父 と 子

           テレンス ラテイガン 作
            能 美 武 功   訳

  登場人物
キャロル・ペン
バジル・アンソニー
グレゴール・アントネスキュー
スヴェン・ジョンスン
マーク・ヘリーズ
デイヴィッド・ビーストン
アントネスキュー伯爵夫人

     第 一 幕
(場 グリニッチ ヴィレッジにあるアパートの中のバジル・アンソニーの地下室の部屋。装置担当者の意志でどのようなものにしてもよいが、必要なことは、うわっつらだけの外観を持つ近隣の様子を出すこと。時は一九三四年の夕方(午後六時頃)。舞台は二部屋のみ。即ち、殆ど家具らしいものもない居間、これには幕で仕切られた小台所がついている。この居間には玄関の扉が直接に開く。それと、隣にある寝室。この寝室には別の扉がついており、シャワー室と便所に通じる。
幕が上がる前に、幕開けの音楽(Guy Lombardo) がラジオから聞こえてくる。暗いまま幕上がる。ちょっと大きな音になった後、時報のため小さくなる。)
 アナウンサー(暗闇の中から。) 六時です。BULOVA、ビュローヴァーニュース速報の時間です。毎時間、時報と共にニューヨークタイムズは皆様にその日の重要なニュースをお届けしています。
(照明が次第に当たり始める。少年(バジル・アンソニー)――糊のついたワイシャツに晩餐用ズボンをはいている――が、ベッドに仰向けの姿勢でいる。アナウンサーがニュースを話し始めると両足に反動をつけてベッドに起き上がり、(足はベッドから出す。)注意深く耳をすます。このニュースが彼にとって大切なものであることが観客にわかる。但しこのニュースはバジルにとっては初めてのものではない。)
 アナウンサー ルーマニア生まれの、半分伝説化している、ラジオ、石油王、グレゴール・アントネスキューの金融帝国崩壊の噂は今日一日、分刻みで切迫したものとなっています。事実と単なる噂との区別はだんだんつけ難くなってきていますが、次のことだけは知られています。即ち、昨夜、アントネスキュー関連会社の一つ、マンソン ラジオ製作株式会社をアメリカン・エレクトリックに合併させようという計画が失敗し、このニュースがハリケーンのようにウオール街を襲ったことに端を発しています。 今日、このニュースは株式市場を売り一色に変え、全世界の株式市場で、アントネスキュー株の放出が報道されています。ウオール街ではテッカー・テープが、時には四十分以上も遡って落とされています。)
(この時までにバジル、居間に移って熱心にニュースを聴いている。)
 アナウンサー この崩壊がもし現実のものとなれば、金融市場での最大のものとなります。ルーズベルト大統領は記者会見において、「この崩壊につき、現在のところ、正確な情報は得ていない。しかし、」大統領自身の言葉によれば、「私が大統領になってから三年目、この国の行政は十分健全なものとなっている。どんな嵐が来ても・・・それが経済であろうと、他のどんな分野であろうと・・・この国が揺らぐことはあり得ない。」
(この間ずっとシャワーの音がしていたが、ここで止る。この時までに照明はすっかりついている。)
 アナウンサー 国際金融銀行頭取のモーガン氏は一時間前の記者会見において、次のように語りました。「確かにアントネスキューはヨーロッパ各国に借入の手を広げすぎた。アメリカン・エレクトリックとの合併工作の失敗は・・・」
(女――キャロル・ペン――がバスタオルを身体に巻いてシャワー室から出て来る。)
 アナウンサー 「風がどの方向に吹いているか調べるための最後の藁蕊(わらしべ)であり、また、この一藁でラクダの背中を折ることになる最後の一藁であったかもしれない・・・」
 キャロル(居間の方に呼びかける。)比喩をごっちゃにしているわね、このアナウンサー。ねえ、あのバスタオル、何処?
(バジル答えない。注意がラジオだけに向いている。)
 アナウンサー グレゴール・アントネスキュー、別名、救世主、あるいはヨーロッパの謎の男。彼の消息は、
 キャロル(より大きな声で。)あのバスタオルは?
 バジル(緊張した声。)バスタオル?
 キャロル いつもの。
 バジル かかってるだろう?
 アナウンサー(上の台詞の間に。)ロングアイランドの自宅から今朝出かける所をカメラマンに撮影されて以後、全く何も知られていません。おそらくはウオール街のアントネスキュービルディングに留まっていると思われますが、彼の居所につき様々な憶測がなされており、そのいづれも確認されておりません。例えば・・・
(バジル、急にラジオを切る。この時までにキャロルは、シャワー室に戻っている。)
 キャロル(シャワー室から。)噂の所をどうして聞かないの。面白いじゃないの。
(バジルから答なし。グラスにウイスキーを注ぐ。)
 キャロル(シャワー室から出て来て。)噂なのにどうして切ったのって言ったのよ。そこが面白いところじゃないの。
(キャロル居間に入る。ウイスキーを飲んでいるのを見る。)
 キャロル あらあら、バジルはバジルね、やっぱり。
 バジル これは僕のウイスキーだ。飲みたい時には飲める。
 キャロル そうね、貴方の命だって貴方のものよね。だから短くしたけりゃ短くできるわ。
 バジル 大袈裟な表現だ。なかなかいい。
 キャロル(嬉しそうに真似をして。)「大袈裟な表現だ。なかなかいい。」好きだわ、このイギリス流のアクセント。
 バジル 僕はイギリス人じゃない。何度言ったら分かるんだ。
 キャロル(なだめるように。)そう、今はアメリカ人、つけ焼き刃の、二箇月のアメリカ人。でもイギリス人だったんだわ。(バジル答えない。)私は騙されないの。イギリス人のアクセントはすぐ分かる。ロナルド・コールマンの映画をよく見るもの。
 バジル(何か考えながらウイスキーを飲む。)分かったよ。じゃあ僕はイギリスだったんだ。本当は違うんだが、君がその方がいいって言うんなら。
(間。)
 キャロル ねえ、私達、なんていうか、あの、いつもの気分だわ。
 バジル 私達? 君のことは知らないけど、僕の方は今日の午後はかなり良かった。
 キャロル ええ、それは私も。それには不満はないの。今言った気分っていうのは「何故我々はみんな生きているのだ。こんなにして生きている、その目的は何なのだ。」の気分じゃない? って言ったの。
 バジル そう見えたら謝る。ちょっと落ち込み気味なんだ。悪いニュースがあって・・・
 キャロル それが何かは教えてくれないんでしょう? (バジル答えない。)ええ、教えてはくれないわよね。この六箇月、貴方自身のことで私に教えてくれた事が何かあったかしら。(やはりバジル無言。)首になったんじゃないでしょうね。
 バジル いや、その反対だ。給料、上げてくれた。
 キャロル まさか。
 バジル 週二十六ドルになったんだ。今は晩餐の部で弾いている。
 キャロル そう。さっきから、どうしてその服に着替えているのかなって思っていたの。ねえ、バジル、その話だったら話してくれていてもよかったんじゃない?
 バジル 思いつかなかったんだ。
 キャロル そう。その思いつかないっていうのが水くさいの。もしフェデラル劇場が私に二ドル上げてくれたら、すぐ貴方に言う気分になるわね。でも、よかったわ。
(この時までにバジル、もう一杯注いでいる。)
 キャロル もう十分飲んだんじゃない? 午後中ずーっとだわよ。
 バジル(もう一杯注ぎながら。)僕らはまだ結婚していない。
 キャロル(しっかりと。)そう。まだよ。でもやっぱりもう十分だと思うわ。
(バジル、注意深く、さっきの一杯よりはずっと少なく注ぐ。キャロルにそれを見せる。)
 キャロル(頷いて。)少しは影響があったようね。まだ大きな影響じゃない。でも少し・・・
(キャロル、バスローブを脱ぐ。寝室へ行く。電話鳴る。この時までにバジル、新聞を取り上げている。既に一度読んでしまっているもの。新聞の見だし「アントネスキュー危機」がデカデカと見える。)
 キャロル(寝室から。)私が出る?
 バジル(新聞に没頭していて。)うん、頼む。
 キャロル(受話器を取って。)もしもし・・・はい、います。どちら様ですか。(電話切れる。)もしもし・・・(受話器を見つめる。)貴方のこと訊いて、そのままきっちゃったわ。
(バジル、聞いていない様子。キャロル、服を着ようとしている。)
 キャロル 釦とめて下さらない?
(バジル、新聞をほうり出し、寝室へ行く。釦をとめるのを手伝う。突然キャロルを抱きしめる。)
 バジル ご免。君が好きなんだ。僕はそれを充分に出せない。出していない。
 キャロル 大丈夫。出しているわ。それを見せないっていうやり方で見せているの。(キャロル、キスする。)私も貴方が好きなの。それにちゃんとそれを見せるわ。女らしくないかもしれない。でも正直なの。
(キャロル、後ろを向く。バジル再び釦をとめる。)
 キャロル 貴方、さっき「まだ」って言ったわね。「まだ結婚していない。」って。それ、まだ私を捨ててはいないっていうことでしょう?
 バジル(呟く。)結婚するには金がないんだ、充分。週二十四ドルでどうやって家計が支えられるんだ。
 キャロル 二十六ドルよ。それに私も稼ぐわ。
 バジル 今週はね。
 キャロル 働き口はまだあるわ。この不況が終わってご覧なさい。そしたら私が貴方を養って上げる。(釦がとめられて。)有難う。
(キャロル、ベッドに坐り、ストッキングと靴を履く。)
 バジル(苦々しげに。)この不況が終わって!
 キャロル そうよ。でも今日のニュースじゃ駄目ね。貴方、経済関係のことは詳しいのよね。さっきの人が破産したら、かなり大変なことになるんでしょう?
 バジル うん。
 キャロル あの人、本物のトップの内の一人なんでしょう? そこここにいる中小企業の親玉なんかじゃない、本物のトップなんでしょう?
 バジル うん。
 キャロル 財務局に対しても影響がある・・・あの人の言葉も、お金も。そう、いつかポンド危機を救ったんじゃなくって?
 バジル それは違う。
 キャロル 何かの通貨だったわ。
 バジル 一九二六年。フランスフランだ。
(扉にノックがある。)
 バジル ジョーだな、きっと。立ち寄るって言ってたからな。
 キャロル(バジルが扉に進むのを見て。)貴方、嬉しそうね。
(バジル、扉のところで振り返る。)
 バジル(奇妙なことを言う、という気持ち。吃る。)う、嬉しいって?
 キャロル 資本主義社会をぶっ壊したいんでしょう? 貴方。
 バジル(用心深く。)ぶっ壊したい訳じゃない。ぶっ壊れるんだ。それだけのことさ。それに多分もうすぐ。勿論三十年代の終までにはね。それが壊れた後、とって代わる体制は今のよりもいいものさ。
(またノックの音。早く開けろという調子で。)
 バジル 今開ける。
 キャロル(寝室の扉から。)貴方って、まっかっかの共産主義ね。
 バジル そうさ、まっかっかの共産主義。
(キャロル、シャワー室へ行く。客席からメイキャップを直しているのが見える。バジル、扉を開ける。それから少しの間の後、部屋を後ずさりする。訪問客を見つめる。客はグレゴール・アントネスキューである。グレゴールの年ははっきりしない。公式には四十三歳。しかしもっと年がいっている。黒い帽子を少し間深に被っている。軽い外套、襟は立てている。手袋を嵌め、傘を持っている。部屋に入ると帽子をとり、外套の襟を下ろす。観客に顔が見える。滑らかで余裕のある表情である。多少の疲れが見えたにせよ、それは數億ドルの経済帝国を失わんとしている男の疲れではなく、運動選手の激しい動きの後の疲れである。)
 グレゴール Ah, mon cheri, comme je suis emu de te revoir. (ああ、ヴァシーリイ、久しぶりだ。会えて嬉しいよ。)
(グレゴール、前へ進みバジルを抱き、両頬にキスする。 バジル、抱擁に怯む。が、黙って応ずる。グレゴール、腕の長さだけ後ろに下がり、バジルの両肩に両手を置いてじっと見ながら。)
 グレゴール Mon dieu, ca fait plus de cinq ans que je ne t'ai vu. Tu as un peu maigri, non? (会わなくなってもう五年経つな。少しお前痩せたんじゃないか。)
 バジル(やっとのこと話が出来る。ひどく吃って。)Qu'est-ce q-que tu f-f-fais ici? (こ、こんなところに、な、何しに来た。)
 グレゴール Mais, je suis venu pour te revoir, mon cheri. (お前に会いに来たに決まっているじゃないか。)
 バジル Ce n'est pas v-v-vrai. Tu est a N-N-New York depuis j-j-janvier. (そ、そんなこと嘘だ。い、一月からちゃんと、こ、ここに来ているくせに。)(突然。声を大きくして。)どうしてフランス語なんかで・・・
 グレゴール 二人で話す時はいつだってフランス語だったじゃないか。
 バジル ここでは英語だ。
 グレゴール いいよ、ルーマニア語でもな、お前さえよければ。
 バジル(怒って。)英語だ! 僕に会いに来たなんて嘘っぱちだ。(声、強く、より大きくなる。)一月からニューヨークに来ているじゃないか。それなのに僕に会おうなんてこれっぽっちも・・・
 グレゴール ああ、分かっている。お前の言う台詞は。なにしろ仕事が忙し・・・
 バジル 一月からの話だけじゃない。この五年間でニューヨークには十回以上も来ているんだ。それで僕に連絡を取ろうなんて気には一度だってならなかった。
 グレゴール お前だって私に会おうとはしなかったじゃないか、ヴァシーリイ。
 バジル それは話が別だ。それに理由は分かってるじゃないか。
 グレゴール(悲しそうに。)うん、そうだ。分かっている。
 バジル だから、どうして今になってやって来たんだ。
 グレゴール 「周囲の状況の変化により。」ということにしようか。お前の知っているように、私は実業家の常套句はひどく嫌いなのだ。しかし残念なことに、時々はピタリとはまる時がある。この場合は「残念なことに」と言うべきではないな。「幸せなことに」と言うべきだ。「非常に幸せなことに」と。
(キャロル登場。見知らぬ客を見てはっと立ち止る。グレゴール、礼儀正しくキャロルの方を向く。キャロル、目を丸くする。)
 バジル ここの住所がどうして分かったんだ。
 キャロル 私、キャロル・ペンといいます。
 グレゴール(握手しながら。)始めまして、ミス・ペン。私はグレゴール・アントネスキューです。
 キャロル ええ、知ってますわ。
 グレゴール(新聞を指差して。)最近私の哀れな、疲れたような顔が新聞に晒しものになっている。ひどいもんだ。新聞の写真を見る度に顔が赤くなってしまう。特に、このどこかへ汽車で行こうとしている、これだ。なんだか怪しげで、不吉な感じでしょう? 絶望的な運命から逃げ出そうとしている男、その典型だ。
 バジル 住所がどうして分かったんだ。
 グレゴール 「どうして」という質問は奇妙だね。調べたに決まっている。
 バジル いつ頃から知っているんだ。
 グレゴール 西二十二番街から移ってきた時から 良い引越だった。グリニッジ ヴィレッジはずっと粋(いき)な住所だ。
 キャロル じゃあ、さっきの電話はあれは貴方の?
 グレゴール そう。ワシントン スクエアーの公衆電話ボックスからね。それまでずーっとベンチに坐っていて、ふと気がつくと、公衆電話だ。この電話通じるのか、と思って。私は公衆電話なるものを使ったことがなくて。それにヴァシーリイが家にいるかどうかは知る必要があった。
 キャロル(呟く。)ヴァシーリイ。
 グレゴール(続ける。)小銭と少しの勇気さえあればいいんだ、と、そこで気がついて・・・
 キャロル 貴方が・・・ワシントン スクエアーのベンチの上に・・・
 グレゴール(自慢しているような調子。)鳩に餌をやりながら。しかしね、ミス・ペン、このところ私がどんなに追いまくられたか、あなたには想像もつかないでしょうよ。あの新聞記者の連中。餓えた禿鷹のようになって・・・私は友達のアパートにさえ行けなくなった。どこもみな見張りがついている。ニューヨークにそう友達がいるわけではない。知り合いの婦人達、私の年にしては、それも少ない方だ。そこもみんな見張られている。そこで一番の避難所は、大通りか、ワシントン・スクエアー。しかし、こういう所では休まらない。疲れてしまって。それに丸三日間私は眠っていない。このゴタゴタのせいでね。電話、電話、電話。坐ってもいいかな。(バジルに言う。バジル、答えないので。)坐ってもいいね、ヴァシーリイ。(グレゴール、コートを脱ぎ、キャロルに渡す。)電話を切ったりして・・・エート、この言い方は正しかったですかな・・・話し中にガシャンと切ったりして、どうも失礼、ミス・キャロル。てっきり知らない人だと思ったものですから・・・勿論あなただと分かっていれば・・・
 バジル キャロルのことを知っていたのか?
 グレゴール それは当たり前だ。それで今こうやって実物と相対してみると、ヴァシーリイ、素晴らしい。心からお前におめでとうを言うよ。
 バジル(怒り狂って。)アントネスキュー諜報組織か。
 グレゴール 調査部はまだ機能していてね。(キャロルに。)必要悪なんです、ミス・ペン。私は世界中至る所の人間と取引があります。だから個人的な情報が時には非常に役に立つのです。しかしそれを諜報組織・・・これは新聞記者が言う言葉で、今ヴァシーリイも使ったんだが・・・この呼び名は大袈裟で、馬鹿げている。ただ個人的に重要な情報を集めてファイルしておく。そのために数人のスタッフをあてているだけのことです。
 バジル 僕と取引関係にはない筈だ。
 グレゴール それはないな。
 バジル じゃあ、何故僕のファイルがあるんだ。
 グレゴール なぜなら、お前は私の息子だからだ。
 バジル(思わず。)違う。
 グレゴール(優しく。)違わないね。それは確かに国籍をアメリカにしたし、名前も変えた・・・そう。また、この名前が私としては嬉しかったね。お前がそんなにはひどく変更しなかったのが・・・が、とにかくお前はまだ私の息子だ、ヴァシーリイ。そして父親が息子の行動を追跡して置くのは至って正当なことじゃないか。
 バジル(荒々しく。)正当な!
 グレゴール 正当な子供なんだからな・・・まさに。
 バジル 子供なんかじゃない。僕は正当なことと言ったんだ。
 グレゴール 分かっていた、それは。下手な洒落を言ったんだ。うまい洒落じゃなかった。疲れているせいだな。謝る。
 キャロル(バジルを見て。)バジル・アンソニー。ヴァシーリイ・アントネスキュー?
 グレゴール(頷く。)そうたいした変更じゃないでしょう? 五年前に父親から逃げて行った子供にしては。あなたも認めますね、ミス・ペン。
 キャロル ええ、よく似ていますわ。でも正当な子供でないのに、じゃ何故アントネスキューなんですか。
 グレゴール 養子として迎え、正式な後継ぎにした時、その名前を与えたんです。
 キャロル 後継ぎ? あの経済帝国の?
(バジル、笑う。グレゴール、バジルを見る。)
 グレゴール お前が笑うのも尤もだ、ヴァシーリイ。この數時間で随分縮んでしまったからな、帝国は。
 バジル(キャロルに。)だけど、切り抜けるんだ、ちゃんとね。今まではいつでもそうだった。
 グレゴール それは有難う、ヴァシーリイ。ワインを一杯貰いたいな。
 バジル ここにはワインはない。
 グレゴール じゃあベルモットは?
 バジル ない。バーボンとジンだけだ。
 グレゴール 非のうちどころのないアメリカ人か。お前とグリニッチヴィレッジの場所に顔をたてて私もアメリカ人になるか。バーボンに氷を少し頼む。水はいらない。
(バジル、動かない。キャロルがテーブルに行き、用意する。)
 グレゴール お手数をかけるね、ミス・ペン。
 キャロル ちょっとお尋ねしていいかしら。
 グレゴール 勿論。
 キャロル 貴方の息子さんは何も教えない性質(たち)なんですの。
 グレゴール ええ、そうでしょうな。
 キャロル 貴方から逃げて行った、というお話でしたわね。
 グレゴール その通り。
 キャロル 五年前に。
 グレゴール その通り。
 キャロル 何故ですの。
 グレゴール(肩をすくめる。バーボンを受取り。)有難う、ミス・ペン。これの成人式のパーティで・・・ルーマニアでは十八歳で成人式を行ないますが・・・その席で言葉のやり取りをしましてね。
 キャロル きっと大事なやり取りだったんでしょうね。
 グレゴール(バジルを見ながら。)そう。大事な。
 キャロル 何についてのでしょう。
 グレゴール(まだバジルを見ながら。)真実と嘘についてです。(キャロルに。)これほど大事なことが他にありますか。
 キャロル さあ、それは・・・
 バジル(静かに。)僕が貴方を殺そうとした、と何故言わないんだ。
 グレゴール(同様に静かに。)簡単な理由だよ、ヴァシーリイ。殺そうとしたんじゃないからさ。
 バジル 僕はピストルを撃って・・・
 グレゴール(冷たく遮って、威厳をもって。)そして、撃ち損じた。(キャロルに。)他に質問は? ミスペン。
 キャロル この人の母親っていう人は?
 グレゴール 彼自身も知らない。二歳の時亡くなった。ベルリンでダンサーをしていた。
 バジル ストリップショーの。
 グレゴール おいおい、それは無理だ。一九一一年だぞ、まだ。炎の踊りのね。最後だって、ちゃんと幸せだった。東プロシャで、私が与えた家で亡くなったのだ。今のところ、これ位でいいですね。(バジルに。)スヴェン・ジョンスンに、ここに六時十五分に来るように言ってある。勿論彼のことは覚えているな。
 バジル ボディガードは、どうしたんだ。
 グレゴール ウイリアムとセルゲーイか?
 バジル 機関銃を持っていつも見張ってた・・・
 グレゴール いや、今夜は連中はいない。(キャロルに。)ヴァシーリイは話を大袈裟にするのが好きでね。ウイリアムとセルゲーイは親しい友人で、私の面倒をみてくれるのが連中の仕事なのです。慥に拳銃を持ってはいます。命が狙われることがあるものですからね。実際、かなりあります。そう、二、三ヶ月前にもニューヨークでトラックに危うく轢き殺されるところでした。なかなか巧妙な計画でした、これは。新聞に出ていたが、読んだかな? それからベルリンである晩、寝室の窓から手榴弾を投げこまれた。その時には運よくそこにいなかったのです。外出中でした。食事によばれて。自分一人でかなり大きな企業を切り盛りすると、必ず振り掛かってくる事ですがね、こういう事は。(バジルに、一口飲んで。)うまいよ。
(飲み干して、グラスをキャロルに渡す。この時キャロルの顔を見ない。従順にキャロル、グラスを取り、もとに戻す。この間にグレゴール、バジルに。)
 グレゴール ウイリアムとセルゲーイはお前の知っていた頃の地位から昇進して、今ウイリアムの方は二つの会社の社長、セルゲーイは銀行の頭取だ。電話はどこにある。
 バジル 寝室。
 グレゴール いろいろ使わせて貰う事になる。国際電話を二、三回。国内をかなりの回数。
 バジル 分かった。僕は出て行く。
 グレゴール おいおい、ヴァシーリイ。そんなことはしなくても・・・
 バジル それに一晩ここに泊まりたけりゃ泊まっていい。僕はどこかでベッドを捜す。
 グレゴール そんな話はないよ、ヴァシーリイ。まるでお前を追いだそうとしているみたいじゃないか。
 バジル(明らかに苛々して。)追い出そうとしているのかどうか、そんな事は僕は知らない。ただ僕はここにはいない、それだけのことだ。
 グレゴール(呟く。)ああ、お前は随分意地悪になれるんだな、時々は。
(バジル、急に背中を見せる。キャロル、グレゴールの方に歩みよって。)
 キャロル エーと、アントネスキューさん、私今出ますわ。ですから息子さんと何かお話があるんでしたら・・・
 バジル(キャロルの方を向いて。)いや、まだ行かないでくれ。
 キャロル 私フェデラル劇場へ行かないと。
 バジル まだ時間があるじゃないか。僕を置いて行かないで、一人にしないでくれ、頼む。僕が着替えをすませて、クラブへ出かけるまで・・・
 グレゴール 出かける? グリーンハットでは十一時と一時の部だけだったんじゃないのか。
 バジル 今は晩餐の部も受け持っているんだ。ファイルにないのか。
 グレゴール いや、なかったと思う。(キャロルに。)ミス・ペン。もう一杯バーボンを。今度はもう少し少なく、それから氷を入れないで。
 キャロル はい。
(キャロル、テーブルの方を向く。テーブルでは既にバジルが自分に注いでいる。)
 グレゴール ヴァシーリイの酒を飲む習慣は、私の遺伝ではありません、ミス・ペン。私が飲むのは稀です。めったに飲まない。どうやら疲れの兆候です。
 バジル 僕がよく酒を飲むってファイルにあるのか?
 グレゴール 飲み過ぎる傾向がある。これは暫く前から分かっていた。それに決して酔わないという事も。これは悪い兆候だ。
 バジル 僕は着替えをしなければ。(固く、公式に。)失礼します。
 グレゴール どうぞ。
(バジル、グラスを手に持って、寝室へ行く。扉を閉めると、顔を下にしてベッドに倒れる。居間でキャロル、
グレゴールにウイスキーを渡す。)
 キャロル 毒を入れなかった事を証明するために、私が最初に飲みましょうか。
 グレゴール その必要はない。
(グレゴール、一息に飲む。キャロルにグラスを差し出す。キャロル受け取る。)
 キャロル もう一杯?
 グレゴール いや、今夜は特別に頭をはっきりさせておかなければ。
(キャロル、グラスをテーブルに戻す。)
 キャロル じゃあ、隣で少し横に・・・
(寝室の扉を指差す。)
 グレゴール いや、私のことはどうか構わないで。ここにじっと坐って、考えなければ。それにミス・ペン、今夜は実に考える事が多いのです。そう、実に多い。
 キャロル(寝室の扉のところで。)大変ですわね。私どうしていいか分からない。何かでお力になれればいいんですけど。
 グレゴール 有難う、ミス・ペン。ご親切に。本当に今のところ助けはいりません。お構いなく。
(グレゴール、キャロルに微笑む。その微笑みは優しく、観客もその笑顔を信じるほど。キャロル、つりこまれて微笑み返す。キャロル、寝室に入る。キャロルがいなくなるとすぐ、グレゴールの微笑は顰めた顔に変わる。集中して物を考えている顔。これから暫くは、ノートを取り出し素早くメモを書いてゆく。明らかに数字。書かれるスピードが非常に速い。寝室では、キャロルが入るとバジル、さっと起き上がって背中を観客に向け坐る。従って観客にはバジルの顔は見えない。しかしキャロルには見える。)
 キャロル(バジルの傍に跪いて。)話してくれてもよかったわ。
 バジル 話せなかった。
 キャロル 私って口が固いのよ。(バジル答えない。キャロル、心配そうにバジルの顔を見る。)そりゃ全部じゃない。ローラ・ブライが誰と寝たかだとか、そんなことは駄目よ。でもこれは大丈夫。貴方本当にあの人を殺そうとしたの?
(間。)
 バジル さっき言ってたろう? 弾丸(たま)が外れたんだ。
 キャロル その晩本当は何があったの?
 バジル 六箇月間も僕の本当の名前を教えなかったぐらいなんだ。今君にあの晩本当に起こったことを僕が話すと思う?
 キャロル(上着を着せるのを手伝って、静かに。)思わない。でも話したらもっと楽になるわ。きっと。
 バジル うん。楽になるだろうな。でも話せない。これは駄目だ。分かる?(キャロル頷く。)(訳註 上着を着た姿を見せて。)どうかな、これで。
 キャロル いいわ。ね、貴方、本当にあの人をすっぽかすつもり?
 バジル(キャロルに背を向けて)晩餐の部があるからな。
 キャロル 電話一本で変えられるじゃない。
 バジル(しっかりとキャロルを見て。)何て言って?
 キャロル そうね・・・こんなのはどうかしら。なあ、ジョー、親父が来たんだ。俺のアパートに。えらい不意の話さ。この五年間全然会ってなかったんだ。何かゴタゴタがあるらしい。で、二、三時間は付き合ってやらなきゃならない。だから頼むよ。今晩の晩餐の部、なんとかならないか。勿論明日の朝の部は俺がやるから。
(間。)
 バジル(相変らずキャロルに背を向けたまま。)畜生。(うまいこと言って。)
 キャロル(バジルの方に歩み寄って。)自分で考えて、「これがいい」と思ったことをやるのよ、バジル。だって貴方のお父さんなんですからね。私のじゃないわ。
(バジル、振り向いてキャロルの肩に顔を埋める。)
 バジル(声がくぐもっている。)君に分かったら。君に分かって貰えたら・・・
 キャロル(しっかりした声。事務的に。)分からないわね。第一、話してくれないんだから分かりっこない。だから目を赤くするのはおやめなさい。(バジル、キャロルから離れ、シャワー室へ行く。)目を拭くものある?
 バジル(シャワー室から。)うん。どこかにあったな。(見つける。観客は彼が目を洗い、タオルをあてているのが見える。)
 キャロル(相変らず事務的な口調。)アントネスキュー伯爵夫人って誰なの?
 バジル(シャワー室から。)あいつの妻だ。
 キャロル 会ったことある?
 バジル 小さい頃から会ってたさ。ロンドンのタイピスト養成所にいたのを雇ったんだ。
 キャロル じゃあどうして伯爵夫人?
 バジル あいつがその地位を買ってやったのさ。神聖ローマ・・・
 キャロル そしたらあの人「伯爵」になるの?
 バジル(目にタオルをあてながら。)自分のために、そんな肩書きは使わないんだ。「グレゴール・アントネスキュー」。この名前で他には何の付け足しもいらない、と言っている。それにこれは本当だ。(目を見せて。)良くなった?
 キャロル(目を調べて。)ええ。それなら威厳をもって逃げられるわ。こそこそと。
 バジル 逃げる? こそこそと。
 キャロル ええ。私はそう言ったわ。
 バジル(今度は感情を込めずに。)こそこそ逃げる。(バジル、ベッドに坐る。)そうか。あいつの考えそうな事だ。こそこそ逃げる。それがあいつの読みだ。馬が怖くて乗れない。水が怖くて泳げない。小さい頃からこうだ。いつだってこそこそ逃げてきた。あいつからも逃げたんだ。(手を伸ばして受話器を取る。ダイヤルし始める。)分かった。君の勝ちだよ。
 キャロル 自分で考えて「これがいい」と思った事をやるのって私は言ったのよ。
 バジル 僕は「これがいい」と思ってる。(電話に。)やあ、サム。ジョーはクラブか?・・・二階? すまないが呼んでくれないか・・・うん。待ってる。
(キャロル、バジルの傍に坐り彼の手を取る。バジル、彼女に優しくキスする。)
(隣の部屋ではスヴェン・ジョンスンが、開いた扉にノックしたところ。このノックはバジルが電話で話し始めた丁度その時に行なわれる。グレゴールの「どうぞ」の声で居間に入ってくる。スヴェンもグレゴールとほぼ同 様の服装。黒い帽子に傘、も同様だが、外套は着ていない。)
 グレゴール 五分遅れだぞ。
 スヴェン すみません、会長。 ウオール街の混雑で・・・
 グレゴール 一分一分が勝負だ、今夜は。ヘリーズは承諾したんだな、私と会う話を。
 スヴェン はい。ここで七時に。事務所からまっすぐ来ると。
 グレゴール ここの住所に驚いたか。
 スヴェン 特別驚いた様子は。アントネスキュー ビルディングでは会えませんし、こちらからアメリカン・エレクトリックに出向くのも無理と分かっていましたから。
 グレゴール(急いで。)しかしこの住所、グリニッチヴィレッジのスラムの側の、それも地下室のアパート。こんな所で会わなきゃならん理由を何一つ言っていないんだな。
 スヴェン 適当なものが思いつきませんでした。
 グレゴール 思いつくべきだった。アメリカで第二の会社の社長ともあろう人物が、何の説明もなくこんな場所で会おうと要請される。(辺りを「これは酷い」といった顔で眺める。)ワシントンスクエヤーの公園のベンチの方がよっぽどましだ。
 スヴェン(思いつきませんで)すみません、会長。
 グレゴール 何かは、あいつがここへ来るまでには、何かは考えつかなきゃいかんな。声明を出すのは止めさせたんだな。
 スヴェン はい・・・しかし時間を延ばしただけです。三時間。朝刊には間に合わせると言っています。
 グレゴール あいつは寫しをくれたか。
 スヴェン いいえ。でもタイピストの一人からせしめてきました。たった千ドルでした。
(グレゴール、よくやった、というように頷く。 スヴェンからその書類を受け取る。これを無表情に読んでいる。この間バジル、電話で話す。)
 バジル ジョーか。バジルだ。ちょっと晩餐の部に出られないんだ。大事な事が起こって・・・いや、本当に大事なんだ。一大事と言った方がいいかもしれない。僕の代わりに頼む。明日は勿論君の分をやるから・・・有難う。恩にきるよ。
(キャロル、バジルの手を「良かったわ、これで」というように叩く。バジル、立ち上がる。しかし扉のところ
で再び居間に入るのを躊う。その間、居間ではグレゴールが書類をスヴェンに返す。)
 スヴェン 不快なものですか、読んで。
 グレゴール 私は不快ではない。それに、誰にもこれを読ませはしない。ロンドンへの長距離電話は頼んでおいたな。
 スヴェン 六時四十五分にしておきました。
(バジル、やっと入って来る。二人ともバジルに注意を払わない。)
 グレゴール それからローマとパリへは?
 スヴェン 二つともここの番号で予約してあります。しかし時間は決めてありません。ヘリーズとの会見がどのくらいの長さか見当がつきませんでしたので。
 グレゴール そんなに長くはない筈だ。しかしヘリーズが思っているよりは長くなるだろうがな。(バジルを見て。)ああ、ヴァシーリイ。いいじゃないか。そのディナージャケット、優雅だよ。スヴェン・ジョンスンは覚えているね。
 スヴェン おお、ヴァシーリイ。君、変わったね。随分痩せたんじゃないか。
 グレゴール Ah, tu vois? C'est ce que je lui disais. Il est trop maigre --et --si pale -- (ああ、 君もそう思うだろう? 私もそのことを言っていたんだ。痩せちゃって、それに顔色が悪いし・・・)
 バジル(スヴェンの差しだした手を握って。)やあ、スヴェン。
 スヴェン で、多分これは、ミス キャロル・ペン。
(バジル、怒った顔でスヴェンを睨む。)
 キャロル そうですわ。(スヴェンと握手する。)
 バジル(ぶっきら棒に。)お父さん、晩餐の部は代わって貰った。
 グレゴール(ぼんやりと。)そうかい、ヴァシーリイ。どうして。
 バジル 一緒にいた方がいいと思って。
 グレゴール(急いで、バジルの意にそうように。)ああ、ヴァシーリイ。それは親切だ。優しいよ、これは。代わって貰ったって、私の為に? 嬉しいよ、本当に。
(バジル、唐突にテーブルに進み、ウイスキーを注ぐ。キャロル、非難する目でそれを見つめる。)
 グレゴール(スヴェンに。抑揚のない声で。)ヘリーズへの説明は思いついた、どうやら。なかなかうまいやつを。
 スヴェン 本当の話を?
 グレゴール 本当の話でもかなり訴える力はあるんだが、思い付いたやつは違う。これはもっと効き目がある。一石で二鳥を落とす・・・
 バジル(振り向いて。)お父さん、何か食べる物をとって来ようか。
 グレゴール いや、いらない、有難う。疲れすぎているんだ。食べるということが回復ではなくさらに疲れを呼ぶ事になる。
 バジル 隣で少し横になったら?
 グレゴール うん。暫くしたらそうする。横になるだけじゃなくて、一、二時間眠るかもしれない。しかし今はもう少しこの状態でいなければ。
 バジル 随分疲れているように見えるけど。
 グレゴール 見えるんじゃない。疲れているんだ。死ぬかどうか、ぎりぎりのところまで疲れている。気にしてくれて有難う、ヴァシーリイ。(スヴェンに。強い、抑揚のない言葉で。)忘れていた、スヴェン。妻とは連絡がとれたのか。
 スヴェン はい。プラザホテルにまだいらっしゃいました。一時間以上もそこで待っておられたのです。
 グレゴール 待つ? 何を。
 スヴェン 会長が金曜日にロングアイランドから電話をされて、プラザホテルで夕食をお約束なさいました。
 グレゴール ほう、私が? 奇妙な話だ。しかしとにかく今朝の新聞で、少なくとも私が行かれない事ぐらいあれにはすぐ分かったはずだ。あれのアパートは報道関係者がつめっきりでいたんだろう?
(スヴェン頷く。)
 グレゴール あれは何か言ったのか。
 スヴェン 取材はお断りと。しかしホテルまで報道陣はついて来ました。私と連絡がついた時にもまだ連中はいて、私との話中にその内の二人は電話ボックスまで来て、盗み聞きしようとしました。
 グレゴール あいつの事だ。ここの住所を大きな、はっきりした声で繰り返したんだろうな。
 スヴェン いいえ。それは止めて貰いました。書き留めて下さいと。
 グレゴール 小さなメモ用紙にだ、きっと。うっかりそれをロビーに落っことす・・・
 スヴェン(微笑んで。)落としていない事を祈りましょう。
 グレゴール(バジルのいる事を思いだして。)エート、お前の義理の母親――こう呼んでもいいな――に今夜ここへ来るよう言ったんだ。勝手だったが。特別な理由があってどうしても来て貰わねばならない。お前   が納得してくれると有り難いんだが。
 バジル 勿論構わない。
 グレゴール あいつとは話が合う筈だ。素敵な奴だよ。(スヴェンに。)つけられないでここまで来る方法もあいつに教えたんだな。
 スヴェン それはセルゲーイがやりました。下のアパートへの階段の事は、報道陣の連中、知らない筈だとよんでいます。そこを降りて地下鉄に乗れば・・・
 グレゴール 地下鉄? フローレンスが地下鉄に乗っている図くらい目立つものは考えつかないな。
(キャロル、自分もここにいる事を思いだして貰いたいかのように、ラジオをつける。)
 スヴェン 目立たない服にするようにとセルゲーイから充分に・・・
 グレゴール 普通のレインコートを着て、その上からダイヤとルビーがついているベルトを締める。(こういう調子だろうな。)危険だ。しかし今夜はどうしてもここへ来て貰わねばならん。
(ラジオがつき、音楽。キャロル、別な局に回す。それも音楽。)
 グレゴール(命令するように指をパチンとならして。)ラジオを消して。(頭をまわして、つけたのがキャロルであり、今それを消しているところだと知る。)失礼、ミス・ペン。音楽はいいものだが、集中力を乱して。
 キャロル ニュースをお聞きになりたい、そう思ったんですの。
 グレゴール 私がニュースを? ニュースを知っているのは私だ。それが歪められているのを聞くのはかなわない。アナウンサーが歪めるだけじゃない。そのラジオが音まで歪めている。(バジルに。)それはうちの製品だな。アメリカン・エレクトリックのものじゃない。お前の忠誠心には感謝する。しかし新製品にすべきだよ、ヴァシーリイ。
バジル 中古品を買ったんだ。マンソンがアントネスキューの傘下にあるとは気がつかなかった。
グレゴール 昔からマンソンはそうだったよ、勿論。それに万年筆もうちのを使ってくれているね。これは知らないとは言わせない。「ケンウエイ・ペン」はお前が・・・うちにいた頃からの会社だ。あのラジオはいくらした。
 バジル 二十三ドル。
 グレゴール 高過ぎだ。新製品が二十ドルで買える。中古でそれじゃあ酷くぼられている。
(寝室に電話が鳴る。)
 スヴェン(時計を見て。)ロンドンです、多分。(すぐ寝室に行こうとするが、礼儀を思い出し、バジルに。)いいかな、ヴァシーリイ?
 バジル 勿論。どうぞ。
(スヴェン、寝室に入る。受話器を取りグレイマーシーの番号を繰り返す。それから、「長距離を。」「はい・・・はい・・・はい、待ちます。」と言うのが観客に聞こえる。)
 キャロル(その間、居間で。)アントネスキューさん。
 グレゴール はい、何でしょう、ミス・ペン。
 キャロル 今仰いましたね、ニュースが歪められるのを聞くのは嫌だって。という事は、事態は見かけほど悪くはないという事ですの?
 グレゴール ねえ、ミス・ペン。世界中の株式市場で私の株が気違いのように売られているのです。これを聞くのが嬉しいとはとても私からは言えません。しかし、あなたにちょっとでも投資するお金があるなら、明日の朝早くアントネスキュー傘下の株を買うことをお薦めします。かなりな利益が得られます。傘下の株なら何でもいいですが、マンソンラジオが一番いいでしょう。でも朝早くでないと駄目です。少し遅くなると買うのは楽ではなくなります。(気楽な調子で。)ヴァシーリイ、お前もそうした方がいい。待てよ。それともこれはお前の社会正義の感覚が許さないことかな。
 バジル それもファイルにあるのか。僕の社会正義の感覚も。
 グレゴール(面白がって。)なあ、ヴァシーリイ。昔からだよ、お前の社会正義は。今に始まった事じゃない。私の感じではそれはイエス・キリスト、あるいは神が要求するもの以上だ。どちらかと言うとカール・マルクスが要求するものだ。
 バジル 僕はマルキストじゃない。
 グレゴール じゃ何なんだ。
 バジル 社会主義者だ。
 グレゴール その違いは私には分からない。スターリンとは商売の話ができるが、ラムゼイ・マクドナルドとは出来ない。その差が違いだというのなら分かるが。とにかくラムゼイが社会主義者だった時には、あいつとは仕事はやれなかった。実際、一九三一年にもしラムゼイが私の援助を受け入れていさえすれば、あんな政治的自殺行為をしなくてもすんだ筈なのだ。しかしスターリン・・・彼は今じゃ私の一番信頼出来る男だ。頭のはっきりした実業家であることは間違いない。
 バジル 強制労働(収容所)の話は?
 グレゴール(肩をすくめて。)資本主義側の宣伝だ、あれは。(キャロルに。)ですから、ミス・ペン、株を買うんです・・・頼みますよ。
 キャロル 投資するお金がありませんわ。
 グレゴール それは残念だ。
 キャロル でもそのお金があったとしても、どうかしら・・・私。すみません、アントネスキューさん、でも・・・現在この時点で・・・随分危なさそうに見えますわ、危機に瀕しているように・・・
 グレゴール そうです。危機です。現在この時点では。これは良い言い方だ。米語独特の言い回しですか?
(キャロル頷く。)
 グレゴール これは覚えておかなきゃ。現在この時点で私は危機に瀕している。そう。信用と流動性の危機です。世界経済が今日経験しているものと全く同一のものです。しかし危機は脱する。こう言いきれるのは有り難いことだが・・・今のアメリカの大統領の力で危機は脱する。私の危機は私の力で脱する。明日の朝までにはそうなっているでしょう。
 キャロル 流動性って何ですの。
(寝室ではスヴェンが電話で話している。)
 スヴェン ロード・ソーントン? こちらはジョンソンです。彼が一言話したいと・・・ええ、「彼」本人がです・・・ええ、そちらも心待ちにしておられたことと思います。少々お待ち下さい。
(スヴェン、立ち上がって居間の扉の方へ行く。キャロルが「流動性って何ですの」の質問の時にはスヴェン、居間に入っている。)
 グレゴール 流動性?
 スヴェン ロンドンが繋がりました。
 グレゴール(スヴェンを無視して。)流動性の簡単な定義は「即時の現金化可能性」です。だから流動性と信用は実際は同じものです。その素敵なハンドバッグにはお金が入っているんでしょう?
 キャロル ええ。一ドル五十セント。
 グレゴール (微笑んで。)「いくら」とは訊きませんでしたよ。でもご親切に教えて下さったので言いますが、今日、今夜、この時間に関する限り、あなたは私にとって羨ましいほど流動性あり、です。
 キャロル 手持ちのお金で人に羨ましがられたなんて、初めてですわ。
 グレゴール しかしあなたが今すぐバルティモアに行く用事が、突然出来たと仮定しましょう。
 キャロル そんなことちょっと考えられませんけど。
 グレゴール 何かあなたの仕事に関することで・・・
 キャロル オーディションとか、そういったことですか。
 グレゴール そう。ある役のオーディション、素晴らしい役。
 スヴェン(声を少し上げて。)会長、ロンドンからソーントンが・・・今出ているんですが。
 グレゴール(再び無視して。)という事です。で、今すぐバルティモアに行かなければならない。この役はみいりもいい。そう、週五十・・・いや、百ドル取れる。
 キャロル(木に触りながら――「本当になれ」のおまじない。)五十にしましょう。
 グレゴール そのバッグには今一ドル五十。銀行はしまっている。小切手を現金に換える場所はここにはない。質屋も駄目。もし開いていればその素敵なブローチでも腕時計でも、かなりな金を生んでくれる筈ですがね。勿論家に帰れば現金はある。しかし取りに行く時間はない。列車は十分後には出てしまう。さあ、どうします。
 キャロル 借りるわ、バジルに・・・ヴァシーリイに。
 グレゴール しかし運悪く、持っていなかったら?  例えばあのディナージャケットで仕立屋から煩く言われて、現金は丁度それに全部使い果たしていた。どうなります?
 キャロル その役は駄目ね、きっと。
 グレゴール あなたという良い役者がとれなくて世界はそれだけ惨めです。勿論あなたも惨め。ヴァシーリイも惨めです。だってあなたはその幸運を祝ってあの子にきっと素晴らしいプレゼントをしたでしょうからね。流動性はですから、我々の経済に流れている血液なのです。一九二九年以来、我々の経済の血管は硬くなり、血液の巡り方が充分に自由でないのです。この資本主義組織全体が動脈硬化の危機にあり、死ぬのを待つばかりだと言うものもいます。いや、そう、大抵の人が言っている。だが私は違います、ミス・ペン。私は楽観論者です――私一人かも知れない、この立場に立つ者は。この廣い世界の中で唯一人。そして、私の意見は「危機は去っている。」です。
 キャロル あなたご自身の危機は?
 グレゴール 丁度今の世界の危機と同じ状況です。それからさっきお話した架空の旅行、バルティモアへの。あれと同じ危機です。どう同じか(説明しましょう。)世界中そうですが、私もこの恐慌で打撃を受けました。私の敵達――連中は熊と呼ばれており、他人の不幸を決して見逃すことはない――この熊のやつらが私の躓きに気づき、命を奪おうと虎視耽々です。二日前、私の傘下にあるマンソンラジオとアメリカンエレクトリックの合併が失敗した。少なくともそのように見えた。この合併が成功していたら、私に七千五百万ドルの現金が入ってくることになっていました。これはバルティモアへの旅費に相当します。それからバルティモアでのオーディションはこの場合、緊急借入が可能となっていた事、また、イタリア企業受け入れ許可との引替にムッソリーニに対して利率の高い貸出が出来ることになっていた事。この二つの事に相当します。さて、私の敵の熊達は、私がバルティモア行きの列車にのるための金がなく、グランド・セントラル駅で足止めを食らっていると見てとりました。そしてそれを攻撃のタネにしたのです。このように話は単純です。
 キャロル 分かりました。私の場合、バルティモアには行けません。貴方の場合は?
 グレゴール 運賃を捻りだす予定です。明日の朝、株式市場が開く前に。この開く時間が、私のバルティモア行きの列車が出発する時刻です。
 キャロル で、貴方はそれに乗っている。
 グレゴール(確信をもって、微笑んで。)そう。私はそれに乗っている。
(グレゴール、寝室に進む。スヴェン、彼を待っている。)
 グレゴール 流動性が本当は何であるか、それはヴァシーリイに聞いたらいい。もう少し専門的な言葉で説明してくれる筈だ。あいつはちゃんとした経済学の頭を持っているから。
(グレゴール、寝室に入る。スヴェンに頷いてみせ、扉を閉める。)
 グレゴール ヘリーズが来る前にあの娘(こ)は出ていてくれなきゃならん。
 スヴェン(時計を見て。)いづれにせよ、もう少しで、出て行く筈です。地下鉄で劇場までは少なくとも三十分。八時が幕あけで、アンダースタディは七時半までにはいなければなりません。自分で確かめておきました、これは。
(グレゴール、ベッドに横たわる。受話器をとるまで、少しの間あり。この間、寝室でバジル、グラスを飲み干し、また壜に手をのばす。)
 キャロル(彼の手からグラスを取り上げ。)もうおしまい。コーヒーを出すわ。貴方に必要なのはコーヒー。それに私にもコーヒーが必要だわ。
(キャロル、台所に消える。)
 グレゴール(やっと受話器を取り上げる。)やあ、ソーントン・・・ああ、声が聞けて嬉しいよ。すまん、まだちょっと手が離せなくて。もうあと一分待ってくれないか。これは繋いでおいて。それからマンソン・ラジオの資産表を用意しておいてくれ、頼む。
(グレゴール、受話器を床の上に置き、ベッドの上に長々と横になる。すっかり寛いだ姿。)
 グレゴール 実際は二分にしよう。もし私が眠っていたら起こしてくれ。(目をつぶる。)
 スヴェン ヴァシーリイはどうしましょう。ヘリーズが来る前にどこかへ出しますか。
 グレゴール(呟く。)いや。
 スヴェン 邪魔になりませんか。
 グレゴール(眠そうに。)いや。
(グレゴール、すっかり静かになる。眠ったのかどうかは不明。スヴェン坐る。グレゴールを見守る。)
(居間ではキャロルが薬罐に水をいれ、ガスに火をつけ、部屋に戻って来る。バジル、坐ったまま宙を見つめている。キャロル、その椅子の腕に坐り、バジルの頭を撫でる。)
 キャロル(愛情を込めて。)貴方って強いのね。
 バジル(苦々しく。)強い? (馬鹿な。)
 キャロル あのお父さんに反抗して逃げるなんて。それより強いことなんてあるかしら。あの人、すごい魅力。(しかし当然だ、という顔。)当たり前ね、考えてみれば。あれだけの魅力がなきゃ、今の地位には登れっこないわ。でも見た? あの魅力。あの人、(のべつ魅力を出しているんじゃないの。)つけたり消したりするのよ。役者みたい。それにその仕掛けが分からない。きっと天才ね。
 バジル うん、天才だ。多分。
 キャロル 貴方にはあの人違うわ、やり方が。貴方を態とちやほやしたり、フランス語で話してみたり、私そんなことでは騙されない。ちゃんと見えてるの。
 バジル 何が見えてるんだい。
 キャロル 言葉にはならないわ。何か偽物でない本物。
 バジル(熱心に。)本当にそう思うか?
 キャロル 本物の何とは言ってないわ。ただ本物と言ったの。
 バジル 本物の・・・軽蔑?
 キャロル 違うでしょうね。あの人が思っているらしいと貴方が感じているもの。それだわ。貴方自身、自分に対して持っている感情、結局それのことなんでしょうけど。(優しく。)私、貴方のことかなりよく分かっているのよ、ヴァシーリイ・アントネスキュー。
 バジル バジル・アンソニーだ。
キャロル そうね。バジル・アンソニー。まだ私のバジル。思っていたより強い人だったわ。でもまだ私のバジル。
 バジル じゃあ、憎しみみたいなもんだ。
 キャロル そうね。じゃなかったら、愛、それとも両方。それともどっちでもない。全然違うものかも知れないわ。私が知らなくて貴方にはちゃんと分かっている。あれ、薬罐の音? (台所を見に行く。)違った。(戻って来る。)あの人、貴方の事お見通し。それは確かだわ。
 バジル 見通す。視線が通り抜けて僕を見ていないんだ。
 キャロル 違う。あの人、ちゃんと貴方が見えている。でも貴方を見通すの。
 バジル 見通して何を見るんだ。
 キャロル(静かに。)あの人を尊敬しているのね、貴方。
(間。バジル、キャロルを見つめる。顔を顰める。)
 バジル(同様に静かに。)僕は親父に五年間会っていない。その間、その気にさえなればいつだって会えたんだ。それに歓待されたに違いないんだ。両手を広げて、(抱くようにして、)ちやほやして、フランス語を喋って、シャンペンのパーティを開いて、小遣いをたっぷりくれて、それに多分正式な跡継ぎとして認めてもくれたろう。しかし、僕は行かなかった。そうだろう? 僕はこのグリニッチヴィレッジに住んで、つまらないピアノ弾きをやって、週二十とか二十六とか稼いでいたんだ。日曜日になれば時々は、赤旗を担いで連中のスローガンを怒鳴る。こいつはきちんと翻訳すれば「くたばれ、グレゴール・アントネスキュー」となるさ。さあ、偏見のない、冷静な、合理的にものを考える判定者はこれを見てどう言う。尊敬なんて言いっこないさ。
 キャロル(肩をすくめて。)その偏見のない、冷静な、合理的にものを考える判定者は、貴方とあの人が一緒の部屋にいる時の、貴方のあの人を見る目つきを知らないだけよ。あ、あの音は薬罐だわ。
(キャロル、幕の後ろの台所に行く。寝室でスヴェン、この時までに静かにグレゴールに触れ、起こしている。
グレゴール、眠っていたかも知れないが、スヴェンに頷いてみせる時には完全に目が醒めしっかりとしている。床に置いてあった受話器を取り上げる。)
 グレゴール(受話器に。)やあ、ソーントン。待たせてすまなかった。君もロンドンの君の仲間も、今日は随分心配な一日だったろうね・・・私? ソーントン、私はこういった動きには慣れているんだ。一九三一年の時もこうだった。二九年はもっと酷かったよ・・・そんな事はない。大丈夫だ。心配する事は何一つありはしない・・・そう、そこは正しい・・・うん、正しいよ、ソーントン。君の金融に対するいつもの鋭い感覚だ。正しいよ・・・そう、親愛なる子爵ソーントン殿。(笑う。)実際君の言う通りだ。最近ハンガリーとユーゴスラヴィアへ長期貸出をした。あれがしようもない熊の連中の攻撃材料になったんだ。J.P. モーガンも丁度同じ事を言っていたよ・・・そう。偉大なる精神の持ち主達はみんな同じ様に考えてくれている・・・(スヴェンに。)ソーントンめ、こんな奴はくびだ・・・そう。二十三パーセントのダウンだ・・・そう。確かに深刻ではある、ソーントン。しかし、ソーントン、君も君の仲間も誰一人として知らない事が三つあるんだ。一つはベルリーナ・バンクに私の口座がある。多額の預け入れだ・・・ベルリーナ・バンク・・・ソーントン、古くからある、ドイツで一番信用のおける銀行だよ。驚いたな。ロンドン銀行の副頭取の君ともあろう人物が、この銀行の名前を知らなかったなんて・・・そう。私はベルリーナ バンクの重役をやっている。前の皇太子も重役だったし、ヘルマン ゴアリングもそうだ。預金金額は、二億ドル以上・・・いや、すまない。それは出来ない。預金残高証明を連中に出させることは私に出来ないんだ。あのどぶねずみのヒットラーとの約束もあって・・・そう・・・そう。その通り。いいところ、ついているよ、ソーントン。一九三三年に私がドイツに出した長期ローンなんだ。だから勿論秘密だ。それが一部返却される。これが第一点。第二点は、アントネスキュー基金という組織がある。君も知っての通り、妻がその理事長をやっているんだが、それが私にかなりの貸付を許してくれることになっている・・・損得づくで貸す訳じゃない。慈善のようなものだ、勿論。しかし完全に合法的な貸付だ。なあ、ソーントン、慈善は家庭から始まるというじゃないか。だから即時に約五億ドルの資金が入るという訳だ・・・何故隠していたかって? 簡単な理由だよ、ソーントン。敵に知られたくなかったんだ。私にそういう「masse de maneuvre(マッス・ド・マヌーヴル)」があることをね。最後にぎりぎりの時には使える切り札があることを・・・そうだ、ソーントン。これは銀行用語じゃない。軍隊用語だ・・・(スヴェンに。)こいつはアホだ。くびだよ。(受話器に。)それから最後の第三点だ。三つの中では一番重要なやつだ。マンソン・ラジオとアメリカン・エレクトリックの合併は失敗していない・・・繰り返し言う。失敗していない。結局は実現するんだ。十五分後にヘリーズが私に会いに来る・・・そう。実現する。これが君に与える私の言葉だ、ソーントン・・・(冷たく。)これでもまだ私の言葉よりどこかのくだらん株式市場の噂を信じるなら、今すぐアントネスキュー株を全部売っぱらってしまうのが一番だ。君も君のロンドンの仲間も。しかしそれはもう少しの間差し控えて、明日の朝一番に今私の言ったニュースがロンドン株式市場に着くのを待った方がいい。 その方がずっと儲かる筈だ ・・・(相変らず冷たく。)私の言葉を疑わないでいてくれるのは嬉しい・・・(もう少し暖かく。)しかしまあ先行きは暗く見えたろう。 無理もないよ。三千マイルも離れたところからではね。しかし忘れないでくれ、ソーントン、「一番暗い時を過ぎれば、後は明るくなるだけだ。」と言うだろう・・・(スヴェンに。)馬鹿な事を言ってすまない、スヴェン、こうでも言わなきゃあいつには分からないんだ・・・(受話器に。)それを聞いて安心した。それは良かった・・・そうだ、合併さえ成功すれば、あとはすっかり変わるんだが。しかし、この君の「変わるんだが。」は気に入らないね、ソーントン。あとはすっかり変わると断定で話して貰いたいな・・・そう。それならいい。(素早く。)さて、親愛なる子爵殿、マンソンラジオの一九三四年七月一日の資産表を読んでくれないか・・・ゆっくり読む必要はない。書き留めるんじゃないんだ・・・(初めて怒りを見せて。)書き留めるんじゃないんだ、ソーントン。私という人物がもう分かってくれていてもいい筈だぞ。さあ、やってくれ。
(受話器を持っていない方の手を両眼に当てる。遥か遠くから微かに聞こえてくる資産表の一行一行に耳をすませる。非常に稀だが、次のような聞き返しをする。「社内留保をもう一度頼む。」とか「優先株中間配当をもう一度頼む。数字が少し大き過ぎやしないか・・・そうか、そうだったな。忘れていた。」とかである。しかし、だいたいは手を目に当てて非常に静かに坐って、読み上げられる数字に集中している。)
(居間では、この時までにキャロルが台所から盆を持って入って来ている。盆には二つのカップ、クリーム入れ、砂糖壷、コーヒーポットがのっている。それをテーブルに置き、バジルにコーヒーを注ぎ終わっている。見たところ、キャロルはバジルの好みは既によく知っていて、クリームと砂糖を自分で入れてやっている。カップをバジルに渡す。)
 バジル 君の少女趣味の勘も、今度は当たらなかったよ。僕は今あいつを尊敬していない。
 キャロル(自分にコーヒーを注ぎながら。)その「今」っていうのがくせものね。
 バジル(恐ろしい勢いで。)どうしてだ。人間が変わって駄目になる時だってあるだろう。
 キャロル あの人は変わらないわ。どういう風に変わったっていうの。
 バジル そりゃ・・・経済体制が変えたのさ。
 キャロル(落ち着いてコーヒーをすすりながら。)ああ、経済体制ね。
 バジル(再び恐ろしい勢いで。)そうさ。体制が人間を変えるんだ。人間の性格を破壊するんだ。これは単なる決まり文句じゃない。本当なんだ。(いらいらして行ったり来たりする。キャロル、心配そうにそれをじっと見る。)あいつの話を君が知ったらどう言うか、あいつの子供の頃の話を。ブカレストで、あいつは餓えていたんだ・・・通り一遍の空腹じゃない。本物の餓えだ。ここらにだって餓えはあるって言うだろう。NRA(訳注 不明)スープ・キッチン。(訳註 貧民者の為の慈善食堂。)旦那、どうぞお恵みを。そりゃ、あるさ。だけどこんなもんじゃない。餓えのため下腹が膨れている。ブカレストの道端に坐りこんで、パンの皮を乞う生活さ。父親はのんだくれ。あいつを殴る。母親はあいつを嫌っていた。なにしろ五番目の子供だ。四人でも食わせるのは大変なのに、五人目だぞ。物乞いをさせられたのはあいつだった。三、四歳の頃。殴られた跡の酷い青じみ、頬がこけて、目が飛び出して見えた。金持ち連中は時々あいつに小銭を握らせた。しかし顔は正視出来ず、何時も目を逸らせてね。
 キャロル(優しい心の持ち主にしては奇妙に無感動に。)この話、どうやって知ったの。
 バジル 自叙伝に買いてある。図書館に行けば何種類もあるよ。
 キャロル(落ち着いてコーヒーを飲み終わる。バジルも自分のコーヒーに戻る。)目を逸らしはしなかったわね、きっと。
 バジル どういう意味だ、それは。
 キャロル 金持ちの人達が何故その子に金をやったか。それは、その子が一番奇麗だったからだわ。それに私、あの人にもう会ったから分かるけど、きっとその青じみは、あの人が描いたものだわ。それも一番目立つ場所に。
 バジル(本当に怒って。)この話を茶化すな、キャロル。僕は本気だ。
 キャロル(すぐバジルの傍に行って。)ご免なさい、バジル。(キャロル、バジルを抱く。)ぶってもいい。何をしても。でも許して頂戴。
 バジル いいんだ。ただ・・・ただ僕には大切な事なんだ。時々思い出して・・・
 キャロル(母親のように。)そうね。勿論あそこにいるあの人を問題にしているのは貴方。私じゃないわ。私が問題にしているのは貴方なの。そして貴方の事を傷つけようなんて、そんなこと思いもよらないわ。そうでなくても、今のままだって充分傷ついているみたいだもの。(自分の時計を見て。)そろそろ私行かなくちゃ。今夜何かしてあげられる事ないかしら、バジル、私・・・
 バジル できれば帰って来て欲しいんだ。
 キャロル ええ、なるべくそうするわ。
(二人抱き合う。少しの沈黙。)
 グレゴール(寝室で。)有難う、ソーントン・・・うん、これで知りたい事は全部だ。おやすみ。ぐっすり寝て欲しいな。それから君の仲間の諸君にも、ぐっすりおやすみと伝えて欲しい。(電話を切る。スヴェンに。)なんて馬鹿な野郎だ。
 キャロル(バジルに、口にキスして。)愛してる。分かるでしょう? 今までよりもっと。そう思うわ。
 バジル(呟く。)僕もだ。覚えていてくれ。それは忘れないで。何が起こっても。
(グレゴール登場。後ろにスヴェン。自分の息子がキャロルとキスをしている光景を、見たところ、父親らしく鷹揚に眺める。バジルがこれに気づくまで少し間あり。キャロルから離れる。悪いことをしている現場を見られたかのような態度。)
 グレゴール おやおや、これはすまなかった。許してくれ。(スヴェンに。)あの小さいやつをこっちに。(ソファの一方の隅を指差す。)そこにヘリーズが坐る。
(グレゴールの指示に従って、スヴェン、肘掛椅子をソファの向かいに置く。)
 グレゴール(バジルに。)Si je comprends bien, tu vas epouser cette charmante jeune fille? (私の誤解でなければ、お前、この可愛い娘と結婚するんだね。)
 キャロル(バジルに。)エプゼ?
 バジル 結婚。
 キャロル(大胆に、グレゴールに。) その話はもう出ています。でも貴方の息子さんからよりも、私の方から。さあ、もう行かなければ。(自分の荷物を拾いあげる。)
 グレゴール それは残念だ。(スヴェンに。)それは近い。近過ぎだ。
(スヴェン、位置を直す。)
 グレゴール あと三インチ離して。(バジルに。)Mais, mon petit, pourquoi ne pas vous marier? Je la trouve ravissante. Vous vous connaissez depuis longtemps? (お前どうして結婚しないんだ。可愛らしい娘さんじゃないか。それに付き合ってもう長いんだろう?)
 バジル(吃りがひどく聞きづらい程になる。)Nous n-nous c-c-connaissons d-depuis s-s- (つ、つきあって、ろ、ろ・・・)
(グレゴール、温和な微笑みを浮かべた儘、辛抱づよく言葉が終わるのを待つ。)
 バジル six mois(六ヶ月。)(ヒステリーぎみに。)つきあって六ヶ月だ。英語を話すんだって言ったろう。
 グレゴール いや、悪かった。忘れていた。六ヶ月だって? それだけ親密に付き合っていればお互い必要な事は知りつくしているんじゃないのか。
 バジル うん。
 グレゴール じゃ何が障害になっているんだ。
 キャロル この人には答えられないですわ。きっと。
 グレゴール 貴方は答えられるという訳ですね。
 キャロル 今日までは分かりませんでした。でも今はちょっと思い当たることがありますわ。(バジルに。)じゃあ、行ってくるわ、バジル。
(キャロル、両手を広げる。態と父親の前でキスしてくれと命令するように。バジル、従う。グレゴール、急にスヴェンの方に向かって。)
 グレゴール(スヴェンに。)さてと・・・あの電気は消した方がいいな。  
(スヴェン、消す。)
 グレゴール いや、これは駄目だ。じゃあ、その電気をもう少し離して・・・
(スヴェン、従う。)
 グレゴール うん、こうすると私が陰にはいる。
 バジル(キャロルに。)地下鉄まで送っていくよ。
 グレゴール(バジルを見ずに。しかし鋭く。)それは駄目だ。
 バジル 駄目?
 グレゴール お前にはここにいて貰いたい。必要なんだ。
 バジル 必要? 何故?
 グレゴール もてなしてもらう。これはお前のアパートだ。だからアメリカン・エレクトリック株式会社の社長ヘリーズは、厳密に言えば、お前の客なんだ。(スヴェンに。)うん。分かったよ、スヴェン。光が強過ぎるんだ。エート、大陸のこっち側では何て言ったかな。「電球」? それとも、「タマ」だったかな。
 スヴェン タマです。
 グレゴール そのスタンドのタマを、これに替えてくれ。
(スヴェン従う。グレゴールはキャロルとバジルに注意を払っていない。)
 バジル(キャロルにキスして。)じゃあ、おやすみ、キャロル。
 キャロル おやすみ、じゃないのよ。また帰って来るわ。それから後、どこかへ行ってもいいし。(グレゴールに。)失礼します、アントネスキューさん。
 グレゴール 失礼、ミス あー・・・(スヴェンに。)それでよくなった、スヴェン。うまいぞ、なかなか。
(キャロル退場。バジル、彼女の為に扉を開けてやる。)
 グレゴール(時計を見ながら。)あと五分か。(バジル、部屋に入る。グレゴール、彼を品定めするように見て、少し顔を顰める。)ああ、ヴァシーリイ。ちょっと頼んでいいかな。その酷いディナージャケットは脱いで貰いたいんだが。
 バジル(意識して。) 酷い格好に見えるんだな。九ドルの安物なんだ。だけどこれは仕事着だ。重宝している。(寝室の扉に行く。)じゃあ、何を着ればいい。
 グレゴール ものがいいスーツはないのか。
 バジル お父さんのいう意味での「いい」ものはないよ。全部五年以上前のもので、くたびれている。
 グレゴール(バジルを見て。)そうだろうな。じゃあ、普通は何を着るんだい。
 バジル 家に帰ってからはスラックスにセーターかシャツ。履物はサンダルだし、ロクなものはない。
 グレゴール そう。ヘリーズは俗物だ。しかし、あいつは文学好きであることでも知られている。彼にとっては文学上の傑作一編を残す方が、アメリカを支配するよりは・・・支配、経済的な意味では、もう支配していると言う奴だっているだろう。(しかし気分的には今言った通りだ。)つまりボヘミアンなんだ、心情的には。行って私が捜してもいいかな。
 バジル どうぞ。
(バジル、グレゴールを寝室に導く。衣装入れを開けて、中を見せる。玄関にノックがある。)
 バジル(ギクっとする。)来た。
 グレゴール(悠然としている。)まだ二分早い。(ズボンを選んで。)これはシックだ。
 バジル それは浜辺で着るものだけど・・・
 グレゴール 構わん。高そうに見える。
 バジル 本当は安いんだ。
 グレゴール 「見える」ということの方が、この際大事なんだ。さてと、シャツはどこにある。
 バジル(服を脱ぎながら。)あっち・・・中の引き出し。
(グレゴール、その引き出しを開け、調べる。)
(この時までに、スヴェン、玄関に行っている。ゆっくりと。なぜなら彼もヘリーズが時間より早く、グレゴールがまだ用意出来ていない事を知っているから。 スヴェン、この時に・・・バジルの今の台詞の時・・・開ける。マーク・ヘリーズ登場。色艶のよい、押出しのきく男。五十代前半。後ろにデイヴィッド ビーストン。会計士。見るからにそれらしい風貌。即ち、三十四、五。真面目で誠実。こんな役目を仰せ付かって普段より一層上がっている。特に社長のヘリーズと一緒なのは脅威。ヘリーズはハーバード卒業で知り合いと言えば最上流の者達のみ。従って就業時間外に会計士などと出歩く事はありえない。)
 ヘリーズ やあ、ジョンソン。
 スヴェン 今晩は、社長。こんなに早くいらして戴いて恐縮です。
 ヘリーズ 当然のことだよ。これがいかに大事なものか、私にはちゃんと分かっている。ビーストンを連れて来た。うちの会計士だ。ブカレストで帳簿を調べてちょっとした例の・・・不整合を見つけた男なんだが。(紹介して。)こちらビーストン。(訳註 スヴェンを指して。)スヴェン・ジョンソン。アントネスキュー帝国のお世継殿だ。(スヴェンに。)こう呼んでも構わないな、ジョンソン。
 スヴェン 勿論、大変光栄です。しかし跡を繼ぐ時期が何時か来るにしても、随分先の話でしょう。どうぞ、お二人とも、お坐り下さい。
 ヘリーズ 有難う。
(スヴェン、ヘリーズにソファの方を勧めるが、うまくいかない。 ヘリーズ、椅子に坐り、スヴェンを無視する。ビーストンは窓の席に坐る。・・・訳註 椅子はなく、窓の枠に坐るのかもしれない。)
 グレゴール(寝室で。明るい色の絹のシャツを取り上げる。この時までに他の二、三のシャツもためつすがめつした末、やっとこれに決めたところ。)こいつだ。これがいい。
 バジル うん、それは高かった・・・筈だ。クリスマスの贈り物だから。でも着た事はない。シックすぎると思っていたから。
 グレゴール Ah, mais non, pas du tout. (そんなことはない。)よく似合う筈だ。そのスラックスにもピッタリだし。
(居間ではこの間にスヴェンがヘリーズに話しかけている。)
 スヴェン ソファの方が楽ですが・・・
 ヘリーズ いや、この椅子でいい。どうも有難う。
 スヴェン いらしたことをちょっとアントネスキューに知らせますので・・・
 ヘリーズ どうだい、彼の調子は。
 スヴェン 今呼んで来ますので、どうぞ社長自らお確かめ下さい。失礼します。
(グレゴールの「スラックスもピッタリだし」の台詞の丁度前にスヴェン、寝室に入る。扉を閉める。)
 スヴェン あの会計士を連れて来ています。
 グレゴール 分かった。その方がこっちにもいい。
 スヴェン それから、ソファの方には坐ってくれません。
 グレゴール あいつのことだ。何とかなるだろう。(先程からスラックスに履き替えて、今は忙しくシャツに着替えているバジルに向かって。)いいぞ。それはよく似合う。そうだな、髪に少し手を入れた方がいい。
 バジル うん、分かった。
(バジル、シャワー室に行く。グレゴール、その扉を閉める。)
 グレゴール ヘリーズに関する個人的な情報だが、あれは正しいんだな。
 スヴェン メッドワースの取引で彼が何をやったか、あの話ですか。
 グレゴール いや。個人的な情報の方だ。
 スヴェン ああ、あれの方ですか。(感心したようにグレゴールを眺めて。)はい、あれは正しいものです。嘘ではありません。
 グレゴール 証拠になる事実とか、名前とか・・・
 スヴェン そうだ、相手の名前が・・・(片手を頭にやって、思い出そうとする。)
 グレゴール(今までにない熱心さで。)そう、相手の名前は。
(スヴェン、頭を振る。)
 グレゴール 何なんだ。
(スヴェン、相変らず頭を振る。)
 グレゴール 思い出すんだ。どうしても思い出すんだ。
 スヴェン (突然。)ラーター。マイク・ラーター。
 グレゴール 何歳だった。
 スヴェン 二十二、三。
 グレゴール 最近の話か。
 スヴェン 去年です。
 グレゴール 自殺か?
 スヴェン 睡眠薬の多量服用です。
 グレゴール(居間を指差して。)関わっていたんだな。
 スヴェン 直接には関わっていません。検死には立ち会ったかも知れませんが。ただ、ラーターは職についていませんでしたし、金は一銭も持っていなかった。それなのに、住んでいたアパートは豪華なものだったんです。
 グレゴール 住所は。
 スヴェン パークアヴェニューだと思います。
 グレゴール(強く。)思うんじゃ駄目だ。確かなところは!
(バジル、シャワー室から出て来る。グレゴール、すぐに声の調子を下げる。)
 グレゴール すると、その点は確かじゃないというんだな、スヴェン。
 スヴェン 殆ど確かです。
(グレゴール、柔らかく微笑む。それからバジルの方を向いて。)
 グレゴール いいじゃないか、ヴァシーリイ。スマートだよ。映えるよ。ということになると、私の方も少しちゃんとしなきゃいかんな。顔を拭くタオルはあるな。
 バジル ええ、洗面台の上です。
 グレゴール(シャワー室へ進みながら。)目の下にちょっと熱い湯を当てる。日本に行った時に習った手だ。三日間寝ていないのを奴に知られる訳にはいかない。
(グレゴール、シャワー室に行く。寝室でヘリーズ、じろじろと辺りを見回していたが、ついに口を開く。)
 ヘリーズ すごい場所だ。こんなところで会合を持とうっていうんだな、アントネスキューの奴。どうやら何かの隠れ家っていうところだな。
 ビーストン はい、社長。そのように見えます。
 ヘリーズ この様子じゃあ、あの男も随分追い詰められたということか。君は全部持って来たんだな・・・あー、書類上の証拠を。
 ビーストン はい、社長。
 ヘリーズ それから勿論、九時に記者クラブに対して行なう声明文も。
 ビーストン(書類鞄を叩いて。)ここにみんなあります。
 ヘリーズ よし。
(ヘリーズ、再び部屋を眺め回す。グレゴール、シャワー室から出て来る。両眼にタオルを当てている。その間バジル、サンダルに履き替えている。)
 グレゴール さてと、ヴァシーリイ。これはかなり決定的な会合になる。私の一生のうちで最も決定的なものだ、多分。(微笑む。)社会主義者としてのお前なら、この会合が破綻することを願うのが適切だろう。しかし私の息子としてなら、うまく行くよう願って貰いたいな。
 バジル うまく行くよう祈っています、お父さん。
 グレゴール 有難う、ヴァシーリイ。私がドアを開けたら入って来るんだ。開けるまでは入るな。それから、「お父さん」は止めろ。あのヘリーズという奴はこういったことに少しその・・・神経質なんだ。
 バジル はい、お父さん。
 グレゴール (訳註 「またやってるぞ」という顔をした後。)名前はバジル・アンソニーにしておく。いいな。
 バジル はい。
(グレゴール、目を拭き終わる。微笑みを浮かべたまま、タオルをバジルに返す。その後細かく鏡で自分の顔を 調べる。)
 ヘリーズ(居間を再び見回しながら。)うん、すごい。すごい部屋だ、これは。
 グレゴール(背をしゃんと伸ばして、スヴェンに。)君は会計士の前に坐る。いいな。
 ヘリーズ(寝室で。)どうもこの様子だと、あいつも追い詰められた鼠といった具合だな、ビーストン。
(グレゴール、居間の扉の方へ向かう。スヴェン、後に続く。暗転。)
                  (第一幕終。)

     第 二 幕
(居間でグレゴール、片手を伸ばしてゆったりとした微笑を浮かべてヘリーズに近づいているところ。スヴェン、後ろに従っている。ヘリーズとビーストン、この時までに立ち上がっている。)
 グレゴール いやー、マーク。こんな洞穴(ほらあな)みたいなところに態々お越し戴いて・・・それにこんな時間に。
 ヘリーズ 洞穴とは酷いな、グレゴール。珍しいところじゃないか。なかなか面白い隠れ家だ。
 グレゴール(微笑む。)実際には「隠れ家」じゃないんだ、マーク。将来もし万一もう一度こういうことが起こったら、これよりはましな場所を用意する。それは保証するよ、マーク。ここはそのー、僕が時折利用する場所なんだ。さあ、どうぞ坐って。
(この時までにグレゴール、有利な場所を占めていて、こう勧められると、あからさまに無礼にでなければ断る事が無理なように、坐るべきソファの位置を差し示す。スヴェンの方もこれよりは手際が悪いが、ビーストンを指定した席に坐らせる。グレゴールはビーストンのことをまだ一目見る事さえしていない。ビーストン、坐り心地の悪い椅子に坐らざるを得ない。しかし、書類鞄を掴み、威厳を失わない様子を見せる。)
 グレゴール 今日もっとちゃんとした場所で会う予定にしていたものを、こんな風に妙な時間に延期した。その理由は分かって戴けると思うんだが。
 ヘリーズ あれだけ追っかけ回されれば当然だろう。分かるよ。
 グレゴール(おかしそうに肩をすくめて。)一日で持株すべての価値が二十三パーセントダウン。これじゃあ記者の連中が、私の疲れた顔の大写しをどうしても撮りたいっていう気分にもなるさ。それにフラッシュを焚き続ければ、いつかは一枚ぐらい連中のご希望通りの、くたびれて、窶(やつ)れた、心配そうな顔が撮れるにきまっている。あのフラッシュってやつはいづれにしろそういう効果がある。君もそう思うだろう? するとまた明日、私の持株が二十三パーセントダウンするっていうことになる。
 ヘリーズ すまないがね、ジー・エイ・・・
 グレゴール(急いで遮って。)いや、マーク。こういう事は起こることなんだ。(微笑んで。)勿論アメリカンエレクトリックにはないだろうが、とにかく我々の方には起こる事なんだ。こちらは君のような、総合的な、土台のしっかりした、信用の確立している財閥とは違う。山師なんだ。それにもっと困ったことには、この不況の時代に、私が楽観論者であると、みんなに知られている。だから一度(ひとたび)ウオール街で、合併が駄目だったという噂がたてば・・・
 ヘリーズ(むっつりと。)噂じゃない、ジー・エイ。合併は失敗だ。ビーストンと私が今夜ここに来たのも、残念ながらそれを知って貰うためだ。(ビーストンを見て。)あ、失礼。紹介する。これが・・・
 グレゴール(頭を上げて、慇懃にヘリーズを遮る。)ちょっと待って。(ビーストンに軽く頷いて・・・ここで初めてビーストンを見る。)君、ちょっと失礼。(ヘリーズに。)我々の言う、所謂「正式な報告」ということになれば、この時点では、この件に関してはやはりまだ噂と言うべきだろう、仮令この話が本当であっても。
 ヘリーズ(頷いて。)なるほど。それは確かにその通りだ。発言は取消しだ。エート、これはビーストン。
(グレゴール、立ち上がって手を出す。ビーストン、緊張してその手を握る。)
 グレゴール 態々お運び戴いて。
 ビーストン いえ、何でもありません。
 ヘリーズ ビーストンは会計士で、この件に関しては・・・
 グレゴール(愛想よく。元の席に坐りながら。)ああ、平和を乱す男ですな。
 ヘリーズ(微笑む。)そう。平和を乱す男。
 グレゴール(ビーストンに微笑んで。)この若者ですね。数字をチェックし、資産表を研究して、我々の合併に待ったをかけ、ウオール街に大パニックを引き起こしたのは。会えるとは光栄だ。お二人とも、煙草はお吸いに?
 ヘリーズ(ビーストンが頭を振っているのを見て。)いや、構わんでくれ、ジー・エイ。
 グレゴール ああ、その方が結局いいかも知れない。どうせこの、君の所謂「洞穴」には、煙草なんかないな・・・葉巻は無論ないだろうし。
 ヘリーズ ちょっと、ジー・エイ。私が「洞穴」と言ったんじゃない。それは君だよ、多分。
 グレゴール(肩をすくめて。)誰が言おうと事態は変わらない。これは「洞穴」だ。煙草も葉巻もありはしない。君も想像がつくだろうが、これは私のものじゃないんだ。
 ヘリーズ(見回して。)うん、そうだとは思っていた。で、誰のものなんだ。
(グレゴール、静かに微笑む。微かに当惑の表情が現われる。その肩のすくめ方で、ヘリーズの質問が趣味の悪いものである事を知らしめる。)
 グレゴール(優しく。)さてと、仕事の話にするか。
 ヘリーズ(ハーバード特有の感受性の鋭さで、みぞおちにぐっと来て。)ああ、失礼。勿論、仕事の話に。ビーストン、アントネスキューさんに今晩出す予定にしている声明文の写しを差し上げて。
(この時までに、すでにグレゴール、いつもの仕事の姿勢に入っている。つまり敵――この場合は勿論ヘリーズ。ビーストンは既に計算から外している――に近い方の頬に片手を当て、表情を隠すようにしている。ビーストン、ポケットから書類を取りだしグレゴールに差し出す。グレゴール、片手を振って受け取らない。)
 グレゴール すまないが読み上げてくれないか。若い人はいい。眼鏡なしにものが読めるんだから。
 ビーストン そんなに若くはないのですが・・・
(グレゴール、手を振って読むよう促す。)
 ビーストン(読む。)アメリカンエレクトリック株式会社の社長及び重役会は次のように声明を発表する。即ちその子会社の一つとマンソンラジオ製作株式会社との予定された合併は、この際破棄される事になったと。
 グレゴール(頬を支えている手の後ろから。)マーク、君と僕とが何か、婚約でも破棄したみたいだな。
 ヘリーズ(この冗談を面白がって。)そういう響きがあるな、確かに。(ビーストンに。)君、そこのところちょっと工夫してみてくれ。婚約破棄の響きは滑稽だ。
 ビーストン(早くも少しどぎまぎして。)では例えば・・・「崩壊した」とでも・・・
 グレゴール(面白がって。)「崩壊」は世界経済における今の私の立場ではちょっと有り難くないな。今日の新聞記事の文句に影響されたんじゃないかな、ビ、ビ・・・あー
 スヴェン(こっそり教える。)ビーストン。
 グレゴール(分かったという頷き。)大変失礼。当然記憶に残るべき名前なのに。(訳註 ビーストが「けもの」の意だから覚え易い。)(ヘリーズに。)そうだ、ヘリーズ、僕が死んで、もし脳が解剖されれば、「ビーストン」とくっきり刻まれているのが分かる筈だ。綴りはどうかなB、E、A、S、T?(訳註 これが「けもの」の単語。)
 ヘリーズ(微笑む。ヘリーズもビーストンをあまり好きでない。)いや、B、E、Eだ。残念ながら。
 ビーストン では「失敗した。」では?
 グレゴール(優しく。間の後。)最終的な言葉の選択はヘリーズ氏に任せよう。ハーバードの教育が如何なるものであるか、君にも参考になるだろう。
(ヘリーズ、賛同の頷き。ビーストン、だんだん苛立ってきて、爆発寸前となる。)
 グレゴール そこから先は?
 ビーストン(呟く。)「破棄される事になったと。」
 グレゴール(ヘリーズに微笑む。)そう。その先。ヘリーズ氏と私の恋物語。それの破局にどんな言葉を君が選んだか、なかなか聞き物だ。
 ビーストン(勇敢に先に進む。)「これは以下の情報によるものである。即ち弊アメリカンエレクトリック社の会計士の一人、デイヴィッド・ビーストン氏がブカレストを訪れ・・・
 グレゴール(ビーストンに頭を下げる。)そう。誰からの情報かは、はっきりさせないとね。信用、信用問題だからな。
(グレゴールのこのきっかけによりスヴェン、素早く笑う。この場面では常にスヴェン、グレゴールからきっかけを受取り、すぐ反応する。観客はこの二人がこのような会合でいかに屡々働いてきたかが分かる。またグレゴールにとって、この無言の協力者がいかに重要なものかが理解出来る。)
 ヘリーズ(ビーストンに。辛々しながら。)「会計士の一人がブカレストを訪れ」で充分だ。
 ビーストン(従順に訂正を受け入れ。)分かりました。(再び文章に戻り。)「会計士の一人がブカレストを訪れ、彼らに次のように説得した。」この「彼ら」は社長及び重役会ですが・・・
 グレゴール(苛々を見せて。)そんな事は分かっている。
 ビーストン(辛抱強く、しかし声は少し甲高くなる。)「即ちマンソンラジオ社の外国支店のあるものの財政状態は・・・」
 グレゴール(ヘリーズに。)「の」が多いんじゃないか、ここは。(ビーストンに、優しく。)いや構わない、ビーストン君。ヘリーズ氏と私とで言葉遣いはあとで直すことにしよう。
(グレゴール、先に行けという風に、手を振って合図する。)
 ビーストン(腹をたてる。これはグレゴールの思う壷。)意味だけお話しすればいいっていう訳でしょうか、アントネスキューさん。言い回しはさておいて。
 グレゴール(ヘリーズを向いて、さっと眉を上げた後、ビーストンに。)ねえ君、君の「意味」ってやつはもうとっくの昔に私に分かっている筈じゃないのかな。つまり先週ヘリーズ氏が私に電話してくれて、君が我々の財務諸表に何か誤りを見つけたと(連絡してくれた時から・・・)
 ビーストン(かっと来て。)「誤り」? そんな軽い言葉ですまされるものじゃない。私があそこで発見したものは。
 グレゴール(まるで次の質問の答が本当に知りたいといった風に。)ブカレストは如何でした? 楽しめましたか。
 ビーストン 楽しむなんて。そんな暇はありません。それにあそこの財務諸表に私が発見したものを考えれば、それどころじゃ・・・
 グレゴール きっとパヴローフスキーがご案内した筈ですが。私の生まれた場所とか、私の気に入りの、行きつけのところとか・・・
 ビーストン パヴローフスキー? パヴローフスキーって誰ですか。
 グレゴール(奇妙な顔をして。)勿論ブカレスト支店の主任会計士だが・・・
 ビーストン 私の滞在中ずっと面倒を見てくれたのは、アンドレーエフという人でしたが・・・書類を見せてくれたのも彼です。自分が主任ではないなどと一言も言いませんでした。
 グレゴール(スヴェンに。)アンドレーエフ? 誰だそいつは。
 スヴェン まだ平(ひら)の男です。
 グレゴール 聞いたことがないな。(ビーストンに。)このアン・・・アン・・・
 スヴェン(横で教える。)アンドレーエフ。
 グレゴール このアンドレーエフという男が、君の面倒を見たというんだな。
(ビーストン頷く。)
 グレゴール(スヴェンに。優しく。)平の男が、こんな大事な調査のお相手をしたというんだな。
 スヴェン(素直に。)すみません、会長。私のミスです。パヴローフスキーは休みで、それに副主任二人も休暇を取っていたんです。まさかこの・・・(ビーストンを見て。)ビーストン氏の目的が、そんなに完全な調査にあるとは思ってもいず・・・あの合併に関連した、何か比較的些細な問題についての情報を得たいのだと理解していました。アンドレーエフはそれに対しては充分務めが果たせると・・・
 ビーストン(急所はついているぞといった風に。)しかし私が見つけた会計上のズレは、この合併にも関わっている。いいですか、マンソンラジオ本社のルーマニア支店宛の貸付金額は千二百万ドルにのぼる(もので・・・)
 グレゴール(非常に静かに。)一千一百三十七万六千九百・・・
 ビーストン 正確な数字ならここに。(書類を引き出して読み上げる。)千百三十七万六千九百。(困って。)千二百と言ったのは、記憶に頼って・・・
 ヘリーズ(面白がって。)アントネスキューさんも記憶に頼ってだがね。
 グレゴール(礼儀正しく。)で、話の筋は?
 ビーストン (赤くなる。怒って。)この項目は、金額はさて置き、この「貸付金」の項目は、私の調べたところでは、ブカレスト支店における「現金及び預金」の項目の内、内訳明細書にある「本店より」の項目に一致すべき数字です。これはルーマニア語からの直訳ですが・・・
 グレゴール Felicitari pentru Romineasca dumneavoastra excelenta.
 ビーストン は? 何のことです?
 グレゴール 失礼。私が言ったのは、君の素晴らしいルーマニア語に、おめでとう、と。
 ビーストン(本当にかっと来て。)からかうのはよして下さい、アントネスキューさん。ルーマニア語が分かる必要などないじゃありませんか。数字はどの言葉でだって同じです。
 グレゴール 勿論。但し会計処理の方法は何時も同じとは限らな・・・
 ビーストン(声を上げて。)こちらの重役会に貴方が報告されたマンソンラジオ社ルーマニア支店の資産金額は調査の結果六百万ドル不足です。
(グレゴール、何か言おうとする。)
 ビーストン どうぞどうぞ、何とでも言ったらいいでしょう。一銭一厘まで正確な数字を言ったらいいんです。そうやって人をやっつけるんだ。聞いた事がありますよ。なかなかうまい手だ。昔はそれで人はころりといったんだ、きっと。だけど、六百万ドル。帳簿上の六百万ドルの食い違い。これがある限り、私はうちの社長の前であとにひく(事などあるもんですか。)
 グレゴール(ゆっくりと膝を叩いて、言葉の洪水を止める。)ビーストン君、ビーストン君。
(洪水止る。)
 グレゴール おやおや、このままだと、何処へ連れて行かれるか。いや、ちょっと飲み物はどうかと思って。お二人とも如何でしょう。(ヘリーズに。)バーボンとジンしかないが・・・ここの住人は若いものだから、そんなものしか置いてなくて。
(ヘリーズ、「若い」と聞いたのは初めて。しかし何もここでは言わない。)
 グレゴール どうですか?
 ヘリーズ いや、私は結構。しかしビーストンは・・・
 グレゴール(優しい微笑。)そうだな。少しは口が滑らかになるかも知れない。
(ヘリーズ、この冗談を静かに面白がる。 それから、以前より大きな好奇心をもって部屋を眺めなおす。この間、グレゴール、全く不快な表情をしている。ビーストンに向かって。)
 グレゴール どうかな?
 ビーストン いいえ、いりません。失礼しました、アントネスキューさん。変な言葉を遣ってしまいました。興奮していました。
 グレゴール(陽気に。)興奮は当たり前だよ、ビーストン君。全世界の金融市場を震憾させる大恐慌を引き起こした人物、それも自分のバット一本で・・・この表現は正しかったかな。・・・その人物が興奮を示さない方がおかしい。(非常に優しく。)さあ、ビーストン君、私はここに質問をされるべく坐っている。君はそこに質問すべき人物として坐っている。質問を聞こうじゃないか。
 ビーストン エー、アントネスキューさん。資産表上の預金の項目に上げてあったこの六百万ドルは、ひどく面倒な調査の結果、実際はアントネスキュー持株会社の借方に入っていて、その担保は・・・
 グレゴール(スヴェンに。)このアンドレーエフだが、こいつは英語がしゃべれるのか。
 スヴェン 殆ど駄目です。
 グレゴール そうだろうな。
 ビーストン(再びかっとなって。)アンドレーエフは充分はっきりと説明してくれました。
 グレゴール(陽気に。)それで、あいつが説明しなくても数字が充分語ってくれた、という訳だ。資産表の欄外に書かれた文字がたとえルーマニア語であってもね。
 ビーストン ルーマニア語が出来ないのは白状しています。この話はもう終わった筈です。しかし数字は万国共通。このことももう了解ずみだったんじゃないんですか。そして私がブカレストで見つけたこの数字は、単に「物を言う」ぐらいじゃすまされない。この数字は「大声を上げて怒鳴っていた」んです。ほら、これです、アントネスキューさん。この数字を見て下さい。
(ビーストン、書類を取りだし、グレゴールに渡す。グレゴール、自分の膝の上に置かれた書類が、あたかも汚らわしいものであるかのように、ゆっくりと払い退ける。)
 グレゴール(部屋を見回していたヘリーズに。)なかなか好い趣味なんだ、ここの住人は。じゃないかな?
(間。はっきりした質問をされてヘリーズ、再び部屋を見回す。)
 ヘリーズ そう。僕はあまり現代的なのは好きじゃないんだが・・・なかなか面白いな。
 グレゴール 僕も現代風は好みじゃない。それにその「面白い」っていう言葉は、最近じゃあ随分ひどいものまで含むからなあ・・・まあ、あのカーテンの色(を見てみろ。)・・・(声を少し下げて。)しかし物事はそう全てに自分の思い通りにはいかない。時々は大目に見るっていう事もある・・・だろ?
 ヘリーズ(興味をひかれる、が、謎をかけられた気持。少し居心地が悪い。)うん、まあ。
 グレゴール それにこのグリニッチヴィレッジは勿論、パーク・アヴェニューとは違う。そうだろ?
 ヘリーズ(固い表情。)そりゃ違う。
 グレゴール あっちのアパートはこことは大違いだ。
 ヘリーズ あっちのアパート?
 グレゴール(軽い調子で。)マイク・ラーターの。(ビーストンに。)失礼した。ビーストン君。途中で口を挟んでしまったな。何か数字を見てくれという話だったと思ったが。
(グレゴール、ビーストンから書類を受取り、儀式を行なうような手付きで眼鏡を取り出す。 書類を調べ始める。この時までにヘリーズ、立ち上がっている。)
 ヘリーズ さっきの飲み物の話だが、貰う事にしていいかな、ジー・エイ。
 グレゴール(書類に没頭しながら。)勿論。(手を振ってスヴェンに合図。)スヴェン。
 ヘリーズ(スヴェン、立ち上がって言い付けられる事を聞こうとしている。そのスヴェンに。)ああ、有難う。バーボンのロックが出来れば有り難いが。
 スヴェン 氷があるといいんですが。(見つかって。)ああ、あります。ここに入ってました。
 ヘリーズ(呟く。無関心を装って。)ジョンソン、君もこのアパートは初めてなんだね。
 スヴェン(呟き返す。かすかに暗示するような微笑。)ええ、あるのは知っていました。私一人です、それに。でも中に入ったのはこれが初めてです。私達は特別な扱いですよ。勿論今夜は特別な日でもある訳ですけど。(声を少し上げる。グレゴールに聞こえるようにする為である。)今日はその、この持ち主の誕生日なんです。よくは知りません。あまり聞かされていないんです。でも、ジー・エイが七月十三日になると必ずここへ来るという事はよく知っていました。
(スヴェン、ヘリーズにバーボンを渡す。それから目配せをする。ヘリーズはゆっくりと頷く。しかし勿論まだ何も分かっていない。)
 ビーストン(書類を指でつっつきながら。)ほら、見て下さい、アントネスキューさん。ほら、ちゃーんとここに。ルーマニア語じゃない。数字です。六百万ドル! 現金項目に載っているでしょう。明細を見れば、アントネスキュー持株会社からの現金です。これは一体何ですか。説明して貰いましょう。
 ヘリーズ(鋭く。)ビーストン、止めんか。何ていう言葉遣いだ。
 ビーストン 失礼しました、社長。しかし、六百万ドルの穴は・・・
 ヘリーズ 穴は分かっている。しかし物には言い方というものがある。
 グレゴール(ゆったりと背伸びをしながら。)実際は百万ドルの黒字なんだが、ビーストン氏はそこにちゃんと裏付けがあろうとは思いもかけないだろうから。
 ヘリーズ 黒字? 根拠は。
 グレゴール・アントネスキュー持株会社への六百万ドルの貸付金はフランスのラジオ会社買収に使った。この話は以前したと思ったが、違ったかな。
 ヘリーズ いや、その話は聞いている。しかし重役会は荒れていた。なにしろビーストンの爆弾発言だ。(その話を思い出しもしなかった。)君の話もよく聞いていなかったのかもしれない。その貸付金の担保は何だったかな。
 グレゴール イタリア国債だ。現在の価値で、七百五十七万ドル・・・
 ビーストン(必死に書類をひっかきまわしながら。)待って下さい。ちょっと待って。その数字は私の調べたものの中には全然・・・
 グレゴール(彼を全く無視して。)従って約百五十万ドルの黒字と言わねばならない。しかし知っての通り僕は、予定利益っていうやつには、いつでもそう信を置いていないから・・・
 ヘリーズ そのフランスのラジオ会社っていうのは何だったかな、よく覚えていないんだが・・・
 グレゴール マティユ・ティボ・エ・コンパニだ。今年の四月三日この買収が成立した時、その資産は七百十六万三千七百二十五ドル(一、二秒おいて。)だったな、慥か。(頷いて。)うん、慥かその数字だった。(飲み物の置いてある盆のところに行きヘリーズに加わり。)僕もバーボンを貰う事にするか、マーク。(壜を持ち上げる。)あまり残っていないな。(スヴェンに。)やけにあのぼうや、飲んじまったもんだ。酒が敵(かたき)のような勢いだな。まあ記念の日なんだ、今日は。何でも許されるさ。(グラスを上げて。)乾杯!
(ビーストンはまだ必死に書類を繰って捜している。グレゴール、スヴェン、ヘリーズの三人は今や全く彼を無視している。)
 ヘリーズ(呟く。)今日は何か特別な日だという話だね。さっき聞いたんだが。
 グレゴール スヴェン。君も口が軽いぞ。
 スヴェン すみません。
 グレゴール 暗闇の中に隠して置きたいというものがあってね。暗いといっても、一通りの暗さじゃすまないやつが。私に「謎の男」と新聞記者の連中が名前をつけてくれたが、満更嘘とばかりは言えない。なあ、マーク。君だって「謎の男」と呼ばれてもいい充分な資格があるんじゃないか。ほら、あの晩、あのアパートに連れて行かれて・・・
 ヘリーズ 君がマイク・ラーターを知っていたとはな。驚いた。驚いたよ、本当に。
 グレゴール いや僕は知っている訳じゃない。本当だ、マーク。知りたかったさ、できればね。だけど・・・
(グレゴール、肩をすくめる。「だけどあれは君のものだから仕方がないじゃないか。」の意にとれるすくめ方。)
 ヘリーズ しかしあいつも私に話してくれればよさそうなものだったのにな・・・
 グレゴール(微笑む。)単なる「グレゴリーさん」で行ったから。私とは分からないような格好でね。
 ヘリーズ 誰が連れて行ったんだ。
 グレゴール ああ、若い奴だった。名前は忘れたよ。マイクも気の毒なことだったな。
 ヘリーズ(急いで。)あれは自殺じゃない。不慮の事故だ。
 グレゴール それはそうだろう。
 ヘリーズ あいつは睡眠薬を飲んでいた。やめろとは私の口からは言えなかった。それに酒も多かった。
 グレゴール あの時の君の気持ちはよく分かっていたよ、マーク。勿論それを口に出す訳にはいかなかった。
 ビーストン(勝ち誇った叫び声。)あった!
(ビーストン、立ち上がる。紙を振り回す。三人とも敵意のある目で彼を見る。ビーストン、ヘリーズの鋭い目つきに少し怯む。)
 ビーストン すみません。ちょっとお聞き下さいませんか。
 ヘリーズ うん、何だ、ビーストン。
 ビーストン アントネスキューさんが貸付金に対して用いた担保のイタリア国債の現在価値は、我々の計算では(数字を読む。)四百七十万とび五百ドルです。従ってまだ赤字分が・・・
 グレゴール(面白がって。)その数字はウオールストリートジャーナルから取ったものだね。ビーストン君、頼むよ。(もう少しは考えてくれないかな。それに)ヘリーズさんの為にも考えて貰いたい。何故なら、この合併は決してアメリカンエレクトリックにとって不利益になるものではないんだから。今から帰って国際電話を掛けたらいい。ムッソリーニの下の大蔵大臣に、現在この時点で、あの国債の値段をいくらと評価しているかってね。(この慣用句を最も適切な時に思いだして嬉しそうに繰り返す。)現在この時点でだ。ビーストン君。電話を掛けて、明日その結果をヘリーズさんに知らせるんだな。君がぶっこわした合併の話を今さら復活させる訳にはいかないだろうが、大蔵大臣の解答は重役連に興味のあるものだろうからね。勿論ヘリーズさんにも。(ヘリーズに。)マーク、もう一杯どうだい。(スヴェンに。)スヴェン、あの子にバーボン一ケース送るからな。明日私が忘れていたら言うんだぞ。
 ビーストン ちょっと。私を何だと思っているんですか。イタリアの大蔵大臣に電話しろですって。まるでムッソリーニに掛けたって通じるっていうような口ぶりじゃないですか。
 グレゴール(優しく。)それは通じるさ。私からと言えばいい。
 ヘリーズ ああ、それはいい考えだ。やってみるといい、ビーストン。
(ヘリーズ、勿論本気で言っているのではない。しかしグレゴールの言葉が単なる自慢でないことも知っている。ヘリーズはこっそりビーストンの敗北をいい気味だと思っている。間あり。)
 ビーストン(ついに言葉なし。)畜生!
 ヘリーズ (厳しく。)何だって? ビーストン。
 ビーストン(突然書類の束をヘリーズに投げ付けるように置き。)これはもうお渡しします、社長。もうここで私が出来る事は何もないようです。
 ヘリーズ やけになっても仕方がないだろう、ビーストン。アントネスキューさんの名前ならヨーロッパ中どこの国の元首でもすぐに通じるんだからな。
 グレゴール(軽い調子で。)アメリカは別なのか、マーク。
 ヘリーズ いや、ホワイト・ハウスだって君に時々知恵を借りるっていう話だ。(微笑んで。)しかしあっちでは君の忠告をなかなか聞かないとかいうんじゃないか。
 グレゴール 荒れた時代に本当に必要なのは荒療治なんだが・・・
 ヘリーズ(顔を顰めて。それから振り返って。)しかしビーストン。君は私が本気で言っているとは思っていないだろうね。こんな夜中にムッソリーニに電話を掛けろなどと。
 ビーストン 本気か本気でないか、それは私には分かりませんでした。こんな風な話になったら、私の手に負えるとは思えません。私が調べて分かった事は・・・調べるのが私の仕事なんですから・・・そしてそれを調べる為にいいサラリーを貰っているんです。それにアメリカンエレクトリックに籍があり、そこで忠実に仕えている限り・・・
 ヘリーズ 忠実に仕えているのは分かっているよ。
 グレゴール そうだ。君からその忠実を取ったら、後には何が残るんだ。
 ビーストン 畜生!
 ヘリーズ ビーストン。その言葉は止めた方がいい。こんな場面では相応しくない。しかしまあいい。君が調べて分かった事は? 何だって?
 ビーストン ここにいるこの男が(グレゴールを指差して。)アメリカンエレクトリックから六百万ドルをくすねようとしてブカレストの帳簿をごまかしたっていう・・・
 グレゴール(ヘリーズに、ひどく面白がって。)くすねる? (スヴェン、これをきっかけに笑う。グレゴール、スヴェンの方を向き。)これはいい言葉だ、覚えておいてくれ。「くすねる」か。
 ヘリーズ(非常に真面目に、ビーストンに。)ビーストン、君はもう帰るんだ。帰りたまえ。
 ビーストン 畜生! こんな奴に・・・(社長の前にいると気づき。)失礼しました、社長。帰ります。
 グレゴール 寝酒を一杯やって行った方がいいんじゃないか、ビーストン君。
(ビーストン、黙って三人を見る。それから回れ右をして玄関の扉へ大股で進む。)
 グレゴール(鋭く。)スヴェン。
(スヴェン、素早く扉へ行く。ビーストンが達するまでに着く。)
 スヴェン(ビーストンに。)あの声明文は置いておいてくれないか。お二人で言い回しを考えるという話だったから。
(ビーストン、書類鞄に手を突っ込み、紙を出す。)
 スヴェン うん、これだ。じゃあ、おやすみ。
 グレゴール(後ろから。)おやすみ、ビーストン君。
(ビーストン退場。スヴェン、紙をグレゴールに渡す。グレゴール、その紙をテーブルの上に大きく広げて置く。ヘリーズの目、じっとグレゴールの顔に留まっている。)
 グレゴール 主任会計士にしては若すぎるんじゃないか、彼は。マーク。
 ヘリーズ うん。実際を言うと、あれは主任会計士じゃないんだ、ジー・エイ。だけどあいつはいい奴だ。それに切れる。
 グレゴール うん、テーブルナイフのようにね。なあ、マーク、僕がどうも分からないのは、この切れる男が、将来の世界経済を任せてもいい程切れる男だと君が判断したところにあるんだがね。バーボンはどう? まだちょっと残っていると思う。
 ヘリーズ うん。
(グレゴール、注ぐ。)
 ヘリーズ 「世界経済を任せる。」ちょっと大袈裟じゃないか。
 グレゴール(軽い調子で。)大袈裟じゃない。今日の成り行きを見たろう? 合併失敗の噂だけで、ウオール街はあの調子だ。(ビーストンの声明文を指差して。)あれが明日発表されれば、アントネスキューグループは終だ。(くすくす笑って。)今日もここでスヴェンに話したんだが、まあ二、三週間だな。それで何もかもなくなる。私に残るものと言えば、家が二、三軒、事務所、家具類、絵画、それにプレスティにある油田二つ。これくらいか。
 ヘリーズ そりゃよかった、ジー・エイ。安心したよ。何が起こっても、君自身の財産は大丈夫らしいね。
 グレゴール(何でもないことのように。)僕自身の財産? いくら位だろう。知らないな。計算した事もない数字だ。その気を起こした事もない。 三百、いや、四百万ドル。そうだな、もう少しはあるかも知れない。いづれにしたって足りはしない。何をするんだって。例えばオーストリアの通貨立て直しでドルファスに約束した事だって、出来はしないし・・・
 ヘリーズ 約束は駄目だ。それが君の悪い癖なんだ、ジー・エイ。手広くやり過ぎたんだ。広げ過ぎの結果だよ、これは。
 グレゴール(急に。熱を込めて。)勿論そうだ。広げ過ぎだ。しかし何故そんな事をする。それは僕が戦う男だからだ。そして戦うべき相手も僕には分かっている。それは君にも分かっている筈だ。不況、これが敵だ。この五年間、君達は僕が悪戦苦闘しているのをただ冷ややかに見ていた。そして言い合っていた。「今にひっくり返るぞ。」と。そう。そしてご覧の通りだ。ひっくり返っている。(肩をすくめて。)しようがない! しかし君達みんな、あの一九二九年以来何をやってきた。低迷している自分の事業にただしがみつき、月並みな文句を繰り返すだけだったじゃないか。「繁栄はもう目の前にある。」「今はただ待つ時だ。」待つだって? 何を待つって言うんだ。奇跡でも待つのか。僕は奇跡を信じない。経済が問題なら、奇跡は人間しか作れない。この五年間、僕は自分で奇跡を作ってきた。そしてもしそれがなかったら、(声明文を指差す。)もう五年間、奇跡が作れたんだ。そしてそのうちには君達に、不況は如何にして克服出来るか、教えられたかもしれないんだ。僕にはそれが出来たと信じている。勿論メイナード・ケインズもそれを信じているがね。
 ヘリーズ ケインズ? イギリスの経済学者か。
 グレゴール 僕の意見では、世界最高の学者だ。生存中の学者では。彼のものは読んでいるんだろう? 勿論。
 ヘリーズ(読んでいない。)うん、そりゃ。
 グレゴール 流動性と信用。これが不況の正体だ。しかし流動性がまづ問題だ。自由な、制限のない通貨供給。これで「不況の狼」は、恐れるに足りないものになるんだ。狼は死ぬんだ。(熱を込めて。)ケインズに言われなくたって、これは僕の考えだった。自由な通貨供給、それに僕は一生を賭けてきた。ユーゴスラヴィアに道路を、ハンガリーに電気を与えたのは一体誰だ。僕のグループが潰れたあと、アメリカの失業率がどれだけ跳ね上がるか。君にも見えているだろう。(柔らかく、溜息をつきながら。)そう、慥に広げ過ぎたよ、マーク。その通りだ。君、煙草はいい?
 ヘリーズ うん。いらない。
(グレゴールの雄弁は慥かにヘリーズに対してなんらかの影響を及ぼしはする。しかしヘリーズが口を開くと、それはまだ説得された人間の口ぶりではない。)
 ヘリーズ 君の経済に対する考えには勿論敬服すべきものがあるよ、ジー・エイ。それに君の勇気にも敬服しているんだ、僕は。しかしね、基礎のない流動性には基本的な不健全さがある。これが僕の考えだ。
(まだ戦いは終わっていない、と、すぐさまグレゴールに分かる。ヘリーズの台詞の早いうちから、もう手を上げて「分かった、分かった。」という動作をする。ヘリーズが台詞を言い終わった時、グレゴールは微笑んでいる。)
 グレゴール そう。君の言う通りだ。これ以上もう経済を論じるのは止めよう。(文書を指差しながら。)私の戦いは、もう終わっている。とにかく負けたんだ。今さらぐたぐた喋っても何の役にも立たない。
 ヘリーズ ジー・エイ。これは断って置かなくちゃいけないんだが、(こちらも文書を指差して。)そいつは、僕個人の失策じゃないんだ。重役会での全会一致の決定でね・・・
 グレゴール(優しい微笑み。)分かっているよ、マーク。僕の重役会だって、不愉快な決定をしなきゃならん時は何時でも全会一致でやるんだから。さてとここのご主人殿にお会い戴く頃合だな、どうやら。
(グレゴール、寝室への扉を開け、呼ぶ。)
 グレゴール バジル、もう出て来てもいいぞ。仕事の話は終だ。
(バジル、この間ずっと辛抱強く、背中を観客に向けてベッドに腰をかけているが、この声で立ち上がり、緊張の面持ちで居間に向かう。グレゴール、親しそうに肩に片手をかける。)
 グレゴール これは僕の非常に大事な友達でね、バジル。マークさんと言う。こちら、バジル。
(二人、握手する。)
 グレゴール 退屈しすぎ・・・じゃなきゃよかったんだが。長すぎたかな?
 バジル いいえ、もっと長いんだろうと思っていました。仕事の交渉っていつでも夜っぴてやるものだと思っていましたけど。
 グレゴール そういうのもある。これは違った。この件に関する限り、始まる前に終わっていたというところだな。戦う前に既に僕の負だったんだ。
 ヘリーズ(バジルをずっと見ていたが。)その言い方はちょっとずるいよ、ジー・エイ。
 グレゴール(片手をバジルの肩に置いたまま。微笑んで。)それじゃあこっちにも戦うチャンスを与えてくれなきゃ。明日重役会に僕を出席させて、この数字の釈明をやらしてくれ。そうすれば僕がアメリカン・エレクトリックから・・・
(言い止めて指をパチンと鳴らす。)
 グレゴール スヴェン。
 スヴェン くすねる。
 グレゴール そう。くすねようとしたっていう濡れ衣も晴らせるが。
 ヘリーズ(誠実に。)すまない、ジー・エイ。それは無理だ。さっきのビーストン、あれはちょっとカッときただけだ。普段は冷静な頭を持っている。重役会でもそういう評価だ。
 グレゴール ほう、彼が? (苦々しい口調。)幸いなことに、僕はそう冷静な頭を持っていないんでね。何もしないで、もうあと二、三百万ドルをどぶに捨てて平気という訳にはいかないんだ。それも単なるアメリカとルーマニアの会計処理上の違いのような、つまらない原因でね。
(グレゴール、さっきからバジルを両手で抱いているが、そのバジルに。)
 グレゴール そういう種類の冷静な頭っていう奴を君は認めるかな、バジル。
 バジル いいえ、勿論認めません。
 グレゴール(優しく、ヘリーズに。)バジルは社会正義をひどく気にする性質(たち)でね。(バジルに。)いいシャツだね。ヘリーズさんに敬意を表したのかい?
(間。バジルはまだ自分の演じるべき役割が分かっていない。ただ、何かの役を演じなければならないという事は分かっている。また父親の敵に対して礼儀正しくしていなければならない事も自覚している。)
 バジル(微笑んで。)ええ、勿論です。それに貴方にも。
 グレゴール(バジルから手を離して、少し離れて。)これは光栄だ。君もだろう? マーク。
 ヘリーズ うん、非常に光栄だ。
(ヘリーズ、バジルに近づきシャツを念入りに調べる。布に触ってみて。)
 ヘリーズ どこで買ったの。
 バジル 贈り物です。
 ヘリーズ(グレゴールを見て。)ハハーン、実に魅力的だ。君に似合う。僕にはイギリス人のいとこがいるが、そいつの言い方を真似れば、「スキッとした贈り物」だ。君はイギリス人だね?
 バジル いいえ。ただイギリスで育っただけです。
 グレゴール 彼は百パーセント、上から下まで生粋のヤンキーだよ、マーク。 オックスフォード訛りがあっても、騙されちゃいけない。
 ヘリーズ(スノッブの本能が頭を擡げる。)オックスフォード? オックスフォードの何処?
 バジル クライスト・チャーチです。
 ヘリーズ ああ、「ハウス」か。(バジルが黙っているので。)「ハウス」って言われるんじゃなかったかな?
 バジル ええ、そう呼ぶ人もいます。
 ヘリーズ 君の社会正義は何処にあるのか分からないが、えらく「イカス」学校を選んでいるじゃないか。(訳註 「社会正義」とは弱い者の味方のこと。自分はいい大学を出て、社会正義を口に出来るのか、の意。)
 グレゴール (静かに。)自分で選んだ学校、という訳でもないんじゃないか。
 ヘリーズ 成程。(バジルに。)ああ、そうだ、バジル。忘れるところだった。誕生日おめでとう。
(この瞬間がグレゴールの危ない場面。スヴェンがさっき不用意に口を滑らせている。こんな事態になるとは予期していなかったのである。バジル、何の事か分からず、ぼんやりヘリーズを見ている。そこに滑らかにグレゴール、割って入る。)
 グレゴール 誕生日だとは思わないだろう? マーク。バジルだって誕生日は一年に一回しかないよ。三月十二日。そうだな、バジル。
 バジル ええ。
 ヘリーズ(スヴェンを指差して。)しかし、彼が言ったのは・・・
 グレゴール スヴェンにも言ってない事があってね・・・例えばこの今日の日付の意味。
 ヘリーズ(奇妙な顔をして。)しかし、ジー・エイ。君だってさっき・・・
 グレゴール 僕は「記念の日」と言った筈だ。この話はこれぐらいにしておいた方がいいな。バジルが困ってしまう。(バジルに。)バジル、悪かったんだが、ウイスキーを一滴残らず飲んじゃった。ちょっとそこらへんの店で一本買って来てくれないか。
(間。自分の役割がぼんやりと分かりかける。バジル、黙って回れ右をして扉に向かう。グレゴール、優しく呼び返す。)
 グレゴール ちょっと待って、バジル。
(バジル、戻って来る。グレゴール、スヴェンを見る。)
 グレゴール(自分の胸のポケットに触る動作をして。)スヴェン、頼む。
(スヴェン、動作の意味をすぐ理解し、財布を取りだし、グレゴールに渡す。グレゴール、見たところ全く無作為に、札を一枚引き出し、バジルに渡す。財布をスヴェンに投げ返す。バジル、札を持ったまま、困って父親を見つめている。次第に湧き上がってくる疑惑を、まだしっかりと信じる事が出来ない。グレゴールの目は、このバジルの問い質(ただ)す目に、何も答えない。グレゴールの目、全く表情なし。空虚。バジル、扉へ進む。)
 ヘリーズ 百ドル紙幣じゃあ、ここらではお釣りがないんじゃないか。
 グレゴール しかし、ウイスキーが手に入る事は間違いないだろう。流動性と信用だ。なあ、マーク。
(扉のところでバジル、再び振り返る。疑惑大きくなり、困惑の状態。父親を見つめる。グレゴール、背中を見せたまま。バジル、退場。)
 ヘリーズ ハハー、なーるほど。それもそうだ。
 グレゴール ああ、バジルも可哀相に。知らない人となると何時もああなんだ。内に籠っちゃうんだな。特にかの有名なマーク・ヘリーズ社長となればね。
 ヘリーズ エーと、ジー・エイ。そのー、ちょっと・・・(スヴェンをちらと見る。)
 グレゴール スヴェン、すまない、ちょっと外してくれないか。
(スヴェン、頷く。寝室へ行く。間あり。ヘリーズ、訊きたい事は沢山あるという様子。グレゴール、数多くは語るまいという決心。辛抱強く第一の質問を待つ。)
 ヘリーズ(やっと。)ジー・エイ。うまく言葉に出して言えないんだ・・・口を開くと野暮な事が出て来そうで・・・しかし、その・・・うん・・・僕が考えている事は当たっているのか。
 グレゴール(優しく。)マーク・・・何時もの通り、ズバリと訊いて来るね。君の考えている事って、はっきりしないんだが、バジルが僕の息子かって?
 ヘリーズ いやいや、勿論息子さんはいたね。慥か、五年前に亡くなったとか・・・
(グレゴール、頷く。)
 ヘリーズ うん、そりゃ悲しい事だ。いや、僕が考えていたのは息子さんじゃない。
(ヘリーズ、黙ってしまう。)
 グレゴール(ヘリーズの肩に触れて、今度は非常に優しく。)なあ、マーク。今すぐ君の疑いを晴らす事にしよう。君をここに呼んだのは、君がこのニューヨークで本当の事が言える非常に稀な人物だからだ。(さっぱりと。)さあ、これで分かった筈だ。
 ヘリーズ まいった。これはまいった。畜生! (はっと気がついて。)何だ、こいつはあのしようもないビーストンの奴の台詞じゃないか。失礼した。しかし驚いたな、ジー・エイ。女がいるじゃないか、君には、女が。世界中音に聞こえた女達だぜ、あれは。それに美人の妻・・・いや、これは脱帽だ。あっちの方が世間には知れ渡っているじゃないか。
 グレゴール マーク、世間に見せているものが常に個人的な楽しみとは限らない。ビーストンのあの台詞のことだが・・・こいつを頼んでいいかな。
 ヘリーズ(上の空。)うん。
 グレゴール 明日僕が重役会に行ってこの話をする時・・・この話、つまり例の・・・えーと・・・ああ「くすねた」ってやつの釈明だが・・・ビーストンを外して貰う訳にはいかないかな。
 ヘリーズ それは無理だな。帳簿を調べたのは他でもない、ビーストンなんだ。この件に通暁しているのはあいつしかいない。あいつを外す訳にはいかない。
 グレゴール(大きな身振りをして。)じゃあ行かない。悪いけど、マーク、僕は行かないよ。
 ヘリーズ あいつを謝りに来させるよ、個人的に。
 グレゴール いや、いい、マーク。あの言葉だけを問題にしている訳じゃないんだ。だいたいああいった詐欺行為の汚名を着せられるのはこれが初めてじゃない。何時だってこういった時には笑い飛ばして来たんだ・・・君だってそれは知っているだろう。(突然真面目になって。)気になるのはあのヒステリーだ、マーク。高度に政策的な話の時にヒステリーは禁物だ。
 ヘリーズ ビーストンの事か? あんな事は初めてだ。今まで一度だってなかったんだが・・・
 グレゴール マーク、あの徴候を見たろう。目だ。瞳孔が開いている。見なかったか。
 ヘリーズ いや、ちょっと気がつかなかった。それがヒステリーの徴候だって言いたいのか。
 グレゴール 「言いたい」んじゃない、「言う」んだ、マーク。彼の私生活はちゃんと調べてあるんだろうな。(はっきりと。)これははっきりさせて置く。ヒステリーだけはご免こうむる。
 ヘリーズ 分かった。ブロードベントを出す。あいつの上司だ。報告は受けている筈だ。しかし明日か? 明日っていう話にしたんだったかな。
 グレゴール それは君が言ったんじゃなかったか。
 ヘリーズ 明日、重役連中全員の都合はつかないな、ジー・エイ。
 グレゴール(微笑んで。)そう。勿論君は重役会を通さなきゃ決定はしないよな、マーク。(軽い調子で。)じゃあ水曜日にしよう。僕の方も重役会のメンバーを連れて行こう。辛抱強く何時間も二人で眠る事にしよう。副社長も重役連も、ここぞと熱弁を奮って、自分達が如何に重要人物であるかを示そうと喋りまくるだろうよ。そういう会議の方がいいって言うんなら・・・(肩をすくめる。絵を見る。)あいつ何時この絵を買ったんだろう。なかなか絵の趣味もよくなったな。これは悪くない・・・
 ヘリーズ(聞いていない。)そんな事をやったって時間の無駄だな・・・
(グレゴール、振り向く。辛抱強く次の台詞を待つ。)
 ヘリーズ 二人だけで会うのなら、こっちはどうしても会計士は二人いるな。
 グレゴール 今日の経験からすると、その方がよさそうだ。
 ヘリーズ 君の方も二人連れて来たらいい。
 グレゴール 有難う。僕は一人で来る。
 ヘリーズ(諦めて、頷いて。)明日は何時(なんじ)にする。三人で行っていいのか。
 グレゴール オーケーだ。
(テーブルから声明文を取って、ヘリーズに微笑みながら、ゆっくりと破る。)
 ヘリーズ(微笑んで。)取らぬ狸は駄目だぞ、ジー・エイ。
 グレゴール それはやらない事になっている。(絵を再び見ながら。)有り難いことに少しは僕の影響があるようだ。なかなか会いに来る機会がないから、どうやら寂しいらしいな。マーク、君が時々来てやってくれれば・・・
 ヘリーズ そりゃ喜んで来るさ、ジー・エイ。喜んで。
 グレゴール(軽い調子で。)ああ、あの声明だが、まずかったな、破ったのは。
 ヘリーズ 何故。
 グレゴール 明日は声明を出す、と、記者団には言ってあるんだろう? 今日ウオール街で起こった事を考えれば、当然我々は何かは言わなきゃならん。(呼ぶ。)スヴェン・・・
 ヘリーズ しかし・・・今ここで何が言えるかとなると・・・ちょっと難しいな。
(この時までにスヴェン、登場している。)
 グレゴール こんなのはどうだろう。スヴェン、書き取ってくれ。
(スヴェン、さっとノートを取り出す。)
 グレゴール マーク・ヘリーズ アメリカンエレクトリック社社長は・・・(機嫌好く。)今度は「重役会」は省略だ。なあ、マーク。
(バジル、バーボンの壜(一本)を持って帰って来る。)
グレゴール ああ、バジル。ヘリーズさんに一杯注いであげて。
 ヘリーズ(バジルを見ながら。)じゃあ、ほんの少し。
(バジル頷き、盆の方へ進む。)
 グレゴール(スヴェンに。)アメリカンエレクトリック社社長は、次の声明を発表する。即ち、現在ウオール街及び他の株式市場に喧伝されている噂、「マンソンラジオ製作株式会社との合併失敗」・・・は、全く事実無根であると。
(バジル、驚いて振り向く。)
 ヘリーズ(こちらも驚く。)おいおい、それじゃあ、まるで「合併は実行される」というのと同じじゃないか。 例の君の台詞、「現在この時点では」をつけてくれなきゃ困る。「現在この時点では、事実無根」と。
 グレゴール(滑らかに。)そいつをつけるとしかし結局「合併は不調に終わるだろう」の意味になる。だから次にあっさりとこれをつけ加えればいい。「交渉は現在まだ意欲的に当該二社の社長間で進行中であり、最終的な結論が本日中に出る事が期待される。尚この結果は明日(みょうにち)声明として発表する予定である。」これでその点は充分曖昧になるだろう。どうだ、マーク。
 ヘリーズ(バジルを見つめている。)うん。充分曖昧になっているよ、ジー・エイ。
 グレゴール(命令するように、スヴェンに頷く。)よし。
(スヴェン、寝室に行く。中に入り扉を閉めるや否や、電話に飛び付く。狂喜してダイヤルを回す。)
 スヴェン(寝室で。低い声で、急いで言う。)ウイリアムか? これを書き取ってくれ。頼む、急いでくれ。一秒を争うんだ。そう。いいか。「マーク・ヘリーズ アメリカンエレクトリック社社長は、次の声明を発表する。即ち、現在ウオール街及び他の株式市場に喧伝されている噂、「マンソンラジオ製作株式会社との合併失敗」・・・は、全く事実無根であると。交渉は現在まだ意欲的に、当該二社の社長間で進行中であり、最終的な結論が、本日中に出る事が期待される。」待てよ、ウイリアム・・・「最終的な」は止めだ。「前向きの」にしろ。「前向きの結論」だ。そいつにしろ・・・構わん。俺の記憶は最近昔ほどよくない。分かったな?・・・そう。お前の言う通りだ。「最終的な」は「前向きの」を意味する場合もある。しかし「前向きの」と言えば「前向きの」の意味しかない・・・いや、覚えてはおられない筈だ。覚えておられたとしても、どうせこの俺の落ち度だ。会長の落ち度じゃない。いいか、ウイリアム。次に行っていいな?・・・「前向きの結論が、本日・・・七月十四日・・・中に出る事が期待される。尚この結果は明日声明として発表する予定である。」 ・・・よし、出来たな? 読んでみてくれ。・・・オーケー。それでいい。パール・ホワイトみたいなもんだ。(訳註 ここ不明。)危うい所で助かった。・・・そうだ、ウイリアム。これでまたトップの座に返り咲きだ。有頂天を少し抑えて、もう一回声明文を読んでみてくれないか。
(ここまでは観客に聞こえない。あるいは聞こえる必要がない。何故ならこの間、居間でヘリーズが、スヴェンの寝室への退場と同時に、バジルの方に礼儀正しく向かい、その上品な魅力を発散させるから。但しそうあからさまではない。)
 ヘリーズ バジル・・・こう呼んでもいいな、バジル。・・・さっき一度訊いたんだが・・・きっとそう無礼な質問ではない、と思うから訊くんだが・・・何か君、仕事をしているの?
(ヘリーズ、グレゴールをちらと見る。グレゴール、遠慮するように背を向ける。)
 ヘリーズ 勿論君が仕事をする必要などない事は分かっているんだが・・・
 バジル(緊張した声。)ピアノを彈いています。十二番街のクラブで。
 ヘリーズ そう。そこでかな、君が会ったのは・・・(グレゴールの方を顎で指す。バジル、両手をぐっと握ったまま答えない。ヘリーズ、くすくす笑う。)用心か。たいしたもんだ。「ヨーロッパの謎の男」の薫陶宜しきを得たんだね。
 バジル ええ。
 ヘリーズ 誇りに思っていいよ、非常に誇りに思って。君のその「友」っていうのは、実に偉大な人物なんだから。
 グレゴール(素早く、二人に背を向けたまま。)僕の事をそう褒めそやしちゃいけないよ、マーク。バジルはそういうのが嫌いなんだ。例のほら、「社会正義」を忘れちゃ駄目だ。
 ヘリーズ(くすくす笑って。)よし分かった。それは覚えて置く。(バジルに。)そのクラブの名前は?
(バジルが答えるまでに、かなりの間がある。父親の目を、ほとんど哀願するような気持ちで、見ようとする、
が、グレゴールは彼に背を向けたままである。)
 バジル(やっと。)グリーン・ハットです。
 ヘリーズ(手帳に書き止めながら。)グリーン ハット。十二番街ね。有難う。(まだ書きながら。)バジル・・・何ていうの?
(再び間。今度はグレゴール、振り向き、バジルの目を見る。しかし目には何の示唆もない。口に出して言うとすれば、「なあ、バジル、お前が今私を裏切り、また百万人の失業者を出したいなら、それでいい。私は今お前の意のままだ。」バジル、目を伏せる。)
 バジル(呟く。)アンソニー。
 ヘリーズ(書き止める。)バジル・アンソニー。電話番号は?
 バジル グラマーシー、七ー三九六一。
 ヘリーズ 三九六一と。(ノートをしまう。)ジー・エイがヨーロッパに行ったら、電話してもいいかな。これが私の名刺だ。(名刺を渡す。)夜のデイトはどうかな?
 バジル(名刺を見て、突然吃る。)ぼ、ぼ、僕は、お、お、遅くまで、は、は、働くんです、ヘリーズさん。
(グレゴール、すぐにバジルの傍に寄る。腕を保護者のように優しく肩に回す。)
 グレゴール バジルの吃りは、特別な時にしか出ないんだ、マーク。これは喜んでいいぞ。
(グレゴールの手、バジルの肩をここではぐっと掴んでいる。ヘリーズ、ウイスキーを飲み終わる。)
 ヘリーズ 喜んでいい? おだてちゃいけない、ジー・エイ。僕はもう五十五歳だ。
 グレゴール その年には見えないよ、マーク。誰も思いはしない。なあ、バジル。
 バジル(やっと声が出る。)え・・・ええ。
 ヘリーズ じゃあ、これで、ジー・エイ。明日三時だな?
 グレゴール 君は会計士達のお付きを従えて、こっちは僕だけ。哀れに、孤独に、たった一人で、君達全員の攻撃に立ち向かわなきゃならない。(脅かすような調子で。また括弧付きの台詞で。)「まだ乳離れが終わっていないのか。」マーク、もう一人会計士を減らせないのか。
 ヘリーズ うん、まあな。じゃあ、ブロードベント一人にするか。
 グレゴール ブロードベントはヒステリーじゃない。彼となら冷静に話せる。
 ヘリーズ(愛想よく。)よし。そこが僕も心配していたところだからな。(手を差し出して。)オーケー。そいつは約束するよ、ジー・エイ。(バジルを見て・・・バジルはまだ父親にしっかり掴まれている。)会えてよかった。実に。
 グレゴール(バジルを優しく押しやって。)お客様をお見送りして、バジル。名誉あるお客様を。車は待っているんだな、マーク。
 ヘリーズ(扉の所で。)うん。お休み、ジー・エイ。(この時までに扉を開けているバジルに。)ああ、これは有難う、バジル。
 グレゴール お休み、マーク。好い夢を。
(ヘリーズ退場。バジル、後について退場。一人になるとグレゴールの表情、完全に変貌する。物柔らかな、優しい仮面は脱ぎ捨てられ、両手は天に向けられる。天、あるいは彼の崇拝している神があればその神に。その時の表情には、彼を脅かした運命に対決して勝った、運命に対する勝利の勝鬨がある。この勝利を今や勝ち取ったと信じている・・・それは無理もない話であるが・・・。スヴェン、電話を終えて居間に戻ってくる。グレゴール、丁度あからさまな勝利の快感に酔っている。グレゴール、それを恥じる事なくスヴェンの方を向く。両手は高く掲げたままで。スヴェンも笑いながら駆けより、同じポーズを取る。グレゴールも笑い出す。二人、抱き合う。笑いの発作に罹ったようにゲラゲラと笑う。グレゴールの方はヒステリックに、疲れ果てて。笑いの最高潮に達した時バジル登場。二人、彼に気づかない。扉の傍に立ちバジル、二人を黙って眺める。)
 スヴェン(やっと。)会長! 会長! 今までだっていろいろありましたけど、こんなにうまく行ったのは今度が・・・
 グレゴール(まだ笑いながら。)言わなくていい、スヴェン。褒められるだけの事はやっている。おお。
(グレゴール、全く疲れ果て、ソファに倒れる。)
 グレゴール(弱々しく。)疲れた。どのぐらい疲れたろう。もう後一秒でもあいつと付き合っていたら・・・あの馬鹿な、ピンクの顔をしたぢぢいめ・・・そうだ。ああいう奴を表現するアメリカ英語があった。何だったかな、スヴェン。そうだ、ピッタリのやつがあった。イギリス英語じゃないやつだ。
(スヴェン、首を振る。)
 グレゴール(片手を両目に当てる。)時々駄目な時があるな君は、スヴェン。出て来ない時が・・・分かった。「おとぎ話の顔」だ。あの馬鹿な、ピンクの顔をした、おとぎ話のぢいさん・・・
(バジル、父親の顔をじっと見た後、寝室に駆け込む。扉をバタンと閉める。)
 グレゴール(眠そうに。)あれは何だ。
 スヴェン ヴァシーリイです・・・寝室に。
(間。グレゴール、手を目に当てたまま、眠っているように見える。)
(その間バジル、自分のシャツを剥ぐように脱ぎ、半分に引き千切って、部屋の隅に投げる。それからシャワー室に駆け込み、扉をバタンと閉める。)
 グレゴール(やっと、眠そうに呟く。)あいつを見てやってくれ。
(スヴェン、寝室へ行き、シャワー室の扉を叩く。)
 スヴェン ヴァシーリイ・・・ヴァシーリイ・・・ヴァシーリイ、君、大丈夫か?
(返事なし。スヴェン、居間に戻って来る。)
 スヴェン シャワー室に入って、返事なしです。
(長い間。グレゴールは眠っているともとれる。)
 グレゴール(やっと。)当たり前だ。
(グレゴール、見た目にもそれと分かる努力をして、やっと体を起こす。あぐらをかく。疲れの為にまばたきをし、ふらつきながら、しかし微笑んで。)
 グレゴール 仕事だ。「合併は成功だ。」のニュースを傘下の筋全部に流すんだ。
 スヴェン(呟く。)大丈夫ですか。
 グレゴール ポーランドとの取引で「くすね」て銀行に預けてある七十万ドル全部を賭ける。どうだ。
 スヴェン(間の後。)会長、それは・・・
 グレゴール 君は二の足を踏むと思ったよ。だがやる。なあスヴェン、これほど安全な話はないんだ。(だから他にも知らせてやらなければ。)(心から楽しそうに。)バルティモア行きの切符か! あの娘、変わっていたな。魅力もまあまあある。選りに選って何故ヴァシーリイなんかと結婚したいんだろう。えーと、待てよ。
(バジル、寝室から出る。)
 グレゴール 何の話をしていたんだったか。そうだ、こっちの株屋全部にこの情報を・・・
(バジル、居間に入る。父親と面と向かう。グレゴール、手の下から睨み返す。口は相変らずスヴェンに対する台詞。)
グレゴール 合併は明日滞りなく実現する。七千五百万ドルの現金が即座に入って来る。従って危機は去ったんだ。支払期限の来ているものに対する手当てはこれで全て賄える。アントネスキュー傘下にある世界中全ての企業に、危機は去ったのだ。うちの株式取引所全部に知らせるんだ。命令は、「買え」だ。そして「買い続けろ」だ。
(グレゴール、手を振ってスヴェンを去らせ、次にすぐ呼び戻す。グレゴール、相変らず怯む事なくバジルを見ている。)
グレゴール それからな、スヴェン。私は自慢はしない男だ、君も知っての通り。しかしこの際、傘下の士気昂揚の為だ、私の事に言及してくれ。 そうだな、「ボスはやはりボスだ。」ぐらいかな。どうだ、スヴェン。
 スヴェン 素晴らしいです。
 グレゴール Mon petit Vassily, tu as ete absolument parfait. (ヴァシーリイ、お前、完璧だったよ。)ヘリーズさんの前でお前をペデラストとして扱わなきゃならなかった。 しかし他には手段がなかったんだ。私にそう腹を立てないでほしいんだが。
(間あり。バジル、見た目にも明らかに自分の父親を物理的に攻撃するのを、やっと抑えている。スヴェン、それを見て取り、グレゴールを守る構え。グレゴールもそれを感じ取っている。しかしそのまま息子を見て微笑んでいる。)
 バジル(やっと、静かな強さをもって。)あんたはカスだ。生きていて、息をしていて、この世に存在していて、僕の父親だ。だけどあんたはカスだ。
(グレゴール、答えない。面白そうに息子を見上げている。バジル、急に後ろを向き、玄関から駆け出る。扉をバタンと閉める。)
 スヴェン ヴァシーリイ、(何処へ行くんだ。)帰って来い、ヴァシーリイ。
 グレゴール 行かせてやれ。
 スヴェン 後を追います。
 グレゴール 何故。
 スヴェン あの気分でニューヨークをほっつき歩かせるのは危険です。ひどく危険です。
 グレゴール 何も出来はしない。
 スヴェン 喋る事が出来ます。
 グレゴール(ゆったりと寛いで。)喋りはしない。
 スヴェン(やはり心配して。)ヘリーズに一言でも伝わればおしまいです。ヘリーズみたいな手合いが一番嫌う事、それは人に馬鹿にされたと・・・
 グレゴール(眠そうに呟く。)一言だって、ヴァシーリイからは出やしない。
 スヴェン 保証は出来ません。
 グレゴール(眠そうに呟く。)保証出来る。五年前に、あいつは私をおしまいに出来た。その機会があったのだ。そのチャンスをあいつは捕えなかった。だから今回も捕えない。この世には、事をなす人間と、事をなさない人間がいるんだ、スヴェン。お好みならそれを、強い人間と弱い人間、と言ってもいいだろう。君にはあれがどちらに属しているか、もう分かっている筈だ。
 スヴェン(間の後。)五年前彼が知っていた事は?
 グレゴール(また間の後。)何もかも。
 スヴェン どうして教えたりしたのですか。
 グレゴール あれは私の息子だ。子供は世の中というものを、親から教わらねばならない。
 スヴェン 親を嫌っている子供にはその必要は・・・
 グレゴール なんだスヴェン、君も時には随分馬鹿な事を言うもんだね。(苦労してやっと起き上がり、あぐらをかく。)私は眠られないんだ。後で個人的にローマに電話しなきゃならん。その薬をもう二錠くれないか。
(スヴェン、壜を取り出し、手のひらに二錠振り出す。そして渋々グレゴールに渡す。)
 スヴェン 飲み過ぎは危険です。
 グレゴール 危険? ヴァシーリイにマーク・ヘリーズの電話番号を持たせて、ニューヨークをほっつき歩かせて置く。これ以上危険な事はない筈だ。そのヴァシーリイだって私に害は及ぼさない。当然この薬だって私に害は及ぼさないさ。
 スヴェン 私が時に馬鹿な事を言うっておっしゃいましたね。しかしヴァシーリイが貴方を殺そうとした場面に、私は居合わせていたんです。ご存じでしょう?
 グレゴール あいつが家出をした夜の話か? おいおい、スヴェン。私の頭上二メートルにぶら下がっていたシャンデリアに一発弾丸が当たっただけだぞ。本気で殺そうなんていう話とは程遠いよ。それにあのピストルは私のものだ。あの十分前に、あいつに渡して、父親殺しを唆(そそのか)したんだ。・・・しかしあのタマが本気でこの私の心臓を狙っていたとしても、そしてあいつがいくら殺す気持ちでピストルを構えたとしても、まづ可能性はない。あのヒステリー症状じゃあな。・・・だいたいいくら憎しみがあったって、人を殺せるものじゃない。憎しみと人殺しには、何の関係もないのだ。
(間。スヴェン、肩をすくめる。)
 スヴェン 彼に嫌われるよう、最大の努力をなさっていましたね、いつも。
 グレゴール ほう、私が? そうか、そうしていたかな。
 スヴェン それに今夜だって。
 グレゴール 今夜? (肩をすくめる。)そうかも知れない。しかし仮令(たとえ)そうであっても、無意識にだな。今夜はあの子は役に立った。それだけの事だ、と思うが。
スヴェン 彼にどういう役を割り振っているのか、予め知らせませんでしたね。あれは大きな賭でした。
 グレゴール そうだ。大きな賭だった。あいつにピストルを渡して撃ってみろと唆した五年前の賭よりは、ずーっと大きな賭だった。(楽しそうに。)しかしスヴェン、今日の方が何層倍か面白かった。今日のは私一人でやったんだ・・・共犯者なしで。私にはそのことが大切だった。君はさっき、傘下の会社の士気昂揚の話をしたが、私の士気はどうなっていたと思う? 一日中追い立てられて、外套の襟を立ててワシントン・スクエヤーの公園のベンチに坐っているこの私。考える事といえば、インサルの奴がどの貨物船で夜逃げをしたか、クルーガーの奴がパリの(安宿の)ベッドで、心臓を打ち抜いて長々と横になっている姿、ローエンスタインの奴が、飛行機から飛び降りて自殺した事、こんな事ばかりだ。(後から考えてみると、これも考えたな、と)うん、しかし・・・面白い事も思いついた。 ワシントン・スクエヤーの再開発で、うまいアイデアーが浮かんだんだ。適当な時期に、この事を思い出させてくれ。いいな?
(この時までにグレゴール、立ち上がっている。そして元気よく部屋を歩き回っている。)
 グレゴール そうだ。今夜、下町のこの小さな洞穴のこの私が、再び取り仕切る人間になったのだ。スヴェン、君も賛同してくれるだろう。この私一人が、地球の表面を変えて来たのだ。・・・君の前では少しは誇大妄想狂になってもいいだろう、スヴェン。これで結局ムッソリーニは私からの借入が可能になる。それにドルファスだって、順調に行けば大丈夫だ・・・そしてこれが歴史の進路を変えるんだ。どうなんだ、スヴェン。これでもまだ私はヴァシーリイに礼を言わなきゃならんのか。他の奴じゃなくて、あのヴァシーリイに。
 スヴェン どうして彼に御自分を憎ませようとなさるんですか。
(間。グレゴール、急に片手を頭に当てる。ひどく面食らった様子。)
 グレゴール 急に話題を変えたな、スヴェン。今は私の事を話していたんじゃなかったのか。
 スヴェン ええ、でも、その前はヴァシーリイについて話していました。
 グレゴール(頭を支えて。)何故あの子が私を憎む様に態々するのか、それが質問だったな。
 スヴェン ええ。答えるのがお嫌なら気になさらないで・・・
 グレゴール(怒って。)私に答えられない質問など世の中にない。どんな事でも胸をはって答えられるんだ。(相変らず頭を支えている。)あの薬は効き目が早すぎる。あるいは何か変な事が起こっているな。どうも集中力がなくなっている。
 スヴェン(即座に立ち上がり、グレゴールの傍に立つ。)会長、少なくとも二時間はあのベッドで寝なきゃいけません。
 グレゴール(スヴェンを押しやって。)眠くはない。しかし集中力を失ってはいかん。まてよ・・・もしあれが起こっていたら・・・ちょっとあの資産表の事を考えさせてくれ。(間の後。)そうか、よし。(今では通常の声。一瞬前、何かのため真青になったらしいと観客に分かる。)何故すぐ答が出ないか、それは勿論あの子について今までハッキリと考えた事が一度もないからだ。それにこの三昼夜の徹夜、これのため余計に何も出なくなって・・・
 スヴェン ヴァシーリイの事なんかもういいです。
 グレゴール いや、君が私に質問をした。私は答える義務がある。少なくとも、答を出そうと努める事はしなければ・・・(間の後。)あいつが男だったのがまずかったんだ、勿論。それは明らかだ。娘だったら、愛されても気にならなかったかも知れない・・・うん、女だったら違っていたろう。しかしどうかな、それも。(非常な集中力をもって考える。間の後。)あの子が子供の時は何でもなかった。何でもないどころか、良い関係だったんだ。覚えているだろう?
 スヴェン ええ。はっきりと。
 グレゴール あの頃は、あの子が私に愛情を持っていても、危険な事はあるまいと思っていたのだ。
 スヴェン 危険? 何の危険でしょう。
 グレゴール この私への危険だ。私の生き方への危険。私の世界を脅かす危険。世界中の人間が私を英雄として崇めても構わない。まあ幾人かはそうしてくれているようだが・・・それには何の危険もない。しかし自分自身の息子から愛され、尊敬されるのは・・・特にあの子から愛されるのは・・・駄目だ、これは。私はありとあらゆる危険に飛び込んでみせる・・・君はそういう私を知っている、スヴェン。・・・しかし心の全き清純に近寄り過ぎる事、この危険はいかん。「そして美徳が彼の胸に忍びこんだ。」・・・これが聖書の文句だったな。
 スヴェン ええ。新約聖書です。
 グレゴール 旧約の方がいいんだが。そう。これが君の質問に対する答だ。考えてみれば簡単なものだ。何故こんなに長い間答が見つからなかったのか不思議なくらいだ。私はあの子に、私を愛させる代わりに、私を憎ませるようしむけた。少なくとも私には「憎しみ」は理解出来るからだ。感じるのは駄目だ。私は「憎しみ」は感じる事は出来ない。(あの子に限らない。)どんな人間にも。(人間どころか)何に対してもだ。しかし「憎しみ」は理解出来る。味わう事が出来るくらいだ。そしてよい父親というものは、必ず自分の息子を理解しなきゃいけないのではないか。
(間あり。グレゴール、スヴェンを見る。ショックを与えたのかと。)
 グレゴール あの薬が效き過ぎたらしい。口に出すべき事じゃなかったかな。
 スヴェン 父親なら、そう考えるものでしょう。きっと。
 グレゴール 君は、息子が二人だったね。好きなのか。
 スヴェン ええ。それは。
 グレゴール そして彼らも君を愛している?
 スヴェン ええ、時々。
 グレゴール その時には、嬉しい?
 スヴェン ええ。(グレゴールのさっきの言葉を少し強めて言う。)愛を味わう気持ちです。
 グレゴール(再び坐って。)どうやら私は悪人らしい。
 スヴェン いいえ。悪人になる為には最低、悪とは何か、の感覚がほんの少しでもなければなりません。
 グレゴール(興味を引かれて。)ほほう、私にはそれがない? うん、ないかも知れない。しかし良心はあるぞ。慥にある筈だ。そうでなきゃこいつを追い払おうと、あんなにやっきになったりする筈がないからな。
 スヴェン(微笑んで。)何時ですか、良心が出て来たのは。
 グレゴール(肩をすくめて。)人間の姿をして出て来たな。ちゃんと追っ払った。五年前だ。
(正面の玄関にノックあり。スヴェン、さっと立ち上がる。)
 グレゴール 私はあの子の言った通りの人間なのか、スヴェン。私はカスなのか。
 スヴェン 会長はグレゴール・アントネスキューです。そんな大物なんですから、ちょっと後ろに下がっていて下さい。今ドアを開けますから。
 グレゴール 隠れろと? 何故だ。一時間前だったらそうだろう。だが今は違う。(扉の正面に立つ。)さあ、私はここに立っている。全世界を相手にしても臆すところはない。
(この時までにスヴェン、扉を開けている。外には正装のフロレンス アントネスキュー伯爵夫人。予期されていたレインコート姿ではなく、しゃれたイヴニングドレス。宝石は予期通りつけている。二十七、八。非常な美人。)
 グレゴール (平坦な声。)ああ、君か。(挨拶の為に前へ進む。)
                  (暗転。) 
                 (第二幕終。)

     第 三 幕
(グレゴール、挨拶の為に妻の方へ進む。)
 フロレンス これ、一体何の真似?
(アントネスキュー伯爵夫人としての三年間に、上流の英語のアクセントを身につけては来たが、基本的にはまだ、平民のアクセントである。)
 グレゴール(キスしながら。)機嫌はどうだね、フロレンス。
 フロレンス お尋ねになったから言いますけど、死ぬほど心配したわ。ジョンが私に何て言ったと思う? 貴方はもうFBIにつかまって、牢屋にぶち込まれているって。その時の私の気持ち、考えてみて。
 グレゴール そうじゃないって、身をもって君に示せて嬉しいよ。
 フロレンス でもそんな事を聞かされた私の身にもなって頂戴。それにジョンがまた別の話もしたわ。飛行機の乗務員に変装してアクイタニアに逃亡したって。
 グレゴール(スヴェンに。)何なんだ、このジョンって男は。
 スヴェン 奥様付きの運転手です。
 グレゴール 自分で選んだ男か、それとも派遣されて来たのか。
 フロレンス(むっとして。)私が選んだ人よ。一人は許すと仰ったじゃありませんか。それに選んだ時、ちゃんと貴方に言いましたわ。
 グレゴール そうだったな。しかし、そんな噂を君に話して脅かすような男なら、早速馘にしなきゃならんな。
 フロレンス そう簡単に馘になんか出来ません。
 グレゴール そうだ、それも前から言っていたな。
 フロレンス 何がどうなっているんですの。もう話して戴きたいわ。
 グレゴール どうやら地下鉄で来たんじゃなさそうだな。
 フロレンス 地下鉄でなんか来るもんですか。セルゲーイに言ってやったわ。どうしても地下鉄で行かせたいなら、まづ私をぶん殴って気絶させてからにして、って。
 グレゴール 成程。で、あいつはぶん殴らなかったのか。
 フロレンス(グレゴールを無視。スヴェンに話しかける。)本当に馬鹿げた話。そこいらの普通の女の格好に変装しろ。そして、秘密の階段を降りて・・・そんなハリウッド映画の真似事が出来ますか。N'est ce pas, Sven? (でしょう? スヴェン。)
 スヴェン Vous etes ici, Comtesse. C'est la l'important.(ご無事でお着きに、奥様。それが一番大事な事です。)(手にキスする。)
 フロレンス Merci, mon cher.(有難う、スヴェン。)(回りを見て。)一体ここは何なの? もしこれが目的地だとしたら。
 グレゴール グリニッチ・ヴィレッジの地下室のアパートだ。最近こういうのを持つのが流行っているんだ。スヴェン、サインをして貰う小切手を出してくれ。
 フロレンス また小切手?
 グレゴール 必要なんだ。
 フロレンス(スヴェンから小切手とペンを渡されて。)また金額の記載なしの小切手ね。この三週間で、もう二十枚もこんなのにサインしたわ。アントネスキュー基金からどれだけくすねようっていう腹なの?
(スヴェンとグレゴール、笑う。)
 フロレンス 何がおかしいの。
 グレゴール 「くすねる。」っていう言葉で、思いだす事があってね。
 フロレンス 母子センター設立のお金は残っているでしょうね。
 グレゴール 心配はいらん。君が心を痛めている事業に差し障りがあるような事はしやしない。支払で急を要するものだって、二、三週間待ちさえすれば大丈夫だ・・・スヴェン、君のサインも頼む。
 フロレンス(ギョっとする。)でも理事会は今週中に支払をすると、業者に約束したのよ。
 グレゴール じゃあ、それまでにパリに行くんだ、フロレンス。そして長距離電話には一切出ない。スヴェン、例の情報の連絡を頼む。
 スヴェン 暗号でですか。
(グレゴール、頷く。)
 スヴェン 暗号にするのに、少し暇がかかりますが。
 グレゴール(しかたがない。)生のままでは、危険が大き過ぎる。
 フロレンス ちょっと。何かいかがわしい事に、私を巻き込もうっていうんじゃないでしょうね。
 グレゴール いかがわしい事に巻き込む? アントネスキュー基金に? 慈善事業では世界一の財団法人に? それに君。世界一の慈善家の君に? いかがわしい事が出来るだなんて、よくそんな事が頭に浮かぶな。(スヴェンに。)そのファイルを取ってくれ、ムッソリーニへの貸付のファイル。
(スヴェン、ファイルを渡す。それから寝室へ行く。次の場の間中ずっと、ペンと紙と暗号マニュアルで掛かりきりとなる。グレゴール、礼儀正しくフロレンスの方を向き、彼女の傍を通り過ぎる時、心ここにない様子でキスする。椅子まで行き、坐り、ファイルを調べ始める。この場の間中グレゴール、指定された瞬間以外は、決してファイルから目を離さない。しかし、ムッソリーニへの貸付に関する事に明らかに集中はしていても、フロレンスに対する彼の返事はきびきびしたものであり、間髪を置かない。観客は、彼の集中力の一パーセントを当てさえすれば、フロレンスとの会話は維持出来ると感じる。またそれで充分である事が示される。)
 フロレンス(回りを見ながら。)何号の持ち物、このアパート?
 グレゴール 何号?
 フロレンス(苛々して。)どの女の人。
 グレゴール 女じゃない、フロレンス。どうしてもって言うんなら、男の友達だ。
 フロレンス(軽蔑するように。)それは嘘。貴方について人は盛んにいろんな事を言っている、そして大抵は当たっているわ。でもそれは駄目。嘘。さあ、一度くらいは本当の事を言ったら。
 グレゴール 君とはいつも本当の事しか話さない。
 フロレンス そう。それがいつもの貴方の言い草。(だんだん怒ってきて。)私は正式な妻の筈よ。違うの?
 グレゴール 正式の妻だよ。
 フロレンス じゃあ言って頂戴。誰のものなの、このアパート。
 グレゴール 若い男のだ。偶々非常によく知るようになってね、この男を。君は知らない。これからも知り合いにはならないだろう。君がこの男を知る筋合いのものは何もないし、名前を言っても意味がない。
 フロレンス そう。この三年間何時だってその答ね。分かったわ。もう一つ質問。これには本当に、ちゃんとした答を戴きます。どんな事があっても。
 グレゴール そりゃ大丈夫だ。私の答えられる事ならね。
 フロレンス そんな大切な質問をするっていうのに、私の顔を見ても下さらないのね。
 グレゴール(礼儀正しく。)それは見るさ、君。(丁度ファイルの読み終えた場所に爪を立てて、フロレンスを見上げる。)君にはいづれにせよ謝らなきゃならないと思っていたんだ。君と話をしながら、こんな数字なんか調べているんだから。しかし今夜は時間が勝負なのでね。
 フロレンス そう。ご自慢の集中力ね。誰でも知っているわ。資産表を調べ、秘書に口述筆記をさせ、電話を掛ける、そして妻に愛を囁く・・・これを一度にやるの。
 グレゴール(間の後、非常に静かに。)質問は何だろう、フロレンス。
 フロレンス 何時も月曜日になるとする質問。ロングアイランドで貴方と週末を過ごしたのは誰?
 グレゴール スヴェン、彼の妻、それに彼の子供達だ。ウイリアムとセルゲーイは勿論いた。それにニューヨークからは沢山人が来ては帰って行った。君も知っているだろう。今度のはかなりな危機だったんだ。(丁寧に。)じゃあちょっとまた失礼して・・・
(視線を再びファイルに戻す。ページに立てていた爪を離す。)
 フロレンス 危機? そう、危機があったのね。朝からカメラマン達がよそのうちのテラスからこっちを狙っている。あれを私が喜ぶと思って? 私の寝室を窓越しに覗いているの。
 グレゴール 連中のとった君の写真はいづれも素敵な写真だろう、きっと。それに君一人の写真の筈だ。
 フロレンス 一人だろうと、二人だろうと、気にする貴方じゃないわ。
 グレゴール 気にするな、私は。
 フロレンス 公衆の手前ね。
 グレゴール(ちゃんと目を上げて。)ひどく気にするね、私は。
(グレゴール、フロレンスを静かに、真面目に一瞬見つめる。それから再びファイルに視線を戻す。)
 フロレンス またね。また、また。いつも悪いのは私なんだから。安心して頂戴、今朝は誰もいなかったわ。分かったわね。それに私達がニューヨークに来てひとつきになるけど、その間一度もありませんからね。
 グレゴール そう。ジョンを除いてはね。
 フロレンス(怒って。)ジョンは一晩中泊ったりはしないわ。
 グレゴール それを聞いて嬉しいよ。
 フロレンス ジョンと一緒のところを召し使い達に見られるような馬鹿じゃないわ。それぐらいの用心はする女なの、私。
 グレゴール それはそうだろう。分かってるよ、フロレンス。
 フロレンス また張り込みね。どうしてみんなが貴方の事を天才って言うか知ってるわ、私。人を張り込む天才なのよ、貴方は。他の何でもありゃしない。
 グレゴール それに加えて数字を覚えるのが特技ときてる。
 フロレンス 週末に行ったのはどの女?
 グレゴール 女じゃないよ、フロレンス。
 フロレンス 先先週の週末のあの女だと思う。あのフォリーズ・ガールのあの子。あの子が今きっとニューヨーク・ハーレムのトップなんだわ。
 グレゴール もしニューヨークにハーレムがあったら・・・(いや、ニューヨークに限らない。)ロンドン、パリ、ブカレスト、どこでもいい、もしそんなものがあったとしたら、そのトップは君以外にはいないさ。
 フロレンス そうね。どうも有難う。きっとそういう役割ね、私の地位は。アントネスキュー・ハーレムのトップの座。でもどうしてトップ? ただこの指輪、それに正妻という名。私、ただ何かのトップなのね。そういうの、何とか言ったわ。
 グレゴール(フロレンスを見ながら。)名義上の。
 フロレンス 名義上のトップ。そう、それが私。私でいいものといったら、セックスね、それにサイン。それだけ。
 グレゴール 違うな。君の会話は屡々ひどく刺激的だ。本当だよ、フロレンス。
 フロレンス でも私は実質上のトップじゃないの。それは貴方が私の事を好きだから。女達の中で一番。分かってるの。
 グレゴール そう、フロレンス。私が一番好きなのは君だ。
 フロレンス じゃあ私が妻っていうの、どういうこと? 貴方私を妻として扱った事あって?
(グレゴールの頭、再びファイルに戻る。)
 フロレンス 本当の妻として。ロンドンの売春婦、ただのタイピスト、可哀相なフローレンスとしてじゃなくて。世界中を見て歩かせたり、一分の隙もないお洒落をさせたり、伯爵夫人の称号を取らせたり、こんなのみんな貴方が三年前思い付いた冗談のせいなの。貴方は魔法の杖を振って、その私の夢をみんな叶えてくれた。・・・それも無駄にじゃないわ。アントネスキュー基金のためにこの私の名前が使えるようにしただけ・・・
(間。)
 グレゴール(ページを繰って。)世界の歴史で最も重要っていうこの瞬間を態々選んで、私は君とこんな話をぐたぐた喋っている。家庭内の小さないざこざをね。
 フロレンス 世界の歴史。それが貴方の答ね。世界の歴史。私をもう一度見て頂戴、グレゴール。
(グレゴール、正確に指をファイルに置き、礼儀正しく見上げる。)
 フロレンス 私は世界で最も有力な金融家の妻なのね。そうなのね。
 グレゴール 私の他にこの部屋には金融家と言える人物がいないね。するとそういう事になるだろう。
 フロレンス 貴方、この二、三日の私の気持を思って下さった事があるの?
 グレゴール(相変らずフロレンスを見ながら。)その質問は今晩これで二度目だが・・・
 フロレンス 皮肉はやめて。これは真面目なの。家に釘づけにさせられて、新聞の、何段にも抜いたあの大きな見出しを読む時の私の気持。「アントネスキュー危機」「アントネスキュー倒産か」。それなのに貴方に話しかけることも出来ない。そうそう、それにこんなのがあったわ。「アントネスキュー帝国揺らぐ」って。 どうしてこれを覚えているか分かる? この帝国っていう言葉のせい。もし貴方がその国の王様なら、私は女王様。もし貴方が揺らいでいるなら、私も揺らいでいる筈。
 グレゴール そうだ。
(グレゴール、感情を抑えてファイルを置き、鉛筆で印をつけ、立ち上がり、フロレンスに近づく。)
 フロレンス それに、まだあったわ。
(グレゴールが近づいて来るのを見て、怖れのために声、低くなる。グレゴール、両手を優しい動作でフロレンスの両肩に置き、頭の頂上にキスをする。)
 グレゴール 有り難いことにね、私の地位も君の地位も、もう揺らいではいないんだ。
 フロレンス(グレゴールを見上げる。)騙しっこなしよ。
 グレゴール 騙しっこなしだ。危機は終わった。
 フロレンス そう。私、驚かないわ。切り抜けるって分かっていたの。
 グレゴール ふーん、そう?
 フロレンス 私、貴方の知り合いのいろんな人に話したけど、みんなそう言っていたわ。(訴えるように。)でも私、心配する権利はあると思って・・・
 グレゴール 君の心配が一番身に沁みるよ。
 フロレンス(真面目に。)いいえ。妻としての心配しか、私には出来ないの。
(フロレンス、立ち上がり、グレゴールの正面に向く。)
 フロレンス さっき、週末にはどの女が来たのか訊いたわね。あれは嫉妬で言ったんじゃないの。本当。普通の嫉妬じゃないの。こんな時、貴方が誰かの肩に凭れて泣かなきゃならないとしたら、それは私の肩でなきゃいけないって、そう思ったの。
 グレゴール 実際はね、私は誰の肩にも凭れては泣かなかった。
 フロレンス 文字通りの意味じゃないわ、勿論。貴方が泣くなんて・・・その時は終よ。ちょっと慰めが欲しい時っていう意味。
 グレゴール(優しく撫でて。)だから今夜来てくれって頼んだんだ。
 フロレンス(怒らないで。) そんな事言わないでいいの。何故呼ばれたかは分かっているの。あのサインの為。セルゲーイがばらしてくれたわ。
 グレゴール ひどいな、あいつ。
 フロレンス グレゴール・・・私、貴方のこと愛せてよ。そのきっかけ、きっかけがあればいいのよ。
 グレゴール きっかけは出来るさ、フロレンス。君がここにいてくれさえすれば。(時計を見る。)一時間後だな。今はちょっと失礼。
(フロレンスの背中を通り抜けて、自分の椅子のところへ行き、ファイルを取り上げる。先程読み終わった場所に正確に戻る。)
 フロレンス(訴えるように。グレゴールが歩み去る時。)その愛じゃなかったんだけど、私が言っていたの。
(フロレンス、再び坐る。グレゴールの下を向いている頭をどうしようもなく見つめる。間あり。)
 フロレンス(やっと諦めたように。たとえ言ったとしても、そして夫が一言も漏らさず聽いていてくれるとは分かっていても、結局自分自身に話しているに過ぎないと自覚して。)もう一つ新聞記事があるわ。何故か頭にこびりついている。解説の記事か何かだった。「金融界の孤独な天才、アントネスキューは、今彼の生涯で最大の難関に遭遇している。」孤独な天才。馬鹿な話ね。孤独な天才だなんて。
 グレゴール その言葉の「天才」っていう部分を笑えと言うのなら、笑おう。(私は天才なんかじゃないからね。)しかし、「孤独な」という部分、これは笑えない。却って真面目な顔になるだろう。
 フロレンス 「孤独」? 「孤独」ですって? 貴方が?
(グレゴールから答なし。)
 フロレンス フォリーズ・ガールはどうなの? あのイタリア女は? あーあ、あんまり多過ぎてリストのどの辺から始めたらいいか、分かりはしない。
 グレゴール(いつもの抑揚のない声で。)孤独の度合いをベッドの大きさで計れるとは思えないが・・・
 フロレンス そうよ。私が言いたいのはそこなのよ。さっきから言いたいと思っていたのがそれなの。貴方には心から貴方を愛す人がどうしても必・・・
(玄関の扉、さっと開き、バジル登場。グレゴール、ファイルから目を上げ、バジルを見る。指は読み終わった場所につける。バジルを見て、満足だという微笑。バジルの顔、全く無表情。バジル、二種類の新聞を小脇に抱えている。(ニューヨーク デイリーミラーとニューヨーク デイリーニューズ・・・二つとも早朝版。)バジル、背を観客に向けたまま、父親に対している。長い間。それから最初の新聞をゆっくりと広げる。見出しがグレゴールに読めるように。グレゴールの顔が、今度は無表情になる。バジル、グレゴールの傍の床に新聞を奇麗に畳んで置く。それからもう一つの新聞を開いて、見せる。次に急にウイスキーを注ぎに行く。フロレンスも新聞の見出しは見ている。)
 フロレンス ああ、そんな・・・
(フロレンス、新聞を手に取ろうと、一歩踏み出す。しかしグレゴールの冷たい声がそれを止める。)
 グレゴール スヴェンにここに来るように言ってくれ。
(フロレンス、寝室の扉に進む。)
 フロレンス スヴェン・・・来て頂戴。ひどい事よ・・・すぐ来てって。
(スヴェン、居間に駆け込む。)
 グレゴール(静かに、スヴェンに。) ヴァシーリイが今新聞を二部買って来た。タブロイドの早朝版だと思う。一つの見出しは「アントネスキュー起訴さる。」もう一つは「アントネスキュー逮捕間近。」クエスチョンマークつきだと思ったが、内容を読んでみてくれないか。そして何のことか、私に教えてくれ。
(スヴェン、新聞をひったくるように取る。)
 スヴェン(読みながら、激しくバジルに。)君がやったのか。
 バジル どうして僕が。 三十分前に出たばかりじゃないか。バーにいて、これを買う為に出て来た。それだけだ、僕のやった事は。
 グレゴール(優しく。)勿論バジルじゃない、やったのは。
(スヴェン、記事を読み続ける。目は欄から欄へと移る。グレゴール、はっきりした感情の表示なくスヴェンを見ている。しかし椅子をしっかりと握っているのが観客に分かり、その無表情な顔は・・・グレゴールとして 肉体の力の許す限りこの姿勢、表情を保っていたいのだが・・・もうすでに崩れる寸前である。)
 スヴェン(やっと。)ロンドン銀行が会長の逮捕状発令を要請しました。
 グレゴール ロンドン銀行?
 スヴェン(読む。)銀行側からの詳しい説明はない。しかし訴えの根拠は、一九二九年アントネスキュー財団への貸出に対する担保として当銀行に預けられた、ある有価証券に関わるものと見られている。
(スヴェン、問い質したそうにグレゴールを見上げる。グレゴール、ぼんやりと見返す。)
 スヴェン 何の証券でしたか、会長、これは。
(返事なし。グレゴール、相変らずスヴェンをぼんやり見つめる。)
 スヴェン(急いで。)会長。一九二九年にあの銀行に預けた証券は何なのですか。
(また間。)
 スヴェン 会長。
 グレゴール(微笑む。)何も預けてはいない。
 スヴェン(大声で。)会長。一九二九年に確かに我々はあの銀行から借入を受けています。私は覚えています。慥か六百万ポンド以上の借入です。チェコへの貸出の為の資金だった筈です。
(スヴェン、グレゴールが答えるのを待つ。しかしグレゴール、相変らずぼんやりとスヴェンを見つめる。)
 スヴェン ですから担保として何かを預けている筈です。それは何ですか。
 グレゴール 何も預けてはいない。
(スヴェン、どうしようもない、という表情で振り返り、去ろうとする。)
 グレゴール 待ってくれ。ちょっと待って。(全く普通の声で。)悪かった、スヴェン。許してくれ。私は意味のない言葉を吐いていた。思い出すのが時々難しいんだ。考えるっていう事さえ出来ない・・・それにヴァシーリイがさっき言った事が・・・(急に。)六百十二万三千・・・
 スヴェン それは借入金の額です、会長。それに対して何を担保に入れたんですか。
 グレゴール(間のあと。)有価証券だ。すぐ思いだすよ。(訴えるように。)そうガミガミ言わんでくれ。
 スヴェン 会長・・・今夜中にロンドンには連絡を取らなければなりません。しかしその前にどうしても私が知っておかなきゃならない事があります。五年前にロンドン銀行に担保として預けた証券は、ポーランド国債ですか。
 グレゴール そうだ。その通りだ。ポーランド国債だった。
 スヴェン 偽造したものですか。
(間あり。この間グレゴール、全く動かない。)
 グレゴール(やっとのことで口を開く。)今は私は体が動かせない。この椅子にじっと坐ったまま侮辱をうけていなければならない。立ち上がって君を放っておいて寝室へ行くところだが・・・動けないんだ。
 スヴェン(キビキビと。)ヴァシーリイ、来てくれ。
(この時までにスヴェン、椅子の方へ素早く進み、グレゴールを立たせようとしている。バジルも加わる。)
 スヴェン あっちの腕を頼む。
(バジル、指示に従う。)
 スヴェン そうだ。一旦立たせたら、あとは楽な筈だ。
 バジル 以前にもこんな風になった事が?
 スヴェン うん。何度かある。
 バジル 医者を呼びましょうか。
 スヴェン いや。
(二人、グレゴールを立たせる。グレゴール、気を失ってはいない。しかし周囲の状況を掴めていない様子。三人、寝室へ向かう。)
 フロレンス 以前こんなことがあったかしら、聞いたことがないわ。見たこともない。(ヒステリックに。)医者を呼びます、私。・・・今。電話は何処。トムソン先生を呼びます。
 スヴェン いけません、フロレンス。止めて下さい、今は。もう暫くしたら、その危険を冒す必要があるかもしれません。でも今は駄目です。
 フロレンス 警察の事を心配しているのね・・・でもトムソン先生は大丈夫。
 スヴェン(バジルに。)ドアを開けてくれ。僕が支えている。
(バジル、扉を開ける。)
 スヴェン よし、また腕を頼む。よーし。
(三人、寝室へ入る。)
 スヴェン (フロレンスに。)いつだってすぐ回復しています。余計な危険を冒す必要はありません。
(グレゴール、ベッドに達すると、突然スヴェンとバジルを押し退ける。)
 グレゴール 私が出る、スヴェン。
 スヴェン 横になって下さい、会長。
 グレゴール 電話が鳴っている。ローマだ、きっと。連中と話さなければ。頼む。
 バジル(グレゴールを支えて。)後で、お父さん。今は横になって。
(グレゴール振り返り、バジルを見つめる。奇妙だという表情。そして顔を顰める。)
 グレゴール(やっと。優しく。)ヴァシーリイ、お前か・・・私はどうかしたらしいな。しかしどうしてもローマと話をしなきゃならん。必要な数字は全部頭に入っている。第一回目の支払いの五億リラは、今年の八月三十一日に行なう予定だ。この支払いの為の資金の約半分は、アメリカンエレクトリックとの合併から得られる収入を当てる。 この合併によってあがる収益の中から、以前の負債の八百七十三万ドルを払い、その残りの千六百二十七万ドル、これを回して得る収入だ。あとの半分は、アントネスキュー基金の社債千五百万ドルからの収入を当てる。これは年率六パーセントだ・・・いや、六・五パーセントだったかな。(頭に手をやる。それから訴えるようにバジルの方を見る。)ヴァシーリイ・・・六だったかな、六・五だったかな。
 バジル(優しく。しかし、しっかりと。)お父さん・・・お父さんは病気です。横になって下さい。そして、休んで下さい。
 グレゴール しかし今、ローマが出ている・・・
 バジル 電話はかかっていません、お父さん。
 グレゴール かかっていない? しかし、さっき電話の音が・・・(電話を指差す。)
 バジル いいえ。鳴ってはいません。
 グレゴール 耳がどうかしたのかな。(バジルに。)本当なんだね、ヴァシーリイ。Tu ne mens pas a ton papa? (お前、パパに嘘をついてはいないね?)
 バジル(静かに。しっかりと。)ええ、お父さん。嘘をついてはいません。電話は鳴らなかったんです。本当です。
(グレゴール、頷く。それから、スヴェンとバジルの助けでベッドに横になる。)
 グレゴール 六・五パーセントだ。スヴェン・・・私は大丈夫だ。数字はまだちゃんと頭にはいっている。
 スヴェン ええ、そうですね。ちょっと横になって下さい。眠れますか?
 グレゴール うん、眠れると思う。ヴァシーリイはどうしたんだ。何故ここにいる。
 スヴェン ここは彼のアパートです、会長。このベッドも彼のものです。
 グレゴール そうか。そうだった。馬鹿な事を言ったな。(バジルに。)Mon petit Vassily, tu es tres gentil de preter ton lit a ton papa. (ヴァシーリイ、お前パパにベッドを貸してくれて、すまんなあ。)
 バジル(帰って来てから常に同じ調子であるが、ここでも静かに、しっかりした声。)電気を消します、お父さん。眠るよう努力してみて下さい。
(バジル、寝室の電気を消す。)
 グレゴール(暗闇の中から。)Oui, mon petit. (分かった。そうするよ、ヴァシーリイ。)
(スヴェン、グレゴールをちらと見た後、居間に戻る。居間ではフロレンスが脅えて坐っている。グレゴールが寝室に連れて行かれた時から、脅えた態度が変わらない。)
 フロレンス どうなの? あの人。
(スヴェン、肩をすくめる。先程落としたままにしてあった新聞を拾い上げる。読み始める。)
 フロレンス ご免なさい。お手伝い出来なくて。私、病気って苦手なの。分かって下さるでしょう? Sven, mon cher, il y a des gens qui ne peuvent pas supporter la maladie. . . (ねえスヴェン。病人がとても苦手っていう人がいるものよね。)
 スヴェン(新聞から顔を上げずに。)Oui, Comtesse. Je comprends tres bien. (ええ、フロレンス。分かりますよ。)
(この時までに寝室ではバジルが暗くしたベッドに近づいて、父親を見おろしている。グレゴールは仰向いて寝ている。静かで、眠っているように見える。)
 グレゴール(突然。非常にはっきりと。)鮮やかな復讐だった、ヴァシーリイ。見事なものだ。
(バジル、ベッドから離れる。グレゴールから見えないところまで下がる。それから暫くの間彼を見つめる。グレゴール、それ以上何も言わない。生きているかどうかも分からないぐらい。バジル、素早く居間にはいる。深く悲しんでいる様子。バジル、スヴェンを見る。スヴェン、新聞から目を上げてバジルを見る。)
 バジル(注意深く話す。)その新聞を持ってバーに入って来た男がいたんだ・・・見出しが見えた。僕は外に出て新聞を買ったんだ。僕だって事件に関心を持つ権利はある筈だ。そうだろう?
(スヴェン、新聞から目を離さず頷く。)
 バジル 僕が新聞を持って来たのは、少なくとも危険が迫っている事を知っていた方がいいと思ったからだ。
 スヴェン そう。
 バジル 僕は知らない方が良かったんだろうか。
 スヴェン 勿論知らない方が良かった。
 バジル あんなに弱っているなんて・・・五年前はもっと頑健だった。僕なんかよりずっと。
 スヴェン(優しく。)ヴァシーリイ、君は知らない方が良かった。いづれにせよあのニュースは知る事になったんだ。
 バジル そしてそれは僕からでない方が良かった。僕が新聞を拡げて見出しを見せる、それはまづかったんだ。
(スヴェン、この言葉で初めてバジルの言っている事に気をひかれ、バジルを見上げる。)
 バジル 僕は彼に猛烈に腹を立てていた。それは分かっているね・・・それに少し酔ってもいた。あんな役をやらされて、僕は飛び出した。何処か寝る場所を捜して、もう絶対帰るまいと思ったんだ。あの顔も二度と見るもんか・・・今度こそ・・・絶対・・・絶対。でも僕は帰って来た。あの恐ろしい見出しのついた新聞を持って・・・あれが発作の原因になるなんて。(僕は何も知らなかった。)誰も言ってくれた者はいなかった。
 スヴェン(やっと。バジルの感情の爆発に驚き、また少し面白がって。)最近起こっている発作はいづれもたいしたものじゃない。今度だって二、三時間経てばすっかり治る筈だ。
 バジル 「鮮やかな復讐だった。見事なものだ。」と・・・
 スヴェン それはそう言うだろう。
 バジル 君もそう言うのか、スヴェン。
 スヴェン そんな事を考えている暇は僕にはない。しかし無理にそれに答えろと言うのなら、僕の答は、「たとえその積もりはなくっても、あれは復讐でなければならなかった。」だ。
 バジル(恐ろしい勢いで。)だけど、その積もりだったって言うのか。
 スヴェン 君は驚いた人だね、ヴァシーリイ。彼が手にあまるって言っていたのが分かるよ。君の親父さんが彼だっていうのは、何て皮肉なんだ。他のどんな父親だって君が息子ならさぞかし自慢だろうに。
(スヴェン、立ち上がり、フロレンスをバジルの前に導く。)
 スヴェン まだ紹介された事はない筈だね。
 バジル ええ。でも・・・僕は誰か知っている。新聞で見た。
 フロレンス ヴァシーリイ? あの人の、子供の・・・ヴァシーリイ?
 バジル ええ。
 フロレンス 貴方、兄弟は?
 バジル ありません。
 フロレンス じゃ、五年前に死んだってあの人が言っていた、その子供だわ。
 バジル そんな風に、僕を?
 フロレンス ええ。私にだけじゃないわ。誰にも。
 バジル そう。彼にとっては僕は・・・死んだんでしょう、五年前に。
 フロレンス 家出?
 バジル ええ、そうです。ちょっと失礼。(スヴェンの方を向いて。)そんなものを読んでも何の意味もない。何も書いてない筈だ。ロンドン銀行に六百万ドル借入の代償に入れたもの、それはさっきの話の通り・・・つまり「何も預けていない。」
 スヴェン 担保はなければならない筈だ。
 バジル(希望はないという表情。)ええ、アントネスキュー持株会社所有の、ある有価証券を預かっているというリヒテンシュタイン国際銀行の受領書がそれ。
 スヴェン リヒテンシュタイン国際銀行? 聞いた事がないな。
 バジル(そうですか。)それは驚いた。
 スヴェン いつも何かを隠している。そういう風だったから。
 バジル 僕には話した。特にあの成人式のパーティーの時に。その話の後で、君が入って来たんだ。
 スヴェン そうか。あの時君を殴り倒したな。
 バジル あんな事しなくて良かったんだ。ピストルを持っていたって、危険な事は何もない。彼はそれを知っていた。ロンドンの誰に連絡を取ろうとしていたんだ、スヴェン。
 スヴェン 警察にコネのある取引先がある。そこへ・・・
 バジル それは無駄だ、全く。そんな段階の話じゃない。もう。
 スヴェン リヒテンシュタインのその銀行・・・いつものやつなのか、これは。
 バジル うん。例のやつ。他に四百以上もあるアントネスキュー傘下の例の銀行。一抱えしかない帳簿、ただ上からの命令をきくだけ、経営など何も知らない名ばかりの重役会、上というのがアントネスキューだからだ。それに地元の会計士。週に百ドルで雇われている。それともあれからサラリーは上がったのかな。
 スヴェン それは・・・三倍・・・四倍か。
 バジル やはりゆすりは高くつく、か。
 スヴェン どうして一財産拵えなかったんだ、君は。そのチャンスはいくらでもあったろうに。
 バジル 自分の例に倣えと?
 スヴェン(機嫌よく。)僕本人に言うのは一向に構わない。警察に言われるのはご免だな。
(バジル、何も言わない。)
 フロレンス(二人を会話の順に茫然と眺めながら。)あの人が何をしたっていうの。分からないわ。
 スヴェン(しっかりと。)フロレンス、貴女にはこんな話、みんな当惑する事ばかりでしょう。でもこれは彼にとってひどく大切な事なのです。それに気が散っては出来ない話です。失礼ですが隣の寝室に入っていて下さいませんか。善良な妻としての役目を果たすべきじゃありませんか。
(フロレンス、嫌々ながら寝室の扉へ進む。)
 スヴェン(肩をすくめて。)自信を持つんです。
 フロレンス(扉を開けて中を覗き、また扉を閉める。)眠っているわ。(バジルの目と合い、言い訳をするように。)私、病人が苦手なの。
(フロレンス、隅の椅子の方に進む。)
 フロレンス ここに坐っているわ。あなた方の邪魔はしません。
 バジル(希望はないという表情。)「流動性と信用」
 スヴェン 流動性は不況によって枯渇。しかし信用だけは残っていた。少なくとも昨日までは。ところがとうとうロンドン銀行が、これは危ないと思い始めた。アントネスキューとの取引をもう少し子細に調べてみようとね。どうやら他の銀行もその必要を感じてきたらしい。調査をやり始めた様子だ。他にこういう取引をどのぐらい知っているんだ、君は。
 バジル 何十と。一九三0年以降はもっと多いだろう。それは君が知っている通りだ。
 スヴェン いや、私は知らない。詐欺・・・と、はっきり分かるやつは、私は一つも知らない。(両手を拡げて。)そりゃそうだろう。そうでなきゃ、今まで一緒にやってきてはいない筈だ。
(バジル、スヴェンを見つめる。間あり。)
 バジル 彼を見捨てないでくれ、スヴェン。君が見捨てたら・・・
 スヴェン ねえ、ヴァシーリイ。僕はずっと君のお父さんに仕えてきた。深い愛情と尊敬をもってね。
 バジル(訴えるように。)だから頼む。そのまま見捨てないで、みてやってくれないか。この五年間、たったあれだけの資金で切り抜けてこられたのは奇跡だ。奇跡が起こっていたんだ。これからは二人だ。君と僕とで奇跡を作って行こう。なあ、スヴェン。
 スヴェン 経済の世界では奇跡は人間が作るんだ。 君のお父さんはいつでもそう言っていた。勿論ただの人間が作るという意味じゃない。彼自身が作るという事なんだが。よく僕に言っていた。どんな事が起ころうと、私は、少なくとも古今の歴史を通じて、不出生の大ペテン師としては残るだろうと。
 バジル ペテン師なんかじゃない。そんな名で歴史に残るものか。彼には盗むという感覚は全くないんだ。ただの詐欺師じゃない、スヴェン。彼は・・・彼は・・・(次の言葉を言うのが困難。)偉大な男だ。
(間。スヴェン、バジルを微かなからかいの気持で。同時に大きな同情をもって見る。)
 スヴェン(やっと。)可哀相に。
 バジル そんな言い方は止めてくれ、スヴェン。親父のような目で僕を見るのも。偉大と言ったのは、彼が意図した事、それを成し遂げた事、それを言ったんだ。勿論、彼自身が偉大なんじゃない。彼本人が偉大である訳がないじゃないか。だってやった事全部が・・・(思い切って。)インチキの上に成り立っているんだから。しかし彼は自分を富まそうとしてやったんじゃない。世界を富まそうとしてやったんだ。どんな嘘の上に築いたものであれ、彼が貧しい国に与えた長期貸出は現実のものだ。あれがあって初めて・・・
 スヴェン(優しく遮って。)ユーゴスラヴィアに道路が、ハンガリーには電気が通ったんだ。勿論君の親父さんのお陰だ。
(フロレンスがニュース番組を捕まえようと、ラジオのダイヤルを回している。)
 バジル(自分が笑われているのを意識して。)そう、彼のお陰だ。お陰どころか、それ以上だ。資金を稼いできてはそれを使って、豊かな国から貧しい国への流れを促進する。これの何処が悪い。
 スヴェン ぶちこまれて、十五年監獄で暮らした後で善悪を判断するんだな。
 バジル 裁かれるのは社会の方だ。親父じゃない。
 スヴェン そうだ。社会の方だ。
 フロレンス(ラジオを触っていて。)あ、何か出たわ。
 バジル(熱を込めて。)ブカレストでの彼の幼年時代の話を聞いたことがある?
 スヴェン うん。何度も聞いた。
 フロレンス(ラジオのボリュームを上げて。)静かにして。ニュースが出たわ。
 ラジオ(大きく。) ・・・は、金融史上最大のスキャンダルです。パリでの最近のスタヴィスキー事件、サミュエル・インサルの倒産事件、その後のギリシャへの逃亡事件も、これによりすっかり影が薄くなっています。FBIによる、グレゴール・アントネスキューの指名手配により・・・
 フロレンス(バジルと同時に。)指名手配?
 バジル(フロレンスと同時に。)ああ、とうとう。
 ラジオ 逮捕は時間の問題と思われています。現在のところ行方不明の、この金融業者、グレゴール・アントネスキューは、さる情報によりマンハッタン アイランドに潜伏していると信じられています。警察側は、全ての港湾、空港に監視員を置き、州境では車の検問を行なっています。FBI本部の話によれば、早ければ今夜中、遅くとも明日の朝までには逮捕の見通しとのことです。では次に交通情報。(・・・の入口で起こった自動車事故の為・・・)
(この時までにバジル、フロレンスに合図して、スイッチを切らせている。バジル、玄関の扉に進み、ドアをロックする。)
(右の場の間の寝室での動き――ーラジオ放送が始まる少し前にグレゴール、横たわっている姿勢から動き、ベッドに坐る。放送はここまでは聞こえない。頭を左右にゆっくり揺する。頭をはっきりさせる為である。暫くしてこの動作を止め、坐った姿勢のままじっと床を見つめる。)
 バジル(心配そうに。スヴェンの方を向き。)ヘリーズがここの場所を言ったんだ。
 スヴェン 違うな、そりゃ。ヘリーズは関わりになりたくない筈だ。(微かな笑い。)それにあいつはここの住所は誰にも教えたくないだろう。
 バジル(フロレンスを向き。)ここには車で来たんですか。
フロレンス ええ。でも、相当スピードをあげて。それにジャージー市の方を通って来たから、連中は蒔いている筈。ここに着くまでに。
 バジル するとつけては来たんだ。少なくとも暫くは。
 フロレンス ええ、でも、ただ報道関係の人達よ・・・「ただ」って言ったのは、警察じゃなかったって言おうとして・・・
 バジル(この時までに、スヴェンの方を向いている。)それでニューヨークにいるって連中は知ってるんだ。
 スヴェン うん。
 バジル ここまでつけて来たのが最低一台あってもおかしくない。マンハッタン・アイランドとまで言っていた。ここからすぐ出なきゃ駄目だ。
 スヴェン どこかあるか。
 バジル キャロルのところがいい。西二十三番街に住んでいる。待てよ。タクシーはまずい。顔が分かっている。フレッドの車を借りて来る。古いクーペだ。メキシコに逃げるのが一番だろうが、そうなれば君とかセルゲーイとかウイリアムが考えつく手よりは、フレッドの車の方がいい。運転は僕がする。大丈夫だ。親父は手持ち、どのぐらいある?
 スヴェン 自分では現金を持ち歩かない主義なんだ。
(スヴェン、財布を出し、バジルに投げてよこす。)
 スヴェン 千ドル以上ある。
 バジル 君はどうするんだ。
 スヴェン うん、大丈夫だ。別にある。
(バジル、寝室へ行く。グレゴール、坐っている位置からバジルを見上げる。)
 バジル 気分、少しは良くなった?
(グレゴール頷く。)
 バジル 横になっていなくていい?
(グレゴール、首を横に振る。(訳註 日本では縦に振るところ。英語では否定疑問になっている。)バジル、グレゴールの頭の後ろに枕をあてる。)
 バジル(静かに。)お父さん、悪いけどこのニュースは今すぐ知らせなきゃならないんだ。僕が言っていること聞こえる? 分かる? 聞いても大丈夫なくらい回復している?
(グレゴール、ゆっくりと頷く。聞こえていて理解しているのが見てとれる。)
 バジル 丁度今ラジオで、FBIが逮捕状を発令したと言っていた。
(グレゴール、再び頷く。ゆっくり、非常に静かに。内容を理解している事が見てとれる。)
 バジル 連中はここの住所を知っているかも知れない。だから僕は今から車を手に入れて来る。お父さんを別のアパートに運ぼうと思うんだ。キャロル・ペンのアパート。さっきここにいた女の子だよ。
(グレゴール、再び頷く。それから頭を上げて、非常にゆっくりと話す。)
 グレゴール その女の子は知っているんだね、お尋ね者を匿(かくま)うのは罪になるっていう事を。
(間。グレゴール、静かに、真面目な表情でバジルを見上げている。バジル、この晩初めて、突然、微笑む。)
 バジル ええ、キャロルは知っています、お父さん。それに僕も。
(バジル、回れ右をし、居間の扉に向かう。)
 グレゴール(静かに。)すまないが、スヴェンを呼んでくれないか。
(バジル頷き、扉へ進む。)
(上記の場の間、居間では次の会話が行なわれている。これは上でバジルがグレゴールにニュースを伝えた時、暫く沈黙の間があるが、この間に行なわれる。)
 フロレンス 私、いなくちゃいけないかしら。
 スヴェン 会長は貴女が必要です。
 フロレンス それはどうかしら。私に出来る事があるようには思えないわ。
(スヴェン、肩をすくめる。バジルの入室まで沈黙。)
 バジル(スヴェンに。)来てくれって。
(スヴェン頷き、寝室に進む。)
 フロレンス あの人、どう?
 バジル(玄関に進みながら。)大分いいです。車で運びます。ご安心下さい。
 フロレンス(無意識の好奇心で。)どうしてあの人を放って出たの?
 バジル(扉のところで肩をすくめて。)あちらが僕にそうさせたんです。
(バジル退場。寝室でグレゴール、ベッドからスヴェンを見上げ、微かな、歪んだ笑いを示す。)
 グレゴール あいつが言ったのは本当の話か? 指名手配が出たのか?
(スヴェン頷く。)
 グレゴール そうだろうな。あいつは嘘はつかない。
 スヴェン 今夜クーペを借りて来て、ここにいた女の子のところへ連れて行くと言っています。それから明日には車で国境を越えてメキシコに入るんだと。
 グレゴール(微かな笑い。)メキシコ? あいつはいつもそれだ。やることが小説じみている。
 スヴェン こういう事態になった時の計画もすでに立ててあると?
 グレゴール うん、しかしその計画には逃亡は含まれていない。
(間あり。グレゴール、床を見下ろして少し震える。)
 グレゴール ここは寒いか?
 スヴェン 暖かい夜です。
 グレゴール すまないが肩に何か掛けてくれないか、スヴェン。
(スヴェン、グレゴールの背中にバジルのディナージャケットを掛ける。)
(グレゴール、優美に頷く。)
 グレゴール 君にマンソンラジオ製作社の利益配分権を与えておいたな。私が君だったらその権利は放棄しないな。慥に二、三年は反古(ほご)同然だろうが、いつか上向きになる。それにこれからテレビジョンが出てくるだろうが、マンソンはこれに関する特許を取ってあるのだ。
 スヴェン メキシコ行き、ヴァシーリイにちょっとやらせてみるって事はしないんですか。
 グレゴール 国境を越えるまでに何日かかる?
 スヴェン(肩をすくめて。)五、六日です。
 グレゴール(スヴェンを見上げて微笑んで。)五、六日も二人乗りの車に乗って、その間ずっと良心に攻め立てられるのか? 嫌だね。きまり文句だが、「死んだ方がましだ。」
(背中にジャケットがかかっているにも拘わらず、グレゴール、再び震える。)
 グレゴール セルゲーイは今何処にいる。
 スヴェン 自分のアパートです。
 グレゴール グラマーシイか?(スヴェン、頷く。)近いな。好都合だ。
 スヴェン(間のあと。)好都合とは? 何に。
 グレゴール(静かに。)君が行ってピストルを借りて来るのに。
(スヴェン、黙る。間。)
 グレゴール すまん。行ってくれるな?
(スヴェン、相変らず黙ったまま。グレゴール、スヴェンを見上げる。)
 グレゴール(威厳をもって、力強く。)行ってくれ、スヴェン。頼む。
(スヴェン、相変らず行こうとしない。)
 グレゴール(少し優しく。)ピストルがどうしても必要という訳じゃない。他の方法もあるんだ。しかし今夜やらせてくれれば私は実に有り難いんだ。
 スヴェン(やっと。)分かりました。行って来ます。
(スヴェン、居間に行く。帽子を被り、玄関に進む。フロレンス、二人だけで残されそうだと気づき、狼狽して素早く立ち上がる。)
 フロレンス え? 出て行くの?
 スヴェン やることがあって。
 フロレンス 私、いなくちゃいけない?
 スヴェン 妻じゃないんですか、貴女は。
(スヴェン、素早く退場。フロレンス、陰気に椅子に坐る。寝室ではグレゴールが床を見つめている。)
 グレゴール フロレンス? フロレンス? まだいるな、そこに。
(グレゴール、ベッドから離れ、居間によろよろと進む。フロレンス、居間でこの時までに立ち上がっている。次の間の物音でぎくりとなる。グレゴールが入って来て、彼女を見る時、隅に小さくなっている。)
 グレゴール(間の後、ほっとして、殆ど笑いが出て来る。)もう出て行ったのかと思っていた。
 フロレンス まだいろって言われたの。
 グレゴール 嬉しい。非常に嬉しいよ。
(彼女の方に両腕を差し出す。)
 グレゴール さあ、こっちに。
(おずおずとフロレンス、近づく。グレゴール、抱きしめる。)
 グレゴール  フロレンス。君がまだいてくれて本当に幸せだ。さっき言ってたな、君は。私の妻になりたいって。本当の妻に。
 フロレンス ええ。
 グレゴール お尋ね者の妻でもか?
 フロレンス 何をしたの、貴方。
 グレゴール ちょっと複雑でね。すぐには話せない。立っていられない。坐っていいかな。
(どさっと椅子に坐る。フロレンス、立っている。用心深く、彼を見つめる。)
 グレゴール 君はここに、車で来たんだね。
 フロレンス(自分の手を掴ませたままにはしているが、反応しない。)ええ。リンカーンで。
 グレゴール まだそこにあるのか。
 フロレンス ええ。そう思うけど。
 グレゴール ちょっと見てくれないか。
(フロレンス、玄関に行く。)
 グレゴール そこにまだあったら、辺りに人間がいないか、見てくれ。警察がいないかどうか。
 フロレンス(扉のところで、ギクッとして。)警察? 私をつけて来たの?
 グレゴール(辛抱強く。)違う。勿論私が目的だ。
(フロレンス、玄関の扉を開け、二、三歩出て、通りを覗く。)
 フロレンス(帰って来て。)ええ。ジョンはまだちゃんといるわ。他には誰もいない。
(グレゴール、頷き、立ち上がろうとする。 フロレンス、このあがきに手伝おうとしない。とうとうグレゴール、疲れ果ててばたりと倒れる。)
 グレゴール 駄目だ。(立てない。)暫くしたらあいつを来させて、車に入れて貰おう。
 フロレンス 逃げるのに私の車を使うの? あれは目立つからって言ってたのに。
 グレゴール(疲れ果てた声。)いや、逃げるのに使うんじゃない。ここからちょっと出るだけの為だ。
 フロレンス 逃げるためじゃない、出るだけ? 何のこと?
 グレゴール どこかへ出るんだ。ワシントン スクエヤーかどこか。ベンチで一緒に少し話をして、それからあの時にも君がいてくれれば有り難いんだが・・・(言い止める。)
 フロレンス あの時って何? 何の時? 自殺? 自殺する気?
 グレゴール 逮捕される訳にはいかない。それはもう何年も前に決めていた事だ。(フロレンスにキスして。)気にしてくれて有難う。
 フロレンス(恐怖に襲われて。)その場にいて欲しいの? 私に? 貴方がそれをする、その場に?
(間。)
 グレゴール うん。それはいい考えじゃないな、多分。(急に厳しい辛さを感じて。)あと一時間、私の傍にいてくれる人間が欲しかった。それだけだ。
 フロレンス ヴァシーリイがいるわ。
 グレゴール(声を荒だてる。)駄目だ、あいつは。
 フロレンス だって貴方の子供でしょう?
 グレゴール(さらに大きな声で。)あいつにはさせん、これは。
 フロレンス でも貴方を愛しているのよ。あそこにスナップ写真があるわ。あれを見たってそれがすぐ分かる。
(間。グレゴール、何も言わない。)
 フロレンス 貴方が今夜ここに来たのは、あの子に会う為だったんじゃないの。私にじゃないわ。今になってどうして急に私になるの。
 グレゴール(かすれ声で。)お前が今ここにいるからじゃないか。お前は私の妻だ。今そこに着ている服、あそこにあるあの車、それに運転手、みんな私の物だ。お前のその地位だって、私が買い、私が支払ったものじゃないか。そのお返しに、この世での私の最後の一時間を私に割いてくれていい筈だ。どうなんだ。
 フロレンス でもそれはヴァシーリイの役目だわ。
 グレゴール 違う! あいつも可哀相に。今夜私にどんな事が起こっても、あいつに頼む訳にはいかない。手を握っていてくれだの、肩に凭れて泣かせてくれだの。(間の後。)そうだ、これは君がここに来た時言った事だったじゃないか。肩に凭れて泣く時があれば、それは君の肩じゃなければいけない。そうだったな。
 フロレンス ええ、慥にそう言ったわ。
 グレゴール それで?
 フロレンス(訴えるように。)私、関わり合いになりたくないの。
(間。)
 グレゴール(やっと。)そうか。
 フロレンス 責めないで。お願い。
 グレゴール 責めはしない。
 フロレンス もっと前だったら話は違っていたわ。でも今まではなかった。一度だって頼まれた事なかったわ。それで今になって・・・そう。今じゃもう手遅れよ。
(間。)
 グレゴール アントネスキュー仕込みの台詞か。成程。(間の後。きっぱりと。)そうか。じゃあ、これでお別れだ、フロレンス。
 フロレンス 分かって下さるわね。
 グレゴール そりゃ、もう。君には百万ドル、キャッシュで残して置いた。(苦々しく。)何が起こっても、少なくともそれだけは大丈夫だ。スヴェンに訊けば分かる。
 フロレンス(素早く。)スヴェン? あんな人、信用していいの? 私だったらとても考えられないわ。スヴェンなんて。
(グレゴール、フロレンスを見る。微かな微笑み。)
 フロレンス お金のことだけじゃないの。分かってるでしょう? あの人が貴方から残されたものを持って逃げるって考えただけでも、厭な気持がするわ。
 グレゴール よく分かるよ、フロレンス。
(フロレンス、グレゴールの前に立って、彼を見下ろしている。)
 フロレンス じゃあ、これで。
 グレゴール(フロレンスを見ずに。)さようならだな、フロレンス。
(フロレンス、お別れのキスを、と椅子に回り込む。)
 グレゴール キスはしないでくれ、頼む。
(フロレンス、体を真直に立てる。それから扉の方へぼんやり進む。見捨てられた姿。)
 フロレンス(扉のところで。)ご免なさい、グレゴール。本当に私、すまないと思っているの。でも・・・
(これ以上説明の言葉、見当たらず。グレゴール、固く、静かに坐っている。何も言わず、ただフロレンスを眺めるだけ。)
(フロレンス退場。扉は開けたまま。)
(グレゴール、一人残され、震え始める。立ち上がってやっとのことで飲み物の盆まで辿り着き、ウイスキーを注ぐ。飲んでいる時、バジル登場。)
 バジル うまくいった。借りられたよ。
 グレゴール そうか。
 バジル もう出られる?
 グレゴール いや、出ない。少なくともお前とはな、ヴァシーリイ。
 バジル だけど車は手に入ったんだよ。
 グレゴール いろいろ骨を折ってくれてすまない。感謝している。本当だ。しかしスヴェンが別の手を考えてくれて・・・その、つまり、もっと確かなやつだ。飛行機だ、個人所有の。
 バジル(ひどくがっかりして。)今夜?
 グレゴール 勿論今夜だ。もっと言えば今すぐ。ここにまだいたのは、実はお前に、出て行く前にさよならを言おうと思ってな。それに有難うを。
 バジル 今夜出られる? 体は大丈夫?
 グレゴール 有難う、ヴァシーリイ。もうちゃんとしているよ。
 バジル 僕も行っていい?
 グレゴール 駄目だ。
 バジル 僕は何も手伝えない?
 グレゴール(優しく。)何もないな。
 バジル 本当に助けになりたいんだけど。
 グレゴール うん、分かってる。お前、どうして酒を始めたんだ。私のせいか。
 バジル 違う。多分、自分のせいだと思う。意志の力がないんだ。覚えてる? お父さん。弱い奴は壁に行き当たるんだ。(訳註 go to the wall は「押し退けられる」「負ける」の意」。)
 グレゴール(真面目に。)そして強い奴はメキシコに行き当たる、か。
 バジル そんな積もりで言ったんじゃ・・・
 グレゴール それは分かっている。お前を随分苛めてしまったな、ヴァシーリイ。
 バジル(呟く。)そんなじゃないよ。
 グレゴール 今は本当のことを言ってくれないか、ヴァシーリイ。私はお前の人生を駄目にしてしまったのか。
 バジル いや。僕はお父さんが見抜いていた通りの人間だ。甘いんだ。ただそれだけ。そのうち治るさ。メキシコに着いて、どの辺りに行くの?
 グレゴール それはスヴェンが決めている。
 バジル どこへ落ち着いても、僕がちゃんとここにいて、味方でいるっていう事、忘れないで。
 グレゴール うん。
 バジル ここは決して連中が目をつけていない連絡先だ。バジル・アンソニー、作曲家、ピアノ引き。
 グレゴール いい曲を作るのか、お前は。
 バジル 僕はそう思ってる。出版屋はそう思わない。
 グレゴール お前はいい曲を作るだろう。これは私の感想だ。
 バジル 有難う、お父さん。(グレゴールのコップを取り、飲み物の盆の方へ行く。)
 グレゴール 一杯やりたくないのか。お前の方は。
 バジル いらない。
 グレゴール 面白いな。
 バジル(グレゴールの為に注ぎながら。)何が。
 グレゴール 役割が変わって来ているようだ。お前が強い人間、私が弱い人間に。
 バジル 僕は強くない。強くなれっこない。
(バジル、グレゴールにコップを渡す。)
 グレゴール それは分からん。いつか近い将来、お前は酒をピタッと止めるんじゃないかな。止める意志が出来るんじゃないか。そういう気がする。そうだ、私がいなくなって、社会主義の連中は大喝采じゃないか。
 バジル そんな喜び方はしない。お父さんはベストをつくした。失敗したって、お父さんの責任じゃない。この社会組織の方に責任があるんだ。お父さんが前代未聞の大財閥のボスになったことだって、本能的にこの社会に対して復讐してやろうと決心したからなんだ。
 グレゴール(優しく。)復讐? 何の? 社会が私に何をしたっていうんだい?
 バジル ブカレストで餓えていた。子供の時、通りに追い出された。物乞いをやって来いって。
 グレゴール その話を私がしたか?
 バジル 覚えていない。どの伝記にも出ている。
 グレゴール そうか。そんなものいちいち真偽を確かめる奴は今まで誰もいなかったろう。これからは、いるかも知れない。面白いな、なかなか。
(間。バジル、急に堪らなくなって、椅子から飛び上がり、盆のところへ行き、一杯注ぐ。)
 グレゴール(優しく。)うん、一杯やる方がいい。しかしそれを最後にするんだ、ヴァシーリイ。(今の物乞いの話だが、これもお前が私に対して持ってくれている幻想の一つだ。)私への幻想を一つ一つ潰して来たが、これが最後のものだな、多分。私は生涯一度だって、人に物乞いをしたことはない。どんな物もだ。
 バジル(背をグレゴールに向けたまま。)それは嘘だ、きっと。
 グレゴール こんな時に何故嘘を言う必要があるんだ。
 バジル(小さい子供のように。相変らずグレゴールに背を向けたまま。)僕にはいつだって嘘ばかりついて来たから・・・
 グレゴール それは違う。お前にはいつだって本当のことしか言っていない。よく聽くんだ。この話だって本当だぞ、ヴァシーリイ。お前の政治的信念というやつは偽物だ。
 バジル これは潰さないで・・・
 グレゴール(無慈悲に続ける。)私が今までやってきたどんなインチキよりも、もっともっと大きなインチキだ。私は少なくとも自分のやっていることはよく分かっている。しかし、お前が赤旗を振っている時、(お前はより良い社会なんて何も信じちゃいない。)ただ親父に対する弁解をやっているだけだ。しかしあの男には何の弁解もききはしない。 お前の父親は単なる詐欺師なんだ。自分からそれになろうと決心し、なった。それだけの事だ。
 バジル(呟くように。)畜生! 畜生!
 グレゴール 可哀相に、ヴァシーリイ。すぐお前を泣かせてしまうなあ。
(スヴェン、急に扉を開いて登場。 二人を見る。 グレゴール、スヴェンを問い質すように見る。スヴェン頷く。)
 グレゴール(優しく。)ヴァシーリイ、もう行ってくれ。スヴェンが来た。やらなきゃならん事がある。
 バジル 僕がいて、手伝う事はない?
 グレゴール(優しく。)いない方がいいな。
 バジル 僕も行って・・・(言っていいかどうか躊った後。)僕も一緒に行っていい、そう言ってくれると思っていたけど。
(間あり。グレゴール、頭でスヴェンに寝室へ行けと合図する。二人だけでいたいという意志表示。スヴェン、 書類鞄を持って中に入る。静かに扉を閉める。グレゴール、暫くの間黙って息子を見る。)
 グレゴール(優しく、溜息をついて。)やれやれ。何という子供だ。その馬鹿な考えを頭から追い出すには、私はどうすればいいんだ。
 バジル どうやっても駄目。そういう性分なんだから。お父さんの方こそ、何故そんなに僕に態々・・・
 グレゴール 分からない。(肩をすくめて。)一生を良心を持たずに生きてきたからな・・・今さら良心を持つなんていうのはちょっと・・・男らしくない。そうだろう? さあ、あのクーペを持ち主に返して来るんだ。
(間。)
 バジル(絶望的に。)何かはあるんじゃないかな。何かは。僕がお父さんの力になれる・・・今、この時。
 グレゴール ないな。(しっかりと。バジルを見つめて。)何かあればいいんだが。
(グレゴール、バジルに片手を伸ばす。バジル、ゆっくりとグレゴールに近づく。グレゴール、バジルを抱擁する。先程のフロレンスとの抱擁の差は歴然としている。観客の方をじっと見つめる苦悩の男の表情。それが舞台の奥を向いているバジルの肩の上にある。それからグレゴール、全く違った調子でバジルの背中を叩く。)
 グレゴール あの子と結婚するんだ。
(グレゴール、バジルを優しく出口に向け、扉を開く。)
 グレゴール それから、酒は止めるんだ。悪い習慣だ。あれはよくない。
 バジル はい。分かっています、お父さん。
(バジル、急に回れ右して自分の気持を父親に見せまいと、扉に進む。)
 グレゴール そうだ・・・ヴァシーリイ。
(バジル、敷居の上に足を止めて、振り返る。)
 グレゴール(優しく。)何が起こっても、これからは泣くんじゃないよ。
 バジル 泣きません・・・もう。
 グレゴール うん。よかった。
 バジル 幸運を! うまく行きますよ、お父さん。今まで何時もそうだったんだから。
 グレゴール 有難う、ヴァシーリイ。
(バジル退場。グレゴール、その後、扉を閉める。それから寝室に行く。スヴェンが窓の傍に立っている。)
 グレゴール 持って来たな?
 スヴェン はい。
 グレゴール 見せてくれ。
(グレゴール、ベッドに坐る。スヴェン、動かない。グレゴール、スヴェンを鋭く見上げる。)
 グレゴール 見せてくれ、スヴェン。
 スヴェン ちょっと待って下さい、会長。
(スヴェン、素早く居間に行き、机の上から紙とペンを取る。次に寝室に戻ろうとして、小さな枠に入っているスナップが目に止る。拾い上げ、暫く眺める。それをポケットに入れる。寝室に戻る。グレゴール、ベッドに坐っている。時々震える。スヴェン、事務的に電話帳を引き出し、グレゴールの膝を寄せ合わせ、電話帳と紙をその上にのせ、ペンを渡す。)
 スヴェン (初めて命令の口調で。)膝の上で書けますね。
(グレゴール、スヴェンを見、笑う。)
 グレゴール 成程。これもアントネスキュー仕込みか。
(グレゴール、電話帳と紙を片手で支え、ペンのキャップをとる。)
 グレゴール(疲れたように。)誰宛だ。
 スヴェン(しっかりと。)私宛です。
 グレゴール 一番自然なのは、フロレンス宛だが。
 スヴェン 私は一番の友人です。
 グレゴール(静かに。間の後。)それにピストルを持っているからな。
(グレゴール、書き始める。)
 グレゴール 「親愛なるスヴェン」・・・(スヴェンを見上げて。)「これが残された最後の手段だ。」常套句は嫌いなんだが・・・まあいい。本当の話だ。(書く。)すまないがあっちの部屋に行って私のコートを取って来て肩に掛けてくれないか。何故か分からないが、これでもまだ寒いんだ。
(スヴェン、彼の肩にオーバーを掛ける。間の後。)
 グレゴール 読んでみるぞ。「親愛なるスヴェン。これが残された最後の手段だ。このピストルは、暮れ方、セルゲーイのアパートに行ってこっそり取って来たものだ。君達二人はいなかった。自殺の意図でだ。こんなめちゃくちゃな状態でほったらかして後を頼む次第になって、すまないと思っている。ではお別れだ、スヴェン。」
 スヴェン もう署名はすみましたか。
 グレゴール うん。「グレゴール」と。
 スヴェン ではこの追伸を頼みます。
(グレゴール、従順にペンを取る。)
 スヴェン 「君はきっと驚いただろう、こんなに沢山の犯罪的詐欺取引が・・・」
(グレゴール、スヴェンを見上げて笑う。嘲るように、強く。しかし笑いながらも書き続ける。)
 スヴェン 「私によって行なわれたのを見て。」
 グレゴール 「犯罪的取引が・・・」でいいかな。
 スヴェン ええ、いいです。
 グレゴール(書き続けながら。)有難う。これは結局出版されるだろうから・・・
 スヴェン これら全ての取引のどれ一つを取ってみても・・・
 グレゴール(書きながら。)これらのうちどれ一つをとっても・・・でいいな?
 スヴェン 君が手を染めているものはない。
 グレゴール(書きながら。)スヴェン、私の親愛なるスヴェン・・・ここは少し感情を込めた方がいいだろう・・・君が手を染めているものはない。
(グレゴール、スヴェンに紙を渡す。)
 スヴェン(静かに。)その後にもう一つ署名を。
 グレゴール(サインをしながら。)追伸には普通やらないものだが。(紙を渡しながら。)これだと無理矢理書かされたものに見えはしないか?
 スヴェン 偽造と疑われるよりはましです。
(スヴェン、紙をポケットに入れる。)
 グレゴール うん、それはそうだ。(紙を指差して。)どうやって受け取った事にする。
 スヴェン 郵便で受け取った。受け取った時はもう手の打ちようがなかったと。(何かを考える。)ああ、日付をつけて貰った方がいい。
(グレゴールに紙を渡す。)
 グレゴール 何時にする。
 スヴェン 「月曜、夜」とだけ。
(グレゴール、これを書く。スヴェン、紙を取り戻す。ポケットからピストルを取りだし、静かにグレゴールに渡す。)
 グレゴール 弾丸は込めてあるな。
 スヴェン ええ。(指差して。)ここを上げます。
 グレゴール そうか。
 スヴェン 私がやりましょう。
(スヴェン、ベッドの傍のテーブルにピストルを置く。)
 グレゴール 口が一番いいんだな。
 スヴェン という話です。
 グレゴール クルーガーは心臓を打ち抜いた。しかしあれは運が良かっただけだ。この事に関しては失敗は許されない。(間の後。)それにクルーガーに負ける訳にはいかない。
(グレゴール、再び震える。スヴェン、扉の方へ進んでいるところ。)
 グレゴール スヴェン、君は出て行くのか。
 スヴェン ええ。その方が安全な筈です。
 グレゴール 君は・・・(スヴェンを見上げる。)君はいてくれると思っていたが・・・
 スヴェン いや、会長。それは駄目です。分かって下さらなければ。ちょっとでも疑わしいところがあっては駄目です。特にこの手紙を持っていては・・・
 グレゴール(辛そうに。)うん、そうか。そうだな。じゃあ、これでお別れだ。
(スヴェン、グレゴールに近づこうとする。)
 グレゴール 触らないでくれ、頼む。(スヴェンに微笑んで。)もう少しでうまく行くところだったな。もう二十四時間でまた盛り返していたんだが。
(スヴェン頷く。スヴェン、急に思いだしてポケットから、机の上にあったスナップを取りだし、グレゴールに渡す。)
 スヴェン これを机の上に見つけました。
 グレゴール 何だ? 眼鏡がないと見えない。
 スヴェン どこかの海岸で取った、会長とヴァシーリイのスナップです。彼が八歳ぐらいの時のようです。
 グレゴール(覗いて。)八歳ぐらい? ああ、あの時だ。ビアリッツだ。何か書いてある。何だ、これは。
 スヴェン 「ヴァシーリイへ。父より。愛をこめて。」警察に見つかるのは、お嫌だろうと思いまして。
 グレゴール 警察はここでは何も発見しない。
 スヴェン あ、成程。知りませんでした。
 グレゴール しかし抜けているな。あいつも典型的な抜け作だ。バジル・アンソニー。アメリカ国民。父親を否定。それで写真を飾って置くとはね。
 スヴェン どうしましょう、これは。
 グレゴール もとに戻して置いてくれ。あいつには何かの価値があるのかも知れない。
(スヴェン頷く。居間に行き、机に写真を投げ返す。)
 グレゴール(寝室から。)ラジオをつけてくれないか。
 スヴェン ニュースを聞くんですか。
 グレゴール 連中が私の居所についての情報をどれだけ把握しているか、知って置きたい。
 スヴェン マンハッタン・アイランドにいるというところまでは知っています。
(スヴェン、ラジオをつける。ダイヤルを回す時の音がした後、観客にアナウンサーの声が聞こえてくる。)
 アナウンサー アントネスキュー関連のニュースのため、番組を一時中断します。これは我々国民一人一人に、直接あるいは間接に関わってくる、一大事件です。従ってこれからの十五分間を・・・
 スヴェン 大き過ぎますか?
 グレゴール うん、少しな。
 アナウンサー ついさっきまで歴史上最大の独占資本家として知られ、現在指名手配となっている、この人物に関する情報にあてることにいたします。
(スヴェン、寝室の扉に現われる。)
 グレゴール(振り返らず。)行くのなら、君、行ってくれ。
(スヴェン、帽子と傘を取り上げ、出て行く。扉を閉める音、高い。その音がグレゴールの所まで達する。ピストルを指で触っていたが、この音で微かな笑いを浮かべ、見上げる。グレゴール、立ち上がり、居間に行く。寝室を出る時、そこの電気を消す。机の所まで行き、卓上のスタンドをつける。)
 アナウンサー 彼が現在何処にいようと・・・そして最新の噂ではもうブエノスアイレスに飛んでいると言われていますが、次のことだけは確かです。即ちこのにこやかな、落ち着き払った、エレガントな、魅力溢れる人物が、今この瞬間でも、その穏やかな顔をこの世界で見せている。嘗て様々な危機に遭遇し、その危機の間にも常に見せてきたあの穏やかな表情を。
(グレゴール、この間に、苦労しながらやっとコートを着る。アナウンサーのこの予言に、にやりと笑う。それから一杯注ぐ為に盆に進む。)
 アナウンサー(この間に。)現在世界中で問題にされている疑問は次のようなものです。何故この人物、つまり、一九二九年までに金融業者の夢と野望を全て達成し、ヨーロッパの救世主と呼ばれ、その忠告が各国の大統領、首相、国王達によって求められ、また世界を支配した、そのような人物が何故、普通に言われるところの詐欺師にまで身を落としたのか、そして彼自身にも、あるいは彼を信頼してきた何百万人もの人達にも、単なる破滅をのみ齎らす事に、何故手を出したのか、この疑問であります。ただ一つ確かな事は、これが個人的利得の為ではないという事です。一九二九年までに、彼の個人的財産は優に五千万ドルを越えていたと推定されています。
(グレゴール、賛同の意を表す頷き。)
 アナウンサー 嘗て誰かが言った事があります。絶対的力の崩壊は、外からの力によってはなされない。それ自身によってなされるのだ。これは真実でしょうか。つい先程、五、六分前、丁度このスタジオで、この件に関し、イェール大学のホール教授にインタビューしました。教授の言葉によれば、完全なる力を得る為には、人間は完全に自己を腐敗させねばならない。この表現の方が真実なのでしょうか。
(グレゴール、ウイスキーを飲みながら、賛同の頷き。)
 グレゴール(コップを上げ、乾杯の呟き。)ホール教授に。
 アナウンサー この興味深い問題に答を求める為、アメリカンエレクトリック社の社長、マーク ヘリーズ氏にスタジオにおいで戴きました。ヘリーズ氏は世界の産業界を代表する、皆様よくご存じの方です。アントネスキュー・グループの資産状況に疑問を抱き、マンソンラジオ製作会社との合併を中止させ、この事件の発端を作った人でもあります。ではマーク ヘリーズ社長・・・
(グレゴール、コップを置く。玄関の扉に進む。そこで明かりを消す。この間に幕降りる。ラジオ、まだ続いて・・・)

     平成三年(一九九一年)十二月十日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html





Man and Boy was first produced at the Queen's Theatre, London, on September 4th, 1963, withthe following cast:

Carol Penn Alice Kennedy Turner
Basil Anthony Barry Justice
Gregor Antonescu Charles Boyer
Sven Johnson Geoffrey Keen
Mark Herries Austin Willis
David Beeston William Smithers
Countess Antonescu Jane Downs
Directed by Michael Benthall
Setting by Ralph Alswang


Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.