父と子(Man and Boy) テレンス・ラティガン作 (1963年)

 原題は「男と少年」。父と子の話なので「父と子」とした。作者が題名をこうしなかったのには何か意図があったのかも知れないが。
 舞台はニューヨーク、グリニッチ・ヴィレッジ。1930年頃の大恐慌の最中。ルーマニア生まれの事業家グレゴール・アントネスキューは、自分の財界での生き残りを賭けて、自分の子会社マンソン・ラジオ製作所をアメリカン・エレクトリックと合併させようとしている。これが最後の頼みの綱である。交渉相手はアメリカン・エレクトリックの社長へリーズ。アントネスキューは、一計を案じて、彼を自分の息子のアパートに来させる。薄汚い小さな部屋である。息子は5年前父親と喧嘩別れの末家出をし、それ以来会っていない。父親は部下に息子の動向を探らせていて、恋人キャロルのことまで知っている。
 夕刻、息子バジルは、急に現れた父親に驚くが、ラジオのニュースで、父親の窮地に陥っていることを知っており、父親に協力することに決める。ただその計略が何であるかは知らされない。やがてへリーズが現れ、尋常の手段ではへリーズを攻略出来ないことが明らかになる。容易した奥の手に取りかかる。アントネスキューは、へリーズが同性愛者であることを知っており、自分もそうであると仄めかし、加えて、この部屋が自分のその行為の場所であり、目の前にいる若い男がその相手であると。
 へリーズはうかうかとこの罠にかかり、ついにバジルとの密会を約束する。これが合併の交換条件となる。この間、二人に非常に微妙な台詞のやりとりがある。あからさまに出来ない話題であるから当然である。
 へリーズが去って行った後、バジルは自分の果たした役柄に大きな侮辱を感じ、憤然としてアパートを出る。
 虎口を逃れたかに見えたアントネスキューだったが、その夜のうちに、過去の詐欺行為があばかれ、ついに指名手配となる。バジルはその号外を持ってアパートに帰る。
 アントネスキューは自分の最後が来たことを知る。息子の、「何か僕に出来ることは?」という台詞に、優しく「ない」と答え、自殺の決意を固め、幕が下りる。
 1961年、これをイスキア(Ischia)で書き上げるとすぐ、ロンドンのボーモン、ニューヨークのレックス・ハリソンとグレン・バイアム・ショーに送った。芝居の舞台がニューヨークであり、ラティガンとしてはアメリカでの方を長い興行にしたかった。
 ボーモンはロンドンから電話をかけ、「面白い(enthusiastic enough)」と。しかし彼は用心深かった。ハリソンの意見が聞きたいと。ラティガンのイスキアへの招待も断った。
 ハリソンは、2幕で同性愛者の真似をしなければならないのを嫌った。また、全体にアントネスキューの悪が和らげられることを要求した。そのために特に、息子のバジルはもっと男らしい男に仕立て直して欲しいと。ショーも同じ意見であった。
 ラティガンは真向から反対した。バジルがなよなよしているからこそ、同性愛者の餌に使えるのだ。ハリソン、ショーの二人は、アントネスキューを真の悪人ではなく Raffles (泥棒紳士、鼠小僧のような男)に仕立てたかったのだ。ラティガンはがっかりした。そんな芝居ならかけない方がまだましだ。Ross(アラビアのロレンスを主人公にした芝居)が、神の表現を意図したのとは対極に、この芝居は悪を表現したいのだと。ハリソン、ショーの二人はこの芝居から下りた。
 1961年夏に、ヴェニスにいるピーター・グレンヴィルと会った。グレンヴィルはラティガンの意図をすぐ理解した。しかし、英国の税法上の問題で、彼は英国にいることが出来ず、この時期の演出は不可能であった。
 ラティガンはローレンス・オリヴィエに原稿を送った。「愛するラリー、この芝居はただ一人、君の手の中にある。演出、出演、それに制作を引き受けてくれないだろうか。勿論これに対して No の返事が来ても、我々の友情には何の傷もつかない。しかし Yes が欲しい。是非 Yes を。」
 愛するラリーの返事は No であった。「自分の息子を同性愛者の餌に・・・」ここがひっかかったのだ。
 ラティガンはこの芝居をかけることを殆ど諦めた。
 1962年春、ボーモンはアントネスキューの役にシャルル・ボワイエをどうかと言って来た。短いロンドンでの公演、次に本格的にニューヨークで。ボワイエは映画の仕事に取り残されたくないため、ニューヨークでの仕事を好んだのだ。
 ラティガンは、この「銀幕の恋人」が、悪の権化グレゴール・アントネスキューに相応しいとは思わなかった。しかし二人が会って話し、ラティガンが悪の部分を強調すればするほど、ボワイエは愈々乗気になった。ついにラティガンはボーモンに言った。彼にしよう。だが接触は全て君がやれ。
 しかし、演出は誰が。ピーター・ウッド、ガーソン・カーニン、エリア・カザンの名があげられた。が、いづれも駄目で、最後にマイケル・ベントールに決まった。
 検閲は殆ど問題がなかった。スエーデン人の詐欺師 Ivar Kreuger がモデルになっていることは明らかだったが、その遺族のための配慮も問題なかった。ただ一つの直しは Jesus を Geepers に書き換えよというもので、作者はこれに同意した。
 1963年8月ブライトンで試し公演が行われ、1963年9月4日クイーン劇場で初日が行われた。
 デイリー・エクスプレスのハーバート・クレッツマーはこの芝居が嫌いだった。「単なるメロドラマではないか。弁舌爽かにこれをやられると、何か深いことを言いたいのかと勘違いすることはあっても。まあ、ここロンドンでも、ニューヨークでも、観客は気をつけた方がいい。」デイリー・ヘラルドのデイヴィッド・ネイサンも同意見。「深いことを意図してはいるのだろうが、どれもこれも成功していない。」
 バーナード・レヴィンは、しかし、この芝居を絶賛し、ラティガンの最高傑作だと評した。「絶妙な作劇術、語り口の力強さ、敵の論点を引繰返して行く時の辛抱強さ、その隙のなさ。それに人間行動のばねがどこに存するかを糾明する強い好奇心、これらが一つに融けてこの芝居を作っている。現代英国劇の中で一際抜きんでている作品である。」
 ファイナンシアル・タイムズのカスバート・ワーズリーはレヴィンの意見を支持した。「ラティガンの技術の素晴らしさは、ほんの一、二時間の間に、登場人物の個性を結晶体にして観客に見せるところにある。」
 
(この「父と子」はロンドンで69回、ニューヨークでも54回であった。)
  
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年6月4日 記)