオ、これは全く私的な話です。汚い下着を人前で洗うような真似は私はしたくありません。これは純粋に父と子の問題です。もし私の息子があなたの保護のもとに入って、そしてこのような事態になっているとすれば、どうかお考え下さい。あれは自分の父親に楯を突きながら、自分の父親の保護を求めている。他人の保護のもとにありながらです。これは普通ではありません。
 アントーニオ ちょっと待って。あなたの息子さんは、私の厄介になろうとしてここに来たのではありません。ここに来た理由は他にあります。今すぐその理由を言う訳には行きませんが。
 アルトゥーロ いいでしょう。あなたを信じることに致します。しかし、どうか、この件は放っておいて戴きたい。単なる家庭の問題です。どうか無礼だとお思いにならないで。私の申し上げていることを理解して戴きたいのです。
 アントーニオ 分ります。
 アルトゥーロ 父親が家庭では頭(かしら)なんだ。それは認めて下さる筈です。(怒って。)そして、金・・・私の金! ラフィルッチオにくれてやる金などあるものか!
 アントーニオ そうです。それはあなたが頭(かしら)です。(間。話題を変えようと。考えて。)それはなかなかいい金鎖ですね。そのかけている・・・
 アントーニオ もう何年も前、せり市で買ったものです。
 アントーニオ 鎖の下についているそれも、一緒に買ったのですか?
 アルトゥーロ ああ、これはロケットです。一緒についていた物ではありません。妻が亡くなった時、別に買ったのです。・・・この中には妻の写真が入れてあるのです。
 アントーニオ いや、色々と買うものです、人間というものは。色々とね。家具、装飾品、衣類・・・
 アルトゥーロ 全くです。私も家にはあれこれ買ったものでいっぱいで・・・
 アントーニオ 私も同じです。手に入れたもの・・・つまりは財産ということで・・・
 アルトゥーロ しかし、ある所まで来ると、パタッと買うのを止めるものです。私は現在ではもう買いたいという気持はなくなっています。
 アントーニオ 私もです。裁判のやり直しの後、私は結婚しました。それから子供が生まれました。・・・それでもまだ買う癖は止みませんでした。私の妻・・・アルミーダというんですが・・・よく言ったものです。もうお止めなさい、アントーニオ。必要なものは全部もうあるわ。物が沢山あるって、厄介なことよ。それから、ある時、息子のジェンナリーノが言ったんです。あれが八つの時でした。パパ、パパが死んだら、これみーんな僕のものになるの?
 アルトゥーロ お子さんが? 八つの時に?
 アントーニオ そうです。それで私も考えました。子供達は私の死ぬのを待っているのか、と。それで言ってやったんです。いや、死んでからじゃない。今でもこれはみんなお前のものだ、と。私は弁護士のところへ行きました。財産を丁度三等分して、三人に分けてやりました。私の生きているうちにです。今では、私は分るんです。私が健康でいるのを見て連中が嬉しいと思う時、それは本当に私のことを思ってくれているのだということが。(間。)ちょっと失礼していいですかな?
 アルトゥーロ 勿論。どうぞ。
(アントーニオ退場。暫くしてラフィルッチオを連れて登場。ラフィルッチオ、最初は父親に気づかない。その時は平気な態度。気づくとハッとなり、化石のように立ち尽くす。アルトゥーロも息子を見て同様にショックを受ける。長い間。)
 アルトゥーロ(吐き捨てるように。ラフィルッチオに。)そうか。お前はこの人の保護に縋ったのか。
 アントーニオ さっきお話した筈だ。彼がここに来たのは、他の理由です。
 ラフィルッチオ(父親に対する嫌悪を全く隠さず。)そう。他の理由なんだ。
 アルトゥーロ じゃ、私はここで何の用がある。私に何か関係があるのか。
 アントーニオ 非常に関係がある。命に関るほど。
 アルトゥーロ どうも仰っていることがよく分りませんな、ドン・アントーニオ。この馬鹿者は、あなたにも、私にも、こんな迷惑をかける権利などありはしないのだ。この男と私の間に交される言葉などありはしない。こいつは家を出た。店を出た。そしてもう二十一歳以上だ。こいつの人生など私の知ったことか。(ラフィルッチオに。)それから、忘れるな。お前の相手の淫売野郎にも、私の家へは一歩も踏み入れさせはしないからな。
 ラフィルッチオ(毒を含んだ声で。)その代りに誰を入れるというんだ。
 アルトゥーロ(ぶっきら棒に。)ではこれで、ドン・アントーニオ。(出ようとする。)
 ラフィルッチオ 入れるのは決っている。あの女だ。あの汚いスイス女だ。家にあるものを片端から盗み取っている。うまくやっているよ、あのスイスの下司女!
 アメデオ(リタと共に登場。)どうしたんです?
 ラフィルッチオ 僕が職を得られないのは、父親のせいなんだ。仕事を貰いに行く。理由を聞かれる。父親に追い出された話をする。それで門前払いだ。僕の悪口を、あることないこと言いふらしているんだ。あのスイスの淫売女に、気のすむまで金を使えばいいんだ! 充分気のすむまでな・・・
 アルトゥーロ 誰を家に入れようと、私の勝手だ。金は私のものなんだ。この私のものなんだぞ! お前の顔など二度と見たくない。お前の地図にはヴィア・ジアチント・アルビーノはもうないと思え。二度と私の前にお前の姿を現すな。
 ラフィルッチオ ああ、何ていやらしい声だ。何ていやらしい! エーイ、これでも食らえ!(椅子を掴んでアルトゥーロに投げつけようとする。アメデオ、それを抑える。)
 リタ(ラフィルッチオに飛びつく。)ラフィルッチオ、お願い。私、怖い!
 アルトゥーロ(皮肉に。)ほう、おでましか。子供を孕んだ許嫁とはな!
 ラフィルッチオ(アメデオに羽交い締めにされ。)糞っ!
 アルミーダ(登場。)どうなさったの? アントーニオ。
 アントーニオ 何でもない。心配は無用だ。
 アルトゥーロ 哀れな奴め!(他の人達を見て。)あれを見て下さい。あれが父親に対するあれの態度です。お分りでしょう?(ラフィルッチオに。)お前には反吐(へど)がでる。(アントーニオに。)私は行きます、ドン・アントーニオ。お力になれなくて残念です。他のことでしたらどんなことでもお手をお貸しするつもりです。立派な方と尊敬していますし、これからもその念は変らない筈ですから。しかし、他人のお節介は止めて戴きましょう。
 アントーニオ 気に入らないですな、ドン・アルトゥーロ。あなたの最後の言葉は気に入らない。いや、今言った最後の言葉が気に入らないだけではない。あなたがここへ入って来て、ここで吐いた言葉一つ一つがみんな気に入らない。
 アルトゥーロ 私をどう思おうと、それは勝手だ。
 アントーニオ 黙りなさい。私が話している時に口を挟むことは許さない。いいですか。今まであなたの口から出た全ての話が、私には不愉快極まりないものだ。つまりそれは、私との取引で、あなたはひどく不利な立場にあるということだ。よく聞くんだ。お前の顔など私は見たくもないということなのだ。 
 アルミーダ(最悪の事態を怖れて。)まあ!(アメデオに目配せをする。アメデオ、退場。)
 アントーニオ それからもう一つ。私は今まで、他人のお節介は止めて戴こうと言われたことは一度もない。
 アルトゥーロ 多分今回が最初だったんだ、あんたが家庭のことに口を出したのは。
 アントーニオ ちょっと親切にすればすぐ付け上がる。私はある親しみを込めてお前に話をした。するとお前はどういう訳か、自分の目の前にいる人物が誰であるか、忘れてしまったのだ。いいか、私の名前はアントーニオ・バッラカーノだ。
 アルトゥーロ(苛々と。)それがどうした。私は堅気の人間だ。真面目に仕事をして、法を守る男。私の名前はアルトゥーロ・サンタニエッロだ。
 アントーニオ(暗い表情。)武器を持っているか。(ピストルを取出し、アルトゥーロを狙う。)
 アルトゥーロ 武器はない、ドン・アントーニオ。
 ジェラルディーナ(インマコラータと一緒に登場。途中で止まる。)パパ!・・・
 アルトゥーロ 私には武器はない。(アメデオ、ファビオを連れて登場。二人、心配そうに見つめる。)丸腰の人間をどう扱うか、ドン・アントーニオはよく御存知の筈。
 アントーニオ(ピストルをテーブルの上に置き、アルトゥーロに近づき、目に軽蔑の色を浮かべ、じっと見る。アルトゥーロ、瞬きもせず、麻痺したように立ちつくす。)お前の顔を見ていると虫酸が走る。
 アルトゥーロ あなたの口から出た言葉です。私の性格の評価として受け止めねばなりますまい。
 アントーニオ 汚い豚だ。
 アルトゥーロ 覚えておきましょう。
 アントーニオ 虱(しらみ)だ。
 アルトゥーロ それでは、百合のように綺麗なこの家に、そのような者が入り込んで汚(けが)してしまったことをお許し願うことに致します。私は行きます。おもてなしに感謝致します。それから、御教示下さった大切な知識にも。裁判は操ることが出来る・・・ある程度までは、証拠も拵えられる。・・・しかし、いつでもではない。証人も雇うことが出来る。時々は買収出来ない人間もいるが。私の方は少しの辛抱を。そちらは少しの用心を。では失礼致します、みなさん。(退場。)
 アントーニオ あいつは人間ではない。虫けらだ。
 ラフィルッチオ じゃ、私を助けて下さい。私はとても思い留まることなど出来ません。
 アントーニオ あれはお前の父親だ。それがあちらの、お前に対して持つ強みだ。あちらはそれを自覚している。お前はそれを自覚していない。お前の企てを実行すれは、終身刑は免れないのだ。分っているな。
 アルミーダ(驚いて。)まあ、一体何を・・・
 ファビオ 終身刑?
 アメデオ パパ・・・
 リタ お願い、ラフィルッチオ。私達のことも考えて。どうして人生を滅茶滅茶にしようとするの。
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ、どうか、どうか手助けを・・・
 アントーニオ あれはお前の父親なのだ。
 ラフィルッチオ 構いません、私は。
 アントーニオ もしお前が構わないとすれば、お前も父親と同じ虫けらだ。その企てをやるとすればどうするか。まだはっきりとは分っていないだろう、ラフィルッチオ。そうだ、ファビオ、それに、アメデオ。お前達もよく聞け。もし私が助けるとなれば、アルトゥーロ・サンタニエッロはこの二十四時間以内に死ぬ。これがそのやり方だ。お前はヴィア・ジアチント・アルビーノの店まで行く。・・・そうだ、あそこがその店としよう。(舞台奥の壁を指さす。)お前は店の外で機会を窺う。父親を見つけ、お前の用意がよければそこで踏み込み、五発、的に撃ち込む。これで父親は死ぬ。それからショー・ウインドウに一発反対側から撃つ。・・・これだけだ。ピストル? 父親のものだ。お前を見るや、相手は撃ってきた。お前は相手のピストルを奪い取り、撃った。筋書きは自然なものだ。不当な勘当、金銭的援助の拒否、名の知れた外国の売春婦・・・正当防衛は立派に成立し、信頼のおける証人が目撃している。判決は軽いものですむ。あるいは全くの無実だ。
 ラフィルッチオ じゃあ・・・
 アントーニオ ええい、糞っ! またこの私の口から言ってやらなければ分らないのか。あれはお前の父親なんだ。お前には出来ない。やってはいけないんだ。私も助ける訳には行かない。(他の者達も同意の目配せをしあう。)これをただの原則論だなどと考えてはならないぞ。それとも、お前は人から「決心を変えた」と言われるのがいやなのか。
 ファビオ 他人の口など気にしてはいけない。
 インマコラータ あなたは若いのよ。一生があなたの目の前にあるの。
 アルミーダ そうよ。それに、子供も生まれるの。マリア様は子供の話になれば、必ず救って下さるわ。それを忘れないで。
 リタ(他の人達に。)この人、車の運転が上手なんです。・・・車の免許さえ取れば・・・仕事につけるのに・・・
 アメデオ 君に仕事を捜して上げられるよ。僕らがみんなついている。僕もジェンナリーノも。パパだっている。
 アントーニオ よく考えるんだ、ラフィルッチオ。私が三十分前に言ったことを思い出すんだ。本当に男らしい男は、間違ったと思った時には潔く自分の決定を取り下げる。そして決定を取り下げたことを恥と思わないんだ。
 ラフィルッチオ(自分の絶望が口をついて出る。)取り下げられないのです、ドン・アントーニオ。これは私のせいじゃありません。どうか信じて。あの男のことを考えると・・・私はあいつを父と呼ぶことも出来ません。見て・・・見て下さい、この手を・・・震えています。私は、他に、何も、考えられないのです。夜寝ることも出来ません。食べることも、寝ることも・・・いつも同じことしか考えていないのです。(あたかも迫って来る想念を払い退けようとするかのように。)あっちへ行け! 行くんだ! 分ったか。もうこいつを考えるのは厭なんだ。あっちへ行け!・・・でも、駄目なんです、ドン・アントーニオ。あっちに行ってはくれないのです。友達が言います。「お前が聞いているのは、それはお前の父親の声だぞ」と。聞きたくない。見たくない。私は目を瞑る。するとあいつのいやらしい顔が出て来る。ええい、糞っ。目を開ける。すると目の前にあいつの顔です。こんな状態では生きては行けません。私は体重が減って来ました。私は死にたくない。まだ若いんだ。あいつか、私か。どっちかだ。両方が生きている訳にはいかないんだ。(真っ蒼になって、震えて、椅子の上に倒れる。両手で顔を覆う。両膝の上に両肘を載せて。)
 アントーニオ(ラフィルッチオの言葉はジアッキーノのことを思い出させる。)可哀相に。お前の言う通りだ。こんな状態では生きて行くのは難しい。毒虫に噛まれたような、病気になったようなものだ。この病気の病原体は、我々の歩く土の上の埃(ほこり)の中にある。それが靴にしがみつき、足の裏から骨を伝って脳まで上ってくるのだ。そして一旦脳に入ると、そいつは我々を唆(そそのか)
す。一番いい場所はどこだぞ、一番いい時はいつだぞ。おまけに使用する武器まで教える。やっと楽になったと思った頃には、自分は牢屋に入っているのだ。そう。確かにどうしようもない。他に打つ手はない。残るのはあいつか、お前か、どちらかだ。お前は私に助けを求めた。よろしい。助けよう。しかしいいか、ジアッキーノは赤の他人だった。アルトゥーロ・サンタニエッロは違う。お前の父親だ。だからまづ、お前の意図を彼が知らねばならない。何故お前が私のところにやって来たかを。そして何故私がお前に手助けをするのかを。インマコラータ、私の帽子とステッキを。
 インマコラータ はい、只今。(用意をする。)
 アントーニオ 人が物を手に入れようとする時、まづその持主のところへ行き、その値段を聞くのが順序だ。この場合、その物の持主はアルトゥーロ・サンタニエッロだ。先方にこちらの欲しい物の代償をまづ訊く。それによってお前の提案出来る物が決まる。それと引き換えにお前は自分の物を渡せるかどうか決める。・・・助ける私も、自分の物を渡せるかどうかを決める。ファビオ、私を町まで送ってくれるか。
 ファビオ 畏まりました。
(二人、退場して・・・)
                    (幕)

     第 三 幕
(その夜遅く。サニタ地区にあるバッラカーノのアパート。大きなダイニングルーム。夏の初めにはいつもそうしているのだが、主婦アルミーダ・バッラカーノが家具は全てダストシートを被せて、絵は壁から下ろしてある。この部屋全体が、人の住んでいない裸の状態に見える。しかし、食卓は豪華に設(しつら)えてあり、八人分の席が用意されている。シャンデリアも灯っている。アントーニオ・バッラカーノは肘掛け椅子に深く腰を下ろしている。顔色は悪く、表情から、肉体的苦痛が甚だしいのが見て取れる。隣にファビオ、椅子に坐ってアントーニオの口述をタイプライターで打ち込んでいる。)
 ファビオ(口述の最後までタイプして。)これで出来ました。後はサインだけです。
 アントーニオ まづ読んでみてくれ。何か抜かしているといけない。
 ファビオ 口述されたものはみんな打ちました。時間を無駄に出来ないのですが。では・・・(タイプライターから紙を抜き出して。)では読みます。何かあったら言って下さい。(玄関のベルが鳴る。)あ、あれはルイージでしょう。(部屋を出る。暫くして部屋に戻る。後ろから、ルイージとその娘のヴィチェンツェッラ、登場。)
 ルイージ(八人分のローストチキンの入った包みと、大きなケーキの箱を持って。)御註文の品です。ローストチキン八人分。それに、サラダ、チーズ、デザート。これは特別製のケーキです。
 ファビオ みんな台所だ。チキンは大皿に盛っておいてくれ。
 ヴィチェンツェッラ(野菜、果物、氷の入った籠を運んで。)氷の上に果物を。それからサラダを用意します。テーブルに油と酢を用意しておいて下さい。
 ファビオ 分った。早くしてくれ。
 ルイージ ねえ先生。店の奴が誰も信じないんですよ。このケーキがドン・アントーニオの註文だってことをね。まだみなさんと御一緒にテルツィーニョにいらっしゃる筈だと言ってね。お帰りになっていらっしゃるんだと言って聞かせるのに随分暇がかかりましたんでさあ。
 ファビオ そうか。
 ルイージ ええ。まだ、九月の始めでしょう? 旦那様は十月の半ば頃にならなきゃ、普段帰っていらっしゃらないんだと。
 ファビオ うん。ナポリには今夜だけだ。明日にはテルツィーニョに帰る。
 ルイージ そうですか。どうぞお早くお帰り下さいまし、ドン・アントーニオ。あちらにいらっしゃると、どうもこちらの金の回りがよくないんです。(台所へ進みながら。)おい、用意だ、ヴィチェンツェッラ。
 ヴィチェンツェッラ はい、パパ。
(二人、台所に退場。)
 ファビオ 痛みは?
 アントーニオ 何にも感じない。
 ファビオ 何を言ってらっしゃいます。確かに頑丈な身体をお持ちです。しかし、血も肉も、普通の人間のものと同じです。ドン・アントーニオ、刃は少なくとも十センチ以上通った筈です。私は今ここに、何の用意もない。消毒液もありません。さっき応急に、出来るだけきつく包帯をしただけです。何ていう方でしょう、あなたは。あの時に、ただ気分が悪いとしか仰らないなんて。本当に起ったことを話して下さるべきだったんです。そうしたら、あの場で、すぐに病院に行けたのです。
 アントーニオ それで名前を言い、訴えるというのか? そんなことに何の意味がある。今回は傷を負ったのは私の方だ。君は知っている筈だ。このような厄介な問題を、どんなに沢山この私が、官憲の手を借りずに処理して来たか。それを、私自身が巻き込まれたからといって、今さらどうしろと君は言うのだ。「あいつが僕を虐(いじ)めるよ、先生。あいつを懲らしめて」とでも言うのか。
 ファビオ 誰か知らない人物にやられたのだ、と言えば・・・勿論、本人を見れば自分を襲った人物であることは分るでしょう。しかし、どんな顔だったかは覚えていない、と言って。
 アントーニオ まあそれで、法律の方はすませることは出来るだろう。しかし、私の家族はどうなる。息子達は。あの二人は私がアルトゥーロ・サンタニエッロに会いに行ったことを知っている。ちょっと推理を働かせれば、成り行きがどうだったかすぐ分る。するとジェンナリーノとアメデオは、サンタニエッロのところへ行く。血が流され、そしてその復讐がまた・・・こんなことはもう沢山だ。君と働いたこの三十五年は何のためだったか。犯罪と殺人を減らすためにだ。増やすためではない。
 ファビオ しかし彼は、あなたに話をする機会さえ与えなかったんでしょう?
 アントーニオ 私が店に入って来たのを見て、あの男は私の意図が言葉で終るものではないと判断したのだろう。私は「ドン・アルトゥーロ、あなたに話がある」と言うと、店の中から「どうぞお入りを」と言った。店には他に誰もいなかった。我々は歩み寄った。次に何が起ったのかはよく分らない。既にあの男はナイフを持っていたか、歩みよる時にカウンターから取り上げたのか。とにかく覚えていることは、あの男がそれをここに突き刺したことだ。(自分の腹の左側の部分を指さす。)丁度その時、客が入って来た。誰だと思う。大工のヴィチエンツォ・クオッツォだ。今朝家にやって来た・・・
 ファビオ ええ、覚えています。大声であなたを誉め称えた、例の男ですね。「ドン・アントーニオ、われらの父! ナポリ中の父、ドン・アントーニオ!」私の部屋からでも聞こえました。
 アントーニオ あの男だ。すぐ逃げて行った。そしてサンタニエッロも店の後ろに入って行った。
 ファビオ 武器をお持ちでは?
 アントーニオ ピストルは持っていた。しかし私は、息子達のことを考えた。今ここで私が撃てば、殺しの連鎖は無限に繋がる。・・・私は傷を抑えてゆっくりと車の中で待っている君のところへ戻った。しかし私はヴィチエンツォ・クオッツォが心配だ。あれが本当のことを言えば、息子達は回り回って、監獄行きだ。
 ファビオ 先ほどの御指示は全部すませました。友人達の招待、それにアルトゥーロ・サンタニエッロに関すること、そしてヴィチエンツォの仕事場に直接行って来ました。ヴィチエンツォは必ず来ますとのことです。
 アントーニオ うん。(間。)すると君は明後日は発つんだな。(ファビオが「それはまだちょっと・・・」という動作。それを見て。)いいんだ。君は発つんだ。これは君へのお別れのパーティーだ。君のアメリカでの新しい人生を祝うためのな。(短い間。)本当に私は何も感じないな。(手の甲で額を拭う。)少し汗が出てきた。・・・さあ、仕事をすませよう。やることは沢山ある。・・・水を一杯くれないか。
 ファビオ そうですか。やはり喉が乾いてきましたか。(水を飲ませる。)腹膜と脾臓貫通です。
 アントーニオ 手紙を読んでくれ。
 ファビオ(タイプ打ちの紙を読み上げる。)親愛なるバスチアーノ。この手紙の持参者は、医師ファビオ・デッラ・ラジオーネだ。長い間私のもとで、私を診てくれた。そして、忠実に私心なく、私の仕事を手伝ってくれた。しかし、年もとり、疲労もたまり、この度アメリカの彼の弟のところへ行きたいと行っている。平和な静穏な生活が望みなのだ。どうか彼を、我々の友人達に紹介して欲しい。そして私に対するように、彼を敬意をもって扱って欲しい。私の健康状態については彼が話してくれる筈だ。私は心臓が昔のようには強くなく、もう長くは生きられない。しかし、どうか気にしないよう。私は七十五歳。よい人生を送ってきた。もう一度人生をやってみろと言われれば、私が今まで送った通りの人生を喜んで繰り返す筈だ。ジアッキーノの件を含めて。この手紙が私の最後のものになる。今までの御厚情に対して、お手に感謝の接吻を捧げる。どうか御自愛を。そして友人達へどうぞ宜しく伝えて欲しい。・・・これでいいでしょうか。
 アントーニオ ペンを貸してくれ。(ファビオ、ボールペンを渡す。)アントーニオ・バッラカーノ。(自分の指から指輪を外し、それをファビオに渡す。)これは君に・・・
 ファビオ(狼狽して。)ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ 嵌めてみろ。合うかどうか。
 ファビオ(試す。)ええ、合います。
 アントーニオ イタリアに帰る時、アメリカでバスチアーノから貰ったものだ。こう言ってな。「お前が死ぬ時には、これをお前の友人に渡すのだ。その男は、もし私が生きていれば、私に返さねばならん。もし死んでいれば、その友人のものだ」と。いいなファビオ、これは無実の罪をきせられて裁判にかけられ、牢獄で死んだ彼の父親が持っていたものだ。話せば長い話になる。とにかく指輪を彼に見せるんだ。彼は帽子を脱いで敬意を表するだろう。もし偶々帽子を被っていなければ、わざわざ家に帰って、帽子を被り、帰ってきて帽子を脱ぐ筈だ。水をくれ。(ファビオ、もう一杯水を飲ませる。)脾臓貫通は喉が乾くものだな。
 ファビオ ええ、そういうものです。
 アントーニオ これは一時間前に始まった。・・・もう一時間はあるな?
 ファビオ はい・・・
 アントーニオ 君は明日テルツィーニョに行ってくれ。あの犬達を苦しませたくない。君に始末を頼む。うちの連中はどうもあの二匹が嫌いらしい。アルミーダはきっと誰かに譲ってしまうだろう。人間には二種類ある。アントーニオ・バッラカーノの種類が片方に、もう片方がアルトゥーロ・サンタニエッロの類(たぐ)いだ。犬は能率よく、一思(ひとおも)いにやってくれ。君なら出来るな? 注射を二三本で・・・あの犬がサンタニエッロのような奴らの手に渡ることを考えるとぞっとする。
 ファビオ 私がやります。
 アントーニオ(自分の服を指さして。)この服・・・それにシャツだが・・・着替えなきゃならん。明日の朝、この姿で人に見られたくない。ここに何かおいてある筈だ。着替える。この服はスーツケースに入れて処分してくれ。死亡診断書はどうなのだ? 今作っておいた方がいいんじゃないか。
 ファビオ 急ぐ必要はありません。
 アントーニオ 何故だ。
 ファビオ その時が来た時作ります。
 アントーニオ 死因は何にするのだ。
 ファビオ 何でも。お言い付けの通りに。
 アントーニオ 心臓麻痺だ。
 ファビオ 分りました。(玄関のベルが鳴る。ヴィチェンツェッラ、台所から出て、玄関に出るため部屋を横切る。)玄関に誰か・・・
 ヴィチェンツェッラ 私が出ます。(退場。)
 ファビオ 多分、クオッツォです。
 アントーニオ だといいが。(水を少し飲む。)
 ファビオ 必ず来る筈です。
 ヴィチェンツェッラ(登場。その後ろにラフィルッチオとリタ、登場。)さあ、入って。
 ラフィルッチオ 今晩は、ドン・アントーニオ。
 リタ 今晩は。
 アントーニオ ああ。どうしたんだ。
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ、私はどうしてもお会いしなければ、と思って。でも、どこにいらっしゃるのか分らなかったのです。そうしたら、偶々ヴィチエンツォ・クオッツォに出あって、ドン・アントーニオはここにいらっしゃる、一晩ナポリで過されると聞いたのです。そしてクオッツォも夕食に招待されていると。
 アントーニオ それで?
 ラフィルッチオ 奥様は大変親切にして下さいました、ドン・アントーニオ。
 リタ 二部屋のアパートが丁度空いているから、そこに住みなさいと。
 ラフィルッチオ リタのことを大変気に入って下さって、私が落ち着いて職を見つけるまで家賃はいいからと。
 リタ そして、長男さんが、ラフィルッチオに、自分の店で働かないかと言って下さったのです。
 ラフィルッチオ 私は仰った言葉を思い出しました。本当に男らしい男は、間違ったと思った時に、潔(いさぎよ)く自分の決定を取り下げる人間だと。・・・それで、私の父のことはどうかもう、御心配には及びません、と言うために。・・・私はもうやりません。
 リタ 奇跡ですわ。こんな風になるなんて。
 アントーニオ それを聞いて嬉しい。それに、よい知らせがある。お父上との話はうまく行ったのだ。
 ラフィルッチオ 本当ですか。
 リタ どういう話に?
 アントーニオ 彼に何が言える。当然折れて出た。いくら金をやったらいいか、私に訊いた。それで私は、二百万リラと言った。最初は渋ったが・・・昔の癖は抜けないものだからな・・・最後は承諾した。
 ラフィルッチオ まさか・・・
 アントーニオ 今、手持ちがない、と言うから、私が立て替えておこう、都合が出来次第清算することになった。二人は握手した。紳士ならこうするものだ。ファビオ、私の財布を・・・上衣のポケットにある。手が痛くて・・・頼む。
 ファビオ 分りました。(アントーニオの上衣のポケットから財布を取り出す。)
 アントーニオ 開けて、小切手を出してくれ。
 ファビオ はい。
 アントーニオ 小切手を書いてくれ。その後私がサインする。ナポリ、一九六0年九月一0日と。(ファビオ、小切手に書く。)ラファエーレ・サンタニエッロ、二百万リラ。
 ファビオ 書きました。
 アントーニオ こっちに。(ファビオ、小切手を渡す。アントーニオ、サインする。)さ、ラフィルッチオ。
 ラフィルッチオ ドン・アントーニオ、何とお礼申し上げたらよいか。(リタに。)お手に接吻を。
 リタ 両手にだわ。(アントーニオの両手にキスする。)
 アントーニオ もういい。さあ、行ってくれ。もう少しで人が来る。
 ラフィルッチオ さ、行こう、リタ。お忙しいんだ、ドン・アントーニオは。お休みなさい、先生。
 ファビオ お休み。
 ラフィルッチオ それに、もう一度、有難うございます。(リタと共に退場。)
 アントーニオ 手紙はどこだ。
 ファビオ バスチアーノ宛のものですか?
 アントーニオ いや、あれは君がアメリカに持って行くものだ。最初に書いた方・・・
 ファビオ これです。(見せる。)
 アントーニオ すぐ出せるように。よく分るところに入れておいてくれ。
 ヴィチェンツェッラ(登場。)用意が出来ました。ワインは白ですか? それとも赤に?
 ファビオ ローストチキンだな?・・・赤にしてくれ。(玄関のベルが鳴る。)ドアを開けて。(ヴィチェンツェッラ、退場。)どうですか? ご気分は。
 アントーニオ 大丈夫だ。・・・少し汗が出てきた。
 ヴィチェンツェッラ(登場。その後ろからヴィチエンツォ・クオッツォ登場。)こちらです。
(ヴィチエンツォ、静かに入って来る。入口のところで立ち止まり、目を伏せる。)
 ファビオ 来ないんじゃないかと心配されていたぞ、ドン・アントーニオは。私は来ると思っていたんだ。
 ヴィチエンツォ ドン・アントーニオのお召しなのに来ないなどと、そんなことがどうして出来ましょう。
 ファビオ 来てくれてよかった。ドン・アントーニオ・バッラカーノを見るのはこれが最後になるだろうからな。
 ヴィチエンツォ 先生・・・それはどういうことで?
 ファビオ 私にはこれだけしか言えん。
 ヴィチエンツォ ああ、神様・・・
 ファビオ 偉大な父のお悔みを言うことになろう。(事務的な声で。)さてと、非常に微妙な事態になっているんだ。お前も知っての通り、これは一時間前に起った。店にいたのはお前だけだ。他には誰もいなかった。そうですね? ドン・アントーニオ。
 アントーニオ そう。実にタイミングよくその場にやって来た。タイミングがよいか悪いか、それは問題だが。
 ファビオ お前がドン・アントーニオに、心から傾倒しているのを御存知なのだ。それで心配しておられる。
 ヴィチエンツォ 何の話で?
 ファビオ ヴィア・ジアチント・アルビーノで起った刃傷沙汰のことだ。
 ヴィチエンツォ 刃傷沙汰? 何のことです?
 アントーニオ 待て、ファビオ。おい、「何のことです」とはどういうことだ。お前は一時間前、ヴィア・ジアチント・アルビーノのパン屋に来なかったか? そして私とドン・アルトゥーロが、その時話をしていなかったか?
 ヴィチエンツォ いいえ。一時間前には、私は家にいました。何かの間違いです、それは。
 アントーニオ(苦々しく。)分った。ではお前ではなかったんだ、その男は。お前は何も見ない、何も知らない。本当のところ、これは私には都合がいい。ファビオ、もう放っておくんだ。この汚い野郎は何も話しはしない。(ヴィチエンツォに。)あの店に、お前が入った。そして私はもうやられた、と分った。ファビオがお前のところに行き、私の話をした。・・・お前はすっかり安心した。お前はパン屋に脅迫されたんだ。・・・よかろう。お前のその考えも一理ある。
 ファビオ 言わないことじゃないでしょう、ドン・アントーニオ。親切を仇で返されたんですよ。
 アントーニオ 君は間違っている。私が正しいのだ。今日はドン・アントーニオ・バッラカーノがいる。明日は別の男が・・・またその次には別の人間がいるのだ。私の子供の子供、そしてこの豚野郎の・・・(ヴィチエンツォを指さして。)子供の時には、我々のその努力の後、世の中はいつか、輝きは薄れているかもしれないが、今よりはずっと公平になっているかもしれない。賛成しないか。
 ファビオ しません!
 アントーニオ 君と私とは意見の合わないことが色々あったな。(間。)そろそろ着替えたい。手を貸してくれるか。
 ファビオ はい。
 アントーニオ 急がなければ。みんなが来る。(ヴィチエンツォに。)ファビオのお別れパーティーだ。アメリカに発つのでな。しかし、実はこれは、偽装工作だ。お前には本当のことを言っておこう。・・・お前は黙っていればよい。晩餐に出席した者は全員私の身体の具合が悪かったことを目撃することになる。そしてその後・・・何が起ったか、みんなが訊かれることになる。まあ、あの男は年だった。・・・七十を越えているんだからな。・・・心臓麻痺だ。お前も晩餐に出るんだ。証人になるんだな。・・・偽の証人だ。(ファビオに助けられて、退場。)
(間の後、玄関のベルが鳴る。)
 ヴィチェンツェッラ(登場して、部屋を横切って、玄関に出ながら。)ああ、一人取り残されたんですね。
(ヴィチエンツォ、答えない。ヴィチェンツェッラ、玄関に出て、再び登場。その後ろに三人の客。一人はアルトゥーロ。脅えている。二人の怪しい男、ペッペとツィバキエッロにひき立てられている。二人は唇に謎めいた薄笑いを浮べている。)
 アルトゥーロ(哀れな声で。)一体これはどういうことですか。ここはどこです。誰に会えと言っているんです。
 ペッペ 我々はあんたの友達だ。心配することはない。
 アルトゥーロ その我々というのは誰なんだ。ここは誰の家だ。
 ツィバキエッロ ここは家だ。見えないのか? あんた。
 ペッペ 夕食のための食器はおいてある。食事も用意が出来ている。他に客も来る。何も心配はいらない。
 アルトゥーロ(怒って。)私は大人なんだぞ。赤ん坊じゃない。ヒョイと抱き上げられて、どこへでも好きな所に連れて行かれる、そんなことは出来ない筈だぞ。(我を忘れて。)この世には正義はないのか。私は法を守る市民だ。無法な取り扱いに、何故私が屈服しなきゃならん。・・・ギャングなどに何故・・・そうだ、ギャングだ、お前達は。私は堅気の男だ。正直な人間だぞ。頼む、家に返してくれ。私は病気なんだ。ほら、触って見てくれ・・・(腕を伸ばして。)そら、熱が出ている。私は自分の仕事だけをやって来た。他人のことに口など出したことはない。毎月第一金曜日に私を見てくれ。ちゃんと死んだ女房の墓参りをしているんだ・・・あれはいい女だった。あれが生きていてくれれば、事は随分違っていた筈だ。私はたった一人、犬のような生き方をしている。ああ、あの息子の奴が私をこんな目に合わせたのだ。あの糞息子めが。父親を破滅させおって・・・あいつのお陰で、私は牢屋行きだ。・・・(ペッペとツィバキエッロに。)そう、きっとあんた方はあの世界の人間だ。頼む。助けてくれ。(二人の前に膝まづく。)どうか、どうか行かせてくれ。私はもう切符は買ってある。・・・スイス行きの航空券だ。・・・欲しい物は何でもやる。(ポケットから小切手帳を取り出す。)いくらだ。答えてくれ。・・・何か言ってくれ!
 ファビオ(登場。)どうしたんだ・・・ああ、きっとアルトゥーロ・サンタニエッロ、あなたですね。ひどい格好ですね、それは。
 アルトゥーロ 私は正直な人間だ。・・・私は自分の仕事だけをやって来た・・・
 ファビオ その「自分の仕事だけ」というのが、正に問題だったですね。目は閉じ、耳には栓をして、貝の中に閉じ籠って、たった一人で生きていた。ところがあんたは今、殻から抉(えぐ)り取られ、襟首を掴まえられて、現実に向きあわされて、驚いているのだ。あんたのような連中が窮地に追い込まれた時に言う台詞は決っている。私は自分の仕事だけをやって来た、とね。だが、あんたがここにいるというのも、あんたが自分で始めた仕事なんだ。あんたに関りのある事だ。あんたが自分の仕事を目を瞑(つぶ)ってやっているうちに、遂に目を大きく見開いて物を見なければならなくなったって事なんだ。(玄関のベルが鳴る。)ヴィチェンツェッラ! 出て!
 ヴィチェンツェッラ(登場。)はい。
 ファビオ 人が来た。(退場。)
 ヴィチェンツェッラ はい。(玄関に退場。また登場。後ろにナーイト、パルミエッロ、パスクワーレ。パスクワーレの妻の四人、登場。)どうぞお入り下さい。
 パスクワーレ 有難う。(ヴィチエンツォに気づいて。)お前もか。(ヴィチエンツォ、返事をしない。)全く、礼儀も知らんときている・・・
 パスクワーレの妻 話なんかしないの、あんな奴と・・・
 パスクワーレ そうだ。その価値なんかない。あんな奴。
 ナーイト 今夜やるなんて、全く。イギリスの船が丁度入って来て、今夜は書き入れ時なんだ。よりによって・・・しかし、ドン・アントーニオに断りは言えないからな。
 パルミエッロ おい、一晩ぐらい何だって言うんだ。
 ファビオ(登場。)さあ、皆さん、お坐り下さい。(呼ぶ。)ヴィチェンツェッラ! もう出していいぞ。(アルトゥーロを除いて、みんな席につく。)ドン・アルトゥーロ、どうぞ、ここに。(アントーニオの坐る予定になっている横の席を指さす。)私の横に。(ペッペとツィバキエッロ、アルトゥーロをその席に導く。)
 ルイージ(食事を運びながら登場。)ローストチキンですよ、みなさん。
 ヴィチェンツェッラ それに、サラダ。
 ファビオ 君達二人も坐ってくれ。ドン・アントーニオに私は言われている、君達にも御馳走したいと。(ヴィチェンツェッラとルイージ、みんなと一緒に坐る。)
 ルイージ では皆さん、私も失礼して。
 ファビオ では私はちょっと・・・(退場。暫くしてアントーニオを支えて登場。)
(アントーニオの登場で、みんな急にシーンとなる。アントーニオの目はもう明るくなく、挑むような光もない。足取りはふらついている。顔色は死人のよう。ファビオ、やっとアントーニオを席につかせる。アントーニオが坐ると、全員拍手。但し、あまり意気が上らない拍手。アルトゥーロとヴィチエンツォは皿をじっと見つめている。)
 アントーニオ みなさんにお許しを戴かなくてはなりません。実は私はちょっと身体の具合が悪いのです。世の中とはこうしたものです。敵は思わぬところに隠れているもので、やれやれこれで安心だと思っている時に、脇腹をグサリとやってくるものです。しかしまあ、それはそれでいいでしょう。皆さんにお集まり願ったのは他でもありません。ここにいるファビオ医師が、新しい生活を始めるためにアメリカに発つことになり、そのお別れのためなのです。ファビオ医師は、長い間我々の友人として、様々な場面で、時には非常に難しい問題の処理にも当たってくれ、我々みんなの力になってくれました。我々が彼に感謝するところ大なるものがあります。(拍手。)彼自身としては、まだここに留まり、その仕事を継続したいという意向なのですが、私が彼に引退を勧めたのです。私自身もそろそろ終だ。私は疲れた。御覧の通り、健康状態も昔ほどよくありません。私も引退する。この地区の問題を処理するのも、今夜限りでお仕舞です。
 ペッペ ドン・アントーニオ、そんな急な・・・こんな風に私達を放り投げるような事は出来ません・・・
 アントーニオ 永久にこの仕事を続ける訳には行かない。仕事の量が多い。手を貸してやらねばならない貧しい人達があまりに多いのだ。正しい道につかせ、面倒を見てやり・・・保護を必要とする貧乏人が。一人の人間が、これをどうやってなし遂げられるか。人の辛抱にも限界がある。この三十年あまり、私が何も出来なかったとは言わない。いや、私は自負している。私はこの手で、多くの犯罪を未然に防ぎ、減らしてきたと。これから、近い将来にアントーニオ・バッラカーノのような人物が、この世に不要になる時が来ることを、諸君と共に祈ろう。
 ナーイト ドン・アントーニオ、本当にもう引退なさるのですか?
 アントーニオ 何事にも終りというものがある。良い仲間と楽しい夕食をしてお仕舞にする、これぐらい良いことはあるまい。光栄なことに、今夜はドン・アルトゥーロ・サンタニエッロを客の一人に迎えている。(拍手。)ドン・アルトゥーロに会えて、私は大変嬉しい。それに、息子さんとの行き違いが解消されたと聞いて・・・実に喜ばしい。ドン・アルトゥーロは、このことについては随分心を傷めておられた。幸い全ては丸く収まった。ところでドン・アルトゥーロ。あなたのお申し出通り、息子さんに対する二百万リラの立て替えはすませておきました。それから、私宛のあなたのお手紙に感謝致します。他のみんなも、これは知っておいた方がいい。(ファビオに。)ファビオ、あの手紙を・・・
 ファビオ(ポケットから手紙を取出し、アントーニオに渡す。)これです。
 アントーニオ 君に読んで貰おう。私は目がよくない。それに今、疲れている。
 ファビオ(読む。)親愛なるドン・アントーニオ。私は確かに二百万リラの領収書を受取りました。この金額を息子のラフィルッチオに立て替えて下さって、有難うございます。丁度あの時、現金も小切手帳も持参していなくて失礼致しました。言うまでもない事ですが、請求のあった時、これの金額はすぐお返し致します。敬具。
 アントーニオ(アルトゥーロに。)サインを忘れておられたようだ。・・・ここにお願いしましょうか。
 アルトゥーロ(殆ど聞こえない声で。)分りました。
(ファビオ、アルトゥーロにボールペンを渡す。アルトゥーロ、サインする。)
 アントーニオ 小切手帳はありますな?
 アルトゥーロ はい。
 アントーニオ シニョーラ・アルミーダ・バッラカーノ宛にして欲しい。(アルトゥーロ、小切手を書く。一枚切り取り、アントーニオに渡す。)ファビオ、これをアルミーダに、頼む。
 ファビオ 分りました。(小切手をポケットに入れる。)
 アントーニオ さあ諸君、楽しくやってくれ。(ゆっくりとお辞儀。右手を腹に当てて、テーブルに倒れる。)
 全員 ドン・アントーニオ!
 ファビオ いや、大丈夫です、みなさん。(アントーニオに手を貸し、立たせる。)さあ、ドン・アントーニオ、寝室へ行きましょう。少し横におなりになった方が・・・私が診察を・・・(答を待たず、ゆっくりとアントーニオを扉の方へ導く。)すぐに戻って来ます。どうぞやっていて下さい。
 ヴィチエンツォ(目に涙を浮べて立上り、二人の方に進む。)ドン・アントーニオ・・・ドン・アントーニオ・・・
 アントーニオ(はっきりしない声で。)何だ。
 ヴィチエンツォ 私は脅迫されていたのです。
 アントーニオ(進みながら。)知っている。
 ヴィチエンツォ ドン・アントーニオ、このまま私を見捨てないで・・・
 ファビオ どうして貰いたいのだ。
 ヴィチエンツォ どうか私にさよならと一言・・・
 アントーニオ(光る目で見つめて。)さよなら。
 ヴィチエンツォ どうかお手を取らせて・・・
 アントーニオ(少しの間。皮肉に微笑んで、やっとのこと言う。)いや、手は駄目だ、お前には。(二人、退場。)
 パスクワーレ ドン・アントーニオのあの顔色、心配だな。
 パスクワーレの妻 大分お悪そう。
 ナーイト もう若くはないんだし。
 ルイージ 牛のようにお強いんだ、ドン・アントーニオは。
 パルミエッロ(ナーイトに。)その瓶を取ってくれ。
 ナーイト(瓶を渡しながら。)実にうまいチキンだ。
 パスクワーレ これなら一匹丸ごと食べられるな。
 ヴィチェンツェッラ(ルイージに。)パパ、サラダを取って。
(みんな、食べ、喋る。)
 ファビオ(うな垂れて登場。アントーニオが坐っていた椅子に行き、集まった人間に軽蔑の目を向ける。あたかも彼らを初めて見たかのように。長い間。食事はだんだんと静かになる。ファビオ、ぶっきら棒に。)ドン・アントーニオは死んだ。
(みんな、当惑の視線を交す。)
 パスクワーレ 可哀相に、ドン・アントーニオ!
 パスクワーレの妻 やはり心臓で?
 ファビオ そうです。大きな心臓を持っておられた。誰がノックをしても決して拒(こば)まなかった広い心・・・
 ナーイト あんな方はもう生まれることはない・・・
 ファビオ 私は三十五年間仕えた。あの人を愛した。尊敬した。私のこの気持は誰にも分らないだろう。おい、今度はお前の喋る番だ!(アルトゥーロ、何も言わない。)ドン・アルトゥーロ、さ、喋るんだ。(ヴィチエンツォの方を向いて。)お前じゃなかったのか、大声で叫んだのは。われらの父、ドン・アントーニオ! お慕いしています! そう言ったのは。(ヴィチエンツォのところに進む、襟首を掴まえる。)何も言うことはないのか!
 ヴィチエンツォ 私に何が言えましょう。私は何も知らないんです。
 ファビオ お前は何も知らないんだな? よし、ドン・アルトゥーロ、お前も何も知らないんだろう。どうやらみんな良心はクリーニング屋へ出してしまったようだな。ここにいる我々だけじゃない。みんなだ。この国の最も身分の高い者から、貧しい農民まで、みんなだ。ええい、ドン・アントーニオの遺言になど従えるか! お前達のような人間の渣(かす)を助けろだと? 本当のことを話せない二匹の豚を救うために? 何故そんなことをする必要がある。嘘と偽善と脅しと強請(ゆすり)で拵えた財産を何故守ってやるんだ。アントーニオ・バッラカーノの死は正直にそのままを公表した方がいいんだ。心臓麻痺などと偽って、全生命を賭けてお前の犯罪を庇(かば)ってやるなどと、無駄なことだ。お前には正直な公表が一番相応しいのだ。いいか、私が今からすることを聞け。私はアメリカには行かない。ここに留まる。(電話器に行き、ダイヤルする。)もしもし・・・テルツィーニョの交換台を・・・バッラカーノの別荘に繋いでくれ。こちらは三一四0二一だ。有難う。(受話器を置く。二百万リラの小切手をポケットから出す。アルトゥーロに渡す。)お前の手からバッラカーノの奥さんに渡すんだ。もし少しはまともな事をやる気になったらな。(ヴィチエンツォに。)お前もその気になったら、秘密を全部喋るんだ。(他のみんなに。)お前達も今夜見たことをありのまま話すんだ・・・その気になったらな。私は・・・私の良心が命ずるままに死亡証明書を書く。ドン・アントーニオの息子達とドン・アルトゥーロの親戚達がまづやりあう事になる。次にそれぞれの友人達、知りあい達、雇った人間達の間の抗争だ。血の雨だ。誰も彼もが一人残らずやられてしまうまで。全面戦争だ。これの方がいい。これぐらいの規模の破壊で、やっと違った世界が生まれるのだ。ドン・アントーニオが夢見ていた、「輝きは薄れているかもしれないが、今よりはずっと公平な世の中」が生まれるのだ。よし、私がその起爆剤になってやる。本物の死亡証明書に私の名前をはっきりとサインする。医学博士ファビオ・デッラ・ラジオーネとな。私を斬り殺せ。生きたまま皮を剥げ。それでも私はこの言葉をつけて証明書を作る。「これが本当の死因だ」と。(タイプライターに坐り、打ち始める。その時・・・)
                   (幕)

   平成一四年(二00二年)二月一一日 訳了

English Version of Carlo Ardito was first produced in Great Britain on the BBC World Service on 9 June 1979 with the following cast:

Antonio Barracano Paul Scofield
Dr Fabio Della Ragione Gordon Gostelow
Arturo Santaniello Malcolm Hayes
Arimida Barracano Petra Davies
Rafiluccio Paul Gregory
Rita Tammy Ustinov
Vicienzo Sean Barrett
Pasquale Leonard Fenton
Geraldina Frances Jeater
Amedeo Adrian Egan
Immacolata Margot Boyd
Catiello John Gabriel
Peppe' Michael McStay
Zibacchiello Adrian Egan
Luigi Michael McStay
Vicenziella Tammy Ustinov
Pasquale's Wife Frances Jeater

Directed by Gordon House