セザール(後半)

 

  波止場で

(波止場に船が舫(もや)つてある。素晴しいエンジンつきのカヌー。もう少しでヨットと言へるほど。新しく塗り替へられてをり、後部に金色で「FANNY」と船の名前が書かれてゐる。運転手、が、この船の乗務員。丁度今ファニーが持つて来た二つの鞄を船に入れるところ)

 ファニー さ、取って、いたづら運転手さん。

 運転手 ほい来た、ベル・プラーント(直訳は、「綺麗な植物」)。

 ファニー ベル・プラーントだつて? まあ、生意気な。

 運転手 これはお言葉ですね、奥さん。ベル・プラーント、ちつとも悪気のある言葉ぢやありませんよ。今思ひついた文句ですが、これは尊敬をこめた褒め言葉ですよ。で、船長は?

 ファニー おばあさんにキスの挨拶をしてゐるところ。すぐ来ます。

 運転手 はい、奥さん。私はこの船を、掃除して、艶を出して、貝類をこそぎ落して、銅メッキまでしたんです。『ファ二ー』がこんなに綺麗になつたことは今までありませんよ。奥さんへの敬意が損なはれてはいけませんが、この船、奥さんと同じぐらゐ綺麗になつてゐます。始動クランクにちよつと触りさへすれば、サッと蒸気が出て、出発です。

(ファニー、船の中に入る)

 ファニー この船、どこへ行くのか、分つてるの? あなた。

 運転手(謎めいた返事)東です。東の方へ舳先を向けるんで。

 ファニー どこに行くのか、場所は分つてるの?

 運転手(きつぱりと)それは、知りません。

 ファニー 知つてゐるのね。ただそれを私に言ひたくないだけ。

 運転手(絶望の極、といふ調子で)マダム・ファニー、もし私が行先を知つてゐたら・・・おお、神よ、この私を即座に殺し給へ、或はめしひにしてくれ。マダム・ファニー、私は奥様に嘘をつくぐらゐなら、前(さき)の戦争に戻つたつて構ひません!

 ファニー でもあなた、戦争に行つてないでせう?

 運転手 ええ、行つてゐません。あの時私は十三歳でしたから。でも、まあ、物の言い方です、これは。(激烈な調子で)マダム・ファニー、私の両親の墓にかけて、私が大切と思う世界中の全ての物にかけて、私は誓ひます、行先は知らないと。信用して下さいますね?  

 ファニー ええ、信じるわ。

 運転手(ニツコリ笑つて)奥様は間違つてゐます。我々はレックに行くんです。セザリオの友人の家に。

 ファニー まあ。何故そんな嘘を。

 運転手(平気で)何故でも何でも、面白いですから。

 ファニー あなたのご両親の墓にかけたりして、あなた、恥かしくないの? 

 運転手(屁理屈)死んでゐますからね、可哀相に。死んでゐるんですから、もうそれ以上悪いことは起りませんよ。我々はレックに行きます。

 ファニー あなた、それは確かなのね?

 運転手 マダム・ファニー、私は雷が落ちて死んでも構ひません、パイプで煙草を吸つて、それに毒が入つてゐて、それで死んでも・・・

 ファニー もうよしなさい。いいですか、これが私からの命令です。二日毎にこちらに電話すること。いいですね。

 運転手 分りました・・・

 ファニー セザリオの毎日を私に報告するのです。私はあの子に直接訊いたりはしません。あの子も休暇をとつてゐるんですからね、邪魔はしたくないのです。

 運転手 分りました。セザリオには言はないんですね? 私が奥様に電話するといふ話は。

 ファニー さう、そんな必要はないわ。あの子がやつてゐることを、私に話してくれればそれでいいの。お店があるから、私あの子と一緒に行けないけど、お前のお陰で私、少しは一緒にゐるといふ気分になるわ。

 運転手 承知しました。セザリオが会ふ人がどんな人か、それをお話します。それから釣の模様・・・それに、もし女の子に会つたら、そのこともお話しませうか?

 ファニー 当り前です! お前はあの子よりずつと年上。ですから、もしあの子が馬鹿なことをやりさうになったら、私に必ず話すのです。男でも、その人品人柄、それを私にね・・・

 運転手 分りました。女の子と会ふやうなことがあれば、必ず私は写真を撮つて(と、自分の額を指差す)、頭に焼きつけ、正確なその描写を電話でお伝へ致します。

 ファニー よろしい。さ、これで煙草でも買つて。

(ファニー、運転手に五十フラン、渡す。この時セザリオ、店から出て、足速に艀を渡つて来る。そして、船に飛び乗る)

 セザリオ さて。いい天気、いい風だ。さ、行かう。

 ファニー(まだ艀(はしけ)に戻る気持なく)お前、よい旅をしてくるのよ。あなたと一緒に行ければいいんだけど。

 セザリオ またの機会にね。

 ファニー さう、今回は難しいわ。全然知合ひがゐないし、ドゥロマールのお母さんぢやね。それにここにはお店がある・・・月末の勘定をしなきやいけないし。お前、ちやんと一日にあつたことを教へるのよ。

 セザリオ うん、殆ど毎日ね。

 運転手(愛想よく、簡単に口約束して)それに私だつて電話ぐらゐ出来ますからね。セザリオが釣に行つても、遠足に行つても・・・何でも報告します・・・

 ファニー ええ、さうね。(セザリオに)お前が電話出来ないときは、この人に忘れず言ふのよ。

 セザリオ ねえママ、僕ら、オーストラリアに行くんぢやないんだよ。

 ファニー 分つてるわ、セザリオ。さ、お行きなさい。これ以上邪魔はしません。マダム・ドゥロマールによろしくね。よくお礼を言ふのですよ、私からもつて。気をつけてよ。天気の悪い時は海に出ちや駄目よ。それから、必ずこちらに連絡するんですよ。

 セザリオ はい、約束します。

 ファニー ぢやね。さよなら。

 セザリオ さよなら、ママ。(ファニーにキス)

 ファニー ぢや、私、行くわ。

(ファニー、艀に跳び上る。セザリオ、投げキス)

 セザリオ さてと、水夫殿、出発だ。

(モーターが始動する。その時、二階の窓が開き、オノリンヌが顔を出す)

 オノリンヌ(港中に響く声で。そのお蔭で通行人も驚いて立止まる)セザリオ、パンツの入つてゐる箱にね、炭酸を入れておいたから!

 セザリオ 何のため?

 オノリンヌ ブイヤベースの後に飲むのよ!

(船、港の真中に進む。「オーバーラップ」で、船の中。次にキャルローングの入江。船、入江の艀に止る。運転手、飛び下り、船をもやふ)

 運転手 おい、坊や。

 セザリオ おお、おつちやん。

 運転手 ここで何をするんです?

 セザリオ 今分るさ。まづねじ回しで、その「ファニー」つて看板を外すんだ。外した後は、これをつける。

(セザリオ、別の看板を出す)

 運転手 「ル・パスカドゥ」。いい名前ですね。この船、名前を変へるんですね?

 セザリオ まあ、いつときだけな。これは店で見つけたんだ。大きさが丁度だつたので、これにした。

 運転手(セザリオと共同で「ファニー」の看板を外し、新しい看板にする。もやひを解き、二人、船に乗込んで)よし。私は出歯亀ぢやない。だから質問はしない、誰にもね。だけど、これだけは知りたいな。我々は何をするんです?

 セザリオ よし、これからお前が何をするかを話さう。

 運転手 あなたは私とは違ふことをなさるんで?

 セザリオ 違ふことだ。お前はレックに置いておく。

 運転手 私を下ろすんで?

 セザリオ さうだ。二三日な。お前はムスィユ・ドゥロマールの家へ行く。ヴィラ・「レ・キャナリ」だ。彼に会ひたい、と言つて、この手紙を渡す。

 運転手 分りました。それから?

 セザリオ それからだ。ここに五百フランある。「レ・パルミエ」といふ名前の小さいホテルがある。そこの部屋を借りる。その部屋で待つんだ。私が電話で連絡する。

 運転手 分りました。(船の先頭に行き、エンジンをかける。セザリオ、その後について行き、ハンドルを握る)これはすぐにお話した方がよささうだ。私は、お母様からあなたを見張るやう指示を受けました。

 セザリオ 当り前だ。

(船、入江から出る)

 運転手 毎朝お母様に電話しなきやならないんです。あなたの挙動を逐一報告です。あなたに近づいてくる女性のことは特に。

 セザリオ 近づいて来たら、お前はどうする。

 運転手 頭にその女性の写真を撮ります。ここでです。そして電話で詳細にその映像を描写します。

 セザリオ よろしい。ぢや、ドゥロマールが僕からのその手紙を読んだら、お前、彼に全てを説明するんだ。僕がこれから行く場所からお前に電話で連絡する。そして、母親に言ふ台詞をお前に教へる。

 運転手 お母さんにはあんたからも電話した方がいい。その方があちらも喜ぶ。

 セザリオ 分つた、それは考へる。心配するな。

 運転手 さうさう、私がこれから行く家には、女中、ゐますか?

 セザリオ 何人もゐるさ。

 運転手 すごい! ぢや、選べるつてことですね? それから、あんたが泊るつていふホテル、それ、夜中に靴磨きをやつてくれる、あのホテル?

 セザリオ さうさ。

 運転手 すごい! それを知つてたら、私も靴を持つて来るんだつた。

 セザリオ だけどお前、靴なんか持つてないぢやないか。

 運転手 ええ、持つてゐません。機械工の制服はちやんと持つてるけど、靴はありません。裸足、その方が水夫には向いてゐますからね。勿論靴だつて今は買へますよ。あんたがお金をくれたから。

(『ぼかし』で、舞台が変る。ここはレックの波止場。運転手は既に艀に上つてゐる。洒落た格好。しかし裸足)

 運転手(少し心配)ねえあんた、あんたのやらうとしてゐること、悪いことぢやないんでせうね?

 セザリオ とんでもない。その逆だよ。

 運転手 ぢやいい。一生懸命やるんですね。時間をかけて。私の方は、追放された時間を有効に使ふ。あんた、時間をたつぷりかけるんですよ。私のことは心配いりません。(セザリオの船、遠ざかつて行く)エンジンを止めたら、ガソリンの口を閉めるのを忘れないで下さい。そのエンジン、それが自動ぢやないから。

(海辺の道。アロエと野生のイチジクで囲まれた別荘。玄関に『レ・キャナリ』と看板。運転手、勢ひ良く呼鈴を押す。返事なし。また、押す。その間に杖にすがつた老人、通りかかる。目も薄く、少し耄碌(もうろく)してゐる。か細い声で話す。首が曲つてゐて、片方に頭が傾いてゐる)

 運転手(老人を丁寧に呼び止める)失礼ですが、あなたはムスィユ・ドゥロマールで?

 老人 ムスィユ・ドゥロマール?(長い間。考へてゐる)ムスィユ・ドゥロマールと言ひなさつたかな? 彼は死にましたよ。

 運転手(呆然として)死んだ! では急死だつたんですか?

 老人 さう。まあそんなものですな。パッと死にましたからね。

 運転手 すると、死ぬまでは元気だつたといふことですね? 死んだ! これはえらいことだ。

 老人 えらいことです、死んだ彼にとつては。

 運転手 あんなに若くして。

 老人 さうですな。さう年寄りとも言へませんな。七十二、ひよつとすると七十三、ですから。頭もはつきり、それに身体もまだ矍鑠としてゐましたからな。

 運転手 おいおい、おぢいさん、びつくりさせないで下さいよ。そのムスィユ・ドゥロマールぢやありません。お若い方のです。まさか死んではゐないでせう?

 老人 ああ、すると若造さんの方、髭をはやした? ああ、それは死んではゐません。今朝出かけましたよ、母親と一緒に。パリ、とか何とか言つてました。

 運転手 出かけた? パリに?

 老人 まあ、保証は出来ませんがね。とにかく出かけたつてことは知つてます。私の義理の娘がここの女中をしてゐますからね。そして今朝、家族がゐなくなるつて、ぼやいてゐましたから。仕事がない時には、お給金が入つてこないんです。といふわけです・・・

 運転手 そいつは一大事だ。私にとつちや、これは悲劇、悲劇、大悲劇!

(運転手、道路に突つ立つたまま。老人は首をかしげて運転手を見てゐる)

  マリウスのガレージ

(マリウス、青い作業着を着て、自動車を直してゐる。奥の方で、ゴム靴を穿いた男が車を洗つてゐる。この男は、大声で何か歌を歌つてゐる)

 マリウス おい、フィセッル、それぢやうまく行かんぞ。

 フィセッル ああ、うまく行かんのは分つてます。が、まあそれでいい。後二台で洗車は終です。なにしろ自動洗車ですからね、隅々までは手が届きませんや。

 マリウス おいおい、それをわざわざ客に言ふことはないぞ。

(マリウス、コンベアに始動のボタンを押す。修理の終つたエンジン、向きを変へる)

 マリウス よし、これで一丁(ちやう)上りだ。次。

(マリウス、修理用の鞄を取り、ある車の下に投げる。それからマリウス、背中を下にし、仰向きになつてその車の下に潜る)

(トゥロンの街。セザリオが歩いてゐる。通りを捜し、次に番地を捜す。突然立止まり、看板を見つける。『ガレージ、マリウス・オリヴィエ』。少し躊躇ふ。それから入る。フィセッルの前で止まる)

 セザリオ 今日は。

 フィセッル やあ、今日は。何かご用?

 セザリオ ムスィユ・マリウス・オリヴィエ、いらつしやりますか?

 フィセッル ああ、あそこだ。二本、足だけが出てる。

(セザリオ、その二本の足に近づく。その足はきちんと作業用のスリッパを穿いてゐる。セザリオ、屈み、話しかける)

 セザリオ マリウス・オリヴィエさんですか?

 マリウス(車の下から)ああ、私だ。何の用?

 セザリオ 実は、波止場に船を置いてきたんです。エンジンが故障して・・・さうしたら、釣人風の人が波止場で、ここの住所を教へてくれたんです。

 マリウス ああ、その人、親切だ、ここを教へるなんて。しかしどうかな、私で直せるかな。ここは主に車だからね、直すのは。特別な教育を受けてはゐないんだ、私は。でも、ディーゼルなら・・・

 セザリオ ディーゼルではないんです。ボードゥワンなんですが・・・

 マリウス ああ、ボードゥワンか、ボードゥワンなら少し知つてる。(マリウス、車からやつと出て来て、立つ)三年間面倒を見たことがあつてね。ムスィユ・フレールの船なんだが。県知事の。ムスィユ・フレール、知つてる?

 セザリオ いいえ。ここの者ではないんです、私は。

 マリウス ああ、まあ、今のこと、関係ない。君のエンジンを見に行くよ。(呼ぶ)おい、フィセッル、誰か来たら、波止場にゐると言つてくれ、(セザリオに)船の名前は?

 セザリオ 『ル・ペスカドゥ』。

 マリウス 『ル・ペスカドゥ』にゐるからな。ああ、その船の名、いい名前だ。ちよつと待つて、今鍵束を取つて来る。

(マリウス、テーブルから鍵束を取る。セザリオ、非常な注意をもつてそれを見てゐる。それからマリウス、革の大きな鞄の中から道具箱を取り、しつかりした足取りで、正面を出る。セザリオ、その後に続く。二人、歩道に来ると、並んで歩く。二人、だいたい同じ背格好。セザリオ、注意深く父親を観察。マリウス、耳に挟んでゐた煙草を取り、立止り、火をつける)

 レックの小さなホテルの部屋

(運転手が坐つてゐる。その前に女中が立つてゐる。女中は田舎出の美人。少しいかれてゐる)

 女中 で、それから何をする気?

 運転手 それから、嘘を言ふ気だ。

 女中 あら、あなた、嘘つき?

 運転手 おいおい、新聞ぢやないんだぞ、私は。

 女中 で、どんな嘘をつく気? 

 運転手 私の主人は女の子に会ひに出かけた。場所は知らないがね。そこから私に電話をかけて来る。もし私がムスィユ・ドゥロマールは留守だつた、などと言つたら、驚いて、『すぐマルセイユに帰らう』と言ふに決つてゐる。

 女中 するとあなた、面白くない?

 運転手 ああ、面白くないね。君を誘惑するのに三日もかかつた。だから少なくともあと四日、君の愛を堪能しなくちや。

 女中(嬉しさう)あら、さう?

 運転手 さうさ。だから、主人には、ムスィユ・ドゥロマールはゐる、つて言ふつもりだ。たださうなると、こつちは、主人とその母親の両方に、毎日電話しなくちやならない。電話の家族だからな、全く。そして二人にいつも目新しい事件をひねり出して報告しなきやならない。

 女中 毎日?

 運転手 毎日だ。だからね、私が今みたいに、考へ事をしてゐる時には、君は笑つちやいけない、話かけてはいけない、動いてもいけない、ふざけてもいけない。私はひねり出してゐるところなんだからな。

(そして実際、彼はひねり出す。目を丸くしてゐる女中の前で)

 

(トゥロンの海辺の小さなバー。セザリオ、マリウス、フェルナン。アペリティッフを飲んでゐるところ。給仕は肥つた、気のいい男)

 セザリオ で、釣はお好きですか?

 マリウス ああ、暇がありさへすれば、毎日でも行くね。

 フェルナン(セザリオに)でもあんた、あんたは釣は得意ぢやない、つて、さつき。

 セザリオ ええ。でも、習はうといふ気はあるんです。

 マリウス しかし、君の船には優秀な釣具が、それも二本、素敵なのがあつたぞ。ああ、今日はフェルナンが君の相手をしてくれる。私は実は時間がない。明日君と釣に行くとなると、二三個ガレージで下らない仕事を終らせておかないと。

 フェルナン ぢや、マリウス、買物だけど、何を買つとく?

 マリウス ああ、いつも通りだ。ムルデュを一ダース、ピアッドを六ダース、エスクを十ダース。

 セザリオ(小さなノートに書留める)エート、モルデュを一ダース・・・

 マリウス(笑つて立上りながら)『ムルデュ』だ。それにピアッドを六ダース、エスクを十ダース。ぢや、明日・・・だね?

 フェルナン ぢや、明日、マリウス。

 セザリオ ぢや、明日。

(セザリオ、二人の立去るのを見送る)

 

(ホテルの電話ボックスで、運転手、耳に受話器をあて、手に持つたノートを参照しながら話をする。セザリオの返事の時、その姿が映像に出る。こちらは、ベッドの傍の小さなテーブルの上の電話)

 運転手 ここは全く、素晴しい部屋です。高級な感じですよ。上流の人間が住む場所だつて、すぐ分ります。

 セザリオ ドゥロマールには言つたのか? こちらに電話するつて。

 運転手 ええ、ええ、言ひました。でも、あの人が自分で電話するのは無理なんです。足を挫(くじ)いたんです。アラペッド(漁網の一種か? 不明)を仕掛けようとしてゐたら、クラゲで滑つて。今は足を椅子に載せたまま、動けないでゐるんです。まだ二三日は駄目ですね、勿論。

 セザリオ それはまゐつたね。彼に手紙は見せたんだな?

 運転手 ええ、ええ。見せましたよ。私にはかう言ひました、『すぐくつつく。ご主人には言つておいてくれ。そのうち治るから、安心しろ』、つて。

 セザリオ 『くつつく』? ぢや骨折なのか?

 運転手 いやいや、「くつつく」つて言つたかどうか、言葉通りぢやないかもしれません。私の翻訳もあります。だつて、あちらのフランス語、とても上品で・・・丁寧で。『糞っ』なんて言ふときには、ちやんと帽子を脱いで言ひますからね。とにかく心配はいりません。ドゥロマールはここにゐます。ドゥロマールはあなたの行動を逐一把握してゐます。両目を見開いてゐます。

 セザリオ  よし、分つた。

 運転手 それではこれから、あなたのお母上に電話をかけます。ここへ到着したことを報告します。

 セザリオ あまり詳しく報告するのは駄目だぞ。ぼんやりとな。

 運転手 ご心配は無用です。ドゥロマールにもちやんと訊きますから。

 

  海。小舟の中

(朝早い。あまり強くない、綺麗な太陽が海を照らしてゐる。マリウスが片方のベンチに坐つてゐる。もう片方のベンチにセザリオ。二人は向き合つてゐる。マリウスは釣竿を水の中に入れてゐる。セザリオは餌になる貝(ピアドン)の殻を石で割つてゐる)

(海はべた凪ぎ)

 マリウス 君がマルセイユから来た、とは驚きだね。

 セザリオ どうしてです?

 マリウス 訛がないからね。

 セザリオ 教育はリセだつたんです。そこを卒業したら、パリに出て。パリで僕は訛を直すために特別に勉強したんです。そのための学校に行つて。

 マリウス ほう。それは大変だ。しかし、どうして訛を取らうとしたんだ?

 セザリオ リセでみんなが僕をからかふんです。マリウスと僕のことを呼んで、オリーヴはどうしてる? だとか。(マリウスもオリーヴも、マルセイユ独特の名前)

 マリウス(面白がつて)パリジアンでも馬鹿な奴がゐるもんだな。それで君、訛を直すためにそのための特別の学校に行つた? 何のことはない、パリなまりを仕入れたつてことぢやないか。(急に釣糸を引つぱつて)釣れたぞ!

 セザリオ(マリウスが糸を引つ張つてゐる間に)大きい?

 マリウス 大きくはないな。しかし元気がいい。力一杯引いてゐる。

(マリウス、水から魚を引上げる。赤くて刺のある魚。多分 pan de long (不明))

 マリウス これはサラン(不明)だ。ブイヤベースに入れれば、ソロは歌へないが、コーラスではいい役割をやつてのける。

(フェイド・イン。マリウスとセザリオ、場所を変へてゐる。マリウスが前方に、セザリオが後方にゐる)

 マリウス マルセイユだけど、君、どのあたりに住んでるんだ?

 セザリオ パラディ通りに。サン・ジニエの近く。

 マリウス(尊敬の表情)おお、もう少し先に行くとプラドだ。すると君の両親は金持なんだな。ああ、こんなすごい船に乗つてゐるんだ、酢だつてリッターで買ふやうな家だ。(セザリオの釣糸を見て)おいおい、引いてるぞ。

(セザリオ、糸を引く。マリウスはそれを見てゐる。セザリオ、立派な「ルカウ」を釣上げる)

 マリウス リュクレッスだ! ああ、怖がらなくていい。そいつは刺しはしない。さ、こつちに貸して。

(マリウス、セザリオから釣糸を取り、リュクレッスを針から外す)

 マリウス こいつは綺麗だ。

(と、籠の中に入れる)

 セザリオ それで、あなたはここ、トゥロンの出身?

 マリウス いや、私はマルセイユ出身だ。父がリーヴ・ノーヴの波止場でバーをやつてゐる。そこでだ、私の不幸が起つたのも。

 セザリオ あなたの不幸、つて言つても、そんなに深刻なものには思へませんね・・・

 マリウス 『私の不幸』、と言つたのは、自分がそれをやつてしまつて、今の自分がある、その自分と、それをしないで、別の自分がある、その二つを比べた時の話だ。十八の時、私はよく船の行き来するのを見た。そのせゐで、どうしても航海に出たくなつた。自分の幸せが地球の裏側にあると思つたんだね。私はそこへ行つた。でも、幸せはそこにはなかつた。

 

(こちら運転手。再び公衆電話のボックスの中)

 運転手(またノートを読んでゐる)とにかく、マダム・ファニー、私の印象では、ここは、良い家、素敵な家です。もてなしも完璧です。料理も素晴しい。お昼の献立を言ひませう。最初に、チーズ入りのスープ。

 ファニー お昼から?

 運転手 十二時丁度ではありません。十二時半です。次がほうれん草。ローストビーフにフライポテト。羊のもも肉にインゲン。すべて最上級です。セザリオは二皿づつぺろりと平らげました。

 ファニー あなた、どうしてそれが分つたの。

 運転手 ええ、勿論私はあの方たちと同席出来るやうな身分ではありません。台所で食べました。でも、女中が教へてくれたんです。

 ファニー 分りました。それで、他にお客様は?

 運転手 エー、ありません。いや、コーヒーを飲みに来た近所の人達はゐましたけど。でも、女性に関しては、全くご心配はいりません。少なくとも全員四十歳以上でしたから。

 ファニー 有難う。

 

(場面変つて、こちらはマリウスとセザリオ。お喋りと釣が続いてゐる)

 セザリオ あなたは結婚してゐるんですか?

 マリウス 正確には、結婚はしてゐないね。その、つまり、時々は結婚したんだ、市長だとか神父だとか、なしでね、勿論。あ、気をつけろ! ここはベラがゐるところだ。ひどい引き方をするからな、ベラは。毎回びつくりさせる、こいつは。よし、餌は、ピアドンは止めて、これからはエスクにする。エスクの方が針によくくつつく。見て御覧・・・

(マリウス、釣糸に餌をつける)

 セザリオ 僕でうまく出来るかな。

 マリウス この糸を持つといて。

(マリウス、餌のついた糸をセザリオに渡し、新しい糸に餌をつける)

 マリウス 君、いくつなんだ?

 セザリオ もう少しで二十歳です。

 マリウス うん、いい歳だ。

 セザリオ 誰だつてなる歳ですけど。

 マリウス ああ、それは違ふ。そんなことを思つちやいけない。

 セザリオ だつて二十歳になるなんて簡単です。ほら、僕だつて二十歳になりますけど、そのために何かしたなんて、何もありませんよ。

 マリウス 君が何かするんぢやないんだ、両親だよ、君を二十歳にしたのは。

 セザリオ だつて僕、産んでくれつて頼みはしませんでしたよ、両親に。

 マリウス 私もだ。頼みはしなかつた。しかし、心の底では、生れてよかつたと思つてゐる。だつて、人生つて、面白いよ、なかなか。

 セザリオ ええ・・・お子さんはあるんですか?

 マリウス うん、まあ、子供を持つてはゐないが、持つてゐる、といふところかな。あっ、引いてるぞ。上げろ、上げろ・・・

(セザリオ、すぐに竿を上げる。かなり大きなのがかかつた様子)

 

(同時刻。マルセイユの、パニッス・ヨット会社の中。従業員がカウンターにゐる。背の高い若者が微笑を浮べながら入つて来る)

 従業員 今日は、ムスィユ。

 若者 今日は。

 従業員 ちよつと待つて、何も言はないでいい。私がそれを当ててみよう。

 若者 ああ、それはいい。当つたら驚きだ。

 従業員 当てること、それは簡単ではないよ。しかしね、この店でいろんな顔、いろんな物腰の人間を見て来るとね、当てるのはさう無理ではなくなるんだ。君だがね、例へば。君はここに、キャブスタンのケーブルを百メートル買ひに来たんぢやない。掃除用の樽を買ひに来たのでもない。さう、君(と、客の顔をじろじろ見て)、君はカヌーを買ひに来たな。それとも、カヌーの櫂(かひ)、か、その櫂座のピンだ。いや、どうもはつきりしないな。ただ、カヌーの部品であることは確かだ。さ、それならここにある・・・

(売場のその方へと連れて行かうとする)

 若者 全部違ひましたね。私は社長にお会ひしたいんです。

 従業員 クレームですか? 何かまづいことでも?

 若者 いいえ、全然。通りがかりにちょっと挨拶を、と思つて。ここの息子さんと同級なので。

 従業員 ああ、あなた、ポリテクニツクの学生さん? なあんだ、それは思ひついてもよかつたな、やれやれ。だけど、それなら制服を着てくればいい。あの制服、とてもシック、とても綺麗なのに。私なら、あんな制服を着る権利があるなら、制服なんか決して脱がないね。寝る時だつて着て寝ますよ。さあ、こつちへ来て・・・

 食堂

(ファニー、仕事中。会計の仕事。扉にノックの音)

 ファニー なーに?

 従業員(入つて来る。奇妙な表情)マダム・ファニー、ムスィユ・セザリオの友達の方がいらつしやいました。訛からすると、フランスの北の方の出身ですね、きつと。

 ファニー 入つて貰つて。

(ファニー、立上る。従業員、出る。若者、入つて来る。丁寧なお辞儀)

 若者 マダーム・・・

 ファニー 今日は、ムスィユ。どうぞお入りになつて。子供の友達なんですもの、ここはあなたの家と同じ。どうぞお坐りになつて。セザリオは残念ながらこの数日前から出かけてゐて。友達おn家に行くとかで。でもあなた、飲むわね? 桜ん坊のお酒。

 若者 ええ、勿論、マダーム。喜んで。

 ファニー(テーブルの上にグラスを出す)セザリオと同じ卒業の方ね?

 若者 ええ。三年間ずつと一緒だつたんです。

 ファニー ぢや、あなたも砲兵隊に入るつもり?

 若者 ええ。軍隊に行かうと思つてゐます。

 ファニー あなた、家はパリ?

 若者 いいえ。家はヴァラーンスです。でもパリのことはよく知つてゐます。所有地がパリにあつて、今もヴァカンスでそこにゐるんです。この時期はいつも家族でそこに。でも、従兄弟の結婚式があつて、明日はヴァラーンスに帰ります。それからバレアール島にクルーズがあつて、それにも行かないと。で、マルセイユを通るので、あなたの息子さんに挨拶を、と思つたんです。でも、帰りにまた、一週間後に、会うことにします・・・

 ファニー 十月には軍隊でせう? もう。

 若者 ええ。その時まで僕は海辺に行かうと思つて。もし奥様のお許しが得られれば、セザリオと五六日一緒に過さうと思ふのですが。ここからすぐのところですし・・・

 ファニー 海辺つて、それ、正確にはどこ?

 若者 レックです。サン・スィールの傍の。

 ファニー(突然思ひあたつて)で、あなたの名前は?

 若者 ドゥロマールです。ピエール・ドゥロマール。僕、奥様に紹介されました、実は。パリで。去年。

 ファニー(憤然となる。しかしじつと抑へて)ああ、さう、さう。でもあなた、顎髭があつたわ、確か。

 ドゥロマール ええ。覚えてゐて下さつたなんて、光栄です、マダーム。先週、僕、剃つたんです。その例の結婚式のために。

(ノックの音。セザール、入つて来る)

 セザール(ドゥロマールに)ああ、今日は。(ファニーに)セザリオから電話は?

 ファニー(皮肉たつぷりに)電話よりよい便り! この人、ムスィユ・ドゥロマール。ヴァラーンスから来たのよ、マルセイユには通りがかりだつて。

 セザール(困つて)やれやれやれ!

 ファニー(ドゥロマールに)この人、セザリオの名づけ親。

 ドゥロマール(立上がる)初めまして、ムスィユ。

 セザール それで、私の挨拶はだな、ムスィユ・ドゥロマール、残念だ、さう、実に残念だ。

 ドゥロマール(驚いて)えっ? 何故です。

 セザール いや、何でもない、何でもない。(絶望の身振り)ただ、君がこんな風にレックを離れてしまつたんぢや、私の名づけ子は君の家で一人ぼつちだな。(ファニーに)なあ、あの子、すぐに帰つて来るつもりはなかつたな? あいつ、その家で・・・

 ドゥロマール えっ? 私の家で?

 セザール さうだよ、君の別荘、レックだ。君が十日間、そこへ招待してくれたんでね。勿論彼は今あそこにゐるし、君もそのことはよく承知してゐる筈だ。

 ドゥロマール(狼狽へながら)も、もちろん、知つてゐますよ。さう、そのことだつたんだ、あれは。ああ、やつと分つた。コックが僕に先日電話したんだが、僕はよくあの意味が分らなかつた。(嘘を懸命に取り繕ふ)さうだ、さうだ。彼は今僕の家にゐるんだ。それは確かだ。

 ファニー 分つたわ、あなたは嘘つき。私の子供と同じ嘘つき。卒業後の昇進で、あなたや私の子供と同じやうな学生が砲兵隊に行くとしたら、さぞかし今年は嘘つき砲兵隊が出来ることでせうよ!

 セザール(絶望的に、そして不機嫌に)おい、ファニー、言つてるだらう、何度も、お前の息子はレックにゐるつて。

 ファニー ああ、あなたはセザリオの悪仲間なのよ。今あの子がどこにゐるか、あなたきつと知つてゐる。あの子の脱線を精々手伝つたらいいの。あの子が女に溺れて、売春婦に入れあげても、構ひはしない。行くところまで行くわ。(意地悪く)それにあの子、どうせあなたの血を引いてゐるんだから!

(ファニー、退場。扉をバタンと閉める。ドゥロマール、困つてつつ立つてゐる。セザールも困つてゐるが、微笑んで)

 セザール ああ、あいつの性格でね、これは。怒りつぽいんだ。怒りつぽい人間といふのがこの世にはゐる。しかし、あれだけであの母親を判断しては駄目だぞ。

(扉が開き、従業員が顔を出す)

 従業員 ムスィユ・セザール、レックから電話です。そこの受話器を取つて下さい。

 セザール(受話器を取る)ああ、これは面白くなるな。(ドゥロマールに)あんたのニュースが聞けるぞ。もしもし。ああ、セザールだ。

 

  ホテルの電話ボックス

 運転手(落着きはらつて、受話器に)ええ、ええ、万事順調です。今朝は早くから釣に行つて。ええ、ええ、鯛四匹にダンティを一匹。

 セザール それで、どっちなんだ? ダンティを釣つたのは。ドゥロマールか、それともセザリオか。

 運転手 まあ、二人で少しづつです。はえ縄ですからね。ええ、まあ、あまり正確には分りません。カレイも釣りましたよ。大きな奴です。凧みたいな大きな奴。

 セザール 凄い凄い、そいつは凄い。エーと、そのドゥロマールだがね・・・(と、ドゥロマールにもう一つの受話器を渡す)どんな奴なんだ?

 運転手 魅力のある人ですよ。教養はある、育ちはいい。私は気に入りましたね。かう言つては何ですが、あちらも私のことを気に入つたやうです。今朝あの人、私に十フランくれましたよ。本当に気前もいいし・・・

 セザール 今はどこにゐるんだ?

 運転手 玉突きです。ここから見えますよ。

 セザール 見るのに何かしてるのか?

 運転手 いえいえ、ただ見れば、窓から見えるんです。楽しんでる様子ですよ。ほら、今度はドゥロマールの番です。・・・さう、上手ですよ、ドゥロマールは。あっ、今パレをやつてのけましたよ。ここに受話器をおけば、あの音が聞けますよ、きつと。

 

(海。岸に近いところ。船べり)

 セザリオ 彼女の方は、あなたが好きでなかった?

 マリウス いやいや、さうぢやない。ただ、男の名誉、名がすたる、そんなところかな、まあ、馬鹿なことがあつて・・・それで息子が出来て。私はその子のことは知らないんだ。彼女の夫といふ人がその子を育ててね。

 セザリオ 苦しんだんですね?

 マリウス 少しね。しかしそんなには悩まなかつた。本当の父親はこの私ぢやない、子供を愛してゐる男が本当の父親だ。と皆が言つた。私も納得したんだ。

 セザリオ あなたはその子を愛してゐないんですか?

 マリウス 自分の知らないものを愛するわけには行かない。勿論、知るやうになれば愛するに決つてゐるがね。ただ、金を出してゐたのは別の男だ。だから結局彼の方が私より、愛し方は大きい、ということになるな。

 セザリオ どうしてです?

 マリウス 愛する、金を払ふ。この二つは現在の世の中ぢや、同じことなんだ。ああ、場所を変へよう。こつちには小さいのしかゐない。時間の無駄だ。

(マリウス、船の碇の役をしてゐる石を、引上げる)

(マルセイユ。セザールのバー。ドゥロマールがテラスに坐つてゐる。セザール、ドゥロマールの話を聞いてゐる)

 ドゥロマール いえいえ、女の子と一緒だとしても、それは、僕がさつき話したあの女の子ぢや、決してありません。

 セザール つまりな・・・その、現代風の女の子だとその・・・セザリオにもしぞつこんといふことになれば・・・

 ドゥロマール ああ、ぞつこん、といふ話になれば、彼女はセザリオにぞつこんです。でも、とても上品で、金持の家の出で・・・その子、マドゥムワゼッル・ベルモンなんです。ほら、ベルモン自動車の。イレーヌ・ベルモン。十八歳です。ベルモン一家の家は、ランブイエの傍のお城です。

 セザール ぢや、セザリオはどうしてその子とつきあふやうになつたんだ。

 ドゥロマール テニスで、です。

 セザール(びつくりして)えっ? セザリオがテニスを?

 ドゥロマール ええ・・・上手ですよ、彼は。

 セザール(やつと)それで、その女の子がバカンスで海に行つてないと、誰が言つた。アゲーの海岸とか、サン・トロペーの海岸にだ。

 ドゥロマール 僕自身が彼女を見ましたからね、パリで。僕がここに来たのはセザリオに彼女のことを話すためにだつたんです。彼女はブロンヴィッルでひと月過すんです、両親と。

 セザール(豪勢なバカンスなので、驚き)ブロンヴィッル! ランブイエの!

 ドゥロマール 御存知なんですか?

 セザール 知らない。全然。しかし、その名前は効果ありだね。それにイレーヌ・・・立派な名前だ。正直で真面目な。

 ドゥロマール 彼女と結婚する男は、(彼女に)不満はないでせうね。

 セザール うん、当然だ。(突然悲しそうに)ただ、こんな狭つ苦しいところに招待出来るやうな連中ぢやないな。

 

(岸に近づいてゐるボート。マリウスとセザリオ、同じ席に坐つて、互ひにオールを漕いでゐる)

 マリウス(少し忌々しい気持を含んで、強い口調で)父親つていふのはな、命を与へた男を言ふんだ。食ひ物を与へた男、それは友人だ。象は椰子の実を食ふ。だからと言つて、椰子が象の父親だとは言はない。象が椰子の子供だとは言はない・・・

 

(トゥロンの小さなバーで、フェルナンが『パスティッス』を飲んでゐる。フェルナンのテーブルの上に雑誌「ポリス・マガジン」と「探偵」、あり。正午。フェルナンの隣に、バーの主人、アンリが坐つてゐる)

 フェルナン なあお前、どう思ふ?

 アンリ いい男ぢやないか。それにきちんとしてゐる。それから、あの教養だ。それがどうかしたのか。

 フェルナン だけど、職業だ。彼、何をやつてゐると思ふ。

 アンリ まあ、親の金で食つてゐるんだらうな。親のすねかじり、これが一番気楽な商売さ。

 フェルナン 間違ひだね。お前、あまり観察力がないな。

 アンリ まあな。だいたい観察つてのは俺は苦手なんだ。草臥れるからな。

 フェルナン 俺は観察するね。それで理解するんだ。あの若い衆、俺にはお見通しだね。

 アンリ 何が見えるんだ、お前に。

 フェルナン いいか、俺の論理つてものを聞け。第一にだ、うちに来て、エンジンが壊れた、直してくれ、と言つた。しかし、本当はエンジンなど全然壊れてゐない。これはマリウスが俺に話してくれた。それから第二にだ、あの若い衆は、質問の鬼だ。

 アンリ うん、それは本当だ。次から次へと質問してくる。まづマリウス、次にお前に。やれ、何者だ、やれ、何をしてゐる、あれこれ、あれこれ、だ。 

 フェルナン さうだらう。マリウスのことを、本人だけにぢやない、俺にも質問だ。それも一つぢやない・・・

 アンリ(小さな声で)それで、奴は警察だと、お前、思つてるんだな?

 フェルナン とんでもない。俺はな、奴の正体を知つてゐる。奴は記者なんだ。(テーブルにある雑誌を取つて)「ポリス・マガジン」、「探偵」、かういふものに出てゐる記事を書く奴さ。いいか、俺は刺青(いれずみ)をしてゐる。お前はその悪者の顔だ。奴は俺達をギャングだと思つたに違ひない。それで、俺達に喋らせたいんだ。

 アンリ(悲しさうに)俺が? 悪者の顔?

 フェルナン さう。お前は実に素晴しい悪者の顔だ。

 アンリ(可笑しがつて)素晴しい悪者? フン、なるほど。それもいいや。

 フェルナン だから奴は、俺達に喋らせたいんだ。それで記事を書くんだ。華々しい、心を打つやうな奴をな。それから、ブルジョワ達の肝を冷やすやうなよく計算された記事をだ。うん、俺は知つてゐる、さういう奴を。毎週、全部目を通してゐるからな。

 アンリ お前、それは間違ひだ。だいたいお前は頭が少し弱い。その頭へ、葉巻の煙が入つて、お前、下らん話を思ひついただけだ。

 フェルナン アンリ、よくもまあ、人を馬鹿に出来たもんだ。この立派な頭を「弱い」とはよく言ふ。いいか、よく聞け。この若い衆は、トゥロンのやくざの記事が書きたいんだ。

 アンリ おいおい、今どきトゥロンにやくざなんかゐないぞ。

 フェルナン それをでつち上げるんだよ。お前の助けがあれば、このトゥロンに大きなほらが作れる。そして、奴の探偵雑誌の記事の中にそれが出たら、お祝いと、奴を慰めるために、一丁、ブイヤベースを奢つてやればいいんだ。

 アンリ(馬鹿話に草臥れて)だけど、どうしてそんなことをするんだ。

 フェルナン 大きな理由、世界中で誰でも認めてくれる、大きな理由があるぢやないか。『楽しむ』ためだよ。これよりもつと素敵な大ぼらがあれば、教へてくれ・・・よし、それなら、いいか・・・

 岩に囲まれた湾

(船は海岸から数メートル離れたところ。艀(はしけ)用小舟が、海岸に乗り上げて置いてある)

(松の木の下、岩場で、マリウスが四つの石の間に火を焚き、ブイヤベースの用意をしてゐる。セザリオが魚を切り、切身を作り、それを鍋に並べてゐる)

 マリウス 私が小さい頃、マルセイユで毎日曜日、これをやつたな。父親と、メートル・パニッスといふ父の友人とね。キャロの傍のキャップ・クロンヌの丘で。ちよつと悪い天気の時は、ニオロンかキャリーでね。あの頃は今より沢山魚がゐたな。切身はもう、どつさりあつてね。ああ、サフランをどこに置いたかな?

 セザリオ その箱です。塩も胡椒もあります。

 マリウス きついのが好きか? それともそれほどでないのが?

 セザリオ そんなにはきつくない方が。

 マリウス その方がいいね。あまり強くすると、食べた後一日中後悔することになる。・・・ああ、ルイユ(芥子入りのソース)を置いておかう。きつくないと思つたら、各自それをかけるといい。

(暗転。再び、岩に囲まれた湾。たき火はもう消えてゐる。マリウス、寝てゐる。シャツの胸が少し開いてゐる。セザリオ、マリウスの傍にゐて、考へながら彼を見てゐる。シャツの開いたところからマリウスのほくろが見える。セザリオ、自分のシャツをめくり、胸を見る。そこに、マリウスと同じ位置に、ほくろがある)

 

(トゥロンの小さなカフェ。フェルナンがセザリオとアペリティッフを飲んでゐる。店の主人、アンリ、が、二人の会話を聞いてゐる)

 フェルナン しやうがないだらう? 人はそれぞれ、自分の考へがある。幸せな家庭で、おまけに住込の家庭教師つきで育つた人間と、植民地の監獄から出てきた男ぢや、同じ考へになれつて言つたつて無理だ。分り切つてゐる。

 セザリオ 植民地の監獄つて、そんなに酷いの?

 フェルナン おい、聞いたか? アンリ。こいつ、あそこが酷いかつて聞いたぞ。やれやれ、もう話は終だ。あんなところのこと、考へるのも厭だからな。

 セザリオ あんたがその相棒、マリウスを見つけたのはどこなんです?

 フェルナン 海軍だ。二人とも兵隊だつた。

 セザリオ それで、すぐにガレージの仕事を?

 フェルナン いや、すぐにぢやない。最初は別の仕事をしてゐた。

 セザリオ それはどんな仕事でした?

 フェルナン ああ、簡単な仕事だ。フランスにいろんな商品を入れたんだ。まあ、主に煙草だな。関税の役人の手間を抜きにね。だつて連中、さうでなくても、いつぱい仕事はあるんだから。

 アンリ おいフェルナン、お前、少し舌が長過ぎるぞ。

 フェルナン だけどこれは秘密でもなんでもないぞ。二人とも軽犯罪法の刑務所には入つてゐたんだからな。二日、執行猶予つきでな。ああ、もう一杯パスティッスをくれ。

 アンリ 駄目だ。その話の様子ぢや、お前、もう随分飲んでる。三杯目を飲めば、中央刑務所に入つてゐた頃の話を始めるさ。それから、出版して貰ひたくない話もついでにな。仮釈放の例の話もだ・・・分つたな。

 フェルナン 俺は自分の話したいことしか話さないさ・・・

 アンリ お前が一人で飲んでゐるから言ふんだがな、『話したければ話せばいい。そして労役刑にでもなるがいい。それが好きならな』。ただ、お前一人ですまないんだ、いいか。他の連中の事も忘れるな。あいつ等も労役刑を受けなきやならなくなるんだぞ。

(アンリ、カウンターに戻る)

 フェルナン(小さな声で)あいつ、少し心配性だからな。

 セザリオ まあ、心配しなきやいけないことですから・・・で、お二人のやつてゐるガレージですけど、それで食べて行けないんですか?

 フェルナン ああ、まあ、細々とはな。しかし、実はカムフラージュなんだ、あれは。嫌疑を逃れるからな。マリウスのアイディアなんだが、これがうまく効いてね。第一、ガレージがあれば、色んな道具を持つてゐても怪しまれない。錠前、鍵、それに、合鍵。分るだらう? 自生溶接、ストロー・・・(ストローが何かを説明する動作を、テーブルを半分に切る真似をして教へる)ああ、マリウスはこのストローの扱ひがうまくてね。やらなかつたことはたつた一つ、車の盗みだ。分るか? 何故これをやらなかつたのか。

 セザリオ いいえ。私は盗みのプロではないので。

 フェルナン 車が盗まれると、真っ先に調べられるのはガレージだ。ガレージをやつてゐると車泥棒は無理だ。危険が大きすぎる。しかし、もつと簡単にやれることがある。それに割もずつといい。

 セザリオ 例へば?

 フェルナン さうだな、例へば、今丁度計画がある。しかしこれは、言つていいものかどうか。マリウスはあんたに何も話してないか?

 セザリオ 何も。

 フェルナン さうか。マリウスもためらつてゐるな。すると俺も黙るか。しかし、俺はあんたを信用してゐる。なあ、アンリ。

(アンリ、二人のテーブルに来る)

 フェルナン おい、アンリ、この坊やに、タルタンヌの話もしてやらうか。どうだらう。

 アンリ まあ、お前がその気ならばな。しかし、坊やの気に入らない話だとすれば、黙つてゐて貰はなきやな。(セザリオに)いいですか? あんた。私らはあんたを信用してゐるんでさ。だからどうせあんたに話しちまひますがね、外に漏れると危険なんです、これは。

 セザリオ 何の話なんです?

 フェルナン アヘン百六十キロ。それを運んでくるのが、ギリシャのタルタンヌ船でね、スィセ岬を回つて、こちらに着くんだ。我々は朝早く釣りに出る。そこで、つまり海で積荷を移し替へる。誰にも分らない。重たい札束の袋がある。あんたの船はここでは誰にも知られてゐない。だから、もし興味があれば、我々と一緒に来てもいい。分け前を少しやらう。どうだ?

 セザリオ これは少し、急な話ですね・・・

 アンリ もし興味がなければ、無理にとは言はない・・・

 フェルナン ただ友達がひに言つてゐるだけだ。

 セザリオ それで、マリウスもその話、知つてゐるんですか?

 フェルナン それはもう、とつくに。彼、口は固いからね。全然心配してゐないよ、彼になら。それに、この話なら、全く大丈夫。

 

(暗転。セザリオ、一人で自分の船に乗るところ。何かを考へてゐる、暗い、表情。係留用のロープを伸ばしてゐる。エンジンをかける。外海へ目ざし、出発)

(再びトゥロンの小さなカフェ。フェルナンの前に、今度はマリウス)

 マリウス やれやれ、馬鹿な話だ、それは。

 フェルナン どうしてです?

 マリウス 何故かと言へばな、あの子はとてもいい子だからだ。それに、あの子は、記者でも何でもない。この私、マリウスが記者でないのと同じだ。それに冗談にしてもこの冗談は酷い。馬鹿にしか言つてはいけない冗談だ。

 フェルナン(哀願するやうに)でも、これ、やらせて下さいよ。フィリップが税関の役人をやるんです。夜中に我々に奇襲をかける・・・そして私が空中にピストルを四回ぶっぱなすんです。

 マリウス 全く、馬鹿な馬鹿な話だ。あの子が来たら、私はみんな話す。お前の馬鹿話ですまないことをしたと謝(あやま)る。(アンリをみて)何だお前、こんなことが、何故面白いと思つたんだ! 二人とも、何て奴らだ。折角教養のある人間と話が出来る機会ができた。それを何だ。その人間をからかふ算段をするなどと。おまけにこの私をやくざの仲間にして平気だとは。呆れた奴らだ。

 フェルナン 分つた、分つた。止める、止めるよ。な? アンリ。計画は失敗に終つた、と彼に話すさ。

 マリウス(大声で)彼には本当のことを話すんだ!

 アンリ(気乗りのしない顔でこの話を聞いて、ぼんやり双眼鏡で海を眺めてゐたが)ああ、彼に話さうにも、もう遅いな。出て行つたよ。ほら、あそこの船がそれだ。

(マリウス、アンリから双眼鏡を取り、見る。速度を出して、マルセイユに向ふセザリオの船が見える)

 

(レックの波止場。運転手がホテルの女中と一緒)

 運転手 だけど、泣くのだけは止めて。皆に分つてしまふ。

 女中 皆つて、誰もここにはゐないわ。それに私、泣いてなんかゐないわ。

 運転手 君が泣くかもしれない場合にそなへて、用心して言つたんだ。泣いたつて何もならない。それに、泣かれるとこちらは胸が痛む。(憂鬱に)運転手つてのは、自分のままにならない。それが悩みだ。私はここに、意気揚々とやつて来た。ホテルの女中の心を射止めた。夢の中に生きてゐるやうなものだ。それが突然、パンっと鳴つて、それでをしまひ。船が来て、その船にご主人様が乗つてゐるんだからな。

 女中 あなたのその船、大きいの?

 運転手 大きいさ。私が乗れるんだからな。

 女中 あなた、土曜日に帰つて来るつて、本当?

 運転手(力をこめて)もし私が七時の汽車でここに来なかつたら、私は百日咳で死んでしまふ。もし私が、駅のホームで、三等車の素晴しい車両から降りてくるのが見えなかつたら、この私の約束を聞いてゐる神にかけて、そしてこの私の言葉に耳を傾けてゐる海にかけて、お前は私に言つてもよい、「ああ、あの運転手は、やくざ者だつた」とね。

 女中(悲しい顔どころか、という、平気な顔で)とにかくあなたがもし来れば、それは、あなたが私の居場所を知つてゐたということよ。

 運転手 ああ、私の船が来た。じゃ、さよならだ。

(運転手、女中を胸に抱く)

(セザリオ、船に乗つてゐる。真直ぐ浜辺に来る。船をつける)

(運転手、ともづなを握る。セザリオ、降りる。運転手、再び女中の駆寄り、また抱きしめる)

 運転手 やれやれ、宮づかへは辛いもの。ぢやな、かわいこちやん。

 セザリオ(船に飛び乗る)ここで退屈しなかつたらうな。

 運転手 とんでもない。思ひつきり楽しみましたよ。

 セザリオ(波止場を眺めながら)ドゥロマールは来なかつたのか?

 セザリオ(曖昧に)ええ、まあ。

 セザリオ 私が来ると、ちやんと言つたのか?

 運転手 いいえ、言ひませんでした。

(運転手、上衣を脱ぐ)

 セザリオ 何故。

 運転手(非常に困つて)何故つて、言へなかつたからです。

 セザリオ 分らないな。

 運転手 しばらくしたら分ります。怒らないで聞いて下さい。

 セザリオ どうやら、何か悪いことだな。

 運転手 ええ、悪いと思はれても仕方ありませんが、私としては、関係者全員に、これが最善と思はれることをしたと思つてゐます。私はこの計画で、一人、非常な主導権を取りましたが、その計画全てが成功しましたから、正直なところ、私は自分を誇りに思つてゐるんです。

(運転手、エンジンに没頭してゐるふり)

 セザリオ(静かに)これで分つた。お前、大変なことをしでかしたやうだな。それは確かだ。

(セザリオ、運転手の肩を掴み、こちらに向ける)

 セザリオ さ、説明するんだ。

 運転手 ドゥロマール、ドゥロマールつて言ひますがね。

 セザリオ 何だ。ドゥロマールがどうかしたのか。

 運転手 私は逢つてゐないんです。

 セザリオ 何? 逢つてゐない?

 運転手 逢はせるやうに、ちやんとしておいてくれなくつちや。でなければ、逢へやしませんや。私はドゥロマールなんて、一センチメートルだつて見てゐませんよ。

 セザリオ これはなかなか強烈だな。

 運転手 強烈でも何でもありませんよ。それどころか、これぐらゐ簡単なことはありません。私をここで、船から下しましたね、あなたは。それで私はドゥロマール家に行きました。鎧戸(よろひど)は下りてゐて、戸は閉まつてゐました。ドゥロマールはパリに発つたところだつたんです。

 セザリオ どうしてお前、そのことを私に言はなかつたんだ。

 運転手 あなたに心配をかけたくないからですよ。あなたはべっぴんさんとどこかへ行つたんでせう? ま、とにかく、私の理解はさうです。そして私はここで、自分の可愛い子ちやんと・・・私のはめはづし・・・それで私は考へました。『もしここでセザリオにドゥロマールはゐない、などと言はうものなら、セザリオは仰天して、すぐ帰らう、ヴァカンスは終だ、と言ふだらう』それで私は何も言はなかつたんです。あなたのお母様には毎日電話をしましたよ。

 セザリオ(心配になり)何を電話したんだ。何を話した。

 運転手 ドゥロマール家での、あなたの生活を、ですよ。拵へたんです・・・

 セザリオ(一層心配になり)拵へた?

 運転手(あつけらかんと)ああ、簡単ですよ、拵へるのなど。別荘でのパーティー。毎回それです。

  パニッス家の食堂

(クローディンヌ、オノリンヌとファニー。三人とも、刺繍をしたり編物をしたり。そこにセザール、走つて登場)

 セザール 連中、帰つて来たぞ。ファローを過ぎた。

 クローディンヌ(心配して)大変! 私、心配だわ。ファニーが怒鳴るんぢやないかと。

 ファニー 大丈夫。私、怒鳴つたりなんかしない。心配ご無用。

 クローディンヌ 口ではさう言ふけれど、あなた、怖い顔してるわ。それにセザール、あなた、怒鳴るんぢやない?

 セザール いや、怒鳴つたりするもんか。何と言つても、もうあいつは二十歳だ。怒るどころか、何も言はない方がいいと思つてゐる。奴にバカンスの話をさせ、こちらはただ質問をする。それが一番だ。

 

(波止場。運転手が鞄を持つて到着)

(パニッス家の食堂。暫くして運転手が来る。陽気。何の心配もないという風)

 運転手(愛想よく、皆に挨拶)今日は、みなさん。さ、帰つて来ましたよ。マダム・ファニー、マダム・ドゥロマールからくれぐれもよろしくとのことでした。

 クローディンヌ(低い声で)やれやれ、何て恥知らず!

 ファニー(運転手に素早く平手打ち)このやくざ者! 今日は、が聞いて呆れる!

 運転手 おやおやおや! 何だらう、これは。何かうまく行つてないな。

 セザール(運転手の肩を掴み、激しく揺り)この大嘘つきめ! 電話に屁をひるやうな、馬鹿な嘘をよくもついたな。さ、出て行け! こつちからだ。セザリオに言ひつけられないやうにだ。

(セザール、運転手を脇の扉から外へ出す。暫くして、玄関の扉が開く。セザリオ、登場)

 セザリオ 只今!

 クローディンヌ お帰り、セザリオ。(セザリオにキス)あら、塩ね、ほっぺた。

 セザリオ 只今、ママ。

(母親にキスしやうとする。ファニー、拒絶)

 ファニー 止めて、キスは!

 セザリオ どうして?

 ファニー やつて欲しくないの。

 クローディンヌ あなたが旅に出てからこつち、ずつと機嫌が悪いの。

 セザリオ 九日間だけだつたよ、最初の約束通り。

 ファニー こんなに早く帰つてきて、あんた、残念でたまらないのよ。

 セザリオ そんなことはない。

 クローディンヌ 無理することないの。正直に言ひなさい。犯罪でもあるまいし。海辺に行つたんでせう、友達のところへ。だつたら楽しむのが当り前ぢやないの・・・

 セザール さうさ。もし私がお前だつたら・・・

(間)

 オノリンヌ(「女」の方に話題が行かないやうに)それであなた、楽しかつたのね? 

 セザリオ それは、とても。勿論。

 セザール 『勿論』ね。

 セザリオ そして、こちらも変つたことはなしで?

 オノリンヌ ええ、全然。私、このセーター、もう殆ど仕上り。それで、ドゥロマールのお母さんていふ人、優しい人だつたの?

 セザリオ ええ、ええ・・・とても優しい、とても親切な人。

 オノリンヌ さういふ人が友達で、あなた、良かつたわね。

 セザリオ ええ、良かつたです。

 クローディンヌ それから、釣はどうだつた?

 セザリオ よく釣れました。はえ縄では特によく捕れたな。いい天気だつたし。

 セザール ああ、この季節なら不思議でもないがね。(快活に)さうだ、私が自分の目で見てみたいと思つたのは、例の仮装舞踏会だ。

 セザリオ(驚く。そして、心配さうに)どこでの話です?

 セザール ドゥロマール家でぢやないか! 運転手が電話で逐一報告してくれた、その舞踏会の様子を。

 クローディンヌ あらあら、あなた、驚いた顔をしてゐるのね。私たちに話したくないの? 美人さんと踊つたことを。

 セザリオ そんな普通のことを、どうして僕が話したくないんですか。

 セザール 衣裳も随分考へて選んだらしいぢやないか。どこであんな知識を仕入れたんだ?

 セザリオ(何と答へてよいか進退窮まつて)挿絵・・・ああ、デザイン集なんかで・・・

 クローディンヌ あなた、素敵だつたでせうね。ね? オノリンヌ。

 オノリンヌ ええ、きつと素晴しかつた筈よ。

 ファニー(はつきりと)それでお前、何に扮装したの。

 セザリオ(しどろもどろ)いや、だつて、その、あれは本格的な扮装ぢやないから。言ひますけどね、あれは扮装とも言へない代物ですよ・・・

 セザール(しつこく。正体を明かさせやうと)扮装はまあいい。だがな、何に化けやうとしたんだ?

 セザリオ えー、その・・・まあ・・・

 ファニー(突然)嘘つきによ。

 セザリオ(困つて)それ、どういふこと?

 ファニー お前が嘘つきだつてこと。何、そのしどろもどろ。私 恥かしくなるわ、あなたのその無理矢理でつちあげる作り話には。

 セザリオ(今度は正攻法で行かうと)ぢや、僕が何をしてゐたつて言ふんです。

 ファニー 一昨日ドゥロマールが来たのよ、ヴァランスからね。船で発つたつて言つてたわ。あなたに挨拶がしたかつたつて。

 セザリオ(苦しい)面白い考へを思いついたもんだ、彼としては。

 クローディンヌ あの人、計画を建てて、それで来たのよ。あなた、自分の計画を予め言つておけばよかつたのに。

 セザール(吹き出して笑ひ)そのドゥロマールが言つてたぞ、お前は自分の家に来てゐるつてな。

 セザリオ あいつ、頭が少し狂つたんです。

 ファニー 何て話! 今のお前の言葉の方がよつぽど馬鹿な答! あの子は少なくとも、お前の誤摩化しを助けてやらうと思つて、嘘をついたんですからね。嘘つきは嘘つきだけど。それに私、すぐさまこの家から追出したわ、あの子。

 セザリオ その様子、今でも想像出来るな。

 ファニー(だんだんと怒りがこみ上げて来て)この一週間お前を独占してゐた子について言へばね、そんな子の正体なんて、私、ちやんと知つてゐる。もし面と向つて会ふやうなことがあれば、私、思つてゐることを言つてやる。それから、お前は今日の午後にでもすぐ医者に見せなさい。下着は全部私に貸して。殺菌します。

 セザリオ ママ・・・

 ファニー(強く)さ、すぐ脱いで。

(セザリオ、見えないやうに肩を竦める。そして部屋を出る。みんな、顔を見合はせる)

 セザール ファニー、何でもないことに、あんなにきつく言ふなんて、間違ひだよ。

 ファニー(強く)あれは私の子です。私の好きなやうにさせて。あなた、私にとやかく言へるの? 子育てについて。自分の子供の育て方もうまく出来なかつたくせに。

 セザリオの部屋

(セザリオ、入つて来る。悲しさうにあちこち歩き回る。ベッドに長々と横(よこたは)る。ファニー、入つて来る。後ろ手に扉を閉め、息子を見る)

 セザリオ 殺菌しろつてさつき言つたけど、それ、いい考へかもしれないな。(これは勿論皮肉。マリウスは悪い奴で、殺菌の必要がある、といふ意味)

 ファニー さう。やつと白状する気になつた。

 セザリオ うん。白状する。僕はトゥロンに行つたんだ。ムスィユ・マリウス・オリヴィエ、僕の父親のところへね。

 ファニー(驚く。そして震へ声で)お前、マリウスに会つたの。

 セザリオ 会つた。話したよ。

 ファニー(セザリオに近づく。坐る。何故なら足が震へて、よく立つてゐられないから)あの人、何て言つた?

 セザリオ 勿論こちらの正体を明かしてはゐないさ。あの人の噂はよく聞いた。でも、僕としてはどうしても、馬鹿な好奇心だつたけれども、会つてみたかつたんだ。そして、会つた。それを自慢に思つてなんかゐない。(急に胸がつまり、泣き声になつて)ママ、あの人、やくざなんだ! 僕はやくざの息子なんだ!

 ファニー あなた、どうやつてそれを知つたの?

 セザリオ あの一味の一人が、気のいい奴、目のところまで刺青がある、その男があの人の話をしてくれたんだ。一緒に仕事をしないかと、誘ふところまでね。仕事つて、密輸入だ。麻薬の。僕はもうどう考へていいか・・・

(ファニーの顔、絶望的な表情になる。セザリオ、ファニーに近づき、優しく)

 セザリオ ああ、それは勿論、たいした犯罪ぢやないよ。まあこそ泥、それと同じ程度のものだ。それから、今のガレージの資金を作るために、その連中、自分の女を知合ひに売つたんだつて・・・

(長い間。その間じつとファニー、思ひ出に耽つてゐる。それから頭を上げ、優しくセザリオに聞く)

 ファニー あの人、健康さうだつた?

 セザリオ(皮肉に)安心して! ちやんとしてゐたよ。とても若く見える。僕の父親にはとても見えない。 

 ファニー お前が生まれた時、あの人は二十歳だつた。今はだから、四十歳ぐらゐ。その年には見えなかつた?

 セザリオ 二人で釣に行つたんだ。ブイヤベースを作つてくれた。あの人が寝てゐる時僕は見た、胸のところにほくろを。

 ファニー(以前からこのことをよく考へてゐた)お前のはあの人のより少し上にある。

 セザリオ(皮肉に)ママの思ひ出は正確だ、実に。

 ファニー(諦めて)ええ、思ひ出に過ぎないけれど。

 セザリオ(急に怒つて)何だこれは! まるで化物だ! この・・・

 ファニー(誠実に)化物? 何故?

 セザリオ(嫉妬の気持)だつてママがあの人を愛したといふのは、見え見えだもの。

 ファニー ええ、愛した。熱烈に。

 セザリオ ママは今でもまだあの人を愛してゐるんだ、きつと。

(ファニー、何も言はない。セザリオ、ファニーから少し離れる。次の台詞は小さい声で言ふ) 

 セザリオ 三箇月前に僕は父親を亡くした。今、どうやら僕は、母親まで亡くしてしまつたらしい。(間)あの噂が本当だとしたら・・・

 ファニー(突然非常に乱暴な調子で)あれは嘘! みんな、嘘をついてゐるの!

 セザリオ 根拠がある?

 ファニー(非常な勢ひで)そんなもの知らない。でも、兎に角みんながあんたに嘘をついたの!

(ファニー、セザリオの傍に坐る。以下は優しく話す)

 ファニー お前の今の年の時のあの人を、もしお前が知つてゐたら・・・あの人は強かつた、陽気だつた、美男子だつた。二人がまだ小さかつた時、まだ小学校に通つてゐた頃、もう私はあの人を愛してゐた。あの人は普通の子供とは違つてゐた。分るだらう? お前。普通の子供つて下品。小さい女の子の前で、わざと品のないことを言つたりしたりする。そしてかくれんぼをすると、いつだつて、キスしやうとする。あの人は決してそんなことをしなかつた。あの人はよい人、繊細な人、大人だつた。私はあの人を他のどんな人よりも愛した。それから、少し大きくなつて、私があの人の店の前の売場で貝を売つてゐた時、あの人が店の仕事をしてゐるのを聞いてゐた。時々あの人は店から出て来て、二人で話をした。そのためにあの人が私に近づいて来る時、私の膝はいつでも震へた。午後、私が外のテラスに坐つて、もう一つの椅子に両足を置いて長々と横になつて、目の上に麦藁帽を被せて寝たふりをする・・・あの人は私のすぐ傍にやつて来て、腕を組む。そして私をじつと眺める。私は帽子の小さい穴からこつそりあの人を見るの。青い前掛け、陽に焼けた腕、それから必ず髪が少し顔にたれてゐる・・・

 セザリオ(嫉妬して、そして皮肉に)ママはまだあの人のことが好きなんだ。さう、今までずつと好きだつたんだ。

 ファニー 利己主義。お前つて利己主義、自分だけが可愛いの。でも、それは無理のないこと。子供くらゐ利己主義なものはゐないんだから。まづ最初が私の血、それをあなたのものにして。次に私のお腹、それをあなたは蹴つてひびだらけにして、次が吐き気。何箇月も私にゲーゲーさせた。みんなあなたが強くなるため。それから、私の乳を飲んだ・・・あなたは毎晩真夜中に私を起した。そして最初の歯が生えてくると言つて大騒ぎ、百日咳、猩紅熱、卒業証書、バカロレア・・・次から次。あなたは私から全てを奪つた。いえ、私はあなたのために全てを与へた。これから生れて来るべき子供を犠牲にしてまで・・・

 セザリオ 生れて来るべき子供つて?

 ファニー オノレに私を結婚させたのはお前。そして、他の子供を作らせなかつたのもお前。私の年寄りの夫が私に与へることが出来なかつた子供たち。私は、お前のためにしか生きなかつた。そして、お前が大きくなつて行くのを見るだけが私の人生だつた。

 セザリオ ママ・・・

 ファニー お前今、お前の生れて来る前の私のことを非難したね。でも、お前の産声が上る前、私は母親ぢやなかつた。他のどんな女とも同じやうに、私は女だつた。私は女としての権利を持つてゐた。私はお前と同じ十八歳だつた。私の人生が美しい素晴しい恋の話で始まつたからといつて、私を軽蔑しないで。この恋の話は、何もかも揃つてゐた。涙もあり、そして罪の味まであつた。

 セザリオ(驚いて)罪の味? そしてママがその言葉を言ふときのその残念さうな口ぶり・・・

 ファニー 私、あの人を愛する権利を得たかつた。それで間違つたことをしたかもしれない。それの代償は大きかつたの。(旅に出すために、「パニッスと結婚する」と言つたことらしい。)

 セザリオ(ファニーを、生れて初めて見る、といふ表情)さう、勿論ママは女だ。だけど僕は今までそんなこと、考へてもみなかつた。分る? 僕は、僕が生れて来るまで、ママは生れてもゐなかつたし、存在さへしてゐなかつた。親子の愛情といふのは、かういふものなのかもしれない。(長い間)このマリウスといふ男をママが愛したといふことは、僕が受入れるしか他に方法がないことだ。だつて、他にはどうしやうもないんだから。でも、だからと言つて、その愛が今もママの目を見えなくしてゐるのはいけないことだよ。

 ファニー 私の目に何が見えてないと言ふの。

 セザリオ 「みんな嘘をついてゐる」つて言ふだけで、困つた事実が消されはしないよ。ママにはそれで十分だらうけど、事実といふものがある。僕の本当の父親は、悪い奴。それだけさ。

 ファニー でも、もし自分の父親がそんなに成り下がつてゐたのなら、あなた、その人を助ける気持はないの?

 セザリオ そんなこと、僕には関係ない。何故あの人に僕が何かをしてやる必要があるんだ。それに、何が出来るつていふんだ。

 ファニー 私たちにはお金があるわ。

 セザリオ(皮肉に)うん。パパの金がね。

 ファニー 私には、自分で働いて出来たお金があるわ。

 セザリオ 分つてる。

 ファニー お前、あの人に黙つてお金を持つて行つたら? 更生するための。かなり沢山の金額を。

(セザリオ、二三歩、歩く。考へた後。)

 セザリオ パパが死ぬほんのちよつと前、パパは僕に、ママのことを気をつけてくれ、と言つた。僕はすぐには分らなかつた。僕、つまりママの被保護者だ、僕は、その僕に、ママのことを気をつけろ、だなどと。僕は、馬鹿なことだと思つた。・・・でも今日、その理由が分つた。

 ファニー 理由が分つた? どういふこと、それは。

 セザリオ ママが僕に、今まで何度も言つたことだよ。ママは一人の女だ、つてね。弱い存在なのだ、と。己を失ふこともある、「女」なのだ、つて。ママは論理的で、強い人間だ、といふ顔をしてゐる。しかしその実、感情に流され易い、弱い人間・・・抑へに抑へた感情が一気に馬鹿な行動をとる、さういふ可能性のある一人の女だつて。それで僕は今、この家で、その感情を入れ替へなければ・・・

(ファニー、静かに肩を竦める)

 ファニー やれやれ。お前はただ、焼き餅を焼いてゐるだけよ。

 セザリオ さうかも知れない。だけど、その焼き餅の心を、黙らせるつもりだ僕は。必要があれば・・・

 ファニー 必要があれば?

 セザリオ(羞じらひながら)ママは若い。ママは綺麗だ。もしいつか・・・もう少し後で、自分の人生をやり直す気持になつたら・・・もし再婚する気持になつたら・・・

 ファニー 私が?

 セザリオ ならないとは言へない。もしママが再婚する気になつたら、僕は何も言はない・・・そして、もしある男がママを幸せにするのを僕が見たら、僕はすぐその男に、僕の承認と僕の友情を与へるつもりだ。しかし、その男は必ずママに相応しい男でなければ駄目だ。僕にも、パパにも相応しい男でなければ。分る?

 ファニー 私、再婚なんか、考へたこともない。

 セザリオ ぢや何故、ママのマリウス、の話なんか、僕にしたんだ。

 ファニー 私ぢやないわ、最初にあの人のことを話したのは。私ぢやないわ、あの人に会ひに行つたのは。お前はあの人を嫌ひ、あの人を軽蔑してゐる。でもそこへ行くにはオノレの船を使つた。そして二人での釣も、あんたは楽しんだ。

 セザリオ ママ、あの人のことはもう考へてはいけない。忘れなきや。あの人は死んだと思はなきや。

 ファニー 何故。

 セザリオ ママみたいに優しくて、弱い女性は・・・あの人のいい鴨だ。ママ、あの人に会つちや駄目だ。

 ファニー 私、あの人に会はうと思つたことなど一度もない。

 セザリオ 馬鹿な考へを暖めてはいけない。変な希望、不可能な希望を持たないで。ママがあの人に会う時、その時は、僕がママを二度と見なくなる日だ。

 ファニー お前、どこへ行くつもり。

 セザリオ 植民地のどこか遠くへ。企業でも軍隊でも、僕はどこにでも行ける。良い地位を学校で提供してくれてゐる。僕は出て行く、そしてここには帰つて来ない。

 ファニー 私を愛してゐるつて、あなたの愛はそんなこと?

 セザリオ さう。そんなこと。こんな口調で話が出来る、それも僕がママを非常に愛してゐる証拠だ。僕はママを保護したいんだ・・・

 ファニー 保護・・・私は自分のことは自分でやるわ。

 セザリオ もう今では、ママには、自分のことは自分で出来ない。いい? ママ。僕はママを監視しようといふんぢやない。そんなこと、僕の仕事ぢやない。それには僕はママを尊敬し過ぎてゐる。でも、ママは僕に約束して欲しい、あの人にはもう決して会はうとしないつて。

 ファニー 会はうだなんて、今まで一度も思つたことはないわ。

 セザリオ これからもそれはない、と、約束して。

 ファニー ええ、約束する。

 セザリオ あの人の方が自分でこつちに来たら?

 ファニー(悲しさうに)そんなことはあり得ないの。

 セザリオ もしあの人が、ママが一人になつて、金持だと知つたら、その金で、あの人はママに引き寄せられるかも知れない。だから約束して。もし自分であの人がやつてきたら、すぐ僕に知らせると。そして追ひ払ふ役目を僕にもさせる。それを約束して。

 ファニー 約束するわ。

 セザリオ それを僕に誓つて。

 ファニー 何のために?

 セザリオ とにかく、誓つて。

 ファニー 誓ふなんて、それ、罪よ。

 セザリオ こんなに重大なことなら、誓ひは罪ぢやないよ。誓つて。あの人の前に出て勇気がなくなつた時、僕へのこの誓ひが、ママの力になつてくれるかもしれない。誓つて。僕がママを尊敬してゐる、そのお返しに・・・誓つて。

 ファニー 私は誓ふ、あの人に二度と会はうとはしないと。私はお前に誓ふ、もしあの人がここに帰つて来ても、私はあの人とは分らないだらう、といふことを。

 セザリオ 有難う、ママ。ママにとつてはこの誓ひは辛いものだつたやうだ。でも、だからこそこの誓ひが必要だつたといへるよ。

 ファニー お前のためなら、私にとつて辛いことなどありはしない。何もよ、セザリオ。それに、この誓ひがあつても、何も今までと、変りはしない・・・

 セザリオ ぢや、何故今、涙なんだ。

 ファニー 私、涙なんか流してないわ、セザリオ。

 

(セザールのバー。そのテラス)

(運転手とエスカルトフィッグ、歩道の近くの席に坐つてゐる。セザールは、何か考へてゐるのか、壁に向つて坐つてゐる。歩道の真中にソフト帽がある。ムスィユ・ブランが来る。その帽子を見るが、さつさと通り過ぎ、テラスの席にやつて来る)

 ムスィユ・ブラン やあ、みんな。

 セザール やあ、ムスィユ・ブラン。

 ムスィユ・ブラン(道に落ちてゐる帽子を指さして)何です? あれは。

 運転手 あれですか? あれはソフト帽ぢやありませんか。あなた、あそこの傍を通る時、どうしてあれを蹴つ飛ばさなかつたんです? 

 ムスィユ・ブラン 蹴つ飛ばす必要を感じなかつたからね、私は。

 エスカルトフィッグ やはりリヨン出身の男は違ふ。蹴つ飛ばす必要を感じないんだからな。マルセイユの人間ならな、ムスィユ・ブラン、もし歩道にソフト帽が落ちてゐたら、こいつをシュートしてみなけりや、気がすまない筈なんだ。

 ムスィユ・ブラン それで? それで、どうなる?

 運転手(内緒を教へる口ぶり)実はね、ムスィユ・ブラン、あの帽子の下には、石があるんですよ。最初あの帽子を蹴る男は、きつと足を傷めます。笑へますよ。馬鹿だまし、といふんです、これを。

 ムスィユ・ブラン 「足傷めの冗談」とも言ふんだな、多分。それで、誰かはそれにひつかかると思つてるんだな?

 運転手(楽観的)それはもう。

 ムスィユ・ブラン やれやれ。

 セザール 馬鹿な冗談だ。

 エスカルトフィッグ 犯罪だぞ、それは。

 運転手 でも、面白いから。

 ムスィユ・ブラン 人に怪我をさせて何が面白いのか、私にはさつぱり分らないね。(間)待てよ、私をかついでゐるんぢやないだらうな。あの帽子の下には石などないんぢやないか?

 運転手(論より証拠、といふ態度で)さあ、見てみて、ムスィユ・ブラン。自分の目で見たら分る。

(ムスィユ・ブラン、帽子を持上げる。確かに石が置いてある。)

 ムスィユ・ブラン(驚いて)やれやれ、驚いたことだ、こんな馬鹿なことで楽しめるとは。

 セザール おまけに、危険を冒してまでな。おお、鴨現(あらは)る、といふところだぞ。

(セザール、近づいて来る男を指差す)

 エスカルトフィッグ(低い声で)お誂へむきの顔をしてゐるぞ、こいつは。

 ムスィユ・ブラン(面白がつて)さう思ふか?(低い声で、付け加へる)『やれやれ、全く』

(男、通り過ぎる。帽子には目もくれない。全員、がつかり)

 セザール(「何だ、あの野郎」といふ顔)またリヨン出身だ。

 ムスィユ・ブラン(自分が厭になる、といふ顔)あーあ、かういふ馬鹿な冗談につきあふことだけで、もう自分はやくざ者の仲間になつてゐるといふことなんだからな。

 エスカルトフィッグ 私はここに坐つてゐるがな、それは違ふよ。

 セザール うん、違ふ。さういふ意見を非難するね。おいおい、来た来た、鴨が来た。

(フェルナン、やつて来る。もう遠くからフェルナン、ソフト帽に気づいてゐる。駆寄り、勢ひよく帽子を蹴る。アッといふ悲鳴をあげ、両手で足を抱へる。セザール、エスカルトフィッグ、ムスィユ・ブラン、大声で笑ふ。運転手、脇腹を抱へて笑ふ。フェルナン、テラスのテーブルで身体を支へて笑ふ)

 セザール(フェルナンに同情して)おい、痛かつたか?

 フェルナン もし私が予め罠が仕掛けられてゐると知つてゐたら・・・ええ、罠、これは罠です。罠そのものですよ。故意に、わざと、人をひつかけやうと、やつたものに決つてゐます。それをこんな柔らかい革の、山羊革の靴で・・・

 ムスィユ・ブラン(心配になつて)まさかあなた、何かを壊したつて言ふんぢやないでせうね?

 フェルナン いや、壊しましたね。晴雨計を。

 ムスィユ・ブラン 晴雨計を、あなた、持つてゐたつていふんですか?

 フェルナン ええ、靴の中に。魚の目が。この魚の目が素晴しい魚の目で、非常に敏感なんです。これのお蔭で、天気は三日前に分つてしまふ。(フェルナン、靴の先に触る)ちえつ、もうそれを証明するのは無理だ。痛つ! (フェルナン、エスカルトフィッグのグラスを取り、一気に飲む)あ、失礼。しかしこれは、身体の要求に従つたまでで。この痛み、肩まで走つて。これぢや、丸三日、足は馬鹿になつたままだな。こんなアホなことを企むなど、馬鹿だ、犯罪だ!

 ムスィユ・ブラン まあな・・・

 フェルナン(急に)足、折れてないかな!

 セザール ええつ? 足が折れる? それはちよつと大げさだな。

 フェルナン でも・・・しかしですね、もし足がひどく衝撃を受けると、死ぬこともありますよ。

 ムスィユ・ブラン(信じない)死ぬ? まさか。

 フェルナン よーし、いいか。どうなるか、今に分る。(運転手に)おい、石の上に帽子を置け。(運転手、石の上に帽子を置く)何が起るか、よーく見届けるんだ。命がかかつてゐるんだからな、この冗談には。運よく老人が来て、けつとばしたら、そいつの骨の折れる音が聞える筈だ。いいか。

(と、坐る)

(みんな、待つ。道のあちらから、セザリオ、登場。セザールに話があつて。セザリオ、フェルナンに気づく。フェルナンの前で足を止める)

 セザリオ あんた、ここで何をしてゐる。

 フェルナン 仕事だよ。

 セザリオ 一人で来たのか。

 フェルナン もう大人だ。一人で充分だ。

 セザリオ ここでうろうろするな。相棒からの命令にしろ、ここは止めろ。

 フェルナン おいおい、どうしたんだ、私が何をしたつていふんだ。どうして私にそんな口のきき方をする。

 セザリオ お前のやうなやくざに話す話し方さ、これが。(セザールに)ちよつと話があります。これは急なことなんです。

(セザリオ、セザールをバーの方に連れて行く。エスカルトフィッグ、ムスィユ・ブラン、運転手、驚いてフェルナンを見る)

 エスカルトフィッグ(呆れて)しかし、どうしたつていふんだ、あの剣幕は。

 フェルナン(楽観的)ああ、冗談だ、きつと。

 ムスィユ・ブラン 冗談の口ぶりではなかつたな、あれは。

 フェルナン あの子を知らないから、そんなことを言ふんだ。私は知つてゐますからね。マルティーグ出なんだ(ここ、不明)、彼は。新聞記者なんですよ。

 エスカルトフィッグ(呆れて)やれやれ、セザリオは新聞記者か、今度は。

 フェルナン あんた方は、私よりあの子をよく知つてゐるつて言ふんですか?

 エスカルトフィッグ まあさういふことになるだらうな。生まれる時も見てゐるし・・・あの子はパニッスの子供のセザリオだからな。

 フェルナン えつ? パニッスの子供? ヨツト会社の? 五六箇月前に亡くなつた?

 エスカルトフィッグ その通り。

 フェルナン すると、これは驚いた。ぢや、マリウスの子供ぢやないか。

 ムスィユ・ブラン シツ!

 エスカルトフィッグ 噂は広がつてゐるもんだな。

 ムスィユ・ブラン まあ、善意でな。

 フェルナン(進退窮まつて)ああ、えらいことになつた。悲劇だ。破局だ。みんな、聞いてくれ、これは一大事なんだ。私はえらいことをやつてしまつた。犯罪だ、これは。あんた方の善意に縋るより他に手はない。しかし、とにかく、あんた方の知つてゐることをまづ私に教へて欲しい。

(みんな席につく。全員、円テーブルに肘をついて、会話が始まる。カメラは中のセザールの厨房を写す)

(場面がまた変り、パニッス家。広々とした食堂。ファニーが手紙、領収書類の郵便物の包みを開けてゐるところ。セザリオ、急に登場)

 セザリオ ママ、大変なことが起つた。まづ、学校への召集だ。これは別に驚きではないけど、思つてゐたより二三日早かつたので。明後日には僕はフォンテヌブローにゐなければいけない。この件はこれでをしまひ。次だ。僕はさつき、例のバーで、刺青をした、以前ママに話した男に会つた。

 ファニー 話したつて、誰のこと?

 セザリオ マリウスの使つてゐる男。相棒だ。

 ファニー マリウスの話、これはあなたの口から出たのよ。

 セザリオ その男が、自分が嘘を言つてゐたと、自分から白状したからなんだ。ママに会つて貰ひたんだ、その男に。そしてその話を聞いて貰ひたいんだ。

 ファニー その人が嘘をついてゐたなんて話、私、聞きたくないわ。

 セザリオ それに、マリウスが来てゐる。仕事で来たんだ。交換用の部品の注文だ。マリウスが今ゐるところは、僕、知つてゐる。会ひに行くんだ。

 ファニー 何故。

 セザリオ(落着いて、命令する口調で)セザールのバーに行つて。そして僕を待つてて。

(セザリオ、退場)

 

(プラド。大きなウインドー。その中に沢山の新車。そして部品。部品は太陽の光を反射して光つてゐる。そのウインドーの前にセザリオが待つてゐる。やがて扉が開き、マリウスが現れる。マリウス、扉を閉める。手帳を開き、何か、書留める。頭を上げる。セザリオを見つける)

 マリウス(喜んで)おや、これは驚いた。君、こんなところで何をしてゐるんだ。

 セザリオ(少し困る)あなたを待つてゐたんです。

 マリウス 僕がここにゐるつて、誰が・・・?

 セザリオ あなたの部下です。

(二人、歩道を並んで歩く)

 マリウス で、彼はどこだ。

 セザリオ あなたのお父さんのところです。

 マリウス どうしてあいつが僕の親父のところへ・・・

 セザリオ 知りません。でも・・・あの人が来てくれて、僕らはとても嬉しかつたんです。

 マリウス(驚いて)僕ら? 君は僕の親父を知つてゐるのか?

 セザリオ ええ。セザリオ、それが僕です。

 マリウス 何...

 セザリオ 僕はファニーの子供です。

 マリウス 何だつて?

 セザリオ(簡単に)僕はあなたの子供なんです。

(マリウス、驚いてセザリオを見る。それから少し困つたやうな、優しい微笑みを浮べる。二人は並んで歩き始める。マリウスはセザリオの腕を取る。)

 マリウス 君に何か父親らしい言葉を言つてやらなきやならないんだが・・・ありきたりでない何かの言葉をね・・・しかしどうも、何も出て来ないな・・・

(マリウス、黙つてじつとセザリオを見る。)

 マリウス こんな馬鹿なことを喋つて、道を歩いてゐるなんて、他人から見ると相当なアホに見えることだらうな。(間)トゥロンにはいつ来たんだ? 僕に会ひにか?

 セザリオ ええ。

 マリウス お前は、僕が父親であると分つてゐたのか。

 セザリオ ええ。会ふ前にママが話してくれてゐました。それで、どんな人なのか僕、知りたくつて・・・さうしたら、いろんな人からずゐぶん大変な話を聞かされて、僕は逃げ帰つたんです・・・

 マリウス そしてその話を君の母親にした・・・

 セザリオ ええ。

 マリウス 彼女、何て言つた?

 セザリオ ずゐぶん悲しみました。でも、その話全部を信じたんぢやありません。

 マリウス 全部を信じなかつた、といふことは、少しは信じたんだな。・・・それで、今これからどこへ行くところなんだ? 僕らは。

 セザリオ あなたの父親のところへです。あなたのことを待つてゐます。来たくありませんか?

 マリウス お前が私を捜しに来たのなら、僕はどこへだつて行くよ。

(セザリオ、タクシーを呼ぶ。タクシーの扉を開け、父親を先に入れる。)

 

                  台所で

(セザールとファニーが台所のテーブルに坐つてゐる。その前にフェルナン。フェルナンはひどく興奮してゐる。会話が続いてゐる。)

 フェルナン(ファニーに) 奥さん、誓つてもいいです。そんな話、一つだつて真実ぢやありません。とんでもない! 一言だつて本当の話などあるものですか。

 ファニー ええ、分つてゐたわ。

 フェルナン(セザールに) 私はね、セザール、もし私が彼の父親だつたとしたら、指四つ分高いカラーを嵌めますよ、そして靴底もこのくらゐ高いやつをね。だけど私は彼の父親ぢやない、彼の兄弟でもない。ただの友人です。しかし私は彼の友人であることを誇りに思つてゐます。

(扉が開き、マリウスが入つて来る。セザリオがその後に。(沈黙。)それからマリウスが話す。)

 マリウス 今日は、お父さん。

 セザール こんちは。

(マリウス、フェルナンに向かひ一歩進む。)

 マリウス フェルナン、僕はお前のことをいつだつて馬鹿だと思つてゐた。しかし危険人物だと思つたことはなかつた。

 フェルナン 聞いてくれ、マリウス。お前が私に何が言ひたいか、それは分つてゐる。非難だ。それも当然だ。当然も当然、あつたり前のことだ。しかし、その言ひたいことを全部今から始めたら、クリスマスが来ても終らない。だから今日やり始めるのは止めだ。もう少し後から始めることにしやう。それも一日に一時間だけだ。それで五六年かかるだらう。今はとにかく、家族の時間のやうだ。私は引きさがることにする。外に出てゐる。

(フェルナン、退場。また暫く沈黙。マリウスはファニーを見るのが怖い。ファニーはマリウスから目を離さない。)

 マリウス フェルナンの言つた通りだ。今は家族の時間だ。最初で、そして最後の。私は来た。丁度よい時だつた。自分の申し開きをするにはね。フェルナンがもうやり始めてくれてゐたが、その後の話をする。

 セザール(非常に真面目な話ぶり)マリウス、これだけは言つておく。今のこの私は、この世の誰よりも幸せなんだ。

 マリウス それは分つた。しかし僕は聞きたい。この子が自分の父親に会ひに行かうといふ時、何故スパイのやうに、自分の名を騙(かた)らなきやならないんだ。

(セザール、曖昧な身振りをする。)

 セザリオ 僕はどんな扱ひを受けるか、心配だつた。それに、あなたが誰か知らなかつたし。

 マリウス(力を込めて)お前は強盗に会ひに行くといふ気持だつたんだ、強盗でなければコソ泥にな。(セザールに)

boniment~~~客寄せ口上

galéjades~~~ほら

何故こいつがフェルナンのほら、馬鹿話、を信じたか。何故ならさういふ話が出てくるだらうと予め思つてゐたからだ。それをこいつは怖れてもゐたが、信じてもゐた。そしてフェルナンの相手になつて話を始めたら、その気持で聞き役をやつた。だからフェルナンは馬鹿な作り話をでつち上げた。こちらはこちらで、予想通りの話なので簡単に信じた。何故予想通りだつたか。それはそつちの家庭での話によるんだ。自分の父親に怖れと軽蔑を吹き込むやうな育て方をしたからだ。それは犯罪だ・・・本物のはん・・・

ファニー 違ひます。そんなことは決してありません。私はあなたが悪い人間だなんて、これつぽつちもこの子に言つたことはありません。ただ、セザールには息子がゐて・・・その息子とは会はないことになつてゐて、セザールがゐるところでは、そしてオノレがゐるところでは、決してその子の話はしないと・・・

 セザリオ ずゐぶん前だけど、ある日ムスィユ・ブランがぢぢに言つたことがある。「それで、どうなんだ? マリウスは。また何かやらかしたのか?」と。(セザールに)そしたらぢぢは、唇に指をあてて、黙つてムスィユ・ブランを台所に連れて行つて・・・これは僕にその話を聞かせたくないからなんだ・・・それからママに言つたことがある、「ぢぢの息子つて何をやつてるの?」と。するとママは赤くなつて、「水夫なの・・・今は遠くにゐる、海よ。」そしてまた赤くなつた。僕はどうしてかな、と思つた。小さな声でしか話されない人、そして家に帰つてきたことのない人。

 セザール さうだ。人間は正直が大事だ。正直にさへしてゐれば・・・

 マリウス(突然、とてもはつきりと) 僕が正直にしなかつたと言ひたいのか。

 セザール もう十年も前のことだ。ある日ここのバーにやつて来た男がゐる。そいつは酔つてゐた。たつた一人だつた。私に言つた、「あんたの息子を私はよく知つてゐる。監獄で一緒だつたからな。」バーにはムスィユ・ブランとエスカルトフィッグがゐた。私はその男に言ふ言葉がなかつた。一人、この台所に入つて、泣いた。

マリウス どんな男だつたんだ、そいつは。

セザール 名前は知つてゐた。パドヴァニだ。

マリウス(笑つて) ああ、そいつの言つたことは嘘ぢやない。

 ファニー(驚いて) マリウス!

 マリウス 二週間そいつと二人で監獄暮しさ。だけど監獄と言つても船だ、海軍のだ! 艦隊の水兵だつたときの話だ。日曜日にかくし芸大会があつて、その帰り、上等兵曹を海に投げ込んだんだ。(懲戒はそのせゐさ。)

flotte~~~艦隊、船団

bordée~~~遊興

premier-maître~~~上等兵曹(海軍)

bousculer~~~突き飛ばす

それから十年、パドヴァニは精進して、今では海軍陸戦隊員の少尉だ。レジオンードノールも貰つた。

sous-lieutenant~~~少尉

fusilier-marin~~~海軍陸戦隊員

それで、僕の罪歴だが、他に何があるつて言ふんだ。

 セザール 密輸の話はどうなんだ。これは否定できまい・・・

contrebande~~~密輸

 マリウス(困る。目を伏せる) ああ、あれはまづかつた。でも犯罪ぢやない、あれは・・・。仲間と一緒に・・・

 セザール お前は感化院に入つたんだな・・・

 マリウス 叔父さんのエミッルと同じだ、あれは・・・

 セザリオ(冷たく) 裁判所がよほど好きなんだな、うちの家族は。

 セザール おいおい、エミッルと一緒にされちやたまらん。あいつのやつたことは全く違ふんだ。

 セザリオ(第三者のやうに)何をしたんです? エミッル叔父さんは。強盗ですか? それとも万引き?

 ファニー お黙りなさい!

 マリウス(微笑む。少し苦い気持を含んで) この子には教へておくはうが良いんぢやないかな。うちの家族について、少し考へる材料を与へておいたはうがね。

 ファニー(優しく) で、そのエミッル叔父さんて、何をしたの?

 セザール 田舎で、大蝙蝠(おほこうもり)、キュ・ルッセ、を掴まへやうと、罠をしかけたんだ。さうしたら、憲兵に見つかつた。罪状が三つだ。一つは狩の禁止時期の違反、二つ目は殺してはいけない鳥を殺さうとした、三つ目が「その鳥は、どんな時期でも殺すのは禁止されてゐた」。

aludes~~~不明。

cul-rousset~~~不明。鳥の名。ここでは仕方ないのでそのまま「キュ・ルッセ」としておく。

rousette~~は、「おほこうもり」

 マリウス(得意になつて) それで感化院行きか。つまり、強盗をしなくても裁判所には引つぱられる、といふことだ。僕は二十歳のとき、仲間と一緒に・・・

 セザール その、「仲間」といふやつが、お前の場合は問題なんだ。

 マリウス 海軍を辞めて、戻つてきたとき、僕はトゥロンで一人ぼつちだつた。トゥロンといふ町には知つてゐる人間が誰もゐなかつたんだ。そんなところで僕は、誰とつきあへばいい。バーで出逢ふ奴、港で逢ふ奴しかゐない。商工会議所の会長といふわけには行かない! それに、僕には職がなかつた。餓ゑをしのぐため、やれることなら何でもやつたんだ。

 ファニー マリウス、あなた、餓ゑたの?

 マリウス(微笑んで) さう餓ゑた。それに寒かつたな。

 セザール(強く) どうして言はなかつたのだ!

 マリウス 誰に。あんたに? あんたに最後に会つたとき、僕を追い出したぢやないか。そちらは一杯飲んでゐた。こつちもだ、たしか・・・僕に殴りかかつた。僕は防ぐため片手を上げた。それをそちらは、とんでもないことと受取つた・・・あの日から僕は、ここに何かを頼みに来るよりは、餓ゑたはうがましだ、と決心した。

 セザール それはお前の良いところだ。

 マリウス 血だな、それは。

 セザール 少なくとも、絵葉書ぐらゐは時々寄越してくれても良かつたんだが・・・或は父親の健康を少しは心配してくれてもな・・・

 マリウス 心配しなかつたと、誰が言つたんだ。

 セザール 何だと?

 マリウス 僕は天使からのニュースをいつも貰つてゐた。その天使つてのは、海岸をあちこち歩く男で、まあ便利屋だ。マルセイユに客を連れて行く度に、あんたのところで一杯やる。そしてあんたを観察する。

 セザール ああ、あいつ・・・色の黒い男だな? 頬に小さい入れ墨がある。

 マリウス さう。

 セザール あいつ、あんまり私のことを見つめるもんだから、こつちではみんなあいつのことを「見つめ屋」と呼んでいたよ。

 マリウス(微笑んで) そして夕方、そいつが帰つて来るとここに呼んで話をきいた、「どうだつた? 5分間に何人に怒鳴りつけた?」と聞く。するとそいつが答へる、「二人、三人或は四人」つてね。それで僕は想像する、「ああ、親父は健在だ」つてね。

 セザール 褒められたやり方とは言へんが、私は嬉しいな、それを聞けば。

 ファニー これで大抵の話はをしまひね。次は「その女」の話を聞かせて。

 マリウス ああ、あれか・・・僕が金で買つた女だ・・・ファニー、僕は病気になつた・・・一人ぼつちといふ病気、それに仕事を捜せない、といふ病気だ。僕は安宿で暮してゐた、屋根裏部屋だ。彼女は同じ階に住んでゐた・・・前から知つてゐた女だ・・・僕は寝てゐた、熱で・・・四箇月、彼女は僕の面倒をみてくれた・・・食事をさせてくれた・・・

 ファニー で、私はそれをしてはいけなかつたの?

 マリウス、(単純に、悲しさうに) 君はそばにはゐなかつた・・・彼女は僕に、食はしてくれた。僕はその恩を返した。五年、僕は彼女と暮した。

 ファニー それで今、その人はどこにゐるの?

 マリウス 出て行つた。もうずつと前に、金は僕が払つた。有難いことに、当時はそんなに高くはなかつた。セザリオの言ふところの、僕が買つた女、といふのがこの女だ。これだけの話。これが僕の犯した罪、僕の不名誉、だ。さうだ、僕には一つ、大事な、みんなを非難すること、がある。全ての不幸の原因なんだ、これが。

 セザリオ 何です? それは。

 マリウス 僕はこの家を追ひ出された。

 セザール いつ。

 マリウス 十八年前だ。そしてその宣告をしたのはあんただ。僕をマルセイユから追ひ出した、このマルセイユ、僕の友達のゐるマルセイユ、世界でただ一つ僕がひとりぼつちでない場所マルセイユ、そのマルセイユから追ひ出したんだ。いいか、もし僕が・・・もし僕がこの家にしつかり足を置いてゐたら、話は今とは、全く違つてゐたんだ。

 ファニー ええ、分つてゐたわ、私。私にはずーつと分つてゐたの。

 セザール お前が(兵隊に)出るとき、言つておいてくれりやよかつたんだ。あれはみんなあの子のせゐなんだ・・・

 マリウス(セザールに、強烈に)なぜあんた、そのままにしておいたんだ。僕が戻つて来るつて、あんたには分らなかつたのか。それから、もし僕が子供を持つたら、僕の名前をつける。それも分つてゐただらう!

 セザール(ほとんど、悪いことをした、と言はんばかりに) オノリンヌは泣いて泣いて・・・ファニーは海に身投げせんばかり・・・それでパニッスが、将来を保証してくれて・・・

 マリウス さう、それだ! それがまづ最初に来る。あんた達はなんて貧乏なんだ。あんた方は、息子には金がかかると思つてゐた。金、まづ金だ。そして金と言へば、持つてゐる奴はパニッスだ。(マリウス、セザリオのはうを向く)僕がここに戻つたきたとき、お前は生後十箇月だつた。僕は妻と息子を要求した。(マリウス、セザールとファニーのはうを向く)この子の前ではつきり言ふ。その僕を二人は追ひ出したのだ。二人とも、僕のことなどもう愛してはゐなかつた。(セザリオに)お前が僕の代りになつてゐた。そしてお前への愛情が、この二人を凶暴にしてゐた。僕はお前の平安をかき乱す悪者だつた。僕は二人の敵だつたのだ。人は自分が怖がつてゐる人物、敵だと思つてゐる人物なら、簡単にそいつの悪い噂を信じる。僕が強盗だと二人は信じた。それを信じる必要があつたからだ。それさへ信じれば、後悔の念を持たなくてすむからな。

 セザリオ その後悔の念つて何ですか?

マリウス もう何年も前からこの僕は、みんなの目からは「汚い奴」だつたんだ。そして連中のはうはみんな聖者だ。特にパニッスはな。なんて言つたつて、聖オノレだからな。(訳註: パニッスの名前はオノレ。オノレはフランス語で、尊敬される者といふ意味。)

extasiait~~~extasier~~うつとりとなる

誰もがうつとりする名前だ。それをあの子に与へたんだ。(オノレはパニッスの苗字。その苗字を与へた、といふこと。)まあ僕が、パニッスの名に惚れて、子供を渡した、と言はれてもしやうがないかもしれない。僕はオノレの悪口は言ひたくない。彼は単純で、善良な人間だつた。しかし、この僕の子供にからむ話に関して言へば、彼がどんな犠牲を払つたといふのか。五十歳にもなつて、若いピチピチした女性が来る、それが犠牲とはな。そんな犠牲なら、何度でもやりたい、週に二回でもいいといふ奴がいくらでもゐるさ。(セザールに)あんたは僕がゐなくなつて有難かつたんだ。僕がファニーと結婚して、ここの家の主(あるじ)になつて、子供に権力をふるふのはこの僕なんだからな。相手が僕ぢやなくオノレだつたら、あんたの支配権行使癖にはもつてこいだ。それにファニー、君は・・・

 ファニー あなた、私が幸せだつたつて言ひたいのね・・・ 

 マリウス 違ふな。君のことはよく分つてゐる。毎晩笑つて過ごす、なんてことはなかつたらう。君には君の犠牲があつた。しかしとにかく君は「貴婦人」にはなつたのさ。贅沢にあさりを剥(む)き、贅沢にあさりを食べた。

clovisses~~~あさり(貝の)

nourrice~~~授乳者、育児者、乳母

君の犠牲の姿は、あそこの女中、乳母の目によくとまつてゐる。暖炉の火にあたりながら肘掛け椅子に坐つてゐる君の犠牲の姿をね。そして毎日、きちんと用意された食卓で、食欲いつぱいの君の犠牲の姿をだ。

 ファニー ええ、分つてゐる、マリウス・・・さういふ話、私、何度も聞かされた。でも、どうすればよかつたの? 私の不幸を救つてくれる、ささやかな機会も、諦めたはうがよかつたの? 

 マリウス 違ふ。受け入れてよかつたんだ。葡萄酒の瓶が開けられたら、飲んだはうがいい。たとへそれが上等なものであつてもな。君の母親について言ふとな、これにはよいことが三つあつた。一つは家族の名があがる。二つ目は朝五時に起きる必要がなくなる。三つ目はT.S.F. の地位だ(これ、不明)。まあ、これに関る全ての人間にそれぞれ少しづつ得があつた。例外はこの僕だ。醜聞を隠さうと、僕を醜聞にした。犠牲者はこの僕だつたんだ。

 セザール 何が犠牲者だ! お前は十年間ここに帰つて来なかつたんだぞ。それで今になつて、何をほざく・・・

 マリウス いや、ほざく権利がある、僕には。権利があるぞ。

 セザリオ 権利、それは言ひ過ぎぢやないかな・・・

 マリウス 何だつて?

 セザリオ 権利について喋るなら、それは常に義務を伴ふもので、僕が思ふに・・・

 マリウス 黙れ! お前は黙るんだ。今、お前の父親が話してゐるんだ。

 セザール たつた五分前は、可愛い息子。それが今は怒鳴りつけてゐる!

マリウス (皮肉に。しかし愛情を込めて) さう、あんたにはショックなんだらうな、父親が子供を怒鳴りつけるのを聞くのは・・・・

セザリオ 僕に関しては、それはお父さんの言ふ通りかもしれません。でも、他の人に八つ当たりするのは・・・・

マリウス いや、僕にはその権利がある。何故なら、連中の選んだ解決法が全く馬鹿げてゐたからだ。名誉を保つことは、あんなことでは出来なかつたんだ。「可愛いファニーは、ててなしごを持つた」とは言はなかつた。しかし考へてゐたことはかうだ。「可愛いファニーは、うまい手を見つけた

(ここは自信なし。perdre le nord~~~気が転倒する、の否定で、「冷静さを失はなかつた」で上の訳にした)

金持ちで、年寄の男にうまく下駄をあづけたな」と。そしてその結末は、今ちやんと分つてゐる。息子は僕の名を継いではゐない。僕がまだ生きてゐるのにファニーは未亡人だ。僕の父親はお前の祖父だが、それも公ぢやない。隠れての話だ。それに、家もない、父親、僕、ファニー、それにお前、の共同の家もない。本当はあるべきなのに、だ。

セザール さうだ、四人とも酷い状態だ。・・・お前は航海に出るなどと、よい考へを持つたもんだ。思ひ出すが、例の、海洋学研究のための観測船だ!

pastis~~~アニスの香りをつけた酒で、水で割つて飲む。(俗)面倒なこと

(ファニー、泣いてゐる。)

 マリウス ファニー、泣くな・・・泣いても、どうにもならない・・・僕が帰つてきたのは君に辛い思ひをさせるためぢやないんだ・・・辛い思ひなど、もう今までに君は十分やつてきた。今僕が話したこと、それは全部、(セザリオを指して)こいつのためなんだ。我々のこんな話は我々だけにか重要性はない、こんな話は親子の間だけのものだ。しかし、この子に、自分の親が不正直な人間ではない、といふことだけは知つて貰はないと、と思つたんだ。(マリウス、ここでセザリオの肩を抱く)こんな話はお前、全部忘れるんだ。もう自分で判断できるだけの年になつてゐるんだからな、お前は。お前は私が働いてゐる姿を見てゐる。何をやつてゐるかも、そしてそれを真剣にやつてゐることもお前には分つてゐる。・・・勿論僕は学者ぢやない、ただの技師だ。船でお前が僕に、わざと聞いて僕が答へたことがある。あれは今思ひ出してみると、お前は私に試験をしたんだ。ちやんと知つてゐるかどうか、試さうとしてな。僕は船のエンジンについて何か馬鹿なことを言つたかもしれない。しかし考へてみろ。先生がゐて話を聞いてゐるのならそれは簡単だ。ちやんと理論を知つて、それをかみ砕いて相手に話すんだからな、先生つてやつは。・・・しかし僕はたつた一人で勉強した。夜にだ。僕には理論はないかも知れない。しかし僕が持つてゐる知識は、人から与へられたものぢやない、自分で身につけたものだ。知識の話はこれでをはりだ。さ、これからもしお前が自分の父親を知りたいと思ふなら・・・そして、釣のつづきがやりたいのなら、僕はここがどこか分つてゐる。それに、お前もそれが分つてゐるな? どうやら。

(住所を書く)

            ガレージ  マリウス、オリヴィエ

          22,  ラミロテ街 トゥーロン

マリウス 電話番号は電話帳にある。ぢや、これで。

(立つて、出始める)

ファニー あなた、どこへ行くの?

マリウス 家だ。まあ、僕の家の役目をしてゐる場所に、だ。

(マリウス、去る)

(マリウス、テラスに出る。そこに、エスカルトフィッグ、ムスィユ・ブラン、運転手、と医者、がゐる。)

 

         バーのテラス

フェルナン 中ぢや、えらいことが起つてるぞ。まあいづれにしても、見ればこつちがおつたまげるやうな場面だ。キスしてゐるかもしれない、怒鳴り合つてゐるかもしれない。が、いづれにしても、こちとらはびつくり仰天の場面だ。

エスカルトフィッグ お前が俺にしてくれたマリウスの話、あれは気に入つたな。噂になつてゐることは、俺はまるで信用できないんだ。

ムスィユ・ブラン ああ、マリウスだ。

(マリウス、中から出て来る。エスカルトフィッグ、立ち上る。)

 エスカルトフィッグ マリウス!

 マリウス 今日は、ムスィユ・エスカルトフィッグ。

 エスカルトフィッグ こんちは、マリウス。ああ、立派になつたな。・・・ほら、見てみろよ、ムスィユ・ブラン。

 ムスィユ・ブラン うん、これぢやどこで出逢つてもすぐ分るな。お前、ちつとも変つてゐないぞ、マリウス。

 マリウス あなたもです、ムスィユ・ブラン。

 モスィヨ・ブラン 何年も経つてから初めて出逢つたときの最初の言葉はかうでなくつちやな。エスカルトフィッグにもそれを言つてやつてくれ。

 マリウス ああ、それはさうだ。(エスカルトフィッグに)あなた、全然変つてゐませんよ。

 エスカルトフィッグ ああ、分つてる、分つてる。それから君の親父さんも変つてなかつたらう?

 マリウス ええ、そんなには・・・

 ムスィユ・ブラン 結局、何も変つてないといふことさ。子供たちは我々のことを年寄だ、と思つてゐるが、それは連中が何も知らないからだよ。さてと、この我々の「不変性」を祝つて、私がみんなに奢ることにする。ピコン・スィトロンだ。さ、みんな、都合は悪くないな・・・

 マリウス すみませんが、ムスィユ・ブラン・・・僕、ここに長くゐられない・・・ええ、すみません、ムスィユ・ブラン、今は駄目なんです。もう少し後なら多分・・・でも、今は駄目なんです。それに出来るだけ早く行つたはうがよくて・・・さ、フェルナン。ぢや、みなさん、失礼します。

(フェルナン、立ち上り、マリウスに続く。ムスィユ・ブラン、両手をこする)

 ムスィユ・ブラン なあ、エスカルトフィッグ、今のを聞いたか?

 エスカルトフィッグ 聞いたけど? 何か?

 ムスィユ・ブラン 「もう少し後なら多分」と言つたらう? 私なら、「もう少し後なら必ず」と言ふところだな。

\\

(それから少し経つて、夕食後。ムスィユ・ブラン、エスカルトフィッグ、医者、運転手、がいつものやうにテラスに出てゐる。セザールが考へながらバーから出て来る。そして四人のそばに坐る。)

セザール (真面目な顔で)ちよつと聞いて貰ひたい。質問があるんだ。実に真面目な質問だ。(ゆつくりと)私は本当に怒りつぽい人間なんだらうか。

医者 フム。

セザール どうなんだ、おい。

医者 フム・・・これは『フム』だな。

セザール (エスカルトフィッグに)おい、どうなんだ、お前。

エスカルトフィッグ なあセザール、俺はよい判定者とはいへんのでな。あんたはもう六十年もこの世に生きてゐるんだ。それだけあれば、自分の判定ぐらゐできるんぢやないのか?

モスィユ・ブラン 「怒りつぽい」・・・そんなの証明されたわけぢやないよ。

  セザール 自分がどんな人間か、それは自分では分らないものだからな。女房を寝取られてゐる男は、そのことを知らないのが普通なんだ。

 エスカルトフィッグ(怒つて) 一日に十回、友達がそいつに言つて聞かせて、やつと分るつてものだな、それは。

 セザール(むつとして) 一日に十回? いいか、俺はこの話をこの一週間喋つたことはないぞ。今が初めてだ。だからちやんと答へてくれ。俺はさつきから、自問してゐるんだ。それもかなり辛い思ひをしながらだ。自分が何かひどい間違ひをやらかしてゐないか、人に不当な判断を下してはゐないか、要するに、この俺が老いぼれの馬鹿ではないか、とな。そしてその原因といふのが、俺が病的に怒つぽいところから来てゐるんぢやないか、とだ。さあ、正直に答へてくれ。

 エスカルトフィッグ(用心深く) あんたは今「病的に」と言つたな。だからそれは医者の仕事だ。さ、医者の登場だ。こいつに答へてやつてくれ。

 セザール 何だお前、自分では答へられないのか。

 エスカルトフィッグ(上手に言ひ抜けて) 間違つてゐるとまづいからな。(笑ふ)

 セザール 糞つ! 笑ひやがつたな。(怒りがだんだん大きくなる)何だつて言ふんだ、お前。お前は三十年来の友達が真面目に聞いてゐる質問、それも心の底から出て来た疑問を、笑つてごまかすのか!

 エスカルトフィッグ セザール!

 セザール (もの凄い勢ひで) 今の笑ひは一体何だ。つまり俺が老いぼれのロバだと言ひたいのか。そして答へる代りに、あからさまに言ふのは止めて、俺は結局怒りつぽい、そして俺のその怒りが怖いんだ、と言つてゐるんだな。ムスィユ・ブラン、あんたは何も言つてない。だがこつちから見ると今の倍以上にエスカルトフィッグの言葉を支持してゐるんだ。

bourrique~~~雌ロバ、うすのろ、馬鹿

(医者のはうを向き)さつき「フム」と言つたな。「フム」で意見なしだ。分りましたよ。「フム」の意見なし。結構。(百日咳のおつさんの意見なし、結構。ここ、不明)それでみんなに聞くがな、それは一体どういふことなんだ? 三十年間このバーにやつてきて、それでこの俺が怒りつぽい男だ、とずーつと言つてゐたといふことなんだな? こつちはどうだ。エスカルトフィッグの馬鹿な話に耐へ、モスィヨ・ブランのリヨン贔屓に耐へ、羊飼ひ医者殿の無言に耐へ、(運転手を指さし)この男のここにゐることに耐へ、そしてこいつが、食べ放題に食べて且つ金を払はないことに耐へ、そして飲物を飲まないことに耐へてきたんだ。その俺が、一体何故「怒りつぽい男」なんだ。

coqueluche~~~百日咳

sa coqueluche des vieillards~~~老人たちの百日咳、不明

 モスィヨ・ブラン いやいや、この人は怒りつぽくなど、全然ない。今それを証明してくれたよ。

(全員ゲラゲラつと笑ふ。セザール「やれやれ」といふ顔で皆を眺め、それから急に口調を変へ)

 セザール さうだ。まあ、簡単に言ふと、俺は怒りつぽい。しかしそれは、見せびらかしだ。本当はまるで怒つてなんかゐない。

 エスカルトフィッグ なあんだ。見せてるのか。何でそんなことをする必要がある。

 セザール 必要? 必要なんかぢやない・・・ただな、怒鳴つて、我を忘れる・・・さつきのやうにな。何故かといふと、ああやると気分がすつきりするからだ。

 医者 自分はそれで気分がよくなるだらうな。ただ、他人はそれで気分が悪くなる。さつき皆の意見をきいたな? だから私も一言言はう。羊飼ひ医者殿は老人ぼけのお馬鹿さんに忠告を与へる権利は十分にあるからな。セザール、お前は本物の馬鹿だ。他でもない、腹の底は悪くはない、よく気もつかふ。しかしとんでもないことをしよつ中やる。給仕に怒鳴つて追ひ出す、女中を追ひ出す。客を追ひ出す。おまけに自分の息子まで追ひ出す。

セザール それは何故か、あんた、分つてゐるのか。

医者 そんなこと、知りたくもない。お前が悪いのは分つてゐるからだ。お前のその性格のせゐで、どれだけの人間に辛い思ひをさせてゐることか。私はな、お前がいぢめ抜いた男が一人ゐるのを知つてゐるんだ。

 セザール 誰だ、それは。

 医者 お前だよ、その男は。

(セザール、医者をじつと見る。セザール、困つた顔をして、立上る。四人に背を向け、バーに戻りかける。少し音の出るカーテンのところまで来て、回れ右をし、確信なささうに言ふ。)

rideau~~~カーテン

bruissant~~~微かな音がでる、形容詞

 セザール おい・・・何だ、お前、哲学をやりたいのか! それなら・・・

(と、退場。)

モスィヨ・ブラン やつたな、ドクター。あいつにはピタリの台詞だ。

\\

(夜。9時。港に深い沈黙。小さな台所でただ一人セザールが、糊のきいたテーブルクロスをしいて夕食中。オリーブを食べてゐる。考へこむ。突然耳をすます。バーに物音。人の気配。台所の扉が開き、セザリオが入つて来る。きちんと制服を着こんでゐる。)

cirée~~~ワックスのかかつた、ここでは「糊のきいた」

セザール ああ、お前か。

セザリオ 出発する前にキスの挨拶をしにきたんだ。おぢいさんをびつくりさせちやつたかな?

セザール びつくり? そんなことぢやきかない。おつたまげたよ。またお前、何か家庭の秘密を知つて来たな?

セザリオ(微笑んで) 多分。

セザール 今度はきつと、俺がお前の甥だつてことが分つたんだな?

セザリオ ああ、それだつたらよかつたな、あなたが僕の甥・・・もしさうだつたら、僕、輪があげられるな。それから切手だ。収集のためにね。でもそのために来たんぢやない。

cerceau~~~たが、輪、(昔、自転車の車輪の輪を棒で押して遊んだ。あれだと思ふ)

セザール うん、まあいい。それで、何か言ひに来たんだな?

セザリオ あなたにこれを言ふのは少し恥づかしいんだ、僕。

セザール 話すんだな。でもまづ、坐れ。

(セザリオ、坐る)

セザール それで?

セザリオ さつき、僕が二階から降りて来るときにね、ママがトゥロンに電話してゐたんだ。あなたの息子のマリウスに。

セザール それでママは何て言つてた。

セザリオ 明日会はうつて。エミール叔父さんの「狩で集まる場所」で。二人だけで話したいつて。

poste de chasse~~~不明。昔、狩をしたときの集合場所(?)

 セザール 二人だけで会はう、か。二人だけでは話もはずまないだらうな・・・(そして突然、大きな感動がセザールをとらへる。)ああ、糞つたれの馬鹿野郎! 夜にはこのバーは閉めるんだ。鍵をしてな。糞つ、夜になるといつも誰もかれもここにやつて来て、涙の出るほど嬉しい話をこの俺にきかせやがる!

 セザリオ これ、そんなに嬉しい話なんですか?

 セザール さうだ。そんなに嬉しい話だ、これは。それで、お前は困るのか?

(勿論セザリオが公にはオノレの子、その連れ合ひが昔の恋人に会ふのは、セザリオが困りはしないか、といふこと。)

 セザリオ 困るつて、そんなことは・・・

 セザール それならいい。うん、お前の顔にはさう書いてある・・・

セザリオ 僕、話していいかな・・・ 

セザール いいか、お前にいくら話すことがあつてもだ、ここはまづ俺が喋る。何故かといふとな、俺は怒つてゐるんだ。いいか、お前にひどく怒つてゐるからだ。

セザリオ 僕に怒つてゐる? どうしてです。

セザール いつかここに突然やつて来たな、お前は。そして出し抜けに俺のことをおぢいさんと呼んだ。そして酷い話を俺に聞かせたんだ。さう、学者先生、酷い話をだ。お前は「ビストロ」といふ言葉を使つた。さう、「ビストロ」だ、お前が使つた言葉は。

セザリオ ええ、言つたかもしれません。

セザール うん。お前は少なくとも正直だ。それはいいことだ。それでな、お前、俺のことを「おぢいさん」と呼んでくれたな。あの時俺は何と言つてよいか、どんな話をしたらよいか、見当もつかなかつた。だがな、あれから俺は考へた。昼に夜に考へた。それでやつとお前に話すことが見つかつたんだ。お前、自分の友達のことを覚えてゐるな? ここに三十メートル以上のヨットでやつて来て、お前を捜した。あいつのことだ。お前、言つたな? 感心したやうに話したな、俺に。「あいつのおぢいさん、パリに四十軒、カフェを持つてるんだつて」と。するとあの若造、アルタバンのやうに鼻をうごめかしてゐたな。そしてお前は、その若造と「君、僕」で喋れて得意さうだつた。お前はそいつをここには連れて来なかつた。それにこの俺がお前の親戚だとも言はなかつた。やれやれ、「ビストロ」の孫だからな。(急に激烈な口調になり)しかしな、そいつの父親がカフェを四十軒持つてゐるとしたら、そいつは俺より四十倍も「ビストロ」なんだ!

 セザリオ それは間違ひぢやありません。でも少し違ひます。

 セザール いいか、その違ひがどれだけ大きいか、それぐらゐのことは分つてゐる。その若造の父親が、この俺より少しは金持らしいことぐらゐちやんと分つてゐる。その理由はな、そいつが仕事をする時、それを他人にやらせるからだ。ところがこの俺は、自分でそれをやつてきた。丁度俺の父親がやつてゐたやうに。そしてお前自身がやつてゐただらうやうにな。もしお前の父親が馬鹿でなかつたら、だ。もしお前の父親が、夢見る馬鹿、気の狂つた馬鹿、海に憧(あこが)れる馬鹿、でなかつたとしたら、だ。どうだ。この言葉にお前どう答へる。

セザリオ 何も答へることはありません。何故つて、今話されたことは、僕がここに何故来たか、その理由とは何の関係もないからです。

セザール 何の関係もない? とんでもない! お前の、ここへ来た理由、そのものと関係があるんだ、これは。お前がここに来たのは、お前の母親、上品で上流社会にゐるお前の母親、それがこつそり、ビストロの息子に電話したからだ。

セザリオ そんなことを言ふなんて、おぢいさんの恥です・・・

セザール ああ、それは違ふ! (間。またオリーヴを一つ食べる)お前は、俺のマリウスが好きぢやないな?

セザリオ 何故僕をそんな風に非難するんです。昨日は、おぢいさんだつて、「俺のマリウス」とは言はなかつたぢやないですか。

セザール さうか。「俺のマリウス」と言はなかつたか。知らなかつた。

セザリオ 僕だつて、知らないことだらけです。おぢいさんより僕のはうが後に生れてゐるんですから。それにあの人には僕、まだ三回しか会つたことがありません。今日ここに来たのはあの人が今日僕に言つたことを言はうとして・・・僕、とても感動したからです。おぢいさんはあの人につらく当たつてゐるんぢやありませんか?

セザール ほほう、これは良い言葉だ。だけどお前、さつきここへ来たのは恥づかしかつたからだと言つたな。お前の母親があいつに電話したからだ。

セザリオ それはまつたく違ひます。

セザール いや、お前は言つた。恥づかしかつた、と。

セザリオ それはそのせゐぢやありません。僕は電話の音がして、すぐそこに顔を出さなかつた、そのことを思ひ出して恥ぢたのです。僕はただ、繰り返しですが、電話で母と鉢合はせするのはなんだか「偽善」のやうな気がして。(これはちよつと分らない。不明です)

セザール ああ、それであれも納得してゐれば、それはそれでいいな。恥ぢる必要はない。さう・・・お前、マリウスのことをどう思ふ?

セザリオ あの人、少し怒りつぽいんぢやありませんか? 優しくもなささうだし・・・

セザール あいつがか?

セザリオ だつておぢいさんも言つたでせう? 平手打ちを食つたことがある、つて。

セザール ああ、あれか。あの状況だつたら、無理もない。あいつを私は非難しないね。ただその後、私にキスをしなかつたのは、非難するが。あの時はあいつも間違つてゐた。しかし、とにかく、お前があいつを非難するのは当らない。この私のせゐだからな、あいつが悪いとなれば。あいつは私の息子だ。俺と同じ欠点があつてもそれは仕方がない。俺にない長所がいくらでもある。まあ、あいつの母親の血なんだらう。それからな、勉強について言へば・・・これだけは言つておく、あいつがもしポリテクニックに行つてゐたとしたら、四倍も桁数の多い足し算をやつてのけるだらうし、それをお前より四倍も速くやるだらう。

セザリオ 僕、あの人を非常にエネルギーのある人、そしてとても知的な人だと思つてゐます。

セザール さうか。

セザリオ でも、ママのあの電話は、心配です。

セザール(非常に心配) 全くだ。そいつは心配だ。

セザリオ ね、さうでせう。

セザール(いよいよ心配になつてきて) うん、実に心配だ。考へてみるとこれは悲劇だ。二十年経つても全く変りなく、お前の母親はお前の父親を愛してゐたとはな。あいつがゐない間中ずつと、あんなに豊かに暮してゆけてゐたのに、子供のときの愛情に忠実だつた。何ていふ浮気女だ。この野郎、もうあいつの手など触つてやるもんか!

セザリオ それは酷いです。

セザール 何を言ふ。お前ほど酷くはないぞ、俺は! まあいい。お前は心配なんだな。だからもうこの話は止めだ。俺はな、マリウスのために、よい妻を見つけてやる。マドゥムワゼッル・イレーヌ・ベルモンだ・・・

セザリオ 何ですつて?

セザール 金持ちの若い女。ベルモン自動車の娘だ。テニスをやる。どうやらその娘、うちの家庭にすつかり惚れてゐるらしい・・・そこでだ、お前は今自分の母親が身持ちの悪いことをするんぢやないかと心配して、自分の後半生を母親の見張りで過ごさねばならないと考へてゐるやうだから、お前に提案がある。このベルモンの娘をマリウスに紹介するといふのはどうだ。

セザリオ おぢいさんが誰にその話を聞いたのか、見当がつきませんが、おぢいさんの話はどうも僕にはつながりが分らなくて・・・

セザリオ お前にはいつも、つながりといふものが分つてゐない。ポリテクニックで何を習つてきたのか、実に疑問だ。しかしまあ、この際、この話の「つながり」を教へてやらう。お前は一二年のうちに、いや三年かもしれんが、この若くて、綺麗で、金持ちの、イレーヌ・ベルモンと結婚するんだな?

セザリオ ええ、それは不可能ではありません。

セザール その時になつたら、お前は母親がお前の愛情から離れて行つても、もうへいちやらだ。しかしそこに行くまでの、母親へのお前の要求はだ、たつた一人、カナダ式カヌー、ヨット、タルターヌ式帆船四十隻、に囲まれて、寂しく老女になるのを待つことだ。

 セザリオ そんなことはしません。その時には・・・

 セザール 分る分る。多分その時にはもう、お前は母親などほつたらかしだ。だから言ふんだ。どうせほつたらかしにするなら、一二年あるいは三年でも、そのほつたらかしの時間が延びたつてたいした違ひはあるまい。

(間。セザリオ、考へる。そして立上る)

セザリオ おぢいさん、それはおぢいさんの言ふ通りです。でも、どうやつてさうするか、難しいです、これは・・・おぢいさんの考へでは、僕はどうしたらいいんでせう。

セザール ああ、第一番に、汽車に乗り遅れないやうにすることだ・・・

セザリオ 本当だ!  今何時ですか?

セザール 9時5分だ。駅まで俺が送つて行く。

(セザール、自分の帽子と上着を取る。セザールが支度をしてゐる間に、セザリオ、彼に近づき)

セザリオ ぢや、おぢいさんが手筈を整へてくれるんですね? ママとあなたの息子さんとの。

セザール 「あなたの息子」? お前、何故「僕の父親」と言へないんだ。舌が焼けるとでも思つ

ゐるのか。

セザリオ 言ひたかつた言葉は、「おぢいさんが社会的な面倒は見て下さるんですね? ママと僕の父との間の」です。

(と言ひ、泣きだす。セザールの背に縋(すが)る。)

言葉のことで泣くなんて、馬鹿だ、僕は。

 セザール ああ、このことに関して言へば、ちつとも馬鹿なんかぢやない。なあ、今お前はその言葉を口にした。一旦口に出してしまへば、思つたよりずつと楽なものだと分るだらう? 誰にもその言葉が言へないままだとしたら、どんなにお前、不幸だつたか知れない。・・・さ、行かう、セザリオ。

(二人、港の道を歩いて行く。バーとマンドリンが並んでゐる。小さなポリテクニックの生徒は、大きな年寄の手に縋(すが)つて。)

 

   エミール叔父の狩の出発点

(ファニーとマリウス、向ひあつて立つてゐる。)

ファニー  今日は、マリウス。

マリウス こんちは、ファニー。

ファニー あなた、車で?

マリウス うん。客の車なんだ。乗つて行け、と言ふもんだからね。有難くお言葉に甘えたよ。下にあつたトルペードー、あれは君のか?

ファニー ええ。

マリウス あれはいい車だ。頑丈で・・・あの子、君がここに来るつて知てゐるのか。

ファニー もうパリに帰つたわ・・・昨日からあの子、兵隊さん。

マリウス 士官ぢやないのか。

ファニー 一年間は兵隊さん。

マリウス いいことだ、それは・・・甘やかされた子供には兵舎の暮しは訓練になる。

caserne~~~兵舎

ファニー あの子を私たち、ひどく甘やかして育てたかしら。

マリウス まあね・・・ いやいや、だけど、あの子を見てゐたら、なかなか親切ぢやないか。とてもしつかりしてゐるし。僕が驚いたのは、あの子はもう二十歳だつてことだよ。僕はもつと若いのかと思つてゐた。

ファニー あなた、そんなに年月が経つてゐないと感じてゐるのね?

マリウス いや、さうぢやない・・・ が、とにかく、僕はあいつのことはあまり考へまいとしてゐる。僕の子供ぢやなかつたんだからね。それに噂だと、去年あいつ、パリの学校に入つたんだとか。

ファニー ええ、エコッル・ポリテクニックに。

マリウス (驚いて)フランス第一の学校ぢやないか。

ファニー ええ、入学のとき、四番で入つたの。

マリウス (感心して)四番で?

ファニー そして卒業の時は首席で。

マリウス 僕の子供がね・・・すると僕もどうかなつた気分だな・・・まあとにかく、メートゥル・パニッスの育て方がよかつたといふことだ。僕からあの子を取つて行つたことも許さなきやいかんか。

ファニー あの人、あの子を返してくれたわ・・・

マリウス 僕はあの子の幼年期を知らない・・・背中におぶつたこともない。いや、まあ、良く育ててくれた。僕らより立派な人物にしてくれたんだからな。うん、これが「育てる」といふ言葉の意味なんだ。エルヴェ、「育てる」、は「高いところへもち上げる」といふ意味なんだからな。つまり僕だつたら彼を置くだらう場所より、高い場所に置いた、といふことだ。君にどう言つて説明したらよいか、まあ、僕はそれを感じてゐる。――― さうさう、ところでここへ僕を呼んだ理由は?

 ファニー ここへ呼んだのはね、私、あなたと二人だけで話したかつたから。あなたのお父さんの前でも、勿論私たちの子供の前でも話せないことあるでせう? それにあなた、この間私にいぢわるだつたわ。

 マリウス 違ふよファニー。僕はいぢわるなんかぢやなかつた。

 ファニー あれから二日、私夜に泣き通しだつたわ。

 マリウス ああ、それは悪かつたな。(非常に優しく、内気に)ねえファニー、僕は君にいぢわるぢやないんだよ・・・

pudique~~~内気な

 ファニー あなた、私を嫌つてはゐないわ。でも、心の底どこかで、少し恨んでゐる・・・あなた、私が幸せだつたと思つてゐるのね・・・(熱烈に)マリウス、それは違ふ・・・ね、マリウス、私、生きてはゐなかつた・・・ね、マリウス、私、オノレのこと、愛したこと一度もない・・・あの人私にはただの友達・・・あの人、あんなに優しくて、あんなに良い人なのに、時々は私、あの人が嫌ひになつた。私をあなたから取つて行つたから。ね、あなたには分つてゐたわね? 私があなたのこと、いつも愛してゐたのを。

 マリウス 遠くからね。

 ファニー 私、毎日あなたを待つてゐた。あなたがゐなくて寂しかつた・・・だけどあなたは、その間、他の女の人と一緒だつた。

 マリウス たつた一人で、獣(けもの)のやうに生きてゐたはうがよかつたつて言ふの? 君は。

 ファニー 私のこと、遠くからでも、見たいつて思つたことないのね、あなた。

 マリウス さあ、どうかな。君はさう思つてゐるんだね?

 ファニー 私の傍に来てくれてゐたら私、目をつぶつてゐたつてそれを感じたわ。

 マリウス 十年前のある日、思ひついてね。ここに帰つて来たんだ。僕は君を見た。でも、あんまり馬鹿げた話でね、とても君には言へないよ。

 ファニー どうして馬鹿げたなんて言ふの?

 マリウス 僕は、さう・・・変装したんだ。二箇月間、鼻鬚を生やした。

 ファニー よく似合つたでせうね、鼻鬚。

 マリウス いや、ひどいものだつた。それに黒メガネ、山高帽だ。僕はここにやつて来て、君を見た。競馬場でだ。ボレリ公園の傍、貸自転車屋の隣・・・小さな喫茶店のテラスに僕は坐つてゐた。車がやつて来た。君が運転してゐた。黒い小型のトルペードー。真新しいやつだつた。時計のやうにぐるつと廻り、君は歩道に沿つて車を止めた。僕から十メートル離れた場所だ。

casquette~~~ハンチング、鳥打帽

martingale~~~ハーフベルト(上着の背につけるもの)

bandoulière~~~肩から斜めにかける負い革。

オノレは真つ白いハンチング、背広にはハーフベルトがかけてある。そして革ひもつきの眼鏡。彼が最初に降りる。扉を開けるために後ろに走る。君が車を降りるとき、膝まで君の白い足が見える。僕の顔は死人のやうに蒼くなつた筈だ。君は紺の上着、裏は白、大きな麦藁帽。まるで天国で歩いてゐる若い女性のやうだつた。君はオノレの腕を取る。オノレが誇らしい顔をして微笑んでゐるのも無理はない。しつかりした、善良な顔をしてゐた。そして若い。さうだ、幸せだからだ。僕、この僕は比べるときつと年寄りの顔をしてゐたらう。このときだ、僕が君を失つたと感じたのは。永久に失つた・・・僕は立上つた。そしてそこを去つた。鼻鬚と一緒に、そして山高帽と一緒に。それからは、二度と君を見やうとは思はなかつた・・・

 ファニー それで、マリウス・・・あなた、今もまだ私を見たくないの?

 マリウス 僕はここに来るまでに、ずゐぶん考へた・・・僕は怖かつた、そして今、怖がつてゐたのは正しいと分つた。

 ファニー 何が正しかつたの? 何を怖がつてゐたの?

 マリウス 僕は君をずーつと愛してきた、ファニー。以前と同じやうにずーつとだ。いや、前よりもその愛は強いだらう。でも、それが無理だと分つたんだ。

 ファニー あなた、それを、今私が自由の身になつたときに言ふの?

 マリウス さうだ。それで君の言ひたいことは何だ? 僕が君と結婚する、とでも?

 ファニー ええ。何か困ることでもあるの?

 マリウス 勿論困る。そんなこと、臆面もないこと、といふんだ。いいか? 僕はパニッスのスリッパを履くことになるんだ。それはまだきつと暖い。パニッスに、息子を正式に手放させる手続きをさせた。そして、死ぬ。死んだとたんに彼の店を取上げ、金を奪ふ。略奪もいいところだ。な、ファニー、そんなこと、出来る筈がない。君は財産を持ち過ぎてゐるんだ。

 ファニー でも、そのお金の内、私が稼いだ部分もあるのよ。それは私、とつておいていいんでせう? あなた、それも厭?

 マリウス 厭だね。とつておいて欲しくないよ。すつかり裸できて欲しいな。財産など、全くなしでね・・・僕らが知り合つてゐた時の君、それに来て貰ひたいな・・・

 ファニー そんなこと簡単よ、マリウス・・・お金なんて、いつだつて捨てられるわ・・・

 マリウス うん、それは簡単だ。この間、父の家の台所で僕は君を二三回見かけた。僕には、君はすつかり別人だつた。君は昔のやうな話し方はしない。君は昔のやうな目つきをしない。話のやり方を心得てゐる人と、君はしばしば会つてゐる。僕のはうは、相変らず労働者だ。労働者がひどいといふなら、まあ職人とでもしておくか。勿論歯並びを直すために、歯医者に通つたりもしなかつた。さう、君の傍で暮すといふ幸せが転がり込んできたとしてみやう。しかし、僕がちよつとした冗談を言つたとしやう、ところが君には可笑しくも何ともないだらう。君に何かを言つて楽しんで貰はうとする、が、君はショックを受けるだけだらう。君はそれで、僕が嫌ひになるさ・・・

ファニー マリウス、私があなたを嫌ひになるなんて!

マリウス さう、(君は不愉快になつた。)それがもう証拠だ。僕は君の前では自分ぢやないんだ。君のことをしつかり見ることさへ出来ない。その目を見ると、上官の妻と浮気をしてゐる男の気分になる。なんだか罪悪感のやうな、ね。

contremaître~~~下士官

 ファニー 私、もう年をとり過ぎたのね。

 マリウス 君が・・・年? ああ、とんでもない。君はセザリオの姉でも十分通るよ・・・そんなことぢやない・・・これ、もう言つてしまふとね、ファニー、君は僕には美人過ぎるんだ、今ぢや。美容院できちんと化粧、爪にはマキヤージュ。それは、本当に綺麗だ、よく見てご覧・・・でも、まあ、それぐらゐなら、今の僕の稼ぎでも何とかなる・・・しかしね、女中たち、生活様式、上品な仕立屋・・・君には金があつた。その金が君をひき立たせた。

 ファニー いいえ、マリウス。それは見方が逆。お金は時間を引き伸ばすために役に立つただけ・・・ねえ、聞いて。私、あなたにだけは何でも言へる。私、オノレにとつては良い妻ぢやなかつた。あの人を幸せにしてあげるために、出来るだけのことはしたわ。でも私、たびたび、本当にたびたび、悪い気持を持つた・・・「あの人、私より三十も年上。もし神様が普通みんなによいことをしてくれる、その気持があつたら、私より三十年早く亡くなる筈。そしてもしマリウスがその時まだ自由の身だつたら・・・」つて。

マリウス 本当にさう考へてゐたのか、君は。

ファニー ええ。これ、本当に酷いこと。でも、さう思つてゐた。でも、死ねばよい、と考へてゐたわけぢやないの。ええ、それは本当に違ふ。あの人を実の娘のやうに世話したわ。それに亡くなつたとき、心から泣いた。でもあの人がいつかは死ぬ、つていふことを考へないではゐられなかつた。それに関係して、私には大きな心配があつた。それは、その死で私にやつてくる自由、それを得たときに、私がもう老人になつてゐるといふ心配・・・私にはお金があつた。そのお金でその日の引き伸ばしをはからうとしたの・・・私がどれだけ忠実に医者の言葉を実行したか、あなたに分つて貰へたら! 規則正しい生活、健康のための知識、美容院、着物の仕立、かういふこと全部、あなたを待つためだつたわ、マリウス・・・そして毎朝私、鏡の前で、老いの徴候がないか、捜したわ。そして夜にもときどき、部屋で、一人で、やつて来ることのない「あなた」のためにお化粧をした・・・でも、今日、あなたにまだ私が好ましいものだつたら、私、もうこんなこと全然いらない。私、あなたの愛だけが必要なの。私、あなたの手紙、計算書、その他の事務、何でもやる。自分の世話は全部自分で。あなたのコーヒーも私が出す・・・断らないで、マリウス・・・セザリオはもう大人。好きな人もできるでせう・・・私、たつた一人。私にはあなたしかゐないわ・・・

マリウス いいかい、ファニー。もし君がそんな犠牲を払ふのを僕が受入れたりしたら、僕は卑怯者だ。さ、僕は考へる、二三日・・・二人で何が出来るか、それをね・・・そして、もしそれをする権利が僕にあれば・・・ああ、ファニー、ご免、僕は君とキスしたかつたな・・・明日電話する・・・

(マリウス、立上る。坂を下り、車のはうに進む。)

(ファニー、石の上に坐つたまま。考へてゐる。)

(足音。ファニー、そちらを向く。セザール、登場。ファニー、愛想なく彼を見る。)

 セザール あいつのことを、酷い奴だと思つてゐるんだな。

 ファニー 聞いてゐたの?

 セザール 聞いてゐたんぢやない。聞えてきたんだ。

 ファニー 私たちがここにゐるつて、誰に聞いたの?

 セザール 一昨日お前がマリウスに電話してゐるのを聞いた人間がゐてな。

 ファニー それでここに来たのね、また。あなたには何の関係もないことに首をつつこむために。あなたがゐなければ、私の母がゐなければ、その二人の年寄がゐさへしなければ、私、二十歳のときからずーつと幸せに暮せてゐた。今は私が幸せになれる最後のチャンス。そんなときにまたあなたといふ邪魔が入つて来るなんて!

 セザール ファニー、怒鳴るのはやめてくれないかな。そんなにいぢわるなことを言はなくてもいい。お前のことはいつでも自分の娘のやうに思つてゐたんだ・・・ここに来たのはな、お前とマリウスに話すことがあつて、なんだ。

 ファニー マリウスは行つたわ。

 セザール いやいや、まだ行つてはゐない。私の予感だが、マリウスは、車の調子が悪くて、出発できないでゐる。

 ファニー 誰なの? あなたをここに来させたのは。

 セザール 私の後においで。すぐ分るさ。

(セザール、小道を下りる。ファニー、その後に続く。マリウスが車を動かさうと、いろいろやつてゐる。その場所にセザールとファニー、降りて行く。マリウス、頭を上げ、父親を見る。)

sentier~~~(山などの)小道

 マリウス おやおや・・・どうしたのかな? こんなところにやつて来て。

 セザール この子に叱られてしまつたんだ。何一体? こんなところにまで怒鳴りにやつて来て、と言はれてな。それで気が変つたんだ。お前こそどうしたんだ? 車がどうかしたか。

 マリウス 動かさうとしてゐるんだ。

 セザール それで動かないのか? お前、車の修理が職業なんだろ?

 マリウス どうもエンジンが・・・

 セザール ああ、エンジンか・・・エンジンね・・・(ポケットから小さなエボナイト:これはプラグ。デルコといふメーカーの品)こいつを嵌めればうまく行くんぢやないか?

 マリウス 何だ? これは。

 セザール 名前は知らない。船のエンジンにもこれと同じのがあつてな、船を盗まれないやうにするために、これを引つこ抜いておくんだ。

 マリウス それで、どこからこれを引つこ抜いたんだ?

 セザール そこからだ。(ボンネットを指さす)お前がすぐ行つてしまふと、まづいと思つてな。

capot~~~ボンネット

 マリウス ははあ、いつもと違ふな。いつもはすぐ僕を追ひだす。

 セザール お前のファニーへの説明を聞いたよ。お前、言ひ過ぎだな。ま、言ひ足りぬ、とも言へるが。ファニーがお前を軽蔑するだらう、なんていふのは、馬鹿な話だ。本当は、お前はセザリオがどう思ふか、それが気になつてゐるんだ。息子がどう言ふか、それだ。私には分つてゐる、その台詞がな。もうこつちは聞いたからな。

 ファニー いつ?

 セザール 駅でだ。出発前に。ファニー、あいつはお前がマリウスに電話してゐるのを聞いた。あいつは技術者だからな、その頭で考へたさ。かう言つてゐた。「解決策は三つ。一つはママがただ独りで老いてゆく。そして僕がある日結婚すると、その僕の妻にがみがみ不平を言ひ出す。二つ目は、あんたの息子といちやいちややり出す。みすぼらしいホテルで、それも人目を忍んで。三つ目は二人が結婚すること。僕は三つ目がいいな。」とね。

guilledou~~~(男の)女あさり、または(女の)男あさり

 ファニー あの子、そんなことを言つたの?

 セザール きちんと例の制帽を被つてな。さ、これで言ふだけのことは言つた。俺は行く。この新しい条件で、また二人で考へてくれ。

 マリウス 駄目だよ。独りで帰るのは。僕が家まで送る。

 セザール ああ、それには及ばん。電車に乗るさ。電車が俺は好きなんだ。

 マリウス もし僕がファニーと結婚したら、パパ、満足?

 セザール 馬鹿を言へ。癇癪玉が落ちるところだ!

 マリウス セザリオの名前をマリウスに変へることはできないんだよ。

 セザール ああ、セザリオはな。だが、他の奴らには、簡単に出来るだらう?

(セザール、回れ右をし、立去る。大柄な年寄の散歩者のやうに。)

          (終)